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時代小説の名手・藤沢周平 作家として父として「普通が一番」を貫いた理由
時代小説の名手・藤沢周平 作家として父として「普通が一番」を貫いた理由 1994年、東京・練馬の自宅の書斎で机に向かう 朝日新聞社提供  日本には文豪と呼ばれる作家がいた。文章や生きざまで読者を魅了し、社会に大きな影響を与えた。だが、彼らも一人の人間である。どんな性格だったのか。どのような生活を送っていたのか。子孫に話を聞き、“素顔”をシリーズで紹介していく。第5回は時代小説の名手として知られる藤沢周平。時が流れようとも作品は色褪せることなく、むしろ輝きを増している。藤沢の文章には無駄がなく、静謐な音が響き、心を静かに、そして強く打つ。それは市井の人の普通の生き方を描いたからだ。 *  *  * 「下城の太鼓が鳴ると、井口清兵衛はすばやく手もとの書類を片づけ、詰所の誰よりも早く部屋を出た」  1983年に発表された「たそがれ清兵衛」の一節である。清兵衛が城を出て足早に向かったのは、病身の妻女が待つ家である。  藤沢の長女・遠藤展子さんは、この物語を父と祖母と自分の3人暮らしのことを元に書かれていると感じ、その後、展子さんの生母が病で倒れたときのことも、この話に含まれていると理解したという。 「父の作品は、私の就職先が西武百貨店のブックセンターだったことで読み始めました。本を手に取ると純粋に面白く、次々と読み進めていました。年を重ねていくにつれ、父と母のこと、家のこと、いろいろなことが少しずつわかり、小説のなかに父を取り巻く家族のことが書かれていることを知り、小説の見え方が変わってきました」  藤沢は若くして結核を患った。子どもが生まれて幸せな生活が始まると思いきや、病気で妻を亡くす。それまでの生活が一瞬にして崩れ去ることを経験した。藤沢が小説家になったのは、心のなかの鬱屈を書かずにはいられなかったからだと、エッセーに記している。  時代小説の名手として知られる藤沢。市井の人々の心の動きを描き出す物語に多くの読者が惹かれ、抑制された透明感のある文体に心を動かされる。静謐としつつ、その奥に躍動するような強い力が感じられるのは、藤沢の心の叫びを静かに文字に写し取ったからだろう。 囲碁を趣味とし、作家になってからも碁会所に通っていた 朝日新聞社提供  ただ、自宅の仕事場から戻ると、作家・藤沢周平から父・小菅留治(本名)に戻り、家庭人の顔を見せた。 「お父さんは仕事をしているとき、私の友達が遊びに来ていると、『いらっしゃい』ってよく顔を出すんです。そのときの格好がステテコ姿だったりしてちょっと恥ずかしかったです」  小学生の頃は、遊びに来た子どもたちがいくら大騒ぎしても気にすることなく、やさしく接していたとも展子さんは話す。それは藤沢が学校の教員をしていたからだろうと話した。藤沢は娘の展子さんの話もよく聞いた。 「私が中学生から高校生の頃、学校から帰るとすぐ父に学校で起こったことを話していました。それだけでなく、私の周りのいろんなことを話すと、ふんふんとよく聞いてくれました」  じつはこれにはからくりがあった。 「大人になって父の小説を読むと、あのとき話したことや自分の周りのことを書いているのを知りました。つまり私の話をネタにしていたんです」と展子さん。  そう考えて読み直すと、これは私の友達のことだとか、あの話は近所のおばさんの家のことだと実感した。ただ、日常を作品に取り込むあまり、娘がかどわかされる小説を書いていたとき、自分の娘が心配になり、「もし、誘拐されたら、うちにはいくらくらいまでならお金があるから出せます、と父が考えていると犯人に伝えなさいと言われたことがあります」と、執筆に熱中していたさまを教えてくれた。  これほどまでに藤沢は小説に真摯に向き合い、小説を書く以外の仕事はしなかった。 「あるとき、コーヒーのCMの話が来たのです。『お父さん、やればよかったのに……』と言ったら、『本業以外はやらない』と言われました」  と少し残念そうに話した。でも、CMに出たのが遠藤周作さんでよかったと思う、と続けた。  ひょっとしたら「違いがわかる男」は藤沢だったかもしれない。  展子さんは父を作家・藤沢周平として意識したことはほとんどない。現在、藤沢周平事務所で夫の遠藤崇寿さんと著作権などを管理しているが、夫が作家・藤沢周平の担当で、自分は父・小菅留治の担当だと話す。 遠藤展子(えんどうのぶこ)/ 1963年、東京都生まれ。都立高校を卒業後、百貨店に勤務。88年に結婚し、遠藤姓となる。著書に『藤沢周平 遺された手帳』『父・藤沢周平との暮し』など。(撮影:工藤隆太郎)  展子さんが大人になって高校の同窓会のとき、当時の国語の先生に「あなたに国語を教えるのは、緊張してすごく嫌だった」と告白されたことがあった。また、引っ越しをするとき、作家の家族が越してくると近所で噂になっていたと後に聞いて驚いたことがあるそうだ。ただ、いつまでも展子さんにとっては藤沢周平より小菅留治である。  父とのことで今も思い出すことがある。高校生のとき展子さんは当時はやりの服装をしていた。ヒールの高いサンダルにタイトなスカートとアロハシャツ、あるいはつなぎなど。その格好を見て苦言を呈した。そのことは「役に立つ言葉」というエッセーに、 「最近の高校生の服装というものは、制服を着換えると一種異様なものになる。親から見るとチンドン屋をまねているとしか見えないが、これが流行だと言われれば眼をつぶるしかない。しかし……」  と書かれている。 「人は外見で判断してはいけないけど、じっさいの世の中はそうは見てくれない。その一方、私には人は見た目で判断してはいけないと言いました。そのことがわかるのはずっと先のことですが……。私の服装に対して頭ごなしにダメだというのではなく、やさしく諭してくれました」  そのことが展子さんの子育てにも影響したそうだ。「父・小菅留治」が家族を何より大切に思っているからこその言葉だろう。藤沢は孫のために2編の童話を書いたこともあった。  こうして家族を大切にした藤沢がよく口にしていた言葉に、「挨拶は基本」「いつも謙虚に、感謝の気持ちを忘れない」「謝るときは、素直に非を認めて潔く謝る」「派手なことは嫌い、目立つことはしない」「自慢はしない」、そして「普通が一番」である。これらの藤沢の言葉の思いはすべての作品の根底に流れ、同時に人にとってどれも当たり前のようなことである。  しかし、その当たり前のことがいかに脆く、困難であるかを藤沢は身をもって知っていた。そのことを思い続け、作家と父・小菅留治の間を行き来していた。その間には「家族」という大きな柱に支えられた「普通の生活」という名の橋があった。いずれの側に行くにも普通を一番に考えねばならない。  普通の生活、いや王道をゆくことを常とした、藤沢周平が大事にしていた「普通が一番」という考えは、今を生きる人に投げかけた大きなテーマであるのかもしれない。(本誌・鮎川哲也)※週刊朝日  2022年11月11日号
「スパイ・ゾルゲ」ロシアで大ブーム 銅像建立、ドラマ・映画化、ゾルゲ駅も
「スパイ・ゾルゲ」ロシアで大ブーム 銅像建立、ドラマ・映画化、ゾルゲ駅も リヒャルト・ゾルゲ。日本の妻だった石井花子には「友達はいない。寂しい」(NHK「現代史スクープドキュメント 国際スパイ・ゾルゲ〈1991年〉」から)と弱音をはいたという  1941年10月に摘発された「ゾルゲ事件」。戦前の日本で暗躍した旧ソ連のスパイ、リヒャルト・ゾルゲが現在、ロシアでブームになっている。日本では未公開だった機密文書を掲載した資料集も発刊された。伝説のスパイは何を残したのか。 *  *  *  ゾルゲは第2次世界大戦時に東京で諜報グループを組織し、機密情報をモスクワへ送り続けた。課された任務は、日本軍がシベリアに北進するのか、あるいは仏領インドシナへ南進するのかの情報収集。ゾルゲたちは膨大な証拠を掴み、打電。任務をほぼ遂行したところで逮捕された。  ロシアでは近年、祖国を救った英雄として評価が急上昇し、ゾルゲ・ブームが起きている。モスクワや極東のウラジオストクなどにゾルゲの銅像が建立され、モスクワ地下鉄外環状線の新駅は「ゾルゲ駅」と命名。ロシアの各都市には「ゾルゲ通り」と名付けられた街路が続々と誕生した。2019年に国営テレビが歴史ドラマ「ゾルゲ」(全12話)を放映。その後、映画も公開される。  評伝や資料集など関連本も続々と出版されている。日本研究者のアンドレイ・フェシュン氏(モスクワ大学東洋学部准教授)はゾルゲが送った電報や書簡、モスクワからの指令など650点の機密文書を編纂。その中から1941年以降の文書218点を収録した『ゾルゲ・ファイル 1941‐1945』(みすず書房)がこのほど刊行された。日本では、大半が初公開の文書だ。  訳者の名越健郎・拓殖大学特任教授(元時事通信記者)が、ロシアを席巻するゾルゲ・ブームについて解説する。 「ロシアは、ウクライナへの軍事侵攻によって経済制裁を受けて孤立しています。現在の厳しい安全保障環境は、社会主義国家の建設で孤立した第2次世界大戦前夜と似ています。このため、プーチン政権は命がけで祖国のために情報工作を行ったゾルゲの忠誠心を賛美し、愛国主義を鼓舞しようとの狙いがあるのです」  ゾルゲは1895年、ドイツ人の父とロシア人の母の間に生まれる。ロシア革命に共鳴し、大学生の時にドイツ共産党に入党。モスクワに移りコミンテルン(国際共産党)に所属した後、ソ連赤軍参謀本部情報局にスカウトされて、諜報活動に従事する。偽装のためナチスに入党し、1933年、ドイツ紙特派員を表向きの仕事として来日する。日本の情報に精通したゾルゲは、駐日ドイツ大使館のオット大使から絶大な信頼を得る。 ゾルゲの盟友だった尾崎秀実  ドイツ大使館員らを情報源としたゾルゲは、盟友だった朝日新聞記者の尾崎秀実(ほつみ)とともに、日本人エージェントを含む十数人のスパイ網を構築した。  ソ連は39年8月、英仏との対立を強めるドイツとの間で独ソ不可侵条約を締結。同年9月、ポーランドに侵攻したドイツに対して英仏が宣戦布告し、第2次世界大戦が勃発する。一方で、ヒトラーは水面下でソ連侵攻作戦「バルバロッサ」の策定を進めていた。その動向を、ゾルゲは東京のドイツ大使館でキャッチする。41年3月10日、モスクワの情報本部へ次のような電報を送る。 <新任の武官は、今の戦争が終了したら、ドイツの激烈な対ソ戦争が始まるに違いないと考えている>  5月2日には<オット(大使)は、ヒトラーはソ連を撃破し、ソ連欧州部を手中に収めて、ヨーロッパ全土を支配するための穀物と資源の基地にする決意だと述べた>と打電。さらに<ドイツの将軍たちは赤軍の戦闘能力を極めて低く評価しており、交戦すれば、数週間で粉砕できるとみている>と指摘している。  6月1日には<6月15日前後に独ソ戦が始まる>と具体的な日付を明示。この情報は来日中のドイツ軍人で、ゾルゲと親交のあったショル中佐からもたらされたものだった。15日には<対ソ戦はおそらく6月末まで延期される>と訂正。20日には、<オットは、独ソ戦はもはや避けられないと私に語った>と報告する。名越氏が語る。 「5月2日の打電は最も有名ですが、今回、ドイツ軍のソ連攻撃を予告した電報が10本程度も公開されました。しかし、スターリンはゾルゲの再三の警告を無視し、ヒトラーを最後まで信用して戦争準備を怠ったのです。独ソ開戦の6月22日以降、情報本部のゾルゲに対する評価が好転します」  41年4月、ソ連は日本と日ソ中立条約を締結したが、独ソ戦の開始によって、ドイツ、イタリアと三国同盟を結ぶ日本の動向を警戒せざるを得なくなった。当時、日本はソ連を攻撃する「北進」と、仏領インドシナに進駐する「南進」で国論が二分されていた。 東京・多磨霊園にあるゾルゲの墓。左の「ゾルゲとその同志たち」の碑には尾崎秀実の名も刻まれている  ゾルゲは近衛文麿政権の内閣嘱託に就いていた尾崎を通じ、7月2日の御前会議で決定された内容を掌握。7月10日の電報でこう伝えた。 <サイゴン(インドシナ)への軍事行動計画を変更しないことが、御前会議で決定された。ただし、赤軍の敗北に備えて、対ソ軍事行動の準備をしておくことも同時に決定された>。情報本部は<この情報は信頼に値する>と評価。その後、ソ連は日本の対ソ参戦はないと確信し、極東・シベリアの精鋭部隊をモスクワ戦線に投入、反転攻勢へとつなげていく。 「ゾルゲは10月に逮捕され、ドイツ大使館からソ連に情報が筒抜けになっていたことが明らかになります。日独間の信頼関係は失墜し、軍事的な連携にひびが入った。それはある意味、最大の功績と言っていい。日本は真珠湾攻撃をする際、ドイツには事前に一切知らせていません。日本は単独で日米開戦へと突入していくのです」(名越氏)  ゾルゲたちを命まで賭したスパイ活動へ駆り立てたものは何か。今年11月7日に発足する「尾崎=ゾルゲ研究会」事務局長の鈴木規夫・愛知大学教授が語る。 「1930年代の世界は、現在の自国優先主義のような偏狭なナショナリズムが蔓延(まんえん)していました。このため戦争が起きるのですが、その中でゾルゲと尾崎は共産主義者として、インターナショナリズム(国際主義)を共有していました。最終的に世界平和を目指すために、まずは日ソ間の戦争を回避させるという同じ使命感を持ったのです」  ゾルゲと尾崎に死刑が執行されたのは、44年11月7日。ロシア革命記念日だった──。(本誌・亀井洋志)※週刊朝日  2022年11月11日号
安倍昭恵さん“悲劇”から100日の決意 「自分の店」と「地元事務所」を閉めたワケ
安倍昭恵さん“悲劇”から100日の決意 「自分の店」と「地元事務所」を閉めたワケ 安倍晋三元首相の県民葬で、遺族代表としてあいさつする安倍昭恵さん  10月31日、安倍晋三元首相の夫人・昭恵さん(60)が経営していた東京・神田の居酒屋「UZU(ウズ)」が閉店した。  最終日、店の前に報道陣が10人ほど集まる中、昭恵さんは午後6時ごろに店を訪れ、2時間あまり滞在した。午後8時、「迎車」のランプをつけたタクシーが横付けされると、昭恵さんは店員たちに守られながら一人でタクシーに乗り込んだ。店員たちに手を振ると同時に、報道陣にも会釈するなど配慮をみせた。 「今日はスタッフと関係者の慰労会のようなものです。昭恵さんが何を語ったかは話せないが、ほとんど(お酒は)飲んでいなかった」(男性店員) 10月31日で閉店した居酒屋「UZU」(撮影/上田耕司)  UZUがオープンしたのは2012年10月。約10年で閉店となったが、女性店員はこう話す。 「(閉店は)やっぱり感慨深いものがあります。これから片づけです。大体の店員たちは、次の就職先は決まっています」  店の備品の納入会社によれば、数日以内に店内を片づけるという。  UZUは、晋三氏の故郷の山口県下関市の「UZU農場」で育てた無農薬の米を使い、その他の食材も「無農薬、無添加」の国産食材を厳選して料理を提供してきた。昭恵さんの“こだわり”が詰まった店だった。  昭恵さんの知人は店を閉めた理由をこう話す。 「晋三さんが亡くなる前、昭恵さんは富ケ谷(渋谷区)の自宅に、ずっと晋三さんの母・洋子さんと一緒に3人で暮らしていましたが、やはり一人でいられる時間も欲しかったようです。そこで、気分転換にもなると思って『UZU』を始めたんです。昭恵さんはたくさんの人に囲まれて、にぎやかな雰囲気でいるのが好きな性格。店には晋三さんの考えに共鳴する人たちも多くやって来て、食事をしながらいろいろな話をする場所でもあった。晋三さんがいなくなった今、あえて続ける理由もなくなったのでしょう」  晋三氏が亡くなる数カ月前、UZUに行ったという近所の女性はこう話す。 「5~6人でふらりと店に入ったんですが、コロナの影響なのか、その頃は予約無しでも入れました。私たち以外にはお客さんもいませんでした。でも晋三さんが亡くなってから再び注目されたのか、予約が一杯のようで、毎日お客さんがたくさん入っていますね」(近所の女性) 「UZU」の閉店日、店から出てくる安倍昭恵さん(撮影/上田耕司)。画像の一部を加工しています  安倍夫妻と交友があった男性は昭恵さんの胸中をこうおもんぱかる。 「昭恵さんは、店の女将としてこのままUZUを続けてはいけないと思ったんでしょう。心労もあるし、店に出たら、経営のことも考えなきゃいけない。晋三さんが亡くなってからは、当たり前だけど、洋子さんも昭恵さんもすごく寂しい思いを抱えている。今はお互いに何のわだかまりもなく、仲良くやっていますよ」  10月28、29の両日、昭恵さんは衆院山口4区の山口県下関市と長門市で開かれた後援会の会合に出席。その会合では、両市の安倍事務所を年内で閉鎖する方針であることが秘書から示されたという。安倍事務所にその理由を尋ねると「もう、(安倍晋三)代議士がいませんから……」と言葉すくなだった。  安倍氏の支援者はこう語る。 「事務所を閉めたのは昭恵さんの意向もあると思います。主がいない中で、維持経費もかかるし、秘書の人件費も払わなければならない。なるべく早いうちに身の振り方を考えたということだと思います」  一部では、後援会も閉鎖するのではと報じられたが、 「支部の小さな組織は閉めたところはありますが、(選挙区の)後継者も決まっていないですし、今、後援会自体がなくなることはありません」(前出の支援者)  昭恵さんは、現時点では立候補する意思はないことを表明している。衆院山口4区の補選は来年4月にも行われる予定だが、安倍氏の地元支援者は「昭恵さんが立候補する可能性はゼロではない」と話す。 「昭恵さんご本人には『ないから』と言われましたが、私どもは出てくれるのが一番いいと思っています。特に後援会の女性部から希望が出ています。思想・信条的にも、晋三さんの意思をしっかりと受け継ぎ、後継者としてふさわしい人に託したい。晋三先生が残した組織ですから、後継者が決まるまでは見届けたいという支援者は多いですよ」  悲劇から100日以上がたった。自らの店と地元事務所を閉じて、昭恵さんが次に歩もうとするのはどの道なのか。静かに見守りたい。(AERA dot.編集部・上田耕司) 過去の店内の様子(提供) 過去に実際にUSUで提供されてた突き出し(提供) 過去にはUZU米についての説明書きが店内にあったという(提供)
介護職が見た利用者と家族のリアル 「夫が死ぬまで連絡は結構です」という妻も
介護職が見た利用者と家族のリアル 「夫が死ぬまで連絡は結構です」という妻も  高齢者の暮らしを支える介護業界の仕事に携わる人は、日頃どんな思いで高齢者と向き合っているのか。「なり手不足」が叫ばれて久しい介護業界で、現役で介護職として働く人のリアルな本音と実情に迫った。 【登場人物プロフィル】 Aさん(60代):介護施設に勤務する介護職歴20年のベテラン。若手教育にも携わる。 Bさん(40代):デイサービス勤務を経て、利用者宅を訪問し介護を行う訪問介護員歴15年。 Cさん(50代):介護職歴10年。現在、ケアマネジャーの資格を取るために勉強中。 *  *  * ──高齢化が進む中、介護業界の人手不足が深刻な問題になっています。 Aさん:うちの施設も求人を募ってもなかなか応募者がいないし、入っても離職率が高く、人が定着しない。介護施設では24時間態勢で利用者さんの生活を見守るため、夜勤やシフト制での不規則な働き方がきついと感じる人もいます。夜勤は拘束時間が長く、少人数で対応するため体力的な負担もかかってしまう。 Bさん:訪問介護員も人手不足が深刻です。うちの事業所では、15人の介護職のうち、9人が65歳以上で、介護職として働く人の高齢化もある。年齢を問わず働くことができる仕事でもあるので、50代で資格を取る人も結構多いんですよね。でも結局、体力的にきつかったり、人間関係の問題などで辞めてしまう人も少なくありません。 Cさん:仕事がきついわりに、給料が低いのも人材不足の要因。中には、高い志を持って、若くして介護業界に飛び込む人もいます。でも実際に介護業界で働く中で、「こんなに大変な仕事を、この条件でやってられない」となって辞める人も多い。私は今、給料アップのためにも、ケアマネジャーの資格を取るために勉強しています。 Aさん:排泄、食事、入浴の介助など、利用者に直接接する分、体力や気力を使う仕事であることは事実。体が大きい人だと、介助もその分大変になるし、認知症などでコミュニケーションが難しい人と日々向き合わないといけないつらさもある。でも、世の中になくてはならない仕事で、実際に介護職ならではのやりがいもあると思うんだけれど……。 Cさん:私もそう思います。高齢化が進む中で、ますます需要が高まる仕事であるはずなのに、介護職に対する世間の偏見はいまだに強い。私もプライベートの場面で、「介護の仕事をしている」と言ったとき、相手から「なぜそんな仕事を選んだのか」といった雰囲気や、「それは可哀想に……」という空気を感じ、惨めな気持ちになることがあります。 Bさん:以前の同僚で、婚約相手から「介護の仕事を辞めてほしい」と言われて辞めた人がいました。婚約相手の中で、介護職が汚いイメージだったのと、「妻にキツイ仕事をさせている夫」という見られ方をしたくないというのが理由だったようです。介護はいずれ皆が通る道で、なくてはならない仕事であるはずなのに、なんでそんな見られ方をしないといけないのか……。 Aさん:私も施設の人材育成に携わる一方で、自分の子どもが介護業界に行きたいと言ったら、止めてしまうかもしれない。それこそ年齢を重ねてからでも入れる業界なので、何も20代、30代で経験しなくてもと思ってしまう自分もいます。 ──介護職に嫌われる利用者とは? Bさん:介護の仕事は、気持ちの切り替えが早くないと続かない。キレやすかったり、理不尽な要求をぶつけてくる高齢者は、本当によくいます。直接的にいろんな人と関わる仕事である分、喜怒哀楽がダイレクトに伝わってくる仕事でもあります。 Cさん:私たち介護職の手が入るということは、思うように体を動かせない状態ということでもあり、そのもどかしさを私たちにぶつけてくる人もいるように感じます。優しく接しているつもりでも、「バカにするな!」「ヘラヘラ笑うな!」って怒鳴られたり。 Aさん:「こっちは金を払ってるんだから、言われたことは何でもやれ」という姿勢の人って、結構いますよね。介護職をまるで召使のように扱う人。プライドが高い人ほど、その傾向があるように感じます。以前、会社の社長を務めていたという男性を担当したとき、命令口調がひどくて精神的にすごく疲れました。その妻もまた、高圧的な態度で、明らかに私たちを下に見ているのが伝わる。「やってもらって当たり前」という態度が変わらないと、こちらもつらいものがあります。 Bさん:私も似たような経験があります。訪問介護員として利用者宅を訪問すると、中には「あれもやって、これもやって」と、介護職をお手伝いさんと勘違いしているような人がいます。私たちの仕事は、あくまで利用者の生活に関わる介助なのに、「家族の分の布団も干しといて」「洗濯全部、やっといて」「犬の散歩しといて」とか。「それはサービス範囲外なんですよ」と説明すると、「金払ってるだろうが!」ってキレられたり。 Cさん:話が通じない人は本当に困ります。「ありがとう」の一言があれば、こちらも気持ちよく仕事ができるのに、命令口調ばかりでは、どうしても辟易させられます。 Aさん:逆にサービス提供者側を使うのがうまいな、という利用者もいますよね。「いつもありがとうね」「あなたがいてくれて助かってるよ」の言葉があれば、私たちも気持ちよく動ける。相手の目線に立って接することができる人だと、「できることはやってあげたい」という前向きな姿勢になれます。介護職である前に、一人の人間であることをわかって接してくれる人は、私たちもやりがいを感じられる。 Bさん:いろんな人間ドラマを目にするというか、見たくない部分が見えるときもあります。家族間のトラブル、相続の問題、はたまた痴情のもつれとか……。以前、利用者本人から妹だと紹介されていた人が、実は愛人だったということがあって、真っ昼間に妻と自宅で鉢合わせして修羅場になった場面に出くわしたことがあります。 Cさん:いろんな家族のリアルな姿を目の当たりにしますよね。親のことなのに「面倒なんで、そっちで全部やってください」という子どもや、「夫が死んだら知らせてください。それまでの連絡は結構です」という妻もいました。あまりに無責任だなと思う一方で、家族にはそれまでの積み重ねと歴史がある分、私たちがとやかく言えることではないし……。 Aさん:家族間で、施設への訪問回数を競う人たちもいました。面会に来ると言っても、ほんの数分で帰ってしまって、特に何か手伝いをするわけでもないのに、「ほとんど毎日来て、いろんなことを手伝っている」「私が家族の中で一番、介護に関わっている」と大きな声で競い合う。「遺産の相続を見越しての動きなんだろうな」と思わずにいられませんでした。その利用者は寝たきりで口もきけない状態でしたが、声は聞こえていたんじゃないかな。 ──介護現場でのセクハラを理由に辞める人もいると聞きます。 Bさん:セクハラ問題は、線引きが難しい部分があります。利用者や家族との間で、波風をなるべく立てたくない施設も多く、「なかったことにする」という対応をしているところも少なくないのでは。特に認知症がある利用者となると、本人にその意識がない場合もある。私も施設で働いているとき、認知症の男性利用者の着替えや入浴、排泄介助のとき、お尻や胸を触られたりしたことがありました。「本当に気持ち悪いから嫌だ」と上司に泣きついたら、担当を男性に代えてくれましたが、「認知症だし仕方ない、忘れよう」という対応でした。 Aさん:今の80代は、セクハラという概念がない時代を生きた世代なので、そこまで大ごとと思ってなかったりもする。男性から女性だけでなく、女性から男性というセクハラもあります。しかし、どれだけ年を重ねても、若い男性が好きな女性は多いし、その逆も然り。「私の担当、○○さんにしてよ」と、お気に入りを指名したがる利用者は珍しくありません。 Cさん:わかります。キャバクラやホストクラブじゃないんだからって思うことがありました。若くて可愛い介護職員や看護師にはヘラヘラ優しいのに、50代の私が介助すると、ブスッとしている男性利用者もいて、「何様だよ!」とイラッとすることがあります(笑)。若い男性介護職員が来る日には、お化粧して甘い声を出すおばあちゃんとかはまだ可愛いんですが。 ──クレームにはどのようなものがありますか? Bさん:名指しでクレームが来たときには、「やってられない」という気持ちになります。こちらは一生懸命やっているつもりでも、「利用者を丁寧に扱っていない」「態度が偉そうだ」というクレームが寄せられたり。利用者から「さっさとしなさいよ」「またあなたなの?」など直接言われる分にはまだ良いのですが、つらいのは家族経由で“大問題”としてクレームを言われるとき。中には施設長宛てに長いクレームの手紙を書いて送ってくる家族もいました。 Aさん:家族が介護者側に求めるサービスのレベルが、あまりに高すぎるということもあります。以前、施設のベッドで尿を漏らした利用者の家族が、「家では漏らしたことが一度もなかったのに、この施設の対応はどうなっているんだ」とクレームを入れてきました。聞けば、「尿意をもよおしていることぐらい、表情の変化で読み取れ」と言う。私たち施設のスタッフは、常に特定の一人を見ているわけではないため、それは求めすぎ。でもそれが理解できない家族というのもいるんですよね。 Bさん:わかります。自分たちの手は汚したくないけど、介護者に対してめちゃくちゃな要求を振りかざしたり、何事にも意見してくる家族は、少なからずいますよね。 Cさん:老衰が進むことを受け入れられない家族というのもいますよね。利用者が認知症で服薬を忘れている現実を前に、「薬を飲みたくないんですね」と本人の意思の問題にすり替えたりする。老衰の現実を受け入れられず、「利用者がこうなったのは、介護者側の責任だ」と言わんばかりの態度を取る家族も。 Aさん:今年、60代の息子が90代の母親の担当医を殺害するという悲惨な事件が起きましたよね。家族の思いが強すぎるあまりに、医療者や介護者に敵意が向けられることは、少なからずあるように感じます。 Bさん:これは個人的な見解ですが、親一人、子一人の二人暮らしが長い親子は、共依存度が高いように思います。二人だけの世界ができあがっていて、私たちのような外部の人間をなかなか信用しない。以前、80代の利用者のお宅を訪問していたとき、60代の独身の娘さんから「ちゃんとやったんですか?」「もっと丁寧にやってください!」と執拗に高いレベルの要求を受けたことがありました。ある程度、こちらを信用して任せてもらえないと、精神的にも疲れてしまいます。 Cさん:「そこまで言うなら、自分でやってください」と言いたくなりますよね。逆に、前向きにやってあげたいと思えるような家族もたくさんいます。共通するのは、私たちサポート側を信頼してくれていること、相手の目線に立って物事を考えてくれること。また「今、何に困っている」と困りごとや質問を明確にしている人も、ケアがスムーズに進みやすい。 Aさん:「完全に丸投げ」ではなく、理解しようと動いてくれる家族だとやりやすいですよね。いざというときの人手という意味では、家族間の信頼関係ができているかどうかも、とても大きい。同居する家族はいても、ほとんどコミュニケーションを取らない家族というのもいますから。 Bさん:振り返れば、最初のころは、利用者や家族の心ない言葉にすごく傷ついたりすることもありましたが、徐々にちょっとやそっとのことで動じないようになりました(笑)。目下の悩みは、腰痛。オムツ交換や入浴介助など、仕事の中で前かがみや中腰の体勢が続くことが多く、慢性的な腰痛が続いています。 Aさん:腰痛は介護職の“職業病”。私も、コルセットや腰痛ベルトが手放せない時期がありました。ストレッチで少しは軽減されたけど、利用者から「あんたもいろいろ大変ねえ」なんて言われたり(笑)。 Cさん:体力のいる仕事ではありますが、「人の役に立っている」ということを実感できる仕事であることは間違いない。高齢者と接する中で学ぶことも多いし、生き方や人生についても考えさせられる。将来性もある仕事だと思っています。 Bさん:いろんな人と接する中で学ぶ部分は大きいですよね。利用者からの「あなたがいてくれて良かった」という言葉も、大きな励みになります。 Aさん:介護職は、人のいろんな面を見る仕事。大変なこともあるけれど、いろんな人の生き様から学ぶものは大きい。介護従事者がもっと胸を張って、仕事について話せる世の中になってほしいです。 (構成/フリーランス記者・松岡かすみ)※週刊朝日  2022年11月4日号
「空腹に耐えかねて土を掘って食べた」 旧統一教会「祝福2世」女性の苦悩
「空腹に耐えかねて土を掘って食べた」 旧統一教会「祝福2世」女性の苦悩 旧統一教会の祝福2世として生まれた女性は「親からの無償の愛は子どもの自分ではなく教祖や神様のものだったことがつらかった」(photo 編集部・福井しほ)  国会で旧統一教会問題が取り上げられているなか、被害者は苦しみ続けている。脱会後も悩んでいるという「祝福2世」の女性に話を聞いた。AERA 2022年10月31日号の記事を紹介する。 *  *  *  声を震わせながら語ったのは「普通の家庭」が崩壊したことへの怒りだった。高知県に住む橋田達夫さんは、世界平和統一家庭連合(旧統一教会)信者の元妻が1億円に上る高額献金をしたことなどが原因で約9年前に離婚。さらに、元妻と同居していた長男が約2年前に自死したことをメディアに訴えてきた。その橋田さんの自宅を教団の勅使河原秀行・教会改革推進本部長が突然訪れ、「マスコミに出ないでほしい」などと要請したという。橋田さんは10月18日に弁護士とともに東京都内で記者会見を開き、教団に抗議書を送付したことを明かした。 ■恋愛は殺人以上の罪  壊された「家」は他にもある。  都内の40代女性の両親は、教団を通じて結婚。女性は「祝福2世」として生まれた。母親は熱心な信者で、政治家などの重要人物をつなぎとめる「VIP渉外」の責任者として従事。自宅は活動拠点となり、多いときは約30人の大人が暮らす「ホーム」と呼ばれていたという。 「原罪のない神の子」として生まれた女性は特別扱いを受ける一方で、監視下に置かれた。 「祝福2世の最大の失敗は、祝福を受ける前に異性と関係を持つこと。堕落と言われ、強盗や殺人以上の罪として地獄の底に置かれるんです」  恋愛漫画や異性関係に関わる作品に触れるのは一切禁止。男子と遊ぶのも厳禁だったという。  国政選挙や「修練会」の時期になると、大人たちは一斉に家からいなくなった。だが、献金によって家は常に困窮状態。空腹に耐えかねて土を掘って食べたり、スーパーの廃棄品を探し歩いたり。給食の見本を持ち帰ったことが見つかり、家に食べものがないことを教師に打ち明けたときには、「うそをつくな」と怒られた。 「近所の人が食べさせてくれた時期もありました。でも、親や一緒に住んでいるお姉さんがお礼に上がるときに、困っていることはないか、病気の親族がいないかと詮索(せんさく)し始める。あの家はヤバいとなって距離を置かれてしまうんです」 ■「俺にはつぼを売るな」  1992年、歌手の桜田淳子さんらの合同結婚式をきっかけに旧統一教会がメディアで取り上げられるようになると、女性の家族が信者であることに周囲も気づき始める。 「授業中に先生が『お前も合同結婚式に出るの?』『俺にはつぼを売るなよ』と言って笑いを取るようなことをしたり。誰も信用できなくなってしまった」  違和感を抱えながらも、親に愛されたい思いで信仰しているふりを続けた。18歳のときには、2世信者である日本人男性と合同結婚式に参加。だが、父親への恐怖からいやいや参加したという相手とはうまくいかず、結婚には至らなかった。  26歳で参加した2度目の合同結婚式で、「教祖が指をさした」韓国人男性と出会う。 「夫は、殴る蹴るといった暴力はもちろん、性欲や自尊心を満足させなければ不機嫌になって暴れまわる人でした。出産後は子どもに暴力を振るい始め、夜尿症や背中一面に湿疹が出るようになってしまったんです」  耐えかねて実家に戻ると、両親が言ったのは、 「愛で乗り越えろ」  の一言だった。女性は言う。 「夫が私を苦しめるのも神様からすると意味があることで、愛で彼の悪い行いを変えることが神の願いだと言うんです。『だからしかたない』って。なんなんだという思いでした」  その後、全国霊感商法対策弁護士連絡会の弁護士とつながり、夫とは離婚して旧統一教会も脱会した。だが、祝福2世として生まれた事実からは逃れられないと吐露する。 「安倍晋三元首相の銃撃事件が起きたあと、教団関係者から母親が生前活動していたときの手帳や政治家と写っている写真を引き取りたいと連絡がありました。私は信仰をやめたつもりだったけど、2世であることはやめられないんですよね」 (編集部・福井しほ) 旧統一教会で出回っていたとされる内部文書で・高額献金者「篤志家」を育てるためのスケジュール(photo 編集部・福井しほ) 宝石販売会場に勧誘する「動員トーク」(写真は一部加工)(photo 編集部・福井しほ) つぼなどの販売と教団とのかかわりを示す資料(photo 編集部・福井しほ) ※AERA 2022年10月31日号より抜粋
脱「どんぶり家計」で老後破綻なし! 年金収入だけで生活するお金管理術
脱「どんぶり家計」で老後破綻なし! 年金収入だけで生活するお金管理術 ※写真はイメージです (GettyImages)  将来、病気や介護などに必要となるお金も準備しながら、旅行や食事など日々の生活も我慢せずに楽しむ。だけど、やりくりが苦手で目の前の節約で精いっぱい……。そんな人も年金収入だけで楽しく生活できる方法を教えます! *  *  *  5年前にリタイアしたAさん(69)は、妻(68)と2人暮らし。子どもたちは独立してすでに家庭を持ち、悠々自適とは言い難いが、定年ライフを楽しんでいる。  ところが最近、不安を抱くようになったのは「家計」のこと。年金収入が70歳から少なくなるので、今までどおりの生活スタイルでやっていいのか、元気なうちは少しでも働いたほうがいいのか、悩み始めたという。 「年金収入は夫婦合わせて年間約340万円あります。しかし、私の会社の企業年金は60歳から70歳までの10年間しか支給されないので、もうじき年間60万円もマイナスになってしまうのです。そこにきて今の物価高を考えると、このままの生活スタイルを続けても大丈夫なのか不安になってきました」(Aさん)  年金収入は月額にすると約28万3千円。70歳以降は5万円減額となる。 「私たちは派手な買い物はしないので、年金を使い切ることはありませんが、家計簿はつけていない“どんぶり勘定”なので、全財産がいくらあるのか正確に把握したことはありません」と、Aさんは言う。  今年10月に、6500品目を超える食料品や飲料品などが値上げのピークを迎える。民間の信用調査会社によると2人以上の世帯で年間負担は平均6万8千円増にもなる。 「食料品などが値上がりするこのタイミングで、1カ月の収支を把握して予算を立てて家計を管理することをお勧めします。しかし“順番”を間違えると赤字は解消されないどころか、老後破綻を招いてしまいます。節約することばかりに気をとられると失敗します」  そうアドバイスするのは、『正しい家計管理 長期プラン編』(すみれ書房)の著者で、公認会計士・税理士の林總さん。生活費をやみくもに縮小させるのではなく、年金収入だけでも生活が成り立つシステムを作ることが大切という。 週刊朝日 2022年10月28日号より  林さんが勧める方法は、会社経営のように、予算を立ててそのとおりに実行すること。特にシニア世代の場合は、毎月の生活費の赤字を退職金や預金などから取り崩さないようにするのはもちろんのこと、病気や介護が必要になったときのお金を備えておくと安心できるという。  また、元気なうちに旅行に行ったり、やりたいことを実現させたりするための資金も予算に入れておきたい。 週刊朝日 2022年10月28日号より  最初にやることは、ノートを用意して「財産目録」を作成すること。できれば月に一度程度、継続して記録し続けることが望ましい。  プラスの財産には夫と妻が持つすべての通帳を集めて、残高を記載。株式や投資信託はインターネットで現在価格を調べてから記入する。貯蓄型保険などの証書も用意し、今解約したら返戻金がいくらもらえるのか調べておこう。  次にマイナスの財産を書き出す。  すでに住宅ローンや教育ローンは完済している人が多いだろうが、自動車やお墓など、ほかにローンを組んでいたら、それらももれなく記載する。  プラスの財産からマイナスの財産を引くと、「純資産」が出る。  財産目録を書きながら、ふだん使っていない預金口座やクレジットカードは解約しておこう。また、銀行口座は年金が振り込まれる口座と、もう一つ生活費のやりくりをする口座の二つ程度にしておくと管理しやすい。夫と妻の年金はそれぞれの名義の口座に振り込まれるので、そこから生活費の口座にお金を振り込む仕組みを作ると家計管理がしやすくなる。  続いては将来のリスクについて考えよう。介護や病気にかかったときに必要になるお金を予測しながら、「長期プラン」を立てる。 「例えば、現在無借金で純資産が3千万円あったとしても、それから介護などの費用がかかってきますので、終末期は介護施設に入りたいと思ったら入居一時金はどれだけかかるのか、といったことを調べながら、その分のお金を確保しておきましょう」(林さん) 週刊朝日 2022年10月28日号より  前出のAさんは、純資産が3千万円あるが、自宅を売却したお金もプラスできるため、介護施設の入居一時金などの費用に充てたいと考えている。  自宅を売却したお金や預金は“争族”を避けるためにも、子どもたちに残そうなどと思わず、自分たちのために使うことを優先して考えたほうがいいと林さんは言う。  このほかにも「長期プラン」で想定しておきたい支出がある。 「毎月決まって出ていくお金のほかに特別支出があり、これを侮ってはいけません。現役世代であればボーナスを充てることもできますが、年金生活に入ったら『予測可能』な特別支出の総額を12等分して毎月の支出予算に計上します。このほかに、『予測不可能』な特別支出は臨時支出として予算計上します」(同)  そして、1カ月の支出を洗い出してみよう。このとき、契約によって支払いが強制されている「管理不能支出」と、食費や美容代など毎月増減する「管理可能支出」に仕分ける。  仕分けたら目標とする収入に合わせて支出をカットして予算化するだけ。  通常、家計の見直しというと水道光熱費や食費などをカットしたくなるが、「管理不能支出」の中にはスパッとやめられる項目があるので「減らす」よりも「やめる」ほうが効果が大きい。削るべきは「管理可能支出」よりも、「管理不能支出」という。  Aさんの場合、パソコンは所有していたが、ほとんど活用していなかったので、固定電話とともにインターネットプロバイダー、ネット通販の年会費や動画配信サービスのすべてを解約。車もスーパーへの買い出しでしか乗らないので思い切って廃車にした。どこに出かけるのもなるべく歩くようにして、その分、旅行に行く回数を増やしたいと思った。 “我慢しない”のがポイントと林さんは言う。 「必要なときにエアコンを使わないとかえって体調を崩してしまうので、水道光熱費の削減はお勧めしません。また、食費を抑えようと食べたい物を我慢するのではなく、食べられるうちに好きな物を食べる。年齢とともに食事の量が減ってきますので、食費はかからなくなります。食料品の値上げ分は、外食の回数を減らすなどして調整すれば間に合います」 週刊朝日 2022年10月28日号より  車を手放せばその分、車にかかる維持費は減るが、電車賃などがかかるため「特別支出」の予算も据え置きでいいという。  60歳で定年退職を迎えたときに退職金を手にして、その後は再雇用で働くケースが多いが、再雇用での収入は現役時代から比べると激減する。  毎月の赤字分を退職金から取り崩す生活を続けていると、あっという間に退職金は底をつくので注意が必要だ。  老齢基礎年金(国民年金)を受け取る65歳で、完全リタイアしたいと思っていても、なかにはまだ住宅ローンが残っているシニアもいる。そういう人こそ、「どんぶり勘定」を見直したほうがいいという。  多くの家計相談に乗るファイナンシャルプランナーの深野康彦さんは、完全リタイアするまでに少しずつ消費行動を変えていくことを勧めている。 「完全リタイアするのは、住宅ローンや教育費などの借金が完済して、無借金になってからのほうが安心です。無理に退職金で完済しようとしないで、できるだけ働く期間を先延ばししたほうがいいでしょう」(深野さん)  会社員の場合、給料は役職定年時、定年退職時に下がる。そこでいきなり家計をダウンサイジングするのではなく、再雇用で働く間、時間をかけて生活スタイルを変えていきながら、支出を少しずつ抑えていくほうが、ストレスもなくコストカットできるという。例えば、65歳までに、生活費を3割カットしたいと思ったら、65歳のときにいきなり3割支出を抑えるのではなく、60歳から65歳まで5年の間で、1年間5~6%ずつ段階的に削減する。  そして、1カ月の支出を算出するなかで、「使途不明金」を見つけて、民間の生命保険や医療保険、通信費の三つを見直せば、3割程度のコストカットは楽にできると深野さんは言う。 「節約というとおじさんにはハードルが高いかもしれませんが、生活スタイルを変えるだけでいいのです。身近でできることはたくさんあります。出勤時にコンビニでコーヒーとたばこを買うのが習慣になっていたら、出勤しない日はコンビニに行かないようにするなど、回数を少しずつ減らしましょう」(同)  1回の買い物で500円程度支払っていたら、1週間で2500円、1カ月で1万円になる。週2回減らして、将来的にゼロにする。  また、お昼にお弁当を持参できない人は外食代がかかるが、そんなときこそ「クーポン」を活用しよう。スマホアプリで、牛丼チェーン店やファミリーレストランで「50円引き」などのクーポンが使える。  あるいは、金券ショップで「全国共通お食事券」や「外食チェーン店」の食事券を購入すると、1食あたり50~100円程度安く上がる。  晩酌で飲みたいビールや発泡酒などは、スーパーやドラッグストアで安売りしているときに買うようにしたい。  60歳以降は、行動パターンを通勤圏から、自宅の周辺にシフトし、スーパーやドラッグストアなど「どの店が安いのか」ウォッチすることから始めれば、わざわざ公園デビューしなくても地域に溶け込めるきっかけになる。妻に代わって食材等の買い物に行くようになれば、自宅で過ごす時間が増えても邪魔者扱いされずに済む。 「毎日出勤しなければ、高級なスーツも必要なくなりますので、新調したいときはグレードを下げた服にすれば、被服費は大幅にカットできます。ネット通販で目についた物を買うクセを改めて、必要な物だけを買いに、足を延ばして大きな商店街やショッピングモールなどに出かけてみるのもいいでしょう。何キロも歩けばいい運動にもなりますよ」(同)  運動不足を解消するためにジム通いしたくなるが、お金を払ってわざわざ運動しに行かなくても、歩けばお金はかからない。  100歳まで生きるのは当たり前の時代になってくると、年金収入だけで生活が成り立つのかといった不安が出てくる。  しかし、早いうちに「どんぶり家計」を改めて、年金収入で支出が収まるように予算を立てて、退職金などの預金を介護費用に残しておくことができると、安心してくる。  物価高の今、家計の収支を見直す絶好のチャンスととらえて、難局を乗り越えよう。(ライター・村田くみ)※週刊朝日  2022年10月28日号
Travis Japanが今週の「週刊朝日」に登場。「初っ端が世界デビュー。やってやるしかねぇ」
Travis Japanが今週の「週刊朝日」に登場。「初っ端が世界デビュー。やってやるしかねぇ」 10月28日に待望のメジャーデビューを果たすTravis Japan。現在、米ロサンゼルスで共同生活を送るメンバー7人が、現地の家から意気込みを語ってくれました。ほかにも、50代からのiDeCo利用法、介護職員が本音を語る匿名座談会、伝説のプロデューサーが明かす「松田聖子誕生物語」、村上宗隆と大谷翔平のバットの秘密に迫る記事など、バラエティー豊かなラインナップでお届けします。 デビュー曲「JUST DANCE!」でいきなり全世界同時配信という新たな道を切り拓いたTravis Japan。2012年に結成、17年から現在のメンバーで活動してきた7人が、ついに夢を叶えます。今年3月から全員が渡米して武者修行を積んできた成果は如実に表れ、グループ名にかけた目標「寅年デビュー」を、オリジナル曲「夢のハリウッド」の歌詞通り、ハリウッドにある米大手レーベルCapitol Recordsで実現。「最初からドカーンと大きな花火を打ち上げないといけない使命感と、喜び」に満ちあふれているという彼らが、デビューやパフォーマンスにかける思いをたっぷりと語ってくれました。過去の取材で本誌に明かしてくれた思いや未掲載写真で振り返るグラビアと併せて、計10ページで大きくお届けします。 その他の注目コンテンツは ・iDeCo加入で得するのはこんな人物価がどんどん上がって、老後は年金だけでやっていけるのだろうか? そう不安に思う現役世代も多いでしょう。とくに定年が見えてきた50代以上の会社員は、10月に制度改正された企業年金の仕組みを確認する必要があります。企業型確定拠出年金(企業型DC)の加入者は原則として個人型確定拠出年金(iDeCo)にも加入できるようになったのですが、実は併用していい場合と悪い場合があるんです。「お得」になるポイントをわかりやすく解説しました。 ・介護職員は見た!「嫌われる利用者&ありえない家族」「まるで召使のよう」「妹だと紹介された人が実は愛人だった」「夫が死んだときだけ連絡をください」という妻……。介護の現場にまつわる実情を現役職員3人が赤裸々に告白。リアルな本音が次々と飛び出して、これを読めば介護スタッフに嫌われずにすむかも? 特集では、危機に瀕する訪問介護の実態についても深掘りしています。 ・松田聖子が生まれた日すべての始まりは一本のカセットテープだった。国民的スターに上り詰めた松田聖子。彼女をデビューさせた若松宗雄さんは、テープを聞いて「すごい声を見つけてしまった」と直感したと言います。そんな伝説のプロデューサーに、松田聖子の誕生秘話を振り返ってもらいました。彼女の背中を追って同じ福岡から上京した森口博子さんのインタビューでも、「聖子愛」を感じてください。 ・村上宗隆&大谷翔平「バットの秘密」日本人選手では最多となる56本塁打を放ったヤクルトの村上宗隆。104年ぶりにベーブ・ルースが持つ記録を塗り替えた大リーグ・エンゼルスの大谷翔平。大記録を生んだ背景には、バットへのこだわりがありました。村上はミズノ、大谷はアシックスと、日本メーカーのバットを愛用する2人。両メーカーのバット担当者に、「秘密」を聞きました。 週刊朝日2022年11月4日号発売日:2022年10月25日(火曜日)定価:440円(本体400円+税10%)
「はあちゅう」が離婚後に見据えるシングルマザーのキャリア 「人生全部コンテンツ」は20代と変わらない
「はあちゅう」が離婚後に見据えるシングルマザーのキャリア 「人生全部コンテンツ」は20代と変わらない 結婚生活とその後について語るはあちゅうさん(撮影/写真映像部・東川哲也)  ブロガー・作家のはあちゅうさん(36)がしみけんさん(43)との事実婚解消後、ロングインタビューに応じた。20代には年間10冊以上の本を出版し、インフルエンサーとして一世を風靡したはあちゅうさん。しみけんさんとの結婚生活で感じていたこと、離婚に踏み切ったきっかけなどを語った【前編】に続き、【後編】では、結婚中にセーブしていた仕事に対する思いや、シングルマザーとして描く今後のキャリアビジョンについて聞いた。 ※前編『「はあちゅう」が離婚後初めて語った“しみけんとの結婚生活”と“別居を決めた出来事”』より続く *  *  * ――離婚発表後はどんな反響がありましたか。  予想はしていたんですが、ネット上では離婚に対して様々なネガティブな反応がありましたね。事実婚だったので「結婚より軽いから、軽く別れたんじゃないか」とか、「離婚するなら子ども作るな」とか「離婚すると思ってました」とか。  それでも、思っていたより温かい反応が多かったです。「気持ちわかります」とか「実は私も今悩んでいて」とか。質問もたくさん来て、世の中にはシングルマザーの人も結婚しながら結婚に悩んでいる人も結構多いんだなと感じました。そして、今は時代の転換期なのかなとも感じました。  私たちが離婚を決めたタイミングで、ryuchell(りゅうちぇる)さんとpeco(ぺこ)さんが夫婦関係を解消すると発表され、夫とは「同じような感じだね」と家でも話していました。私たちの発表文も最初は「妻と夫とかいう役割からいったん離れます」という感じだったんですが、お二人と似ている気がして変えたほどです。 ――SNS上では共感の声が集まっていました。  発表してみて、家族というものに疲れている人は多いんだなと感じました。「実は私も離婚していて」という話を打ち明けてくれる人もすごく多かったです。何年も連絡を取り合ってなかった大学時代の同級生が「見たよ。実は私もモラハラ夫と離婚して幸せだよ、頑張って」とSNSを通して声をかけてくれたり。離婚を発表したことで、同じ経験をしたいろんな人たちとつながれる機会が得られました。 はあちゅうさん(撮影/写真映像部・東川哲也) ――みんなそれぞれ問題を抱えながら、なんとかやっていると。  そうですね。結婚するまでは、結婚と離婚の間には大きな隔たりがあると思っていたんですが、今は紙一重だなと思います。結婚生活のハイライトはおそらく「結婚しました」と公表するときで、その後はただ一緒に過ごす日々の繰り返し。そこでちょっとした価値観の違いとか、けんかとか、不貞行為とか、様々なことがあっても、離れようって思う人と続けようと思う人がいる。ただ、結婚生活を続けている人たちも本当に安定しているわけではなく、「選択の連続」の中で、今は結婚という状態なだけなんだなと思うようになりました。  ■結婚ではなく「同居がうまくいっていなかった」  どちらが良いと言うつもりはありませんが、私は、離婚と別居をしてよかったと思っています。今まで夫婦としてうまくいかないと思っていたことのほぼ全ては、同居がうまくいってなかったんだとも気づきました。トイレに行きたいときに夫が長く入っているとか、夫はお風呂でいろんな種類のシャンプーやボディーシャンプーを使い分けたいタイプで、私からすると散らかっていると感じるとか。そういう些細なことも含め、共同生活って、どちらかが相手に合わせたり我慢したりの連続ですよね。だから、久々にすべて自分が自由に出来る空間は新鮮で、楽しく感じます。  私自身も1人の時間や1人の空間が大事なタイプ。離婚した後、Yogibo(ヨギボー)を買ったんですが、自分の好きなものを好きな場所に置ける、自分の好きな空間に住むって大事だなと思いました。今までは大きな家具を買うとき、夫に相談して一緒に見に行って、気に入ってくれたらお互いの負担額を交渉して、置く場所を変えるときは相談して……と、いろんなプロセスを踏まなければいけなかった。リビングは夫の筋トレ道具が半分を占めて圧迫感があったし、子どもにとって危ないと思っていましたが、それがごっそりなくなったら、うちの家ってこんなに広かったんだな…と感じたり。いろいろと、私が無意識に譲歩していたんですよね。  それは、私の方が彼を好きだから。彼に「重い」「うざい」って言われるくらい大好きなので、彼に好かれたい、心地いいようにしたい、結婚生活をうまくいかせたいと思っていました。 はあちゅうさん(撮影/写真映像部・東川哲也) ――その大好きな彼が、離婚後は別のパートナーを見つける可能性も出てきますが。  今はそこまで深く考えてないのが正直なところです。私が考えてないから、向こうも考えてないだろうと、勝手に思っちゃっているのかもしれない。  ただ一生、一緒にいると思っていたときは、そのために我慢したり、譲り合ったりしなきゃと思い過ぎていました。社会からは夫婦はニコイチと見られるし、自分の中でも一心同体みたいな気持ちが常にあって。今は一歩引いて、相手のことを独立した個人として見られるようになりました。今後、お互いに好きな人ができたり、別の人と一緒に住みたくなったりしたら、新たな問題が出てきますが……。 ――子育てしながら仕事していると、気づくと自分の中が空っぽで焦りを感じることがあります。今後のキャリアはどう考えていますか。  私の場合、SNSでの発信が主な仕事なんですが、家で子育てをしていると、撮れる写真って限られるんですよ。一時期、私のSNSなのに夫と息子しか投稿していないと気づいて、私はどこへ行ったんだと思ったんですよね。自分の頭の中が、子どものおもちゃや、日曜日に出かける子連れ施設や、歯科や予防接種のこととかで埋め尽くされている。 ■自分が小さく見えてしまう瞬間   一方で、変わらずAV業界のトップで順調にキャリアを築いている彼は、「専門家」という私が絶対になれない立場を得ていて、活躍がうれしい反面、私は何かの業界で実績を積んだことがあったかなと、自分の気持ちが不安定になることがありました。どうしても彼の引き立て役みたいな構図になり、「あれ、私って20代は何してたっけ?」と。年間何冊も本出してました!? もう思い出せない(笑)。  余談ですが、よく「息子さんに旦那さんの仕事をどう説明するんですか」と聞かれるんですが、若い方たちは彼のことをYouTubeやTikTokに出ている人と認識しているようで、街に出ると「しみけんさん、写真撮ってください!」と声をかけてもらいます。息子はそれを見て育っているので、「人気者のパパでうれしい」という感じだと思います。 事実婚を解消した後も、週末は変わらず親子3人の時間を過ごしている(本人提供)  でも、その写真を撮る私は、“じゃない方芸人”みたいな扱いで……。その立ち位置が嫌なわけじゃないんですよ! ただ、自分より人気も知名度もある人が常に隣にいることで、自分が小さく思えてしまう瞬間があって、それが毎日続くと、私ってただの脇役だなーってなんて思ってしまう時もあります。 ――半径5メートルの出来事を的確に言語化できるのがはあちゅうさんの真骨頂だったと思いますが、ここ2年ぐらいは執筆を控えていました。  そうですね、出産後は全然本が読めなくなり、言語化するのも避けていましたね。言語化って自分の中で考えを深めていって答えを出す作業なので、もしその答えが不穏なものであった場合、生活を揺るがしかねません。「もうけんちゃんのこと嫌い!」となる可能性もあったので、保留にしておきたかった。離婚を決めた7月から8月は言葉が湧いてきたんですが、相手があることなので世に出すのは難しかった。男性優位な社会構造やそこで育ってきた背景が悪いと思っていても、私の思いを外に出すとけんちゃんが悪者になるし、私自身が「パートナーの悪口を世の中に言いふらす人」というイメージにもなりかねない。どう表現したらいいのかは、今も悩んでいます。  昔はどんどん本を出したいと思ったんですが、今はみんなインターネットで情報を得るし、その方が多くの人にリーチできるので、自分の発信スタイルも時代に合わせて柔軟に変えていきたいと思っています。結婚後は言語化もできてないので、言葉のプロでも作家でもなく、私は一体何のプロフェッショナルなんだろうと葛藤もあったんですが、半径5メートルの日常をコンテンツ化することに関しては自分の特技なんじゃないと思っています。今はショート動画が楽しくて1日1、2本作って投稿しています。長いこと活字に愛着や執着があったので、いつかまたやりたいと思う気持ちもあるんですが、今は、自分の場所から見える景色を、多くの人に見てもらいやすい形で発信しながら次の自分のスタイルを探しています。 ■「変わらない男」と「変わらなきゃやっていけない女」  子どもがいる・いないにかかわらず、そのままの仕事を続けている男性と、変わらなきゃいけない女性。本人が望んでいるかどうかより、社会構造がそうなっています。今、私の中には子育てフィルターみたいなものができて、今までと同じようには世の中を見られなくなっています。それをどう使って表現していくか、考えています。 ――キャリアという点で、結婚・出産を通して変わったこと、変わらなかったことは。  変わったことでいうと、20代は自分が成し遂げたいことを早くやっておかなきゃという気持ちがあったんですが、子どもを産んでからは次の世代にバトンを引き継げばいいんだと思うようになりましたね。あるYouTube番組でビッグダディ(林下清志)さんが「人生をマラソンのように感じていたけど、駅伝のように考えたらいい。自分が成し遂げなくても、子孫がなにかやってくれたら自分がいた意味がある」みたいなことをおっしゃっていたのが印象に残っていますが、子育てを始めてからの私の感覚もそれに近いです。私は大きな流れの中の点なんだという視点を持てたことが良かった。大きな価値観の変化でした。 はあちゅうさん(撮影/写真映像部・東川哲也)  逆に変わらないものは、やっぱり経済的自立は大事だなっていうことと、「人生全部コンテンツ」というスタイルは20代と変わっていません。良いことも悪いことも、私の経験を発信して、誰かの役に立ててもらいたいと思っています。  そして、子どもにも私が働いている姿を見せていきたい。別居を決めた理由の一つでもありますが、パパが仕事をして、ママが仕事を犠牲にして、家のことをするのが当たり前になってほしくない。実際に私はサラリーマンの父と専業主婦の母のもとで育ち、どこかで「母のパートよりも、会社努めの父の仕事の方が価値がある」という意識を持ってしまっていました。働きながら息子を育て、お母さんは強いんだよと見せてあげたい。まあ、完璧ではないので弱いところもあるわけですが、息子には女性と本当に対等でいられる人間になってほしいし、女性が感じる生きづらさにちゃんと想像力を持って対処できる人であってほしいなと思いますね。  息子をどんな子に育てたいかと聞かれたらDJ社長みたいな人! 明るくて強くて、常に冒険していて、楽しそうに夢を追いかけている。人生を使い尽くしてね、と願っています。 はあちゅう/ブロガー・作家。慶應義塾大学法学部卒。18歳からブログでの執筆活動を始め、電通コピーライター、トレンダーズを経てフリーに。2018年7月にAV男優・しみけんと事実婚を発表、翌年9月に第一子男児を出産。22年9月に事実婚を解消。著書『半径5メートルの野望』、『「自分」を仕事にする生き方』ほか多数。 (構成/AERA dot.編集部・金城珠代)
「はあちゅう」が離婚後に明かした“しみけんとの結婚生活”と“別居を決めた出来事”
「はあちゅう」が離婚後に明かした“しみけんとの結婚生活”と“別居を決めた出来事” 結婚生活とその後について語るはあちゅうさん(撮影/写真映像部・東川哲也)  9月27日、ブロガー・作家のはあちゅうさん(36)がAV男優のしみけんさん(43)との事実婚を解消すると公表した。現在は別居しており、3歳になる長男の親権は、はあちゅうさんが持つという。20代で華々しいキャリアを築き、インフルエンサーとしても、はあちゅうさんの言動は常に注目された。結婚、出産後も夫婦で共著を出版するなど仕事の幅を広げたが、プライベートでは結婚生活に困難を感じていたようだ。事実婚解消に至るまでどのような思いを抱えていたのか。シングルマザーとなった今、今後のキャリアをどう考えているのか。はあちゅうさんに聞いた。 *  *  * ――今も週末には家族3人で過ごしている様子をSNSにアップしていますが、離婚という形を選んだ理由を教えてください。   日々の小さな不満の積み重なりと、ちょっとしたけんかの繰り返しですかね。私は今も、彼の好きなところがいっぱいあるので、もう話したくないとか、連絡したくないというわけではありません。ただ、彼のほうはもう私のことを好きではないんだろうなとか、夫婦なのに子育てを一人でしていると感じる時期が2年ぐらい続いて、「それでも一緒にやっていくのが結婚でしょ」と思う自分と、「うまくいかないなら次のやり方をトライしようよ」と思う自分が交互に出てきていました。  長い結婚生活の中での一瞬の“揺らぎ”なのかなと思うこともあったんですが、いつか終わると思いながら耐え続けても、その“いつか”が来るかはわからない。自分の今を犠牲にするのではなく、今うまくいかないから、今やり方を変えてみようという選択です。結婚しながら次の人生を考えるのは、すごく不誠実な気がして私はできなかったし、いよいよ駄目だと思ったときには今よりも年を取って、選択肢も狭くなってしまうと思ったので。  理由は、一言で言うと「すれ違い」なのかもしれません。夜9時に息子と一緒に寝て、朝起きて子どもを預けて仕事に行く私と、深夜に帰ってきて昼前に起きて、仕事へ行く「完全夜型」の夫とは、顔を合わせるのがそもそも週末だけ。週末は家族で一緒に時間を過ごすスタイルは離婚前から同じなので、住む場所が変わっただけです。 【こちらもおすすめ】 セレブ妻・吉瀬美智子が離婚 3年前に明かしていた「寝室」での出来事 https://dot.asahi.com/articles/-/74639 事実婚を解消した後も、週末は変わらず親子3人の時間を過ごしている(本人提供)  よく、「子どもにどうやって離婚を説明していますか」と聞かれるんですが、子どもはこれまで通り「パパとは日曜日に会える」と思っていて、ショックを受たり情緒不安定になったりはしていません。彼の引っ越し先も家から近いので、気軽に会いやすい場所にいますね。 ――寂しさや大変さを感じることはありませんか。  マイナス面は多分お互いにあまり感じていないですね。私はシングルの方が気持ちが軽いぐらいです。結婚しながらワンオペ育児をしている時は、頭の中で「夫が手伝ってくれた場合」と「手伝ってくれなかった場合」の2パターンを常に考えて動いていました。そして負担の不平等感を常に感じることになる。シングルだと「自分でやる」という一択しかないので、思考回路がシンプルで、私には合うのかもしれないです。 ■「お手伝い兼秘書のような存在に」  もちろん、子どもの将来を考えても、自分でお金を稼いでいかないといけないという責任感は増しましたね。「いざとなれば、旦那が……」と、どこかで主婦という立場に寄りかかっていたんだとも感じます。  彼に「別居後の生活満足度は何%上がった?」と聞いてみたら、「10%上がった」と言っていて、その半分は睡眠の質が良くなったことらしいです。子どもの声や私が立てる物音で目が覚めてしまうタイプなので、大きな仕事がある日は特に寝つけないのが苦しかったようで、逆に、それでも一緒に暮らしてくれていたことに感謝しなくちゃと思いました。残りの5%は探し物が減ったこと。彼が出しっぱなしにした物を私が片づけていたので、「あれどこいった?」と聞くストレスがなくなったそうです。  ――別居ではなく、離婚だったのはどうしてですか。  7つ年上の彼は、昭和の環境で育ってきていて、個人の問題というより男性中心の社会構造の問題だと考えていますが、どうしても「女性が家のことを多く担って当然」という意識がありました。彼は外で仕事をして、家で長く時間を過ごす私は、彼のサポート役のようになっていました。そして愛情表現やボディータッチはどんどん減り、やりとりは用件だけになっていく。愛されていると感じないのに、家事育児の負担が多くなり、お手伝いさん兼秘書のような存在になっていました。一方で、結婚しているというだけで周囲からは「愛されて幸せな奥さん」と見られる。そういうことからいったん距離を置きたいと思いました。 はあちゅうさん(撮影/写真映像部・東川哲也)  私の父はサラリーマン、母は専業主婦で、関係がうまくいっていなかったのに母は32年も我慢して、妹が就職した後にやっと熟年離婚しました。その間、私は早く離婚してほしかった。両親がイライラしていると「どっちにつくか」みたい空気になるので、私はおどけてみたり、人の目を気にする癖がついてしまいました。親の仲が悪い状態が本当に嫌だったので、(結婚後も)他の家族なら、もしかしたらやり過ごすかもしれないけんかも、私は見過ごせなかった。自分の家庭はそうしたくないという気持ちがすごく強くて、それならいい状態のときだけ会う関係の方がいいんじゃないかと思うようになっていきました。 ■理想は「常にパパがママを愛している家庭」  理想は、常にパパがママを愛している家庭でした。もちろん、そのためには自分も相手も変わらなきゃいけないわけですが、子どもが生まれる前のけんちゃん(しみけんさん)は、足をマッサージしてくれたり、夫婦で映画を見たり、朝起きただけで「かわいい」「すき」と愛情表現してくれていました。あの時のけんちゃんはもう戻ってこないんだなと思うと悲しいですね。 ――しみけんさんも、子どもが生まれた後はセックスレスだったと明かしていました。   レスでも他の形でコミュニケーションが出来るなら、レスは問題ではないと思っています。でもハグや手を繋いだりというボディータッチがほぼゼロになったことは「もう愛されてないんだな」と感じる理由になりましたね。彼の仕事の幅が広がり、忙しくなって家に帰って来られなくなり、やりとりは用件だけ。旅行に行くにしても、彼のリクエストを聞いて、私が下調べして彼にお伺いを立てて許可を得る。でも、下調べの過程が見えていない彼からは、褒められて感謝されることがあまりなく、ダメ出しを貰って、否定されるみたいな構図になったり……。そういう状況はつらかったです。  夫からは仕事の相談を受けることが多かったので、アドバイスをしたり、時には実際に手伝ったりしていて、そのために自分のやりたいことをセーブしたりもしていました。でもそのうちに「旦那がいなかったら私って何なんだろう」という気持ちになっていました。自分のキャリアまで、夫とセットで考えてしまっていたところがあるかもしれません。 【こちらもおすすめ】 丸岡いずみが離婚を乗り越えて仕事復帰 息子が言った「ママが死ななくてよかった」の意味 https://dot.asahi.com/articles/-/14849 ――第2子の妊活もされていたそうですね。   そうですね。1~2年続けていた第2子の妊活を、今年7月にやめました。通院に疲れたのと、月経前症候群(PMS)がひどかったのでピルを飲みたいなとか、花粉症の舌下免疫療法をやってみたいとか、妊活中だとやりたいことが制限されてしまうので、いったんお休みしました。そしたら、この人とずっと一緒にやっていくという緊張の糸が切れたというか、もしかしたら全然違う未来もあるかもしれないという気持ちが芽生えました。   そのときに、ちょっとしたけんかがあり、彼が「出て行きたい」と。これまでも妊娠中と出産後に1回ずつぐらい、離婚に至るかもしれないと思うようなけんかがあったんですが、そのときは時間がたって少し落ち着いたら「やめますか」と元に戻っていました。今回はもう3回目だったし、今後もまた同じことを繰り返すのなら、いったん結婚という状態をやめてみようか、と話し合いました。お互いに、結婚生活や夫婦としてニコイチで見られることなども含めて、すべてに疲れていましたね。「休婚」というか、少しお休みしたいねという気持ちです。 はあちゅうさん(撮影/写真映像部・東川哲也)  私の周りには、離婚して再婚して幸せになっている人や、離婚して婚活して楽しそうな人がいて、離婚は悲壮感のあるものじゃないなと思えていたんです。だからいったん離婚してみてもいいのかなと。自分で稼いで意思決定して、世の中的に見たら“強い女”かもしれませんが、みんな幸せそうです。実際、私たちの年代はもし次の相手ができた場合、早く決断しないと子どもを産めるかどうかという問題が出てきますし。親世代のように熟年離婚まで我慢するより、離婚後も一緒に子育てしたいと思ったときに選択肢がある方がいいなと思います。 ※後編『「はあちゅう」が離婚後に見据えるシングルマザーのキャリア 「人生全部コンテンツ」は20代と変わらない』へ続く はあちゅう/ブロガー・作家。慶應義塾大学法学部卒。18歳からブログでの執筆活動を始め、電通コピーライター、トレンダーズを経てフリーに。2018年7月にAV男優・しみけんと事実婚を発表、翌年9月に第一子男児を出産。22年9月に事実婚を解消。著書『半径5メートルの野望』『「自分」を仕事にする生き方』ほか多数 (構成/AERA dot.編集部・金城珠代)
「緊張でほとんど記憶がありません」 元劇団員のラーメン店主が作る「醤油ら~めん」
「緊張でほとんど記憶がありません」 元劇団員のラーメン店主が作る「醤油ら~めん」 金町製麺の「雉の中華そば」は一杯800円。仕入れのたびにメニューを作るため、グランドメニューはほぼなし。ラーメンの種類もさまざまなのが魅力的だ(筆者撮影)  日本に数多くあるラーメン店の中でも、屈指の名店と呼ばれる店がある。そんな名店と、その店主が愛する一杯を紹介する本連載。東京都葛飾区の金町にある手打ち麺のラーメンが自慢の呑めるラーメン店の店主が愛するのは、同じ修行先で苦楽を共にした店主の紡ぐ真っすぐすぎるラーメンだった。 ■安定供給できない「雉」を愛媛から取り寄せ……  JR常磐線・金町駅から徒歩2分、京成線・京成金町駅から徒歩1分のところにある“呑める”ラーメン店「立ち呑み居酒屋 金町製麺」。会社帰りのビジネスパーソンや地元客からラーメンフリークまで、店主・長尾優介さんの振る舞う日替わりのおつまみをさかなにお酒を楽しんでいる。 ラーメンにこだわった居酒屋スタイルが人気の金町製麺は、今年で営業12年目になる(筆者撮影)  この店は有名店「麺や 七彩」が手掛けるラーメン居酒屋で、2010年にオープン。イタリアンや和食の経験もある長尾さんを店主に起用し、ラーメンだけでなく料理も楽しめるコンセプトで出店を決めた。 「お酒が飲めてラーメンも食べられるというお店が当時あまりなかったんですよね。シメのラーメンがあるというだけではなく、いろんなラーメンを出しているのも特徴ですね」(長尾さん)  ラーメンの麺は、超アナログな手法で作った手打ち麺を使うなど、居酒屋にしては本格的なラーメンをラインアップしていて、町中華とも違う。ありそうでなかったコンセプトで多くのファンを抱えているのだ。ブログで限定ラーメンを告知することで、ラーメンファンたちもこぞって訪れる店になった。 金町製麺の「雉の中華そば」(筆者撮影)  特に人気のラーメンは「雉(キジ)の中華そば」。雉はラーメン店ではなかなかお目にかかれない食材だが、油にパワーがあって個性的な旨味を放つ。強めの醤油ダレともしっかり調和するうまみの強さが特徴だ。 「金町製麺」店主の長尾優介さん。イタリアンや和食の敬遠もある長尾さんだからこそできる、金町製麺のスタイルがある(筆者撮影) 「雉はここ7~8年ぐらい使っています。愛媛から取り寄せているんですが、生産者さんの人柄が良く、こういうところの食材を使いたいなと思い、お付き合いさせてもらっています。安定供給ができないので、通常のラーメン店だと厳しいと思うのですが、うちならばOK。週に1回だけ送ってもらっています。アクが出ず、全てがうまみになるのが特徴で、珍しい看板メニューになっていると思います」(長尾さん)  長尾さんは毎日仕入れに出て、その日市場に出ているなかから、「いいもの」を使う。仕入れによってメニューも毎日変わるが、常連客もその違いを楽しみに店に通っている。 立ち呑み居酒屋 金町製麺/東京都葛飾区金町6-2-1 ヴィナシス金町104/18:00-23:00。詳細はお店のTwitter(@kanamachiseimen)にて/筆者撮影 「コロナ禍で居酒屋営業ができなかった期間は、ラーメン一本で耐えきりました。この期間に新しいレシピを考え、今メニュー化をしています。仕入れに行って食材を見るとメニューが浮かんでくるんです。今後も変わらずこのスタイルでいきたいと思います」(長尾さん)  そんな長尾さんの愛するラーメンは、同じ「麺や 七彩」で修行をし独立した先輩が紡ぐ極上の一杯だ。 麺や 河野/東京都板橋区赤塚新町2-2-13/12:00~15:00、18:00~21:00、月曜のみ12:00~15:00、火曜定休。詳細はお店のTwitter(@menya_kouno)にて/筆者撮影 ■「緊張でほとんど記憶がありません」元劇団員のラーメン店主が作る「醤油ら~めん」  東京メトロ・地下鉄赤塚駅から徒歩3分、東武東上線・下赤塚駅南口から徒歩5分。川越街道沿いに「麺や 河野」はある。10年に練馬区の中村橋で創業し、18年に現在の場所に移転。看板メニューの「醤油ら~めん」は煮干しや魚介のうまみあふれる逸品で、ゆでる前に一玉ずつ丁寧に手もみした自家製麺が最高にうまい。  店主の河野三英(みつひで)さんは千葉県生まれで、東京都練馬区光が丘で育つ。若い頃は劇団に所属しており、役者を目指していた。この頃は、板橋駅近くにあった「自家製麺 CONCEPT」が大好きで、週に5日間通うファンだった。そのうち他の店も回り始めるようになり、ラーメンの食べ歩きが始まった。 「麺や 河野」店主の河野三英さん。若い頃は役者を目指していた(筆者撮影)  24歳の頃、所属していた劇団が解散になってしまった。この劇団に入れ込んでいて、完全に燃え尽きてしまった河野さんは、好きだったラーメンに目を向けてみることにした。インターネットで検索をし、毎日のように食べ歩きをした。  そこで出会ったお店が西武新宿線・都立家政駅近くにある「麺や 七彩」(現・食堂七彩)。ここで食べた喜多方ラーメンに衝撃を受ける。スープ、麺、具材のすべてに驚き、ここで働きたいと直感的に思った。店の前に貼ってあった求人の貼り紙を見つけ、早速応募。河野さんは「七彩」で働くことになった。09年、30歳の頃だった。  入ってすぐに製麺を教えてもらい、先輩と2人で店に立つことになる。テレビでの紹介もあり、毎日すごい行列ができて、店はてんてこ舞い状態に。新人だったので仕込みがメインだったが、超人気店での経験は貴いものだったという。 手打ちの勉強をして、オリジナル麺を完成させた(筆者撮影) 「朝2時に出勤し、製麺からスープまで一人で仕込みをやっていました。『七彩』は食材への理解がとにかく深い店です。『この食材はこう調理することで、こうなる』ということを全てわかっていて、ベストな使い方をする。毎日怒られてばかりでしたが、とてもいい経験になりました」(河野さん)  10年に卒業し、独立。自宅から「七彩」まで自転車で通った道すがらにある西武池袋線・中村橋駅近くに「麺や 河野」がオープンした。こぢんまりとした物件だったが、店中に目が行き届く理想のサイズだった。 「麺や 河野」の看板メニュー「醤油ら~めん」は一杯790円。煮干しや魚介のうまみがあふれている(筆者撮影) 「七彩」の修行時代からのこだわりもあり、麺は自家製麺と決めていたが、河野さんには製麺機を買う資金がなかった。そこで挑戦したのが手打ち麺だ。そば打ちの教室に通い、手打ちの勉強をし、苦労してオリジナルの麺を完成させた。 「名店『七彩』の出身ということもあり、開店してすぐたくさんのお客様に来ていただきました。オープンして1年ぐらいは緊張でほとんど記憶がありません。自分の店となると全て自分の責任でやらなくてはならない。フォローしてくれる人もいない。重圧に毎日押しつぶされそうでしたね」(河野さん)  中村橋で8年間営業し、その後は東京都板橋区の赤塚に移転する。プライベートでは結婚もし、妻とともに以前より広い店に移転することにした。その頃には製麺機も買うことができ、自家製麺にさらに磨きをかけた。 「前の倍ぐらいの広さで、家賃も上がりましたし不安でしたが、地元で店をやれることの喜びを感じています。いろんな食材を試して醤油ラーメンをバージョンアップさせました。メインは麺に置き、それに負けないスープを開発しました」(河野さん) 「七彩」イズムを継承し、その食材ごとにベストな使い方を意識している(筆者撮影)  開店から12年。円熟味さえ感じるその一杯は、今や地域になくてはならないものになっている。 「金町製麺」の長尾店主は、先輩である河野さんの真っすぐさに引かれている。 「修行時代に苦楽を共にした先輩で、『七彩』の一番弟子として七彩イズムを継承しています。『七彩』のブレーク直前から働いていたこともあり、初期の『七彩』を感じる一杯です。すごく真面目にラーメンに向き合う姿が印象的です」(長尾さん) 自家製麺はゆでる前に一玉ずつ丁寧に手もみしている(筆者撮影)  河野さんは長尾さんのセンスの良さに一目置いている。 「『七彩』の中でもとにかくできるやつで、料理の素養もあり、私も包丁の使い方を教えてもらいました。卒業する時には包丁をもらいましたね。自分の知識とラーメンへの情熱が見える彼らしいお店をやっていると思います。手打ち麺など『七彩』のノウハウを器用に生かし、彼なら大丈夫だ、任せてみようと思わせてくれる職人ですね」(河野さん)  同じ名店「七彩」から生まれた2人の職人。それぞれのエリアで自分の強みを生かしながら、地元のお客さんの舌をうならせている。(ラーメンライター・井手隊長) ○井手隊長(いでたいちょう)/大学3年生からラーメンの食べ歩きを始めて19年。当時からノートに感想を書きため、現在はブログやSNS、ネット番組で情報を発信。イベントMCやコンテストの審査員、コメンテーターとしてメディアにも出演する。AERAオンラインで「ラーメン名店クロニクル」を連載中。Twitterは@idetaicho
一人息子が難関校合格の宮崎謙介元衆院議員が語る小学校受験 面接で驚いた子どもの一言とは
一人息子が難関校合格の宮崎謙介元衆院議員が語る小学校受験 面接で驚いた子どもの一言とは 一人息子の小学校受験に挑んだ宮崎謙介さん(撮影/上田泰世・写真映像部)  小学校受験の本シーズンとなる11月が近づいてきた。「親の受験」とも言われ、その対策はまさしく真剣勝負。元衆議院議員の宮崎謙介さんも、昨年、息子さんの小学校受験を経験した。難関小合格への道のりには、息子さんと向き合う工夫、妻で元衆院議員の金子恵美さんとの協力体制などがあった。リアルお受験談から見えてきた、宮崎さん流“父親の役割”とは。 *   *  * ―もともと小学校受験に関心があったのでしょうか。  我が家が小学校受験を決めたのは、息子が年中になるときです。まわりの受験組からは、「もう遅い」と言われ、焦ったことを覚えています。私も妻もずっと公立で学んできましたので、受験は考えていなかったんです。ただ、仲のよいママ友が、自身の卒業した私立小にお子さんも通わせていて、私立教育の魅力を常々耳にしていました。いいなと感じたのが、小学校からのメンバーで持ち上がっていくので、大人になってからも付き合いが続くこと。私の子ども時代は、商社マンだった父親の仕事の都合で、幼少期はマニラで過ごし、小学校、中学校と転々としました。密な友人関係は、一人息子にとって、プラスになるだろうと思ったのがきっかけです。 ―小学校受験は「親の受験」とも言われます。  受験は母親次第という見方がまだ根強いと思いますが、受験の先輩パパたちからは「父親のコミットが大事だよ」と聞いていました。関わり方はそれぞれあってよいと思いますが、私の場合は、もともと「育児をやる」と心に決めていたんです。特に幼児期は、とことん向き合いたいと考えていたので、受験もやれる限りのことをやろうと。  まず、生活スタイルをがらっと変えました。年中になるときに保育園から幼稚園に切り替えたんです。保育園のありがたいサポートで朝から晩まで仕事に集中できましたが、息子と一緒にいる時間があまりなく、「本当に向き合えているだろうか」と不安になったんです。まずは息子と過ごす時間を増やすことから実行しようと考えました。 (撮影/上田泰世・写真映像部) ―仕事との両立、さらに共働きという環境で、大変ではなかったですか。  息子を寝かしつけた後に仕事に出たり、受験直前期にはやむなく仕事をセーブしたりすることもありました。共働きなので、育児には家事も含まれます。受験はどうしてもピリピリしますから、私が家事をする分、「妻の負担が軽くなれば」という思いもありました。幼稚園2年間のお弁当作りも、私が担当しました。週末におかずをたくさん作ってストックしておいて、だいぶ手際もよくなって楽しくやっていましたね。小学生になった今はお弁当がないので、とても良い思い出です。 ―受験対策の教室通いはどうでしたか。  ママ友に薦められた教室に通いました。送迎だけでなく、親の参観も必須だったので、スケジュール管理を徹底していました。妻と私とどちらが行くかをきっちり決めておかないと、共働きはもめますから。たとえば2時間のうち前半を妻、後半を私、とやりくりするときもありました。結果的に、妻より多く行ったように思います。母親の参加が一般的なので、父親はポツンと私一人。最初は気まずい空気感が漂っていたように感じましたが、同じ目標を持った親同士、次第に会話が増えて、いつの間にかママたちの輪に入り込んでいました。 ―試験内容は学校によってもさまざまで、対策が肝心だと聞きます。  いくつか志望校を検討していたので、まんべんなく対策をする必要がありました。登園前の朝時間は私、夜時間は妻が担当。漏れがないよう、きっちりとタスク管理をしていました。できると思っていた分野が急にできなくなったり、さっき注意したことをもう忘れていたり。毎日コツコツとひたすらやり続けるのみで、親はどこまで向き合えるか。「親の受験」と言われる理由の一つだと思います。 ―「タスク管理」は、具体的にどうされたのですか。  手書きの表を作りました。横軸には日付、縦軸には取り組むこと。図形や数、常識、記憶といった問題の分野からボール、片足立ちといった運動の種類まで細かく分けて書きます。そして、やったらチェックをつけます。チェックの数で偏りがないかを「見える化」して、計画を立てます。頑張ったことや練習が必要なことを記録する成長日記もつけていました。ときには仕事が終わった真夜中に眠気と闘いながら、翌朝息子とやるペーパーや道具を準備することもありました。 (撮影/上田泰世・写真映像部) ―幼児期はまだまだ気持ちのコントロールが難しい時期だと思います。息子さんのモチベーション維持のために工夫していたことはありますか。  親として頭の使いどころでした。線の通りに紙をちぎって形を作るという手先を鍛える練習があるのですが、問題は私が手作りしていました。形のなかに息子の好きそうな絵を描いて、楽しんで取り組めるようにと。毎朝、絵の練習もしたのですが、息子が飽きないよう、私も隣で描くようにしていました。そして子どもの目線になって、「いいぞ!」と息子の絵を面白がることを心がけていました。海好きの息子は、潮の満ち引きをはっきりと感じられる広島の厳島神社に興味を持ったので、何度か遊びに行き、印象を深めました。心が動いたことは、絵のモチーフになるんです。 ―どの家庭も頭を悩ますといわれる願書作成はどうでしたか。  前もって家庭で大切にしていることを整理しておくことが大切で、なかなか苦しい作業でしたが妻と頑張りました。学校説明会に行ったり、参考本を読んだりして、学校への理解も深めました。出願前は私もそうでしたが、まわりのママたちも徹夜で取り組んでいました。ネット出願も増えていますが、手書きの願書は、書き損じの予備に数枚入手していました。仕上げた願書を妻に見せると、「字が汚い!」と書き直しを求められたりして、予備分が役立ったわけなのですが……大変でした。 ―直前期はどう過ごされましたか。  息子のスイッチが入らないときは、あえて簡単な問題をやって「すごいぞ!」と声をかけていました。もともとパズルが好きだったので、図形問題などは自分からやりたがることもあります。回転図や反転図など大人でも詰まる難問もあって、妻のほうがギブアップしてしまい、妻を励ましたりすることもありました。  ただ、瞬きが多くなるチック症状が出てしまったんです。取り組ませる量が多く、「気づかないうちに無理をさせてしまったのでは」と、すぐに妻と話し合いをして、1週間ほど受験対策から離れてゆっくり過ごすようにしました。すると、いつの間にか症状も消えました。それからは、詰め込まず、余裕をもたせて本番に臨むようにしました。 ―緊張の試験本番はいかがでしたか。  試験場に向かう道では毎回、「これで大丈夫だ!」とまじないをかけたキャンディを渡して、スイッチをオンにしていました。不安そうな時には、手を握るようにしていました。  ある学校の面接試験で、息子に驚かされたことがありました。「両親と何をして遊ぶと楽しいですか?」という質問で「他には?」と繰り返され、それでも順調に答えていたんですが、突然ピタッと止まったんです。私は内心、「うわ、止まった!」と焦っていたのですが、次の瞬間、息子は「幸せなことばかりで、思い出せません」と答えたんです。面接の模擬練習では「なんだっけ?」とふざけることもあった息子が、なんだか大きく見えました。  ―結果は合格。小学校受験を振り返ってみて、今、どんなことを感じていますか。  頑張ったことを褒め続けたのが自信となって、試験で運よく調子を出せたのだと思います。もしかしたら、私自身が受験準備を楽しんでいたのかもしれません。風呂敷で物を包める? 椿はいつ咲く? そういった文化的なことにも息子と一緒に改めて触れることができました。  何より、努力する姿勢を教えられてよかったと思っています。息子は「できない」と泣くこともありました。そんな時には、いつも伝え続けていました。負けるなよ、逃げるなよ、できないと思うな、と。受験はほんの入り口、これからが大切ですから。 (AERA dot.編集部 市川綾子)
仕事が終わらないタイムループ! 竹林亮監督による、自分を俯瞰で見る新感覚ムービー『MONDAYS』
仕事が終わらないタイムループ! 竹林亮監督による、自分を俯瞰で見る新感覚ムービー『MONDAYS』 女性を主人公にした理由は「さえりさんの描く女性心理に共感したことと、妻をはじめ周囲に優秀でバリバリ働く女性が多く、それが自然だったから」と監督。同じ場面やセリフを何度も繰り返す撮影は複雑で、スタッフも俳優も「いま自分は何回目の月曜日にいるんだっけ?」と混乱したそう photo(c)CHOCOLATE Inc.  また月曜日がやってきた。小さな広告代理店で働く吉川(円井わん)は「この仕事が終わったら大手代理店に転職する」と野望を持ちつつ、日々仕事に追われている。そんなある日、吉川は2人の後輩から告げられる。「僕たち、タイムループしています!」──。連載「シネマ×SDGs」の24回目は、共感度100%&予測不能な新感覚ムービー『MONDAYS/このタイムループ、上司に気づかせないと終わらない』の竹林亮監督に話を聞いた。 *  *  * photo(c)CHOCOLATE Inc.  僕が所属する会社の上司(僕より3歳下です)は情熱的で、毎年正月に「今年もめちゃめちゃいいものを作るぞ!」とツイートをするんです。でも毎年同じ内容なので、脚本家の夏生さえりさんが「これ、タイムループに巻き込まれているんじゃない?」と(笑)。その一言が映画のはじまりです。 photo(c)CHOCOLATE Inc.  ヒロインの吉川は向上心や野心はあるけれど、自分のことしか考えていません。彼女がタイムループのなかで何に気づくのかがポイントです。僕自身CM業界で働き、20代は「これを納品したら自分のキャリアが変わるかも!」などと思いながら走ってきました。忙しくなると、周りの人としっかり向き合えてない自分に気づきつつも、止まれなかった。30代半ばになってドキュメンタリー映画「14歳の栞」で中学生と向き合ったり、国際協力の現場にいる方々と話す機会を持ったりしたことで、人生で大事に思うもののプライオリティーが変わった気がします。これまでの人生で「消費」してきたものとは別の大切さに気づけたというか。それを20代の吉川に気づかせてあげたかったのかもしれません。 photo(c)CHOCOLATE Inc.  コロナ禍で日本人の仕事への意識は確実に変わりました。それでも業界によってはいまだに「月曜の夕方にチェックしたいから月曜の朝までに送って。もしくは日曜の夜までに」と言われるようなこともあります(笑)。そういうときに「『MONDAYS』という映画があるんですけどね……」と、ジョークのように言ってもらえるとうれしいですね。がむしゃらに働く楽しさも理解できる。でもどんな立場の人も、もう少し余裕を持ったほうが健全だと感じます。成長の先には何があるのか。思い描いていたゴールと違うところにある価値のようなものを考えるきっかけになればとも思います。(取材/文・中村千晶) 竹林 亮(監督・共同脚本)/1984年、神奈川県出身。コマーシャルやYouTubeコンテンツの制作会社を経て独立。CHOCOLATE Inc.に所属。映画「14歳の栞」(2021年)では中学校の一クラス35人に密着した。10月14日から先行公開中、28日から全国順次公開 photo(c)CHOCOLATE Inc. ※AERA 2022年10月24日号
小室圭さんNY州司法試験合格で始まる仁義なき“報酬競争” 年収1億5千万目指す日本人弁護士たちもザラ
小室圭さんNY州司法試験合格で始まる仁義なき“報酬競争” 年収1億5千万目指す日本人弁護士たちもザラ 小室圭さん  秋篠宮家の長女、眞子さんと結婚した小室圭さんがアメリカ・ニューヨーク州の司法試験に3度目の受験で合格した。  ニューヨークで30年間暮らす50代の男性は、合格発表翌日(現地時間21日)の様子をこう話す。 「小室さんの家の近くやオフィスビルの前を車で通りかかったら、日本人のカメラマンらしき人が立っていました。小室さんが出入りするのを待っているようでしたね」  小室さんと共に働いたことのある奥野総合法律事務所の所員はこう語る。 「小室さんから事務所の外にいた代表の奥野(善彦氏)に電話があったそうです。その後、奥野から事務所に『小室さんから、おかげさまで合格しました。ありがとうございます』と伝えられたと電話がありました。奥野から私が聞いたのは、NHKで報道される30分くらい前でした」  小室さんはニューヨーク州マンハッタンの法律事務所「ローウェンスタイン・サンドラー」(以下LS社)に勤務しながらニューヨーク州司法試験に挑戦していたが、まだ合格発表前の今年10月初旬、突如として、LS社のホームページ(HP)に小室さんのスーツ姿の写真が掲載されたことが話題を呼んだ。 「LS社は小室さんの能力を高く評価しており長期的に雇用できるという姿勢の表れだと思います。ある程度、合格の予測もついていたのかもしれません」(前出・ニューヨーク在住の男性)  小室さんの勤めるLS社のHPは、現在は日本からアクセスできない状態になっているが、現地では今でもきちんと見られる状態だという。 「小室さんの担当は会社経営やM&Aをサポートするセクションになっています。クライアント企業の上場の手伝いをしたり、法律的知識を駆使して会社を発展させるアドバイスなどもするようです」(同)  弁護士1年目の報酬は「年間2000万円くらい」と報道されているが、物価の高いニューヨークではそれでも“高給取り”とは言えないという。ニューヨーク在住の日本人経営者はこう話す。 「こっちは日本より物価が2~3倍高いですから、そのくらい稼がないと生活できない。年収900万円以下は低所得者になります。私の知り合いの日本人女性弁護士は『目標は1ミリオン(約1億5000万円)』と言っています。弁護士たちはそのくらいの報酬を目指していますよ」  小室夫妻が住むマンハッタンのヘルズキッチン地区のマンションの家賃は「月額6000ドル(約88万円)くらいでスポーツセンターやジムなどもある」(前出・NY在住の男性)というから、支出を考えると年収2000万円でも余裕があるわけではないかもしれない。  今後、小室さんは弁護士として企業案件を扱うようだが、実際にどんな仕事をするのだろうか。アメリカの弁護士事情に詳しい若手の日本人弁護士はこう話す。 「クライアント企業の契約書が不利なものになっていないか、M&Aの際に相手企業が“隠れた負債”などを持っていないかなどをチェックする仕事が主でしょう。アメリカは契約社会なので精査しなければならない資料は膨大になります。小室さんはそうした書類の処理を大量にこなすことになる。とはいえ、最初は事務所が取ってきた仕事をもらう形になるはずです。中堅のボスについて仕事を覚え、3~5年たったら、企業から個人指名されるようになり、案件を主導してスタッフを使えるスキルを身につける。そして何年かキャリアを積んでジュニアパートナー、シニアパートナーに出世していくというのが一般的です。要は、自分で仕事を取れるようにならなければ報酬も上がらないのです」  とはいえ、世界的なドル高となっている今、ニューヨークで弁護士として働けることは有利との見方もできる。前出の弁護士はこう解説する。 「アメリカの弁護士の大半は案件ごとのタイムチャージ制で報酬を得ることが多い。日本だと1時間のタイムチャージの平均が2~5万円くらい。ベテランの先生で高くても10万円です。それがアメリカだと1時間1000ドルくらいに跳ね上がり、30時間やれば3万ドル(約450万円)になることもある。当然、タイムチャージは小室さんの報酬にも適用される。アメリカの公官庁の会議などに顔を出して、どんどん名前を売る。その積み重ねが、5年後、10年後の彼の立ち位置を変えるはずです」  夢と希望を抱いて渡米した小室さん夫妻。10月23日には眞子さんの31歳の誕生日を迎える。 「これからは小室さんもニューヨークで地に足をつけて働き、眞子さんに頼らなくても生活していけるというところを見せてほしい。その月日が積み重なっていけば、日本の皇室とのギクシャクした関係も修復できるかもしれない。現地の弁護士法人が日本進出して支所をつくった場合、日本の弁護士会に登録すれば、小室さんは日本で弁護士活動も行えます。しかし、3年くらいは日本に戻って来ないほうがいいと思います。しばらく彼がキャリアを積むために、周囲はそっと見守ってあげるのがいいのではないでしょうか」(前出・日本の若手弁護士)  弁護士となった小室さんが、これから眞子さんとどういう家庭を築いていくのか。2人にとって、これからが本当の正念場だろう。(AERA dot.編集部・上田耕司)
「トラ、じいちゃんだよ!」 実現したケージ越しの再会 大好きなじいちゃんにもう一度会わせたくて
「トラ、じいちゃんだよ!」 実現したケージ越しの再会 大好きなじいちゃんにもう一度会わせたくて 面白い座り方で笑わせてくれることも  飼い主さんの目線で猫のストーリーを紡ぐ人気連載「猫をたずねて三千里」。毎回、心に響くストーリーをお届けしています。今回は、東京都在住の事務職、小松さん(48)のお話。15年前、保護したキジ猫「トラ」の飼育を両親に託し、トラは愛情を一心に受けて育ちます。しかし両親が80代になると相次いで倒れてしまい……。高齢で猫を飼うことについて、小松さんの思いを聞かせてもらいました。 * * *  僕とトラとのつき合いは古いんです。そもそもの出会いは15年前にさかのぼります。  実家のそばの公園前でたまたま僕が見つけたのですが、生後2カ月くらいで小さかった。可愛かったし、道路を渡りそうで危ないし、放っておけなかったんです。 保護したばかりの赤ちゃん時代のトラ  それでひとまず友人に連絡してトラを預け、両親に「猫を飼わない?」と相談しました。  両親は動物好きだったけど、自分たちの年齢などを考えたのか、「うーん」「どうかな」と足踏み。僕はトラを引き取りたいと思っていたので、あまり深く考えずに言ったんです。 「大丈夫、この先何かあっても、僕が責任を持つから」  それならば、と父と母が首を縦に振り、トラとの生活がスタートしました。 ■じいちゃん子になったトラ  暮らし始めると、両親は困惑していたのがウソのように、トラに夢中になりました。  うちの両親は自営業で、実家と工場が一緒になっていました。僕はサラリーマンをしていて、朝が早く帰宅が遅いこともあったので、食事やトイレのお世話はもっぱら両親がして、僕は病院に連れていったり、フードや砂の買い出しなどを手伝ったりしました。  トラは、“じいちゃん、ばあちゃんに甘える孫”みたいに両親になつきました。とくに父と気が合うようで、添い寝したり、ブラシをしてもらったり、父がお風呂に入ると後を追い、湯船のふたに座って見守っていたんですよ。 うれしそうにトラに寄り添う父(じいちゃん)  トラを実家に迎えてから5年後。父が少し体調を崩したことから工場を閉め、実家を売ることになりました。  トラが誰とどう住むかを考えました。トラは両親にべったりだったし、両親もトラが好きで、「何してる?」「今日はよく食べてる」など会話の中心もトラになっていたので、今さら引き離すことができませんでした。  それで両親はトラと共にアパートに移り住み、僕は一人で別のアパートに住むことになりました。別といっても自転車で15分の場所。週の半分は実家に寄るという生活でした。  その翌年(2013年)、僕は(交際していた)妻と一緒に暮らすため、もう少し広いところに引っ越しをすることにしました。その時、いつか来るかもしれない日=年老いた両親からトラを引き取る日、を想定して、ペット可の今のマンションを借りたんです。  でもここで、ちょっとだけ番狂わせが起きます。 ■トラより前に地域猫を新居に迎えた  妻と同居した一年後、マンションの側で野良猫と出会いました。地域で可愛がられていたモンジという猫です。  僕は、実家までトラの様子を見にいく日々のなか、モンジにも愛着を感じ、外で触れ合ったり、「家に連れていきたいけど、外の方が自由かな」なんて悩んだりしていました。ところがある時、モンジが急病で倒れて入院してしまったんです。  獣医師から「もう長くない」と言われたので、うちで引き取ってみとってあげようと妻と話し合いました。ところが入院中のモンジが奇跡的に回復し、結局退院後、僕のマンションに迎えることになったのです。予想外でしたが、これも縁でしょう。  そこから“両親はトラと”“僕ら夫妻はモンジと”という暮らしがしばらく続きました。  両親にとっては、トラの存在が一層大きくなっていきました。仕事を辞めてからの父は、母から「家でごろごろしてる」と母によく怒られていたのですが、そんな時も、トラがいることで部屋の空気が和んでいました。 「ほらメダカだよ」父と水槽を見るトラ  その生活が変わったのは、昨年、春です。  3月初旬に母が心臓を悪くして倒れ、入院しました。その2週間後、父も脳梗塞(こうそく)になったんです。  僕が実家に行った時、父は片足をついて座ったまま動けず、トラが周りをウロウロ。母の入った病院に救急搬送し、そのまま入院しました。  倒れた直後は話せたし、退院の望みがあったので、トラはそのまま実家のアパートに置いて、妻と交代で毎日、朝夕2回、世話に通いました。でもまもなく、両親ともに入院が長引きそうだとわかり、3月末、トラは僕のマンションに引っ越してきました。  トラは僕らの顔はよく知っているけど、環境が変わるので、2段ケージの中でしばらく過ごしてもらいました。ケージに入るのが初めてなので、しばらくニャアニャア鳴きました。  モンジのほうは、元々一匹狼タイプで、トラをあまり気にしていないようだったけど、ゆっくり仲良くなればいいなと思いました。1カ月もすると、少しずつ距離が近づきました。そんな矢先の5月半ばに母が亡くなったのです。 距離が近くなったトラ(左) とモンジ  一方、父は、意識不明のままがんばっていました。  コロナ禍で僕らも面会がなかなかできないなか、3カ月後に転院することになったのですが、「トラがじいちゃんと会うチャンスだ!」と思いました。そして、次の病院に移る時に、トラを(家から)連れてきてもらったのです。  もちろん父の意識ははっきりしないし、トラもキャリーケージに入ったまま。  トラだって「ここどこ?」と思ったかもしれないし、僕の自己満足だと思います。でもどうしてもそうしたかった。トラを、大好きなじいちゃんにもう一度会わせたくて……。 転院する時に父と再会。「トラ、じいちゃんだよ」  それが、父とトラが会う最後の時間になりました。  父は結局、意識が戻らないまま、今年8月16日に息を引き取りました。入院は1年5カ月に及びました。入院途中でガンが見つかり、さらに院内感染でコロナにもかかって。  実は父が亡くなる前日、お盆で母の墓参りにいき、僕はこう話しかけていたのです。 「じいちゃんのこと、そろそろ連れていってあげてよ。意識がないままずっと寝たきりで可哀想だし、楽になるといいね。トラは自分が見ているので心配いらないよ」と。 だから、母が「じゃあトラをお願いするわ」と、父を連れていったのかもしれません。 今日はここで一人寝?  コロナのためお葬式はできず、数日後、火葬した父のお骨を僕のマンションで受け取りました。  部屋に祭壇を作り、父の写真を飾ると、トラがすうっと近づいて、座布団に座りました。じいちゃんと、何を話していたんだろう? 祭壇前に座るトラ ■またトラと会えるように決めたお墓  10月はじめ、母が眠る墓に父のお骨を納めました。  そのお墓はガーデン型というものですが、じつは“猫も入れる”ペット可のお墓です。  まだ両親が元気な時に「これだ」と思って選んで一緒に見に行きました。僕は末っ子で、30過ぎまですねをかじらせてもらったので、最後のプレゼントのつもりで贈ったのです。  だから、いつかトラの寿命が来たら、また両親と一緒になる。この先にまた楽しみはある。そう思えば、さみしくありません。  高齢になってペットを飼うのは、確かに大変なこともあります。たとえばうちの場合は、動物病院には必ず僕が連れて行ったし、何かあっても対応できるように実家の近くに住みました。そんなふうにフォローができれば、年をとっても飼えるのではないかと思うんです。  初めは僕が押し付けちゃった感じだけど、トラが来てから実家が明るくなったし、両親に可愛がられたトラも幸せそうでした。  トラは、今のところは病気知らず。よく食べ元気で、同居のモンジを弟分にしたくてさらに接近中。妻にも甘え、よく抱っこされています。 甘えん坊になった15歳のトラ  いいんだよトラ。じいちゃんにしていたように僕らにうんとくっついて。楽しくみんなでやっていこうよ。  トラ15歳。第二の猫生は、はじまったばかりです。 新たな環境でがんばっています (水野マルコ) 【猫と飼い主さん募集】「猫をたずねて三千里」は猫好きの読者とともに作り上げる連載です。編集部と一緒にあなたの飼い猫のストーリーを紡ぎませんか? 2匹の猫のお母さんでもある、ペット取材歴25年の水野マルコ記者が飼い主さんから話を聞いて、飼い主さんの目で、猫との出会いから今までの物語をつづります。虹の橋を渡った子のお話も大歓迎です。ぜひ、あなたと猫の物語を教えてください。記事中、飼い主さんの名前は仮名でもOKす。飼い猫の簡単な紹介、お住まいの地域(都道府県)とともにこちらに連絡ください。nekosanzenri@asahi.com
小室圭さん「弁護士の仲間入りができました」 喜びの声も「合格で急に秋篠宮家と仲良くなるわけではない」と関係者
小室圭さん「弁護士の仲間入りができました」 喜びの声も「合格で急に秋篠宮家と仲良くなるわけではない」と関係者 小室圭さんと眞子さん  小室さんが米ニューヨーク州の司法試験に合格した。  米ニューヨーク州司法試験委員会(The New York State Board of Law Examiners)のホームページに公表された合格者の一覧に、「KOMURO,KEI」の名前があった。  小室さんが日本でパラリーガルとして勤務していた弁護士事務所の奧野善彦所長は、NHKの取材に対し、21日の午後に小室さんから合格の連絡があったことを明らかにした。  小室さんは留学などを支援した奥野氏に、こうあいさつをした。 「今回は合格しました。弁護士の仲間入りができました。本当に先生のおかげです。今後はますます弁護士として研鑽を積んでいきたい。本当にうれしいです。ありがとうございます」  同委員会によれば、小室さんが受験した今年7月の試験は9609人が受験。合格率は66%。小室さんのような再受験での合格率は23%であった。  試験に合格したのちは、登録申請書類を提出してから面接(インタビュー)を経て弁護士の新規登録者が会場に集まり、宣誓式となる。正式に弁護士の肩書がつくのは、半年ほど先になる見込みだ。  笑顔のスーツ姿写真に   3度目の受験となった今回、発表を待つまでもなく手ごたえはあったようだ。  現地で小室さんを知る人物は、彼の様子をこう話していた。 「試験の結果に自信を持っていました。合格するのでは」  そして発表の数日前に、小室さんが勤務するニューヨーク市内の中堅法律事務所のホームページが更新された。スタッフの欄には、 「Kei Komuro Law Clerk」(法務助手)と名前と肩書が掲載されている。これまでラフなシャツ姿であったのが、パリッとしたスーツに笑顔で写っている。  ニューヨーク市内で活躍する日本人弁護士の一人は、 「2回試験に落ちて事務所をクビにならなかったのは、米国では非常に珍しいケースです。小室さんが在籍することに価値があると考えての判断でしょう。ともかく、あきらめずに挑戦したのはすばらしいですね」 米ニューヨーク州司法試験委員会(The New York State Board of Law Examiners)のホームページに公表された合格者の一覧に、「KOMURO,KEI」の名前  ロー・クラークの平均年収は600万円程度だが、司法試験合格を前提として、弁護士と同じ年収で契約するケースも珍しくない。 「ニューヨークで新人のアソシエイト弁護士の初任給は、およそ2千万円。その程度はもらっていたと思われます。というのも、ニューヨーク市内で賃貸住宅を借りようと思った場合、家賃の40倍の年収がなければ審査に通らない。ロー・クラークの年収であれば借りることすら難しい」  たとえば眞子さんと小室さんが住むヘルズ・キッチンの高級賃貸マンション。ホームページの空室を見ると、リビングと寝室を持つ1LDKで月4988ドル(約75万円)程度だ。小室さんの弁護士としての年収で、なんとか収まる具合だ。 秋篠宮ご夫妻と小室家の関係  一方で「女性自身」は、眞子さんがニューヨークの四大美術館のひとつであるMoMA(ニューヨーク近代美術館)などをMET(メトロポリタン)美術館のスタッフと訪れたと報じた。  就職を視野に入れた訪問だと見られている。眞子さんと小室さんがニューヨークに移住した当初から、現地の日本国総領事館の職員がひとり、担当としてついていると言われている。  しかし、秋篠宮家の事情に詳しい人物はこう話す。 「秋篠宮ご夫妻がそうしたサポートを望むことはまずありません。一方で、放って置いてトラブルや事故に巻き込まれても困る。将来の天皇の義兄や実の姉ですからね。外務省などが事情を忖度して生活をサポートするのは、不自然なことではありません」  では、小室さんが司法試験に合格したことで、秋篠宮ご夫妻との関係に変化は起こるのだろうか。 「小室圭さんを含む小室家と秋篠宮ご夫妻が、急に仲良くなることいったことは、まずないでしょう。そもそも秋篠宮さまは、小室さんの職業は何も問題にしていない。弁護士試験への合格の有無が結婚の条件に入ったこともありません」  また、秋篠宮家と交流のある人物は、眞子さんがニューヨーク市内の美術館に就職するといったことが事実だとすれば、望ましいことではないと考える。 小室圭さんと眞子さん  というのも、眞子さんは博物館学を学んだものの博士号は取得していない。東京大学総合研究博物館の特任研究員として、東京・丸の内のインターメディアテクで勤務経験のみだ。 「ニューヨークの有名美術館の学芸員といえば、博士号を取得した優秀な人物が過酷な競争を勝ち抜いて得られる地位です。眞子さんがキャリア不足であるのは否めません。仮に『皇室ブランド』でその地位を得たとすれば美術館自体の信頼にも影響してしまう。ご両親もそうしたことは、望まないでしょう」(前出の人物) 眞子さんに最高のプレゼント  母の紀子さまは、9月の誕生日に公表した文書で眞子さまについてこう触れた。 「今は直接会うことが叶いませんが、庭の花の世話をしながら、木香薔薇のアーチを作り、いつか娘と一緒にゆっくり庭を歩くことができましたら、と思っております」   小室さんの合格は、10月23日に31歳の誕生日を迎える眞子さんにとって最高のプレゼントとなった。26日は、初めての結婚記念日でもある。  前出の秋篠宮家の事情に詳しい人物がこう話す。 「小室さんの合格をきっかけに眞子さんが抱くご両親へのわだかまりがとける日が来るかもしれませんね。時間はかかるかもしれませんが、そんな日が来ることを願っています」 (AERA dot.編集部・永井貴子)
上皇ご夫妻米寿に 「あなたと結婚できて幸せだった」美智子さまに語りかける上皇さまの愛情と敬慕
上皇ご夫妻米寿に 「あなたと結婚できて幸せだった」美智子さまに語りかける上皇さまの愛情と敬慕 22年4月、葉山にご滞在。上皇さまが美智子さまの腕を優しく支える(写真/読者提供)  10月20日に上皇后美智子さまが88歳の米寿を迎えた。上皇さまとおふたりそろっての米寿を記念した記念メダルも発売され、この日には4年ぶりに祝賀行事も行われた。 *  *  * 「あなたと結婚できて、自分は本当に幸せだった」  2019年4月30日に明仁天皇は退位し上皇となった。その頃、上皇さまは美智子さまに、穏やかにそう語りかけた。  上皇さまの言葉は、こう続いた。 「あなたもそう思ってくれているといいのだけど」  妻への愛情と敬慕に満ちた言葉。上皇さまは毎晩のように美智子さまへ、そう語りかけていたと話すのは、絵本編集者の末盛千枝子さんだ。美智子さまとは20年を超える深い親交がある。この日、末盛さんは美智子さまと電話で話をしていた。美智子さまは、やや真剣ともとれる様子で末盛さんへ問いかけられた。 「おかしいかしら」  すると、末盛さんは、思わずにっこりして答えた。 「私たちの間でしたら、それは、『ごちそうさま』という感じですよ」 21年10月、皇居乾門で手をふるおふたり(撮影/阿部満幹さん) 園児がご夫妻に贈った種  この春におふたりは、元赤坂の仙洞御所に戻った。結婚から33年間を過ごした思い出深い「東宮御所」を改修した建物だ。  生活は日々穏やかだ。  朝夕おふたりで庭を散策し、朝食後の音読を続けている。音読は東宮時代からの習慣で寺田寅彦の「柿の種」、中谷宇吉郎の作品の他、上皇さまが初等科時代に使った国語の教科書を使うこともある。  仮御所があった高輪の保育園児から贈られた「ふうせんかずら」の種を大切に育てているという。種を贈ったのは愛星保育園。村岡恵美子園長によれば、ふうせんかずらの種は、年長の子どもたちが毎年夏前に種をまき、秋には種をとって次の園児につないできたもの。代々の園児が30年近く大切に受け継いできたものだ。引っ越し前に女官を通じて上皇ご夫妻に渡したのだという。 「まさか本当に育てていただけるとは思わず、子どもたちも喜びます。元赤坂の御所でも子どもたちの顔を思い出していただけたら嬉しい」(村岡園長)  ご夫妻は、コロナ禍では極力外出を控えた生活を送っていた。しかし、今年に入りわずかだが外出の機会も増えた。 22年6月、国立公文書館に手をつないで入る上皇ご夫妻(撮影/阿部満幹さん)  6月、沖縄本土復帰50年に合わせて開催する東京国立博物館の特別展「琉球」と千代田区の国立公文書館の特別展「沖縄復帰50周年記念特別展・公文書でたどる沖縄の日本復帰」をご覧になった。  7月には小児がんのチャリティーコンサートを3年ぶりに上皇さまと鑑賞。演奏終了後には、小児がんと闘う子どもや患者や家族との対面の場で10年ぶりに患者の女性と再開し、美智子さまが驚いた様子で「亜美ちゃん」と声をかける場面もあった。 22年6月、国立公文書館に手をつないで入る上皇ご夫妻(撮影/阿部満幹さん) 上皇さまが美智子さまの手をとって  仮御所からの引っ越しの準備のために葉山御用邸で2週間滞在した4月のご静養は、久しぶりにおふたりが住民と触れ合い、笑顔を見せた機会だった。 22年4月、葉山にご滞在。上皇さまが美智子さまの腕を優しく支える(写真/読者提供)  滞在中は、御用邸そばの海岸「小磯の鼻」を散策し、集まった住民と触れ合う。茶色い犬が座っていることに気づいた美智子さまがしゃがみ、「かわいい」といった表情で頭をなでる場面もあった。 「美智子さまは何かフレグランスをつけていらっしゃったのか、おそばにいらした時にフワッと良い香りが広がったのが印象的でした」(居合わせた旅行客)  滞在の後半、この日は晴れていた。  日傘を差す美智子さまの手はふさがっていた。やや急な階段を登る際、上皇さまは、美智子さまがよろけないよう腕に手を添えて身体を支えた。  上皇さまが10年前に心臓のバイパス手術を受けてからは、美智子さまが上皇さまの身体を支えて歩くようになっていた。  美智子さまは、20年5月から、午後になると発熱する症状が続いている。 心不全の診断指標であるBNP値も正常値を上回っている。今年の8月には、右ひざ下の静脈に血栓ができる「深部静脈血栓症」と診断されるなどの状態も続いている。  美智子さまの体調を気遣ってなのだろうか。葉山では、前述のように上皇さまが美智子さまの腕を優しく支えて歩く光景があった。  皇室おっかけ大学生、阿部満幹(あべ・かずひろ)さんは、カメラのシャッターを押すうちに、上皇さまと美智子さまの変化に気がついた。 「元赤坂の仙洞御所にお戻りになる頃から、おふたりの表情は見違えて明るくなったように感じます。6月の公文書館へのお出かけでも、車から降りた上皇さまは、上皇后さまをエスコートするように手をつないでいらっしゃった」  この公文書館へのお出かけには葉山のご滞在時と同じ、ストライプ柄の上品なトップスを選ばれた。 サングラスを外した誕生日写真 「7月に外出された際は、上皇后さまはマスクをあごまで外して、車内から外で待つ人に手を振ってくださった。笑顔も柔らかくお元気そうでした。特に今回のお誕生日の写真や映像では、いつも身に着けていらっしゃるポラリス社製のサングラスを外した場面もあり、目の調子が回復されたのかなと感じました」 22年10月、美智子さまは、上皇さまと朝夕の散策を続けている。東京・元赤坂の赤坂御用地(宮内庁提供)  美智子さまは19年と22年に白内障の手術を受けた。手術以来、外出時にはサングラスを装着することがほとんどだ。  ポラリス社の眼鏡はデザインの美しさで知られたスウェーデン王室認定のブランドだが、現在はポラリス・ジャパンとして日本のブランドとなった経緯がある。同社の担当者によれば、美智子さまに納めているのは、レンズに色がついたサングラスタイプの商品だという。  一般的に白内障の手術後は、視界が良くなる分、人によっては光をまぶしいと感じることもある。サングラスなどを装着して刺激を和らげる人もいる。  お誕生日に公開される美智子さまの写真を見ると、戸外はもちろん室内でもサングラスを装着していることが多かった。今回、米寿の誕生日に公開された動画では、サングラスを外して御用地を散策する場面もあった。加えて装いからも、明るい空気感が伝わる。 「ここ近年の上皇ご夫妻の誕生日写真も含めて、美智子さまは、グレーや黒など押さえた色をお召しのことが多かった。しかし今回は、明るいベージュでした」(阿部さん) 22年10月20日、美智子さまの米寿の祝賀行事から戻り半蔵門を通過する両陛下(撮影/阿部満幹さん)  ご夫妻そろっての米寿のタイミング。晴れ晴れとしたお気持ちが伝わってくるようだ。  「お引っ越しされてからは、より表情も服装も明るく、ヘアスタイルは後頭部のボリュームを落としてすっきりとまとめたスタイルを維持されていますね。私は男性ですが上皇后さまのファッションは上品でつい目が惹きつけられます。メイクも細かな部分まできれいになさっているなと感じます」(阿部さん)   その一方で、おふたりの表情が曇ったと感じることもあった。エリザベス女王が死去した時期だ。上皇さまと美智子さまも9日から3日間の喪に服した。  9月16日、美智子さまは足の血栓の検査のために皇居の宮内庁病院へ向かった。車には、皇居の生物学研究所に通う上皇さまも一緒だった。  この日は、政府がエリザベス女王の国葬への参列を目的とした両陛下の訪英を閣議で決定した日でもあった。そして、千鳥ヶ淵近くの駐日英国大使館には、大勢の人が記帳と献花に訪れていた。  阿部さんが言う。 「この日は、大使館での記帳を終えたのち、皇居の半蔵門付近に向かう人が多かった。みんな通過する上皇ご夫妻をひと目見よう、との思いであったようです」  上皇ご夫妻の車が半蔵門を通過した。上皇さまはほとんど場合、奉迎の人がいれば手を振って答える。しかし、この日は上皇さまが手を振ることはなかった。おふたりは、静かに沿道の人たちに目を向けたという。 22年10月20日、美智子さまの米寿の祝賀行事から戻り半蔵門を通過する両陛下(撮影/阿部満幹さん) ローブモンタントの雅子さま  上皇職が誕生日に公表した文書でも、美智子さまと親交の深かった人とのお別れについて触れている。児童文学者でIBBY(国際児童図書評議会)を通して友情を深めた松岡享子さん、ファッションデザイナーの三宅一生さん、森英恵さん、そして、「皇室典範に関する有識者会議」のメンバーとして、女系天皇も認める報告書をまとめた人物でもあった元内閣官房副長官の古川貞二郎さんなどである。  この日の祝賀会は、両陛下と秋篠宮ご夫妻、元皇族や親族の代表、そして上皇ご夫妻に仕えた宮内庁幹部の代表などごく簡素な形で行なわれた。  天皇陛下と昼の正装であるローブモンタントに身を包んだ雅子さまが午前11時前に皇居の半蔵門を出発。戻ったのは約1時間後。本来は30分ほどの予定が伸びたようだ。  夜には88歳となったおふたりでお祝いの夕食を召し上がった。結婚から3人のお子さまを育てた33年間を過ごした思い出の建物に戻ったおふたり。穏やかな時間のなかで、これからも過ごされることだろう。(AERA dot.編集部・永井貴子) 
「かかりつけ医の腕の見せ所はどの病院に紹介するか」と医師 専門外の病気でも相談するメリットは
「かかりつけ医の腕の見せ所はどの病院に紹介するか」と医師 専門外の病気でも相談するメリットは 日本プライマリ・ケア連合学会理事長で、医療法人北海道家庭医療学センター理事長の草場鉄周医師 がんなど手術の必要な病気の疑いがわかったとき、インターネットなどで病院探しをする人は多いだろう。しかし、日本プライマリ・ケア連合学会理事長で、医療法人北海道家庭医療学センター理事長の草場鉄周医師は、「まずはかかりつけ医に相談したほうがいい」と言う。かかりつけ医とはどのような医師のことなのかを探った前編に続いて、後編の今回はかかりつけ医に相談したほうがいい理由を聞いた。 *  *  *  草場医師はかかりつけ医の役割を担うと期待される「家庭医」の養成に、長年力を入れてきた。自らも複数のクリニックで家庭医として従事している。  草場医師は、「重い病気が疑われたときこそ、かかりつけ医の力が発揮できる」と言う。  かかりつけ医に相談するメリットはどのようなものか。  まず、会社や地域の健康診断で、「要精密検査」の結果が出た場合だ。便潜血検査が陽性で「大腸がんの疑い」が指摘されるケースなどがある。  かかりつけ医では患者が相談に来た場合、まず、総合診療の視点から疑われる病気をあらためて確認する。  その上で、できる精密検査があればクリニックで実施する。できない場合は、他院に紹介状を書いて検査の依頼をするが、病気が確定した場合を考え、最初からその病気を専門とする病院や専門医に紹介するケースも多いという。 「あくまでも専門教育を受けた家庭医の立場からの対応になりますが、この『どこに紹介するか』がかかりつけ医の腕の見せ所の一つだと思います。間違ったところに紹介したらこちらの責任ですから、それはものすごく神経質になります」 ※写真はイメージです(写真/Getty Images)  紹介先の基準としては、第一に手術や治療の技術があること。病院のホームページで調べることも多いが、そこでは手術件数や治療数なども確認する。罹患数の少ない病気の場合は、候補と考える医師のことを関連する学会や論文などから調べる。専門性や腕を確認して決めるという。 「もちろん、患者さんがホームページやランキング本などでいい病院を探すことは否定しません。むしろ、そうであればぜひ、『この病院がいいと思うのですが、どうでしょう?』と相談していただければありがたい。『その病院は確かにいいから紹介しましょう』とGOサインを出せることも多いのです。一方、インターネットの口コミ情報やご友人からの情報の場合、医師から見て『ちょっと違うのではないか』と思うことがあるのです」  紹介先の病院の評価については、先方から紹介元にくる「返書」や、治療を終えてクリニックに戻ってきた患者から確認できることが多い。  クリニックの医師が病院に紹介をするときに出す文書は「診療情報提供書」と呼ばれ、これを受け取った医師が自分の病院で検査や治療を開始するにあたり、定期的に情報提供をおこなう際の文書が「返書」だ。 「返書で、私たちから見て納得のできる治療を展開していることがわかれば、安心です。そうでない場合は、次回からは紹介のハードルが上がりますね」  医師によっては、技術は申し分ないが、話しにくい雰囲気など万人受けするタイプではないこともある。 「そのような医師に紹介する場合は、あらかじめ『少し、話しにくいかもしれないけれど、腕はいいのでまずは受診してみて』と話します。その医師のキャラクターを伝えるのもかかりつけ医の役割。これを知らずに患者さんが受診をしたら、『あの医師はダメ』となってしまうかもしれません。せっかく腕のいい医師なのにこのようなことになったら、患者さんが損をしてしまいます」  さて、病院でがんなどの診断がつき治療法が説明される中、患者はこのまま手術を受けていいのか、術後はどうなるのか、など不安になることがある。そのような場合も、かかりつけ医は相談にのってくれる。 「よくあるのは、『聞きたいことがあるけれど、主治医が忙しそうで聞きにくい。先生には話しやすいので相談に来ました』というパターンです。もちろん、わかる内容であれば喜んでお答えします。一方、専門性の高い質問については、こちらも情報を持っていないことが多いので、患者さんに『主治医への質問の仕方』をアドバイスしています」  例えば、患者が主治医からある治療法を提案されたが、インターネットで調べたところ「別の治療法」があることを知った。このまま治療を受けていいのか悩んでいる、というパターンでは、「これもがんによるのですが、最近の治療法の進歩により、がん組織のタイプの違いや進行度によって、治療法を変えることも多いのです。患者さんがこうしたケースに相当する場合は、『自分がどのようなタイプのがんで、どのくらい広がっているのか、なぜ提案する治療になったのか、思い切って聞いてみましょう』とお話しします」  さらにどう聞けば主治医が答えやすいかも伝えている。 「基本的には『前もってメモを書いておいて、そのメモを読みながら伝えるのがいいですよ』とお伝えしています。メモを書くのが大変そうな患者さんには、私が代わりに書くこともあります」  こうした治療の周囲の「困りごと」を解決するのはかかりつけ医の仕事、と草場医師は考えている。 「私たちがこうした相談に対応することは、多忙な病院の医師の負担軽減にもつながると考えています。大病院は大病院にしかできないことに専念したほうがいいと、強く思っています」  セカンドオピニオンについてはどうだろう。通常のセカンドオピニオンは大病院を複数、まわるものだ。しかし草場医師は、 「実はセカンドオピニオン先にこそ、かかりつけ医はふさわしいのです。なぜなら、かかりつけ医は患者さんの生活や人生観をよく知っている。それをふまえた上で、アドバイスができるからです」  例えば、「(夫や妻の)介護をしていて長期の入院が難しい」「独居で子どもたちは遠くで暮らしている」など、患者の背景によっても、適切な治療が変わってくることもある。  逆に「〇〇さんには、やはり、今の病院で提案されている治療がよさそうですね」となることも多く、これもまた患者の不安を解消し、後押しをすることにつながるだろう。 「他院でセカンドオピニオンを聞きたいが、主治医に言い出しにくい」という患者には、前述のように、主治医への相談の仕方をアドバイスしている。 「直接、セカンドオピニオン先を紹介してほしい、と言われる場合もありますが、そうすると一から検査を受け直さなければならないので、できるだけ主治医に相談するようお話ししています。その上で『どうしても言い出せない』と言う場合は、数は少ないですが私のほうからセカンドオピニオン先を紹介することもあります」  話を聞いていると、かかりつけ医を持つことはいざというときの心のよりどころであり、頼りになる存在だということがよくわかる。いいかかりつけ医を持つことができれば、生涯にわたりあらゆる健康相談もできるわけで、この記事の前編で草場医師が言っている通り、「いいかかりつけ医は、一生モノ」は、その通りだと思う。 「かかりつけ医は患者さんが在宅医療に入ってからも診ることが多く、その場合は看取りもおこないます。さらに亡くなった患者さんのご家族が受診されたときには、その思い出を共有しながらお話をしたりする。患者さんやご家族に伴走できることが魅力であり、私たちもやりがいを持って取り組んでいます。これを機に、『かかりつけ医を持とう』と思ってくれる人が増えることを期待しています」 前編の記事も読む>>1度でもかかれば「かかりつけ医」なのか? 国は「かかりつけ医」推奨も、国民「定義がわからない」  (文・狩生聖子)
出会った時も今も彼女は「すごい人」 過労で倒れて人生観が変わった夫婦
出会った時も今も彼女は「すごい人」 過労で倒れて人生観が変わった夫婦  AERAの連載「はたらく夫婦カンケイ」では、ある共働き夫婦の出会いから結婚までの道のり、結婚後の家計や家事分担など、それぞれの視点から見た夫婦の関係を紹介します。AERA 2022年10月24日号では、ローソンストア100でプロモーションユニットのユニットマネジャーを務める森口紫乃さん、フリーイベントディレクターの森口拓さん夫婦について取り上げました。 *  *  * 夫32歳、妻36歳で結婚。ポメラニアン(13歳)は家族の一員。 【出会いは?】それぞれの取引先、友人に誘われて参加したクリスマスパーティーがきっかけ。仕事帰りに待ち合わせて飲みに行ったり、休日遊びに行ったりして気づいたら付き合っていた感じ。 【結婚までの道のりは?】交際から7年。ずっと同棲していて結婚は別にしなくてもいいと考えていたが家族・親族からの「圧」もあり結婚。 【家事や家計の分担は?】家事は、妻が8割、夫が2割。家計は完全に別々。 妻 森口紫乃[52]ローソンストア100 プロモーションユニット・ユニットマネジャー もりぐち・しの◆1970年、東京都生まれ。大学卒業後、ホテルに入社。97年、美容・エステ会社に転職、広告・宣伝担当。仕事が楽しく多忙で2度入院。2005年にPR代理店に転職、11年、ローソンストア100に入社  若い頃はお互いがむしゃらに働いていました。私も過労で倒れましたが、彼も無理をしすぎてダウン。少しずつ治りかけていた時に、彼が突然メキシコに行くと言い出しました。心配ではありましたが反対はしませんでした。新しい世界で元気になって帰ってきてほしいと、送り出しました。いくつかの国を回り、強くなって帰ってきました。  彼は私のよき理解者です。仕事で迷った時、いつも客観的なアドバイスをくれます。耳が痛いこともありますが、それが役に立ちます。以前、「紫乃は人を駒のように考えている」と指摘され、ハッとしたことがありました。感情を抜きにして、人の最適な配置ばかりを考えてしまう傾向があると思い、気をつけるようになりました。  以前、夫の友人の占師に私の宿命は雨で、彼は花だと言われたんです。確かに彼は花のように美しい心を持った純粋な人です。私はその花がいつまでもきれいにいられるように、雨を注ぎ続けて生きていくんだろうなと思います。 夫 森口拓[47]フリーイベントディレクター もりぐち・たく◆1975年、長崎県生まれ。高校卒業後、小売業に就職。2017年、過労で体調を崩して退職し、世界へ旅に出る。18年、一夏かけて自転車で東京から九州へ。20年から現職  彼女と出会ったのは25歳の頃です。私は自分の仕事に自信が持てずにいた時期だったのですが、彼女は思い通りに働いていてかっこよかった。仕事ってこんなふうにするものなんだと教えられて、そこから意識が変わりました。  毎日終電を過ぎても働くような人でしたから、過労がたたって倒れました。救急車を呼んだのですが、救急隊員に「彼女とのご関係は」と尋ねられ、「同居人です」としか答えられなかった。結婚は意識してなかったのですが、これを機に2人の人生を考えるようになりました。  結婚という形をとっても特に気持ちは変わりません。出会った時も今も彼女は「すごい人」。やることも頭の回転も速い人で、周りからも「奥さん、すごいね」と言われるんですが、「それはそうでしょ。ぼくがすごいと思った人だから」という感じです。  今の我が家の生活は常に犬が中心です。2人にとってまさに、かすがい。家族の一員なので、どこに行く時も一緒です。 (構成・浴野朝香)※AERA 2022年10月24日号
鈴木おさむ、たばこを語る――自分の中でルールを決めて、ほどよく付き合っていこう。
【PR】鈴木おさむ、たばこを語る――自分の中でルールを決めて、ほどよく付き合っていこう。 健康のために禁煙しなければ……。そう思っていても、いきなり禁煙するのはなかなか難しいもの。そんな人たちに知ってほしいのが、いま世界的に広がりを見せている「ハーム・リダクション(害の低減)」という考え方だ。これは、健康被害をもたらす行動習慣をすぐにやめることができないときに、できる限り害の少ない方法を取ることでリスクを低減させていく取り組みのこと。 かつてヘビースモーカーだったという放送作家の鈴木おさむさんに、「たばこハーム・リダクション」や、嗜好品との心地よい付き合い方について聞いた。 ■禁煙を始めてからしばらくは、たばこを吸う夢を見ていました。  20歳からたばこを吸い続けてきた鈴木さん。喫煙量が大幅にアップしたのは30代に入ったころだった。 「仕事が猛烈に忙しくなって、睡眠時間が減ったのが大きな理由です。起きている時間が長ければ、自然とたばこの本数も増えますからね。当時は、年齢のわりに責任のある仕事を任せてもらえていたこともあり、ストレスから常にたばこを吸い続けているような状態でした。最低でも1日5箱、気づけばワンカートン吸っているときもありましたね。でも、禁煙しようと思ったことはなかったです。原稿を書くときや考えごとをするときなど、たばこがないとなんとなく落ち着かなかったし、僕にとって喫煙はライフスタイルの一つだったんです」  妻でお笑い芸人の大島美幸さんからは、「副流煙が気になるから禁煙してほしい」と言われ続けた。それでもたばこをやめることはなかったが、18年前、32歳のとき、ついに禁煙を決意する。 「ある日、体にそれまでにない違和感を覚えたんです。でも、いきなりたばこをゼロにするのは簡単じゃない。禁煙を始めてからしばらくは、たばこを吸う夢を見たりしました(笑)。禁煙補助用品をくわえたり、お酒を飲むときだけ葉巻を吸うことを自分に許可したり。そうやって自分の中でバランスを取っていましたね」 ■吸いたい人の気持ちや禁煙のつらさはよくわかる。 「禁煙してから18年経ちますが、あまりにも大量に吸っていたこともあって、体に負担を与えていたんだなと思います。若いころ、もう少し適度にたばこと付き合うべきだったと痛感しました」  喫煙の害と聞くと、ニコチンを思い浮かべる人が多いだろう。しかし、実は主な原因はニコチンよりも、物質の燃焼によって発生する煙に含まれる有害性物質にある。そこでいま注目を集めているのが、加熱式たばこに代表される新型たばこだ。加熱式たばこは、たばこを燃やすのではなく加熱するため、煙は発生しない。他にも、歯茎と頬の間に挟んでニコチンを楽しめるオーラルたばこ製品などもある。  もちろん、健康のためには禁煙するのがベストなのは言うまでもない。しかし、やはりたばこを楽しみ続けたいという場合は、加熱式たばこやオーラルたばこに切り替えることで、喫煙者自身はもちろん、副流煙の軽減という見地からも、周囲の人々の健康や環境にメリットがあると言えそうだ。こうした「たばこハーム・リダクション」の考え方について、鈴木さんはこう語る。 「僕自身は禁煙しましたが、だからといって『愛煙家はみんな禁煙すべき!』とは思っていないんです。僕だってあれだけ吸っていたわけだから、吸いたい人の気持ちや禁煙が簡単でないことはよくわかる。いきなりやめようとして、それがものすごくストレスになってイライラしたりする人もいますからね。ただ、僕のように、後になって体への影響を痛感することだってあるかもしれない。リスクを減らす方法があるなら、それを利用するのも一つの手段だと思います。僕の周囲にも、健康のことを考えて紙巻たばこから加熱式たばこに変えた人はたくさんいますよ。僕が禁煙した当時は、加熱式たばこがまだなかったんですが、こういう製品があったら僕も利用していたかもしれません」 ■愛煙家にはその人たちなりのたばこを吸う理由があるはず。 「ハーム・リダクション」の概念はたばこだけでなく、アルコールなど、公衆衛生上の施策として世界的にも関心を集めている。 「僕はお酒の場が好きなんですが、お酒も飲みすぎれば体に害になる。だから、節度を持って付き合うことが大事だと思っています。一方で、『絶対にお酒を飲んだらダメ』と強制されたら、ものすごくストレスになると思う。僕にとっては、お酒を飲んで楽しく人と話すのは、仕事をするうえで欠かせないことであり、ストレス発散の手段でもあるんです。たばこという嗜好品の楽しみを失った分、お酒を節度を持ちつつ楽しむことでバランスを取りたかったんです。それと同じで、愛煙家にはその人たちなりのたばこを吸う理由があるはず。その人たちからたばこを取り上げてしまうと、人生の楽しみを一つ奪ってしまうことになりますよね」  小学校1年生の男の子の父親でもある鈴木さんは、嗜好品との付き合い方を次のように例える。 「子どもを見ていても思うんですが、人間は『〇〇はダメ!』と強制されればされるほど、逆にやりたくなってしまう生き物なんです。たとえば『虫歯になるから甘いものはダメ!』と言われたら、隠れてこっそり食べてしまうかもしれない。これって、精神的にも良くないですよね。だったら、『虫歯にならないように、週2回までにしよう』とか『食べたら必ず歯を磨こうね』などとルールを決めて楽しむほうがずっといい。そうやって自分の中でルールを決めて、リスクの少ない方法でほどよく付き合っていくことが、大切なんじゃないかなと思っています」 鈴木おさむ(すずき・おさむ)放送作家。1972年生まれ。19歳で放送作家デビュー。映画・ドラマの脚本、エッセーや小説の執筆、ラジオパーソナリティー、舞台の作・演出など多岐にわたり活躍。パパ目線の育児記録『ママにはなれないパパ』(マガジンハウス)、長編小説『僕の種がない』(幻冬舎)が好評発売中。漫画原作も多数で、ラブホラー漫画『お化けと風鈴』は、毎週金曜更新で自身のインスタグラムで公開、またLINE漫画でも連載中。「インフル怨サー。~顔を焼かれた私が復讐を誓った日~」は各種主要電子書店で販売中。コミック『ティラノ部長』(マガジンマウス)が発売中。 「たばこハーム・リダクション」の詳細はこちらから > 提供:BATジャパン
「義父母への年30万円の仕送りより、子どもの教育費を蓄えたい」 40代父親の不満に論語パパがアドバイス
「義父母への年30万円の仕送りより、子どもの教育費を蓄えたい」 40代父親の不満に論語パパがアドバイス  小中学生の兄弟を持つ40代の父親。老後資金が不足している義父母に対し、妻との貯金から年間30万円も仕送りしており、不満が募っています。かつては定年を迎えた親を養うのは子どもの役目でしたが、現代はお互いに自立するべきなのでしょうか。「論語パパ」こと中国文献学者の山口謠司先生が、「論語」をはじめ中国の古典から孔子の格言を選んで現代の親の悩みに答える本連載。今回の父親へのアドバイスはいかに。 *    *    * 【相談者: 小中学生の兄弟を持つ40代の父親】  小中学生の兄弟を持つ40代の父親です。私の悩みは、郊外の賃貸住宅で年金生活を送る義父母(70代後半)が、年金だけでは金銭的に厳しいので、娘である妻(大手企業勤務)の収入に頼っていることです。義父母は、娘の私立大学の学費や運転免許取得費、短期留学などにお金を工面したため貯金がスカスカになったのだそうで、妻は私たち夫婦の貯金から年間30万円も仕送りしています。腹立たしく感じるのは、義父母が「定年後は子どもに頼るのが当たり前」と考えており、感謝の気持ちが一切ない点です。 ※写真はイメージです(写真/Getty Images)  私たち夫婦は共働きでそれなりの収入を得ていますが、決して余裕があるわけではありません。将来息子たちに頼らずに済むように貯蓄を増やしたいし、息子たちの教育費用ももっと蓄えたい。義父母には病気・事故がない限り、自活してもらいたいのです。私は年長者を敬うことができない心の狭い人間なのでしょうか。 【論語パパが選んだ言葉は?】 ・孔子曰(いわ)く「(中略)大道(たいどう)の行わるるや、天下を公(こう)と為(な)す。(中略)故に人独(ひと)り其(そ)の親を親とせず、独り其の子を子とせず、老は終(おわ)る所有り」(『孔子家語(けご)』礼運第三十二) ・子曰(い)わく「里は仁を美(よ)しと為す。択(えら)んで仁に処(お)らずば、焉(いずく)んぞ知(ち)なるを得ん」(『論語』里仁第四) 【現代語訳】 ・孔子がおっしゃった。「大道が行われていた時代は、天下のものすべてが公共のものだと考えられていた。だから人は、自分の親だけを親と思わず、自分の子どもだけを子どもだとは考えず、年老いた人たちも、みんなから大事にされて、安心して最期を迎えることができたのだった」 ・孔子がおっしゃった。「人への思いやりや、仁愛を行動のよりどころに置くことは美しい。『仁者』であろうと自身のあり方を選ばなければ、本当の知者にはなれない」 【解説】  相談者さん、「私は年長者を敬うことができない心の狭い人間なのでしょうか」なんて、考えることはありません。年長者を敬うことは、無理をしてまで妻の両親を経済的に援助するということでは、決してありません。そもそも子どもの親に対する扶養義務は、自分たちの生活を維持したうえで、余裕がある場合に発生するものです。  お金の支援は、社会的・倫理的にも難しい問題です。それは、孔子が生きていた紀元前500年ごろでも同じでした。中国の古書『孔子家語』(『論語』に漏れた孔子の説話を収録したとされる)に、こんな言葉があります。  孔子曰(いわ)く「(中略)大道(たいどう)の行わるるや、天下を公(こう)と為(な)す。(中略)故に人独(ひと)り其(そ)の親を親とせず、独り其の子を子とせず、老は終(おわ)る所あり」(『孔子家語(けご)』礼運第三十二) 「大道が行われていた時代は、天下のものすべてが公共のものと考えられていた。だから人は、自分の親だけを親と思わず、自分の子どもだけを子どもだとは考えず、年老いた人たちも、みんなから大事にされて、安心して最期を迎えることができたのだった」という意味で、人々が私利私欲に走る世の中を嘆いた言葉です。  孔子が理想としたのは、「大道」が行われていた時代です。本当にそんな時代が存在したのかわかりませんが、孔子は、そういう時代があったと信じて、あくまで理想を語ったのです。「大道」の時代とは、わかりやすく言えば、「私の」という、「私的な所有」の意識がない社会です。  相談者さん、「自分のものがまったくない社会」を想像することができますか? 血縁があるとかないとかも関係ありません。土地だって、自分のもの、他人のものという考えがない。しかし、それで、すべてがうまく機能しているのです。人間関係で言えば、妻の親も自分の親と同じように大事にし、近所のおばさんも自分の親と同じだと思って大事にするという感じです。助けなければならない人がいれば真心を尽くして助ける、助けられた人も自分が何かできるなら、真心を尽くしてやる。利害関係や私心私欲などが存在しない社会です。  こういう理想郷を、我々は、思い浮かべることさえできません。「共産主義」「社会主義」など「◯◯主義」という思考法からすれば、矛盾だけしか見えなくなってしまうからです。それは、孔子の時代も同じでした。みじんでも人に「欲」があったら、そういう社会を想像することすらできないものなのです。相談者さんが義父母に対して腹立たしく感じるのは、当然で、仕方ないことです。  さて、相談者さん、もしも妻が年間30万円もの大金を貯蓄の中から仕送りしていらっしゃるのが気になるのであれば、すぐにそのことをまず妻に話してください。そういう心のモヤモヤは、家族の将来に悪い影響を与えるかもしれません。息子さんたちの将来も考えて、いくらなら義理の親にお金を渡すことができるのか、話し合ってください。孔子は、人は仁愛に基づいて生きるために「知」が必要だと言っています。  子曰(い)わく「里は仁を美(よ)しと為す。択(えら)んで仁に処(お)らずば、焉(いずく)んぞ知(ち)なるを得ん」(『論語』里仁第四) 「人への思いやりや、仁愛を行動のよりどころに置くことは美しい。『仁者』であろうと自身のあり方を選ばなければ、本当の知者にはなれない」という意味です。  相談者さんは、まず夫婦の将来、息子さんたちの将来をどうしたら豊かなものにできるのかを第一に考え、そのうえで、どうしたら妻の両親にも仁愛の気持ちで接することができるか、知恵をしぼってください。  お金の問題は、現代を生きるすべての人にとって、必ずどこかでクリアしなければならないことです。このまま放置せず、お金の問題に明るい専門家に相談して、どうすればいいのか教えてもらいましょう。みんなが納得して、親に真心を尽くすこと。それこそが理想の社会をつくる礎だと思います。 【まとめ】 「私的な所有」の意識がない社会はありえない。義父母に仁愛の気持ちで接するためにも、まず自分たちの生活を第一に考えよう 山口謠司(やまぐち・ようじ)/中国文献学者。大東文化大学教授。1963年、長崎県生まれ。同大学大学院、英ケンブリッジ大学東洋学部共同研究員などを経て、現職。NHK番組「チコちゃんに叱られる!」やラジオ番組での簡潔かつユーモラスな解説が人気を集める。2017年、著書『日本語を作った男 上田万年とその時代』で第29回和辻哲郎文化賞受賞。著書や監修に『ステップアップ 0歳音読』(さくら舎)『眠れなくなるほど面白い 図解論語』(日本文芸社)など多数。2021年12月に監修を務めた『チコちゃんと学ぶ チコっと論語』(河出書房新社)が発売。母親向けの論語講座も。フランス人の妻と、大学生の息子の3人家族。

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