検索結果2076件中 841 860 件を表示中

「海のシルクロード」に魅せられた少年時代の夢を実現した写真家・前田宏人
米倉昭仁 米倉昭仁
「海のシルクロード」に魅せられた少年時代の夢を実現した写真家・前田宏人
撮影:前田宏人  写真家・前田宏人さんの作品展「海の駱駝の住処」が8月26日から東京・新宿御苑前のアイデムフォトギャラリーシリウスで開催される。前田さんに聞いた。 *   *   *  前田さんがインド洋で活躍する木造船「ダウ」に魅せられたのは、もう30年以上も前のこと。  1988年に放映されたNHK特集「海のシルクロード」は、かつてブームを巻き起こしたほどの人気番組「シルクロード」の第三部で、前田少年は父親とともにテレビ画面に見入った。  特に毎回のオープニングシーンは古代から続く壮大な海の旅のロマンを感じさせた。  大海原を切り裂くように白波を立てて疾走するダウ。空に向かって伸びる鋭い舳先(へさき)。巧みにマストによじ登る褐色の肌の船員たち。その映像は少年の心に深く焼きついた。  番組のキャッチフレーズは「シンドバッドの船に乗ってアラビア海を越える」。 「千夜一夜物語」で描かれた船乗りシンドバッドはインド洋を股にかけて波乱に富んだ大航海をしたが、シンドバッドが操った船もダウと言われる。  大航海時代といえば、コロンブスやマゼラン、バスコ・ダ・ガマが思い浮かぶが、その1000年以上も前からアラビア人たちはアフリカとインドを海路によって結びつけていた。  砂丘が続く広大な砂漠は「砂の海」という表現がぴったりだが、「砂漠の船」ラクダに対してダウは「海の駱駝(らくだ)」と呼ばれた。撮影:前田宏人 ■「あなた、何を考えているの?」  実は、5年前まで前田さんは専門商社に勤めるふつうのサラリーマンだった。 「写真は趣味だったんです。いまでこそ写真で生活していますけれど、そのころはいまの自分をまったく想像できなかった」  会社を辞め、ふらりとアジア放浪のバックパッカーの旅に出たのは2016年。 「もう41歳でしたから、周囲からは完全に引かれましたね。『あなた、何を考えているの?』って」  仕事はそれなりに大変だったが、特に不満もなく、安定した生活を送っていた。  それに区切りをつけた理由をたずねると、「もともと、いろいろな世界を見たい、という気持ちがすごくあった」と言う。 「でも、休みはとれないし、諦めていた。で、あるとき、ふと思った。定年になって60を過ぎてからインドとかに行きたいって、思うかな、と」 撮影:前田宏人  1年ほどかけてタイからキルギスまでアジア諸国を巡った。 「バックパッカー時代は『旅写真』というイメージでスナップ写真を撮影していた。いまでも旅の写真はすごく好きなんですが、次第に何かテーマを決めてドキュメンタリーを撮りたいな、と思うようになった」  17年に帰国すると、写真館に勤めながら、休暇を利用して中国の東チベット地域を訪れた。しかし、公安警察の目が年々厳しくなり、遊牧民にレンズを向けても撮影を拒否されることが増えていった。  本格的にダウ船を探し始めたのはそのころだった。 ■Googleマップで見つけた港町 「実はこういう本がありまして」と言い、前田さんは取材記『NHK 海のシルクロード 第2巻 ハッピーアラビア/帆走、シンドバッドの船』(日本放送出版協会)を見せてくれた。 「小学生のころテレビで見たダウ船の印象がずっと頭に残っていました。大人になってからも、まだあるのかな、と思っていたら、いまでも現役で使われていることがわかったんです。じゃあ、どこにあるのか? 調べ始めた」  本には番組の取材班がUAEのドバイからにパキスタンのカラチまでダウで旅をした様子が詳しく書かれていた。「でもいま、カラチの港は相当治安が悪いらしいんです」。撮影:前田宏人  撮影の実現性を考え、前田さんが目を向けたのはインドだった。 「地図を広げたとき思ったんです。ダウは交易や漁業でインド洋をめぐっていた。ならばインドにもダウの拠点があるんじゃないか、と」  ところが、いろいろな本を調べてはみたものの、インドのダウの情報はまったく見つからない。  そこで活用したのはGoogleマップの航空写真だった。海岸線を拡大してしらみつぶしに探しまわった。そして見つけたのがムンバイの北西約450キロにある港町、ポルバンダルだった。 「最初、港っぽい地形が目についたんです。拡大すると、細長い入り江と港が見えてきた。そこが船だまりになっていて、びっしりとダウがとまっていた。近くの陸上にもダウが何隻も置かれていて、船を造っているか、整備していることわかった。ここに行けば間違いなく撮れるな、と思いました」 ■毎日、魚まみれの取材  2年ほど勤めた写真館を退職して、インドを訪れたのは19年12月。  まず、バックパッカー時代に訪れたジャイプール郊外の染め物工場を取材し、年が明けると、ポルバンダルへ向かった。 撮影:前田宏人  長距離バスがポルバンダルに到着すると、すでに日は落ちていた。  翌早朝、宿から徒歩で海岸を目指した。朝日に輝くアラビア海を見たかった。航空写真で目星をつけていた海岸沿いの道を進むと「目に飛び込んできたのがまさにこの光景です」。  そう言って見せてくれた写真にはダウがびっしりと写り、水面がまったく見えないほどだ。  かつて、ポルバンダルは海上交易都市として栄えたが、停泊していたダウはすべて漁船だった。 「7、8人乗りのダウで、アフリカのほうまで3週間から1カ月ほどかけて航海するそうです。途中、カラチの港に寄ったりして捕った魚を降ろして、水や燃料を補給しながら航海を続ける」  船底には倉庫が設けられ、出港時に氷を満載して、捕った魚は氷漬けにして持ち帰る。  前田さんは船倉から魚をスコップですくい上げ、港に下ろし、仕分けする作業を追った。毎日、取材から帰ると体を隅々まで洗うのが日課になった。 「頭から足の先まで魚の汁がこびりついて、全身から異様なにおいが発散して、すごいことになっていた」撮影:前田宏人 ■「いっしょに航海に行くか?」  船に薪を積み込む写真もある。舳先に近い甲板にはかまどが設けられ、そこで料理番が薪を燃やして食事をつくるという。 「航海から戻ると、家に帰る船員もいましたけれど、船に住んでいるような人もいた。船の中で捕った魚をさばいて、油で揚げた料理をいっしょに食べました。あと、インドですから、どこに行ってもチャイをごちそうになった。それでもう、お昼はいらないくらい」  毎朝、港に通っていると、顔見知りが増えていく。「手を振りながら、『おはよう』『おはよう』って」。港に外国人が来ることは珍しく、みな親切だった。 「船長に1回、誘われたんです。『いっしょに航海に行くか?』って。でも途中、寄港したパキスタンで、もし見つかったらどうなるか。それに帰国便に間に合わないと思って」、断った。  帰国の途に就いたのは昨年2月。経由地の上海で空港に降り立つと、白い防護服を身に着けた人々の姿が目についた。世界が変わり始めていた。  実は当初、この作品をまだ発表するつもりはなかったという。 「もう一回くらい取材に行こう、と思っていたんです。でも、新型コロナで今後の状況がまったく読めない。それで、悩んだ末に発表することに決めました」 (アサヒカメラ・米倉昭仁) 【MEMO】前田宏人写真展「海の駱駝の住処」 アイデムフォトギャラリーシリウス 8月26日~9月1日
アイデムフォトギャラリーアサヒカメラシリウスダウ写真家写真展前田宏人海の駱駝の住処
dot. 2021/08/25 17:00
日本のコロナ対策はまるで鎖国状態 いつまで非科学的なことを強いるのか?
山本佳奈 山本佳奈
日本のコロナ対策はまるで鎖国状態 いつまで非科学的なことを強いるのか?
山本佳奈(やまもと・かな)/1989年生まれ。滋賀県出身。医師 例えばポルトガルでは、夜間外出禁止令が終了し、レストラン、店舗、文化施設の営業時間の制限が解除され、午前2時まで営業できるようになっている(写真/GettyImages)  日々の生活のなかでちょっと気になる出来事やニュースを、女性医師が医療や健康の面から解説するコラム「ちょっとだけ医見手帖」。今回は「日本のワクチン接種後の規制緩和の遅れ」について、NPO法人医療ガバナンス研究所の内科医・山本佳奈医師が「医見」します。*  *  *「もう2年以上、中国にいる両親に会えていなくて辛い。ずっと在宅勤務で、誰にも会わない毎日が続いている。仕事を辞めて、中国に戻ることも考え始めた……」つい先日、大学生の時から日本にやってきて、そのまま日本で働いていた同世代の友人からこんな相談を受けました。 コロナが流行して以降、彼女と会えていなかったのですが、「気分が落ち込んで朝起きることも辛く、食事もほとんど食べていない」と連絡があり、お互いにワクチン接種が済んで2週間以上経過しており、風邪症状はなく、感染のリスクは低いと判断し、急遽、自宅での夕食に彼女を誘いました。 中国では、現時点で入国の際に3週間の隔離が必須とされており、日本に帰国する際も、2週間の自主隔離が必要になります。かなり長期間の休みがないと、帰国は現実的ではありません。オフィスに来るなと言われ、在宅勤務がいつまで続くか分からない中で、仕事をする気すらなかなかおきなくなってきた彼女が、仕事を辞めて帰国するという選択をしようとしているのも、無理はないと感じました。 私も、コロナの流行が始まってから実家のある大阪には一度も帰っていません。落ち着いたら帰ろうと思い、2年以上経過してしまっています。私は、いざとなれば新幹線でも飛行機でも使用して実家に帰ることができます。けれども、彼女は現時点では容易に帰国することができません。クリニックには、渡航のためにPCR検査を希望して受診される方がたくさんいらっしゃいますが、きっと彼女のような決断をして検査を受けにきた方がいらっしゃったに違いないと思うと、胸が痛くなりました。同時に、国民には自粛や我慢を強いる一方で、東京五輪だけは特別扱いというダブルスタンダードな対応に疑問を感じざるをえませんでした。  ワクチン接種の進む欧米では、ワクチン接種完了者の行動制限の解除が進んでいます。フランスでは、バーやレストラン、交通機関、スタジアムやスポーツ施設、映画館や劇場、図書館などを利用する際にワクチン接種証明の提示が義務化されました。ヨーロッパ連合(EU)では、7月1日よりワクチン接種や感染からの回復状況、検査結果などが確認できる「EUデジタルコロナ証明書」の運用が正式に開始され、証明書があれば国境をまたぐ移動の際、原則として隔離や検査を課されることはありません。 アメリカでは、国防総省や陸軍や一部の企業がワクチン接種を義務化した他、カリフォルニア州では医療従事者や教員、市の職員にワクチン接種を義務化する動きが進んでいます。また、ニューヨークでは屋内の飲食店やジムなど屋内の活動をする際のワクチン接種証明の提示が義務化されています。さらに、外国人の米国への入国条件の変更を検討しているといいます。 一方、日本はというと、新型コロナワクチンの接種は「努力義務」です。自治体に申請すればワクチンパスポートを発行してもらえますが、8月19日時点で21の国や地域のみしか使用することができません。それらの国や地域に入国する際の隔離措置は免れることができますが、日本に帰国する際の入国時の14日間の自主隔離は免除されません。自粛や我慢など非科学的な対策を強いる一方で、科学的に高い効果が示されている新型コロナワクチンの接種は「努力義務」であると位置付ける日本の今のコロナ対策では、いつまでたっても鎖国状態を抜け出せず、コロナに振り回され続けられることになるのではないでしょうか。 デルタ株の感染拡大に加え、ワクチン未接種の子どもたちへの感染が広がる中で、アメリカでは12歳未満の子供たちへのワクチン接種の検討がすでに始まっています。早ければ9月末までに、5~11歳の子どもに対するワクチンの有効性に関するデータが得られそうだとも報じられています。さらに、9月20日からはファイザー製とモデルナ製を2回打ってから8カ月経過した18歳以上の人を対象として、3回目の接種が始まります。まずは、医療関係者や高齢者の人たちから接種が開始される予定です。 日本も、幸いワクチン接種が進んでいます。8月19日時点で人口の51.6%が少なくとも1回のワクチン接種を終え、人口の40.0%が2回接種を終えていますが、まだ1回目すら接種したくてもできていない人がいるのが現状です。河野規制改革担当大臣は8月19日の委員会で、「3回目の接種を行うことについて厚生労働省が必要だと判断すれば、医療従事者を対象に速やかに対応できるよう準備している」と明らかにし、3回目の接種分も確保しているとテレビ番組で発言されていましたが、果たして本当なのでしょうか。肝心の厚生労働省は、方針を明らかにしていません。いずれにせよ、3回目の接種のスタートも日本が出遅れてしまうことは間違いなさそうです。 3回目の接種のこと、12歳未満の子どもへの接種の検討、ワクチン接種を済ませた人からの規制緩和の検討など、他国の対応に追随するのではなく、協議していただきたいと思います。山本佳奈(やまもと・かな)/1989年生まれ。滋賀県出身。医師。2015年滋賀医科大学医学部医学科卒業。ときわ会常磐病院(福島県いわき市)・ナビタスクリニック(立川・新宿)内科医、特定非営利活動法人医療ガバナンス研究所研究員
新型コロナウイルス新型コロナウイルスワクチン病気病院
dot. 2021/08/25 07:00
工藤会の総裁に死刑判決 元組員が語る「親分の指令とヒットマンの悲哀」
工藤会の総裁に死刑判決 元組員が語る「親分の指令とヒットマンの悲哀」
2014年9月に工藤会総裁の野村悟被告宅に入る捜査員(C)朝日新聞社 工藤会総裁の野村悟被告(C)朝日新聞社  市民襲撃4事件で殺人や組織犯罪処罰法違反(組織的殺人未遂)の罪に問われた特定危険指定暴力団工藤会(北九州市)トップで総裁の野村悟被告(74)と、ナンバー2で会長の田上不美夫被告(65)の判決公判が8月24日、開かれた。福岡地裁は野村被告に死刑、田上被告に無期懲役の判決を言い渡した。  福岡地裁は野村、田上両被告が1998年、実行犯らと共謀して元漁協組合長を射殺したと認定。さらに野村被告の命令に基づき、2012年に元福岡県警警部を銃撃し、13年に看護師、14年に歯科医師を刃物で刺して殺害しようとしたとも認定した。  工藤会の市民への容赦ない襲撃で、恐怖のるつぼと化した北九州市。福岡県警は14年に「頂上作戦」を実施し、野村被告らを逮捕した。  工藤会は意に沿わない元漁協組合長を射殺、元福岡県警の刑事や歯科医らを相次いで襲撃した。直接の実行犯は工藤会の組員だが、野村被告、田上被告の「指令」があったのか、否かが裁判の焦点となった。  2人は間接的な証拠しかないと法廷で反論し、無罪を主張。しかし、福岡地裁は、4つの事件に対して、2人の関与を認定し、求刑通りの判決を下した。 「まさか死刑になるとは思わなかったでしょう。今もいる組員たちもびっくりしたと言っていた」  こう驚くのは、工藤会にかつて所属した50歳代の元組員、Aさんだ。 Aさんは10年ほど前まで、工藤会に在籍していた。ある失敗がきっかけで組から抜けて、現在は福岡県を出て、別の場所でカタギの仕事をしている。福岡出身というAさんは、25歳の頃に中学時代の先輩が工藤会に所属していた関係で、誘われてヤクザの世界に入った。 「当時、フラフラしていた。いい車に乗って、羽振りいい先輩に憧れて工藤会傘下の組員になった。その頃は工藤会の本拠地、小倉もそこそこ、景気良くて、ヤクザをやっていても、結構な稼ぎがありました。1度、事件を起こして数年間、刑務所暮らし。出所するとハクがついて、10年ほどで子分も持てるようになりました」(Aさん)  そんな時だった。工藤会の直系組長から呼びつけられた。なぜか、組事務所ではなく、喫茶店だった。 「組長は世間話をしながら、急に険しい表情で『つまらんな』『あいつは本当に腹が立つ』と何度か繰り返しました」 Aさんは当時をこう振り返る。組長から何度もそう言われ、覚悟を決めたという。 「腹が立つという男を私に襲撃してこいという指令だと悟りました。いよいよ来たかと覚悟を決めざるを得ませんでした」  Aさんは、数人の組員と「襲撃部隊」を結成。ヒットマンとして「武器」も手渡された。夜闇に隠れながら、ターゲットの男性を見張ったという。しかし、なかなか襲撃のチャンスがない。 「いざ襲撃、と私は銃を腹に忍ばせて深夜や早朝、張り込みました。昼間に尾行したこともあった。行くぞという意気込みと、人を殺すという怖さの両方ありました。覚悟を決めていたが、途中、何度もやめたい、やりたくないと思ったこともありました」(Aさん)  しかし、その後、理由は判然としないが、襲撃の「指令」はうやむやになったという。 「工藤会では組長、親分から襲撃を示唆されたら、行くしかない。それがヤクザの世界。特に工藤会は厳しい。指令通り襲撃すれば、当然、刑務所行きです。警察に組長の名前、指令だと自供せずに、自分で罪を被れば、出所した時には出世とカネが待っている。刑務所にいる時も工藤会はしっかり家族の面倒を見てくれる。幹部になれるかは、工藤会のために身を賭けることができるのかが重要だった。その頃は、襲撃して組のためにやらないという思いでした」  だが、Aさんはヤクザになって約20年後、トラブルから組を脱退。かなり苦労したという。福岡にいることはできないと知人を頼って、九州の別の県で暮らすようになった。 「福岡から姿を消すことで、なんとか組を抜けることができた。頂上作戦が始まる数年前だった。あのままヤクザをやっていたら、自分にも新たな指令がきて、長く懲役に行くことになったでしょう。工藤会で仲良かった組員の一人がある襲撃事件に関与、長い実刑判決を受けた。一度だけ、安否を気遣って連絡を取ったら『刑務所で俺の人生が終わるかもしれない。 ヒットマンとしてやったが、これでよかったのかどうか…』と複雑な心境を吐露していました」  そしてAさんはこう振り返る。 「ヤクザをやっていい思いをしたのも事実だが、その裏では暴力と恐怖で一般人を支配してカネを巻き上げていた。今は普通の仕事をしています。晩酌の焼酎が楽しみという、ヤクザの時代では信じられないような生活です。でも、組を抜けて本当によかったと思います」 (AERA dot.取材班)
dot. 2021/08/24 16:56
人間社会を利用してしたたかに生きる野生動物の姿 「自然界の報道写真家」宮崎学の軌跡
米倉昭仁 米倉昭仁
人間社会を利用してしたたかに生きる野生動物の姿 「自然界の報道写真家」宮崎学の軌跡
日中に雪が溶けて、夜間に小雪の降る毎日。輪郭がうっすらと浮かび上がったニホンジカの死体の前脚に、早朝カケスがやってきた。カラス科のカケスは、死肉を好んで食べる。1月27日6時36分(撮影:宮崎学)  写真家・宮崎学さんの作品展「イマドキの野生動物」が8月24日から東京・恵比寿の東京都写真美術館で開催される。宮崎さんに聞いた。 *   *   *  長野県南部、南アルプスと中央アルプスに挟まれた伊那谷に拠点をかまえる宮崎さんは、半世紀以上にわたって野生動物を追い続け、ネイチャー写真の新境地を開いてきた。 「よくも悪くも、自然はどんどん変っています。写真家としてその時代性を撮りたい」と、宮崎さんは言う。  今回の写真展はその集大成といえるもので、出だしの写真に写るニホンカモシカは森林破壊を思わせる大規模に伐採された山の斜面で悠然と若木の芽を食べている。  それは人間がつくり出した環境を貪欲に利用しようとする野生動物の姿でもあり、その後の宮崎さんの作品を暗示しているようで、実に興味深い。初めて、カモシカにであう。中央アルプス1700メートルの高山(撮影:宮崎学) ■「ごくつぶし」と呼ばれて  宮崎さんがニホンカモシカの撮影を始めたのは1965年ごろだった。  当時、宮崎さんはカメラの交換レンズなどを作る会社に勤めていた。写真雑誌「アサヒカメラ」の月例フォトコンテストにムササビなどの作品を応募して写真の腕を磨いた。  入選を繰り返し、自信がついてくると、撮影がほぼ不可能と言われる動物にどうしても挑戦してみたくなった。それが、絶滅が危惧され、「幻の動物」と呼ばれていたニホンカモシカだった。  目撃情報を丹念に聞き集め、週末になると山に分け入った。そして、ようやくニホンカモシカに出合えたのは本格的に探し始めてから半年後のことだった。  厳冬期の中央アルプス。墨絵のように見える急峻(きゅうしゅん)な雪の斜面をニホンカモシカはゆっくりと歩いていた。  それは小さな黒い点のようだったが、生命の塊が動いているように見え、宮崎さんは猛烈に感動した。そして、「狂ってしまった」。  尋常ではないほど撮影にのめり込んでいった。大雪が降れば会社を休み、山にとんでいった。 <後ろ指さされっぱなしでしたよ、ほんとに。カメラを持って山をほっつきあるいている、ごくつぶし、あんな道楽息子いないと、よくいわれた>(「Anima」90年7月号)  しかし、無理は続かなかった。撮影を始めて3年目、体を壊し、入退院を1年以上繰り返した。会社も退職。地元のガソリンスタンドでアルバイトをしながら撮影を続けた。経済的な壁にぶつかり、生活は「血みどろ」だった。 ツキノワグマ(撮影:宮崎学) ■無冠の金字塔「けもの道」  筆者は7年前、宮崎さんの撮影フィールドを案内してもらった際、このガソリンスタンドを通りかかった。宮崎さんはハンドルをにぎりながら言った。「俺はここで虎視眈々(たんたん)と牙を磨いていたんだよ」。  72年、写真絵本『山にいきる にほんかもしか』でデビューすると、宮崎さんはそれまでにない斬新な撮影方法に挑戦し始める。森の中にわなを仕掛けるように無人の自動カメラを設置し、ありのままの野生動物の姿を写すことだった。  最初は「けもの道」を横切るように黒い糸を張り、それに動物が触れるとシャッターが切れる仕組みを作った。「これがうまくいった。いけるぞ、と」。黒い糸はやがて赤外線センサーに変わった。  2年ほどかけて装置を改良し、撮影が軌道に乗ってくると、「食うものも、食われるものも同じ山道を歩いて生活していることを発見した」。それは、宮崎さんが従来の動物写真家とはひと味違う独自の道を歩み始めた瞬間でもあった。  78年、それまで誰も見たことのなかった動物たちの姿をあらわにしたネイチャー写真の金字塔「けもの道」を発表。そこに登山者の足元が写った写真を交えているのが「自然界の報道写真家」を名乗る宮崎さんらしい。  写真展を開催した銀座ニコンサロンは入場記録を打ち立てるほどの大盛況となった。  しかし、写真界の重鎮からは「宮崎は自分の手でシャッターを切っていない。邪道だ」と、ずいぶん嫌みを言われたらしい。そんなこともあってか、「けもの道」は何の受賞もしなかった。ハチクマ。オスが持ってきたハチの巣をくわえ、翼を震わせて歓喜するメス(撮影:宮崎学) ■15年かけた労作と決別  続けて81年に発表した「鷲と鷹」は15年かけて国内の全種類のワシとタカを撮影した労作である。 「若いときに目標を立てて、北海道から沖縄までクリアした。それは自分自身への挑戦でもあって、『クリアできなかったら、お前はダメだぞ』と言い聞かせて、撮り続けた。でも、作品をまとめた段階で、この方法では表現に限界があると悟ったんです。こんな、人と同じことをずるずる続けていたらダメだ、もう次に行かなきゃと」  当時はごく一部の人しか撮ることのできない写真だったが、「いまなら簡単に撮れる。アマチュアでも野鳥を撮っている人の機材なんか、すごいんだから」と、宮崎さんは言う。 「大切なのは撮影テクニックと時代を見据えた企画力。その両輪によって、『腐らない写真』をいかに撮っていくか、ですよ」  その言葉どおり、宮崎さんは次々と斬新な発想の作品を発表していく。 枝にとまる瞬間。フクロウは目を保護するために、しゅん膜とまぶたを閉じる(撮影:宮崎学)  90年に土門拳賞を受賞したフクロウの撮影ではネイチャー写真の世界にスタジオ写真の撮影手法を導入した。 「フクロウの模型を木に置いてライティングのテストを繰り返してから本番に挑みました。ぼくはいつも絵コンテを描くんです。ストロボの置き方、影の出具合、背景とのバランスとかを考えて、カメラを最終的にセットする。絵コンテを撮影小屋の壁に貼って、それが撮れたら破いていった」  94年に発表した作品「死」では、輝かしい動物写真とはまったく異なる、「死」という野生動物の日常に光を当てた。死骸がほかの動物に食い荒らされ、ウジに覆われ、土に還っていく。そんな「自然のしくみ」を克明にとらえた写真はグロテスクであると同時に、すがすがしさを覚える。 ■「人は自然をきれいに見すぎる」  そして今日まで続く「アニマル黙示録 イマドキの野生動物」は、大都会の野生動物という、まったく新しいネイチャー写真の地平を切り開いた。人間社会の毒を含んだ、ざらりとした動物写真は宮崎さんの真骨頂といえる。 「人は自然をきれいに見すぎる。自然界に対して夢を抱きすぎてしまっている」と、宮崎さんは言う。 「動物側から見た風景は180度違う。連中は実にしたたか。貪欲に人間を利用してやろうとしている」東京の新興住宅街のたんぼで暮らすキツネ(撮影:宮崎学)  そして、今回の写真展について「50年間のニホンカモシカの足跡みたいな感じ」と言う。  実はデビュー作となったニホンカモシカは、撮影したころを境にどんどん数を増やしていった。  当時、森林が大規模に伐採され、日の当たるようになった山の斜面に若木が育ち、その芽はニホンカモシカの格好の食料となった。  台風や山火事によって自然環境が大きく変わることを「自然撹乱」というが、野生動物にとっては原因など知ったことではなく、森林伐採も宅地開発も自然撹乱のようなものだろう。  宮崎さんが写したニホンカモシカは人間を利用して繁殖するしたたかな野生動物の姿、そのものだった。 ■森に飲み込まれていく日本  自然環境は人間社会と関係しながら変化し続けている。それを嫌う動物もいれば、好む動物もいる。  薪炭用や建築材料として1千年以上続いてきた木々の伐採が衰退して半世紀。いま、日本の森林は猛烈に豊かになり、「森林飽和」と言われるような状態になっている。 「これから限界集落がどんどん森に飲み込まれていきますよ。カモシカも西日本にまた広がっていくと思うね。そんな自然を読みながら仕事をしている。そこにネイチャー写真家として生きる存在意義がある。撮影のアイデアをいっぱい箇条書きにしてためているけど、もう、そういうのを残して閻魔様(えんまさま)の元に行かなきゃかな、とは思っているけどね(笑)」 (アサヒカメラ・米倉昭仁) 【MEMO】宮崎学写真展「イマドキの野生動物」 東京都写真美術館 8月24日~10月31日
けもの道アサヒカメライマドキの野生動物写真家宮崎学東京都写真美術館
dot. 2021/08/23 17:00
眞子さま結婚問題で「いまや愛子さまの話題はタブー」有識者会議の参加者が吐露
永井貴子 永井貴子
眞子さま結婚問題で「いまや愛子さまの話題はタブー」有識者会議の参加者が吐露
愛子さまも12月には二十歳の誕生日をむかえ、成年皇族となる(c)朝日新聞社  眞子さまの結婚問題に、女性・女系天皇議論―—。機微な現状が取り巻くなかで、皇位継承のあり方をめぐる政府の有識者会議は、進められてきた。さまざま配慮も必要になるのだろう。8月には、「女性皇族が結婚後も皇室に残ることを可能にする場合は、配偶者と子供を皇族としない方向で検討」、と報じられたのは眞子さまの結婚問題が影響しているとみるむきが強い。  一方、有識者会議の参加者は、「女性宮家や皇女案に注目が集まるその裏で、新たな「タブー」が生まれつつあると警鐘を鳴らす。   「有識者会議の場で、愛子さまのご活動について話そうとすると、『皇位継承問題に関わることは……』といったふうにさえぎられる始末です。愛子さまに関する話題は、ほぼタブーという空気でした」  そう嘆くのは、皇位継承のあり方をめぐる政府の有識者会議で意見を述べた人物だ。清家篤・元慶応義塾長を座長とする有識者会議は、7月26日に10回目の会合を終えた。秋までに行われる衆院選のあとに最終報告をまとめる方針だが、先の人物は、会議はむしろ閉塞感ばかりを感じる、と嘆くのだ。  ひとつは眞子さまの結婚問題の影響だ。先の会合では、今後の方針として次の2案が挙げられた。 (1)女性皇族が婚姻後も皇族の身分を保持する。 (2)旧宮家の男系男子が養子縁組などで皇籍復帰する。  前者の女性皇族の身分については、過去に様々な提案がなされている。  たとえば婚姻後も皇室に残る「女性宮家」案や結婚したのちも、特別職の国家公務員として「皇女」の称号を贈る案だ。  だが、8月に入ると、女性皇族の配偶者と子供については、世論の反発が強いことをにらみ、当面は皇族としない方向を固めたとも新聞などで報じられた。 「これは、眞子さまの婚約内定者である小室圭さんに対する、世間の反発の強さが影響しているのは、間違いないでしょう。眞子さまの結婚問題が長引くいま、有識者会議の方向性によっては小室さんが『皇族』になる可能性が出てくる。だが、それは国民が許さず、会議の議論も進まないことは明白です。報道された背景には、そうした事情も絡んでいるのでしょう」(皇室ジャーナリスト) 成年皇族として公務を担う眞子さまと佳子さま (c)朝日新聞社  もうひとつは、結婚後も女性皇族を皇室に残す「女性宮家」議論が「女性・女系天皇」議論につながるという警戒感だ。  もちろんいまの皇室典範によれば、次世代の皇室において皇位継承権を持つのは男系男子である秋篠宮家の長男、悠仁さまだ。  新聞社などの世論調査では、今でも女性・女系天皇議論の流れで「愛子天皇」の声が出ることもある。しかし、先の人物がこう嘆く。 「わたしが言わんとしたのは、女性天皇論ではありません。ただ、天皇ご夫妻の長女、愛子さまは今年の12月1日に、20歳の成年を迎えられます。コロナ禍で皇室の公務は激減しオンライン中心ではあるが、成年皇族としての単独公務も増え、ご両親を支える形になるのは間違いありません。そのためにも、現役の皇族としての愛子さまの皇室での環境を整えるべきである、との意見を有識者会議で述べるつもりでした」  コロナ禍でなければ、誕生日は宮殿行事デビューの日だ。皇居・宮中三殿に参拝し、宮殿では、ティアラなど宝飾品5点とローブデコルテの正装で、天皇陛下から授与された宝冠大綬章をつける。  また、成年皇族として、新年や天皇誕生日などの一般参賀のお手ふりや晩餐会にも参加するようになる。天皇ご夫妻の長女、愛子さまの成年デビューへの期待は大きい。  期待の背景には、皇室を取り巻く危機的な状況がある。深刻なのは、皇室の高齢化だ。皇室メンバーは現在18方。98歳で最高齢の三笠宮百合子さまを筆頭に、80代の上皇ご夫妻と常陸宮ご夫妻、60代の高円宮妃久子さまと寛仁親王妃信子さま、天皇陛下が続く。  そばで天皇を支える皇后雅子さまと秋篠宮ご夫妻も、すでに50代。  次世代を担う若い未婚の皇族は7方だが、皇位継承権を持つ男性皇族は悠仁さまのみで、6方の女性皇族は結婚と同時に皇籍を離れる。  将来、悠仁さまが天皇となったときに、「皇居には、天皇陛下がただおひとり」などという事態は回避しなければならない。 令和の天皇陛下と皇后、雅子さま(c)朝日新聞社  そのためにも、女性皇族の結婚後の身分の保持が、議論の中心としてなされている。だが先の人物は、こう懸念を漏らす。 「議論がなされているのは、皇族女性が結婚によって皇籍を離脱したあとの話ばかりです。優先順位を挙げれば、皇族方の現在の環境を整えることが最重要課題であり、皇室を離れた方の環境は次の話であるはずです」  20歳の成年を迎える愛子さまの重要性がまるで認識されていない、と吐露しこう続ける。 「令和の皇室においては、両陛下がしっかりと役目を果たされるのが第一です。ご両親、特に皇后陛下がお元気になるうえでの最大のサポーターは、愛子さまをおいて他にありません。平成の時代に、ご両親である当時の天皇、皇后両陛下を支えた紀宮さまの存在は大きい」  実際、平成のはじめに起こった皇后バッシングを振り返ってみれば、一時的に声を失った美智子さまに寄り添ったのは紀宮さまだった。先の人物は、そうした過去も踏まえて、愛子さまが両陛下を支えるための環境を整える必要があると考えたのだ。  だが、冒頭のように現在の有識者会議では、愛子さまに関する話題は、半ば「タブー」化しているのだという。 「皇位を継承するのはもちろん悠仁さまです。決して『愛子さまに皇位継承権を――』などといった話をした訳ではありません。しかし、両陛下を支える内親王として愛子さまがご活動できるよう環境を整えることが先決の課題だと説明しようとしても、『皇位継承問題につながりかねない』と別の問題と十把ひとからげに遮られてしまう。とにかく、『愛子さまには触らないようにしたい』という空気は、いやというほど伝わりました。しかし、現役の皇族としての女性皇族が皇室にとってどれほど大切な存在であるか――。それは、上皇さまが平成17(2005)年に行った誕生日会見を振り返ると、よくわかります」   05年は、皇室にとって重要な年だった。11月に紀宮さま(黒田清子さん)が結婚。そして、小泉内閣下で皇室典範に関する有識者会議は、「女性・女系天皇」容認とする報告書を提出している。 2005年、結婚をひかえた紀宮さま(当時)は、御料牧場で両陛下(当時)と静かに過ごした  翌12月の誕生日にむけた記者会見で、清子さんの結婚について質問された上皇さまは、こう答えている。 <清子は皇族として、国の内外の公務に精一杯取り組むことに心掛け、務めを果たしてきました。また家庭にあっては、皇后と私によく尽くしてくれました。  私の即位の年に成年を迎えた清子が、即位の礼には、皇太子、結婚して4か月余りの秋篠宮とそろって出席し、私どもを支えてくれたことは心に残ることでした>  さらに、有識者会議の方針を踏まえ、皇室で女性が果たした役割について質問を受けた上皇さまは、次のように答えた。 <私の皇室に対する考え方は、天皇及び皇族は、国民と苦楽を共にすることに努め、国民の幸せを願いつつ務めを果たしていくことが、皇室の在り方として望ましいということであり、またこの在り方が皇室の伝統ではないかと考えているということです。  女性皇族の存在は、実質的な仕事に加え、公的な場においても私的な場においても、その場の空気に優しさと温かさを与え、人々の善意や勇気に働きかけるという、非常に良い要素を含んでいると感じています>  先の人物は、こう話す。 「上皇さまの最も忠実な側近であった元宮内庁幹部は著書のなかで、この時期の上皇ご夫妻が、皇位継承問題に心を痛め夜も眠れない日々が続いていた、ということを書き残しています。誕生日の会見で上皇さまは、非常に遠慮がちに女性皇族の意義を述べておられる。しかしそれは、才能ある内親王を失ったことに対する天皇の悲痛な叫びにも聞こえます。当時の天皇陛下は、内親王が皇室に残ることを望んでおられたと聞いています。天皇の必死の訴えに政府も国民も耳を傾けないままに過ごしてきたこと。それが、この危機的な状況を招いたのではないでしょうか」  この人物は、女性皇族が皇籍を離脱したのちも皇族に準ずる身分を保持させる「皇女」案が、逆に混乱の原因になっていると懸念を示す。 「『皇女』というネーミングは、まるで現役の皇族であるかのような錯覚を国民へ与えています。そもそも、皇室から出れば、『皇女』ではない」 秋篠宮ご一家(c)朝日新聞社  たとえば、14代将軍徳川家茂と結婚した孝明天皇の妹、和宮親子(ちかこ)内親王は、降嫁してもなお皇族としての称号を使っていた。  近代皇室においては、皇室を出たら民間人となることが皇室典範によって定められている。「皇女」案を実現するためには、典範の改正も必要になってくる。 「だが改正すれば解決するような単純な話ではありません。皇族に準じた特権的な身分を設けることは、憲法に抵触しないのでしょうか。それこそ元内親王をめぐる憲法論争が起こり、皇室と国民の間に亀裂が入りかねない。『皇女』案は、国民にもご本人にも、結婚しても皇族気分でおられるような誤解を与えるだけで、本質のごまかしに過ぎません」  12月1日に愛子さまは、20歳の誕生日を迎える。ただし、前日の11月30日は秋篠宮さまの誕生日だ。長引く眞子さまの結婚問題によって、秋篠宮さまの誕生日会見での発言は大きく報道される。ここ数年、愛子さまの誕生日は、落ち着かない状況になっている。  今年は、愛子さまが成年皇族となる、節目の年だ。そして令和の両陛下のサポーターとして活躍が期待されている。将来、皇居に天皇しか残らないという事態を避けるためにも、「タブー」のない議論が期待される。 (AERAdot.編集部 永井貴子)
天皇小室圭さん皇室眞子さま秋篠宮
dot. 2021/08/19 08:00
コロナ自宅療養の今…食事が取れず高熱、息切れ続くも「先生ありがとう」の言葉に医師の葛藤
コロナ自宅療養の今…食事が取れず高熱、息切れ続くも「先生ありがとう」の言葉に医師の葛藤
自宅療養の現実は厳しさを増す(gettyimages)  肺炎などの症状のある中等症の新型コロナウイルス患者に関し、自宅療養とする、という政府発表に、社会が大きく揺れた。その後、与党内からも批判がでて酸素投与を必要とする中等症患者は入院と、また方針を転換した。  政権が、与党が何を決めようが実際に現場では中等症はおろか重症の患者さんでさえ、スムーズに入院させてあげることができない。現実と、政策発表との間の乖離にまさに片腹痛しとはこのことである。「政治家はまず現場を」と切に言いたい。  様々な報道で、自宅療養の現実が語られている。実際、患者さんの口から、命の危険を感じたという訴えも多くある。  ここでは私が、医師として経験したケースをお伝えしたい。  患者さんは50代の女性で、もともと高血圧症で定期的に通院していた。笑顔の素敵な女性で、お嬢さんのお話をいつも嬉しそうにされていたのが印象に残っている。内服で血圧はとても良好にコントロールされていた。ほかには特段の持病はなく、基礎疾患があるといえばコロナ感染症に関しては基礎疾患に当たるのだろうが、一見して大変お元気に生活されていた。  ところが、7月末の土曜日に37度5分の発熱で来院。採血検査で白血球の低下と単球の増加を認めこの時点でコロナが疑われる状況であったが、週末でありPCRのできる病院がすぐに見つからず、解熱剤を飲んで月曜日に体調を診て連絡するように指示した。  翌週水曜日に患者さんから着電。お嬢さんがその後発熱し、PCRをしたところコロナ陽性であったためご本人もPCRを施行したらコロナ陽性であった。その日の朝あたりから呼吸が苦しくなってきたのでどうしたらよいか、と。発熱39度。酸素飽和度95%。咳が出ており、肺炎の発症が疑われた。 ■祈る思いで一晩過ごす  保健所からは現時点では入院の適応はないこと、保健所から連絡するまで自宅待機の指示があったということだった。緊急性はないものの肺炎の発症が疑われ、ステロイドの吸入をオンライン診療で処方し、酸素飽和度を継続して測定し93%を下回るようならすぐに報告するようにと指示。  翌木曜日、酸素飽和度が89%になってしまった、少し歩いても息が切れる、食事が全くとれないという報告を受け、朝9時にいくつかの病院に入院の依頼電話をした。しかしながら、すべての病院でコロナ陽性が確定している場合は、保健所からの指示でしか入院を受け付けないと言われてしまう。すぐに保健所に状況を報告。入院の適応があること、急を要することを伝える。わかりました、入院の手配をしましょう、と。その後、保健所に再三確認したが「入院先を探しています」の一言。しかも、入院が決まってもクリニックには連絡しませんと通告される。  夜19時、患者さんからの状況報告。保健所からようやく電話がかかってきた。「今日の時点では入院先の手配ができないので少し待ってください。明日連絡します」とのことだった。  酸素飽和度89%。熱39度。少し動いても息が切れる状態で、女性は食事がのどを通らず、頑張ってヨーグルトなどを食べています、と。そして少し涙声で、「先生ありがとうございます」「でも頑張ります」とおっしゃった。頑張ってください――思わず声が大きくなる。  うつぶせ寝を指示し、ステロイドの吸入を指示。これ以上酸素飽和度が下がるようなら構わず救急要請をするように伝える。これで良いのだろうか、今夜もつだろうか、祈る思いで一晩を過ごす。  金曜日、朝一で患者さんに電話した。酸素飽和度は84%。熱は変わらず。うつぶせ寝。「頑張りました」。その声は弱弱しいが、先生お手数かけてすみませんとも言われた。  いや、私は何もしてあげられていないのだ。このまま放っておいたら、命にかかわることは間違いない。  新型コロナウイルスは、急性の感染症である。その場をしのげば必ず元気になれる病気だ。入院さえさせてあげられたら、酸素さえあれば、直ちに命にかかわることはないのに。私の両手の間から、命が零れ落ちていきそうな焦燥感にかられる。  保健所にすぐ連絡。直ちに救急搬送しないと、自宅療養中に亡くなってしまう、救急車を手配してほしいと伝える。30分後、患者さんから着電。「保健所から入院希望申請リストに載せましたとの連絡がありました。先生ありがとうございます」とおっしゃった。だが、患者さんは、おそらく私が思っているほどには状況がまずいことになっていると気が付いていないのだろう。入院希望リストどころではない、もうこれ以上酸素の低下が進行すれば意識がなくなってしまう状況なのだ。 ■仕事を抱え込まざるを得ないシステム  数時間、いや数十分の遅れで手遅れになりかねない。私は自己判断で、患者さんに直ちに救急要請をするように伝えた。少なくとも救急隊が来てくれれば酸素を吸うことができる。時間を稼げれば死亡率は減る。保健所には、患者さんに救急要請を指示したことを伝えた。  保健所からは、入院先が決まらないで、たらいまわしになるかもしれませんね、と一言くぎを刺されてしまう。そんなことを言われても、一刻を争う状況である。とにかく救急車が来て酸素が吸えれば、何とかなる。その一心である。保健所も一生懸命やっているのだろう。でも、追いついていないのだ。追いついていないのに仕事を抱え込んでいる。抱え込まざるを得ないシステムがある。  30分後、ある病院から受け入れ可能との連絡があり、保健所を介して患者さんは無事入院。やはり救急要請をしないと動かない部分もあるのか。おとなしく待っていてはだめなのだと痛感した。  あとから思い返せば、その病院はおそらく木曜日の時点でも受け入れが可能であったのではないかと、予想された。コロナ感染症に関しては、病院同士のやり取りが禁じられており、すべて保健所を通さなければいけない。このルールが現場の柔軟性を奪い、患者さんの生きる可能性を奪っている。保健所は保健所で、病院に入院要請をしても断られるという状況に陥っている。一生懸命やっているのに、誰からも責められ、気の毒としか言いようがない。  救急要請してしまえばベッドはあるのに、保健所の要請では入院を断られる。この非常時に、臨機応変な対応が全くされていないというのが窮状の元凶ではないのか。人は人の作ったルールのせいで、不便を強いられているだけではないのか。  翌日、病室から患者さんが電話をくれた。レムデシビルの点滴が始まったら熱も下がって、すごく楽になった。酸素も94%です、と、明るい声に力を感じた。入院できたことの安心感も大きいのだろう。入院までの3日間、どれだけ不安で苦しい思いをして過ごしたのかと思うといたたまれないが、もうおそらく大丈夫だ、という安堵が思わず目頭を熱くする。  外来で待っていますね。この一言が言えて本当に良かったと思う。 *  *  *  この記事を記述したほんの数日で、状況が確実に悪くなってきている。今や、受け入れ可能な病院では空床が出たらすぐに埋まってしまうという状態だ。保健所のオーバーワークも甚だしく、先日も、家族が発症し、明らかに濃厚接触者であり、ご自身も発熱しているにもかかわらず、PCRの手配が間に合わないので自分で探してほしいと保健所に言われた患者さんから相談を受けた。もはや、現状のシステムで持ちこたえられないことは火を見るよりも明らかである。次は、入院できない中等症以上の患者さんに、在宅酸素をクリニックが提供するという事態が現実になりつつある。  少なくとも私のクリニックでは中等症以上で入院となった患者さんにワクチンを2回接種している人は一人もいない。ワクチンが間に合ってくれたら、供給が滞らなければ――そんな思いが切実に身に迫ってくる。どうか、これ以上、事態が悪化しないように、どうかこれ以上、誰かの大切な人が命を落とさないで済むように、いま私たちにできることを少しでもやろうと思う。 ◎松本佐保姫/医師。東京大学医学部卒、東京大学大学院医学系研究科・博士課程修了。三井記念病院内科研修、学術振興会特別研究員 東京大学医学部附属病院 特任助教を経て、2016年、江東区大島に、まつもとメディカルクリニック開院。2018年、医療法人社団慈映会設立。2021年、江戸川区西葛西に西葛西メディカルクリニック開院。 ※「医療ガバナンス学会」から
新型コロナウイルス
dot. 2021/08/17 07:00
中2男子が550万円課金の“ゲーム依存” 親に逆切れしても苦しい子どもの胸のうちとは
中2男子が550万円課金の“ゲーム依存” 親に逆切れしても苦しい子どもの胸のうちとは
写真はイメージです(Getty Images)  ゲームに熱中しすぎて、学業や仕事、日常生活に支障が出てくる「ゲーム依存」が社会問題となってきている。コロナ禍の今、子どもたちはゲームへの依存度が高まっているという。ゲーム依存の実態とは。子どもとその親を支援する専門家の活動の一端を取材した。 *  *  * 「息子がまた暴れ始めました。一刻も早く来てもらえませんか」  朝8時、中学2年生の子どもの問題行動に悩む愛子さん(仮名)が切羽詰まった声で、電話口で訴えていた。通話の相手は、ネット依存の子たちを更生させる活動をしている佐野英誠さん。佐野さんは、『ゲーム依存から子どもを取り戻す』(育鵬社)などの著書があり、4年前から全寮制のフリースクールの塾長を務めている。愛子さんが佐野さんに初めて相談をしたのは、その電話の2週間ほど前のことだ。  息子が暴れている理由は、「新しいタブレットを買ってくれ」という要求を母親が拒否したためだ。佐野さんは、急いで愛子さんの家に向かった。 「家に足を踏み入れて、驚きました。ガラスはあちこち割れ、壁には穴が開き、家具は破壊されていて、とても普通に暮らせるような環境ではなかったんです」(佐野さん)  息子と対面して、また驚いた。「どんなに凶暴な子だろう」と思っていたが、おとなしそうなごく普通の中学生だったからだ。 「こんな子が親に暴力をふるったり、家を破壊したりしているなんて。そして大人が子どもの奴隷のようになっているなんて……。信じられませんでした」  厚生労働省の推計によると、オンラインゲームや動画サイトなどを含む、病的な「ネット依存」が疑われる中・高生は、日本国内に93万人。この数は過去5年間で倍増している。2019年に行われたゲーム障害に関する初の実態調査(厚生労働省の補助事業として国立病院機構久里浜医療センターが実施)では、10代・20代の18・3%が、平日でも1日3時間以上をゲームに費やしていることが明らかになっている。  しかしこれらの調査結果は、新型コロナ感染症が流行する前。昨年3月の緊急事態宣言に伴う「全国一斉休校」で、状況は悪化したという。かつてない長期間の休校で、外出は自粛。子どもたちのゲーム依存度が高まるのは当然のことだった。「ゲームは一日2時間まで」などと決めていたルールが、いつの間にかなし崩しになってしまったという家庭も、多いはずだ。 ■ ネットに制限をかけられて逆上 子どもが親の目を盗んでゲームするのはよくあること。しかし、そこからどのようにして、日常生活や人間関係に支障が出るほどゲームに執着するようになるのか。愛子さんの息子のケースは一例に過ぎないが、順を追ってみていこう。 愛子さんの息子は、私立の中学校に通っていた。両親は息子が小さいころから過干渉気味で、受験をさせたのも「将来苦労しないように」という親心からだったという。 小学4年生から受験のための塾に通い、無事志望校に合格。しかし、いざ入学してみると勉強についていくのが大変で、ほどなく不登校になってしまった。 家にいる時間が長くなると、息子はゲームにはまり始めた。熱中すると昼夜逆転になって夜中までゲームをし続け、しまいにはヒートアップして大声で暴言を吐くように。そんな息子に、両親は再三注意をした。しかし共働きのため、日中は息子の行動をコントロールできなかった。 そのうちに息子は、「学校に行くから、ゲームに課金させてくれ」と要求するようになった。 なんとか学校に行ってほしい愛子さんは、息子の要求に応えて、何度も課金。しかし不登校はいっこうに改善せず、ゲーム依存はエスカレートするばかり。たまりかねた両親は、ネットに制限をかけようとした。 息子の家庭内暴力が始まったのは、それからだ。 息子は手当たり次第に物を投げつけ、テレビを壊し、家具を倒し、壁に穴をあけた。テレビは5~6台買い換えたという。両親は、息子の暴力をやめさせるために、お金を渡しつづけるしかなかった。息子はさらに、親のクレジットカードを勝手に使ったり、家の金庫から盗んだりするようにもなっていった。 「不登校の息子が、ゲームにはまりすぎて執着心がすごい。課金も止まらない。なんとかできないでしょうか」 最終的に両親は自分たちでは息子の行動をどうすることもできなり、困り果てて佐野さんに相談したのだという。佐野さんが相談を受けた時点で、息子がゲームにつぎこんだお金は、550万円にのぼっていた。 ■ 子ども自身も罪悪感を抱いている 佐野さんによると、親がゲーム依存の子どもから端末を取り上げる、ゲームができないようにとWi-Fiを切ってしまうなどはよくある対応だという。愛子さんも、息子をゲーム依存から脱却させるために、ネットに制限をかけようとした。しかし、そうした親の行動は逆効果になることが多いという。 「ゲームに対する執着をいっそう強くしてしまうだけ。自分の心の拠り所であるゲームを取り上げられた子どもは、強く反発し、逆上します。家庭内暴力に発展するケースも少なくありません」(佐野さん)  大事なのは、規則正しい生活、日常の生活サイクルと食事を正常に戻すこと。そのためには、生活のルーティンを決めて、継続することだという。 「昼間は頭や体をしっかり動かし、夜はたっぷり睡眠をとる。それだけで、本来のその子のいきいきとした姿がよみがえってくるのです」(同)  佐野さんによると、ゲーム依存の状態に陥った子どもの心の中にあるのは、決して「ゲームをやりたい」という気持ちだけではないそうだ。 「子どもたち自身も『このままではダメだ』と思っています。親からお金を巻き上げたり暴力をふるったりする子どもでも、罪悪感は必ず持っている。まるで、『鬼滅の刃』の鬼になり切れない禰豆子のようです。たとえば、僕が訪問すると迷惑そうな顔はするけれど、接しているとどこか『きっかけ待ちだったんだな』とも感じます」 現在愛子さんの息子は、佐野さんが塾長を務める全寮制のフリースクールで、集団生活を送りながら更生を目指している。寮では35名の子どもたちが寝食を共にし、勉強や運動、ボランティアなどの活動を行う。 「生活習慣が乱れてゲーム依存になっただけなら、修正はそれほど難しくありません。学校と親が連携を取って、早い段階でアプローチをすることが必要です。その子のことを本気で考えてくれる大人が『きっかけ』を与え、規則正しい生活を『継続』することで子どもは必ず変わることができます」 (取材・文/臼井美伸) 佐野英誠(さの・ひでのぶ)/1977年大阪府出身。全国フリースクール 伊藤幸弘塾 塾長。教育カウンセラー、不登校カウンセラー、保護者カウンセラー。不登校、引きこもり、ゲーム依存、スマホ依存、ネット依存の子どもたちを、365日24時間体制の寮で生活させることで自立(自律)を支援。家族関係の再構築をサポートしている。 著書『ゲーム依存から子どもを取り戻す』(育鵬社) 臼井美伸(うすい・みのぶ)/1965年長崎県佐世保市出身。津田塾大学英文学科卒業。出版社にて生活情報誌の編集を経験したのち、独立。実用書の編集や執筆を手掛けるかたわら、ライフワークとして、家族関係や女性の生き方についての取材を続けている。佐賀県鳥栖市在住。http://40s-style-magazine.com 著書『「大人の引きこもり」見えない子どもと暮らす母親たち』(育鵬社)
ゲーム依存コロナ禍スローマリッジ取材班臼井美伸
dot. 2021/08/16 11:00
ビフォー/アフターは部屋だけじゃない!夫の「箱買い」対策も変わった
西崎彩智 西崎彩智
ビフォー/アフターは部屋だけじゃない!夫の「箱買い」対策も変わった
こんなに広かった?と思うほどスッキリした「ごみ部屋」。ここの後エアコンもつけました/After  5000件に及ぶ片づけ相談の経験と心理学をもとに作り上げたオリジナルメソッドで、汚部屋に悩む女性たちの「片づけの習慣化」をサポートする西崎彩智(にしざき・さち)さん。募集のたびに満員御礼の講座「家庭力アッププロジェクト®」を主宰する彼女が、片づけられない女性たちのヨモヤマ話や奮闘記を交えながら、リバウンドしない片づけの考え方をお伝えします。*  *  *case.6 邪魔する夫を「ネタ」にしたら片づけを完遂できた夫+子ども2人/看護師 今回は、キャリア15年の看護師の女性の片づけです。夜勤と日勤の混ざった不規則な勤務をこなしながら、基本の家事と子育てはこの女性が担当し、忙しい日々をサバイブしていました。 悩みは、子どもが幼く一番散らかる時期に片づけられなかった家をそのままにしていることでした。 眺望が素晴らしい30畳のリビングは物でいっぱい。昨年の夏、コロナ禍で家族がリビングにいる時間が増えて、もうこれ以上は放置できないとプロジェクトに参加したのです。 彼女には、片づけのほかに2つの課題がありました。一つは家族をもっと家事に巻き込むこと。家族みんなが家にいる夜勤明けの休日、お昼ごろに帰宅すると子どもたちの汚れ物はそのまま、掃除も一からしなきゃいけない……。 夫にはなかなか頼りきれず、夫婦のコミュニケーション不足も原因とわかっている。彼女は、話すきっかけを失っていました。 プロジェクトの初期はどんどん不用品を家から出していきます。夫は、ひまさえあれば黙々と片づける妻を最初はただ眺めていました。 ある日、忙しい夫と時間が合い、話す機会を持ちました。なぜ片づけたいのか、家を片づけてどうしたいのか、やっと気持ちを伝えることができました。女性にとっては大きな一歩です。 すると10日後、夫が動きだします。「ごみ部屋」と呼んでいた物置部屋にあるCDやDVDを片づけ始めたのです。いつもはしないキッチンのシンクの掃除をしてくれた日もありました。女性も、心から「ありがとう」が言えました。 子どもたちもママを助けました。上の子は下の子に、「いる?いらない?」と聞いて不要なおもちゃを仕分けてくれました。 かつての物置部屋「ごみ部屋」。ワインの箱や子どもの物が置かれていました/Before  ごみ部屋の床面積は少しずつ広くなり、片づけは順調そうに思えました。しかし二つ目の課題に直面します。それは夫の「箱買い攻撃」をどうやってクリアするか。 夫には、ネットで物を買うとき箱単位で注文する癖がありました。カップラーメンにワイン、袋菓子4箱買いなんてことも。 無邪気なこの行動が、片づけにとっては大ダメージ。計画を立てて不用品を減らしても、空いたスペースにまた物が置かれるのです。「あれ、おかしいなぁ。この間片づけたはずなのになぁ」って。 心が折れてしまった時は、受講生のFacebookグループに気持ちを吐き出しました。プロジェクトの卒業生や同期が話に乗ってくれました。「ウチの主人は一切動きませんでした^^; ご主人の所は、自分の所が片づいてからで大丈夫。片づいたら気持ちも変わりますよ」って、卒業生が励ましてくれたり、「旦那さんの箱買いネタ、笑えるから好き」と話題になったり。 自分の夫だったら深刻になる悩みも、他のお家のことなら笑えたりするから不思議です。 箱買いの投稿は、「片づけても、片づけても、物が入ってくるシリーズ」としてまとめられ、夫の知らないところで人気連載となりました。 たまに落ち込みながらも復活するママの背中を見て、子どもたちは自立していきました。上の子は夜勤明けの休日に晩ごはんを作ってくれたし、下の子は脱いだパジャマをちゃんと定位置に戻してくれるようになりました。脱いだ靴を元に戻してくれるようになったのは、2人共通の進歩です。 そして8月上旬、女性は無事に片づけをやり切ります。ごみ部屋はちゃんと「部屋」になり、30畳のリビングは窓からの景色が映える明るさを取り戻しました。 実は今回は、さらに先があります。ビフォー/アフターからのアフターで、夫婦に新たな展開があったのです。 プロジェクト終了後にこの女性は、職業柄お正月もお盆もないからと、ひとり大掃除プロジェクトを進めるべくお掃除モードへとギアチェンジ。 レンジフードの掃除、業者さんのエアコン掃除、カーテンの洗濯、かつてのごみ部屋にエアコンをつけること。手をつけられずにいた作業をクリアするたびに「いつかやろうと思っていたシリーズ」として報告してくれました。 片づけても片づけても届く、箱買いのポテトチップス。部屋がきれいになったら、逆に量が増えました  残念ながら夫の「片づけても、片づけても、物が入ってくるシリーズ」は終了しませんでした。冷蔵庫の大掃除が完了したと思ったら、直後に届いた要冷蔵の日本酒に箱買いワイン、ふるさと納税の返礼品の豚肉3キロ。さらにはポテトチップスの大きな箱……。 女性もやられっぱなしではありません。夫は過去に、「生産3日以内に出荷」という鮮度が売りのポテトチップスを箱買いしながら、賞味期限ギリギリまで寝かせたことがありました。今回は、女性がこっそり職場で配り、察した上の子も友だちにせっせと配って、ダメージを最小限にしました。 女性はいま、心穏やかに過ごしています。箱買いの不意打ちに遭いつつも、夫との会話は一歩引いて話に耳を傾けられるようになりました。片づけてから生まれた心のゆとりが大きいと言います。 仕事でも奇跡的なタイミングでお誘いがあり、日勤だけの職場へ移動しました。どうありたいか考え納得して決めた転職でした。大掃除も仕事も、自分でゴールを設定して人生のこまを進める習慣ができたようです。 夫との関係は?実は今年5月に女性からこんな報告がありました。「帰ると洗われてるお皿たち。旦那もいつもより30分近く早く起きてくるようになり、出勤前にお皿を洗ってくれている。これは心からありがとう」 夫婦の関係は、1年かかったけど確実に次のステージへ上がっていました。同期のみんなやスタッフはいまも女性の報告を楽しみにしています。◯西崎彩智(にしざき・さち)/1967年生まれ。お片づけ習慣化コンサルタント、Homeport 代表取締役。片づけ・自分の人生・夫婦間のコミュニケーションを軸に、ママたちが自分らしくご機嫌な毎日を送るための「家庭力アッププロジェクト®」や、子どもたちが片づけを通して”生きる力”を養える「親子deお片づけ」を主宰。ラジオ大阪「西崎彩智の家庭力アッププロジェクト」(第1・3土曜日夕方)が2021年5月1日からスタート。フジテレビ「ノンストップ」などのメディアにも出演※AERAオンライン限定記事
AERAオンライン限定
AERA 2021/08/16 07:00
五輪アスリートの妻・おのののかが語る「夫の努力」と「生まれてくる命」
上田耕司 上田耕司
五輪アスリートの妻・おのののかが語る「夫の努力」と「生まれてくる命」
おのののか(写真=事務所提供) 夫の塩浦慎理(左)とのラブラブなツーショット(写真=事務所提供)  8日に閉会式を迎えた東京五輪。開催までは紆余曲折あったが、選手たちの懸命な姿には、多くの人が心を打たれた。そんな選手たちを支えたのはパートナーの存在も大きい。競泳男子400メートルリレーに日本代表として出場した塩浦慎理(しおうら・しんり 29)の妻でタレントのおのののか(29)は、五輪選手の妻として、どのようにサポートしたのか。コロナ禍での五輪、かつ自身が妊娠中という「異例の状態」の中で、どのような思いだったのかを聞いた。 *  *  * 「テレビを見ていられないくらい緊張していました」  夫の塩浦選手が東京五輪に出場したのは7月25日。無観客で行われた競技を、おのは自宅マンションで観戦した。 「本来だったら会場へ行って応援したい気持ちもあったんですけど、今回は家族でも会場には入れなかったので、自宅で夫のご両親とテレビを見ながら応援しました」  結果は惜しくも予選敗退。競技直後、まだ息の荒い中で、塩浦選手はインタビューにこう答えた。 「年齢的にも経験的にも僕はやっぱり、チームを引っ張る立場だと思っていたんですけど、もう少しタイムが欲しかったし、後半の2人にもっといいところで引き継ぎたかったというのはありますね」  それを見ていた妻のおのは、どのような感想を抱いたのだろうか。 「本人はできることをやり切ったと思います。無事に(五輪が)開催され、出場できて、応援できたことがまずありがたいなと思いました」  新型コロナウイルスの猛威がおさまらないなかで、東京五輪は1年延期され、さらに直前まで開催の是非が問われることになった。観客を入れるかどうかもなかなか決まらず、選手たちにはもどかしい時間が続いた。 「夫はオンとオフをしっかり分けるタイプで、家では私から聞かない限り、水泳の話はあまりしません。でも、昨年3月、五輪が延期になった時には、さすがにへこんでいました。彼は4年かけて五輪でピークになるようにコンディションを仕上げてきた、と言っていたので、延期はかなりショックみたいでした。(五輪を)やると確信できないと、どうしても気持ちが入らないので、本人は『絶対にやる』と意気込んで練習に取り組んでいました。私には想像できないくらい、自分を追い込んで、体を仕上げて、すごく大変だったと思うんです。本当に尊敬しかありません」  競技が終わってすぐ、おのは夫から「まだまだやれる、頑張るから」と伝えられたという。まだ現役生活は続けるという前向きな気持ちを真っ先に聞いた。 「彼は、自分の体のことはすごくわかっている人なので、前々から『もうこれ以上、速く泳げないと思った時点で競技生活をやめようと思っている』と言っていたんです。それでも『まだ全然できる』と言っているのだから、彼はもっと速く泳げる自信があるんだと思います。その言葉はすごく心強いですし、私も一緒にやっていきたいと思っています」  おのには、アスリートの妻として日頃から心がけていることがある。 「競泳は0・01秒を競う世界で、少しでもタイムを短縮するためには毎日の睡眠、食べる物の積み重ねで、結果が変わってきます。なので、毎日規則正しく、夜12時までには寝るようにしています。就寝環境も大事なので、寝室のエアコンは、直接体に風が当たらず、温度調整ができるものを選びました。それで、すごく体が楽に過ごせるようになったんです。今は夫婦で一緒に寝ていますが、結婚しているアスリートの先輩方に聞くと、子どもが生まれたら、ちょっと寂しいけど、夜寝るときは別の部屋にしたほうがいいそうです」  食生活では、「アスリートフードマイスター」の資格を取得し、栄養面でのサポートをしている。 「結婚前はほとんど自炊もしなかったんですけどね(笑)。まだまだ勉強中ですが、少しずつアスリート向けの献立も作れるようになってきました。かつおや昆布からだしを取って、塩分をなるべく控えめにして、和食をヘルシーに食べられるように心がけています。トレーニング内容によって、食べるものも変えています。お肉、お魚の種類や部位をそれぞれ選びローテーションを考えて、野菜は根っこと葉っぱと実の部分でそれぞれ栄養素が違うので、『ね』と『は』と『み』がバランス良くとれるように工夫しています」  おのと塩浦選手は昨年9月に結婚。おのは彼を「慎理」と呼び、夫はおのの本名である「真理愛(まりあ)」と呼んでいるという。おのは今年5月27日、インスタグラムで第一子の妊娠を発表した。 「今妊娠7カ月で、11月頃に出産予定です。おなかもちょっとずつ大きくなってきて、目立ち始めました。彼も五輪から帰ってきて、『ちょっと見ない間にこんなに大きくなるんだ』って喜んでいました」  子どもが生まれたら、おのは本格的に仕事復帰を考えているのだろうか。 「彼は『息抜きになるんだったら、仕事を続ければいいんじゃない』と言ってくれています。スポーツ関係や食事、ダイエット、子育てなど自分に近い範囲のことで、みなさんと共有できるお仕事をしたいと思っています。今は体も動かせるので全然大丈夫ですけど、子どもが生まれたら、周りにサポートしてもらいつつ、できる範囲で仕事を続けていきたいです」  塩浦選手の次の目標は、3年後のパリ五輪でのメダル獲得だ。 「今回はリレーで出場しましたが、彼は本来は50メートルの自由形を主戦場としています。パリ大会では50メートルとリレーで活躍してくれることを期待しています。その頃には、生まれてくる子どもも、おしゃべりができるように成長していると思うので、子どもの記憶に残るような泳ぎをしてもらえたらうれしいです。夫が0・01秒を競う競技を続けて行く上で、最大限のサポートしつつ、自分も日々楽しく過ごしていけたらいいなと思っています」 (AERA dot.編集部・上田耕司)
おのののかアスリート塩浦慎理東京五輪競泳
dot. 2021/08/13 11:30
煽るつもりはないが、結構ヤバい デルタ株流行に周囲の若者も焦り始めた 鈴木おさむ
鈴木おさむ 鈴木おさむ
煽るつもりはないが、結構ヤバい デルタ株流行に周囲の若者も焦り始めた 鈴木おさむ
放送作家の鈴木おさむさん  放送作家・鈴木おさむさんが、今を生きる同世代の方々におくる連載『1970年代生まれの団ジュニたちへ』。今回は、デルタ株の流行で感染が急拡大する新型コロナウイルスについて。 *    *  *  コロナにかかってる40代50代の人が急増中というニュースを見た。去年コロナが流行り始めたころは、コロナは高齢者がかかり重症化しやすいというイメージがあったと思う。コロナをメディアが煽りすぎたところもあり、「またコロナか」とコロナに慣れてしまって緊急事態宣言が出ても外に出る人は増えてしまっただろう。  が、ここ数週間、僕の周りではコロナにかかって症状が重くなっている人が増えている。煽るつもりはない。だけど結構ヤバイ。いや、かなりヤバイんじゃないかと思う。  今回は僕の周りのコロナ報告をしよう。それがとてもリアルだと思うから。まず、40代で2人。1人は熱が出て39度まで上がったが、熱は早めに下がったらしい。ただ、頭が割れるような頭痛が5日以上続いて本当にしんどかったと。そしてもう一人の40代。仕事しているスタッフがコロナになり、お互いマスクをしていたが車に同乗したためうつったと本人は言っていた。その彼は、熱は37度台が続き、そこから36度台になり、あと3日で外に出られます!なんて連絡をしてきたのだが、その夜に容態が急変。熱が一気に上がり40度台に。  運よく早いタイミングで入院することができたのだが、一週間以上熱が下がらず、鼻から酸素を入れられ、入院は10日近くになった。彼は肺に持病を持っていたため、一歩間違えれば危ないところまで行っていたと思う。  そして30代の知人で2人。2人とも別の仕事だが、共通しているのは40度台の熱が10日以上続いたということ。熱が全然下がらず、24時間中22時間くらいは意識が飛んだように寝ていたと。一人は、40度台の熱が数日続いても入院の許可が出ず、肺炎を起こして病院のレントゲンでかなり肺の症状が危なくなってきたということでやっと入院ができたのだとか。そのくらい病院も大変な状況なのだろう。  ちなみに、病院で入院しているときに「僕の症状は重症じゃないのですか?」と聞いたら「これはまだ中等症です」と。最近、中等症という言葉をよく耳にするが、僕の周りの経験談からすると、熱が40度以上、肺炎が出ても中等症という判断なので、重症というのは、僕の想像以上ということになる。そして、中等症という言葉で「そんなにひどくないだろ」と思ってる方も多いかもですが、中等症でもかなりしんどい状態。  そしてもう一人、20代の知人。彼も陽性になり39度台の熱が数日続き、肺炎になって、ようやく入院できたのだという。  こんな人が一気に周りに出始めた。今まで、コロナになっても大したことないでしょと思ってた僕の周りの若者たちも焦り始めた。  この状況、人に話すと驚かれる時もある。周りにコロナになってる人が極端に少ない人もいたりする。そういう人はテレビでコロナのニュースを見ても慣れてしまっているため、今の状況を理解できないのだろう。  デルタ株の感染が流行ってしまい、今、思うこと。僕のまわりでかかった人は20代でも30代でも本当に苦しんでいる。そして今回挙げた人たちは、仕事仲間からかかった人以外、みんなどこでかかったかわからないと言っている。「電車かバスしか考えられない』という人もいる。気を付けてもかかる。  何度も言うが煽るつもりはない。メディアの煽りでコロナに慣れてしまった人たちが、いま一度、コロナにかかると本当に怖いんだと、今こそ再認識しないといけない時だと強く強く思います。 ■鈴木おさむ(すずき・おさむ)/放送作家。1972年生まれ。19歳で放送作家デビュー。映画・ドラマの脚本、エッセイや小説の執筆、ラジオパーソナリティー、舞台の作・演出など多岐にわたり活躍。パパ目線の育児記録「ママにはなれないパパ」(マガジンハウス)が好評発売中。毎週金曜更新のバブル期入社の50代の部長の悲哀を描く16コマ漫画「ティラノ部長」と毎週水曜更新のラブホラー漫画「お化けと風鈴」の原作を担当し、自身のインスタグラムで公開中。YOASOBI「ハルカ」の原作「月王子」を書籍化したイラスト小説「ハルカと月の王子様」が好評発売中。作演出を手掛ける舞台「もしも命が描けたら」が8/12~22東京芸術劇場プレイハウス、9/3~5兵庫芸術文化センター阪急中ホール、9/10~12穂の国とよはし芸術劇場PLAT主ホールにて上演
デルタ株団塊ジュニア放送作家新型コロナウイルス鈴木おさむ
dot. 2021/08/12 16:00
今の仕事なんてとっとと辞めたほうがいい? やる気を失ったときの転職“以外”の解決法
西野一輝 西野一輝
今の仕事なんてとっとと辞めたほうがいい? やる気を失ったときの転職“以外”の解決法
しんどい人へ。転職の前にできることがあります (写真:anzphoto_Inc, / PIXTA) 西野一輝(にしの・かずき)/経営・組織戦略コンサルタント。大学卒業後、大手出版社に入社。ビジネス関連の編集・企画に関わる。現在は独立して事務所を設立。経営者、専門家など2000名以上に取材を行ってきた経験を生かして、人材育成や組織開発の支援を行っている 「面倒くさい」「もういいや」……やる気を下げるマインドは誰の心の中にも存在しています。いったいどうすれば、大きくやる気が下がったとき、再び情熱を取り戻すことができるのでしょうか? 『モチベーション下げマンとの戦い方』の著者である経営・組織戦略コンサルタントの西野一輝氏が、自分の仕事にウンザリしてきたときの対策を紹介します。 *  *  *  メーカーでルート営業の仕事を10年以上しているDさん。人事異動もなく、いつも同じ取り組み先に顔を出して、「天気もいいし、会社休んで海でも行きたいですね」とたわいもない話をするだけの毎日。  営業日報には、訪問履歴として「D社訪問、新商品に関する説明」と形式的な内容を記載すれば、上司も了承してくれるといいます。しかも最近はコロナで自宅からリモートで営業を行うので、時間が余って仕方ない状態。勤務時間中も自宅でゲームして時間を消費しているといいます。  現在の報酬に大きな不満はないのですが、仕事を通じて成長が見込めない。このままでは将来の昇給はないかもしれない。いつかクビになるかもしれない。そんな不安も少しはありながら、いまの仕事が楽なのでダラダラと続けている。  Dさんのように、不満や疑問を抱きながら仕事を続けている人は、たくさんいるようです。  運送業の現場に勤務して15年のSさん。深夜の高速を走り、長距離の運送を週に2回行っています。生活が不規則で体調管理が大変。この勤務形態で、あと10年続けたら体壊してしまうのは間違いない。もっと体力的に楽な仕事を探さないとまずいと認識しています。  このように、2人とも働き方を変えた方がいい気がするにもかかわらず、何もアクションを起こさない状況にいます。一方で辞めどきを探っているとも言えます。このような状況ではモチベーションを高めるのは無理です。  まずはダラダラ続けることからの決別が必要です。そのために重要なのは、いまの仕事から離れてみること。可能な限り長く仕事を休み、仕事のことを考えなくてもいい状況をつくってみましょう。いわゆるモラトリアム期間をおいてみるのです。  すると、ダラダラやっていたはずの仕事が愛おしく思えた人。逆に、「こんな仕事はとっとと辞めた方がいい」と、スッキリする人。客観的に判断ができる状況が生まれるのです。  そもそも、モラトリアム期間をつくること自体が大変です。ダラダラとこなしながら、体に染みついているルーティンから離れようとすると、それに抵抗する思考と葛藤が必要になります。  自分が休んだら困る人がいる。代わりに誰がやるのか?上司が嫌な顔する姿をみたくない。こんなふうに、モチベーションが高くないはずの仕事を休むことに抵抗感が出てくるのです。  でも、ここは勇気をもって休んでしまいましょう。しかも、仕事関係のコンタクトと決別してみてください。できるだけ、休んだら会社のメールはみない。連絡もしないで1週間くらい時間の経過を待ってみましょう。すると、自分が客観的にダラダラやっていた仕事がみえてくるはずです。  ちなみに自分もこの取り組みをしたことがあります。ダラダラとやっており「いつまでやるんだ」とモチベーション低くやっていた雑誌の編集業務。上司に相談して1週間の休暇をいただきました。しかも、夏休みとか一斉休暇でなく、他の同僚は勤務している時期に自分的には長期休暇を取りました。  すると、休暇の3日目くらいからは仕事が愛おしく思えてきて、休暇終了後には高いモチベーションで取り組めるように変化していました。  その休暇時期に気付いたのは、自分の仕事はやらされているだけではなかったこと。取材対象を選んだり、原稿を書いたり、自分の裁量で行っている仕事がたくさんあったことに気づきました。さらにいえば、「他にやりたいことは何か」を考えたときに、何も思いつかなかったのです。ほかにも、関わってきたライターの方々との出会いなど仕事を通じて得られていることがたくさんあったにもかかわらず、忙しさに忙殺されて、気付いていなかったのです。  どうしても、長く同じ仕事をしていると閉塞感に陥ったり、他人の芝生が青くみえて、モチベーションを上げづらくなったりしがちです。そうしたときに転職したり、職場を変えたりするなど、環境を変えることが効果的な場合もあります。  ただ、これまでやってきた仕事よりもモチベーションが高い仕事が待っているとは限りません。いったんは客観的にいまの仕事を見つめなおし、モチベーションが高まる可能性を探ってみてはどうでしょうか? ■西野一輝(にしの・かずき)/経営・組織戦略コンサルタント。大学卒業後、大手出版社に入社。ビジネス関連の編集・企画に関わる。現在は独立して事務所を設立。経営者、専門家など2000名以上に取材を行ってきた経験を生かして、人材育成や組織開発の支援を行っている
モチベーション下げマンとの戦い方西野一輝転職
dot. 2021/08/10 08:00
70年代アイドルで闘病生活21年 死去前日までステージで熱唱!! 追悼・本郷直樹さん
70年代アイドルで闘病生活21年 死去前日までステージで熱唱!! 追悼・本郷直樹さん
ディナーショーにゲスト出演した本郷さん/港さん提供 若かりし日の本郷さん/事務所提供  歌手、俳優として50年にわたる芸能活動に幕を閉じた本郷直樹さん(享年70)。日本レコード大賞新人賞を受賞して以降、歌手として、俳優として華やかな道を歩んだが、この20年間は満身創痍(そうい)の状態で大好きな歌に尽くし、亡くなる前日までステージで歌った。 「絶句してしばらく動けなかった」  こう話すのは、本郷さんが新宿・歌舞伎町のホストクラブ「夜の帝王」で芸能部長をしていた1980年代から、“兄貴”と慕う歌手の港あきらさんだ。亡くなる前日の8月1日、歌舞伎町のイベントホールでディナーショーを開き、本郷さんをゲスト歌手として迎えたばかりだったからだ。 「ショーは夕方6時30分から9時までで、兄貴には後半の部で4曲歌っていただきました。最後は北島三郎さんと鳥羽一郎さんのデュエットソング『演歌兄弟』を2人で歌ってフィナーレ。少し痩せた感じはしましたが、声量は以前とさほど変わらなかったのに……」  本郷さんは、ステージには車椅子で登場し、座ったまま熱唱した。  本郷さんのマネジメント業務をサポートしてきたイベント会社・ダイナミックプロモートの仲代祐(なかだいたすく)社長はこう話す。 「実は昨秋、左足の血流が悪くなった揚げ句に、たまたま傷口からバイ菌が入って壊疽(えそ)を起こし、10月に都内の病院で股関節と膝の中間から下を切断したのです。1カ月弱で別のリハビリ病院へ転院し、練馬区の自宅へ帰宅したのは今年1月3日。バツイチ独身ですから、以来、独り暮らしで不自由な身ながら頑張っていたんですよ」  仲代社長は、本郷さんが最初に所属した大手芸能事務所のバーニングプロダクションでもマネジャーを務めており、48年来の“戦友”でもある。  ディナーショーでは左足切断をネタに、「足を切ったおかげで命が助かった。ただ、足を焼くのに3万円もかかったのは痛かったけどね」と冗談を言っていたという。 「『演歌兄弟』を歌った後、何かを託すように2回も手を握ってくれたんです。幾度も歌謡イベントでご一緒してるのに初めてのことでした。予感があったのかなあ」(港さん)  異変を感じていた人もいた。本郷さんが主宰する歌謡教室の元レッスン生で女優でもある前ひろ子さんだ。 「港さんのディナーショーで1曲デュエットしたのですが、事前の音合わせの稽古をおっくうがったのです。6月中旬に心臓と右足のバイパス手術をされ、回復が遅れていて、ダメージが残っているのかと思っていました。人前では弱気なところを見せない方なので、1日のステージでも元気に振る舞っていたものの、袖に引っ込むと疲労困憊(こんぱい)。出番が終わってすぐに帰宅されました」  仲代社長によると、5月に右足に違和感を感じ、6月に板橋区内の病院で検査したところ、左足同様に血流が悪くなっていることが判明。しかも、それが心臓に過大な負担をかけており、左足のバイパス手術の前に心臓の手術をせざるを得なかったそうだ。  本郷さんは福井市生まれ。1971年にオーディション番組でチャンピオンになり、この年に「燃える恋人」(RCA)で歌手デビューした。年末には小柳ルミ子、南沙織らと日本レコード大賞新人賞を受賞。甘いマスクで人気アイドルとなった。  故・坂口良子さんとの共演が話題となったドラマ「アイちゃんが行く!」(73年、フジテレビ系)でブレークすると、80年代以降は主に俳優として活躍。ドラマ「ザ・ハングマン」(テレビ朝日系)、「必殺」(同)、「水戸黄門」(TBS系)といったシリーズドラマの他、映画やVシネマにも多数出演した。  広く活躍していた本郷さんだったが、亡くなるまでの20年間は病気との闘いだった。 「本郷は、2000年10月に脳出血で倒れて約7カ月入院して以来、ずっと闘病生活が続いていたのです。後遺症で左半身がまひしたため、退院直後は歌うどころか、お茶を飲んでも無意識のうちに口からこぼしてしまうこともありました」(仲代社長)  さらに03年8月には重度の腎不全で再び倒れ、それ以降の18年間は週3回の人工透析が欠かせなくなった。加えて胃潰瘍(かいよう)の悪化も追い打ちをかけた。  11年3月、本郷さんが都内・池袋でカラオケパブ「本郷直樹の部屋&パンドラ」をオープンした直後、筆者が取材した際、本郷さんは当時をこう振り返った。 「『本郷はもう終わった』なーんてうわさが業界に流れて仕事がなくなってさ、真剣に自殺を考えた。本当にどん底だったね」  それでも歌うことが大好きで懸命にリハビリに励み、05年には10年ぶりの新曲「心うらはら」をリリースするほど体調が回復した。芸能活動も少しずつ増やした。  13年には、新人歌手発掘に力を注ぐべく、新宿に本郷直樹音楽事務所を立ち上げ、翌14年に都内の昼カラオケ店で歌謡教室を始めた。16年からは別の昼カラオケ店を週に3回借り、店の営業と歌謡教室を切り盛りしてきた。  仲代さんが話す。 「心残りなのが、昨年12月にホテル椿山荘(文京区)で行う予定だった『デビュー50周年記念ディナーショー』が、新型コロナのため延期になってしまったこと。延期決定後に左足を切断せざるを得なくなったのですが、やらせてあげたかった」  大好きな歌をがんばってきただけに、残念でしょうがないという。  本郷さんの遠戚にあたる、人気ラーメン店「なんでんかんでん」の川原ひろし社長は、 「僕が実家のある福岡から上京して芸能活動をしていた時にも、ずいぶんとお世話になりました。亡くなられたのはとても残念ですが、前日までマイクを握っていられたのは本人にとって本望な最後だったように思います」と語った。  偲ぶ会などは新型コロナの感染状況をみて開く時期を決めるという。  心よりご冥福をお祈りいたします。(高鍬真之) ※週刊朝日オンライン限定記事
週刊朝日 2021/08/06 10:08
「戦争の話を聞くのはやめた」 沖縄で“人”を撮り続ける写真家・鷲尾倫夫
米倉昭仁 米倉昭仁
「戦争の話を聞くのはやめた」 沖縄で“人”を撮り続ける写真家・鷲尾倫夫
2011年5月 伊江島 「メシ食ったか」と聞かれ、首を振ると「帰りに寄れ」と家を教わった(撮影:鷲尾倫夫)  写真家・鷲尾倫夫さんの作品展「巡礼の道 オキナワ」が8月3日から東京・半蔵門のJCIIフォトサロンで開催される。鷲尾さんに聞いた。 *   *   *  鷲尾さんが沖縄を撮り始めてから約10年になる。  ただ、それに対する周囲の反応はなかなかビミョーである。 「会社の写真友だちからは『お前、バカじゃないの。行っていくらになるんだ?』と言われる。で、『ぜんぜん、お金にはならないんだ』と。あと『沖縄に行く? ああ、趣味ね』って。でも、やり出しちゃった以上はね」と、苦笑する。  鷲尾さんは長年、報道の世界で名を響かせてきた。写真週刊誌「FOCUS」(新潮社)の創刊から2001年に休刊するまでの20年間、事件や災害の現場を取材するほか、政治家や俳優、スポーツ選手、脚本家など、時代の寵児や著名人を写してきた。  しかし、「FOCUS」時代は沖縄にまったく興味はなかったという。それどころか「『また、沖縄かよ』と。要は沖縄に行くのが嫌だった」。 「沖縄は撮り始める前から20回くらい行っているんです。野球の取材とかで」  当時はフィルムカメラの時代。取材で写したフィルムは那覇空港まで届けて東京に送る必要があった。飛行機の出発時刻とのせめぎ合い。いつも沖縄取材はイライラの連続だった。 「そんなわけで、ぼくは沖縄はダメだったねえ」と、振り返る。2018年6月 喜屋武 糸満市 あいさつすると、返ってくる方言がきつく把握できなかった(撮影:鷲尾倫夫) ■最初は人を撮れずに島を後にした  そんな鷲尾さんが沖縄を撮るようになったきっかけは、11年に那覇市で開催された沖縄を代表する写真家の一人、伊志嶺隆さんの回顧展だった。 「『トークショーをやるから来てくれないか』と言われたんです。伊志嶺さんとはまんざら知らない仲じゃあなからね。トークショーまで2カ月くらい時間があったから沖縄戦の手記も含めて歴史の本を8冊くらい読んだ。そうしたら、(ああ、俺は沖縄のことは何も知らなかったんだ)という気持ちが湧き上がってきた」  新たな気持ちで那覇空港に降り立ったのはトークショーの3日前、年明け間もない1月6日だった。 2018年2月 那覇市 与儀公園で。話の詰まったオジーの語りが身に残っている(撮影:鷲尾倫夫) 「ひめゆりの塔に行って学徒隊の写真を2時間ちかく見たんです。そこに写ったひとり一人対峙した。そうしたら、米軍が上陸した地点から歩いてみるのもいいんじゃないかなと思った。そこからぼくの沖縄が始まった」  そう言って、写真展の図録の表紙をめくる。  船上から写した島の写真。キャプションには「沖縄で初めての一枚」とある。黒い海に白波が砕け、背景には山が連なった島影が見える。上空をどんよりとした雲が覆っている。 「やっぱりね、最初はどうしても暗くなっちゃう。そういうイメージというか」  船で渡ったのは沖縄本島の西に位置する慶良間(けらま)諸島、渡嘉敷島(とかしきじま)。太平洋戦争末期の1945年3月26日、米軍はこの島々に上陸し、沖縄の地上戦が始まった。  島を歩きながら鷲尾さんはいつになく緊張した。ここで戦争体験者を見つけ、話を聞き、写真を撮りたかったのだが、その行為は想像以上に重くのしかかってきた。結局、誰にもレンズを向けることができず、島を後にした。2011年5月 伊江島 「日本から来たのか」と私を見続ける。私も見続け、ゆっくりシャッターを押した(撮影:鷲尾倫夫) ■「大概は『忘れたさ』と言う」  同年5月、今度は沖縄本島の本部半島に近い伊江島を訪れた。そこで畑仕事をするおばあさんと出会い、あいさつをすると、「日本から来たのか?」と言う。  家に招かれ、縁側に腰を下ろし、とりとめもない話をした。しかし、戦争の話を聞こうとすると、口を閉じてしまった。  おばあさんは家の奥に消え、しばらくすると、紅芋も載せた皿を持って戻ってきた。「口に会うかねえ」と、鷲尾さんに差し出すが、手が出ない。すると、おばあさんは目を閉じて、唐突に細い声でしゃべり出した。 <なんでえー、私、生きているさあー、みんな忘れたさあー、人は目をつぶると何も見えなくなるはずなのに私は逆にいろんな物が色付きで甦ってくるさあー。夜空に走る艦砲射撃は花火のようにきれいだったよー、その火が途切れると身を起こし逃げるさあー、目の前には傷つき倒れている人、人で一杯だったよー>(写真展「巡礼の道 オキナワ」解説文、ニコンサロン、2013年) 2013年2月 那覇市 「ここら辺に観光の人は来ないよ」と言われた(撮影:鷲尾倫夫)  しかし、このような体験談を聞くことができたのはごくわずかだった。 「沖縄を撮り始めたとき、おばあさんに戦争のことを聞くわけです。そうすると、『腹が減って』とか、話をする人もいる。でも、大概は『忘れたさ』と言うんです。ぼくにはそれが『嫌だ』と言っているように感じた」  そのことが、すごく頭に引っかかった。 「沖縄戦の手記を読むと証言が断定的に書いてあるじゃないですか。ところが実際に話を聞くと、なんか違う」  なぜそうなのか? 理解できるようになったのは、ある日、衝動的にチビチリガマ(読谷村)という自然洞窟で一晩を過ごしてからだった。 「真っ暗闇のなかで、もう頭の中にいろいろなことが走ったんですけど。あの怖さの中で、ああだった、こうだったという記憶の残り方はしない、ということがわかったんです。そこで、自分が変わったというか、沖縄の見え方が変わった。それから戦争の話は一切聞かなくなった」2015年5月 喜屋武 糸満市 ハーレー(ボート)競技に夢中のオバー(撮影:鷲尾倫夫) ■「ぼくみたいな嫌なジジイはいない」  撮影のテーマを戦争体験者から沖縄の日常に切り替えた。 「その写真で何か、沖縄を語れないかと。そう思ったらアメリカ兵だろうが平気でね、撮れるんですよ。すると、日本はすごくいい、だから息子を向こうに帰したくないとか、そういう話も出てくる。カメラはね、そういう道具なんですよ」  路線バスに乗ってさまざまな場所を訪れた。「ここら辺には観光の人は来ないよ」と、おじいさんに言われつつ、その姿をカメラに収めた。「一杯飲め」と缶ビールを差し出され、足が止まったこともある。  よそ者である鷲尾さんにうさんくさそうな視線を向ける人もいた。それも沖縄の一面。シャッターを切った。  現地で知り合った人と沖縄について真剣に話をすることもあった。  そこで、「ぼくみたいな嫌なジジイはいないと思うんですよ」と、自らを毒づく。 「どのへんがですか?」と、問うと、「はっきりとものを言うからね。沖縄では嫌われますよ」。  しばし、鷲尾さんが体験したリアルな沖縄の話に耳を傾ける。どれも報道では伝えられないことばかりだ。 「だから、沖縄は難しいね」  そう言いつつも、鷲尾さんは「沖縄からはほんとうに学びましたよ」と繰り返す。 「人としての心遣い、相手に対する思いやり、やさしさ。そういったものを持ち合わせないと写真は撮れないんだな、ということ。だから、撮らせてもらうという、気持ちでカメラを差し向けないといけない。そこでいかに大事なものを切り取って持ってこられるか、ということなんです」 (文・アサヒカメラ 米倉昭仁) 【MEMO】鷲尾倫夫写真展「巡礼の道 オキナワ」 JCIIフォトサロン 8月3日~8月29日
JCIIフォトサロンアサヒカメラ写真家写真展巡礼の道 オキナワ鷲尾倫夫
dot. 2021/08/02 17:00
末っ子の「お言葉」が背中を押した、夫婦関係と「開かずの間」のビフォー・アフター
西崎彩智 西崎彩智
末っ子の「お言葉」が背中を押した、夫婦関係と「開かずの間」のビフォー・アフター
お酒や本の箱、使わなくなったベビーラックや荷物でいっぱいの「開かずの間」/Before  5000件に及ぶ片づけ相談の経験と心理学をもとに作り上げたオリジナルメソッドで、汚部屋に悩む女性たちの「片づけの習慣化」をサポートする西崎彩智(にしざき・さち)さん。募集のたびに満員御礼の講座「家庭力アッププロジェクト®」を主宰する彼女が、片づけられない女性たちのヨモヤマ話や奮闘記を交えながら、リバウンドしない片づけの考え方をお伝えします。*  *  *case.5家族を巻き込んで「ママだけが頑張らない」を実践できた夫+子ども3人/システムエンジニア 3人の子どもを育てるシステムエンジニアの女性は、もともとは片づけられる人でした。家庭力アッププロジェクトに参加中も、障害対応で夜遅くまで働く日があったくらいハードな仕事に就いていますが、ご両親や妹が遊びに来たら気軽に泊まってもらえる、いつでも「どうぞ」と言える家をキープしていたのです。 うまくいかなくなったのは、夫婦の信頼関係が揺らぐ出来事が起こってから。子どもたちのために部屋を整えなきゃ……とわかっているのに頑張れない。気力が湧かない。前はどうやってこなしていたのか、わからなくなっていました。 そしてコロナ禍。家の居心地の悪さを見て見ぬふりすることはできなくなりました。足の踏み場もない洋室、別名「開かずの間」もずっとストレスでした。本当は、巣立った上の子がふらっと帰りたくなるような家にしたい。プロジェクトを知って昨年の秋、家と向き合う覚悟を決めたのでした。 忙しい彼女には家族の協力が必要でした。しかしどこのご家庭もそうですが、ママが「片づけるよ!」と言ったところで家族は動いてくれません。彼女はプロジェクトで教わった通り、まずは一人で不用品を処分し片づけを続けました。 家族を巻き込むための地ならしとして、自分自身が有言実行する姿を見せるのです。するとの“一人片づけキャンペーン“に感心した小学生の末っ子が味方についてくれました。  末っ子は、女性の良きメンターになりました。毎日の成果を評価しつつ、子どもらしく残酷なまでに正直で愛情たっぷりのフィードバックをくれるのです。彼女は弾みをつけようと、講座の受講生グループへの日々の報告に「末っ子のお言葉」を添えました。 玄関を片づけた日の“お言葉”です。【本日の末っ子のお言葉】スッキリ片づいて良い気持ち!お部屋がまだまだだけどね!(←分かってますよー…;)【本日の末っ子のお言葉】ボクは真っ白な気持ちでやってるからさ、使いやすいかどうかは聞いて。ダメだったらダメー!って言うからね 末っ子は彼女を励ますだけではなく、時にはごみ捨て、お風呂掃除、不用品の仕分けを手伝ってくれました。 化粧品を片づける日は彼女のマニキュアにお言葉。【今日の末っ子のお言葉】マニキュア、もっと捨てたらいいじゃん。ボク、ママがあんまり使ってないやつ分かるから、捨てていいやつ選んであげる。(確かに!良く見てるな;…コワイ) やがて、ママと末っ子の奮闘ぶりを見ていた真ん中の子が、自分から片づけに参加するようになりました。期末テストが終わった日はカオスだった自分の部屋を片づけ、不用品のごみ袋をいくつも捨ててくれました。 夫はどうでしょう?実は夫は、家族の片づけになじめないでいました。使用期限が10年前のコンタクトレンズを「えー。もったいない」と処分できず、妻が片づけする日は、「じゃあウオーキングがてら夕飯の買い物行ってくる。何が必要?」と理由を作っては逃げ出していたのです。片づけたくないわけじゃないけど、なんで今?ってご様子。 でも女性はあきらめることなく、プロジェクトで教わったコミュニケーションを実践しました。責めずに感情を伝える、相手に選択してもらう、感謝を伝えるなどあの手この手で。言うだけではありません。夫の行動を観察して理解し、彼の物を捨てなくてはならない時は気持ちを尊重しました。 「開かずの間」は生まれ変わって真ん中の子の部屋になりました/After  ついに、夫が動きだしました。彼の片づけスイッチが自発的に入った休日は、負けていられないと朝から晩まで頑張り、そんな夫婦を末っ子も応援してくれました。【本日の末っ子のお言葉】とうとうボクの出番だね。ママとパパが疲れたらマッサージしてあげる(片づけないんかーい!) そして見事、全部屋コンプリート!一番の難所だった「開かずの間」はスッキリと床が見えて、真ん中の子の部屋になりました。 12月中旬、家のリセット後、初めて上の子が帰ってくる日。ひそかな目標として「上の子が帰りたくなる実家」を掲げていた女性はドキドキです。 家に入ると、「スゲー!どうやったの?」と驚きの声。末っ子がすかさず「ママがね~、めっちゃがんばったんだよ」と報告してくれました。「お母さんも家が片づいて気持ちがスッキリしたでしょ。あとはダイエットだな」と言われつつ、みんなで上の子が作ったご飯を愉しみ、広くなったリビングでゴロゴロして、床暖房を堪能。「床暖ってさ、きれいなお部屋だとあったかいところいっぱいあるんだよ。散らかってると物が邪魔で、あったかいところ少ないんだよね~」(末っ子)。くつろぎながら久しぶりのきょうだいの時間を過ごしたのでした。                               上の子はリセットされた実家で充電できたのか、「正月三が日はこっちに泊まるよ。やっぱり実家が落ち着くし、過ごしやすくなったしね」と言って、帰っていきました。 女性が一番望んでいたことがかないました。年末年始は、家族で穏やかに過ごしたそうです。 自信を取り戻した女性は今、ビフォー/アフターからさらに進化したアフターの毎日を楽しんでいます。和室にはフローリングを貼り、これまで入ってほしくても入ってもらえなかった業者さんにキッチンとお風呂の換気扇の大掃除を頼みました。 好きな本をしまう棚も入れ替え、自分の人生をもっと大切にしていく準備が整ったところです。◯西崎彩智(にしざき・さち)/1967年生まれ。お片づけ習慣化コンサルタント、Homeport 代表取締役。片づけ・自分の人生・夫婦間のコミュニケーションを軸に、ママたちが自分らしくご機嫌な毎日を送るための「家庭力アッププロジェクト®」や、子どもたちが片づけを通して”生きる力”を養える「親子deお片づけ」を主宰。ラジオ大阪「西崎彩智の家庭力アッププロジェクト」(第1・3土曜日夕方)が2021年5月1日からスタート。フジテレビ「ノンストップ」などのメディアにも出演※AERAオンライン限定記事
※AERAオンライン記事
AERA 2021/08/02 07:00
俳優の中川大志が内村光良を「より一層、尊敬してしまった」瞬間とは?
俳優の中川大志が内村光良を「より一層、尊敬してしまった」瞬間とは?
中川大志さん(写真=事務所提供)  内村は過去の実績を語ろうとはしない。そもそも過去に興味がないため、ことさら振り返ることもないという。  理想の上司ランキング、男性部門で5年連続1位のウッチャンこと内村光良の“上司力”に迫った書籍『チームが自ずと動き出す 内村光良リーダー論』(朝日新聞出版)。関係者への取材を重ねた著者の畑中翔太が、リーダー内村を分析する本連載。  第17回目のテーマは「過去の話はしない」。 *  *  *  内村は「むかし俺はこんなことをした」「あの時代はこうだった」といった、よくある自慢話をしない。そもそも過去の自分を語るということをあまりしない。    そのため、内村と仕事をともにする若手俳優や若手タレントの中には、内村の過去の実績を知らない人間も多いという。  NHK『LIFE! 』で内村とともにコントに挑戦し、『夜の連続テレビ小説 うっちゃん』で若かりし頃の内村光良役を演じた俳優の中川大志氏も、やはり生まれる前の内村の活躍をリアルタイムでは知らなかった一人。  演じるにあたり内村の経歴をあらためて調べ、「こんなにすごい方だったのか!」と瞠目(どうもく)したという。 「たまたま飲み屋で出会った人と仲良くなって、大好きになったら、その人が帰った後に、実は大スターだったことを知るみたいな感じです(笑)。もちろん以前から尊敬はしているんですが、内村さん自身、過去のことをまったくお話にならないので……過去の実績をおくびにも出さなかったことも含めて、かっこいいというか、知ってしまったらより一層尊敬してしまいますよね」    リーダーに選出された者たちであれば、きっと周りに伝えたくなる経歴を数々手にして いることだろう。「会社一の売り上げを達成した」「大ヒット商品をつくった」「たくさんの賞をもらった」などの実績を買われ、リーダーの座を託されているのではなかろうか。    だがこの記事を読んでいる皆さんには、請われないかぎりは、いや、請われても、自分から「過去」に言及する行為は止めることを提案したい。    人は年齢を重ねるにつれ、若い世代に対して、ついつい「過去」を語ってしまいがちになる。生きている年数に比例して経験は増すからただでさえ語れるエピソード量は増えていくし、せめて自慢話はしないよう留意していても、良かれと思って、「自分の失敗談を、若い世代の参考にしてほしい」と披露してしまう。だがそれも、時代が違えば参考にならないことも多く、失敗談に「大変だった自慢」の側面があることは否めない。    そして昔語りが出てしまう背景に、自分という存在を見直してほしい、もっと敬意を示してほしい、という欲求がないとは言えないだろう。    だが仕事関係において、相手の尊敬や信頼を勝ち取るために、過去の実績や功績を振りかざすことは、表面的で、かつ一時的な効果しか生み出さない。なぜなら、あなたがかつてどのような成果を挙げてきたか、あなたが以前いかに激務を乗り越えてきたかは、いま仕事を共にする、目の前にいる人々には関係がなく、実力のメッキは現在のパフォーマンス次第ですぐにはがれてしまうからだ。 『LIFE!』の総合演出・西川毅氏が、内村が過去の実績に関心がなく自分から語ろうとしない理由を推察してくれた。 「最近思うのは、これだけいろんな良いコントを撮ってきても、過去が本当に意味をなさないんですよね。今この瞬間におもしろいことをできないと、つまらないと判断される仕事なので。内村さんもそういう過去の栄光が今の自分に対して何の働きもなさないっていうことを、本当の意味で理解されているんではないでしょうか」  お笑いの世界は、他の仕事よりもとくに「過去」が意味を持たない世界なのだとは思う。一方、一般企業では、過去の実績がものを言うこともある。しかし、それは本質的な意味をなさないことが多いのではないだろうか。    おそらく、それはいかなる世界、業界でも同じ。過去にどれほど功績があろうと、“現時点での能力”がリーダーにふさわしいものと認められなければ、本当の意味での尊敬の対象にはなりえない。    女優・木村多江氏は、「過去」は「肩書」とも結びつくとしたうえで、内村をこのようにたたえた。 「人は肩書に左右されがちです。先生と呼ばれたら先生ぽくなったり、社長と呼ばれたら社長ぽくなったり。内村さんは常に『肩書がない自分』を磨こうとしている気がします。過去の実績がつくった肩書があってもそれに乗っからず、いつも裸のままの内村光良で頑張るんだ! と」    リーダーは部下と向き合うとき、「過去」の自分という幻影をまとわずに、常に「現在進行形」の自分でぶつかり合うべきなのだ。   「内村さんは過去に興味がない。そんなことより、新しいことをやっていこうとする。だから賞味期限が切れない感があるのではないでしょうか。常にアップデートされて、新しいことに挑戦しているから、いつまでも現役でいられるんでしょうね」(『スカッとジャパン』総合演出・木月洋介氏)    このように、「過去の功績を忘れること」は、「自己成長を追い求める」マインドサイクルを育てるために極めて重要なスタンスであり、人生100年時代において、「生涯現役」を目指すビジネスパーソンたちが参考にすべきヒントがここにあるといえよう。 ●畑中翔太(はたなか・しょうた) 博報堂ケトルクリエイティブディレクター。アクティベーション領域を軸に手段とアプローチを選ばないプランニングで、「人を動かす」統合キャンペーンを数多く手掛ける。 これまでに国内外の150以上のアワードを受賞。Cannes Lions 2018 Direct部門審査員。2018年クリエイター・オブ・ザ・イヤー メダリスト。
LIFE!リーダー論中川大志内村光良
dot. 2021/07/27 11:30
7月27日発売のAERAの巻頭特集は「50歳からの生き方戦略100」。「仕事」「家族・友達」「健康」「お金」のジャンルで超具体的アドバイスを掲載
7月27日発売のAERAの巻頭特集は「50歳からの生き方戦略100」。「仕事」「家族・友達」「健康」「お金」のジャンルで超具体的アドバイスを掲載
AERA8月2日号 表紙は塩野瑛久さん! ※アマゾンで予約受付中  オリンピック・パラリンピックを開催中の期間限定で、火曜日発売となるAERA。7月27日火曜日発売のAERA 8月2日号は、巻頭で「50歳からの生き方戦略100」を特集しました。人生100年時代といわれるいま、50歳は人生の折り返し地点。後半の50年のクオリティー を高めるには、早めの準備や発想の転換が必要です。特集では「仕事」「家族・友達」「健康」「お金」の4ジャンルについて、どのような戦略を立てるべきなのかを取材。超具体的かつ実践的なアドバイスに落とし込みました。この号の表紙は俳優の塩野瑛久さん。俳優生活10年目に踏み出した新たな一歩についてのインタビューはファンならずとも必読です。ついに開幕した東京五輪、6年ぶりにアイスショー「ドリーム・オン・アイス」に出演した羽生結弦選手についての記事も掲載しています。 「50歳からの生き方戦略」と聞いて、「自分は30代だから関係ない」「まだ40代だから10年後の話」と思う方もいらっしゃるかもしれません。でも、「戦略」を実行に移すには準備期間が必要です。そして、準備をするなら何事も、早く始めたほうがいいことは間違いありません。7月27日発売のAERA 8月2日号の巻頭特集は、生き方戦略を「仕事」「家族・友達」「健康」「お金」の4ジャンルに分けて、徹底取材。全部で100の具体的なアドバイスを掲載しています。  役職定年で年収が下がったり、関連会社に出向になったり。仕事上の大きな変化に直面する50代は少なくありません。「過去の実績は忘れる」「あれもこれも手を出さない」を念頭に置く必要があります。「仕事(会社)以外の日常を確保」して「定年後の青春コンセプトを描く」。そうでなければ、退職後の人生を楽しむことはできません。家族や友達との関係性においても、「家族との時間を増やし、大切にする」「地域に密着した人間関係を増やしていく」など、会社以外の居場所を増やしていきましょう。「認知症リスクを高める徹夜」や「寿命を縮める『社会的孤立』」を避けることも重要。100のアドバイスをカスタマイズして、あなた自身の戦略を立ててください。 『50代からの人生戦略』の著者で積極的消極主義を勧める作家で元外務省主任分析官の佐藤優さんや、50歳で家族とともにロンドンに移住したミュージシャンの布袋寅泰さん、「50歳でミュージカルをやりたい」という夢を口に出し続けて実現させた映画コメンテーターのLiLiCoさんのインタビューも掲載しています。  この号の表紙は、俳優の塩野瑛久さん。ジュノン・スーパーボーイ・コンテスト審査員特別賞・AOKI賞を経て、17歳で俳優デビューした塩野さんは、今年、俳優生活10年目を迎えます。戦隊ものなどへの出演で注目される一方で、「もっと俳優として認められたい」という思いを抱き、本当の自分を出せずにいたという塩野さん。3ページにわたるカラーグラビア&インタビューでは、そこからの脱却、踏み出した一歩、これからの自分自身などについて、率直に語っています。撮影はもちろん、蜷川実花です。  ついに開幕した東京五輪では、バルセロナ五輪銀メダリストの元マラソン選手、有森裕子さんと、まもなく公開される映画「東京オリンピック2017 都営霞ケ丘アパート」の監督 青山真也さんが、それぞれの視点で開会式について語るインタビューを掲載しているほか、ソフトボールの元日本代表監督・宇津木妙子さんと、北京五輪の4番・馬渕智子さんが、北京での金メダルの舞台裏や、上野由岐子選手が13年たっても活躍できる理由を語り合う対談を実現。今回の五輪から採用された新競技で「初代覇者」を狙う5人、リベンジを期す瀬戸大也選手の体を作る「勝負レシピ」なども取材しました。  6年ぶりにアイスショー「ドリーム・オン・アイス」に出演した羽生結弦選手の滑りにも注目。朝日新聞のフィギュア担当記者が現地を取材し、6年ぶりの出演を後押ししたファンの存在、4回転半や北京五輪への思いについて聞いています。  ほかにも、 ・子どものワクチン接種「詳細解説」 ・コロナ休校の影響「4000人の親」調査 ・たった一人の女性の肖像500枚の写真展 ・柳楽優弥×有村架純「映画 太陽の子」と三浦春馬との日々 ・「ネコのひげ入れ」「超速乾ボールペン」欲しい人には刺さるんです ・トランプ前大統領「再始動」でアメリカに新たな危機  などの記事を掲載しています。 AERA(アエラ)2021年8月2日号 定価:440円(本体400円+税10%) 発売日:2021年7月27日(火曜日) https://www.amazon.co.jp/dp/B0973J7BVY
dot. 2021/07/26 11:15
東京五輪開催も菅官邸はガバナンス崩壊 中山防衛副大臣が“炎上”の元凶
東京五輪開催も菅官邸はガバナンス崩壊 中山防衛副大臣が“炎上”の元凶
IOCのバッハ会長と菅首相 中山防衛副大臣の問題になったツイート  菅政権のガバナンスが崩壊しつつある。  東京五輪の開閉会式の制作チームで「ショーディレクター」を務めていた小林賢太郎氏がホロコースト(ユダヤ人大量虐殺)を揶揄するネタを理由に解任された問題で、政府のちぐはぐな対応が混乱と炎上に拍車をかけたというのだ。 「防衛副大臣たる立場の人間がプロセスを経ることなく、米国のいち民間団体に直接報告したとわかり、官邸に大きな衝撃が走りました。ただ一方で、菅政権のガバナンスそのものに関わる問題ですから、あまり触らず、ことを大きくしたくない、というのがホンネと思います」(政府関係者)  中山泰秀防衛副大臣は22日午前2時ごろ、米国のユダヤ人人権団体「サイモン・ウィーゼンタール・センター」側と小林氏の件で連絡をとったことを自身のツイッターで明かしていた。  小林氏の過去の表現を指摘するフォロワーの「中山防衛副大臣に相談させて頂きました。すぐにご対応くださるとのことです」という投稿に対し、中山氏は「早速サイモン・ウィーゼンタール・センターと連絡を取り合い、お話をしました」などと記している。前出の政府関係者がこう話す。 「中山副大臣は政府の一員なのですから、深夜に独自で米国の団体に連絡するという対応はおかしいし、防衛副大臣の仕事ではない。まずは国内でどう対応するか、政府内で協議することが先のはずです。中山副大臣がこうした動きをしていたことは、官邸は事後に把握しました。大会組織委からの情報で政府も早朝には小林氏の問題を把握しましたが、結果的に中山副大臣のダイレクトな動きが、混乱と炎上を招いたことは間違いありません」  東京五輪・パラリンピックの組織委員会の橋本聖子会長は22日の会見で記者から「中山副大臣からの指摘か」と問われ、「違います」と否定していた。さらに橋本会長は「情報共有を図っていかなければいけない問題だったと思う」と語っていた。 「中山副大臣は自分が通報する以前から団体は抗議をする用意をしていた、という説明をしていますが、政府が問題を把握したのは22日早朝でした。一方で中山副大臣が団体とやりとりをしたのはツイッター記載のとおり22日未明で、別の動きです。中山副大臣と政府、組織委が先に情報を共有できていれば、ユダヤ系人権団体へも政府としてもっと早く誠実に対応ができ、結果は小林氏の解任であったとしても、情勢はここまで悪化しなかったと思います。政府内の統制がとれず、ガバナンスが崩壊していることを露呈しました」(同前)  小林氏に限らず、ミュージシャン・小山田圭吾氏、絵本作家・のぶみ氏と、東京五輪・パラリンピック関連イベントにかかわるクリエイターの離脱が相次いでいる。  組織委の武藤敏郎事務総長は「任命責任はあるが、我々が一人一人を選んだわけではなかった」などと釈明。今回の騒動は「電通など大手広告代理店へ全て丸投げしているツケです」(組織委関係者)という。 「実際、小林氏を起用したのは、タレントの渡辺直美の『オリンピッグ』案で解任された“クリエイターの天皇”と呼ばれる元電通の佐々木宏氏。小山田氏も佐々木氏とのつながりで起用されたと聞いています。そもそも五輪という国際イベントで障害者への差別、ホロコーストなど絶対にご法度なのにどんな身体検査をして起用したのか。広告代理店に丸投げした組織委はもとより、官邸のリスク管理の甘さが露呈しました」(同前)  東京五輪という世界中が注目する大舞台で不祥事が相次いだ上、都内の感染拡大が止まらない。  21日にあった東京都のモニタリング会議では1週間平均の新規感染者数は8月上旬には第3波を上回る約2600人になるとの予測が示された。感染力の強いデルタ株の割合も3割に到達し、増加ペースがさらに増すと、「2週間を待たずに第3波をはるかに超える危機的な感染状況になる」と専門家は予測している。連日、選手村からも感染者が相次ぎ、下手すれば、五輪の中止も危惧されている。 「そもそも菅首相自身が周囲の意見を聞かず、解散総選挙と支持率upのため、強引に五輪開催を決めて、突き進んだ結果が今の惨状です。都合のいい時だけ『挑戦するのが政府の役割』、都合が悪くなると『私は五輪主催者ではない』ですからね。五輪の言い出しっぺの安倍前首相も開会式を欠席してしまった。菅首相は完全に孤立しています」(自民党関係者)  東京五輪開催がこれ以上、日本にとって「黒歴史」にならぬよう祈るばかりだ。 (AERAdot.取材班)
東京五輪
dot. 2021/07/23 14:00
五輪の強行開催にはらむ「グロテスクな矛盾」とは? 武田砂鉄×安田菜津紀
五輪の強行開催にはらむ「グロテスクな矛盾」とは? 武田砂鉄×安田菜津紀
これから始まるスポーツの祭典。華々しさに覆われて、根底にある大事な問題を忘れてはいけない(撮影/写真部・張溢文 フォトジャーナリスト 安田菜津紀さん(34、左):1987年生まれ。NPO法人「Dialogue for People」副代表。著書に『写真で伝える仕事』など/フリーライター 武田砂鉄さん(38):1982年生まれ。著書に『わかりやすさの罪』『偉い人ほどすぐ逃げる』『マチズモを削り取れ』など[写真/大野洋介(安田さん)、岡田晃奈(武田さん)]  緊急事態宣言下で東京オリンピックが開幕する。感染拡大防止と五輪開催という矛盾。私たちはこの五輪をどう捉え、今後にどう生かせばいいのだろうか。AERA 2021年7月26日号で、フリーライターの武田砂鉄さんと、フォトジャーナリストの安田菜津紀の二人が語り合った。 *  *  * 武田:空気は確実に変わっています。夜のテレビニュースなんて顕著ですね。「果たしてこのような感染状況でオリンピックができるんでしょうか」と言いながらニュースを続けた後、「大谷翔平選手がホームランです」と大谷選手の活躍を挟み、その後にオリンピック関連のスポーツニュースに続ける。6:1:3くらいの編成です。 安田:大谷選手が、クッション代わりにされているということですね(笑)。 武田:オリンピック本番になったら、この順番が、オリンピックすごかった→大谷ホームラン→コロナ心配です、という流れになるんでしょうか。メディアの役割が今こそ問われています。メディアが「もう反対しても始まっちゃうから無理だよね感」を出しているというのはいただけません。 安田:順番を小手先で変えながらも、オリンピックのメダルの数と重症者の数を報道するというのは、ある種グロテスクな世界だと思いますが、そのことにメディアが加担してしまうという問題があるんですよね。  コロナ禍前から私はオリンピックには否定的だったのですが、大きな理由の一つとして、足元で外国籍の人たちを虐待している国で本当にオリンピックやるんですかということです。3月6日にスリランカ出身のウィシュマ・サンダマリさんが名古屋出入国在留管理局で亡くなられましたが、まったく真相解明ができていません。これまでにも2007年から17人が入管の収容施設で亡くなっているんです。うち5人は自殺です。それなのに、一回もまっとうな検証ができていない。  国の施設で人が亡くなるということは国の責任なわけです。国の責任で亡くなった方のご遺族が5月1日に来られた時は、自主隔離ですが2週間待機しました。一日でもはやくご家族としてはウィシュマさんのご遺体に会いたいのに。一方、今回オリンピックの選手は事実上2週間の待機が免除になりました。この理不尽な差異というのはなんだろうか。これだけ人権侵害をしておきながら、オリンピックのためにどうぞ関係者の方々来てください、難民選手団も受け入れますって、華々しいところだけは多様性を掲げている。すごい矛盾だと思うんです。挙げていけばきりがないですが、そのグロテスクさというものにメディアも敏感にならなければいけないと思います。 武田:7月23日に「東京オリンピック2017 都営霞ケ丘アパート」という映画が公開になります。国立競技場の隣にあった都営霞ケ丘アパートに住む人々を追ったドキュメンタリーですが、新国立競技場をつくるから出てってくれと言われた人たちは、何十年もそこに住み、住民同士で助け合いながら小さなコミュニティーを守り抜いてきた。そういう場所を「でっかいお祭りやるのでアパート潰します」と一方的に通達して追い出した。こういった無慈悲な行為を改めて考える必要がある。 ■「復興五輪」名目が奇妙 武田:「復興五輪」という名目自体、奇妙です。東北が復興するためには東北にお金をかけなければいけない。東京でお金をかけたお祭りをやるので、東北の人たち、それで元気になってください、というのはおかしい。オリンピック開幕というスタート地点に強引にたどり着くまでに、どういった強引な動きがあったのか、誰がどう痛んできたのかを振り返らないといけない。この10年、東日本大震災があって、長期政権が続き、コロナ禍になった。人の営みがガリガリと削られていると感じることばかりでした。 安田:オリンピック招致が決まった時に、家族の縁で通っている岩手県陸前高田市の仮設住宅にいたんです。ちょうどそのニュースを仮設住宅で暮らしている人と見ていたのですが、ある年配のおばあちゃんが「オリンピックなんて外国のことみたい」っておっしゃったんです。その言葉がすごく象徴的で。誰の何を置き去りにしてまでこのオリンピックをやるのかということが浮き彫りになった言葉だと思いました。 武田:どうしてもやりたいんだったら、「いろいろ無茶だってわかってるけど、オレ、どうしてもやりたいんだ」って言った上で、反論を受け付けるならばまだいいと思う。そういうことさえしないわけです。安倍(晋三)さんと菅(義偉)さんの共通点だと思っているのは、とにかく一問でも少なく質疑応答を終わらせたいという姿勢です。ぶら下がり取材でも、自分の話が終わるか終わらないかのタイミングで、体を90度曲げて立ち去る。その反射神経はなかなかのものです。 ■メディアの切り込み力 安田:「更問(さらとい)に答えてください」という記者からの要望もガン無視したり、結局答えをはぐらかしたもん勝ち、という状況ですよね。記者クラブ側も許してしまっているという面では、メディアの問題でもあると思います。 武田:菅首相は、10の質問を受けるより9の方がいいし、8の方がいいし、できれば3に済ませたいという考え方です。「オレ、やりたい」って言うんだったら、10を20や30にして、その質問に答えた上でやりたいことを敢行するというなら、まだわかる。それをしないで、とにかく逃げ切ることで大きなことをやろうとしている。これが不信感の増大に繋がるんです。 安田:今日話していることって、そもそも政権や組織委員会が人間を大事にできていないよねってことだったと思うんです。ウィシュマさんのこともそうですし、赤木ファイルにしてもそうです。人が亡くなっているのにもかかわらず、真相の鍵となるものを開示してこなかった。オリンピックで関連することであれば、長年住んだ場所を追われてコミュニティーがバラバラにされてしまう人たちがいる。  このオリンピックの正当性を担保するためにアスリートが引き合いに出されていましたが、人間を大事にできない政権や組織にアスリートを大事にできるわけがないと思うんです。単なる建前にされているのがそういう姿勢の中だけでもわかりますし、それはアスリートの尊厳も傷つけることだと思うんです。「アスリートに罪はない」「アスリートのために」という言葉に惑わされがちだと思いますが、それって本当にアスリートのことも考えているのでしょうか。  アスリートのためにという強く響くパワーワードに惑わされないこと、その言葉の裏側に何を彼らははぐらかしたいのかということまで目を向けること、まさにメディアの切り込み力が問われることだと思いますが、情報の受け手としても強く響く言葉にこそ、注意深くいるべきだと思います。 武田:オリンピックというのは成功・失敗の判断基準があるわけではない。開催した人が成功しました、って言えば成功になってしまう。オリンピックを開催することで、積み上がった諸問題をなかったことにしたいという思いがあるのは明らかです。今後も、大阪・関西万博だのリニア開通だの、ビッグビジネスが続く。大きなことで、未解決の問題を漂白してしまおうとする国の体質があります。 ■問題の再陳列が大事 武田:だからこそ、オリンピック終了後に、問題を再陳列する行為が大事になってくるのではないかと思っています。「ところで、東京五輪招致を巡って問題になった、あの2億数千万円のペーパーカンパニーへの賄賂疑惑はどうなったのか」って聞けばいい。「ところで、なんでこれだけお金かかったんですか」「ところで、福島原発はアンダーコントロールされているってあの時点で言ったの、嘘でしたよね」って問えばいい。これはオリンピックだけじゃなくて、どんな社会問題であっても同じことだと思います。「華々しいお祭りをやって、根底にあった問題を忘れる」、これを繰り返しては絶対にいけないのです。 (構成/編集部・三島恵美子) ※AERA 2021年7月26日号より抜粋
東京五輪
AERA 2021/07/22 11:30
ファイザーとモデルナの差は?コロナワクチン副反応で知っておくべきこと
ファイザーとモデルナの差は?コロナワクチン副反応で知っておくべきこと
供給量に不安は残るが、64歳以下のコロナワクチン接種が本格化している(GettyImages)  供給量に不安が残るものの、自治体や職場などで64歳以下のコロナワクチン接種が進んでいる。ワクチン接種を予定している、あるいは検討している人も多いだろう。そこで気になるのは「副反応」である。今回はファイザー、モデルナそれぞれの副反応の特徴や、現状の日本における接種状況の課題、知っておくべき世界の状況について解説する。(ナビタスクリニック理事長、医師 久住英二) ■接種後の心筋炎、今後は増える!?発症は20歳前後の男性が最頻  海外でも報告されていた新型コロナワクチン接種後の「心筋炎」や「心膜炎」(心臓の筋肉や膜に炎症が起きるもの)について、厚労省が国内での発生状況を公表した。  報道によれば、6月27日までの接種で、ファイザー製では約2624万人中19人(100万接種あたり0.72人)に、モデルナ製では約94万人中1人(100万接種あたり1.06人)に、心筋炎・心膜炎の症状が報告されている。うち40歳未満の男性が7人という。  心筋炎といえば、今年3月には俳優の志尊淳さんが発症し、3週間休業したことも話題となった。仕事や学業、そして家族のためにも接種を受けたいと思っていた働き盛りの若い男性にとって、気がかりなポイントだろう。  米国疾病対策センター(CDC) の最新の報告では、接種後の心筋炎・心膜炎は、ファイザーとモデルナおしなべて100万接種あたり12.6人に発生。いずれも10代後半~20代(最頻は20歳前後)の男性、2回目接種から2日前後(~4日)に多く見られ、男性が女性の8倍以上となっている。  データからも分かるように国内での発生率は、現時点では米国より大幅に低くなっている。ただ今後、若者への接種が進めば、発生率は米国に近づく可能性がある。国内でこれまでに2回接種が完了しているのは、64歳以下の合計でわずか66.4万人(内閣官房、7月7日時点)。接種後に心筋炎・心膜炎を発症しやすい10~20代にいたっては、微々たるものだからだ。  それでも、ワクチン接種を受けるメリットを脅かすことにはならないだろう。米国CDCによれば、6月11日までに心筋炎や心膜炎の症状が確認された患者323人のうち、309人が入院後すでに退院しており、9人が入院中、14人は入院もしていなかった。  国内で接種後に胸の痛みや呼吸困難、脈拍の乱れを感じた場合は、すぐに受診していただきたい。接種後に発症した場合にも、迅速に適切な治療を受けられれば、大事には至らずに済むはずだ。 ■接種後に起こる副反応 ファイザーとモデルナで差はあるのか?  徐々に国内の世代の接種も進みつつある中で、「ファイザーとモデルナの違いが気になる」という声も聞く。  両方とも同じmRNAワクチンだ。どちらも発症と感染をそれぞれ90%以上予防し※、さまざまな変異株でも有効性が確認されつつある。心筋炎を含む安全性も、世界保健機関(WHO)の国際諮問委員会(GACVS)のお墨付きだ。 ※2回接種の場合。1回接種でもある程度免疫はつくが、『Nature』誌によれば、インドから広まったデルタ株では2回完了しないと効果が期待できない。遅れてでも2回目の接種を受けてほしい。  副反応に関しては、どちらのワクチンでも重篤なものは非常にまれだが、細かく見れば頻度に多少の違いはある。  心筋炎・心膜炎だと、米国ではモデルナ接種者の方が高率で発生している。2回目接種後、ファイザーは100万接種当たり8人、モデルナは19.8人だ。国内でも、発生頻度はモデルナがやや高い。  さらに、「モデルナ・アーム」という症状を聞いたことがあるかもしれない。モデルナ製ワクチンでまれに、接種部位の腫れがやや長びくものだ。接種から1週間以上たって腫れてきて、多くは4~5日(長いと3週間)で自然に治まる。  およそ1万5000人に接種が行われた臨床試験(プラセボを含めると参加者3万人超)では、初回接種後に244人、2回目接種後に68人にモデルナ・アームが認められた。他の報告を複数見ても圧倒的に女性に多いが、入院が必要なほどの症例はない。  他方、アナフィラキシーの発生率はファイザーが上回る。  アナフィラキシーは、mRNAワクチンに含まれる成分への強いアレルギー反応で、接種後15分前後で全身のかゆみ、じんましん、動悸(どうき)や血圧低下などが表れる。米国では、ファイザーは100万接種当たり11.1例、モデルナでは2.5例と、約4倍の差が見られた。  国内では、メーカーおよび医療機関からの報告を厚労省の審議会が評価したところ(7月7日)、ファイザーは100万接種に7件、モデルナは100万接種に1件の割合だった。  接種にあたっては、過去に薬物アレルギーの経験がある人は当日、医師に伝えてほしい。また、万が一の場合も応急処置の準備はあり、念のために救急車で病院に行くとしても命に関わることはない。  上記のようにファイザーとモデルナで起こる副反応の症状や、発生率に多少の違いはあるものの、いずれも重篤な症状はまれであることに変わりはなく、接種に際してそれぞれの差は懸念されるべきことではないといえるだろう。 ■副反応は大なり小なり出るもの市販の頭痛薬でしのげる  ただし大前提として、万人に対し副反応ゼロということはあり得ない。体に異物を入れる以上、それを排除しようとする免疫システム発動の結果が副反応だから、ごく軽微なものは想定しておく必要がある。  初回接種では、接種した部位辺りが筋肉痛のように痛んだり腫れたりする「局所反応」が中心となる。2回目になるとそれに加え、発熱、頭痛、倦怠(けんたい)感(だるさ)、筋肉痛、関節痛、吐き気、寒気など、「全身症状」が強く出がちだ。  米国CDCの調査によれば、ファイザーもしくはモデルナの接種後、頭痛や倦怠感の訴えが初回接種で4割前後、2回目では6割前後に上った。発熱は、初回だと数~5%程度だが、2回目では2~3割に見られた。  こうした症状の多くは接種当日の夜から始まり、たいてい24時間以内には症状は峠を越し、長くても2~3日で治まる。もしつらい場合も、自宅にある市販の解熱鎮痛剤で十分やわらぐ。タイレノール、イブ、ロキソニン、バファリン、ノーシン…などなど、何でも大丈夫。「アセトアミノフェン」に殺到する必要はない。  初回接種後にこうした全身症状が強く出た人は、念のため2回目接種の翌日の仕事は前もって負担を減らしておくか、可能であれば休みが取れれば安心だ。  ちなみに、接種後に立ちくらみや失神などが起きる場合があるが、通常、これはワクチンの“副反応”ではない。「血管迷走神経反射」と呼ばれ、注射の痛みや緊張、不安などが相まって自律神経のバランスが崩れ、急激な血圧低下の結果生じたものである。  接種前に不安を取り除き、少々の痛みや副反応は甘受するつもりで(個人差も大きいが)、穏やかな気持ちで接種に臨むことで、そうした“有害事象”リスクの回避につながる。  なお、新型コロナワクチンで「不妊になる」「ワクチンのmRNAが細胞のDNAに組み込まれる」といった怪しげなうわさがあるようだが、全くのデマなので安心していただきたい。 ■接種失速……1日100万回に届かず供給不足の中、明暗を分けたものとは?  7月13日時点で、日本の接種数は100人あたり45.3回(米国は99.7回、英国は118.3回)で、OECD38カ国中の下から6番目。南米やアジアの平均を下回っており、途上国レベルである(Our World in Dataから)。  しかも、東京オリンピック・パラリンピック開幕まであと1週間だというのに、接種回数は失速しつつある。  先月24日には菅首相が掲げた「1日100万回」の目標達成が発表されたものの、7月に入ってからは1日当たり接種回数が100万回に届かない日が多数。このところは加速度的な減少傾向となっている(内閣官房のデータから)。  大きな原因は供給不足だ。政府は6月23日、自治体向けファイザー製ワクチンおよび大規模集団・職域接種向けモデルナ製ワクチンの供給不足と受け付け停止を明らかにした。その直前21日に職域接種も始まり、わが国でもいよいよ接種加速かと思われた矢先、水を差された格好だ。  多くの自治体が供給への不安を抱え、職域接種は見通しが立たないまま断念するところも出てきた。そうかと思えば、予定通り接種を受けられる人たちもいる。両者の明暗を分けたのは、各自治体あるいは企業の初動の早さと見込みの差だ。  ナビタスクリニックの医師やスタッフは、集団接種や職域接種のお手伝いをしている。その中で私自身、組織によって接種体制に大きな格差があることを目の当たりにしてきた。  集団接種は、自治体ごとのばらつきが見過ごせないほどに大きい印象だ。無理もない。自治体の組織は基本的に、降って湧いたような大規模プロジェクトを短期に組み立てて遂行するようにはできていないからだ。ノウハウも人材も足りない中、手探りから始めたのではどうしても限界がある。  それでも、運営や現場レベルでリーダーシップを執る人物を獲得できた自治体では、すでに未成年者への接種が進んでいるところもある。  職域接種では、企業の組織力が顕著に表れた。率直に言えば、トップから末端までの伝達系統がしっかりしている組織は、意思決定が早く、動きも迅速だ。そこがしっかりしている企業での職域接種は、運営や進行も非常にスムーズだった。  要するに、どこに住んでいるか、どの会社に勤めているかで、ワクチン接種へのアクセスのしやすさが決まってしまうのが、日本のコロナワクチン行政なのだ。 ■ファイザー、モデルナの信頼性は高い誤った知識からの「接種忌避」には危機感  ただ、世界全体に目を向ければ、日本で接種を受けられることがいかに恵まれているか、お分かりいただけると思う。  世界では今日までに全人口の約25%が少なくとも1回接種を受けているが、低所得国ではわずか1%にとどまる(Our World in Data、7月13日確認)。しかも、高い有効性と安全性が認められているファイザーとモデルナ、必ずそのどちらかのワクチンの接種を受けられる国はかなり限られている。  英国はモデルナとアストラゼネカの割合が半々で、人口6665万人に対し1億回分ずつ確保されている。米国ではファイザーとモデルナが圧倒的だが、ジョンソンエンドジョンソンの接種も行われている。欧州連合(EU)では契約数ベースでファイザーが24億回分、その下にモデルナ、アストラゼネカ、ジョンソンエンドジョンソンが約4億回分ずつで並んでいる(日本貿易振興機構)。  アジアやアフリカでは状況はさらに違う。中国のシノバックやシノファーム、ロシアのスプートニクVが、「ワクチン外交」としてばらまかれているためだ。  ただ、中国製ワクチンの有効性は揺らいでいる。インドネシアでは接種完了者の間で感染が拡大し、シノバックの接種を受けた医療従事者が6月以降、130人以上死亡。ロシアでも、自国ワクチンの安全性が疑問視されて接種率が上がらないため、多くの地域で接種を義務化せざるを得なかった。  それらに比べれば、ファイザーやモデルナの信頼性は群を抜いている。先の通り重い副反応もごくまれで優劣はつけがたいし、健康な人なら接種を躊躇(ちゅうちょ)する理由にはならない。これは、日頃からさまざまな予防接種を積極的に行っている一臨床医としての実感でもある。  自分や大切な人の健康と命を守る一人ひとりのアクションが、経済や生活を守ることにもつながる。他方、誤った知識や漠然とした不安からの「接種忌避」の増加には、危機感すら覚える。正しい知識の下、ぜひせっかくのチャンスをふいにせず、きっちり接種を受けていただきたい。 (監修/ナビタスクリニック理事長、医師 久住英二) ◎久住英二(くすみ・えいじ) ナビタスクリニック理事長、内科医師。専門は血液専門医、旅行医学(Certificate of knowledge, the International Society of Travel Medicine)。1999年新潟大学医学部卒業。2008年JR立川駅の駅ナカにナビタスクリニック立川を開設。働く人が医療を受けやすいよう、駅ナカ立地で夜9時まで診療するクリニックを川崎駅、新宿駅にも展開。渡航医学に関連して、ワクチンや感染症に詳しく、専門的な内容を分かりやすい情報にして発信することが得意。医療に関するメールマガジンMRICを発行する一般社団法人医療ガバナンス学会代表理事。
新型コロナウイルス
ダイヤモンド・オンライン 2021/07/19 16:37
「片づけなんかでうまくいかない…」そう言われるほど燃えた、私の人生ビフォー・アフター
西崎彩智 西崎彩智
「片づけなんかでうまくいかない…」そう言われるほど燃えた、私の人生ビフォー・アフター
「部屋は心の鏡」です。最近の受講生の片づけ前の部屋/Before ステイホーム中は特にうれしいパパの仕事スペースが完成/After 家庭力アッププロジェクトを始めた頃。最初は4人からスタートしました  5000件に及ぶ片づけ相談の経験と心理学をもとに作り上げたオリジナルメソッドで、汚部屋に悩む女性たちの「片づけの習慣化」をサポートする西崎彩智(にしざき・さち)さん。募集のたびに満員御礼の講座「家庭力アッププロジェクト®」を主宰する彼女が、片づけられない女性たちのヨモヤマ話や奮闘記を交えながら、リバウンドしない片づけの考え方をお伝えします。 *  *  * 「もっと早くこのプロジェクトを知りたかった」と受講生から言われることがよくあります。5年前に片づけていたら人生が変わっていたのになぁって。そう言われると、「5年前の私は個人宅の片づけ屋、10年前は専業主婦だったけどね……」と不思議に思います。  40代半ば、専業主婦時代までの人生がBeforeだとしたら、離婚してシングルマザーとなり、片づけで起業した人生がAfter。今回は、私の人生のBefore/Afterを聞いてください。  私は1967(昭和42)年大阪生まれ。1700gで生まれた体の小さな私は、何でもできる姉と比べて成長がゆっくり。周りの子たちから、童謡「サッちゃん」の「だけど ちっちゃいから~♪」のところを歌ってからかわれたりして、両親は私の将来をとても心配していたそうです。  価値観の古い父は、私の幸せは結婚にしかないと、家事に関しては厳しくしつけをしました。2歳のとき、深夜に父に起こされて、おもちゃの片づけをさせられた記憶があります。片づけると父はいっぱいほめてくれました。片づけたら感謝される。その喜びは、あのとき幼心に刷り込まれたのかもしれません。                     温かかったけれどちょっと窮屈だった岡山の家を出て、大学は神戸へ。建築学部を志望していましたが、「建築は男の世界」と言う父の反対にあい断念。心理学や教育学、社会学が学べる人間関係学科へ進みました。  建築はあきらめても住まいやインテリアの世界に身を置きたくて、当時人気のトアウエスト(神戸山側のトアロード西エリア)の雑貨店に頼み込み、1年越しでアルバイトの仕事をゲットしたほど。卒業後はインテリアプランナーとして地元の住宅会社に就職しました。  仕事はすごく楽しかったけど、家庭に憧れていた私は24歳のとき6歳年上の男性と結婚して専業主婦に。約20年、家事と育児に夢中でした。  目が届きすぎるくらい子どもと関われる毎日は幸せでした。とはいえ、誰も褒めてくれないのが主婦業です。ふと「自分には何もない感」に引きずり込まれる瞬間がありました。子どもが巣立ったあとの人生は?と思うと怖かった。「だって専業主婦だもん」と、将来を見ないフリをしていました。  そのころ唯一、自信を持てたのが毎日普通にやっていた片づけ。ママ友が家に来たとき、「片づいて気持ちのいい部屋だね」と褒められたのがすごく響きました。ママ友や子どもの友だちが集まれる部屋をつくることが、趣味のようにになっていきました。  ここまでが、私の人生の「ビフォー」です。穏やかな生活は、10年前の2月に強制終了。夫がリストラに遭ってしまったのです。上の娘が高校、下の息子が中学に入る直前。夫の仕事が見つからず、先の見えない不安が続き、思春期の子どもたちの前で夫婦げんかをすることも増えました。  私は生活のために、ヨガスタジオの受付の仕事に就きました。職場はピリついた空気の家から逃げられる場所。無駄に残業したりして生活は荒れ、するとなぜか得意な片づけも全くやる気が起きなくなったのです。  夫婦関係は壊れ、40代半ばで再就職した私にこれら何ができるだろう。不安と世間体を気にして現実を直視できないまま2年が過ぎ……「そろそろしっかりしてよ」と、体当たりで教えてくれたのが娘と息子でした。  ある朝、海外に留学していた娘から国際電話がかかってきました。 「どうせママ、忙しくなってご飯も作らなくなってるやろ?家だって散らかっているやろ?家、絶対におかしくなってるやろ?もう、私たちのために!っていう生活はやめて!!離婚していいから!!」  この言葉でやっと決心し、夫に離婚を伝えることができました。  離婚直後、「もう、家に友だち呼んでいい?」と息子が言い出しました。  かつては友だち同士のたまり場だったのに、家がすったもんだしてから、私は息子に友だちを家に呼ぶことを禁止したのです。家が散らかった様子は誰にも見られたくない。そうやって問題を先送りにしたことを激しく後悔しました。中3の部活最後の打ち上げはウチでやろう!と、これを機に片づけに取り掛かりました。  2年の間にたまった不用品や夫が残していった物は、なんと2トントラック2台分。物を家から出すと心がスッとしました。私に一番必要だったのは、本当は自分ってどうしたいの?と、自問自答しながら整理する時間だった。「部屋は心の鏡」と言いますが、裏を返せば、部屋が整えば心も穏やかになるのです。片づけながら自問自答を繰り返すうちに「人生も子どもの学費も全部引き受けて生きいく」という覚悟が出来ました。  アラフィフのシングルマザーという逆境の中で、もともとの超・負けず嫌いな性格が現れました。「小さくて不器用だから」「お姉ちゃんと比べて…」「女に建築は無理」なんて呪いに抑えられてきたかつての「サッちゃん」が、「サッちゃんだってできるもん!!」と、うわぁー!って叫びながら暴れ出しました。  ヨガスタジオでは店長にまで上りつめました。起業する時は、「片づけなんかでうまくいくはずがない」といろんな人に言われました。言われるほど燃えました。  信じたのは、ヨガスタジオで相談してくれた女性たちの本音、専業主婦時代の孤独感、仕事と家事と子育て、すべてを背負ったときの閉塞感、問題を先送りにした後悔、片づけで自信を取り戻した経験まるごと。そして負けず嫌いの自分。  全ての苦い経験から、家庭力アッププロジェクトが生まれました。  いま、コロナ禍で全員の在宅時間が増え、女性の家事負担が増しています。私の負けず嫌い根性が「そんなのおかしい」って騒いでいます。  しかし、部屋が散らかるのを、家事をしない夫や子どものせいにしたところで、部屋は片づいてくれません。社会構造のせいにすれば気持ちがおさまるかもしれない。本当に残念ですが、そうであったとしても、家族は察してくれない。  じゃあ私はどうしたいの?と考えて、「いろいろあるよね。でも片づけたいのは私だし、まずは自分からやってみよう」と、愚痴も吐き出しつつチームで片づけるのが家庭力アッププロジェクトです。片づけを「やればできる」から「やっている」に変えることで、かつての私のように自信を無くした女性たちが輝き出します。  私は「片づけは最高のセルフコーチング」とお話しします。片づけを通して自ら答えを出し、やる習慣が身につけば、勉強にも仕事にも生かせる。片づけは人生をポジティブにするスキルなんだよ、と伝えたいのです。  誰もが自分のことは自分で片づけ、自分の食べる物くらい作れば、世の女性たちの負担は一気に減ります。全然そうなっていないから、私の出番が増えています。負けず嫌いでこの問題をなんとかしたい。  未来を担う子どもたちにも、片づけを通して自主自立をもっと伝えたい。そして誰もが片づけられるようになって、いつか私の仕事なんてなくなればいいって、本当に思うんですよ。 ◯西崎彩智(にしざき・さち)/1967年生まれ。お片づけ習慣化コンサルタント、Homeport 代表取締役。片づけ・自分の人生・夫婦間のコミュニケーションを軸に、ママたちが自分らしくご機嫌な毎日を送るための「家庭力アッププロジェクト®」や、子どもたちが片づけを通して”生きる力”を養える「親子deお片づけ」を主宰。ラジオ大阪「西崎彩智の家庭力アッププロジェクト」(第1・3土曜日夕方)が2021年5月1日からスタート。フジテレビ「ノンストップ」などのメディアにも出演 ※AERAオンライン限定記事
AERAオンライン限定
AERA 2021/07/19 07:00
更年期をチャンスに

更年期をチャンスに

女性は、月経や妊娠出産の不調、婦人系がん、不妊治療、更年期など特有の健康課題を抱えています。仕事のパフォーマンスが落ちてしまい、休職や離職を選ぶ人も少なくありません。その経済損失は年間3.4兆円ともいわれます。10月7日号のAERAでは、女性ホルモンに左右されない人生を送るには、本人や周囲はどうしたらいいのかを考えました。男性もぜひ読んでいただきたい特集です!

更年期がつらい
学校現場の大問題

学校現場の大問題

クレーム対応や夜間見回りなど、雑務で疲弊する先生たち。休職や早期退職も増え、現場は常に綱渡り状態です。一方、PTAは過渡期にあり、従来型の活動を行う”保守派”と改革を推進する”改革派”がぶつかることもあるようです。現場での新たな取り組みを取材しました。AERAとAERA dot.の合同企画。AERAでは9月24日発売号(9月30日号)で特集します。

学校の大問題
働く価値観格差

働く価値観格差

職場にはびこる世代間ギャップ。上司世代からすると、なんでもハラスメントになる時代、若手は職場の飲み会なんていやだろうし……と、若者と距離を取りがちですが、実は若手たちは「もっと上司や先輩とコミュニケーションを取りたい」と思っている(!) AERA9月23日号では、コミュニケーション不足が招く誤解の実態と、世代間ギャップを解消するための職場の工夫を取材。「置かれた場所で咲きなさい」という言葉に対する世代間の感じ方の違いも取り上げています。

職場の価値観格差
カテゴリから探す
ニュース
〈地方に赴く皇族方〉佳子さまの絶妙なセルフプロデュース力「強い意思を感じる」皇室番組放送作家
〈地方に赴く皇族方〉佳子さまの絶妙なセルフプロデュース力「強い意思を感じる」皇室番組放送作家
佳子さま
dot. 15時間前
教育
静かで透明で、寄る辺がなくて……でもときどき意表をつく鋭さと洞察が 劇壇ガルバ「ミネムラさん」
静かで透明で、寄る辺がなくて……でもときどき意表をつく鋭さと洞察が 劇壇ガルバ「ミネムラさん」
AERA 10時間前
エンタメ
山田尚子監督「世界で私だけが観てる」 10代の「夜の闇」で大切にした「自分だけの好き」〈きょう「情熱大陸」出演〉
山田尚子監督「世界で私だけが観てる」 10代の「夜の闇」で大切にした「自分だけの好き」〈きょう「情熱大陸」出演〉
山田尚子
dot. 3時間前
スポーツ
〈「ニノさんとあそぼ」出演〉 阿部詩の「号泣」に賛否両論、嫌悪感を持つ人はなぜ増えた
〈「ニノさんとあそぼ」出演〉 阿部詩の「号泣」に賛否両論、嫌悪感を持つ人はなぜ増えた
阿部詩
dot. 6時間前
ヘルス
高嶋ちさ子“カラス天狗化”で露見した「ボトックス」のリスク 町医者の副業、自己注射まで…美容外科医が警鐘
高嶋ちさ子“カラス天狗化”で露見した「ボトックス」のリスク 町医者の副業、自己注射まで…美容外科医が警鐘
高嶋ちさ子
dot. 16時間前
ビジネス
家事・育児は重要な経済活動 なのに評価は置き去り 紙幣経済のみを“経済”と呼ぶようになった弊害
家事・育児は重要な経済活動 なのに評価は置き去り 紙幣経済のみを“経済”と呼ぶようになった弊害
田内学の経済のミカタ
AERA 10/5