
時代小説の名手・藤沢周平 作家として父として「普通が一番」を貫いた理由
1994年、東京・練馬の自宅の書斎で机に向かう 朝日新聞社提供
日本には文豪と呼ばれる作家がいた。文章や生きざまで読者を魅了し、社会に大きな影響を与えた。だが、彼らも一人の人間である。どんな性格だったのか。どのような生活を送っていたのか。子孫に話を聞き、“素顔”をシリーズで紹介していく。第5回は時代小説の名手として知られる藤沢周平。時が流れようとも作品は色褪せることなく、むしろ輝きを増している。藤沢の文章には無駄がなく、静謐な音が響き、心を静かに、そして強く打つ。それは市井の人の普通の生き方を描いたからだ。
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「下城の太鼓が鳴ると、井口清兵衛はすばやく手もとの書類を片づけ、詰所の誰よりも早く部屋を出た」
1983年に発表された「たそがれ清兵衛」の一節である。清兵衛が城を出て足早に向かったのは、病身の妻女が待つ家である。
藤沢の長女・遠藤展子さんは、この物語を父と祖母と自分の3人暮らしのことを元に書かれていると感じ、その後、展子さんの生母が病で倒れたときのことも、この話に含まれていると理解したという。
「父の作品は、私の就職先が西武百貨店のブックセンターだったことで読み始めました。本を手に取ると純粋に面白く、次々と読み進めていました。年を重ねていくにつれ、父と母のこと、家のこと、いろいろなことが少しずつわかり、小説のなかに父を取り巻く家族のことが書かれていることを知り、小説の見え方が変わってきました」
藤沢は若くして結核を患った。子どもが生まれて幸せな生活が始まると思いきや、病気で妻を亡くす。それまでの生活が一瞬にして崩れ去ることを経験した。藤沢が小説家になったのは、心のなかの鬱屈を書かずにはいられなかったからだと、エッセーに記している。
時代小説の名手として知られる藤沢。市井の人々の心の動きを描き出す物語に多くの読者が惹かれ、抑制された透明感のある文体に心を動かされる。静謐としつつ、その奥に躍動するような強い力が感じられるのは、藤沢の心の叫びを静かに文字に写し取ったからだろう。
囲碁を趣味とし、作家になってからも碁会所に通っていた 朝日新聞社提供
ただ、自宅の仕事場から戻ると、作家・藤沢周平から父・小菅留治(本名)に戻り、家庭人の顔を見せた。
「お父さんは仕事をしているとき、私の友達が遊びに来ていると、『いらっしゃい』ってよく顔を出すんです。そのときの格好がステテコ姿だったりしてちょっと恥ずかしかったです」
小学生の頃は、遊びに来た子どもたちがいくら大騒ぎしても気にすることなく、やさしく接していたとも展子さんは話す。それは藤沢が学校の教員をしていたからだろうと話した。藤沢は娘の展子さんの話もよく聞いた。
「私が中学生から高校生の頃、学校から帰るとすぐ父に学校で起こったことを話していました。それだけでなく、私の周りのいろんなことを話すと、ふんふんとよく聞いてくれました」
じつはこれにはからくりがあった。
「大人になって父の小説を読むと、あのとき話したことや自分の周りのことを書いているのを知りました。つまり私の話をネタにしていたんです」と展子さん。
そう考えて読み直すと、これは私の友達のことだとか、あの話は近所のおばさんの家のことだと実感した。ただ、日常を作品に取り込むあまり、娘がかどわかされる小説を書いていたとき、自分の娘が心配になり、「もし、誘拐されたら、うちにはいくらくらいまでならお金があるから出せます、と父が考えていると犯人に伝えなさいと言われたことがあります」と、執筆に熱中していたさまを教えてくれた。
これほどまでに藤沢は小説に真摯に向き合い、小説を書く以外の仕事はしなかった。
「あるとき、コーヒーのCMの話が来たのです。『お父さん、やればよかったのに……』と言ったら、『本業以外はやらない』と言われました」
と少し残念そうに話した。でも、CMに出たのが遠藤周作さんでよかったと思う、と続けた。
ひょっとしたら「違いがわかる男」は藤沢だったかもしれない。
展子さんは父を作家・藤沢周平として意識したことはほとんどない。現在、藤沢周平事務所で夫の遠藤崇寿さんと著作権などを管理しているが、夫が作家・藤沢周平の担当で、自分は父・小菅留治の担当だと話す。
遠藤展子(えんどうのぶこ)/ 1963年、東京都生まれ。都立高校を卒業後、百貨店に勤務。88年に結婚し、遠藤姓となる。著書に『藤沢周平 遺された手帳』『父・藤沢周平との暮し』など。(撮影:工藤隆太郎)
展子さんが大人になって高校の同窓会のとき、当時の国語の先生に「あなたに国語を教えるのは、緊張してすごく嫌だった」と告白されたことがあった。また、引っ越しをするとき、作家の家族が越してくると近所で噂になっていたと後に聞いて驚いたことがあるそうだ。ただ、いつまでも展子さんにとっては藤沢周平より小菅留治である。
父とのことで今も思い出すことがある。高校生のとき展子さんは当時はやりの服装をしていた。ヒールの高いサンダルにタイトなスカートとアロハシャツ、あるいはつなぎなど。その格好を見て苦言を呈した。そのことは「役に立つ言葉」というエッセーに、
「最近の高校生の服装というものは、制服を着換えると一種異様なものになる。親から見るとチンドン屋をまねているとしか見えないが、これが流行だと言われれば眼をつぶるしかない。しかし……」
と書かれている。
「人は外見で判断してはいけないけど、じっさいの世の中はそうは見てくれない。その一方、私には人は見た目で判断してはいけないと言いました。そのことがわかるのはずっと先のことですが……。私の服装に対して頭ごなしにダメだというのではなく、やさしく諭してくれました」
そのことが展子さんの子育てにも影響したそうだ。「父・小菅留治」が家族を何より大切に思っているからこその言葉だろう。藤沢は孫のために2編の童話を書いたこともあった。
こうして家族を大切にした藤沢がよく口にしていた言葉に、「挨拶は基本」「いつも謙虚に、感謝の気持ちを忘れない」「謝るときは、素直に非を認めて潔く謝る」「派手なことは嫌い、目立つことはしない」「自慢はしない」、そして「普通が一番」である。これらの藤沢の言葉の思いはすべての作品の根底に流れ、同時に人にとってどれも当たり前のようなことである。
しかし、その当たり前のことがいかに脆く、困難であるかを藤沢は身をもって知っていた。そのことを思い続け、作家と父・小菅留治の間を行き来していた。その間には「家族」という大きな柱に支えられた「普通の生活」という名の橋があった。いずれの側に行くにも普通を一番に考えねばならない。
普通の生活、いや王道をゆくことを常とした、藤沢周平が大事にしていた「普通が一番」という考えは、今を生きる人に投げかけた大きなテーマであるのかもしれない。(本誌・鮎川哲也)※週刊朝日 2022年11月11日号