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韓国の社会問題に根ざした濃密なサスペンススリラー「ビニールハウス」
韓国の社会問題に根ざした濃密なサスペンススリラー「ビニールハウス」 (c)2022 KOREAN FILM COUNCIL. ALL RIGHTS RESERVED    ソウル郊外の農村のビニールハウス。イ・ムンジョン(キム・ソヒョン)は、夫と離婚し、一人そこで暮らしている。10代の一人息子と良い家に住むことを願う彼女は、訪問介護士兼家政婦として視力を失った大学教授と認知症を患う彼の妻の世話を献身的にしていた。が、ある事件が起こり──!? 「ビニールハウス」のイ・ソルヒ監督に本作の見どころを聞いた。 (c)2022 KOREAN FILM COUNCIL. ALL RIGHTS RESERVED   *  *  *  私の母は社会福祉士として働き、叔母も介護の仕事をしていました。私にとってそれは特別な仕事ではなく、そこから主人公ムンジョンのキャラクターが生まれました。彼女がビニールハウスで暮らしていることに驚く方が多いようです。実際、貧困からそこを住居にする方はいます。一方で農家が利便性のため暮らしている例もあります。 (c)2022 KOREAN FILM COUNCIL. ALL RIGHTS RESERVED    韓国では在宅のヘルパーに国の支援がなく、ムンジョンのような訪問介護士兼家政婦は民間サービスのみです。ムンジョンを雇っている老夫婦は富裕層なので可能ですが、現実は老夫婦が二人で孤軍奮闘しながら亡くなるケースが多い。老人の孤独死のニュースを見る度に「どういう状況だったんだろう?」と想像してしまうのです。 (c)2022 KOREAN FILM COUNCIL. ALL RIGHTS RESERVED    ムンジョンは訪問先で認知症を患う老婦人に罵倒されても、優しく精魂込めてケアをします。でも自分の母親も認知症で病院に入っておりその世話は看護師に任せています。このアイロニカルな設定も実は母を見て思いついたものです。母は他人の介護はできても自分の母親が認知症を患って家にいた時期は本当につらそうで、逃げ出したがっていた。この話をすると母はあまり喜ばないのですが(笑)、実の親子だからこそ難しいものなのかもしれません。こうした深刻な問題をドキュメンタリーにしてもおそらく誰も見てくれないでしょう。なのでサスペンススリラーの力を借りることにしました。 イ・ソルヒ(監督・脚本・編集)Lee Sol-hui/1994年生まれ。韓国映画アカデミー(KAFA)で映画監督コースを専攻。初長編映画である本作で釜山国際映画祭ほか受賞多数。15日から全国順次公開(c)2022 KOREAN FILM COUNCIL. ALL RIGHTS RESERVED    韓国ではすべての世代において、自分の感情を押し殺す傾向があります。特に近年は激しい競争社会になり「つらい」「もうやめたい」などが言えなくなっている。自殺率も高く、そこに起因して起こる事件が多いと感じています。私はこの物語は世界全ての人に通じる話だと思っています。いずれは誰もが老いるのですから。 (取材/文・中村千晶) ※AERA 2024年3月18日号
相手のキーパーソンに照準を 札幌で得た取引の基本 川崎重工業・金花芳則会長
相手のキーパーソンに照準を 札幌で得た取引の基本 川崎重工業・金花芳則会長 米国でiPodを早々と買った。先端機器好きは楽をするため。父はものづくり自分は機械少年血筋だと思う(撮影/狩野喜彦)    日本を代表する企業や組織のトップで活躍する人たちが歩んできた道のり、ビジネスパーソンとしての「源流」を探ります。AERA2024年3月18日号より。 *  *  *  入社4年目の1979年から約8年、札幌市で、市営地下鉄へ納入する車両の試験走行や改善を重ねた。ここで予想外のことが起きて、ビジネスパーソンとしての道が定まっていく。  札幌市の地下鉄は72年の冬季五輪へ向けて工事が進み、71年12月に南北線が開業した。その後、東西線と東豊線が開通。どれも車両はアルミ合金製で軽く、音の静かなゴムタイヤで走る。全車両の車台が川崎重工業(川重)製で、川重が主契約者だ。  着任当初は、担当の部長と2人で動いた。と言っても、市交通局との協議をまとめる部長の鞄持ちで、ついて回るだけ。部長は交通局との会議で、電機分野を受注した会社の幹部らを両脇に従え、課題を次々に切れ味よくさばく。後ろの席にいて「すごいな」と感心していた。 年長者にも怒鳴る交通局係長の要求徹底的に実現した  ところが、1年もたたないうちに部長は本社の技術部長へ栄転、「後はきみがやれ」と言われた。会議の仕切り方はみてはいたが、想定もしていない。以後、中央に座らされ、左右にいる父の年齢に近い電機会社の部長たちが露骨に「こんな若造に仕切れるのか?」という雰囲気を出す。「困ったな」と思ったが、ともかく勉強を重ねた。  接し方が難しかった人は、交通局側にもいた。議論に答えを出す係長だ。係長は30歳くらいで、年長の電機会社の部長でも不快なことがあると「帰れ」と怒鳴る。身を縮めてやり過ごしていた間に、閃いた。父くらいの年齢の面々に言うことを聞かすには「この係長をつかまえればいい」と頷く。  以来、係長に照準を合わせ、求めていることを的確に把握して、徹夜で対応策を考え、徹底的に実現していく。相手も、正面から受け止めてくれた。両脇の面々が「あの係長を押さえられる金花はいいね」と、一目置くようになる。冬の厳しい寒さも楽しむゆとりが、生まれた。  商売相手側のキーパーソンをつかむ──金花芳則さんがビジネスパーソンとしての『源流』になった、と思う体験だ。その後のロンドンやニューヨークの勤務でも同じ。どうやら場の状況や力関係、空気などを読むのが、得意なようだった。 70年万博で英語を鍛える(写真:本人提供)    1954年2月に神戸市で生まれ、両親と弟の4人家族。父は川重の技術者で、工場見学へ連れていってくれた。小学校時代は算数を教わり、いつも「技術者の匂い」をかいでいた。  県立神戸高校時代のある日。街で40代くらいの外国人男性に声をかけられた。ジョーという名の米国人で、大学の教師だった。親しくなり、自室にカラーテレビがなかったジョーは、日曜日にやってきてNHKの大河ドラマを観て帰る。  2人の会話はほぼ英語で、両親が「何を話しているの?」と尋ねた。この経験で、就職後に札幌で英語を話す機会に、抵抗感なくこなせた。 自動運転車両の開発会社の資料で知って就職先に決める  72年4月、大阪大学基礎工学部の電気工学科へ進む。4年生になって、就職先に自宅から通勤できるメーカーを考えていたとき、川重の資料でコンピューター制御の自動運転車両「KCV」を開発中と知る。「これをやりたい」と思い、受けた。76年4月に入社し、希望通りに車両事業部のKCV開発室へ配属される。KCVは高層ビルや高速道路の間を縫うように軌道を走らせるため、急カーブも急勾配もこなさなければならない。のちに「ポートライナー」として実用化した。  兵庫県加古川市の試験線で約3年、先輩と2人で試験車両を動かして様々な点を計測し、改良点を考えた。タイヤはゴム製で、同じゴムタイヤの札幌地下鉄との縁が生まれていた。  札幌から本社の車両部へ戻って約1年後の88年10月、ロンドン事務所のアシスタントマネジャーへ赴任した。川重は、英仏海峡トンネルを走るワゴン車の台車の試作車2両を受注していた。毎週のようにパリへいき、台車の試験に立ち会う。翌年にロンドン市営地下鉄のセントラルライン向け台車1436台も受注し、それも受け持った。「人生で、一番仕事をした」と思うほど、働いた時期だ。ここでは、市交通局で技術分野の総帥だった副総裁に食い込んだ。  副総裁は、思わぬところでも力になってくれた。神戸から社長がきて交通局の総裁を訪ねた際、台車の溶接や塗装で苦情を言われた。大きな問題ではなかったが、社長は腹を立て、宿泊先のホテルに現地法人のトップとともに呼ばれて怒鳴られる。「これは、クビになるな」と思い、帰宅して妻に話すと「そうなったら、2人でタコ焼き屋をしましょう」と言ってくれた。  翌朝、交通局へいって出社してきた副総裁に事情を話すと、「では『昨日はああ言ったが、ちょっと言い過ぎた』と手紙を書こう」とホテルにいた社長へファクスを送ってくれた。発注者が受注者にそういう手紙を出すのは、異例だ。  1436台の台車を納入し終えたころ、神戸の車両事業部長から「ニューヨークがいろいろ困っているので、いって手伝ってやれ」と指示がきた。米ニューヨーク市交通局(NYCT)向け車両の走行試験のことだ。1年くらいで終わるだろうと思い、妻と長男は日本へ帰し、単身でニューヨークへ赴く。米国駐在は結局、13年半に及ぶ。  ニューヨーク市の事務所は、車両基地の近くに置いたトレーラーハウス。ロンドンでは背広にネクタイで「紳士」を演じていたが、ここではジーパンにTシャツ姿で仕事をした。 端に座って寡黙な男相手の責任者と知り夜中にも訪ねた  週に1度、どんなトラブルをどう処置したかの会議がNYCTであり、それにも出た。すると、部屋の端のパイプ椅子に座って、寡黙な男がいる。部下に「誰?」と聞くと、NYCTの技術責任者だ、と言う。「何で、あんなところに座っているの?」と続けると、「川崎が嫌いなのです。問題ばかり起こして最悪だと」と答えた。  ここで、『源流』からの流れが、勢いを増す。「彼を落とせばいいのだ」と思い定め、夜中にも訪ねて話し込み、言われたことは全部やる。仲よくなり、07年10月に帰国した後も、ニューヨークへいけば会っている。いまニューヨークの地下鉄車両のほぼ半分が、川重製だ。  2016年6月に社長就任。地球環境対策の水素ビジネスなど、成長が期待できる分野で「攻め」を鮮明にした。地球環境の改善には、二酸化炭素(CO2)を多く排出する化石燃料の使用を抑制しなければならない。  現在、世界に電車の架線がない地域が多く、そこはディーゼル車が走り、多くのCO2を出している。それに代えて、川重が開発中の水素を使った燃料電池で走る新車両の時代が必ずくる、とみる。  いま、世界の自動車や車両のメーカー、電力などエネルギー関連の企業など、主要な約150社のトップによる水素協議会の共同議長も務め、水素の利用促進の議論も重ねている。『源流』となったキーパーソンの発見と攻略。今度は、自らに150社の目が注がれている。(ジャーナリスト・街風隆雄) ※AERA 2024年3月18日号
パスポートに「スタンプがない」と思わぬ面倒事が… 空港の出入国自動化ゲートをめぐる“混乱” 
パスポートに「スタンプがない」と思わぬ面倒事が… 空港の出入国自動化ゲートをめぐる“混乱”  自動化ゲート。筆者の体験では30秒もかからずに通過できる(写真提供:パナソニック コネクト)      日本を出国し、海外から帰国する際、空港の出入国審査でパスポートに押してもらうスタンプだが、最近は自動化ゲートを導入する空港が増え、スタンプが押されないケースが増えている。ただ、その場合は注意が必要だ。スタンプがないことで、いろいろと不便なことがあるようだ。  昨年12月、印刷会社に勤めるKさん(56)は妻と東京都江東区にある中国ビザ申請サービスセンターに出向いた。年末年始に中国旅行を計画していた。  以前に比べると中国への短期観光旅行のハードルがあがり、ビザが必要になった。申請には往復航空券や宿泊先ホテルの予約確認書のほか旧パスポートなども必要だ。Kさん夫妻はそれらを提出するとこう言われた。   「韓国に行ったときの出国スタンプがありません」 「は?」 免許証が……  昨年、Kさん夫妻は韓国に行き、帰国する際はソウルの仁川国際空港を利用したが、出入国審査カウンターは無人の自動化ゲートを通過したため、出国のスタンプは押されなかった。そのスタンプがない理由を問われたのだ。事情を詳しく説明し、ビザは受け取れたというが……。  タイに駐在している建設会社員のTさん(40)も、海外から帰国する際に自動化ゲートを使ったことで、大きな“痛手”を負った。  昨年、日本でさまざまな手続きをしなければならないため、一時帰国した。仕事の関係で日本での滞在日数は4日間しかなかった。  そうしたなか、運転免許証の再取得のために東京都品川区の運転免許試験場に向かったのは、タイに戻る前日だった。そこでこう言われたという。 「パスポートに出国と入国のスタンプがないので再取得の手続きはできません」  Tさんも「自動化ゲート」を利用していた。出入国在留管理庁でスタンプを押してもらうように言われたので連絡をとったが、「1日では処理できない」という返事。免許の再取得はできずにタイに戻った。期限内に再度帰国すれば再取得はできたが、仕事の関係で帰国は難しく、結局、日本での運転免許証は失効してしまった。 【合わせて読みたい】 夏休みの旅行はLCCよりMCC?「運賃安め、座席広め、パンやコーヒー無料」韓国、香港、台湾で勢い https://dot.asahi.com/articles/-/195138?page=1 自動化ゲートは、パスポートの読み取り、その後、顔認証へと進む(写真提供:パナソニック コネクト)    世界の空港で自動化ゲートの設置が進んでいる。出入国審査のスピードアップが目的だ。日本は指紋認証ゲートからはじまり、現在の顔認証ゲートに進んだ。2017年に羽田空港に3台設置されて以来、順次、その台数は増えている。  パスポートを機械が読み取り、次いで顔認証。日本人の場合、出入国でこのゲートを使うことが可能だ。出入国審査は簡素化され、かかる時間も短縮されたが、パスポートにスタンプは押されない。  日本の場合、自動化ゲートを通過した先に1カ所、職員がいるブースがあり、そこにパスポートを出すと出入国スタンプを押してくれる。旅の記念という人もいて、ブース前に列ができていることもある。 スタンプが海外旅行保険にも影響  筆者が今年1月、成田空港着で帰国すると、そのブースに注意書きが貼られていた。そこには、運転免許証の再取得や転入届、年金の合算対象期間の証明などスタンプが必要な項目が書かれていた。出入国在留管理庁の成田空港支局によると、顔認証ゲート導入時から掲示していたというのだが……。  自動化ゲートを使い、スタンプがないパスポートにスタンプを押してもらうには手間がかかる。出入国在留管理庁で手続きをする場合は開示請求が必要になる。開示決定は30日以内とされている。 「出入国スタンプの場合、さすがに30日はかかりませんが、手作業ですからすぐには対応できません。利用した空港に出向いたほうが早いのでそちらを勧めています」(出入国在留管理庁)  同庁の成田空港支局によると、空港内窓口が対応し、確認でき次第スタンプを押すという。  出入国スタンプは海外旅行保険にもかかわってくる。旅行中のけがや盗難などが対象になる。その申請には出国日と帰国日が必要になる。 「自動化ゲートが増え、スタンプがない場合はEチケットや旅行の日程を証明できるもので代替できるようにしています」(三井住友海上)  転入届には帰国日を特定しなくてはならない。スタンプがない場合は航空券の半券などで対応してくれることもあるようだが、スタンプがあったほうがはるかにスムーズに手続きはできる。 【こちらもおすすめ】 「滑走路の誤進入は世界で頻繁に起きている」 現役パイロットが抱く日本の事故対策への懸念 https://dot.asahi.com/articles/-/211826?page=1  この状況は海外も大差はない。韓国や台湾でも自動化ゲートの設置が進んでいるが、やはりスタンプは省略される。しかも、日本のようにゲートの先にスタンプを押してくれるブースはなく、空港内のオフィスに出向く。  台湾から帰国したHさん(42)は、この台湾桃園国際空港のオフィス前で30分も待った。スタッフが不在で戻るまで待たなくてはいけなかったという。 自動化ゲート使ったのに  タイから帰国したSさん(69)は、バンコクのスワンナプーム国際空港の自動化ゲートを使って出国した。そこで職員にスタンプがほしいというと、脇の通路を通って出国審査場に戻り、有人ゲートに並んでください、と指示されたという。 「自動化ゲートはスピーディーでいいんですけど、使った意味がまったくありませんでした。有人ゲートは混んでいて通過するのに30分もかかりました」  自動化ゲートをめぐる混乱はまだ続きそうだ。 (下川裕治) しもかわ・ゆうじ 1954年生まれ。旅行作家。アジアや沖縄を中心に著書多数。ネット配信の連載は「クリックディープ旅」(毎週)、「たそがれ色のオデッセイ」(週)、「沖縄の離島旅」(毎月)。
一般参賀1万5千人の一方、皇室への誹謗中傷の現実 “両極”の心理を識者と読み解く
一般参賀1万5千人の一方、皇室への誹謗中傷の現実 “両極”の心理を識者と読み解く 宮殿・長和殿のベランダに並ぶ天皇、皇后両陛下と長女愛子さま、秋篠宮ご夫妻と次女佳子さま。午前に計3回、参賀者に手を振り応えた(撮影/松永卓也)    冷たい雨のなか1万5千人が一般参賀に集う一方で、ネットなどでは皇室への誹謗中傷がやまない。この状況をどう考えればいいのか。AERA 2024年3月18日号より。 *  *  * 「皆さん一人一人にとって、穏やかな春となるよう祈っております」  天皇陛下が64歳の誕生日を迎えた2月23日、皇居で行われた天皇誕生日の一般参賀。小雨が降り、気温は約2度という寒さのなか、訪れた約1万5千人に天皇はこう語りかけた。1月の新年一般参賀は能登半島地震の影響で中止となったため、今年になって初めての参賀だった。  そもそも「一般参賀」とは何か。象徴天皇制を研究する名古屋大学大学院准教授の河西秀哉さんは、こう話す。 「初めて行われたのは戦後、1948年の新年です。天皇は日本国民の統合の象徴であり、その地位は日本国民の総意に基づくと憲法に明記され、『国民との関係性』が重要視されるようになり、『国民との近さを象徴するもの』として始まりました」 天皇誕生日の一般参賀で、宮殿のベランダに並ぶ天皇、皇后両陛下ら。集まった人たちは傘もささず日の丸を振った(撮影/松永卓也)   手ごたえ得られる機会  一般参賀は皇室にとっても意義があると、河西さんは言う。 「たとえば訪問先の地方で出会う国民とは違い、一般参賀に来るのは『天皇に会いたい』と強い意志を持つ能動的な人たち。自分たちがどういうふうに見られているかを肌で感じ、『手ごたえ』を得ることができる機会でもあると思います」  能動的にやってきた国民が、天皇の生の姿、肉声を聞く。天皇もその姿と反応を見た上で、「冷たい雨が降る厳しい寒さの中、誕生日にこのように来ていただき」と応じる。一般参賀は象徴天皇を体現する行事になっていると、河西さんは言う。 「一方で、1万5千人が雨のなか傘もささず天皇の言葉を、という光景からは、戦前来の『天皇の権威』を引き継いでいる、そんな印象も私は受けます」  河西さんは平成の後半頃から、天皇や皇室に対し「権威的であること」を求める傾向が気になっているという。そのことは、近年の秋篠宮家などへの執拗なバッシングとも根っこがつながっていると指摘する。 一般参賀は象徴天皇を体現する行事である一方で、戦前から天皇が持っていた「権威的なもの」を引き継いでいる感じも受けると河西准教授は言う(撮影/松永卓也)   「天皇や皇室に権威的なものを求める人たちには『(彼らは)公に尽くさなければならない』という感覚がすごく強い。いまの上皇ご夫妻が平成の時代に頻繁に被災地を訪れ、公に尽くす姿を見て、天皇や皇室が好きになったという人たちもいる。そういう人たちから見ると、眞子さんの結婚の件などは金銭トラブルも含め『私』の部分が見えすぎてしまい、『裏切られた』という思いも強かったのでは」  一般参賀に1万5千人が集まる光景と、皇室への誹謗(ひぼう)中傷がやまない現実と。「両極」とも言える状況を、どう考えればいいのか。河西さんは「勝ち組」「負け組」で分断されるいまの社会状況も影響していると見る。 この日は小雨が降る中、参入門である皇居正門(二重橋)付近には開門前から長蛇の列。記帳を合わせて約1万5千人が天皇の誕生日を祝った(撮影/松永卓也)   会見での印象的な発言 「雅子さまが病気療養で十分に公務ができなかった頃、皇太子の退位をうながす『廃太子論』も出るほどだった現天皇に比べ、眞子さん、佳子さまに続いて皇位継承権のある男の子(悠仁さま)も生まれ、『順調』だった秋篠宮家は、『平成の勝ち組』に映ったかもしれません。『うまくいっている方の人』を、いっていない人たちが何かのきっかけで徹底的に袋だたきにし、鬱憤(うっぷん)を晴らす。そんな風潮が『両極の状況』の背景にあるのではないかと思います」  天皇は2月21日に記者会見も行った。河西さんは印象的なシーンがあったという。 「悠仁さまについて質問を受け、『少しずつ、皇室の一員としての務めを果たしてくれていることを頼もしく思っています』などときちんと言及されたことです。天皇家と秋篠宮家の間に分断があるかのような見られ方に対して相当に配慮された、という印象を受けました。このままでは国民統合の象徴たり得なくなる。そんな危機感さえお持ちではないかと想像します」 自分事として想像する  いま皇室は皇位継承のあり方や皇族数の減少、皇族の人権についてなど課題が山積だ。河西さんは、天皇と皇室に任せっきりではなく国民一人ひとりが危機感を持ち、考えるべきと話す。 「たとえば、現在の皇室典範の規定では女性皇族は結婚したら皇族ではなくなります。議論が進まないと、愛子さまや佳子さまなど女性皇族にとってはこの先の生き方も定まらず、言わば宙ぶらりんの状態。そんな環境に置かれている人たちのことを、自分事として想像してみる。皇族が職業選択や居住の自由がないのはいまの制度上、仕方ない部分もある。でも今の日本社会でそんな状況に生まれながらに置かれた人たちがいることを認識し、『仕方ない部分』をどれだけ自分たちの方に近づけ、『人間としての自由と、象徴天皇制のバランス』をとっていくかを真剣に考えてみる。そこから始めるべきではないでしょうか」 (編集部・小長光哲郎) ※AERA 2024年3月18日号
配偶者の愛情がなくても… 破綻していても離婚しない日本の特殊な夫婦観
配偶者の愛情がなくても… 破綻していても離婚しない日本の特殊な夫婦観 ※写真はイメージです(Getty Images)   「夫婦の3組に1組が離婚する日本で「内実離婚夫婦」は実はもっと多い」と、社会学者で「婚活」という言葉の生みの親である中央大学文学部教授・山田昌弘氏は分析する。性別役割分業型(“夫は働き、妻は家事”)より夫婦それぞれの時間や愛情が分散し、日本特有の“愛情観”が形成されていった。同氏の新著『パラサイト難婚社会』(朝日新書)から一部を抜粋、再編集し、紹介する。 *  *  *  現代日本では、既婚カップルは二極化しています。夫婦仲が良く一緒に食事や旅行、映画鑑賞を楽しみ、老後も心穏やかに過ごす「名実共に結婚状態にある夫婦」と、同じ家庭で暮らしていてもほとんど口をきかない「内実はほとんど破綻している夫婦(内実離婚夫婦)」です。夫婦の「3組に1組は離婚する」日本ですが、実際は「家庭内離婚」、すなわち「内実離婚夫婦」はもっと多いと私は睨んでいます。 「濡れ落ち葉」「旦那はATM」「亭主在宅シンドローム」など、既婚状態の不満(主に妻から夫に向けて)にまつわる特殊用語に日本は事欠きません。  80年代までは「亭主元気で留守がいい」程度の表現で夫の健康と不在を望んでいた妻たちも、90年代そして2000年代になるにつれ、言葉の選択を過激化させていきました。中でも前述の「濡れ落ち葉」「亭主在宅シンドローム」は、表現の苛烈さにおいて多くの男性たちの心を凍りつかせました。 【こちらも話題】 ただの友達「ただトモ夫婦」増殖中 https://dot.asahi.com/articles/-/8475  それまで仕事三昧で会社に滅私奉公してきた夫たちが、いざ定年退職になり、これからは心穏やかに家で過ごせるようになったと一安心した矢先に、それまでひとりの時間を家で謳歌してきた妻たちが悲鳴を上げるようになったのです。妻の側も、ようやく手のかかる子どもたちが巣立ち、自宅で自由時間を持てるようになったと思ったら、今度は初老の夫がデンと構えるようになったのです。しかも四六時中家にいて、一日三度の食事を当然のように求めてくる。妻の奉仕を当たり前のものとしてテレビの前に陣取り、「コーヒー」などと注文する夫に対してイライラが募り、しまいには動悸息切れがしてくる……。そんな状態を「亭主在宅シンドローム」と呼ぶそうですが、逆に妻が外出や旅行をする際に、今度はどこにでもついてこようとする夫に対しては、評論家の樋口恵子さんによって「濡れ落ち葉」という名前が付けられました。これらは典型的な日本の「性別役割分業型家族の愛情観」の弊害かもしれません。  それまで「外で家族のために働きお金を稼ぐこと」が夫からの愛情の証だったのに、「外で稼がなくなった夫」は、何によって妻の私に「愛情」をくれるのか。定年退職という区切りで、「家庭内における男女分業」システムが解消したのなら、私も家事から解放されるべきではないか。それにもかかわらず、妻としての愛情の証である家事は死ぬまでしなくてはならないこの理不尽さをどうしてくれようか……。代弁すれば、このようなところでしょうか。 【こちらも話題】 30代美人姉妹 妹が先に結婚できた理由は「理想と現実」 https://dot.asahi.com/articles/-/119961  同時に、団塊の世代には「世間体」もあります。我慢が美徳として認識される最後の世代かもしれません。「こんなことが理由で離婚などすべきではない」という自制心から、実際の「離婚」件数は、「熟年離婚」が話題になるほどには多くはありませんが、そこで溜まる忸怩たる思いが、「亭主在宅シンドローム」や「濡れ落ち葉」という表現に凝縮されているのかもしれません。 日本型「愛情の分散投資」とは  こうした日本独特の「夫婦観」について、欧米の人々は驚きます。彼らは一様に言います。 「愛がなくなったのに、なぜ離婚をしないのか」と。  たしかに人生の伴走者たる配偶者のことを、金の出る機械「ATM」呼ばわりしたり、ほうきにまとわりつく「濡れ落ち葉」に喩えるのは、彼らには到底理解の及ばぬ世界でしょう。  ただこれも「性別役割分業型家族の愛情観」に絡む話になってきますが、日本人はもともと「分散」「分業」の意識が強い、あるいは得意なのかもしれません。  西欧文化では、「夫婦」は人生を丸ごと共有しようとします。子育ても家事も仕事の配分も、レジャーもコミュニティも、「夫婦」は一体となってあらゆる価値と時間を共有していくのです。もちろんこれは理想であって、現実に完全に共有しているわけではありませんが、少なくとも共有しようと努力します。夫婦で観劇し、パーティに赴き、ハイキングに行き、夫婦で子どものイベントに出席し、夫婦単位で友人家族と付き合い、夫婦で余暇に語り合う。もちろんそれぞれの夫婦により差はありますが、日本とは根本的に異なる「夫婦観」「愛情観」「家族観」を彼らは持っています。 【こちらも話題】 「実家を出たくても出られない」経済的独立が困難な若者たち https://dot.asahi.com/articles/-/93867  対して日本は、夫は夫の交友関係を持ち、妻は子どもがいる場合は、ママ友コミュニティを中心に交友関係をつくります。基本的に、子どもの幼稚園や小学校の学校イベント(保護者会やPTA役員など)、子の交友関係や学業関係は母親が担います。また子どもがいなくても、母親や姉妹との外食や旅行、友人との「女子会」など結婚前からの親密関係が続くことが多く、女性同士のコミュニケーションが活発です。そこに夫が新たに加わることはめったにありません。  一方で夫は、仕事での交友関係がまずは重視されます。さらに、会社の人との飲み会や休日のゴルフなど、仕事の延長ともレジャーともつかない活動で仕事以外の時間を過ごすことが多いのです。つまり、余暇の時間も夫と妻で分かれているのが、従来の典型的な夫婦の時間の使い方でした。  時間だけでなく「愛情」すらも、日本では分散されがちです。日本の新橋や新宿などでは、サラリーマン(男性ばかり)が盛り上がり、キャバクラやクラブに繰り出す姿がよく見られますが、これも海外の人々からは大いに驚かれる光景です。そう、日本の男性(夫)は、愛情や関心を家族や妻へ100%注力しなくてもいい。キャバクラやクラブ、アイドルの推し活やゲームなど、多方面に分散できる社会なのです。一方で女性(妻)の側も、持てる愛情をすべて夫に傾けるよりは、子どもや母親や姉妹、女友だちやアイドルの推し活やペットなど、多方面に分散投資することで、日常を心穏やかに過ごすことができるのです。 【こちらも話題】 50代ひきこもりと80代親のリアル 毎年300万円の仕送りの果て https://dot.asahi.com/articles/-/127449  仮に配偶者が100%の愛情を注いでくれなくても、あるいは共通の時間がなくても日々の潤いが枯渇せず、楽しく生きていける国。それは、先進国では日本くらいかもしれません。妻からつれなくされても、キャバクラに行けば女性がちやほやしてくれるし、夫との会話がゼロでも、アイドルのコンサートに行けば愛情が満たされる。子どもに愛情を注ぎ、ペットから懐かれれば、明日からまた頑張ろうと思える。インターネットやSNS、ゲームや動画視聴手段がこれだけ増えれば、家族や恋人がいなくても十分人生を楽しみ、時間をつぶすことも可能です。これを私は「愛情の分散投資」と呼んでいます。他国では「夫婦」「家族」に集中しがちな「愛情」を家族以外の多方面に分散することで、日本人の幸福感が保たれているのかもしれません。その結果、日本のアニメやゲームなどのバーチャル文化が大人も楽しめるものとして、ここまで発展したのだと考えています。 【こちらも話題】 ただの友達「ただトモ夫婦」増殖中 https://dot.asahi.com/articles/-/8475
子どもを望む男性の4人に1人の「精液所見」が悪化 サ活にAGA、ブリーフも…精子の状態下げるNG行為とは
子どもを望む男性の4人に1人の「精液所見」が悪化 サ活にAGA、ブリーフも…精子の状態下げるNG行為とは (写真はイメージです/gettyimages)  精子凍結をする男性が増えている。一方で、男性たちの精子の質が世界的に落ちているという。精子凍結はリスクヘッジになるのか。 *  *  * 【ルポ精子凍結 その1はこちら】 「若いときの精子でないと意味がない」 32歳男性が3万円で精子凍結 若者たちの本音 https://dot.asahi.com/articles/-/216457 「少しでも若いときの自分の遺伝子を残しておきたかった」  2023年、人気韓国人歌手で俳優のジェジュン(37)が、韓国のテレビ番組(「花婿修業」)で精子凍結していることを明かし、話題になった。ジェジュンが精子を保存しているクリニックは、保管期限が最長で5年、今年で3年目だという。番組でジェジュンは、「恋愛、結婚は難しい。本当に難しい」と語り、「僕はまだ“(結婚の)準備ができていない人”だと感じている」とも明かした。 上昇する生涯未婚率  恋愛、結婚は難しい――そう感じている若い世代は、現代の日本にも多い。生涯未婚率が年々上昇し、50歳で一度も結婚したことがない男性は28.3%(2020年、国勢調査)。つまり、50歳の3〜4人に1人は結婚歴がないことになる。また、20〜40代の未婚の男女を対象に恋愛や結婚について調査した結果(21年、リクルートブライダル総研)によれば、恋人がいない人の割合は66.6%と、恋愛離れの動きも顕著だ。調査結果によれば、女性より男性のほうが恋人がいる人の割合が低く、これまでに交際経験がない人の割合が高い。  実際、精子凍結をする人の中には、「パートナーがおらず、いつできるかもわからない」「結婚の予定は全くないが、もし将来そうなったときのために」という人も一定数いるという。精子凍結の保管期限は学会の規定により、「生殖年齢まで」と定められており、不妊治療を専門とするはらメディカルクリニックでは「65歳の誕生日まで」としている。卵子凍結の場合、多くのクリニックが45〜50歳までとしているのに比べると、長期間の保存が可能だ。  保管料はクリニックによって異なるものの、一般的には容器1本ごとに年間1万2千円前後がかかる。仮に30歳で精子凍結し、65歳まで35年間保管し続けた場合、42万円がかかる計算になる。卵子凍結と比べると、費用面は抑えられるが、保存した精子を使うとき=パートナーと不妊治療を開始するとき。人工授精や体外受精、顕微授精で凍結精子を使うことになる。パートナー不在で凍結に踏み切る場合、実際に使うことがいつになるか、先が読めないという場合も少なくない。   【ルポ精子凍結 その2はこちら】 結婚も出産も女性主導から“自分のタイミング”で 精子凍結する男性たちの意識の変化 https://dot.asahi.com/articles/-/216458  未婚男性が備えとして精子凍結を行う最大のメリットは、言わずもがな若いときの精子を保存しておけることにある。また、卵子凍結に比べると、費用的な負担も少なく、不慮の事故や病気などへの備えにもなりうる。 精子凍結のデメリットとは  だが、デメリットもいくつかある。まず、精子は凍結すると、融解時に一定数が死滅するほか、凍結前の精子と凍結融解後の精子では、凍結融解後の精子のほうが、運動率の低下など所見が下回る場合がある。そして所見によっては、不妊治療における治療選択の幅が狭まる可能性もある。こうした点を踏まえて、若いころに精子を凍結し将来融解したものが、40歳以上の新鮮な精子と比較してどの程度優位といえるかのデータはまだ存在していない。そのため、クリニックでは「加齢を理由に精子凍結を検討している場合には、その必要性について十分検討を」と促すなどしている。  さらに、未婚の健康な男性が凍結保存する精子は、保険適用の不妊治療に使うことはできず、自費診療扱いになる。そのため、いざ凍結した精子を使うとなると、高額の治療費が発生する。 「こうしたことから、精子凍結は、将来に対する幅広い保険とはいえず、使い道が限定された保険となります。それでも将来のために精子凍結したいという方は一定数いらっしゃいますが、女性の卵子凍結ほど広がることはないように感じています」(はらメディカルクリニック培養士・荒井勇輝さん) 4人に1人が精液所見が悪化  一方で、近年、世界的に精液の質が低下していることが認識されるようになっている。 「これから子どもを希望する男性の4人に1人は、すでに精液所見が悪化している傾向にあります」(順天堂大学医学部素族浦安病院・辻村晃教授)  辻村教授は、これから結婚する、あるいは結婚後に積極的に子どもを希望するという平均年齢35歳の男性564人を対象に精液検査を行った。すると、精子濃度、精子運動率、精液量のいずれかが基準値を満たしていない人が全体の143人(25.4%)に上り、4人に1人の精液所見に問題があったという。 「晩婚化による加齢以外にも、食事や睡眠など生活習慣の悪化、ストレス過多も影響していると見られています。普段何気なく行っている生活習慣は、男性の精子力、勃起力、また性欲に多大な影響を与えます。不妊の原因となるような習慣には注意しましょう」(同)   取材をもとに編集部が作成   妊活中のサウナは避けるべし  上の表は、「精子の状態が低下する可能性がある習慣リスト」だ。順を追って説明しよう。まず、①の頻繁なサウナ通いは、精子の状態が低下する可能性がある。定期的にサウナに通い、サウナ→水風呂→外気浴と温冷交代浴で体を“ととのえる”「サ活」がブームだが、特に妊活中はNG。週に2回、1回15分のサウナに入ることを3カ月続けると、精液の状態が悪くなるというデータがある。サウナ通いをやめても、正常に戻るには3カ月では足りず、半年もかかるとされる。 「精巣は熱によるストレスに非常に弱いため、鼠蹊部は締め付けず、精巣を温めすぎないことが大切です。特に妊活中は、サウナ同様、長風呂もできるだけ控えて」(プリンセスバンク・香川則子さん)  ②、③も同様の理由からNGだ。②のブリーフやビキニ、ボクサーパンツなどは精子の状態が低下する可能性がある。ぴったりした下着は精巣の温度を上げたり、血流を圧迫したりするためだ。また③膝の上にPCを載せて作業をすると、PCの発する熱で精巣付近が温められ、精巣機能が低下するとされる。 自転車も要注意  ④自転車が趣味、と言う人も要注意だ。自転車に乗ると精巣が圧迫され、血流が悪くなり、勃起力が低下することがあるという。 「妊活中の方で自転車に乗る場合は、軽いサイクリング程度にとどめると良いでしょう」(辻村教授)  ⑤薄毛(AGA)治療と妊活も並行しないほうがいい。AGAなどに用いられる薬に5α還元酵素阻害薬がある。男性ホルモンが活性化することで生じる、AGAの原因となる活性型DHT(ジヒドロテストステロン)を抑制する。しかし、男性ホルモンには精子形成や性機能に欠かせない役割がある。ジヒドロテストステロンの活性を抑えると、勃起障害や精液量、精子量の減少などの副作用につながる場合があるのだ。 「妻にも黙って薄毛治療薬を飲んでいる男性もいるようです。妊活を長くしているのに、なかなか子どもができず悩んでいた夫婦で、実は夫が妊活期間中ずっと薄毛治療の薬を飲み続けていたことが後からわかったケースもありました。時間を無駄にしないためにも、先に精子保存しておくなど、治療と妊活の方針をパートナーと共有することが大切です」(香川さん) (写真はイメージです/gettyimages)  意外なところで、⑥の禁欲も望ましくないという。長い禁欲期間を設ければ、精子がたまり妊娠力が上がるのではと考えたくなるが、禁欲期間が長すぎると、精子数は増えても、運動率が下がる傾向があるという。 「精子はおよそ3日間生存すると考えられているため、禁欲期間は1~2日程度がベスト。それ以上だと死滅精子が増える可能性があります」(辻村教授) 効果検証はこれから  男性の場合、50代や60代、70代で子どもができたというニュースを聞くことがある。それを武勇伝のように捉え、「男性は何歳になっても子どもをつくれるんだ」と思う人もいるかもしれない。実際、生殖年齢の基準が女性よりも高く、クリニックによっては、凍結した精子の保管期限は60歳を過ぎても有効だ。精子凍結は一見、最強のリスクヘッジのようにも見える。  だが、精子の加齢は、てんかんの発症率が上がったり、未熟児が生まれやすくなったりするなど、生まれてくる子どもの健康に関係することが最近の研究でわかってきている。  香川さんは、精子凍結も卵子凍結も、未来への保険のようでいて、「今を安心して生きるための技術」とも指摘する。  取材では「もし将来望んだときにできなかったら、怖いから」という声をよく聞いた。不妊治療について経験者や情報が増え、「望んだときにできない可能性」が恐怖にも似た感情として若い世代に広がっているのかもしれない。精子凍結はそのリスクヘッジとなりうるかもしれないが、効果検証はまだこれからだ。“未来への保険”がどれだけ機能するか、切実な思いが詰まった技術の行方を見守りたい。 (ライター 松岡かすみ)
「生まれながらの気品の美しさ」愛子さまとシャーロット英王女 プリンセスへ集まる期待
「生まれながらの気品の美しさ」愛子さまとシャーロット英王女 プリンセスへ集まる期待 天皇陛下64歳の一般参賀で手を振る愛子さま。お手振りをするタイミングを合わせるために他の皇族方の様子を確認するなど、初々しさが残る=2024月2月23日、皇居・宮殿東庭(写真映像部・松永卓也)    今春から日本赤十字社への就職と公務の両立が始まる天皇家の長女、愛子さま(22)の存在感が増している。一方、英国ではウィリアム王子とキャサリン妃の長女、シャーロット王女への期待が高まっている。そんなふたりのプリンセスには共通点も多いと、英国王室に詳しい専門家は指摘する。 *   *   *  4月から、日本赤十字社での勤務がスタートする愛子さま。  天皇陛下は2月の誕生日に際しての記者会見で、愛子さまが持つ福祉への情熱について、「福祉を通して人々の役に立ちたいという気持ち」と述べられた。  そして今月8日にはお住まいの御所で、これからの勤務先となる日赤の社長らから、能登半島地震についてご両親と一緒に説明を受けた。  成年皇族として公務への本格的な参加も少しずつ進み、徐々に増している存在感。   そうした愛子さまについて、英国王室に詳しいジャーナリストの多賀幹子さんは、こう話す。 「国民からの人気ぶりや期待感といった点で、愛子さまと、英国王室のウィリアム王子とキャサリン妃の長女であるシャーロット王女のおふたりには、どちらもプリンセスとして生まれ持った気品や堂々たる品格が自然と注目を集めている点など、重なる部分が少なくないと感じます」   美智子さまへのお祝いのあいさつに向かう愛子さま。つぼみが混じるゴヨウツツジの花飾りは、次世代の皇室を担う愛子さまに重なる=2023年10月、東京・半蔵門、読者の阿部満幹さん提供   ロイヤルメンバーの中核を担う存在  シャーロット王女は今年5月、9歳の誕生日を迎える。  まだ幼いが「しっかり者」として知られ。2022年9月にあったエリザベス女王の葬儀では、ひとつ年上の兄ジョージ王子に棺へのお辞儀の作法を教えていたと現地紙が報じた。 チャールズ英国王の戴冠式に出席したシャーロット王女=2023年5月6日、英国(PA Images/アフロ)    また、昨年のチャールズ国王の即位式では、純白の衣装とティアラ姿が話題となり、SNSでは「シャーロット王女」のワードがトレンド入り。「生まれながらのプリンセスだ」「気品にあふれている」など、ため息交じりの賛美がネット上に飛び交った。   【こちらも話題】 「雅子さま&愛子さま」の秘蔵写真 “追っかけ歴31年”の女性がとらえた母娘愛 https://dot.asahi.com/articles/-/215623     上皇さまの90歳の誕生日に、仙洞御所でのあいさつを終えて皇居に戻る愛子さま=2023年12月23日、読者の阿部満幹さん提供    キャサリン妃が体調を崩す前は、シャーロット王女はウィリアム王子夫妻と3人で公務の場に姿を見せることもあった。多賀さんによると、幼いながらもシャーロット王女は、すでに故エリザベス女王の長女、アン王女の「後継」とささやかれているのだという。 「アン王女は、英王室でも多くの公務をこなすプリンセスであり、兄のチャールズ国王を支える存在としても知られる王族。シャーロット王女への期待の高さがうかがえます」(多賀さん)    品のあるたたずまいと堂々たるプリンセスぶりが注目を集め、公務の面でも高まる期待。  愛子さまとシャーロット王女の年齢は10歳以上離れているが、ともにこれからロイヤルメンバーの中核を担う人物として、存在感が増しているのだ。   「ひいおばあさまに重ねられる」二人のプリンセス  そしてもうひとつ、愛子さまとシャーロット王女には「共通点」がある。 「ひいおばあさまにそっくり」と、注目を集めていることだ。  シャーロット王女は、美しいながらも貫禄のある顔立ちや動作が、故エリザベス女王に似ていると言われてきた。  そして愛子さまも、その優しいほほ笑みや上品なたたずまいから「香淳皇后が思い出される」という声も聞こえてくる。  そうしたロイヤルメンバーとしての存在感やある種の迫力が、愛子さまからも画面越しでも伝わってくると、多賀さんは指摘する。   訪問先のベルギーの音楽会でブーケを贈られる香淳皇后(左)。柔らかな笑顔と雰囲気は、どこか愛子さまと重なる=1971年9月、ベルギー・ブリュッセル    愛子さまは大学卒業を前に、宮殿行事やケニア大統領夫妻を招いた昼食会にも出席し、成年皇族としての経験を積み始めている。 「愛子さまの奉迎者へのお手ふりやスマイルも、回を重ねるごとに洗練されてきています。生まれながらのプリンセスは、『私が』『私が』と主張することなく、鷹揚としながらも、周囲が一目置きたくなるような品格が自然と備わっているものです」(多賀さん)    愛子さまは沿道に並ぶ人たちに手を振るとき、ちょっとだけはにかむような表情をみせてくれる。この春からは、愛子さまは本格的に公務に取り組むと見られる。  飾らない、生まれながらのプリンセスへの期待は、ますます高まりそうだ。 (AERA dot.編集部・永井貴子)   【こちらも話題】 愛子さま大統領との午餐デビューで待ち遠しい宮中晩餐会 雅子さまや佳子さまらの美しいドレスとティアラ姿 https://dot.asahi.com/articles/-/213758    
結婚したくない女性No.1「お金をかけて綺麗になっている女性」 美人が婚活に不利な理由
結婚したくない女性No.1「お金をかけて綺麗になっている女性」 美人が婚活に不利な理由 ※写真はイメージです(Getty Images)  2020年、日本の生涯未婚率は男性28.3%、女性17.9%であるということが分かり、今後は男性の約3割弱、女性の約2割弱が、結婚せずに人生を終えると予想されている。社会学者で中央大学文学部教授の山田昌弘氏は「もはや昭和時代のように、待っていても「結婚」は降ってこない。就職活動のように自ら行動を起こさなくては結婚できない時代になった」と警鐘をならす。同氏の新著『パラサイト難婚社会』(朝日新書)から一部を抜粋、再編集し、同氏が指摘する美人が婚活に不利な理由を3つ紹介する。 *  *  *  ちなみに「婚活」という言葉は、2007年にジャーナリストの白河桃子さんとの対談の中で生まれました。そして共著『「婚活」時代』(ディスカヴァー携書)で広まっていきます。もはや昭和時代のように、待っていても「結婚」は降ってこない。就職活動のように自ら行動を起こさなくては結婚できない時代になった、ということを申し上げたかったわけですが、そんな「婚活」ワードの“生みの親”たる私でも、リアルな現場で起きていることは驚きの連続です。  例えば、婚活市場においては、どのような人が結婚に結びつきやすいか。もちろん一定の傾向は存在します。「高身長・高学歴・高収入」の男性はやはり人気です。『「婚活」時代』で白河さんと私は、「女性もこれからは男性に経済的に依存するのではなく、自ら働いて自立することで、夫婦二人で生きていく覚悟が必要だ」と述べたかったのですが、実際には、「専業主婦を養える男性は一握りだから、急いで婚活すべきだ」という風に捉えられてしまったのが残念な限りです。その結果、上記のような男性が相変わらず人気なのですが、ただ、予想外の現象も起きていました。 【こちらも話題】 ただの友達「ただトモ夫婦」増殖中 https://dot.asahi.com/articles/-/8475  それが「必ずしも美人が結婚できるとは限らない」というものです。これは予想外でした。  もちろん、パッと人目を惹く美人は、「モテ」ます。つまり男性からのアプローチ回数は多い。実際、会って話をしたいという申し込みも殺到します。ただ、いざ「結婚」となると、どうも恋愛とは事情が違うようで、なかなか成婚に至らないのです。  女性の「容姿」と「結婚」にはほとんど関連性がないことが、調査で明らかにされています(調査結果非公開)。これはいったいどうしたことなのか。実は、研究者の間でもこの結果について議論がなされた結果、有力な仮説が三つほど挙げられています。  一つ目は「容姿が優れた女性は、相手の男性に求める基準も高い」というものです。つまり「これだけ美しい私なのだから、相手もそれなりにイケメンで、高身長で、高収入でなくてはつりあわない」と思うのかどうかはわかりませんが、そんな可能性が考えられるということです。要するに、交際や結婚を申し込まれる回数は多かったとしても、本人が「他にもっと良い人がいるはずだ」と思い込み、男性からの申し込みに対して、なかなかOKを出さない可能性が考えられます。  二つ目の仮説としては、男性側の心理として「容姿が美しいと敬遠する」というものがあります。男性にとって美しい妻は、いわゆる「トロフィーワイフ」として一つの勲章になり得ると言われます。稼ぎが良く実力派な男性ほど、自らの実力を証明する証の一つとして(すなわちトロフィーとして)美しい妻をめとりたがることは、歴史が証明しています。  ただし、その現象は少なくとも現代日本社会の婚活市場においては、あまり当てはまらないようです。むしろ容姿が美しい妻は、「わがままかもしれない」「浮気をする確率が高まるかもしれない」と、男性側が思う可能性もあるのです。 【こちらも話題】 「実家を出たくても出られない」経済的独立が困難な若者たち https://dot.asahi.com/articles/-/93867  この仮説を補強するデータもあります。とある民間の婚活会社の調査によると、「結婚したくない女性ナンバーワン」に、「お金をかけて綺麗になっている女性」が挙がったのです。つまり、生まれついての美しさに溢れている(と思える)女性ならいざ知らず、いかにもコストをかけてエステに通い、美容室に通い、高価なブランド物のファッションに身を包んでいる(ように見える)女性は、「結婚後も自分の見た目の維持のため、浪費をするかもしれない」と、男性側が敬遠するそうなのです。また、『美人が婚活してみたら』(とあるアラ子著/小学館クリエイティブ/2017年)というエッセイ漫画では、美人が婚活パーティに行くたびに「サクラだろう」と言われ、見合いをするたびに「物を売りつけようとしているのでは?」と疑われたという描写があります。  では、三つ目の理由は何か。実は一つ目の理由と表裏一体になりますが、「容姿がいまいちと自分で思っている女性は、早めに手を打つから」という理由が挙げられています。  婚活市場では、何人もの男女が出会いと称したマッチングを繰り返します。婚活が長引けば長引くほど、男女共により多くの出会いを経験していくわけで、そこで「自分が美しい」と思っている女性は、「よりハイスペックな男性がいるのでは」と迷うあまりに、なかなか「この人がいい」と決められません。一方、容姿に自信のない女性は早めの段階で、「容姿が優れない(と自分で思っている)私を選んでくれた人だから」と決断を下すというわけです。結果的に、容姿に自信のある女性は婚活市場に滞在し続け、自信のない女性は早々に結婚していくという仮説です。  あと、もう一点あるとすれば、男性の容姿の好みは女性に比べて多様であることが挙げられます。女性で低身長の男性を好む人は例外的ですが、男性では高身長の女性を好む人もかなりいますし、体型でもスリムな人よりふくよかな人に魅力を感じる男性も一定数いて、「ぽっちゃり婚活」というイベントもあるくらいです。 【こちらも話題】 50代ひきこもりと80代親のリアル 毎年300万円の仕送りの果て https://dot.asahi.com/articles/-/127449
元NHKアナ・武内陶子さん明かす更年期障害 症状で「私が私でいられなくなる」不安も
元NHKアナ・武内陶子さん明かす更年期障害 症状で「私が私でいられなくなる」不安も 武内陶子(たけうち・とうこ)/1965年、愛媛県出身。神戸女学院大学を卒業後、91年NHK入局。「第54回紅白歌合戦」総合司会などを務めた(撮影/写真映像部・和仁貢介)    更年期障害に苦しみ、不安を募らせる女性は少なくない。元NHKアナウンサー・武内陶子さんもその一人だ。そんな武内さんが、自身の経験とともに女性の生きやすい社会について語った。AERA 2024年3月11日号より。 *  *  *  明るく、バイタリティーあふれるイメージの武内陶子さん。だが、深刻な更年期障害で一時期、仕事を辞めようかと思い詰めた時期もあったという。 「急に言葉が出なくなったんです。テレビカメラの前に立つと表情も意識しますし、短いコメントで視聴者に刺さる言葉を届けなければ、といろいろ考えを巡らせます。すると突然、口の中がカラカラに渇いて発声が難しくなるんです」  症状は新しい仕事に臨む局面で顕在化した。 「これまでチャレンジすることに喜びを感じてきたのに、声が出なくなることに恐れを抱いて一歩を踏み出せなくなったら私が私でいられなくなる、と不安を募らせていました」 首から上が汗まみれに  50歳前後。管理職としての業務が増え、自身のキャリアもテレビからラジオに軸足が移る「変化の時期」。家庭では3人の娘の子育てに追われていた。裏表のない性格で通してきた武内さんが、家庭では別の一面を見せるようになっていた。 「小学生になったばかりの下の双子がうちの中で走り回っているとイラッときて、ものすごい剣幕で叱っていました」  それでも、イライラや声が出なくなるのと更年期障害の症状はなかなか結び付かなかった。転機はホットフラッシュの症状が出たこと。もともと汗をかきにくい体質で化粧崩れしないため、メイクさんから「アナウンサーの鑑」と称えられていた。なのに突然、首から上が汗まみれになった。 「これでようやく更年期障害かな、と悟りました」  クリニックで診断を受け、周囲にも症状を告げるようになった。その頃、NHKスペシャル「#みんなの更年期」に当事者として出演が決まった。22年4月のことだ。番組は「更年期障害がきっかけで雇い止めにあった」という1人の女性の声をきっかけに取り組んだ、1年がかりの取材の集大成だった。 「症状を大っぴらにできず、苦しんでいる人がものすごく多い。苦しみの種類も深さも千差万別で、職場で理解を得るのもまだまだ難しい。働き盛りの時期に更年期障害が原因で辞めてしまう人が多いのは社会的にも損失が大きすぎる、ということを伝えなければと必死でした」  女性が直面する現実を赤裸々に伝えた番組は大きな反響を呼び、放送後は武内さんの周囲にも変化が起きた。 「驚いたのは男性の反応でした」 症状や苦しみをシェア  特に印象深かったのは、「更年期障害の妻に対して必要なケアを全くしてあげられなかったことを後悔した」と打ち明ける局内の先輩男性だ。自分の母親の体調を案じる声も多かった。男性も若い人も、みんなどこかで更年期との接点があると気づかされたようだった。 「みんなやさしいなって。困った人がいたら助けてあげないといけない、何かできないかと、みんな考えるんだなって」  大事なのは症状や苦しみを周囲とシェアして支え合っていくこと。武内さんの場合、自分のコンディションを率直に伝えたことで、子どもたちに「ケア」の意識が芽生え、ギスギスしなくなると症状も改善したという。 「ママ、怒ってない?」  普通に接しているつもりなのに、子どもたちがビクビクした様子で尋ねてくる。「怒ってないよ」と答えても、「でも、怒ってない?」と重ねて問う子どもたち。その姿に、ふと思った。 「私なんで、こんな嫌な人になっちゃったんだろう」  アンガーマネジメントの先生に相談すると、子どもたちと「怒りのメーター」をシェアするよう勧められた。怒りが抑えられなくなったとき、「ママは今、10のメーターのうち3ぐらいまで怒っているけど、このままだと8になるけどいい?」と子どもに尋ねる。すると子どもは「ママの怒りメーターはいま何度ぐらい?」と問うようになり、無茶な行動をしなくなった。今のコンディションを率直に伝えると、「ママ、大丈夫?」「手伝うよ」とケアを申し出てくれた。ギスギスした空気が和らぐのに合わせ、症状も改善していった。  専門医からは「家族と自分は違う人間」だと意識するようアドバイスされた。 「母であり、妻であり、職業人でもあり、と様々な役割の中で生きている自分には役割を使い分けるプレッシャーもあったんだと気づきました。家族と切り離し、私自身にフォーカスできるようになって、ものすごく気持ちが楽になりました」  女性は更年期を乗り越えると解放感を得る人も多い。武内さんもそうだったという。 「女性とか男性とかを越えて、私は人として大地にすっくと立った感じ。女性は毎月の生理に加え、人によっては妊娠、出産という一大イベントも経験し、更年期の症状にも翻弄されます。でも、そういったすべてのことから解放されて本当の私自身になれる時が来るんです」  新しい世代には希望も感じている。ロケ先で「きょう生理なんで頻繁にトイレに行くかもしれません」と自分から告げる若いディレクターやアナウンサーも見かけるようになった。 「私たちの世代は恥ずかしさがあって生理のことは言いにくい。私より上の世代は更年期のことを話すのも抵抗がある。でも、生理も更年期も含めて女性の体のことを普通に話せる社会になれば、女性がもっと生きやすい社会になるはずです」 自分の道だけを  健康にはメンタルの維持も欠かせない。武内さんはストレスには若い頃から耐性をつけてきたという。テレビに出ていると、悪意のある反応や指摘を無数に浴びる。インターネットの時代に入る前から、「いつも自分の周囲にシールドを張り巡らせていた」と明かす。 「無防備だとメンタルが持たない。ですから、いろんな矢が飛んでくるのが当たり前と考え、目には見えないシールドで自分を守っていました。最初は全員に好かれようと思ったんですけど、それは無理だということがネット時代に入った頃に分かりました。だから、エゴサーチも一切しません」  武内さんが実践しているのは、「上も下も見ず、目の前の道だけを見る」というアドラー心理学の教え。NHKで司会を務めた「100分de名著」で紹介したオーストリア出身の精神科医で心理学者のアルフレッド・アドラーが唱えた処世術だ。 「上を見て自分はダメな人間だと思ったり、下を見て尊大になったりしないで、目の前にある自分の道だけを見てまっすぐ進めばいい。私は私の道を行くんだ、まっすぐ行こうって、いつも声に出して言うようにしています」 (構成/編集部・渡辺豪) ※AERA 2024年3月11日号に加筆
純烈リーダー・酒井一圭「あの時の俺は天才だった」 グループ結成のきっかけとなった大けが
純烈リーダー・酒井一圭「あの時の俺は天才だった」 グループ結成のきっかけとなった大けが 子役時代の宣材写真と偶然同じポーズになった。あばれはっちゃくは今も歌謡界で大暴れ中だ(撮影/工藤隆太郎)    純烈リーダー、酒井一圭。「あばれはっちゃく」で主演デビュー後、ガオレンジャーになり、プロレスラーになり、クラッシャーカズヨシになり、そしていま、スーパー銭湯アイドル「純烈」のリーダーとして年間300近いステージに立つ。運に流されるだけでなく、常に自分を客観的にプロデュースし、熱意で周囲を巻き込みながら裏方としても仕掛け続けている。 *  *  * 2023年12月、東京・港区にあるザ・プリンス パークタワー東京のボールルームには、さっきまで行われていたクリスマスディナーショーの興奮冷めやらぬままに、着飾った女性たちが長い行列を作っていた。CDを2枚買えば参加できるハイタッチ会。行列の先で待ち受けるのはムード歌謡グループ、純烈の4人だ。  リーダー、酒井一圭(さかいかずよし・48)は、どんどん流れてくるファンの指先をギュッと握り、笑顔を向けた。 「今年は何回もよう来たな~、ありがと!」 「お父さんも一緒? 今日は夫婦水入らずやね」 「プチ整形したって? マジ? 似合ってるわ」 「杖(つえ)、増えてるやん。お母さん、来てくれてありがと、またね」  わずかな時間でも温もりのある言葉を返していく。純烈のSNSなどに頻繁に登場する名物スタッフ、巨漢のマネージャー・山本浩光(50)、日本クラウンのプロモーター・新宮崇志(42)らにも駆け寄り「今年もお疲れさまでした!」とハイタッチを求めるマダムたち。新宮が「こっちはいいから、あっち(純烈)に集中して!」と言うとワッと笑いが起きた。人と人の距離が近い。どこか懐かしいような心地よさが、ここにはある。  小田井涼平(53)卒業後、新メンバー、岩永洋昭(44)が加入して第1弾となるシングル「だってめぐり逢えたんだ」は10万枚を突破し、グループ3枚目のゴールドディスク認定曲になった。NHK紅白歌合戦には6回連続出場中。そんな今でも、年間300近いステージに立ってCDを手売りする「スーパー銭湯アイドル」としての心意気は変わらない。酒井は、そんな純烈の生みの親であり、一切のプロデュース業も行っている。 競馬の借金は400万 破産寸前で戦隊ヒーローに  結成時は誰もが無謀だと言った。酒井は言う。 「そりゃそうですよ。演歌・歌謡界は何らかの歌のグランプリを獲った人だったり、誰々先生の弟子だったりする人たちの世界。何のツテもない僕らが勝手にムード歌謡を始めて、『夢は紅白、親孝行!』とか言ってるんだから。周りからしたら『いいかげんにしろよ』なんだけど……でも、俺はみんなが無理だと言うからこそ、これは絶対にイケると思った。成功したかったらみんなが反対することをやるのが一番早いんですよ。みんなが右にいけば左に行く。そしたら運がついてくる」 千葉の大江戸温泉物語浦安万華郷でのステージ。左から岩永、後上翔太(37)、白川、酒井。温浴施設でのコンサートは今やプレミアムチケット。残念ながらこの施設は2024年6月での閉館が決定した(撮影/工藤隆太郎)    大きな声でときに熱く、ときに漫談のように自在にトークを操る。気付けば、酒井の話を夢中で聞いている。こうして様々な人を巻き込んできた。異色のプロデューサー、酒井一圭の人生とはどんなものなのか。 「テレビに出てるやつらと戦いたい」。そう親を説得して児童劇団に入ったのは8歳の頃。3度目に受けたオーディションで、当時の国民的な人気ドラマシリーズ「逆転あばれはっちゃく」で5代目桜間長太郎役を射止める。一躍、有名子役となったが、5歳下の弟には障害があり、母は弟につきっきり。現場には一度も来なかった。望んだこととはいえ、半年間も学校に通えない。目立つことへのやっかみからか、イタズラ電話はしょっちゅう、家の窓ガラスまで割られる。このままでは大変だと芸能界から足を洗った。酒井は言う。 「母親は喜んだ。このまま続けたら天狗(てんぐ)になって、とんでもない人生を送って犯罪者にでもなるんじゃないかと思ってたみたい(笑)。実際、大人に揉(も)まれるなかで『大人って大変やな。思ってもないけど、立場的に言わなきゃいけないことあるもんね。俺にはそんなこと言わないでもいいよ、分かってるから』ってそんなことばっかり言ってた。よく目の奥をのぞき込まれてましたね」  10代後半に出た舞台でオファーを受け、「横浜ばっくれ隊」で芸能界に復帰するが、その後はパッとせず競馬にのめり込んだ。「東京競馬場があるから」と府中に引っ越したほどの競馬好き。同棲していた当時の彼女のヒモ状態で、気づけば競馬の借金は400万。とどめの一撃となったのは99年秋の天皇賞だ。ここらで「何か」来る予感がした。借金をして50万突っ込んだ。惨敗。立っていられないほどのショックで、人の肩を借りて家に帰りながら、こう思った。 「ってことは、競馬じゃなくて仕事か」  その予感は的中。破産寸前で、01年、東映のスーパー戦隊シリーズ「百獣戦隊ガオレンジャー」のオーディションで、5人の戦隊ヒーローの一人、ガオブラックに選ばれた。 不思議と人を巻き込む力 「酒井祭」で600人集客  しかし、ヒーロー卒業後も人気が続く役者はわずかだ。主役のガオレッド役に選ばれた金子昇も酒井同様に背水の陣でこの仕事に賭けていた。二人はタッグを組み、生き残りをかけ、ここからどう這(は)い上がるかを考え続けた。作品の質を上げようと大仰な芝居をやめた。宣伝ができる番組や雑誌があれば可能な限り顔を出し、「トゥナイト2」にも出演。2ちゃんねるに「酒井一圭本人だけど、何かある?」と降臨し、お祭り状態になったことも。特撮ファンの間では「久々に面白いやつが現れた」と評判になった。  そんな行動を温かく見守っていたのが同番組のAPを務めた東映の横塚孝弘(50)だ。 ザ・プリンスパークタワー東京のディナーショー後のハイタッチ会。純烈は「触れる」感覚を大事にしている。客席に下りて握手して回る純烈名物「ラウンド」はプロレスから思いついた(撮影/工藤隆太郎)   「東映はヒーロー像から外れた行動には厳しく、僕も本来ならやりすぎじゃない?とか諫(いさ)める側。でも彼らの気持ちも分かるので、黙認していました」  現場に行くと隣に来て裏方の話を聞きたがる酒井とはすぐに仲良くなった。お盆で1週間休みができたときは、一緒にトークイベントを企画した。 「手作りのイベントでしたが、酒井の仲間が会場を押さえたりチケットを売ったり、よく働いて。途中から私も楽しくなって、仕事が終わると手伝いに行った。酒井って不思議と人を巻き込む力があるんですよ。そのときの感覚があるから、年齢は下だけど酒井はリーダー。一緒にいると楽しくてその後もつるんでいる感じです」(横塚)  それは「酒井祭」と題し、パルテノン多摩で600人を集客。界隈では大きな話題になった。 「ガオレンジャー」は追加オーディションを経て入ったガオシルバー、玉山鉄二が大ブレイク。最高視聴率は11.5%、2000年以降の戦隊シリーズでは歴代最高となり、玉山や金子は人気俳優の階段を駆け上がっていく。しかし、酒井は翌年から再びヒマな日々に戻ってしまった。 「悔しかったでしょ、ってみんな言うけど、悔しくないんですよ。俺は肩を貸した。『行け!』って。思ったより行ったというだけで」  04年に結婚。子どもも生まれた。ロクに稼ぎもない息子を、母親は会えば「何年くすぶってんだ」「遊んでる場合じゃないだろう!」と罵倒したが、馬耳東風。酒井の中では、確かな手応えを感じるものがあったから。「酒井祭」は「しんじゅく酒井祭」と名を改め、サブカルの殿堂、新宿・ロフトプラスワンの人気イベントとなっていた。自身のパーソナルな部分までさらけ出し、お客さんもいじりながら笑わせる。トークの腕を磨きながら、自分でイベントを企画してブッキングするプロデューサーにも就任。顔の広さを生かし、特撮ヒーロー出身の俳優の待ち受け画面などを提供する携帯サイト「ビジュアルボーイ」のキャスティング業務も請け負った。「酒井一圭HG」としてレイザーラモンHGのような衣装で「マッスル」に参戦、プロレスラーにもなった。求められるまま流されるまま、あらゆるところに首を突っ込んだ。 「放送禁止芸人」の異名を持つレイパー佐藤(56)と出会ったのもその頃だ。佐藤は言う。 「夢は映画監督なんだと話すと、酒井さんは、俺は本物のガオレンジャーだ。特撮ヒーローを知ってる限りノーギャラで呼ぶから、俺を主役に映画を作らないか、と言ってくれて。じゃあ私は知る限りの芸人を呼びますと。すごい人数になって」 「ガオレンジャー」の仲間も駆けつけ、ラスボスは金子。その作品「クラッシャーカズヨシ」は評判になり続編が撮影されるが、その途中に酒井は足首を複雑骨折し、北里研究所病院に搬送された。 楽屋では競馬中継を見ている。「勝とうとは思ってない。負けた分、運が競馬を経由して純烈に返ってくる気がする。投資です」(酒井)。合間にメンバーを観察しながらセットリストを決める(撮影/工藤隆太郎)   朦朧とした意識のなかで クール・ファイブの夢  医師は「リハビリをやっても普通に歩けないかもしれない」と言う。背中からモルヒネを投与され、朦朧(もうろう)とした意識のなかで俳優がダメになったらどうしようと考え続けた。その夜、内山田洋とクール・ファイブの夢を見る。なぜ?と考える中で、直立不動で歌うメインボーカルの前川清と自分が重なった。でも俺は歌えないし……。そのとき、点と点がつながるような閃(ひらめ)きがあった。 「そうか、俺は前川さんの後ろでワワワワーとコーラスをするクール・ファイブさんをやればいい。じゃあ、メインボーカルとして白川(裕二郎)を口説かなあかんな、と。甘い歌声なのはカラオケに行って知ってたから。なんで前川さんだったのかは、俺は馬主になるのが夢で、芸能界にはどんな馬主がいるのかも調べていたんです。前川さんも馬主なので、それも理由の一つだと思う。あの時の俺は天才だった。純烈の司令塔はこのベッド上にいる俺。そのあとの俺は、この俺が考えたことを実行していく末端作業員です」(酒井)  白川は「忍風戦隊ハリケンジャー」でカブトライジャー役を務め、酒井と共演経験も多く、ロフトのイベントにもよく出ていた。白川は言う。 「リーダーっておかしな人だと思われてたんですよ。付き合いがあるのを知ると、大丈夫? なんか詐欺師みたいな人だよねってよく言われてた。でも実際に会う酒井くんはものすごく面白い人で、この人と一緒だったら未来が明るいものになりそうだなって。『紅白に出たら親孝行できる』と言ってくれたのが最後の決め手ではあるんですけどね」  07年、特撮ヒーロー出身の俳優を中心に、ムード歌謡グループ・純烈が始動。ボイトレを重ね、ついに10年、「涙の銀座線」でデビューした。  その挑戦を家族はどう見ていたのか。酒井の妻、美紀(44)はこう語る。  「やりたいことしか続かない人が、これだ、と見つけて始めたことだから、応援するしかなかった。それまで大変なときは中華料理屋でバイトしてくれてたんですけど、純烈を始めてからは『もうそれどころやないわ、やめる』って。『え、これで生活しろって言うの?』くらいは言ったと思うけど(笑)、強くは言わなかった。児童手当が入るたびに『よっしゃ!』でなんとか耐えてきました」  しかし、売れない。デビューしたユニバーサルミュージックは2年で契約が切れた。それでも酒井の自信は揺るがなかった。 「ええねん、ええねん。だってまだ実力伴ってへんねやからさ、成長期間です、今はって」(酒井)  だが、ツテを辿(たど)って歌わせてもらっていた東京・赤羽のキャバレー「ハリウッド」で演出家のテリー伊藤と出会ったことで風向きが変わる。「特撮ヒーローがムード歌謡って面白いじゃん」とラジオなどで紹介してもらううちに、12年、温浴施設から「うちで歌いませんか」と連絡が来た。これが転機となった。最初はムード歌謡に反応して施設に通う地元の高齢者が応援してくれた。さらに、客席に下りて握手して回るような距離の近いパフォーマンスは中高年マダムの心を掴み、やがて、あちこちの温浴施設にファンが詰めかける「スーパー銭湯アイドル」として話題になっていく。 (文中敬称略)(文・大道絵里子) ※記事の続きはAERA 2024年3月11日号でご覧いただけます
“非正規雇用”が増やした「パラサイト・シングル」 若者が結婚に前向きになれないわけ
“非正規雇用”が増やした「パラサイト・シングル」 若者が結婚に前向きになれないわけ ※写真はイメージです(Getty Images)    1986年に施行された男女雇用機会均等法により、「おひとりさま」と呼ばれる経済的にも精神的にも自立した優雅な「未婚」を選択できる女性は増えていったが、2000年以降は景気の落ち込みにより非正規雇用が広がり、結婚による経済的安定が得られないと考える若者が「未婚」を選択することが増えていった。「パラサイト・シングル」(実家に精神的経済的基盤を依存する独身者)という言葉の生みの親である社会学者・山田昌弘氏の新著『パラサイト難婚社会』(朝日新書)で、山田氏は「日本経済の停滞と同時に広がったこの非正規雇用という“新しい雇用形態”が多くの若者の人生設計を狂わした」と発言している。同著から一部を抜粋、再編集し、紹介する。 *  *  * 「おひとりさま」として人生を謳歌するには、精神的自立と経済的自立が不可欠です。結婚をしなくても(あるいは離婚をしても)、ひとりの人間として生活でき、なおかつ自分の稼げる範囲で旅行をしたり、趣味を楽しんだりできる経済的自立がある女性、さらに「自分ひとりの時間」を楽しめる精神的自立が、「おひとりさま」の核を成すものです。逆に言えば、「ひとりでは寂しすぎる」「夫がいないと世間に顔向けできない」「独り立ちする仕事や収入がない」人は、「おひとりさま」状態を楽しむことはできません。 【こちらも話題】 ただの友達「ただトモ夫婦」増殖中 https://dot.asahi.com/articles/-/8475  実はこうした「おひとりさま」と呼ばれる「未婚」状態は、ここ20~30年で可能になった現象です。平成初期までも「おひとりさま」はいたかもしれませんが、数としては少数派だったはずです。かつても「ひとりを楽しむ」精神的自立を持った女性は多かったでしょうが、経済的自立となると、多くの場合、困難に直面したからです。男女雇用機会均等法(1986年施行)以前は女性が就ける仕事は限られており、仮に「仕事」があったとしても、生活に余裕が出るまでの収入を得られる人はほんの一握りでした。基本的に若いうちは父親に、成人しては夫に、老いては子に養われるのが通常の女性の生涯では、「おひとりさま」に必要不可欠な「経済的自立」が非現実的だったのです。裏を返せば、現代の世の中でも「おひとりさま」生活を謳歌できるのは、一部の女性に限定されていると言えるでしょう。  2000年代に入り、非正規雇用者が増え、2022年時点で、15~64歳の就業率は78.4%で、女性は72.4%ですが(男性は84.2%)、その「働く女性」の5割以上が、非正規雇用者です。  パート・アルバイト・有期契約・嘱託社員・派遣社員など、様々な形態がある「非正規雇用者」ですが、平均年収は決して高くありません。国税庁の「民間給与実態統計調査」(令和3年版)によると、非正規雇用者全体の平均年収は198万円(正規雇用者全体の平均年収は508万円)ですが、そのうち男性は平均年収267万円(正社員は545万円)に対し、女性の非正規雇用者の平均年収は162万円(正社員は302万円)です。この数字は決して現代日本社会で生活する上で十分な金額とは言えません。 【こちらも話題】 30代美人姉妹 妹が先に結婚できた理由は「理想と現実」 https://dot.asahi.com/articles/-/119961  1986年に施行された男女雇用機会均等法で、正社員として働く女性は増え、「おひとりさま」人生を選択できる女性は増えました。しかし、同時に雇用が不安定な非正規雇用者も、これ以降増加していくのです。男女雇用機会均等法施行と同年にスタートした労働者派遣法は、当初の「一部の限られた技能を持つ13業務」から、1996年には「26業務」に拡大し、1999年には「26業務以外も可能」になりました。従来の日本型雇用では、若い女性たちも正社員として企業は雇用してきましたが、そうした職能は派遣社員などでも代替可能でした(もっともそれまで正規雇用されてきた女性たちも、20代半ば頃には寿退社することが暗に求められていましたが)。  2000年以降に、非正規雇用者が続々と生まれるのと時を同じくして、日本社会において格差が広がり始めました。企業から、「期間限定」「いつでも契約を切れる」安易さを理由に非正規雇用された若者たちは、目の前の「単純作業」をこなすだけの日々で、「仕事上のステップアップ」や「ボーナスや福利厚生」もなく「給与アップ」も「昇進」もないまま、人生でひとところに留まり続ける長期の足踏みを余儀なくされたのです。その中には大量の女性たちもいました。 【こちらも話題】 「実家を出たくても出られない」経済的独立が困難な若者たち https://dot.asahi.com/articles/-/93867  本来なら、近代社会になり、仕事を持つ女性が増えることで、日本でも「親や夫に依存しない人生」を選ぶ女性が増えるはずでした。しかし、日本経済の停滞と同時に広がったこの非正規雇用という“新しい雇用形態”が多くの若者の人生設計を狂わした、と述べたら言いすぎでしょうか。  欧米でも「職の二極化」が起こり収入格差が広がりましたが、欧米ではそれ以前からすでに女性の社会進出が当然のこととなっていました。しかし日本では、男女雇用機会均等法で正社員で働き続ける道が開けたのと同時期に非正規雇用化が進んだのは、皮肉としか言いようがありません。  男性の非正規雇用者は、「自分の所得では妻子を養うことはできない」と自信と希望を失い、女性の非正規雇用者は、「やはり夫は正社員でないと、将来において生活がままならない」実感を強め、より人生が豊かになる「結婚」でなければ、しない方がマシだと思うようになりました。結果として、「未婚」状態に置かれる若者が増大していったのです。 【こちらも話題】 50代ひきこもりと80代親のリアル 毎年300万円の仕送りの果て https://dot.asahi.com/articles/-/127449
妻のキャリアを理解、子どもと過ごしたい 夫の転職が増加傾向「夫婦で長く働く」を模索
妻のキャリアを理解、子どもと過ごしたい 夫の転職が増加傾向「夫婦で長く働く」を模索 就業女性のうち非正規雇用率は53.4%(22年)。雇用形態によって働きやすさに格差がある(撮影/写真映像部・上田泰世)    女性が男性化することでキャリアを積む時代は終わり、持続可能な働き方の模索が始まっている。3月8日の「国際女性デー」を前に、日本の女性たちの現状と残る課題を今一度見つめ直そう。AERA 2024年3月11日号より。 *  *  *  従来の男女の役割意識からの解放。それは、誰もがより生きやすい社会のために欠かせないことだが、現状はどうなっているのだろうか。 AERA 2024年3月11日号より    国立社会保障・人口問題研究所が実施している全国家庭動向調査をみると、「結婚後は夫は外で働き、妻は主婦業に専念すべきだ」という設問に「まったく賛成・どちらかといえば賛成」と答えた有配偶者の女性(妻)の割合は、22年は29.5%。08年の47.7%から減っているとはいえ、まだ3割近くが賛成している。 圧倒的に短い男性育休  さらに「夫は、会社の仕事と家庭の用事が重なった時は、仕事を優先すべきだ」においては、22年に妻の59.3%が「まったく賛成・どちらかといえば賛成」と回答している。この結果に、『「日本」ってどんな国?』などの著書がある東大大学院の本田由紀教授(教育社会学)は、ため息交じりにこう指摘する。 「まだこんな状態なのかと驚き、のけぞりますよ。若い世代では、ジェンダーを明確に区分しなくなってきていることは感じますが、結婚したり、子どもが生まれたりした途端に、家事育児は女性がやるものだという意識が浮上するのです」  その意識は、皮肉なことに育休制度によって強化されてしまうという。 「男性育休白書2023」によると、19年の男性育休の取得率は、9.6%で平均2.4日。それが23年は、取得率24.4%で平均23.4日にまで増加はしているものの、女性に比べると相変わらず圧倒的に短い。 「女性のほうが長く育休を取っている間に、家事と育児を自ら中心的に担うようになり、その役割が復職後も解消されないケースはとても多い」(本田教授)  家事育児の負担が偏ったままでは、女性たちは苦しいまま。その中で、以前よりもプライベートも充実させようとすると、むしろ追い詰められていってしまう。 AERA 2024年3月11日号より   妻ではなく夫が転職  そんな現状を打破するためには、やはり男性の意識と働き方を変えなければならないだろう。 「妻ではなく、夫が職業を変える選択をする事例が増えてきています。いつも何かを犠牲にするのは女性だった社会が、少しずつですが変化しているのを感じます」  と話すのは、人材紹介事業・DEIコンサルティング事業を提供するXTalent(東京都港区)の大野綾事業部長だ。同社では「キャリアと家庭をトレードオフしない働き方を提案したい」と19年からワーキングペアレンツの転職サービス「withwork」を展開しているが、ここ数年、特に男性側からの転職相談が増えているという。  東京都練馬区の会社員の男性(39)もその一人。今年1月、それまで勤めていたメーカーからIT関連会社に転職した。ITデザイナーとして働く妻(34)が2人目の出産を経て、復職した頃から考えていたことだという。 「以前の職場では管理職で、夕方以降にもどんどん会議が入ってきました。子どもたちを保育園に送っていったり、間に合えば夕飯の準備をしたり、できる範囲でやってはいましたが、妻も働いているので、毎日が大変でした」(男性) サステナブルに働く  男性は結婚する前から、仕事の話を理解しあえる妻の存在が支えだったという。その妻が昨秋、より幅広い仕事にチャレンジできる職場に転職。キャリアを積むことに積極的な姿を見て、男性はこう思ったという。 「妻は、今の仕事が好きだから、そのまま楽しく働いていてほしい。でも、子どもたちが大きくなるまでずっと今の生活ができるんだろうか、と。子どもたちともっと一緒に過ごしたいと思いましたし、何より夫婦ともに長く働いていける環境のために、僕自身が転職する選択をしました」  男性の中にも、会社に全てを捧げるのではなく、プライベートを充実させたいという価値観を持つ人は確実に増えている。不透明な経済状況の中、男性ばかりが家計を背負うことに居心地の悪さを感じる人もいるだろう。愛知県内の住宅メーカーで働く管理職の女性(45)は、 「いま、男性が家事・育児をしやすい体制をつくる絶好の機会だと思います。先日ある大手企業の人事部長と話す機会があり、やたらと『女性が生き生きと働いていて、家事育児も両立しやすい職場です』とアピールされましたが、今やるべきは、男性のほうでしょって」  と話す。  働く女性たちが男性化することもなく、女性ばかり家事育児を担ったり、何かを犠牲にしたりすることもなく、誰もが人間らしく働き続けることができる社会へ。コロナ禍で定着したリモートワークや地方移住という選択も組み合わせて考えた先には、今より良い日々がきっとある。  編著に『変わろうとする組織 変わりゆく働く女性たち』がある静岡県立大学の国保祥子准教授(経営学)は、こう話す。 「誰もが幸せにサステナブルに働くことを模索するようになったと感じています。根っこにあるジェンダー意識をフラットにして、男性も女性も、個人も会社も社会も変わっていくといいですね。男女が対等で、それぞれが幸せであることは、次の世代にとっても、とても重要なことですから」 (編集部・古田真梨子) ※AERA 2024年3月11日号より抜粋
求めるのは「イケメン・高学歴・高収入」 婚活がうまくいかない女性たちの事情とは
求めるのは「イケメン・高学歴・高収入」 婚活がうまくいかない女性たちの事情とは ※写真はイメージです(Getty Images)    現代日本社会では、女性は誰と結婚するかによって、自分の人生が大きく変わる。中央大学教授で家族社会学者の山田昌弘氏は、だからこそ日本女性は、結婚に「愛情」と「経済的安定性」の二つを求めざるを得ないと指摘する。他方で欧米諸国では、「結婚」イコール「愛情」であり、そこに「経済的安定性」は含まれない。山田氏の新著『パラサイト難婚社会』(朝日新書)から、かつては「皆婚」が当然だった日本女性と社会の変遷について、一部抜粋・再編集して紹介する。 *  *  * 異種のゴールを同時に求められる難婚 「格差」が広がっている日本では、「結婚」も二極化していると感じています。日本が「皆婚」社会であった要因の一つは、当時の日本全体が好景気に沸き、高度経済成長期でもあったからです。その時代では人々が「結婚」に、「愛情」と「経済的安定性」の双方を求めても、多くの場合がそれに応えられたのです。もちろん皆が金持ちにはなれなくても、ほとんどの人が「昨日より今日、今日より明日」の方が豊かになると信じられたのです。どんな職業の男性(工場労働者でもサービス業者でも中小企業の社員でも)と結婚しようと、大抵の人は給与アップと、生活の向上を体感することができました。「結婚」が、多くの人にとって「経済的安定性」を約束することができた稀有な時代だったと言えるでしょう。 【こちらも話題】 ただの友達「ただトモ夫婦」増殖中 https://dot.asahi.com/articles/-/8475  しかし今、10年後、20年後どころか、数年先の生活も先行き不透明で、「子どもを生み育てられるのか」確信を持てない社会となった結果、人々は「愛情さえあれば、後は何とかなる」とは思えなくなっています。それこそが夢物語であり、「結婚」は「経済的安定性」がなければ持続可能ではないことを、「離婚が3組に1組の時代」だからこそ、若者は痛感しているのです。  心理カウンセラーの先生がおっしゃっていた言葉が、印象的でした。その先生によると、「人間は複数のことを同時に行うのが苦手」らしいのです。一つの要素だけなら集中して頑張れる、しかし、複数のことを同時に成し遂げようとすると、それは労力も心的ストレスもかかり、負荷が大きくなってしまうのだそうです。  そう考えてみると、まさに現代日本の「結婚」こそ、複数のことを同時に行おうとするような行為ではないでしょうか。  見た目のいい相手とロマンティックな恋愛をしたい。  だが、結婚後は安定した生活を営みたい。  子どもが生まれたら、夫婦生活も育児も仕事もしっかりやりたい。  現代人は、「選択の自由」という権利を手に入れた結果、「複数の選択を同時に考慮する」という、人間にとって実は非常に難易度が高いことをやり遂げなくてはならない事態に陥ってしまったのではないでしょうか。しかも、新自由主義的経済発展と同時に、あらゆる「選択」は「個人の責任」に帰すようになってしまいました。「自助・共助・公助」の順番で、個人の努力が徹頭徹尾求められる時代、「結婚」が成功するか失敗するかもすべてが「個人の責任」となったのです。 【こちらも話題】 30代美人姉妹 妹が先に結婚できた理由は「理想と現実」 https://dot.asahi.com/articles/-/119961  人生の情緒面を満たしてくれる「恋愛」。  人生の経済面を保障してくれる「結婚」。  本来、異なるベクトルを持つ異種のゴールを、同時に手に入れなくてはならない緊張感は計り知れません。どちらか一つならば専念して集中できるのに、両方同時は難しい。二兎を追うものは一兎をも得ず。どうしてもどちらかに比重を傾けざるを得ないのです。  ゆえに「恋愛感情はほどほどに、経済的安定性を重視する」とか、「恋愛を重視したいから、結婚後の生活の安定は気にしない」などと優先順位をつけられればいいのですが、現実には「顔が良くて背も高くて、高学歴で年収1000万円以上の男性と大恋愛して結婚したい」と、複数の異なる要素をすべて叶えようとしてしまう。ほぼ不可能な幻想を真剣に求める婚活現場が誕生してしまうのです。 選択の岐路に迷う「個人化ネイティブ世代」  戦中世代、戦後の団塊世代は、大いなる「制約」の中で青春を過ごしてきました。無我夢中で働き、国民全体が苦難の時を脱し、豊かな生活を目指して邁進してきたのです。そうした先に実現した豊かな社会では、1980年代のバブル期に「24時間戦えますか」というキャッチフレーズのCMも生み出しました。日中はモーレツ社員として働き、夜は同僚と飲んで騒いで、憂さを晴らす。今の若者からすれば一種異様に見えるかもしれませんが、同時に社会全体には活気がありました。 【こちらも話題】 「実家を出たくても出られない」経済的独立が困難な若者たち https://dot.asahi.com/articles/-/93867 「真面目に働けば、自分たちは親世代よりも豊かになれる。自分たちの子どもにはより豊かな生活を与えられる」という「夢」が、高度経済成長期以降の日本国民の原動力となっていたのです。  しかしそのバブル経済も終焉し、迎えた平成・令和の時代、人々は生活の豊かな成長を実感できなくなっていきました。とりあえず食うに困らない職はあるかもしれないし、住居や洋服、家電製品やスマホもある。しかし給料は一向に上がらず、非正規社員となった若者たちはキャリアアップも望めず、人生の向上を実感もできなければ、夢も描けなくなっていったのです。  生活にも、人生にも、キャリアにも、楽観的な夢や向上への期待を抱けなくなっていった日本人が、結婚生活にだけ夢を見いだせるわけがありません。むしろ「自分ひとりならどうにか生きていけるが、妻子を養うまでの給料は望めない」と多くの男性は冷静に見極めるようになり、女性も「結婚で一発逆転を狙えないなら、別に結婚しなくてもいい」と判断するようになります。  でもそれは、「結婚」に「愛情」を求めるのではなく、むしろより重要なファクターとして「経済的安定」を望むようになった結果の、日本特有の問題でもあるわけです。それは、韓国や中国などの東アジア諸国にも広がる兆しがあります。 【こちらも話題】 「安心して引きこもれる」仕組みづくりこそ、8050問題の解決策だ https://dot.asahi.com/articles/-/32820  西欧社会は、「結婚」から「子孫の存続」や「イエの存続」という前近代的要素を削ぎ落とし、さらに経済的相互依存という役割も求めなくなっていきました。その結果、人々に「結婚の純化」をもたらしました。「相手が好きだから一緒にいたい」=「結婚」というように、シンプルに考えるようになっていったのです。  もしかしたら日本人も、「結婚」の条件が「相手のことが好き」という愛情問題に絞られていたのなら、物事はよりシンプルだったかもしれません。しかし現実には、「愛情」+「経済的安定性」という本来真逆なベクトルを同時に達成しなくてはならない社会になった。その結果、「成婚」率そのものが低下して生じたのが今の日本の少子化社会です。 【こちらも話題】 50代ひきこもりと80代親のリアル 毎年300万円の仕送りの果て https://dot.asahi.com/articles/-/127449
アウトドア、これで死ぬ...... 楽しむ前に知っておきたい死亡事例集
アウトドア、これで死ぬ...... 楽しむ前に知っておきたい死亡事例集 『これで死ぬ アウトドアに行く前に知っておきたい危険の事例集』羽根田 治 山と渓谷社  人間って意外と簡単に死んでしまうのだな......。ニュースを見ていてふとそう思ったことはありませんか。思いがけない事故や災害に見舞われたとき、人間の命は儚く脆いものです。羽根田治さんの著書『これで死ぬ アウトドアに行く前に知っておきたい危険の事例集』を読むと、「こんなことで!?」と思うような死の危険がたくさんあることに驚いてしまいます。 同書ではアウトドア中に起きた53の事例を紹介。「山で死ぬ」「動物にあって死ぬ」「毒で死ぬ」「川や海で死ぬ」の4章+コラムの構成です。それぞれに対策も書かれているので、読んでおけばいざというときの生存率を上げることができるでしょう。いくつかピックアップして紹介します。 まずはスノーボードやスキーをする人が「雪に埋まって窒息する」という事例です。よくウィンタースポーツをするという人より、たまにする人や初めて挑戦する人のほうが読んでおきたい内容です。「頭から雪に埋まっている妻を夫が発見し、パトロール隊に救助を求めたとのことです。救助されたとき、女性はすでに意識不明の状態で、約3時間半後に、搬送先の病院で死亡が確認されました。死因は窒息死でした」(同書より) 「こんなことが起こり得るの?」と不思議に思うかもしれません。しかし現場はパウダースノーが楽しめる非圧雪コースで、転倒すると新雪などに埋もれて脱出できないことがあるそうです。特にスノーボードはスキーと違ってストック(両手に持つスティック)を持たないので「立ち上がることさえ難しく、なかなか思うように抜け出せない」(同書より)とのこと。同書では、こうした事態を避けるため「パウダーエリアには安易に入り込まないように」と助言します。スイスイ滑れるようになるまでは避けたほうが無難かもしれませんね。 続いては登山で「道に迷って死ぬ」という話。「1月中旬、登山をしていた40代男性から『道がわからなくなった。足がつって動けない』と、消防に救助要請が入りました(中略)警察と消防は4日間にわたって捜索を行いましたが発見できず、捜索は打ち切られました。それからおよそ3ヶ月後の4月下旬、雪解けに伴い再捜索(中略)性別不明の遺体を発見しました。そばにはザックがあり、遺体の一部は白骨化していましたが、DNA型鑑定の結果、捜索していた男性と判明しました」(同書より) 今は地図アプリなど便利なものもあるけれど、「慣れているから」と油断して道に迷う人も少なくないようです。簡単そうに思える道でも、山では何が起こるか分からないので油断は禁物。同書では死なないためのアドバイスを以下のように記します。「積雪で夏道が隠されているシーズンは、とくに慎重に現在地を確認する必要がある。また、スマートフォンで現在地の経度緯度を知る方法も覚えておき、救助要請時にはそれを伝えるようにする」(同書より) スマートフォンの充電が切れる事態も想定してモバイルバッテリーを用意しておくことも忘れてはいけません。「日帰りだから」と思わず、もしものときを考慮して準備をすることで生存率はグッと上がります。 最後に紹介したいのは「クマに襲われて死ぬ」です。ただ、クマの怖さはすでに多くの人が理解しているかと思うので、事例は割愛して、コラムに書かれた、人間とクマの関係性が変わりつつある点を紹介します。「山に棲むクマと、人間が生活する人里との緩衝地帯的な役割を果たしていた里山は、過疎化や高齢化などにより荒廃が進み、クマが頻繁に出没するようになっている。クマと人間の距離が縮まったことで、両者が遭遇する機会が多くなり、人間を恐れない"新世代のクマ"も現れはじめた」(同書より) 捕食目的で人間を襲ったとみられる事故も北海道や東北で起きているというから恐ろしいですね。そのため著者は以下のように助言します。「クマが絶滅したとされる九州以外で野外活動をする際には(四国には剣山周辺に20頭前後のクマが生息しているといわれている)、そのことを頭のどこかに置いておいたほうがいいだろう」(同書より) 同書では万が一クマに遭遇したときどうするべきかも紹介しています。ほかにも「風に飛ばされて死ぬ」や「カタツムリやナメクジに触って死ぬ」など「まさかこんなことで......」と思わされる事例を多数掲載。自分や大切な人が危険な目にあわないための予防法や、危険な目にあったときどうすればいいかの対処法が学べます。普段あまり読書をしない人でもパッと読める手軽さもありがたい点です。心肺蘇生法や外傷の応急手当の方法も書かれているので、手元に置いておいてはいかがでしょうか。[文・春夏冬つかさ]
43%の夫が不機嫌ハラスメントの被害者か 夫婦生活を調査して分かった意外な構図
43%の夫が不機嫌ハラスメントの被害者か 夫婦生活を調査して分かった意外な構図 ※写真はイメージです(Getty Images)    日本には様々な結婚のカタチが存在するが、「結婚生活=日常生活」はさらに多様化している。一方で、二人がどんな夫婦関係を営んでいるのかをリアルに探る調査は少ない。中央大学教授で家族社会学者の山田昌弘氏は、2023年2月に夫婦の家庭生活における「パートナーの親密関係の変容に関する実証研究(以下、「親密性調査」)」を実施。山田氏の新著『パラサイト難婚社会』(朝日新書)から、日本人の結婚生活の実態について、一部抜粋・再編集して紹介する。 *  *  * 「フキハラ」をするのは夫か妻か  様々な「愛」の形があるならば、多様な「結婚」の形があってしかるべきと考える人々がいる一方で、「結婚」に伴う「不幸」の様相も、日本では多様化しています。おそらくどんな時代でも「結婚(生活)」に対する不満や不幸、悲しみや怒りは存在したはずですが、それがネーミングされるほど事例が増えているのが、現在の日本社会の特徴です。  結婚生活を送りながら不仲で没交渉状態であることを「家庭内別居」「家庭内離婚」と呼ぶようになったのは1990年代からでした。「DV(ドメスティックバイオレンス)」は、その名が付かない前近代でも存在しましたが、「働かない夫」や「ダメンズ」「家事育児をしない妻」などと共に、人生相談で取り上げられることが増えてきました。 【こちらも話題】 ただの友達「ただトモ夫婦」増殖中 https://dot.asahi.com/articles/-/8475  最近、注目を集めるのは「フキハラ(不機嫌ハラスメント)」です。初めて耳にした時は「フキノトウか?」と思いましたが、違いました。配偶者が一方的に不機嫌になることで、結婚生活が良好に維持できない状況を指す言葉だそうです(「婚活」という言葉をつくった時も、「え、トンカツ」と聞き間違えられたことも多々ありましたが)。  もちろん昔から陽気な人もいれば、ネガティブな人もいて、自分の意のままにならない時にすぐ怒る男性など、特に昭和の「ガンコおやじ」と呼ばれる層に大勢いたと思いますが、それが度を越すと「ハラスメント」になる時代になったということです。 「DV」との違いは、必ずしも相手に身体的暴力を振るうとは限らないこと。「モラハラ」との違いは、相手の人格をことごとく否定するほどの、言動の暴力性はないこと。  ただし、些細なことですぐに不機嫌になり、一週間口をきかない、モノに当たるなどの状態が続けば、配偶者は非常な心的ストレスを感じます。さらにはその事態を解消するために(あるいはその事態を繰り返さないために)常に自分が謝ったり、相手の機嫌を取り続けたりしなくてはならないのが共通項のようです。恒常的、かつ一方的に不機嫌をぶつけられる妻(あるいは夫)は、相手の機嫌を取るために、本来しなくてもいいはずの「感情労働」をさせられている、というわけです。 【こちらも話題】 30代美人姉妹 妹が先に結婚できた理由は「理想と現実」 https://dot.asahi.com/articles/-/119961  実際、フキハラはその名が付くずっと以前から、日本の家庭生活ではよく見られた現象でした。それについては「妻が耐えるべきこと」「妻の美徳」と捉えられがちだった昭和の時代に比べ、「本来、異常なこと」「夫婦とはいえ、男女は平等のはずだから、一方が我慢し続けるのは正常の状態ではない」と人々が考えるようになったわけです。  ところが一歩進んで最近気づいたのは、決して「妻(女性)だけが耐え忍んでいるわけではない」ということです。一般的にフキハラのイメージは、「イライラして不機嫌になる夫」と、それに「耐え忍ぶ妻」という構図です。ドラマや漫画でもよく描かれていますし、SNS上でも人生相談の欄でも、こうした悩みは決して少なくありません。社会学でフキハラを研究している大阪大学大学院生の岡田玖美子さんも、分析の中心は夫から妻へのフキハラです。  しかし、「親密性調査」でフキハラの項目を訊いてみたところ、フキハラをしているのは夫(男性)側だけではなく、妻(女性)側にも多い実態がわかってきたのです。 「相手が不機嫌になった時、自分が謝ったり、ご機嫌をとったりする」と答えたのは、25~34歳の夫(男)が最多で、43%でした。一方、一般的にフキハラの被害者と目されがちな55~64歳の妻(女性)で「謝る」人は、わずか7%だったのです。そして55~64歳の妻の27%が「自分も不機嫌になる」と答えており、44%は「放っておく」と答えていました。自分も不機嫌になる割合は夫より妻が多く、年齢による差はあまりない。配偶者が不機嫌になった時の対応は、若年であるほど、そして妻より夫の方が謝ったりご機嫌を取る、つまり感情労働をする割合が高いことがわかります。よく、「夫婦喧嘩で、夫が謝る方が波風が立たない」と言われることがありますが、それを裏付けるデータでしょう。 【こちらも話題】 「実家を出たくても出られない」経済的独立が困難な若者たち https://dot.asahi.com/articles/-/93867  ここから導き出される結論は二つです。一つ目は、世間で言われているほど、「不機嫌で強い夫」と、「それに耐える弱い妻」という構図は少ないのではないかということです。実際には「不機嫌で、イライラを振りまく妻」と、「それに耐える夫」という関係性が、世の中には大いに存在しているということです。だからといって、家庭では妻の方が権力があるとは言えません。夫に対して抵抗する数少ない手段が「不機嫌になること」だという場合もあるからです。  もう一つは、「声の大きい者勝ち」という現実です。ママ友コミュニティでも、ネット空間でも、新聞のお悩み相談欄でも、フキハラを訴えるのは、圧倒的に女性が多いのです。それはどうしてなのか。  一般的に男性は、家庭の悩みをあまり外には出しません。男性コミュニティで、妻の悪口で盛り上がるという場面には遭遇したことがありませんし、愚痴をどこかで発散するということもほとんどありません。これは男性の方が人格的に優れているからではなく、男女のコミュニティ形成の在り方の違いです。その場にいる同性と、配偶者の愚痴や悪口で連帯感や共通意識を持てるのは、共感能力の高い女性である場合が多いのです。  一方、男性は共感社会というよりも競争社会に生きており、常に社会的立場や縄張り意識を敏感に察知しながら、自分の立ち位置を確認している生き物です。そこで自分の結婚相手を不必要に貶めることは、妻の立場のみならず、配偶者である自分のポジションをも下落させる行為です。プライドや世間体もあるのでしょう。結果的に、妻の悪口は言わない(言えない)夫も多く、だからこそ、ひとり家庭で悶々と耐え忍ぶ……という現実も少なくないと見ています。 【こちらも話題】 50代ひきこもりと80代親のリアル 毎年300万円の仕送りの果て https://dot.asahi.com/articles/-/127449
【大河ドラマ「光る君へ」本日第9話】御簾がめくれて顔があらわに!こんな事故を防ぐために使われたものとは
【大河ドラマ「光る君へ」本日第9話】御簾がめくれて顔があらわに!こんな事故を防ぐために使われたものとは 寝殿造の建物の室内は大きなワンルームのようになっており、行事や儀式の際は、屏風や几帳などの間仕切りや家具で間取りを変えていたという 東京国立博物館 Colbase  大河ドラマ「光る君へ」では、優雅できらびやかなイメージの平安貴族の暮らしぶりがどう描かれるのかも見どころの一つ。藤原道長ら高級貴族が暮らす高い外壁で囲まれた大邸宅と、中流貴族だったとされるまひろ(紫式部)が暮らす質素な邸宅、そして生け垣に囲まれた庶民の家、それぞれの住まいは「家格」を如実に表している。  高級貴族たちが暮らした「寝殿造(しんでんづくり)」と呼ばれる建物の詳細は『出来事と文化が同時にわかる 平安時代』(監修 伊藤賀一/編集 かみゆ歴史編集部)に詳しい。今回は彼らの「住まい」について、この本を引用する形でリポートしたい。 ***  平安時代の貴族の邸宅といえば、「寝殿造」の建物が有名だ。これは、いくつかの建物を組み合わせた邸宅で、敷地内には立派な庭や池まで含まれるという広大な館だ。湿気を溜めないよう風通しがよく、四季の美しさを楽しめる上品な建築様式だった。公卿など高位の貴族は、町一つ分の敷地を与えられることもあったという。  建物の正面に位置するのが、家の主人が居住し客を出迎える「寝殿」である。公的な儀式もここで行われた。その東西には「東対(ひがしのたい)」「西対(にしのたい)」と呼ばれる別棟「対屋(たいのや)」があり、寝殿と対屋は「渡殿(わたどの)」と呼ばれる廊下でつながっていた。  他にも、敷地内には牛車を片付ける「車宿(くるまやどり)」や、月見など風流な遊びを楽しむための専門の建物や蔵なども設けられた。例えば「釣殿(つりどの)」は、周囲を吹き放ちにした建物で、納涼や宴が行われた。  この邸宅の周囲を外壁で覆い、門を設置する。とはいえ大通りに面した道に正門をつけられる邸宅は上級貴族のみである。また建物を囲む垣根の素材を見るだけでその家格がわかるなど、門と垣根はまさに家の顔だった。  この時代の家は、建物の四方に「妻戸(つまど)」という扉がいくつかあるだけで、廊下や建物内にはほとんど壁や仕切りが存在しない。そのため、ブラインドのような「御簾(みす)」や布を垂らした「几帳(きちょう)」を目隠し代わりとした。 貴族たちが日よけや目隠しのために用いていた簾。葦や竹ひごなどで作られ、「御簾」と呼ばれた イラスト 夏江まみ  特に邸宅で過ごす女性たちは、男性に覗かれないよう、御簾で覆った部屋の内側で暮らすのが基本。『源氏物語』でも御簾がめくれ上がって女性の顔があらわになるエピソードが描かれているが、窓や扉がないのでそんな突発的な「事故」も起きてしまうのだ。女性たちは事故を防ぐべく、部屋の中にも目隠し用の屏風を置き、その内側に生活道具を並べて過ごしたという。  また、この時代は、女性も男性も床での生活だった。床には「座臥具(ざがぐ)」という座布団のような敷物や「厚畳(あつたたみ)」、物を片付ける「唐櫃(からびつ)」などが置かれた。この床文化は、明治時代まで続いていく。 (構成 生活・文化編集部 上原千穂 永井優希)
ダンカンが最愛の妻と死別10年目に流す涙の理由 「妻孝行」できずに先立たれたのが悔いに 
ダンカンが最愛の妻と死別10年目に流す涙の理由 「妻孝行」できずに先立たれたのが悔いに  阪神甲子園球場の外野席からグラウンドを見つめるダンカンさん(撮影/2010年8月)    タレントのダンカンさん(65)は、妻の飯塚初美さん(享年47)を病気で亡くしてから今年で10年目を迎える。よく飲んで遊んだ「昭和の芸人」と共に生きてくれた愛妻を失い、葬儀で号泣したダンカンさん。一人残されたその後と、今をどう生きているのか聞いた。  初美さんは2014年の6月に、乳がんで亡くなった。2人はお互いを「ママリン」、「パパリン」と呼びあっていた仲良し夫婦。ダンカンさんは葬儀を終えても、初美さんを失った現実が受け入れられなかった。 「夕方、家にいるとね。ドアが開いて、買い物袋を抱えた妻が『遅くなってごめんね』って言いながら帰ってくるんじゃないかって。毎日そんなことを考えていました」   でも、初美さんは二度と帰ってこない。   たまたま聴いた演歌歌手・山本譲二の「みちのくひとり旅」のワンフレーズに、胸が苦しくなった。  生きていれば、いつかは会えると歌った部分だ。  「生きていたならそうなんでしょうけど、僕はこの地球上のどこを探したって、もう妻に会うことはできないじゃないですか」   夜遅くに子どもたちの寝顔を見ていると涙があふれた。子どもたちには妻の血が流れている。でも、自分は妻とは“他人”でしかなく、残されたのは妻の記憶と、そのぬくもりだけだ。  「どうしてかはわかりませんが、妻の血が流れているのがうらやましく感じて……。子どもに嫉妬して、泣いてしまったんです」   配偶者やパートナーとの死別は「人生最大のストレス」と言われる。ダンカンさんは、仕事をする気力も失った。「がんばれ」という周囲の励ましがつらすぎて、人が嫌いになりかけた。  「がんばれって、幸せになるために人はがんばるんだよ。今の俺に何をどうがんばれっていうんだ!」  8歳年下の初美さんとの出会いは、テレビ番組のアシスタントのアルバイトに、20歳の彼女が応募してきたとき。芸人仲間がナンパしたのがきっかけだった。 【あわせて読みたい】 嘉門タツオが初めて語る“最愛の妻”との14年 がん末期の妻に用意した「花道」とその後も続く物語 https://dot.asahi.com/articles/-/13962?page=1 生前の初美さんと撮った家族写真     「細かい経緯は思い出せませんけど、この子と付き合うのは俺だって勝手に思って、電話番号を聞き出して電話しまくったんじゃなかったかなあ」   初美さんが生まれた1966年は、60年に一度めぐってくる「丙午(ひのえうま)」の年。丙午に生まれた女性は気性が激しいという迷信があるが、初美さんはそれを自認していた。   ダンカンさんが仕事の愚痴をこぼすと、“喝”が飛んでくる。  「じゃあ、やめなさいよ。あなたみたいに好きなことを仕事にしている人なんて、めったにいないんだからね」   落ち込んだ時は、「なーに深刻に考えてんのよ!」   幼少期から日本舞踊を続けてきたという一面があり、年下のしっかり者。きっぷのいい性格で、一生懸命に向き合ってくれる初美さんにほれ込み、ほどなく結婚した。   とはいえ、「遊びは芸の肥やし」といった言葉がまかり通っていた昭和の芸人の世界。20歳そこそこの若さで、その芸人を夫に選んだ初美さんが、芸人行きつけの居酒屋のママに、妻としてどんなふるまいをすればいいのかと相談していたことは、後になって知った。  「料理が上手だったんですが、それもそのママに教わっていたようなんです」   3人の子どもにも恵まれたが、ダンカンさんは家事も育児も初美さんに任せっぱなし。芸人仲間と飲み歩いては家に連れて帰り、そのたびに怒られた。   松村邦洋さんと酔ってじゃれあっていると、「松村! あんたが来るからふざけるのよ!」   風呂に入る金もなく、いつも足が臭い芸人がたまに家にやってくると、  「またあんたね! 外のバケツの水で足を洗うか、足首から下を切り落とすか、どっちかにして!」  酔客だらけの、やたらにぎやかな家。その輪の中にいた初美さんのお説教には、いつも愛とユーモアがあった。  「妻に任せっぱなしの夫でしたけど、芸人としてあえてそうしていた部分もありました。60歳だとか、そのくらいの年齢になったらちゃんと落ち着いて、妻を大切にする暮らしをしよう。そんな未来予想図を描いていたんです」  【こちらもおすすめ】 たとえ離婚した相手でも…“死別”のつらさは想像以上に 「遺族外来」の医師が語る壮絶な精神状態 https://dot.asahi.com/articles/-/42911?page=1  だが、初美さんは40歳を前に乳がんを発症。数年後に再発し、47歳の若さで旅立った。   仕事への意欲が湧かなくなったダンカンさん。でも、  「好きなことを仕事にしている人なんて、めったにいないんだからね!」   とまた初美さんに叱られている気がして、仕事に向かった。   育ち盛りの子どものために、ほとんどしてこなかった家事もしなければならなかった。  「ママリンが子どもにしたかったはずのことを自分がやろう」   そんな思いが湧き、本を買って料理を学んでみると意外にもハマった。子どもの弁当も、冷やし中華弁当、阪神弁当……、レパートリーがどんどん増え、前向きに楽しめるようになった。子どもが持ち帰った弁当箱が空になっていると、素直にうれしかった。  「保冷剤を入れた『刺し身弁当』を持たせたときは、生臭くてこんなの食べられないよって叱られちゃいましたけどね(笑)」   子どもの野球のユニホームは泥だらけで、いつも手洗いだ。仕事から帰った夜中に、ごしごしと洗って乾燥機にかけ、朝までに乾かしておく。最初はきついと感じていたが、ある時、気持ちが変わった。  「この泥を落とせば、息子が明日の試合でヒットを打つかもしれない。だから、少しでもきれいにしようって思うようになったんです。その時、同じことを考えながら一生懸命手洗いをしている妻の姿が思い浮かんで、妻と一緒になれたような、そんな感覚に包まれました」   初美さんが亡くなって5年が経った頃から、少しずつ心も変化した。  「ママリンは若くして亡くなったかわいそうな人ではなく、若くてきれいなまま、みんなの記憶に残り続ける。女性として幸せなことなんじゃないか」   自分の人生も、長生きできるに越したことはないが、突然ポックリ逝ったとしても、どのみち初美さんにまた会える。  「自分はいいポジションにいるんだなって。そんな風に思えるようになりました」 【あわせて読みたい】 夫・妻と死別したら…30~40代も参加する“没イチ”交流会 https://dot.asahi.com/articles/-/63339?page=1  毎月、家族で墓参りを続けているが、この2月は節分に合わせて鬼のお面を墓石に飾った。墓前で嘆き悲しむのではなく、初美さんと一緒にいる時間を明るく楽しむ。そんな墓参りを続けている。   そして墓参りの様子や、初美さんの誕生日祝いをブログにアップしたり、映画の舞台あいさつなどで、初美さんへの思いを語り続けたりしている。  「忘れられてしまうことが、本当の意味で人が亡くなったということだと思うんです。これからもずっとママリンとつながっているんだよ、ということ。そして、この家が何代か続いたとして、もし誰かが困った事態に直面したとき、ママリンがその人に語り掛けて、助けてくれるんじゃないか。そんな思いでブログに残しています」   夫婦やパートナーの形は、それぞれだ。それぞれに出会いからの物語がある。  40年近く前。8歳下の、まだまだ世間も知らない初美さんにひと目ぼれしてしまったダンカンさん。その猛アタックを初美さんは受け入れた。 「あの頃は、僕の周りには(同じたけし軍団の)ラッシャー板前とグレート義太夫くらいしかいなかったから、それよりは僕の方がいいって思ってくれたんじゃないですかね。消去法で、僕」   ダンカンさんはそう冗談めかして、こぼれた涙をぬぐう。   芸人仲間と新宿のディスコで飲みすぎてお金が足りなくなり、初美さんにタクシーで現金を持ってきてもらった夜は、そりゃ怒られた。   夫婦でお金を使い過ぎて、子どもたちに節約を誓った直後のこと。初美さんと街に出たら、大人気で品薄だったゲーム機がたまたま売っていて、夫婦で飛びついて買ってしまった。家に帰ると、当時小学生だった長男に「こんな家、出ていく!」と叱られ、「もっともだよね」と2人で反省した。   入院中の初美さんを見舞った日は、25回目の結婚記念日だった。だが、初美さんは体調が悪くて、楽しい会話はできなかった。   帰宅途中に、初美さんからメールが届いた。 【こちらも読まれています】 「僕の行く場所にマーツーあり」 俳優・佐藤二朗が30年連れ添う妻に言われた戦慄の一言 https://dot.asahi.com/articles/-/191261?page=1 「きょうは銀婚式だね」 「役に立たない私だけど、これからもよろしくお願いします」   初美さんが旅立ったのは、その約1年後のことだった。    一人残された側のその後も、人それぞれだ。10年目の今も、心にぽっかり空いた穴が埋まることはない。「妻孝行」をする前に先立たれてしまったことが悔いに残り、消えることはないという。  「恩返しできないままというのが、一番つらいんだよなあ」と、ダンカンさんは正直な胸の内を明かす。    それでも、ダンカンさんは父親として働き、妻に任せっきりだった家事を覚え、子どもを育て上げた。初美さんへの思いを文字やメッセージで発信し、彼女の存在を残し続けようとしている。   遊び大好き芸人夫と、共に生きたしっかり者の年下妻。  「ママリンは『戦友』だったと思っています。僕の妻であり、時にはきょうだいであり、母であり、子どもであり、同僚であり、先生でもあり。全部をひっくるめて『戦友』でした」   初美さんの姿を思い返しながら、ダンカンさんはまた涙をぬぐった。 (AERA dot.編集部・國府田英之)  
皇后雅子さまは、なぜ柔らかな素材のドレスをお召しだったのか 「ほぼ立ちっぱなし」の両陛下
皇后雅子さまは、なぜ柔らかな素材のドレスをお召しだったのか 「ほぼ立ちっぱなし」の両陛下 午前11時40分から3回目の一般参賀で、にこやかにお手振りをする天皇ご一家。天皇陛下は朝から祭祀に臨み、両陛下は一般参賀の前後に宮殿だけで8回の祝賀行事に出席する=2024月2月23日、宮殿・長和殿(写真映像部・松永卓也)    天皇誕生日の2月23日、天皇陛下は全国から皇居に集まった約1万6千人から祝賀を受けた。宮殿のベランダには、皇后雅子さまと長女の愛子さま、秋篠宮ご夫妻と次女の佳子さまも立ち、参賀者からの大きな歓声に応えた。正装であるローブモンタントで手を振る女性皇族方。そのなかで雅子さまは、柔らかな布地のドレスをお召しだった。そこには理由があった。 *   *   *  品の良いロイヤルブルーに淡い黄色、深みのある紺に光沢のある白――。皇居・宮殿での行事で女性皇族が着用する美しいドレス姿は、ロイヤルならではの光景である。  今回の一般参賀で雅子さまや愛子さま、紀子さま、佳子さまが着用したのは、日中の正装であるローブモンタントだ。  ローブモンタントは通常、ハリ感のある布地で仕立てられる。愛子さまや紀子さま、佳子さまのように、皇室では京都の絹織物を用いてドレスが作るのが一般的だ。  愛子さまの光沢のある白い布地にブルーグレーのアクセントがローブモンタントは、初お目見えのドレス。  佳子さまのロイヤルブルーのドレスは昨年の「歌会始の儀」で着用したもので、華やかな帽子の青い薔薇は、佳子さまによく似合っている。    一方で雅子さまは今回、ベルベットのような柔らかな素材のドレスを選ばれていた。昨年の新年一般参賀も、デザインが少し異なるが、ベルベットのような素材のロイヤルブルーの布地の胸元と袖口、帽子にビーズで豪華に装飾されたドレスだった。  雅子さまはベルベット調のドレスを、ここ数年の一般参賀や宮殿での「講書始の儀」などでもお召しだ。この素材のドレスは皇太子妃時代にも着用していたが、ここ最近のものは肩や腕まわりなどがすこしゆったりと身体に優しそうで、着心地もよさそうに見える。     【こちらも話題】 天皇陛下64歳に 雅子さまと「おそろい」だった「恋の歌」と琵琶湖の思い出 https://dot.asahi.com/articles/-/215079     64歳の誕生日を迎え、各国外交団との「祝賀の儀」であいさつをする天皇陛下と皇后さま=2024年2月23日、皇居・宮殿「豊明殿」   長時間の激務だから着心地の良いドレス  なぜ、他の女性皇族と異なり、ハリのある生地ではないのか。  皇室の事情を知る人物は、 「皇后陛下にとって着心地のよいお召し物であるためでしょう。他の宮殿行事でも、素材がやや薄く、柔らかそうなドレスをお召しです」  そしてこの人物は、ご負担の軽減を考慮した側面もあるのではないか、とみる。    公務や行事において、天皇陛下はもちろん、陛下を支える皇后も重責を担う立場だ。  たとえば天皇誕生日の一般参賀の日、天皇陛下と雅子さまはベランダでのお手振りの前後に、三権の長や各国の駐日大使らから祝賀を受ける行事が宮殿で8回あり、宮殿・長和殿のベランダと正殿の間を一日中、分刻みで往復し続ける。  そして移動先でも、出席者とともに長時間立ったままだ。  さらに宮殿での祝賀行事のほかにも、仙洞御所へのあいさつ、お住まいの御所でのお祝いの行事と、スケジュールがびっしりなのだ。   天皇誕生日の「祝賀の儀」で、岸田文雄首相からお祝いのあいさつを受ける天皇陛下と皇后さま=2024年2月23日、皇居・宮殿「松の間」     衣装も試行錯誤の連続  天皇陛下は誕生日会見で、雅子さまが多くの行事に参加したことに触れて、 「いまだ回復の途上で、体調には波があり、大きな行事の後や行事が続いた場合には、疲れがしばらく残ることもあります。そのような際には、十分に休息を取ってほしいと思います」  と話している。  特に宮殿行事では、多くの目がある中で長時間立ったまま、ということが少なくない。先の人物も、こう話す。 「厳寒の季節や酷暑の季節でも屋外に立たなくてはならないこともあります。平成の皇后であった上皇后陛下も、当時は、どのようなデザインであれば隣にいらっしゃる陛下の姿を隠さないか、またお相手とスムーズに握手ができるかを試行錯誤されていました。皇后陛下も、儀礼に沿いながらも、お身体がすこしでも楽なものをお選びになっているのかもしれません」     【こちらも話題】 天皇陛下64歳 雅子さまと「ひとりひとりの穏やかな春を願う」陛下 目の回る忙しさでもにっこりの気遣い https://dot.asahi.com/articles/-/215227     昨年の天皇誕生日の一般参賀でも、皇后雅子さまはベルベット調の柔らかなドレスをお召しだった=2023年月2月23日、皇居・宮殿「長和殿」    天皇誕生日の4日後、両陛下は都内の六本木ヒルズで開催中の現代アートの展覧会を鑑賞した。  その場で両陛下を出迎えた男性は、心配げに語る。 「陛下も雅子さまも、お忙しい日程のためか、ややお疲れのご様子でした。特に雅子さまは、あまり笑顔がなかったので心配です」  公務の現場でも、笑いの絶えないおふたり。雅子さまの笑顔は、みる人の気持ちを明るくしてくれる。休憩も大切にして、いつもの輝くような笑顔をみんなが楽しみにしている。 (AERA dot.編集部・永井貴子)   【こちらも話題】 天皇陛下64歳に 「陛下のアドリブに雅子さまのツッコミ!」 令和皇室の現場にユーモアと笑いが絶えない理由 https://dot.asahi.com/articles/-/215082  
能登半島地震ルポ 「年間出生数80人のまち」輪島市で災害弱者をどう守るか
能登半島地震ルポ 「年間出生数80人のまち」輪島市で災害弱者をどう守るか ウミュードゥソラ福祉避難所でのひとコマ。輪島市が開設する福祉避難所は、2月10日時点で10カ所となった(写真/キャンナス災害支援チーム提供)   「これまでの震災現場とは違う支援の難しさがある」  能登半島地震の災害弱者への支援現場で、そんな声を聞いた。今回の震災は高齢被災者の比率が高い上、大勢の人が広域避難を余儀なくされている。下水道の完全復旧には年単位の時間がかかると言われ、要配慮者への支援も長期化している。  試行錯誤が続く現場で、災害弱者はどう守られているのか——。 * * * 輪島市内に「母子避難所」  輪島市の年間出生数は76人(2022年)。全国815市区中で777位(同)だ。高齢化と同時に少子化も加速している。  だからこそ、地元の人にとって子は宝。特筆すべきは、市内でただ一つ、妊産婦や乳幼児のための「母子避難所」が立ち上げられていたことだ。設置場所は、わじまミドリ保育園内。1月10日に開設され、同市福祉課によると、同月中旬には母子合わせて20人が利用していた。利用者が減った今も、支援は継続されている。   輪島市内に開設されたわじまミドリ保育園母子避難所(写真/同避難所提供)    同市で福祉避難所支援の調整を担ってきた厚生労働省DMAT事務局災害医療課の上吉原良実さんは、道路事情が悪い奥能登では、妊産婦の搬送リスクが高まることも懸念して早期の開設につなげたと話す。 「もともと小児科と産婦人科の医療のアクセスがいい地域ではない上、夜間に、雪で通行止めになることもあります。実際、発災後には天候が安定せずに、搬送用のヘリが飛べなかったこともありました。特に発災してまもない急性期は、妊婦さんや赤ちゃんを抱えた人の居場所や状況を確認し、フォローすることは、とても重要でした」(上吉原さん)  さらに、小児救急看護認定看護師でもある上吉原さんは、母子避難所が持つ別の側面にも触れた。 「災害時は、虐待やDV などのリスクも上がりやすいと言われていて、子どもたちが危機的な状況に陥りやすく、心配を抱えた家族に迅速に対応することも、母子避難所の大事な役割。いつでも母子が頼れる場所で、駆け込み寺的な機能もあります。輪島市の保育士さんが運営し、地元の小児科医や助産師さん、保健師さんが支援に入っていますから、ママたちが誰でも気軽に相談できるし、赤ちゃんをお風呂に入れるために利用することも可能です」(同)  今回、同年代の子どもを持つ母親同士が子育てのことや被災後の生活について情報交換したり、気持ちを打ち明けあったりしていたという。 輪島市内に開設されたわじまミドリ保育園母子避難所(写真/同避難所提供) 輪島市内の1次避難所=2月4日(撮影/古川雅子)   感染した要配慮者の砦に    じつは輪島市は、2007年の能登半島地震の際に「福祉避難所」を全国で初めて設置した自治体だ。福祉避難所では、高齢者や障害者、妊産婦や乳幼児など、避難所生活で特別な配慮を必要とする人を受け入れる。先述した母子避難所もその一つだ。  輪島市では、事前に26の施設で福祉避難所の設置協定を結んでいた。だが、今回の地震では、介護スタッフも市の職員も多くが被災。そんな事情から、1月1日の発災当初から開設できた福祉避難所は2カ所だった。  そのうちの一つが、同市釜屋谷町のグループホームなどが入る福祉施設に設置された「ウミュードゥソラ福祉避難所」。発災1週間後からはDMATの指示のもと、医療ニーズの高い人も送り込まれるようになった。アウトブレーク(集団感染)発生後は、新型コロナ、インフルエンザ、感染性胃腸炎という三つの感染症の罹患者が押し寄せ、感染した要配慮者の砦(とりで)にもなった。  背景としては、県立輪島高校の一角に増設された感染者隔離のための臨時の福祉避難所もすぐに満杯になってしまったことがある。さらに、地域の基幹病院である市立輪島病院の職員が多数被災していたため、入院病床を減らさざるを得なかった事情もあった。  特に高齢者や体が弱った人が感染症にかかると、一気に状態が悪化することもある。ウミュードゥソラ福祉避難所には看護師と在宅医が切れ目なく駆けつけていたこともあり、なんとか受け入れに応じた。  発災当日からここで支援を続けてきた地元看護師の中村悦子さんは、感慨深げに振り返る。 「グループホームの個室の入所者をバタバタと遠くの施設に2次避難させ、そこを隔離部屋にしました。部屋が空いたら、すぐさま新たに人が搬送されてくるので、利用者は40人以上に。 本当に野戦病院のような状況でしたね」  大広間には、認知症の症状が進んで歩き回る高齢者も複数いたが、そうしたお年寄りが隔離部屋に入ってこないよう、気を配る必要もあったと中村さんはいう。 元すし職人の避難者がいなりずしを  ここでの主だったケアの担い手は、外部の民間団体がチームを組むボランティアたち。中村さんのSOSを受けて、全国訪問ボランティアナースの会「キャンナス」を母体に、急きょ4県7団体による民間の災害支援チームが結成された。入れ代わり立ち代わり介護や看護の外部スタッフが応援に来る。そんな目まぐるしさの中で、被災者との交流も生まれていた。 朝食後にくつろぐ宮腰昇一さん(撮影/古川雅子)    印象的だったのは、宮腰昇一さん(75)だ。震災で半壊した輪島市内の自宅では暮らせなくなり、最初は1次避難所の駐車場で車中泊を続けていた。知人のツテを頼り、数日後にこの避難所にたどり着いた。  もともとはすし職人。市内に店を出し、38年間腕を振るった。避難所での会話でそんな経歴を知った神奈川県の介護スタッフから「煮た油揚げの保存食が避難所内に在庫があったんですよ。ぜひ握ってほしい」と声をかけられた。そこで1月末に、60貫のいなりずしを握って、入所者やスタッフらに喜ばれたという。  その直後に私が訪れた時、宮腰さんはいなりずしのエピソードを少し照れくさそうに話した。 「もう、一生大勢に握ることなんてないと思っとったけど、若いスタッフさんに誘われて。そのスタッフさんと、自宅まで自前の道具を取りに行ったんだよ。『飯切り』という寿司おけ。つぶれてぐしゃぐしゃになった家でほこりをかぶっとった。避難所に持ち帰ったそのおけで酢をまぶし、シャリを切って握らせてもらった。私も少しは皆さんの役に立ったんかなと喜んどる」 フラダンスを通じて福祉避難所の利用者と交流する看護師の上吉原良実さん。この催しは、「顔の見える関係」でつながる福井の2次避難所にも中継された(提供/キャンナス災害支援チーム)   高齢者自身が生活の場を選ぶ  宮腰さんは、2月頭に2次避難することを決めた。行き先は、富山県高岡市の高齢者施設だ。  2007年の震災の折に、二人三脚ですし店を手伝ってくれた妻を亡くしている宮腰さん。輪島市は家族の思い出が詰まる故郷であり、決断までには1カ月近くの時間を要したという。  それでも、他県への避難を決めたのはなぜか。 「ここの避難所で相部屋だった人が、家族ぐるみの付き合いのある人なんです。暮らしてみてだんだん気が合う『お隣さん』になった。それでスタッフさんに聞いたら、二人とも県外の同じ施設に入れると。知らない土地に行くのは気が進まんけれど、『お隣さん』と一緒だったらいいかなと思えてきてね」  夜になり、スタッフルームで、オンライン会議が始まった。参加する人の地域は、この避難所がある石川と神奈川と富山の3県にまたがった。  パソコンの画面に向かって相談事を話すのは、宮腰さん。そして隣には、80代の男性の姿がある。宮腰さんが話していた「お隣さん」だ。  画面の向こう側で二人のコーディネーターを務めているのは、普段は神奈川県で看護師・ケアマネージャーを務めている石川和子さん。もう一人のコーディネーターも富山県から遠隔で参加していた。  宮腰「向こう(高岡市)への移動の時、荷物はだいぶ詰められるの? 自宅から掃除機を取ってこようかなと思ってるし」  石川「前に避難した人も、車いすの人でも荷物は収まっていたから、きっと大丈夫ですよ」  避難先での暮らしをどう構築するかを相談する二人にとって、石川さんは顔なじみの間柄だ。彼女は「キャンナス災害支援チーム」の一員として1月から度々輪島に通い、避難者の調整支援業務を続けてきた。 会議の終盤、宮腰さんがおどけて言った。 「これがリモート会議っちゅうもんなんかな。『輪島サミット』やね(笑)」 画面を介して、双方に爆笑が起こる。 目を見張ったのは、被災した高齢者自身が生活の場を選びとっていたことだ。石川さんは後日、こう話した。 「被災した人たちは、個々の事情の中で真剣に悩んでいるんですよね。『輪島を出たくないのは、わがままを言ってるわけじゃないんだ』とおっしゃいますから。顔の見える関係で、オンラインを活用しながらも、相談支援のチームみんなで、『被災した方たちと一緒に』悩む。そうすると高齢の方でも、避難や新しい住まいのことは、みなさん自分で決めていかれますよ」 被災者、支援者双方の模索の中で、奥能登ならではの「新しいワンチーム」の形が生まれつつある。 (ジャーナリスト・古川雅子) ※AERAオンライン限定記事  
同じ名前が250人“タナカヒロカズ運動” 田中宏和が同姓同名のつながりを意識した“運命”の日とは
同じ名前が250人“タナカヒロカズ運動” 田中宏和が同姓同名のつながりを意識した“運命”の日とは 運動公式グッズのロゴ入りTシャツ。英字の「グローバル・バージョン」ともども売り切れ中(撮影/東川哲也)    一般社団法人「田中宏和の会」代表理事、田中宏和。名前が同じ人たちとのつながりを楽しみつくす「タナカヒロカズ運動」を続けて二十余年。今や250人の会となった。一度はギネス世界記録も打ち立てた。すぐにセルビアでの記録に抜かされたものの、同国のチームと「国際同姓同名連盟」も立ち上げた。「運動=自分」と公言する熱量で、些細なことでも人は楽しくつながれることを、真面目に遊びながら実証し続けている。 *  *  *  昨年の年の瀬の東京・八重洲。ある居酒屋で宴会が開かれていた。男女数人が各テーブルに分かれて、嬉しそうに座っている。 「今日はよろしくお願いします。『ほぼ幹事』の田中宏和です」 「どうも、社労士の田中宏和です」 「自分は歯科医師やってます。田中宏和です」  男性チームは7人全員が「タナカヒロカズ」である。女性陣も自己紹介を始めた。 「ニューヨーク在住の渡邊裕子です。よろしくお願いします」 「はじめまして。ワタナベユウコです」  こちらも7人全員が「ワタナベユウコ」だった。  名乗るだけでウェルカムな笑いが起きるという、大変ピースフルなこの宴会の実態は、同姓同名の集い「タナカヒロカズ運動」のメンバーであるタナカヒロカズたちと、その「運動」に触発されて2020年に発足し、現在48人が名を連ねる「わたなべゆうこの会」のメンバーによる懇親会だった。  いずれの名前でもない人間から見ると、「名前だけで、なぜこんなに楽しめるのだ?」と首をかしげたくなる高揚感が漂う宴会だった。実際、この日は仕事で遅れて来たものの、「運動」のリアルな集いに初めて参加したタナカヒロカズは、「名前が同じというだけで本当に違和感なく、すんなり馴染(なじ)めました」と振り返る。  タナカヒロカズ運動。都内の広告会社に勤める田中宏和(55)が、多忙な会社勤めと並行して続けてきた「同姓同名の集い」のことである。  時は1994年の11月。田中はプロ野球ドラフト会議をテレビで見ていた。 「第1回選択希望選手 近鉄 田中宏和」。驚いて再び画面を見つめた。指名されたのは奈良県桜井商業高校の投手だが、自分のことのように喜ばしい、不思議な感覚に襲われた──。 昨年末の「わたなべゆうこの会」との懇親会。この日、遅れてかけつけた田中紘和は、初めてリアルに会う田中に対し、「漢字が違うので会に入れなかったが、やっと入れた。嬉しい」と喜びを語った(撮影/東川哲也)   20年前に語った野望 バスツアーも会社化も実現  そんな個人的な経験から「同姓同名の人たちとつながりたい」と考えた田中が、03年に東京都渋谷区でデザイン会社を経営する「田中宏和」と挨拶を交わしたことを皮切りに、地道に同姓同名の人々とつながり続けてきた。24年2月現在、計250人という一大コミュニティーに成長している。  端的に言うならば、個人的な遊びに過ぎないが、田中はこの「遊び」に実に生真面目に取り組み、その輪を広げてきた。  実は私は、わずか2人時代の「田中宏和の会」を、朝日新聞の週末版「be」の連載企画「こだわり会館」で04年に取材した経験がある。作家の荒俣宏(あらまたひろし)を「館長」に迎えてマニアックな人々を紹介する企画だったが、荒俣からご紹介いただいたのが、田中宏和その人だった。 「何を目指しているのか」と尋ねたところ、田中は意気揚々と野望を語った。 「社員は全員、田中宏和。そんな会社を作りたいですね!」 「田中宏和さんたちと一緒にバスツアーに行ってみたいなあ!」  その奇想天外な回答に「はっ?」と驚きつつ、田中宏和でいっぱいの会社やバスを想像したら笑いが止まらず、取材にならなかった。  あれから20年。田中はひたすら同じ名を持つ人たちとつながり、「オフ会」と称して某所で集まり、二重の円になって名刺交換会を開いたり、楽曲「田中宏和のうた」を作ってインディーズデビューを果たしたりして、「名前が同じ」という状況から偶発する面白さを楽しんできたのだった。 「野望」も実現した。09年12月、9人の田中宏和が貸し切りバスに乗り込み、長野県に暮らす2人の田中宏和を訪ねる旅に出た。その後、本格的にギネス世界記録を目指す態勢を整えるべく、「一般社団法人 田中宏和の会」を14年に設立した。  そして「同姓同名の集い」というカテゴリーでギネス記録まで打ち立てた。  2011年と17年に挑戦するも達成ならず、漢字表記にこだわらない「タナカヒロカズ運動」へと軌道修正したうえで、22年10月、178人の「タナカヒロカズの集い」として世界記録に認定された。残念ながら98日後に、セルビアの「ミリツァ・ヨバノビッチ256人」が記録を更新。だが後日談もユニークだ。 セルビア大使館で駐日大使のアレクサンドラ・コヴァチュと。今後の野望を「ニューヨーク近代美術館でのタナカヒロカズ展」と伝えると、大使は「人の存在自体に意味があることを表現するアートですね」(撮影/東川哲也)   現代の三田平凡寺か 子に宏和と名付ける親も  さしもの荒俣も「あの時の田中宏和の会がいまだに続いてて、ギネス記録までとっちゃうとはねえ」と、感心しきりである。そしてこう続けた。 「タナカヒロカズ運動って、三田平凡寺に通じるものがあるよね」  三田平凡寺。明治期に「我楽他宗(がらくたしゅう)」という一大ネットワークを築いた謎多き奇才だ。無用のモノを集めることを人生の目的とする「我楽他宗」は宗教ではなく、モノ集めと平凡性を重んじ、我を忘れて遊ぶことを推奨する「運動」だった。 「無用の遊びを真剣にやって、ネットワークが全国に広がってる。ちょっと似てるでしょ」  確かに。現代の三田平凡寺、なのだろうか?  田中は京都市の中心部、木屋町で生まれ育ち、幼少期から読書と面白いことが好きな子どもだった。吉本興業が運営する京都花月劇場の隣の公園が遊び場で、劇場に出入りする芸人を横目に野球に興じるような日常だった。  小学6年の時にYMOのテクノサウンドを知り、坂本龍一のソロアルバムに衝撃を受けた。哲学書を中学生で読み始めるとともに、タルコフスキーやゴダールなどの前衛的な映画も鑑賞。大人気サブカル雑誌「ビックリハウス」も愛読した。  神戸大学に進み、バイトで始めた塾講師に夢中になり、教え子の親から「お見合い」をすすめられるほど見込まれた。一方でマルクス経済学者の置塩信雄にも心酔し、大いに学んだ。卒業後は東京の広告会社に就職。運命の「ドラフト会議」は入社4年目のことだ。 「我楽他宗」よろしく、タナカヒロカズ運動も各地で楽しまれている。  岐阜県土岐市の建設業、田中宏和(81)は、17年の「集会」に、妻(78)と2人、生まれて初めて東京行きの新幹線に乗ってやってきた。 「あの時はスポーツ紙に掲載された『全国大会』の記事を、ご近所が教えてくれてね。新幹線から見えるもの全部が珍しくて、楽しかったなあ」  「運動」の存在を知りつつ、我が子に「宏和」と名付けた父もいる。田中宏典は、「運動」の話題をメディアで見るたびに妻と「あとひと文字だったのに」とジョークを交わしていたが、平成最後の年に長男が生まれると、迷わず「宏和」と名付けた。 「一生使える『ネタ』があるのって楽しいじゃないですか」 有志演奏会に向けて練習する東北ユース。3月23日の岩手を皮切りに被災3県などで「坂本龍一監督追悼演奏会」を開催。福島事務局の大塚真理は「周囲の思いに全力で応える人」と田中を称賛する(撮影/東川哲也)    宏和君は生後間もなく「運動」に加わり、生後10カ月で先輩たちとの「対面」も果たした。  当然ながら田中宏和が集まると、呼称が難しい。そこで田中は一人ずつあだ名をつけていく。土岐市の田中宏和は「新幹線の田中さん」、最初につながった田中宏和は「渋谷の田中さん」だ。  田中に伴走してきた「渋谷の田中さん」は、「運動」の楽しみをこう説明する。 「去年の年末に集まった時は、大阪の田中さんの話から東西で『タナカ』の発音が違うって話で大いに笑って、名古屋の田中さんの新幹線の時間をみんなで気にして、最寄りの駅まで『じゃあね!』って送って。久しぶりに会うと嬉しいし、楽しい。遠い親戚みたいです」 都内の自宅で。廊下は哲学書を中心に書物がぎっしり。妻と娘の要望に根負けして飼い始めた愛猫の名は、偉大なる哲人「プラトン」。障子を破られても「プラトンなら仕方がない」と思えるそうだ(撮影・高野楓菜)    田中もこう語る。「これはもう『拡張親族』だと感じる瞬間がたくさんあります」  2012年、車いす生活を送る「ミニバンの田中さん」がオフ会に初めて参加した。会場は階段しかないビル2階の居酒屋。宴たけなわの会場で「ミニバンの田中さん」の到着をアナウンスすると、複数人が自発的に動いた。 「車いすを担ぐ人と田中さんを抱えて階段を上がる人にさっと分かれて。僕も動きながら、親類のように温かい姿に感動していました」 関係は「シン・親戚」 「感心力」で緩くつながる  仕事の縁から田中と25年近い交流のある糸井重里(75)は、あくまで「運動」に無関係な立場から楽しく観察する中で、同様の見解を持っている。 「シン・ゴジラ的にいうならば、シン・親戚ですよ。血縁はないけれど、姓と名の両方とも同じという感覚は、きっと少しだけ『我(われ)』なんだと思う」  若いころから田中の行動を見続けてきた糸井だけに、そのキャラクターを「感心力の男」と鋭く形容し、「ほぼ日刊イトイ新聞」でも紹介してきた。 「人の話に感心するのがうまいんです。話してるとすぐ、『それはいいですね!』。大人って出来そうにないことには感心しないものだけれど、田中さんは感心する気持ちをフリーにしてる。だから、なんでも始められますよね」  この「感心力」こそ、同姓同名の250人をつなげる田中の「磁場」なのだろう。  糸井は続ける。「きっとエネルギーが余ってるんですよ。体も大きいし気持ちよく食べるし。あのエネルギーを本業だけで使い切るのは難しい。いい遊びを見つけたよ」。さすがの観察眼である。 (文中敬称略)(文・浜田奈美) ※記事の続きはAERA 2024年3月4日号でご覧いただけます

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