早川智
241年前「天王星」を発見したのは音楽家 作曲と天体観測で睡眠不足も「長生き」だった背景
11月8日の皆既月食。天体観測が趣味でもある筆者・早川智医師が撮影した
『戦国武将を診る』などの著書をもつ産婦人科医で日本大学医学部病態病理学系微生物学分野教授の早川智医師が、歴史上の偉人や出来事を独自の視点で分析。今回は、天王星を発見した作曲家ウィリアム・ハーシェルを「診断」する。
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11月8日は皆既月食と天王星の星食が重なるという442年ぶりの天文現象があった。この日は本業を早く切り上げて、埼玉の山の中で待機、同好の方々と共に世にも珍しい写真を撮った。この前に皆既月食中の惑星食(土星食)があった1580年というと「本能寺の変」の2年前、日本では織田信長が安土城を築き、英国では処女王エリザベス1世、スペインはフェリペ2世、フランスはアンリ3世の治世である。1580年7月26日の皆既月食中の月が土星を隠す現象は目の良い人は見たかもしれないが現存する観測記録はない。今回の天王星は6等級で望遠鏡でなければ見ることができないが、オランダのハンス・リッペルハイが望遠鏡を発明(正確には特許申請)したのは1608年である。そもそも天王星がウィリアム・ハーシェル(1738-1822)によって発見されたのはその200年後の1781年のことである。
本業は音楽家
今年は奇しくもハーシェルの没後200年にあたる。
彼の名は天王星の発見者のみならず、円盤形銀河系モデルや広範な星雲星団カタログの創始者として広く知られている。しかし天文については、もともとはアマチュアであり、本業は作曲家兼オルガン奏者だった。
フレデリック・ウィリアム・ハーシェル(Sir Frederick William Herschel)は1738年11月15日、ドイツ北部ハノーバーの軍楽隊オーボエ奏者イザーク・ハーシェルと妻アンナ・イルゼの次男として出生し、4歳のときからバイオリンの英才教育を受けた。父同様にオーボエを好み、15歳でギムナジウムを退学してオーボエ奏者として軍楽隊に入り、軍用で1755年、英国に渡る。当時、ハノーバー公国と英国は同君連合の関係にあり、人々の交流は盛んだった。ドイツ出身で英国籍を取得し、国民的作曲家となったヘンデルが彼の理想だったのだろう。
11月8日の天王星食。天体観測が趣味でもある筆者・早川智医師が撮影した
その後、1756年に除隊。当初は写譜で糊口をしのいでいたが、1760年にはダーラム(イングランド北東部)の管弦楽団の指揮者兼作曲家に。1766年、伝統あるバース(イングランド南西部)にあるオクタゴンチャペルのオルガニストに就任し、1770年までの10年間、多数のシンフォニーや協奏曲、 オルガンソナタ、室内楽ソナタを作曲した。
1772年には故郷ハノーバーに錦を飾り、妹カロリーネをソプラノ歌手として英国に伴う。妹は音楽活動もさることながら天体観測助手を務め、さらに彼女自身が多くの星雲星団や二重星を発見した。
1781年3月13日、ハーシェルは土星の外軌道にある天王星を発見した(彼自身はハノーバー出身の英国王に敬意を表して、ジョージの星<Georgium Sidus>と命名したが、後にベルリンの天文学者ヨハン・ボーデが命名したUranusが学界で承認された)。この功績により王立学会から表彰されて正会員となり、国王ジョージ3世に気に入られ、ロンドンで幼い王子王女に惑星を自作の望遠鏡で見せる王室付天文学者に任じられた。彼はその後も、王室付天文学者の地位に甘んじることなく、多数の二重星の観測データからニュートン力学が太陽系外の恒星の間でも作用する普遍的な原理であることを証明した。
最大口径の望遠鏡自作
あわせて、音楽活動も続けていた。
演奏される機会は少ないが、ハーシェルの音楽は後期バロックから初期古典派の典型的な作風で彼自身が創始した目新しいものはなく、変奏のパターン化や展開部の不足など作曲技法のぎごちなさもあった。しかし、それを補って余りあるメロディーラインの美しさや明快な構成が聞き手に心地よい印象を与える。同郷の先輩であるヘンデルや同時代のモーツァルト、ハイドンには及ばないにせよ、サリエリやシュターミッツなど他の前古典派作曲家の作品に、決して引けをとらないように思われる。
本業になった天体観測も天体望遠鏡作りも、作曲も、神によって創造された神秘的かつ数学的に明快な世界を解明するという彼の一生を通しての目的とは、なんら矛盾がなかったに違いない。ただ、有名となったハーシェルが王室付の天文学者、王立天文学会の初代会長としての活動が忙しくなり、作曲活動をやめてしまったことは大変に残念である。
ウィリアム・ハーシェル(gettyimages)
1786年、ハーシェルはウィンザー近郊スラウのクレーホールに移住した。この地で当時としては英国最大の口径48インチ(122センチ)の40フィート望遠鏡を自作し、さらに遠くの淡い星雲や惑星の観測をはじめた。この望遠鏡で1789年、土星の6番目と7番目の衛星「エンケラドス」と「ミマス」を発見したとされる。ただ、この望遠鏡は大きすぎて自動装置のない当時としては制御が難しかったらしく、天王星の衛星「チタニア」と「オベロン」や大部分の暗い接近重星の観測は愛用の20フィート望遠鏡で成し遂げたという。
ハーシェルは1788年にメアリー・ピットと結婚し、4年後に一子ジョン・フレデリック・ウィリアム・ハーシェルをもうける。十分な教育が受けられず独学で天文学を極めたハーシェルは、息子のジョンに大きな期待をかけた。その期待に違わず、ジョンはケンブリッジ大学セント・ジョンズ・カレッジを首席で卒業し、科学者になった。
彼は銀板写真術で有名だが、天文学でもケープタウンに大望遠鏡を建設し、高齢の父が果たせなかった南天の星々の観測を行い、多数の星雲星団を記載して父のカタログを完成させた。ハーシェルは晩年にナイトに叙せられるが、ジョンも王立天文学会会長を務め、彼の代でハーシェル家は従男爵に叙せられた。
健康な老年時代
ハーシェルは、青壮年期には昼と宵は音楽活動、夜は天体観測。有名になってからは、昼間は宮廷に伺候した後に天文学会や王立学会の仕事をこなし、晴れた夜は天体観測、曇った夜は執筆活動と、まさに慢性的な睡眠不足だった。だが、大きな病気をすることもなく、当時としては長寿の83歳まで健康に生きることができた。1792年スラウの自宅兼天文台には英国訪問中のハイドンが訪れ、親しく歓談した。そのときの英国滞在日記には、ハーシェルはたとえ来客中でも、晴れてさえいればいかに寒くても毎晩、数時間を観測に費やしていることが記されている。
11月8日、天体観測が趣味でもある筆者・早川智医師が撮影した
ハーシェルは亡くなる2、3年前まで精力的な観測を続け、1819年には詳細な彗星の観測記録を残している。しかし、その後はさすがに観測記録が少なくなり、1822年の死因は老衰といわれている。息子ジョンも健康に恵まれ79歳の天寿を全うした。さらにハーシェルの妹カロリーネは97歳まで長命している。家系的に長生きだったのかもしれないが、貴族になっても上流階級との華美な付き合いを避けて粗食に甘んじ(ふつうの英国料理かもしれないが)、真面目で規則正しい生活を送ったことも関係あるだろう。もちろん深酒すると天体観測はできないので、禁酒または節酒のはずである。
実は、アイザック・ニュートン、エドモンド・ハレーなど近代天文学の夜明けに貢献した学者に長生きは多い。またチャールズ・ダーウィンなど生物学の父たちも長生きしている。18~19世紀の英国紳士階級出身の彼らにとって立身出生競争や金儲けに追われず、趣味そのものであった大好きな学問と田舎の暮らしで人生を楽しむのが、長生きの秘訣だったのではあるまいか。
◯早川 智(はやかわ・さとし)1958年生まれ。日本大学医学部病態病理学系微生物学分野教授。医師。83年日本大学医学部卒、87年同大大学院医学研究科修了。米City of Hope研究所、国立感染症研究所エイズ研究センター客員研究員などを経て、2007年から現職。著書に『戦国武将を診る』(朝日新聞出版)など。趣味は天体観測。
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2022/11/15 07:00