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お棺に落書き!? 増える「簡素な葬式」と「ユニーク葬」
お棺に落書き!? 増える「簡素な葬式」と「ユニーク葬」
野球場を映した「メモリアルスクリーン」。担当スタッフが撮影することもある(提供:むすびす) 「家族葬」や短縮型の「直葬」「一日葬」、お経、位牌(いはい)なしの「無宗教葬」に昔ながらの「自宅葬」、人を呼ばないんだからいっそセルフはどうかと「DIY葬」の動きも。コロナ禍で葬儀の自由化が進んでいる!? ライターの朝山実さんが、今ふうお別れの現場を歩いてみた。 *  *  *  7月はじめ。都内の駅から徒歩数分のセレモニーホールで、コラムニストの小田嶋隆さんの「送別会」があった。とてもいい見送りだった。  故人の「葬儀は要らない」の希望を尊重。「告別式」とは称さず、前夜と合わせて2日にわたってお別れの会が催された。色彩鮮やかな生花祭壇とともに印象的だったのは、僧侶の読経の代わりに小田嶋さんが還暦を機に習っていたギターの先生の演奏だ。  友人たちが故人との逸話を語る間、ジョン・レノン、ボブ・ディランなどの曲を静かに伴奏されていた。喪の場ではあるが笑顔を絶やさず、穏やかな弦の音色が心地よかった。  コロナ禍とあり、当初近親者だけの見送りとされていたが、問い合わせのあった人には伝えられるうち、両日で200人ほどが集まった。  しかし、複数の葬儀社を取材すると、コロナ禍の期間に大人数の会葬は珍しく、増えているのは10人前後の「家族葬」。通夜を省いた「一日葬」や、儀式は略し火葬場でお別れする「火葬式(直葬)」を選択されるケースも多いという。 「コロナの影響ですか? 選ばれるプランが、以前と比べ半分くらいの料金のものになってきていますね。『もう直葬でいいから』という人も増えています。変わったといえば『霊柩(れいきゅう)車は要りません』って言われることかなぁ(セット料金にはご遺体を病院から安置所まで移送する寝台車の料金が含まれている)。うちは関西で有名なタレントさんにイメージキャラクターになってもらって、白いレクサスの霊柩車のオプションサービスをしていたんですが、『ああ、そんなん要らんわ。セットの車で十分や』って」  笑いまじりにぼやかれるのは、京阪神をエリアとする「あゆみセレモニー」の川原昭仁社長だ。1日1家族限定で「ふるさとの家」を思わす古民家ホールと、国内に数台のハイクラスの「霊柩車」を売りにしてきたが、コロナで目玉のリムジンの出番が激減したという。  利用者の本音はどうなのか。昨年、父親を亡くされた図書館員のマユミさんに話を聞くことができた。  父親のトモヒデさん(享年84)は長年、学習参考書の編集者をされていた。長女のマユミさんの下には弟が2人いる。 「父は1年半ほど入院していて、息をひきとった翌日にホールの部屋で葬儀社の人に湯かんをしてもらいました。葬儀は親戚には知らせず、家族だけで見送りました」  実家に仏壇はあり、父の生家は日蓮宗だったが、トモヒデさん自身は無宗教者で「死んだら川に流してくれたらいい」と語っていたこともあり、祭壇も位牌もなし。棺の上には、母が持参した小さなスナップ写真を飾った。  シンプルながらも喪の時間の中でよかったのは、いつも父の傍らにいた愛犬オルが葬儀場に入れたことだという。 「弟が、葬儀社の人に、犬にお別れさせたいんですけどと尋ねたら、いいですよと言ってもらえて。オルが父の顔をペロペロとなめているのを見て、みんな泣いてしまいました」  耳を傾けながら、記者が、父のときにもそうしたらよかったなぁと思ったのが遺影写真だ。  額装の大きな遺影でなく小さな額にしたのは、「母は、ふだんから居間に家族の写真を飾っていて。大きな写真は好みじゃなかったんでしょう。実家に行くと母は父のその写真を見ているんですよね」  リムジンの霊柩車もそうだが、出棺の際に家族が胸に抱く大きな遺影は、会葬者に向けたセレモニーの意味合いが大きいのかもしれない。コロナ禍は葬儀の形も変えつつあるようだ。「お坊さん」も「位牌」もなしでもいいかと葬儀の簡略化が進むとともに、それぞれの価値観にあった「自由」な弔いが加速度的に広まりだした。 富士山を映した「メモリアルスクリーン」。担当スタッフが撮影することもある(提供:むすびす) ■故人らしさ演出 スクリーン祭壇  そこでユニークな試みをしている葬儀社を取材した。ひとつは、東京近県を拠点とする「むすびす」。近年は生花の祭壇が主流になっているが、こちらでは畳数枚分のシルクスクリーンを用いた祭壇づくりを提案している。  草野球に熱を入れていた故人なら、なじみの球場のホームベースを中心にした写真をスクリーンのように棺の背後に貼りだす。いつも夏祭りの先頭に立っていた故人のいなせな法被姿の写真を等身大に引き伸ばして飾るなど、故人にあった送り方を提案している。 「当社では、メモリアルスクリーンと呼んでいますが、故郷の風景、満開の桜など故人らしいオリジナリティーを出せることから、月平均250件施行させていただいている中の6割以上のご利用をいただいています」と語るのは、むすびす株式会社・葬祭事業部の吉岡雄次部長代理だ。 「費用面でも、生花の祭壇と比べて抑えられるという利点もあります」  そのために専用の大型プリンターを導入しデザイン部門も設けている。 「スクリーンもそうですが、当社が力を入れているのは、まず担当がご家族にインタビューし、ひとつひとつプランを練っていくこと。ですから、まったく同じお葬式というのはありません」  むすびすでのコロナ禍での変化を問うと「10人前後の家族葬」「無宗教葬」「自宅での葬儀」の増加をあげた。  葬儀の縮小がいわれる中、葬儀社が提示する価格プランも驚くほど下落している。ネットを検索すると家族葬だと30万~70万円をよく目にするが、火葬だけだと10万円以下(火葬料金は別途だが、自治体によっては無料、1万円のところもある)のものも出てきている。  さらにコストダウンを図りたいなら「セルフ」という一案もある。 一見サブカル本だが、丁寧な取材で葬儀のことがよくわかる  棺おけや骨つぼ、お坊さんの手配すらネットで可能な時代である。「3万円以下で火葬までできる場合も!」と節約マニュアル本も出ている。『DIY葬儀ハンドブック 遺体搬送から遺骨の供養まで』(駒草出版)だ。著者でライターの松本祐貴さんに都内で会ってみた。 「葬儀社の人たちの現場を取材。遺体の保冷庫まで見せてもらいましたが、取材するほど、本当に自分でやるとなると難易度は高いと思いました」  出版は2019年10月。地道に売れ続けているが、読者から体験したという反響はいまのところないという。企画の発案は葬儀社で働いていたことのある編集者によるもの。記者も読めば読むほど「セルフは大変だ」と思った。 「そう思います。だから本の注意書きに、やるには覚悟がいりますと書いたんですよね」  いちばんのハードルは、遺体の処置。体液が漏れ出さないように綿を鼻などに詰めていくのだが、「グイグイ押し込まないといけない。これは心理的にかなりキツイ」と松本さん。 ■本人からが多いDIY葬儀相談  よく「高い」といわれる葬儀料金だが、仕事内容を細かくチェックしていくと、なるほどなあと納得するところもある。そもそも松本さんがこの本を書くことになったのは、父親の葬儀の体験がもとにある。 「ネットの紹介会社に頼んだんですが、あとからいろいろ後悔したんです。父はテレビのカメラマンでしたから、あのとき映像を使って何かしてあげたらよかったとか。初めてのことだけにどうしたらいいか。いろいろ話を聞いてもらえる葬儀社だったら、よかったんでしょうけど」  私事ながら記者も10年ほど前に父の葬儀を体験し、弔いに関わる取材をしてきた。葬儀社選びのポイントを問われると、松本さんが言うように「プランの説明の前に、まず話を聞こうとしてくれるかどうか」だろう。 『DIY葬儀ハンドブック』が出版された当初は、葬儀関係者から否定的な陰口を浴びたりもしたが、なかには好意的な葬儀社もあるもので「DIYをサポートします」という葬儀社があらわれた。鎌倉を拠点とする「鎌倉自宅葬儀社」だ。  名前のとおり、自宅での葬儀を専門とする。「自力葬」と名付けたプラン(税込み5万5千円。数回の電話相談などで完全サポートする)を始めたのは昨年6月から。 色とりどりの生花に囲まれた故人のベッドで、愛犬が眠っている(提供:鎌倉自宅葬儀社)  葬儀コンシェルジュの馬場偲さんを訪ねたところ、「残念ながら実施にいたったケースはまだゼロなんです」という。それでも問い合わせは開始から1年間で40件ちかく。意外というか、ゆくゆくを考えた本人からの事前相談が多いという。 「断念されるのは、やはりご遺体のケア。ひとつひとつ説明しはじめると、じっくり考えてみます、となります」  相談者が家族の場合は、本来の「自宅葬」を申し込まれるそうだ。  じつは、記者の知人で、先のハンドブックが出版される以前だが、DIY葬を実践した人たちがいた。病院で亡くなった後、棺おけと火葬場の予約だけは葬儀社に頼み(火葬場によっては一般からの受け付けは断られることがある)、病院から自宅への搬送も自家用のバンに載せ、2階の寝室にも数人で抱えて運ぶなどした。  故人が舞台演出家だったこともあり、遺族は通夜を「フェス」と呼び、平服で集った知人たちがワイワイガヤガヤと思い出話に花を咲かせる。その場に交じり落語みたいだと思ったが、故人の妻いわく唯一の失敗は「ぽかんと開いたままの口」。気づいたときには遅かったという。「でも笑っているみたいだったから、いいよね」  印象に残っているのは、小さな子供たちによるクレヨンの寄せ書きだった。棺の四方がスキマなく、カラフルな絵や言葉で埋まっていた。  その話をすると、馬場さんが「落書き、ああいいですよね」とニコニコする。馬場さんも過去にそういう葬儀に立ち会ったことがあるという。 ■自分たちで考え見送った充足感 「鎌倉自宅葬儀社」の社員は馬場さん一人。社外のスタッフに協力を仰ぐことはあるが、ドライアイスの交換などは自身が日参する。欠かさないのは「故人のお人柄などを聞かせてください」とヒアリングするなど、遺族との対話を心掛けている。推奨するプランが一風変わっているのは、葬儀にかける日数だ。短くとも3日間。できれば7日間「自宅」で見送りをする。  近年、通夜を省略した「一日葬」が一般化しつつあることを考えると、時流に逆行しているように思えるのだが、「コロナ以降、受注は3倍近く伸びています」という。  シンプルプランで35万円(税別)。7日間が目安のセレモニープランだと85万円(同)。他社と比べそれほど価格は違わない。  しかし7日ともなれば、さすがに「長い」「間延びするのでは」と問い返してみた。馬場さんも「そうなんです」とうなずく。馬場さんは「故人と過ごしながら、何もすることがなくなってくる日常が大事なんです」。家から送りだす「最期の日」をどのようなものにするのか。「故人としっかり向き合い、ゆったりと考えていくことが癒やしにもなっていく」という。  棺に孫たちが色とりどりのクレヨンで言葉や絵を描いていくのもいい。最後の晩餐は故人が好きだったものを家族でこしらえたり取り寄せたりして、昔話に花を咲かせるのもありだろう。 「ペットのいるご家庭でよかったのは、一緒にお別れができたことですね。入院中に会えなかったりして、ホールの葬儀だと家族のような存在ながらお別れができないことが多いですから」  馬場さんが心動いた葬儀の例と話してくれたのは、ドライアイスの交換で訪れたときに、故人を寝かせていたベッドの布団の上で愛犬が眠っていた。 「私もなぜ、お葬式をするのだろうかと考えてきました。葬儀社にぜんぶを任せてしまうのではなく、自分たちで見送ったという充足感が大事なんだと思うようになり、なるべく日常のままにお見送りすることをテーマにするようになりました」  拠点は鎌倉だが、関東近県のみならず名古屋からの依頼にも応じている。 「確実に『自宅葬』の需要は増えてきていると思います。うちと直接のつながりはないですが、全国各地で『○○自宅葬儀社』を掲げる葬儀社も増えているんですよね」  馬場さんは葬儀の仕事をする前に写真を学んでいたこともあり、葬儀の際に家族が集まった写真を撮影させてもらうことが多い。一部を見せてもらったが「おじいちゃんの耳もとで語りかけるひ孫たち」。記念の集合写真にしても、にぎやかな声が聞こえてきそうなくらいの笑みを見せたものが多かった。 (文中カタカナは仮名)※週刊朝日  2022年10月14・21日合併号
週刊朝日 2022/10/13 11:30
尾野真千子「芝居ではなかった」 映画「千夜、一夜」で安藤政信をたたいたシーン
坂口さゆり 坂口さゆり
尾野真千子「芝居ではなかった」 映画「千夜、一夜」で安藤政信をたたいたシーン
尾野真千子(おの・まちこ)/ 1981年11月、奈良県生まれ。「萌の朱雀」(97年)で映画主演デビュー。最近の主な映画出演作に「茜色に焼かれる」(2021年)、「ハケンアニメ!」「こちらあみ子」(ともに22年)など。撮影/写真映像部・高野楓菜 ヘアメイク・石邑麻由 スタイリスト・江森明日佳(ブリュッケ)  全国の行方不明者数は年間約8万人。ドキュメンタリー出身の久保田直監督が「失踪者リスト」から着想を得た映画「千夜、一夜」。田中裕子演じる、30年もの間、失踪した夫を待ち続けるヒロインと対照的な役を演じた尾野真千子に話を聞いた。 *  *  *  舞台は北の離島の美しい港町。登美子(田中裕子)は、突然姿を消して30年経った夫を今も待ち続けている。幼なじみの漁師の春男(ダンカン)は、そんな登美子に思いを寄せ続け、彼も彼女が振り向いてくれることを待っているが、登美子がそれに応えることはない。  ある日、登美子のもとに、2年前に失踪した夫の洋司(安藤政信)を捜す奈美(尾野)が現れる。奈美は自分の中で折り合いをつけ、前に進むために夫が「いなくなった理由」を探していた……。愛する夫をずっと待ち続ける登美子とは対照的な女性、奈美が尾野の役どころだ。出演を決めた理由をこう話す。 「奈美という『待つ女』に引かれたのだと思います。田中裕子さんが演じる登美子は30年夫を待ち続けていますが、奈美の場合、夫がいなくなって2年。夫に失踪されてからの2年は、並々ならぬ感情を持っていたと思いますが、それをなんとか乗り越えたはずです。  この映画の奈美は、そんな夫への思いを2年経ってようやく整理をつけることができた後のことが書いてある。次の人生に進み始めようとしている彼女を演じることが大切でした」  尾野にとって、作品に出演するかどうかはまず台本を読むことが最優先。常に仕事を抱える売れっ子だけに、一つの作品が終わればそのキャラクターがすっかり抜けて、次の作品へ。役を引きずることはない。 「引きずれないんですよ。性格みたいです。ただ、一つのお仕事の間に別のお仕事を入れるのは苦手です。一つの作品に集中したいので、撮影中にオファーをいただいても脚本を読めない。作品の合間の自分の気持ちに余裕がある時に読ませていただくので、すごく時間がかかって迷惑をおかけすることにもなるのですが……」 尾野真千子 「千夜、一夜」の奈美は登美子とは異なり、戻ってこない洋司との関係を終わらせ、新たなパートナーとの人生を踏み出すことを決心する。だが、そんな時、登美子はフェリーで向かった本土で偶然洋司を見つけ、奈美のもとに一緒に帰ることを促す。やっと気持ちを整理した矢先に、突然現れた夫。奈美は洋司に「急に時間を戻されて、苦しんだり悲しんだりしたの、帳消しになんかできないんだから」と感情を爆発させる。 「夫役の安藤さんを『なんで今さら帰ってきたのよ!』と怒りに任せて、すごくたくさんたたいてしまったので、安藤さんには悪いことをしたなという気持ちが大きいです。何回殴るかというのは自分で想像しておらず、体が動くままにやらせていただきました。芝居ではなかったです」  実はこの映画で、待ち続けたのはそれぞれのキャラクターだけではない。映画自体、コロナ禍で一度中断し、完成まで8年も「待った」。久保田直監督は舞台あいさつでこう振り返った。 「(撮影の中断を出演者らに伝えた)その時に裕子さんが『健康でいて。健康でさえいれば必ず』と涙を流しておっしゃってくださった。僕も大人になって初めて人前で号泣するという醜態をさらしてたんですけれども。その時、真千子さんもいらして、泣きながら『私も絶対に裕子さんと芝居がしたい』とおっしゃった。あの時の光景は多分一生忘れないと思います」  尾野が田中と共演するのは本作が2度目だ。「新しい自分を見てもらえるきっかけになったのでそれがうれしかった。田中さんからはいつも良い刺激をいただくのですが、今回もやはりそうでした」と言う。 「この映画では、奈美が一番現実的だと思いましたが、登美子が一人の人を30年も本当に素直に待っているのだとしたら、すごいことだと思います。登美子が本当に強いのか強くないのかはわかりませんが、彼女のような心を持てたらいい。きれい事かもしれませんが。でも、そんな人はなかなかいないじゃないですか。奈美のように(自分の心に折り合いをつけて)次に進む人のほうがきっと多い中で、あえてずっと待ってるというのは誰にでもできることではないと思います」 尾野真千子 ■人との出会いが自分の力になる  撮影は佐渡で。滞在1カ月程度だった。尾野は「料理がなんでもおいしくて。もう一回プライベートで行こうと思っているくらい、とても良いところでした」と話す。  彼女にとって初めて共演した人が多い現場だったが、「年齢が上の方も多かったので、和気あいあいとはちょっと違いますが、ほど良い緊張感の中で演技をさせていただけました」と振り返る。 「安藤さんやダンカンさんも初共演。ダンカンさんはバラエティー番組に出ていらっしゃるイメージがあったのですが、春男役は本当にぴったりだなって思いました。何もしていない背中を見ているだけでもすごいなと感じましたし、彼が息をしているだけで、『ああ、春男だ』とうらやましく思えました。  私にとって、人との出会いが(役者として)すごくためになります。この映画で新しい出会いがあってうれしかったです。うまく言葉にできませんが、一つの作品を共にすると自分の力になることがたくさんある。この作品に出会えてよかったなって思います。  裕子さんと現場で何を話しているか、ですか?  演技の話はあまりしないです。私もしたくないので。撮影以外はもう普通におばちゃん同士の会話みたいに話していますよ(笑)。そう言うと、みなさん『想像がつかない』とおっしゃいますが。裕子さんには特別感があって私もうらやましいなと思います。どんな方かわからないって、やっぱり魅力的じゃないですか。私も目指したいところですね」  登美子、奈美、登美子に思いを寄せ続ける春男、春男の母・千代(白石加代子)……。待つ人ばかりが登場するこの映画。 「ご覧になるみなさんもきっとそれぞれ感情移入ができる『待つ人』がいると思います。どのキャラクターに当てはまるのか、どの目線で見るのか。見た方がどういう感想をくださるのか楽しみです」 (敬称略) (ライター・坂口さゆり)※週刊朝日  2022年10月14・21日合併号
週刊朝日 2022/10/08 11:30
医師は増えても外科医だけは0・98倍と減少「余裕がない状態」 働き方改革への外科医たちの期待と不安
梶葉子 梶葉子
医師は増えても外科医だけは0・98倍と減少「余裕がない状態」 働き方改革への外科医たちの期待と不安
※写真はイメージです(写真/Getty Images)  高齢化による患者数の増加もあり各地で外科医不足が問題となる中、医師の働き方改革が進められている。今年、日本胸部外科学会が発表した内容によれば、外科手術の件数は増加傾向にある一方で、外科医の数は増えてない状況が示された。他の診療科の医師は増えているにもかかわらずだ。好評発売中の週刊朝日ムック『医学部に入る2023』では、医師の働き方改革への外科医の期待と不安を取材した。なぜ外科医は増えないのか。働き方改革は、外科医の労働環境改善につながるのだろうか。 *  *  *  医療行為の中で、最も重要なものの一つである手術を一手に担うのが外科医だ。盲腸などの小さなものからがんや心臓病などの大手術、また交通事故などの外傷治療も、外科医がいなければ始まらない。  ところが近年、外科医の数が増えず、医療機関では常に外科医不足が問題になる事態が続いている。一方で、高齢化が進む日本では、手術を必要とする患者は増加しており、外科医の業務や労働時間はますます増える傾向にある。 ■増えない外科医と増える手術  そのような状況の中、医師の働き方改革が進められている。医師の働き方改革は、一般の企業などで2019年4月から順次施行されている「働き方改革関連法(働き方改革を推進するための関連法律の整備に関する法律)」の医師版だ。現在すでに準備期間として、医師の診療以外の業務を削減し労働環境を整えるため、看護師や医療事務職などに可能な仕事を割り振るタスクシフティングやICT化の推進など、さまざまな取り組みが各医療機関でおこなわれている。さらに24年4月からは、医師の時間外労働規制が実施される。  医師という職業は患者の命と向き合うため、専門性が非常に高く業務の内容も多岐にわたる。また夜間や休日には宿日直も必要で拘束時間も長い。外科医の場合には特に顕著で、手術の後に当直をし、そのまま朝から外来診療といった長時間勤務もしばしば耳にする。難しい手術では10時間を超えることもまれではない。働き方改革によって、外科医の労働環境は変わるのだろうか。   22年1月、日本胸部外科学会による「医師の働き方改革に関する会員の意識調査結果(回答数:1553人)」が発表された。日本胸部外科学会は、心臓血管外科や呼吸業務を削減し労働環境を整えるため、看護師や医療事務職などに可能な仕事を割り振るタスクシフティングやICT化の推進など、さまざまな取り組みが各医療機関でおこなわれている。さらに24年4月からは、医師の時間外労働規制が実施される。  日本胸部外科学会は、心臓血管外科や呼吸器外科、食道外科など、外科の中でも生命に直結し、難易度が高く高度な技術が必要とされる手術を担う外科医を中心とした学会である。 週刊朝日ムック『医学部に入る2023』より  この報告で大きな危機感をもって示されたのは、外科医が増えていない現状だ。医学部の定員は、02年時点の約7600人に対し22年には約9400人と2千人ほど増えている。それに伴って各診療科の医師数も増加傾向にあり、外科以外はすべて1・0倍を上回り増加しているが、外科だけは0・98倍と減少している。 週刊朝日ムック『医学部に入る2023』より  その一方で手術件数は増加し続け、1996年と2017年の比較では食道外科で約1・5倍、心臓血管外科で約2・0倍、呼吸器外科では約2・7倍にもなっている。これは高齢者の増加に加え、診断機器や技術の進歩、腹腔鏡やロボット手術といった低侵襲手術の導入などで、手術可能なケースが増えたことが理由と考えられる。20年前より少ない外科医で1・5~2・7倍の手術件数をこなしていることになり、外科医不足が問題となるのも当然といえる。 ■業務の大変さと収入のバランス  なぜ外科医は増えないのだろうか。胸部外科学会の調査を主導した近畿大学医学部外科学教室上部消化管部門主任教授の安田卓司医師は、次のように話している。 安田卓司医師 日本胸部外科学会政策検討委員会委員長/近畿大学医学部外科学教室上部消化管部門主任教授 「外科は手術だけしていればいいわけではなく術後の管理も重要で、また夜間の救急でも呼び出されるなど他科に比べて業務が多いのです。逆に言えばやりがいにつながる。主たる診療科別医師数の推移のですが、現在の研修医制度ではそれが十分に伝えられず大変さばかりが強調されてしまう、という一面があると思っています」  順天堂大学医学部呼吸器外科学講座主任教授の鈴木健司医師も、情報の偏りを挙げる。 鈴木健司医師 順天堂大学医学部呼吸器外科学講座主任教授 「今はSNSが全盛で、事実と異なることがあっという間に広がります。自分自身の判断ではなく、人の口コミに左右されてしまう。外科の本質や本当の魅力が、なかなか伝わらないのです」  また富山大学学術研究部医学系消化器・腫瘍・総合外科教授の藤井努医師は、精神論的なこだわりの強さも理由の一つではないかという。 藤井 努医師 富山大学学術研究部医学系 消化器・腫瘍・総合外科教授 「今までの外科医は、自分が手術をした患者さんは土日も正月休みもなく365日顔を見に行くのが当然、といった精神論を声高に言うことが多々ありました。そういったことも、若い医師を遠ざける原因になったのではないでしょうか」  また、収入面の問題も無視できない。勤務医の場合、基本的には勤務する医療機関から給料が支払われる。同僚の医師たちよりも多くの業務をこなしているのに給料の額があまり変わらなければ、働きが認められていないと感じ、外科を選ぶことをためらう心情はよく理解できる。 ■働き方改革への期待と不安  外科医の不足は大学病院でも顕著で、今後への不安は非常に大きいという。 「今は大学病院に研修医が大勢残る時代ではなく、かなり厳しいですね。当院でも、例えば食道がんと胃がんの手術が重なった場合など十数人いる消化器外科の医師がほぼ総出になってしまい、余裕がない状態です」(安田医師)  中堅の医師が増えていないことへの不安もある。 「外科が花形で大勢いた時代の先生方がこの数年で定年になり、一気に辞めていかれます。おそらく多くの病院で、外科を維持することが難しくなるのではないかと危惧しています」(藤井医師)  このような状況の中、24年4月からの時間外労働規制により、今まで無理してやりくりしていた勤務時間の上限が法律で規制されることになる。  時間外労働規制は、一般の勤務医を対象とするA水準、救急医療や在宅医療など緊急性の高い医療に従事する医師を対象とするB水準、臨床研修医や専攻医など短期間に高度な技能や能力を習得する必要がある医師を対象とするC水準の三つに分けられる。A水準は年960時間以下/月100時間未満、B水準とC水準は年1860時間/月100時間未満と定められ(すべて休日労働を含む)、全水準とも月の上限を超える場合には、「連続勤務時間制限28時間」「勤務間インターバル9時間の確保」「代替休息」の三つをセットにすることが義務(A水準は努力義務)とされる。  医師の働き方改革に対しては、タスクシフティングやチーム主治医制の導入による業務の軽減、労働時間の短縮による生活の質や健康の維持など、労働環境改善への期待もある。一方、人員が増えない中で労働時間を削られることへの不安も大きい。例えば、技術の習得や経験の蓄積、教育などの時間が十分に確保できないことによる医療レベルや質の低下、ただでさえ医師不足や偏在が著しい地域医療への影響、医学研究や学会活動など自己研鑽をおこなう時間の削減などだ。これらは今後の日本の医療全体に影響し、結果的には患者の不利益につながる。 週刊朝日ムック『医学部に入る2023』より  このような不安を抱えつつ、現場では医療の質を落とさずに、労働時間削減を含め医師の労働環境を改善するための取り組みが模索されている。 「適切なタスクシフティングによって大学や病院に拘束される時間を減らし、自分なりの自己研鑽の時間を確保できる方向に行くのが最も良いと思います。また医学生の約50%を女性が占める今、女性医師のライフサイクルに合わせて男性医師と同様のパフォーマンスができる環境を整えることが非常に重要です」(鈴木医師)  時間外労働規制は、業務のスリムアップを図るチャンスにもなりうる。 「働き方改革は、労働時間を外科本来の業務である手術と術後の管理に集中させることができる、良い機会と捉えています。外科医は麻酔や緩和など多くの業務ができるため、範囲が広がって拘束時間が余計に長くなりがちです。法律による時間制限は、その歯止めになるでしょう。本来の業務に集中しチームでシフトを組むことで、労働環境は整うはずです」(藤井医師)  働き方改革だけで、外科医の労働環境が今すぐ劇的に変わるとは思わない。しかし法律で定められた以上、今後、改善に向かうのは確実だろう。そして現場で長年働く医師たちは、大変さをはるかに凌駕するやりがいと魅力が外科医にはある、と口をそろえる。 ■大きなやりがいと魅力キャリアの形成も 「とても厳しい手術がなんとかうまくいき、麻酔から覚めた患者さんの手を握り、うまくいきましたよ、と伝えるときの感動、その瞬間を共有できたときの喜びは何物にも代えがたいものです。確かに外科は勉強しなければならないことも、やらなければならないことも多い。でもそこには、目の前の患者さんを自分の手で救うという医療の根本があふれている。若い人にはそう伝えたいですね」(鈴木医師)  手術は一人ではできない。医師だけでなく看護師や臨床工学技士などさまざまなスタッフが、チーム一丸となって取り組む喜びもある。 「みんなで一つの目的に向かって努力した結果が、患者さんのプラスになって喜んでもらえる。その素晴らしさを一度味わうとやめられません。外科はリスクがあると言われますが、どの科でも大なり小なりリスクはあります。試行錯誤していかに最も良い結果を出すか、そして、それを次の患者さんにどう生かすか。何年経ってもやりがいを感じます」(安田医師)  また将来のキャリア形成を考えたとき、外科医の特性が有利に働くことも多い。 「少子高齢社会で手術は今後も増えるし、いろいろな業務ができる外科医はどこへ行っても引く手あまたです。もちろん開業も可能ですし、病院内のキャリアについても、守備範囲の広さやチームマネジメントをおこなう立場から、経営幹部や院長職への登用も多い。仕事への幸福感・充実感とともに、さまざまな可能性を実現できる科でもあると思います」(藤井医師)  国民皆保険でいつでも医療が受けられ、手術のレベルも高い日本の医療には安心感がある。外科医の生活の質が守られ、仕事に喜びを感じて働くことができるよう、働き方改革が十分機能すること、そして、外科医を志す人が今後増えていくことを期待したい。 (文/梶 葉子) 安田卓司医師 日本胸部外科学会政策検討委員会委員長/近畿大学医学部外科学教室上部消化管部門主任教授 1986年大阪大学医学部卒。同付属病院第二外科医員、大阪府立成人病センター外科、大阪大学大学院医学系研究科、近畿大学医学部外科学教室助教授、准教授を経て2013年から現職。 鈴木健司医師 順天堂大学医学部呼吸器外科学講座主任教授 1990年防衛医科大学校卒。自衛隊横須賀病院で臨床研修後、国立がんセンター東病院、同中央病院呼吸器外科を経て2008年から現職。 藤井 努医師 富山大学学術研究部医学系 消化器・腫瘍・総合外科教授 1993年名古屋大学医学部医学科卒。同第二外科、米マサチューセッツ総合病院、名古屋大学大学院医学系研究科消化器外科学准教授を経て、2017年から現職。 ※週刊朝日ムック『医学部に入る2023』より
がん医学部に入る2023病気病院
dot. 2022/10/07 07:00
“ラジオ界の宝”ピストン西沢の「GROOVE LINE」、24年半の歴史に幕 「ラジオのために生まれてきた」
“ラジオ界の宝”ピストン西沢の「GROOVE LINE」、24年半の歴史に幕 「ラジオのために生まれてきた」
毒舌で笑わせても音楽への敬意があるから、アーティストからの信頼も厚い。気持ちが上がったのは「HMV渋谷のスタジオにきれいなお姉ちゃんが一人で見に来たとき(笑)」(撮影/写真映像部・高橋奈緒)  J-WAVEの人気番組「GROOVE LINE」が9月29日に終了する。「自分がやりたいことができる環境をつくってきた」というピストン西沢さんの24年半とは、どんなものだったのか。AERA 2022年10月3日号の記事を紹介する。 *  *  *  あと十数秒で放送が終わる9月1日の夜7時前、ピストン西沢さんが言った。 「そうだ、この番組、今月いっぱいで終了です」  突然の終了宣言にリスナーはざわつき、DREAMS COME TRUEの中村正人さんは「ピストン西沢はラジオ界の宝。」とブログに投稿した。番組にはアーティストからの出演希望が相次いだ。スタジオでは物心ついたときから聴いていたというチャラン・ポ・ランタンが涙し、石井竜也さんが絵を贈るなど、ラスト1カ月はゲスト満載、祭りのような放送が続いている。  一貫してハイテンション、独特のトークとDJミックスで人気を集めるピストンさんは24年半、J-WAVEの夕方の時間を走り続けてきた。同じナビゲーターが続ける番組でさらに長いのは、同局ではクリス・ペプラーさんの「TOKIO HOT100」しかない。聴取率は6月の首都圏ラジオ聴取率調査(ビデオリサーチ)で同時間帯トップだし、スポンサーもついているが、10月からの新番組編成のために終了することになった。 「ラジオの自分は店じまいして、他の自分が今度はメインになるというだけの話です。やりたいことがいろいろありますから」  とピストンさんは語る。 ■ADから始めた努力家  そもそもバイリンガルのナビゲーターが主流のJ-WAVEに、なぜピストンさんが出演することになったのか? 「脳科学者にも言われたんですけど、僕は小さい頃から今まで子どもが興奮しているような状態がずっと続いてるんですよ。うるさい子どもだったと思うし、我慢しないと社会でうまくやっていけないことはわかっていたから、自分の能力でごはんが食べられるところを目指したんです」  選んだのは音楽の道だった。通産省(当時)の官僚だった父親が薦める企業には行かず、ディスコで、今でいうクラブDJをしていた。番組の初代プロデューサーで当時を知る杉山博さんは、 「彼がターンテーブルミックスを始めると客が集まってきてフロアがぎゅうぎゅうになるんです。とんでもなく人気のあるDJでした」 人気のDJミックスは「曲だけは事前に選んでおきますけど、あとは出たとこ勝負。いつも必死ですよ。やった後はヘットヘトです」(撮影/写真映像部・高橋奈緒)  しかし、ピストンさんにはディスコより放送局の水が合っていた。声をかけられてFM横浜の深夜番組で初めてマイクの前に座り、J-WAVEのパーティーでDJをしたときに自らプレゼンして番組制作に携わるようになる。杉山さんは、 「人気DJなのに、一から番組作りを学びたいと言ってADから始めました。努力家で、でも振り切った面白さがあるやつなんで、スタッフの中でも瞬く間に知れ渡り、裏方よりしゃべったほうがいいんじゃないか、となったんです」 ■少しずつ陣地を拡大  1993年頃から番組に出演し、最初はですます調で真面目に話していた。3週目くらいに、留守番電話にリスナーが入れた鼻歌の曲名を当てる企画を始めた。ピストンさんは振り返る。 「それから番組がうまく回り出しました。僕は制作者としての勘が働いたから生き延びた。どうしたら面白くなるか、自分で矯正していったんでしょうね」  そして98年に「GROOVE LINE」がスタートした。ゲストをいじったり、リスナーとの電話を途中でブチッと切ったりと、J-WAVEらしくない、やんちゃな番組は評判になった。とはいえ、最初から好きなように話せたわけではない。局内には歓迎しない人もいた。 「昨日の放送でいいと言ってくれる人が局の中に1人増えたと感じたら、今日はもう少し言ってみようと、少しずつ陣地を拡大していきました。自分がやりたいことができる環境を作ってきたんです」  とピストンさん。傍若無人に聞こえるトークの裏には緻密な思考がある。松尾健司プロデューサーは、 「ただ話しているのではなく、番組が面白いのか、リスナーは喜んでいるのか、スポンサーがどう思っているかまで、360度が見えている。そんな人はそうそういません」  台本には曲名くらいしか書かれていない。あとはピストンさんが臨機応変に言葉を繰り出す。リスナーが飽きたと察すれば、すかさず言葉や行動で刺激する。ピストンさん自身も、 「僕がディレクターとして自分を見たら、これだけラジオに合ってるやつはいないと思いますね。ラジオのために生まれてきたやつだとも言えます」  人気は過熱し、2009年にHMV渋谷での公開生放送が終了するときには、ファンがフロアを埋め尽くした。 AERA 2022年10月3日号より  番組にはリスナーから日々1千通、2千通に上るメッセージが届く。ピストンさんはそこから世の中の動きやリスナーの思いを敏感に感じ取ってきた。  東京都板橋区でお好み焼き店「みりおんばんぶー」を営む佐々木拓・麻子夫妻は、仕込みをしながら番組を聴いて17年になる。投稿で番組とつながり、東日本大震災、麻子さんの病気、コロナと、危機に瀕するたびにピストンさんに励まされて乗り越えてきた。  番組での紹介でリスナーが来店するようになり、18日には17人が集まってリスナー会議が開催され、「最後まで番組を盛り上げていきましょう!」と乾杯した。参加したラジオネーム「Mr.ハラキリ」さんは多い日には50通ものメッセージを投稿し、10年間で4670回以上、番組で取り上げられた。 ■リスナーに寄り添う  やはりリスナーにはおなじみの「野球道」さんは仕事中にもネタを考え、生活が番組中心に回っているほど。他の番組より採用のハードルが高いだけに読まれたときの喜びは大きい。 「ピストンさんは一瞬のうちに順番を入れ替えたり、セリフ調にしたりして、より面白く味付けして読んでくれる。そのすごさは投稿した本人にしかわからないんですよ」  20代の「右手にコーラ」さんはトラック運転手をしていた5年前に番組を聴き始めた。毎日30通を投稿するが、採用されなくても番組を盛り上げる一助になればいいと言う。 「ピストンさんには恩があるんです。電波越しにDJの面白さを教えてもらって2年前に機材を買って練習を始めました。今はクラブでDJをしています」  ナビゲーターのトーク力は非常時に試される。東日本大震災後の不安な日々の中、いつものピストンさんの声にホッとした人は多かった。リスナーの気持ちに寄り添った情報発信は高く評価され、ギャラクシー賞ラジオ部門DJパーソナリティ賞を受賞している。  コロナで世の中が硬直したときも話題をそらさず、周りに感染した人はいますか、療養中のあなたに電話しますよ、と呼び掛けた。 「僕の中でラジオの重要な部分はやはりコミュニケーションなんです。みんなで同じ気持ちを味わって気が楽になったり、勉強になったり。共有と拡散です」 ■「今、すっごい自由」  今後、やりたいことの一つがSNS、YouTubeでの交流だ。たとえば、悩みや相談事をみんなで考える。生きている上で抱えているものを軽くしたり、やりたいことを我慢しない生き方を探すヒントになればいい。  番組終了後の同時間帯にはタカノシンヤさんと藤原麻里菜さんによる新番組「GRAND MARQUEE」が始まるが、ピストンさんの声は日曜夜7時の「DRIVE TO THE FUTURE」で引き続き聴くことができるし、YouTube配信も始めている。 「長くやっていて一番の大敵は自分に飽きちゃうことなんです。番組終了が決まってから急に楽しくなっちゃった。今まで番組継続に悪影響があるものは自分の中でアウトと縛ってきたけど、もう関係ないもんね。今、すっごい自由ですから」  28日は秀島史香さんと2人で進行する。29日の最終日に何が起きるかはわからない。(ライター・仲宇佐ゆり)※AERA 2022年10月3日号
AERA 2022/09/29 14:00
「3C・4低・3強・3生」という高い壁…結婚したくても結婚できない日本人男性が増える根本原因
「3C・4低・3強・3生」という高い壁…結婚したくても結婚できない日本人男性が増える根本原因
※写真はイメージです(GettyImages) 「生きづらい」とこぼす日本人男性が増えている。『男が心配』(PHP新書)の著者で、20年以上にわたり、男性の生きづらさを取材、研究してきた近畿大学の奥田祥子教授は「依然として『男らしさ』に縛られている人は多い。20年前は少しは笑いに変えられるような希望があったが、いまはまったく笑えない深刻な状況になっている」――。 20年たってやっと「男が心配」と言えるようになった ――なぜ「男性の生きづらさ」を研究するようになったのですか。  大学院修了後に新聞社に入社し、30歳代になって、30~50歳代のサラリーマン男性を主な読者とする週刊誌に配属されたのですが、そこで一般的なサラリーマン男性の中には「男らしさ」を実現できずに苦しんでいる人がたくさんいることに気がつきました。ポスト削減が始まっていた20年前にも、出世できないという仕事の悩みや、ずっと仕事一筋でやってきたために家庭にも居場所がないと嘆く声はすでにあったんですね。  私は女性が極めて少ない時代に新聞記者としてキャリアをスタートして、警察や政治家といった権力に毅然とした態度で対峙(たいじ)して弱音を吐かない先輩たちに憧れていましたから、強い存在と思い込んでいた男性が仕事や家庭の悩みで弱り果てていることに激しく心を揺さぶられたのです。  しかも、男性の生きづらさは経済動向や雇用情勢の悪化によって起きている問題ですから、看過されている社会の問題です。にもかかわらず、男性記者は同姓の男性のつらさを取り上げたくないのか、手を挙げる人はいない。それで私がやるべきなんじゃないかと考えたのです。  新聞社での仕事とは別に個人活動として取材を始め、その後研究を再開して大学教員となった今まで、週末を使って全国を回ってインタビュー調査を行い、夜から朝にかけて調査データを分析、執筆するといった生活を続けてきました。取材者総数は男性だけでも約1000人に上ります。このうち500人を超える男性が一度で終わることのない継続インタビューで、最も長い方で20年余り追い続けています。 ――『男が心配』という本のタイトルはインパクトがありますね。  今でこそ『男が心配』というタイトルの本を出させていただいていますが、取材を始めた当初は「心配」という言い方ができない状態だったんですよ。  女性が男性の生きづらさを追うことに対して、男性からは「なんでお前に分かるんだ」というお叱りを受けますし、女性からは「今、女性の差別撤廃が必要なのに女性のあなたがなんで男に同情するの?」と言われる。最近になってようやく、男女ともに共感を持ってくださる方が増えて、時代が変わってきたなと感じています。 5年、10年と取材していくなかで語られる“男性の本音”  自分の実績が評価されずにポストに就けないことに苦しむ男性も少なくありません。バブル崩壊を機に始まった新卒採用減が、2000年代前半ごろからリストラへと進行し、さらに法律に抵触しないよう、巧妙にリストラに追い込んでいくケースが増えていきます。同期は出世したのに自分は左遷、出向、転籍という憂き目に遭ったと嘆く人もいました。  2015年に刊行した『男性漂流 男たちは何におびえているか』の中でも紹介しましたが、「長年勤めた会社からいろんな手を使って退職に追い込まれたら、会社を恨んでしまうから、あえて感謝して別れるために、先に自分から会社を辞めたんだ」と話された方のお話には胸を打たれましたね。 ――本書の中では、普段聞くことのない悲痛な本音が吐露されています。  皆さん、1回会っただけでは本音を明かしてくれないんです。最初は「大丈夫ですよ」と明るくお話されていても、会う回数を何度も重ねて、5年、10年と月日が流れていく中で「やっぱりつらいんです」という本音を打ち明けてくださいます。  もちろん「大丈夫」とおっしゃった時の表情や身振りなどノンバーバル(非言語)の部分を観察し、取材者として「本心ではないな」とは思いますが、臆測で対象者の心情を書くことはできない。だから、「眉間にシワがよった」「頬がピクピク動いている」といった観察記録を書き留めておくわけです。初めてお会いしてから20年経って、「あの時、本当はつらかったんです」と本音を話してくれた方も少なくありません。  弱音を吐かない、出世しなければいけない、妻子を養わなければならない。そんな旧態依然とした「男らしさ」に縛られているがゆえに、誰にも悩みを打ち明けられずに自分をここまで追い込んでしまうのではないかと思うと……。男性がすごく心配という気持ちは、今も昔も変わりません。 出世圧力に追い詰められ自信をなくしていく ――なぜ多くの男性が「出世しなければならない」と感じてしまうのでしょうか。  旧態依然とした「男らしさ」のジェンダー規範に沿おうとすると、男性はどうしても出世して社会的評価を得なければならなくなりますよね。また、人間には人から認められたいという承認欲求があるとされています。男性の場合は、社会から高く評価されたいという承認欲求と、自分は「男らしさ」を具現化するための勝負に勝ったんだという自負が結びつきやすい。出世は、まさに「男らしさ」を認めてもらう究極の象徴なのです。  ただ、最初に申し上げましたように、ポスト削減は昔から始まっているし、多くの人は給料も上がらないし、人件費削減がどんどん進んでいるので一握りの人しか出世できません。「男らしさ」を実現するのがかなり難しい状況の中で、出世圧力に追い詰められる男性が増えているのです。 「正規雇用になれば結婚できる」と考えていた40代男性  非正規雇用の男性にとっては、正規登用されることが出世に近い状態です。しかし、運よく正社員になれても、「男らしさ」の呪縛からはなかなか解放されません。  学卒期が就職氷河期と重なってしまった小川さん(仮名)は、非正規雇用で、派遣スタッフや契約社員の職を転々としてきました。経済力がないことを理由に女性に対する自信を失っていた小川さんですが、2013年に施行された改正労働契約法の「無期転換ルール」を追い風にして18年にジョブ型正社員に登用され、さらに翌年44歳で同業他社に正社員として転職を果たしました。  それを機に、「雇用形態に負い目を感じて女性から逃げなくても、堂々としていられます」と、精力的に婚活を始めます。しかし、いざ婚活を始めてみると、正社員であること以外にも女性から求められる条件の多さに疲弊し、「まるで粗探しをされているようだ」と、女性に対する自信を再び失ってしまいました。  その後、小川さんはこれまで以上に仕事に邁進し、周囲に遅れながらも46歳で課長に就任します。仕事を女性に好かれるための手段ではなく、仕事自体にやりがいを感じられたのは幸いでしたが、「出世圧力」と、「男たるものモテなければいけない」という「モテ信奉」の根深さを感じた取材でした。 かつては「半径5メートル以内」で相手が見つかった ――男女ともに結婚できない人が増えている印象があります。なぜ結婚できない人が増えているのでしょうか。  国立社会保障・人口問題研究所の「出生動向基本調査」では、「結婚できない理由」として最も多い回答は男女ともに「適当な相手にめぐり会わない」という傾向が20年以上続いています。しかし、出会いの数が多すぎることがかえって結婚を遠ざけていると私は考えています。  昔は、職場など身近な半径5メートル以内で巡り合った人をいい意味で、“運命の人”だと思えました。出会いに溢れた現在は、そうした尊さが全くありません。「来週また婚活パーティーがあるから」などと思うと、男女ともに相手の良いところを見つけるのではなく、粗探しをしてしまいやすく、「選択」ではなく、「排除」に陥ってしまっているのです。 出所=『男が心配』  2020年の国勢調査を基に国立社会保障・人口問題研究所が算出した男性の「50歳時の未婚割合」は28.3%と、3人に1人に迫る勢いです。結婚したいのにできない人の割合が、なおいっそう増えています。現在の状況が続けば、男性の孤独や孤立を強め、自殺者数の増加といったより深刻な事態につながりかねません。 女性が求める男性の条件はますます厳しくなっている ――本書では女性が求める「理想の男性像」がさらに厳しくなっていると指摘されていました。  女性は変わったと言われていますが、男女のマッチングにおける本音の部分は変わっていません。これは既存の意識調査などでは女性が本音を明かさないケースが多いため、ほとんど出てこないことです。学歴と経済力は依然として重要ですし、それに加えて家事力や育児力を求められていることを考えると、条件はむしろ厳しくなっています。  例えば本書では、先行研究などから、女性にとっての男性の新しい理想像として、高身長に目をつぶった代わりに家事などへの協力を重視した「3C」や、女性にとっての負担やリスクを軽減する「低さ」を求めた「4低」、女性を経済面・体力面・生活面で守る「強さ」を兼ね備えた「3強」、生存力・生活力・生産力を重視した「3生」などを挙げています。 プレジデントオンライン編集部作成  経済力に関して変化があるとしたら、年収の高さよりも、リスクの低い職業に就いているなどの安定性が求められるようになったことですね。現在はハイスペックのサラリーマンでも収入の伸びには限度がありますから、自治体の正職員のように、リストラされずに収入を常に入れてくれる男性に人気が集まりやすくなっています。 「男のプライドにかけて女性の条件は下げられない」 ――「結婚できないのではなく、しないだけ」と語っている高スペック男性のエピソードも印象的でした。  いわゆる「高スペック男性」の苦悩については、いままで多くの取材を重ねてきました。本書で紹介した男性はそのうちの一人です。大手ゼネコン営業課長の佐藤さん(仮名)は、38歳にして同世代と比べて収入も高かったですし、コミュニケーション能力も抜群で、婚活市場では“超”がつくほどの“優良物件”でした。ただ、会って開口一番「僕は結婚できないんじゃない。結婚しないだけですから」と能力不足で結婚できないのではないと釘を刺してくる。典型的なパターンですね。  しかも、「男のプライドにかけて女性の条件は下げられませんよ」と堂々とおっしゃって、お付き合いする女性の条件として「美人で料理がうまくて家庭的、聡明で短大か女子大卒」の「20歳代」を挙げていました。当時の女性が結婚相手の男性に求める条件を兼ね備え、合コンに出向けば、逆に女性から声をかけられるという。「男はモテなければいけない」という「男らしさ」を具現化できていることに誇りを持っていたんでしょうね。  その5年後、佐藤さんは「効率性」を求めて結婚相談所に入会していたのですが、収入など外面ばかり注目され、中身を見てもらえない婚活に疲弊している様子でした。そこに、部長昇進間近と目されていた時期に、うつ病で休職していた部下から「佐藤さんに過重労働を強いられていた」と人事部に訴えられ、譴責(けんせき)の懲戒処分を受けたことが追い打ちをかけます。  佐藤さんは「花形部署を離れて、出世も見込めないなんて、女性にモテるわけがない」と心をひどく痛めていました。 20年前は笑いに変えられる明るさがまだあった  ポストが削減されている現在、実際には「高スペック男性」は部長まで昇進できればまだいいほうですが、彼らの中には社長は無理でも、せめて役員にはならないとダメという認識の人も少なくない。だから、高スペックは、どこかで終わってしまう期限付きのものなんですね。高スペックの期限に気付いていない男性たちを前にしても、取材者という立場上、何も言えないことをいつももどかしく思っています。  15年前に『男はつらいらしい』を刊行したときは、取材相手の男性に怒られながら取材する大変さがあった一方で、文字にしてみると、男性からもクスっと笑ってもらえるような明るさがまだありました。  ですが、現在は最悪、男性が孤独死する状況が明日にでも待ち受けている状況なわけです。男性も年齢が上がれば上がるほどマッチングの可能性が低くなってしまいますし、自信もやる気もなくなり、最終的には孤独感に苛まれながら、周囲から孤立してしまいかねない深刻さをとても危惧しています。それでも、次にお会いしてインタビューするときには状況が良くなっているかもしれないと願いながら、取材を継続しています。 (構成=佐々木ののか) 奥田 祥子(おくだ・しょうこ)近畿大学 教授京都生まれ。1994年、米・ニューヨーク大学文理大学院修士課程修了後、新聞社入社。ジャーナリスト。博士(政策・メディア)。日本文藝家協会会員。専門はジェンダー論、労働・福祉政策、メディア論。新聞記者時代から独自に取材、調査研究を始め、2017年から現職。慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科博士課程単位取得退学。著書に『捨てられる男たち』(SBクリエイティブ)『社会的うつ うつ病休職者はなぜ増加しているのか』(晃洋書房)、『「女性活躍」に翻弄される人びと』(光文社)などがある。
プレジデントオンライン 2022/09/28 18:00
伊東健人、川谷絵音プロデュース楽曲「真夜中のラブ」配信スタート&MV公開
伊東健人、川谷絵音プロデュース楽曲「真夜中のラブ」配信スタート&MV公開
伊東健人、川谷絵音プロデュース楽曲「真夜中のラブ」配信スタート&MV公開  伊東健人が、川谷絵音のプロデュース楽曲「真夜中のラブ」で2022年9月21日にアーティストデビューを果たした。  伊東健人はこれまで声優として「ヲタ恋」旋風も記憶に新しいTVアニメ『ヲタクに恋は難しい』でイケメンで仕事もできるが重度のゲームオタクというギャップのある主人公、二藤宏嵩を演じ、音楽原作キャラクターラッププロジェクト『ヒプノシスマイク』では観音坂独歩を演技・歌唱の両面で熱演した。  また、SEGAが展開する「プロジェクトセカイ カラフルステージ! feat.初音ミク」では学生時代から培ってきた作詞・作曲能力を生かし楽曲提供を行い、OPENREC.tvで配信する『伊東健人の夜更かしゲームTV』では大好きなゲームの実況番組を配信するなど多岐にわたり精力的に活動を続けてきた。  そんな伊東健人が自身の根幹にある音楽という表現方法に真摯に向き合うべく、声優デビューから10年という節目の年にアーティストデビューを発表し制作した楽曲が「真夜中のラブ」である。本楽曲は “ゲスの極み乙女”“indigo la End”を始め多岐にわたり活躍をする川谷絵音の書き下ろし楽曲となり、川谷独自の文学的な表現と都会的な歌詞に、POPかつ洗練されたメロディーが相まって中毒性の高い楽曲となったとのこと。  また、ソロアーティスト伊東健人としては初のミュージックビデオも公開され、監督は“indigo la End”のMVも多く手がける大久保拓朗が担当し、伊東自らがオファーし実現する運びとなった。赤を基調とした映像では登場人物の女性が描くストーリーと別軸で描かれた伊東の歌唱シーンが「深夜0時半過ぎ」「レッドカード」など印象的な歌詞を鋭く表現しており、楽曲の世界観を見事に具現化した映像作品となっている。  なお、新しくオープンした伊東健人の“Official Music Site”では、10月22日に開催するリリースイベント【Kent Ito 真夜中のラブ Release Event "Waves #1"】のオフィシャルサイト抽選先行受付も開始となっている。 ◎伊東健人 コメント この度「伊東健人」名義でデビューいたします。 僕の声優活動も今年で10年。 それなりの時間が経ったいま、自分にとってのホームをひとつ作ろうと思い、デビューを決断しました。 この場所からどんな発信が出来るのか、今からワクワクしていますし、伊東健人だからこそ出来ることは何か、試行錯誤し続けたいと思います。 よろしくお願いします。 ◎川谷絵音 コメント 伊東さんは同い年で元バンドマンと共通点も多く、昭和最後の年に生まれた僕らなりのコラボが出来たかなと思います。 伊東さんの真っ直ぐな歌声で歌われる"夜"に酔いしれてください。 「真夜中のラブで 間違えちゃって気付いたんだ」このフレーズが浮かんだ夜を思い出しながら僕も聴きます。 デビューおめでとうございます。 川谷絵音 ◎リリース情報 配信シングル「真夜中のラブ」 2022/9/21 DIGITAL RELEASE ◎イベント情報 【Kent Ito 真夜中のラブ Release Event "Waves #1"】 2022年10月22日(土)東京・品川インターシティホール [昼公演] OPEN 13:30 / START 14:30 END 16:00(予定) [夜公演] OPEN 17:30 / START 18:30 END 20:00(予定) チケット価格:7,500円(tax in./ドリンク代別)※全席指定
billboardnews 2022/09/22 00:00
「老け顔」を防ぐ食生活とは?食事のとり方でも見た目は変えられる
「老け顔」を防ぐ食生活とは?食事のとり方でも見た目は変えられる
私たちの年齢による変化は、肌だけではなく、その下にある骨でも、確実に起こっている。「顔の骨の骨粗鬆症」を防ぐ食材とは(写真はイメージです GettyImages)   仕事において能力はもちろんのこと、やはり見た目も大事ですよね。肌ツヤがよければ清潔さにもつながりますし、自分の体を支える筋肉が少なくなれば疲れやすく、姿勢も悪くなりやすいため老けて見えるものです。若々しい見た目を保つためにも、自分の能力をフルに発揮するためにも、なにはともあれ“体が資本”です。日々食べているものから体は作られていきますから、体を万全な状態に持っていくためにはどんな食事をとればいいのでしょうか。そこで今回は、森由香子さんの著書『60歳から食事を変えなさい』(青春出版社)から、若々しくいられるための食事のコツをご紹介します。 美しい立ち姿を維持するには、たんぱく質をどう摂る?  筋肉量は20代から少しずつ減りはじめ、80歳頃までに20歳代に比べて約30~40%の筋肉量が失われるといわれています。特に女性は閉経後に筋肉量減少が加速することがわかっています。  当然のことながら、筋肉が減れば、体力や移動能力は低下しますし、平行感覚も弱くなり、転びやすくなります。私たちのからだは、何をするときも筋肉を使うことで動いています。その筋肉が減り、機能が衰えてくれば、若いころと同じことをしても以前よりしんどく感じるようになるのは、当然でしょう。  60歳から筋肉量を維持するためには、筋肉の材料となるたんぱく質を食事でしっかり補給するのが重要だということは、皆さんももうおわかりでしょうかと思います。  では、その大事なたんぱく質を、いつ、どのように、どれくらいとればよいか、より具体的にわかっていたほうが、日々の食事にとりいれやすいですよね。  そこで、まず皆さんに覚えていただきたい合言葉が、「朝ごはんにたんぱく質!」です。   たんぱく質は、基本的に3食しっかりとっていただきたいのですが、中でも重要なのが朝ごはん。からだがもっともたんぱく質を必要としている朝にたんぱく質をとることで、筋肉の分解を抑えることができるからです。  筋肉は常に合成と分解を繰り返していますが、合成の際に原料となるのが、食事でとったたんぱく質から分解・吸収された、アミノ酸です。  アミノ酸は筋肉を作る以外にも、さまざまな臓器や免疫機能のはたらきで重要な役割を果たしていたり、酵素・ホルモンの材料として使われていたり、エネルギーとしても使われています。  私たちのからだは、寝ている間でもアミノ酸を必要として、ずっと使い続けているのです。  しかし、寝ている間には栄養の補給はなされません。そこで、体内でアミノ酸が足りなくなってしまうと、からだは筋肉を分解し、生命維持のためにアミノ酸を使いはじめます。つまり、私たちの体内では、寝ている間に筋肉量が減少してしまっている可能性があるわけです。  ですから、朝起きたらまず、何はなくともたんぱく質を朝ごはんで補給することが、筋肉量維持のための、もっとも効果的な食事法だといえるでしょう。 たんぱく質を効率的に摂るためには何を食べる? さらに大切なのは、たんぱく質は、できるだけ毎食20gずつとること。  実際には、一般的な日本人の場合、昼と夜はたんぱく質がある程度とれていても、朝ごはんだと、たんぱく質は10g程度しかとれていない人が多いことがわかっています。ぜひとも朝ごはんで今まで以上に積極的に、たんぱく質を補給してください。  では、私たちに馴染み深い主な食品のたんぱく質量をざっと挙げておきましょう。 【主に洋食】 卵1個…6.1g/ソーセージ1本…2.3g/ハム2枚…7.4g/鶏むね肉80g…18.64g/鶏ささみ肉40g…9.6g/食パン8枚切り…4g/ロールパン1個…3g/牛乳1杯(210ml)…6.9g/ヨーグルト80g…2.9g/ピーナッツバター小さじ1杯…1.1g 【主に和食】 納豆1パック…8.3g/さけ1切れ…17.5g/さば1切れ…15.6g/焼きのり1パック…1.2g/ごはん1杯…3g/豆腐100g…7g   朝ごはんにとりいれやすい食品を中心に挙げておきましたので、1食20gで考えると、いつもの朝食でどれくらいたんぱく質をとっているのか、どれくらい足りていないのか、どれを足せば20gクリアできそうか、まずは確認してみてください。  いきなり毎朝20g食べるのが難しいと感じる場合は、無理のない範囲で、少しずつ増やしていくとよいでしょう。 顔が老け見えするのは、肌の下にも原因があった!  人と会う時の第一印象の中で、顔も大きな要因を占めますよね。たとえお肌のケアなどをしていても、年齢を重ねると、どうしても気になりはじめるのが、お肌のたるみ。  50歳も過ぎた頃からフェイスラインは下がり、ほうれい線が深くなって、目は落ちくぼみ、目の周りや口元にはシワが刻まれていきます。  皆さんは、こうした変化の原因は、年齢とともに起きるコラーゲンの減少や、保湿力の低下など、いわゆる“肌の老化”だと思い込んでいませんか。  確かに肌の老化でもあるのですが、それだけではありません。実は頭蓋骨が大きく関係しているという意外な事実が、近年の研究によって明らかになってきたのです。  ある研究報告によれば、各年代の男女の頭蓋骨をMRIで撮影してみたところ、年齢が上がるほど頭蓋骨が下に向かって崩れてしまっているとのこと。同時に、眼窩(目が位置する穴のこと)も年齢とともに広がっていく傾向にあるそうです。  原因は、年齢による骨密度の低下。つまり、私たちの年齢による変化は、肌だけではなく、その下にある骨でも、確実に起こっていたのです。   なかなかショッキングな事実ですが、こうした現象を少しでも防ぐためには、骨密度を保つ栄養成分を、毎日の食事からしっかりとることがとても重要です。 「顔の骨の骨粗鬆症」を防ぐ食材とは  骨といえばカルシウムが有名ですが、それだけでは不十分です。葉酸、ビタミンK、たんぱく質なども必要で、中でも特に注意していただきたいのが、カルシウムの吸収を助けるビタミンDです。  しかし、ビタミンDは入っている食品が限られており、なかなかとりづらい栄養素であるため、多くの日本人が不足しているといわれています。  そこで私が皆さんにおすすめしているのが、魚料理です。  ビタミンDは卵黄やきのこなどにも入っていますが、なんといっても魚に豊富です。  成人男女のビタミンDの1日の推奨摂取量は8.5マイクログラムですが、たとえば、さけ1切れ(焼き魚)で39マイクログラム、真がれい1切れ(焼き魚)で27マイクログラム、さんま1尾(焼き魚)で17マイクログラムもとれます。  しかも魚には骨を作るときに必要なたんぱく質もしっかり含まれているので、骨の健康を保つために必要な栄養成分が効率良くとれる食材といえるでしょう。  クリニックで栄養指導をしていると、骨粗鬆症になられている方の中には、魚があまり好きではない人が多いような印象があります。魚は調理が面倒、匂いが気になる、骨がわずらわしいなどの理由で、肉料理ばかり好む方が多い気がします。  また、「ビタミンDは日光を浴びることで体内で増える」という話がテレビや雑誌でとりあげられたことで、「自分はよく外に出て日光を浴びているからビタミンDは不足するはずがない」と思い込んでいらっしゃる方もいました。まずは食事でビタミンDをしっかり補給しないと、いくら日光を浴びても、それだけでは不十分です。  ですから、男女問わず、フェイスラインのたるみが気になる年齢になってきたら、ぜひ1日1回は魚料理を食べて、ビタミンDを積極的にとってください。  特に女性の方には強くおすすめします。更年期に入り女性ホルモンが低下すると、その影響で骨が弱くなり、男性の約3倍も骨粗鬆症になりやすいからです。毎日魚料理をしっかり食べて、骨の健康を保ち、若々しいフェイスラインを保ちましょう。 森 由香子管理栄養士・日本抗加齢医学会指導士東京農業大学農学部栄養学科卒業。大妻女子大学大学院(人間文化研究科 人間生活科学専攻)修士課程修了。2005年より、東京・千代田区のクリニックにて、入院・外来患者の血液検査値の改善にともなう栄養指導、食事記録の栄養分析、ダイエット指導などに従事している。また、フランス料理の三國清三シェフとともに、病院食や院内レストラン「ミクニマンスール」のメニュー開発、料理本の制作などを行う。抗加齢指導士の立場からは、<食事からのアンチエイジング>を提唱している
健康
ダイヤモンド・オンライン 2022/09/21 19:03
原田ひ香が最新作で描く、新たな「女性のお金と人間のドラマ」 3世代の女性によるお金の貯め方、使い方
原田ひ香が最新作で描く、新たな「女性のお金と人間のドラマ」 3世代の女性によるお金の貯め方、使い方
はらだ・ひか/1970年、神奈川県生まれ。2005年「リトルプリンセス2号」でNHK創作ラジオドラマ大賞、07年『はじまらないティータイム』ですばる文学賞を受賞。その他の著書に「三人屋」シリーズ、「ランチ酒」シリーズ、『三千円の使いかた』『母親からの小包はなぜこんなにダサいのか』『古本食堂』など(photo 小山幸佑)  AERAで連載中の「この人この本」では、いま読んでおくべき一冊を取り上げ、そこに込めた思いや舞台裏を著者にインタビュー。 『財布は踊る』は、原田ひ香さんの著書。専業主婦のみづほは、夫と一人息子とハワイに旅行し、ルイ・ヴィトンの長財布を買うことを目標に節約生活を送る。念願の財布を手に入れたものの、ある事情から手放すことに。財布の行方と彼女の人生は? 財布を通してお金と人間のドラマを描く長編小説。原田さんに同書にかける思いを聞いた。 *  *  *  企業を舞台にしたビジネス小説は数多くあるが、主婦や若い女性の目線からお金の話を書いた小説はまだ少ない。そんな中、原田ひ香さん(52)が4年前に出版した『三千円の使いかた』は65万部のヒットになった。3世代の女性のお金の貯め方、使い方を描いた小説だ。新作の『財布は踊る』はその進化形だと話す。 「お金の話は面白くて、投資、詐欺など、書きたいことがまだまだありました。小さな子どものいる主婦で、夫はお金に無頓着という、経済的な弱さを抱える人が変わっていく姿を書きたかったんです」  主婦のみづほは節約してルイ・ヴィトンの長財布を手に入れるが、借金返済のために泣く泣く転売する。まずは、みづほの徹底した節約ぶりに驚かされる。100グラム38円の鶏むね肉とモヤシでボリュームのあるおかずを作り、服はメルカリで調達する。 「12、13年前、美容室で『サンキュ!』『ESSE』などの主婦向け雑誌の節約術を読んで衝撃を受けました。夫の年収が200万円台で子どももいる主婦がきちんと料理を作って、毎月2万円くらい貯金している。服もきれいにしていて楽しそうなんです」  それから原田さんも雑誌を買うようになった。当時の切り抜きを今も大事に持っている。財布を手放したみづほは、お金の知識を身につけて不動産投資に乗り出す。ここでは原田さんがかつて埼玉県の不動産業者に生活保護受給者向けの物件を見せてもらった取材経験が役立った。家賃4万3千円くらいの一軒家が多く、借り主が7年前に夜逃げしたままの物件もあった。 『財布は踊る』 (1540円〈税込み〉/新潮社) 専業主婦のみづほは、夫と一人息子とハワイに旅行し、ルイ・ヴィトンの長財布を買うことを目標に節約生活を送る。念願の財布を手に入れたものの、ある事情から手放すことに。財布の行方と彼女の人生は? 財布を通してお金と人間のドラマを描く長編小説(photo 小山幸佑) 「家の中には、物がびっちり残っていてすごいんですよ。不動産屋さんは女の人はすさまじく汚れた家の中に入ってこられないだろうと思っていたみたいですが、私はグイグイ入っていって、押し入れの中まで見せてもらいました」  その甲斐あって不動産投資家に原稿を読んでもらうと、「投資家と不動産屋のドライで慣れ切った感じがよく出ている」とお墨付きをもらった。  一方、ヴィトンの財布は転売や盗難で、マルチ商法にはまった男、奨学金返済に苦しむ女などの手に渡っていく。 「有吉佐和子さんの『青い壺』のようにモノの持ち主がどんどん変わって、その人の人生を映し出す小説を書いてみたいとずっと思っていました」  女性の貧困も原田さんが書きたかったテーマだ。 「貧困が奨学金の返済から発している女性も多いんです。自分だったらどうアドバイスしようか、小説という手段でアドバイスできないかと考えていました」  登場人物はお金のモヤモヤを解決して人生の迷いからも抜け出していく。お金にまつわる小説を書き始めた原田さんの人生にも変化が訪れた。50歳を過ぎ、小説家として店じまいも考えていたとき『三千円の使いかた』が大ヒット。原稿依頼が急増して5年先まで仕事の予定が詰まっているそうだ。(ライター・仲宇佐ゆり)※AERA 2022年9月19日号
AERA 2022/09/20 11:30
居場所がなく街を漂流する少女の声を聞き続ける NPO法人「BONDプロジェクト」代表・ルポライター・橘ジュン
居場所がなく街を漂流する少女の声を聞き続ける NPO法人「BONDプロジェクト」代表・ルポライター・橘ジュン
あなたの声を聞かせて。目を凝らし、細心の注意を払って少女に声をかける。それでも聞くことのできない声がある(写真=岡田晃奈)  NPO法人「BONDプロジェクト」代表・ルポライター、橘ジュン。家に居場所がなく、街をさまよう少女たちがいる。彼女らはひと晩を過ごすために、危険を知りながらも男性に会いに行く。橘ジュンはそんな少女たちの声を受け止めてきた。相談は月に3千件以上。必要であれば保護し、行政支援へつなげる。夜の街に自ら赴き、少女たちに会いに行く。直接会って聞いた声を、世間へ伝えていく。 *  *  * #死にたい、#今夜泊めてください、#飛びたい。SNSでつぶやくと、「泊めてあげるよ」というダイレクトメッセージが次々に飛び込んでくる。会ったこともない男性だ。会えば関係を迫られる。拒否すればレイプ、ことによっては命の危険さえある。わかっているのに少女たちは会いに行く。今夜ひと晩、身を休める場所を探すために。  2017年に神奈川県で起きた座間9人連続殺害事件ではツイッターでこうした孤独なつぶやきを発した若者9人(うち男性1人)が犯人におびき出されて殺害された。そして彼女たちは決して特殊な存在ではない。  橘(たちばな)ジュン(51)の運営するNPO法人BONDプロジェクトは、LINEやオンライン面談などで少女たちの声を受け止めている。  父親からレイプされた、母親に「産まなければよかった」と言われた、生きている意味がわからない、消えたい……。  家に居場所がなく街を漂流するしかない。その結果、性的に危険な状況から逃れることを諦め、性被害に遭っても逃げ出せない少女もいる。  橘がつぶやいた。 「家が危険だっていう女の子たちがたくさんいるんだよ。たとえ一晩でもいいから、清潔なベッドに休めて温かい食事がとれる場所があったら全然違うだろうって思うんだよね」  10代と20代の彼女たちからの相談は月に3千件以上になる。事情を聞き、児童相談所や女性相談センターなどの行政支援につなげる。都内で運営する2軒のシェルターでは一時的な保護をしている。生活を立て直す時期の少女のためにマンションを借りて提供する。危険な目に遭っている少女たちがいないか、夜の街をパトロールする。 ある夜の新宿・歌舞伎町のトー横広場で。橘が少女に声をかけようとしているのに気づいた男性が邪魔に入った。性的なトラブルに巻き込まれるかもしれない少女を見送るしかない。一瞬、橘に絶望的な表情が浮かんだ(写真=岡田晃奈) ■困難に直面する女性を取材 彼女たちを尊敬していた 「BONDの橘」といえば、生きづらさを抱える少女たちの専門家と認識されている。  ところが本人は「福祉分野」と整理されることには居心地の悪さを覚えもするらしい。 「今はアウトリーチとか保護とか言ってるけどさ、そんな専門用語を知らない頃から、ケンちゃんと私、困ってる子がいたらうちに泊めて話を聞いたりしてたじゃん?」 駆け出しのライターだった頃、女子プロレスに夢中になった。その頃ファンだった長与千種とBONDプロジェクトで遭遇し、また応援するようになった(写真=岡田晃奈)  橘と、パートナーでフォトグラファーの多田憲二郎(ケン)は、15年以上前から街で少女たちの声を聞き伝えてきた。華やかな笑顔に、はかなさの見え隠れする少女たちに惹きつけられる。それはBONDを運営する今も変わらない。 「だからさ、今もうちに相談してきた子と会えると、ありがたいなって思うんだよね。話を聞かせてもらえるって、ありがたいよね」  好きでやってきたことの先に、やむにやまれずNPOをつくる選択肢が降ってきた。だが、人助けをしていると言われることには違和感がある。だって自分はルポライターなのだから。橘の思いを整理すると、こんなことのようだ。  ライターとしての振り出しは18歳、10代向けの雑誌「ティーンズロード」(以下、TL)だった。バブル経済の絶頂期、1989年に創刊されたTLで橘は読者として取材を受けた。自分たちを否定せずに面白そうに話を聞く大人に驚き、あの人たちのように面白がりながら仕事をする大人になりたいと、ライターを志願する。  初代編集長の比嘉健二に聞くと──。 「彼女はたぶん中学ぐらいから大人への反発がエネルギーになってレールからはみ出してたと思う。ベレー帽に水玉のシャツを選んで着るような、独特の感性のある子だった。試しにコラムを書かせてみたら、けっこう書けた。話もうまいからラジオのパーソナリティーをしてたし、うちの映像事業のリポーターもやってもらった」  比嘉はアウトローの10代をターゲットに家族問題、不登校、恋愛、予期せぬ妊娠、シングルマザーなどの硬派なテーマを掘り下げる編集方針をとった。彼らを断罪するのではなく、当事者の側に立って取材した特集は、普通の高校生にも支持され、最盛期には販売部数20万部を記録した。  橘はTLでルポも書いた。記事を確認すると、複雑な家庭環境に育ち親との関係に苦しんだ人、レイプにより出産した子どもと生きている人など、陽のあたらない場所で困難に直面する若い女性ばかりを取材していた。この頃すでに橘は少女たちに心を寄せていたのだ。だが、橘は裕福な堅い家の次女で、彼女たちの生い立ちと重なる点はない。なぜ彼女たちの話を聞きたいと思ったのか、今でも橘には説明がつかない。  師匠の男性ライターは一度の取材でできる限り相手から物語を引き出し、自分が面白いと思ったことを存分に書くよう教えたが、橘は女性のその後の人生も気になってしまう。取材では延々とテープレコーダーを回し、被写体を自宅に泊めたり、取材先に泊まり込んだりして距離を縮めた。 「彼女たちのこと、尊敬してた。境遇に愚痴や不満を言わず、そのままに受け止めて生きてる彼女たち、かっこいいなって思ってたんだよね」  橘がライターとして経験を重ねていた90年代、世間では男性の性的な消費の関心は女子高生へと移っていた。「援助交際」というワードが流行語大賞に入ったのは1996年だった。制服姿の高校生がお小遣いを稼ぐために売春をするという社会現象は、女子高生の性倫理の欠落の問題として取り上げられた。その後、ガングロ、コギャル、などと流行は移ろう。相変わらず、女子高生が報酬と引き換えに初対面の男性と性的な関係を持つ行為は、少女の側の問題とみられていた。だが、橘は彼女たちの行動と居場所のない心もとなさや家族の問題のつながりを認識していた。 BONDが始まったとき「なんで不良の子たちにわざわざ関わるの」というのが大方の反応だった。今では8人の職員と30人のサポートメンバーが働く(写真=岡田晃奈) ■少女たちの声を集めた 「VOICES」を創刊  ある少女は突然腕をまくって「こんな私でも、きらいにならない?」とリストカットの痕を差し出し、親からの虐待を打ち明けた。少女たちはなぜか橘に心を開いた。家に帰ると多田に少女の話をする。多田は物語に引き込まれた。多田は言う。 「ジュンが書く原稿が技術的にどうかは僕にはわからない。でも、彼女は女の子の言葉を聞き取るのが抜群にうまいと思った」  二人は週末になると渋谷や歌舞伎町に出かけ、少女に声をかけ、話を聞き、写真を撮った。彼女たちがふとつぶやく孤独、不安、大人への不信、怒り。橘はその声をぐいぐいと引き出し、多田は街の光と影を吸い込んだ表情の揺らぎをレンズに捉えた。だが雑誌に企画を持ち込んでも編集方針に合わせれば、大人の求めるストーリーに加工されてしまう。いっそ雑誌をつくれないかと比嘉に相談すると、「雑誌づくりをなめるんじゃない」と怒られた。あきらめられない二人はフリーペーパーをつくることにした。  2006年、「VOICES」創刊号の表紙には、多田が撮った、カラフルな色鉛筆を手にした娘の写真を選んだ。1999年に生まれた一人娘だ。  リストカットする少女たち、カラーギャング、ヤマンバギャル……。「VOICES」は少女たちの声を採集した。予期せぬ妊娠の戸惑い、親とのわだかまり、寂しさ、怒り、売春。外見からはわからない女の子たちの声を集めた「VOICES」は注目されるようになる。 (文中敬称略) (文・三宅玲子) ※記事の続きはAERA 2022年9月19日号でご覧いただけます。
現代の肖像
AERA 2022/09/17 17:00
56歳「君島十和子」が若者の憧れに? 最近テレビ出演が増えているワケ
高梨歩 高梨歩
56歳「君島十和子」が若者の憧れに? 最近テレビ出演が増えているワケ
君島十和子  美容家でモデルの君島十和子(56)が8月31日、バラエティー番組「ホンマでっか!? TV」(フジテレビ系)に出演。同日の企画は「奇跡の50代!汗と涙の美の努力ぶっちゃけSP」というもので、飯島直子、武田久美子、田中律子など50代の美女たちが勢ぞろい。「美の秘密」を惜しげもなく披露した。 「同番組では君島さんの『炊飯器は捨てました』発言が話題になりました。健康のため白米は食べないという理由です。他にも、たとえばラーメンなどを食べた際は、直後に水を2リットル飲んで体内から早く排出させるそうです。『早くお帰りいただく』と話していましたね。また肌のために日焼けは絶対にしたくないそうで、自らを『日陰の女』と呼んでいると明かし、日傘にマスク、アームカバー姿で外出し、日陰を渡り歩く君島さんの動画が流されました。その姿に『怪しすぎる』とスタジオからは突っ込みが入っていました」(テレビ情報誌の編集者)  君島は8月10日放送の「上田と女が吠える夜」(日本テレビ系)にも出演し、「衣をすべて剥がしてから天ぷらを食べていた」というエピソードを披露していた。最近では「ポップUP!」(フジテレビ系)にも定期的に出演しており、テレビ露出が増えている印象だ。  君島は中学時代にモデルデビュー。高校生で航空会社のキャンペーンガールに選ばれ、ファッション誌の専属モデルをへて女優に転身した。1995年に結婚し、芸能界を引退。しかし直後に夫側の相続をめぐる骨肉の争いが勃発。連日ワイドショーで報じられていたこともあり、雲隠れするように表舞台から去っていった。その後、2人の娘の母となり、家事や育児をこなしながら、夫が代表を務める高級ファッションブランド「君島インターナショナル」のスーパーバイザーも務めるなど実業家に転身。2005年に美容知識を活かし、コスメブランド「FELICE TOWAKO COSME」(現FTC)を立ち上げて多くの女性ファンを獲得。美容誌や女性誌では「美のカリスマ」として、たびたび特集が組まれるようになった。 「06年に発売された、スキンケアやメーク術をまとめた『十和子塾』は発売1カ月で10万部を売り上げ、50歳を機に16~17年に発売した『十和子道』、『私が決めてきたこと』の2冊も重版がかかるほど売れました。彼女を支持するコアなファンは同世代が多い。バブルを経験し、美意識が高く、SNSよりは雑誌や本から情報を得るのが習慣となっているいわゆる“最後の金持ち世代”。君島さんは家事も仕事もこなし、長女は宝塚歌劇団を卒業したタカラジェンヌ。多忙でも美しさをキープし、夫婦仲もよい。雑誌やウェブ連載、SNSからはセレブな日常があふれ出ており、彼女の生活に憧れる女性たちが人気を支えています」(女性ファッション誌のライター) ■引きの強いレアなセレブキャラ  一方、最近では20代の働く女性をターゲットとした「with online」などでも連載を持っており、若い女性にも共感されているようだ。「こんな50代になりたい」という憧れの先輩という立ち位置も獲得し、ファンの年齢層が広がりをみせている。 「外見と内面のギャップも彼女の魅力です。『高根の花』のように見えるのに、飾ることなくあけっぴろげに私生活を話したりもする。仲良しだという作家の林真理子さんも君島さんについて『話が面白い』とその魅力を明かしていました。さらに、意外と言うと失礼ですが、かなりの読書家なのです。著書『十和子道』では、寝る前にかならず本を読むことや、『本は人生の一生の相棒』とつづっており、いろんなジャンルの本をたくさん読んでいる様子がうかがえます。インタビューや著書などで使う言葉の豊富さや的確さ、センスのよさは、その読書量に裏付けられているのかもしれません」(同)  一方、女優時代から彼女を知る大手キー局の関係者はこう述べる。 「結婚前の君島さんは、控えめで、おとなしい印象でした。女優としていまいちブレークしきれなかったのも、ハングリー精神に欠けていたんだと思います。なので、最近の活躍を見て『こんなにしゃべれるんだ』とびっくりしています。美容界のドン的な貫禄もあって、昔のイメージとは大違い。幸か不幸か、君島家の“お家騒動”で窮地に立たされた結果、彼女自身が強くなり、秘められた能力が開花したのかもしれません」  芸能評論家の三杉武氏は、君島が支持される理由をこう語る。 「君島十和子さんといえば、華やかな結婚と、その後の君島家に関する騒動がワイドショーや女性誌で大きな話題となりましたが、あれから25年以上たち、そうした騒動もすっかり風化しました。近年の君島さんは美容家として多くの人に支持され、確固たるポジションを築き、お子さんたちも立派に成人した。だからこそ、これまで縁の薄かったバラエティー番組や情報番組などからのオファーも積極的に受けるようになったのでは。番組に出演することで、自身のブランドの新たなファン層の開拓にもつながりますからね。テレビ局にとっても、君島さんは“レア感”があり、それでいて一定の年齢層には知名度も高い。テレビ画面越しにもキャラが立ち、トーク力もあるので『視聴者からの引きが強いセレブキャラ』として今後もオファーが増えていくでしょうね」  キャラが浸透すれば、第2の「十和子ブーム」が来る日も近いかもしれない。(高梨歩)
セレブ君島十和子
dot. 2022/09/14 11:30
ヤクルト1000、「睡眠カフェ」に昼寝専用枕 “快眠”ビジネス最前線
ヤクルト1000、「睡眠カフェ」に昼寝専用枕 “快眠”ビジネス最前線
ヤクルト1000(提供)  寝苦しい真夏がようやく過ぎ去ったとはいえ、「よく眠れない」と悩む方は、依然として多いのではないだろうか。日本は世界に冠たる(?)「睡眠不足」大国らしい。あの手この手で私たちを快眠へと誘うグッズやサービスが、花盛りだ。 *  *  *  扉が閉まると、人々が行き交う駅の喧騒(けんそう)は消え、照明を落としリクライニングチェアに身をゆだねる。3畳ほどの空間は淹(い)れたてのコーヒーの香りに包まれた。 「睡眠」に悩む人向けの商品やサービスが盛況だ。  JR大宮駅(さいたま市)では、ネスレ日本とJR東日本が共同で「STATION BOOTH supported by ネスカフェ 睡眠カフェ」の営業を6月30日から期間限定で始めている(12月31日まで)。  個人の専用ブースが用意され、15分330円でコーヒーや水が好きなだけ楽しめる。コーヒーを飲んでリクライニングチェアで休息をとり、その後のパフォーマンス向上を目指すという。電源や専用Wi-Fiもあり、ブース内で作業も可能だ。  コーヒーと聞くと眠気覚ましのイメージが強いが、なぜ「睡眠カフェ」なのか。ネスレ日本広報の小川直子さんによると、カフェインは摂取してから体に吸収されるまで30分かかるそうで、「15分から20分の短い休息の前にあえてコーヒーを飲むと、ちょうど落ち着いたころにシャキッとします」と言う。 「カフェインと睡眠にギャップを感じる人も多いかと思いますが、昼間の過ごし方を工夫すると夜の良質な睡眠につなげることもできるのです」と小川さん。  快眠グッズに注目が集まるきっかけは、ヤクルトが発売する「ヤクルト1000」だった。  全国発売は昨年4月だが、今年4月に放送された日本テレビ系「しゃべくり007」で取り上げられるや、「睡眠の質が良くなる」とSNSでも話題になり一大ブームとなった。2021年度は1日あたりの販売本数が約114万本だったが、今年度は約180万本となる見込みで、いまも品薄状態が続く。  ヤクルト1000にはどんな効果があるのか、同社に問い合わせると、こんな答えが返ってきた。 「1ミリリットルあたり10億個という、高密度な『乳酸菌 シロタ株』が神経系に穏やかに作用することで、一時的な精神的ストレスがかかる状況での『ストレス緩和』『睡眠の質向上』をもたらすのではないかとこれまでの研究で考えられています。ただし、まだ詳細が解明されていないため、研究を重ねているところです」  世界と比べて日本人の睡眠時間は短く、経済協力開発機構(OECD)が21年に発表した統計によると、1日あたりの日本人の睡眠時間は平均7時間22分だ。調査対象となった33カ国の中では最短で、OECD加盟国の中で最長のアメリカより89分も短い。  寝具メーカーの西川が昨年7月に1万人を対象にウェブを通じて調査したところ、全体の49.9%が「不眠症の疑いが高い」という結果に。特に20代、30代ではその数値が6割に達している。  働き盛りの世代は、前日に夜遅くまで仕事をし、翌日は眠くて仕事に集中できない人も多いだろう。西川では昼間に短時間の仮眠をとる「パワーナップ」を推奨しており、昼寝専用の枕「konemuri(コネムリ)」シリーズの新作をこの4月に売り出した。  実際に記者がこの枕を試してみると、サラサラとした肌触りのクッションがちょうど良い高さで頭を支える。中央にドーナツ状の穴が開いているので圧迫感がなく、何もない腕枕での仮眠とは比較にならない寝心地だ。  同社マーケティング戦略部広報担当の森優奈さんはこう話す。 「お昼寝専用の枕として、座った状態でも首から頭を支えられるような形状をしており、使われた方からは腕やおなかの痛みが軽減されたという声もあります。テレワーク中に自宅で使われる方も多く、ついベッドで横になって熟睡してしまう方も、この商品を使えば短時間の仮眠でリラックスできます」  西川によると、睡眠についてお金を「使っても良い」と思う人の割合は40%と、前年の35%から上昇している。  年々拡大する睡眠市場に最新技術で参入したベンチャー企業もある。  33万部超のベストセラーとなった『スタンフォード式 最高の睡眠』の著者で、米スタンフォード大学医学部精神科の西野精治教授が創業したブレインスリープ社だ。代表取締役の道端孝助氏は、同社の売れ筋商品の枕である「ブレインスリープ ピロー」について、こう説明する。 ■快眠グッズでは改善しない例も 「一般的に枕を選ぶ際に注目されるのがサイズや手触りですが、私たちは全く別のアプローチで商品を開発してきました。睡眠医学の知見によれば、睡眠時に脳の温度を下げることによって深い睡眠を得られることがわかっています。そこでブレインスリープの枕は春雨のような通気性の良い素材を使うことで、寝ているときの頭部の熱を放出させて質の高い睡眠を実現しております」  同社は7月に、日本サウナ学会代表理事で医師の加藤容崇氏と共同で、サウナ浴が睡眠に与える効果の検証試験をしたという。 「サウナ浴を行うことで睡眠の質に良い影響を与えることが今回わかりました。寝具の開発だけにこだわらず、今回のような情報発信や商品開発を進めていきます」(道端氏)  世にあふれる「快眠グッズ」だが、一体どれを使えばいいのか、秋田大学大学院医学系研究科の三島和夫教授(精神科)はこうアドバイスする。 「睡眠に悩んでいる人は、まずは自分が『不眠症』なのか、『睡眠不足』なのか識別する必要があります。20代から50代で圧倒的に多いのは『睡眠不足』で、眠りたくても仕事や家事などで眠る時間が取れないのです。一方で中高年になると、今度は時間があっても眠れない『不眠症』になってきます。睡眠時間が短い点ではどちらも同じですが、体への影響や治療法は異なります。自分がどちらなのかをしっかり理解したうえで、自分に合った商品を使うのがいいでしょう。眠りが浅い、夜中に目が覚めるといった不眠症状があるケースでは、睡眠時無呼吸などの睡眠障害や、うつ病やアルコール依存症といったメンタルヘルスの問題が少なからずあり、これらは快眠商品では改善しないので、過信は禁物です」  ブームに流されるのではなく、自分に合った快眠グッズを見つけることが大切なようだ。(本誌・佐賀旭)※週刊朝日  2022年9月16日号
週刊朝日 2022/09/13 11:30
【Vol.14】広がる空の世界の可能性。ニーズに対応したプロフェッショナルを養成/石川秀和教授
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父の勧めで防衛大学校へ進学 希望を叶えて空の世界に 畑山:防衛大学校を卒業後、航空自衛隊でパイロットとして勤めていらっしゃった石川先生。その後も、航空をめぐるさまざまな分野で活躍され、桜美林大学に。そもそもなぜ、防衛大学校に進学しようと思うに至ったのですか。 石川:私の世代は、親が戦争に行っていた時代です。父も、海軍の「特攻隊」の生き残りと聞いていました。子どもの頃から勧められ、進学の選択肢として、防衛大学校がありました。 畑山:お父さんの影響があったのですね。個人的な話ですが、僕は鹿児島県鹿屋市にある高校を卒業しました。鹿屋には海上自衛隊の航空基地があるうえ、県内には、何と言っても太平洋戦争期、特攻隊員が飛び立った知覧という場所があります。国を護る、という精神的土壌の培われる土地と言えるでしょう。 石川:私の大学同期にも九州出身者が多くいまして、防衛大学校の校内では九州弁をよく聞いた記憶があります。1年生の時点では、まだ「陸・海・空」のいずれに進むか決まっていません。私の時代は希望が通るのはたいへん厳しく、1学年500人が約30人ずつに分けられた班の中で、成績順に上から5人ごとに分けられ、それぞれのグループ内で「空1人、海1人、陸3人」が決められていくんです。「空」に行きたいという希望を叶えるには、グループ上位にいないと。私はその第1グループ中で2番目だったのですが、1番だった同期が進路先を迷っていたものですから、すかさず「おまえは海に行け!」と(笑)。説得したおかげで私の希望が叶いました。 畑山:防衛大学校を卒業後は、パイロット養成課程での日々が始まったのですね。さぞかし訓練が厳しかったのでは。 石川:私の実感としては皆さんが想像するほどではなかったです。直接指導してくださった先輩教官は、皆さん紳士的な方でした。戦闘機・輸送機の2択のうち、私は最終的に輸送機に進みました。その後は、埼玉県の航空自衛隊入間基地をベースに、輸送機のパイロットを続けました。防衛庁(当時)には約13年在籍しました。   パイロットから航空従事者試験官、操縦教官へ あらゆるステージを経験 畑山:自衛隊から運輸省(当時)の航空局に移ってからは、パイロットのライセンス試験を行う試験官に従事されたそうで。どのような仕事だったのですか。 石川:運輸省には航空従事者試験官になることを前提に移ったのですが、その時私には操縦教員の資格がありませんでした。そのため、まず運輸省航空大学校(当時)に移ってその資格を取り、操縦教官を2年間務めました。その後、航空局の航空従事者試験官になりました。車の教習所の試験官と同様に、受験者の隣に乗ってフライトし、その申請ライセンスの合否判定を行う仕事でした。 私は軽量の「グライダー」から当時世界最大の旅客機「ボーイング747」までのライセンス試験を担当していました。エアラインの方は皆さん、社内の訓練施設できちっと訓練して技量管理されていますし同じプロ仲間でしたので合否判定にさほど苦労はありませんでした。いっぽう、自家用操縦士の試験に関しては、いろいろな職業の方が受験されますし試験の場所も全国各地に及びますので、いくつか今も忘れられない経験があります。 米国ワシントン州モーゼスレイクのJAL訓練所において、ボーイング747のライセンスを取得した際の一枚。「世界最大(当時)の旅客機のライセンスを取得できて、充実した思いがありました」 畑山:ぜひ伺いたい。 石川:ある時、冬場の気流の悪いところで試験したところ、山岳波による上昇気流が強すぎて、グライダーが下降できずにどんどん上昇してしまったんです。受験者がどうにもコントロールできず着陸地点に向かって降下できなくなってしまい、急きょ、私が代わりに操縦桿を握りました。試験官としてグライダーのライセンスを持っているとは言え、私だって普段からグライダーを乗り回しているわけではありません。あの時は本当に内心焦りました。しかし受験者にはそんなそぶりは見せられなかった……。 ただ、自家用操縦士の方々の試験を通じ、新しい発見を多くさせてもらいました。フライトに対する価値観の違い、フライトを楽しむという発想が、私自身のプロを前提として育ってきた環境とはまったく異なりましたから。 それから、エアライン機長認定を行う運航審査官、航空施設や飛行方式を検査する飛行検査官を経由して、最後に再び航空大学校に移って操縦教官を務めてまいりました。 畑山:「航空」のありとあらゆるカテゴリーを巡ってきて、着々と経験を積んでこられたのですね。桜美林大学の着任当時は、どんな様子でしたか。 石川:当時の桜美林大学の態勢は、「ビジネスマネジメント(BM)学群」の中に、パイロットを養成する「フライト・オペレーションコース」がありました。同コースの学生はまず、「桜美林大学フライト・トレーニングセンター(FTC)」(東京都多摩市)で、航空の基本を学び、2年次秋から米国・アリゾナ州にある大学提携の訓練施設で、英語による座学と実機飛行訓練に入ります。私も米国に何度も出向いては、フライトトレーニングの根幹について、日米の教官間で話し合いを続け、また本学学生に対して訓練に関するアドバイスを行いました。 訓練カウンセリングのために滞在した米国アリゾナ州フェニックスのアパートメントで、学生に誕生日を祝ってもらった思い出も 畑山:石川先生たちのご尽力が実って、2020年4月に新設された「航空・マネジメント学群」では、BM学群から移設された「パイロット」のほか、「航空管制」「整備管理」「空港マネジメント」という4つの学びを柱に、航空のスペシャリストを育成しています。石川先生は2022年、学群長に就任されました。 石川:航空・マネジメント学群の1期生は今、3年生です(2022年現在)。皆、順調に育ってきてくれています。3年生の秋学期からは、いよいよ就職活動が始まります。管制官に関しては、航空保安大学校の受験準備も始まります。キャリア開発も視野に入れつつ、教員一同、団結しています。「パイロット」以外の3分野は私たちにとっては未経験ですが、各分野からそれぞれ豊富な実務経験を持つエキスパートの先生方が集まっています。どの先生も幅広いネットワークを持っていて、高い将来性を感じています。 高い専門性と職業意識を兼ね備えた 人材育成をめざして 畑山:今、どの分野に関しても、人手不足なのだそうですね。 石川:その通りです。パイロットだけでなく航空局の管制官にも定年退職者が多く出はじめています。そのぶんを補充していくという意味で大きなニーズがあります。整備管理にしても同様で、特に「整備管理コース」の中には「ディスパッチャー(運航管理者)」といわれる職種をめざす学生も含まれますが、航空各社ではこの人員が不足し自社で養成していかなければならない状況にあります。そこで、「航空のことを知っている桜美林の学生に来てほしい」との声をよく耳にします。「空港マネジメント」も同様で、空港民営化が全国で進み、航空局の職員が引き揚げる中、航空の基本・基礎を知る学生に、空港職員として来てほしいとのニーズがとても大きくなってきています。 畑山:航空・マネジメント学群の先生方は、本当にキビキビしている。考えてみれば、当然のことですね。人の命を守るため、日々の教育を通じて責任感を持って、プロフェッショナルの気持ちを持っていないと、ともすれば一大事に繋がりかねない。 石川:まさにそうですね。「ハッピーフライト」という邦画をご存じですか。お客様を搭乗口までご案内する任務に就くエアライン職員は、つねに定時出発のため空港内を走り回っているし、ドライバー1本を紛失してしまった整備士は、仲間と共に全員で夜を徹して探し出します。たとえたった1本の紛失でも、それが機体可動部に引っかかれば操縦に悪影響を及ぼします。万が一、飛行中に落下でもすれば、それこそ甚大な被害を出しかねません。パイロットだけでなく、整備士も同様に、自分・他人の双方に厳しいところがありますね。キャビンアテンダントも普段はにこやかにお客様に接し充実したサービスを提供していますが、その正体は緊急時にお客様の身を守る役目を持つ保安要員ですし……。 畑山:航空・マネジメント学群は、どのコースから飛び立っても、高度な専門性と、英語力を駆使しながら、充実した航空人としての人生を送ることになりそうです。学群の今後の展望は。 石川:将来を見据えてみますと、航空界そのものがかなり変わってくるでしょう。なんといってもIT化の波は大きいですね。それを既に一部取り入れ、たとえば操縦教育の分野では、「VR(バーチャル・リアリティ)」を採用しています。航空機の外部点検を実際の飛行訓練前に実施します。学生たちが将来、アリゾナで操縦する訓練機がバーチャル上で眼前に現れます。まずは外部点検から始めて、例えば翼の下部に潜るように身体を動かせば、機体の下の部分もリアルに映り、オイルが漏れていないかなど点検のポイントを細かく教えられます。 また、航空界の最新トピックは「無人航空機」。改正航空法が施行され、ドローンの飛行に関し規制緩和が行われました。「有人ドローン」の計画も世界的に進行中です。「航空」と名のつく学群ですので、そうした新しい分野も集約して、将来採り入れていきたいと思っています。 畑山:学群では2023年春、新教室棟が誕生しますね。 石川:従前のような閉じられた空間をなるべく減らし、仕切りを設けない「オープンラボ」が新設されます。学生同士、また学生と教員のコミュニケーションの場となる、自由な空間が生まれる予定です。専攻演習やゼミなども、その空間で本格的に始動する予定です。学群1期生のゼミは、今秋から始まりますが、ゼミは、たくさんの思い出ができる意義深いものです。新しい校舎で実施できることを、今から心待ちにしているところです。   石川秀和 桜美林大学 航空・マネジメント学群 学群長 1978年、防衛大学校理工学部電気工学科卒業。同年~1990年、防衛庁(当時)航空自衛隊で入間基地(埼玉県)をベースに輸送機パイロットを務める。1990~92年、運輸省(当時)の航空大学校で操縦教官室専任講師。1992~2011年、国土交通省の航空局の航空従事者試験官、運航審査官、飛行検査官を歴任。2011~14年、独立行政法人の航空大学校で操縦教官室教授、2014~16年、同大学校で教頭を務める。2016年、桜美林大学ビジネスマネジメント学群アビエーションマネジメント学類フライト・オペレーションコース(当時)特任教授に着任。2022年5月から現職 文:加賀直樹 写真:今村拓馬 桜美林大学について詳しくはこちら このページは桜美林大学が提供するAERA dot.のスポンサードコンテンツです。
2022/09/12 10:12
「ここまで昭和な作り方をしている店はない」 都内の人気ラーメン店“麺作り”の秘密
井手隊長 井手隊長
「ここまで昭和な作り方をしている店はない」 都内の人気ラーメン店“麺作り”の秘密
鈴ノ木の「特製ラーメン」は一杯1200円。3種のチャーシューや手作りのワンタンもおいしい(筆者撮影)  日本に数多くあるラーメン店の中でも、屈指の名店と呼ばれる店がある。そんな名店と、その店主が愛する一杯を紹介する本連載。大好きな西武ライオンズの球場近くで自家製の手もみ麺で勝負した、埼玉でも指折りの人気店の店主の愛するラーメンは、修業先の店主がアナログすぎる方法で作る手打ち麺が光る一杯だった。 ■「3軍や育成の選手まで顔を覚える」 西武ライオンズが大好きなラーメン店主  西武池袋線・狭山ケ丘駅の西口から徒歩1分。「自家製手もみ麺 鈴ノ木」はある。2018年10月オープンで、開店4年目ながら埼玉でもトップレベルの人気を誇る有名店。「食べログ」では3.88点を誇り、埼玉のラーメン店では堂々の2位につく(2022年8月21日現在)。埼玉県幸手市出身の店主の鈴木一成さんが一玉ずつ手もみするモチモチの自家製麺が自慢で、ダシ感たっぷりのスープとの相性は抜群だ。西武ライオンズの大ファンの鈴木さんが、西武ドーム(現・ベルーナドーム)の近くで物件を探してオープンした。 自家製手もみ麺 鈴ノ木/埼玉県所沢市埼玉県所沢市狭山ケ丘1-3003-83/11:30-15:00 火曜・水曜定休日 不定期で夜営業有り。詳細はお店のTwitter(@suzunoki0802)にて/筆者撮影  鈴木さんは「六厘舎」「金町製麺」などの有名店を渡り歩き、独立にあたっては幼い頃から好きだった多加水の太麺で勝負をかけることにした。麺は自分で打ちたいと自家製麺にトライすることになり、製粉会社を調べ始めた鈴木さん。「六厘舎」で修業時代から通っていた「くじら食堂」の店主・下村浩介さんに前田食品という製粉会社を紹介してもらう。鈴木さんはここで運命を感じる。前田食品が地元・幸手市の会社だったからだ。 「自分の出身地である幸手の製粉会社の小麦粉を使わせてもらい、ラーメンで地元に恩返しができるならこんなに素晴らしいことはないと思ったんです。これこそご縁ですよね。幸手には今も母方の兄弟や両親が住んでいます」(鈴木さん) 鈴ノ木の「特製ラーメン」。麺は目の前で一玉ずつ手もみしてくれる(筆者撮影)  まずは「くじら食堂」で使っている前田食品の小麦粉を使わせてもらい、2年半が経過。今年からは「鈴ノ木」専用粉を作ってもらえるようになった。  静かなところでゆったりやろうと狭山ケ丘を選んだが、雑誌での受賞をきっかけに口コミがどんどん増え「鈴ノ木」の人気はうなぎ登りに。店の前には行列が絶えなくなった。 前田食品の小麦粉を使った「鈴ノ木」専用粉(筆者撮影) 「地元の人がふらっと寄ってくれる店を目指していましたが、行列が長くなりすぎてご迷惑をおかけしてしまうようになってきて、それが悩みでした。そこで今年から“記帳制”を採用し、紙に名前を書いていただいて、後でお呼びして入れるシステムにしました」(鈴木さん)  午前11時から記帳開始なので、名前を書いた後、一度帰宅してから戻ってくることもできる。この取り組みは地元の常連客からも好評で、夫婦2人でスムーズに営業をこなすためにはどうしたらいいのかを考えての選択だった。 「鈴ノ木」店主の鈴木一成さん。27歳の頃に「六厘舎」に飛び込んだ(筆者撮影) 「体力が続く限り厨房(ちゅうぼう)に立ち続けたいですね。妻と2人でやれるだけ続けたいです。ご夫婦で切り盛りされている(埼玉県)入間市の『Miya De La Soul』みたいなお店が目標です」(鈴木さん)  大好きな西武ライオンズの選手がいつ来ても大丈夫なように、選手名鑑を読んで3軍や育成の選手まで顔を覚えているという。 店主の鈴木さんは、西武ライオンズの大ファン(筆者撮影)  そんな鈴木さんの愛するラーメン店は、自身の修業先のひとつである「金町製麺」(東京都葛飾区)。「鈴ノ木」の自家製手もみ麺のルーツはここにある。 ラーメンにこだわった居酒屋スタイルが人気の金町製麺は、今年で営業12年目になる(筆者撮影) ■「ここまで昭和な作り方をしている店はない」 都内の人気ラーメン店「麺作り」の秘密  JR常磐線・金町駅から徒歩2分、京成線・京成金町駅から徒歩1分のところに、人気の“呑める”ラーメン店がある。「立ち呑み居酒屋 金町製麺」だ。市場から毎日仕入れる日替わりのおつまみとお酒に、〆のラーメンが超本格的と人気の店である。店名には「立ち呑み」とあるが、店にはなぜか椅子がたくさんある。  店主の長尾優介さんは埼玉県三郷市出身。幼い頃からラーメンが大好きで、小学校時代から夢はラーメン屋さんになることだった。父が居酒屋で働いていて、夜ヘトヘトで帰ってきたところに長尾さんがサッポロ一番塩ラーメンを作ってあげていた。 「金町製麺」店主の長尾優介さん。「うどん屋さんのように手ごねして打つ昭和な作り方」と鈴木店主(筆者撮影)  高校卒業後は、武蔵野調理師専門学校へ。当時は「LA BETTOLA da Ochiai」の人気から料理人の中でもイタリアンがブームになっていて、長尾さんも卒業後はイタリアンの世界へ飛び込んだ。19歳から1年半修業をし、その後は友人の紹介で新宿の居酒屋で働いた。一緒に働いていた先輩が桜新町に居酒屋をオープンするということで、長尾さんも誘われる。しっかりとした和食の店で、4年間和食のイロハを教えてもらう。  いよいよラーメンの世界に入ろうと思った長尾さんは、バイク便の配達の仕事をしながら、各地のラーメン店を食べ歩き始める。有名店を回っている中で西武新宿線・都立家政駅近くにある「麺や 七彩」に出会った。自家製麺で無化調(化学調味料不使用)の店だが、当時はまだ製麺機やゆで麺機がなく、ボウルで麺をゆでていた。  その味と独創性に引かれた長尾さんは、渋谷の居酒屋のアルバイトで半年間食いつないだ後、独立前提で「七彩」に入社する。2008年、26歳の頃だった。 「『七彩』がオープン2年目だったんですが、何でもかんでも手間をかける作り方で、とても効率が悪かったんですね(笑)。 お店の人気が一気に伸びている時期で、忙しいのが当たり前だったんです。朝の6時に入って、夜中の1時とか2時まで働いていました。今思えば全て手作りなのが大きかった。忙しかったですが、どっしり腰を据えて作れたのも良かったです。麺は特に勉強になりましたね」(長尾さん)  店が忙しすぎて、長尾さんは朝から晩までほとんど仕込みをやっていたが、充実した日々が続いた。そんな頃、「金町製麺」オープンの話が持ち上がる。 立ち呑み居酒屋 金町製麺/東京都葛飾区金町6-2-1 ヴィナシス金町104/18:00-23:00。詳細はお店のTwitter(@kanamachiseimen)にて/筆者撮影 「ここ(金町)の物件が空いているけどやってみないか?と誘われたんです。当時、結婚して実家の三郷に戻っていたこともあり、近いしお前やってみろというノリですね。ラーメンだけでなく他の料理もできたので、立ち呑みで〆にラーメンが食べられる居酒屋のコンセプトでいこうと決めました」(長尾さん)  独立志望だった長尾さんだが、ひょんなことから「七彩」に籍を残しながら自分の店を開けることになった。こうして10年9月、「立ち呑み居酒屋 金町製麺」はオープンした。  昔から金町にはよく遊びに来ていて土地勘もあったし、過去に店の立ち上げに関わった経験もあったので、長尾さんは前向きだった。だが、オープン直後から店には閑古鳥が鳴いていた。営業時間は夜のみで、夜中2時まで開けていたが、一向にお客さんが来ない。  オープンから半年経った11年3月11日には、東日本大震災が起こった。 「東日本大震災で考えがガラッと変わりました。毎日みんな疲れて帰ってきているのに、一杯飲むのに椅子がないのはつらいだろうなと。そう考えて、12日から椅子を置き始めました」(長尾さん)  すると客入りが変わり始めた。地元の人が気軽に寄ってくれるようになったのだ。ブログを始めて限定ラーメンの情報を発信するとリピーターも現れ始めた。さらに、ラーメンフリークの中でも話題になり、そのうち他の店のラーメン店主が通う店にもなった。 金町製麺の「雉の中華そば」は一杯800円。仕入れのたびにメニューを作るため、グランドメニューはほぼなし。ラーメンの種類もさまざまなのが魅力的だ(筆者撮影)  小麦粉を丸めて足で踏んでこね、パスタマシンで伸ばして麺帯にし、注文直前に切ってゆでるという実にアナログな手打ち麺は大変魅力的で、ここでしか食べられないと話題だ。 「お酒が飲めて本格的なラーメンが食べられるお店があまりなかったですからね。いろんなラーメンを出しているのも新鮮だったようです。町中華とも違う、ラーメンにこだわった居酒屋スタイルで何とか12年続けてきています」(長尾さん) 「鈴ノ木」の鈴木店主は、長尾さんの麺打ちがルーツになっている。 「うどん屋さんのように手ごねして打つ昭和な作り方をしているお店はなかなか少ないと思います。『鈴ノ木』の自家製麺はこれがベースになっています。グルテンの出し方や理論、麺に仕上がるメカニズムなど全て長尾さんから学ばせていただきました」(鈴木さん)  長尾さんは「鈴ノ木」がオープンしてからの鈴木さんの飛躍ぶりに驚くばかりだ。 「1年間ほど、毎週土曜日に働いてくれましたが、とにかく真面目で熱心に学んでくれたと思います。お店には何度か行かせてもらいましたが、本当に成長したなと感じます。うちで手打ちで作っていた麺がああいった形で生きていてうれしく思います。埼玉でも指折りの名店に成長しましたね」(長尾さん) 「金町製麺」店主の長尾優介さん。イタリアンや和食の敬遠もある長尾さんだからこそできる、金町製麺のスタイルがある(筆者撮影)  とにかく麺がおいしい両店。職人の麺作りの極意は伝承することによって広がり、また各店でさらに発展し、おいしい麺が生まれる。(ラーメンライター・井手隊長) ○井手隊長(いでたいちょう)/大学3年生からラーメンの食べ歩きを始めて19年。当時からノートに感想を書きため、現在はブログやSNS、ネット番組で情報を発信。イベントMCやコンテストの審査員、コメンテーターとしてメディアにも出演する。AERAオンラインで「ラーメン名店クロニクル」を連載中。Twitterは@idetaicho ※AERAオンライン限定記事
AERAオンライン限定ラーメン井手隊長
AERA 2022/09/11 12:00
【夫婦が告白】4歳息子「ぼくはハッピーだよ」夫婦関係解消のryuchellとpecoを受け止めた
吉崎洋夫 吉崎洋夫
【夫婦が告白】4歳息子「ぼくはハッピーだよ」夫婦関係解消のryuchellとpecoを受け止めた
 ryuchell(りゅうちぇる)さんとpeco(ぺこ)さんが8月25日、夫婦関係を解消し、今後は「人生のパートナーとして暮らしていく」ことをそれぞれのインスタグラムで発表した。二人は2016年に結婚し、いまは4歳になる息子がいる。  婚姻解消をして何が変わったのか、なぜ公表したのか、そして4歳の息子にはどう接したのか。りゅうちぇるとぺこがAERAdot.のインタビューに思いを語った。 ※【前編】「ryuchellが壊れかけていた」pecoが婚姻解消の経緯を吐露、はこちら *  *  * ――婚姻を解消して、何か変わったことは? りゅう 生活は変わっていないです。今も家族3人で暮らしています。 ぺこ りゅうちぇるが仕事から家に帰ってきてとか、その後、子どもと接して、翌日、一緒に朝ごはん食べてとか、そういうのは変わっていません。逆に、それを変えないために、選んだ道です。  もし話し合いでずっとぶつかり続けていたら、違う道を選択することもあったかもしれない。それこそ一緒にいられないね、ということも可能性としてあったと思います。  だけど、それは息子が悲しむことなので。息子が一番楽しくママとパパと一緒にいるということが、何よりも大事なことなので、色んなことのバランスを考慮してこうなりました。 ――りゅうちぇるさんの今の気持ちは落ち着いている? りゅう 以前とは全然違いますね。去年のような生活が続いていたら、最悪な状況になっていたと思います。  てこ(ぺこ)に打ち明けたときは怖かったですが、いまとなっては打ち明けてよかったなと思います。  変わらずにやっていけそうな家族の雰囲気もあって、皆さんからの励ましの声もあって、少しずつ元気になってきました。 ――自分たちの新しい家族の形を社会に訴えたいわけではない? ぺこ そういうわけでは一切ないです。 りゅう だけど、勇気を振り絞ってくれて、ありがとうという声をたくさんもらいました。 婚姻解消の公表時に投稿されたりゅうちぇるさん、ぺこさん、息子くんの3ショット(ぺこさんのインスタグラムより) りゅう こういうのもあっていいんだよ、ということをみんなに言いたいわけではないんですが、「勇気が出ました」という声ももらえたので、その声を裏切らないようにしたいと思っています。  私たちの選択が当たり前のようになってほしいとは思わないですが、多様な形があったり、色んな形がある、幸せの形はこういうのもあるんだ、というくらいに僕たちを見て思ってもらえたらいいなと。 ぺこ ロールモデルになりたいというのはないけども、身の回りで似たような家族の形と出会ったときに「ぺこ&りゅうちぇるみたいな感じか」とか、「ぺこ&りゅうちぇるもそういっていたな」とか、そういった多様な家族の形に寄り添える考えのきっかけになれたら嬉しいな、とは思います。 ――今回の発表は「する必要がなかったのでは」という声もあります。 りゅう 「新しい家族の形にします」となったときに、それが外に伝わって、その理由について憶測であることないこと言われるのであれば、ちゃんと理由を言いたいと思いました。ただ、公表するのは、とても怖かったです。憶測が飛んでも「それは違います」と否定すれば済む面もありますし。正直、ギリギリまで悩んでいました。 ぺこ 私の目線からだと、息子に誇りをもって話せることは世間に言っていいと思う。  りゅうちぇるの本当の自分については、私は一切恥ずかしいとか、「なにそれ」とも思わない。そこはりゅうちぇるには私には計り知れない勇気や恐怖があったと思うけど、それを言うことで勇気をもらえる人もいると思いました。  ただ、何よりも、息子にも誇りをもって話せる事実なのだから、世間に伝えたらいいと思いました。 りゅう 当事者の苦しみをいちいち世間に伝える必要があるのか、自分のことだけならいいが……、という考えもありました。世間は厳しいだろうという思いもありました。  だけど、てこが言ったように、息子に誇りをもって話せることは、世間にも話したほうがいいと思いました。 7月、息子の誕生日にりゅうちぇるさんが撮影(ぺこさんインスタグラムより) りゅう 僕たちにすごい憧れてくれたファンの方もたくさんいたので、それを考えるとちゃんと言いたいという気持ちがありました。  結果としては公表して良かったと。心が軽くなった部分はあります。 ――ファンからのリアクションで、励まされた声はどんなものだったか りゅう ファンの方が「最初理解ができなくて、何度も何度も二人のインスタを読み返したけど、逆に、性を超えて好きになったということだったんだ」と言ってくれて、僕たちの考えを表現してくれていると思いました。 ――ペコさんへの今の気持ちは? りゅう 家族として、人として、好きです。尊敬しています。 ぺこ お互いそういう気持ちです。 ――4歳の息子には伝えましたか? ぺこ 発表の前日に伝えました。4歳とはいえ、けっこういろんなことをわかっているので。  ウソ偽りなく、わかりやすく伝えました。お家に『いろいろ いろんな かぞくの ほん』という絵本があって、それがママとママがいるお家とか、パパだけのお家とか、おじいちゃんとおばあちゃんが親代わりのお家とか色んな家族が載っているんですが、それを見ながら説明しました。 りゅう 「男の子が男の子を好きになることがあるよね」という話もしました。 ぺこ 今回のりゅうちぇるとの話がある前から、もともと息子に男の子でも男の子のことを好きな人もいるんだよ、とか、女の子だけど心は男の子がいるんだよ、という話は息子にしていました。 「男の子だけど男の子を好きな人がいることについてどう思う?」と聞いたら、「ぼくはハッピーだよ」って言ってくれて。100%わかっていないにしろ、4歳なので「ちょっと変だよ」とか言われてもおかしくないと思っていたけど、そう言ってくれたことはすごく嬉しかった。  そこで「ダダ(パパ)はそういう人なんだよ」という話をして、「だけど、何より私たちが伝えたいのは、あたなは紛れもなく愛し合ってできた子なんだよ」ということも伝えました。 最近のりゅうちぇるさん(本人インスタグラムより) ぺこ ダダのお仕事がテレビの仕事というのはわかっているので、もしかしたらこれからお友達とかに「お家のパパとママはどういう感じなの?」とか、「どうなっているの?」とか、いろんなことを言われるかもしれないけど、そのときは言いたくなければ何も言わなくてもいいし、「わからない」でもいいし、「全然ママたちは大丈夫だよ」でもいいしと。 りゅう 正直、この話はいま話したから終わりではなく、ずっと話さないといけないと考えています。4歳なので、まだ世の中をわかっていないところが多いです。「ハッピー」という心が4歳のときにあることはすごく嬉しいことだけど、どんどん考えや環境は変わっていくだろうし。その都度その都度、息子と向き合って話あっていけないと思っています。 ぺこ すごい難しい話だったと思うんですけど、ちゃんと最後まで聞いてくれて、「難しかったー」とは言っていましたけど、しっかりと受け止めてくれたのは、すごく感じた。ちゃんと伝えて良かったと思った。  その日の夜に息子が、私と二人のときに、何の前触れもなく、「僕はママのことを大切にしているよ」と言ってくれて。息子にはりゅうちぇるとの話がまとまるまで気づかれないようにと日々過ごしてきたけど、どこかで気づいていたのだろうなと思う。「これからも3人は変わらないよ」ということをちゃんとわかってくれたんだなと感じました。 (構成/AERA dot.編集部・吉崎洋夫)
pecoryuchellぺこりゅうちぇる
dot. 2022/09/11 11:30
香川照之氏の性加害、「頭を下げて嵐を待つ」謝りにしか見えない 被害女性に真摯な謝罪を
北原みのり 北原みのり
香川照之氏の性加害、「頭を下げて嵐を待つ」謝りにしか見えない 被害女性に真摯な謝罪を
香川照之氏 作家・北原みのりさんの連載「おんなの話はありがたい」。今回は、性加害と謝罪について。 *   *  *  週刊誌で報道された香川照之氏が女性の髪の毛をわしづかみにしている写真は衝撃だった。香川氏の笑顔の雰囲気からすれば、その場はフツーに賑やかな酒の席、だったのだろう。被害を受けている女性が“その空気”にとっさに抗うことができないほど、“楽しい場”だったことが写真からも伝わってくる。その空気も含めて、怖い。  3年前の、福岡地裁久留米支部が下した性暴力の無罪判決事件を思い出した。20代の女性が、テキーラを意識が失うまで飲まされ、酔いつぶれた姿を大人の玩具などとともに写真に撮られたりなどし、その上で40代の男に性交を強いられた。一審が無罪判決になった理由の一つに、「複数の人の目がある場で性交したということは、犯罪行為である認識がなかった=同意と勘違いしていた」というものがあった。楽しげな酒の席でのことは無礼講、その場で嫌と言わない女は、一緒に楽しんでいたはず……と性暴力を性暴力と認識できずに加害者になってしまう男性は少なくない。(この事件は高裁で逆転有罪、最高裁で有罪が確定した)  それにしても、この写真が出るまでは、香川氏に対して全く“一発アウト”の空気にならなかったことが、そもそも不思議だ。テレビ局やスポンサーたちがお互いに目配せしながら「どうする?」と世の中の空気を読んでいるかのように見えた。各社にセクハラや性暴力に対する独自の厳しい基準がなく、世論で判断を決めようということなのだろうか。また、SNS上でも香川氏に対して同情的な声も大きかった。  香川氏も周囲も、もしかしたら甘く捉えていたのかもしれない。司会を務める情報番組では深々と頭を下げて「与えていただける仕事に真摯に挑む」などと発言をし、テレビ朝日で放映中のドラマも打ち切りになることなくオンエアされた。「頭を下げて嵐を待つ」というような収束を目指したのかもしれないが、香川氏の最初の謝罪は、最悪だったと言ってもいい。被害者に対するお詫びがなく、「お騒がせした」ことしか謝っていないように見え、それはどこか上層部へのこびへつらいにしか見えないものだった。役柄と役者が同一視されてしまうのは気の毒だが、そうであればなおのこと、謝罪の言葉には慎重になるべきだった。 北原みのり(きたはら・みのり)/1970年生まれ。女性のためのセクシュアルグッズショップ「ラブピースクラブ」、シスターフッド出版社「アジュマブックス」の代表  改めて「謝罪」というものについて考えさせられる。謝罪は、実はジェンダーと深く結びついている。謝罪とは、自分がしてしまったことの事実を認め、その事実に対する深い反省を表明し、被害者にお詫びし、二度とくり返さないためにどのように今後はしていくか、今どうすべきかを表明することである。ところが、これ、男ジェンダーには、どうやらハードルが高いようなのだ。「頭を下げたら負け」というようなことが骨の髄までしみこんでいるようなマッチョな組織論に染まっている人たちにとって、自分の罪を認め、被害者の立場に立った反省を表明することは、自分のアイデンティティーを裏切るほどに大変なことらしい。だから謝り方を間違える。さらに周囲も、「男がこんなふうに頭を下げてるんだから、許してあげて」みたいな気遣いをしがちである(一方で女は頭を下げて謝りすぎ、何をするにも「すみません」を言いすぎである)。しかも、謝り方を間違えているのに、納得しない被害者に向けて今度は「謝ったのに許さないほうが悪い」と、ずれた怒りを感じ、加害者なのに「自分こそが被害者だ」と勘違いする場合もある。けっこうある。  土下座演技で大スターの地位を確固たるものにした香川氏が謝罪でつまずいたのは大きな皮肉だが、そもそも土下座を「最上級の謝罪」と考える文化が間違っているのかもしれない。私は、これまでの人生で一度だけ「土下座して謝れ」と言われたことがある。仕事をはじめたばかりのころ、相手は取材先の50代男性だった。私の口調が生意気だ、という理由で「土下座しろ」と言われたのだ。え? ここは江戸?と、衝撃を受けたが、ただ相手に屈辱を強いることを「謝罪」と思う人がいること、そしてそれが社会的に地位の高い男性であったことに、社会人になったばかりの私はかなり驚き絶望したものだ。ドラマ「半沢直樹」で香川氏演じる悪役が最後に深々と土下座をするシーンで視聴者は留飲を下げたように、相手に屈辱を強いる行為=謝罪と考える感性が男社会にはある。謝ったほうが負け、というカルチャーの中で、私たちは本当の「謝罪」というものを学ぶ機会も、知る機会も、実践する機会もないのかもしれない。  #MeTooが起きる度に、「目的はなんだ?」「金か?」「売名か?」「男を陥れたいのか?」とかいう非難が必ず起きる。香川氏の被害者に対しても、「3年も経っているのに?」「そもそも夜の仕事にはそういうハラスメントも含まれている」という暴言を吐く人もいる。ハラスメントや性暴力に値札がついているという感覚そのものが、おかしい。そういうおかしな暴言があふれる社会で、被害者が求めているのは常に一つだ。真摯な謝罪だ。真摯な謝罪を見たこともなければ、されたこともない社会で、実践するのは難しいかもしれないが、私たちの社会に必要なのは、ちゃんとした謝罪文化だ。
北原みのり性加害性暴力
dot. 2022/09/07 16:00
ニューヨークで増える「駐妻」ならぬ「駐夫」 50歳で「子連れ」留学 主夫の悩みは主婦そっくり
ニューヨークで増える「駐妻」ならぬ「駐夫」 50歳で「子連れ」留学 主夫の悩みは主婦そっくり
引っ張って使えるタイプのスーパーのカゴは、重くなくて便利(写真/筆者提供)  ドキュメンタリー映画監督の海南(かな)友子さんが10歳の息子と年上の夫を連れ、今年1月からニューヨークで留学生活を送っている。日本との違いに戸惑いながら、50歳になっても挑戦し続ける日々を海南さんが報告する。 *  *  *  留学に息子を連れていくことは決めていた。だけど、夫の仕事については課題だった。初めは渡米に難色を示したが、長い話し合いの末、仕事を休止して同行してくれることになった。 「君の挑戦に協力して、子供のことを俺がやる」  と言われたときは本当にうれしかった。そして夫は突然、家族の海外駐在に同行する駐在妻ならぬ「駐在夫」となった。  渡米する前は、 「私も家事はやるよ!」  と言っていたが、現実はシビアでとてもできなかった。一日中、コロンビア大学の授業を受け、図書館で文献を調べ、ときには誰かのインタビューに行く。フルブライトから研究資金をもらっているので、仕事と同じ責任感でやらねばならない。疲れすぎてくたくただ。みかねた夫が、いまでは食事、掃除、洗濯、子どもの送迎などの家事を担ってくれている。  人生で初めて家事をメインの仕事として担当する夫。英語が得意ではないため、買い物ひとつでも大変だ。初めてスーパーに行った日、レジの女性から怒鳴られて帰ってきた。 「早く、ベルトコンベヤーに乗せろ! 何やっている!」  と彼には聞こえたらしい。本当にそう言ったかはわからないけど……。日本ではレジに買い物カゴを置いて会計するが、アメリカのレジはベルトコンベヤーに自分で品物を置かねばならない。意外に難しくて、前の人の品物と混ざらないよう、タイミングを見はからわねばならない。夫はカゴごと置いて怒られたのだ。50歳を過ぎて、スーパーのレジで怒られるという、ある意味貴重な経験となった。  夫はもともと洗濯や掃除は得意。でも、料理はあまりしない。 「カレーぐらいはできるさ」  と言っていたが、初めてカレーを一人で作ろうとしたとき、肉が解凍できずに悪戦苦闘。電子レンジで解凍する方法がわからなかったらしい。包丁の刃はボロボロになり、肉に金属が紛れてしまった。 子どもが学校に行っている間に、夫とブルックリンへ(写真/筆者提供)  途方に暮れた彼は料理をやめ、仏頂面で座っていた。幸い、炒める前だったので、私が別の肉で「修正」したが、たかがカレーでも海外のキッチンでやるのは大変なのだ。  正直、毎日いろんなことが起きる。でも、文句は一切言わないと決めている。私も家事の大変さは身に染みている。だから、 「毎日同じメニューでも問題ありません」  と宣言した。とにかく感謝だ。「50歳で子連れ留学したい」と言う私に、同行して家事までしてくれているのだから。  そんな夫に友だちができた。息子の同級生のパパKさん。実はKさんも、奥さんの転勤に同行している“駐在夫”だ。1年前、奥さんに転勤命令が出た。Kさんは家族のため、熟慮の末に退職し、今はリモートで働いている。古い日本の価値観で言えば、働き盛りの男性が、妻の海外転勤に同行する決断は並大抵のことではない。  私の夫もKさんも、駐在夫という同じ境遇だからか意気投合し、大リーグ・ヤンキースの試合を見にいくなど仲良くさせてもらっている。友人って大切だ。Kさんと飲みにいく夜の、夫の楽しそうな後ろ姿がそれを物語っている。  身近に駐在夫が2人もいたことに、 「時代が変わりつつある?」  と驚いていたら、実はニューヨークには駐在夫がけっこういることに気がついた。  大学の友人の日本人女性は、企業派遣で留学中。夫は休職し、駐在夫として小さな娘さんの面倒をみている。フルブライトの会合で知り合ったトルコ人夫婦も、妻の留学に夫が同行したカップルだった。トルコ人の夫は、私の夫を指して「同じ境遇!」とほほ笑んだ。  さらに、最近知り合ったチリ人のベンジャミンは自己紹介で、 「妻の転勤で仕事を退職し渡米しました。1歳の息子の世話が僕の仕事です」  と言った。  まだ1年も経たないニューヨーク生活で、次々と現れる駐在夫。日本人、トルコ人、チリ人――。大陸をまたいで女性が活躍している証拠だ。もし、100年前の女性たちに、駐在夫のことを伝えたら驚愕(きょうがく)するだろう。家族の幸せのために新しい選択をした夫たちは、多様な世界を実現する先駆者だ。  ちなみに、ベンジャミンの悩みは、帰宅した妻が服を脱ぎ捨てることだそうだ。 「仕事で疲れるのはわかるけど、僕も家事と育児で大変だ。自分の服ぐらいしまえ」  と妻に毎日言っているという。あれ? これって主婦の悩みにそっくりだ。どんなに仕事が忙しくても、自分たちがされて嫌なことは家庭でしないように心がけねばと、自分を戒めた。 かな・ともこ/1971年、東京生まれ。ドキュメンタリー映画監督。19歳で是枝裕和のドキュメンタリーに出演し映像の世界へ。NHKを経て独立。2007年、『川べりのふたり』がサンダンスNHK国際映像作家賞。ライフワークは環境問題。趣味はダイビングと歌舞伎鑑賞。フルブライト奨学金を得て、22年1月からニューヨークのコロンビア大学の客員研究員として留学中。1児の母(写真/筆者提供) ※AERAオンライン限定記事
AERA 2022/09/07 08:00
孫が語る厄介な夏目漱石「突然怒るので、子どもたちは恐れていた」
鮎川哲也 鮎川哲也
孫が語る厄介な夏目漱石「突然怒るので、子どもたちは恐れていた」
漱石写真帖から  夏目漱石は、日本を代表する文豪であろう。芥川龍之介、久米正雄などの門下生をはじめ、その後の文学や社会に大きな影響を与えた人を育てた。偉大な人物であるが、家族にとってはちょっと厄介な意外な一面があった。子孫に話を聞き、“素顔”を紹介するシリーズ第4回。 *  *  * 「吾輩は孫である」。ン? 来たぞ。来るんじゃないかと思ってたら、やっぱり来た。 「漱石と関係あるんですか?」 「漱石の孫ですって?」(後略) 「週刊朝日」1975年5月23日号の「ひと」のコーナーで紹介された夏目房之介さんの紹介記事の書き出しである。夏目漱石のように頬杖をついてすました表情の写真に、「素性を明かせばカドが立ち さりとて隠すも面倒だ」と『草枕』を思わせるキャプションまである。  これが漱石の孫・夏目房之介さんがメディアに登場したはじめての記事であり、その後の人生を大きく変えた“デキゴト”となった。  これほどまでに漱石を意識した演出であったが、房之介さんは、漱石の孫といわれるのを快く思っていなかったという。「漱石の孫」というプレッシャーもあり、若い頃は漱石の長男である父・純一さんに反発した。社会に出て自分の仕事に自信を持つに従って、漱石という存在を受け入れるようになっていったという。 「それでも、周囲から『文豪の孫』とよばれることには、なかなかなじめなかった。漱石という言葉とともに語りかけられると、若い頃は反射的にピクリとこめかみに青筋がたち、目がこわくなって、肩に力が入った」(『漱石の孫』から) 「週刊朝日」から取材を受けたことで、同編集部で定期的に仕事をするようになり、そこには漱石に関する奇妙なめぐり合わせがあった。 「編集部には池辺さんという方がいたのですが、『池辺さんがいるよ』と言われても当時はどんな人か知らなかったんです」と房之介さんは懐かしそうに話した。 「週刊朝日」編集部にいた池辺とは、朝日新聞社主筆の池辺三山の子孫。池辺三山は漱石がとても信頼していた人物で、漱石は池辺三山の誘いで、朝日新聞社に入社した。 夏目房之介画 『孫が読む漱石』から 「祖父と僕が時を隔てて同じ朝日新聞社に世話になったのは奇妙な縁ですね」  房之介さんは週刊朝日で「デキゴトロジー・イラストレイテッド」「ナンデモロジー學問」などの連載を14年にわたって担当した。  房之介さんがさらに漱石に対しての意識を変えたのが千円札の肖像が伊藤博文から漱石に変わったときであった。  漱石の肖像が使われることで房之介さんの父は、「オヤジ(漱石)も喜ばないし、自分も好きじゃない」と殺到する取材に怒った。  その状況に、房之介さんは、父とは違う対応をした。メディアで仕事をした経験もあるので、どう振る舞うのがよいかの判断もできていた。漱石についての取材も受けるようにしようと心境が変化したという。  もう一つ房之介さんと漱石の関係を変化させたのが、「BSマンガ夜話」などのテレビへの出演である。房之介さんはすでにマンガの解説などで注目されており、その番組でマンガについて表現手法などや作品の解説を独自の切り口で紹介し、好評を得た。さらに学習院大学大学院に新設された身体表象文化学専攻の教授に就任し、マンガを学問へ昇華させ、漱石の孫ではなく「夏目房之介」を確立した。 「漱石の孫の房之介ではなく、夏目房之介の祖父が漱石というふうになればいいなって思っていました。でも生きているうちには無理だろうなと思っていたら、それができたようですね」  と房之介さんは少し照れくさそうに話す。  その言葉どおり、学習院大学の学生をはじめ若い人のなかには、夏目さんのおじいさんって、夏目漱石なんですね、と驚く人もいるという。  とはいえ、漱石の血筋であり、孫であることは間違いない。似ていると感じたことはないのか。 「漱石には会ったこともないんですが、性格は似ているところがあるでしょうね。突然怒りだすところなんか、そうかもしれないですね。オヤジもそうだったし、僕の長男にも、怒りだすことに関して『お前もそうだろう』と聞いたこともあります。でも漱石に比べて少しずつよくはなっていると思いますけどね」 夏目房之介(なつめ・ふさのすけ)/ 1950年、東京都生まれ。青山学院大学卒業。マンガ・コラムニストとしてエッセー、マンガ評論などを手がける。1999年「手塚治虫文化賞特別賞」を受賞。著書に『漱石の孫』など多数(撮影/写真映像部・高橋奈緒)  漱石はとにかく怖かったようだ。 「洋食屋に連れていってもらうとマナーにうるさくて、食べた気がしないって父や叔父がよく言ってました」  漱石は突然怒るので、子どもたちは恐れていたのである。いつ噴火するかわからない。ただ、それが病だと知って父・純一さんは自分とは違うとホッとしたという。  では改めて今、漱石についてどう思うかを聞いた。 「後でわかったことですが、オヤジが漱石について話していたことは、全部どこかの本に書いてあることでした。だから子孫といえども、うちしか知らないような秘話はないのです」と房之介さん。  続けて、 「ただ、半ば冗談ですが、僕もオヤジも漱石と顔の骨格は同じで、背丈も同じくらいです。とすると声帯も近いから声も似ているはずなんです」  と漱石を意識したような表情で話してくれた。漱石はよく講演をし、講演録は話した言葉のリズムやライブ感を残しながらまとめていくのがうまかったと房之介さんは強調する。小気味よく話す房之介さんのお話を聞いていると、その才能を受け継いでいるようだ。  漱石は書き言葉から話し言葉で文章を書く、「言文一致体」にしたことでも知られる。それまでとは一線を画する表現である。 「ただ、カタイ言葉を置き換えただけでなく、江戸文芸の落語や講談など語り物の文化を盛り込んで文章にしたのがいいですね」  と東京生まれの房之介さん。  房之介さんは漱石の手紙をまとめた『漱石書簡集』は非常におもしろく、文章を書いたり、タイトルをつけたりする際に参考にしたそうだ。人や状況によって巧みに書き分けていた手紙の達人で、名調子も隠されている。  最後に房之介さんも暗唱できるという漱石の名作、『草枕』の冒頭を記して、房之介さんとのお話を終わりにしよう。 「山路を登りながら、こう考えた。智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい」 (本誌・鮎川哲也)※週刊朝日  2022年9月9日号
週刊朝日 2022/09/03 08:00
あえてお酒を飲まない“ソバーキュリアス”体験談 「体も気分も最高に軽くなった」
鮎川哲也 鮎川哲也
あえてお酒を飲まない“ソバーキュリアス”体験談 「体も気分も最高に軽くなった」
※写真はイメージです (GettyImages)  世の中には二つのタイプの人がいる。お酒を飲む人と飲まない人。昨今、お酒を飲まない“ソバーキュリアス”なる現象が広がりつつあるという。どんな生活が待っているのか。実践者と医師にソバーキュリアスの効果と実態を聞いた。 *  *  *  コロナ禍で外出自粛が求められたとき、人々は家飲みを余儀なくされた。在宅時間が増えたことでお昼から家で飲む人が増えたともいわれたが、現在はコロナとの付き合い方がわかってきたことで、少しずつお店で飲む人も戻ってきている。  だが、そんなお酒をめぐる状況に変化が起きている。それがソバーキュリアスと呼ばれる現象である。  では、ソバーキュリアスとは一体何だろう。まずは、その言葉から。  ソバーとは英語のsoberで「しらふ」という意味。キュリアス(curious)は「好奇心が強い」。ソバーキュリアスとは、飲めるけど「あえてお酒を飲まない生き方」だ。最近はノンアルコール飲料をコンビニなどでもよく目にするようになり、お酒を飲まない人が増えているのを感じる。  その背景の一つが健康志向のようだが、お酒を飲むと楽しいし、コミュニケーションも活発になる。長年お酒を飲み続けた記者(58、男)は、お酒を飲まないなど考えたことは、肝臓を壊したとき以外は長年なかった。  どんな生活が待っているのだろうか。ソバーキュリアスを実践している人に話を聞いた。 「ソバーキュリアス生活を始めて、いいことばかりですよ」  と快活に、そして健康そのものという雰囲気を前面に出しながら話してくれたのは、作家の桜井鈴茂さんである。  桜井さんは365日毎日飲んでいた。1週間のうち3~4日は外で飲み、かなり深酒することも月に1~2度あり、そのたびに後悔していたという。  次の日にもお酒が残り体調が優れない。調子に乗って一緒に飲んでいた人にいらないことを話しすぎてモヤモヤする。この二つを体力的精神的に挽回するために翌日の大半を費やし、無駄な一日を過ごしたと、後悔を重ねる日々を送っていた。 週刊朝日 2022年9月9日号より 「でも、お酒をやめようとは思わなかったですね。夕方になるとソワソワして飲みたくなる。一種の依存症だったのですかね」と桜井さん。  ところがある日、毎日飲むのはよくないと、思い切って1週間くらい休肝日をつくってみた。 「やめて4日目くらいに一日が長くなったことに気がつきました。夜8時ごろから深夜2時くらいまでダラダラしていたのですが、その時間にいろんなことができたのです。仕事をしたり、本を読んだり。これは新しい発見でしたね」  と嬉しそうに話す。お酒をやめてもう3年を迎えるという。  毎日、あれもやらなきゃ、これもやらなきゃと悩んでいたが、時間がなくなっていたのはお酒を飲んで長い時間を浪費していたためだと痛感し、心が軽くなった。さらに体も軽くなり、以前よりも動けるようになったと肉体的な変化も実感している。何より大きな変化は眠りが深くなったことだ。 「あれ、今日も朝まで目が覚めなかった、という日が続いたんです」  桜井さんは軽い睡眠障害で、中途覚醒があった。明け方目が覚めて、そのまま眠れなくなるという生活をしていたこともあった。それが全くなくなったのだ。 「体も気分も最高に軽くなりました。もうお酒を飲む生活に戻れない、いや、戻りたくないです」と断言する。  と、ここまで桜井さんのソバーキュリアス生活を紹介したが、実は記者もソバーキュリアス生活を始めた。まだ3週間目であるので大きなことは言えないが、桜井さんのお話に激しく同意することが多い。始めたきっかけは「一部の人もすなるソバーキュリアスといふものを、自分もしてみむとてするなり」という軽い気持ちであった。  お酒をやめて2日目、夜12時に寝て目が覚めたら午前7時を過ぎていた。こんなことはここ数年なかった。桜井さんのように明け方に目覚めることが多くあった。最近は熟睡できて目覚めがいい。なんて素敵な時間ができたのだろう。そう心から思うひとときであった。 桜井さんが運営するローアルコホリックカフェ MARUKU(マルク) ■お酒をやめると体の負担が減る  現在は桜井さん同様、お酒を飲みたいとは特に思わない。  そんななか、「サケビバ!」というビジネスコンテストが国税庁の主催で行われていることを知った。これは、縮小する国内の酒類市場に危機感を覚えた国税庁が主に若年層にお酒を消費してもらい業界の活性化を図ることが目的だ。酒税の増収を狙ったものといえそうだ。  これに対してソバキュリアンの桜井さんは、「お酒もドラッグの一種だという欧米では常識とも言える認識が欠けています。もちろん、飲酒が合法であることに異存はないですが、合法であることと推奨することは大きく違います」と語気を強める。 「サケビバ!」を主催する国税庁に質問すると、 「若年層にお酒をすすめているわけではありません。酒類業界の活性化や関連業界に資するビジネスプランのコンテストです。活性化には数を消費するだけでなくブランド価値を上げる意味もあります。若者に考えていただくのですが対象はすべての世代です」  あくまで目的は、業界の活性化だという。  では、お酒と健康について、医師の浅部伸一さんにご意見を伺おう。  浅部さんは『酒好き医師が教える 最高の飲み方』と題する書の監修をしているくらいお酒が好きな医師である。専門は肝臓病学、ウイルス学である。 「お酒を飲まないことで体に負担がかかることはありません。より健康的に生活できると思います。医師としては積極的にお酒をすすめることは躊躇(ちゅうちょ)しますね」  そう浅部さんは口を開いた。  浅部さんは前記の書のタイトルに「酒好き医師が教える」とあるとおり、お酒は好きでよく飲むという。これまで飲まない時期はあったが、本気でやめようと思ったことはないそうだ。飲んでも軽く酔う程度で、酔うために飲まないし、それほど量は飲まない。  ソバーキュリアスについて浅部さんはこう話す。 「これまでたくさんお酒を飲んでいた人がお酒を断つというのではなく、少しくらい飲んでいたけど、やめたら調子がよかったので、そのままやめてしまった人だろうと思いますね」  さらに続けて、 「ソバーキュリアスの考えは欧米から来ている、いわゆるローコンテクストで、ロジカルに物事を捉えている人たちの間で広がっているように思います」  浅部さんは、ここ20年は世界を“ロジカルシンキング”が席巻し、論理で勝負する世になっていると説明する。効率と論理を重視し無駄をなくす。ソバーキュリアスはその流れに合致すると分析した。 「ただ、ロジカルだけでは限界が見え始めて、見直されているようですけどね。エモーショナルな部分もやはり必要だということでしょうね」と浅部さん。 ■お酒への反応は人それぞれ違う  日本の飲みニケーション文化はロジカルではない、全く逆の世界である。日本人はお酒を使ったコミュニケーションを昔から続けてきた。そこにはメリットがあったから今まで続いてきたともいえる。 「お酒を飲むことに意味がないかといえば、そんなことはないと思いますし、お酒を飲むことで抑制が取れ、その人の本当の姿を見ることもできますしね。お酒のメリットもあると思います」  と浅部さんはお酒好きの一面をのぞかせる。  浅部さんのお話を聞いて、ソバーキュリアスなんてやめてしまおうかと一瞬、心が揺らぐ。 「どちらがいいとか、悪いとかではなく、一長一短あるということです」  これからソバーキュリアスを始めたいと考えている人に対して、どんな注意点があるのか。 「いつもお酒を飲んでいて、やめた際に落ち着かないとか、イライラするという場合、その状況は禁断症状が出ていて、アルコールの依存症の可能性があります。そういう人はお酒はやめたほうがいいですね。ただ、お酒を急にやめて不眠やうつの症状が出ると困るので、精神的な不調がある場合は医師などの専門家に相談したほうがいいですね」  と医師の立場としてアドバイスする。  ソバーキュリアスなど、お酒をやめて調子がよくなる人がいるのは間違いない。ただし、お酒の反応は人によって異なる。ソバーキュリアスを始めると必ず体調がよくなるはずだと、過剰に期待しないことが大切だとも強調する。 「調子がよくなる人はもちろんいますが、必ずしもそうなるとは限りません」  その上で浅部さんはお酒についての相談を受けた際には、それぞれの生き方を尊重しつつ、健康へのアドバイスをするのが医者の役割だと考えているそうだ。  最後にこう話してくれた。 「お酒をやめる、やめないは個人の考えで、人に言われることではないですね。大きな話かもしれませんが、ソバーキュリアスをするかしないかは、どう生きるかを決めることでもあると思いますね」 (本誌・鮎川哲也)※週刊朝日  2022年9月9日号
週刊朝日 2022/09/02 16:30
【下山進=2050年のメディア第8回】沢木耕太郎は現代の「歌枕」か 『深夜特急』『天路の旅人』
下山進 下山進
【下山進=2050年のメディア第8回】沢木耕太郎は現代の「歌枕」か 『深夜特急』『天路の旅人』
沢木耕太郎 「沢木さんの『深夜特急』を読んだから」  2019年春に、慶應SFCで教えていた頃の話である。一人の学生が、アジアの国々への一人旅をくりかえしているので、理由を聞いたらば、そんな答えが返ってきた。  私が『深夜特急』の第一便と第二便を読んだのも、大学を卒業した1986年のことだから、なんという作品の寿命の長さなのか、と感嘆したことは以前書いた。  今回書きたいのは、なぜ、沢木耕太郎の旅は今なお、若い人を新たな旅へと誘っているのか、ということだ。  私が、『深夜特急』に触発されて、香港やシンガポール、マレーシアなどを旅していた1990年前後は、それでも、沢木さんが旅をした1970年代の空気をそれなりに感じることはできた。たとえば第一便で描かれた「毎日が祭りの街」香港。三重の屋台が無限に続く廟街(テンプル・ストリート)の猥雑な熱気や、60セントの豪華な航海と描写された香港島と九龍半島を結ぶスターフェリーの空気も当時とそれほど変わることはなかっただろう。  香港がまだ返還前だったということも大きかった。  が、2019年に香港を旅する彼女にとっては、香港は習近平の中国だ。  しかし、彼女にとっては、『深夜特急』に描かれた香港やマカオは、前号で紹介した「歌枕」のようなものなのだ。  たとえば、『深夜特急』ではアバディーンの水上生活者の少女と、沢木さんの交流が心あたたまるように描かれる。沢木さんがその少女とアドレスを交換しようとすると、最初その少女は意味がわからず、とまどった末に、走っていって交差点の標識をみてこう書いた紙を差し出す。  陳美華 湖南街 <彼女たちは水上生活者だった。住所を持っているはずがなかったのだ。彼女の明るい笑顔に胸を衝かれた>(『深夜特急』第一便)  1990年代から、香港政府による定住政策が進み、特に共産主義中国の一部になってからはそもそも水上生活者自体の存在が許されない。なのでSFCの彼女が香港を旅しても、陳美華に会うことはない。 新作『天路の旅人』は、「新潮」8月号、9月号に掲載された。単行本出版は10月の予定。『深夜特急』はこれまで単行本3巻で42万7500部、文庫本6巻で535万8000部を発行している。 「沢木さんが旅した1970年代の香港に行ってみたい」  そう彼女は言ったが、それでも一人で旅をしていると様々な出会いがある。『深夜特急』の中には、安宿にとまったら、そこは娼館だったというエピソードがある。クアラルンプールのびっくりするほど安い宿をネットで予約していったらば、『深夜特急』で書かれたような娼館だった、なんてことを彼女は楽しそうに話してくれた。  SFCの中では彼女はちょっと変わっていて、当時から「校閲者になりたい」と言っていた。私は、「出版社・新聞社は校閲採用がある。駄目だったらフリーという手もある」と励ましたものだった。  さて、沢木耕太郎は、今も「旅」について書き続けている。  文芸誌の「新潮」8月号と9月号に新作のノンフィクション「天路の旅人」を発表した。西川一三という第二次世界大戦末期に中国の奥地深くに潜入したスパイの旅について書いている。西川は、蒙古人「ロブサン・サンボー」としてラマ僧になりすましたまま旅を続け、1950年にインドで逮捕され、日本に送還される。  私がひきつけられたのは、本編の西川の旅に入る前のくだりだ。戦後は盛岡でひっそりと化粧品店をいとなんでいる西川に、沢木は、地元紙の記事から興味をもち、連絡をとって取材を始める。それが四半世紀も前のことなのだ。 <私の流儀として、かりにそれが仕事の場合であっても、最初に会ったときには、いわゆるインタヴューをしない>  こんな一文を読みながら、「焦るな」と沢木さんが言ってくれているような気がした。  そして西川も、1974年の沢木さんの旅に強く反応をするのだった。沢木さんが旅をした1974年というのは奇跡のような年で、パキスタンからカイバル峠を越えて陸路でアフガニスタンの首都カブールまで乗合バスで行くことができた。西川のころは印パ紛争によってアフガニスタンには入れず、1979年にはソ連軍が軍事侵攻をする。以降は戦火に踏みにじられ、一般の旅行者が旅することができるような国ではなかった。 『深夜特急』の中でアフガニスタンの荒野をバスがひた走るシーンがある。土埃をあげてバスが疾走していると、羊飼いの羊を守る犬が、突進してくる。ぎりぎりまでくると羊飼いの口笛で、犬は踵を返して羊の群れに戻っていく。26歳だった沢木はなぜか涙が流れてしかたなくなるのだが、これはとりわけ胸に迫るシーンだ。  そうした光景は「歌枕」のように、西川に話を聞いている1990年代も、今も、幻の中にしか存在しないのだが、西川も東チベットのカム地方を巡礼していたときに、同じ経験をしたと強く反応する。そしてインタビューが始まり、四半世紀の発酵の期間をへて、今回作品「天路の旅人」として結実した。  ところで、SFCの彼女は今ではプロの校閲者になっている。  そして現在も休暇の度にアジアを一人で旅している。彼女にとっては、『深夜特急』に描かれたアジアの街の情景は、今はもう存在しなくても「どうしたらそこにいけるだろうか」と想像力によって行くことのできる「現代の歌枕」なのだ。  西行の旅と芭蕉の旅、沢木の旅と西川の旅、そして我らの旅。旅は互いに呼応する。 下山 進(しもやま・すすむ)/ ノンフィクション作家・上智大学新聞学科非常勤講師。メディア業界の構造変化や興廃を、綿密な取材をもとに鮮やかに描き、メディアのあるべき姿について発信してきた。主な著書に『2050年のメディア』(文藝春秋)など。 ※週刊朝日  2022年9月9日号
下山進
週刊朝日 2022/08/31 07:00
夫に「でっちあげDV」を謝罪した妻の言い分 それでも女性、母として認めてほしかったこと
夫に「でっちあげDV」を謝罪した妻の言い分 それでも女性、母として認めてほしかったこと
里英さんは「ただ、うまくいかない現状から逃げたかっただけなんです」と話す。写真はイメージ(PIXTA) ひとつ屋根の下に同居していても、夫と妻で「見えている景色」が違うことは少なくない。大阪府に住む小柴さん夫婦も、さまざまな「すれ違い」が重なって離婚危機にまで至った過去がある。「前編」では、夫の孝雄さんが妻の親に「DV」だと言われ子どもを連れ去られそうになったが、それがいかに誤解だったかという夫側の主張を聞いた。「後編」では、妻の側からなぜ夫への不満がふくらんでいったのか、どのような行為が「DV騒動」へとつながっていったのかをインタビューした。 *  *  *「夫は天才肌で、考え方がちょっと独特なんです。世間一般の常識とは違うけれども、話を聞けば筋が一本通っている。私は自分の意志が弱く優柔不断なほうなので、私にはないものを持っているところに惹かれて一緒になりました」  小柴里英さん(仮名・25歳)は、保育士として働きながら1歳半の子どもを育てる母親だ。「前編」で紹介した孝雄さん(仮名・41歳)の妻で、夫とは離婚危機がありながらも今も一緒に暮らしている。  里英さんは新潟県で生まれ育ち、進学を機に上京。卒業後はそのまま東京で、保育士として働いていた。後の夫となる孝雄さんとはオンラインゲームを通して知り合った。その当時、里英さんは東京で知り合った彼氏と同棲中だったがあまり関係がうまくいっておらず、その寂しさを埋めるようにゲームに逃げ込んでいたという。 「チャット機能で夫と話すようになり、年上で頼りになるなと思っていろいろ相談していました。当時、仕事も恋愛も親との関係もうまくいっていなくて、精神的に行き詰まっていたんです」  里英さんの両親は、里英さんが高校3年生のときに母親が家を出る形で離婚していた。けんかばかりの姿を見ていたので、破綻したこと自体に驚きはなかった。だが、親に甘えられない子ども時代を過ごしてきたことで、離婚後はよりいっそう親と心の距離ができてしまっていた。 「一度上京したからには、もう親には頼れないと思い込んでいたんです。彼氏とうまくいかなくなってからは、本当はいったん実家に戻りたかったんですけど、そのころ父親は新しい女性と一緒に暮らし始めていたので、遠慮していました」  そんな里英さんの話を聞いて、孝雄さんは的確なアドバイスをくれた。「体調を崩しているなら彼氏とは今すぐ別れた方がいい」、「お父さんは大丈夫、受け入れてくれるから頼ればいい」。里英さんが行動するための具体的なプランも示してくれた。 「夫の言うとおりに行動してみたら、いろいろなことがうまくいったんです。すごいなあ、って一気に信頼が高まりました。でも当時はまだ恋愛感情はなくて、恩人みたいに感じていました」  里英さんはいったん新潟に戻り、父親とその彼女の助けを得ながら、しばらく祖母宅で過ごした。親との関係が取り戻せたことはよかったが、居候の身としては居心地がよくなかった。自分自身の力で、人生をやり直したいと思った。新潟ではない、別の場所で。 「そのとき、思い浮かんだのが夫の住む大阪だったんです。私は保育士なので、そこそこの規模の都市であれば、どこでも就職先は見つかる。夫に相談したら『いいんじゃない?』と言ってくれました。大阪には土地勘がないので、いろいろアドバイスしてくれて、引っ越しの際にはお金まで出してくれました。そうですね、その頃にははっきりと恋愛感情が生まれていました」  孝雄さんには、同居する元妻と子どもがいることも知っていた。 「うちの家庭も複雑だし、そのことはそれほど気になりませんでした。夫の年齢からしても、過去がいろいろあるのは当然だろうな、と」  とはいえ、彼女という立場になってからは、やはりおもしろくはない。里英さん自身、気づかないうちに不満がたまっていった。それが態度や言葉の端々に出た、ような気がする。けんかや言い合いが増え、里英さんは「大阪なんか、来るんじゃなかった」と言った。その言葉に、孝雄さんはひどく腹を立て里英さんを叱った。里英さんは、謝らなかった。我慢しているのは自分の方なのに、という思いもあった。  そんな時、孝雄さんが元妻との同居を解消し、里英さんの部屋に転がり込んできた。もともと孝雄さんが借りてくれた部屋だから、もちろん異論はない。そうこうしているうちに、妊娠していることがわかった。 「私は保育士だし、子どもは大好き。まだ籍は入れていなかったけれど、素直にうれしかったです」  生まれてみたら、子どもはかわいかったが、新生児の子育ては想像以上に大変だった。とにかく寝ない、泣きやまない。新米ママなら、誰もが経験する壁に里英さんもぶち当たっていた。  悔しかったのは、孝雄さんのほうが子どもの世話に慣れていたこと。里英さんが抱っこしても泣きやまないのに、孝雄さんが抱くとすんなり泣きやむことが続いた。母親なのに! 保育士なのに! 里英さんのプライドはズタズタになった。だから、孝雄さんのアドバイスは無視した。 「こんなときはこうしろとか、うるさくて。子育てを手伝ってくれるのはありがたいことだし、内心、夫の言うことが正しいとわかっていても、それを認めたくなかった。『私は私のやり方でやる!』と言い張ってしまいました」  筆者も里英さんの気持ちはよくわかる。女性として、母親として花をもたせてほしいのだ。でも、その気持ちは、正論で押してくる孝雄さんには伝わらない。 「実家に電話をかけて、つい愚痴ってしまいました。こんなこと言われた、あんなこと言われたと洗いざらい話したら、父親と彼女が『それ、モラハラだよ、DVだよ』と。味方になってくれたのがうれしくて、どんどん夫を悪く言うようになってしまったんです」  内心では「DVではない」とわかっていた。でも、DVということにしておけば、父親と彼女は自分の味方をしてくれる。何なら、子どもを連れて新潟に帰ってこいとまで言ってくれる。その話に乗るのも悪くない、と思った。 「そのときは夫と別れてもいいや、と思っていました」  里英さんの思惑以上に父親と彼女がヒートアップして、予定していた日より早く実力行使に出たのは想定外だった。父親と彼女が「今夜行く!」と言い出し上京してきて、里英さんと子どもを連れ帰ろうとしたことが、警察を呼ぶ騒ぎになった。 「バタバタと警察がやってきて、すごく怖かった。警察が帰った後、夫に『里英がやろうとしていたことは有害だ、犯罪だ』と言われたのはショックでした。私はただ、うまくいかない現状から逃げたかっただけなんです」  里英さんは、子どものためにも、家族3人でやっていこうと思い直した。そして、夫に促されるがまま「DVをでっちあげようとしていたこと」を謝罪した。  里英さんが「初めて」謝ったことで、孝雄さんは里英さんを許した。家族3人で再出発。いま、里英さんは二人目を妊娠中である。  もちろん、孝雄さんの主張がすべて正しいわけでもないだろうし、里英さんがすべて間違っていたということもないはずだ。それでも、夫婦は「これでいい」とお互いに落としどころを見つけて前に進んだ。「正しさ」ばかりを追求しないことも、夫婦関係を続ける上では大切なのかもしれない。(上條まゆみ)
DV夫婦離婚
dot. 2022/08/28 11:30
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