検索結果2076件中 1061 1080 件を表示中

「オンライン疲れ」の正体は“脳過労” 脳科学で考える「1日5分」効果的な解消法
野村昌二 野村昌二
「オンライン疲れ」の正体は“脳過労” 脳科学で考える「1日5分」効果的な解消法
ひっきりなしに入ってくる情報に脳の処理能力がついていけなくなると「情報メタボ」ともいうべき状況に陥る。この生活が長く続くと、脳の機能が低下する恐れがある(撮影/写真部・小黒冴夏) AERA 2020年9月7日号より  自粛生活やテレワークでデジタル機器を使う時間が急増。それとともに、「オンライン疲れ」を訴える人が増えている。オンライン中心の生活では視覚情報が中心となり、偏った脳の使い方で脳の一部が疲弊、使われない機能はさびつき、衰えてしまう。AERA 2020年9月7日号は「テレワークの弊害」を特集。解消法をレクチャーする。 *  *  *  午後5時30分、テレワーク終了。都内の機械メーカーに勤務する女性(49)は自宅のパソコンのスイッチを切った瞬間、ぐったりとソファに倒れこむ。 「とにかく、疲れています」  新型コロナウイルスが拡大した3月から、女性の会社では在宅勤務が始まった。仕事は一般事務。最初の数週間は最高だった。何しろ毎朝早く起きる必要はないし、通勤時の満員電車の苦しみもない。ビデオ会議がなければメイクもせず部屋着のまま、自分のペースで仕事ができた。  でも、1カ月もすると、どうしようもない疲労感が襲ってきた。考えられる原因は、拘束時間の午前9時から午後5時30分までトイレや食事に立つとき以外、ずっとパソコンの前に座っていること。頭が休まる暇が全くないのだ。  在宅で仕事を怠けていると思われたくないので、メールの着信があれば、即返事、ビデオ会議のTeams(チームズ)の呼び出しがあれば、即受信。会社だと、その場でひと言聞けば解決するようなことでもメールの確認が必要になり、膨大なメールを処理するように。Teamsでの会議はイヤホンを使っているが、耳に声がこもったり、相手の声がよく聞こえなかったりしてそれがストレスにもなる。  かくして、今では定時になりパソコンを切ると、何もする気力が起きずソファに倒れこんでいるのだという。 「もともと肩こりや腰痛持ちでしたが、それが悪化したのはもちろん、全身に疲労感があります」(女性)  コロナ禍で外出自粛が叫ばれる中、オンライン会議やオンライン授業、オンライン飲み会などオンラインを活用した仕事や交流が積極的に行われるようになった。場所を選ばずどこでもできるというメリットがあるが、一方で、先の女性のように「オンライン疲れ」を訴える人が増えている。  都内の会社員の女性(39)も、オンライン疲れで体調を崩した。 「朝から晩までオンライン会議が4、5件あり、そのせいか食欲不振、吐き気を覚えるようになってしまいました。電話が鳴っているような空耳もあり、心療内科に通い、抗不安剤を服用しています」  NTTコム オンラインがツイッターの投稿内容を分析したところ、2月1日~5月14日に「オンライン疲れ」という単語を含んだ投稿は約80万件あったという。 「オンライン疲れの背景には、デジタル機器の使用による“脳過労”があると考えられます」  そう話すのは、脳神経外科医で「おくむらメモリークリニック」(岐阜県岐南町)理事長の奥村歩(あゆみ)医師だ。  脳過労とは脳の処理能力が落ちた状態を指し、「大事な会議を忘れてしまった」「よく顔を合わせる同僚の名前が出てこなかった」……といった“もの忘れ”の症状を訴える人が多い。  ロート製薬が5月に10~50代の男女562人を対象に実施した調査では、在宅勤務が毎日という人は26%、週に3日以上という人は21%。また、デジタル機器との接触時間は、在宅勤務を取り入れている人ほど長い傾向にある。「コロナ禍において、1日あたりのデジタル機器との接触時間に変化はありましたか」という質問には、毎日在宅勤務という人は62%以上が「のびた」と回答、1日あたり5時間以上増えたという人も22%にのぼった。  なぜ、デジタル機器の利用が脳過労につながるのか。  奥村医師によると、脳の司令塔的存在である前頭前野(ぜんとうぜんや)で情報処理をする場合、次の三つの役割に分担されているという。 (1)浅く考える部分…記憶を一時的に保管する「脳のメモ帳」。ワーキングメモリという (2)深く考える部分…前頭前野の熟考機能で司令本部的な働きをする (3)ぼんやりと考える部分…デフォルトモードネットワークという。ぼーっとしているときに働く  脳過労というと、脳全体を酷使しているイメージがあるかもしれないが、実はデジタル機器による脳過労は(1)だけが酷使されて疲弊し、(2)と(3)が使われずにさびついていく状態なのだという。  パソコンやスマホはある意味、脳に楽をさせてくれる。固有名詞が思い出せなくても検索すればいいし、覚えるべきことも写真を撮って後から見ればいい。地図が読めなくてもGPSがあれば目的地にたどり着ける。つまり、情報を覚えたり思い出したり、深く考えたりという「脳が本来やるべき仕事」をする機会が奪われているのだ。  さらに、オンライン中心の生活は、メールなどの文字情報の確認、ネットでの調べもの、オンライン会議など「視覚過多」の状態。もともと人間は情報の8割以上を視覚から得るといわれているが、オンラインではその傾向がさらに強くなり、視覚以外の五感が使われない傾向がある。 「私たちの脳は視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚の五感を通じて情報を『インプット』し、前頭葉と呼ばれる場所で情報を取捨選択して『整理』を行い、言葉や行動として『アウトプット』しています。視覚からのインプットばかりが多くなって脳の整理が追い付かず、脳がゴミ屋敷のようになっていくのです」(奥村医師)  この「情報メタボ」ともいうべき生活を長く続けていると、物忘れや記憶力の低下、思考力や集中力、コミュニケーション力低下などの症状が表れ、うつ病につながることもあるという。また、脳過労を訴える患者のほぼ全員が、寝つきが悪い、眠りが浅いなどの睡眠トラブルを抱えていると指摘する。 「睡眠時、脳内では、疲労物質を代謝したり、脳細胞を修復したりといったメンテナンス作業が行われていますが、最近の研究では、認知症の原因物質となるアミロイドβを除去する作業が、寝ている間に進められていることもわかっています。睡眠トラブルは脳の衰えと将来の認知症リスクに直結します」(同)  夜間のスマホやパソコンの利用が、睡眠を防げているという。  脳の疲労はいつの間にか蓄積し、放っておくと深刻な状態に発展することも多いという。起きている間はずっとデジタル機器を使っているという人は注意が必要だ。解消するには、スマホやパソコンなどから一定期間離れる「デジタルデトックス」が有効だが、実行できない人も多い。奥村医師は言う。 「そこで重要となるのが、デフォルトモードネットワークを活性化させることです」  これは前出の(3)ぼんやりと考える部分のこと。デフォルトモードネットワークは聞き慣れない言葉だが、21世紀の脳科学の最大の発見の一つだという。  従来の脳科学では、脳は、何もしないでぼんやりしている時は活動していないと考えられてきた。しかし実は「ぼーっと」している最中、脳は決して活動をやめているわけではなく、内側前頭前野や後部帯状回など、脳内の複数の離れた領域が、同期・協調して働いてネットワークでつながり、活性化していることがわかった。デフォルトモードネットワークを稼働させることで、ひらめきやアイデアが浮かびやすくなり、(2)の熟考機能がフォローされ、記憶力が鍛えられたり、脳の老化が抑えられたりという効果もあるという。  奥村医師はデフォルトモードネットワークを「我に返る脳機能」と呼ぶが、この時、脳は活動時の15倍ものエネルギーを消費し、それまで蓄積された情報を整理整頓して頭をリフレッシュしてくれるという。ただし、このネットワークは、視覚を遮断した時にしか活性化しない。デジタル画面を眺めていてはフリーズして働かないのだ。そこで奥村医師はこうアドバイスする。 「1日5分でいいので、ぼんやりする時間を作ってほしい。その5分間は、目をつぶる必要はなく、対象物を追いかけず、ぼーっとするだけで大丈夫。パソコンやスマホから完全に離れてメールや電話などの邪魔が入らない環境で、窓の外に目を向け、自然を眺められればさらに効果的です」 (編集部・野村昌二) ※AERA 2020年9月7日号より抜粋
仕事働き方
AERA 2020/09/02 08:00
オンライン疲れに負けないための「脳トレ」のすすめ 「頭を洗いながらしりとり」も有効
野村昌二 野村昌二
オンライン疲れに負けないための「脳トレ」のすすめ 「頭を洗いながらしりとり」も有効
AERA 2020年9月7日号より  在宅勤務によりデジタル機器の使用する機会が増え、「オンライン疲れ」を訴える人が増えている。脳のストレスを軽減し、オンライン疲れに負けない脳の基礎体力を養う対策が必要だ。「テレワークの弊害」を特集したAERA 2020年9月7日号から。 *  *  *  都内でPRの仕事をする女性(44)は先日、取引先から「メールが送られてこない」という苦情の電話を受けた。確かに送ったはずなのに……そう思っていたら、下書きにしたまま送信ボタンを押していなかった。こんな初歩的なミスを、ここ最近繰り返している。  今は在宅勤務で、仕事量はずいぶん減ったはずなのにうまく進まず、夜遅くまでダラダラと作業してしまう。休日も出かける気になれず、家で動画を見ることが増えた。本来はアウトドア派だが、積極的に外に出る気持ちになれない。女性は言う。 「仕事でもプライベートでも、楽しいことが減ってしまった。そんな小さなイライラが、ミスにつながっているような気がします」  コロナ禍における不安やストレスは、記憶を一時的に保管する「脳のメモ帳」である脳のワーキングメモリの働きを阻害すると指摘するのは、脳科学者で公立諏訪東京理科大学の篠原菊紀教授だ。 「ワーキングメモリが持つメモ帳は、せいぜい3、4枚。つまりたいていの人は、一度に3~4個の物事しか処理できませんが、不安やストレスがあると、このメモ帳の数がさらに少なくなってしまうんです」  先の女性のように、「メールを送ることを忘れた」というのも、ワーキングメモリの衰えが影響している可能性がある。篠原教授は言う。 「コロナ禍にあって、私たちは感染への恐怖から脳が不安やストレスを感じている。そこに今度は、リモートワークでオンライン会議などを行うようになると、相手の声が聞こえづらかったり音声が途切れたりして、ただでさえストレスを抱えた脳にさらに負荷をかけ、さらにワーキングメモリの働きが悪くなりメモ帳が食べられる。今はそんな悪循環が起きています」  不安やストレスによる脳機能の低下には、「書き出すこと」が有効だと篠原教授は言う。 「困った」「どうしよう」など、頭のなかをぐるぐるしているストレスを書きだすだけでも、カウンセリングを受けたときのように頭のなかがすっきりし、脳のメモ帳が使いやすくなるという。 「不安やストレスを外に出すことが大事なので、ネガティブな言葉を使ってもかまいません。誰かに打ち明けることも、効果的です」(篠原教授)  また、脳のメモ帳の容量が少ない時は、「ToDoリスト」としてリアルなメモを作ればいいという。その時は、時系列に沿って次に行うことをイメージできる書き方をすれば、記憶に対する負荷が減り忘れにくくなるという。こうして脳の負担を減らすと同時に、「脳の基礎体力」を養うことも大切だ。 「脳は筋肉と同じで、鍛えれば鍛えるほど強くなります。大切なのはやるべきことをストレスと感じるか、脳のトレーニングととらえるか。いやだな、大変だな、と思っているとコルチゾールというストレス物質が分泌され、脳細胞のつながりが悪くなります。スピードとともに正確性が求められる、同時にいくつものことをやらなければならないなど、『負荷が大きいときほど脳トレのチャンス』と前向きにとらえれば、脳を鍛えることができます」(同)  オンライン疲れに負けない脳を作る方法は、いろいろある。  体の状態は脳に影響を与えるため、たとえば背筋を伸ばすだけでも認知機能が向上する。コロナ禍で運動不足の人が増えているが、運動は脳の健康に欠かせない。有酸素運動や筋トレなどには、血管を生み修復する血管内皮細胞増殖因子(けっかんないひさいぼうぞうしょくいんし)、脳細胞を生み育てる脳由来神経栄養因子(のうゆらいしんけいえいよういんし)の分泌を促す効果がある。  そこに知的作業を組み合わせ、デュアルタスク(二重課題)にすることで負荷が増し、さらに強度の高い脳トレにつながるのだという。たとえば、ウォーキングしながら100から7を引いていく、風呂場で頭を洗いながらしりとりをする、ジョギングしながら英語のリスニングをする、など。そうすると脳は混乱し、混乱を整理しようと働き、脳の活性化につながる。  ただし、睡眠や休息が十分でない場合の過度な負荷は脳を疲弊させるだけ。自分の脳の状態や疲労感に応じて、適切な負荷を見つけていくことが大切だ。  脳神経外科医で「おくむらメモリークリニック」(岐阜県岐南町)理事長の奥村歩(あゆみ)医師も言う。 「アルツハイマー病の原因物質とされるアミロイドβは、30~40代のころから少しずつ蓄積されていくことがわかっています。30~50代の働き盛りの世代において、どれだけ脳によいことをしてきたか、どれだけ脳に悪いことをしてきたかが、その後の脳に大きな影響をもたらします」 (編集部・野村昌二) ※AERA 2020年9月7日号より抜粋
AERA 2020/09/02 08:00
佐藤二朗、暗黒の20代を語る 銭湯で「なにくそ!」と思った日々は…
佐藤二朗 佐藤二朗
佐藤二朗、暗黒の20代を語る 銭湯で「なにくそ!」と思った日々は…
俳優、脚本家の佐藤二朗氏  個性派俳優・佐藤二朗さんが日々の生活や仕事で感じているジローイズムをお届けします。今回は、下積み時代について。 *  *  * 「ええ、もちろん。下積み時代も良き思い出です」  テレビ画面に、そう答えた落語家さんが映っている。心底うらやましいと思う。僕なんか正直思い出したくもない。「暗黒の20代」と僕はよくそう言っているが、暗くて冷たい澱にずっと閉じ込められているような感覚だった。  ただ最近、ふと思う。僕は、こう、なんというか、幸せを感じるハードルが全体的にわりと低い。夕方、息子と手をつないで近所のスーパーに買い物に行くだけで、わりと十分な幸せを感じる。オレンジ色の空を息子と眺めながら、「あぁ、もうこれでいいな」…いや、いくない、いくない。そんな老成したことを言うような歳でもない。もちろん、向上したいとか、貪欲なところもある。しかし、些細なことで幸せを感じるのは、「暗黒の20代」があったからかもしれない。そしてその20代の時に知り合い、今も大事にしている人が何人もいる。  当コラムで前にも書いたように、映像で俳優をやり出して僕は今年で20年だ。ここは1つ、下積み時代を遠慮なく思い出してみよう。遠慮なく、下積み時代を自慢してみよう。  もうね。とにかく、金がなかったマジで。マジでマジでマジで。当時一緒に住んでいた彼女(今の妻)から「食費、交通費含め、これでなんとかしのげ」と1日1500円を財布に入れられた。バイトを終えて当時の最寄り駅を降りると、逆さにしたビールケースを椅子代わりにしてるような大衆居酒屋があったが、そこで呑むのが夢だった。家路につく僕の財布はいつも残りは数百円で、たとえ安く呑める赤提灯だって敷居がとんでもなく高かった。  当時住んでいた、いわゆるボロアパートには当たり前のように風呂がなかった。エアコンもない。お湯も出ない。芝居の稽古で夜遅くなったら一大事。近くの銭湯が深夜1時までだったから、それに間に合わなければその日は風呂に入れない。ちなみにその銭湯は、毎日必ず「次の定休日は〇月〇日ですぅ~」としつこいくらいに言う、いつもニコニコしているご高齢の女将さんが番台だったのだが、そんなことはいいんだが、とにかくその銭湯の営業時間に間に合わなかったら一大事。冬ならまだしも、ただでさえ汗っかきの僕だから真夏は大変。エアコンないし。  ちょ、ごめん、書いてる途中だが、いま気づいた。下積み時代を自慢してみようと思って書いていたが、皆さまにお読み頂く価値、ないね、コレ。そして俺が20代を「暗黒」と言うのは、上記のごとき風呂なしアパートとか1日1500円とか、そういうこっちゃないわ。  自分が自分の望むナニかになれるか、その不安で、はち切れんばかりになってたんだわ。いや、もちろんその不安はまさに「暗黒」なのだけれども、そして風呂なしアパートや1日1500円はその不安に拍車をかけたかもしれんけど、中枢にあったのは、暗くて冷たい澱の正体は、そういう物理的なことじゃなかったんだわ。 「俺はホントに俳優になれるんかいな。マジで。マジでマジでマジで」  コレだったんだわ。コレに尽きるんだわ。いや~ごめんなさい、いま気づきました。ホント、当コラムはいろんなことに気づかせてくれますなあ。あはははははははは。  笑い事ではない。何を勝手に書き始めて何を勝手に合点がいっておるとお思いだろう。しかし僕には大切な「気づき」だ。  数年前、ある銭湯に息子と行った。その銭湯には猫の額ほどの小さな露天風呂があり、そこに息子と一緒に入った。そこから見える空を見上げながら息子に言った。 「お母さんと知り合った頃、お父さん、毎日このお風呂に入って、毎日この空を見上げてたんだよ」 「ふ~ん」。息子は、ただ、聞いている。 「その時、お父さんもお母さんも若くてさ、いろんなことがうまくいかなくて、毎日この空を見上げながら、なにくそ!なにくそ!って思ってたんだよ」  スーパーの帰りに手をつないで見るのと同じ、オレンジ色の空を見上げながらそんな話を息子にした。  悦に入った父からそんな話を聞かされた息子はいい迷惑だったかもしれない。すでにそんな話を聞いたことも覚えてないかもしれない。  でも、これは何度でも息子に自信を持って言える。  うまくいかないことばかりでも、前を向いて、空を見上げて生きなさい。  その銭湯の帰り、僕と息子に、番台さんがニコニコしながら言った。「次の定休日は〇月〇日ですぅ~」。「また来ます。息子を連れて」と僕は答えた。  よし。今度から、胸を張って、こう答えることにしよう。 「ええ、もちろん。下積み時代も良き思い出です」 ■ 佐藤二朗(さとう・じろう)/1969年、愛知県生まれ。俳優、脚本家。ドラマ「勇者ヨシヒコ」シリーズの仏役や「幼獣マメシバ」シリーズで芝二郎役など個性的な役で人気を集める。ツイッターの投稿をまとめた著書『のれんをくぐると、佐藤二朗』(山下書店)のほか、96年に旗揚げした演劇ユニット「ちからわざ」では脚本・出演を手がける。原作・脚本・監督の映画「はるヲうるひと」(主演・山田孝之)が近日公開予定
佐藤二朗
dot. 2020/08/30 16:00
上野千鶴子先生や三浦瑠麗さんと…古市憲寿が「頭のいい女の人」との仕事が多い理由
上野千鶴子先生や三浦瑠麗さんと…古市憲寿が「頭のいい女の人」との仕事が多い理由
古市憲寿さん (撮影/写真部・高野楓菜) 古市憲寿さん(左)と林真理子さん (撮影/写真部・高野楓菜)  今夏、4作目となる小説を上梓した古市憲寿さん。コロナが広がった3~4月に書き上げ、ツイッターで連載した注目作です。作家・林真理子さんとは“真理子さん”“古市君”と呼び合うお友達。この日は小説家同士としてトークにも花が咲き──。 *  *  * 林:しかし古市君って何だか、次に起こる出来事を示唆してますよね。この前の小説『奈落』は、この間のALS患者嘱託殺人事件みたいに、意識があって体を動かせない地獄のようなつらさを書いてるし、今度の小説も、三浦春馬さんみたいな美しい青年が出てくるじゃないですか。 古市:ただ、いわゆる文壇の方には嫌われている気もします(笑)。 林:嫌われてるわけじゃないと思うけど。 古市:こんなふうに「ウェルカム」って言ってくれるのは真理子さんと、本当に何人かの作家さんしかいない気がします。 林:私が直木賞の選考委員をずっとやってきて思うのは、作家ってそういうことを考えてない人たちで、自分のライバルを選び出すために本を一生懸命読んで、一生懸命論戦する人たちだなと思う。それは直木賞だからかもしれないけど。 古市:真理子さんが現役の売れっ子だからじゃないですか。そうじゃない人からすると「本業じゃない人が来た」みたいな感じがあってイヤなのかなと思う。 林:私のときは特にそうでしたよ。直木賞の選考委員の偉い人たちから「テレビに出まくってるこんな女はダメ」とか言われたみたい。 古市:何回目の候補でとったんですか。 林:4回目かな。 古市:当時の選評を読んだことがあるんですけど、回を追うごとに選考委員たちが真理子さんのことを認めていくんですよね。はじめは「絶対ダメ」みたいな感じだったのが、次第に「今回はここがいい」みたいに、評価が上がっていく。実力で選考委員をねじ伏せていく過程が、すごくカッコいいんです。 林:そんな昔からの選評を読んでくれるなんて嬉しいです。芥川賞のことはわかんないけど、直木賞の選考は非常に公平で、自分が脅かされそうだから落としてやろうなんていう人は誰もいません。芥川賞もそうだと思うよ。 古市:作品のクオリティーで認めてもらうしかないですよね。 林:そうですよ。『百の夜は跳ねて』(2回目の芥川賞候補作)なんてよかったと思うけどな。『平成くん、さようなら』(1回目の芥川賞候補作)も、あれは古市君じゃなきゃ書けなくて、肉体的接触をしないで性交していこうという、今まで見たこともないラブシーンがあって、これはちょっと度肝を抜かれました。 古市:僕の理想なんですけどね。接触なしで、できたら対面することもなく、本人がいなくてもいいぐらいの恋愛のほうがラクだと思います。 林:「唾液の交換なんて気持ち悪いから、キスなんかしたくない」という古市君の有名な言葉があって、それが独り歩きしてるみたいな感じだけど、そういうのってすごく新しいと思う。 古市:しかも、新型コロナで唾液はやっぱり危ないってことがわかったわけじゃないですか(笑)。 林:古市君は、小説以外にもいっぱい本を書いてますよね。 古市:9月には新潮新書から日本史の本も出します。 林:どの時代ですか。 古市:全部です。日本史の教科書って固有名詞や人名がたくさん出てくるのに、小説のような起伏もないですよね。だから多くの人は通読できない。僕の出す『絶対に挫折しない日本史』という本では、ほとんど固有名詞を使わずに、こんなふうに整理したら歴史ってめちゃくちゃおもしろいですよ、という観点で書いてみました。 林:それ、おもしろいかもしれない。上野千鶴子先生や三浦瑠麗さんとの対談とか、頭のいい女の人とのお仕事も多いですね。 古市:頭がいいというか、才能がある人は好きですね。いくら見た目がよくても中身がつまらない人にはあまり興味がないです。ルックスってしょせん皮じゃないですか。皮膚や骨の造形で人を判断する必要があるのかなって思うんですね。だから年齢もあまり意識しない。結果的に、真理子さんや安倍昭恵さんとか、年上の友人が多いですね。 林:もう次の作品は決まってるんですか。「書いてほしい」っていろいろ言ってくるでしょう。 古市:書き上がってから出版社に相談することが多いですね。 林:おー、それって村上春樹方式じゃないですか。村上春樹先生は、突然出版社の人に「これあげるよ」「何ですか、これは」「書き下ろしだよ」ってデータをポンと渡すみたいよ(笑)。 古市:そんな立派なものではないですけど。次は戦争のことを書こうと思ってます。コロナのときの自粛警察や、お互いの空気を読み合う感覚というのは、戦争の時代に近いんじゃないかなと思ったんです。国家は想像以上に抑制的で、マスコミや世論が大騒ぎして、国家の強権発動を求めるという図式も今とよく似ている。この空気を感じた今だから、ちょっとはリアリティーを持って戦争のことが書けるかなと思って書き始めています。 林:古市青年が感じる第2次世界大戦ですよね。 古市:コロナで、現代があの時代と地続きだと再確認できました。 林:素晴らしいです。このコロナのときに戦争というものの匂いを嗅いで、戦争の小説を書くなんてすごいなと思う。あっと言わせるものを書いてくれるんじゃないかと思ってすごく楽しみです。 古市:いつかの真理子さんみたいに、文句を言っていた人たちを黙らせるような本を書いてみたいですね。 林:期待してますよ。 古市憲寿(ふるいち・のりとし)/1985年、東京都生まれ。慶応義塾大学SFC研究所上席所員。日本学術振興会「育志賞」受賞。若者の生態を的確に描出した著書『絶望の国の幸福な若者たち』(講談社)で注目される。2018年、初の小説単行本『平成くん、さようなら』(文藝春秋)を刊行。翌年の『百の夜は跳ねて』(新潮社)とともに2作連続芥川賞候補作となり話題を呼ぶ。最新作となる小説『アスク・ミー・ホワイ』(マガジンハウス)が8月27日に発売 (構成/本誌・松岡かすみ 編集協力/一木俊雄) ※週刊朝日  2020年9月4日号より抜粋
林真理子
週刊朝日 2020/08/29 11:30
ミャンマー貧困労働者を“麻薬漬け”にする雇い主 最初は無料で提供し…恐るべき手口
ミャンマー貧困労働者を“麻薬漬け”にする雇い主 最初は無料で提供し…恐るべき手口
ヘロインを注射する翡翠鉱山の労働者(右)。薬物依存症者の治療・更生施設を運営するジャカシン・タンローさん(45)が寄り添う(写真:ジャカシンさん提供) ジャカシンさんの治療施設には2月、82人が滞在していた。治療期間は平均約1年で、農作業やスポーツ、聖書の勉強などをして過ごす(写真:ジャカシンさん提供)  ミャンマーで雇い主が鉱山労働者に麻薬依存症に陥らせる――。そんな悲劇が実際に繰り返されている。コロナ禍のいま、職を失った貧困層が増えて麻薬市場は勢いを増すばかりだ。AERA 2020年8月31日号は、過酷な現実をリポートする。 *  *  *  密売組織の勢力拡大はミャンマー国内でも進んでいる。ヘロインとともに広く出回っている「ヤバ」と呼ばれる低純度で安価な覚醒剤の錠剤が今、若者から主婦層にまで幅広く浸透しているという。  自身も15年以上も薬物依存症に苦しみ、現在は特に感染者が多いカチン州で依存症者の支援をしているジャカシン・タンローさん(45)によると、感染拡大の温床となっているのは同州に数多くある翡翠(ひすい)鉱山だ。  翡翠鉱山では、キオスクのような商店や軽食屋で、誰でも簡単に薬物を購入できる。値段も安く、ヘロインは1ショットで約80円、ヤバは1錠80~120円ほどだ。鉱山には、休憩中に屋外でしゃがみこんでヘロインを打つ人や、腕に注射を刺したまま飯をほおばる人など、目を疑うような光景が広がるという。  州内の街パカンの翡翠鉱山には国内外から約30万人もの労働者が集まる。多くは地方出身の貧困層で、少しでも多くの原石を見つけようと、早朝から深夜まで土を掘り起こし続け、その疲れを癒やすために覚醒剤やヘロインに溺れていく。過剰摂取で亡くなった人の遺体が無造作に転がっていることもある。  貧しい農村出身のカイン・トゥンさん(29)が初めて薬物に手を出したのは15歳のときだった。彼は当時、蒸発した父に代わって義母と妹を養うため、石油採掘企業で働いていた。家族に少しでも多くの送金をするため連日、小柄な体で重労働に励んだ。家族思いの真面目な彼に、ヘロインとヤバを勧めたのは雇い主だった。  ヘロインを注射するとうそのように疲れが吹き飛び、すぐに全身が幸福感で満たされた。ヤバを飲めば体中に力がみなぎり、徹夜仕事も難なくこなせた。ところが薬が切れると、とたんに激しい疲労感に襲われて全身が痛んだ。摂取の頻度はすぐに増え、カインさんは雇い主から薬物を購入するようになる。依存するまでに1週間もかからず、日給4千円ほどの稼ぎを、家族への仕送り以外はすべて薬物につぎ込むようになった。  依存症者の治療施設を運営するダンルン・ジェームズさん(32)によれば、こうした企業は密売業にも手を染めており、作業効率を上げるために労働者に最初は無料で薬物を支給し、依存症になったところで売りつけるのだという。労働者を半永久的に依存症にするこのシステムによって、企業側は事業と薬物の両方から利益を得られるというわけだ。  カインさんは17年に薬物所持で服役した後、ダンルンさんの治療施設にいる。回復したら何がしたいかと問うと「家族のためにまた働きたい」と答えた。  だが、コロナ禍で依存症者を取り巻く状況は厳しさを増している。7月、ダンルンさんに連絡をとると、彼の治療施設は経営難に陥っていた。コロナ対策による国境封鎖や外出自粛によって国内経済が打撃を受け、支援者からの寄付や患者からの治療費の支払いが止まり、治療に必要な薬や医療物資の流通も滞っているからだ。  より悪いことに、コロナで職を失い鉱山や密売組織で働きはじめる貧困層が増えており、カチン州の麻薬市場は以前よりさらに活況を呈しているという。ダンルンさんは言う。 「感染症を恐れていては家族を養えませんから、鉱山労働者は相変わらず薬物を精力剤代わりにして、すし詰め状態で働いています。貧しさのせいで、ここでは薬物やコロナの問題を気にしている余裕などないんです」 (ライター・増保千尋) ※AERA 2020年8月31日号より抜粋
AERA 2020/08/27 09:00
AERAは「LINEアカウントメディア プラットフォーム」に参画します!週3回、政治からエンタメまでニュースをお届けします
AERAは「LINEアカウントメディア プラットフォーム」に参画します!週3回、政治からエンタメまでニュースをお届けします
 朝日新聞出版のニュース週刊誌「AERA(アエラ)」はLINE社が運営する「LINEアカウントメディア プラットフォーム」へ参画し、LINE公式アカウントを開設致しました。LINEで友だち追加していただいたみなさまに、月・水・金曜の週3回、アエラ編集部が独自に取材した記事をお届けします!  AERAは1988年創刊。時事ニュース、企業の動向、芸能、職場問題や恋愛や性、夫婦の形、女性の生き方、仕事と子育てなど、その時代のさまざまな社会事象や人にスポットを当て、ビジネスパーソンを中心とした多くの読者の支持をいただいて参りました。  今回、新たに「LINEアカウントメディア プラットフォーム」へ参画。開設したLINE公式アカウントを友だち追加、フォローしてくださったみなさまに、AERAの人気記事を週3回、LINE上でお届けいたします。  8月25日(火)~9月23日(水)の間に「LINE アカウントメディア プラットフォーム」の中から新たに3媒体以上を友だち追加した方に、「ごきげんぱんだ×選べるニュース」LINEスタンプがもらえるキャンペーンにも参加しています。ぜひ、この機会に「友だち追加」をお願いします。 ※スタンプの有効期間はダウンロードから90日間 ※LINE スタンププレゼントキャンペーンの対象となるのは、キャンペーンページ(https://lin.ee/nLza2rN/lnnw)内から友だち追加した場合のみです ※アカウント名:AERA/アカウント ID:@oa-aera ※配信日時:月曜・水曜・金曜日 夜7時13分 【AERAについて】 毎週月曜日発売 (一部地域によって発売日が異なります) 定価 364円+税(毎月1度「増大号」は特別定価391円+税)
dot. 2020/08/26 14:16
戦後日本の写真界を代表する写真家たちの波乱万丈な人生
米倉昭仁 米倉昭仁
戦後日本の写真界を代表する写真家たちの波乱万丈な人生
 写真家・小松健一さんが『写真家の心 詩人の眼』(本の泉社)を出版した。本書に収められているのは、大竹省二、石川文洋、竹内敏信、田沼武能、田村茂、丹野章、中村征夫、水越武、渡辺義雄……戦後日本の写真界を代表するそうそうたる写真家ついて書かれた文章や対談、インタビューである。 第38回木村伊兵衛写真賞の授賞式・パーティーで。右から野町和嘉、田沼武能、水越武、中村征夫の各氏(2012年2月、東京會舘で。撮影:小松健一) 「なんで小松は土門さんが怖くないんだよ?」  小松さんは世界の辺境を旅してきた写真家であるとともに、中学時代から短歌に打ち込んできた文筆家、そして稀有なインタビュアーでもある。  揺さぶるような大きな体躯。どんな相手でも心を開かせてしまう茶目っ気のある笑顔。小心者の私はいつも小松さんに会うと引け目を感じてしまう。そんなわけで、小松さんときちんと会話を交わしたのは今回が初めてである。  ページをめくるたびに、「よくここまで相手の懐に入り込んで話を聞き出せたなあ」と、私は嫉妬のかたまりになってしまうのだ。例えば、こんな文章。 <たった一発、それもたまたま出くわして撮った写真が、俺の代表作とは情けねェーなあ>  林忠彦が発した生きのよい言葉をとらえ、綴っている(あの太宰治を銀座のバーのカウンターで写した名作のことだ)。「写真の鬼」と呼ばれた土門拳にもかわいがられた。「単に孫くらい歳が離れていたからでしょう」と、本人は笑うが、先輩の写真家からは「なんで小松は土門さんが怖くないんだよ?」と、嫉妬の混じりの言葉をぶつけられている(それを聞くと、ちょっとうれしい)。 「丹野さんの米寿を祝う会」で。前列左から丹野さん、御歳99歳を迎える芳賀日出男さん、小松さん(左上)と、丹野さんの愛弟子、沖縄在住の小橋川共男さん(2013年8月8日、池袋・みやらびで。撮影:熊切圭介) 洗面器でつくったラーメンを囲って食べた竹内敏信 「いま考えてみりゃ、若いのにいろいろな人たちに出会えてラッキーだったね。俺はいつもおじいちゃん連中にお茶を出していたんだよ。そうすると、『おい、ここへ来てだまって聞いてろ。勉強になるから』って。タバコを買ってきたり、丁稚小僧みたいな感じだな。だけど、そういう話をぜんぶ聞いていた」  1953年、岡山県生まれ。群馬県で育った小松さんは74年に東京・四谷に設立されたばかりの「現代写真研究所(現研)」に入学。本格的に写真を学んだ。いまも「花の一期生ですよ」というのが自慢だ。  現研に入った動機については「写真家の土門拳、田村茂、藤本四八、丹野章、評論家の田中雅夫、伊藤逸平、伊藤知己先生たちが中心になって現研ができるということを知って、そこに何かエネルギッシュで創造的なものを感じた」と、書いている。  そこから自然と編み進んでいった人とのつながりが本書のベースとなったのだろう。例えば、当時の講師の一人に、後に風景写真家となる竹内敏信がいた。 「竹さんはあのころまだ若くてね、愛知県・岡崎から夜行列車で通っていた。泊るところがないから、いつも生徒の家を泊まり歩いていた。洗面器でラーメンをつくって、みんなでよく囲んで食べたよ。竹さんからすればいまさらそんなことは書いてほしくないかもしれない。偉い人になっちゃったからね。でも今回、『載せます』って、はがきを出したら何も言ってこなかったから、昔の対談をそのまま載せました」 万年雪をたたえるトロンパスピーク(6481メートル)の山麓にあるヒンドゥー教とチベット仏教の聖地ムクティナートをめざす巡礼者(撮影:小松健一) 柿の種を行商しながら水中写真を志した中村征夫  同じ自然写真の分野では、若いころの中村征夫の話が胸を打つ。 「中村さんは上野・御徒町で柿の種を仕入れて、袋詰めしてね、それをバイクで神奈川の方まで売り歩いていたんだよ。その前は酒屋の御用聞きで一軒一軒歩いてさ。いまの中村さんの姿からは想像できないような苦労をしている」  中村青年の仕事ぶりにほだされた酒屋のおばちゃんは「この店をあんたに譲りたいんだけども」と相談する。しかし中村は、「僕、やりたい仕事、方向が見みつかったので、このままここにいてもおばちゃんに迷惑をかけるから」と言って店をやめるのだ。そして、行商をしながら水中写真に打ち込むのだ。 「そういうことって、あまり知られていないから」  次の世代の若い写真家にどうしても伝えておきたいと、小松さんは言う。 「それくらい気合を入れて撮れ、っていうこと。苦労しないというか、金になる頼まれ仕事しかしないやつって、結局、何にも残らないから……。田沼武能さんなんか、40代の最後、自分の家を担保に入れて借金して南米・アンデスをまわった。帰ってきたら車を売り飛ばして現像代にあてた。そうやって出した写真集『アンデス讃歌』(84年、岩波書店)はすごくいい仕事で、田沼さんの代表作になった」 「渡辺義雄さんは53年に初めて伊勢神宮(の式年遷宮)を撮影したとき、『あいつは特権階級で、コネを持っていたから撮れた』って、相当叩かれたけど、とんでもない、と。もちろん、疎開先でたまたま大宮司と知り合ったこともあるけれど、それでもダメなところは何回も何回も足を運んで、自分の理屈が通っただけだから、と。俺は越後人だから義理がたいし、約束は守るから2回目(73年)は寛大なことで撮影できた、と言っている」 サハリンのスターロードゥブスコィエ(旧栄浜)で。宮沢賢治はこの浜に何時間もたたずんで亡くなった最愛の妹トシとの「交信」をしていたという(撮影:小松健一) これから写真は記録性と訴求性だけでは生き残れない  小松さんは83年度新日本歌人協会新人賞を受賞した直後に歌の世界から身を引き、写真の世界に信念を持って携わってきた。今回収めた文章は84年から最近までの膨大な著作や記事のなかから選び出したものだ。そこには「先生方、先輩、そして仲間たちが残した珠玉の言葉が綺羅星のごとくあった。自分だけのものにしておくはあまりにももったいない」。その気持ちが、本書をつくり上げる原動力となった。  その一方で、いまの写真界に対する危機感が文章のはしばしからにじみ出る。 「写真というのは、まだ生まれてから180年ほどしかたっていない新しい芸術でしょう。文学や音楽に比べればはるかに新しい表現手段なのにもかかわらず、これからの社会のなかで廃れていってしまうというか、忘れられていってしまうんじゃないか、という不安があった」  小松さんは両手でカメラを構えるしぐさをした。そして「写真って、これだけでしょう」と言って、シャッターを切るように人さし指を動かした。 「1/250秒とかね、写真って、ほんの一瞬だけが自分で、ほとんど他人まかせみたいな部分がありますから、圧倒的に手づくりじゃないわけですよ」  例えば、俳句は推敲に推敲を重ねて五・七・五の17音をつくり上げていく。絵画や彫刻もそうだ。 「これから写真は記録性と訴求性だけでは生き残れないでしょう。もっと人の内面性、感情とか機微、心のひだみたいなものをプラスアルファしていかないと、なかなか人を感動させることはできない。もともと写真はそういう部分がほかの芸術と比べて弱いですから。まあ、難しいんですけどね。というか、相当難しい……」  ユージン・スミスの作品を見ると、詩的なものを感じることが多いと言う。その一枚に、母に抱かれて入浴する水俣病の娘を写した「入浴する智子と母」を挙げた。 「あの作品には何もいらない。言葉もいらない。普遍的なものがにじみ出ているから」 未来の写真家を志す人たちへのささやかな伝語となってほしい  実をいうと、本書をつくるきっかけをたずねた際、最初に返ってきたのは「新型コロナで仕事がなくてヒマだったから」。  あとがきは、こう結んでいる。 <皮肉なもので世界中を震撼させているコロナ禍のなかで生まれた本書は、果たして未来の写真家を志す人たちへのささやかな伝語となり得るだろうか……>  そうなることを切に願っている。(文・アサヒカメラ 米倉昭仁)
アサヒカメラ写真集
dot. 2020/08/25 17:00
瀬戸内寂聴「ワア! こわ!」横尾忠則と痴話げんか?
瀬戸内寂聴「ワア! こわ!」横尾忠則と痴話げんか?
瀬戸内寂聴(せとうち・じゃくちょう)/1922年、徳島市生まれ。73年、平泉・中尊寺で得度。『場所』で野間文芸賞。著書多数。『源氏物語』を現代語訳。2006年文化勲章。17年度朝日賞。 横尾忠則(よこお・ただのり)/1936年、兵庫県西脇市生まれ。ニューヨーク近代美術館をはじめ国内外の美術館で個展開催。小説『ぶるうらんど』で泉鏡花文学賞。2011年度朝日賞。15年世界文化賞。(写真=横尾忠則さん提供)  半世紀ほど前に出会った98歳と84歳。人生の妙味を知る老親友の瀬戸内寂聴さんと横尾忠則さんが、往復書簡でとっておきのナイショ話を披露しあう。 *  *  * ■横尾忠則「祝50回 “絵の年長者”より愛を込めて(ハート)」  セトウチさん  この往復書簡の前々回で、僕が「小説の筆を捨てて画家宣言して下さい」と言った時、セトウチさんは「間もなく死んでゆくのでしょう。今から絵描きになるようにすすめて下さいましたが、ちょっと遅すぎはしませんか?」とすすめたことが遅いと、おっしゃいましたが、突然、女学生みたいに「ワーイ! ワーイ! やっちゃったぁ!」とは一体何が起こったんですか。 「小説家瀬戸内寂聴がペンを捨てて、絵筆を買いこんだ」ことが大変動だとはしゃいでおられますが、こんなこと位、大変動でも大革命でもレボリューションでもなんでもないです。  僕が前々回で口がすっぱくなるほど絵を勧めても全く反応がなかったのに、この躁状態は訳わかりませんね。絵を描くのに、そんなに大騒ぎしなくていいです。黙って静かに人知れず、描く方が格好いいです。まあ、セトウチさんのことだから、静かにはできないかも知れませんが。  どこからか「若いハンサムの絵描き」を連れてこられて、そのハシャギ振りが透視できます。ハッハッハッハ。先生まで用意しちゃったんですか? 今さら、言っても無駄かと思いますが、絵は教わるものではないのです。絵は技術ではなく99歳の心と魂で描くものです。教わるということは、いい絵を描こうとする欲がチラホラ見えます。意欲はいいとしても、99歳のセトウチさんにはいい絵を描こうという気持は逆にストレスを生みます。岡本太郎さんの「下手でいい、美しくあっちゃいけない」でいいのです。教わることは慣習に従うということです。絵は慣習をぶっ壊すことです。反対の生き方はしない方がいいと思いますよ。セトウチさんは慣習を否定してきた人でしょう。慣習などに従わずに、生きてこられました。下手で、素朴で、純粋で、無垢で、無心で描くべきです。教わるということは、それらを全部拒否することになります。  セトウチさんは、この年だからこそ描ける無手勝流でいいのです。僕も美術の専門学校へは行かないで独学で描いてきました。絵を描くことは頭から雑音を排除することです。「教え」は雑音です。プロになる画家は、この雑音と闘うのです。今のセトウチさんは無菌状態です。そのままでいいのです。雑音はコロナです。セトウチさんが現在、僕が画家に転向した45歳位だったら、雑音もいいでしょう。  でも今の年では雑音は頭も身体も拘束します。やっていいこととやっちゃいけないことの分別が邪魔をするのです。誰にも教わらない、今の素のままの状態こそ、セトウチさんの才能であり、宝物です。他のことなら教わってもいいでしょうが、絵は他のものとは別の存在です。でも、素人のおばさん達に「ウワー、先生、きれい、本物みたい」と言われたいのなら、どうぞ先生について教わって下さい。先生は期待に応えてくれるでしょう。僕はセトウチさんの手が描くのではなく、心と魂が描く絵が見たいのです。まあ、セトウチさんの人生ですから、お好きなことを目指して下さいと言うべきだったかも知れません。84歳の若造が何をエラソーなことを言うか、と思われるかも知れませんが、絵に関してはセトウチさんより、年長者です。往復書簡50回を祝して、さらなる愛を込めて。 ■瀬戸内寂聴「ヨコオ画伯うならすどんな絵描くか!」  ヨコオさん  月日のたつ速さ! この往復手紙が早くも50回ですって? 近頃よく、「ヨコオさんとの手紙読んでますよ」とか、「週刊朝日ね。まずアレから読みます」など、声をかけられます。  50回記念の今度など、どこかから、花やお菓子でも贈ってくれるかも! 「さもしい空想をするな! 見苦しい!」  とヨコオさんの怒声が飛んできそう、ワア! こわ!  私、ヨコオさんを見そこなっていた。ヨコオさんはれっきとした天下の天才なのに、とても優しくて、心根が穏健で、他人に怖い顔など見せたり、きつい言葉を浴びせたり絶対しない御仁だと信じこんでいたのです。半世紀もつきあって、かつて一度も、あなたから、きつい声をかけられたり、きびしい人への非難など聞いたことがなかったからです。人間に対してどころか、あなたの博愛は地球の森羅万象にまで及んでいました。  あれは、あなたが、若い京都の友人の仕事場に、時々泊まりに来て仕事をしていた時、その仕事場が当時、私が棲(す)んでいた桂川沿いのマンションの別棟にありましたね。ある朝、まだ夜があけたばかりの頃、私の六階の部屋の窓の下から「セトウチさあん!」と声がして、ヨコオさんが、はるか地上から私を呼んでいたのです。すぐ降りて行くと、 「まだUFO見たことがないといってたから、見せてあげる。ボクが呼ぶと、いつだってどこだってUFOは出るんだから」  とのたまう。それから嵐山のどこやらを登りわけいり、二時間近くさまよいましたね。でも一向にUFOはお出ましにならない。その時、ヨコオさんがつぶやきました。 「ヘンだな! こんなに呼んでも出ないのは、風邪か下痢で病気なんだね、可哀(かわい)そうに! じゃあ、帰ろう!」  と帰ってきたのです。その時、私はヨコオさんを、何て優しい男性だろうと、つくづく感じ入ったことを忘れません。あなたの博愛は、人間以外の森羅万象までに隈(くま)なく及んでいるのでした。その優しい権化の人が、50回記念の往復書簡に、何と冷たい悪口雑言を書いてくれたのですか! 私があなたのおすすめもあって、絵をはじめたのをハシャギすぎだとののしって、絵具(えのぐ)や絵筆を用意してくれた若い絵描きさんをお師匠さんにしたように決めこみ、私の浮かれようをたしなめてくれています。有難いと感謝すべきですが、UFOにさえあんなに優しい想いやりを見せたヨコオさんとは、同一人物とも思えないイジワルです。  あんまり腹に据えかねたので、絵の道具には、まだ一切手を触れていません。ハンサム絵描きさんは、超美女の奥さんと、一度のぞいてくれましたが、呆(あき)れて帰ってゆきました。私はまだ封をきらない絵具を睨(にら)んでは、ヨコオ画伯をうならすどんな絵を描いてやろうかと、瞑想(めいそう)ばかりしています。天下の天才ヨコオさんをうならせるタマシイの描く絵を、想い描いて、真白のキャンバスを眺めている毎日でございます。  梅雨も明けました。ちわげんかもやめましょう。  この手紙、100回になったら本にしましょうね。それまで、私の命が持つかな?  ではでは。 ※週刊朝日  2020年8月28日号
週刊朝日 2020/08/22 17:00
「冬には医療崩壊が起きる」 現場の医師が危惧する重症者が「たらい回し」になる日
小長光哲郎 小長光哲郎 井上有紀子 井上有紀子
「冬には医療崩壊が起きる」 現場の医師が危惧する重症者が「たらい回し」になる日
AERA 2020年8月24日号より  新型コロナウイルスと最前線で対峙して数カ月。医療機関のほとんどがその影響を受け、疲弊している医療者も多い。AERAが実施した医師1335人への緊急アンケートや専門家、現場医師らへの取材から、苦境や課題が見えてきた。AERA 2020年8月24日号から。 *  *  *  新型コロナウイルスの感染者が、7月から全国で増え続けている。医療現場は、第1波とされる緊急事態宣言前後から現在にいたるまで、対応に追われるようになり、はや4カ月が経つ。  AERAでは、7月下旬、医師専用のコミュニティーサイトを運営するメドピアの協力のもと、現役の医師1335人を対象にアンケートを実施した。内訳は、(1)感染患者を受け入れている医療機関の医師が約40%、(2)発熱外来などを設けている医療機関の医師が約28%、(3)非対応の医療機関の医師が約32%。新型コロナウイルスによる影響があったかとの問いには、全体の90%が「ある」と回答した。新型コロナウイルスに対応する(1)(2)の医師は、働き方や待遇・収入面での影響も、(3)の医師より多くあったと回答した。  医療体制に危機感を抱く医師も少なくない。埼玉医科大学総合医療センター(埼玉県川越市)では、4月中旬にコロナ専用病棟を新設した。感染症専門10人を含む医師12人体制で10床ほど、いざという時に備え32床を確保。7月中旬には3割から半分ほど埋まる状況だったが、県内では8月3日までの1週間に新規感染者が419人確認され、前週より110人増えた。連日の入院で満床に近いこともある。同センター感染症科教授の岡秀昭医師(45)はこう語る。 「少し前まで、確かに重症化リスクの低い、夜の仕事などに従事する20代の若い人が多かった。けれども最近は、重症化リスクのある40代・50代へとシフトしてきた印象です」  国や自治体はこれまで幾度か、「医療体制は逼迫していない」とアナウンスしてきたが、それはそろそろ怪しくなってきた。  新型コロナは一般的に1週間から10日で重症化するといわれる。報告される感染者数と重症者数にはタイムラグがある。 「いまは軽症者が多いですが、指定感染症である以上、彼らを病院に収容してただ観察している状態です。今後、軽症者で病床が埋まり、重症者が増えて入院できず、たらい回しになることが心配です」  浜松医療センター(静岡県浜松市)の院長補佐で感染症内科部長の矢野邦夫医師(64)も、軽症者の入院の多さに危機感を持つ。同センターは感染症指定医療機関として感染患者を受け入れている。現在は、市内で7月に発生したクラスターの影響もあり、指定病床数6床を上回る患者を受け入れることもある。 「重症者が増えて本当に逼迫する前に、宿泊施設などに移動させておくべきです。季節が変わり、インフルエンザや寒さによる呼吸器系の患者で病床が埋まれば、コロナに備えてベッドを空けておくことはできなくなる。このままでは、冬には医療崩壊が起きると思います」(矢野医師)  軽症者や無症状者をホテルや自宅療養にしてほしい、という訴えは医師アンケートでも複数見られた。特措法にのっとり、4月2日から各都道府県は宿泊施設を確保している。東京をはじめ首都圏、愛知、大阪などでは数百~数千室を確保するが、他の自治体では、感染者数の推移や病床を押さえているなどの理由で、確保にばらつきがある。  新型コロナに対応することは、業務の負担増も意味する。医師アンケートでは、「休めない」「長時間労働が多くなった」などの声があがった。  埼玉協同病院(埼玉県川口市)は、第1波のときは発熱外来と同時に、軽症者を中心として入院患者も6月上旬まで受け入れた。現在、入院業務は休止中だ。  発熱外来では、4月と5月は週に数人の陽性者が出た。診察室のほか、屋外の陰圧テントで医師数人と看護師で回した。増田剛院長(59)は振り返る。 「保健所の紹介で、朝から夕方まで、感染疑いのある患者が断続的に来ました。中には『陰性証明を書いてくれ』『もしコロナだったら責任を取ってくれるのか』とすごむ人もいて、現場の大きなストレスでした」  内科副部長の守谷能和医師(44)は言う。 「6月下旬に局面が変わり、夜の街の関係者や家族単位の感染疑いで外来に来るようになり、陽性率も上がりました。コロナ以外の日常の診療もしているので、仕事量は2倍です」  夏風邪や熱中症など、発熱があり、新型コロナと似た症状のある患者が増えた。感染者増加に伴い、外来の在り方や入院の受け入れ体制といった今後の対応を検討中だ。  疲弊しているのは医師だけではない。看護師の清水明子さん(51)は、感染患者に対応する都内の大学病院に勤めている。 「コロナ病棟に配属され、負担を強いられるのは、重症化リスクが低いとされる若いナースです。人員不足だから『休めない』と頑張りすぎてしまう」  前出の埼玉協同病院で看護部長を務める見川葉子さん(57)は、「医師から指示を受け、実際にケアをするのは看護師。軽症者でも大変」と話す。 「毎回、防護服を着て病棟に入ります。患者さんに薬を渡し、食事を運び、売店で買い物をする。食事介助や、体を拭く。看護師が患者さんの一番近くにいて、密接せざるを得ないこともあります」(見川さん)  患者の不安な気持ちはわかる。だが、自分たちにも感染への不安がある。 「感染を防ぐために数分しかそばにいられない。『もう行っちゃうの』と言う患者さんもいます」(同) (編集部・小長光哲郎、ライター・井上有紀子) ※AERA 2020年8月24日号より抜粋
新型コロナウイルス
AERA 2020/08/19 09:00
長渕剛が大木凡人に?!90年代の週刊誌名物「デキゴトロジー」が今でもじわる
長渕剛が大木凡人に?!90年代の週刊誌名物「デキゴトロジー」が今でもじわる
イラスト・アサミカヨコ  世に「デキゴト」の種は尽きまじ。1978年スタートの、週刊朝日のかつての名物連載「デキゴトロジー」が、こんな世の中だからこそ笑いをお届けしなきゃという使命とともに、コロナの時代に帰ってまいりました! 現代版「今昔物語」を目指して、身近なネタを小話に仕立てた連載は、時がたってもおもしろい。過去のシリーズの中から、90年代掲載の、ホントにあった驚きの「出来事」4本を厳選してお届けします。 *     *  * ■ コワモテパフェ命マスター 大事なチェリーで激怒  愛媛県松山市のスナックのマスターKさん(48)は、コワモテフェイスでゴルフ焼けした浅黒い肌にはいつもゴールドのネックレスとブレスレットが光る。どう見てもカタギには見えない。 だが酒が飲めず好物は甘い物。特にフルーツパフェが大好きで、喫茶店やレストランに入ると、必ずパフェ類を注文する。その外見からか、周りの客にジロジロ見られ、ときどきウェートレスに噴き出されたりするが、本人はおかまいなし。 ある日、Kさんは市内の喫茶店に立ち寄った。注文したのは「フルーツパフェ」。しばらく後、パフェがやってきた。てっぺんにはチェリーがひとつ、愛らしくのっている。 Kさんは目を細めた。フルーツの中でも、チェリーにはことのほか目がない。パフェを半分ほど食べて、いよいよ楽しみに残していたチェリーに取りかかった。しかし、口に入れた途端、Kさんの顔色が変わった。Kさんが口に含んだのはチェリーではなく、小さい梅だったのである。短気なKさんは激高し、厨房に怒鳴り込んだ。 「なんじゃい、この梅は!!」 奥から店長が飛び出してきた。Kさんがかまわずまくしたてると、気弱そうな店長は、 「う、うちのパフェは、小梅をのせてるんです……!」 と必死で弁解した。しかし、Kさんの怒りは収まらない。 「こんなんカネ払えるかい!」 そのまま喫茶店を飛び出した。  数日後、その店の前を通りかかったKさんは、ウィンドーの貼り紙を見つけた。この前はなかった貼り紙には、こう書かれていた。 「大好評! 小梅パフェ」 ■ 悩みは肩こりと頭痛 締めつけメガネは孫悟空?  東京都目黒区の会社員Sさん(31)は、62キロだった体重がこの2年間で79キロまで増えていた。身長175センチ。かつては「長渕剛」によく間違えられたが、このところはタレントの「大木凡人」に似ていると言われることが増えた。  最近、肩こりと頭痛に悩まされ、メガネのせいにちがいないと考えた彼は、近所のメガネ店を訪れた。 「フレームが曲がって焦点がずれたんだと思うんですが、頭が痛くなるんです」  店員は店の奥の調整室にメガネを手に入っていったが、首をかしげながら出てきた。 「どこも曲がっていませんよ」 「そんなはずはない。絶対どこか曲がっているはずです!」 Sさんが言い張るので、店員はしぶしぶ調整室に引き返した。しばらくたってから、店員はニコニコ顔で戻ってきた。 「これでどうですか?」 「ああ、バッチリですよ。ほら、やっぱりどこか歪んでたんじゃないですか」  店員はSさんの顔を眺め、笑いをかみ殺しながら言った。 「どこも歪んでいません。歪んでなかったのが頭痛の原因です。メガネのつるの幅をおもいきり広げておきましたよ」  太って顔面が広がり、メガネのフレームが孫悟空の金輪のごとく頭をしめつけていたのだった。 ■ おりこうナースは新宿夜勤 とっさのプレイで救命成功  東京都新宿区の2DKのマンションに住むT子さん(22)は、瀬戸朝香に似た美人で、髪が長い。よくベランダに仕事着の白い制服を干している。看護師の制服である。  ただし、T子さんは看護師ではない。新宿のあるイメージクラブに勤める風俗嬢である。制服はお店のコスプレ用の衣装である。  ある夜、T子さんが深夜にテレビを見ていると、玄関のチャイムが何度も鳴り、次いで扉を激しくたたく音がした。用心しつつ開けると、パジャマ姿の40代後半の女性が立っている。 「近所の者ですが、あの、夫が急に具合が悪くなったんです。診てくれませんか」 「えっ、私がですか」 「お願いします!」  すがるようにいう。断りきれずに部屋に行くと、50代くらいの男性が前かがみに座りこんでいた。息が荒い。T子さんは脈を測りながら、 「とにかく救急車呼んで。狭心症かもしれません」  店に遊びにきて、狭心症の発作を起こした客の様子によく似ていた。 「奥さん、枕かなにか持ってきて。ハイ、楽にしてください。ハイ、いいですよ。心配いりませんからね」  やがて救急車が到着した。男性の容体はだいぶ落ち着き、ほっとするT子さんに救急隊員が尋ねた。 「どちらの病院ですか?」 「あのー……新宿のほうです」 「適切な処置ありがとうございました!」 次の日、また女性がやって来た。 「命の恩人です。ありがとうございました」  菓子折りをちょうだいした。この事件以降、なるべくベランダに制服を干さないようにしているT子さんである。 ■ ユゴーの手紙インスパイア 仏文男の手紙「?!・×」  東京都文京区の私立大学に入学したO君(19)はクラスにさっそく好きな子ができた。4月下旬から1週間おきにラブレターを出したが、全然反応がない。  フランス文学志望のO君は考えた。講義中に彼女に接近、ノートにすばやく「?」と書いて渡した。文豪ビクトル・ユゴーの伝説にならったのである。『レ・ミゼラブル』を書いたユゴーが、その売れ行き、反響を知りたくて出版社に「?」と書いた手紙を出した。すると「!」という返事が返ってきた。それは爆発的に売れている、という意味だった……。  さて、「?」という手紙をもらった彼女はため息をつき、手紙の裏に「・」と書いて返してきた。 講義が終わってO君、 「あの点はどんな意味なの?」 と聞くと、彼女がいった。 「ピリオドよ」 付きまとわないで、という意味だった。 *     *  * <出来事が世に満ちている。世の中は、出来事であふれかえらんばかりである>  今は昔、こんな“宣言”を掲げ、1978(昭和53)年、産声をあげたのが、名物連載「デキゴトロジー」です。 「今昔物語集」の時代から、人間とは“ケチでゴマスリ、かつポンビキ”で、その本質のようなものは千年の時が流れようともちっとも変わっちゃいなくてやっぱり笑える。それだからこそ、現代の出来事を後世に残す“現代の今昔物語”を目ざして始まったものだと伝え聞いております。  書かれるネタはすべて、ホントのことばかり。友人知人に親きょうだい、売れるとあらば恩や友情も忘れて捨ててすべてネタとして“売り飛ばし”て書き飛ばした面々は「デキゴトロジスト」と呼ばれ、おそれおののかれました。  そんな書き手の奮戦のおかげで「デキゴトロジー」は本誌の看板連載に。樹木希林さん出演の映画「日日是好日」の原作者で、当時、デキゴトの京都・祇園での舞妓体験取材記がドラマ化されたほどの話題を集め“典奴”の愛称で親しまれた森下典子さん。初期の連載カットを担当し、のちにスピンオフ的漫画コラムに発展した「學問」を記した夏目漱石の孫・夏目房之介さんはじめ、ブレークした書き手が多く輩出した連載でもありました。  かく言う筆者も学生時代にひょんなことから本誌元編集長に連れられて、右も左もわからぬままデキゴト担当に引き合わされ、週の何日も、デキゴトロジストとあんな驚いたことがあった、こんなおもしろいことがあったと、時にはお酒、時には朝まで、時にはカラオケ……気づけばドップリ足を踏み入れて染められていた「デキゴト」沼。諸先輩方にならい、ネタになるものは骨までしゃぶりつくす立派なデキゴトロジスト。怒られたり嫌われたり大事なものをなくしたこともありました。2020年ふうに言うなら、「ぴえん超えてぱおん」でしょうか。伝わりにくいですか。  新型コロナウイルスの感染拡大によって到来した「新しい生活」の中、懐かしく感じる方にも、初めてデキゴトに触れる方にも、ちょっとホッとするような笑いのひとときをお届けできたらと、新作を1本追加してのデキゴトロジーをお届けすることになりました。  時代が移り変わっても、当初の宣言どおり、人間の本質は変わらず笑える話はやっぱり今も笑えます。千年後の読者も、きっと笑ってくれるでしょう。(本誌・太田サトル) ※再録作品に関しては、朝日文庫『デキゴトロジー RETURNS』『デキゴトロジー 愛のRED CARD』『デキゴトロジー 恋の禁煙室』の3冊(1995~98年刊)から抜粋し、内容や表記を一部再構成して掲載しております(年齢は当時) ※週刊朝日  2020年8月7日号より抜粋
週刊朝日 2020/08/17 11:30
引きこもり33歳息子と10年ぶりに対面の母親、「こんな顔してたっけ…」と胸が詰まる
引きこもり33歳息子と10年ぶりに対面の母親、「こんな顔してたっけ…」と胸が詰まる
※写真はイメージです(c)Getty Images 大人の引きこもり問題をかかえる母親を取材した臼井美伸さんの著書 「大人の引きこもり」は、もはや対岸の火事ではない。  筆者が「大人の引きこもり」について取材を始めたのは、4年ほど前だ。ひきこもりの当事者だけでなく、親も孤独と周囲の無理解に悩み、サポートを必要としていることから、子どもの引きこもり問題を抱える母親を20人以上取材し、このほど、『「大人の引きこもり」見えない子どもと暮らす母親たち』(育鵬社)を上梓した。  その過程で、「実はうちの兄も……」「私の甥も……」と、家族や親せきに同じ状況の人がいるという知人が続出したのは驚きだった。80代の親が50代の子どもを養う「8050問題」が深刻化している今、どんなサポートが必要とされているのか、大人の引きこもりのリアルを母親の目線でリポートする。 *    *  *  ■    顔を見ないまま10年間同じ屋根の下に  Mさん(女性、66歳)の息子は、中学1年のときに不登校がきっかけで引きこもり気味になった。息子が22歳のときから10年間、一切姿を見ないまま同居していた。  息子は日中、2階の部屋に閉じこもり、部屋を出て動き回るのは夜だけ。家族が寝静まったころに出てきて、食事をしたり入浴したりしていた。息子は、洋服は“着たきり雀″で、下着は自分で洗っているようだった。食事は冷蔵庫にある残りものなど。  Mさんが「おかずあるから、食べてね」と声をかけても、食べていないことが多かった。のちにわかったことだが、息子は「働いていない自分は、ちゃんとしたものを食べてはいけない」と思っていたそうだ。焦げたトーストを、シンクの三角コーナーから拾って食べたこともあるという。  最初のころMさん夫婦は「なぜ」と途方に暮れ、必死で息子を説得もしたが効果はなかった。Mさんは、地元の教育センターに相談に行ったり、心療内科でカウンセリングを受けさせたり、親のための勉強会にも通うなど、解決の糸口を探してあちこち奔走した。 「カウンセラーの方は『見守りましょう』と言うだけ。夫には『いつも一緒にいた母親の責任だ』と言われ、相談相手にはなってもらえませんでした」(Mさん)  Mさんは初めのうち、「栄養が足りているかな」と心配だったが、そのうちに「生きていてくれればいい」と思うようになった。音がすると「ああ、今日もちゃんと生きている」と思ってホッとする。とはいえ、夜は眠れないし、息子のことばかり考えて落ち込んでしまう日々。 「母としての自分を責めて、死のうかと思ったこともありますよ。正直、『いっそ死んでくれたら』と思ったことも」(Mさん)  40歳から64歳までの「大人の引きこもり」は、国内に61万3千人いると推定されている(2019年3月、内閣府発表)。39歳以下の引きこもりも合わせると、全国で115万人の引きこもりがいることになる。引きこもりが長期化し、80代の親が50代の子を養う「8050問題」も深刻化している。  2019年6月、東京都練馬区で起きた、元農林水産事務次官が44歳(当時)の引きこもりの息子を刺殺するという事件は、ショッキングなものだった。  あるサポート団体の代表者によると、引きこもりに悩む多くの親たちが「私も同じことしようと思ってた」と言っていたという。それくらい、皆追い込まれている。夜中に「今から子どもを殺して私も死にます」という電話が入ることもあるそうだ。 「多くの親が、『子どもの引きこもりは自分のせい』と思っているから、『子どもが何か事件を起こす前に、私が手を打たないと』と思うのです」(サポート団体代表Hさん)  最近では、新型コロナウイルスの影響により家にいる時間が多くなったことで、「以前から問題は認識していたが、いよいよ向き合わざるを得なくなった」という家族から、相談窓口への問い合わせが急増しているという話も聞く。 ■    母親たちを苦しめるもの  ひきこもりの当事者が中年ということは、その親はすでに「高齢者」か、その域にさしかかっている年齢だ。年齢的に心身の不調に悩まされる時期だ。  取材した母親たちの中には、精神的に追い詰められ、うつ状態で苦しんだという人も多かった。パニック障害を患い、閉所恐怖症になったり、車が全部自分に向かってくるように感じられて道を歩けなくなったりという人もいた。睡眠障害で薬が手放せなかった、という人も多かった。前述のMさんも、息子が引きこもっている間に自身ががんを患い、治療を続けながら心療内科にも通っていたという。  また、子どもの引きこもり、老親の介護という問題を同時に抱えていたというケースも、少なくない。  そうした心身の負担が重くのしかかる母親たちをされに苦しめるのは、「理解のない周囲の人たち」の存在だ。例えば、最も多いのが、義母、義父といった夫の親族。 「母親なのに、こうなるまでどうして放っておいたのか」 「なぜ外に出さないんだ」 「まだ働かないのか」  などと母親を責め、圧力をかけてくる。なかには「うちの血筋には(引きこもりは)いないわよ」と言われ、深く傷ついたという人もいた。  本来なら味方になってくれるはずの夫でさえ、ときには敵になる。「育て方が悪い」「自分は仕事で忙しいから、家のことは任せておいたはず」などと妻を責めるだけで、何もしてくれなかったというケースもあった。   気心が知れた仲だと思っていた女友だちも、必ずしも味方というわけではない。思い切って事情を打ち明けたところ、無知やデリカシーのなさから無神経な言葉が返ってきて、「話さなければよかった」と後悔したという人も多かった。 ■   10年ぶりに家族の前に姿を現した息子  前述のMさんの息子は、33歳のとき、支援団体のサポートによって、ようやく外に出ることができた。 「こんな顔してたっけ、としげしげと見てしまいましたね」(Mさん)  10年ぶりに部屋から出てきた息子の姿を見て、Mさんは「よく出てきてくれたな」と胸が詰まったという。  この支援団体が行ったのは「アウトリーチ型」サポートという方法だ。支援を必要とする当事者や家族が相談窓口に行くのではなく、支援する第三者が個別に家庭を訪問し、当事者と家族に合ったサポートを提供するというものだ。  Mさんの場合、支援団体のスタッフが、Mさんの家を訪ね、息子に「ここを出て、一人暮らしを始めよう。私たちが見守ってあげるから安心して」と話しかけ、説得してくれた。Mさん夫婦もアドバイスを受け、支援団体の事務所の近くに息子のための部屋を借り、家財道具をそろえた。  現在44歳の息子は、1人暮らしをしながら正社員として働いている。上司から有給休暇を促されない限り、自分から仕事を休むことは一日もないそうだ。最近では、しばしば実家にも帰ってくるようになった。両親が旅行に行くときはおこづかいをくれたり、母の日には花やケーキを買ってきてくれたりするという。  引きこもり支援の流れは、今までの「家族を中心に見守る」という姿勢から、「第三者が訪問し、生活を変えるために手を差し伸べる」という積極的な方針へと、少しずつ舵を切り始めている。今年になって、引きこもりや精神疾患がある人たちの訪問支援=「アウトリーチ」に取り組む全国の団体により、「コミュニティーメンタルヘルス・アウトリーチ協会」も設立された。 ■   母親は何をすべきなのか   取材を進めていくうち、「親にできることは限界がある」という言葉に、何度も突き当たった。引きこもりから脱した当事者は、「両親のことを気にしなくていいので、精神的に楽になった」と語る。  サポートする支援団体のスタッフからは、こんな声があった。 「親子だと距離が近すぎるので、互いに感情的になりがち」 「お母さんは、黙って見守るのが苦手。常に先回りしてしまい、『待つ』ことをしない状況で、自立の芽を摘んでいる場合が多い」 「お母さんが子離れできない場合も多い。親がちゃんと子どもを突き放せないと、子どもは自立できない」  親が口を出し過ぎたせいで関係がこじれてしまい、問題が長期化するケースも多いという。関係が悪化した結果、家庭内暴力に発展する可能性もある。自分たちだけで解決しようとせず、積極的に第三者のサポートに頼ることが解決への近道といえるだろう。  また、引きこもりから脱することができても、すぐに働き始められるケースは少ない。引きこもりの期間が長いほど、社会復帰をするまでに時間がかかるのだ。まずは、安心して過ごせる居場所と、継続した見守りが必要になる。そこまで責任をもってサポートしてくれる団体をみつけることもポイントだ。 「引きこもった子どもにとって必要なのは、干渉ではなく安心感」(サポート団体代表Hさん)。  母親の仕事は、黙って見守ること。その代わり、「いつでも話を聴くよ、ピンチになったときは言ってね」と伝え、相談されたらいつでも受け入れる。これはすべての親にとって必要な姿勢といえるだろう。 <筆者プロフィル> 臼井美伸(うすい・みのぶ)/1965年長崎県佐世保市出身。津田塾大学英文学科卒業。出版社にて生活情報誌の編集を経験したのち、独立。実用書の編集や執筆を手掛けるかたわら、ライフワークとして、家族関係や女性の生き方についての取材を続けている。株式会社ペンギン企画室代表。http://40s-style-magazine.com 『「大人の引きこもり」見えない子どもと暮らす母親たち』(育鵬社) https://www.amazon.co.jp/dp/4594085687/ref=cm_sw_r_tw_dp_x_fJ-iFbNRFF3CW
dot. 2020/08/15 11:30
【現代の肖像】歴史学者・東京大学史料編纂所教授・本郷和人「歴史を学べば現代の価値がわかる 」<AERA連載>
【現代の肖像】歴史学者・東京大学史料編纂所教授・本郷和人「歴史を学べば現代の価値がわかる 」<AERA連載>
古文書を収蔵した東京大学の書庫。「きょうは、ツラ(顔)の調子もいいですよ」と冗談をとばした(撮影/倉田貴志) 東大史料編纂所では個別の部屋はなく、同僚と机を並べる。『大日本史料』12編の第5編の編纂を担当。中世・鎌倉中期の原典のわずか3年分を30年かけて記述して残す。地道な仕事だ(撮影/倉田貴志) 歴史バラエティー「この歴史、おいくら?」(BSフジ)の番組収録で、鎌倉の鶴岡八幡宮へ。司会のタレント・原田泰造(左から2番目)、アシスタントのアナウンサー・佐々木恭子(右端)との呼吸がいい。視聴者の反応も上々だ(撮影/倉田貴志) 毎月2回、東大(東京・本郷)の近くで開く「古文書研究会」。古文書愛好家十数人と中世の記録を丹念に読む。「ここは上下関係がないからとても楽しい」(撮影/倉田貴志) ※本記事のURLは「AERA dot.メルマガ」会員限定でお送りしております。SNSなどへの公開はお控えください。  豊富な知識と、語り口の上手さで、歴史番組の解説役としても人気の本郷和人。笑いを取りつつも、研究者としての信念はかたい。たとえ世間の潮流に逆らっても、自分の研究に基づいて語る。その言葉が批判を受けても、世におもねることはしない。楽しく、分かりやすく。それでも、国立大学の中世史研究がなくなると危機感を抱くほど、若者の歴史への興味が薄れている。  今年1月16日。歴史学者の本郷和人(59)は、自民党の勉強会「まなびと夜間塾」に講師として招かれた。開口一番、こう切り出した。 「最初に懺悔をいたします。私、令和という素晴らしい元号にミソをつけまして、大炎上をいたしました」  会場から笑いが起きた。同党中央政治大学院主催の開講記念講座。テーマは「日本史のツボ」。本郷の著書の一つと同名のタイトルだった。  テレビの歴史番組の解説役としてしばしば登場する。まるっこい体躯。どことなく愛嬌のある語り口に親しみを覚える視聴者も多い。出演する「BSフジ」の歴史バラエティー「この歴史、おいくら?」のチーフプロデューサー・柴田多美子は、「声のトーン、喋りの間、聞きやすさ、抑揚など、とても上手い」と評価する。2012年放送のNHKの大河ドラマ「平清盛」では時代考証を担当した。歴史関連著作は30冊近い。監修者として関わる『東大教授がおしえる やばい日本史』は累計発行部数30万部に上る。その本郷の名前をさらに広く知らしめたのが「令和」騒動だった。  昨年4月1日に発表された新元号「令和」。テレビでは様々なコメンテーターや識者らが褒めそやした。翌2日、テレビ朝日の「羽鳥慎一モーニングショー」に出演した本郷は、祝賀一色のムードに異を唱えた。 「『令』は上から下に何か命令をするときに使う字。安倍首相は、国民一人ひとりが自発的に活躍していこうという想いを込めたとおっしゃるが、その趣旨にはそぐわないのではないか」  論語の口先が上手く心がないことを表す「巧言令色鮮し仁」の「令」であり、ひっかかるとも話した。放送後、ネットでは本郷の発言への批判が渦巻いた。 「あ~、また言っちまったかなあ。俺もなかなか大人になれねえな。そう思ったよ」 ■歴史史料が多く残る日本、新しい視点の提示が難しい  反発は想定内のことではあった。炎上覚悟でこだわったのは、文字の意味合いもさることながら、いずれ令和が天皇の名前になることを懸念するからだ。「令」は、皇太子の命令の意で、「令旨」という。天皇の命令は「綸旨」。したがって天皇の名前となる元号に「令」を使うのはふさわしくないと考えたのである。 「考え方が分かれる問題には、いちいち文句は言いません。大人げないから。でも令和については学問的に○か×というレベルなんだよね。で、火中の栗を拾いに行ったら、カチカチ山の狸だよね、火つけられちゃって」と苦笑する。自民党の勉強会では“懺悔”してみせたのも束の間、こう語った。 「曲学阿世という言葉がある。学問を曲げて世に阿る。誠に恥ずかしいこと。研究者は自分の研究に基づいて思うところを述べないといけない。研究者の中にもホンモノとニセモノがいることを見抜いてほしい。羽振りのいい研究者は疑ってかかる必要があります。テレビに出てくる研究者はたいていニセモノです」  最後はユーモアで煙に巻き、再び笑いが起きた。  歴史学者としての本業は、東京大学史料編纂所教授。専門は日本の中世政治史。編纂所では『大日本史料』の編纂を担当している。 『大日本史料』は、1901(明治34)年に明治天皇の命によって編纂が始まった歴史史料で、887年即位の宇多天皇の時代から江戸時代までの期間を対象としている。12編に分けて編纂し、本郷は第5編の担当。鎌倉時代中期、1221年の「承久の乱」から1333年の鎌倉幕府滅亡まで。対象となる時代の原典である手書きの史料を可能な限り集め、活字にして残す。1年分を記述し終えるのに10年かかるという。3年分を編纂するのに30年。編纂所での本郷の職業人としての人生はそれで終わることになる。ちなみに、『大日本史料』が完成するまでには800年を要する。  史料編纂所は、東大本郷キャンパスの赤門を入ってすぐの年季の入った建物にある。そこで日々、地道な仕事を続ける研究者が広く知られることはほとんどない。本郷は、その枠に収まり切らない。  日本は諸外国に比べても歴史史料が豊富に残っている国だ。侵略され、滅ぼされたことがないからだ。しかしそのことによる弊害もある。史料に寄りかかりすぎ、記録の解釈に忠実であるあまり、新しい視点を提示したり、多様な見方を論じたりすることが難しい。史料編纂所が象牙の塔になっていると本郷は嘆く。 ■「令和」についての批判、恩師から激励を受ける  日頃の研究の成果を社会に還元するべきだと考え、大手出版社と組んで「歴史講座」を企画したことがある。シリーズ全10回。「歴史を変えた人物」というテーマで聴衆を集め、講師は編纂所所員が務める。質疑にもたっぷりと時間をとる。話の内容を文章化し、書籍にまとめる。2年かけて所内の了解も得た。しかし最後に教授会で「一人の人間が歴史を変えるなんて、勘弁してくれ」と否定された。ショックだった。  昨年出版された『日本中世史の核心』(朝日文庫)の文庫版あとがきでは、史料編纂所について触れている。 「研究者による研究者のためだけの史料編纂というのは、決して学究的・良心的と評価すべきではなく、独善的でしかない(中略)。古文書や古い日記の読解と分析を通じて得た知見を、分かりやすく、社会に発信するべきではないか」  歴史学界で、自分の考えは受け入れられないという悶々とした思いがある。そんな本郷の性格を笑いにくるみながら分析するのは妻の恵子。 「聞いてくれる、褒めてくれる相手が欲しいんですよ。本当にかまってちゃんなんで。いまは人気者になれて、皆がかまってくれるからいいんじゃないですか」  本郷と同じ史料編纂所教授で専門も日本中世史。天皇の生前退位に際し、政府の有識者会議から退位後の呼称について意見を求められ、「天皇との名称上の上下感を無くすために上皇とするのがよいのでは」と説明した。本郷の著作にも恵子の研究や考えについての一節が時々でてくる。研究者として、恵子の方が王道を行っていると本郷は認めている。東大文学部時代のゼミで知り合った。 「私が男子学生と話していると、嫌な顔をして、後ろに立っているんです。いまなら犯罪になるストーカーみたいに付きまとって」  本郷に事実かどうか質した。 「僕ね、自分に自信がないんだよ。僕より魅力的な男は世の中に満ちあふれている。奥さんを他の男に接触させると絶対負けるから囲い込んだの」  東京の下町で生まれた。母親は猛烈な教育ママ。孟母三遷を地で行くように、小学校から都心の名門、麹町小学校に通わせた。毎日電車で片道1時間。帰りは自宅の最寄り駅に祖母が出迎え、学習塾や各種稽古事に行く。ピアノ、習字、英語。日曜は絵画教室。各科目オール5は当たり前。小学校3年の2学期に理科の成績が4になった時、顔が腫れあがるほど叩かれた。運動はからきしダメ。小学校4年の時、家族旅行で京都、奈良に行き、法隆寺などの建築や、薬師三尊像、興福寺の阿修羅像に感激し、歴史少年になった。  中学からは、私立の名門、武蔵高等学校中学校へ。自由な学風で知られ、東大に毎年数十人を送り込んでいた。本郷は歴史と考古学のクラブ、民族文化部に所属した。部の顧問で、教諭だった大橋義房(71)は、昨年4月、新元号「令和」について、本郷がテレビで批判的に語るのを偶然見た。 「かなり覚悟して言ったんじゃないかな。あっぱれだと思いましたね」  大橋は、すぐに本郷にはがきを書いた。 「まだ君はアカデミズムから離れていない。アカデミズムの根本にある反権力性を失ったら御用学者になる、というような趣旨でした」  本郷は大橋以外に、もう一人の恩師からも激励を受けたと嬉しそうに語る。ただ自身は、歴史学の未来に危機感を持っている。若い人たちと接する中で、教養に対する関心の低さや歴史への興味がないことに「天を仰ぐ」経験をしてきた。東大の学生も同じだという。「30年後には、国立大学の中世史研究は無くなると思う」とまで言う。  旺盛な執筆活動の裏に、アカデミズムの外へと自分の世界を広げていかざるを得ない葛藤を抱えている。そんな本郷が「あれは良く書けた」と言う著作がある。18年出版の新書『日本史のツボ』。「天皇、宗教、土地、軍事、地域、女性、経済」の七つのキーワードで日本史に切り込んでいる。  たとえば土地の章。7世紀末成立の律令制の下で土地が天皇のものであり、私有は認めない「公地公民」制ができる。やがて制度は崩壊していき、私有の「荘園」が生まれると教科書では教わる。  だが本郷は「それはフィクションに近いのでは」と疑義を唱える。そもそもヤマト王権成立以前には「公地公民」はなかった。「白村江の戦い」(663年)で敗れた日本は必死に国家建設に向かう。当時の超先進国、唐に倣って「形式」を整えたが、それは「理想」だったのではないかというのだ。狭い山国で農地は少なく、台帳に記された農地は全国で100万町歩に満たなかった。だから「公地公民」といっても実体はなく、土地を開いたものが所有し、やがて荘園が生まれてくると見る。 ■井上章一と書籍で対談、緊張から何度もトイレに  土地を開墾する人は「開発領主」。管轄は地方の役所である「国衙」。土地は領主の子孫に相続され、月日が流れる。ある時、国衙が土地を召し上げに来る。根拠は「律令」。土地は天皇のものだからと。困った子孫Aは国衙を司る中央の貴族Bに保護を求める。Aは、「毎年年貢を送るので国衙に手を引くように言ってほしい」と願い出る。口利きを頼むのだ。この時のAを「下司」という。依頼されたBは「上司」。「荘園」とはこうした関係が生じた土地のことだ。中央の貴族が当てにならない場合、領主たちは、土地を取り上げようとする相手を実力で排除にかかる。自ら武装して闘うしかない。これが武士の誕生になる。 「本郷さんの書くものはストンと胸に落ちる。お話も面白い」  そう言うのは、本郷の本を新書で何冊も出している祥伝社の編集者、飯島英雄(52)。18年に、京都の国際日本文化研究センター教授、井上章一(65)と対談した『日本史のミカタ』を企画刊行した。中世日本について井上は「権門体制論」を押し、本郷は「東国国家論」の立場をとっていた。意見の異なる東西の研究者に自由に語ってもらうことで、歴史の豊かさを感じさせるものにできるのではないかと考えたのだ。 「権門」とは、武家の時代とされる鎌倉時代であっても、武士だけが抜きんでているのではなく、武士、貴族、寺社の三つの権力が社会を支え、三者の上には王家(天皇)がいたという考え方だ。一方、「東国」には、鎌倉幕府があり、京都の朝廷の権力は並び立っていた。どちらかが上というのではなく、東国に、もう一つの国家があったとする論である。  建築学、社会学、歴史学という幅広い知識を持つ井上との対談に、本郷は極度に緊張し、何度もトイレに立って、同席した飯島に呆れられた。内容は神話から、平安、武家政権の時代、さらには江戸や明治時代にまで及び、時に世界史との比較も交えて縦横無尽に展開された。「横で聞いていて面白くて仕方なかった」と飯島は振り返る。  井上はこの中で、京都の魅力として「女官」について触れている。各地の武士たちは、朝廷や有力貴族を護る用心棒の仕事のため、京都へと赴く。彼らは貢献して与えられる官職だけでなく、京都のサロンを彩る女官の魅力にも惹きつけられただろうと言うのだ。しかし日本史の研究は、「京都のおねえさん力」について触れていないと、やんわりと疑問を投げかけた。本郷は、「歴史は科学でなくてはならないので、おねえさん力を測る尺度をもたない以上、論文は書けない」と応じている。 ■「JKT48」に惹かれてジャカルタに就職口探す  井上がやや挑発的な質問をしたのは理由があった。本郷が女性アイドルグループ「AKB48」の熱烈なファンで、「乃木坂46」や「欅坂46」にも一時入れこんでいたことを知っていたからだ。「歴史学ではふつうはとりあってもらえない議論も、本郷さんなら一緒に考えてくれるのではないか」と冗談交じりにあとがきに書いている。東大教授の歴史学者としては異彩を放つ本郷について、井上は絶妙な言い方をする。 「歴史学界のメインストリームの『すごろく』を上がっていく人間じゃないという自負心がおありだから、AKB48と戯れることができるんだと思います。学界のことを考えれば、テレビに出られるのは、あまりいい道ではない。学者としての評判を落としかねないですし。でも頑張って下さったらいい。『すごろく』に血道を上げない人が描くことのできる歴史像があると思うんです」  本郷がAKB48に出逢ったのは15年近く前。仕事に行き詰まって東京・秋葉原の町をふらふら歩いていたら、偶然AKB48劇場を見かけて入った。自身の青春時代に活躍していたキャンディーズなどのアイドルにはまったく関心がなかった。だのにAKB48には嵌った。 「彼女たちは、なんの保証もないのに懸命に歌い、踊っている。それを見て力づけられた人たちがいて、一緒にAKB48劇場の空間を作っていた。応援する側も欲得抜き。これはこれで凄いなあと」  熱狂的ファンになり、AKB48の「総選挙」に投票したり、メンバーの高橋みなみと雑誌で対談したりした。インドネシアの首都ジャカルタを拠点に活動している「JKT48」に惹かれ、ジャカルタの大学に就職口がないか調べたこともあった。 「あなたは舎弟体質ね」と妻の恵子に言われる。人の上に立つのが苦手。皆を代表するのは格好悪いという考えが身に沁みている。母親から「人の上に立ってはいけない」と言われて育った。母方の祖母の教えだ。祖母には3人の息子たちがいて兵役に取られた。その時祖母は、「お国のために死ぬな。特攻隊、前へと言われたら、後ろに下がるぐらいでいい」と言って聞かせ、3人とも戦死せず復員してきたのだ。  最初から歴史学者を目指していたわけではない。幼少期から人間の「生き死に」に強い関心があった。考えすぎて、死への恐怖から14歳の時にパニック障害になった。大学受験の直前、親に内緒で精神科に行き、薬を処方してもらった。 「不安を和らげる薬。バカバカ飲んで試験を受けた」  いまも安定剤は欠かせない。仏教書や哲学書が好きでフロイトやユングをむさぼり読んだ。中学、高校時代の愛読書は唐木順三の『無用者の系譜』。 「世間から無用者と見られようと、自分の良心にしたがって生きる。松尾芭蕉とかさ。『予が風雅は、夏炉冬扇のごとし』。しびれるぐらい格好いいよね。そういうのがヒーロー。だから世の中に受け入れられる人になるのは最初から諦めていた」  人の精神を救う仕事につきたいと一時僧侶を目指したことも。多額の資金が必要というので高校生の時に諦めた。中世史を専攻したのは、古代や近世に比べて、貴族、武士、寺社勢力、農民と様々な階層が存在していた面白さがあるからだ。 「いまは自由や平等、平和を当然のように思っている。だけど中世にはそんなものなかった。それを知れば、現代の価値がいかに大事かわかる。そういう意味でも、歴史を学んでほしいと思うな」 (文中敬称略)   ■ほんごう・かずと 1960年 東京の下町で生まれる。母親は孟母三遷を地でいく教育熱心な人。  67年 地元の小学校ではなく、東京都千代田区立麹町小学校入学。片道1時間の電車通学。ピアノ、絵画、習字、英語など、多くの習い事に通う。家族で行った京都、奈良旅行がきっかけで古代史好きになる。  73年 東京の私立・武蔵中学校入学。  74年 死への恐怖からパニック障害になる。仏教書を読み、僧侶になることを考え始める。  76年 同高校入学。  79年 東京大学文学部入学。2年生の時、現在の妻で、東大史料編纂所教授の恵子と大学の全学共通ゼミで出逢う。  88年 東大大学院人文科学研究科博士課程単位取得退学。日本中世史を学ぶ。東大史料編纂所助手。『大日本史料』第5編の編纂に当たる。  95年 『中世朝廷訴訟の研究』を東京大学出版会から刊行。 2000年 古文書愛好家と「古文書研究会」を始める。  04年 『新・中世王権論 武門の覇者の系譜』を出版。以後中世の歴史を中心に、商業出版として、著作を多数出版。  05年 東大大学院情報学環助教授。  06年 AKB48に強い関心をもち、東京・秋葉原の「AKB48劇場」通いを始める。  08年 東大史料編纂所准教授。  12年 東大史料編纂所教授に就任。NHK大河ドラマ「平清盛」の時代考証を担当。  13年 「AKB48選抜総選挙」の事前予想と事後の「感想戦」などでテレビに討論者として出演。  19年 新元号「令和」について、テレビ朝日の番組で令という字に命令や令色などの意味があるとして歓迎できない旨の発言をし、ネットで炎上。「この歴史、おいくら?」(BSフジ)にご意見番として出演を開始。  20年 これまでに歴史関連の著作は、30冊近い。2月に『日本史を変えた八人の将軍』(作家、門井慶喜との対談・共著)を出版。 ■高瀬毅 1955年、長崎市生まれ。明治大卒。ニッポン放送を経て、フリー。著書に『ナガサキ 消えたもう一つの「原爆ドーム」』『本の声を聴け』など。本欄では西田敏行、磯田道史、林修、白井聡などを執筆。 ※AERA 2020年3月16日号 ※本記事のURLは「AERA dot.メルマガ」会員限定でお送りしております。SNSなどへの公開はお控えください。
AERA 2020/08/13 01:09
「そばにいてほしい」妻の願いの行方は? 在宅勤務で気づく夫婦のすれ違い
西澤寿樹 西澤寿樹
「そばにいてほしい」妻の願いの行方は? 在宅勤務で気づく夫婦のすれ違い
※写真はイメージです(GettyImages) カップルカウンセラーの西澤寿樹さんが夫婦間で起きがちな問題を紐解く本連載。今回のテーマは「在宅勤務で気づく夫婦のすれ違い」です。 *  *  *  残念ながら、どうも新型コロナの第二波が、やってきているようです。「新しい生活様式」は、なかなかのストイックさを求められるので、難渋している方も少なくないのではないでしょうか。そうは言っても、これだけ急に人々の生活様式が変わるということはあまりないことです。  こういう時に、今まで見えなかったことが見えてきたりすることがよくあります。有名な話では、アメリカではオイルショックの時にハイウェーに速度制限を導入したところ、目に見えて死亡事故が減ったことで因果関係が鮮やかになりました。  コロナ禍で、大学で録画授業が続くと、高校の時に通っていたビデオ予備校のデジャブーの気がしてもおかしくありません。この録画授業に適応して、ゲームをしながら聞いていたり、早送りで聞いていたりする大学生が少なくないらしいのですが、これなら実習科目以外は動画でいいじゃん、という気分になる人も出てきます。動画という観点からすれば、大学の先生よりもよほど効率的に教えられるYouTuberは結構いますから、そうなると苦労して入学する大学の意味は何なのだろうと本質的なことに目が向いて悩んでしまったりします。  会社って行くもんだと単純に思っていたのが、在宅リモートワークになって、家でも仕事ってできるんだ、というのも気づきですが、逆に通勤時間入れても会社で仕事したほうが効率いいと気づく方もいると思います。そうなると、会社に行くことの本質は、生活環境との隔離ということになります。  人は大きく揺さぶられると、新しい環境に適応しようと精一杯頑張る側面と、本質的なことに気づきやすくなる側面があるようです。  直美さん(仮名、40代、事務職)は、夫の一昭さん(仮名、40代、管理職)が家にいない(帰宅が深夜になり、土日は疲れて寝てるかゴルフに行ってしまう)のが不満でした。  話をお聞きすると、それは結婚当初からあまり変わらず、たまにその話をしても、毎回もっともな話をされて、仕方ないな、彼も頑張っているのだから自分ももう少し我慢しないとな、と思ってきたそうです。  どんな話が「仕方ない」のかお聞きしてみたら、 「リーマンショックで、会社が危機的状況だから、頑張らなければ」 「新製品に問題が見つかって、会社がドタバタしているから、自分も頑張らなければ」 「有能な部下が数人同時に辞めて独立してしまって、自分が対応すべき仕事が増えた」 「社長から特命プロジェクトを任されて、今年中に結果を出さなければならないから」  など、いろんな理由があったのだそうです。  直美さんは何回かお一人でご相談にお出でになり、やるかたないお気持ちをお話しになって、「誰にも話せないことなので、話せてよかったです」とおっしゃって帰って行かれたのですが、ある時から、お二人でお出でになるようになりました。 「具体的にどうしたらいいのかわからないのですが、一人で愚痴を聞いてもらって、ちょっとすっきりしたところ、結局何も変わらないな、と思って、彼にも来てもらいました」  とのことでした。 「何がどうなったら、お二人でカウンセリングにお出でになったかいがありますか?」  とお聞きしてみると、 「わかりません。私は夫にもう少し家にいてほしいのですが、彼が帰ってこられない事情もよくわかるので」  とおっしゃいます。 「一昭さんの事情はさておき、直美さんはどうなったらうれしいですか?」  と改めてお聞きすると、 「彼が、もう少し家にいてくれれば……」  とおっしゃり、 「でも……」  と続けそうになったので、遮って、 「彼に、家にいてほしいのですね。もう少しというのは、どのくらいいてくれたらいいですか?」  とお聞きすると、ちょっと躊躇しながらも、 「私の希望を言えば、せめて週2日と土日のうち1日」  とおっしゃいます。  一昭さんに、 「どう思います?」  とお聞きしたところ、直美さんがおっしゃっていたような、帰ってこられない理由を滔々とおっしゃいました。  事態が変わったのは、コロナでお二人とも在宅勤務になったことです。直美さんが望んだ以上の結果が期せずして得られたのです。夫は週7日24時間、家にいるようになりました。計算上は、希望した週2日と週末1日の倍以上、夫は家にいます。  しかし、直美さんの気持ちは晴れませんでした。  直美さんは言いました。 「私は、夫が家にいないことが不満なのだと思っていましたが、本当は家にいるとかいないとかではなくて、夫に構ってもらえないことが問題なんだってわかりました」  お話を聞いてみると、夫は家にはいるけど、仕事をしているか、動画を見ているか、ゲームをしているか、寝ているかなのだそうです。  直美さんは、 「夫が家にいれば、一緒に過ごす時間が増えるものだと思い込んでいたのに気づきました」  とおっしゃいます。問わず語りに、直美さんは続けました。  お二人には子どもがいないので、夫がいない一人の時間を一人で過ごさないで済むようにするために犬を飼っていました。しかし、犬を飼い始めてしばらくしたころ、故郷の熊本での地震をみて、「今ここで大地震があったら、夫とではなくて犬と死ぬんだ」という考えが浮かび、数日間、その考えが離れなくなってしまったそうです。  そのことは忘れていたそうですが、思い出してみると、その頃から夫にもっと家にいて欲しいと言うようになったそうです。  直美さんは一昭さんに、 「私は寂しい」  と言いました。目に涙をためています。一昭さんは、 「今はずっと家にいるじゃん」  と言いましたので、 「そう言いながらどう感じていますか?」  とお聞きすると、 「24時間一緒にいるのに寂しいといわれてしまうとこれ以上何もできませんし、寂しいっていうのはそもそも気持ちの問題なので、こういったところでカウンセリングを受けて自分で対処してもらうしかないと思います」  とおっしゃいました。直美さんに、 「ご主人はこうおっしゃっていますが、どう思いますか?」  とお聞きしてみました。 「夫は、私には興味がないんだってことがはっきりわかりました」  一昭さんが割り込みます。 「そんなことないよ。君のことが大事じゃないはずないじゃん」  直美さんは、 「あなたのことは好きだけど、こんな生活が続くならあなたとは別れてピース(犬)と暮らす」  と言いました。  私もびっくりしましたが、一昭さんはもっとびっくりして、あからさまにおろおろされました。おろおろするというのは、気持ちが揺さぶられているので、もしかしたら一昭さんも一昭さんなりに(自分から見た)本質的なことに気づくかもしれません。  そうやって、それぞれが(自分から見た)より本質的なことに気づいたとき、揺らぎが起こって、新しい関係性が構築されます。そういう揺らぎを正面から受け止めて構造改革しないのは、良い悪いは別として失われた30年ともいわれる日本の姿と同じ構図のように思えます。                          (文・西澤寿樹) ※事例は実例をもとに再構成してあります。
夫婦男と女西澤寿樹離婚
dot. 2020/08/11 17:00
瀬戸内寂聴、小説家をやめ「絵描き」に!? 処女作を制作中
瀬戸内寂聴、小説家をやめ「絵描き」に!? 処女作を制作中
瀬戸内寂聴(せとうち・じゃくちょう)/1922年、徳島市生まれ。73年、平泉・中尊寺で得度。『場所』で野間文芸賞。著書多数。『源氏物語』を現代語訳。2006年文化勲章。17年度朝日賞。 横尾忠則(よこお・ただのり)/1936年、兵庫県西脇市生まれ。ニューヨーク近代美術館をはじめ国内外の美術館で個展開催。小説『ぶるうらんど』で泉鏡花文学賞。2011年度朝日賞。15年世界文化賞。(写真=横尾忠則さん提供)  半世紀ほど前に出会った98歳と84歳。人生の妙味を知る老親友の瀬戸内寂聴さんと横尾忠則さんが、往復書簡でとっておきのナイショ話を披露しあう。 *  *  * ■横尾忠則「文学者と画家の間に横たわるものは?」  セトウチさん  七月も間もなく終わろうとしていますが、東京は毎日雨が続いています。アトリエは窓を開けたまま暖房をつけています。ここ数カ月の間、来客もなく、外出もしません。昼食はスタッフにテイクアウトしてもらうか、出前で、お店に出掛けることもしません。コロナ対策の優等生の見本のようなストイックな生活をしていますが、自粛は昔からの習慣なので、ストレスになるというようなことは全くありません。むしろ今の隠遁(いんとん)生活が結構気に入っています。  ほとんどアトリエで無為な生活を送っています。アトリエの壁には描き上がった絵と、白いキャンバスが並んでいます。描かなきゃ、という義務もないので、プレッシャーもないです。若い頃のような意欲も野心もなく、何(な)んとなく面倒臭いなと、できれば描きたくないなと思っています。こんな怠け気分もなかなかいいもんです。絵は結構、肉体労働なので、動くのがシンドイのです。じゃ、本でも読むのか、といわれても、書評のために月に2冊読むだけです。これとてお仕事なので、面白いとか、楽しいとかはいっさいないです。でも、面白くないこともやってみるのは、嫌なものを絵にすることと似ていて、絵の巾を広げるためには悪いとは思いません。  子供の頃から、本の虫になったことは一度もなく、大人になってからは、いつか読むだろうと思ってか、何かの不満解消のためか、やたらと本を買いまくるだけで、買った日の夜にベッドの中で1、2頁(ページ)ペラペラとめくって、あとはツンドクだけで、家の中は本で狭くなる一方です。読書家というよりも買書家です。ただ画集だけはよく見ます。画集は僕にとっては旅行をしているようなものです。絵の中をあちこち旅をするのです。本は自分に代(かわ)って人が語ってくれるもので、身体を通した体験にはなりません。わかったと言っても、人の言葉を暗記しているだけです。画集は自分で物語や論理をどんどん作っていきますから、クリエイティブです。絵は言葉で語れないものを絵で語る作業です。言葉で語れるような絵を描くなら、文章を書けばいいわけです。それを言葉ではなく、身体と感性に伝えられないかなと思って絵を描いているのです。  だからでしょうかね、本を読みたいと思わないのは。ピカソも、本はあまり読まなかったようです。フェデリコ・フェリーニは45歳まで本を読まなかったけれど、万巻の書を集めたような物凄(すご)い視覚的な映画を作りました。僕の場合は絵を描く時は頭からあらゆる観念を排除して、極力、子供の遊びの世界に、没入するようにしています。そして、できれば寒山拾得のようなアホの魂と一体化してみたいと思います。  絵と文学は比較するものではなく、全く別のものだと思います。川端康成さんも文学は観念、絵画は肉体とはっきり区別しています。ですから画家が観念を志向したり、文学者が肉体を求めるのはおかしいのです。にもかかわらず文学者と画家の交流は昔から濃密です。20世紀の初頭、ヨーロッパでは文学者と画家は悪口ばかりいいながらお互いに作品を向上させてきました。この両者の間に横たわるのは一体何んなんでしょうね。  今日はこんな話になりました。 ■瀬戸内寂聴「数え九十九歳で絵描きになります!」  ヨコオさん  ワーイ! ワーイ!  やっちゃったぁ! やっちゃったぁ!  何を? って、大変動ですよ。  ヨコオさんより何十年も遅いけれど、生活の革命ですよ。  御年数え九十九歳で、小説家瀬戸内寂聴がペンを捨てて、絵筆を買いこんだのですぞ!! ホント、ホント、とうとうアタマに来たかと心配しないで!  何十年も以前に、ヨコオさんだって、やっちゃったことだもの。何十年も経って、その真似(まね)をするなんて、カッコ悪いけれど、そんなこと言ってらんない。ヨコオさんは、とうに経験してるから、解(わか)ってくれるでしょうけれど、こんな革命は、ある日、突如として起こるものなのね。  つらつらと考えれば、突如をかもしだす空気は、その前からムクムクしていたけれど、大変革が怖くて、グズグズしていたのは、外ならぬ本人次第なのです。  何かを変えるということは、恐ろしいことで、決行には只(ただ)ならぬ勇気が必要です。  結婚すること、子を産むこと、離婚すること、或(あるい)は子の親と死に別れること。  女の生涯には、捨てておいても、様々な大変革が生じます。  私は結婚し、子供を産み、自らその平安な生活を破り、只ならぬ人生を選び、ついに髪まで落として、百歳一歩手前まで、生き延びてきました。  散々、苦労をしたとは、他人の評することで、自分自身では、苦労を苦労と感じるゆとりさえなく。いつも無我夢中で、一日を必死に泳いできました。  気がついたら目の前に百歳の壁がそびえていた。何度か、死ぬかもしれない手術をしては、死なずに、生きつづけました。あとは只、死ぬ時を待つばかり。突然、どうせ、死ぬなら、もう一度、変わった生き方をしてみたいと、切実に思ったのです。  それで、小説家から絵描きになってみようかと思ったのです。念ずれば、応えてくれる何かがあって、たちまち、若いハンサムの画家が降ったように現れ、私の年甲斐(としがい)もない夢を察するなり、その翌日、油絵の材料をぴたっとそろえて買ってきてくれました。その画家の名前は中島健太さん。  ヨコオさん、只今、私の寝室は、彼の届けてくれた油絵の絵の具で隙間もなくなりました。  彼はヨコオさんの隠し子かしらと思うほど、気が利く絵描きです。私の肖像画を描いてくれ、それを仏間に置きましたら、お詣(まい)りの人が、大方留守の私に逢(あ)えたように思って、手を合わせてくれ帰っていきます。もちろん、その絵の私は、実物よりずっと美人で、賢そうな表情。  九十九歳から、私も画家になる。おそれ多いので、まさかヨコオさんの弟子にしてくれなどとは言いませんが、私たちが仲良し老親友だと知っている人たちは、 「ついに、寂聴さんが、ヨコオさんの弟子にしてもらえたんだね!」 「いや、あれは勝手に寂聴さんが、弟子みたいな顔をしているだけだよ」  とか、もめている様子。はて、さて、どのような絵が生まれましょうか。若いハンサムの絵描きが買ってきてくれた絵の具を解き、白いキャンバスを並べ、いよいよ処女作に取りかかろうとして、ひとまず、大先輩に、ご挨拶(あいさつ)を申し上げました。  では、また。 ※週刊朝日  2020年8月14日号‐21日合併号
週刊朝日 2020/08/11 11:30
天龍源一郎が語る“エンタメ” ジャンボ鶴田を誘ったら「誰?」と言われたエルヴィスのコンサートは一番の思い出
天龍源一郎 天龍源一郎
天龍源一郎が語る“エンタメ” ジャンボ鶴田を誘ったら「誰?」と言われたエルヴィスのコンサートは一番の思い出
天龍源一郎さん 叫ぶ?天龍源一郎がデザインされたTシャツを自ら着てみた!(天龍源一郎公式インスタグラムより)  50年に及ぶ格闘人生を終え、ようやく手にした「何もしない毎日」に喜んでいたのも束の間、突然患った大病を乗り越えてカムバックした天龍源一郎さん。2月2日に迎えた70歳という節目の年に、いま天龍さんが伝えたいことは?今回は「エンタメ」をテーマに、飄々と明るくつれづれに語ります。 *  *  *  俺が子どもの頃のテレビ番組といったら『月光仮面』や『赤胴鈴之助』、『快傑ハリマオ』だ。周りの友達もみんな好きだったなぁ。ときどき、昔の昭和30 年代のテレビ番組特集なんかをやってるとやっぱり観ちゃうね。あとはNHKでやっていた『お笑い三人組』。そもそも俺の地元の福井県は観られるチャンネルがNHKと日本テレビくらいだったんだよ。やっぱり田舎に行くと読売巨人軍ネットワークで日本テレビ系が強いね! 全日本プロレスの中継をしていたのも日本テレビだからね。  上京して相撲の世界に入ってからは映画もよく観るようになった。午後4時頃に稽古が終わるとなけなしの金を持って錦糸町へ出かけてね。映画を観て、中華屋でラーメンを食って、気分を新たにして寝るっていうのが楽しみだったなぁ。その当時は西部劇、マカロニウエスタンが流行ったころで、クリント・イーストウッドの作品が特に好きだった。彼もそこから有名になっていったからね。当時付き合っていたお姉ちゃんとソフィア・ローレンの『ひまわり』を観に行ったことがあるんだけど、映画館に行ったら客は女の子ばっかり。びんつけ油でマゲを結った浴衣姿の大男はなんと場違いなことか! 映画が終わって館内が明るくなったときの恥ずかしさは今でも覚えているよ。  あの頃は近くに日活の映画館もあって、石原裕次郎さん、吉永小百合さん、高橋英樹さんが主演した作品をよく観たもんだ。俺が観ていたのは15~16歳くらいだけど、その当時の高橋英樹さんも20歳そこそこの若さで日活の主演だもんね。いやぁ、大したもんだよ! そうやって若い頃に観ていた映画で主演していた高橋英樹さんとも後になってお会いしたり、通っていたジムで吉永小百合さんをお見かけしたりしたけど、これは感慨深いね。ジムで吉永さんがトレーニングしている姿に、俺も大いに触発されたもんだよ。    映画の思い出といえばもうひとつ、女房との初めての映画デートがあるね。そのときに一緒に観たのは三船敏郎さん主演の任侠映画『制覇』。初めての映画デートで任侠ものを観るんだよ。しかも、女房が観たいといった映画だからな! うちの女房も大したもんだ(笑)。  相撲時代のもうひとつの楽しみがラジオだ。相撲に入って初めて自分の個室が与えられたときに、真っ先に買ったのがラジオで、相撲時代はずーっとラジオを聴いていたよ。テレビは兄弟子がチャンネル権を持ってるから、あんまり面白くなくってね。よくラジオで吉田拓郎さんの番組を聴いていて、拓郎さんの曲が流れると兄弟子に「なんだ、その女々しい歌は!」なんて言われたもんだよ(苦笑)。  ラジオはローカル局が好きで、FM世田谷やFM川崎、大阪のローカル局もよく聴いたもんだ。高速道路を走っているときでも、世田谷を通るときは、ちょっとでもいいから聴きたくてカーラジオをFM世田谷に合わせるんだけど、5分間くらいで通過しちゃってほとんど聴けない(笑)。今でもローカル局の生放送を聴くと、巡業で行った大阪で笑福亭鶴瓶さんの深夜ラジオを聴いていたこととか、若い頃のことを思い出すね。  プロレスに転向してアメリカ修行のときもラジオが友達だったね。渡米するたびにラジオを新調して、なにかあるとラジオで気を紛らわしたり、滞在先のモーテルでカントリーミュージックを聴いたりしたもんだ。カントリーミュージックは曲の途中でよく「ヒーハー!」って掛け声が入るじゃない。明るい曲が多いからテンションが上がるし、現地のレスラーが好きだから俺も影響されたんだ。俺がいたテリトリーはテキサスやノースカロライナといった南部だったから、ラジオでも流れるのもカントリーミュージックが多くて。今でも、夜中にテレビ番組の通販で「カントリミュージック100曲セット」というのを観ると、思わず買いそうになる俺がいるね。  さて、アメリカ時代の一番の音楽の思い出といえば、ジャンボ鶴田と一緒に行ったエルヴィス・プレスリーのコンサートだ! 俺が滞在していたテキサス州アマリロにエルヴィスが来るっていうんで、ドリー(・ファンク・Jr)に頼んでチケットを取ってもらったんだ。俺は興奮してたけど、ジャンボはエルヴィスを知らなくて「誰だい?」なんて言うもんだから、「すごい歌手だよ!」ってジャンボも誘ってね。そしたらジャンボも「いやぁ~、カッコいいね!」なんて、すっかりハマっちゃった。たしかシュープリームスが前座で歌っていたなぁ。でも、俺は嬉しい反面「ビバリーヒルズやハワイみたいな土地でコンサートをしていたエルヴィスがこんな田舎町まで来て、都落ちしたもんだ……」と少し寂しい気持ちになったことも覚えているよ。その後すぐにエルヴィスが亡くなって、ノースカロライナに行ったとき、現地のレスラーが「本当はこの町にエルヴィスが来て、あそこのモーテルを借り切って泊まるはずだったんだよ!」と自慢げに言うんだ。やっぱり、晩年になってもエルヴィスは大スターだったね。彼が“来る予定だった”ことまで自慢話になるんだから。  俺にはそんなエルヴィスのある言葉に教えられたことがあるんだ。エルヴィスがキャデラックを15台も20台も持っていることに対して「なんでこんなに車を持っているんだ?」と聞かれて、「この商売はどうなるか分からないじゃないか。いつか金がキツくなったときに1台ずつ売っていけば飯が食えるだろう」って言ったというんだ。俺はその言葉に感銘を受けてね、自分が調子いいときに買った物はどんな物でも、ピンチになったら平気で売れるようになった。買った物を守るよりも、家庭を守る方が大切だからね。これは俺が生涯大切にしているエルヴィスの教えだ。  さて、アメリカではカントリーミュージックやエルヴィスに染まったけど、日本でもコンサートに行く機会は多い。昔は松任谷由実さんや、最近だとCMで共演した平野紫燿君がいるKing & Princeのコンサートにも行ったよ。キンプリのコンサートにいる俺が場違いすぎて、ちょっと照れたけどな!(笑)。そして、ここ20年、毎年行ってるのが前川清さんのディナーショーだ。前川さんとはジム仲間でね、初めてジムでお会いしたときに前川さんの方から「がんばってるね」と声をかけてくれて、「前川さんも見てくれているのか!」と励みになったもんだよ。それからのお付き合いで、ほかのジム仲間に誘われてディナーショーに行くようになった。今ではディナーショーがジム仲間の同窓会みたいになっているよ(笑)。  前川さんはキャリアが長いし、俺たちの時代とヒット曲がマッチするから、ディナーショーはすごく楽しい。その一方で、最近は年の締めくくりに「今年も前川さんのショーに来られたなぁ。あと何回来ることができるかなぁ」なんてしんみりしている俺がいる。馬場さんやジャンボ、三沢(光晴)も亡くなって「俺もよくここまで生きてきたな」という思いが年々強くなるね。歳のせいかな、ディナーショーで相撲時代のヒット曲を聴くと思い通りいかなくて悔しい想いをしたときのことを思い出したりしてグッときたり、カントリーミュージックを聴いてちょっとホロっとしてしまう俺がいるんだ。昔はディナーショーの前に酒を飲みまくって、コンサートが始まるとグーグー寝てたいた俺がね、変わるもんだよ(笑)。  前川さんに限らず、コンサートやライブはいいもんだね。いつだったか、仕事と仕事の合間に代表(※娘の嶋田紋奈さん)と新宿の末広亭に行って落語を一緒に聴いたんだ。そしたら代表が「ちょっとした時間に寄席に行こうなんて、大将も粋なところがあるね」なんて言ってね(笑)。落語やコンサートもライブでやるっていうのは、相撲やプロレスをやってきた俺自身と共鳴するところがあるんだね。やっぱり俺はライブが一番面白い! 相撲協会も夏場所は国技館を使って無観客のライブを放送しただろう。ああいう風に国技館を使えるのはすごいね。いやぁ、さすが俺が出たところだって自慢できるよ!(笑)  今はライブもままならない部分があるから安全が第一だけどライブの良さをいかに殺さずに深化していくかが、俺たちの業界もそうだけど勝負どころだよね! <プロフィール> 天龍源一郎(てんりゅう・げんいちろう)/1950年、福井県生まれ。「ミスター・プロレス」の異名をとる。63年、13歳で大相撲の二所ノ関部屋入門後、天龍の四股名で16場所在位。76年10月にプロレスに転向、全日本プロレスに入団。90年に新団体SWSに移籍、92年にはWARを旗揚げ。2010年に「天龍プロジェクト」を発足。2015年11月15日、両国国技館での引退試合をもってマット生活に幕を下ろす。天龍プロジェクトpresentsトークバトルをLIVE配信で8月25日に再始動。対戦相手は黒のカリスマ蝶野正洋さん!配信チケット3,500円(税込)は絶賛発売中。配信先https://tenryuproject.zaiko.io/_item/328761 (構成・高橋ダイスケ)
プロレス天龍源一郎相撲
dot. 2020/08/09 07:00
めざせ!学問の「二刀流」 専門分野×AIのダブルメジャーとは?
めざせ!学問の「二刀流」 専門分野×AIのダブルメジャーとは?
東京理科大学での「データサイエンス教育プログラム[基礎]」の「コンピュータ数学基礎2 及び演習」講義風景(写真提供/東京理科大学)  政府は「AI人材」育成のための取り組みの一つとして「AI×専門分野」のダブルメジャー(二重専攻)を掲げている。大学院や大学でも、専門分野と合わせてAIについて学べる場を提供する動きが広がり始めている。AERAムック「大学院・通信制大学2021」では、立教大学、東京理科大学の取り組みを取材、その一部を抜粋して紹介する。 *  *  *  AI(人工知能)はスマホの音声認識や画像認識に使われるなど、生活の中にも浸透してきた。政府は2019年6月にまとめた「AI戦略」で、25年までに大学生と高等専門学校の年間約50万人の卒業生全員が「数理・データサイエンス・AI」の基礎教育を受け、25万人がAIを応用できる能力を習得するという目標を掲げた。専門分野とのダブルメジャーでデータサイエンスやAIを学ぶのもその一環だ。  立教大学は20年4月、大学院「人工知能科学研究科」を新設した。研究科委員長の内山泰伸教授は「AIやデータサイエンスは学際性が高い。さまざまな分野でAIに通じた人材を育てるという『AI戦略』は、この大学院の構想と重なります」と話す。 「AIによる人間の知能の拡張は、文明史上の革命だと私は考えます。多くの人がこの革命の担い手になるべきですが、専門知識とAIの技術を両方とも備えた人材がいないと社会での活用が進みません。大学院にしたのは、専門領域を持つ人へのAI教育が主な目的だからです。AIエンジニアが法律や会計を学ぶよりは、もともとそれに詳しい人がAIを学ぶほうがハードルが低いはずです」  人工知能科学研究科の第一期生75人のうち約4分の3は立教大学以外の出身者で、学部での専攻は文系と理系がほぼ半々だ。社会人入学が50人と3分の2を占め、職種はITエンジニア、コンサルタント、会計士、サービス業、マスコミ、公務員、教員とさまざまだ。  カリキュラムは、日本の一般的な大学院とはかなり違う。大学院生は研究室で過ごす時間が長いのが普通だが、この研究科は講義が多く、大学院にはあまりない必修科目もある。一方では修士論文や研究報告書をまとめるので、大学院生としての研究もおろそかにできない。内山教授は学習と研究が両立するようバランスを取って科目を配置したという。学部と大学院が融合したようなものといえる。  4月からの授業は新型コロナの影響でリモート方式でのスタートとなり、学生同士や教員とは在宅で使えるコミュニケーションツールでも連絡を取り合っている。平日夜に1コマ100分の講義が毎日あり、土曜の3コマと合わせてすべて履修すると週8コマになる。修了に必要な30単位は週に3日授業を取れば間に合うが、多くの社会人が週に7、8コマ履修するという。 「学部からそのまま来た院生は、平日昼の空き時間に復習や研究をする時間が取れますが、仕事を持ちながらだと2年間、勉強だけでも大変です。しかも目一杯授業を受ける熱心さは、こちらの想像以上です。22年度に開始する予定の博士課程にも、75人中21人が進学を希望しています」  内山教授は自身の専門研究分野の宇宙物理学で、宇宙線の観測で得られるビッグデータを分析するのにAIやディープラーニングの技術を活用してきた。その経験からAIの必要性を痛感し、3年前にこの研究科を提案した。 「構想に賛同してくれる人もいましたが、大学は長期的に価値のあることをやるべきで、AIといっても一過性のブームではないかという声も結構ありました。今では学内の理解が進み、学部でのダブルメジャーについても議論が始まっています。学部の場合、専門知識がない高校生が入って来るのでAIとそれ以外の分野を同時に学ぶのはかなりの負担になりますが、私たちもこの大学院で経験を積むことで、ダブルメジャーが実現できる道が見えてくるはずです」  東京理科大学は19年4月から、全学部生を対象に「データサイエンス教育プログラム[基礎]」を実施している。データサイエンスの基礎知識やリテラシーを習得するのが目的で、「数学」「統計学」「情報学」「データサイエンス」「その他(学科特有のデータ)」の5分野で各4単位以上、合計で20単位以上を取得すると学長から認証書が授与される。  矢部博データサイエンスセンター長は「データサイエンスの知識や利用能力は、理科大生にとって不可欠です」と説明する。 「ビッグデータが飛び交い、それを活用して仮想空間を生み出し、AIで処理して実生活に生かすという今までになかった時代が来ています。それらのデータのやりとりを管理できる能力を持った人材が社会の各分野で強く求められています。理科大は理工系の総合大学で、もともと全学部学科でデータを扱った教育をしており、データサイエンス関連の科目は7学部31学科に分散していましたが、それらを横断的に学べるようにしました」  若山正人副学長は「データサイエンスのベースになるのは数学や統計学。理科大はそれを専門とする教員が多く、ことに統計学の教員数は日本の大学ではほかに類を見ません」と話す。 「数学や統計、情報系の学生は主に加工されたデータを扱う専門教育を受けています。そういう知識のある学生が生のデータの扱い方を知り、生のデータを扱うことが多い工学系や薬学系、経営学系の学生がデータの専門知識を得る。これはどちらも大切です。知識の幅が広がることで、社会で起きている課題の解決に貢献できます」  19年度は58人が単位を取得し認証書を受けた。卒業単位以外の科目も履修することになるが、それでも学びたいという学生が少なくない。20年度は大学院生向けに、より専門分野に特化した「データサイエンス教育プログラム[専門]」も設置。「数理」「ビジネス」「人工知能」「医薬」「機械学習」「医療統計」「インフォマティクス」の7コースから選び8単位を取得する。  若山副学長は、データやAIに振り回されないことも大切だと強調する。 「生データを適切に処理していなかったり、ネットを通じて取得した元データからデータが生成されて、その結果歪んだデータになったりしていることはよくあります。AIも原理が分からないまま使って、データを入れればとにかく結果が出てくるというのが危ない。AIは便利な道具ですが、場合によっては危険な道具にもなるのです。理科大にはAIやデータの扱い方、どう使えるかまでを考えられる人材を世の中に送り出す責任があります」  矢部センター長も「セキュリティーや倫理、つまりデータを扱う際にしていいことといけないことも織り込んで学ばせるのが課題です」と語る。  今のところ履修希望者だけを受け入れているが、もう少し踏み込んでより多くの学生に学ばせたいと若山副学長は考えている。  「アメリカの大学のようにダブルメジャーやメジャーマイナーの制度を導入するのも一つの方法でしょう。ただアメリカではその結果、メジャーとして数学・コンピュータサイエンスを取る学部学生が増えて教員が不足し、大学側が困っているといいます」  若山副学長が指摘するようなAI教育をする側の人材不足は、日本でも課題になると予想される。 (文/福永一彦) ※AERAムック「大学院・通信制大学2021」から
dot. 2020/08/08 16:00
【現代の肖像】NPO法人抱樸理事長・牧師、奥田知志 あなたを絶対にひとりにはしない<AERA連載>
【現代の肖像】NPO法人抱樸理事長・牧師、奥田知志 あなたを絶対にひとりにはしない<AERA連載>
32年間の支援活動でホームレス状態から自立した人は3400人超。「どんな困難にある人も断らない」が信念(撮影/横関一浩) ※本記事のURLは「AERA dot.メルマガ」会員限定でお送りしております。SNSなどへの公開はお控えください。  「ホームレス」と「ハウスレス」は違うのだと奥田知志は言う。路上生活者を救うには人との絆が絶対に必要だ。奥田は行き場のない困窮者たちの「ホーム」を作るために、32年間走り続けてきた。3400人もの路上生活者が自立した。今、障害者もシングルマザーも元受刑者も、奥田を頼りにやってくる。困っている人すべてに手を差し伸べる。家族だから。  福岡県北九州市八幡東区にある奥田知志(おくだともし)(56)の家の正月は、一年で最も忙しく、賑(にぎ)やかな夜を迎える。元日恒例の新年会。重箱に敷き詰められた手作りのおせちを前に、およそ50人の老若男女が食卓を囲む。確かに「家族」であることには変わりはないのだが、この場に集まっているのは肉親ではない。多くが元ホームレス・路上生活者であり、本当の家族のもとには帰ることができない何がしかの理由を抱えている人だ。奥田が理事長を務める「NPO法人抱樸(ほうぼく)」は、困窮者支援のプロフェッショナルとして、こうした行き場のない人々に寄り添い、手を差し伸べてきた。 「ホームレスの自殺が多発するのは年末年始なんです。なぜならば、正月やクリスマスは家族の時間だから。街は『幸せな家族』を連想させる空気に覆われ、それが路上で生活する、家族とは孤立・無縁の人々には耐えきれないのです。これまで年末のパトロールで何人もの首を吊(つ)った人をおろし葬式をあげてきました」  奥田はずっと考えていた。ホームレスとは誰か――。そして一つの「解」に行き当たる。それは「ホームレス」と「ハウスレス」は違うということだ。「ホームレス」とは、一般的には「野宿者」を意味し、衣食住のあらゆる面で窮乏状態に置かれている人々をさす。しかし、住宅に象徴される経済的、物理的な困窮に陥った状態を解決するのは、あくまで「ハウスレス」支援であり、それと同時に孤独で無縁な野宿者が「ホーム(home)」、つまり、家ではなく、家族、友人、知人など、人と人との絆を取り戻すことが絶対に欠かせない。 ■質よりも量を重視して他人を家族として繋げる  新年会に参加していた元ホームレスの西原宣幸は今、ホームのありがたさを実感しているという。路上生活は11年間に及んだ。 「路上生活者の多くは、最後は畳の上で死にたいと言います。けれども自立してアパートに入り、これで一安心と思いきや、今度は俺の最期は誰が看取ってくれるのだろうかと不安になる。つまり家が手に入っても喋(しゃべ)る相手が誰もいないのでは、ひとりで路上生活していたときと何も変わらないのです」  この新年会に集まるのは元ホームレスだけではない。障害のある人、シングルマザー、刑務所出所者……。奥田は普段からこうした一人で生活するのが難しい人々を自宅に招き入れ、時に共同生活を送ってきた。奥田にはSEALDsを立ち上げた長男・愛基(あき 27)、長女・光有(みう 22)、次男・時生(とき 19)の3人の子どもがいるが、学校の先生や友だちに「何人家族?」と聞かれて、「えーっと」と答えに窮する逸話は、きょうだいの間で語り草となっている。 恒例の新年会での一問一答。今年の抱負を参加者に聞く。東京で福祉の勉強をする次男・時生の姿はなかったが、昔から奥田家の正月は、過去に一緒に生活したお兄ちゃん、お姉ちゃん、おっちゃんが帰ってくる特別な日だったという(撮影/横関一浩)  夜が更けるにつれて一升瓶が次々と空になる。酔いも手伝って、ケンカが始まる。周囲がそれを止めに入って一件落着となるのもお約束だ。飲みすぎて吐く者もいる。酒が進めば皆が語り始める。いつしか、去年、交通事故で亡くなった仲間の話題になった。ここでは「支援する者」と「支援される者」の垣根はない。大勢の、最初は見ず知らずの他人が、一人の人間の人生をまるで一つの物語を語るように共有し、泣き、笑う。  奥田は家族は記憶の装置だと話す。そして「出会いから看取りまで」を信念に、無我夢中で走り続けてきた32年は、「家族機能の社会化」に奔走した日々だったと振り返る。 「バブル崩壊後、経済の縮小によって非正規雇用や失業者、単身一人世帯などが増加。それに伴い従来、家族が担っていた子育てや介護、見守りや看取りなどの機能が失われてしまいました。それを回復しなければならない。私に言わせれば、それは赤の他人となんちゃって家族になればいいということ。それも絆の質ではなく量を重視して、なるべく大勢の人と出会い、家族として繋がる仕組みを作ってきました」  確かにホームレスの自立支援を促す法律の整備も手伝って、全国的に路上生活者は見当たらなくなった。けれども、この30年、奥田が見てきた貧困の連鎖や無縁状態の人々の姿は、今や社会全体の様々な場所で拡大し常態化しつつある。奥田の言葉を借りるならば「社会が路上に追いついた」のだ。  奥田の出身は滋賀県大津市だ。家族はキリスト教とは無縁。母方の祖父は神主だった。小学生の頃、友人に誘われ教会学校へ。そこで、現在、国際弁護士として活躍する平野惠稔(しげとし 56)と出会う。 「中学時代、奥田は風貌(ふうぼう)も同い年にしては大人っぽく、いわゆる“ワル”の連中からも一目置かれていました。サービス精神が豊富な、冷静なリーダータイプ。サッカー部のキャプテンもしましたし、教会では2人でバンドを結成してローリング・ストーンズや憂歌団を大音量で弾いてました」  この教会の牧師やクリスチャンとの出会いが、奥田にとって初めての家以外の居場所、まさに「ホーム」となる。  実は奥田にはコンプレックスがあった。後に超難関の京都大学法学部を受験し、現役で司法試験に合格する超エリートの平野とは対照的に、奥田は仲間内では一人だけ高校入試に失敗。県立の進学校ではなくクリスチャンでありながら仏教系の私立高校へ行くことになる。また大学受験の際も志望校への入学は叶わず関西学院大学神学部へ進む。別にこの時点で牧師になろうとは思っていなかった。単なる滑り止めだった。 「この頃の私の人生は思うようにならなかった。勉強ができない自分が許せなかったし、どこかで孤独を感じていました」(奥田) 東八幡キリスト教会にある納骨堂。これまで奥田らが出会い、抱樸が自立を支援した元ホームレスらが眠る。路上から脱した仲間は「互助会」を作り、月額500円の会費を募り、仲間の見舞いや葬儀を行う(撮影/横関一浩) ■先輩に連れられた釜ケ崎、出自と向き合うきっかけに  神から与えられる使命感も明確にできずにいた大学時代。それが、ある「地図にない町」との出会いで一変する。  ある日、尊敬する2学年上の吉高叶(かのう 58)という先輩に「飯でも食わへんか」と誘われた。なにも考えないまま電車に乗り、大阪環状線の新今宮駅で下車。そこは「カマ」の別称で知られる大阪市西成区「釜ケ崎」。日本最大の寄せ場の入り口だった。足を踏み入れた途端、妙な臭いが鼻を突いた。何度か通っているうちに、それが酒と小便が入り交じった臭いだと分かった。何も知らない18歳は、軽蔑のまなざしで昼間から路上に寝っ転がり、酒をあおる彼らをながめていた。実はこの先輩は最初から奥田に釜ケ崎を見せたかったのだ。  数日後、今度は先輩と一緒にカマに泊まった。午前4時にたたき起こされ、向かったのは労働福祉センター。そこには早朝から地下足袋姿で、頭にタオルを巻いたおやじさんたちが、仕事を探してたむろしていた。殺気立つ者もいた。サラリーマン家庭で育った奥田には理解しがたい光景だった。そして、この時初めて、あの路上を占拠していた人々が、仕事にあぶれた日雇い労働者であることを知る。当時、学生を受け入れていたNPO法人「釜ケ崎支援機構」理事長の山田實(69)は、釜ケ崎に来たばかりの奥田をこう語る。 「当時、いくつかの大学の学生が炊き出しなどの支援に来ていました。その中でも特別、目立っていたかというと、そうでもありません。クリスチャンだということは後になって知りました。どちらかというと育ちのいい好青年。与えられた役割を真面目にこなしているという印象でした」  奥田はこの日を境にして釜ケ崎にのめり込んでゆくのだが、やがて自らの出自と向き合うことを余儀なくされる。釜ケ崎に全国から単身労働者が押し寄せたきっかけは、70年の「大阪万博」だ。高度経済成長の真っただ中に開催された万博を契機に鉄道や道路、住宅の建設のための労働者需要が高まった。しかし、実際は重層的な下請け構造のもとで働く日雇い労働者は、資本家の都合で仕事が増減する「景気の安全弁」に過ぎなかった。  奥田の父は「近畿電気工事株式会社(現きんでん)」の経理担当で、サラリーマンだった。近電工と言えば、万博会場の施設電気の設備の中心を担った大企業。物心ついた時、父に連れられて万博を見に行った。「万博はお父さんの会社が作ったんだ」。少し自慢げに語る横顔が忘れられない。父はシベリア抑留から命からがら逃げ延びた戦争体験者でもあった。 「苦労したからこそ、家族には不自由をさせたくなかったんだと思います。坊ちゃん大学と呼ばれた私大の関学に進学できたのも、全ては真面目で、優しいサラリーマンだった父のおかげでした。しかし、皮肉にもそんな父が作り上げた近代日本の搾取の構造が釜ケ崎の労働者を追い詰めたのだと知った時はショックを受けました」  そして何より、奥田自身もその恩恵を受けて育った、まさに「時代の子」だった。 大晦日。徹夜でおせち作りに精を出す伴侶、伴子に代わって、奥田が台所に立ち、年越しそばを食べるのが奥田家の習わし。小倉名物の炒めた牛肉と玉ねぎがたっぷりのった蕎麦を振る舞う(撮影/横関一浩) ■ヤクザの事務所跡地を抱樸が購入することに  それにもかかわらず、奥田が極端な自己否定に走らなかったのはなぜか。当時の釜ケ崎には70年代の学生運動の残滓(ざんし)が「闘争」という名のもとに影を落としていた。資本と労働、権力と民衆、加害と被害。極めてステレオタイプの二項対立を信じる者も多かった。 「中学2年生の時、クリスチャンになると父に伝えたら、『お前の人生だ、お前が決めなさい。しかし、いったん決めたのなら最後まで責任を持ちなさい』と送り出してくれた。仕事が忙しく家にはいなかったけれど、年に数回の休みには必ず家族旅行に連れて行ってくれた。確かに父は資本側の人間だったかもしれないけど、人間の人生はそんな単純な二項対立では語れない」  そして奥田はこう続ける。 「それでも、いわば資本の申し子のような私をカマの人々は受け入れてくれました。赦されたと思いました。それは彼らの優しさであると同時にたくましさなんです。ある面、彼らは被害者ですが、生きるためであれば何だってする。どうしようもなく、手を焼くこともありますが、それでもなお、生きようとする姿に励まされてきました」  その一方で、路上で死んでゆく野宿者を前に信仰は揺らいだ。「神はどこにいるのか?」。絶望的な現実は「神不在」の証明だった。絶望は怒りに転化した。労働者とデモに参加し、襲いかかる機動隊に怒りをぶつけたこともある。釜ケ崎に入り浸る生活は、大学院修了まで6年続いた。そして奥田の人生が決定づけられる瞬間がやってくる。 「カマの現実を見れば見るほど、神などいないと客観的に語る余裕なんてないと思ったんです。答えは一つ。神はいてもらわないと困る。どこにかはわからないが、おられる、と信じるしかない。傲慢かもしれないが、人々と一緒に意地でも見つけてやろうと思いました」  そして90年、奥田は現在の東八幡キリスト教会に赴任。新天地の北九州での生活が始まる。そして、32年間で3400人の路上生活者を自立に導き、のべ13万人もの身の上相談にも乗ってきた。その活動は、NHK「プロフェッショナル 仕事の流儀」でも取り上げられた。  困窮者支援の集大成として、奥田が今、取り組もうとしていることがある。北九州の玄関口「小倉駅」から車で10分。たどり着いた「神岳」地区は、昔ながらの団地やアパートが点在する住宅地。  ここに、特定危険指定暴力団「工藤会」の本部事務所跡地がある。地元でこの九州最大規模のヤクザを知らない者はない。現在はトップ3が逮捕され、組織は事実上、解体に追い込まれている。  一昨年、北九州市はこの土地を差し押さえ、建物は解体。更地となった跡地は公売にかけられ、民間企業が1億円程度で購入。跡地利用が話題になっていた。この話をニュースで知った奥田は、すぐさま北九州市の担当者に連絡をとり、その土地を購入した民間企業と面会。話し合いの末に、その土地を抱樸が購入することに決めたのだ。 どんなに忙しくても日曜日の礼拝は欠かさない。前日の深夜、部屋にこもって、その日の説教を考える(撮影/横関一浩) ■人を属性で判断せずに必要な支援の仕組みを作る  奥田にはこんな構想があった。 「この場所を生活困窮者、障害者や高齢者など全世代共生型の地域共生の拠点として再生させた上で、赤の他人が家族のようにお互いに支えあえる場所にしたいんです」  奥田はこれを「希望のまちプロジェクト」と命名。特筆すべきことはすでに行政、地元住民がその趣旨に賛同し、協議会形式でこの町づくりのプロジェクトに参加することが決まっていることだ。昨今、こうした福祉施設の建設には地域の住民反対運動がつきものだ。地元選出の北九州市議会議員・佐藤茂(62)は、奥田の構想を聞いてすぐ、地元の町内会、自治会など住民参加を取り付けた。反対する者は一人もいなかった。 「民間のディベロッパーが入ってマンションが建っても、場所が場所だけに入居者は本当にこの町は大丈夫か、とまた不安が噴き出すに決まっている。この地域には元構成員も住民としているわけですから、そういうことを含めて共生の町にしなければならない。ここを福祉の砦(とりで)にしようという奥田さんの構想は、地域の住民にも希望が持てる明るい話なんです」  奥田が率いる「NPO抱樸」は、今や「ホームレス支援団体」の一言では言い表すことができない規模と領域をカバーしている。なぜならば、この32年間、福祉行政が制度の縦割りになっていく中で「人を属性で見ない」にこだわり続け、ひとりの目の前の人間との出会いから、必要な支援の仕組みをゲリラ的に創(つく)ってきたからだ。その結果、「子ども支援」「家族支援」「更生支援」「福祉事業」「介護事業」「居住支援」など、実に27もの事業を実施。奥田がこれまでに関わった官庁は「厚生労働省」「国土交通省」「法務省」と三つの省庁をまたぐ。抱樸のある職員は「うちは福祉の総合商社なんです」と胸を張る。と、同時に今までは目の前で困っている人の命を守る個別支援に特化するあまり、「誰も見捨てない地域」を作るという「まちづくり」の視点が圧倒的に足りなかった。  奥田を厚労省に呼び、生活困窮者自立支援法の成立に奔走した元厚労事務次官・村木厚子は、この「希望のまちプロジェクト」の顧問を二つ返事で引き受けた。奥田の人柄を、「単に制度や法律を作っておしまいではなく、どうすればそれが社会の中で機能していくかを真剣に考える人」と語る。 「私には霞が関の文化が染み付いていて、ここからここまでが仕事、ここからここまではオフと、自分の時間さえ割り切りたくなる。けど、奥田さんは違う。寝ても覚めても、ずっと、本気で社会をどうすればいいか考え続けている人なんです」  それにしても奥田は、どのようにして土地の購入代金を工面しようとしているのか。尋ねると寄付で集めるとしながらも、全くのノープランだとあっさり笑う。  大学生の頃からの同志で、奥田の最大の理解者でもある妻・伴子(56)は、抱樸に関わる全ての人に「お母さん」として慕われている。「また、お金を集めなくてはいけませんね?」と声をかけると、伴子は半ばあきれ顔でこう口を開いた。 「もう数え切れない人の保証人にもなっているし、銀行にも借りられるだけ借りた。だから、もういいんです。家族の使えるお金が15万円しかない時でも、目の前の人が助かるなら躊躇(ちゅうちょ)せずに10万円包んで渡す人、それが奥田知志ですから。止めても無駄なんです」  そして、こう結んだ。 「でもね、彼はサラリーマンの家の息子ですが、私は牧師の娘。覚悟が違うんです。最初から金は天下のまわりものだと思っていますし、神様はきっと見てくださっていますから」  もう、絶対にひとりにしない――。目の前の人間が助かるのであれば、立っている親でも使え。いつかきっと、笑える日がくるから。 (文中敬称略)   ■おくだ・ともし 1963年 7月15日、大津市生まれ。  77年 8月、大津キリスト福音教会で洗礼。クリスチャンに。  82年 関西学院大学神学部入学。大阪市西成区の釜ケ崎(あいりん地区)で支援活動を始める。  88年 関西学院大学大学院神学研究科修士課程修了。西南学院大学神学専攻科入学。       伴子と結婚。子ども3人。長男・愛基、長女・光有、次男・時生。  90年 西南学院大学神学専攻科修了。東八幡キリスト教会の牧師に就任する。ホームレス支援「北九州越冬実行委員会」事務局長に就任。翌年、代表に就任。北九州市内の公園で炊き出しを開始する。  97年 九州大学大学院博士後期課程入学。国際比較文化研究所。 2000年 NPO法人北九州ホームレス支援機構設立。理事長となる。  01年 九州で初めてのホームレス自立支援施設開所。  04年 公設民営型施設「ホームレス自立支援センター北九州」開所。  06年 下関放火事件。被告の身元引受人となる。  07年 ホームレス支援施設「抱樸館下関」開所。  10年 NPO法人ホームレス支援全国ネットワーク設立、理事長就任。刑務所出所者のための「地域生活定着支援センター福岡」開所。  11年 東日本大震災を受けて一般社団法人共生地域創造財団設立、代表理事就任。  12年 伴走型支援士養成講座を開始。厚生労働省社会保障審議会委員就任。  13年 活動25周年を機にNPO法人の名称を「抱樸」に変更する。「抱樸館北九州」開所。  14年 一般社団法人生活困窮者自立支援全国ネットワーク設立、共同代表。  17年 サブリースによる生活支援付き住宅プラザ抱樸開所。  19年 一般社団法人全国居住支援法人協議会設立、共同代表就任。国土交通省社会資本整備審議会住宅宅地分科会臨時委員就任。 ■中原一歩  1977年、佐賀県生まれ。ノンフィクションライター。本欄では、二階堂ふみ(女優)、奥田愛基(SEALDs創設メンバー)などを執筆。最新刊に『マグロの最高峰』(NHK出版新書)。 ※AERA 2020年3月9日号 ※本記事のURLは「AERA dot.メルマガ」会員限定でお送りしております。SNSなどへの公開はお控えください。
AERA 2020/08/06 17:34
「夜の街」大好きおじさんたちの今…コロナ自粛と欲望の知られざる葛藤
「夜の街」大好きおじさんたちの今…コロナ自粛と欲望の知られざる葛藤
※写真はイメージです(GettyImages)  このご時世、特に自粛を求められているのが「夜の街」で遊ぶことである。夜な夜な、足しげく町に繰り出していたおじさんたちは、今どうしているのか。(フリーライター 武藤弘樹) ●抗しがたい夜の街の魅力夜の街好き男性、自粛の実態とは  コロナ禍で大打撃を被った業界のうちの一つが飲食店である。ただでさえ客足が遠のいているところに、営業時間の短縮や休業要請によって営業を制限するという各自治体の方針なども利用客に「やはり飲食店は危険だ」という認識を持たせ、ますます客足が遠のいた。非常事態下のことゆえ仕方ないといえばそれまでだが、飲食店経営サイドの当事者には「仕方ない」などの簡単な言葉では決して片付けられない無念さがあるだろう。  一方、視点を移して、利用客側はどうか。「飲みに行けない、外食できない」でフラストレーションがたまる状況にそれぞれ奮闘の末活路を見いだした人、たとえば「『あつまれ どうぶつの森』で社会人サークルに入って輪を広げ、楽しむ陽キャ女性」、ほかにも「ネット対戦の将棋にドはまりした男性」や「DIYに精が出て家具が充実してきているパパ」などがいるようである。このような人たちは感染拡大防止の観点からは模範的な市民の立ち回りである。  ならばもっと視点を限定して、夜の街好きのおじさんはどうか。下戸の筆者は夜の街の魅力に疎いが、夜の街たるものは好きな人にとっては抗しがたき引力を放っているようであり、元々それが好きな中年男性はどのように「行きたい」衝動と戦っているのか、あるいはもはや戦わずして「行っちゃっている」のか。彼らは自粛期間中に何をしていて、緊急事態宣言解除後かつ第2波の緊張感真っただ中の今はどのように過ごしているのか。その実態を表すいくつかのケースを紹介したい。 ●緊急事態宣言下の中年男性“夜の街自粛”の大まかな傾向 ・パターン1:厳格自粛タイプ・Aさん(39歳男性)  彼は女の子のいるお店大好きな独身男性だが、性格は真面目で、緊急事態宣言下において自宅のある区の外に出たのは「オフィスのPCを取りに行った時だけ」という、厳格な自粛を貫いた。女の子のいるお店が大好きではあるが、高潔な武士のような人物である。 ・パターン2:人間らしいバランス感覚・Bさん(39歳男性)  彼は良識あるバランス感覚の持ち主である。外で飲めない分、代替行為として自宅で飲むことが増えた。女性のいる店も自粛していたが、これもまた代替行為として性的サービスを伴わないメンズアロママッサージ店に一度だけ行ってしまい、それを後悔している。人間が完璧に振る舞うことの難しさを身をもって我々に教えてくれた、まことに人間らしい、人間の鑑のような人物である。 ・パターン3:不良中年代表・Cさん(42歳男性)  世の中新型コロナでなんたら宣言だろうがお構いなく、コロナ以前と変わらずに飲み歩いている。妻の締め付けはいよいよきついが一向に悪びれず、「ランチ営業に行くのも大して変わらないし、なんなら夜の街より通勤電車の方がリスクは高いのでは」という若干正当性が認められそうな持論を胸に秘めている(仮にその持論が正しくてもCさんの行動が正当化されるわけではないが)。そんなCさんにも「元から密な店は好きじゃない上、(女性の)接客を伴う店にはほとんど行かない」という趣向に基づいた傾向があり、この特殊性が、Cさんが“最悪なる不良中年”と認定されるのをかろうじて押しとどめている。  パターン1から3までは、紹介順に「厳格~奔放」というグラデーションになっていて、およそ全ての人の自粛の実態をこの1~3のどこかに当てはめることができる。たとえば筆者の場合、引きこもりなので“結果的に厳格”だが、密な店(女性の接客があるお店ではない)に2度ほど足を向けたことがあるので、先のパターンに当てはめた数値を仮に“自粛度”として表現するなら、筆者は1.6くらいである。  彼らを取材した後、緊急事態宣言が解除され、ぼちぼち外食の機会が増えるなどしてきている。  しかしAさんと似た厳格な自粛態勢を敷いてきたDさん(31歳男性)は、「女性の接客がある店には行きたいけど、クラスターの話も聞くし怖いから、まだ控えている」と話していた。  次に紹介する2人は夜の街が大好きな男性、もとい女性が大好きな男性であり、彼らの緊急事態宣言解除後の行動を追ってみたい。 ●「夜の街が大好き」にもさまざま出会い系に目覚めた中年男性  Eさん(42歳男性)は独身で、特に若い女性が好きである。その類いのお店が営業している間は取り立てて問題なかったが、休業して行く当てがなくなった。Eさんの内にむくむくと堆積していく、若い女性と話したい、触れ合いたい衝動…。年がいもなく暴れ回りたいくらいの内的欲求である。  そこでEさんはどうしたか。出会い系に開眼したのであった。 「仕事がテレワークになって自宅で過ごす時間が大幅に増え、暇を持て余すし外出できないしでのっぴきならなかった。  知り合いが『最近の出会い系はすごいらしい』と言っているのをふと思い出して、自分もやってみようと思い立った。最初は緊張したが、プロフィルを登録したら『後はどうとでもなれ』という心持ちになった。初めてメッセージのやり取りが成立した時はかなり興奮した」(Eさん)  その後あやしげな業者に本気で引っかかりそうになりながら、ものすごいスピードで経験を積んでいき、とうとうある20代女性と、食事に行く約束をするところまでこぎ着けた。 「といっても緊急事態宣言中だったので、すぐに食事に行くのはNG。『解除後に行こう』と話がまとまった」(Eさん)  その後も手当たり次第、というわけではないが、「本気のパートナー相手探し」の女性を避けて「遊び相手募集」のうら若き女性たちにモーションをかけまくった。 「ガツガツして女性にメッセージを送るだなんて長いことしていなかったから、約束を取り付けるまでのドキドキする過程が楽しかった。久しぶりに自分の中の“男”を思い出した」(Eさん)  おおいに充実した自粛期間を過ごしたようである。  そして余談だが、緊急事態宣言解除後、Eさんは度重なるドタキャンなどを喰らい、お食事にはまだ一度も行けていないとのことである。他にEさんと似たような人をもう一人知っており、中年男性もいろいろと大変そうであるが、同様の方法で数々の女性との食事を重ねている人物もまた知っているので、この辺は経験値や元から備わったスキルの差なのかもしれない。  極めて軟派な構えのEさんではあるが、この自粛スタイルを先のパターンに当てはめると「基本的に家でメッセージのやり取りをするだけで充足している」点と「実際に女性と食事には行っていない」点を鑑みて、“非常に厳格”を表す自粛度1だろうか。なかなか、しゃれと皮肉がきいていて面白い結果である。 ●奔放な「自粛度3」飲み歩きをやめられないミュージシャン  Fさん(37歳男性)はミュージシャンで、Eさんよりもさらに軟派なタイプである。そして「夜の街がテリトリー」だったため、自粛要請が出されたことは死活問題であった。 「仕事がほぼ全部とんで、残ったのは自宅でできる録音や編曲の案件。仕事に集中できたのは良かったが、枯れてしまいそうだった」(Fさん)  多くのミュージシャン、特に楽器演奏のプロはライブやコンサートが軒並みなくなって一時的に失業状態になっていた。ライブ演奏より「偉い」とされている風潮がある録音の仕事は自粛されたりされなかったりで、だからFさんは録音の仕事があるだけ結構偉いということになる。  ライブやコンサートでは終演後に打ち上げが行われる場合があり、Fさんの鼻の穴が広がるのはまさしくここだ。客との距離感が近い小さなライブハウスでも、Fさんの鼻の穴は広がり、地方ツアーとなると気持ちはいよいよ開放的になって広がった鼻の穴は裏返るくらいの勢いである。ツアー先では同じく開放的な気分になっている似た感性の同業者と連れ立って女性と遊ぼうとしたり、お店に行ったりする。 「遊びっていうところでいうと、ツアーがなくなったのが痛かった。そのほかにも外出の用がなくなって自宅で細々と飲んでいた」(Fさん)  自粛で憔悴しきっていたFさんだったが、緊急事態宣言が明けると外での現場仕事もポツポツ増え始め、早速夜の街で遊び始めた。 「といっても以前のようにはいかない。お店の営業も限定的だし、大人数で集まるのはさすがに引かれるので2~6人の小規模飲みを散発的に。とにかく現場の本数が減っているので飲む機会が減った。仲の良い男性としかるべきお店には何度か行った」(Fさん)  飲み歩きをやめないCさんに比べると、Fさんは飲む場、飲む相手が少ないので飲みそのものの回数は少なそうだが、飲みが概ね女性との密な関係を目的としている点や、言及しているような店に出入りしている点はCさんより(しつこいようだが、感染拡大防止の観点からは)悪質であり、これは自粛度3あたりだろうか。  夜の街好き中年男性でも自粛期間から現在までの立ち回りはさまざまだ。気にしない人はほとんど気にしようとしないし(本人たちにそのつもりはなさそうで、本人なりの自粛意識があるのは特筆すべきである)、厳格に自粛する人もいる。私見だが、冒頭のBさんのような「時おりよろめきを見せつつ自粛の意識は失わない人」が割合的には多いのではあるまいか。  東京の日々の新規感染者数を報告するニュースを見ていると、連日「新宿の夜の街関係者は○人」と名指しで報告されていて、痛々しいものがあった。感染リスクが高い場所には違いないが、それをなりわいとしている人はさぞや災難である。  夜の街は本来楽しい場所であるはずなので、一刻も早くこの厄災が収束し、夜の街関係者もそれを愛好する中年男性も、誰もが大手を振って夜の街を謳歌できる日が再来するのを願ってやまない。
新型コロナウイルス
ダイヤモンド・オンライン 2020/08/03 18:45
三浦春馬の結婚への思い「一人っ子なので兄弟を作りたい」サーファー恩師が明かす
上田耕司 上田耕司
三浦春馬の結婚への思い「一人っ子なので兄弟を作りたい」サーファー恩師が明かす
サーフィンが好きだった三浦春馬さん(写真:卯都木睦さん提供)  30年という短い人生を終えた俳優の三浦春馬さん(享年30)。彼が10代の頃から交流を続けてきたサーフィンの師匠に話を聞くと、テレビ画面では見えなかった彼の素顔が垣間見えた。 「当時、春馬は中学生、14歳くらいでした。母親が連れてきて、『うちの息子は俳優をやっていて、今度サーフィンの映画の主役が決まったから、サーフィンを教えてやって欲しい』て」  茨城県出身の三浦さんのサーフィンの師匠でもあり、その後、家族ぐるみで交流を続けてきた、つくば市の卯都木睦さん(53)が、最初に三浦さんと会った時のことをそう話した。卯都木さんと三浦さんの母親が知っている共通の居酒屋を通じてつながったという。  映画の収録が終わっても、三浦さんは「サーフィンを続けたい」と卯都木さんの元に通い続けた。 「春馬はサーフィンが楽しくて楽しくて仕方がない感じだった。忙しいスケジュールの中、半日でも空くと、前日にラインで『明日は大丈夫ですか』とメッセージがきました。私や3人の息子たちと一緒にサーフィンをするのが、仕事のストレス解消にもなっていたようです」  三浦さんは地元の中学校を卒業後、東京の高校へ進んだ。この頃は、母親が三浦さんをサーフィンに連れてきていたという。 「海岸で、母親と春馬と待ち合わせて、サーフィンをし、終わったら一緒に食事をすることもありました。とても仲のいい母と息子でした。一人っ子でね」  今から約10年前、三浦さんは外車を購入し、それで茨城まで来るようになったという。サーフィンをするのはいつも鉾田市の海岸。三浦さんは、スピードが出て、波乗りが難しいショートボードを使っていた。身長、体重に合わせて、プロが板を削ったオリジナルのサーフボードを持っていた。 「夜から撮影なのに昼間にサーフィンに来るんです。車には台本を積んでいることもありました。だから帰りは、私が運転して、彼には寝てもらっていました。40~50分でも寝られれば、撮影でもリフレッシュして臨めると言ってました」  サーフィンが終わってからは一緒に酒を酌み交わすこともあったという。 「彼は冷酒が好きだったけど、そんなには飲まないよ。コップに2~3杯」  三浦さんはプライベートの話も卯都木さんにしていた。2年くらい前のある日、こんなことも。 「車できれいなお花畑の近くを通りかかった時、春馬から『車を止めて』と言われたんです。なんだろうと思ったら、お花畑をバックにした写真をSNSで誰かに送っていました。彼女じゃないかと思いましたね。『30歳になったら結婚したい』とも言っていました。『なんで』と聞いたら、『自分は一人っ子だから、兄弟を作りたい』と」  幼い頃に三浦さんの両親は離婚している。三浦さんが小学1年生の時、母親に連れられ家を出た。高学年になると母親は再婚。新しい父親は地元ホストクラブの経営者の息子で、その店で働いていたホストだった。同僚だったという40代の元ホストがこう話す。 「その店は30年くらい経営していて、名の通った店でした。全盛期には12人のホストがいました。春馬くんの父親もホストとして店に出ていました。春馬くんの母親は再婚前、お客として何回かは来たことがありましたね。常連客ではないです。太陽みたいな女性で、いつもニコニコしていました」  三浦さんが俳優となる原点は、地元にあった俳優養成所だ。元ホストは、三浦さんが養成所に通うことになった経緯を母親から聞いたという。 「母親は、うちの子はまじめでおとなしくて、はにかみ屋で、なかなか仲間に入っていこうとしないから、少しでも改善するために、ピアノやサッカーを習わせる感覚で4歳のころから養成所に通わせた、と言ってました」  ホストクラブは2007年ごろに閉店。その後、母親と義父は地元で居酒屋の経営を始めた。 「2人は5年くらい前に離婚していると思います。義父は別れてからも、春馬から『一人で大丈夫?』と心配する電話があったと言ってました。離婚後は、春馬くんとは距離ができていたようです」  前出の卯都木さんは最近の三浦さんについてこう話す。 「昨夏は週に2回くらい来てましたが、今年はコロナの影響で一度も来られなかった。今年3月ごろ、外出自粛だし、サーフィンにしばらく行けないというメッセージをもらってました。そして、500ミリリットルの水のペットボトルを2ケース送ってきました」  三浦さんの死については様々なことが報道がされているが、卯都木さんは、 「最近は大好きなサーフィンができず、仕事のストレスばかりがたまっていたのではないかな。ネットでは、サーフィンと足を結ぶリーシュコードを使って自殺したとあちこちで書かれている。もしそれが事実だとしたら、好きなサーフィンのことを考えているうちに衝動的に……」  と感じたという。三浦さんとは、いつか海外で一緒にサーフィンしようと約束したという。 「カリフォルニアにある世界最大の人工サーフィンプールへ行く約束をしていたんです。実現できなくて本当に残念です」(本誌・上田耕司) ※週刊朝日オンライン限定記事
週刊朝日 2020/08/02 18:06
働きながら大学院に通う社会人の現実 上司の理解、仕事のパフォーマンスは?
働きながら大学院に通う社会人の現実 上司の理解、仕事のパフォーマンスは?
AERAムック「大学院・通信制大学2021」から グループワークのメンバーで、ケーススタディをもとに議論。ホワイトボード横の女性が金井さん。付箋を使って、アイデアを書き出す(写真提供/金井絵理さん)  仕事をしながら、退社後や土曜日に大学院へ通う社会人が増えている。なかでも人気なのがMBAだ。「人材マネジメント」「マーケティング」「ファイナンス」など企業経営全般について学ぶ。MBAは資格ではなく、修士過程を修了すると学位として与えられる。AERAムック「大学院・通信制大学2021」では、働きながら大学院に通う社会人を取材した。 *     *  *  社会人大学院入試の講座を開設している河合塾KALS新宿本校・教務企画課の石田康智さんは、最近の傾向について次のように話す。 「以前に比べてMBAを目指す社会人が増えています。30代半ばが多く、ある程度自分の仕事が出来るようになったタイミングで今後のキャリア開発のために通い始める人が多いようです」  3年程度の実務を経験していることを入学の条件に課している大学が多く、入試は「研究計画」「将来計画」といった書類を事前に提出したうえで、面接や小論文が課せられる。 「大学院は、自分が何を学びたいのか目的を持って進むところです。最初は動機が曖昧でも、最終的には明確にすることが大切。キャリアを見直したうえで、将来の展望を見据えた研究計画・キャリアビジョンを作成しないと選考には通りません」(石田さん)  大学院を選ぶ時にはネットやパンフレットだけでなく、実際に足を運び、入試説明会や無料講座などに参加してみよう。大学院によっては公開討論会やパネルディスカッションを行っている所もある。学位はとれないが、MBAの短期コースを設けている大学院もあるので、試してから大学院に入学するという方法もある。  金井絵理さん(39)は大学を卒業し、人材情報会社などで営業に従事。その後転職して人事部に配属されたことが、大学院へ通うきっかけになった。 「営業とは違う責任の重さを感じました。評価や処遇にかかわることは、社員の人生に関わること。私がスキル不足のまま仕事に取り組むことは許されない。きちんとした知識を付け、自分のスキルに自信を持った上で仕事に臨みたいと思いました」(金井さん)  半年間河合塾KALSに通い、2016年4月に第一志望の早稲田大学大学院経営管理研究科へ進学。いろいろ調べ、人材組織を体系的に勉強できることが選択の決め手になったという。 「入試は秋と冬の2回あり、秋の選考で合格。時間があったので、忙しくなることを見込み、できる仕事は先取りして片付け身軽にしておきました」  金井さんは平日2日と土曜日に大学院へ通った。 「授業は講義というよりも、ケーススタディなどテーマに対しての議論が中心でした。いろいろな業界の人と、議論を交わすのは楽しかったですね。時間に限りがあるので、仕事とレポートが重なって忙しくなると睡眠時間を削りました」  上司には大学院に通うことの理解を得られていたものの、仕事のパフォーマンスは落ち評価が下がったという。 「ルーティンワークはこなしていたのですが、自分から提案したり、課題を見つけて行動を起こすことができなかった。大学院へ通いながら昇進する同級生もいたので、焦りも感じました。ただ体力的に限界だったので、仕方ないと割り切りました」  修士論文はキャリアを生かし、越境学習についてまとめた。大学院で学んだことで仕事のスキルアップはもちろん、人脈が広がり講師を依頼されたり、予備校で指導を頼まれるなど副業にも手を広げられるようになったという。現在は社会保険労務士の資格をめざし勉強中だ。 「事前の準備は大切ですが、考えすぎても足を踏み出せなくなります。思い切ってやってみると、なんとかなります」(金井さん)  一橋大学大学院の経営管理研究科はビジネスパーソンが通いやすいように、神田一ツ橋にある千代田キャンパスで授業を行っている。受講生は30代半ばを中心とする幅広い年齢層のビジネスパーソンだという。同科で教鞭を執る加藤俊彦教授は言う。 「知識は必要ですが、たくさん物事を知っていればいいという単純なものではありません。理論を元に、それを応用してさまざまな現象を考察したり、戦略を立案できる能力を養います」  授業は平日の夜が中心で、週に3日以上通う必要がある。平日の授業は、18時20分から休憩を挟んで22時まで2時限開講している。 「仕事をしながら大学院に通うのは相当にハードで、時間も学費もかかります。それだけに漫然と通うのではなく、目的を持って学んでほしい。2年間学び終えたとき、明らかに経営に対する理解、物の見方が深まります。それこそが、大学院に通う意義だと思います」 (文/柿崎明子) ※AERAムック「大学院・通信制大学2021」から
dot. 2020/08/02 17:00
更年期をチャンスに

更年期をチャンスに

女性は、月経や妊娠出産の不調、婦人系がん、不妊治療、更年期など特有の健康課題を抱えています。仕事のパフォーマンスが落ちてしまい、休職や離職を選ぶ人も少なくありません。その経済損失は年間3.4兆円ともいわれます。10月7日号のAERAでは、女性ホルモンに左右されない人生を送るには、本人や周囲はどうしたらいいのかを考えました。男性もぜひ読んでいただきたい特集です!

更年期がつらい
学校現場の大問題

学校現場の大問題

クレーム対応や夜間見回りなど、雑務で疲弊する先生たち。休職や早期退職も増え、現場は常に綱渡り状態です。一方、PTAは過渡期にあり、従来型の活動を行う”保守派”と改革を推進する”改革派”がぶつかることもあるようです。現場での新たな取り組みを取材しました。AERAとAERA dot.の合同企画。AERAでは9月24日発売号(9月30日号)で特集します。

学校の大問題
働く価値観格差

働く価値観格差

職場にはびこる世代間ギャップ。上司世代からすると、なんでもハラスメントになる時代、若手は職場の飲み会なんていやだろうし……と、若者と距離を取りがちですが、実は若手たちは「もっと上司や先輩とコミュニケーションを取りたい」と思っている(!) AERA9月23日号では、コミュニケーション不足が招く誤解の実態と、世代間ギャップを解消するための職場の工夫を取材。「置かれた場所で咲きなさい」という言葉に対する世代間の感じ方の違いも取り上げています。

職場の価値観格差
カテゴリから探す
ニュース
〈地方に赴く皇族方〉平成の皇室の象徴「ひざまずき」のスタイルはいかにして生まれたのか?
〈地方に赴く皇族方〉平成の皇室の象徴「ひざまずき」のスタイルはいかにして生まれたのか?
皇室
AERA 1時間前
教育
エンタメ
伝説的グラドル「かとうれいこ」 時が止まったかのような美魔女っぷりで写真集オファーの熱視線
伝説的グラドル「かとうれいこ」 時が止まったかのような美魔女っぷりで写真集オファーの熱視線
かとうれいこ
dot. 1時間前
スポーツ
〈「ニノさんとあそぼ」出演〉 阿部詩の「号泣」に賛否両論、嫌悪感を持つ人はなぜ増えた
〈「ニノさんとあそぼ」出演〉 阿部詩の「号泣」に賛否両論、嫌悪感を持つ人はなぜ増えた
阿部詩
dot. 16時間前
ヘルス
高嶋ちさ子“カラス天狗化”で露見した「ボトックス」のリスク 町医者の副業、自己注射まで…美容外科医が警鐘
高嶋ちさ子“カラス天狗化”で露見した「ボトックス」のリスク 町医者の副業、自己注射まで…美容外科医が警鐘
高嶋ちさ子
dot. 10/6
ビジネス
バスケの選手の個性と同様に 各店独自の品揃えへ ライフコーポレーション・岩崎高治社長
バスケの選手の個性と同様に 各店独自の品揃えへ ライフコーポレーション・岩崎高治社長
トップの源流
AERA 5時間前