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知の先端を学べる充実した10研究科を擁する国士舘大学大学院。社会人も学びやすい環境を用意!
【PR】知の先端を学べる充実した10研究科を擁する国士舘大学大学院。社会人も学びやすい環境を用意!
国士舘大学 世田谷キャンパス  国士舘大学大学院は、1965年に政治学研究科と経済学研究科を開設以来、時代とともに高度な教育研究を推進してきた。現在では、10研究科を設置し、高度な理論探究と実践的研究との両面から真理を究明し、それぞれの分野におけるプロフェッショナルの養成を目指している。また、試験区分に社会人選考を各研究科で設けており、研究意欲の高い社会人を積極的に受け入れている。 *   *   *  国士舘大学大学院は10研究科15専攻を擁しており、学生一人ひとりの目的やライフスタイルに合わせて様々な研究に取り組むことができる。大学院に進学するきっかけや授業、今後の目標などについて在学生に話を聞いてみた。 研究を楽しむ!国士舘大学大学院生インタビュー(1)  救急救命士としての専門性を高めるために入学。 「救急隊と傷病者の性別による影響」について研究中。 救急システム研究科 救急救命システム専攻(1年コース) 1年(取材時) 樺沢 亮さん   ■医学知識や理論を学び、経験則を裏付けたかった  樺沢亮さんは、国士舘大学体育学部スポーツ医科学科を卒業後、埼玉県の消防に入職。救急救命士として救急業務に従事している。救急救命士は、急病人やけが人を医療機関に搬送するまでの間、救急救命処置を施す病院前救護を担う国家資格だ。傷病者の生命が危険な状態にあれば、医師の指示を受けながら輸液や気道確保といった特定行為を行うこともある。 「実務経験を積むなかで、まだ学びが足りていない自分に気づくことが多くなりました。例えば、医学知識が不足しているため、慣例的に行われてきた救急処置の経験則だけで本当に正しいのだろうかと疑問が生じます。また、救急救命士が行う特定行為は高度化しているため、理論面の知識を補いたいという思いがつのってきました」    そんな折、新型コロナウイルス感染症によるパンデミックが発生した。正しい知識や情報が少ない当初から、救急隊は感染の可能性がある傷病者への対応に苦慮していたことから、ますます学術的な知見の必要性を実感した。 「セミナーのインストラクターなどを務めた際に国士舘大学の先生方と接する機会が多く、卒業生全体にリモート抄読会へ参加のお誘いがあり、当たり前のように論文を読み、疑問があれば質問する光景に新鮮な驚きがありました。  国士舘大学は救急救命士養成のトップランナーであること、救急システム研究科には1年制の修士課程が設置され、社会人に門戸が開かれていることから、母校で指導を受けることを決めました。また、学び続けることができるか不安だったので、大学院の授業を科目等履修生として体験することにし、その上で自信をもって入学することにしました」   ■大学院で学んだことを職場に即した形で取り入れたい  救急隊の業務は救急搬送だけでなく、市民のための救急講習、イベント対応、病院実習や研修会などがあり、多忙を極める。それでも受講できているのは、リモートやオンデマンド形式の授業が多いからだ。これらの授業をうまく利用しながら、救急隊と傷病者の性別による影響をテーマに修士論文の作成に取り組んでいる。 「例えば、公衆浴場で女性の傷病者が発生した場合、男性の救急隊員は現場にすぐに立ち入ることができず、処置が遅れる場合があります。また、傷病者が女性の場合、AED(自動体外式除細動器)の胸部への装着や心臓マッサージの実施には配慮が必要です。わずか1秒の判断の遅れが救命率を左右するため、研究を通じて性別による問題解決の糸口を探りたいと思っています」    大学院で共に学ぶ学生の多くは、救急救命士の有資格者か救急医療に従事する社会人だ。そのため共通の体験や問題意識が参考になるほか、年齢や勤務地の違いによる多様な意見や考えに触れられることが、良い刺激になっていると話す。 「大学院では自分の経験が授業と結び付いているため、仕事を通じて生まれた疑問の解決策を主体的に考えることに充実感があります。学び得たものを職場に即した形で取り入れたり、後輩の指導に生かしたりすることで、結果として社会の一助になればと考えています」  病院前救急医療の高度化を、樺沢さんのような大学院での学びが支えている。   ■私が注目している講義科目や研究テーマ 「国際救急医療体制演習」  救急システムや救急救命士養成教育などについて、国際的な視点から比較・分析します。日本が救急救命士制度を創設する際にお手本にしたのがアメリカのパラメディック制度ですが、この授業にはアメリカでの実地研修の機会もあり、自らの目で相違点を理解できることは貴重な体験になると思っています。 「人体機能構造学特論」  解剖は医学の入口ですが、多くの医療従事者が苦手意識を持っています。学部時代は暗記するだけの解剖学でしたが、川岸先生の授業は考える解剖学です。全てになぜがあり、暗記ではなく、常に考えを持って意見を言う。現場に出ている人なら受けるべき授業です。   研究を楽しむ!国士舘大学大学院生インタビュー(2) 『文化財に関わる職業に就くために、歴史考古学を学修中。発掘された瓦の文様から、 当時のあり様を研究しています』 国士舘大学大学院 人文科学研究科 人文科学専攻 修士課程2年 (取材時) 宇髙 美友子さん ■下野国分寺創建期の瓦の生産地ごとの供給量の違いを研究  大学時代に考古学を一から学びはじめた宇髙さんは、卒業論文を執筆する中で、考古学の奥深さや面白さに気づき、大学院に進学することにした。 「将来、埋蔵文化財に関わる職業に就きたいと考えるようになり、そのために必要な専門性の高い知識を身につけたいという思いもありました」  大学時代に、学芸員資格を取得したほか、大学院で所定の科目を修得することでワンランクアップする考古調査士資格に必要な科目も修得し、埋蔵文化財に関わる職業に就くための下準備を整えた。 「人文科学専攻に入学したのは、考古学を専門に学べる考古・歴史学コースがあり、私が研究対象にしている『古代』『寺院』『瓦』などを専門にする教授から質の高い指導を受けることができ、研究内容を高められると考えたからです。また、フィールドワークが多く、現地に行き、現物に触れる機会が多いことも国士舘大学大学院を選んだ理由です」 「古瓦の考古学」の著者の一人でもある眞保昌弘教授から、現在、研究指導を受けている。 「歴史考古学という、文字が使われた時代について、遺跡・遺構の調査によって歴史的事実の裏付けを行ったり、住居など建築物の出土品から日常生活の在り様を考究したりする考古学について学んでいます。  私は下野(現在の栃木県)に建立された下野国分寺の創建期に葺かれた瓦について研究しています。  瓦は、文様や胎土、製作技法などの違いから、生産場所を特定することができ、下野国分寺創建期の瓦は、下野国内のいくつかの郡の窯跡で生産されて供給していたことが明らかになっています。私が注目しているのは、近年の発掘調査により明らかになった、郡ごとの供給量の違いについてです」   ■大学院修了後も文化財研究を続けていきたい  大学院での授業は、いずれも少人数によるゼミ形式が多く、幅広い知識を吸収するのに役立っている。宇髙さんの研究力を高めるのに役立っている科目の一つに、「考古学演習Ⅰ・Ⅱ」がある。 「先生が講演会で発表した内容について講義を受けた上で討論したり、各自が取り組んでいる研究の進み具合や成果、課題などを発表し、先生から指導を受けたり、学生間で意見を交わしたりする授業です。講義では考古学の学術的な話だけでなく、文化財行政の仕事をされていた時の経験などを聞くこともでき、とても参考になります」  現在、文化財に関わる職業に就くために、納得のいく修士論文を書き上げることを目標にしている。 「修了後も研究を続け、文化財の保護と活用に貢献できる力を常に高めていきたいと思っています」   ※宇髙美友子さんは、2023年3月修了後、正規採用として学芸員の職に就いている。   --------------------------------------------------------------    国士舘大学大学院では、実務経験豊かな教員を配置し、大学院教育の充実強化を図っている。2023年4月からは、経済学研究科で新カリキュラムがスタート。そこで、新しいカリキュラムについて研究科長に話を聞いてみた。 経済学研究科・研究科長インタビュー ~新カリキュラムがスタート!~ 『社会に貢献できる経済分野の研究者と高度専門職業人の養成を目指し、多様な選択肢を提供しています』 国士舘大学大学院 経済学研究科 許 海珠 研究科長・教授 ■経済学の「奥深さ」を理論、歴史、政策から探究  国士舘大学大学院経済学研究科では、経済学という学問の「奥深さ」について理解を深められるように、経済学の基本となる理論、歴史、政策分野から、実社会経済の激しい変化に対応できる専門研究領域をカバーする応用経済学や租税法・会計学関連の分野まで、幅広い研究領域に科目を配置し、基礎から応用まで体系的に学修することができます。   ■領域横断的な研究意欲にも応える、新しいカリキュラムがスタート  2023年4月から、将来の進路やキャリアに繋がる研究・学修ができ、多様な選択肢を提供する新カリキュラムが修士課程でスタートしました。 『セメスター制』の導入により、科目履修期間が半期になることで、自分に合った科目の選択と学修がしやすくなります。併せて、1年次は5つの研究領域から自由に科目を選択し、2年次に自分に合ったコースの選択ができる『コース制』を取り入れています。  5つの研究領域に配置している科目数は45科目にわたることから、自らの関心や将来目的に合せて各領域を深く研究することも、領域横断的な研究を進めることも可能です。現代社会のITが生み出した課題の解決策を文理融合の多面的視点で議論する「情報産業論研究」「情報社会・情報倫理研究」をはじめ、「環境経済論研究」といった社会ニーズに応じた新しい学びも提供しています。  コースには、研究者を目指す『研究コース』、専門スキルが求められる職業に就くための『特定課題研究コース』、税理士国家試験の試験科目一部免除認定申請が可能な『租税法・会計コース』を設置。本研究科は、これまでに試験科目免除認定を受けた修了生を多く輩出してきたように、指導にあたる教員陣が充実しているのも特色です。   ■社会人が学びやすい環境を整備  社会人が学びやすいように、入学試験に社会人選考を設けているほか、いずれのコースでも、平日夜間と土曜日に科目を開講しています。  授業は目的に応じて、コンピュータ教室やプレゼンテーションに適した教室を使用するなど、多様に展開しています。   経済学研究科の詳細は、こちらから> 国士舘大学 中央図書館(世田谷キャンパス) 国士舘大学大学院 10研究科の概要 ○政治学研究科 政治学専攻[修士、博士] 政治学研究科は、専門的な研究者や教育者の養成を目指し、政治の主要分野をはじめ、政治行政やアジアを取り巻く政治・文化をテーマにした問題にも取り組んでいる。また、高度な専門的知識を身につける社会人のリカレント教育の場として活況を呈するとともに、教職免許の専修免許も取得が可能。【昼間・夜間/土曜日開講】   ○経済学研究科 経済学専攻[修士、博士] 経済学研究科は、2023年度から新しいカリキュラムがスタート。修士課程では「セメスター制」と「コース制(研究コース、特定課題研究コース、租税法・会計コース)」が導入され、博士課程では研究領域・分野別に科目が配置されている。学位取得に向けた研究・学修を積極的にサポートし、社会人、留学生も積極的に受け入れている。【昼間・夜間/土曜日開講】   ○経営学研究科 経営学専攻[修士、博士] 経営学研究科は、経営・会計の高度職業人および研究者の養成を目指している。「修士論文研究コース」と「特定課題研究コース」を設け、最新の経営理論・研究成果・ケーススタディを学ぶ授業を通じて、実社会で活躍する社会人のリフレッシュ教育を行っている。経営のグローバル化に対応する教育・研究も行っている。【昼間・夜間/土曜日開講】   ○法学研究科 法学専攻[修士、博士] 法学研究科の修士課程では、「基幹法コース」「税法・ビジネス法コース」「スポーツ法コース」の3コース制を導入。社会の要請に応えて、より高度の法理論および実務理論の教授・研究を通して、高度な専門職業人の養成に取り組んでいる。社会人も積極的に受け入れ、法理論に裏付けられた事務処理能力を身につけられるように指導している。【昼間・夜間/土曜日開講】   ○総合知的財産法学研究科 総合知的財産法学専攻[修士] 法律の基礎である憲法、行政法、民法、民事訴訟法などを修得した上で、経営学や工学などを包括的に学ぶことで、知的財産法の専門家を育成している。内外で知的財産の実務に携わる専門家を教授陣に迎え、理論と実践の融合を図る指導を行っている。特許事務所における実務研修「エクスターンシップ」も取り入れている。【昼間・夜間/土曜日開講】   ○工学研究科 機械工学専攻/電気工学専攻/建設工学専攻[修士]、応用システム工学専攻[博士] 工学研究科は、応用学力を身につけ、優れた応用開発能力を有し、創造性豊かでユニークな技術者、研究者の養成を目的としている。修士課程では、機械工学専攻、電気工学専攻、建設工学専攻を設置し、各専攻に2~5コースを設けている【昼間・夜間/土曜日開講】。また博士課程は、修士3専攻を統合する形で応用システム工学専攻のみを設けている。【昼間/土曜日開講】   ○人文科学研究科 人文科学専攻/教育学専攻[修士、博士] 人文科学研究科は人文科学の諸分野研究を究められるように、修士課程および博士課程から構成されている。修士課程では研究能力開発と共に時代の要請に応える高度な知見を身につけた職業人の養成を目指し、博士課程では特に研究者養成に力を入れている。【昼間・夜間/土曜日開講】   ○スポーツ・システム研究科 スポーツ・システム専攻[修士、博士] スポーツ教育コースとスポーツ科学コースを設置し、競技スポーツから生涯スポーツまで、多種多様なスポーツ事象を研究対象とし、院生の興味や関心に応じた研究活動ができる環境が整う。世界各国・地域が抱えるスポーツの諸問題をシステム的にとらえ、それを解決できる高度職業人や研究者の育成を目指している。【昼間・夜間/土曜日開講】   ○救急救命システム研究科 救急救命システム専攻[修士、博士]、救急救命システム専攻(1年制コース)[修士] 医師や看護師、救急救命士といった病院前救急医療に携わる国家資格有資格者に対する高度な教育と研究を行う。日本のみならず、世界各国・地域が抱える病院前救急医療に関する諸問題をシステム的にとらえ、それを解決できる専門能力と豊かな学識を有する高度専門職業人の育成を目指している。【昼間・夜間/土曜日開講】   ○グローバルアジア研究科 グローバルアジア専攻[修士]、グローバルアジア研究専攻[博士] グローバルアジア研究科では、グローバル化が進むアジアを研究対象とするため、経済学、経営学、歴史学、国際関係論、言語教育、文化研究、先史学、考古学、保存科学、文化政策論といったさまざまな学問領域が連携・融合する、総合的かつ先端的な研究に取り組むことができる。【修士:昼間・夜間/土曜日開講、博士:昼間開講】   各研究科の詳細は、こちらから> 2024年度入試情報は、こちらから> 願書・資料請求は、こちらから >   【お問い合わせ】 国士舘大学 教務部 大学院課 住所/〒154-8515 東京都世田谷区世田谷4-28-1 TEL/03-5481-3140 提供:国士舘大学大学院 
2023/12/18 12:31
「他人の邪魔はしない」校風 学んだ「自己責任」 西部ガスホールディングス・道永幸典社長
「他人の邪魔はしない」校風 学んだ「自己責任」 西部ガスホールディングス・道永幸典社長
昨年と今年の入社式で言った言葉が「挑戦しなければ負けないが、勝ち(価値)もない」。従来の手法から離れてチャレンジしてほしいと伝えたかった(撮影/山中蔵人)    日本を代表する企業や組織のトップで活躍する人たちが歩んできた道のり、ビジネスパーソンとしての「源流」を探ります。AERA2023年12月18日号より。 *  *  *  入社6年目に、配属されていた情報システム室が分社化された西部ガス情報システム(SIS)へ、出向した。希望もしていなかったし、入社するまで関心もなかった情報システム部門で仕事を続けることは、正直、苦痛ですらあった。  だが、ガス料金の計算・請求・督促をするガス料金調定システムという、会社にとって最も重要なシステムの再構築に、朝から晩まで取り組んできた身として「もういい、ではサラバ」とは言えない。  福岡市南区の県立筑紫丘高校へ通った3年間、「好きなことをしてもいいが、他人の勉強の邪魔はするな」という校風に、級友らと勉学そっちのけで、オートバイで街や山野を走り回った。でも、よく分かっていた。 「好きなことをする以上、結果は自己責任だ」  大学受験で、10連敗した。覚悟はしていた。同時に「自由に考えて行動し、迷惑をかけず、役に立つことや楽しいことをする。そして他人を笑顔にする」という人生の指針が、身に付いてもいた。この高校3年間が、道永幸典さんにとって、ビジネスパーソン人生の『源流』となる。1年後、両親の願い通り、九州大学経済学部に合格。そして、分社化される職場とともに出向したとき、『源流』からの流れが勢いを増す。  後ろ向きの気持ちは捨て「システム子会社へいっても、周囲に迷惑をかけず、役に立つことや楽しいことをしよう」と思い直し、着任した。結局、会社人生の3分の2の年月を占めることになる情報システム部門で、楽しむだけでなく、他人を笑顔にする日々を過ごす。 人を笑顔にすると楽しい(写真:本人提供)   稼ぐつもりで創った檀家管理システム 売れたのは1件だけ  32歳で、SISの係長のときだ。親会社から「グループのシステムを手がけるだけでなく、外からも稼げ」と言われ、外販用ソフトを開発した。まず、檀家管理システムをつくる。寺の檀家の名簿や命日の管理、葬儀や法事などへ出向いた際の収入などが簡単に処理できる、と触れ込み、寺院へ売り込む。「極めて楽ができます」という意味で、ソフトに「極楽」と名付けた。だが、ニーズがなく、一つしか売れない。  次は、赤ちゃんの命名ソフトだ。名字と画数、どんな大人になってほしいかなどを入力すると、候補の名前が出てくる仕掛け。周囲に話しても手応えがなく、構想段階でやめた。  ただ、職場に笑いと明るさが湧いた。そして、「やめるときは、早くやめる」という道永流も定着していく。最近、若手社員に「サンダル履きで頑張り」と言っている。サンダルなら、すぐに履けて出ていける。脱ぐときも、ぱっと脱げる。「駄目だったら、すぐにやめて戻れ」との意味で、つくった言葉だ。 土にまみれた両親 繰り返していた「勉強して頑張りよ」  1957年11月に福岡県筑紫野町(現・筑紫野市)で生まれ、一人っ子だ。実家は専業農家で、父母は稲作のほかに野菜もつくっていた。福岡市の博多駅まで電車で約15分。『万葉集』にある大伴旅人の歌に出てくる二日市温泉が近く、少年時代に10円玉を握って通った。  両親は、いつも土にまみれて働いていた。まだ豊かさがなかなか伴わない時代、父は農作業の合間に土方仕事へもいっていた。父母は、息子には豊かさを味わってほしいと思って「あんたは、ちょっと勉強して、頑張りよ」と繰り返す。  忘れられないのは、小学校5年生のときの授業参観。母が、農作業が忙しいなか、駆けつけてくれた。うれしくて「とにかく母を喜ばせたい」と考える。参観は理科の実験で、父母から質問を受けてとっさに出た答えが、大爆笑をとった。同級生の親たちは、母に「息子さんは頓智がきいとうね」と言ったらしい。そのときの母のうれしそうな顔が、いまも頭にある。  人を笑顔にする楽しさ、を知った。『源流』を生む地下水が溜まり始めたときだった。  筑紫丘高校は校則があっても自由で、驚いた。男子に腰まで長髪を伸ばす生徒がいたし、パーマをかけていた数も多い。下駄で登校してくる生徒もいた。授業中のはずなのに、食堂で何かを食べている。やんちゃを自認する身にも、想像以上の自由さだ。ただ、学校が貫いていることにも気づく。「ほかの生徒の勉強の邪魔はするな」だ。そのつもりで、大型二輪の免許を取ってオートバイを乗り回し、「楽をして、かつ楽しい」という青春時代を送る。  一人っ子だから、就職先選びで母に「こっちにおってくれ」と言われた。そこで地元の銀行へいったが、ダメだった。都市ガスの西部ガスは、自宅があった地域のガスはプロパンだったから、知らない。でも、「とにかく受けてみろ」と言う人がいて訪ねると、通った。 体重が2キロ落ちたプログラミング 同僚に任せてしのぐ  81年4月に入社し、情報システム室へ配属された。経理システムのプログラミングから始めたが、勝手が分からず、1週間で体重が2キロ落ちる。そこで、入社研修でプログラムを組んだときに楽々とこなしていた高専卒の同僚の力を借りることにして、「ちゃんとしていけ」と任せてしのぐ。それをみていた部長が「あいつ、人使いが上手いな」と思い、分社化の際にSISへ出向させるメンバーのリーダー候補に選んだらしい。  2年目は、ガス料金調定システムの再構築。検針したガスの使用量から料金を計算して客に請求し、払われない客に督促を出すシステムだ。  社員とシステムハウスからの約百人のチームで、朝9時に出社して夜11時ごろに帰る。大げさでなく、死ぬ思いでやった。「自分の責任で行動する」という『源流』からの水量は、途切れない。やがて、プロジェクトリーダーとなる。  2019年4月に社長就任。昨年10月、グループの人材育成プロジェクト「ソウゾウ大学」を開校した。「ソウゾウ」は創造と想像の意味。若いときに檀家管理システムをつくるなど、ずいぶん、やりたいことができた。でも、いまは会社のなかの管理が行き届き、若手にそんなチャンスがない。だから、ソウゾウ大学に呼んで、新事業をつくることを目標にいくつかのチームにして、半年余り議論を重ねて提案を作成させる。  そこから1点選んで、基金から500万円ほど出してやらせてみる。狙いは社員のやる気を引き出すことで、安いものだ、と思う。そこで「サンダル履き」の話もして、うまくいかなければ、すぐに撤退させる。  キャッチフレーズも考えた。「ワカモノ、バカモノ、ソトモノの養成」だ。ワカモノは、もちろん若者。バカモノは当たり前のことはやらず、他人と違うことを考える人。ソトモノは本流を歩いていないで、しがらみがなく誰にも遠慮しないでやれる人。会社を変えていくために必要だと思う3類型だ。  グループ内の雰囲気は、だいぶ変わった。ガス事業も電気事業とともに、自由化が進む。  変わらざるを得ない時代を迎えて、『源流』からの水量がさらに増している。(ジャーナリスト・街風隆雄) ※AERA 2023年12月18日号
トップの源流
AERA 2023/12/16 19:00
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唐澤俊介 唐澤俊介
酒井若菜が30代で「まつげエクステ」をやめた理由 「自分の加齢を見せていけるようにならなきゃと思った」
酒井若菜さん(撮影/写真映像部・佐藤創紀)  グラビアアイドルから俳優、作家として活動の幅を広げ、芸能界でも独自の存在感を放ち続けている酒井若菜さん(43)。【前編】では、さまざまな分野で挑戦し続けることの苦労や、その過程でたどり着いた仕事への価値観などを聞いた。【後編】では、「毎日メイク。」や「40代になってやめたこと。」などで早くも話題を集めているYouTubeチャンネル開設の経緯や、これまでの人生で忘れられない一日などをうかがった。 ※【前編】<酒井若菜が振り返る「グラビアアイドル」からの転換点 「エキストラでもいいから演技の現場に」と決めた日>より続く *  *  *  【前編】のインタビューで、仕事に対しては「履ける草鞋は何足でも履いたほうがいい」という考えだと話してくれた酒井さん。グラビアアイドル、俳優、作家などさまざまな仕事に挑戦してきた酒井さんだからこその価値観だろう。  そして、酒井さんは最近、もう一つの“草鞋”を履き始めた。それはYouTuberだ。  今年8月に自身のYouTubeチャンネル「酒井若芽チャンネル」を開設。撮影や編集など、ほとんどの作業を一人でこなしているという。 「コロナ禍あたりからYouTubeをいろいろ見始めたのですが、無理にキャラを設定したり、テンションを上げたりしている動画が多いなあという印象でした。私のような40代の女性が一人で静かに見られる“大人のチャンネル”ってあんまりなかったんですよね。それで、ないなら自分がつくればいいんだって思って開設しました」  YouTubeではコスメ紹介やモーニングルーティーン、視聴者との質疑応答など、さまざまな動画をアップしているが、どのような方針でチャンネルを運営しているのだろうか。 酒井若菜さん(撮影/写真映像部・佐藤創紀)   意地悪なことや傷つけることを言わない 「40代の美容やライフスタイルに関する動画と、つらくて悩んでいる人たちに向けた動画、この2本をテーマにしていきたいと思っています」  具体的にどういうことなのか。酒井さんはこう続ける。 「私が考えた40代なりの生き方だったり、人生の楽しみ方だったり、他の人にも何か共有できることがあるんじゃないかなと思っています。私自身、40代になって、たとえば、雑誌とか、自分にしっくりくるものが見つからないという経験をしていて。同じように感じている人たちに向けた動画を投稿していきたいです」  また、精神の“安定剤”のようなチャンネルでもありたいという。 「文筆業でずっとテーマとして掲げているのが、『夜眠れない人に向けて文章を書く』ということ。それは言い換えれば、すごく悩んでいたり、つらかったり、傷ついていたりしている人たちに向けて、文章を書き続けてきたということです。そのなかで、私の『声』が好きと言ってくれる方もすごく多いなと感じていて、だったら、そういう人たちに向けて、声も楽しんでもらいたいなと。そのうえで、意地悪なことや傷つけることを言わないと保証するYouTubeチャンネルが一個でもあるといいなと思ったんです」  先月配信した「毎日メイク。」は早速話題を集めている。すっぴんの酒井さんがメイクをする、というシンプルな動画だが、再生回数は29万回(12月14日時点)を超えている。  実はこの動画、外出する前に慌てて撮ったのだという。酒井さんは「ラッキーでしたね」と笑いながら、こう振り返る。 酒井若菜さん(撮影/写真映像部・佐藤創紀)   「すっぴん」に抵抗はなかった 「1週間に1本くらい動画をアップしたいなと思っているのですが、このときはただでさえ投稿のペースが遅れているのに、ネタや素材が何もない状況だったんです。それで、これから出かけるからどうせメイクするしと思って、急きょ、カメラを回しました。たまたまウケてくれたのでよかったです。すっぴんですか? (見せることに)抵抗はなかったです、まったく」  この後に出したのは、「40代になってやめたこと。」と題した動画だ。メイク動画とは毛色が違うが、これも18万回超再生されている(12月14日時点)。  動画内では、40代になったいま「何をやるかよりも、何をやらないか」を大切にするようになったと話し、仕事や人間関係などへの価値観の変化を率直に語っている。コメント欄には、「一人で誰にも言えなくてモヤモヤしてたことが、酒井さんが自然と言語化してくださっていって、心がフワッと軽くなりました」「今回の若菜さんの言葉、人付き合いが苦手な中年男性の私にはすごく響きました」など、共感の声があふれた。  40代でこのような考えに至ったのはなぜなのか。 「それまで自分のために生きてこなかったという後悔があります。どこで読んだのかは忘れましたけど、40代ってそれまで隠してた“子ども心みたいなもの”がパンって開いちゃう人が結構いるらしいんです。おそらく私はこのタイプで。40歳になったときにずっと我慢してきたネガティブな感情が、吹きこぼれるようにバーッて熱をもってあふれてしまったんです」 酒井若菜さん(撮影/写真映像部・佐藤創紀)   20代の自分は「抱きしめてあげたい」  そのとき、他人ばかりを優先するのではなく、自分自身にもっと目を向けたほうがいいと強く思ったのだという。 「『もし酒井若菜ちゃんって子がここに一人でいたらどうする』って考えてみたんです。いままでの私って、この『酒井若菜ちゃん』をずっとスルーして、他の人の世話を焼いていた状態だったと思ったんですよ。脳内でそういうイメージをすると、『この子のケアをしてあげなきゃいけない』とか、『この子をそろそろ楽しませてあげたい』とかっていう気持ちになったんです。それが40歳でした」  40代に入って、人生への考え方が変わったという酒井さんだが、10~30代はどのような年代だったと考えているのか。  10代は「まっすぐ果敢に、夢に向かって走っていた」という。 「とにかく俳優になりたいという思いが強かったですね。いまの私だったらこんなに頑張れなかっただろうなって。すっごくリスペクトしていて、『超カッコいい、10代の私』って思ってます」  20代はどうか。この年代は、「木更津キャッツアイ」や「マンハッタンラブストーリー」などの人気作品への出演が続いた。また、休業期間があったとはいえ、小説家としてのデビューも果たすなど、順風満帆な時期のように思える。  しかし、その裏では苦悩もあった。酒井さんはそんな20代を「一番抱きしめてあげたい」年代と表現する。 酒井若菜さん(撮影/写真映像部・佐藤創紀)   女であることよりも「女優」であることが大事 「『本当によく耐えたね、偉かったよ』って、褒めてあげたくなる年代ですね。苦しいなかでも意欲的に頑張った時期もあって、そのおかげで作家業もやれるきっかけになったので良いこともたくさんありました。けど、自分の本心を出さないというか、グッと堪えるみたいなことを本当によく頑張ってくれたんです」  30代は、「加齢」と向き合った年代だったという。 「エイジングサインが出てき始めて、その変化を自分で受け入れることに結構時間がかかりました」  30代半ばを過ぎてまつげエクステをやめたという。外見に注目が集まる俳優という仕事をしている酒井さんにとって、この決断は簡単ではなかったと話す。 「20代半ばくらいからつけていたんですが、『これいつまでやるんだろう』って思ったんです。当時、苦労している役を演じることが多かったのに、まつげエクステを外せなくなってる自分がいて。それで、『40代になっても続けるの?』『美よりも大事なものがあるよね?』って自分自身に問いかけてみたんです。俳優という職業をやっていくなら、自分の加齢をちゃんと見せていけるようにならなくちゃいけないなと思って、外しました。いまでは年齢を重ねることは進化することだと考えています」  それにより世間からの心無い言葉にもさらされたという。 「『劣化した』とかって、ネットですごく言われました。こんなに言われるならもう一回つけようかなって正直思ったんですけど、自分が受け入れてあげないと誰も受け入れてくれないような気がして、『はい、その通りです』って受け止めました。『私は“女”であることよりも、“女優”であることのほうが大事なんだ。正しい選択なんだ』って言い聞かせているうちにやっと受け入れられてきました」 酒井若菜さん(撮影/写真映像部・佐藤創紀)   どんなトラウマも宝物になる  グラビアアイドル、俳優、作家と幅広い経験をしてきた酒井さんに、人生で最も記憶に残っている一日を尋ねた。 「あり過ぎて選べない……。でも、強いてあげるとすれば、鈴木おさむさんの舞台の初日を無事終えることができたときですかね」  その舞台とは、鈴木さんが脚本・演出を務めた「イケナイコトカイ?」(2014年)のことだ。酒井さんは休業を決めた際に舞台を降板しており、それ以降、舞台に上がっていなかった。そんななか、鈴木さんのオファーにより、8年半ぶりに舞台を踏むことになった。 「休業からの8年半は、身体的にも精神的にもしんどいことが多かったので、このときのことはトラウマになっていて、心のどこかの引き出しにしまって、二度と開けないようにしていたんです。ですが、この作品を作り上げるなかで、鈴木おさむさんが『その引き出し開けてみなー』『大丈夫だよ、俺が全部引き受けるよ』と言ってくださっている気がして。私が演じる役が自身のトラウマを告白するシーンを作中に入れてくださったりしていたんです。初演の幕が開く直前まで不安な気持ちでいっぱいだったのですが、無事、初日を終えることができたときに、どんなトラウマも宝物になるんだなって感じました。この日は人生でもスペシャルな一日だったなと思います」 (AERA dot.編集部・唐澤俊介) ●酒井若菜(さかい・わかな)/1980年、栃木県生まれ。俳優、作家。出演作に「木更津キャッツアイ」(2002年)、NHK朝の連続テレビ小説「マッサン」(14~15年)、「透明なゆりかご」(18年)、「絶メシロードseason2」(22年)など。著書に『うたかたのエッセイ集』『心がおぼつかない夜に』、小説『こぼれる』、対談+エッセー集『酒井若菜と8人の男たち』などがある。毎週日曜日配信のWEBマガジン「&Q」では編集長を務めている。今年8月には自身のYouTubeチャンネル「酒井若芽チャンネル」を開設した。
酒井若菜
dot. 2023/12/16 11:00
ジブリの「火垂るの墓」に心震え、映画制作の道へ スタジオポノック代表取締役・西村義明
ジブリの「火垂るの墓」に心震え、映画制作の道へ スタジオポノック代表取締役・西村義明
小さなマンションで息を殺していた幼い自分を、映画が救った。その奇跡を信じているから今も作り続ける(撮影/家老芳美)    スタジオポノック代表取締役・プロデューサー、西村義明。父の会社が倒産し、苦しい生活を送っていた少年時代。一本のアニメーション映画が心に明かりを灯した。約25年後、その映画の監督・高畑勲と西村義明は、8年に及ぶ苦闘の末、「かぐや姫の物語」を完成させる。映画には子どもの人生を変える力がある。アニメーションだからできることがあると、西村は信じている。 *  *  * 「パパ、これあげる!」  今から約10年前。西村義明(にしむらよしあき・46)と散歩していた長女が、突然小さな握りこぶしを差し出した。そっと指をほどく。現れたのは山盛りの花びらだ。 「それを見たとき、僕はこの映画ができると思ったんです」  スタジオポノック代表の西村は、プレゼンテーションの会場に詰めかけた数百人の関係者の前で、映画の構想が生まれた瞬間をそう話した。原作は、イギリス人作家A・F・ハロルドの児童小説『The Imaginary』。それから約6年の制作期間を経て完成したのが、今月15日に公開される長編アニメーション映画「屋根裏のラジャー」だ。  主人公のラジャーは、アマンダという少女が生み出した「イマジナリ」(空想上の友人)だ。現実には見えないが、心の中には確かにいる。そんな存在を、どう描けばいいのか。 「そのヒントを娘が教えてくれた気がしたんです。僕から見ればただのアスファルトの散歩道が、娘には花畑に見えていた。大人は嘘だと思っても、子どもには本当に見えている。きっと忘れているだけで、自分が子どもだったときにも、そんな存在が確かにいたはずじゃないか、と」  子どもたちに「嘘じゃない」と信じてもらえる映画を作りたい。24歳でスタジオジブリの門を叩いたときから、その志は変わらない。法務や宣伝を担当した後、プロデューサーとして「かぐや姫の物語」や「思い出のマーニー」に参加。2014年末、制作部門の一時解散を機にジブリを退社すると、翌年4月にポノックを設立する。代表取締役兼プロデューサーとして私費を投じてスタッフを集めながら、これまで「メアリと魔女の花」「ちいさな英雄-カニとタマゴと透明人間-」などのアニメーション映画を送り出してきた。 「映画を作るときに思い浮かべるのは、昔の僕と、身近にいる友人たちの顔。彼や彼女が主人公になれるような映画を作ってきたつもりです」 ポノックでは、未来を担う若手アニメーターの育成プログラム(通称P.P.A.P.)を実施。選抜者には、契約社員として賃金を払いながら、作画、演出、レイアウトなどアニメーションの基礎を教えている(撮影/家老芳美)   「火垂るの墓」に心震え 映画制作の道を志す  いちばん古い記憶は、幼稚園の校門前に停められた黒塗りの高級車だ。出身は東京都大田区。父は自ら設立した金融会社の社長、母は専業主婦、2歳上の姉と6歳下の妹がいる。父の会社は好況が続き、「運転手付きの車で幼稚園に送迎してもらうような生活」をしばらく送っていた。  だが、5歳のときに父が原野商法に引っかかり会社は倒産。生活は一変した。父は酒に溺れ、母は家計を支えるために夜に働きに出るようになる。  10歳のときに両親は別居した。西村が中学生になる頃には、母、姉、妹の4人で、2DKの小さなマンションで暮らすようになった。  一家が離散したことに深く傷ついた姉は、家に帰らない日が増えていった。母は昼夜を問わず働きに出ており、西村は妹と2人で過ごす時間が多くなった。生活は苦しく、電気やガスもよく止められた。夜になると、借金取りの男がやってきて玄関のドアを何度も蹴った。怒声が響く真っ暗な部屋の中で、西村は妹と息を殺して時間が過ぎるのを待った。それでも西村は気丈だった。 「よっくんなりに、自分が父親の代わりに家族を支えないとだめだって思ってたんじゃないかな」  姉の昌美が夫と営むバーを訪ね、話を聞いた。 「根は明るくてひょうきん者。でも責任感がすごく強いんです。僕は母さんに楽をさせたいんだって、小さい頃からずっと言ってましたから」  妹の千恵子は、「兄はしつけに厳しくて、勉強や交友関係でもよく叱られていました」と話す。 「でも楽しい時間も多かった。2人でよく不動産のチラシに間取り図を描いて遊んでました。『ここは母さんの部屋、こっちは僕と千恵子の部屋。一緒に理想の家を作るんだ』なんて話していました」  2人には、もう一つ楽しみがあった。毎週テレビで放映される映画番組を観ることだ。  ある晩、偶然流れた映像を観て、西村は画面にくぎ付けになった。故・高畑勲が監督した「火垂るの墓」だった。  作中で、飢えに苦しむ兄妹は、農家の畑からトマトを盗む。そのとき兄の清太は、もぎ取ったトマトをまず自分が齧(かじ)った。それがたまらなかった。 17歳の長女と11歳の長男はどちらもパパっ子。休日は家族でよくラーメンを食べにいく。「父親の理想像はロビン・ウィリアムズの『ミセス・ダウト』。パパに愛されていると思ってくれるだけで十分です」(撮影/家老芳美)   「本当はまず妹にトマトを食べさせてあげたいはず。でも追い詰められた人間は、先に自分が食べてしまうんです。僕にはそれが痛いほど分かった」  それから何回も「火垂るの墓」を観た。観るときは決まって妹の少し後ろに座った。肩を震わせて泣く姿を見られたくなかったからだ。節子の手を引く清太を見て「これは僕の物語だ」と思った。 「大人を信じていませんでした。世の中はバブル景気で皆幸せそうなのに、母は毎晩吐くまで酒を飲まされ働いていた。それなのに生活は苦しいまま。信じられないですよ。でも、『火垂るの墓』に描かれている人々の感情や生活は、全部本当だと思えた。自分のような子どもを見てくれる大人がいるんだということに、心が震えたんです」  母を助けること。自分と同じような子どもが生きる世界を少しでも良くすること。二つの目標ができた西村は、それを実現する方法を模索し始める。中学生の頃は医者になろうと考え、猛勉強の末に医科大学の付属高校に合格。そこから当時目覚ましい進歩を遂げていたゲーム業界に可能性を感じ、一転してゲームクリエイターを目指す。ソフトウェアの開発を学ぶために、横浜国立大学工学部の電子情報系学科に進学した。 「でも入ってみて、『やっぱり映画をやりたい』と思ってしまった。ゲームはインタラクティブだけど、映画は一方通行。問いの回答をその場で求めず、答えも示さないからこそ、心に深く残る」 ハリウッドに留学後 スタジオジブリに入る  どうせ映画を学ぶなら最高峰のハリウッドに行こう。西村は半年足らずで大学を辞めると、2年間アルバイトに明け暮れ500万円ほど資金を貯めた。そして21歳のときにロサンゼルス・シティー・カレッジに留学。映画制作の手法を2年間学んだ後、映画ビジネスについてさらに理解を深めるため、UCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)エクステンションで約1年半学んだ。 「そこで知ったのが、北米型のインディペンデント・プロデューサーの仕事でした。日本ではプロデューサーというと、資金調達や宣伝が仕事という印象が強い。でも独立系プロデューサーは、自分で企画を立ち上げ、監督を選び、シナリオにもコミットメントする。これは面白いと思いました」 「屋根裏のラジャー」のジャパンプレミア(完成披露試写会)で出演者らと。「作品を選ぶ方々が出てくれたのは嬉しい。似せたわけではないが、なぜか登場キャラと皆さんの顔がそっくりになった(笑)」(撮影/家老芳美)    帰国後、西村は知人のつてを頼り、「無休でいいから働かせてほしい」とスタジオジブリのプロデューサーの鈴木敏夫に手紙を送った。それまで千本を超える映画を観てきたが、いつも心を動かされるのは、子どもが主人公の映画だった。 「その中で夢だけでなく、現実や悪夢もしっかりと描いているのは、ジブリだけだと思いました」  念願叶(かな)い、2002年にスタジオジブリに入社。だが任されたのは、海外事業と著作権法務の仕事だった。約1年半、契約書のデータベース構築や出納業務に携わる。正直、オモシロくない。 「それでふてくされていたら、鈴木さんから『宮さんが監督するCMを手伝え』と言われたんです」  ジブリは徹底した現場主義だ。西村は、鈴木を始め、スタジオに出入りする先輩や業界人に片っ端から質問をぶつけて宣伝の仕事を覚えていった。 「動きながら考える。失敗して怒られる。また動く。この繰り返し。『俺の映画を』みたいなプライドはすぐに粉々にぶっ壊された。運が良かったと思います。『映画を良くすることだけ考える』という今の精神性は、そこで培われましたから」  その後は、「ハウルの動く城」「ゲド戦記」「崖の上のポニョ」の宣伝を担当。06年には、高畑と宮崎駿がアニメーションの世界に入るきっかけとなったフランスの長編アニメーション「王と鳥」を劇場公開するため宣伝プロデューサーを務めた。 スタジオポノックで広報宣伝を務める細川朋子曰く、「一度集中モードに入ると何を言っても反応しなくなる。情熱は本物です」(撮影/家老芳美)   高畑勲と格闘して学んだ アニメーション映画の本質  これを契機に、西村は自らの映画人生の原点とも言える「火垂るの墓」を作り上げた高畑の面識を得る。そして高畑の次回作「かぐや姫の物語」の制作に携わることになった。実に8年に及ぶ苦闘の幕開けであった。 (文中敬称略)(文・澤田憲) ※記事の続きはAERA 2023年12月18日号でご覧いただけます
AERA 2023/12/15 18:00
【2023年下半期ランキングスポーツ編7位】阪神「元エース」が東京・新橋の居酒屋で迎えた歓喜の瞬間 常連たちに支えられ「夫婦」で号泣
上田耕司 上田耕司
【2023年下半期ランキングスポーツ編7位】阪神「元エース」が東京・新橋の居酒屋で迎えた歓喜の瞬間 常連たちに支えられ「夫婦」で号泣
阪神優勝で感極まる元エースの川尻哲郎さん(右)と妻の陽子さん(撮影/上田耕司)  2023年もいよいよ年の瀬。そこで、AERA dot.で下半期に読まれたスポーツ記事のランキング上位を振り返りたい。ランキング7位に入ったのは「阪神『元エース』が東京・新橋の居酒屋で迎えた歓喜の瞬間 常連たちに支えられ『夫婦』で号泣」。9月15日に配信した記事を再配信する。(※年齢や肩書などは配信時)  18年ぶりの阪神タイガースのセ・リーグ優勝で沸いた14日。なかでも、ひときわ熱気を放つ店が東京・新橋にあった。阪神の元エース・川尻哲郎さんが経営する居酒屋「タイガースタジアム」だ。  試合開始後の18時半ごろに店内に入ると、すでに満席。記者は立ち見で取材したが、ファンたちの熱気で空気が薄く感じるほどだった。  阪神が得点するたびに店内からは大きな歓声が上がる。4点目を追加した7回裏には、黄色の風船が一斉に飛び交った。  いよいよ9回に入ると、あと3人、2人、1人とカウントダウンが始まった。途中で膨らませ過ぎた風船が暴発する音がするハプニングがありながらも、「アレ」の瞬間に向けて店内のボルテージが一気に高まっていく。  そして、9回裏。2アウトから巨人・北村をセカンドフライに打ち取った瞬間、歓喜の瞬間が訪れた。  白い風船が宙を飛び交うなか、川尻さんのもとに妻・陽子さんが駆け寄り、2人はがっしりと抱き合った。陽子さんは目に涙を浮かべ、哲郎さんの胸に頭をつけて号泣。哲郎さんも泣いている。夫婦で3年間、店を切り盛りしてきて、夢に見た瞬間だった。  哲郎さんはこう話す。 「このお店を開いて、これだけみんなが喜んでくれて、この日を迎えられてよかった。本当にうれしいです」  日本シリーズ優勝に向けては、 「クライマックスシリーズ(CS)は油断はできないけど、(阪神が)有利だと思います。日本シリーズはオリックスが相手なら、投手陣が強いので接戦になると思うけど、日本一を狙ってほしいですね」 【あわせて読みたい】 阪神・岡田監督が星野仙一超える“名将”か 戦略家の「知られざる素顔」とは 喜びを分かち合うように抱き合う川尻夫妻(撮影/上田耕司)    妻の陽子さんもこう続ける。 「待ちに待った“アレ”でしたから。気持ちが込み上げてきて、泣が止まらなかった」  店内にいるファンからも「ありがとう、ありがとう、川尻さん」とコールが鳴りやまなかった。  川尻氏が現役時代につけていた背番号「19」のユニフォームを着ていた安井元晶さん(61)はこう言った。 「私は寅(とら)年生まれで、西宮出身。私が生まれた1962年は阪神が優勝した年でした、もう最高です」  店の常連だという岩崎誠さん(61)は、「阪神優勝」と書かれた手作りの扇子とユニフォームを着て応援していた。 「私も1962年生まれで、2003年も2005年も甲子園にいた。今年は川尻さんと一緒に優勝を見ることができてうれしい。だって、川尻さんはかつて阪神のエースだった人ですよ。その川尻さんと優勝を分かち合えるなんて、本当に感謝しかありません」  過去の阪神優勝を知っている年配者だけでなく、若い人の姿もあった。立命館大学3年の酒井翔真さん(20)は、奈良からこの店に駆けつけたという。 「昨日は甲子園にいました。ファンのみなさんが心の底からエネルギーを放出している感じで、すごい熱気でした。岡田監督は“アレ”を封印すると言ってましたが、もう『日本一』でいい。かっこいいと思います」 【あわせて読みたい】 18年ぶりの優勝で伸びる意外な「阪神関連銘柄」は? 関西景気の恩恵や語呂合わせ効果も 優勝が決まった当日のタイガースタジアムの店内の様子(撮影/上田耕司)    翔真さんの父・宏一郎さん(47)は台東区在住で、店の常連。14日は人手が足りないので、ボランティアで店を手伝っていた。 「言葉にできないですね。もう涙が止まらなかったです。この18年間で、優勝を逃したのが2~3回あって本当に悔しい思いをしてきました。今年、岡田監督になって期待をしていたらその通りになってくれたので、その思いが爆発して涙が止まらなかった。たぶん、社会人になって初めての涙です。常連のメンバーと一緒に野球を見られて、喜びを分かち合えて、本当に幸せです」  同じく店の常連で、森下翔太選手の背番号「1」のユニフォームを着ていた田中孝さん(50)は興奮気味にこう話す。 「明日は仕事で来られへんかったから、絶対に今日優勝してほしかった。しかも、裏で広島とヤクルト戦をやっていて、その試合が終わるよりも早く、阪神が優勝を決めたのがナイスやった。今日はホームの甲子園で巨人に勝って優勝してほしかったし、巨人もそうされたくないから必死なのはわかった。本当にいい試合だった。長いペナントで優勝したんだから、もう95%達成。CSや日本シリーズはエクスビジョンやで(笑)」  今年、阪神が強くなったポイントについてはこう分析した。 「岡田監督に尽きる。査定額をフォアボールで出塁してもヒットと同じように30万円~100万円(推定)に上げたことは大きかった。あと、岡田監督は友達野球ではなく、上下関係があんねん。いい悪いは別として、それでしっかりとしたメリハリのあるチームをつくった。“アレ”っていうのはオリックス時代から言っていたけど、阪神に来てキャッチフレーズに仕上げたね」 優勝の瞬間には白い風船が宙を舞った(撮影/上田耕司)   「タイガースタジアム」では野球部をつくっており、オーナーの哲郎さんが監督を務めている。部員の1人である斎藤真吾さん(46)はこう話す。 「感無量です。もの心付いたときから阪神の帽子をかぶって少年野球をやっていました。バースがいたころからずっとファンです。今年は岡田監督がうまく選手を使っていたので、安心して見ていられました。調子が悪い選手をカバーする選手がいたことも大きいと思います。たとえば大山悠輔がダメなら佐藤輝明がカバーして、近本光司がケガした時には森下がいてくれた。CSはこのままの勢いで行くでしょう。というか、行ってくれないと困る」  夫婦で応援に来ている人もいた。豊島区から来た40代の夫婦は、夫が阪神ファンだという。 「私はファンというわけではないのですが、夫が『来たい』『優勝したら泣いてしまう』と言うので一緒に来ました。きょうは夫の12月のバースデーの前倒しプレゼントですね」  店に集ったそれぞれの人が、18年間の思いを抱えながら、歓喜の美酒に酔いしれていた。阪神のネクタイをした男性は「きょうは朝まで飲むつもりです。帰りたくないです」と話したが、店内の盛り上がりはしばらく収まりそうになかった。  店の外にでると、新橋の街はいつもと変わらない様子だった。だが、ガールズバーの呼び込みをしていた20代の女性はこんな“変化”を口にした。 「今日は阪神のユニフォームを着た人たちをちらほら見かけましたね。近くで外飲みをしていた人たちはパブリックビューイングを見て『ワーッ』と歓声を上げて盛り上がってましたよ」  大阪のような“騒ぎ”とはならないが、東京の阪神ファンにとっても、熱い一夜となった。 (AERA dot.編集部・上田耕司)
阪神優勝川尻哲郎2023 下半期ランキング
dot. 2023/12/14 11:00
大手設計事務所から「脱サラ」で写真家となった武田孝巳が感じる「フォトジャーナリストっぽさへの違和感」
米倉昭仁 米倉昭仁
大手設計事務所から「脱サラ」で写真家となった武田孝巳が感じる「フォトジャーナリストっぽさへの違和感」
  大手設計事務所で都市計画に携わってきた武田孝巳さんが写真家を志し、夜間の専門学校で写真を学び始めたのは1993年、39歳のときだった。 97年に退職すると、国際NGO「国境なき医師団(MSF)」でボランティアとして働いた。その後、7年間にわたってカンボジアを撮影。2012年からは隣国タイの首都バンコクを写している。 「タイには『マイペンライ』という言葉があります。『どうってことないよ』という意味ですが、例えば、線路わきに住んでいようが気にしない。そんなマイペンライ精神がすごく好きなんです」と、武田さんは言う。 一方、設計事務所で働いていたころは「ずっとこの仕事は自分に向いていない」と、悩み続けた。 「仕事に対する違和感があって、苦しかった。落ちこぼれってわけじゃないですけど、他のみんなはぼくなんかより全然優秀で、自分がいなくても十分だと思った」 苦労してアイデアを出しても、公共性の高い都市計画では自治体の声が強く、最終的に計画は凡庸なものに落ち着いた。 「そういうことも含めて、さまざまなところで違和感があった。だけど、見つからなかったんです。何をしたらいいのか、わからなかった。最後の10年間は、無理やりこの仕事を続けていた感じがします」 撮影:武田孝巳   あなたの作品が一番よかった 当時、仕事に疲れた武田さんは連休や正月休みを利用して海外へ出かけた。 「そして、写真にぶつかった。アフリカに行って」 ケニアでマサイの村を訪れた武田さんはおばあさんを写した。帰国後、出来上がったプリントを目にすると、「何だ、これは」と思った。 「それまで写真に興味はなかったのですが、おばあちゃんのしわしわの顔のアップを見ていたら、写真って、何だろう、と考えるようになった」 93年、夜間の写真学校に入学し、本格的に写真を学んだ。週末は新宿に通い、「ギラギラした夜の世界を写した」。 その写真を97年、国境なき医師団主催のフォトコンテスト「MSFフォトジャーナリスト賞」に応募した。 「自分の写真のレベルがどのくらいのものか、試したかったんです。でも、当然のことながら落ちました。応募資格は20代のみで、当時のぼくは40すぎでしたから」 ところが、MSFから「ちょっと来てください」と連絡があった。 「事務所を訪れると、あなたの作品が一番よかった、と言われたんです」 そのチャンスを武田さんは逃さなかった。 「しばらくボランティアで働かせてください、と頼み込んで、コネクションをつくった」 武田さんは25年間務めた会社を辞め、98年、MSFの現地事務所のつてを頼ってカンボジアへ旅立った。 撮影:武田孝巳   地雷被害者から普通の人々へ 当時のカンボジアはまだ内戦の影を引きずっていた。武田さんは地方都市、バッタンバンの郊外にあるICRC(赤十字国際委員会)義肢センターを訪ね、地雷被害者と出会った。地雷被害の悲惨さを痛感するとともに、必死にリハビリを続ける人々の姿に心を揺さぶられた。 ところが、しばらくすると、自分の取材姿勢に違和感を覚えるようになった。 「確かに地雷被害者は大勢いる。けれど、カンボジア全体の人口からすればごくわずかでしかない。それをクローズアップするのは違うんじゃないか、と思った」 武田さんはカンボジアの普通の人々の生活にレンズを向けるようになった。郊外のゴミ捨て場、水上集落、農村に足を運んだ。 「よそ者が入るのが難しい場所なので1カ月滞在しても、その半分くらいは取材の下準備です。現地に何回も足を運び、少しずつ信頼関係をつくっていかないと、撮れない。それに、『明日、撮らせてもらえませんか』と、電話して連絡がつくようなところではありませんから」 さらに、「ぼくは他の写真家と比べて、全くの『鈍行』で、撮るのが遅いんですよ」と、口にする。 撮影した写真がたまっていくと、それを見返し、「自分の思いはこんな感じなのかなあ」と考え、またカンボジアへ向かった。 それを繰り返して写真をまとめ、作品集『クメール-愛しきカンボジア』(窓社)を2009年に出版。次に向かったのは隣国ラオスだった。 「ラオスはすごくいいところでした。社会主義国家なんですけれど、政府は強権的じゃないので、人々はのんびりしていた」 ところが、すぐに撮影を断念した。 「ラオスはほとんどが農村で、どうしてもカンボジアの写真と似てしまったんです」 撮影:武田孝巳   すごく楽しく生きている 武田さんは撮影テーマを大きく変え、12年から大都市バンコクを撮り始めた。 「カンボジア取材ではバンコクまで飛び、そこからバスで入国していたんですが、経由地だったバンコクを撮ったら面白いんじゃないか、と思った」 内戦の生々しい記憶が残るカンボジアの人々にはとげとげしい一面があったという。 「それに比べると、タイの人たちは柔軟で、縛られていないというか、マイペンライ精神ですごく楽しく生きている感じがして仕方なかった」 撮影:武田孝巳   撮り方もそれまでドキュメンタリータッチからガラリと変えた。 「ぼくは人々の生活の中に入って撮ることが得意なんですが、バンコクではそこから離れて、引いて撮影しようと思った」 作品として成立させるには、「引き」で撮影するほうが難しい。なので、「どこまで引いて撮れるのか、試したい」という気持ちもあったという。 もやもやを押し殺さない バンコクは近代的な高層ビルが立ち並ぶエリアがある一方、民家や店がひしめき合う別世界がある。 「これなんか、日本じゃあ、考えられないですね」 そう言って、見せてくれた写真には線路すれすれに家々が写っている。商店やコインランドリーもある。列車が通らない時間帯には線路の上に商品が並べられ、夕方になると、レールの真ん中にテーブルが置かれ、住民たちの宴会が始まった。 「彼らの多くは不法占拠者なんです。いろいろな事情があってここに住んでいるんでしょうけれど、これもマイペンライだなと思いました」 撮影:武田孝巳   インド人街で撮影したナイトマーケットの写真には、タイ語や英語、アラビア語のカラフルな看板がひしめき合っている。 「撮影していてすごく感じたのは、東南アジアの空気のように湿ったジトっとした色です。同じ赤でも欧米の街で見るよりも色が濃い感じがした」 引きで撮影した写真には写したときには気づかなかったものがたくさん写っていた。武田さんはそんな作品を好きなように見てほしいという。 「フォトジャーナリストっぽい写真って、何かを言おうとするところがあるじゃないですか。ぼくも最初はそういうところがあった。でも、それに違和感を覚えるようになった。もうぼくにはそういう撮り方はできないと思いますね」 武田さんはサラリーマン時代からもやもやした違和感を押し殺さず、それと向き合ってきた。それが撮影の原動力にもなってきたのだろう。 (アサヒカメラ・米倉昭仁) 【MEMO】武田孝巳写真展「バンコク」 アイデムフォトギャラリーシリウス(東京・新宿) 12月14日~12月20日
アサヒカメラ武田孝己写真展バンコク
dot. 2023/12/13 17:00
【2023年下半期ランキング社会編10位】新幹線「ワゴン販売」はなぜ終わってしまうのか 1日50万を売り上げた“伝説の販売員”が思うこと 
大谷百合絵 大谷百合絵
【2023年下半期ランキング社会編10位】新幹線「ワゴン販売」はなぜ終わってしまうのか 1日50万を売り上げた“伝説の販売員”が思うこと 
車内販売員時代の茂木久美子さん。1日50万円を売り上げたときは、「意識が飛ぶくらい」の盛況ぶりで、ワゴンに載せる余裕すらなく、段ボールのまま配ったそう(画像=本人提供)  2023年も年の瀬に迫った。そこで、AERA dot.上で下半期に読まれた記事を振り返る。社会編の10位は「新幹線『ワゴン販売』はなぜ終わってしまうのか 1日50万を売り上げた“伝説の販売員”が思うこと」(8月27日配信)だった。(※肩書年齢等は配信時のまま)  JR東海は10月末で、東海道新幹線「のぞみ」「ひかり」車内でのワゴン販売を中止する。利用者の減少や、静粛な車内環境を求める声などが背景にあり、今後はグリーン車利用者を対象に、モバイル端末で注文するシステムに変える。だが、利用者の中にはワゴン販売中止を惜しむ声も少なくない。茂木(もき)久美子さんは、かつて1日50万円(平均の5倍以上)を売り上げた“伝説の車内販売員”だった過去を持つ。茂木さんは、この時代の流れをどう受け止めるのか。販売員の仕事の裏側や、当時の華やかなエピソードを語ってもらった。 *  *  * ――茂木さんが車内販売員になったきっかけは何だったのでしょうか。  もともとはCAに憧れていたんですけど、英語ができなかったので諦めました(笑)。そんななか、たまたま山形新幹線の車内販売員を募集する広告を見つけて。「翼がない私は陸で!」と切り替えて、アルバイトから始めました。 ――販売員の1日の仕事の流れを教えてください。  発車の1時間前に出勤して、3時間乗車して東京に着いたら、駅で荷物を補充して、今度は下りの新幹線に乗って山形に帰ってきます。朝は早いと5時半出勤、帰りは24時過ぎになることもあります。1日に3回乗車して東京に泊まるシフトもありました。 【あわせて読みたい】 「現役CAの超人気Youtuber」が航空会社を辞めたワケ 激震する航空業界を赤裸々告白  お給料が歩合制だったころは特に、みんな必死でしたね。少しでも多く売ろうと、発車前から売りはじめていました。新幹線にある販売員用の部屋は、冷蔵庫と冷凍庫だけが置かれた、畳1畳もないようなスペース。椅子はなくて、立ちっぱなし歩きっぱなしの重労働だけど、当時はすごく人気の職業で活気があったんですよ。 車内販売員時代の茂木久美子さん。家族へのお土産にできたての駅弁を買うのが一般的だった時代には、米沢名物の牛肉弁当が飛ぶように売れた(画像=本人提供)   ――接客や売り方には、マニュアルがあるのですか?  いえ、どの商品を積み込むか、どうワゴンにディスプレイするかは、販売員が自分で考えます。まずは、ワゴンにいかに多くの商品を詰め込むかがポイント。新幹線って長ひょろいので、商品を切らすと取りに行くのが大変で、時間のロスになります。  あとは、お客さまの様子を観察することも大切ですね。今日は週末で家族連れが多いから、子どもの目線にお土産のグッズを置こうとか。電車が停車駅に着いたときは、ホームの状況を横目で追って、「サラリーマンの方がたくさん乗車されるから、今のうちに冷たいビールと牛タンを補充しよう!」なんて、臨機応変に動くこともあります。 ――茂木さんが、販売員として心がけていたことは?  お客さまに、「この新幹線に乗ってよかった」っていう思い出を提供したいなと。お金なんてかけなくても、雑談一つでいいんです。「窓の外を見ててくださいね、あ、あそこ、うちのお父さんの畑ですー!」とか(笑)。そんな他愛のないおしゃべりでも、みなさん「えー!」って爆笑してくださいました。  私、その号車にいるお客さま全員が、元から知り合いだったかのような雰囲気にしちゃうのが得意でした。たとえば、お客さまがたくさん立っていてワゴンが通れないとき、自作の注文票を一番後ろの席の方に渡して、前に回してもらうんですよ。すると、だんだん車内に一体感が生まれて、「弁当3個だって!」「こっちはバナナ2本!」なんて、商品やお金も全部リレー形式で回してくださって。不思議なことに、クレームが来るどころかみんなニコニコして、最後は「俺、手伝ってやったぜ」みたいな、いい顔をして降りていく。まさかの参加型の新幹線です(笑)。 【あわせて読みたい】 元ギャルの「SNSコンサルタント」に熱視線 テレビ局から地方自治体まで仕事が殺到しているワケ 茂木久美子さん(画像=本人提供)   ――特に印象的だった、お客さんとのエピソードは?  えー、いっぱいあるなあ。ある夜、最終列車の発車待ちの東京駅のホームに、ぶちゅぶちゅ(※キスやハグ)しているカップルがいたんです。映画の「私をスキーに連れてって」みたいなきれいなシーンだったんだけど、本当に別れがつらそうで。男性が山形に行く人で、女性は東京の人だったの。  で、プルルルルって発車ベルが鳴ったとき、その女性に「宇都宮までだったら1時間半くらいで戻ってこれますよ」って声をかけたら、ドアが閉まる直前に飛び乗ったんです。ロマンチックでしたねー。結局その彼女、山形まで来ちゃって、その後二人は仲良くゴールインしたそうです。要は、私っておせっかいなんですけど、この件についてはキューピッドと言ってほしい(笑)。 ――2012年に、15年間続けた販売員の仕事を辞め、講演・研修講師として独立したのはなぜですか?  きっかけは、東日本大震災でした。当時、山形新幹線には、被災した家族や友人を探しに仙台に行く方がたくさん乗車されたんです。こちらも販売する商品が入ってこなかったんですけど、「私たちがいれば、お客さまは安心してくれるはず」と、体一つで乗車していました。  でもお客さまの様子を見れば、接客の仕方は変わりますよね。誰かの写真を見ながら乗っている方や、デッキで電話をかけまくっている方。とても楽しませるなんていう状況ではなかったので、少しでもみなさんの近くに行って、話を聞こうと思いました。 「どちらまで行かれるんですか?」って声をかけると、「実はね」って張り裂けそうな胸の内を話してくださる方が大勢いました。少しでも心の荷を下ろしたかったんだと思います。ある若いお客さんは、「友達の身元確認で呼ばれたんです」と教えてくれました。その子とは帰りの新幹線でも一緒になって、「どうだった?」って聞いたら、「姿が全然別人だった」って。  震災を機に、「販売員はただモノを売るだけの仕事じゃない」というポリシーが固まりました。そして、次のキャリアとして、新幹線の外に出て、より多くの人に販売という仕事の意義を伝えたいと思ったんです。 ――JR東海が車内ワゴン販売を中止するニュースを知ったとき、何を思いましたか?  さびしいなーって。それしかなかったです。でも、私も現役のころから感じていましたが、時代の流れなのでしょうね。  まず列車のスピードが速くなって、乗車時間が短くなったのは大きいと思います。新幹線が、お土産を買ったり駅弁を食べたりする“楽しみ”の場から、ただの移動手段になってしまった。パソコンやスマホが普及すると、車内で仕事をしたり、イヤホンをつけて動画を見たりしているお客さまが増えて、販売員が声をかけづらいムードになってしまいました。そして、コロナ禍です。車内の雰囲気が一気に静かになって、販売員の仕事の厳しさには拍車がかかったと思います。 ――デジタル技術の進歩に伴い、新幹線に限らず、販売員という職業は失われるのでしょうか?  というより、スキルを磨いた人とそうでない人の二極化が進んで、機械にとって代わられない販売員だけが生き残ると思います。それには、仕事を上手にこなす能力はもちろん、「あなたにお願いしたい」と応援してもらえる魅力も必要になるでしょう。  コロナ禍にあっても、お客さんといい付き合いをしていたからつぶれなかったお店がありますよね。モノだけじゃなくて、お店の人のやる気とか愛情みたいなものも買えたから、人が離れなかった。やっぱりどんな仕事でも、これからは、「自分という人間がやるからこその価値」をどこまで出せるかが、勝負になるのかもしれません。 (聞き手・構成/AERA dot.編集部・大谷百合絵) 【こちらもおすすめ】 性欲ムキ出し、痛い若作り…「職場の迷惑おじさん」たち 葬式で「ご愁傷様です」と言われたら、なんと返せばいいのか…「ありがとうございます」を避けるべき理
のぞみ車内販売ひかり2023 下半期ランキング
dot. 2023/12/11 17:00
「隠れブラック上司」がやりがちなNG行為の共通項
「隠れブラック上司」がやりがちなNG行為の共通項
無意識なブラック行動の典型が、「部下の時間を奪うこと」。たとえばメール処理ができない上司もブラックです(写真:gettyimages)    優れたリーダーとは「気くばりができる人」です。これまで、ビジネスは上意下達。上司が決めたことを部下が実行していれば成果は出ていました。  ところが、いまは顧客ニーズが複雑化した影響で、顧客の接点に近い、現場のメンバーが細かいニーズを吸い上げなければ成果が出なくなったのです。つまり、リーダーは、現場のメンバーが最高の環境で働くことができるように「気くばり」するのが仕事なのです。  本稿では、カルチュア・コンビニエンス・ クラブをはじめ、数々の会社で代表取締役を務めた柴田励司氏が、新刊『リーダーの気くばり』より部下に対してリーダーが考えるべき「気くばり」について解説します。  以前に『もしかしてブラック上司?』(ぱる出版)という書籍を上梓しました。  この本は、暴言罵倒する、残業を強いるなどの人格否定的な「ブラック行動」について書いたものではありません。むしろより深刻な「当人にまったく自覚がない」ブラック行動がテーマです。 よかれと思ってやっていることが…  自分の常識からすると当たり前の行動で、むしろよかれと思ってやっているのに、部下にはブラックと思われてしまう……。そのような言動をしていないかを読者にチェックしてもらうため、まとめたものです。  無意識なブラック行動の典型が、部下の時間を奪うことです。  たとえば、メール処理ができない上司もブラックです。メールの処理が遅い上司はブラック資質保有者、部下の仕事のタイミングも遅延させます。  深夜や休日にまとめて返信するのは、ブラック確定。隙間の時間を利用して、携帯端末からどんどん処理すべきでしょう。深夜、休日に返信を書いた場合には、下書きフォルダに入れておき、翌朝に送信するといいでしょう。  また、返信が遅れそうな場合には「〇日までに返事する」ととりあえず返します。長いメールが来たら、メールで返さずに電話をします。  特に長いメールを書いてくるということは、困っているか、いま何とかしてほしいと部下は思っているはずですから、その意を汲む意味からも、その場で解決できたほうがいいと思います。長いメールが来たときには極力会って話をするということを意識するようにしてください。  部下のスケジュールが公開されているにもかかわらず、それを確認せず呼びつけたり、仕事の依頼をするのもブラックです。そこには、部下の行動や負荷を把握していないうえに、部下の時間は自分のものという意識が、当たり前のように根底にあるように思います。  さらに、自分のスケジュールを公開しない上司もブラックです。部下からすると、いつどこで上司に相談したらよいかわからないからです。  みなさんが思う以上に、自分の行動がブラックであることに気づいていない管理職が多過ぎます。  こうしたブラック上司の存在率は業界ごとに異なるように思います。特に、人的流動性が低い業界で存在率が高いようです。  理由は簡単。他業界からの人材の流入がないため、世の中の変化を自分ごととして受け入れていない経営層、管理職層が多いからです。上司のやり方が変わらないので、そういう業界からはどんどん若手の有望人材が流出し、人が集まらない企業は事業継続ができなくなります。  経営層はこの悪循環を深刻な問題として捉えるべきです。 周囲とうまくいかない部下の対処  とても優秀な部下がいたとします。その部下は、自分の期待に120%応えてくれます。  その部下と話していると議論が弾み、気持ちもいい。つい、いろいろな仕事にアサインします。ところが周囲はその部下について総スカン。なんであの人ばかり重用されるのか……と陰口が飛ぶほどです。  あれだけやってくれているのに、なんでそんなにネガティブ評価なんだろう、と思い、その人の評価を修正しようとするのですが、うまくいきません。むしろ、なぜ、その人をそこまで守るのか??と周囲の感情を逆なでする結果となってしまいます。  その後も、その人を要所、要所で登用するにつれ、周囲の気持ちはリーダーから離れ、リーダーとその部下は孤立することになります。一方で、その人の行動についての意見(クレーム)も耳に入るようになり、その意見を当人に伝えて、なんとか周囲との関係性を改善してもらおうとします。ところが、本人からこう説明されます。  実は〇〇ということがあって、その行動になった。自分が動かなかったら事態(周囲との関係)は悪化しただろう。  これに「なるほど、周囲がわかっていない」と思います。この部下は自分と同じ目線でよくわかっていると思い、誰がどんなことを言っているのかを伝えてしまいます。ときにはメールを転送してしまったりします。  これが事態をさらに悪化させます。その部下と注進してくれた部下との関係性は最悪になります。 自分と周囲の評価が逆だったら  自分の評価は極上。ただ周囲の評価は真逆。こんなときは、自分の目が曇っているのではないかと疑いましょう。  これまで私は多くの人のアセスメントに関わってきました。5000人は優に超えているでしょう。この点からすると「人を見る目」についてはプロとしてそれなりの実績があるといえると思います。  しかしながら、こと自分が絡むことになると一気に目が曇ります。そういうものです。私情は判断を誤らせます。過去に数回、ここで書いたような失敗をしたので、自分の評価と周囲の評価にギャップがある場合にはこう捉えています。 ・その部下が自分にとって優秀なことは事実(ただし、それは自分に対してのみ) ・その部下が周囲とうまくやれていない(よくない影響をもたらしている)ことも事実  このため、こう心がけています。 ・その部下の周囲への影響を最小にするアサインとすべし ・それができない場合にはその部下を自分から離すべし  周囲のレベルとその部下のレベルに差があり、その部下の言っていること、やっていることのほうが自分の期待に応えているという場合であっても、その組織にそのレベルで動く準備がない場合に、無理にその部下に合わせようとすると、組織が機能不全になります。  何を食べるか、何の映画を観るか、どこに遊びに行くか……。物事をスパッと決められない人が多いようです。それがプライベートであれば笑い話で済むかもしれませんが、ビジネスとなると笑えません。 先日あるところでこんな話を聞きました。意思決定者がなかなか「決めない」ので困っているというのです。  彼は周囲からの提案に対して「NO」とは言わないそうです。しかし、ダメ出しだけはどんどんする。そこで再度検討して別の案を持って行くと、またNOとは言わず、ダメ出しをする。こんな感じで一向に決まらず部下たちが 困っているというわけです。  私は提案自体が悪いのではないかと思い、内容を吟味してみました。が、そんなことはないのです。 「いま決めなくてもいい」はない  上司の仕事は「わからないことを決めること」です。成功するかしないかは誰にもわかりません。部下からある程度の説明を聞いたら、自分の判断軸に照らして、「えいっ!」とひと思いに決めないといけません。  勤勉な上司の場合、自分の判断軸がないのに、下手に知識があるぶん、いろいろなオプションの検討を指示します。結果、ますます決められなくなるのです。  あなたが決められないのであれば、打開策は1つしかありません。  信頼を寄せる人に決めてもらうのです。その人に「これがいい」と言ってもらいましょう。あなたの上司でもいいでしょうし、外部のアドバイザーでもいいでしょう。 「最後は、子どもや妻が賛成するから決めた」なんていう経営者も少なくありません。どんな決め方であろうと、タイムリーに決めることが部下に対する「気くばり」となります。  ある企業に自分を高める努力を怠らない人がいました。誰よりも長く働き、熱心に課題に取り組む。その努力が認められ、30代にして役員に登用されました。  ところが彼をリーダーにした企画は、これまですべて頓挫しました。なぜなら、周りの人が動かないのです。「どうしたものか」と社長から相談を受け、この彼を分析してみました。  たとえば、会議の場で彼が意気揚々と発言していても、周囲はなぜか白けています。それでも彼は場を盛り上げようと一生懸命やっています。アイスブレーク、議論の可視化、KJ法……等々。多くのマネジメント本を読み、社外の研修に自費で出掛け、習得したスキルを実践していました。 「双方向のコミュニケーションを意識しています」。私とのインタビューでも、彼は優等生の回答をします。しかし、彼の周りに人は集まりません。いろいろ検討した結果導き出された、その原因は、彼が周囲の批判をすることにありました。 周囲を批判する人の問題点  彼の発言には、つねに他人へのネガティブな要素が含まれていました。そこに、「自分のほうが優れている」という意識が見え隠れするのです。こうしたタイプは、他人を蹴落としてでも上へ行こうとします。少なくとも、周囲の目にはそう映ってしまいます。  彼のように、何事も自分中心で、野心のある人と一緒に仕事をすると、周りの人はそのための「駒」にされてしまいます。  彼の自分を高めたいという意識は大いに結構です。伸び盛りの企業にとっては、むしろこういう人材は必要です。しかし、彼には周囲あっての自分、という意識が欠落しています。他者への気くばりがまったくありません。自分の利ばかり追求してはいけないのです。  私は彼を呼び出し、試しに、社内のほかの管理職の評価をしてもらいました。するとすべての人に対して良い点はわずかに5%、残りは問題点の指摘に終始しました。しかも大半は、「自分と比較して」の話。聞いていて気持ちがいいものではありませんでした。  一方で、彼自身のキャリアビジョンを聞くと、より大きな仕事をして社会を豊かにしたいと答え、その志はなかなか立派なものでした。  彼のなかには何かを成し遂げたいという思いが強過ぎて、足元が見えなくなっていたのです。周囲を動かすには、自分を捨てて奉仕する姿勢も必要です。  そこで彼にこうアドバイスしました。 「まずはあなたの志をみんなに感じてもらえるような存在になりましょう。いまは個人的な野心のほうが目立っています。この意味を考えておいてください」と。  志ある人には人が集まる。野心ある人からは人が離れる。リーダーとなるべき人は肝に銘じてほしいことです。(柴田 励司 : 株式会社IndigoBlue代表取締役)
パワハラ
東洋経済オンライン 2023/12/07 15:30
東京の冬を彩るイルミネーション10選! 冬の空気が澄む理由についても気象解説 2023-24年度版
東京の冬を彩るイルミネーション10選! 冬の空気が澄む理由についても気象解説 2023-24年度版
クリスマスや年末年始など、心おどるイベントが盛りだくさんのホリデーシーズン。東京では、冬の街を華やかに彩るイルミネーションイベントが数多く開催されています。なかには「なぜ寒い季節にイルミネーション?」と疑問に思う方もいるかもしれません。実は冬にイルミネーションイベントが多いことには、気象と関係する理由があります。今回は、冬がイルミネーション観賞に向いている理由の解説とともに、東京で開催中のおすすめイルミネーションスポット10選を4つのカテゴリー(定番・夜景・クリスマスマーケット・アイススケートリンク)にわけて紹介します。ぜひ参考にしてください。冬は夏の5分の1の水分量?イルミネーションが冬に向く理由を気象予報士が解説さて、イルミネーションといえば「冬」というイメージを持つ方も多いと思います。しかし、それはいったいなぜなのか、考えたことはありますか?寒くなって人肌恋しく、イルミネーションをみて心温まりたい…というような心理的な要因もあるかとは思いますが、ここでは気象的な観点から、イルミネーションが冬に向いている理由の1つである「空気中の水分量の減少」について気象予報士の徳野大地が解説します。冬は空気が澄んでいる、とよく言いますよね。空気の透明度は、空気中に漂う塵や水分量の増減が重要な要素となり、水分量が少なくなるほど、空気が澄んで見えるようになります。一般的に、冬は夏よりも空気中の水分量が少なくなります。2023年の東京を例に挙げてみると、8月の平均湿度は78%だったのに対し、1月の平均湿度は55%と減少しているのがわかります。さらに言えば、同じ湿度でも気温が低いほど水分の絶対量は少なくなりますので、東京の場合、冬の水分量は夏に比べておよそ5分の1ほどになります。この差が空気の透明度に大きな影響を与え、ひいてはイルミネーションが冬に向く理由につながるのです。澄んだ空気のなかで光をより美しく観賞できる冬は、東京でも数多くのイルミネーションイベントが開催されています。都会の冬に華やかな輝きを添える、おすすめのイルミネーションスポットをチェックしていきましょう。まさに冬の風物詩!街を煌びやかに彩る東京の定番イルミネーションスポット3選迫力満点の街路樹イルミネーションのもとロマンティックな街歩きを楽しめる、東京の定番イルミネーションスポットを紹介します。■ROPPONGI HILLS CHRISTMAS 2023 Keyakizaka Illumination けやき坂イルミネーション(港区/六本木)約400mの六本木けやき坂通りを彩るのは、幻想的な白×青のイルミネーション。輝く雪が木々に舞い降りたようなロマンティックな景色は、ホワイトクリスマスを彷彿とさせます。【見どころ】通りには、SNS映えを狙えるフォトスポットが複数あります。美しいイルミネーションのなかに東京タワーが映り込む、イベント期間中にしか出会えない風景も撮影可能です。【開催場所】六本木けやき坂通り【開催期間】2023年11月6日(月)~12月25日(月)【開催時間】17:00~23:00※イルミネーション撮影等対応のため、予告なく点灯時間が変更となる場合があります。【公式サイト】https://www.roppongihills.com/sp/christmas/2023/■TOKYO ILLUMILIA 2023-2024(中央区/八重洲~日本橋)東京駅八重洲と日本橋地区をつなぐ「日本橋さくら通り」を中心としたイルミネーションです。江戸の歴史や風情を残す街並みを、心温まる光で美しく染めあげます。【見どころ】2009年から開催されている本イベント。2023年度はリニューアルしたライトアップを楽しめます。開催場所が駅から近いことに加え23時30分まで点灯しているので、仕事帰りのデートにもおすすめです。【開催場所】イルミネーション等設置箇所:さくら通り(外堀通り~昭和通り)、八重洲仲通り【開催期間】2023年11月7日(火) ~ 2024年2月14日(火)【開催時間】16:30~23:30(東京都の要請に準ずる)【公式サイト】https://tokyoillumilia.net/■丸の内イルミネーション2023(千代田区/丸の内)約1.2kmにおよぶメインストリート「丸の内仲通り」を中心に、シャンパンゴールドに光り輝く洗練された都市景観を楽しめるイルミネーションイベントです。自然エネルギーによるグリーン電力を使用し、環境に配慮したイルミネーションである点も魅力のひとつ。【見どころ】360本を超える街路樹が、約120万球ものLEDによって美しく彩られます。開催22年目を迎える2023年は11月28日(火)~12月25日(月)のあいだ、皇居外苑と東京駅を結ぶ「行幸通り」の一部にまで規模を拡大したイルミネーションを楽しめます。【開催場所】東京駅前周辺及び丸の内仲通り、TOKYO TORCH Park ほか【開催期間】2023年11月16日(木)~2024年2月18日(日)【開催時間】16:00~23:00 (12月1日(金)~31日(日)は16:00~24:00予定)※一部エリアにより異なる場合あり【公式サイト】https://www.marunouchi.com/event/detail/37086/六本木けやき坂通りのイルミネーション(イメージ)上空からの眺めにうっとり!夜景が特に映える東京のイルミネーションスポット2選 上空から見下ろす華やかな夜景とともに楽しめる、この冬注目のイルミネーションイベントを紹介します。■SHIBUYA SKY Sparkling View(渋谷区/渋谷)SHIBUYA SKYでは「Sparkling View」と題するウィンターシーズンイベントを開催。360°の展望を誇る46階の屋内展望回廊には大量のミラーバルーンが飾られ、イルミネーションがきらめく東京の夜景を乱反射します。【見どころ】19時以降は、クリスマスツリーに見立てた光の柱「Sparkling Light Tree」が屋上から渋谷の街に向けて灯ります。30分おきに楽しめる光と音響の「スペシャルセレブレーション」のほか、2023年は空に舞うシャボン玉の演出も登場。渋谷上空229mから望む眺望と光の演出に、心おどる時間を楽しめます。【開催場所】SHIBUYA SKYSparkling Balloon Corridor:46階 屋内展望回廊「SKY GALLERY」Sparkling Light Tree:屋上展望空間「SKY STAGE」【開催期間】2023年11月16日(木)~12月25日(月)【開催時間】SHIBUYA SKY営業時間:10:00~22:30(最終入場21:20)※最新の営業時間は公式WEBサイトをご確認ください「Sparkling Light Tree」スペシャルセレブレーション開催時間19:00/19:30/20:00/20:30/21:00/21:30/22:00【観覧方法】イベント当日のSHIBUYA SKY入場チケット購入またはSHIBUYA SKY PASSPORT(年間パスポート)/⼊場チケット購入はこちら【公式サイト】https://www.shibuya-scramble-square.com/sky/sparkling_view/■TOKYO TOWER 65th anniversary CITY LIGHT FANTASIA 2023 Winter(港区/芝公園)東京タワーのメインデッキでは、壮大なプロジェクションマッピングが投影されます。高さ150mから望む夜景と光のアートが融合した窓面全体が、絶好のフォトスポットに。【見どころ】2023年冬のプロジェクションマッピングは「夜空に舞う冬の蝶が東京の街を次々と凍らせ、煌びやかな氷の世界をつくりあげる」という幻想的なストーリー。室内にいながらにして、美しい東京の冬を堪能できます。【開催場所】東京タワー展望台 メインデッキ2階北面【開催期間】2023年11月3日(金・祝)~2024年2月18日(日)【開催時間】2023年11月3日(金・祝)~2024年1月14日(日):17:00~22:202024年1月15日(月)~2月18日(日):17:30~22:20【入場料金】展望料金のみ/展望券購入はこちら【公式サイト】https://www.tokyotower.co.jp/event/attraction-event/citylightfantasia2023-winter/シャボン玉演出イメージヨーロッパの冬を再現!東京のクリスマスマーケット×イルミネーションスポット3選ドイツを中心としたヨーロッパの伝統的なお祭りである「クリスマスマーケット」。イルミネーションとのコラボレーションによって華やかなクリスマス気分を満喫できる3スポットをピックアップしました。■青の洞窟 SHIBUYA『青の洞窟 Xmas market』(渋谷区/代々木公園)家庭で楽しめる本格イタリアン「青の洞窟」ブランドが贈るイルミネーションイベント。2023年は「青の洞窟 SHIBUYA -DAY&NIGHT-」をテーマに、渋谷公園通りから代々木公園ケヤキ並木までの道のりを、約77万球もの幻想的な青い光が照らし出します。【見どころ】2023年はクリスマスマーケット「青の洞窟 Xmas market」が初登場。グルメや雑貨など約20店舗が出店します。15時から開催するクリスマスマーケットを満喫してから、渋谷駅方面へと続くイルミネーションを楽しむことも可能です。【開催場所】代々木公園ケヤキ並木会場【開催期間】2023年12月1日(金)~12月25日(月)【クリスマスマーケット開催時間】15:00~21:00※イルミネーションは17:00より点灯※雨天等、諸般の事情により、点灯時間や実施内容は変更となる可能性があります。【公式サイト】https://shibuya-aonodokutsu.jp/■東京スカイツリータウン(R) ドリームクリスマス2023 クリスマスマーケット(R)2023(墨田区/押上)約46万球の煌びやかなイルミネーションに彩られた東京スカイツリータウンには、ドイツのクリスマスをイメージしたクリスマスマーケットが登場。イルミネーションや限定ライティングを眺めながら、ヨーロッパのクリスマス気分を味わえます。【見どころ】豪華な雪装飾ヒュッテ(ドイツ式小屋)には本場から輸入したモニュメントを施し、雪降るドイツのクリスマスを表現。2023年は日本一の巨大シュトーレンも限定販売されます。【開催場所】東京スカイツリータウン内 4F スカイアリーナ【開催期間】2023年11月9日(木)~12月25日(月)【開催時間】11:00~22:00(ラストオーダー21:00)【公式サイト】https://www.tokyo-solamachi.jp/event/2231/■東京クリスマスマーケット2023 in 明治神宮外苑(新宿区/明治神宮外苑)イルミネーションや、クリスマスにぴったりの演奏・パフォーマンスなどのステージも楽しめるクリスマスマーケットです。グリューワインやホットチョコレートなどのドリンク、ローストビーフやステーキなどのフード、オーナメントやスノードームなどの雑貨まで、クリスマス気分が高まる店舗が立ち並びます。【見どころ】2023年の東京クリスマスマーケットは、明治神宮外苑にて過去最大規模で開催されます。本場ドイツのザイフェン村からやってきた、高さ14mもの「クリスマスピラミッド」も必見です。【開催場所】明治神宮外苑 聖徳記念絵画館前・総合球技場【開催期間】2023年11月23日(木)〜12月25日(月)【開催時間】11:00~21:30(ラストオーダー21:00)【入場方法】事前予約チケットまたは当日入場チケットを購入/前売りチケット購入はこちら※当日入場券をご購入の場合はオリジナルマグカップの入場特典は付与されません。※当日券料金は事前予約チケットと同額です。【公式サイト】https://tokyochristmas.net/クリスマスマーケット(過去の様子)(C)TOKYO-SKYTREETOWNアクティブデートに!東京のアイススケートリンク×イルミネーションスポット2選美しいイルミネーションに包まれながらスケートを楽しめる、東京のアイススケートリンクを紹介します。■COACH MIDTOWN ICE RINK(港区/赤坂)本物の氷で作られた、都内最大級の屋外アイススケートリンクです。17時過ぎからは、リンク周辺のイルミネーションが点灯。美しい光に彩られたリンクを滑る贅沢なひとときを楽しめます。【見どころ】グローバルファッションブランド「COACH(コーチ)」とコラボレーションする2023年は、ひときわ華やかな装いに。東京ミッドタウンのカフェやレストランで使用可能な「カフェ&グルメチケット(500円)」の入場特典もあるので、スケートの後にゆっくり休憩できます。【開催場所】東京ミッドタウン 芝生広場【開催期間】2023年11月16日(木)~2024年2月25日(日)※2024年1月1日(月・祝)は休館日のためクローズ【開催時間】11:00〜21:00(20:00最終入場)周辺イルミネーション点灯 毎日17:04~23:00※状況により点灯時間が変更になる可能性があります。【入場方法】当日に会場受付にてチケット購入可能。Web上での販売や事前予約はなし/滑走料・貸靴料はこちら【公式サイト】https://www.tokyo-midtown.com/jp/event/6734/■Rooftop Star Skating Rink(中央区/銀座)GINZA SIXの屋上庭園に、樹脂を使用したスケートリンクが期間限定で登場します。夜になると、クリスマスの装飾が施されたリンク周辺の木々が煌びやかにライトアップ。1970~80年代に流行したシティポップやクリスマスソングのBGMも、ワクワク気分を盛り上げてくれます。【見どころ】昨年よりも滑りやすさを追求した樹脂リンクは、転んでしまっても服が濡れないことが嬉しいポイント。スケートに自信がなくても安心して滑ることができます。【開催場所】GINZA SIXガーデン(屋上庭園)【開催期間】2023年11月17日(金)〜 2024年1月21日(日)【開催時間】平日 14:00〜21:00、土日祝日 11:00〜21:00(最終受付 20:30)※12月23日(土)~2024年1月4日(木)は土日祝日扱い※12月31日(日)は11:00〜18:00(17:30受付終了)、元旦は休業※荒天時や当日の気温により、営業時間や開催内容が予告なく変更・中止になる場合があります。【入場料金】滑走料や物販・レンタルはこちら【公式サイト】https://ginza6.tokyo/news/177596お出かけ前は天気予報をチェック!東京のイルミネーションイベントを満喫しよう冬の東京では、趣向を凝らしたさまざまなイルミネーションイベントが開催されています。ぜひ、好みに合わせて参加してみてください。イルミネーションイベントは天気の影響を受けやすいほか、野外イベントでは防寒対策も必要になります。お出かけ前は、忘れずに天気予報を確認しておきましょう。お出かけスポット天気なら、東京都の主要お出かけスポットの天気をピンポイントでチェックできます。暖かい格好でイルミネーションイベントを満喫してください。※掲載内容は2023年12月1日時点の情報です。開催情報は状況により変更になる可能性があります。最新情報は、公式サイト等でご確認ください。※写真はすべてイメージです。
tenki.jp 2023/12/06 18:00
「私は多動なんですよ」原点は“恋心”という女性心理学者(68)がダイバーシティの旗を振るまで
高橋真理子 高橋真理子
「私は多動なんですよ」原点は“恋心”という女性心理学者(68)がダイバーシティの旗を振るまで
  理化学研究所で発見された113番元素ニホニウムの記念プレートの前に立つ仲真紀子さん=埼玉県和光市の理化学研究所西門前  子どもの記憶について研究していたころ、「子どもの供述の信用性はどの程度だろうか」と弁護士から相談を受けた。記録を読んでみると、質問する大人が誘導している。「これじゃいけない」と思って目撃証言の研究を始め、のめり込んだのが心理学者の仲真紀子さんだ。20年ほど前にイギリスで「司法面接」という手法に出合い、それを国内に広めてきた。  昨年4月から、理化学研究所の理事を務める。2020年に科学技術基本法が改正されて科学技術・イノベーション基本法となり、「科学技術」に人文科学も含めるようになった。「それで文系の私が呼ばれたんだと思う」。担当はダイバーシティ、若手育成、国際、広報。人懐っこい笑顔で忙しく動き回りながら、女性研究者を増やそうと旗を振っている。 (聞き手・構成/科学ジャーナリスト・高橋真理子) 子どもからどう話を聞くか ――司法面接とは、どういうものですか?  簡単に言うと、被害にあった疑いのある子どもから事情聴取をするときの面接手法です。子ども自身の言葉で話してもらうこと、録音・録画すること、児童相談所の職員や警察官、検察官が連携して面接回数を最小限に抑えること、などの特徴があります。2015年に厚生労働省、警察庁、最高検察庁から通達が出されて、3機関が連携しやすい環境が整い、全国で行われるようになりました。それを受けて、司法面接の録音・録画を裁判の証拠として扱えるように今年、法律も改正されました。 ――ほお、社会にどんどん浸透してきているんですね。いつごろから取り組んでこられたんですか?  1999年にアイルランドで「法と心理学」の国際学会があったんです。私は「いかに子どもが誘導されやすいか」「記憶が変わってしまうか」という研究結果を報告した。そのときイギリスの研究者が「イギリスでも同じような問題があったけど、こうやっているよ」って司法面接のことを教えてくれた。これだ、って思って、まずはイギリスのガイドラインを翻訳しました。  国際学会に行ったのは千葉大学の助教授のときで、その前に弁護士さんから子どもの供述の信用性について尋ねられたことがあったんです。それをきっかけに目撃研究に引き込まれ、東京都立大学(現・首都大学東京)に移ってからは「子どもからどうやって話を聞けばいいか」という研究を進めました。  2003年に北海道大学に移り、北大は自由というか、新しいことに対して本当にオープンで、北大と児童相談所が契約を結んで年に3回ぐらい実務家が研修を受けるプログラムができたんです。 ――へえ。それは素晴らしい取り組みでしたね。北大は公募ですか? 司法面接研修で撮った一コマ。子どもが落ち着ける環境で、子どもに安心して話してもらうようにする=北海道大学にあった研究用模擬司法面接室  はい、教授の公募が出たので応募したんです。着任してみると、比較的大きなプロジェクトが次から次に来た。それまでは年間50万円から100万円ぐらいの科学研究費を取って個人研究をしていたんですが、北大に行ったらいきなり1000万円のプロジェクトに応募するから共同でやりましょうと言われた。それは不採択になったんですが、その後、文部科学省の大学院改革関係のプログラムがあって、「その代表をやって」と言われて引き受けました。  当時、人文系の博士号は一生かけて取るもので、大学院在学中に博士号を取る人は少なかった。それを理系と同じように博士課程の3年で学位を取れるようにしたいというのが文科省の意向でした。 雰囲気を醸成していった ――それはすごく大変そう。古いやり方に固執する人がいっぱいいたのではないですか?  教授会のメンバーは100人ぐらいで女性はほんの2、3人だったんですよ。新しく来たばかりの仲さんはちょっと変わっているし、だからやってもらうか、みたいな感じだったかもしれないですね。  私、いまの言葉で言えばハイパーアクティブ、多動なんです。子どものころは「おっちょこちょい」って言われていて、これは博多弁で「落ち着きがない」という意味です。大人になって、自分の人生を振り返っても多動であるのは間違いないです。でも、ちょっと変わっているから得したかもしれませんね。なんか、みんな言うことを聞いてくれた。 ――え~、本当ですか?  はい。まあ、実際にはなかなかすぐには動かないですけれど、みんなで冊子を作って「私が思う学位の基準」みたいなものを書いてもらったり、英国や米国をはじめ海外から研究者を呼んできて3年で学位を取る、取らせる工夫を話してもらったり、こちらからも学生を海外に派遣したりして、何となく雰囲気を高めるっていうようなことをやりましたね。 ――それで文系も3年で博士号を取れるようになった。いやあ、大きな仕事をされましたね。  みんなで、だんだんとですね。過大評価しているかもしれない、自分の中で。ただ、この経験があったから、自分の専門の心理学の分野で大きなプロジェクトを動かせたんだと思います。  2008年から3年間は科学技術振興機構(JST)社会技術研究開発センター(RISTEX)の「犯罪から子どもを守る 司法面接法の開発と訓練」の代表になり、2011年からは文科省の「新学術領域研究」というプログラムの中で「法と人間科学」という領域を立ち上げ、代表になりました。50人ぐらいの研究者がチームに分かれて研究を進めたんです。RISTEXではもう一度「多専門連携による司法面接の実施を促進する研修プログラムの開発と実装」というプロジェクトの代表を務めました。 ――まさに司法面接を日本に定着させるのに中心的な役割を果たしてこられたんですね。そもそも、どうして心理学の道へ? 役員応接室で語る仲真紀子さん    私は鉄腕アトムで育った世代で、お茶の水博士にあこがれて高校生のときは理系だと思っていたんですが、ちょっとひよって心理学に行ったんですね。長い話になっちゃいますけど、高校のときアメリカに1年間留学する制度があって……。 ――はい、AFS(国際教育交流を進める民間団体の一つ)ですね。  そうそう、それで1年米国に行って帰ってきたら数学を忘れてしまっていて(笑)。父は建築会社に勤める建築士で、私も建築みたいなことをやりたいなと思い、お茶の水女子大学には美学というのがあって、そこに行ったら建築物を美学的な観点から研究できそうだということで哲学科美学専攻に入りました。  これはオフレコかもしれませんけど、好きだった男の子が心理学をやっていて、恋心とあいまって心理学に関心を持ったんですよ。行動実験とかをするので、理科系っぽい部分もある。あ、こっちのほうが向いているかもと思って、1年生の終わりに哲学の先生に「関心が変わりました」って言ったら、2年生から心理学科に移らせてもらえた。でも、その男の子にはあっさりふられて、心理学だけが残ったみたいな(笑)。 ――へえ。 一人旅をしているときに知り合った  私は一人旅が好きで、それも心が落ち着いていないから、旅をして自分のことや将来のことを考えようとしていたんだと思うんです。あのころはユースホステルを利用して、そこで出会った若者どうしが何日か一緒に旅をしていました。そうやって知り合ったのが旦那です。 ――どんな方だったんですか?  私より3つ下で、私は高校で留学して学年が1年遅れているから、出会ったのは私が4年生にあがる春休み、彼は2年生にあがるときでしたね。筑波大学で生物を勉強していました。細胞膜とかシナプスとか。今はコンピューターを使った生物情報学が専門になっています。埼玉県出身で、筑波大の寮で生活していた。  それで私が修士1年のときに結婚しちゃったんですよ。私は若いころ、妹のほうが親に可愛がられていていいなあと思ったり、なんか暗かったんです。今も陰キャだと思うんですけど。 ――え? 全然暗くないですよ。  そうそう、そういう感じはしないですよね。でも、昔はもっと孤独で、何のために私はここにいるんだろう、とか思って、今から思うとせっつくようにして(笑)、結婚したんです。 ――彼は何て言ったんですか?   双子の娘たちと保育所で=1991年  よくわかっていない学部生だったから(笑)、「わかった。じゃ、結婚しよう」って。私とはタイプが全然違って、堅いというか、精緻というか。私がフワッとしたことを言うと、それじゃ意味がわからない、もっと詳しく説明してくれないと、というようなことを言う。私が修士論文を書けた半分は議論の相手になってくれた彼のお陰です。とても感謝しています。最初に住んだのは、筑波大の夫婦向けの寮でした。  私が修士を終えたとき、お茶大の博士課程は人間文化研究科という科が一つだけで、私は文教育学部から進みましたけど、理学部からも家政学部からも来た。こぢんまりしたところで専門が違う人どうしでワイワイやっていたから、自分がやっていることが自然科学系と違うという意識はあんまりないんですよね。  博士課程の最後の年に妊娠し、助手になった年の10月に出産しました。女の子の双子だったんです。お茶大から歩いていけるところに住んで、子どもたちは保育所に入れました。彼は修士を終えるとシンクタンクに就職しました。すごく忙しい職場で、帰りは毎日深夜。私はもうよく覚えていないくらい大変でした。でも、私がそう言うと「いやいや、俺だってミルクをあげた」とか言いますけどね。 米国留学は「行って本当によかった」 ――お茶大の助手は3年で終わったのですね。  最初から3年と言われていました。それで、先輩たちと同様に就職活動をして、千葉大教育学部へ。教育心理学教室の講師になった。そこで35歳以下の研究者を対象にした在外研究プログラムにぎりぎりのタイミングで申請し、米国のデューク大学に10カ月間、留学できました。子どもを2人連れて行くと言ったら、夫からは「離婚を覚悟で行ってくれ」なんて言われてしまい、職場からは「今行ってもらっては困る」とも言われたんですが、行ってしまった。  行って本当に良かった。結局、夫も4回ぐらい米国に遊びに来ました。子どもたちは幼稚園のあとはYMCAのアフタースクールのプログラムに行き、手続きも簡単で、私は存分に研究ができた。帰国してから英語の論文を米国の雑誌に出しました。それまで、日本の心理学は日本語の論文を日本の学会誌に出すのがメインだった。私にとっては英語論文を書くということ自体が新しいことでした。 ――どういう研究をされたのですか?  自然文脈の中での記憶です。実験室で何かをパッと見せて覚えているかといった研究ではなく、例えば漢字を覚えるには「書いて覚える」のがいいとよく言いますよね。それは本当に有用なのか、というようなことを調べた。   双子の娘たちの小学校入学式=1991年4月  いつのまにか旦那は筑波大の元の指導教員のところに通い始め、仕事を続けながら論文博士を取りました。もともと研究者になりたいと言っていたんです。修士で就職したときは「あれ? 研究者にならないんだ」と意外に思ったんですが、あとから考えてみると「男性が稼がなければ」というような気持ちを持ってしまったのかもしれません。学位を取れたころには,短大の教員をしていました。 子育てはずっと綱渡り  ところが、その短大がやがて閉校となり、筑波大を定年退職した恩師とともに九州産業大学に行くことになった。私は都立大にいたときで、「え~、行っちゃうの」と思いましたが、しょうがないっていう感じでした。それから20年ぐらい別居です。 ――お子さんたちは?  小学校に入ったあと保育所仲間のお母さんたちと一緒に学童保育所をつくりました。でも、学童保育は3年生まで。そのころ私の父母が同じマンションに住むようになって、晩ごはんはおばあちゃんちで食べてねっていうようなことができるようになった。子どもが小さいころはベビーシッターも雇ったし、近所の方にも助けていただいた。もう、ずっと綱渡りでした。  高校は2人ともニュージーランドに留学したんです。子どものころ、私と一緒にアメリカに行ったことも影響したかもしれません。アメリカはお金が高いから無理だよと言っていたら、アメリカより安めで行けるということを自分たちで調べて。 ――え、3年間、向こうの高校ですか?  そうです。 ――たくましいですね。  親がこんなんだから、お母さんお父さんには任せられないと思ったんでしょうね。卒業して帰ってきて日本の大学に行きました。大学に入ったらそれぞれ下宿です。 ――そうすると、お嬢さんたちが高校に入って以降は、伸び伸びと研究ができたわけですね。  そういうことになりますね。女性研究者のライフって、本当に親のこととか子どものこととか夫のこととか、みんな絡まってきますよね。自分一人でどうっていうふうにならない。  北大の定年は63歳だったんですけれど、61歳のときに立命館大学に新しい学部をつくるから来てくれませんかと言われて、大阪いばらきキャンパスにできた総合心理学部に移りました。 ――夫さんがいる福岡に近づいたわけですね。  彼はもう本当に形の決まった生活をしている。朝4時ぐらいに起きて6時ぐらいに大学の研究室に行って、決まった時間にコーヒーを入れて仕事を始める、みたいな。いつも福岡に行くとそれに付き合わされます。私は2カ月に1度ぐらい福岡に行き、彼もそれぐらいのペースで大阪に来ていました。最近は朝ごはんを食べるときはZoomで喋りながら食べています。 ――へえ、北大時代はどうしていたんですか? 夫と真紀子さんの両親と出かけた家族旅行=2017年12月、長野  もう少し疎遠でしたけど、でもだいたい同じくらいのペースで行ったり来たりしていた。どっちかと言うと、私のほうが結婚して、って言ったし、押しかけ女房というか、弱い立場にあるなあって思うんです。でも、嫌なことは嫌って言うようにしている。例えば、映画を女性と2人で観に行かれたら嫌だなと思う。だから、面白い映画をやっているという話が出たときには、「誰と行くの?」って聞いて、「1人だよ」と言われたら、「ならいいけど」みたいな。本当に嫌だもん。 ――お気持ちが若いですねえ。  そうですか。ちょっとねえ、立場が弱いんですよ(笑)。 研究の世界に女性を増やす ――理研の理事になっていかがですか?  もう都度都度、「女性」って言っています。 ――大学にいたときはどうだったんですか?  私自身は、あまり女性女性っていうふうに思わないできたんです。日本学術会議でジェンダー分科会っていうのがあって、それには入っていましたけど、最初は少しうっとうしいぐらいに思っていた。ホント、申し訳ない。 ――研究で手いっぱいだったんですよね。お気持ち、わかります。  まあ、そういうことですね。でも、私の研究室は女性比率が高い。ある研究者が言っていたんですけど、女性がいっぱいいるところのほうが女性にとっては敷居が低いって。ある意味、当たり前のことです。だから、研究の世界に女性を増やすことが大事だなと思う。とくにPI(研究主宰者)になる女性が増えてほしいと思って、今は口を開けば「女性」って言っています。そればっかりの人だなと思われているかもしれません(笑)。 役員フロアにある自室のデスクに座る仲真紀子さん 仲真紀子(なか・まきこ)/1955年福岡市生まれ。父親の転勤で小学校低学年のときに千葉県へ。1979年お茶の水女子大学卒、大学院へ。学術博士。1984~87年同大大学院人間文化研究科助手、1987~99年千葉大学教育学部講師、助教授、1999~2003年東京都立大学人文学部助教授、2003~17年北海道大学大学院文学研究科教授、2017~21年立命館大学総合心理学部教授、2021年~同大OIC総合研究機構招聘研究教授、2022年~理化学研究所理事。
dot. 2023/12/05 17:00
子どもを救う「無料塾」という生き方の原点となった貧困体験 大学受験直前「家の全財産は800円」
子どもを救う「無料塾」という生き方の原点となった貧困体験 大学受験直前「家の全財産は800円」
小宮さんが大学入学前の春休みに母親と撮った一枚。お金にはかなり苦労していた   八王子つばめ塾の設立には、小宮位之氏が目の当たりにしてきた「貧困」が大きく関わっている。幼少期には自身の家庭で貧困を経験し、社会人になってからは世界各地で同様の光景を見た。特に自身が体験した貧困家庭での暮らしは、塾へ通ったことさえなかった小宮氏が、「無料塾」という生き方を選ぶ大きなきっかけとなった。当時の自分の感性を忘れたくない、苦しい生活を送っていた時代の自分から何を言われても恥じない生き方をする。それこそが、著者を「無料塾」に邁進させる原動力となった。『「無料塾」という生き方』(ソシム)より一部を抜粋、編集して掲載する。 *  *  * 受験直前、記憶をなくした夜  私が高校3年生の12月、大学受験本番まであとわずかというある夜のこと。自宅で勉強をしていると、襖の向こうから両親の会話が聞こえてきました。 父「そういえば、うちに今、金はいくらあるんだ?」 母「800円しかないわよ」  わが家は収入の少ない家庭でした。銀行の貯金などほとんどありません。家にある800円は全財産と言ってもいいでしょう。勉強の手は止まり、1人でつぶやきました。「え、800円でこれから一体どうするの」と。そう口走った瞬間に頭の中で何かがパチンと切れた音がして、陸上部のジャージを着ただけの格好のまま、家を飛び出して走りだしました。それから1時間後にゼイゼイと息を切らしながら家に帰ってきたものの、その間の記憶がさっぱりないのです。今でも、どこをどう走ったのか、どの道を通って家まで帰ってきたのか、全く思い出せません。  いかにわが家の家計が苦しいかという事実を、受験直前に改めて突きつけられた出来事でした。  私が生まれ育ったのは、そんな貧困家庭でした。 中学2年生のころの小宮氏。自宅にて   小3で感じた「貧困」と「社会格差」  とはいえ、小学2年生までは、自分の家を貧困家庭とは思っていませんでした。そのくらい、ボーッとした男の子だったのです。  よその家庭とわが家とを比べて「うちは貧乏なんだ」と初めて気づいたのは、小学3年生のときです。夏休みの自由研究に選んだのは「わが家の電気・水道節約調べ」。  都営団地に住むには所得制限があります。つまり、世帯収入で見れば似たり寄ったりのはずです。それでも、この夏休みの宿題をしながら、子ども心に格差を感じました。「あれ? うちってお金ない家なんじゃないか?」って。  小学3年生で芽生えた社会的な格差への意識は、その後さまざまなところへ向くようになりました。団地の外に行けば、1台で数百万円するような高級外車がたくさん走っています。でも都営団地へ目をやれば、わが家をはじめとして、お金のない家がたくさんあります。 「外にはいくらでもお金を持ってる人がいる。それと同時に、わが家みたいにお金のない家がある。この差は何だろう」という疑問が生じてきたのもこの時期でした。そこから「このまま、ボーッとしてちゃいけないんだな」と感じ始め、自分から勉強をするようになったのです。  小学校高学年の頃にはかなりよい成績を取れるようになっていました。ただ、学習環境は決して整っているとはいえませんでした。  母が内職で使うミシンと勉強机とは背中合わせで、椅子は1つだけ。つまりミシンを使うときには勉強机は裁縫用具の置き場になり、椅子もないので母の仕事中は自分の机で勉強できません。こんな狭い家で何かと不自由はありましたが、そんなときには食卓でノートを広げればいいし、勉強するのに苦労を感じたことはほとんどありませんでした。塾に行く必要性を感じることもありませんでした。 「八王子つばめ塾」での授業風景   13歳だった自分に恥じない生き方 「無料塾の主催者だから、『塾至上主義』なのでは?」と、たまに誤解されますが、個人的には塾が必須だとか万能だとか思ったことはありません。生徒として塾に行ったことが一度もない人間ですから。逆に、一般的な学習塾のイメージがなかったおかげで、八王子つばめ塾を作れたのかもしれません。  中学校からは陸上部に入りました。数か月後、初めての試合に出ることになって、スパイクの値段を知ったときはとても驚きました。確か5400円だったと思います。これまでの人生で安い靴しか買ったことがなかったので、靴に5400円も出すのか、こんな金額を親に払ってもらうのは申し訳ないな、と思いました。でも両親はなんとか出してくれました。  陸上部でもう1つ、お金にまつわるエピソードがあります。中学2年生だった1991年に、世界陸上競技選手権大会が東京・代々木の国立競技場で開催されました。陸上部の顧問にチケットをもらって部活の友人と観戦しに行ったときのことです。  世界のトップ選手の活躍を目にした後、競技場の周りのショップでお土産を買おう、という話になりました。友人は記念Tシャツなどを買っていましたが、余分なお金なんて私にはありません。ギリギリで買える安いものはないかと探し、手に取ったのがボールペン。200円のペン1本買うのが精いっぱいです。  帰りの交通費は残せたとホッとしたのもつかの間、帰り道におなかをすかせた友人たちが、代々木駅の近くで見つけた牛丼屋に立ち寄ることにしたのです。あとは帰るだけだ、もうお金を使わないだろうと思っていた私は慌てました。さすがに1人だけ食べないわけにも行かず、一番安い「牛皿」しか食べられませんでした。  小学校・中学校時代だけでも、貧乏にまつわるエピソードは尽きません。でも私は、家にほとんどお金がなかった13歳の頃の、自分の感性を忘れたくないと思っています。そして13歳の自分に胸を張っていられるような生き方を目指しています。もしも、八王子つばめ塾を立ち上げていなかったら、13歳の自分にこう、ツッコまれていたと思うのです。 「何だ、結局自分が幸せになればそれでいいのかよ。結婚して、子どもができて、正社員で、ボーナスまでもらえて。そうなると、都営団地に住むような俺たちことなんか関係なくなるんだな!」  13歳の自分なら、間違いなくそう言っていると思うのです。その頃の自分に、今の私が答えます。 「いや、今こうやって、無料塾を開いているよ。正直、まだまだ力は足りないけど、毎日全力を尽くしているよ!」 ●小宮位之(こみや・たかゆき)/認定NPO法人八王子つばめ塾理事長。1977年東京都生まれ。貧困家庭に育つ。都立南多摩高校、國學院大學文学部史学科卒業。私立高校の非常勤講師や映像制作の仕事を経て、2012年に無料塾である「八王子つばめ塾」を設立。翌年、NPO法人化。塾創設以来11年間で、300名を超える卒業生を高校や大学に送り出す。無料塾を立ち上げたいという個人への助言活動も精力的に行い、全国で50か所以上の無料塾の立ち上げをサポート。現在は、NPO法人東京つばめ無料塾の理事長を兼任し、東京薬科大学と私立高校で非常勤講師を務める。
無料塾
dot. 2023/12/05 06:30
貧困家庭を救う「無料塾」をつくった37歳会社員がまさかの“貧困”に…立ち上げ1年の壮絶なバイト生活
貧困家庭を救う「無料塾」をつくった37歳会社員がまさかの“貧困”に…立ち上げ1年の壮絶なバイト生活
「八王子つばめ塾」をスタートさせて半年後の小宮位之氏    2012年に生徒1人から始めた無料塾「八王子つばめ塾」は、半年後には生徒が6人に増えた。このとき、創始者の小宮位之氏は、正社員の仕事を辞めて塾の運営に専念すると決意を固めた。それからは妻と3人の幼子を養うために、複数のアルバイトと塾運営を掛け持ちする日々が始まる。貧困に苦しむ子どもを救うために無料塾を立ち上げた本人が貧困に陥ってしまうというパラドックス――だが、この苦しい生活の先にあったのは、1年後に大きく成長した「八王子つばめ塾」の姿だった。『「無料塾」という生き方』(ソシム)より一部を抜粋、編集して掲載する。 *  *  * 育った場所へ戻ってくる「つばめ」  なぜ「つばめ」なのかと、よく質問されます。実は小さな頃から住んでいた都営団地のすぐ近くにツバメの巣があって、親鳥が子育てをしていたのです。その様子を毎年観察し、幼心にツバメはかわいいな、と思いながら私は育ちました。  ツバメはご存じのとおり渡り鳥で、春に生まれた雛が大きくなり、夏になると巣立って海を越えて南の国々へと旅立ちます。そこで成長したツバメは、また翌年の春に日本へ戻ってくるといいます。その習性と無料塾で実現したいこととが、パッと重なり、これはピッタリだと思ったのです。  八王子つばめ塾は、100%ボランティアで構成されている組織です。その原動力の1つは、ボランティアによる学習支援を受けた子どもたちが大きくなって、またボランティアというフィールドに戻ってきてもらいたいという思いです。  同じ巣や同じ地域でなくても、教育ボランティアでなくてもかまいません。それぞれが成長した先でそれぞれが行えるボランティアをしてもらうこと。自分から人のために行動しようと思ってもらうこと。これこそが私たちの理念であり、それを実現してもらいたいという願いを込めて、「八王子つばめ塾」と名付けたのです。 長男の入学式で撮った家族写真。小宮氏はこのとき完全な無職だった   本人が貧困に陥る  2012年9月、八王子つばめ塾は、講師は私1人、生徒1人から始まりました。  半年後には、1人だった生徒は6人に増えました。ボランティア講師のなり手はそれ以上に増え、10人を超えていました。生徒よりも講師のほうが多い教室で、私も一緒に教える日もありました。  教育畑出身だった私には、八王子つばめ塾はまさに天職でした。働きながらボランティアをやってみたいと、ある意味で気軽に立ち上げた無料塾の活動に、やればやるほどのめり込んでいきました。  八王子つばめ塾を作って約半年後の2013年3月末で勤め先を退職。4月には長男の小学校入学式を、その数日後には次男の幼稚園入園式を控えています。その父は、再就職先はおろかアルバイト1つ決まらない完全な無職です。そして三男はまだ1歳半。  その1週間後に、ようやく月収数万円のアルバイトが決まりましたが、とても生活費には足りません。どうしようもない状態です。妻は「私も働けるから」と、早朝からパートに出てくれました。  その後も家族を養う手だてを探し、家庭教師、予備校の講師、弁当屋の皿洗いに配達、コンビニの夜勤……無料塾の運営や生徒に教える時間を確保できる仕事ならば何でもやりました。何足ものわらじを履きながら、八王子つばめ塾で教え続けました。しかし、八王子つばめ塾の運営は本当に楽しくて、つらいと思ったことは一度もありません。一番の苦労は、自分と家族の生活を守ることでした。  妻と3人の子どもを抱えながら自分のやりたいことへと突き進むのですから、家族に苦労をかけてはいけないと思い必死に働きました。37歳にもなってアルバイト先で「いい加減に仕事を覚えろ! お前!」なんて頭ごなしにどなられながら、厳しい生活を送る毎日でした。  貧困をなんとかしたい! と無料塾を立ち上げた本人が貧困に陥るブラックジョークのような状況です。ここまで没頭して打ち込まなければいいのでしょうが、無料塾を全国に広げたいと思ってしまったものだから、こればっかりは致し方ありません。 最初に参加したボランティア講師が担当した授業風景   設立から1年で生徒は50人に  アルバイトを掛け持ちしながら、2013年5月にNPO法人化を目指すための準備を始めました。これまでは全くもって個人の活動でしたが、生徒やボランティア講師が集まるようになり、活動を個人で対応できる範囲にとどめるべきではなく、オープンな形で進めていくべきだと思うようになりました。  その根っこにあったのは、私的な活動から公的な活動へ、さらに八王子から全国へ無料塾を広めたいという思いでした。  この当時は、八王子つばめ塾どころか無料塾自体が全く知られていませんでした。私が無料塾の活動を広めるべく「無料塾を作りませんか」と話をしても、どこの馬の骨とも分からない男が、聞いたこともない塾を作ろうと言っているだけです。そこで、しっかりとした団体が運営しているという裏付けを得るためにNPO法人化が必要だと考えました。  すべては「現在の収入格差を、子どもたちの教育格差にしない。そして現在の教育格差を、次世代の収入格差につなげない」という大きな目標のためです。  東京都の認証を受け、2013年10月28日付けで「特定非営利活動法人八王子つばめ塾」になりました。  苦しい生活が続く一方、八王子つばめ塾には、次から次へと関わる人が増えていきました。設立当初は、「2〜3年後に生徒が10人いて、5教科のうち1教科でも上手に教えられる講師が各教科で1人ずつ、合計5人も集まれば、立派な教育ボランティアだと胸を張れる」とイメージしていました。ところが1年後には生徒が50人にまで増え、ボランティア講師も約60人と大所帯になります。  たった1年でここまで大きくなるとは、予想だにしていませんでした。 ※【後編】<子どもを救う「無料塾」という生き方の原点となった貧困体験 大学受験直前「家の全財産は800円」>に続く(12月5日公開) ●小宮位之(こみや・たかゆき)/認定NPO法人八王子つばめ塾理事長。1977年東京都生まれ。貧困家庭に育つ。都立南多摩高校、國學院大學文学部史学科卒業。私立高校の非常勤講師や映像制作の仕事を経て、2012年に無料塾である「八王子つばめ塾」を設立。翌年、NPO法人化。塾創設以来11年間で、300名を超える卒業生を高校や大学に送り出す。無料塾を立ち上げたいという個人への助言活動も精力的に行い、全国で50か所以上の無料塾の立ち上げをサポート。現在は、NPO法人東京つばめ無料塾の理事長を兼任し、東京薬科大学と私立高校で非常勤講師を務める。
無料塾
dot. 2023/12/04 06:30
ラーメンブロガーに「今後に期待」と書かれたことも… 元格闘家店主が「つけ麺」で埼玉ナンバーワンに大躍進するまでに歩んだ悔しい道のり
井手隊長 井手隊長
ラーメンブロガーに「今後に期待」と書かれたことも… 元格闘家店主が「つけ麺」で埼玉ナンバーワンに大躍進するまでに歩んだ悔しい道のり
  「狼煙 ~NOROSHI~」店主の中村幸司さん。高校時代からキックボクシングのプロとして活躍していたが、今は埼玉でラーメン屋を5店舗展開する(筆者撮影)  日本に数多くあるラーメン店の中でも、屈指の名店と呼ばれる店がある。そんな名店と、その店主が愛する一杯を紹介する本連載。今回は魚を使ったラーメンで人気を博する「寿製麺 よしかわ」の店主・吉川和寿さんの愛する名店「狼煙 ~NOROSHI~」をご紹介する。 ■ファイトマネーだけでは食べていけない 格闘家からラーメン店主に転身  埼玉新都市交通伊奈線・鉄道博物館駅、または東武アーバンパークライン・北大宮駅から10分ほど歩いたところに、つけ麺の名店「狼煙」(さいたま市北区東大成町)はある。決してアクセスのいい場所ではないが、自慢の濃厚つけ麺を求めて、毎日行列ができている。 「狼煙」のつけ麺(並)は一杯950円。具はチャーシュー、ネギ、刻みタマネギ、ナルト、ノリ。麺は極太ストレートの自家製麺を使う(筆者撮影)  動物系強めの濃厚豚骨魚介スープに魚粉でさらに魚介をブースト。店の2階で打つ自家製麺は全粒粉入りで、小麦の甘みが特徴だ。コシもしっかりあって、おいしい麺に濃厚なスープがこれでもかと絡む。  店主の中村幸司さんは埼玉県与野市(現在のさいたま市中央区)生まれ。高校時代からキックボクシングのプロとして活動していたが、高校を卒業して建築業の仕事に就くことになる。もう一度格闘技をやりたいと思っている時に、たまたま高田馬場にある人気ラーメン店「俺の空」の求人を見つける。店主の嶋本宗薫さんはグレコローマンレスリング関西の元チャンピオンで、そんな嶋本さんに憧れた中村さんは「俺の空」でアルバイトをすることになった。21歳の時だった。 「俺の空」は2001年にオープンした名店で、豚骨魚介ブームの火付け役のお店のひとつとしても知られている。結局、中村さんは5年間「俺の空」で働くことになるが、中村さんが在籍していた02年から07年は大ブームの最中でとんでもない忙しさだったという。 「オープン前から大行列で、開店同時に整理券を配布して売り切れなんていう日が続きました。入るまでこんなとんでもない店だということは知らず、入ってびっくりという感じでした。店主の嶋本さんに憧れ、『こういう人になりたいな』という思いがどんどん強くなっていったんです」(中村さん)  はじめはアルバイトだったが、修業が本格的になるにつれて、中村さんはラーメンで独立という道を考えるようになる。当時、埼玉県には東京で流行っているようなラーメン店はなかなかなく、チャンスだと思ったのと、格闘技のファイトマネーだけでは食べていけないという現実に気づいたのである。 「完全な体育会系ではこれからの世代はついてこない」と中村さん。後進育成にも力を入れる(筆者撮影)   「周りもみんな就職して行くなかで焦りも大きかったです。格闘技を頑張りたいという思いはもちろんありましたが、ちゃんと働こうという思いもあり、どちらも中途半端にはしたくなかったんです。そこで嶋本さんに相談したところ、『やりたい方をやりな』と言われました」(中村さん)  こうして中村さんはラーメンの道で独立することを決意し、07年12月10日に埼玉で「狼煙」をオープンした。うどん店があった場所の居抜きで、内装は手作り。エアコンや券売機もないなかでの開業だった。あったのは前のお店が残したうどんを茹でる釜だけ。どうしても自家製麺をやりたかったので、製麺機に資金のほぼすべてを捧げることにした。 「当時は『六厘舎』や『つけめんTETSU』がブレイクした頃で、埼玉エリアでつけ麺の有名店といえば『頑者』ぐらいでした。その中でつけ麺店として目立つことはできましたが、スープのクオリティが悪く、思い描いていたものと違うものができてしまう毎日でした」(中村さん)  オープン当初はラーメンブロガーが食べに来てくれたが、レビューがイマイチで「今後に期待」と書かれてしまうことが多く、悔しい日々が続いた。インターネットにもあまり情報がなかったので、とにかく独学で突き進み、ブラッシュアップの日々。ダメだと思うものはすべて修正した。 「毎日作り直して、スープはある程度完成しましたが、今度は麺とトッピングが理想とは程遠いものでした。自分のやりたかったつけ麺のイメージとのギャップの激しさに、自信をへし折られた気分でした。とんでもない世界に自分が入ってしまったんだなという後悔もありました」(中村さん) 「狼煙 ~NOROSHI~」/埼玉県さいたま市北区東大成町1-544/営業時間は公式X(@noroshi1210)にて更新(筆者撮影)  このままでは店が潰れてしまうと寝る時間も惜しんでつけ麺のブラッシュアップを続けた。夜になり寝ようと思っても、ラーメンのことを考えてしまって眠れない日々が続いた。次第に余裕もなくなっていき、このときの中村さんは毎日ピリピリしていたという。  悪いことばかりではなかった。立地はお世辞にも良いとは言えなかったが、その分固定費が少ないので、味づくりに集中できることだけが幸いだった。半年ぐらいすると、ラーメン評論家の人たちが食べに来てくれ、なんと雑誌『TOKYO1週間』(10年に休刊)で新人賞を受賞することができた。中村さんのつけ麺が認められる日が来たのである。 店の2階で打つ自家製麺は全粒粉入りで、小麦の甘みが特徴的。コシもしっかりある(筆者撮影) 「オープンから一年ほどで納得するつけ麺が出来あがったというイメージです。その頃からお客さんもだいぶ増えてきて、売上も安定するようになってきました。最終的には豚と鶏が1:1でスープの厚みで勝負できるつけ麺が完成しました」(中村さん)  その後、大宮エリアを代表するつけ麺の名店に成長し、現在では口コミサイト「ラーメンデータベース」で埼玉県のつけ麺1位になっている(23年11月13日現在)。さいたまスーパーアリーナからお客さんが流れてきたり、噂を聞きつけた中村さんの地元の友達が食べに来てくれたりと、話題の店になっていった。 「狼煙」はとにかく地域密着で、埼玉にこだわり続けて現在5店舗を展開している。今は社員の育成に力を入れており、なるべくレシピを数字化しながら指導するようにしている。 「『ひとつの寸胴にみんなで魂込めて』というようなお店が自分の性には合っていると思います。ですが、完全な体育会系ではこれからの世代はついてきません。今後は、次の世代にラーメン屋をやりたいと思う人が増えるように、育成を工夫していきたいと思います。これからは原価だけでなく“手間”を価格に転嫁していい時代かなと思います。ラーメン自体のレベルがアップするよう、うちでもできることをしていきます」(中村さん)  次回の記事では「狼煙 ~NOROSHI~」の店主・中村さんの愛する名店をご紹介する。(ラーメンライター・井手隊長)
井手隊長ラーメン
AERA 2023/12/03 12:00
元NHK武内陶子さんが今でも忘れられない「紅白総合司会」でのハプニング 現場は「なんとかしろ!」の怒号
唐澤俊介 唐澤俊介
元NHK武内陶子さんが今でも忘れられない「紅白総合司会」でのハプニング 現場は「なんとかしろ!」の怒号
元NHKアナウンサーの武内陶子さん(撮影/写真映像部・和仁貢介)    今年9月にNHKを退職し、サンミュージックへ移籍したアナウンサーの武内陶子さん(58)。【中編】では一度はやめた不妊治療の苦しさや、高齢出産にもかかわらず第2子、第3子をつくったきっかけなどを聞いた。【後編】では、一時期はひきこもりにもなったという子育てと転機になったアメリカでの生活、2003年に総合司会をした「紅白歌合戦」の裏話などを語ってもらった。 ※【中編】<元NHK武内陶子さんが長女の“胎内記憶”から聞いた「奇跡」 双子誕生前に「ママのおなかがいいって子がいっぱい」>より続く *  *  *  不妊治療の末、39歳で産んだ第1子。生まれてからはドタバタの日々が始まったという。 「なんで泣いてるのか、どうして寝てくれないのか、全然わからないんですよ。話が通じないから。妹が獣医師なんですけど、『陶子さんは犬も飼ったことないからな』って。犬と比べるのはなんだけど(笑)、犬を飼ってる人は、自分の思い通りにならない生き物を大事にしてかわいがってるわけじゃないですか。その経験もなかったので、怖くて怖くて。ちょっとカタッて音がしたら、せっかく寝てくれた赤ちゃんが起きるんですよ。だから、夫が帰ってきたときにガチャッと音をさせようものなら、『なんで音立ててんの!』って怒鳴ってしまって。本当にピリピリしてて、すごく大変でした。最初の2週間ぐらいは母が来てくれていたんですが、そのあとは一日の大半が私と赤ちゃんと2人の生活。孤独なワンオペ育児の時間がすごくしんどくて、一時期、家に引きこもってました」  初めての子育てに疲弊していた武内さんに転機が訪れる。夫の上田紀行氏がカリフォルニアへ10カ月ほど、転勤することになったのだ。武内さんはアメリカでの生活をこう振り返る。 家族5人で旅行に行ったときの一枚。画像の一部を加工しています(写真=本人提供)   アメリカの“ママ友”に救われた 「あまりにも文化が違いすぎて、毎日のようにびっくりすることがありました。現地でママ友グループに出会うんですが、そこでいろいろなことを知ることができました。たとえば、アメリカでは産後、出産したお友達のところに1カ月ぐらい当番を決めて、毎日ご飯を運んで手伝ってあげたりするとか。あとは子どもに食べさせるものの違いにも驚きました。『うちの子、バナナとアボカドしか食べないんだけど、大丈夫かしら』って話すママがいて。『いや、バナナとアボカドもう食べさせていいんかいっ!』と心の中で突っ込んだり(笑)。日本だとまずはおかゆが一般的じゃないですか。アメリカでこれまで考えたこともなかったような子育てに触れることができたんです」  当初は、明るく、悩みがないように見えていたアメリカのママ友たち。しかし、付き合ってみると彼女たちも日々の育児に悩みを抱えていたのだという。 「アメリカのママたちはやたら明るいんですけど、ママ友が集まって悩み相談したりすると、たくさん悩みが出るんです。アメリカって一人寝ができるように寝るまで泣かせたままにしておくトレーニングがあるんですが、それをやっているときに『隣の人に警察に通報されて最悪だったわ』って言っていたりして。『ご近所付き合いどうしよう』とか『子どもが全然寝てくれないんだけど』とか、それぞれみんな同じようなことで悩んでるんだってわかったときに、それまで鬱々としていた気持ちがすごく楽になりました」  第1子を39歳で、第2子、第3子の双子を44歳で出産した武内さん。どちらもリスクが高いとされる高齢出産で、現在長女は19歳、次女・三女は13歳だが、特に双子のほうはこれからも親の手がかかる。子どもの将来についてどう考えているのか。 ベトナムから中継を担当したNHK時代(写真=本人提供)   司会を担当した紅白で機材トラブル 「自分の人生のエンジンを見つけてほしいなと思っています。やりたいことであったり、なりたいものであったり。次女は食べるのが大好きで、『シェフになりたい』って言ってますね。それで『調理部に入る!』って学校に行ったら、『ダンス部入った!』『えー!? ちょっとー!!』ってずっこけましたけど(笑)。でも、長女は美術に興味があって、双子も楽しそうに学校に行っていて、母としては全力で応援していきたいなと思っています」  最後に、武内さんにとって人生で最も印象に残っている一日はいつなのか、尋ねた。 「これはもう、紅白歌合戦ですね。生放送を仕切るっていう、普段と同じことをやってるけど、全く違う次元の仕事でした。なんやかんや言われますけど、一年の最後の日を締めくくる番組なので。実際に経験した身としては、NHKにとっても、日本にとっても大きなイベントだと感じました」  次元が違う、とは具体的にはどういうことなのか。 「特別企画とか全部含めると60組ぐらいのアーティストが出ているわけなんですが、1組1秒ずつ押しても1分じゃないですか。1分って、最後、結果が言えなくなるんですよ(笑)。視聴者からしたら、『え、どっち勝ったんだい!?』みたいな。私が担当した総合司会は時間配分が仕事なんです。生なので何が起こるかわからなくて。『今のは〇〇でしたね』とか『次は△△です』って言っている脇では、舞台セットの大工仕事が行われてるんですよ。ガンガンガン、『なんとかしろ!』、ゴゴゴーッて。どんなことがあろうとも、最後は『ゆく年くる年』のゴーン(除夜の鐘)につなげないといけないんです」 武内陶子さん(撮影/写真映像部・和仁貢介)   「どうする!? どうする陶子!」  そんな極度にピリついた空気の中、武内さんが司会をした03年は、集計システムに不具合が生じてしまったのだという。 「新しい集計システムを取り入れたら、本番だけうまくいかないっていう。逆に持ってるなと思いますけど(笑)。そのときはもう『どうする!? どうする陶子!』みたいな。1秒ぐらいの間にこれまでに経験したことが走馬灯のようにどわーっと頭に流れてきて、私の細胞の中に入ってるいろんな人たちが、『頑張れ! 武内頑張れ!』って言ってるの(笑)。いろんな人が『巻けー!』とかって合図を出していたんですけど、いったん呼吸を整えて、最後は時計とずっと一緒にやってきたFD(フロアディレクター)さんのことだけを信じて、腹を決めて冷静になることにしたんです。そしたら、集計システムが直って、白組勝利、じゃあ最後は『蛍の光』でお別れです、皆さまどうぞよい年をお迎えください!って言って、特効(キャノン砲や紙ふぶきなどの特殊効果)パーンからのゴーーン……ですよ。でもそれから、緊張が4日ぐらい解けなかったですね(笑)」 (AERA dot.編集部・唐澤俊介) ●武内陶子(たけうち・とうこ)/1965年、愛媛県出身。神戸女学院大を卒業後、91年NHK入局。松山、大阪を経て東京勤務。「おはよう日本」キャスターや、「スタジオパークからこんにちは」司会などを務める。また、2003年には、「第54回紅白歌合戦」総合司会を務めた。今年9月、NHKを早期退職し、サンミュージックプロダクションに所属。NHKラジオ第1「ごごカフェ」月~水曜パーソナリティー。夫は文化人類学者で東京工業大副学長の上田紀行氏。不妊治療を経て授かった3人の娘がいる。
武内陶子NHK紅白歌合戦
dot. 2023/12/03 11:00
父の高座にあこがれ、弟子入りまでに1年半 講談師・一龍斎貞鏡の誕生秘話
父の高座にあこがれ、弟子入りまでに1年半 講談師・一龍斎貞鏡の誕生秘話
父の美しい高座を観て講談師への道を決意した思い出の国立演芸場で、「名月若松城」を読む(撮影/鈴木愛子)    講談師、七代目一龍斎貞鏡。今年10月、講談界に新たな真打が誕生した。父の高座姿にあこがれ、この世界に入った七代目一龍斎貞鏡だ。父を師匠に、古典講談を叩きこまれた。その師匠が2021年に急逝。落ち込み、眠れぬ日々から立ち直っての真打昇進だった。高座をおりたら、4児の母になる。父から受け継いだ美しい高座と子どもたち。どちらも命がけで守りたい。 *  *  *  高さ7センチの真っ赤なピンヒールを履き、170センチを超える色白のスレンダーな長身を、膝上20センチはあるミニスカートで包んだ茶髪の女子大生が、場違いな雰囲気の国立演芸場の座席に滑りこんだ。家で何げなく手にしたチラシによると、怪談噺(ばなし)をやるらしい。演目は「牡丹燈記(ぼたんとうき)」。中国明代の怪異譚(かいいたん)で三遊亭円朝作の落語「怪談牡丹灯籠(どうろう)」の元となった話である。  初めて観る講談の高座に女子大生は打ちのめされるほど強い衝撃を受けた。湖のほとりや月明かりの中で手をとりあう男女がはっきりと見え、伽羅香木(きゃらこうぼく)の香りまで確かに漂ってきた、と思えた。 「なんと美しい日本語で美しい佇(たたず)まいと姿勢なんだろう。私もこの世界に入りたい」。高座で読んでいたのは、凛(りん)とした古格の美しさで知られた八代目一龍斎貞山(いちりゅうさいていざん)。七代目一龍斎貞鏡(ていきょう・37)が初めて観た父の高座姿だった。  祖父は怪談噺を得意とし「お化けの貞山」として知られた七代目一龍斎貞山、父は古典講談の第一人者八代目貞山、義祖父は世話物の名手六代目神田伯龍(はくりゅう)。世襲制ではない講談界で三代目となるいわばサラブレッド誕生のきっかけである。貞鏡はこの10月、15年の歳月をかけて前座、二ツ目を経て最高位である真打に昇進した。  2008年にデビューした貞鏡が今熱く注目されているのは、伝承されてきた王道の古典講談を伝えていこうと心血を注いでいるからだ。講談にも爆笑ものや音楽をとりいれた新作など様々なものがある。自身も得意なピアノ演奏を取り入れた講談をしたことも。しかし今「物語を表現する美しい日本語」を伝えていきたいという使命感で、古典講談に果敢に取り組んでいるのだ。 改築のため閉場となる国立演芸場のさよなら公演「国立講談三夜」の楽屋。真打昇進を祝って神田陽子から帯のプレゼントがあったりと、お祝いムード。椅子に座るのは人間国宝・神田松鯉(撮影/鈴木愛子)   1年半かけ父の弟子に 毎日つらかった修行時代  演芸評論家、長井好弘(68)は貞鏡が今注目されている理由を語る。 「貞鏡は若いのに貞山が得意としてきた修羅場もの、武芸者、義士伝が大好きで、こういういわゆる硬質なものを硬いまま聞かせてしまえる人というのは今そんなにいない。凛とした背中が伸びた姿勢と古風な言葉遣い、これらを不自然に聞かせないリズムと間をちゃんと持っている」  そんな貞鏡の入門は少々型破りだ。初めて観た父の高座に心打たれ帰宅した貞鏡が、父に声をかける。 「ねぇ、どうやったら講談師になれんの?」  タメ口である。父の答えはいつもの口癖である「知らねえよ」だった。もともと父とはあまり顔を合わさない。父は、貞鏡が小さいころ勝手に入りこみ、台本をまたいでから入室が厳禁となった稽古場に帰宅すると入ってしまう。たまに顔を合わせるたびに、貞鏡は同じ質問を繰り返した。3カ月ほど経つと、父が「いろんな講談会を観にいけ」と一言答えた。女流講談会などを観て歩くうち、ますます気持ちは固まっていく。 「やっぱり、講談師になりたいんだけどどうしたらいいの」  と変わらずのタメ口だ。父は何も答えない。大学卒業が近づいた師走、父がいきなり「着物に着替えろ。行くぞ」と言ってきた。「どこ行くの?」と訊(き)いても答えがないのはいつものこと。母親に母の着物を着せてもらい黙って後についた。着いたのは講談界初の人間国宝一龍斎貞水(ていすい)の湯島の自宅だった。貞山は貞水に娘の入門と自分も名乗っていた貞鏡の名前をつけることを願い出た。「ていきょう? どんな字?」と思いながらもまったく何の知識もないまま08年入門が決まった。帰り道、父の行きつけのラーメン屋で黙ったままラーメンをすすり、黙ったまま帰宅した。父娘二人きりで食べる初めての食事だった。「お父ちゃん、講談師になりたい」と言い出して、1年半近く経っていた。 10月17日、東京会館で380人を超す招待客を迎え開かれた真打昇進披露パーティー。講談界以外からも多くの芸人が集まった。落語家・林家たい平の爆笑の祝辞(撮影/鈴木愛子)    父が師匠になった。寡黙な師匠は何も指示してこない。見習いや前座仕事のやり方も自分で気づき学ぶしかなかった。楽屋入りして畳に手をついて挨拶すれば、スカート丈が短い、畳のへりに指がついている、師匠からこんなことも教えてもらってないのかと先輩から小言が飛ぶ。楽屋でごみ箱が投げつけられたときは、思わず涙を流した。その日の帰り、同行の師匠のかばんを持って帰宅すると玄関に入った途端、師匠の怒声が響いた。同じ楽屋にいて貞鏡の涙を父は見逃さなかったのだ。「ふざけるな! 女をだすんじゃねえ」。父からそして師匠から怒鳴られた最初で最後の叱声(しっせい)だった。 「前座修行の日々は生きていくのがつらくて、今日こそはやめようと毎日思ってました。でもやめたら父の顔に泥を塗ることになる、それに父の講談がすごく好きだという思いで踏みとどまれた」  寡黙な師匠からは「修羅場」を徹底的に叩き込まれた。修羅場とは、軍記ものの勇壮な場面を声高らかにリズミカルに独特の調子で語る講談の基礎となる語りだ。前座の必修とはいえ、普通なら修羅場ものからそろそろ別の演目も習い始めるころ、「まだ早い」と、「本能寺の変」後の明智光秀と羽柴秀吉を描いた「山崎軍記」をひたすら1年間、続けさせられた。これがどれほど後の貞鏡の底力を形成することになるかは、この時は貞鏡自身もわからなかった。  八代目貞山は、家庭の事情で寂しい幼少期を過ごしたせいなのか、じつに口数が少なかった。 「師匠の死後にいろいろな方から初めていろんなことを聞かされて知りました。きっとつらかった過去を封じたのだと思います」  と貞鏡が語るように、まるで古武士のような佇まいの父だった。貞山の父の七代目が59歳で亡くなり、四代目神田伯治(はくじ)(後の六代目神田伯龍)の養子となった父自身も、思いもかけずに大学卒業後に入門、講談の道へ進んできた。 師匠との親子会では 握手求める客の長い列 「父親の八代目の高座はそれは凛とした古格のある芸でした。常々講釈は女性がやるもんじゃない、と言っていたのに娘さんが入門してきたときはほんとに驚いたもんです」  と語るのは、3歳ごろの貞鏡の初恋の人“飴(あめ)のおじちゃん”と呼ばれた講談協会会長、宝井琴調(きんちょう・68)である。麻雀(マージャン)が好きな貞山宅に行くたびに、いつもカラフルな飴をもって来た。 貞鏡の原点が国立演芸場。「父を観たのは確かこの席でした」。オフィスエムズ・加藤浩は、「理想の講談にストイックなまでに突き進んでいる」と言う(撮影/鈴木愛子)    貞山は女性も含めて何人もの入門希望者を断ってきた。講談への強い美意識と想いが自身以外の芸人を育てる方向には向けなかったのだと思われる。だから貞鏡の入門はやはり父親としての愛情なのだ。貞山は60歳のとき心臓病を患った。安静にしていればいいが、高座で1時間も喋(しゃべ)るなんて自殺行為だと医師にいわれても、後者を選んだのは、貞鏡に伝えていきたいという一心だったはずだ。細かいことはいっさい話さない口の重い貞山が、講談師の骨格を作るべく貞鏡に基本を激しく叩き込んだ。 「もっと声を低く、もっと低く読め!」 「腹から声を出して響くような声を作れ!」 「もっと歌い調子で読め!」  腹式呼吸を徹底的に仕込まれ、稽古を重ねた。源義経と主従を描いた軍記物「義経記」を読んだときは、「なかなかいいよ」とぼそりと言ってくれた。貞山と中学・高校時代からの付き合いで講談会の手伝いもしてきた三井英治(76)と廣川敬三(75)は珍しく貞山が貞鏡を褒めるのを聞いたことがあった。 「あいつには華があるんだ」  4年の前座修行を経て、二ツ目に昇進した貞鏡は勉強会などさまざまな会に果敢に挑戦しだした。毎回盛況だった師匠貞山との親子会では、終演後貞鏡に、挨拶や握手を求める男性客の長い列ができ、その横で喜びを押し隠すように無言で立っている貞山の姿が印象的だったものだ。二ツ目として活躍して11年、今年10月、貞鏡はついに真打に昇進した。 (文中敬称略)(文・守田梢路(もりたこみ)) ※記事の続きはAERA 2023年12月4日号でご覧いただけます
現代の肖像
AERA 2023/12/01 18:00
【追悼】山田太一さん「宿命に縛られ、救われてもいる」 もう連ドラは書かないと決心した理由
【追悼】山田太一さん「宿命に縛られ、救われてもいる」 もう連ドラは書かないと決心した理由
脚本家の山田太一さん 「岸部のアルバム」「ふぞろいの林檎たち」などドラマの名作を生み出した脚本家の山田太一さんが亡くなった。89歳だった。2009年に12年ぶりにドラマを手掛けた際に、週刊朝日でインタビュー。テレビドラマを書かなくなった理由や作品に通底する人生観を語っていた。山田さんを偲び、週刊朝日2009年1月16日号の記事を配信する。(年齢、肩書等は当時) ◇  もう書かないと決めていた連続ドラマの脚本を山田太一氏が12年ぶりに執筆した。1月8日から始まるフジテレビ開局50周年ドラマ「ありふれた奇跡」だ。「岸辺のアルバム」「ふぞろいの林檎たち」などの作品を手掛けてきたドラマ界の巨匠を訪ね、久々の連ドラを糸口に踏み込んだ質問をぶつけてみた。  (聞き手 岩切徹)   --面白いタイトルですね、「ありふれた奇跡」。 山田 いつもタイトルは悩むわけだけど。ある若い人から「奇跡ってありふれてないから奇跡なんじゃないですか」といわれましてね、ああ、そういうふうに伝わらないんだと思った。テレビのタイトルは難しい。 --山田さんのドラマ名は、どこか絵画的ですよね。「ふぞろいの林檎たち」はちょっとセザンヌの静物画っぽいし。 山田 ははは。 --奇跡といえば、山田さんの親子論『親ができるのは「ほんの少しばかり」のこと』の中にこんな一節を見つけました。「平板で退屈な日常はじつは奇跡に支えられてやっと存在しているのかもしれない」。 山田 すべてが自分の努力というか自由意思でなんとでもなると思うのはとんでもないことだと思うんです。たとえば容貌や家族を自由意思で選べるとしたら全部自己責任になり、それだけでヘトヘトになってしまう。つまり私たちは自分ではどうにもならない宿命性みたいなものに縛られているし、それに救われてもいるんですね。運不運も大きい。今の日本が長寿国であり、ほとんど餓死者を出さないですんでいるのも、かなりの部分はラッキーだったということでしょう。もちろん日本人の努力を否定はしませんが、それくらいに思ってたほうがいいとぼくは思うんですよ。 --現在74歳。山田さんは戦争をご存じです。 山田 今の70代は戦争を小中学校のころ体験している世代です。少年期に戦争が終わって価値観が激変しますが、そんな大げさなことではないとずっと思っていた。でも70歳を過ぎて振り返ってみると、戦後の飢餓を経験しているんですね。飢餓の時代はそれ以後ないから、やっぱりその世代独特のものがあるのかなあと思う。 --阿久悠さん、赤塚不二夫さんと、最近70代の方の訃報をよく耳にします。 山田 ぼくも他人事じゃありません。いつ自分の身になるか分からない。 --去年がんで亡くなった緒形拳さんは71歳でした。緒形さんとは何本か仕事をなさってますね。 山田 「いくつかの夜」(05年)が緒形さんとの最後のドラマでした。本読みのとき、「お忙しいのに受けていただいてありがとうございます」と挨拶したら「いえ」と答えられたんだけど、その口調がちょっと暗かった。どうしたんだろうと一瞬思ったのですが、まさか病気だとは……。だからいったんですよ。「ぼくは老人の話を書きたいんだけど、老人がどんどんいなくなってしまうので、緒形さん早く年取ってくださいよ」って。緒形さんは「ええ」と笑ってらした。 --「風のガーデン」(脚本・倉本聰)を撮り終えてすぐの他界でした。 山田 体調を崩しておられるのは娘(演出家の宮本理江子さん。「風のガーデン」を演出)からなんとなく聞いていたのですが、娘もはっきりは申しませんからね。訃報は思いも寄らなかったし、あのドラマで衰弱してらっしゃるのを見てショックでした。 --丁寧な、素晴らしい演出でしたね、「風のガーデン」は。かけた時間がちゃんと画面に表れていた。 山田 脚本がいいから。 --山田さんの「今朝の秋」(87年)も、がんの息子が親より先に亡くなる逆縁の物語でした。 山田 ええ、勘当して許す許さないという話じゃないですけど。あれが笠智衆さん最後のテレビドラマになりました。 --ぼくは笠さんに一度会ったことがあるのですが、あのまんまの方だった。 山田 そう、あのまんま。小津安二郎さんが造形した笠智衆像みたいなものが虚実混ざり合って人格ができているような……。ぼくが助監督のころ、松竹の御大の俳優さんのひとりでいらしたから、ずっと憧れていたんです。最初にお願いして出ていただいたのが「ながらえば」(82年)という作品。そりゃもう意気込んで書きました。でね、名古屋NHKの控室で偶然二人っきりになったことがあるんですよ。何か面白い話をしなくちゃと汗をかきながら笠さんを見ると、笠さんのほうも何しゃべっていいか分からないで困っておられて、あの調子で「今日は天気がよくて」なんておっしゃる(笑い)。それがほんとにいい味で。 --今度の「ありふれた奇跡」はホームドラマでありラブストーリーでもあるとか。ホームドラマにラブストーリーとくれば、昔の松竹のオハコです。 山田 松竹の社長だった城戸四郎さんがおっしゃっていたんです。政治経済を描いてもいいけれど、家族を通して描けと。そこに政治も経済もおのずから反映しているはずだってね。その家族劇の方法論にぼくはとても共鳴し、影響を受けています。 --58年に松竹入社。助監督としてつかれた木下恵介監督はどんな方でした? 山田 非常に才気があって。今見ても傑作だと思う作品がいくつもあります。ずいぶん監督の口述筆記をやりました。泣くシーンになると役になりきり、自分でも涙を流しながら男女両方のセリフを語る方でした。 --役者に近い。 山田 ライターは多かれ少なかれそうでしょう。ぼくも男の役も女の役も声を出して書きます。そうしないとリズムがつかめない。口述筆記は、物語の仕組みや流れをつかむ、とてもいい勉強になりましたね。 --女性を美化しない描き方とか、木下監督は同性愛的な感性の持ち主だったと思うのですが。 山田 そう、女嫌いなところはあった。男が周りにいたほうが心をかき乱されないというか。木下さんに言い寄られて断った男優さんがその後使われなくなったという噂もありました。でもぼくが助監督のときにはそんなことはなかったと思う。だからよく分からないんです。本を書くときは木下さんと旅館に籠もることが多かったのですが、言い寄られたことは一度もなかったですしね。まあ、ぼくに魅力がなかったのかもしれないけど。 --65年に脚本家として独立。そして70年代以降、「男たちの旅路」「岸辺のアルバム」「早春スケッチブック」「ふぞろいの林檎たち」と、テレビ史に残る連ドラのヒット作を立て続けに書いておられる。 山田 どの局にもぼくの作品に共感してくれるスタッフがいて、人に恵まれていました。 --なのにどうしてもう連ドラは書かないと決心なさったんですか。 不本意な作品は一本も書かない 山田 バブルが日本の社会を引っかき回したんですね。局全体として視聴率主義になり、面白ければいいと。ぼくだって面白ければいいと思うけど、その内容が人気マンガのドラマ化だったり、人気タレントの起用だったり。それに中高年を切り捨てた若者路線でしょ。その商業主義は現在に至るまで続いているわけだけど、このままいくと自分の書きたくない、不本意なものまで書くことになると思い、「ふぞろいの林檎たちⅣ」(97年)を最後に連ドラから降りました。 --80年代後半から小説や戯曲も手掛けておられる。 山田 ラッキーなことに、ちょうどそのころ、書いてみないかと誘ってくれる方がいたんですよ。テレビ以外のメディアをやることで精神的にもずいぶん救われました。 --連ドラを降りたあとも単発ドラマは毎年書いておられます。 山田 ええ、視聴率の良いのも悪いのもありますが、不本意に書いたものは一本もない。それもほかのメディアをやっていたからできたんですね。でなかったら10年以上連ドラを書かず、しかもテレビ界から離れずにいるというのは難しかったと思う。 --「遠い国から来た男」(07年)で、中米から46年ぶりに帰ってきた男を演じた仲代達矢さんが「うまいね。鰻重ってこんなにうまいんだね」というシーンでは、本当に鰻のニオイがしてきました。 山田 あのシーンは素晴らしかった。ぼく、仲代さんご本人にも伝えましたよ。 --「星ひとつの夜」(07年)では笹野高史さん演じる男が、同僚で前科持ちの渡辺謙さんに意地悪して、渡辺さんに詰め寄られたときに軽く言い放った「嫉妬よ」の一言。刺さりましたね。 山田 あの男の動機は嫉妬がいいと思った。男同士の嫉妬は陰湿ですから。 --「本当と嘘とテキーラ」(08年)は、失礼ですが、山崎努さんと柄本明さんの配役が微妙にずれていて、いまひとつフーガになり損ねていたような気がする。柄本さんの役は狂言回しと思っていいんですか。 山田 いや、主人公を相対化する役どころです。主人公に社会的な広がりを持たせるにはああいう人物が必要でした。 --一昨年、「新日曜美術館」で銅版画家の浜口陽三さんの作品について語っておられましたね。「この闇が好きなんです」と。 山田 浜口さんのメゾチントという技法では、まずスペースを真っ黒にするところから始まる。その黒からレモンとかサクランボなどが色づいて浮かび上がってくる感じが、なんともトロンとした官能的な感じがして好きなんですよ。底辺に闇がある。 --「つかのま浮かんでいるような存在感。闇があって、ほっと光になって、また闇に飲み込まれていく」と。闇に浮かぶありふれたフルーツたち。まさに、ありふれた奇跡です。 山田 ははは。 ドラマのモネが出てきてほしい --ぼくは山田さんの話を聞きながら、これは山田さんの創作作法でもあるんだろうなあと思いました。 山田 うーん、でもテレビはそんな気取ったものじゃないというか。ほとんどの人は行儀の悪い状態で見ているわけだから、そんな文学的なことをいっても見てくれない。 --外しましたか。 山田 でもモネのことはよく考えます。彼が「印象 日の出」を出品したときに、それまでのリアリズムの巨匠たちは「なんだこれ、描きかけの絵じゃないか」と酷評した。でもモネが出てなかったら、その後の絵画はひどく退屈なものになっていたと思う。だからぼくはぼくに似たドラマをいくらうまく書く人が現れても驚かないけど、若い人の、面白いと思えない、よく分からない作品に出会うと、こいつはひょっとしたらモネかもしれないと思うんですよ(笑い)。そう思うと軽々に批判なんてできなくなる。 --宮藤官九郎さんは? 山田 ちょっとモネっぽいかな。(笑い) --去年は「ラスト・フレンズ」(脚本・浅野妙子)が新鮮でしたね。「ふぞろいの林檎たち」は不揃いながら同じフルーツ、つまり同じ性をパッケージしたドラマだったけれど、このドラマは性同一性障害者だったり、女性恐怖症の男だったりとバラバラのフルーツのパッケージなんです。そういうのを見ると、「ふぞろいの林檎たち」は長いこと日本のドラマを呪縛してきたんだなあとも思う。 山田 ぼくは見てないんですが、そういう書き手が出てくることがいいことなんですよ。自分の基準を当てはめようとは思わない。ぼくもある時代を生きてきてその限界と可能性をもっているし、次の若い人は次の限界と可能性をもっていると思うんです。「あ、モネかもしれない」は、ぼくの底辺にあるキーワードのひとつです。 --山田さんの場合、新しいドラマを書くときはアイデアが降りてくるんですか。 山田 そんな神秘的なもんじゃない。何を書いてもいいという自由に途方に暮れて、七転八倒して、だんだん絞っていく。新人のころと変わらないですよ。 --一度闇に戻す? 山田 そうですね。 --「ありふれた奇跡」も? 山田 ええ、途方に暮れてから書いています。 --12年ぶりの連ドラはどういうスタッフと組まれるのでしょう。 山田 「星ひとつの夜」のときのスタッフで、プロデュースが中村敏夫さん、演出が田島大輔さんです。あのドラマのときにとても丁寧につくっていただいて、それがよくて。そのスタッフで連続をやってくれるというので、この人たちとだったらやれるなと思ったんですよ。 --1月8日の第1回、楽しみにしています。 * やまだ・たいち 1934年、東京都生まれ。58年、松竹大船撮影所入社。65年、脚本家として独立。「岸辺のアルバム」(77年)、「早春スケッチブック」(83年)、「ふぞろいの林檎たち」(83年)などテレビドラマの名作を多数手掛ける。88年、小説『異人たちとの夏』で山本周五郎賞受賞。08年、ドラマ「本当と嘘とテキーラ」が民放連賞受賞。09年1月からの連続ドラマ「ありふれた奇跡」を執筆。  
山田太一岸部のアルバムふぞろいの林檎たち
dot. 2023/12/01 12:30
“大麻グミ”問題で注目された「CBD」が“意識高い系女子”に支持されるワケ “覚醒”よりも“まったり”したい?
大谷百合絵 大谷百合絵
“大麻グミ”問題で注目された「CBD」が“意識高い系女子”に支持されるワケ “覚醒”よりも“まったり”したい?
  米NYの大麻関連商品の展示会に並ぶ「CBDキャンディー」(写真:ロイター/アフロ)  大麻の有害成分に似せた合成化合物「HHCH(ヘキサヒドロカンナビヘキソール)」が入った、通称“大麻グミ”を食べた人の健康被害が相次いだ。その結果、同じ大麻つながりでやり玉にあげられているのが、サプリメントやコスメなどで人気の、大麻由来の合法成分「CBD(カンナビジオール)」だ。近年、美容やヘルスケアへの関心が高い女性たちの間でCBDに注目が集まり、女性誌などでも紹介されている。CBDが今、女性たちに人気な理由と、その安全性について、専門家に聞いた。 *  *  * 「CBDは今回報道されている『大麻グミ』、つまり合成された化合物であるHHCHとは大きく異なる成分です。CBDは精神作用がなく、安全性も認められ食品として正式に認められている成分です。~中略~メディアにおいてもきちんとその辺りの区分けがなく報じられていることもあり、我々としては大変迷惑をしています」  11月17日、CBD製品を扱う「ワンインチ」の柴田耕佑社長は、自身のXアカウントでこのように訴えた。  HHCHは、幻覚作用や中毒性のある違法な大麻成分「THC(テトラヒドロカンナビノール)」に似せて作られた、合成化合物。厚生労働省が22日に「指定薬物」に追加したことで、来月2日以降の所持、使用、販売が禁止となる予定だ。  一方のCBDは、大麻成分のなかでも、規制の対象となっていない合法成分。WHOの報告書には、「研究数は限られている」としながらも「人体に対する依存性や乱用性はない」と記されており、いわゆる“ハイ”になる精神作用はなく、ストレス解消や安眠、不安や痛みの軽減といった効果があるとされる。 大阪市の店に並んでいた「HHCH」入りのグミ 「CBDとTHCは化学式こそ似ていますが、その作用はまったく異なります。『CBDは大麻成分だから危険』と思う人もいるかもしれませんが、それはただのイメージです」  こう話すのは、同志社女子大学薬学部の喜里山暁子准教授だ。海外の医療現場では、CBDは既に「てんかん」治療などに使われており、日本でも医薬品としての承認を目指す動きがあるという。 「副作用としては、食欲低下、下痢、眠気、倦怠感などが挙げられますが、相当な量を投与しない限り起こりにくく、重篤な事態に陥ったケースは聞いたことがありません」(喜里山准教授)  大麻草において規制されているのは、THCを多く含む葉や根などの部位。大麻草の成熟した茎または種子から抽出された、もしくは化学合成された CBD を使った製品は、THCが混ざっていない限り合法だ。そこで、CBDは近年、経口摂取用のカプセルや、化粧品、キャンディ、チョコレートなどさまざまな形で商品化されており、健康食品店や雑貨店でも売られている。 CBDグミで「すっと眠りに落ちた」  メディア業界で働く50代女性のAさんは、昨年、わらをもすがる思いでCBDグミを買ったという。  当時、仕事の重圧で精神的に病み、毎日焼酎1合を飲んでいたAさんは、ある日の晩酌で、精神安定剤や睡眠薬など精神科でもらった薬を一緒に飲んでしまった。そして、キッチンで昏倒(こんとう)。尋常ではない物音に驚いて駆けつけた高校2年生の娘が見たものは、食器の水切りカゴとともにあおむけで転がる母の姿だった。   米NYの大麻関連商品の展示会に並ぶ「CBDタブレット」(写真:ロイター/アフロ)  Aさんにその時の記憶はないが、盛大にたんこぶをこしらえたうえに、翌朝、「いいかげんにして下さい」と娘にこっぴどく叱られたことで、断酒を決意し、薬もすべて捨てた。  しかし頼りにしていた“相棒”を失った結果、どうにも寝つけなくなり、今度は睡眠不足に悩む日々がはじまった。そんななか、SNSで「よく眠れるようになった」とCBDグミをすすめる投稿が目に留まり、約5000円の出費もいとわずネット注文したのだという。  後日、自宅に届いたグミを口に入れてみたが、特に穏やかな気持ちになることもなく、「こんなものか……」とがっかりした。だが、その晩は久しぶりに、すっと眠りに落ちた。  しかも、毎晩記録している睡眠計のスコアは、91。お酒をあおってから寝ていたころに15だったことを考えると、その改善には目を見張るものがあった。睡眠薬を使ったときのように、翌日眠くなったり、離脱症状として化け物に体を食いちぎられる悪夢を見たりすることもない。 「眠れないときはこのグミを食べればいいんだと、“お守り”ができました」(Aさん) CBD人気の裏には“チル”文化  メディア業界にいるAさんのように、情報への感度が高い人は、いち早くCBDに目をつけていたようだ。  美容・医療ジャーナリストの海野由利子氏によると、当初CBDはアメリカのファッションセレブや大麻肯定派の人々を中心に人気を集め、その情報は日本でも女性誌などでたびたび報じられ、10年以上前には流通しはじめたという。そしてここ数年で、市場が成長した。   米NYの大麻関連商品の展示会に並ぶ「CBDオイル」(写真:ロイター/アフロ) ユンケル飲んだバブル期とは真逆  日本でCBDに注目が集まるようになった背景には何があるのか。  海野氏が考える要因は二つある。一つは、コロナ下で社会不安が大きくなったこと。もうひとつが、若者言葉でくつろぐことを意味する“チル”文化の広がりだ。 「ユンケルを飲んで徹夜で仕事も遊びもしていたバブル期と真逆で、今のムードは“覚醒”ではなく“まったり”です。好きな肌触りの服を着たり、お気に入りのソファに寝そべったりしてストレス軽減できる人はいいんですが、どうしても仕事が頭から離れない人や緊張感が取れず眠れない人には、CBDはとても魅力的に映ると思います」  今、美容やヘルスケアに関心の高い女性たちを中心に、CBDに興味を持ち、気軽に試してみる風潮もある。 渋谷や表参道など都内のおしゃれエリアには、CBD入りのスイーツやドリンクを楽しめるカフェが次々に出店し、CBDが配合された“自然派”をうたう美容液やローションも数多く出回っている。  この、「CBD=おしゃれ」というイメージについて、海野氏は「はやりで動く人たちをターゲットにした販売戦略」によるものだと捉えている。 「スタイリッシュな商品デザインにしたり、『海外セレブも愛用』などというコピーをつけると、話題性も魅力となって手に取るハードルが下がります。日本では、『自然由来の成分=体にやさしい』という意識が根強いこともあり、特に女性たちに受けているのだと思います。でも、知識を伴わない、新しさや雰囲気重視の感度の高さは、間違いが起きるもとです。たとえば、少し前にスムージーがはやりましたが、冷たい液体が一気に胃に入ることと、噛むプロセスなく生の野菜や果物が持つ刺激物質までダイレクトに摂取することで、胃腸が弱い人は痛みを感じたり、おなかを壊したり、アレルギー性の湿疹が出たりしたケースもあります」 不純物が混じった「粗悪品」も  海野氏によると、CBDが健康に悪影響をもたらした例はまだ報告されておらず、基本的には、過剰摂取をしなければ危険性は低いという。しかし、気をつけるべきなのが、「粗悪品」の存在だ。 「すべての業者が、安全な配合量や、他の配合成分との相性について、きちんと検証しているとは限りません。原材料も、精製の度合いが甘く不純物が混入していたり、温度管理をしないコンテナでの船便輸入によって劣化していたり、品質の低いものが使われている可能性もあります」  一般の消費者が、粗悪品かどうかを見極めるのは難しい。大手をはじめ信頼できるメーカーの製品を選んだうえで、初回はサプリメントを1粒飲んだら2~3日様子を見る、アレルギーや肌荒れなどの異変にすぐ気づけるよう家族や知人が近くにいる環境で試す、体調の悪いときは使わないようにするなど、慎重を期すにこしたことはない。  とはいえ、海野氏は、CBDが持つ「可能性」に期待を寄せている。 「効果効能の検証が進んで認可されれば、『機能性表示食品』といった形で、一時的なブームにとどまらず社会に広がっていくでしょう。また、医学分野でも研究が進んでいるので、更年期のメンタルケアやペインクリニックなどで活用される日も近いかもしれません」     冒頭で紹介した、ワンインチの柴田社長の投稿には、「これからCBDを業界全体として健全にしていこうという矢先にこのような状況になり大変残念です」とも記されていた。CBDの未来は、「正しい理解」が浸透するか否かに懸かっている。 (AERA dot.編集部・大谷百合絵)
CBD大麻
dot. 2023/12/01 11:00
補導員のパトロールは令和の今も必要? 夜遅くに出歩く子は減ってもPTAから強制選出
大塚玲子 大塚玲子
補導員のパトロールは令和の今も必要? 夜遅くに出歩く子は減ってもPTAから強制選出
地域によっては各校PTAに委嘱される補導員。「学校が終わる前の午後3時頃からパトロールしても子どもがいない」という声も(撮影/IZUMI SAITO)    街を回り、非行に走りそうな子どもたちに声をかけて注意や助言をする「補導員」。PTAから選出される地域もあるが、若者の行動が変化した今、見直す動きもある。AERA 2023年12月4日号より。 *  *  *  補導、という語を今の10代は知らないだろう。1950~60年代に青少年の非行を防ぐ目的で始まった活動で、今も自治体によっては「補導員」の委嘱を受けた市民が街頭をパトロールしている。不良少年少女に注意や助言をするためだ。補導員は地元住民やPTAなどから選出される。  だが、半世紀を経て若者の行動は変化した。この約20年、刑法犯少年の検挙人員は減り続け、かつて見られた盛り場で飲酒、喫煙する若者より、ネットやゲーム依存、ヤングケアラー等の若者への支援が注目を集める。  そして今、親たちを悩ませるのは「補導員のなり手がいない」という問題だ。千葉県の公立小学校に子どもを通わせる40代女性は、役員としてPTA改革を進め、従来の強制的な委員決めをやめた。本人の希望で参加する「手挙げ方式」に改めたが、唯一、補導員の選出には課題が残った。補導員は市から委嘱される仕事としてPTAにも人数が割り当てられているからだ。市全体で何十人と枠が決まっているため、自校が補導員を出さなければ他校の保護者が人数を埋めることになりがちだ。 夜遅く出歩く子は激減 「以前はうちのPTAも活動をノルマにしていたので、補導員に手を挙げる人も少しはいたんです。でも委員決めの強制をやめたら、補導員はもう誰もやりたがりませんでした」  やむなく女性は今年度の補導員を自ら引き受けた。  女性が住む自治体では、補導員は毎月地区ごとのパトロールと会議に出るほか、市全体で行う街頭活動にも月1度参加する決まりだ。パトロールのほか挨拶運動や清掃といった街頭活動もあり、各自都合のいい時間帯のものに参加する。市から報酬が出ており、額は1時間約1500円。パートの時給と思えば悪くないが、今は多くの母親が働いている。「こんなに活動頻度が高くては、できる人がごく限られてしまう」と女性は話す。 「補導員自体、私はもう要らない気がするんです。この活動が始まった頃と違って夜遅くに出歩く子やゲームセンターに入り浸る子はめったにいない。コロナ禍では一時活動が止まりましたが、それで非行が増えたわけでもない。これまで補導活動をしてきてくれた方には感謝しますが、見直しが必要では」  補導員のやり方を改めようとトライしたのは、千葉県習志野市の中学校の元PTA会長、齋藤いづみさんだ。やはりPTAでなり手が出なくなったため、一昨年と昨年、補導員を引き受けた。補導員を出さずにやり過ごす手もあったが、どうせなら仕組みから見直そうと、PTA役員をやった仲間たちとともに補導員になり、地区役員まで引き受けた。  だが、2年ではあまり変えられなかった。もともと補導員の活動は主催や責任者がわかりにくい。募集するのは市の教育委員会の青少年センターだが、活動を取りまとめるのは「青少年補導員連絡協議会」の役員をするベテラン補導員たちだ。市の職員は数年で入れ替わるが、協議会の役員は何十年も続ける人が多く、発言力が強い。役員1年目の齋藤さんらが意見や提案をしても改革には至らなかった。 「役員をして感じたのは、無理な動員が起きるのは予算ありきだからということでした。市の予算で補導員に対する報酬(補助金)の上限が決まっているから、その上限まで人数をそろえることが目的になっている。人数が減れば予算が減るので、それを避けるために無理にでも人を集めてしまうのです」 街頭からネットに移行  齋藤さんも「そもそも街頭パトロール自体まだ必要なのか」という疑問を感じている。パトロールは青少年健全育成連絡協議会やPTAなどの他団体や、市の職員も行っている。せっかく補助金をつけて報酬を出すなら、もっとニーズの高い課題に対応したほうがよいと話す。  パトロールの場を街頭からネットに移行した人もいる。NPO法人「ネットポリス鹿児島」理事長の戸高成人さんは、約20年前に補導員として街頭パトロールを経験。だが、当時すでに若者たちはガラケーでネットに入り浸りだったため、ネットパトロールに取り組むようになった。現在は子どもをネットリスクから守る活動をする戸高さんは、取材に「街頭パトロールも意義はあると思うが、健康づくりとしてやるくらいがちょうどいい」と語った。(ライター・大塚玲子) ※AERA 2023年12月4日号より抜粋
AERA 2023/12/01 10:30
ハーバード卒のバイオリニスト・廣津留すみれ「aikoさんを幼稚園の頃から聴いてきた」休日はもっぱらJ-POP
廣津留すみれ 廣津留すみれ
ハーバード卒のバイオリニスト・廣津留すみれ「aikoさんを幼稚園の頃から聴いてきた」休日はもっぱらJ-POP
学校や仕事、生活での悩みや疑問。廣津留さんならどう考える?(撮影/吉松伸太郎)   小中高と大分の公立校で学び、米・ハーバード大学、ジュリアード音楽院を卒業・修了したバイオリニストの廣津留すみれさん(30)。その活動は音楽だけにとどまらず、大学の教壇に立ったり、情報番組のコメンテーターを務めたりと、幅広い。「才女」のひと言では片付けられない廣津留さんに、人間関係から教育やキャリアのことまで、さまざまな悩みや疑問を投げかけていくAERA dot.連載。今回は、J-POPを定期的にカバー演奏している廣津留さんに、その魅力について聞いてみた。 * * * Q. J-POPのカバーをテレビ番組でも演奏している廣津留さん。休日にもよく聞いているとか。J-POPを好きな理由や感じている魅力を教えてください。 A. やっぱり小さい頃からよく聴いていたからだと思います。それに、今はクラシックを聞くとどうしても仕事モードになってしまうので、リラックスするためにも休日はもっぱらJ-POPですね。aikoさんや椎名林檎さん、宇多田ヒカルさんなど、いろいろ聞いています。好きなアーティストの音楽を聞いているとモチベーションが上がるんですよね。なかでも、aikoさんは幼稚園のときの友達のお姉さんの影響でずっと聴いてきていて、耳になじんでいるというか。大好きです。バイオリンのレッスンに通うときも聴いていましたし、いろんな思い出と曲が一緒になっていますね。aikoさんの音楽は、絶妙な半音の使い方が印象的で、恋する気持ちを歌うストレートな歌詞や、悲しい歌詞に明るいメロディーがついたりするギャップなどオリジナルな魅力にあふれていると思います。好きな曲ですか? いやいや、全部好きすぎて選べません!(笑)  私はもともとクラシックだけでなく、ジャンルにこだわらずに音楽をやりたいと思っていたのですが、ハーバード在学中にヨーヨー・マさん率いる音楽グループ「シルクロード・アンサンブル」と共演し、その思いがますます強くなりました。ノンジャンルで自由に音楽を表現する彼らの姿がとても生き生きとしていたんです。そうした影響もあって、ニューヨークのジュリアード音楽院に進んでからは、学校やコンサートでクラシックを演奏する傍ら、仲間とアメリカのポップスやJ-POPなどジャンルにとらわれない曲のカバーをジャムセッションするようになりました。弦・管楽器に打楽器にキーボード奏者、またジャズ科の友人なども呼んで即興アレンジするのですが、かなり音楽脳が鍛えられますし、原曲の良さを再発見できるんです。   「ニューヨーク時代からは、家でもいつも音楽をかけています」と廣津留さん(撮影/吉松伸太郎)    いろんな曲をカバーしていると、ポップスにはそれぞれの国ごとに特徴が表れると気がつきました。例えば、アメリカのポップスだと同じメロディーが何回も繰り返されることが多かったり、K-POPだとビートが強めだったり。J-POPにはドラマチックなサビが多いなど、その国ならではのコード進行というか、曲の構造があると思います。  J-POPの場合は歌詞も日本語だから、日本人の私には頭にサラッと入ってくるところもやっぱり好きです。母国語を聴くと落ち着くし、曲の背景にあるコンテクストもしっくりと理解できる。サザンの歌を聴いたときに目に浮かぶのは、ハワイやカリフォリニアのビーチではなく、日本の海なんですよね。  逆にいうと、日本語の歌詞だけでは海外の人たちにはなじみづらい部分があるかもしれません。J-POPは音楽性としてはグローバルな魅力が十分にあるのに、言葉の意味が伝わらないためにちょっともったいないなと思うときもあります。今、私はバイオリンを身近に感じてもらいたくて週2本くらいのペースでカバー演奏動画をYouTubeやインスタグラムにアップしていますが、時々英語の歌詞も付けているのは、J-POPの魅力を海外の人にも知ってもらいたいと思うから。こういう形でひっそりとですが、私なりに応援しています。 Q. 廣津留さんがよく聴く音楽は? 最近ハマっているものがあれば教えてください。 A. よく聴くのは、いつの時代もやっぱりaikoさん。Lo-Fiミュージックも聞きますね。ニューヨークにいた頃から常に何かしらの音楽をかけていて、そのときの気分や作業によって変えています。例えば、移動中は聴くことに集中できるのでaikoさんや宇多田ヒカルさん、椎名林檎さん、原稿を書くなどの仕事をしているときは歌詞が頭に入ってきてほしくないのでLo-Fi、「明日から海外なのにパッキングが終わってない!」なんてときや家の掃除をするときなどは、好きなミュージカルのサントラやB’zさんを流してノリノリでやる気を出しています(笑)。もちろん、自分のコンサートの準備としてタンゴやクラシックも聴いていますよ。  最近はアイスランド出身のシンガーソングライターLaufey(レイヴェイ)さんにもハマっています。チェロやピアノなどいろんな楽器を弾きながら歌も歌うマルチ・インストゥルメンタリスト(マルチ奏者)で、ジャズやポップスなどさまざまな要素がミックスされています。ニューヨークの友人に教えてもらい、心を落ち着けたい夜などにBGMとしてよく流しています。私にとって音楽は、J-POPを含めてジャンルに関係なく、昔も今も生活にかかせないものなんです。 構成/岩本恵美 衣装協力/BEAMS 英語や海外事情、勉強、音楽、学校、これからの日本。気になることをなんでも聞いてみよう(撮影/吉松伸太郎)   AERA dot.では、ハーバード大学とジュリアード音楽院を卒業・修了した廣津留すみれさんのライフヒストリーを紹介する連載「廣津留すみれのアタマの中」を掲載。2023年からは「Season 2」として、バイオリニストでありながら、情報番組のコメンテーターや大学の教員など多方面で活躍する廣津留さんが、勉強やキャリア、海外のことなどにまつわるさまざまな悩みや疑問に答えます。 そこで、みなさんからの質問を大募集します! お子さんから学生、大人まで、年齢は問いません。 【こちらから気軽にお寄せください】 例えば…… ·「歴史と英単語の暗記のコツを教えて」 ·「これって今の英語ではなんて言うの?」 ·「ピアノがなかなか上手くなりません。習い事はいつまで続けたほうがいい?」 ·「日本に遊びに来た若い外国人を、廣津留さんならどこに案内しますか?」 ·「英語でプレゼンするときに相手に響くポイントは?」 ·「今、勉強しておくといいジャンルは何だと思いますか?」 ·「ずばり、日本の教育を変えられるならどこを変える?」 廣津留すみれさんのファーストCD「メンデルスゾーン/ヴァイオリン協奏曲+シャコンヌ」  
廣津留すみれ
dot. 2023/12/01 08:00
仕事は日常生活の何倍も学べる場所、夢をつかむ路線が始まってる しいたけ.さんがアドバイス
しいたけ. しいたけ.
仕事は日常生活の何倍も学べる場所、夢をつかむ路線が始まってる しいたけ.さんがアドバイス
占い師、作家 しいたけ.  AERAの連載「午後3時のしいたけ.相談室」では、話題の占い師であり作家のしいたけ.さんが読者からの相談に回答。しいたけ.さんの独特な語り口でアドバイスをお届けします。 *  *  * Q:学費や生活費をバイトして賄って生活しています。やりたいことをやれる環境がある子を見ると、私の頑張りっていつ報われるんだろうと思ってばかり。ちょっとしたことでウジウジ言ってる同級生をみると甘えだなと感じて、自分は嫌な人間だと思ってしまいます。留学してファッションの勉強をするのが目標ですが、実現可能でしょうか。(女性/大学4年/23歳/みずがめ座) A:僕も大学時代、あなたと同じように学費と生活費をバイトと奨学金で賄っていました。周りから偉いねとかもっと遊びなとか言われましたが、勝手なことを言われているようで悔しかったし、寂しかったです。  バイトに週5で入っていたから部活もできなくて、でも横を見ると、夏休みとかに親に車を買ってもらった大学生がみんなを連れて旅行に行って、人気者になったりしていて。絶対許さない、「公式ライバル」だ、と決めていました。ただ、そういう学生には彼らなりの苦労もあっただろうなと今では思えます。  そしてぜひお伝えしたいことは、今の僕の仕事の原点が、その時やっていたバイトにあるということです。  深夜の中華料理のファミレスで働いていて、時給1050円でしたが、僕は自分の勝手なポリシーとして「絶対に時給2千円分の働きをする」と決めていました。例えば、お客さんが入らなくて暇なときは率先して掃除をする、手空きの時間を作らないとか。  それを続けていると、同じバイト仲間や社員の人が、僕がシフトに入っているときに「あ、今日しいたけ.くんがいるんだ。助かる」って喜んでくれるようになったんです。頼まれてもいない時給2千円分の仕事をすることによって、目に見えない信用ポイントがたまっていったんですよね。   【こちらも話題】 「これどうでもいい話なんですけど」から、何かが始まるかも しいたけ.さんがアドバイス https://dot.asahi.com/articles/-/206362  今は占いという全然関係ない仕事をやっているわけですが、当時の仕事の仕方とか悔しいからと自分で決めたルールによって多くの人の信用を得られたことが、今の仕事につながっている、とはっきりと言えます。  仕事や労働がすべてではありませんが、仕事ってお金以外にも、どうやったらもっと人を驚かせられるかとか、どうやったら人と協力し合えるかとか、日常生活の何倍も学べる場所でもあるような気がします。  時給以上の働きをした人は、きっと大人になってからも仕事でものすごい最高速度を出せるようになってくる。だからおそらくあなたの夢もかなうんじゃないかなと僕は思いました。  みずがめ座は、若い時にため込んだ恨みを発酵させてクリエイティビティーの原動力や栄養素にしていく人たち。  他の人の何倍ものスピードで自分の夢をつかむ路線が始まっています。ここで嘘でも「私はラッキーだ」と思えるかどうか。 「今日も徳を積みました。いぇーい! 神様見てる?」って、アピールしちゃってください。 ◎しいたけ./占い師、作家。早稲田大学大学院政治学研究科修了。哲学を研究しながら、占いを学問として勉強。「しいたけ占い公式サイト」で週刊占いを毎週月曜に更新。 ※AERA 2023年12月4日号   【こちらも話題】 「自分優先」の原点に戻って、楽しい空気を残している人って無敵 しいたけ.さんがアドバイス https://dot.asahi.com/articles/-/207060
しいたけ.
AERA 2023/12/01 07:00
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