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母が蒸発、父は自殺…アダルトビデオ店の実家が全焼した極貧少年が、大手広告代理店マンに上り詰められたワケ
母が蒸発、父は自殺…アダルトビデオ店の実家が全焼した極貧少年が、大手広告代理店マンに上り詰められたワケ
壮絶な人生を歩んできたサノ氏(写真=本人提供) サノ氏のツイートは次々とバズっていった 「実家が全焼したサノ」(@sano_sano_sano_)をご存じだろうか。Twitterで「日常生活で起きた切なかった出来事」を投稿し、平均2000以上の「いいね」をたたき出すなど、「バズ」(拡散)を連発。2019年5月の始動からわずか3カ月で、フォロワー数は3万人を超えた。現在は6万人超のフォロワーを持ち、「インフルエンサー」として勢いを伸ばし続けている。「人よりも悲しい出来事や、切ない出来事が多かった」と語るサノ氏。実家の全焼、母の蒸発に父の自殺。ドッグフードを食べて飢えをしのぐこともあった幼少時代。壮絶なバックグラウンドを持ちながらも、京大大学院に進学し、29歳で大手広告代理店に新卒入社。激動の人生を歩んできたサノ氏の30年には、「先の見えない時代」を生き抜くヒントがありそうだ。 *  *  *  「家」がなくなったのは、小学4年生のときだった。  隣人の寝たばこが原因で実家が全焼。この火事で、実家に併設していた父経営の「アダルトビデオ店」も全焼し、家具も服も写真も、大量のアダルトビデオも全てが灰となった。売れ残っていたAVがすべて燃えたことで、父は「その分保険金の額も増えた」と喜んでいた。 「永遠なんてない。ある日突然、日常だと思っていたものがなくなることが何度もありました」  サノ氏がこう悟るのは、これまでの人生でのあまりに壮絶な経験があるからだ。  まず、両親の出会いからして特殊だった。きっかけはデート商法に長けた母親が、父親に高級布団を売りつけたこと。女遊びにたけていた父親は、高級布団を買うことを口実に母親とデートを重ね、最終的に結婚に至った。そんな両親ゆえなのか、夫婦げんかは絶えず、幼いサノ氏もそれに巻き込まれていく。 「僕が小学生の時、居酒屋で泥酔していた父を、僕と母で軽トラで迎えに行きました。案の定、父と母は口論になり、母が『もう離婚する!』と言った途端、父は『じゃあ俺が出て行く!』と言い、走行中の軽トラから飛び降り8回転しました。翌日、2人は離婚しました」(Twitterより)  両親は離婚と再婚を繰り返した。結局、母親は他の男性と再婚する形でサノ氏が小学2年のときに“蒸発”。残されたサノ氏は父親のもとで幼少期を過ごした。 「父はアルコールとギャンブルに溺れるダメ人間でしたが、心根は優しくて、決して僕を手放そうとはしなかった。それは今でも感謝しています」(サノ氏)  とはいえ、父親との生活は常軌を逸するものだった。  格闘漫画「グラップラー刃牙(バキ)」に感化されるあまり、「世界最強の子」を育てようと、近所の子供にサノ氏とケンカするよう申し入れていた。  また、ある時は父のナンパの手伝いに駆り出された。「カラオケボックスで女性客の部屋に間違えて入る」という役目を与えられ、ナンパの手助けを通して行動力を磨いていった。  父親はリサイクルショップを経営していたが、商売は下手だった。ギャンブルに明け暮れて数百万円の借金を背負うことになった父親は、一念発起して店の「改革」に着手。男性客を取り込もうとアダルトビデオの販売を主力とすることを思いつき、リサイクル品の家具に収納する形で、アダルトビデオを陳列するという大胆すぎる戦略をとった。結果的に、お得意さんだった主婦層が離れていき、たちまち経営不振に陥った。次第に家賃も払えなくなり、父子で飼い犬のドッグフードにお湯をかけて飢えをしのぐこともあった。  実家が全焼したのは、そんな時だった。サノ氏はコツコツとためていた貯金箱が丸焦げになったことで、ひどく落ち込んだ。全財産を失った息子を思いやってか、なぜか父が、その貯金箱を数千円で買い取ってくれた。だが実は、父親は貯金箱の中身は無事だと知っており、サノ氏のお年玉や小遣いが詰まった約9万円分の中身を出して、パチンコ店へ直行した。 「あまりの大人げなさにあっけにとられました。でも、子どもから強権的にお金を取り上げるのではなく、“交渉”という手段を踏むことについては学びがありました。『人も物も、見た目だけで判断するな。中身を確認しないと、本当の価値はわからない』という父の言葉は今でも教訓となっています」(サノ氏)  だが、そんな父親はサノ氏が中学2年のときにこの世を去る。アルコール依存症が年々悪化して精神を病んでいき、飛び降り自殺をした。わずか14歳で天涯孤独になったサノ氏。こうした体験が、冒頭のような「永遠なんてない」という人生観を形成し、ときには成り上がる原動力となっていく。  その後は叔母や祖父母などを頼り、親戚の家を転々として暮らした。大学は祖父母の家から通ったが、あえて布団では寝ず、床で寝ていたという。将来ビジネスに失敗したら、帰れる家はどこにもないと覚悟し、将来のホームレス生活に備える必要性を感じていたからだ。  この頃から「自分の力で生きていく」ことを強く意識するようになり、どうやったら金を稼げるかを常に考えて生活していくようになった。  学費を稼ぐため、大学在学中は大阪ミナミと歌舞伎町のホストクラブでホストをして稼いだ。売れっ子ホストの言動を観察したことで、入店から1カ月で「新人王」に輝き、最終的にはNo.2に上り詰め、十分な額を貯め込んだ。その分、夜型の生活が染みついて早起きが苦手に。大学卒業後は、「夕方まで寝ていられる」という理由で、バーの経営を始めた。  数年かけてお得意さんを獲得してバーの経営は安定し始めたが、今度は「店舗拡大をするにはどうすればいいか」など、経営にまつわる数多くの疑問がわいてきた。当時の交際相手が京大生だった縁で、京大の大学院で経営学を学ぼうと一念発起。マンツーマンで教えてもらいながら猛勉強をして、見事に進学を果たした。  バーの経営を学ぶために進学したつもりが、在学中にサラリーマンに興味を持つようになったことで、店は在学中に閉店。卒業後は大手広告代理店に入社し、29歳で晴れて新卒のサラリーマンになった。  広告マンという仕事柄、若手としてSNS施策などの意見を求められる機会が多かったが、ツイッターをやっていなかったため、答えに困ることもしばしば。勉強のため、昨年の5月から「日常生活で起きた切なかった出来事」をつぶやくことにすると、開始からわずか1週間でツイッターの通知が鳴りやまなくなる「バズ」を経験した。  Twitterを始めて3カ月後にはフォロワー数は3万を超えるまでに。「どうやったらバズるの?」と社内外から相談を受けるようになり、Twitterがきっかけで、切ないエピソードをまとめた本も出版されるまでになった。サノ氏は言う。 「多くの切ない経験をしてきたことで、何の仕事をしても、どんな失敗をしても、なんとか食いつないでいけるだろうという自信がつきました。僕の人生は変化の連続で、変化を力に変えてきた。悲しい出来事もたくさんありましたが、災難への耐性がついた。失敗や災難を前提に生きているので、失敗を恐れず前に進めるのだと思います」  まさに今、コロナ禍で世界中の人が「日常」を奪われ、迷い、悩んでいる。サノ氏の壮絶な生き方は、そんな現状を“突破”するヒントにもなるのではないか。 「コロナそのものをポジティブにとらえようとは思いませんが、先が見えないことって、チャンスでもある。(仕事や生活など)ゲームのルールが一変するので、僕のような『持たざる者』にとっては、逆転するうってつけのタイミングだと思います」 (取材・文=AERAdot.編集部・飯塚大和)
dot. 2020/10/03 17:00
【現代の肖像】フリーアナウンサー・宇賀なつみ「人生のスケジュールは私が決める」
【現代の肖像】フリーアナウンサー・宇賀なつみ「人生のスケジュールは私が決める」
高校時代、応援団の練習に励んだ公園で。今も変わらぬ熱意と元気で「エール」を送る(撮影/山本倫子) ※本記事のURLは「AERA dot.メルマガ」会員限定でお送りしております。SNSなどへの公開はお控えください。  昨年3月にテレビ朝日を退社し、フリーアナウンサーになった宇賀なつみ。テレ朝の看板アナの退社は話題になった。入社初日に「報道ステーション」の気象キャスターとしてテレビに登場したのを皮切りに、早朝から深夜まで引っ張りだこだった。楽しいけど、このままでいいのかな。旅先のベトナムで自由に生きる人を見て、心を決めた。もっと自由に生きていこうと。  白い割烹着がすっかり板についている。カウンターの常連客をあしらいながら、暖簾をくぐる客を「いらっしゃい!」と朗らかに迎える女将。ハイボールや焼酎のソーダ割りと杯を重ねるほどに、ほろ酔い気分で熱く語らう夜も更けていく……。  毎週火曜の深夜、テレビ朝日で“開店”する「川柳居酒屋なつみ」。常連客のムロツヨシ(3月31日から尾上松也)と共に宇賀(うが)なつみ(33)が女将として客に扮したゲストを迎え、お酒を飲みながらゲストの素顔に迫るバラエティー番組だ。宇賀は、2019年3月に同局を退社してフリーランスに。フリー転身後のレギュラー番組として社内で企画されたのが「川柳居酒屋なつみ」だった。 「若手の頃から『どういう番組やりたいの?』と聞かれると、夜の『徹子の部屋』と答えていました。お酒も好きだし、小料理屋の女将になりたい願望があるんです、と(笑)」  この日、1周年を迎えた番組では初回の気持ちを詠んだ川柳を披露した。<恥ずかしい 喋れなかった 一回目>。番組を卒業するムロツヨシのために「私はピアノ」を熱唱する一幕も。うっすら涙ぐむ姿もあった。  局アナ時代は、「報道ステーション」の気象キャスター、スポーツキャスターを経て、「グッド!モーニング」「羽鳥慎一モーニングショー」「池上彰のニュースそうだったのか!!」など情報・バラエティー番組を担当。池上彰(69)は、今も「ニュースそうだったのか!!」で共演する宇賀をこう評する。 「明るくてイジイジしないというか、あっけらかんと受け流すところは大したものだなと思います。ニュースを扱う番組はいろいろ大変なことがあり、殺伐とした現場でも飄々とやっている。彼女は『私が……』と前面に出ないで、ちゃんと相手を立ててくれます。それでいて引っ込み思案ではなく、バランス感覚も優れている。以前から彼女にはもっと表に出てほしいという思いがありましたね」 「川柳居酒屋なつみ」の収録現場には豊富な酒が揃う。「お酒を飲んで喋るのは私の趣味なので」と、宇賀も酔いが回るほどに飾らぬ本音をポロリ。3月末から常連客ムロツヨシは尾上松也にバトンタッチ(撮影/山本倫子) ■人を妬む自分が嫌い、少女漫画を真似て自分改革  局の看板アナウンサーであった宇賀の退社は注目を集めた。09年に入社してから10年。ある程度仕事もできるようになった宇賀は、これからどう生きていこうかと考えたという。 「もっと自分らしい生き方があるかもしれないと。だったら、個人的に働き方を改革していけばいいと思ったんです」  宇賀にとって身近な「働き方」のモデルは両親だった。建築家の父(66)は仕事の話をよくしてくれ、設計したビルやホテルを見せてくれた。保育士の母(59)もいつも楽しそうで、愚痴を聞いたことがない。好きなことを仕事にできる生き方に憧れ、自分も「早く大人になりたい」と願っていた。  東京・練馬で生まれ育った宇賀は「とにかく元気で負けん気の強い子。おしゃべりが好きで、自分で作った歌もよく唄っていました」と母は言う。休日には家族で公園や海辺へ出かけ、スキーや旅行も楽しんだ。旅先のホテルでは、「ビデオカメラを向けると、『こちらがリビングです』『お風呂場です』などとアナウンスしてくれました」と父も目を細める。  小学生の頃は、男の子たちと外で走り回り、足はあざだらけ。読書や物語を書くことも好きで、家族のために新聞を制作。卒業文集には「新聞記者かアナウンサーになりたい」と綴っていた。  3歳違いの妹とは仲が良く、ずっと交換日記を続けていた。妹にとって、姉はまぶしかった。 「めちゃくちゃ可愛かったし、スタイルが良くて勉強もよくできる。後輩や先生からもすごく人気がありました。私が同じ中学へ進むと、『あっ、宇賀先輩の妹が入ってくる』とざわめくような。それが羨ましくもあり、ずっと憧れていたんです」  そんな姉が、中学生になる頃から、家族とあまり話さなくなったという。学校から帰っても挨拶せずに自分の部屋へ入り、母親に反発してぶつかることも多くなった。宇賀は人知れず、苦しんでいた。小学校高学年の頃から上履きを隠されたり、校帽や体育着をとられたり、悲しい思いをすることが度々あったという。 「中学時代までがいちばんつらかった。私にも意地悪な心があって、嫌いな子や仲良くできないお友だちもいっぱいいたし、人を妬む自分も嫌だった。狭い世界が息苦しかったのだと思います」  そんなとき図書館で見つけたのが、医師でエッセイストの海原純子が書いた『ポジティブ思考が女を変える』という本だ。<「嫌いな自分」を「好きな自分」に変える><ひとりを上手に楽しめる人は、皆とも上手に楽しめる>……。そんな言葉が早熟な少女の心にぐさりと刺さる。  宇賀はさっそく「自分改革」を始めた。モデルにしたのは、少女漫画『天使なんかじゃない』の主人公の冴島翠(さえじまみどり)。明るく前向きな高校生だった。 「翠ちゃんみたいになれたら、学校も楽しくなるだろうなと思い、ちょっとずつ真似したんです」  嫌なことがあった時はどうやって立ち直るか、好きな子がいて失恋したら……と、シミュレーションをし、何があってもポジティブに考えるようにした。すると高校生活は一転する。  進学した地元の都立高校は共学で制服がなく、髪を染めるのも自由。友だちも面白い子ばかりだった。青春ドラマの世界に憧れ、応援団へ入部。学ランの先輩に朝から晩までみっちり鍛えられ、のどを潰すような練習に明け暮れた。さらにパワーアップしたのは大学時代だ。  立教大学時代からの親友で、ジュエリーデザイナーの林聖子(33)は出会った頃の宇賀を鮮明に覚えている。ショッキングピンクのTシャツにデニムのパンツ、トレンチコートを着こなし、パステルカラーのゆるふわ女子が集まるキャンパスで、宇賀の独自の華やかさは人目を引いた。 「彼女は太陽みたいな人。光を放って、みんなの視線を集めるし、明るく照らして周りの人を幸せにしたいと思っている。すごく度胸もあって、人並みはずれてポジティブなんです」 独立を決めた宇賀が報告したとき、池上は「きっとできますよ。そうしてごらんなさい」と背中を押してくれた。高校の先輩であり、フリーランスの大先輩である池上の励ましは何より心強いエールだった(撮影/山本倫子) ■田中将大の取材では楽天カラーの服で臨む  興味を持ったら即行動。仲間とエンターテインメントサークルを結成し、ワールドカップ観戦などのイベントを企画、一緒によく旅行もした。恋愛でつらい時期があっても、くよくよ悩むことはない。そんな宇賀がいつになく落ち込んだのは、就職活動で、あるテレビ局に落ちたときだった。  もともとマスコミ業界を志望していたが、たまたまアナウンサーの体験セミナーに参加すると思いのほか楽しく、ダメもとでテレビ局を受験。だが、落ちたショックは大きく、「私、本当にアナウンサーになりたいんだ!」と初めて気づいた。  落ち込む宇賀の背中を押したのは、林だった。学内でばったり会った2人は、おしゃべりするうちに「今から温泉へ行こう」と、そのまま鬼怒川へ。温泉に入り、林と話すうちに、宇賀は別のテレビ局も受験しようと思えるようになる。東京へ帰り、すぐにテレビ朝日へ願書を出した。1千人を超える学生が筆記試験を受験、アナウンサーの合格者は4人という難関をくぐり抜けた。  09年4月1日、宇賀は入社初日の夜、どしゃぶりの雨で雷も鳴る悪天候のもと、東京・六本木ヒルズにある毛利庭園に立っていた。看板番組の「報道ステーション」の気象キャスターに抜擢されたのだ。高まる不安をこらえ、ずぶ濡れのスタッフを前に心を込めて天気を報じた。「シンデレラ・アナ」と呼ばれた宇賀のまさに桜吹雪舞う夜のデビューだった。  11年夏からは「報道ステーション」でスポーツキャスターを務めることになるが、「実は12球団を全部言えず、ライトとレフトがどちらかわからない。サッカーのオフサイドも知らなくて」というほど、スポーツに関して知識がなかった。  毎日スポーツ新聞6紙を読み、わからないところは赤線を引いて、自分で調べて覚えていく。週2回は仕事前に神宮や横浜など各スタジアムへ通い、注目カードの試合を観戦する。最初は現場へ一人でぽつんと入っていくのが怖かったが、通い続けるうちに監督や選手から話しかけてもらえるようになる。スタッフと信頼関係が築かれていく中で、取材もだんだん楽しくなっていった。  プロ野球界で最初に取材したのが、当時、東北楽天ゴールデンイーグルスにいた田中将大(31)だ。 「40分という長いインタビューは初めての経験でした。私はとりあえず話の取っ掛かりを作ろうと思い、えんじ色のカーディガンを着ていき、『楽天カラーで来たんです』と(笑)」 東日本大震災後に福島県を取材で訪れてから、毎年通い続けて地域の人々と交流している。2月に開かれたシンポジウム「ふくしまウチ⇔ソト」でファシリテーターを務め、高校生と福島の未来を考えた(撮影/山本倫子) ■一度は断った結婚、親友とコインが背中押す  それが功を奏したのか、田中は中学時代の話をしてくれた。中2の夏、全国大会予選の決勝のとき、大事な場面で中途半端なスイングをしてアウトとなり、悔しい思いを残した。そして高校3年の夏。甲子園の決勝戦、田中は最後のバッターボックスに立つと、思い切り振った。結果は三振、試合は負けた。それでも、「最後は絶対に思い切り振ろうと決めていたので後悔はなかった」と語ったのだ。取材後、担当ディレクターに「すごいな」と褒められる。その全試合をよく知るスタッフにとっても、鳥肌が立つようなエピソードだった。 「スポーツには詳しくなかったけれど、インタビューは何か脱線したところに面白さがあり、素顔が見えるんだと気づかされたんです。だから私も素直に自分のままでいいんだなと思えました」  いつも次の予定に追われていたが、どんなに忙しくても仕事は楽しかった。14年の春から早朝の情報番組「グッド!モーニング」のサブキャスターになると、池上の番組に加えて深夜のバラエティー番組にも出演し、多忙を極めていく。午前2時に局入りし、朝5時前からオンエア、その後も仕事が入って深夜に帰宅。最初の数カ月はほとんど眠れず、さすがにつらかったと宇賀は洩らす。翌年9月には「羽鳥慎一モーニングショー」のアシスタントになった。  忙しい日々でも、時間を見つけては友だちと飲み、3日オフがあれば旅行に行く。活動的で決断も速い宇賀が迷ったのが、結婚だった。大学時代の同級生と付き合って数年が経っていたが、彼からのプロポーズに宇賀は「やっぱりできない」と答える。結婚願望がなく、互いに自立もしている。結婚することに意味を感じなかった。とはいえ、迷う気持ちもある。その宇賀の背中を再び押したのが、親友の林だった。  宇賀の30歳の誕生日を彼と林の3人で祝う席でのこと。煮詰まる様子の宇賀を見て、「だったら、コインで決めたらいいんじゃない?」と、林が手持ちのイギリスの硬貨を渡したのだ。宇賀は「表が出たら結婚する、裏だったらしない」と投げ上げる。出たのは、エリザベス女王の顔が刻まれた「表」だった。宇賀はそれを見て、「ホッとした」気持ちになった。林は言う。 「彼女の中でも揺らいでいたんでしょう。私たちの母親世代は、子育ては女性がするものという価値観があり、周りの友だちも家庭に入ったら変わってしまったから、結婚しない方が自由にどんなことでもできるだろうと。でも、今は彼女なりの結婚生活を楽しんでいるような気がします」  17年に結婚。夫が掃除と洗濯をし、宇賀は料理担当。得意なことを得意な方がやればいい。夫は宇賀をこう評する。 「彼女の性格をひと言で言えば、野球部のキャプテン。甲子園優勝を目指してまっしぐら、夕陽に向かって『みんなで走るぞ!』と突き進んでいく感じ。冷や冷やもするけれど、自分が中心になって周りを巻き込んでいくエネルギーはすごい」  入社以来、仕事は無遅刻・無欠勤。だが、アナウンサーとして経験を積めば積むほど、同じ場所でずっと足踏みをしている気持ちになってきた。 「会社にいれば仕事は楽しいし、十分幸せだったんですが……。ぼんやりと見えている10年後よりも、全然想像もできない自分になっていたいと思ったんですよね」 「彼女の運転は怖くて」と夫は苦笑するが、宇賀はどこでも気ままに出かける。海外もよく旅し、ドバイ、スリランカ、メキシコなど旅先では愉快な出会いがあった(撮影/山本倫子)  大学最後の年にリーマン・ショックが起き、大手企業とはいえ、決して安心できるとは限らないということも身にしみていた。世の中はあっという間に変わるものだから、自分自身がしっかり立っていなければダメだと思い知らされた。周りで起業した友人たちが活躍する姿を見ながら、いずれは独立したいという思いがつのる。  ついに心を決めたのは18年夏、夫と旅したベトナムでのこと。ハノイの街を歩いていると、地面に座り込んでお茶を飲んだりスマホをいじったり、マイペースに暮らしている人々に出会った。それでも毎日ちゃんと生きていけるんだと思ったら、自分は何を悩んでいるのだろうと吹っ切れた。  翌19年3月末、宇賀は入社10年の節目でテレ朝を退社。自分で会社を立ち上げスタートを切った。 「芸能事務所に入らず、一人でやっていこうと決めました。経理やギャラの交渉など大変なことは多いけれど、全部が取材になる。いろんな人の意見を聞いて最終的に自分で決めていく。どんどん外へ出て、個人の力を蓄えたいと思ったんです」 ■退社公表の日に決まったラジオのパーソナリティー  ちょうど退社を公表した日の夜、ある宴席で小山薫堂(55)と出会った。4月から始まるラジオの新番組、TOKYO FM「日本郵便SUNDAY’S POST」で相方を探していた小山に、「やってみたいですか?」と聞かれる。昔からラジオが好きだった。「絶対やりたいです!」と即答。その場で起用が決まった。実は小山は、それまで宇賀のことをよく知らなかったという。 「でも、仕事としてこなす人ではない方がいいと思ったんです。ラジオは愛が伝わるメディアだと思うので、ラジオが大好きだという彼女なら心を込めてやってくれるだろうと」(小山)  手紙を通じて、人や風景など日本の良さを伝える番組。局アナ時代はアシスタントとして聞き役にまわることが多かったが、ラジオのパーソナリティーには自分の言葉で自由に話せる楽しさがあり、リスナーとの距離感も近い。宇賀はフットワークも軽く、東北や九州まで取材にいく。地元の酒を飲み、一人でふらりと温泉に立ち寄ってくる。のびのびと楽しそうな宇賀を見て小山は言う。 「宇賀さんは、女手ひとつで看板を率いていくような『旅館の女将』が似合いますね」  この4月からは、情報番組の「土曜はナニする!?」がスタート、「宇賀なつみのそこ教えて!」という番組も新たに率いることになった。「川柳居酒屋」も2年目が始まった。働き方改革どころかますます忙しくなるが、ストレスはたまらない。自分のスケジュールは自分で埋めていく。「仕事も遊びも手を抜きたくないので」と。  人生のテーマは「ドラマチックに生きる」こと。中学生の頃は漫画やドラマの世界に憧れ、試練を乗り越えていくヒロインに自分を重ね合わせていた。だが、外の世界へ飛び出すと、現実の方がもっと面白くなった。今は自分が脚本家であり、演出家であり、監督にもなれる。ドラマチックに生きるヒロインはもちろん「宇賀なつみ」だ。 (文中敬称略) ■うが・なつみ 1986年 東京都出身。両親と妹、祖母と暮らしていた。週末は家族で出かける車の中でラジオを聞き、パーソナリティーの声を真似していた。  93年 練馬区の公立小学校へ入学。毎朝5時起きで、祖母を誘って散歩していた。ピアノ、習字、水泳なども習う。学級委員長やバトン部の副部長を務め、ネットボールのクラブチームにも参加。高学年になるとOL向けのハウツー本やビジネス書も読み始めた。  99年 中学では吹奏楽部でパーカッションを演奏。生徒会活動の劇で主役を演じるなど、後輩女子からもモテる存在だった。 2002年 都立大泉高校へ入学。応援団に入部。体育祭ではチアの衣装で華やかに活躍する。練習は厳しかったが先輩たちは優しく、冬のオフにはマクドナルドでバイトに励む。  05年 立教大学社会学部へ入学。仲間とイベントサークルを結成。温泉やスノーボード、海外旅行もした。  09年 テレビ朝日入社。初日から「報道ステーション」気象キャスターとしてデビュー。11年8月からスポーツキャスターに。  13年 プロ野球、サッカーなどトップアスリートへのインタビュー集『宇賀なつみ 戦士のほっとタイム』刊行。  14年 春から「グッド!モーニング」「初めて〇〇やってみた」のMC、「ここがポイント!! 池上彰解説塾」でアシスタントを務める。  15年 9月から「羽鳥慎一モーニングショー」のアシスタントに。翌年春、夜桜見物でうっかり転倒し、右肘を骨折したが、ギプスの包帯姿で休まず出演し、「宇賀ちゃん、骨折しました」と羽鳥に報じられた。  17年 大学時代の同級生と結婚。「穏やかで優しく飄々とした彼は父親に似ていて、居心地良かった」と宇賀。  19年 テレビ朝日退社。フリーランスとなり、会社設立。親友がつけてくれた社名はラテン語で「夏」を意味する。名刺は大好きなピンク色で作った。4月から初の冠番組「川柳居酒屋なつみ」ほか、TOKYO FM「日本郵便SUNDAY’S POST」、TBSラジオ「テンカイズ」のパーソナリティー、コラムの連載も始める。  20年 4月、フジテレビ系「土曜はナニする!?」など2本の新番組がスタート。 ■歌代幸子 1964年、新潟県生まれ。編集者を経てノンフィクションライター。著書に『一冊の本をあなたに 3・11絵本プロジェクトいわての物語』『100歳の秘訣』『鏡の中のいわさきちひろ』等。 ※AERA 2020年4月20日号 ※本記事のURLは「AERA dot.メルマガ」会員限定でお送りしております。SNSなどへの公開はお控えください。
AERA 2020/10/01 16:50
三浦春馬さんのいた時間を忘れたくない人へ 大切にしたい「本人の言葉」~30歳の節目~
三浦春馬さんのいた時間を忘れたくない人へ 大切にしたい「本人の言葉」~30歳の節目~
29歳の三浦春馬さん。ドラマ「TWO WEEKS」の会見では笑顔を見せた(c) 20歳のころの三浦春馬さん(c)朝日新聞社  今も、多くの人に影響を与え続けている三浦春馬さん。急逝して2カ月以上が経つが、ドラマの公開や再放送、映画の公開決定が相次ぐ。長年のファンのみならず、作品を通してあらためてその魅力に気づいた人も少なくないだろう。インタビューや対談記事に残っている「本人の言葉」をひとつひとつ拾い、その人生に迫ってみたい。 *  *  *  三浦春馬さんの最後の主演映画「天外者(てんがらもん)」が12月に公開される。三浦さんが演じた役は、幕末から明治に生きた実業家五代友厚。共演者の蓮佛美沙子さんは次のようなコメントを映画の公式サイトに寄せた。 「作品の中にいる春馬くんは五代友厚そのもので、何より瞳を覗き込めば、そこに五代の全てが在りました。彼が五代として生きたその時間を、作品を、愛してもらえたらと心から願っています」  五代という役柄と三浦さん自身が重なる部分があったのかもしれない。天外者とは、凄まじい才能の持ち主という意味。志と熱意で激動の時代を生きた人物として描かれているという。  三浦さんも才能やルックスに恵まれただけでなく、努力の人でもある。特に20代半ばからは、演じる役の幅を広げ、殻を破ろうとしていたようにみえた。何を見据えて、どのように努力を重ねていたのか、三浦さんの発言から振り返りたい。  子役出身の三浦さんは、10代半ばまでは演じることがただ楽しかったのだという。その心境に変化が現れ始めたのは20歳ごろ。連続ドラマ「陽はまた昇る」に出演し、映画「東京公園」が公開された21歳のときには、過去を冷静に振り返り、自分の中の変化の兆しについて言及していた。 「以前は感覚でやっちゃったり。あんまり考えずに、監督が言うことを消化してパッとやっちゃえばいいやみたいな時期もあったんです。でも、作品の扱うテーマがむずかしくなった分、役と向き合う時間が増えました」(サンキュ! 2011年8月号/21歳) 「ここ、一、二年くらい自分の中で役のビジョンをはっきりさせることを意識するようになってきました。監督から“ここはどう思う?”って聞かれる機会が増えたからからなのかもしれません。聞かれたらそれに答えたいじゃないですか」(non・no  2011年8月号/21歳)  周囲の期待に、素直に応えたい。そんなまっすぐな気持ちが役者としての成長のきっかけだったようだ。  役に真摯に向き合うほど、オファーは絶えず、多忙を極めた。2013年は、連続ドラマ「ラスト・シンデレラ」で主演の篠原涼子さんの相手役を務め、映画「キャプテンハーロック」では声優に初挑戦、映画「永遠の0」も公開された。 「成長したい気持ちが高まっているんでしょうね。過去に歯がゆい思いをしたから、あんな深い演技ができるんだ……って想像を膨らませながら先輩たちの貴重な経験談や苦労話を聞く時間がいちばん楽しいんです」(MORE  2013年10月号/23歳)  三浦さんほど容姿に恵まれていると、若いときにはどうしても「イケメン」「さわやか」な役が回ってきがちだ。華があるのは強みといえるが、それに甘んじていたら役者としての進路を狭めてしまう。それを三浦さんは早い段階で気が付いていたことがわかる。 「今まで“さわやか”な役をたくさんいただいて、それはすごくうれしいです(笑)。でも、それだけの人にはなりたくないし、これからもっといろんな顔を見せていきたい。悪役もやってみたいし、暗ーい役とか、どはまりしそう(笑)」(LEE  2013年12月号/23歳)  20代前半は、変化を求める一方で、成長のために具体的に何をどうやったらいいのか、やるべきことがいま一つ見えないもどかしさもうかがえる。 「でも、何をどうっていうのは、僕を含め、まだ見つけられていない人も多いはず。だからこそ、いろいろなことに出会って、変っていくことが必要なんじゃないか。自分の芝居にしても、“これでいい”って満足したら、あとは他をけなすばかりになってしまう。それってすごく悲しいこと。出会ったことにしっかり向き合って、自分を変えていければ成長できるし、自分のやるべきことも見えてくると思うんです」(With  2014年1月号/23歳)  しかし偶然にも23歳の夏、運命の「出会い」を果たしていた。ニューヨークでブロードウェーミュージカル『キンキーブーツ』を観賞。主人公のドラァグクイーンのローラに魅せられ、「いつか絶対にローラを演じてみたい」と強く思ったという。  その3年後に実際、三浦さんは日本人キャスト版でその役を射止めている。公演前のインタビューでは、23歳の自分の気持ちをふりかえっていた。 「素晴らしい楽曲はもちろん、特に惹かれたのは(中略)ローラでした。たぶんその背景には、俳優として幅を広げるために、ちょっと特殊な役どころを演じてみたいという僕自身の気持ちがあったんだと思います」(PHPスペシャル 2016年8月号/26歳) 「俳優として幅を広げるために、今まで演じたことのない役にもトライしてきたい。そんなふうに考えていた2013年の夏、ニューヨークのブロードウェイで『キンキーブーツ』に出会ったんです。(中略)ローラというキャラクターの圧倒的な存在感に心を射抜かれてしまって。(中略)もしいつかこのミュージカルの日本版が上演されることがあれば、絶対にローラをやりたい、誤解を恐れずに言えば、やらなきゃいけないと思いました」(MORE 2016年8月号/26歳)  ローラは、さわやかなイケメンというそれまでの三浦さんのイメージを覆す役柄。ところが、それが当たり役となった。初演は2016年。舞台上では15センチのヒールのブーツをはきこなし、ボディラインを強調したきらびやかな衣装に身を包んだ。そして、衣装に負けないくらい豊かな表情をみせて、7キロ増量して鍛えた野太い声を操り、ときに力強く、ときに繊細に歌い踊った。  三浦春馬版ローラは観客の心をとらえたのはもちろん、読売演劇大賞の杉村春子賞と優秀男優賞を受賞。役者人生の転機となった。2019年の再演時に、初演時の心境を次のように語っている。 「とても幸せで、特別な毎日でした。物語や音楽が持っている力が、観に来られたかたや演者の気持ちを高めてくれるんです。毎回がチャレンジで、辛いと思ったことはありませんでした」(家庭画報 2019年2月号/28歳) 「ローラという役の魅力は、自分を貫く強さの裏に、脆くて繊細な部分があるところ。そのセンシティブな心の機微を、感情を歌に合わせなければいけないミュージカルで見せていく難しさを、初演ではまざまざと実感しました」(同)  もう一つ、転機となった舞台がある。時系列が前後するが、キンキーブーツの初演の前年2015年に上演された「地獄のオルフェウス」だ。映像のみならず舞台でも定評のある女優・大竹しのぶさんと共演し、初めて外国人演出家と作り上げた作品だ。 「表現を面白くするためには、熱量やセンスだけじゃなくて技術も大切なんだなって思うようになりました。(中略)がむしゃらなだけでいい時期は終わったなって思うようになりました」(ダ・ヴィンチ 2015年5月/25歳) 「もっと自分はできそうだと、勇気をくれた作品(『地獄のオルフェウス』のこと)ではあります。もっと貪欲に芝居を突き詰めればより多くの心人を動かせるんだと坂の上で感じましたし。(中略)やっぱりいいものに触れると成長が早い気がする」(週刊女性 2018年11月13日号/28歳)  このときに何かを掴めたのだろう。「キンキーブーツ」の初演前には、自信を持って、進むべき道が見えてきたと話している。 「昔はエネルギーに任せて、もっと漠然といろいろなことをやっていた感がありました。(中略)目標に対して自分がやるできことがはっきり見えるようになってきました。(中略)目的や課題がはっきりしている今の方が効率よく学べていると思うし、そこに向ける熱量も増している気がします」(PHPスペシャル 2016年8月号/26歳)  三浦さんはローラを演じるために、ニューヨークでヴォーカルレッスンを受け、日本に帰ってきてからも夜な夜な自宅で練習を続けたという。こうしてひとつひとつ積み上げていく努力の仕方を覚え、それによって演技力が培われていった。海外の作品にも出てみたいと語り、英語の習得にも熱が入るようになる。 「いろいろなスキルを身につけて自分の幅や可能性を広げていかないと、俳優としての需要もなくなっていくだろうなという思いはあります。(中略)大好きなこの仕事を続けていくためにも、今後も新しいことにどんどん挑戦するつもりです」(同)  需要がなくなるどころか、2016年は、「キンキーブーツ」の前にはドラマ「私を離さないで」に出演し、後の2017年には大河ドラマ「おんな城主 直虎」に出演と仕事の忙しさは増していった。そんな中、2017年にイギリスに短期間留学。自分を見つめなおす貴重な時間だったようだ。後に次のように振り返っていた。 「ゆったりとした時間を過ごすことで、自然と視野が広がって、新しい発見もできました。休息の時間も有意義なものなんですね」(婦人公論 2019年10月8日号/29歳)  若手実力派として周囲からも認められ、自身も手応えをつかんだ20代後半。このころから、30歳以降を意識した発言が増え始める。次のステップを見据えていたように思える。 「僕、あと2年で30歳になるんです。ここは分岐点ですね、かなりの。たとえるなら、いまひとまず、とある小さな村に着いて、ここからの長旅に備えてピッケルとかいろいろな道具を一生懸命集めている、そんな状態で。怠るとひどい目に遭うぞ! という心づもりで挑まないといけないな、と最近つくづく思いますね」(女性自身 2018年10月9日号/28歳) 「最近は発声も変わってきたし、知識欲も出てきて語学の勉強を少しずつ続けています。その積み重ねが将来、胸を張って表現できる役者へのステップになる。(中略)いつか振り返ったとき『よくがんばったな』と思えるぐらいまでやりきりたいですね。」(家の光 2019年2月号/28歳)  さらにこのころの大きな変化としては、仕事において自分自身の努力も大切だが、「助け合い」も必要だという趣旨の発言が増えたこと。例えば、MCを務めるNHKの番組「世界はほしいモノにあふれてる」についてのインタビュー。心がけていることとして、ゲストへ毎回こんな声かけをしていたという。 「ゲストであるバイヤーさんに『この番組は“収録”だから、もし失敗しても言い直しができるので、緊張しなくても大丈夫ですよ』と声をかけています。これは、毎回、必ず、僕からお伝えします。(中略)経験上、共演者からそうしたひと言があるのとないのとでは、全然気持ちが違うんですよ。だから、この番組では、MCである自分の役割だと思っています」(ステラ 2019年4月12日号/29歳)  また、相手に手を差し伸べるだけでなく、自分から相手に心を開くようにもなったとも明かしていた。 「どうすればお互いが寄り添った形でいい方向に持っていけるかってことを、怖がらずに話せるようになったと思う。スタッフともよく話し合いをするようになりました」(週刊女性 2018年11月13日号/28歳) 「助け合うことによって生まれる、人の成長があると思うんです。実はそれが意外と重要なことなんじゃないかなと。だから最近、僕は助けてもらうことを恐れず、共演者やスタッフの方の胸に飛び込んでいくことが多いです」(からだにいいこと 2019年10月号/29歳)  自己研鑽に励みつつ、いい感じで力が抜けてきたように見えた三浦さん。20代最後の年となった2019年は、舞台「罪と罰」、キンキーブーツの再演、映画「アイネクライネハナトムジーク」の公開、ドラマ「TWO WEEKS」に出演などを通して、駆け抜けるように過ぎた。本人が望んだペースよりも、慌ただしかったのではないだろか。  ミュージカル俳優としてブロードウェイの舞台に立ちたいという夢を明かしていた三浦さんだが、30歳を目前にして、俳優として今一番興味があることを聞かれ、こんな発言を残していた。 「変に思われるかもしれませんが、よりよく生きること。いろいろな意味でよりよく生きれば、日々のマインドも波風立てられずに、仕事でもしっか自分の役目を果たせるんじゃないかなと思うから」(週刊女性 2020年1月1日号/29歳) よりよく生きること。三浦さんは30年という短い人生の間に、きらめくような言葉を残していた。出演作品とともに、これらの本人の言葉も生きた証として覚えてきたい。次回は、恋愛をテーマにふりかえる。(AERAdot.編集部) ※このシリーズの他の回はこちら 【1回目】三浦春馬さんの死に傷ついている人へ もう一度聞きたい「本人の言葉」を集めて~家族と仕事~ https://dot.asahi.com/dot/2020091400066.html 【2回目】三浦春馬さんの死から心に穴が開いたままの人へ 残したい「本人の言葉」~人との出会い~https://dot.asahi.com/dot/2020092200004.html 【4回目】三浦春馬さんの死から時が止まってしまった人へ 結婚と恋愛をめぐる「本人の言葉」https://dot.asahi.com/dot/2020100300016.html 【5回目】三浦春馬さんの死でつらい思いを抱える人へ 「14歳の母」から「せかほし」まで本人の言葉https://dot.asahi.com/dot/2020100600064.html ◇相談窓口 ■日本いのちの電話連盟 ・フリーダイヤル0120・783・556 (16時~21時、毎月10日は8時~翌日8時) ■よりそいホットライン ・フリーダイヤル0120・279・338 ・IP電話やLINE Outからは050・3655・0279 (24時間) ■こころのほっとチャット ・LINE、Twitter、Facebook @kokorohotchat (12時~16時、17時~21時、最終土曜日から日曜日は21時~6時、7時~12時)
dot. 2020/09/29 11:30
昼寝も意外と大事だった! コロナ禍で狂った体内時計を調整する朝・昼・晩の対策
昼寝も意外と大事だった! コロナ禍で狂った体内時計を調整する朝・昼・晩の対策
※写真はイメージです (GettyImages) 週刊朝日2020年10月2日号より  コロナ禍の今、何となく体調がすぐれず、眠れない──。それは、体内時計が乱れているからかもしれない。対策を一日の流れに沿って紹介する。 *  *  *  そもそも体内時計とは何か。睡眠研究の第一人者である精神科医の内村直尚さん(久留米大学学長)はこう説明する。 「生命活動に必要な血圧や体温、ホルモン分泌、自律神経の働きなどは、一日のなかで周期的に変動しています。この変動をコントロールしているのが体内時計です。睡眠リズムも、この体内時計の影響を受けています」  体内時計は脳の視床下部という部分にあり、個人差はあるものの、だいたい25時間サイクルで回っている。地球の自転より1時間長いため、理論上だと1日1時間ずつずれていくが、そうならないようにヒトは無意識のうちに時計をリセットしているという。  今、在宅勤務や外出控えで、自宅で過ごすことが増えた。通勤時間や残業、飲み会などで削られていた睡眠を増やす絶好の機会ともいえるが、実は体内時計の仕組みからみれば“大きな落とし穴”があると、内村さんは注意を促す。 「在宅勤務は単調で、他者とコミュニケーションをとる機会が少ない。一日中、空調がきいている自宅にいれば、温度の変化もない。こうしたメリハリのない生活によって、体内時計が乱れやすい状況になっているのです」  影響は睡眠にも及ぶ。寝る時間が遅くなり、朝起きられなくなる、夜中に何度も目が覚めてしまう、昼間に強い睡魔に襲われる……。こんな睡眠障害は、まさに体内時計の乱れで起こっている可能性が高いそうだ。  体内リズムと睡眠の関係を研究する明治薬科大学准教授の駒田陽子さんも同様のことを危惧する。 「会社に行く場合、出社時間、昼食の時間、退社時間などが決められていますが、在宅勤務だとそれがなく、仕事を続けてしまいがちです。それが体内時計を乱す原因となります。コロナ禍の睡眠障害は、これまで不安やストレスによって生じていましたが、今後は体内時計の乱れによって起こるケースが増えてくるのではないでしょうか」 ■朝は何を食べるかより、いつ食べるか  体内時計の乱れは、体調の変化にも表れる。「以前は朝から調子がよかったが、最近はだるいことが多い」「昼過ぎにならないと調子が上がらない」などの症状だ。すぐに対策を始めたい。特に、20歳までと65歳以降は体内時計がずれやすく、戻りにくいので、より注意が必要だ。  体内時計を調整するのは、五つの「同調因子」。最も強いのは朝の太陽光で、次が規則正しい食事、特に朝食が大事だ。暑さや寒さなどの環境の変化や運動、人とのコミュニケーションも同調因子になる。それでは、一日の時間帯ごとにやっておきたい対策を紹介しよう。 【朝の対策】  平日も休日も、同じ時間に起きること。目覚めたらカーテンと窓を開け、太陽の光を十分に浴びる。15分ぐらいは窓の近くで新聞を読んだり、お茶やコーヒーを飲んだりして過ごしたい。 「起床後に朝の日差しを浴びると、光の刺激が脳に伝わり、脳内物質のセロトニンの分泌が活発化されます。これにより体内時計のズレが修正されます」(内村さん)  必要な光の強さは2500ルクス以上。曇りでもそれくらいの明るさになるが、さすがに雨の日はそこまで明るくない。  そんなときに役立つのが他の同調因子。例えば、毎朝同じ時間に食べ物が胃に入ると、それが物理的な刺激となって体内時計のズレが修正される。朝、何を食べるかより、いつ食べるかが大事だ。  雨の日対策として内村さんが勧める意外な体内時計リセット法が、コンビニの利用。実は店内の照明は1千数百ルクスと、一般家庭より明るい。店内で30分ほど過ごすと、太陽光を浴びたような効果が期待できる。夜ではなく、朝に行く場所と心得よう。 【日中の対策】 「ときどき仕事の手を休めて、ベランダに出たり、散歩をしたりすること。1時間に1回はストレッチなどの運動をして、仕事にメリハリをつけること」(駒田さん)  適度な運動は、セロトニンの分泌を高める作用もある。セロトニンは集中力の維持や気分の安定をもたらすだけでなく、眠りの質を高める脳内物質メラトニンの材料になる。できるだけ昼間に体を動かして、増やしておきたい。  昼寝も意外と大事だ。 「私たちは寝不足でなくても、起床から7時間前後に一度、軽い眠気がきます。これは体内時計の作用による生理的なものです。午後の作業効率を上げ、ミスを減らすためには適切な昼寝をとる必要があります。昼寝は午後2時前後にし、30、40代ぐらいまでは20分まで、50代以降は30分までにとどめます。長い昼寝は夜の睡眠に支障をきたします」(内村さん) 【夜の対策】  体内時計が正確だと、朝の光を浴びた16時間後に眠気が訪れる。そうならないのは、原因があるからだ。まず、食後のうたた寝はダメ。夜に眠れなくなる。就寝3~4時間前からは食事も控えたい。栄養の代謝や吸収も体内時計の影響を受ける。朝スッキリと目覚めるためには、夜、胃腸を休ませる必要がある。 「研究では、10~12時間程度食事をしない時間を作るのが望ましいとされています。朝7時に起きるとしたら、夜9時までに食事を終えるのがベストです」(駒田さん)  就寝1~2時間前には、スマホやパソコン、テレビなどの使用をやめる。画面から放たれるブルーライトは、メラトニンの分泌を減らすからだ。オンライン飲み会も早めに切り上げる勇気が必要。どうしてもスマホなどを見たいときは、ブルーライトをカットするメガネなどを着用する。  お勧めもある。就寝1~2時間前の入浴だ。 「入浴には睡眠を促す効果があります。40~41度ぐらいのぬるめの湯につかりましょう。好きな入浴剤でバスタイムを楽しめば、コロナ禍によるストレスも解消できます」(駒田さん)  体内時計を味方につけて健康を維持しよう。(本誌・山内リカ) ※週刊朝日  2020年10月2日号
週刊朝日 2020/09/28 17:00
急逝した竹内結子さん「2週間前も買い物に出かけ、元気そうだったのに…」芸能界に広がる自殺症候群
上田耕司 上田耕司
急逝した竹内結子さん「2週間前も買い物に出かけ、元気そうだったのに…」芸能界に広がる自殺症候群
亡くなった竹内結子さん(C)朝日新聞社 竹内結子さんの自宅周辺に集まった報道陣(撮影/上田耕司) 2001年12月に週刊朝日の表紙を飾った竹内結子さん  人気女優の竹内結子さん(40)が9月27日未明に急逝し、芸能界に激震が広がっている。    第一発見者は夫で俳優の中林大樹さん(35)。 「26日夜、竹内さんは自宅1階で夫の大樹さんと子供たちと一家団欒で食事をしています。27日未明、2階の寝室にあるグローゼット内で竹内さんが首を吊っているのを中林さんが発見。27日午前2時ごろ、119番通報した。竹内さんは病院に救急搬送されたが、心肺停止状態で死亡が確認されました」(捜査関係者)  9月27日午前、竹内さんの自宅周辺には40人ほどの報道陣が集まっていた。窓ガラスにスモークを張った車が出入りすると、関係者の車ではと、報道陣がカメラを向けた。自宅付近は高級住宅街。近所の会社員の男性(25)は驚いた様子でこう話した。 「2週間前、恵比寿駅前で竹内さんをお見かけしました。一人でした。バッグを持ち、食品が入った紙袋を下げていました。その時は元気そうに見えたんですが……」  近所の40代の主婦は以前、近くのコンビニで、見かけたという。 「竹内さんが夫と長男と3人で車でやってきて、コンビニで氷を買ってました。これから、お酒でも飲むのかしらと思いました。仲睦まじい家族にしか見えませんでした。俳優の三浦春馬さんが自殺した時も衝撃でしたが、それ以上の衝撃です」  竹内さんは 現在発売中の女性誌「LEE」10月号の表紙を飾り、同誌のインタビューで「40代という年齢に後ろ向きな気持ちはまったくなく、むしろ肩からポロポロといろんなものが落ちて、軽くなるような感覚」と話していた。  またコロナ禍で家族と一緒に過ごす時間が増えたとも語り、「たっぷり時間があって家族と向き合って、自分の人生をもう少し大事にしてもいいんじゃないか」「40代も仕事という軸は持ちながら、家族との時間を楽しんでいきたい」と前向きに語っていた。それなのに、いったい何があったのか? 「コロナ禍で芸能界に自殺シンドローム(症候群)が生まれているのかもしれませんね」  こう話すのは芸能リポーターの石川敏男氏だ。7月18日には俳優の三浦春馬さんがやはり、自宅でクローゼット内で自殺。9月14日には女優の芦名星さんが自宅マンションで自殺。9月20日には俳優の藤木孝さんが遺書を残して自殺した。  新型コロナの感染拡大は芸能界を直撃し、舞台、映画撮影、コンサートなどのイベントの中止や延期が相次いでいた。 「コロナ禍での外出自粛ムードは、これまで忙しかった芸能人にとって精神的によくないのかもしれませんね。収入減や精神的な悩みを抱える芸能人も多くいる」(前出・石川氏)  竹内さんは最後の出演映画は7月公開の「コンフィデンスマンJP プリンセス編」。亡くなった三浦さんと共演し、アイスクリームを一緒に食べる写真をインスタグラムにアップするなどしていた。映画関係者がこう話す。 「竹内さんは三浦春馬さんとも親しかったようだ。その死がショックで影響を受けたのかもしれない」  竹内さんは05年に俳優の中村獅童さんと結婚。結婚から5カ月で長男(14)を出産したが、結婚生活は長くは続かない。06年7月、獅童の酒気帯び運転が発覚し、助手席に女性が同乗していたことが明らかになり、実際には結婚1年ほどで、竹内さんが長男を連れて家を出ていた。別居生活の後、08年2月に獅童さんとは正式離婚。結婚生活は3年で壊れた。 「離婚後も竹内さんは健気に強く、女優として生きてきたんですよ」(前出・石川氏)  シングルマザーとして約10年間、女優業と長男の子育てを両立した。 「若いころは尖がった発言もあったが、子どもができてからは性格が丸くなり、差し入れなど現場で気遣いができる人とスタッフの評判もよかった。プライベートで長男と有名レストランを訪れた時も、目立たない奥の席に案内してもらうと丁寧にスタッフにお礼を言うなど礼儀正しい面もあったと聞いていました」(芸能評論家の三杉武さん)  そして昨年2月27日、同じ事務所の中林さんと婚姻届けを提出し、再婚をしたばかりだった。芸能ジャーナリストの佐々木博之さんはこう話す。 「2人は同じ事務所の先輩と後輩。竹内さんは数々のドラマや映画に出演していた人気女優さん。当時、4歳9カ月歳下の中林の認知度はまだまだ低く、”格差婚”言われてました。竹内さんにとっては、中林はイケメンだし、今後ブレークする可能性はあると、育てていくつもりだったのではないでしょうか」  結婚から1年7カ月がたち、今年1月には中林さんとの子供が生まれたばかりだった。中林さんは9月11日から始まったTBS系ドラマ『キワどい2人-K2-池袋刑事課 神崎・黒木』に出演するなど、活躍の場は増えていた。  約3週間前、竹内さんは都内でサッポロ一番「おうちで偏愛フェス」キャンペーン開始式のイベントに出席。サッポロ一番のCMキャラクターは6年目になっていた。 「イベントでは長男と夫が一緒に夜食をしていることも明るく話していたので、何か悩んでいるようには全然見えませんでした。あまりにも唐突で衝動的だと思います」(佐々木氏)  竹内さんが所属する芸能事務所「スターダストプロモーション」の公式サイトが更新され、竹内さんが亡くなったことを発表した。事務所のコメント全文は以下の通り。 『本日9月27日、弊社所属の竹内結子(享年40歳)が、自宅で亡くなりました。日頃よりお世話になっている関係者の皆様、応援して下さっているファンの皆様に、この様な辛いお知らせを申し上げることになり、あまりに突然の出来事で所属タレント、社員は驚きと悲しみで呆然としております。詳しい状況は現在確認中です。マスコミの皆様におかれましては、ご家族、ご親族の深い悲しみにご配慮いただきますよう、切にお願い申し上げます』  ご冥福をお祈りします。(本誌・上田耕司) ※週刊朝日オンライン限定記事 ◇相談窓口 ■日本いのちの電話連盟 ・フリーダイヤル0120・783・556 (16時~21時、毎月10日は8時~翌日8時) ■よりそいホットライン ・フリーダイヤル0120・279・338 ・IP電話やLINE Outからは050・3655・0279 (24時間) ■こころのほっとチャット ・LINE、Twitter、Facebook @kokorohotchat (12時~16時、17時~21時、最終土曜日から日曜日は21時~6時、7時~12時)
週刊朝日 2020/09/27 17:40
不倫の競泳・瀬戸大也 東京五輪出場ピンチの声
不倫の競泳・瀬戸大也 東京五輪出場ピンチの声
2017年10月に結婚式を挙げた瀬戸大也選手と優佳さん=(C)朝日新聞社 2019年7月、世界選手権の男子400メートル個人メドレーで優勝した瀬戸大也選手=(C)朝日新聞社  東京五輪の金メダルに最も近いと言われたアスリートの評判が地に落ちた。日本の競泳選手で唯一、五輪代表に内定している瀬戸大也(26)=ANA=が9月24日、自らの不倫報道を受けて所属事務所のホームページに直筆コメントを掲載した。 「自分の軽率な行動により大切な家族を傷つけ、応援して下さっている皆様、関係者の方々、支援頂いている企業の皆さまに大変不快な思いとご迷惑をおかけしてしまいましたことを、深くお詫び申し上げます」  元飛び込み選手で妻の優佳さん(25)も、 「この度は大也の行動により、日頃から応援してくださっている皆様、スポンサーの皆様、関係者の皆様にたいへんなご迷惑をおかけすることになり、申し訳ございませんでした。家族のことについては、よく話し合っていきたいと考えております」  などとつづった。  前日のデイリー新潮(電子版)と24日発売の週刊新潮が報じた内容は、優佳さんが仕事で外出している間に不倫相手と都内のラブホテルで約1時間半過ごし、その後、自宅で車を乗り換えて2歳と6カ月の2人の娘を保育施設に迎えにいった一部始終だった。  瀬戸は2016年リオデジャネイロ五輪男子400メートル個人メドレーの銅メダリストで、早稲田大を卒業した17年に結婚。19年世界選手権で200メートルと400メートルの個人メドレー2冠を達成し、五輪代表に内定した。  栄養に気を配った食事を作って支える妻とCMに出演するなど、仲のいい夫婦として知られていた。一方で、練習拠点の近くで一人暮らしをすることもあったという。スポーツ記者は明かす。 「イケメン選手なので夜遊びや女性問題のうわさはあった。それにしても、これほど脇が甘いとは……」  瀬戸は明るい性格と勝負強さで、子どもたちにも人気があった。日本オリンピック委員会(JOC)が実力、将来性などを踏まえて選考し、マーケティング活動に協力する「シンボルアスリート」にも名を連ね、東京五輪の「顔」としてさまざまな企業のCMに出演していた。  不倫報道を受けて、味の素の「勝ち飯」など、出演していた複数のCMがホームページから削除された。ANN所属アスリートのページからも名前が外れた。 「報道中の事案と照らし合わせ、当該の企業広告を当面、差し控えることを判断いたしました」(味の素の広報担当者)  東京五輪の延期が決まった後、瀬戸は小学校時代から長年指導を受けてきた梅原孝之コーチの元を離れ、高校の同級生だった浦瑠一朗コーチを迎えていた。瀬戸は「自分で考えながら水泳をやりたいと思い、浦が適任だった」と理由を語っていたが、報道陣からは「延期になった五輪に向けた大事な時期に、なぜ」とコーチ交代を疑問視する声も出ていた。前出のスポーツ記者は「軽率な行動をいさめる大人を遠ざけた結果かもしれない」と言う。  周囲からは、代表内定取り消しも仕方がないという厳しい声まで出ている。スポーツライターの折山淑美さんは言う。 「本気で『自分の行動を猛省』するのなら、五輪代表の内定を自ら白紙に戻して、(来年の)代表選考会で代表権をもう一度取るくらいの覚悟が必要ではないか」  自ら招いた騒動とどう向き合っていくのか。 (本誌・堀井正明) 週刊朝日2020年10月9日号
週刊朝日 2020/09/27 12:17
元SMAP、嵐、手越、タッキー…ジャニーズ事務所の「勢力図」を書き換えたのは誰か?
宝泉薫 宝泉薫
元SMAP、嵐、手越、タッキー…ジャニーズ事務所の「勢力図」を書き換えたのは誰か?
ジャニーズ事務所(C)朝日新聞社  元TOKIOの山口達也が酒気帯び運転で逮捕された。そのニュースに、既視感のようなものを覚えたのは自分だけだろうか。ジャニーズをやめた人が落ちぶれていくというパターン、それは何度となく目にしてきた光景だ。  ただ、ここ数年はそうでもない展開も増えてきた。たとえば「SMAP騒動で変化した独立劇、win―winの形を模索…『少年隊』錦織&植草年内退所」(スポーツ報知)という記事が出るなど、ジャニーズをやめてもそれなりになんとかなりそうな雰囲気が醸成されつつある。かつては「win―win」どころか、ジャニーズのひとり勝ちだったのだから、これはこの芸能帝国の地盤沈下でもあるだろう。  その転機が、2016年のSMAP解散だったことはいうまでもない。折しも、解散直後に独立した「新しい地図」の3人が最近、相次いで健在ぶりを示した。草なぎ剛は映画「ミッドナイトスワン」にトランスジェンダーの役で主演、香取慎吾は三谷幸喜と組んだ「誰かが、見ている」(Amazonプライム・ビデオ)で、コミカルな演技をみせ、稲垣吾郎は「『ベートーベン250』プロジェクト」のアンバサダーとして「クラシック音楽館」(NHKEテレ)などに登場という具合だ。  また、今年独立した中居正広も担当していた番組を失うことなく、テレビに出続けている。  ではなぜ、SMAP解散が転機となったのか。これはもともと、SMAPを育てた飯島三智マネジャーがグループごと独立させようとしたことから始まった出来事だが、木村拓哉が残留を希望したことから計画が頓挫。モメにモメたあげく、3人だけの独立という中途半端なかたちとなった。  結果として、3人はそれぞれの冠番組を失うなど多くのメディアから干されてしまう。そのまま、過去に独立した多くのジャニーズタレントのように尻すぼみになっていくことも危惧されたものだ。  当時、世論は3人に同情的だったものの、何も手を打たなければやはりジリ貧だっただろう。そこで、飯島マネは一種のゲリラ戦を仕掛けていく。地上波のテレビが無理ならと、ネットTVに出演させたり、YouTuberをやらせたり、アンチジャニーズ的な出版社の雑誌に登場させたり。また、ジャニーズ事務所が3人の活動に圧力をかけたかどうかをめぐり、公正取引委員会が介入したこともあり、公平性をモットーとするNHKでの仕事を開拓した。  こうしたゲリラ戦を可能にしたのは、彼女の高いメディア活用能力だ。もともと、ジャニーズ事務所にいたときからそこには定評があった。担当するタレントが掲載された雑誌や新聞をすべてチェックし、そのデータを資料化する。いつ、どの雑誌で、何を着て、どんな髪形で、何を話したか、それを綿密に把握することで、ファンから飽きられるのを防ぎ、次の戦略に生かすためだ。  また、この作業は彼女自身が世の流行を感知し、見誤らないという能力も高めた。何が使えてどこなら潜り込めるか、そんな嗅覚にたけているところが業界で一目置かれてきたゆえんだ。  もちろん、3人が長年、国民的アイドルとして活躍してきたことも大きい。そんな3人と彼女が組んでいるのだから、ジャニーズにも簡単には負けないだろうという見方も生まれ、サントリーのような大手企業のCMにもつながったのである。  年季が入っているのはファンも同じで、とにかく熱い。筆者がたまに3人の活動について好意的なツイートをすると、かなり拡散されたりもする。このまま消えさせてなるものかというファンの強い願いが、ゲリラ戦を支えたのだ。最近のインタビューで、稲垣もこう語っている。 「ファンの方との長い歴史の中で、思い合う気持ちや絆を改めて確認できた3年間でした」(週刊女性)  そうやって新しい地図が善戦しているうちに、ジャニーズの力もかつてほどではないのでは、という空気が漂い始めた。その変化を感じ取ったのか、中居が円満独立を実現。また、元NEWSの手越祐也は退所会見で「自分がやりたいアイデアが、ジャニーズにいたらスピード感が遅いし、なかなかかなわない」と事務所批判までしてみせたが、独立後もそれなりに元気だ。先日、哀川翔との共演CMが決まったことをインスタグラムで公表した。  そのジャニーズ事務所では、大きな新陳代謝が起きた。滝沢秀明の引退と副社長就任だ。ジャニー喜多川とメリー喜多川という創業ツートップから、何を引き継ぎ、何を変えるのか、興味深いところだが、彼の幹部転身はもろ刃の剣でもある。タッキー以降の世代はともかく、タッキー以前の世代にとってはやはり面白くなかったりするからだ。  先日の錦織一清、植草克秀の退所、あるいは長瀬智也の退所とTOKIOの事務所内独立には、これも関係しているのではないか。つまり、若すぎる後継者の誕生がベテランの流出をもたらし、地図にも影響を生じさせたのである。  ちなみに、最古参の近藤真彦が「マッチさん」として特別待遇を受けているように、ジャニーズには年功序列的なところがある。タッキー以前に舞台演出家として実績を作っていた錦織は、居場所を取られた気分だったろう。また、後継者候補と目されていた東山紀之も複雑な心境かもしれない。  ただ、これだけの事務所を引っ張っていくにはタレント兼任では難しい。その点、引退して裏方に徹するという滝沢の決断はなかなかのものだ。とはいえ、結果を出さないと、カリスマ性も求心力も生まれない。たとえば、今回のコロナ禍により、嵐の活動休止が来年まで延期されるのではという期待の声があがったが、そうなる気配は今のところない。その説得は、彼には荷が重いだろう。  というのも、滝沢は嵐の5人とほぼ同世代だし、櫻井翔とはかつて不仲もささやかれた関係だからだ。4年前「櫻井・有吉THE夜会」(TBS系)のなかで企画された「サシ飲み」ロケでは、こんなことを言われていた。 「俺はちょっとね、タッキーのことを斜めに見てたと思う」  Jr.の絶対的エースに対する嫉妬から、櫻井は距離を置いてしまっていたという。滝沢も「それは俺も感づいてたかもしれない」と振り返った。つまりはそういう意識をぶつけあう関係だったわけだ。今は立場が変わったとはいえ、経営者とタレントという関係に切り替えるのは容易ではない。  そういう意味で、滝沢が結果を出すとしたら、タッキー以降の世代をどんどんブレークさせることだろう。もともと、ジャニー喜多川のカリスマ性や求心力も、次々と人気アイドルを世に送り出すことから高まっていった。現役ジャニーズの若手にも、新しい地図のファンと同じくらい熱いファンがいる。彼らがツイッターなどで発する言葉からは、まだ見ぬ「推しの大ブレーク」を夢見ていることがひしひしと伝わってくるのだ。  滝沢がいつ、そういうものをみせられるのか。ジャニーズをめぐる「地図」はそれによってまた変化していくはずだ。(一部敬称略) ●宝泉薫(ほうせん・かおる)/1964年生まれ。早稲田大学第一文学部除籍後、ミニコミ誌『よい子の歌謡曲』発行人を経て『週刊明星』『宝島30』『テレビブロス』などに執筆する。著書に『平成の死 追悼は生きる糧』『平成「一発屋」見聞録』『文春ムック あのアイドルがなぜヌードに』など
宝泉薫
dot. 2020/09/25 11:30
内田樹「名刀を手にして思う 伝統工芸・芸能の継承には『旦那』が必要だ」
内田樹 内田樹
内田樹「名刀を手にして思う 伝統工芸・芸能の継承には『旦那』が必要だ」
哲学者 内田樹 ※写真はイメージ(gettyimages)  哲学者の内田樹さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、倫理的視点からアプローチします。 *  *  *  刀を手に入れた。居合の稽古用に真剣は一振り持っている。江戸時代の備前の刀である。美しく、穏やかな表情の刀で、楽しく稽古してきたが、急にある刀が欲しくなった。  能楽師の安田登さんたちが主催する「天籟(てんらい)能」という催しがあり、私も時々ゲストで舞台に上がっている。2年前にそこで「小鍛冶」という能が出た。刀匠三條小鍛冶宗近(さんじょうこかちむねちか)が刀を打つことを一条天皇に命じられるが、力のある相鎚がいない。困じ果てて稲荷明神に参詣すると、果たして御利益があって一夜狐の精霊が現れて相鎚を務め、無事に名剣「小狐丸」が打ち上がったという話である。  刀鍛冶(かたなかじ)の話なので専門家を呼んで話を伺おうと、川崎晶平さんという刀匠がゲストに呼ばれた。楽屋で川崎さんにご持参の刀を見せてもらった。鞘からすらりと抜いた刀身を見た途端に「垂涎」の状態になった。  私は元来物欲の希薄な人間なのだけれど、この時ばかりは物欲の虜となった。「これ、ください」とほとんど川崎さんの袖にすがりついたが、売約済みの作品だったので、「他の作品を見てください」と言われて、その場は引き下がった。しばらくして、ご招待状を受け取り、展示会で川崎さんの打った新刀を見てその場で購入を決めた。それから拵(こしら)えに1年半かかって、先日ようやく手元に届いた。  正直言って、私程度の武道家には身分不相応の名刀である。けれども、伝統工芸や伝統芸能には「旦那」というものが必要なのである。腕前はまず素人に毛が生えた程度だが、斯道(しどう)の玄人の仕事を見ると足が震える程度の鑑賞眼は具(そな)わっている。そういうレベルの人たちの厚い層が伝統の擁護と顕彰のためにはなくては済まされないのである。  能楽を習い始めた時「旦那芸」として稽古することに肚(はら)を決めた。玄人と見所の客の間にいて、至芸に嘆息をついてみせるのが旦那の主務である。落語「寝床」が描く通り、旦那は滑稽で時にはた迷惑な存在ではあるが、伝統が継承されるためにはなくてはならないものである。今多くの伝統文化が存亡の危機に瀕しているのは、決然として旦那たらんとする人がすっかり減ってしまったからである。 内田樹(うちだ・たつる)/1950年、東京都生まれ。思想家・武道家。東京大学文学部仏文科卒業。専門はフランス現代思想。神戸女学院大学名誉教授、京都精華大学客員教授、合気道凱風館館長。近著に『街場の天皇論』、主な著書は『直感は割と正しい 内田樹の大市民講座』『アジア辺境論 これが日本の生きる道』など多数 ※AERA 2020年9月28日号
内田樹
AERA 2020/09/23 07:00
秋からはじめるベランダ菜園!ビギナーも育てやすい、便利な葉野菜とは?
秋からはじめるベランダ菜園!ビギナーも育てやすい、便利な葉野菜とは?
「ウィズコロナ」で家庭菜園を楽しむ人が増えているそうです。なかでもベランダでできるプランター菜園は、都会暮らしの人やご高齢者・お子さんもお世話しやすく、自然が恋しいおうち時間にぴったり! 台風時には屋内に避難させることもできます。ちょっとお皿に彩りが欲しいとき、緑の栄養バランスを補いたいとき、お買い物に行かなくても新鮮な葉っぱがすぐ入手できる便利さといったら♪ …そこで今回は、ビギナーにも育てやすい秋冬の葉野菜をご紹介します。涼しく虫も少なくなるこの時期に、ぜひはじめてみませんか? 1枚添えるだけで!?写真に映える食卓の魔法/イタリアンパセリ、ルッコラ おうちで育てる葉っぱといえば、まずハーブを思い浮かべる方も多いのではないでしょうか。おもてなし時や、日々のごはんをSNSなどで共有したいとき、はらりと1枚のせるだけで、いつもの料理がおしゃれに変身! 見栄え・写真映えを一瞬で叶えてくれる魔法の葉っぱなのです。生命力が強くて育てやすいものが多く、清々しい香りにも癒されます。 これからの季節は、鉄分豊富で形も美しいイタリアンパセリや、ゴマのような風味とピリッとした辛みが魅力のルッコラなどがおすすめです。サラダはもちろん、幅広いお料理のトッピングに大活躍しますよ。プランター栽培のコツを詳しく知りたい!という方は、下記リンクもぜひチェックしてみてくださいね。 ※「失敗の少ないプランター選びと植え付け方法」はこちら /「イタリアンパセリ」の特徴や育て方のポイントはこちら /「ルッコラ」の特徴や育て方のポイントはこちら (『サカタのタネ』)ただのせてみただけなのに映え映えの一皿に… 自分で育ててモリモリ食べよう!食育にもおすすめ/コマツナ、リーフレタス プランター栽培の大きな魅力は、体に負担がかからないので高齢の方やお子さんもお世話しやすいこと。手軽に緑の栄養が摂れるので食事バランスが良くなり、時期によっては食費のたすけにもなります。野菜嫌いのお子さんも、成長していく様子を観察しながら自分がお世話して収穫した葉っぱなら、モリモリと食べちゃうのではないでしょうか。 コマツナはクセのない味で使い勝手のよい野菜ですが、じつは誰でも簡単に育てられる優れもの! 成長が早いので、2週間たった頃から間引きしながらおいしく食べられます。カルシウムや鉄分も豊富ですよ。また、フリルレタスもビギナーにおすすめです。苗から育てればより早く食べられ、中心の葉を残しておくと、そこからまた葉が伸びて繰り返し収穫できます。柔らかくボリュームのある葉っぱは、サラダなどの盛りつけを豊かにしてくれますよ。 ※「コマツナをプランターで育てよう」はこちら /「リーフレタスのプランター栽培」はこちら (『NHK らいふ』)間引きするそばから食べちゃいたいくらい可愛くて お鍋の食材がすぐ調達できるなんて♪いつもそこにある幸せ/シュンギク、ミズナ これから鍋物がおいしくなる季節ですね。ところがどういうわけか、お鍋に入れたい葉野菜が仕事帰りにはもう売り切れていたり、気候によりやたら高値になっていたりで「まあ今夜は入れなくてもいいか〜」となる事態もわりと多く発生しているようです。でもちょっと寂しい…そこで、欲しいものはおうちで育ててしまうのはいかがでしょうか。 独特の香味が魅力のシュンギクは、意外にも育てやすい葉野菜なのです。収穫したての葉っぱは、買ってきたものとは勢いがちがいます。とれたての生も絶品ですよ。またミズナも、その名の通りみずみずしいおいしさで、鍋物以外にもさまざまに重宝します。欲しいときに家から出ることなく新鮮食材が得られるなんて! その便利さ・贅沢さは、ベランダ菜園ならではですね。 ※「シュンギクの栽培のコツ」はこちら /「ミズナの栽培のコツ」はこちら (『アイリス ガーデニングドットコム』)大人のすき焼きにはやっぱり欠かせませんよね ウィズコロナの時代こそ、自然の恵みをいただいて元気に過ごしましょう いかがでしたか? おうちで生き生きと育つかわいい葉っぱたちが、コロナ禍の日々を癒してくれるかも♪ 寒さに向かうこれからの季節、自然の恵みをいただいて元気に過ごしたいですね。朝露や夕焼けを感じながら元気に育ってね
tenki.jp 2020/09/23 00:00
毒父に300万円せびられて結婚できない 45歳男性が「ダメ親」から離れられないワケ
毒父に300万円せびられて結婚できない 45歳男性が「ダメ親」から離れられないワケ
毒親に金を無心される子どもは少なくない。写真はイメージ(写真/PIXTA) 山下さんが父親にお金を振り込む際に送ったLINEのメッセージ(本人提供) 「幼いころは、自慢の父だったんです。でもいつからか、私に金をせびるようになってきて……。そんな父がいると知られたら彼女にもフラれるんじゃないかと不安で仕方ありません」  都内の物流倉庫に勤務する山下浩さん(仮名・45歳)は、実父(80)からの度重なる金の無心に頭を抱えている。  山下さんの両親は栃木県で不動産関連の会社を経営している。40年以上続く地元企業ながら、資金繰りはかなり厳しいようで「何度倒産しかけたかわからない」(山下さん)という状態が続いている。  だが、羽振りがよかった時期もある。バリっとスーツを着こなし、高級車を乗り回す父親の姿はとてもかっこよかったことを覚えている。  仕事一筋だった父親と接するのは月2回程度の外食。寂しさを感じたこともあったそうだが、母親からは「我慢しなさい」と言われ続けてきたという。母親も一緒に仕事をしていたため、年の離れた兄と2人で留守番をすることも多く、机の上に置かれた千円札が“食費”だった。 「冷蔵庫の中には昨晩の残り物が入っているので、それを食べて、金を浮かせました。それを駄菓子やゲーム代に充てていましたね」  家族が経済的に困ることはなかったが、その裏で、事業はあまりうまくいっていない様子だったという。高値で売れるはずの物件が売れなかったり、仲間と協力して進めるはずの事業が白紙になったりと、思い通りにならないことが多かったようだ。資金繰りのために銀行に必死に電話をかける母親の姿は今でも忘れられないと、山下さんは振り返る。そういう姿を見ていると、両親の仕事を継ぎたいとは思わなくなったという。  高校卒業後、地元の工場に就職した山下さんは、20歳の時に上京を決意する。その背景には、父親への嫌悪感があったようだ。 「父が取引先の女性と不倫していて、それが母にバレたんです。毎日のように夜中までケンカが続きました。昔はかっこよかった父のだらしない私生活を知ったら、すごく気持ち悪く思えてきました」  実家から逃げ出すように上京し、焦って就いた警備会社の仕事は激務だった。拘束時間も長く、身体的につらかったが“実家に戻らなくていい”と思うと頑張ることができた。  結局、不倫の件は父母で和解したようで、離婚に発展することはなかった。だが、山下さんの家庭観には大きな影響を与えたようだ。 「家族との思い出があまりないからか、家族を持つことの良さが分からなくて。それに一人でいるほうが楽だし、心地がいいと思うことが多いんです」  休日は、趣味のゲームや読書を楽しむという山下さん。あまりお金のかからない趣味ということもあり、気づけば40歳で500万円もたまっていた。 「月収20万前後の仕事を転々としてきた僕が、まさかこんな大金をためられると思いませんでした」  この貯金額で自信を持てるようになったこともあり、異性関係でも変化が訪れた。 「お恥ずかしながら、40歳まで女性との交際経験がありませんでした。そんな私に年下の恋人ができたんです」  出会いはオンラインゲームのオフ会。攻略ブログを運営していたブロガーに誘われて、珍しくオフ会へ足を運んでみたのだという。  人づきあいに慣れていなかったこともあり、オフ会への参加は不安だったが、共通の趣味を持つ仲間たちとの会合だったこともあり、その日は緊張せずに楽しめた。  そこで知り合った8歳下の女性と意気投合。オフ会後はオンラインゲーム内で交流し、距離を縮めていった。出会って1年で交際、そして現在も恋人関係は続いている。  そして、そろそろ結婚を前提とした同棲をスタートしようという話を彼女としていたとき、実家の父親から連絡が入ったという。 「『高く売れる土地があるが、今は手元に金がない。まとまった金を貸してほしい』という相談でした。実は父から金を貸してくれと言われるのは、これで3回目なんです」  話は7年前の正月にさかのぼる。実家を出た後も山下さんは年末年始だけは帰省していた。家族同士の会話で、なぜか山下さんの貯蓄の話になったのだが、酒を飲んでいたこともあり、ポロっと当時の貯金額を話してしまったという。  そこから半年後に100万円、3年前に200万円もの金を父親から無心されたという。毎回、その理由は土地の購入。そして今回が3回目となり、今度は300万円と値がつり上がっていた。  幸いにも、過去2回とも貸したお金は返ってきたものの、回数を重ねるごとに金額が大きくなっていること、そして大切にしたい女性ができたこともあり、もう貸せないと話そうとしていたのだが……。 「母から電話が来て、『お父さんにお金を貸してあげて。仕事が生きがいの人なの。だから助けてあげて』と言われてしまったんです」  自分の判断に自信が持てず、インターネットの掲示板で似たような相談を調べてみると、『絶対に貸すな』というアドバイスが並んでいた。 「確かにその通りですよね。私も貸したくはありません。でもきっと、父の話は私がお金を貸す前提で動いている仕事なんだろうと思うと、突き放すことはできなかったんです。当事者になると、キッパリとイヤだ!とはいえないものです……」  悩みに悩んだ揚げ句、山下さんは父親に300万円を貸すことを決めた。 「わずかに貯金も残っているので、同棲資金は問題ありません。しかしこの件はまだ彼女には話せていません。父からは今年の11月末にお金が返ってくると言われていますが、やはり不安です」  父親との件を彼女に話すべきかどうか。しかし、こんな大金を無心してくる父親がいると知ったら、彼女に別れを切り出されてしまうのではないか。そうした不安から、今でも言えずに結婚にも踏み切れないという。  第三者からすれば『貸さなければいい』と思うかもしれないが、親を簡単に見限れないところもまた、親子関係の悩ましいところだ。  そして、もし結婚となれば親も無関係ではいられない。これからも金をせびってくる可能性がある父親の存在が、彼女との結婚を望む山下さんを苦しめている。  親にとって“できた子”であっても、それが自分の幸せになるとは限らない。いつかは山下さんが「親離れ」をして、彼女との幸せだけを考えられる日がくることを願うばかりだ。(取材・文=吉田みく)
dot. 2020/09/22 17:00
アイヌの自然観に重ね合わせて写した、人と自然が共存する姿
米倉昭仁 米倉昭仁
アイヌの自然観に重ね合わせて写した、人と自然が共存する姿
キヤノンEOS R・EF100-400mm F4.5-5.6L IS II USM・ISO100・絞りf11・1/8000(撮影:中西敏貴 以下同) 写真家・中西敏貴さんの作品展「Kamuy」が9月19日から東京・品川のキヤノンギャラリー Sで開催される。中西さんに話を聞いた。  今回の展示作について、「目に見えないものを写しとりたかった」という中西さんの言葉を聞いたとき、アラスカの大地にすっくと立つ星野道夫(※)の姿が脳裏に浮かんだ。  目に見えないものは写らない。しかし星野は、目の前にあって見えるものだけではなく、さらに自然の奥深くまで踏み込んだところにある、もう一つの真実を写真でどう表現するかを真剣に考えていた。「大切なことは、目に見えないからね」。いつも、そう言っていたという。  興味深いのは星野の代表作『Alaska 風のような物語』に先住民族がたびたび登場することだ。例えば、当時112歳だったアサバスカンインディアン、ウォルター・ノースウェイの表情を間近から撮影し、こう書いている。 〈ウォルターは村の守り神のような存在だった。全生涯を森の狩猟生活に生きた。その手を握った時、しわだらけの皮膚の感覚が僕の手に残った〉(週刊朝日1989年3月31日号)  一方、中西さんの作品はタイトルこそアイヌ語の「Kamuy(カムイ)」だが、写真には北海道の先住民族アイヌの姿はまったく現れない。写したかったのは彼らの暮らしや祭りではなく、自然に対する意識だという。その象徴がカムイなのだという。 移住したころは「この土地のほんとうのよさが見えていなかった」  中西さんが北海道美瑛町に撮影の拠点を構えたのは2012年。18年間の公務員生活にピリオドを打ってのプロデビューだった。そのとき、妻はこう言った。 「2年の間に家族4人が食べられる稼ぎになったら私たちもついて行く」  妻と2人の子どもを故郷の大阪に残しての移住。文字どおり、背水の陣だった。 「ずっとここに通って撮ってきて、もう、ここ以外の場所で作品をつくっていくことは考えられなかった」と、中西さんは当時を振り返る。 キヤノンEOS R・EF100-400mm F4.5-5.6L IS II USM・ISO100・絞りf22・1/10  あれから8年。大きく変わったのは自然を見る視点だと言う。 「大阪から通って撮っていたころは、完全に自然を外から見ている感覚だった。でも、いまはその中に入って、内側から見ている。自分も自然の一部だという感覚が強くなってきた」  特にここ1、2年は、それをどう表現するか、自問してきた。 「自然はぼくらが生まれるずっと前からただそこにある。語りはしない。気配だけが漂っている。それを拾い集めてビジュアル化するのがぼくら写真家の仕事だな、と」  移住したころは「既存の風景写真のイメージに引っ張られすぎていた。この土地のほんとうのよさが見えていなかった」と言う。  最近は「自然の中で目に見えないけれど、ビシビシと感じる気配って何だろうと考えるようなった。例えばクマの気配だったり、風の気配。ひょっとしたら、それはアイヌの人たちがカムイと呼んでいたものに通じるんじゃないか、と思い始めた」。  アイヌにとってのカムイとは、さまざまな役割を果たすために、自然や物に姿を変えて人間の世界に存在するものという。例えば、アイヌ語でヒグマのことを「キムン・カムイ」、ヤナギは「シュシュ・カムイ」、風は「レラ・カムイ」という。  人間とカムイは相互に支え合う存在であり、この2つが合わさって自然をつくり出している。なので、人間は自然の一部に過ぎない。中西さんはアイヌの人々が感じてきた自然というものが「カムイ」という言葉に集約されているように思えた。 キヤノンEOS R・RF28-70mm F2 L USM・ISO400・絞り開放・1/1250 自然の猛威に逆らわず、それを受け入れ、生きてきた人々  昨年秋、私が中西さんのフィールドを訪ねた際、十勝岳に案内された。ハイマツの生い茂る登山口から30分ほど歩くと、硫黄の混じった岩がむき出しになり、目の前を噴煙が流れた。爆発的な噴火によって山の斜面が大きくえぐられた安政火口だ。 「なぜ、ここに来たかというと、全部ここから大地が始まっているから。この大地に暮らす人の原点なんです」  流れ出した溶岩は冷えて固まり、そこに降った雨や雪はやがて地表に流れ出て飲み水となり、野菜を育てる。それが人々の暮らしを支えてきた。 「全部つながっているんです。ここに移り住んだ自分とも。いま、ぼくたちがここで目にしているのは人と自然との共存の風景なんです」  2年ほど前から美瑛や富良野の成り立ちを撮り進めていくうちに、次第にこの土地やそこで暮らす人々との関わり合いに目が向くようになった。 「火山の噴火や土石流。大雪や猛吹雪。それを前にして、じたばたしても仕方ないな、という自然観。ここに住んでいると、人間の力が及ばない、やっぱり、自然ってすごいな、ということを身近に体験するんです」  自然の猛威に逆らわず、それを受け入れ、風になびくヤナギのように柔軟にたくましく生きてきた人々。その象徴がこの土地で悠久の時を刻んできたアイヌだった。 「アイヌにとっての3大神は火、水、森の神。これは、ぼくたち自然をモチーフにしている写真家にとっても基本なんです。火は火山、水は川や滝。それらが森につながっている。それで、この3つを軸に今回の写真展を組もうと決めたんです」 キヤノンEOS R・EF100-400mm F4.5-5.6L IS II USM・ISO100・絞りf8・1/3200 写真って「うそをつける」ところも好き  展覧会場を入るとすぐ目の前に大きなモノクロ写真が現れる。火をイメージした、あの安政火口だ。 「今回の展示は原始のイメージなのでモノクロ写真を多用しています。カラーだと色が邪魔するシーンって、けっこうあるんです」  一方、「写真って『うそをつける』ところも好きなので」、風景を風景としてとらえるのではなく、何か別のイメージが立ち上がるような作品にしたいという思いもある。宇宙から見た地球の夜明けのような雪原の写真。枝が折れた木の幹は、噴火口を上空から俯瞰したようにも、女性の胸のようにも見える。  さらには、毛細血管のような地衣類、皮膚のはがれた人間の肌のような地表、と不気味な写真もある。その背景にはいまも進行中のコロナ禍がある。 「実は写真展のタイトルを決めたのは今年3月なんです。自粛が始まり、世の中が劇的に変わっていった。最初はそれをものすごくネガティブに考えていた。でも、時間ができたのでアイヌの文献を読み漁っていたら、疫病のこともカムイと呼んでいたことを知ったんです。そこに新型コロナに苦しむ現代人が学ぶべきところがあるんじゃないか、ということをすごく感じた。それを自然写真で描きたいと思った。コロナのおかげですごく思考が深まりました」 新型コロナの時代にあらわになったものを描きたい  会場には2017年から最近まで撮影した38枚の作品を展示する。ちなみに今年撮影した18枚のうち、コロナ期に撮影した写真は14枚もある。昔の写真がどんどんセレクトから外れていった。 「思考が変化したことが大きいです。カムイが私たちにもう一度自然を見つめ直せ、自分たちの暮らしはほんとうにこのままでいいのか、問いかけている。自然の不思議さや神秘性だけでなく、恐ろしさというのがこのコロナの時代にあらわになった。それを描かないといけないな、という思いが強くて、タイトルをカムイにしたんです」  写真展は火山から始まり、水や森につながり、宇宙的なイメージで終わる。壮大な話ではあるが、その根本は人と自然が共存するあるべき姿を、アイヌの人たちが感じてきたであろう自然観を写真で描くことで触れたい、ということにある。 「それをいまの自分たちの生き方にフィードバックできるんじゃないか、というのがテーマなんです」                   (文・アサヒカメラ 米倉昭仁) ※ 星野道夫はアラスカを舞台に活躍した動物写真家。1996年、ヒグマに襲われて亡くなった。 【MEMO】中西敏貴写真展「Kamuy」 キヤノンギャラリー S(東京・品川) 9月19日~10月31日。写真集「カムイ」(玄光社、3200円+税)も先行発売する。
アサヒカメラキヤノン風景写真
dot. 2020/09/17 17:00
夫が不倫相手と「妻との思い出の店」に行ったことが発覚。そのとき妻は…
西澤寿樹 西澤寿樹
夫が不倫相手と「妻との思い出の店」に行ったことが発覚。そのとき妻は…
写真はイメージです(GettyImages)  カップルカウンセラーの西澤寿樹さんが夫婦間で起きがちな問題を紐解く本連載。夫が不倫相手と「妻との思い出の店」に行ったことが発覚してショックを受けた妻。カウンセリングを受けた夫婦の言動から浮かび上がる「心理」とは? *  *  *  不倫が発覚したご夫婦のケースをお聞きしていると、不倫されたこと自体がショックで傷つくことであるのはもちろんなのですが、そのエピソードのなかに、 ・一緒に行った「思い心の店」に不倫相手と行った。 ・一緒に行こうと話をしていたリゾートに不倫相手と行った。 ・自分たちが一緒にドライブに行った車に不倫相手を乗せた。  というのが、とげのように引っ掛かっていることが少なくありません。 「私はそんな高級な店に連れて行ってもらったことがない」という話もたまにありますが、それよりも「思い出の店」のエピソードの方が圧倒的に多いのです。値段よりも、思い出、つまり二人で一緒に行った「二人の店」という意味の方が重いのです。  そもそも、何故どこの店に行ったかがわかるかというと、多くの場合は、不倫相手とどこでどうしたのかを詳細に聞きたくなって、問い詰める方が多いからです。  不倫された繭子さん(仮名、団体職員、40代)も「真実」を知りたいという気持ちに突き動かされて、夫の勝也さん(仮名、エンジニア、40代)に、二人に何があったのかを洗いざらい話すことを求めました。最初は口をつぐんでいてた夫の勝也さんも、いつになっても収まらない繭子さんの激しい気持ちの動転と強い懇願、そして連日連夜続く追及から、言って繭子さんが楽になるなら……と出来事を小出しに語りだしました。  しかし、事実を言えば、それで納得してもらえるわけもなく、一つ言えばそれを足掛かりにさらに厳しく問いただされ、新たに知った事実で繭子さんはまた傷つき、さらに問い詰めるという形で、状況が悪化し、泥沼にはまってしまいました。  この話のジレンマは、事実を言わなければ、繭子さんは勝也さんと不倫相手の間には、繭子さんが知り得ない秘密がある(=勝也さんにとって、繭子さんよりも大切な関係がある)ということになり、事実を言えば、勝也さんが繭子さんとの思い出のなかに不倫相手を連れ込んだ(=繭子さんとの関係よりも不倫相手を選んだ)ということになります。どちらにしても、繭子さんからみて、勝也さんは繭子さんよりも不倫相手を大事にした、という「意味」に解釈され、繭子さんが傷つくことです。  ここで、勝也さんがどんなに「そんなことはない」と力説しても、繭子さんが「そうだったのか、私のほうが大事だったんだ」となることはまずありません。  なかでも特に大きな問題になってしまったのは、勝也さんは、繭子さんにプロポーズした店に不倫相手と行っていたことを知ってしまったことでした。それ以後、繭子さんは、勝也さんと不倫相手がその店で楽しそうにしている夢を見たり、フラッシュバック(といっても、実際には経験していないことですから想像ですが)が起こったりして、仕事に行くのも困難になってしまいました。 相手に「理解」してもらえば解決する? 「こうすれば、このスパイラルから簡単に抜けられるたった一つの方法」というようなうまい方法は私には思い当たりませんが、うまくいかないやり方や考え方はあります。その筆頭は、繭子さんに「理解」してもらえば問題が解決するという考えです。  勝也さんは、「繭子さんを一番愛している」と繭子さんが納得してくれないと、繭子さんは離婚へと気持ちが動いてしまうのではないか、と思っています。そうなると、自分の愛情を繭子さんに「理解」してもらうために一生懸命説明し、場合によっては若干ウソをついてでも、うまいことを言いたくなります。小さいウソを言ってあとでバレて泥沼にはまる人は、無意識にここをすごく頑張ってしまう人です。  しかし、その努力はあまりうまくいっていません。私の理解では、それよりも、不倫相手とどこに行ったか、何をしたかを聞きたくなる繭子さんの心理こそが重要なポイントです。  繭子さんとお話しした感じでは、繭子さんは「自分が勝也さんにとって一番の存在である」という大前提が崩れてしまったショックと傷つきはもちろんあるのですが、同時に心のどこかには、自分が勝也さんにとって今も一番の存在であることを確かめたい(=それが信じられれば勝也さんと今後もやっていける(=勝也さんと今後も一緒にやっていきたい))、という気持ちがあるように思えました。  別の言い方をすれば、自分と不倫相手との間にある決定的な違いを見つけたくて勝也さんを問い詰めるのですが、聞けば聞くほど違いがないことがはっきりし、隠されても傷つき、結果的に自分より不倫相手のほうが大事なんではないかという疑念から抜けられなくなって傷つき続けてしまっているわけです。  私が想像した繭子さんの気持ちをお二人の前で話してみました。繭子さんは、少し間をおいてこうおっしゃいました。 「そうかもしれません……私、私を裏切った人だけど、勝也と生きていきたいのだと思います」  勝也さんはとてもびっくりされたようですが、先行きに光が見えたのか顔が明るくなり、 「私も、繭子と一緒にやっていきたいので、その言葉はすごくうれしいです。やってしまった過ちをどうやって償ったらいいか今はまだわかりませんけど、一生かけてでも償い続けて一緒にやっていきたいと思います。」  とおっしゃいました。  私は繭子さんに「こういうこと言われるから、本当の気持ちを言いたくないのですよね」と確認すると、繭子さんはちょっと笑いながら、こうおっしゃいました。 「あ、そうなんですね。今気づきました」  勝也さんは、繭子さんの勝也さんの言動に一喜一憂しているだけです。一番失いたくない人だからこそ、その言動に一喜一憂するのは理解できるところではありますが、勝也さんの言動に意識が集中すると「だったら、最初から不倫なんかするな」という正論の話になり、話が行き詰まってしまいます。  そもそも繭子さんが勝也さんと一緒にやっていきたい気持ちは、傷ついた気持ちの渦中では意識しにくいかもしれませんが最初からあるはずです。なければカウンセリングにもおいでにならないはずですし、徹夜で問い詰めたりしないはずです。 夫婦だから「つらいことは半分に」は本当?  しかし、一緒にやっていきたい気持ちがある、ということに焦点が当たってしまうと、「だったら、過去のことは忘れて(水に流して)、前に進むしかないじゃないか」という、これまた一見、正論の考えの圧力が繭子さんの中で高まってしまいます。  忘れたり、水に流すことができるなら、繭子さんはこんなに苦しまないはずなので、それは現実にはできないことなのです。忘れることはできない、一方、勝也さんをあきらめることもできない、それこそが繭子さんが一番苦しいポイントなのです。  苦しんでいる繭子さんにしてあげたいことは何でしょうか? 「少しでも、気持ちが和らぐようにしてあげたい」  と勝也さんは言いました。 「お店」自体が絶対的に重要なのではなくて、「デートで行った」という二人にとっての意味づけが大事なように、繭子さんの苦しみに対して具体的に何をするか以前に、そのことがどういう意味づけに受け取られるかがのほうが大事です。  勝也さんが言った「少しでも、気持ちが和らぐようにしてあげたい」というのは、一見いい話ですが、繭子さんの気持ちを楽にして、自分も楽になりたいという気持ちが透けて見える気がします。そこまで悪く捉えなくても、少なくとも勝也さんの気持ちをコントロールしたいように見えます。 「つらいことは半分に、楽しいことうれしいことは2倍に」という結婚式の定番のスピーチがありますが、私はちょっと違う気がします。楽しいことを共有するのは比較的容易ですし、共有に失敗してもそれほどのダメージがありません。より共有しにくいものを共有する関係が特別な関係です。つまり、共有しにくいつらいことも共有して2倍にするのが、自分が相手にとって特別な存在であるという証だと思うのです。  もちろん、つらい時間を共有するというのは、繭子さん勝也さん夫婦が陥ってしまったように傷つけ合うことではありません。繭子さんのつらい気持ちの構図を理解し、どうしようもない気持ちと状況に一緒に浸ってみることです。  一緒に浸るというのは、説明が難しいのですが、3ステップの例で説明してみます。  例えば、コロナ禍で夫婦で外出禁止になったことを想像してみてください。「つらいね」と言い合うのは比較的容易だと思います。第2段階は、自分は外出禁止ではないけど、相手は外出禁止という状況で、同じような気持ちで「つらいね」という感じです。第3段階は、相手だけが自分のせいで(例えば、自分の不注意で相手がコロナに感染してしまった)で、第1段階と同じような気持ちで、「つらいね」ということです。  多くの人は第3段階は抵抗があって言えないか、「つらいね」と口では言うものの、第1段階とは違う意識で言います。  それほどに、つらさを共有するのは難しいのですが、それをしてくれる関係だからこそ、自分が特別な存在なのだという意味が形成されるのだと思います。(文=西澤寿樹) ※事例は実例をもとに再構成しています。
男と女不倫夫婦西澤寿樹
dot. 2020/09/15 08:00
「いつでもどこでも働ける」ヤフーが働き方の自由化を実現 仕事の「質」にも好影響
渡辺豪 渡辺豪
「いつでもどこでも働ける」ヤフーが働き方の自由化を実現 仕事の「質」にも好影響
95%が在宅のため平日の日中もほとんど人が通らないヤフーの本社エントランス。在宅化で仕事の効率も向上したという/東京都千代田区(撮影/写真部・張溢文) ヤフーで働き方改革を進める湯川高康執行役員。同社の新制度がコロナ後の「ニューノーマル」になるかもしれない(写真:ヤフー提供)  コロナ後のオフィスが、働き方がどうなるのかを、ヤフーの新制度が示した。好きな土地に住み、好きな時間に好きな場所で働く。AERA 2020年9月14日号で、実現できた背景を幹部が語る。 *  *  *  ヤフーが、働き方の「自由化」を加速させている。従業員が始業と終業のタイミングを自ら決められるフレックスタイムを導入している企業でも、1日の中でオフィスにいるよう推奨する「コアタイム」という時間帯を設けていることが多いが、ヤフーは10月から、「1カ月間の労働時間さえ満たせば、早朝・深夜以外なら何時から何時の間で働いてもOK」「リモートワークは回数無制限」という新制度に踏み切る。  全国の正社員、契約社員、嘱託社員計7100人余が対象だ。まさに「いつでもどこでも、自分の好きなように働ける」という、日本企業ではかなり珍しい勤務体系になる。ヤフーの働き方改革を進めてきた執行役員の湯川高康さんは、アエラのインタビューにこう打ち明けた。 「オフィスに通勤して仕事をするものだと、私たちは長年、何の疑いも持っていませんでした。しかし、これまで当たり前だと思っていたものが、そうではないことに今回気づかされたのは大きな衝撃でした」 ■9割が効率維持か向上  ヤフーは2014年からオフィス以外の好きな場所で働ける「どこでもオフィス」という制度を始めるなど、コロナ禍以前からリモートワークを積極的に採り入れてきた。背景にあったのは、当時進めていた企業としての大転換だ。  ヤフーはインターネット上の広告が大きな収益源。だが当時、ネットの主役はヤフーが得意としていたパソコンからスマートフォンへと急激に移行し、ヤフーの収益にも陰りが見え始めていた。そこで当時の宮坂学社長が「スマートフォンファースト」という大方針を打ち出し、業態をスマホ中心へと大きく転換させた。  パソコンに縛られず、スマホやタブレットを手にオフィスを飛び出す──。それは当時のヤフーにとって自然な流れだった。月2日でスタートした「どこでもオフィス」は17年7月から月5日に拡大。そこにコロナ禍が起こり、2月から一気にリモートワークの制限を解除した。  湯川さんは「今のところ、全面リモートに切り替えてネガティブな要素はない、というのが実感です」と話す。  緊急事態宣言の解除後も95%が在宅勤務を続けている同社が4~6月に行った社内アンケートによると、9割以上が「リモート環境で自身や部下のパフォーマンスへの影響がなかった」もしくは「向上した」と回答。しかも、向上したとの回答は日を追うごとに増加しているという。また、「生産性高く働くために必要なオフィス出社日数」を聞いたところ、「週1~2回」が最も多く(6月調査で59%)、次いで週0回(同26%)だった。 「ペーパーレス化を進めつつ、総務など捺印による決裁が必要な部署は週1回まとめてやればいい。ものづくり系の部署は同僚とのコミュニケーションは週1、2回、対面で企画の打ち合わせをすれば十分ということのようです」(湯川さん)  効率アップは会議にもあらわれている。全員がオンラインとなったことで、「オンライン会議は発言しづらい」「参加しづらい」といった壁が取り払われ、不必要な会議は絞られるように。さらにかつては目立った会議への遅刻も大幅に減ったという。湯川さんは、 「会議での無駄話が減ったことについては判断の良しあしがあり、コミュニケーションが不足しているのでは、との声も聞かれますが、会議自体の最適化はオンライン化によってかなり実現できている、と感じています」  と手応えを語る。 ■海で山で創造的な仕事  湯川さんは、仕事の「質」にも好影響を感じているという。 「自分の好きな場所で働いていいんだ、『海でも山でもどこでもオフィスだ』と社内でよく言ってきました。各人が一番仕事のパフォーマンスを発揮できる場所を主体的に見つけ、よりイノベーティブな環境の中で新しいものづくりをしてほしい、というのが主眼です」  コロナ禍の中では原則自宅勤務のため、野放図に「海でも山でも」というわけにはいかないが、これは政府が推奨するワーケーションを先取りした発想ともいえる。  仕事の効率化だけではない。通勤時間がなくなり、家族と過ごせる時間が増え、ワーク・ライフ・バランスも充実している、との声も日を追うごとに多くなった。湯川さんは「とりわけ新入社員が社内のつながりやネットワークをどう築いていくかなど、人間関係への影響がどれくらいあるのかを把握するのは今後の課題です」と話す。  一方で、ヤフーの仕組みは完全な在宅勤務や、オフィスの撤廃とは異なる。コロナ禍の今は出勤を制限しているが、本来はオフィスでも自宅でもお気に入りのカフェでも、自分が最も創造性を発揮できる場所で自由自在に働けるのが制度の趣旨だ。このため、全社員が共通して行う仕事の場はオフィスからオンライン上に移行していく、というわけだ。(編集部・渡辺豪) ※AERA 2020年9月14日号
企業働き方
AERA 2020/09/13 09:00
五十肩と思ったら…実は「糖尿病」が原因も?
五十肩と思ったら…実は「糖尿病」が原因も?
肩の可動域を調べる診察をする菅谷啓之医師 (提供/菅谷医師) 肩痛を引き起こす主な病気 (週刊朝日2020年9月18日号より)  腕を上げようとすると肩に強い痛みが走り、それ以上は上がらない。そんな症状のある中高年の多くは、「五十肩だ」と決めつけてはいないだろうか。たしかに肩痛といえば、五十肩は最も典型的な病気かもしれないが、痛みの原因はそれだけに限らない。別の病気が潜んでいる可能性がある。  五十肩とはどんな病気なのか。肩と肘(ひじ)の疾患に詳しい、こん整形外科クリニック(新潟市)院長の近良明医師は、「五十肩には広い意味と狭い意味がある」とした上で、こう説明する。 「50歳前後の人の肩痛や肩の動きにくさの総称が、広義の五十肩。狭義の五十肩は“ケガや病気などのきっかけがなく、腕が上がらなくなった状態”です」  この状態を四十肩と呼ぶ人もいるが、それは間違いで、40代でも、五十肩という。  五十肩の原因は不明で、老化と一言で片付けることはできない。だが、次のようなメカニズムで起こることはわかっている。  肩関節は、ボール状の上腕骨頭にカップ状の肩甲骨がかぶさっている関節だ。その周囲を関節包という靱帯(じんたい)が覆っている。本来なら、この上腕骨頭と肩甲骨との間に、少し空間があるが、何らかのきっかけで関節包がぎゅっと縮んでしまうと動きが制限され、無理に動かそうとすると痛みが生じる。日中より夜間に痛くなることが多い。  どういう人がなりやすいかはよくわかっておらず、利き手と関係なく起こる。日々、運動をしているから大丈夫、というわけでもなさそうだ。もう一つ言えそうなのは、姿勢が悪い人がなりやすい傾向があるということ。猫背の人は要注意だ。  五十肩の診断では、問診(最近、転んで手をついたか、など)と、肩をいろいろな方向に動かして可動域をみる触診が重要で、必要に応じて超音波検査やX線検査などの画像検査を行う。  五十肩は放っておいても自然に治る。治療が必要なのは、痛みなどで日常生活に支障が出たときなどだ。  治療は段階によって異なる。近医師によると、炎症による痛みが強くどんどん硬く固まっていく「拘縮(こうしゅく)期」と、炎症は治まったが関節が固まって動かなくなった「慢性期」、少しずつ動きが戻る「回復期」がある。  拘縮期は、動かさず安静にしているのが大原則。痛みが強ければ、ステロイドを肩関節に注射して痛みを止める。一般的な痛み止め(非ステロイド性抗炎症薬)は効きにくい。実は、近医師が指摘する、五十肩でもっとも多い誤解は、「痛くても肩を動かしたほうがいい」だ。 「ぎっくり腰だと安静にするのに、なぜか肩に関しては、“痛くても動かしたほうがいい”と、肩をグルグル回そうとする患者さんがとても多い(笑)。炎症が広がり、かえって症状を悪化させてしまいます。拘縮期は動かさないのが正解です」  反対に、リハビリが必要なのが慢性期。ここで頑張るかどうかで、早く回復できるかが決まる。  慢性期の治療で近医師が注目しているのが、「サイレント・マニピュレーション」という手技。肩から腕につながる神経にブロック麻酔をし、痛みをとった状態で腕を動かす。 「固まった関節を無理に動かすので、靱帯が切れてバリバリという音がしますが、心配ありません。治療後、麻酔が切れると痛くなるので、それを予防するために、肩関節にステロイドを注射します」  サイレント・マニピュレーションは、ゆっくりと可動域を広げていくリハビリより、治療期間が短くてすむという利点がある。仕事や介護などで早く改善したい人や、リハビリをやっても効果が出ない人に向いている。なお、この治療はどこの医療機関でも受けられるわけではないので、ホームページなどで確認を。  注意したいのは、「自分は五十肩だ」と思い込んでいるケース。意外と肩痛を起こす肩の病気は多く、自己診断は禁物だ。  近医師が指摘する。 「転んで手をついたなど、ケガによって関節が硬くなる『外傷性肩関節拘縮』や、糖尿病が原因となって起こる『糖尿病性肩関節拘縮』などは、五十肩に似た症状になります。特に糖尿病性の場合は、関節のリハビリだけでなく、血糖コントロールも必要になります」  東京スポーツ&整形外科クリニック(東京都豊島区)院長の菅谷啓之医師も、最近気になっている中高年の肩痛があるという。  それは、運動不足の中高年が一念発起し、いきなりジムでベンチプレスをしたり、ヨガでポーズをとったりしたときに「ピキッ」とくる、あの肩痛だ。菅谷医師によると、この原因は「体の硬さ」にある。 「実は、腕を動かすときには、肩関節だけでなく、肩甲骨や肋骨(ろっこつ)の関節、胸骨などの関節も一緒に動いています。ところが、加齢や運動不足の影響でこれらの関節が硬く、動きにくくなってくると、肩の関節だけで腕を動かさなければならなくなります」(菅谷医師)  その結果、無理な体位をとったり、負荷をかけたりすると肩関節にかかるストレスが大きくなり、腱が切れるなどして痛みが出るというわけだ。  こうした肩痛では、肩関節だけ治してもダメで、肩甲骨や肋骨にある関節に柔軟性をもたせる根本的な改善が必要。菅谷医師は「理学療法士やトレーナーによるリハビリが有効です」と話す。 「習ったリハビリは、自宅で実践することが大事。ホームエクササイズを続けていけば、肩や背中まわりの関節が柔らかくなるので、肩関節にかかるストレスを減らしながら腕を動かせるようになります。正しい体の使い方ができるようになれば、ジムやヨガでのケガの予防にもなります」(同)  他にも、五十肩に似た肩トラブルでは、石灰沈着性腱板炎やインピンジメント症候群、腱板断裂などが挙げられる。これらも基本的にはリハビリが有効で、強い痛みがあるときは、肩関節にステロイドを注射する。手術が必要になるのは、全体の2割程度だという。  手術は、肩の周囲を2、3カ所切開し、関節鏡という内視鏡を挿入して行う手法が主流。傷が小さくてすむため、正常な組織を傷つけにくく、手術後の痛みが少ないのがメリットだ。また、生理食塩水を流しながら手術をするので、感染のリスクも減らせる。  肩関節の病気の診断や手術はむずかしく、経験と技術が要求される。肩や肘を専門にしている整形外科医を受診するのが望ましい。 「問診と触診などの診察と画像診断で正しい診断をしてくれる医師のもとで、その診断のもとにリハビリなのか、手術なのか治療方針を決めてもらうこと。これが、肩トラブルを改善するための近道です」(同) (本誌・山内リカ) ※週刊朝日  2020年9月18日号より抜粋
週刊朝日 2020/09/10 17:00
【現代の肖像】HIROTSUバイオサイエンス社長・広津崇亮「『線虫がん検査』を広めたい 」<AERA連載>
【現代の肖像】HIROTSUバイオサイエンス社長・広津崇亮「『線虫がん検査』を広めたい 」<AERA連載>
時折、いたずらな目で笑う。創業メンバーは言う。「広津は、夢を実現する近道は何?と。それしか考えていない」(撮影/伊ケ崎忍) 今年1月、広津は稼働を始めた「N-NOSE」の検査センター(東京都日野市)を視察。室内には、検査の処理能力を高めるために導入された自動解析装置が並ぶ。この日、部屋の一角では、新人研修も行われていた(撮影/伊ケ崎忍) いざ起業に踏み出してみたら、「自分に向いている世界があった」と実感。「『起業なんて、思い切った』と言われるけれど、同じ人生を何度歩んだとしても、岐路に立ち、同じ決断をしたと思う」(撮影/伊ケ崎忍) 経営書の類いは読まず、「常に、教科書に書かれていない方法を探す」。研究も、経営も、「大きく育てられるポイントはここ」と見定める「嗅覚」が大事だという(撮影/伊ケ崎忍) ※本記事のURLは「AERA dot.メルマガ」会員限定でお送りしております。SNSなどへの公開はお控えください。  今年1月、これまでとはまったく違う新しいがん検査が実用化し、大きな話題となった。それは「線虫」を使った検査。線虫はがんにかかった人の尿には寄っていき、かかっていない人の尿からは離れていく。線虫の行動を利用して、がんの有無を見分ける。実用化にこぎつけた広津崇亮は、線虫の研究者でもある。金儲けのためではない。もっと技術を広めたいのだと力をこめる。  今年1月、広津崇亮(ひろつ・たかあき 47)が社長を務める東京都港区の「HIROTSUバイオサイエンス」は、世界初の“線虫がん検査”である「N-NOSE(エヌ・ノーズ)」を実用化した。  それは、「線虫」を使う検査。体長約1ミリの、ニョロニョロとうごめく「C.elegans(シーエレガンス)」という名の線虫である。  検査方法は、実にシンプルだ。尿1滴をシャーレに垂らし、線虫を置くと、がんである人の尿だと、寄っていく。がんではない人の尿だと、離れていく――。これは、好きな匂いに寄っていく「誘引行動」と、嫌いな匂いから逃げる「忌避行動」という、線虫特有の行動を生かして、がんの有無を見分ける検査なのだ。今のところ、胃、大腸、肺、乳、膵臓(すいぞう)、肝臓、子宮、前立腺など、15種のがんの人の尿に反応するとわかっている。  精度も高い。約3千例を解析した2019年12月末の段階で、がんである人をがんだと判定する「感度」は82・9%。がんでない人をがんではないと判定する「特異度」は85・5%。がんのステージ(病期)ごとの感度は、ステージ0、1という早期の段階で87%と、良好な結果が得られている。 「常識に囚(とら)われず、がん検査の仕組みや、人々のがんに対する意識そのものを変えたい」  こう話す広津は、線虫検査を、がんの早期発見につなげる「1次スクリーニング検査」と位置づける。受けた結果、がんのリスクが高いと判定された人が、2次スクリーニング検査として「5大がん検診」を受け、がん種を特定する。そんな検査の流れを新たに作りたいのだと言う。 ■9800円でがん検査、1年以上の予約待ち状態 「日本人の5大がん検診の受診率は4割程度なんですね。受けない理由の筆頭は、忙しいからだと。入り口に『拾い出し』のスクリーニング検査があれば、早い段階でがんのリスクが高いとわかる。そうすれば、みんなが検診を受けようとする動機になるかもしれないと思ったんですよ」  広津は「安価じゃなければ意味がない」と価格づけにもこだわった。定価は、全身のがんを1度で調べられて、税抜きで「9800円」。ベンチャー起業家には、ゴールを株式新規公開後の株式売却に置き、儲(もう)け主義に走るケースも少なくない。他にない技術を使うのだから、5万円や10万円の検査として世に売り出すことだって出来たはずだ。 「頭の中にあるのは『技術を広げること』。私は科学者だから、そこはブレない。『これくらいなら受けたい』という価格帯を、私が直接何百人にもヒアリングして割り出し、ぎりぎりまで安価に設定した。もし、コストから試算して利益を優先したら、とてもこの価格にはできないですよ」(広津)   広津自身も驚いたのは、この検査に対する注目度の高さだ。「健診のメニューに加えたい」と、企業や病院から数百件の問い合わせが入り、予約は1年以上待ちの状態だ。  広津は、会社を起こしてわずか3年半で、この検査を実用化へと導いた。今はロマンスグレーの前髪を上げて経営者然としているが、実は線虫の研究歴が20年以上になる、基礎研究者なのだ。以前は、「縮れ毛を無理やり伸ばして前髪を垂らす、ボサッとヘアの研究者だった」と打ち明ける。  これまで日本にはいなかったタイプの理系博士起業家である。「ネイチャー」と「サイエンス」というトップジャーナルに論文掲載経験があり、実験室の片隅で行っていた線虫研究を発展させ、「生物診断」という新しいコンセプトのがん検査技術を着想。論文投稿、起業、臨床研究、実用化と、壁をくぐり抜けてきた。 「基礎研究者は経営に向かない」という通説をも打ち破る。 「ベンチャーの成長スピードが桁違いに速かったのは、リスクを背負った科学者本人が矢面に立ち、舵取りをしてきたからこそ。公金でノーリスクの環境に身を置いて研究を続けていたら、このスピード感というのは絶対に出せなかった」  こんな言葉に、広津の覚悟がにじむ。  創業メンバーの榊原直樹(58)は、広津の経営センスをこう評価する。 「彼が大胆だなと思うのは、増資もまだこれからだっていう時でも、どんどん研究者を雇うんです。うちは社員の7割が研究者で、博士号取得者も多い。あれ? コスト的に大丈夫かな?って。実際、広津と2人で、0の桁が減っていく貯金通帳をにらんでいた時期もあってね。でも彼は、『技術自体は確立しているし、しっかり臨床研究さえやれば、さらに信用につながるんだ』と、指針が明確。発明者だから、確信を持っているんでしょう」 ■夜に仲間と酒を飲んでも線虫の世話で途中で帰宅  広津の出身は、京都府京田辺市。サラリーマンの家庭が多いベッドタウンで、野球少年として育った。本人曰く、「小学生にして、球速120キロ投手だった。でも、ノーコン」。同級生の今堀泰助(47)は、「関西人らしくラテン気質の広津は、ボケとツッコミの、ツッコミ役だった」と証言する。  2010年に他界した父は弁護士を目指していたが、最終試験で落ちて、プラスチック加工会社のサラリーマンに。人が足りない時は工場で夜勤して、徹夜明けで息子の少年野球を観に来るような、「典型的な昭和のお父さん」だった。  母は、「なんでも器用にできるスーパーマンのような人」。若い頃に栄養士だったこともあり、料理上手。服はさっと作るし、水彩画も描く。字もきれいだ。広津には姉がいて、母は2人を育てながら、家の一間を使って補習塾も開いていた。  試練が訪れたのは、広津が中学生の時。突然、父が脳卒中で倒れたのだ。「リハビリである程度は回復はしたけれど、父は一時期ボケたようになっていた」。当時の中小企業では、後遺障害を負った社員を、今のように守ってはくれなかった。専業主婦だった母が、療養中の父を連れ、父の会社の下請け企業に働きに出た。中高生の頃は、姉とともに広津も、両親の仕事を手伝いに行った。 「母が大黒柱みたいになって、父の面倒を見ながら2人を大学まで出して。子に不自由をさせたくない母の気持ちは伝わっていました」  母は苦労を顔に出さなかったが、二言目には、「お父さんは弁護士試験に落ちて夢を諦めちゃったから、こうして苦労してる。あなたは、世の中から認められるような職業に就きなさい」と言っていた。広津は、「何事もより広く、より高く、みたいなところは、母にすり込まれた」。  母は広津に対して、決して怒らなかったが、褒めもしなかった。広津が入試で狙い通り、理学部がある東京大学の理科二類に受かっても、「あなたの受験番号あったね」としか言わなかった。 「息子に対する期待が、強烈に高かったんじゃないですかね。『あなたは東大がゴールじゃない。ここで終わるわけじゃないよね?』って」  大学進学後、母は東京の息子宛てに手料理を密閉容器に入れ、京都からクール便で送り続けた。テニスサークル仲間だった井上伸(47)は、広津が一人暮らしをしていたワンルームを訪れた時、肉料理だの、野菜料理だの、冷凍庫におかずがギッシリ詰まっていたのを見て、驚いたという。  学部時代、広津は「黄色に近い金髪」で、「最初はヤバいやつなんじゃないかと思った」(井上)。授業よりもテニスにのめり込んだが、大好きな実験だけは、欠かさず出席していた。  大学4年の時、広津が入ったのは「酵母」の研究室だった。米国帰りで、現東大教授の飯野雄一が、「線虫の研究をやらないか?」と勧めてきたものの、当時、生物学では酵母のテーマが全盛期。学生たちは誰一人、線虫に見向きもしなかった。だが、広津だけは「面白そう!」と飛びついた。研究室でただ一人、線虫を飼い始める。  井上によると、広津が仲間たちと酒を飲む時のお決まりの行動があったという。わいわい馬鹿騒ぎしていても、夜半過ぎに「時間なので、じゃあ」と帰っていく。最初は怪しんで、「待っているのは彼女か?」と井上が聞くと、広津は答えた。 「えっ、ちがうよ。線虫の世話があるんだ」  線虫が“相棒”という日常だった。  東大大学院修士課程修了後は、「青いバラ」の開発に興味を持ち、サントリーに就職した。「人気の就職先だった製薬会社よりも『枠にはめられない感じ』に惹(ひ)かれた」のだという。だが蓋(ふた)を開けたら、自身の希望とは異なる、お茶の開発部門に配属された。「将来の枠が決まる」ことを恐れた。また、「大学で、研究を途中で投げ出してしまった」との思いも拭いきれなかった。1年で退職し、東大の研究室に出戻ることになる。  その後、博士論文を仕上げるために選んだテーマが、線虫の嗅覚(きゅうかく)だ。線虫を使った研究で、「Ras(ラス)」という、細胞増殖などにかかわるタンパク質が、実は嗅覚神経で匂いを知覚するはたらきにも関与していると証明されれば、斬新な発見になることはわかっていた。ただし、手掛かりになるデータはごくわずか。手探り状態で実験を始めると、「あれよあれよという間に、いい結果が出始めた」。00年、人生初の論文が、「ネイチャー」に掲載される。 ■組織に苦しんだ九大時代、自宅に引きこもりがちに  05年に九州大学へ移り、助教に就任。長いものに巻かれない広津は、10年から独立して研究室を持てることになったが、上司らに煙たがられた。 「大学の教員をしていた頃は、今思い出しても暗黒時代。大学を辞めようと思ったのは、一度や二度じゃない。業績をいくら上げてもポジションはもらえず、むしろどんどん袋小路に入っていった」  九大そばの通関業者で働いていた妻の文代(39)とは、趣味のテニスを通じて知り合い、09年に結婚。広津が組織の中で追い詰められていく様をつぶさに見てきた文代は、「この人は取り繕うことが苦手で、相手が上司でも、率直に発言する」と前置きし、長かった夫の“不遇の時代”を振り返る。 「それなりに勉強も研究も頑張ってきて、そこそこ野心もあるのに出世も見込めない、となると鬱屈(うっくつ)するものがあったようで……。大学での嫌なことを忘れようと、センスもないのにガーデニングを始めたり、漫画の『宇宙兄弟』を大人買いしたり。あの頃の彼は、時間を持て余して引きこもり気味で、結構な頻度で家にいましたね」  広津は、噛(か)み締めるように言う。 「ジリ貧な状況が『見返してやるぞ』という気持ちに火をつけたところはある。研究も経営も、永続していこうと思ったら、下積みはあった方がいいですよ。自分の中に軸ができるし、成功したら、その分だけジャンプアップできると思うから」  その頃は、研究費を自力で獲得しなければならない環境だった。広津は「世の中に生かせるかもしれない」というテーマを必死に考えていたという。線虫は鋭敏な嗅覚を持つ。嗅覚が鋭い犬による「がん探知犬」が存在するなら、線虫も。そんな発想から、「線虫でがんの検査が出来ないか?」と考えるようになった。  だが、研究を始めた当初は、がん細胞だと反応するのに、がん患者の尿だとうまくいかなかった。  突破口を開く鍵は、豊富な研究経験がもたらした。線虫は同じ匂いを嗅がせても、濃度が高いと遠ざかり、低いと近寄っていくと、自身の過去の研究でつかんでいた。そこから広津はピンときた。 <だったら尿を薄めてみよう!>  その読みは見事に的中。ほぼ例外なく、尿の中のがんのにおいを嗅ぎ分けた。 ■起業し研究生活に区切り、東京進出で勝負をかける  広津は、里帰り出産で鹿児島に帰っていた文代の実家に寄る度、実験結果を事細かに報告。 「私があまりにもテンション高くしゃべったから、出産前の妻には嫌がられていました(笑)」  この成果の論文が米科学誌に掲載されたのが、15年3月。九大に報道陣が大挙してきた。 「ノーベル賞を受賞したわけでもないのに、フラッシュライトをたかれて。まさか、こんなに線虫が世間で注目されるとは、思わなかったです」  途端に、「共同研究をしたい」という企業や、「実用化しましょう」と起業を持ちかけてくる人が押し寄せた。中には、儲けたい一心で近づいてくるような人も含まれていた。自分は社長にならずに、別の人に経営を委ねて一度は起業してみたものの、理念が食い違い1年で見切りをつけた。 「技術を広めるという理念を貫くには、自分が社長になるしかないな」  覚悟を決め、16年8月に、今の会社を起こした。  ただし大学の仕事と社長業の両立は困難だった。翌年3月に大学での研究生活に区切りをつけ、東京で勝負しようと、家族で東京に出てきた。  九州育ちの文代は、東京行きに不安もあった。それでも、会社設立後、福岡と東京を行き来していた夫に、自ら「東京に行こう」と提案した。 「公務員の家族として、一生安泰かなと思っていたんですけど、いまはベンチャー社長の妻ってことになって。それでも、あんなに鬱々としていた彼が、発見を機に、急に生き生きしだして。目標があって、それを続けられる環境が一番かなと」  九大の生物学科の中條信成(51)は、広津が肩書なしで勝負しているところに、凄(すご)みを感じるという。 「大学の職を辞すとき、広津さんは『これからは自由に、自分の思い通りにやるんだ』と言っていました。大学から起業する研究者はわりといますが、安定したアカデミックポストを捨てて、退路を断ってまで腹をくくれる人は、そうそういない」  最近は国内外を問わず、広津が大きなカンファレンスでの講演に招聘(しょうへい)される機会も増えた。 「日本ではベンチャーの社長というと、外れ者みたいに思われるけど、海外に行くと、やっぱり博士って尊敬されてますよ。日本ほど科学者が尊敬されていない国はない。大学も汲々としている。将来、子どもたちに『日本の大学に行きたい』と言われて、よしっと言ってあげられるかどうか……。私は日本の科学の地位を、正常に戻したい」  言葉に熱がこもる。そして広津はこう続ける。 「理系のキャリアパスを増やし、ロールモデルを作るためにも、まずは自分らが成功しなければ」  2月上旬、公園で息子たちと遊ぶ、広津の姿があった。長男(9)は体力があり、かけっこをしても、運動不足のパパは追いつかない。次男(6)はやんちゃ盛りで、いっしょにシャボン玉を楽しんでいたかと思えば、池の方へ飛び出していく。寒風の中、顔もそっくりな彼らは、“三兄弟”のように走り回り、広津の額に汗が光った。 「家では子煩悩な、ただのパパ」と文代は笑う。  ふと、彼に聞いてみた。線虫の嗅覚で嗅ぐと、人間がどう匂いますか?と。 「線虫は進みたい方向にスーッと動く。でも人間は、『みんなが行く方にいかないと、不安だよね』みたいな雑念が混じって、合理的で正しいと思った方向に進めなかったりする。生物の中で見ると、人間って、とても変わってますよ。ずいぶんゴチャゴチャした環境の中で生きているなあって」  人間社会にまみれたからこそ、彼の思考は研ぎ澄まされる。新天地で勝負する経営者の、揺るぎない行動を下支えするのは、線虫的な達観なのだ。 (文中敬称略) ■ひろつ・たかあき 1972年 山口県生まれ。京都府京田辺市で育つ。幼稚園の頃から野球に夢中になり、小学生時代は少年野球チームでピッチャーをしていた。好奇心が旺盛で、星座や百人一首は全て暗記。上に姉がいて、下の子らしく要領のいいところはある。親に勉強しろと言われたことはないが、夏休みの宿題は「最初の10日間で全て終わらせるタイプだった」。  88年 全国有数の進学校である私立東大寺学園高校に入学。成績優秀で東京大学医学部受験を勧められたが、「親が医者じゃないし、医学に特別の興味もなかった」。生物の研究を志したのは、高校3年生の時、通っていた塾の先生に「これからの時代は生物学だ」と言われたことがきっかけ。  91年 東大理科二類に入学。「モテたい」と入ったテニスサークルが楽しくて、授業よりもテニスに明け暮れていた。3年になり専門が分かれ、理学部生物学科へ進んでからは、実験に夢中になった。現東大教授の飯野雄一の勧めで4年から線虫の研究を始める。  97年 東大大学院修士課程修了。サントリーに入社。職場の居心地はよく仕事も楽しかったが、「線虫の研究をやり残した」との思いがあり、1年で退社。東大の研究室に戻る。 2000年 線虫の嗅覚について書いた人生初の論文が「ネイチャー」に掲載される。  01年 東大大学院博士課程修了。  04年 京都大学大学院生命科学研究科ポスドク研究員。  05年 九州大学大学院理学研究院生物科学部門助手(07年に法改正で助教と名称変更)。  13年 においでがんを見分ける研究「がん探知犬」がヒントになり、“がん線虫検査”の研究を始める。  15年 「線虫による尿を使ったがん診断」という論文を米科学誌に発表。  16年 HIROTSUバイオサイエンス設立。  18年 一般社団法人「Empower Children」代表理事に就任。  20年 1月、線虫がん検査「N-NOSE」を実用化。 ■古川雅子 ノンフィクションライター。上智大学文学部卒。専門は医療・介護、がん・認知症・難病と暮らし、科学と社会、コミュニティーなど。本欄では「再生医療研究者 武部貴則」ほか多数執筆。 ※AERA 2020年4月6日号 ※本記事のURLは「AERA dot.メルマガ」会員限定でお送りしております。SNSなどへの公開はお控えください。
AERA 2020/09/10 01:31
有能な人ほどメール返信が早い理由 メールで評価を上げる3つのポイント
有能な人ほどメール返信が早い理由 メールで評価を上げる3つのポイント
「有能な人ほどメールの返信が早い」のは本当なのだろうか? メールの返信でビジネスマンとしての評価が決まるというが……。ゴールドマン・サックス、マッキンゼー&カンパニー、ハーバード・ビジネススクールを渡り歩いた、ベリタス株式会社代表取締役の戸塚隆将氏の著書『世界のエリートはなぜ、「この基本」を大事にするのか?』から一部を抜粋・再構成して紹介する。 *  *  * ■有能な人ほどメールの返信が早い理由  私がゴールドマン・サックスの東京オフィスに勤めていたときのことです。朝出社し、メールをチェックすると、世界中からメールの返信が届いていました。発信時刻は東京時間で夜中の2時。翌朝8時の出社時には、メールの受信箱が一杯になっているのですから、6時間以内の返信ということになります。  そして、返信者のほとんどが世界中を飛び回っている敏腕バンカー達だから驚きました。東京オフィスの若手バンカーであった私の名前など、彼らは当然知るよしもなかったはずです。  受信箱を見た私はあっけにとられ、その時のロンドン時間、ドイツ時間、北米東海岸時間、香港時間など、主要な海外オフィスとの時差を、ざっと思い起こしてみました。この人達は一体いつ寝て、いつ食事をし、どんな生活をしているのだろうか。  ゴールドマン時代に関わった超大型グローバル案件の一コマです。ある日系企業の売却にあたってのM&Aアドバイザリープロジェクト。私は、プロジェクトチームの若手として、当該企業の買収に興味を示す買い手候補企業リストの作成を担当していました。この期に本格的な日本参入に興味を持ちそうな海外企業名を挙げ、ヨーロッパ、北米、アジアの地域ごとに整理をし、一般に業界でロングリストと呼ばれる初期的な買い手候補先リストの叩たたき台を用意しました。  そして、それらの買い手候補企業と太いパイプを持つ、社内の海外オフィスに籍を置くシニアのバンカーに一斉にメールを送ったのです。ちなみに、「バンカー」とはインベストメント・バンカーのことで、日本語では「投資銀行家」と訳されます。特に米英では、バンカーというと通常の銀行マンというより投資銀行家を指すことが多いです。  ゴールドマンで、このようなレスポンスの速さは日常茶飯事です。多忙を極め、複数の案件が錯さく綜そうし、海外出張や重要会議でスケジュールがぎっしり詰まったトップバンカーであるほどレスポンスの速さは際立っています。その理由は3つあります。  ・そもそも効率仕事術を身に着けている人が結果的に出世している  ・レスポンスの速い人ほど一流のプロフェッショナルという共通認識がある  ・レスポンスの速い仲間を正当に評価する社内の人事システムがある  一日に受信するメールが100通で一定と仮定しましょう。返信をすぐにしようと、3日後にしようと、受信するメール数は変わらないとも仮定します。そうだとすれば、すぐに返信した方が相手にとっては都合が良いし、自分の目の前からも一つ仕事を片付けることができます。  結果、自分に対する評価も上がります。メールをすぐに返信しない理由は、実は見当たらないのです。 ■メールに返信する際に気をつけるべき3つのポイント  メールのレスポンスにおいて気をつけるべき3つのポイントをご紹介します。 (1)レスポンスのタイミングは、あなたの名刺と考える  返信を待っている相手にとって、あなたのレスポンスはあなた自身がどういうビジネスパーソンなのか、を物語る限られた情報の一つです。特に昨今は、メールやチャット等、相手の顔や声と接せずに一方的に送ることのできるコミュニケーション手段が多いです。メールについては、送り手は相手がいつメッセージを読んだかを確認する術すべがありません。  待てども返事がなければ、メールが届いていないのかな、と不安な気持ちになります。別のメールアドレスを探してみたり、電話のタイミングを窺ってみたり。  相手に不要な手間や心配をかけないためにも、早目のレスポンスを心がけたいものです。 (2)返信に時間がかかる場合は、その旨断りの短文メールを送る  外出中だから返信する余裕がないので翌朝返信する、というメールを送るだけでも、相手は自分のメールを大事に扱ってくれているという安心感を得ます。 (3)考えの整理が必要な場合は、敢えて一晩寝かしてから返信する  一方で、感情的な内容となる場合は注意が必要です。急ぎ返信することも大事ですが、メールは送信後消去することはできません。あとで後悔するような内容を送ってしまうリスクがあるような場合は、敢えて時間をかけて確認してから発信しましょう。 戸塚隆将(とつか・たかまさ) 1974年東京都生まれ。慶應義塾大学経済学部卒業。ゴールドマン・サックス勤務後、ハーバード経営大学院(HBS)でMBA取得。マッキンゼー&カンパニーを経て、2007年、ベリタス株式会社を設立、代表取締役に就任。同社にて、プロフェッショナル英語習得プログラム「ベリタスイングリッシュ」を運営。
仕事朝日新聞出版の本読書
dot. 2020/09/09 17:00
「半沢直樹」のウソ・ホント 銀行員が語る“ドラマよりひどい現実”も
池田正史 池田正史
「半沢直樹」のウソ・ホント 銀行員が語る“ドラマよりひどい現実”も
出演者の堺雅人(左)と片岡愛之助 (c)朝日新聞社  回を重ねるごとに盛り上がるTBS系ドラマ「半沢直樹」。作中では理不尽な仕打ちなども多いが、実際の銀行員たちはどう見ているのか。Aさん(本社運用部門。50代)、Bさん(副支店長。50代)、Cさん(大手行の中枢ポストなどを経て新興銀行。50代)、Dさん(大手行の中枢ポストなどを経て取引先に転職。50代)の4人に、ドラマを語ってもらった(新型コロナ感染拡大を防ぐため個別に取材し、編集部で構成しました)。 [前編 銀行員が語る「半沢直樹」のリアル 「責任を部下になすりつけることも」より続く] *  *  * B:証券会社に出向して銀行の営業部に返り咲くというのは、まさにドラマなんでしょうね。役員とあんなにやり合って出向したら生き残れない。かりに証券会社に出た場合、株式の売買などを担当するのが普通。半沢はいきなり大きな企業案件を担う。ある意味でエリートコースです。 C:銀行から出されて復活することはある。エース級の人は外から戻ることがある。子会社へ行った人は2パターンに分かれる。やる気のある人と、ない人。ドラマのように銀行本体が子会社の案件を取った、というのは聞いたことがない。 A:半沢のような人はなじめずに辞めるか、意見や性格を銀行に合うように曲げるか。上司にかみついてばかりいたら主任どまりで一生、管理職などにはなれない。 B:「左遷」は役員級ならともかく、現場レベルではない。そんな見え見えな人事をすると、今どきは部下やお客さんから逆に“刺され”ます。 D:出向先についても、銀行でどこまで偉くなったかで全てランクがついています。要するに、銀行での出世が人生の最後まで影響する。だからみんな出世競争に必死なのです。 A:我々の世代は、上司が「正しい」と言ったら正しい。「黒」と言ったら、たとえ「白」であっても「黒」。親分と子分の関係のようなもの。人事だって、上のほうの役員までその関係がずっとつながっている。そのつながりが役職や異動を左右するし、派閥のようなものになる。 C:派閥抗争はある。銀行はメーカーのような商品がないので、成果の判定が難しい。だから自分を理解してくれる人たちで群れる。部署による“部閥”が“学閥”よりもあるのではないか。 A:原作にも出てくるが、合併した旧行間のあつれきも。ある銀行では出身行によって使うエレベーターが違っていたというのは有名。それぞれの人事部が作成した「裏ファイル」を、トップが求めても見せなかったこともあったそうだ。 C:本社への金融庁検査は、ドラマよりもひどかった。女性行員が恫喝(どうかつ)されていた。「トイレに了解なく行くな」と。「黙って行ったら逮捕するぞ!」と。ヤクザよりひどい恫喝だった。(銀行にとって都合の悪い資料を持ち出さないように)女性行員がトイレに行く場合は、女性の検査官が身体検査をした。 B:バブル経済後の不良債権処理がピークだった頃、「資産査定」という融資先企業の格付けがあった。当時は支店の課長代理。金融庁の検査マニュアルに基づいているかをチェックする資産査定面談では、本社に呼ばれて金融庁の検査官に支店の主な案件を説明する。ただ、ドラマみたいに金融庁の検査官とは敵対しない。金融庁の人はもっとマイルド。「どんなマーケットか」「客層はどうなのか」と正しく知ろうとしていた。銀行も判断の根拠を示して正直なことを話します。 A:検査官に盾突くことは考えにくい。金融庁と銀行の関係も、親分と子分の関係に近い。お上の言うことは絶対、という意識が強い。資産査定は廃止されたが、銀行も融資先の企業も、守りの姿勢ばかりが強くなった。減点主義の姿勢はより強くなり、取引先の攻めの経営を弱め、経済全体の停滞を招いた面がある。 D:政治家の介入もかなりあると思いますよ。ドラマのような債権放棄だけでなく、融資の紹介や支持者の親族の就職までいろいろあります。地縁血縁で縛られた地銀はともかく、都市銀行は潔癖な人や正義感の強い人が融資部門にいることが多く、無理筋な政治家とは闘うケースがあると思います。けれども、金融庁の指導など許認可が関わると事情は異なる。 A:半沢は経営不振に陥った融資先をどうすれば立て直せるか、どう売り上げを伸ばせるか、いいところを見つけようとする。でも実際、銀行員に企業を再生したり新しいビジネスを生み出したりする能力はほとんどないと思います。半沢のように再建させても、行内できちんとした評価を受けるとは限らない。 B:銀行員は日々忙しく、いろんなお客さんの対応や事務作業に追われている。半沢のように、一つの案件にたっぷり時間をかけていられない。だから、半沢の仕事っておもしろそうですよね。 C:ほかにもドラマのような設定はないだろうというのはある。例えば、役員が私的に不正流用するような話。そもそも銀行の役員は坊ちゃんばかりなので、貧乏人でない。銀座の女性に交際費を落としたという話はあるものの、私的流用は事実に反していると思う。 B:居酒屋の設定、あれはおかしい。料亭風な小料理屋で同期らで飲んでいるが、我々はせいぜい、ギョーザ屋やチェーンの居酒屋といった安い店を使う。あれが銀行員の一般像だと思われたら困る。あんな所では飲んでいない。 C:役員から、料亭ではないが割烹(かっぽう)のような料理屋に誘われることはあった。常務とか専務とかから。 A:銀行だけではありませんが、バブル崩壊前後までは会社専用のラウンジやお抱えのクラブもありましたよね。役員と仲良くなったママの親類が入社したことも……。 C:ドラマのように、ICレコーダーを隠して録音することはない。その人物の信用問題にかかわるし、行員同士なんてあり得ない。“ハシゴを外す”上司と会う時は、1人ではなく2人で行った。本人の前で「ちょっと待ってください」と手帳に書き、「こうですよね」と確認する。メモには残すが、隠し録音はしない。 B:それにしても、(上戸彩演じる)半沢の妻のように、あんなにも献身的な奥さんが家にいたら、もっと仕事を頑張ります。 A:かつて社内結婚が多かったのは、やはり奥さんも社内の事情を知っていたほうが都合がよかったから。給料はいいし、銀行員の妻であることにプライドを持ってくれる女性も多かった。今は理解者が減っているかもしれません。 C:家族の理解がないと、休日勤務などが難しくなる。銀行員の奥さんに銀行周辺の人がいたりして理解があると、出世もしやすかった。 A:銀行の仕事は、物事が正しいかどうかではなく、規制に守られた“ムラの論理”で進められる。経済や社会の実態とはズレが生じ、つじつま合わせばかりに神経をすり減らしている。退職後にうつになる銀行員は多い。半沢のように、正しいことをすれば結果的にもうかるという理解が広がればいい。 B:とはいえ、ドラマは銀行員にとってリアルな場面も多い。日曜夜を楽しみにしている人は多いと思うが、銀行員は夕方からゆううつになり、現実に引き戻されてしまう。翌月曜の会議があるので、「ああ、営業成績が上がっていない……」などと考えてしまう。「サザエさん症候群」のバンカー版のような感じ。吐きそうな気分になるので、ドラマはなるべく見ないようにしています。日曜は「ちびまる子ちゃん」と「サザエさん」を見たら、寝るようにしている(笑)。 (本誌・池田正史、浅井秀樹、宮崎健) ※週刊朝日  2020年9月11日号
ドラマ
週刊朝日 2020/09/06 11:30
五木寛之「東京五輪は無理だと誰もが感じている」姜尚中と対談
五木寛之「東京五輪は無理だと誰もが感じている」姜尚中と対談
五木寛之氏(右)と姜尚中氏(左) (撮影/戸澤裕司) 姜尚中氏(左)、五木寛之氏 (撮影/戸澤裕司)  コロナ禍の時代をどう生きるか。作家・五木寛之(87)と政治学者・姜尚中(70)が語り合った。朝鮮半島からの引き揚げ者として、在日コリアン2世として、ままならぬ道を切り開いてきた二人。未曽有の世相の闇に目を凝らし、見えてきたものは? 五木:不思議で仕方がないんですけど、新型コロナウイルスの蔓延(まんえん)がどうしてこれだけ大きな影響を及ぼしているんだろうか。そこがどうもわからないんですよ。というのは、スペイン風邪と言われている1918年ごろの流行ですけど、日本国内の死者だけで39万ぐらいから42万ぐらいという説があります。コロナの人的被害と比べたら比較にならないくらいの差があるわけですね。にもかかわらず、なぜコロナでこれほどの社会的影響が世界的に起こっているのか。 姜:たしかに五木さんの少年時代、死と生が同居しているような状況だった第2次世界大戦中でさえ、映画館や劇場、寄席という今で言うエンタメを、人々が楽しめなくなることはほぼなかったでしょう。それなのに、コロナ禍では「ロックダウン」という聞いたことのないような現象が起きました。それもアジアや欧米、遠いアフリカまで同じコロナが暗い影を落としています。 五木:コロナ禍の中に何か謎があるような気がするんだよね。大きなパラダイムの大変換。そういうものが引き起こされる理由はなんだろうと、考え続けているんです。  格差の問題があらわになりましたね。「ステイホーム」と言われてもうちにいられないエッセンシャル・ワーカーがいっぱいいるじゃないですか。そういうところに感染が広がり、かたや郊外へ優雅に逃避できるような人たちは逃れられるというような。変な話だけど、国会議員で陽性という話はあまり聞いたことがない。丈夫だとかそういう問題だけじゃなくて、何かあるんじゃないかという気がして仕方ないんだけど。 姜:このままではワクチンがもし万能でなくても、少し効きそうだと言った時にね、格差社会のこれまでオブラートに包まれていた、ある種のヒューマニズムみたいなものが剥がされることが起きかねないですね。 五木:ワクチンにしても安価で大量にそれができればいいんですけど、がんの特効薬みたいにえらく高価なものが出てきたりしかねない。国民的意識が強くなり、どこかで国家の強権を望むようになってきた。こういう時は政治がもっとはっきり決断して欲しい、という意識。そうした翼賛的な意識が出ているのが気がかりです。Go Toキャンペーンにしても、動けというのか、じっとしておれというのかはっきりしてくれと。この「お上がはっきりしてくれ」という民意が、すごく危険な気がします。 姜:格差が見えてきたからこそ翼賛という一つの想像上の共同体ができないとまとまらない、ということですね。日本国民は皆同じ、という一つの虚構が必要なわけです。ただ実際は中小零細の飲食関係、劇場であれば美術や音響照明、といったあまり目立たない仕事をしている人の悲鳴が方々から聞こえてきます。 ■見えない感染症 非常に不安呼ぶ 五木:僕は平壌(ピョンヤン)で終戦を迎え、命からがら38度線を越えて難民収容所のようなところに収容されました。そこで発疹チフスのクラスターが起きたんですが、その時は、感染させるものが見えた。シラミです。だから、肌着からシラミを取ってプチプチと爪でつぶしていって、こいつがうつすのかというのが確認できた。ペストはネズミからくるノミですよね。これも感染させるものが見える。  ところが、コロナウイルスは見えない。見えないものが襲ってくるという不安感というのが生理的物理的なものを超えて、人間に大きな影響を与えているような感じがするんですが。 姜:僕自身も勤め先の九州や講演などで各地と行き来しているうちに、ふと罹患(りかん)したんじゃないか、と不安にかられました。前にお世話になった病院に頼んでPCR検査を受けたんです。  それと最近ショッキングだったのは、海外の世論調査なのでどこまで正しいのかわからないところもありますが、日本の場合は、特に罹患した人に責任がある、と受け止められる傾向があるそうですね。 五木:病気そのものよりは、陽性反応を起こした存在になることへの恐怖かな。あの銀行に陽性者が出ている、というと、そこの銀行は石が投げられたりする。会社の命運にかけても感染できないと考える人がいるんだよね。PCR検査を受けないと陽性か陰性かはっきりしない。そのへんの不安感が問題です。結果、人間と人間の関係の中でディスタンスというのが強く要求されるわけですから。  東日本大震災が発生したあと「絆」という言葉がすごく使われました。人間の絆を回復しようと、ついこないだまで言われていた。それが今度は「絆を切れ」と言われているわけだから。ダイレクトな人間と人間の接触を切っていくという方向にポストコロナは進む、と気の早い人は言っていますけど。 姜:たしかに東日本大震災の時は、絆という言葉が合唱されるように使われ、ボランティアも含めて、問題はあっても、いろんなことを乗り切ってきた面はありましたね。  今回は、絆を断ち切って自分で自分のことはケアしましょうと。だから正直言って、他人がどうなろうと構わない、という非常にパサパサとしたところがある。そこで、また疲れてしまうということがあるんじゃないでしょうかね。  こないだ僕の親戚で亡くなった人も、結局葬式もあげられませんでした。身内も結局、火葬場に行けない。東日本大震災の時はいい意味でも悪い意味でもセンチメンタリズムというか、何かこう物語性の余地はまだあったんですが、コロナというのは本当にね……。 五木:人間の絆を切断する方向へ進んでいる。 姜:そこをしっかり見据えたうえで、どこまで「吹っ切って」コロナと向き合っていけるか。耐え方を楽しみながら耐える、ということにまで変えられるかどうかですね。耐える、と言うとなんか謹厳実直でちょっとストイックなイメージになりがちですけど。耐えることは楽しいという、ある意味ではマゾヒスティックなところまで行かないと、この事態を受け入れられないかなと思います。耐えることすなわち喜び楽しみ、そういう風なイメージですかね。  かつては戦争が景気のカンフル剤になり、現代はイベントで景気浮揚させようとしてきましたが、これからはそうもいかないでしょう。 五木:東京五輪は無理だと誰もが感じている。 姜:オリンピックは難しいでしょうね。アフリカや中南米で猖獗(しょうけつ)を極めているこの状況が来年変わるとも思えません。  安倍首相は五輪招致演説で、福島第一原発の汚染水について「アンダーコントロール(管理下にある)」と述べて、それが招致実現へと繋がったわけです。  でも今回のコロナ禍は、いろいろな希望になるようなものを示そうと、どんなに政治家たちが策を弄してもね、うまくいかないんじゃないか。だから落ちるところまである程度落ちてしまうでしょう。五木さんの言われるパラダイムチェンジが起きて、社会の枠組みががらりと変わる可能性は大いにありますね。 (構成/本誌・木元健二) 五木寛之/いつき・ひろゆき 1932年、福岡県生まれ。生後まもなく朝鮮半島にわたり、47年引き揚げ。66年『さらばモスクワ愚連隊』でデビュー。『蒼ざめた馬を見よ』で直木賞、『青春の門』『戒厳令の夜』『風の王国』『親鸞』『大河の一滴』など。 姜尚中/カン・サンジュン 1950年、熊本県生まれ。東京大学名誉教授で、専門は政治学・政治思想史。熊本県立劇場館長。現代人の生き方のヒントを探る『悩む力』のほか、『在日』『母の教え 10年後の「悩む力」』など。 ※週刊朝日  2020年9月11日号より抜粋
新型コロナウイルス
週刊朝日 2020/09/05 08:00
寝ても疲れがとれない「デジタル時差ボケ」急増…合計1日8時間以上、90分以上連続使用など要因に
野村昌二 野村昌二
寝ても疲れがとれない「デジタル時差ボケ」急増…合計1日8時間以上、90分以上連続使用など要因に
目の疲れは脳の疲れでもある。遠くを眺める、まばたきをする、眼球運動をするなどの対策を(撮影/写真部・小黒冴夏) AERA 2020年9月7日号より AERA 2020年9月7日号より  寝つきが悪い、寝ても疲れがとれない――。そんな症状に苦しむ「デジタル時差ボケ」がいま、増えている。あなたは大丈夫だろうか? AERA 2020年9月7日号は、自己チェックの仕方と解消法を紹介する。 *  *  * 「非常に寝つきが悪くなりました」  フリーライターの女性(42)は嘆く。  もともと朝型で、夕方6時には仕事を終えるようにしていた。それが、コロナ禍でオンラインでの打ち合わせや取材が増えた。しかも、相手の都合で夜に入れられるようになり、毎晩10時頃までパソコンに向かうように。すると、仕事を終えても、目が冴えてなかなか寝られなくなった。首の後ろや肩など、今までは痛くならなかった箇所が痛くなったともいう。 「寝つきが悪くなったことで、当然寝起きも悪くなりました。また眠りが浅くなってしまったためか、何度も夜中に目が覚めるのも悩みです」(女性)  コロナ禍で睡眠リズムが崩れる人が増えており、「デジタル時差ボケ」として注目を浴びている。 「デジタル機器が発するブルーライトが、体内時計を乱し睡眠トラブルを引き起こしていると考えられます」  眼科専門医で、Y’sサイエンスクリニック広尾(東京)理事長の林田康隆医師は言う。自粛モードでデジタル機器への依存度が増えたことによる、健康被害を危惧している。  ブルーライトは太陽光にも含まれ、「睡眠ホルモン」とも呼ばれるメラトニンの分泌を抑制、覚醒作用があるとされる元来欠かせない光の一成分だ。  しかしデジタル社会に生きる現代人は、四六時中デジタル機器の光を見つめるようになり、毎晩のようにブルーライトを取り込むことで体内時計を乱して睡眠トラブルを起こしていると、林田医師は指摘する。  7月、林田医師はメガネブランド「Zoff」を運営するインターメスティックと共同で20代の男女500人を対象に、「デジタル時差ボケチェックシート」を使い「ブルーライトによるデジタル時差ボケが及ぼす、睡眠への悪影響の実態を探る調査」を実施した。すると58.8%もの人が「デジタル時差ボケ」に陥っていることが判明。そのうち95.9%が「寝ても疲れがとれない」、76.5%が「夜中に目が覚める」と回答した。さらに、テレワークをしている人はテレワークをしていない人に比べて、毎日寝落ちしている割合が約2倍になることも明らかになった。  デジタル時差ボケに陥りやすいのは、合計で1日8時間以上デジタルデバイスの画面を見ている人、あるいは90分以上連続で使用している人など。しかし、今やデジタルデバイスは生活の一部。手放すことは難しい。そこで林田医師が勧めるのが、ブルーライトコントロールと、目の運動(眼トレ)だ。 「デジタル機器が発するブルーライトは微弱で安全ですが、これだけ過剰に見つめ続けるのは人類が初めて経験していることです。1日8時間以上スマホやパソコンを使用する人は、ブルーライトカットフィルムを画面に貼る、ブルーライトカット眼鏡をかけるなどの対策をしてほしい」  また、目の使い方についてはこうアドバイスする。 「デジタル機器の使用中は、ピントは手元、視線は画面の範囲内、まばたきが極端に減るなど、目の使い方が非常に偏っています。その結果、目と脳の緊張のバランスが大きく崩れているので、これをほぐしてあげることが大切です」  そのためには、遠くを眺める、目をギョロギョロ動かす、目を閉じてホットタオルを当てて温めるなどが有効。さらに、目の周りの筋肉をほぐす「グーパーまばたき」、目でゆっくりとペンのキャップを追いかける「ペンさし運動」などは、簡単にできて効果も期待できるという。 「夜間の昼光色は脳を緊張させることもわかっています。ブルーライトだけでなく光を見つめ続ける現代、寝る前くらいはブルーライトを取り込まない方が無難です」(林田医師)  脳科学者で公立諏訪東京理科大学の篠原菊紀教授も、目と脳の疲れには密接な関係があるという。 「長時間作業を続けると目がゴロゴロして動きが悪くなったように感じることがありますが、実は、目が疲れたというのは脳が疲れたサインです」  そのまま放置すると脳の疲れは蓄積し、肩凝りのように慢性化するという。そして、目の疲れを取るためにも眼球運動は大切だという。 「疲れたと思ったら、パソコンの四隅をゆっくり目で追うことで注意を分散させてみましょう。注意や集中力にかかわる脳のネットワークが活性化します。また、目を閉じたり開けたりするだけでも脳を休めることができます」 (編集部・野村昌二) ●デジタル時差ボケチェックシート □日中、眠いと感じることが多々ある目の痛みや疲れ、乾きなどのトラブルを感じやすい □合計1日8時間以上、テレビやPC、スマホなどの画面を見ているPC、スマホなどの電子機器を90分以上連続で使用することが多い □紙の本や雑誌ではなく、電子書籍を利用することが多い □寝る前にはたいていベッドでスマホを見る □起床後、朝日を浴びる習慣がない □首や肩が痛い、凝る □移動時間や隙間時間はスマホやゲームをしている □毎日適度な運動をする習慣がない 6個以上…デジタル時差ボケ 4~5個…デジタル時差ボケ予備軍 ※AERA 2020年9月7日号より抜粋
AERA 2020/09/03 08:00
【現代の肖像】「子育て科学アクシス」代表・小児科医、成田奈緒子「目の前の子は私。だから見捨てない」
島沢優子 島沢優子
【現代の肖像】「子育て科学アクシス」代表・小児科医、成田奈緒子「目の前の子は私。だから見捨てない」
希死念慮があっても成田が継続してかかわって命を落とした子はいない。「それが私の誇りです」(撮影/東川哲也) ※本記事のURLは「AERA dot.メルマガ」会員限定でお送りしております。SNSなどへの公開はお控えください。  友達に迷惑がられたり、ほかの子と同じ行動が取れなくて、生きづらさを抱え、学校に行けなくなる子どもがいる。そんな子を成田奈緒子は独自の「ペアレンティング理論」でサポートする。もう何人もの親子を救ってきた。成田自身、小さい頃に生きづらさを抱えていた。母からの愛情に飢えた。だからこそ、子どもたちを絶対に見捨てないと誓う。  ある日曜日。成田奈緒子(なりた・なおこ)(57)が代表を務める千葉県流山市の「子育て科学アクシス」で、「ワーク」と呼ばれるアクティビティが行われていた。 「やだ、やだ、やだ!」  逃げまわる子を「一緒にやろうよ~」と追いかけていた成田がはずみで転倒。そばにいた小学5年生の少年が心配そうにのぞき込んだ。 「くうこ、大丈夫か?」  うん、ありがとうねと笑顔で返す。ここでの成田は、成田空港に由来する「くうこ」が通称だ。黒いパンツについた埃(ほこり)を払いながら教えてくれた。 「すごく成長したの。あの子だって、以前は逃げ回るほうの子だったのよ」  教室で椅子をガタガタさせて友達に迷惑がられる。授業中に立ち歩く。「前にならえ」がまっすぐできない。大量に忘れ物をする。そんな少年がアクシスに通い始めて3年で変わってしまった。似たケースは枚挙にいとまがない。よって、多くの親子が悩みぬいた揚げ句にアクシスを訪ねてくる。 「最後の砦(とりで)」とされるアクシスは、成田の研究領域である脳科学を基本とした親子支援・家族支援事業だ。自閉症などの発達障害や不登校、ひきこもり、育児不安など様々な悩みを抱える親子を最新のアプローチ法でサポートする。  独自に確立した「ペアレンティング理論」は、日々の生活の中で親が適切にコミュニケーションすることによって脳の発達を促す。例えば、思いつきや親の都合に合わせて「お手伝い」をさせるのではなく、「必ずその子が毎日やらなければ家族全体が困る」役割を与える。そうすると「ありがとう」「ごめんね」というやり取りが家族ででき、学校で「何もできない」と評された子が変貌(へんぼう)する。親と子それぞれがワークショップで専門家に関わり学んでもらうことで、ADHD(注意欠陥・多動性障害)などの傾向を示す指標が1年後には下がってしまう。 嘱託医として保育園で定期健診を担う成田。「彼女は、子どもはもちろん、生き物すべてに愛が深い」と夫の正明。犬の餌やりが遅れると「この子たちは言葉で言えないのよ!」と強く叱られたという(撮影/東川哲也) ■心中考える親子が受診「この子はこのままでいい」  2000年代から二つの病院で小児心理外来を開き、発達障害者支援センターや児童相談所などの嘱託医をいくつも兼務する。国をあげて取り組んだ「早寝早起き朝ごはん」運動を推進。大学で特別支援教育に携わる教員を育てつつ、研究と臨床現場での研鑽(けんさん)を両立してきた。 「私のこれまでの知見、経験の集大成がアクシスになる。特性は消えないけれど、彼らの生きにくさ、やりづらさは下がる。そうやって小中高の時点から支援し続ける仕組みが必要です。大げさに聞こえるかもだけど、私は人間を変えたい」  その決意は、80代の親がひきこもり続けてきた50代の子の生活を支える「8050問題」の解決に直結する。ひきこもり状態にある人は全年齢合わせると推定100万人超。厚生労働省のひきこもり支援のガイドラインでは、問題の背景に発達障害など精神障害があることが指摘されている。  茨城県に住む34歳の男性は、20歳を過ぎて成田と出会った。こだわりが強く、集団行動ができなくてひきこもっていた。両親が楽しそうに成田に会いに行くのを見て、自分も行きたくなった。  ああしろ、こうしろと怒られたりしない。いつの間にか自尊感情が芽生え、生きることに前向きになれた。「こんないい子を育てたことを自信にして」と言われて号泣した両親も明るくなった。男性は「あのままだったら大人のひきこもりになったかも。成田先生は、家族全員の道しるべになってくれた」と顔をほころばせる。今は非常勤ながら仕事を続けている。  障害による特性を受け入れられない親が、身体的、精神的虐待に及ぶケースは少なくない。  首都圏に住む30代の女性は2年前、「息子と心中する方法を毎日考えていた」と言う。当時小学2年生だった長男のことで、連日のように学校から呼び出された。すぐに相手を殴る、蹴る。「薬が必要」「普通じゃない」と担任らに言われ、息子に「なんで普通にできないの?」とあたった。  成田は息子の頭をなでながら「この子はこのままでいいの」と言ってくれた。アクシスに1年通うと、徐々に息子は落ち着いてきた。学校からの電話は一切なくなった。 「先生がいなかったら、私たちの未来はなかった」 ■母から与えられない愛情、裁縫箱からボタンを盗んだ  絶対に見捨てない――それがアクシスの合言葉だ。会員数は開設から約5年間で、250家族、親子の延べ人数は600人と増え続ける。担当する小児心理外来の新患は8カ月待ち。今年4月から施行される「保護者による体罰禁止」に親たちが戸惑うなか、その取り組みは児童虐待に対する処方箋になる。成田へのニーズは高まるばかりだ。  ひと言で言えば、成田は「生きづらさを抱えた子ども」の専門家。その原点は自分自身だ。  父は小児科医、母は専業主婦。父方の祖父は大企業の役員で、お手伝いさんがいる邸宅で育った。小さいときから虫や生き物にしか興味がなく、こだわりも強い。いわば「育てにくい子」。椅子をガタガタさせ立ち歩く、前にならえができず、忘れ物も大量。目立つからなのか、いじめも壮絶だった。教科書を隠され、消しゴム、鉛筆と次々ものがなくなった。小さいころの成田は「私の目の前にいる子どもたちとまったく同じ」だった。 大学時代の山中と成田(右)。「ともに米国留学したうえ、僕は京都大学iPS細胞研究財団、彼女はアクシスと、大学や医療の枠を超えたものを作った。似た思考で人生を歩んでいて励みになる」と山中(撮影/東川哲也)  知能テストでは高得点をたたき出すのに「普通のことがまったくできない」。結婚前まで臨床心理士だった母親をいら立たせた。テストで100点を取っても、よく頑張ったねと褒められたことはない。ましてや、抱きしめられたり、頭をなでられたりもない。被虐待児だった。 「心理的虐待ですね。ずっと完全否定されていました」  母親に認められたい一心で勉強を頑張った。塾に通わず地元で一番の名門中学に合格しても、決して認められることはない。気づけば、母の膝の上にいるのはいつも妹だった。  自分は母親に愛されていない――。ならば愛さなければいいのに、子は懸命に親にすがろうとする。成田も母を求め続けた。  子どものころ、母の裁縫箱からこっそりボタンをひとつだけ盗んだ。母のワンピースについていたボタンだ。その服を着て、白いイヤリングをつけた母に憧れていた。だが、ボタンひとつでも「ちょうだい」と甘えられない関係だった。 「お母さん、大好きだよ」  言いたくてたまらないのに言わせてもらえない。 「だから頑張るわけ。嫌いになれたら楽なんだけど、そこが子どもという立場のつらさかな。発達障害という概念がまだない時代に、娘のつらさに寄り添うのは難しかったのかもしれません」(成田)  父は穏やかな人だったが、ほとんど自宅にいなかった。父親はモーレツサラリーマン、母親は教育ママという1970年代の性別役割分担主義の時代。結婚でキャリアを奪われた母は、娘を立派に育てることで自己実現を図ろうとしたのだろう。 「でも、母の望む子ども像に、私は当てはまらなかった」  15歳のとき、母が白血病に侵される。自由を満喫したい高校生だというのに、成田は自宅で母の看護と掃除や洗濯をやりながら受験勉強に集中し、難関の神戸大学医学部に合格した。 「医学部に入っても、まったく認められなかった。その敗北感は今も続いている。この年になってもまだ取れんのかーってね。ハハハハ」  亡くなる前に認知症を併発した母に、妹を指し「私の娘はこの子ひとりなの」と言われたのは殊更堪(こた)えた。優秀な成田に対する嫉妬もあるいはあったかもしれない。  それにしても、キツいよね――。笑い飛ばした顔が、一瞬にして哀しみにゆがんだ。  とはいえ、大学進学をきっかけに親から少しずつ自立していった。母の看護や家事をこなしながら、アルバイト、大学と精力的に活動した。  当時を知るひとりが、後にiPS細胞を作製しノーベル生理学・医学賞を受賞する山中伸弥(57)だ。成田の旧姓「山内」と出席番号が隣り合わせだった山中は、実習グループや解剖のペアが一緒。ともに過ごす時間が長かった。 音楽劇のワークショップ「ぶんきょう演戯塾」卒業公演の稽古中(中央)。「ロールプレーで子どもを叱る役をした親御さんはそれはダメだと気づく。演じてみてとても勉強になった」。学びに貪欲だ(撮影/東川哲也) ■怒りが顔に出た研修医時代、患者から怒鳴られたことも  ラグビーに熱中していた山中は、練習後に病院での実習に遅れて駆けつけ、成田にキツく叱られたことがある。 「患者さんを待たせるなんて信じられない、と。めったに怒らない子がカンカンで。僕はとにかく謝るしかなかった」と頭をかく。真面目で頭脳明晰(めいせき)、字がきれいな成田から借りたノートのおかげで単位が取れた。救ってもらったノートのコピーはいまだに持っている。  逆に山中が成田を救ったこともある。「骨学」の授業で200種類以上の骨の名前を英語と日本語で覚えなくてはいけないのだが、成田は「覚えなきゃいけない意味が分からない」と言い張り、追試になった。だが、試験をパスしなくては卒業が危うい。山中は仲間とともに成田を説得。放課後も大学に残って、骨の名前を覚えさせた。  解剖実習も印象に残る。ホルマリン漬けにされた献体を学生たちは2人1組で2~3カ月かけて解剖させてもらう。山内・山中組はともに熱心に取り組んだ。通常はビニールの手袋をするが、少し経つと成田は素手でやり始めた。 「すごく驚いた。手袋をすると感覚が鈍ると思ったのか、ご献体に対する敬意なのか」と、山中は成田の学ぼうとする迫力に圧倒された。  山中の思い出の中では、成田は一点の曇りもない幸せそうな医学生に見える。そのことに対し成田は「さまざまな人との出会いに救われた。山中君もそのひとり。大学に入って、成人して、すごく充実した6年間だった」と感謝する。  大学を卒業し小児科の研修医になった成田は、そこで世間を知る。「子どもが泣き止まない」と救急車に乗ってやってくると、2週間前からのおむつかぶれだった。 「子どもがかわいそう」  若い成田は怒りが顔に出る。患者から「態度が悪い」と怒鳴られた。殴られたこともある。 「はらわたが煮えくり返ったけど、彼らの仕事の環境や育ちの背景を知っていれば、もっと違う対応ができたのにと思う。医者にそんな目がないと、児童虐待は予防できないから」  成田にとって人間修業ともいえるような研修医時代。そこで出会った同期が、夫の正明(57)だ。27歳で結婚を決めたが、母から「(正明の)家が医者じゃない」などと言って反対された。なんとか説得し新居への引っ越し日を迎えたが、母にマンションの契約をキャンセルされてしまう。親との葛藤に心をズタズタにされた成田は、飲めない酒を浴びるように飲んだ。床に倒れて寝る妻を、正明は何も言わずに支えてくれた。 「僕と彼女は性格が正反対。彼女はすべてにハッキリしている。自分で答えを出して突き進むのを、僕はただ見守っている感じ」と話す。  結婚から4年後、米セントルイスへ夫とともに留学し発達脳科学などを学ぶ。帰国後、二つの病院の小児心理外来で診察するなか、現在の活動の源流になる男児と出会う。発達障害者支援法が初めて施行された2005年のことだ。診察から3分で、高機能の自閉症スペクトラムだとわかった。いじめられ、我慢した末の不登校。強い衝動性とうつ症状が見られたが、小学6年生という年齢に不相応な完璧な敬語を話した。 「口達者な子に見えるが、できないことをそれでカバーしている」と保護者や担任に伝えた。 大学で講義中。「親に葛藤を抱える学生は今も多い。他大学も含め、学生たちは“健常”なはずなのに異常な部分がある」と心配する。「先生は私たちを絶対に見捨てない」と成田ラボの人気は高い(撮影/東川哲也) ■無期限で支援する仕組み、アクシスを立ち上げる  担任が登校を強要せずじっくり関係を築く努力を始めたら、男児は訪問に来る担任のために卵焼きを焼くようになった。 「彼は毎回、命を懸けて卵焼きを作る。卵焼きはどんどん美味しくなり感謝される。自尊感情が育ち、学校に行けるようになった」(成田)  その後、男児は「自分の経験を社会に役立てたい」と思うようになる。専門学校から大学へ編入したら、クラスの半分が留学生。日本語がわからず右往左往していた。「まるで自分じゃん!」と感じ、自分から彼らに話しかけた。共感し合って仲良くなれたことを、成田に報告してくれた。 「先生、僕ね、発達障害でよかったよ」  喉(のど)の奥が熱くなった。 「家族ぐるみで支援すればよく育つのだ」と実感した。親も変わってくれた。だが、男児はIT系企業へ就職すると、再び不具合を起こす。 「学校行けた、で終わりじゃない。無期限で支援できる仕組みが欲しい」  そう考えてアクシスを開いた。年齢によって機関が分かれる公ではサポートできない。成田は教育、就労、再就職まで多種多様に支援する仕組みを作った。アフガニスタンで井戸を掘った故・中村哲の影響もあった。 「人の命を救うのは医療よりもまず井戸だと環境整備に乗り出した。畏(おそ)れ多いけれど、先生のようになりたいと思った」  アクシスで臨床心理士を務める上岡勇二(46)は「親御さんを説得する力がすごい」と成田を敬いつつも、「実はけんかばかりしている」と明かす。アクシスの料金が安価なので採算が取れず、成田の持ち出しが大きい。値上げを提案するが、米国の寄付社会を見て私財をなげうつ覚悟のボスは取り合ってもくれない。 「上岡は正しい。でも、今は我慢の時なの。ただ、まわりがイエスマンばかりでは自分がブレるから彼には感謝してる」と成田は微笑む。  もうひとり、「お母さん、それ、おかしい」と言ってくれるのが娘の佳奈子(21)だ。母と対等に話せる、天真爛漫(らんまん)な子に育った。 「自分の理想とする家庭を作ったら、自分は救われるのではないか」と考え、「子育ては自分が母にしてほしかったことをしてきた」と言う。抱きしめ、認め、自己肯定感を育んだ。  ただひとつ、母が自分にしたことと同様なのは早寝早起きだ。幼児期からずっと夜は8時に寝かされた。確実に脳が育っていたからこそ、あれだけの心理的ストレスがありながらこころが壊れなかったと考える。学んだ脳科学の証左もあって、夜7~8時に就寝、朝4時起床の生活をさせた。  佳奈子は母の後を追うように国立大学の医学部に合格。実家を出た今も同じ生活リズムで暮らす。 「あんたは実験台だからって言われてきました。早寝早起きをしたから今があると私も思っている。ドラマやアニメが見られなくても、友達があらすじを教えてくれたから、自分も見た気になれた。長期的な計画で育ててくれて感謝している」  無条件の愛に包まれた佳奈子の弾ける笑顔。娘によって、母である成田は救われたのだ。 「あの母だったからこそ、私は子どもたちに向き合える。だって、目の前の子は、バーチャルな私。だから、絶対見捨てないと思える」  成田の人生は、人を救い、人に救われる旅だ。 「大好きという想いを伝える代わりに、母親のボタンを盗む。かつての私のような子を減らしたい」  母への、そして、自分への赦(ゆる)しが、成田を衝き動かす。母のボタンは今も裁縫箱に眠っている。 (文中敬称略)    ■なりた・なおこ 1963年 宮城県出身。3月生まれで体が小さかった。8歳で兵庫県に引っ越す。  75年 神戸女学院中学部入学。高等学部に進む。映画「グリース」、ドラマ「大草原の小さな家」に感動しアメリカに憧れる。英語の勉強に精を出す。  81年 一度も塾に通わず自力で神戸大学医学部に現役合格。お茶、料理も習い大学生活を満喫する。  87年 大学卒業後は関西で研修医に。小児科医の道を歩み始める。  90年 正明と結婚。  94年 米国セントルイスワシントン大学医学部へ夫婦で留学。分子生物学、発生生物学、発達脳科学の研究をスタートさせる。正明によると「最初からネイティブ並みに英語を話し驚かされた」。不動産業者と交渉しコンドミニアムまで購入(帰国時に売却)。  98年 帰国後、獨協医科大学越谷病院(現・同大埼玉医療センター)小児科に勤務するも、すぐ妊娠が判明。体調が悪い日の当直は、正明が自分の勤務先から1時間半車を飛ばして代理を務めた。  99年 長女・佳奈子誕生。奈緒子より佳き子にという願いを込め命名。 2000年 筑波大学基礎医学系講師に。その後、2病院で小児心理外来を開設。小児科の臨床と基礎研究に従事する。  05年 文教大学教育学部特別支援教育専修准教授に。正明は06年から三重大学大学院医学系研究科教授に。  09年 文教大学教授に。  14年 医学・心理・教育・福祉を包括した専門家集団による親子支援事業「子育て科学アクシス」を開設し代表に。薬を不必要に用いず、大人の接し方を変えて子どもを変えていく手法は、発達障害の症状がある子どもに対する精神薬の過剰処方に警鐘を鳴らす意味も込めている。  18年 『子どもの脳を発達させるペアレンティング・トレーニング 育てにくい子ほどよく伸びる』(上岡勇二と共著)を刊行。  19年 公認心理師資格取得。NHK「あさイチ」などに出演。 ■島沢優子 著書に『世界を獲るノート』(カンゼン)、『部活があぶない』(講談社現代新書)など。本欄ではラグビー日本代表前HCエディー・ジョーンズ、脚本家・福田雄一、受刑者支援を行う三宅晶子らを執筆。 ※AERA 2020年3月30日号 ※本記事のURLは「AERA dot.メルマガ」会員限定でお送りしております。SNSなどへの公開はお控えください。
AERA 2020/09/03 04:29
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