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りゅうちぇるが「怒りを感じた」保育所が入る吉祥寺のコロナ療養施設がひっそり開設【現地ルポ】
上田耕司 上田耕司
りゅうちぇるが「怒りを感じた」保育所が入る吉祥寺のコロナ療養施設がひっそり開設【現地ルポ】
タレントのりゅうちぇる(C)朝日新聞社  タレントのりゅうちぇる(25)がTBS系「サンデージャポン」(7月4日放送)で、ホテルの中に保育所があるのに、東京都がコロナ療養施設に指定したことについて、「怒りを感じた」と疑問を投げかけ、SNS上で賛否両論が沸き上がった。    その舞台となった東京都武蔵野市にある吉祥寺東急REIホテル―ー。東京都が全室234部屋を丸ごと借り上げ、新型コロナウイルス陽性者を受け入れる施設として7月15日、ひっそりと開設していた。記者が現地でルポした。  りゅうちぇるは番組内で同ホテルを取材し、「陽性者の方の施設は作らなきゃいけないと思うんですけど、施設をなぜ、わざわざ保育所の入っているところに設けたのか、怒りを感じました。しっかり説明すべき」などと発言。当日に記者が訪ねると、ホテルは吉祥寺の駅から徒歩1分の場所にあった。  ホテルの近くには不動産チェーンや進学塾、ショッピングセンターなどがあり、駅前商店街が広がっていた。ホテルの看板はそのままで、一見するとコロナ療養施設とわからない。ただし、ホテル内のエレベーターにはこんなビラが貼ってあった。 「当社は東京都と協議のうえ、2021年7月15日(木)より、吉祥寺東急REIホテルを新型コロナウイルス感染症の軽症者・無症状者の方の宿泊療養施設として提供することとしましたのでお知らせいたします」  ホテルの建物の地下から2階にはテナントがあり、保育所やエステ、ホットヨガ、飲食店などが営業中だった。午後になると、駐車場にホテルの職員や警備員ら数名が立ち、コロナ陽性者を乗せたと思われるワンボックスカーが駐車場から入って、東京都の職員らと建物の中に消えた。都によれば、この日の入所者は15人だった。 「感染者は駐車場から入れるエレベーターを使い、上のホテルの客室まで直行で行く。他のエレべーターは全部、止められています」(ホテルのテナント店員)  2階にある保育所に子どもを預けている30代ママが最近の様子をこう話してくれた。 コロナ療養施設となった吉祥寺東急REIホテル(撮影・上田耕司) 「反対の保護者は多かったです。ここは普通の保育所で0歳から6歳児がいます。保護者からは『コロナ陽性者が勝手に出歩いちゃうのではないか』などの心配の声もありました。全国的にはそういうことが実際にありましたから……」  東京都が保護者のために説明会を開いたが、納得はいかなかったという。 「私も説明会には行きましたが、図面を渡されて、ここはパーテーションを置くなどという簡単な説明でした。私たち保護者の意見を聞いてくれる場ではなくて、決めたことの事後報告でしかなかった。私たちがどんな意見を言っても、変更する気がないと気づき、時間のムダと思いました。ホテルの決め方がよくわからず、何も起こらなければいいなと思います」(同前)  開設を前に反対した保護者の多くは保育所の姉妹店に移ったという。約30名いた子どもは現在、半分の15名くらいに激減しているという。 「『ここがコロナ療養施設でなくなったら、また戻って来たい』と言った保護者もいました。出て行きたくても、子どもの受け入れ先がなくて動けない方もいます」(同前)  保育所の本社に取材したところ、こう回答が寄せられた。 「心配はないわけではないですが、保護者の人それぞれかと思います。これは東京都がお決めになったことなので、会社としてはノーコメントにさせていただきます」(担当者)  東急REIホテルは北海道から沖縄まで全国に約20店舗を展開するホテルチェーン。経営母体である東急ホテルズではこう説明した。 「私どもは、東京都から要請があったので、それにお応えしたということ。建物をお貸ししているだけで、運営は東京都になります。『東急REIホテル』の看板を外したりすると費用がかかるので、外していません」(総務担当者)  ホテルのテナントとして入居している飲食店からも不安の声が上がった。テナントの店主はこう話す。 「この件で東京都の職員とは一度も話をしたことがありませんし、説明会もありません。全てテナント契約先のホテル側と相談しています。ホテルの担当者には、『コロナ患者さんが集まっているビルに食事に行かれますか』と尋ねたこともありました。そうしたら『なるべく行きたがらないだろう』と答えた。ホテルから半年以上、療養施設になると聞いています」   東京都の職員と警備員が見守る駐車場には「閉鎖中」という看板があった(撮影・上田耕司)  コロナ陽性者の入所数と退出数は、各テナントに毎日、メールが来ることになっている。6月には東京都から書類が送られ、建物の見取り図はゾーニングされ、危ない所は『レッドゾーン』、危なくない所は『グリーンゾーン』となっていた。 「うちは6月半ばくらいに『グリーンゾーン』に指定されましたが、そんな指定を受けても不安ですよ。お客さんたちが、このビルにだんだん寄りつかなくなり、敬遠されていくだろうなと思いますね」(店主)  5基あるエレベーターのうち3基が止まったという。 「客室まで行くエレベーターは全部、止められているんですね。バックヤードで従業員が仕事で使っているエレベーターも止められてしまい不便。1階のホテルグループの直営の飲食店は休業しています。でも、私たちは休んだら食べていけない」(同前)  東京都などによると、武蔵野市は慢性的にコロナ療養施設が不足し、市内の軽症患者を他の区市に受け入れてもらっている実態が続いているという。 「誰かが泣かなきゃいけないのはわかるので、ホテル側とも折り合いをつける相談をし、少しだけ家賃を免除してもらいました。ホテル側としては最大の譲歩だったんだろうと思います」(店主)  昨年5月1日、武蔵野市長は三鷹市、小金井市、府中市、狛江市、調布市の市長らと連名で東京都にコロナ療養施設のホテル確保の要望書を提出していた。  武蔵野市はAERAdot.の取材に対し、「これは東京都の事業。あくまで武蔵野市が事業主体ではない」(企画調整課担当者)とした上で、こう続けた。 「武蔵野市として1年前、多摩地域にもコロナ療養施設が必要だという申し出を都にしたというのは事実です。しかし、療養施設を武蔵野市に開設して欲しいという話は申し上げていない。都から今回のホテルの話が来た時、『うちは繁華街ですし、課題が多いのではないか』ということは申し上げました。けれども、やめてくれというような話には当然、なりませんでした」  東京都福祉保健局に保育所があるホテルをコロナ療養施設にした理由などを質問した。 武蔵野市長らが小池百合子東京都知事に宛てた要望書  まず、保育所の保護者から疑問の声が相次いでいる点については、「6月4日の説明会後も、保護者に対して計4回、文書で説明を行うとともに、内覧会も3回実施するなど、丁寧な説明に努めております」  前出のテナント店主が、東京都からの説明が一度もないと話している点については、「ホテル内の話ですので、テナントさんと大家さんの間できちんと話をしていただく。必要があれば都も話をさせていただくというスタンスです」  コロナ陽性となり、ホテルに入所した人たちの行動制限についてはこう説明した。 「入所者の方には、食事の受け取りやゴミ捨て以外は居室で療養いただいており、療養期間中は一切、外出できません。従って、地域のコンビニなどへの買い物もできません」  吉祥寺東急REIホテルをまるごと借り上げる費用については、「公表していません」と答えなかった。  冒頭のりゅうちぇるの発言については、担当者はこう答えた。 「何とも申し上げにくいですが、保育所の入っているところにわざわざ作りたいというワケではございません。しかし、施設の確保が厳しく、どうしても必要になって開設させていただくことになった。借りあげられなければ、始まらないですし、療養施設として適した立地、施設かという部分も出てきます。ホテルは多くあるのですが、療養施設として必要なゾーニングができないところが多く、そうした中でこちらになりました」  そして同番組に7月4日、出演していた元衆院議員の杉村太蔵氏のコメントを引用し、こう続けた。 「杉村さんは『この映像でコロナ差別とか社会の分断を助長しないか。迷惑施設ではない……。施設を今、利用している人はただでさえ、片身の狭い思いをしているのに、どんな思いをするかなと胸が痛い』とコメントし、様々な意見があるものと認識しております」  東京都福祉局によれば、コロナ療養施設は都内に現在14施設あり、計5703室を借り上げているという。 東京都の小池百合子都知事(C)朝日新聞社  しかし、その全ての部屋が使えるわけではなく、看護師が健康管理を行う部屋、夜勤職員が泊まる部屋、防護服などの物資を保管する部屋など一定数、事務局が利用する部屋を用意するため、それらを除いた入室可能な部屋数は現在、2920室。  現状の入所者数は1696人(7月14日現在)であることから、受け入れ可能数の6割強が埋まっている状態で、「十分に余裕があるとはいえる状況ではありません」(東京都福祉局)という。  緊急事態宣言が再発出された東京都で16日、確認された新たな感染者は1271人で、3日連続で1000人を超えた。東京五輪の開幕を1週間後に控え、感染拡大が止まらない中、全国的にワクチン不足に陥り、接種が一部地域で止まっている状況が続く。  AERAdot.(5月9日配信)は、菅政権が都内にある警察用宿舎を37億円かけて改修し、コロナ陽性者を受け入れる施設として使うと発表したものの、完成後に一度も利用することなく放置。今年4月からもとの警察用宿舎に11億円かけて戻し、計48億円の血税が無駄になった顛末をルポした。  ちぐはぐな菅政権のコロナ政策の中、感染者数が再び急増しているが、いつ誰が感染者になってもおかしくない。真に必要な医療体制の確保が求められている。 (AERAdot.編集部 上田耕司)
dot. 2021/07/16 18:20
CAの世界にもある陰湿ないじめや意地悪の“人生に役立つ”切り抜け方を元チーフパーサーが伝授
CAの世界にもある陰湿ないじめや意地悪の“人生に役立つ”切り抜け方を元チーフパーサーが伝授
 憧れの職業の一つであるCA(キャビン・アテンダント)。華やかな仕事に見えますが、実情は全く異なる、ある意味軍隊のような世界だと語るのは、日本航空に25年間CAとして勤め、チーフパーサーや、CA教官も務めた山本洋子さん。『一流のメンタル 100の習慣』(朝日新聞出版)を刊行した山本さんが経験してきた先輩CAによるイジメや意地悪とその対処法について寄稿してくれました。 *  *  * ■CAは実は軍隊のように過酷な世界  時代と共に変わってきてはいますが、CAの職場環境は基本的には過酷です。職場での厳しい上下関係、理不尽なお客様への対応、万が一の不測の事態に備え、常に緊張も強いられます。国際線では時差と闘い、見えないウイルスとは常に隣り合わせ、砂漠のように乾燥した機内で夜通し化粧も落とさず笑顔を振りまくという、身体的にも美容的にも厳しい環境で毎日を送っているのです。  そんな職場環境で、すべてのCAが折れないメンタルを身につけているかと言えば、そうではありません。なかには、人間関係に疲れ、体力的にも精神的にも追い込まれ、体調を崩すCAも少なくありません。裏舞台を感じさせず優雅に振る舞うには、少々のことでは凹まないメンタルを手に入れなければ身が持ちません。  今でこそ私も、少々のことではめげない打たれ強いメンタルが身につきましたが、CAになりたての頃は職場の人間関係に疲れ、フライトに出るのが嫌になるような経験をしてまいりました。  最初に経験するのが、先輩CAからのいじめです。私が新人の頃は、今より先輩後輩の上下関係が厳しく、同じ年に入社しても、1日でも早くCAとしてデビューした者が先輩として扱われる世界でした。同年に入社した450名が1クラス20名に分けられ、その20名が同期として共に訓練を受けるのですが、人数が多いため、入社時期も月単位で違っていました。そして、期番が1期でも違うと後輩は虫けら扱いです。  同年入社の中ですら上下関係ができるのですから、年次が上の先輩の言うことは絶対です。直接反論をしようものならこてんぱんに攻撃されるので、言いたいことは言えません。かといって黙っていたらますます攻撃がエスカレートしていきます。 ■ステイ先のホテルで、5時間の反省会  つらかったのは、ステイ先ホテルの先輩の部屋に召集される反省会です。滞在時の自由な時間に、フライトでの振舞いを厳しく指摘され、反省させられるのです。そして次回のフライトの目標を述べさせられ、解放されると思いきや、続けて業務知識の確認です。  当時のエコノミークラスはお酒や映画が有料で、機内で使用できる通貨も15種類くらいありました。ヨーロッパの通貨がユーロに統一される今から30年以上前のこと、フランスフラン、イタリアリラ、ドイツマルクなど国ごとに通貨が異なるので種類も多く、換算レートも一か月単位で変わります。だからその都度日本円とUSドルに換算しなければいけません。 「ビールはフランスフランでいくら?」とお客様に聞かれたら、即座にお応えしなければいけません。それを通貨ごとに表にして換算表を作るのですが、そこに先輩の厳しいチェックが入ります。ビールをフランスフランでいくら?はまだ可愛い質問です。 「今、2フラン残ってるんだけど、これで免税品を買いたいんです。足りない分はUSドルで支払います。おつりは日本円でお願いします」なんて言われると、たちまちパニックです。それを即答できないと、先輩に叱られるのです。ある種の拷問のような勉強会が長いときだと4~5時間、延々と続きます。  今そのようなことをやってしまうと時間外労働で、逆に訴えられてしまいますが、当時は当たり前のように行われていました。 ■ハンドバックにジュースが…  勉強会はまだ仕事の役には立ったのですが、質の悪いいじめもありました。  例えば、機内サービスで着用するエプロンを隠す、さらに悪質なものはハンドバッグにジュースを入れる……など目を疑うようないじめ行為です。  髪型を変えても、「男性を意識したヘアスタイルに変えたのね」などと嫌味を言われる始末です。今では笑い話として受け流すことができるのですが、当時はつらく受け止めていた毎日です。  エプロンがないとサービスにも支障がでます。この時は同僚にエプロンをお借りして事なきを得ましたが、このようないじめを受けて、落ち込み涙するCAもたくさんいるのです。  理不尽ないじめへの対処法は、まともに取り合わないことです。悔しくても、仕返ししてやろうなどとは思わず黙ってやり過ごすのです。それは泣き寝入りではなく、稚拙ないじめに対しては同じレベルになり下がらないということです。私もエプロンを隠されても、何をされても、何事もなかったかのように振る舞いました。 ■部下になった先輩CAに足を引っ張られる  そして一番苦労するのが、自分の役職が上がり、先輩後輩の序列が崩れた時です。今の世の中、年功序列は崩れ、すべて順番通りに先輩から昇進するということはありません。どんな業界でも先輩であろうが、後輩であろうが、その役職に相応しくない人は昇進することはないのです。  CAの世界でも当然起こり得る話です。6000人ほどいるCAが全員チーフパーサーになれるわけではありません。チーフパーサーは一機の長として客室の責任を任され、パイロットや地上係員と連携しお客様サービスにあたります。配下のCAの指導育成も任されます。いくらフライトの経験が豊富であっても一般のCAとは役割が違います。  私がチーフパーサーに昇格したとき、部下にあたるCAのなかには、私より10年社歴の古い先輩を筆頭に、複数の先輩CAがいました。10年前に仕事を教えた後輩が、自分の上司になるのです。彼女達にしてみれば面白いわけがありません。  自分の立場をわきまえた先輩が多いのですが、なかには「お手並み拝見」とばかりに難題を吹きかけてくる人もいます。  今は機内エンターテイメントサービスが充実し、エコノミークラスでも各座席に個人用テレビが装着されていますが、私がフライトしていた頃は、個人用テレビが普及し始めた頃で、初期トラブルが頻発していました。  画面がフリーズする、まったく作動しないなど、映画や音楽を楽しみにしていらっしゃるお客様にとっては、不満が募る状況が頻繁に起こっていました。故障は一気に起こります。一斉にコールボタンが押され、あちこちでクレームが噴出します。  そんな時、CAは連携してお客様対応にあたるのですが、その先輩は我関せず知らん顔。他のCAがお客様にクレームされ、個人用テレビを回復させるために必死で駆けずり回っているときにも一人優雅に食事をしています。最後まで非協力的な態度で、クレーム処理はチーフの仕事だとばかりに手助けもせず、注意をしても、返事はするものの、指示通りには動いてくれません。  同僚のCAには私の悪口を言う、私の上司には私についての告げ口するなど、やりたい放題です。さすがに精神的にも疲れ果てることが多かったのですが、相手を変えることは簡単にはできません。 ■上司の職権を使うのではなく、平然とやるべきことに集中する  上司だからと言って、職権を使いその場で言うことを聞かせたとしてもそれはその場しのぎです。職権を乱用すると部下との関係性はますますこじれていくばかりです。  反抗する先輩の部下に対しては、ムキになったり感情をあらわにはせず、やるべきことに集中して、平然と振る舞うよう努めました。つらいことではありますが、その姿勢を貫くとまわりが味方してくれるようになるのです。そんな経験を重ねていくと、自然とメンタルは鍛えられていきます。  多かれ少なかれCAは職場の人間関係にもまれ、お客様に気を遣い、気持ちが凹む経験を数多くしています。そういった環境に耐えられなくて早々に別の道に進む人も多いですが、実はCAの離職率は高くありません。精神的にも身体的にも過酷な職場ではありますが、長く勤める人が多いのです。  それは、少しずつメンタルが鍛えられることによって、人間関係も仕事も、人生にも自信が持てるようになるからかもしれません。少しのことでいつまでも思い悩んでいることが無意味に思えるようになるのです。  打たれ強いメンタルは、生まれつきの資質ではなく、経験によりレベルアップしていく「ビジネススキル」です。そうして手に入れた折れないメンタルは、どんな厳しいビジネスの世界でも生き抜いていく自信を与えてくれるのです。 (山本洋子:株式会社CCI代表取締役。接遇講師・キャリアコンサルタント) 山本洋子(やまもと・ようこ) 株式会社CCI代表取締役。接遇研修講師、キャリアコンサルタント。 元日本航空国際線チーフパーサー、客室マネージャー。 25年間JALに在籍し、国際線チーフパーサーとしてファーストクラスを担当。海部元首相や天皇陛下特別便、MLB選手チャーター便等など、国内外のVIPに接してきた。その間、客室訓練部での教官、CA採用面接官などを務め、サービス品質企画部ではCA評価システム構築に携わり、のべ6000人超のCAの査察評価・育成にあたる。 退職後は 外資系保険会社にて7年間コンサルティング営業に従事。2018年「株式会社CCI」を設立。ビジネスマナー研修や、経営者のためのサロン、キャリア育成講座など幅広く展開する。HP https://www.carcreintl.com
仕事朝日新聞出版の本読書
dot. 2021/07/15 17:00
抗老化で「人生120年時代」が来る! 90歳で孫と「同僚」になる日
大谷百合絵 大谷百合絵 秦正理 秦正理
抗老化で「人生120年時代」が来る! 90歳で孫と「同僚」になる日
今井眞一郎教授 (撮影/写真部・張溢文) 若いマウスの血液に含まれるeNAMPTを与えられたマウス(右)。同じ年のマウス(左)に比べ毛並みがツヤツヤで、動きも活発 (今井教授提供) 「人生100年時代」と言われて衝撃を受けた人もいるだろうが、科学技術の急速な進展により、そう遠くない未来に「人生120年時代」が訪れようとしている。人類を「老い」の呪縛から解き放つ技術とは。そのとき、世界はどう変わるのか……「抗老化」研究の最前線をのぞいてみた。 「仕事の面接を受けに行ったら、孫と鉢合わせ。めでたく孫と一緒に働くことになったの」  90歳のナナは大企業の社長をリタイア後、仕事を再開。人々の体のデータは24時間AIに送られ、「抗老化ピル」を飲むべき時間や適切な量を知らせてくれる──。  これはワシントン大学医学部の今井眞一郎教授の著書『開かれたパンドラの箱 老化・寿命研究の最前線』(朝日新聞出版)で描かれた、2040~50年ごろの世界だ。抗老化ピル、つまり老化を遅らせる薬が普及して120歳の高齢者も珍しくなくなり、予防医学の発達などで、死の直前まで元気でいられる人も増えるという。 「人生100年」どころの話ではないウルトラ長寿時代を歓迎するかは別として、そんなSFのような未来も、決して夢物語ではないらしい。 「本で描いた世界を山頂に例えると、抗老化の研究はすでに7合目から8合目まで来ている。死をなくすのはSFの世界の話だとしても、老化を遅らせるようになる日は、もう目の前なんです」  同書を書いたご本人、今井教授はそう話す。どうやってそんな未来が実現するのかを説明するために、今井教授らの研究で解明されつつある老化と抗老化のメカニズムについて説明しよう。  科学の世界で言われる老化とは、時間の経過とともに体のさまざまな部位に起こる機能低下のこと。その過程には、eNAMPT(イーナムピーティー)と呼ばれる酵素が深く関わっている。人の身体を巡っているこの酵素は老化で減るが、人工的に投与することで老化を遅らせられることが、マウスの実験で明らかになったのだ。  ここで今井教授が見せてくれたのは、2匹の老マウスの動画。人で言うと80~90歳だが、若いマウスから取り出したeNAMPTを投与したほうのマウスは、活動的になり、毛もツヤツヤに。何も投与しなかった老マウスより、寿命も約16%延びたという。  このeNAMPTは、NMN(ニコチンアミド・モノヌクレオチド)という物質をつくりだし、NMNからはさらにNAD(ニコチンアミド・アデニン・ジヌクレオチド)が合成される。どちらも舌を噛みそうな名前だが、このNADこそ生命活動に必須の物質。NADも老化によって減少することから、NMNやNADが抗老化の重要な要素として注目を浴びるようになった。  これまでの研究では、NMNをマウスに投与することで、糖尿病、アルツハイマー病、心臓病などさまざまな疾患への効果が証明されてきた。4月に発表された今井教授らの研究では、人にNMNを投与。血糖値を下げるインスリンの働きを骨格筋でアップさせることがわかった。 「今回の研究は、人への抗老化効果を検証する上での第一歩。今後、投与する量や期間を増やすことで、より本格的な効果が明らかになる可能性があります」(今井教授)  未来の「抗老化ピル」候補として有力なNMNだが、実は6年前から日本企業が世界に先駆けて製品化しており、「サプリ」のような感覚で入手できる。堀江貴文さんなど有名人の愛飲者も多いが、今のネックは価格。1カ月分数万円から、なかには15万円ほどする高価なものもある。かと思えば数千円程度のものもあるが、手頃な価格のNMNに飛びつくのは要注意と今井教授は強調する。 「実際に分析したところ、不純物が多く含まれる低品質のものも少なくなかった。メーカーは成分の情報を開示すべきですし、消費者は価格や口コミだけで選ばず、専門の研究者の発信する情報に耳を傾けていただきたい」  今井教授の予測では、今後4~5年のうちに普及が進めば値下がりし、最終的に1カ月数千円程度で良質なNMNを入手できる日が来るという。  そんなに待てない、という人のために、今できることも聞いてみた。  まずは、運動。といってもアスリートのような負荷はいらず、軽い運動だけでNADの合成が促進されるという。もう一つは食事だ。 「大事なのは何を食べるかより、いつ食べるか。体内でNADの合成が活発になる昼に合わせて朝しっかり食べ、夜はあまり食べないほうがいい。私ですか? 朝食にステーキなどたっぷりとした夕食さながらのメニューを食べて、ランチは普通、夜はチーズやフルーツ、ナッツなどをつまみながらゆっくりワインを1~2杯飲むという食事法を続けています」(今井教授)  20時までに夕食を終えることで、抗老化と関係の深い質の高い睡眠が取れるようになり、さらに週2~3回「うっすら汗をかく程度」の軽い運動を加える「抗老化」な日々を送っているという。いつも体重を気にしてしまう人に朗報なのは、「小太り体形が抗老化酵素eNAMPTを増やす」ということだ。 「eNAMPTは、脂肪組織から分泌されることがわかっています。太りすぎは抗老化の大敵ですが、抗老化酵素を増やすには小太りくらいでいることが大事。BMIが20を切るような痩せすぎの人は、要注意です」  タンパク質より炭水化物を多く与えて小太りになったマウスのほうが、タンパク質を多く与えてスタイルがよくなったマウスより長生きしたという。過度な“糖質オフ”は長生きにはマイナスなようだ。  ちなみに、前出のNMNはごく少量とはいえ、枝豆やブロッコリー、アボカドなどの野菜からも摂取できるという。  それにしても、もし今後「人生120年時代」が現実のものになったら、私たちは今より幸せに生きられるのだろうか。 「無条件でバラ色の未来になるとは思いません。お年寄りが今の地位にしがみついて自分たちのことしか考えないと、社会は混乱するでしょう。元気な年長者と若い人たちがどうやって共存を果たすのか。どういう社会を目指すのかをしっかり考えていく必要があります」 (福光恵/本誌・秦正理、大谷百合絵) >>【関連記事/朝ステーキに3杯メシで4キロ減 アラカン記者の「抗老化」食生活】はこちら ※週刊朝日  2021年7月23日号
週刊朝日 2021/07/15 17:00
入管法改正案反対に声を上げたZ世代 「外国人」というだけで差別に憤り
野村昌二 野村昌二
入管法改正案反対に声を上げたZ世代 「外国人」というだけで差別に憤り
蛭田ヤマダ理紗さん(左から2人目)は早稲田大学4年。今後、大学院に進み、ジェンダーと女性学の研究をしていきたいという(写真:蛭田ヤマダ理紗さん提供) 福井周さんは「Voice Up Japan」でアドボカシー(権利擁護や啓発活動)を担当。医学部に入ることを考え、通信制大学で学んでいる(写真:福井周さん提供) 千種朋恵さんは愛知県立大学3年。日本の入管政策を根本から変えるには、世論の後押しが必要と考え、他大学にも支援者を増やしていきたいという(写真:千種朋恵さん提供)  出入国管理法(入管法)改正案を事実上廃案に追い込んだのは「Z世代」だ。この法案は外国人への人権上の問題が指摘されていた。若者たちはなぜ憤ったのか。AERA 2021年7月19日号から。 *  *  *  4月15日夜。国会前で一人の若者が、集まった450人近い群衆に向かって訴えた。 「現に存在している一人の人間に、『人間として扱ってほしい』と言わせてしまう社会であっていいはずがない」  福井周(しゅう)さん(23)。入管法改正案の成立反対を訴えた、緊急アクション「国会前スタンディング&リレートーク」の呼びかけ人の一人だ。声を上げやすい社会を目指して活動する一般社団法人「Voice Up Japan(ボイスアップジャパン)」に所属する。  国会前スピーチは、一時的に入管の収容を解かれ「仮放免」になった人から聞いた、印象に残ったエピソードを盛り込んだ。 「仮放免になった人は、『自分たちを人間として扱ってほしい』とすごく訴えていました。アパートを借りるとき、『ペット可』と一緒に『外国人可』と書かれているが自分たちはペットと同じなのか、人間として扱ってほしいと。その思いを伝えたかった」 ■コロナ禍で困る人たち  中学生の頃から社会問題に関心を持つ。路上生活者への炊き出しボランティアをし、高校では反ヘイトスピーチ運動に参加。国際基督教大学に入学すると、共謀罪などをテーマに政治への疑問を議論する市民団体「未来のための公共」の立ち上げにも加わった。  昨年3月に大学を卒業。入管問題に関心が向いたのは昨年末。東京・池袋の炊き出しに参加しているとき、他の炊き出し現場に仮放免の人たちが来ていると聞いたのがきっかけだった。仮放免中の人は在留資格がないため仕事に就けず、生活に困り、健康保険にも入れないので病気になっても病院にいけない。  コロナ禍で見捨てられている人たちがいる、何とかしなければと思っていると、入管絡みの問題が立て続けに起きた。今年2月中旬、「入管法改正案」が閣議決定された。改正案は、難民申請の回数を制限するなど人権への配慮を欠くと指摘された。さらに3月6日、スリランカ人のウィシュマ・サンダマリさん(当時33)が収容先の名古屋入管で亡くなった。  改正案が成立すれば、排外主義が強まり差別が一層深刻になる──。仲間たちに声をかけ、SNSなどで緊急アクションを呼びかけた。国会前には若者や家族連れが多く集まり、国会議員も駆けつけた。  翌16日に法案が衆議院法務委員会で審議入りした後も、仲間たちと国会前で抗議の座り込みを続けた。5月18日、政府は今国会での成立を断念、法案を取り下げて廃案にすることを決めた。福井さんは言う。 「様々な世代が声を出すことが大事。だから、僕は若いからこそ、これから先も、自分たちの社会を自分たちで考えるんだという声を上げていきたい」  入管法改正案が廃案になったのは、俳優の小泉今日子さん(55)ら著名人が反対の声を上げたことが大きな要因となった。だが、廃案の原動力になったのは、間違いなく20歳前後の「Z世代」と言える。  早稲田大学4年の蛭田ヤマダ理紗さん(22)もその一人だ。母親はブラジル出身。蛭田さんは、外国人の人権に対する日本の冷淡さをずっと肌で感じていた。入管の収容施設が劣悪な環境下にあることも、日本は難民認定率が極端に低いことも知っていた。そんなとき、入管法改正案が成立しようとしていると知り、「おかしい」と思った。 「そもそも現行の入管法が差別的であるにもかかわらず、それをさらに厳しくして外国人を取り締まろうとしている。しかもなぜ、コロナ禍でやらないといけないのかとすごく感じました」 ■当事者の代わりに発言 「Voice Up Japan早稲田大学支部」の共同代表でもある。冒頭で紹介した福井さんたちと声を上げることにした。国会前でスピーチをし、座り込みにも参加した。  入管の問題は、政治的な問題だけに収容された経験のある人は声を上げにくい。発言すると、再び収容されるかもしれないと危機感を覚えるからだ。だったら、声を上げられる「特権」を持つ側の自分たちが当事者の代弁をすることが大事だと話す。 「持っている特権をマイノリティー(少数派)の人を差別するのに使う人もいれば、助けるために使う人もいます。私は、自分が持っている特権をマイノリティーの人を助けるために使いたい」  思いの根底にあるのは、マイノリティーを差別する社会への怒りだ。入管の収容施設にいる人はマイノリティーの存在。しかし、今はマジョリティー(多数派)の人も、いつマイノリティーになるかわからない。自分も今は日本にいるから「日本人」でいられるが、一歩国外に出たら「外国人」。それなのに、マイノリティーというだけで差別する。そこに激しい憤りを覚えるという。  改正案は廃案となったが、入管問題は終わっていない、ウィシュマさんが亡くなった原因をはじめ、解決していないことのほうが多いくらいだと言う。 「これからも『ノー』の声を上げていきたいと思っています」  怒りと憤り。改正案に反対の声を上げたZ世代に共通するのは、この思いだ。 ■人権排除の社会に声  グローバル化する世界で、Z世代は、外国人は遠い存在ではなく自分たちと同じ存在という感覚を当たり前のように持ってきた。だから、人と人の間に線を引き、向こう側にいる人の人権を排除する社会に声を上げた。 「命さえ奪われてしまうひどいことが、私が生活している日本で起きています。そこから目を背けてはいけないと思っています」  そう話すのは、愛知県立大学3年の千種(ちくさ)朋恵さん(20)。亡くなったウィシュマさんが収容されていた、名古屋入管への面会活動などを続ける。  入管問題に目が向いたのは大学1年生のとき。東海地方を中心に活動する市民団体「外国人労働者・難民と共に歩む会(START)」が大学内で企画した「難民の話を聞く会」に参加した。それまで入管のことは何も知らなかった。だが、収容者の処遇はひどく、施設外の病院に連れていかれるときは手錠と腰縄を付けられるなどと聞き、憤りを覚えた。 「日本社会にこんな問題があったのかと思って」  STARTに加わり、本部運営委員として活動する。  週に1、2回、名古屋入管で仲間と一緒に収容者と面会を重ねる。ウィシュマさんが亡くなった後も、収容された人の環境は変わらない。1年以上収容され、精神を病んで寝たきりの状態で、「死にそう」と訴える収容者もいるという。 ■外国人の問題ではない  入管問題は外国人の問題として捉えるのではなく、日本社会で起きている問題として捉えなければいけない、と力を込める。  入管問題に取り組む中で、日本人にも搾取され抑圧される人たちがいると知った。コロナ禍で感染のリスクがありながら、労働に見合った給与をもらえないでいる人たちのことだ。理不尽な差別を受けているという点では、入管の問題とつながっていると感じると話す。  卒業後の進路は決めていない。だが、どんな仕事に就いても、差別され、抑圧される人の立場に立った活動をしたいという。 「少しでも自分が力になれることをやりたい。誰もが安心して生きられる、差別のない社会にしたい。それが私の望みです」 (編集部・野村昌二) ※AERA 2021年7月19日号
AERA 2021/07/15 16:00
職場の適応障害、上司の「無知」で症状悪化…「精神論」など四つのNG対応
職場の適応障害、上司の「無知」で症状悪化…「精神論」など四つのNG対応
AERA 2021年7月19日号より AERA 2021年7月19日号より 森下克也(もりした・かつや)/心療内科医。『もし、部下が適応障害になったら』(CCCメディアハウス)など著書多数(写真:本人提供)  職場のストレスが要因で適応障害を発症する人は多い。上司の対応次第で症状をこじらせかねないため注意が必要だ。「適応障害」を特集したAERA 2021年7月19日号から。 *  *  * 「もりしたクリニック」院長の森下克也さんのもとには、職場のストレスで心身のバランスを崩してしまった人がたくさん来院する。一連の治療の主体は患者だが、適応障害では外部環境のストレス要因が必ず存在するため、職場の上司の役割が極めて重要になる。 「そこがうまく機能しないと、治療が誤った方向に導かれてしまうことさえあります」(森下さん=以下同)  ゲーム開発会社に勤務する36歳の男性は、もともとは仕事に没頭するタイプではなく、休日には仲間と海へサーフィンに出かけていた。ところが1年ほど激務が続き、帰宅が深夜に及ぶ日々が続いた。休日出勤も頻回で、海に出かける機会は減ってしまった。  男性に変化が見られたのは、1カ月の残業が100時間に迫るようになった時だ。ミスが続き、上司が男性を呼び出し話し合いが行われたが、体調については言及されなかった。男性は一層自分を奮い立たせようとしたものの、気力や体力が以前のようについていかず、休日も起き上がれなくなった。やがて平日も朝起きられなくなり、森下さんのクリニックを受診。適応障害と診断された。 ■対応がわからない上司 「私は産業医としていくつかの企業の社員のメンタルヘルスケアにも携わっていますが、各部門の上長やグループリーダーの立場にいる人たちと話をする時、決まって出される質問が『適応障害などメンタルの病気の部下にどう対応していいか分からない』というものです」  上司の取りがちなNG対応は、主に四つ。「何もしない」「精神論に置き換える」「『この程度で』と自分の価値観で判断する」「自分に任せとけ」──。 「何もしない」は、例として挙げた男性のケースでもそうだが、部下の様子がおかしいことに気づきさえしないことも含む。「精神論」は、ある年代以上にはまだ根強く残っており、「自分の価値観で判断」も、上司が競争に打ち勝ってきた人であるほどよく見られる。いずれも適応障害に対する誤った態度であることは想像できる。しかし「自分に任せとけ」はなぜNGなのか? 「親身になって一生懸命なのですが、部下を抱え込み、1対1の濃密な関係性を作り上げてしまう。『会社に知られると不利になるから』と部下の症状を秘匿する場合もあり、かえって症状をこじらせてしまう」  適応障害に正しく対応できない上司の共通点は、病気に対する無知だと、森下さんは指摘する。 「念頭におくべきは、二つ。医学的に正しい知識を身につける、そして職場の資源を早い段階で利用し、連携を取って組織的に動くことです」 ■複数の目で見ていく  上司として、勤怠、仕事、行動の面から部下の変化に注意を払う。テレワークが主な場合、職場環境によるストレス要因は減少するが、コミュニケーション不足による抑うつが生じやすくなる。オンラインを通すなどして意識的にコミュニケーションを取り、部下の様子に気を配ることが求められる。  異変を感じたら、職場内で職員の心の問題をケアする職責を担う人たち(産業医、保健師、人事部門の担当者)に相談をする。 「複数の目で見ていく。問題を共有することで、適応障害を始めとするメンタルヘルスケアを正しい方向に進めていける」  ただし、従業員50人未満の会社では、産業医などメンタルヘルスの担当者がいない場合もある。組織的に作る余裕がなければ、外部の委託もでき、その筆頭が「産業保健総合支援センター」だ。各都道府県にあり、健康相談、産業医の紹介、医師や保健師による事業所の相談、健康診断の結果に基づいた医学的指導、作業環境改善のアドバイスなどを無料で行っている。  森下さんが改めて強調するのは、「自分が部下を適応障害にさせる上司になっていないか」のチェックだ。部下が求めているのは、効率第一ではなくて、人間として尊重してくれる上司。自分の行動を見返してみれば、「これでは部下もたまったもんじゃないな」というところにたどり着けるかもしれない。職場でのストレス要因で適応障害を発症する人が多いという事実を、他人事として捉えていてはいけない。(ライター・羽根田真智) ※AERA 2021年7月19日号より抜粋
働き方
AERA 2021/07/15 11:30
夜の五反田で「困ってないですか?」 細いヒールの緊張した面持ちの女性らに呼びかけた
北原みのり 北原みのり
夜の五反田で「困ってないですか?」 細いヒールの緊張した面持ちの女性らに呼びかけた
五反田の歓楽街で相談会の呼びかけを行った(提供) 相談会の会場(提供 北原みのり(きたはら・みのり)/1970年生まれ。作家、女性のためのセックスグッズショップ「ラブピースクラブ」代表  作家・北原みのりさんの連載「おんなの話はありがたい」。今回は、コロナ禍で生活が苦しくなった女性に対する支援について。女性による女性のための取り組みを紹介する。 *  *  *    女性たちから悲鳴のような声があがっている。昨年の緊急事態宣言以降、職を失ったり、労働時間を減らされたりなどして、生活がたちゆかなくなっている人の多くが、非正規雇用の女性たちだ。NHKの調査によると、女性非正規雇用の5人に一人が、コロナ禍で仕事を失ったという。しかも再就職率は6割という低さだ。女性の非正規雇用者は約1400万人(男性650万)だから、300万人近い女性が(!)、コロナ禍で経済の打撃を直接受けたことになる。  貯金をする余裕のない女性は仕事を失ったとたんに家まで失うこともあり、これまで男性が多かった炊き出しなどの支援の場にも、小さな子どもを連れた若い女性が食事を求めて来る姿も増えてきた。1カ月間、唯一の食料は砂糖で、水道水に砂糖をとかして、それだけで生き延びてきた若い女性もいるのだと、支援活動をしている友人が教えてくれた。  困難を抱えた女性たちのための相談会が7月10、11日、台東区で開催された。ジャーナリストの松元ちえさんの呼びかけで、福祉職員などの専門家らによる「女性による女性のための相談会実行委員会」の、今年2回目の相談会だ。今回は第二東京弁護士会との共催で行われた。  この取り組みの素晴らしさは、相談者を会場でただ待っているのではなく、事前に街に出て女性たちに呼びかけ続けてきたことだ。女性たちが働く夜の街のコンビニや、24時間保育園やホテルのロビーなどにチラシを置いたり、小さな拡声器を使い路上で「困っていることはないですか」と呼びかける。夫のモラハラやDVで家にいられなくなった女性たちが泊まっているかもしれないからと、マンスリーマンションのポストを逃さず、小さなホテルも一軒一軒回り、フロントの人に頭を下げながらチラシを一枚でも置かせてもらおうとする女性たちの力が、この相談会を支えている。  今回も上野、新宿、池袋、秋葉原などで呼びかけが事前に行われた。私も1日だけだが、五反田での呼びかけに参加した。  昼の五反田には何度も来たことはあるが、夜の五反田が“あれほどの”「男性のための」歓楽街だとは知らなかった。集合は夜8時だったが、かなり早めに着いてしまったので歓楽街に一人で入ったのだが、駅前すぐの歓楽街の入り口には無料の風俗案内の看板がギラギラと目立ち、通りにはケータイ片手に立ち話をしている勧誘の男たちが数メートルおきにいる。業者の男たちの前を、若い男性たちが2、3人で肩を並べるようにして楽しげに歩いている。どこの歓楽街に行っても感じることだが、言われているほどオジサン中心の世界ではなく、性を買う人は若者が多い。業者も客も男性たちはリラックスしていて、自由で楽しげである。  女性たちはたいてい1人、または男性と一緒に歩いている。細いヒールであまり上手に歩けていない若い女性、露出の高い服で、左ひじの下を大きなバンドで隠している女性にも数人すれ違った。たぶんリストカットの痕なのだろう。女性たちの緊張した真剣な面持ちと、男性たちのリラックス感のコントラストが強く、光と音の刺激にくらくらしながら集合場所に向かった。  集まったのは実行委員を中心に、今日初めて来たという女性もあわせて15人ほど。さまざまな世代のさまざまなバックグラウンドを持つ女性たちが、チラシや看板をそれぞれ手にしながら、マンスリーマンション群、24時間保育園などを手分けして回った。 「仕事がなくてどうしていいか分からない方、子育てに悩んでいる方、DVを受けているがどうしたらいいか知りたい方、生活保護の申請をしたい方、国の支援制度のこと知りたい方、女性のための相談会をしています。どんなことでも相談してください。相談員はみんな女性です」  五反田の歓楽街を、そうマイクで呼びかけながら、せせら笑うようにこちらを見る男たちの視線の間を縫うように歩いた。4回目の長い緊急事態宣言前の最後の土日だからか、街には人があふれている。居酒屋は満席だ。歩きながら自ら手を出してチラシを手に取ってくれた女性もいた。  私もマイクを持たせてもらったのだが、呼びかけをしながら、これは大変なことが起きているのではないかと、心臓が高鳴った。これまでも性産業の現実を調査する福祉職員らのツアーに参加したことはあるが、働く女性たちにプライバシーを侵害される恐れを与えないための配慮を心がけながら、「存在を消す」ように歩いてきた。女性だけでは危険だからと、男性の用心棒のような人も一緒にいるのが常だった。それが夜の街を生きる女性たちへの配慮であり、業者の男たちから自分たちの身を守ることだと考えていた。  ところが、今回は「私たちはここにいます、困ったことがあったら声をかけて」と、女性たちだけで道の真ん中を、マイクを持ちながら歩いたのだ。何かを批判するわけでもない、視察するのでもない、侵入するわけでもない、チラシを無理に突き出すこともなく、ただ街の真ん中を堂々と歩きながら、通りを挟むラブホテルやマンションの閉じられた小さな窓の向こうにいるかもしれない誰かに向かって、「私たちはここにいます。困っていたら声かけてね」と声をあげたのだ。  “福祉なんてあてにならない、性産業は女にとっても最後の砦だ”。そんなことを涼しい顔で言いたがる人はいる。“買う人がいなければ、女性たちが困る”と買春を正当化したがる人もいる。本当にそうなのだろうか。男たちの笑い顔、女たちの真剣な顔を見ながら、そして「ここにいる」と集まった女性たちの横顔を見ながら、性産業が守っているのは女性たちの生活ではなく、男たちの気軽な自由、男たちの買う権利に過ぎないのではないかと思えてくる。  若いのだから、今しかできないんだから、普通に稼ぐなんて無理なんだから……この社会で女でいるということは、そんな言葉を投げつけられる体験でもある。女性にとっても実は性売買の入り口は広く大きく深い。男たちの需要を死守するために、女性たちが次々に「商品化」され続けてきた社会だ。そしてそれは絶対に変えられない自然のようにも思い込まされてもいた。でも……。青白い光の店内、コスプレした女性たちと若い男たちがにぎやかに遊ぶようにカウンター越しに飲んでいるのが見える。下を向き、足早に目的地に向かう女性が通り過ぎる。よっぱらった顎マスクの男2人組が「なにしてんの~」と物珍しそうに私たちを振り返る。24時間保育園の窓が暗く閉じ、急な階段の上に色あせ剥がれかけたアンパンマンのシールが並んでいる。たくさんの日常の中を歩きながら、そこにあるたくさんの声を感じながら「変えられるのではないか」という思いがわいてくる。少なくとも、「ここにいる」と声をあげた女性たちによって、人生が少し楽になった女性がいるかもしれない。どうしようもなく膝を抱えている女性たちの気持ちが、少し楽になれる時間が生まれるかもしれない。    福祉があてにならないのではない。世の中があまりにも女性に冷たいのだ。でも捨てたものじゃないかもよ。あてになる福祉、あてになる女たちも世の中にはいるんだよ。そんなことを信じられる夜だった。 ■北原みのり(きたはら・みのり)/1970年生まれ。作家、女性のためのセックスグッズショップ「ラブピースクラブ」代表
おんなの話はありがたいフェミニズム五反田北原みのり性産業性風俗新型コロナウイルス歓楽街第二東京弁護士会貧困
dot. 2021/07/14 16:00
夏の賞与たった0.025カ月減「民間より厚遇」なのに中堅官僚が次々辞めていく霞が関の根本問題
夏の賞与たった0.025カ月減「民間より厚遇」なのに中堅官僚が次々辞めていく霞が関の根本問題
※写真はイメージです(GettyImages) ■いつの間にか「民間水準」を上回っていた  国家公務員に6月30日、夏のボーナス(勤勉手当)が支給された。管理職を除く平均支給額はおよそ66万1100円で、去年に比べておよそ1万9000円減った。夏の賞与が減るのは9年ぶりだという。9年前の減少は東日本大震災で復興のために増税することとなり、政治家も官僚も痛みを分かちあうべきだとして給与カットが行われた。今回の引き下げは「民間企業との格差を解消するため」で、0.025カ月分引き下げられた。率にして約2.8%の減少である。冬のボーナスは昨年まで3年連続で引き下げられており、公務員も「冬の時代」になったかのように見える。  だが、「民間企業並み」にするためにボーナスを引き下げるということは、いつの間にか民間よりも待遇が良くなっていたということでもある。公務員は「薄給だ」という印象が強いが、実際にはこの20年あまり、民間の給与水準がほとんど上昇しない中で、公務員の給与はなかば自動的に上昇してきたことから、いつの間にか民間水準を上回っていたわけである。しかもしばしば「公務員の味方」と言われる「人事院」が引き下げを求めているのだから、官僚機構自ら「公務員天国」であることを認めているに等しい。 ■自衛官などの特別職は含まれていない  ちなみに、公務員給与が高いと書くと、現場の自衛官や警察官は薄給で世の中のために働いているのだ、という批判をする人がいる。だが、ここで内閣人事局が「国家公務員」と言っているのは、自衛官などの特別職をのぞいた霞が関で働く官僚たちのこと。しかも、各省庁の事務次官や局長、課長など管理職は含まれていない。ちなみに事務次官のボーナスは323万円、局長級で250万円、課長でも180万円前後と見られている。  この国家公務員のボーナスは、給与とともに民間の支給実績を調べて、それに準拠して決められる。独立した国の機関である人事院が政府に「勧告」を出し、政府はそれに従って増減を決める。基本的には4月の民間給与と、前年8月から7月までの民間の賞与を調べ、4月分の公務員の給与水準と比較して、改定を行う。毎年夏に「人事院勧告」が出され、それを政府が受けて秋の臨時国会に法案を提出、年末に給与改定が行われる。夏の賞与は昨年末の改定でほぼ水準が決まっていた。 ■「民間並み」にそろえることが本当に正しいのか  国家公務員に「民間並み」の給与・賞与を保証するのは、公務員はストライキなどを行う「争議権」が認められていないからだと説明されている。だが、この説明には異論もある。というのも、国家公務員は犯罪に手を染めるなどよほどのことがない限り、クビになることはない。企業と違って、業績が悪いからリストラが行われることはないのだ。  また、多くの場合、俸給表に従って毎年給与が増え続けていく仕組みだが、これもよほどのことをしない限り、降格されることがない。公務員も業務遂行の実績によって、ボーナスが増減する評価制度が導入されているが、ほとんどが優秀だという評価になっていて、ボーナスが大きく削られるような人はごくまれだ。つまり「身分保証」が民間とはまったく比べものにならないのである。  民間企業で働いている人には業績でボーナスが大きく増減したり、リストラでクビになったりする「リスク」があるわけで、本来そうしたリスクがほとんどない国家公務員よりもリスク分給与賞与が高くなるべきだ。つまり、公務員給与・賞与を「民間並み」にそろえることが本当に正しいのか、という疑問が湧く。  また、2.8%の減少という夏のボーナスの減少率が「民間並み」だったのか、というとそうでもない。経団連が集計した大企業の夏の賞与の1次集計によると、前年度比7.28%の減少だったという。新型コロナウイルスの蔓延による経済活動の冷え込みで、企業が財布のヒモを締めたことが背景にある。国家公務員の賞与が9年ぶりに減ったからと言って、決して「民間並み」の減り方をしたとは言えないのである。 ■中央官庁の中堅官僚が次々に辞めている  だからといって、国家公務員の給与を引き下げよ、と言っているのではない。一方で、中央官庁の中堅官僚が次々に辞めている、という事実もある。圧倒的に「仕事が忙しい」というのが理由で、行政改革担当相の河野太郎氏は公務員の残業の圧縮など「働き方改革」に旗を振っている。早朝から深夜まで働かざるを得ない官僚たちにとっては、給与や賞与は決して高くない、ということになる。  霞が関を離れる決断をした官僚に聞くと、「忙しいのが嫌だ」という声は実は少ない。プライベートの時間もなくなるほどの勤務体制に嫌気が差しているのは事実なのだが、中央官庁の官僚を目指した段階から、「忙しい」ことも、「給与が決してべらぼうに高いわけではない」ことも覚悟の上で入ってきている。  東大生の人気就職先であるマッキンゼーなどの戦略コンサルティング・ファームは役所の若手に比べればはるかに高給だが、仕事が楽なわけではない。猛烈に忙しく、早朝から深夜まで当たり前のように仕事をしている。 ■課長になるまで25年、下積み期間の長さに絶望  それでも役所に見切りを付けて辞めていくのは、仕事の忙しさが「無意味だ」と感じるケースが少なくないからのようだ。年功序列がいまもって崩れていない霞が関では、責任をもって仕事ができる「課長」になる年齢がどんどん高齢化し、今は50歳以上が多い。入省から25年くらいかかるのだ。その間、下積みが続き、大きな仕事を任せられることもどんどん少なくなっている。  かつては課長と言えば、大きな権限を握っていたが、今は局長や審議官にならないと実質的な決定権がない。つまり、役所に入ってもキャリアパスを描けなくなっているのだ。もちろん、その間、給与は少しずつ増え続けていくから、「安定」を求める人には天国のような職場かもしれない。  6月には通常国会で公務員の定年延長法案が可決された。段階的に65歳に引き上げられる。同時に役職定年制が導入されたが、若手の官僚たちはこれで課長になる年齢がさらに上がっていくのではないか、と危惧している。ますます下積みの期間が延びることになりかねないのだ。 ■給与体系を変えなければ、優秀な人材は来ない  今の若者には、「ひとつの会社で定年まで働き続ける」と考えている人はほとんどいない。若いうちにキャリアを磨き、いくつかの会社を転々としてキャリアアップしていく、という欧米型のスタイルに、少なくとも意識は変わってきている。そうしたキャリアデザインから霞が関は外れてしまったということなのだ。給与や賞与の支給方法も、同期入省ならほとんど横並びで、毎年少しずつ増えていく、という終身雇用年功序列賃金を前提にした仕組みを、そもそも若者が求めていないのである。  若くても活躍できるポストを与えられ、給与もそれなりにもらえる。そんな給与体系に変えなければ、優秀な人材ほど官僚を志望せず、育った官僚ほど中途で辞めていく事態は続くだろう。  2007年に第1次安倍晋三内閣が公務員制度改革に着手しようとした際、霞が関はこぞって反対した。「消えた年金問題」も安倍内閣の公務員制度改革を潰すために官僚機構が流した「自爆テロ」だったという説もある。結果、第1次安倍内閣はわずか1年の短命に終わった。それ以降も、公務員制度改革は遅々として進んでいない。 ■改革派・川本裕子氏が人事院総裁に就任  だが、最近は優秀な官僚の間からも公務員の人事俸給制度を抜本的に変えないと、もはや優秀な人材が霞が関に来ないという危機感を露わにする人が増えた。一律横並びで昇進し給与も増えていく仕組みではなく、若くても抜擢でき、ポストによって給与も大きく差をつけ、実績によって賞与を弾むことができる仕組みが必要だというのだ。  菅義偉内閣は、人事院総裁に民間の川本裕子・早稲田大学大学院経営管理研究科教授を指名した。旧東京銀行を経てマッキンゼーでコンサルタントとして活躍、さまざまな政府の委員を歴任した。政府の審議会では歯に衣着せぬ発言をする改革派として知られてきた。菅官邸が川本氏に人事制度改革の勧告を期待しているのかと思いきや、どうもそうではないらしい。官邸に近い自民党幹部によると、川本氏を選んだのは「女性だから」。菅内閣もジェンダーバランスに配慮しているということを示したかっただけだ、というのだ。  さて、川本氏が霞が関の人事のあり方にどんなスタンスで立ち向かうのか。今まで通り、霞が関ムラが喜ぶ給与引き上げ、賞与引き上げの勧告を出すだけの存在で終わるのか。大いに注目したい。 磯山 友幸(いそやま・ともゆき)/経済ジャーナリスト 千葉商科大学教授。1962年生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業。日本経済新聞で証券部記者、同部次長、チューリヒ支局長、フランクフルト支局長、「日経ビジネス」副編集長・編集委員などを務め、2011年に退社、独立。著書に『国際会計基準戦争 完結編』(日経BP社)、共著に『株主の反乱』(日本経済新聞社)などがある。
プレジデントオンライン 2021/07/13 17:11
消火の難しさと100年は戻らない自然環境…山火事を起こしていけない本当の理由
消火の難しさと100年は戻らない自然環境…山火事を起こしていけない本当の理由
『山火事のサバイバル1』(朝日新聞出版)より(C)Han Hyun-Dong/Mirae N  日本では山火事の約7割は冬から春にかけて発生しますが、北米では春から秋にかけて多くの山火事が発生します。今年6月、アメリカのアリゾナ州・フェニックスで大規模な山火事が発生。現在、アメリカの北西部沿岸とカナダの広い範囲で大規模な熱波が発生していることから、さらなる山火事や干ばつが懸念されています。  山火事の恐ろしさと自然への影響について、累計1100万部突破の人気シリーズ「科学漫画サバイバル」最新刊『山火事のサバイバル1』からお届けします。 *  *  *  きっかけはノウ博士の心配事でした。ノウ博士はアメリカのカリフォルニア州で暮らす末の妹と連絡が取れず、心配で仕事も手につきません。そこでアメリカに行きたいジオは、博士の代わりに自分が妹さんの様子を見に行くと提案。博士の研究所で働くケイも巻き込まれる形で、ジオと一緒にノウ博士の妹の家を訪れます。 『山火事のサバイバル1』(朝日新聞出版)より(C)Han Hyun-Dong/Mirae N  ノウ博士の妹のドクター・フォレストは森林学者であり、さらに山火事の消火活動をする「スモークジャンパー」として活躍するスゴイ人でした。 『山火事のサバイバル1』(朝日新聞出版)より(C)Han Hyun-Dong/Mirae N  ジオとケイは無事にドクター・フォレストに無事に会えて任務終了……と思いきや、隣の家から騒音がします。  すると、そこではSNSで2000万フォロアーを持つリッチ姉妹が、パーティーの真っ最中。それだけならまだしも、花火を打ち上げ、爆竹を鳴らしまくります。 『山火事のサバイバル1』(朝日新聞出版)より(C)Han Hyun-Dong/Mirae N  小さな火種が大規模な山火事につながることを知っているドクター・フォレストは、リッチ姉妹を必死で止めます。ジオやケイの協力もあり、なんとかその場の火は消すことができましたが、その夜、山火事が発生してしまうのです。 『山火事のサバイバル1』(朝日新聞出版)より(C)Han Hyun-Dong/Mirae N  山火事の恐ろしさは、どこにあるのでしょうか?  まず、山火事は一般の火事より消すのが難しくなります。火災が起きた場所に近づく道がなかったり、気づいたときには燃え広がっていたりするケースが多いからです。そのため、山火事を消すには特別な訓練を受けた消防隊が活躍します。  また、山火事は山に生息する様々な動植物の命を奪い、生息地を破壊します。破壊された生物の生息地が元の自然に戻るには、数十年から100年かかると言われています。  山火事によって発生した灰や煙は大気汚染の原因になるだけでなく、有毒ガスなどが人々の健康に被害をもたらすこともあります。住宅地や観光地では、経済的なダメージも大きくなります。  近年では、地球温暖化との関係も指摘されています。地球温暖化は、ある地域では高温と乾燥を持続させるため、こうした地域では以前よりも頻繁に山火事が起き、規模も大きくなり、より多くの被害を生み出してしまうのです。 『山火事のサバイバル1』(朝日新聞出版)より(C)Han Hyun-Dong/Mirae N  ジオとケイ、ドクター・フォレストの3人は、消防車が到着するまで自分たちで火を食い止めようと山に向かい、山火事の恐ろしさを身をもって体験します。  発売中の『山火事のサバイバル1』は、漫画を通じて山火事の恐ろしさや原因、動植物との関係がわかり、自然や環境問題をより深く理解することができます。
朝日新聞出版の本読書
dot. 2021/07/07 17:00
7月7日「七夕」。儚くもロマンチックな織姫彦星伝説の背後にある悲しい深層とは?
7月7日「七夕」。儚くもロマンチックな織姫彦星伝説の背後にある悲しい深層とは?
今日、7月7日から二十四節気「小暑」。7月7日には「そうめんの日」「ゆかたの日」などの記念日があり、夏の本格的な始まりにあたる時期といえます。しかしなんと言っても7月7日といえば七夕。牽牛(彦星)と織女(織姫)が天の川を渡って年に一度の邂逅をするロマンチックな伝説は、説明の必要も無いでしょう。七夕の笹飾りは華やかで涼しげで、筆者も大好きです。しかし七夕の深層には、表にあらわれない悲しい物語が秘められているかもしれないのです。ロマンチックな七夕の二星聚会伝説は今も人気ですが、意外な背景も 飛鳥~平安時代に定着した二星聚会伝説 「七夕」は、飛鳥時代ごろ隋唐から伝わり、平安王朝で「乞巧奠」(きっこうでん きこうでん)として祝われました。 江戸時代には五節供のひとつとして現在の七夕に近い形のお祭りが定着しましたが、人日の節供(1月7日)、桃の節供(3月3日)、端午の節供(5月5日)、重陽の節供(9月9日)と比べると、それらにもそれぞれ説話や伝説はありますが、七夕の織姫(ベガ)彦星(アルタイル)伝説は、もっとも有名でしょう。 牽牛織女神話の成立は、古代中国の『詩経』(BC12~6世紀)の小雅の大東篇の中に牽牛織女星の記述があり、中国南北朝時代(5~6世紀)の『文選』(もんぜん 昭明太子編纂)の古詩「迢迢牽牛星」には、 迢迢牽牛星、皎皎河漢女。 纖纖擢素手、札札弄機杼。 とあり、天の川の対岸で引き裂かれた恋人同士という構図や、織女(河漢女)が機織女であるという設定がすでに出来上がっていたことがわかります。 そしてやはり南北朝時代の月令『荊楚歳時記』(けいそさいじき 宗懍)には、 七月七日、爲牽牛織女聚曾之夜。 と、川の対岸で引き裂かれた牽牛と織女が7月7日に一年に一度の逢瀬(聚会)をするという伝説が、この当時すでに出来ていたとわかります。『荊楚歳時記』ではさらに、その7月7日の宵に婦女たちは針に五色の糸を通し、瓜の実を庭に並べ、裁縫の腕が上がるようにと織女に祈りを捧げたと記述しています。そしてもし瓜に蜘蛛が巣をかければ願いは叶うとする信仰がある、としています。 これが原型となって隋唐の時代には、手仕事や技能が上達するよう(巧くなるよう)「乞い願う」奠=供え物をするお祭り、つまり乞巧奠として定着し、日本にも遣隋使・遣唐使を通じて伝播しました。平安時代の宮中では清涼殿の庭に机を置き、灯明を立てて供物をして、琴や琵琶などの楽器や筆や裁縫道具などを備え、その上達を願いました。帝は庭に出て夜通し香をたき、二星会合を祈ったと伝わります。『万葉集』には130首余もの七夕関連の長歌・短歌が掲載されています。天漢(天の川)を挟んで向かい合うベガ(織女星)とアルタイル(牽牛星) 七夕=たなばた訓みからあらわれた謎の「タナバタツメ」 ところでどうして「七夕」と書いて「たなばた」と読み下すのでしょうか。もともとは、七夕伝説が伝わった当初の日本では「七夕」は「ななよ」「なぬかよ」(七日の夜の意)と読まれていましたが、『万葉集』には、 天の河 棚橋渡せ 織女(たなばた)の い渡らさむに 棚橋渡せ (巻十 2081) という歌があり、「織女」を「たなばた」と読ませています。さらに『古事類苑』には、 七夕ハ古ハ、ナヌカノヨト呼ビシガ、後ニタナバタト云フ、棚機(タナバタ)ツ女ノ省言ニテ、織女ヲ云フナリ とあり、「たなばた」とは機織機のことで、ここから機織をする女性そのものを「たなばた」あるいは「たなばたつめ」と呼ぶようになり、織女が主役のこの祭りを「織女祭」=タナバタマツリと呼ぶようになって、やがて「七夕」に「たなばた」の読みが結びついたことがわかります。 『うつほ物語』でも「織女」の文字を「たなばた」と読ませています。 こうした読みの転化は普通に理解出来るのですが、柳田國男の高弟で、歌人・小説家でもあった民俗学者・折口信夫(1887~1953年)が、著書『水の女』の「たなばたつめ」の章で、龍神に仕える斎女(いつきめ)が斎戒ののち7月6日の夜から水辺に面した懸造(かけづくり)の機家に篭り、龍神に捧げる和布を織りながら神を待ち、その神を歓待して共同体に福徳をもたらすという行事が日本では古くから行われていて、それが中国から伝わった七夕行事と習合したという説を唱えます。 折口は有名な民俗学者ですから、この説はたちまちに民俗学の定説となり、歳時記では必ず掲載される「七夕の由来・薀蓄」として流布されることとなりました。 しかし、そのような祭りが行われていたという口伝や資料は実はまったくなく、この説は折口の文学的才の飛躍によって作られた想像にすぎません。 沖縄など南島の各地には7月7日ではありませんが、収穫祭の一環として、女性神官が海辺の浜や岩に立って、海のかなたのニライカナイからの来訪神を出迎えるという神事が行われてきたことは事実です。古宇利島では、海神を迎える「ウンジャミ」がお盆の直後の亥の日に行われます。取りしきるのは6人の女性神役と2人の男性神役です。 また鹿児島県の奄美大島や徳之島にも、海辺の岩棚(平瀬)に女神官たちが並び、踊りを捧げて神を迎える「平瀬マンカイ」が知られています。折口は『水の女』執筆に先駆けて、沖縄を巡って民俗行事の採集をしていますから、この南島での体験がその空想の裏づけとなっていると推察されます。 しかしそれらのどれひとつとして、懸造りの小屋にこもって機を織りながら神を迎えるという神事はありませんし、日付けも7月7日のものはありません。 醍醐天皇の御世の延長五(927)年の「延喜式祝詞」で成文化が見られる神社祭儀の際に唱えられる「大祓祝詞(おおはらえののりと)」の六月晦大祓(みなづきつごもりのおおはらえ)の文言の中に、 速川の瀬に坐す瀬織津比売(せおりつひめ)といふ神 大海原に持ち出でなむ とあり、旧暦六月の夏越の祓では川の神であり機織の神でもある姫神が海に出てゆくという記述が見られます。『日本書紀』巻第二の神代下・第九段の一書第六には、 天孫、又問ひて曰(のたま)はく、「其の秀起(さきた)つる浪穂の上に、八尋殿を起てて、手玉も玲瓏(もゆら)に、機経(はたを)る少女(おとめ)は、是誰が子女(むすめ)ぞ」とのたまふ。 とあり、大山祇神の娘の姫神たちが、海上の巨大な神殿の中で機織をしている描写があります。折口の中で、これら上代の神話と、南島で見た女神官たちによる渚の神迎えとが渾然となって、「七日夜に一人機屋にこもり神の妻となる乙女」というファンタジーが出来上がったのかもしれません。 しかしながら、むしろや粗い草で織った簡素素朴な織物ならともかく、神に捧げる和衣(にぎたえ)は細かな絹織物ですから、とうてい一晩で織りあげられるものではないでしょう。高度な大陸の機織機が伝わったのと七夕伝説が伝わったのは同じような時代とされていますから、七夕伝説に先駆けた太古の日本で、そのような「タナバタツメ」による機織り神迎えが行われていたというのは、やはり無理があるように感じます。「タナバタツメが懸造りの機屋にこもり神を迎えた」と言われるのですが… 瓜子織姫、そして供犠の牛馬…七夕は生贄への供養の祭りだった? ただし、折口がその豊かな想像力で幻視した「機織女と龍神の一夜婚」は、古代日本でというよりも、文明が黎明を告げる前の先史人類のコミュニティにおいて、それに相似した神事が行われていて、折口がそれを直感したのではないか、という推測は成り立ちます。 「機織」というわざには糸と糸を拠り合わせる行為であり、『運命をつむぐ』という表現があるように、呪術行為とイメージ的関連が深く、それを象徴していると考えられます。 ヨーロッパの古いメルヒェン(伝承)を基にした「いばら姫」では、糸つむぎの紡錘が姫を長い眠りにつかせる呪いのアイテムとなります。だから巫術的な祭祀が海辺、川辺で行われたということはあったかもしれませんし、その際、神と一夜をともにするという乙女は、八岐大蛇(やまたのおろち)の生贄に捧げられた櫛名田比売(くしなだひめ)の神話のように、恐ろしい力をもつ自然神を慰撫するために共同体から捧げものとして差し出された無垢なる子羊=スケープゴートだったのかもしれません。 事実私たちは、古くから日本に伝わる昔話に、犠牲となる織姫の物語をもち、語り継いでいます。「瓜子織姫(瓜子姫)」がそれです。「瓜子織姫」は、人類の農耕の起源譚として世界中に類似の神話・伝承が伝わる、生贄となった少女の死体からさまざまな作物が生まれ出たとされるハイヌウェレ型神話を色濃く反映していると言えます。 桃太郎の女の子版ともいえる「瓜子織姫」。流れてきた瓜から生まれた瓜子姫はおじいさんとおばあさんに育てられて、歌と織物(技芸)に秀でた美しい娘に成長します。しかしあるとき、一人で留守番をしている隙をついて悪神である天邪鬼(天邪鬼の正体は、中つ国平定の際に高天原から派遣されたものの裏切って国つ神側についた天若日子とも、その従者の天探女=あめのさぐめの零落した姿とも言われます)に殺されて埋められてしまいます。姫の血で蕎麦や粟や陸稲などの作物の根が紅くなったとする由来譚が語られます。 バイオレンスな内容が、時代が下って人々の意識や価値観が変わっていくごとに次第にマイルドに書き換えられていきますが、今もなお東日本などの昔話では、原型が保たれて伝承されていますし、近年では「怖い話」として多くの二次創作を生み出しています。 中国では織女が舟を漕いで牽牛のもとに川を渡るのに、なぜか日本では彦星(牽牛)が織姫のもとへと川を渡る歌が多く作られたのも、王朝時代の日本人は、すでに文明化が進み神話のエッセンスが失われた中華風の七夕の物語から、古い時代の原型的神話としての「水辺で一人神を待つ生贄の織姫=タナバタツメ=ハイヌウェレ」を半ば無意識で直感想起し、作り変えてしまったのかもしれません。 さらに言うなら中国でも、古くから乞巧奠では瓜(!)を飾り、その瓜にくもの巣が張ることを吉兆としていたのですから、もしかすると七夕神話の深層には、もともとハイヌウェレ神話が隠れ埋もれていた可能性も考えられます。 もうひとつ指摘しておきたいのは、織姫の相方、彦星すなわち牽牛についてです。実は、牽牛の「牽」の文字には「生贄の動物」の意味があります。 古来、人々は旱魃に際し、大切な家畜である牛馬を生贄として雨乞いをする習俗がありました。祈る対象は当然ながら水神です。『日本書紀』には、垂仁七年七月七日に、「野見宿禰(のみのすくね)と当麻蹶速(たいまのけはや) の桷力(すもう) 」の記述が見られ、この史上初の相撲が7月7日に行われたことから、8世紀から12世紀ごろまで、宮中では七夕には相撲が行われ「相撲節会」とも呼ばれていたのです。 水神とも言われる河童は、相撲をことのほか好むとされます。全国に「河童と相撲をとった」と大真面目で体験談を語る人は実は今でも多いそうです。 人の世の秩序を守るために生贄とされた乙女と牛馬。彼らの御霊を弔うための儀式が七夕だったのかもしれないと思うと、少し悲しい気持ちになりますね。星伝説の深層には御霊信仰が? (参考・参照) 日本書紀 日本古典文学大系 岩波書店 水の女 折口信夫 古事類苑データベース(http://base1.nijl.ac.jp/~kojiruien/) 平瀬マンカイ 野見宿禰と当麻蹶速の捔力に関する一考察 竹村匡弥中国では織女が、日本では彦星が川を渡ります
tenki.jp 2021/07/07 00:00
「サラリーマン人生見えた」50代から奮起 63歳元新聞記者の司法試験合格記
「サラリーマン人生見えた」50代から奮起 63歳元新聞記者の司法試験合格記
母校の日本大学法科大学院の前に立つ上治信悟さん(本人提供) 勉強を始めて最初に買った小六法。何度も条文を読み、書き込みをして意味を理解していった 自室にて(本人提供)  この春から司法修習生となり、弁護士を目指している上治信悟さん(63)は長く事件取材に携わり、海外特派員も経験した元朝日新聞記者。50代で一から法律を学び、9年かけ、4回目の挑戦で昨年の司法試験に合格した。だがキャリアチェンジの道のりは甘くはなかった。合格までの苦闘と、これからへの思いをつづってもらった。  私は朝日新聞社で主に編集畑を歩いてきた。その私が2010年に全く畑違いの知的財産部門のマネジャー(部長)になった。異動を告げられた時、編集に戻る希望が砕かれ、がっくりきた。  不安を和らげるためか「部下は優秀だから、ハンコだけ押していればいい」と言ってくれる上役もいた。しかし、ハンコだけの仕事はつまらない。そこで、著作権の勉強を始め、知的財産管理技能士などの資格を取った。  実際、仕事はハンコだけではなかった。最も時間とエネルギーを費やしたのは渉外である。日本新聞協会新聞著作権小委員会の委員長や幹事として、著作権法改正について他の著作権団体と連携し、文化庁に意見書を出したり、国会議員に働きかけたりした。日本音楽著作権協会(JASRAC)との使用料金交渉は3年かかった。  交渉し、説得するのは新聞記者のころからやってきた。のめり込むうちに面白くなった。ちょうどそのころ、50歳代半ばになり、サラリーマン人生の先が見えてきた。まだまだ働くつもりだったが、当時の定年は60歳。「このまま終わりたくない」と考えていた時、著作権に出会った。そして、「司法試験に合格して知的財産法やジャーナリズムに詳しい弁護士になり、定年後も仕事を続けよう」と決意し、12年、渋谷にある資格試験の予備校「伊藤塾」に夜間通い始めた。  司法試験の受験資格を得るには二つのルートがある。法科大学院を修了するか、予備試験に合格するかである。いずれかの条件を満たせば5年間に5回、受験することができる。私は最初「近道ルート」と呼ばれる予備試験突破を目指した。  ところが、予備試験は1万人以上が受験し、合格者は400人台にすぎない。しかも、合格者の多くは優秀で頭の回転も早い現役の大学生や大学院生である。くたびれた中年の私はかなわない。13、14年と予備試験の短答試験に落ち、論文試験に進めなかった私は、法科大学院ルートに変更し、通えるところを探した。  その時、神保町にある日本大学法科大学院が15年度から夜間にも開講することを知った。受験したところ既修者コース(2年制)に合格したので、上司の許しを得て通うことにした。57歳で約35年ぶりに通学定期を買い、バックパックを背負って通学を始めた。  入学時、私の同級生は未修者コース(3年制)からの進級なども含めて26人いた。フルタイムの社会人は私を入れて5人。男性が4人、女性が1人である。  教員は元裁判官が多く、東京高等裁判所の裁判長や最高裁判所の調査官を務めた大物が並ぶ。学者も含めて先生方は熱心で、丁寧に教えてくださった。当然というべきか、課題が出ることが多く、予習、復習を含めてこなすのが大変だった。土曜日は授業が終わった後、夜遅くまで大学院に残り、レポートを作成した。日曜日は朝から夜まで勉強しないと追いつかなかった。時間に追われる毎日で、社会人はもちろん、子どものような同級生とも強いつながりができた。  17年3月、無事修了した。成績が一番だったので総代として証書を受けとった(すみません。ここ、自慢させてください)。めでたく法務博士になった。あとは合格するだけだった。しかし、司法試験は甘くなかった。  ここで、司法試験について少々説明する。司法試験は例年5月の連休明けに4日間行われる。第1日が選択科目(私は知的財産法)、憲法、行政法、第2日が民法、会社法(商法も一応出題範囲)、民事訴訟法、1日の休みを挟んで第3日が刑法、刑事訴訟法で、ここまでが論文である。第4日は短答の憲法、民法、刑法である。論文の試験時間は選択科目が3時間、他の科目は各2時間で、1枚23行の横書き8枚綴りの用紙に手書きで書く。短答では、受験者の3、4分の1程度を足切りする。4日間合計で19時間55分のマラソン試験である。  最終合格発表は例年9月で近年は約1500人が合格する。2020年の試験は3703人が受験し、1450人が最終合格した。論文試験はすべて長文の事例問題である。たとえば、2020年の憲法の問題を簡単に説明するとこうである。  生活路線バスを守り、一方で一部の観光地などの交通渋滞に対処するため (1)儲かる高速路線バスの運行は、生活路線バスを運行する事業者のみ認める。生活路線バスへの新規参入は、既存の生活路線バスを運行する事業者の経営の安定を害さない場合に限り認める (2)特定渋滞地域において特定時間、域外からの自家用車の乗り入れを原則禁止する、という立法が検討されている。  法律家として(1)(2)の規制の憲法適合性について論じなさい。  憲法の教科書を見ても同じ事例は載っていない。憲法が保障するどんな権利に対する制約かを条文を含めて指摘し、規制の内容や関連する判例を踏まえて違憲か合憲かの判断基準を立て、基準に問題文の事実をあてはめて違憲、合憲の結論を出す。結論はどちらでもいい。論述の説得度に応じて点差が開く。ちなみに、私は規制(1)は憲法22条1項の職業選択の自由、規制(2)は同項の居住、移転の自由に含まれる移動の自由がそれぞれ問題となると考える。  私の試験に話を戻す。17年の順位は3100番台後半で、まったく合格に届かなかった。18年は前進し1900番台前半になった。しかし、「今度こそ」と意気込んで臨んだ19年は2400番近くに下がってしまった。  19年は緊張のため選択科目でボールペンを持つ手が震えた。試験期間中はベッドに入ってもなかなか寝付けなかった。たいした力もないのにこんな精神状態では受かるはずがなかった。当然の不合格である。  3回連続して不合格になると「次もだめでは」と自分自身に「推定不合格」の烙印(らくいん)を押してしまう。その上、大改正となった民法が20年から試験問題に出るため、勉強をし直さなければならなかった。追い込まれた。  そんなとき、通っていた資格試験の予備校「LEC」で講師に「受験までに論文を200本書いた人で落ちた人は知らない」と言われた。この言葉にすがって、とにかく過去問を起案することにした。軸が細いボールペンでは手が痛くなるので太い万年筆に変えた。  19年9月、鹿児島市の母が脳梗塞で倒れた。見舞いに行った病院でも面会室で論文を書いた。19年11月4日、母が亡くなった。棺のそばでも勉強を続けた。人でなしである。  20年、新型コロナウイルスのため試験日が8月に延期になった。真夏に汗だくになり、冷却シートを貼りマウスシールドをして五反田の会場で試験を受けた。帰宅すると体重が1キロ減っていた。何を食べてもおいしくない5日間が過ぎ、やっと試験が終わった。  19年よりもできたという実感はあった。しかし、推定不合格者として、21年5月のラストチャンス、5回目に向けてフルスロットルで勉強を続けた。司法試験の受験生なら当たり前だがクリスマスも正月もない。  そして、21年1月20日の合格発表日。半休を取りLECで授業を受けていた。休み時間にスマホで合格発表を見て、自分の受験番号を見つけた。しかし、本当に合格したのかと疑った。  徒歩30秒の距離にあり、受験番号を届けていた日大法科大学院の事務室に駆け込むと「おめでとうございます」と言われた。刑事訴訟法の先生で、同大学院に派遣されている年下の検察官が感激した面持ちで「ずっと勉強を続けてこられましたね」と称えてくれた。この先生が徹底的に答案を批評してくれたことを思い出し、ぐっときた。  合格まで9年かかった。こんなに時間がかかるとわかっていたら勉強を始めていなかっただろう。不合格が続くうち、かけた時間とエネルギーを考えて止めるに止められなくなった。いわば「司法試験ジャンキー」である。やっと抜け出すことができた。  上司、同僚は勉強を快く応援してくれた。さりげない配慮や明示、黙示の応援は本当にありがたかった。  家族は司法試験のことをほとんど話題にしなかった。妻は「あんたは死ぬまで勉強を続けてろ」とほざいた。「頑張ってね」と言われたり、お守りを渡されたりするよりもこんな励まし方が私には合っている。  私は定年後にシニア雇用として働いていた朝日新聞社を退職し、3月31日に司法修習生になった。修習期間は1年間で、東京地方検察庁での修習を終え、東京地方裁判所民事部での修習を始めたところだ。検察庁の修習では、実際の事件を担当し、被疑者を調べ、起訴状を起案した。私の子どもと同世代の指導検事から愛情あるダメ出しを受けてばかりいたが、事件記者という第三者だった私が捜査の当事者になることができ、得難い経験だった。  裁判所や弁護士事務所などでの修習を経て、終わりにある試験に合格すれば、22年春に弁護士になる予定だ。この試験ではごく少数だが落第する。ここまできて落第しては目も当てられない。せいぜいさぼらないようにしたい。  合格発表から約半月後、用事の帰りにお礼を言うため、渋谷の伊藤塾を訪ねた。塾長の姿が見えた瞬間、涙があふれ「ありがとうございます。ありがとうございます」とお辞儀を繰り返した。  帰路、不思議でたまらなかった。確かに、塾長は法学部出身ではない私に法律の手ほどきをしてくれた恩人である。しかし、長年言葉を交わしたことはなかったし、恩人はほかにもたくさんいる。それなのになぜ泣いてしまったのか、と。  翌日、風呂に入っていた時「あっ、そうだったのか」と思いついた。塾長を見た瞬間、私は勉強を始めた9年前の私を思い出していたのだ。合格の見通しもないのに「このまま終わりたくない」という気持ちだけで受験を決意した私である。その決意がなければ、合格はなかった。私は9年前の自分に「ありがとう」と言っていたのだ。そう気づいたとき、9年分の満足感が体中に広がった。 うえじ・しんご 1957年生まれ。80年に早稲田大学政治経済学部を卒業し、朝日新聞社に入社。社会部でロサンゼルス保険金殺人事件(無罪が確定)、連続幼女誘拐殺人事件、自民党元副総裁脱税事件などを取材した後、ニューヨーク支局員として96年の米大統領選を取材するなど、編集部門で約25年間勤務した。販売局を経て2010年に知財部門に異動し、著作権の仕事に携わった。定年後、朝日新聞ジャーナリスト学校で社員を講師に派遣する事務を担った。 ※週刊朝日  2021年7月9日号に加筆
週刊朝日 2021/07/03 16:00
伊藤万理華にインタビュー! 初主演ドラマ「お耳に合いましたら。」制作秘話
伊藤万理華にインタビュー! 初主演ドラマ「お耳に合いましたら。」制作秘話
7月8日(木)深夜0時30分から放送開始するドラマ「お耳に合いましたら。」(テレビ東京系)。ポッドキャスト番組とグルメエッセンスを掛け合わせたこれまでにないドラマとして、放送前から注目を集めています。そこで今回は、地上波連続ドラマ初主演となり、主人公・高村美園を演じる伊藤万理華さん、原案・企画・プロデュースを行う畑中翔太(博報堂ケトル)さんに、ドラマの魅力から制作秘話まで語っていただきました。 ■好きなものに没頭する感じ、私にそっくりです ――伊藤万理華さんは今回が地上波連続ドラマ初主演ということですが、ドラマ放送直前の今、どんなお気持ちですか? 伊藤万理華さん(以下、伊藤):これまでも映画や舞台などでお芝居のお仕事はさせていただいていましたが、まさに今、ドラマの主演ってこんなに大変なんだって、喜びはありつつも実感しているところです。撮影を進行しながら放送するという、今まで体験したことのないスピード感についていくのに必死です。もう目がぐるぐる回っている状態です(笑)。 ――今作は主人公の高村美園がポッドキャストでパーソナリティとして成長していくストーリーですが、伊藤さんの目には美園はどんな人物に映っていますか? 伊藤:美園は人前で表現をすることが苦手な女性ですが、会社の終業後に、ポッドキャスト番組を聴いて "チェンメシ"(チェーン店グルメ)を一人で楽しむ趣味があったりと、内なる声に秘めた思いがたくさんあります。ポッドキャストに出会うことで"チェンメシ"を食べながら自分の物語や思い出を語っていきますが、そういう自分の心に熱い思いを秘めた感じも素敵だなと思います。 ――間もなく初回がオンエアとなりますが、美園役はご自身に馴染んできましたか? 伊藤:実は役づくりという役づくりはしてないんです。というのも、私も好きなものに没頭しちゃうタイプで、美園の気持ちがめちゃくちゃわかるんです。好きなものを語るとき、感情が出てきて泣けてくる感じとか、そういうちょっとオタク気質な部分はもう共感しかなくて。だからオファーをいただいたのかなってくらい、自分に似ている部分がありますね。 畑中翔太さん(以下、畑中):実は伊藤さんのキャラに合わせて、脚本をあてがきしているところもあるんです。伊藤さんならこういうこと言いそうだとか、制作チームみんなでああだこうだ言いながら、美園という人物を作り上げていったんです。 伊藤:そうなんですか! そこまでしていただいて......遺作になるんじゃないかってくらい、自分には贅沢な作品です(笑)。 ■遊び心と自由が詰まった今までにないドラマに ――制作チームを「お耳チーム」と呼ばれているのがかわいくて印象的でした。実際の撮影現場はどんな雰囲気ですか? 伊藤:会社の同僚役の井桁弘恵さん、後輩役の鈴木仁さんとは、私は初共演なんですが、おふたりは3度目の共演ということで、最初はアウェイになるかなって心配でした。だけど、いざ撮影現場でご一緒してみると、3人の役どころと同じく、普段の空気感までが似ていて居心地がいいというか。おふたりの力もあって、とても楽しく撮影に挑ませていただいております。あとはキャストもそうですが、スタッフさんからの愛もすごく感じています。こないだ美園の部屋で初めて撮影をしたんですが、私が好きなアイテムが置かれていて......。めちゃくちゃ嬉しかったです。美術だけでなく、カメラワークもセリフも遊び心がいっぱいです。そんな撮影現場なので、ほどよい緊張感の中に常に優しくて楽しい空気が漂っています。 ――制作側でも遊び心は意識しているんですか? 畑中:はい、伊藤さんが言ってくれているように制作チーム全体で「遊び」を大切にしています。柔軟なテレビ東京さんだからっていうのもありますし、Spotifyさんとコラボする新しいドラマだから、今までにない楽しい試みをバンバンやっていこうと。いわば、プロの大人たちが全力で作る学芸会みたいな雰囲気です(笑)。 伊藤:学芸会(笑)。今回は、私も一緒になって制作している感覚があるんです。エンディングにダンスを取り入れたりと、普段の自分が得意とするものを積極的にどんどん出していこうとしてくれて。乃木坂46時代だとグループの中で自分の得意とするものを出して作品や企画にすることが多かったんですが、「地上波のドラマでもこんなことまでいいの?」ってくらい。こんなに自分と空気感が合うドラマがあるんだって日々感動しています。 ――今作は畑中さんが小学生時代に体験した自作のラジオドラマ制作がきっかけで生まれたそうですね。 畑中:そうなんです。小学生時代、自作のラジオ番組を収録して、毎週のようにカセットテープに録音して、クラス中にばら撒いていたんです。ただ、お便りのコーナーで「先生の悪口募集」をしたらそれが先生に見つかって、親を呼び出されて強制終了させられたんですけどね(笑)。そんな記憶もあって、誰しもがパーソナリティになれるポッドキャストで主人公が成長していくドラマを構想しました。 ――すごい創作意欲のある小学生ですね。今回は前作のドラマ25「絶メシロード」(テレビ東京系)に引き続き、マンボウやしろさんが脚本を担当ということですが。 畑中:原案ができていざドラマ化となった時、どうしてもやしろさんにお願いしたいと。僕の書いていたプロットの美園ちゃんに魂を入れなきゃいけないと思ったので、そういうのがすごく巧みなやしろさんの顔がすぐに頭に浮かびました。それで最初に書いてきてくれた原稿で、ポッドキャストでしゃべり狂う美園ができていて。一発でこれだと思いました。僕らは"やしろワールド"って呼んでるんですけど、それに任せて乗っていきたいと。やしろさんも自由にやってくださっていて、制作チームの各所がかなり自由に動いています。 ――「絶メシロード」でもそうですが、これまで個人店を取り上げていた畑中さんが、チェンメシ(チェーン店グルメ)に着目した理由が気になります。 畑中:そもそも僕、茶色くて甘辛い、子供が好きそうなグルメが好きなんですよ。チェーン店のグルメも大好きで。コロナ禍で外食しにくくなった今、チェーン店のテイクアウトにたくさん助けられたし、より食べるようになった。だから今、チェンメシってみんなにとっての興味関心になるんじゃないかって思ったんです。これだったら、ドラマ放送後すぐに行けますし、実は"みんなのグルメ"なんじゃないかなって。 ――なるほど。伊藤さんは"チェンメシ"はこれまで利用されてましたか? 伊藤:これがあまり利用してこなかったんです。コンビニで済ませることが多くて。だけど実際に撮影で食べてみたら、「こんなにおいしいものがこんなに安くていいの?」って感動しちゃいました。近場にあるし、24時間営業のところもあって、もう完璧じゃんって。だから今までなぜ食べてこなかったんだろうと、悔しい思いでいっぱいです。 ――パーソナリティでトークしながら、食べ物の魅力を伝えるのは難しそうですね。 伊藤:そうですね。ただそこに美園自身のエピソードが加わるんです。隣の人との会話だったり、お母さんとの思い出だったり。食べ物の味って記憶や思い出と密に繋がっていて、食べた瞬間にその時の光景が蘇ることが多いじゃないですか。音楽に近いというか。チェンメシ好きという設定は私自身との共通項ではないけど、そういう体験って共通で誰にでもあると思うんです。私は服が好きなので、例えばお母さんから譲ってもらった服を着た時にその記憶が蘇ったり。こんなふうに好きなものを語る時、そこに何かしらのエピソードや思い出が加わる。ただただチェンメシがおいしいんですよっていうだけじゃない、美園だからできる発信をできたらと思ってます。 ■誰もが主役。挑戦する人の背中を押していきたい ――ポッドキャスト番組と連動させるという新しい試みのドラマになりますが、ユーザーとしてお気に入りの音声コンテンツはありますか? 伊藤:実はラジオにそんなに詳しくなくて。だけど乃木坂46を卒業した時、ちょうど番組がスタートするということで聴き始めたのは、「霜降り明星のオールナイトニッポン」(ニッポン放送)。ド深夜時代から聴いていますが、ディープな話が繰り広げられるラジオならではのコミュニティと文化がすごく面白くて。リスナーとの距離が近くて情報量も多いので、得した気分になれるんです。 畑中:僕は、「ニッポン放送ショウアップナイター」(ニッポン放送)ですね。野球中継というちょっとマニアックな番組ですが、めちゃくちゃ好きでよく聴いてます。番組を盛り上げる「チーム・ショウアップ」のメンバーとしてクリープパイプの尾崎世界観さんが出てるんですが、実はもう一個並行して制作しているドラマの主題歌を書き下ろしてもらいました。野球のドラマなので、リスナーとして番組への熱い思いをお伝えしたらご快諾いただいて。伊藤さんも好きな番組に思いの丈をぶつけると、いい展開が起こるかもしれませんよ(笑)。 ――ドラマ放送に合わせて、某有名パーソナリティによるポッドキャスト新番組がスタートされるということで。どんな方が登場するのか、ものすごく気になります! 伊藤:ラジオ、チェンメシに並ぶ、美園の3大好きなもののうちのおひとりです。もうめちゃくちゃびっくりすると思います。誰も想像していないあの方がご登場されます。 畑中:神降臨って感じですね。 伊藤:はい、超強力な神の降臨です。本当に実在するんだっていうくらいの......。この方を目当てに見てくださる、聞いてくださる方もいらっしゃるのではないかと思います。 ――期待大です。最後にドラマの見どころをお願いします。 畑中:ポッドキャストと連動し、チェンメシを配信しながらパーソナリティが成長していくという、今までにない新しいドラマになっていると思います。演出的にもぶっ飛んでいるし、実験的なこともたくさん行っているし、伊藤さんはドラマ初主演となります。僕らとしてはバズーカーのごとく、伊藤さんをテレビの世界へと飛ばしたいという思いです。未知数だけど爆発してくれって感じで(笑)。守りの姿勢に入ることなく、制作チーム一丸となってドラマ作りをしています。お耳に合いましたら嬉しいです。 伊藤:現在、撮影真っ只中です。初主演というプレッシャーもありますが、肩の力抜いてやっておいでと応援してくれ、自由にやらせてくださるスタッフさんの愛情を受け取ってがんばっていきたいと思ってます。初めてのことに挑戦する美園の姿は、私自身ともリンクしているので、一緒に成長していくつもりで完走します。ポッドキャストもそうですが、誰もが主役になれる時代になった今、このドラマを通していろいろなことに挑戦できるよう、みなさんの背中を押せたらと思っています。 【概要】 木ドラ24『お耳に合いましたら。』 7月8日(木)から毎週木曜深夜0時30分より、テレビ東京系にて放送 出演:伊藤万理華 井桁弘恵 鈴木仁 伊藤俊介(オズワルド) 井上想良 草地稜之 駒井蓮 桜井玲香 高岡凜花 中島歩 永野宗典 濱田マリ 濱津隆之 平子祐希(アルコ&ピース)※五十音順 /吉田照美 やついいちろう クリス・ペプラー 遠山大輔(グランジ) 生島ヒロシ 赤江珠緒 ※出演順 ほか https://www.tv-tokyo.co.jp/omimi/ [取材・文/船橋麻貴]
BOOKSTAND 2021/07/02 20:00
日本で困窮するベトナム人に手を差し伸べる NPO法人日越ともいき支援会代表、浄土宗僧侶・吉水慈豊<現代の肖像>
日本で困窮するベトナム人に手を差し伸べる NPO法人日越ともいき支援会代表、浄土宗僧侶・吉水慈豊<現代の肖像>
NPO法人日越ともいき支援会代表・浄土宗僧侶 吉水慈豊/ベトナム人の命と人権を守る活動を通して「ともにいきる」社会の実現を目指し、NPO法人を立ち上げた(撮影/横関一浩) オフの時間はほとんどない。7匹の愛犬・カニンヘンダックスフントと遊ぶ時間が最もリラックスできる時間だと言う。3人の子どもたちはNPOの青年部として母の支援活動をサポートする(撮影/横関一浩)  NPO法人日越ともいき支援会代表・浄土宗僧侶、吉水慈豊。増え続ける外国人労働者のなかでも、近年、その最大の人材供給国となっているのがベトナムだ。それに比例するように、実習先から失踪する技能実習生や、自ら死を選ぶ留学生など、悲惨な状況に陥るベトナム人が増えた。吉水慈豊の元には、そんなベトナム人からのSOSが毎日入る。遠方であろうと、夜中であろうと、吉水は駆けつける。 *  *  *  ベトナム人元技能実習生のグェン・ドゥック・フー(34)を乗せた車が、成田空港に向かっていた。  フーは多くの技能実習生同様、日本でお金を稼ぐことを夢見て来日したが、わずか3カ月で実習先から失踪した。労働環境は劣悪で、15時間働いても7時間分の給与しか支払われなかった。  寮費や光熱費を引いた手取り給与は約6万4千円。これでは、母国の送り出し機関に支払うために借りたお金を返すだけで約2年半かかる。  借金を返すためだけに働き続けられないと、フーは失踪。在日ベトナム人などを頼り、愛知県の野菜農家や滋賀県の梱包会社の仕事に就くなどしたが、3年目に脳梗塞(こうそく)を患った。  外国人は入管当局に認められた「在留資格」がなければ、日本に滞在できない。失踪したフーは「不法滞在者」扱いになり、医療保険が適用されず、病院から請求された入院費などの医療費は約400万円。一命はとりとめたが、半身まひと言語障害が残り、車椅子なしには動けなくなった。記憶の一部が欠落し、帰る場所もない。  フーを保護したのが「ベトナム人の駆け込み寺」とも言われる東京都港区の浄土宗寺院「日新窟(にっしんくつ)」だった。同院の寺務長でもある吉水慈豊(よしみずじほう)(51)は、ベトナム人僧侶とともにベトナム大使館、入管当局に掛け合い、母国に帰りたいというフーの航空券を手配し、帰国の手はずを整えた。  成田空港に向かう車中、フーが残した言葉が、吉水の心を切り裂いた。 「失踪した僕のことを犯罪者と言うけれど、犯罪者にしたのは日本人だ。僕は犯罪者になりたくて日本にきたわけじゃない」  こんな子をこれ以上、出してはいけない──。  2019年のことだった。  翌年には新型コロナの感染拡大の影響で、不当解雇にあったり、行き場を失ったりするベトナム人技能実習生や留学生が急増。吉水の携帯には毎日、彼らからのSOSが届く。緊急性があれば、遠方だろうが、真夜中だろうが、吉水はハンドルを握り、保護に向かう。 ■バスケ部ではキャプテン 不良生徒を呼び出し注意  その原動力を、正義感や使命感といった言葉で表現するには違和感が残る。困った人がいれば、手を差し伸べる。吉水の人生を辿ると、そんなシンプルな表現が、しっくりとくる。  吉水は1969年8月、埼玉県岩槻市(現・さいたま市岩槻区)の浄土宗寺院「浄安寺」の住職・吉水大智(だいち)(79)の次女として生を受けた。3姉妹で、弟がいる。幼少期から学生時代の吉水を知る人物に話を聞くと、皆一様に「明るく、活発な女の子」と口をそろえる。岩槻小学校時代の同級生の廣瀬律子(51)は、メディアなどを通し、現在の吉水の活動を知っている。支援活動に奔走する吉水の姿から、小学6年時の修学旅行を思い出す。 「仲のいい友だち同士で自由に班を作って行動しましたが、誰にも声をかけられない子を率先して自分の班に誘っていた姿が印象に残っています」  岩槻中学校に進学した吉水は、バスケットボール部に入部した。足が速く、陸上部の選手を押しのけ、県の駅伝大会にも出場。バスケ部ではキャプテンを務め、同校初の県大会出場を果たした。  当時のバスケ部顧問だった榎本利男(71)は、 「素直でいい子だけでは勝てない。吉水はとにかく勝ち気で気が強い。怪我をしても口に出さず、それを他の生徒から教えられることも多かった」  そんな吉水率いるバスケットボール部は、校内でも一目置かれたようだ。吉水が中学生だった当時、「校内暴力」が社会問題化していた。暴走族風の衣装を着た「なめ猫」がブームになり、吉水が中学3年時の84年には学園ドラマ「スクール☆ウォーズ」の放映が始まった。そんな時代だ。  吉水の通う岩槻中でも校内でたばこを吸う生徒や、長ラン短ランと呼ばれる変形学生服を着るツッパリ男子生徒がいた。榎本は振り返る。 「あるとき、昼休みに人だかりができていて、見に行くと吉水ら女子バスケ部の生徒が不良の男子生徒を呼び出していました。土足で体育館に入る生徒を注意するなど、女子バスケ部にだけは不良の男子生徒も口出しができない状態でした」  バスケットボール選手として、県外の高校からもスカウトが来るほどの実力だった吉水は、バスケットの憧れの先輩がいた花咲徳栄高校(埼玉県加須市)に進学。学業も優秀で、特待生の中でも最も評価の高いAランクでの入学だった。  高校3年生になった吉水は、自校のチームだけではなく、県の地区代表選手チームのキャプテンも務めた。学校では生徒会の副会長を担当するなど、高校でもリーダー的な存在だった。  大学進学の際も東京女子体育大学などからスカウトの声がかかったが、吉水が進学先に選んだのは仏教系大学の一つである大正大学(東京都豊島区)だった。当時は「体育の先生になる」という夢があったが、父、大智の説得に応じた。 「きょうだいの中でもしっかりしていたせいか、小学生のときに父から『寺はお前が継げ』と言われ、大正大学に進むことは決められていました。その代わりに、僧侶になるまでは好きなことをやらせてほしいと父にはお願いしていました」 (文・澤田晃宏) ※記事の続きは2021年6月28日号でご覧いただけます
AERA 2021/06/27 16:00
田原俊彦が赤いポルシェでウーバーイーツ!? 還暦でも茶目っ気変わらず
田原俊彦が赤いポルシェでウーバーイーツ!? 還暦でも茶目っ気変わらず
田原俊彦さん(右)と林真理子さん (撮影/写真部・戸嶋日菜乃) 田原俊彦 (撮影/写真部・戸嶋日菜乃)  1979年、ドラマ「3年B組金八先生」(TBS系)でデビュー。80年代アイドル全盛期からスターとして君臨し続ける男・田原俊彦。今月、77作目のシングルで、自身の60歳記念ソングの「HA-HA-HAPPY」をリリースするなど、今も輝くトシちゃんが作家・林真理子さんと対談。デビュー当時を振り返りました。 【田原俊彦 ジャニーズ事務所に直談判、ジャニーさんに「スターになりたい」】より続く *  *  * 林:あのいちばん忙しいころ、田原さん、睡眠時間3時間だったんですって? 田原:ピンク・レディーは3時間しか寝てないとかいうから、「そんなことあるわけねえだろ」と思ったら、ありましたね。ハハハッ。 林:どこで寝てたんですか。 田原:どこって、合宿所ですよ。女のところで寝てないですよ、たまにしか。ア~ハッハッハッ。 林:原宿の合宿所ですね。私はそこの裏に住んでたんです。 田原:あ、そうなんですか。僕はあそこの合宿所にハタチから6年間いたのかな。朝8時ぐらいに仕事に行って、テッペン(午前零時)回って帰ってきて、それから合宿所抜け出して遊びに行ったりしてました。抜け出さなきゃ6時間寝られたのに、遊びに行っちゃうから3時間しか寝られない(笑)。でも、元気いいからさ。まだ22、23歳とかの子どものころですよ。遊びを覚えて調子こいてたら、バブルに入っていくんです。 林:もう、最高じゃないですか。 田原:バブルのときの田原俊彦はすごかったですよ。毎夜毎夜マハラジャ(東京・麻布十番にあったディスコ)に行ってましたから。 林:お金は腐るほど入るわ、女の子もワンサカ寄ってくるわ、そりゃ楽しいですよね。 田原:男がいちばん生き生き美しく輝くのって、27、28、29じゃないかな。そのとき僕はバブルと共存してたんで、そりゃもう楽しくて。ケータイがない時代だから、おちおち家にいられないんですよ。寝なきゃいけないのに「何か起きてるんじゃないか。カワイイ子が来てるんじゃないか。よし、行くぞッ!」みたいなことの連続。 林:どういう女の人が来てたんですか。モデルさんとか? 田原:CAさんとかね。ボディコンの。 林:そりゃあバブルのときに「トシちゃん」だったんだから、日本でいちばんいい思いをしてたんでしょうね(笑)。 田原:いちばんいい思いをしたゆえに、バブルに溺れてしまったという。ハハハハハ。 林:あのころは歌番組がいっぱいありましたよね。 田原:そう。「歌のトップテン」「ザ・ベストテン」「夜のヒットスタジオ」、80年代半ばには「ミュージックステーション」が始まって、「スーパージョッキー」もあってね。「ザ・ベストテン」なんか、視聴率42%くらいとっちゃうんだからね。僕が歌ったあと(「悲しみ2(TOO)ヤング」)、聖子ちゃんに白いパラソルを渡したときが「ザ・ベストテン」の最高視聴率だったんだって。 林:あ、そうなんだ。 田原:「笑っていいとも!」のテレフォンショッキングも、僕のときが最高視聴率。その記録が破られずに番組が終わった。 林:すごいですね。 田原:けっこうな記録持ってるんだよね。アハハハハ。そのあとは苦しい時期が長かったけど、コツコツ長いことやってれば、いいこともあるんですよ。コンサートは1年も穴開けたことないし、シングルも毎年毎年出してきたし、支えてくれるファンの方がずっとそばにいてくれたからこそ、今があるということですね。 林:いま、コロナでどうですか、コンサートとか。 田原:エンタメはこの1年、ほんとに影響受けてますね。僕ら、お客さんがいて成立する仕事なんで、苦しいですよ。(突然大声で)仕事ください! 僕にウーバーイーツやらせてください! 真っ赤なポルシェで運びますから。高いですよ! ハハハハハ。 林:今でもお父さまの命日のときには甲府に帰るんですって? 田原:命日の付近には帰ります。「あずさ」(特急)じゃなくて、ポルシェで(笑)。 林:お父さま、小学校の先生だったんでしょう? 田原:はい。僕は生徒役でデビューしたけど、10年後に今度は先生役をやらせてもらって、これも縁なのかなと思いましたね。教壇に立ったとき、親父もこんな景色を見てたのかなって。親父、37歳ぐらいで逝っちゃったんです。 林:お若かったんですね。お母さまはご健在ですか。 田原:健在です。89歳です。自分の足で歩きますし、元気ですね。 林:成功を若いうちにみせてあげられてよかったですね。今もごきょうだいとは仲いいんでしょう? 田原:そうですね。みんな甲府にいます。妹もお姉ちゃんもおふくろのそばにいて、毎日、日替わりで“生存確認”をしてます(笑)。だから僕は安心してて。 林:いいですね。ところで、きれいな女の人をさんざん見てきた田原さんが、いまの奥さまを選んだいちばんの決め手は何なんですか。 田原:北海道に仕事で行くとき、羽田空港で雑誌をパラパラ見てたら、「メッチャいい女じゃん。ふーん、『CanCam』のモデルか。あれ? 俺、『CanCam』に連載持ってるじゃん。この子に会おう」と思って、編集長に「何とかならない?」って聞いたら「じゃ、ごはん誘ってみます」って。そこから始まったかな。 林:でも、用心されません? 田原:用心されすぎでした。3カ月ぐらい連絡なかったもん。3カ月してやっと電話が鳴って。 林:結婚後もずっと円満で、選択に間違いなかったんですね。 田原:でしょうかね。何となく円満にはしてますね。 林:お嬢さん二人も成長されて、きれいな奥さんと美しいお嬢さんたちに囲まれて幸せそうですね。……若いときの武勇伝聞いたけど、よそにお子さん、いないですよね。 田原:誰からも言われてないから、いないみたい(笑)。 林:甲府でお姉さんたちがひっそり育ててたりして。 田原:ハッハッハッ……。頑張りましょう、お互いに! 林:頑張りましょう、同郷同士! (構成/本誌・直木詩帆 編集協力/一木俊雄) 田原俊彦(たはら・としひこ)/1961年、神奈川県生まれ、山梨県育ち。79年、ドラマ「3年B組金八先生」(TBS系)でデビュー。共演した近藤真彦、野村義男とともに「たのきんトリオ」と呼ばれ、人気沸騰。80年の歌手デビュー作「哀愁でいと」は75万枚を売り上げ、同年「ハッとして! Good」で日本レコード大賞最優秀新人賞受賞。オリコンチャート1位獲得12回、ベスト10ランクイン38曲。以降、コンスタントにCD発売、コンサート開催と精力的に活動を続け、今月、77作目のシングルで、自身の60歳記念ソングの「HA-HA-HAPPY」をリリースした。 >>【関連記事/田原俊彦 周囲に怒られても役者は「主役じゃないとやんない」理由】はこちら ※週刊朝日  2021年7月2日号より抜粋
林真理子
週刊朝日 2021/06/27 11:30
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石井志昂 石井志昂
教室で居場所を失った“ヤンキー気質”な元ひきこもり女子34歳 自傷の過去からまさかの「転身」
恩田夏絵さん(撮影・片岡和志) バリへ向けて航行する船の上での一枚(撮影・片岡和志)  世間では「ひきこもり」と一口に言いますが、ひきこもる理由も、そのキャラクターも千差万別です。ゲーム廃人と呼ばれたひきこもりもいれば、健康オタクで早寝早起きを崩せないというひきこもりもいます。不登校新聞編集長の石井志昂さんは、そんな個性豊かでドラマチックな人生を歩んできたひきこもりの人たちを「ひきこもりスーパースターズ」と呼んでいます。今回はその一人、恩田夏絵さん(34歳)の半生を紹介します。 *  *  * 「着物は日本の文化ですが、『赤は縁起がよい色』というのはアジア共通です。日本のお正月文化を楽しんでもらいたいと思い、『赤』を指し色にして文化の交差点をテーマにコーディネートしてみました」  写真はバリ島に向けて航行する船の上で撮った一枚。選んだ着物のテーマを、そう恩田さんは説明してくれました。大胆な柄の着物にインパクトのある小物を合わせるなどなかなかの着こなし上手です。  そんなおしゃれな恩田さんの愛称は「ブイちゃん」。見た目がわりと派手な人に見え「ブイブイ言わせていそう」という印象からついたあだ名です。私が出会ったのは10年前、これまで何度も取材をし、いっしょに仕事をさせてもらいましたが「納得のあだ名だな」と感じています。言うならば勢いを重視するヤンキー気質な人なのです。  すでにこの段階で「ひきこもりらしくない人だ」と思われそうですが、こんなもんじゃありません。職場は世界一周の船旅でおなじみの「ピースボート」です。自身は「おうちが好きだし新しい場所へ行くのはしんどい」と語っていますが、仕事で旅した国々は数十カ国。これまで地球5周分の船旅をしてきました。  ちなみに巡り巡った都市のうち、好きな地域のひとつと言っていたのが「ドバイ」。理由は「ドバイという街の持つダイナミックさが、これまで訪れた中東の地域とはまたちがった印象だったから」。あんなにも高層ビルが立ち並び、未来都市とも言われるところが好きだなんて、いよいよ「ひきこもりらしさ」が感じられません。  ところがブイちゃんも、ひきこもり経験者なんです。その半生を紹介したいと思います。 ■ デビュー早め 自傷が止まらなかった過去  ひきこもりのきっかけは不登校。学校への行き渋りは小学校の2年生から始まりました。当事者界隈では不登校時期の始まりを「デビュー」とも言いますが、小学校低学年の不登校だと「デビュー早め」なんて言われます。ちなみに大学以降の不登校は「デビュー遅め」で、私のような中学校デビューは、最も多いパターンなので何も言われません。  話を戻します。小学校2年生のころから、ブイちゃんは「学校とは合わないなあ」となんとなく感じていたそうです。友だち付き合いや学校の授業に対して、言い表せない違和感を抱えていました。しかし、まわりのみんなは、あたりまえのように通っています。感じている違和感は自分のなかで膨れ上がり、ついには登校自体が苦痛に変わってきました。行ったり行かなかったりをくり返す「行き渋り」が始まったのはそのころです。  さらに息苦しくなったのは、同調圧力の強い「女子グループ」との付き合いでした。みんなでいっしょにトイレへ行き、みんなでいっしょの流行り物を買い揃える。空気を読んでいないとすぐに非難される。もっともつらかったのは「がんばるのがカッコ悪いという空気」でした。勉強も部活も学校行事も「そこそこやっていく姿勢がよし」とされ、一生懸命にがんばろうとするブイちゃんは女子グループのなかで居場所を失っていきます。  教室内で居場所を失ったブイちゃんは小学校3年生から、多くの時間をひきこもって家の中で過ごしました。その日々は、自分を責め、将来を悲観する苦しいものでした。中学生のころは、どうにも気持ちのやり場に困って、昼夜を問わず自傷に走ってしまうこともあったそうです。  その後、新天地を求めて高校へ通ったり、アルバイトを始めたりもしましたが苦しさは続きました。自分が感じている違和感に、共感してくれる場や人と出会えなかったからです。心に溜まった違和感が解消されず、「心はずっとひきこもったままだった」と当時の心境を語ってくれました。  ひきこもりは、家にこもるだけがひきこもりではありません。周囲に対して違和感を覚え、孤立感に苦しむのもまた、ひきこもりの一つの形態だと私は思うのです。 「心のひきこもり」が続くなかで、ハマったことのひとつが他人への依存でした。「ダメな男性にほどのめり込むダメンズウォーカーだった」でもあったそうで、異性との関係や友人への依存によって自分の支えにしていました。  恩田さんのように狭い人間関係に没頭する人も、不登校やひきこもりの人のなかには見受けられます。人間関係で苦しんだからこそ、人間関係を狭めて没頭し、満足感や安心感を得ようとするからです。 「小2からの行きしぶりがあった」「自傷が止まらない時期があった」「他人への依存で自分を支えていた」など、ひきこもりで長く苦しんだことがうかがわれるエピソードが多くありました。 ■ 相次ぐまさかの展開  その後、ブイちゃんはどうなったのか。ここからは「まさかの展開」が相次ぎます。  最初の「まさか」は海上で居場所を見つけたこと。学校でも職場でも居場所が見つけられず、身も心もボロボロになったとき、ピースボートに出会いました。「私のことを誰も知らないところに行きたい」と思ったからです。  これが見事にハマりました。船旅で出会う同乗者や現地の人たちの価値観は多様です。同乗者は16歳から90代まで、在住地なども、もちろんバラバラですし、船旅の楽しみ方もバラバラです。のんびりと旅を楽しみたい人もいれば、人との交流にアクティブな人もいます。「どんな私でも許される」、そんな風通しのよい雰囲気にはじめての安心感を得たのです。  次のまさかは、世界でも類を見ない「洋上のフリースクール開校」です。ピースボートに感銘を受けたブイちゃんは、スタッフとしてピースボートに就職。2010年には「私と同じような思いの人も多いはず」と考え、あるプログラムを開設します。プログラム名は「グローバルスクール」。対象者はピースボートの船旅に参加する若者です。  参加者は船旅中、グローバルスクールの生徒となり、スクールの授業や船内で企画された講座やイベントに参加します。不登校やひきこもり当事者などが参加しやすいプログラムで「洋上のフリースクール」とも言えるでしょう。「洋上のフリースクール」なんて世界的にも類を見ないかたちです。  開校当時は「ひきこもりの人が船旅なんかに来ない」とも批判されましたが、すでに150名以上の卒業生がいます。ブイちゃんは教育の可能性をひとつ、生み出したと言えるでしょう。  余談ですが、ダメンズウォーカーだったブイちゃんの交際関係はどうなったのでしょうか。  自分の居場所が見つかると依存傾向はなくなり、すてきな人と出会うことになります。それが職場で出会った室井舞花さん。おたがいに人生の伴侶にと選びあい、結婚式を挙げています。これまでの恋人たちは異性でしたが、結婚式のお相手は同性だったのです。このあたりの顛末は、室井舞花さんの著書『恋の相手は女の子』 (岩波ジュニア新書)にくわしく書かれています。  さて最後のまさかは「女子会の全国展開」です。  グローバルスクールを開校後、ブイちゃんは「一般社団法人ひきこもりUX会議」の立ち上げ人の1人となり、ひきこもりに関する事業を展開します。事業の中でもっとも成功したのが「ひきこもりUX女子会」の開催でした。  ひきこもりが集まる自助グループは全国に点在していますが、集まる人は、ほぼ男性。そこでブイちゃんらは、ひきこもり女性だけで集まれる場を作ったのです。日本では数少ない例で、これが大きな反響を呼びました。  ひきこもりでも、同じ経験者がいる場に行きたい女性はたくさんいたのです。こうしたニーズをブイちゃんらは自身の経験から知っており、ひきこもりUX女子会は反響を呼ぶことができたのです。  ひきこもりUX女子会の初開催は2016年。「10人でも集めまれば」と思っていた女子会は、初回から30名弱が参加しました。続けて開催した2回目には80名強が参加。多くの当事者が表参道に殺到しました。うわさはすぐに広まり、全国各地から女子会の開催依頼が届き、累計にすると4000名もの当事者が参加しているそうです。  さらにはブイちゃんたちのもとには、自治体などからの講演依頼や内閣府の有識者会議(※)からも参席のオファーが届きました。これらの活動を活かして、今年6月末には「ひきこもり白書2021」を発行。研究価値の高い資料までつくっています。  女子グループが苦手で不登校になったブイちゃんが、女子会を全国展開していく。そんなまさかの展開に発展していたのです。 ■ 違和感こそ大事にされるべきでは  ひきこもり経験を活かして活動をつくってきたブイちゃん。展開に恵まれたのは周囲からのサポートがあったからかもしれませんが、本人の「がんばり屋さん気質」も多分に影響したと私は思うのです。ブイちゃんを見ていると「がんばっていれば、いつか報われる」と私はいつも勇気づけられます。一方、学校時代は、教室内で居場所がなく、本人も「みんなと合わせられない」と悩みました。  ブイちゃんの半生をふり返ると、どんなにがんばり屋さんでもひきこもりや不登校になる、ということがわかります。学校や職場に対して違和感を抱えているとき、「がんばり」だけでは解決できません。もっと言えば自分が抱える違和感を大切にして転身したほうがいいのかもしれません。  ブイちゃんは既存の学校とは合いませんでしたが、新しい学校(グローバルスクール)をつくりました。女子グループとはソリが合いませんでしたが、ひきこもり女子会を全国展開しました。 「合わせる」よりも「転身」がときには必要なのでしょう。私たちは、ついつい合わせられない自分を責めてしまいがちですが、違和感も大事にしていいはずです。そんなことをブイちゃんの話を聞いていると、いつも思わされるのです。(文/石井志昂) ※就職氷河期世代支援の推進に向けた全国プラットフォーム(内閣府)
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dot. 2021/06/27 10:00
赤ちゃんと死のうか…18歳、予期せぬ妊娠に「まぢ、終わった」 1本の電話が人生の分岐点に
赤ちゃんと死のうか…18歳、予期せぬ妊娠に「まぢ、終わった」 1本の電話が人生の分岐点に
慈恵病院は熊本駅から車で10分ほど、熊本市西部の山の麓に位置する。明治後期にフランス人宣教師が始めたハンセン病患者救済事業をルーツに持つ (c)朝日新聞社 久保田智子さん。特別養子縁組で家族になることは幸せだと身をもって体験し、広く知ってほしいと願っている。それは娘のためにもなると考えている(撮影/片山菜緒子)  複雑な事情を抱えて人知れず出産する女性たちがいる。赤ちゃんの殺害・遺棄事件につながることもある。そんな女性たちを助けたい。さまざまな動きが起きている。AERA 2021年6月28日号で取材した。 *  *  *  1本の電話が人生の分岐点となることもある。  2月のある夜、その人は分岐点に立っていた。まもなく18歳になる彼女は“いちごが好きだから、いちごちゃん”と名乗った。  いちごちゃんは妊娠していた。生理不順だったため、気づいたときには既に中絶できる週数を過ぎていた。  幼い頃、母は夜働いていて家におらず寂しかったが、ママが好きだった。母の恋人が住みつき、母への暴力や性交を見せられた。小5のときにできた継父はいちごちゃんを虐待した。弟と妹は可愛がられるのにひとり家族からのけものにされ、中学を出ると歓楽街でキャッチなどの仕事で生き延びた。  妊娠の相手はわからなかった。受診したクリニックでは32週までは診るけれど、それ以降は大きな病院に行って産んでほしいと言われた。「まぢ、終わった」と思ったのだと、いちごちゃんは2度つぶやいた。 ■18年間生きてきて初めて他人に頼ろうと思った  今死ぬか、ひとりで産んで赤ちゃんと一緒に死ぬか。3週間、悩んだ。線路に飛び込もうと思ったができなかった。ひとりで産むのも怖かった。  もう中絶できない時期にあること、誰にも知られずに産まなくてはならないことを、その電話に出た女性に伝え、「助けてください」と言った。 「18年間生きてきて初めて他人に頼ろうと思った」  いちごちゃんはこう振り返った。  勇気を振り絞って電話をしたその夜を境に、自殺さえ考えていたいちごちゃんの人生のベクトルは逆方向へと動き出す。3カ月が経った今、いちごちゃんは関東のある町で赤ちゃんとの新しい人生を始めている。  電話でつながったのは熊本市の慈恵病院だった。「こうのとりのゆりかご(赤ちゃんポスト)」を運用する民間病院だ。予期せぬ妊娠をした女性が自分で育てられない赤ちゃんを匿名で預け入れることができる。2020年3月までに155人の赤ちゃんが預け入れられた。  近くの病院を紹介するとの提案をいちごちゃんは拒んだ。何度か電話でやり取りをしたが、いちごちゃんは精神的に不安定で、このまま孤立出産になることを病院は心配した。  ゆりかごに預け入れる母親の多くが自宅のトイレや浴室で一人で出産していた。命の危険はもちろん、赤ちゃんの殺害・遺棄事件に至ることもある。  30回以上SNSでやり取りして慈恵病院で出産するよう説得し、いちごちゃんの住む場所まで相談員が迎えに行った。だが待ち合わせたJRの駅にいちごちゃんは現れず、相談員は熊本市に引き揚げた。そして6日後、いちごちゃんは新幹線に乗って一人で熊本までやってきた。 「孤立出産を回避するためにこのような選択をしたものの、ほんとうに内密出産になってしまったら大変なことになるという思いはありました」  こう振り返ったのは慈恵病院院長で産婦人科医の蓮田健さんだ。  内密出産とは、妊婦が特定の関係者のみに身元を明かして出産し、赤ちゃんの出生届は母親の欄を空欄にして提出する。赤ちゃんが将来、実親を知りたいと希望すれば身元情報の開示を受けることができるというものだ。同院はゆりかごから一歩踏み込んで、17年12月、内密出産に取り組む意思を表明したが、合法性が担保できないとして、熊本市は慈恵病院に不許可を通達している。 ■出生届で母親の身元は空欄 医師の違法性が最大の壁 「彼女は最初、継父に赤ちゃんのことがばれたら面倒臭いと言いました。日本初の内密出産になるかもしれないケースの背景が面倒臭いといういい加減なものであれば、これを社会に公表したときに批判され、内密出産の推進が頓挫してしまうと危惧しました」  未成年を対象として想定していなかったことも蓮田さんを焦らせた。  いちごちゃんは、熊本駅で出迎えた相談員が車で病院まで連れ帰った。怯えながら恐怖を隠そうと毛を逆立てる仔猫のようだった。  院内のキッチン付き居室で過ごすうちに、相談員に心を開き始めた。若くしてシングルで自分を産んだ母のうつ、児童相談所の一時保護所で保護された経験など、厳しい生い立ちを話した。いちごちゃんは、赤ちゃんを育てたい、でも、自分も虐待してしまうのではないかと不安を打ち明けた。  直前まで住んでいた自立援助ホームの管理者には蓮田さんが電話した。「そんな勇気のある子だったなんて」と管理者は驚き、気づいてやれなかったことを悔やんだ。  病院職員が生活の世話をし、日々声かけを続けるうちに、いちごちゃんの表情は穏やかになり、ときにはあどけない表情で相談員に体をくっつける甘えた仕草も見せるようになっていた。  4月末、いちごちゃんは無事に出産し、自分で育てる気持ちを固めた。実母と継父が赤ちゃんを奪い虐待する危険性があるため、実母に連絡はしていない。出産にあたって必要な保証人の欄は空欄のままとした。  このケースは内密出産に踏み切らずに済んだ。だが、もしいちごちゃんが頑なに身元を明かさなかったら、蓮田さんが何らかの罪に問われた可能性はある。内密出産のいちばんの壁は、病院で出産したにもかかわらず医師が出生届に女性の身元を空欄のまま提出することが「公正証書原本不実記載罪」(刑法157条)に抵触するのではないかという点だ。  6月初旬、突破を試みる動きがあった。20年12月に成立した生殖補助医療法についてさらに議論するために発足した「超党派生殖補助医療の在り方を考える議員連盟」(以下超党派議連)の自民党参院議員、古川俊治さんが法務省と面会を持った。古川さんは医師で弁護士でもある。内密出産について、刑法35条「法令または正当な業務による行為は、罰しない」を適用すれば、内密出産で医師が違法性を問われることを避けられるのではないかと考えた。だが、法務省とは物別れに終わった。  超党派議連は、14回開かれた勉強会で4回も内密出産を取り扱った。仕込んだのは議連事務局長で国民民主党副代表の伊藤孝恵さんだ。  伊藤さんは超党派ママパパ議連の発起人でもあり、子ども子育て政策に力を入れている。初当選した16年は次女を出産して育休中のリクルート社員だった。慈恵病院が内密出産について検討していることを新聞報道で知ってから法整備を目指してきた。19年3月には国会予算委員会で「ゼロ歳ゼロカ月ゼロ日ゼロ時間、つまり産声を塞がれて亡くなる子どもが(児童虐待の中で)いちばん多い」として、内密出産制度の検討を求める質問に立った。このとき、予期せぬ妊娠に悩む当事者を「あばずれ」などと揶揄するヤジが飛び、反対派には予期せぬ妊娠に関する情報が伝わっていないと感じたという。超党派議連の勉強会では熊本の蓮田さんをオンラインでつないだレクチャーも開催した。 「こんな大事なこと、しっかりやらないとだめだ」と与党からも積極的な声が出てきた。だが、まだ壁は厚い。伊藤さんは悔しがった。 「思いもよらない事情が隠れているのが予期せぬ妊娠です。ただ、どんな事情があろうとも女性が安心して出産できないのはおかしいし、命は生まれてこそのもの」 ■命がけで産んでいるかけがえない行為への尊敬  超党派議連会長の野田聖子さんは、内密出産の法整備に関しては容易ではないという立場だ。生殖補助関連の議論では優先順位は高くないという。自身が過去に特別養子縁組あっせん法制定に関わった際に、内密出産も検討したが難しかったという実情を明かした。  取材の際に、野田さんにいちごちゃんの話をした。予期せぬ妊娠による孤立出産や遺棄事件は後を絶たず、その防波堤となる内密出産をめぐってギリギリのケースが起きていることを伝えた。すると、野田さんはこう言った。 「その子、18歳でよく頑張ったね。産んでくれてありがとうって言いたい」  野田さんの母が野田さんを身ごもったとき、両親は婚姻届を出していなかった。 「だから私も予期せぬ妊娠で生まれた子どもなのよ。それに、うちの息子みたいに障害を持って頑張って生きてる人間もいるしさ。いちごちゃんによろしく言ってよ」  野田さんは第三者の女性から提供された卵子と夫の精子を使った体外受精により50歳で出産している。また、10歳になった息子には障害がある。出産には、さまざまな事情や予期せぬ状況が複雑に絡み合うことを体感している。  予期せぬ妊娠をめぐる問題は女性ばかりが責められ、生まれた子どもはかわいそうだと言われる。だが、決して子どもはかわいそうではないし、命をかけて子どもを産んだ女性のことが大切に考えられていない。そう指摘するのは、TBS報道局記者の久保田智子さんだ。久保田さんは19年に、特別養子縁組により赤ちゃんを迎えた。夫と子どもとの暮らしに幸せを感じている。  子どもを特別養子縁組に託す女性には、貧困や虐待など厳しい成育環境に育ち支援が乏しい人が多いことを久保田さんは知った。  特別養子縁組に子どもを託す際に泣かない女性はいないという。生後4日の赤ちゃんを託されたとき、久保田さんは病院で実母と対面した。わずかな時間だったが短い会話と表情から女性の言葉にならない思いを全身で感じ取った。  特別養子縁組、ゆりかご、内密出産。いずれも産んだ女性たちには育てられない事情があり、赤ちゃんを託す。不倫や多産などのケースは批判されることもある。 「仮に反社会的な背景があったとしても、産む瞬間にはその人は命がけで産んでいるはずです。そのかけがえのない行為に対する尊敬の思いが私にはあります。娘を託してもらって私たちは感謝していますし、産んだ女性にはどうか幸せになってほしい」(久保田さん)  命がけで産んだ人と生まれた命が無条件に大切にされる社会であるためにはどうしたらいいのか。自分で育てられない女性たちの、困難な背景が可視化されなければならないと、育てられない女性の哀しみに触れた久保田さんは言った。(ノンフィクションライター・三宅玲子) ※AERA 2021年6月28日号
AERA 2021/06/23 11:30
梅雨・夏バテの正体は“脳の熱中症”だった 直ちに冷やすべき意外な部位とは
梅雨・夏バテの正体は“脳の熱中症”だった 直ちに冷やすべき意外な部位とは
※写真はイメージ(gettyimages) AERA 2021年6月28日号より 梶本修身(かじもと・おさみ)/1962年生まれ。医学博士。大阪大学大学院医学研究科博士課程修了。東京疲労・睡眠クリニック院長(撮影/写真部・戸嶋日菜乃)  十分休んだはずなのに、疲労感が抜けない──。梅雨から夏にかけてのこの時期、小さな「不調」は積もりがちだ。サインを見逃さず、効果的にメンテナンスしよう。AERA 2021年6月28日号は「デトックス」特集。 *  *  * 「なぜか一日中頭がボーッとしたり、体がだるかったり。でも健診では特に悪いところは見つからないので、一体どうすればいいのやら……」  ため息をつくのは、都内の出版社に勤務する男性(42)だ。ここ数年、梅雨の時期になると体に“異変”が起きるという。  平日は朝7時に起床するが、この時期はなかなかベッドから起き上がることができない。起床から4~5時間ほどすると激しい睡魔が襲ってくる。打ち合わせの場所へ向かう電車では、ほんの2、3駅でも眠ってしまう。週末は昼過ぎまでベッドでうずくまっている。 「何をしてもすぐに疲れて、集中力がもたない。周りから『やる気がない』と思われている気がして、つらいです」(男性)  蒸し蒸しジメジメするこの季節、体のだるさを訴える人は多い。ウーマンウェルネス研究会が首都圏に住む20~50代の男女609人を対象に実施した調査(2019年)では、全体の57.3%が梅雨時期に何らかの不調を感じており、女性の場合、その割合は66.6%にものぼる。  埼玉県在住の事務職の女性(45)も「いつもとは疲れ方が違う」と話す。 「梅雨になると決まって肩こりがひどくなるんです。細かい文字を長時間見るのは慣れっこですが、この時期はすぐに目が疲れてしまいます」 ■脳の熱中症が起こる  なぜ梅雨は、いつも以上に疲れを感じるのだろうか。疲労研究に詳しい東京疲労・睡眠クリニック院長の梶本修身医師(59)はその原因をこう説明する。 「いわゆる梅雨バテや夏バテの主な原因は“脳の熱中症”です。例えば、長時間入浴するとのぼせることがありますが、それは脳の熱中症の初期症状。脳の自律神経が熱を持ったままの状態だと、機能が低下するだけでなく、睡眠の質が悪化し、疲労の回復が妨げられてしまうことがわかっています」  一般に、疲労は身体的なダメージだと想像しがちだ。だが、梶本医師によると、実は疲労は肉体の酷使が原因ではないのだという。 「疲労の原因は、自律神経、すなわち脳へのダメージです。仕事やストレスがかかる時や運動時も、自律神経中枢が最も疲れるんです。つまり、すべての疲労の原因は脳にあります」  梶本医師は、疲労と自律神経のメカニズムをこう解説する。  自律神経はいわば「脳の司令塔」。24時間休みなく、心臓の拍動や血圧、呼吸、体温、唾液、消化活動、覚醒と睡眠などを調整している。自律神経中枢は脳の視床下部と前帯状回にあり、活動性を高める「交感神経」と休息や睡眠に導く「副交感神経」のバランスを細かく制御して、脳と体を維持している。運動時や厳しい環境では、脳から各器官への指令が増えて複雑になり、自律神経が酷使され、疲弊する。これが疲労の正体だ。  だが、自律神経機能は加齢とともに下がる。20歳のときと比較した場合、40歳は2分の1、60歳では4分の1まで低下する。多くの人が30代半ばを過ぎると急に疲れを自覚するようになるのはこのためだ。  中高年になっても若いころのような働き方や運動を続けていると、気づかぬうちに自律神経の中枢が疲弊し、脳疲労がたまってしまう。そして、この脳疲労が信号として前頭眼窩野(ぜんとうがんかや)という場所に送られ、“身体的な疲労感”に変換されるという。 「つまり、私たちが普段感じている『体が疲れた』という感覚は、実際は『脳の自律神経が疲れた』という信号を、自分自身でごまかすことによって引き起こされているんです」  脳疲労をセルフチェックするリストを用意した(下記)。一つでも思い当たることがあれば脳疲労が蓄積している可能性がある。  疲労は、睡眠中に脳を休め、回復するのが基本だ。  実は、脳はパソコンのように常に発熱しており、酷使するほど熱が上がる。脳疲労の回復は、脳の熱を冷やすことが最善策だという。 「気温や湿度の高い今の時期に倦怠感がある理由は、暑さなど体温調節に自律神経が酷使され、脳温度が上昇しているから。最も有効な方法は、脳の自律神経の中枢を冷却することです」  冷やす方法はシンプルだ。自律神経の中枢は鼻腔のちょうど真上にあるため、冷たい空気を鼻から吸い込むことにより、効果的に冷却できる。 「鼻は脳の冷却装置。鼻が詰まるとボーッとするのは脳温度が上がるからです。自律神経中枢を冷やすには、鼻から冷たい空気を吸うのが、最も効果的です」  おでこに冷却ジェルを貼るなどしても、自律神経の中枢を冷やすことはできないという。 28度はエコじゃない  梶本医師は夏季の睡眠にこう注意喚起する。 「25度以上の熱帯夜は、エアコンをつけたまま寝ることをお勧めします。湿度が40~50%の場合、脳のパフォーマンスが最も落ちにくい温度は22.5~24度と言われており、26度以上になると、1度上がるごとにパフォーマンスが2%下がる。巷で推奨される“28度設定”は、脳疲労を招くばかりか、仕事時間が延びてしまい、エコにもなりません」  就寝時のエアコンの設定温度は男性なら25度以下、女性でも26度以下が望ましい。ただし、日本人は筋肉量が少ない人も多い。寒気を感じるなら、交感神経が緊張して逆効果だ。 「大切なのは“頭寒足熱”で、脳は冷やして体は温めること。夏でもタオルケットではなく、冬用の布団を使ってみてください。暑いようなら、エアコンの設定温度を下げればいい」  ポイントは、わきから下に布団をかけること。首までかけると、脳に行く血流まで温めてしまう。寝汗が出たり、いびきをかいたりするなら、就寝中も脳が自律神経をフル稼働させている証拠だ。そんな時はエアコンの下で呼吸するといいという。 「おすすめは“478呼吸法”です。4秒かけて鼻から息を吸って、7秒息を止めて、8秒かけてゆっくり口から息を吐き出す。涼しい場所で深く呼吸すれば、脳を冷やすことができます」 ■脳疲労の蓄積度かんたんチェック □夜、ベッドに入ると5分以内に寝付くことが多い。 □起床して4時間後に眠気やだるさがある。 □休みの日はいつもより2時間以上長く眠ることが多い。 □電車やバスに乗ると、次の駅や停留所に着くまでに眠っていることがある。 □物事はきりのいいところまでやらないと気が済まない。 □責任感があり、遅くまで残業しても苦にならない。 □集中力が高く、何かに没頭するとまわりが見えなくなる。 □疲れたら栄養ドリンクをよく飲む。 □長時間のドライブでも途中休憩をあまりとらない。 □熱めのお風呂に長湯するのが好きである。 ※ひとつでも思いあたることがあれば、脳疲労が蓄積している可能性がある。 梶本修身医師への取材から (編集部・藤井直樹) ※AERA 2021年6月28日号より抜粋
AERA 2021/06/23 08:00
「底辺校から東大へ行く子vs地頭がいいのに深海に沈む子」明暗決める12歳までの親の"ある行動"
「底辺校から東大へ行く子vs地頭がいいのに深海に沈む子」明暗決める12歳までの親の"ある行動"
東京大学(c)朝日新聞社 (c)Norifusa Mita/Cork  進学校ではない高校から東京大学に進む子は何が違うのか。作家で教育カウンセラーの鳥居りんこ氏は「偏差値が低い底辺校などから東大に合格した人たちは12歳までの過ごし方に共通点がある。それは親が実践する4つの習慣によってつくられた心穏やかになれる生活時間を過ごしていることです」という――。 ■同じく子供を持つ「親」……なぜ、天と地ほどに違うのか  親の「実力」はこれほどまでに違うのか……。  今回、2冊の書物に触れる機会があった。書籍『ドラゴン桜「一発逆転」の育て方』(以下、一発逆転本)と、雑誌『プレジデントFamily2021年夏号』(いずれもプレジデント社)だ。  前者は、人気ドラマ「ドラゴン桜」(TBS系)のリアル版、すなわち、低学力・底辺校・不登校などハンデがあったにもかかわらず東京大学に合格した高校生とその親へのインタビュー集。なぜ奇跡を起こすことができたのか、そこには本人の努力だけでなく、親の献身や関与があった。  後者の目玉記事は、現役の東京大学の学生249人に実施した小学生時代のアンケート。この記事を読むと、有名な私立中高一貫校の生徒でないケースでも合格できたのは、やはり親の存在があったからだということがよくわかる。  筆者は、長年、教育カウンセラーとして活動し、中学・高校・大学受験する子供やその親からの相談を受けるとともに、学校の現場に足を運んで取材している。その中で東大生、もしくは東大生の親から話を聞くことも多いが、そこから得た知見と、今回の2冊から感じたポイントは同じだ。 ■東大合格者の家庭には世帯年収350万円以下が8%もいる  それは賢い子が育つ家庭には“共通点”があるということであり、東大生の親の育て方は他とは似て非なるものだということだ。  東大合格者の半数の家庭が世帯年収950万以上だと言われる。世帯年収350万円以下の家庭はわずか8%。データ上は、高年収家庭が圧倒的有利だが、経済的に豊かとは言えない家庭からも、その壁(18歳世代120万人のうち、東大進学者は約3000人。同世代では0.25%という狭き門)を突破する子供はいる。 「一発逆転本」に登場する10人の学生はまさにそうした人たちだ。家庭は裕福ではない、低偏差値の高校出身、不登校経験あり、成績低迷といった困難を見事に乗り越えた。  以下、「東大生アンケート」の結果と合わせて「奇跡を起こした東大生の親」の子育て(主に小学生時代)にはどんな秘密が隠されているのか探ってみたい。 ■子供に東大へ進ませる親が12歳までに実践する4つの習慣  筆者が「賢い子に育てる親」が実践していると感じたのは次の4つの習慣だ。 1 良い習慣(含む勉強)の確立 2 ルールありきの中での自主性を育む 3 愛情を持って褒めて伸ばす 4 知的好奇心を刺激する  この4ポイントが、たとえお金持ちの家庭でなくても、わが子を頭のいい子にすることができる秘訣。なぜ、そう言えるのか「一発逆転本」に登場する東京大学の学生A~Eさんの例から検証してみよう(書籍内では、実名)。 1 良い習慣の確立 ケース:女性Aさん・教育学部3年・私立日本大学三島中高(静岡県)卒  東大を目指す受験生の勉強時間は1日10時間以上に及ぶことも珍しくない。この猛勉強を支えるためには家族のバックアップが欠かせないが、Aさんの場合も東大合格には母(自営業)の力も極めて大きかった。仕事の合間を縫って1日3食、栄養バランスを考えた手料理を決まった時間に用意していたのだそうだ。食事時間以外は机に向かう娘の唯一のリラックスタイムだからこそ「そうしてあげたかった」ということだが、そのおかげでAさんは受験中も規則正しい生活を送ることができたという。 「東大生アンケート」にも、幼い頃から食事作り、早寝早起きへの誘導、整理整頓、共に食卓を囲むといった生活習慣を整えてくれた親への感謝が数多く寄せられている。 「1日にやるべき勉強範囲の習慣付けを根気強くしむけてくれた」(文科2類・学部1年・男子・埼玉県立伊奈学園校卒) 「朝に勉強する習慣を付けてくれた」(文科1類・高3・女子・静岡県立浜松西高卒)  子育てに励む多くの家庭を見てきた筆者の経験では、「東大生の親」に限らず、良習慣化を実行できる親は子供の「睡眠・食事・遊び(ごっこ遊びのようなお手伝いも含む)」を非常に大切にしている。規則正しく暮らしていくことに重きをおいているのだ。  逆に、中学受験塾の宿題のために子供を深夜まで起こしてやらせる親や、口だけで指示してそのフォローをしない親(例:歯磨きの習慣化は親がある程度、フォローしていくことによって身に付く)がいる家庭には良い習慣は根付かない。一貫性に乏しいため、「安定した時間」が得られず、子供が心穏やかな生活を送ることはできない。 2 ルールありきの中での自主性を育む ケース:女性Bさん・文科3類2年、私立富士見中高(東京都)卒  Bさんの小学校の成績は「よくできました」が1~2個で、あとは普通。勉強面では「並」の子だった。親は子供に「勉強しなさい」と言うことはなく、教育方針は「何かを始める場合は基本的には子供の希望通りにさせる」というもの。  ただ、そこにはルールがあった。それは「中途半端はいけないので3年は続けて基礎を学ぼう」。Bさんの希望で始めたピアノもそろばんも、それほど上達したわけではなかったが、「うまくいかなくても諦めない」という教訓が東大受験時に生かされた。  東大生が育った家庭は総じてのびのびとした自由な家風だが、「何でもOK」ではない。「始めたら最低3年は続ける」のような家庭のルールに沿って、その中で子供の自主性を育てる傾向があるのだ。  反対に「子供を潰しかねない親」の特徴はルールがないことだ。    例えば、「子供が望んでいるから」となんでもかんでも許容する。携帯電話、ゲーム関係など端末を簡単に買い与え、時間制限なしに使わせるというようなことだ。 「何でもOK」派の真逆、「なんでもダメ」な親も問題がある。こうした親は子供から夢や希望という話が出るや否や、「それはやめろ」「どうせ無理だ」と否定に走りがちだ。そうなると「自分が何をしたいかすらもわからない」子供になる可能性が高い。 3 愛情を持って褒めて伸ばす ケース:男性Cさん・文学部4年・私立共栄学園中高(東京・特待生)卒  Cさんの両親は自営業で世帯年収は300万円。通常、経済的に苦しい家庭は家族の関係がギスギスしがちだ。ところが、Cさん宅は違う。両親は「いいことは口に出して褒め合う。悪いことは、厄は落ちたから、もう起きないと考える」が共通認識だ。  なぜ、ネガティブな捉え方をしないかといえば「お金が苦しい上に、夫婦や親子で喧嘩したら、やっていけなくなるから」。そういう智恵・習慣があったため、小さなことでも褒め合う。お互いを肯定し合う家庭の雰囲気が、家族の病気や経済苦、Cさんの高3時の“全落ち”といった試練を乗り越え、前を向く力になったのだという。 「東大生アンケート」でも、「親が良いところを褒めて自信を持たせてくれたか」が79.5%に達した。やはり親が「褒めて褒めて褒めまくる」→「愛情をたっぷり注ぐ」→「興味を持ったことを好きなようにやらせる」という方針を貫くことが今の時代の子育てに合っていることが証明された。  アンケートでは「親が子供の趣味や好きなことを応援してくれた」91.1%、「親が話をよく聞いてくれた」90.4%、「親が失敗を責めなかった」84.3%となっており、同じ目線で寄り添い、会話する。そんな親の人間性が見えてくる。  ところが、“普通の親”は、こううまくはいかない。点数・順位・偏差値といった相対的な、他人様が決めた尺度で子供を褒めたり褒めなかったり。わが子自身の成長をしっかり見ずに、誰かと比較するのだ。そのため否定や苦言、叱責が多くなる。  筆者はこれまで子供の成績に一喜一憂して情緒不安定になる親をたくさん見てきたが、これをやめない限り子供の伸びしろが小さくなるばかりか、下手すればやる気を失って、潰れてしまうリスクがある。もともと地頭がよく、将来は東大も夢ではないが、親のせいで深海魚のように沈んでしまう子供の事例は数知れない。 4 知的好奇心を刺激する ケース:男性Dさん・法学部3年・県立水沢高校(岩手県)卒  Dさんが通った岩手県の小中学校は各学年40人程。周囲には田んぼが広がっている田舎の中の田舎だ。そんなD家では毎晩欠かさず、本の読み聞かせをする習慣があり、これが東大受験に影響をもたらし、「国語の勉強に困らなかった」そうだ。休みの日には、家族全員で東北各県の博物館を回り、そこで開催される体験イベントに積極的に参加したという。  東大生アンケートでも「小さい頃読み聞かせをしてくれた」83.2%。「本や新聞を読むことを勧めてくれた」75.9%。「博物館や科学館に連れて行ってもらった」64.6%と高い率になっている。自由回答では「本だけは好きなだけ買ってくれた」が目立った。 「質問したことを真剣に答えてくれた」というものも多く、子供の疑問を放置せず、親が分からなければ「親子で一緒に調べる」という経験をしていることも特徴だ。  このことが、いろいろなものに興味・関心を持ち、さらには「わかる喜び」を知るという人間に育つのだということが見て取れた。 ■普通の親は「カナブン」に何の興味も示さない  一方、普通の親はこんなに子供に時間を割いていない。やれ仕事だ、やれスマホだ、とオフの時間を自分自身のために使う。先日、散歩の途中で、幼稚園児と思しき女の子と歩いていた父親もそうだった。女の子は、父親に「こないだ見つけたカナヘビ(トカゲ)」について一生懸命語っていたが父親の耳には全く入っていない。歩きながら女の子はカナブンの死骸を発見し立ち止まったが、パパはそれに気づかずズンズン先に行く。そして、こう言った。「さっさと歩け!」。女の子は小さな声でカナブンに「バイバイ」と手を振った。  これだけのエピソードでこの女の子の未来を計ることはできない。だが、父親が面倒くさがらず、ほんの少しでもカナブンなどの生き物に興味を示していれば、さぞかし娘は満足し、父親との楽しい時間を思い出にできたのではないだろうか。  東大生の親は優先順位が違う。「幼い子供の脳と体を健康に育てること」を何よりも大切にしているのだ。  結局のところ、親の庇護の元で暮らすしかない小学生以下の子供たちに親ができることは、日々の暮らしをちょうどいい塩梅に整えるということだと筆者は確信している。それには、親自身が子供と共有する時間が限られていることを知り、その時間を楽しもうとすることが最も大事なのだと思っている。
大学受験東大
プレジデントオンライン 2021/06/22 17:21
相棒猫の死にハッとしたもう一匹 「泣かないと決めてたけど」50代女性のペットロス経験
相棒猫の死にハッとしたもう一匹 「泣かないと決めてたけど」50代女性のペットロス経験
夏彦君(左)と彦星君(右)(提供) 夏彦君の遺骨と遺品(提供)  飼い主が毎日どんなにペットの健康管理に気を配ってあげても、犬や猫の寿命は人間より短く、いつか別れの日が来てしまうのは避けられない。家族同然の存在を失ったダメージから長い間立ち直れず、つらい思いを抱える人も多い。しかし、小さな行動の積み重ねで少しずつ心を上向かせることもできるという。昨年、愛猫を病で亡くし、その後、ペットロスを日ごとに克服しつつあるという経験者に話を聞いた。 *  *  * 「もう二度と元気なあの子には会えないんだ……そう思っただけで悲しくて、苦しさで胸が締めつけられるような気持ちでした。昨日、撫でてあげたらとってもうれしそうだった、あと少しで退院できると信じていたのに……。自分ではどうにもできない状況に涙があふれて止まらず、本当につらくてたまりませんでした」  都内のIT企業勤務の伊藤香織さん(仮名)は昨年、コロナ禍で愛猫「夏彦」君をなくした。伊藤さんは40代半ばで一念発起し、都心に猫が2匹まで飼えるマンションを購入。夏彦君が亡くなるまで、先に飼っていたオス猫「彦星」君と1人と2匹暮らしだった。  2匹ともいわゆる保護猫。先に飼った彦星君は、福島県双葉町の出身。2011年末、東日本大震災の原発事故の影響による立ち入り禁止区域で、置き去りにされた動物の保護を環境庁が一時的に許可した日に保護された猫だった。吸い込まれそうなグリーンの瞳に精悍な顔立ちのキジトラ猫で、どこか堂々たる風格を漂わせていた。 「外見では分からない猫エイズのキャリアがありましたが、だからこそ飼ってあげたいとも思いました。なにより、そのイケ猫ぶりにひと目ぼれ! 連絡をくれた保護猫活動を行なう知人を介し、1カ月のトライアル期間を経て家に迎えました」  黒猫の夏彦君が伊藤さんのもとにやってきたのは、それから4年後。同じ知人を通し、やはり猫エイズキャリアのある当時推定3~4歳のオスの保護猫だった。  こうして始まった2匹の猫との生活。それは想像以上に豊かな時間を伊藤さんにもたらした。 「通勤電車では携帯アプリで自宅にいる2匹の様子を遠隔チェック。仕事や私生活で落ち込むことがあっても、家に帰ればこの子たちが待っている……独身で一人暮らしの私はそれだけで本当に癒されました」  2匹の体調が良いときは、伊藤さんの帰宅を出迎えた後に大運動会。室内をぴょんぴょん跳び回りながら、「見てますかぁ?」と言わんばかりにチラチラと伊藤さんの様子をうかがう。 「私の帰宅に興奮するというよりは『僕たち今日も元気ですよー!』とアピールするために、『さあ、今日も始めるか』と、わざわざやってくれる感じ(笑)。2匹とも普段はほとんど鳴かない静かな子たちで、アプリで見ていると帰宅直前までクッションの上でまったり寝ているので、そのギャップがすごく面白いんです」  その2匹の存在がより大きく感じられたのが、コロナ禍だ。昨年春の緊急事態宣言後、伊藤さんの生活も一変。出社は一切なくなり、すべての業務が在宅リモートワークに切り替わった。感染収束が見えず、会食は自粛という状況下で、友人や同僚と直接会える機会が失われ、同僚たちとの何気ない雑談も消えてしまった。  そんな中で漠然とした不安や孤独を感じることが増えていったという。 「自宅に引きこもるような環境はメンタル的にかなりきつい。猫たちがいなかったら病んでいたかもしれません」  彦星君は、飼い猫ながら伊藤さんにとってはパートナー的な存在感。感染拡大の報道に伊藤さんが顔を引きつらせていても、ふと隣を見れば泰然と座る彦星君がいた。その横顔を見れば心強くなり、「改めて気をつけて生活しなくては」と身が引き締まる思いがしたという。 「夏彦も温もりが恋しくなると、兄のように慕う彦星のそばに行き、ペロペロなめてもらって安心する。その様子が本当にかわいくて見ているだけで癒されます」  2匹の猫たちに救われた伊藤さんだが、予期せぬ事態が愛猫を襲う。夏彦君に深刻な病気が発覚したのだ。夏に、なかなか治らない外耳炎に不安を感じて大学病院を受診したところ、リンパ腫が見つかった。検査の結果は悪性だった。  室内飼いで健康管理に万全を期しても、体質や年齢で病気になってしまうケースは少なくない。 「夏彦は、すでに内耳の骨が壊れるほど腫瘍が肥大していて……。それでも専門医の『抗がん剤治療で治癒できる可能性もある』という言葉に望みをつなぎました」  夏彦君はすぐに入院。腫瘍の影響で舌や口の中に麻痺が出て食餌もとりづらくなり、栄養摂取は鼻チューブ、時には喉に管を直接入れることもあった。  それでも伊藤さんは猫たちにストレスをかけないよう、極力、猫たちの前で泣かないように努めていた。家では夜中に彦星君が寝た後や、買い物で外に出た時に裏道でこっそり泣いていたという。 「夏彦は臆病な性格の子だから痛々しい姿が不憫で……。遠方の病院でしたが休診日以外はほとんど毎日、面会に行っていました」  酸素室で心電図やチューブにつながれた夏彦君の姿を見るたび、伊藤さんは涙が出そうになるのをグッとこらえ、「夏ちゃんは強い子だから大丈夫だよ、大好きだよ」と話しかけながら、夏彦君の顔や体を撫でてあげた。すると、夏彦君は伊藤さんの手に顔を押し付けたり、自分から体勢を変えて「もっと撫でて」と言うように気持ち良さそうな顔をしたり。伊藤さんはそれだけでうれしくて、夏彦君が満足するまで何時間でも撫で続けたという。 「『彦ちゃんも会いたがってるよ』と、彦星の動画を見せて鳴き声を聞かせると、こちらに向けた目に少し力が入るのがわかりました。時間がくると『また来るよー』と声をかけ、後ろ髪をひかれる思いで病院を後に。夏彦の様子に一喜一憂しながら、早く良くなりますようにと祈るような思いで毎日を過ごしていました」  しかし、別れは突然だった。  2回目の抗がん剤治療を順調に終えた矢先、誤嚥性肺炎を起こし、そのまま亡くなってしまった。急なことで、連絡を受けて病院に駆け付けると、すでに息を引き取っていた。 「最期を看取れず病院で死なせてしまったことが心残りで後悔ばかりでした」  一緒に通院した道を歩けば涙があふれてきたという。でも、悲しいのは伊藤さんだけではなかった。  病院から夏彦君を連れ帰った日、遺体の箱に寄ってきた彦星君は中をのぞくと、箱から離れて暗い洗面所にうずくまり、しばらく部屋に戻らなかった。 「すぐに相棒の死にハッと気づいたんでしょうね。私もひどく落ち込み、夜中に何度も目を覚ます眠れない日々が続きました」  犬猫などの葬儀を手がける霊園に連絡をとり詳細を確認。愛犬の葬儀の経験者である友人が車を出して現地へ同行してくれた。コロナ禍にもかかわらず、寄り添ってくれたことが本当にありがたかったという。  伊藤さんは愛猫を亡くした直後は酒量が増えてしまい、休日は昼間からワインを飲んで鬱々と過ごしたこともあったという。しかし、「あなたと暮らせて幸せだったと思う」「できることはすべてやったよ」「今いる猫のためにも身体に気をつけて」といった友人たちの温かい言葉になぐさめられた。  彼女に寄り添う彦星君の存在と癒しの力も大きく、少しずつ心が前向きに戻っていった。 「猫エイズがテーマのマンガを読み、『わかる!』と共感するうちに、つらさを吐き出せたように感じて少しラクになったことも。同時期に飼い猫を急な病で亡くした知人と気持ちをシェアしあえたことでもかなり救われました。また、ペットロス経験した友人の『今も後悔や自問自答するけれど、これはしょうがないこと』という言葉に、この思いを抱えながら自分を許したり認めたり、自己肯定していくしかないんだと思い至りました」  数カ月後、愛猫たちを世話してくれた同じ知人から連絡があり、1歳半のオスの保護猫を急きょ預かることになった。初対面から彦星君との相性が良好で、「これも縁」と迎えることを決めた。  現在11歳の彦星君は加齢で体力が衰え気味だったが、若い新入り猫と遊ぶうちに食欲が回復。久しく上がれなくなっていた高所へもポンとジャンプするようになり、伊藤さんを驚かせた。実は彦星君は2年前に悪性黒色メラノーマが見つかり、右目を摘出する手術を余儀なくされた。幸い一命はとりとめたが現在は進行性の肥大型心筋症を患っており、経過観察中だ。    また、相棒猫の夏彦君を失った直後から、ストレスからか血がにじむほど過激なグルーミングをするように。ずっと伊藤さんの心配の種だったが、それもピタリと止んで心底ホッとしたという。 「猫はとても繊細だから、よけいなストレスを与えないように悲しくてもガマンして、彼らの見てない所でコッソリ泣くことが多かったんです。でも、無理して平気なフリをするのはこじらせるばかりで良くない。つらいときはつらいと周囲に言える状況が自分のメンタル回復にはとても良かったですね。この悲しみを受けとめてくれる人になら、心の中を吐き出しても大丈夫。つらい状況を自分一人で乗り越えようとせず、誰かを頼ったり、時には環境を変えたりすることも、決して悪いことではないのだと思います」 ◇  2020年の全国犬猫飼育実態調査(一般社団法人ペットフード協会調べ)によると、飼い犬の数は848万9000頭、猫は964万4000頭。2019年以降、癒しを求めてペットを飼う人が増加傾向にある。とくに家で過ごす時間が増えた昨年は、ペットの存在で家族間コミュニケーションが深まったという声も多い。一方で、無責任な飼育放棄も多発し、安易な多頭飼いなども社会問題化している。  犬の平均寿命は14.48歳、猫は15.45歳、人間よりも寿命は短いが、それなりの期間は生きる。そのため、気持ちがあっても飼い主が高齢だと最期まで世話できず、結果的にペットの不幸せにつながってしまう。実際に、前出の伊藤さんと近しい保護猫活動グループでも、生後3カ月の子猫の引き取りを希望した夫婦がいたが高齢だったため、譲渡を断らざるをえなかったケースがあったという。 ペットによって得られる癒しや安らぎはすばらしい。しかし、動物を不幸にしないためにも、住環境や経済状態、飼い主の年齢などの条件をクリアできない場合は、飼育を見送る自制心と冷静な判断も必要なのではないだろうか。(取材・文/スローマリッジ取材班 山本真理)
キジトラペットロス黒猫
dot. 2021/06/21 10:00
小説家デビューした“日テレ現役キャスター”が感じていた「もどかしさ」と「異端の自分」
作田裕史 作田裕史
小説家デビューした“日テレ現役キャスター”が感じていた「もどかしさ」と「異端の自分」
作家としてデビューした日本テレビの鈴木あづさ氏(撮影/写真部・高野楓菜)  日本テレビのキャスターとして活躍する鈴木あづさ氏(46)は、4月に『蝶の眠る場所』(ポプラ社)で「水野梓」として小説家デビューした。本作は、テレビ局の女性記者がドキュメンタリー番組の取材を通して、ある小学生の転落死の「謎」に迫るミステリー小説だ。  だが単なる“謎解き”で終わらず、冤罪、死刑制度、犯罪加害者の家族、シングルマザーなど社会に横たわる諸問題が、さまざまな場面で主人公に突き付けられる。報道の現場に身を置く著者ならではのリアリティーは話題を呼び、本作は発売直後に重版が決まった。なぜ鈴木さんは報道キャスターでありながら小説というフィクションの世界に飛び込んだのか。小説で伝えたいことは何だったのか。 *  *  * ――鈴木さんは日本テレビで警視庁担当など社会部畑を歩み、中国総局特派員や国際部デスクなども歴任されました。NNNドキュメントのプロデューサーなどをへて、現在は経済部デスク、『深層NEWS』のキャスターとして活躍されていますが、キャリアは一貫して報道の現場です。そんな生粋の「報道人」が小説というフィクションに挑戦しようと思った理由を教えてください。  22年間ずっと報道の現場にいるなかで、マスメディアの記者として真実を追い続けるには、ある種の“限界”があると感じていました。マスメディアは毎日大量のニュースを追いかけて取材します。事件発生直後はバシャバシャとフラッシュをたいて関係者に話を聞いて回りますが、熱が冷めた後の「その後」を取り上げることはなかなかありません。テレビの記者は1分でも早くオンエアした方が勝ち、という強迫観念があり、その競争に明け暮れます。  でも、事件の当事者や家族たちはその後も苦しんだり、もがいたりしながら人生が続きます。『NNNドキュメント』というドキュメンタリー番組にいた時、死刑執行された男性の妻が再審請求をした「飯塚事件」を取り上げました。冤罪の疑いがある中で死刑は執行されましたが、遺族にとっての“真実”は別にあると思います。日々の小さな事件の中にも同じような“真実”はあるはずです。ニュースでは取り上げられない「その後」にこそ、私たちが知るべき本質があるのではないか。そう思って、死刑囚の遺族をめぐる物語を書き始めたんです。 ――そもそも、小説を書こうと思ったのはいつ頃からですか。  小学校の3~4年生くらいから、将来は小説家になりたいと思っていました。というのも当時は友達関係で悩んでいて、学校ではずっと図書館にこもっていたんです。そこで司書の先生が勧めてくれたのが「孤高の人」(新田次郎著)という小説でした。小学生には少し難解でしたが、主人公が1人で山と向き合う姿勢に「孤独でもいいんだ」「何でもうまくやろうとしなくていいんだ」と気分が楽になったんです。その後も人間関係ではいろいろとありましたが、小説の登場人物との会話が私を救ってくれました。学校や会社では集団にひとり「黒い羊」がいると異端とみなされ、邪魔者扱いされる。私はある種そんな存在だったと思います。でも、そんな1匹の「黒い羊」に向けて語りかけてくれるのが小説であり、私もそんな悩みを抱える子どもたちのために本を書きたいとずっと思っていました。  小説もずっと書き続けていて、母と娘の愛憎、介護、恋愛、生老病死などこれまで書いたテーマは多岐にわたります。ありがたいことに、次回作以降のお話も頂いているのですが、過去に書いた物語を基に書き進めている作品もあります。 ――小学生の頃の原体験があり、学生時代から小説を書いてきたとはいえ、社会人になって多忙な日々を送る中で執筆時間を確保するのは容易ではなかったはずです。特に警視庁担当の記者となれば、警察幹部への「夜討ち・朝駆け」などで睡眠時間が削られるほどの激務です。そんな環境で小説を書き続けられたのはなぜでしょうか。  端的にいうと、2つの「違和感」が原動力になっていると思います。  1つは目は先ほどお話した、取材をしても本質に迫れていないのではないかというもどかしさです。日々、報道の仕事で「このままでいいのだろうか」という気持ちを抱えており、それをフィクションとして書くことで“浄化”させていたのかもしれません。  2つ目は、私個人がテレビという業界にどこかなじみ切れないような不安を抱えてきたことです。私が入社した1999年は就職氷河期でいわゆるロスジェネ世代ですが、テレビ業界はまだバブルの残り香がありました。周りの人もすごくキラキラと華やかな気がして、私はどこかでずっと自分自身に違和感を覚えていました。自分のいるべき場所は本当にここでいいのだろうか、という思いです。  私には人とうまく関係を築けなかったというルサンチマンがずっとあって、それを文字の世界で癒やしてきました。きっと自分みたいな人間がこの世界にはいるはずだ、そういう人に向けて「どうしても書きたい」という思いは強く持ち続けていました。 ――本作はテレビのドキュメンタリー番組が舞台ですが、小説なので発生する事件やキャラクターの造形などはフィクションだと思います。ただ、社会部でキャリアを積んだ鈴木さんが書かれているので、「ここは現実にあったことなのでは」と思わされる部分もあります。物語の中で“リアル”にこだわったところがあれば教えてください。  調査報道の手法については、リアルに描写しました。私たちが事件を取材する際には、本当に一枚一枚の薄紙をはぐようにして真実に近づこうとします。取材対象者に何回も手紙を出して信頼関係を築いたり、靴底をすり減らして何度も同じ現場に足を運んだり、同じ場所で何時間も待ち続けたり。調査報道とは「面倒なこと」の積み重ねであり、地道で愚直な取材だけが人の心を動かして真実に近づくことができる。それは知ってほしいと思いました。  小説を書くうえでは、いきなり協力者が現れて内部文書をくれたり、犯人を知っている人と偶然出会ってしまったりという「飛び道具」を使うとすごく楽なんですが、それは絶対にしないように心がけました。だから逆に、「もどかしいこと」はそのままにしておいて、あえて結論めいた記述をしていないところもあります。人間は白と黒にはっきりと二分されるものではなく、誰もがその中間のグレーだと思うんです。登場人物でもそれは意識して描きました。 ――物語には個性的でクセのあるキャラクターが多く登場しますが、特に思い入れがある人物はいますか。  警察のキャリア官僚である「冴木」の造形にはこだわりました。経済部の財務省担当として森友学園問題も取材しましたが、そこで目の当たりにしたのは、エリート官僚たちの“もろさ”でした。彼らは求められている答えを先回りして「解」が提示できる頭の回転と、組織の大義にすぐに順応できる適応力をもって出世してきました。  しかし、その意思決定に絶対の自信を持っているわけではなく、組織にNOと言えない自分をはがゆくも思っているし、そうした弱さも自覚している。こうしたエリート官僚が国民の人生を左右する政策決定をして、ときに道を誤るのです。「冴木」はその弱さの象徴として描きたかった。本当は主人公の美貴ともう少しちゃんと結ばれる展開も考えていたのですが、そこまでこの男を許していいのだろうか、などと思い悩んで、本で書いたような結末にしました。そういう意味で、人物造形にとても苦労したキャラクターでした。 ――鈴木さんは今でも日本テレビの社員であり、組織に所属するジャーナリストです。そうすると会社や組織の批判はしづらくなりますし、作家として本当に書きたいことを制限されてしまうという懸念はありませんか。  本質的には作家としての「水野梓」と日本テレビの「鈴木あづさ」は別人格です。でも、小説には自分の経験や思考は投影されるものだし、「テレビ局の現役社員」「報道キャスター」という肩書をフラットに見てもらえないことは自覚しています。会社は私の作家活動を認めてくれていますが、社員であるがゆえの制約もゼロではないでしょう。  ただ、私は作品をメディアのありように対して何かを言う舞台とは思っていないんです。小説では、もっと人間の真理や本質を追求していきたい。書くことの原点は、1匹の「黒い羊」にメッセージを投げかけることだと思っています。一方で、100行の原稿を費やしても語り尽くせない真実が、たった5秒の映像に宿ることもある。映像と文字、両方の良いところを生かしていきたいと思っています。  今の社会はポリティカル・コレクトネスが厳しく求められていて、同調圧力も強い社会です。小説における表現も例外ではなく、フィクションであっても“正しさ”が求められる時代かもしれません。でもポリコレが何たるかを知ったうえで、私は“常識”に対して怒りや疑問を抱き続けることが、ものを書くことの原動力だと考えています。私が尊敬する大島渚監督の「反骨こそわが魂」の精神を忘れずに、これからも書き続けたいと思っています。(構成=AERAdot.編集部・作田裕史) ◎鈴木あづさ(作家名:水野梓) 1974年生まれ、東京都出身。早稲田大学第一文学部とオレゴン大学ジャーナリズム学部を卒業後、日本テレビ入社。警視庁や皇室担当、社会部デスク、中国総局特派員、国際部デスク、『NNNドキュメント』プロデューサー、『ニュースevery.』デスクなどを歴任。現在は経済部デスクとして財務省と内閣府を担当するかたわら、BS日テレ『深層NEWS』金曜キャスターも務める。NNNドキュメント14『反骨のドキュメンタリスト~大島渚「忘れられた皇軍」という衝撃』でギャラクシー賞月間賞。9歳の息子を持つ母親でもある。
日本テレビ水野梓蝶の眠る場所鈴木あづさ
dot. 2021/06/19 11:30
緊急事態宣言解除で「感染爆発する」医療関係者の東京五輪への本音
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菅義偉首相(C)朝日新聞社  政府は17日、沖縄を除く9都道府県で緊急事態宣言を20日の期限で解除することを表明した。東京、大阪など7都道府県は7月11日までまん延防止等重点措置に移行する。宣言と重点措置の地域では飲食店の酒類提供は感染防止対策など一定の要件を満たした場合に午後7時まで容認するという。  国民は自粛を強いられている。感染防止のため行動が規制されるのは仕方がない反面、政府の方針には不信感が高まっている。感染封じ込めを呼び掛けているにもかかわらず、政府は東京五輪開催のスタンスを貫き、国民に向けて説明責任を果たしているとは思えない。  菅義偉首相は7日の参院決算委員会で東京五輪の中止、延期を考えているかという質問に対し、「私自身は主催者ではない。私自身は我が国の国民の安心、安全を守る。そうした使命があると考えている」と答弁。しかし、6日後の13日に英国で開催された先進7カ国首脳会議(G7サミット)で一連の討議を終えて記者団に対応した際は、「感染対策の徹底と安全安心の大会について、私から説明をさせていただき、全首脳から大変力強い支持をいただいた。私自身、改めて主催国の総理大臣として、こうした支持を心強く思うとともに、東京大会を何としても成功させなければならないという思いで、しっかりと開会し、成功させなければならないという決意を新たにした」と強調した。「主催者でない」と突っぱねる一方で、外交の場では各国から五輪開催支持を得られた功績を強調する。矛盾した発言に、国民の怒りはさらに増幅している。  今回の緊急事態宣言の解除も、「東京五輪を見据えた判断」という見方が多い。SNS、ネット上では、「オリンピック優先で、国民生活はほぼ無視。緊急事態宣言継続だろうが解除だろうが、中身は変わらず庶民の生活は厳しい。ワクチンに期待を寄せているようだけど、非正規労働者みたいな生活弱者は、ワクチン接種による弊害で収入源になる可能性があるものには手を出さない。結局弱いものは弱いまま。今の政府には何も期待出来ない」、「東京で新規500人超えた翌日に緊急事態宣言解除、というのもどうかな。政府はもう五輪開催以外、目が見えなくなっていると思う。政府の優秀な人も含めて完全に狂った間違った方向に突き進んでいる。五輪をやらない未来なら、コロナ収束も早くなり、命が助かる人が必ずいるはずなのに」など不満の声が。  飲食店、卸売業者が苦境に立たされている状況は変わらない。緊急事態宣言が20日に解除されても、まん延防止等重点措置により酒類の提供は午後7時までしか認められない。都内で飲食店を営む40代の男性は「緊急事態宣言の時とたいして変わらないですよ。午後7時までしか酒類を提供できないなら、仕事終わりの人たちも1時間足らずで引き上げるので、売り上げも上がらない。そもそも感染対策で酒類提供が午後7時までという根拠も理解できない。夜中まで酒を出すようになった店も最近増えている。飲食業も政府に我慢の限界を迎えている。今後も深夜営業の飲食店は増えると思います」と漏らす。  医療関係者の30代男性も緊急事態宣言が解除され、東京五輪が開催されることを危惧する。 「五輪を開催することで自粛ムードが薄らぐ可能性があります。海外から多くの人が来るので変異型ウイルスが流入することも想定しなければいけない。まだワクチンの接種率も低いままなので感染爆発する恐れがあります。政府は本気でコロナを封じ込める覚悟があるのか全く伝わってこない」  何が正解かは分からない。だが、国民に真摯に向き合うのが政治家の義務だろう。(牧忠則)
dot. 2021/06/17 21:26
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