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“最強”韓国を追い越す日も? 世界ランクの推移で見る「日本女子ゴルフ界の盛衰」
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“最強”韓国を追い越す日も? 世界ランクの推移で見る「日本女子ゴルフ界の盛衰」
世界ランクの上位を長期にわたって維持した宮里藍  現地時間9日までカリフォルニア州のペブルビーチGLで行われていた海外女子メジャーの全米女子オープンは、1打差単独トップで出た畑岡奈紗に優勝の期待がかかったが、4位タイでホールアウト。海外メジャー初Vを逃した。  畑岡は、前半こそイーブンパーで折り返したが、後半に入ると4つのボギーを叩き失速。この日は1バーディ、5ボギーの4オーバー76としスコアメイクに苦労した。結果的には、優勝したアリセン・コープス(米)に6打差をつけられる通算3アンダー。最終日最終組というメジャー制覇には絶好のチャンスだったが、快挙達成はお預けとなった。  2017年から米女子ツアーに参戦している畑岡は、今季がツアー7年目。これまで2018年のツアー初勝利から勝ち星を積み重ね、昨年までツアー通算6勝を挙げている。2021年の全米女子オープンでは、当時19歳だった笹生優花とプレーオフを争い2位と大健闘。2016年に日本女子オープンで国内メジャー史上初となるアマチュア優勝の偉業を成し遂げた実力の通り、ルーキーシーズンからトッププロとしての活躍を見せている。  今季も優勝こそないが、今回の4位タイを含めてトップ10入りは4回。ポイントレースの「レース to CMEグローブ」では、今季好調で2位の古江彩佳、同16位の笹生には遅れをとっているが、日本勢3番手の同18位と安定した成績を収めている。  畑岡のハイレベルなプレーぶりは世界ランキングを見ても分かる。畑岡が米女子ツアーに参戦してからの年末における世界ランキングを見てみると、2017年以外は、全てトップ10入り(2018年7位、2019年6位、2020年7位、2021年6位、2022年10位)。今年の3月27日からトップ10を逃しているが、この調子をキープできれば、早期のトップ10復帰の可能性も十分だろう。  そんな畑岡が数年にわたり上位につけている女子ゴルフの世界ランキングは、2006年2月からスタートした。米女子ツアーや国内女子ツアー、欧州女子ツアー、韓国女子ツアーなど世界の12ツアーにおける成績をランキング化したもので、今では男子同様に女子プロたちの実力をはかる上で、欠かせないツールとなっている。  このランキングで、畑岡が、2018年以降、常にベスト10にいるのは快挙と言える。というのも、過去のランキングを眺めてみると、日本選手で長期にわたって畑岡のようにトップ10以内をキープしたり、そこに返り咲いたりしている選手が少ないから。男子以上に新陳代謝が激しい女子ツアーにおいて、トップのレベルを維持するということがどれほど厳しいのか、ということがこのランキングを見るだけでもわかる。  2006年に世界ランクが始まった当初、日本勢のトップは宮里藍だった。2005年に女子ワールドカップで北田瑠衣と優勝すると、2006年から米ツアーに本格参戦。この年は世界ランク6位で終えた。因みに同9位には同年の国内賞金女王になった大山志保がランクインしている。  宮里が、次に世界ランクトップ10で年越ししたのは2009年だった。この年はエビアンマスターズで米ツアー初優勝を達成。国内でもSANKYOレディースで優勝するなど第8位で2010年を迎えることになった。  そして2010年は、ホンダPTT LPGAタイランドとHSBC女子チャンピオンズで連勝するなど米ツアー5勝を記録。6月には世界ランキング1位に君臨した。その後の宮里は、2011年、2012年も世界ランクトップ10をキープ。同じ2012年には宮里美香も同10位でシーズンを終えた。  しかしその後の日本勢は、2018年に畑岡がベスト10入りを果たすまで、5年間にわたってトップ10以内で年越しした選手はゼロ。獲得できるポイント数が多い米女子ツアーで活躍した日本勢がいなかったことが要因となっている。  世界ランキングにおける日本勢の盛衰は、トップ100を見るとより鮮明だ。例えば2014年のトップ100人選手は14名だったが、これが2015年11人、2016年10人、2017年10人、2018年11人と低迷。しかし、2019年に14人がトップ100に収まり復調すると、2020年も13人、2021年も16名が名を連ねた。  一方、朴仁妃や申ジエ、コ・ジンヨンなど数々の世界ランクNo.1を生み出してきた韓国は、2014年のトップ100入りが39名。この数字はこれ以前、以降とあまり変わっておらず、2021年に30名、2022年に31名とやや減少した程度となっている。  また2014年にトップ100に18名いた米国勢は、その後、20名前後が続き昨年は2位のネリー・コルダを筆頭に18名。韓国勢ほどの人数はいないが、ゴルフ大国らしく安定してトッププロが輩出されているようだ。  そんな中、昨年の日本勢はトップ100に20名が食い込んだ。これは韓国に次ぐ数。今年は7月10日現在で17位の古江、19位の畑岡を筆頭に16名とややその数を落としているが、ランキングは毎週更新されるだけに、年末になるとこの数も変わって再び韓国に続く人数となる可能性も十分にあるだろう。  同日現在の韓国と米国のベスト100入りのプレーヤーは、それぞれ30名と19名。3強の中で、今後はどのくらいの日本勢が世界ランクトップ100にランクインするのだろうか。
ゴルフ
dot. 2023/07/14 17:30
なぜ佳子さまの一人暮らしの理由が「税金節約」なのか 女性皇族が住む昭和な世界
矢部万紀子 矢部万紀子
なぜ佳子さまの一人暮らしの理由が「税金節約」なのか 女性皇族が住む昭和な世界
「ベトナムフェスティバル2023」の開会式に出席した秋篠宮家の次女佳子さま 【音声で聴くには↓こちらをクリック↓】  宮内庁が発表した佳子さまの一人暮らしとその理由。なぜ、今のタイミングなのか。そして、経費削減が理由ならば、なぜその額が示されないのか。宮内庁の突然の発表を解せない気持ちで聞いた人も多いだろう。ただ、この問題を読み解くには、令和の時代に女性皇族が置かれた環境を理解する必要があるようだ。コラムニストの矢部万紀子さんが考察した。 *   *  *  佳子さまは改修工事を終えた秋篠宮邸には引っ越さず、旧御仮寓所(ごかぐうしょ)に引き続きお住まいになっている。6月30日、加地隆治皇嗣職大夫が定例記者会見で公表した。宮内庁ホームページにも「秋篠宮邸改修について」という文書がアップされている。不思議なことがいくつもある突然の「佳子さまは一人暮らし」宣言だった。  一つは、世間ではとっくに“常識”になっている一人暮らしをなぜ今になって発表したのか、だ。2022年9月30日に「工事の終了」は発表されていた。加地皇嗣職大夫は「私的な事柄でセキュリティーにも関わる事柄なので説明は控えていたが、当初の計画から大きく変更をした内容なので、熟慮を重ねた結果、やはり説明をする必要があると考え、必要な作業などを経て発表に至った」と説明したと、朝日新聞デジタルにあった(23年6月30日配信)。  だとすると、熟慮しすぎ、と思う。「ベルサイユ宮殿」問題に学んでないぞ、と。秋篠宮邸は「ベルサイユ宮殿」だということになっている。22年9月30日には「総工費は約30億2千万円」とも発表されていた。が、額そのものよりも大理石やシャンデリアが使われているという週刊誌などの報道が相次ぎ、「紀子さま主導でベルサイユ化した」というのが“常識”になった。だからだろうか、工事終了発表から2カ月近くたった11月22日、秋篠宮邸が報道陣に公開された。「大食堂に施された大理石の棚板やシャンデリアは72年の建築当時のものを使用している。建具や照明器具、じゅうたんなどの一部も従来のものを再利用しているという」(毎日新聞デジタル、22年11月22日配信)という報道は宮内庁の説明を受けてのものだろうが、「ベルサイユ説」はいまだに消えていない。 秋篠宮邸の改修のため、秋篠宮家の仮住まいとなった「御仮寓所」=2019年2月、東京・元赤坂  だからもっと早く「一人暮らし」を発表したらよかったのにと思うが、まあこちらは打ち消す必要がないというか、世間に流布した“常識”の追認だったからのんびりしていたのかもしれない。それでも発表したのはなぜかと想像すると、たぶん「佳子さまの一人暮らし」が「秋篠宮さまとの不仲説」はもとより、「佳子さまが近くご結婚する説」の根拠にまでなって報道に使われていることが目に余ったということかもしれない。  だとしても「一人暮らし」の理由を、「経費削減」にしたことが不思議でしょうがない。宮内庁の説明をまとめると、「旧御仮寓所の一部に私室を残し、結婚前の眞子さん、佳子さまが引き続きお住まいになるようにすることで、改修規模が小さくなり、経費が削減できる」という判断だという。眞子さんが結婚したことで結果的に一人暮らしになった、ご一家で相談して決めた。そう強調もされていた。 「経費=税金」だから、「一家そろって、国民を思って決めたこと」というストーリーであり、結果的に「不仲説」も打ち消す。そういう作戦なのだとしたら当然、「いくら節約できたか」をセットに発表すべきだった。それなのに、「具体的な数字はお示しできるものを持っていない」(加地皇嗣職大夫)では、誰も納得できない。脇が甘いというか呑気というか、とにかく謎すぎる作戦だ。  さて、ここからは少し違う話をする。「節約という理由でしか一人暮らしを始められない佳子さま」について考えたい。  佳子さまは28歳で、12月には29歳になる。公務という「仕事」をたくさんこなす、一人の女性だ。そのくらいの年齢の女性が「親元で暮らすのでなく、一人で暮らしたい」と思うのは、ごく自然なことだと思う。それは親と仲がいいとか悪いとか、そういうことと関係ないもので、一般的には「独立心」という。実に当たり前な感情だが、それを実現することに大変な困難がある。それが女性皇族なのだ。  と、「女性皇族」と書いたが、これは“正式名称”とは言い難い呼称だ。というのも、皇室典範には「皇族女子」とあるのだ。皇室典範第2章第12条は、皇室典範で唯一「皇族女子」が主語の条文だ。こう書かれている。 <皇族女子は、天皇及び皇族以外の者と婚姻したときは、皇族の身分を離れる>  女性皇族を「働く女性」とみなし、「皇室」を彼女たちが所属する組織だとみなす。すると彼女たちについて決まっているのは、結婚したら退職する、つまり「寿退社」だけなのだ。辞める決まりだけしかない組織で一生懸命働くって大変だと思う。それ以前に、もしかしたら「寿退社」という言葉は死語かもしれない。少なくとも、リアルだったのは昭和までだろう。  そもそも現行の皇室典範が制定されたのは、1947(昭和22)年。制定にあたり描かれた皇室像は、男性皇族がたくさんいて、女性皇族は若くして結婚するという世界だったはずだ。宮内庁ホームページに「ご結婚により、皇族の身分を離れられた内親王及び女王」という一覧表があるが、昭和20年代から40年代までに身分を離れた3人は順番に21歳、21歳、22歳で結婚している。卒業し、就職はせず、家事を手伝い、間もなく結婚する。それが女性の生き方として珍しくなかった時代だ。  話を佳子さまに戻す。佳子さまは普通に独立心を持っている。そこを出発点に、勝手な想像を書いていく。佳子さまが住んでいるのは、結婚まで実家暮らし一択の昭和モデルだ。かつて「一刻も早く実家を出たかった女子」だった私など、それだけでもさぞや息苦しいだろうと思う。そこに持ち上がったのが、父親の立場の変化に伴っての実家の改築話だ。仮住まいを経て、増築された家に引っ越すという。これは大チャンス。私が佳子さまだったら、絶対にそう思う。仮住まいに自分が残れば、親と離れて暮らせる。仲がいいとか悪いとかでない、独立したいのだ。これを逃す手はない、と。  佳子さまがそう考えたと想像すれば、宮内庁も堂々と最初から発表すればよいのに、と思う。だが、宮内庁だって昭和モデルの世界の一員。女性皇族の「独立心」を、どのように発表すべきか悩んだはずだ。そうこうするうちに、「一人暮らし」が世間に知れ渡り、不仲説だの結婚説だの根拠にまでされだした。あわてて考えたのが、昭和も平成も、そして令和でも通用する「税金の節約」。それを理由にし、佳子さまが持っている健全な「独立心」にはふれないこととする。以上、6月30日の公表内容から想像した宮内庁の作戦だ。  その作戦を後押ししたであろうものは、「女性宮家」問題だろう。次代を担う世代の男性皇族は秋篠宮家の悠仁さまだけ。そういう事態に、議論されている。と言っても、有識者会議がまとめた案を国会は受け取っただけで、事実上たなざらしにしているのだが、とにかく政治的な事項になっている。  そういう状況にあって、佳子さまの一人暮らしの理由を「独立心」と公表したとしよう。佳子さまが「女性宮家を望んでいる」証左のようにされる可能性もある。そう部外者の私が思うのだから、宮内庁は全力で思ったに違いない。そんなこんなでまとまったのが、「節約のための一人暮らし」だったと論を進めて思うのが、佳子さまはどう感じているかということだ。  佳子さまはとても率直な女性だ。2019年、国際基督教大学を卒業するにあたっての文書回答での「私は、結婚においては当人の気持ちが重要であると考えています。ですので、姉の一個人としての希望がかなう形になってほしいと思っています」はとても有名だ。最近の公務で目立つのがジェンダー平等への理解と関心で、20年から22年まで「国際ガールズメッセ」に寄せたメッセージでは、「誰もが人生の選択肢を増やすこと」「自らの可能性を最大限生かしていけること」「それが当たり前の社会になること」を述べている。今という時代をきちんと見て、当たり前に生きている女性なのだと感じる。  だから佳子さまはきっと、「独立したいから、独立しました」と言いたいに違いない。それなのに、「節約のための一人暮らし」などということになってしまった。寿退社一択しかない女性皇族の世界。その苦しさに加えて、秋篠宮家をめぐる国民の空気もあると思う。大理石があってシャンデリアがあると、「ベルサイユ宮殿」と断定する。税金の無駄遣いという見方が一定の共感を得てしまう。それが日本の今だということで、宮内庁はそこも意識して、中途半端な「節約理論」を構築したのではないかと思う。  人生のアタリとハズレは親次第。それを親ガチャと言われると、確かにそうだなと思う昨今だ。だとすると、女性皇族という立場の親ガチャはアタリなのだろうか、ハズレなのだろうか。「佳子さまは一人暮らし」の公表で、そんなことまで考えてしまった。 【音声で聴くには↓こちらをクリック↓ 矢部万紀子さんが語る「佳子さまの魅力」】
佳子さま皇室
dot. 2023/07/14 11:30
ryuchellさん「自分らしさを隠していた経験があるから悩みに寄り添える」 生前語っていた思い
中村千晶 中村千晶
ryuchellさん「自分らしさを隠していた経験があるから悩みに寄り添える」 生前語っていた思い
直感を信じて生きてきた。時代を嗅ぎ分ける「嗅覚はあるかも」と自己分析する。「いま10代だったらティックトッカーになっていたと思います」(撮影/篠塚ようこ)   タレントのryuchellさん(27)が7月12日、亡くなったことが判明しました。AERA 2022年9月5日号の現代の肖像では「自分らしさを隠していた経験があるからこそ、同じような悩みを持っている人に寄り添える」と語っていたryuchellさん。現代の肖像の全文を掲載します。(年齢などは当時)。 * * *  タレント・比嘉企画代表取締役、ryuchell。7年前、金髪にメイクをほどこし、ハイテンションなキャラクターでテレビに登場したryuchellは、世間をあっと驚かせた。今では、ryuchellの言葉にも注目が集まるようになった。ダイバーシティー、子育て、沖縄についてと話題は幅広い。ryuchellはいつも自分に正直に生きようとしている。その生き方は、きっと私たちの価値観をも変えていく。  廊下の先にあるそのドアからは、エキゾチックで甘い香りが漂っていた。室内に入ると、赤と紫に彩られた空間が広がる。壁を飾るのはバービー人形、お菓子のパッケージ、LP盤のレコード……。芸能事務所とは思えない雰囲気に圧倒されていると、「はじめまして」と、はにかんだようなryuchell(りゅうちぇる)(26)の顔がのぞいた。黒髪に大きな瞳。少し日に焼けた肌にほどこされたメイクがナチュラルで、最高に可愛らしく、かっこいい。  7年前、初めてテレビに登場したときの印象は強烈だった。金髪にヘアバンド、1990年代からタイムスリップしてきたような“ダサかわ”ファッションにキラキラなメイク。ハイテンションなキャラクターでガールフレンドのpeco(ぺこ)(27)とのラブラブぶりを見せつけ、あぜんとする周囲をみるみるうちに自分のペースに巻き込んでいく。  その存在は大げさでなく、当時の日本人の旧態依然としたジェンダー感覚を揺さぶったといっていい。21歳でpecoと結婚。22歳でパパとなり、そのスピード感あふれる展開が、常に世の注目を浴びてきた。  そして現在。芸名を「りゅうちぇる」からアルファベット表記のryuchellに改め、自らの事務所「比嘉企画」を立ち上げた。さまざまなメディアで子育てについて語り、ダイバーシティーやSDGsなど社会の課題についても発信する。SNSで放たれるまっとうで真摯(しんし)なメッセージは多くの人の心に刺さりまくり、ニュース番組では祖母から聞いた沖縄戦について語り、若者たちに「歴史を忘れないで」と呼びかける。YouTubeチャンネル登録者数は48万3千人を超えた。  彼は変わったのか? いや、ryuchellはいつも自分の気持ちに正直に生きようと、もがいてきた。 幼い頃から可愛いもの好きのびのびと育てられた  ryuchellは1995年、沖縄県の宜野湾市に生まれた。5人きょうだいの末っ子で、一番上の姉とは16歳、すぐ上の姉とは8歳年が離れている。沖縄の方言で「わしりんぐゎー」、忘れたころに生まれた子ども、というらしい。  父は「ザ・沖縄の男」。お酒好きでポジティブ、常に人を笑わせる「なんくるないさ~」精神の持ち主。いっぽう母はリアリストで細やか。ryuchellは二人の性格をきっちり等分に受け継いだ。  3歳のときに両親が離婚して、以後は母と暮らし、週に何度かは父の家に泊まるようになった。5歳の誕生日、父と母と北谷(ちゃたん)にある大観覧車に乗ったときの記憶は鮮烈だ。二人は言葉を交わすわけでなく、ただ自分のためだけに同じ空間にいてくれた。 「ああ、自分はどちらからもたっぷりの愛をもらっている!とあのとき感じた。いままでの人生で、あれを超える喜びはないですね」  年の離れたきょうだいにも可愛がられた。3人の姉たちはryuchellをバービー人形のように着替えさせ、ショッピングや彼氏とのデートにも一緒に連れていった。家に誰もいなければ近所のおばあのところで「ゆんたく(おしゃべり)」すればいい。沖縄では地域で子どもを育てる、が当たり前。寂しいと感じたことはなかった。ただ、母の苦労は感じていた。 「やっぱり女手ひとつで子どもを育てるのは大変で、お金もなくて。子どもながらに、お母さんを悲しませないようにしないといけないなあ、といつも思っていました」  母は何かを思い詰めると、ベランダでタバコを吸う。母が部屋に戻ってきたときには何か絶対おもしろいことを言って笑わせてやろう、と思った。人を笑わせる、という感覚はこのころ身についた。  幼稚園にあがる前から、自分の好きなものが、同世代の男の子とは違うことは感じていた。お人形遊びが好きで、可愛いものが好き。幼稚園でバービー人形で遊んでいると、同い年の子に「りゅうは男なのになんで?」と言われてしまった。「僕、ちょっと変?」と心の片隅で思うこともあった。  だが両親は「男らしくしなさい」などと一切言わなかった。姉たちの影響を受けながら、子ども時代はのびのびと自分の好きなものを貫いた。  もともと沖縄は、多様性が根付いた土地だとryuchellは言う。特にryuchellが住んでいた中部には普天間、嘉手納基地をはじめ広大な米軍基地があり、暮らしのそばにアメリカ兵がいる。国際結婚も多く、離婚率も高く、シングルマザーも多い。ryuchellの父方の祖父も米兵だ。父が生まれてすぐアメリカに帰った祖父について、祖母は多くを語らなかった。 2022年5月に東京・丸ビルのマルキューブで行われた「沖縄復帰50年 HAPPY OKINAWA FESTA 2022」にゲスト出演し、具志堅用高(写真左)やゴリ(右)と爆笑トークで盛り上げる。自身のルーツ・沖縄にできる限りのことをしたいと考えている。(撮影/篠塚ようこ) 「中部は貧富の差も大きくて、小学生から新聞配達をしたり、中学生から路上でアイスクリン売りをしたりするのが当たり前。僕だけじゃなくみんな『修羅くぐってる』んです。いろんな人を見るなかで多様な考え方になるし、自立心も強くなる」 「あの子誰?」「可愛い!」高校で男女から注目される  ファッション面でもアメリカンカルチャーにどっぷり影響された。ジャスティン・ビーバーにブリトニー・スピアーズ、「シークレット・アイドル ハンナ・モンタナ」などの米ドラマ、ビジュアル系ロックバンドの美しい男性たちにも憧れ、自分もああなりたい、と思った。  しかし中学に入ると状況は一変した。  ryuchellは、沖縄の中学校はヤンキーがトップに君臨するカースト社会だという。入学早々、上の階から新入生めがけて唾が降ってきた。しかし絶対に上を向いてはいけない。見上げてしまった友人は即、呼び出されてボコボコにされた。 「中学では目立ったらアウト。目を付けられないようにファッションはもちろん、話し方や好きなものが女の子っぽいということを必死に隠していたんです」  孤立する勇気はなかった。ヤンキー友達とほどよく付き合い、自分を隠して振る舞った。 「自分の好きなものを我慢するだけじゃなく、自分を捨てていく作業だった。それは、自分が弱いからなんですけど」  中2で初めてメイクをした。外では見せられない自分を発散したかったのだ。中3からツイッターに写真をアップした。もちろん鍵アカウントで、誰にもバレないように。この自分を殺した3年間が、その後のryuchellを決定づけた。もう自分を偽りたくない。地元の友達もいない、自由な高校へ行こう。そして選んだのが、学区外の県立北中城高校。実際、そこはパラダイスだった。  高1からの親友・山田祐也(26)はryuchellとの衝撃的な出会いを覚えている。 「入学式のとき、りゅうは赤髪だったんです。僕も僕の親もびっくりしたけど、でもすごく可愛かった。話しかけたらしゃべり方もめちゃくちゃ可愛くて。『りゅうちゃん、って呼んでもいい?』『嬉しいです!』みたいにして仲良くなった」  山田が特別だったわけではない。やはり高校の同級生で現在アーティストとして活動するAqua roove(アクアルーヴ)(27)も証言する。 「僕はバスケ部でモテたいがために部活をやっていたようなものなのに、りゅうのほうが断然、男子にも女子にも注目されていました。『あの子誰?』『可愛い!』って」  学年に一人は「ryuchellみたいになりたい!」と真似(まね)する男子がいた。そこにある「可愛い」に男女の区別はなかった。 所持金6万円で上京テレビ番組出演でブレイク  高1から「りゅうちぇる」の名で堂々とツイッターを始めた。プロフィルは「ちぇるちぇるらんどの王子様」。お気に入りのコーデや「盛れた」メイクをアップし続け、フォロワーは2万人を超えた。それが憧れの東京行きにつながった。 「高校を卒業したら、うちの店で働いてみませんか」。原宿の人気ショップからDM(ダイレクトメッセージ)を受け取ったのだ。「行きます!」と即決した。猛反対する母を説得し、卒業と同時に飛行機に飛び乗った。焼き肉屋での時給630円のアルバイトでためた全財産の半分を母に渡し、残りを上京資金にあてた。  所持金は6万円。東京に知り合いはいなかったが、不安はまったくなかった。  だが、すぐに厳しさに直面する。ショップには全国各地からスカウトされた個性的な子たちが集まってくる。みな店で働きながら雑誌の読者モデルとして有名になりたいと、火花を散らしていた。人とかぶらない、オリジナルな個性が何より必要だった。「負けたくない!」と、少ない給料は洋服代に消えた。毎朝、出勤時には体重チェックもある。竹下通りのケバブ屋やクレープ屋を横目に、スルメを囓(かじ)り、マシュマロで糖分を補った。  3カ月もすると、竹下通りで「ryuchellさんですか?」と声をかけられるまでになった。未来はまだ見えないけど、どうにかやっていけるかもしれない。そんなとき店に後輩として入ってきたpecoと出会った。  pecoは大阪出身。高校在学時から「カリスマモデル四天王」と呼ばれるほどの人気者だった。ブロンドのウェーブヘアに愛らしい瞳。動くバービー人形のような彼女に一目ぼれをした。 「可愛いだけじゃなくて『自分』を持っている。こんな人がいるんだ!って、衝撃でした」  pecoもまったく同じことを感じていた。 「理想の人が目の前に現れた!って思いました。自分の力だけで上京して、甘ったれたところがないのも、かっこよかった」  メイクをしている男の子に会ったのは初めてだったが、違和感はまるでなかった。すぐにお互い思い合っていることがわかり、恋が実った。東京での生活が、ハッピーに輝き始めた。  いっぽうでryuchellは別の壁にぶち当たっていた。店員に向いていないことに気づいたのだ。 「僕は本当に嘘が下手というか、どうやっても似合っていない服をお客さんに売れない。『こっちのほうが似合わない?』とか一生懸命やっていたんですけど、苦しくなっちゃって」 「比嘉企画」代表取締役としての顔も持つ。書類仕事をするのは得意。考えを整理するときには文字を書いてまとめる。手紙を書くことも多い。「本当に伝えたいことは、LINEじゃだめなんですよね」(撮影/篠塚ようこ)  店員を辞めpecoの所属事務所に移籍し、タレントとしての道も探り始めた。あるときpecoの彼氏としてテレビの取材を受けた。「彼氏として出るのに、女の子っぽいのはどうなんだろう?」と悩み、自分を隠した。結局、オンエアではカットされた。友人たちに告知もしたのに、と恥ずかしさと悔しさでいっぱいになった。そんなryuchellにpecoは言った。 「ryuchellらしくなかったからやん。てこ(peco)はいつものryuchellが好きだよ」  その言葉で吹っ切れた。やっぱり自分は、自分でいなくちゃいけない。その後はありのままの自分を全開にし、番組スタッフの目にとまり「行列のできる法律相談所」に出演。司会の明石家さんまにおもしろがられ、ブレイクした。前出の同級生・山田とAqua rooveは声をそろえて言う。 「キャラを作っていると思っていた人も多かったみたいだけど、まったく普段どおりで、高校時代から変わらない。なんならテレビ用にマイルドにしてる?って、同級生みんなが思いました」  当時からマネージャーを務める片山朝子(32)はryuchellを「瞬発力がある」と評する。 「しかも柔軟で、人の意見をちゃんと聞こうとする。髪の色などルックスは常に変化するけれど、しっかりした考え方や、ぶれないところは変わらない」  2016年にpecoと結婚。22歳で1児の父となり、忙しい日々は続いた。16年、17年はほぼ休みなし。バラエティー番組に多数出演し、紅白歌合戦にもゲスト出演。そんな日々のなかryuchellは次第に消耗していった。  原宿時代は「オンリーワンな個性」の戦いだった。芸能界では「おバカタレント枠」の戦いになった。番組でひとつしかない枠を奪い合う。さらに、ここでも「嘘がつけない」苦しさが生まれた。 「バラエティー番組では思っていないことを言わなきゃいけないときもある。『おいしい!』とか『これ流行(はや)ってる!』とか。大人にならなきゃ、とこなせるときもあったけど、やっぱりつらくて」  結局、ryuchellという人は正直すぎるのだ。  どこにでも馴染(なじ)めるバラエティータレントにはなりきれなかった。が、世はSNSの時代。YouTubeも話題になりだしていた。テレビにこだわることはない。 やられてもやり返さないアンチの人も抱きしめる 最近「変わったね」と言われる。「中身は変わってないけど、成長はしたかなと思います」(撮影/篠塚ようこ)   17年ごろから、雑誌や新聞の取材で自分を隠した中学時代のつらさ、故郷・沖縄への思いなどを話し始めた。バラエティー番組ではマジメな話をしたらアウト。でもSNSならできる。それまで眠らせていたものが自然に湧き出てきた。 「おバカキャラだと思っていたけれど、バックグラウンドを知って点と点とがつながった、って言ってくださる方がいて嬉しかった。自分はヘアバンド時代から変わってない。でも人が受ける印象は違うかもって思っていたから」(ryuchell)  実際SNSで心ない言葉を投げつけられることもある。あるとき書き込まれた「ブス、死ね」のメッセージ。だが考えた。その言葉を、わざわざ知らない僕に投げつけなければやっていけないその人には、どんなことがあったんだろう。言葉の裏に思いを巡らせ、こう返信した。 「僕は可愛いし、生きます。そしてあなたも、生きて」──。ryuchellは言う。 「学生時代からSNSで『男なのにメイクして』とかディスられることもたくさんありました。当時は向こうがレベル3できたら、10で返す! みたいなこともしていたんです。でも原宿時代にSNSの裏アカウントで人の過去を暴露するとか、汚い裏側を見て、やられたらやりかえす、とかはやめよう、って思った。アンチも抱きしめてあげよう!って決めたんです」  僕のテーマは愛だから。そう言えるのは自身が愛をたくさんもらってきたからだ。だから人にも愛を分けてあげたい。ryuchellの行動原理はここにある。pecoも言う。 「ryuchellがあのスタイルで、ありのままでメディアに出たことで、勇気をもらえた人はきっといると思う。自分らしさを隠していた経験があるからこそ、同じような悩みを持っている人に寄り添える。いま、そういう経験を発信して仕事にさせてもらっているのはすごいことだし、なるべくしてなったのかな、と思います」  そしてこの夏の終わりに、ryuchellとpecoは話し合い、「夫婦」を卒業する決断をした。「夫」らしく、正真正銘の「男」でいないといけない、ということにつらさを感じてしまった、とryuchellは文章で発表している。そんなryuchellをpecoは受け入れた。共同で発表した文章にpecoは「それはryuchellがほんとうにたくさんの本物の愛をくれたからだと思います」と綴った。二人は変わらず一緒に暮らし、人生のパートナーとして新しい家族のかたちを描いていくという。  より正直に、ありのままに。僕はこれからも生きていく。だから、みんなもそうして。ryuchellはそう語りかけながら、今日も誰かに愛を届けている。(文中敬称略) (文・中村千晶) ※AERA 2022年9月5日号
ryuchell現代の肖像
AERA 2023/07/12 21:10
マッチング・アプリで「いいね!」1000越え女王の「あなた何様?」発言に凝縮された結婚できない理由
マッチング・アプリで「いいね!」1000越え女王の「あなた何様?」発言に凝縮された結婚できない理由
※写真はイメージです(Getty Images)  結婚相手を見つけ、2人で退会するのがマッチングアプリのゴールだ。しかし、アプリで「いいね!」をもらうことで承認欲求を満たし、結果的に結婚が遠のくユーザーは多い。ジャーナリスト・速水由紀子氏が上梓した『マッチング・アプリ症候群 婚活沼に棲む人々』(朝日新書)から一部を抜粋、再編集し、同氏が取材したアプリに依存するある女性の実態を紹介する。 *  *  *  35歳、168センチ。スタイル抜群の元モデルのアヤさんは20年間クラシック・バレエを続け、野菜ソムリエやヨガインストラクターなど多くの資格を持つ菜々緒系の美人だ。艶やかなロングヘアに胸を強調した白ワンピースの写真はパッと目をひき、1000以上の「いいね!」がついている。  そんな彼女は常時、マッチング相手7、8人と同時進行し、新宿や恵比寿にある高級ホテルのレストランでゴージャスなディナーを楽しんでいる。 「あなたに会えるなら、とわざわざ北海道やハワイから飛行機で駆けつけてくる人もいる。当然、食事代は全部自分もちでいいと言う方しか会わない」。あっさりそう言い放つアヤさんなら、幸せな結婚なんて秒で手に入る……と思ったが、実はアプリに登録したのはもう3年前だ。  こんなモテ女性が3年間も相手が見つからないなんてなぜ?  俄然、興味が湧いてきた。 「女王」のことを知ったきっかけは、偶然、知り合った男性会員Bさんのぼやきだ。 「この前、マッチングした女性の会おうという誘いを断ったら、私に会うために会社を休んで全国から飛行機で駆けつける人がたくさんいるのに、と逆ギレされた」  そんな女性会員がいるのかと興味を持ちいろいろ聞いていくと、容赦ない弱肉強食の世界で最強種に属する猛禽女性ユーザーの生態がリアルに浮かび上がってきたのだ。  個人で飲食店を営む小柄でシャイな感じのBさんが、大手マッチング・アプリに登録したのは3年前。今までにリアルで会ったのはほんの3、4人という。 ■自分に都合のいい人にしか会わない  Bさんは恋愛に大きなコンプレックスがある。これまでの恋愛で本命を落とすための当て馬的な役割をさせられることが多く、「自分は本命になれない」ということがトラウマになっていたのだ。それがアプリに登録してますます強くなったという。 「モテる女性は複数進行が当たり前で、同時に何人ものマッチング相手と会って振り落としていく。ぼくはいつも最初に振り落とされる立場だから、最初から複数進行の女性はお断りなんです。プロフィールにもそう書きました」  だが、どんな巡り合わせか皮肉なことに、そんなBさんにアヤさんが「いいね!」を送ったのだ。会おうと誘うアヤさんへの返事は「お誘いはありがたいが、複数進行ならお断りします」。今まで褒めちぎるだけのメッセージに慣れていたアヤさんはこの返事に逆上した。「私に会いたいという人が何十人も待っているのに失礼すぎる。あなたは何様なんですか?」何通かのメールで立て続けに攻撃されたBさんは、今、アヤさんをブロックして防戦している。  このバトル、どちらも気持ちはわかるが、お互い結婚できない理由がここに凝縮されている気もする。つまり自分に徹底的に都合のいい相手としか会わない、それ以外は価値がない人間という偏った考え方だ。都合の良い相手というのはセフレだったり財布代わりや一方的な精神安定剤だったりするわけで、良い結婚相手とはむしろ真逆なベクトルなことも多い。  同時進行から始まるのが当たり前のマッチング・アプリで、Bさんのように「他に候補がいるなら自分を選ぶな」というのは、実は自分を特別扱いしろという傲慢さの裏返しだし、それに逆ギレして「私のようなセレブには会ってもらっただけで喜ぶべき」というアヤさんもあまりに傲慢すぎる。たとえ「いいね!」が1000の美女、イケメンでも、気に入らなければ断られるのは当たり前なのだ。  こんな2人がほんの弾みでマッチングするのだからアプリは怖い。 ■理想の結婚を目指すための努力 「いいね!」が1000超えなのに、なぜか結婚からは遥かに遠い。そんなアヤさんに興味を抱いた私は、話を聞いてみることにした。ダメもとだったが、意外にもあっさりOK。「いいね!1000超えのアプリクイーンにインタビューしたい」というコンセプトを気に入ってくれたらしい。  渋谷の某ホテルのラウンジに現れたアヤさんは、写真通りのはっきりした目立つ顔立ちに、鎖骨を見せる光沢のある黒ワンピがよく似合っている。背筋をピンと伸ばした姿勢やベルトで強調したウェストの細さに、日頃の女子力磨きの成果がうかがえた。元モデルだけあってメイクもうまく、「東京カレンダー」にワイングラスを持って登場しそうな雰囲気だ。  ひとしきりアヤさんのアプリ道について話を聞く。  最初は警戒していたが、やがて少しずつリラックスし始めたアヤさんの口から出てきたのはあまりにも意外な過去だった。  実はアヤさんは32歳まで既婚の経営者と5年間、不倫関係にあったのだ。  何度も別れたりよりを戻したりを経てこのままでは一生結婚できないと気づき、ついにきっぱりと決別。理想の結婚を目指すために、美容や資格、フィットネスの努力を重ねてアプリに登録した。20代からの貴重な5年間を不毛な不倫関係に費やしてしまったという焦りで、自分磨きの目標の設定がぐっときびしくなったという。  しかし、ここであることに気づいて衝撃を受ける。 「別れた彼は、高級レストランの10万円近いコースでもすっとブラックカードで支払ってくれる人。いつの間にかそういう金銭感覚の相手としか付き合えなくなっていた」  どんなに好きな相手とでも、毛玉のついた服を着て夕食にコンビニ弁当を食べるような生活は絶対ムリだと思った。住所は港区か世田谷、新宿、渋谷、品川区以外は許せない。子供も欲しいし、いい大学にも入れたい。子育て中もエステやフィットネスは欠かせない。だからマッチング相手に高級レストランの支払いを求めるのは、相手の経済力や生活力をチェックするための第1次審査だ。それに応じる人しか第2次審査デートに進めないという。 ■本気で好きになった年下のイケメン 「第2次審査は相手の子供が欲しいか、の見極め。ルックスとか頭脳、才能とか……どうしてもその人の遺伝子が欲しい!と思える人なら」  が、次々につく「いいね!」の中には別の罠があった。  実はアプリ初心者の頃に出会い、本気で好きになった年下のイケメンに、やり逃げされてしまったのだ。彼も「いいね!」1000超えの人気者で、プロフィールにはIT経営者、年収1000万円、未婚、と書かれていた。白シャツが爽やかな坂口健太郎似の41歳で、新宿のレストランで会った時も、「アヤさんとは結婚を前提に考えていきたい。他の男性にはもう会わないでほしい」と情熱的に話していた。  その真剣さに負けて二次会はバーへ、そしてそのままホテルに宿泊した。セックスもおしゃべりも音楽も相性は最高で朝まで夢のように楽しい時間を味わい、この人こそが運命の人だと実感したという。が、相手はアヤさんと関係を持った後、LINEの連絡もぷつんと途絶え、すぐにアプリを退会して姿をくらましてしまった。セックスだけが目的のヤリモクが運営に訴えられないように、よく使う手だ。 「いつもならそんな失敗はしない慎重派なのに、この時だけは『ど真ん中のタイプ』だったため見誤った。ディナーの料金も請求しなかったし単に遊びたかったんでしょうね」  その悔しさはいまだに尾を引いている。それ以来、自分も多くの「いいね!」を集めて、マッチング相手を転がすことしか考えられなくなった。 「相手が自分のためにどこまでしてくれるかを見極めて、それを付き合うかどうかの判断材料にしています。相手が支払う額はその証明っていう感じですね。口先だけでなんとでもごまかせる言葉より、苦労して稼いだお金のほうがよっぽどバロメーターになる」  理想の結婚のためだった努力が、いつの間にか「いいね!1000」のアプリクイーンを維持することに変わっていた。アプリは一度ついた「いいね!」がずっと保存されるわけではなく、毎月「いいね!」が新しく増えないと目減りしていく仕組みだ。何か呟いたり、写真を追加したり、新しいコミュニティに参加したりして活動しないと、プロフィールが人々の目に触れる機会も減り、「いいね!」はどんどん減っていくことになる。 ■女王の座を守るための集票活動  そこでアプリ有名人を目指す人々は、毎晩、水面下で自分に「いいね!」をくれそうな、そこそこの男性・女性に足跡や「いいね!」をつけまくり、気がある演出をしている。そうすることで自分の存在を認知させられるし、こんな素敵な人から足跡をつけられた、「いいね!」を送ろうという気持ちにさせられるからだ。  アヤさんもこの人なら自分に興味を持つのでは? という男性に足跡をつけたり、時には「いいね!」をして相手のアクションを誘導する。Bさんに「いいね!」を送ったのも、そういう女王の座を守るための集票活動だ。  あるマスコミ関係の38歳男性は、毎晩100人近くに足跡をつけるという。 「100人中、10人『いいね!』がくればいいかな……と。自分から『いいね!』をつけるより、向こうからつけてもらったほうがうまくいくことが多い。200超えあたりから、『いいね!』の数だけでも興味を持ってもらえるので、多いに越したことはないですね」  たかが「いいね!」一つにそんな政治的な意味があったとは。「いいね!」を1000もらってもそれで結婚できるわけでもないし、ポイントや現金に還元できるわけでも、「いいね!」最多賞をもらえるわけでもない。  すべて自己満足だ。  アプリのビギナーは、こんな水面化の熾烈な足掻き合戦に驚愕するに違いない。  アヤさんがBさんに「いいね!」をしたのもそんな演出戦略の一環だった。「いいね!」を限りなく集めることも、マッチング・アプリの沼から出られない依存の麻薬と言えるかもしれない。  だが、いつまでクイーンを続けたら満足できるのか。 「子供を産めるリミットが近づいているので、そろそろ覚悟を決めないと。でもこれまでがんばってきた努力の投資は必ず取り返したい」  それから3ヶ月。アヤさんはまだ第2次審査を通過する相手に出会えず、毎日山のように来る「いいね!」の数と反比例して結婚は遠のきつつある。 ●速水由紀子(はやみ・ゆきこ)大学卒業後、新聞社記者を経てフリー・ジャーナリストとなる。「AERA」他紙誌での取材・執筆活動等で活躍。女性や若者の意識、家族、セクシャリティ、少年少女犯罪などをテーマとする。映像世界にも造詣が深い。著書に『あなたはもう幻想の女しか抱けない』(筑摩書房)『家族卒業』(朝日文庫)『働く私に究極の花道はあるか?』(小学館)『恋愛できない男たち』(大和書房)『ワン婚─犬を飼うように、男と暮らしたい』(メタローグ)『「つながり」という危ない快楽─格差のドアが閉じていく』(筑摩書房)、共著に『サイファ覚醒せよ!─世界の新解読バイブル』(筑摩書房)『不純異性交遊マニュアル』(筑摩書房)などがある。
書籍朝日新聞出版の本
dot. 2023/07/10 11:00
半身不随の愛猫はハンデがあってもキャットタワーをすいすい お転婆娘と飼い主が描く将来とは?
水野マルコ 水野マルコ
半身不随の愛猫はハンデがあってもキャットタワーをすいすい お転婆娘と飼い主が描く将来とは?
足に障害があるピリカ(右)と小町(左)、つや姫(上)の“お米軍団”(提供)  飼い主さんの目線で猫のストーリーを紡ぐ連載「猫をたずねて三千里」。今回ご紹介するのは、東京都在住の40代の北村環奈さんのお話です。2匹の先住犬と暮らしていた北村さんは、動物愛護団体でのボランティア活動を機に、人生で初めて猫を家族に迎えました。同時に3匹、しかも1匹は足に障害のある猫です。日々世話に追われながらも、“無敵の可愛さ”に癒されているといいます。将来の夢も含め、大事な存在について語ってもらいました。 *  *  *  子どもの頃からいろいろな動物と暮らしてきましたが、なぜか、猫と暮らす縁がなかったんです。そんな私のもとに女子猫3匹がやってきたのは、昨年12月24日、クリスマスイブでした。まさに、クリスマスプレゼント、という感じです。  名前は「(ゆめ)ピリカ」(1歳2カ月)、「(秋田)小町」(推定2歳)、「つや姫」(推定3~4歳)。みんなお米の銘柄の名にしたので、“お米軍団”と呼んでいます(笑)。「ピリカ」は、アイヌ語で「美しい」とか「きれい」というような意味ですが、『Pirka』いうタイトルの写真集を以前に見て感銘を受け、そこから名づけた経緯もあります。  お米軍団と初めて会ったのは、昨年8月。体調を崩して仕事を辞めていたのですが、少し時間ができたので動物愛護団体で保護猫のボランティアを始めたんです。トイレ回りの掃除をしたり、ごはんをあげたり、一緒に遊んだり。ミルク猫への哺乳も経験しました。  ボランティアを始めた当初、シェルターには成猫と子猫が30匹以上いました。子どもの頃に野良猫にごはんをあげたことはありますが、シェルターにきて猫ときちんと触れ合い、喉を鳴らすあの音を聞きました。「これがあのグルグルか。猫によって音色や大きさも違うのだな」と新鮮に思ったものです。 ピリカの愛らしい赤ちゃん時代(提供)  ボランティアを続けているうちに、子猫の里親が次々に決まり、卒業していきました。でも1匹、誰よりも可愛くてやんちゃな子猫の家族が決まりません。実は両方の後ろ足がマヒして引きずるように歩き、トイレも人の手を借りないとうまくできないハンディキャップがあり、初めから団体が里親募集をしていなかったのです。それが、「ピリカ」です。 仲良し親子の小町(上)とピリカ(提供) ■普通の幸せを感じてほしい 「ピリカ」は母猫「小町」が“馬小屋”で産んだ子猫で、発見された時にはすでに下半身不随だったそう。馬が蹴ってしまったかわかりませんが、何か事故があったのかもしれません。  兄妹や他の子猫の卒業がどんどん決まるなか、残ってしまった「ピリカ」を見て、私は「この子にも普通の家庭で幸せになってほしい」「うちに来たらいいなあ」と、思うようになりました。背中に大きなハートのある「ピリカ」のことが、会うたび好きになりました。  私には、もう一匹、気になる猫がいました。白黒のくっきりした顔で体に牛のような模様がある「つや姫」です。そもそも成猫はもらわれにくいのですが、スタッフは「強面のお顔だから決まらないのかも」と推測していました。でも「つや姫」はかっこいいのです。  毛色はモダンな着物柄のようで、性格は親分肌。子猫がご飯を食べ終わるまで待っているし、オス猫には強めの猫パンチを浴びせたり、シェルターにいる大型犬に立ち向かったりする。そんな「つや姫」は、「ピリカ」と「小町」親子と気が合うようでした。 親分肌のつや姫(提供)  11月末頃、「小町」を希望する家が見つかり、トライアルに出ることになりました。その間に私は「ピリカ」と「つや姫」を家で預かりたいと思い、団体の代表に話をしました。預かれば、新たな猫をシェルターにいれ、里親に出すチャンスも増えます。そうこうしているうちに、「小町」が「家に慣れない」という理由でトライアル先から戻ってきたので、合流して、結局3匹がイブに家にやってくることになったんです。  もし我が家に慣れたら、預かりでなくいずれうちの子にという思いがあり、団体の方々も背中を押してくれました。そうして今年2月、“正式”に3匹が我が家の猫になりました。 真剣に遊ぶ姿も可愛らしい(提供) ■楽しい毎日には朝晩の圧迫排尿も  2階の夫の部屋を猫部屋にして、階下の犬と生活を分け、ドアの前には脱走防止柵とビデオカメラ、キャットタワーも設置しました。  犬ほどべったり甘えてこないけれど、遠慮がちにすりすり体を付けて、喉を鳴らしてくれる。みんな遊び好きで、猫じゃらしを振ると、一人ずつ順番待ち。たまに我慢できずに割り込む子もいたりして(笑)、全力で遊ぶのが面白く可愛いと思いました。 仲良く遊ぶ3匹、ケンカは一度もない(提供)  3匹の関係は良好で、家に来てからケンカは一度もありません。プロレスはしますけどね。「小町」と「つや姫」がレスリング中、ピリカは参加せずに、物陰からじーっと見ています。  かと思うと、「ピリカ」にはあざといところもあり、私が「小町」と「つや姫」を撫でていると、後ろで“ばたっ”と音がして。ふりむいたら、「ピリカ」が仰向けになっていて。「ここにいるよ」と気を引こうとして、わざと視界に入らない場所で倒れて(笑)。 ごはんも3匹一緒に。ピリカ(中央)の背にはハートマークがある(提供) 「ピリカ」も「小町」も「つや姫」を頼っている面があります。みんなの首輪を作るため、まず「小町」の首を計測しようとしたら、怖かったのか私に初めて「シャー!」。「小町」は言いつけるように「つや姫」のところにいったのですが、「つや姫」は「お母さんに向かって何してんだ」とでも言うように、ぽかんと「小町」の頭を叩いたんです。賢い!と思いましたね。  楽しい反面、大変なこともあります。  階下の犬の世話(腎臓を患って毎食手作りごはんの準備と一日おきに捕液)をしているし、散歩もあるし、そこにピリカの朝晩の圧迫排尿と排便とが加わったのですから。  圧迫排尿は、「ピリカ」にとって命綱のようなもの。しないと尿毒症になって死んでしまいます。水風船のような膀胱を外から探り、絞って尿を出します。私は立て膝をつき、「ピリカ」のお腹に手を当て、優しく均等に包み込むように絞ります。やり方は団体で習ってきましたが、「ここが膀胱ね」と自信を持って排尿させるまで、相当時間がかかりました。そして同じように、腸を押して圧迫排便をします。 ピリカはお転婆さん(提供) 「ピリカ」は布のパンツを履いています。紙のオムツだとかぶれるし、脱げてしまうので、犬の介護用パンツを作っている方に“特注”しました。パンツは8枚あって、手洗いしては干しています。勝負パンツはピンク色です(笑)  こんなふうにやることが増えて、体は前より疲れる。けれど気持ちは充実。無敵の可愛さですから! ■お転婆すぎて足を骨折  子猫だったピリカの成長は目覚ましく、わが家に来て逞しさが増したように思います。前足だけですいすい、すばやく忍者のように進みます。本人はそのハンディキャップをものともせず、ボルダリング選手みたいにキャットタワーを昇るので、肩周りと前足はムキムキ。 まるでアスリートのようにキャットタワーをのぼるピリカ(提供)  でも実は5月に、高所から落ちたのか後ろ足を骨折してしまったんです。本人には痛みの感覚はないのですが、パンツを履かせる時に違和感があり、慌てて動物病院へいきました。すぐに、キャットタワーも解体し、低い部分だけにしました。 澄んだ目がきれいなピリカ(提供)  最初にいった病院では、いずれ何かあれば断脚するという話も出たのですが、団体の代表がセカンドオピニオンで他の病院に連れていってくれて、ギプスを付けることになりました。6月にレントゲン検査をしたら、順調に新しい骨ができてくっついてきているとのこと。一カ月もすればギプスが取れるだろうと言われているので、あと少しです!  猫たちが来て半年以上が経ちましたが、SNSで写真を見た方や団体の方に「猫が楽しそう」「幸せそう」といわれると、我が家に迎えてよかったなと、嬉しくなります。もちろんこれからも、怪我のないよう見守りたいと思います。どうか、お転婆もほどほどに。 ■ペットと描く将来の夢 並んで外をながめる3匹(提供)  今は犬の看病のため休職中の私ですが、じつはもともと看護師として長くリハビリテーション病院で働いていました。その後、ペットと入居できる有料老人ホームに勤め、愛犬を連れて出勤すると、皆さんに喜んでもらえるという経験をしました。  一方で、高齢の飼い主さんが入院や施設入居をすると、行き場をなくしてしまうペットの話を聞いて、どうしたものかと前から気にかかっていました。愛護団体でボランティアを始めると、高齢者からの保護が多い時期があり、その実情を肌で感じるようになりました。残されたペットも、シニアだと引き取り手が減ることも実感したんです。  本当ならば、飼い主とペットがお別れせず最期まで暮らせるのがいちばんの幸せです!(60歳を過ぎたらペットを飼わないでという意見もあるけれど、愛する動物と暮らしているほうが健康寿命が長いという分析もあります。)高齢になっても、安心してペットと暮らし続けられるシステムやサポートがあれば、多くの問題を解決できるはず……。  これは将来の私にも絶対に必要な環境なので、システムなどを自分で作りたいと思うようになり、現在、構想を練っているところです。「ピリカ」たちとの出会いが、私の夢をより明確に、強いものにしてくれたようです。出会えてよかった、心からそう思います。  (水野マルコ) 【猫と飼い主さん募集】「猫をたずねて三千里」は猫好きの読者とともに作り上げる連載です。編集部と一緒にあなたの飼い猫のストーリーを紡ぎませんか? 2匹の猫のお母さんでもある、ペット取材歴25年の水野マルコ記者が飼い主さんから話を聞いて、飼い主さんの目線で、猫との出会いから今までの物語をつづります。虹の橋を渡った子のお話も大歓迎です。ぜひ、あなたと猫の物語を教えてください。記事中、飼い主さんの名前は仮名でもOKです。飼い猫の簡単な紹介、お住まいの地域(都道府県)とともにこちらにご連絡ください。nekosanzenri@asahi.com
猫をたずねて三千里
dot. 2023/07/08 14:00
高齢化した日本では戦争に耐えられない 前線の若者より国内に放置される高齢者の方が危ない
高齢化した日本では戦争に耐えられない 前線の若者より国内に放置される高齢者の方が危ない
軍事力の強化が叫ばれているが高齢化した日本では長期の戦争に耐えられない(写真/Getty Images)  不安定な世界情勢などを背景に防衛費の増額を予定している岸田文雄政権。しかし、人口激減が予測されている日本では、人材確保という大きな穴があり、もし戦争が行われた場合、前線にいる若者より、国内に残る、ケアを受けられない高齢者に犠牲が及ぶと日本国際交流センター執行理事の毛受敏浩氏はいう。『人口亡国 移民で生まれ変わるニッポン』(朝日新書)より一部を抜粋、再編集し、紹介する。 *  *  * ■戦争ができない国  人口問題は安全保障の危機にもつながる。日本の高齢化はすでに世界一であり、75歳以上人口(後期高齢者)は1937万人を数える。人口の突出して多い団塊の世代(1947~49年生まれ)が後期高齢者になる時期が目前に迫っており、政府は2040年度に必要な介護人材は約280万人と想定している。  近年、東アジア情勢の不安定化から日本の軍事力の強化が叫ばれているが、そもそも高齢化した日本は長期の戦争に耐えられる状態ではない。エネルギーや食糧などの補給路が断たれ、また介護士を含むエッセンシャルワーカーと呼ばれる日本の基盤を担う若者が戦争に駆り出されれば、ケアを受けられず放置される脆弱な高齢者が大量死に直面する可能性がある。つまり超高齢化社会の日本は戦争の前線で人が死ぬよりも、むしろ取り残された高齢者がバタバタと倒れる結果、多くの犠牲者が出ることになるだろう。敵対する国は日本のこの弱点を突くだろう。そう考えれば、すでに日本は実質的に戦争ができない国になっている。  そもそも自衛隊自体も隊員不足に悩んでいる。2022年3月31日現在、自衛隊員の充足率は93.4%に留まる。また日本全体の高齢化に対処して、自衛隊は入隊の採用年齢の上限を2018年に一挙に6歳引き上げ32歳までとした。自衛隊員も少子化、高齢化から逃れることはできない。  そんな日本にとって頼みの綱はアメリカだ。しかし、人口減少とともに、日本の経済力が衰退すればアメリカは日本をいつまで重視してくれるだろうか。  現在、日本の脅威とされる中国だが、かつて日本の経済力は極めて大きく中国の経済とは雲泥の差があった。2000年の時点で日本のGDPは中国の4倍の大きさ、まさに圧倒的な違いがあった。  しかし、日本の退潮に呼応するかのように中国の経済力は増していった。2010年に中国は日本のGDPを追い越し、2020年には中国はたった10年で日本の3倍近い差をつけてしまった。  では将来はどうなるのか?  世界最大級のコンサルティング会社PwCが2017年に発表した調査レポート「2050年の世界」では、2030年と2050年の世界各国のGDPの予想を発表している。  それによれば2030年には日本のGDPはインドに抜かれ、世界第4位となる。アメリカを抜いて中国がトップとなり日本との差は6倍となる。  2050年には日本はインドネシア、ブラジル、ロシア、メキシコにも抜かれ世界第8位となり、中国は日本の8.6倍、つまり日本のGDPは中国の11.5%となる。  アジアの中規模国の一つになってしまえば日本の外交力は格段に下がる。アメリカが日本を同盟国として尊重するのは日本の国力があってのことだ。日本が中国の1割程度の経済力の国になればアメリカの日本に対する見方も変わるだろう。  中国の圧力に対して日本は自国を守り切れるのか、人口問題は日本の国家安全保障とも直接的につながることになる。 ■若者の海外流出  日本ほどの深刻な高齢化と人口減少の同時進行は世界では他に例がない。しかし、世界には日本以上のスピードで人口減少が進んでいる国がある。そこでは何が起こっているのだろうか?  ロシアのウクライナ侵攻前、ビジネスインサイダーの「2050年までに最も大きく人口が減る国 ワースト20」(2019年10月15日、Andy Kiersz)4では、ヨーグルトで日本にもなじみのある国、ブルガリアが人口減少1位に挙げられている。ブルガリアの人口は2050年までに人口の2割以上、22.5%減少するという。  この記事で日本の人口減少は16.3%で9位にランクしている。興味深いことに1位から8位まではすべて東ヨーロッパの小国で占められている。ブルガリアに次いで2位はリトアニア、以下、ラトビア、ウクライナ、セルビア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、クロアチア、モルドバの順となっている。  現在、世界第3位の経済大国で人口でも世界11位の日本の人口減少は、特異な現象と言えるだろう。単に特異な現象というより、人類史的に見ても戦争や国家分裂、疫病の蔓延以外で、日本ほどの巨大な国家で極端な人口減少が起こるのは極めてまれだろう。  人口急減する東欧の国でウクライナ以外の国はすべて1000万人に満たない小国である。なぜ東欧のこうした国々では人口が極端に減るのだろうか?  それは少子化に加えて、西ヨーロッパに若者が移住していくからに他ならない。ブルガリアは、若者の海外流出のスピードを少しでも遅らせようと必死だ。国内の教育や経済の機会を改善することで、EUやその他の国へ移住するよりも国内にとどまる魅力をアピールしていると言うが、効果は限定的なようだ。  ヨーロッパのこの状況を見て考えさせられるのは、少子化による人口減少が経済の停滞を招き、それが若者の国外流出を促進するという事実だ。日本は現在、人口減少によって労働者、若者が不足しているが、人口激減が止まらない日本の未来に希望が失われれば、優秀な日本の若者も海外に流出するかもしれない。  いや、すでにその現象は始まっている。外務省の海外在留邦人数調査統計では、2022年10月1日現在の日本人の海外永住者は55万7000人と過去最高を記録し、10年間で14万人以上、増加した。  2021年は円安傾向が続いたが、その結果、日本の賃金よりはるかに高いオーストラリア、カナダなどに短期、長期で働く日本の若者が増えている。  若い女性では海外流出が顕著なようだ。大学生の留学では短期・長期を含め女子学生が圧倒的に多いが、女子学生は卒業時に外資系企業に採用されないと分かると、迷いなく日本企業より海外の会社を選び国を出ていく傾向があるという。女性活躍推進が叫ばれながらも、国内企業では女性の活躍には壁があると感じていること、また日本の将来への不透明さが海外での就労、日本脱出を決意させるのだろう。 ●毛受敏浩(めんじゅ・としひろ)1954年徳島県生まれ。慶應義塾大学法学部卒、米エバグリーン州立大学公共政策大学院修士。兵庫県庁に入職後、日本国際交流センターに勤務し、現在、執行理事。文化庁文化審議会委員。著書に『人口激減─移民は日本に必要である』(新潮新書)、『自治体がひらく日本の移民政策』(明石書店)、『限界国家─人口減少で日本が迫られる最終選択』(朝日新書)など。
人口減少少子高齢化書籍朝日新聞出版の本
dot. 2023/07/05 06:30
「かわいいは世界の争いをなくす」女性感性工学者 69歳 東大を出ても「女性は高卒待遇」から大学教授に
高橋真理子 高橋真理子
「かわいいは世界の争いをなくす」女性感性工学者 69歳 東大を出ても「女性は高卒待遇」から大学教授に
芝浦工大豊洲キャンパスの裏側を流れる豊洲運河の前の大倉典子さん  芝浦工業大学名誉教授の大倉典子さんは、「かわいい工学」の第一人者である。東京大学大学院の工学系研究科修士課程を修了して日立製作所の中央研究所に就職したのは、男女雇用機会均等法が施行される前。民間企業の多くは大卒女子の募集をしていなかった。給料も高卒扱いとは就職後に知ったのだという。そんな差別的な扱いを、労働組合も問題だとは考えなかった。はた目から見れば、社会の理不尽さに翻弄された20代である。そこから、大学教授として「かわいい工学」を創始して発展させるまで、どんな道を歩んだのだろう。(聞き手・構成/科学ジャーナリスト・高橋真理子) >>【前編:なぜ50歳を過ぎて「かわいい工学」を? 「日本ではB級グルメ的でも世界は認めている」芝浦工大名誉教授】から続く * * *――大学院修了の女性が日立製作所の中央研究所に入るのに、高卒用の試験を受けるしかなかったというのは、今の時代の人には想像ができないでしょうね。働き始めて3カ月たったらお給料が下がったとおっしゃいました。  はい。大卒男子は上がったのに、私は下がったんです。組合に相談に行ったら、3カ月は試用期間で大卒男女は同一の給料だけど、7月からは男性は大卒の給料、女性は高卒の給料になる。高卒でも男性は年々上がるけれど、女性は5年目ぐらいで上がらなくなる。私は高卒の入社7年目と同じ扱いになるからこの金額で間違っていません、と言われた。  組合にはがっかりしました。給料が下がったという事実に目を向けてくれないんですから。でも、組合がそう言うならどうしようもないですよね。 ――就職する前に、お給料についての説明は聞かなかったのですか?  初任給は男女同一賃金だと言われました。でもそれが最初の3カ月だけだとは気づきませんでした。 ――いや、それはあまりに不誠実な説明ですね。  就職して1年後に大学時代に付き合っていた人と結婚しました。彼は、私が大学2年生のときにプログラミングを教えてくれた同級生で、日立の中研に先に就職していたんです。  就職4年目に妊娠しました。私は仕事を続けるつもりだったし、上司も理解があった。保育園は遠かったんですが、近くに良いベビーシッターさんがいたので、その人に預ければいいと思っていた。無事に出産し、病院から「よろしくお願いします」と公衆電話でシッターさんに伝えたら、「家の都合でやめることになった」と。あわてて八王子市役所(東京)に相談しましたけど、預け先が見つからず、4月初めに退職しました。  退職する前に人事に相談に行ったんです。日立には、出産退職して子どもが2歳になったら復帰できるという制度があったので、これを使いたいと。そうしたら「制度はあるけど使った人はいません」と言う。「私が第1号になります」と言ったら「第1号をつくりたくありません」。 ――いやはや、ひどい対応……。  でも、ある日立の子会社に嘱託という制度があったので、その年の9月にそこに入り、週に2日出勤で、それ以外は在宅勤務という形で働くことにしました。出勤日には母に家に来てもらった。勤務先は、以前と変わらない日立中研です。 ◆子どもの受験期間は会社は二の次 ――植物工場の研究を続けたんですか?  いや、私が配属されたのは、コンピューターで扱う文字を拡大しても縮小してもきれいに見えるようにするという研究チームです。「スケーラブルフォント」っていうんですけど、そのアルゴリズムを研究した。  そうしたら、2人目ができました。嘱託は産休をもらえなかったので、翌年9月に退職した。コンピューター産業では何年もブランクがあったら復帰できないと思っていたら、以前にアルバイトしていた塾の数学の責任者が勤める「ダイナックス」というコンピューターソフトのベンチャー企業に1年半後に入ることができた。 ――そこではどんなお仕事を?  モーター制御のプログラミングや、大学受験塾向けの物理や化学のCG教材づくりをしました。いろんな仕事を任されたので、やりがいはありました。従業員20人ぐらいの小さな会社で、とても柔軟で、会社に行って仕事をする時間もフレキシブル。だから、小学校のPTAの会合は全部出たし、PTA役員もやった。子どもが5年生の2月から1年間は午後3時になったら家に帰って弁当を作って子どもを塾に送り出していた。6年生の1月末から受験が始まるじゃないですか。その1カ月は仕事を休みました。だから子どもの受験期間は、子育てがメインで、会社は二の次、みたいな感じでした。 ――そのころに東大の博士課程に入ったんですよね?  そうそう、子どもの中学受験の前です。大学院を受けるときは推薦書がいるんです。それをダイナックスの社長に書いてもらった。でも「仕事」と「学生」と「母」の三足のワラジをはくのは無理だと思ったから、受かったら休職させてくださいってお願いした。 ◆「博士号が取りたい」が先 何を研究したいかは明確ではなかった ――へ~、それを承知して推薦書を書いてくれたんですか。  わかったよ、という感じ。同じ計数工学科の先輩にあたる人です。夫が米国勤務になったときも1年ちょっと休職させてもらいました。  1992年に、東大の先端科学技術研究センター(先端研)が新しい専攻を作って社会人博士を募集するという新聞記事が出たんです。「これだ!」と思いました。だって、その年から3年間なら、上の子は3、4、5年生で、下の子はちょうど小学校に入学するので、最初の1年間は2人とも学童(保育)です。学童なら保育園と違ってお迎えがいらない。2人とも勝手に帰ってくる。そして上の子が6年生になる前に終えられる。このタイミングしかない、って思った。 ――どうして博士課程に行こうと思ったんですか?  主人が論文博士を取ったんですよ。私が子育てしながらSEとして働いていたときに。私だって取るはずだったのにってすごいショックでした。だから、「博士号を取りたい」がファースト。何の研究をしたいというのは明確ではなかった。ただ私は卒論も修論もヒトの聴覚と機械についての研究をしていたので、結局、バーチャルリアリティーの研究を先導した舘暲(たち・すすむ)先生のところで人間の聴覚特性をバーチャル空間で調べる研究をやることに決まった。  でも、夕方5時には大学を出て、家で晩御飯を作らないといけない。夫は「昭和の人」で、家のことはすべて私に任せていましたから。ほかの大学院生と比べたら、半分くらいの時間しか研究していないので「パートタイムスチューデント」って自称していました。  3年目の夏ごろに「今年度中に博士号とるんだよね」って先生に念を押されて、だって翌年には子どものお受験が待っているから、最後の半年はすごい一生懸命がんばった。12月には論文を出して、無事に博士号をいただけました。それでダイナックスに復職し、長男の中学受験の最終段階に突入したわけです。 ――結果はどうだったのですか?  2人とも私立の中高一貫校に受かりました。それで、次は自分のことを考えようとなった。実は、博士号を取ったとき、卒論と修論の指導教官で、博士論文審査の副査もしてくださった先生にお礼に行ったら「これからどうするの?」って聞かれたんです。「別に、ダイナックスに戻るだけです」って答えたら、「え!」って驚かれて。「大倉さんにとって博士号って何なの?」と聞かれ、「お茶やお花のライセンスと同じなの? もうちょっと生かすことを考えたら?」と言われた。  確かにそうだなと思って、お受験をクリアしてから就職活動を始めました。私はもともと塾の先生になりたいと思っていたんですけど、大学の先生もいいかも、と思った。でも、論文が少ない。それでもとにかくいっぱい応募して、いっぱい落ちました。 2005年夏の大倉研究室のメンバー=芝浦工大大宮キャンパス、大倉典子さん提供  そうしたら、芝浦工大が新しく情報工学科をつくりたいということで2人募集していた。2人だったら目があるかもって応募して、面接を受けたら、翌日、採用の連絡があって教授だっていうんでびっくりしました。後から聞いたら、情報工学科だからプログラミングを教えてほしいわけですよ。でも、SEの人はふつう博士号を持っていない。私は博士号を持っていて、しかもSEとして長く働いていたからプログラミングを教えられる。だからベストマッチだったんですね。 ――なるほど。  入ったときは工業経営学科で、これを情報工学科に衣替えする方針で、徐々に情報系の先生を増やしてきたんですけど、反対する先生も多いという状況でした。とくに「情報工学科」という名前に対しては多くの学科が反対していた。工学部の教授会で私が発言すると、女性の発言ということで反発を食らうだけだから、大倉先生は絶対発言しないでくださいって言われた。 ――え~、それはひどいですね。女性の先生は何人いたんですか?  工学部全体で3人だったかな。男性は百何十人いた。とにかく私は教授会で発言せず、でも、根回しとか、そういう裏ではがんばりましたよ。  私ね、教授会で話を聞いていて、なんか自分の親の世代の会議に迷い込んじゃったみたいだと思った。1世代前の、「女性は一人前の人ではない」という感覚です。それでも、2年後に情報工学科ができました。そうすると、女性が主任のほうがパンフレットを作るときも映えるからとか言われて、私がいきなり学科主任をやらされた。 ――情報工学科ができたのは2001年ですね。  ええ、その年は工業経営学科の学科主任が継続されて、私は翌年、「情報工学科学科主任」の辞令をもらった。すでに皆に根回しされていて、断る可能性はゼロでした。ちょうどそのとき更年期になっちゃって、結構大変でしたね。2年の任期が終わったときはホッとしました。 ――2004年3月までですね。前編冒頭のお話に出てきた50歳の誕生日を迎えて間もないころ。そのころから、自分のやりたい研究をやれるようになった。 「工学部の女性教員として、女性のために自分のやるべき研究を自覚してやるようになった」という言い方のほうが適切かもしれません(笑)。そして定年を迎え、その後に、米国の共同研究者が全米科学財団(NSF)に申請していた「かわいい」の研究プロジェクトが通ったんです。日本側の研究代表者は現役の先生にお願いしましたけど、私もチームの一員として研究を続けています。 定年退職のときのパーティーで、教え子の名前がずらりと並んだ「教員卒業証書」をもらった=2019年、大倉典子さん提供  私が「かわいい」の研究を始める前は、そもそも「かわいい形」とか「かわいい色」といったものが存在するのか疑問視する人もいたんですが、形や色を見せて「最もかわいいと思うものを選ぶ」という実験をしてみると、確かに「かわいい形」や「かわいい色」が存在するとわかった。形では「直線系より曲線系のほうがかわいい」し、色では「明度と彩度がある程度高く、色相は黄赤(橙)や黄緑がかわいい」。かわいくないのは、「明度と彩度の低い色(くすんだ色)」です。興味深いことに、他国における「かわいい色」の結果は日本人とは必ずしも一致しません。その理由を突き止めるのは、今後の課題です。  また、かわいいには「わくわく系」と「癒やし系」があって、「わくわく系」では心拍が上がりますが、「癒やし系」では心拍が下がることもある。こうした研究結果は、さまざまな工業製品やウェブサイトなどを「よりかわいく」するための指針を与えてくれることになります。実際、かわいくするとよく売れる。それはさまざまな商品で観察されています。 ――確かに。考えてみると、ご当地キャラは「かわいい」のオンパレードですね。  そうですね。人気の高いご当地キャラは、私が明らかにした「かわいい」の条件に合致する点が多いです。  ハローキティやアニメのかわいいキャラクターたちは、外貨獲得に貢献しています。  日本発の「かわいいアバター」や「かわいいロボット」、「かわいいパッケージの製品」が世界中に広がってほしいです。それが争いを世界から減らす力にもなると信じています。 大倉典子(おおくら・みちこ)/1953年大阪市生まれ。東京大学工学部計数工学科卒業、同大大学院工学系研究科計数工学専門課程修士課程修了、1979年4月~1984年4月日立製作所中央研究所、1984年9月~1985年9月日立超LSIエンジニアリング、1987年4月~1999年3月株式会社ダイナックス。1995年東京大学大学院工学系研究科先端学際工学専攻博士課程修了、博士(工学)。1999年4月芝浦工業大学工学部教授、2019年4月同大名誉教授。同年9月同大特任教授、2023年4月同大客員教授。2019年4月中央大学客員教授。
女性科学者芝浦工業大学高橋真理子
dot. 2023/07/04 17:00
なぜ50歳を過ぎて「かわいい工学」を? 「日本ではB級グルメ的でも世界は認めている」芝浦工大名誉教授
高橋真理子 高橋真理子
なぜ50歳を過ぎて「かわいい工学」を? 「日本ではB級グルメ的でも世界は認めている」芝浦工大名誉教授
芝浦工大豊洲キャンパスの入り口に立つ大倉典子さん  芝浦工業大学名誉教授の大倉典子さんは、世界で初めて「かわいい」を研究対象にとり上げた工学者である。東京大学大学院の工学系研究科修士課程を修了して1979年に日立製作所の中央研究所に就職した。そこで進められていた植物工場の研究に興味を持ったからだ。入社試験は高卒向けを受けた。男女雇用機会均等法が1986年に施行される前は、民間企業の多くが大卒女子を募集していなかった。子どもの預け先が見つからなくて5年で退職、それから紆余曲折を経て芝浦工大教授になったのは45歳のとき。感性工学者として確かな歩みを始めたのは50歳を過ぎてからだった。それにしても、「かわいい工学」とは何なのか。そんなユニークな学問をなぜ始めたのだろう。(聞き手・構成/科学ジャーナリスト・高橋真理子) * * *――「かわいい工学」とは何でしょうか?  21世紀に入って日本の「かわいい」が世界中に広まりました。「kawaii」がそのまま英語になっている。日本生まれのゲームやアニメが世界に広まっているのも、キャラクターのかわいさが大きな要因ですよね。  私は、心拍や脳波などの生体信号を使って人間の感情を推定する研究をしていました。その手法を使い、人工物を「かわいい」と感じるのはどういう形や色や素材でつくったときなのかを系統的に調べ始めた。2007年から約10年間の研究成果を『「かわいい」工学』(朝倉書店)という本にまとめました。 ――「かわいい」と「工学」って意外性のある組み合わせで、だから印象に残りますね。  私、50歳の誕生日に、これからは社会に役立つこと、とくに女性に役立つ研究をしようと思ったんです。看護師さんや薬剤師さんは女性が多いですけれど、医薬品や医療機器には女性にとって使いにくいものもいっぱいある。たとえば医薬品のパッケージが男性なら簡単に開けられるけど女性にとっては固くて開けにくいとか、そういうのをもっと使いやすくする研究をしようと思った。と同時に、女性の感性に価値があることを認めてもらおうっていうことで、「かわいい」を研究しようと思ったんです。  工学は、理系の中でもとくに女性が少ない。私がコンピューターの勉強をしようと進学した東大工学部計数工学科では、100人中女子は私1人。大学院に進んだら、計数工学専門課程ができて以来2人目の女性だった。それで、なるべく女性っぽくないようにというか、周りに合わせて女性を消すようにした。高校まではそうじゃなかったですけど、大学に入ってからはずーっと女性であることを消してきた。企業に入ってからもそうです。研究活動はずっとそういう状態で、研究に対する価値観とかいろんなことでなんか違和感があった。  それが、日本感性工学会の先生と出会ってから変わった。横断型基幹科学技術研究団体連合、略して横幹連合ってご存じですか? ――いえ、知りません。  20年前にできた団体で、先日、20周年の記念式典が開かれました。タテに細分化されている科学技術に対して、「横」の軸が重要だということで40ぐらいの学会が集まってつくった組織で、初代会長は元東大総長の吉川弘之先生です。私は準備会合のときから参加して、縁の下の力持ちとしてすごくがんばった。「横幹連合の母」って言ってもいいと自分では思っているぐらいです。  その準備会合のとき、感性工学会の男性の先生が「21世紀は女性の世紀だ。これからは経済的な価値観ではなく感性的な価値観で世の中は動いていくんだ。女性はそういう意味で時代を先取りしている」というようなことを言われた。それがピーンと来たんですね。私の価値観って時代を先取りしていたのかな、って。私が価値だと思うのに、みんなが思ってくれないのは、私が女性だからで、将来はみんなが同じように思ってくれるかもしれないと希望を持った。 「kawaii」を世界に発信しているアソビシステム本社の増田セバスチャン氏の部屋で=2013年、大倉典子さん提供  学会に入ったら、男女を問わず同じような価値観の人が多くいました。「感性こそ価値」みたいなね。それで肌に合ったんです。横幹連合も、いろんな知恵を結集して社会的課題を解決しないといけないというのが基本的な考え方で、今でいう「総合知」です。純粋に一つのことをやっていくのが研究者として偉い人、という従来の日本の価値観とは全然違う。だから、こちらもすごく肌に合った。なんか、急に私に未来が見えてきた。 ――なるほど。それで、「かわいい」に取り組んだ。 「かわいい」っていうのは日本ではB級グルメ的にとらえられますけど、世界ではもっと価値があるって認められている。日本がもっと自国発の「かわいい」という価値を正当に評価して、それで日本という国をもっと発展させていければいい。「かわいい」を愛でる人は戦争をしないと思うし、「かわいい」という感性価値が世界中にもっと広がれば、より良い世の中にできるんじゃないかなと思って、それで「かわいい」を軸に研究を始めよう、というようなことを50歳を過ぎてからいろいろ考えたわけです。 ――そうすると、感性工学を専門とするようになったのは50歳以降ですか?  そうなりますね。芝浦工大の教授になったのが45歳のときで、それまでのキャリアとしては子育てしながらシステムエンジニア(SE)として仕事をしていた期間が長かった。 夫の転勤で1年あまり暮らした米国ニューヨーク州で子どもたちと=1988年、大倉典子さん提供  私が大学4年生の年が国際婦人年でした。公務員試験を受けて1次に通ったら、何人もの人から電話がかかってきて「ぜひ通商産業省(現・経済産業省)に来てくれ」って言われた。もし大学院の試験に受からなかったら、通産省に行っていたと思います。 ――研究者を目指していたわけではないんですね。  そうですね。私の父は証券会社のサラリーマンで、1960年代当時、証券会社にコンピューターを入れることになったとき、米国に短期出張してIBMの説明を聞いてきた。そうしたら途端に「これからはコンピューターだぞ!」って言い出した。  うちは父も母も大学を出ていません。だから、わが子が、ましてや女の子が東大受験するなんて思ってもいなくて、父は「優秀な秘書さんの出身女子大以外は受けることを許さない」なんて言っていた。母も親戚から「東大に行ったらお嫁にいけなくなる」と言われた。ただ、中学から東京教育大学(現・筑波大学)の附属に入り、周りのみんなが東大を目指していたので、私も理I(工学部・理学部進学コース)を受けたら合格した。  理学部数学科に行きたいと思っていたんですけど、大学に入ってから数学で落ちこぼれました。計数工学科はコンピューターをやっていると知り、父が言っていたことが頭にあって進学を決めた。たった1人の女子だった私の就職のことは、本人よりむしろ先生がたや事務室の皆さんが心配していろいろ動いてくださった。SEになりたくないとわがままを言っていたので。 ――え、SEになりたくなかったんですか?  プログラミングが私より得意な人が周りに大勢いたので、プログラミングを職業にするのは嫌でした。大学院では生体信号を測る生体工学の研究をしました。医学と共通する分野なので、修士課程を修了したらある私立大学の医学部助手になると決まっていたんです。そうしたら私立大学医学部が入学予定者に課していた多額の寄付金が社会問題になって、その結果、多くの私立大学で寄付金を返還することになり、その余波で私のポストがなくなってしまった。それが2月のことです。もう修論はできているし、留年もできないタイミングで、仕方がないので4月から工学部の研究生になりました。  大学3年生のときに父が亡くなり、それから奨学金をもらってきましたが、研究生は奨学金をもらえない。経済的にはピンチですよ。塾で数学を教えたり、コンピューター関係の仕事を請け負ったり、アルバイトに精を出しました。  6月になって朝日新聞で「日立製作所で植物工場をつくっている」という記事を見た。面白そうだと指導教官に言ったら、その研究リーダーは指導教官と大学の同級生だった。紹介してもらって日立の中央研究所(中研)に遊びに行ったら、翌日「合格したから」と言われた。要するに翌年に採用されることが決まったということです。  当時、女性の大卒は募集していなかったので10月に高卒用の試験を受けました。大学入試よりずっと簡単だった。こうして4月から中研で植物工場の研究を始めました。  仕事は面白かった。でも3カ月たったら、お給料が下がったんです。 >>【後編:「かわいいは世界の争いをなくす」女性感性工学者 69歳 東大を出ても「女性は高卒待遇」から大学教授に】に続く 大倉典子(おおくら・みちこ)/1953年大阪市生まれ。東京大学工学部計数工学科卒業、同大大学院工学系研究科計数工学専門課程修士課程修了、1979年4月~1984年4月日立製作所中央研究所、1984年9月~1985年9月日立超LSIエンジニアリング、1987年4月~1999年3月株式会社ダイナックス。1995年東京大学大学院工学系研究科先端学際工学専攻博士課程修了、博士(工学)。1999年4月芝浦工業大学工学部教授、2019年4月同大名誉教授。同年9月同大特任教授、2023年4月同大客員教授。2019年4月中央大学客員教授。
女性科学者芝浦工業大学高橋真理子
dot. 2023/07/04 17:00
「結果は出すためにある」 高田万由子さんが東大同窓生の大宮エリーに語る受験スキルの活かし方
「結果は出すためにある」 高田万由子さんが東大同窓生の大宮エリーに語る受験スキルの活かし方
大宮エリーさんと高田万由子さん(写真:本人提供)  作家・画家の大宮エリーさんの連載「東大ふたり同窓会」。東大卒を隠して生きてきたという大宮さんが、同窓生と語り合い、東大ってなんぼのもんかと考えます。今回も高田万由子さんとの対談の様子をお届けします。 *  *  * 高田:私ね、裏方のほうが好きなの。 大宮:えー、いつ気づいたんですか。 高田:デビューして結構早い段階で、秋元康さんに「高田はさー、もう女版秋元康になれよ」って言われたんです。そのときは意味が全然分からなくて。でも、しばらくして、秋元さんとまた一緒にお仕事させていただいたときに、番組前の会議ではアイデアがいくらでも出るのに、実際に収録が始まると全くアイデアが出てこなくなっちゃって。 大宮:会議と同じことを言うのに飽きちゃったんですかね。 高田:何かね、私、才能ないなって。表に出てキャッチーな言葉でポンと人の心をわしづかみにするようなセンスがないんです(笑)。そのうちイギリスに引っ越したりで、あまりテレビの仕事はしなくなってきたかな。 大宮:才能はすごいでしょ、秋元康さんが認めるくらいだから。で、役よりアイデア出す方に面白さを感じられるんでしょう。移住はいつ? 高田:夫は結婚する直前まで3年間、セリーヌ・ディオンとワールドツアーを回ってて、「僕はいつかどこかの海外に住んでみたい」って言ってたんです。彼には世界的に有名になる音楽家としての才能があると信じていたので、まずは映画音楽の仕事を探しにハリウッドに行こう!と言ったんです。そうしたらロンドンがいいって。まず1年と思って身の回りの必要な荷物だけ持っていきました。娘は8歳、息子は0歳でした。 大宮:行動が早い! 高田:その1年の間に、夫はずっと家でバイオリンの練習してたんだけど、発表する場を作ってあげたいと思ったんですよ。近くで1500人弱入るホールを見つけて、ここでコンサートしよう、と。ホールのマネージャーからは「これは誰だ」って言われたけど、ホール代は払うし、私が全部責任持つからと交渉しました。でも、どうやってお客さんを入れたらいいだろうと思って、チラシを作って、スポンサー集めに走って、大使館に相談して。それが、あっという間に完売したんですよ。それから13年、ロンドンで毎年夫の演奏会の裏方をひとりでやっていました。 大宮:プロデューサー経験もないのに、いきなり海外で公演ですか。 高田:英語は片言で話せたけど、イギリスに行って、初めて英語を学んだみたいな感じだったかな。 大宮:不安とかなかったですか。 高田:チケットが売れなかったら……というのはあったけど、私は結婚前から葉加瀬太郎を世界に出すことをずっと考えていて。だから当たり前のようにロンドンで彼のことをプレゼンできた。秋元さんは、私のそういうところを見ていたのかな。 大宮:万由子さん、結果出しますね。 高田:結果は出すためにあるんだから(笑)。高校時代は過去問の分析とリサーチをひたすらしてましたけど、今もコンサートでは必ず客席に座って、お客さまがここで泣いたとか笑ったとかの反応を分析したり、客席から発信されるものを常にリサーチしています。そして家に帰って夫にフィードバックします。そうすると良い結果が生まれるから。 大宮:さすがですね。 高田:東大受験は、今いる場所から目的地までどう距離を縮めれば結果が出るのか、ゴールまでの道のりを「思考するスキル」を身につけさせてくれたと確信しています。仕事は思い通りにならないことも多いけど、乗り越える努力は惜しみません。受験の時のように(笑)。 大宮:いやー、万由子さん一貫してますね。 大宮エリー(おおみや・えりー)/1975年、大阪府出身。99年、東京大学薬学部卒業。脚本家、演出家などを経て画家として活躍。瀬戸内国際芸術祭(岡山県・犬島)で「光と内省のフラワーベンチ」を展示。2023年7月11~24日にスパイラルガーデン(東京)で個展を控えている 高田万由子(たかた・まゆこ)/1971年、東京都出身。東京大学在学中に「週刊朝日」女子大生表紙シリーズのモデルに。「たけし・逸見の平成教育委員会」レギュラー出演。94年、東京大学文学部卒業。99年、バイオリニストの葉加瀬太郎さんと結婚。2007年にロンドンに移住 ※AERA 2023年7月3日号
東大ふたり同窓会
AERA 2023/07/03 07:30
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永井貴子 永井貴子
愛子さま 「ひとり公務デビュー」はいつ? 動物愛護や社会福祉がライフワークに
笑顔で馬と触れ合う愛子さま(2022年11月、宮内庁提供)  コロナ禍が一段落し、天皇陛下や雅子さまと一緒に、長女・愛子さまがお出かけする機会が増えてきた。成年になった時期とコロナの感染拡大が重なり、公務に挑戦するタイミングがなかなか訪れなかった愛子さま。「ひとり公務」のデビューがいつになるか、期待が高まっている。 *   *   *  愛子さまは眼鏡をかけ、雅楽の楽器や舞の細かな部分まで、じっと観察している。  曲の音がやんだタイミングで、父である天皇陛下と言葉を交わしたり、そばにいる説明役の担当者に熱心に質問したりする。  5月末に皇居・楽部庁舎で開かれた宮内庁楽部による春季雅楽演奏会を、陛下と愛子さまが鑑賞された。  雅楽の演奏会といえば、昨秋に秋篠宮家の次女・佳子さまと並んで鑑賞した雅楽演奏会が話題になった。しかし、陛下とおふたりでの鑑賞は初めてのことだった。  コロナ禍が落ち着き、愛子さまがご両親とお出かけになる機会がぐっと増えた。  一昨年に20歳となり、来春には大学を卒業予定の愛子さま。ご両親とのお出かけは、「単独での公務デビュー」を見据えて経験を積んでいるのでは、と注目を集めているのだ。  年代が近い内親王の例を見てみよう。  秋篠宮家の長女・小室眞子さんが単独公務のデビューを果たしたのは2008年4月。学習院女子高等科2年生、16歳のときだ。  東京・上野動物園にある子ども動物園に新しく仲間入りした野間馬のメス「えりか号」の贈呈式に出席。それまでご両親と地方公務に参加し、立ち振る舞いなどを学んだうえでのデビューだった。  地方公務の単独デビューは、13年7月に福岡県で開かれた「アジア太平洋こども会議・イン福岡」への出席。このとき眞子さんは、国際基督教大学(ICU)在学中の21歳。いまの愛子さまと同じ年齢だ。  眞子さんはこの年、10月は兵庫県での「セーブ・ザ・チルドレン チャリティディナー」、11月は都内での「少年の主張全国大会」への出席と、単独での活動を大幅に増やしている。 民族衣装を着た女性たちと踊る黒田清子さん=2002年10月、クロアチア・ザグレブ  佳子さまの初の単独公務は、14年11月。19歳でのデビューだった。1年前に姉の眞子さんも出席した「少年の主張全国大会」で、隣に座ったのは大会の審査委員長を務めた漫画家の故・松本零士さん。記者から感想をたずねられた松本さんは、 「佳子さまがいらっしゃると会場がパッと明るくなりました。出場した中学生のスピーチにも熱心に耳を傾け、佳子さまの存在がまさに出場者の励みになっていました」  と佳子さまを大絶賛。若い女性皇族のデビューを温かく見守る気持ちが伝わる言葉だった。 ■本格的に公務に携わった内親王  愛子さまの場合、大学入学の年に新型コロナの感染が広がり、公務に挑戦するタイミングがなかなか訪れなかった。そのため、コロナ禍が落ち着いたいま、期待が高まっている。  しかし、皇族として生まれ育った内親王や女王らが公務に取り組むようになったのは、そう昔のことではない。  本格的に公務に携わった内親王として知られるのが、上皇ご夫妻の長女・黒田清子さん(54)だ。元宮内庁職員で皇室解説者の山下晋司さんは、こう振り返る。 「戦後の皇室において、内親王や女王が公務に携わることは長い間、意識されていなかったと言っていいでしょう。特に1960年代年までは、20~22歳で結婚なさっています。かつては成年を迎えるとすぐに結婚するものだと、皇室内でも一般社会でも認識されていたからです」  だからこそ、清子さんが本格的に公務に取り組み、国内にとどまらず海外を訪問し、その国の王室や人々との関係を築いた意味は大きかった。  清子さんが結婚した05年。12月の誕生日の会見で上皇さまは、 「清子は皇族として、国の内外の公務に精一杯取り組むことに心掛け、務めを果たしてきました」  と、評価したうえで、皇室で女性が果たした役割についての質問に、次のように答えた。 「私の皇室に対する考え方は、天皇及び皇族は、国民と苦楽を共にすることに努め、国民の幸せを願いつつ務めを果たしていくことが、皇室の在り方として望ましいということであり、またこの在り方が皇室の伝統ではないかと考えているということです。 動物病院から引き取った愛犬「由莉」と過ごす天皇ご一家=2019年8月、栃木県那須町  女性皇族の存在は、実質的な仕事に加え、公的な場においても私的な場においても、その場の空気に優しさと温かさを与え、人々の善意や勇気に働きかけるという、非常に良い要素を含んでいると感じています」  しかし、清子さんでさえ組織の総裁職や名誉総裁職に就くことはなく、その先鞭をつけたのは、清子さんの次の世代の三笠宮家の故・寛仁さまの長女・彬子さまだった。  世間でも女性が仕事で活躍することは特別なことではなくなり、同時に男性皇族の高齢化と皇族の減少が顕著になった時期に重なる。 「女性の高学歴化、晩婚化は皇室も一般社会と同じです。公務の担い手不足も、内親王や女王の就任を後押ししています。いまや内親王や女王の総裁・名誉総裁職就任は、特別なことではなくなりました」(山下さん)  たとえば、日本工芸会の総裁は、故・桂宮さまから眞子さん、そして佳子さまに引き継がれている。 ■動物愛護や福祉への関心  愛子さまは、学習院大学を来春に卒業予定だ。 「両陛下は、愛子さまの学業を優先されるお考えのようですので、単独公務デビューは適した時期を探っていると思われます」(事情に詳しい関係者)  眞子さんや佳子さま、そして女王らも、それぞれの家が務めてきた公務や、ご本人の興味の延長上にある公務が多い。  たとえば雅子さまは、動物好きで知られる。東宮時代に、東宮御所に迷い込んだ犬や猫の世話をしたこともあり、盲導犬やアニマルセラピーといった社会活動に関心を寄せてきた。  天皇ご一家は、愛犬の由莉や2匹の猫と暮らしている。愛子さまが生まれる前から飼っていた、「ピッピ」「まり」は、赤坂御用地に迷い込んだ犬が生んだ子犬だった。09年から一緒に暮らす「由莉」も、動物病院に保護されていたところを引き取った。  動物保護への強い関心は、公務からも伝わる。  令和に入ってまもない19年。秋田県を訪問した両陛下は、県動物愛護センター「ワンニャピアあきた」を視察している。そこでおふたりは、捨てられるなどして保護された犬や猫とふれ合っている。  そして、ご両親の動物や福祉への関心は、愛子さまにも引き継がれている。学習院初等科を卒業する際、愛子さまは卒業文集に「犬や猫と暮らす楽しみ」という文章を寄せている。  学習院大学が毎年開催する「オール学習院の集い」では、愛子さまは「アイメイト協会」が主催するブースに必ず立ち寄り、盲導犬(アイメイト)と歩行する体験をしていた。 「皇族の公務は、主催者からの『願い出』を受け、ご本人と宮内庁が相談の上で決定されます。皇族はあくまでも受け身です。しかし、11年の東日本大震災をきっかけに、保護犬や保護猫への社会の関心も高まっていますので、ご関心に沿った分野からの『願い出』もあるかもしれません。公務として、そしてライフワークとして携わっていかれるのもよろしいかと思います」(山下さん)  愛子さまの単独公務デビューも、そう遠くない。  皇室を支える内親王としての期待も集まる愛子さま。たくさんの公務を経験し、ご自身のライフワークとなる分野に出合っていかれるのだろう。 (AERA dot.編集部・永井貴子)
佳子さま天皇陛下愛子さま皇室眞子さん
dot. 2023/07/02 09:00
“ミニ与沢翼”とマッチングし港区女子気分に…結婚したくてもアプリ沼から抜け出せない人たち
“ミニ与沢翼”とマッチングし港区女子気分に…結婚したくてもアプリ沼から抜け出せない人たち
※写真はイメージです(Getty Images)  マッチング・アプリをやめられない人たちを取材しながら、「マッチング・アプリ症候群」に陥る人々の心理を描く、ジャーナリスト・速水由紀子氏が上梓した『マッチング・アプリ症候群 婚活沼に棲む人々』(朝日新書)。同書から一部を抜粋、再編集し、結婚したいはずが、高所得者とのデートに味をしめ、アプリの海から抜け出せない矛盾が膨らむ女性たちの実態を紹介する。 *  *  *  住宅メーカーの営業部で働くサエコさん(29歳)は去年5月、3つの大手アプリに同時登録した。  とにかく早く結婚して会社を辞めたい。その一心でマッチングした年収800万円以上の男性にはほぼ全員会ってみたという。  サエコさんの会社は売り上げのノルマが厳しいだけでなく、残業も多いし休みも少ない上に上司との人間関係が複雑でストレスフルだ。 「上司の派閥間の冷戦に巻き込まれることが多くてどんどん精神的に疲れて。とにかく辞めるか転職するかしたかった」  サエコさんは杉並区で両親、妹と実家住まいだが、結婚をうるさく勧め過干渉する母との関係もうまくいかず実家を早く出たい。だが、今の給料では会社に通える場所にまともな部屋を借りることもできないし、シーズンごとに欲しい服も買えない。  早く結婚して専業主婦になりたい。美容や服、コスメなどのインスタグラマーもやっているためそのコストは切り詰められないし、子供はどうしてもインターナショナル・スクールに入れたいので、夫の年収は1500万円以上必要だという。 「大学の同級生がアプリ婚活で結婚したと聞いて、自分にも合っているかも、とリサーチして3社を選び登録してみた」  1500万円フィルターにかけると50代以上の経営者や役員ばかり。そこで手が届きそうな1200万にしてみたのだが、それでも結婚相手としての範囲内の年齢となると普通の会社員はほとんどいない。 「最初のマッチングは個人で株の投資をやってる人。新宿のパーク ハイアットのレストランで5万円のコースとシャンパンを御馳走してくれて……。ネットの株売買ならどこに住んでいてもできるから将来はシンガポールかドバイに住みたいと言ってた。イメージとしてはミニ与沢翼」  年収は魅力的だがサエコさんは東京を離れる気持ちはない。それに個人投資家はいつ転落して全財産を失うかもわからないから、怖いという。  だが、2度、3度と会ううちに、彼の連れて行ってくれるあちこちの超一流レストランにすっかり味をしめてしまった。 「別にタワマンに住みたいとか別荘が欲しいとかじゃないけど。彼が連れて行ってくれる店は好きだし港区女子の気持ちがわかる。贅沢を楽しむ時間があると、会社で嫌なことがあっても忘れられるし」  その彼と月に3、4回は食事に行きながら、他のマッチング相手ともランダムに会う日々にすっかり慣れてしまった。でも、一つ気になることがある。彼はいまだにアプリから退会していない。自分以外にも会っている人がいてキープにされているのかも、と薄々感じている。早く専業主婦になりたい、実家を出たいという目的からどんどん遠ざかるのに、アプリの海からは抜け出せない矛盾が膨らむ。  今、都内の一流ホテルの高級レストランは、サエコさんたちのようなマッチングカップル客がどんどん増えているという。港区で高級ワインバーを営む経営者のFさんは、「自分もアプリに登録して何度か会ったことがあるので、アプリのマッチング客はすぐにわかる」という。和やかだがどこか緊張感があって恋人にしては言葉遣いがぎこちないし、おたがいにかなり気を使っている。そして必ず男性のほうが代金を払うという。 「マッチングのカップルさんはワインも料理も高級なものを注文されるので、お店にとってはかなり収益率のいい客。男性は勝負をかけていることもあって、相手にいいところを見せようと必死だから、キャビアとシャンパンのスペシャルメニューもよく出る」  その中の何パーセントが結婚にたどりつくかは謎だが、少なくともマッチング依存が傾いた日本経済を回す一助になっていることは確かだ。  医者と結婚して港区白金のタワマンに住む。27歳の会社員ケイコさんはそんなミッションを果たすために2年前、アプリに入会した。父は金融系の企業を経営していて母は専業主婦。開業医の娘だった母からは、物心ついた時から医者と結婚しなさいと言われ続けてきた。  家が裕福で成人しても両親から月々20万円の生活費をもらっているケイコさんは、生活の心配がまったくない。週末は着付けやネイル、バレエを習い、29歳になるまでに結婚しようと考えていた。 「会社勤めは好きになれないので結婚して子育てが終わったら、趣味のネイルを勉強してネイルの店をやりたい。逆算すると27歳で出産するとちょうどいい。出会いのチャンスが少ないので試しにアプリに登録してみた。母に賛成されない結婚は難しいので、相手を医者だけに絞っている。でも結局決めきれなくて」  アプリでは医者に「いいね!」が200、300近くつくことも珍しくないし、競争率はかなり高い。しかしケイコさんは若い上に芸能事務所にも何度かスカウトされたぐらい容姿端麗で、8割の確率でマッチングできたという。  そこからはランキング制で淘汰していった。  年収が2000万円以上、住所が港区か渋谷区、世田谷区、内科医、出身大学……。条件をクリアした相手とはレストランで会い、性格や将来性を見極める。 「3人ぐらいに絞りたいので、今度のお誕生日を覚えていてくれて、ちゃんとお店を予約して祝ってくれた人を残す。いくら医者でも家事と子育てだけやってくれればいい、みたいな人では一緒にいるのが苦痛だし。それにネイルサロンにも賛成してくれる人がいいので、余裕のある10歳ぐらい年上の方がいいかも」  アプリのコミュニティではコンサバな年下好きの嗜癖コミュが目立つ。「男性が10歳以上年上でもOKな人」「年上男性と年下女性の組み合わせが好きな人」「ついてきてくれるタイプが好き」……。特に医者や弁護士、経営者など社会的地位が高いとみなされる職業の人々は、「自慢できる10歳以上年下の美人妻がいい」というトロフィーワイフ信仰が根強い。  だからケイコさんのような富裕層狙いは、最初にフィルターで候補を数人に絞るほうが、結婚には早道だ。白金住まい、ネイル店を出すことなどへの理解は付き合ってから確認すればいい。  すでにアプリ登録から2年が経過した。ケイコさんは自分がマッチング依存症の泥沼にはまっている自覚はないが、いつの間にか朝起きた時と寝る前にアプリチェックするのがルーティンになってしまったという。 「何人かと付き合ったが、理想通りの人はまだいない。30歳になったら条件を緩和すべきか、今から悩んでいる」 ●速水由紀子(はやみ・ゆきこ)大学卒業後、新聞社記者を経てフリー・ジャーナリストとなる。「AERA」他紙誌での取材・執筆活動等で活躍。女性や若者の意識、家族、セクシャリティ、少年少女犯罪などをテーマとする。映像世界にも造詣が深い。著書に『あなたはもう幻想の女しか抱けない』(筑摩書房)『家族卒業』(朝日文庫)『働く私に究極の花道はあるか?』(小学館)『恋愛できない男たち』(大和書房)『ワン婚─犬を飼うように、男と暮らしたい』(メタローグ)『「つながり」という危ない快楽─格差のドアが閉じていく』(筑摩書房)、共著に『サイファ覚醒せよ!─世界の新解読バイブル』(筑摩書房)『不純異性交遊マニュアル』(筑摩書房)などがある。
書籍朝日新聞出版の本
dot. 2023/06/30 11:00
22歳の若者はなぜ川崎市のホームレスに毎週おむすびを配るのか 密着して見えた社会の綻び
板垣聡旨 板垣聡旨
22歳の若者はなぜ川崎市のホームレスに毎週おむすびを配るのか 密着して見えた社会の綻び
NPO団体「CoE(こえ)」の運営者、濱野怜さん  川崎市に毎週木曜日、リヤカーを引いてホームレスに炊き立ての白米で作ったおむすびを配る団体がある。運営者は大学院生ら若者が中心。台風が来ても、大雪が降っても、無休で毎週同じように配り続ける。彼らの活動を知り、ボランティアで参加する人たちもいる。筆者とそれほど変わらない年代の彼らが、なぜこの活動を続けるのか知りたくて、活動に密着した。  木曜日午後7時、JR川崎駅前東口。小雨が降るなか、傘を片手に帰路に就くサラリーマンや、飲み屋街へ向かう若者ら多くの人が行き交っていた。  この東口のロータリーに毎週木曜、大学生をはじめとする若者が数人、リヤカーとともに集まる。この日は5人。彼らはNPO団体「CoE(こえ)」のメンバーや、ボランティアの協力者たち。ホームレスに、おむすびを配るなどの活動を始めて約1年半経つという。  リヤカーにはポータブルバッテリーにつながれた炊飯器のほか、のりや調味料、アルコール消毒スプレーなどが積まれている。炊飯器には、近くにある事務所で炊いた状態の白米が入っている。 20人分以上の材料などを積んだリヤカー 「イワシの煮付けとパイナップルのフルーツ缶詰が2種類あるので、1人に1個ずつ選んでもらって渡していきましょう」  CoEの運営者を務めている慶応義塾大学法科大学院法務研究科1年の濱野怜さん(22)がそう声をかけ、重さが35キロ以上あるリヤカーを引き始め、移動した。ぬれないようにリヤカーにはブルーシートをかぶせ、メンバーらの多くはじゃまになる傘はささずに歩いた。  約15分で駅から約1キロ離れた川崎市教育文化会館に到着した。ここまで来ると繁華街とは雰囲気が一変する。この施設のほか、すぐ近くには裁判所や税務署がある。普段、昼間は利用者で人も多いが夜は逆に人がいなくなり、雨風をしのぐために、屋根の下にホームレスが数人集まっているという。 「今日のおむすびは、ホウレン草と豚バラ肉を炒めたものを混ぜました。三角おむすびレシピコンテストで入賞したレシピで、健康に良くおいしいですよ」  濱野さんが少し大きな声でそう呼びかけると、ホームレスの男性2~3人が近くにきた。濱野さんは、離れた場所にいるホームレスに「どうですか? おむすび食べませんか」と声をかけにいき、その間に他のメンバーは、ポリタンクの水とせっけんで手洗い後、アルコール消毒をした上で使い捨てのビニール手袋をはめた。炊飯器のふたを開け、炊きたての白米を手に載せると、その場で握り始めた。 その場で握られたおむすび  提供するのはおむすびや缶詰だけではない。みそ汁や総菜もある。メニューは毎回異なり、この日は玄米粉のおこのみ焼き、切り干し大根に高野豆腐だった。 「最近は元気にしていますか? 困ったことはありませんか?」とホームレスに話しかける濱野さん。  60代男性は「今後もここで寝泊まりする予定。もうネットカフェとかに入るお金もなくて」と不安を口にした。先日、生活保護費が打ち切られてしまい、さらに日々の生活がキツくなっているという。 「わかりました。何かしら手立てを考えるから。また来るんで。その間は気持ちを強く持って! 変なこととかはしないでね」と濱野さんが声をかけると、男性は「あぁ、はい」と力なくうなずいた。  濱野さんは、ただおむすびを配るだけではなく、コミュニケーションを取ることも強く意識しているという。 「おむすびを配っている様子を見ているだけで、もらいにこない人もいるので、こちらから行って渡すこともします。困っていることを抱えてしまう人も多いので、こちらから話しかけて寄り添えることができれば、打ち明けてくれるかもしれないので」  濱野さんがこうした活動を始めるきっかけはなんだったのか。なぜホームレス支援なのか――。  2021年10月。濱野さんは選挙の手伝いで、夜中に川崎駅前で演説の場所取りをしていたという。そのとき、60代のホームレスの女性が急に倒れ、泣き出した。濱野さんは「“やばい人”が泣いている」と思い、ただ見ているだけだった。  すると、男性のホームレスが女性にハンカチを手渡し、なぐさめていた。その男性は濱野さんに、 「目の前で困っている人を助けないのはなぜか。社会を変えると言っておきながら、そんなんでは変えられない」  と言い放ったという。  将来、政治家を目指していた濱野さんだが、「困っている人を無意識に排除していたことに気づいた」という。  その選挙期間中、倒れたその女性に毎日話しかけていたら、自然に打ち解けた。女性があのときに倒れたのは、いろいろ物騒な出来事が多く、夜は怖くて眠らずに立っていたが、とうとう倒れてしまったという。  このときの経験から濱野さんは、政治家を目指すのであれば、目の前の困っている人に手を差し伸べるべきだと考え、ホームレスへの支援を決めた。  おむすびにしたのは、親しみ慣れた食べものというのが大きな理由だが、「『おにぎり』ではなく『おむすび』とすることで、自分たちとホームレスの人たちとの縁結びといった意味合いを込めました」。  文化会館でひととおり、おむすびと総菜を配り終えると、次は近くにある稲毛公園に向かった。途中、大きな通りを渡る際、信号や横断歩道がなく、歩道橋を渡らなければならない。毎回、みんなでリヤカーを運んで渡るのだという。 リアカーを引きながら歩道橋を渡るメンバーら  稲毛公園は、川崎駅東口から真っすぐ延びる大通りと国道15号との交差点に面しており、近くはマンションなどが建つ住宅街にある。神社や大きな広場があり、かなり大きな公園だ。到着すると、ホームレスの男性が5人ほど集まってきた。  ここでも1カ所目と同じように、濱野さんが周辺のホームレスに声をかけ、ほかのメンバーらは、歩道橋の踊り場の下で準備を始めた。 ●活動を通して「ホームレスへの偏見がなくなった」  おむすびと一緒に配られる総菜。これを毎週、半日かけて作る女性がいる。CoEの活動に参加して9カ月目だという。 「生まれも育ちも川崎で。小さい頃はホームレスって、ちょっと怖い印象があったから近づかなかった。これまでボランティア経験がなくて、こういった活動に参加するのはこの団体が初めて。ある日、新聞を見て『近所だ!』と思って、参加してみようと思いました」  この女性は日中、カウンセラーとして働いており、食事指導もしているという。栄養満点の食事を届けることで、少しでも健康になってほしい。そんな思いで、木曜日は半日かけて2種類の総菜を20人分以上作っている。食材はすべて自腹だ。 「活動に参加してから、ホームレスが怖いという印象は払拭(ふっしょく)されました。実際に話してみると、みんな優しくていい人ばかりですよ。彼らに少しでも何かできればと考えたとき、私にできることといえば健康的な料理を作ることなので」  活動に参加する飲食店勤務の男性(21)は、「代表の濱野くんと清掃ボランティアで出会ったのがきっかけで、誘われるがままに参加しました」という。今では運営メンバーの一人だ。 「この活動をする前、路上生活者をバカにしていたんです。どういう立場かも知らないで、偏見で『汚い。変な人』という印象を勝手に持って、話のネタにもしていました。活動に参加して、彼らは自分たちが思っている何十倍も厳しい生活をしていて、日々生きるのに頑張っていることがわかりました。そんな人たちをバカにしていた自分がなんて幼いんだと恥じました」  この日の参加が初めてだという20代の女子大学生は、愛知県から来たという。普段は薬学部生として勉学に励んでいると話す。 「私も、新聞をみて来ました。同じ学生の濱野さんがこんな素敵な活動をしていると知って、一度お会いしたいと思って。ケガをしたり、病気の人が受診したりしてお薬を渡すというのが、私たちの仕事。そうじゃなくて、そもそも病気になってしまう環境とかに、医療の世界はアプローチできてなくて、そんな課題を将来的に解決できればと感じています」  そうした考えをもとに、この活動に参加しているという。 「困っている人を街中で見かけても、どう声かけていいのかわからない。正直、私一人が声をかけたところで、全員を助けることができないと思ってもいます。ただ、こうやって活動に参加して、活動を通じて話しかけて、自分でできる範囲で支援をしたいです」  稲毛公園でも30分程度だった。この後は、出発地点の川崎駅東口ロータリーに向かった。雨の中、大通りを真っすぐ川崎駅に向かった。到着したのは午後9時15分ごろだった。 活動拠点の川崎駅東口ロータリー  すでにホームレスが1人いた。駅東口のロータリーは広く、ホームレスも多いため、100メートル程度離れた2カ所に分かれて配るという。この日は計10人くらいだった。なかには、約1時間かけて歩いてきたという男性もいた。 人が多い川崎駅東口は分かれて配る  この夜は3カ所で計25人。すべて配り終えたのは午後10時近くだった。みんなびしょぬれで帰路についた。 ●29歳ホームレス 普通の生活に戻りたい  活動に密着してまず感じたのは、ホームレスの年代が幅広いということだった。高齢の人が多いというイメージだったが、40代もそこそこいて、なかには20代もいた。  29歳の男性に話を聞くと……。 「僕だって普通の成果に戻って、恋人を作ったりしたいですよ。好きでこんな生活を送っていない」  男性は、路上生活を始めてから1年が経とうとしている。2022年9月まで、自動車メーカーの倉庫勤務をしていた。ある日、人員削減を理由に「あと1カ月で辞めてほしい」と告げられたという。泣く泣く退社した男性は家賃を払えなくなって家も追い出され、路上生活をすることになった。両親はすでに他界し、親族にも頼れる人がいない。生活保護は受けていないという。 「路上生活をしていて、市役所の職員が話しかけてくることはなく、生活保護をもらうには自ら行かなければいけない。ただ、恥ずかしいという思いが強くて。できることなら、自力でがんばりたくて」  床に就くのは、いつも公園や家電量販店の近く。そうした場所はホームレス仲間から教えてもらったという。また、炊き出しの日なども教えてもらい、日々の生活を送っている。通行人から「汚い」と心無い言葉を投げつけられることもあるという。  この男性は、軽度の知的障害を抱えているという。日常会話や単純作業などは普通にできて生活に支障はないが、複雑なことをしたり、考えたりするのは不得意といい、金銭管理など計画的な生活が難しいという。男性のような、知的能力がいわゆる障害とされないレベルの人のなかには、社会生活は不自由に感じ、再就職が難しいケースがあるという。  濱野さんはこの状況について、自身の考えを語った。 「計画的に考えられずに、生活に苦しむ人も多い。なかには生活保護の受取日を忘れてしまい、保護を打ち切られた人もいます。人数が足りないのはわかっているが、行政も積極的にホームレスの実態把握や生活保護などの相談をしてもいいのではないか。駅前のベンチに手すりなどつけて、寝られなくして排除するより、もっと良い解決策があるはず」  川崎市が4月に公表した調査によると、市内のホームレスは132人となり、前年比で29人減った。2019年の285人から半数以下になっている。調査対象は公園、河川、道路、駅舎などで、2日間に分けて目視調査を実施。市保健福祉局の担当者は「2019年から4年間、第4期川崎市ホームレス自立支援実施計画に基づいて巡回相談をし、自立支援センターへの入所なども案内しました。その結果の数字では」と話した。  ただ、濱野さんはこう指摘する。 「私がこれまでつながりを築いてきた“オジさん”たちのうち、10人は路上で亡くなっています。そのため、市が確認した『29人の減少』のうち3分の1は市の取り組みの成果ではないです。路上で対等な関係性を築いてきた私たちが、彼らに寄り添った解決策を提案していきたいです」  CoEは、おむすびの配布以外にホームレスの相談に乗ることも業務としている。生活保護の案内や打ち切りにあった人については、話を聞いた上で行政に対して再開を検討してもらうよう働きかけることもあるという。  濱野さんによると、今はホームレスを言葉巧みにだましてどこかに連れていき、生活保護費を搾取する「生活保護ビジネス」が川崎では横行しているという。目をつけている業者が二つほどあり、不審な人物にホームレスが囲い込まれていないか、時間があれば巡回しているという。  濱野さんに将来について聞いてみた。  すると、いまも政治家を目指していて、「格差をなくし、誰もが対等な関係を築きける社会にしたい」という。ホームレスの居場所を作りたいといい、彼らとコーヒーショップを開くことも検討しているとのこと。 「人生の苦みを味わった元ホームレスが提供する“教訓ブラックコーヒー”」  これをメニューの一つに入れたいという。 (AERA dot.編集部・板垣聡旨)
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dot. 2023/06/25 16:00
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女子に負けるな! 男子ゴルフにも勢いある若手たちが台頭、漂う“スター誕生”の予感
男子ツアーの“スター候補”中島啓太  今月11日まで開催されていた国内男子ツアー、ASO飯塚チャレンジドゴルフトーナメントは激闘の末、中島啓太がプロ初優勝を達成した。  中島は、最終日を3打差2位で出ると、1イーグル、6バーディ、1ボギーの7アンダー65で回り通算29アンダー。金谷拓実とのプレーオフに突入した。そのプレーオフでは、2ホール目でバーディを奪取。アマチュア時代からのライバルを逆転する勝利に、グリーン上で涙するシーンも印象的だった。  中島と金谷のプレーオフは、これからの男子ゴルフの明るい未来をイメージさせるものだった。2人は、金谷が広島国際学院高2年の2015年に日本アマチュアゴルフ選手権決勝でぶつかり、当時中学3年の中島を破って、17歳51日の史上最年少で優勝。その時からのライバル関係は続き、ともに世界アマチュアランキングトップ、アマチュアでのツアー優勝を果たしている。  そんな今後の日本のゴルフ界を背負う2人が、ツアーの舞台で、プレーオフで一騎打ちを演じた。しかも72ホールを終わった時点でのスコアは通算29アンダー。スコアはコースセッティングで変わるため、一概にこのハイスコアだけでレベルの高さを語ることはできない。それでも3位の岡村了のスコアが7打差の通算22アンダーだったことを考えると、この2人が“別世界”でプレーしていたことがわかるだろう。  さらに中島と金谷は、これが3週連続の最終日最終組対決。18日現在の賞金ランキングも1位が中島、2位が金谷で続いており、今季の国内男子ツアーは、この2人を中心に盛り上がりを見せてくれそうだ。  また、男子ツアーには、この中島、金谷以外にも若手の注目が台頭してきている。そこで今回は、今後の男子ツアーを牽引する彼らの現在地をチェックしていきたい。  まずはプロ初勝利を飾ったばかりの中島だ。2021年のコロナ禍では、9月のパナソニックオープンで史上5人目のアマチュア優勝。その後、松山英樹、金谷に続く日本人3人目のアジアアマ制覇も成し遂げ、翌2022年のマスターズに出場した。  中島の素質は海外からも注目されており、上記マスターズの前の1月には、タイガー・ウッズ(米)、ジャスティン・トーマス(米)、コリン・モリカワ(米)らも所属する米国の大手マネジメント会社「エクセルスポーツマネジメント」入り。日本人選手としては初の契約選手となった。  今季は、開幕戦の東建ホームメイトカップから2試合連続でトップ10入りすると、~全英への道~ミズノオープンからは単独2位、2位タイでフィニッシュし、今回のASO飯塚で優勝。前週のハナ銀行インビテーショナルでも、1打差単独2位でフィニッシュした。  18日現在で、パーキープ率はトップ、平均ストロークは2位、パーオン率は4位となっており、賞金ランクトップに相応しいプレーを見せている。昨年9月にプロ転向しており、プロとしての本格参戦は今年から。金谷という2つ上のライバルと切磋琢磨することで、さらに勝ち星を伸ばしてくれるはずだ。  その中島に追いかけられる立場にいる金谷は、今季絶好調だ。開幕戦を中島と同じく8位タイで終えると、ミズノオープンで3位タイ。続く、メジャーのBMW日本ゴルフツアー選手権 森ビルカップでは初日からトップを守り完全優勝を達成した。  賞金ランクは中島に続く2位となっているが、その要因となっているのがパッティングだろう。金谷の平均パット数は1.69でツアーNo.1。これが平均ストロークトップとパーキープ率、バーディ率2位を支えている。  ドライビングディスタンスは290.56ヤードで32位と、300ヤード超えで同13位の中島に差をつけられているが、グリーン上でスコアメイクしているのが金谷の特徴。今年は、2月にアジアンツアーのインターナショナルシリーズ オマーンでも海外ツアー初勝利を挙げており、国内外をまたにかけた活躍が期待できそうだ。  蝉川泰果もこれからのツアーを引っ張る若手だろう。昨年はパナソニックオープンでツアー史上6人目のアマチュアVを記録すると、翌月の日本オープンも95年ぶりとなるアマチュア優勝を達成。アマチュアとして史上初めてツアー2勝を挙げる偉業を成し遂げた。  プロ転向して迎えた今季は4月の関西オープンで勝利し早くもツアー通算3勝目。この他、ゴルフパートナーPRO-AMトーナメントで2位タイ、中日クラウンズで単独3位、さらにミズノオープン5位タイと、金谷、中島に負けない活躍を見せている。  金谷とは違うプレースタイルも魅力で、蝉川のイーグル率は3.6でツアー2位。300ヤードを超えるビッグドライブでアグレッシブにスコアを作っていく姿は、観るものを熱くさせてくれる。名前の泰果(タイガ)はウッズのタイガーが由来。これからもウッズのような魅力的なゴルフで国内のファンを楽しませて欲しい。  平田憲聖も今季飛躍が期待されるプレーヤーだ。ツアー2年目の今季はミズノオープンでツアー初V。飛距離やショット、パットは平凡だが、パーキープ率が6位、リカバリー率2位と粘り強さを発揮している。  ミズノオープンの初勝利は、スター候補の中島をプレーオフで下して掴んだタイトル。中島、蝉川と同じZ世代の若手として、平田のこれからのプレーが見逃せない。  女子ツアーは、毎年多くのヒロインが生まれたことで現在の人気を獲得してきた。男子もこの4人がスターの階段を順調の登ることができれば、例年にない盛り上がりを見せることができるだろう。
ゴルフ
dot. 2023/06/20 17:30
高田万由子さん「恩返ししたかった」 東大同窓生の大宮エリーに東大受験のきっかけを語る
高田万由子さん「恩返ししたかった」 東大同窓生の大宮エリーに東大受験のきっかけを語る
大宮エリーさんと高田万由子さん(写真:本人提供)  作家・画家の大宮エリーさんの連載「東大ふたり同窓会」。東大卒を隠して生きてきたという大宮さんが、同窓生と語り合い、東大ってなんぼのもんかと考えます。14人目のゲストは俳優・タレントの高田万由子さんです。 *  *  * 高田:エリーさんは夫(葉加瀬太郎さん)とは交流がおありですよね。 大宮:葉加瀬さんの番組に出演させていただいたご縁で、葉加瀬さんが作曲されるお能の脚本を書かせてもらいました。葉加瀬さん、お能も、ってすごいですよね。あのとき万由子さんにも会えちゃったりするのかなと思ったんだけど(笑)。 高田:すみません。あまり表には出ていかなくて。裏にはいるんですけど(笑)。バイオリンとお能の組み合わせは、初めての試みでした。現代と古典の架け橋になるように、エリーさんにお願いしたみたいです。 大宮:うれしいです。お能も神様の世界も結構好きなので。万由子さんはクラシック音楽、お好きですか。 高田:いや、別に(笑)。音楽は深すぎて分かんなくて。 大宮:えっ、そうなんですか。 高田:ピアノは小さいころ習ってたんですけど、全然弾けなくて。バイオリンは娘が2歳から16歳まで習ってたときに、私がピタッと横についていて、先生が娘に教えたことを全部書き留めて、家で娘に通訳するみたいなことをしてたので、バイオリンはこうすると上手に弾けるんだろうなっていう理屈みたいなのは分かります。弾けませんけど(笑)。 大宮:すごい。私たち、同じ時期に在学してたんですっけ。私は今47歳で、1浪しました。 高田:私は52歳で、高校で1年留学してます。 大宮:かぶってないのか。でも、学内で高田さんのこと、すごく噂になってました。「東大生から女優さんになった人がいる」「すごい美人」って。 高田:私ね、シブがき隊のモッくんの大ファンで、モッくんのいる芸能界に入りたいって願望がずっとあったんです。大学2年のときに「週刊朝日」に写真を送って表紙の女子大生モデルに選ばれて、それからは仕事のお話が来たらハイハイと即決してました。だから、勉強もしなくて……。 大宮:あ、大丈夫ですよ(笑)。 高田:そもそも東大に入りたくて受けたのではなく、私自身のチャレンジだったんです。白百合学園に小学校から行っていたんですが、高校のとき、1年間留学するために、一度退学して、また編入するという前例のない対応をしていただきました。だから、学校に恩返ししたくて、国立を受けたんです。 大宮:面白い。 高田:それで進路相談のとき、先生に「大学どこ行くの?」って聞かれて、「国立もちょっと受けてみたい」「東大、京大あたりを狙ってみるのはどうですか」と話したら、「ああ、あなたは無理よ」って。 大宮:えっ。 高田:この成績だとちょっと無理ですね、みたいな感じ。これは絶対に先生をギャフンと言わせちゃおうと思いました(笑)。 大宮:逆境があると燃えるタイプなんですね。 高田:こそっとね。地味に一人で燃えるので、あまり周りに気付かれないんですけど。 大宮:でも、国立の中でも東大にしたのは、なんでなんですか。 高田:まあ上から行くのがいいでしょう、と思って(笑)。だから、もともと東大に憧れていたとか、本当に東大に行こうとか思ってたわけでもなくて、私の第1志望は慶應でした。 大宮:確かに、なんか、ぽいです。 高田:私が留学してる間に、親友たちが先に慶應に入学してたので。でも、試しに東大を受けてみようという感じでした。 大宮エリー(おおみや・えりー)/1975年、大阪府出身。99年、東京大学薬学部卒業。脚本家、演出家などを経て画家として活躍。瀬戸内国際芸術祭(岡山県・犬島)で「光と内省のフラワーベンチ」を展示。2023年7月11~24日にスパイラルガーデン(東京)で個展を控えている 高田万由子(たかた・まゆこ)/1971年、東京都出身。東京大学在学中に「週刊朝日」女子大生表紙シリーズのモデルに。「たけし・逸見の平成教育委員会」レギュラー出演。94年、東京大学文学部卒業。99年、バイオリニストの葉加瀬太郎さんと結婚。2007年にロンドンに移住 ※AERA 2023年6月19日号
東大ふたり同窓会
AERA 2023/06/18 17:00
特集は「AIは人間を超えるか」/小中学生向けニュース月刊誌「ジュニアエラ7月号」6月15日(木)発売
特集は「AIは人間を超えるか」/小中学生向けニュース月刊誌「ジュニアエラ7月号」6月15日(木)発売
親子で楽しく読めて、中学受験・高校入試の勉強にも役立つニュース月刊誌「ジュニアエラ」が6月15日(木)に発売されました。7月号の特集は、「AIは人間を超えるか」。ニュース解説は「宅配便、届くのが遅くなる?」「スーダン紛争 何が起きている?」などを掘り下げます。スペシャルインタビューには、今春早稲田大学大学院を修了した7 MEN 侍(ジャニーズJr.)の本高克樹さんが登場。HiHi Jets連載は、作間龍斗くんです。 今号の特集は、「AIは人間を超えるか」。AIとは、人間の知能を模した機能を持つコンピューターシステムのこと。最近では、質問を投げかけると瞬時に答えてくれるChat(チャット)GPTも話題です。AIができることとはいったい何でしょうか?そして、上手な付き合い方とは?AIにまつわるさまざまな疑問について、専門家である東京大学教授・松原仁先生に聞きました。チャットGPTに中学入試の問題を解いてもらい、プロに採点してもらったコーナーも必見です! ニュース解説記事は、「宅配便 届くのが遅くなる?」。今年の春から一部の宅配便が値上げされたり、荷物が届くのが遅くなったりしています。私たちのもとに商品を届けてくれる「物流」業界に何が起きているのでしょうか。ジャーナリストの一色清さんが詳しく解説します。 このほか、「スーダン紛争 何が起きている?」「地方政治のなり手不足が深刻」「ドイツが脱原発を達成」「大阪・関西万博会場隣接地に開業予定 IR(統合型リゾート)って何?」といったニュースを小中学生にもわかりやすく説明しています。 スペシャルインタビューは、7 MEN 侍(ジャニーズJr.)・本高克樹さん。今春、早稲田大学大学院創造理工学研究科を修了した本高さん。子どものころにつくった「北海道旅行記」の自由研究の思い出や、中学受験、高校受験の体験談などを語ってくれました。 読者から寄せられた質問にHiHi Jetsが答える連載「放課後はまかせて!」は、作間龍斗くんが登場。「人の顔色を見るクセがあり疲れてしまう」という16歳に、「僕も」と共感しつつ、頑張りすぎない人付き合いの方法を教えてくれました。 もしも歴史人物がSNSを使っていたら…をマンガで紹介する歴史人物SNSは、新・5千円札の肖像に選ばれた津田梅子。6歳で日本初の女子留学生の一人に選ばれ、アメリカに渡った梅子が歩んだ人生とは? 【そのほかにも、盛りだくさん!】・一色清の「一色即発」 G7サミットにゼレンスキー大統領・フンダラ姫のNewsなひとこと・「クイズ王」に挑戦!! クイズで1000本ノック・マンガ コリゴリ博士の暴投ステーション・はばたけ!スーパー・キッズ 起業家 レウォンさん・AI時代のハローワーク 未来のお仕事案内 キュレーター・夕日新聞 日本全国B級ニュース ・子ども地球ナビ フィリピンの男の子・のぞき見探偵が行く! 皇居のお濠・サイエンス・ジュニアエラ オジギソウがおじぎをするしくみと理由を解明!・読者のページ ジュニステ・2コマまんがdeあ・そ・ぼ/川柳教室/こなやみ相談室・旬のたべものレストラン カツオ・ニュースのニューシ問題 インターネットの普及に関する問題・ジュニアエラ検定・連載・全員ウソつき・コリゴリ博士と読む5月のニュース・パックンのすぐに使えるオモシロ英語   ジュニアエラ7月号特別定価:499円(本体454円+税10%)発売日:2023 年6月15日(木曜日)
dot. 2023/06/15 11:51
野球を続けたい!「中学生の女子軟式野球チーム」が急増 思春期の野球少女たちに新たな道 
國府田英之 國府田英之
野球を続けたい!「中学生の女子軟式野球チーム」が急増 思春期の野球少女たちに新たな道 
埼玉SUNレディース越谷の星川陽菜さん(14)。チームではキャプテンを務めている(撮影/國府田英之)  女子中学生の軟式野球チームをつくる動きが各地で進んでいる。これまでは、学童野球で男子たちに交じって主力選手として活躍した女子選手も、小学校卒業後の受け皿がなかったり、思春期を迎える中で男子チームに入ることに抵抗があったりして、野球を諦めざるを得ないケースが少なくなかった。だが、企業の協賛などもあり、ここ数年は少しずつ女子野球の裾野が広がりつつある。 *  *  *  埼玉県越谷市では、地元を「野球の街」として盛り上げようと関係者たちが「野球の街越谷」実行委員会を立ち上げ、野球教室などさまざまなイベントを開催している。  5月下旬。市内の、とある中学校のグラウンドを訪れると、真っ赤なユニホームに身を包んだ女の子たちが白球を追いかけていた。  昨年春に地元企業「SUNホールディングス」が創部した、15歳以下の女子軟式野球チーム「埼玉SUNレディース越谷」のナインたちだ。選手は中学生13人。監督の佐藤楓馬さんは大分の名門・明豊高校の投手として甲子園の土を踏み、大学を経て同じSUNホールディングスの硬式野球部で活躍した経験を持つ。  学童野球だけを見れば、ここ越谷の女子野球熱はもともと高かった。「越谷ドリームス」という学童野球の女子選抜チームがあり、昨年は埼玉代表として全国大会に出場した。 「野球の街越谷」会長の長瀬翼さん(同市立大相模中学教諭)は、2021年の夏ごろ、越谷ドリームスの関係者から、市内の学童野球チームに入っている女子選手が計60人以上もいることを聞かされて驚いたという。  だが、同時に疑問がわいた。 「中学の野球部に入っている女子生徒は一人もいなかったんです。こんなにたくさんの野球少女がいるのに、その後はどこへ行ってしまったのだろうかと」(長瀬さん)  調べてみると、市外のクラブチームに入り野球を続けている生徒もいたが、多くは中学のソフトボール部や他の競技に転じていた。  長瀬さんは、市内のすべての中学の野球部顧問に「着替える場所が確保できているか」など、女子が入れる環境が整っているかを確認したうえで、越谷ドリームスに出向いて中学の野球部に勧誘した。 小学6年生のときは先発ピッチャーとして活躍。「遅い」球が武器だった(撮影/國府田英之)  だが……、保護者たちの反応はかんばしくなかった。 「思春期の女の子が男子の中に入るのはちょっとねえ」  さらに、その娘たちもまた「中学生の女子野球チームがあればいいのに」と口をそろえた。  長瀬さんは新たなチームをつくる以外に、野球少女たちがプレーを続ける道がないと確信し、SUNホールディングスの鳥井佑亮社長に相談。「スポーツ人財の育成」を掲げ、野球部やバスケットボール部などを持つ同社の意向と合致し、SUNレディース越谷の立ち上げが決まった。  野球を一度は諦めた、あるいは中学では諦めようと考えていた野球少女たちに、新たな道が開かれた。  現在、女子野球の競技人口は増えており、中学の女子軟式野球チームをつくる動きは東京・府中市などでも進んでいる。  日本中学校体育連盟(日本中体連)のまとめでは、22年度の軟式野球部の女子の加盟生徒数は3936人で10年前の1886人より大幅に増えた。硬式野球を統括する全日本女子野球連盟によると、15年の登録チームは62で競技者は1519人だったが、昨年は登録チームが101、競技者は2685人になった。 「求めていた場所ができてよかったと思います」  こう話すのは、埼玉SUNレディース越谷のキャプテンを務める星川陽菜さん(14=大相模中学3年)だ。  2歳年上の兄に続き、小学校2年生のときに学童野球チームに入った星川さん。6年生になると先発ピッチャーで打順は6番を任され、夏にはチームの主軸に成長した。 細い腕を目いっぱい振って投げるストレートの球速は、「多分60キロか、70キロの間くらい」(星川さん)で、 投球練習を見た相手チームが、「遅っ!!」とざわつくほど。コントロールの良さが武器だった彼女はその「超遅球」で凡打の山を築き、一回をわずか3球で終えたこともあった。   とことん野球にはまっていた星川さんだが、「中学で男子と一緒にやろうとは思いませんでした」。思春期の女の子にとっては当たり前の反応かもしれない。 現在のポジションは捕手、打順は3番でチームを引っ張っている(撮影/國府田英之)  市外のクラブチームに入ることも検討はした。だが、そうすると親の負担が重くなる。母の尚子さんは「共働きですので、遠方のクラブチームに練習や試合のたびに娘を送迎し続けられるのかと考えると、現実的には難しいと感じました」と率直な思いを話す。  星川さんは、中学では女子のソフトボール部に入部。野球とはまた違う魅力がある。それでも、「やっぱり野球ができたらいいなあって、もどかしい思いがずっとありました」  そんな折に耳にした、地元での女子野球チーム立ち上げの話。  チームの始動は昨年の春だったため、チーム側も4月に入学する中学の新1年生を中心にしたチームづくりを想定していた。 「上の学年の生徒には、もし入部をご希望でしたらどうぞ、という遠慮がちなものでした。でも、たとえ『おまけ』みたいな形だとしても、大好きな野球をまたやれるならそれでいいよねって、娘も私も思ったんです」(尚子さん)  結果的にはキャプテンを任され、ポジションは捕手、打順は3番でチームを引っ張っている。中学の部活動と兼部している生徒も多いが、星川さんはソフトボール部でもキャプテンを任され、この日は午後にソフト部の練習が入っていた。  星川さんはこう言い切る。 「野球を続けて良かった。始めたころはイヤイヤでやめようと悩んだこともあったんですけど、今は後悔はまったくありません」  学童野球の投手は変化球を投げてはいけないが、中学生の投手は数種類の変化球を操る。その投手を生かすも殺すも、捕手のリード次第。考えることが格段に増えた。  憧れの選手は同じ捕手の小林誠司(巨人)だという。 「顔がかっこいいよね」という筆者の問いかけにはほとんど興味を示さず、 「肩が強いし、フレーミングの技術(ストライクかボールか微妙な投球を、ストライクに見せる捕手の捕球技術)や配球もすごいじゃないですか」  と夢中で語るその姿は立派な球児だ。  星川さんは来年が受験だが、女子の硬式野球チームがある高校を受験する予定だという。 中学ではソフトボール部とも兼部している(撮影/國府田英之)  越谷市では、埼玉SUNレディース越谷の立ち上げにより、野球少女たちを取り巻く“空気”にも変化があったようだ。前出の長瀬さんによると、市内の中学野球部の女子部員は長くゼロだったが、この4月に6人が入部した。  星川さんと母の尚子さんも口をそろえてこう話す。 「女子は中学では野球部じゃなくソフトボール部に入るのが当たり前という先入観がありましたが、女子が野球部に入ってもおかしくないよねって、そんな前向きな雰囲気に変わってきているように感じています」  野球少女たちが活躍できる舞台を――地域の野球関係者たちがまいた種が、ゆっくりとだが芽吹きつつある。 (AERA dot.編集部・國府田英之)
女子野球学童野球
dot. 2023/06/13 10:00
AID当事者とドナーを結ぶドナーリンク 出自わからぬ女性の思いが原動力「『人が関わって生まれた』と確認したい」
AID当事者とドナーを結ぶドナーリンク 出自わからぬ女性の思いが原動力「『人が関わって生まれた』と確認したい」
石塚幸子(いしづか・さちこ)/学生のとき、AID(非配偶者間人工授精)で生まれた事実を知った。AIDで生まれた人の自助グループ「DI Offspring Group」メンバー。共著に『AIDで生まれるということ』(萬書房)。DLJ理事、広報・事務局を担当(撮影/山田茂)  提供精子による人工授精が日本産科婦人科学会登録の医療機関で行われる場合、提供者は匿名とされてきたが、海外では出自を知る権利を保障する法律や、提供者と生まれた人を結びつける仕組みを持つ国もある。日本でも出自がわからない苦しみを終わらせるため、当事者らが立ち上がった。AERA 2023年6月12日号の記事を紹介する。 *  *  * 「自分が精子というモノから生まれたのではなく、『人が関わって生まれた』のだと確認したい。団体を立ち上げたのはそのためです。私たちがドナー(精子提供者)を知るためには、これしか方法がありません」  AID(非配偶者間人工授精)で生まれ、出自がわからないことに苦しんできた石塚幸子さんはこう話す。石塚さんらは一般社団法人ドナーリンク・ジャパン(DLJ)を設立し、2023年4月に運営を開始した。  ドナーリンクとは、提供精子や卵子で生まれた人と、そのドナー(提供者)、同じドナーから生まれた人同士を結び付ける試みだ。希望する当事者は、提供の時期や医療施設などの周辺情報をDLJに登録し、DNAマーカーリンク検査を受けられる。検査結果等を元に担当医師らがリンクの可能性を推定し、マッチング(血縁があると判断)した際はソーシャルワーカーが仲介して双方のやりとりをサポートする仕組みだ。現状、スタッフ全員が無償で担当業務をこなしている。  なぜこのような団体が必要なのか。  かつてAIDはドナーを匿名とし、事実を誰にも明かさない前提で行われてきた。だが海外では1990年前後からAIDで生まれた当事者らがドナーに関する情報を求めて抗議の声を上げ始める。結果、出自を知る権利を法で保障する国や州が増え、同時に法の施行前に生まれた人々を対象に国がドナーリンクに取り組む例が出てきた。  日本でも戦後間もない時期から慶応大学病院でAIDの実施が始まり、2003年には石塚さんなどAIDで生まれた人たちが声を上げ始めた。しかし出自を知る権利を守るための法整備は一向に進まず、国によるドナーリンクの取り組みも期待できなかったため、しびれをきらした当事者と関係者らが自ら団体を立ち上げた形だ。  原動力となったのが、冒頭に登場した石塚さんだ。石塚さんは約20年前、23歳のときにAIDで生まれた事実を母親から知らされ「人生の全てが崩れる」経験をした。以来「精子というモノから生まれた」という感覚に常に悩まされてきた彼女にとって、DLJの設立は長年の願いだった。 仙波由加里(せんば・ゆかり)/DLJ代表理事。お茶の水女子大学研究協力員。博士(人間科学)(撮影/大塚玲子)  石塚さんら当事者の思いを実現させたのは、DLJ代表理事を務める仙波由加里さんだ。仙波さんはかつて不妊治療を受ける当事者として研究の道に進んだが、石塚さんをはじめとするAIDで生まれた当事者らと出会い、生まれた人の視点に立つようになる。 「出会った頃、石塚さんが本当にすごく悩んでいたので。私は生まれてくる人のことまで考えて不妊治療を受けたいと思っていただろうか、と考えさせられた。その頃から配偶子提供で生まれてくる人の出自を知る権利について追いかけるようになりました」 ■ドナーに求めるのは、あくまで遺伝的な情報  仙波さんは海外生活が長かったこともあり、生殖補助医療をめぐる諸外国の状況にも詳しかった。米国や欧州、豪州におけるドナーリンクの取り組みを石塚さんに最初に知らせたのも仙波さんだった。石塚さんはこう振り返る。 「04年に研究会の場で仙波さんからもらった資料に海外のドナーリンクの事例が書かれているのですが、赤線がたくさん引いてある。私はたぶん当時から『いつかこれをやりたい』と思っていたんですね」  だが、具体的な行動を起こすまでには時間がかかった。石塚さんと仙波さんは、日本でどのようにドナーリンクを実現させるかよく相談していたが、自分たちで団体や仕組みを作るのは容易なことではない。法整備が進み、国がドナーリンクに取り組む可能性に期待したが、国会は動かない。ついに立ち上がったのは仙波さんだった。 「『このままではドナーが死んでしまうかも』と石塚さんが言うようになって、これは急がなければと思いました」  22年春、研究職を離れてDLJの設立準備を始めた。  団体を立ち上げるにあたり、ふたりが真っ先に声をかけたのが、産婦人科医の久慈直昭さんだった。慶応大学病院で長くAIDに関わってきた医師たちのなかで、ドナーの匿名性を見直すことに初めて言及してくれた久慈さんは、関係者らにとって非常に大きな存在だった。久慈さんもかつてはドナー情報の開示に消極的な考えだったが、10年ほど前、AIDで生まれたことを幼いときから告知されて育ち、ドナーとも会ったというオーストラリアの女性に会って考えが変わったと話す。 「その方の話を聞いて、生まれた人がドナーに求めるのはあくまで遺伝的な情報だとわかり、納得しました。決して社会的な『親』を求められるわけではないことを、ドナーの人たちにも知ってもらいたい。彼らが精子提供したことを『よかった』と思ってくれたら嬉しいと思い、今回理事を引き受けることにしました」(久慈さん) ドナーリンク・ジャパンの設立記者会見。左から石塚さん、久慈さん、仙波さん=2023年4月11日、厚生労働省(撮影/大塚玲子)  ドナーリンクの立ち上げは手探り続きだった。石塚さんと仙波さんが最初に話し合ったのは、ドナーリンクの仕組みだった。海外には、米国のように当事者が民間のDNA検査会社を通して各自で結びつくやり方と、欧州や豪州のように団体が当事者の交流を仲介するやり方がある。前者のほうがシンプルだがトラブルも起きやすいことを知り、DLJでは仲介を入れる後者の形を採用することにした。 ■ドナーの病歴知っていたら、覚悟ができたかもしれない  生まれた人が知ることができるドナー情報の範囲にも頭を悩ませた。生まれた人にとって提供者を知ることは当然の権利と考えられ、今後行われる配偶子提供では情報開示の範囲を生まれた人が決めるべきだと石塚さんらは考えている。だが、DLJで扱うのは過去に実施されたAIDだ。匿名という条件でドナーを引き受けた人に対し、生まれた人が望む全ての情報開示を求めることはできないと考え、開示範囲はドナーの判断に委ねることにした。  最も判断が難しかったのは、DNAの検査を受けられる人の範囲設定だった。当初は医療機関以外で行われたAIDを含めることも検討したが、親子関係をめぐって訴訟が起きるリスクがどうしても残る。そのため「当面の間、日本産科婦人科学会に登録されているAID実施医療機関で実施されたAIDのみ」としたが、「今後、範囲を見直す可能性はある」と仙波さんは話す。  今後の最大の課題は、いかにして登録者を増やすかということだ。登録する人が少なければマッチングの確率は上がらず、団体の存続も難しくなってしまう。ドナーについては、少しでも登録のハードルを下げるため検査料を無料としたが、それでも登録者はすぐには増えないことを予想している。  AIDで生まれた人たちがどの程度登録するかもわからない。これまで医療機関はAIDを実施する際、子どもに事実を告げないよう指示してきたため、自分がAIDで生まれたことを知らされていない人がほとんどだ。知らなければDLJにも登録しようがない。  既に登録を決めた当事者もいる。石塚さんと同様、慶応大学病院で実施されたAIDで生まれ、30代のときに母親から事実を告げられた60代の女性だ。女性は20年ほど前に難病を発症し、その後がんも患った。今も日常生活に支障をきたしている。難病は母方の親類には見られず、ドナーから遺伝した可能性が高い。女性はこう話す。 「もしもっと若い頃にドナーの病歴がわかっていたら、ある程度覚悟ができたかもしれません。私のドナーは既に高齢で亡くなっている可能性が高く、見つかるとしたら異母きょうだいですが、やはり会えるなら早く会いたい」  女性は団体の継続方法も案ずる。長期にわたる運営が必要だが、現状はスタッフが無償で支えているからだ。 「ドナーリンクは本来、国や病院が責任をもって行うべきことでは。不妊治療の助成を手厚くするより、まずは過去に行ってきた治療で悩み苦しむ人を救ってほしい。DLJのような団体こそ国は応援してほしいです」  出自がわからないという煩(わずら)いを終わらせるべく当事者と関係者らが立ち上がった。20年近く法整備を放置した政治家たちは、その責任を感じてほしい。(ライター・大塚玲子) ※AERA 2023年6月12日号
AERA 2023/06/11 11:00
なぜ私は「余命宣告」をするのか 佐藤優と主治医がゴールとしての「死」を語る真意
なぜ私は「余命宣告」をするのか 佐藤優と主治医がゴールとしての「死」を語る真意
佐藤優さんと片岡医師撮影/飯田安国  作家で元外務省主任分析官の佐藤優さんが、病について、そしてその先にある死について、主治医の片岡浩史さんと語り合った。『教養としての「病」』から、一部を紹介する。  ■なぜ、私は「余命宣告」をするのか 佐藤優 今回本書のテーマに掲げたのは「教養としての“病”」ということです。「病気の知識は教養なのか?」という疑問を持つ人もいるかもしれませんが、圧倒的大多数の人たちは病気によって亡くなるのですから、誰もが病気について広く知っておかなければいけません。病気の最終的なゴールである死についても、目を背けずよく考えておく必要があります。いずれの場合も、人生の早い時期から始めておくことが望ましいでしょう。  ところが、現実にはそういう人たちは決して多くありません。そこに一石を投じたいということが今回の企画のスタートポイントでした。 片岡浩史 どんな病気であれ、ある一瞬に突然発生するものではありません。自覚症状が現われるのはある一瞬かもしれませんが、その萌芽はそれよりずっと前にあるわけです。  たとえば腎臓病の場合、50歳の人が自覚症状を訴えたとき、その原因は20代から始まった生活習慣だった、というケースはよくあります。  若くて元気なうちは、みんな病気のことなんて意識しませんよね。しかし、若くて元気なうちにこそ病気を防ぐことを日常的に意識しなければいけない、というのが私の考えです。そのためには、病気の先にある死についても意識する必要があります。今回の対談ではそこを読者のみなさんにお伝えできれば、と思っています。 佐藤 片岡先生は初診の患者に対して「余命宣告」をされていますよね。 片岡 はい。腎臓病は無症状のまま長い年月をかけて進行していく病気で、患者さんがその恐ろしさを自覚しにくいという特徴があります。「患者さんが自覚した時はもう手遅れ」、となることが多いため、私は意識的に、比較的早い段階で「その患者さんの予想される余命」についてお話をするようにしています。特に、20代から40代で肥満がある人は悪化するリスクが相当に高いので、厳しく言うんです。「このままだとあと何年しか生きられません。今の生活習慣は絶対に改めなければいけません」と。  私は今日まで、手遅れの状況になってはじめて事の重大さに気づいて、辛く悲しい思いをする患者さんをたくさん見てきました。そうはなってほしくないから強く言うわけです。  たとえ肥満の腎臓病患者であっても、若いうちから減塩や減量にしっかり取り組めば、健康長寿を実現することもできるということが重要です。 佐藤優(さとう・まさる)/作家、元外務省主任分析官。1960年、東京都生まれ撮影/飯田安国 佐藤 慢性腎臓病はゆっくりと進行していきます。自覚症状も基本的にはない。ですから、軽症の患者は危機感を持ちにくいですよね。 片岡 そうなんです。無症状ということでは同じでも、「あなたは癌です」と言われたときは誰もが強い危機感を持つのでしょうが、腎臓病は必ずしも重く受け止められません。  しかし、症状が進行して人工透析に移行すれば、実は男女ともに平均余命がおよそ半分になってしまいます。たとえば50歳から人工透析を始めた男性の平均余命は14.6年です。4捨5入して、65歳までしか生きられないわけです。これに対して、一般男性の平均余命は30.5年。つまり、約81歳まで生きられる。その意味では、腎臓病は癌に匹敵するような恐ろしい病気だと言えます。 佐藤 腎臓病は「悪化」という1方向にしか進んでいきません。完治する、ということがないわけです。ようするに、一生ずっと病気と付き合い、一生ずっと病気について考え続けなければいけない。これは多くの癌や糖尿病も同じです。今は若くて健康な人であっても、国民的な病気については教養としてあらかじめ知っておくべきなんです。 片岡 まったく同感です。ですから、私は今回、佐藤さんがご自身の病気についての本を出版することになったのは、とてもありがたいことだと思っています。佐藤さんが世に発信することによって、腎臓病をはじめとするさまざまな病気について新たな知見を得る人が、何万人という単位で増えることを期待しています。 ■「最初の1歩」は医師の側から 片岡 今しがた佐藤さんがおっしゃったとおり、腎臓病になった人は一生病気と付き合っていかなければいけません。これはつまり、主治医と患者さんは何十年にもわたって付き合っていく、ということでもあります。このことについて私が1番重視しているのは「患者さんと良い人間関係を築く」ということです。そのためにはまず、1人1人の患者さんについてよく知っておかなければいけません。ですから、診察時の対話はとても大切にしています。 佐藤 病院に来ている1人1人の患者は、カルテの番号、診察券の番号で個体識別をされています。言ってみれば、社会的属性をはぎ取られている状態であるわけです。  患者の服装を見ても、男性も女性も診察を受けやすいように普段着で来ている人がほとんどです。病院ではスーツ姿の男性をあまり見かけませんし、スーツを着ているからといって、その人が会社員なのかどうかも分かりません。まして役員クラスの人なのかどうか、なんてことはまったく分からない。  それから、病院側からすれば患者はみんな同格です。お金持ちの患者を特別扱いするわけでもないし、生活保護を受けている患者だからといって粗末に扱うわけでもありません。 片岡浩史(かたおか・ひろし)腎臓内科医(東京女子医科大学)。医学博士。1970年、NY生まれ撮影/飯田安国 片岡 もちろんそうです。医者は患者さんの社会的地位などではなくて、1人1人の体、病状に合った治療をしていきます。 佐藤 それから、診察室に入った患者は普通、自己紹介なんてしません。そんなことよりも、自分の病状を医師に訴えて、理解してもらうのが先ですから。そうすると、医師の側もその患者さんが何者なのか分からない、ということがおそらく普通にあるのでしょうね。 片岡 そうですね。しかし、そこは大問題だと私は思っています。 佐藤 患者側も何となく、病気以外の話をするのは控えるという心構えになっています。  しかし、本来ならば医師と患者は共同体を作って、一緒に病気を治していく形にならないといけません。人間と人間の関係なのですから、患者の側からも自分は何者で、どういう仕事をしていて、何を大事にしているのか、ということを積極的に伝えていく必要があると思います。 片岡 いや、ただしそこは患者さんから言うのはむずかしいと思います。  そもそも、医者は急に何が起きてもおかしくない状況で仕事をしています。病気は災害のようにやってきます。そのため、医者は仕事の時間配分を自分のペースでコントロールすることができません。体調不良の患者さんを抱えているときや、外来でも同じ時間に多くの患者さんを診察しているときなど、ときとして眼の前の患者さんのお話をゆっくり聞いてご希望にお応えすることができないことがあります。  そして、すべての患者さんの状況を把握できるのは立場的に医者しかいないので、やはりまずは医者側から最初に聞き出すようにしなければなりません。とはいえ、なかなか医者の側からの「最初の1歩」を踏み出せていない現実はあるようです。 佐藤 他方、大学病院の医師たちは患者にオプション(選択肢)を細かく、細かく説明します。紙に書いて残して、なおかつ読み上げる。重要事項を読み上げるというのは、不動産屋の契約とよく似ていますよね。今はコンプライアンスがうるさくなっていて、多くの医師たちはそこのところで過剰に反応しています。  それから、患者はあらゆるプロセスにおいて書類にサインをしないといけません。医者との信頼関係を築いている患者なら、「読み上げなくてもいいですよ」とか「この場でサインしますよ」と言うケースもあるのでしょうが、それでもやっぱり「この書類は家に持ち帰って、よく読んで、次回診察のときにサインをください」とか「サインした書類は次回診察のときに事務に出してください」ということになります。その場でサインさせるのは良くない、という了解が医学界全体にあるのでしょうね。「患者さんに考える時間を与えなさい」と。 片岡 手術のリスクを延々と話すよりは、お互いの話を聞くことに時間を使ったほうが本当はいいんですけどね。 ■15分話せば 佐藤 片岡先生が普段担当している患者は、延べで何人ぐらいになりますか。 片岡 だいたい700人ぐらいです。私は女子医大の他によその病院にも行っていますので、常時診ているのはそれぐらいですね。 佐藤 それはすごい数ですね。午前・午後診療のとき、患者は何人ぐらい入っているんですか。 片岡 9時から5時までで3、40人です。たとえば40人の患者さんを入れていたとして、診察が8時間だとすると、1時間に5人です。そうすると1人の患者さんに12分しか取れません。忙しいときは1人あたり10分取るのも結構むずかしいです。 佐藤 患者が診察室に入ってくる前に、カルテや検査結果を見ないといけませんからね。 片岡 そうです。感覚としてはやっぱり10分ではきついなと思います。15分ぐらいあれば、みなさんをしっかり診られる感じはあります。その場合は1時間に4人。それだとたぶん病院は儲からないんですけど。 『教養としての「病」』(1034円<税込み>集英社インターナショナル新書) 佐藤 私は、長いときで30分ぐらい先生とお話しすることがありました。これはおそらく他の患者さんも同じで、当然のことながら患者1人1人が待つ時間は長くなりますが、30分という時間は日露首脳会談や日米首脳会談といった「会談」の単位の1つです。ようするに、首脳同士が30分話せば「会談」ということになる。  ただし、首脳会談には通訳が入ります。だから実質15分なんですよ。15分話せば、外交の世界では会談です。これは裏返せば、15分あればお互いをかなり深く知れるということですから、場合によっては診察の中で30分も話すというのは、患者からすれば本当にきめ細かい対応です。  片岡先生は患者のプライベートな情報、「この人はこういう人」ということは、みんな把握されていますよね。 片岡 どこに住んでいて、通院に何分かかるとか、実はそういうことがわりと大事で、遠くから通院している患者さんは、やはり通院の間隔を空けてあげなければいけません。そういう形で、いろいろと考えつつやっています。 佐藤優(さとう・まさる)/作家、元外務省主任分析官。1960年、東京都生まれ。同志社大学大学院神学研究科修了後、外務省入省。主任分析官として対ロシア外交の最前線で活躍。2005年に発表した『国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて』で第59回毎日出版文化特別賞受賞、06年『自壊する帝国』で第5回新潮ノンフィクション賞、第38回大宅壮一ノンフィクション賞受賞。 片岡浩史(かたおか・ひろし)/腎臓内科医(東京女子医科大学)。医学博士。1970年、NY生まれ。京都大学卒業後にJR西日本で勤務。その現場経験を通じて医療現場で働きたいと思い、退社。鹿児島大学医学部で学ぶ。腎臓内科医として患者と向き合う一方で、腎臓病研究者として社会保険診療報酬請求書委員、診療ガイドライン作成委員として日本の「医療の質」の向上を追求・模索している。 ※AERAオンライン限定記事
AERAオンライン限定病気
AERA 2023/06/09 11:00
悠仁さまがいるのに女性・女系天皇議論は失礼 漫画家・里中満智子「現代の常識だけで歴史を変えるべきではない」
悠仁さまがいるのに女性・女系天皇議論は失礼 漫画家・里中満智子「現代の常識だけで歴史を変えるべきではない」
チャールズ国王の戴冠式のため英国へ出発する秋篠宮ご夫妻を見送る次女の佳子さまと長男の悠仁さま(5月4日)[写真:代表撮影]  皇位の安定的な継承が危ぶまれているなか、女性・女系天皇容認への社会的な機運が高まりつつある。一方、漫画家・里中満智子さんは悠仁さまがいるのだから、男系男子優先の原則は変えるべきではないという立場を取る。里中さんに歴史の重みとこれからの皇室のあり方を聞いた。AERA 2023年6月12日号の記事を紹介する。 *  *  *  皇族数の減少や安定継承の先行きについて、危機意識を持って準備することは大切です。ただ、長い皇室の歴史を見ると継承の危機はこれまでに何度もありました。507年ころに即位したとされる継体天皇は、天皇の血筋からかなり離れた傍系の男子でした。それも中枢から遠い地から迎え入れ、即位させたといわれます。一方、少なくとも今は、次の世代の継承資格者である悠仁さまがいらっしゃいます。過去の危機と比べてそれほど深刻な事態ではないと考えています。慌てて変えてもいいことはありません。落ち着いて見守ることが必要でしょう。  皇位継承は男系男子優先で続いてきました。史実と思われる範囲に限ってもその歴史は1700年にのぼります。過去には8人10代の男系女子の天皇がいましたが、その多くは消去法で選ばれたり、幼い男子が成長するまでのつなぎだったり。天皇の子に男子がいなくても、先代や先々代の天皇ゆかりの男子を見つけて皇位につけてきました。なぜそこまで男系にこだわったのか理由は定かではありませんが、そうして紡がれてきた歴史がある以上、男系男子優先の原則は変えるべきではありません。  過去に例もある通り、後継者がいない場合に、男系女子の皇族に皇位継承資格があるのは当然だろうと思います。しかし、後継者である悠仁さまがいるなかで、女性天皇・女系天皇について好き勝手議論するのは失礼ではないかと思っています。  今の時代の、それもヨーロッパ的な価値観においては女系まで容認すべきという声が強いでしょう。ただ、現代の常識だけで積み重ねられた歴史を変えるのは疑問です。まして、感情論が議論をリードするようなことはあってはなりません。女性天皇・女系天皇を求める声の背景には、秋篠宮家への下品なバッシングも少なからずあるように思えます。 里中満智子(さとなか・まちこ)/16歳でデビュー。代表作に過去の女性天皇である持統天皇を描いた『天上の虹』など。日本漫画家協会理事長(写真:本人提供)  確かに次世代の継承資格者が悠仁さまおひとりしかいないのは不安です。皇室活動の担い手が不足しているのも事実です。皇族数の減少の背景には、戦後の人為的な皇族数削減があります。1947年に皇籍離脱した旧宮家の方々のなかには、皇族としての品位を保ち、自らを律して暮らしている方もおられると聞き及びます。皇籍離脱から75年がたっているとはいえ、長い歴史から見ればたったの75年です。ご本人の意思次第ですが、そうした方に戻っていただくのは自然なことでしょう。  力でその地位を確立したヨーロッパの王室とは違い、日本の皇室は権威と権力を切り離して歴史をつないできました。天皇が実質的な権力を握っていたのは天武天皇の御代や明治憲法期など、ごく短い期間だけです。現代においても、天皇は日本という国を外に向かって表すときの文化的な象徴と言えます。一時の民意で選ばれる、時に上品とは言えない政治家とは別に、権威を持った存在として国民統合の象徴となり、国のホストを務めることもできる皇室が続いてきたのはとても幸運なことだと思います。 (構成/編集部・川口穣) ※AERA 2023年6月12日号
皇室
AERA 2023/06/08 11:00
幼児食でもできる「作り置き」&「時短」3つのコツと野菜の鉄板レシピを公開
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 離乳食を卒業しても、幼児が大人と同じ食事を摂れるようになるまでには、まだまだ時間がかかる。家事や仕事に追われる忙しい毎日、栄養のバランスを考えながら1日3回、大人用とは別に子ども用の食事まで作るのは一苦労だ。  女子栄養大学で生涯学習講師を務める管理栄養士の牧野直子さんが監修し、牧野さんと、同じく女子栄養大学で生涯学習講師で管理栄養士の小池澄子さんが料理を担当した書籍『改訂新版 この1冊であんしん はじめての幼児食事典』は、幼児食でも「作り置き」を提案している。3つのコツを押さえておけば、手間も時間もカットできる。  ここでいう「幼児食」とは、離乳食が完了する1歳半前後から就学前の5、6歳くらいまでの子ども用の食事のこと。この時期の子どもはまだ、長い麺は吸い込めず、ハンバーグも切り分けることができない。子ども1人ひとりの発達に合わせて、形やかたさ、味付けを調整した段階的な食事が必要だ。  幼児食には、成長に必要な栄養を摂り健康な体を作る、味覚や噛む力を育む、そして自分で食事ができる楽しさを味わう役割がある。子どもが未知の味、においを体験し、「食べ物はおいしい」と感じ、大人の食事ができるようになるまでの大切なステップとはいえ、毎日3食、子どもの用の食事を大人と作り分けるのは、想像以上に手間がかかる。そこで重宝するのが「作り置きおかず」だ。  小さな子どもに作り置き……と思うかもしれないが、日持ちするようにしっかり火を通し、加熱後は粗熱を取ってから保存容器へ入れる、などのポイントを押さえれば大丈夫。保存容器や調理道具を清潔に保つことも大前提だ。作り置きおかずを冷蔵庫に常備しておき、時間がなくてもパパッとおいしい食事を作ることができる、3つのコツを押さえておきたい。 【コツ1】 のせるだけ、まぜるだけの常備菜 さけフレークはごまを入れてもいい  ご飯や麺類にのせるだけ、まぜるだけで一品できあがる常備菜を作っておく。例えば、焼いた甘塩ざけの皮と骨を取り除き、ほぐしただけの「さけフレーク」は、おにぎり、チャーハン、パスタといった主食だけでなく、サラダや炒め物にもアレンジ可能だ。これひとつで味が決まるので、“おかずの素”としても活躍する。 【コツ2】 ソースをアレンジ 同じソースが主食にもおかずにも使える 「トマトソース」や「ホワイトソース」は、シチュー、グラタン、パスタなど、さまざまな料理に活用できる。子ども好みの味でボリュームのあるメニューに仕上がるので、多めに作っておくと便利。冷蔵で3~4日、冷凍で2週間ほど保存が可能だ。 【コツ3】 野菜をふんだんに活用  野菜たっぷり肉そぼろ/冷蔵庫のあまり野菜をうまく組み合わせて   ペースト状にしたりマッシュしたり、野菜をたっぷり使ったおかずをストックしておけば、時間がなくても、ビタミンなどの栄養素を手軽に摂ることができる。ご飯にまぜたり、麺にのせたり、使い方はいろいろ。肉や魚をプラスすることもできる。  毎日の献立作りでフル活用できる定番レシピを2つ紹介する。 野菜たっぷり肉そぼろ  小さく刻んだ野菜を入れた肉そぼろは栄養満点。炒り卵とインゲンと一緒にご飯やうどんにのせて、三色丼や三色うどんにしてもよし、とろみがあるのでチンゲン菜を加えて中華麺とからめてもよし。アレンジは自在だ。保存の目安は、冷蔵庫で3~4日。 ◇材料(作りやすい分量)鶏ひき肉 200グラムにんじん 30グラムしいたけ 1枚長ねぎ 1/4本サラダ油 小さじ1だし汁 1カップしょうゆ・みりん 各大さじ1と1/2水溶き片栗粉 大さじ1 ◇作り方(1) にんじん、しいたけ、ねぎはみじん切りにする。(2) 鍋にサラダ油を熱し、(1)を入れて炒める。しんなりしたら鶏肉を加えてさらに炒め、だし汁、しょうゆ、みりんを加え、汁気がなくなるまで煮る。(3) (2)に水溶き片栗粉を入れてとろみをつける。 ラタトゥイユ ラタトゥイユ  そのまま食べてもいいし、マカロニを加えてミネストローネスープにしたり、卵炒めにアレンジしたり。圧倒的に時短になるのがうれしい。ズッキーニやセロリ、かぼちゃを入れてもOK。保存の目安は、冷蔵庫で3~4日。 ◇材料(作りやすい分量)トマト 1個パプリカ(黄) 1個玉ねぎ 1/2個なす 1本にんにく 少々オリーブ油 小さじ2塩 小さじ1/5 ◇作り方(1) トマト、パプリカ、玉ねぎ、なすは1センチメートル角に切り、なすは水にさらす。にんにくはみじん切りにする。(2) フライパンにオリーブ油とにんにくを入れて弱火にかけ、にんにくが色づいてきたら玉ねぎを入れてよく炒める。(3) (2)にパプリカ、なすを入れて炒め、しんなりしたら、トマト、塩を加えて汁気がなくなるまで煮る。 (構成/生活・文化編集部 端香里、写真/アーク・コミュニケーションズ)
出産と子育て
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クレーム対応や夜間見回りなど、雑務で疲弊する先生たち。休職や早期退職も増え、現場は常に綱渡り状態です。一方、PTAは過渡期にあり、従来型の活動を行う”保守派”と改革を推進する”改革派”がぶつかることもあるようです。現場での新たな取り組みを取材しました。AERAとAERA dot.の合同企画。AERAでは9月24日発売号(9月30日号)で特集します。

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職場にはびこる世代間ギャップ。上司世代からすると、なんでもハラスメントになる時代、若手は職場の飲み会なんていやだろうし……と、若者と距離を取りがちですが、実は若手たちは「もっと上司や先輩とコミュニケーションを取りたい」と思っている(!) AERA9月23日号では、コミュニケーション不足が招く誤解の実態と、世代間ギャップを解消するための職場の工夫を取材。「置かれた場所で咲きなさい」という言葉に対する世代間の感じ方の違いも取り上げています。

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プーチン大統領の出現は世界の様相を一変させた。 ウクライナ侵攻、子どもの拉致と洗脳、核攻撃による脅し…世界の常識を覆し、蛮行を働くロシアの背景には何があるのか。 ロシア国民、ロシア社会はなぜそれを許しているのか。その驚きの内情を解き明かす。

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