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コロナワクチン後遺症、40代女性の受診が最多 欧米人体重基準の投与量や女性ホルモンの影響か
渡辺豪 渡辺豪
コロナワクチン後遺症、40代女性の受診が最多 欧米人体重基準の投与量や女性ホルモンの影響か
新型コロナのワクチン接種をめぐっては効果とともにリスクも指摘されてきた。接種後の死亡例についてはより詳しい調査が待たれる  新型コロナワクチン接種後の副反応に関する厚生労働省の調査結果が公表された。「40代女性」の受診が最多だった理由や、留意すべき点とは。AERA 2023年6月12日号より紹介する。 *  *  *  厚生労働省が4月に公表したのは、新型コロナワクチンの副反応が疑われる事例を含む、接種後に長引く症状(後遺症)に関する調査結果だ。概要はこうだ。  医師から寄せられた回答は2021年2月~22年5月に受診した119人分。このうち、42.9%(51人)は基礎疾患があった。受診のきっかけになった主な症状は、37度以上の発熱(28人)、疼痛(とうつう)(13人)、倦怠(けんたい)感(12人)、頭痛(11人)、関節痛(9人)など。医療機関から報告された確定病名は、予防接種副反応(54人)、アナフィラキシー(4人)など多様だった。 ■欧米では性差なかった  一方で、見逃せない特徴が浮かんだ。性差だ。  男性34.5%(41人)に対し、女性は65.5%(78人)。中でも、40代女性(22人)の受診が最多、次いで50代女性(13人)だった。この結果について「予想通りの展開」と話すのは医療ガバナンス研究所の上昌広理事長だ。  どういうことなのか。同研究所が22年3月に発表した、厚労省の副反応情報の分析結果と符合する面があるという。それによると、接種後1週間以内は女性の死亡率が高く、2週間以降になると男性の方が高くなっていた。なぜか。男性より女性の平均寿命が長いため、時間の経過に伴って男性の死亡者が多くなるのは必然。問題は接種間もない時期に女性の死亡率が高い要因だ。上さんは言う。 「コロナワクチンが致死的な副反応を起こすリスクがあるとすれば、男性よりも女性の頻度が高い仮説が成り立ちます」  一方、米国や欧州のワクチンデータベース解析では、こうした性差は検出されなかった。欧米女性は一般的に日本人女性より大柄なため、体重あたりの投与量が少ないからではないか、と上さんらは推測する。 AERA 2023年6月12日号より  ファイザー製ワクチンの投与量は、アジア諸国が参加していない国際共同第一相臨床試験に基づいて設定されている。この試験では、発熱や倦怠感といった副反応は用量が増えるほど増加。つまり、投与量を増やすほど副反応は強くなる。だが、世界各国が承認した投与量は人種、性別、体重にかかわらず、1回あたり30マイクログラム。小柄な人ほど副反応が強くなる可能性がある、と上さんは言う。 「日本人の成人女性の平均体重は約50キロ。一方、日本人男性の平均体重は約70キロ、米国人男性は約90キロです。日本人女性は米国人男性の1.8倍のワクチンが投与されていると考えることもできます」 ■因果関係検証できない  女性に副反応が多いのは、女性ホルモンの働きにより女性はもともと男性よりも免疫反応が強い傾向があるため、との指摘もある。だが、投与量を減らすと副反応のリスクは減るものの、免疫効果も下がる可能性がある。このため、主治医が個別に判断するしかない。上さんは女性や子どもの副反応リスクを考慮し、自院で受診する患者には説明の上、ワクチンの用量を適宜減らして投与してきたという。  今回の調査で厚労省研究班は「症状とワクチン接種の因果関係の検証はできない」としている。これは上さんも同見解だ。一方で上さんは「致死的な症例と、それ以外は分けて議論すべき」と唱える。  今回の報告対象のうち、死亡したのは3人、全体の2.5%にすぎない。厚労省の「副反応検討部会」に報告された接種後の死亡例は昨年12月までに累計1965人に上る。ワクチン接種と死亡の因果関係をめぐっては、22年8月に亡くなった女子中学生(当時14歳)を司法解剖した徳島大法医学教室が因果関係を認めたケースと、22年11月に亡くなった愛知県の40代女性が厚労省副反応検討部会で「ワクチンとの因果関係は否定できない」とされたのにとどまっている。  厚労省は今回の調査を「第一報」と位置づけ、今後は個別事例を精査した「第二報」を予定している。  上さんは「死亡者や重篤な副反応を示した人の体重も明示すべき」と提案し、こう続けた。 「夏場には感染拡大が予想され、ワクチンの追加接種が必要な局面も想定されます。韓国などアジア諸国との共同研究も進め、安全性を高める対策を早急に講じるべきだと思います」 (編集部・渡辺豪) ※AERA 2023年6月12日号
新型コロナウイルス
AERA 2023/06/07 11:00
上村ひなの(日向坂46)ドラマ初主演『DIY!! -どぅー・いっと・ゆあせるふ-』キャラビジュアル公開
上村ひなの(日向坂46)ドラマ初主演『DIY!! -どぅー・いっと・ゆあせるふ-』キャラビジュアル公開
上村ひなの(日向坂46)ドラマ初主演『DIY!! -どぅー・いっと・ゆあせるふ-』キャラビジュアル公開  上村ひなの(日向坂46)主演で実写化するTVドラマ『DIY!! -どぅー・いっと・ゆあせるふ-』のキャラクタービジュアル(全6名)が一挙公開された。  7月4日よりMBS/TBSドラマイズム枠にて放送スタートする本作は、2022年10月クールにオンエアされたオリジナルTVアニメ『Do It Yourself!! -どぅー・いっと・ゆあせるふ』が原作。全国有数の金属加工のまち“新潟県三条市”がアニメに引き続き舞台となり、主人公“せるふ”こと結愛(ゆあ)せるふをはじめとした個性溢れる女子高生たちが、工具や廃材を活用しながら自らでDIY活動を行う“DIY部”を通して絆を深めていく青春群像劇を描く。  のんびり屋でいつも生傷が絶えない主人公“せるふ”役で、上村ひなのはドラマ初主演。また、せるふと幼馴染でしっかり者・真面目な性格の少女“ぷりん”こと須理出未来(すりでみく)役を野口衣織(=LOVE)、そして物語の中心となる廃部寸前の「DIY部」の部長“くれい”こと矢差暮礼(やさくれい)役は森山晃帆、気弱で引っ込み思案な少女“たくみ”こと日蔭匠(ひかげたくみ)役は平澤宏々路、運動神経が抜群で天真爛漫な元気っ娘“しー”こと幸希心(こうきこころ)役は菊地麻衣、飛び級で高校生になった12歳の天才留学生“ジョブ子”ことジュリエット・クイーン・エリザベス8世役は太田しずくが演じる。  監督は、ドラマ『ゆるキャン△』『ホリミヤ』などを手掛けた吉野主が務める。 ◎番組情報 TVドラマ『DIY!! -どぅー・いっと・ゆあせるふ-』 MBS/TBSドラマイズムにて2023年7月4日(火)より放送スタート MBS:7月4日(火)1話放送 24:59~ TBS:7月4日(火)1話放送 25:28~ ※その他放送局は順次発表 <キャスト> 結愛せるふ役:上村ひなの(日向坂46) 須理出未来役:野口衣織(=LOVE) 矢差暮礼役:森山晃帆 日蔭匠役:平澤宏々路 幸希心役:菊地麻衣 ジュリエット・クイーン・エリザベス8世役:太田しずく (C)TVドラマ「DIY!!」製作委員会 (C)IMAGO/avex pictures https://www.mbs.jp/dorama_diy/
billboardnews 2023/06/07 00:00
世界が認めた女性植物分子生理学者69歳の誇り 「夫婦で研究はダメ」の時代も論文を出してきた
高橋真理子 高橋真理子
世界が認めた女性植物分子生理学者69歳の誇り 「夫婦で研究はダメ」の時代も論文を出してきた
篠崎和子さん=東京大学農学部の居室  動物と違って自分で動けない植物は、寒さ、暑さ、乾燥、といった「環境ストレス」にどうやって耐えているのだろうか。その仕組みを分子レベルまで分け入って解明してきた篠崎和子さんが今年、日本学士院賞に選ばれた。夫の一雄さん(74)との共同受賞である。  ずっと同じ研究室にいたわけではない。夫は長く理化学研究所で働き、妻は農林水産省の研究所で約10年働いたあと東京大学教授になった。妻は「一つのことにのめり込んでいく」タイプ、夫は「新しいことに飛びついて、どんどん広げていく」タイプ。そういう組み合わせが「ちょうど良かった」と振り返る。(聞き手・構成/科学ジャーナリスト・高橋真理子) * * *――ご受賞おめでとうございます。日本学士院に聞きましたら、ご夫婦の共同受賞は自然科学系では初めてだそうです。  そうですか。共同研究者であり、夫でもある篠崎一雄と一緒に受賞できるのは大変嬉しく、またありがたく思っています。昔は夫婦で研究しちゃいけないと言われたこともありましたけど、今はそういうことは言われませんね。良い時代になったと思います。  私が研究を始めたのは45年以上前ですが、そのころは植物のゲノム(細胞の核にあるDNAの全体のこと)には全然手がつけられていませんでした。遺伝子の研究はもっぱらゲノムサイズの小さいウイルスを使っていた。ウイルスは私たち真核生物に感染するのですから、ウイルスの遺伝子を調べれば高等生物の遺伝子のこともわかると考えられていました。  私は名古屋大学では葉緑体のDNAの全構造解析に加わりました。葉緑体の中にもDNA があって、それは細胞核の中のDNA よりずっと小さいんですが、それでも塩基配列を決めるのに何年もかかりました。配列を決めるには、薄いゲル(ゼリー状の物質のこと)を一枚一枚手作りして、それに2000ボルトの高圧をかける。間違って電極を触って飛ばされた人もいるという噂があるぐらい、危険もある実験でした。  その後、米国のロックフェラー大学に留学してシロイヌナズナに出合いました。植物の中で一番ゲノムサイズが小さいので、米国ではこれをモデル植物としてみんなで研究しようという機運が盛り上がっていて、私たちは日本にタネを持って帰りました。 篠崎和子さん=東京大学農学部キャンパス  それから植物の遺伝子研究はどんどん進み、今やどの植物でもゲノムの全構造がわかるようになった。イネに至っては多くの品種でゲノム配列がわかっている。塩基配列の決定は次世代シーケンサーという機械がやってくれます。  時代が全然違う。もう自分たちの時代は終わりが近づいているかなとも感じています。 ――日本女子大学を卒業されて東京工業大学の大学院に進まれたんですね。  はい、日本女子大は好きな生物の勉強ができたので、受けることにしました。第一志望はほかにありましたが、そちらの受験に失敗したので、日本女子大に。浪人も考えましたが、両親に反対されました。  当時、日本女子大に大学院はなかった。研究者になるためには大学院受験をしなくてはいけないということがだんだんわかってきて、それで東工大を受けました。 ――研究者になりたいという思いはいつごろから?  小学生のときからですね。父は植物採集とか岩石採集とかを一緒にやってくれて、今思うと、それに良い影響を受けました。それから、母が「子供の科学」という雑誌をとってくれて、その付録でついてくるビーカーやフラスコなどのガラス器具に憧れを持った。そういうイメージだけで、しっかりしたものがあったわけじゃありませんが、理科が好きだったのは確かです。 ――東工大を選んだのはどうしてですか?  遺伝子を研究している先生がいらっしゃったので興味を持ちました。私が入った畑辻明先生の研究室では国立遺伝学研究所の三浦謹一郎先生と共同研究をしていました。私は生物に興味があったので、三島(静岡県)にある遺伝研でウイルスの遺伝子の研究を始めました。  三浦先生は、大学でいえば教授にあたる立場で、今の准教授にあたる立場だったのが杉浦昌弘先生で、杉浦先生は遺伝子のクローニング技術を使って研究していました。杉浦先生が名大に移られることになって、私も一緒に行くことになりました。なぜなら、杉浦ラボの助教にあたる篠崎一雄と結婚したからです。 ――いつ結婚されたんですか?  私が博士号を取得したあとです。篠崎は名大で博士号を取得して、遺伝研の研究員になっていました。私とほとんど同時に遺伝研に移ってきて、そのうちデスクも隣になりました。 皇居乾通り一般公開に出かけたときの篠崎一雄・和子夫妻=2019年4月5日 ――研究所にはほかにも男性研究員がいたでしょう。なぜ一雄先生が良かったんですか?  なぜですかねえ。優しい人だと思いましたし、一緒にいて楽しかったからではないでしょうか(笑)。当時は、結婚はするものだと思っていましたし。 ――女性はクリスマスケーキと同じなんて言われましたよね。24までは飛ぶように売れるけれど、25を過ぎたら売れなくなる。  そうそう、私は28でしたけどね。結婚して1年ぐらいして上の子が生まれました。実はスイスに留学する予定だったんですけど、「子供が生まれる」と伝えたら断られました。篠崎もスイスに行こうとしていたのですが、杉浦先生が大型研究費を得られたので留学に行けなくなった。私の場合は断られてダメになりました。  でも、良かったと思います。クローニングという技術を名大で勉強しましたから。それに、杉浦研は葉緑体DNAの全構造の解析もやり終えました。私個人の仕事としても、遺伝子が読まれるときのメカニズムを研究し、論文も書きました。  自分として誇れるのは、いろんなところへ行きましたけど、どこへ行ってもちゃんと論文を出してきたことです。 ――その後、ロックフェラー大学に留学されたんですね。  3年か4年遅れで留学が実現しました。留学先は、植物の核の遺伝子の研究で有名なナムーハイ・チュア先生の研究室。シンガポール出身で、私たちの憧れの先生でした。当時はロックフェラー財団の資金でイネのプロジェクトも始まっていて、彼は多くの研究費を持っていた。同じラボで働きたいと言ったら夫婦とも雇ってくれました。  私は乾燥耐性に関係する植物ホルモンのアブシシン酸(ABA=エービーエー)に応答する遺伝子を研究テーマに選び、夫は光に応答する遺伝子を研究することになりました。念願の植物ゲノムの研究ができたわけです。  植物は乾燥すると、植物ホルモンABAをつくり出します。これが乾燥耐性に関係するいろいろな遺伝子を動かしますが、私はそのメカニズムを探りました。それを解き明かして環境ストレスに強い作物をつくれれば農業にも役立つと思っていました。  長女も連れていき、最初の1カ月は母も来てくれました。いいベビーシッターも見つかった。ニューヨークはすごく治安が悪くて道を歩くのも怖い時代でしたが、2年3カ月ぐらい滞在しました。 ――帰国して、理化学研究所(理研)の研究員になった。  篠崎は留学前に名大の助教授になっていて、いったん名大に戻りました。すぐに理研に就職して、筑波キャンパス(茨城県)で主任研究員として働き始めました。つまり、研究者として独立しました。  私のほうは、予定していた働き先が「好きな研究をやっていい」という話だったのに実際には言われたことをやらなければならなかったので、諦めて、理研の基礎科学特別研究員に応募しました。博士号を取得した研究者のための制度をこの年から理研がつくったんです。選考は理研全体で行われて、年齢的にはギリギリでしたが、採用されました。3年間、好きな場所で好きな研究ができるということだったので、篠崎の研究室で研究することにしました。 ■ラボに来たある研究者に話すと…  米国では、ABAがどのように遺伝子を制御するのかを研究しましたけれど、そもそもどうしてABAができてくるのか。それを知りたいと思って、その仕事を篠崎と始めました。  遺伝子のコード領域の上流には、遺伝子が働くための合図を出すシス配列と呼ばれる塩基配列があります。私は米国にいるとき、ABAによって動き出す4つの遺伝子を解析して、そのシス配列を見つけました。そのころ、ある研究者がラボに来て、ボスのナムが「今やっていることを話すように」と言うから、私は安易に自分が見つけたことを話してしまいました。そうしたら彼は、しばらくしてこのシス配列に関して論文を発表したんです。 ――え~!  彼もABAに誘導される遺伝子を研究していて、遺伝子のデータは1個しか持っていませんでしたが、私のデータを見てすぐに重要な配列がわかったのだと思います。彼はシス配列に結合する転写因子も単離して、それも一緒に論文発表しました。  私は悔しくて、日本に帰ってからその転写因子を確かめたいと思った。篠崎は「もう終わったことだから」と言っていましたが、私はどうしても自分で確かめたくて理研時代は黙って研究していました。農水省の研究所に移ってからも研究を続け、最終的に彼の論文の転写因子は間違っていることに気付きました。今は私たちが新たに見つけた転写因子、これをAREB(エーレブ)と名付けましたが、これがABA応答性の転写因子として世界で認められています。 ――粘り勝ちですね!  この研究を進めているときに、植物の奥深さを知ることになりました。ABAは合成されるとすごい威力を持つんですが、実は植物はABAを合成するまでにもっと違うことをいろいろやっていて、ABA以外にも環境ストレスに耐えるパスウェー(道筋)を持っているということがわかったんです。 ――なるほど。  これはすごく重要なことでした。そこで働く遺伝子もわかった。世界で最初でした。  こういう私の仕事を面白いと認めてくださる先生が理研の中にいらして、理研のパーマネント(任期がついていない、定年まで勤められる)ポジションに応募を勧めてくださいました。それで、応募してプレゼンまでしたんですけど、断られました。表向きの理由は「そのポジションには私のキャリアが合わない」ということでしたけど、本当の理由は夫婦で研究するのはダメだと、理研にはそういう不文律があるんだということでした。 ■公募で試験を受けて得たポジション ――不文律、ですか。  私は、何より、パーマネントのポジションにつきたかった。 ――それは当然ですよ。不文律なんて、フェアじゃないですね。  そのうち事情を知った先生が同情して、農水省の研究所を紹介してくださった。これは公募だったので、試験を受けて、ついにパーマネントのポジションにつくことができました。国際農林水産業研究センターというところの主任研究官です。つくば市にあるので、通うのにも問題ありません。  当時、所長でいらっしゃった貝沼圭二先生が、私の研究をサポートしてくださいました。これからは国際的な活動が重要だということで、センターの新しい建物を造ることになり、バイオテクノロジーの施設もつくり、最先端の機器を入れてくださった。貝沼先生のおかげで、私は研究所の若い研究者と一緒に思う存分研究ができました。  プライベートでは、農水の研究所に入った翌年に2人目が生まれました。 ――ずいぶん間が空きましたね。  11年空きました。ニューヨークから帰ってきて、つくば近辺の借り上げ住宅に入ったらすごく狭くて、それでローンを組んでつくば市の中心部から少し離れたところに家を買ったんです。中心部は高くて無理でした。  長女はなんとか保育所に入れましたが、次の年には小学校です。その町には学童保育がなかったので、「つくってください」と役所に頼みにいったら「母親は子供の面倒を見るのが役割なのに」と言われて。 ――役所の人に?  そうです。「預けるなんて、母親として問題だ」みたいに諭されました。そういう時代だったので、1人目の手が離れるまで無理でした。  父が亡くなって母が私たちと一緒に住んでくれたので、2人目は小学校入学のころから母が面倒を見てくれるようになり、長女のような苦労はなく育てることができました。 ――農水の研究所に11年いたあとに東大の教授になったんですね。  大学に来た当時は今の研究室の建物はまだなかったんです。結局、建ったのは8年後でした。その間は農水の研究所のほうも併任して、つくばと行ったり来たりでした。東大には定年まで16年いて、後半の8年は専任になり、住まいもつくばから東京に移りました。  夫はずっと理研でしたが、途中で横浜にあるセンターに移って、それでも自身のラボはつくばにあるので、横浜とつくばを行き来していました。今住んでいるのは、どちらにも行きやすい場所です。 ■異なるタイプだから研究がうまくいった ――2018年には内閣府の「みどりの学術賞」を単独で受けられました。  私は農水省にいたので国際共同研究もたくさんしましたし、国際機関とも連携して実用化を目指した作物の研究をやってきたので、そういう応用面も評価されたのかなあと。  私と主人で仕事がうまくいったなと思うのは、私は一つのことにのめり込んでいき、細かく追究していく。篠崎は新しいことを見つけ出し、どんどん広げていく。情報を得るために勉強もよくしているし、実験も上手だし、そういう天才的な人なんで、私みたいに一つのことにしがみつく人とはちょうど良かったんじゃないかな。 「みどりの学術賞」授賞式の日の篠崎一雄・和子夫妻=2018年4月27日、東京都千代田区の憲政記念館 ――そういうタイプの違いって、若いころからわかっていたんですか?  いや、わかりません。一緒にやってみて、だんだんわかってきました。 ――何だか、理想的な共同研究ですね。改めて、ご夫婦でのご受賞、誠におめでとうございます。  ありがとうございます。これまでご指導くださった先生方や、一緒に研究を行ってきた多くの研究者や学生の皆さんにも大変感謝しています。それから、両親や家族の援助や協力もありがたく思っています。  これからは、新しい人が新しい考えで研究を進める時代です。日本が世界をリードするようなサイエンスを行うとしたら、ある程度の層が必要で、たくさんの若い人に能力を伸ばしていただいて、活躍していただければ、ピカ一の人も出てくると思う。そんなふうに若い人をもり立てられるシステムが日本にできたらいい。そういうところで少しでもお役に立ちたいと思っています。 篠崎和子(しのざき・かずこ)/1954年群馬県生まれ。1977年日本女子大学卒、1982年東京工業大学大学院総合理工学研究科博士課程修了、理学博士。日本学術振興会特別研究員を経て名古屋大学遺伝子実験施設特別研究員。1987~1989年米国ロックフェラー大学ポストドクターフェロー、1989年10月~1992年9月理化学研究所基礎科学特別研究員。1993年農林水産省国際農林水産業研究センター(現在は国立研究開発法人)生物資源部主任研究官、2004年東京大学大学院農学生命科学研究科教授、2020年東京農業大学総合研究所教授。2002年つくば賞、2009年日本植物生理学会学会賞、2018年みどりの学術賞などを受賞。
dot. 2023/06/06 17:00
30年間で“定員割れ私大”急増も、バンカラ明治大が女子学生の人気大学に変貌した意外な理由
福井しほ 福井しほ
30年間で“定員割れ私大”急増も、バンカラ明治大が女子学生の人気大学に変貌した意外な理由
明治大学駿河台キャンパスのリバティタワー(写真/アフロ)  大学受験の世界は目まぐるしく変化している。アエラでは、受験人口が多かった1993年と2023年を比較して「30年」を追った。大学数は大幅に増えたが、定員割れする大学も増加。さらに、大学に入学する18歳人口は、少子化の影響で減少が続いている。そうした中、この30年で変わり続けてきた大学もある。その一つ、明治大に迫った。AERA 2023年6月5日号の特集「変わる大学・高校」から記事をお届けする。 *  *  *  文部科学省「学校基本調査」(2022年)によれば、大学進学率は全国で56.6%。93年の28.0%から実に2倍だ。大学数も534校から807校と増えたが、定員割れした私大が4.9%から47.5%にもなった。今後も少子化が進むなか、大学側もうかうかしてはいられない。 「カギになるのは女子学生です」  そう指摘するのは、進学実績をリサーチする大学通信情報調査部の井沢秀さんだ。 「理工系学部がやっきになっていますが、東大だって文Iの3割は女子学生です」  女子生徒の4年制大学志向や短大の見直しなども相まって、女子学生の進学率は年々上がりつつある。 「今年、中央と立教、明治の法学部の合格者ランクのトップは女子校です」(井沢さん) 磨き続けたトイレと伝統   かつてはバンカラのイメージが強かった明治大も、女性の視点を意識してきた。  同大入試担当副学長の加藤久和教授は言う。 「トイレを改修したり、女性のキャリア教育に取り組んだりと30年間変わり続けてきました」  1998年に竣工した駿河台キャンパスの「リバティタワー」もその象徴で、トイレの個室の空き状況がひと目でわかる工夫がされていたり、パウダールームと洗面台がわけられていたりと細やかな気遣いが垣間見える。  もちろん、磨き続けたのはトイレだけではない。  女子学生向けのキャリア支援を強化するなど、様々な取り組みを重ねている。 AERA 2023年6月5日号から 「そのかいもあってか、女子の志願者数は93年は17.6%だったのに対し、今年は35.7%に上昇。女子に選ばれる大学になったと思います」  だが、どれだけ大学が魅力的になっても、受験生に伝わらなければ志願してもらえない。明治では、受験生へのアプローチも“職員総出”で対応する。 「高校や入試に関するイベントのお誘いがあれば、アドミッション・アドバイザーが現地に駆けつけます。入試広報課事務室だけでなく、有志の職員も交えて対応するのが明治流です」 西へ東へ年間450回超  約600人いる職員のうち、4分の1にあたる150人以上が通常業務に加えてアドミッション・アドバイザーの業務にあたる。依頼があれば、西へ東へ説明に出向き、大学の魅力をアピール。高校での登壇は多い年で年間300件、予備校では50件 を超える。その他、イベント会場での進学相談会は年に100件ほど。毎日どこかで明治大の話を聞く高校生がいるともいえる。 「少しでも受験生に役立つ情報を伝えられたらという思いで参加している職員が多いと思います。アドミッション・アドバイザーは強制ではありませんが、こうしてたくさんの職員が協力してくれる。それが明治らしさだと思います」  こうしたアプローチが実を結び、23年の明治大の志願者数は10万人を超えた。さらに、多くの私大が学校推薦型選抜や総合型選抜に舵を切る中、明治大は約7割の学生が一般選抜を経て入学する。加藤教授は「最後まで挑戦できる大学でありたい」と力強く語る。(編集部・福井しほ) AERA 2023年6月5日号から ※AERA 2023年6月5日号に加筆
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AERA 2023/06/05 18:00
東工大「女子枠」設置の波紋 不平等や逆差別の声も「批判覚悟で突き進まないと間に合わない」危機感
渡辺豪 渡辺豪
東工大「女子枠」設置の波紋 不平等や逆差別の声も「批判覚悟で突き進まないと間に合わない」危機感
東京工業大学の外観 「情報・データサイエンス系」の学部学科の設置が相次いでいる。今春は20大学近く、来春もほぼ同数の大学で新設の予定だ。そんな中、理工系学部入試に「女子枠」を設ける動きが盛んになっていて、とりわけ注目を集めるのが東京工業大だ。昨年11月の「女子枠」の導入発表から、賛否両論を巻き起こしている。その狙いはどこにあるのか。同大に直撃した。AERA 2023年6月5日号の記事から。 *  *  *  情報・データサイエンス系に限らず、理工系学部は女子学生の比率が少ないのが課題だ。このため、入試に「女子枠」を設ける動きも広がりつつある。  話題を集めているのが東京工業大だ。24年度入試から総合型・学校推薦型選抜で143人の「女子枠」を順次導入していく方針を発表したのは昨年11月。その直後から賛否両論の反響があり、中にはこんな批判も。 「不平等だ」「逆差別ではないか」「大学のレベルが下がる」  井村順一副学長は「批判も覚悟で突き進まないと間に合わないという危機感があります」と思いを吐露する。 「2050年には現在18歳の学生が45歳になります。私たちはその時点で、相応数の女性の研究者や技術者がイノベーションを創出していく環境をイメージしています。そう考えれば、できるだけ早い段階で取り組むのは必須なのです」  東工大の学部段階の女性比率は約13%。女子枠設置で20%超を見込む。益一哉学長は「歯を食いしばってでも」方針を貫く姿勢を示す。背景には「同じような人間の集団では柔軟性、創造性が発揮されにくい」というイノベーションの本質にかかわる課題がある。イノベーション分野の研究では、多様性のあるチームの方が高い成果を上げることが知られている。  だが、国内屈指の伝統を誇る東工大の情報・データサイエンス系学部である情報理工学院でも、女子学生の比率は学内平均よりも低いのが実情。増原英彦学院長は、国際会議で日本の女性研究者の少なさが際立つ現実を目の当たりにしてきた。 女子大初の「データサイエンス学部」を今春開設した京都女子大学。パソコンを使った実践的なカリキュラムが学生にも好評だ(写真/同大提供) 「このままだと海外から見た時、日本は女性にとって生きづらい国なんじゃないかと思われかねない。これから海外から研究者や学生をどんどん集めなければいけない時に大きなマイナスだと考えています」  24年度中の東京医科歯科大との統合を控え、ジェンダーギャップの是正とともにさらなる研究成果の社会実装も期待されている。「理学と工学の両方の視点から基礎をしっかり学び、高いレベルの知識や技術を体得できるのが東工大の強み」と増原学院長は言う。 ブームからベーシック  来春設置予定の熊本大情報融合学環も、定員60人のうち学校推薦型選抜15人中8人を女性限定とする「女子枠」を設ける。卒業後の進路である半導体関連企業を含む製造業の男女比が男性7割、女性3割であることも踏まえ、「人材を世に送り出す大学でもバランスを図っていくことが重要な責務」との考えだ。  今春創設された京都女子大データサイエンス学部には定員95人に対し、99人が入学した。 「毎年100人単位の女性の即戦力人材を送り出す意義は大きいと考えています」と栗原考次学部長。文理融合型の入試で、高校で私立文系コースだった人にも受験機会を提供した。その分、入学後のフォロー体制も充実している。習得レベルに合わせ、1年次は数学のクラスを三つに分類。教員の個別指導などを受けられる「データサイエンスカフェ」も設置した。京都女子大では、データサイエンスの基礎を学ぶ科目を今春から全学部で必修科目にした。栗原学部長は「あらゆる分野で活躍できる人材を育てたい」と意気込む。  年々増える情報・データサイエンス系学部。一過性のブームに終わる可能性はないのか。河合塾教育研究開発本部の近藤治主席研究員は言う。 「データサイエンスで学ぶ基礎的な部分は、社会生活を送る上でベーシックな教養に近づきつつあるように思います。関連する学部や学科の10~20年後は、さらに別の形に進化しているでしょう」 (編集部・渡辺豪) ※AERA 2023年6月5日号より抜粋
東京工業大
AERA 2023/06/03 10:00
キュートで楽しい美智子さまを書いた週刊朝日の64年間
矢部万紀子 矢部万紀子
キュートで楽しい美智子さまを書いた週刊朝日の64年間
1959年4月12日増大号  週刊朝日は美智子さまを幾度となく報じてきた。記事から浮かび上がるのは上皇さまと美智子さまがともに抱く平和への強い願いと、お二人を取り巻く人々の温かい視点だ。美智子さまが表紙になった号とともにその歩みを、コラムニスト・矢部万紀子さんが振り返る。 *  *  *  美智子さまが表紙になっている「週刊朝日」を全部読もう。そう思い立ったのは、もちろん「週刊朝日」が休刊になるからだ。編集部がすぐに、全部で7号と教えてくれた。案外少なく感じたが、それはさておき。  最初は1959(昭和34)年4月12日号。皇太子さま(当時、現在の上皇さま、以下略)との「結婚の儀」(4月10日)を直前に控えた正田美智子さんの絵で、小磯良平画伯による横顔だった。  トップは「ヒツギノミコの御結婚」という記事。こう始まる。「『ヒツギノミコハアレマシヌ』そのころ小学生だった人々は、こんな文句がくり返し出てくる唱歌を歌ったはずである。多分なんのことか意味は、はっきりしないままに……」  書いた記者がその世代で、主たる読者はそれ以上の世代なのだろう。唱歌についてこれ以上の説明がなく、現在の天皇陛下世代の私にはわからない。調べたところ、「皇太子殿下御誕生奉祝歌」だった。サビ(?)が「日嗣ノ皇子ハ生レマシヌ」。  そこから、皇太子さまの25年とその時代を振り返る。生まれたのは日本が国際連盟を脱退した33(昭和8)年、戦前の宮廷記事に必ずついた「もれ承るところによれば」という表現、皇太子さまも美智子さんもした疎開、バイニング夫人から学んだ英語などが書かれる。大学生になった皇太子さまの“孤独”を経て、最後にやっと「テニスコートの恋」。読者のほうが詳しいだろうと断り、17行だけの記述だった。  この記事の意図は、リードが端的に表している。祝福の言葉から入り、こう続く。「私たち国民の感慨は深いものがあります。なぜなら、ヒツギノミコが一人の平民の娘と結婚されるのですから……。敗戦は悲しい現実でしたが、いろいろのものを生み出しました」 1966年4月22日号  敗戦がもたらした民主化。それゆえ成立した結婚。その認識のもと、日本の敗戦に至る道や国民と皇室の関係を追うのが眼目の記事だ。  ところで、私は週刊朝日編集部員だった。皇室記事にも関わってきたので、そのころの記憶もある。すると、この表紙第1号は「週刊朝日と美智子さま」の原点だとわかった。トップ記事にあった「戦争」という視点、そしてもう一つは「親しい人の温かな視点」。そう思った。  入江相政さんの随筆「美智子さんとの九時間──『宮中慣習』の先生にされて…──」が掲載されていた。59年1月から始まった美智子さんへのお妃教育で、「宮中慣習」を担当したのが侍従の入江さん。面倒な慣習など宮中にはない、いちばん多く話したのは(昭和)天皇のことで素材のまま持ち出した。どう加工するか、役立てるかは美智子さんの自由──そんな明るい文章だ。  私がいちばん好きだったのは、授業の描写。 「お母さまは、いつも一緒だったし、おわりごろの二、三回は、東宮女官長の牧野さんや女官さんたちも加わった。美智子さんは、『段々学校らしくなってまいりました』と笑っていらっしゃった」  キュート。そんな言葉が浮かぶ。入江さんは美智子さんを「いつも真剣勝負のようなお顔」で学んでいたとし、「そのくせ毎回必ずといっていいほど、なにか、おかしな話が出て来たのも不思議である」と書いていた。そう、美智子さまは楽しい方なのだ。だが「楽しい」と書いたり語ったりするのは、「素晴らしい」と書いたり語ったりするより少し難しい。週刊朝日は「素晴らしい」だけでない美智子さま像を、温かく描いてきたと思う。 ■プライベートは「美智子」と…  ご結婚後に初めて表紙になったのは66(昭和41)年4月22日号。4月8日、現在の陛下が学習院初等科に入学、9日の「授業はじめの日」の写真が表紙になった。メインは美智子さまより陛下。昭和の美智子さまはあくまでも「天皇になる人の妻」であり「母」だった。 1989年1月27日号  89年1月8日に平成が始まった。天皇になったばかりの上皇さまと美智子さまの写真が表紙になったのは、1月27日号。32ページにわたる特集の中に、「新天皇の秘話」という記事があった。「戦時下の少年時代」に注目し、疎開時代の話が書かれていた。ご結婚前、ご結婚後、平成になっても、「週刊朝日」は上皇さまと美智子さまの疎開体験を繰り返し伝えた。それは、お二人の平和を願う気持ちの出発点だから。そう理解している。  この号で一つ“発見”をした。学習院大の1年先輩がお二人について、「お揃いの席では、必ず話の合間合間に、『美智子、そうだったよね』『はい、殿下』と互いに顔を向き合われて相槌を打ち合う」と証言していた。  現在の陛下は皇太子さまの時代も今も、会見などで雅子さまに言及するとき、「雅子は」と言う。上皇さまは美智子さまに言及するとき、「皇后は」と言っていた。上皇さま、プライベートの場では「美智子」と呼ぶのか。しみじみした次第だ。 1999年3月5日増大号  次の表紙は99(平成11)年、ご成婚40年記念号なのだが、その話の前に「93(平成5)年の美智子さま」の話をする。この年、美智子さまはメディアから大変なバッシングに遭った。宮内庁職員を名乗る人物が月刊誌「宝島30」8月号で告発したのをはじめ、「サンデー毎日」「週刊文春」なども加わり、美智子皇后「女帝説」が吹き荒れた。  週刊朝日は10月1日号で「美智子皇后バッシングの内幕」という記事を掲載した。バッシングは「現在の天皇の路線への批判」だとし、その背景には「天皇に『私』はあるか、という天皇制の根源的な問題をめぐって、大きく二つの対立がある」と指摘した。 「週刊ポスト」「女性自身」などもバッシングの列に加わっていく中、「週刊朝日」は「皇室報道がヘンだ!」という記事を第3弾まで続け、それからも毎週、関連報道を続けていた。少数派の「週刊朝日」は目立ったし、他誌の記事を具体的にあげて批判的に検証した。すると「週刊文春」が10月21日号で、「貧すりゃ鈍する 『週刊朝日』は宮内庁のPR誌か」と題した記事を掲載した。 週刊朝日 2023年6月9日号より  自分が週刊朝日編集部員であることは先述した。少し詳しく書くなら、93年4月に配属された。「皇后叩き」をめぐる記事には直接関わらなかったが、「貧すりゃ鈍する」と書かれた時の編集部の空気は覚えている。高揚感、だったと思う。「週刊朝日」が正面からニュースに向き合った時代だった──と書いたのは、休刊を前にした感傷だ。 ■「美智子さまは皇室を救った」  それからほどなく事態が動いた。10月20日、59歳の誕生日を迎えた美智子さまが赤坂御所内で倒れ、言葉を失った。その日に公表された誕生日にあたっての文書には、バッシングについての質問にこう答えていた。 「事実でない報道には、大きな悲しみと戸惑いを覚えます。批判の許されない社会であってはなりませんが、事実に基づかない批判が、繰り返し許される社会であって欲しくはありません」  これを報じた「週刊朝日」11月5日号は、日本テレビで長く皇室報道を担当してきた渡邉みどり文化女子大教授の「まさに身を挺した『反論』だったと思う」というコメントを掲載した。「週刊文春」は11月11日号で一連の記事についてのおわびを掲載した。  渡邉さんのことを、私は何度も取材した。強く印象に残っているのが、配属間もない93年6月18日号だ。陛下と雅子さまの結婚を祝う企画として、渡邉さんと脚本家の橋田壽賀子さんに対談していただいた。  そこで渡邉さんがこう言った。「私は、美智子さまは日本の皇室を救った人と固く信じています。天皇の名のもとに、たくさんの方が戦争で死んでいるのですから」  担当の副編集長が、「昭和天皇の責任をはっきり口にした渡邉さんはすごいジャーナリスト」だと語っていたことをよく覚えている。新聞で宮内庁担当をした人だった。  さて、美智子さまが表紙になった話に戻る。4度目は99年3月5日号、ご成婚40周年記念だった。中振り袖姿の結婚前の美智子さまで、お一人の写真が表紙になったのはこれだけだ。「ほのぼの秘話でつづる美智子皇后物語」と表紙に印刷されている。画家の安野光雅さんによる随筆のことだ。 2009年4月17日号  当時、美智子さまの国際児童図書評議会(IBBY)での講演録『橋をかける──子供時代の読書の思い出』(すえもりブックス)がベストセラーになっていた。その装丁を担当したのが安野さん。司馬遼太郎さんの「街道をゆく」の挿絵を手掛けていた安野さんと美智子さまの縁の始まりは、92(平成4)年。すえもりブックスから出版された『どうぶつたち』だった。  まど・みちおさんの詩を美智子さまが英訳、安野さんが絵を描いた。出版後、関係者を集めた茶話会が御所で開かれたのが初対面。その日、安野さんは「恋の歌」の話をしたそうだ。すると美智子さまは、「読みます……恋の歌はいいですね」。美智子さまのIBBYでの英語の講演のことは、「わたしにはよくわからなかったが、口の悪いデーブ・スペクターがその英語を絶賛していたところから考えても、すばらしい講演だったことが知られた」と書いていた。  私の一番好きな話は、「携帯電話と美智子さま」だ。安野さんは、美智子さまが携帯電話を持ったらいいのにと思う。実家や友人と直接つながれば、真情を吐露できるから、と。だが、美智子さまが買いにいくわけにもいかないだろうと思う。そこで安野さん、さしあたって「私の携帯を差し上げてもいい」と美智子さまに申し上げた。料金は自分に回ってくるが問題ない、とも言ってから少し考え、海外にかけると「高く請求されますけど」と付け足した。すると美智子さま、「海外にもかけますわよ」。  キュートな美智子さま。入江さんに感じた「親しい人の温かな視点」が重なった。楽しい美智子さまを、安野さんはたくさん紹介してくれた。 ■試行錯誤して「心を寄せる」  2009(平成21)年4月17日号は、ご成婚50年記念号。「結婚の儀」のあとの上皇さまと美智子さまが表紙となった。  巻頭グラビアは新婚時代の美智子さまのファッション特集で、そこに渡邉さんの文章が載っていた。おしまいあたりにこうあった。「『世紀のご結婚』から50年、おふたりの生涯のテーマは、昭和天皇の負の遺産である先の大戦で亡くなった方の慰霊と鎮魂です」 2011年4月22日号  お二人は94(平成6)年に硫黄島を訪問した。戦後50年にあたる95(平成7)年の前年で、それが「慰霊の旅」の始まり。05(平成17)年にはサイパンに行き、バンザイクリフで海に向かって黙礼した。そのことに触れ、「昭和天皇の負の遺産」と表現した渡邉さんは美智子さまと同い年。平和への強い思いがあった。  11(平成23)年4月22日号の表紙は、3月30日のお二人の写真だった。東日本大震災発生から19日、福島県などから避難してきた人々を東京都立東京武道館に見舞ったのだ。写真の横に大きく、「復興への祈り」の文字。  お見舞いの記事はなく、編集長記で触れていた。天皇の級友である橋本明さんの著書から、「(お二人が)試行錯誤を繰り返しながら到達したところは、『心を寄せる』あり方だった」という文章を引き、最後にこう書いていた。「この『心を寄せる』あり方が被災された方々を強く励ましていることを思い、表紙に両陛下の避難所訪問の写真を掲載しました」 2019年5月3-10日合併号  美智子さまが表紙を飾った最後は、19(令和元)年5月3−10日合併号だ。御代替わりは5月1日だが、発売日はまだ平成。手を振ってにこやかに挨拶する上皇さまと、上皇さまに右手を添える美智子さまの写真だった。  特集「31人が語る天皇、皇后両陛下」の中から曽野綾子さんの話を紹介する。曽野さんは聖心女子大学で美智子さまの3年先輩にあたる。お忍びで渋谷のジュンク堂書店に行ったときのエピソードを語っていた。開店と同時に入店すると、一般のお客さんもいたという。「学生さんと、お子さんを連れたお母さんが、皇后さまに気づいたようでしたが、そっと見ぬふりをしてくださいました」とあった。  近しい人も国民も、美智子さまを温かい目で見つめている。最後にとても幸せな気持ちになった。※週刊朝日  2023年6月9日号
週刊朝日 2023/06/03 08:00
部下に共通の目標を持たせ成功体験で一体感 損保ジャパン・西澤敬二会長
部下に共通の目標を持たせ成功体験で一体感 損保ジャパン・西澤敬二会長
荒川沿いにくると、故郷の長野県を出て夫と染色工場を始めた「おばあちゃん」の姿を、はっきりと思い出す。苦労続きだっただけにその言葉はやはり重い(撮影/狩野喜彦)  日本を代表する企業や組織のトップで活躍する人たちが歩んできた道のり、ビジネスパーソンとしての「源流」を探ります。AERA 2023年5月29日号では、前号に引き続き損保ジャパンの西澤敬二会長さんの故郷・東京の北千住などを訪れた。 *  *  *  東京都の北東部、隅田川と荒川に挟まれた足立区の北千住は、日光街道の宿場として栄えた街。その荒川の土手の上に、四十数年ぶりに立った。土がむき出しだった堤防上の道は舗装されていたが、日が暮れるまで遊んだ河川敷の草地やグラウンドは残っている。生まれてから就職して名古屋市へいくまでみていた風景は、変わっていない。それが、うれしかった。  この西澤敬二さんの「故郷」を、今年1月、連載の企画で一緒に訪ねた。  企業などのトップには、それぞれの歩んだ道がある。振り返れば、その歩みの始まりが、どこかにある。忘れたことはない故郷、一つになって暮らした家族、様々なことを学んだ学校、仕事とは何かを教えてくれた最初の上司、初めて訪れた外国。それらを、ここでは『源流』と呼ぶ。 ■土手で追われて勉強に戻された 祖母が説いた道  この土手で、祖母はる乃さんに追いかけられた。地元の小学校の6年のときだ。周囲に中学で受験をする友人はいなかったが、四つ年上の兄が受験して慶応義塾の中等部へ行っていたので、「よし、自分も慶応へ行こう」と決めた。でも、兄が入ったのだから自分も行けると安易に考え、勉強もしないで公園や土手で遊んでいて、親がつけてくれた家庭教師の来訪も無視した。そんなとき、捜しにきて叱りながら家へ連れ戻したのが、祖母だ。ここに立てば、その光景が目に浮かぶ。  西澤さんが『源流』として選んだのは、祖母から聞いた言葉だ。北千住で一緒に暮らし、町工場の経営で多忙だった両親の代わりに世話をしてくれた。祖父は幼いときに亡くなったが、はる乃さんは高校2年のときまで存命した。小学校に入ったころは70歳くらいで、ずっと「おばあちゃん」と呼んでいた。  言葉の一つが「寝るは極楽、起きるは地獄、仕事をするのは火の車」だ。祖母はこれを口にした後、「大人になったら仕事をするようになるけど、仕事というのは、火のついた荷車を引っ張るぐらいつらく大変なものなんだ。だから、辛抱、努力して、とにかく一生懸命やるんだよ」と添えた。子どもにとって「火の車」という言葉が恐ろしくて、記憶に残る。 慶大の体育会庭球部で4年生を迎えるとき、女子部のコーチをして組織運営を経験して、人の話をよく聞くことを身に付けた(撮影/狩野喜彦)  もう一つが、前号でも触れた「一心岩をも通す」だ。こちらでは「いいかい、何事をするにもまずは目標を高く持ち、一度やろうと決めたことは諦めずに貫くのだよ」と説かれた。その教えに最初に沿ったのが、中学2年のときだ。慶応中等部は不合格で、都内の別の中高一貫校へ進んでいた。それなりに楽しい日々を過ごしていたが、ふと、この言葉を思い出す。  思い直し、高校で慶応に再挑戦することにした。両親は「いまからでは無理だ」と反対したものの、塾に通わせてくれた。猛勉強を重ねて慶応義塾高校に合格し、祖母の教えに応えた。10代になるまでに、繰り返し聞いた言葉。人に話したこともなかったが、心身に染み込み、その後のビジネスパーソン人生でも道標となる。 ■代理店の社長もよく覚えていた一体感の回復  最も力になったのが、2003年7月から2年9カ月務めた富山支店長のときだ。赴任したとき、支店の成績は全国に71あった支店で下から3番目。それが、挨拶回りを終えた1カ月後には、最下位にまで落ちていた。当然、部下たちは元気がなく、一体感も欠けていた。  何か明快な目標を設定し、みんなで取り組んで、共通の成功体験を持たせればいい。成果が出るまでは、ともかくやり抜こう。後で気づけば、「おばあちゃん」の言葉通りの道だった。全員から仕事の現状などを聞き取った後、選んだ目標は、部下たちの誰もが素人同然で同じようにゼロからの出発となる「生命保険の販売」だ。全員で勉強を始め、本社の了解を得て本業の損害保険の営業は後回しにして、一点集中で半年やった。  その年、生命保険の販売額は全支店で3位か4位になった。みんな自信がつき、会話も増えた。それが損保の営業にも好影響を与え、成績は全国で上から3分の1ほどにまで上がる。  北千住へ『源流再訪』でいく1週間前、富山市へ出張した。久しぶりに、富山県でトップクラスの代理店の大洋保険サービスを経営している八木保博社長に会った。八木さんは当時の推移をよく覚えていて、「あの生保の一点販売で、支店の職員の目の色が変わった。それまで支店になかった一体感も、醸成された」と振り返っていた。  富山支店長の前の人事課長の時代も、思い直してやり遂げたことがある。頑張った社員を望む部署へいかせてあげる人事制度の創設だ。当時、いかせてあげたくても空きがなく、希望に沿えない例が続いた。 「人事は、本当に難しい」と諦めかけたが、「諦めずに貫く」という祖母の言葉を思い出す。『源流』の力で浮かんだ案は、頑張った社員たちの異動希望先に空きがなくても、ともかくいかせてしまう。定員超過分は、翌年以降の人事で解消すればいい。そう説明すると、上司も社長も「面白いじゃないか」と賛成してくれた。 「頑張った」の基準は、つくらない。全国各地域の営業担当役員が推薦する計15人は、誰がみても「あの人なら」と納得する人が選ばれ、役員の好みが入る余地はない。社員たちが夢を持てるようにと、「ドリームチケット制度」と名付けた。虹色のチケットもつくり、本人へ渡している。 ■大学テニス部のコーチ役で学ぶ 「傾聴」と「決断」  北千住を訪れた日の朝、横浜市にある母校慶大の日吉キャンパスに寄り、蝮谷(まむしだに)と呼ぶ裏手にあるテニスコートにも立った。高校と大学で7年、体育会庭球部にいた。小さいころにテニスを始めた部員や全国の高校で活躍して入ってきた部員には及ばなかったが、珍しい経験をした。庭球部の女子部のコーチだ。  監督に「2部リーグに落ちてしまった女子部を1部リーグへ復活させたいので、やってくれないか」と頼まれ、現役続行を諦めて引き受けた。女子部員は15人ほど。全国でも指折りで自負がある面々をまとめ、リーグ戦や個人戦への出場者を決めるのは大変だった。  でも、やりがいがあった。彼女たちの話をきちんと聞く「傾聴」と、正しいと思ったことを実行に移す「決断」の体験と言え、ビジネスパーソンとして組織の全体最適を考えるマネジメントと個々人の可能性を大事にする人事の「予習」となる。  思えば、中学受験を決めながら遊んでいた自分を連れ戻しにきた「おばあちゃん」が、繰り返してくれた言葉が、今日を生んだ。あのときに慶応へ入ろうと再挑戦していなければ、こんな経験もできなかった。  蝮谷のテニスコートで、同期のキャプテンとも久しぶりに会った。ラケットも握り、ボールを打ってみた。ガットの張り方が昔とは一変していて、うまくいかない。でも、キャプテンと思い出を話しながら笑顔は絶えない。先々、時間ができたら、またテニスをやってみたい。初心者として習ってでも、挑戦したい。そう思った。(ジャーナリスト・街風隆雄) ※AERA 2023年5月29日号
AERA 2023/05/27 19:00
宮藤官九郎は「すごくコワかった」 大石静が“嘆願”した意外な内容【前編】
宮藤官九郎は「すごくコワかった」 大石静が“嘆願”した意外な内容【前編】
大石静(おおいししずか)/ 1951年、東京都生まれ。86年、ドラマ「水曜日の恋人たち」でデビュー。97年、NHK連続テレビ小説「ふたりっ子」で向田邦子賞と橋田賞を受賞。その後、大河ドラマ「功名が辻」(2006年)や「セカンドバージン」(10年)、「家売るオンナ」(16年)、「大恋愛~僕を忘れる君と」(18年)、「星降る夜に」(23年)など、人気ドラマの脚本を手がける。24年の大河ドラマ「光る君へ」で脚本を担当。6月22日から、宮藤官九郎氏と共同で脚本を務めた「離婚しようよ」がNetflixで配信される。(撮影:岡田晃奈)  来年の大河「光る君へ」を担当する脚本家の大石静さん。最近では、クドカンこと宮藤官九郎さんとの共同作を手がけるなど、古希を迎えてなお話題作を生み出し続けています。作家の林真理子さんとの対談で、大石さんはクドカンとの制作秘話を明かしました。 *  *  * 林:大石さんお久しぶり! ちっとも変わらないですね。 大石:でも、夫が死んじゃって、最期の看病で疲れ果ててしまって。 林:いつお亡くなりになったんでしたっけ……。 大石:去年の暮れです。 林:おいくつだったんですか。 大石:79(歳)。最後の2、3年はだいぶ弱ってましたから、「今年いっぱいだな」って春ごろから思ってました。でも、自宅での介護も、病院の先生との緩和ケアの交渉も、精いっぱいやったので、看取った後は涙も出なかったです。眺めのいい病室に入れて、苦しまず、おびえず、穏やかに逝けるよう、やるだけやったという感じでした。 林:大石さんは、ご両親と義理のお母さんと3人看取って、3人とも大変だったんですよね。義理のお母さんのときは、寝るときに紐で手をつないで……。 大石:そう。突然夜中に動きだしたりするので、動いたらわかるように、手首を紐でつないでいたこともありましたね。でも、今度がいちばん大変でした。親は選べないけど、夫は自分で選んだ人ですから。いまの介護保険制度って、一人暮らしなら洗濯も掃除も食事もやってくれるんだけど、大人の同居人が一人でもいたら、ほとんど何もしてくれないですよ。 林:そういうものなんですか。 大石:私いま、来年のNHK大河の脚本を書いてるんですけど、ケアマネジャーさんがいい人で、「いま大石さんは大きな仕事を抱えてるから」って区にずいぶん言ってくれたんです。でも、「そういうことで考慮するのは不平等だから、それはできない」って言われた。介護保険って悪い制度じゃないけど、なかなかうまいこと回っていかないなと思いましたね。 林:よく「子育てと仕事の両立」っていうけど、私たち世代は「介護と仕事の両立」ですよね。 大石:そう。子供のことを大切に思うことも大事だけど、死にゆく年寄りも大事にしてほしいなと思いました。長く頑張って生きてきたんだから。政府は冷たいなって思います。 林:でも大石さん、いまはすごく明るい笑顔で。 大石:外に出て仕事の打ち合わせをしたり、こういう対談に呼んでいただけたりするときは、暗い顔するほど子供でもないというか。でも、一人でいるときは泣いちゃったりしますよ。 林:来年の大河(「光る君へ」)の前に、Netflixで「離婚しようよ」という連ドラ(6月22日から全世界独占配信)の脚本もなさったんですね。しかもあのクドカン(宮藤官九郎)さんとタッグを組んで。想像がつかないけど、一回ごとに交代して書いたんですか。 大石:説明しにくいですけど、2、3シーンぐらいずつ交代で書いてました。 林:そんなことできるんですか。 大石:大変でした。磯山(晶)さんというTBSのプロデューサーが……。 林:はい、私も知ってます。「週刊朝日」の女子大生シリーズの表紙になったきれいな人ですよね。 大石:そうそう。あの方が「二人で書いたらおもしろいんじゃないか」って思い立って。 林:2シーンごとに交代して書くって、どうやってやるんですか。 大石:主人公の政治家(松坂桃李)は宮藤さんがおおむね書いて、その妻(仲里依紗)のところは私が書いて、妻の愛人も私が書いて、政治家たちは宮藤さんが書くという、まずは自分の得意なところを分けて書いてたんです。 林:そんなことできるんだ。かけあいのセリフのときはどうなるの? 大石:たとえば、政治家と奥さんが会話をするところは、1回目は宮藤さんが書いて、私が直しを入れたりして、ケンカのシーンは、私が書いて宮藤さんが直しを入れたりして、LINEでああだこうだとやりとりをして、それを磯山さんが見て、「じゃあ、こう直しましょう」という方向性を示して、3人で会ってるときに一緒に直すみたいな感じ。だからすっごい大変でした。一人で書くより3倍ぐらい。 林:でも、楽しかった? 大石静さん(左)と林真理子さん(撮影:岡田晃奈) 大石:いや、ハラハラして楽しむ余裕はなかった(笑)。宮藤さんって書くのがすっごい速いんです。「いまできました」って送ると、夜、その続きが来たりして。私はべつに遅い脚本家じゃないんだけど、送ってホッとしてると、すぐ来るんですよ。「頼むからもう少しゆっくりやってください」ってメールしたこともありました(笑)。 林:ドラマになったのを見たら、「私たちすごいな」っていう感じ? 大石:決定稿になった台本を読むと、「ここ、どっちが書いたんだかわかんないな」と思って、3人目の脚本家があらわれたという感じでした。クドウシズカだって(笑)。だけど、できあがった映像を見ると、「ここ私、ここは宮藤さん」って不思議とわかるのですよ。 林:宮藤さんってどうでした? 大石:組むの、すごくコワかったです。宮藤さんは当代一の脚本家だし、天才だと思うので、「なんだ、大石静って大したことないな」って思われたら情けないし、あんなギャグも書けないし、タッチが違うから一緒にやっていけるかな、という気持ちもありましたね。そしたら宮藤さんが「苦手なところはなすりつけ合いながら、やればいいですよ」って言ってくれて、何て男前なんだろう……って好きになりそうでした(笑)。 林:自分より若い人と組んで、そんなふうにリスペクトできるってすごいと思いますよ。 大石:宮藤さんのことを尊敬してなかったら、私、この仕事受けなかったです。私も引っ張り上げられるというか、いつもと違う私が出るかもしれないと思わなきゃやらない。「私のほうがうまいな」と思うような人とやっても意味ないじゃないですか。 林:そうですね。私は1話だけ見せていただきましたけど、主役の松坂桃李さん、本当にうまかった。 大石:松坂さん、芝居すごくうまいです。あの人、この作品で一皮むけたなという感じがする。濡れ場の多い映画もやってるんだけど、私、ぜんぜん色っぽくないなと思って見てたんですよ。だけど、今回は、断然エッチです。 林:奥さん役は仲里依紗さんです。 大石:私、彼女とは何度も一緒にやったことがあるんですけど、彼女もうまいです。磯山さんと宮藤さんも大好きなんで、「テッパンで彼女がいい!」と言ってました。 (構成/本誌・唐澤俊介、編集協力・一木俊雄) ※記事の後編はこちら>>「大河ドラマ『光る君へ』に脚本家が不安のワケ『危険な企画だと思った』」※週刊朝日  2023年6月2日号より抜粋
林真理子
週刊朝日 2023/05/27 11:30
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今西憲之 今西憲之
タリウム殺人事件被告37歳、“舞妓ビジネス”成功の裏で…意識不明の叔母の口座から約5千万円
送検される宮本一希容疑者=2023年5月26日  女子大生に毒性の強いタリウムを摂取させて殺害したとして、今年3月に殺人容疑で逮捕、同罪で起訴された京都市左京区の宮本一希被告(37)。大阪府警は5月24日、叔母への殺人未遂容疑で再逮捕した。女子大生の事件をめぐる捜査のなかで、入院中の叔母の血液からタリウムが検出された。叔母の会社と宮本容疑者をめぐり、大きな金銭の動きがあることもわかった。  叔母は意識不明の状態が続いており、宮本容疑者は黙秘しているという。  京都市左京区の閑静な住宅街の一角に、ひときわ目立つ豪邸がある。700平方メートルを超す敷地に、和風の塀や邸宅、手入れが届いた庭木……。ここが宮本被告の自宅だ。 宮本一希容疑者の自宅  宮本被告の祖父が、バブル期あたりから不動産事業に乗り出し、大きな資産を築いたという。宮本容疑者は、京都市内の大学を卒業後、大手企業に就職し、情報誌の立ち上げなどにかかわったそうで、友人がこう話す。 「結婚して子どももいました。10年くらい前に大手企業を辞めて東京から京都に戻り、家業の不動産事業を手伝うようになったんです」  祖父が亡くなった後、不動産事業を切り盛りしていたのが被害者の叔母だ。  宮本容疑者は、叔母のアドバイスを受けて会社を設立し、舞妓さんと一緒に懐石料理が楽しめる店を開いた。宮本容疑者が紹介されているYouTubeの動画「Willy Japan」では、 「誰かの紹介がないと(料亭やレストランなどに)入れないルールを、(京都では)一見(いちげん)さんお断りと呼んでいる。舞妓さんや芸子さんの出てくるお茶屋さんでは一般的なしきたり。お金持ちしか入れない、ベールに包まれた謎というイメージ。訪日外国人も増えてきて、舞妓さんに会えなかったというのはすごくもったいない。どこに予約していくら払えばいいのかもわからない。それを解消しようとはじめた」  などと新しいビジネスに至った説明をしている。  コロナ禍前に始めた店は大繁盛となった。宮本容疑者の親族がこう話す。 「1店舗では足りないとなって、もう1店舗出したほどでした。京都を訪れた富裕層や訪日外国人がさらに京料理を堪能できるようにと割烹料理まではじめて。京都らしい新たなビジネスを彼(宮本容疑者)に発案させ、やらせたのが叔母です。ベースとなったお茶屋さんの不動産は叔母の会社で所有している物件です。開店資金を出したのも、舞妓さんを呼ぶような人脈も叔母からだと聞いています」  舞妓ビジネスの大成功とともに、宮本容疑者の生活ぶりも大きくかわる。車は高級外車となり、毎晩のように京都の「一見さんお断り」のような店を飲み歩く。 「宮本容疑者がスマートフォンをいじっていたので、何を探しているのかと聞くと『東京にうまいものを食べに行きたい』とえらい高級な店を見せてくれた。『北海道に寿司を食べに行く。日帰りじゃ無理そう』『大阪の北新地にいい店があるが、コロナなので貸し切ろうか』とか、えらい景気がいい話をしていました」(前出の友人)  この時期、彼女のように連れ歩いていたのが、タリウムで殺害されたとされる女子大生だった。2022年10月、宮本容疑者と飲食した翌日に体調を崩し、その3日後に呼吸不全で死亡した。吐いた物や尿から致死量(約1グラム)を超えるタリウムが検出された。  大阪府警は、女子大生のマンションでタリウムを摂取させ、殺害した疑いで今年3月に宮本容疑者を逮捕。周辺を捜査するなかで、叔母が2020年7月ごろに体調を崩して入院し、意識不明の状態が続いていることを確認した。医療機関が保管していた叔母の血液を鑑定したところ、タリウムが検出された。  一方、叔母が倒れた2カ月後、宮本容疑者は叔母に代わり、一族の不動産を管理しているS社の社長に就任している。  捜査関係者によると、2020年7月下旬から叔母の預金口座から現金が引き出され、1年間で5千万円ほどが宮本容疑者の手に渡っていた。  宮本容疑者が再逮捕されたとき、口座には3千万円ほどあったといい、S社や叔母が所有していた不動産の一部も売却されていた。 「カネの流れ、不動産の売却状況などから、宮本容疑者が叔母にタリウムを飲ませて、資産を奪おうとしたという計画的な動機がうかがえる。また宮本容疑者のスマートフォンの検索履歴には「タリウム」や「殺人」といったワードの検索履歴もあった。宮本容疑者の他の親族の死因などについても捜査を進める」(捜査関係者)  叔母は、茶道家でもあり、倒れる前には茶会を定期的に催していた。ビジネスには厳しく、一族の資産を堅実に運用して利益をあげていたようで、それはS社関連の不動産登記からもうかがえる。  前出の宮本容疑者の親族は、こう話す。 「叔母は仕事にはシビアで独特な哲学がありました。まだ若い彼(宮本容疑者)をすぐにS社などの社長にするつもりはなく、『舞妓ビジネスでどこまでやれるか』と見定めていたようでした。叔母は、不動産の仕事を手伝わせるため、彼を別の会社の役員にしたけど、飲み歩くなどして多額の経費を計上したのでえらく叱り、トラブルになったことがあります。しかし、今回の事件が彼の犯行ならばただ驚くばかりです。性格はおとなしく、とてもそんな凶悪な犯罪に手を染めるとは今でも思えないんです」 (AERA dot.編集部 今西憲之)
タリウム京都
dot. 2023/05/27 09:00
定年「55歳」が当たり前だった時代も 「週刊朝日」が報じた騒乱と高度経済成長期
亀井洋志 亀井洋志
定年「55歳」が当たり前だった時代も 「週刊朝日」が報じた騒乱と高度経済成長期
1960年6月、岸信介首相(当時)の退陣を求めて国会議事堂を囲んだデモ 「戦後」から脱却し、著しい経済成長を成し遂げた1960~70年代の日本。華やかなイメージの裏で、社会の抱える様々な矛盾も噴出した。「週刊朝日」の記事をひもとくと、激動の時代を熱く泥臭く生き抜いた人々の息遣いが聞こえてくる。 *  *  *  時代は闘いの季節を迎えていた。1960年1月に締結された日米新安保条約を巡って、反対闘争の火の手は全国に燃え広がった。  岸信介内閣は5月20日未明、本会議で採決を強行した。自民党は右翼から屈強な青年たちを秘書団として動員し、座り込みを続ける社会党議員と乱闘状態に。ついには警官隊まで投入された。以来、「安保反対」「岸退陣」を叫ぶ国民の声が、連日、国会を包囲した。抗議運動は全学連や労働組合、文化人らに限らず、一般市民にも拡大していった。 1960年7月3日号の本誌誌面  アトリエで子どもに絵を教えていた小林とみらは、無党派の反戦市民運動「声なき声の会」の活動を始める。「だれデモはいれる声なき声の会。皆さんおはいりください」という横断幕を掲げ、日比谷公園から国会へと歩きだした。参加者は最終的に300人ほどまでふくれ上がった。7月3日号には、「声なき声の会」の列に一般市民が次々と参加していく様子が描写されている。  25歳の女性は抗議デモを伝えるテレビのニュースを見て、東京都日野町(現・日野市)から1時間半かけて国会前へ駆けつけた。 <もともと、デモの経験もなく、家は本屋さんで、組織にもはいってなかったが、政府のやり方をみていて、いても立ってもおられずひとりででかけたのが十一日だった。そのとき集まっているたくさんの人の姿をみて、これは大変、毎日でもこなくちゃと、定期券を買った。ひとりで出かけて、じっとみていると、一般市民のデモがきた。「声なき声の会」という。彼女はその最後尾にくっついてあるいた>  抗議運動が最高潮に達した6月15日、右翼グループがデモ隊に乱入する。全学連の学生たちは国会構内に入り機動隊と激しく衝突。多くの血が流れる中、一人の女子学生が死亡した。東京大学文学部の樺美智子である。 樺美智子  母・光子は娘の死を悼み、同号に「遠く離れてしまった星」と題する手記を寄せている。 <私がこの世を去るまでは、お互いに母娘として結びあう、そのしあわせが続くことと信じ切っていたのです。それだのに、わずか二十二年間で、断ち切れようとは……>  哀しみと無念を滲ませながら、気丈にこう綴る。 <美智子さん。あなた方は、国会構内で抗議集会をもとうとして、中にはいりました。私は、このことを認めます。五月十九日以後の国会議事堂には、もはや今までの権威は認められません。それは「むくろ」と化しているのです。その構内にはいって、抗議集会をもつことは、決して悪いことではないはずです。だれもがしたいのだけれど、ただあの警察の暴力が恐ろしいので、できないだけだと思います> 55歳定年の延長について報じた1963年11月8日号の本誌誌面  戦後的な体制が終わりを告げ、日本は高度経済成長をひた走る。右肩上がりの時世にあって、年功序列や終身雇用は企業の業績拡大に寄与したことだろう。63年11月8日号の「55歳は働きざかり?」と題する記事は、70歳までの雇用機会の確保が企業の努力義務とされている現在から見ると、隔世の感を禁じ得ない。  記事中の日経連(現在は経団連に統合)が実施した調査によれば、傘下の400社中387社が「定年制あり」と答え、そのうち303社が男性の定年を55歳としている(61年3月末時点)。当時、多くの企業が定年を55歳と決めていたが、日本人の平均寿命が大幅に延びたこと(当時は男性66歳、女性71歳)、晩婚化や大学進学率が高くなり子どもの養育年齢が延びたことなどを理由に、定年延長を求める機運が高まったという。 ■立て籠もり犯が記者たちと談笑  当時の全繊同盟(現・UAゼンセン)幹部がこうコメントしている。 <「こんどのように定年延長一本で真正面から闘争した例は、ないんじゃないですか。しかも千三百社四十五万人の組合員が、いっせいに定年延長をかちとったのは、“画期的”といっていい」>  ただ、延長期間は1年が多かったようだ。55歳以後の給料も基準内賃金の7~8割ほど。それでも、定年延長を好機とする企業もあった。記事では日本初の総合石油化学メーカーとして設立された三井石油化学(現・三井化学)を例に挙げる。 <同社の創業は昭和三十年だが、本格的に操業開始したのは三十三年四月のこと。従業員は三井化学、三井鉱山、三池合成、東洋高圧など三井系企業からの出向社員だけで始った。しかも、五十五歳定年後、嘱託ではいった人が六十人近くいた。一ばん若い産業が一ばん年とった人びとの手で始められたわけだ。  石油化学で必要なのは筋肉労働ではない。ふくざつな計器を監視する高度の管理労働である> “人生100年時代”といわれる現在、推進されるシニア人材の活用を先取りした発想だったといえるのかもしれない。  68年に起きた金嬉老事件は、立て籠もった温泉旅館に報道陣を招き入れ、テレビで国民に民族差別を訴え、「劇場型犯罪」と呼ばれた。金嬉老は当時39歳の在日コリアン2世。金銭トラブルから静岡県清水市(現・静岡市清水区)で暴力団員2人をライフル銃で射殺後、静岡県・寸又峡温泉の旅館に入る。ダイナマイトを持ち込み、旅館主の家族と宿泊客の13人を人質に取り5日間にわたって籠城した。  だが、人質を銃で脅したり、傷つけたりするようなことはしなかった。駆けつけた報道陣ともコタツで和やかに“記者会見”を行い、テレビを通じて在日に対する差別を糾弾した。別の事件で清水署で取り調べを受けた際、朝鮮人差別発言をした警察官に謝罪させるよう要求する一方、責任を取って自殺するとも語った。3月8日号は事件の詳報を伝えている。 <最初は、オッカナビックリだった報道陣も、平気でダイナマイトの積んである部屋にはいるようになり、あるいは金と親しげに話をするようにもなった>  報道陣を前に冗談を飛ばすこともあった。 <「けさ新聞を見たんだが、オレと“会見”した記者の中に、飛びかかりたい衝動にかられた人がいたそうだな。これからは油断できんよ、アッハッハ……」  報道陣もつられて笑った。変な風景であった。しかし、こうしたつき合いが金にスキを与え、逮捕のきっかけを作ったとしたら、これも奇妙な“記者会見”の、ひとつの“功績”といってよかろう>  5日目の午後、報道陣に紛れ込んでいた9人の刑事に取り押さえられ、金は逮捕された。金は75年に無期懲役判決が確定する。99年に仮釈放され、両親の故郷である韓国・釜山で暮らした。2010年、81歳で死去。 ■紙を求めて殺到、お婆さんが骨折  73年には好景気を一変させる出来事が起きた。第1次オイルショックだ。この年10月、エジプトとシリアがイスラエルに攻撃を開始し、第4次中東戦争が勃発。それに伴いOAPEC(アラブ石油輸出国機構)10カ国などが石油価格の大幅引き上げと、イスラエルを支持する西側諸国への禁輸・供給削減を宣言した。  エネルギーの8割近くを輸入原油に頼っていた日本も例外ではなかった。11月、政府は石油緊急対策要綱を閣議決定、総需要抑制政策が採られ、石油や電力の節約が進められた。これが物不足への不安につながった。オイルショックを象徴するトイレットペーパーの買いだめ騒ぎは、関西が発火点となり、全国に飛び火した。トイレットペーパーやちり紙、合成洗剤、砂糖などがスーパーの棚から消えていった。  11月23日号は、その狂奔ぶりを報じた。 <「トイレットペーパーは在庫が全然ない」「午前と午後では値段が違う」と、うわさがうわさを呼び、紙を求めて“仁義なき戦い”が始まった。 “戦い”となれば、負傷者も出る。尼崎市の灘神戸生協園田店のスーパーマーケットに、トイレットペーパーを買うため朝早くから主婦たちがつめかけた。午前十時開店というのに、九時半には、約二百人の人垣。主婦たちは、われさきに店内に突撃した。八十三歳のおばあさんが、押し倒され、左足を折って二カ月の大けが。こうなると紙を買うのも命がけだ>  首都圏のスーパーでは4万円分の洗剤を買いだめ、自家用車に積んでいくツワモノも現れた。12月7日号のルポでは、人々が買いだめに知恵を絞るさまが描かれる。 <まだ品物があった同(西友)ストアー東久留米駅前店では、「一人ひとつ」という数量制限があるので、四人家族総出で洗剤、石けん、ちり紙を買うファミリー買いだめ客をみた。贈答品売り場では、妻が夫に、夫が息子に「砂糖つめ合わせ」を贈る伝票を書く、珍妙な光景を目撃した> 1975年7月、皇太子ご夫妻(当時)はひめゆりの塔に花を捧げた際、過激派の男に火炎瓶を投げつけられた(沖縄タイムス提供)  片や、すぐさま便乗値上げをした企業、小売店が続出したことに対し、消費者が怒りを募らせたのは言うまでもない。  戦後、沖縄の人々は27年間の米軍統治下に置かれ、米軍人・軍属による事件・事故の頻発に悩まされ続けた。戦争末期、沖縄は「国体護持」「本土防衛」のための捨て石とされ、県民の4人に1人が犠牲となる悲惨な地上戦が展開された。戦後30年、戦禍の記憶は生々しく、皇室や本土に対する県民感情は複雑だ。  75年7月、「復帰記念事業」として沖縄国際海洋博覧会が開かれ、名誉総裁という形で皇太子夫妻(当時)は初めて沖縄の地を踏んだ。だが、沖縄来訪は時期尚早との声もあり、是非論が盛んにかわされた。 ■火炎びん事件の“意図せぬ効果”  皇太子夫妻は初日に南部戦跡に向かい、糸満市のひめゆりの塔に供花する際、火炎瓶を投げつけられる事件に遭ったが、8月1日号は沖縄県民の歓迎ぶりを伝えている。 <お車は徐行しながらも、遠慮会釈なく通りすぎていく。車の中で、皇太子さまが例によって笑いながら手を振っておられる。美智子さまのツバ広帽子が、チラリと見える。その間、一秒あったかどうか。車が見えなくなって、振り向いた人たちの顔を見て驚いた。みんな笑っていた。目が酔っていた。まるで祭りのウズの中にいる人のようだった>  一方で、県民のこんな声も拾っている。 <「天皇陛下なら別ですよ」でも、皇太子に責任はない。戦争の時は子どもだったのだから……>  火炎瓶投擲事件の夜、皇太子は異例の談話を発表している。 「私たちは、沖縄の苦難の歴史を思い、沖縄戦における県民の傷跡を深く省み……」 <やさしい沖縄の人たちは、ホロリとした。火炎びん事件と談話、この初日の出来事が、その後の二日間に多分“意図せぬ効果”をあげたのだ。早い話、地元の新聞の論調。革新性で鳴るある有力紙のコラムでさえ、 「この談話で、皇太子のファンがさらにふえた」  と書き、 「三木総理以下は、皇太子の心をわが心とせよ」  とやった>  昨年、沖縄は復帰50年を迎えたが、県民が願う基地負担の軽減は進まない。当時の皇太子夫妻は上皇、上皇后となった。これまで11回に及んだ沖縄訪問で胸に去来したものは何か。60~70年代は目覚ましい経済成長を遂げながら、様々な社会や政治の矛盾が露わになった時代といえるだろう。(次回へつづく)(本誌・亀井洋志)※週刊朝日  2023年6月2日号
週刊朝日 2023/05/27 08:00
村上宗隆が“苦しむ原因”はどこに 今季は「本物のスター」になるための正念場
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村上宗隆が“苦しむ原因”はどこに 今季は「本物のスター」になるための正念場
ヤクルト・村上宗隆  ヤクルト・村上宗隆のパフォーマンスが一進一退を続けている。「村上様」と呼ばれた昨年のような勢いが感じられない中、「初心に戻り、ハングリー精神を思い出せ」という声が各方面から聞こえてくる。  シーズン初戦のアーチは昨年の活躍を再び予感させた。3月31日、広島との開幕戦(神宮)では第1打席でいきなりの本塁打。その後もスタートダッシュに成功したチームの中で見事な打棒を見せてくれるはずだったが……。 「昨年終盤からの不振がWBC本戦中も続き苦しんだ。オープン戦への出場がなく、ぶっつけ本番の開幕に不安要素がないわけではなかった。それでも開幕から結果を残したことで格の違いを感じさせていたが、その後は調子を一気に落としてしまった。現実は甘くなかったようだ」(ヤクルトOB)  4月11日のDeNA戦(神宮)での本塁打を最後にバットから快音が消えた。4月終了時点で打率は1割台と低迷し、本塁打は2本と昨シーズン最年少で三冠王となった打撃が鳴りを潜めた。 「昨年の夏頃から打撃フォームを崩した感じで、1打席、時には1球ごとに構え方を微調整していた。グリップの位置を高くしたり前に出したりする。タイミングの取り方も同様で、常に試行錯誤。スイング軌道がハマった時だけ本塁打になる感じが続いている」(在京球団スコアラー) 「打撃フォームが固定できないからタイミングの取り方も流動的になる。打席ごとに足の上げ方が変わってしまい、時にはすり足に近い時もある。頭の中が混乱しているように見える。打席に入る際のルーティーンすら変わる時もあるほど」(ヤクルト関係者)  昨シーズンの終盤から調子を崩しているようだった。CS、日本シリーズ、そして今季開幕前のWBCでもここぞの打撃は見せたものの、安定感のあるパフォーマンスを見せることはできなかった。 「他球団が徹底研究しているのが不振の原因の1つ。年に何十回と対戦するプロ野球では膨大な量のデータが蓄積するため、どんな強打者でも弱点は見つかる。同じ打者に何度もやられるのは恥ずかしいことなので、相手も必死なのは当然。短期決戦で結果が出なかったのも同様の理由だと考えられる。」(ヤクルト関係者)  相手からの徹底マークは強打者の宿命であり、乗り越えて結果を出し続けることが求められる。 「コンディション不足で体のキレが悪いのもある。昨年あたりから体が一回り大きくなったが、筋肉のみでなく脂肪も付いた。練習、食生活を見直し、今後のプランを再設定してさらなる成長を目指すべき」(ヤクルトOB)  ヤクルトOBの宮本慎也氏から「アドバイス的に言うとすれば、守備位置が深すぎるんですよ」(5月9日、野球系YouTube『野球いっかん!』)と指摘されたが、守備でも体のキレが不足しているという声もある。 「打球への反応に自信があれは守備位置は浅めになる。村上は体のキレが鈍く反応が遅れがちになるため、守備位置を深めに取っている。宮本氏はシェイプした方が良いと遠回しに言っているのではないでしょうか」(在京球団スコアラー) 「結果が出て知名度が高まればスポンサーなども多くなり、付き合いが増えるのは仕方がない。それでも時間を見つけてバットを振っているのは誰もが知っている。しかしコンディションに関しては普段からの継続的な節制が必要。ここからどうするのか、野球選手としての分岐点」(ヤクルトOB) 「村上様」として日本中が注目するアスリートとなりCMでも多く見かける。女子ゴルファー・原英莉花とのカラオケデートも話題となった。知名度が上がり、誘惑が多い今こそ地に足をつける必要性がありそうだ。 「史上最年少の三冠王になり、推定6億円と言われる年俸も手にした。熊本出身で野球だけしかやってこなかった20代前半の男だけに、浮つかない方が難しい。ここからが本当に正念場、真のスーパースターになれるかどうか」(ヤクルト担当記者) 「結果が出ていた開幕時から休日返上でバットを振っている。その際も悩んでいるように見えたのは、現状に納得できていなかったからでしょうね。野球への情熱は誰よりもあるので、自分自身で調子を取り戻してさらなる成長をしてくれるはず」(ヤクルト関係者)  球界で不祥事が多発している昨今、村上への期待度は大きい。グラウンドで結果を残し、プロ野球界を盛り上げて欲しいと思っているのはヤクルトファンだけではない。 「もっとバットを振って汗をかくこと。体が絞れてキレが良くなり結果もついてくるはず。ベースとなる打撃力はすでに身についている。こんなところで足踏みしている暇はない」(ヤクルトOB)  本塁打を数本コツコツ打つことで満足できるレベルの選手ではない。大谷翔平(エンゼルス)も認める強打者。昨年以上の信じられないような打撃を期待したいところだ。  18歳でプロ入りし、野球に没頭することで同年代の選手たちの中で一気に別格の存在となった。昨年までのブレイクにつながったハングリーさ、向上心を「再び」思い出して欲しい。その先には今までの選手が見たことのない景色が広がっているはずだ。
プロ野球
dot. 2023/05/25 17:30
小学4年で英検準1級に合格した「ギフテッド」少年の生きづらさ 「正直、学校は好きじゃない」と適応に苦しみ
小学4年で英検準1級に合格した「ギフテッド」少年の生きづらさ 「正直、学校は好きじゃない」と適応に苦しみ
小林都央(とお)さん  ギフテッドという言葉を聞いたことがあるだろうか。「飛び級で進学」「教科書は一度読めばほとんど理解」など、天才少年少女というイメージをもつ人も多いだろう。しかし本人は、「授業が全く面白くない」「同級生と話が合わない」「学校に行くのが辛い」といった負の側面を感じていることも少なくない。表からは見えづらい「心のうち」はいかなるものなのか。今回は、IQ154、小学4年生で英検準1級に合格したという小林都央さん(11)のケースを紹介する。<阿部朋美・伊藤和行著『ギフテッドの光と影 知能が高すぎて生きづらい人たち』(朝日新聞出版)より一部を抜粋・再編集> *  *  * ■小2で高IQ集団「MENSA」に認定  パソコンの画面に映る少年は、大きく口を開けて笑顔を見せてくれるとてもあどけない小学生だった。東京都に住む小林都央さん(11)とオンラインツールの「Zoom」で初めて会ったのは2021年12月のことだった。ヘアドネーション(髪の毛の寄付)のために伸ばした長い髪を束ね、くるくると変わる表情で語ってくれたのは、学校に通うことのつらさだった。 「学校に行かないといけない必要性や義務は理解しています。でもぼくにとって学校は、ありのままでいられない場所で、本音を言うと好きじゃない」  都央さんのIQ(知能指数)は154。平均とされる100を大きく上回る。特別な才能を持つとされる「ギフテッド」だ。  小学4年で英検準1級(大学中級程度)、小学5年で漢字検定2級(高校卒業程度)に合格し、英語と日本語を操るバイリンガル。人口の上位2%のIQを持つ人たちが参加する「JAPAN MENSA」に小学2年生で認定された。複数のプログラミング大会で、特別賞などを受賞。住んでいる地元の教育委員会からは、映像コンテストやギフテッド向けのプログラムで優秀な成績を収めたとして、2年連続で表彰を受けた。世界屈指の医学部を有し、最難関大のひとつであるアメリカのジョンズ・ホプキンス大学のギフテッド向けプログラムでは最優秀の成績を収めた。  都央さんの経歴には、こうした数々のきらびやかなものが並ぶ。一方で、幼いころから集団での生活にストレスを感じ、適応に苦しんできた。現在は週に2日ほど学校に行く「選択的登校」をとっている。  都央さんとの出会いのきっかけとなったのは、コロナ禍の一斉休校を機に不登校になった子どもたちを紹介した連載だった。連載が朝日新聞に掲載された21年11月、一通のメールが届いた。 都央さんは3歳の時には機械式時計の仕組みを本で読んでいた(写真=家族提供) 「『不登校は問題』『学校には行かなくてはならない』という考えに疑問を持ちます。 僕は、勉強は好きです。友達と遊ぶのも好きです。でも、ずっと学校に行くのは好きではありません。今日は、午前中は勉強をして、午後から美術館に行く予定です。こんなスケジュールを考えるとワクワクしてきます」  大人びた文面に書かれた自己紹介には、小学4年生と書いてあった。学校に行かないといけない現状を憂う文章と書かれた学年が一致しなかった。  メールの差出人が都央さんだった。ちょうどメールをもらう前からギフテッドに関する取材を始めていた折。もしかして、都央さんはギフテッドではないだろうか。母親の純子さんとすぐに連絡を取り、やりとりをするうちに、都央さんが生まれつき飛び抜けた才能を持っていることが判明した。  Zoom取材での第一印象は、多彩な語彙(ごい)を操り、目を輝かせながらはきはきと答えてくれる小学生だった。だが学校生活に話題が及ぶと、次第に表情は硬くなっていった。都央さんの口から紡ぎ出される言葉は、学校という場がいかにつらいのかを物語っていた。 ■「行っても何も学ばない」  取材の前に都央さんがまとめてくれた「なぜ学校に行きたくないか」というチャート図がある。 「時間の無駄→行っても何も学ばない→つらいだけ」 「知っている→楽しくない→つまらない→つらいだけ」  だから、やりたいことを家でやりたい、そのほうが有意義と書かれている。都央さんにとって学校は「ありのままでいられない場所」となった。毎日登校することが負担になり、泣いて帰宅する日もあった。  どんな時に学校がつらいと思うのか。  授業で、海の生き物を描いて色を塗りましょうと先生が言った時、都央さんは、白いチンアナゴを描いて提出した。すると、先生からは「色を塗っていない」と言われてしまった。「白という色ですよ」と言ってもなかなか理解してもらえず、そこで諦めた。「自由に描いていいよ、と言われても理不尽な枠を決められているようだった」と感じた。  算数の時間に、指定された解き方以外のやり方を見つけても、言われた解き方の通りにしないといけない。  黒板は先生が書いた通りに書き写さないといけない。 「それが当たり前なんだから」。「言われたこと以外はしてはいけない」。そんなことを言われ、自分のアイデアを諦めることもある。がやがやと様々な音がする教室にいるだけで疲れてしまう。好奇心を抱くものを学びたいと思っても、それが叶わない。  ヘアドネーションのために髪を伸ばしていると、「なんで女子が入ってくるんだよ」と言われた。左右違う色の靴下をはいていくと「おかしい」と揶揄(やゆ)される。都央さんは「じゃあなんで左右同じ色をはいているのか、逆に聞き返したりします。たいてい答えられないです」と振り返る。 ■学校に行くことが解決法ではない  登校する時も、下校した時もつらそうな表情をしていた。「普通」の枠に押し込められ、そこから外れると指摘される。そんな学校生活を過ごす都央さんを見て、純子さんは「『自分らしさ』や『自分が好きなこと』を見つける機会が少なくなってしまうのは悲しいこと」と感じるようになった。  そうして、毎日登校するのではなく、疲れた時には「リフレッシュ休み」をとる。週に何日か学校に行く「選択的登校」という方法をとった。純子さんは悩みながら都央さんの思いを尊重したという。 「学校に行くのが当たり前で、なんとかして学校へ行かせようという風潮がある中で、息子にとって学校があんまり勉強できる場所じゃないようで。息子はすごく勉強したいのに、教室はザワザワしていたり、自分の学びたいことができなかったり。息子を見ていると、学校に行くことが解決法ではないと気づきました。自分の思い込みや世間体を気にして学校になんとしても行かせようと思わないようにしました」  二人でどうしたらいいのかと対話を重ねながら、選択的登校というスタイルにたどり着いたという。 (年齢は2023年3月時点のものです) 【後編】小学1年で息子が「IQ154」と発覚したときに母親は何を思ったのか 「ギフテッド」の子ども持つ親の“本音”に続く
ギフテッド書籍朝日新聞出版の本
dot. 2023/05/24 16:00
日本AS界に期待の新星 史上最年少14歳で代表入り、比嘉もえが漂わせる“大器の予感”
日本AS界に期待の新星 史上最年少14歳で代表入り、比嘉もえが漂わせる“大器の予感”
昨年6月の世界選手権ブダペスト大会では吉田萌(左)のパートナーを務めた比嘉もえ(右)  史上最年少の14歳でアーティスティックスイミング(以下AS)の日本代表入りを果たした比嘉もえは、15歳となった今夏、福岡で行われる世界選手権に臨む。  171cmと日本代表女子選手の中では一番の高身長で手足も長く、恵まれた体を持つ比嘉は広島出身。父は、プロ野球の広島東洋カープでプレーした寿光さんである。小学校2年生の時にAS広島(当時の名称は広島シンクロクラブ)の体験会でASに出会い、競技を始めた。  比嘉がA代表(日本代表のトップチーム)入りを果たしたのは、東京五輪が終わり新体制に移行していくタイミングだった2021年秋である。ジュニア世代の選考会で1位になり、特別推薦で出場したA代表の最終選考会でも7位に入って、2022年世界選手権ブダペスト大会の代表に選ばれている。  昨年6月に行われた世界選手権ブダペスト大会のデュエットでは、当初は吉田萌のパートナーを務める予定だった安永真白に怪我があり、比嘉が抜擢された。吉田・比嘉組はテクニカルルーティン(以下TR)のみに出場、4位に入っている。また比嘉はチーム種目にも出場しており、TR・フリーコンビネーションで銀メダル、フリールーティン(以下FR)で銅メダルを獲得した。  また同年8月にケベック(カナダ)で行われた世界ジュニア選手権で、比嘉はソロのみにエントリーし、TR・FRともに金メダルを獲得している。TVアニメ『ノラガミ』の曲を使ったFRでは、緊張感のある音楽を体現するシャープな泳ぎで強い印象を残した。非五輪種目であるソロでは、各選手の個性や能力が浮き彫りになる。ジュニアでは世界最高峰の大会で陸上動作から独特の存在感を醸し出すソリスト・比嘉には、大器の予感が漂っていた。比嘉には、芸術スポーツの逸材が共通して持つ華がある。  今季のワールドカップ・デュエットに、比嘉は安永とのペアで出場している。ワールドカップでは、カナダ大会TR3位・FR4位、フランス大会TR2位・FR2位という結果だった。世界選手権福岡大会でメダルを獲得するためには、もう一歩前進する必要があるだろう。  比嘉は今春より広島から大阪に拠点を移し、デュエットのパートナーである安永も籍を置く井村ASクラブの所属となった。井村ASクラブへの移籍は、クラブの代表を務める井村雅代氏に直接相談した上で決めたという。シンクロナイズドスイミングと呼ばれていた時代から日本を牽引してきた名伯楽に正面から気持ちを伝えられる度胸と意志の強さも、比嘉の能力の一つかもしれない。  安永と比嘉が泳ぐデュエットFRのテーマは『黒豹』。野性味あふれる動きには迫力があり、デュエットとしての一体感が高まればさらにステップアップできそうだ。比嘉の移籍により安永との練習時間が増え、同調性を高めて世界選手権に臨めるのではないだろうか。  比嘉は、第19回アジア競技会(9~10月、中国・杭州)への出場も決まっている。2024年パリ五輪に向け、まずは国内開催の世界選手権で存在感を示したい。7月の福岡で、比嘉はどんな泳ぎをみせてくれるだろうか。(文・沢田聡子) ●沢田聡子/1972年、埼玉県生まれ。早稲田大学第一文学部卒業後、出版社に勤めながら、97年にライターとして活動を始める。2004年からフリー。シンクロナイズドスイミング、アイスホッケー、フィギュアスケート、ヨガ等を取材して雑誌やウェブに寄稿している。「SATOKO’s arena」
dot. 2023/05/22 17:30
重松清が語る読者参加企画「『週刊朝日』は、もっともっと誇っていい」
重松清が語る読者参加企画「『週刊朝日』は、もっともっと誇っていい」
知性と遊びゴコロで本誌を牽引した井上ひさし  編集者と読者と筆者が形づくる共同体──丸谷才一が雑誌の理想型として提唱した読者参加型の企画は、時代と共に形を変えながら誌面を活気づけた。家庭で読まれる週刊誌を標榜した本誌の真骨頂がここにある。作家・重松清さんの集中連載「『週刊朝日』を賑わせた文芸企画たち」、堂々の完結。 *  *  * 「週刊朝日」は国民雑誌の西の横綱──。  作家・丸谷才一と劇作家・山崎正和、そして『コンセント抜いたか』の嵐山光三郎さんによる鼎談(『東京人』1989年8月号)で、「週刊朝日」はそう位置付けられていた。ちなみに東の横綱は「文藝春秋」である。  34年前の評価がいまなお有効か否かはともかく、ご紹介したいのは、鼎談中に丸谷才一が語った、こんな言葉──。 <雑誌というのは編集者と読者と筆者が形づくる共同体なんですから、読者参加は大事ですね>  それは決して建前ではない。丸谷才一は、「週刊朝日」史上に残る2本の読者参加型企画に深くかかわっていた。  まずは、1974(昭和49)年に始まった『読者パロディ』──宮沢賢治の『雨ニモマケズ』や文部省唱歌を元ネタにしたり、時効直前の三億円事件の犯人の心境をお好みの作家の文体模写で綴ったりという、社会風刺や言葉遊びのアレコレを募集する企画である。  選者は、企画の発案者でもある丸谷才一と、作家・井上ひさし。パロディをこよなく愛する2氏の呼びかけに、読者も期待以上の熱気で応えた。連載はたちまち大評判になり、スピンオフの『パロディ百人一首』もお正月の吉例になったのだ。 *  投稿企画の成否は、送られてくる作品のレベルにかかっている。『読者パロディ』はどうか。  第1回の元ネタは、岩波文庫の発刊の言葉『読書子に寄す』──格調高さでつとに知られる名文の換骨奪胎に挑んだ投稿は、600通近くにのぼり、しかも高校生から70代まで幅広い年代からの応募だったという。  なんとも教養あふれる読者揃いではないか。  うれしい誤算? いや、読者の知性や遊びゴコロについて、編集部には確かな信頼があったはずだ。 丸谷才一は長く「週刊朝日」のブレーンだった 「週刊朝日」は、週刊誌で初めて本格的な書評欄をつくったといわれる。1951(昭和26)年に始まり、いまなお同一のコーナー名で続いている『週刊図書館』である。  一流の書き手が無署名で筆を競っていた『週刊図書館』は、書評をただの「本の紹介」にはとどめない、という気概に満ちたコーナーだった。  生みの親であるジャーナリスト・浦松佐美太郎いわく──。 <読者には「週刊図書館」を、文化に関する報道であり、論説であるというつもりで読んでいただきたい>  ならば、受け手のほうはどうか。 『週刊図書館』を起ち上げた編集長・扇谷正造によると、<取り上げられると再版確実、誉めてあれば三版確実>──それは『週刊図書館』の影響力の強さと同時に、書評を読んで「面白そうだ、自分でも読んでみよう」となる読者がいかに多かったかの証でもある。 『読者パロディ』を大成功させたのは、いわば『週刊図書館』に鍛えられた読者だったのだ。 読者パロディ紙面 ■老若男女が読む茶の間の図書館  そして1986(昭和61)年、読者の知的好奇心をさらに刺激する連載『日本語相談』が、丸谷才一の肝煎りで始まった。  丸谷、井上の両氏に国語学者・大野晋と詩人・大岡信を加えた回答陣に、読者は日本語にまつわる身近な難問を次から次へとぶつけていく。  たとえば、「『生きざま』という言葉は使うべきではない?」「『より』と『から』はどちらが正しい?」「句読点の打ち方に決まりは?」……。  日本語の達人たちは、限られた分量の中で軽やかに、鮮やかに、わかりやすく答えてくれるのだが、快刀乱麻の回答(ダジャレはパロディの中でもレベルが低いそうです)は、もちろん、優れた質問があってこそ。 <編集者と読者と筆者が形づくる共同体>──その理想型の一つが、『日本語相談』だったのではないか。 *  そもそも「週刊朝日」は創刊当初から、読者の存在を強く意識していた。  前回もご紹介した創刊編集長によると、「週刊朝日」が目指していたのは、読者に「いま」を伝えることに加えて──。 『井上ひさしの日本語相談』 <男女、子供の善良にして興味多き読物を提供せんとするにあります。すなわち、毎号一流の大家の名論や有名作家の小説、家庭主婦の参考とすべき記事、男女小学生の心意を開発誘導する記事、絵画などを掲載しておるのはこのためであります>  新聞販売店の宅配網が重要な販売ルートだったこともあって、「週刊朝日」は家庭で読まれる週刊誌を標榜してきた。  それをより端的に示したのが、昭和30年代のキャッチフレーズ「茶の間の図書館」である。  その惹句に呼応するかのように、井上ひさしは少年時代を振り返る。 <中学時代、母と私たちは東北各地を転々としましたが、辛うじて家というものを支えていたのは、卓袱台の上の『週刊朝日』でした。そういうわけでテレビのそばに、『週刊朝日』がポンと置いてあるのが、日本の家庭の光景だという思い込みがあるのです>  では、「週刊朝日」が置いてあるのは、どんな「茶の間」だったのか。  それを考えるヒントになりそうなイベントが、1952(昭和27)年に開かれていた。 * 表紙コンクールの賑わいを伝える誌面。読者招待のコンクール抽選大会には、丹羽文雄、徳川夢声、吉川英治をゲストに迎えた  その年の5月31日、大阪朝日会館は2階席まで満杯──1500名の熱気に包まれていた。 『表紙コンクール』の公開抽選を兼ねた「週刊朝日」愛読者大会である。  前年から始まった『表紙コンクール』は、向井潤吉や杉本健吉、東山魁夷、横山隆一といった幅広いジャンルの画家15氏が1号ずつ表紙の絵を描き、読者が人気投票をするという企画である。  もちろん、順位争いも盛り上がるのだが、なによりの目玉は、表紙の原画が抽選でプレゼントされること──さらに賞金や賞品もある。その抽選が、初めて公開でおこなわれたのだ。   当時の「週刊朝日」は読者50万人を謳っていた。コンクールは応募者1人が15票を持ち、それを画家ごとに案分して投じる仕組みだった。応募票数は約92万票だったので、単純に15で割っても6万人以上が応募した計算になる。抽選会への参加応募も5千を超え、うち3千人が昼夜二部に分かれて招待された。 表紙コンクールの賑わいを伝える誌面。読者招待のコンクール抽選大会には、丹羽文雄、徳川夢声、吉川英治をゲストに迎えた  そんな読者の熱意に応えて、編集部も吉川英治の講演や宝塚歌劇団のステージなど、豪華なプログラムを用意した。賞品はテレビやミシンや化粧品を取り揃え、賞金も、銀行の初任給が6千円の時代に1等賞金10万円という大盤振る舞いだった。  しかし、皆さんのお目当ては、やはり原画プレゼント。同年6月15日号に掲載された抽選会のレポートは、コンクール1位に輝いた向井潤吉をはじめとする画家の原画が当たった人たちの喜びの声にあふれている。 <原画をいただいたらそれに盛られた清い愛情をお手本に、子供を見守り育ててゆきたいと思います><杉本(健吉)さんの絵など、私たち庶民には一生持てないものだと思っていましたのに、頂いたら生涯の記念に大切にしたいと思います><何よりの部屋のかざりが出来ました。大事にします><どこへ掛けようかしら?>……賞金10万円が当たった24歳の会社員サンでさえ、<装飾品一つない部屋なので、原画が当って壁に飾れたらなァと思っていました>と、原画のほうに未練たらたらなのだった。 1952年2月10日号の表紙。東山魁夷による「雪国の子供」  1952年5月。ちょうど1カ月前にサンフランシスコ条約が発効して、戦後ニッポンは、ようやく主権を回復したばかりである。そんな時代に、一枚の絵を「茶の間」に飾ることにささやかな贅沢と幸せとを感じていた人びとが、「週刊朝日」を愛読し、支えていた。  そのことを、「週刊朝日」は、もっともっと誇っていい。ウェブサイトのページビューの数字では決して語れない大切なものが、そこには確かにあったはずだと──少々センチメンタルになりながらも、僕は思うのだ。 *  読者参加型の企画から、「プロ」が巣立つことも少なくない。たとえば篠山紀信さんの『女子大生表紙シリーズ』からは宮崎美子さんが世に出たし、松本清張のデビュー作『西郷札』も、1950(昭和25)年の『百万人の小説』に応募したものだった。  しかし、その真骨頂は、やはり「アマチュア」ゆえの、怖いもの知らずで破天荒な力強さだろう。 山藤章二『ブラック・アングル』傑作選が最終号まで巻末に復活  それが見開き頁からあふれ出ていたのが、山藤章二さんの『似顔絵塾』である。 ■休刊に向けてのカウントダウン  1990回にも及んだ長期連載で、山藤さんは毎号の掲載作を選んできた。投稿のパワーをまともに浴びつづけながらも、選考結果や選評の文言以上に雄弁で、説得力があったのは、『似顔絵塾』のあとに控える『ブラック・アングル』だった。  絵の技巧は言わずもがな、「毒」も「愛」も、さすがにケタが一つも二つも違う。門弟たちに四方から襲いかからせた武道の達人が、瞬時に全員を打ち負かし、涼しい顔をしているようなものだ。  そんな2本の連載が、2021(令和3)年の暮れに同時に終わった。  休刊に向けての、数字のないカウントダウンは、そのときから始まっていたのかもしれない。 * 『ブラック・アングル』の最終回で、山藤さんはおなじみの手書き文字で、こう書いていた。 <宿場に栄枯盛衰があるように、街道にもあった。地味な小道に「是より江戸まで××里」とみちしるべの小さな石柱がところどころにある>  これはあくまでも山藤さん自身が東海道を歩いた実際の旅の思い出で、執筆時点ではまだ休刊は発表されていない。  だが、いまこの一節を読むと、寂れた街道をさまざまに喩えたくなる。  僕の短い連載は、<みちしるべの小さな石柱>をたどる旅だった。草が生い茂り、轍が薄れるなか、苔むした石柱に刻まれた「次号につづく」が、もうじき読み取れなくなってしまう寂しさを噛みしめる旅でもあった。  ……こんな暗い終わり方、ちょっとイヤだな。  いまこそ『読者パロディ』の出番なのに。 『蛍の光』の歌詞を元ネタにした作品を、空の上の丸谷才一と井上ひさしが待っている……いや、『ひょっこりひょうたん島』で<泣くのはいやだ/笑っちゃお>と書いた井上ひさしなら、自ら筆を執って、不謹慎で笑えるやつを書いているかも。  実際、『読者パロディ』の第1回のとき、2氏は読者と同じ『読書子に寄す』を元ネタにした作品を書き、「プロ」のスゴみを見せつけている。 野坂昭如も本誌との関わりが深かった  さらに2氏は、パロディ好きの作家・野坂昭如に声をかけ、野坂も快諾。「新型便器の発売に際して」という、いかにも“らしい”設定で作品を披露した。  元ネタの<真理は万人によって求められることを自ら欲し、芸術は万人によって愛されることを自ら望む。かつては民を愚昧ならしめるために学芸が最も狭き堂宇に閉鎖されたことがあった>が、野坂の筆にかかると──。 <雲古(うんこ)は時を選ばず排泄されることを自ら欲し、悉呼(しっこ)また場所にかかわらず放たれることを自ら望む。かつて便意を管理せしめるために、排泄は最も狭き便堂に封じられたことがあった>  笑ってサヨナラ、「週刊朝日」──。※週刊朝日  2023年5月26日号
週刊朝日 2023/05/22 17:00
反習近平、フェミニスト、アナーキスト……中国のインテリZ世代の「避難港」になる東京
反習近平、フェミニスト、アナーキスト……中国のインテリZ世代の「避難港」になる東京
写真=伊ケ崎忍  開高健の「ずばり東京」は1964年の東京五輪を前に変わりゆく東京を活写したルポルタージュで、週刊朝日に63年から64年まで連載されました。「ずばり東京2023」は、2度目の五輪を終えた東京を舞台に気鋭のライターが現在の東京を描くリレー連載です。今回は安田峰俊さんによる「新宿編」です。 *  *  * 「新宿西口地下で開かれた白紙運動の集会には、私の他に何人も中国人のフェミニストが来ていました。中国の若い人のなかで、最も強い問題意識と反抗の意思を持っているのが私たちなんです」  新橋の居酒屋で、ジンジャエールを片手にそう話したのは、中国北部出身で24歳の留学生のウミ(仮名)だった。言葉の内容とは裏腹に、気負った気配はまったく感じられない。ファッションも、日本の女子学生とあまり変わらなかった。  彼女は現在、東京の某国立大学の大学院で学びつつ、在日中国人の数人の仲間たちとフェミニストサークルを結成している。今年4月23日、東京レインボープライド2023(LGBTQのイベント)で、「父権不死極権不止」(家父長制を壊滅せねば独裁権力は止まらない)などの中国語のスローガンを掲げ、それをネットで発信するなど、自国の政府批判も辞さない活動をおこなっている。  昨年11月末、中国では非合理的なゼロコロナ政策に反発した人々の不満が爆発。生活問題の改善を訴える庶民層と、習近平や中国共産党の退陣を叫ぶ一部の若者層がともに声を上げた異例の抗議行動「白紙運動」を起こした。  反習近平を主張していたのは、中国版のZ世代(10代後半~20代後半)に相当する。東京を含む海外の各都市でも、本国と呼応した留学生らが活発に活動した。ウミがはじめて街頭での抗議に参加したのも、白紙運動への参加がきっかけだった。  日本で最初の白紙運動は、11月27日に新宿駅西口地下でゲリラ的に開かれた集会である。このとき、筆者は日本人の記者では唯一その現場に立ち会い、中国人留学生たちが大声で習近平の退陣を叫ぶ光景を目の当たりにした。その後も11月30日に新宿駅南口で1千人規模、12月3日に大阪で100人規模の集会が開かれたので、それらも追い続けた。 写真=伊ケ崎忍  もっとも、当局がゼロコロナ政策を慌てて撤回したこともあり、中国国内の白紙運動は数日で収束、海外の動きもすぐに沈静化した。中国人の若者が政府批判の声を上げたことは極めて異例とはいえ、現時点で総括すれば、白紙運動はごく短期間で終わった「過去の事件」にすぎないものだった。  しかし、私は現場を見るなかで、別の文脈も感じていた。それは、白紙運動が中国のインテリZ世代たちの「思想の見本市」のような側面を持っていたことだ。 「金融寡頭支配反対」 「すべての不平等と差別に反対」 「独裁反対! イランと連帯せよ! ウクライナと連帯せよ!」  日本の集会の場では、留学生たちが作ったこんなビラが盛んに配られていた。どうやら、近年は中国人留学生の学生街と化しつつある高田馬場あたりが発信源らしい。  これらのなかでも目立っていたのが、「父権の打倒」を訴えるフェミニストたちの存在だった。 ◆ 「白紙運動の現場では女性の参加者が目立ったでしょう? 今回、最初の四通橋事件を除いて、男性たちの動きはあまり表立ちませんでした。女性のほうがずっとヤル気で、頑張っていたんですよね」  ウミは取材にそう話す。ちなみに「四通橋事件」とは、2022年10月13日に北京市内で男性が反習近平の横断幕を掲げ、白紙運動の呼び水となった事件だ。いっぽうでウミの言う通り、中国か海外かを問わず、白紙運動の場で女性の姿が目立ったことは確かだった。 「フェミニズムは、人類の半分を占めている女性の人権を保障することですから。必然的に(人権に対する侵害が多い)中国の体制に対して反抗的な気質を持つことになります」  ウミと同席したもうひとりの中国人フェミニスト、クラゲ(仮名、27歳)は言う。ノーメイクにシンプルなヘアスタイルだが、柄物のジャケットを中華服と合わせて伊達に着こなす個性的なファッションがよく似合っていた。  クラゲは白紙運動のとき、中国国内の参加者が安全に活動するための情報提供係を担当した。今年3月8日の国際女性デーでは、仲間と一緒に、中国で白紙運動に参加して拘束された女性たちの釈放を訴える街頭活動もおこなった。彼女が中国の社会改革を望む理由は、自身の生い立ちも関係している。 「本当は姉が一人いました。しかし『男の子ではなかった』という理由で中絶させられています。いっぽう、母が私を妊娠したときは体調が悪く、中絶できなかった。なので、私は生まれました」  中国ではかつて厳しい産児制限政策(一人っ子政策)が敷かれていた。いっぽう、社会には儒教の通念が残っており、「家を継ぐ」男の子を望む風潮が強い。結果、クラゲの姉のように中絶される女児が多数存在した。  加えて、クラゲの故郷は中国南部の福建省の農村地域だった。この地方は「宗族」という父系の血縁集団の結びつきが強く、一村の住民がすべて同じ宗族であることも珍しくない。わずか10年ほど前までは、他の宗族との武力抗争「械闘」の風習も存在した。 「男性は戦力でもあり、とにかく男尊女卑の気風が強い土地です。一人っ子政策が施行される以前から、生まれた女児を水に浸けて間引く『溺女』という風習が存在しました」  女性の人権は制限され、結婚も親が決める。見ず知らずの男性に嫁ぐことが決まると、入籍前に男性側の一族から、子作りと男児の妊娠が求められる。だが、たとえ妊娠しても女児であれば中絶する。自分の母を苦しめた風習は、クラゲの世代になっても変わりなかった。 「大学2年生のとき、親に無理矢理に故郷の男性と結婚させられそうになった。しかも、見合いの席に男性は来ず、相手の両親から先に品定めされるというひどいもの。それから逃れて日本に来たんです」  中国では社会主義体制の成立後、女性を「半辺天」(天の半分を支える人)であると位置付ける男女平等理念が唱えられたが、現実は変わらない部分も多い。数千年の伝統は、容易には消えないのだ。 ◆ 「中国のフェミニズムに関して、最近注目を集めた話題は、22年1月に江蘇省徐州市豊県の農村で、女性が鎖に繋がれて監禁され8人の子どもを産まされていたことが判明した『鉄鎖女』事件、同年6月、河北省唐山市の飲食店でセクハラを拒否した女性客4人に、黒社会(反社会集団)関係者の男性ら数人が殴る蹴るの暴行を加えた事件……」  ウミは話す。近年の中国では他にも、国際的な「#MeToo」運動(性犯罪被害の告発をおこなうネット上のムーブメント)が、当局の厳格なネット統制にもかかわらず広く拡散した。  日本に関係した話題では、近年、中国の若い女性の間で上野千鶴子の書籍が大ブームになっている。この背景にもフェミニズムの高まりがある。クラゲは話す。 「経済が発展して、これまでは認識されてこなかった自分の権利を考える女性が増えた。フェミニストの自覚を持たない人でも、若い女性の間では似た考えが広まっています。バブルが終わった数十年前の日本と、すこし似ているのかも」  そして、白紙運動の要因でもある習近平政権のゼロコロナ政策は、特に女性に大きな負担を強いるものだった。  たとえば、ステイホームが呼びかけられたことで、女性の家事負担は増大した。中国は共働きの家庭が多いが、伝統的な家族観も強固なので、女性が在宅する限りは性別による役割分担が増す。  加えて、経済の混乱や社会不安が膨らむなかでDVの被害も増えた。これはコロナ禍で世界的に起きた傾向でもあるが、22年の中国ではなおさら深刻だった。  なぜなら、当時の中国では感染力が高いものの重症化リスクは低いオミクロン株に対しても従来株と同様の徹底的な封じ込め政策が踏襲されたからだ。感染者があちこちで発生したことで、同年3月からの上海ロックダウンをはじめ、非合理的な隔離や封鎖政策が乱発された。ゆえに人々のストレスはいっそう溜まりやすく、その捌(は)け口(ぐち)が身近な家族に向きやすい構図が生じた。加えてウミは話す。 「中国社会にもともと存在する父権的な文化と、中国共産党の専制体制(ヘゲモニー政党制)は、非常に親和性が高いと思うんです」  確かに、習近平政権のトップダウン型の統治のもとで、中国共産党政権が持つ家父長制国家的な性質がいっそう強化されたことは事実だろう。人事において習の側近ばかりが優遇されるネポティズム(縁故主義)が横行し、官僚たちはそんな習の意向を忖度して忠誠合戦を繰り広げた。硬直的なゼロコロナ政策も、そのなかから生じた。  加えて、中国共産党の幹部人事には、性別を理由とした明らかな「ガラスの天井」が存在する。なかでも、白紙運動の直前の第20回共産党大会で発表された、第3期習近平政権の高官の顔ぶれは、党政治局員24人の全員が1960年代以前に生まれた漢族の中高年男性のみで占められるという、極めて多様性に欠けたものだった。  中国の若者の間で高まっているフェミニズムが、体制批判的な性格をはらむのは必然でもあった。白紙運動に参加したエリート層の若者の一部については、これらの問題意識から政府に声を上げていたのである。 ◆  いっぽう、東京における白紙運動の参加者には、別のイデオロギーの持ち主もいた。たとえば11月30日に新宿駅南口で開かれた集会では、こんなアジ演説が飛び出している。 「われわれの要求は中国共産党と習近平の退陣のみにとどまらない。われわれは国家と警察制度に向けた攻撃を開始する。われわれは一貫してこれらの死滅を求める!」  壇上に上がったのは、中国人留学生のアナーキスト・グループだ。メンバーの一人で24歳のバック(仮名)は、事情をこう話す。 「アナーキストとして今回の『祭り』に参加し、それを継続させたかった。これが演説の理由です。白紙運動の勃発前、11月20日に東京大学の駒場祭(学園祭)に潜入し、反習近平のビラを大規模にバラ撒(ま)いたのも僕たちなんです」  バックは来日6年目の大学院生だ。アナーキストになった直接の契機は、キャンパス内で日本人の学生グループから刺激を受けたため。ただ、中国にいたときから、魯迅や巴金、ドストエフスキーに熱中し、中国共産党とは異なる左翼思想に関心を持っていたという。 「マルクスも昔は好きでしたね。『国家の死滅』の考えは実にすばらしい。でも、それゆえにボルシェビズムやスターリニズムには違和感を覚えてきました。これらを継承した中国共産党も当然、ダメですよ」  かつて、エンゲルスはマルクスの唯物史観を発展させるなかで、共産主義社会の実現後は国家が「死滅」すると説いた。だが、現実のソ連や中国は、むしろ自国の国家権力の強化に動いた。とりわけ中国共産党は、強烈な中華民族ナショナリズムを提唱し、市場経済と格差を容認するという、マルクス主義の理想からはかけ離れた政策の数々を「中国の特色ある社会主義」という言葉で正当化している──。 写真=伊ケ崎忍  結果、真面目に左翼文献を読み込むような中国人ほど、自国の党の主張に違和感を持つことになる。現在、都内でアナーキズム文献を扱う書店や学習サークルでは、バックたち以外にも複数の、アナーキストやそのシンパである若い中国人男女のグループが観察されている。  ほか、マルクス主義に本気で向き合った若い中国人には、こんなパターンもある。 「資本主義が中国をダメにした!」  白紙運動の当時、中国の四川省成都市のデモ現場では、若者からそんな言葉が飛び出したという。  近年の中国で、反体制的な立場の一角を担っているのは、実は真面目なマルクス主義者の学生たちだ。18年8月には、中国のトップ校である北京大学のマルクス主義研究サークルの学生らが「社会主義の実践」として広東省深セン市の工場で労務運動を支援し、プロレタリアート(無産階級)万歳を呼号して労働者たちと連帯。デモや集会をおこなったことで、当局の弾圧を受けた事件も起きている。 「新宿南口でおこなわれた白紙運動の集会参加者に話を聞くなかで、過去に深センの労務運動に加わっていたと話す若者がいました」  東京で私と同じ現場を取材していた新聞記者の一人から、こんな話を聞いたことがある。  もちろん、日本で白紙運動に参加した留学生のうち、アナーキストや反体制的マルクス主義者は、多くてもそれぞれ十数人程度だ。日本で運動をリードするほどの影響力を持っていたわけではない。ただ、非常に興味深い現象なのは確かだろう。 ◆  現在、日本の経済力や国際的な影響力は中国に大きく水をあけられ、いまや技術開発力でも後れを取っている。日本に来る中国人留学生も、往年のような国家の未来を担い得る超一流のエリートは姿を消し、漫画やアニメのオタクや、自国の激しい競争社会に疲れた「のんびりしたい」タイプの人が多くを占めるようになった。  だが、それでも日本が中国に対して優位性を持つ部分はある。それは、人々がさまざまな情報を得たり、自由に思索を深めたり、同じ考えを持つ仲間と集まって語り合ったりしても、日本では決して処罰されないことだ。  また、日本語は政治や哲学などの抽象的な概念ほど、中国語と共通語彙が多い(明治期に日本人が翻訳した語彙が輸出されて中国語として定着したためだ)。ゆえに中国人にとっては、欧米諸語と比べて「難しい概念を理解しやすい」という特徴がある。なんらかの思想的人生を志した中国人にとって、日本はそれを深く学んで身につけやすい国であることも確かだ。  いまや日本は──、なかでも中国人に人気の高い大学が集中する東京は、自国になんらかの違和感を抱いた中国の若者の「避難港」のような役割を持つ土地に変わりつつある。本国ではたった数日で終わった小さな反乱は、東京が持っていたそんな側面を、図らずも浮き彫りにさせた事件だったと言えるのかもしれない。(了)※週刊朝日  2023年5月26日号
週刊朝日 2023/05/19 17:00
秋篠宮さま「性的少数者のことを常に意識していく必要がある」 「ジェンダー平等」意識の活動増やし新たな皇室像へ
矢部万紀子 矢部万紀子
秋篠宮さま「性的少数者のことを常に意識していく必要がある」 「ジェンダー平等」意識の活動増やし新たな皇室像へ
5月7日夜、イギリスから帰国し、政府専用機から腕を組んで降りてきた秋篠宮ご夫妻  眞子さんの結婚を始めとして、最近では英国の新国王戴冠式の参列など、世間からの風当たりを強く受ける秋篠宮家。一方、「国際ガールズメッセ」や全国高等学校女子硬式野球選抜大会の観戦など、ジェンダー平等に向き合う佳子さまの活動に注目が集まっている。AERA 2023年5月22日号の記事を紹介する。 *  *  *  秋篠宮さまは2006年11月、誕生日にあたっての記者会見で女性皇族の役割についてこんなふうに述べた。「私たち(男性皇族)と同じで社会の要請を受けてそれが良いものであればその務めを果たしていく。(略)これにつきましては、私は女性皇族、男性皇族という違いは全くないと思っております」  悠仁さまが生まれて2カ月余りのことで、これが秋篠宮さまのジェンダー意識の出発点だとすれば、22年に出版された『秋篠宮』にはその進化形が見える。著者の江森敬治氏が秋篠宮さまから直接聞いたのが、こんな言葉だ。「多様なジェンダーが認識されている現在、私の周辺環境においても性的少数者のことを常に意識していく必要があると思っています」  秋篠宮さまと30年以上に及ぶ親交がある江森氏の筆から浮かび上がる秋篠宮像に触れ、佳子さまのジェンダー観のルーツは秋篠宮さまなのだと理解した。だからこそ、秋篠宮家は「ジェンダー平等」を意識した活動を増やせばよいと思うのだ。新たな皇室像はきっと浸透し、秋篠宮家の存在感も増すはずだ。 戴冠式前日の5月5日、レセプションでチャールズ新国王と談笑する秋篠宮ご夫妻。紀子さまは淡いロイヤルブルーのドレス姿だった(KCS/アフロ) ■これまでずっと民間機  とはいうものの、昨今の佳子さまといえば、「両親との不仲&別居」がもっぱらの話題だ。ことの真偽を知る立場には全くないが、28歳の働く女性が両親からの独立を願うことはごく普通のことだと思う。親子が一緒に住もうが住まなかろうが、そんなことどちらでもよいと小さく訴えつつ、秋篠宮さまと紀子さまの「腕組み」に話を戻す。  お二人は13年からの10年間に、15カ国を公式訪問している。といってもコロナ禍前までだから、実際は19年までの6年間なのだが、タラップで腕を組んだことがあったのだろうかとふと思い、過去の写真を探してみた。 4月2日、東京ドームで行われた全国高校女子硬式野球選抜大会決勝、神戸弘陵─花巻東戦を観戦する秋篠宮家の次女佳子さま  見つからなかった。腕を組んでいる写真がないのではなく、タラップでの写真がないのだ。お二人が政府専用機に乗ったのは今回が初めてで、それまではずっと民間機を使っていた。そのためタラップでの撮影機会がなかったというわけだ。  令和になり、「皇嗣」になった19年にもポーランドとフィンランドを訪問したが、その時も民間機だった。訪問前の記者会見では、警備についての考え方が質問された。秋篠宮さまは、「私の気持ちとしては、警備は確かに大事かも知れませんけれども、それによって市民生活に何か不都合なことが起こる、それは避けたいなと思っています」と答えた。 ■感覚をアップデート 「初の政府専用機」に関連して、朝日新聞デジタルは「秋篠宮さまは、一般の人と同じ列車の車両に乗ったり、天皇ご一家や上皇ご夫妻のような車両の交通規制をしいたりせず、自然体を好むことで知られる」と報じていた(5月4日配信)。 「一般の人と同じ」は、秋篠宮さまそのものだと思う。「皇太子家の次男」として生まれ、いずれ天皇になる長男ではない自分を見つめ、「一般の人と同じ」視点でいようと決めた。そう拝察している。飛行機もそうだったし、ジェンダー意識もそう。アップデートすることが「皇太子家の次男」にとってごく自然なことで、それが「秋篠宮家の次女」に受け継がれている。  戴冠式後、秋篠宮さまは「とても荘厳で、喜びに満ちた良いお式だった」と語っていた。紀子さまともども、穏やかな表情だった。国内でも、穏やかがいいに違いない。そのためにも「ジェンダーの秋篠宮家」の積極的な打ち出しを。かなり本気でそう思っている。(コラムニスト・矢部万紀子) ※AERA 2023年5月22日号より抜粋
皇室
AERA 2023/05/17 07:30
議会総選挙の投票率は72%「政治はみんなのもの」 フィンランドの民主主義教育の現場を歩く
議会総選挙の投票率は72%「政治はみんなのもの」 フィンランドの民主主義教育の現場を歩く
選挙期間中の街並みの風景。駅や電車の中などにポスターが掲示されている。やはり女性候補者の多さは印象的だ。候補者には番号が割り振られ、投票では番号を記入する。小さな子どもを連れて家族で投票に来る人も多い。選挙小屋ではクレープやキャンディーが振る舞われ、まるでお祭りのようなにぎやかな雰囲気だ(撮影/高橋有紀)  世界最年少の首相が誕生するなど、若者や女性の政治進出が盛んなフィンランド。その土壌はどのように作られるのか。4月の総選挙や学校での主権者教育を現地で取材した。AERA 2023年5月15日号より紹介する。 *  *  *  甘い香りに誘われて立ち寄ってみると、焼きたてのクレープに長い行列ができていた。  フィンランドの首都、ヘルシンキ中心地のショッピングセンター前。「選挙小屋」と呼ばれる各政党のブースが立ち並んでいる。クレープやドーナツをコーヒーとともに振る舞っているのは各政党のサポーターだ。風船やキャンディー、オートミール、反射板キーホルダーにコンドームまで、工夫を凝らした様々なグッズも配られ、まるでお祭りのような雰囲気だ。 ■私の1票が結果を左右  この日はフィンランド議会総選挙の投票日前日。2019年に世界最年少の34歳で首相に就任したサンナ・マリン首相が率いる与党「社会民主党」、中道右派の「国民連合党」、右派でポピュリスト政党の「フィン人党」の三つどもえの戦いとなり、政権の行方が世界から注目されていた。事前の世論調査ではいずれも得票率19%前後という接戦。国民にとっては、自分の1票が結果を左右する緊張感と興奮を感じられる選挙に違いない。  選挙小屋を訪れていた若い男性の一人は、「投票はもう済ませたんだけど、今日はいろんな人の話を聞けたらと思ってここにきたんだ」と話した。  投票日5日前に締め切られる事前投票は、40%超えと過去最高の事前投票率を記録した。彼のようにすでに投票を済ませた人も多いはずだが、足を止めてはおしゃべりに花を咲かせる人が多い。  ところで、日本で選挙の風景と聞いて真っ先に思い浮かぶのは、あの騒がしい「音」のように思う。候補者の名前を連呼するのみの選挙カー。街角での演説はマイクや拡声器が必須だ。  一方、フィンランドの選挙中の街中の風景にはあまり「音」の印象はない。駅前などに候補者が立っているのは見かけたが、数人の支援者がいてチラシを手渡ししながら道ゆく人と話をするだけで、静かなものだ。  学校の課外授業なのか、中学生らしき子どもたちが選挙小屋の各スタンドを回って話を聞いている姿も見られた。子どもたちがいて、コーヒーがあって、カラフルなのぼりが並んで。誰もが気軽に立ち寄り参加できるオープンさがある。 ■園児が行き先を投票  翌日の投票日は、街のあちらこちらで国旗が掲げられていた。  ヘルシンキ市中央部の投票所では、今回初めて投票にきたという18歳の男性が票を投じていた(フィンランドで選挙権を持つのは18歳から)。ネットで各候補者のインタビューなどを読み、「values(価値観)」を重視して誰に投票するかを決めたという。 3月17日に行われたユースエレクション(模擬選挙)の様子(写真提供/クロサーリ総合学校) 「フィンランド人はみんな学校で(政治に関する)ベーシックな知識を学んでいますし、模擬選挙でも投票したことがあります」  父親とともに投票所を訪れた19歳の男性も、今回が初めての投票だという。 「ソーシャルメディアを見たり、父や友人と話し合って(投票先を)決めました」  家族や友人と政治の話をすることが、ここではごく当たり前のことなのだ。最終的な投票率は72%。政治はみんなのもの、という意識がその根底に流れているように感じる。  1906年、ヨーロッパで初めて男女同時に参政権(被選挙権含む)が与えられたのはフィンランドだ。翌07年には19人の女性議員が誕生した。現議会では女性議員の割合は47%。大臣も19人のうち11人が女性だ。政党の党首を務めるのも女性のほうが多い。選挙時点での最年少議員は24歳、最高齢議員は72歳だ。  何の努力もせずに、若者の政治参加への意識が醸成されているわけではない。前回2019年の総選挙では若年層(18~24歳)の投票率は55%だったが、前々回の15年よりも8.2ポイント上昇した。  若者の社会参加を促すための大きな役割を担っているのが、フィンランド若者協議会「アッリアンシ」。年間予算は250万ユーロ(約3億6千万円)で、うち65%が教育文化省から下りている予算だ。 「社会参加は自動的に身につくものではない。教えてもらう必要があります。それもなるべく早い年齢から始めるのがいい」  と説明するのはアッリアンシ上級顧問のヤルッコ・レヒコイネンさん。 「例えばある幼稚園では、5歳児に投票させてその日どの公園に遊びに行くかを決める、といったことをしています」  全国の9年生(日本の中学3年生に当たる)を対象に行う「ユースエレクション」(模擬選挙)をコーディネートするのもアッリアンシだ。選挙期間中に、実際の政党・候補者に対して模擬投票を行うもので、全国的な民主主義教育のビッグイベントだ。今回の選挙では全国800校が参加し、9万人の生徒が投票した。投票所は学校だが、一連の流れは実際の投票とまったく同じように行われる。自分の考えに近い政党や候補者を知ることができる「選挙コンパス」(ボートマッチ)や、投票作業に必要な道具などを同団体が用意してくれるので、各学校側が大きな負担を負うことはない。 ■SNSの情報見極める  集計された結果は、選挙期間中にメディアなどで発表される。今回はフィン人党が得票率1位という結果になったが、各政党にとっては、若い世代の意向を確認し、SNSなどを中心としたキャンペーンがうまくいっているのか知る機会にもなる。 「ユース・パーラメント」の様子。前方に座るのは現役大臣たち、2階席にはレポーターを務める生徒たちも(写真提供/フィンランド議会)  模擬選挙に参加したある学校の9年生の公民の授業を見せてもらった。この日は、各党の安全保障政策について調べてプレゼンの準備をしている、と二人の男子生徒が説明してくれた。模擬選挙について聞くと、 「国民連合党に投票しました。友達のお父さんが応援しているから」 「僕も国民連合党に投票しました。家でもウクライナのことやNATOのことを話したりします。3年後(18歳になったら)もちろん投票に行くつもり」  政治に興味を持つのは、ごく当たり前のこと。そうでなければ世の中で何が起きているのかわからないのと同じこと、と二人が口をそろえる。  模擬選挙で得票率トップのフィン人党は、動画投稿SNS「TikTok」で若年層の支持を広げたと言われている。別の女子生徒は言う。 「TikTokはよく見るけど、政治に関するTikTokk上の情報は信じていません。あれは単なる広告だから。私にとって重要なトピックは、人権やレイシズムに関すること」  氾濫する情報に惑わされず、真偽を見極めるメディアリテラシー教育も行き届いているようだ。  模擬選挙だけでなく、国会や市議会にも「ユース版」が存在し、これらも民主主義教育の一環を担っている。例えば「ユース・パーラメント」は2年に一度、150校から14~15歳の199人の“議員”が参加する。隔年で国会議事堂での本会議が行われ、質問には現役の大臣が回答する。  一方「ヘルシンキ・ユース・カウンシル」はヘルシンキ市議会のユース版だ。13~17歳の議員30人が隔年で選出される。市の運営に関する計画や様々な意思決定において、若者の声が確実に反映されるようにすることが彼らの任務だ。年間1万ユーロ(約145万円)の予算を市から受けている。21年は74人の候補者が立候補した。市内を走るバスの中に充電用コンセントが設置されたのは、ユース・カウンシルの働きかけで実現した施策の一例だという。  政党の青年部に当たるユース党の存在感も大きい。ユース党での活動後、議員のキャリアを選ぶ人も少なくない。サンナ・マリン氏も20代の頃に社会民主党のユース党に参加し、2010年からの2年間は副代表を務めていたと言われる。 ■「声が届く」と感じる 「興味あるトピックを見つけてもらえるようにするのが青年部の役割」(左派連合青年部のヒッラ・コスケラさん)というように、若者と政治の接点を作り出す役割も果たす。  特にSNSでの発信に力を入れているフィン人党青年部のアミ・キマネンさんは、 「ややこしいと思われている政治のこともTikTokならシンプルに伝えられます。(若者は)希望が見えなければ(政治に)参加しない。希望を取り戻すことが大事だと考えています」  こうして用意された様々な「場」は、政治的なキャリアを選択する人にとって、経験を積む場となるだけではない。一人ひとりが自分たちの「声が届いている」と感じる体験になるからこそ、シチズンシップが育まれていく。(ライター・高橋有紀) ※AERA 2023年5月15日号より抜粋
AERA 2023/05/13 07:30
小島よしおが「芸能人になりたい」という中1女子に教える、芸能界で活躍する人の特徴とは?
小島よしお 小島よしお
小島よしおが「芸能人になりたい」という中1女子に教える、芸能界で活躍する人の特徴とは?
小島よしおさん(撮影/松永卓也=写真映像部) 「芸能人になりたいけど、勉強との両立ができるのか」という相談を送ってくれたのは、中学1年生の女の子。数多くの子ども向けライブを開催し、YouTubeチャンネル「おっぱっぴー小学校」も人気の小島よしおさんが子どもの悩みや疑問に答えるAERA dot.の本連載。芸能界で活躍するには「キャラクター」が大事だといい、小島さんがどうキャラクターを見つけたのかや、勉強と両立させる方法などをアドバイスします。 *   *  * 【相談39】私は将来、芸能界で活躍する人になりたいです。いま活躍されている方を調べてみると、小さいころにスカウトされて入った美男美女さんが多いと感じました。確かに、同じ道を通る必要はないんだろうとは思います。それでも、スカウトされるのは奇跡だし、難関校への受験もあきらめられません。勉強か芸能か、自分の意志の弱さをどうしたらいいのか……など考えれば考えるほどわからなくなります。私事で申し訳ないですが、どうしたらいいでしょうか。よろしくお願いします。(まーちゃん・中学1年生・女子) 【よしおの答え】 まーちゃんピーヤ、よしおはまーちゃんのこと、意志が弱いなんて思わないよ。中1って将来に悩み始める時期だろうし、そこで「芸能の道だー!」と突っ走らずに自分のやりたいことをじっくり考えられるのは、とっても堅実なんだろうな、って感じたよ。  それに加え、「いま活躍されている方を調べてみると」という、行動力! なかなかできることじゃない。この時点で、まーちゃんには堅実さと行動力があるってことがわかったよ。勉強か芸能という夢のどちらをとるべきか、夢をかなえるためにはどんなことができるのか、よしおと一緒に考えてみよう。  周りの芸能人がよく言うのは、「学生時代、もっと勉強しておけばよかったなあ」って言葉。それで実際大人になってから大学受験をし直して大学に入るという人も多いんだ。  よしおは芸人を目指し始めたのは大学生のころなんだけど、「大学生のころ、もっと勉強しておけばよかったなあ」ってしょっちゅう思うし、勉強したいからいま、たくさん本を読むようにしている。  だから、「いましかできないこと」って考えると中学校にちゃんと通って勉強することになるのかな、って思った。でも、正直「勉強か芸能か」って決めつける必要はないと思うんだ。だって、勉強と部活を両立させてどちらでも成果を出している人はいるし、芸能活動をしながら勉強をして難関校に受かる人もいるからね。  よしおの周りの後輩芸人に聞いてみたら、芸能界を目指し始めたのは高校生くらいが一番多かったかな。そのなかでも面白いなあ、と思ったのが、学校にいながら自分が芸人に向いているかどうか試していたという話。  ある後輩は、クラスで“勝手にオーディション”を開催していたらしい。「今日はクラスの人を何人笑わせられるかな」って毎日試していたんだって。他には、高校3年生の文化祭でネタをやるって決めて、「文化祭でウケたら、芸人を目指そう」って芸人になった後輩もいた。  まーちゃんが芸能界のなかでも、モデルなのか俳優なのかタレントなのか、何を目指しているのかわからないけど、学校って発表する場が結構あるんじゃないかな。演技のお仕事がしたかったら演劇に挑戦してみればいいし、音楽がやりたかったら文化祭で弾き語りをすることもできるね。  それに、いまは昔よりも芸能界との距離っていうのが縮まっている気がするんだ。YouTubeやTikTokっていうSNSの発達によって「メディアに出る」ということのハードルが下がっているよね。何をどう発信するかはしっかり考えないといけないと思うけど、勉強に軸足を置きながら芸能の道を探るっていう方法もあるんじゃないかな? ■芸能界は“極めた人”の集まり  ところで、芸能界で活躍するのってどんな人だと思う? 「小さいころにスカウトされた美男美女さんが多いと感じました」というけれど、本当にそうかな?  よしおが芸人をしていていろんな芸能人の方に会って感じるのは、芸能界は「キャラクター」や「特徴」がとても大切な世界だってこと。たとえばモノづくりが好きとか、節約が好きとか、怖い話をするのが上手とか、みんな得意分野があるんだよね。 「個性を見つけて極めよう!」(撮影/松永卓也=写真映像部)  もしかしたら、まーちゃんはいまそういう得意分野が見つからないから悩んでいるのかなあ、って少し思ったんだけどどうかな? モデルさんや俳優さんでも、演技力があるとか独特な雰囲気を持っているとか、それぞれに個性やキャラクターがあるよね。  だけど、個性ってそう簡単に見つかるものじゃない。よしおは、学生のころダウンタウンさんとか、面白くて司会もできる芸人さんに憧れていたし、そうなれると思っていた。だって、クラスでは会話をまわしていたし、笑いもバンバンとっていたからね(笑)。  芸人になりたてのころも、「将来は冠番組持って司会するぞー!」って意気込んでいたんだ。だけど、先輩や当時のマネージャーから「いや、お前別にしゃべりうまくないだろ」って言われて、「あ、俺しゃべりうまくないんだ」って気づいた。  その当時よく一緒にいた先輩も、「芸人っていうのはみんなそれぞれの個性を爆発させてるんだぞ」って言っていたんだよね。それで「じゃあ俺はなんですかね……」って聞いたら、「お前は……優しいところだ」って。当時は「いやいや、優しいってどんな芸につながるんだよ!? どうすればいいんだよ!?」って思っていたんだけど、いまはこうやってみんなの悩みに答える仕事をしている。「先輩が見えていたところ、自分には見えていなかったんだなあ」って気づいたんだ。  さっき、「勉強に軸足を置きながら芸能の道を探る」って提案をしたけど、いまは自分の個性を見つけて磨く時期にするのもいいんじゃないかな。個性ってなかなか見つけられるものじゃないから、親や友だち、先生なんかに聞いてみるのもあり。よしおのように、「優しい」って言われるのも個性だから、必ず何かあるはずだよ。  あ、よしおが見つけたまーちゃんの個性は、「勉強が好き」ってところ。難関校への受験があきらめられないってことは勉強が好きなのかな、って思うんだけどどうだろう。勉強がきらいっていう人もいっぱいいるから、勉強が好きっていうのは大きな個性だと思うな。クイズ番組で活躍している東大王とかも、知性が個性として認められて活躍している例だね。そう考えると、勉強を極めることで芸能の道に近づくなんてこともできるかもしれないね……! ■「やりたい」という気持ちが夢をかなえる  一つ伝えたいのが、スカウトってめちゃくちゃ確率の低い話。それに、スカウトされた人もきっといろんな努力をしているから、「私はスカウトされない」なんて思わないでね。それよりも大切なのが、やりたいって思ったことにどれだけ強い気持ちを持っていられるか、そして行動できるか、やり抜くことができるのか、だと思うんだ。  芸人の世界もいろいろ変化があって、よしおが芸人になった頃(20年前)は30歳までに芽が出なかったらやめる事を考えた方がいいなんて風潮があったんだけど、最近では40歳とか50歳でブレークする人もいるよね。「若いうちに売れなかったらダメだ」とかのいわゆる“一般論”を覆すのはいつだって本人たちの強い気持ちなんじゃないかな。 「何がやりたいのか」と「何ができるのか」をてんびんにかけて生きている人が多いと思うけど、それでもよしおは「何がやりたいのか」がすごい大事だと思っているんだ。「私には無理だ。できない」って思うより、「これがやりたい」って気持ちのほうがいろんなことにチャレンジできるからね。  だから、まーちゃんはいま迷っているかもしれないけど、「やりたい」という気持ちを抑え込む必要はないし、勉強だったら両立させる方法があると思うんだ。それに、勉強はいろんなことに役立つし、はじめに言ったように勉強せず後悔している大人はいっぱいいるからね。堅実で行動力のあるまーちゃんなら、絶対に夢をかなえられると思うよ! ぜひ、自分の個性を探して磨いてみてね。  ……って、僕は思うんだけど、君はどう思うかな? (構成/濱田ももこ) ●小島よしお(こじま・よしお)/1980年、沖縄生まれ千葉育ちのお笑い芸人。早稲田大学教育学部国語国文学科卒業。「そんなの関係ねぇ!」でブレーク。2020年4月からYouTubeチャンネル「小島よしおのおっぱっぴー小学校」で子どもの学習を支援する動画を公開。キッズコーディネーショントレーナーの資格を持ち、子ども向けのイベントを多数開催している。 【質問募集中!】小島よしおさんに答えてほしい悩みや疑問を募集しています。お気軽にお寄せください!https://dot.asahi.com/info/2021100800087.html
小島よしお
AERA with Kids+ 2023/05/12 16:00
男子に続き躍進? なでしこJは今夏W杯で上位進出あるか 若返りで“期待できる”顔ぶれに
三和直樹 三和直樹
男子に続き躍進? なでしこJは今夏W杯で上位進出あるか 若返りで“期待できる”顔ぶれに
今夏のW杯でも活躍が期待される清水梨紗  2023年は4年に1度の世界大会、女子サッカーW杯が開催される年である。日本中が歓喜に沸いた2011年から早12年、7月20日に開幕する今回のW杯オーストラリア&ニュージーランド大会での「なでしこジャパン」は、果たして期待できるのだろうか。  チームを率いるのは、グループリーグ3位(1勝1分け1敗)通過から決勝トーナメント1回戦敗退と期待を裏切った東京五輪終了後の2021年10月に就任した池田太監督である。現役時代は浦和のセンターバックとして活躍し、現在52歳。引退後、浦和ユースの監督、福岡のヘッドコーチを務めた後、2017年にU-19女子日本代表の監督に就任し、2018年のU-20W杯で日本を初優勝に導いた。その手腕を買われ、高倉麻子監督の後をうけて「なでしこジャパン」を指揮することになった。  新体制の初陣となった2021年11月の親善試合は1分1敗。翌年1月から2月にかけて開催されたアジア杯でも準決勝で中国に2対2からのPK戦で敗退するなど、チームの滑り出しは良くなかった。だが、「積極的にボールを奪って素早く攻撃する」アグレッシブなスタイルを徹底し、今年2月の「SheBelieves Cup」ではFIFAランク9位のブラジル(●0対1)、同1位のアメリカ(●0対1)に惜敗するも、東京五輪優勝国のカナダには3得点を奪って快勝(○3-0)した。決定力不足という課題は残ったが、強豪国との全3試合すべてで相手を上回る数のシュートを放ち、W杯本番へ明るい兆しを見せた。  チームの守護神は、前回W杯でも正GKとしてゴールマウスを守った山下杏也加(INAC神戸)だ。安定感抜群のプレーで2021-22年のWEリーグの初代MVPに選出された実力者であり、27歳で自身2度目のW杯に挑む。その前のディフェンスラインは、昨年10月から新たに3バックを採用。優れた対人能力を持ち黄金期を知る32歳の主将・熊谷紗希(バイエルン)、総合力の高いDFで昨夏からイタリアでプレーする24歳の南萌華(ローマ)、4バックにも対応可能な27歳の三宅史織(INAC神戸)の3人の軸。宝田沙織(リンシェーピングFC)もプレー可能で、人材的に不足はない。  ウイングバックは攻守において重要な役割を担う。右の清水梨紗(ウェストハム)は不動の存在。無尽蔵のスタミナで上下動しながら高い技術と戦術眼を発揮する。左には、優れたテクニックを持ち、2016年のU-20W杯ではMVPに選出された26歳の杉田妃和(ポートランド・ソーンズ)、もしくは抜群のスピードとアジリティを持つ22歳のドリブラー・遠藤純(エンジェルシティ)が入ることが多い。ともに最後の“崩し”の部分での働きを期待されており、この左サイドがどれだけ高い位置でボールを保持し、攻撃の起点となれるかが、システム上の大きなポイントになる。  中盤はボランチ2人。チームの要として、長谷川唯(マンチェスター・シティ)が多彩なテクニックと豊富な運動量で動き回りながら、鋭いドリブルとパスで相手を撹乱。同じく長野風花(リバプール)も技術と運動量の優れた総合力の高い選手であり、ともに欧州の名門クラブで経験を積んでいる点も非常に頼もしい。さらに精度の高いキックでプレスキッカーとしても期待できる29歳の猶本光(三菱重工浦和レッズ)、U-20W杯優勝にも貢献した24歳の林穂之香(ウェストハム)らが控えている。長谷川は一つ前の2シャドーの位置でもプレー可能であり、中盤のバリエーションは豊富だ。  前線は1トップ2シャドーを採用。優れた技術とスピードで狭いスペースでも仕事ができる19歳の藤野あおば(日テレ・東京ヴェルディベレーザ)、センス抜群の23歳・宮澤ひなた(マイナビ仙台)と若い2人が2シャドーのレギュラー候補。現チームで最も経験豊富な30歳の岩渕真奈(トッテナム)は切り札として、後半の勝負の時間帯から起用される形になりそうだ。そして1トップは、23歳の植木理子(日テレ・東京ヴェルディベレーザ)が軸。29歳となった田中美南(INAC神戸)もいるが、2018年のU-20W杯で5得点を奪って優勝の原動力となった植木が、新エースとして大舞台で能力を発揮できるかどうか。若き点取り屋の爆発が、上位進出のためには求められる。  ここまで選手を挙げてきて気付くことに、ここ数年で選手が若返ったこと、そして男子同様に海外組が増えたことがある。ただ、佐々木則夫監督のもとで日本が世界一となった2011年の頃とは女子サッカー全体の事情も大きく変化しており、アメリカの強さは変わらずも欧州各国での女子サッカーの地位が向上。それによって代表チームも大きく強化されており、今年3月に発表された最新のFIFAランクでは、アメリカ、ドイツの1位、2位に続き、スウェーデン、イングランド、フランス、カナダ、スペイン、オランダ、ブラジル、オーストラリアまでがトップ10。日本は前回(2022年10月)と変わらず11位となっている。  このFIFAランクが大会結果に直結する訳ではないことは多くの者が知っているが、日本が優勝候補ではないことも確かだ。「奇跡の優勝」とも言われた2011年のW杯でも、日本のFIFAランクは5位(組み合わせ抽選会の時点)だった。果たして「なでしこジャパン」が再び、12年前を上回る“奇跡”を起こせるか。グループリーグは、第1戦がザンビア、第2戦がコスタリカ、第3戦がスペイン。男子サッカーのカタールW杯の日本代表の歓喜を思い起こさせる組み合わせ(ドイツがザンビアに変わったのみ)で縁起がいい。12年前よりも世界各国の実力差は縮まっており、思わぬ波乱が起こり、躍進するチームが出現する可能性は大いにある。再び女子サッカー界を盛り上げるためにも、今夏の「なでしこジャパン」の快進撃が必要になる。(文・三和直樹)
dot. 2023/05/09 17:30
「カエル好きのお姉さん」が昭和女子中高の校長になるまで 理系教育への情熱の“根っこ”とは
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昭和女子大学付属昭和中高の真下峯子校長 「女子は理数が弱いという思い込みを捨てれば、もっと可能性が広がる」と、理系教育に力を入れる昭和女子大学付属昭和中高の真下峯子校長。その情熱の根っこは、幼いころの植物や動物への関心にあった。理科の面白さを追い求めてきた真下先生のこれまで、そしてこれからの教育への思いとは。 <<前編:「女の子だからできない」じゃなく「やってみたらできた」へ 昭和女子中高の女性校長が語る“理系教育”>>より続く *   *  * ■生き物の不思議にひかれ、生物学科へ ――先生ご自身は子どものころから生き物に興味があったそうですね。  小学生のころから、植物や動物が好きでしたね。自然の現象について、母親にいつも「どうして、どうして」と聞いていました。母親の影響も大きくて、夏休みの自由研究を一緒にやっていました。小学3年生の担任が理科の専門の先生で、自分の研究についていろいろ話してくれ、ますます理科に興味を持つようになりました。  高校の生物の発生の授業で、カエルの卵の原口背唇部という部位が中に入り込んで神経になると教わり、何でそうなるのか不思議でしょうがなかったんです。  今でいうiPS細胞なんですね。運命が決まっていない細胞が、何かのきっかけで髪の毛や皮膚になる。その仕組みが不思議で、もっと勉強したいと生物学科に進みました。 ――奈良女子大に進学されました。  学びたい発生学の研究が進んでいるのは、京都大や大阪大でした。たまたま奈良女子大に母親の知り合いがおり、奈良女子大ならと許されたのです。関西まで行けばなんとかなるだろうと(笑)。  奈良女子大では京都大や大阪大の先生も教えていました。オープン講座もあって、京都大や大阪大に出かけて授業を受けたりもしていました。大学院の特論は学部の学生も聴講できるのですが、一流の先生が最先端の研究を講義してくれる。感化されましたね。 ――その後埼玉に戻られ、教職の道に入られたわけですね。  事情があって、埼玉の実家に戻ることになりました。でも、生物のことは好きでしょうがない。何も持っていないとカエル好きの変わったお姉さんですが(笑)、学校の先生になれば堂々と生物に関われると。 埼玉で生物の教員をしていた当時。「アユの縄張り」への興味から、友釣りに挑戦するようになった。川で知り合った、アユ釣りの師匠たちと。(写真は提供)  中学の教員免許を取ったのですが、ちょっと物足りない。そこで高校の採用試験を受けました。高校ではいろいろな材料を使いながら、授業をするのが楽しかったですね。これでもか、というほど「理科は面白いよ」と生徒に伝えました。  ただ、私1人だと担当した生徒だけにしか理科の面白さを伝えられない。もっと大勢の子どもたちに伝えるために、私と同じような考えを持ってくれる先生を育てればいいと気が付いたんです。  そこで管理職の試験を受け、埼玉県立総合教育センターの指導主事になりました。私が研修を担当した先生のなかには、スーパーサイエンスハイスクールの指定校で理科を教えている先生もいる。1人でできることは限られていますが、次世代の先生方が活躍している姿を見ると、頼もしいです。 ■女子校は女子の特性を生かした理系教育ができる ――川越女子高校では、高2での文理選択をやめ、高2までは数学をしっかりやる、としたのですよね。  川越女子高校には教頭として赴任しました。生徒は能力が高く、やる気がある。この生徒たちが、理科や数学ができない、興味がないからといって選択肢を狭めるのは、実にもったいないと思ったんです。 「好きな子はどんどんやりましょう、そうでない子もやりましょう」と、女子生徒の選択肢を広げるためには、 理系の勉強をあきらめないことだと生徒に語り続けました。その時代の子たちも30歳を過ぎて、いろいろな方面でがんばっています。 ――世の中にはまだ、女子は理系が弱いという偏見があります。女子校にできることはありますか。  女子の選択の幅を狭めているのは数学や理科です。でも、女子は苦手と思い込んでいるだけ。中高の数学や理科は、コツコツやればできるんです。  鴎友学園女子中高の吉野明・前校長が、「女子校は、女子の特性に合わせた理数教育ができる」とおっしゃっていましたが、本当にその通りだと思います。  女の子のコツコツやる特性は、実は研究向き。アイデアや発想は男子が勝っているといわれますが、そんなことはありません。研究を続けていれば、新しい着眼点が出てきます。何もないところから、発見はできません。 ――今後の課題はありますか。  工学系にも興味をもってくれればいいな、と。生徒や保護者は昔のイメージで、工学というと「ガテン系で油にまみれている」という先入観があるようです。工学はものごとをコントロールする、バラエティーに富んだ可能生がある魅力的な分野です。  ある媒体でそういう発信をしたところ、いろいろな会社から「本当にその通り。工学がわかる女子社員がほしい」と連絡をいただきました。クレーンを作っている加藤製作所からは「工場見学や体験にもぜひ来てほしい」と招待を受け、中2の生徒と保護者と出かけて、クレーンの試乗体験や、建機を設計している女性社員との懇談会に参加させてもらいました。 ――奈良女子大が工学部を開設、お茶の水女子大が共創工学部(仮称)を開設予定と、女子大に工学部をつくる動きが出ています。東京工業大や東京理科大も入試に「女子枠」を設けると表明しています。  生徒には「今がチャンスだよ」と、話しています。「女の子だから」という思い込みを捨てて学びの選択肢を狭めなければ、可能性は広がっていることを伝えていきたいですね。 (構成/柿崎明子) 〇真下峯子(ましも・みねこ)昭和女子大学付属昭和中学校・高等学校校長。埼玉県生まれ。奈良女子大学理学部卒業。埼玉県に理科の教員として赴任。埼玉県立川越女子高等学校教頭、埼玉県立総合教育センター指導主事、大妻嵐山中学校・高等学校校長などを経て2020年から現職。
中高一貫校理系教育私学
AERA with Kids+ 2023/05/02 07:00
学校現場の大問題

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クレーム対応や夜間見回りなど、雑務で疲弊する先生たち。休職や早期退職も増え、現場は常に綱渡り状態です。一方、PTAは過渡期にあり、従来型の活動を行う”保守派”と改革を推進する”改革派”がぶつかることもあるようです。現場での新たな取り組みを取材しました。AERAとAERA dot.の合同企画。AERAでは9月24日発売号(9月30日号)で特集します。

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働く価値観格差

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職場にはびこる世代間ギャップ。上司世代からすると、なんでもハラスメントになる時代、若手は職場の飲み会なんていやだろうし……と、若者と距離を取りがちですが、実は若手たちは「もっと上司や先輩とコミュニケーションを取りたい」と思っている(!) AERA9月23日号では、コミュニケーション不足が招く誤解の実態と、世代間ギャップを解消するための職場の工夫を取材。「置かれた場所で咲きなさい」という言葉に対する世代間の感じ方の違いも取り上げています。

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ロシアから見える世界

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プーチン大統領の出現は世界の様相を一変させた。 ウクライナ侵攻、子どもの拉致と洗脳、核攻撃による脅し…世界の常識を覆し、蛮行を働くロシアの背景には何があるのか。 ロシア国民、ロシア社会はなぜそれを許しているのか。その驚きの内情を解き明かす。

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