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働きながら学ぶ社会人が増加 空いた「時間」と社会人に配慮した「環境」が後押し?
働きながら学ぶ社会人が増加 空いた「時間」と社会人に配慮した「環境」が後押し?
AERAムック「大学院・通信制大学2021」から  仕事をしながら、退社後や土曜日に大学院へ通う社会人が増えている。大学院でも、社会人が受講しやすいカリキュラムを組んだり、通いやすい場所にサテライトキャンパスを設けたりするなど、受け入れ態勢を整えている。働きながら学ぶにはどういう点に注意すればいいのか。AERAムック「大学院・通信制大学2021」では、その現状を取材した。 *  *  *  社会人大学院に詳しい関水信和客員教授よると、1990年代に大学院の修士課程に入学した社会人数は2000人に満たなかったが、2000年以降は7000~8000人の間で推移しているという。その背景を、関水客員教授はこう話す。 「日本型の終身雇用が見直され、会社にいれば安泰という世の中でなくなってきた。そんな風潮を受けて、高いスキルを身につけようという向上心を持った社会人が増えています」  18年に国会で成立した「働き方改革関連法」で残業が減り、プライベートな時間が作りやすくなるなど社会的な要因も大きい。大学も人口の減少で学部生の増加が見込めず、社会人を積極的に受け入れるようになった。授業を夕方から開講したり、通いやすいビジネス街にサテライトキャンパスを設けるなど、社会人に配慮した環境を整えている。  社会人大学院という言葉自体は、文部科学省に定義されているわけではない。関水客員教授は、次のように解説する。 「週末や平日の夜間に授業を行い、社会人を大勢受け入れている大学院を、一般的に社会人大学院と呼んでいます。以前は入学時に大学卒業見込みの学生と同等の試験を受け一緒に授業を受けていましたが、1990年代に社会人特別入試を行う大学院が現れ、そこから一気に社会人大学院が増えました」  関水客員教授も大学卒業後、大手都市銀行に勤務する傍ら五つの大学院に通い、修士と博士課程を修了ないし修了単位取得している。初めて通った95年は、社会人が大学院に通うこと自体がめずらしく、会社の理解もそう簡単に得られなかったという。  1999年に創設された専門職大学院はより実践に即した内容を学ぶ。特長として修了年限を1年以上としており、必要単位の取得を修了すれば修士論文を義務付けていない。資格の取得に有利なプログラムが組まれている大学院もあり、教員も実務家の出身者が多い。専門職大学院には会計、経営(MBA)、技術経営(MOT)、教職大学院、法科大学院などがある。  ビジネスパーソンに人気なのがMBAだ。「人材マネジメント」「マーケティング」「ファイナンス」など企業経営全般について学ぶ。MBAは資格ではなく、修士過程を修了すると学位として与えられる。  MBAとともに人気なのが、公認心理師と臨床心理士の資格を取るコースだ。公認心理師は国家資格、臨床心理士は民間資格で、両方とも大学院で2年間学び、一定のカリキュラムを履修する必要がある。大学院入試の個別指導を行っている四谷ゼミナールの鹿取護さんは、次のように話す。 「心理学系は女性に人気の分野。また人生の経験が生かせるため、セカンドキャリアとしてチャレンジする年配の方も多いですね」  心理学系の大学院は書類、面接に加えて英語、心理学、小論文などの学科試験が課せられる。社会人であっても授業は夜だけでなく、平日の昼も実習を受けることが必須となる。仕事と両立できるかどうか、事前にカリキュラムを確認することが肝心だ。 「入試で社会人への配慮はありますが、入学後の授業は新卒生と同等に扱われます。社会人だからと、甘くしてくれることはありません」(鹿取さん)  東洋英和女学院大学大学院人間科学研究臨床心理学領域の社会人カリキュラムは、授業は夜に開講されるが、1年次から週に1日学外実習が実施される。1年次の冬からは、学内での相談面接実習も実施。2年次からは医療だけでなく教育、福祉、産業など幅広い現場で実習を行う。  さらに毎週木曜日の15時からゼミ演習、17時からカンファレンスが必修となる。当領域には8人の専任教員がおり、全員が臨床心理士・公認心理師の有資格者だ。臨床心理担当の教員は次のように説明する。 「昼に実習などがあるため、働きながら学ぶにはフレックスなど時間に余裕のある勤務形態が望ましい。学期末にはレポートや試験、さらに2年次には修士論文研究を手がけることになります。多忙な日々ですがみなさんやりがいを感じており、修了してからもさまざまな場で活躍されています」  同科のもう一つの柱、死生学分野のコースも社会人に人気だという。日本で初めて大学院で「死生学」を開講し、伝統を蓄積している。「命の尊厳」「看取り」「遺族の喪の作業」「寄り添い」などを理論と実践の両輪で学ぶ。 「超高齢社会により、最期の迎え方が非常に重要なテーマになっています。いろいろな経験を積んだ社会人の方にこそ、学んでいただきたい分野だと思います」(研究科長・久保田まり教授)  高みをめざすなら博士課程を狙おう。大手企業で長年シンクタンクの業務に携わってきた酒向浩二さん(50)は、千葉商科大学大学院政策研究科の博士課程に通っている。進学したきっかけを次のように話す。 「仕事で外国人との交流も多いのですが、シンクタンクに携わっている外国人はほとんど博士号を持っています。それが刺激になって、かねてから自分も取得したいと思っていました」  実務の実績が修士修了同等として認められ、博士過程から入れるコースがあることを知って入学を決意した。 「シンクタンクの仕事は民間業務ですので、アカデミックな研究とはだいぶ乖離があります。実務を大学の研究に生かすにはどうしたらいいか、その手法を身につけることが課題でした」  最初の半年間は集中的に講義を行い、後期からゼミ形式の授業を行っている。現在酒向さんは、博士号の取得に向けて論文を執筆中だ。 「実務は短期の現状分析が主ですが、アカデミックの世界は『そもそも』論を重要視し、既存研究を踏まえた重厚な分析をする。両方体験したことで、実務とアカデミックを結びつけ社会に貢献したいと思うようになりました」  関水客員教授は社会人が通う条件として、キャンパスが自宅や会社から近いこと、上司や家族の理解を得ること、できれば仕事と関連する分野の履修をすることとアドバイスする。 「社会人が大学院で学ぶためには、仕事との両立が課題になります。周囲の理解がないと通うのは難しい。また、せっかく仕事をしながら学ぶのですから、大学院での学びを仕事にも生かせるような分野を選べば、会社での評価も上がります」  出身学部と異なる分野の大学院を選ぶと、前提となる知識が身についていないため苦労する。関水客員教授は、そのクッションとして通信制大学の利用を勧める。自身も三つの通信制大学で学んだ。 「費用もそれほどかからないので、通信で学んで大学院に備えるという手もあります。通信での学びを評価してくれる大学院もあります」  大学院の費用は、国立の場合は大学に準じており初年度は入学金と授業料で82万円程度かかる。ただし法科大学院は国立でも108万円程度。私立は110~130万円が相場だ。選考は秋と冬から春にかけて2回行われる。大学院ごとに日程が異なるので、国公立大学を複数受けることも可能になる。  関水客員教授は社会人が大学院に行く意義を次のように話す。 「会社だけだと、どうしても視野が狭くなります。苦労も多いですが、いろいろな業種の人と一緒に知的な研鑽を積むことで、人生が豊かになります」  思い切ってチャレンジしてみよう。新しい道が開けるかもしれない。 (文/柿崎明子) ※AERAムック「大学院・通信制大学2021」から
dot. 2020/08/01 17:00
「飛び抜けた大物よ」と芳村真理 国民的大女優“李香蘭”との意外な接点
「飛び抜けた大物よ」と芳村真理 国民的大女優“李香蘭”との意外な接点
芳村真理さん(右)と林真理子さん (撮影/写真部・張溢文) 芳村真理さん (撮影/写真部・張溢文) 「夜のヒットスタジオ」「料理天国」などの人気番組を歴任した女性司会者の草分け的存在、芳村真理さん。モデル、女優、司会者など自身のキャリアを、古くから親交のある作家の林真理子さんと振り返ります。 【前編/ジュリーのオーラは独特 「夜ヒット」芳村真理をうならせた沢田研二の存在感】より続く *  *  * 林:30代で「夜ヒット」とかいろんな人気番組の司会をなさる前、20代はモデルさんをやってブイブイ言わせてたんですか。 芳村:20代のころはもう遊び放題。素敵なボーイフレンドがいっぱいいた。最初モデルをやって。 林:スカウトされたころは、何をされてたんですか。 芳村:スカウトじゃなくて、私、自分で行ったの。21、22歳のとき、何かおもしろい仕事ないかなと思って歩いてたら、「モデル募集」って書いてあったのね。モデルって何をやるんだろう、ミス・ユニバースじゃ背が足りないし、と思って入って聞いたら、それがヘアスタイルのモデルで、それを私、2年間やってたの。 林:そうなんですか。 芳村:そのあと雑誌のモデルを1、2年やって、日本テレビの「僕と私のファッション」という番組にモデルとして出てるうちに、局の人に声をかけられて、「誰かがあなたを愛してる」というドラマに、ペギー葉山さんのボーイフレンドの妹役で出てくれって頼まれちゃって、それに出ることになったの。 林:すごいじゃないですか。 芳村:でも私、お芝居大嫌いだし、セリフ覚えられないし、どうしようと思ったら、本番前に急に気がついたの。そうだ、台本を破いてカメラから見えないところにペタペタ貼っちゃおうって。 林:まあ、新人にしてはずいぶん大胆な(笑)。 芳村:それで自信ついちゃって、余計なことまで言って伸び伸びとやったの。終わったらプロデューサーたちが拍手しながら来て、「あしたからレギュラーにします」って。 林:わっ、すごい。 芳村:それを見てたのが大島渚さんだったみたいで、「大島です」って電話かかってきて、渋谷実という監督の「霧ある情事」という映画に、岡田茉莉子さんの妹役で出させられたの。津川雅彦さんの恋人役で。 林:素敵! 津川さんの恋人役。 芳村:私、お芝居嫌いなのに4本契約させられて、いやだ、いやだと思いながら松竹の大船の撮影所に通ってたんです。やっと終わって、帰る途中、中華料理屋にマネジャーと入って、マネジャーが「ご苦労さま」と言ってお金を渡してくれたの。そのころモデルなんて1万円ぐらいのギャラなのに、映画は1本30万ぐらいで、4本分100万円以上のお金を渡してくれたのよ。 林:まあ。 芳村:びっくりしちゃって、「私、このお金持って来月ヨーロッパに行きたい!」って言ったの。そしたら外国人の男の人が寄ってきて、「私はパンアメリカンのデビッド・ジョーンズという者です」って。 林:ジョーンズ? あっ、「ヒョー、ショー、ジョー」のあの人だ! 芳村:そう。マリコさんって何でもよく知ってるねえ(笑)。「今、北回りで回ってる女性がいるので、あなたは南回りで世界一周やってくれませんか」って。 林:えっ、兼高かおるさんみたい。 芳村:その北回りの人がかおるさんだったの。「何をすればいいんですか?」って聞いたら、「女性週刊誌とのタイアップ企画で、世界のあちこちで写真を撮ってきてくれればいいんです。世界一周のファーストクラスの切符を差し上げます」って。悪い話じゃないわねと思って、世界一周のファーストクラスの切符をもらっちゃったの。 林:すご~い。 芳村:それで高田美さんというパリ在住の女性のカメラマンと組んで、ヨーロッパじゅう写真を撮って回ったの。 林:あの有名な高田美さん。 芳村:途中でたまたま川喜多かしこさん(ヨーロッパの名作映画の日本輸入、日本映画の海外普及に貢献した映画文化活動家)たちとばったり会って、「カンヌ映画祭というのがあって、岸惠子さんの映画が出品されるんだけど、日本人がいないから、悪いけど着物を着て立っててくれる?」って言われて、私、カンヌにお手伝いに行ってあげたんです。そこでイヴ・モンタンとかと友達になったし、もう少しのところでピカソのインタビューがとれそうだったの。 林:なんかすごい話が次々と……。司会は、どういうきっかけでやるようになったんですか。 芳村:それがね、うちで朝の番組を見てるときに、主人が「真理はこういうのに出るといいんだよ。売り込んでみたら?」って言うの。そうかなと思って、マネジャーと二人でいろんなテレビ局に行ったら、フジテレビの「小川宏ショー」が、木元教子さん(アナウンサー)がおなか大きくなって急に番組をおりなきゃならないというときで、私がキモッちゃんのピンチヒッターで出ることになったの。だからツイてたの。 林:そのあと、「夜ヒット」とか「3時のあなた」の司会をなさったわけですね。そして、女性はそれまでアシスタント的だったのが、芳村さんの登場で、女性が番組の中心、男性はアシスタント的に次々と代わるという形に変わったわけですよね。 芳村:そうだったのかな。「3時のあなた」という番組ができて、ニューヨークでうちの主人と仲がよかった山口淑子さんが帰ってきて……。 林:李香蘭さんですね。 芳村:そう。みんなでごはんを食べたときに、私、山口さんを見てて「この人、絶対テレビに向いてる」と思ったの。「テレビにお出になるお気持ちありますか?」と聞いたら、「私、そういう新しいもの好き」とおっしゃるのよ。それで次の日フジテレビに行って、「山口淑子さん、テレビに向いてる」と言ったら乗り気になって、「3時のあなた」の月、火を高峰三枝子さん、木、金を山口さんがやるようになって、真ん中の水曜日だけ私がやってたんです。 林:すごいですね。国民的大女優が司会なんて。森光子さんはそのあとですか? 芳村:森さんは私のあと。山口さんが海外取材でイスラエルに行ったときに、山口さん、いなくなっちゃったんだって。それで大騒ぎになったんだけど、パレスチナの女闘士でライラ・カリドっていう人がいて、その人に会いに行っちゃったのよ。彼女はライラにインタビューして、それを「3時のあなた」で流したの。山口さんってそういうところがあるの。飛び抜けた大物よ。 林:『李香蘭 私の半生』という本を読んでも、それはわかります。 芳村:マリコさんはああいう人と会うべきだったのでは? 林:私、劇団四季の「ミュージカル李香蘭」の初日に行ったときに、トイレですれ違ったんです。「きょうは初日おめでとうございます」と言ったら、「あなたも結婚おめでとうございます」って。それが最初で最後でしたけど、トイレでのすれ違いですから、もっときちんとしたところでお会いしたかったです(笑)。 芳村:私、彼女の日経新聞の「私の履歴書」を読んで、中国でスパイ組織に入れられて殺されそうになったり、牢屋に入れられたりした李香蘭の人生の話を、どうしても聞きたくなったの。友人だった川島芳子の話とかも。だけど、向こうで映画を撮ってるころの話って、まだこれ(口をチャックするしぐさ)だったんです、そのころは。 林:満映時代の話ですね。 芳村:そう。私、山口さんにそのへんの話をじっくり聞きたいと言ったら、「3日ぐらいかけてゆっくり私の半生の話をしよう。オフレコででも話しておきたいことがある」と言ってくれたの。「やったァ」と思ったら、そのあと急に入院しちゃって。 林:まあ、それはもったいなかったですね。ほかにも話を聞いておきたかったなと思う人います? 芳村:いっぱいいた。「料理天国」をやってるころ、中国に取材に行って、(愛新覚羅)溥儀さんと溥傑さん兄弟の……。 林:「ラストエンペラー」ですね。 芳村:そう。弟の溥傑さんと故宮を歩きながらいろいろインタビューしたら、「私は日本に帰るので、そのときにゆっくり話しましょう。いっぱい話があるので」と言って、電話番号まで交換して楽しみにしてたの。でも、亡くなっちゃって。 林:うわあ、それは惜しかったですねえ。芳村さんのお兄さんは、新聞記者だったんですよね。 芳村:そう、東京新聞の。 林:ジャーナリストとしての血が流れてるんですね。 芳村:いや、私は単に外からワーワー、キャンキャン言ってるだけ。 林:でも素晴らしいです。この好奇心とエネルギーと知性。そしてこの美しさ。どうしたらこの若さと美しさを保てるんですか。エステに行ったりなさるんですか。 芳村:エステ? 行ってないですよ。ずいぶん以前から……。 林:体操とか? 芳村:しない。朝15分の犬の散歩ぐらいしかしてない。ごめんなさい。私、なんにもやってないの。 林:この前、共通のお友達のお誕生日会で芳村さんをお見かけしたら、このあと運転して茅ケ崎まで帰られるって聞いて、びっくりしましたよ。 芳村:東京・茅ケ崎50キロぐらいかな。東名をすっ飛ばすの。なるべく真ん中(走行車線)を走ろうと思うんだけど、ほかのことをいろいろ考えてると、気がついたらいちばん右(追い越し車線)を走ってるのよ。本能的に抜こうというのがあって(笑)。 林:気をつけてくださいよ。ご主人が亡くなって、またテレビとかのお仕事をやろうかなと思ってます? 芳村:だって、85(歳)よ。100(歳)がすぐそこだから、100超えを目指して好きなことをやっていたいなと思う。 林:「こんなふうに年をとりたい」というお手本として、これからも元気でいらしてくださいね。 芳村真理(よしむら・まり)1935年、東京都生まれ。モデルとして活躍後、大島渚監督に抜擢され「霧ある情事」で女優デビュー。その後「血は渇いてる」「斑女」「酔っぱらい天国」など八十数本の映画に出演。フジテレビのワイドショー「小川宏ショー」出演を機に、「夜のヒットスタジオ」「ラブラブショー」「3時のあなた」「料理天国」など、個性ある番組で司会を務める。夫・大伴昭氏(享年89)を一昨年亡くしたばかり。現在、「MORI MORIネットワーク」副代表を務める (構成/本誌・松岡かすみ、編集協力/一木俊雄) ※週刊朝日  2020年8月7日号より抜粋
林真理子
週刊朝日 2020/08/01 11:30
あと10年早ければ… 第二の人生を始動するベストの年齢とは?
あと10年早ければ… 第二の人生を始動するベストの年齢とは?
フライフィッシングを楽しむ沢木さん (本人提供) ピアノのレッスンを受ける戸ヶ崎さん (本人提供)  定年やリタイア生活も視野に入る50代。しかし、仕事を辞めたところで満足できる生活は送れるのか。より充実した老後を送るには50代から準備が必要。定年退職をしても、楽しい日々を過ごす、人生の先輩たちに話を聞いた。  フライフィッシング(毛針釣り)、バンド、地域活動……。東京都町田市に住む沢木健さん(仮名・69歳)は趣味が多い。  半年前、散歩の途中でたまたま立ち寄った近くのカフェにもはまっている。 「ここで会う人はみんな生き方が全然違っておもしろいんです。毎日、行事に事欠きません」  会社員のときには考えられない生活だ。大手の化学・電気素材メーカーに勤め、一年の3分の1は海外出張。毎日当たり前のように深夜まで働き、「完全にワーカホリックだった」。  転機は14年前。 「お金のためだけに働く人生はもったいない。好きなこともして、楽しい人生にしたい。悔いのないようにしたい、と思ったんです」  会社を辞めて生きていけるのか、将来に向けてのお金の出入を計算した。仕事だけしてきた分、貯金はそれなりにあった。退職金と年金を足せば、趣味などに使っても80歳くらいまではやっていけると判断し、妻に話して辞めた。  これまで仕事に向けていた情熱を、興味を持ったことに向けた。趣味だけでなく、地域の自然保護活動を始め、昨年には地域住民の日々の困りごとをサポートする団体も立ち上げた。  コロナ禍でもやりたいことはやれている。カフェに行く回数は減らしたが、家にこもっての毛針作りも楽しみの一つだ。 「60歳以降をどう生きるか考えるのには1年ぐらいかかります。60歳で考え始めるのは遅い。本を読んだり、人生の先輩たちの生き方を見たり、ちょっといいなと思うことを試してみることです。60歳で定年だとしても、それ以降の長い時間をどう過ごすのか、真剣に考えないともったいない」  神奈川県大和市の戸ヶ崎正次さん(66)は、50歳ぐらいで定年後の人生で何をするか考える「50(ごーまる)プロジェクト」を、65歳で「65プロジェクト」を妻と作った。  現在は、オヤジの居場所作りを目指す「じゃおクラブ」というクラブで、趣味を楽しんだり、ボランティアなど地域に密着した活動をしたりしている。  昔から憧れていた海外暮らしも昨年実現した。約3カ月間、イタリアのトリノにピアノ留学した。  海外暮らしといっても豪勢なものではない。渡航費はショッピングなどでこつこつためたマイルを使い、滞在中はピアノの先生の紹介で1カ月間はアパートを相場の半値(月約6万円)で借り、残りは先生の弟子の家に住まわせてもらった。今は、年に1カ月程度、仕事をし、「緩く」生きているという。 「やり方次第で年金生活者でも海外に行くことはできるし、夫婦2人で暮らしていけますよ」  次は「75プロジェクト」。57歳で始めた演劇の次の目標として、海外での公演を掲げた。 「目標があるとないとで日々の生活が全然違います。年をとっているからとか、恥ずかしいからとか、自分に制限をかけるのはもったいない。私は趣味20個を目標にやっています」  人との出会いを楽しもうと始めたホームパーティーもその一つ。今はコロナの影響もあり、大人数というわけにはいかない。テレビ会議システムの「Zoom」を使った。 「コロナも悪いことばかりではありません。さまざまな人とつながることができました。今後テレワークが日常化したら、皆さん、仕事以外の楽しみをきっと見つけられると思います」 (本誌・大崎百紀) ※週刊朝日  2020年8月7日号
シニア
週刊朝日 2020/07/30 08:00
「夜の街関係」にモヤモヤ ホストクラブは責めるが風俗は放置という現実
北原みのり 北原みのり
「夜の街関係」にモヤモヤ ホストクラブは責めるが風俗は放置という現実
北原みのりさん  作家・北原みのり氏の連載「おんなの話はありがたい」。今回は、新型コロナウイルスの感染が再び拡大する中でよく耳にする「夜の街関係」という言葉について。その言葉が覆い隠す現実に、もやもやするという。 *  *  * “いわゆる夜の街関係”。ここ数週間で、一日何度も見聞きする言葉になっているが、何度聞いてもなじめず、違和感は日増しに大きくなる。このもやもやを、ここでいったん、整理したい。  そもそもこの言葉が出てきたのは、緊急事態宣言解除後の感染者に「接待を伴う飲食店の従業員や客」が多くを占めていたことからだ。ホストクラブが名指しされ、フツーの人とは関係ない “別世界”を強調するために作られた言葉のようだった。案の定、水商売に対する差別だ!という批判もおきている。そりゃごもっともよ……と思いつつ、ちょっと待った。そもそも、1日300人を超える感染者を出している東京で、「夜の街が問題」とか「夜の街のせいにするな」とか、そんなやりとりをしている現実こそがモヤモヤの原因でもある。  いったいCOVID‐19関連で、これほど「夜の街」がここまで騒がれる国は、ほかにあるのだろうか。そもそも「接待を伴う飲食店」は、コロナ前もコロナ後も、非常に日本的なものだ。女性を隣に座らせ、お酒をつがせ、男たちの絆を深めるホモソーシャルな社交の場が商談や密談の場になっていることも、そしてそれが一般的なサラリーマン男性(職種を問わず、地位を問わず、国会議員であろうがなかろうが)の日常的な夜の習慣であり、「あるのが当たり前」であるらしいことが、コロナが暴いた日本のリアルだ。海外の友人が「日本のサラリーマンって、仕事帰りに風俗やキャバクラに行くのか!」と驚いていたが、「驚かれるようなこと」なのだと思う。  この原稿を記している最中、NHKのニュースが流れてきた。7月27日、港区では六本木の高級クラブで男性を接待する際のアドバイスを感染対策の専門家を招いて行い、その動画を区のホームページで公開するという。動画では食べる時はセンスで口を隠すなど、高級クラブ“らしい”仕草を提案していた。これは本当に今、税金を使って、そして区のHPで公開するようなことなのだろうか。  シングルマザーの女友だちは、「大切なことが、昼の会議ではなく、夜の街で男たちで決まる」と嘆いていた。50年前の話ではなく、少し前、のことだ。マスコミ勤務の男性の友人は、「いまだに地方に行くと接待で風俗の誘いを受ける」と言っているが、これも100年前の話ではなく、今、のことだ。先日、若い力士が女性に接待される店に仲間と遊びに行ったと報道され休場したが、力士、というより20代の男性でも今はキャバクラに行く時代なのだということを突きつけられた。  もう一つのもやもやは、接待を伴う飲食を非難する一方で、“性的サービスを伴う接待”である性産業に関しては、ほぼ放置ということだ。海外の報道をみていると、オランダやドイツなど、セックス・トレードを合法化している国は、政府が営業を止めている。飲食店やマッサージ店が営業を開始している中、なぜ性産業は営業できないのか、コロナを機につぶそうとしているのではないか?という議論が今、起き始めている。  日本の場合は、“性的サービスを伴う”業種で店舗を持たないデリヘルなどは、緊急事態宣言中も営業を続けていた。デリヘルのホームページをみると「清楚な現役女子大生、お貸しします」という広告で、18歳、19歳、という年齢を表示した女性たちが「貸し出され」「売られている」のが分かる。男性の需要には超寛大な一方、働く女性を守る法律はない。自己責任でコロナ対策し、自己責任で性感染症も、妊娠も、さまざまな危険から身を守らなければならない。  性産業に関しては、ジェンダー平等が国策になっている北欧諸国にならい、性産業の需要自体を少なくするための取り組みが主流になっている。それは日本の現実とは真逆の方向である。 「夜の街」という言葉から見えない現実がある。「夜の街」という言葉からすら、はじかれる女性たちがいる。自分なりのもやもやは整理はできたが、さらにもやもやは深まる。 ■北原みのり(きたはら・みのり)/1970年生まれ。作家、女性のためのセックスグッズショップ「ラブピースクラブ」代表
セックス新型コロナウイルス男と女
dot. 2020/07/28 16:00
家事は「専業主婦の母」を目指さず自分の「合格ライン」設定を 負担とストレスを減らすための考え方
川口穣 川口穣
家事は「専業主婦の母」を目指さず自分の「合格ライン」設定を 負担とストレスを減らすための考え方
自宅に長くいることで、洗濯や掃除の回数が増えたという悩みも多い。在宅中は同じ服を着続け、洗濯回数を何とか減らすという荒業も(撮影/写真部・松永卓也) AERA 2020年7月27日号より  共働き家庭が増えているのに、家事への姿勢は「専業主婦の母」と変わらない。母と同じように家事に完璧を求めず、自分なりの合格ラインを設定することが家事負担とストレスを減らす近道だ。「家事改革」を特集したAERA 2020年7月27日号から。 *  *  *  ようやく終わった。そう思って台拭きのシワを伸ばしたその瞬間、小学3年生になる長男が洗い忘れの食器を持ってくる。そういえば、作り置きのおかずはもう食べきった。明日の朝ごはんの準備もしなくちゃ──。  東京都の会社員女性(40)の夜はいつも、終わらない家事との格闘だ。 「本当は子どもの学校の様子を聞いたり、仕事のプレゼンのイメトレをしたりしたいのに、それどころではありません」  夫は几帳面な性格で、任せている風呂・トイレ掃除や洗濯物の取り込み、休日の食事作りは完璧にこなすが、その分妻の「できていないところ」にも容赦なく口を出す。 「自分のできていないところばかり目について、ときどき本当に泣きたくなります」  と、この女性。あまりにも重い家事負担の原因はどこにあるのか。立命館大学の筒井淳也教授(家族社会学)はこう言う。 「そもそも、日本の家事は世界的に見ても極めて“高品質”です。家はきれいで食事の品数も多い。家事を負担に感じるのは質が高すぎるからです」  夫が外で働き、妻が家事・育児に専念する「専業主婦世帯」が増えた1970年代前後に、日本の家事サービスの質は急速に高まった。現在では共働き率が格段に増えたのに、家事への姿勢は大きく変わらない。 「専業主婦家庭で育った人は、自分の母親と同じような質の高い家事を求めがちです。でも、共働きでそれは無理。母のレベルを目指さないことが家事負担を減らす鉄則です」(筒井教授)  2018年の「全国家庭動向調査」によると、常勤で働く妻の平均家事時間は平日1日あたり3時間7分。フルタイムで働きながらこれだけの時間を家事に費やすのは大きな負担だ。しかし、これだけやっても専業主婦の平均の約半分に過ぎない。  では、必要な家事、やらなくていい家事はどう見極めればいいのだろうか。『その家事、いらない。』の著書がある家事・育児コンシェルジュの山田綾子さんはこうアドバイスする。 「やめる家事を探すのではなく、これだけは大事にしようと思うものを考えて合格ラインを定めましょう。他はやらなくてもOKと考えれば、ストレスなく家事を減らせます」  山田さんの場合、食事は「栄養あるものを家族一緒に食べる」ことを合格ラインに設定しているという。それができれば、同じ献立が続いたり、丼ものなど簡単な料理になっても問題ない。下ごしらえを省略した料理やちぎっただけのレタスも「1品」として堂々と食卓に並べる。 「以前は1週間のメニューを考えて、一汁三菜しっかりつくろうと頑張っていました。それで夕食の時間が遅くなって、子どもを早く寝かせなければと叱りつけることも多くなった。すべてが逆効果でした」(山田さん)  ならば「手抜き料理」になったとしても、楽しく食事する機会を大切にしようと決めた。 「仕事のように“これも、あれも”ではキリがないしストレスもたまります。何を大事にするかは人それぞれですが、“大事にしたいこと”を目指す家事は自然と楽しくなります」(同)  自分がストレスに感じることを見つけ、その工程を「やめる」ことも大切だという。  油で汚れた台拭きの洗濯がストレスなら、使い捨ての業務用に替える。白いスポンジは汚れものを洗うのを躊躇するし漂白も面倒だから、黒いスポンジを使う。食器は角を洗うのが手間だから、すべて丸形にする。  洗濯物を畳むのが手間ならば、トップスはハンガーにかけてそのまま収納、靴下やボトムスなどはポイッと入れられるバスケットを用意すればいい。  小さなストレスをひとつひとつ削っていけば、「家事の総量削減」にも、「ストレス軽減」にも、大きく役立つという。 「テレビやインスタにあふれるキラキラ家事はごく一部。手を抜いて、ストレスをためない家事をしましょう」(同) (編集部・川口穣) ※AERA 2020年7月27日号
AERA 2020/07/23 10:00
7カ月で13キロ減に成功! 40代女性を変えたマインドフルネスダイエットとは
中島晶子 中島晶子
7カ月で13キロ減に成功! 40代女性を変えたマインドフルネスダイエットとは
※写真はイメージ(gettyimages) AERA 2020年7月20日号より(写真:小学館提供/出所『冷凍からのレンチン! やせるおかず 作りおき』) AERA 2020年7月20日号より(写真:小学館提供/出所『冷凍からのレンチン! やせるおかず 作りおき』) AERA 2020年7月20日号より(写真:小学館提供/出所『冷凍からのレンチン! やせるおかず 作りおき』)  糖質オフもプチ断食などさまざまなダイエットを試しても続かない。そんな人も少なくないはずだ。だが、思考を少し変えるだけで成功した人たちもいる。AERA 2020年7月20日号では、彼らの成功例とおすすめの簡単自炊レシピを紹介する。 *  *  * 「今、ここ」に注意を向けるマインドフルネスの理論を使い、実際にダイエットに成功したのが、心理カウンセラーの吉村園子さん(42)だ。幼い頃から太りぎみで、小学生時代のあだ名は“デブリン”。リンゴダイエット、糖質オフ、置き換え、レコーディング、プチ断食……。あらゆるダイエットを試してきたが、どれも長続きしなかった。だが40歳のときに一念発起して再びダイエットに挑戦。そのポイントは「いかに自分の心がご機嫌でいられるか」。  まず、「食事は自分自身をおもてなしする時間」と考えた。食材は質の良いものを使用、安いものをまとめ買いするのはやめた。食事中はテレビの電源を切り、スマホは手の届かないところへ。食事を並べてもすぐには手をつけず、「今、どのくらいおなかが空いているのか」を自分自身に問いかけた。丁寧に食べることで、おなかいっぱいになるサインを見逃さず、食べ過ぎを防げるようになった。次第に自分の適量もわかってきて、それまでよりずっと少ない量で満足できるようになってきた。  結果、7カ月で13キロの減量に成功。身長156センチ、体重65キロ、体脂肪率34%だった吉村さんは、現在に至るまで51~53キロをキープしている。今夏には自身のダイエット法をまとめた『40年間おデブだった私がリバウンドなくスッキリ13kg やせた!! マインドフルネスダイエット』を出版した。吉村さんは言う。 「ダイエットで大事なことは、完璧を目指さないことと、楽しむこと。不安な時代だからこそ、前向きに楽しむことが大切です」  実際、この状況を前向きに捉えることで、ダイエットを成功させた人はいる。  大薮胤美(おおやぶつぐみ)さん(55)はデザイン事務所の代表だ。緊急事態宣言のなか、スタッフは自宅勤務となり、徒歩で出勤できる大薮さんが事務所に待機することになった。スタッフの勤務体制を整えるのに奔走する一方、予定していた仕事の多くが延期に。これからどうなるのか不安な気持ちがわいてくるなか、ふと、ダイエットしてみようと思いつく。 「こういうときだからこそプラスに変える要素を持ってないと、精神的にしんどいな、と思ったんです。この時期、何か自分にとってよかったと思えることをやってみたいという思いもありました」  会食もゼロになり、事務所にあふれていたいただきもののお菓子もなくなった。電話番のために事務所を離れられないから、昼と夜は弁当を持参。過去に手掛けた健康関連の書籍の内容を参考にしながら、野菜やタンパク質豊富で炭水化物控えめの食事を心がけた。これまではランチは外食、夜は会社でお菓子をつまみ、帰宅後深夜に食事をしていたが、弁当生活のおかげで19時半には食事を終えるようになった。無料の携帯アプリで毎日の体重と体脂肪、食べたものを記録するほか、帰宅後はYouTubeを見ながら1時間ほどエクササイズに励んだ。  4月は「非常モード」のスイッチが入っていたせいか、食事の量が減ったことにとくにつらさを感じなかった。5月に入ると今後の仕事の目途がつき、次第に不安も消えていった。このころには、すっかり弁当とエクササイズ生活が習慣になり、甘いものに対する欲求も薄れ、お菓子を見てもそれほど食べたいと思わなくなった。  結果、4月からの約3カ月半で8.5キロの減量に成功。60キロ代後半だった体重は、50キロ代に。標準体重まではあと2、3キロというところまできた。 「以前食べていた仕出し弁当を見ると、『こんなにごはんを食べていたんだ』と驚きます。自信もついたし、自分の食生活を見直すいいきっかけになりました」  そう、外食する機会が減った今は、ダイエットのチャンスでもある。だが、自炊の手間はできるだけ省きたい。 『やせるおかず 作りおき』の著書があり、自身も1年間で26キロのダイエットに成功した料理研究家の柳澤英子さん(60)は、脳が満足する家メシのポイントは“冷凍”と“レンチン”にあるという。 「野菜や肉、魚などの食材を生のまま切ったり味付けしたりして冷凍し、食べるときにレンジで加熱すれば立派な一品です。レンチンする際に調味料が染み込むので、少ない調味料でもしっかり味がつき、ダイエットにピッタリです」(柳澤さん)  柳澤さんが、簡単に作れる作り置きレシピを紹介してくれた(下記のレシピ)。時間があるときに仕込んでおけば、忙しいリモートワーク中でもすぐに食べられるすぐれものだ。(フードジャーナリスト・浅野陽子、編集部・中島晶子、藤井直樹) ●料理研究家・柳澤英子さんの冷凍・レンチンで脳内満足レシピ 鶏肉のトマピーソース (1)鶏もも肉1枚に塩コショウ少々をふり、ミニトマト8個、ピーマン1個と玉ねぎ4分の1個を粗く刻んでのせる。 (2)酢、トマトケチャップ各大さじ1を混ぜて(1)にかけ、冷凍。 (3)凍ったまま電子レンジで6分加熱。上下を返してさらに4分加熱。オリーブオイルをかけて食べる。 豚肉と白菜の重ね蒸し (1)ざく切りにした白菜2分の1枚、豚バラ薄切り肉200グラム、塩コショウ少々、しょうが1かけ、刻んだザーサイ、残りの白菜2分の1枚の順にのせ、冷凍。 (2)凍ったまま電子レンジで6分加熱。上下を返して5分加熱。ポン酢醤油をかけて食べる。 白身魚と大豆のキムチ蒸し (1)蒸し大豆100グラム、白身魚を容器に入れ、塩コショウをふり、白菜キムチをのせて冷凍。 (2)凍ったまま電子レンジで5分加熱。上下を返して2分加熱。ごま油をかけて食べる。 ※AERA 2020年7月20日号より抜粋
ダイエットレシピ
AERA 2020/07/17 11:30
【現代の肖像】順天堂大学名誉教授・樋野興夫「『がん哲学外来』で言葉を処方する」
【現代の肖像】順天堂大学名誉教授・樋野興夫「『がん哲学外来』で言葉を処方する」
「ほっとけ、気にするな」「人生いばらの道、されど宴会」など数々の「言葉の処方箋」を贈る(撮影/岸本絢) ※本記事のURLは「AERA dot.メルマガ」会員限定でお送りしております。SNSなどへの公開はお控えください。  「病気であっても、病人でない」「八方ふさがりでも天は開いている」。がん哲学外来を提唱した樋野興夫は、そんな言葉を贈り続ける。いま、樋野が始めた「がん哲学外来メディカル・カフェ」は全国約170カ所まで広がり、多くのがん経験者や家族らが集い、力を得る。無医村で育ち病理医となった樋野は、なぜ「哲学」に目覚めたのか? 温かなまなざしが育まれた軌跡をたどると、ある「芯」が見えた。  紺色のややくたびれた感じのスーツに青いワイシャツ、ネクタイも紺色で細めと決まっている。 「近所に買い物に行くときもスーツだよ。ネクタイは1本。毎日締めていると、2、3年で擦り切れてしまう。ワイフに注意されるんだけどね」  樋野興夫(ひの・おきお 65)は、故郷の出雲地方のなまりで、ゆったりと語る。松本清張の『砂の器』でも知られるように、出雲は島根県なのにズーズー弁である。物腰は柔らかく、自身について「暇げな風貌」という表現を好んで使う。  樋野は病理医である。同時に、2000年ごろに「がん哲学」を提唱し、08年に「がん哲学外来」を立ち上げた。以来、数千人のがん患者や家族らと面談して、さまざまな言葉を届けてきた。 「言葉の処方箋(せん)だよ。無料で、副作用がないよ」  19年11月30日、東京・お茶の水で開かれた「がん哲学外来 お茶の水メディカル・カフェ」の個人面談に立ち会った。会場はお茶の水クリスチャン・センター8階のチャペル。机はなく、いすが向かい合わせに置かれている。樋野はいつもの服装で、カルテもない。「聴診器は対話」という。  50代後半ぐらいだろうか。初めて来たという女性は最初、こわばっていた。胸に腫瘍(しゅよう)があるが、精密検査を受ける決断がついていない。 「純度の高い専門性を持った、がん専門の病院で診てもらって。曖昧(あいまい)なままだと一日中悩むよ」 「そうなんです」 「病気になっても、病人ではないよ。自分でコントロールできることには全力を尽くし、コントロールできないことには一喜一憂しない」 「この10カ月、もやもや悩んでいて。純度の高い医療に任せるところは任せて、自分にできることに集中する。分けなきゃいけないんですね」 「そういうことだね。そうすると、たとえ問題が解決しなくても、悩みは解消するよ」 「すっきりしました。夫が『どうせ人は死ぬんだから』と言うので、恨んでいたんです。でも、怒りも収まりそうです。違う自分になれました」  いつの間にか、女性は進むべき道を自ら見いだしている。たった十数分で、表情が一変していた。 2019年11月15日、ウィッグの製造・販売を行うスヴェンソンの新宿東口サロンで開かれた「がん哲学外来カフェ」。樋野の講演後は、参加者たちが語り合う。笑いあり真面目な話ありで、初めての人もすぐに打ち解けていた(撮影/岸本絢) ■大きくなったら医者になる、子ども心に母の背中で決意  日本では、2人に1人が生涯にがんになり、年間100万人ががんと診断される。がんは1981年以来、死因の第1位でもある。  人は自分や家族ががんになると、戸惑い、ときに死を意識する。人生を振り返り、今後どう生きるかを考える。そこで、がんを科学的に、人生を哲学的に学び、がんと共存していく。大まかに言えば、それが「がん哲学」である。樋野は「生物学の法則と人間学の法則を融合した」と言う。  各地で毎日のように行う講演でも、面談同様に、ヒントになりそうな言葉を繰り出す。 「八方ふさがりでも、天は開いているよ」 「夢を追いかけると逃げる。持ち続けると、夢から寄ってくる」 「困っている人とは一緒に困る。犬のおまわりさんだね」 「人生には、(過去の経験が)もしかするとこのときのためだったのでは、と思うときが来る」 「(象の横に子どもが座る写真を見せて)支えることはできなくても、寄り添うことはできるよ」 「ゲーテは言ってるよ。『涙とともにパンを食べた者でなければ人生の味はわからない』と」  19年12月には、東京都文京区の小学校で6年生に授業をした。大人向けとほぼ変わらない、小学生には高度な内容だ。だが、感想文を読むと、 <「がん」も個性という話を聞き、考え方が変わった気がします>(女子) <「病気であっても普通に接する」と聞いて、「がんと共存」し、心配しすぎないようにすることが大切だと思いました>(男子) <特に印象に残ったのは人との関わり方です。人を評価することはやめようと思います>(男子)  などと、それぞれの感性で、自分なりに受け止めたことがわかる。樋野はこう語った。 「子どもたちの中に、将来残る言葉が、ひとつでも二つでもあればいい。僕の授業は、大学生は半分寝る。でも、小学生は全員、起きてるよ」  樋野には40冊近い著書がある。何冊かは英語、中国語、韓国語、ベトナム語に翻訳されている。  1954(昭和29)年3月7日、樋野は、出雲大社から北へおよそ8キロにある島根県大社町(現出雲市)の鵜峠(うど)で生まれた。「出雲風土記」にも登場する、日本海に面した小さな村だ。  姉が2人いる。興夫という珍しい名前は、「家を興す」という願いを込めて、船乗りだった祖父の卓郎が付けた。母の寿子(としこ)の兄2人が戦死したのだ。父の廉平(れんぺい)は婿養子で、貨物船やタンカーの機関長をしており、年に1、2カ月しか帰らなかった。家は広く、ニワトリを飼い、ヘビやイノシシが部屋に入ってきたこともあったらしい。  村に医師はいない。樋野が病気になると、母が背負い、トンネルを抜けて数キロ先の鷺浦(さぎうら)にある診療所まで連れていった。山道を母の背中で揺られながら、3歳のころから、子ども心に「大きくなったらお医者さんになろう」と決めたという。  少年時代、夕暮れに一人、海に石を投げていると、離れた後方で夕涼みのお年寄りが見守ってくれた。地元の人々は、漁業や土木などで黙々と自らの役割を果たしている。その姿が印象に残った。  第一の転機は浪人時代である。京都の予備校で、橋本實という英語の先生と出会った。東大出身で、自身の学生時代に総長だった政治学者の南原(なんばら)繁の話をした。樋野は南原の著作を読み始める。やがて関心は、南原が師と仰いだ新渡戸(にとべ)稲造や内村鑑三へと伸び、また南原の次に東大総長を務めた経済学者の矢内原(やないはら)忠雄へと広がった。  橋本は、プロテスタントの牧師でもあった。樋野は聖書も読み始める。そして、新約聖書「ヨハネの福音書」の「はじめに言葉ありき。言葉は神とともにあった」という一節に魅了された。新渡戸、内村、南原、矢内原もすべて、クリスチャンだ。がん哲学外来で樋野が語る言葉の多くは、新渡戸らの格言や聖書がベースになっている。 米国出身の妻のジーンと。ジーンもカフェの参加者たちとよく交流する(撮影/岸本絢) ■森を見て木の皮まで見る、病理学の恩師たちに学ぶ  73年11月、愛媛大学医学部に1期生として入学。卒業後は病理医を目指した。人と話すのが苦手で、患者と接する臨床医は向かないと考えたのだ。母校の助手となったが、ほどなく、志願して東京・大塚の癌研究会(現「公益財団法人がん研究会」)に“国内留学”した。81年、癌研究所病理部の研修研究員に。これが第二の転機となった。  所長は菅野晴夫、病理部長は北川知行(現・名誉所長=83)という体制だった。病理部では、菅野と樋野の席が背中合わせになっていた。菅野は、顕微鏡を覗(のぞ)きながら樋野に語りかけた。中でも、菅野の恩師にあたる吉田富三の話が響いた。  吉田富三は、人工的な肝がん発生に世界で初めて成功した病理学者だ。がん細胞も人間も同じ生命の海を生きる仲間ととらえた。富三の息子でNHKのディレクターだった吉田直哉は、富三は「がん細胞に起こることは人間社会にも必ず起こる」という考えを抱いていたと想像する(吉田直哉著『癌細胞はこう語った 私伝・吉田富三』)。  菅野はまた、「森を見て木を見て、木の皮まで見る」「広々とした病理学」などと、病理学の神髄を教えた。樋野は、背中越しに聞いた菅野の言葉や吉田富三の著作などから、次第に、がん哲学のイメージをふくらませていった。  元同僚によれば、樋野は、診断病理(患者の細胞診断や解剖)を勉強しつつも実験病理の研究に熱中したので、一部の診断病理の専門家から風当たりが強かった。だが、「僕は一番大事なところを踏みつけられなければ、何を言われても大丈夫です」と跳(は)ね返していた。北川はこう語る。 「親方日の丸ではない癌研の研究者は野武士ぞろいでした。樋野君は、その中でも最も野武士らしかった。目標を定めると、多少の波風を立てても猛進する。外部の研究者にも会いにいく。それが、現在の活動にも通じているのでしょう」  89年から91年まで、樋野は米国フィラデルフィアのフォックス・チェイスがんセンターに留学した。師匠は、発がんの仕組みの研究で大きな功績があったアルフレッド・クヌドソン。彼は新しい論文が出ても食いつかず、半年ぐらい経って初めて手に取った。すると、たいていの論文は、もはや大した内容ではなくなっている。 「クヌドソンからは、物事に向かう姿勢を学んだよ。『末梢を追いかけずに根本を見ろ』と」  樋野はよく、「ほっとけ、気にするな」と言う。余命やがんの再発など未来のことを心配しても、あるいは、「なぜがんになったのか」と過去のことに悩んでも仕方がない。それらは横に置いて、「今」をしっかり生きようというのだ。この言葉は、クヌドソンからも着想を得ている。 レギュラー出演しているラジオNIKKEIの番組収録の様子。左はアナウンサーの大橋都希子(撮影/岸本絢) ■きっかけはアスベスト問題、がん哲学外来は対話の場  帰国後は、実験病理部の部長に就任。クヌドソンのもとで始めた「遺伝性のがん」の研究も続けた。やがて、その研究が、中皮腫の早期診断に応用できるとわかった。中皮腫は、建築資材などに使われたアスベスト(石綿)を長い間吸うと、30~40年の潜伏期間を経て発症する希少がんだ。早期発見ほど、手術で治せる可能性が高まる。  04年、1年間の癌研との兼務を終えて順天堂大学医学部教授に転身していた樋野は、中皮腫の血液検査のマーカーを発見し、他の研究機関と検査キットを開発した。すると、翌年6月、大手機械メーカーのクボタが、同社の工場の従業員らが多数、中皮腫で死亡していると発表した。同業他社の発表も続き、不安が広まった。  これが、3度目の転機となった。検査のニーズは一気に高まった。8月には、樋野の提案で、順天堂大学付属順天堂医院に「アスベスト・中皮腫外来」が設立された。週に1回、問診する。アスベストの危険性は長く指摘されていただけに、訪れる人はみな、やり場のない怒りや悔しさ、苦悩を抱えている。傾聴に始まり、必然的に対話の場となってゆく。「がん哲学外来」の原型である。  07年4月にはがん対策基本法が施行され、全国約400のがん診療連携拠点病院に、相談支援センターの設置が求められた。「がん難民」が社会的な問題になっていた。樋野は、対話の場をあらゆるがん種に広げることを思い描いた。  08年1月、順天堂医院に、試験的に「がん哲学外来」を無料で開いた。3月までに5回、1日4組の予定だったが予約が殺到、1日8組に増やしても追いつかない。80組がキャンセル待ちとなり、院内のレストランで面談した。  もはや「人と話すのが苦手」とは言っていられない。秋には、患者夫妻の依頼で横浜のホテルのロビーで開催。2回目から訪問看護ステーションに場を移し、「カフェ」も伴った。こうして、「がん哲学外来メディカル・カフェ」が誕生した。  カフェは現在、全国約170カ所に広がっている。設立・運営のマニュアルはなく、新たに始めたい人たちは、既存のカフェを見学し、自分流にアレンジする。樋野の注文はただ一つ、「3年以上継続できないなら、やらないで」だ。  活動を通じて、樋野に見えてきたことがある。 「患者の悩みは大きく三つに分かれる。病気そのもののこと、家族との関係、職場の人間関係。3分の2は、家族や職場の悩みだね」  悩みの内容もまた、時代を映している。 池袋で開かれたカラオケ大会(撮影/岸本絢)  樋野は、09年にNPO法人「がん哲学外来」(13年から一般社団法人)、11年に「がん哲学外来市民学会」を立ち上げて、がん哲学外来コーディネーターの養成も始めた。その一人、京都出身の森尚子は、16年に東京・目白でカフェを開設した。14年、48歳で初期の乳がんとわかった。2年後にごく初期の子宮体がんにもなり、子宮と卵巣を摘出。術後の経過が悪く、出血も止まらない。  そんなときにカフェと出会った。だが、面談で樋野に切々と訴えると、「あなたより大変な人のところに行ってもらえませんか。自分でカフェをやってください」と返ってきた。森は「はあ。私がしんどいんです」と2回繰り返した。  その後は距離を置いたが、たまたま自宅近くの教会で樋野の講演会が開かれると知り、小児科医の夫と参加した。すると、「人間には最後に死ぬという大きな仕事がある」などの言葉が染み入り、「私だけが悲劇のヒロインではない」と希望が見えた。そして、仏教徒なのに、その教会でカフェを手がけることが決まり、代表となった。 「がんへの恐怖や不安はいつもあります。でも、カフェに来ると、自分一人じゃないと再認識できます。樋野先生は仙人みたいで多くを語らない。先生の言葉を自分で捉え、納得して、答えを見いだしていくのです」  樋野の夢は、がんに限らず、生きづらさを感じるだれでも気軽に来られるよう、全国でカフェを7千カ所まで増やすことだ。  樋野が傾倒する内村鑑三に「真理は円形にあらず、楕円形である……真理もまた二元的であって……」という言葉がある。価値観や生き方の多様性を大切にするがん哲学の思想につながる。樋野は都内の教会で洗礼を受けた。「ワイフ」は、宣教師をしていた米国人女性のジーン。ジーンは樋野を「persistent」とみる。「困難にめげずに粘り強い」という意味だ。物静かで、深夜遅くまで、あるいは早朝4時ごろからパソコンに向かう。 ■カラオケの熱唱で気づく、人は存在自体に価値がある  そんな樋野が、少し違う面を見せるのが、癌研時代から好きなカラオケかもしれない。  2020年1月5日、がん哲学外来の第7回池袋カラオケ大会が開かれた。参加者は、中高年ばかりで約20人。ジーンもいる。森夫妻も来ている。午後5時半、いきなり「くちなしの花」のイントロが流れてきた。樋野が立ち上がり、歌い始める。ふだんとは打って変わって声が大きい。  みんな素面(しらふ)なのに陽気に盛り上がる。途中、フルーツや生クリームがたっぷり載った大きなハニートーストが運ばれてきた。夫婦で幹事を務める田口謙治(58)、桂子(57)が「10月から1月までに生まれた人は前へどうぞ」と呼びかける。前回のカラオケ大会以降の誕生日の人が対象なのだ。 樋野の手帳はぎっしり文字が書かれている。愛読書の新渡戸稲造『武士道』や内村鑑三『代表的日本人』なども線や書き込みでいっぱいだ。愛用の黒のかばんは、本や資料でずっしり重く、持ち手も剥げている(撮影/岸本絢)  3時間を超えた大会の締めはAKB48のヒット曲「365日の紙飛行機」と「恋するフォーチュンクッキー」。「紙飛行機」から全員で合唱した。踊る人も、タンバリンを鳴らす人もいる。 <人生は紙飛行機、願い乗せて飛んで行くよ、風の中を力の限り、ただ進むだけ、その距離を競うより、どう飛んだか、どこを飛んだのか、それが一番大切なんだ、さあ、心のままに>  ここに集う人々は、それぞれの形でがんと向き合っている。一体どんな思いを込めて、どんな場面を脳裏に浮かべて、歌っているのだろう。表情からは窺(うかが)い知れない。ただ、みんなの目は確かな力を宿している。「人は存在自体に価値がある」という樋野の言葉が思い出された。  取材を続けていて、樋野にどうしても聞きたいことが芽生えた。もしも厳しいがんになったら、自分にはどの言葉を処方するのだろうか、と。 「なったときに考えるかな。どんな境遇になっても覚悟を持てるか。心構えを訓練しているよ」  少し考えてから、訥々(とつとつ)と語りだした。 (文中敬称略) ■ひの・おきお 1954年 島根県出身。姉が2人いる。  60年 大社町立(後に出雲市立)鵜鷺(うさぎ)小学校入学。5年生のとき担任に日記を書くことを勧められ、現在まで続けている。  69年 島根県立出雲高校入学。実家を離れて下宿。授業で悩みを書く機会があったが、「悩みはない」と書いて教師に呆れられる。  73年 愛媛大学医学部に入学。道後温泉に入り、夏目漱石を読む日々。  79年 愛媛大学医学部卒業。同学部第二病理学教室の助手に就任するも、癌研究会(現がん研)へ国内留学。  81年 癌研癌研究所病理部研修研究員。  84年 同研究員。米国アインシュタイン医科大学肝臓研究センターへ留学(~85年)。  86年 日本癌学会奨励賞受賞。  89年 米国フォックス・チェイスがんセンターへ留学(~91年)。  91年 癌研究会癌研究所実験病理部部長。 2000年 国連大学主催の新渡戸稲造『武士道』発刊100周年シンポジウムに、原田明夫・東京高検検事長(後に検事総長)らとパネリストとして出席。研究室の外で活動する第一歩となる。  03年 高松宮妃癌研究基金学術賞受賞。順天堂大学医学部教授を兼務(04年から専任)。  08年 順天堂大学にがん哲学外来を開設。その後、学外へ広げる。  16年 保健文化賞受賞、皇居で天皇、皇后(現上皇、上皇后)両陛下と面会する。  18年 朝日がん大賞受賞。  19年 順天堂大学名誉教授。東京医療生活協同組合「新渡戸稲造記念センター」センター長。樋野とカフェの人々を描いたドキュメンタリー映画「がんと生きる 言葉の処方箋」(野澤和之監督)が公開。 ■中村智志 1964年、東京都生まれ。朝日新聞社に入り、2017年から(公財)日本対がん協会に出向。著書に『段ボールハウスで見る夢』(草思社、講談社ノンフィクション賞)、『命のまもりびと』(新潮文庫)など。 ※AERA 2020年2月24日号 ※本記事のURLは「AERA 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現代の肖像
AERA 2020/07/16 10:36
“クラスター発生”の池袋ホストクラブを本誌記者が直撃「地獄だった。小池都知事にも来てもらいたい」
上田耕司 上田耕司
“クラスター発生”の池袋ホストクラブを本誌記者が直撃「地獄だった。小池都知事にも来てもらいたい」
小池百合子東京都知事(上田耕司撮影) 人気が少なくなっている池袋の歓楽街(上田耕司撮影).jpg 隔離されたホテルで提供された弁当(ホストクラブスタッフ提供)  東京都の新型コロナウィルスの感染拡大が、再び危険水域に入っている。都内の新規陽性者は7 月9日から13 日まで5日連続で100人を超え、中でも7月10日には過去最多の243人を記録した。こうした経緯に、いよいよ感染第2波も来たのではないかと指摘する専門家もいる。  そんな中、都知事選に「圧勝」した小池百合子東京都知事がしきりに口にするのが「夜の街」。記者会見でも「接待を伴う飲食店で働くホスト、ホステスといった夜の街での感染が拡大している」という趣旨の発言を繰り返している。    中でも焦点が当たっているのがホストクラブだ。豊島区は7月9日から、区内の全ホストクラブ9店舗の従業員を対象にPCR検査を実施。100人以上のホストらが対象だという。クラスターの発生した店舗には休業要請し、10日以上の休業をした店には50万円を支給するとしている。小池氏はこれについて、「区を財政的に支援していく」と援護射撃した。豊島区は小池氏の国会議員時代の選挙地盤だ。小池氏は「夜の街対策は緊急の課題で、豊島区を一つのモデルケースにしたい」とも語っており、意気込みがうかがえる。    では、こうした流れを渦中のホストクラブ側はどう受け止めているのか。記者は、実際にクラスター(集団感染)が発生した池袋のホストクラブを訪ねた。    訪問したのは深夜12時ごろ。店に入ると、薄い紫や水色のライトが店内を照らし、華やかな雰囲気。キャストたちがマスクをして接客をしていること以外は、通常時のホストクラブとの違いは感じられない。ソファのあるゆったりとした部屋に通されると、3人の運営スタッフが交代で取材に答えてくれた。  20代の運営スタッフは「うちの店では40人の従業員がいますが、全員がPCR検査を受け、このうち28人が陽性でした。私も陽性でした」と、衝撃の事実を打ち明けた。  このスタッフは、クラスター発生の経緯をこう語る。 「6月23日、店の代表に38~39度くらいの熱が出て、検査を受けたら陽性でした。同じ日にもう一人、陽性者が出たんで、その時点で店を閉めようとなって、保健所に連絡して、全員が検査を受けることになったんです」  それから毎日、キャストたちは3~4人ずつ、交代でPCR検査を受けたという。30代の運営スタッフはこう話す。 「私も陽性でした。無症状でしたが、八王子のホテルに10日間、隔離されました」  陽性だったキャストや運営スタッフはほとんどが無症状だったが、陽性が相次いでいることから、PCR検査の対象は店の客にも拡大された。 「最初に陽性が出た6月23日の前後5日間に来店されたお客さんにも、キャストそれぞれが連絡して、数十人が検査を受けました。40人くらい受けたんじゃないか。そのうち数人か陽性だったそうです」(前出の30代の運営スタッフ)  2番目に陽性だとわかった30代のマネージャーの場合、6月25日から7月2日まで、東京都墨田区両国のアパホテルで隔離されたという。アパホテルは陽性患者の受け入れを公表している。 「味覚がちょっと悪くなって、鼻もちょっと悪かった。アパホテルでは感染者ばかり100人以上が宿泊していました。毎日、午前8時半から検温があり、指先をチェックして酸素濃度を測っていました」  朝昼夜の食事時には館内放送があり、この時だけは1階に降りる許可が出た。 「弁当を取りに行くのですが、ほかの隔離されている人たちには話しかけない、接触しないのがルールだと言われていました。お弁当はこんな感じです」  と言って、ホテルで配られた弁当の写真を見せてくれた。大きめのエビフライが2本、スパゲティ、温泉たまご、サラダ、ご飯がパックに入っていた。  冒頭の20代の運営スタッフは、みずからの隔離体験をこう語る。 「私は37.2度の熱が出て、病院に5日間、ホテルに5日間滞在しましたが、病院は風呂にも入れず、きつかった。ホテルの方が食べ物もよく、差し入れもあったし、天国でしたね」  この店では何故、クラスターが起きたのだろうか。前出の30代の運営の男性はこう証言する。 「うちは4~5人が共同生活する寮がいくつかあるので、一人出たら家庭内感染と一緒で、生活する中で広がったのかもしれません。お客さんからだったのか、誰から感染したのかはまったくわかりません」     ただし、店としてもっとも盛り上がるシャンパンコールには問題があったと振り返る。 「シャンパンコールの時には、キャストたちが集まって、音楽のリズムに乗って、マイクでしゃべりまくって盛り上げていたんです。飛沫もあったでしょう。開けたシャンパンはキャスト3人で回し飲みしていました」(30代の運営の男性)  クラスターが発生してからは、シャンパンは1本を1人にし、回し飲みをやめた。シャンパンコールは続けているが、「なるべく飛沫がとばないようにしています。アルコールを注ぐグラスも使い捨てできるよう、紙コップに変えました」(同)  ところで、豊島区はなぜ、ホストクラブのPCR検査に特に力を入れているのだろうか。豊島区の池袋保健所健康推進課に尋ねると、担当者はこう語った。 「業種をまるごとPCR検査しているのはホストクラブだけです。1店舗で集団感染もあったものですから、リスクの高さを感じてホストクラブ業種を検査しています。他の業種はやっておりません。キャバクラの従業員は何人か検査したことはありますが、キャバクラ業種全店舗の検査ということはしていません」  検査に必要な経費は区が負担するという。 「保健所の近くで場所を設定して、ホストクラブの従業員の予約を取って、順番に一人一人、検体をとっています。拒否する店はないんですが、返事がまだないところがあり、お返事は保留だなと思っています」  一方、こうした区の方針に対し、ホストクラブ側からは不満の声も漏れた。まず、10日以上休業した場合に50万円を協力金として出すという区の方針に対しては、前出の30代の運営スタッフはこう語る。 「休業要請があれば従いますが、10日以上休業して50万円じゃ、全然、うれしくはない。うちは家賃だけで月に200万円から300万円かかっているんです」  前出の20代の運営スタッフは、ホストクラブが諸悪の根源のようにターゲットのように扱われていることに不満があるようで、こう話す。 「夜の職業に対して偏見があるんでしょう。ホストクラブはもともと悪いイメージなので。あとは話題として面白いから、やり玉にあげられてるんじゃないですか」  店ではテーブルごとに消毒液を置き、検温もしている。内勤スタッフの一人は、感染症対策には自信を持っているとして、こう話した。 「PCR検査を受けているか、わけわかんない店よりも、ホスト全員が受けたうちのような店のほうが、お客さんの女性からも安心できると言われています。小池百合子さんにも一度、店に来てもらいたいですよ。これだけ、うちは対策をとっていることを見てもらいたい」  いつの間にかコロナ対策の「最前線」になっていたホストクラブ。こうした対策で本当に、感染拡大を抑え込むことができるのだろうか。医療ガバナンス研究所の上昌広理事長はこう指摘する。 「池袋や新宿だけが『夜の街』ではないでしょう。同じような街はたくさんあるのに、一部の街や業種だけをやり玉に挙げて意味があるのでしょうか。『夜の街』は批判しやすい一方で、それ以外の多くの仕事について、職場などで感染が広がっていないかどうかは、検査をしていないからわからない。仮に検査の網をほかの業種にも広げれば、クラスターは数え切れないほど出てくると考えられます」 (本誌・上田耕司) ※週刊朝日オンライン限定記事
新型コロナウイルス
週刊朝日 2020/07/14 13:55
「なんで前説でモヒカンにせなあかんねん」麒麟・川島明 テレ東漫画家・真船佳奈との対談で明かした実体験
ラリー遠田 ラリー遠田
「なんで前説でモヒカンにせなあかんねん」麒麟・川島明 テレ東漫画家・真船佳奈との対談で明かした実体験
川島明/かわしま・あきら 1979年生まれ。京都府出身。お笑いコンビ・麒麟のボケ担当。漫才をはじめとしてさまざまなバラエティ番組でも活躍中。自身Instagramの活動をまとめた『#麒麟川島のタグ大喜利』が発売中。Instagram @kirinkawashima0203(撮影/写真部・小黒冴夏) 真船佳奈/まふね・かな 1989年生まれ。2012年、テレビ東京入社。2014年、制作現場に異動しADに。ディレクターを経て、現在はBSテレビ東京編成部に出向中。漫画家・ライターとしても活動している。ADの仕事ぶりやテレビの裏側を描いた漫画『オンエアできない!Deep』が発売中。Twitter:@mafune_kana/Instagram:@mafunekana(撮影/写真部・小黒冴夏)  真船佳奈さんは、テレビ東京に所属する現役のテレビ局員でありながら、過酷なAD時代の実体験をもとにしたコミックエッセイ『オンエアできない! 女ADまふねこ(23)、テレビ番組つくってます』『オンエアできない!Deep』(共に朝日新聞出版)を出版して話題になりました。  そんな『オンエアできない!Deep』の帯の推薦文を書いたのが麒麟の川島明さん。川島さんも芸人でありながら、雑誌にコラムを執筆したりイラスト付きのエッセイ集を出したりしている多才な人物です。Instagramで芸人の顔写真を題材にして大喜利をする企画が話題になり、それをまとめた『#麒麟川島のタグ大喜利』(宝島社)という本も出版されました。そんな2人が、久々に顔を合わせて真船さんの作品やテレビ業界についてじっくり語り合いました。 ※本対談は緊急事態宣言解除後の2020年6月に、換気や消毒など感染症拡大予防に十分に配慮したうえで実施しました。 *  *  * 真船:私は1回だけ、川島さんが出演されていた特番にADとして参加したことがあったんです。フリップを渡すだけの役だったんですけど、そこで唯一ちゃんとお礼を言ってくれた人だったんですよ。そのときから「川島さんはいい人だ」と思っていたんです。その人が自分の漫画の感想をTwitterでつぶやいてくれたのを見て「ヤバい!」と思って、すぐにお礼のDM(ダイレクトメッセージ)を送りました。そしたら、「みんなで飲みに行きませんか」と誘ってくださって。 川島:ネゴシックスと天津の向(清太朗)と飲みに行く機会があって。僕もネゴも絵を描くし、向もアニメや漫画がすごく好きなので、真船さんとも共通の話題があるんじゃないかと思って声をかけさせてもらったんですね。 真船:でも、私はめちゃくちゃ緊張したので、行く前にタクシーの中でストロング系缶チューハイを2本飲んで、ベロベロの状態で登場したのが初対面でした(笑)。それからちょくちょく一緒に飲ませていただいたりしていて、今日お会いするのは1年ぶりぐらいです。 川島:テレビ局のADが漫画を描くというのは珍しいし、読んでみたら面白かったんですよね。作品の中で描かれていた前説の難しさとかは、僕らの若手のときとも共通する部分があって。僕らは前説が苦手だったんです。『オンエアできない!Deep』にも描かれていましたけど、前説で何をやっても、結局は本番が始まったらお客さんは勝手に盛り上がるんですよね。 真船:そうそう、そうなんですよね。 川島:でも、一方でやけに前説に自信持ってるスタッフもいるんです。前説のために頭をモヒカンにしてくるテレビ局員がいたんですよ。そいつが偉そうに僕らの楽屋に来て「お前らもこれくらいやらなあかんで」って言ってきて(笑)。  僕は心の中で「なんでやねん! なんで前説でモヒカンにせなあかんねん!」って叫んでいたんですけど。漫画を読んでいてそんなことを思い出しました。 真船:わかります。私も『プレミアMelodiX!』という南海キャンディーズさんが司会をされていた番組で前説をやっていたことがあって。最初のうちは上手くできなくて過呼吸寸前になっちゃったこともあって、見るに見かねて山里(亮太)さんが出てきて「ごめんなさいね、この子、慣れてないから」って助けてくれたりしたんです。  その後に「何か話せることを考えなきゃ」って思って、前説のための台本を4ページくらい作って行くようになって。それでお客さんも盛り上がってくれたのが嬉しくて、前説に力を入れるようになって。私もそのモヒカンの人みたいになっていたんです。でも、ADって本当はもっとほかにやるべきことがあるんですよね(笑)。 川島:そう、本末転倒なんですよ。お笑いの世界でも「前説が上手い芸人は売れない」って言われたりしますからね 。そっちをがんばりすぎてネタを作らなくなってしまう人がいるんです。漫画を読んでいてそういうところもすごく共感できました。真船さんがAD時代に一番つらかったことって何ですか? 真船:やっぱり単純にお風呂に入れないとか、寝られないとかですかね。当時のADは今よりだいぶ過酷だったので、最高で20日間家に帰らなかったことがあって。そのときは洗面所で100円ショップで売っているシャンプーで髪を洗っていました。 川島:うわ、最悪ですね。 真船:そんなときに、仕事で憧れだったアイドルタレントさんにお会いする機会があったんですけど、ずっとお風呂に入っていなかったんですよ。だから「もうこの場で死にたい!」って思いました(笑)。 川島:漫画の中では真船さんはポンコツキャラみたいな感じでしたけど、実際の仕事ぶりはどうだったんですか? 真船:本当にできなかったです。ちょっと病気なのかもしれないですね(笑)。ADってすごい数の業務を同時並行でやらないといけないんですけど、私はそれがすごく苦手で。しかも「ひとつ忘れると死ぬ」みたいなことを同時並行でやっていたので、漏れなく死んでいたんです。 川島:漏れなく忘れていた? 真船:漏れなく忘れちゃうんです。寝不足で脳も極限状態になっていたので、首からメモをぶら下げるようにしていて、そのメモにやるべきことを書いてもらったりしていたんですけど、メモを下げていること自体を忘れちゃうんです。 川島:寝てないって怖いですね……。 真船:怖いですよ! 本当にポンコツキャラだったんです。だから、今の職場(注:現在、BSテレビ東京の編成部に出向中)に来たらようやく「真船、いいね!」と言ってもらえるようになりました。同時並行が減ったことでだいぶ楽になりました。  あと、漫画を描いたことで楽になった部分もあります。テレビの制作って職人の世界なので、佐久間(宣行)さんみたいなみんなが知っているディレクターがいる一方で、仕事はそつなくこなすけれど、なかなかヒット番組に恵まれなかったり、企画が通らない人もたくさんいるんです。そういう人が歳を重ねると自分の立ち位置を考えなきゃいけなくなるんですよね。その中で私は局内で1人しかいない「漫画家」というポジションに行けたので、それで覚えてもらえたりとか、仕事を振ってもらえたりするようになったのがすごく良かったと思います。 川島:今は真船さんの漫画を読んで「私もテレビの世界に行こう」と思う人もいるんじゃないですか。 真船:結構いますね。私は人望がそんなにないんですけど、新入社員だけはみんな「あの真船さんですよね」って声をかけてくれたりします。でも、あれを読んでよく行こうと思ったな、っていうのもあって。「ちゃんと読んだか?」って思っちゃいますね(笑)。今はなぜかテレ東が入社したい局のナンバーワンになりましたから。それもおかしいですよね。絶対みんな両方受かったらテレ朝に行くと思いますけど。 川島:テレ東は将軍じゃなくて歩兵っていう感じですよね。いい意味で。だから一番フットワークが軽いし、どんなに大きな事件が起こっても淡々とカニの通販番組を流していたりする。  あとは『ゴッドタン』が作ったイメージが大きいと思います。純度の濃いお笑いをやっているから、テレ東に呼ばれるときは芸人として試されているときなんです。 真船:たしかに『ゴッドタン』に出たときの川島さんは群を抜いて面白いです(笑)。 川島:(博多)大吉さんと一緒に「上品芸人ハメ外しクラブ」っていうのに呼ばれて、さんざん悪口を言わされて、性格の悪い部分を引き出していただいて。それがあったことでほかの番組にもたくさん呼ばれるようになったんですよね。それはテレ東でしかできないことだったと思うので、『ゴッドタン』には感謝しています。 真船:やっぱりあの番組は特別ですよね。 川島:めちゃくちゃなことを言っていても「『ゴッドタン』だから」っていうことで許されるみたいなところがあって、白昼夢みたいな番組です。それこそ劇団ひとりさんなんかも、『ゴッドタン』では下ネタ全開で要らんことばっかりしますけど、別の番組では池上彰先生の隣にスッといらっしゃったりするじゃないですか。だから僕なんかも、ほかの局で「あの感じでハメを外してください」って言われても「いや、無理や!」ってなるんです。今では『ゴッドタン』を含めてテレ東という1つのジャンルになっているのが面白いと思います。 真船:私が入ったときはフジテレビが大人気で、テレビ局っていうのが就職先の花形だったんです。私が就活中に「3.11」が起きて、そこからテレビに対する世間の見方が少しずつ変わってきたんですよね。今の若い子はコロナの影響もあって、働くということに対する考え方が変わってきていますよね。  今の時代、テレビ局員ってエリートでも何でもないですし、お金がいっぱいもらえてかわいい芸能人の女の子と付き合えるみたいなイメージもない。その中で同じ土俵で考えたときに、テレビの仕事をやるんだったら楽しそうな局でやりたいと思う人が増えたのかもしれないですね。 川島:真船さんは面白い星のもとに生まれているんだなと思います。彼氏とデートで大阪に行こうとしたら乗っていたバスが爆発したとか、普通の人が体験しないようなハプニングを死ぬほど持っているんですよ。それはお金では買えないし、努力しても無理なんです。不幸と言えば不幸なんですけど、表現する人間からしたらうらやましいと思います。神に選ばれているんですよね。 真船:たしかに友達からも「なんでそんなことが起きるの!?」みたいなことをよく言われていたので、川島さんにそう言っていただけるのはすごく嬉しいです。 川島:漫画という舞台があって何でも発散できるというのは相当強いと思います。特に、SNSとかで見栄を張る人が多い中では、その芸風が際立ちますよね。「こんなものを食べてます」とか「夜景に乾杯!」とか書いている人に対して「ウソつけ!」ってツッコんだり。そういうことができるのが面白いですよね。 真船:何が起こっても「あっ、漫画に描ける」と思うようにはなりました。 川島:『オンエアできない!』の続編をまた描く予定はあるんですか? 真船:いや、それはもういいかなと思っていて。もう制作の部署を離れてしまったので、過去を思い出しながら描く作業になっていて。今後も描き続けるとなるとリアリティが薄まってしまうと思うんですよね。だから、今後はもう少しいろいろな形でテレビの仕事をして、それを違う作品に生かしたいです。  あとは、逆にテレビの仕事で私の漫画を生かしたいんです。例えば、キャラクターデザインをやったり、番宣の漫画を描いたり、番組で使うためのイラストを描いたり。テレビのことをだいぶネタにさせてもらったので、逆に私がテレビのために役立てることがあれば、それができるのがいいのかなと思っています。(構成/ラリー遠田)
朝日新聞出版の本読書
dot. 2020/07/12 17:00
在宅勤務で大量飲酒は「アルコール依存症」の入り口 「ストロング系」はリスク大
在宅勤務で大量飲酒は「アルコール依存症」の入り口 「ストロング系」はリスク大
※写真はイメージ(gettyimages) AERA 2020年7月13日号より  テレワークの機会が増え、まだ明るい時間につい“プシュ”といい気分に浸る人は多いだろう。ただ、大量飲酒が続くと、いい気分では済まなくなる。AERA 2020年7月13日号は、飲酒量の増加がアルコール依存症を招く危険性を警鐘する。 *  *  * 「ほんっと、多いな」  週1回のビン缶回収日。ゴミ収集員がぼそっとつぶやく声が家の前から聞こえて、東京都世田谷区に住む女性(46)は身が縮む思いがしたという。  緊急事態宣言発令以後、自宅飲みが日常になった。在宅勤務で仕事開始時間が朝7時と早くなったため、夕方5時には仕事を終え、晩酌の準備を始める。シラス、大根おろし、冷ややっこ、焼きナス。テーブルの上には日本酒のアテがずらりと並ぶ。夫と2人、一升瓶を半分ちょっと空けたら、第2ステージに突入。今度は肉中心のつまみで赤ワイン。1本空けても夜9時前。寝るには早いと、第3ステージへ。ソファへと場所を移し、白ワイン片手に、撮りためたビデオを見る……が、翌朝、「どんな内容だったっけ?」と夫と首をひねることがほとんど。  土日は外出自粛が続いたためやることがなく、明るいうちからワインをダラダラ飲む。木曜日のビン缶回収日にはワインの空き瓶16~18本、日本酒一升瓶3~4本。空き瓶の数で酒量が「可視化」され、毎回、自己嫌悪に襲われる。 「コロナ感染が先か、アルコール依存症が先か」  そう、真顔で話すのは、神奈川県在住の独身男性(49)だ。テレワークが中心になり、会議や商談はオンライン上で行うため、酒臭さが気にならなくなり、マズイと思いつつ、つい、昼食にビールを飲んでしまう。夜は夜で、行きつけの飲み屋は閉まり、飲み会も一切なくなった。毎晩、暇を持て余し、ネットドラマを見ながらまとめ買いしているビールや缶チューハイを一人黙々と飲む。パソコンの前で“寝落ち”して朝を迎えることが増えた。 「オンライン飲み会で延々何時間も。気が付いたら明け方」「終電を気にせずに飲めるので、つい杯が進む」など、外出自粛や在宅勤務で酒量が増えたという人の声をよく聞く。  酒類販売のカクヤスによると、5月の売上高は業務用では前年同月比75.9%減だったが、家庭用は45.9%増。炭酸水など、アルコールを割るための飲料の販売も増加しており、「家飲み・巣ごもり需要」が続いていると見ている。 「自宅飲みの安心感から、飲酒開始時間が早まり問題飲酒に移行しやすくなってしまう。それが続けば、今後、アルコール依存症に移行する可能性が考えられます」  こう言うのは、アルコール依存症ケアを長年行う「大船榎本クリニック」精神保健福祉部長の斉藤章佳さん(精神保健福祉士・社会福祉士)だ。 「問題飲酒」という言葉に、自分の飲み方はまだまだ大丈夫、とかえって安心した人もいるだろう。しかし問題飲酒とは、酒飲みなら覚えがある行動を指す。飲んだ後、「転んでケガをする」「電車を乗り過ごす」「財布やスマホなど物をなくす」「どうやって帰ったか覚えていない」。いずれも「酔っ払いあるある」として笑い話にさえなりそうだが、専門家から見れば、立派な危険信号だ。 「お酒を飲むことで何かを『失う』こと自体が問題飲酒です。一番わかりやすいのが記憶を失うブラックアウト。お酒による記憶の喪失、経済的・身体的損失、信頼関係を失うなどを繰り返しているなら、アルコール依存症やその予備軍を疑った方がいい」(斉藤さん)  10回に1回問題飲酒だったのが、5回に1回、3回に1回となり、そのうち飲むたびに問題飲酒を起こすようになる。そして、さらに深刻なステージに移り、お酒の量を減らしたり飲まなかったりすると、手の震え、大量の汗、不眠、うつ、幻覚や幻聴といった離脱症状が出るため、それを抑えるためにさらに大量に飲酒するという悪循環に陥ってしまう。やがて連続飲酒となり、医療機関や警察の介入が必要になる。問題飲酒をできるだけ早い段階で食い止めなければ、だれでもこうなる可能性はある。  日本は海外に比べて、飲酒の失敗に寛大だという傾向もある。加えて、近年、アルコール依存症への「入り口」がより身近になってきている。斉藤さんらアルコール依存症問題に取り組む専門家が危機感を募らせているのが、アルコール度数9度以上の「ストロング系缶チューハイ」によるアルコール依存症だ。 「かつては紙パックの焼酎やカップの日本酒にまみれて自宅で酔いつぶれている姿がアルコール依存症の人の代名詞でした。しかしこの数年、飲酒内容がストロング系缶チューハイに変わってきています」(斉藤さん)  考えられる理由はいくつかある。ビールなどに比べてプリン体や糖質が少なく、健康を気遣いつつ飲めるイメージがあること、さわやかな印象を与えるCMやパッケージデザインで女性も手に取りやすいこと、炭酸やかんきつ系の風味が利いていて喉越しよく飲めること、値段が安いことなどだ。いずれもお酒への抵抗感を少なくしている。  しかし、アルコール度数9度ということは、ストロング系チューハイ500ミリリットル缶1本に含まれる純アルコール量は36グラム。アルコール度数40%のウイスキーをシングル1杯(30ミリリットル)飲んで摂取する純アルコール量は9.6グラムなので、約4倍にもなる。これをグビグビッと2本、3本と飲めば、あっという間に大量のアルコールを摂取してしまう。なお、ストロング系缶チューハイを3本飲んだときの純アルコール摂取量は、ウイスキーをシングルで11杯飲んだときの純アルコール摂取量とほぼ同じだ。(ライター・羽根田真智) ※AERA 2020年7月13日号より抜粋
AERA 2020/07/11 09:00
「私は幼児教室で“洗脳”されました」 ママライターが実体験した「トンデモ育児」の中身 
「私は幼児教室で“洗脳”されました」 ママライターが実体験した「トンデモ育児」の中身 
世の中にはさまざまな幼児教室があるが……。画像はイメージ(写真/PIXTA)  早期教育によって、わが子の才能を少しでも伸ばしてあげたいと思う親は多い。こうしたニーズに応えるために、さまざまな形の「幼児教室」が世にあふれている。だが、なかには迷信めいた「トンデモ育児論」を展開する教室も存在する。自身が通っていた幼児教室で、まるで「洗脳のような教育」が行われていたというライターが自らの実体験を記した。 *  *  * <赤ちゃん 泣きやまない 理由>  その日も私は、生後3カ月の息子を抱えながら血眼になってネット検索をしていた。もう、育児疲れは限界に達していた。  結婚して間もなく妊娠。「早く産まれておいで」。おなかの赤ちゃんに毎日声をかけ続けていた幸せな毎日が、出産後に一変した。  夜の授乳で眠れないうえに、どうあやしても泣きやまない赤ちゃんの叫び声……。自分なりには頑張っているつもりだったのに、育児は全然うまく行かなかった。  初めての育児でもあり、夫も頼りない。実母・義母のアドバイスは上から目線で聞く気がおきない。  あんなにもわが子の誕生を心待ちにしていたはずだったのに、現実とのギャップに、どこかに逃げ出したいほどだった。  この不安を解消できる“正解”がどこかにないかとスマホにしがみつき、深夜にネットの情報サイトなどをさまよった。でも、出てくる答えはほとんど一緒。 <赤ちゃんは泣くのが仕事です>  そんなことわかってる。 <赤ちゃんが泣いてもママのせいではありません>  じゃあ、誰のせいなの? <無理に泣きやませようと、激しくゆさぶってはいけません>  こんな私は虐待してもおかしくない母親っていうこと?  思考はどんどんネガティブになっていく。 「この子と私はどうしたらいいんだろう……」   そんな絶望的な気分のなか、ある日、私の目に入ってきたのが幼児教育の広告だった。 “無料体験レッスン開催中!”  カラフルに彩られたホームページ(HP)には、満面の笑みを浮かべる母子と「先生」の姿があった。  出産前には幼児教育に興味を持っていたことを思い出し、どんなものなのかのぞいてみたくなった。  気分転換も兼ねて行ってみようかな。育児の参考になるアドバイスももらえるかもしれないし。そんな期待もあって、HPにある電話番号をタップした。  待ちに待った無料体験レッスン当日。私は久しぶりにオシャレをして、都内にある幼児教室へ足を運んだ。  そこには、すでに5組の母子がいた。わが子と同じくらいの生後半年も満たない赤ちゃんたち。私が知らない間に、他のママたちはこんな場所に集まっていたんだ。出遅れた……最初に浮かんだのは、そんな気持ちだった。  まず始まったのは、あいさつの歌。先生とママたちが、赤ちゃんにほほ笑みかけながら元気よく歌う。赤ちゃんはみんなニコニコしてママに笑いかけている。  あいさつの歌が終わると、次は親の「勉強タイム」が始まる。ここでのやりとりに、私は大きな衝撃を受けた。 「こちらの教室に通っているご家庭のほとんどが、テレビを見せない生活を送っています」  先生が自信を持って言う。 「なぜテレビを見せないか。それは将来、子どもに障がいが出てしまう可能性が高くなるからです。情報は新聞で得ましょう!」  それを真剣にメモするママたち。私もならってメモを取る。 「子どもを長時間車に乗せるのは大丈夫でしょうか?」  先生に質問するママがいた。先生はその答えをこう断言した。 「10分が限界ですね。それ以上は脳にダメージを与えてしまう可能性があります」  その日、私は車で30分かけて教室まで来た。これはわが子に悪影響を与えてしまってしまったのではないか……いたたまれない気持ちになった。  勉強タイムが終わると、フラッシュカード(絵や記号のついたカードをテンポよく見せることで記憶力をつける教材)やあいさつの練習、ベビーヨガなども行われた。  しかしまだ生後半年も満たない赤ちゃんばかりなので、ゴロゴロしているのが精いっぱい。そんな状態のわが子に対して、ママたちは一生懸命、あの手この手で反応を引き出そうとしている。  今まで、テレビやスマホばかり見せて育児をしていた自分は大変な間違いをしていたのかもしれない……。突然、「これからは変わりたい!」という気持ちが強く沸き上がり、夫に相談することなくその場で入会を決めた。月謝は1万5000円。専業主婦にとって決して安い金額ではなかったが、私の貯金から支払うことで夫の了承を得た。  それからは、先生の言いつけ通り、自宅のテレビは一切つけず、代わりに新聞の購読を始めた。無音が辛いときはクラシック音楽を聴いて、心を落ち着かせた。  しかし、それを心地よく楽しめたのは3日だけ。徐々に窮屈さを感じるようになり、イライラが募る。そのストレスは子どもではなく夫に向かった。夫婦げんかが絶えなくなったが、「これも子どものため」と思い、先生の言う通りの毎日を送り続けた。  数カ月はテレビは見せず、車にもほとんど乗せず、わが子に“ダメージ”が出ないことだけを願いながら生活した。夜泣きに苦しんで誰にも相談できない生活に比べれば、先生の言いつけさえ守っていれば大丈夫だと、安心できたような気がしたからだ。今思うと、一種の“洗脳状態”だったような気がする。  しかしある日、幼児教室でできたママ友と何げないおしゃべりをしていると、こんなことを言われた。 「ぶっちゃけ、子どもにテレビ見せてますよ~」  え!? 私は驚いた。レッスンでは、ママ友たちはそんな様子を一切見せずに熱心に先生の話を聞いていた。もしかしたら出し抜こうとしているのでは……という疑念もあった。しかし、話を聞けば聞くほど、子ども番組の詳細な内容を話してくることなどから、うそはついていなさそうだった。疑問に思った私は、ではなぜ幼児教室に通っているのかを聞いた。すると、 「児童館代わりだよ。もう少し大きくなれば、いろんな習い事ができるからそれまでのつなぎね」  あっさりとそう答えた彼女の表情を見たとき、私は幼児教育の“魔法”から覚めた。なーんだ、みんなそんな適当な感じなんだ。もっと力を抜いていいんだ。そう思うと、ちょっと気が楽になった気がした。  そのママ友は、こんな裏話も聞かせてくれた。 「先生の話を聞いて熱心にやっているママは1人か2人じゃないかな。あとは聞き流して聞いている人ばかりだよ。私だって、もらったプリントはすぐにごみ箱行きよ」  私は毎回もらったプリントをあとで読み返せるようにと、きれいにファイリングしていた。  そうした話を聞くほど、人が勝手に作った育児方法を忠実に守ろうとしている自分がバカらしく思えてきた。でも、すぐに幼児教室は辞めなかった。その理由は、この先、先生がどんな「トンデモ話」をしてくるかが気になったからだ。 「離乳食はおかゆのみ。私たちの祖先は米だけ食べて生活していましたので大丈夫です」 「プラスチックのおもちゃはできるだけ控えてください。木のおもちゃは温かみがあるので、子が親の愛情を感じます」  その後も、毎週のように先生からは「名言」が連発した。なかでも、私が一番驚いたのはこれだ。 「幼児教育番組は子どもの月齢に合わせて作られているので、見せても大丈夫です」  言ってること違うじゃん! あれだけテレビ見るなって強調していたのに、何たるご都合主義。じゃあ、最初から言ってくれよ。  他にも「弊社オリジナルの英語教材がスタートしました。タブレットでお勉強できますよ」と自社のタブレットは宣伝しまくり。あれほど液晶画面は見せちゃいけないと煽っていたのに、いやはや。  結局、私が幼児教室を辞めたのは、子どもが2歳の時。仲が良かったママ友たちが退会していったからだ。その時には、私自身も幼児教室には飽き飽きしていた。  早期教育を受けた成果があったのかは、よくわからない。息子は3歳になったが、今のところ群を抜いて成長が早いと感じられる部分はない。  幼児教室を全面的に否定するつもりはないが、全てをうのみにする必要はない。入会当時の私のように、育児ノイローゼ気味だと、先生の言うことを妄信しやすくなってしまう気がする。  育児に答えは無い。どこかの「先生」が言うことが必ずしも正しいわけでもない。約1年半の間幼児教室に通って、それがわかったことは唯一の“収穫”と言えるかもしれない。(文=栗原みな)
dot. 2020/07/10 17:00
ギタリストの安田裕美が逝去、妻・山崎ハコ「ファンの皆様、ありがとうございました」
ギタリストの安田裕美が逝去、妻・山崎ハコ「ファンの皆様、ありがとうございました」
ギタリストの安田裕美が逝去、妻・山崎ハコ「ファンの皆様、ありがとうございました」  ギタリストの安田裕美が逝去した。  山崎ハコの夫であり、日本を代表するスタジオミュージシャンとして活躍。また、井上陽水のサポートや編曲家などとしても知られる安田裕美は、2020年7月6日午後2時33分、大腸がんで永眠した。享年72歳。本人の遺志により、通夜・告別式は行われないとのこと。 ◎山崎ハコ コメント 大変な事ばかりの中、心苦しいのですが、山崎ハコよりお知らせをさせて下さい。  私の夫で ギタリストの安田裕美が、7月6日、午後2時33分 永眠いたしました。 大腸癌、72歳でした。  音楽業界の皆様には、50年以上もの間、スタジオミュージシャンとして、時には編曲家としてレコーディング等に呼んでいただき、沢山お仕事をさせてもらえました事、心より感謝申し上げます。 又、数々のコンサート等で演奏させて頂きました事、関係者の皆様にお礼を申し上げます。 長い間、お世話になりました。本当に有り難うございました。 そして、彼のギターを沢山聴いて下さった安田裕美ファンの皆様、ありがとうございました。 コロナ感染が収束していませんので、今は通夜、葬儀・告別式は行わない事を、慎んでお知らせいたします。 「お別れの会」としましては、いつか 音楽溢れる、最初で最後の「安田裕美の会」をやりたいとは思っていますので、可能な道が見つかりましたら、必ずお知らせ致します。  私も今は悲し過ぎて 色々な事を考えられませんが、かけがえのない命、皆様のお健やかな事とご自愛を、心よりお祈り申し上げます。 2020、7、7 山崎ハコ
billboardnews 2020/07/08 00:00
介護に行けず「少しほっとした」 遠距離介護のツラい現実と三つの問題
鮎川哲也 鮎川哲也
介護に行けず「少しほっとした」 遠距離介護のツラい現実と三つの問題
イラスト=GettyImages 寝起きの際、腰や脚に負担が少ない介護ベッド。記者の父母宅でもレンタルし、助かっている (GettyImages) 遠距離介護を乗り切る心得11カ条 (週刊朝日2020年7月10日号より) 遠距離介護あるある。コロナ禍編 (週刊朝日2020年7月10日号より) 「介護」は突然、やってくる。そう痛感したのは、2年前の春のこと。80歳を超えた母が大腿骨を骨折し、2カ月入院した。 「お母さんが救急搬送されたって……」  病院から突然の連絡を受けたときは、正直、気が動転した。  それからというもの、母は要介護、85歳を超えた父は要支援と認定され、一人息子の記者は「遠距離介護」をすることになった。齢を重ねても元気な両親だったから、介護なんてまるでひとごとだったのだが。  あの入院以来、1カ月に一度ほど四国に帰り、両親の面倒をみている。まとまった休みがあれば、真っ先に帰った。  年末年始、お盆、ゴールデンウィークなど少し長い休みには、ケアマネジャーに普段の状況やこれからの介護方針など聞くこともあり、帰省が欠かせなくなった。家の片付けをまとめてできるし、親を連れて少し遠くへ出かけることもできる。連休は遠距離介護をする身にとって、とても大事な日々なのである。  そうこうして介護のありようを探るうちに、境遇が重なる人たちでつくる「離れて暮らす親のケアを考える会・NPO法人パオッコ」とつながりができた。月に1回程度、実際に遠距離介護をしている人たちが、悩みや問題点を話し合うサロンを開き、現在のコロナ禍の中でも遠距離介護についてリモートで語り合っている。  僕も僕なりに親の介護ができるようになってきたのでは……ひそやかな自負は、今春、あっけなく打ち砕かれた。  大型連休前、例の不要不急の移動自粛要請だ。新型コロナウイルスの感染防止のため、県境をまたぐ移動はままならなくなった。親の介護は必要なことだと考え、帰省しようかと最後まで逡巡したが、やはり取りやめた。  パオッコの代表、太田差惠子さんは言う。 「遠距離介護をしている人の多くは帰省しませんでした。それは不要不急だからではなく、親に感染させたらいけないと考えたからです」  記者もそうだ。ただ内心を明かすと、外出自粛が要請され、親の面倒から解放される、と少しほっとしている自分がいたのも事実である。知らぬうちに、けっこう疲労も蓄積しているのかもしれない。遠距離介護に終わりはみえないし。  太田さんは言う。 「遠距離介護で問題になるのは大きく三つ。お金、時間、体力です。加えてコロナ禍で別の問題も噴出し、遠距離介護をする人はますます大変になっています」  そもそも横たわる問題はお金のことだ。  遠距離の移動には交通費がかさむ。記者の場合は飛行機を利用すると往復5万円以上と馬鹿にならない。そのため一番安い方法として、行きは深夜バスを使う。往復はさすがに疲れるので、東京に戻るのは新幹線。時間がかかり、体力も必要なのだが、できる範囲で安いほうを選ぶ。  親が生活するための現金の管理も気になる。記者の両親は、昔気質の人間で、現金自動支払い機などは敬遠気味。まとまった現金も家に置いていることが多い。でも衰えの目立つ記憶力では、大事なお金をどこに置いたかわからなくなることが多い。 「あのお金どこ置いた?」  と、両親から何度聞いたことか。その言葉を聞くたびに不安になる。  新型コロナの蔓延により、政府から1人10万円の特別定額給付金が支給される。手続きのために書類が郵送されるが、それらはしっかり管理されているだろうか、記者は不安にかられた。  特別定額給付金の申請には、運転免許証などの本人確認書類や振込先金融機関口座確認書類のコピーが必要だが、そのようなことも高齢の親にはハードルが高い。記者の両親の場合は、ケアマネの手助けでどうにかなった。  次に時間である。  四国に行くときは深夜バスで、と記したが、やはり急ぎの場合は飛行機だ。しかし、便数が限られ、案外予約が取れない。県境をまたぐ外出自粛が解除になってもコロナ禍で減便となっているため、さらに競争率が高くなっている。  何か問題が起こってもすぐには行けないというのは、とてももどかしい。 「何かしないといけないと思いつつも、親は遠くにいるのですぐには対応できない。一番ドキッとするのは、親が住んでいる地域の市外局番の知らない電話番号からの着信があったときですね」  と太田さんは続ける。  コロナ禍で両親に万が一のことがあれば……そう考えるだにつらくなる。  加えて、介護のため帰省する際、できるだけ役所や企業があいている平日を含めたいという事情がある。すると平日にも休むことになり、仕事にも支障をきたす場合がある。ケアマネやヘルパーと打ち合わせをするにも、休みの日は敬遠されそうだし、やはり平日に、という心理も働く。  体力面もきつい。 「介護をする側も高齢になっているケースも増えています。60代の人は体力的にきびしいという人が多くいます」と太田さん。  介護される親の年齢同様、介護する側も年を重ねることになる。滞在中の限られた時間の中でやらなければならないことが山ほどある。平日の仕事同様、場合によってはそれ以上に体力を使う。 「親が病気やけがなどで入院すると通う頻度も上がりますからね。より体力を消耗することになります」(太田さん)  記者も母が入院していたときは2週間に一度帰省し、病院に見舞いに行きつつ、家の管理、ケアマネ・ヘルパーとの打ち合わせと時間に追われ、体力を消耗した覚えがある。  東京や大阪などの大都市と地方では新型コロナに対する意識の違いがある。自粛で人が目に見えて減った大都市は、みんなが感染しないように対策をしている。一方、人口が少ない地方で暮らし、普段から人と接する機会があまりない場合、なかでも高齢者は、新型コロナが猛威を振るっている実感が薄いようだ。  記者も電話で口を酸っぱくして新型コロナに気をつけるよう父母に伝えても、 「大丈夫。東京は大変だろうから気をつけて」  と、こちらの心配ばかりする。親は自分が高齢になって世話をされることが多くなっても、子どものことが心配で仕方ないようだ。その気持ちはありがたいが、ここはその気持ち以上に介護する子どもの側が気をつけたほうがいい。  遠距離介護で親の体調を気遣うのはもちろんだが、親に関係する手紙や書類の管理も重要だ。  記者の場合も郵便物が一部捨てられている時期があり、実家の自動車税が未納になり、車検が切れていたことがある。以来、郵送された手紙は捨てずに置いておくよう強く言い伝えた。  そんなこんなで、遠距離介護とは気骨が折れることばかりである。  コロナ禍の拡大で、遠距離介護で具体的に留意すべきことは何だろう。盛岡で一人暮らしをする認知症の母を遠距離介護している介護作家・ブロガーの工藤広伸さんに尋ねた。 「一番心配なことは、母が人と触れ合う機会が減り、認知症が進んでしまうのではということです」  コロナ禍に見舞われる前は月に一度、1週間ほど帰省していたが、それができなくなったからだ。  その一方で、5~6年前に見守りカメラをつけ母の様子は把握をしている。ただ、誰もがカメラを入れているわけではない。 「見守りカメラや、顔を見て通話できる機器を入れることを嫌がる高齢者はけっこう多いですね」  介護する側からすると、心配だからカメラを通してでもリアルタイムで親を見ていたいし、もしも何か起こった場合、カメラがあるとすぐわかるからあったほうが安心だ、と思う。 「カメラがあると監視されているように感じるようです。親には親の生活があるので、その点は尊重したほうがいいでしょうね」(工藤さん)  かつて、記者もカメラを置こうと考えたことがあったが、そんなものはいらない、と一蹴されたことを思い出した。  外出自粛で帰れなくなって以来、記者は電話をよくかける。でも、耳が遠く認知症が進んでいるため、大きな声で話したり、何度も同じことを繰り返し話したりせねばならずイライラすることも多い。やはりカメラがあれば、と思うことが何度もあった。(本誌・鮎川哲也) ※週刊朝日  2020年7月10日号より抜粋
シニア
週刊朝日 2020/07/07 08:00
サラリーマンの副業収入減も給付金対象に 知らないと損する「もらえるお金」
サラリーマンの副業収入減も給付金対象に 知らないと損する「もらえるお金」
※写真はイメージです (GettyImages) 事業者がもらえるお金 1/2 (週刊朝日2020年7月10日号より) 事業者がもらえるお金 2/2 (週刊朝日2020年7月10日号より)  緊急事態宣言が解除されてから1カ月。世の中は“日常”を取り戻しつつあるものの、飲食店などは依然として厳しい状況にある。個人事業者が活用できる「もらえるお金」は? *  *  *  日本橋で天ぷら屋を営む店主が話す。 「お客さんは戻ってきましたが、3密を避けるために席を半分にしているため、かき入れ時のお昼に結構な数のお客さんを逃しています。テイクアウトっていう手もあるんでしょうが、ウチはできたてを食べてもらう店だからそうはいかない。コロナ以前の6~7割の売り上げにしかなりません」  接待を伴う夜の飲食店も追い詰められている。日本一の高級歓楽街・銀座は大半の店が東京都の要請どおり、自粛を続けたという。 「お客さんにホステス、黒服を合わせると銀座だけで100人以上の感染者が出たと言われています。だから、クラブは大半のお店が最後まで営業を自粛。志村けんさんの感染が判明した3月下旬から、お客さんが激減したので、3カ月も休業を余儀なくされた。お金が底をついたので、2カ月も家賃を滞納しています」(銀座のクラブママ)  銀座社交料飲協会では、コロナ対策のガイドラインを作成。それにのっとって、パーテーションを設置するなどの対策をとった店舗には、「優良店」のポスターが発行されるが、「パーテーションで仕切られた銀座のクラブなんて興ざめ、と親しいお客さんに言われて、この先の客入りが心配」(同)という声も。アフターコロナの経営不安はしばらく後を引きそうだ。  そんな飲食店経営者などにフル活用してもらいたいのが、「コロナでもらえるお金」。国や自治体が予算をつけ、コロナ対策に取り組む事業者の支援を目的に用意された給付金制度だ。  ほとんどの事業者が、自治体が用意した「感染拡大防止協力金」(東京都の制度名)の申請は済ませていることだろう。休業要請に従って休業、ないし時短営業に取り組んだ事業者であれば、1事業所につき50万円、2事業所以上で100万円(東京都の例)がもらえる制度だ。さらに、東京都では5月25日まで休業・時短営業した事業者を対象に追加で50万円(2事業所以上は100万円)給付する“第2弾”の申請受け付けが6月17日から始まっている。2度の給付が受けられるので、該当者は忘れずに申請しておこう。  同じく、多くの事業者が申請済みであろう、持続化給付金。5月1日から申請受け付けを開始した、国が用意した事業者向けのコロナ対策給付金だ。事業者が選択した月の売上高が前年同月比で50%以上減少した場合に、中小企業なら最大200万円、個人事業主なら最大100万円を受け取ることができる。あらゆるジャンルの事業者が対象なうえに、会社員であっても受け取れる可能性がある。ファイナンシャルプランナーの井戸美枝氏が話す。 「5月22日に対象が拡大され、給与所得や雑所得として事業収入を得ているフリーランスや今年創業したスタートアップ企業も給付を受けられるようになりました。ミュージシャンやライターなどは、社員ではないにもかかわらず、所属組織から給与取得として収入を得ていたり、単発のお仕事を雑所得として計上しているケースがあるのですが、いずれも事業収入と見なすよう変更されたのです」  雑所得も対象になるということは、サラリーマンの副業も含まれる。 「しっかり確定申告を行っている副業収入が前年比で50%以上減になっていたら給付が受けられます」(同)  現状、売り上げが50%減になっていなくても、給付対象となる可能性があることは覚えておきたい。 「持続化給付金の給付条件は、事業者が選択した月の売上高が前年同月と比べて50%以上減になること。選択できる月は、今年12月までのいずれか。つまり、この先、売り上げの減少に見舞われそうな事業者も対象になる。毎月の事業収入を前年と比較して、50%以上減になったら申請できるわけです」(同)  ただし、何度も申請の受け付けをはねられた人もいる。フリーのウェブデザイナーとして生計を立てるAさん(30代)が話す。 「取引先のリモートワーク化が進んで、いくつかの案件の進行が遅れて、4月は前年同月比で50%以上の減収になりました。そこで5月7日に持続化給付金の電子申請を行ったのですが、2週間後に『不備があります』とメールが届き、申請し直したら、今度は1週間後にまたも『不備があります』という連絡が。何度、コールセンターに電話してもつながらないうえに、電話口のスタッフは私の申請書類を直接チェックできない仕組みのようで、どこに不備があるのか教えてくれないんです。結局、3回はねられたあとに、上司を呼び出せ!と声を荒らげてしまいました……」  持続化給付金の電子申請用サイトは、5月1日の受付開始当初から何度もシステム上のエラーが発生するトラブルに見舞われている。システムのバージョンアップが並行して進められた結果、二度手間、三度手間を余儀なくされた申請者が増えてしまったという。 「当初は、給付金の振込先となる銀行名、支店名は手打ちだったのに、5月半ばぐらいから選択式に切り替わったのです。私の申請がはねられた理由は、その仕様変更に気づかず、手打ちのままだったから。結局、コールセンターのスタッフから不備のある箇所は教えてもらえず、上司を電話口に呼び出してもらって、解決しました」(Aさん) (ジャーナリスト・田茂井治) ※週刊朝日  2020年7月10日号より抜粋
お金
週刊朝日 2020/07/06 08:00
「小池百合子をつくった日本社会の問題点」『女帝』著者・石井妙子が斬る!
「小池百合子をつくった日本社会の問題点」『女帝』著者・石井妙子が斬る!
石井妙子(いしい・たえこ)/1969年、神奈川県生まれ。白百合女子大学卒、同大学院修士課程修了。5年にわたる綿密な取材をもとに『おそめ』を発表。伝説的な銀座マダムの生涯を浮き彫りにした同書は高い評価を受け、新潮ドキュメント賞、講談社ノンフィクション賞、大宅壮一ノンフィクション賞の最終候補となった。『原節子の真実』(新潮社)で新潮ドキュメント賞を受賞。他の著書に『日本の血脈』(文春文庫)、『満映とわたし』(岸富美子との共著/文藝春秋)、『日本の天井 時代を変えた「第一号」の女たち』(KADOKAWA)など。新刊『女帝 小池百合子』(文藝春秋)は20万部を超えるベストセラーに。(撮影/小山幸佑) 石井妙子さん(左)と林真理子さん (撮影/小山幸佑)  20万部を超えた話題のノンフィクション『女帝 小池百合子』を書いた石井妙子さん。「おもしろい……!」と作家の林真理子さんも唸り、知り合いに薦めまくったほど。石井さんが同書で伝えたかったこととは。 *  *  * 林:『女帝 小池百合子』がすごい話題ですね。私、LINEで50人ぐらいに一斉に「読んでみて」って連絡したんですよ。 石井:ありがとうございます。いろんな方から「林さんに推薦された」という話を聞いて、「えっ」と思ってびっくりしました。 林:都知事選間近のこの時期にこんな本を出すのは彼女に気の毒だ、みたいな声もありますね。 石井:2年前に「文藝春秋」でかなりの枚数をさいて彼女の学歴詐称疑惑について書いたときはほとんど無視されてしまって、世の中もぜんぜん反応してくれなかったんです。それを今回「選挙妨害だ」と言われても、それはちょっと……。出版のタイミング(5月29日発売)も、都知事選ギリギリを狙ったわけじゃなくて、私、締め切りを破りに破って、「これ以上遅れてはダメです」と編集者から言われて。宣伝文句は「緊急出版」となってますけど、ほんとは「ノロノロ出版」なんです(笑)。 林:そうなんですか。この本、みんな有吉佐和子さんの『悪女について』みたいだって言いますけど、私は、過去を隠して親子でさまよう、松本清張さんの『砂の器』みたいだなと思って。 石井:実は取材を進めるうちに、私も『砂の器』が思い出されて……。執筆時は毎朝、『砂の器』の音楽を聴いていました。 林:まあ、ほんと! 『砂の器』だと思ったのは、やっぱり間違ってなかったんですね。私の友達は、「夜中に読んだら眠れなくなった」と言ってました。確かにコワい部分もあるけど、簡潔な美しい文章で、すうーっと入ってきましたよ。読み終わったあとは、しみじみ考えさせられるものがあって。 石井:周りの人からも「コワすぎる」というご意見はいただきました。共産党の小池(晃)さんも、「読み出したら怖くて止まらない」とツイッターで書いておられた(笑)。 林:それだけ話題になっている本ということですよね。石井さんは、「ノンフィクション作家には二つの罪があって、一つは書いたことの罪、もう一つは書かなかったことの罪」とおっしゃっていますけど、『女帝』はその程合いが素晴らしいですね。文学的にも非常に高い価値を持っていると思います。「暴露本だ」みたいに言う人もいますが、卑しい下品なところから出発してなくて、ノンフィクションってやっぱり志だなと思いました。志が低くないから感動的だし、読後感がいいんですよね。これだけいろんなイヤなことを読まされても。 石井:ありがとうございます。そんなお言葉をいただいて。 林:ノンフィクションって、すごくつまらないノンフィクションと、すごくおもしろいのがあるじゃないですか。 石井:はい……。あっ、「はい」なんて言って(笑)。 林:どれだけ資料を集めたかもあるけど、文章がうまい人じゃないとノンフィクションはおもしろくないということを、石井さんの本でつくづく思いました。 石井:ありがとうございます。 林:この本、小池さんの学歴詐称疑惑のことは一部で、小池百合子さん的なものに非常に甘い、日本の男たちの姿があぶり出されていますよね。 石井:ええ。 林:これは飛躍した例だけど、たとえば「夕ぐれ族」(1982年に実在した売春あっせん組織の名称)のころ、「私はいいところのお嬢さんで、学校は聖心に行ってます。でも、名前は出さないで」とか言って、その売春組織にいた自称女子大生の言うことは、みんなウソだと知ってるのに、マスコミの男の人、それに乗っかってチヤホヤしたじゃないですか。そういう男の人たち、今は偉くなってると思うんですけど、ちょっと反省してほしいなと思いますよ。 石井:まさに共犯ですよね。男の人たちの言い分を聞くと、「女の人を何とか引き上げてあげたいという善意からやったことだ」と言うんですけど、すべての女の人にそれをやってはいないような気がするんです。やっぱり「カワイイ女の子」が引き立てられるし……。 林:その「カワイイ女の子」というのも、ちょっとひねってなければダメなんですよね。女性であることを利用した人ほど、後になって「『ガラスの天井』(女性のキャリアを妨げる見えない障壁)があった」とか、「女性だからこういう目にあうんだ」とか必ず言うって石井さんはおっしゃってますけど、ほんとにそのとおりだなと思いますよ。 石井:実際に「ガラスの天井」で苦しむ女性もいますが、「あなたが言うのはちょっと」というケースもあります。小池さんがそうですが。結局、女の人が認められるには、本業で実力を蓄えるしかないと思うんです。でも、その本業が何だかよくわからない人、小池さんもそうですが、そういう人は年齢を重ねると行き詰まってくる。つまり仕事の本質みたいなところがないから、実力が蓄えられない。それで、人生の後半に、自分が思うようなポジションにいられないと「ガラスの天井があった」と安易に言ってしまう。 林:なるほど。 石井:でも、そうなっちゃうのは女の人本人の問題もあると思うんですけど、男社会の問題でもあるはずなんです。本業をしっかりさせることができず、年齢だけ重ねてしまった女の人は、結局、権力を持つ男の人を頼り続ける。それは女の人自身の問題でもあるし、そういう人をつくり続ける日本の社会の問題でもあると思います。また、こうやって生きていく女性のことを書いたりすると、今度は「女が女をいじめてる」みたいにされがちで。 林:そうそう。 石井:私も今回この本を書いたことで、「女が女を悪く言うと、ほんとに辛辣になる」とか、「女が女に嫉妬して、成功してる女を引きずり下ろそうとするから、女ってほんとにコワい」とかいう意見も来るし、何を言われてもべつにかまわないんですけど、いろいろ言われるものだなと。ノンフィクションは書くときも大変ですけど、書いた後も大変です。 林:本当にそうですね。私、それでもたぶん小池さんは都知事選で勝つと思うんですよ。 石井:私としてはやるべきことをやったし、書き手としての務めを果たしたという気持ちでいて、あとは皆さんの判断ですよね。4年前の都知事選のとき、小池さんは「悪のかたまりの自民党、オッサン政治と闘います!」と言った。女の政治家は善良でお金にクリーンで正義感にあふれている、と無条件に思い込んでしまう女性有権者の心理をうまく利用したと思うんですね。 林:またあのときは、石原慎太郎さんがいい役をやってくれたんですよね。「大年増の厚化粧」とか言って。あれを見て、私は「これで小池さん圧勝だ」と思いましたよ。 石井:小池さんは、日本人の西洋コンプレックスとか、縦社会の歪みとか、男性優位な社会構造のスキをついてうまくよじ登ってきて、あと一歩で総理というところにまで来た人だと思います。その責任は、私たち一人ひとりにある。私は小池さんを批判するというより、むしろそんな私たちの社会はどういう社会なのか、と。それを言いたかったんです。 林:ええ。本当にそうだと思います。しかしこの本を読んで、あらためて小池さんっておもしろい人だなとも思ってしまいました。皆さん「モンスターみたいな女だ」って言うけど、私、石井さんの本を読んでも決して小池さんが嫌いになれないんですよ。幼いころからの小池さんの人生を見せていただくと、「こうなったのもわかるな。こういう人生も、ありかもしれない」って思ってしまって、つい一票入れちゃうかも(笑)。 石井:なるほど(笑)。 >>【「小池さん的な人」とは 『女帝』著者が語る「スキルより容姿」時代の弊害】へ続く (構成/本誌・松岡かすみ、編集協力/一木俊雄) ※週刊朝日  2020年7月10日号より抜粋
小池百合子林真理子
週刊朝日 2020/07/05 20:30
イマドキありえないノロさ? 日本各地にはこんなに「夜行鈍行列車」があった
イマドキありえないノロさ? 日本各地にはこんなに「夜行鈍行列車」があった
“夜行列車”と聞いて思い浮かぶブルートレイン。寝台特急「あけぼの」にも多くのファンがいた (C)朝日新聞社 1985年に撮影された上諏訪行き夜行列車の車内(C)朝日新聞社 1980年寝台列車「からまつ」の廃止を前に記念撮影する車掌たち(C)朝日新聞社 (表1)(表2)  夜行列車といえば、まず最初に思い浮かぶのが「ブルートレイン」かもしれない。かつては寝台車や食堂車を連ねた列車が各地を駆け巡り、新幹線時代になっても広く親しまれてきた。一方、「ブルートレイン」の華やかさとは無縁に、夜の鉄路を仕事場とした普通列車の夜行も少なからず走っていた。それはどんな列車だったのだろうか……? *  *  * ■JR発足後にブームを迎えた夜行列車  古い「時刻表」や鉄道雑誌などを開くと、全国津々浦々といっていいほどに夜行列車が活躍していたことがわかる。かつては、上野駅の通称「地平ホーム」には夕方から深夜にかけて続々と夜行列車が旅立っていったほか、東京駅も九州や関西方面などに向かう夜行列車が華やいでいたものだ。  やがて新幹線網の拡大と引き換えるように縮小していったが、国鉄分割民営化後に個室寝台などを中心とする豪華寝台列車が人気を集めることとなった。JR発足後の1990年3月ダイヤを見ると、愛称数で特急20、急行15、普通5(快速および愛称なし列車を含む)、運転本数で特急26往復、急行15往復、普通3往復+片道2本もの夜行列車が各地を駆けていたのである(臨時特急「トワイライトエクスプレス」を含む)。  その後の推移については割愛するが、普通列車が複数設定されていた点に注目してみたい(※表1参照)。  残念ながらいずれの列車もすでに姿を消してしまったが、「青春18きっぷ」の定番列車でもあり、シーズンには多くの旅行者で賑わっていた。現在でも「18きっぷ」シーズンと合わせて東京~大垣間に臨時快速「ムーンライトながら」が運行されることがあるのはそのためだ。  私自身は学生時代に中央線沿線で暮らしていたこともあって、上諏訪行き421Mによくお世話になった。大月と甲府で長時間停車があり、大月では改札を抜け、コンビニエンスストアで食料や飲み物の買い出しをするのがお約束だった。「18きっぷ」ユーザー以外では登山客御用達列車でもあり、シーズンには新宿駅地下通路に集合し、駅員の誘導でホームに登っていったのもいい思い出である。 ■寝台車つき普通列車が走っていた!?  国鉄時代に遡ると、夜行普通列車はまさにありきたりの列車と化す。  1965年4月ダイヤを開くと、東京~姫路、京都~鳥栖、門司港(鹿児島本線・肥薩線経由)都城、上野~青森、函館~釧路など、いまでは考えられない長距離の夜行普通列車がそこここに見られる。東京~大阪や大阪~門司、大阪~新潟などはダブルトラックどころか都合3往復が設定されているケースがあるほか、上野~青森は東北本線と常磐線、奥羽本線と3つの経路にそれぞれ夜行普通列車が往復していた。ダイヤ例を挙げると、青森発(奥羽本線経由)上野ゆきは青森発7時00分、上野着が翌朝5時06分で、所要時間は22時間6分にも及ぶが、当時はこのようにスケールの大きな普通列車が決して例外的存在ではなかったのである。  いまひとつの注目点が、寝台車を連結する普通列車だ。同ダイヤでは、京都発門司行き(山陰本線経由811列車)の米子~門司と、門司港~長崎(411/412列車)、門司港~西鹿児島(現・鹿児島中央。511/512列車)、小樽~釧路(421/422列車)に2等寝台車が連結されていた。2等寝台はのちのB寝台で、寝台料金は下段が800円、中段700円、上段が600円。ちなみに初乗り運賃(3キロメートルまで2等)は10円、駅弁が100円程度という時代である。 ■愛称つきとなった寝台車連結普通列車  こうした寝台車つき夜行普通列車はその後も引き継がれていった。1976年7月ダイヤを見ると、つぎの列車にB寝台車連結マークが見られる。 ・「山陰」京都~出雲市 ・「ながさき」門司港~長崎・佐世保(寝台車は長崎編成に) ・「南紀」名古屋~天王寺(紀勢本線経由。寝台車は新宮~天王寺) ・「からまつ」小樽~釧路  1965年と比較すると、門司港~西鹿児島間列車が急行「日南4号」に格上げされたほかは、ほぼ列車を引き継いでいる。上野~青森や東京~姫路など姿を消した列車も多いなか、伝統のように寝台車つきとして健在しているのが不思議な気がしないでもない。また、それぞれに愛称がつけられているのは、寝台券発券の関係だと思われる。  このうち、門司港~長崎の当時の所要時間は特急乗り継ぎで3時間50分前後、博多~長崎だと2時間35分ほどの距離にすぎない。ガラガラの寝台車を連結していたとは思えず、この距離でも需要があったと考えるのが妥当だろう。下りの場合、この列車を使わない場合の長崎到着は10時30分(「ながさき」は門司港発22時39分~長崎着6時39分)になってしまうことから、この点ではダイヤ面での利便性があったのかもしれない。 ■急行との競合もあったが、普通列車ならではのダイヤが武器に  京都~出雲市の「山陰」のダイヤは京都発22時02分~出雲市着9時50分だが、米子着は7時34分と出張でも利用しやすい時間帯となっている。上りでは出雲市発19時09分~京都着5時25分と早朝着ではあるものの、昼行列車では京都着12時22分(特急「あさしお1号」)となってしまうため、夜行としての価値はありそうだ。なお、急行「だいせん2号」(大阪~大社間)にも寝台車があり競合している。ちなみにB寝台券はともに2000円、急行券は201キロ以上が500円である。  名古屋~天王寺の「南紀」は1968年から94年にかけて新宮~天王寺で寝台車を連結していたが、82年に亀山発着に短縮、84年には新宮~天王寺の運転となった(愛称はのちに「はやたま」に変更)。この時代、昼行利用では天王寺着が11時26分(「南紀」は5時00分)、新宮着は13時13分(同5時10分)で、夜行を設定する必要があったに違いない。  小樽~釧路の「からまつ」は、もし現代に走っているとすれば、自然と選ぶ旅人も少なくないような気がする。上りでは札幌着が5時36分と早朝に偏るほか、根室からの乗り継ぎも釧路で2時間弱のインターバルがあるなど、やや使いづらい感があるが、下りの利便性は抜群であった(※表2参照)。  夜行急行「狩勝4号」と競合しているものの、「からまつ」も十分に対抗できるダイヤになっている。釧路乗り継ぎでの根室着は12時55分と、「狩勝4号」の8時52分着との差が悩ましいところだが、「からまつ」の乗車率は十分に健闘していたようだ。  レイルウェイ・ライターの故・種村直樹氏は「まじめな列車」と「からまつ」を例えたが(「旅と鉄道No.35/80年春の号」鉄道ジャーナル社)、実用にも便利で地に足の着いた“夜汽車”だったようである。地味な存在ながら、夜を舞台に旅人を運んできた夜行鈍行列車。ちょっとノスタルジーを覚えつつ足取りをつづってみたが、かつてはそんな列車に旅を実感したのも確か。わずかでも復活してくれたら……と思わないでもない。(文・植村誠) 植村誠(うえむら・まこと)/国内外を問わず、鉄道をはじめのりものを楽しむ旅をテーマに取材・執筆中。近年は東南アジアを重点的に散策している。主な著書に『ワンテーマ指さし会話韓国×鉄道』(情報センター出版局)、『ボートで東京湾を遊びつくす!』(情報センター出版局・共著)、『絶対この季節に乗りたい鉄道の旅』(東京書籍・共著)など。
鉄道
dot. 2020/07/04 16:00
<独占>石橋蓮司主演映画「一度も撃ってません」のエピソードゼロとなる小説を特別無料公開
<独占>石橋蓮司主演映画「一度も撃ってません」のエピソードゼロとなる小説を特別無料公開
(C)一度も撃ってませんフィルムパートナーズ2020 (C)一度も撃ってませんフィルムパートナーズ2020 (C)一度も撃ってませんフィルムパートナーズ2020  石橋蓮司の18年ぶりの主演映画「一度も撃ってません」。大楠道代、岸部一徳、桃井かおり、佐藤浩市・寛一郎親子、柄本明・佑親子、豊川悦司、江口洋介、妻夫木聡、井上真央、渋川清彦、小野武彦という豪華キャストが、「石橋さんのためなら」と集結した。  7月3日(金)公開の本作の監督は阪本順治、脚本はテレビドラマ「探偵物語」などの脚本で知られる丸山昇一。  石橋さん演じる市川進(いちかわ・すすむ)は、巷で噂の伝説のヒットマン。……ではなく、理想のハードボイルド小説を極めようとする74歳の売れない小説家。小説の取材のために、密かに殺しの依頼を受けては本物のヒットマンに依頼し、その状況を書くということを繰り返していた。  そのツケが回り、妻には浮気を疑われ、敵のヒットマンからは命を狙われる。そして「一度も撃ったことのない」ヒットマンの長い夜が始まる。  この映画の「エピソードゼロ」となる小説「サイレントキラー」を丸山さんが書き下ろした。市川という男の、渋くも哀愁漂う魅力が伝わる短編だ。  映画公開を記念して、全文を特別公開する。  読んでから見るもよし、見てから読むのもよし。 *    *   * 読み切り小説「サイレントキラー」 丸山昇一 市川進…石橋蓮司 市川弥生…大楠道代 石田和行…岸部一徳 玉淀ひかる…桃井かおり 今西友也…妻夫木聡  夜は、酒が連れてくる。 バーボン樽の甘い香りをそのままの酒が、市川進の舌をすべり落ちた。振り向くと、いつ店に入ってきたのか、ブランデーのレモン割りを片手に、玉淀ひかるが頬を寄せてくる。今度はジャスミンの匂いがした。市川が学習した嗅覚からすると、シャネルのココヌワール。流れる曲は、インストルメントだけの『スタンド・バイ・ミー』に変わり、ひかるが軽く踊りだす。  七月十日、二十三時。新宿三丁目、酒場Y。 「サッカしてる?」  踊りながらサッカーボールをシュートする動きで、ひかるが唇をつきだしてきた。キスのかわりに市川はバーボンのグラスをひかるのグラスに当て、見つめる。 「ずっとな。死ぬまで作家してるさ」 「VIはまだ書かないの?サイレントキラー」 「ネタの仕入れが今一つだ」 「鮨屋か」  奥のトイレの脇に立ち、年増の女性客を口説いているのか説教してるのか定かではない石田和行が、グラスにスコッチを追加して、ひかるの背後に迫る。 「ひかる。後ろから正常位」 「不条理まで、あと十センチ」 「勃起しても届かない」 「の前に糖尿をなんとかしろ、ED野郎」  ひかるに毒づかれるのを今や唯一の生きがいにしてるかのような石田を、市川は冷めた目で見ている。 「市川。今夜もふた昔前に流行ったシャツ着やがって、この馬鹿。改めて問う。生きるって、なんだ」 「石田のように人非人にならない」 「くそ野郎」  寡黙にして決して気分を外に出すことのない市川が、午前零時を過ぎると突如吠えたて、よく笑い、よく飲み、ひかるも石田も泥酔を通り越して忘我の境地に迷い込み、気づけば、Yのあるビルの外。夜明けの、人の通りが途絶えた路上。  ひかるは歩いて帰れるアパートに。市川と石田は、缶コーヒーを飲みつつ新宿駅へ向かう。 「市川」 「ん」 「ネタになりそうなのが、一件出た」 「ん」 「やるんなら、期限は一週間。報酬は四百万」  石田が、煙草の貸し借りのように無雑作に渡したのは、USBメモリだ。  自宅に帰りついた市川は、妻の弥生と朝食をとり、眠る前に書斎でパソコンを起動させた。メモリに、殺しの依頼。標的、鹿内雪広。の写真三葉と、調査メモが添付されている。 《ワイルドターキー8年。ロック。  かすかに、樽の香り。  背中にもっと強烈な匂い。ジャスミン。  振り返る。目が合った。  女だ。惚れてしまいそうな泣きぼくろ。  性欲は、ある。恋は、できない。  その男、エフ。三十四歳。  七月四日。まもなく零時。青山の、バー。  一時間前に、入店した。  ずっとエフを見張っているはずだ。  店外と、店内。ここに来るまでに尾けられていないか。誰かを張りつかせていないか。  店の隅に、暗闇。ひっそりと、居た。  背の高い、鷲鼻の男。  流れているジャズ。曲が変わった。  外に、出た。シンプルに真夜中。  路地。青山霊園が近い。  広い車道は遠く、エフの靴音のみ。  ソフトラバーの靴。  他に人も影もない。  鷲鼻が、歩み寄る。  「またお願いしたい」  聴いている者にしか響かない低い音域。  エフ。血の流れが一気に速くなり、コメカミの血管が腫れあがる。  この場面、もう馴れたはずだが。  「いつも通りなら」エフの、回答。  殺るか、断るかは、標的を調査してからだ。  「了解」鷲鼻が、頷く。  「報酬は、二百万。十日以内に決めてくれ」  殺しのエージェント。  標的の写真三葉。水に溶かすと消えるレポートをエフに渡して、歩き去った。  エフは地下鉄へ向かう。  さりげなく、気配を探る。  追ってくる者はいないか。  下町。  近くにスカイツリー。  アパート、二階。  帰りついたエフ。レポートを読み込む。  写真は、まだ見ない。  エフ。あかりを消す。  ひとりだ。今は、完璧にひとり。  二〇七号室の窓を開ける。  寝静まる人の世。  また殺すのか。これで何人目だ。  俺はただの殺し屋か。  レポートには、標的を人の世から抹殺してかまわない事実と理由が書いてある。  これは、仕事だ。  本職は別にあるが、臨時にまとまった金が入ると息がつける。  また血の流れが速くなる。  通っている心療内科の医師が言う。  喜怒哀楽、どこかに置き忘れましたね。  愛には遠くとも、哀は忘れない。  窓を閉じた。標的の写真を見よう。  嫌いな顔であって欲しかった。       「サイレントキラー VI」》  ゆりかもめ新橋駅から出た鹿内雪広は、西銀座へ抜ける道を歩きはじめた。  市川進が、追う。七月十四日、午後七時五分を二十秒過ぎたところで、腕時計のストップウォッチを始動させた。同じ盤面で、気温を見る。二十九度。  宵のはじめの雑踏で、刑事や探偵であれば鹿内の足の動きから目を離さずに追ってゆくのだろうが、市川が注意深く追うのは、鹿内の腰、背中、頚椎の動き。人や車とすれ違う時の一瞬の身のこなし、反射神経の程度を推定したい。今夜あたり、二十年前は大学空手部の副主将だったという屈強な鹿内と正面からも斜めからも対峙し結論を下すが、標的、ターゲットと決めれば、多分、きわめて近い距離から銃撃、射殺することになる。その時の鹿内の咄嗟の動きを、市川は既に計測しはじめている。  首都高速の高架下が、近づく。鹿内が、スマホで話しはじめた。その背後へ、市川が接近する。 「自分からジャーナリストと言うな。しかもフリーで。って、今や俺もそうだけどな」  笑った鹿内は、ビア・ステーションに入ってゆく。 「いま、店に入った。一時間くらいはいるから、来いよ。俺がはじめる編集プロだからさ、どでかいことさせてやるよ。金も心配するな。きちんと面倒見てやる」  百七十八センチの身長に見合った太く鋭い声質で滑舌も良いから、この話し方で脅迫を受けつづけた者はよけいに怯むだろうと市川は値踏みして、鹿内の次の次にカウンターでロンググラスの生ビールを受け取った。  ステーションというわりには狭い店内で、着席はいっぱい。背の高いテーブルがあるスタンディングブースは、比較的空いている。店の外に一基、店内の天井と壁に二基の防犯カメラがあるが、市川は特に気にせず、二杯目の生ビールを飲む鹿内を観察する。  市川が鹿内を張り込み、尾行したのは、これで三度目だ。最初と二度目は、鹿内が湾岸に借りたばかりのオフィスから、これも買ったばかりのアウディ3Sセダンで移動したために、市川もレンタカーで追跡し、高倍率ズームデジカメの主に動画仕様で、鹿内の行動パターン、交友の範囲を記録した。  三度目の今日が、直かあたり。市川は、鹿内を見つづけた。  ようやく気づいた鹿内が、食いついてきた。 「誰?」  市川はただ見つめる。 「用は?」  鹿内が、すこし焦れてくる。  市川はまだ焦らすつもりだったが、尿意が激しくなって、つい、洩らした。尿ではない。 「週刊誌の、記者だったんだろ。こっちも似たようなもんで、今はフリーだ」 「じゃ、名刺もなしか」 「持ってない。長年寝たきりの妻をかかえたメガバンクの頭取。秘書課の女と密会を重ねたはいいが、内部情報を女に洩らしてインサイダー取引の疑惑。出版社をクビになる前につかんだその極秘ネタを、浪人の身になって喰い扶持に使った。ふつう、頭取かメガバンクをつつくだろ」  いきなり餌をまいて、鹿内の反応を見る。 「まず女秘書をつついた。不倫の証拠写真、インサイダーのテープを全部渡してチャラにするから、有り金全部出しな。女秘書は千五百万の貯金を差し出した。が、証拠の品は今度は頭取をメガバンクに。女秘書は自殺した」  聞いている鹿内の顔に、変化はない。 「自殺の真相に蓋をするのもあわせて二億を要求したが、結局は一億で手を打った。それでもしぶとい。証拠のコピー、とってたらしいな。今もメガバンク側の担当者を追いまわしてるんだって?今度はいくらたかるつもりだ」  鹿内は声も立てずに笑い、ロンググラスをテーブルに置くと、銀細工の指輪を右手人差し指から外し、カルチェの時計も外した。 「ゆっくり飲みたくなると、よけいな物を取っ払うクセがある」  いったん外に出て対応するかと思ったが、鹿内は近くの客を気にせず、そう慌てた素振りもない。 「そんな錆びネタ、どこに売るつもりだ」 「二つだけ、聞く。金だけかっさらわれた女秘書が身を投げて死んだと聞いた時、どう思った? やりすぎたと後悔したか? どこか、ほんの少しでも痛みを覚えたか」  鹿内とほぼ同じ身長の市川は、三十センチもない距離で、鹿内の顔面、特に眼球の動き、周辺の瞼や皮膚の一瞬のズレを直視する。  鹿内は、再び声もなく笑い、逆に市川を、あんた大丈夫か、という憐れみの目で見た。鹿内に、人としての価値は一切ない。  市川は、決めた。鹿内を、殺しの標的とする。これで、十一人目だ。 「あんたは今年四十二歳で、去年、四十五歳だった妻と離婚した。子供は、いない。損得なしで酒の飲める友はいるか」 「友?それよりなんで、ガタガタ震えてるんだ」  市川は、そのままトイレに飛び込みたかった。そこへの進路を塞ぐように、鹿内が移動して市川を見つめる。 「そっちこそ、歳はなんぼだ。六十は越えてるな」 「七十四」 「おいおい。せっかく小遣い稼ぎにきてるのに、そんなガタガタ震えて、脅えてちゃ駄目だろ。老いぼれんの、早いぞ」  鹿内が、ガシッと市川の肩をつかんだ。元大学空手部の労いは強烈で、膝から崩れ落ちそうになった。かろうじて立ちつづけたのは、男としての矜持だけではない。膝を落とせば、そのまま洩らしそうだった。 《「ゆっくり飲みたくなると、よけいな物を取っ払うクセがある」  そいつは、銀の指輪を外した。ブルガリの時計も。  西銀座四丁目。ビア・バー。  外の気温、二十九度。十九時十五分。  エフ。張り込み、尾行。三日目。  初めて顔を晒した。  至近で、見合う。  相も変わらず 人馴れない。  割り切る。仕事だ。  無駄な動悸もなく、語れた。  大手損保会社社長。同社総務部受付嬢。  密会現場のネタ。  脅迫がつづき、受付嬢が死んだ。  既に一億余を手にした脅迫者。  「なおも会社を脅して、せびってるんだ」  エフ、淡々と問い詰めた。  新聞社の運動部、社会部、経済部と渡り歩き、クビになった脅迫者。  ブルガリの時計を外し、笑う。    大学生時代は、アメフトRB。  エフの告発に、眉も瞼も一ミリも動かない。  「そんな錆びネタ、どこに売るつもりだ」  「そんなことじゃない」  「お前、誰?」  「受付の女が飛び降りたと知ったとき、少しは後悔したか。心のどこかに痛み覚えたか」  そいつは、また笑った。  エフは、見つづけた。  ヒトとして、哀がない。  標的に、する。決めた。  途端に標的が、エフの肩をつかんだ。  元アメフトRB。今もジムに通う標的の強烈なグリップ。目に、殺気がある。  「そんな偽情報、誰が仕込んだか知らんが、二度と俺の前に立つな」  エフは、強烈な痛みに耐えた。  動かない。  ほぼこの距離。後日、射殺する。  とりこぼしたら、一瞬で逆襲される。       「サイレントキラー VI」》  ハードボイルドがわからない。  パソコンに初稿を打ち込む手を休め、市川は書斎の外、二階のベランダに出た。  架空の物語を染めあげてゆくのは、とっくに飽きていた。初期は純文学、そこからハードボイルド小説に転向し、売れないのであやしいペンネームでポルノを書いたこともある。今はフィクションを極力排し、取材したことをリアルに復元して構築する、ドキュメンタリーノベルを標榜する。  今作の取材、――いよいよ、いつ、どこで、どんな設定で、どの銃器を使って鹿内を殺害するか。  中央線の最寄駅から路線バスで十五分の距離にある自宅。真夜中のベランダで、煙草を吸う市川は、さりげなく住宅街の道路を見下ろす。  最近は気配が薄くなったが、刑事に張りつかれたことがある。いくつかの殺人事件で合同捜査班ができ、その捜査線上に浮かんで執拗な内偵を受けた。市川は、常に強固なアリバイを用意しているから逮捕されることはないが、ひそかに接触してきた捜査一課の刑事に作家としてどうしても取材したいことがあり、ついに一緒に酒を飲んでしまった夜、夜中零時を過ぎた鯨飲のあげく真実を告げそうになり、慌てて口を噤んだことがあった。  それでも、殺しを請け負い、題材として、ノベルにしてゆくのはなぜか。  書斎のパソコンに戻ると、メールを受信していた。  期日厳守。  ただそれだけのメール。エージェント、石田和行。市川が今回の殺し要請を実行する旨申し出た返信だ。殺害期限まで、あと三日。  石田とは、もう五十年のつきあいになる。舗道の石やブロック、コンクリート片が飛び交う新宿騒乱時、最も攻防の激しい通りにいた市川は、恐怖を覚えて喫茶店に逃げ込んだ。そこで、騒ぎとは何のかかわりもなく司法試験の過去問暗記にいそしむ石田と出会った。隣のテーブルには、博多から東京の高校に転入してきて歌手をめざす玉淀ひかるがいて、怯えの激しいひかるを市川と石田がなんとなく守ってやる雰囲気になり、三人の付き合いが始まった。  ひかるは一時ミュージカルのダブ主役に抜てきされるスターとなり、同じスターダンサーと結婚したが、人気が落ちるとともに離婚。今では演劇スクールのインストラクター、駅前蕎麦店のパートで食いつなぎ、ミュージカルの早くオーディションに挑みつづけている。  石田は、三十代前半で東京地方検察庁の特捜部に抜てきされた。が、庁外に出張って聴取した代議士の妻とダブル不倫騒動を起こして失職、妻も娘も去っていった。その後弁護士に転じて反社勢力の顧問に就いたが組長が服役中にその妻と通じたという噂が流布して、反社勢力からも追われ、今では、セキュリティ会社のウラ顧問、企業や高額所得者がオモテでは処理できないトラブルをひそかにドブさらいして食いづなぎ、しのび寄る沈黙の殺人者、サイレントキラーに襲われ、糖尿病と格闘している。  市川は、三十代で純文学作品を二作上梓した。『愛の底』『愛の底 蟻のままで』それ以来、変名で世に出た。ポルノ『同時多発エロ』『定額制 夜這倶楽部』を最後に書けども書けども出版されなくなった。中学教師を定年まで勤めた妻、弥生のヒモ同然に暮らして、そのうち、誰からも忘れられた人になった。  忘れ去られた存在。その哀しみ。悔やしさ。ひかるも石田も。  月に一度か二度、新宿のYで忘れ去られた者同志で飲んだ。ある時、石田が市川にオファーした。 「ドブさらいした奴がいるが、これが凶暴で手ごわい。市川だったら、小説の作りごととして、始末するまでどんな設定を考える?」  市川は、物語としてではなく、自分が実際に殺すとしたらどんな策略や道具を使うか考えた。興奮した。  いかなる理由があっても、殺人。その前、実行、その後。これをリアルに描写すれば、そのまま息を飲むほどの劇になる。作りものの物語は、一切必要ない。  市川は石田に成功報酬と事実をわずかに装飾するだけのノベル化を約束させ、自ら決行した。  これまで石田から十五名のオファーを受け、十一名を葬り、五名のケースをノベル化した。『サイレントキラー』シリーズとしてVまで執筆しているが、出版されるまではもう一歩だ。  作家として、もう一度陽の目を見る日は近い。そう信じて、VIのために、明日は、鹿内雪広を葬る最適の場所を選定してくる。 《ビルの地下。  駐車場へ、らせん状の進入路。  二百五十ccの単車。下りてゆく。  エフ。フルフェイスのメット。単車のプレートは、偽造。  十五時十五分。  ゆっくりと、一周する。  駐車している車は、極端に少ない。  人の出入りも。  防犯カメラが、六基。  BMW M3セダンが下りてきた。  契約スペースに停め、標的が下りてくる。  上階への、エレベーターホール。  歩いてゆく動線は、三日間同じだ。  借りたばかりのオフィスに戻ってくる時刻もほぼ同じ。  動線の途中、どのカメラも捕捉できない。  死角エリアが約三メートル。  単車のサイドスタンドを立て、エフがひっそりといる。  単車は、仕事でなければ使わない。  死んだ兄。ツーリングが好きだった。  夜明けの港で、暴走族六人に殺された。  エフ。復讐の途中で、警察に止められた。  誰も、哀がなかった。  狂った。狂気は凶器を探した。  もう十年以上も前。  エレベーターホールへ、標的が歩く。  スマホ。  「だから、これが最後だって言ってるじゃない。嗅ぎつけた相手が悪すぎたけど。まァ、金次第だから、ヤクザも」  標的が、不意に立ちどまり、あたりを見まわし、呼吸を一つする。  警戒。元アメフトRBの太い腕が一度震えた。  「とにかく三億。迂回して融資してやってよ。そうすりゃ、社長も天下の損保会社さんも、醜聞とは今度こそおさらば、ずっと安泰でしょうが」  エフ。哀を通路の床に見立て、ソフトラバーの靴で蹴った。  標的が、そこに、いる。       「サイレントキラー  VI」》  市川の朝食は、弥生の作るしじみ汁。今朝も丁寧に一個ずつ殻から身をはがして味わってゆく。 「あなたはさ、この前寝言で夜は酒が連れてくるとか言ってたけど、朝は?」 「ん?」 「朝はしじみが連れてくる。背中!」  あと一年で後期高齢者となる市川は、時として背中が丸くなる時がある。その度に、弥生に叱られる。  傍に、朝刊がある。  昨日、湾岸にあるビルの地下駐車場で、鹿内雪広の射殺死体が発見された。死亡推定時刻は、午後三時二十分から三十分。  昨日のその頃、市川は駅前のパソコンショップで、ヤマシタという店員と新規購入したいPCについて話していた。  数日経過して、市川は都営バスに乗り、下町の停留所で降りた。  近くにスカイツリーを仰ぐ路地に、民家を改造したリサイクルショップがある。  同じ敷地の裏手、十坪ほどのスペースが、回収した廃品を解体、補修する作業場。  市川がショップの中を抜けて入ってくる。工具を使って作業している男が、人懐こい顔で迎えた。 「暑いスね」 「ん。精がでるね」 男は、今西友也。三十四歳。 市川は、封筒に入れた二百万円を差し出し、線香代の袋も添えた。 「兄さんの十三回忌が近いんだろ」 「すみません。いただきます」 「ん。いつも苦労かける」 「いや。執筆の助けになるといいんですけど」 今西は、補修前の古い冷蔵庫にかけたチェーンを外し、中を開けた。 ジップロックに包まれた拳銃が三丁、分解した狙撃銃、実弾、ホルスターがある。 「市川さんの指示通り、ルガーでやりました。銃創の写真は、こっちです」 市川は頷いて、ルガーの銃口を見つめた。 一度もヒトを撃ったことのない作家は、狙撃者からその詳細を取材する。 《およそ50cmの距離。  目が合った。  嫌いな顔ではない。  左奥の下、第三大臼歯が痛む。  標的が、目を落とす。  ルガーマークIII。22LR弾。9発装填。  じゅうぶんに馴染ませた、銃把。  引金を、弾いた。  左心室、つづいて肺胞近くの大動脈へ一発ずつ。       「サイレントキラー VI」》  ○丸山昇一 1948年生まれ宮城県出身。日大芸術学部映画科卒業後、会社員、フリーのCMライターを経て、1979年、テレビ「探偵物語」「処刑遊戯」(80年)、「すかんぴんウォーク」(84年)、「ふたりぼっち」(88年)、「いつかギラギラする日」(92年)「狂気の桜」(02年)など。阪本順治監督とタッグを組んだ作品に「傷だらけの天使」(97年)、「カメレオン」(08年)、「行きずりの街」(10年)があり、「一度も撃ってません」で4作目となる
AERA 2020/07/01 16:00
徹底したのは「正統派の山の写真」 菊池哲男さんが北アルプスの写真展に込めた思い
米倉昭仁 米倉昭仁
徹底したのは「正統派の山の写真」 菊池哲男さんが北アルプスの写真展に込めた思い
「黎明の鹿島槍ケ岳」。まだ空が暗いうちに今シーズンの営業が終わった鹿島槍スキー場から、山スキーにシールを装着して登高を開始する。やがて真っ赤なドレスをまとうように、鹿島槍ケ岳東面が赤く燃えだした■ニコンZ 7・AF-S ニッコール 70-200mm f/4G ED VR・ISO200・絞りf8・40分の1秒  山岳写真家・菊池哲男さんの写真展「天と地の間に 北アルプス 鹿島槍ケ岳・五竜岳」が6月30日からニコンプラザ新宿 THE GALLERYで開催される(大阪は7月30日~8月8日)。目指したのは「正統派の山の写真」。菊池さんに聞いた。 *   *   *  今回の写真展はニコンから提案されたもので、「ミラーレス機のZシリーズ(ニコンZ 6とZ 7)で撮り下ろす」という条件でしたが、それ以外は何もなく、作品の内容は「お好きにどうぞ」というお話でした。  写真展のタイトルは「天と地の間に 北アルプス 鹿島槍ケ岳・五竜岳」と、山の名前を入れたのは、山そのものをテーマとしたい、という思いがあったからです。それをニコンのギャラリーでやることに意味がある。 「冷乗越付近の雪庇と鹿島槍」。冷乗越付近は風の通り道で、信州側に大きな雪庇が発達する場所として知られている。残雪期には雪庇の自重で溝ができるが、この溝にはまると時に腰あたりまで潜って出るのに苦労させられる■ニコンZ 7・ニッコール Z 24-70mm f/4 S・ISO200・絞りf13・200分の1秒 目指したのはごつごつした山の感じが伝わる作品  山岳写真を含めて、最近の風景写真は自然を抽象的にとらえたものが多くなってきました。パッと見、何を写したのかよくわからない。ある意味、見せ方に凝っている。「アート」であることを意識して写している。たとえば、GOTO AKIさん(※1)の作品。評価はとても高い。  アートを意識して、作家が感じたことや写真表現を前面に押し出した作品展のほうがなんとなく「ニコンぽい」というイメージがあるかと思います。実際、純粋な風景写真の展覧会は少ないですから。特に「ニコンサロン」はそうです。  その舞台で「やっぱり山の世界って、いいよね」と感じてもらえるような写真展にしたかった。いわゆる「正統派の山の写真」を見てほしかった。それをものすごく意識しました。撮るときも、写真を選ぶときも。  山は抽象的に撮れば撮るほど、どこで撮ったのか、わからなくなっていく。山の空気感みたいなものは伝わるけれど、手触りのある山の存在から離れていく。  ぼくが目指したのは、手で触るとごつごつした感じが伝わるような作品。実際に存在する、くっきりとしたイメージです。  だからこそ山の稜線を意識して撮りました。山の上にいるときも、麓から見上げて写すときもそうです。そうすることによって山の形をしっかりと、とらえる。山には人間の顔と同じように、一つひとつ、固有の形があります。 「五竜岳夏景」。朝、雲海をはるか下にしたがえていた五竜岳だったが、日が高く上るにつれて雲が湧き出して波のように五竜岳を包み込んでいく。雲はまるで生きているようで、やがて完全に飲み込んでしまった■ニコンZ 7・ニッコール Z 24-70mm f/4 S・ISO200・絞りf5.6・400分の1秒  槍ケ岳が北アルプスの「王」だとすると、「女王」は白馬岳。目の前にすると、ひれ伏して見上げるような存在です。でも、鹿島槍ケ岳は「社交界の貴婦人」みたいな感じで、大好きなんです。  尖った槍ケ岳とは違う、双耳峰(頂上部に二つのピークを持つ山)ならではの美しさ。しかも、ちょっと人間ぽいところがある。かわいらしくて、可憐なところがある一方、怒りっぽいところもある。荒々しい北壁とか。表情がとても豊かなんです。  奇をてらわず、そのすばらしさを存分に味わえる作品にしたかったですね。 作品世界を大きく広げて見せる極意  写真展の日程は最初から決まっていましたから、与えられた撮影期間は2018年末から約1年。同じ季節は1回しか巡ってきません。紅葉を撮るチャンスも一度きりです。  ふつう、一つの作品をつくり上げるのに最低でも3年から5年は撮ります。1年目は「粗撮り」というんですが、明確なイメージを持たずに撮影対象の山域に入って、雰囲気をつかみ、それを基にテーマを考え、絵コンテのようなものを頭の中に描いていく。  翌年からは作品の骨格となる山稜を撮り、それに磨きをかけ、さらに細かいパーツとなる写真を撮っていく。中腹の風景、渓流や池塘などの「水もの」とか。  展覧会場を「すごい写真」だけで構成したら見る側は疲れてしまいます。坦々と迫力ある作品が続くよりも起承転結があり、起伏が感じられるほうが印象に残る。作品世界を大きく広げて見せることができる。これは星野道夫さん(※2)の写真集をたくさん手がけてきたデザイナー、三村淳さんの教えです。 「紅葉寸景」。爺ケ岳南峰から扇沢越しに紅葉する岩小屋沢岳を望むとだいぶ下まで雲海が下がり、その先にまるで取り残されたような雲が目についた。山の稜線が入ると山が主役になってしまうので、あえて上部をカットした■ニコンZ 7・ニッコール Z 24-70mm f/4 S・ISO100・絞りf9・80分の1秒 約1年間で50回以上通いましたね  撮影が始まると毎日、天気図とにらめっこして、チャンスが来た!と思ったら、ほかの仕事の日程をなんとかやりくりして撮影に出かけました。  夏の間は天候の良し悪しに関係なく、1週間の日程で3回山に入りました。1週間あれば、天気が悪くてもどこかでシャッターチャンスが巡ってきますから。  でも、なかなかそこまでの時間はとれない。撮影ポイントまで平均すると5時間くらいかかるんですが、冬は日の出が7時くらい、夏は4時半とかなので、それに間に合うように夜、行って、撮ったらすぐに帰って来ることもありました。50回以上は通いましたね。 日本人に組み込まれている山の遺伝子  山の向こう、遠くの下界に街が見える作品がいくつかあります。少し人間のにおいを入れることによって山と人間社会を相対化すると、山の世界が際立ってくる。  実を言うと、最初はもっと人を入れた山の写真にしようと思っていたんです。登山者や雪どけ時期の小屋開きの様子なんかも撮っていた。でも、ちょっと違うな、と思って、すぐにやめました。もちろんそういう表現の面白さもあるんですが、間口が広がりすぎて焦点があまくなってしまう。 「星夜の五竜岳・鹿島槍ケ岳」。遠見尾根の西遠見山でひとり雪洞を掘り終えると、すでにあたりは暗くなり星が瞬き始めていた。やがて満点の星空になるころ、北アルプスの稜線から放射状に雲が伸びてきて、朝にはどんよりした空になってしまった■ニコンZ 6・ニッコール Z 200mm f/1.8 G・ISO1250・絞りf2.5・15秒  ぼくには白旗史朗さん(※3)が撮ってきたような山岳写真とは一線を画したいという思いがすごくあります。白旗さんの山の世界は完成されたものだから、ぼくが同じ方向性で撮ったとしても、とても太刀打ちできない。ちょっと山の表情が違うだけの写真にしかならない。  だから新しい視点がないかなといつも考えている。デジタルカメラの強み、手持ちで撮れる速写性を生かした切り口とか、高感度性能のよさとか。それよって夜の山の世界を写しとったりしています。  でも、「これって、山の写真じゃないよね」と言われてしまうような作品にはしたくない。そんな微妙な思いがあるんです。  いま、新型コロナウイルスでこんな状況ですが、作品を見に来てくれた人には、また山に行ってみたいな、と思っていただければうれしいですね。  やはり日本は山国で、山というのは日本人の遺伝子の中に組み込まれている気がします。山に行きたくなるって、理屈じゃないんです。登っているときは「疲れたな」と思いますけれど、帰るころにはもう「次はどの山に登ろうかな」って、考えていますから。(文・アサヒカメラ 米倉昭仁) ※1 GOTO AKIさんは大地の営みを感じさせる作品で注目を浴びる風景写真家。 ※2 星野道夫さんはアラスカを舞台に活躍した動物写真家。1996年、ヒグマに襲われて亡くなった。 ※3 白旗史朗さんは日本を代表する山岳写真家。昨年亡くなった。 【MEMO】菊池哲男写真展「天と地の間に 北アルプス 鹿島槍ケ岳・五竜岳」 ニコンプラザ新宿 THE GALLERY 1+2 6月30日~7月20日、ニコンプラザ大阪 THE GALLERY 7月30日~8月8日。会場では写真集『鹿島槍・五竜岳 -天と地の間に-』(山と渓谷社、A4変形判、カラ-80ページ、2800円+税)も販売する。
アサヒカメラニコンミラーレス風景写真
dot. 2020/06/29 17:00
黒人男性殺害「暴徒化」で通報6万5千件 荒れるシカゴで在住記者が見た差別と希望
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チョークで書かれた「Black Lives Matter(ブラック・ライブズ・マター)」の文字(写真/ケイン岩谷ゆかり) シカゴ市内のユニクロなどが入るビルの入り口は対策が取られていた(写真/ケイン岩谷ゆかり) 「Love, not hate」の文字(写真/ケイン岩谷ゆかり)  先日外に出たら、近所の子どもたちが「Black Lives Matter(ブラック・ライブズ・マター)」「Love, not hate(憎しみより愛)」という文字を、チョークで歩道に一生懸命書いていた。  母親のライザ・イルージさんによると、4~7歳の子どもたち4人と最近、アメリカの人種問題について毎日のように話し合っているという。イルージさんはその際あえて、差別という言葉を使わないようにしているそうだ。子どもたちはまだ、人を見かけで判断するのがいかによくないことかもわかっていない。差別という言葉を先に知ることで、差別される側を「彼らは差別される人たちだ」とまず認識してしまうとよくないと思うためだ。今は、「私たち自身がみんなと友だちになるだけではなく、誰かが他の人にいじめられていたら、その人が誰であろうと味方にならなければいけない」と説明しているという。  新型コロナウイルス対策によるロックダウンが進む5月末、米ミネソタ州ミネアポリスで白人警官が黒人のジョージ・フロイドさんの首を9分近くも押さえつけ、死なせた事件が起きた。警官の人種差別や暴行に対して長年蓄積されてきた大勢の怒りが爆発し、全米で抗議デモが行われた。そのほとんどは平和的に始まったものの、地域によっては警察がゴム弾や催涙ガスを使用。デモ参加者との小競り合いが暴走化し、死傷者も出た。一部の人たちは公共施設やパトカーに放火したり、商店街を襲撃したりもした。 ■量販店やスーパー襲撃  世界的にはニューヨークやロサンゼルスの抗議デモがよく報じられたが、ミネアポリスに一番近い大都市であるシカゴでも、抗議活動が活発だった。  参加者は当初、主にシカゴの中心部に集まった。通称ミシガンアベニューとして知られる高級商店街にあるノードストロームやメイシーズといった百貨店や、ナイキストアなどが集中的に襲撃された。しかし中心部への道が閉鎖されると、抗議の人々は南部や、私が住む北部の住宅街付近にもやって来た。普段は夜でも安心して犬の散歩に出られる街並みだが、近くのスーパーや量販店も襲撃されるに至った。市長によると、緊張感がピークに達したこの日、緊急通報が24時間で通常の4倍以上の約6万5千件も寄せられたという。平均で30分に2千件が殺到したことになる。  前出のイルージさんの夫は家族の安全を心配し、その晩は、警察無線を聞くための「ポリススキャナー」にかじりついていたという。だが、落ち着くにつれ、長いあいだ周縁に置かれてきた人たちへの支援に全力で関心を寄せるようになった。4歳の息子さえ「人々の間に壁を作ってはいけない、と理解している」と話してくれた。  シカゴは歴史的にも黒人と白人の溝が深い街だ。  1900年代の初めに米南部から黒人が移り住み、それ以来、迫害され続けている。今でも黒人が集中するシカゴ南部と、西部や白人が好んで住む北部との間の貧富の差は激しい。南部は治安が悪いところも多く、学校も資金が足りず、スーパーなど生鮮食品を安く買えるような店もあまりない。かつての公営住宅は全米で知れ渡るほど悪名高く、犯罪が多発し設備もひどかった。 ■警官が死なせた3分の2以上が黒人  警察の暴行も当然、長い歴史がある。地元の権力監視組織「ベター・ガバメント・アソシエーション」によると、2010~14年に警官が死なせた70人のうち3分の2以上が黒人だった。3年前の司法省の調査では、シカゴ市警察は黒人の容疑者に対し、白人の容疑者よりも10倍多く暴力をふるっていることが判明した。2014年には、何をしたわけでもない17歳の黒人青年が警官に16弾も撃たれて死ぬ大事件が起き、全米で報じられるニュースになった。だが、その警官はたった18カ月の禁錮刑で、地元の怒りを被った。  それに対し、塀の中では、殺人を犯したわけでもないのに終身刑となっている黒人やラテン系の受刑者が少なくない。その傾向は全米でも同様だ。  私は以前、サンフランシスコに住み、近くのカリフォルニア州立サンクェンテン刑務所でジャーナリズムを教えていたが、黒人の生徒の一人は400ドルのビデオデッキを盗もうとしただけで、25年の禁錮刑を受けた。大麻保持容疑で捕まり、20年以上の禁錮刑となった生徒も何人もいた。  しかし今、世の中は大きく変わろうとしているようだ。私の周りでも、これからどうしていけばよいか考える会話が、いろいろなところでなされている。  私の義母はアイルランド系アメリカ人の白人だが、最初は自分が買い物をしている店が略奪されている様子をニュースで見てショックを受けていたものの、その後は黒人の人たちがどんなに肩身の狭い思いをして生きているか、息子(私の夫)や私と意見をかわすようになり、理解を深めようとしている。私のライター仲間は白人であるがゆえの「特権」の意味するところを考えながら、内なる白人カルチャーをどう変えていけばいいのか激しく議論している。過去の自分が無意識のうちに差別に加担していなかったか、白人の特権をただ享受するだけではなかったか、公に反省を口にする知り合いもいる。私自身もアフリカ系黒人の歴史をきちんと勉強しようと思い、名門イェール大学の公開レクチャーに申し込んだ。  ビジネスの世界ではアップルやグーグル、ペイパルなどが、人種差別のない平等な仕組み作りに投資すると発表している。シカゴでは過去に差別的態度をとったビジネスオーナーが厳しく批判され、なかには閉めざるを得なくなった店も出てきている。黒人経営者のビジネスをもっと利用しようという動きもあちこちで起きている。  黒人コミュニティーや、彼らを支持する多くの人たちの怒りは、警察の暴行や、黒人が受ける過剰な刑罰についてだけではない。彼らが抗議しているのは、みんなが耐えてきた差別や偏見、さらにその経験への白人の意識のなさだ。日本人や日系人を含むアジア系もおそらくその中に入るだろう。 ■初めてバッグにナイフを忍ばせ  一部デモが暴走化した直後、黒人と白人の両方のルーツを持つ友人フェイドラ・シャンテルさんはFacebookで白人の友人に向けてこう訴えた。 「私は人種差別主義者ではないから、と今起きていることを無視しないで、私たちの立場を理解しようとして欲しい」  彼女は白人が多い裕福なシカゴ郊外で育ち、友人もほとんどが白人だったらしいが、6歳の時に初めて、クラスメイトの男の子に「ニガー」と昔の蔑称で呼ばれたという。中学生の時の親友の家族に、不審そうな目で見られたこともあったそうだ。  黒人であればたいていの人たちは、似たような経験を持っている。あからさまな差別でなくとも、自分が社会の隅にいることを思い出させるような経験は、店の商品を見ている時にも感じる、と話す。例えば絆創膏は最近やっと透明な物がでているが、長いあいだ薄い色、日本で言う昔ながらの「肌色」のものしか売っていなかった。  フィットネストレーナーの彼女は市内で襲撃があった日、クライアントの予約のため外出する必要があった。事件に巻き込まれるのを恐れ、生まれて初めて、ナイフと催涙ガススプレーをかばんに忍ばせたが、結局、約束はキャンセルしたという。「万が一、機嫌の悪い警官に出会ったらと思うと怖くなった。多くの黒人の人たちは毎日こういう恐怖を感じて生きていることを改めて思い起こされた」と涙ぐみながら話す。  しかし彼女は、そんな中にあっても、いま世界中で起きている抗議デモの未来に希望を託している。 「小声で訴えてもうまくいかない場合、時に声を大にして訴えなければならない。混乱を巻き起こしてでも実現させなければならないことがあるのです」 ◎ケイン岩谷ゆかり/1974年、東京生まれ。ジャーナリスト。シカゴ在住。父の仕事の関係で3歳の時に渡米。以降、米国と日本での生活を繰り返し、ジョージタウン大学外交学部を卒業。アメリカのニュースマガジン「U.S. News and World Report」を経て、ロイターのワシントン支局、サンフランシスコ支局、シカゴ支局で勤務。通信、ゲーム業界などを担当した後、2006年にウォール・ストリート・ジャーナルへ転職。2008年にサンフランシスコに配属、アップル社担当として活躍。現在はノースウェスターン大学ジャーナリズム学部の講師を務めている。 ※AERAオンライン限定記事
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AERA 2020/06/26 09:00
おうち図書館、作ってみませんか?家族の本棚
おうち図書館、作ってみませんか?家族の本棚
本が好きな人にとっては、壁一面に本がズラッと並んでいる本棚は、憧れですよね。みなさんの家には、本棚はありますか? どのように置いていますか? ラックに入れて収納したり、平置きで重ねてあったり……本とのスタンスと収納の方法は様々です。インターネットの普及で、本を読む機会は少し減った人もいるかもしれませんね。それでも、だからこそ、好きな飲み物を傍らにページをめくりながら本の世界を楽しむことは、贅沢な時間の使い方のひとつだと思います。 今回は、本を読むきっかけにもなる、おうち図書館「家族の本棚」を生活に取り入れることをおすすめします。「家族の本棚」にぴったりの本も一緒にご紹介します。 「家族の本棚」の作り方とその良さ 本棚というと大がかりな感じがしますが、「家族が共有で過ごすリビングなどの場所に、10〜20冊の本が置けるスペース」ならば、意外に、簡単に作ることができるのではないでしょうか? テレビ台の横など、ふとした時に目に入る場所がおすすめです。そこには、家族みんなが読める本を置くようにしましょう。家族に読んでもらいたい本を置くのもひとつです。読書の習慣があまりない場合も、ふと目に入る場所にあると、つい手にとってみてしまうのがこの本棚の良いところです。 あるおうちでは、お母さんがこの本棚に「簡単に作ることができる料理の本」を置いていたそうです。すると、その本に載っているレシピのリクエストがあったり、キッチンに立てない時に、家族が代わりにこの本を見ながら作ってくれたということがあったそうです。 筆者の家ではもう10年以上、この「家族の本棚」があります。字が読めなかった子がだんだんと大きくなり、とはいえ読書習慣があまりないことを寂しく思っていたところ、時々この本棚から引っ張り出しては読んでいるということが増えていました。本をきっかけに会話が広がることもありました。 また、来客時、お茶の準備をしている際に手に取ってくれていたり、本の話題になることもあり、新しい出会いがあったりもします。 本の入れ替えは、気分によってだったり、交代で担当してみたり、各自の担当冊数だけ決めてあとは本人に任せる、など様々な方法があります。自分の知らない本や、家族の新しい一面を知れたり、感想を言い合ったりとサプライズやコミュニケーションも増えるかもしれませんね。 おすすめの本 読むだけでなく見るのも楽しい まだたくさんの字を読むことができない年齢のお子さんがいるご家庭でも置くことができる本を、2冊ご紹介します。 ☆シュナの旅 宮崎駿/徳間書店・アニメージュ文庫 日本が誇るアニメーターの雄として活躍する宮崎駿さんの絵物語です。チベットの民話を基に絵と物語が紡がれていて、字が読めなくても伝わるものがあります。あとがきには「この民話のアニメーション化がひとつの夢だった」と記されています。宮崎駿さんが作るアニメーション映画を一編観たような、壮大な物語です。読む人それぞれに深い印象をもたらす作品で、読むたびに色々と考えさせられます。自分のペースでゆっくりと読み進めていけるのも本の良いところ。ぜひ、何度も読んでいただきたい作品です。 ☆森に還る日―Michio’s Northern Dreams〈4〉 星野道夫/PHP研究所・PHP文庫 写真家・星野道夫さんのたくさんの写真と文章が載せられています。詩のようにとてもシンプルな文章ですが、それゆえに、写真とともに素直な言葉が胸に刺さってきます。人よりも、もっと大きなものの力を捉えたような写真も、見る人に様々な印象をもたらしてくれると思います。全6巻のシリーズで、こちらの『森に還る日』は木々や動物がメインになっています。印象に残る写真やイメージから、シリーズの中のお気に入りを見つけてみても良いかもしれませんね。 おすすめの本 読み聞かせにも、小学生でも 1人で読み始めた年齢の子にとって、本に必要な条件は、ふりがなが多くあることと読みやすさかと思います。そこでぴったりなのが童話。大人も、知らなかった童話の世界を広げて、少し童心に帰ってみるのも良いかもしれませんよ。 ☆絵のない絵本  アンデルセン(著) 矢崎源九郎(訳)/新潮社・新潮文庫 「おやゆび姫」や「マッチ売りの少女」などの童話を残している、世界的にも有名な童話作家のアンデルセンの短編集です。一生を旅から旅へとさすらったといわれるアンデルセンの体験を基に、月が絵かきに語りかける物語として紡がれています。大人も少しクスッと笑える、ユーモアが織り込まれていて、楽しい作品です。ひと夜ごとに区切られているので、読み聞かせにも良いかもしれません。 ☆世界一周おはなしの旅 リンダ・ジェニングス(編) 乃木りか(訳)/PHP研究所 ページを開くと、世界地図のイラストが描かれている、世界のあちこちにある童話を集めた本です。字が大きく、表現も分かりやすく、挿絵も可愛らしくて、とても読みやすいのでおすすめです。世界地図を眺めながら読んでみると、行ったことのない国やよく知らない国にも、親近感が湧いてくるかもしれませんね。 おすすめの本 大人にもファンタジーを 家族みんなで読みたい本としては、リアルなノンフィクションや伝記などの社会や生き方を考えさせられる本がいいのでしょうが、心がふっと軽くなる、優しい世界が描かれている本もおすすめです。 ☆朝の少女 マイケル・ドリス(著) 灰谷健次郎(訳)/新潮社・新潮文庫 作者が初めて書いた子供向けの本です。カラフルで抽象的な挿絵も、物語の世界観を広げてくれています。訳者である灰谷健次郎さんは児童文学作家で、著書である「兎の眼」や「天の瞳」などは、テレビドラマ化されており、知っている人もいるのではないでしょうか。 この「朝の少女」の解説あとがきで、灰谷さんは「教師はもちろん、自然や環境保護に関心のある人たち、政治や経済の仕事にかかわっている人たち、そして何より、わが子の行く末を気遣っている世の親に読んでもらいたい」(引用)と結んでいます。優しく穏やかな世界の読了後に、大人にとっては考えさせられる後味を持つ、不思議な物語です。 ☆南の島のティオ 池澤夏樹/文藝春秋・文春文庫 こちらも作者が子供向けに書いた初めての本になります。10の短編からなっていて、素敵で不思議な、南の島を舞台に12歳のティオという少年を通して様々な出来事が描かれています。ゆったりと流れる時間感覚で、長期で旅行に行ったかのような気持ちにもさせてくれます。読了後の感想はそれぞれかもしれません。家族で話してみるのも良いかもしれませんね。
tenki.jp 2020/06/25 00:00
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