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ジェーン・スー「女にはお金で解決できる悩みがある」を実感した夜
ジェーン・スー ジェーン・スー
ジェーン・スー「女にはお金で解決できる悩みがある」を実感した夜
ジェーン・スー。東京生まれの日本人。作詞家、コラムニスト、ラジオパーソナリティ。TBSラジオ「ジェーン・スー 生活は踊る」のMC。著書に、『貴様いつまで女子でいるつもりだ問題』『女の甲冑、着たり脱いだり毎日が戦なり。』『生きるとか死ぬとか父親とか』『これでもいいのだ』、対談集に『私がオバさんになったよ』『女に生まれてモヤってる!』  こんな時こそ欲しい「癒やし」。でも外出自粛のなか、それはかなわない……それならせめて、文章で癒やされてほしい! コラムニスト・作詞家のジェーン・スーさんの最新刊『揉まれて、ゆるんで、癒されて』(朝日文庫)から、ちょっとスッキリした気分になれるエッセイをお届け。仕事でイライラ、凹んだ気持ちを回復するために訪れたネイルサロン。女性がお金を使って癒される効能を考えます。 *  *  *  仕事、仕事、また仕事。今日はそのうちのひとつでムカッとくることがあって、かなりイラッとしました。早々にスカッとしたい気分です。  こういう時、私の自尊心はたいてい底を突いています。「ムカッ」も「イラッ」も、不当に扱われたと感じたときに起こりやすい感情だからです。そして、心のどこかで「ああいう扱いを受けるということは、私にはあまり価値がないのかも」と思ってしまう。このままの状態を放置しておくと、ほどなくして怒りは消沈に変わり「どうせ私なんか……」と卑屈モードで固定されてしまいます。よろしくない。大変よろしくない。  とは言え、明日もフツーに仕事。無謀なことをしてストレスを発散するわけにもいきません。スカッとしながら自尊心も回復できる、なにか良い方法はないものでしょうか。  あ、そうだ。ペディキュアに行こう!  突然ひらめき、私は広尾の老舗ネイルサロンに電話を掛けました。ここに行けば、大丈夫。運良く当日の予約が取れ、私は店へと急ぎました。  十数年前、一世一代の失恋をした時にも、私はこのサロンにいました。ほとほと弱っていた私に、ネイリストさんは優しく微笑みながらこう言いました。 「女には、お金で解決できない悩みなんてないんですよ」  彼女なりのジョークだったと思います。しかし、手足の指をうやうやしく手入れしてもらったあと、私の心は少しだけ、しかし確実に上向いていました。わかりやすく大切にされるのって、凹んでいるときには特に功を奏します。  最近ではリーズナブルなジェルネイルが定番となりましたが、私はネイルポリッシュでペディキュアをしてもらうのが大好きです。時間はジェルネイルの2倍かかるけれど、物理的に動けない時間を長く作る分、気持ちがゆったりと落ち着いてくるから。  ネイリストさんと近況報告をしながら足浴をしたら、専用の器具で丁寧に爪を切ってもらいます。自分ではなかなかできない甘皮の処理をお任せし、かかとは肥厚した角質を削ってすべすべに。この時点で、私の硬くなった心もだいぶ柔らかく変化しています。  足の爪は普段の生活で人目に付かないので、大胆に色で遊びましょう。10本の指すべての爪を違う色にしたり、黒や紺など手の爪に施すには少し勇気のいる色を選んだり。Pinterestのカラーチャートを見ながら、好みの配色を選ぶ楽しさと言ったら! 100以上あるネイルポリッシュを見ているだけで、心が明るく泡立ってきます。  色を決めたら、あとはネイリストさんが美しく仕上げてくれるのを待つだけ。ネイルが乾くまでは、ふくらはぎをオイルマッサージしてもらいましょう。今日は肩首のマッサージまで付けました。これ以上の贅沢はありません。これ以上、人に優しく扱ってもらえることもそうそうないよ。  乾かす時間まで含めて2時間たっぷり。オプションも付けたので、お値段は15000円弱。大満足です。だって、私の心は確実に上向きになったのだから。  すべてとは言いませんが、女にはお金で解決できる悩みがある。それを再認識した夜でした。
ジェーン・スー女子朝日新聞出版の本読書
dot. 2020/05/15 17:00
コロナ感染した息子を自宅看護する母親が語る恐怖と絶望「夜、眠れない」 緊急事態一部解除も消えぬリスク
コロナ感染した息子を自宅看護する母親が語る恐怖と絶望「夜、眠れない」 緊急事態一部解除も消えぬリスク
※写真はイメージです。記事本文とは関係ありません(getty images)  安倍晋三首相は14日、首相官邸で記者会見し、新型コロナウイルスに関する緊急事態宣言を39県で解除することを明らかにした。一方、厚生労働省の調査によると、新型コロナの感染者で自宅療養している人の数は今月7日時点で957人。同日の回復者を除く感染者数は6697人なので、全体の1割以上が自宅で過ごしていることになる。感染者が自宅で過ごすことは、家庭内感染につながる危険性がある。  そこで本誌は、新型コロナに感染した息子を自宅で看病した女性を取材。そこから見えたことは、自宅療養する人の看病で感染におびえる日々、差別や偏見を恐れて社会から孤立し、にもかかわらず行政や医療機関の支援がほとんどない日本の新型コロナ対策の現実だった。 * * *  千葉県に住む谷本緑さん(仮名)の暮らしが一変したのは、3月下旬のある日だった。  この日、新型コロナの感染拡大前から海外に渡航していた息子が、日本に帰国することになった。ところが、息子は日本行きの飛行機に乗る前日に発熱。一時的に熱が下がったので飛行機に乗ったが、成田空港に到着した時には体調が再び悪化し、立っているのもやっとの状態だった。この時から苦悩の日々が始まった。谷本さんは、こう話す。 「熱が出ていたことは、息子は成田空港の検疫で伝えたんです。なのに、検疫では診察や検査を受けるようにという指示もなく、そのまま日本に入国が認められました。それで、自宅に帰ってから夜に救急車で病院に行くことになりました」  3月29日には、お笑いタレントの志村けんさんが新型コロナに感染したことが原因で死去。この頃から日本国内では感染拡大に警戒が強まっていた。谷本さんは医師にPCR検査を依頼したが、当時の基準では、PCR検査は37.5度以上の熱が4日以上続かないと検査してもらえない。医師からは「ただの風邪かもしれないので、熱が続くようならもう一回来て下さい」と言われ、断られた。  だが、自宅に戻ってからも熱は下がらず、4日経ってから再度病院を訪問。その時にようやくPCR検査を受けることができた。結果は陽性。これで治療が受けられると思ったが、そこで言われたのは「病床に空きがない」という、まさかの言葉だった。それで自宅療養せざるをえなくなった。自宅では、息子は高熱だけではなく、息苦しさ、鼻づまりなど新型コロナに感染者がかかる特有の症状に苦しんだ。 「病院でもらえたのは解熱剤ぐらい。一時的によくなっても、ぶり返して悪くなる。その繰り返しでした。症状が治まらない恐怖と激しい頭痛で、息子は何度も涙を流していました」  新型コロナは感染症法が定める指定感染症であるため、入院すれば治療費や食事は原則無料となる。しかし、自宅療養だと出費が多い。  看病する谷本さんも、神経をすり減らす日々が続いた。まずは、同居する家族に感染することを防がなければならない。息子を独立した一つの部屋に隔離し、息子が部屋を出た時は、廊下、ドアノブ、電気のスイッチなどをすべてアルコール消毒した。トイレは、息子が使用した後は電気を消さないようにした。電気が点灯している間は「消毒が終わっていない」というサインで、他の家族が消毒前にトイレに入らないようにするためだ。  電気が点灯している間の消毒作業は、谷本さんが一人でやる。マスクとゴム手袋をつけ、作業中は息も止めた。24時間態勢の看病のために仕事に行けなくなり、収入も減った。緊張感の続く日々で「最初の1週間は、眠ることができなかった」という。  厚労省の自宅療養者向けのガイドラインでは、感染者の看病は<特定の人が担当する>となっている。感染のリスクを減らすためだ。しかし、日本では家事の多くを女性が担う。結果的に、谷本さんのような母親が、一人で感染者の看病をせざるをえなくなる。そのことも、谷本さんの負担を大きくした。  保健所とは毎日のように電話で話をした。だが、病院のベッドが空いていない以上、保健所の職員は何もすることができない。 「保健所の人と電話で話していると、お互いにグチの話が多くなってくるんですよね。入院する患者の順番も県が決めているとのことで、職員さんも『県や国の方針が決まらない。対応が遅い』といった話をしていました。本当に、将来が見えない状況でした」  前出のガイドラインでは、感染者を看病する家族は、サージカルマスクや手袋、使い捨てできるガウンなどを使用し、接触後はアルコール消毒をするよう推奨している。ところが、そういった医薬品は自治体から何一つ提供されなかった。  日本の新型コロナ対策は、集団感染を防ぐことを重視している。いわゆる「クラスター対策」だ。PCR検査の能力が限られていることから、陽性者と濃厚接触した人を徹底的に検査し、隔離するという戦略だ。ところが、谷本さんの夫は、PCR検査を求めても断られた。  夫は、息子の検査結果が出るまで外で仕事をしていた。もし会社の人に感染させたとなると、早急な対応が必要となる。最終的には「体調が悪いことを大げさに訴えて、ようやく検査してもらえた」という。検査結果は幸い陰性だったが、クラスター対策では、家庭内感染の危険性は重視されていなかった。  これだけではない。谷本さんの家族から感染者が出たことが知れ渡れば、差別や偏見を受けるかもしれない。また、自分が感染してしまったら近所の人にも迷惑をかける。そのため、誰とも会わないと決めた。自宅マンションのエレベーターは使用せず、買い物は生協の配達や信頼できる友人に頼んだ。友人にはドアの前に荷物を置いてもらった。どうしても買い物が必要な時は、近所のスーパーの閉店間際を狙って出かけるしかなかった。 「日本でも、感染者が出た家族の家の玄関に落書きされたという報道もあって、自分たちもそうなるかもと思ってショックでした。今でも、息子が感染したことが周囲にバレることが、本当に怖いです」  感染症は人間社会に差別を生む。谷本さんも、自分たちの家族の感染を心配する以上に、周囲からの“目”に神経質になっていた。  息子が自宅に戻ってから20日を過ぎ、家族の疲労もピークに達していた。その間、保健所などには入院の必要性を繰り返し訴えた。最終的に入院が認められたのは、4月下旬になってから。近所の病院で感染者用のベッドに空きが出ることがわかり、急いで入院の手続きをした。 「本来なら、成田空港でPCR検査してもらっていたら、もっと早くに医師がいる帰国者向けのホテルに入れたんです。それが今でも許せません。自宅で看病するには限界があります。それで息子の症状が長引いたんじゃないかなと思うとかわいそうで……」  家族に感染者が出なかったのは、谷本さんの努力なくしてありえなかっただろう。知人の女性は、「3月にはマスクも消毒液も売ってなかった。私の家族で感染者が出たら、全員が感染していたと思う」と話す。  自宅療養する軽症者が感染拡大の原因になっていることは、1月の時点から指摘されていた。世界で最初に感染爆発がおきた中国の武漢市では、2月以降はホテルや体育館を隔離施設に改造して、軽症者を次々に家族から引き離した。それが流行拡大の抑え込みに効果的だったとの指摘もある。重症者は病院で治療し、軽症者はホテルなどに隔離する。自宅療養せざるをえない場合は、行政が徹底的にサポートする。感染拡大を防いだ国々に共通する戦略だ。  谷本さんの息子が入院してから約3週間が経過したが、いまだに喉の痛みや頭痛があるという。ところが、PCR検査で陰性になったことから、退院を求められている。しかし、退院すれば再び、谷本さん家族は緊張感の続くコロナ介護が始まることになる。ようやく再開できた仕事も、また休まなければならない。  日本では、4月21日に埼玉県で自宅療養中の50代男性の容体が急変して死亡したことを受け、政府は軽症者でも基本的にホテルなどの施設で療養する方針に変更した。だが、5月7日現在でも感染者の1割以上が自宅で過ごしている。子供や高齢者などの世話が必要で、自宅療養を選ぶ人も多いという。家庭内感染の恐怖と闘っている人の数は、公表されている957人よりはるかに多いはずだ。(本誌・西岡千史) ※週刊朝日オンライン限定
新型コロナウイルス
週刊朝日 2020/05/15 11:54
「エンタメは今後も当たり前に続くわけではない」とYOSHIKI コロナで揺らぐあり方
「エンタメは今後も当たり前に続くわけではない」とYOSHIKI コロナで揺らぐあり方
YOSHIKIさん/作詞家、作曲家、「X JAPAN」リーダーとしてピアノ、ドラムを担当。これまでに天皇陛下御即位十年記念式典の奉祝曲や、米ゴールデングローブ賞公式テーマ曲を手掛けるなどグローバルに活動。現在、YOSHIKIの顔写真を採用した「楽天カードYOSHIKIデザイン」が好評入会受け付け中  エンターテインメント界が新型コロナウイルスにより、甚大な被害を被っている。X JAPANのYOSHIKIさんは、当たり前に続く認識を改める重要性を指摘する。AERA 2020年5月4日-11日号から。 *  *  *  9.11同時多発テロがあったころ、ニューヨークにコンドミニアムを持っていたんです。マンハッタンの高層ビルの39階にあったのですが、当時はそのような惨事が起きたことがあって、その場に行くのを躊躇するようになってしまいました。  9.11は世の中のセキュリティー意識を劇的に変えました。でもそれは米国で起こったこと。今回の新型コロナは全世界レベルです。比べることではないのかもしれませんが、あえて言うならば、9.11の比ではない変化が訪れてもおかしくはないと思います。  たとえば、これからはどんな場所であろうと「密集すること」に抵抗感が生まれる可能性があると思う。「人と同じものに触れる」ことも避けるようになるはずです。  いまニューヨークや東京のような大都市には人々が密集して生活しています。だけど今回のことで、リモートワークでも仕事は成り立つということがある種証明された。じゃあ会社に行くのは週に1回でいいかもしれない、となった場合に、果たしてみんなが都会に密集して生活する意味はあるだろうか。  そう考えると、エンターテインメントの世界も変わる可能性が強い。映画館やコンサート会場で、あの距離感でみんなが集まる世界にまた戻るのかといったら、僕はそうはならない可能性もあると思う。  もちろん、エンターテインメントはいつの時代でも必要なものだと思います。変わるのは、そのあり方です。いままで当たり前のようにやってきたことが、今後も当たり前に続くわけではない。まず、世界がどのように変わるかを考えたうえで、グローバルな視点でエンターテインメントが存在するポジションを見極めていく必要があると思っています。もちろん、自分としてもできる限り、いま現在苦しんでいるライブハウスを含めた業界の方々に支援を行いたいと思っていますが、時代が変わるということを自分も含めて再認識しなければならないと思います。 ――4月10日、YOSHIKIさんはニコニコチャンネルの自身の番組「YOSHIKI CHANNEL」で、ファンに自分の声を届けるため、LAの自宅から生配信を敢行した。事前準備から配信中の進行まで、すべての作業をたった一人で行う初の試みは、セッティングトラブルにより遅れてスタート。途中うっかりワインをこぼすなど、イメージとはかけ離れたドタバタ劇が展開された。  昔、デヴィッド・ボウイさんと対談したことがあって、そのとき彼に「どこまでがステージの自分で、どこからが本当の自分なんですか?」と聞いたんです。彼は「いい質問です。でも難しい問題です」と言って、結局答えられなかった。  僕もその日以来、ずっと考えているんです。人はみな「そう見られたい自分」と「本当の自分」があると思いますが、考えれば考えるほどその境界がわからなくなってくる。  ただ、今回の新型コロナによって一つわかったことは、自分はアーティストである前に人間だったんだな、ということ。だからアーティストのYOSHIKIを強調する必要はないし、ありのままの姿をみなさんに見ていただきたいと思ったんです。それは全然かっこいいものではないかもしれない。自炊能力もほぼゼロですし(笑)。でもそんな部分も見ていただくことで少しでも笑ってもらったり、みなさんの心に寄り添えればな、と。  きっとそう遠くない未来に夜は明けると思う。いまはみんなが暗闇の中にいる。でも、こういうときだからこそ見えるもの、ポジティブなことってどこかにあると思うんです。それをみんなで一緒に探していければと思っています。  みなさんの健康を心より祈っています。 (構成/編集部・藤井直樹) ※AERA 2020年5月4日-11日号より抜粋
新型コロナウイルス
AERA 2020/05/11 11:30
天龍源一郎が語る“これからのプロレス” 必要なのはアントニオ猪木とマサ斎藤のような人生模様?
天龍源一郎 天龍源一郎
天龍源一郎が語る“これからのプロレス” 必要なのはアントニオ猪木とマサ斎藤のような人生模様?
天龍源一郎(てんりゅう・げんいちろう)/1950年、福井県生まれ。「ミスター・プロレス」の異名をとる。63年、13歳で大相撲の二所ノ関部屋入門後、天龍の四股名で16場所在位。76年10月にプロレスに転向、全日本プロレスに入団。90年に新団体SWSに移籍、92年にはWARを旗揚げ。2010年に「天龍プロジェクト」を発足。2015年11月15日、両国国技館での引退試合をもってマット生活に幕を下ろす(撮影/写真部・掛祥葉子) リモートワーク中の天龍源一郎(写真提供/天龍プロジェクト)  50年に及ぶ格闘人生を終え、ようやく手にした「何もしない毎日」に喜んでいたのも束の間、突然患った大病を乗り越えてカムバックした天龍源一郎さん。2月2日に迎えた70歳という節目の年に、いま天龍さんが伝えたいことは?今回は「これからのプロレス」をテーマに、飄々と明るく、つれづれに、そして現役レスラーへの感謝も込めて語ります。 * * *  ちょっと前に、藤田和之選手と潮崎豪選手が無観客試合で30分以上にらみ合ったままの試合が話題になっていたね。試合開始から約30分間、二人ともずっとにらみ合いをしたままで動かないという、これまでにない試合だったけど、これは(アントニオ)猪木さんからの薫陶を受けた藤田選手と、三沢(光晴)選手から薫陶を受けた潮崎選手の二人だからできた試合だと思うよ。猪木さんの下にいた藤田選手がプロレスを離れて総合格闘技に出たりしてまた戻って。潮崎選手は三沢選手から“四天王プロレス”を受け継いだ王道的なスタイル。同じプロレスでも正反対にいた二人がどう絡むのか? と注目された試合でお互いの気持ちをぶつけ合う「心の序段」が、30分にも及ぶにらみ合いになったわけだ。今は「こういう試合もいいじゃないか!」という人と「なんだよ……」と思う人が半分くらいだと思うけど、これからそれの比率が変ってくるんじゃないかな。「プロレス」というものをこうして語るきっかけにもなった試合だと思う。  元祖無観客試合といえば、猪木さんとマサ斎藤さんが戦った「巌流島の戦い」(※)だよね。この当時は生放送が主な時代だったもんで、無観客試合をやると聞いたときは漠然と「変ったことやる人だな。観客もいないし、大変だろう」って思ったよ。試合の話を聞いたときの興味は70パーセントくらいだったけど、やっぱり「何をやるんだろう?」って気になって見るよね。  あの試合も猪木さんとマサさんだからこそできた、テレビで見ているファンを飽きさせなかった試合。今の世代のレスラーたちがやっても“説得力”がないと思うんだよね。どういうことかというと、あの頃の猪木さんの新日本プロレスを背負っている背景とかそれにまつわる人間関係とか、マサさんのプロレスラーとしての生き様、人生模様を俺たちの世代やちょっと後までの世代は把握していたからこそ、無観客で戦うことを納得して見られたわけだ。二人の生き様、お互いの思いがあっての戦いに、俺たちやファンもいろいろ思いを重ねながら見ていたんだね。それを知らなかったら「なんだよ、これ」って言うでしょうね。見る人を選ぶ試合ですよ。  そういう背景が今のプロレスにも、もう少しあっていいと思うんだ。今は試合が始まると同時にずっと動いてなにかしていないとお客さんが満足しないから難しいけどね。それと同時に、じっとにらんでいるだけで様になるような風格と貫禄を持ったレスラーがいるかといったら……。今のレスラーでその可能性がありそうな選手は誰かって? それは言わないでおくよ! いろいろなことに関わるからね(笑)。  とはいえ、やっぱり今のレスラーも頑張っていますよ。レスラーはリングに上がって、ファイトマネーをもらう商売だけど、やっている選手はみんなお金のことだけじゃなく、夢を持って頑張っていると思う。俺はプロレスという調味料が世に必要だと思っているし、自分の身を削ってやる職業にプライドを持ってやってほしいと思う。  プロレスの魅力を極端に言えば“肉体のせめぎ合い”。これを見せて、さらに多様な空中殺法や新しい技術が開発されて、ファンがそれに魅了される。プロレスの歴史はこれの繰り返し。ほかのジャンルでも長く続いているもの、例えば古典落語もそう。漫談はどんどん変わっていくけど、落語は古典という基礎があって、その基礎の上に枝葉を付けていくのがいい落語家。いい落語家というのは古典をしっかり覚えていて、漫談も面白いでしょう。(春風亭)小朝さんなんかも古典の土台があったうえで、マクラに時代考証を取り入れて自分の中で消化して、絶妙に面白くしているよね。小朝さんの高座を生で聞くというのが今の俺の夢なんだ。  落語は30歳をすぎてから(三遊亭)円楽さんと付き合うようになって聞き始めて、同じ話でも演じる人によって聞く方の受け取り方や感じ方が違うのが分かったんだ。これってプロレスと一緒で、同じ技でも使うレスラーによって技の印象や観客の受け取り方が違うもの。円楽さんもプロレス好きだし、落語と通じるところがあるのかもしれない。プロレスを見ながら感じたことを落語に取り入れたりしてね(笑)。  落語に歴史があって、その伝統を落語家さんたちが受け継いできているのと一緒で、力道山関から始まった日本のプロレスもレスラーたちが受け継いできた。その70年の歴史が、今はこんな状況でかろうじて、ちろちろと燃えている状態。その火を消してなるものかと頑張っているレスラーたちの姿に俺は感激している! 後輩たちがプロレスというものに燃え上がっているのを見るのは嬉しいね。今のレスラーに対しては「お前ら頑張ってくれてありがとう!」っていうのが正直な気持ちだ。  11月15日に天龍プロジェクトの大会を予定しているけど、そういう感謝が出るようなイベントになるんじゃないかな。天龍プロジェクトは小さな所帯だけど、俺や代表(娘の嶋田紋奈さん)をはじめ、スタッフもみんなレスラーやファンに支えられているという思いが強い。詳細はまだ言えないけど、プロレスにワクワクしてもらう、楽しく生きよう、頑張ろう、そういう活力になってもらえるイベントにしようと準備しているところなんだ。  え? 俺がまたプロレスをしたいかって? 全然! 全く思わない! 引退を決意してからもあれだけ体を痛めつけて、だましだまし何カ月もやってきた自分の気持ちを裏切るようなことはしたくない。選手としては完全燃焼だよ。今はプロレスを見ながら「ああでもない、こうでもない」と言っているのが気楽でいいね。よく野球や相撲でも「現役を辞めた人は一段も二段も技術が上がる」と言われていてね、俺も今はそういう状況。なぜかというと、他の試合を画面を通して何回も見ているうちに目が肥えてきて、技量が上がったという錯覚が起きるんだ。いろいろなスポーツで解説をやっている人はそうなるんだって。  じゃあ、今の技術で現役時代に戻ったらもっとすごいプロレスができたかって? 天龍源一郎は天龍源一郎のプロレスしかできないから、結局変わらないんじゃないかな。それにまたやるとか言い出したら、女房と娘が絶対に反対するから! ファンからの復帰を望むコメントも二人で隠して俺の目に入らないようにしているんじゃないか(笑)。  今はなかなか先が見えない状況で、まいっている人も多いと思う。俺は現役時代、手術で1年間試合に出られなかったことがある。そのとき「俺はサイボーグになって戻る!」と宣言したんだよね。「悪いところが全部治って永久にプロレスをやれる体になれるんじゃないか」と思っていたよ。すべて良くなるという前向きな姿勢で、後悔とか、過去を振り返ることは全然なかったな。思い返すと俺の人生はずっとそうで、プロレス修行でアメリカへ行ったときも、全然仕事がなくて飯が食えない日が続いてさ。それでも夜空を見上げて「誰がどこかで俺を見てくれているはずだ」って元気を出していたよ。自分でも乙女チックだと思うけどさ(笑)。苦しいとき「誰かがどこかで見てくれている」というのは俺の言霊で、みなさんに分け与えてあげたい言葉。みんな「俺なんて……」とか「どうせダメだ……」っていう言葉で片づけちゃいけないよ! 身近にいる人、あなたのことを気にしている人がいるから絶対に投げ出しちゃダメだよ。 「誰かがどこかで見てくれている」というのはレスラーにも伝えたいね。相撲でも今年の春場所を無観客でやったけど、相撲は観客がいてもいなくても勝ち負けで番付が上下して、来場所の自分の生活環境が一変するような世界。でも、プロレスはお客さんがいないと潤わないし、プロモーターや勧進元がつきにくいから無観客で行うのは難しいと思う。無観客でも大きな技を決めたときには頭の中に大勢の観客が沸いているシーンを思い浮かべながらうぬぼれるのがレスラー。でも、半信半疑な部分もあって、こんな状況だから見ている人はいないだろうなっていう自虐的な面もあるんだよね。それが、誰も見ていないと思っていた試合で、ファンから「見ました!」「楽しかった!」というようなメッセージが本人に伝わると感動しますよ。そこになにかしらの“心づけ”があったらなおいいよね!  ライブ配信なんかでも「誰かがどこかで見てくれている」ということだ。レスラーもそういう思いを持って、試合に対しても自分の行動に対しても、責任を持っていつもカッコつけていてほしいね。「男だったら、いつでも真っ赤な靴下をはいてカッコつけて歩いてみろよ!」とね(笑)。 ※1987年10月4日に巌流島で行われたアントニオ猪木V.S.マサ斎藤の時間無制限、ノーレフェリー、ノールール、無観客の試合。2時間以上にわたって死闘が繰り広げられた。 (構成/高橋ダイスケ)
プロレス天龍源一郎相撲
dot. 2020/05/10 07:00
淀川長治さん「つまんない映画」でも途中で帰らず…その深いワケ
淀川長治さん「つまんない映画」でも途中で帰らず…その深いワケ
淀川長治さん(撮影/片山菜緒子) 林真理子さん(撮影/片山菜緒子)  作家・林真理子さんの連載「マリコのゲストコレクション」は今年、連載開始から25周年を迎えます。これまでご登場いただいたゲストの中から、今回は「元気が出る言葉」を厳選。1998年4月3日号から映画評論家・淀川長治さんです。  *  *  *  映画黎明期から映画を見続けてきた日本を代表する映画評論家、淀川長治さん。32年間にわたって解説を務めた「日曜洋画劇場」のラストに、「サイナラ、サイナラ、サイナラ」のセリフで締めくくるのがお決まりでした。亡くなる7カ月前に登場いただいたときには、「これが人生最後の対談だからね、もっと聞いてね」と、マリコさんに質問をせがみ──。 ★ 林:先生、お元気そうですね。 淀川:あのね、僕は来月死にますからね。 林:エッ、そ、そんなこと……。 淀川:四月十日で八十九歳ですからね。(手に持った赤い手帳を開いて)これ、僕のスケジュール帳で、一日がすんだら、このとおり赤い線を引いていくの。今日生きた、また今日生きた……。死刑台の階段なの。 林:そんなー。(手帳をのぞき込んで)あ、スケジュールがいっぱい。これじゃ、当分亡くなれませんよ。 淀川:それで困ってるの(笑)。いつ死んでもいいけど、明日、新しい映画の試写があると、死ねないのね。 林:いまも毎日、試写にいらしてるそうですけど、ご覧になって時間を無駄にしちゃったと思うことってございますか? 淀川:つまんない映画見たら、腹が立って、ものをぶつけたくなるね(笑)。ついこのあいだも、試写室出ようとしたら、プロデューサーがドアのところで待っていて、「先生、どうでした?」って言うから、「最低!」って言ったの。 林:先生に「最低!」って言われたら、映画関係者の方、つらいですね。 淀川:それは仕方ない。最低だもの(笑)。でも、途中で帰ったことはないね。だって、いいところがあるかもわからないから、エンドマークまで見ないとね。 林:じゃ、今日の映画は良かった!というときは、ニコニコしながらお出になるわけですか。 淀川:ニコニコどころか、うれしくてひっくり返ってるね。いつもは六百円ぐらいの丼を食べるんだけど、その日は千五百円ぐらいのを食べるね。 (中略) 淀川:子供のころ、勉強しなかったけど、今まで生きてこられたのは映画を見てたからだよね。映画はいろいろなことを教えてくれるね。映画のセリフで「苦労よ来い。苦労がなかったら人間じゃない」というのがあって、いい言葉だなと思ってメモしたね。 林:先生、映画に夢中でご結婚なさらなかったんですか。 淀川:そうなの。そのころ映画の仕事なんてなかったから、食べていけるかわからないのね。それと僕、気が短いの。コーヒー飲みたいと思って十五分たっても出てこないとイライラして「もういい!」ってなっちゃうの。これじゃ結婚できないものな(笑)。 (中略) 林:でも、もったいないですね。淀川家の血が絶えてしまうのは……。先生には長生きしてもらわないと。 淀川:僕が死んだら、みんな手をたたいて踊るよ。宣伝部で僕に怒られない人、一人もいないのよ。だから僕のお通夜はドンチャン騒ぎよ(笑)。あのね、僕、来月死ぬんだよ。いまのうちにもっと聞くことない? 林:(考え込んで)えーと、あの、先生、失礼な質問なんですけど……。 淀川:失礼なのが好きなのよ(笑)。 林:お棺の中に入れてほしいビデオとか映画のパンフレットって何ですか。 淀川:あんたの写真だね。 林:まあ、先生ったら(笑)。お葬式で映画音楽を流してほしいとかあります? 淀川:そんなキザなことやめてください。「南無阿弥陀仏」ぐらいでいいよ。できたら葬式なしがいいね。生きてる間は頑張って頑張って、臨終の間際まで映画を見たいね。 林:その調子じゃ、百歳になってもお元気な姿が見られそうですね。 淀川:ありがと。でも四月十日に死ぬからね。これが僕の人生最後の対談だからね。 ※週刊朝日  2020年5月8‐15日合併号
林真理子
週刊朝日 2020/05/07 11:30
壇蜜が語る「妻の憂鬱」 夫・清野とおるは「お父さんみたいな人」!?
壇蜜が語る「妻の憂鬱」 夫・清野とおるは「お父さんみたいな人」!?
30代になって体質が変わったという壇蜜さん。「冷えやむくみにきちんと向き合おうと思って漢方薬局に行きました」(撮影/松永卓也・スタイリング/奥田ひろ子・ヘアメイク/妻鹿亜耶子・衣装/AIMER) 実家の料理を振り返り、「よく言われる『医食同源』という言葉のベースには、家族を守るための知恵があると思います」と語る(撮影/松永卓也・スタイリング/奥田ひろ子・ヘアメイク/妻鹿亜耶子・衣装/AIMER) 冷え性の壇蜜さんは温かいお茶を飲むように心がけている。「ほうじ茶やプーアル茶、ウーロン茶、ルイボスティーなど茶色いお茶がからだに合っている気がします」(撮影/松永卓也・スタイリング/奥田ひろ子・ヘアメイク/妻鹿亜耶子・衣装/AIMER)  昨年、漫画家の清野とおる氏と結婚した壇蜜さん。週刊朝日ムック『本格漢方2020』(朝日新聞出版)の取材で語った新婚生活の食卓とは? 謎に包まれた清野さんの素顔や、新妻ならではの苦悩など、誌面には掲載されていないエピソードを大幅に加筆してお届けします。 *     *  * ――ご結婚おめでとうございます。昨年6月にはニュース週刊誌『AERA』の連載「放談バカリズム」にゲストとして登場されて、結婚についてバカリズムさんと語り合っていらっしゃいますね。まさかお二人とも年内に電撃婚されるとは、おどろきました。 壇蜜 ありがとうございます。あのときはぎりぎり結婚の話がはっきり出ていなかったタイミングなんです。なので、とても偶然にそういう話ができてありがたかったです。 ――そのときのインタビューでは、ご自身のお父さまのように絵を描く人が好きだとおっしゃっていました。いま思えばずばり清野さんのことですね。 壇蜜 そうなんです、似ています。彼は父と二人で飲みに行ったりしていて、そうやってうまくつながってくれたらなと思っています。私がでしゃばって彼と仲良くしすぎて、家族が置いてけぼりになってしまうのはよくないので。私は一人っ子なので、結婚によって母や父にとっても息子ができた。家族としてちゃんとおつきあいしてほしいなと思っています。 ――本当に壇蜜さんと結婚したのか、「これドッキリじゃないの」と疑いをかけてくるような相手に「納骨までのドッキリだよ」って言いたいとおっしゃっていました。 壇蜜 責任もって死ぬまでドッキリしますよ。終わらないドッキリ、ちゃんといまでも続けています(笑)。 ――新婚生活の食卓ではどういったことに気をつけていらっしゃいますか? 壇蜜 健康オタクになりすぎないようにしたいです。なぜ食事をするのかというと、空腹を満たし、栄養をきちんと摂る。そして、二人でいる時間を大事にするためでもある。その三つを大切にしたい。毎食チェック項目だらけの食事だと疲れちゃうので、今晩はピザだったから明日は野菜いっぱいにしましょうかというくらい気楽に。3~4日くらいで栄養のバランスを取りたいと思います。 ――たしかに、毎日完璧はしんどいです。 壇蜜 スーパーが私たちの献立事情を阻みますしね。びっくりするくらい野菜が高いときとか、びっくりするくらい目当ての食材がない日もあります。それを考えると「まあいっか」っていう気持ちをもっていないと苦しいなと思います。「お刺し身をどうしても食べたい」と言われて探しに行ったけど、ネギトロしか売っていないときもあった。そういうときにどうするか、代替案を考える心の余裕があるかというと、やっぱり毎日はしんどいです。 ――主婦の憂鬱ですね。 壇蜜 憂鬱ですよ。20代である会社の受付の仕事をしていたときに、新婚の先輩がいたんです。彼女は毎日食堂でお昼を食べていても、晩ご飯のことがチラつくんですって。カレーうどんをすすっていても、「晩ご飯なにつくってあげたらいいだろう」って考えちゃう。「カレーうどんの味が結婚前よりも結婚後は薄まった気がする」って言っていました(笑)。「それは意識がどこかに行っているだけで、食堂は通常営業ですよ」ってつっこんでいたんですけど、いまになってようやくわかります。その先輩は仕事をしながら料理もちゃんとする人で、すごくかっこいい人だったな。 ――漢方には「気」という概念があって、人間関係の波長や相性のようなものも含まれるそうですが、生活を共にされるようになっていかがですか? 壇蜜 私は特殊な仕事で、夜討ち朝駆けみたいなところもあって申し訳なく思っています。それに、疲れているときに、明日のために早く寝なきゃと倍速で動いてしまっている姿を男の人に見せたくない気持ちもある。彼はそういうところをよくわかってくれています。彼も職場に寝泊まりできる環境をもっていて、仕事が大変なときはお互いに我慢しようねというのが共通認識。彼が舵を取って波長のチューニングを合わせてくれているので、感謝しています。 ※週刊朝日ムック『本格漢方2020』より。誌面では壇蜜さん流の健康法と美容法も大公開している。 (取材・文/大室みどり) (プロフィール)壇蜜/1980年、秋田県生まれ。タレント。調理師免許、日本舞踊坂東流師範免許、遺体衛生保全士資格など数々の資格を取得、多彩な職種を経験後に、29歳でグラビアデビュー。昨年11月、漫画家の清野とおる氏と結婚。著書に『はんぶんのユウジと』(文藝春秋)、『はじしらず』(朝日新聞出版)など。
病気病院
dot. 2020/05/04 11:30
“仲間”はこの業界じゃない人のほうが多い 玉木宏が語る「人生の楽しみ方」
“仲間”はこの業界じゃない人のほうが多い 玉木宏が語る「人生の楽しみ方」
玉木宏(たまき・ひろし)/1980年、愛知県出身。ドラマ「のだめカンタービレ」(2006年)、NHK連続テレビ小説「あさが来た」(15年)など、出演作多数。「竜の道 二つの顔の復讐者」(カンテレ・フジテレビ系毎週火曜夜9時)は近日放送予定。ウェブサイト「玉木宏 PREMIUM WEB」内では自身撮影の動画も公開中(撮影/写真部・掛祥葉子)  数々のドラマに出演してきた玉木宏さん。今度は復讐のために裏社会で生きる男を演じる。作品について、そして今年40歳を迎えた自身のこと、後輩との関係性やオフの過ごし方などについても語ってくれた。2020年5月4日-11日号の記事を紹介する。 *  *  * ドラマ「竜の道 二つの顔の復讐者」は、養父母を自殺に追い込んだ男への復讐を誓った双子の兄弟を描いたサスペンスドラマだ。玉木宏(40)が演じるのは、整形して他人の戸籍を奪い、裏社会でのし上がる双子の兄、竜一。弟の竜二(高橋一生、39)はキャリア官僚として出世し、兄弟は裏社会と表社会から復讐の機会を狙う。  このドラマのお話をいただいたときは、嬉しかったですね。一生さんはお芝居がすごく上手な方ですし、これまで同世代の男性と兄弟役でがっつり一緒にやることはなかったので。しかも双子という。  原作(白川道『竜の道』)を読んだときは正直、映像にするのは難しいと思いました。でも台本をいただいたらすごくいい感じでまとめてくださっていて。復讐をテーマにしたドラマはよくありますが、今まで見たことがないようなものに仕上がるのではないかとワクワクしています。  同じ目的を持つ竜一と竜二だが、異なる人生を歩む中で足並みに乱れが生じていく。 「二人で一つ」と言いつつ、周囲の人によって惑わされたり、決断するときに迷いが生じたり……。でも、それは当たり前ですよね。人は人との関わり合いの中で変化していくものですから。竜一は顔も戸籍も変えるほど強い復讐心に燃えているけど、計画は思うようには進まない。そういう生っぽい人間らしさはこの作品においてすごく大事だし、演じる上で重要になる部分だと思っています。  竜一と竜二には血の繋がらない妹、美佐(松本穂香、23)がいますが、竜一は犯罪に手を染める一方で、美佐を守りたいというすごく優しい気持ちも持っている。その振り幅は大きな魅力です。もちろん復讐はいいことではありませんが、その裏にある心情もしっかり描かれています。敵役の遠藤憲一さん(58)が悪く映れば映るほど、僕らを応援してくれる人が増えると思っています(笑)。  竜一は強烈な業を背負った男だ。役に入りすぎて憂鬱になることはないかと尋ねると、玉木はさわやかな笑顔で「まったくないです」と即答した。  竜一は、ある意味で想像しやすい人物です。ここまで強烈な作品だと、自分の実生活と切り離して、想像力を飛躍させることができます。誰かの戸籍を奪う経験なんて、現実ではないですからね(笑)。逆にフラットな日常を描いたもののほうが難しいかもしれない。だから、今回はこのドラマの世界に没頭して楽しんで演じようと思っています。それに、映像作品は撮る順番もバラバラですし、プラモデルのパーツみたいなもの。その瞬間、瞬間で集中して演じますが、カットがかかってしまえばもう「普通」。それは昔からそうですね。  玉木は1月に40歳の誕生日を迎えた。年齢的な節目を意識することはないが、現場で求められる役割には変化を感じるようになったという。  主演を任されることで責任感は増えます。自分のお芝居だけではなくて、俯瞰で現場を見ていかないといけないとか。でも、僕が気をつけているのは「みんなで楽しく撮影をする」ということくらいなんですが。ふわ~っと現場にいて、誰かが喋ってたら自然と交ざったり。楽しいのが一番大事だと思うんです。本来ならみんなで飲みに行く時間も大事にしています。後輩であってもあまり気を使ってほしくないので、縦の関係性を崩していったりしています。一生さんとは同世代だし共通の友人もいるので、改めて話したいですね。ただ、撮影中にあんまり馴れ合いすぎるのもどうかな、という気持ちもあります。 「人が好き」だと言う。いくつになっても人への好奇心をなくしたくない。  自粛前は仲間と食事してお酒を飲んで、早く帰ろうと思っていたけど気づいたら朝6時だった、みたいなこともよくありました(笑)。“仲間”はこの業界じゃない人のほうが多いです。趣味で出会った人とか、仕事の「外」で出会った縁も大事にしたいと思っているんです。まったく違う経験をしながら人生を歩んできた人と出会うこと自体が楽しいし、話を聞くとさらに面白い。俳優はあらゆる職種を演じなければいけませんから、そんな出会いが役に立つこともあるかもしれない。いくつになっても守りに入らず、好奇心旺盛な自分を残しておきたいんです。いつも敏感にアンテナを張っていたい。  常に自分のほうが面白いことをやっているぞ、と思えるような人生の楽しみ方をしたいですね。だから40歳はあくまで通過点。50代、60代になったとき、もっと大きな自分になっていたいんです。 (構成/ライター・大道絵里子) ※AERA 2020年5月4日-11日号
ドラマ
AERA 2020/05/03 11:30
【現代の肖像】沖縄県知事・玉城デニー「包み込む力で『民主主義の逆襲』を狙う」<AERA連載>
【現代の肖像】沖縄県知事・玉城デニー「包み込む力で『民主主義の逆襲』を狙う」<AERA連載>
辺野古新基地阻止へ激務が続く。「ギターと家族とビールが頑張りの源かな」(妻・智恵子)(撮影/山城博明) 分刻みのスケジュールで動く。多角的なリサーチとファクトに基づいた建策を県庁職員に求める。観光業を中心に沖縄経済は上向きだが、格差と貧困も横たわる。明るくしたたかに県政に挑む(撮影/山城博明) 知事公舎の裏庭の菜園で、ゴーヤの実りぐあいを確かめる玉城夫妻。邸内には琉球信仰の聖地「御嶽(うたき)」もあり、ガジュマルの木が大きく枝を張っている。折節にはデニーも御嶽で拝むという(撮影/山城博明) 先祖から受け継いだ「肝心(ちむぐくる)」が宿る首里城の焼失は痛恨の極み。速やかな再建に向けて知事直轄のチームを設置した(撮影/山城博明) ※本記事のURLは「AERA dot.メルマガ」会員限定でお送りしております。SNSなどへの公開はお控えください。  2018年に亡くなった翁長雄志の弔い合戦で、沖縄県知事選に立候補し、過去最多の票を獲得して当選した。  幼少時代は容姿でいじめられた。父はアメリカ人。だが、会ったことはない。働きに出た母に代わる「育ての母」もいる。  母子家庭で育ったことは、玉城デニーを強くした。辺野古の新基地建設阻止も、誰一人取り残さない政治もきっと実現させる。  丘の上の沖縄県知事公舎を風が吹き抜ける。 「カラスの赤ちゃん、いなくなったねぇ」  玉城(たまき)デニー(60)が庭園のガジュマルを見上げた。 「親ガラスが餌を運んでいたけど、巣立ったかな」  妻の智恵子(60)が返す。昨秋、夫妻は沖縄市の自宅から那覇市寄宮の知事公舎に越してきた。  夫の知事就任は、長年、公立保育所で働いてきた妻にとっても大きな転機だった。「知事の体調を管理できるのはあなただけよ。サポートに専念してね」と支援者には暗に退職を促される。前任の翁長雄志が志半ばで急逝しただけに周りは体調管理に敏感だ。しかし智恵子は、今年3月の定年まで職務を全うしたかった。悩んでいるとデニーがあっけらかんと言った。 「ここから通えばいいさぁ」  智恵子は、半年間、自分で車を運転し、片道1時間余りかけて保育所に通い、定年を迎えた。広大な邸の主になっても夫妻は自然体を保っている。 「料理を作っていると、ギターを抱いた渡り鳥ーって言いながら、台所に入ってきてクラプトンの曲とか歌ってますねぇ。家族と音楽とビールが、あの人の頑張るためのアイテム」と智恵子は笑う。  9月中旬のある日、デニーは、つかの間のオフを終えて正装のかりゆしウェアに着替えた。これから公務で船に乗り、辺野古の新基地建設現場を海上視察するという。ひと月後の訪米に備えて現場感を養いたいようだ。  首相の安倍晋三はじめ政府要人は「日米同盟の抑止力、普天間飛行場の危険性除去を考えると辺野古移設が唯一の解決策」と判で押したようにくりかえす。だが、狭い島に米軍専用施設面積の70%超を押しつけられた沖縄の側に立てば不条理だらけだ。「唯一」の解決策といいながら、辺野古と他の候補地を比較検討した説明はない。自然の宝庫、辺野古の地盤は「マヨネーズ並み」の軟弱さで7万7千本の杭を打ち込まねばならず、沖縄県の試算では2兆5500億円、少なくとも13年の工期がかかるという。すべて曖昧なまま国は着工した。デニーは語る。 「防衛省の公表資料をもとに沖縄県は試算をしました。軟弱地盤は水面下90メートルまで続いているのに杭の工事実績は70メートルまでしかない。全国民に対して不透明な公共工事です。2月の辺野古沿岸部の埋め立ての是非を問う沖縄県民投票では7割以上の県民が反対の民意を示した。私は日米同盟の大切さは理解しているし、米軍基地を全部なくせとは言っていません。ただ、辺野古の新基地は要らない。政府は工事を止めるべきです」  デニーは右手首に巻くプラスチック製の輪に左手をそっと当てる。輪には「DEMOCRACY STRIKES BACK」と刻まれている。「民主主義の逆襲」である。早稲田大学で講演をした際にプレゼントされたものだ。と、書くと「闘う知事」のイメージを抱くかもしれないが、ちょっと違う。デニーは政府を批判しつつも一貫して「対話」を掲げ、扉は開け放ち、全国各地を訪ねて米軍基地や日米地位協定が「日本国民、みんなの問題」だと訴える。多くの人を包み込むようにして「民主主義の逆襲」を狙う。 ■差別された悔しさを救ったのは育ての母だった  47都道府県を見渡し、過去に遡(さかのぼ)ってもデニーのような生い立ちの知事はいない。存在自体が「多様さ」の象徴であり、時勢が生んだ首長だ。ことあるごとに「誰一人取り残さない」とデニーは言う。取り残された者の苦悩を知っているからだろう。  玉城デニーは、1959年10月、中頭郡与那城村西原(現・うるま市)で生まれ、デニスと名づけられた。米海兵隊員の父は、伊江島出身の母がデニーを身籠(みごも)っているときに帰還命令を受けた。帰国後、母子を呼び寄せようと手紙や写真を送ってくるが、母はデニーが2歳になると「アメリカには渡らない」と決め、思い出の品々を焼却した。18歳上の女性にデニーを預け、辺野古のAサインバー(米軍公認の飲食店)に賄い婦として住み込む。月に1度、延々と路線バスを乗り継いで与那城に帰ってきては、デニーに添い寝した。  そのころ、本土は高度経済成長の光が溢れ、米軍統治下の沖縄では米兵による農婦射殺やひき逃げ殺人、米軍輸送機墜落……と悲惨な事件が続発した。米軍への怒りが本土復帰運動を高揚させる一方、米兵が落とすドルにしがみつかなければ生きていけない現実があった。ウチナーンチュの複雑な情念が日米にルーツを持つ少年に向けられる。 「赤ぶさー(赤髪)」「ヒージャーミー(ヤギの目)」「あいのこー」といじめられた。小学校で半紙に茶碗を伏せて「日の丸」の旗をこしらえた。友人と沿道に並んで復帰運動の行進団に「がんばれーっ」と旗を振っていると、通りかかった大人に「君は振らなくていいよ」と言われた。一瞬、意味がわからなかったが、間をおいて差別されたと知り、全身がカーッと熱くなる。「なんで僕がよ。同じウチナーンチュだよ」と悔しかった。  打ちのめされた少年を救ったのは、育ての母のまっとうな人間観だった。「トゥーヌイービヤ、ユヌタキヤネーラン(10本の指は同じ長さじゃない。十人十色でいいんだよ)」「カーギェーカワドゥヤンドー、カワティーチハガセーラ、ムルユヌムンヤンドー(風貌は皮一枚でしかない。皮をはがせば、誰も違わないよ)」とウチナーグチで切々とデニーに語りかけた。荒(すさ)みそうな心に小さな命綱ができる。腕白(わんぱく)小僧デニーに明るさが戻った。  デニーが小4に上がると母が与那城に帰り、一緒に暮らし始めた。母は、息子の名をデニスから「康裕」に改めて家庭裁判所に届け出る。デニーが父親の消息を訊ねても「もう忘れたよー」と語らなかった。「ただ一つ教えてくれたのがファーストネームでした」とデニーは振り返る。瞼の父の手がかりは、ファーストネームだけだった。  ■水が合わずに職を転々、ラジオDJですぐに人気が  思春期に入ってデニーはポピュラー音楽に目覚め、高校でハードロックにどっぷりつかった。先輩のバンドをまねて、ディープ・パープルやブラック・サバスの曲を演奏し、ボーカルを担当する。ロックの牙城(がじょう)、コザ(現・沖縄市)のホールでシャウトした。  沖縄のロックシーンは筋金入りである。ベトナム戦争中は、戦場で人を殺した兵隊が大麻を吸ってフラッシュバックし、ステージに突っ込んできた。演奏がつまらないと中身の入ったビール瓶を投げつけられ、灰皿が乱れ飛ぶ。プレーも命がけだ。そこから「紫」や「コンディショングリーン」「マリー・ウィズ・メデューサ」といった名バンドが現れる。デニーは彼らに導かれてステージに上った。ただ、プロを目指そうとは思わなかった。  高校卒業が迫り、母に「アメリカに行きたい」と打ち明けた。育ての母の長女が結婚して米本土に住んでおり、招いてくれていた。しかし、母は首を横に振る。「だったら大学に行かせてよ」と頼むと、母は黙って目を伏せた。経済的に不可能だった。デニーは働きながら通える福祉専門学校を見つけ、東京に出る。とにかく母から離れたかった。いつも明るく陽気なデニー、その内面ではアイデンティティーの葛藤が続いていた。  知事となった現在、「子どもの貧困対策」にデニーは並々ならぬ力を注いでいる。 「すべての子どもが、生まれた環境に左右されず、夢と希望をもって育つ。それが健全な社会の基盤でしょう。母子家庭で育った事実が僕を突き動かします。子どもの貧困解消への計画や予算は未来への投資。揺るぎない信念でやっていきたい」  福祉専門学校を出たデニーは、沖縄市の老人センター運営協議会に臨時職員で入った。夜はコザのライブハウスに出演する。そこで観客だった智恵子と知り合い、親の反対を受け流して結婚した。  臨時職員の期限を終え、家庭を持ったデニーは、ステージへの未練を断って、インテリア会社に入った。営業でカーテンを売り歩くが、社長と衝突して辞め、内装業に転じる。一人親方で独立したのはいいけれど、不渡り手形を2度もつかまされ、頭を抱え込んだ。真面目に働けば働くほど業界の水が合わず、職を転々。妻は夫を励ました。 「地球46億年の歴史に比べれば、人の一生なんてわずかな点だよ。好きな仕事を思いっきりやればいいさぁ。あなたも自分の道を選べばいいよ」  人生の節目にはいつも音楽があった。ライブイベントの打ち上げで司会を任され、半ばヤケクソで物まねやウチナーグチを駆使して喋りまくった。たまたま見ていた琉球放送の役員が、「おもしろいねぇ。ラジオに出てみない」と声をかけてきた。  人の縁とは不思議なものだ。デニーの声が電波に乗ると、たちまち人気沸騰。白人の顔立ちの青年が、生粋のウチナーグチを操り、社会的な話題を当意即妙に語る。生まれ持った多様性、ふたりの母から受け継いだ知性が花開いた。地元の沖縄市や那覇市で結婚式の司会の仕事が次々と舞い込む。家庭では2男2女に恵まれ、水を得た魚のようにタレント活動に奔走した。デニーは天職に就けた、と智恵子は胸をなで下ろす。 ■沖縄市長選出馬の報道、筋が通らないと出馬せず  だが、運命の糸は奇妙に絡まる。2002年1月、知人が「春の沖縄市長選に出馬しないか」と持ちかけてきた。「いやいや政治や選挙はわからん」と答えると「出るか出ないかは後で決めればいいから、いろんな人に相談したほうがいい」と助言された。家族は反対だった。智恵子は基地撤去が持論で、夜ごと缶ビール片手にデニーと福祉や教育、人権について激論を戦わせるが、それとこれとは別だ。政治の前面に立てば、平穏な生活は守れない。選挙は賭けである。負けたら目も当てられない。働く母親、妻として異を唱えた。デニーは琉球放送の役員に「出馬の誘いがあったけど出る気はありません」と報告する。役員も「急な話だなぁ」と笑い話で終わった、はずだった。  ところが、だ。翌日の新聞に「玉城デニー氏、沖縄市長選出馬」と記事が載った。デニーはびっくり仰天、腰を抜かす。ラジオ番組の収録日だった。放送局に行くと、社員の血走った視線が突き刺さる。前日、面談した役員に会おうとしても拒絶され、収録直前、ディレクターに宣告された。 「本日をもって降板してください」  茫然自失、涙があふれる。担ぎ出しを画策した知人に「外堀を埋めて、俺を引っ張り出そうなんて絶対に認めない。筋が通らん。市長選には出ない」と言い渡す。記事は大誤報と化した。  この記事を書いたのは、当時、沖縄タイムス中部支局に配属されていた屋良朝博(やら・ともひろ)(57・現衆議院議員)だった。屋良が回想する。 「もちろん取材を重ね、確信を持って書きました。形勢もよかった。デニーさんも出る気だったと思うけど、あそこで断ったのは彼の優しさ、身内の『和』を大事にする意識だと思います」  結果的に大誤報がデニーの背中を押す。改めて人生を振り返り、政治への熱情が沸々とたぎった。政治問題や政治家の本を貪(むさぼ)るように読む。その年の9月、沖縄市議会議員選挙が予定されていた。デニーは智恵子に決然と告げた。 「市議選に立つ。もう決めた。ゼロから政治の世界でやっていく。市長選のときのように出たら離婚というのなら、どうぞ離婚してください。僕の前から立ち去ってください」 「あなたの決めた道なら応援するしかないでしょ」と智恵子は腹をくくった。  市議選に出たデニーは、2位にダブルスコアの差をつけてトップ当選を果たす。市議の任期なかばで県議を飛び越し、衆議院選挙に出馬。革新系の票が割れて議席を得られなかったが、09年の政権交代選挙に民主党公認で立って国会の赤じゅうたんを踏んだ。以後、小沢一郎を政治の師と仰ぎ、4期連続で当選した。18年9月、前知事・翁長の弔い合戦で沖縄県知事選に立候補し、首相官邸が総力を挙げて応援する候補をねじ伏せ、過去最多の39万6632票を獲得した。デニーの「強さ」を元沖縄市議の棚原八重子(79)はこう語る。 「政治姿勢が昔からまったくブレない。交付金を積まれようが、減らされようが辺野古新基地建設には反対を貫く。政治家は地盤(支援組織)、看板(知名度)、カバン(政治資金)が必要だと言われますが、彼は看板だけ。有権者の信用だけで勝っています。本物の強さですよ」 ■辺野古新基地の建設の見直し求めて10月に訪米  この1年、デニーは県職員の意識改革に努めた。沖縄に限らず、どこの県庁も伏魔殿といわれる。過去のしがらみが固着し、敵と味方が混在している。デニーは分刻みのスケジュールで職員が上げる報告と知事方針のズレを指摘し、「実効性」を問い続けた。自身の知事転出に伴う衆院補欠選挙では、あの大誤報を書いた屋良を「仕返しだ」とジョークを交えて推す。屋良は沖縄タイムスを退社し、フリージャーナリストとして安全保障や米軍の活動について情報発信していた。米海兵隊の運用を見直せば普天間飛行場の返還は可能と説く。基地問題に精通している。19年4月、出馬した屋良は自民公認候補を退け、国会に議席を得た。 「いま米太平洋軍が最も重視しているのはテロとの戦いと災害救援。テロは元からあぶりださなくては手遅れになる。そこで海兵隊はテロの温床になりそうなタイやフィリピンの山奥に入って小学校の教室を建て、民生支援を行っているんです。中国軍やインド軍も協力しています。地域住民を味方につけなくてはテロには勝てません。そういう時代です。緊張を解く役割が求められている。沖縄をアジアの平和のための緩衝地帯にしていく方向で知事と僕は完全に一致しています」  と、屋良は語る。しかしながら、柔らかく、和を重んじるデニーの手法は、仲間をまとめられる半面、決められない弱さをはらんではいないか。 「そうですね。官邸には話し合いを求め続けていますが、じゃあ何をしたいのかといわれて、一本、これだというのは出し切れていない。まぁ県の立場では難しい。そこは僕ら、国会議員の役目でしょうね」と屋良は述べた。  10月半ば、デニーは米国を訪れた。昨年の知事就任直後の渡米は顔見せ的要素もなくはなかったが、今回は目的を絞った。米国の1年間の国防予算の大枠は「国防権限法案」によって決められる。米連邦議会上院は、来年度の国防権限法案に在沖海兵隊のグアム、ハワイなどへの分散移転計画の見直しを義務付ける条項を盛り込んだ。  デニーは、その見直しの対象に辺野古新基地建設を含めるよう米議会に直訴すべくワシントンDCに飛んだのだ。米議会は大統領弾劾(だんがい)やメキシコ国境の壁建設などで審議日程が乱れていたが、上下両院の10人の議員と面談できた。なかでも米政府の軍事予算を左右する軍事委員会に所属する4人の議員との対話は大きな成果だった。  今回の訪米で辺野古新基地建設の見直しの確約は取れなかったけれど、「絶対にあきらめない」デニーの姿勢は相手にも伝わった。官邸は軟弱地盤をアピールされ、心中穏やかではない。それにしても、公務で訪ねたとはいえ、米国は父の国だ。  デニーへの長いインタビューの最後に私はずっと気になっていた質問を投げかけた。 「お母さんがあなたに教えてくれたお父さんのファーストネームは何ですか」。ジョンか、マイクか、ロバートか……名前の向こうに人物像が浮かぶ。 「それは言いません。言えば、俺だ、俺だとたくさん出てきそう(笑)。その気になれば父は捜せるといろんな人に言われますが、生きていたら向こうにも家族がいるでしょう。ご家族のことを思えば声はかけられませんね」  デニーはやはりデニーだった。相手を包み込むような生き方が自然体なのだ。  (文中敬称略)      ■たまき・でにー 1959年 米軍統治下の沖縄県中頭郡与那城村(現・うるま市)に生まれる。米海兵隊員の父は本国に帰還しており、呼び寄せようとするがウチナーンチュの母はデニーを連れて沖縄に留まる。   70年 米兵の犯罪に沖縄の怒りが爆発。「コザ暴動」で焼かれた米軍車両を母とともに目にする。   72年 中1で沖縄本土復帰。音楽に目覚め、フォークソングからロックへ。県立前原高校に進み、バンドを結成。音楽ホールなどで演奏する。   78年 上智社会福祉専門学校・社会福祉主事専門課程に進む。   81年 専門学校を卒業し、沖縄市の中部地区老人センター運営協議会に勤務。バンドの先輩に請われて、夜はライブハウスで熱唱。   84年 保育士の智恵子と結婚。インテリア、内装、音響、音楽事務所のマネジャーなど多くの職に就く。   89年 ラジオパーソナリティーとしてタレント活動開始。式典の司会やイベントプロデュース等、多方面で活躍。 2002年 沖縄市長選への出馬「誤報」の後、同市議選に立候補し、首位当選。「街づくり」政策などに携わる。   05年 衆院選に沖縄3区から民主党(当時)公認で立つも落選。   09年 衆院選で初当選。   12年 野田佳彦内閣(当時)の消費増税法案に国会で反対票を投じ、民主党離党。小沢一郎らと「国民の生活が第一」(のちの自由党)結党。   14年 衆院選で3期目当選。   15年 生活の党幹事長兼国会対策委員長を務める。   17年 「希望の党」ブームに反旗を翻し、衆院選に無所属で立候補。4期目の当選を果たす。   18年 翁長雄志の急逝による沖縄県知事選に出馬し、過去最多得票で当選。   19年 「誰一人取り残さない」と宣言し、「万国津梁会議」などを設置。訪米し、上下両院の議員10人と面談。 ■山岡淳一郎  ノンフィクション作家。『田中角栄の資源戦争』(草思社文庫)、『原発と権力』(ちくま新書)、『生きのびるマンション』(岩波新書)。『ゴッドドクター 徳田虎雄』(小学館文庫)が近刊予定。 ※AERA 2019年12月2日号 ※本記事のURLは「AERA dot.メルマガ」会員限定でお送りしております。SNSなどへの公開はお控えください。
AERA 2020/04/30 15:35
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宝泉薫 宝泉薫
“風俗嬢”発言の岡村隆史と“エッチな”志村けんの間にある「決定的な違い」
ラジオでは自らの言葉で謝罪するという岡村隆史。(C)朝日新聞社 岡村のことを認めていた志村けんは草葉の陰で何を思うのか。(C)朝日新聞社  ナインティナイン・岡村隆史の「舌禍」騒動から1週間が過ぎた。問題視されたのは4月23日の深夜、自らがパーソナリティーを務める「オールナイトニッポン」(ニッポン放送)での発言だ。  リスナーから寄せられた「新型コロナウイルスの影響で、風俗店に行けない」というメールに対し「収束したらおもしろいことあるんですよ」「短期間ですけれども、美人さんがお嬢やります」「その3カ月のために今は歯食いしばって頑張りましょう」と回答。これが「女性への搾取」とか「貧困問題の軽視」といった批判を招いた。  27日にはニッポン放送、29日には所属する吉本興業が謝罪。また、大河ドラマ「麒麟がくる」やバラエティー番組「チコちゃんに叱られる!」に起用しているNHKも遺憾の意を表明した。30日深夜には「オールナイトニッポン」のなかで本人が謝罪するという。  岡村は現在、49歳で独身。いわば「非婚芸人」のひとりだ。先日、独身のまま70歳で亡くなった志村けんのことを尊敬していて、 「僕がバラエティー番組でやる動きや表情は、ほぼほぼ志村さんのコピー」  とまで語っている。実際「アイーン」をちょくちょくマネして、それが志村の再評価にもつながった。志村も彼を可愛がり「二代目志村けんは?」という質問に「岡村かな」と答えたりしていたものだ。  ただ、当然ながら、似ていないところもある。じつはそこから、この舌禍騒動の本質も見えてくるのだ。  たとえば、志村は結婚について「僕はこのへんが本当に下手なもんでね」と自嘲していたが、恋愛経験は豊富だった。その「豊富さ」には意外な事情も絡んでいる。若い頃、女性と別れる際、財産を半分持っていかれたことがあるという。そのとき、3年以上の同棲は「内縁関係」と見なされると知り、それ以降、同棲は3年以内、と決めたらしい。  一方、岡村は恋愛自体が苦手なタイプ。バラエティー番組の婚活企画でも、なかなか一線を超えられない。有名仲人士の村上れ以子に「何かコンプレックスなどがあって、自信がないのではないか」と指摘されているほどだ。それゆえ、風俗通いのほうが女性と気楽につきあえるのだろう。彼のスタンスには、そこで働く女性たちへのリスペクトや仲間意識のようなものが感じられるという声もあり、今回の発言も、許されないとする意見について想定できていなかったことがうかがえる。    しかし、恋多き男と風俗好きな男とでは、世間のイメージが違う。風俗も商売である以上、サービスを提供する側とされる側とは対等のはずなのだが、こと「性の商品化」となると、別の話も出てくる。貧困事情によっては、風俗で働く女性が搾取されることがままあり、客の男性はそれを金銭で支配しようとする者として嫌悪される、そんな見方も存在するのである。  つまり、岡村と志村は「ひとりの異性と安定した関係を継続しない」ところは同じでも、スタンスや世間にとってのイメージが異なるわけだ。  また、似て非なるところはそこだけではない。志村は岡村にこんなアドバイスをしていた。 「おまえはコントをやらないからキャラができないんだ」 「作り込んだ笑いをしなさいよ」  生涯にわたってコントを作り続けた志村に対し、岡村は途中からコントをほとんどやらなくなった。コントをやるような番組が減り、実力のある芸人はMC中心に移行するというテレビ界の流れに合わせたともいえるが、自分を尊敬し、似たところもある岡村の変化が、志村には物足りなかったのだろう。  しかも、この違いは別の意味で深い。作り込んだキャラクターコントは、その芸人の「素」の印象をも変えるからだ。たとえば、志村の「バカ殿」や「変なおじさん」にハマればハマるほど、ファンはこんな気持ちになる。…プライベートではさすがにあれほどではないだろうけど、やっぱり面白くてエッチなはず、むしろそうあってほしい…。これにより、ちょっと羽目をはずした生き方も受け入れられやすくなるのだ。  同じことが、ビートたけしにもいえる。タケちゃんマンだったり、犯罪者の役だったりが魅力的なほど、現実でも破天荒で豪快な生き方が期待されるようになるのである。  これに対し、岡村にはそこまで作り込んだメジャーなキャラがない。そのかわり、素の性格が目立ちすぎるきらいがある。ダンス企画の「オカザイル」からはストイックな努力家ぶり、婚活企画では結婚したいけどできないオクテぶりというように。ともにこれまでは好感度につながってきたが、素のまじめさが愛されることはある意味怖い。今回のようなことがあると、ギャップからの幻滅が一気に広がるからだ。    ではなぜ、岡村は芸人としてこういう歩みをしてきたのか。そこにはおそらく、下積み時代の違いが関係している。志村はドリフターズの付き人だった頃、メンバーの食べ残したラーメンをかき集めて自分の食事にするなどの辛酸をなめた。たけしも最初の相方が実力差から心の病になり、自責の念にかられるなどの悲惨な経験をしている。それがバカをやり続ける執念にも、メンタルの打たれ強さにもつながったのだろう。  一方、岡村は吉本の養成所を出て矢部浩之とコンビを結成した翌年には「吉本印天然素材」の一員としてブレークを果たした。そこで得たアイドル的人気を保ちながら、ポストダウンタウンとしての実力も認めさせ、トップクラスへと登り詰める。39歳のときに精神的な不調をきたし、数カ月間の活動休止をするまでは順風満帆でやってきた。  ただ、初めての挫折がこの活動休止だったのは象徴的だ。志村やたけしの場合、30代での挫折はノミ行為での書類送検やフライデー襲撃による逮捕だった。その点、岡村にはストレスを抱え込んでしまいがちな生真面目さが感じられ、また、すぐに売れた分、仕事を失うことへの不安も強いようだ。志村やたけしのように、大物芸人には大胆さと繊細さを併せ持つ人が多いが、岡村の場合は大胆さはあまり目立たず、そこが押しの弱い系のいい人っぽさにもつながってきた。  今回の発言にしても、風俗好きなどの一面をふだんから世間にもっと見せてトークをこなしていれば、炎上の基準なども学習でき、こういう発言にはならなかったかもしれない。とはいえ、性格的にもイメージ的にもそういう一面は見せにくかったと考えられる。いっそ、これを機に、開き直ってもいいと思うが、もうすぐ50歳になる人間がそうそう変われるものでもない。  だとしたら、せめて、コントなどの活動を増やす手もある。好きなお笑いに没頭するには、今回の騒動はむしろ、好機なのではないか。  本来、志村ロスを埋める有力候補であるはずの岡村。謝罪よりも、コントをしているところを見たい。 ●宝泉薫(ほうせん・かおる)/1964年生まれ。早稲田大学第一文学部除籍後、ミニコミ誌『よい子の歌謡曲』発行人を経て『週刊明星』『宝島30』『テレビブロス』などに執筆する。著書に『平成の死 追悼は生きる糧』『平成「一発屋」見聞録』『文春ムック あのアイドルがなぜヌードに』など
宝泉薫
dot. 2020/04/30 13:21
壇蜜流30代からの冷え性・むくみ対策とは?
壇蜜流30代からの冷え性・むくみ対策とは?
30代になって体質が変わったという壇蜜さん。「冷えやむくみにきちんと向き合おうと思って漢方薬局に行きました」(撮影/松永卓也・スタイリング/奥田ひろ子・ヘアメイク/妻鹿亜耶子・衣装/AIMER) 実家の料理を振り返り、「よく言われる『医食同源』という言葉のベースには、家族を守るための知恵があると思います」と語る(撮影/松永卓也・スタイリング/奥田ひろ子・ヘアメイク/妻鹿亜耶子・衣装/AIMER) 冷え性の壇蜜さんは温かいお茶を飲むように心がけている。「ほうじ茶やプーアル茶、ウーロン茶、ルイボスティーなど茶色いお茶がからだに合っている気がします」(撮影/松永卓也・スタイリング/奥田ひろ子・ヘアメイク/妻鹿亜耶子・衣装/AIMER)  タレント、女優、文筆家として大活躍する壇蜜さん。多忙を極めるなかで実践している健康法を、週刊朝日ムック『本格漢方2020』(朝日新聞出版)のインタビューで語った。 *     *  * ――ふだんから漢方薬を服用されているそうですね。 壇蜜 30歳頃から防風通聖散を飲んでいます。29歳でグラビアの仕事を始めましたが、その頃は大学病院の研究所を清掃する仕事も掛け持ちしていました。病院の研究所って、暖房が利いていなくてとにかく寒いんですよ。  冷たいタイル張りの床に水を流してブラシでこすったり、立ちっぱなしで作業台をきれいに拭く仕事でしたから足元からジンジン冷えます。そのうち、かかとと足の甲がむくむようになって、なんとなく歩きにくいと感じるようになりました。そこからふくらはぎにむくみを感じて、次は手の甲。朝起きたときに、手がグーパーしにくいぞと思うようになって……というふうに、だんだんと症状が上がってくる感じでした。 ――芸能活動をスタートされてお忙しくなったことや、ちょうど30代になられたタイミングだったということも影響があったんでしょうか? 壇蜜 自分にプレッシャーをかけて一気に根を詰めて働くようになり、疲れをリセットできないからだをつくっていたんだと思います。年齢的にも体質が変わって、以前はそこまで冷え性だと思っていなかったのに、冷えがとれなくなりましたね。  最初はエステに行ったり、むくみに効くというサプリを飲みましたが、あまり効果がなかった。これは体質としてきちんと向き合わなくてはいけないと思い、整体の先生に相談したところ、漢方がいいと教えていただいて、漢方薬局に行きました。 ――そこで防風通聖散をすすめられたんですね。どのくらいのペースで服用されていますか? 壇蜜 1日2回、食前です。発汗、排便、利尿を促すお薬で、飲み始めてトイレが近くなりましたが、その分、からだにたまったものが出たなという感覚があります。飲み始めて3カ月くらいでかかとのつらさがなくなってきて、1年経つと足首の痛みや、足の甲がヒリヒリする感覚がなくなりました。夕方以降、歩くのがつらくなることも減りました。 ――ほかに冷え性対策でされていることはありますか? 壇蜜 いつも水筒を持ち歩いていて、ほうじ茶やプーアル茶、ウーロン茶、ルイボスティーなど温かいお茶を飲んでいます。それから、寒い夜はリゾット。白ワインと生米とマッシュルーム、玉ねぎのリゾットをよく作ります。からだが温まりますし、ごはんの量が少なくてもおなかが膨れるから胃に優しい。仕事で緊張したまま家に帰っても上質な睡眠でしっかりリセットするように心がけていますが、リゾットは寝やすいからだをつくるためにもいい。  冷蔵庫でベーコンと目が合うと入れたくなりますが「君は明日焼いてあげるからどきたまえ」。冷凍エビとも目が合いますけど「君はもうちょっと冷蔵庫のムードメーカーでいてくれ」って言って。すごくシンプルな材料を20分くらいコトコト煮て、その間にペットの世話とかできることをやるんです。ボリュームのあるものやジャンクなものを食べたい日もありますが、食べた後にしっかり眠れるかを考えると、コンディションがよくないときは引き算の料理が大切です。 ――料理上手なおばあさまに憧れて、調理師免許を取得されたそうですね。ご実家のお料理で、家族の健康を思って作られた思い出の味があれば教えてください。 壇蜜 私は小児アトピー性皮膚炎でしたし、風邪をひきやすくせきが出やすい体質だったんです。肌がカサカサして「かゆいかゆい」と言っている私のために、祖母はコラーゲンを含んだ煮こごりをよく食べさせてくれました。  鶏やカレイの煮こごりを薄く伸ばしてからさらに固めて、しょっぱくないようにしてくれました。からだを温めるためにしょうがも入れてくれましたね。揚げ物はなるべく控えて、コロッケも揚げずにオーブンで焼くタイプ。母はお肉が好きですが、温かくて消化しやすい煮込み料理をよく作ってくれました。祖母も母も大切にしていたのは、みそ汁を飲む習慣。そうやって私の体調を配慮してくれたんでしょう。よく言われる「医食同源」という言葉のベースには、こうした家族を守るための知恵があると思います。 ※週刊朝日ムック『本格漢方2020』より。誌面では壇蜜流・美容法も大公開 (取材・文/大室みどり) (プロフィール)壇蜜/1980年、秋田県生まれ。タレント。調理師免許、日本舞踊坂東流師範免許、遺体衛生保全士資格など数々の資格を取得、多彩な職種を経験後に、29歳でグラビアデビュー。昨年11月、漫画家の清野とおる氏と結婚。著書に『はんぶんのユウジと』(文藝春秋)、『はじしらず』(朝日新聞出版)など。
病気病院
dot. 2020/04/27 11:30
願いを形に。丁寧に、結んで、無心に。<手仕事を楽しもう>
願いを形に。丁寧に、結んで、無心に。<手仕事を楽しもう>
みなさん、「水引(ミズヒキ)」をご存知ですか?お祝いなどに使われる熨斗(ノシ)袋や、お正月の箸袋などに結ばれている『飾り』といえば、分かる方もいるかもしれませんね。 今回は、その「水引」を取り上げてみました。ゆっくり集中して手を動かすことで、心もいつしか無心に、穏やかに。紐が結べるような年齢から、お年寄りまで、楽しむことができます。初めての方も、ぜひ、挑戦してみてくださいね。 あらためて、水引とは みず‐ひき〔みづ‐〕【水引】 細い"こより”にのりをひいて乾かし固めたもの。進物用の包み紙などを結ぶのに用いる。ふつう数本を合わせて、中央から色を染め分ける。吉事の場合は紅と白、金と銀、金と赤など、凶事の場合は黒と白、藍と白などとする。 ※引用 goo辞書 国語辞典より 古く日本では、水を引いた後はきれいになることから、 水引には『物事を浄化し、清め、邪気を払う力がある 』と信じられて、慶事や弔事などの両方で使われてきました。 今では、その結び目が和のテイストで可愛らしいことなどから、アクセサリーなどに用いられたりもしています。日本らしいお土産として外国の方にも人気があるようです。 ちょっとお勉強。水引の結び、その意味とは ●水引に使用するこよりの本数 基本は1、3、5…など奇数が一般的です。「偶数を陰数、奇数を陽数」と考える古代中国の陰陽思想から来ているという説もあるようです。ご祝儀などで紙幣を包む際に、「割り切れる」数を避けるということと同じように考えられています。 ☆結びの種類 1.蝶結び・花結び もっとも目にする機会が多いのが、この結び方です。リボン結びや蝶々結びの形です。結び目を何度でも簡単に結び直せることから、「繰り返しても喜びの多いお祝い・お礼」に用いられます。 →お中元やお歳暮、出産祝い、お年玉、入学祝いなど ☆結びの種類 2.結び切り 蝶結びが逆さまになったリボンのような結び方で、固結びされています。なかなか解けないことから、「離れない」「繰り返さないでほしい」という願いを込めて使用されることが多いようです。慶事だけでなく弔事にも使用されますが、使っている色が変わります。 →結婚式のご祝儀や内祝い、傷病のお見舞い、災害見舞い、お通夜やお葬式など ☆結びの種類 3.あわじ結び 結び切りの一種で、結び目が複雑なデザインになっています。結び切りと同様に、「繰り返して欲しくない」場面で使用されます。見た目が華やかなので結婚式のご祝儀でよく使用されます。 →結婚式のご祝儀など ☆結びの種類 4.梅結び その名の通り、梅の花の形をモチーフにした、5枚の花びらがコロンとして愛らしい形の結び方です。簡単に解けにくいので「固く結ばれますように」との願いを込めて使用されることが多いようです。また、梅は縁起物のひとつ。「松」や「竹」とともに、長寿と幸福を表します。 →結婚式の引き出物や還暦祝いなど やってみよう<準備> 必要なものはさほど多くありません。ほとんどホームセンターや100円ショップ、手芸用品店で手に入れることができます。メインの材料である水引の素材も、今どきは通信販売のお店も多いので活用してみてはいかがでしょうか。 ●道具について ☆ハサミ 水引を切る際に使用します。 ☆やっとこ・ラジオペンチ ものを掴むのに適した工具です。 やっとこは、先端部にギザギザの溝がなく、水引等を掴んでも傷つけません。一方、ラジオペンチは切る、掴む、曲げるなど、水引を作る工程で必要になります。あれば、どちらも準備しておきましょう。 ☆フローラテープ 水引の束に巻いて、花の茎の様に見せたり、水引を切った後の端の処理に使うことができます。 ☆ワイヤー 水引を止めたり、保管する時など、様々な太さのワイヤーがあると便利です。 ☆ボンドや両面テープ 結び終わった作品を飾ったりするときに使います。また、端の処理に使うことができます。乾くと透明になるものであれば、目立たずに、また見えている場所の処理や補強にも使うことができます。 やってみよう<あわじ結び> 水引の基本となる「あわじ結び」の結び方を動画で覚えてみましょう。 【YouTube】クラフトタウン あわじ結び やってみよう<梅結び> 愛らしい形の「梅結び」。ゴムに通して髪飾りとして使ったり、コースターやブローチ、しおりなどアレンジのアイデアがたくさん出てきそうですね。 動画は、平梅結びとして解説しています。湾曲していない造りなので、アレンジしやすいと思います。また、作品の良し悪しに大きく関わる「ワイヤーの止め方」は必見。丁寧に解説されていて、目からウロコのコツとなっていますよ。 【YouTube】株式会社さん・おいけ 平梅の結び方 参考 キナリノ 京都水引 株式会社さん・おいけ クラフトタウン願いを込めた水引を、ゆったりとした気持ちで、ぜひ、作ってみてくださいね
tenki.jp 2020/04/25 00:00
50代、両親の介護と看取りを経験 燃え尽き感から救ってくれた意外なこと
50代、両親の介護と看取りを経験 燃え尽き感から救ってくれた意外なこと
父母のダブル介護は時間のやりくりに加え、精神的な重圧ものしかかる日々だった(※写真はイメージです)(c)Getty Images  女性の50代は親の介護や看取り、子どもの巣立ち、また更年期による体の不調など、さまざまな変化が襲ってくる。それを乗り切り、この先の時間を楽しく過ごすためには、いかに自分を「ご機嫌」にしておけるかにかかっているのではないだろうか。筆者もまさに50代後半。両親の看取りを経て、燃えつき感から救ってくれたのは、意外なことだった。「私」の経験を紹介したい。 *  *  * ■父母のダブル介護。看取った後は燃え尽き感に苛まれ  私が50歳を少し過ぎたある日のこと、元気だった80代の母にがんが見つかった。十二指腸がんだった。それから、両親と同居していた私の介護生活が始まった。母は手術をして一時は回復したものの、3年後に再発。抗がん剤治療をするために、入退院を繰り返した。そんなとき、元気だった父も誤嚥性の肺炎で倒れて入院。父と母のダブルケアが私の日常になった。  私は独身。仕事はフリーランスの編集者だ。会社勤めではないものの、仕事をしながらの両親の介護は、思っていたよりずっとハードだった。時間のやりくりや段取りはもちろんのこと、心に重くのしかかってきたのは、主治医から説明を受ける今後の治療法についての判断である。  父と母の生きる時間を左右する治療法を決めるのは弟と私。しかもはじめてのことばかり。「自分たちの選択が最善でなかったら……」と、重圧に押しつぶされそうだった。その治療法を選んで果たしてよかったのか、今もときどき思い出すと、胸が苦しくなるほどだ。  高齢だった父は、病状が回復することはなく、入院から半年後にあっけなく亡くなってしまった。一方、母もその間、がんがジリジリと進行していった。気の強かった母は痩せて小さくなり、弱くなり、私の介護なしではできないことが多くなっていった。  そして最終的には入院し、1カ月ほど私が病室に泊まり込む生活を続けた。父が亡くなって1年後、後を追うように母も逝ってしまった。 「両親をきちんと看取ることができてよかった。重圧感からももう解放されたのだ」    そう思う半面、燃え尽き感に苛まれた。周囲の方々の力を借りながら、全力をかけてひとり走り抜けた介護生活の終焉は、自分の中ですぐには消化できず、気持ちの落ち込みからなかなか抜け出すことができなかった。 ■なにをしても楽しくない……このまま枯れてしまうのか  気持ちの落ち込みの原因は、両親を看取った燃え尽き感だけではなかったように思う。更年期を迎えてからは「わくわく」したり「楽しい」と思えたりすることが少なくなってきたことは、以前からうすうす自覚していた。  私は雑誌や書籍を作るという自分の仕事が大好きだった。若いころは、入稿や校了の前に徹夜するのが当たり前……というかなりブラックな労働環境ではあったものの、取材で得た情報を誌面にまとめ上げる工程は、とても刺激的で楽しかった。この仕事をずっと続けたい!という気持ちは、変わることはないだろうと思っていた。  ところが、父母をみとった燃え尽き感と、更年期による気持ちの落ち込みが重なったためなのか、あんなに好きだった仕事に熱が入らなくなってしまったのだ。  仕事以外のこともしかり。大好きなアーティストのコンサートに行っても、今まであんなに楽しかったのに、一気に湧き上がる高揚感が味わえない。この心の変化には、自分自身が一番驚いた。「なにをやっても楽しいと思えないなんて……このまま感情が枯れてしまうのか」と、大きなショックを受けたのだ。 ■和菓子の美しさにひかれ、50代後半で製菓学校に入学  そんなときにふと見つけたのは、「和菓子作り体験」のワークショップだった。長年、趣味で茶道を続けていたこともあり、美しい上生菓子には親しみがあったし、日本中の名店をめぐって美しい和菓子を食すのは大好きだった。でも作り方は知らない……と軽い気持ちで参加したのだが、それが思いのほか楽しかった。  ヘラなどの道具などを使いながら、手の中で作り出される、小さく美しいお菓子。「作る」ことがもともと好きだったこともあるが、作り上げるときの集中力、できあがったときの美しさ、食べたときの口福感に魅了され、夢中になってしまったのだ。失われたと感じていた高揚感が戻ってきた。  これをきっかけに、56歳にして製菓学校の夜学に入学し、和菓子作りを学んでいる。入学前には「50代後半になって製菓学校なんて……」と悩みもしたし、夜学とはいえ、20~30代の若い世代とともに学ぶことにはためらいもあった。  しかし、飛び込んでみると実に楽しく、思いがけない出会いもあった。周囲に和菓子作りを学んでいることを話すと、憧れていた和菓子研究家の先生のもとで、助手をさせていただくという幸運も飛び込んできたのだ。  和菓子の世界は深い。それぞれの名称や意匠には日本の四季や、脈々と続く文化や習慣が織り込まれており、広大かつ深い文学への対象にもなる。作ることはもちろん、その文化的背景を学ぶことがこれほど楽しいとは思わなかった。  今は、仕事も続けながら、「和菓子の仕事もできるようになったら……」というのが目標だ。 ■この先をどう生きていくか、どう生きたいのか  50代になってから、両親を見送っただけでなく、親しかった友人が突然死をした。そのせいか、今までは考えもしなかった「メメント・モリ」について思いをはせるようになった。  例えば先日、日本を代表するコメディアンであった志村けんさんが、新型コロナウイルスによる肺炎でお亡くなりになったとき。お会いしたことはないが、同郷ということもあって勝手に親しみを感じていたし、子どものころからテレビを通じて、大いに笑わせていただいた。 「人の命には限りがあり、誰もがいつかは終わりを迎える。自分はいつなのか……」  両親や近しい友人など、大切な人の死に直面することは、身を切られるほどの痛みを伴う。しかし同時に、「この先をどう生きていくか、どう生きたいのか」を考える大きなきっかけにもなると感じている。父母の介護を通じて、私が得た最も大きなことはまさにそれだった。  自分の寿命はわからない。明日、突然死ぬかもしれない。人生の後半戦にいる50代だからこそ、やりたいことは、すぐに着手しなくては後悔が残りそうだ。自分をご機嫌にして「楽しく生きる」。そんな毎日が送れたら本望だと思っている。 (文/スローマリッジ取材班 内田いつ子)
病気
dot. 2020/04/21 11:30
なぜ人は不倫をやめられない? カギは「遺伝子」、脳科学者・中野信子が解説
菊地武顕 菊地武顕
なぜ人は不倫をやめられない? カギは「遺伝子」、脳科学者・中野信子が解説
中野信子(なかの・のぶこ)/脳科学者。1975年、東京都生まれ。東京大学大学院医学系研究科博士課程修了。東日本国際大学教授、京都芸術大学客員教授。最新の脳科学・認知科学の成果をわかりやすく解説することに定評があり、テレビ「ワイド!スクランブル」金曜コメンテーター。著書『サイコパス』『不倫』がベストセラーに。近著に『毒親』。(撮影/写真部・掛祥葉子)  東出昌大・唐田えりかが激しく叩かれた理由は? 「不倫遺伝子」があるって本当!? 一夜の過ちはなぜ起きる? 気鋭の脳科学者が不倫を斬る! *  *  *  芸能人の不倫が発覚すると、皆、はっきりとそう言いはしないけれど、どこか暗い喜びを感じるんですよね。叩けるから。叩く側に立つと、自分が正義の味方になれるわけです。ドーパミンが分泌され、高揚感を得られるという。  この快感を覚えたら、叩く相手がいなくなってしまうとつまらない。そんなときにやってくれたのが東出昌大さん。ベッキーさん以来4年の時を経て、飢えていた肉食魚の群れの中に、生肉が落とされた、といった感じです(笑)。  ベッキーさんも東出さんも好感度の高いタレントだっただけに、そのイメージとのギャップの大きさから「裏切り者」として叩かれましたね。 ――妻の杏と共に理想の夫婦と捉えられていた東出は、新進女優の唐田えりかと不倫。激しいバッシングを受け、会見は公開処刑のようだった。  人間は社会的動物です。共同体を維持するため、個人が一定の協力をする代わりに、共同体からリターンを受け取ります。  でも中には汗をかかずに、おいしいところだけを持っていこうとするフリーライダー、つまりタダ乗りする人がいます。社会は、そういう人を許さないんです。  東出さんはイクメンのイメージで仕事をしていた。でも本当はそうではなかった。私たちを騙して不当な利益を得ていた。搾取されてきた私たちは、是正しないといけない。そういう気持ちを掻き立てる一報でした。イクメン以外の部分でもう少し評価を高められていればよかったのですが。  相手の唐田さんも叩かれましたね。「匂わせ」も嫌われる要素でした。  不倫する女性は、多くの場合、本妻には負けていると思っています。たとえばコロナの感染拡大防止で家にいようというときに、ほとんどの場合、男性は本妻と一緒にいるわけですよね。たとえ今、本妻より愛されているとしても、その愛はいつ途切れるかわからない。そして自分が仮に本妻になれたとしても、また自分と同じことをする女が現れるかもしれない。夫には、「前科」があるわけですから。  そんな不安な気持ちを埋めるための行為が、匂わせなんです。「私のほうが愛されているでしょう」という承認を間接的にでも得たくて、そうするんです。  でも第三者からすると、「お前は、ルールを無視して本妻に勝とうとしているのか」と、激しい攻撃を受けることになるんですね。 ――男女とも社会から叩かれるリスクがあるにもかかわらず、なぜ不倫をやめないのだろう。  人間は一夫一婦型ではない生き物だからです。一夫一婦型の婚姻という仕組みは、経済的、公衆衛生上の要請、その他複合的な要因によるもので、絶対的な原理ではないのです。  俗に「不倫遺伝子」と呼ばれる遺伝的な変異があります。  アルギニンバソプレシン(AVP)という脳内物質の受容体の多型で、貞淑型か不倫型かに分かれます。  AVPとは、弱者へ向ける愛情のことだと思っていただければ。  自分よりも弱い人に優しいとか、親切に振る舞うということは、後天的に学ぶものだと思われがちです。でも実際は先天的な部分の影響も無視できないのです。  親切のグラスみたいなものがあるとイメージしてください。そのグラスの大きさは生まれつき決まっていて、タライみたいに大きな人もいれば、おちょこみたいに小さな人もいます。親切の器の大きい人は貞淑型、小さい人が不倫型です。  人間が恋に落ちるとき、相手の人間性を正確に見て判断しているわけではありません。外見だとか新鮮さだとかに魅力を感じることが多いはずです。そのときは理性が麻痺している状態ですので、アバタもエクボ。冷たい振る舞いも、決断力がある、勇気があるなどと好意的に評価したりします。  ただこの状態は、パートナーシップを促進するための仕掛けなので、ある程度経てば麻酔が切れるようになくなってしまいます。  その後に、どうやって関係を維持するか。恋心はなくなったけど人間として尊敬できるとか、優しい人だから好きだとか、そういう気持ちがあれば無理なく一緒にいられるでしょう。  逆に「なんでこんな人と一緒になっちゃったんだろう」と嘆く人もいます。そういうパートナーは、小さいグラスの不倫型なのかもしれません。  貞淑型と不倫型の割合は、1対1と考えられています。 ――女性が妻のいる男性に魅かれるのはなぜか。  女性は、女性から愛された実績のある男性に安心感を得ます。誰かにいったん選ばれているということが、魅力に感じるわけです。  おもしろい実験があります。男性一人だけが写っている写真と、男性が笑顔の女性と一緒に写っている写真の2枚を用意します。それを女性に見せてどちらが魅力的か尋ねると、女性と一緒の写真のほうがかっこいいと答えるんです。写っているのは同じ男性なのに。  私たちは、目で見たものそのままを認知するわけではありません。目で見た情報を脳に送り、脳が修正した画像を認知するんです。 ――不倫について語られるとき、よく出るのが「一夜の過ち」。これはなぜ起きるのだろうか。  パートナーへの責任感や共感を司って、ブレーキをかける機能を果たすのは、脳の前頭前皮質です。お酒を飲むと、この働きが鈍くなってしまう。いわばブレーキが千鳥足になり、目の前の相手が魅力的に見えちゃう状態でしょうか(笑)。  また「吊り橋効果」もあります。好きではないと認知する相手と共に、危機を乗り越えたとしましょう。心拍が上がりますよね。すると脳が、身体の状態よりも認知を変更するほうが楽なので、認知のほうを変えるんです。身体は興奮している。認知は落ち着いているが、原因はこの人かもしれないから、この人のことを好きだということにしてしまおう、と。その結果、この人のことが好きだ、と認知が変更されてしまう。仕事などで危機を乗り越えたり大成果を上げたりすると、うっかり恋に落ちてしまうのはこのためです。  恋は永遠ではありません。それを踏まえて、どういう関係を続けるのが良いのか話し合えばいいんですよ。隠れて不倫したり、不倫を責めるよりも、「そろそろお互いに好きな人ができるころだよね」「財布だけちゃんとしてくれれば、あとはいいわ」など、妥協点を探れば良いと思います。  私の曾祖母は、親に決められた結婚をして子どもを産みました。そのうちの一人、私の大叔父は、他のきょうだいたちと容姿が違ったそうです。大叔父は、後に自分だけ父親が違う、不倫の末にできた子だと知って、自殺しました。生まれてきてはいけなかったと感じたのかもしれません。  でも、これは彼の罪なんでしょうか? 節度を保つということは大人には求められることでしょう。しかし、そもそもそうは創られていない人間に、それを完璧に守り切れと押し付けるほうが無理があるのでは? 不自然な結婚の子は許されて、自然な好意の間にできた子が自ら死を選ばなければならない? まるで社会に殺されたようなものです。  今、日本では年間16万件もの中絶が行われています。その中に、婚姻関係の外でできたであろう子もたくさんいるでしょう。婚外子をもっと大事に育てられる社会に変えたほうがよいのではと感じます。  結婚して生涯その人と添い遂げる人生は、現時点での社会通念上は美しいかもしれません。でも生物学的には不自然です。社会のありようについて、そろそろ考えを改める時期が来ていると思います。 (本誌・菊地武顕) ※週刊朝日  2020年4月24日号
不倫恋愛
週刊朝日 2020/04/17 11:30
【現代の肖像】こどまっぷ代表理事・飲食店経営者、長村さと子「LGBTQの『子どもがほしい』を支援する」<AERA連載>
【現代の肖像】こどまっぷ代表理事・飲食店経営者、長村さと子「LGBTQの『子どもがほしい』を支援する」<AERA連載>
「裏切らないのは犬だけ」と笑う。偏見や批判にさらされても、人とのコミュニケーションを諦めない(撮影/今村拓馬) さっぽろレインボープライドのパレードで。長村は、旧知のゲイの人と現場で再会。意気投合し、その場でイベント開催を約束。こどまっぷ共同代表のゆきこは言う。「彼女は、人に出会う度に企画が湧く。行動力が半端じゃない」(撮影/今村拓馬) 老舗レズビアンバーが軒を連ねる新宿二丁目で、「最年少」ながら10年間も店を続けてきた。「人から裏切られても、さと子は自分からは手を離さない。わかりあえなくても、『とりあえず話してみよっ』って」(我妻)(撮影/今村拓馬) かつて保護犬を引き取った動物保護施設で。「動物保護活動は一生続ける」と長村。ともに暮らす愛犬は、「もはや恋人」。人間関係の悩みも全て話してきた(撮影/今村拓馬) ※本記事のURLは「AERA dot.メルマガ」会員限定でお送りしております。SNSなどへの公開はお控えください。  セクシュアルマイノリティーを取り巻く状況は、少しずつ変わってきた。だが、同性カップルが子どもを持つことは依然難しい。  この高いハードルをどう乗り越え、どう子育てを実現させていくか。それを共に考える団体がこどまっぷである。  代表理事の長村さと子もまた、子どもを持ちたいと願う一人だ。世の中を変えたい、居場所を作りたいと切望する。  家賃が高い新宿二丁目にしては広々とした「足湯cafe&barどん浴」。壁という壁を取っ払った60平米のぶち抜き空間には、路面の窓から陽の光が注ぐ。窓際には車座になって卓を囲める和風の足湯スペース。壁にはキース・ヘリングのポップアート。昼寝にちょうどよさそうな、虹色のハンモックまでつり下げられている。  セクシュアリティーに関係なく、誰もが気軽に訪れる場所にしたいと作られたこの足湯カフェで10月中旬、イベントが開かれた。子どもが欲しい、または、すでに子どもがいるセクシュアルマイノリティーとその周りの人のための団体「こどまっぷ」の主催だ。  テーマは「アメリカの生殖医療現場で働くドクターに聞いてみよう for LGBTQ」。登壇者は、米国・サンディエゴのクリニックに勤務する医師、ダニッシュマン・サイードだ。通訳付きの英語の講演ではあったが、50人近くが熱心に聴き入っていた。参加者の多くは、これから出産を考えている20代から30代のレズビアン。卵子提供と代理出産治療にも精通する医師の話だけに、子を持ちたいゲイカップルの姿もあった。  このイベントを企画したのが、足湯カフェの経営者で、こどまっぷの代表理事を務める長村さと子(36)だ。長村自身もパンセクシュアルという、恋愛相手に性別を条件としないセクシュアルマイノリティーである。恋愛をしてきたのは主に女性で、一時期、男性との付き合いもあったが、現在は茂田まみ子(39)がパートナー。長村は子どもが欲しくて妊活中でもある。  ひとたび目標が定まると、長村は招く相手が海外の人だろうが、有名人だろうがおかまいなし。グイッと巻き込み、企画を形にする。周囲が認める「猪突猛進型リーダー」だ。 ■本職は飲食店の経営者、東京と大阪を夜行で移動  でも素の姿は、どちらかといえば人の目を見て話せないタイプで、いつもストリート系のキャップを目深にかぶっている。この日の長村は、厨房に雲隠れし、参加者に提供するサンドイッチを黙々と作りながら、カウンター越しに参加者の様子をじっと観察していた。代わってマイクを握り、英語を交ぜながらの名司会ぶりを発揮していたのは、まみ子だ。まみ子は長村の活動を支える同志でもある。まみ子は言う。 「さと子は大きな地図を描ける人。私たちの活動って、常に荒波の中なんですよ。でも、彼女が行きたい先は、間違いなく波しぶきを越えた『向こう側』にある。未来を想像した時に、どんなに困難が降りかかったとしても、この人の『今』に関わっていたいと思わせるものがありますね」  多様性の時代。イベント名に表記のある「LGBTQ」は最近の呼称だ。レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダーの頭文字をとる「LGBT」に、自分自身の性自認や性的指向が定まっていない、もしくは定めていない「クエスチョニング(Q)」が加わる。  日本におけるセクシュアルマイノリティーを取り巻く状況は、2015年から大きく変化している。一部の自治体で「同性パートナーシップ制度」が始まり、同性カップルに対して男女の婚姻関係と同等だと認めるようになった。だが、同性のカップルが子を持つことへのハードルは、依然として高い。北米では、同性愛者やシングルマザーが精子バンクから精子を買い、子をつくる選択肢もあるが、日本では日本産科婦人科学会により「婚姻している夫婦で、男性不妊であると診断されている人のみ」と決められている。同学会などの指針では、人工授精など生殖医療に関しても、原則としてがんの治療で生殖機能に影響が出る恐れがある人や戸籍上の夫婦に限定している。LGBTの多くが受診を拒まれる。  そもそも、知り合いからなんとか精子提供を受けられて妊娠・出産できたとしても、提供者の面会交流権はあるのか、逆に提供者に養育費を請求できるのか、といった生まれた子どもに関連する権利は、まだ法的にカバーされていない。  昨年、彼女がサンフランシスコで開かれたLGBTの国際会議でこどまっぷの代表としてスピーチをした際、会議に同席していたのが、弁護士の加藤丈晴(45)と、ゲイであることを公表して発信する松岡宗嗣(25)だ。2人は口々に言う。 「北米では、ゲイのシングルファーザーに『なんで子どもを育てたい?』と聞くのは愚問。『子どもが可愛いからに決まってんじゃん』と普通に答えますよ。権利意識の強い国だから。けれど、『血縁社会』の日本では、同性同士で子を持つことに対する偏見が根強い。まだ同性婚を議論している段階で、子を持つことは、『同性婚のさらに次』の課題。(長村が)そこにもうアプローチしているのは、かなり先を見て行動されてるなと」(加藤) 「さと子さんが目を向けているのは一貫して、当事者の暮らしなんですよね。地に足がついてる。法律を変えろ!とか拳をあげる活動家じゃない。『こんな社会がいいよね』という考えがじわじわと周りに浸透して、理解者が増えていく」(松岡)  長村の本職は、飲食店の経営者。東京と大阪に4店舗を構え、夜行バスで仮眠をとり往復する日々だ。その上、全国規模の組織に成長したこどまっぷの活動も両立して行う。メンバーは北海道から沖縄まで各地に散らばる。地方でも、講演会場はいつも満席に。情報提供の協力機関は、米国、デンマークなど、海外へも広がる。今月は台湾に赴き、現地の当事者団体と交流を深める予定だ。 ■10年続いた兄からの暴力、家の外に逃げ場所求めた  エネルギーの源泉は何か? それは、「誰かの居場所をつくること」と長村は言い切る。 「経営もこどまっぷの活動も、私がやってることは全て『場づくり』。私自身、どこにも居場所がなくて、彷徨っていた時期が長かったから」  地元は東京の下町、足立区。父の営む金属加工の工場の敷地内に自宅があった。きょうだいには兄と弟がおり、両親と祖母、独身だった叔母も同居する7人暮らし。敷地内に複数の棟の屋敷があり、一棟には部下の家族が住んでいた。  親の意向で小2から家庭教師がつき、お嬢様校として知られる都内私立小学校の編入試験を突破。小3からは電車で片道1時間かけて通学した。地元の友達はいなくなり、私立小では編入生のくせに生意気だと噂が立ち、「速攻でいじめられた」。  三つ上の兄から暴力を振るわれるようになったのは小4の時。19歳まで10年間も続くことになる。おなかを何度も強く蹴られたことさえあった。男性に対して、力で勝てない恐怖心が芽生えた。当初、母親に打ち明けたものの、「さと子の考えすぎで、気のせいかもしれない」。長村自身、母を傷つけたくなくて、抑え気味に事実を伝えたため、母も大ごとには捉えなかったのかもしれない。ただ、長村自身は母の言葉を受けて、「この話題は、言ってはならないことなんだ」と暴力の話題は封印。大勢の家族が食卓を囲む中、少女時代の彼女の頭をぐるぐると巡ったのは、<この事実を私が言ったら、家族が壊れちゃう>という思いだ。母は子ども部屋に簡易的な鍵を付けてはくれたが、引き続き兄の暴力はエスカレートしていった。  祖母からは「女であること」を常に押し付けられた。「女の子はこうあるべき」「あなたの格好は女の子なのに下品よ」と。  長村に暴力を振るっていた兄は、一時期、そんな祖母宅に引き取られて暮らした時期がある。 「うちは完全に機能不全家族。あんなに広大な場所に家があったのに、誰の居場所にもなっていなかった。私に残ったのは疑問符だけです。かぞくって何だ? 結婚って何だ?って」  兄の件では放置の姿勢を貫いた母が、学校外の娘の友達関係などを過剰なほど心配したため、「管理されている」と感じた。ピアノ、プール、お絵描き教室、書道、それに家庭教師……と、塾や習い事でスケジュールを詰め込まれていた。  自分というものがない「心の穴」を唯一埋めてくれたのは、当時ハマっていたビジュアル系バンド。兄の暴力は続いていたが、次第にバンドのファン同士のつながりに癒やしを求めていく。  高1で、私設ファンクラブを全国規模で組織。きっかけは、CDショップの店頭に置かれた交流ノートだった。同じバンドのファン同士が一冊のノートに書き込みをしていて、まずは地元の人とつながって集まりを持った。それでは物足りなくなって、雑誌に「私設ファンクラブ始めました」と投稿し、文通相手を全国に募集。北海道から沖縄まで200人の友人と文通し、1年ぐらいかけて交換ノートを回した。家の外のつながりは、唯一ほっとできる逃げ場所でもあった。  高3の時、宝塚を舞台にした小説にハマると、匿名で小説を投稿できる会員制サイトを開設した。登録者数は全国で2千人にも上る盛況ぶりだった。 ■経営難で貯金がゼロに、希望は子どもを持つこと  高校卒業後は女子美術大学短期大学部に進学。女性を好きになるセクシュアリティーをはっきりと自覚したのは、19歳だった。開設したサイトのオフ会で出会った女性に恋をした。初めて恋愛した相手であり、初めて失恋した相手にもなった。  長村の失恋は騒動に発展した。失恋のショックで、その日、長村は自宅に帰らなかったのだが、それを心配した母が、長村のアドレス帳にあった知人に手当たり次第連絡を入れたのだ。長村は、一人の年上の友人に、セクシュアリティーのことも、フラれて失意にあることも話をしていた。母から連絡が来たその年上の友人が、そのことを洗いざらい母にバラしてしまったのだ。  母に頼まれた友人が、長村をファミレスに呼び出した。友人の隣には母がいて、「心臓が飛び出るぐらいびっくりした」。友人は、自分より母の年齢に近く、娘を心配する母の気持ちに共感してつい、話してしまったのだと弁解した。母には小学生の頃に一度話したきりだった兄の暴力が、もう10年も続いていたことも伝えられていた。長村はパニックになった。母と帰宅したもののいたたまれなくなり、長村は家を飛び出した。暗がりの中、荒川まで自転車を飛ばした。一時は「身を投げて死のう」と思い詰めた。  嫌だったのは、「男性で優しい人に出会えれば、あんたも(女性を好きになる性的指向が)治るんじゃない?」という決めつけに似た母の言葉だ。セクシュアリティーを巡る母子のせめぎ合いは続いた。実家に恋人を連れていって紹介しても、母は認めなかった。「結婚できない相手は、友達の延長線上でしかない」と。ようやく認めてもらえたのはそれから5年後だ。  26歳で、新宿二丁目に店を出した。特製のお好み焼きを焼く女性優先のバーで、その名も「どろぶね」。実際、鳴かず飛ばずの時期もあり、その頃から付き合いのある我妻茜(33)は、「開業後の間もない頃、頼まれて店に寄ったら、店にいるのがさと子とスタッフだけ、ということもあって(笑)」と証言する。  店は赤字続きで、28歳のときの貯金はゼロ。当時、付き合っていた年上の女性の家に転がり込んで暮らしていたが、やがて別れを迎え、家を出された。家を借りるお金もなく、車上生活は1カ月に及んだ。昼は弁当の移動販売員として、夜はどろぶね店主兼スタッフとして、働き詰めの日々だった。疲れすぎて眠れず、店が終わると夜中に横須賀まで車を飛ばした。真冬の海で暗がりの中、女一人、漫然と釣り糸を垂らしていた。 「今思えば、釣りという名の放心状態でした」  失恋に始まり、母へのアウティング、家族の無理解、経営不振と苦難続きだった長村の一筋の希望が、子どもを持つことだった。  10代の頃から「いつか子どもを産んでみたい」という思いはあったが、セクシュアリティーを自覚した当初は、<子のいる人生は、諦めないとダメなのかな>と考え、悲しい気持ちになった。ネットサーフィンを続けるうち、あるレズビアンが海外の精子バンクに英語の手紙を送り、子づくりに挑戦している体験が綴られたサイトを見つけた。 「私にも産む選択肢は残されているんだ!と。探していた参考書を見つけた気分でしたね」 ■誰かの居場所作りが自分の居場所を作ることに  セクシュアルマイノリティーの人がどう産んで、どう人とつながりながら育てていけばよいのか、考える団体が必要になる――。そんな思いから、10年2月、有志3人でこどまっぷの前身となる集まりを始めた。目指すのは、LGBTQが子どもを持つ未来を「当たり前に選択できる」社会だ。  そもそも、長村が付き合った恋人は、子どもの話を持ち出すと、誰一人首を縦に振らなかった。 「子どもが欲しいという望みを言い出すのは、カミングアウトよりも怖かった」(長村)  15年にまみ子と出会う。店の常連客だった。まみ子はそれまでの恋人とは違った。 「子どもを欲しいという気持ちは、おかしいことじゃない」 「生まれてくる子との血のつながりはさと子だけでも、自分は構わない」  長村は「あたらしい家族」をつくる未来が見え、親へ切り出した。「法的な結婚はできないけれど、私、この人と結婚式を挙げる」と。  この時、唯一理解を示したのは、父だった。 「お前が選んだ人生なんだろ?」  まみ子との出会いから半年後、60人の参列者に囲まれて2人は結婚式を挙げた。  司法書士で、こどまっぷ共同代表のゆきこ(37)は、昨年、会を一般社団法人化するなど組織固めに注力した。こどまっぷの活動には、もう一つ大きな思いがある。17年、会のメンバーとして活躍した女性が、産後に出血が止まらなくなり、待望の我が子を一度だけ抱いて亡くなった。誰よりも子の誕生を待ち望み、精子提供者と綿密に連絡を取り合い、妊活に際してはバックアップの得られない日本の産科体制の中でもがき、ようやく掴み取った幸せの絶頂の直後の出来事だった。  長村とゆきこは、彼女の死後、遺された家族と子の父親とのトラブル収拾にも尽力した。そうした場で何度も突きつけられたのが「普通の」という言葉だ。普通の出産、普通の子育て……。仲間を失い、複雑に絡み合う家族の葛藤を前にし、長村の覚悟が決まった。「この状況を乗り越えるには、世の中が変わるしかない」「彼女の遺志を受け継いで、会の活動を前に進めるんだ」と。  自分よりもみんなのために動こうと決めてからは、テレビ、新聞、雑誌と、あらゆるメディアで発信を始める。NHKをはじめ、メディアに顔を出してLGBTQの妊活や子育てを語るのは、日本では長村が初めてだったという。  二丁目で店を出して10年。店や長村が仕掛けるイベントに出入りする人のコミュニティー、それにこどまっぷのメンバーたち、みんなが「かぞくのようなもの」に発展していると実感している。 「家族とか故郷とか、確かなつながりがない私にとり、二丁目のコミュニティーこそが心の故郷だなと。結局、誰かの居場所をつくることが、私の故郷をつくるのといっしょだとわかってきて。故郷がないなら、自分でつくる!というのが、私が抱える一生のテーマなんですよね」  子のいる人も、いない人も。同性同士で子育てしている人も、その子どもも。あるいは年配の人も。あらゆるボーダーを取り払った人びとが訪れる場を作り続けるんだと、長村は目を細めて言う。  決して「同じ」や「普通」を求めない。その目は時代の符号としての“ダイバーシティー”じゃなく、もっと体温のある“多様性”を見据えている。 (文中敬称略)   ■ながむら・さとこ 1983年 東京都足立区生まれ。金属加工の町工場を営む3代目の父は、若くして家業を継ぎ、「会社は常に傾いていた」。「機能不全家族」の一因は、お嬢様育ちの父方の祖母にもある。完璧な専業主婦を演じていた母は、長村にとっては祖母にあたる、姑に苦労。「祖母は浪費家で100万円の壺を突然買ってきちゃうような人」と長村。父も仕事の責任を負い毒親からも逃げ、不在がちだった。 2002年 私立の小中高一貫校を卒業後、女子美術大学短期大学部に進学。短大卒業後は、美術画廊や編集プロダクションに会社員として勤務するも、長続きしなかった。以後、ホステスから道路工事まで様々なアルバイトも経験。   09年 新宿二丁目に「どろぶね」を出店。その後も、ブリトー屋(16年)、足湯カフェ(18年)、大阪のショットバー(19年)と、次々に出店。   10年 LGBTで子どもを持ちたい人同士の交流会を始める。   14年 交流会を発展させ、任意団体「LGBTsでも子どもがいる未来を」設立。LGBTQの家族のためのSNSサービス「anysea」も開設。   15年 茂田まみ子と出会う。結婚式を挙げ、たくさんの参列者を呼んだのは、「完全に親への『プレゼン』。相手を認めてほしいというよりは、『将来、私が子を産んでも、仲間に囲まれながらちゃんとやっていけるよ』とアピールしたんです」。同年、精子提供者を見つけ、妊活を開始。   16年 「一番子どもに会わせたかった」父ががんで他界。   17年 香港で「Asia-Pacific Rainbow Families Forum」に参加。ピンクドット沖縄にパネリストとして登壇。沖縄で交流会を開催。   18年 非営利型一般社団法人として「こどまっぷ」設立。米国で開催された全米アジア太平洋諸島系クィア連盟NQAPIAのカンファレンスに、プレゼンターとして参加。   19年 クラウドファンディングを成功させ、冊子「Love makes a family」発行。さっぽろレインボープライドに初出展。来春、TOKYO RAINBOW PRIDE PARADEにブースやフロートを出展する予定。 ■古川雅子  ノンフィクションライター。上智大学文学部卒。専門は、医療・介護、科学と社会、生命倫理、コミュニティーなど。共著に『きょうだいリスク』(朝日新書)がある。本欄では、「詩人・岩崎航」ほか、多数執筆。 ※AERA 2019年11月25日号  ※本記事のURLは「AERA dot.メルマガ」会員限定でお送りしております。SNSなどへの公開はお控えください。
AERA 2020/04/16 16:06
感染の危険知りつつソープランドへ出勤…支援対象外で働かざるを得ない女性の実情
感染の危険知りつつソープランドへ出勤…支援対象外で働かざるを得ない女性の実情
安倍首相の緊急事態宣言を受け、人通りが途絶えた通りを見つめる女性従業員。経済的危機はあらゆる業界に迫っている(撮影/小山幸佑)  新型コロナウイルスの感染拡大を防ぐための休校に伴い厚生労働省が新設した補償制度で、政府は当初、風俗関係者を休業補償の対象外とするとしていた。これは世論の反発を受けて撤回に追い込まれたが、法の下の平等という憲法の大原則を無視した事実は消せない。AERA 2020年4月20日号では、風俗関係者への支援の必要性について改めて考えた。 *  *  *  風俗関係者からの依頼も多いというグラディアトル法律事務所(東京都)の若林翔弁護士は、「支援の必要性」をまずは考えるべきだと主張する。今回の新型コロナの問題では、多くの風俗関係者からも相談が寄せられているという。 「実態として、夜の世界で働く人たちにはもともと経済的に恵まれない環境にいた方や、シングルマザーの方も多い。そもそも他の業種より経済的支援の必要性が高い事例が多く、であれば、その人たちにも支援は届くべきだと考えます」  武蔵野美術大学の志田陽子教授(憲法学)は、感染拡大防止の観点からも政府の判断は誤りだったと指摘する。風俗業の労働者が支援を受けられず無理な出勤を続けることが、さらなる感染拡大の原因にもなりかねないと推測し、「政策的にはこうした業界に現金ケアをすることは重要だったはずです」と話す。 「自粛要請があっても、人間は生きるための必要が生じれば生存することを選ぶし、そのことは誰にも責められません」(志田教授)。関西のソープランドに勤める女性(48)もその一人かもしれない。  女性が風俗の道に入ったきっかけは、10年ほど前の離婚だった。専業主婦だったが、精神疾患を患い掃除や洗濯、食事の準備などが思うようにできなくなった。元夫はそれに理解を示さなかった。ある時、ひどい暴力をふるわれて大けがをした。慰謝料をもらって調停離婚した。  ところが、2人の子どもを養うだけの仕事は見つからなかった。ファッションヘルスから業界に入って、5年ほど前からはソープランドで働いている。  勤務は月に16~17日程度だ。新型コロナの感染拡大前には月収が50万~60万円ほどあったが、外出自粛要請などもあって客足が鈍り、今は半分近くに減った。一方、学校が休校になったことから、中学生の長男の昼食代の出費はかさんでいる。家庭の事情で欠勤したり、勤務時間が短くなったりすることも増えた。  それでも、子どもが中学生以上だったために女性は今回の支援金の対象にならない。感染の危険はあるが、今も生活のため出勤を続けている。  今回、風俗業などで働く人たちへの「官製差別」はなんとか回避された。だが、安倍政権が特定の業界で働く人々を切り捨てる「命の選別」をしたという事実は、決して消えない。(編集部・小田健司) ※AERA 2020年4月20日号より抜粋
新型コロナウイルス
AERA 2020/04/15 17:00
【サウナの科学】自粛中のサウナーに朗報!自宅のお風呂で「ととのう」方法
【サウナの科学】自粛中のサウナーに朗報!自宅のお風呂で「ととのう」方法
※写真はイメージです(GettyImages)  今、日本では空前のサウナブームが起きています。  芸能人や著名な経営者にも「サウナ好き」を公言する方が増え、また身近なビジネスパーソンで、精力的に仕事をこなすトップエリートと呼ばれる男女がこぞってサウナに通っています。なぜ、仕事ができる人は、サウナにハマるのでしょうか?  サウナを初めて科学的エビデンスに基づいて解説した話題の書「医者が教えるサウナの教科書」(加藤容崇著)より、最新研究に基づいたサウナの脳と体に与える効果と、ビジネスのパフォーマンスを最大化する入り方を、抜粋して紹介していきます。今回は、加藤先生に、「自宅のお風呂で『ととのう』方法」をお聞きしました。  新型コロナウィルス感染症により、サウナに入れなくて”サウナ禁断症状”が起こっている方も多いのではないでしょうか。 そういう方のために、今回は、自宅のお風呂で「ととのう」方法を公開します。 ●サウナに行けないけど、自宅でととのいたい!  サウナの場合、ウェットサウナ(60度)では1セット(15分)で0.8度、ドライサウナ(90度)では0.5度、深部体温が上がります。深部体温という観点で見ると、風呂(40度)15分では0.8度、42度では1.6度、深部体温が上昇することが報告されています。(入浴による食欲、深部体温、食欲調整ホルモンへの影響,日本健康開発雑誌,2017)。  つまり60度の少しぬるいウェットサウナと40度のお風呂は、同等の深部体温上昇効果があり、42度のお風呂は、60度のウェットサウナ2セット分の深部体温上昇効果があります。  一般家庭の浴槽は温度が不均一で、実際には設定温度よりも湯温が低くなる傾向があることを考慮すると、「バブ」などの炭酸系の入浴剤によって温熱効果を追加しても良いでしょう。湯中の炭酸は血管拡張作用があり体が温まりやすくなるためおすすめです。 以上のことをふまえると、家でも「ととのう」入り方は以下のようになります。  41度~42度のお風呂15分(炭酸系入浴剤併用)→水シャワー→休憩  ただし、サウナと比較して、長くお風呂に入ると疲れを感じる傾向があるため、朝サウナには不向きです。夜であっても入り過ぎには注意していただきたいと思います。また、くれぐれも水分補給は忘れずに!  そして、上記のように入れば、お風呂でも、深部体温を上げ、血流を良くして「肉体の疲労」を取ることができますが、サウナのように自律神経に対する刺激は大きくないので、「脳疲労」を取る効果をはじめとした数々のサウナ固有の効果は弱くなってしまいます。サウナとお風呂の効果の違いについては「医者が教えるサウナの教科書」でも詳しく説明しています。今は自宅で軽く、ととのいながら、再び、サウナでがっつりととのうことができる日を心待ちにしましょう。 (加藤容崇:慶應義塾大学医学部特任助教・日本サウナ学会代表理事)
ダイヤモンド・オンライン 2020/04/13 17:22
上川隆也が25年以上追い続ける2人の偉大な“父親”とは?
上川隆也が25年以上追い続ける2人の偉大な“父親”とは?
上川隆也(かみかわ・たかや)/1965年生まれ。東京都出身。中央大学経済学部在学中に演劇集団キャラメルボックスに入団し、舞台俳優として活躍。95年、NHK放送70周年記念日中共同制作ドラマ「大地の子」で主役の陸一心に抜擢。2006年のNHK大河ドラマ「功名が辻」では山内一豊役で主演。09年劇団を退団。ドラマ、映画、舞台などで活躍も。 (撮影/大野洋介) 上川隆也さん (撮影/大野洋介)  気になる人物の1週間に着目する「この人の1週間」。今回は歴史ドラマから推理ものまで、多くの代表作を持ちながら、脇役でも重厚な存在感を発揮する俳優・上川隆也さん。この春は、手塚治虫の名作を舞台化した「新 陽だまりの樹」で、幕末の世に正義を貫く武士を演じる。 *  *  *  新しい舞台に挑戦する理由について、「粉飾することなく申し上げるならば」と前置きしてから、「好奇心です」と、さらりと答えた。一つひとつの質問の意味を自分の中で咀嚼し、最初に結論を述べてから、それについての説明を加える。その語り口は、口語というよりもどこか文語的だ。ICレコーダーに録音された上川さんの発言を文字起こしすると、発言そのものが、とても丁寧で美しい日本語になっていた。  幕末を舞台に、武士の伊武谷万二郎と蘭方医の手塚良庵との友情を描いた手塚治虫の長編漫画「陽だまりの樹」は、これまでに何度か舞台化されている。8年前、伊武谷万二郎を吉川晃司さんが演じた時は、上川さんは良庵役で出演した。  その舞台と同じ製作スタッフから、「『陽だまりの樹』の脚本を中島かずきさんが担当し、宮田慶子さんが演出する企画が持ち上がっています。今回は、上川さんに良庵ではなく、伊武谷万二郎役をお願いしたいのですが」というオファーがあった。今から3年ほど前のことである。 「同じ原作で、脚本が変わって、演者が変わる。そうなった時に、あの物語がどうなるのだろうという好奇心が、大きく頭をもたげました。ですから、このお仕事をお引き受けした理由が“好奇心”であることは、間違いのないところです。ただ、ある作品に携わろうと決意するモチベーションが何であるかは、作品ごとに違います」  その“違い”の断片だけでも知りたいと思い、「とはいえ、“似たタイプの役が続かないように”など、多少普段から心掛けていることはあるのでは?」と訊ねると、上川さんは少し驚いたように目を見開いて、「まさしくその言葉を、二十数年前にご一緒させていただいた仲代達矢さんからいただいたことがあります」と言った。 「『大地の子』という作品を撮影している、29歳の時でした。役者として舞台に立ったキャリアはせいぜい5年ほど。“ペーペー”と言って間違いない時期です(笑)。移動するバスの中で、雑談の折にふと、『今演じるものと次に演じるもの、なるべく距離感がある役柄を選んだほうがいい』というアドバイスを頂戴したんです。僕はいまだにそれを、心のどこかで大事にしているところはあります」 「大地の子」といえば、中国の戦争孤児の過酷な運命を描いた長編小説で、1995年に放送されたドラマは、上川さんの出世作となった。最初に希望していた俳優とはスケジュールの折り合いがつかず、急遽抜擢された上川さんの芝居を気に入った原作者の山崎豊子さんが、のちにエッセーで「彼でよかった」と述懐した逸話もあるほどだ。 「あの作品に関しては、オーディションすら受けずに決まったキャスティング経緯があるものですから。我知らずのうちに……というとあまりにも他力本願に過ぎますが、あれよあれよという間に、自分の環境が大きく変わっていった時期でした。その変化をもたらしてくれた意味では、“転機”という言葉でしか表現しようのない作品であることは間違いないです」  撮影の最中、日本と中国を代表する2人の偉大な俳優に、大きな憧れを抱いた。 「仲代達矢さんと、一昨年お亡くなりになられた中国人の朱旭(しゅきょく)さんです。仲代さんが僕の実の父、朱旭さんは僕の中国でのお父さん役でした。このお二方が、役者としても人間としてもあまりにも素晴らしかった。お二人とご一緒できた時間は、僕にとって“あんな役者になってみたい”という憧れを、純粋に、胸に焼き付けられた時間だったんです。目の前で繰り広げられるお二人の芝居は、僕の知っている芝居とは、次元が違いました」  初めての本格的な、それも日中合作のドラマで、本物の芝居に触れられたことは、役者としての“洗礼”だったのかもしれない。その憧れの感情があまりに鮮烈だったからこそ、「より上手になりたい」「いい役者になりたい」という思いが褪せることはないという。 「あれから25年が経っても、お二人の芝居に、これっぽっちも追いつけている気がしないんです。ただ、いまだに追い続けられる背中があるのは、役者としては大きな幸せだと思っています」  幼い頃の将来の夢はパイロット。「大体、そういう子供らしいものを夢想していたので、まさか自分が役者になるとは、毛ほども思っていなかったんです。あの頃の自分が、今の自分を知ったら、すごく意外なんじゃないかな」と笑う。 「ただ、性分としては、役者の仕事は合っていたのかもしれないと思います」  そう言って、自分の性分がどう役者に向いているかについて、時々熟考を交えながら、静かに分析した。 「お芝居というやつは、どうにも数値化ができないんです。でも、だからこそ面白いんじゃないかと思います。一つ作品を経て、何かを掴んだとか、それまで気づかなかったことに気づけた、というようなことは、きっとあると思うんですが、それらはとにかく言語化しにくい。でも、成長や成果が曖昧模糊としたものだからこそ、僕の場合は、変わることなくお芝居に向き合っていられるんです」  では、上川さんにとっての芝居との向き合い方とは何なのか。 「“芝居が好き”というその一点に尽きます。もしこれが、いちいち正解があるものだったり、正確な数値が目の前に提示されていくものだったりすると、一喜一憂がそこに伴ってしまいかねない。でも、そうした反省とか後悔に駆られることなく、『楽しかった』とか『今日はちょっとうまくいかなかったな』という程度の揺らぎ具合で、お芝居に対するモチベーションは、特に変わることなく保っていられていることが、僕がお芝居を30年続けてこられた、大きな理由のような気がするんです」  少し意地悪な質問かもしれないと思いつつ、「とはいえ、“好きになれない役”というのもたまにはあるのでは?」と質問すると、「幸いにも、そうした不幸な巡り合わせには、苛まれずに済んでいます」と言った。 「役の大小や軽重に関わらず、どうやら僕は、演じたら楽しくなってしまうタイプのようです(笑)。よく取材で、『気分転換にどんなことなさってますか?』と聞かれるんですが、僕は、あまりそうしたものを欲しない。ストレスを解消するという行為すら、僕はお芝居の中でなしてしまっているように思うんです」  思慮深い上川さんの顔が、終始綻びっぱなしになったのは、愛犬との日常について言及した時だった。10年前、保護犬の譲渡会で一目惚れをしたという飼い犬について話す時は、(理路整然とした口調は相変わらずだが)その表情は、“メロメロ”とか“デレデレ”とか、擬態語でしか表現できない、柔和で幸福なものに変わった。 「こういう言葉を愛犬に使うのもどうかと思うのですが、彼女は、非常に物事を弁えている。過剰に遊びを要求することもなく、だからといって、全くこちらに関心がないというわけでもなく、絶妙の距離感で、僕らと接してくれるんです。面倒を見ているというよりも、僕らのほうが彼女によってラクをさせてもらっていると思うくらい、手のかからない子です」  犬を飼ったことで上川さんの心境に大きな変化があった。自分より先に死んでしまうであろう命を預かったことが、あらためて、“命”そのものを見つめ直すきっかけになったのだ。 「彼女はとても癒やしになる存在だけれど、同時に、いつかいなくなることも、強く意識しています。今10歳なので、平均的なところでいうと、あと5~6年でしょう。そのことは考えたくはないけれど、考えなきゃいけないと思うようになった。“命”と誠実に向き合おうとする姿勢は、彼女と出会う以前の僕にはなかったものです。いつか果てる命だからこそ、できるだけのことを彼女にしてあげたい。彼女がいなくなった後に、ロスに見舞われてしまったら、彼女に対して申し訳が立たない。だから、精いっぱい一緒の時間を過ごして、精いっぱい看取って。後は、そこにあったかいものだけが残ればいいなぁと思っています」 (菊地陽子 構成/長沢明) ■THIS WEEK 3月20日(金) 朝は、愛犬ノワールと散歩。散歩の時もアルコールスプレーを持ち、マスクをして完全防備。その後、舞台「新 陽だまりの樹」の稽古に出かける。家に帰ると、ノワールが玄関までお出迎え。上川さんが細々とした作業をしている時は、自分のスペースで黙って待っている。それから夜の散歩へ。1日2回の散歩は日課。 3月21日(土) 稽古は休みだが、自宅で台本を読み込んだり、立ち稽古をしたり、家でも舞台の準備に余念がない。そういう時、ノワールは絶対に邪魔をしない。朝晩の散歩で、桜が咲いているのを確認。 3月22日(日) 家で本読み。新型コロナウイルスの影響で、休演になった舞台の話もたくさん耳にした。明日、舞台の初日をどうするかの話し合いがある。 3月23日(月) 4月3日に始まるはずだった「新 陽だまりの樹」の初日を13日まで延期することに決定。残念だけれど仕方がない。 3月24日(火) 朝、ノワールと散歩ののち舞台稽古。 3月25日(水) 散歩と舞台稽古。 3月26日(木) 散歩と舞台稽古。今回は、幕末の武士と医師の話だが、いつの世にも、最前線で戦っている人がいることに頭が下がる。 ※週刊朝日  2020年4月17日号
週刊朝日 2020/04/12 11:30
コロナ不安で寝付けない夜には「心の会議」を…自衛隊メンタル教官に聞いた
コロナ不安で寝付けない夜には「心の会議」を…自衛隊メンタル教官に聞いた
下園壮太(しもぞの・そうた)/心理カウンセラー。メンタルレスキュー協会理事長。1959年、鹿児島県生まれ。防衛大学校卒業後、陸上自衛隊入隊。陸上自衛隊初の心理教官として多くのカウンセリングを経験。その後、自衛隊の衛生隊員などにメンタルヘルス、コンバットストレス(惨事ストレス)対策を教育。「自殺・事故のアフターケアチーム」のメンバーとして約300件以上の自殺や事故に関わる。2015年8月定年退官。現在はメンタルレスキュー協会でクライシスカウンセリングを広めつつ講演などを実施。『心の疲れをとる技術』『人間関係の疲れをとる技術』『50代から心を整える技術』(すべて朝日新書)、『自信がある人に変わるたった1つの方法』(朝日新聞出版)など著書多数  日々報道される、コロナウイルスの「感染拡大」のニュース。気がつくとニュース番組をはしごしたり、ネットニュースをサーフィンして寝る時間が遅くなる人も多いだろう。また、布団にはいってからも、興奮や不安でなかなか寝付けない人もいるのではないだろうか。  そんなコロナ不安で眠れない夜に有効な「心の会議」を提唱するのが、自衛隊で長年、心理教官を務めてきた下園壮太さんだ。新著『自衛隊メンタル教官が教える 50代から心を整える技術』でも紹介している「心の会議」の実践方法について、下園さんに聞いた。 *  *  * ■怒り、不安、自己嫌悪……さまざまな感情がぐるぐる回る  コロナウイルス感染拡大のニュースは、人にさまざまな感情を引き起こします。たとえば、共働きで、保育園に行っているお子さんをお持ちのお母さんなら、こんなことが、頭の中をぐるぐると回るかもしれません。 「こんなに感染が続いているのに、まだ会社に行かないといけないとは、おかしい!」 「でも、このまま経済活動が低下すると、わが家の生活も苦しくなるのでは」 「マスク、トイレットペーパーに続いて、食料品もなくなるのでは。買いだめは慎んだほうがいいのはわかるけど、子どもにお腹を空かせるわけにはいかないから、やはり買いたい」 「それにしても、この段階でも仕事といって、ときどき、飲んで帰ってくる夫は、何を考えているのか!」 「最近、なんだか寝ても疲れがとれない……。こんな疲れている自分で、きちんと子どもを守れるのか。情けない」  怒り、不安、自己嫌悪、さまざまな感情が頭を回り、なかなか寝付けない夜におすすめなのが「心の会議」です。  感情は、論理では説き伏せられないくらいの強いパワーを持っています。いろんな感情が暴れているから、収拾がつかない感じになっていくのです。そして、人は疲れると、ますます感情に翻弄されるようになります。コロナ騒動で生活環境が変わり、疲労もたまってきている分、ますます感情が騒いで、夜も眠れなくなるのです。  そこで行いたいのが、感情をケアするワーク「心の会議」です。なかなか寝付けないようなときには、ベッドにゆったりと横になって、目をつぶりながら、さまざまな自分の感情に耳を傾けていきます。 ■「心の会議」のコツは、どんな気持ちも肯定すること  心の会議にはいくつかのコツがあります。 ◎心の会議のコツ ・今日あったことを思い出して、その時どんな気持ちがあったか思い出す。 ・小さな気持ちも粗末にせず、言葉にする。 ・どんな気持ちも、否定しない。肯定する ・認めたくない気持ちも全部出して認める ・対策や結論を求めない(対策や結論は、心の会議が終わった後で) ・最後にすべての感情に、ありがとうと言う  このコツを念頭に、会議を始めてみましょう。 ――どんなことがあった?  今日もコロナ関連のニュースで不安が高まっちゃって。 ――どんな気持ち?  在宅勤務をしている会社があるのに、なんでうちの会社は導入しないのか、怒りがわいてきて。 ――そうだよね。会社の方針に腹が立つよね(肯定する)。  でも、会社の活動が止まると、わが家の今後の家計も心配だし。 ――そうそう、家計がとても不安だよね(小さな気持ちもきちんと認める)  それに、専業主婦で家にこもっていられる友だちが、実はうらやましくて。わが家も私が仕事を辞められたら、って思っちゃうんだよね。経済力のある友だちの家庭がうらやましくて。 ――そうだね。専業主婦の友だちがうらやましいよね(情けない気持ちも肯定)。  食料の買いだめもしたいけど、そのような慌てた行動は慎むべきだと思うし。でも子どものことを思うと、買っておきたい気持ちもあるし。 ――そうなんだね。難しいね(矛盾する気持ちも認める)  それに、夫が今一つ、危機感を抱いていない感じがするのがイライラして。 ――自分だけ心配している状況に腹が立つんだね(意外な気持ちが表れてきた!)  私がどれだけ心配して、頑張っているのか、ありがとうぐらい言ってくれてもいいのに。 ――そうだね、夫に感謝もされたいよね(自分でもやっぱりそこか…と気づく)  それに、何だか疲れが抜けなくて、これから乗り切っていけるか自信がなくなって。 ――疲れもたまってきて、自信もなくなってきてるよね(これも新たな気付き) ■ネガティブな言葉も、あえてポンと言ってみる  このように気持ちを1つずつ取り出すと、「会社の方針に腹が立った」という感情の後ろに、「友だちがうらやましい」などのいろんな気持ちがあったことに気づきます。  もちろん、スムーズに気持ちが出てこないこともあります。「こんなこと思ってしまう自分は情けない」「大人げない」という気持ちが強いときは、なおさら素直には言葉が出てこないでしょう。そういうときは、ちょっとしたコツがあります。 「くやしかったよね」「ねたましかったよね」といったネガティブな言葉をあえてぽんと、発してみるのです。  すると、「いや、ねたましいわけじゃない……でも、もしかしたら、ねたましいという気持ちもあったかな」「あったなぁ。ねたましいと思ってた」。自分で、今まで、なかったことにしていた気持ちをていねいに掘り下げる。そして、そんな気持ちのすべてに「そうだよね」と答えるのが大切なポイントです。すべての気持ちを、肯定するのです。  もちろん、「弱みを見せたくない、理性側の自分」もいます。そうはいってもがんばるしかないよね、と言いたい自分もいるのです。  その気持ちも押し込めずに素直に出しましょう。矛盾する気持ちにも、決着をつけず、どちらも認めます。「自信がない」というという気持ちだけでなく「友だちは友だちの人生だし、私は仕事も好きでやってきたんだから。コロナ騒動なんかに負けずに、絶対に乗り切る!」─そんな気持ちにも、「うん、そうだよね」と答えます。 ■感情に「ありがとう」と伝える  ごちゃごちゃにものが詰まっている引き出しから、中身を1つずつ取り出す。全部取り出すと、最後に、一番奥に隠れていたものも出てきます。そして、一番奥にあったものこそ、あなた自身に発見してもらうことを待っていた大切な気持ちであることが多いのです。 「ありがとうぐらい言ってくれてもいいのに」と言ってみた時、「うん。なんか最近、夫が私にすべて任せている感じがプレッシャーなんだ。それに、やっぱり身近な人に認められたいし、褒められたいよ」と、心の奥にある気持ちがひょっこり出てきました。  その思いに気がついた時、「そうなんだ」と自分で自分を理解した感じが広がります。甘えん坊、見栄っ張り、臆病、そんなあなたにとって見たくない感情を見つけた時、素直に「そうだよね」と言えないこともあるでしょう。そんな時は、あえてその気持ちに「私を守ろうとしてくれているんだね、ありがとう」と、つぶやきます。  怒り、不安、恐怖、焦り、悲しみ……すべての感情はあなたを守ろうとして発動するのです。だから、「ありがとう」と言うことで、ほぐれていきます。ありがとうが言いにくいのなら、「感謝だよなぁ!」もいいですね。おまじないのように聞こえるかもしれませんが、「ありがとう」の効果は実はすごいのです。その言葉を受け止めた感情は、やがて落ち着いていきます。  そして、心の会議のゴールは、「まぁ、たいしたことないかな」と少し思えれば上出来です。通常、会議というのは、なんらかの「対策」や「結論」を求めるものです。出席者が都合を調整してその場に集まっているのですから、ただの世間話だけでは不満が残る。その成果を共有することが「達成感」となります。  しかし、「心の会議」は、あなたの心の中の会話ですから、結論など求めなくていい。全部の気持ちを出したら、それを「感じる」。まるごと、感じてみます。  感情は、その存在を主張するために、出来事を拡大し、視野を狭めるというメカニズムがあります。「わかってほしい」と訴えかけている感情に対して「そこにいるのはわかったよ」と認めることで、過剰な訴えかけはおさまってきます。  すべての心の言い分を聞いて、フラットに眺めて、どの感情もあってよかったんだなぁとしみじみ思えたら、「今度のコロナ騒動も、なんとか乗り切れるかな」と少しだけ思える。  それが「心の会議」の目指すゴールです。「では、私は明日から何をすればいいのでしょうか」と対策を知りたがる人もいるでしょう。でもこれは、お肌のケアや掃除と一緒で、毎日することで、元気に日々を過ごすための「心のお掃除」なのです。ぜひ、気軽に試してみてください。
新型コロナウイルス朝日新聞出版の本読書
dot. 2020/04/07 07:00
「死を思え」親友を見送った記者が目撃した「死んでいく力」の凄み
鮎川哲也 鮎川哲也
「死を思え」親友を見送った記者が目撃した「死んでいく力」の凄み
修治さん(左)と留美子さんの趣味は登山だった。金峰山に登ったときには南に富士山が望めた。2005年頃 2018年冬、二人で出かけた下田の日帰り温泉の前でほほ笑む金田さん(左)と大岳さん 修治さんがいつもそばに置いている、一番お気に入りの留美子さんの写真 「終活」という言葉が世にあふれている。元々、週刊朝日が使い始めた言葉だ。試しに「終活」をネット検索すると、6千万ものサイトがあった。でも、それらの情報は便利だけれど、どこか現実味に欠ける。近頃、親しい友人を相次いで失った編集部記者が考えた。ほんとの終活って? *  *  *  還暦の坂も見えてきた記者。元気だった両親も80代になる。足を悪くした母のサポートのため、しばしば東京から四国に帰っている。  そんな老いの現実に直面してはいても、思えば死はひとごとだった。独り者で、幸いにして友人は多く、よく酒を飲む。夜になると寝て、朝になると起きる。それが当たり前の暮らしだと思っていた。  25年近く付き合いがあった「キンチャン」こと広告会社に勤務していた金田昇さんも、そんな仲間だ。よくキャンプなどを楽しんだ。  付き合い方がガラリと変わったのは3年ほど前のことだ。  61歳のとき、金田さんに膵臓(すいぞう)がんが見つかった。手術は成功したが、病状は重い。仕事熱心だった彼も勤めをやめざるをえなくなった。さらに持病の座骨神経痛が悪化し、歩くこともままならなくなり、自宅療養を余儀なくされた。  それで体を休められるのはいい。でも妻もフルタイムで働き、子どもは独立。家に一人でいることが多く、時間を持て余している様子だった。  手を差し伸べたのは、アウトドア仲間である大岳令幸さんだ。  無聊(ぶりょう)の日々を送る金田さんに、療養も大事だが仕事もすべきだ、と説いた。本人もそう考えていたこともあり、体に負担の少ないマンション管理人の仕事を勧めた。勤務先は偶然、大岳さんの住まいのすぐ近くになった。 「金田さんの面倒を見なさい」  と、そのとき運命のようなものを感じた、と大岳さんは言う。友の健康状態を気にかける日々が訪れた。 「仕事をし、社会に参加していると生きていることを実感できる、と思うんです。それに生きる意欲を持ってほしかったんです」  献身的なサポートの甲斐もあり、金田さんは心身を立て直した。記者が会いに行っても、金田さんは重たい現実を受け入れているようにも見えた。  いまとなっては彼の当時の心中は、本当のところはわからない。  ただ、たとえば「余命わずか」と死を目の前に突きつけられたら、記者はどうするだろう。  やり残したことをしたい。残りの人生を自分らしく生きたい、とまず思う。でも、そんなことはできるのだろうか。  自分らしく最期を迎える手助けをする日本尊厳死協会に取材した。1976年、死のあり方を考える医師、法律家、ジャーナリストらが集まり設立された。毎年、数千人が加入している。  協会の江藤真佐子さんは言う。 「最期の瞬間まで自分らしい生き方ができれば、その人にとっての救いになるのかもしれません。厳しい状態になって悩みながら生きるより、死を受容していく。それができればいいのですが、そんなに簡単なことではありません」  自己肯定感を追うのが一つの方法、と江藤さんは言う。実際に死を意識すると、ネガティブな気持ちになりがちだが、これまで人生でよかったことは、何かしらあるはずだ。そのよかったことを改めて実感できれば救われるのでは、と。  金田さんはアウトドアをこよなく愛していた。他界する3週間前、大岳さんら仲間たちが集まり、25年間の「カヌーツーリング」のビデオ鑑賞会を開いた。 「みんなに会いたい」  という金田さんの気持ちに応え、できるだけ多くの人に、と友人の輪はひろがった。最後かもしれないと、記者も予定をキャンセルして駆けつけた。 「会えてよかったよ。いろんな楽しい思い出がよみがえってきた」  そう語る表情が忘れられない。今年1月7日、世を去った。享年63。  自分らしく生きる、というと大げさかもしれない。ただ、病を得たキンチャンにとって、長年の仲間とつながりを感じることが糧になった。人生の締めくくりに会いたい人と語り合えた。そういう意味で、少しは救われたのではないか。  持つべきものは良き友である。  近しい人とのかかわりによって、死にゆく人がその直前に救われることはある。では、残された人はどうすればいいのだろう。  藤木留美子さん(享年68)は、ネット通販の会社を営んでいた。自立した、責任感の強い女性である。その彼女を支えていたのは夫の修治さん。藤木さん夫婦は、記者の頼れる友人でもあった。そして留美子さんは死を目前にして、尊厳を感じさせた人だと思う。  3年ほど前、留美子さんは、サルコイドーシスという難病を患った。でも病気であることを感じさせないぐらい元気な様子だった。それは病気と向き合う意識を持ち、どうすれば自分は症状を抑え込むことができるか理解していたからでもある。だから、急に体調が悪くなったときも、落ち着いていた。 「体調を崩してからいろいろと治療をするのですが、医者によると、それがかなりの苦痛を伴うらしいんですよ。でも、痛い、つらいって、一度も言ったことはありませんでした」  と修治さんは言う。  妻の残りの人生を悔いのないようにしたいと修治さんは心に決めた。何をしてほしいかをたずね続け、その希望に応えていった。それが「終活」だったのだろう、と振り返る。  修治さんは日々の妻の状態や話した言葉などを日記に記録していった。楽しかったことを話したり笑い合ったりして、残り少ない一日一日を生きた。 「あなたと一番近くで人生をともに歩みます、と本気で伝えると終末期の患者は救われる」  そう語るのは、医師の山崎章郎さんだ。  末期がんの患者とその死に寄り添いつつ、終末期医療について考察した作品『病院で死ぬということ』の著者。現在はケアタウン小平クリニック(東京都)を拠点に、ホスピス緩和ケアに取り組み、多くの患者を支えている。 「治る見込みがない患者さんは、家族に迷惑をかけたくないから入院すると言うものです。でも、本心は家にいたいし、最期は家で、と望んでいます。いつもの光景の中で、普段どおりの暮らしを続けたい、という人がほとんどです」  と山崎さん。そばにいる人には、こう助言をする。 「医師だけでなく、身近な人が病気や今の状態に至ったプロセスを少しずつ一緒にたどり、なぜこうなったのか、どう選択してこうなったのかなど、ゆっくり時間をかけ、その過程を振り返ることで、今の状況を理解し、少しずつ納得していくようになります」  妻に寄り添う修治さんはある日、思いがけない言葉を聞く。 「もう、(死んでも)いいよね」  ただ世話をされている心苦しさから発せられた言葉かもしれない。それでもまだ力があるうちにと、留美子さんは願いごとのひとつひとつを弱まる力を振り絞って書き記していった。  覚悟を決めた修治さん。もっと長く生きてほしいが、苦しんでいる姿をもう見たくもなかった。ある朝、目が覚めると安らかに眠る妻の姿を確かめた。昨年9月のことだ。 「喪失感はすごい。でも、亡くなった人は戻ってこない。自分も今後の生活のこと、自分の死のことについて留美子のように準備をしています」  修治さんは、そうつぶやいた。最期に至る記録をあらためて開き、来し方を振り返ることがよくある。ときに自問する。  残された人は、こんな悲しみをどう乗り越えればいいのか。 「家族や愛する人が世を去ることはつらいこと。無理に乗り越える必要なんか、まったくないのです」  と山崎さん。 「家族や大切な人が亡くなって肉体がなくなっても、その人の精神、その人との思い出など、生きた証しは残された人の心の中に生き続けるのです。それを私たちは『死後生(しごせい)』と呼んでいます。生きた証しは、残された人の力になる」  長年の経験を踏まえ、山崎さんは語る。 「自分がどんな『死後生』を残せるかを考え、その『死後生』をよりよいものにするため、どう生きるかが問われているのです」  死は見送った人の心に大きなものをもたらすそうだ。 「病人の世話などで大変な思いをすることは多いでしょう。でも、本人の希望をかなえられたかということや、最期に有意義な時を過ごせたかなど、亡くなった人に接した人の経験は、その後の人生に深い意味をもたらす。最期の日々は亡くなっていく人たちから、残された人への贈り物の時間でもあるのです」  自分は贈り物の時間を残せるのか。これからは死後生ということも心にとめて、人に接したいと思う。  死へと向かっていく友人に、記者は深い思いを抱いた。頻繁に顔を合わせた、かけがえのない時間を振り返り、やはり贈り物だったと思う。  人間は必ず死ぬ。日々過ごしているのは、死に向かっていることでもある。  ただ、一度も死んだことがないし、亡くなった人に死んだらどうなるの、なんて聞けない。そうこうして死を考えることから避けてきたのだ。そして二人はこう伝えたのだろう。 「死を思え」  専門家にたずねた。日本尊厳死協会の江藤さんは、死について考えることがタブー視されなくなったこと、自分らしく生き、自分らしく死ぬという尊厳死を望む人が増えていることを話してくれた。  ケアタウン小平クリニックの山崎さんは、余命が短い人は、その状況をどう納得するかがカギになる、と言った。そのためにじっくり向き合い、話を聞くそうだ。  もし自分に突然、死を突きつけられたらどうだろう。  余命を納得する? 納得なんてできるのだろうかと、今も率直に感じる。  ただ、ある人は、あの世に行った人は誰も戻ってこないので、きっといいところなのだろう、と言っていた。そうすると、死は怖くないのかもしれない。  今を精いっぱい生きることで、悔いのない死を迎えることができるのでは、というのが自分にとって今のところの一つの答えなのだと思う。  これから先、自分の心がどう変化するかわからないが、最期までジタバタ、アタフタするのだろうと思う。でもそれが「自分らしい生き方」なのだろう、と先回りして納得する。  さて終活へ、僕も心構えぐらいはできたのだろうか。(本誌・鮎川哲也) ※週刊朝日  2020年4月10日号
シニア終活
週刊朝日 2020/04/06 08:00
新型コロナでも最重要となる170年前の気づき 悲劇の医師「手洗いの父」の末路
早川智 早川智
新型コロナでも最重要となる170年前の気づき 悲劇の医師「手洗いの父」の末路
医師のゼンメルワイス(写真/gettyimages) 『戦国武将を診る』などの著書をもつ産婦人科医で日本大学医学部病態病理学系微生物学分野教授の早川智医師は、歴史上の偉人たちがどのような病気を抱え、それによってどのように歴史が形づくられたかについて、独自の視点で分析する。今回は産科医であり「手洗いの父」ゼンメルワイスを「診断」する。 *  *  *  コロナウイルス・パンデミック、特に母子感染がにわかに注目を集めるようになったこの数週間、あちこちから御座敷がかかるようになってきた。産婦人科の世界でメジャーな分野は、がん治療を行う腫瘍(しゅよう)学や周産期医療、そして生殖医療である。しかし、へそ曲がりな筆者が産婦人科の中でもマイナーな母子感染と感染免疫を専攻するようになったきっかけは、半世紀近く前に読んだ一冊の本である。  亡父(もともとは細菌学者で、後に臨床に転じて産婦人科医)が、中学生だった筆者に「これを読んでみたら」と渡してくれたのが『外科の夜明け』(トールワルド著、塩月正雄訳)という文庫本だった。ひと言で言うと「ゼンメルワイス医師が手洗いを広めて産褥熱(さんじょくねつ)が激減した経緯と、なかなか世に認められなかった彼の悲劇」である。 ■消毒薬による手洗い  私たちが、安全に苦痛なく手術を受けられるようになって、まだ200年も経っていない。痛みを制御する麻酔と、感染を制御する無菌法はいずれも19世紀半ばの発明である。感染の予防や制御には20世紀の抗生剤の発見や、様々なワクチンの開発がさらに大きくかかわってくる。  18世紀までは、瀉血(しゃけつ)や水銀など怪しげな薬物療法が支配していた西洋医学をして、鍼灸と漢方薬主体の東洋医学(もちろんこれはこれで意味があるが)に対する圧倒的な優位をもたらした立役者が、ハンガリーの産科医イグナーツ・ゼンメルワイスである。  ゼンメルワイスは、オーストリア帝国の属国であったハンガリーの首都ブタペストに1818年生まれた。小売業で成功したドイツ系商人というあまり学問とは縁のない中産階級出身だったが、努力家のゼンメルワイスは、当時帝国の最高学府であったウィーン大学で法学を学び、後に医学部に転じて1844年に博士号を取った。しかし人気のある内科には入れず、当時は助産婦の仕事と思われていた産婦人科を専門とし、2年後にはウィーン総合病院第一産院のヨハン・クライン教授の助手となった。  当時、ウィーン総合病院には二つの産科があり、医学部学生が実習をしていた第一産科では、産婦の10%以上が産褥熱により死亡していた。一方で、助産婦が訓練を受けていた第二産科の死亡率は4%であった。ゼンメルワイスは病棟の込み具合や関与する医療スタッフの数、換気状態などをしらみつぶしに調べていたが、友人の病理学者ヤコブ・コレチカが産褥熱で死亡した患者の剖検中に誤ってメスで指を傷つけ、その後自身が産褥熱に似た症状で死去したことから、死体から目に見えない微粒子が侵入したという仮説を立てた。第一産科の研修医たちはがんの患者を診察し、亡くなった患者の遺体を解剖し、同時に分娩管理をしていたのに対し、第二産科の助産婦の卵たちは妊婦しか診なかったからである。  彼は、これを解決するため、診察の前後に汚水処理に使われていたさらし粉(次亜塩素酸カルシウム)後には、昇汞(しょうこう。塩化水銀)を使って手を洗浄することを始めた。その結果、第一産科の死亡率は1847年4月の時点で18.3%だったのが、わずか3カ月後の7月には1.2%に激減した。それまでも研修医は手を洗ってはいたが、洗い方はおざなりで、前掛けや手ぬぐいで繰り返しぬぐっていただけなのである。 ■先駆者の悲劇  しかし、ゼンメルワイスは20年後に石炭酸(フェノール)による手術野の消毒で世界的名声を得たイギリスの外科医ジョゼフ・リスター卿とは対照的に、世間や医学界に受け入れられることはなかった。上司であるクライン教授に無視されただけでなく、病理学の大御所、フィルヒョウ教授にも嫌われた。そうして、ウィーン大学の職を追われたゼンメルワイスは、当時は田舎大学だったブタペスト大学(現在では彼の名を冠したゼンメルワイス大学というハンガリー最高学府)に職を得たのだった。  ここでも多くの医師たちには受け入れられなかったが、頑固に「手洗い」を勧め、当然ながら産褥熱や他の感染症を激減させた。が、不幸にして病を得て1865年、47歳の若さでなくなった。晩年は精神を病み、院内で看護士に暴行を受けた創傷感染とも神経梅毒が原因であったともいわれるが、詳細はわからない。トールワルドの本では、最後に診た産褥熱患者からの院内感染としているが、亡くなる前の数カ月は入院していたのでこれは著者の脚色であろう。  一般には、あまりに時代に先駆けた医師の悲劇として片づけられることが多い。しかし、ゼンメルワイス自身もちゃんとした論文を書かず、センセーショナルな一般書や公開質問状で当時の医学者たちを非難するなど、科学者にあるまじき感情的な行動をとっている。身分制度が厳しいハプスブルク帝国で、属国のハンガリー出身で、加えて親類縁者に医師や大学教授がいるわけでもなく、科学や哲学を冷静に討論する友人にも恵まれなかったのが、彼を不幸にしたのかもしれない。  20年後には、パスツールやコッホが病原細菌を顕微鏡で観察して培養に成功し、これらの性質を明らかにしたり、治療薬を開発した北里柴三郎や秦佐八郎は異邦人の留学生だったが学会で高い評価を受けたりしている。この違いは、論文を書いたかそうでないかということに尽きる。これこそが、筆者が学生や院生に臨床でも基礎研究でも新しい発見をしたら「論文にせよ」と教える根拠である。  昨今、あちこちで手洗いを勧めながら、ゼンメルワイスと本を勧めた父の霊よ安かれと思う毎日である。 ◯早川 智(はやかわ・さとし)/1958年生まれ。日本大学医学部病態病理学系微生物学分野教授。医師。日本大学医学部卒。87年同大学院医学研究科修了。米City of Hope研究所、国立感染症研究所エイズ研究センター客員研究員などを経て、2007年から現職。著書に『戦国武将を診る』(朝日新聞出版)など ※AERAオンライン限定記事
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