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港区女子「分岐点は25歳」 落ちぶれる“逆ドリーム”はレアケース、よくある「その後」3パターン
港区女子「分岐点は25歳」 落ちぶれる“逆ドリーム”はレアケース、よくある「その後」3パターン
「港区女子」と一口で言っても、愛人業やギャラ飲みで生計を立てる“プロ”から、華やかな世界に片足を突っ込みつつ“素人”にも立ち位置を残している人まで様々だという(写真/Getty Images)    港区を拠点に活動する「港区女子」。「男に奢られるのが基本」「パパ活してる」「ギャラ飲み(お金をもらって飲み会に参加)が副業」などSNS上ではマイナス評価も目立つが、その実態はいかに。AERA2023年11月6日号より。 *  *  * 「港区」とは東京都の都心部で、芝、麻布、赤坂、高輪、芝浦・港南の五つの地域。 「東京でトップ、つまりは日本でトップの土地の高さ。特に“スリーA”と呼ばれる麻布、赤坂、青山は半端なく収入が高くないと住めません。言い換えれば、お金を払って環境を整えたいという人には最高の場所ですね」(住宅ジャーナリストの榊淳司さん)  最近、「港区女子」に注目が集まった。きっかけは、料理研究家リュウジ氏がX(旧Twitter)に投稿した内容。すでに散々報じられているので詳細は割愛するが、港区女子の奢ってもらう問題をめぐって賛否が巻き起こった。これで初めて港区女子なるものを知った人もいるのでは。 みんなヴァンクリ持ち 「29歳の時に参加したビジネス勉強会のことを思い出しました」と話すのは、現在子育て中の既婚女性(30代半ば)。場所は六本木。講師である経営者を交えての飲み会があり、気がつけば参加者が「一生働かずに生きていたい」オーラがギラギラ出ている20代前半女子ばかりになっていた。 「華やかな女子が、華やかな友人女子を連れてくる。経営者の自宅パーティーも頻繁にあり、30人ほど女子が集まるんです。みんなって言っていいほど、ヴァンクリ持ってましたね」  ヴァンクリ(ヴァンクリーフ&アーペル)は、フランスを代表する高級ジュエリーブランド。20代前半女子が気軽に買える値段ではない。 「港区女子って努力家ですよ」と反論するのは、完全審査制マッチングアプリに登録する30代女性。アプリを介し、港区在住男性との交流もある。 「美容と健康への意識が高く、自分磨きに熱心。港区は自費だけど腕がいい美容系クリニックが集まっていますし、オーガニック食材を扱う店もあちこちにあります。すごく過ごしやすいんです。株式や投資信託を購入したり、インフルエンサーになるような人と知り合い、その縁を自分の仕事に生かしている人もいますね」  Xのフォロワー数6万人超の東大卒OLコラムニスト、ジェラシーくるみさんは「港区女子にはグラデーションがあります。愛人業やギャラ飲みで生計を立てる“プロ”もいれば、華やかな世界に片足を突っ込みつつ、“素人”にも立ち位置を残している港区女子もいる」と指摘。  ジェラシーくるみさんは大学生の頃から港区に入り浸っていた。「20歳」「大学生」は一つのブランド。外資系投資銀行、コンサル、商社、テレビ局などに勤める人もいて自分の世界と地続きという点も良かった。 「クラブやパーティーなどで知り合え、別日にOB訪問ができ、将来につながる面がある」 illustration 小迎裕美子   25歳前後が分岐点  ただ、港区女子を謳歌できるのは期限付き。ずば抜けてノリが良い女子、対等に男性と話ができて稼いでいる女子は別にして、25歳前後を境に“若くない側”に回るからだ。“新規補充”された10~20代前半の芸能人やラウンジ嬢、CA、美人OLたちを目の当たりにし、自分がチヤホヤされる側ではなくなったと気づいた。 「自分なりの面白さや魅力を磨かず若さにあぐらをかいて『会計も盛り上げも男の担当でしょ』と考えていると、『あいつはタク代ばかりせびる』となり、出禁になることもあります。そんな“妖怪化”する女性は一部ですが」  港区で活動し、現実を突きつけられ続けてきた分、港区女子は賢い。世間一般で思われているような「就職先にもあぶれ、婚活にも失敗し、ハッピーではなく落ちぶれているんでしょ」的な“逆ドリーム”はレアケース。よくある「その後」は3パターン。昼の仕事に軸足を置きキャリア形成か、夜遊びついでにパートナーを見つけ結婚か、実家が太くて家業の手伝いか。ただ、女として消費され、値踏みされる部分が多いため、その目線が内在化し、不健全で歪んだ価値観が形成される人もいる。 「ホンマもん」の意見  港区女子は「港区在住ではない」が大前提とされている。しかし港区在住の女性も当然ながら港区で活動しているわけで、“ホンマもん港区女子”たちにも意見を聞いてみた。 「港区在住って過剰な印象を与えるので、自分からは言いません。私が住むのは落ち着いた住宅地で、季節の草花、カエル、コウモリ、ハクビシン、サギなどもいて自然に恵まれています。それにしても、娘ともよく話しているんですが、港区在住の女性って綺麗な方が多い」(娘とふたり暮らしの女性) 「独身の頃、合コンで出会った男性に『港区に住んでいる』と言うと『お金がかかる。プライドが高い』と敬遠されがちで、別の区在住と嘘をついていました。今感じているのは、港区女子はまだ全然可愛らしく、港区マダムが厄介で最強ということ。麻布、青山辺りに住むマダムは、私が住む芝浦・港南エリアを港区とみなしていません。『(芝浦・港南エリアは)昔は海だった』とよくマウントされます」(独身時代から22年港区在住の既婚女性) 「50歳の誕生日記念として今年12月、港区六本木でディナーショーを開きます」  こう言うのは、広告制作会社「アレス」代表取締役の駒村利永子さん。女性の悩みに特化したライフスキルのトレーニングプログラムであるLSYを開発し講座を運営する駒村さんは、かつて「港区女子」だった。 「30代で女子というのもおこがましいですが、32歳で上京してから、昼も夜も港区で過ごしていましたね」  日本を代表する“モノづくりのまち”東大阪市から上京し、セレブを相手に億単位の物件を売る不動産ディベロッパーでクローズドのパーティーを運営。その後、広告業界へ転職、仕事で燃え尽きては体を壊し次の職場へ……と転職を繰り返した。仕事場やクライアント先が港区にあったので、活動の場も自然と港区に。勤めていた会社から給料が出なくなり、起業したのが42歳だ。資金は潤沢ではなかったが、信用性を重視し港区にオフィスを構えた。 「転職時代は全財産100円なんていう人生崖っぷちの時もありました。そんな自分が発展していく過程で、一流のものが集まる港区でさまざまなことを吸収できたのは大きい」 自分が一番輝ける場所  派遣社員時代、参加した無料セミナーで聞いたゲストの言葉をメモしたノートは今でも大事に持っている。アート作品があちこちに展示されており、日常的に鑑賞でき精神的な刺激を受けた。野心ある人々との深夜までの会食では、第一線で働くとはどういうことかを目の当たりにできた。駒村さんは言う。 「身を置く場所が変わったら、価値観も変わり、その価値観に自分を近づけていこうと思えるようになる」 「ディナーショー」の会場は、人生最大の極貧時代を過ごした場所のすぐ近く。「人生は自分で創れる」というメッセージを込め、「単なる一般人の私が、やったこともない歌の披露を皆さんの前でやります」。 「自分が一番輝ける場所が、一番合うと実感した」 「鏡学」という独自メソッドでカウンセリングを行う鎌田聖菜さんは、大学卒業後、一時期、芸能界に籍を置いていた。 「いわゆる港区女子の方に誘われることもあったんですが、奢る方もそれが普通、奢られる方もそれが普通という文化に驚愕したのを覚えています」  現在、プライベートの活動の場は中央区。古き良きものがあり、新しいものもあるその場で飲食するようになって、「地域の人と共に飲んでコミュニケーションをするのが好きな自分」を発見したという。  ちなみに記者は、自他ともに認める歌舞伎町女子(=新宿・歌舞伎町が遊びの主戦場)。港区との距離(実際の距離ではなく)を痛感させられた。(ライター・羽根田真智) ※AERA 2023年11月6日号
AERA 2023/11/06 10:30
世界のベストバー100選出のバーテンダーが作る至福の一杯 ロジェリオ 五十嵐 ヴァズ
中村千晶 中村千晶
世界のベストバー100選出のバーテンダーが作る至福の一杯 ロジェリオ 五十嵐 ヴァズ
白衣をまとった姿は研究者か画家にもみえる。空の色や音楽からもカクテルのインスピレーションを得る(撮影/今村拓馬)    スモールアックス取締役・Bar TRENCH チーフバーテンダー、ロジェリオ 五十嵐 ヴァズ。世界のベストバーにも選ばれる「Bar TRENCH」は、日本でもあまり知られていなかったアブサンやビターズをいち早く取り入れた。ロジェリオ 五十嵐 ヴァズは、チーフバーテンダーとしてシェイカーを振る。ブラジルに生まれた日系ブラジル人3世。シンプルな中に遊び心をプラスしたカクテルに加え、優しい笑顔と、どこか捉えどころのない魅力にひかれた客が、今日も訪れる。 *  *  *  夕闇に覆われた東京・恵比寿。その裏路地にある「Bar TRENCH」に橙(だいだい)色の灯(あか)りがともると、待ちわびた人たちが次々とドアをくぐっていく。カウンターを入れて13席の小さな店は、異国の隠れ家のような雰囲気が満点だ。天井まで届く棚には、酒のボトルのほか本やレコードがうずたかく積まれている。その前でロジェリオ 五十嵐(いがらし) ヴァズ(48)がクシャッとした笑顔で「いらっしゃいませ」と迎えてくれた。  ロジェリオがチーフバーテンダーを務めるこの店はアジアのベストバー50に7年連続でランクインし、5年連続で世界のベストバー100にも選出されている。オープンは2010年。日本で認知度の低かった薬草酒「アブサン」や、ハーブなどから抽出したリキュール「ビターズ」をいち早く取り入れ、業界でも話題の店となった。  日系ブラジル人3世のロジェリオは、ラジオパーソナリティーのようなやさしい声で日本語と英語、ポルトガル語を操り、客人をもてなす。ロックグラスになめらかな手つきで氷を回し入れ、シェイカーをリズミカルに振りながら、ロンドンからハネムーンできたというカップルにおすすめの日本のクラフトジンを紹介し、カナダ人青年と冬の彼の地の過酷さを語り合っている。  秋のカクテルメニューから「密輸入者」という意味の「ザ・スマグラー」をオーダーしてみる。オレンジとレモンの果汁に、アブサンとバニラ。ドライオレンジの上に削ったトンカビーンズが添えられる。ひと口含んだ瞬間、嘘じゃなく鳥肌が立った。これは……美味しい! とろりとした口当たり、柑橘(かんきつ)のやさしい爽(さわ)やかさの奥に、八角のような複雑なハーブを感じる。加えてトンカビーンズのナッティでエキゾチックな風味が重なり合い、とろけるようだ。 カクテルの仕上げにのせるドライフルーツの位置も、写真の構図のように計算されている。写真家の植田正治が好きだという。「大工だった祖父も写真好きで人を写すときには真ん中ではなく、端にしたほうがいいぞと教わりました」(ロジェリオ)(撮影/今村拓馬) カクテルの仕上げにのせるドライフルーツの位置も、写真の構図のように計算されている。写真家の植田正治が好きだという。「大工だった祖父も写真好きで人を写すときには真ん中ではなく、端にしたほうがいいぞと教わりました」(ロジェリオ)(撮影/今村拓馬)   「海外で見た景色や、街で見かけた言葉がカクテルのヒントになることもあります。気になったものを常に携帯にメモしています。レストランでサラダを食べているときに『あ、これ使いたいな』とか、『ロミオ&ジュリエット』というブラジルのお菓子をヒントにグアバとチーズ、ラムを組み合わせたカクテルにしてみよう、とか。たまにうまくいかないときもあります。味噌(みそ)とピーチで作ったシロップは、それ自体は美味しかったんですけど、お酒と合わせたら大失敗でした」  と、ロジェリオは朗らかに笑う。  ザ・リッツ・カールトン東京のヘッドバーテンダー和田健太郎(41)は、16年に店を訪れて以来、彼に魅了されている一人だ。 「ロジェさんのカクテルは目新しく感じるけれど、やっていらっしゃることはクラシック。いうなれば温故知新です」  クラシックなカクテルは甘み、酸味、苦みのバランスがとれていることが大前提。ロジェリオのカクテルはその完璧な土台に、卓越したセンスがのっていると和田はいう。 「珍しいハバネロのバーボンを使ったり、ジンにジャスミン米とスパイスから作るメキシコの『オルチャータ』を合わせてみたり、シンプルながら『え?』という驚きと、人の気を引くロジックがある。クラシックな土台にのっているのは、ロジェさんの茶目(ちゃめ)っ気や人間性だと思います」 祖父母がブラジルへ移住 祖父の家具工場で遊んだ  ロジェリオと20年来の仕事仲間である岡屋心平(52)はその人物像を「捉えどころのないとぼけた感じでみんなに好かれる二枚目風」と評する。 「彼はシェイカーをふるときも、他の人と違ってなにやら子どもをあやしているような、誰かの声に耳を傾けているような独特のやりかたをします。彼には人を惹(ひ)きつける、持って生まれた素質がある。台本なしで本番の舞台に立っても、予想を上回るパフォーマンスをみせるショーマンのような勝負強さも持っているんです」  だがロジェリオ本人は「まさかバーテンダーになるとは、思ってもいませんでした」と笑う。ブラジルから遠く離れた日本へ身一つでやってきたのも、ほんの軽い気持ちからだったのだ。  ロジェリオは1975年、ブラジル・サンパウロに生まれた。父はポルトガル系のブラジル人で、母が日系2世。母の両親は富山からブラジルに移った。五十嵐姓のルーツはここにある。大工だった祖父はブラジルに向かう船で祖母と出会い、結婚した。二人は綿花農場で働いた後、独立して小さな家具工房を建てた。ロジェリオは子ども時代、木の匂いのする祖父の工場でかくれんぼをして遊んだことを憶(おぼ)えている。 撮影/今村拓馬    母は日本人コミュニティーにはあまりなじまず、和食よりもブラジル料理を好んだ。体育教師だった父と出会ったころは美容師で、結婚後にロジェリオと弟と妹、3人の子育てをしながら夜間高校を卒業して公務員になった努力家だ。両親共働きのおかげで家庭はミドルクラス。ロジェリオはいつもストリートでサッカーやバスケに興じ、13歳からはスケートボードに夢中になった。  ロジェリオが10歳のときまでブラジルは軍事政権下にあり、物資もカルチャーも海外からは入ってこなかった。「テレビも白黒で、共産主義国家のようでした」という。民主主義に移行してからも街の治安は決してよくなかった。「行ってはいけない」とされるエリアも多く、常に角を曲がった先に誰かがいるかもしれない、と意識して育った。危ない目にあったこともある。バスに乗ろうとしたとき銃を持った少年3人組がロジェリオを追い越して乗り込み、乗客からスニーカーや時計を奪っていった。幸い被害を免れたが、そうしたことは日常茶飯事だった。 ちょっと日本を見てみたい 茨城県で工場勤務を始める  13歳のとき両親が離婚し、サンパウロから160キロほど離れた田舎に引っ越した。高校卒業後はサンパウロの専門学校で機械工学を学び、大学受験のために夜間の学校にも通った。同時に日本への就職派遣会社にも登録していた。 「いとこがいる日本をちょっと見てみたい、という軽い気持ちからでした。でも思いがけずトントン拍子に就職先が見つかった。デカセギ、という言葉も知っていたし、その気持ちもありました。1年でお金をためれば、ブラジルに戻って大学の費用も払えるなと」  茨城県の古河市は、現在もブラジル人が200人ほど暮らす街だ。19歳のロジェリオは会社の寮に住み、近隣の小さな工場で20人ほどのブラジル人と香水のビンを検査する仕事についた。同僚たちはみなブラジルの家族に送金するため工場と寮を往復し、節約して日々を過ごしていた。 「当時はつらいこともありましたけど、思い出そうとしてもパッと思い出せないんですよね」  とロジェリオは言う。 ロジェリオをバーテンダーの道へ引き入れた伊藤拓也(右)と打ち合わせ。2人はバーの経営のほか、飲食店コンサルティングや洋酒などを輸入販売する「スモールアックス」の代表と取締役の関係でもある(撮影/今村拓馬)   「外国人として見られた経験ももちろんあります。でも差別というより、ディスコミュニケーションなだけだと思います。ブラジル人たちはお金をためるために必死で、休みの日も出かけない。だからどうしても世界が狭くなってしまう。地元の飲食店に入っても僕らはポルトガル語で、お店の人は日本語。向こうは『外国人だから、なにか悪いことをしようとしているんじゃないか』と思い、こちらは『日本人は厳しい。ひどい』となる。でもだんだん日本語がわかってくると、お互いに単なる勘違いだったんじゃないかと思えるんです」  そんななかロジェリオは、若さと好奇心で状況を変えていく。1年間の節約生活を経て、2年目も働くことを決め、休みの日に電車で1時間かけて上野に行き、駅前でスケートボードをする若者に交じるようになった。日本語はできなくてもトリック(技)は共通でコミュニケーションが取れた。山手線で今日は渋谷、明日は恵比寿とひと駅ずつ行動範囲を広げていった。レコード店やライブ、クラブにも一人で行くようになった。  さらにスノーボードにハマり、ニュージーランドにひとり旅をする。しかし英語が話せず、入国審査で長時間止められた。幸いポルトガル語を話す日本人男性に助けられたが「英語が話せないとダメだ」と痛感し、1年間のカナダ留学を決意する。その後日本に戻って再び工場で働き、留学生として大学進学を目指して拓殖大学の日本語教育課程で学びはじめる。だが学費を稼ぐためアルバイトをしようとしても、日本語が話せないことがネックとなり仕事がない。ようやく採用されたのは恵比寿にあったカナダ人が経営するカフェ。ここから現在につながる道が開きはじめる。  伊藤拓也(49)は大学時代からカフェやサロンなどの空間作りに興味を持ち、恵比寿に薬草酒アブサンを出す「Bar Tram」を開いた。2003年ごろロジェリオが客としてやってきた。長めのウルフカットに特徴的なヒゲをはやし、個性的な人だなと思ったという。 いつも人生の節目にスケートボードがあった。イベントのバーテンダーやコンペティションの審査員として海外を飛び回る多忙ないまも、束の間の息抜きに乗る(撮影/今村拓馬)   「いわゆるラテン系というか、我々がイメージするブラジル人とは明らかに違う、ちょっと内向的な印象でした。でも人当たりがよく、話もおもしろいから、みんなに『ロジェ君、ロジェ君』と興味を持たれて、誘われていた。この人が店に立っていたら絶対カッコイイな、この仕事に向いているだろうなと、一緒に働かないかと誘ったんです」 バーテンより写真が好き デンマークのバーで感動  しかし当人はバーテンダーに興味はなく「またしばらく工場で働こうかな」という。こんなにセンスとタレント性があるのにもったいない、と伊藤は口説き続けた。当時、ロジェリオが夢中になっていたのは写真だった。アルバイト先のカフェから広がった人脈で、大学進学よりもカルチャーへの興味が増していた。恵比寿の「東京都写真美術館」で写真の実技コースを受講し、写真家のアシスタントやモデルも務めていた。そんななか伊藤の説得で「Bar Tram」のバーテンダーとして店に立つようになる。 (文中敬称略)(文・中村千晶) ※記事の続きはAERA 2023年11月6日号でご覧いただけます
現代の肖像
AERA 2023/11/03 18:00
ザ・ビートルズ、“最後の新曲”「ナウ・アンド・ゼン」MVを監督したピーター・ジャクソンによる長文メッセージ公開
ザ・ビートルズ、“最後の新曲”「ナウ・アンド・ゼン」MVを監督したピーター・ジャクソンによる長文メッセージ公開
ザ・ビートルズ、“最後の新曲”「ナウ・アンド・ゼン」MVを監督したピーター・ジャクソンによる長文メッセージ公開  日本時間2023年11月2日23時にデジタル配信され、翌日にアナログ盤が発売となるザ・ビートルズの “最後の新曲”「ナウ・アンド・ゼン」のミュージック・ビデオの監督をつとめたピーター・ジャクソンによる長文メッセージがザ・ビートルズの公式サイトで公開された。 2021年に公開されたザ・ビートルズのドキュメンタリー『ザ・ビートルズ:Get Back』を監督し、また『ロード・オブ・ザ・リング』シリーズを担当した現代映画界を代表するジャクソンだが、今回の長文メッセージでは、最後の曲にふさわしい映像を作るという大きなプレッシャーやその制作の過程を綴っている。ジャクソンがミュージック・ビデオを監督するのは今回が初となる。 「ナウ・アンド・ゼン」のミュージック・ビデオは日本時間11月3日23時にザ・ビートルズのYouTubeにて公開される。 また当初フィジカルではアナログ盤とカセット・テープのみだった「ナウ・アンド・ゼン」だが、急遽CDシングルでの発売も決定した。◎ピーター・ジャクソンによるメッセージ日本語訳 アップルから、ミュージック・ビデオ制作の依頼が来たとき、僕はまったく乗り気ではなかった。この厄介な仕事が誰か他の人の問題になっていれば、その後の数か月間の僕の生活はずっと楽しいものになっただろうし、他のビートルズ・ファンと同様に、ザ・ビートルズの新曲とミュージック・ビデオのリリースが近づくにつれ、クリスマス前夜のようなワクワク感を楽しんでいたと思う。1995年、「フリー・アズ・ア・バード」のリリースが近づいたときには子供のように興奮したし、それが楽しかったから。 ザ・ビートルズに“ノー”とさえ言えば、当時と同じような体験が可能だったはずだ。 正直言って、ザ・ビートルズが最後にリリースする曲に相応しいミュージック・ビデオを制作しなければならないという責任の重さを考えただけで、対処しきれないほどの不安が押し寄せてきた。僕のビートルズへの生涯の愛が、皆を失望させてしまうかもしれないという恐怖の壁にぶつかった。だいたいミュージック・ビデオの制作自体が初めての体験だったし、50年前に解散して、この曲を実際に演奏したことがなく、またメンバーの半分がこの世にいないバンドのミュージック・ビデオをどのように制作したらいいのか、まったく想像できなかったこともあり、とても不安な気持ちになった。 ただの使い走りをやった方がはるかに楽だろうなと思った。 とにかくザ・ビートルズ側に断るための正当な理由を考えるために、少し時間が必要だった。つまり、僕は「ナウ・アンド・ゼン」のミュージック・ビデオ制作に同意していない。(実際、今でも、同意した覚えはない) アップルには、適切な映像がほとんどないことが心配だと伝えた。本当は貴重映像や未公開映像をふんだんに使う必要があったが、そのようなものはほとんどなかった。1995年にポール、ジョージ、そしてリンゴが「ナウ・アンド・ゼン」に取り組んでいる様子を撮影した映像は存在していないようだったし、ジョンがこの曲のデモを書いた70年代半ばの映像もほとんどない。60年代のビートルズの未公開映像すらないことも不満だった。その上、昨年ポールとリンゴがこの曲を完成させるべく作業をしている様子すら、彼らは撮影していなかったという。 ザ・ビートルズのミュージック・ビデオは、偉大なるビートルズの映像を核に据えないと成り立たない。俳優や、CGのビートルズで代用すべきではない。ザ・ビートルズのショットはすべてが本物であるべきだ。この段階では、まともな映像がなければ、誰がどうやっても「ナウ・アンド・ゼン」のミュージック・ビデオはできないと僕は確信し、もはやこれは、下手な言い訳どころか立派な理由だった。そしてミュージック・ビデオ制作に関する僕の不安や心配は、今や確固たる理由に裏打ちされ、臆病者だと思われずにこの仕事を断ることが可能となった。 ザ・ビートルズは、彼らが何かをやると決めた時に“ノー”とは言わせないということは知っていたが、彼らは、僕が“ノー”と言うのを待つことすらしなかった。彼らは僕の懸念事項にあまりにも素早く対処してくれたので、気がついた時には、すでに巻き込まれていた。ポールとリンゴは、自分たちの演奏シーンを撮影して送ってくれた。アップルは長いこと忘れ去られていた1995年のレコーディング・セッションの映像を14時間分、発掘してくれた。その中には、ポール、ジョージ、リンゴが「ナウ・アンド・ゼン」に取り組んでいる映像も含まれていた。それらをすべて僕に託してくれた。ショーンとオリヴィアは、素晴らしい未公開のホーム・ムービーの映像を見つけて、送ってくれた。極めつけは、ザ・ビートルズが革のスーツを着て演奏している数秒間の貴重な映像。もちろん未公開の、ビートルズ最古の映像で、ピート・ベストの好意により、手に入れることができた。 この映像を見て、状況が一変した。ミュージック・ビデオが制作できる気がしてきた。実際、短編映画を制作するんだと考えた方がはるかに簡単だと気づいた。そう考えたら、ミュージック・ビデオ制作に関しての不安は一掃された。なにしろ、ミュージック・ビデオを作るわけではないから。 それでも、この“短編映画”がどうあるべきかという確固たるヴィジョンは、まだ浮かばなかった。そこで、曲に頼ることにした。 1年以上前にデモ・テープからジョンの声を分離し、ジャイルズは「ナウ・アンド・ゼン」の初期ミックスを作っていた。それは2022年に僕の元にも送られてきていた。僕はとても気に入って、以来、純粋に楽しむために「ナウ・アンド・ゼン」を50回以上聴いていた。 それを今度は別の理由で聴き始めた。曲を聴き込めば、この短編映画のためのアイデアやインスピレーションが曲から得られるのではないかと思ったからだ。果たして、その通りになった。聴くほどに、意識しなくても、自然にアイデアやイメージが頭の中で形成されていく気がした。 僕は『ザ・ビートルズ: Get Back』の編集者であるジャベズ・オルセンと協力し、新しい映像素材を使用して、これらのぼんやりとしたアイデアをサポートする方法を考えることにした。これは非常に有機的なプロセスで、少しずつ小さな断片を組み立てて、物事がカチッと決まってくるまで、映像や音楽をさまざまな方法で動かしていった。 この短編映画では、人々の目に涙が浮かぶようなものに仕上げたかったが、アーカイヴ映像だけでそれを成し遂げるのは難しかった。でも、幸いなことに、この美しい曲のシンプルなパワーが、その仕事のかなりの部分を引き受けてくれたので、映画の最初の30秒から40秒は、比較的早めに完成した。 ここまで終わったところで、僕たちは一足飛びにエンディング部分に取り掛かり、彼らの最後のレコーディングの最後の数秒間で、ザ・ビートルズの“遺産”の大きさを十分に総括できるような何かを作り出そうとしていた。でもそれは不可能だった。彼らの世界への貢献はあまりにも膨大で、彼らの驚異的な音楽の才能は、もはや我々のDNAの一部となっていて、今となっては言葉では言い表せないからだ。 僕たちができないことをやり遂げるためには、視聴者それぞれの想像力が必要で、視聴者の皆がそれぞれに自分だけのザ・ビートルズとの別れの瞬間を創造する必要があることに気づいた。そして、僕たちが皆をそこへ、優しく誘導する必要があった。僕の中には漠然としたアイデアはあったけれど、実際にはどうすれば実現できるのかがわからなかった。 幸運なことに、ダニー・ハリスンがこの時期にたまたまニュージーランドに来ていた。そこで彼とエンディングの話をして、自分が考えていた漠然としたアイデアを彼に説明してみた。みるみるうちに彼の目に涙が溜まっていく。それで、その方向で行くことにした。 次にジャベズと僕は中間部分に取り掛かった。その時には最初の部分とエンディングが見られるようになっていたので、すぐに当初の計画通りに中間部も同じような感情を継続させていくのは間違っていると気づいた。ザ・ビートルズは、そういうバンドではなかったから。彼らは核心部分では不遜で滑稽なので、中間部はその精神を取り込むべきだと考えた。僕たちはザ・ビートルズを笑い、そして彼らと共に笑う必要があったんだ。彼らはいつも自分たちをちゃかしていて、他の人たちが彼らのことを真面目に受け取れば受け取るほど、より道化に徹していたんだ。 幸運なことに、僕たちはザ・ビートルズがリラックスして面白く、そして率直な感じで取り組んでいる未公開のアウトテイク集を見つけた。これを中間部の背骨にして、2023年撮影の映像にユーモアを織り込んだ。結果、かなり面白いものとなり、寂しさと笑いが絶妙なバランスで配合されたビデオに仕上がった。 ビデオは、Weta FX社で、シンプルだがトリッキーなVFXショットをいくつか入れ込んで完成した。 正直言うと、僕たちとしては、ザ・ビートルズの最後に相応しいお別れを演出したつもりだけど、結果は、君たちが自分の目で見て確かめて欲しい。あと少しで公開されるから。 最後までやり遂げたことで、今、自分としては他の人の「ナウ・アンド・ゼン」のミュージック・ビデオを待つ身にならなくてすごく良かったと思っている。自分たちが制作した作品をとても誇りに思っているし、今後、何年間もずっと愛し続けると思う。必要なサポートをしてくれたアップル・コアとザ・ビートルズには大変感謝している。僕が逃げ出すことを許さなかったことにもね。◎リリース情報両A面シングル「ナウ・アンド・ゼン」2023/11/2 DIGITAL RELEASE2023/11/17 RELEASE<7インチ・ブラック>UIKY-75120 2,530円(tax incl.)<7インチ・クリア>UIKY-75121 3,025円(tax incl.)<7インチ・ブルー>UIKY-75122 3,025円(tax incl.)<12インチ・ブラック>UIJY-75252 3,465円(tax incl.)<7インチ・マーブル(ザ・ビートルズ・ストア限定商品)>PDKT-1001 3,025円(tax incl.)
billboardnews 2023/11/02 16:29
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クロちゃん クロちゃん
SNS総フォロワー150万人のクロちゃんが「TikTok」生配信をやめられないのは"ギャルが見てる"から
SNS大好きなクロちゃん(写真:本人提供)    安田大サーカスのクロちゃんが、気になるトピックについて"真実"のみを語る連載「死ぬ前に話しておきたい恋の話」。今回のテーマは、「TikTok」。SNS総フォロワー数150万人を超えるクロちゃん。メジャーなSNSはすべて利用しているが、ここ数年とくにハマっているのがTikTokだという。中でも、生配信はどれだけ疲れていてもやめられないと語る。クロちゃんならではのTikTokの楽しみ方とは? *  *  *  ボクにとってSNSはもう生活の中心だ。X(旧Twitter)、Instagram、アメブロ、LINE、YouTube、TikTok。それぞれのSNSに特性があるから、正直、どれも楽しい。朝起きると、何よりもまず先にSNSをチェックして、すぐさま自撮り写真を投稿するのはもう日課。そのほか、食事中、入浴中、筋トレ中、散歩中、仕事の合間のひとときや宣伝まで、それぞれのケースに合うSNSを選んで投稿している。ちなみに、ボクが最も利用する機会の多いXだけで1日20~30回は投稿しているから、もうSNSは、ボクの生活の最優先事項といってもいいかもしれないね。  そんなSNSが大好きなボクが、ここ数年とくにハマっているのがTikTok。ちなみに、ボクのTikTokのフォロワー数は現在46万人。フォロワーさん、いつも、ほんとにありがとう。なんとか50万人には早く到達したいなとは思っているんだけど、しばらく足踏み状態が続いている。フォロワー数をのばすのって難しいね。  TikTokは、手軽に動画を投稿できるのが特徴だよね。同じく動画が投稿できるYouTubeは、ボクの中ではテレビに近い印象で、手軽というよりはスタッフさんを交えてやるものっていう感覚が強い。でも、TikTokはボク一人の手しか加わってないから、ほとんど「遊んでいる」って感覚に近いんだよね。  そんな手軽さもあって、ボクは、週3~4回、定期的に動画を投稿している。はやっているダンス動画をまねして踊ってみたり、最後にちょっとオリジナルな振り付けを加えたりして楽しむのがお気に入り。ボクは、プライベートで社交ダンスやカポエイラを習っているから、実はダンスがけっこう得意なんだよね。ボクとダンスっていう組み合わせが珍しかったのか、ダンス動画のおかげで、かなりフォロワー数は伸びた気がする。  ボクがとくに大好きなのが、夜中に行っているTikTokの生配信。どれだけ仕事で夜遅くに疲れて帰ってこようが生配信だけは絶対にやめられない。仕事であまりに疲れ過ぎていると、途中で、たまに寝てしまうこともあるけどね(笑)。 【こちらも話題】 「目がバッキバッキ」「早く収録を終わらそうとする」 冠番組スタートでクロちゃんが明かす「クズ芸人・ナダル」の素顔 https://dot.asahi.com/articles/-/204155  生配信をやめられない理由は、フォロワーのみんなが、ボクのことを「かわいいー」とか「待ってましたー」とかって褒めてくれるから。だって、ボクは、もともとアイドルになりたかった人だからね。たくさん「かわいい」って言われたら、やっぱりテンションはあがるし、何よりうれしいよ。  でも、残念なことに、普段はほとんど誰も言ってくれない……。だから、生配信の時間は、ボクにとってはすごく貴重なんだ。たくさん褒めてもらって、その夜は気持ちよく眠りにつきたいの。そんな風に、幸せな気持ちで眠れたら、明日の仕事も頑張れる気がするから。  あと、TikTokは、若い世代の子たちに人気があるっていうのも、ボクの中ではポイントの一つ。ボクは、今年47歳になるんだけど、やっぱり若い子たちと定期的に交流を持ったり、トレンドを知るっていうのは、生きていく上で、すごく刺激になるんだよね。凝り固まった狭い情報だけで生きていたら、どんどん老けていっちゃう気がするし。50歳という年齢がチラチラと見えているけど、ボクはまだまだ老けたくない。  それと、まあ、ボクが大好きなギャルたちがTikTokをよく利用しているからっていうのも理由としてはかなり大きい(笑)。シンプルに、ギャルと仲良くなりたいし、ギャルにモテたいからね。  TikTokにはトレンド情報があふれているから、まだ利用していないアイドルグループやアーティストの人たちは、積極的にどんどんやったほうがいいと思う。  動画の長さは短いものだと、ほんと数秒。それだけ短いのに日本だけでなく、海外でもバズったりする可能性があるのは、TikTokならではの魅力だよね。今の若い子たちは、だんだん長い動画が見られなくなってきているから、今の時代にすごく合っているツールだと思う。  今年、NHK紅白歌合戦への初出場がうわさされているダンスボーカルユニット「新しい学校のリーダーズ」もブレークのきっかけはTikTok。アイドルグループ「FRUITS ZIPPER」は「わたしの一番かわいいところ」という楽曲がTikTokでバズったことで知名度が一気に広まり、今では総再生回数が8億回を超えている。同じくアイドルグループ「超ときめき宣伝部」は、「すきっ!」という楽曲で、韓国のTikTok週間ランキング1位、インドネシアのSpotifyでも1位をとったりして、アジアのTikTokを代表するアーティストともいわれたりもしていた。  ほんの数秒の動画で、人生が一変するチャンスがある。改めて考えると、TikTokってすごいよね。  今夜も、また生配信やろうかなー。  目指すは登録者数50万人だしん! (構成/AERA dot.編集部・岡本直也) 【こちらも話題】 クロちゃんが「しん」を普段ほぼ使わない理由 「なんですか、それ?」と言われるのが悲しい https://dot.asahi.com/articles/-/202968
クロちゃん
dot. 2023/11/02 11:00
一流ホラー漫画家・伊藤潤二の時間術 限られた時間で不気味な絵を描くために必要なこと
一流ホラー漫画家・伊藤潤二の時間術 限られた時間で不気味な絵を描くために必要なこと
スクリーントーンを貼る作業が苦手という伊藤さん、「死びとの恋わずらい」のほとんどのコマはトーンを使わず手で描いている  先週から2週にわたって『NHKアカデミア』(NHK Eテレ/後編:11月1日22:00~)で特集される漫画家の伊藤潤二さんは『富江』『うずまき』の作者として知られ、いまや日本が世界に誇るホラー漫画家だ。「漫画のアカデミー賞」とも呼ばれる米アイズナー賞を4度も受賞し、今年は世界的な漫画イベント、仏アングレーム国際漫画祭や米サンディエゴコミコンで名誉賞を受賞するニュースも入ってきた。そんな伊藤さんがはじめて自身のルーツや作品の裏話、さらには奇想天外で唯一無二な発想法などについて明かした『不気味の穴――恐怖が生まれ出るところ』を今年書きあげた。ここでは、その一部を抜粋・再編集してお届けする。 *  *  * 限られた時間で不気味な絵を描くためには  私の描く絵はよく「細密である」との評価をいただく。他の先生方に比べて、描写の密度が高いかどうかはさておき、たしかに時間があればあるだけ、しこしことペンで余白を埋めているような気はする。  以前、NHK Eテレの『浦沢直樹の漫勉』という番組に出演したときには、浦沢直樹先生から「いままで番組に出演した漫画家の中でペンスピードが最遅」というお褒め(?)の言葉をいただいた。自分では普通ぐらいだと思っていたため、これは意外な指摘であった。浦沢先生は「ホラーを描くには、こうやってじわじわ描かないとダメなんだね」とも仰っていた。私自身それを意識したことはないが、もしかしたら一本線でスーッと描かず、サッサッと撫でるように描くことで画面におどろおどろしい雰囲気が生まれていたのかもしれない。  ただ、描き込むほうだとはいっても、楳図かずお先生に比べれば私など全然たいしたことはない。楳図先生の『こわい本』シリーズなどを読むと、洋館の屋根や壁、調度品に至るまで、実に精緻に描かれていて目を見張る。「自分もラクをしちゃいかんなあ」と背筋の伸びる思いである。  さて、不気味で迫力のある絵を描くためには、まずもって乗り越えなければならない高い障壁がある。 伊藤潤二著『不気味の穴――恐怖が生まれ出るところ』(朝日新聞出版)では、アイデアやストーリーのつくり方、キャラクターの生み出し方など、伊藤さんの頭の中をさらけ出しています。 「締切」である。  私は漫画を描くときは基本一人で作業していて、なおかつペンスピードも遅いため、どうしても作画に時間がかかる。アシスタントを雇えばいいと思うかもしれないが、私は人に指示して何かをしてもらうのがとても苦手だ。その労力を考えると「自分でやったほうが早いや」と思い、いつも諦めてしまう。そこで岐阜にいたときは、身内価格で母や姉たちに背景のベタ塗りやスクリーントーンの作業を手伝ってもらっていた。初期から中期にかけての作品の多くは、「伊藤家総出の家内制手工業」によって生み出されていたのである。  話は戻るが、月刊連載で一話あたりのページ数が32ページだとすると、作画に必要な日数は最低15日。これ以上は短縮できない。  必然的に、残り半月でストーリーの原案を考え、シナリオを起こし、ネームを切るといった作業を完了させなければないわけだが、最近はストーリーがすぐに浮ばず苦しむこともしょっちゅうだ。思いついたアイデアは、ノートにメモしてストックするように心掛けてはいるが、それを具体的な物語にするまでには相当な時間を要する。足がかりさえ見つかれば、一気にラストまで書いてしまうこともあるが、それまでに6日か7日、長くて10日ぐらいは悶々とした日々を過ごすことになる。 漫画家は前半が頭脳労働、後半が肉体労働  その後の作画は、考えたストーリーを漫画として紙面に表現するまでに、「ネーム→下描き→本描き」と、大きく3つの工程がある。  なかでも、漫画の屋台骨となるのが「ネーム」作業だ。  ネームは、簡単に言うと「漫画の設計図」のことで、シナリオ(テキスト)から場面(コマ)の様子をイメージし、実際に絵に描き起こす作業のことを指す。この段階で、一ページあたりのコマの数や配置、大きさを決め、それぞれのコマにセリフを割り振り、バランス良くストーリーが収まるように設計していく。また、それぞれのコマの構図や登場する人物たちの表情、動きも具体的につけていく。 作画の点ではもっとも密度が高く充実していたという「長い夢」。当時はとにかく余白が許せない生真面目さと体力があったと伊藤さんは語る  私の場合、一話あたり32ページだとして、ネームを描くのは早ければ2日くらい、遅いときは5日ほど時間を費やす。ネームができたら、次は鉛筆で下描きを行い、最後にペンで下描きをなぞる本描きをして完成となる。  こうして振り返ってみると、漫画を描く作業というのは、前半は頭脳労働で、後半にいくほどに肉体労働になっていくことがわかる。  悲しいのは、前半のストーリー制作やネーム作業を頑張ったからといって、後半の作画が楽になるわけではないことだ。むしろストーリーを練りすぎて時間がなくなり、徹夜で作画しなければならないことだってある。いつも、ああでもないこうでもないと悩みながら描き、ページが進むにつれて全体像が見えてくる。漫画家の仕事はこういった作業の繰り返しである。 伊藤潤二さん(撮影/朝日新聞出版写真映像部・東川哲也) 伊藤潤二(いとう じゅんじ) 1963 年7月31日、岐阜県中津川市で誕生。高校卒業後、歯科技工士の学校へ入学し、職を得るも、『月刊ハロウィン』(朝日ソノラマ)新人漫画賞「楳図賞」の創設をきっかけに、楳図かずお氏に読んでもらいたい一念で投稿。1986年、投稿作『富江』で佳作受賞。本作がデビュー作となり、代表作となる。その後、『道のない街』『首吊り気球』『双一』シリーズ、『死びとの恋わずらい』などの名作を生み出し、1998年から『週刊ビッグコミックスピリッツ』(小学館)で『うずまき』の連載を開始。その後も『ギョ』や『潰談』など唯一無二の作品を発表し続ける。 世界で最も権威のある漫画賞のひとつである米国アイズナー賞にて、2019年に『伊藤潤二傑作集10巻 フランケンシュタイン』(英語版)が 「最優秀コミカライズ作品賞」を受賞したのを皮切りに、2021年に 2部門、2022年と立て続けに同賞を受賞し、通算4度受賞の快挙を遂げる。2023年、仏国アングレーム国際漫画祭にて「特別栄誉賞」、さらに米国サンディエゴ・コミコンでは「インクポット賞」を授与されるなど 日本のみならず海外でも高い評価を得ている。2024年4月27日より東京・世田谷文学館にて初の大型原画展が開催決定。以後全国での巡回を予定している。
朝日新聞出版の本読書書籍伊藤潤二不気味の穴
dot. 2023/11/01 21:00
「♪鼻から牛乳〜」の曲名は? クラシックは“イントロクイズ”でもっと楽しめる
「♪鼻から牛乳〜」の曲名は? クラシックは“イントロクイズ”でもっと楽しめる
※写真はイメージ(写真:gettyimages)    確かに聴いたことがある、なんなら歌える。でも曲名が思い出せない──。こんな経験、ないですか。BGMなどで日常の一部でありつつハードルが高いクラシック、実は多様な楽しみ方があります。AERA2023年11月6日号より。 *  *  *  あるJ-POP好きの20代男性の告白だ。彼女とのデートで渋谷の名曲喫茶に。 「昭和レトロブームの流れで行ったんですけど、かかっているのはCMや授業で聞いたことがあった曲も多い。ただしウンチクのひとつでも放ってかっこつけたかったのに、これがひとつも浮かばないという(笑)」 「ジェーン・スー 生活は踊る」(TBSラジオ)では6月と9月に番組内でクラシック曲名あてクイズを開催。メロディーはどこまでも口ずさめるほどおなじみなのに、どうしてもタイトルが出てこない。その悶絶大会ぶりがおもしろかったそう。  そんな近くて遠い音楽、クラシック。その新しい楽しみ方を提案している人がいる。著述家でプロデューサーの湯山玲子さんだ。ニューヨークにおけるハウスミュージックシーンの本を作ることになり、レジェンドと言われるジュニア・ヴァスケスの8時間に及ぶプレーを体験した。 番号のタイトルは無理 「揺さぶられまして。そしてふと考えると、時間を司る構成など、ワーグナーの楽曲のようで、ものすごくクラシック的だったんですね」  クラシックの作曲家を父に持ち、母は合唱団の指導者。「一日中クラシック音楽が流れていた」という家で育った湯山さんにとって、親への反発もあって遠ざけていたクラシック音楽を、ニューヨークのクラブのフロアで踊っている人たちに聞いてもらいたいと思った。  そうして十数年後、湯山さんが主宰するようになったのが、クラシックの新しい聴き方を提案するトーク&リスニングイベント「爆クラ」だ。クラシックのコンサートといえば、基本は音響装置などを通さない「生音」だが、あえてクラブなどで使われるサウンドシステムを使って聴いてみたらどうなる?と考えて「爆音クラシック」、略して「爆クラ」というタイトルに。  すでに103回が開催され、過去には坂本龍一さんといった音楽家はもちろんのこと、評論家、学者、アーティスト、作家などさまざまなジャンルの専門家を招き、ユニークなクラシック音楽のイベントを展開して大盛況となっている。  また野外のダンスイベント、レイブからヒントを得て、廃墟となったトンネルでライブをおこなったり、瀬戸内海に浮かべた遊覧船にサウンドシステムを搭載してサンセットや工場夜景に選曲をほどこしたり。その一方で、クラシック以外のジャンルの才能あるアーティストに交響曲を書いてもらいたいという思いから11月25日には、コトリンゴ×首藤康之×オーケストラによる新時代のダンス交響詩「ツバメ・ノヴェレッテ」が予定されている。 「隠れた名曲もいっぱいあるんですよ。私のように指揮者や演奏家にこだわらずにまずは曲をいろいろ聴いて“選曲家”として楽しむという方法もあります」  ちなみに湯山さんが考える「クラシックの曲名思い出せない」問題は、「交響曲第5番など、番号が多すぎです(笑)。クラシック音楽は権威づけや教養量を誇るところがあったので、あえて番号のみのタイトルにして(知識のない人を)振り落とそうとしたのかも(笑)」。 集中したい時のBGM  ちなみにネットには、仕事や長時間作業に集中するための実用的なBGMとしてクラシック音楽を紹介するサイトも多い。「あなた様の思考を邪魔するなんて滅相もございません」と言わんばかりに静かにメロディーを奏でながら、黙々と作業してちょっと眠くなった頃にいきなりドーン!と大きい音が鳴ってビックリして目が覚めるような曲も。  一方、クラシック関連サイトには、イントロクイズサイトもけっこうある。いきなりクラシックを聞かされて、どの程度曲名がわかるのか。そこで、社内で残業していたクラシックとは関係なさそうな男女5人を集めて、クラシック音楽イントロクイズ大会を開催してみた。クイズにはつきものの、ピンポン!だのブブー!だの(手動で)鳴らせる機能がついた早押し機は、デスクが自腹で調達。でもこのあとどうすんだ、あれ。  イントロクイズサイトを参考にしつつ、小中学校の音楽の授業でよく習うという楽曲などを調べ、特製問題も完成した。  では第1問!  ……と始まったイントロクイズ大会だが、参加してくれた音楽マニア(クラシック以外)の50代なりたての男性回答者が言うように「何を聞いても、アレだ、アレだ!としか言えない」という悶絶回答者が続出。正解した後は1問休みを入れたりしたのに20問中の7問を正解した50代女性回答者がぶっちぎりの優勝を果たしてしまった。 「実は私、音大の付属小卒なので……」(同女性)  えー。クラシックの選民思想ってこれのこと?  ちなみに優勝者が正解したのは、モーツァルトの「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」、プッチーニの「トゥーランドット」から「誰も寝てはならぬ」、ワーグナーの楽劇「ワルキューレ」から「ワルキューレの騎行」など。 替え歌で覚える 「ばかばかエヘン虫」の替え歌で知られる「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」は、「地方のビジネスホテルでビュッフェ式の朝ごはんを食べるときにかかっている曲」(優勝者談)だし、「誰も寝てはならぬ」は、2006年のトリノ五輪で、フィギュアスケートの荒川静香選手が使って一躍有名に。プロレスファンのデスクが趣味で選曲した「ワルキューレの騎行」は、プロレスラー藤原喜明の入場曲として知られ、コッポラ監督の映画「地獄の黙示録」でもおなじみだ。  一方、もう一人の50代男性がJ・S・バッハ「トッカータとフーガ ニ短調」に「♪鼻から牛乳?」と回答して笑いを取ったのに対し、そのあと優勝者が答えた正解には「知らな〜い」のブーイングも。「鼻から牛乳」に負けるバッハ先生。 「ビートルズやクイーンが好き」で「クラシックのイントロなんて『運命』しかわからないよ」と言っていたこの50代男性は見事「運命」を正解。その他「運動会でよくかかっているよね」な「ウィリアム・テル序曲」、「合唱で歌ったことがある」という「歓喜の歌」を正解して2位に付けた。  一方他の回答者から「おーー」という絶賛の声が出たのは、音楽マニア50代男性の運動会使用曲だったというハチャトリアンの「剣の舞」。また自称「NOミュージック、MYライフ」なのに「白鳥の湖」「くるみ割り人形」とバレエ音楽だけ2連勝した40代女性も「なぜバレエだけ?」の声と拍手を浴びた。  20代男性は、ほかの参加者がまだ何も聞こえていないマッハのタイミングで、「ボレロ」をピンポ〜ン。若い耳が有利だということもわかった。 2度目でも間違える  最後に残った数人で、同じ問題で2ターン目に突入。驚くべきことに、1ターン目に確かに聴いた「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」に自信満々に「『四季』の春!」と答えるなど、「似て聞こえる曲が混同する」という「クラシックあるある」現象が勃発した。2度目なのに、また間違える謎のパターンも多い。  ピアニストの夏目恭宏さんによると、「クラシックは出だしにインパクトのある曲が多いため、イントロクイズは歌謡曲やポップスより正解が出やすいはず。普通のイントロクイズでは飽き足らず、演奏家を当てるイントロクイズもありますね」。そんな修業を重ねつつ、「違う演奏家で聴いてみて、お気に入りのスゴい演奏を見つける。これが、ポストビギナーにおすすめの楽しみ方です」。  知ってるのに答えられない「脳がバグった感じ」(前出50代音楽マニア男性)も味わえて、盛り上がることウケアイのクラシック音楽イントロクイズ。忘年会の催しにぜひ!(ライター・福光恵) ※AERA 2023年11月6日号
AERA 2023/10/31 10:30
北条早雲「遅く起きては1日が無駄になる」 夜明けに始業、夜盗に備えて早寝 戦国武将フツーの1日
北条早雲「遅く起きては1日が無駄になる」 夜明けに始業、夜盗に備えて早寝 戦国武将フツーの1日
 ドラマや小説でおなじみの戦国時代の武将たち。でもそこでは「武」の部分がクローズアップされていて、なにげない日常の暮らしぶりはわからない場合が多い。戦国武将の北条早雲が遺した家訓には家臣たちの日常の様子が詳しく記されている。「武士たちの一日の過ごし方」とはーー。 *   *   *  まず、当時とくに模範とされたのは早寝早起きだ。夜は8時前後(戌の刻)までに寝て、朝は4時前後(寅の刻)には起き、時間を有効に使う。厠から厩、庭と門外までよく見まわり、最初に掃除する場所を適切な者に言いつける。 夜は早く寝て、4時頃には起きることが理想とされた。そして起床後、洗顔の前に厠(便所)や馬小屋、さらに庭や門外の見回りを行い、掃除すべきところなどを家来に指示。顔を洗う際は、水を無駄遣いしないように心がけた    その後、水を無駄にせず、手早く手水で顔を洗い神仏を拝む。大声を出さない。当日の用事を妻子や家来に申し付けて出仕する。「主人が遅く起きてはご奉仕もできず、1日が無駄になる。家来も気を緩めることになる」と早雲は家臣に戒めた。  当時、城や役所の始まりは日の出だから、それまでに出仕しなければならない。夏の日の出は大体4時頃。遅刻は怠惰とみなされたのだから、遠方の者は大変だったであろう。日の入り時間は19時頃だから、明るい時間は夏が約15時間、冬は9時間半とずいぶん差があった。冬は、15時間の作業を9時間半で終わらせるため一日が慌ただしかった。  身支度も大変である。刀や衣裳は無理せず、立派なものでなくても見苦しくなければ十分だが、常に身だしなみは整えておくべきとされた。「たとえ出仕しない日でも、少しの用事があれば人前に出るものだ。客人が来てから狼狽えるようでは見苦しい」と早雲は言っている。  仕事は午後2時頃に終わるが、帰宅後も気を抜けない。下男下女の報告で済ませず、自分で厩から家の裏まで見て回り点検する。夜6時には閉門。火の用心は何度もかたく申し付け、台所や茶の間も自分の目で見る。夜、早く休むのは灯油の節約と夜盗に備えるためだ。 無駄な夜更かしなどをせずに、20時頃までに寝ることが理想。主人が朝寝坊すると、家来や下働きの気が緩んでしまう。そうなると朝の支度も遅れ、公務に遅れてしまい、主君の信頼を失うことになる。   「夜盗は子丑(深夜11時から3時)に訪れるものだから、この時刻に寝入ると対処できない。家の存亡だけでなく外聞も悪い」と防犯対策や火の用心を繰り返し述べた。加藤清正の『掟書』や、藤堂高虎の『遺書録』にも、やはり早寝早起きや武術の鍛錬、日常の心得の大切さなど大体同じことが家臣に言い聞かせるように記してある。平時でも怠りなく過ごすことが治国の第一歩であったのだ。 ◎監修/西ヶ谷恭弘 にしがや・やすひろ/1947年生まれ。歴史考古学者。月刊『歴史手帖』編集長、立正大学文学部講師などを経て、現在は日本城郭史学会代表 。主な著書に『戦国の風景 暮らしと合戦』『江戸城―その全容と歴史』(東京堂出版)、『一度は訪ねたい 日本の城』(朝日新聞出版)、『図解雑学 織田信長』(ナツメ社)など。 ※週刊朝日ムック『歴史道Vol.29 戦国武将の暮らしと作法』から  
歴史道戦国時代
AERA 2023/10/28 08:00
家事育児の大変さを知り夫の働き方に変化 「これからは2人の時間も大切にしたい」
家事育児の大変さを知り夫の働き方に変化 「これからは2人の時間も大切にしたい」
橘勇輔さんと橘梓さん(撮影/篠塚ようこ)    AERAの連載「はたらく夫婦カンケイ」では、ある共働き夫婦の出会いから結婚までの道のり、結婚後の家計や家事分担など、それぞれの視点から見た夫婦の関係を紹介します。AERA 2023年10月30日号では、サイバーエージェントでオンラインクリニック事業部長を務める橘勇輔さん、ギークスで広報や組織活性化などのインナーブランディングを担う橘梓さん夫婦について取り上げました。 *  *  * 夫26歳、妻29歳で結婚。6歳長女と2歳次女との4人暮らし。 【出会いは?】妻の会社で展開していた学生向け就活支援サービスのOB・OG交流会に、夫が社会人OBとして参加し、流れで食事に出かけた。 【結婚までの道のりは?】20代でウェディングドレスを着せてあげたいと考えた夫が一念発起し、妻の上司に協力してもらい、出会いのきっかけとなった妻の勤務先でサプライズのプロポーズをした。 【家事や家計の分担は?】家事は平日が主に妻、休日はできる方が対応する形で、互いのストレスがたまらないよう気を付けている。生活費は夫の口座にまとめて管理している。 夫 橘勇輔[34]サイバーエージェント オンラインクリニック事業部長 たちばな・ゆうすけ◆1989年、東京都生まれ。2012年に東京工業大学を卒業後、サイバーエージェント入社。広告代理店営業部門を経て、新規事業開発部門で新規サービスの立ち上げ、Ameba事業本部で広告事業統括に就任し、22年10月から現職  コロナ禍で在宅時間が増えたことで、自分には見えていないことがたくさんあることに気が付きました。子どもと接する時間の大切さや、夕方から夜の育児の大変さを知り、改めて夫婦で話し合って週2回は在宅勤務を続けられるようにしました。  それでも出勤の日は妻の負担が大きくなりがちなので、とにかく目についた家事はすべて片づけてから寝ると決めました。見て見ぬふりをしてしまったら、明日の妻に押し付けることになるからです。  僕は察してあげるのが苦手なので妻は言葉にすることを心がけてくれていますが、彼女自身は僕が何も言わなくてもすべて察して、サポートしてくれます。いつまでもそれに甘えていてはいけない、僕もしっかり妻を支えていくことが30代のテーマです。  先日、フットサル仲間の多くが、奥さんを名前で呼んでいると知って反省しました。子どもたちの「ママ」だけでなく僕の大切な「あずさん」、いつまでも仲良く、楽しく過ごしていこうね。 橘勇輔さんと橘梓さん(撮影/篠塚ようこ)   妻 橘梓[37]ギークス 広報・サスティナビリティ推進部 たちばな・あずさ◆1986年、新潟県生まれ。2008年に東洋大学を卒業後、ギークスに入社。人材ビジネス営業、顧客企業の新卒採用支援事業、自社の採用担当を経て、18年から現職。PR業務のほか、組織活性化、インナーブランディングを担う 「学生が採用面接に来る」と上司が指定した部屋に行くと、そこには交際中だった夫の姿が。「あなたへのエントリーシートです」と、スライドを映し、私への志望理由をプレゼンしてくれました。私の誕生日ですら自分からは何も企画しない人だったので、びっくり。普通に返事をしていいのか、その場で内定でも出すべきなのかと混乱してしまったのを覚えています。  彼は、何事に対しても全力で取り組む人です。仕事に愚直に向き合い、家族に対しても朝は家を出る直前まで、夜は寝る瞬間まで、子どもたちと全力で遊び、家事をこなします。どんなに疲れていても手を抜かないところに、大切にされていると感じます。  先日、ケンカをした後、仲直りのしるしにデートに誘ってくれました。何年ぶりかのふたりだけの時間だったのに、何を話していいかわからなくて、普段は子どものことしか話題がなかったのだなあと反省。これからはふたりの時間も大切にして、いろんな話をしていきたいです。 (構成・森田悦子) ※AERA 2023年10月30日号
はたらく夫婦カンケイ
AERA 2023/10/27 18:00
peco「ダダみたいになる」という息子の優しさに感謝も「自分のなりたいものになっていい」
peco peco
peco「ダダみたいになる」という息子の優しさに感謝も「自分のなりたいものになっていい」
pecoさん(撮影/写真部・東川哲也)    今回から「peco & ryuchellの子育て日記―新しい家族のかたち」をリニューアルし、pecoさんの日々の出来事について綴る連載「pecoの子育て&お仕事日記」として再スタートします。今回のお話は、ryuchellさんの誕生日と、5歳の息子さんの様子について。 *  *  *  9月29日はryuchellの誕生日でした。28歳ですね。私とryuchellは同い年でこれまでは一緒に誕生日を迎えてきたので、やっぱり寂しいです。  この日は朝に小さなチョコレートケーキにろうそくを立てて、お供えしました。チョコはryuchellの大好物です。ケーキやドーナツを食べるときはいつもチョコ系でした。  息子もryuchellの写真に「行ってきます」「おやすみ」と言うときに、「ハッピーバースデイ、ダダ(パパ)」と話しかけていました。お手紙にも「Happy Birthday Dada」と書いて、ryuchellとパーティハットを被った私と息子と愛犬のアリソンの絵も描いてくれました。  この日にはryuchellのyoutubeチャンネルで最後の動画を配信しました(リンク)。6月にryuchellが韓国旅行に行ったのですが、その動画が配信されずに残っていたんです。初めて行った韓国をとても楽しんでいる様子が映っています。今でもryuchellのことを思ってくださっている方々に見てもらえればと思います。 息子はryuchellが亡くなってから一ヶ月くらいは、夜になると毎日のように泣いていましたが、今はそれも少なくなって、明るくryuchellの思い出を話したりしています。 息子くんからryuchellさんへのお手紙。画像は一部加工しています    ただ、やっぱり悲しくなるときはあって、たまにryuchellの枕を抱えながら、「ダダの匂いがする」と言いながら泣いています。先日は「写真じゃなくて、ダダのお顔が見たい」と泣いていました。  私には息子の気持ちを受け止めることしかできないので、「そうだよね、ママも同じ気持ちだよ」「いっぱいギュウしようね」と言いながら、抱きしめています。私が「ダダも『ごめんね』と言って、近くに来てるんじゃないかな」と言ったら、「うん」と受け入れてくれていました。  息子がそういう自分の悲しい思いを言葉にしてくれているのが、ありがたいです。言葉にできないくらいの悲しみがあるはずなのに、5歳で死というものを理解するのは難しいと思うのですが、理解して言葉にしてくれているので、私もそれを受け止めることができます。そうしたことができる息子を誇らしく思っています。  先日、息子と一緒に劇団四季に『アナと雪の女王』のミュージカルを見に行きました。以前、ハートのスパンコールがついた可愛らしいTシャツが欲しいと言ったので、買ってあげていたのですが、「エルサ(アナのお姉さん)っぽいから」とそのTシャツを着て、エルサのネットクレスもつけて、鏡の前でルンルンとしていたんです。そのときに息子が「自分は女の子みたいになりたい」と話し始めました。私も「いいじゃん」と答えたら、「ダダみたいに女の子になりたい」、「なんでだかわかる?」と聞かれました。   【こちらも話題】 pecoが投稿する“インスタ映えしない”子どものお弁当、その真意を初告白 https://dot.asahi.com/articles/-/195646    私が「なんで?」と尋ねると、「ダダがなりたかったけど、もうできないから僕が代わりにやってあげるんだ」ということでした。  本当に驚きました。私も「ダダも泣いて喜んでいると思うよ」、「優しい気持ちを持っていてくれてママもダダも本当に嬉しい」と答えました。だけど、「ステキなことだけど、自分がなりたい自分になってくれていいんだよ」とも伝えました。息子の人生は息子の人生ですから。  私は虫が本当に苦手で、殺虫剤のスプレー缶に虫の絵が書いてあるだけでもダメです。これまではryuchellが退治してくれていたんですが、最近は息子が退治に協力してくれるようになりました。私の前に出て守ってくれようとしてくれています。スプレー缶に「シール貼ろうか?」とも言ってくれました(笑)  日常の節々で、息子はryuchellがいなくなったことを受け入れて、前に進もうとしていることが伝わってきます。死を理解しているからこそ苦しいはずなのですが、ポジティブに過ごしてくれている息子に感謝しています。ryuchellも感謝していると思います。 (構成/AERA dot.編集部・吉崎洋夫)   【こちらも話題】 peco 「ママの死」を心配する4歳息子に抱きしめながら伝えた言葉とは https://dot.asahi.com/articles/-/194751
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dot. 2023/10/22 11:30
作家・小野美由紀が『わっしょい!妊婦』を書くまでの傷だらけの人生とは
大越裕 大越裕
作家・小野美由紀が『わっしょい!妊婦』を書くまでの傷だらけの人生とは
「出産は祝祭だ」と新刊で書いた小野は、「人を喜ばせたい」という思いを胸に文章を綴る(撮影/岡田晃奈)    作家・SFプロトタイパー・小野美由紀。この日本で、女が自分らしく生きていくのは至難の業だ。男のようにトップも目指せない。だからといって媚びるのも嫌だ。小野美由紀には、小さなころからどこにも居場所がなかった。世界が自分と折り合わない。気がつくと傷だらけだった。だが、出産し、見方が少し変わった。自分は自分のままで生きていっていいと思える、そんな物語が待っていた。 *  *  * 《子どもを産む気なんて、ぜーんぜん、なかった。  だってほら、子育てって、ものすごく大変そうだし。仕事だって楽しいし。(中略)  ところがどっこい。  つがいになった途端、入道雲のようにむくむくと湧いてきたのは「子どもを持ちたい」という欲望だった。突然鳴り響くファンファーレのように、あるいは獰猛な獣のように、ある日突然「私、産みたいんだ」という感情がお腹の底から飛び出してきた。》  そんな書き出しで始まる一冊の妊娠出産エッセイが、いま本好きの間でじわじわと話題になっている。本のタイトルは『わっしょい!妊婦』。書いたのは作家の小野美由紀(おのみゆき・37)だ。35歳で10歳年上の夫と結婚した小野が、コロナ禍と重なった自分自身の妊娠から出産までの約1年間を綴(つづ)った。妊娠・出産本というと、一般的にはほのぼの・ほっこりした雰囲気を想像するが、本書の魅力は作家の冷徹な観察眼と、過剰なまでのエネルギー、秀逸なユーモアが並立している点にある。例えば、夫の精子検査の場面はこうだ。 《「いた! 本当に、いた!」  夫は初めてトトロと出会った時のサツキとメイのように、大喜びではしゃぎ回った。私も初めて見る夫の精子の姿に瞠目(どうもく)した。》  また別の日には、出生前診断の受付で突然「ママ」と呼ばれ、心の底から驚く。 《「はい、じゃ、ママ、診察室Dに入ってください」  ……マ、ママぁーーーー??!!  フレディ・マーキュリーのように、私は心の中で絶叫した。》 iPadでゲラに修正を入れる。小説もエッセイも必ず最初はノートに手書きする。「パソコンだと頭だけで書いちゃう気がして、手書きすることで身体性を文章に込めたいんです」(撮影/岡田晃奈)   家族で暮らすのは小5まで 読書は異常なほど早熟  食べづわりと異常な食欲、乳首が伸びない悩み、保育園問題、夫との喧嘩(けんか)……妊婦に次々起こる事象を、小野はほぼ4行に1回ペースの笑いを交えて活写する。版元のCCCメディアハウスに勤務する担当編集者の田中里枝(45)は、メールで送られてきた原稿を最初に読んだとき、「編集者人生で、間違いなくいちばん笑いました」と振り返る。 「以前から小野さんの、ヒリヒリとした痛みを感じさせる小説やエッセイがすごく面白くて好きでした。でもこの本は読後感が違って、妊婦や女性だけでなく、男性でも読むと元気が出る、人間に対する賛歌だと感じたんです」  さらに、本書には小野の書く本文の下に、数十カ所にわたって夫のコメントが入る。コメントを書いた夫は、その意図を次のように語った。 「妊娠・出産というと女性のイベントで、男性は添え物のような扱いをされますが、本当は男性も“当事者”なんですよね。主人公はもちろん妻とおなかの子ですけれど、夫である自分がコメントを入れて別の視点を読者に提供することで、出産にまつわる世界観を少し揺るがすことができるかもと考えました」  実際に『わっしょい!妊婦』の感想をネットで検索してみると、男性からの「面白かった!」という声が多数ある。 「明らかに僕のための本であって、身重の妻を持つ男性が読むべき本」 「一冊を親友に、もう一冊を妻の親友の夫に贈った」  そうした感想を見た小野は、「妻の妊娠という謎現象について理解する機会を持てない男性が多いからこそ、本書がガイドとして響くのでは」と述べる。「わっしょい!」というタイトル通り「祝祭感」にあふれるこの一冊を、小野が作家としてこの世に産み出すまでには、自身「傷だらけ」と語る紆余(うよ)曲折の人生があった。  小野は5歳まで新宿で暮らし、その後の中学高校は国立、荻窪で育った生粋の東京人である。父親は日本近代文学の研究者で、映画化された小説も執筆する文化人。母親はメジャーな出版社で著名作家を担当する編集者で、文学的な資質という点では「サラブレッド」と呼んでも過言ではない。だが父母は内縁の関係で、父と一緒に暮らしたのは小野が5歳までだった。 大学を出て「何者でもない」ときに働いた歌舞伎町のバー「漆黒」のマスターとママと再会。小野がエッセイに書いた「漆黒」の文章を読み、幾人もの若者が店を訪ねてきたという(撮影/岡田晃奈)    子どもの頃は妄想力が豊かな一方で、まったく友達がいなかった。保育園に馴染(なじ)めず2回退園し、その後、幼稚園では演劇の脚本を読み「こんな役は演じたくない」とケチをつけた記憶がある。心配した母が、小野の誕生日に幼稚園の同級生を家に呼んだときは、傘で陣地を作り「ここから先に入ってくるな」と友達を追い返した。 「その頃、私には心の中にイマジナリーフレンドがいて、その子と話すほうが楽しかったんです」  そんな幼い小野の世話を、仕事で毎日深夜まで働く母の代わりにしたのが、母の実家の岡山から東京に単身出てきて同居を始めた祖母だった。私立桐朋学園小学校に進学すると、学校からの帰り道にある本屋で、毎日1冊、祖母に本やマンガを買ってもらうのが日課になった。  読書に関しては「異常なほどの早熟」だった。小野の母は村上龍のエッセイを編集しており、母の本棚に村上の本がぎっしり詰まっていた。米軍基地のある東京・福生で若者がドラッグやセックスに溺れる日々を描いた村上のデビュー作『限りなく透明に近いブルー』を読んだのは小学2年生のときだ。山田詠美も好きで、『風葬の教室』といういじめを受けている女の子の話を読んでシンパシーを覚えた。  小野もいじめられっ子だった。小学校では男子に毎日「ブス」と呼ばれ、担任にも嫌われた。思い出すと今でも体が強張(こわば)る。 「恐らく今でいう発達障害だったと思います。算数の授業で座ってられず、計算ドリルに絵を描いたりしてた。先生からは嫌われるか、すごく庇(かば)ってもらえるかの両極端でしたね」 ストレスから自傷行為も 高校は哲学書を読みあさる  母の勧めで中学受験をし、私立成蹊中学に入学する。中学2年と3年の担任を務め、現在も同校に勤務するのが久保田善丈(57)だ。大学院で学び、30歳で教員になった久保田にとって、小野は初めて担任する学年の特に印象深い生徒だった。 「小野さんは一言でいうと、たいへんめんどくさい生徒でした。でも、当時から突出した才能の持ち主であることはすぐわかりました。作文を書けばすごい文章だし、絵もとても上手かった。コミュ障なのになぜか体育祭の応援団長に立候補して、周囲の心配をよそにきっちりまとめたり。先生も周りの生徒も小野をへんてこな奴、と思っていたけれど、全員が『彼女には特別な才能がある』と感じていました」  一方、小野にとって中学3年の頃は「人生で一番ヤバかった時期」だった。過干渉気味で「いい大学、いい会社に入るのが人生の幸せ」という価値観を押し付けてくる母親のストレスから不登校気味になり、自傷行為をするようになった。無言の母への「メッセージ」として血や吐瀉物(としゃぶつ)を見せつけたこともある。小野は後にエッセイ『傷口から人生。』で母との衝突と関係の再生や、17年ぶりの父との再会を詳述する。きっとそれを書くことは小野にとって、過去と折り合いをつける試みだったのだろう。  何とか中学時代を乗り切った小野は、系列の高校に進むと、問題児ばかりが集まるクラスに入れられた。だがそこで初めて学校に「自分以外にも変な子がたくさんいる」と知った。 「放し飼いのようなクラスで、先生も自由にさせてくれました。クラスメートには今、コピーライターや政治家の右腕など、ちょっと変わった仕事についてる人が複数います」  高校時代もあまり学校には行かず、毎日のように書店に通った。やがて現代思想に興味を抱き、デリダやソシュール、フーコーなどの哲学書を読みあさったのもこの時期だ。哲学の本場、フランスに関心を持った小野は、現役で慶應義塾大学の文学部に進学する。  作家への憧れは幼い頃からあった。小学校の卒業文集の「将来の夢」には「文壇をひっくり返す女性作家になりたい」と書いた。ところが実際にはずっと「自分は作家になれるわけがない」と感じていた。編集者の母からいつも作文にダメ出しされており「自分の書くものには価値がない」と感じていたからだ。  大学でサークルにも入ってみたが、やはり毎日がつまらない。保育園からの「ここには自分の居場所がない」という思いは続いた。そこで目を向けたのが海外だ。  3年生のときにはカナダのモントリオールの大学に1年間交換留学。帰国後もアルバイトでお金を稼いでは、海外を旅行するようになった。2007年には沢木耕太郎に憧れ、陸路での世界一周旅行にもチャレンジした。インド、パキスタン、ウズベキスタン、トルコなどの国を経て海をわたりギリシャからヨーロッパを横断した。スペインで参加した巡礼の旅行には人生観にも大きな影響を受け、後に光文社新書『人生に疲れたらスペイン巡礼 飲み、食べ、歩く800キロの旅』にまとめた。旅行の資金稼ぎのために、銀座8丁目で40年以上営業している高級クラブでホステスのアルバイトをしたのもその頃だ。 「紙の本にこだわらない」という小野は、既存の文壇と一線を画した世界で新たな作家のスタイルを模索する。「読者として好きなのは、国や文化を超えて読まれるような大きな物語。自分もそんな物語を書いていきたい」と語る(撮影/岡田晃奈)   就職には何の魅力もない 「まれびとハウス」が話題に  そこで小野が見たものは、日本の社会の皮肉な実相だった。メガバンクの元頭取という常連男性は、新人の女の子を隣に座らせては15分程自分の手を揉(も)ませ、チップとして1万円を払っていた。 「金銭感覚がバグりますよね。銀座の店で働いて、世の中って本当にくだらないなと思いました」  店にはその人物と同じような一流企業の役員の男性が複数、毎日のように来ては湯水のように金を使っていた。男たちの目は一様に死んでいた。酒に酔って「俺は偉い」と威張る男たちを内心でホステスたちは馬鹿(ばか)にしていた。政治家一族に生まれた有名な議員がひどいセクハラをする姿も目の当たりにした。そういう客の隣には決まって置物のように静かなカバン持ちの部下がいた。 「問題はなぜその人たちが毎日一人で銀座に来るかですよ。結局、会社にも家にも居場所がない、本当に寂しい人たちだなと感じました」  自分も大学を卒業して企業に就職すれば、このヒエラルキーの一番下に入ることになる。何十年も頑張って働いて出世した末の「あがり」がこの場で「置物」になることなのか? そう思うと、就職すること自体に何の魅力も感じなくなった。 「女性の場合、この国では社会のトップを目指すというレールにすら乗れない。男のように働いて“名誉男性”になるか、女として男性のヨイショ役になるか。どちらの道もうんざりでした」  だが社会に出た後に、何をすべきか見当がつかない。小野も周囲の学生に流されるまま、就職活動に取り組んだ。ある日、最終選考先の企業が入る東京・丸の内のビルに向かう途中、なぜか涙が止まらなくなった。小野はその場で面接担当者に「すみません、行けなくなりました」と電話し、就職からドロップアウトした。 「表面を取り繕うのは上手いので、面接はいいところまで進むんです。でも本当はまったく就職したくないから、体が悲鳴を上げたんです」 開花した作家としての才能 シェアハウスで子育て  大学を出た小野は就職せず、インターンで知り合った学生たち6人とともに田端のシェアハウスで暮らし始めた。「まれびとハウス」と名付けられたその4LDKのマンションには数カ月で1千人を超える若者が来訪し、マスコミにも取り上げられた。小野はそこでトークイベントや勉強会を企画し、同時に新宿・歌舞伎町にあるバー「漆黒」でアルバイトをして生活費を賄うようになった。 (文中敬称略)(文・大越裕) ※記事の続きはAERA 2023年10月23日号でご覧いただけます
現代の肖像
AERA 2023/10/20 18:00
藤本美貴に聞く3人育児の楽しみ方「洗濯物も山盛りなのに、毎日30分顔を揉んでなんていられない(笑)」
藤本美貴に聞く3人育児の楽しみ方「洗濯物も山盛りなのに、毎日30分顔を揉んでなんていられない(笑)」
ミキティこと藤本美貴さん 撮影/植田真紗美、ヘアメイク/太田年哉(maroonbrand)    ミキティの愛称で親しまれる、歌手でタレントの藤本美貴さん。夫でお笑い芸人の庄司智春さんや子どもたちとの様子をYou Tubeで発信するなど、円満家族としても注目を集めています。そんなミキティに、仕事に育児にと多忙ながらも毎日を楽しみつくす秘訣を聞きました。発売中の小学生のママパパ向け子育て情報誌「AERA with Kids2023年秋号」から抜粋してご紹介します。 *  *  * 親が忙しくても「ごめん」は言いません  現在、11歳の長男、7歳の長女、3歳の次女がいて、もうバタバタの毎日です! 夫も私も仕事柄、スケジュールが読みづらいんですよね。急な仕事が夜に入ったりすると、「明日、どうしてる?」って、夫婦でお互いの予定を確認しながら、家で子どもたちの面倒を見られるほうが見るようにしています。もちろん、夫がひとりで子どもたちに夜ごはんを食べさせてくれる時もあれば、3人をどこかに連れ出してくれることもあります。ときには近くに住む私の母に家に来てもらったりもして、臨機応変に、家族フル稼働で乗り切っています。   でも、私は忙しいのが嫌いじゃないんですよね。仕事は好きだし、休みがあれば必ず子どもたちと遊びに行く予定を立てたりして、何かしら動き回っています。子どもたちも生まれた時からそういう環境なので、もう慣れているみたい。お留守番をしてもらう時もあるけど、誰かしら大人がいて安全な場所にいるのだからOK! 「忙しくてごめんね」なんて絶対言いませんよ。だって、これがわが家の生活ですから。「この中で、楽しくやっていきましょう」と伝えています。 細かいことをルーティン化しない  日頃、私が気をつけているのは、あまり細かいことをルーティン化しないことです。  例えば、子どもたちが寝る前に絵本を読んであげるご家庭も多いかと思うのですが、私は、逆に、「寝る前の絵本タイム」は作らないと決めているんです。   【こちらも話題】 「結婚はあまりお勧めしません」鈴木おさむが結婚16年目に思うこと https://dot.asahi.com/articles/-/115846 藤本美貴さんInstagram(@mikittyfujimoto)より      習慣にしちゃうと、子どもも「この絵本を読むまで寝ない!」ってなるでしょう? 早く寝てほしい夜もあるのに、「まだ絵本を読んでないよ」なんて言われると、本当に困っちゃう。だから寝る時は部屋を真っ暗にして「はい、おやすみ〜!」って感じです(笑)。  もちろんその代わり、昼間、ゆっくりできる時に、絵本を読んでと言われたら、「いいよ」って読んであげます。  私自身のことでも、「お風呂上がりに30分間美容マッサージをする」などの決まり事は一切作りません。それより早く寝たいもの! 洗濯物も山盛りなのに、毎日30分、顔を揉んでなんていられないじゃないですか(笑)。  日々、時間に余裕があるわけじゃないから「必ずこれをする」と決めてしまうと苦しくなってしまう。基本的に私は、「今、何ができるか」がすべてだと思って、行動しています。 家族って助け合い  子どもたちにも同じように、その時に彼らにできることがあれば、家事もお願いします。自分の洗濯物は自分で片付けたり、一番下の妹はまだできないから手伝ってもらったり。上の二人は「なんで僕ばっかり、私ばっかり!」って言うこともあるけど、「そんなことを言い出したら、私は毎日みんなの洗濯物を洗ってますけど⁉」って。そうしたらみんな、「はい、やります」って素直に動いてくれます(笑)。  家族って助け合い。基本的には、自分のことは自分でしつつ、「今やれない人のことをやれる人が助けてあげるのが家族でしょう」っていう話は、いつもみんなにしています。あまり子どもたちを、子ども扱いしていないところがあるのかもしれないですね。  例えば、子どもが学校のことで悩んでいたりしても、しっかり話は聞くけれど、最終的にはその子自身が乗り越えなくちゃいけないことかなと思って見守るほうです。  友達との付き合い方ひとつとっても、それぞれの性格だったり、学校でのポジションだったり、いろいろあるし変わっていくから、何パターンかヒントを出してみて、あとはその子がどう行動するかに任せますね。   【こちらも話題】 NHK退職の報告に「まじ?」 武田真一アナが「なめるように可愛がって」きた息子たちに見せた姿 https://dot.asahi.com/articles/-/197860 藤本美貴さんInstagram(@mikittyfujimoto)より    夫が私とはまた違うアドバイスをしてくれることもあって、「それもいいね!」という感じ。子育てもそうで、夫婦で意見が違っても「あ、そういう子育てのやり方もあるよね」と素直に受けて試してみます。お互い「こうしなくちゃいけない」みたいなのが少ないのかもしれないですね。 楽しいスケジュールはみんなで立てる  普段は忙しいからこそ、長期でお休みが取れる時は、家族で一緒に過ごす時間をとても大切にしています。「お休みに、なにをしたい?」ってそれぞれの希望を聞いて、できるだけ叶えます。  見たい映画がそれぞれにあれば絶対に連れて行ってあげたいし、旅行の行き先も子どもたちと話し合って決めます。楽しいスケジュールはみんなで立てていますね。旅行や遊園地、夏はプールも休みが合えば必ず行きます。楽しいことは味わい尽くそうというタイプの家族です。  そして、子どもたちのやりたいことを叶えたら、次は親がやりたいことも叶えます。旅行先でも「ここからは大人の時間です!」と言って、買い物に付き合ってもらうとか。昔から「自分たちだけが楽しいのが旅行じゃないですよ」って伝えているんです(笑)。 ※「AERA with Kids2023年秋号」から一部抜粋 (取材・文/玉居子泰子)  撮影/植田真紗美 ヘアメイク/太田年哉(maroonbrand) 〇藤本美貴(ふじもと・みき)/2002年歌手デビュー。09年、お笑いコンビ「品川庄司」の庄司智春さんと結婚。現在も歌手・タレントとして幅広く活躍しながら、3人の子育てに奮闘中。インスタグラムやブログ、YouTubeチャンネルが人気。 YouTubeチャンネル 「ハロー!ミキティ」/ミキティが、家族との日々や夫婦のデート風景、視聴者からのお悩みに答える相談コーナーなど、バラエティー豊かなコンテンツを配信! チャンネル登録者数55万人超えの大人気チャンネル。   【こちらも話題】 夫も「子育て熱心」なのに、夫婦ともに時間がなさ過ぎるのはなぜ? 3兄弟の母が嘆く令和の子育ての“憂鬱”” https://dot.asahi.com/articles/-/195791
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AERA with Kids+ 2023/10/19 11:00
大学生に蔓延する「バ畜」 学業も私生活もすべて犠牲にして“アルバイト漬け”になる若者たちの心理
大谷百合絵 大谷百合絵
大学生に蔓延する「バ畜」 学業も私生活もすべて犠牲にして“アルバイト漬け”になる若者たちの心理
アルバイトにすべてを搾取される“バ畜”というワードが大学生の間で広がっている。写真はイメージ(GettyImages)  “バ畜”という言葉を聞いたことがあるだろうか? 会社のためにまるで家畜のようにがむしゃらに働かされている人を意味する“社畜”という言葉があるが、“バ畜”はそのアルバイト版。これが最近大学生たちの間で広まっているという。学業やプライベートをなげうってまでバイト漬けの日々を送る“バ畜”になってしまう事情と、その背景を取材した。 *  *  *   「僕はバ畜だと思います」  大手家電量販店の携帯電話売り場でアルバイトをしている、大学3年生のユウタさん(仮名)は、力なくそう笑った。  ユウタさんはもともと、飲食店でのバイトを渡り歩いてきたが、どの店でも「給料が安いわりに仕事がハード」であることに嫌気が差していた。個人経営の居酒屋では、店長の代わりに1日中店番をするだけでなく、仕入れや売り上げの管理、ほかのバイトたちのシフト作成、クレーム対応までやらされた。 「責任を負うことが多くて、肉体的にも精神的にもきつかった。時給は1000~1100円なのに、なんでこんなことまでしないといけんのじゃって思ってました」  しかし、お金は稼がなければならない。ユウタさんは認知症の祖母の介護をしながら大学に通っており、生活費は全額、学費も半分は自分でまかなっている。プロを目指して音楽活動にも打ち込んでいるため、その費用もかかる。そこで、1500円の時給に魅かれて、今年7月から家電量販店でのバイトを始めた。   【こちらも話題】 東大合格を蹴ったのは9人 「史上最優秀の入学辞退者」はどこに進学したのか? アクセンチュア、東大・早慶以外でも採用者数増 23卒の就活は早期化「DX人材の争奪戦」に 人気企業が採用したい大学 会社と戦うのは労力がいる  だが、待っていたのは、こんなはずでは……という労働環境だった。  わずか1週間の研修を受けただけで“独り立ち”認定され、店頭で電話回線の契約や機種変更の対応に駆り出された。知識不足ゆえに失敗すると、耳元のインカムから「そうじゃねえから!」と叱責が飛んでくる。  一番困っているのは、なかなか休憩がとれないことだ。社員がおらずバイト2人だけで回す日は、次々やってくる客の対応に追われて現場を離れられず、朝9時から夜7時まで10時間ぶっとおしで働くことも。にもかかわらず、勤務記録上は1時間の休憩をとったことになっており、そのぶんの時給は出ないというから、労働基準法的に完全にアウトだ。 「職場は、一言でいえば“ブラック”に尽きますね。求人サイトではすごくホワイトそうに見えたのに、あとで調べたら、どの店舗でも求人を出していたっていう……。慢性的な人手不足の証拠ですよね。深く調べてから行動しないと痛い目を見るなって反省しました」  今は、シフトを詰めこまれそうになったら、予定があるとうそをつくようにしているが、それでも週4日は入らざるをえないという。 「最近はインフルエンサーがSNSで法律の知識を紹介したり、『会社を追及すれば勝てる!』と発信したりしていて、感化されている若い人もいるけど、社会の実情とはギャップがあると思うんです。会社と戦うのはすごく労力がいるし、法律の知識がすべて通用するかというと、そんなに甘くない」   【こちらも話題】 新入社員の「電話番号はありません」に、上司驚愕の理由! 常見陽平氏(本人提供) バイトがやめない方法をマニュアル化  しかし、理不尽な職場に疑問を抱きつつも、耐えしのんで出勤し続けてきた。ユウタさんの周りにもバ畜のごとき働き方をしている友人たちがいるが、「文句を言う子はあまりいない」という。 「みんな、『それが普通だし、お店も大変そうだし』って言うんです。お店に同情するなよ! と思いつつ、でも気持ちはわかるんですよね。僕もバイトを辞める理由を探すけど、ひどいパワハラがあるわけでもないし、待遇を理由に辞めるのもなーと思っちゃう。本当はお店が悪いのにそう思えなかったり、そもそも気づかなかったりして、労働力が搾取(さくしゅ)されているんだろうなと感じます」  こうした“搾取”は、なぜ起こるのか。働き方評論家で千葉商科大学准教授の常見陽平氏は、日本社会の二つの問題を指摘する。  一つめは、「バイトがいないと成立しないビジネスモデルを作り上げてしまった」ことだという。  安い給料で社員なみのパフォーマンスをあげてもらえれば、企業としては非常に“おいしい”。しかし、少子化で若者が減り、コロナ禍を機に退職したスタッフの穴埋めが間に合わない店も多い今、人手不足は深刻だ。  そこで、大手チェーン店などでは、バイトを辞めさせないためのマネジメント法がマニュアル化されているという。名前は「さん」付けで呼ぶ、敬語で接する、「お客さんから君の接客をほめられたよ」などと積極的にほめて承認欲求を満たす、といった具合だ。   【こちらも話題】 中卒でソニー会長に「働きたい」と言ったら…意外な返事 雇用主から「店の将来が君にかかっているんだ」などと言われ、辞められなくなるケースもあるという。画像はイメージ(GettyImages) 巧妙化するブラックバイトの手口 「ブラックバイトは巧妙化しています。『お前働けー!』と怒鳴られるより、『店の将来が君にかかっているんだ』なんて言われるほうが、真面目で素直で無批判な学生たちはコロリとやられる。結果見事に飼いならされて、自ら進んでバイトありきの大学生活を送ってしまうわけです。本人にバ畜の認識がないことが根深い問題です」(常見氏)  もうひとつの背景は、格差社会だ。経済事情は二極化し、働かなければ大学に通えない学生も一定数いる。常見氏はこう話す。 「先日、物理学専攻で大学院進学を目指しているソープ嬢二人組と出会いました。“よく学びよく遊ぶ”という学生らしい時間を確保できるのは、家が裕福な人か、一線を越えたバイトをしている人か、という皮肉な現実がある。お酒や車、旅行をはじめ『若者の○○離れ』などとよく言われますけど、実態は『金と時間の若者離れ』ですよ」  ユウタさんに、「最近、何をして遊びましたか?」とたずねると、しばらく考えこんだのち、「友だちとお茶をしました」と返ってきた。遊びたい盛りの男子大学生の答えが「お茶」とは……。少々面食らった。  物価がどんどん上がる今、生活を維持するには、どうしてもバイト中心の毎日になるのだという。私生活だけでなく学校生活にも支障が出ていて、授業で出た課題に取り組む時間がとれず、他の授業中に内職することもあるそうだ。   【こちらも話題】 スーパーでまさかの枕営業…人生をも支配する「全人格労働」 好きなことならつらくても我慢できる 「働けばお金はもらえるけど、それ以上に、何かを奪われている気がしていて。未来を担う学生にとって、もうちょっと優しいシステムがあるといいなと思うんですよね」  ユウタさんは10月いっぱいで家電量販店のバイトを辞めて、「もっとかしこい働き方」を模索するという。 「自分の好きなことなら多少つらくても我慢できると思うので、音楽関係のバイトをしようかなと。ミュージシャンとして有名になってやるっていう意気込みだけはあるので、そのときは是非また取材をしてください」  若者を食いつぶす社会に、未来はない。ユウタさんが願う“もうちょっと優しいシステム”をつくることは、大人たちの喫緊の責務だろう。 (AERA dot.編集部・大谷百合絵)   【こちらも話題】 アクセンチュア、東大・早慶以外でも採用者数増 23卒の就活は早期化「DX人材の争奪戦」に 人気企業が採用したい大学
大学生アルバイト社畜やりがい搾取
dot. 2023/10/18 11:05
「編集者に尻を叩かれないと書けない」と悩む作家・鈴木涼美に、鴻上尚史がおくった“ほがらか”すぎるアドバイスとは
大谷百合絵 大谷百合絵
「編集者に尻を叩かれないと書けない」と悩む作家・鈴木涼美に、鴻上尚史がおくった“ほがらか”すぎるアドバイスとは
鈴木涼美さんと鴻上尚史さん(撮影/写真映像部・上田泰世)  夜の世界や男女のアレコレをテーマに筆をふるう作家の鈴木涼美さんが、AERA dot.で30~40代女性向けのお悩み相談をはじめます。そこで、AERA dot.の人気連載「鴻上尚史のほがらか人生相談」を担当している、演出家の鴻上尚史さんとの特別対談が実現! 誰かの悩みへの向き合い方をはじめ、お二人自身の悩みや、ほろ苦い恋の思い出まで飛び出した、赤裸々トークをお楽しみください。 ※【前編】<彼氏の名前のタトゥーを入れた鈴木涼美と、彼女に頼れずフラれた鴻上尚史 悩み相談のプロたちが明かす“恋愛失敗談”>より続く *  *  * ――お二人が今抱えている悩みはありますか? 鴻上:僕は演出家なので、常にキャスティングについて悩んでいます。人生の悩みの95%を占めていますね。この人はイメージにぴったりだけど、スケジュールがうまくあわないとか公演規模にあわないとか……。 鈴木:脚本を書く生みの苦しみよりも大きいんですね。 鴻上:生みのほうは、頑張れば頑張るだけ結果がついてくるので。好奇心さえあれば、アイデアは途切れないし。 鈴木:私はすごく怠惰なので、眠いとか、ごはん食べたいとか、見たいドラマが溜まってるとかで、締め切りがいつもギリギリになっちゃって……。編集者さんに尻を叩かれないと書けないのが悩みです。 鴻上:いいじゃないですか、ドM体質として、ずーっと叩かれ続ければいいんです。   鈴木涼美さん(撮影/写真映像部・上田泰世) 鴻上さんの相談相手 鈴木:叩かれなくなったら終わるので、先細りしそうで不安ですね(笑)。鴻上さんって、悩みがあったら誰かに相談したりするんですか? 鴻上:うん、だいたい仕事のことだけど。 鈴木:誰にですか? 鴻上:よくできたもので、その時その時にあった相談相手が現れるんですよね。最初に芝居を始めたころは、大学のサークルの先輩、やがて僕の方が忙しくなると、次はラジオ局のディレクター、さらにキャリアが上がってビジネス規模が大きくなると、映画のプロデューサーっていう感じで。 鈴木:でもポジションが上になると、相談できる人も少なくなりますよね? 鴻上:だから、水商売のお客さんには、あんなに寂しげな偉い人が多いんでしょう(笑)。若い女の子たちに愚痴を聞いてもらえることが、精神安定剤になるっていう。俳優にアドバイスするんですが、人に受け止めてもらう以外にも、楽器を弾く、絵を描く、ゲームに夢中になる、なんでも構わないから、自分自身でストレスや悲しみを処理できる方法を見つけておいたほうがいいですね。 鈴木:なるほど、私も探してみます。 鴻上:どうしても人間相手じゃないとダメなら、相談できる人を最低3人は作ったほうがいい。2人だと、交代で相手をするのはヘビーになることがあるから。 鈴木:私の友人の男の子で、失恋すると、私含めた女友達5人に一斉にラインを送ってくる人がいます。「今日バイト入れる人いますか?」って。要するに、「誰か今日相談に乗ってくれませんか?」っていう意味なんですけど、彼は人でしか解消できないんでしょうね。その代わり、相談場所として専用のプールを持っていて、私たちのライングループの名前は、俺の面倒を見てくれる人っていう意味で勝手に「ナニーズ」ってつけていて……。 鴻上:そういうことやってるからフラれていくんだよっていうね(笑)。 鈴木:私もそう思います。 鴻上尚史さん(撮影/写真映像部・上田泰世) アドバイスで、指示するのはNG ――誰かの相談に乗る上で気をつけていることはありますか? 鈴木:鴻上さんの人生相談って、「どうしたらいいですか?」っていう質問に、問いで返しますよね。「あなたはこの場合どう思っているんですか?」とか。 鴻上:それはね、役者さんにアドバイスするときの方法と同じなんですよ。たとえば、役を演じる上でメガネをかけてほしいと思ったら、あえて「どうすればインテリっぽく見せられますかね?」って聞いてみる。で、役者さんが「メガネとかですか?」って言ったら、「それいいですね!」みたいな。指示するのではなく、本人が気づいたようにすると、納得してくれるし絶対忘れないんです。 鈴木:私の場合、「変な男と付き合って困ってます」っていう相談が来たら、昔、酒場で働いていたときの事例を持ち出して、「いやもっと変な男いるから!」ってお茶を濁すことが多かったです(笑)。そうやって中和することが、私の役目なのかなとも思っていて。でも、鴻上さんの「ほがらか人生相談」は、質問者だけじゃなく読者自身も問われている気がして、深く考えさせられる。私にとっては憧れです。鴻上さんって、相談を受けて困るときもあるんですか? 鴻上:僕は、苦しんでいる状態から抜け出そうと思っていない人の相談は、受けないことにしています。たとえば、明日が舞台のリハーサルだっていうときに、すごく調子の悪そうな女優さんがいてね。「どうした?」って聞いたら、「俳優をやっている彼氏が、昨日役を下ろされて落ち込んで、夜中に会いに来たから、一晩中寝ないで慰めていたんです。私どうしたらいいでしょう?」って。そんなときは、「君はプロになりたいの?」って聞きます。本気でプロになろうとしている子なら、「そんな男とは別れたほうがいいと思うよ」って言う。でも明らかに恋愛をとろうとしている子なら、本人はその状況を悲劇のヒロインとして楽しんでいるだけなんだから、言ってもしょうがないよねっていう。 鈴木涼美さん(撮影/写真映像部・上田泰世) 鈴木:女同士の恋バナは、そういうことが多いですね。相談に見せかけた、愚痴とか、のろけ……。 鴻上:それはそれでいいんですよ。いい壁になって、打ち返してあげればいい。これから僕に恋愛系の相談が来たら、鈴木さんに回せばいいですね。 鈴木:いやいや、私、具体的なアドバイスは全然できませんので!(笑) (聞き手・構成/AERA dot.編集部・大谷百合絵) 【鈴木涼美さんへのお悩みを募集します!】 2023年11月から、新連載「涼美ネエサンの(特に役に立たない)オンナのお悩み道場」がスタートします。恋愛、夫婦、家族、仕事、友人など、鈴木さんと同世代の30~40代女性のお悩みを中心に募集中です。ご応募はコチラから! ●鈴木さんからのメッセージ ELLEのポッドキャスト「ビストロラビン」が終わってしまい、皆様のお悩みや相談などを聞く機会が減っていたので、ここでまたお話しを聞く機会ができてとても嬉しいです。私は結婚もしていないし子供もいないし仕事も不安定で、地べたにはいつくばって生きている感じなので、こんな風にすれば素敵な人生送れるよ!というアドバイスは何もないですが、ピンチに陥ったり崖っぷちに立ったりすることは多い日々だったので、痛み分けする気分で、気負わずなんでもお便りお待ちしてます。 鴻上尚史(こうかみ・しょうじ)/作家・演出家。1958年、愛媛県生まれ。早稲田大学卒。在学中に劇団「第三舞台」を旗揚げ。94年「スナフキンの手紙」で岸田國士戯曲賞受賞、2010年「グローブ・ジャングル」で読売文学賞戯曲賞など。近著に『「空気」を読んでも従わない~生き苦しさからラクになる』(岩波ジュニア新書)、『愛媛県新居浜市上原一丁目三番地』(講談社)、また本連載を書籍にした『鴻上尚史のほがらか人生相談~息苦しい「世間」を楽に生きる処方箋』がある。X(@KOKAMIShoji)も随時更新中 鈴木涼美(すずき・すずみ)/作家・エッセイスト。1983年、東京都生まれ。慶應義塾大学在学中にAV女優としてデビューし、キャバクラなどで働きつつ、東京大学大学院修士課程を修了。日本経済新聞社で5年半勤務した後、フリーの文筆家に転身。恋愛コラムやエッセイなど活躍の幅を広げる中、小説第一作の『ギフテッド』、第二作の『グレイスレス』は、芥川賞候補に選出された。著書に、『身体を売ったらサヨウナラ 夜のオネエサンの愛と幸福論』『非・絶滅男女図鑑 男はホントに話を聞かないし、女も頑固に地図は読まない』など。近著は、小説第三作となる『浮き身』。X(@Suzumixxx)も随時更新中
鈴木涼美松本人志と世界LOVEジャーナル鴻上尚史
dot. 2023/10/17 23:00
彼氏の名前のタトゥーを入れた鈴木涼美と、彼女に頼れずフラれた鴻上尚史 悩み相談のプロたちが明かす“恋愛失敗談”
大谷百合絵 大谷百合絵
彼氏の名前のタトゥーを入れた鈴木涼美と、彼女に頼れずフラれた鴻上尚史 悩み相談のプロたちが明かす“恋愛失敗談”
  鈴木涼美さんと鴻上尚史さん(撮影/写真映像部・上田泰世)  夜の世界や男女のアレコレをテーマに筆をふるう作家の鈴木涼美さんが、AERA dot.で30~40代女性向けのお悩み相談をはじめます。そこで、AERA dot.の人気連載「鴻上尚史のほがらか人生相談」を担当している、演出家の鴻上尚史さんとの特別対談が実現! 誰かの悩みへの向き合い方をはじめ、お二人自身の悩みや、ほろ苦い恋の思い出まで飛び出した、赤裸々トークをお楽しみください。 *  *  * ――鈴木さんから、“お悩み相談の大御所”である鴻上さんに聞きたいことはありますか? 鈴木:私は、若い女の子の恋愛相談に答えてきた経験はあるんですけど、鴻上さんって老若男女のお悩みを聞かれているイメージがあって。いろいろな人に相談されるキャラクターっていつからできたんですか? 鴻上:演出家をやってると、幅広い世代の役者さんの相談に乗らなきゃいけないんですよ。それこそ、「妻が倒れたんだけど」っていう話から、「お金がなくて彼女にもフラれてどうしたいいかわからない」っていう話まで。中年の女性に、「最近体調が悪い。更年期かもしれない」なんて言われたときは、しょうがないから本屋さんに行って調べて、「体を温めたほうがいいんじゃないですか?」ってアドバイスしてみたり(笑)。 鈴木:ちゃんと勉強されるんですね……。 鴻上:結局、とにかく芝居を成功させることしか頭になかったので。明日もきちんと稽古に来てもらうために、みんなが心の中に抱えているものを軽くしなくちゃいけない。悩みのジャンルを選んでいる場合じゃなかったっていうことですね。「鴻上尚史のほがらか人生相談」は、気がついたらもう5年目です。最初は1年の約束だったのに、最近はなぜかオートマチックな延長制度になっていて、毎月毎月、編集者さんから質問が送られてくる。あれ、これはいつまで続くんだ?って(笑)。鈴木さんは、なんでお悩み相談を始めようと思ったんですか? 鈴木涼美さん(撮影/写真映像部・上田泰世) 恋愛弱者だけど、好き勝手答える 鈴木:私の場合、人の悩みや愚痴を聞くのが好きなんです。昔、女性誌のポッドキャストで恋愛相談を受けていたんですけど、こんな変な男と付き合ってるから聞いてくれよ!っていう相談がたくさん来るんですね。たとえば、「浅くて平たいおたまを買ってきたら、彼氏にちゃぶ台ひっくり返されたんですけど、どう思います?」みたいな。もう答えは「別れたほうがいいんじゃない?」しかないんだけど、そういう話って本当に面白い。人によって、疑問を持つポイントや、世界の生きづらさがちがうというか。私、今40歳で、結婚してないし、5年以上同じ人と付き合ったこともないし、たぶん恋愛弱者なので具体的なアドバイスを求められているわけではないんです。だからあえて自分のことは棚に上げて、好き勝手答えていました。 鴻上:でも、5年以上同じ人と付き合ったことがないっていうのは、自分に正直ってことでしょう。だって付き合って3年も経ったら、ドーパミンは出尽くして、ドキドキなんてしなくなるんだから。たまに、ドーパミンから、愛情ホルモンのオキシトシンに変えていけるカップルはいるけど……。 鈴木:そうやって、恋人から、家族とかパートナーとしての関係に変換できたことがないんです。 鴻上:変換できる人のほうが稀だと思いますね。 鈴木:でもみなさん結婚してるじゃないですか。 鴻上:我慢してるんですよ。だいたい夫婦間の基本的な感情は不機嫌ですから(笑)。 鴻上尚史さん(撮影/写真映像部・上田泰世) 二人の恋愛観は両極端⁉ ――お二人には、恋愛の失敗談はありますか? 鈴木:私、若いころは彼氏ができるたびに、こんなに好きになる人は一生現れないって思ってたんですよ。 鴻上:なるほど(笑)。 鈴木:それで、腰に、当時の彼氏の名前のタトゥーを入れました。イニシャルでKJ。でも3カ月くらいで別れたんですよね。しかも名前は偽名だったんです。 鴻上:そんなろくでもない男だったの!? 鈴木:だからそもそもイニシャルはKJではなかったのですが、別れてからは、なんとかタトゥーを修正して、Kは死んだ母親のペンネームの「Kari」、Jは私の誕生日が7月13日なので「July」にしました。 鴻上:あはは。エッセイのネタとしてはすごく面白い。 鈴木:いかに恋愛において先見性がなかったかっていう。 鴻上:のめり込むタイプなんですね。俺なんか、どんなに恋愛しても、やがて終わりが来るんだからって必ず思ってましたけどね。 鈴木:若いころからですか? 鴻上:うん。高校のときに1個下の女の子と付き合ってたんだけど、ある日の放課後、図書室で待ち合わせをして、俺が先に部活が終わったから勉強しながら待ってたの。そしたら彼女が、早く俺に会いたくて4階の図書室まで階段を駆けあがってきて。ハーハー息を切らしている顔を見た瞬間、すごく悲しくなったんだよね。あ、この子は数ヵ月後には、ゆっくり階段を上がってくるようになるだろうな、それを見るのが自分は耐えられなくなるだろうな、と思って。   鈴木涼美さん(撮影/写真映像部・上田泰世) 鈴木:独特な人間観ですね(笑) 鴻上:いやいやKJも独特だと思いますよ(笑)。俺の失敗談としては、大学から7年付き合った彼女のことかな。6年目くらいのバレンタインデーで大きなハートのチョコをもらって、ふたを開けたら、「わがまましてもいいのよ」って書いてあって。俺は小さいころから両親とも共働きで家にいなかったから、自分の悲しみや怒りを自分で処理できちゃう。でも相手としては、間違いなく寂しいよね。案の定、最後は別の男にぴゅっとかっさらわれて終わりました。彼女にはかわいそうなことをしたなーと思います。 ※【後編】<「編集者に尻を叩かれないと書けない」と悩む作家・鈴木涼美に、鴻上尚史がおくった“ほがらか”すぎるアドバイスとは>に続く (聞き手・構成/AERA dot.編集部・大谷百合絵) 【鈴木涼美さんへのお悩みを募集します!】 2023年11月から、新連載「涼美ネエサンの(特に役に立たない)オンナのお悩み道場」がスタートします。恋愛、夫婦、家族、仕事、友人など、鈴木さんと同世代の30~40代女性のお悩みを中心に募集中です。ご応募はコチラから! ●鈴木さんからのメッセージ ELLEのポッドキャスト「ビストロラビン」が終わってしまい、皆様のお悩みや相談などを聞く機会が減っていたので、ここでまたお話しを聞く機会ができてとても嬉しいです。私は結婚もしていないし子供もいないし仕事も不安定で、地べたにはいつくばって生きている感じなので、こんな風にすれば素敵な人生送れるよ!というアドバイスは何もないですが、ピンチに陥ったり崖っぷちに立ったりすることは多い日々だったので、痛み分けする気分で、気負わずなんでもお便りお待ちしてます。 鴻上尚史(こうかみ・しょうじ)/作家・演出家。1958年、愛媛県生まれ。早稲田大学卒。在学中に劇団「第三舞台」を旗揚げ。94年「スナフキンの手紙」で岸田國士戯曲賞受賞、2010年「グローブ・ジャングル」で読売文学賞戯曲賞など。近著に『「空気」を読んでも従わない~生き苦しさからラクになる』(岩波ジュニア新書)、『愛媛県新居浜市上原一丁目三番地』(講談社)、また本連載を書籍にした『鴻上尚史のほがらか人生相談~息苦しい「世間」を楽に生きる処方箋』がある。X(@KOKAMIShoji)も随時更新中 鈴木涼美(すずき・すずみ)/作家・エッセイスト。1983年、東京都生まれ。慶應義塾大学在学中にAV女優としてデビューし、キャバクラなどで働きつつ、東京大学大学院修士課程を修了。日本経済新聞社で5年半勤務した後、フリーの文筆家に転身。恋愛コラムやエッセイなど活躍の幅を広げる中、小説第一作の『ギフテッド』、第二作の『グレイスレス』は、芥川賞候補に選出された。著書に、『身体を売ったらサヨウナラ 夜のオネエサンの愛と幸福論』『非・絶滅男女図鑑 男はホントに話を聞かないし、女も頑固に地図は読まない』など。近著は、小説第三作となる『浮き身』。X(@Suzumixxx)も随時更新中
鈴木涼美鴻上尚史松本人志と世界LOVEジャーナル
dot. 2023/10/17 23:00
「MEGUMIに勇気づけられる」「不倫の怒りは相手の属性次第」 作家・鈴木涼美が語る離婚観
大谷百合絵 大谷百合絵
「MEGUMIに勇気づけられる」「不倫の怒りは相手の属性次第」 作家・鈴木涼美が語る離婚観
MEGUMIさん  女優・タレントのMEGUMI(42)と、ロックバンド「Dragon Ash」の降谷建志(44)の離婚報道が世間をざわつかせている。かつてAV業界や夜の世界で働き、男女にまつわる著作を多数持つ作家の鈴木涼美さん(40)は、この騒動をどう見るのか。独自の離婚観、不倫観を交えて語ってもらった。 *  *  * ――MEGUMIさんに対し、ネット上では「第二の人生を謳歌してほしい」などと励ましの声が多く寄せられています。あたたかな応援ムードの背景には何があると思いますか?  私は結婚をしたことがありませんから、離婚の大変さは想像しかできませんが、元々のご本人の人気はもちろん影響しているでしょう。  MEGUMIさんの美しさっていい意味で親近感があって、殿上人みたいな感じがしないですよね。私は世代的に若い頃、安室奈美恵や浜崎あゆみに憧れましたが、どこか別世界の人と思ってしまう節もあります。でもMEGUMIさんは顔も日本人っぽいし、目標にしやすい感じがするというか。美容の本が大ヒットしたことからもわかるように、アラフォー女性の現実的なロールモデルになっているのだと思います。  そういう“同世代の憧れ”みたいな人が何か人生の大きな決断をすると、「人生の選択肢は何歳になっても幅広いんだ!」と実感して、勇気づけられる人も多いのではないでしょうか。現在の自分のいる場所が窮屈になったとしても、新たな場所を探してまた次のシーズンが始まる、いくらでも輝けるって思える。憧れの女優さんたちが自由に人生を選択していると、自分たちもそういう選択肢がとれるのだと思って少し気負いがとれるというのもあると思います。  私の友達にも、結婚式の二次会で旦那に、「浮気とか、私の嫌なことしたら、離婚する。藤原紀香だってバツイチだし、私怖くないから」って言ってた子がいましたし(笑)。   鈴木涼美さん 許せないポイントは人それぞれ ――降谷さんが不倫していたことも、MEGUMIさんへの応援ムードに拍車をかけているような……。  一つ事件があると、それだけが原因のように思われがちですけど、人の選択の理由って複合的なものだし、本当の原因なんて第三者には分かりませんよね。ですから私にはMEGUMIさんの決断に至る心境を推し量ることはできません。  私の友人に、夫が転勤になってすぐ離婚した子がいたんですけど、別れた旦那さんはすごくいい人で、仕事も申し分なくて、不倫だって一切しなかった。時期が重なったこともあり、周りは転勤がそんなに嫌だったのかなぁと勝手に憶測していましたが、何年も経ってから聞いたところ、実は結婚してから一回もセックスしていなかったことや、夫の潔癖症に悩んでいたことを知りました。  恋愛が冷めるポイントや相手の許せないポイントは、千差万別で他人にはわからないことも多くあります。ある日突然、今まで居心地がいいと思っていた彼のにおいが臭く感じるようになることだってあります。そういえば、父親を肺がんで亡くした女性が、旦那が工事現場の人に混じってこっそりタバコを吸っていたと知って離婚する、なんて映画もありましたね。他人にとっては特に問題にならないことでも、二人の間のことはわからないということです。 ――とはいえ不倫は、別れを選ぶ決定的な引き金になる女性も多いのでは?  これはMEGUMIさんの件とは関係なく、私の持論ですが、同じ不倫でもケースによって罪の重さというか、相手につける傷の深さがちがうと思うんですよね。「不倫は一律でNG」という人ももちろんいるでしょうが、「こういう相手との不倫だけは何があっても許せない」っていう特定の許せないポイントがある場合も少なくないから。旅先のワンナイトの夜遊びと、自分の友人や親友との浮気と聞けば、自分の心に及ぼす影響の濃淡が違うとわかると思います。 鈴木涼美さん 「たまたま仕事で出会った相手との純愛不倫と、銀座のホステスとの不倫ならどっちが嫌か」と聞いてみると、人によって意見が違うものです。「水商売の相手は仕事だろうけど、お金が介在しない場合は相手が本気になってしまうかもしれないし、心が持っていかれる気がする」という人もいましたが、私の母は「銀座のクラブに通ったらうちの家計が苦しくなる。それなら一切お金を使わない純愛の方がまし」って切り捨てていました(笑)。  あるいはもっと複雑に、不倫相手の“属性”によっても、怒りの度合いが変わりますよね。 うまいこと遊んでいる人の“決め事” ――属性とは……?  女性に、夫の不倫相手や彼氏の浮気相手がブスの方が凹むか、美人の方が凹むかと聞くと、人によって答えが両極で面白いですし、男性の場合は社会的立場が上か下かとか収入の大きさを気にしたりします。  以前、たまたま番組でご一緒した活躍中の芸人さんたちに、「いいなと思った女の子に『私、実は超大御所芸人の元カノなの』って言われるのと、『駆け出しの若手芸人の元カノなの』って言われるのと、どっちが嫌ですか?」と聞いたことがありますが、一人の芸人さんは「絶対に後輩のほうが嫌」と譲らず、もうお一方は「先輩の元カノはとんでもない、絶対に無理です」とおっしゃっていました(笑)。  あまり褒められたことではないですが、うまいこと遊びながら家庭も幸福そうな人を見ていると、最後の最後でパートナーが一番傷つくだろうなという相手は絶対に選ばない、というような自分の中の決め事があったりします。  たとえば、東大を出て弁護士であることにプライドを持っている妻だったら、若くて可愛いキャバ嬢と不倫されるより、ハーバード卒の国際弁護士と不倫されるほうがきっと自尊心が傷つくだろう、とか。相手のことをよく考えるとその人が何を尊んで何を軽蔑するかというようなことへの想像力は培われると思うんです。  人間関係を続けていくうえで、相手が何で喜ぶかを考えることはもちろん大切なことだとは思いますし、恋愛関係においてはこれをきちんと考えている人は結構いると思います。ただ、実際長く一緒にいようと思う場合は、何で傷つくかを理解することはそれ以上に大切だと私は考えています。そしてそれは、日頃よく相手の話を聞いていれば分かるはずです。  妻が一番傷つくことをする夫って、妻のことを何も知らないか、傷ついてもいいと思っているか、どっちかだと思われて仕方がないと思うのです。もちろん、逆の場合もそうです。 2回くらい結婚したって自然では? ――今、日本では3組に1組の夫婦が離婚しています。なぜ離婚はこれほど一般的になったのでしょうか?  単純に、世の中がそれを許容するようになったというのが大きいのではないでしょうか。かつて社会は中年女性の居場所を、家庭や、仕事場における“お局様”の枠など、とても狭く限定していました。  そのような社会では、よほど特殊な才能や経済的な幸運がない限り、一緒にいるのが楽しくなくなった相手とは別れるっていう自然の摂理に従うことは難しかった。でも今は、家庭があろうとなかろうと、社会で活躍して輝いている40代50代女性はたくさんいますよね。  自由恋愛を楽しむのは若い人の特権、なんていう世間的な思い込みも終わりつつあります。高齢者施設で恋愛が活発だというのはよく言われますし、少し前に話題になったNetflixの恋愛リアリティショー「あいの里」も、参加者は35歳以上の男女でした。  人生100年時代の今、寿命が長くなると結婚生活も長くなるわけで、人によっては2回くらい結婚したって自然な感じはしますね。実際、周りを見ていると、離婚をポジティブな選択肢として捉えている女の人は多い気がします。「子どもが高校を卒業したら考えてもいいなー」とか。  離婚したい理由はそれぞれですね。「キュンキュンしないから」とかギャルっぽい理由の人もいるし、「生物として夫より私のほうが優れている気がする」っていう謎の名言を残して、一緒に暮らしはじめて2ヵ月で離婚した友人もいます。  いくつになっても、別れたいと思ったときに別れる選択肢があるのは、心強いこと。私としても、自分と同じ独身仲間が増えるのは大歓迎なので、有名人の離婚のニュースはすごく明るく受け止めています(笑)。 (聞き手・構成/AERA dot.編集部・大谷百合絵) 鈴木涼美(すずき・すずみ)/作家・エッセイスト。1983年、東京都生まれ。慶應義塾大学在学中にAV女優としてデビューし、キャバクラなどで働きつつ、東京大学大学院修士課程を修了。日本経済新聞社で5年半勤務した後、フリーの文筆家に転身。恋愛コラムやエッセイなど活躍の幅を広げる中、小説第一作の『ギフテッド』、第二作の『グレイスレス』は、芥川賞候補に選出された。著書に、『身体を売ったらサヨウナラ 夜のオネエサンの愛と幸福論』『非・絶滅男女図鑑 男はホントに話を聞かないし、女も頑固に地図は読まない』など。近著は、小説第三作となる『浮き身』
MEGUMI鈴木涼美
dot. 2023/10/17 23:00
「一日1万円も稼げないようでは…」過疎地は個人タクシー80歳までOKの国交省方針でも厳しい現実
米倉昭仁 米倉昭仁
「一日1万円も稼げないようでは…」過疎地は個人タクシー80歳までOKの国交省方針でも厳しい現実
ベテランのタクシードライバーに「期待」が寄せられている    住民の「足」が減っている過疎地域で、都市部で経験を積んだ個人タクシーのドライバーに働いてもらおうと、国土交通省は今月中に過疎地域での個人タクシーの営業を認めるとともに、運転年齢の上限をこれまでの75歳から80歳に引き上げる方針だ。高齢者の運転に、安全面での問題はないのか。そして、国の「思惑」通りにタクシードライバーは過疎地域の「足」となってくれるのか。 *   *   *  個人タクシーは原則として75歳までしか続けられないが、法人タクシーのドライバーにはこの上限がない。令和3年賃金構造基本統計調査によると、従業員10人以上のタクシー会社のドライバーは22万1849人。平均年齢は60.9歳(男性)で、70歳以上が全体の約2割を占める。  その一人である屋形貞之さん(78)は、東京都三鷹市にある寿交通に勤めるベテランタクシードライバーだ。    仕事は朝8時から翌日の深夜2時半まで。明けと休日を挟み、月8回ほど勤務する。 「会社を出発したら、朝一番で都心に向かいます。それから新宿、渋谷、青山を中心に車を走らせる。いわゆる『駅待ち』する人もいますが、私は運転が好きなので、いくら走っても苦にならないんですよ」  屋形さんは、ひょうひょうと語る。  歌舞伎町や銀座のような繁華街には、客から指定されないかぎり、自分から行くことはない。山手通りや明治通りなど、比較的走りやすい幹線道路をひたすら25年間、走り続けてきた。堅実な営業に徹しながら、平均以上の売り上げを維持してきたという。    高齢の運転手であれば、体の健康状態が気になるところ。 「私、目はいいんです」  と話す屋形さんだが、会社の指示ではなく、自ら半年に1度の頻度で眼科に行き、検査を受けている。さらに毎月1回は大学時代の友人と、体力維持を兼ねてハイキングに出かけるという。     ベテランドライバーの屋形さん    屋形さんの運転について、 「自己管理がしっかりしていて、事故を起こさない」  と、統括運行管理者の髙根美由紀さんは太鼓判を押す。屋形さん自身も、 「イメージトレーニングが大切だと思いますね」  と返ってきた。 「車間距離をとろう、車線変更をするときは十分注意してウインカーを出そう、お客さんがいたら後ろの車に気をつけながら近寄って、ドアを開けるときは周囲をよく見よう、という風に、頭の中に描いてから出発するんです」   タクシーの事故件数は減っている  寿交通に勤務するドライバー84人の平均年齢は61.1歳。うち70代は15人、75歳以上は9人である。 「お客様の命を預かる仕事なので、乗務員の健康管理や安全指導は厳しくやっています」  と髙根さんは言う。  年2回の健康診断で悪いところが見つかれば、再検査や進行の状況などを追跡する。毎朝、出庫前にはアルコールチェックをし、さらに顔色を見たり、健康状態について尋ねたりしている。 「年齢を重ねると、動体視力が落ちてきたり、視野が狭くなってきたりするので、『首を使って確認してね』と声がけします」  そして、運転をアシストする機能がついた車が普及してきていることもあり、法人タクシードライバーの高齢化が進んでいる一方で、事故件数は大幅に減っている。  全国ハイヤー・タクシー協会によると、2012年に1万7750件あった人身事故が、21年には6486件まで減少(死亡事故は10件)。コロナ禍で乗務員が減ったことも影響していると思われるが、それを大きく上回る減り方だ。   定年のない運転手が3割弱  一方、運行管理者のいない個人タクシーは、安全をどう確保しているのか。  個人タクシーの年齢上限は75歳だが、あくまでも原則だ。上限が設けられたのは02年2月1日で、それ以前に営業許可を取得した個人タクシーに定年はない。 「その人たちは極端な話、何歳でもタクシーの運転ができる。それが個人タクシー全体の3割弱を占める」  と、全国個人タクシー協会の櫻井敬寛会長は説明する。     全国個人タクシー協会の櫻井敬寛会長    協会によると、個人タクシーの事業者数は2万6788人(23年4月30日現在)。平均年齢は64.8歳で、法人タクシードライバーよりも高い。  ところが、こちらも人身事故件数は激減している。12年は1415件だったが、21年は562件まで減ったのだ(死亡事故は1件)。   事故件数は減少傾向にある個人タクシー=個人タクシー協会提供    個人タクシーの営業許可は最長5年だが、交通違反や事故を起こすとその期間は短縮される。最短は1年だが、これが5回繰り返されると、許可は取り消される。  さらに75歳を過ぎると、営業許可は1年ごとの更新となり、そのつど健康診断や適性検査を通らなければ事業を継続できない。そして第二種運転免許を更新する必要があるが、奥行きの把握力を測る「深視力」の検査が通らずに廃業する人が多いのだという。    個人タクシーが事故を起こすと、その情報は全国の協会支部に伝えられる。 「大きな事故だけでなく、小さな物損事故でも数が急に増えると、そのドライバーには支部に来てもらい、指導します。明らかに危険性が高い人に対しては『大きな事故を起こす前に辞めてもらえませんか』とお願いします。実際にそう言って辞めていただいた方が何人もいます」  ただ、協会に未加入の個人タクシードライバー、全体の8.6%を占める2305人には、安全指導は届かないということになる。   求められている場所は「事業困難地域」  今回の国交省通達の改正案では、75歳以上の個人タクシードライバーが過疎地域での営業をする場合、その区域の法人タクシーの運行管理を受ける、という立てつけになっている。  観光バスの場合、出張先でスマホなどを使い、アルコールチェックなども含めた遠隔点呼が認められている。これがタクシーでも可能となれば、点呼を行う相手は遠隔地にいてもいいわけだが、それなりの設備投資が必要になる。      さらに雇用関係のない個人タクシー事業者に対して、どこまで運行管理の実効性を担保できるか、という課題もある。 「例えば、地元のタクシー会社が車両5台で営業して、売り上げもギリギリだったとします。そこへ個人タクシーがやってくれば、その面倒をみなければならないわけです。1台当たりの客が減って、売り上げも落ちる。運行管理を引き受けてほしいと言われても、タダでとはいかないでしょう」  と櫻井さんは厳しい見方を示す。    協会は6年ほど前、個人タクシーのドライバーを対象に「定年で廃業するときに、どこか違う場所で営業できるとしたら、あなたは行きますか」というアンケートを実施した。  その結果には、「暖かい地域に行きたい」「魚が好きなので海のそばがいい」「過疎地域に行って、住民のお手伝いをしたい」という回答もあったが、それはごくわずかだった。地方でタクシー事業だけで「食べていく」のは、現実的には難しいのだという。  櫻井さんは、こう指摘する。 「そもそも、採算がとれずに大手のタクシー会社が撤退した『事業困難地域』に、個人タクシーが行くわけです。車両を維持するにはさまざまな費用がかかります。1日1万円も稼げないような場所であれば、自治体から助成があるとか、空き家を提供してくれるとか、そういった支援がなければ、別な仕事を持たないと暮せないですよ」  過疎地域での「足」を確保しようという国の思惑を、当のタクシードライバーたちはシビアに見ている。 (AERA dot.編集部・米倉昭仁)  
過疎運転免許返納高齢化
dot. 2023/10/17 17:30
家事の手抜きまで理詰めの材料科学研究者(42) 研究も子育ても「完全につながっている」
高橋真理子 高橋真理子
家事の手抜きまで理詰めの材料科学研究者(42) 研究も子育ても「完全につながっている」
  材料科学者・桂ゆかりさん(42)  材料科学の世界では、より性能の良い、または、より扱いやすい、要するに少しでも優れた材料を求めて世界中の研究者が実験を重ねている。それを報告する論文からグラフを集めて実験データを抽出し、データベースを作る。この構想を打ち出し、仲間を引き入れ2015年からプロジェクトを動かしてきたのが茨城県つくば市にある物質・材料研究機構(NIMS)主任研究員の桂ゆかりさんだ。「他人の論文のデータを集めるなんて研究とはいえない」という声もあったなかで、「これは必要」と確信して進んできた。メーカー研究者の夫とともに小6と小5の子どもを育てる。「原理に立ち返って考えるのが大事というのは、研究も子育ても同じ」。家事と料理の手抜き法も理詰めで考えて実践中だ。(聞き手・構成/科学ジャーナリスト・高橋真理子) *  *  * ――「論文からグラフを集める」と聞くと簡単そうですが、論文は膨大にあり、実際に集めるのは大変そうです。  材料科学とデータ科学を融合させた「マテリアルズ・インフォマティクス」を日本でも広めようというプロジェクト「情報統合型物質・材料開発イニシアティブ」がNIMSを拠点に始まったのが2015年で、私はその初期メンバーになったんです。それまでは超電導物質や熱電材料(熱を電気に、あるいは逆に電気を熱に変える材料)の研究をしてきました。当時は東京大学柏キャンパスにある新領域創成科学研究科の助教になったばかりで、そのままNIMSの客員研究員も兼任し、そのとき初めてデータ科学やデータベースを勉強して、考えついたのが「論文から実験データを集める」という、まだ誰もやっていないことです。 ――あらゆる論文の実験データが1カ所にまとまっていたら研究者は助かりますね。  はい、それができると新しいことが見えてくるはずだと思いました。まず共同研究に誘ったのが、日本熱電学会の仲間だった大阪大学博士課程2年(当時)の熊谷将也さん。彼は高専で情報科学を学んでから大学に進学したので、ウェブ開発ができた。彼にデータ収集用のウェブシステムを作ってもらい、さらに熱電学会の研究者や学生さんを巻き込んで、熱電材料のデータベースを作っていきました。  データ収集は基本的に手作業です。グラフを正しく理解してデータを抽出するのは人間のほうが確実なんです。論文を読解してデータの説明を記入するところまでやります。これが自発的に進むように、作業にやりがいを感じてくれる人を集め、データを入れやすいシステムを作り、きちんとお給料を出す仕組みを考えました。2017年にはシステムの改善版を開発したので、より作業しやすくなりました。 桂さんたちが作ったデータベースは「Starrydata」と名づけられ、公開されている。熱電材料以外の材料のデータ収集も進む  作ったデータベースは無償で公開しています。実験データは著作物(表現物)ではないので著作権的に問題はないんですが、大学や研究機関が出版社と結ぶ購読契約では論文の営利目的の利用が禁じられているので。有償化するべきとも言われたのですが、そもそも、データベースの本当の目的は、世界の材料研究が効率化して、もっと良い材料を世の中に送り出せるようになることです。それが私にとっての「ど真ん中」の目的。論理的に追求した本質的な目的です。  どんな場面でも全部自分で考え抜いて判断するようにしていれば、たとえ自分のことを否定する人が出てきても、全然、心はぶれないです。ちゃんと言い返せます。 「こんなのは研究とはいえない」 ――否定する人がいたんですね。 「こんなのは研究といえない」と私に言う人はいました。私から見れば、この研究の価値が理解できないんだな、と。だから、若い人たちには「こんなのは研究として認めてもらえないだろう、と思う研究テーマが新しい研究分野です」と伝えています。 ――それはいいアドバイスですね。実際、データベース開発が研究として認められて、NIMSの主任研究員(任期なし)になった。  そういうことになります。東大工学部応用化学科を卒業して大学院で博士号を取ってから11年あまりは任期付きのポストでした。最初にポスドク(博士号取得後研究員)として行ったのは理化学研究所(埼玉県和光市)です。そこで熱電材料の研究をするようになり、よく知られている12種類を選んで熱電特性の理論計算結果を比較して発表したら、それまでこういう比較をした人がいなかったみたいで、熱電学会であたたかく受け入れていただきました。  理研は3年で終わり、次に東大の実験系のポスドクを2年やり、理論系のポスドクになって1年たったときに女性専用の助教の枠が取れたというお話をいただいた。私がそれまでやってきた材料を幅広く研究していて、前から行きたいと思っていた研究室です。実験もやるし、理論もやるし、半々の感じも私がやってきたことと合っていた。 ――女性枠への抵抗みたいなものはなかったですか?  最初は少しありました。でも女性を増やすという目的で新しい助教ポストが追加されたことで、助教1人体制だった研究室が2人体制になったので、1人あたりの負担が減って良かったです。それに、自分が将来十分に成果を出せるか不安だった頃に、「いざとなれば女性枠も使えるだろうからなんとかなる」と思えたことで、研究職をやめることを全く検討せずに済みました。 ――ポスドクのときは不安が大きかったですか?  う~ん、振り返ってみれば、それほどでもないかなと思います。2年や3年といった短い任期はマイナスに思われがちなんですけど、私は気兼ねなくいろんな研究室を体験できる機会としてすごく楽しみました。理論系の研究室は難しくて怖そうだなと思っていたんですが、任期が切れるときに応募してみたら受かりました。入ってみると、意外とのんびりしていて、実験データであれば正しいと思っている。実験系にいた私からすれば「実験データでもそんなに信用できないときはあるよ」って言いたくなった(笑)。やっぱり、違う文化のところに入ってみるって大事ですね。全然違う視点が生まれるので。 休日の桂ゆかりさん。後ろにいるのが夫と子どもたち=2023年10月、埼玉県のショッピングモール ――結婚されたのはいつですか?  ポスドク1年目です。彼は応用化学科の同級生で、メーカーに就職しました。一緒に学生実験をよくやったんですけど、私が失敗しても楽しそうに笑っていたので、私はへこまずに済んだ。ケンカを買わないところがすごいんです。だから何でも一緒に楽しんでやっていけそうだなって思って。実際そうでした。楽しそうに家事と子育てをやっています。 うまくいくようやり方を変える ――どんなふうに?  平日は夫が子どもたちの朝食の準備をします。私がやり残した部屋の後片付けもして、土日は朝、昼、晩の食事を全部作り、少年団の手伝いをして、子どもたちを明るく楽しませながら宿題や学校の準備を見てくれています。  私は研究者として、マニュアル通りではなく、うまくいくように理詰めでやり方を変えちゃうことが結構多いんですよね。だから、子育てもマニュアル通りでなく、目的を達成するやり方を自分で考えています。子育てには理想がたくさんあって、全て完璧にできればいいんだけど、それは難しい。一番大事なのは子どもが自分や他人の命を守れるようにすることだと思うんです。本当に危ないときに危ないって理解してもらうには、そういうときだけ大人が怖く怒りだすのがわかりやすい。だから、小さいうちは些細なことではなるべく怒らないようにしていました。  また、注意するときにはできるだけ正しい理由を探すのが大事だと思いました。たとえば、散歩していて、子どもがよそのうちの植木の枝をプチっと折ったとしますよね。そのときに大人が言いがちなのは「木が痛い痛いでしょ、かわいそうでしょ」みたいなことですが、これだと後で矛盾するんですよ。植木屋さんが登場したときに(笑)。だから正しい理由は「このおうちの木だから折っちゃだめだよ」で、それを一瞬で思いつくようにしないと。 ――え~、それは難しそう。  はい、難しいです。でも研究者として申請書を書いたりプレゼンをしたりしていると、なんでこれはこうなのか、どうしたら相手に伝わるのかって常に考えている。一番正しそうな理由を探すスピードは身についたような気がします。 ――へえ、研究者であることが子育てに役立っていると。  はい、完全につながっているように感じています。子どもが4歳くらいになると「なんで、なんで」ってよく聞くと思うんですけど、そこで適当な理由を作ってごまかそうとしないで、なるべく科学的に嘘のないように教えるようにしたんです。そうしたら子どもたちは、私の教えた法則を組み合わせて、教えていないことでも「なんで」って聞く前に勝手に理由を推測してくれるようになってました。 料理もはじめはシンプルに  料理については、手作りが大事だという考え方もあるし、手料理も作っています。でも同時に、子どもたちが自分で料理を作れる自信を持つのも大事だと思い、簡単に作れておいしい料理を教えました。小1ではカレーライス。これは炊飯器のご飯に冷たいレトルトカレーをかけるだけです。小2では冷凍パスタ。これで電子レンジの使い方をマスターできました。小3では冷凍おかずセット。小4ではひき肉を塩だけで炒めただけの料理。はじめは最小限の材料でシンプルに作らせて、ほかのものを入れたらもっとおいしくなるかも、って想像させてみることで、「ジャガイモを細かく切っていれてみよう」「固めてハンバーグにしよう」など、自分で考えて工夫しながら楽しく料理してくれるようになりました。 ――なるほど。 物質・材料研究機構の玄関にある元素周期表の前に立つ桂ゆかりさん  洗濯もどんどん手抜きになって、子どものパジャマは保育園時代にやめてしまったんです。パジャマを着る習慣も大事だと思うのですが、毎朝、「早く着替えて」とケンカするのはきつくて。ケンカのない生活を優先して、シワにならないスポーツウェア中心の生活にして、夜寝たときの服のままで保育園に行ってもらうように。 ――へえー、とっても合理的!  職場に行くと、子育ての話をできる方がたくさんいて楽しいです。今は男性の研究者も楽しそうに子育てをしている人たちが多くて、女性じゃないと話が合わない、みたいなことはないですね。 ――そのあたりはここ10年ほどの間にガラリと変わりましたね。  はい、先人の方たちの努力のお陰だと思っています。 ――ご自身の子ども時代はどんなふうだったのですか?  宇宙が好きでした。といってもギリシャ神話には興味がなく、今思うと世界の全体構造が知りたかったんだと思います。小さいときは周りの大人から「おとなしい」とか「もっとお友達と遊んだほうが楽しいよ」とか言われたので、自分は人とうまく話せない人なんだと思っていました。  中学卒業後に父親の仕事の関係でオーストラリアのシドニーに行きました。オーストラリアの学校は2月が新学期で11月に終わるので、4月に現地の中3に編入して、高3まで3年10カ月過ごしました。親からは英語は3カ月たったら自然にしゃべれるようになるなんて言われていたけど、全然そんなことはなかった。結局、自分が覚えたものしかしゃべれるようにならないという当たり前のことに気づきました(笑)。  すぐに適応できたのが、数学でした。日本に比べたらとても簡単な問題だったので、最初のテストで学年1位を取ってしまいました。「今度の転校生はすごい」と噂になり、友達からも先生たちからも頼ってもらえた。英語ができなくて世話されてばかりだった自分にとって、人から頼られることはとても大事で、数学や物理、化学の授業をすごく楽しみました。  そのままオーストラリアの大学に行くこともできたんですが、やっぱり母国語でコミュニケーションしたかった。現地の人はとても優しかったんですが、それは私の英語力が足りないからじゃないか、このまま深いドロドロした人間関係を知らないまま育ってしまって大丈夫だろうかって思いました。 得意・不得意は環境次第 ――それで、帰国して東大の試験を受けたら合格した。  帰国子女枠で、何とかギリギリ通していただけた感じでした。理科I類だったのでクラスのほとんどは男子でしたが、気の合う理系の人にたくさん出会えて楽しかった。ただ、好きだった数学は、難しすぎて嫌いになった。逆にオーストラリアでは英語が苦手だったのに、日本に来たら英語が得意な人として扱われたので、英語が好きになって得意になりました。得意とか不得意とかは、環境次第なのだとつくづく思いました。 ――確かに。  理系に進むと決めたきっかけは、高2のときのシドニー工科大学での職業体験です。5日間で5つの研究室を体験して、研究職って何でもありで面白いと思った。東大に入ったら周りの学生の数学のレベルについていけず、学生実験も手順通りに要領よくできず、研究職は無理かもと思った。でも研究室に入ってみると、自分で計画して実験するのには向いていて、英語論文は早く読めるし、プレゼンを作るコツもわかったので、研究職でもいけるかもと思うようになった。 データベースを利用して新しい材料開発に結びつける研究の一端をパソコン画面に示す 桂ゆかりさん  研究室は男子校のようなところで、人間関係では苦労しました。高校のときに経験できなかった分、人付き合いの本などを読んで勉強もして、一生懸命気を使って楽しく盛り上げようと頑張ってました。最初はうまくいっていたのですが、途中からは思いもよらぬ誤解をされたり、自分の悪口が広まったりして……。 ――それは女性が少ないから?  いや、男女は関係なく、単純に人間関係が濃すぎただけだと思います。だから、すれ違いとか、いろいろ発生するんですよね。でもここで、期待通りのドロドロの人間関係を体験できたので、それは今もすごい糧になっています。 能力生かす研究テーマを考えた  科学技術振興機構(JST)戦略的創造研究推進事業(CREST)の革新材料開発という研究領域で私たち5人の共同研究が2019年に採択されました。実はその前年にメンバーの1人が申請書を書いたら通らなかったんです。それで、私が、メンバー一人ひとりの能力を多く生かせるような研究テーマを考えたら、「それでいこう、桂さんが研究代表者で」ってなった。そして私が申請書を書き直して出したら通りました。  人にどう思われるか気にしすぎていた頃の人間観察が、チームづくりのシミュレーションに利用できて、みんなが生き生きと研究できる仕組みを作れるようになった気がしています。 ――その共同研究はどういうものですか?  新しい無機材料を探す研究をデータ科学で効率化するものです。何千個もの試料を大量合成したり、新しい合成方法を使ったりして新規材料を見つけて、最終的に役に立つデバイスの開発を目指します。原子の並び方を想像しやすくするアプリを作ったり、私たちが作ってきたデータベースの機械学習を取り入れたりして、材料科学の世界の全体像を眺めながら研究できるようにしたいと思っています。 ――データベースを使った新しい材料科学が生まれてきているわけですね。  はい、データベースも今は熱電材料がメインですが、ほかの材料科学分野にも広げて、ゆくゆくは材料科学全体の実験データを集めてみんなが研究に活用できるようにしたいと考えています。 【お知らせ】11月11日(土)、オンラインセミナー「研究者に聞く仕事と人生-アエラドットの連載から学ぶ」が東京理科大理数教育センター主催で開催されます。 桂ゆかり(かつら・ゆかり)/1980年東京生まれ。2009年東京大学大学院工学系研究科応用化学専攻博士課程修了、工学博士。2009~2012年理化学研究所基幹研究所基礎科学特別研究員、2012~2014年東大大学院理学系研究科特任研究員、2014~2015年東大大学院工学系研究科特任研究員、2015~2020年東大大学院新領域創成科学研究科助教、2020年11月~国立研究開発法人物質・材料研究機構(NIMS)主任研究員。
dot. 2023/10/17 17:00
中森明菜は自ら「北ウイング」と名付けた 作曲数6千曲以上の林哲司が依頼を受ける条件
中森明菜は自ら「北ウイング」と名付けた 作曲数6千曲以上の林哲司が依頼を受ける条件
作曲家・林哲司さん/撮影・山形赳之    杉山清貴&オメガトライブ、竹内まりや、稲垣潤一、菊池桃子……アラフィフの青春を彩った楽曲たちは今「シティ・ポップ」として世界中から注目を浴びている。「シティ・ポップ」を代表する作曲家といえば、“林哲司”をおいて他にはいない。作曲家デビュー50周年を記念したコンサートが開催されるのを前に「シティ・ポップ」流行への思い、アーティスト達との邂逅、ヒット曲連発の裏側など、50年の作曲家人生を振り返ってもらった。 *   *  * 中森明菜が命名「北ウイング」 ――中森明菜さんへ提供された「北ウイング」について聞かせてください。  中森明菜さんは既にアイドルとして確固たる地位にいて、独特なスタンスを持っている人でした。始まりは明菜さん自身から。「杉山清貴&オメガトライブ」の「SUMMER SUSPICION」を聞いて、僕に曲を書いてほしいと。依頼時には「少女A」の強い世界と「セカンド・ラブ」の優しい世界、その真ん中、中間で作ってくれと言われて。「難しい注文だな~」と戸惑いつつも、自分なりに出した答が「北ウイング」です。タイトルも、最初は「ミッドナイトフライト」だったんですが、彼女が「北ウイング」で、と。そういう意味でも、彼女は当時から「こうしたい」という明確な意思がありましたし、トップアイドルでありながら、自己プロデュース能力も持っている稀有な存在でした。 菊池桃子の曲はアイドル曲へのアンチテーゼ ――中森明菜さんだけでなく、“アイドル”と呼ばれる人、たとえば菊池桃子さんにも楽曲を多数提供されています。  菊池桃子さんの場合は、僕の意向がだいぶ反映されました。申し訳ないけど、それまでのアイドルソングはあまり好きではなかったこともあって「今までにないものを作ろう」という強い意図を持って向かった仕事です。  シングル曲はヒットという命題がありますが、アルバムだったら自分の感覚でまとめられるので、だいぶ冒険しました。アイドルだってキラキラとスポットライトを浴びている場面だけじゃない。スタジオ、テレビ局を離れた後、車に乗って家にたどり着くまでには一人の女性になっていく。恋もしたいだろうし、仕事に疲れて元気がないときもある。そういう人間らしいシーンを表現したい、いつも微笑んでいるポートレートだけの世界ではない、そんな世界観をアルバムの中に込めました。 ――確かに。菊池桃子さんはビジュアルがアイドルなのに、曲がアイドルソングっぽくない印象がありました。  そうでしょう(笑)。当時としては冒険でした。菊池桃子さんから聞いたのですが、当時、同世代のアイドルたちとテレビ局なんかで一緒になると、「あなたの曲は自由でいいね」と羨ましがられたそうです。それだけアイドルソングは伝統的なヒットを生み出すための暗黙の制約がガチガチにあったわけです。もちろんキラキラした伝統的なアイドルソングにも意味や役割はあったとは思うんです。でも、全員が、すべての曲がキラキラしてなくてもいいだろうと。そういったアンチテーゼ、反発もありました。 林哲司さん/撮影・山形赳之   ――その意図が当たったわけですね。  当てる、という表現がいいのか悪いのかはありますが、ヒットメーカーとして曲を世間に出す以上は、前作よりも「5000枚でも1万枚でも多く売ってやろう!」という気概、プライドが強烈にありました。一枚でも前作より多く売れる曲を作る。一枚でも少なかったら負けだと。当然、アーティストの力、微妙な数字の差はあるのですが、僕らの力、曲の力を精一杯出すんだ、伝えるんだ、売るんだ、という意識、使命感はいつもありました。 依頼に「即OK」は出さない ――アーティスト側から「こうしてほしい、ああしてほしい」と具体的に注文があるのと、注文がなく自由にやるのと、どちらが林さんとしてはやりやすかったのでしょうか。 ケース・バイ・ケースです。その時その時で違いますね。 ――アーティストによって違ってくるんですね。  各レコード会社には、創造性のある、明確なコンセプトを持った依頼主、つまり優秀なプロデューサー、ディレクターが何人かいてそういった方々からの発注だったり、逆に「お任せ」で、僕らに自由に創作させて、アーティストのプロデュースさえも作曲家に考えさせる発注だったり。「お任せ」の場合、それも含めて計算していい作品を待つプロデューサーもいれば、計算しないで「丸投げ」ということもありますね(笑)。「オリコンのチャートをみて林さんに書いてもらおうと思った」と言われることもありました。売れればいい、売れる曲を作れとあからさまに求められるのはいい気分ではなかったです。  でもどのみち、僕らは引き受けた以上、その中で最大の答えを出していくしかない。相手がどこまで考えて依頼しているかは見ていれば分かりますが、プロとして仕事を引き受けた以上は、腹をくくってやるしかないんです。最大限、全力を尽くして。 ――ヒット曲を一緒に創り上げたアーティストとは、プライベートでもお付き合いがあるのでしょうか。  よくその質問をされて困るのですが、僕は、アーティスト、歌手、タレントさんと親交を深めることはあまりなかったですね。ヒット曲を作っても、その後一切接触がないこともめずらしくありません。同じ作曲家でも社交性のある人はいるかもしれませんが、僕はどちらかというと芸能人よりもスタッフとのほうが仲良しになることが多かった。 ――意外ですね。プライベートでもアーティストとお酒を酌み交わしているようなイメージがありました。  これにはちょっとした裏事情というか……僕らはいつも宿題を抱えていますから、直帰するケースの方が多いのです。なので親交の場は再度スケジュールを取ることになるんですよ。時々アーティストから直に曲を書いてくださいと言われることもあります。光栄なんですが、でもそれは、そのアーティストの周囲にいるスタッフの意思を無視することになる。スタッフはそのアーティストのプロデュースをどうするべきか、次の歌のコンセプトはどうしようか、誰に作曲を頼もうか、いつも悩んでいる。なのに、アーティストと作曲家がスタッフを通り越して、次の歌を決めてしまったら、スタッフのビジョンや計画を台なしにしかねません。 林哲司30周年記念ライブのアンコールで。稲垣潤一(左)、林哲司(中央)、杉山清貴(右)の貴重なスリーショット ――仲が良ければいいってわけではないんですね。  そうですね。僕はアーティストに直接頼まれても「うん、いいよ!とは返すけど、まずはスタッフに言ってね」と伝えます。その上でスタッフが「林に頼もう」と思ってくれるなら、喜んで引き受けますよ。 作家活動50周年記念コンサートは奇跡 ――作曲活動50年を迎えました。  決して順風満帆な時期ばかりではありませんでした。月並みですが、長いような短いような50年だった。結果として振り返ったら、公式で1500~2000曲、非公式なものを含めれば6000~7000曲くらい書いてきて、今も書きたくて書き続けています。正直、ここまでやってこられたんだから、いつピリオドを打ってもいい心境です。ここに至るまでに、たくさんの方たちが僕の作品に携わってくれました。その方たちの協力がなければ、僕の作品はリスナーにまで届かなかった。改めて感謝に堪えないです。そして、自分を表す代表作がいくつかあることは作曲家として本当に幸せなことであり、50年作曲してきた結果でもありますから胸を張っていいのかなとも思っています。 ――11月には、作曲活動50周年記念「ザ・シティ・ポップ・クロニクル 林哲司の世界inコンサート」が開催されます。  80年代にリアルタイムで聞いてきた方たちは、イントロが流れた瞬間から、その時代に戻れるのではないでしょうか。また、多くのアーティストの方たちがゲスト出演し、一緒にステージにあがるのは僕も初めての試みなので非常に楽しみです。僕のライフワークである「Song File Live」(2018年から始まった林哲司の名曲を届けるライブ活動。パフォーマーとしても舞台に立っている)とは一線を画していて、作品が主体で、次から次へとアーティストが曲を歌ってくれる趣向のコンサートです。これだけのアーティストが集まって、林哲司の作品を披露してくれるなんて奇跡的です。これが最初で最後……かもしれません。純粋に曲を、アーティストの目の前で、堪能してほしいです。 (構成 編集部・工藤早春) ※AERAオンライン限定記事 ~林哲司 作曲活動50周年記念 オフィシャル・プロジェクト~ ザ・シティ・ポップ・クロニクル 林哲司の世界 in コンサート 11月5日(日)東京国際フォーラム ホールA 17:00 開演 https://tetsuji-hayashi-live.com/   林 哲司(はやし・てつじ)/1949年、静岡県生まれ。73年、シンガー・ソングライターとしてデビュー。以後、作曲家としての活動を中心に作品を発表。竹内まりや「September」、松原みき「真夜中のドア ~stay with me」、上田正樹「悲しい色やね」、杏里「悲しみがとまらない」、中森明菜「北ウイング」、杉山清貴&オメガトライブ「ふたりの夏物語-NEVER ENDING SUMMER-」など全シングル、菊池桃子「卒業-GRADUATION-」など全曲、稲垣潤一「思い出のビーチクラブ」など2000曲余りの発表作品は、今日のシティ・ポップブームの原点的作品となる
AERA 2023/10/15 10:00
「猫らしいあの子と仲良くなりたい!」  “犬みたいな猫”にメロメロになった夫の悲願
水野マルコ 水野マルコ
「猫らしいあの子と仲良くなりたい!」 “犬みたいな猫”にメロメロになった夫の悲願
みこさんとご主人の愛猫、空海(左)と最澄  飼い主さんの目線で猫のストーリーを紡ぐ連載「猫をたずねて三千里」。今回は東京都在住、40代の医療従事者みこさんの話です。高校生の頃から猫を飼ってきたみこさんは、結婚後に猫との暮らしを夢見ますが、夫は断然犬派。そんな夫が、猫らしくない猫と会ってメロメロに。でも2匹目の猫との関係には苦労して……。愉快な猫との生活についてお聞きしました。 *  *  *  我が家では毎朝4時半頃、夜明けとともに猫のプロレスが始まります。ベッドでドタバタ、一緒に寝ている私のお腹にもどすーんと落ちてくる。  闘っているのはキジ白の「空海」(推定2歳半)と黒猫の「最澄」(推定1歳半)です。体の大きな「空海」の方が強いのですが、「最澄」もあきらめません。だいたい年上の「空海」が「はいはい」という感じで折れてニャンプロが終わるのですが、雄同士なので、激しいのなんの。とはいえ、猫との今の暮らしが面白くて仕方ありません。夫も楽しそう。でも、実はこの暮らし、想像を超えるものでもあったのです……。 2にゃんはニャンプロが大好き! 犬につけるはずの僧侶の名  私は3年前に結婚したのですが、付き合っている時から主人に「籍を入れて戸建を買ったら猫を飼いたい」と言っていました。高校生の頃に猫を拾って以来、猫と一緒でした。大学生の時に大家さんに2匹譲ってもらい、社会人になってから職場にいた猫を引き取り、3匹と暮らしました。結婚前にみな旅立ったのですが、またいつか飼いたいと思っていたのです。  一方、主人は実家で犬を飼っていたこともあり、「大型犬がほしい」といい、「犬にかっこよくて強くて賢そうな名を付ける」といい、「空海」と「最澄」という2大教祖の名前まで考えていたのでした(笑)。  それがなぜ今に至るかというと……家を購入する前から私は保護猫サイトを見ていたのですが、新居に引っ越してから、気になるキジ白猫を見つけました。それが「空海」です。 「サイトで見るのと実際に見て触れるのは違うし、他にも猫ちゃんがいるようだから、一回行ってみよう」といって夫を誘い、2021年6月に団体のシェルターを訪ねました。  幼い頃の空海。犬につけるはずだった名前をもらいました  私はいろいろな猫を見ていたのですが、主人が「やっぱりこの子かな、抱っこしてみたいな」と「空海」を膝に乗せました。それが、運命でしたね(笑)。その場で申し込みをすると、とんとん話が進み、すぐにトライアルが始まりました。 「空海」は生まれて数日で兄弟猫と一緒に保護され、団体でミルクを飲ませてもらい育ったこともあり、人にとても馴れていました。トライアルの初日に、自ら主人の膝に乗ってくつろいだりして。 犬っぽい猫、空海が犬好きだったご主人の心を変えていきました  主人は「猫は人を近づけず気ままでツンとしてると想像していたけど、違った!」と驚いていました。さらに主人を驚かせたのは、「空海」が犬っぽい行動をしたことです。お気に入りのおもちゃや、ビニールを丸めたものを投げると、くわえて持ってくるのです。  しかも、「空海」は私が帰宅しても知らん顔なのに、主人が帰ると喜んで玄関まで迎えに行く。私が抱く時と、主人が抱く時の顔つきも違うのです。主人の時はうっとり顔……。もう主人はメロメロ、2週間後に正式に「空海」を家の子に迎えたというわけなのです。 家に来た日からご主人にべったりだった空海 次の猫を迎えたら「空海」に異変 「空海」を迎えた後、私自身の経験から、「2匹、3匹といると猫同士で遊ぶし楽しいよ」と主人に話していました。すると、空海を譲ってもらった保護団体から、一年後に、「もう一匹、猫いかがですか?」と声をかけていただき、主人と見にいきました。  何匹か子猫がいる中で、私が一目ぼれしたのが、しっぽの短い真っ黒な「最澄」。おどおどして“ザ・猫”という感じでしたが、主人が「空海」を通して猫を好きになってくれたので、次はこんな“猫っぽい猫”を迎えてもいいかなと。夫も「どの子でもいいよ!」というので、トライアルを申し込みました。 幼い頃の最澄。ちょっぴりおどおどしているところもキュート  保護主さんからは、「最澄」は「シャーシャーで人馴れしてない」と聞いていたのですが、夜鳴きしている時にケージ越しに撫でたら、喉をゴロゴロ鳴らしました。胸がキュンとしましたね。  ところが「最澄」を迎えて10日後くらいに、「空海」の声がかれてしまったんです。 「最澄」はまだケージで過ごしていたのですが、(近くで)口を開けて鳴こうとする「空海」の声がほとんど出ません。獣医さんに診てもらうと、「ストレスで声がかれる子もいる」といわれました。喉の炎症のために抗生物質等をもらって様子をみたのですが、なかなか声が元に戻りません。 「空海」を大切にしたかったので、この状態が1カ月以上続くようなら、団体に戻そうかと主人と話しました。そう話したとたん、声がれがよくなってきたんです。そして、トライアルから約1カ月後に、「最澄」を正式に家に迎えました。  「最澄」は猫が好きで、ケージから出すと「空海」について回っていました。はじめはそんな「最澄」をうるさがった「空海」ですが、だんだんと受け入れていった感じです。 犬っぽい猫と猫っぽい猫。2にゃんはいつの間にか仲良しに  想定外だったのは、「最澄」の主人への態度でした。 涙ぐましい努力をしたけれど  なんと、「最澄」は主人のことが、“大嫌い”だったのです。なぜそこまで?というほどに。 主人がいじめたとか大声を出したとか、何か特別なことをしたわけではありません。でも、主人の姿を見ると逃げるのです。うっかり目が合うと恐怖からなのか、かちかちに固まる。主人は体格がよく声も低いから、怖く感じたのかもしれませんが……。   ご主人を見てカチコチに固まる最澄。教えて、何がどうしたというのですか?  私が「最澄」と呼ぶと甘えた声で愛らしく「にゃ~」と返事するのに、主人が呼ぶとキレ気味に「んがあ~」と鳴く。それで、主人は初めのうち、あえて目を合わせないようにしたり、「さいちゃ~ん」と、私も聞いたことがないような高い声色で呼んだりしていました(笑)。  それでも効果が出ず、主人は“猫と仲良くなる方法“を調べ、トイレを一生懸命掃除したり、おやつもよくあげていました。けれど「最澄」は大好きなウエットのおやつですら、(主人が怖いせいか)、“3舐め”で辞める。そうやって主人が四苦八苦していると、「もういいから僕をかまってよ~」という感じで「空海」が主人にすり寄ってくる……。  結局そのまま、1年半が経った感じです。「空海」が主人にべったり、「最澄」は私にべったりで、バランスはうまく取れているのかもしれません。 みこさんにはすぐに心を開いた最澄  いつか猫が変わる日を夢見て 「空海」と「最澄」を迎えてから、私たちの生活は変わりました。  お互い結婚したのが遅く、仕事もシフト制なこともあり、(結婚後も)一人の時間はそれぞれが好きなことをしていました。夫は筋トレが好きでよくジムに行っていたのですが、今は「空海」と遊ぶ時間がかなり増えています(笑)。  ふたりで出かけても、ペットショップで猫のおもちゃを見ることが多いし、前のように旅行にもいってません。自然とインドア派になり、夫婦で一緒にキャットタワーも作りました。 あなたたちは偉大だ。いるだけで癒されます  私が猫と暮らすのは2、3年ぶりだったのですが、いてくれるだけで癒されるんですね。仕事で疲れたり、いやなことがあって帰ってきても、そんなこと関係なく甘えてきてくれるので、「家に猫がいてくれてよかったな」と、あらためて思います。  今はクイーンサイズの大きなベッドで、みんなで川の字に寝ています。主人の枕もとには「空海」の猫ベッド、私の枕もとには「最澄」の猫ベッド。もちろん主人は「犬が飼いたい」とはもう言いません。「空海」と遊んでいる時なんて、本当に幸せそうですからね……。 仲良く何を見ているのかな?  ただ、願わくば、せめてあと少し、ほんの少しでいいから、「最澄」が主人に歩み寄ってくれるといいなと(笑)。まだ猫は若いし、一緒の生活は始まったばかり。そのうち、我が家の「最澄」も悟りを開いて変わるかもしれません! それを密かに夢見ています。 「ごはんはまだかな?」そわそわする2にゃん。いつの日か、最澄はご主人にデレてくれるのでしょうか ※「猫をたずねて三千里」は次で最終回を迎えます。ご愛読いただいた皆さま、取材に応募いただいた皆さま、ありがとうございました。猫の物語に次回もぜひご注目ください。  
dot. 2023/10/14 14:00
竹内まりやの「September」は恐る恐る、”運命のバンド”はオメガトライブ 林哲司の50年
竹内まりやの「September」は恐る恐る、”運命のバンド”はオメガトライブ 林哲司の50年
 杉山清貴&オメガトライブ、竹内まりや、稲垣潤一、菊池桃子……アラフィフの青春を彩った楽曲たちは今「シティ・ポップ」として世界中から注目を浴びている。「シティ・ポップ」を代表する作曲家といえば、“林哲司”をおいて他にはいない。作曲家デビュー50周年を記念したコンサートが開催されるのを前に「シティ・ポップ」流行への思い、アーティスト達との邂逅、ヒット曲連発の裏側など、50年の作曲家人生を振り返ってもらった。 *   *  * 作曲家・林哲司さん/撮影・山形赳之   「シティ・ポップ」が世界を席巻中 ――1980年代、日本のポップシーンの中心だった林哲司さんの楽曲が今「シティ・ポップ」として世界中の注目を集めています。 「シティ・ポップ」については、本当にたくさんの人たちが分析し、総括し、語っていて様々な意見があるので、僕がいまさらあれこれ言うことはないんです。でもどの意見にも一理あって、海外では単にシティ・ポップ=80年代の日本の都会的な曲で総称されているのに、日本では複合的な意味合いでブームが起きていると感じています。個人的には「アメリカ人には出せなかった日本人の機微」「洋楽と邦楽、両方の要素」といった面が、改めて今、評価されているように感じます。 ――林さんがシンガー・ソングライターとして活動しはじめた50年前と今では、日本の音楽シーンもかなり違ったのではないでしょうか。  70年代、日本の音楽界は「ザ・歌謡曲」的なドメスティックな世界。だからこそ80年代の音楽関係者には「歌謡曲とは違うものを作っていきたい」という熱い思いがみなぎっていました。アメリカを向いて、アメリカを目指して、洋楽をどんどん吸収していった時代でもありましたね。ただ単純にそれを作風として表現しても日本ではヒットにならない。それまでの歌謡曲でもなく、洋楽でもない。アメリカ人では出せなかった「日本人の機微、哀愁感」を自分は突き詰めたかった。洋食を日本人の口に合うようにアレンジする。それがオリジナルな一線を画す存在になっていったのかなと思います。 「シティ・ポップ」と括られることへの抵抗感 ――今では「シティ・ポップ」といえば林さんの楽曲を指します。  よくそう言われるんですが、正直、「シティ・ポップ=(イコール)林哲司」と言われた当初は戸惑いもありました。今でも「シティ・ポップ」と僕の音楽を一括りにされるのは音楽家としては抵抗感がありますね。「それだけじゃないぞ」と。映画音楽やテーマ音楽などのインストゥルメンタルの楽曲、バレエ音楽や邦楽合奏曲なども作曲してきましたから。「海外で大ヒットしている」と言われても、不思議な現象という戸惑いが先行して、「やってやった」感はまったくない。考えてもみてください。僕が作曲してから40年も経っているんです。自国でのリバイバルヒットならまだ理解できますが、海外で、どこで始まったか、起こったかもわからないまま、「数字が凄いよ」「2億2000万回の再生回数だよ」と言われても……「誰が聞いているんだ?」という感じです。自分から発信した結果を知るには40年は長すぎます(笑)。 林哲司さん/撮影・山形赳之   ――初めて聞く若者にはとても新鮮なのではないでしょうか。  そうかもしれませんね。結果として、自分の音楽が受け入れられたとしたら、もちろん嬉しいですし、自分の作品は好きです。ちょっとおこがましいかもしれませんが、昨日、自分が作曲したイルカさんのアルバム「Heart Land」を聞いていて、「いいなぁ」と思ったんです(笑)。もちろん自分が作った曲の中で、結果としてあまり好きになれない作品もままありますが、基本的には、自分が好きになれるか、自分が納得するか、という信念で書いてきましたから。  自分が今日のテクノロジーを駆使し、‘いま’を意識し創意工夫した新しい作品を書いても、80年代ぽい作品だと言われることがあります。  少し前までは「古い」と言われているようで、そう評価されることに抵抗感があったけど、若い人たちはリスペクトをこめて言っているのが分かりました。今は一過性のブームではなく、僕らが「モータウン」や「フィラデルフィアソウル」に魅かれた感覚で「80年代シティ・ポップ」がカテゴライズされ、認知されたということなんでしょうね。 時代とミートする=ヒットする要素 ――大勢のアーティストに楽曲を提供し、ヒットを飛ばしてきました。  それぞれのアーティストに曲を提供し、一緒に創り上げていく過程で「時代とミートした」といいますか……いきなりではなく徐々に「ヒットする」要素を掴んでいったように思います。特に80年代にヒット曲を量産していく前段階で、竹内まりやさんと松原みきさんと同時期に仕事した経験が転機になりました。 ――竹内まりやさんには最近(2021年)も曲を提供しています。長いお付き合いですね。  竹内まりやさんには「September」を提供したのですが、ちょっと歌謡ポップスのようなメロディーになってしまったので恐る恐る提出したんです。でも、あの竹内さんの独特なウェットな声質と相まってポップチューンを生み出し、ヒットしました。同時期に松原みきさんには「真夜中のドア ~stay with me」を提供したのですが、僕としては完璧な洋楽志向で書いた曲だったのに、作詞家の三浦徳子さんの日本語の詞、松原さんのジャジーな声質がのったとき、思いもよらず新しい日本のポップスになりました。  このアプローチの違ったアーティストが、洋楽と歌謡曲の狭間で、双方の要素をうまくブレンドした「中央」に寄っていったんです。  自分が書いた曲が、想像外の結果につながってヒットした過程を、まざまざとみせられました。その後の作曲活動における大きな財産になりましたね。歌を書くということは、たんなるメロディーを作るだけではありません。言葉が入って、歌い手の声、そしてソウルが入って、初めて一つの作品としての力、メッセージが作られることが分かったんです。   林哲司30周年記念ライブのアンコールで。稲垣潤一(左)、林哲司(中央)、杉山清貴(右)の貴重なスリーショット オメガトライブから「日本を意識」 ――「杉山清貴&オメガトライブ」にはたくさん楽曲を提供しただけでなく、ビジュアル面や世界観まで、プロデューサー的な面も担われました。  ビジュアル面や世界観は、プロデューサーである藤田浩一さんが当初から持っていたもの。僕はそのイメージを音楽で捉えて作曲やサウンドでカタチにしていきました。 「オメガトライブ」は単なるバンド名ではなく、一つのプロジェクトだったんです。もちろんプロデューサーとメンバーが中心なのですが、僕もそのプロジェクトの一員でしたから、僕の作曲家人生においてもオメガトライブはまさに「運命のバンド」ですね。 ――オメガトライブに提供した曲で思い出があれば、教えて下さい。  そもそも最初に「杉山清貴&オメガトライブ」に書いた曲は、デビュー曲の「SUMMER SUSPICION」ではなく、「UMIKAZE TSUSHIN(「海風通信」)」だったんです。僕自身は、オメガのコンセプトを「ウェストコースト的なバンド」と認識してこの曲を提供したのですが、プロデューサーから「もっとドメスティックな要素を入れて、日本を感じさせる曲が欲しい」と注文がついたんですね。それで書きなおした曲が『SUMMER SUSPICION』です。今思えば、最初に書いた「海風通信」は、僕からオメガトライブへのプレゼンテーションだったわけですが、人の頭の中のイメージは、カタチにしてみないと分からないということですね。  オメガトライブとの仕事から「日本」を強く意識するようになりました。それまで僕らが目指していた「アメリカ、洋楽」一直線ではなく、洋楽と邦楽との融合、ドメスティックなエッセンスとの折り合いとでもいうのでしょうか。そういった意味でもやはり特別な存在です。 (構成 編集部・工藤早春) ※AERAオンライン限定記事 ~林哲司 作曲活動50周年記念 オフィシャル・プロジェクト~ ザ・シティ・ポップ・クロニクル 林哲司の世界 in コンサート 11月5日(日)東京国際フォーラム ホールA 17:00 開演 https://tetsuji-hayashi-live.com/   林 哲司(はやし・てつじ)/1949年、静岡県生まれ。73年、シンガー・ソングライターとしてデビュー。以後、作曲家としての活動を中心に作品を発表。竹内まりや「September」、松原みき「真夜中のドア ~stay with me」、上田正樹「悲しい色やね」、杏里「悲しみがとまらない」、中森明菜「北ウイング」、杉山清貴&オメガトライブ「ふたりの夏物語-NEVER ENDING SUMMER-」など全シングル、菊池桃子「卒業-GRADUATION-」など全曲、稲垣潤一「思い出のビーチクラブ」など2000曲余りの発表作品は、今日のシティ・ポップブームの原点的作品となる
AERA 2023/10/14 10:45
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