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スザンヌ「34歳の高校生」で思ったこと 17歳下の同級生から“無視”されるも「すごくかわいい」 
唐澤俊介 唐澤俊介
スザンヌ「34歳の高校生」で思ったこと 17歳下の同級生から“無視”されるも「すごくかわいい」 
高校の制服姿のスザンヌさん(画像=インスタグラムより)    2007年ごろに「おバカタレント」として大ブレークしたスザンヌさん(37)。現在は故郷の熊本で小学4年生の息子と2人で暮らしている。21年には中退していた母校の高校に再入学し、昨年無事に卒業。さらに大学に進学し、今年は会社を起業した。タレント活動以外に、シングルマザーをしながら学び直し、起業までするバイタリティーは一体どこからくるのか。その刺激的な日々の暮らしぶりを話してくれた。 *  *  * 「コロナ禍で家に閉じこもっていたとき、息子にどうやって勉強の仕方を教えていいかわからなかったんです」  スザンヌさんは、中退していた母校、第一薬科大学付属高校(福岡市。当時は第一経済大学付属高校)に一昨年再入学をしたきっかけをそう語る。  2020年、小学校に入学した長男は新型コロナウイルスの感染拡大による臨時休校が続き、自宅にいる時間が長くなっていた。 「休校になったときに宿題がたくさん出されて、息子から『どうやって勉強すればいいの?』と聞かれたんです。でも、私自身これまで真剣に勉強をしたことがなくて、息子の疑問に答えることができませんでした。それで、『じゃあ息子と一緒に勉強してみるか』と思ったのが再入学の大きな理由ですね」 息子との食事風景(画像=インスタグラムより)    これまでにも何度か、高校に再入学しようと考えたこともあったという。しかし、週1回の登校が壁になっていた。 「通信制の高校だったんですけど、毎週日曜日には学校に行って授業に出る必要があったんです。仕事もあるし、週末は子どもと過ごせる貴重な時間だったので、日曜日の登校を2年続けるのは難しいと感じ、断念していました。でも、コロナを機に授業をオンラインで受けることができるようになったんです」 高校の体育の授業の様子(画像=インスタグラムより)   朝4時半に起きる生活  そんな折、母校の先生から、再入学を勧める連絡があったのだという。きっかけは、スザンヌさんがゲスト出演した「地元検証バラエティ 福岡くん。」(福岡放送)の「福岡女子高生カワイイ制服ランキング」という企画だった。 「番組内で『私、この高校(第一薬科大学付属高校)に行ってたんです。卒業してないんですけどね』っていう話をしたら、それを見た高校時代の学年主任の先生から『卒業してみないか』って連絡が来たんです。実は、それまでも同じ先生から何度かお話をいただいていました。その先生は、過去の私の学業に関する資料を引き継いでくださっていたり、中退するまでに取得していた単位を残してくださっていたりして、いつかは行きたいなという気持ちがずっとありました」  すでに退職してしまったというその教員との思い出を聞くと、「怖い先生でしたね」と懐かしみ、笑みを浮かべた。 「結構バイオレンスな先生だったけど、高校を辞めて芸能の仕事を始めてからも、『頑張ってるな』って時々連絡をくれたりして、ずっと気にかけてくれていました。厳しいけれど愛のある先生でしたね」  再入学を果たした母校では、どのような高校生活を送っていたのだろうか。 「朝は4時半~5時くらいに起きて、勉強したり、レポート書いたりしていました。そのあとは、7時くらいに子どもが起きてくるので、朝ごはんを食べさせて、学校に行かせて、また勉強に戻るという感じで過ごしてました。定期的に、学校に行って体育の授業とかもあったり、ホームルームに参加したりもしていました。私は入学当時34歳だったんですが、自分の半分の年齢の17歳とか18歳の子どもたちは、もうなんかキラキラしていて。思春期だからか話しかけても無視されたりとか(笑)。でも、それもすごいかわいいなって。小学生の息子もこうなっていくのかあって想像がふくらみましたね」 母・キャサリンさんと(画像=インスタグラムより)   母親に言われた「一言」  2度目の高校生活を経験したことで、人生で初めて、勉強の楽しさを味わったという。 「マーケティングの授業が印象に残っています。例えば、コンビニの陳列棚の配列をどのようにすれば購買意欲がかきたてられるとか。確かに、自分もレジ横に置いてある商品を思わず買ってしまうなと思ったり。身近なものをテーマに学ぶことができてすごく楽しかったですね」  22年、無事高校を卒業したスザンヌさん。なんと成績優秀者として表彰されている。その際、母・キャサリンさんからはこんな言葉をもらったという。 「母には実際の高校生のときに途中で辞めてしまった過去があるので、すごく嫌みっぽく、『高すぎる授業料だったわ』って言われて(笑)。ホントすみませんって感じでした。でも、そんな私が自分で高校への再入学を決めて、卒業したことは『誇りだわ』って言ってくれました。それだけでも入り直してよかったなって思いましたね」  同年、スザンヌさんは、大学に進学する。だが進学するかどうかは相当悩んだという。 「高校は1年間だったから耐えられたんですけど、大学は4年間あるじゃないですか。それを乗り越えることができるのかなって」  進学の決め手になったのが、息子の小学校卒業のタイミングだったという。 「このタイミングで大学に入ると、卒業の時期が小学生の息子と一緒になるんです。それで、息子と一緒に卒業することを一つの目標にしようと思いました」 大学の入学式での一枚(画像=インスタグラムより)   経営学を学んで起業を決意  もう一つ、スザンヌさんには考えていることがあった。それは「起業」だ。 「5~6年前くらいから漠然とですが考えていて。というのも、これまで、私と子どもの2人暮らしで過ごしてきて、息子もだんだん大きくなって、思春期を迎えてっていうなかで、やっぱり私も子離れをしないといけないし、むこうも離れていっちゃうしって思ったんです。なので、私も何か新しいことにチャレンジして、今まで子どもに使っていた時間やエネルギーを向ける先をつくる必要があるなって思ったんです。それって何なんだろう、と考えたときに思い至ったのが起業でした。でも、大学進学にあたっては、起業に限らず、エネルギーの発散先をつくるための4年間にしたいなと思っていました」  現在、大学2年生のスザンヌさん。起業は卒業後にする予定だったが、予定を早め、今年11月に株式会社yamaの設立と、ファッションブランド「Style Reborn」の立ち上げを発表した。 「経営学や経済学を勉強して、先生方の話を聞くうちに、今やれるのにやらないのはもったいないなって思うようになったんです。どうせいつやっても大変なことには変わりはないから、だったら体力的にもこのままやったほうがいいかなと思って起業しました」  早速、第1弾の古着をリメイクしたニットを販売し、先日開始した第2弾もすぐさま完売した。 「みなさんに大事にされるようなブランドにしていきたいです。『yama』に関しては、今やっているのはアパレルだけですけど、せっかく熊本にいるので、熊本在住の方とのコラボや、熊本の果物など、おいしい食べ物をみなさんに知ってもらえるような事業をしていきたいと思っています」 (AERA dot.編集部・唐澤俊介) ※【後編】<熊本でシングルマザー「スザンヌ」が明かす理想の再婚相手 「3年に1回しか会えない距離感の人がいい」>に続く ●スザンヌ/1986年、熊本県生まれ。2008年、同県宣伝部長に就任。テレビ番組「クイズ!ヘキサゴンII」(フジテレビ系)で「おバカタレント」としてブレーク。14年、第1子を出産。翌年、故郷である熊本県に息子とともに移住する。21年、中退していた母校・第一薬科大学付属高校(元・第一経済大学付属高校)の通信課程に入学、翌22年、卒業した。同年、日本経済大学に進学。今年、株式会社yamaを設立し、ファッションブランド「Style Reborn」を立ち上げた。
スザンヌ女子高生
dot. 2023/12/23 11:00
【2023年下半期ランキングエンタメ編3位】伊原六花「ブギウギ」ハマり役でブレーク必至 元“バブリーダンス女子高生”が一気に売れたワケ
高梨歩 高梨歩
【2023年下半期ランキングエンタメ編3位】伊原六花「ブギウギ」ハマり役でブレーク必至 元“バブリーダンス女子高生”が一気に売れたワケ
伊原六花(写真:Pasya/アフロ)  2023年も年の瀬に迫った。そこで、AERA dot.上で下半期に読まれた記事を振り返る。エンタメ編の3位は「伊原六花『ブギウギ』ハマり役でブレーク必至 元“バブリーダンス女子高生”が一気に売れたワケ」(11月10日配信)だった。(※肩書年齢等は配信時のまま) *  *  *  NHK連続テレビ小説「ブギウギ」がスタートして約1カ月。物語の舞台は大阪から東京へと移ったが、前週の大阪時代に“二本柱”として、主人公・スズ子と梅丸少女歌劇団を盛り上げる秋山美月を演じた伊原六花(24)に注目が集まっている。タップダンスの名手としてキレのある踊りを披露し、凛とした男役を演じて芸達者な一面を見せつけた。SNSでも「タップダンスかっけー」「目線、姿勢、指先、ちゃんと男役だった」など、賛辞の声が多く上がっていた。  同作で男役の先輩・橘アオイ役として出演しているOSK日本歌劇団の翼和希も伊原の実力を高く買っている一人。情報番組で「私らは普段、お稽古を何年もやって舞台に立つんですけど、(伊原は)数カ月で仕上げてきはって。根性が素晴らしいと思います」(カンテレ「よ~いドン!」10月25日放送)と絶賛。「ホンマに自分らも見習わなアカンなと思いました」と刺激を受けていることを明かしていた。 「ドラマの制作統括者はインタビューで『お芝居もステキですし、度胸もあるので舞台でも映えるなと思いました』と起用理由を話していました。ドラマ公式のインスタグラムでは、舞台シーンの撮影時、舞台に足を踏み入れる前に立ち止まって、一礼していたというエピソードも。俳優としてのプロ意識がとても高く、まだ24歳とは思えません。これからドラマは東京に舞台が移りますが、新たなステージシーンもあるようなので、今まで以上に輝く秋山を楽しみにしている視聴者も多いのでは」(テレビ情報誌の編集者) 【こちらも話題】 菊地凛子「ブギウギ」ライバル役も好評 本格再始動で“悪役”の第一人者に躍り出るか https://dot.asahi.com/articles/-/205577 高校野球について語る伊原六花   小悪魔の女子大生役も好演  朝ドラで一気に名を上げた伊原だが、実は10月にスタートしたドラマ「マイ・セカンド・アオハル」(TBS)にも出演中だ。こちらの作品では、朝ドラとは真逆で、小悪魔的な女子大学生を演じている。放送後はドラマの関連ワードがX(旧Twitter)の世界トレンド1位になるなど、注目度が高い作品で存在感のある演技を披露している。 「『マイ・セカンド~』では、なにわ男子・道枝駿佑さん演じる主人公との近すぎる距離感や彼を翻弄する演技に、広瀬アリスさん演じるヒロインだけでなく、視聴者もドギマギさせられます。今までの役柄と違った伊原さんの演技はとても新鮮で、こんな役もできるんだと驚きました。髪をショートにしてから、大人っぽさも増してさらに役の幅が広がった気もします。伊原さんは10月公開のホラー映画『リゾートバイト』にも主演しているのですが、劇中のエビ反りシーンで見せた身体能力の高さが絶賛され、『CGだと思った』と共演者もうなったそうです」(同)   俳優の伊原六花=2021年6月、大阪市福島区    それもそのはず。実は伊原は全国優勝の実績があるダンスの強豪校・大阪府立登美丘高校ダンス部の元キャプテンなのだ。2017年「日本高校ダンス部選手権」で披露した、バブル時代を想起させる衣装とメークで、ヒット曲「ダンシング・ヒーロー」にのせて踊る“バブリーダンス”が社会現象になったことは記憶に新しい。これをきっかけに、出演オファーが舞い込み、同年末には、郷ひろみとの共演という形で紅白歌合戦にまで出場した。その後、大学進学を考えていたが、高校在学中に芸能事務所にスカウトされ芸能界の道へ進むこととなった。 【あわせて読みたい】 CM起用快進撃の今田美桜 人気のワケは「ちょうどいい」普通さ https://dot.asahi.com/articles/-/87841 和服姿もさまになる伊原六花(写真:つのだよしお/アフロ)   ゆくゆくは紅白の司会に!? 「伊原さんは実は子役出身。4歳からバレエを習い始め、子供ミュージカルにも出演していました。場慣れしているのはその影響もありそうですが、やはり高校時代の努力が生きているように思います。彼女が高2のとき、大会の出場メンバーに選ばれず、『初めて死ぬほど悔しい気持ちになった』とインタビューで回想していました。それから、1人でもひたすら練習をして、死ぬほど努力をしたと話していました。悔しさをバネに努力を惜しまなかったからこそ、今は芝居やダンスなどで豊かな表現力を発揮できているのだと思います」(週刊誌の芸能担当記者)  努力家で才能も確かな伊原だが、映画やドラマ以外でも需要が高まっているようだ。 「最近ではバラエティーでの活躍も目立ちますね。『ラヴィット!』では芸人顔負けの体を張ったロケにも挑戦して、『好感度上がった』という意見も多くありました。先日、『櫻井・有吉THE夜会』に出演した際も、キレキレのバブリーダンスを披露し、スタジオを盛り上げていました。大阪出身でノリもよく、すでにバラエティー班からも重宝される存在になっていますね。一方、10月末にNHKの歌番組『わが心の大阪メロディー』の司会を今田耕司さんとやっていたのですが、場回しが堂々としていたのも印象的でした。SNSでは『紅白の司会いけるんやないか』との声もあったほどです。昭和のアイドルのような顔立ちで、愛嬌(あいきょう)もあるので、年配層からの好感度が高いところもポイントです」(同) 芯にあるのは「体育会系」の強さ  伊原にインタビューをした経験のあるドラマウォッチャーの中村裕一氏は、彼女の魅力についてこう分析する。 伊原六花さん=2022年10月、東京都   「現在出演中の『ブギウギ』は、得意のダンスを生かせる、うってつけの役柄とあって、本人もかなり気合が入っているのではないでしょうか。主人公のスズ子の明るさとは対照的に、情熱を内に秘めたクールな表情がとても印象的です。また、かつて本木雅弘主演で大ヒットした映画の続編としてDisney+で配信中のドラマ『シコふんじゃった!』では相撲部の主将を演じ、元気でハツラツとした演技を見せています。3年ほど前の取材では、『ローストビーフ丼と親子丼が好き』と屈託のない笑顔で話してくれましたが、笑顔の中にも元キャプテンならではの凛とした芯の強さを感じました。ダンス部は一見、華やかに見えますが、たゆまぬ努力と積み重ねが求められる世界。彼女もそんな体育会系の雰囲気の中で、実直さや堅実さを身につけていったのでしょう。俳優としてまだまだ大きく飛躍する可能性を秘めていることは間違いありません」   持ち前のガッツと仕事に対するひたむきさで、24年は伊原の“おったまげー”な躍進が期待できそうだ。 (高梨歩) 【こちらも話題】 “行先不明”だった朝ドラ「ブギウギ」 蒼井優さんで見えてきた“笠置シヅ子”への道 https://dot.asahi.com/articles/-/203855
伊原六花ブギウギ2023下半期ランキング
dot. 2023/12/20 11:00
子どもの部活は全力サポート 「研究者っぽくない」女性金属学者(53)の世界初の成果とは
高橋真理子 高橋真理子
子どもの部活は全力サポート 「研究者っぽくない」女性金属学者(53)の世界初の成果とは
  梅津理恵さん。奥にあるのは本多光太郎博士の胸像=仙台市の東北大学  大正時代に世界最強(当時)の永久磁石をつくった本多光太郎博士(1870-1954)が創設した東北大学金属材料研究所(金研)。その副所長に今年4月に就いたのが梅津理恵教授(53)だ。翌月には「日本女性科学者の会」会長にも就任した。  奈良女子大学物理学科の修士課程を終えたときは、就職に踏ん切りがつかず、悩みつつ臨床心理学の勉強を始めた。まもなく、母のがんがわかり郷里の仙台に戻る。母を見送り、東北大学の博士課程へ。博士論文の審査前に妊娠するという「想定外」を経て、今は保育園事業を展開する夫との間に3人の子に恵まれた。子どもたちのスポーツ活動を夫婦そろって全力で支援し、末っ子から「研究者っぽくない」と言われる、類例を見ない女性研究者である。(聞き手・構成/科学ジャーナリスト・高橋真理子) 女性から評価され嬉しかった ――日本女性科学者の会は、平塚らいてうさんや湯川秀樹博士らの支援のもとに1958年に設立された由緒ある団体です。その会長になったんですね。  任期は2年です。立候補しませんか、と言ってくださる方がいて、もっとキャリアを積んだ方がなるイメージを持っていたんですけど、立候補しました。会員300人弱のこぢんまりした会なので、会長といっても、事務かたの一員みたいな感じです。 ――いつから会員に?  この会が出す奨励賞があるんですが、応募するには会員であることが条件なんです。それで博士号をとって間もないころ会員になった。そのときは選に漏れたんですけど、日本金属学会や財団などから賞をいくつかいただいた後にまた応募したらいただけた。2014年の第19回です。女性同士の厳しい目でも評価されたとちょっと嬉しかったですね。 ――女性同士のほうが厳しいんですかね?  材料ってすごく女性が少ない分野で、しかも分野自体が地味なんですよ。医学系や生物系は華やかなイメージで女性も多いし、そういう分野と対抗できるのかしらって思っていましたね。  賞をとってすぐ理事になりました。会長になる前の2年間は広報担当理事として古めかしかったホームページを一新しました。若手専用のページも作った。若手会員を増やして、若手にとっても役に立つ活動をしていきたいと、会長としても思っています。 「喉から手が出るくらい」 ――優れた女性研究者に贈られる「猿橋賞」を受賞したのは2019年ですね。  実は、私、猿橋賞のことをよく知らなかったんですよ。学会の委員会か何かのときに先輩がたが「猿橋賞は誰にとっても喉から手が出るくらい欲しい賞だけど、なかなかもらえない」というような話をしていて、「そうなのか」と思った。だったら、私もそれに応募するのを目標にしようと思った。  猿橋賞は50歳未満が対象で、ふと気がつけばぎりぎりのタイミングになっていたので、自分としてはまだ基準に見合っていないような気がするけれど、応募書類を出しました。なんか、出したことすら忘れたころに受賞の知らせが来た。2019年5月に贈呈式があって、翌年2月に教授に昇任しました。 ――俗にいう「猿橋効果」ですね。 猿橋賞贈呈式での梅津理恵さんと夫の哲也さん=2019年5月、東京、梅津さん提供    はい、そうでしょうね。金研創立以来103年で初めての女性教授だと聞きました。 ――ご専門の「ハーフメタル」って、説明が難しいですよね。「半分金属」というわけではない。  違います。磁石にくっつくような磁性体の中で、その電子の状態が半分は金属で半分は半導体的、という物質なんです。研究室にあるような装置で調べても、パッとすぐにはわからない。  ちょっと専門的になりますけれど、電子には電荷のほかにスピンという性質もある。スピンには向きがあって、固体中の特定の電子の向きがそろっていると磁気モーメントというものを発生し、さらにその配列によって磁石(強磁性体)になったりする。スピンと電荷の両方をうまく操りたいというのが「スピントロニクス」という分野で、優れた電子部品を作りだすために盛んに研究されています。ハーフメタル型磁性体はどちらかの向きのスピンのみが電気的性質を担うことになるので、「スピンと電荷をうまく操る」のに大いに役立つはずで、私はとくに基礎的な性質を知るための実験に力を入れています。 ――やっぱり難しい、と読者はきっと思ったと思います。とにかく、優れた電子部品を作るための材料科学の最先端で、基礎的な研究に取り組んでおられるわけですね。最初から研究者を目指していたわけではないと聞きました。 女性だからこその仕事を  はい、私は物理が好きで地元の東北大に行きたかったんですが、受からなかったので奈良女子大の物理学科に行きました。修士を出て就職するつもりでしたけど、その割には就職活動をあまりしなくて、模索していたというか。親からは「博士課程に行ったら?」と優しい言葉をかけてもらったんですけど、就活がうまくいかないから博士課程に行くっていうのはちょっと違うな、と思って。同級生はどんどん就職が決まっていって、ちょっと焦りはありましたね。  会社説明会に行くと、男子ばかりの中にだいたい女子が1人ポツンといる。そういうのを何回か経験して、突然、女性だからこそ得意な仕事、有利な仕事をしたほうがいいのかなと思い始めて、それで臨床心理学を勉強しようと奈良県立医科大学の研修生になった。  ところが、1年たたないうちに母にがんが見つかった。5歳上の姉は看護師として働いていましたし、病状が深刻で先はもう短いと聞いて、居ても立ってもいられなくなって仙台に帰りました。母は56歳で発症して57歳で亡くなりました。 ――お若かったですね……。  ええ、私もその年に近づいてきました。母は11月に亡くなって、さてどうしようと考えたとき、大学でまた勉強できたらいいなとふっと思ったんです。私は修士まで行くのが当然だと思っていたけれど、世の中を見れば修士まで出た人はそんなに多くない。もともと東北大に入りたかったわけだし、奈良女子大の恩師に相談したら「理学部より工学部のほうが向いているんじゃないか」とアドバイスをもらえた。 ――修士課程ではどんな研究を? いつも使う実験装置について説明する梅津理恵さん  物質には、ある温度を境にガラッと構造を変えるものがある。それがなぜ起こるのかを研究しました。茨城県東海村の原子炉施設に行って中性子を使う実験をして。小さい大学の割には、すごくアカデミックなことをやらせてもらっていました。  東北大工学部の研究室をいくつか見学して、4月には間に合わなかったんですけど、10月に工学研究科の博士課程に編入しました。このときには、研究者になろうと覚悟を決めたというか、大学に残れるものなら残りたいと思っていましたね。どうすれば残れるのかのイメージは全くありませんでしたが。 女子高・女子大は悪くない ――物理が好きになったのは?  高校からです。よくある話ですが、高校の物理の先生がすごく良かった。高校は県立の女子高で、当時、県立なのに男女別学にしている県がいくつかあって、宮城県がまさにそれだった。母校はいまはもう共学化されて、しかも中高一貫校に変わったんですけど。  でも、理系の女子を増やすという意味で、女子高・女子大は案外悪くないんですよ。女子高・女子大だと、何も気にしないで、何の偏見もなく好きな教科を自分の意思で決められる。あと、学校が「あなたたちは女性だけれど、当然、社会に出て先輩がたのように活躍するんですよ」と言ってくれる。これは共学ではなかなか言ってもらえないですよね。東北大の女子学生を見ていても、いっぱいいる男子の後をそーっとついていくような子が多いように思います。 ――女子大だとロールモデルになる立派な女性の先生が何人もいらっしゃいますしね。  いるし、男の先生でも女子教育に理解がある。ただ、私自身はあまり勉強しない、不真面目な学生でした。中学からテニス部で、大学でも体育会のテニス部に入ってテニスばかりしていた。 テニススクールのコーチも ――へえ、どのくらい上手だったんですか?  え~と、バイトコーチをするぐらいですね。大学2年生から大学院卒業まで、近くにあったテニススクールでコーチをしていました。最初は習いにいったんですけど、コーチをやってと言われて。  主人と知り合ったのも、テニスが縁です。仙台でテニスの社会人サークルを立ち上げた人で、当時は医療機器を販売する会社の営業マンでした。一緒にテニスの合宿に行ったり、試合に出たり、ワイワイ週末を楽しく過ごしている社会人サークルなので、仕事は何をしているかはお互い興味もない。私は「年を取った女子大生らしいよ」(笑)とかって言われてました。  私、結婚相手はなんとな~く「同業者はイヤだなあ」って思っていたんです(笑)。主人とテニスを通して仲良くなったので、卒業したら結婚と思っていたら、卒業前の夏ごろに妊娠しているのがわかった。博士論文の審査は10月、12月、1月と3回あり、最初が一番大事な審査なんです。それが無事に終わってから指導教官に「妊娠しています」って打ち明けた。審査のたびにちょっとずつおなかが大きくなって(笑)、5月に出産しました。  3月の学位授与式のとき隣に座ったのは女子留学生だったんですけど、びっくりされた(笑)。生まれたのは女の子で、その後、ほぼ2年半おきに女、男と産みました。 左から長女、長男、次女=2022年12月、梅津さん提供   ――ポスドク(博士号取得後研究員)時代に3人産んじゃったわけですね。すごい。   考える間もなく、っていう感じですかね。姉のところも3人子どもがいるし、2人より3人いたほうがいいかなというのは夫婦で一致していました。私が1人目を産んだあと、主人は転勤を命じられて「だったら辞める」と同業他社に転職し、2人目を産んだあとにその会社でも東京転勤と言われて辞めた。東京へ行くのは栄転だと思うんですけど、彼の意思は固かった。もともと「営業は一生続ける仕事ではない」って言ってはいました。 夫は保育園を立ち上げた  うちは、両親とも愛媛県出身で、父は修士から東北大に来て金研に就職した研究者、母は私が生まれる前は小学校や中学校で英語の先生をしていて、公務員一家なんですが、主人のほうは北海道出身で、おじいちゃんはお酒をつくっていましたとか、いとこはプロゴルファーを目指していましたとか、絵描きさんがいますとか、歯医者でクリニック経営していますとか、なんか自分でことを起こすのを厭わない人たちなんです。それで、二つ目の会社を辞めたあと、保育園を始めました。 ――え、保育園?!  私も驚きましたけど、主人はコンサルタントからいろいろアドバイスも受けて、仕事として始めた。最初は個人事業主として街なかのビルの一角を借りて、やがて2カ所の経営をするようになり、今から5年くらい前にNPO法人にして、3年前に社会福祉法人にしました。社会福祉法人になってから、思い切って90人から100人規模の保育園を二つつくりました。 ――へえ、すごいですね。  最初は本当に休みなく働いていました。頼まれれば、夜でも休日でも子どもを預かって。だから、家事育児は今の言葉でいえば完全にワンオペだったんですけど、主人の保育園は割と近かったので、私が子どもを保育園に迎えにいった帰りに主人のところに寄って様子を見て、「先に家に帰って寝てるね」みたいな感じ。すごくがんばっているのはわかっていたし、かえって一家団結するっていうか。結局、自営だったので、しょっちゅう子どもを連れて出入りできましたから、私が1人で育児をしているという感じはなかったですね。  そばで見ていて、経営がだんだん良くなっていくのがわかるんです。ちょっと保育園の話になっちゃいますけど、保育園というのは親からの保育料だけではやっていけないんですよ。行政からの支援があって初めて成り立つ。だけど、支援を受けるには実績が必要だから、助成金を受けるために要る条件をそろえておいて、まず1年間実績を積む。そこで申請すると、1年ぐらいの審査期間を経て3年目ぐらいから助成金をもらえる。  それがわかっていたので、最初の2年は耐え忍んでがんばった。私も夜遅い子の食事をちょっと作りにいくとか、土日はうちの子どもも連れていって一緒に散歩するとか、手伝いました。 梅津理恵さん=東北大学金属材料研究所 ハーフメタルの原理究明を ――そんな忙しい生活をしていたころに、日本金属学会から論文賞をもらっているんですね。東北大の中の多元物質科学研究所に移ってからポンポンポンと賞を受けた。  あ~、いま思えば、指導教官によく指導していただきました。「論文数で負けるな」と言われて、学生のころから書くように仕向けられた。研究室全体がそういう雰囲気でした。 ――金研に移ったのは2010年ですね。  6年間のプロジェクトの専任研究員のような形で入りました。その間に、科学技術振興機構(JST)のさきがけ研究者になれたことで、自分のやりたい研究ができた。さきがけというのは若い人に自由な発想で自由に研究させるという趣旨のプログラムです。  私が採択された領域の総括は非常に有名なすごい先生で、チョー怖くて(笑)。すごい怒られるんです。「もっと自分の独自性を出せ」とか「もっと将来に向かったことに挑戦せい」とか。それで私は放射光(特殊な光を出す大型施設)実験をやろうと思った。いい試料をつくって、放射光実験を始めましたっていうところでさきがけの期間の3年は終わっちゃったんですけど、その後も実験を続けて、ある手法でハーフメタルの電子状態を直接観測するという世界初の成果を上げることができた。  それに、上が厳しかったおかげで、さきがけのメンバーはすごく結束が固くなって仲良くなった(笑)。私は3期生でしたけど、2期生、1期生を含めて、いま思えばすごい人が集まっていた。その後、それぞれの分野を引っ張っているような人たちがたくさんいます。 ――実験は、兵庫県にある大型放射光施設「スプリング8(SPring-8)」でやったんですね。東北大にも最新の放射光施設「ナノテラス(Nano Terasu)」ができるところですね。  はい、ここで実験できるのがすごく楽しみです。ハーフメタルをはじめとする機能性材料が、なぜそういう性質を持ちえたのかの原理をそこで証明したいと思っています。 長男は「研究者になりたい」 ――いま、お子さんたちは?  上の2人は看護師を目指しています。長く続けられる仕事がいいんじゃないと言ったら、手に職をと思ったらしくて。高校生男子は、とりあえずサッカー選手は諦めたみたいで(笑)。いまは「研究者になりたい」って言ってますね。何でって聞いたら、「一番身近に研究者っぽくない人がいる」って。 ――え、どういうこと?   インドネシアのバリで開かれた国際会議に娘2人を同行したとき空港で=2023年8月、梅津さん提供   子どもの部活をがんばった  研究者ってずっと一日中研究に向かっているかと思えば、うちのお母さんは全くそんなことはない、とか言って。私は赤ちゃん時代の子育てはそんなにがんばってないんですけど、子どもの部活や活動にはすごくかかわった。それこそテニスが好きなんで、子どものテニス部の練習場所を確保したり、コーチから合宿を企画してほしいと言われたら企画したり、送り迎えももちろんしますし、親の会をつくって運営するとか、自分で言うのもなんですけどがんばったんです。  土日はすごく忙しかったですよ。子ども全員が今日試合とかね。主人とどっちが誰を送るか、迎えにいくか相談して。子どものテニスとサッカーの試合の大部分はビデオを撮ってますね。 ――へええ。お嬢さんは2人ともテニス?  そうです。息子はサッカーを結構がんばって県で招集されるぐらいにはなったんです。4歳から18歳までずっとサッカーをしていて、出張のとき以外ほとんどの試合を主人と一緒に観にいっていました。  私の父がそうだったんですよ。テニスで国体に出場するくらいのスポーツマンで、よく一緒にテニスやスキーに連れていってくれた。私のために練習場所を確保してくれたし、試合にはすべて来てくれたし。結局、親がしてくれたことを子どもにしただけです。 ――息子さんはどういう分野の研究をしたいんですか?  生命科学に興味があるって言っています。スポーツをやってきたから、どういう仕組みで細胞や筋肉が動いて結果的にパフォーマンスを上げられるのかとか、そういうのに興味があるらしい。 ――保育園のほうの後継ぎは?  それは誰も考えていないです。うちの主人は自分の代だけでいいってはっきり言っているし。旦那のほうの家系って、継ぐっていう発想がないんじゃないかな。 ――ご自身は今年副所長になって、このあともさらに重い役職が回ってきそうですね。 「副所長に」と所長から言われたときは驚いて、自分にはやれる気がしないし、そぐわないって思いましたけど、基本、仕事は断っちゃいけないんでね。まあ、自分が思ってもいなかった仕事もやらないと伸びないっていうか、成長しないっていうか。やるしかないですよね。  東北大学金属材料研究所の入り口に立つ梅津理恵さん 梅津理恵(うめつ・りえ)/1970年仙台市生まれ。奈良女子大学理学部物理学科卒、同大学院修士課程修了。2000年東北大学大学院工学研究科材料物性学専攻博士課程修了、工学博士。日本学術振興会特別研究員(ポスドク)などを経て2007年東北大学多元物質科学研究所助教、2010年東北大学金属材料研究所助教、2013年同特任准教授、2016年同准教授、2020年~同教授。2023年~同副所長。
dot. 2023/12/19 17:00
雅子さま「ご近影」に愛子さまが7年ぶりに戻ってきた 大学卒業後にご両親を助ける第一歩か
矢部万紀子 矢部万紀子
雅子さま「ご近影」に愛子さまが7年ぶりに戻ってきた 大学卒業後にご両親を助ける第一歩か
60歳を迎えた皇后雅子さまは、感想を文書で公表された。結婚30年の節目にあたる今年の写真には、笑顔の愛子さまの姿も見られた(写真:宮内庁提供)   「還暦&結婚30年」の今年。期待された雅子さまの記者会見は、やはり開かれなかった。 一方、愛子さまとの関係には、卒業後への予兆も見えて……。 *  *  *  皇后雅子さまが還暦を迎えた12月9日、「ご感想」と「ご近影」が宮内庁から公表された。結婚30年の節目の年でもあり、宮内記者会は記者会見を開くことを求めたが、それは実現しなかった。 「ご感想」は国内外で頻発する災害やコロナ禍などにかなりの部分が割かれていた。中に「現在、国際社会の中で、分断と対立が深まってきているのではないかということが気に掛かります」とあって、雅子さまが外交官だった頃を思ったりする。  国内外の状況について述べた後、ご自身の1年の活動を振り返る展開となっていた。その書き出しが「昨年から私たちの地方への訪問が再開されました」だったから、少し心が弾んだ。令和になってますますはっきりした陛下と雅子さまの対等な関係性。それを端的に表す「私たち」だった。同時に雅子さまが「公務」を我が事ととらえている。その感覚が伝わって、うれしくなったのだ。 7年ぶりに戻ってきた  外務省の職を辞して皇室に入った雅子さま。いろいろを経て令和になった。適応障害という病はまだ癒えないが、皇后さまとして明るく雅子さまらしくいていただきたい。そんな思いがずっとある。長く会社で働き、2年前に還暦を迎えた雅子さまの“ちょい先輩”だからだと思う。 「ご近影」に目を転じると、ビッグニュースがあった。愛子さまが帰ってきたのだ。2016年、雅子さま53歳の誕生日を最後に写っていなかった愛子さまが、7年ぶりに戻ってきた。  最後の16年、愛子さまは学習院女子中等科3年生だった。その年の9月から11月にかけて43日間、学校を欠席したと伝える週刊誌もあった。そんな愛子さま、雅子さまの誕生日の写真で激しくやせていた。  愛子さまはベージュのカーディガン、皇太子さま(当時、以下すべて)はキャメルの、雅子さまは薄いベージュのカーディガンだった。同系色、同方向のファッションでお二人が愛子さまを励ましているように見えた。  翌年、愛子さまは高校生になり、体調も上向いていく。18年、皇太子さまの誕生日に公表された写真にはふっくらした愛子さまが写っていた。だが雅子さまの誕生日の写真は、16年が最後。母の誕生日の写真に写るのは遠慮します──年相応の独立心と理解していた。  愛子さまが帰ってきた理由を勝手に想像するなら、大学卒業後に向けての決意のようなものかもしれない。22年3月、成年にあたって開いた初めての記者会見で「当面は学業優先」と語っていた愛子さまが、24年3月にはいよいよ卒業する。 【こちらも話題】 雅子さまの 「パンツスーツ」に漂う気品 愛用する“パンプス”のデザインとは https://dot.asahi.com/articles/-/208707 1999年、36歳の誕生日にあたって会見を開いた雅子さま。この年の会見では公務の振り返り以外に、気分転換やリラックスする方法についても話された    雅子さまは今回の「ご感想」で、「まだあどけないところも残る愛子ではありますが、いろいろな時に私たちを助けてくれるようにもなってきたと感じます」と述べていた。4月以降、人前に出ることを増やし、ますますご両親を助ける。その第一歩ではという推察だ。  そう思ったのには、一つ訳がある。最近、ある宮内庁関係者から、「愛子さまは卒業後、留学しないのではないか」という話を聞いたのだ。ご両親にならっていずれ英国留学するのが既定路線と思っていたが、そうとは限らないという。このところ体調の良い雅子さまだが、愛子さまが離れてしまうと再び悪化するかもしれない。そんな心配からだそうだ。 雅子さま守る愛子さま  このところの雅子さまは、確かにとても体調が良さそうだ。この1年、全国植樹祭など地方で行われる「四大行幸啓」はすべて出席、6月には陛下と共にインドネシアを7日間、訪問した。体調が悪い時によくあった行事への「直前のお取りやめ」も一度もなかったという。  8月、ご一家は那須御用邸で静養、恒例だという「散策中の宮内記者会お声がけ」に臨んだ。映像には、記者から「運動もなさるのですか」と尋ねられた愛子さまが「ハイキングというか散歩?」と答え、少し言い淀む場面があった。すぐに雅子さまが「バレーボールとか、バドミントンとか」と助け舟を出していた。 「ご感想」にあった「まだあどけないところも残る」愛子さまそのもので、小さな頃と重なった。愛子さまは学習院初等科時代、登校しづらいことがあり、雅子さまと2人で通学していた。それらの記憶も相まって、「愛子さまを守る雅子さま」という構図と思い込んでいたが、もしかすると「雅子さまを守る愛子さま」の側面もあるのかもしれない。そんなことも思う「愛子さまの復帰」だった。  ところで冒頭でも触れたが、記者会見は今回も実現しなかった。皇太子妃時代、誕生日ごとに記者会見を開いていた上皇后美智子さまが、皇后になってからは質問に文書で答える形に変わった。香淳皇后が会見をしていなかったからで、皇后としての前例が盾になったことは想像がつく。 「お茶目」で「お話好き」  とは言え、02年を最後に会見を開いていない雅子さまにとって、「還暦&結婚30年」は会見再開の絶好の機会だったはずだ。そうならなかったのはご本人の判断のはずで、雅子さまの“心の傷”を思ったりもする。  雅子さまを直接知る人は、雅子さまを「お茶目」「お話好き」と語る。皇太子妃時代に臨んだ記者会見からは、それに加えて「率直さ」「強さ」が見えた。  最後の会見が開かれた02年12月5日、実は雅子さま、二つの会見に臨んでいる。最初にニュージーランド・オーストラリア訪問を前にした皇太子さまとお二人での会見、次が39歳の誕生日にあたってのお一人での会見だった。  最初の会見で雅子さまは、結婚以来6年間、外国訪問ができなかったことへの思いを率直に語った。「正直申しまして私自身その状況に適応することになかなか大きな努力が要ったということがございます」という表現で、雅子さまの前に立ちはだかった「子づくり優先」の壁を述べたのだ。追加質問があり、雅子さまはそのことをこう補足している。 「子供という期待もございましたし、他方、仕事の面で外国訪問なども国際親善ということでの期待というものもございまして、そういう中で、今自分は何に重点を置いてというか、何が一番大事なんだろうかということは、随分考えることが必要だったように思います」 「幸せな人生を歩んで」  訪問国がエリザベス女王を戴く英連邦に属す国だったことから、「将来、愛子さまが皇位を継承する憲法上の可能性について」の考えを問う質問もあった。制度のことだからと皇太子さまが「発言は控える」とした後に、雅子さまは「今の質問への直接の答えになりませんけれど」とし、こう述べた。「やはり母親として愛子には幸せな人生を歩んで欲しいなというのが、心からの願いであるということを申し上げたいと思います」。  誕生日にあたっての会見では愛子さまのことを、「おおらかな性格といいますか、皇太子さまに似ましたのか、何ていうのかしら、ゆったりと、どっしりとしております」と述べた。これにも追加質問が出て、雅子さまは愛子さまが2、3カ月の頃から「ユーモアの感覚がある」と、皇太子さまが落としたガーゼの話から語った。  ところが翌年12月、雅子さまは帯状疱疹で入院、長い療養生活の始まりとなる。皇太子さまによる「人格否定発言」があったのは、その翌年5月。率直な皇太子さまの発言は、理解より批判を多く招いた。このことも雅子さまを会見から遠ざけているように感じる。そんなこんなで、雅子さまの“心の傷”。先ほど書いたことだ。  最後となった02年の誕生日会見で、雅子さまの最後の一言は「何か、取り留めもないお話になってしまいました」だった。雅子さまがまた会見を開き、取り留めない話をする。そんな日を、心から待っている。(コラムニスト・矢部万紀子) ※AERA 2023年12月25日号 【こちらも話題】 愛子さま 「はじめて」の水色の椿で大人びたほほ笑み 花言葉は「謙虚な美徳と優美さ」 https://dot.asahi.com/articles/-/208291
雅子さま愛子さま天皇陛下皇室矢部万紀子
AERA 2023/12/19 06:30
渋野日向子、吉田優利らに「期待の妹」 女子ゴルフ界、今後注目したい3組の姉妹は
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渋野日向子、吉田優利らに「期待の妹」 女子ゴルフ界、今後注目したい3組の姉妹は
渋野日向子  今年の国内女子ツアーは、11月26日まで開催されていたJLPGAツアーチャンピオンシップリコーカップ(宮崎県、宮崎カントリークラブ)で閉幕。この大会で優勝しツアー通算11勝目を挙げた山下美夢有が、2年連続で年間女王に輝いた。 “黄金世代”、“プラチナ世代“など“〇世代”が隆盛を極める女子ツアーだが、今年のメルセデス・ランキングのトップ10を見ると、“新世紀世代”の山下など、6名が1998年4月から1999年3月までに生まれた“黄金世代”より若い選手たち。2023年も、20代前半の女子プロたちが活躍するという近年通りのシーズンとなった。  そんな中でも注目を浴びたのが岩井明愛と岩井千怜の岩井ツインズだ。  今季の2人は、姉の明愛が4月のKKT杯バンテリンレディスでツアー初勝利を記録し、国内ツアー史上初の双子Vの快挙を達成すると、9月の住友生命Vitalityレディス、ミヤギテレビ杯ダンロップ女子オープンと連勝しシーズン3勝をマーク。その他にもブリヂストンレディス、ニチレイレディスなど多くの優勝争いを展開し、メルセデス・ランキングで3位に入った。  一方の千怜は、姉の明愛よりひと足先に昨年2勝すると、今季は5月のRKB×三井松島レディスと6月のサントリーレディスで2勝。こちらも数多くの優勝争いを演じランキング6位と躍動した。  また、2人はニチレイレディスで、最終日最終組で対決した他、全米女子オープン、AIG女子オープンと海外メジャーに同時出場も果たした。そしてツアー競技外だが、10日に千葉県の大栄CCで開催された日立3ツアーズ選手権では、2人がコンビを組んで前後半ともプレーし、国内女子ツアーの2年ぶりとなる優勝に貢献。姉の明愛はMVPにも輝き、大活躍のシーズンを有終の美で終えた。  日本人の一卵性と二卵性を併せた双子の確率はおよそ1%と言われているが、そこから双子が同じスポーツでトップになる確率は格段に小さくなる。そう考えると、岩井ツインズのツアーでの活躍は超レアケース。新たな双子プロの出現、さらには岩井姉妹のような大活躍はこれから先も難しそうだが、姉妹という視点で見ればまだまだその可能性を秘めている。  これまでもツアーでプレーした姉妹は何組も生まれている。福嶋晃子、浩子の福嶋姉妹、横峯さくら、瑠依の横峯姉妹、堀奈津佳、琴音の堀姉妹、馬場ゆかり、由美子の馬場姉妹、遡れば谷福美、里美、明美の三姉妹がその代表例。そして、今後も女子ツアーには姉妹プロが誕生しそうな気配が漂う。  まず最初に活躍が期待されるのは吉田優利と妹の鈴だ。“プラチナ世代”を代表する姉の優利は、すでにツアーで3勝しており、今年のメルセデス・ランキングでは7位にランクイン。先日は米女子ゴルフツアーの最終予選会で来季の出場権を手に入れ、来季の主戦場を米ツアーに移すほどに成長した。  19歳の妹・鈴は、昨年のオーガスタナショナル女子アマチュアで、日本人唯一の予選通過を果たし20位を記録したトップアマ。今年は3度目の挑戦となったプロテストを2次で敗退したが、プロツアーでローアマを何度か獲得しているだけにポテンシャルは十分。米ツアー本格参戦を決めた姉・優利との差を少しずつ埋め、岩井ツインズに続く国内女子ゴルフを代表する姉妹に成長してもらいたいところだ。  ルーキーシーズンの今年、いきなり公式戦の日本女子プロ選手権を制すなど2勝した神谷そらも、プロを目指す妹のもも(18歳)、そしてひな(16歳)がいる。  姉のそらは、一気にスターダムにのし上がったが、妹のももは今年の日本女子アマで29位タイ。今年の最終プロテストでは通算1アンダー41位タイとプロ入りこそならなかったが、身内に国内メジャー覇者がいるのは良い刺激となるはず。神谷家では三姉妹がプロになることを目標としているが、姉のそらが妹たちをリードすることで、その実現はそう遠い未来ではないだろう。  姉妹ゴルファーといえば、渋野日向子にも現在明治大学ゴルフ部でプレーする妹・暉璃子がいる。暉璃子は昨年、アマチュアとして大王製紙エリエールレディスでレギュラーツアーデビューしたがその時は予選落ち。今年はステップアップツアーの大王海運レディスに出場し32位タイとなった。  暉璃子のプロテスト受験は大学卒業後ということで、姉妹でプロゴルファーになるのはもう少し先の話となるが、屈指の人気を誇る姉・日向子を持つ暉璃子だけに、プロテストに合格すれば注目度はピカイチ。今後の暉璃子の動向からも目が離せそうにない。  この他にも女子プロ姉妹はいるが、現状注目されるのは今回ご紹介した3組。果たして彼女たちは岩井ツインズのような活躍を見せる姉妹となれるのだろうか。
女子ゴルフ
dot. 2023/12/14 17:30
「福原遥」かつての“まいんちゃん”イメージが消え「オトナ女優」に完全脱皮できたワケ
丸山ひろし 丸山ひろし
「福原遥」かつての“まいんちゃん”イメージが消え「オトナ女優」に完全脱皮できたワケ
福原遙    来年1月からスタートする山下智久主演ドラマ「正直不動産2」(NHK総合)に、ヒロイン役で出演する福原遥(25)。同作は昨年放送された人気ドラマの続編で、不動産業界を舞台にしたお仕事コメディー。福原は前作に引き続き、主人公とバディを組む不動産営業ウーマンを演じる。  また、11月21日に発売された月刊誌「東京カレンダー」では、上品ながらボディーラインの美しさも引き立つノースリーブの黒ワンピという“港区女子”風のいでたちで表紙を飾った福原。SNS上では「大人な遥さんもなかなか良い」「本当に淑女な女性になっていて、もう眼福でした」などと好評だった。  福原といえば、10歳から出演した子ども向け料理番組「クッキンアイドル アイ!マイ!まいん!」(NHK Eテレ)のメインキャラクター・まいんちゃんとしてブレーク。いまだにネット上では福原を“まいんちゃん”と呼ぶファンも見受けられ、子役の印象が残っている人も少なくないだろう。その一方、このところは前出の「東京カレンダー」のように大人の表情も見せるようになり、イメージも変化しつつある。 「最近はドラマでも大人っぽい女性をうまく演じています。3月まで放送され、ヒロイン役を務めたNHKの朝ドラ『舞いあがれ!』では、パイロットの夢を諦めて親が営む会社を立て直すため奮闘するお嬢様役を好演。お嬢様が次第に会社の営業エースとなり、最終的には起業するという女性の成長を見事に演じ切りました。また、夏に放送された主演ドラマ『18/40~ふたりなら夢も恋も~』では、18歳となり夢に向かって歩き始めるも妊娠が発覚し、葛藤しながら出産や育児に向き合っていく女性という難役に挑戦しています。4分にも及ぶ出産シーンや子育てに奮闘する姿は、視聴者の心を揺さぶりました」(テレビ情報誌の編集者)     大人っぽさが増した福原遙   17歳からジャンクフードをやめた  リーダーシップを発揮する女性社長から、出産をへた母親役まで幅広い役を演じられるようになった福原。そうした点でも、すでに子役としてのイメージは薄れつつあるかもしれない。  今は、俳優としてのプロ意識も高い。女性誌で肌の状態をキープする秘訣を聞かれると、「ジャンクフードなど、肌に影響しそうなものは17歳で食べるのをやめました」と告白(「VOCE」(2022年3月3日配信)。さらに、中学生のころから日焼け止めを塗るのが日課で、現在は移動中に車内でEMS美顔器を使用。食生活が乱れると肌も乱れると考え、自炊するときは体を酸化させる油は避け、こめ油を使うようにしたり、酵素玄米や酵素ドレッシングを使ったりしているという。幼い頃からルックスは完成されていた福原だが、20代になって「オトナの女優」に変貌できたのは、美容への意識の高さもあるだろう。 「『舞いあがれ!』で共演した高杉真宙は、福原について、年齢が下であることを感じさせない堂々たる座長感があるとドラマコメントで明かしていました。ヒロインはセリフの量も多くいちばん大変なのに、それを感じさせない明るさで周りへの気遣いができる人だと称賛していました。また、福原自身は最近のインタビューで、もともと自分の意見を言えるタイプではなかったが、ただ周りに合わせるのは良くないと思うようになったと話しています。いろいろな経験をして仕事や役により責任感が芽生えてきてからは、『思っていることはちゃんと言おう』と、口にするようになったそうです。こうした人間的成長が外見にも表れ、大人の魅力につながっているのでしょう」(同) まだ子役のあどけなさが残る福原遙(2014年)   まいんちゃんは黒歴史ではない  ある民放ドラマ制作スタッフは福原が躍進している理由のひとつに「まいんちゃん時代を黒歴史にしていない」ことをあげる。 「まいんちゃんというイメージから次の段階に移行する際、『どうやって福原遥に戻ったのか』と情報番組で明かしたことがありました。それによると、福原は昔の自分を視聴者が覚えていてくれるのがうれしく、今もまいんちゃんと言われることはうれしいと話し、『なので、そのままというか』と答えていました。他の役名でも呼ばれるように頑張りたいとは思っているそうですが、積極的に過去のイメージを払拭しようとは考えていないようです。ある意味、そんな余裕があるところも大人で、今の仕事に対して自信があるのでしょう。美貌を保ちつつ大人っぽく変化した福原ですが、来年以降、バリバリのキャリアウーマン役などもハマるようになれば、さらに評価は高まると思います」  ドラマウォッチャーの中村裕一氏は福原の魅力についてこう語る。 「『舞いあがれ!』は確実に彼女を俳優として一回り大きくさせたと言えるでしょう。役の成長が彼女自身の成長とオーバーラップし、時に悩み、苦しみながらも前に進んでいく舞の姿を、まるでわが子を見るかのような温かい目で見守っていた人も多かったと思います。3月に出演した『あさイチ』で、仕事と学業の間で悩んでいた中学生の時、朝ドラ『おひさま』に勇気とパワーをもらい『自分もいつかここに立って、(視聴者の)みなさんを少し笑顔にできたらいいな』と思ったこと、そこから朝ドラのオーディションを3回受けたことを告白していました。運だけではなく、実力で道を切り開いていく姿勢が垣間見え、彼女自身の意思の強さと芯の強さを感じました。カスタマーファーストの新入社員を演じた『正直不動産』も、彼女らしい優しさが伝わってくる役柄でとても印象的でしたし、続編も非常に楽しみです」  大人の女性になった福原がその演技力を武器に、今後どんな役を演じていくのか楽しみだ。 (丸山ひろし)
福原遙まいんちゃん正直不動産
dot. 2023/12/10 11:00
聖地「サウナしきじ」の娘・笹野美紀恵さんがサウナプロデューサーに ウェルネスを意識する理由とは?
聖地「サウナしきじ」の娘・笹野美紀恵さんがサウナプロデューサーに ウェルネスを意識する理由とは?
ONEBLOW代表でサウナトータルプロデューサーの笹野美紀恵さん   全国のホテル・旅館・診療所などでサウナのトータルプロデュースをおこなっている笹野美紀恵さん。実家は、サウナ愛好家の間では“サウナの聖地”として知られる静岡の「サウナしきじ」だ。自身も生粋の“サウナー”であり、サウナへの深いこだわりをもつ笹野さん。サウナプロデュースを始めたきっかけや、「ウェルネス」を意識したサウナプロデュースに力を入れ始めた経緯、今後の目標などについて話を聞いた。 *  *  * “サウナしきじの娘”として、実家のサウナ施設のPR活動に加え、日本全国でのサウナのプロデュース活動、雑誌やテレビなどの取材で各地のサウナや温浴施設を日々、忙しく飛び回っている笹野さん。自身も「サウナはだいたい毎日1~2回、静岡の実家にいるときは、かならず朝晩2回はサウナに入ります」と話すほどの生粋のサウナーだ。 【こちらも話題】 診療所併設の新サウナは医師・薬剤師監修 「サウナしきじ」の娘がプロデュース「サウナは熱い箱じゃない!」 https://dot.asahi.com/articles/-/207949  笹野さんがサウナのプロデュース活動を本格的に始めたのは3年前の2020年から。そのきっかけは、実家のサウナ施設の中だけでは、できることも限られてしまうためだという。 「サウナへのこだわりが高じて、実家のサウナ施設だけでは飽き足らず、自分でゼロからサウナをプロデュースしてみたくなったのがプロデュースを始めたきっかけです」(笹野さん)  笹野さんのこれまでの経歴は多彩だ。高校・大学とアメリカに単身留学。留学中からモデルとして活躍し、明治大学専門職大学院でMBAを取得。株式会社ONEBLOWを起業し、最初はおもに、海外で飲食店のフランチャイズを進めるときのディベロッパーへの交渉の仕事をしていたという。同時に、実家の「サウナしきじ」の広報としても活動し、静岡のローカルサウナをサウナ愛好家の聖地と言われるまでの存在へと導いた。  そうした経験も後押しし、独自の感性や視点を生かして、日本全国のホテルや旅館、キャンプ場などでサウナのプロデュースを始めたという。これまでに手掛けたのは、北海道・阿寒湖や京都府・比叡山など、全国の風光明媚な地の7施設。25年までに大分県別府市、富山県富山市などに新たに5施設が完成する予定だ。  笹野さんがいまもっとも力を入れているのは「ウェルネス」を意識したサウナプロデュースだ。診療所に併設するサウナなど、医師や薬剤師の協力も得ながら、エビデンスレベルで健康や医療を意識したサウナのプロデュースを最近、手がけるようになってきたという。ウェルネスへの意識が高まってきた理由は、何より「将来の自分のため」と笹野さんは言う。 笹野美紀恵さんがプロデュースした「風SAUNA」   「将来、自分が高齢になったときには、さまざまな不調も抱えているかもしれず、いまと同じようには水風呂に入れないかもしれない。さらに、もし、乳がんの手術をしていて手術痕があったら、人と一緒にサウナに入りたくないかもしれない。そうした、いずれ高齢になったら誰もが抱えるかもしれない不安や悩みに配慮したサウナや温浴・リハビリ施設を、自分のためにもつくりたいと考えるようになりました」  少子高齢化が進むなか、介護施設でも介護士不足で入浴介護の人手も将来的に足りなくなっていくことが予想されている。「介護される高齢者も介護する側にとっても、入浴の手間がかからず、安全で心地よい温浴施設のニーズは高まっていくはず」と笹野さんは予測する。 「私が将来、プロデュースしたいのは、ただ『入浴の手間がかからない』というだけでなく、それによって、五感を通して癒やされ、誰もが気持ちよく、健康にもなれるサウナ施設です」(笹野さん)  サウナは依然、“男性のカルチャー”という意識がまだ根強い。「ととのう」という感覚もどこか男性視点で語られることが多い。笹野さんはサウナプロデュースにおいて、「女性の感覚」を大切にしたいという。 「女性の場合は、男性と体のつくりや筋肉量も違いますし、『ととのう』感覚もより個人差があって、デリケートです。男性に合わせたサウナ施設で、熱いサウナや冷たい水風呂を我慢するのではなく、女性も心から『気持ちいい』と思えるサウナがもっとあってもいい」(笹野さん)  サウナは血流が高まることで肌の血色やツヤがよくなる美肌効果も感じやすい。美容効果への期待もあってか、昨今は女性人気も高まっているが、「サウナの最大のメリットは自律神経が整うこと」。自律神経が整うと、睡眠の質が高まり、寝つきや寝起きがよくなったり、からだの冷えや肩こりなどの不調が改善したりする。あわただしい日常に追われ、ストレスを抱えがちな現代女性にこそ、サウナはその効力を発揮するはずだと笹野さんはいう。 「サウナで自律神経が整うとホルモンバランスも整うので、多くの女性たちを悩ますPMS(月経前症候群)にも効果を感じる人がいます。医師の協力のもと、さらに研究や検証を進めて、PMSなどの女性特有の不調に効果的なサウナをつくりたいと考えています」(笹野さん)  PMSは、初潮を迎えた10代から閉経を迎える50歳前後までの女性を悩ます不調だ。多くは、月経の始まる3~10日ほど前からイライラや情緒不安、眠気、だるさ、むくみなどの症状に見舞われる。なかには、生理期間中の月経痛なども含めて、毎月、2~3週間にもわたって心身の不調に苦しむ人もいるという。 ロウリュに使う完全オーガニックの薬草とハーブ。薬剤師の監修のもと、オリジナル商品を開発中だという。   「サウナによってPMSなどの女性たちが抱える不調が少しでも改善されたらうれしいですね。国レベルでみても、PMS時期の女性の生産性低下による経済的損失は大きい。それらを取り戻せるかもしれません」(笹野さん)  男性でも中高年を過ぎると更年期障害などの症状に悩むケースがある。男女を問わず、いわゆる病気の一歩手前の「未病」こそ、自律神経を整えるサウナが得意とする分野だという。  笹野さんがプロデュースするサウナ施設はすべて、薬草やハーブによるセルフロウリュが可能だ。「サウナしきじ」と同じく、完全オーガニックの薬草やハーブにこだわる。これら薬草には漢方薬でも使われる生薬成分が含まれるため、サウナの効用とあわせて、さまざまな不調に対し、効果が期待できるという。  この薬草の選別やブレンドにも薬剤師の監修を受け、エビデンスレベルで本格的な健康増進効果を狙う。有効成分を効率よく、皮膚から経皮吸収することができるようにと、笹野さんプロデュースのサウナ施設では、あらかじめ煎じておいた薬草やハーブをセルフロウリュできるのも特徴だ。  いま熱心に取り組んでいるのは、ロウリュで使うこれら薬草やバスソルトのオリジナル商品の開発だという。 「サウナの健康増進効果をより高められるように、ロウリュ用の薬草やハーブのほか、酒粕と塩を使ったバスソルトなど、医師や薬剤師の先生方の協力も受けながら、目下、商品開発中です」(笹野さん)  これまでのサウナプロデュースにおける苦労についても笹野さんに聞いてみた。プロデュースの依頼を受けると、そのデザインやレイアウトなどを設計士と意見交換しながら決めていくが、建物の構造によっては、導線的に思い通りにつくれないことがあり、そうしたときに悔しい思いをすることもあるという。 「建物の構造や予算的にも限られたなかでプロデュースしますので、利用者が居心地よく疲れないような導線にするには、できればこうしたいのに、いろいろ条件が難しいな、ということは多々あります。それでも、できるだけ妥協はしたくない。それぞれのケースで最善を尽くします」(笹野さん)  今後の目標は、外国客を日本の温泉に呼び込むためのサウナプロデュースだという。 「日本各地の温泉とサウナを掛け合わせて、その地方の食や文化、そこでしかできないようなものを生かしつつ、インバウンドに向けた仕掛けをしたい。日本ならではの温泉の世界観をサウナと一緒に外国の方にもぜひ楽しんでほしいです」 (文・石川美香子) ○笹野美紀恵(ささの みきえ)/サウナトータルプロデューサー。ONEBLOW代表。高校から海外留学、留学中からモデルとして活躍。外見だけでなく内面の美しさも求められるミス・インターナショナルのファイナリストになり、「美の親善大使」として活動。明治大学専門職大学院でMBA取得。実家は“サウナの聖地”と称される「サウナしきじ」。現在は、ホテル・旅館・診療所などで五感を感じられるサウナを「総合ウェルネス温浴」としてプロデュースをおこなっている。静岡発のサウナ番組「サウナ女子が教えるサ活のサ」出演中。ANA「翼の王国」毎月連載中。著書に『キレイをかなえる「しきじの娘」の速効サウナ美容』(主婦の友社刊)。  
サウナ
dot. 2023/12/09 11:00
診療所併設の新サウナは医師・薬剤師監修 「サウナしきじ」の娘がプロデュース「サウナは熱い箱じゃない!」
診療所併設の新サウナは医師・薬剤師監修 「サウナしきじ」の娘がプロデュース「サウナは熱い箱じゃない!」
ドーム型の「風SAUNA」と、床と一体型の「ととのいデッキ」。昼間は延岡の自然の景色を楽しめ、夜は星空や花火などを眺めながら、ととのうことができる。   全国のホテルや旅館などでサウナのトータルプロデュースをおこなっている笹野美紀恵さん。実家は、サウナ愛好家の間では“サウナの聖地”として知られる静岡の「サウナしきじ」だ。“しきじの娘”としてもサウナ界隈ではよく知られている存在。その笹野さんが今年、診療所に併設する形で、本格的に医療や健康を意識したサウナを新たにプロデュースした。「風SAUNA」と名付けられたそのサウナの特徴やプロデュースまでの経緯とは。 *  *  * 「『サウナは単なる熱い箱じゃない!』とこれまでずっと言い続けてきましたが、長年の夢がついにひとつ、形になりました」  そう語るのは、ONEBLOW代表でサウナトータルプロデューサーの笹野美紀恵さんだ。「長年の夢が形になった」とは、宮崎県延岡市の医療施設、大貫診療所に併設する形でこのたびオープンした「風SAUNA」のこと。笹野さんプロデュースのサウナだ。これまでも全国のホテルや旅館などでさまざまなサウナをプロデュースしてきたが、医師と薬剤師監修のもと、本格的に医療や健康を意識したサウナプロデュースは今回が初めてだという。 【こちらも話題】 聖地「サウナしきじ」の娘・笹野美紀恵さんがサウナプロデューサーに ウェルネスを意識する理由とは? https://dot.asahi.com/articles/-/207952 ONEBLOW代表でサウナトータルプロデューサーの笹野美紀恵さん   「じつは、自分が高齢になっても安心して入浴ができる温浴・リハビリ施設などをいつかはプロデュースしたいと思っていました。その矢先、『診療所の上にサウナをつくりたい』と、インスタグラムのDMで大貫診療所・榎本雄介院長のメッセージや企画書など熱い思いを受け取って。もちろん、二つ返事で了承しました」 「『病気じゃなくても来たくなる、集いたくなる、元気になる』。そんなプライベートサウナを診療所の上につくってほしい」というのが榎本院長のオーダーだった。  老若男女だれでも足を運べるサウナ施設でありながら、さまざまな不調を抱えた人でも入れること。笹野さんはこのプロデュースにあたり、自らの体調に合わせて無理なくサウナを楽しむための数々の工夫をこらしたという。さらに、延岡の自然豊かな資源を生かしながら、女性目線のこだわりもたくさん詰め込んだ。 「最初に、サウナ設置予定の診療所の屋上を訪れたときに、吹き抜ける風の気持ちよさをすごく感じたんです。なので、この風が感じられるサウナにしたいと思っていました。それが『風SAUNA』の名前とコンセプトの由来です」(笹野さん)  最初の依頼から1年半。完成した「風SAUNA」は、フィンランド式の貸し切り型プライベートサウナとなった。サウナ室それ自体が「風SAUNA」のシンボル的な存在となるような、特徴的なドーム型のテントサウナに仕立てた。サウナ室を囲むテント幕は不燃性のタープでつくられており、サウナ室内の空気が密閉されず、サウナ室内外の風が流れやすいつくり。 「まさに風を感じるサウナになりました。サウナ室の温度設定も約80度とそんなに熱すぎないので、息苦しさも感じにくい。不調を感じる方や高齢の方でも過ごしやすいと思います」(笹野さん)  目指したのは、「しっかり熱いのに、出たくなくなるほど心地いい」という感覚だ。さらに、人間がストレスを感じにくいという“曲線”を生かした設計と、サウナ室内の湿度、空気の流れや調光、香りなどにもこだわった。自分で石に水をかけて蒸気を出す、人気の“ロウリュ”もできる。  定員6人のプライベートサウナであることも、家族や友人同士など、気のおけない仲間だけで、自由なスタイルでサウナを楽しめるように、という配慮でもある。サウナ室で気兼ねなく横たわることもできるという。  サウナドームを出ると、外気浴スペースとして、床と一体型の「ととのいデッキ」がある。デッキそのものをチェアと見立ててつくられた曲面デッキだ。この角度にもかなりこだわったという。 「ととのいデッキに寝そべったときに、頭の後ろの部分にあたる角度は、介護用のリハビリベッドをベースに考えました。榎本院長と薬剤師の方とともにかなり試行錯誤しながら角度を決めました」(笹野さん)  デッキの木材には地元・宮崎県産のヒノキを使用。ととのいデッキは屋根のないオープンスペースにあるため、昼間は延岡の自然の景色を楽しめ、夜は星空や花火などを眺めながら、ととのうことができる。  屋上には、バスタブでゆったり入れる水風呂も設置されている。体調に合わせて、水温や水質も調整することができるという。 「体調や好みに合わせてアレンジできるように、地下水(五ケ瀬川の伏流水)と冷水、常温水の三つの蛇口がついています。通常は18度前後の常温水で準備していますが、地下水の蛇口をひねれば、清流日本一の五ケ瀬川の伏流水を汲み上げた天然地下水掛け流しの清らかで柔らかい肌触りを楽しめます。より冷たい水風呂が好きな人は冷水の蛇口をひねれば、最低10度程度まで下げることができます」(笹野さん) 水風呂は体調や好みに合わせてアレンジできるように、地下水と冷水、常温水の三つの蛇口がついている。    こだわりポイントにはもう一つ、「薬草ロウリュ」もある。ハーブや薬草を薬剤師監修のもと、季節に合わせてブレンドしているという。そのため、一年中、香りや蒸気の異なるサウナを楽しむことができる。11月の薬草は、よもぎ(艾葉、がいよう)、みかんの皮(陳皮、ちんぴ)、ラベンダーだ。陳皮は漢方では風邪薬の生薬としても使われている薬草だ。血行促進効果や気の巡りをよくしてリラックスさせる効果もある。 「私がプロデュースするサウナ施設でおこなうロウリュはどこも、完全オーガニックの薬草・ハーブにこだわっています。サウナ室で過ごしながら、セルフロウリュで薬草の有効成分を存分に全身の肌から吸収してもらえれば」(笹野さん)  サウナは2023年10月19日にオープンしたばかりだが、早速、診療所に通院する患者をはじめとする利用者から、サウナ後に「よく眠れた」「からだがすっきりした」「体調がよくなった」という声が聞かれはじめているという。  利用者の一人、長年、診療所に通院する女性(73歳)は慢性腎不全で人工透析中のため、体の冷えや不眠に悩まされていた。普段はあまり汗をかけないため、「サウナで汗をかきたい」という思いもあって、風SAUNAを利用したという。入浴後、体の冷えが軽減したのをかなり実感できた。なにより、「久しぶりに夜中に目が覚めず、朝までぐっすり眠れた」と喜んでいるという。  今回、サウナがつくられたのは診療所の2階部分。1階の診療所待合室にはフラワーショップと手打ちそば店、カフェも同時にオープンした。延岡を愛してやまないという榎本院長は、今回のサウナ施設のオープンをきっかけに、診療所が地域のつながり拠点となってほしいと願っているという。 「ここが近所のさまざまな人が集まる場所となって、みんなでサウナを楽しみながら、気軽に健康を意識してもらえたらうれしいですね」(笹野さん) (文・石川美香子) ○笹野美紀恵(ささの みきえ)/サウナトータルプロデューサー。ONEBLOW代表。高校から海外留学、留学中からモデルとして活躍。外見だけでなく内面の美しさも求められるミス・インターナショナルのファイナリストになり、「美の親善大使」として活動。明治大学専門職大学院でMBA取得。実家は“サウナの聖地”と称される「サウナしきじ」。現在は、ホテル・旅館・診療所などで五感を感じられるサウナを「総合ウェルネス温浴」としてプロデュースをおこなっている。静岡発のサウナ番組「サウナ女子が教えるサ活のサ」出演中。ANA「翼の王国」毎月連載中。著書に『キレイをかなえる「しきじの娘」の速効サウナ美容』(主婦の友社刊)。
サウナ
dot. 2023/12/09 11:00
雅子さま還暦「愛子にはいちばん美しいものを見せたい」一緒に笑い、悩み、「娘」を守り続けた
永井貴子 永井貴子
雅子さま還暦「愛子にはいちばん美しいものを見せたい」一緒に笑い、悩み、「娘」を守り続けた
東京ディズニーシーを訪れたご一家。愛子さまをしっかりと抱きしめる雅子さま=2006年、千葉県浦安市、代表撮影/JMPA    皇后雅子さまが12月9日、60歳の誕生日を迎えた。1993年に皇太子だった天皇陛下と結婚し、2001年に長女の愛子さまが誕生。2003年から長く続いた療養生活のなかでも深い愛情を注ぎ、成年になった愛子さまは父と母を「かけがえのない存在」と語った。愛子さまを包み込むように愛しんだ「母」としての歳月を振り返る。 *   *   * 「初めて私の胸元に連れてこられる生まれたての子供の姿を見て、本当に生まれてきてありがとうという気持ちで一杯になりました」  にっこりと笑って視線を上げた雅子さま。声は震え、目元には涙がにじんでいた。  愛子さまの誕生から4カ月が過ぎた2002年4月2日。皇太子さまと雅子さまは、愛子さまの誕生後初めての記者会見に臨んだ。   長女愛子さまが生まれて初めて記者会見をする皇太子(当時)さまと雅子さま。涙に声を詰まらせる雅子さまの背中に優しく触れた=2002年4月、東京都内、代表撮影   「今でも、その光景は、はっきりと……目に焼き付いております」  涙をこらえるように、視線が下に向いた。 「生命の誕生……」  感極まって言葉が途切れ、手で口元を押さえる雅子さま。皇太子さまが雅子さまの背中に手を伸ばし、トントンと2度、優しく押さえた。    その年の10月、愛子さまを連れた雅子さまは、初めて母と娘のふたりだけの私的な外出をした。出かけた先は、東京・銀座の教文館。ご一家と長く交流を持つ影絵作家・藤城清治さんの展示会が開かれていた。  真っ暗な会場の中でオレンジや青、緑、黄、白の光と影が、童話の世界や郷愁を誘う情景を幻想的に浮かび上がらせる。 光と影による幻想的な世界を描く「藤城清治影絵展」を、赤ちゃんの愛子さまを抱いて観賞する雅子さま=2002年、代表撮影/JMPA    手を伸ばした愛子さまに、雅子さまが「だめだめ」となだめると、藤城さんは「アクリル板の上だから大丈夫」と優しく笑った。  雅子さまは、「愛子にはいちばん美しいものを見せたい」と話した。    翌年の12月、雅子さまは長期療養に入った。外出も難しかった時期だが、ときおり雅子さまは藤城さんの影絵展に足を運んだ。暗闇の中で幻想的な光を放つ作品を長い時間、ひとりで静かに見つめていることもあったという。     【こちらも話題】 愛子さまを「抱きしめ」続けた天皇陛下の温かいまなざし 離乳食とお風呂の育児にも参加! https://dot.asahi.com/articles/-/207875     雅子さまが愛子さまにやさしく手を添えて「あいこ」と新年の書き初めをした=2005年1月1日、宮内庁提供   もこもこの子犬「由莉」をのぞき込む  長く続く療養生活であっても、雅子さまは「母」として、愛子さまに深い愛情を注ぎ続けた。  2005年1月、3歳になった愛子さまの体を包み込むように手を添えて、新年の書き初めをする雅子さま。その様子からは、母と娘の絆が伝わってくる。  2006年11月には、一般の七五三にあたる「着袴の儀(ちゃっこのぎ)」が行われた。数え年の5歳で初めて袴を着ける子どもの健やかな成長を願う、皇室の伝統的な儀式だ。   「着袴(ちゃっこ)の儀」を終えて、桃色の道中着姿で参内に臨む4歳の愛子さま。装束で動きづらい愛子さまをそっと支える雅子さま=2006年11月、東宮御所、代表撮影/JMPA    儀式を終えて皇居に参内する際は、桃色の袿(うちぎ)と丈の短い切袴(きりばかま)の「袿袴」に着替えるものの、4歳の愛子さまには重くて大変な衣装だ。  雅子さまが小さな愛子さまを支えるように手を伸ばす写真からは、ほほえましいご一家の様子が伝わってくる。   愛子さまの相撲好きは有名。大相撲秋場所の初日に東京・国技館で観戦。応援する愛子さまを幸せそうに見守る雅子さま=2006年9月、東京・国技館(代表撮影/JMPA)    人柄は、ふとした仕草からも伝わる。  2009年のゴールデンウィークに、静養のために栃木県の御料牧場を訪れたご一家。JR宇都宮駅に到着した愛子さまが抱えていたのが、愛犬の「由莉」だった。 御料牧場に向かう皇太子(当時)ご一家。愛子さまから子犬の由莉をやさしく受け取る雅子さま=2009年5月、栃木県のJR宇都宮駅、代表撮影/JMPA    駅舎からトコトコと歩いてきた7歳の愛子さまの両腕からは、もこもこした子犬のお尻と尻尾がはみ出ていた。愛子さまが抱えるには、ちょっと大きかった。  愛子さまの目線までかがんで受け取り、腕の中におさまった子犬を何度ものぞき込む雅子さまには、小さな命に対する優しさがあふれていた。   学校で愛子さまと昼食を一緒に食べ 「皇太子」「天皇」であると同時に「父」として、「皇太子妃」「皇后」であるとともに「母」として、日常を大切にしてきた天皇陛下と雅子さま。等身大の家庭人としての生き方は、愛子さまのメッセージからもうかがい         知ることができる。  2022年、愛子さまが成年を迎えての記者会見。愛子さまは、 「両親は、私の喜びを自分のことのように喜び、私が困っているときは自分のことのように悩み」 「一番近くで寄り添ってくれるかけがえのない有り難い存在」  と、自身に寄り添い続けてきた父と母への深い感謝を示した。     愛子さまと一緒にスキーを楽しむ雅子さま=2005年2月、宮内庁提供    愛子さまは学習院初等科2年生の終わりから2年ほど、学校生活に悩みを抱えていた。  雅子さまは愛子さまと一緒に登校し、昼食を一緒に食べた。ご両親が付き添えないときは、愛犬の由莉が学校まで一緒に歩いて行った。  愛子さまが学校での悩みを抱え始めた直後の春休み、ご一家は長野県の奥志賀高原に滞在し、スキーを楽しんだ。そこには、気分転換をさせてあげたいという親としての思いもあったのだろう。  夕方近くに、こんな場面があった。  皇太子さまは、上級向けのコースに向かった。愛子さまは、午前中に挑戦したコースがすこし難しかったようで、やや初級者コースのリフトを選んだ。  雅子さまはペアリフトに、愛子さまと一緒に乗り込んだ。リフトが動き出すと、隣に座る雅子さまは、「楽しみましょう」と言うようにポンと愛子さまの背中を軽くたたき、肩を包み込むように抱いた。  そこにあるのは、ごく普通の母娘の光景だった。   長野県へ旅行に向かうご一家。愛子さまを包み込むように、そっと話しかける雅子さまの表情は優しい=2009年3月、代表撮影/JMPA    その後、愛子さまはバスケットボール部に入り、東宮御所の職員と休みの日にも練習するほど熱中。学校生活でも笑顔が増え、雅子さまが登校に付き添う光景も減った。中等科の一時期に急激にやせ、体調を崩したこともあったが、雅子さまは愛子さまと適度な距離を取りつつ、娘の成長を見守り続けた。 ドイツから帰国した皇太子さま(当時)を東宮御所で出迎える雅子さまと愛子さま=2011年11月、代表撮影/JMPA    仲睦まじい親子でありつつも、公私のけじめを小さなころから愛子さまに教えている様子もうかがえる。  2011年、ドイツへの公式訪問から帰国した皇太子さまを、雅子さまは愛子さまとともに東宮御所で出迎えた。 「お出迎え」も立派な公務のひとつ。9歳の愛子さまは雅子さまの隣でで、「皇太子」である父に深くお辞儀をした。  その光景からは、東宮家の内親王としての立場や振る舞いをしっかりと愛子さまに伝えていることがわかる。     【こちらも話題】 雅子さまご静養先でも別格のコミュニケーション能力 「テントは?」 天皇陛下へひと言アシスト https://dot.asahi.com/articles/-/200116     学習院女子中等科の卒業式に向かう途中、沿道からの声に笑顔で応えるご一家=2017年3月、代表撮影/JMPA   「お話しすると日が暮れてしまうかも」  2019年4月30日に平成の天皇が退位し、5月1日に令和の皇室がスタートした。  天皇陛下の即位とともに、雅子さまは皇后となった。11月の祝賀パレードでは、涙をにじませ、目頭を押さえながら沿道の祝福に応えた。 「祝賀御列の儀」の祝賀パレードで涙をおさえる雅子さま=2019年11月、都内    しかし、「天皇ご一家」となっても、親子の仲睦まじさは変わらない。  成年を迎えた記者会見で両親との思い出を聞かれた愛子さまは、静岡県の須崎の海にサーフボードを浮かべて3人で座る挑戦をしたものの「見事全員で落下」したエピソードなどを語り、「お話しし始めると日が暮れてしまうかもしれません」と笑いを誘った。   那須御用邸を散歩中、愛子さまの手にトンボがとまった瞬間! 愛犬由莉のバンダナは、梅干しやシソ、ゴマのおにぎりのイラストが描かれたユーモアたっぷりの柄だ=2019年8月、栃木県、代表撮影/JMPA    雅子さまは皇太子妃として、皇后として、30年の人生を歩んできた。同時に母として寄り添い続けた愛子さまは今年、22歳になった。これからも太陽のような笑顔を、人々に見せてくれるに違いない。 (AERA dot.編集部・永井貴子)   【こちらも話題】 愛子さまは愛馬「豊歓」の墓に花とニンジンを手向けた…命のふれあいからにじむ天皇ご一家の優しさ https://dot.asahi.com/articles/-/202547  
雅子さま愛子さま天皇陛下皇室
dot. 2023/12/09 10:00
清本美波はどうなる?  女子ゴルフ、プロテスト「トップ合格」の肩書は“アテ”になるのか
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清本美波はどうなる? 女子ゴルフ、プロテスト「トップ合格」の肩書は“アテ”になるのか
プロテストではトップ通過だった佐久間朱莉  女子プロゴルファーの登竜門となる最終プロテスト。今年は10月31日から11月3日まで岡山県のJFE瀬戸内海ゴルフ倶楽部で開催された。  見事にトップ通過を果たしたのは18歳の清本美波だった。清本は、愛知県一宮市出身の高校3年生で、これまでツアーでローアマにはなっているものの、ナショナルチームに所属しておらず、ビッグタイトルにも無縁だったが、2位通過の石田可南子と馬場咲希に4日間で5打差をつける圧巻のゴルフで通算17アンダー。昨年の全米女子アマを制した馬場を抑えたことで、大きな注目を集めた。  しかし、その清本は、来シーズンのツアー出場権をかけたクォリファイングトーナメント・ファイナルステージ(11月28日~12月1日、静岡県、葛城ゴルフ倶楽部 宇刈C)で通算19オーバーと苦戦し104人中100位。大会後は自身のインスタグラムで「4日間なかなか自分の思うようにプレーできなかったのは、練習不足が原因です。はあ。ひたすら悔しいーーー。もうこんなこと言ってられないので、トレーニングと練習頑張って来シーズンは必ず強くなって戻ってきます!」(原文のまま)と綴った。  今年のプロテストは予選免除者を含む受験者総数が698人、最終プロテストでは101名となり最終的に合格したのは21名。合格率は3%と狭き門となっており、その中でトップ合格した清本に実力があることは明白だが、それでも最終予選会では最下位に近い成績となってしまうということは、それだけ女子プロのレベルが高く、レギュラーツアー出場への道は厳しいということだろう。  では、近年のプロテストトップ合格者の“現在地”は、どのようになっているのだろうか。  2010年から昨年まで13名のトップ合格者がいるが、この中でツアー優勝を果たしたのは、2011年のオナリン・サタヤバンポット(タイ)、2016年の永井花奈、2021年の尾関彩美悠、昨年の神谷そらの4名のみだ。  2020年の佐久間朱莉、2017年の松田鈴英などツアーで上位進出経験がある選手もいるが、中には賞金獲得どころか試合出場すらままならずゴルフファンでも聞き覚えのないプレーヤーもいる。つまりトップ合格すれば、スターへの道が約束されているというわけではないということだ。    とはいえ、上記の通り過去2年のトップ合格者である尾関と神谷は、すでにツアー制覇を合格翌年に達成。しかも神谷にいたっては、日本女子プロ選手権優勝と、ルーキーシーズンにいきなり公式戦を制しており、プロテスト受験者のレベルが高くなっていることをうかがわせている。  清本は、全米女子アマ覇者の馬場(同2位タイ)、下部ツアーを制した経験がある髙木優奈(同4位)、最終予選会トップの宋佳銀(韓/同8位タイ)の実力者たちを抑えてトップ合格した。最終予選会こそ振るわなかったが、ツアー出場のチャンスがあれば、ルーキーシーズンでの初Vの可能性も十分だろう。  一方、現在のツアーでトップを飾る面々は、プロテストでどのような結果を残してきたのだろうか。  まずは2年連続で年間女王となった山下美夢有。2021年に初優勝を飾り、昨年今年はそれぞれ5勝を挙げすでに通算11勝を記録しているが、そんな山下は、2019年のプロテストを6位タイで通過している。  この年に合格した21名を眺めてみると、2位タイに山路晶と西村優菜がおり、4位タイに安田祐香。6位タイの山下の後には8位タイでセキ・ユウティン(中)、12位タイに吉田優利、15位タイにアン・シネ(韓)、18位タイに西郷真央、笹生優花とそうそうたる顔ぶれが揃っている。  山下は、彼女たちの中の出世頭であることに間違いないが、この92期生は豊作の世代だったようだ。  では今年、双子でツアーを席巻した岩井明愛・千怜姉妹はどうだろうか。2人は2021年6月25日に93期生として合格している。本来、このプロテストは2020年に行われるはずだったが、新型コロナウイルス感染拡大の影響で翌年に延期されていた。  この年の合格者は、佐久間(トップ合格)こそ未勝利だが、同7位タイ通過のリ・ハナ(韓)が早くもツアー優勝を達成。20位タイの桑木志帆はメルセデス・ランキング10位と健闘しており、こちらも層の厚い年代となった。  ちなみに今季メルセデス・ランキングトップ10のプロテストの結果は次の通りだ。 1位 山下美夢有(2019年6位タイ) 2位 申ジエ(免除) 3位 岩井明愛(2020年3位) 4位 小祝さくら(2017年19位タイ) 5位 櫻井心那(2021年12位) 6位 岩井千怜(2020年9位タイ) 7位 吉田優利(2019年12位タイ) 8位 川岸史果(2016年7位タイ) 9位 鈴木愛(2013年3位) 10位 桑木志帆(2020年20位タイ)  プロテストに順位はつくものの、それぞれが合格率3%という難関を突破してきただけに、合格者の実力は紙一重ということ。通過順位とその後の活躍にはそこまでの相関がないことが分かる。  そして清本は、2024年は無条件でステップツアーへの出場が可能だ。昨年下部ツアーで5勝し賞金女王となった櫻井は、今季レギュラーツアーで4勝をマークし、メルセデス・ランキングで5位と躍進した。さて、最終予選会で厳しいプロの洗礼を浴びた清本は、2024年にどのような成績を残すのだろうか。
女子ゴルフ
dot. 2023/12/07 17:30
「私は多動なんですよ」原点は“恋心”という女性心理学者(68)がダイバーシティの旗を振るまで
高橋真理子 高橋真理子
「私は多動なんですよ」原点は“恋心”という女性心理学者(68)がダイバーシティの旗を振るまで
  理化学研究所で発見された113番元素ニホニウムの記念プレートの前に立つ仲真紀子さん=埼玉県和光市の理化学研究所西門前  子どもの記憶について研究していたころ、「子どもの供述の信用性はどの程度だろうか」と弁護士から相談を受けた。記録を読んでみると、質問する大人が誘導している。「これじゃいけない」と思って目撃証言の研究を始め、のめり込んだのが心理学者の仲真紀子さんだ。20年ほど前にイギリスで「司法面接」という手法に出合い、それを国内に広めてきた。  昨年4月から、理化学研究所の理事を務める。2020年に科学技術基本法が改正されて科学技術・イノベーション基本法となり、「科学技術」に人文科学も含めるようになった。「それで文系の私が呼ばれたんだと思う」。担当はダイバーシティ、若手育成、国際、広報。人懐っこい笑顔で忙しく動き回りながら、女性研究者を増やそうと旗を振っている。 (聞き手・構成/科学ジャーナリスト・高橋真理子) 子どもからどう話を聞くか ――司法面接とは、どういうものですか?  簡単に言うと、被害にあった疑いのある子どもから事情聴取をするときの面接手法です。子ども自身の言葉で話してもらうこと、録音・録画すること、児童相談所の職員や警察官、検察官が連携して面接回数を最小限に抑えること、などの特徴があります。2015年に厚生労働省、警察庁、最高検察庁から通達が出されて、3機関が連携しやすい環境が整い、全国で行われるようになりました。それを受けて、司法面接の録音・録画を裁判の証拠として扱えるように今年、法律も改正されました。 ――ほお、社会にどんどん浸透してきているんですね。いつごろから取り組んでこられたんですか?  1999年にアイルランドで「法と心理学」の国際学会があったんです。私は「いかに子どもが誘導されやすいか」「記憶が変わってしまうか」という研究結果を報告した。そのときイギリスの研究者が「イギリスでも同じような問題があったけど、こうやっているよ」って司法面接のことを教えてくれた。これだ、って思って、まずはイギリスのガイドラインを翻訳しました。  国際学会に行ったのは千葉大学の助教授のときで、その前に弁護士さんから子どもの供述の信用性について尋ねられたことがあったんです。それをきっかけに目撃研究に引き込まれ、東京都立大学(現・首都大学東京)に移ってからは「子どもからどうやって話を聞けばいいか」という研究を進めました。  2003年に北海道大学に移り、北大は自由というか、新しいことに対して本当にオープンで、北大と児童相談所が契約を結んで年に3回ぐらい実務家が研修を受けるプログラムができたんです。 ――へえ。それは素晴らしい取り組みでしたね。北大は公募ですか? 司法面接研修で撮った一コマ。子どもが落ち着ける環境で、子どもに安心して話してもらうようにする=北海道大学にあった研究用模擬司法面接室  はい、教授の公募が出たので応募したんです。着任してみると、比較的大きなプロジェクトが次から次に来た。それまでは年間50万円から100万円ぐらいの科学研究費を取って個人研究をしていたんですが、北大に行ったらいきなり1000万円のプロジェクトに応募するから共同でやりましょうと言われた。それは不採択になったんですが、その後、文部科学省の大学院改革関係のプログラムがあって、「その代表をやって」と言われて引き受けました。  当時、人文系の博士号は一生かけて取るもので、大学院在学中に博士号を取る人は少なかった。それを理系と同じように博士課程の3年で学位を取れるようにしたいというのが文科省の意向でした。 雰囲気を醸成していった ――それはすごく大変そう。古いやり方に固執する人がいっぱいいたのではないですか?  教授会のメンバーは100人ぐらいで女性はほんの2、3人だったんですよ。新しく来たばかりの仲さんはちょっと変わっているし、だからやってもらうか、みたいな感じだったかもしれないですね。  私、いまの言葉で言えばハイパーアクティブ、多動なんです。子どものころは「おっちょこちょい」って言われていて、これは博多弁で「落ち着きがない」という意味です。大人になって、自分の人生を振り返っても多動であるのは間違いないです。でも、ちょっと変わっているから得したかもしれませんね。なんか、みんな言うことを聞いてくれた。 ――え~、本当ですか?  はい。まあ、実際にはなかなかすぐには動かないですけれど、みんなで冊子を作って「私が思う学位の基準」みたいなものを書いてもらったり、英国や米国をはじめ海外から研究者を呼んできて3年で学位を取る、取らせる工夫を話してもらったり、こちらからも学生を海外に派遣したりして、何となく雰囲気を高めるっていうようなことをやりましたね。 ――それで文系も3年で博士号を取れるようになった。いやあ、大きな仕事をされましたね。  みんなで、だんだんとですね。過大評価しているかもしれない、自分の中で。ただ、この経験があったから、自分の専門の心理学の分野で大きなプロジェクトを動かせたんだと思います。  2008年から3年間は科学技術振興機構(JST)社会技術研究開発センター(RISTEX)の「犯罪から子どもを守る 司法面接法の開発と訓練」の代表になり、2011年からは文科省の「新学術領域研究」というプログラムの中で「法と人間科学」という領域を立ち上げ、代表になりました。50人ぐらいの研究者がチームに分かれて研究を進めたんです。RISTEXではもう一度「多専門連携による司法面接の実施を促進する研修プログラムの開発と実装」というプロジェクトの代表を務めました。 ――まさに司法面接を日本に定着させるのに中心的な役割を果たしてこられたんですね。そもそも、どうして心理学の道へ? 役員応接室で語る仲真紀子さん    私は鉄腕アトムで育った世代で、お茶の水博士にあこがれて高校生のときは理系だと思っていたんですが、ちょっとひよって心理学に行ったんですね。長い話になっちゃいますけど、高校のときアメリカに1年間留学する制度があって……。 ――はい、AFS(国際教育交流を進める民間団体の一つ)ですね。  そうそう、それで1年米国に行って帰ってきたら数学を忘れてしまっていて(笑)。父は建築会社に勤める建築士で、私も建築みたいなことをやりたいなと思い、お茶の水女子大学には美学というのがあって、そこに行ったら建築物を美学的な観点から研究できそうだということで哲学科美学専攻に入りました。  これはオフレコかもしれませんけど、好きだった男の子が心理学をやっていて、恋心とあいまって心理学に関心を持ったんですよ。行動実験とかをするので、理科系っぽい部分もある。あ、こっちのほうが向いているかもと思って、1年生の終わりに哲学の先生に「関心が変わりました」って言ったら、2年生から心理学科に移らせてもらえた。でも、その男の子にはあっさりふられて、心理学だけが残ったみたいな(笑)。 ――へえ。 一人旅をしているときに知り合った  私は一人旅が好きで、それも心が落ち着いていないから、旅をして自分のことや将来のことを考えようとしていたんだと思うんです。あのころはユースホステルを利用して、そこで出会った若者どうしが何日か一緒に旅をしていました。そうやって知り合ったのが旦那です。 ――どんな方だったんですか?  私より3つ下で、私は高校で留学して学年が1年遅れているから、出会ったのは私が4年生にあがる春休み、彼は2年生にあがるときでしたね。筑波大学で生物を勉強していました。細胞膜とかシナプスとか。今はコンピューターを使った生物情報学が専門になっています。埼玉県出身で、筑波大の寮で生活していた。  それで私が修士1年のときに結婚しちゃったんですよ。私は若いころ、妹のほうが親に可愛がられていていいなあと思ったり、なんか暗かったんです。今も陰キャだと思うんですけど。 ――え? 全然暗くないですよ。  そうそう、そういう感じはしないですよね。でも、昔はもっと孤独で、何のために私はここにいるんだろう、とか思って、今から思うとせっつくようにして(笑)、結婚したんです。 ――彼は何て言ったんですか?   双子の娘たちと保育所で=1991年  よくわかっていない学部生だったから(笑)、「わかった。じゃ、結婚しよう」って。私とはタイプが全然違って、堅いというか、精緻というか。私がフワッとしたことを言うと、それじゃ意味がわからない、もっと詳しく説明してくれないと、というようなことを言う。私が修士論文を書けた半分は議論の相手になってくれた彼のお陰です。とても感謝しています。最初に住んだのは、筑波大の夫婦向けの寮でした。  私が修士を終えたとき、お茶大の博士課程は人間文化研究科という科が一つだけで、私は文教育学部から進みましたけど、理学部からも家政学部からも来た。こぢんまりしたところで専門が違う人どうしでワイワイやっていたから、自分がやっていることが自然科学系と違うという意識はあんまりないんですよね。  博士課程の最後の年に妊娠し、助手になった年の10月に出産しました。女の子の双子だったんです。お茶大から歩いていけるところに住んで、子どもたちは保育所に入れました。彼は修士を終えるとシンクタンクに就職しました。すごく忙しい職場で、帰りは毎日深夜。私はもうよく覚えていないくらい大変でした。でも、私がそう言うと「いやいや、俺だってミルクをあげた」とか言いますけどね。 米国留学は「行って本当によかった」 ――お茶大の助手は3年で終わったのですね。  最初から3年と言われていました。それで、先輩たちと同様に就職活動をして、千葉大教育学部へ。教育心理学教室の講師になった。そこで35歳以下の研究者を対象にした在外研究プログラムにぎりぎりのタイミングで申請し、米国のデューク大学に10カ月間、留学できました。子どもを2人連れて行くと言ったら、夫からは「離婚を覚悟で行ってくれ」なんて言われてしまい、職場からは「今行ってもらっては困る」とも言われたんですが、行ってしまった。  行って本当に良かった。結局、夫も4回ぐらい米国に遊びに来ました。子どもたちは幼稚園のあとはYMCAのアフタースクールのプログラムに行き、手続きも簡単で、私は存分に研究ができた。帰国してから英語の論文を米国の雑誌に出しました。それまで、日本の心理学は日本語の論文を日本の学会誌に出すのがメインだった。私にとっては英語論文を書くということ自体が新しいことでした。 ――どういう研究をされたのですか?  自然文脈の中での記憶です。実験室で何かをパッと見せて覚えているかといった研究ではなく、例えば漢字を覚えるには「書いて覚える」のがいいとよく言いますよね。それは本当に有用なのか、というようなことを調べた。   双子の娘たちの小学校入学式=1991年4月  いつのまにか旦那は筑波大の元の指導教員のところに通い始め、仕事を続けながら論文博士を取りました。もともと研究者になりたいと言っていたんです。修士で就職したときは「あれ? 研究者にならないんだ」と意外に思ったんですが、あとから考えてみると「男性が稼がなければ」というような気持ちを持ってしまったのかもしれません。学位を取れたころには,短大の教員をしていました。 子育てはずっと綱渡り  ところが、その短大がやがて閉校となり、筑波大を定年退職した恩師とともに九州産業大学に行くことになった。私は都立大にいたときで、「え~、行っちゃうの」と思いましたが、しょうがないっていう感じでした。それから20年ぐらい別居です。 ――お子さんたちは?  小学校に入ったあと保育所仲間のお母さんたちと一緒に学童保育所をつくりました。でも、学童保育は3年生まで。そのころ私の父母が同じマンションに住むようになって、晩ごはんはおばあちゃんちで食べてねっていうようなことができるようになった。子どもが小さいころはベビーシッターも雇ったし、近所の方にも助けていただいた。もう、ずっと綱渡りでした。  高校は2人ともニュージーランドに留学したんです。子どものころ、私と一緒にアメリカに行ったことも影響したかもしれません。アメリカはお金が高いから無理だよと言っていたら、アメリカより安めで行けるということを自分たちで調べて。 ――え、3年間、向こうの高校ですか?  そうです。 ――たくましいですね。  親がこんなんだから、お母さんお父さんには任せられないと思ったんでしょうね。卒業して帰ってきて日本の大学に行きました。大学に入ったらそれぞれ下宿です。 ――そうすると、お嬢さんたちが高校に入って以降は、伸び伸びと研究ができたわけですね。  そういうことになりますね。女性研究者のライフって、本当に親のこととか子どものこととか夫のこととか、みんな絡まってきますよね。自分一人でどうっていうふうにならない。  北大の定年は63歳だったんですけれど、61歳のときに立命館大学に新しい学部をつくるから来てくれませんかと言われて、大阪いばらきキャンパスにできた総合心理学部に移りました。 ――夫さんがいる福岡に近づいたわけですね。  彼はもう本当に形の決まった生活をしている。朝4時ぐらいに起きて6時ぐらいに大学の研究室に行って、決まった時間にコーヒーを入れて仕事を始める、みたいな。いつも福岡に行くとそれに付き合わされます。私は2カ月に1度ぐらい福岡に行き、彼もそれぐらいのペースで大阪に来ていました。最近は朝ごはんを食べるときはZoomで喋りながら食べています。 ――へえ、北大時代はどうしていたんですか? 夫と真紀子さんの両親と出かけた家族旅行=2017年12月、長野  もう少し疎遠でしたけど、でもだいたい同じくらいのペースで行ったり来たりしていた。どっちかと言うと、私のほうが結婚して、って言ったし、押しかけ女房というか、弱い立場にあるなあって思うんです。でも、嫌なことは嫌って言うようにしている。例えば、映画を女性と2人で観に行かれたら嫌だなと思う。だから、面白い映画をやっているという話が出たときには、「誰と行くの?」って聞いて、「1人だよ」と言われたら、「ならいいけど」みたいな。本当に嫌だもん。 ――お気持ちが若いですねえ。  そうですか。ちょっとねえ、立場が弱いんですよ(笑)。 研究の世界に女性を増やす ――理研の理事になっていかがですか?  もう都度都度、「女性」って言っています。 ――大学にいたときはどうだったんですか?  私自身は、あまり女性女性っていうふうに思わないできたんです。日本学術会議でジェンダー分科会っていうのがあって、それには入っていましたけど、最初は少しうっとうしいぐらいに思っていた。ホント、申し訳ない。 ――研究で手いっぱいだったんですよね。お気持ち、わかります。  まあ、そういうことですね。でも、私の研究室は女性比率が高い。ある研究者が言っていたんですけど、女性がいっぱいいるところのほうが女性にとっては敷居が低いって。ある意味、当たり前のことです。だから、研究の世界に女性を増やすことが大事だなと思う。とくにPI(研究主宰者)になる女性が増えてほしいと思って、今は口を開けば「女性」って言っています。そればっかりの人だなと思われているかもしれません(笑)。 役員フロアにある自室のデスクに座る仲真紀子さん 仲真紀子(なか・まきこ)/1955年福岡市生まれ。父親の転勤で小学校低学年のときに千葉県へ。1979年お茶の水女子大学卒、大学院へ。学術博士。1984~87年同大大学院人間文化研究科助手、1987~99年千葉大学教育学部講師、助教授、1999~2003年東京都立大学人文学部助教授、2003~17年北海道大学大学院文学研究科教授、2017~21年立命館大学総合心理学部教授、2021年~同大OIC総合研究機構招聘研究教授、2022年~理化学研究所理事。
dot. 2023/12/05 17:00
愛子さまを「抱きしめ」続けた天皇陛下の温かいまなざし 離乳食とお風呂の育児にも参加!
永井貴子 永井貴子
愛子さまを「抱きしめ」続けた天皇陛下の温かいまなざし 離乳食とお風呂の育児にも参加!
ドイツから帰国した皇太子さま(当時)を、雅子さまと一緒に出迎える愛子さま=2011年、東宮御所(代表撮影/JMPA)    12月1日に22歳の誕生日を迎えた愛子さま。学習院大学の4年生の今、卒業論文の執筆にはげみつつも、キャンパス生活を楽しんでいる。宮殿での一般参賀や「皇室会議」の手続きへの参加など、成年皇族としての経験も積んでいる。来春には大学を卒業し、新たな一歩を踏み出す愛子さま。22年の歳月をふりかえると、愛子さまのそばにはいつも、温かなまなざしの「父」がいた。 *   *   * 「愛子の名前のとおり、人を愛し、そして人からも愛される人間に育ってほしいと思います。それには、私たちが愛情を込めて育ててあげることが大切です」  2005年2月、皇太子だった天皇陛下は自身の誕生日会見でそう述べると、米国の学者ドロシー・ロー・ノルトの「こども」という詩を、ゆっくりと読み上げた。    批判ばかりされた 子どもは  非難することを おぼえる  殴られて大きくなった 子どもは  力にたよることを おぼえる (中略)  しかし、激励をうけた 子どもは  自信を おぼえる  寛容にであった 子どもは  忍耐を おぼえる (中略)  可愛がられ 抱きしめられた 子どもは  世界中の愛情を 感じとることを おぼえる    愛子さまの子育てに、雅子さまとまっすぐに向き合おうとする陛下の思いが伝わってくる。   満1歳をむかえた愛子さまを抱き上げる、皇太子さま(当時)。両陛下(現・上皇ご夫妻)へのあいさつのため皇居に向かう=2002年12月1日、東宮御所(代表撮影/JMPA)   愛子さまのお風呂と離乳食も経験した陛下  東宮家は、公より私を優先している――そう言われることがあっても、家族との時間を大切にしてきた陛下。 「子供をお風呂に入れたり、散歩に連れて行ったり、離乳食をあげることなどを通じて子供との一体感を強く感じます」  2003年2月、43歳の誕生日会見で、皇太子さまは父親の育児への参加が母親の負担を軽くし、子供との触れ合いを深めると述べた。  元宮内庁職員は、 「保守的な皇室で、ましてや皇太子がそう口にすることに、『東宮家は公務よりも家庭が優先』と反発もあった」  と振り返る。今から約20年前。父親の積極的な育児参加が周囲に十分に理解され、許容される時代ではなかった。   3歳の誕生日を前に、東宮御所の庭でご両親と一緒に遊ぶ愛子さま=2004年11月、東宮御所、宮内庁提供   【こちらも話題】 「愛子は、お化け屋敷が好きなんですよ」と雅子さま 天皇陛下の同級生が語る温かなご一家〈愛子さま22歳〉 https://dot.asahi.com/articles/-/207711     学習院幼稚園での父親参観のため、愛子さまと手をつないで登園する皇太子さま(当時)=2006年6月、東京・目白(代表撮影/JMPA)    06年6月。シトシトと雨が降り続けるなか、雨がっぱを着て、身体より大きな傘を差す幼い愛子さまと、その小さな手をしっかりと握りながら歩く皇太子さまの姿があった。  この日は、学習院幼稚園での父親参観の日。愛子さまを見つめながら幸せそうに歩く姿は、ごく普通の父親と変わらないものだった。   愛子さまの相撲好きは有名。大相撲秋場所の初日に東京・国技館で観戦。大きな口を開けて応援する愛子さまの表情をのぞく皇太子さま(当時) =2006年9月、東京・国技館(代表撮影/JMPA)    この頃の愛子さまが熱中していたのが、相撲だ。  4歳のときには、住まいで「パパ」や東宮職の職員と技を再現しながら相撲を取り、力士の四股名や出身地を暗記する様子を、皇太子さまが明かしている。  同年9月、東京・両国であった大相撲秋場所をご一家で観戦。大きな口を開けて応援し、星取表に勝敗を書き込む様子が見られた。テレビで観戦しながら、「だれだれに 星がついたよ うれしいな」と七五調で文を作るほど熱中していると、皇太子さまも会見で明かしている。     ドイツから帰国した皇太子さま(当時)を、雅子さまと一緒に出迎えた愛子さま。愛子さまの背に優しく触れる皇太子さまの愛情深い仕草=2011年、東宮御所(代表撮影/JMPA)    11年、愛子さまは学習院初等科の4年生になった。長い髪を一つに結い、仕草もお姉さんらしくなった。しかし、学校生活への悩みを抱えていた時期でもあった。  ドイツから帰国した「パパ」を、東宮御所の玄関で雅子さまと出迎えた愛子さま。  安心した表情の娘を、目尻にしわを寄せて見つめ、そして背中に手を添えて東宮御所に入っていく皇太子さまの仕草から、家族の愛情が伝わってきた。   父親ゆずりのユーモアのセンス 「敬宮愛子」  17年3月。学習院女子中等科の卒業式で、名前を呼ばれた愛子さまが起立した。その様子を、娘を見守る、穏やかな表情でご夫妻が見守っていた。   愛子さまの学習院女子中等科の卒業式に向かうご一家=2017年3月、東京・新宿区(代表撮影/JMPA)    愛子さまは卒業の記念文集のために、「世界の平和を願って」という核兵器のない平和な世界を願う作文を書いている。冒頭部分には、「家族に見守られ、毎日学校で学べること、友達が待っていてくれること……なんて幸せなのだろう。なんて平和なのだろう」と家族や周囲への感謝がつづられている。     【こちらも話題】 愛子さまの手にトンボがとまった瞬間、愛犬の由莉ものぞき込んだ 静養先の天皇ご一家 https://dot.asahi.com/articles/-/199535     栃木県の御料牧場を散策中、「ごっつんこ」して笑い合う天皇陛下と雅子さまと、ご両親を見つめる愛子さま=2023年4月、栃木県(代表撮影/JMPA)    愛子さまは20年、学習院大学へ進学した。おばの黒田清子さんの頃と名称は変わったが、同じ文学部日本語日本文学科を専攻。古典に興味を持ち、学びを深めている。  21年には成年を迎え、翌3月に臨んだ成年の記者会見では、父譲りのユーモアのセンスを発揮した。  自身の長所について、「どこでも寝られるところでしょうか」と話し、栃木県の那須御用邸のソファで翌朝まで寝てしまったエピソードなどを明かして記者を笑わせた。  約30分間、原稿に目を落とすことなく記者の質問に答えた愛子さま。陛下が昨年の誕生日会見で、 「会見に向けて一生懸命準備をする様子を目にしていましたので、無事に会見を終えることができ、安堵いたしました」  と、娘を見守る父親としての心境を明かした。そして「今後とも愛子を温かく見守っていただければ幸いです」と加えた。   御料牧場に到着し、栃木県知事や関係者の出迎えを受けてあいさつをする雅子さまと愛子さま=2023年4月、栃木県(代表撮影/JMPA)   「運動が得意で活発でいらしたところは雅子さま、そして優しい笑顔や穏やかな性格はお父さまである陛下によく似ていらっしゃる」  天皇ご一家と長年交流のある人物は話す。  ご両親の愛情に包まれながら成長した愛子さまは来春、大学を卒業する。海外留学などが期待されているが、新しい一歩が愛子さまに、さらに広い世界をもたらしてくれるだろう。 (AERA dot.編集部・永井貴子)   【こちらも話題】 愛子さま22歳に「ますます雅子さまにそっくり」の理由 写真で振り返る https://dot.asahi.com/articles/-/207770  
愛子さま天皇陛下雅子さま皇室
dot. 2023/12/02 09:00
父の高座にあこがれ、弟子入りまでに1年半 講談師・一龍斎貞鏡の誕生秘話
父の高座にあこがれ、弟子入りまでに1年半 講談師・一龍斎貞鏡の誕生秘話
父の美しい高座を観て講談師への道を決意した思い出の国立演芸場で、「名月若松城」を読む(撮影/鈴木愛子)    講談師、七代目一龍斎貞鏡。今年10月、講談界に新たな真打が誕生した。父の高座姿にあこがれ、この世界に入った七代目一龍斎貞鏡だ。父を師匠に、古典講談を叩きこまれた。その師匠が2021年に急逝。落ち込み、眠れぬ日々から立ち直っての真打昇進だった。高座をおりたら、4児の母になる。父から受け継いだ美しい高座と子どもたち。どちらも命がけで守りたい。 *  *  *  高さ7センチの真っ赤なピンヒールを履き、170センチを超える色白のスレンダーな長身を、膝上20センチはあるミニスカートで包んだ茶髪の女子大生が、場違いな雰囲気の国立演芸場の座席に滑りこんだ。家で何げなく手にしたチラシによると、怪談噺(ばなし)をやるらしい。演目は「牡丹燈記(ぼたんとうき)」。中国明代の怪異譚(かいいたん)で三遊亭円朝作の落語「怪談牡丹灯籠(どうろう)」の元となった話である。  初めて観る講談の高座に女子大生は打ちのめされるほど強い衝撃を受けた。湖のほとりや月明かりの中で手をとりあう男女がはっきりと見え、伽羅香木(きゃらこうぼく)の香りまで確かに漂ってきた、と思えた。 「なんと美しい日本語で美しい佇(たたず)まいと姿勢なんだろう。私もこの世界に入りたい」。高座で読んでいたのは、凛(りん)とした古格の美しさで知られた八代目一龍斎貞山(いちりゅうさいていざん)。七代目一龍斎貞鏡(ていきょう・37)が初めて観た父の高座姿だった。  祖父は怪談噺を得意とし「お化けの貞山」として知られた七代目一龍斎貞山、父は古典講談の第一人者八代目貞山、義祖父は世話物の名手六代目神田伯龍(はくりゅう)。世襲制ではない講談界で三代目となるいわばサラブレッド誕生のきっかけである。貞鏡はこの10月、15年の歳月をかけて前座、二ツ目を経て最高位である真打に昇進した。  2008年にデビューした貞鏡が今熱く注目されているのは、伝承されてきた王道の古典講談を伝えていこうと心血を注いでいるからだ。講談にも爆笑ものや音楽をとりいれた新作など様々なものがある。自身も得意なピアノ演奏を取り入れた講談をしたことも。しかし今「物語を表現する美しい日本語」を伝えていきたいという使命感で、古典講談に果敢に取り組んでいるのだ。 改築のため閉場となる国立演芸場のさよなら公演「国立講談三夜」の楽屋。真打昇進を祝って神田陽子から帯のプレゼントがあったりと、お祝いムード。椅子に座るのは人間国宝・神田松鯉(撮影/鈴木愛子)   1年半かけ父の弟子に 毎日つらかった修行時代  演芸評論家、長井好弘(68)は貞鏡が今注目されている理由を語る。 「貞鏡は若いのに貞山が得意としてきた修羅場もの、武芸者、義士伝が大好きで、こういういわゆる硬質なものを硬いまま聞かせてしまえる人というのは今そんなにいない。凛とした背中が伸びた姿勢と古風な言葉遣い、これらを不自然に聞かせないリズムと間をちゃんと持っている」  そんな貞鏡の入門は少々型破りだ。初めて観た父の高座に心打たれ帰宅した貞鏡が、父に声をかける。 「ねぇ、どうやったら講談師になれんの?」  タメ口である。父の答えはいつもの口癖である「知らねえよ」だった。もともと父とはあまり顔を合わさない。父は、貞鏡が小さいころ勝手に入りこみ、台本をまたいでから入室が厳禁となった稽古場に帰宅すると入ってしまう。たまに顔を合わせるたびに、貞鏡は同じ質問を繰り返した。3カ月ほど経つと、父が「いろんな講談会を観にいけ」と一言答えた。女流講談会などを観て歩くうち、ますます気持ちは固まっていく。 「やっぱり、講談師になりたいんだけどどうしたらいいの」  と変わらずのタメ口だ。父は何も答えない。大学卒業が近づいた師走、父がいきなり「着物に着替えろ。行くぞ」と言ってきた。「どこ行くの?」と訊(き)いても答えがないのはいつものこと。母親に母の着物を着せてもらい黙って後についた。着いたのは講談界初の人間国宝一龍斎貞水(ていすい)の湯島の自宅だった。貞山は貞水に娘の入門と自分も名乗っていた貞鏡の名前をつけることを願い出た。「ていきょう? どんな字?」と思いながらもまったく何の知識もないまま08年入門が決まった。帰り道、父の行きつけのラーメン屋で黙ったままラーメンをすすり、黙ったまま帰宅した。父娘二人きりで食べる初めての食事だった。「お父ちゃん、講談師になりたい」と言い出して、1年半近く経っていた。 10月17日、東京会館で380人を超す招待客を迎え開かれた真打昇進披露パーティー。講談界以外からも多くの芸人が集まった。落語家・林家たい平の爆笑の祝辞(撮影/鈴木愛子)    父が師匠になった。寡黙な師匠は何も指示してこない。見習いや前座仕事のやり方も自分で気づき学ぶしかなかった。楽屋入りして畳に手をついて挨拶すれば、スカート丈が短い、畳のへりに指がついている、師匠からこんなことも教えてもらってないのかと先輩から小言が飛ぶ。楽屋でごみ箱が投げつけられたときは、思わず涙を流した。その日の帰り、同行の師匠のかばんを持って帰宅すると玄関に入った途端、師匠の怒声が響いた。同じ楽屋にいて貞鏡の涙を父は見逃さなかったのだ。「ふざけるな! 女をだすんじゃねえ」。父からそして師匠から怒鳴られた最初で最後の叱声(しっせい)だった。 「前座修行の日々は生きていくのがつらくて、今日こそはやめようと毎日思ってました。でもやめたら父の顔に泥を塗ることになる、それに父の講談がすごく好きだという思いで踏みとどまれた」  寡黙な師匠からは「修羅場」を徹底的に叩き込まれた。修羅場とは、軍記ものの勇壮な場面を声高らかにリズミカルに独特の調子で語る講談の基礎となる語りだ。前座の必修とはいえ、普通なら修羅場ものからそろそろ別の演目も習い始めるころ、「まだ早い」と、「本能寺の変」後の明智光秀と羽柴秀吉を描いた「山崎軍記」をひたすら1年間、続けさせられた。これがどれほど後の貞鏡の底力を形成することになるかは、この時は貞鏡自身もわからなかった。  八代目貞山は、家庭の事情で寂しい幼少期を過ごしたせいなのか、じつに口数が少なかった。 「師匠の死後にいろいろな方から初めていろんなことを聞かされて知りました。きっとつらかった過去を封じたのだと思います」  と貞鏡が語るように、まるで古武士のような佇まいの父だった。貞山の父の七代目が59歳で亡くなり、四代目神田伯治(はくじ)(後の六代目神田伯龍)の養子となった父自身も、思いもかけずに大学卒業後に入門、講談の道へ進んできた。 師匠との親子会では 握手求める客の長い列 「父親の八代目の高座はそれは凛とした古格のある芸でした。常々講釈は女性がやるもんじゃない、と言っていたのに娘さんが入門してきたときはほんとに驚いたもんです」  と語るのは、3歳ごろの貞鏡の初恋の人“飴(あめ)のおじちゃん”と呼ばれた講談協会会長、宝井琴調(きんちょう・68)である。麻雀(マージャン)が好きな貞山宅に行くたびに、いつもカラフルな飴をもって来た。 貞鏡の原点が国立演芸場。「父を観たのは確かこの席でした」。オフィスエムズ・加藤浩は、「理想の講談にストイックなまでに突き進んでいる」と言う(撮影/鈴木愛子)    貞山は女性も含めて何人もの入門希望者を断ってきた。講談への強い美意識と想いが自身以外の芸人を育てる方向には向けなかったのだと思われる。だから貞鏡の入門はやはり父親としての愛情なのだ。貞山は60歳のとき心臓病を患った。安静にしていればいいが、高座で1時間も喋(しゃべ)るなんて自殺行為だと医師にいわれても、後者を選んだのは、貞鏡に伝えていきたいという一心だったはずだ。細かいことはいっさい話さない口の重い貞山が、講談師の骨格を作るべく貞鏡に基本を激しく叩き込んだ。 「もっと声を低く、もっと低く読め!」 「腹から声を出して響くような声を作れ!」 「もっと歌い調子で読め!」  腹式呼吸を徹底的に仕込まれ、稽古を重ねた。源義経と主従を描いた軍記物「義経記」を読んだときは、「なかなかいいよ」とぼそりと言ってくれた。貞山と中学・高校時代からの付き合いで講談会の手伝いもしてきた三井英治(76)と廣川敬三(75)は珍しく貞山が貞鏡を褒めるのを聞いたことがあった。 「あいつには華があるんだ」  4年の前座修行を経て、二ツ目に昇進した貞鏡は勉強会などさまざまな会に果敢に挑戦しだした。毎回盛況だった師匠貞山との親子会では、終演後貞鏡に、挨拶や握手を求める男性客の長い列ができ、その横で喜びを押し隠すように無言で立っている貞山の姿が印象的だったものだ。二ツ目として活躍して11年、今年10月、貞鏡はついに真打に昇進した。 (文中敬称略)(文・守田梢路(もりたこみ)) ※記事の続きはAERA 2023年12月4日号でご覧いただけます
現代の肖像
AERA 2023/12/01 18:00
学費は年700万円超!それでもイギリス全寮制学校に「留学させたい」日本人親子が増えている理由
学費は年700万円超!それでもイギリス全寮制学校に「留学させたい」日本人親子が増えている理由
バッキンガム公爵の邸宅を校舎にした名門「ストウ・スクール」(Stowe School提供)    グローバル教育への関心が高まるなか、英国の全寮制学校「ボーディングスクール」が、子どもを留学させたい親の注目を集めています。海外大学への進学を早くから見据えて、高額な費用を工面し、小学生のうちから英国に送り出す例や、名門私立小より海外留学を選ぶ家庭も。注目の理由を探りました。 *  *  *  11月4日、東京・丸の内のステーションコンファレンス東京で開かれた「ブリティッシュ・ボーディングスクール・フェア・ジャパン」には、国内各地から約200組の親子が集まった。  このイベントは、英国の全寮制学校に留学を検討している日本人のための相談会。450年の歴史と伝統を誇る「ラグビー・スクール」や、オックスブリッジ(オックスフォード大学とケンブリッジ大学)への進学率が高い女子校「チェルトナム・レディース・カレッジ」など、名門15校の関係者が来日。各校のブースはどこも来場者が途切れることなくにぎわった。  小中学生の親子の姿がとりわけ目立ったのは、文武両道の名門「ミルフィールド・スクール」のブースだ。学校説明を日本語で手助けしていたのは、同校出身・町野有夏さん(20)の母・教子さん。有夏さんはミルフィールド校で学び、2年連続で国際数学オリンピック金メダルに輝き、現在は米マサッチューセッツ工科大学で学ぶ。 「札幌の公立小学校に通っていた娘は、夫の仕事の関係で10歳のときに転校しました。最初は1年だけ留学するはずが、充実した環境だったので結局、高校卒業まで水泳と数学、ピアノに打ち込みました」(教子さん)  フェアを主催した、留学をサポートする企業「ピッパズ・ガーディアンズ」代表のベン・ヒューズさんは、「近年日本で英国式教育への関心が急速に高まっている」と語る。 「英国のボーディングスクール側も多様性を受け入れる意識が高く、生徒の国籍を隔てないように、勤勉で協調性のある日本人の子どもを入学させたいと考えています」  英国の全寮制学校には、香港約5600人、中国約4700人、ロシア約1000人の留学生が親元から離れて通うが、日本からは477人。ここ数年は10%ずつ増え右肩上がりの傾向にあるものの、まだまだマイノリティーの立場にあるという(2023年1月ISC CENSUS AND ANNUAL REPORT調べ)。   【こちらも話題】 早実初等部が志願者増加数前年度比トップ! 首都圏私立小「お受験」志願者ランキング2022 https://dot.asahi.com/articles/-/14805 スポーツの強豪校「ミルフィールド・スクール」のブース。参加者が担当者の話に熱心に耳を傾けていた(撮影/村松美緒)   全寮制学校の何が魅力なのか   英国の全寮制学校は、同国内に430校以上ある。郊外の緑豊かな広い敷地に、風格ある校舎や学寮が点在し、生徒たちが寝食をともにしながら切磋琢磨する。さながら映画「ハリー・ポッター」の舞台だ。これまでなじみの薄かった日本人親子をなぜここまでひきつけるのか。来場者に話を聞いた。 「日本の国際競争力が衰えるなか、海外で活躍できる可能性を子どもに与えたい」と語ったのは、開業医の男性。都内のインターナショナルスクールに通う小学4年生の長女(10)、2年生の次女(8)、日本式の幼稚園年長の三女(6)とともに参加した。 「自分の生き残りに躍起になっている日本の政治家の姿を見ていると、国内にいたままでは明るい未来が描きにくい。『英国に行きたい』と言い出したのは長女自身。娘3人の関心は演劇、算数、スポーツとそれぞれ異なるため、1クラス10人程度の少人数制で個性にとことん寄り添ってくれる全寮制学校に魅力を感じています」  都内の小中高一貫校に通う高校1年生の男子(15)は、来年9月から英南西部にある共学校「ウェリントン・スクール」への転入を希望している。  同校のカリキュラムは、大学での専攻を見据えて3~4科目を集中して学ぶ「Aレベル」を採用。「宇宙化学に興味があり、深く掘り下げて学べるAレベルは魅力的。将来とつなげて履修科目を考えたい」と男子生徒は話す。   一緒に参加した母親(40)は、「日本の受験偏重教育で、受け身の姿勢を染み込ませたくない。息子は海外進学を視野に中学生のうちから英語で討論したり、考えをエッセーにまとめたりする訓練を積んできました。英国で好きな分野を突き詰めてほしい」と話した。  学業面だけでなく、寮という国際的かつアットホームな環境で、規則正しい生活や礼儀作法、自己管理力が身につくのもボーディングスクールの特徴だ。スポーツ、芸術など週末のアクティビティーや、寮母らスタッフによる生活面のサポートも充実している。 業や家畜の世話など、子どもの自然体の時間を大切にする名門小学校「エルムズ・スクール」は、小学生がブースに立ってご案内(撮影/曽根牧子)    幼稚園年中の娘(5)と一緒に参加した男性(50)は、「早い年齢のほうが英語環境にも適応しやすいので、Year4(日本の小学3年生相当)での渡英の可能性を探っている」と言う。学校の方針にもよるが、日本人の入学希望が多いYear9(日本の中学1~2年相当)時には、CEFR B1レベル程度の英語力が求められるそうだ。  ネックになるのは高額な教育費だ。1年間の授業料・寮費は700万円超。これに渡航費や休み期間のホームステイ代、ガーディアン(身元保証人)費、医療保険費などが別途かかる。「スイスや米国に比べるとリーズナブル」(ベンさん)とはいえ、一般家庭でやりくりできる金額ではないだろう。前出の開業医も「高額な費用を娘3人分捻出するのは相当厳しい」と頭を悩ませる。富裕層からしても「高嶺の花」なのだ。  また、卒業後、日本の大学進学との相性の問題もある。小学5年生の娘と参加した母親(43)は、「知られざる世界を見ることができて視野が広がったが、娘は日本の医学部に進学したいと考えているため、英国ボーディングスクールとの両立には壁を感じた」と話した。  映画や小説の世界の話と思われていた英国の全寮制学校も、今や子どもを通わせる「もう一つの選択肢」というとらえ方が広がりつつある。親は子どもの個性を見極めたうえで、情報収集し、長い目で計画を立てる必要がありそうだ。 (取材・文/曽根牧子)   【こちらも話題】 中高一貫校に入っても不登校や学力最下位に 中学受験のプロが見た、「つまずく生徒」の共通点とは https://dot.asahi.com/articles/-/203345
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AERA with Kids+ 2023/11/29 16:00
南野陽子の「男運の悪さ」はどこからくるのか “我が強い”ゆえ優しくされると“弱い”一面も
宝泉薫 宝泉薫
南野陽子の「男運の悪さ」はどこからくるのか “我が強い”ゆえ優しくされると“弱い”一面も
離婚を発表した南野陽子    南野陽子が「セレブ婚」に終止符を打った。2011年に、病院経営などに関わる男性と結婚。会見では高級ブランドの婚約指輪を見せ、喜びを語ったが、その直後からこの男性にはさまざまなトラブルが報じられてきた。投資話で億単位の金をだまし取ったとか、銀座のクラブママと不倫をして隠し子をめぐってモメたとか、そういうトラブルだ。それでも4年前、彼女は週刊誌の取材に対し、 「トラブルなどでこれ以上病みたくはないんです。でも、家族としては支えていきたいですし、仲良くしていきたい」  と、発言。  しかし、今年の11月21日、この男性がついに逮捕されてしまった。特別養護老人ホームなどを運営する社会福祉法人の資金1500万円を横領した疑いだ。  その翌日、 「ショックです。何故…悲しさ、怒り、情けなさ…いろんな感情が湧いています」  と、コメント。そして、27日には、 「私事ですが、離婚いたしました。お互いに今向き合うべきことから目を背けることなく、今後の人生を歩んでいきたいと思います」  という発表をした。  1984年にデビューした彼女は翌年、ドラマ「スケバン刑事」シリーズ(フジテレビ系)の二代目麻宮サキ役に起用され「ナンノ」の愛称で人気者に。歌手としても「話しかけたかった」や「はいからさんが通る」などをヒットさせ、90年代以降は女優業を中心に活躍してきた。   【こちらも話題】 ミッツ・マングローブ「南野陽子が露呈させた斉藤由貴の立ち位置」 https://dot.asahi.com/articles/-/113060 南野陽子   体育会系やヤンキー系に好かれる傾向  恋愛については、アイドル時代から「23歳までには結婚したい」と公言。ただ、熱愛と破局を繰り返し「恋多き女」だが「男運はない」などといわれるようになる。  その相手はプロ野球選手やジャニーズアイドル、さらにTUBEの前田亘輝とは結婚目前ともいわれたが、成就しなかった。その失恋を慰めたのが、米米CLUBのカールスモーキー石井(石井竜也)。94年には交際宣言までする関係となった。  が、彼女が石井のマンションを合鍵で訪れた際、彼の浮気相手と遭遇してしまい、大喧嘩になったことから破局。その後、2007年から4年ほど、クリエイティブディレクターの男性と交際したものの、結婚にはいたらなかった。年齢的にも子づくりを急ぎたかった彼女と相手とのあいだにズレが生じていたとされる。  ただ、別れた直後に知り合った男性とスピード婚。その相手が今回、離婚した男性だったわけだ。  では実際に、彼女は「男運が悪い」のか。  そもそも、男が寄ってこなければ、恋は始まらない。問題は、その男たちのタイプだったり、彼女がそれによってどうなりやすいかというパターンだろう。  アイドル時代から、彼女は男性ファンが多かった。それも体育会系とかヤンキー系とかに好かれる傾向があり、たとえば、同学年のプロ野球選手・清原和博も新人時代「好きな女性芸能人」に彼女を挙げていた。   【こちらも話題】 小泉今日子が離婚した理由 https://dot.asahi.com/articles/-/94374 南野陽子   求められる「いい女」的なもの  そういう男性はルックス優先というか「いい女」的なものをまず求めて、そこから絆を強めていくような恋愛をしがちだ。そのぶん、女性ならではのロマンチックな内面に気づきにくく、それよりは家事などの生活能力を重視したりする。  したがって、彼女と同じ年に歌手デビューした斉藤由貴のようなタイプにはあまり向かわない。その点、南野は美貌が売りで、お嬢さま育ちでもあり「いい女」的なイメージが先行しがちだ。が、その一方で、かなりロマンチックな内面も持ち合わせていた。  女子校時代、同じ電車を使う他校の男子に憧れ「ギザギザ君」というあだ名をひそかにつけてみたり。子どもの頃に書いたという童話(マンガだったかも?)のあらすじも、ホコリ(埃)を擬人化したかわいくてユニークなものだった。そんなところもちゃんと理解してくれる相手じゃないと、物足らないのではないか。  そして何より、彼女は我が強い。デビューにあたっては、事務所が弱小だったため、自分で仕事を取りにいった。彼女の存在を知らしめた「デラックスマガジン」(講談社)のグラビアも自ら交渉して増ページに成功。前出の「スケバン刑事」にせよ「フジカラー」のCMにせよ、自ら調べてオーディションを受けたという。  そんな性格は事務所とのトラブルでさらにエスカレートした。彼女のマネジメントは作曲家・都倉俊一が経営するエスワン・カンパニーと劇団青年座が分担して行っていたが、そのせいで、ダブルブッキングが続出。89年には、東京ドームで開催された富士通の新作パソコン発表イベントをドタキャンする騒動も起きた。   【こちらも話題】 セレブ妻・吉瀬美智子が離婚 3年前に明かしていた「寝室」での出来事 https://dot.asahi.com/articles/-/74639 南野陽子   国生さゆりと似たタイプ  また、エスワン・カンパニーはいわゆるブラック体質で、トップアイドルかつ屋台骨でもある彼女にさえ、数万円の月給しか払っていなかった。そのため、彼女は独立して個人事務所を作るが、そのしっぺ返しとして仕事を干され「生意気」うんぬんというバッシングも受けることに。負けじと雑誌で猛反論したりもした。  それでも同情した勢力が彼女を映画界に引っ張り出し、映画女優として盛り返すわけだ。この経験が自分の力でやっていけるという自信にも、ともすれば過信にもつながったのだろう。  ただ、恋愛については芸能活動以上に、自力だけではどうにもならないところが大きい。頑張った結果、破局に終わると、気持ちが弱まり、優しくされると頼ってしまうというところもあるのではないか。前田亘輝の直後の石井竜也、クリエイティブディレクターの直後のこの男性、というのはまさにそのパターンに思われる。  じつは彼女と似たタイプに、国生さゆりがいる。年齢は南野が1歳下だが、世に出たのはほぼ同時期。盗撮したカメラ小僧からフィルムを取り上げた、などの我の強い武勇伝にも事欠かない。と同時に、最近は小説を書いたりもしている。  ともにアイドルから女優へという転身をしたが、南野が石井と破局した頃、こちらも長渕剛との不倫で注目された。長渕がクスリで逮捕されたことから、自らの無実と不倫の清算を記者会見でアピール。その後は地元愛の強いヤンキー系らしく(?)中学時代の同級生と結婚したが、離婚して、そこからヨリを戻したりまた別れたりした。さらに、コンサルタント会社社長との再婚も約1年半で終了。こちらも「男運が悪い」といわれる元アイドルのひとりだ。   【こちらも話題】 国生さゆり「バレンタイン・キッス」が34年の大定番になったのには理由がある https://dot.asahi.com/articles/-/103116 一日警察署長を務めた南野陽子   夫の逮捕までは想定外だった?  話を南野に戻すと、99年から大手事務所に所属。これが安定した活動につながったが、昨年末にまた独立した。  一説によれば、トラブルメーカーの夫を持つ彼女に大手事務所が仕事を入れることをためらい、もっと仕事をしたい彼女が不満を持ったという。大手事務所にすれば、いつ逮捕されるかもしれないという不安を抱えていたのだろう。  一方、彼女にとって逮捕はあくまで想定外で、むしろ、トラブルが報じられても我が道を貫く夫に自分の生き方と似たものを感じていたのかもしれない。  そういえば、2014年のインタビュー(「語れ!80年代アイドル」KKベストセラーズ)で、彼女は夫婦関係について興味深い話をしている。「私が若くてAKBに入ったら、絶対に1位になれると思う」「テレビ観ながら『ほら!この人、整形してる!』とか(言っているときが)いちばん楽しい」などという流れのあと、 「自慢話と人の悪口を、主人は聞き流してくれるんだもん。言葉は悪いけど、ゴミ箱みたいな存在(笑)」  と、毒舌をまじえつつ、ノロケていたのだ。  こういう仲だったからこそ、12年以上も夫婦でいられたのだろうが、彼女は現在「仮面ライダーガッチャード」(テレビ朝日系)に主人公の母親役で出演中。12月22日には、その映画版も公開される。青少年がターゲットの作品とあって、そのあたりも離婚やむなしという判断につながったのではないか。  それにしても、これが20代~30代での挫折なら若気の至りで乗り越えられそうという見方も可能だ。しかし、彼女は56歳。アイドル時代に人気を博したラジオ番組のタイトル「ナンノこれしきっ!」とはちょっと行かないかもしれない。 ●宝泉薫(ほうせん・かおる)/1964年生まれ。早稲田大学第一文学部除籍後、ミニコミ誌『よい子の歌謡曲』発行人を経て『週刊明星』『宝島30』『テレビブロス』などに執筆する。著書に『平成の死 追悼は生きる糧』『平成「一発屋」見聞録』『文春ムック あのアイドルがなぜヌードに』など
南野陽子離婚
dot. 2023/11/29 11:00
毒入りの盃はまっぷたつ 裸の女性で誘惑させたライバルは圧死 厳格な修道士の起こした「奇跡」
清涼院流水 清涼院流水
毒入りの盃はまっぷたつ 裸の女性で誘惑させたライバルは圧死 厳格な修道士の起こした「奇跡」
※写真はイメージです(Getty Images)  西暦480年頃にイタリアで生まれたベネディクトゥスは、ローマでキリスト教を学んだのち、真摯に信仰と向き合うために崖の中にある洞窟で“隠修士”として孤独に精神修行をした。その厳格な姿勢が噂となり、修道院の院長に迎えられることが度々あったが、厳格な規則のため反旗を翻されたり妬まれたりなどで、毒殺を企てられてきた。その度に、奇跡を起こし回避してきた。清涼院流水氏の新著『どろどろの聖人伝』(朝日新書)から一部を抜粋、再編集し、ベネディクトゥスが起こした奇跡ついて紹介する。 *  *  *  【関連記事を一気に読む】 #1 “サンタクロース”はキレて投獄されていた 隣人にこっそりお金を配っていた「聖人」 #2 十字架で処刑中に“人生大逆転” キリストの言葉で天国行きが確定した「善良な強盗」 #3 毒入りの盃はまっぷたつ 裸の女性で誘惑させたライバルは圧死 厳格な修道士の起こした「奇跡」 #4 「知らないものは知らん」キリストを置いて全速力で逃げた弟子 逆さまで処刑された場所は今 #5 「猛獣に噛み殺されたい」大観衆の前での処刑を喜んだ司教 直後に起きた大地震に皇帝は #6 乳房を斬り落とされても元通り、喉に剣を突き刺しても平然 男の「憎」を奇跡で跳ね返した二人の聖女 #7 柱の上に立って37年暮らした“ストイック”な聖人 「静かな生活」を求めたのに観光地化 #8 天使の言葉を信じたジャンヌ・ダルク “魔女”として受けた「究極」の罰 #9 14カ所も刺して自分を殺した男の「回心」を、“死後”も願った11歳の聖女  西暦480年頃にイタリアのヌルシア(現在のノルチャ)で貴族の家に生まれたベネディクトゥスは、最初、ローマで学びましたが、そこでの生活は彼を霊的に満たすことがありませんでした。自分の精神的渇望を満たしてくれる体験を求めて旅に出たベネディクトゥスは、旅の途中で出会った修道士ロマヌスから助言とサポートを受け、崖の中にある洞窟で、隠修士として独りで精神修行することになりました(この時、ベネディクトゥスを導いた功績から、ロマヌスも聖人に認定されています)。     【こちらも話題】 “サンタクロース”はキレて投獄されていた 隣人にこっそりお金を配っていた「聖人」 https://dot.asahi.com/articles/-/207050    ベネディクトゥスは、彼のもとに物資を運ぶロマヌス以外にはほとんど会うことがありませんでしたが、そうした隠修士としての厳格な姿勢がいつしか人々の噂となり、ある修道院の空席になった院長に彼を迎えたい、という声が高まりました。 「わたしが理想とする修行方針に、あなたたちが従ってくれるとは思えない」  ベネディクトゥスは、彼を誘いに来た者にそう言って拒んでいましたが、その修道院の修道士たちが「なにがあってもあなたの命令に絶対服従しますから、どうか院長になってください」と懇願し続けたので、最終的には渋々ながら引き受けました。  ところが、あらかじめベネディクトゥスが何度も念を押していたにもかかわらず、彼が定めた厳格な規則に修道士たちはすぐに音を上げ、自分たちが懇願して迎え入れたはずの修道院長を、なんとか排除したいと考えるようになります。  なんとも身勝手な話ですが、似たような話は現代社会でもよく耳にします。外部から新しく迎える上司に都合の良い理想を投影していた部下たちは、その人物が期待外れであった時に、反旗を翻すことは珍しくないのです。それでも、現代社会においては、嫌いな人物を排除する際にも最低限のルールはあるのに対して、6世紀の修道院は外界から隔絶した閉鎖社会でしたので、なんでもありでした。     【こちらも話題】 十字架で処刑中に“人生大逆転” キリストの言葉で天国行きが確定した「善良な強盗」 https://dot.asahi.com/articles/-/207053    クリスチャンとは思えない行動ですが、修道士たちは、ぶどう酒の入った杯に毒を混ぜてベネディクトゥスに飲ませようとしたのです。彼らは本気でした。  毒入りのぶどう酒を飲む前、ベネディクトゥスが神に祈り十字を切ると、杯がまっぷたつに割れてしまいます。蒼褪めた顔になる修道士たちを見回し、彼は言いました。 「兄弟たち、わたしのことがそんなに邪魔なら、わたしはここを去りましょう」  ベネディクトゥスは修道院を去り、また荒れ野で独り修行を始めました。やがて、いくつもの奇跡を起こした彼はふたたび人々の評判となり、多くの弟子志願者が彼のもとに集まり、ベネディクトゥスは12の修道院を創設することになります。  その後も順風満帆ではなく、ベネディクトゥスの高まり続ける名声を妬み、一方的なライバル心を持つフロレンティウスという司祭がいました。フロレンティウスはベネディクトゥスを毒殺しようとしたり、ベネディクトゥスの修道院に若い女性7人を送り込んで全裸で踊らせて修道士たちを誘惑させたりしました。ベネディクトゥスは自分が修道院にいる限り、粘着司祭フロレンティウスからの執拗な攻撃が続くと考え、またしても修道院を去る決意をします。ベネディクトゥスの寂しげな背中が修道院から遠ざかるのを見ながら、フロレンティウスは拳を天に突き上げて快哉を叫びます。 「ようやくあの目ざわりなジジイを追い払えた。これからは、オレの時代だ!」  しかし、次の瞬間、不思議な力で建物が倒壊して彼は圧死しました。フロレンティウスの死でベネディクトゥスは呼び戻され、以後は平穏に暮らし、彼が創設したモンテ・カッシーノの修道院で西暦547年3月21日に、安らかに帰天しました。  ベネディクトゥスが定めた修道院の規則は、彼の創設したベネディクト会のみならず他の修道会でも広く採用され、以後、12世紀までヨーロッパで唯一の修道会規則となったことから、ベネディクトゥスは「西方修道院の父」と見なされました。  また、ベネディクトゥスの双子の妹スコラスティカも兄同様に霊的資質に恵まれ、モンテ・カッシーノ修道院の近くに女子修道院を創設し、聖人と認定されています。 【関連記事を一気に読む】 #1 “サンタクロース”はキレて投獄されていた 隣人にこっそりお金を配っていた「聖人」 #2 十字架で処刑中に“人生大逆転” キリストの言葉で天国行きが確定した「善良な強盗」 #3 毒入りの盃はまっぷたつ 裸の女性で誘惑させたライバルは圧死 厳格な修道士の起こした「奇跡」 #4 「知らないものは知らん」キリストを置いて全速力で逃げた弟子 逆さまで処刑された場所は今 #5 「猛獣に噛み殺されたい」大観衆の前での処刑を喜んだ司教 直後に起きた大地震に皇帝は #6 乳房を斬り落とされても元通り、喉に剣を突き刺しても平然 男の「憎」を奇跡で跳ね返した二人の聖女 #7 柱の上に立って37年暮らした“ストイック”な聖人 「静かな生活」を求めたのに観光地化 #8 天使の言葉を信じたジャンヌ・ダルク “魔女”として受けた「究極」の罰 #9 14カ所も刺して自分を殺した男の「回心」を、“死後”も願った11歳の聖女 ●清涼院流水(せいりょういん・りゅうすい) 1974年、兵庫県生まれ。作家。英訳者。「The BBB(作家の英語圏進出プロジェクト)」編集長。京都大学在学中、『コズミック』(講談社)で第2回メフィスト賞を受賞。以後、著作多数。TOEICテストで満点を5回獲得。2020年7月20日に受洗し、カトリック信徒となる。近著に『どろどろの聖書』『どろどろのキリスト教』(ともに朝日新書)など。
どろどろの聖人伝朝日新聞出版の本
dot. 2023/11/25 16:00
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永井貴子 永井貴子
雅子さまの「純白のドレス」をもう一度見られる 愛子さまの「いちごパフェ」も ご結婚30年「特別展」後期
  祝賀パレードで沿道に集まった人々に手をふるおふたり。純白のローブ・デコルテが展示されている =1993年6月9日  リニューアルオープンを迎えた皇居・東御苑にある「皇居三の丸尚蔵館」。ここでは、皇室の国宝の品を公開する開館記念展と、天皇陛下のご即位5年と天皇、皇后両陛下のご結婚30年を記念した特別展示が開催されている。11月3日から始まった特別展は26日で前期が終了。11月28日から12月24日にかけて展示される後期のチケットは、11月24日より発売される。  後期の展示で注目を集めると予想されるのは、ご成婚の祝賀パレードで雅子さまが身を包んだ純白のローブ・デコルテだろう。おふたりのご結婚、そして長女、愛子さまの誕生と成長。一つ一つの品から、ご一家が歩んだ道のりと思い出が伝わってくる。 *    *  *  1993年6月9日。朝から降っていた雨はやみ、薄日が差した。午後4時45分、おふたりを乗せた黒塗りのオープンカーが皇居を出発し、ご結婚の祝賀パレードが始まった。「徳仁皇太子」の隣で手を振るのは、純白のローブ・デコルテに身を包んだ「皇太子妃」雅子さまだ。頭上にはティアラが輝く。沿道は19万人の人びとで埋め尽くされ、NHKと民放各社が中継したパレードの視聴率は、関東地区でおよそ80%を記録した。 パレードを終え、新居となる東宮御所に着いたおふたり =1993年6月9日  皇居三の丸尚蔵館では、11月28日から12月24日まで特別展の後期展示が始まる。注目の品のひとつが、雅子さまが「朝見の儀」と祝賀パレードで着用したローブ・デコルテだ。雅子さまは、ご結婚の一連の行事や儀式で何着ものドレスに身を包んだが、これは特別な品の一つだ。一般の結納にあたる「納采の儀」で、皇太子さま(現・天皇陛下)から贈られた生地で仕立てられたドレスである。  ドレスをデザインしたのは、デザイナーの故・森英恵さんだ。祝賀パレードで羽織った上着の襟元には、バラの花びらをアレンジした飾りが華やかに添えられている。  駐日大使からご結婚のお祝い品として献上された「宝石の木」も見ごたえのある品だ。ラピスラズリとトルコ石の台座に金版で世界地図が描かれている。台座に立つ大樹の枝には、アメジストやシトリンなど貴石が実のように垂れ下がっている。  前期後期で一部展示品の入れ替えはあるものの、全期間を通じて、天皇ご一家の思い出の品を見ることができるのだ。   もちろん、ご一家も特別展に足を運んでいる。 即位5年と結婚30年を記念した特別展示を鑑賞する天皇ご一家 =2023年11月10日、三の丸尚蔵館  「懐かしいですね」  11月10日、天皇陛下と皇后雅子さま、長女の愛子さまはリニューアルオープンした皇居三の丸尚蔵館で、陛下の即位5年とおふたりのご結婚30年を記念した特別展示を鑑賞した。  ご一家は、ご結婚の際に雅子さまが着用したローブ・モンタントの前で足を止めた。 宮中饗宴の儀に出発する皇太子さま(当時)と杏色のローブ・モンタントに身を包む雅子さま =1993年6月、東宮御所   1993年6月15日から3日間にわたり行われた結婚の祝福を受ける「宮中饗宴(きょうえん)の儀」。雅子さまが1日目の1回目にお召しになったのが、光沢のある杏色のローブ・モンタントとビーズで彩られた美しい帽子だった。  雅子さまは、ドレスを前にしてこう目を細めた。 「久しぶりに見た気がします。懐かしいです」  一方で、隣にいた愛子さまは興味深そうに、こう話しかけていた。 「模様は?」 「自分では(ドレスを着用)できないのね」  また、おふたりが「結婚の儀」でお召しになった古式装束も展示されていた。 皇太子が身に着ける「黄丹袍(おうにのほう)」。現在は、皇嗣である秋篠宮さまが着用している   「結婚の儀」皇后陛下のご装束、五衣唐衣裳  皇太子であった陛下は、「黄丹袍(おうにのほう)」、皇太子妃の雅子さまは、一般では「十二単衣」と呼ばれる、「五衣唐衣裳(いつつぎぬからぎぬも)」の装束で儀式に臨んだ。装束に詳しい宮内庁関係者によれば、東宮(皇太子)が身に着ける、淡い黄みがかった緋の「黄丹袍(おうにのほう)」を「上りゆく朝日」と表現した書物もあったという。   天皇だけが身に着けることのできる「黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)」   「五衣唐衣裳(いつつぎぬからぎぬも)」の装束。薄紫の表着には、雅子さまのお印のハマナスが表されている。後期は夏の御料が展示される   「即位礼正殿の儀」で装束を身に着けた皇后雅子さま=2019年10月  天皇だけが身につけることができる赤茶色の伝統装束、「黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)」も全期間に渡り展示されている。袍に表された、桐と竹の上に鳳凰が舞い、州浜に麒麟が相対する「桐竹鳳凰麒麟文」は天皇だけが用いる文様。前期は冬の袍、後期は夏の袍が展示され、実物を目にすることのできる貴重な機会だ。 「天に太陽が上った色」とも言われる「黄櫨染御袍」は、令和の天皇の即位を国内外に宣言する「即位礼正殿の儀」で着用された。ウルシ科のハゼノキの皮とマメ科のスオウ、灰汁などで染めた淡い茶色の装束だ。即位式のほか、祭祀でも用いられている。  即位関連の儀式で用いられた屏風などの調度品も興味深い。たとえば、「即位礼正殿の儀」で宮殿中庭に配置された「旛」。「萬歳旛(ばんざいばん)」には、当時の安倍晋三内閣総理大臣が揮毫した文字が金糸で刺繍されている。 右は、当時の安倍晋三内閣総理大臣が揮毫した文字が刺繍された「萬歳旛(ばんざいばん)」  鑑賞に訪れた天皇陛下は、こうした伝統装束の着こなしについて熱心に愛子さまに説明していたという。   上皇ご夫妻から贈られた産衣(うぶぎ)、「御初召(おうぶめし)」を着て、雅子さまに抱かれる愛子さま 一般のお宮参りにあたる「賢所皇霊殿神殿(かしこどころこうれいでんしんでん)に謁するの儀」に向かう愛子さま =2002年3月 、代表撮影/JMPA  前期には、「おじいさま」と「おばあさま」から贈られた愛子さまの「御初召(おうぶめし」も展示された。愛子さまが誕生したのは、2001年12月1日。「命名の儀」と、一般のお宮参りにあたる「賢所皇霊殿神殿(かしこどころこうれいでんしんでん)に謁するの儀」では、当時の両陛下より贈られた産衣(うぶぎ)である「御初召」を着用して臨んだ。  この「御初召」は、特別な品だ。というのも、歴代皇后は皇居の紅葉山御養蚕所で蚕を育てる。愛子さまの産着は、美智子さまが育てた繭から採られた絹糸で織られたものだ。  特に、肌に触れる下召(下着)には、柔らかな絹糸が採れる純国産の小石丸の繭が用いられた。   「着袴(ちゃっこ)の儀」で用いられた袿袴(けいこ)   「着袴(ちゃっこ)の儀」を終えた愛子さまを優しく見守るおふたり。愛子さまは、桃色の道中着姿で参内に臨む=2006年11月、東宮御所 、代表撮影/JMPA  11月28日から12月24日にかけての後期には、愛子さまの装束も赤ちゃんの時期の「御初召」から、一般の七五三にあたる「着袴(ちゃっこ)の儀」で用いた「御童形服(ごどうぎょうふく)」と「袿袴(けいこ)」などに変わる。 「着袴(ちゃっこ)の儀」で着用した「御童形服(ごどうぎょうふく)」。袴は愛子さまが生まれた際に、天皇であった上皇さまが贈った品 =1993年11月 「着袴の儀」とは、数え年の5歳で初めて袴を着ける皇室の伝統行事で健やかな成長を願う儀式だ。愛子さまの赤い「御童形服」は、当時の住まいであった東宮御所の日月の間で執り行われた儀式で着用された。  桃色の袿(うちぎ)と丈の短い切袴(きりばかま)の「袿袴」。儀式を終えて皇居に参内する際は、動きやすい「袿袴」に着替えるものの、4歳の愛子さまには重くて大変な衣装だ。  当時の写真を振り返ると、雅子さまが小さな愛子さまを支えるように手を伸ばすシーンも残っており、ほほえましいご一家の様子が伝わってくる。  実は、ご一家の日常が伝わる品も見ることができる。全期間を通じて、私的な品も展示されているのだ。天皇陛下が幼少時に愛用した小さなヴァイオリンや、雅子さまがご結婚後に習ったフルートの実物も見ることができる。   笑顔で英国に出発する愛子さま =2018年夏  愛子さまの青春のひとコマを垣間見えるのは、愛子さまが撮影した写真作品だ。2018年の夏、16歳だった愛子さまは、学習院女子高等科のプログラムで英国の名門・イートン校が主催する夏季海外研修に参加した。  同級生と学生寮に宿泊し授業を受けた。滞在する間に、オックスフォード大学の周辺や学生寮などを自ら撮影した写真も展示されている。 「愛子さまらしい」写真もある。  いちごパフェのようなデザートの写真には、「イートン・メス」と説明が添えられている。これは、メレンゲと生クリームといちごなどで作る英国の伝統的なデザートのようだ。  別の写真には、ウィンザー城の入場券を持つ手が写っている。お友達と一緒に写したのだろうか。愛子さまたちの笑い声が聞こえてきそうな一枚だ。 悠紀地方風俗歌屏風 主基地方風俗歌屏風 ※特別展示「令和の御代を迎えて──天皇皇后両陛下が歩まれた30年」は12月24日まで、開館記念展「皇室のみやび──受け継ぐ美──」は来年の6月23日まで開催される。原則毎週月曜は休館。入館は「皇居三の丸尚蔵館」のウェブサイト(https://shozokan.nich.go.jp)からの事前予約制。無料・割引入館対象の人も事前予約が必要。チケットは、同ウェブサイトからのオンライン決済のみで、同館での販売は行っていない。  (AERA dot.編集部・永井貴子)
天皇陛下雅子さま愛子さま
dot. 2023/11/24 11:00
「あっ、盗撮だ」 たとえ“揶揄”されようと鉄道の「乗客」を撮ることにこだわる写真家・川井聡
米倉昭仁 米倉昭仁
「あっ、盗撮だ」 たとえ“揶揄”されようと鉄道の「乗客」を撮ることにこだわる写真家・川井聡
撮影:川井聡   川井聡さんは数年前、テレビドラマのスチール撮影を担当した際、スタッフらに自らが手がけた鉄道写真の本を見せたところ、「この写真、どうやって撮ったの?」と、驚かれたという。 そこには自然豊かな風景の中を走る車両のほか、日々鉄道を利用する地元の人々の姿が写っていた。 「彼らは普段、一般の人が映り込むことに対して非常に気を使っているので、鉄道写真に当たり前のように乗客の姿が写っていることにびっくりしたんです」 川井さんがスタッフに見せた『とっておきの汽車旅―全国から選びぬいた24路線』(昭文社)は、旅情あふれるローカル鉄道のガイドブックであるとともに、乗客や沿線に暮らす人々を丹念に追ったルポでもある。 青森県田舎館(いなかだて)村と秋田県能代市を結ぶ五能線のページをめくると、雪に覆われた風景の中を走るオレンジ色の小さな車体が写っている。車内の写真には、結露でくもった窓ガラスにドラえもんを描く制服姿の学生や、防寒着で身を包んだ女の子に本を読み聞かせる母親の姿が見える。 ところが最近、そんな写真を撮影していると「あっ、盗撮だ」と、同業者から言われることに川井さんは困惑する。 「きちんと相手の了解を得て撮影しているにもかかわらず、乗客にカメラを向けると、知り合いから『盗撮』だと言われる。もちろんちゃかして言っているのはわかります。ただ、全然冗談になっていないというか、自分たちの首を絞める言動だから、やめた方がいいとしか思えません」 撮影:川井聡   和製「LIFE」で鍛えられた 鉄道写真には「形式写真」「走行写真」などのジャンルがあるが、川井さんのように旅先での人との出会いをテーマに作品づくりをする鉄道写真家は珍しい。 「ぼくは鉄道を『乗り物』として撮りたい、という気持ちが強いんです。もちろん車両も主役ですが、何よりも鉄道を利用するお客さんが主役だと思います。だから、お客さんをメインに撮った写真で作品をつくりたい」 そう思う背景には、鉄道車両を写した写真は仲間内にだけ通じるものになりやすいことがある。そのことに気づいたのは少年時代だった。 撮影:川井聡   1959年、川井さんは国鉄職員だった両親のもとに生まれた。暮らしていた国鉄アパートは現在の百済貨物ターミナル駅(大阪市)のとなりにあり、毎日、すぐ目の前で蒸気機関車(SL)が貨車の入替作業をしていた。 「鉄道を撮り始めたのは小学校5年生のときです。親父のカメラを勝手に持ち出して機関庫を撮りに行った。親父にはぶん殴られましたけど、それからずっと鉄道写真を撮るようになりました」 川井少年はSLの撮影にのめり込んだ。そのころ消えゆくSLを追いかけるSLブームが巻き起こっていた。一方、「SLの写真を見せて喜ぶのはSL好きの仲間だけ」であることを感じていた。 鉄道で旅をしながら人を撮る楽しみを知ったのは、中学卒業の際、北海道を訪れたときだった。 「親から、高校に合格したら北海道へ撮影に行っていいよ、と言われ、それで勉強を始めたんです(笑)。北海道への旅は初めての大旅行でした。見知らぬ風景にレンズを向けるのも新鮮でしたけれど、同じ車両に揺られながら旅する人たちを撮るのが楽しくなって、それが自分の撮影スタイルになっていったんです」 撮影:川井聡   「ポートレール」とは 24歳のとき、初めて写真展を開くと、政府の広報業務を受託していた時事画報社の編集部員が川井さんの作品に目を止め、仕事を依頼するようになった。 当時、時事画報社は米国のグラフ誌「LIFE」を手本に、国の施策を紹介する「フォト」や、日本を海外に紹介する「Pacific Friend(パシフィックフレンド)」などを発行していた。その撮影を手がけるうちに川井さんは「鉄道をどう撮影して見せるのか」という視点を鍛えられたという。 「例えば、『第三セクターによる鉄道の再生』といったテーマを与えられて取材するのですが、そこで求められるのは『鉄道写真』ではないんですよ」 鉄道の車両や設備はもちろんのこと、それをメンテナンスする作業員や駅員、行政担当者、乗客、さらには地元に暮らす人々の生活を追った。 「取材後は、撮影した写真をどう見せるか、侃々諤々(かんかんがくがく)の議論をしました。真正面からぶつかり合う、という感じだったですね」 このとき身につけたドキュメントタッチの撮影手法は、のちに『とっておきの汽車旅』にも生かされてゆく。 だが同時に、一般の人に声をかけて撮影することを躊躇する空気が業界の中に広まりつつあることに危機感を覚えた。 「そのとき、ふと頭に浮かんだのが『ポートレール』という言葉なんです」と、川井さんは振り返る。 それは、人を撮る「ポートレート」と、鉄道を象徴する「レール」を結びつけた言葉だった。 撮影:川井聡   写真は「出会いと発見」 「ポートレール」の一つの試みとして、川井さんは昨年9月、北海道小樽市を訪れた。そこには廃線になった旧国鉄手宮線の一部が保存され、観光スポットになっていた。 「ここで半日かけて、約20組の人に『ポートレールというテーマで撮影させてほしい』とお願いしたところ、ほぼ全員が『いいですよ』と、快く応じてくれました。みなさん本当に楽しそうに、思い思いのポーズをとってくれた。人を撮ることに対して萎縮したり、抑制する必要はなくて、こんなに開放的に撮れるんだ、ということを実感しました」 川井さんにとって写真とは「出会いと発見」であり、デジタルカメラは撮影者と撮影相手をつなぐコミュニケーションツールだという。 「写した画像を背面モニターで見せると、みんな喜んでくれますから」 撮影の際には、その人のエピソードを込める、という思いでレンズを向ける。例えば、北海道・釧網線の車内で撮影した写真には満面の笑みを浮かべるシニア世代の夫婦が写っている。 「ところが最初、このお父さんはずっと怒っていたんですよ。せっかく大阪から旅行に来たのに、転んで足をねんざしてしまったそうで、旅行が台なしになってしまったと、自分に対してすごく腹を立てていた。でも、30分くらい写真を撮っていたら、だんだんこの笑顔になった」 浮輪を手にする女性たちの姿もある。 「これは電車の中で浮輪を持っている謎の女子高生たちです。というのも、この写真を写したのは鳥取県の山の中なんですよ。彼女たちの自由さがいいな、と思って、いろいろなポーズをとってもらいました」 撮影:川井聡   形式写真も写すけれど 一方、コロナ禍の数年間は苦痛で、フラストレーションがたまったと、打ち明ける。 「マスク写真は撮りたくないし、撮られたくもないだろう、という気持ちがありました。撮影していても、いまひとつコミュニケーションが深まらなかった。だからこそ今、ポートレールというテーマで撮影している、という気持ちもある」 川井さんもほかの鉄道写真家と同様に形式写真や走行写真も撮影するという。 「でもやっぱり、人の写真を撮るのが面白いし、楽しいんです。他の鉄道写真家と競合しないのもいい。商売にはならないんですけどね(笑)」 (アサヒカメラ・米倉昭仁) 【MEMO】川井聡写真展「PORTRAIL ポートレイル」 ポートレートギャラリー 11月23日~11月29日
アサヒカメラ川井聡鉄道写真
dot. 2023/11/22 17:00
佳子さま“ニッコリ笑顔”がTikTokで全世界に届くインパクト 「もう時代は変わった」と識者
佳子さま“ニッコリ笑顔”がTikTokで全世界に届くインパクト 「もう時代は変わった」と識者
ペルー公式訪問を終え、羽田空港に到着した秋篠宮家の次女佳子さま=23年11月10日    秋篠宮家の次女・佳子さまが、11月、ペルーを公式訪問された様子は、日本ではもちろん現地のメディアでも報じられた。そして、現地の人たちは佳子さまの様子をTikTokにアップしている。そういえば、宮内庁の広報室のSNSなどの発信強化はどうなった? 今回の佳子さまのTikTokに関して、象徴天皇制に詳しい歴史学者で名古屋大学人文学研究科の河西秀哉准教授に話を聞いた。   *  *  *    ペルー南部の古都クスコにある世界遺産マチュピチュへの入り口に到着された佳子さま。佳子さまはガイドに一礼し、標高約2,450メートルの天空の要塞都市へ向かうゲートの前で、居合わせた人たちが向けたスマホにニコリと笑顔を投げかけた。    佳子さまは、首をちょこんと横に傾け、微笑むというよりはくしゃっとした笑顔をスマホカメラに向け、マチュピチュへのゲートへと進んで行かれる。    この様子は、短い動画をシェアできるSNS「TikTok」にアップされた、佳子さまのペルーでの姿だ。TikTokには、「#princesakako」(スペイン語でプリンセス佳子)のタグ付きで、現地の人たちがスマホで撮影したと思われるいくつかの動画がアップされている。 佳子さまは360度全方位にクルリ  マチュピチュ以外でも、クスコのインカ帝国時代の太陽神殿「コリカンチャ」の石組みの上に建てられたサント・ドミンゴ教会を見学され、移動の車に乗り込むまでの様子も、スマホで撮影されていた。    そのとき、佳子さまは、沿道に集まった人たちに手を振られていた。 サント・ドミンゴ教会から出てきた佳子さま。ここから車に乗り込むまでの様子がTikTokに投稿されている(写真:AP/アフロ)    お手振りに集中して石段に気が付かなかったのか、護衛の警察官に目の前に石段があると伝えられたようだ。佳子さまは護衛の人に丁寧に頭を下げたあとも、手を振り続けられた。車のところまでくると全方位360度、クルリと回りながら手を振られていた。 【こちらも話題】 佳子さまの“パーフェクトスマイル”は現地で絶賛 「ほほ笑みのプリンセス」のペルー訪問 https://dot.asahi.com/articles/-/206155    ごく短い動画だが、そこには自然体の佳子さまが映っていた。12月で29歳になる大人の女性に向けて失礼な言い方かもしれないが、率直な感想としてカワイイのだ。佳子さまはこんな笑顔をされるのかと親近感がわいてきた。 SNSに対し秋篠宮さまは  自然体の佳子さまが見られたTikTokだが、佳子さまの父である秋篠宮さまは、昨年11月29日の誕生日前、25日に秋篠宮皇嗣殿下の記者会見に臨まれて、SNSに対してこう発言している。   「宮内庁がSNSなどを使って広報の強化をするという報道もありましたけれども、今、海外の多くの王室はWEBサイトとSNSを組み合わせて使っていると思います。どうでしょうね、こういう例えが適当かどうかは分かりませんけれども、ある意味その、WEBサイトには必要な情報の全てが書かれていて、それでSNSの方には短いけれども非常に大事な情報が出ている。(中略)    何て言うか、惑星があって、惑星にたくさんの情報があって、そしてその周りにある衛星の方に、短いけれども非常に大事な情報が載っている。そういう関係性なのではないかなと思っています。私も詳しくは承知していませんけれども、そういう構図を恐らく宮内庁も考えているのではないかと思います」    秋篠宮さまも会見で触れた「広報の強化」はその後どうなったのだろうか。宮内庁は今年4月、総務課内にインターネット上の発信強化を見据えた広報室を新設。現時点ではホームページのリニューアルあたりで止まっている印象で、SNSの活用はどちらかというと慎重な様子だ。 【こちらも話題】 佳子さま“4790円ブルゾン” 2度再販も即完売! マチュピチュで見せたファッション感度 https://dot.asahi.com/articles/-/206776    皇室とSNSに関して、象徴天皇制に詳しい歴史学者で名古屋大学人文学研究科の河西秀哉准教授は、「佳子さまをアップしたTikTokには正直驚きました」としながら、こう話す。 女子高生が撮った写真が議論に 「2014年、上皇皇后両陛下が天皇皇后両陛下だった当時、私的な旅行中の天皇皇后両陛下を女子高校生が撮影した写真をネットにアップし、“不敬”だとされた出来事がありました。    微笑ましいおふたりの写真でしたが、天皇皇后両陛下にスマートフォンを向けることが議論される時代からは、いまは変わったんだなとは思います。    今回、佳子さまがペルーで見せた自然体の笑顔のように、我々と近しい存在であるということは見せる時代に入っているのかなと思います。これだけスマホが普及し、SNSが存在している限り、その姿を隠しても仕方ない」    加えて、「佳子さまご本人もSNS世代なんだということを感じた」と河西准教授は言う。   「ある種のカメラ慣れといいますか、スマホで撮影することも撮影されることも、世代としてもう慣れていますよね。    天皇陛下も皇太子時代に海外でセルフィーに対応され、話題になったこともあります。海外では皇室の方も開放的な感覚になられることもあるでしょうし、海外の方だと、日本の皇族の方たちに対しても構えず撮影することもありますよね。    それに対して撮られる皇室の方も心を開かれ、日本では見せない表情だったりをされるのでしょう。佳子さまの世代は、そういうことにも本当は慣れていらっしゃるのではないかなと推測されます」 【こちらも話題】 なぜ佳子さまに激しいバッシング? 「生まれながらの特権と、不満のはけ口に」名大河西准教授 https://dot.asahi.com/articles/-/206601    たしかに、現代では多くの人がスマホを持ち、日常的に使っている。何をするにも写真撮影は日常の一コマで、その写真をシェアする時代だ。 羽田空港で見送りを受ける秋篠宮家の次女佳子さま=23年11月1日 代表撮影   優良な信頼できる情報を流せば  こうしたことから、河西准教授は宮内庁も「SNSの活用に前向きになればいいのでは」と言う。   「宮内庁に広報室ができて、まだホームページが詳しくなった程度です。もう少し工夫をしてもいいのではと思ってしまうほどの変化です。    SNSも検討するようなことも発表していましたが、まだ始めていない。SNSで発信して、それが悪用されることを心配されているのかもしれないですが、悪用しようと思えば、SNSに限らず、他にもいくらでもやれるわけです。    そうした心配をするよりも。これは持論ですが、悪い話や悪い情報が流れてくるより、優良な信頼できる情報がたくさん流れてくれば、みんなそちらを見て、悪いものは適当に流すようになると考えています。宮内庁もきちんとしたいい情報を流すようしていけばいいのだと思います」    佳子さまの映像がTikTokに出たことは、多くの人に皇室への関心を持ってもらえるきっかけになるかもしれないと、河西准教授は指摘する。   「ホームページの情報は自分から取りに行かなければなりませんが、SNSで発信された情報は流れてくる。普段、皇室のことに関心がない人たちにも届く可能性があるということだと思います」    現代において、SNSはホームページより雄弁なのかもしれない。現に佳子さまの自然な笑顔は、全世界の人々に届いた。その効果はきっと大きい。(AERA dot.編集部・太田裕子) 【こちらも話題】 佳子さまの絶妙なセルフプロデュース力「強い意思を感じる」皇室番組放送作家 https://dot.asahi.com/articles/-/203854  
佳子さま秋篠宮家皇室TikTok
dot. 2023/11/22 11:00
「きのう何食べた?」は配役も秀逸 「シロさん」西島秀俊と「ケンジ」内野聖陽の食卓で幸せな気持ちになれる理由
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「きのう何食べた?」の主人公を務める西野秀俊さん(左)と内野聖陽さん   「きのう何食べた?」は、よしながふみの人気漫画を原作にテレビ東京系で2019年4月から放送され、現在は続編の「シーズン2」が10月から放送中のテレビドラマだ。ゲイカップルの日常と人生の機微を、食生活を中心に描いている本作。個性豊かな人物を演じる俳優たちについて、AERA dot.で紹介した記事をまとめた。 *   *   *  主人公は、几帳面な弁護士である「シロさん」こと筧史朗(西島秀俊)と、人当たりのいい美容師の「ケンジ」こと矢吹賢二(内野聖陽)のゲイのカップル。マンションで同居生活を送っている。  二人で囲む毎日の食卓は、おいしい食事を楽しみながら、日々の出来事や思いを話し合う大事な時間。ドラマでは、シロさんが毎日作る豊かな食事を中心に、ゲイの抱える事情、両親や周囲との関係なども描かれている。  そして、シロさんの料理仲間の富永佳代子(田中美佐子)、シロさんの父(田山涼成)と母(梶芽衣子)ら個性豊かな登場人物たちが、物語を彩っている。    2019年に放送されたシーズン1は、X(旧ツイッター)で世界トレンド1位になるなど好評を博し、さまざまなドラマ賞を受賞。2020年の元日に放送されたスペシャル版では、宮沢りえが16年ぶりに同局のドラマに出演したことでも話題になった。  さらに2021年には劇場版「きのう何食べた?」も公開、いずれも高い評価を得た。  そしてシーズン2でも、前作から変わらない暮らしを続ける二人の日常が、日々の「食」の風景とともに描かれている。   「きのう何食べた?」は新時代のホームドラマに “異色カップル”山本耕史と磯村勇斗も新境地の演技 https://dot.asahi.com/articles/-/206080     「シロさん」役の西島秀俊さん   ゲイであることを隠している弁護士シロさん(西島秀俊)  ゲイであることを隠しながら、弁護士として働く史朗。  倹約家であり、将来に備えて食費を予算内に収める事を目標にしつつ、仕事は定時で切り上げて2人の食事をつくることに喜びを感じている。   「きのう何食べた?」続編で「西島秀俊」が表現する同性愛者の機微が絶賛 「欲が減ってきた」と語る理由は? https://dot.asahi.com/articles/-/203981 「ドライブ・マイ・カー」西島秀俊 不遇の時代と転機となった「たけしとの出会い」 https://dot.asahi.com/articles/-/41261   ゲイを公言している美容師ケンジ(内野聖陽)  ゲイであることを隠さず美容師として働く矢吹賢二(ケンジ)は、「愛」に一途な乙女チックな性格でありながら、自分に厳しい一面も持つ人物だ。   内野聖陽は日本で一番、ゲイの美容師が似合う俳優だと思う https://dot.asahi.com/articles/-/101318 内野聖陽が目指すのは「二百変化」 新しい役への挑戦に「闘志がめらり」 https://dot.asahi.com/articles/-/39851 内野聖陽、芝居も“熟成”で奥ゆきを 「想像の余白を残す芝居がしたい」 https://dot.asahi.com/articles/-/39879 内野聖陽「きのう何食べた?」続編で再注目 “オスなるもの”から解放され次の高みへ https://dot.asahi.com/articles/-/195407     「ケンジ」役の内野聖陽さん   大人の印象?の小日向大策(山本耕史)  物語は、もう一組のゲイカップルが深みを与えている。  芸能プロダクション社員の小日向大策。強い目ヂカラ、がっしりした体つき、落ち着いた語り口で「大人の男」という印象だが、恋人の井上航に対しては……。   山本耕史「鎌倉殿」「競争の番人」の悪役っぷりが高評価 主役を食う存在に上り詰めたワケ https://dot.asahi.com/articles/-/14921   恋人にはわがままなジルベール(磯村勇斗)  小日向の恋人、「ジルベール」こと井上航。愛情に飢えているためか、わがままを言って小日向を振り回している。ひねくれているが、遠慮のない物言いで核心を突く。   磯村勇斗「つらくない現場はない」 苦しさやダメと思うことが次の励みになる https://dot.asahi.com/articles/-/65743 俳優・磯村勇斗の意外な原点 「きのう何食べた?」劇場版公開前に下積み時代振り返る https://dot.asahi.com/articles/-/65540 磯村勇斗が震えた“女性の怖さと強さ”「みんなどこか不気味でたくましい」 https://dot.asahi.com/articles/-/192701 磯村勇斗が語る30歳の変化「違和感でも怒りでもノートにメモしている」 https://dot.asahi.com/articles/-/192705   シロさんの元カレの伸彦(及川光博)  シロさんがケンジと付き合う前、一緒に暮らしていた伸彦。恋人に対する思いやりに欠ける面があって破局したという設定だが、及川光博のツンとした演技も評価が高い。   新パートナーなし?ミッチーと檀れい仮面夫婦の離婚「お手本のよう」とカウンセラーが感嘆する理由 https://dot.asahi.com/articles/-/116159 王子様がいつの間にか名脇役へ 及川光博「半沢」好演の裏に自己プロデュース力 https://dot.asahi.com/articles/-/86307 及川光博「きのう何食べた?」美形な“ツン”キャラで魅了 元妻・檀れいとの関係も良好で“最強のイケオジ”に https://dot.asahi.com/articles/-/205412     息子を見守る父(田口涼成)と母(梶芽衣子)  息子の史朗がゲイであることを知っている父と母。  そのことに困惑しながらも、息子やケンジのことを受け入れ、理解しようとしている姿が描かれている。   ベテラン俳優・田山涼成が直面した70歳の壁 医者の「お年ですから」にショック【前編】 https://dot.asahi.com/articles/-/2220 俳優・田山涼成が新たな演じ方に挑戦「70を過ぎての課題がうれしい」【後編】 https://dot.asahi.com/articles/-/2227   「鬼平」は転機の作品 梶芽衣子“おまさ”役に「運命を感じた」 https://dot.asahi.com/articles/-/77745 「年寄りだからって丁重に扱ったら承知しない」梶芽衣子の“ロック”な生き方 https://dot.asahi.com/articles/-/77743   「きのう何食べた?」をもっと楽しむために 「きのう何食べた?」の原作者の対談や、同作を取り上げたコラムなども多数。あわせて御覧ください。   よしながふみさん対談 40代男性カップルの日常描いた『何食べ』 ドラマ化で“深夜枠”がピッタリの理由は… https://dot.asahi.com/articles/-/127813 漫画家よしながふみが語る「少女マンガが変えた“女子”の世界」 深堀り対談 https://dot.asahi.com/articles/-/4860 ミッツ・マングローブ「激オススメされた『きのう何食べた?』」 https://dot.asahi.com/articles/-/67115 (AERA dot.編集部)  
きのう何食べた?西島秀俊内野聖陽磯村勇斗山本耕史及川光博
dot. 2023/11/17 23:00
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クレーム対応や夜間見回りなど、雑務で疲弊する先生たち。休職や早期退職も増え、現場は常に綱渡り状態です。一方、PTAは過渡期にあり、従来型の活動を行う”保守派”と改革を推進する”改革派”がぶつかることもあるようです。現場での新たな取り組みを取材しました。AERAとAERA dot.の合同企画。AERAでは9月24日発売号(9月30日号)で特集します。

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職場にはびこる世代間ギャップ。上司世代からすると、なんでもハラスメントになる時代、若手は職場の飲み会なんていやだろうし……と、若者と距離を取りがちですが、実は若手たちは「もっと上司や先輩とコミュニケーションを取りたい」と思っている(!) AERA9月23日号では、コミュニケーション不足が招く誤解の実態と、世代間ギャップを解消するための職場の工夫を取材。「置かれた場所で咲きなさい」という言葉に対する世代間の感じ方の違いも取り上げています。

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プーチン大統領の出現は世界の様相を一変させた。 ウクライナ侵攻、子どもの拉致と洗脳、核攻撃による脅し…世界の常識を覆し、蛮行を働くロシアの背景には何があるのか。 ロシア国民、ロシア社会はなぜそれを許しているのか。その驚きの内情を解き明かす。

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