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夫婦はなぜ嘘をつくのか? 家庭を円滑に回すつもりが、鈴木おさむの大失敗
鈴木おさむ 鈴木おさむ
夫婦はなぜ嘘をつくのか? 家庭を円滑に回すつもりが、鈴木おさむの大失敗
放送作家の鈴木おさむさん  放送作家・鈴木おさむさんが、今を生きる同世代の方々におくる連載『1970年代生まれの団ジュニたちへ』。今回は、嘘について。 *    *  *  世の中の夫婦はどのくらい嘘をついているものなのだろう?気になってネットで調べてみたら、とあるアンケートで、パートナーに嘘をついたことがあると答えた人が85%以上いた。それを聞いて安心した。安心したということは嘘をついているということだ。  嘘をついてはいけないというのは子供のころから大人たちにずっと教わり続けていることだ。だけど、大人になると、仕事でも、嘘をついてしまう。遅刻の言い訳などの自分を守るための言い訳的嘘はもちろんのこと、生きていくうえで必要な嘘もあると思ってしまうからだ。これはあの上司には言わない方がいいから嘘をつくということもある。仕事を円滑に進めたいがための嘘なのだが。  とある番組の取材で驚くべきことがあった。「一発屋」と言われるあるアーティストに番組ディレクターが取材したときのこと。そのアーティストAさんは、その取材を受けることもあんまり納得してない様子。ディレクターが一発屋であることに斬りこむと、Aさんは「私、一発屋じゃないですよ。そのあとのシングルも、○万枚売れてるし」と怒っている。そのAさんが言っている情報と、ディレクターが調べた情報は違った。ディレクターが「その情報間違ってると思います」と、本当のデータを見せた。顔色が変わるAさん。そしてマネージャーにブチ切れ。そうです。Aさんはマネージャーさんに30年以上嘘をつかれてきたんです。それがバレないっていうのも凄いんですけど。嘘をついたマネージャーさんはダメですが、でも気持ちはわかります。当時、Aさんを傷つけたくない、落ち込ませたくないという思いもあったんでしょう。良かれと思ってついた嘘だったんでしょうね。  で、夫婦の話に戻りますが、そのアンケートを見ていると、「なぜ嘘をつくのか」という理由に「相手が怒りそうな時は嘘をつく」と書いてあった。わかる~~。そうなんです。相手が怒りそう。空気が悪くなりそう。それをもとの空気に戻すのに時間がかかりそうと思ってしまうから嘘をつくんです。  他の理由で「円滑に家庭を回すには大ごとでない限り嘘もありだと思う」と書いてあり、それも、わかる~~~。そうです。円滑に回すためなんです。そのために大人は嘘をついてしまうのです。世の中の嘘は「いい嘘・悪い嘘」ではなく、「仕方ない嘘・ダメな嘘」だと思うのです。  と、長々と書いてきましたが、先日我が家庭で起きたこと。  僕は毎朝、お風呂に入ります。じゃないと目が覚めないからです。お風呂に入り、妻にたまに「お風呂洗ってきてくれた?」と言われます。朝、お風呂に入ったら、自分で洗ってくるのがルール。だけどね、急いでる朝の中で、忘れてしまう時が多いんです。急いでるなら風呂入るなと言われそうですが、入らないと目が覚めない。  もちろん洗う時もあるのですが、洗わずに出てきてしまう時がある。そして妻に「洗ってきた?」と聞かれた時に、ついつい嘘をついてしまう時がある。ただ、「ちゃんと洗ってきたよ」と言う嘘はつけず「軽く流してきた」という嘘をついてしまう。不思議なもので、120%のフスルイング嘘をその場ではつけない。  数日前、同じことが起きました。「洗ってきた?」と妻に聞かれ、僕は「軽く流してきた」と嘘をついてしまったのです。もちろん小さな罪悪感は胸の中にあります。  しかし、そのあと、妻が風呂に行くと「なんだよー」と叫んでいます。何事かと思ったら、なんと、僕は風呂のお湯を抜き忘れていたのです。大失敗です!!  朝風呂の為に昨日の夜からお湯を抜かずにためたままで、僕が入り、それを抜かずに出てきていた。なのに「軽く流した」と嘘をつく。  風呂のお湯を抜いてないことさえ忘れて嘘をつく。なんてダメ野郎なんでしょう。刑事ドラマだったら冒頭2分で解決。超つまらないドラマ。  このバレバレな嘘を、妻は怒ることなく、呆れて見逃してくれました。 だけどね、嘘をつきたくてついてるわけじゃない。怒らせたくない、円滑に進めたいという思いでついてしまう。だったらそもそも風呂を洗えという話なんですが、それがなぜか出来ない。  子供の頃の僕は、大人になってこんな嘘をつくなんて思ってなかったよなーと思いますが、日本全国の大人たちはどんな嘘を家庭でついているんでしょうか?  そして、コロナ禍になってからこれまで。政治家の方達が発言したことで、今振り返ると「あれ、嘘だったろ~」と思うことは少なくない気がする。  そんな方たちも、嘘つく時はドキドキしてるんであろうか。せめてドキドキはしていてほしいと願う。 ■鈴木おさむ(すずき・おさむ)/放送作家。1972年生まれ。19歳で放送作家デビュー。映画・ドラマの脚本、エッセイや小説の執筆、ラジオパーソナリティー、舞台の作・演出など多岐にわたり活躍。パパ目線の育児記録「ママにはなれないパパ」(マガジンハウス)が好評発売中。バブル期入社の50代の部長の悲哀を描く16コマ漫画「ティラノ部長」の原作を担当し、毎週金曜に自身のインスタグラムで公開中。YOASOBI「ハルカ」の原作「月王子」を書籍化したイラスト小説「ハルカと月の王子様」が好評発売中
団塊ジュニア夫婦鈴木おさむ
dot. 2021/06/17 16:00
投資で資産1億円を築いた元グラドル・杉原杏璃に直撃! スピード離婚後に投資系YouTuberになった理由
投資で資産1億円を築いた元グラドル・杉原杏璃に直撃! スピード離婚後に投資系YouTuberになった理由
杉原杏璃(写真=事務所提供) 元グラビアアイドルでタレントの杉原杏璃(39)は、昨年9月に投資系YouTuberとしてデビューした。23歳から始めたという杉原の投資術は以前から話題になっており、すでに「株式投資」と「不動産投資」の2冊の本を出版。過去のインタビューでは資産は1億円を超えたことを明かしている。私生活では昨年4月に40代の音楽出版社代表の男性と離婚。結婚生活はわずか1年半でピリオドを打った。公私ともにめまぐるしいスピードで前に進んでいく杉原は、どこに向かっているのか。本人を直撃した。 *  *  * ――まず、投資に目覚めたきっかけを教えてください。  始めたのは、23歳の時です。実は、投資はやりたくて始めたわけではなくて、お金が必要だったから始めたんです。田舎から上京したけれど、芸能界の仕事だけでは食べていけなくて、生活に苦労していました。仕事で花が咲くまでは時間がかかると思っていたので、仕事とは別に揺るがない収益の基盤を持ちたかったんです。どうにかしてお金を生み出さなければ! と考えていた時に、株に出会いました。  当時はモデルのオーディションで忙しかったので、夢を優先しながら稼ぐには、パソコンひとつでできて、少ない時間でリターンが期待できる株しかないって思ったんです。すぐにハウツー本を1冊買って、始めてみました。 ――初めて買った銘柄は何だったのでしょうか。  東京ドームの株でした。野球が好きなので、「(株の配当で)タダで野球を見に行けるのでは」という単純な発想からです。次に買ったのは、建設業界の株。父が建設業を営んでいたので、身近だったんです。最初の資金は30万ちょっとでした。  何もわからないまま買ったのに、1~2カ月たったら、ちょっとだけ上がっていました。時代が良かったのかな。でもこの時は遊びたい時期だったので、あまり株の勉強はしていませんでした。パソコンを開いて、上がっていれば売る、下がっていれば待つというシンプルなやり方でした。 ――その後も順調だったのでしょうか。  それが、株を始めて3年ぐらいたった頃にリーマンショックが起きて……。買った株の価値が半分になってしまいました。当時の投資額は100万円くらいだったので、損失は50万円ほどでしたが、20代の自分にとっては生活に関わる大金です。「これはしっかり勉強しないとお金を失ってしまうぞ」と思って、本格的に勉強するようになりました。 ――どのような勉強を?  まずはチャートの見方や会社の業績の見方など、基礎中の基礎から勉強しましたね。そうしたらリーマンショックから明けておよそ3年後、30歳になる頃には、ある程度の利益を積めるようになっていました。投資も仕事と同じで、3年ぐらいはじっと耐えて、経験を積む時期。株とともに本業のグラビアの仕事もある程度は軌道に乗ってきて、30手前で仕事も投資も安定するようになったのは良かったなと思います。 ――杉原さんは過去の取材で、すでに資産が1億円を超えていると明かしています。今もコロナ禍で投資環境が激動していますが、安定的に資産を増やすコツはなんですか。  長いスパンで見て売買を繰り返す大型株(日経225に入っているような大企業)と、割と短いスパンで見て売買するマザーズ銘柄のような新興企業を分けて、ざっくり売買タイミングを計画しておくことが増やすコツですかね。  あとは欲張らない。売り時のパーセントをあらかじめ決めておいて、そのパーセントまで株価が上昇したらきちんと売る事が、利益を逃さないコツです。  リーマンショックやコロナをはじめ、10年スパンで1度は必ず、想像もしなかったようなことが起きています。そのたびに資産は半減してしまいますが、半分になってもいずれはもとに戻るというのが分かっているので、コロナショックの時は、リーマンショックほどの不安はありませんでした。株価が半分に下がったら、いずれ上がって倍になる。悲観的に構えないほうがいいのではと思います。実際、株価がこんなに下がることはなかなかないので、これをチャンスと思って投資を始めた人が次々に成功しています。 ――昨年9月からは、YouTubeチャンネルでの発信も始めました。  遅ればせながらですが……。将来的には投資の学校やオンラインサロンをやりたくて、その足掛かりとして、個人的に発信をしたかったんです。まだこれといって宣伝をしていないので、登録者は全然増えていないんですけどね。  投資は、初心者には取っつきにくいイメージがあるかもしれませんが、あまりお勉強ができると思われていない私がYouTubeで発信することで、「私でもできますよ!」とハードルを下げることができるんじゃないかと思っています。  私には、投資をやっていたから得られたことがたくさんあります。それまで会話をする機会のなかったような経営者と話ができるなど、投資を軸に人脈が広がって、それまで見なかった政治経済の番組も見るようになって、視野が広がったと思います。人生の経験として、やって良かった。私にとって投資の目的は、お金を増やすことだけではないんです。逆説的になりますが、利益がマイナスになったとしても、今は投資をする価値があると思っています。 ――私生活では、昨年4月に離婚されていたことが今春に報道されました。こうした私生活の変化は、投資をする上で影響を与えましたか。  実は、結婚する前から離婚後の現在まで、自分自身のマインドにあまり変化はないんです。結婚してもしなくても経済的には自立していたいし、何があっても自力で踏ん張れる力を持ちたいと思っています。  旦那さんが稼いでくれるのも幸せな形なのかもしれませんが、私は環境に変化があったとしても自分のやりたい事は続けていたい。なので『結婚したからといって、仕事は変わらず続けます』というスタンスでいました。なので、今までもこれからも自分がやりたい事を続けながら、人生を楽しみ、苦しみたいし、自立していたいと思っています。  ちなみに、投資は始めた当初から今まで、全てにおいて自分の資産のみで運用しています。 ――19年6月に出版された1冊目の著書は、「女子のための株式投資入門」というタイトルでした。“女子のための”と題したことに、何か特別な思いがあるのでしょうか。  投資の知識を通じて、女性の背中を押してあげたいと思っています。結婚や離婚をしたからといって、あるいは子どもが生まれたからといって、女性の仕事や人生の自由が制限されてしまうのは、私はいいことではないと考えています。時代が変わったとはいえ、結婚したら社会と分断されて、家族のために一生を尽くすという人はまだまだいます。そういう人たちが自分自身の幸せをつかむために、ぜひ投資を利用してほしい。お金を増やして余裕ができれば、人生の選択肢も増えます。  それに、投資は女性にこそお勧めしたいんです。投資はいつでもどこでもできるので、子どもを学校に送った後や、夜寝かしつけた後だってできます。主婦の方は、スーパーのセールなど、「(お金を)減らさないこと」にたけた方が多いですが、「増やす」ことに関しては、まだまだ浸透していない。「増やす」という視点を持てば、もっと自由が広がると思います。 ――最後に、今後はどのような活動をしていくのかも教えてください。  YouTubeは試行錯誤している最中ですが、今後は私自身が投資を実践していく動画もたくさん作っていくつもりなので、皆さんと一緒に勉強していけたらうれしいです。ただ、動画はあくまで投資を広げるための足掛かり。ゴールは、投資をする仲間同士が対面で情報交換ができるような空間を作りたい。将来、私が初老になったら、投資シェアハウスを作るのが夢です! リビングで初老の私がお茶をすすりながら、ちょっとしたアドバイスができるような(笑)。そのために、もっともっと勉強したい。当面は不動産投資の知識を深めつつ、FXなど幅を広げていきたいです! (構成=AERA dot.編集部・飯塚大和)
グラドル投資杉原杏璃
dot. 2021/06/16 11:30
60代でBTSファンに 「推し活」とシニアが相性のいい理由
井上有紀子 井上有紀子
60代でBTSファンに 「推し活」とシニアが相性のいい理由
BTS (GettyImages) BTS推しの女性(62)の自宅にある「推しコーナー」。BTSグッズやARMY仲間からもらったプレゼントなどが並ぶ  好きな人や物(=推[お]し)を応援する「推し活」が話題だ。アイドルファンの若者たちだけの話かと思いきや、さにあらず。心と時間とお金に余裕のあるシニア世代こそ、「推し活」を最大限に楽しめる可能性があるという。あなたも「沼」にはまってみたら、人生が輝き始めるかも!? *  *  * 「推しって何かしら、と思ったんですけど、気づいたら大切な存在になっていました」  神戸市の求職中の女性(62)の推しはBTS。世界を席巻する韓国出身の7人組男性グループだ。今年2月、女性は「ARMY」と呼ばれるBTSファンになった。特定のメンバーでなくグループ全体を応援する「ハコ推し」だ。  一人暮らしの家で、BTSを聞いて目を覚ます。家事のときは「Dynamite」でテンションを上げる。夜はテーブルや壁にディスプレーした「推しコーナー」を眺める時間。ブロマイドや、写真を切り抜いたアクリル板、ARMY仲間のプレゼントに癒やされる。 「人生で初めて『沼』に落ちました」  推しにどっぷりはまることを沼という。子育てと仕事が一段落し、自分の時間を推しにささげている。バラエティー番組でメンバーが「10時間以上もレッスンして死ぬかと思った」と言うのを聞き、本当に心配になった。 「プロとしてすごいけど、そこまでやって大丈夫なの、と。完全にオンマ(母親)目線ですね」  推し活でよく使われるキーワードが「尊い」。最初は抵抗があったが、いつしか自然と使うようになっていたという。 「彼らの頑張る姿やファンを思う言葉に触れ、熱い気持ちがこみ上げるのですが、言葉にできない。『ああ、本当に愛しくて尊い』と自然と言葉が出ました。BTSとの出会いは、人生のご褒美。彼らは私の元気の源です」  15年前、自営業の夫は40代で亡くなった。借金を返済しながら、3人の子どもを育て働いた。「ジェットコースターのような人生で、推しどころではなかった」  それが昨年、親友から勧められ韓国ドラマ「愛の不時着」に夢中になった。ドラマにARMYが登場したのを機に、BTSの「Dynamite」を聞き、ファンになった。  推し活で人間関係も広がった。女性はツイッターに推し活専用アカウントを持っている。気になる情報はシェアし、フォロワーとコメントを送り合っている。 「感想を言い合うと、若い人とも『わかる』『そういう見方もあるんだ』と共感できます。気が合う32歳の女性は、親友だねと言ってくれました。私をオンニ(姉)と慕ってくれる人もいます。リアルな親友は3人でしたが、友達が増えました」  推し活は元々、若者発のカルチャーだ。アイドルにのめり込む女子高生を描いた宇佐見りんの芥川賞小説『推し、燃ゆ』は今年上半期のベストセラー総合1位になった。だが、意外なことに推し活とシニア世代との相性はバツグンだった。『人類にとって「推し」とは何なのか、イケメン俳優オタクの僕が本気出して考えてみた』の著書があるライターの横川良明氏は言う。 「お金や時間に限界がある若者に比べ、シニアは仕事も家庭も落ち着いて、余裕がある。今はSNSを活用することで交友関係を広げることもできますし、心の中に大切な人がいることで、新たな生きがいにつながります」  推しの熱愛報道などに一喜一憂してしまう若者は少なくないが、シニア世代は違うという。 「推しが結婚しても子どものような感覚で、祝福できるのかもしれません。人生経験豊富だから、自分の愛情を押しつけず、過剰にならない応援ができるのでしょう」  長く推し活を続けることで見えてくる境地もある。名古屋市に住む主婦(71)は、17年前、娘から勧められた韓国ドラマ「冬のソナタ」を観て、どはまり。ヨン様ことペ・ヨンジュンのファンになった。仲間内からは「ユジンちゃん」と呼ばれている。 「イベント予約のためにインターネットを覚え、公式サイトの掲示板に書き込みすることでお友達と出会えた。ここ数年、掲示板は動いていませんが、ヨン友さんとスマホでLINEし、インスタグラムもやってます。夫はパソコンが使えないから、ヨン様と出会えなかったら私も文明についていけなかったでしょう」  当時築いたものはいまも財産になっている。 「全盛期は名古屋の店で、ヨン友さん40人と集まって、ヨン様の誕生日会を開きました。韓国の方角を見て『おめでとう』と言って、ケーキを食べた。ヨン様が映画やドラマに出演したときも、お祝いに集まりました」  いまは人数が少なくなったものの、集まりは年に一度、20人くらいで続いているという。 「ここ数年、ヨン様の出演がないので昔ほどの熱量ではありません。みんなもヨン様のことはあまり話さず、年金や病気や介護の話が多いですね。いい人たちに巡り合えました。旅立ったヨン友さんもいますが、葬儀で旦那さんが『ヨン様を愛した人生だった』と泣いていた。ヨン様と私たちは家族なのだと思います」  ファンたちの熱さに定評があるのは、演歌歌手の氷川きよし。6月8日、東京・中野で開かれたコンサートに記者もチケットを買って参加してみると、会場にはシニア世代の女性たちが詰めかけていた。感染症対策のため掛け声はなしだったが、縦方向にペンライトを振り、拍手で盛り上げる。和服での演歌から一変、ボディースーツに網タイツという衣装でロック調の激しい曲目になると、観客は演歌の倍くらいのスピードでペンライトを激しく振って盛り上げる。終演後は、そこかしこに集まり感想を共有するファンたちの姿があった。会場にいた東京都在住の女性(56)は氷川のデビュー当時、茶髪でピアス、イケメンな風貌が意外でファンになった。 「最近イメチェンしたけど、いいじゃんと思っている。kiina(キーナ)が輝きだして、私はもっとルンルンです」  キーナは氷川の愛称。近年、ジェンダーレスな衣装でロックも歌うようになった氷川を見て、美しいと思ったという。 「デビューから20年たって、自然体で生きているように感じる。『自分を信じて』と歌うキーナに励まされています」  推し活を語る人たちは皆、幸せそうだった。第二の人生、推しと歩んでみるのもいいかも。(井上有紀子) ※週刊朝日  2021年6月25日号
シニア
週刊朝日 2021/06/16 11:30
<インタビュー>リナ・サワヤマはいかにしてポップス界に革命を起こし、急速にファンを増やしたか
<インタビュー>リナ・サワヤマはいかにしてポップス界に革命を起こし、急速にファンを増やしたか
<インタビュー>リナ・サワヤマはいかにしてポップス界に革命を起こし、急速にファンを増やしたか  ジャンルにとらわれないサウンドと、人の心を掴むアイデンティティについての歌詞で、リナ・サワヤマはポップス界で最もエキサイティングなクイアの歌手の一人となった。今、彼女はアウトサイダーであると感じている人のための居場所を作っている。  数年前、リナ・サワヤマはレコード会社と契約ができないのではないかと思い始めていた。レコード会社の幹部が陰で彼女のことを冗談で「Rina Wagamama(Wagamamaはイギリス・ロンドンを中心に世界各地でチェーンを広げる日本風料理店)」と呼んでいたことを知った時のように、何度も人種差別を受けていた。また、メジャーレーベルのA&R幹部が土壇場で契約を取り消し、彼女はアドバンス(前払金)で支払う予定だった弁護士費用を捻出するために奔走したこともあった。  これは彼女が犯した間違いだったのだろうか。「STFU!」のデモは、もしジョジョがフレッド・ダーストだった場合に生まれていたであろうバージョンのリンプ・ビズキットのような、スラッシュ系のニュー・メタルがはしゃぎ回るサウンドのようだ。「Shut the fuck up」と羽毛のような歌声で何度も繰り返されるこの曲のコーラスは、不条理でありながら親しみを感じさせるもので、サワヤマの名前を日本食にインスパイアされたイギリスのレストランチェーンの名前に置き換えることを面白いと思っているような業界人に向けたものだった。レーベルの見方からだと、「STFU!」は2017年に発表したEP『RINA』のR&Bを取り入れたミニマリズムからあまりにもかけ離れていた。契約が頓挫した時、彼女は「打ちのめされた」気持ちになり、1か月間借りた米ロサンゼルスのアパートを見渡して、どうやってお金を払えばいいのか悩んだことを覚えている。しかし、彼女は自分のビジョンに疑問を持つことはなかった。  グレーのパーカーというカジュアルな姿でロンドンの自宅からつい先日ズームで話したサワヤマは、「私からしたら、放っておいてって感じ」と当時を振り返り、歯の矯正を見せながら笑った。30歳になる彼女は、20代の頃、ロンドンのアンダーグラウンド・ミュージック・シーンで活動し、小さなクラブで演奏したり、彼女のポップ・ミュージックのスタイルの確立を試みたりしていた。レコード会社との契約を目指す頃には、彼女は何かを掴んでいることを実感していた。「長く待った甲斐があったと思います。もしもっと若ければ、“ああ、ダメだ。自分のサウンドを変えなければいけない”と思っていたかもしれません」と語った。  イギリスの独立系レーベルであるダーティ・ヒットとミーティングしたサワヤマを、同レベル創業者のジェイミー・オーボーンは「STFU!」に笑いを堪えきれないと、これまでの人とは違う反応を示した。「あれは、クレイジーでしたね」とオーボーンは述べ、「異なる文化的要素やジャンルが衝突していたのです」と続けた。また、彼は誤解されてきたアーティストの育成についても熟知していた。2009年にダーティ・ヒットを設立した時、最初のバンドはポップ・ロックの大物The 1975で、「世界中のあらゆるレーベルが2度も(契約を)見送ったように思えた」と振り返る。2019年に同レーベルと契約したサワヤマは、ペール・ウェーヴス、ウルフ・アリス、ビーバドゥービーなどのロック寄りのアーティストがレーベルメイトの中で、ポップ・スターとして異彩を放っている。  「私は、アーティストには二つのタイプがあるとよく言っています。アートを作ることが必然のアーティストとアートが作りたいと思っているアーティストです。そして、リナは前者です」とオーボーンは付け加え、「彼女はリナ・サワヤマ以外の何者にもなれないのです」と続けた。  「STFU!」は2020年に発売されたサワヤマのデビュー・アルバム『Sawayama』のリード・シングルとなり、同年に最も批評家から称賛されたリリースの一つとなった(20以上のメディアが2020年のベスト作品のリストに挙げた)。臆することのないクイアであり、堂々とアジア人であり、ジャンルの慣習に全くとらわれない、新しいタイプのポップ・スターのスタンダードのように感じられた。彼女のアイデンティティは彼女の音楽にインスピレーションを与えるだけでなく、その音楽のDNAにまで浸透する。煌びやかなゴスペル調のバラード「Chosen Family」では、愛する人から拒絶された時に、クイアの友情に慰めを見出すことについて歌っている。「Tokyo Love Hotel」や「Akasaka Sad」などの革新的な曲では、彼女が5歳の時に家族と共に新潟からイギリスに移住した者として日本の文化を擁護すると同時に、切り離されていると感じる日本との関係を探っている。  彼女の作品はしばしば暗く、深く個人的なものだが、『Sawayama』の各曲はポップ・ミュージックの華やかさで包まれている。サワヤマの長年のファンであり、4月には「Chosen Family」の新しいバージョンで彼女とデュエットした友人のエルトン・ジョンは、「リナはポップ・アートのカメレオンだ」と表現した。「彼女のデビュー・アルバムは、巧みで自信に満ちた万華鏡のような何度も変化する旅で、ポップ・ミュージックの様々なジャンルの中を移動する。彼女は曲ごとに大胆にギアを変え、リスナーに次は彼女はどこに行くのかを想像させ続けている」と述べた。  ジャンルの流動性は最近では珍しくないことだが、サワヤマはこのコンセプトを目まぐるしい新境地へと導いているのだ。彼女は、音を混ぜるよりも、それぞれの音を極限まで高めることに関心がある。『Sawayama』を通して、彼女はニュー・ジャック・スイング、スタジアム・ロック、スリンキーなクラブ・ビートなどを自在に操る。MTVの『トータル・リクエスト・ライブ』でコーンとブリトニー・スピアーズがトップを争っていた2000年代の影響を受けており、「あの時代の混沌とした雰囲気が好きなんです」と語るサワヤマは、熱心で、すぐに笑うが、たいていは自分に対してである。このようなサウンドへの愛情は、決して皮肉ではないことを彼女は強調している。「私はいつも“今、誰を聴いている?”と尋ねられます。私は、“ケリー・クラークソンかな。あなたが彼女のことを知っているかどうかわかりませんが、じゃあ、ケイティ・ペリーのファースト・アルバムは?”という感じです」  エヴァネッセンスにインスパイアされた世代間のトラウマを歌ったロック・アンセム「Dynasty」から、ブリトニー・スピアーズがザ・ネプチューンズとコラボした時のような、消費者主義を批判した粋な「XS」へと、彼女の曲が変化していくのを聞くと爽快な気分になる。才能がなければ、この変化は単なる模倣になってしまうだろう。しかし、サワヤマのアプローチは2種類の言語を使っているように感じられ、異なる文化のコミュニケーション・スタイルの間を行き来し、状況に応じてそのスタイルを変化させる。これは、多くのクイアな人々、特に有色人種のクイアがよく知っていることである。「リナの魅力のひとつは、彼女はすべてを繋ぎ合わせることができるということです」とダーティ・ヒットのA&Rマネジャーのクリス・フレイザーは言う。「彼女のアイデンティティがすべてをまとめるのです。彼女はメインストリームの世界にいたいと思っていますが、それは彼女の意思によるものです」と続けた。  サワヤマはまだメジャーなヒット曲を出していないが、彼女の音楽はアンダーグラウンドのアーティストや、エルトン・ジョンやレディー・ガガのような大物スターにも同様に愛される極めて稀なアーティストになった。ガガは近々発売される『クロマティカ』のリミックス・アルバムでサワヤマの起用を予定している。サワヤマは、自分がどの曲に参加するか明かさないが、長年のガガの弟子として、こだわりはないと言う。「もし、アルバム1曲目のインストゥルメンタル曲の“クロマティカ ?”をカバーして欲しいと言われたら、“はい、やります!”と言います。オーケストラの演奏をダンダンダン、ダンダンダンと歌います」と述べた。  ガガとリトルモンスター(ガガのファンの総称)のように、サワヤマはピクセルと呼び情熱的なファン層を意図的に育ててきた。2018年のツアーでは、一人で来た観客に特別なリストバンドを提供することで一人で来たファン同士がわかるようにし、コミュニティを築けるようにした。また、彼女はYouTubeに精通したクリエイターで、舞台裏やパフォーマンスだけでなく、ギターのレッスンやメイクアップのチュートリアルなどを投稿している。これらはすべて「RINA TV」というブランドで、「How to make a MUSIC VIDEO in 5 STEPS(ミュージック・ビデオを制作するための5ステップ)」のようにアルゴリズムに対応したブロガー風のタイトルが付けられている。  「クリエイティブ・プロセスを見せることは、私のようにどうすればいいかわからなかった人にとって、とてもエキサイティングなことです」と彼女は言う。「インディ・アーティストとして活動してきた中で多くのことを学びましたが、もっと前から知っていればよかったと思っています。そうすれば多くの時間の節約になったでしょう」と述べた。  クイアであることの意味、日本とイギリスという2つの母国の間で引き裂かれるように感じることの意味など、彼女が音楽の中で育ててきた会話は、スタジオの外でも続けている。2020年の夏、彼女はイギリス政府にLGBTQ+の若者に対するコンバージョン・セラピー(同性愛者や、両性愛者、トランスジェンダーに対し性的嗜好を異性愛に矯正または転換させるために行う一連の行為)を禁止するよう求める公開書簡に署名した。さらに、【ブリット・アワード】を含む表彰の必要条件にイギリスの市民権があることを批判したことがきっかけとなり、彼女のように人生の大半をイギリスで過ごしている移民のミュージシャンにもノミネートの機会が与えられる新しい選考規定ができた。  サワヤマは、自分がアウトサイダーであることを感じ、権力と戦うことについての音楽を制作している。彼女はそれを音楽業界に向けて巧みに使い、その過程で他のアウトサイダーのための居場所を作り、彼女をエキサイティングな存在にさせる核心に切り込む。それは、サワヤマと白人男性のディナー(のシーン)から始まる「STFU!」のミュージック・ビデオにも表されている。彼は寿司を箸で刺しながら、彼女をアジア人の女優と比較したり、彼女が英語で歌っていることに驚いたり、様々な偏見を連発している。あるシーンでは、彼は「Wagamamaっていう、あの日本食のレストランに行ったことがあるかい?」と聞いている。MVで繰り広げられるどの発言も、サワヤマが実際のデートや見知らぬ人、あるいはレコード会社の幹部からこれまでに言われたことのあるものばかりだ。  このような芸術面における判断を自由に行えることを、「100%自分を貫くことができて、本当に幸運」だとサワヤマは言う。「そうでなければ、今自分がいる状況を誇りに思うことができないから」と説明する。これはかなりユニークな立場である。彼女は最先端に根付いてる一種の文化評論家であり、彼女を型にはめようとする業界に歌姫の教科書を使って殴り込みをかけるポップスの学者でもあるのだ。  この役割は、彼女のキャリアが次の段階に入り、ポップスの白熱した中心に向かって前進しているとしても、変わることはないだろう。現在、サワヤマはセカンド・アルバムの制作に取り組んでおり、過去数十年の音楽の影響の中からさらに突拍子もないことを仕掛けると約束している。秋には、延期されていたイギリスとアイルランドでのツアーがようやく始まり、都市によってはパンデミック前に予定されていた会場の2倍から3倍の大きさの会場に変更された。(当初今年の終わりに予定されていた北米ツアーは、他のヨーロッパの日程と合わせて来年の春に予定されている)  「人々がコンサートに行って彼女をひとたび見れば、リナは爆発的に売れると思います」とオーボーンは言い、彼女の成功は、米ロサンゼルスと豪シドニーに新しいオフィスを設けるといったレーベルの最近の拡大に大いに貢献したと付け加えた。また、2022年には、キアヌ・リーブスと共演した映画『ジョン・ウィック: チャプター4』で長編映画のデビューを果たす。  サワヤマの活躍は、「STFU!」を聴いた後に契約を取り消したA&Rの幹部など、当初彼女を理解できなかった関係者からの祝福の連絡をも促した彼女は「気分が良いこと」だと言うが、十分ではないようだ。「次に(契約を取り消した)彼に会った時は、あのお金を要求しようと思います」と笑いながら言った。  リナ・サワヤマは、10月に放送された『ザ・トゥナイト・ショー・スターリング・ジミー・ファロン』で米国のテレビ番組にデビューにするにあたり、二つの目標を掲げた。一つはスリル感を伝えることだ。パンデミックの中でのリモート・パフォーマンスは、ミュージック・ビデオのように巧妙に作られていることが多い。一方、彼女は数回のカメラカットで、視聴者が見続ければ何が起こってもおかしくないという感覚を表現するパフォーマンスをデザインした。「リナは“ライブでなければならない、本当の意味でのライブでないと意味がない”と言っていた。そして“ものすごく洗練されたものではなく、私のヴォーカルをしっかり聴かせなければならない”ともね」とダーティ・ヒットのプロダクト・マネジャーであるトム・コニックは述べた。  彼女の二つ目のミッションは、「ストレートとローカルを狙う」、つまり大衆を味方につけることだったと彼女は振り返る。「それなのに、あんな服を着て出演したのよ」と彼女が指しているのは、赤いレザーのボディスとガーター式のハーネスに、オペラグローブと豪華なコスチューム・ジュエリーという、まるでマリー・アントワネットがフェティッシュ・ショップに行くような衣装のことだ。「私のチームみんなが“君はあらゆる意味で完璧だった”、“まさにハイ・ドラァグだよ”と言った」と彼女は述べた。ヴォーグ誌はそのルックスを「それ自体がパフォーマンス」と称した。  ケンブリッジ大学のモードリン・カレッジで政治学、心理学、社会学を学びながら、Lazy Lionというヒップホップ・グループで歌っていたことが、サワヤマの演劇的センスの源になっている。「私たちはブラック・アイド・ピーズの再来だと思っていました」と彼女は振り返る。「私はファーギーほど象徴的な存在ではなかったですが、努力はしていました」と述べた。しかし、時に彼女はもがき苦しんでいた。彼女はケンブリッジ大学の文化を「恐ろしく男性上位」と言い、在学中のほとんどは、留学生として孤立し、既成概念にはめ込まれていると感じていた。しかし、最終学年の時、ドラァグ・バンドのDenimをはじめとするクイアなクリエイターたちと知り合い、それは彼女が必要とされているという相互信頼感を得ることができたようだ。鬱の経験を公表しているサワヤマは、このことに救われたと語っている。  彼らのアカデミックなひねりが効いたキャンプな感性は、彼女の音楽を特徴づけるものとなっている。「私がドラァグにインスピレーションを受けているのは、人々がトラウマや不安を身にまとい、それを祝福したり、キャラクター化したりするからです。それが、私がアルバムで本当にやりたかったことです」と語った。「私を苦しめたこれらのことについて話したかったのです。この痛みと高額な治療費をポップ・ソングのようにして、人々が何度でも聞き返したくなるような曲にしたかったのです」と彼女は言う。  卒業後、彼女は音楽活動の資金を稼ぐためにロンドンで、変わった仕事を時には2つ3つ掛け持ちしていた。友人のトラックでアイスクリームやサンドイッチを販売したり、高級サロンでネイル・テクニシャンとして働いたり、サムスンの広告モデルを務めていたことが理由で解雇されるまでアップルストアで数か月働いたりした。フルタイムで音楽を追求することは、しばしば遠い夢にように感じられた。「最初の頃は、“アーティストとはどのようなことをするのか?”といった感じで、どうやってリリースするのか、曲やアルバムをリリースすることがなぜ重要なのか全くわかっていませんでした」と彼女は言う。「私は音楽業界で育ったわけでもなく、コネもありませんでした」と続けた。  写真家の友人が、音楽関係の広報をしていたウィル・フロストをサワヤマに紹介し、現在ではデイリー・マネジャーのキャスパー・ハーヴェイと共に彼女をマネジメントしている。当時、サワヤマはシングルをリリースするだけで満足していた。しかし、フロストはより大きな作品を企画し、長期的に考えることの重要性を強調した。  「資金がを底をついても、私はリナの成功を確信していたので、そのまま独自の路線を貫き、正しいと思えないような決断はしないようにする必要がありました」とフロストは振り返る。「音楽における大胆さも、夢中になっている話題について積極的に発信することも、それは今、彼女のすべての行動に表れています。形成期とその中で彼女が培った逆境を乗り越える力がそれらを可能にしています」と説明した。  フロストは、シンガーソング・ライターでプロデューサーのクラレンス・クラリティ(本名アダム・クリスプ)にサワヤマを紹介した。二人が意気投合するまで時間はかかったが、「“Alterlife”という彼が最初に作った曲に対し、“うわ!やりすぎ!”と思ったのを覚えている」と振り返った。クリスプによれば、彼の妥協を許さない傾向はパフォーマーとして「すべてを吹き飛ばしてしまう」サワヤマの才能に完璧にマッチした。最終的に彼は、『Sawayama』に収録された13曲のうち2曲を除くすべての曲を共同プロデュースした。「彼はいつも少しクールな音楽的な影響を持ってきます」とサワヤマは言う。「それはとても助かります。なぜなら、私が“アヴリル・ラヴィーンの4曲目を覚えている?”と聞くと、彼は“ああ。でも、あれはレディオヘッドのパクりって知ってる?”と返答するのです」と説明した。  彼女が影響を受けたものを一つの整ったパッケージにまとめてしまうのではなく、クリスプはその対比を受け入れるよう手伝った。「あちこちに表れるギター・ソロや本当に大胆でばかばかしいキー・チェンジが、共通のテーマとして流れています」と彼は述べた。「そういうのが二人とも好きで、特にリナはそうでした。本来あるべきでない場所に色々置くことが好きなんです」と説明し、最後は「最もバカげたアイデアを採用する」と続けた。  パンデミックの中で発売されたアルバムは、デュア・リパのディスコ・トリップ『フューチャー・ノスタルジア』や、ガガの活気あふれる『クロマティカ』など、クイアなダンス・パーティーを具現化したようなサウンドのものがたくさんあった。しかし、『Sawayama』は、最も純粋な共同体として感じられたアルバムだった。「Dynasty」でモッシュしたり、「Comme Des Garcons (Like the Boys)」で架空のランウェイを闊歩したり、「Chosen Family」で腕を組んで汗だくになって左右に揺れたり、クイアな身体が安全な空間に集うことができる様々な方法を祝うものだった。  そのため、コンサートが開催できないことは、アーティストである彼女にとっても、コミュニティにとっても厳しいものとなっている。「私は、曲が演奏され、観客を通して自分にフィードバックされ、彼らが歌っているのを聞いた時に、その曲は完成すると考えています。まるで、コメディアンがネタを試すようなものですね」と彼女は言う。「私にとって、曲に合わせて人々の身体がどう動くかが重要なのです。なぜなら、 ポップスの書き手は基本的に人々を旅に連れて行くのですから」と説明した。  しかし、サワヤマはアルバムの発売を延期することは考えなかった。そのため、ロックダウン中はソーシャル・メディアでのプロモーションに注力し、アルバム発売イベントを直前にYouTubeパーティーに変更したり、RINA TVの新エピソードを公開したりした。「アルバムが発売された時、私たちは非常に柔軟に対応しなければなりませんでした」とコニックは振り返る。「特に、ロックダウン中は、一夜にして多くのマーケティング案がお蔵入りになり、中止されました。そのため、私たちがしたいことは何なのか迅速に考えなければなりませんでした」と説明した。  サワヤマは、ストリーミング時代に多くのポップ・スターが経験したことを学んだ。最大のインパクトを与えるアルバムとは、新しい命を吹き込み続けることができるものだということだ。12月、ライブ・バージョンやリミックス(ブラジルのドラァグ界のスーパースターであるパブロ・ヴィターとの共演を含む)、そしてドーパミンを分泌するようなダンス・ポップ・シングル「Lucid」を収録した『Sawayama』のデラックス盤をリリースした。4月にはアルバム発売一周年を記念して、エルトン・ジョンと一緒に「Chosen Family」の新バージョンをリリースした。「マネジャーのウィル(・フロスト)が“エルトンに声をかけよう”と言って、私は“あなた、正気じゃないわ”と言ったのを覚えている」とサワヤマは振り返る。同じ4月、米NPR『Tiny Desk Concert』にも出演した。このプログラムでは、『ザ・トゥナイト・ショー・スターリング・ジミー・ファロン』の大掛かりなパフォーマンスとは対照的に、彼女のオペラのような声をシンプルに披露した。  しかし、彼女の願いがすべて変わったわけではない。ダーティ・ヒットとの最初のミーティングで、サワヤマは毎年アルバム一作品に与えられる名誉ある【マーキュリー賞】を受賞するのが夢だと語っていた。だが、2020年の夏、彼女は同賞とイギリスの【グラミー賞】に相当する【ブリット・アワード】の両方に資格がないことに気づいた。どちらの賞も英国レコード産業協会(BPI)が運営しており、当時はイギリスかアイルランドの国籍が必要条件だった。サワヤマは人生の大半をイギリスで過ごしているが、市民権はなく、代わりに永住権を取得している。永住権のようなビザを持っている人には市民権を得るための方法があるが、現在彼女の両親が住んでいる日本は二重国籍を認めていないため、イギリスの市民権を得るには日本国籍を放棄しなければならない。  彼女がノミネートされる資格すらないことを知ることは、心が折れそうな出来事だった。「あなたが移民者の場合、誰もがあなたを歓迎してくれているわけではないという事実を覆い隠して人生を過ごしているようなものです」とサワヤマは言う。「そして、あれはその覆い隠された物が現れた瞬間でした」と述べた。  「私は十分ではないのか?」、その言葉が彼女の頭の中にはずっとある。「何年もここに住み、ケンブリッジ大学に行き、税金を納めているのに、私はまだ十分ではないのか」とサワヤマは言ったが、モデル・マイノリティの神話に自分を閉じ込めてしまったことに気づいたかのように、「それなくしても、素晴らしい人になれるし、この国に属することもできる。でも、私は、それらを持っていないと価値がないと自分に言い聞かせてきたように思います。それが、私が一生懸命に働く理由です」と明確にした。  彼女が本当に冷遇されたかどうか判断するのを待つ間、ヴァイス誌のインタビューで「もし私のアルバムの出来が悪くて、誰も私のことを話題にしてなかったら、私は“すいません、私はノミネートされるべきなのですが”なんて思うでしょうか?」と語り、彼女が芸術的な「国境管理」のフォームと名付けた対象条件に人々の関心を向けた。その記事が掲載された翌日、イギリスのTwitterでは#sawayamaisbritish(サワヤマは英国人)というハッシュタグがトレンド入りした。  結局、BPI会長のゲド・ドハーティがサワヤマに連絡を取り、このルールがどれほど限定的か知らなかったと説明したと彼女は振り返った。(彼は「リナは素晴らしいアーティストであり、彼女が問題提起をしてくれたことに感謝しています」と米ビルボードへの声明で述べた)それから数か月後の2月、同団体はイギリスに少なくとも5年居住しているミュージシャンであれば選考対象になる変更を発表した。その直後、サワヤマは【ブリット・アワード2021】の<BRITsライジング・スター賞>の最終選考に残った。「(ノミネートされたことを)母に伝えることは、素晴らしいことでした」とノミネートされたことに涙ながらに語った。「母はとても誇りに思っていました」と続けた。  残念ながら受賞にはならなかったが、同じテーブルにつくことそれ自体が勝利であった。4月、サワヤマはバルマンの紫のオート・クチュールのドレスに長いトレーンをつけた姿で出席し、まさに舞踏会の美女のようだった。彼女はTwitterにレッドカーペットでの自分の写真を投稿し、「正直、サワヤマはとても英国人らしく見える」とキャプションを添えた。  『Sawayama』に収録された80年代風のクランチーなロック・ジャム「Who's Gonna Save U Now?」は、「Ri-na! Ri-na! Ri-na!」と彼女の名前を繰り返し叫ぶ観客の歓声で始まる。アルバムをリリースする前から、サワヤマは彼女のライブに壮大なビジョンを持っていた。2017年にリリースしたEPの発売を記念した彼女の最初の公式なコンサートは、イースト・ロンドンにあるThe Pickle Factoryという150人収容可能な会場で行われた。彼女の音楽に合わせて歌うファンの声を聞きながら、彼女は「文字通り、スタジアム一杯に観客が入っているのかと思った」と振り返る。  フロストは、「彼女は大物ポップ・スターの視点でしか物事を考えられない。なぜなら、それが彼女が成長する過程で愛した世界だから」と言う。「彼女が300人の前で演奏した時は、いつも衣装替えや振り付け、ドラマがありました。私たちはこの小さな会場で、少ないファンに、アリーナにいるような気分にさせるにはどうすればいいか?」と続けた。  この秋のツアーで、サワヤマはアリーナではないが、彼女にとってこれまでで最大の会場で演奏する。彼女は、より大きなステージで得られるクリエイティブな機会を楽しみにしており、彼女のショーが様々なバックグラウンドを持つファン層にとって安全な空間を提供することを願っている。「私のコンサート・チームは全員がクイアだと思っています。それは、とても素敵なクイア・ファミリーのようなものです」とサワヤマは言う。今回のツアーのディレクターを務めるのは、彼女の友人であるチェスター・ロックハートで、彼はミュージシャン兼俳優である。また、彼はサワヤマが出演した米NPR『Tiny Desk Concert』のパフォーマンスの監督も務めた。「私とチェスターは、いつもコンサートの話をしています。2000年代のアイコン的なコンサートに夢中なんです」と語った。  その間、サワヤマはクリスプと一緒にスタジオに戻ってセカンド・アルバムのレコーディングを行っており、90年代のレイブ・ミュージック、カーディガンズ、ノー・ダウト、ボン・ジョヴィや、2000年代以降に影響を受けた音楽を探求するようだ。彼女は、「90年代や2000年代の音楽の面白さは、その幅の広さにあると思います」と述べた。  最初、新しい曲を制作するのは怖いと感じていたようだ。「私は“何も言うことがない、人生を生きたことがないし、人々に会ってもいない”と思っていました」と説明した。それに加え、「ファースト・アルバムを引っ提げてのツアーができなかったことも、次のアルバムのことを考え始めるのを難しくした」そうだ。「精神的にも、ソングライターとしても、それは難しいことです」と彼女は言う。「なぜなら、私の中にはまだアルバム『Sawayama』があるからです」と続けた。しかし、2021年の初めにクリスプとスタジオに入ってから、サワヤマは徐々に自分の声を取り戻したようだ。二人は2週間で14曲を完成され、米ロサンゼルスでの曲作りも予定している。  ダーティ・ヒットのスタッフは、適切なタイミングとポジショニングができれば、次回のアルバムが彼女をメインストリームに押し上げることができると信じている。しかし、彼らは急いでいるわけではない。「私たちが、アメリカのラジオ局に何も持って行っていないのには理由があります。まず、私は確固たる基盤を築きたいのです」とオーボーンは言う。「それに近づきつつあると言って良いでしょう」と続けた。  今のところ、レーベルのスタッフはサワヤマに率先させている。コニックは「彼女には是非メイン・ポップ・ガールになってもらいたいと思っています」と述べた。「とはいえ特定のモデルや既存の成功例にこだわりすぎず、18か月前と同じように、リナがリナであれるように手助けすることを心がけています」と続けた。この「リナがリナであれるようにする」というのが、彼女のチーム内での共通語であり、彼女の唯一無二の芸術性とダーティ・ヒットの一般基本戦略の両方を物語っている。オーボーンは、「私たちは音楽を売っているのではなく、アイデンティティを売っているのです」と語った。  数年前、サワヤマはシンプルにリナという名前で活動をしようと考えていた。イギリスの学校に通っていた頃、学校のスタッフに名前の発音を間違えられたことを思い起こし、「私の苗字が不便だということを常に意識しています」と彼女は語った。「大泣きしてしまうこともありました。5歳の私にとって、誰かが私の苗字を言おうとする時の不安は、何よりも耐え難いものでした」と振り返る。  結局、チームと話し合った結果、サワヤマの名前をそのまま残して音楽活動をすることにした。「日本人やアジア人の名前だとすぐわかるようにすることが重要だと思います」と彼女は言う。「将来、“もし”私が象徴的な存在になっても、この苗字を取り払うことは絶対にしないです」と続けた。サワヤマにとっての問題は、それが「もし」ではなく、「いつ」なのかもしれない。 Written by Mitchell Kuga Rina Sawayama photographed by Zoe McConnell on May 10, 2021 at The White House London. Styling by Jordan Kelsey. Hair by Tomomi Roppongi at Saint Luke Artists. Makeup by Ana Takahashi. Manicure by Lauren Michelle Pires. On-site production by Joel Gilgallon at JOON. Andrea Brocca top and shoes, Wolford bottoms, FALKE tights, Harris Reed headpiece, Mugler earrings and bracelets, Pebble London rings. Zoe McConnell
billboardnews 2021/06/15 00:00
梅雨時期に感じる体の不調の原因や対処法を詳しく解説
梅雨時期に感じる体の不調の原因や対処法を詳しく解説
梅雨時になると、「何だか体の調子が悪い」「いつもと違う」など、体調の異変を感じる方が増えてきます。株式会社リーフェが実施したアンケート調査によると、梅雨時期に体調不良を経験した人は全体の3割に上っており、とくに50代女性は7割近くが「梅雨時期に体調を崩しやすいと感じた」と回答しています。[注1]梅雨時期に何らかの不調を感じやすいと思ったら、その原因を把握し、適切な対処を行いましょう。 今回は、梅雨時期に陥りやすい不調の種類や原因、対処法について詳しくまとめました。 梅雨時期に感じる不調の種類 梅雨時期に感じる不調の種類は人によって異なりますが、ここでは代表的な症状を4つご紹介します。 ■1. 頭痛 前述のアンケート調査において、梅雨時期に最も起こりやすい不調として挙げられたのが頭痛です。頭痛の種類はさまざまで、ずっしりとした鈍痛を感じる方もいれば、キーンと響くような偏頭痛に悩まされる人もいます。頭痛がひどい人は、同時にめまいや肩こりなどの症状を訴えることも多いようです。 ■2. 食欲が出ない 食事どきになっても食べる気がしない、何を食べても美味しく感じないなど、食欲が減退する場合があります。人によっては吐き気や胃痛などの症状を感じることもあるようです。 ■3. 疲れ・倦怠感 一日中だるさを感じる、動くとすぐ疲れるなど、倦怠感を覚えやすくなるのも梅雨時の特徴です。眠っても疲れが取れない場合が多く、梅雨時いっぱい倦怠感が続くという方もいます。 ■4. イライラ・集中力の低下 梅雨時の不調は体だけでなく、精神面に及ぶ場合もあります。わけもなくイライラしたり、憂鬱になったり、仕事や勉強に集中できないといった症状が出た場合は、梅雨特有の不調に陥っている可能性があります。 梅雨時期に感じる不調の原因 梅雨時期に心身への不調を感じやすい原因は複数あります。適切に対処するためにも、自分の不調は何が原因なのかチェックしておきましょう。 ■1. 気温の寒暖差による不調 梅雨にあたる6月~7月は全国的に気温が上昇する時期ですが、雨が降る日は一転して肌寒さを感じることもあります。とくに昼夜の寒暖差が大きい日は、体温調節が追いつかず、体に不調を起こしやすい傾向にあります。 ■2. 気圧が低い 気圧の低い状態が続きやすい梅雨時期は、自律神経のバランスが乱れがちです。[注2]自律神経は交感神経と副交感神経という2つの神経によって構成されていますが、気圧の低い日は安静時に優位になる副交感神経が活発になり、体が脳がリラックスモードに移行してしまいます。その結果、時間帯に限らずだるさや倦怠感、眠気などを感じやすくなります。 ■3. 湿度が高い 梅雨時期は雨が降りやすいため、常に湿度が高く、じめじめした状態が続きます。湿度が高いと、水分代謝や消化吸収がうまく行かず、食欲が減退したり、下痢などの症状が出たりします。[注3]また、空気中の湿度が高いと、発汗機能が乱れて余分な水分を体内に溜め込みやすくなります。余分な水分が体内に蓄積されると、むくみやだるさのほか、気温によっては熱中症を発症することもあります。 ■4. 日照不足 梅雨時はどんよりと曇っている日が多く、日差しがなかなか届きません。人は日光を浴びることによってビタミンDを生成しているため、日照不足に陥ると、ビタミンDの欠乏からカルシウム吸収率の低下を招く原因となります。[注4]また、日光にあたると人は「幸せホルモン」と呼ばれるセロトニンの分泌が活発になります。くもりや雨の日が続くと、セロトニン不足から気分の落ち込みやイライラといった精神面の不調が目立つようになります。 梅雨時期に感じる不調の対処法 では、梅雨時期に心身への不調を感じたらどのように対処すればよいのでしょうか。今すぐ実践できる梅雨時期の不調の対処法を3つご紹介します。 ■1. 規則正しい生活を送る 乱れた自律神経を整えるには、規則正しい生活を送り、体のリズムを正常に戻す必要があります。起床時は雨やくもりの日でもカーテンを開けて外の光を浴び、体内時計をリセットしましょう。また、だるさや倦怠感を感じるときは、ウォーキングやストレッチ、ジョギングなどの軽い運動を行うと、血の巡りが良くなって不調の原因を解消できます。 ■2. 体のむくみにはカリウムの摂取がおすすめ 湿度が高くて体がむくんでいるときは、体内の余分な水分の排出をサポートするカリウムを意識的に摂取しましょう。カリウムはきゅうりや大根、アボカド、バナナなどの野菜や果実類に含まれています。これらは生のままでも摂取できますが、大量に食べると胃腸に負担がかかるので、温野菜やスープにするなど、加熱調理して食べるのがおすすめです。なお、持病などでカリウムを制限しなければならない方は、事前に医師へ相談しましょう。 ■3. 冷たいものの摂取を避け温かいものを食べる 梅雨時期は蒸し暑さを感じやすいので、つい冷たい食べ物・飲み物をとりたくなりますが、冷たいものを暴飲・暴食すると胃腸が冷えて体調不良が悪化する原因となります。冷たいジュースの代わりに温かいお茶やスープを飲んだり、体を温める作用のあるショウガを料理に使ったりして、体を芯から温める工夫をしましょう。 梅雨時の不調は生活習慣の見直しで改善できる 梅雨時期は気圧や寒暖差、湿度などの影響により、心身に不調を来しやすくなります。放っておくと仕事や日常生活に支障を来す可能性がありますので、梅雨時期になったら生活習慣を見直し、規則正しい生活と食事を心がけることが大切です。 天気予報専門メディア「tenki.jp」では、WEB上で梅雨に関連するさまざまな情報を公開しています。「不調対策で梅雨入り・梅雨明けの時期を知りたい」「この先の気象状況を知りたい」という方は、ぜひtenki.jpの梅雨情報コンテンツをご利用ください。 [注1]株式会社リーフェ:【調査レポート】約3人に1人は「梅雨バテ」経験あり。梅雨の頭痛、イライラ、寝不足…原因は脱水にあり?!~代表取締役医師が解説~ [注2]J-STAGE:気象変化と痛み[pdf] [注3]日本成人病予防協会:梅雨の湿気が体調不良を招く!?ムシムシした日本の梅雨(初夏~夏)ならではの体調不良対策 [注4]日本成人病予防協会:日照時間と健康との関係
tenki.jp 2021/06/11 00:00
「うつ病」医学部生が12年かかって卒業した道のり 最初は1行のメールが打てなくなり…
「うつ病」医学部生が12年かかって卒業した道のり 最初は1行のメールが打てなくなり…
※写真はイメージです(写真/Getty Images)  日本人の約15人に1人が罹患するといわれるうつ病。特徴的な症状は、個人差はありますが、例えば気分の落ち込みやほとんど全ての活動へのやる気の喪失などです。小川亮さん(37)は、大学医学部生のときにうつ病を発症し、大学に行けなくなりました。その後、病気と付き合いながら12年かかって大学を卒業。現在は心の健康を扱う研究所で研究員をしています。 「一口に精神疾患やうつ病と言っても体験は人それぞれ。うつ病からの回復とその後の道のりを歩みながら社会で暮らす当事者の話の一例として役に立つなら。そして、この記事をきっかけに、私以外の多様な当事者の生の声にもふれていただけたら」と、経験を話してくれました。前編・後編の2回に分けてお届けします。 *  *  * ――うつ病を発症したのは、大学4年生のときだったそうですね。  はい。医師を目指して医学部で学んでいた4年生の11月でした。授業や実習で忙しかっただけでなく、朝は6時ごろから深夜1時か2時くらいまで勉強する日々が続き、疲れがたまってふとんから起き上がれなくなりました。立ち上がって家の中を歩く気力すらわかず、大学に行くことができなくなってしまったんですね。  大学へ行くことはおろか、頭がうまく働かなくてほんの1行の短いメールを打つことができなかったり、おかずができあがって冷蔵庫に入っているのにそれを食器に移す気力がなくてごはんが食べられなかったりと、今まで当たり前のようにできていたほんの小さなことを実行することすら難しくなってしまいました。それだけに、家族が食事や身の回りのことを助けてくれたのはとてもありがたかったです。  思えば、その2年くらい前からだんだん無理を重ねるようになって、土日や夏休みなどの長い休みは朝起きることができなかったり、目が覚めたら一日が終わっていたりということが増えてきていました。それでも休み明けはなんとか頑張って大学に行っていたのですが、だんだんと月曜日の授業に遅刻してしまったり、月曜は休んで火曜から行くようになったりといったことが増えてきて、ついにまったく行けなくなってしまったんですね。 ――うつ病だという自覚はあったのでしょうか?  いえ、まったく。当時は心の病気はおろか体の病気だとも思っていなくて、休めばなんとかなるだろうと考えていました。翌年の春まで家で休養して大学に戻りましたが、また疲れきって動けなくなるという繰り返しで、結局留年することになってしまった。そうなってもまだ病気だとは思わなかったんです。  体がだるいとか休みの日は朝起きられないとか、そういうことって病気ではなくても疲れていればよくありますよね。熱があるわけでもおなかが痛いわけでもなく、疲れの延長線上の症状だったから、病気という感覚はなかったんですね。 「気力の低下」や「気分の落ち込み」といった心の不調は「体温」や「血圧」のように数字で測れるわけではないので、どこからが病気かの判断が難しいという面もあったのではないかな、と思います。  あるいはまた、例えば腹痛や発熱などであれば、子どものころから繰り返し経験する中で、「どれくらいだと病気なのか」「どの程度なら自分で対処できて、どれほどひどくなったらお医者さんに行く必要があるか」を自然に判断できるようになるものですが、心の不調についてはそうした「経験的な学び」がなかなかない、という要因もあったかもしれません。  結局、うつ病とは気づきませんでした。いくら疲れていたとしても普通は起きて学校に行くのが当たり前なのに、それができない。自分は怠け者というか、意志が不足しただめな人間になってしまったと、自分を責めていました。  もしおなかがものすごく痛いために起きられなかったなら、「人間としてだめ」とは感じなかったと思うのですが……。そのあたりもうつ病に気づく難しさの一因だったのかもしれないですね。 ――異変に気づいたのは、同居しているご家族だったそうですね。  はい。留年した年の7月に家族がいろいろ調べて信頼できる精神科を探し、受診を勧めてくれました。医療者ではないので精神疾患に詳しかったわけではないと思いますが、マスメディアを通して「過労でうつになる」みたいなことはさかんに言われていましたから、精神科で診てもらったほうがいいと考えたのかもしれません。精神科に対する偏見みたいなものもなかったんじゃないかな。  仮に自分が精神科に行こうと思ったとしても、うつ病の影響で、調べたり情報収集したりする気力はまったく湧かない状態だったので、そうして信頼できる病院を探してくれたことはありがたかったですね。 ――ご自身は「精神科」にどのようなイメージを抱いていましたか?  医学の勉強を始めてまだ日が浅く、精神科の講義も始まる前だったので、恥ずかしながら精神疾患については一般の方々よりすこし詳しい程度で、知識は十分ではなかったと思います。  そして、こちらも医学生としては反省すべきなのですが、精神疾患の方に会ったこともないのに、精神科に行くことにも漠然と不安を抱いていました。「行くところを人に見られたらどうしよう」と思ったりもして、受診する途中で「やっぱりやめて帰ろうか……」と、とても悩んだことを覚えています。ただ思い切って行ってみたら、自分の印象では、雰囲気もそこにいるひとたちも内科などの普通のクリニックと変わらなくて、「自分は何に不安を感じていたんだろう」と思いました。  精神科の先生は「小川さんはだめな人間になってしまったわけではなく、うつ病という治療可能な病気です。一人で抱え込まなくても一緒に治していきますよ」と言ってくださった。自分のことをずっと責めていたので、ふっと気持ちが楽になったし、うっすらと希望とか未来が開けたような気がしました。  通院を始めて症状はよくなってきましたが、大学に行くと「遅れを取り戻さなくては」と頑張りすぎて疲れきってしまったりもして、なかなか1年間継続的に通学できるまでには体調が安定しませんでした。  結局、休み休み実習や講義をこなしていき、4年生を4回、5年生を2回、6年生を3回やることに。在籍できる期間は最長12年なのですが、ギリギリ12年かかってようやく大学を卒業しました。 ――大学には病気のことをどう伝えていましたか?  実は大学の先生や職員の方にはずっと伝えることができなかったんです。医学部にはチューターといって、学生5~6人ほどの班に1人ずつ面倒を見てくれる教員が配置されていて、定期的に面談をしてくださっていましたし、なにかあれば相談できる体制は用意されていました。チューターの先生も、休みがちで留年を重ねる僕を心配してくださっていたと思いますし、面談でも親身に助言してくださったことにとても感謝しています。  でも病気のことを話したら弱い人間だと思われるんじゃないかとか、「お医者さんはハードな仕事だから、なるのはあきらめたほうがいい」と諭されるのではないかと思い込んで、打ち明けることができなかった。実際にそのように言われたわけではないのですが、自分で勝手に不安を膨らませてしまっていました。  ようやく伝えることができたのは、卒業の1年ほど前。きっかけは、学内の学生相談所のカウンセラーの先生でした。カウンセラーの先生には、留年を重ねるようになってから進路などの相談に乗っていただいていたのですが、やはり病気のことは話せていなかったんですね。だから何年か経って、思いがけず告白することになったときに「ずっと内緒にしていたから、なぜ言ってくれなかったんですかと責められるだろう……」と思った。  ところが「話しにくいことなのに勇気を出して話してくれてありがとう。小川さんが病気と付き合いながら学業を続けていくために力になりたいので、大変なことがあったら遠慮なく話してくださいね」と言ってくださいました。この言葉を聞いたとき、ありがたくて涙が出るような気持ちになり、ああ、病気のことを話してもいいんだと、ハードルがぐっと下がったように感じたことを今でも覚えています。  そしてそのカウンセラーの先生が、大学側に伝えるか伝えないか、伝えるとしたらどんなふうに伝えるといいか、親身になって一緒に考えてくださったんですね。その結果、スムーズにチューターの先生や教務係の職員に打ち明けることができ、思っていた以上にいろいろ助けていただきました。  特に、医学部の実習ではさまざまな診療科をまわるのですが、チューターの先生が各科の責任者の先生方に事情を伝えてくださったことが大変ありがたかったです。うつ病でエネルギーが低下していたため、自分から何かを申し出たり、助けを求めたりするのは本当に難しい状況だったので。そうした温かい支援があったからこそ、何度もあきらめかけた医学部の卒業を何とか実現できたのだとつくづく感じ、感謝が尽きない気持ちです。 ――カウンセラーがきっかけだったのですね。  はい。学生相談所は入学時のオリエンテーションで配られた冊子に紹介があったのが印象に残っていて、ある日、大学内の掲示か何かを見て自分から行きました。気軽に相談できる場が身近にあったことは救いになりました。 ――病気のことは、大学の友だちにも伝えづらかったですか?  そうですね。留年するたびに下の学年のみなさんと同級生になるのですが、在学中は誰にもうつ病だと伝えることはできず、授業を休んだときも「原因不明の体調不良が続いていて病院で診てもらっている」などと説明していました。僕自身、打ち明けられる準備ができていなかったのだと思います。  ただ、友人も先生も、それ以上踏み込んであれこれ詮索(せんさく)したり、休んでいることを責めたりすることはけっしてなく、適度な距離を保ってくれていました。自分自身は本当のことを伝えられていないので申し訳ない気持ちや後ろめたさも感じていたのですが、そんな中でも友人は心配してくれて。久しぶりに大学に行けたら喜んでくれたり、体調を気遣ってくれたりしたことに、今でもとても感謝しています。 ※続きは、後編【医学医学部時代に「うつ病」 14年かけて医師になった男性が語る「習慣を立て直す」課題】へ (文・熊谷わこ)
うつ病病気病院
dot. 2021/06/10 09:00
菅原一秀前経産相を略式起訴に追い込んだ元秘書が暴露 現金バラマキ、パワハラ、隠蔽工作のすべて
今西憲之 今西憲之
菅原一秀前経産相を略式起訴に追い込んだ元秘書が暴露 現金バラマキ、パワハラ、隠蔽工作のすべて
略式起訴された菅原一秀前経産相(C)朝日新聞社 菅原氏と秘書が交わしたLINE(提供) 菅原氏と秘書が交わしたLINE(提供)  前経済産業相で衆院議員を辞職した菅原一秀氏は、地元の衆院東京9区の有権者に香典や現金など80万円を寄付した公職選挙法違反(寄付行為)で6月8日、東京地検に略式起訴された。    一度、不起訴と判断されたが、検察審査会は2月24日付けで起訴相当と議決。東京地検が再捜査をしていた。その結果、菅原氏が地元有権者に香典や会費、陣中見舞いなどの名目で53万円の現金を配り、供花などで27万円相当の花を贈ったことが判明した。 「長く国会議員を務め、大臣にまでなっているのに菅原氏は遵法精神など皆無。香典などカネのばら撒き以外でも、めちゃくちゃです。ひどい目にあった」  こう証言するのは、菅原氏の元で公設第2秘書を3年間ほど務めた男性のAさん。2016年に知人のツテで菅原氏の公設秘書となった途端、通夜、葬儀に香典を持参して参列することが重要な仕事と言いつけられた。  選挙区内の通夜、葬儀の情報をつかみ、いち早く菅原氏に報告。菅原氏の代わりに、秘書が香典を持参する。香典には必ず「衆議院議員 菅原一秀」と記したものを渡していた。  公職選挙法では地元の有権者へ金品を提供することは一切、禁じられている。香典は議員本人が出席し、持参する以外は認められず、秘書の持参となれば、法に触れるのだ。 「訃報の情報があれば、すぐLINEで伝えます。そして、菅原氏から1万円とか2万円という香典の金額が指示されます。いつでも通夜、葬儀に行けるように秘書は香典袋を5枚ほど常備していた。金額は菅原氏の判断で5千円から3万円だった。後援会幹部など関係が濃い方や地元の有力者になるほど、香典の金額を増やしていた。菅原氏から『関係はどうか?』と聞かれ、支援者名簿にも掲載がない方の葬儀がありました。5千円でいいと指示された。後援会幹部の方のご葬儀では『三万』とLINEがありました。菅原事務所では菅原氏からの指示があり、その通り、動くのが秘書の仕事。自分で考えてやることはありません。大臣にまでなるような人からの指示です。それが違法なこととは、検察の指摘があるまで思いもしませんでした」  菅原氏の秘書たちは通夜、葬儀に加えて、地元の祭りやイベントの情報にはとても気を使っていた。もし、情報が入らないと菅原氏から「とりこぼし」だとして「罰金」を命じられるのだ。  2019年1月18日のLINEには菅原氏から「着いたのか」「ペナルティだぞ。仁切りしていない。厳罰」とAさんにメッセージが入った。「着きました。すみません」と謝罪するが、「なぜしていないのか? 3万」と金額を言い渡している。 「仁切りとは、出席予定会合の主催者に、菅原が行くと伝えていなかったことを意味します。秘書だった時には、こういう理不尽なことで30万円から40万円くらい罰金をとられました」(Aさん)  電話で叱責されることもあり、「アホ、バカと汚い言葉で罵られ『罰金払え』とどやされた。パワハラですよ」という。  東京地検の発表でも菅原氏は香典だけではなく、地元の祭りや会合などにも会費などと称してカネを配っていたことも立件対象となっている。  一連の疑惑が明らかになったのは、2019年10月、週刊文春の報道だった。週刊文春が掲載した写真は、菅原事務所の秘書の一人が「衆議院議員 菅原一秀」と書かれた香典を差し出すシーンだった。秘書は写真を撮られたことはまったく知らなかったという。問題とされた葬儀の香典に関するLINEでの打ち合わせ内容をAさんから入手した。 「ISSHU」とあるのは菅原氏のこと。「香典気をつけて」とLINEでメッセージが入る。秘書が「明日は1030からです。香典はいかが致しますか? 額はおいくらでしょうか?」と尋ねると、菅原氏は「二万」「弐」と返信している。  週刊文春の報道を受けて、菅原氏は周囲に「困った、どうしよう」と秘書たちにも相談していた。Aさんはこう振り返る。 「事務所では日程表や紙ベースのスケジュール表など、シュレッダーにかけ、パソコンから削除するように指示がありました。明らかな証拠隠滅工作でしたね」  菅原氏はその直後、経産相を辞職に追い込まれた。    辞任時、マスコミから香典の経緯を聞かれると、菅原氏は「二万については、自分が葬儀に出席する時に持参する香典の金額だった。秘書が代理で持参するのはダメだという意味。バレないように持参せよという意味ではない。結果的に秘書が香典を出した。しっかり言えばよかったが教育、指導不足だった」とLINEの一部を示し、説明した。  だが、Aさんはこう反論する。 「LINEをよく見てください。二万の次に念押しで弐とあります。菅原本人が葬儀に出席するつもりがあれば、念押ししませんよ」  さらにこう付け加えた。 「週刊文春の報道に対して、後援会幹部を集めて、私や別の秘書たちをやり玉にして『秘書が週刊文春と組んで写真を撮らせ、私を経産大臣から引きずりおろした』『スパイだ』などといい、秘書に責任を押し付けていることがわかった。私も後援会幹部に呼ばれて『お前が文春に売ったのか』と言われた。本当に腹が立った」  数か月後、Aさんは菅原氏から公設秘書から私設秘書に「降格」を言い渡されたのを機に事務所を去ったという。  Aさんや菅原氏の秘書、スタッフは東京地検特捜部から多い人で20回以上、事情聴取を受けた。その中でAさんたちは菅原氏の香典や地域の行事のカネのばらまき以外でも話を聞かれたという。菅原氏が過去、カニやメロンを菅義偉首相、安倍晋三前首相ら有力国会議員、有権者に贈っていたことは、週刊朝日が2009年8月、特報している。 「カニやメロンは報じられてヤバイとやめた。しかし、その後も贈り物を配っていた。2019年4月は統一地方選があり、参院選が迫っていた。有名な果物店から大中小に分けた、カゴを取り寄せて地元後援会幹部をランク付けして持っていくように指示された。私は10人以上に持参しました。検事に話すと『菅原は本当に悪質、買収だ』と怒っていた」(Aさん)  また2017年の衆院選の時、「ボランティアスタッフと聞いていた人に、ウラで時給いくらとカネを払っていた。今思えば、それもアウト」と告白する。  また、菅原氏はポスター貼りと街頭演説の活動に力を入れていることをよく強調していた。その裏ではこんなことがあったという。 「ある時、立憲民主党の枝野幸男代表のポスターが貼ってあることに菅原氏が気づいた。『夜、あのポスターを破ってこい』『菅原一秀と赤文字で車にあるが、それは何かで隠せ』『車は遠くに止めて、歩いて行け』『代わりに俺のポスターを貼ってこい』などと細かく指示してきました。嫌なので行ったふりをしていたら『まだ枝野のポスターがあるじゃないか』と厳しく叱られた。仕方なく、夜闇にまぎれてはがしたことがありました。枝野さんには本当に申し訳ないです。菅原氏には法を守るという意識はありません」(Aさん)  菅原氏は辞職後、SNSで事件についてこう謝罪した。 「私の政治活動において一部公職選挙法に触れる部分があり、当局の事情聴取に多くの時間を使って丁寧に説明してまいりました」「今後のことは一切白紙です」  検察審査会の申立人代理の郷原信郎弁護士はこう語る。 「河井克行夫妻の事件と同様、これだけハッキリ証拠があるのに一度は、不起訴にした。検察はその理由を『大臣を辞職して反省』というが、そんなことでクロをシロにし、検察審査会から起訴相当を突き付けられ、あわてて捜査というのはお粗末すぎる。起訴に追い込んだのは、勇気ある菅原氏の元秘書たちだった。自らの経験を踏まえて、客観的なデータをそろえて、検察に証言したからこそ、事件化できた。また、立件金額80万円としているが、より丁寧に詰めて捜査すれば数百万円になった可能性もあるので、略式起訴には違和感が残る」  菅原氏の略式起訴の一報にAさんはこう語る。 「経産相の辞職を余儀なくされ、しばらく病気、体調不良と言いながら、国会を欠席していた。実際は事務所に来て、戸別訪問までしていた。菅原本人の指示なのに秘書に責任を押し付け、反省なんてゼロですよ。菅原氏を見ていると、香典や地域のイベントでカネがばらまける資金があったからこそ、当選してきたと感じます。私は数々の違法行為を押し付けられた。こういう人物は二度と国会議員になってはいけない」 (AERAdot.編集部 今西憲之)
dot. 2021/06/08 18:39
イスラエルへの憎悪から脅迫メッセージ 「実際の攻撃よりつらい」ネットの悪意 現地にいる日本人が聞いた市民の思い
イスラエルへの憎悪から脅迫メッセージ 「実際の攻撃よりつらい」ネットの悪意 現地にいる日本人が聞いた市民の思い
パレスチナ自治区ガザで、イスラエル軍の空爆によって破壊された商業ビル (c)朝日新聞社 AERA 2021年6月7日号より  武力衝突が続いていたイスラエル軍とパレスチナ武装勢力が5月21日、停戦に入った。SNS上には、現地の惨状を伝えるものからイスラエルへの憎悪にあふれる内容まで、さまざまな投稿があふれている。AERA 2021年6月7日号では、そうした現状に心を痛める市民の思いを、現地に住む筆者がつづった。 *  *  *  イスラエルの人口は約930万人。その構成は多様だ。ユダヤ系が7割、アラブ系が2割。ユダヤ系にはエチオピアから救出された人たちもいる。北アフリカからの移民は辛口料理を好む。ユダヤ教の戒律を厳格に守る超正統派の大半は兵役を拒否する。外国人労働者は約12万人、アフリカからの難民も数万人に上る。  政権に批判的な住民も多い。コロナ禍でも続いたネタニヤフ首相の退陣を求めるデモは、旗、ラッパや太鼓を手にする人でごった返し、異次元の熱気だった。強硬派の人々が西岸地区への入植を続ける一方で、共存と平和を求める人たちは「許せない」と話す。パレスチナに対する政府への道義的な憤りから、イスラエルを離れる人もいる。逆に、移り住む人もいる。仕事や結婚のほか、ユダヤ人差別に生きづらさや恐怖を覚えた人たちだ。 「ジェノサイド(集団殺害)」 「植民地化を進める巨悪」  そうイスラエルを批判するSNS投稿を目にする。ガザ地区と死者数を比べて「圧倒的な力の不均衡」だと非難する記者もいる。だが、現地にいると違う光景が見える。 ≪今もまだ震えている。サイレンのたびに涙があふれる≫  オーストラリアから2年前に移ってきた、テルアビブに住むメイラブ(32)はフェイスブックに書き込んだ。 ≪12日夜。夫と居間で生後3カ月の赤ちゃんを寝かしつけているとき、巨大な爆発音が襲った。サイレンが鳴り響き、赤ちゃんを抱いてマンションの階段部へ逃げ込んだ。近所の子どもたちは泣き続け、爆弾が破裂するたびに震え上がった。今も体を休めることができず、考えが止まらない。なによりガザ地区でお母さんたちが感じている恐怖が頭から離れない。逃げ込む場所もなく、我が子を守ることができないなんて≫  レイチェル(47)はフェイスブックで寄付を募った。 ≪ガザ地区で犠牲になる無実の命を思って心が痛む。動物たちもそう。現地の動物保護施設の担当者と連絡を取っている。彼の家族は無事だが、動物たちが怖がって逃げ出したと。みんな命を懸けて世話を続けている。どうか寄付を。西岸地区の友人を通じて届けます≫  アラブ系イスラエル人の女性(22)とユダヤ系イスラエル人の女性の投稿には、3万超の「いいね」が集まった。 ≪救急隊の勤務が終わってバスで帰るのは一緒。どっちが襲われそうになっても助けられるよう、お互いに催涙スプレーを持って。救急隊員としてつらい現場も多い。疲れ切った私をハグしてくれるのは彼女。午前5時のお祈りに起こしてくれるのも彼女。心配性の親も彼女との外出なら許してくれる。私たちがもたらすのは平和。将来、子どもが生まれたら、一緒に遊ばせようねって言っている。次の世代も私たちみたいに育つ。こんな約束をしている。「この国に何が起ころうとも、私たちは離れない。だって家族だから。姉妹だから」≫ ■脅迫メッセージが届く 「戦争をやめよ」「敵同士じゃない」「平和を」──。  各地でアラブ系とユダヤ系の人々がともに反戦デモに立ち上がっている。エルサレムでは「人間の鎖」ができた。こうしたことは日本のメディアにはなかなか取り上げられない。  米国や日本などはハマスをテロ組織と認定する。ハマスは、イスラエルの絶滅とユダヤ人の皆殺しを憲章に掲げている。  だが、「世界中が悪者にするのは私たち。ニュースもネットも読んでいると心が傷つく。実際の攻撃よりつらい」。  ルーシー(42)はそう話す。 「ツイッターもTikTok(ティックトック)もイスラエルへの憎悪であふれる。イスラエルに同情的な投稿をすると、大量の脅迫メッセージが届く」  サラ(46)はそう悲しんだ。 「もっと私たちイスラエル人が死んだら世界は同情するのかな」との声もSNS上で広がる。 「ユダヤ人どもを殺せ」。英ロンドンで、パレスチナ自治政府の旗を翻す車列から男たちが叫んだ。米ロサンゼルスのすし店では暴徒集団が「ユダヤ人はいるか」と尋ね、食事客らを襲った。反ユダヤ感情にもとづく憎悪犯罪が世界中で広がる。  今回の武力衝突で暴動が起きたイスラエル中部ロッドでは、ユダヤ系の男性(56)が帰宅途中、アラブ系の暴徒に襲われて亡くなった。移植ドナー登録をしており、アラブ系の女性(58)が移植を受けた。 「ユダヤ人の肝臓が私の一部になった。私たちは家族同然です」  快方に向かう女性の言葉を地元紙は伝える。その娘は続けた。 「アラブ人もユダヤ人もない。私たちはただ人間。共に生きる必要がある」 (敬称略)(ライター・秋葉玲央) ※AERA 2021年6月7日号より抜粋
AERA 2021/06/05 17:00
ぼんやり黙座が心地いい? 会社帰りもできる「チェアリング」とは
ぼんやり黙座が心地いい? 会社帰りもできる「チェアリング」とは
木陰でチェアリング(伊藤雄一さん提供)  ゆったりと流れる時間を味わうかのように、自然のなかに身をおく。持ち込んだ椅子に座って、そよ風を感じたり、草木の香りに癒やされたり。そんな「チェアリング」が静かなブームだという。 「チェアリングは、個人主義的なアウトドア。『誰かが決めた場所に座りなさい』というベンチとは違い、自分で選んだ場所のほうが喜びも増す」  魅力をこう語るのが、大阪府在住で40代の男性フリーライター、スズキナオさんだ。同じライター仲間で東京都に住むパリッコさんとともに、チェアリングと名付けたことがきっかけで、楽しむ人が増えつつある。  もともと、酒場文化を紹介してきた2人は2016年2月に雑誌「酒場人」(オークラ出版)の仕事で「何か変わった飲み方で記事を書こうと考えた」(スズキナオさん)。  座る場所と、いいお酒があれば楽しめるといったテーマを企画。晴れた日に、東京・お台場へ折りたたみ椅子を持ってくり出し、酒を買い込んで、気に入った場所で腰を下ろした。  すると、「最初は向き合って座り、そこを“居酒屋”にしようと考えていたが、気持ちがよくて、気がついたら2人とも海に向かっていた」(パリッコさん)。時々、つぶやくように話をする程度で、自然のなかでぼんやりと座って過ごす喜びを味わったという。「深く考えていたわけではないが、落ち着いた感じになれた」(同)  自ら実践して書いた記事が好評だったこともあり、チェアリングを始める人が出てきたのだ。 「座るだけでモードが変わり、聞こえてくる雑踏がBGMになったり、鳥がいたり、池の水面がきらきらしていたり、普段は意識していないものに意識が向いて新鮮」(同)に感じられ、仕事の悩みやわずらわしかったことが、一時的に気にならなくなるという。  チェアリングに決まった流儀やルールはない。イヤホンで音楽を聴きながら読書してもよし。公園で楽しげな家族連れを見て癒やされてもよし。穏やかな天気のときに、自分の気のおもむくまま、楽しめばいいという。  日本チェアリング協会なる団体も、17年にできていた。協会ホームページには、千人を超えるフォロワーがいる。30~50代が中心で、女性が半分近いという。  協会を立ち上げた会長の伊藤雄一さんは、フリーの編集者をしながら、チェアリングの紹介に努めている。チェアリングのさらなる楽しみ方や注意点を聞いた。  例えば、西新宿の東京都庁周辺。こうした官庁街は夜や休日になると、人が少なくて、ひと味違う“穴場”になりうる。  折りたたみ椅子を携帯して出勤し、仕事帰りに夕焼けを楽しむのも醍醐味(だいごみ)だ。平日と休日、昼間と夜、それぞれ時間が違うだけで、同じ場所であっても“表情の変化”を楽しめるという。  もちろん、「じゃまになればすぐ移動する。ごみを散らかさず、騒がない」(伊藤さん)のが基本だ。  新型コロナウイルスの感染拡大の影響で、行動も制限されがちだ。  自らもチェアリングを楽しむ大正大学地域創生学部准教授の林恒宏さんは、こう指摘する。 「コロナ禍は人を立ち止まらせ、幸せについて考えさせるようになった。経済活動のために消費行動をさせられ、稼がないといけなくなったが、人間の本当の幸せ、自然のあり方をもう一度、見直すものとしてチェアリングがあるのではないでしょうか」 「黙食」「黙トレ」ならぬ、「黙座」で気分転換してみてはいかが。(本誌・浅井秀樹) ※週刊朝日  2021年6月11日号
週刊朝日 2021/06/04 17:00
由紀さおりが語る昭和歌謡の魅力「最近の音楽は余韻がない」
由紀さおりが語る昭和歌謡の魅力「最近の音楽は余韻がない」
由紀さおり [撮影/写真部・戸嶋日菜乃、ヘアメイク/徳田郁子] 映画「ブルーへブンを君に」は、11日からイオンシネマ板橋ほか全国公開(c)2020「ブルーヘブンを君に」製作委員会  歌手として活躍する一方、女優として映画、ドラマにも出演する由紀さおりさん。映画「ブルーヘブンを君に」では初主演を務めるが、50年を超える芸能生活を振り返った。 【前編/映画初主演の由紀さおりが振り返る挫折「不幸でないことを憂えた」】より続く *  *  *  歌で生きていくことを諦めかけて、短大に進学した。すると卒業と同時に、「夜明けのスキャット」という、発売から50年以上も歌い継がれる名曲に出会う。由紀さんは、売れなかったときも、由紀さおりとしてスターになってからも、人気者になりたいと思ったことは一度もなかった。常に、自分の元にある音楽をどう捉えるか、日本語の歌詞にどう心を込めるかが最重要課題だった。 「母も、私たちを普通に育てることにこだわっていました。家に帰れば姉と私とで、代わりばんこに夕飯の支度をしていましたし。普通の女の子がやらなければいけないことは全てやらされました。だから歌を歌っていても、自分が特別な感じというのはまったくなくて……。むしろ、私の振る舞いや言葉遣いに関して、母親から注意されることのほうがしょっちゅうでした。だから、姉も私も、ずっと普通です(笑)」  今、世界は大量生産、大量消費の時代から、“SDGs”(持続可能な開発目標)を掲げ、エコな暮らしを意識することが美徳という方向に変わりつつある。由紀さんの話を聞いて、その自然体の生き方にサステイナブル(人間・社会・地球環境の持続可能な発展)なエッセンスを感じたので、「環境や状況が激変する中、自分らしさを持続している生き方が素敵です」と伝えると、「私がサステイナブルということに関して一番真剣に考えているのは、音楽ね」という言葉が返ってきた。 「持続可能な音楽ってどういうものがあるんだろうって今すごく考えます。私たちの歌ってきた歌は、昭和歌謡と呼ばれています。若い方たちの歌も聴きますし、みなさん素敵ですけれど、今、ヒットチャートを賑わしているミュージシャンと私たちのような歌手は大きく違う。その違いは、歌うときの余韻にあるんじゃないかしら。もともと、昭和歌謡は、日本語の語感や余韻にこだわっている音楽です。最近は、みんなパソコンで音楽を作っているので、音に余韻がなくて、ブツッて切れますよね。若い人たちにとってみれば、それが新しいのかもしれないけれど。私は、余韻の波がある音楽を、後世に残していきたいの。次の世代にそれを手渡していくにはどうしたらいいか。それが私の歌を歌っていく上での、一番重要なポイントかもしれません」  由紀さんは、20代で結婚、そして離婚を経験している。また50代になってからも、アメリカ在住の日本人男性とアメリカで挙式したが、ほどなくして離婚を決断した。その二つの大恋愛について、「芸事と結婚生活、どちらかを選ばなければいけない状況を突きつけられて、添い遂げることを選ばずにここまでやってきた」と振り返る。 「愛する人と添い遂げるよりも、芸事を選んだ理由は何か? 私は、その答えを見つけなきゃならないの。でも、その決着はまだついてない。だから、この先にもっと違う新しい自分を見つけなきゃって思って、いつも生きています」  現状に満足して安穏と暮らさない。そう心がける一方で、親の教えを守って、今も日常生活のささやかな感動を大事にしながら、一日一日を過ごしている。それが、童謡や唱歌を歌う上でも大切だと思うからだ。 「私と姉が歌い継いできた童謡・唱歌は、日本の季節感を歌っているものがとても多いんです。今、季節感がどんどんなくなっていって、新しい素材が生まれて、寒さや暑さを昔ほどは感じなくなっているかもしれないけれど、日本には四つの季節があって、日本の文化は、その季節によっても育まれたものだと思うんです」  普通の感覚を持ちながらも、波瀾万丈な人生を送っている由紀さんは、「人生に苦労はつきものよ」とカラッと言い放つ。自分のことを「シンガーソング・コメディアン」と称することもあるほど、目の前の由紀さんは朗らかで、苦労話もユーモアたっぷりに笑いながら話すのだ。 「苦労を笑い飛ばす方法があるとすれば、自分の身の上に起きたことに抵抗するのではなくて、『あ、これが必然なんだ』と受け入れることかもしれない。例えば、仕事をしていて、『レギュラーですが、終わりにしましょう』と言われたら、『うまくいっているのになぜ?』と思うかもしれない。でも、私はある時期から、『あ、つまりこれはもう自分の人生には必要ないんだ』と思うようになりました。そうやって決着をつけたら、次に進めるでしょう? 何か試練を与えられたとき? 私は一人では乗り越えようとはしないですね。必ず、信頼できるスタッフや大事なお友達に何かヒントをいただきます。人との出会いの中に必ず、今を生き抜くヒントがあると思っているんです」  由紀さんが美しい余韻を残すのは、歌や芝居だけではない。その発言にも、誰かの生きるヒントになる優しい響きがある。(菊地陽子 構成/長沢明) 由紀さおり(ゆき・さおり)/群馬県出身。1969年「夜明けのスキャット」でデビュー。歌手として活躍する一方、女優として映画、ドラマにも出演。映画「家族ゲーム」では毎日映画コンクール助演女優賞を受賞した。86年から、姉・安田祥子と、美しい日本の歌を次世代に歌い継ぐ活動を続ける。2011年、米ジャズオーケストラとのコラボアルバム「1969」が世界的ヒットに。自伝に『明日へのスキャット』(集英社)。 ※週刊朝日  2021年6月11日号より抜粋
週刊朝日 2021/06/04 11:30
「コロナワクチン夫婦同時に打たないで」2回目接種後の高熱2割超 医師に聞く副反応対策
「コロナワクチン夫婦同時に打たないで」2回目接種後の高熱2割超 医師に聞く副反応対策
新型コロナウイルスワクチンの接種(c)朝日新聞社 山形大学医学部附属病院が公表した、ワクチン接種後に確認された症状(同院の発表をもとに編集部が作成)  河野太郎行政改革相は先月28日、コロナワクチン接種後に副反応が生じた場合などに公務員が「ワクチン休暇」を取れるようにしたことを表明した。接種が進んでいる医療従事者らのデータから、とくに2回目の接種後に頭痛や発熱などの副反応が起きるケースが多いことが判明している。これから接種する人は何に気をつければいいのか。医師に対処法を聞いた。 *  *  * 「朝に注射を打ち、日中は『ちょっとだるいな』という程度で普通に過ごしていたんですが、夜になってどんどん熱が上がってきました。頭痛もひどく、翌日は丸一日ベッドから動けませんでした」  神奈川県内の医療機関に勤める30代の女性はこう語る。女性は4月30日に1回目、5月20日に2回目のコロナワクチンを接種。1回目の接種後は腕に少し痛みを覚えた程度だったが、2回目は接種した日の夜に38.5度の熱が出た。それから39度近い熱が翌日の夜まで続き、頭痛とだるさで食事もとれなかったという。女性は接種翌日、翌々日と、2日間仕事を休まざるを得なかった。 「一緒に打った同僚では、ほとんど症状が出なかった人もいましたが、熱が出て仕事を休んだり早退したりした人もいました」  コロナワクチンの副反応とみられる症状。先行接種した医療従事者たちのデータから、2回目接種後に副反応を起こす人の割合が1回目よりも高まることが判明した。  厚生労働省の調べでは、接種を受けた医療従事者2万人弱のうち、副反応として38度以上の高熱がみられたケースは、1回目接種後は0.9%だったのに対し、2回目接種後は21.6%に及んだ。  山形大学医学部附属病院は、同院で接種した職員や医学部学生らの接種後の副反応について、詳細なデータを公表した。3月8日から4月9日にかけてアンケート調査を行い、1回目に接種をした1247人、2回目に接種をした974人から回答を得た。その結果、1回目接種→2回目接種で症状を訴えた人の割合は、次のように変化していた。 (1)接種部位の痛み 91.5%→91.6% (2)接種部位の腫れ 9.7%→18.1% (3)発熱(37.5度以上) 3.3%→43.4% (4)疲労・倦怠感 35.4%→80.7% (5)頭痛 19.7%→55.1% (6)悪寒(寒気) 6.3%→51.5% (7)吐き気・嘔吐 4.0%→10.6% (8)注射部位以外の筋肉痛 26.1%→37.7% (9)関節痛 6.3%→37.1%  1回目接種後の副反応について同院は「多くは接種当日から翌日に発生し、1~2日間で軽快していました。症状に対しては経過観察で済んだ例が多いですが、一部内服などの治療を要したり、日常生活に支障をきたしたりする例もありました」と説明する。  一方、2回目については、「1回目と比較して、いずれも症状の持続期間が長く、症状の程度も重くなっていました」。さらに「1回目で症状が出現した人は、2回目に同様の症状が出現する頻度が非常に高くなることが示されました」という。  37.5度以上の発熱については、1回目接種後は3.3%だったのに対し、2回目接種後は43.4%だった。調査結果を発表した同院第一内科講師・井上純人医師はこう話す。 「インフルエンザワクチンで発熱の副反応が起こる割合は1~2割です。インフルエンザワクチンを打った周りの人から、高熱が出て大変な思いをしたと聞くことはそれほど多くないと思います。それと比べると頻度が高いといえるでしょう」  また、若い人や女性に副反応の発症頻度が高いという特徴もみられたという。 「若い人に多いのは、免疫反応が強いからだと考えます。一方、女性に多いのは、あくまで推定ですが、からだが小さいため成分が取り込まれる量が多いからと言われています。また、ワクチンには化粧品にも含まれる成分・ポリエチレングリコールが含まれるため、副反応の頻度が高いのでは、とも言われています。ただし、これらはあくまで仮説として言われていることであり、真偽は定まっておらず、当院でもそれらについて検証していません」(井上医師)  一方、65歳以上の高齢者については、「今回の調査対象に含まれるのは数人だったため、副反応もこの調査と同じになるとはいえない」と井上医師は言う。  実際に自ら副反応を経験した医師にも話を聞いた。元ファイザー社臨床開発統括部長であり、厚生科学審議会予防接種・ワクチン分科会委員を務める川崎市立看護短期大学長の坂元昇医師は、3月23日と4月10日にワクチンを接種した。2回目接種から16時間後に発熱し、翌日は38.5度を越えたという。 「私自身は発熱していても感覚的には少し熱っぽいかなと思った程度で、食欲もありましたし、それほど苦しい気持ちもありませんでした」(坂元医師)  2回目を接種したのは土曜日。翌日に副反応が出たとしても、仕事をする月曜日には落ち着くだろうと考えての日取りだった。だが、それが誤算だった。 「月曜日の朝も発熱が続いていました。海外のデータなどで、高齢であれば副反応は比較的小さいということは承知していたのですが(注:坂元医師は68歳)、38度の発熱が2日間続くことは想定外でした。倦怠感と接種部位の筋肉痛はほぼなくなっていたのですが、発熱時は出勤できないため、会議の予定などをキャンセルしました」  ワクチン接種の際に解熱鎮痛剤をもらったという坂元医師。しかし薬を飲んでも「熱はまったく下がらなかった」という。 「看護師の中にも解熱鎮痛剤が効かなかったという人がいましたし、『いままで体験したことのない』だるさを感じ、不安だったという話も聞いています。医療従事者でさえ不安なのですから、一般の人はより不安に感じるのではないかと思います。ごく少数の人だけでなく、多くの人が同じ状況を経験しているということを知っておいてほしいと思います」  一方で坂元医師は、副反応があったことに「安心した」面もあると話す。 「データがあるわけではないのですが、副反応はおそらく体内における免疫反応の結果なので、守られているという強い安心感が得られたのも事実です。個人的な感想ですが、このワクチンには本当に効果があるんだという実感が湧きます」  自らの経験も踏まえ、坂元医師は接種の前に3つの準備が必要だと話す。  1つ目は、接種から2日間は外に出る予定を入れないこと。前述のとおり、37.5度を超える発熱の可能性があるからだ。  2つ目は、接種後に症状があったとき、相談できる相手を決めておくことだという。 「本来は医師に相談することが必要だと思うのですが、現状、接種を担当する医師は極めて多忙で、つながらない場合もあるかと思います。ワクチンを打つ予定があることをあらかじめ誰か知り合いに告げておき、副反応で不安になったときは連絡を取る。医学的な解決がなくても、話すことで不安がやわらぐと思います。もちろんひどい副反応の場合には救急受診も必要になるかもしれません。コールセンターや救急医療機関を紹介してくれるサービス機関の連絡先をあらかじめ用意しておくことも大切です。かなり希かとは思いますが、接種による発熱だと思ったのが、実はコロナの感染による発熱だったという例もあるようなので、特に1回目接種後の発熱は注意が必要かもしれません」  そしてもう一つ重要なのが、同居する家族と接種のスケジュールをずらすことだ。 「たとえば夫婦で同じタイミングで接種して発熱すると、共倒れになる可能性があるからです。ある地方では、高齢者施設の利用者や従事者に一度にワクチンを接種したところ、同時期に発熱して、介護者によるケアが回らないという事態が起きたそうです。家族の場合もこうしたことを起こさないよう、タイミングをずらすことが重要です」  前出の井上医師は、これから接種する人に注意してほしいこととして以下の2点を挙げる。まず、ワクチンは肩に注射するので、肩が出せる服装にしておくこと。スムーズな接種のために役立つ。そして、問診票を書く際、あらかじめかかりつけ医と相談の上記入すること。たとえば集団接種会場で接種する場合、初対面の医師とアレルギーや基礎疾患の病状について相談をしても判断が難しいことが多いからだ。 「自分の担当患者でアレルギーや基礎疾患がある人については、症状を把握したうえで、『それでもワクチンを打つことによる利益が大きい』いう説明をしてからワクチンを接種してもらうようにしています」(井上医師)  副反応が出るかどうかは人によって異なるが、接種を受ける前にできる限りの対策をしておきたい。 (文/白石圭)
コロナワクチン副反応対処法病気
dot. 2021/06/01 09:00
白内障の手術をしたら寝たきりの人が元気に歩き始めたことも! 眼科医が語るメリットとは?
白内障の手術をしたら寝たきりの人が元気に歩き始めたことも! 眼科医が語るメリットとは?
※写真はイメージです(写真/Getty Images) 白内障データ イラスト/今崎和広  加齢により水晶体が濁り、目のかすみや視力の低下を引き起こす白内障。手術では濁った水晶体を除去し、代わりとなる眼内レンズを入れる。近年では眼内レンズの種類も増え、「見え方」の選択肢が広がっている。手術のタイミングやメリットについて眼科医に聞いた。 *  *  *  白内障は年齢が上がるほど起こりやすくなる。最大の要因は加齢であるため予防は難しいが、治療により視力を回復することは可能だ。  白内障の治療法には、薬物療法と手術がある。ただし、薬を使用しても濁った水晶体を透明に戻すことはできず、薬物療法の目的は、白内障の進行を遅らせることに限られる。水晶体の濁りが軽度で、症状による不便が少ない場合は薬物療法をしながら経過を観察する。  白内障の手術は、外科手術の中でも安全性の高い手術で、年間約160万件おこなわれている。手術のタイミングについて、「視力がいくつ以下になったら手術をするべき」という明確な適応基準はない。岩手医科大学病院眼科教授の黒坂大次郎医師はこう話す。 「ライフスタイルや、見えないことによる不便の感じ方は人それぞれです。仕事などにより、はっきり見えないと『とても困る』という人もいれば、家で過ごすことが多く、多少の見えにくさは『問題ない』という人もいます。手術をしないことで別の病気を誘発するリスクがある場合を除き、不便を感じなければ手術を急がなくてもいいでしょう」(黒坂医師) ■視力の回復により意識や行動に変化も  筑波大学病院眼科教授の大鹿哲郎医師も「日常生活に支障をきたすようになったら手術をすすめる」と話す。「もう少し考えたい」という患者には無理に手術をすすめることはしないが、生活の質(QOL)を考えると、「見えない状態であまり長く過ごすのはもったいない」とも話す。 「手術をすれば視力が回復し、QOLも改善します。見えないことで家に引きこもり、ほとんど寝たきりのような生活をしていた人が、術後に見えるようになったら元気に歩き始めたことや、身なりに気を使わず受診していた女性の患者さんが、術後はきれいにお化粧をして来るようになったこともあります。見えることは人の意識や行動にも影響を与えるものだと実感しました」(大鹿医師)  手術前には、網膜や水晶体の状態を調べる検査、眼内レンズの度数を決める検査などをおこなう。これまでの視力の変化や既往歴、薬の使用状況などについての問診も重要だ。  白内障の手術では、麻酔をして角膜を小さく切開し、超音波乳化吸引装置という機器で濁った水晶体を破砕して吸引する。その後、水晶体の代わりとなる眼内レンズを挿入する。手術にかかる時間は目の状態により異なるが、最近では日帰り手術も可能となっている。ただし、術後は炎症や感染を防ぐために点眼薬の使用や通院が必要なため、通院が困難な人、家族の援助が受けられない人、合併症がある人などは入院が必要だ。また、頻度は低いが術後に細菌感染を起こし早急な対応が必要になることもある。 「急激に視力が低下し、短時間で悪化する場合は、夜間でもすぐ病院に連絡することが必要です」(黒坂医師) ■ライフスタイルでレンズを選択する  手術で挿入する眼内レンズには、遠方・近方のどちらか1カ所に焦点を合わせる「単焦点レンズ」と、複数の位置に焦点を合わせる「多焦点レンズ」があり、それぞれにメリット、デメリットがある。  単焦点レンズは、1カ所のみにピントが合うため、遠くに合わせた場合は近くを、近くに合わせた場合は遠くを見るための眼鏡が必要になる。しかし、ものがクリアに見える、ほかの目の病気がある人なども適応しやすい、保険が適用されるなどの利点がある。  一方、多焦点レンズは、遠方(5メートル以上)と近方(30~50センチ)の2カ所にピントを合わせる「二焦点レンズ」のほか、近年では遠近に中間距離(60センチ~1メートル)を加えた「三焦点レンズ」も登場。眼鏡をかけたくない人、テニスなどスポーツをする人に向いている。ただし保険適用外となり、暗い場所などでは眼鏡が必要になることも。また、例えば手元で絵付けをする、写真の校正をするなど細部まではっきり見ることが必要な人には向かないこともある。  眼内レンズで焦点を合わせる場合、単焦点レンズでは目に入る光すべてを1点に集中させる。しかし多焦点レンズでは、光を分散させて複数箇所にピントを合わせることになる。 「光が分散されるため、単焦点レンズと比べて見え方のシャープさは劣ります。細かい作業をする人などは、見えにくく不便を感じることもあるようです」(大鹿医師)  また、多焦点レンズでは、夜間対向車の光をまぶしく感じたり、光が丸い輪に見えたりしやすくなり、夜間に運転する機会が多い人は注意が必要だ。 「ただ、日常生活を送る上では、眼鏡をかけずにテレビを見たり、読書したりできる多焦点レンズのメリットは大きいと考えます。ライフスタイルに応じて、自分にどのレンズが合うか医師と十分に相談して決めることが必要です」(黒坂医師)  なお、多焦点レンズを用いた白内障の手術が2020年4月から選定療養の枠組みで実施できるようになった。選定療養とは、本来は同時に受けることができない保険適用と保険適用外の治療を、追加費用を負担することで同時に受けることができる制度だ。この制度により、「単焦点レンズと多焦点レンズの代金の差額」と、「多焦点レンズを使用するための検査費用」を追加で支払うことで、手術は保険適用の金額となる。 「負担額は病院やレンズの種類などにより異なりますが、手術の費用負担を軽減できます。実施できる病院は限られているため、事前に確認するといいでしょう」(大鹿医師) (文・出村真理子) ※週刊朝日2021年6月4日号より
病気病院白内障
dot. 2021/05/31 09:00
アプリで同大学同学部の同い年と意気投合 「寝る場所だった家が結婚で変わった」元・メディア業界の夫婦
井上有紀子 井上有紀子
アプリで同大学同学部の同い年と意気投合 「寝る場所だった家が結婚で変わった」元・メディア業界の夫婦
【妻】五十嵐未沙[33]ピップ広報:いがらし・みさ◆1988年、千葉県生まれ。2012年、成城大学卒業。千葉テレビ放送に入社。広告営業、ビジネス番組のAPなどを経験した。19年、ピップに転職。ピップエレキバンなどの広報、企業広報を担当/【夫】夫五十嵐啓晃[33]オズマピーアール企業PR:いがらし・ひろあき◆1988年、千葉県生まれ。2012年に成城大学卒業後、東京ニュース通信社に入社。TVガイドの記者、編集者を務める。18年、学研メディカルサポートに転職して、医療従事者向け動画を制作。19年から現職でクライアント企業のPRを担当(撮影/写真部・高橋奈緒)  AERAの連載「はたらく夫婦カンケイ」では、ある共働き夫婦の出会いから結婚までの道のり、結婚後の家計や家事分担など、それぞれの視点から見た夫婦の関係を紹介します。2021年5月31日号では、企業広報の五十嵐未沙さん、企業PRの啓晃さん夫婦について取り上げました。 *  *  * 夫30歳、妻30歳で結婚。夫婦二人暮らし。 【出会いは?】2017年末、夫が妻にマッチングアプリでメッセージを送ったものの、気づかれなかった。18年1月、めげずに再送したところ、妻から返信があった。 【結婚までの道のりは?】メッセージを交換して、同じ大学、学科出身だとわかった。メッセージの1週間後に初対面。その2週間後に交際スタート。さらに3カ月後にプロポーズ、2カ月後に結婚。 【家事や家計の分担は?】家事が得意な夫が主に家の中を担当、妻は渉外担当。家計は、夫がいったん支払い、妻は半額を夫に手渡し。 妻 五十嵐未沙[33] ピップ広報 いがらし・みさ◆1988年、千葉県生まれ。2012年、成城大学卒業。千葉テレビ放送に入社。広告営業、ビジネス番組のAPなどを経験した。19年、ピップに転職。ピップエレキバンなどの広報、企業広報を担当  あこがれていたテレビ局で新卒から働いていました。仕事は充実していましたし、男女関係なく働けたのはありがたかったです。でも、生活は不規則で、いつも頑張らなきゃと迷走していました。業界を見渡すと、バリバリ働いていて、おしゃれで素敵だけど、プライベートには満足していない女性の先輩が多くいると知りました。このままこんな働き方をしていていいのか、30代を迎えるにあたって漠然とした不安がありました。私がこのままでいられる場所はないか考えていたとき、夫と出会いました。  お互いテレビが好きなので、夫婦でテレビを見ながら「このプロデューサーの作品は……」と友達には通じないマニアックな話で盛り上がります。家は寝るための場所ではなくなりました。転職して、いまは在宅勤務です。  私たちは買い物をするとき「ちょっと違う」の感覚が似ています。すり合わせる必要がなく、ストレスが少ないです。唯一違うのは、バスタオルを洗う頻度でしょうか。 夫 五十嵐啓晃[33] オズマピーアール企業PR いがらし・ひろあき◆1988年、千葉県生まれ。2012年に成城大学卒業後、東京ニュース通信社に入社。TVガイドの記者、編集者を務める。18年、学研メディカルサポートに転職して、医療従事者向け動画を制作。19年から現職でクライアント企業のPRを担当  結婚前はテレビ誌の記者、編集者をしていました。芸能人へのインタビューや執筆は楽しかったですし、徹夜してでもいいものを作ることにやりがいがありました。  3年前のゴールデンウィークが休みの予定だったので、プロポーズするつもりでした。それが、急遽ニュースが入って連日仕事に。徹夜明けの昼にデート、プロポーズをして、夜は会社に戻りました。相当フラフラで、前日は妻に「プロポーズ用の花を買っていくから」と言ってしまったほど。サプライズが台無しです。  妻もメディア業界でしたが、営業や取材で様々な業界の方と話すので、僕とは違う視点があります。あるとき、どんな人が雑誌を読むのか妻に聞かれて、ふわっとしかわからないと気づきました。目の前の作品づくりに全力になるあまり、何のためかという全体が見えていませんでした。  作るのもいいけど、社会の役に立てるようにいかに発信するか逆算するのもいいと思い、転職しました。結婚したからできたのだと思います。(構成/井上有紀子) ※AERA 2021年5月31日号 
はたらく夫婦カンケイ
AERA 2021/05/30 17:00
そのうち「恋もできない」状況に? 壇蜜が語るコロナ禍とジェンダー
そのうち「恋もできない」状況に? 壇蜜が語るコロナ禍とジェンダー
壇蜜さん(左)と林真理子さん (撮影/写真部・高橋奈緒) 壇蜜 (撮影/写真部・高橋奈緒)  冷静に世の中を見据える視点にも定評があり、ワイドショーのご意見番やコラム執筆でも活躍中の壇蜜さん。作家・林真理子さんとの対談は、ジェンダー問題、コロナ禍の世界、そして子育てトークと、話はどんどん広がって──。 【壇蜜が初の客室乗務員役に「夜に強要されたことはあります」】より続く *  *  * 林:壇蜜さん、「コロナでほとんど引きこもりの自粛生活です」とインタビューか何かでおっしゃってたけど、週刊誌のエッセーとか書くお仕事もいっぱいあるし、もともとおうちにいることが多いんじゃないですか。 壇蜜:家にいることが増えました。外に出てのびのび仕事をするとか、書きもののためにカフェに行くとかしないタイプなので。 林:でも、外のお仕事もそろそろ忙しくなり始めたでしょう。今こうやって外に出て対談とかインタビューの取材を受けていると、外に出てお仕事するのも楽しいな、という心境ですか。 壇蜜:逆にあまりこだわっちゃいけないなと思うようになりました。どっちのほうが楽しいってこだわる人が、こういう緊急事態のときにいちばん滅入っちゃうんだろうなって。どっちかにこだわっちゃうと、何かあったときに滅入るのは自分だなということに気づきました。 林:そのバランスが難しいですよね。自粛のあいだに世の中がギスギスし始めて、壇蜜さん、どんなふうにそれをごらんになってるかなって、壇蜜さんのコラムを読みながら思ってました。 壇蜜:行動が制限されるとか、見えないものにイラつくという世界がいま続いてますよね。「正しく恐れろ」なんて言われても、正しさ自体がわからないわけですから、文句を言ったり傷つけてくる人たちをかわすには、「負けるが勝ち」の精神で、“負ける技術”が必要なのかなって最近思うようになりましたね。 林:負ける技術って、うまくかわすということ? 壇蜜:そうですね。何か文句を言われたら、「いやいや、本当にそのとおり。申し訳ない」って先に言ってしまう。目の前で燃えている火を、自分が持ってるバケツにどれぐらい水が入ってるかもわからないのに消そうと意気込むなんて、今はやらないほうがいいかもしれない。 林:なるほど。壇蜜さんは「サンデー・ジャポン」とかいろんな場面で社会的なコメントもされてますけど、あれも難しいですよね。うまく火の中に入らないようにしゃべらなきゃいけないから。 壇蜜:そうですね。「正しい」ことが一個じゃないことはわかるし、「正しくない」こともわかるけど、見てる人に何が「ああ、そうだね」って思ってもらえるか。それが昔は1個か2個だったと思うんですけど、今はもっといっぱいあるので、どういう考え方や言葉の選択をしていくのかは難しいと思います。 林:コロナになって、前よりもっとそういうことを考えるようになったんですか。 壇蜜:何かを考える時間は増えましたね。 林:つらいこともあった? 壇蜜:答えがない中で、みんなが怒ってるという現象に向き合うのは非常につらかったです。 林:みんなすごく怒ってますよね。私なんか「いいじゃん、そんなこと」って思っちゃうけど。 壇蜜:例えばジェンダー問題にしても「女は男の容姿を笑ってもいいけど、その逆はダメ」というステレオタイプが崩れていって、そうすると女の人が「なんでダメなんだ」って怒るし、男の人は「もとからダメに決まってるじゃないか」ってまた怒るし、ループですよね。平等に男女が傷つけない世界は、もう子どもが生まれないですよ。恋もできない。 林:この先どうなるんだろうって思う。このごろトイレにしても、今まで女性用と男性用ってマークが赤と青だったけど、それが男女を区別しないように、最近全部黒にしてるんですよ。女性用にスカートをはかせるのもいけないらしくて、まったく同じにしようとしてるように感じるんです。こんな不便を感じさせることが本当にジェンダーフリーなのかなって思う。なんで赤と青にしちゃいけないのかわからない。 壇蜜:アカレンジャーは男なのに、ほんとにおかしな話ですね(笑)。 林:男と女で色を別にしたって、そんなに怒ることじゃないんじゃないかなって思うんです。 壇蜜:そのうち「男」「女」っていう文字の表示もダメになっちゃうかもしれない。いつしか区別することが差別になっちゃって、「差別じゃない。区別なんだ」が通用しなくなる世界が、もうやってくる気がします。そして区別された人たちは、自分たちのアイデンティティーを保つために、またどんどん細かく区別していく。そのうちトイレのドアがいくつあっても足りなくなりますよ。 林:壇蜜さんみたいに、女性という性をある程度記号化してデフォルメしたり、自分の手のひらの上で転がしながら表現してきた人には、非常にやりづらい時代ですよね。 壇蜜:むしろ本当に平等に区別したときに世界が終わるな、という予感がします。「男も女も関係ない。個性で判断すればいいじゃん」ってなる前に、生物学的にあらわれない本能まで消しちゃったら、個性なんて育たない気がします。「個性を出せ」というのは、男や女が区別されていた時代に生まれた言葉だから、個性はもうなくなると思いますね。 林:確かにそのとおりだと思います。今こうしてお話ししてても、例えば「お子さんはまだですか?」とか聞くのは時代的にNGなんですよね。結婚披露宴のあいさつで「早く元気で可愛い赤ちゃんを」なんてことも絶対言っちゃいけない。 壇蜜:私は年齢的にも時期的にも、まだ「子どもは考えてます?」って恐る恐る聞かれます。 林:聞いちゃいますけど、いかがなんですか。 壇蜜:まあ、考えてないですね、今のところ。 林:壇蜜さんと子どもって、すごく似合わないような気がする。 壇蜜:私もそんな気がします。 林:昔から女性の理想形を描くときに、子どもは持たせないじゃないですか。『源氏物語』の紫の上みたいに、光源氏に最高に愛された女性も子どもはいないんですよ。 壇蜜:私の場合、子どもという生き物へのアプローチが嫌いではないんです。暴れてしょうがない子役の子を、ずっと抱っこしておとなしくさせることもできるし。 林:壇蜜さん、お母さんの役やったことありましたっけ。 壇蜜:けっこう多いです。3人の子持ちとか。自分がもし万が一、子どもを持つことになったら、子どもは自分の体の一部という感じで、たぶんべったりになるだろうなと思います。考えてみると母もそうだったんですよ。母は私がけっこう大きくなるまでずっと抱っこしてくれて、ずっと一緒にお風呂に入って、ずっと一緒に寝てたんです。だから私も子どもが生まれたら同じことをすると思います。 林:でも、子どもを持つと、「お受験させなきゃ」とか世俗にまみれていきますからね。私はもともと世俗にまみれてるから何をしてもいいけれど、壇蜜さんは俗世界とはちょっと違う存在だから。 壇蜜:林さんはお子さんを育ててるとき、子どもはいちばんの現実だなって感じました? 林:そう。子育て中は、この私がしないことをいっぱいして大変でしたよ。私、最近、引きこもりの子どもを持つ家族の小説(『小説8050』)を書いたけど、今の時代、子どもを持つことは大きなリスクという側面もありますから、大変な世の中になってきたなとつくづく思います。ご主人の漫画家の清野(とおる)さんとも今後のことについてよく話すんですか。 壇蜜:話します。清野さんは私がペットをたくさん飼ってる状況に最初は慣れなかったんですけど、今は「子どものように感じる」って言うんです。キンカジュー(※アライグマの仲間)なんかは「赤ちゃんみたいにヨチヨチ歩きだしてくれないかな」なんて言ったりしてます。 林:そして壇蜜さんがつくった手料理を二人で食べて。幸せそう。 壇蜜:夫婦には必ず裏方っていうのがいますけど、うちの場合は私が裏方なんです。キンカジューのトイレのシートを替えるのも私だし、鳥たちの爪を切るのも私だし、料理をつくるのも私ですから、私が裏方ができてる分、まだ幸せなのかなと思います。 林:五輪はまだ何かと読めませんが、秋田の聖火リレーが決行されたら、走るご予定ですか。 壇蜜:はい、走っちゃいます。 林:私も山梨を走っちゃいますよ。私、最近走ってないから、いまランニングマシンで一生懸命走ってます。 壇蜜:私は祖母が去年亡くなったんですが、ずっと私が走るのを見たいと言ってたので、祖母のためにも頑張って走ります。 林:頑張りましょう、お互いに! (構成/本誌・松岡かすみ 編集協力/一木俊雄) 壇蜜(だんみつ)/1980年、秋田県生まれ。昭和女子大学卒業後、日本舞踊師範、調理師など数々の資格を取得。さまざまな職種を経験した後、2010年にグラビアアイドルとしてデビュー。以後、テレビや映画などで幅広く活躍する。著書に『壇蜜日記』『結婚してみることにした。』など多数。ロシア版の忠犬ハチ公をテーマにした日ロ共同製作映画「ハチとパルマの物語」(5月28日から全国の映画館で公開)に出演。 >>【関連記事/壇蜜、結婚は「『穏やかなパワハラ』。ネコのほうが序列は上」】はこちら ※週刊朝日  2021年6月4日号より抜粋
林真理子
週刊朝日 2021/05/29 14:46
都会を捨てる「近郊移住」が急増中 30代夫婦「広さ2倍以上」「家賃半額」に大満足
井上有紀子 井上有紀子
都会を捨てる「近郊移住」が急増中 30代夫婦「広さ2倍以上」「家賃半額」に大満足
AERA5月31日号から  コロナ禍をきっかけに都市近郊に住み替える人が増えている。テレワークの普及で通勤ラッシュにもまれなくてもよいなら、都心にこだわらなくていい。郊外で仕事も趣味も満喫。「都落ち」なんていわせない、AERA 2021年5月31日号は「プチ移住」の実態に迫った。 *  *  *  都内の芸能事務所に勤める小川大輔さん(35)と山旅専門添乗員の知香さん(33)は4月、世田谷区成城のアパートから神奈川県秦野市の一戸建てに移った。2階のテラスで太陽を浴びながら朝ご飯。週末はバーベキューが定番だ。雄大な丹沢山を眺めながら、2人でグラスを傾ける。 「私たちだけの景色が見られるなんて最高です。一時的に住むつもりでしたが、ずっと秦野でいいかな」(知香さん)  2人が東京脱出を決めたのは、やはりコロナ禍だった。大輔さんも、海外旅行の添乗がメインだった知香さんも、仕事が大幅に減り、会社や空港に近い東京に住むこだわりを捨てた。 「小田急線の沿線で、内見した別の物件はすぐに埋まっていきました。この家は情報が出た初日に行ったけど、見学したのはすでに3人目。その場で契約しました」(大輔さん)  家の広さは2倍以上、家賃は半額ほど。築50年以上の味わいのある物件だ。都心からは急行で1時間ほど遠ざかる。最初は生活環境が変わることへの不安が大きかったという。だが、 「不便になるかと心配でした。それが都心にいたころより、便利になっちゃって」  大輔さんは笑う。成城は大物芸能人も住む高級住宅街。住み始めた当初は「世田谷区民になれた」とテンションが上がったが、盲点があった。アパートの周囲は閑静だったが、駅からはやや遠く、スーパーや飲食店まで歩いて20分以上かかった。さらに、物価が高めで、野菜も手が出しにくい。とにかく、ライフスタイルにあっていなかった。 ■都会を捨てて趣味充実  いまの住まいは秦野駅から車で5分。自転車で2分のイオンで、生活に必要なものは全てそろう。知香さんは言う。 「野菜が100円で買えるし、夕方は肉が半額になる。これまで鶏肉ばかりだったのが、牛肉にも手を出せるようになって」  なにより知香さんの登山ライフは格段に充実した。朝ゆっくり起きて近くの山に登り、明るいうちに帰宅する。「都心だと帰るころには夜になっていて、片づけて洗濯したら、もう深夜。体をケアする時間がないまま、翌日の仕事の準備をすることもあったので、くたくたで。山が仕事なのにプライベートで登ることは少なかった。初心者の大輔さんと一緒に登ろうと思います」  2人のように、都心を捨てて近郊の街に住み替える動きが加速している。  総務省の人口移動報告によると、2020年に東京23区から転出した人は前年より約2万1千人増えた。地図では23区からの移住者が増えた近郊の自治体を並べた。とりわけ、東京西部や湘南エリアの人気が高いことがわかる。不動産・住宅情報サイト「LIFULL HOME’S」の協力を得て、平均的な家賃や物件価格を載せているので、参考にしてほしい。  パーソルグループの「ミイダス」が昨年10月に公表した調査によると、東京・大阪・愛知の3都府県に住む就業者500人のうち、33.4%が「移住を計画・準備している」「検討している」「興味がある」と答えた。3都府県だけでも1600万人以上が働いており、多くの人が移住に関心を持っていることがわかる。  グローバル都市不動産研究所によると、都内の30代の人口は、19年に約4千人の転入超過だったが、20年は1万人の転出超過に転じた。40代は19年に1千人の転入超過だったのが、20年は6千人の転出超過になった。身軽な30~40代が動いていると考えられる。(ライター・井上有紀子) ※AERA 2021年5月31日号より抜粋
AERA 2021/05/27 08:00
有吉結婚で希望者急増の「年の差婚」 性生活、介護、相続…実態は?
有吉結婚で希望者急増の「年の差婚」 性生活、介護、相続…実態は?
取材させていただいた年の差婚カップルたちは皆、「好きになった相手が年の離れた人だった」パターン。ものまね芸人カップル、Mr.シャチホコ&みはる夫妻もそうだった (提供)  芸能人たちの年の差婚が報じられるたびに、SNSでは「私にも経済的に安定した頼りがいのある年上の男性が現れないかな」「俺も若い女の子とラブラブな結婚して若返りたい」などの年の差婚に憧れるつぶやきが多数投稿される。それほど人気の年の差婚、その実態はいかがなものか? *  *  * 「最近、全然私のこと構ってくれない!」  フリーの映像ディレクターの山下さん(仮名・55歳)は、テレビ局に15年勤務後に独立したがうまくいかずに悩んでいた40代後半のころ、取材で出会ったスタイリストと意気投合、同棲を経て1年後に結婚した。18歳差の年の差婚だった。若い妻との新生活で仕事に張り合いも生まれ、自然と仕事も好転し結婚5年後には忙しい日々を過ごすようになった。ただ、帰宅も遅くなり、夫婦の“心身の”コミュニケーションも減った。 「出会ったときは仕事も少なく夫婦で過ごす時間も多かった。それは楽しい時間でしたが、2人でおいしいものを食べたい、旅行にも行きたいとなると、働くしかない。必死に働いて成果が出たときは喜んでくれたのですが……」(山下さん)  結婚3年目に妻はスタイリストの仕事をやめ、専業主婦に。山下さんは、家で待つ妻のために飲み会も極力断って帰宅するようにした。だが、どうしても徹夜仕事になる日も出てくる。結婚6年目になると妻は不満を漏らすようになり、ついにブチ切れた。それが冒頭のひと言だった。  徹夜で納品したその日は早く仕事を終えて帰宅。手料理で出迎えられ久しぶりに夫婦の会話を楽しんだ後、「疲れたから早いけど寝るわ」と伝えた瞬間だった。 「あのね、私まだ30代なの。女の盛りなの。もう3カ月以上放っておかれるってどうなのって思わないの?」  その日は話し合いで収まったが、2人の関係は少しずつ変化し始めた。妻はやめていた仕事を再開し、すれ違う日々が続いた。妻がブチ切れた日から約1年後、帰宅した山下さんは妻から「別れましょう」と切り出されたという。話し合いの結果、円満離婚したのは山下さんが54歳、妻が36歳の去年のことだった。年の差婚の甘い生活は長くは続かなかった。  それでも年の差婚への憧れは現実にある。ニッセイ基礎研究所のシニアリサーチャーで『データで読み解く「生涯独身」社会』などの著書もある天野馨南子さんは「フィルターバブルが起きている」と指摘する。天野さんによると、芸人の有吉弘行(46)とアナウンサーの夏目三久(36)の結婚発表の後、民間や自治体の運営する全国の結婚相談所には年の離れた女性とのマッチングを希望する40~50代の男性からの問い合わせが急増したという。だがそれは決して珍しいことではなく、カウンセラーたちは「また来たか」と話し合ったそうだ。というのは、TOKIOのリーダー城島茂(50)が25歳年下のタレントと結婚した後も、ナインティナインの岡村隆史(50)が30代の一般女性と結婚を発表した後も、同様の現象があったからだという。 「一度検索してその年の差婚のニュースをネットの総合情報サイトなどで見ると、ネットのおススメ機能がその手の類似ニュースを次々と挙げてくるようになるんです。あたかも年の差婚がこの世に溢れているかのように感じられてしまう。これをフィルターバブルというのですが、でもそれに気付かない人が多いんです」(天野さん)  すべての婚姻届を集計している人口動態調査(2018年版)などのデータをみると、18年に届け出、結婚生活を始めた初婚の件数は約34万組。そのうち、ナイナイの岡村のような50代男性の婚姻数は2千数百件で全体の0.7%。そのうち、30代女性と結婚したのは649件。なんと全体の0.2%しかいないのだ。  年の差カップルが結ばれるのは、このように狭き門ではあるが、結婚観の多様化や人生100年時代のこれからは、年の差婚が増えてくる可能性はある。  ただし、年の差カップルが結婚するまでには、越えるべき難問が多数ある。25年前、26歳のときに45歳の男性と社内恋愛の末結婚した久美子さん(仮名・51歳)は、こんな体験を話してくれた。 「いわゆるできちゃった婚で、子供できたよと伝えたら、一緒になろうかという感じで、張り合いなく結婚生活が始まりました(笑)。孫の顔が見られるというので両親は喜んでくれたのですが、祖母には『早く未亡人になってしまうが、どうするつもりだ』と言われました。反論はしません。寂しいけど、そのときは自分で生きていくしかないと思っていたので」  前出の山下さんも、お互いの両親や友人に伝えるのが難しかったと言う。 「僕は若くてかわいい奥さんができて、友人たちに新妻を見せびらかして悦に入ってました。でも妻はなかなか自分の友達を紹介してくれませんでした。家族への報告もそう。僕の親は喜んでくれたのですが、妻の親は結局認めてくれませんでしたので、反対されたまま結婚してしまいました。妻はしばらく肩身の狭い思いをしたようです」  事情は女性が年上の年の差婚でも変わらない。和田アキ子のものまねでブレークしたMr.シャチホコさん(28)と中島みゆきなど多数のものまねのレパートリーを持つみはるさん(51)は18年に結婚。23歳差の年の差婚だった。Mr.シャチホコさんは言う。 「付き合い始めて同棲して、初めてお互いの年齢を知りました。そうだったの?って(笑)。でも無理だとは少しも思わなかった。ただ、僕の親がどう思うかが気になりました。その心配どおり、報告したら変な勘繰りをされてしまったんです」  当時、Mr.シャチホコさんはまだ仕事がたくさんあるわけではなかったこともあり、お金も持っていなかった。住まいもみはるさん宅に居候している状態。言葉は悪いが「ヒモ」状態だったのだ。 「両親には『お前、一生そうやって暮らすつもりか?』と問われました。借金をしていた仕事の先輩にも『そのままじゃお前、サイテーだぞ』と言われ、初めて世間はそういう見方をするんだとわかったんです」  Mr.シャチホコさんはそこで一大決心をした。 「両親や先輩に安心してもらうため、1年間という期限を区切り、芸人として自分で稼いで食わせていけることを知ってもらえるよう頑張った。ダメだったら芸人を諦めて普通の勤め人になる覚悟でした。僕が売れないと年上のみはるが矢面に立たされてしまうから」  Mr.シャチホコさんが和田アキ子のものまねでブレークした陰には、そういう裏話があったのだ。  年の差カップルが結婚前に解決すべき問題はまだある。子供の問題だ。Mr.シャチホコさんと結婚した当時48歳だったみはるさんは、結婚前に話し合いをしたという。 「親に伝えるとなれば、自然と孫の顔が見たいみたいな話になる。その前に彼に私から子供ができる可能性は低い、私は自分の子供よりシャチを支えたいと伝えたんです」  その話を引き継いでMr.シャチホコさんは言う。 「僕は自分大好き人間で子供の世話をする時間も自分に使いたいと思うタイプ。子供は欲しくないと思っていたので、妻にそう言われてむしろ安心したくらいでした」  4年前に21歳年下の職場の同僚と結婚した桃香さん(仮名・50歳)は結婚前に2人で子供の話をしたという。 「彼には、私ではなくほかの女性とだったら子供を持つことができるけど、私といたらそれが難しくなると話しました。彼は、自分はこれから起業に専念したいので子供のことは考えられない、だから気にしなくていいと言ってくれました。でも、私としてはそれでいいのかどうか悩みました。今はどちらかが先に亡くなれば一人になるのは仕方ないと思っています」  夜の生活の問題も2人に忍び寄る。放っておかないでと妻に言われた前出の山下さんは、自分の体の問題もあったと言う。 「結婚当初は僕も元気で毎晩のように(笑)。ところがだんだん弱くなってしまって、うまく機能してくれなくなってきた。そこで無理すると中途半端のまま終わらなきゃならなくなったりすることが増えてきた。だんだん夜の生活も疎遠になってしまいましたね」  前出の久美子さんも「男として最後のあがきをしている19歳上の夫を見ていられなくなった」と言う。 「あるとき読んだ外国の小説で、年老いた夫婦が抱き合うだけで気持ちいいという話があり、私たちもそのくらいでいいと伝えたんです。もうトライしてくれなくて大丈夫よと。今では夫が隣で寝ているだけでもいいと思うし、将来はきっと朝起きて隣で息をしていればいいって思うんじゃないでしょうかね(笑)」  将来についても年の差婚には問題がついて回る。年上の配偶者が先に定年を迎えたり介護が必要になったり、死後に起こる経済問題もある。相続実務士で夢相続代表の曽根恵子さんは「問題が起こる前に話し合っておくことが大切」と話す。特に問題が生じやすいのが、年の差婚が再婚で、前妻(前夫)との間に子供がいる場合だ。 「離婚後は別々に暮らしていたとしても前妻の子供には父親の財産を相続する権利があります。たとえ後妻との間に子供がいたとしてもです。特に前妻の子供たちが後妻のことを父親を奪った相手と思っている場合などは、残された後妻と前妻の子供の間に交流があることはめったになく、揉め事になりやすいのです」  たとえば、遺産が1200万円あったとする。法定相続なら、妻が2分の1の600万円。残りを後妻の子と前妻の子で等分に分ける。後妻との子が1人、前妻との子が2人であれば、1人200万円ずつ相続する権利を主張できる。 「しかし、遺言書に前妻の子に分けるものはないと書かれていれば、不毛な話し合いは不要になります。亡くなった夫が前妻の子にも財産を残したければ、生前贈与をしておくことで遺留分請求が避けられるので、さらに安心です。遺言書には『生前贈与が遺留分だった』とはっきり書いておくべきでしょう。存命中に夫婦で話し合い、一緒に遺言書を書くのもいいですね。気を付けたいのは遺言の内容は隠さず、夫婦で共有することです」  年の差夫婦がもう一つ知っておきたいのが年金の問題だ。夫に先立たれたとき専業主婦の妻は、夫が厚生年金に加入していれば遺族年金の支給を受けられるが、夫の死亡時の妻の年齢によって差が出てくる。夫の老齢年金が年100万円だとしたら、40歳未満で夫を亡くした妻は遺族厚生年金を約75万円受け取れる一方、40歳以上であればさらに中高齢寡婦加算約60万円が上乗せされる。また、夫の死亡時に子供がなく妻が30歳未満の場合は、遺族厚生年金は5年間しか受け取れないことも留意すべきだろう。  ものまね芸人カップルの2人も、こうした老後の問題は最初に話し合ったという。 Mr.シャチホコ「年齢差があることで互いが遠慮してうまくいかなくなるのが嫌だった。思っていることを隠さずに話し合いたいと思い、老後の話もした。みはるは『将来は自分が先に死ぬ』と言うので、僕が60歳のときみはるは83歳。もしかしたら僕が先ということだってあると伝えた」 みはる「考えすぎると前に進めなくなる。お互い老後の覚悟をして、年齢を積み重ねる中で考えていこうということにした」 Mr.シャチホコ「一生幸せにする覚悟で結婚した。60歳になったときのことなんてわからないからおもしろいわけでしょ」 みはる「そうだよね。それって年の差がないカップルでも同じことだしね」  確かにそのとおり。年の差にかかわらず、どのカップルにも同じリスクがあるのは当たり前。年の差カップルが仲睦まじそうに見えるのは、夫婦のリスクが見えやすい分だけ話し合いを積み重ねているからなのかもしれない。(本誌・鈴木裕也) ※週刊朝日  2021年5月28日号
夫婦結婚
週刊朝日 2021/05/25 11:30
日本のポップスを変えた筒美京平と松本隆 ラジオマン、ライブに涙腺崩壊
延江浩 延江浩
日本のポップスを変えた筒美京平と松本隆 ラジオマン、ライブに涙腺崩壊
延江浩(のぶえ・ひろし)/TFM「村上RADIO」ゼネラルプロデューサー (photo by K.KURIGAMI) コンサートは多くの聴衆を魅了した (c)MITSUO SHINDO  TOKYO FMのラジオマン・延江浩さんが音楽とともに社会を語る、本誌連載「RADIO PA PA」。筒美京平さんと松本隆さんについて。 *  *  * 「ぼくが京平さんからもらったものはありったけの愛。彼ほどぼくの言葉を愛してくれた人はいない。ありがとう、京平さん」  これは昨年10月、作曲家・筒美京平さんの訃報に寄せた松本隆さんの言葉だ。彼らは『木綿のハンカチーフ』『Romanticが止まらない』など、多くのヒット曲を時代に刻んできた。松本さんはその関係を「先輩と後輩であり、兄と弟であり、ピッチャーとキャッチャーであり」とたとえている。  京平さんからのありったけの愛──。切なく美しい追悼の言葉が忘れがたく、いつか二人の作品を生で聴きたいと思っていたが、「ザ・ヒット・ソング・メーカー 筒美京平の世界 in コンサート」が東京国際フォーラムで開かれた。  麻丘めぐみ、稲垣潤一、太田裕美、郷ひろみ、斉藤由貴、C-C-B、ジュディ・オング、野口五郎、NOKKO、平山三紀、松崎しげるなどが登場し、3千曲を世に送り出した人生に相応(ふさわ)しい壮大な試みだった。 『ブルー・ライト・ヨコハマ』『わたしの彼は左きき』『真夏の出来事』『魅せられて』『男の子女の子』『また逢う日まで』……。船山基紀音楽監督のゴージャスなアレンジは、往年の「夜のヒットスタジオ」や「サウンド・イン“S”」を思い起こさせ、少年の頃に見たテレビ黄金時代の懐かしい幻影のようにも思えた。  松本隆作詞の『木綿のハンカチーフ』を太田裕美が歌うとステージの雰囲気がすっと変わり、観客が身を乗り出した。それはまさに、筒美京平と松本隆という“新しい才能”が出会い、日本のポップスをがらりと変えた瞬間に似ていた。 「日本語でロックを歌うという明確な“意志と理由”のあるバンド」(松本隆「文藝春秋」2021年5月号)、はっぴいえんど出身の松本さんを仕事場に呼んだのが筒美さんだった。24歳の松本さんは自分の歌詞を褒める「帝王」を前にただ呆然としていたというが、松本さんがしたためた恋人の手紙の歌詞に筒美さんがメロディをつけた『木綿のハンカチーフ』は150万枚を超える大ヒット。「京平さんはすでに歌謡界の帝王だったけど、僕から見るとそれは“旧”歌謡界。僕はサブカルチャーの出身だから、京平さんにとってはある種の異物だったと思います。でも異物なものが掛け合わされたからこそ、それまでにない新しいものが生まれた」(同前)  筒美京平トリビュートコンサート当日、僕は有楽町の三省堂書店に立ち寄った。「松本隆 作詞家50年『僕が出会った天才作曲家たち』」が掲載の文藝春秋を抱え会場に入ると、なんと松本隆さんが席に座っていた。「お久しぶりです」と挨拶したあと、僕は松本さんの歌詞が歌われる同じステージを、松本さんご本人と観たのだ。  終演後、「弾き語り(太田)裕美でダムが決壊。あんな苦労とか大ヒットしたねとか、50年分の記憶がまとめて天から降ってきた」と松本さんは語っていた。涙腺崩壊は僕も同じだった。ステージでは、斉藤由貴が1985年のデビュー曲『卒業』のラストで目を潤ませていた。たぶん、聴衆とシンガーの涙は、作曲家筒美京平からの「ありったけの愛」のひとかけらだった。 延江浩(のぶえ・ひろし)/1958年、東京都生まれ。慶大卒。TFM「村上RADIO」ゼネラルプロデューサー。国文学研究資料館・文化庁共催「ないじぇる芸術共創ラボ」委員。小説現代新人賞、ABU(アジア太平洋放送連合)賞ドキュメンタリー部門グランプリ、日本放送文化大賞グランプリ、ギャラクシー大賞など受賞 ※週刊朝日  2021年5月28日号
延江浩
週刊朝日 2021/05/23 16:00
「モデルになりませんか」 高校を卒業したばかりの女性が味わった日本の性文化の現実
北原みのり 北原みのり
「モデルになりませんか」 高校を卒業したばかりの女性が味わった日本の性文化の現実
写真はイメージです(Getty Images) 北原みのり(きたはら・みのり)/1970年生まれ。作家、女性のためのセックスグッズショップ「ラブピースクラブ」代表  作家・北原みのりさんの連載「おんなの話はありがたい」。今回は、日本の性文化について。「全裸監督」についてのコラムの反響から考えたことをつづります。 *    *  * 「全裸監督 シーズン2」についてのコラムを読んだ女性から、感想が届いた。コラムでは、数十年も前にAVに出た女性たちが、インターネット時代になり「忘れられる権利」を奪われ、簡単に検索されてしまう過去におびえながら暮らしていることを書いた。  私に感想をくれた女性は、1980年生まれ、地方の温泉街に育ったという。彼女が幼いころ、近所のお姉さんがAVに出たことが近所で囁かれるようになった。撮影場所はお姉さんが両親と暮らす家だったという。どういう経緯でそうなったのかは分からないが、お姉さんの父親自らが監督や撮影スタッフにお茶などを振る舞っていたことなどを、大人たちがヒソヒソと語るなかで知った。貧しい家だった、きれいなお姉さんだった。小さな村のこと、誰もがその「作品」をこそこそと見ただろう。私のコラムを読みながら、彼女はそのお姉さんが出たという作品のタイトルやそのお姉さんの「芸名」が古い記憶からよみがえってきたという。 「ゴールデンウィークに久しぶりに実家に帰ったときに、お姉さんを道で見かけました。私のことが誰かは分かったと思うのですが、言葉をかわすことなく、むしろ警戒心をむき出しに厳しい目でにらんできました」  にらむようにこちらを見つめてきた女性はもう60代前半だが、あれからずっと街を出ることもなく、父親がスタッフにお茶を出す傍らAV撮影が行われた家で暮らしてきた。両親は他界しているが、その女性のたたずまいの厳しさから、生活が決して楽なものではないことを彼女は感じたという。  彼女が育ったその温泉街には、80年代当時、たくさんのフィリピン人女性が住んでいた。学校に通う道、女性たちが集団で暮らすアパートの前にいつも猫がいて、ときどきおやつをあげることもあった。ある日、持っていた駄菓子を猫にあげていると、後ろから「いつも、ねこ、かわいがって、ありがと」と声をかけられた。起きたばかりという感じのフィリピン人のお姉さんだった。「いつも」という、お姉さんの言葉の調子が今も残っているという。見てくれてたんだな、と思ったのだ。その後、その女性は猫を抱き上げて「いいこに、してた?」と言ってアパートに戻っていった。  当時、世界で一番のお金持ちの日本には、「貧しかった国」から無数の女性たちがやってきた。故郷の親に十分な仕送りができる、家が建てられるかもしれない、仕事は簡単なサービス業、歌のうまさを生かして歌手やダンサー、モデルにだってなれるだろう。そんな甘言で日本に連れてこられた女性たちの多くは、渡航費や仲介料などで多大な借金を背負わされ、パスポートを取り上げられ、狭い部屋に閉じ込められ、ホステスとして働かされ、売春を強要されることもふつうにあった。  東京では1986年に、人身売買の被害にあった外国人女性のシェルター「女性の家HELP」が設立されたが、HELPの福祉職員だった故・大島静子さんと、キャロリン・フランシスによる『HELPから見た日本』(朝日新聞社)には、当時の被害の状況が克明に記録されている。ダンサーになれると思い日本に来たら、その日からホステスとして働かされるが、給料をもらったことは一度もなく、稼ぎたいならと男性客との性交を強いられた女性。温泉街に連れていかれ、毎夜毎夜日本人男性客の相手を強いられるが、自分がどこにいるのか、どのようにしてここに来たのかも分からず、しまいに妊娠し、店を逃げ出して保護された女性。    昭和時代、日本人ビジネスマンが海外に行くとなれば買春はつきものだった。大手旅行業者が売り出すツアー商品などでも買春がパッケージになっているほど、それは当たり前のことだった。そして海外で買春した男性たちは、日本でも同じように「海外の女性たち」を気軽に「買える」文化をつくっていったのだ。2001年に青森県住宅供給公社の職員が、チリ人の女性に14億5900万円を貢ぐために公金を横領した事件が発覚したけれど、「アニータ」と呼ばれて大騒ぎになったあの女性も、日本にやってきたら、いきなりストリップ劇場で男性たちとの売春を強いられる生活が始まったことを、自伝で記していた。日本中、どこにでも、そんな女性たち、たくさんの「アニータ」が80年代に急激に増えていったのだ。  私に連絡をくれた女性が住む小さな温泉街にもたくさんのフィリピン人がいた。日本人の昼の生活とは決して交わらない彼女たちの生活。だけど、小さな女の子だった彼女が、猫を通して、一時触れあった時間を、なぜか彼女はずっと忘れられないという。その彼女はこんな話もしてくれた。  映画「82年生まれ、キム・ジヨン」を見たんです。映画の中でお母さんの「かわいそうなジヨン……かわいそうでかわいそうでたまらない!!」という台詞があるんですが(そのままかどうかは分からないのだけれど)、その時に、自分でも驚くほど嗚咽が止まらなくなってしまったんです。映画館でときどき、怖いくらい号泣している人っているじゃないですか。私、あれになってしまって。映画館から駅までの道も号泣、柱によりかかって号泣。「かわいそう」という言葉に、これまでのたくさんの「かわいそう」が引き出されてしまったみたいになりました。かわいそう、かわいそう、かわいそう、かわいそうでたまらない。私はずっとそう思ってた、家の近所のお姉さんのこと、フィリピン人のお姉さんのこと、彼女たちだけじゃない、いろんな女性たちの顔が思い浮かんでしまったんです。 「かわいそう」という言葉を人に向けることの残酷さもある。おこがましいという気持ちもある。でも、「かわいそう」という感情以外なんだろう。かわいそうがわかる、かわいそうな私。かわいそうであることを隠してきた社会。彼女の話を聞きながら、わたしの中にも「かわいそうでたまらない」と叫びたくなるような衝動があることをはっきりと意識させられた。 「お待たせしました」とNetflixで宣伝されている「全裸監督」で描かれる村西とおる氏は、AVで本当の性交を描いた初めての人とされている。演技ではなく、リアルな性、生々しい人間の欲望、エロス、「正論」だけでは生きられない人間の重さをひきずり生きる女たちの肉体、まさに!それが!人間の性!生!性!生!、というような大したもの、な感じでAVが描かれている。    いいかげんにしてほしいと思う。そういう男たちの「新しいビジネス」「新しい表現」「新しい性産業」に食い物にされてきた側の声、「過去」におびえる女性たちを踏みにじるように表現されるAV礼賛物語が、2021年につくられることが、「かわいそう」な日本の女性のおかれている現実なのではないだろうか。  今の日本、80年代の日本の性文化と比べて、どのくらい変わっただろう。  先日、こういう話を聞いた。  高校を卒業したばかりの女性が街でモデルになりませんか、と声をかけられる。幼いころから雑誌で仕事をするのが夢だった。プロフィルの写真を撮りましょうと言われるが、その日は名刺だけもらって家に帰った。    母に相談すると、もらった名刺に電話をかけてくれた。電話に出た男は、母親を叱りつけたという。「お母さん、そういうステージママみたいなことするお母さんが、一番、娘さんの夢をつぶすんですよ?! 分かってます!?」。勢いに気おされて、そういうものかと娘を翌日送り出してしまう。  娘はその日、一人で事務所に行き、下着姿の写真を撮られる。おかしいと思いながらも、もうその時点で母親には何も言えなくなってしまっている。契約書をみると、AV出演もあると記されている。そんな話は聞いていないと言ってはみるが、「これは、モデル業界の慣例。全てのタレントが同じ契約をしている」などと当たり前のような顔をされてしまい、契約書にサインをしてしまう。  すぐに「営業に行こう」と言われ連れていかれた事務所では、「アナルセックスはできるか?」「レズビアンセックスはできるか?」などの質問用紙を出される。全部に×をつけると「どういうつもり? AVを差別しているのか?」と逆切れされてしまい、本当に自分がやりたいことなのかどうかも判断ができないまま、逃れられない状況で出演がとんとんと決まっていってしまった。    そういう女性の物語は決して珍しいものではなく、AV出演被害を受けた女性たちに共通する「よくある話」でもある。殴られたわけでもなく、強制的に連れていかれたわけでもなく、女性たちは外からみると自分の意思でサインし、自分の意思で撮影現場に向かっているように見える。実際、多くの女性たちは、「自分が決めたこと」と思っている。でも、どこからどこまでが自分の意思だったのか、どこからが自分の判断だったのか……もうとっくにわからなくなってしまっているのだ。  感想をくれた女性と話しているうちに、捨てられた猫を「いいこに、してた?」と抱き上げたフィリピン人の女性たちの声を、私もいつかどこかで、聞いたような気がしてきた。 ■北原みのり(きたはら・みのり)/1970年生まれ。作家、女性のためのセックスグッズショップ「ラブピースクラブ」代表
AVHELPおんなの話はありがたいフェミニズムフェミ二スト全裸監督北原みのり忘れられる権利
dot. 2021/05/18 16:00
早稲田、明治、立教、東洋 64年東京五輪で「選手村」を支えた大学生たち
小林哲夫 小林哲夫
早稲田、明治、立教、東洋 64年東京五輪で「選手村」を支えた大学生たち
2020年東京五輪の選手村 (c)朝日新聞社 64年東京五輪選手村で働いた、大学別の学生アルバイト  東京オリンピック・パラリンピック競技大会で外国からの選手を受け入れる施設=選手村(東京都中央区晴海)は、オリンピックも延期によって1年間閑散としていた。新型コロナ感染が終息しないなか、今年も大会開催が危ぶまれている。選手村がさまざまな国、地域からやって来た選手などで賑わう日が来るだろうか。  1964年オリンピック東京大会のとき、選手村は現在の代々木公園あたりにあった。当時、選手村には、外国人選手の世話をする日本人スタッフが多く働いている。その主力は食堂などでアルバイトに精を出す大学生だった。当時の様子について、近著『大学とオリンピック』(中公新書ラクレ)から一部抜粋、再構成して紹介する(取材は2020年4~10月)。 *  *  *  オリンピック各国選手団の宿泊施設となる代々木の選手村には、大食堂がいくつもあり大学生がたくさん働いていた。  彼らの業務内容が次のように記録されている。 「使用した食器類、皿台などの跡片づけ、洗浄、食卓の掃除を行なった。これらのサービスは、各大学の観光部、ホテル部から選抜された学生が担当した」(『第18回オリンピック競技大会公式報告書』1966年)  学生たちには業務に関する委嘱状が渡されている。 「委嘱状 ○○大学 ○○○○ 貴君に当委員会のオリンピック東京大会選手村給食業務要員を委嘱する 昭和三十九年一月一日 社団法人日本ホテル協会 オリンピック東京大会選手村給食業務委員会 会長犬丸徹三(注・帝国ホテル社長)」  選手村食堂は「富士」「桜」と名付けられ、国や地域別に分かれて合計12室あった。ここに都内の大学の観光事業研究会やホテル研究会の学生が各室に分かれて業務を担った。  明治大観光事業研究会からは約50人の学生が参加している。同大法学部3年の谷口恒明は「キャプテン」として、学生たちがそれぞれの持ち場で働けるようとりまとめていた。こうふり返っている。 「混雑して人手が足りなくなると、他の食堂に応援を求めるなど、学生をうまく配置できるように調整していました。研修は念入りに行われ、ナイフとフォークの使い方、食器の片づけ方や磨き方などを教えてもらいました。当時、学生の身分では体験できないような西洋式スタイルで、たとえば、バターがいくつにも刻まれて氷の上にのっかっており、いくらでも使っていい。こんな豊かな世界があるのだなと思いました」  当初、日本ホテル協会は学生に無償で働いてもらうつもりだったようだ。これについて、外国人と触れ合う機会はお金に代えられず、貴重な体験になるから給料はいらないという学生がいた。一方、無給というのは話が違う。私たちは授業に出ず朝早くから働くのであり、相応な給料をもらう権利がある。お金が出ないならば辞めさせていただくと話す学生もいた。  結局、ホテル協会は学生に給料を払うことになった。無償ではなかったわけだ。  谷口は続ける。 「ホテル協会の人たち、そして全国のホテルから派遣されてきたマネージャーや調理師の方々は、私たちが学生の身で社会的にも未熟なところがあったにもかかわらず、大人として紳士的に接してくれました。社会人の姿勢というものを実学として教えてもらい、人生の良い修業の場になったことに感謝しています」  2020年東京大会において、選手村で働く学生がいるようであれば、しっかり経済支援してほしいと、谷口は訴える。 「選手村に入ると国籍を意識せず、その場の雰囲気に溶け込むことができます。今の学生は自然体で外国人と付き合える強みがあります。それをオリンピックでも発揮してほしい。私たちも食堂運営を通して、内外の選手や役員・スタッフの方々と直接交流の機会を持てたことを誇りに思い、今も語り継がれる学生時代の貴重な思い出となっている。また、JOCは選手村のスタッフなどの学生を動員として見るのでなく、そこで働いている以上は相応な手当てをしてほしい。そうでないと学生に気の毒です」 ■大学ホテル研究会  立教大経済学部3年の油井隆一は、ホテル研究会の部員として選手村食堂「富士」で働いた。シェフは帝国ホテルの料理長、村上信夫である。そこで、油井は多くを学ぶ。外国人選手との触れ合いも多かった。オーストラリア選手の天真爛漫な明るさ、ソ連など共産圏の選手がどこか暗かったことが印象として残っている。油井は大学卒業後、父親が経営していた日本橋人形町「喜寿司」の店主となり、のちに広く名前が知られる。  油井は、2016年にこうふり返っている。 「村上シェフは立派でした。決して怒ったりせずに、料理人、学生アルバイトに自ら手本を示して、それから命令をする。全部、自分でやって見せて、みんなをまとめていく。リーダーシップとはああいうものだと思いました。(略)もうすぐ2020年東京オリンピックが始まるわけでしょう。選手村食堂も必ずやるわけです。ぼくはそれまで元気で働くつもりです。そうして、皿洗いでもなんでもいいから、もう一度、選手村食堂でアルバイトをしたいと思っているんです。もし、寿司を握ることができたら、それは最高だよ、きっと」(『銀座百点』所収「オリンピックと銀座」2016年4月)  しかし、それはかなわなかった。油井は18年に亡くなった。  選手村食堂にはさまざまな大学の学生が出入りしていた。立教大、東洋大、早稲田大、上智大などのホテル研究会や観光研究会は夏休みになると、軽井沢の万平ホテル、箱根の富士屋ホテルでボーイとして研修を受けていたので、選手村食堂の仕事はまったく苦にならなかったようだ。  油井が所属していた立教大ホテル研究会は、立教大経済学部ホテル講座を聴講していた学生が中心となって結成された。1948年、まだ新制大学発足前である。ホテル講座はそれより2年前の1946年に開設した。「本講座はホテル協会の強い要望によってできたもの」(『立教大学社会学部二十五周年記念誌』1983年)とある。1961年、ホテル講座は「ホテル・観光講座」と改称した。同講座運営委員には井上万寿蔵(日本初の観光学概説 書『観光読本』著者)、参与には東京オリンピック準備局長の関晴香がいた。64年東京大会を見据えての運営といっていい。  その後、ホテル・観光講座は、1966年にホテル・観光コースに昇格する。そして67年には社会学部観光学科としてさらに発展した。四年制大学として日本で最初の観光系学科である。それから30年あまり経った1998年、観光学部となった。同学部のウェブサイトにこう記されている。 「立教大学観光学部と1964年の東京オリンピックは関係があります。東京オリンピック開催を契機として、欧米諸国と同様なホテルおよび観光に関する高等教育・研究機関設置を求める声が国内で強まりました。そこで、戦後間もない1946年から観光教育を始め実績もあった立教大学にその役割が期待される声が高まり、それに応える形として1966年社会学部産業関係学科内に『ホテル・観光コース』が開設されました」 ■短大観光科は国際観光学部へ発展  東洋大観光研究会は東洋大のほかに東洋大短期大学部の学生で構成されており、選手村食堂で働いている。東洋大学の観光学教育の歴史は古い。1959年、大学の正課外科目として「ホテル講座」が設置されている。大学新聞にこう報じられている。 「この講座は、我が国が平和国家として繁栄するために、国際親善を計って経営の安定をする必要があり、そのためには観光事業の果す役割が大きい点から将来本学にホテル学科を創設するに先だって開講したものである。(中略)本学のホテル講座は、五年後にオリンピックがあるだけに業界から大いに注目されている」(『東洋大学新聞』1959年9月15日)  1963年、東洋大ホテル講座は東洋大短期大学部観光科に発展する。同大短期大学部の学生の64年東京大会選手村でのアルバイト研修の様子がこう伝えられている。 「ピチッと制服に身をかためて、かしこまっているウエーターとウエートレス。東洋大学短大観光科二年の荒牧和夫君と団康子さんの実習姿だ。かれらは、オリンピックの期間中、代々木の選手村食堂の給仕と食券係をやる。実習生とか、見習いとはいっても、お客さま第一のホテルでは、一切特別あつかいはしてくれない。制服を着る限り、あらゆる待遇は一般従業員と同じだ。食堂のあいている時間には、かりに友だちから電話がかかってきても、勝手に電話口に出ることはできない。なれないうちは、きゅうくつだし、気も疲れるが、大役をまえに、夏休みも返上して“勉強”だ」(『読売新聞』1964年8月16日)  東洋大短期大学部観光科(1983年に観光学科に改称)は2000年で募集停止となり、短大そのものがなくなる。観光学科は同年に、東洋大国際地域学部国際観光学科として生まれ変わった。2017年には国際観光学部に昇格している。 ■選手村で結ばれた早大生  選手村では食堂担当のほか、選手の案内、通訳などを担当する学生が出入りしていた。  組織委事務局職員の三枝勝は東京ガスの社員だが、選手村本部に出向していた。三枝は選手村で日本体育大の学生の面倒を見ることがあった。学生たちは選手村に搬入された備品の運搬、各国選手の引率などを担当する。三枝はこうふり返った。 「日体大の学生からこんな話を聞いたことがあります。南米の選手団が時間どおりに集まってくれない。約束の時間をすぎてもカタコトの日本語で『ちょっと待ってください』とのんびり構えている。お国柄だからしょうがないのですが、案内役の日体大生は『ケセラセラ』と話す。当時の流行語で『なるようにしかならない』『先のことはわからない』ということなのでしょう。また、選手村の入村式で日体大の女子学生が台湾選手を前に『台湾(TAIWAN)』のプラカードを掲げたことで、抗議を受けました。国民感情から許せなかったのでしょう。女子学生はプラカードを持たないで引率することになりました」  台湾は「中華民国(REPUBLIC OF CHINA)」の使用を求めていた。なお、64年大会に中国は参加していない。  選手村は不夜城だったようだ。前出の油井は勤務シフトについてこう語っている。 「24時間営業の食堂でしたから、8時間ずつ交替制で働いていました。朝早く、もしくは夜遅くまで働く場合は寮で寝るわけです。(略)何人かの相部屋でした」(前出「オリンピックと銀座」)  食堂や通訳などのアルバイト学生が選手村に寝泊まりすることもあったが、場所によっては雑魚寝だったという。早稲田大の女子学生が語るこんな記事が残されている。 「彼と肉体的に結ばれたのは、東京オリンピックの選手村でアルバイトをしていたときだ。(略)ある晩、彼は1人で泊まりに来た。“紳士協定を守るならOKよ”と、私たちは2人の境にフトンでバリケードを作って寝た。ところが夜中になると、彼がバリケードの向こうから“ねえ、いいだろう?”とか、“よう、ちょっとだけ”とか求めてくる。私は彼の人間性に魅力を感じたから、交際していたのだ。バージンに執着はなかったから、彼の要求に応えてやってもいいと、自分で納得した」(『週刊プレイボーイ』1967年1月31日号)  匿名の記事ゆえ、真偽のほどはわからない。 (文/教育ジャーナリスト・小林哲夫)
東京五輪
dot. 2021/05/17 10:00
吉永小百合がずっと夢見ていた医師役に 出演122本目の映画「いのちの停車場」
吉永小百合がずっと夢見ていた医師役に 出演122本目の映画「いのちの停車場」
映画「いのちの停車場」は21日から丸の内TOEIほか全国公開 (c)2021「いのちの停車場」製作委員会 吉永小百合さん(提供) 「子どもの頃、体が弱くてしょっちゅう病院のお世話になっていたので、病院で働く方たちが憧れでした。回らない舌で“大きくなったらカンゴちゃまになるの”というのが夢だったんです」  吉永小百合さんは1959年「朝を呼ぶ口笛」で映画デビュー、夢は大きく逸れたが、俳優でいれば、医療人を演じる機会があるはず、いつか演じたいと願ってきた。63年、「いつでも夢を」で、医師である父親の下で働く看護師の娘を演じた。「当時のことでしたから、白衣は白衣でも割烹着」を着て、昼は診療所で働き、夕方になると制服に着替えて通学する健気な夜間高校生役だった。 「10年ほど前、成島出監督、堤真一さん主演の『孤高のメス』を見て私も一度ドクター役を演じたいとお話ししたのですが、実現しませんでした」  そんな時を経て、出演122本目となる最新作「いのちの停車場」で初めて医師を演じた。大学病院の救命救急センターのトップに立つ医師だったが、ある事件の責任をとって退職、市井の小さな診療所で在宅医療に携わる医師の役。 「ですから、この映画は本当に念願の役であり、作品なんです」 「いつでも夢を」が描いたのは、高度経済成長下で、貧しくもまさに夢を抱いて生きる青春群像だった。今回の作品では、高度経済成長を支えてきたかつての青年たちが直面する老い、病、死が描かれる。俳優・吉永小百合が歩いてきた時代と軌を一にするといってもいいだろうか。 「医師といえば手術、手術着に身を包んで、メスを握る、そんなイメージを描いていたのですが、実際に救命の先生の指導を受けて、救命医療は例えてみれば、スポーツだと思いました」  瞬発力、瞬時の判断力を武器に、救急現場は治療しながら考え、考えながら手当てをする。一転して在宅医療の現場では、末期のがんや高齢で死を目前にした患者や家族、地域社会すべて含めて静かに向き合うことになる。 「在宅医療ひとすじの先生に、脈の取り方、看取り、臨終の伝え方など手取り足取り細かく指導していただきながら、どうやって命を終わらせる人に寄り添うか、在宅、終末医療とは、ということを考えさせられました」  期せずして二つのタイプの医師を「欲張ってできました」というが、 「私たちに近い年齢の人たちを対象にしていますから、あまり考えなくても自然に物語に入っていけました。ただ、在宅医療には、何がよくて何が悪いといった結論がないんですね。とくに、最後に近づくにつれて、ドクターとして、ひとりの娘として、苦しむ父親の最期を迎えつつある姿にどう向き合ったらいいのか、演じる私も大変でした。その苦悩が、役に出たかなと思っています」  演じてみて、救急医療にせよ終末期医療にせよ、これまで医師の仕事や役割を形だけでとらえていたことを、あらためて認識したという。 「自分の死であれ、家族の死であれ、死を見つめるのは、苦しみ以外のなにものでもないかもしれません。現実の死でも物語の中の死でも、誰もができれば目を背けていたい。演じていてもそうでした。でも、死が避けて通れないものである以上、死を避けることに苦心するよりも、日ごろから死を冷静に考えていくことが、今をよりよく生きることにつながるのだと思えるようになりました」  このコロナ禍では役作りのために病院で見学させてもらう予定が中止になるなど、大きな制約を受けたが、それ以上に医療や介護に携わる人の大変さもあらためて思った。(由井りょう子 構成/長沢明) 吉永小百合(よしなが・さゆり)/東京都出身。小学6年のときラジオドラマ「赤胴鈴之助」でデビュー。1959年「朝を呼ぶ口笛」で映画初出演、以来、「キューポラのある街」「愛と死をみつめて」などでスターに。自らプロデュースも手がけた「ふしぎな岬の物語」、「最高の人生の見つけ方」ほか出演作多数。かたわら原爆詩の朗読などを通して戦争、核について問題を提起、平和への思いを発信し続ける。 >>【後編/吉永小百合「“転んだらダメ”をテーマに」 自宅周辺のウォーキングが日課】へ続く ※週刊朝日  2021年5月21日号より抜粋
週刊朝日 2021/05/13 11:30
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