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「東京六大学より下の学生は勧誘行って」 旧統一教会の元信者で現役牧師が明かす入会と脱会の“異常性”
米倉昭仁 米倉昭仁
「東京六大学より下の学生は勧誘行って」 旧統一教会の元信者で現役牧師が明かす入会と脱会の“異常性”
世界平和統一家庭連合(旧統一教会)の本部(アフロ)  なぜ、いまもなお世界平和統一家庭連合(旧統一教会)に入ってしまう人が後をたたないのか。「大半の人はそれがどういう団体か、まったく知らないまま誘い込まれていく」と、日本基督教団白河教会の竹迫之(たけさこ・いたる)牧師(55)は話す。実は、竹迫さん自身も旧統一教会の元信者だ。脱会時には兄弟姉妹のように親しかった仲間たちから「裏切り者」と見なされ、暴行や脅迫を受けた。現在は世界平和統一家庭連合から脱会を望む人たちの支援を続ける竹迫さんに、当時の実体験を語ってもらった。 ※記事前編 <<旧統一教会「元信者」の現役牧師が告白「ハンカチ売り」と「ギョウザ寝」の苦行 忘れられない1本の印鑑>>から続く。 *   *   * 「別に旧統一教会に入ろうと思って入ったわけではないんです。ぼくの場合『月額2500円で500本のビデオが見放題ですよ』と誘われて、サークルに通い始めた」  竹迫さんは、そう語る。  1985年の春。それは大学受験が終わった日だった。 「きっと散々な結果だったに違いない」と思いながら、竹迫さんが東京・池袋駅前を歩いていた。 「こんにちは」  雑踏で突然、声をかけられた。 「あまりにも親しげだったので最初は知り合いかな、と思ったんです。初対面だとはしばらく気がつかなかった」  後で知ったことだが、アンケート調査と称する勧誘だった。しかし、このときはまったくわからなかった。 「最初はキャッチセールスだと思って、ちょっと警戒したんです。いろいろ聞かれたので。『今、何しているんですか?』『受験の帰りです』『受験って、どこ?』『日大の芸術学部です』『なんで芸術なの?』『映画を撮りたいから』という具合にどんどん話を引き出された」  しばらく会話した後、相手は「池袋ライフアカデミー(ILA)」という、映画をみんなで鑑賞しながら人生の勉強をするサークルなんです、と切り出した。そして電話番号を記したカードを手渡した。 今回、取材に応じた日本基督教団白河教会の竹迫之牧師 「数日後、入試結果の発表を見に行ったら、落ちていた。池袋に遊びに行こうと思ったら、雨が降り出した。行く当てがなくなってしまった。そういえば月額2500円で映画が見放題になるサークルがあったなと思い出して、電話して、ILAを訪れた」 自分も同じことをやった   ILAは「サンシャイン60」の近くにある貸しビルの中にあった。そこは「本当に喫茶店みたいな雰囲気」で宗教っぽさを感じさせるものは何もなかった。喫茶スペースの奥にはビデオブースが設けられ、それぞれ独立したテレビとデッキでビデオが見られるようになっていた。ビデオを見終わると、喫茶スペースでスタッフと雑談をした。 「ぼくの話をとにかく聞いてくれたんです。だから、自分のことをどんどん話してしまう」  特に、小学生のとき事故で視力を失った左目のことについてじっくりと話を聞いてくれたことが心にしみた。それまで他人に話してもわかってもらえないと思っていたことを初めて受け止めてもらえたと感激した。大きな善意を感じた。 「しかし、それは一度足を踏み入れた組織をやめるにやめられない状況に追い込んでいく常套手段だったのです」  なぜ、そう言えるのか? 「自分も誘う側になると、同じことやっていましたから……」  ILAに入会すると、昼間は予備校に通い、夜はILAでビデオを見る生活が始まった。  合宿もあった。最初の合宿で自分の長所を挙げながら自己紹介すると、熱烈な拍手で盛り上がった。参加者は互いを褒めたたえた。ひたすらいい気分になった。  しかし、そこには仕掛けが隠されていた。参加者のなかにはたくさんの信者、つまり、「サクラ」が潜り込んでいたのだ。やがて竹迫さんもその一人となる。 韓国の老人の姿に衝撃  ILAのスタッフはさまざまな場面で「人生の転換期」を語った。これこそが、旧統一教会に引き込むための典型的な手段で、いわゆる「転換期トーク」と呼ばれている。 「いま『人生の転換期』を迎えているんじゃないですか、って言われると、だいたいみんな、心当たりがあるものなんです。ぼくもちょうど受験のときだったから、確かにそうだよな、と思った」 80年代には霊感商法が大々的に報じられた(写真は朝日ジャーナル1986年12月5日号)  ILAのスタッフはその「人生の転換期」をきっかけに「世界のために自分ができることを考えよう」と語りかけ、ドキュメンタリー風のビデオを見せた。世界中で起こっている悲惨な事件を例に挙げ、「世界は滅びる」といった映像を繰り返し見せられる。やがて、ビデオは世界の破滅を回避する手段を示すようになり、どうすれば平和な世界が実現するかと訴えた。それは旧統一教会の教えに従い、協力して働くことだった。  予備校が夏休みに入ったころ、「ILAは旧統一教会の下部組織である」と入会していた友人から打ち明けられた。竹迫さんは愕然とした。なぜ最初から言わなかったのか――友人を問い詰めたが、旧統一教会の教えに背けば死後の世界で耐え難い苦しみにさらされると教え込まれていたことが怖くなった。それに、心やさしい仲間たちを失いたくなかった。  その数日後、12日間のスクーリング(勉強会)に参加した。内容は講師のビデオを見るだけの退屈なものだった。だが、画面に韓国の老人が映し出された直後、参加者の間に衝撃が走った。「この文鮮明こそが、世界を破滅から救う現代のメシアだ!」と興奮ぎみのナレーション。そこでスタッフは初めて、ILAと統一教会の関係を参加者全員に告げた。  戸惑う参加者。「騙された」という表情で抗議する人もいた。 学生部長は現役東大生  続けて仕上げの4日間の合宿が行われた。そこで徹底的に植えつけられたのは韓国人への贖罪(しょくざい)の意識と共産主義への恐怖だった。 「かつて植民地支配した朝鮮半島の人々に対して、日本はこんなひどいことしてごめんなさいっていうムードが盛り上げられていく。そこでサクラが率先してお祈りするわけです。『私たち日本人は罪を悔い改めて』と言うと、泣き出す人もいた」  のちに、竹迫さんは「学生部受験科」に配属された。そこはいわば、浪人生のための部署。学生部長は現役の東大生が務めていた。竹迫さんは新メンバーを勧誘する「伝道活動」に励みながら、部長から英語や教義を学んだ。「映画で世界を救いたい」という強い信念で受験勉強に打ち込んだ。そして翌年、日本大学芸術学部に合格した。  しかし、だ。  なぜ、旧統一教会はわざわざ「学生部受験科」という部署を設けてまで、浪人生の面倒をみるのか? そこには、あわよくば浪人生を有名大学に送り込み、広告塔として利用したい意図があるという。 「学生を勧誘するとき『東大生もいますよ』と言うと、それだけで『おーっ』となりますから」  一方、東大や早稲田大、慶應義塾大など「東京六大学」よりランクが下の大学生は、学業を放棄させられることが多いという。 「有名大学の学生以外は、学業よりも勧誘や物を売りつける活動のほうが重視されていました。なので、次第に学校に通わなくなって、中退を勧められるような雰囲気がありました」 80年代には霊感商法が大々的に報じられた(写真は朝日ジャーナル1987年1月30日号)  竹迫さん自身も大学生となったものの、日大にはまったく通わず、統一教会の活動に専念した。  その後参加した合宿では毎朝、空手の訓練が行われた。「いずれ、第3次世界大戦が起こる」という理由で、参加者は30人弱。ほとんどは20代だった。「1人1殺」と言われて、いきなり殴り合いのような訓練をした。 得意の「トカゲの尻尾切り」  一方、竹迫さんの両親はなんとか息子を旧統一教会から連れ戻そう必死に動き始める。  困った竹迫さんが幹部に相談すると、「それはあなたの問題だ。あなたの責任で解決しなさい」と冷たく言った。「要するに旧統一教会お得意の『トカゲの尻尾切り』ですよ」と竹迫さんは指摘する。 「面倒な問題が起きると『全部信者が勝手に起こした問題だ。信者の自己責任だ』と言う。今年8月の田中富広会長(世界平和統一家庭連合)の会見もそうでした。いまだに全然変わってないんだな、と」  夏になると、竹迫さんはハンカチ売りのキャラバン隊の一員として北海道に送り込まれた(記事前編参照)。ところが、雨に濡れた段差で転倒し、足首を骨折。埼玉県にある実家に戻ってきた。  両親にとっては、旧統一教会から息子を脱会させるチャンスだった。キリスト教の牧師に力を貸してくれるように頼んだ。  両親の行動に慌てた竹迫さんは「わかった、やめる」と言った。もちろん、出まかせだった。両親を丸め込んで「偽装脱会」を図り、「隠れ原理」として活動するつもりだった。  ところが牧師は「お前が引き込んだ友だちはどうするんだ? お前だけがやめればいいのか」と、畳み込んだ。仕方なく、竹迫さんは牧師とともに友人メンバーを訪れる羽目となった。 「みんな、ぼくほど深入りしていなかったので、牧師が統一教会の資料を見せると『こんな団体だと思わなかった』と言って、やめちゃったんです」 始まった報復  その後、事態は思わぬ方向に進んでいく。旧統一教会は「裏切り」と受け止めたのだ。  すると、報復が始まった。  ある日曜日のこと。竹迫さんは池袋駅前の歩行者天国を歩いていた。すると、顔見知りの信者たちがアンケート調査(伝道活動)をしていた。 「そこで『あっ、久しぶり』って、声かけようと思ったら、すっといなくなったんです。『あれ、見えなかったのかな』と思った。でも、何人かに声をかけようと繰り返しているうちに、いつの間にか取り囲まれた」  裏路地に連れ込まれ、腹に3発、蹴りを入れられた。「スパイ」「サタン」と罵られた。 「彼らとは同じホーム(旧統一教会の宿舎)で暮らしていたので、兄弟姉妹っていうくらい強い仲間意識で結ばれていたんです。でも、彼らからしたら、ぼくは裏切り者だった」  竹迫さんは寂しそうに語った。  自宅には無言電話が絶え間なくかかってきた。だが、それで初めて、自分がやったことに気づいた。 「統一教会の上司から電話番号を書いた紙片とテレホンカードを数十枚渡されて、公衆電話から電話して、相手が出たら切る、という作業を朝から晩までやらされたことがあるんです。相手がどこの誰かは知りません。それが無言電話だということに自分がやられて、初めてわかった」  かつての仲間から殺されるのではないか……。そんな恐怖感を覚える日々だった。外出する際にはかばんに鉄板を忍ばせ、サバイバルナイフを携帯した。夜はいつでも逃げられるように、靴を履いたまま寝た。 強い圧力をかけてきたワケ  これまで大勢の脱会信者のケアをしてきた竹迫さんだが、脱会時にこれほどの体験をした話は聞いたことがないという。 「どうやらハンカチ売りのキャラバン隊はあの地区の総責任者のポケットマネーを稼ぐための私設部隊だったらしく、その情報がぼくから漏れるのを恐れて、強い圧力をかけてきたみたいです」  旧統一教会では「上司の意向は神の意志」である。末端信者は何の疑問も持たず、上司の指示を実行に移すという。  筆者はこれまでの取材で「旧統一教会は昔も今も基本的に何も変わっていない」と、関係者から繰り返し聞かされてきた。勧誘のトークも驚くほど変わらないという。清掃ボランティアや生け花教室、合唱サークルなど、さまざまな旧統一教会のダミー団体が報告されている。 「大半の人はそれがどういう団体か、まったく知らないまま誘い込まれていくんです」  そう話す竹迫さん。これからも脱会支援の活動に従事するという。 (AERA dot.編集部・米倉昭仁)
旧統一教会霊感商法
dot. 2022/09/10 11:30
渋谷・母娘刺傷事件、15歳少女に「居場所」はあったのか 専門家が見る心理とは
野村昌二 野村昌二
渋谷・母娘刺傷事件、15歳少女に「居場所」はあったのか 専門家が見る心理とは
母娘が15歳の少女に刺された現場。少女の母親は捜査員に、「娘はまじめな性格で物静か」などと憔悴した様子で話しているという(撮影/編集部・野村昌二 )  東京・渋谷で母と娘が15歳の少女に刺された。少女は「死刑になりたかった」と供述した。事件の背景には何があったのか。AERA 2022年9月5日号の記事から。 *  *  *  15歳の思春期の少女に何があったのか。8月20日夜、東京都渋谷区の路上で母親(53)と娘(19)が刃物で背中などを刺され、大けがをした。殺人未遂の疑いで逮捕されたのは、埼玉県戸田市に住む15歳の中学生だった。  元埼玉県警刑事で数多くの少年事件を担当してきた佐々木成三(なるみ)さんは、少女の「強い意志」を感じたという。 「少女は刃物を3本用意していました。最後まで、複数の人を刺すことを目的とした犯行だと思います」 ■「死刑になりたかった」  佐々木さんは、今回の事件は無差別殺傷を行う容疑者の特徴と一致していると話す。 「それは、想像力の欠如と視野の狭さ、そして認知の歪(ゆが)みです。少女は犯行の動機として、『母親の嫌なところが自分に似てきて嫌だった』などと供述しています。しかし、母親は娘への愛情から厳しく接していたかもしれず、それを少女は愛情だと感じ取れていなかった。視野が狭く、他人への感情が欠けていたりすると、逸脱する行為につながる場合があります」  重大な少年事件は続いている。一昨年8月、福岡市の商業施設で当時15歳の少年が面識のない女性(当時21)を刺殺した。今年1月には、東京大学(東京都文京区)前の路上で受験生らが当時17歳の少年に切りつけられる事件が起きた。  今回事件を起こした少女は、母と弟の3人暮らし。調べに対し「自分の母親と弟を殺すつもりだった」「死刑になりたかった」と供述しているという。  犯罪心理に詳しい、「こころぎふ臨床心理センター」の長谷川博一センター長は、少年事件が起きる背景には(1)本人が生来的に持っている特性、(2)成育過程における環境、(3)事件行動に繋がるトリガー──この3点が重要因子として必ず存在するという。少年は大人と比べ情緒的に急激な発達を遂げる途上にあるため、三つの因子が複雑に絡み合うリスクが高いという。 「まず、理解しがたい重大事件を起こす少年少女には、元々こだわり思考が強い傾向をもつことが少なくありません。一つのことを考え出すと、視野が狭くなって循環し、そこから抜け出すことが難しくなりがちです」(長谷川さん) ■周囲の理解と助け大切  次の成育過程における環境とは、これまでに経験してきた家庭内外の人間関係全般を指す。たとえば、少女は母子家庭だった。両親が離婚に至るプロセスは明らかになっていないが、それを含めた親との関係性が少女に影響を与えた可能性がある。さらに少女は、中学1年の3学期ごろから断続的に不登校になっている。学校での他の生徒や教師との関係も無縁ではない。トリガーになりうるのは、自分の関心を引き、脳が興奮するような出来事などの情報に触れることだという。 「事件の原因や動機は、単純ではありません。これら三つが段階ごとに、無数の要素が複雑に絡み合って起きるものです。予防の観点から大切なのは、周囲の理解と助け。また、犯した罪に対しては然るべき対処が必要ですが、過去に理解と助けが必要だった少年や少女が加害者になり罰せられる立場になっていることへの想像力を持つことも重要です」(同)  少年事件で精神鑑定の経験がある児童精神科医の高岡健さんは、子どもたちの「居場所」の必要性を説く。 「思春期の子どもたちにとって、居場所というのは自分を肯定してくれる人がいる場所です。自分を認めてくれる人がいれば、自分の価値を下げたくないので、自殺や他殺に向かう確率は減っていきます。逆に居場所がなければ、自分を認めてくれる人がいないので、これ以上何をやっても無駄だと思い、自殺や他殺に向かう可能性が高くなります」  15歳の少女に「居場所」はあったのか。(編集部・野村昌二)※AERA 2022年9月5日号
AERA 2022/08/30 07:00
かつて夏の甲子園では「現役高校生」がチームを指揮していた 監督にまつわる“3つの珍事”
久保田龍雄 久保田龍雄
かつて夏の甲子園では「現役高校生」がチームを指揮していた 監督にまつわる“3つの珍事”
今年も多くのドラマが生まれている夏の甲子園  連日熱戦が繰り広げられている夏の甲子園。今回は監督をめぐる3つの珍エピソードを紹介する。  長い歴史を誇る甲子園大会でも、おそらく史上最年少の18歳の現役高校生監督が話題になったのが、1969年の川越工だ。  同校の粕谷千孝監督は、当初川越高の定時制に入学したが、小学2年からやっていた野球への未練を断ちがたく、翌春、甲子園を狙える強豪・川越工に入学し直した。  2年の夏は3番ライト。時にはリリーフとして登板し、埼玉大会準々決勝まで勝ち進んだ。  だが、川越高の1年間を加えると、「高校在籍3年以下の者」という大会の参加資格に触れることから、新チームでは選手として試合に出場できなくなった。  斎藤玉太郎野球部長は「打撃投手でも球拾いでもいいから、この仲間たちと野球をやりたい」と熱望する教え子のひた向きさを買い、「何とかしてベンチに入れてやりたい」一心から、監督としてチームづくりを手伝ってもらうことにした。  斎藤部長から「みんなを統率していくコーチ的なものでいい」と役割を説明された現役高校生監督は、肩書きは監督でも、ナインたちとは同学年で、強く叱ると反感を買うという微妙な立場に苦悩しながらも、連日ノックバットを振るい、黙々と打撃投手を務めた。  そんな陰の努力が報われ、翌年夏、川越工は埼玉大会、西関東大会を勝ち抜いて、見事甲子園初出場をはたした。  1回戦の玉島商戦、ベンチの粕谷監督は隣の斎藤部長に相談しながらサインを出し、メガホンを手に選手たちを励ましつづけた。  試合は残念ながら1対2の逆転負けも、18歳の監督は「全員よくやってくれた」と同級生たちの健闘をたたえ、背番号のないユニホームでナインの後ろに立って整列した。  同年のアサヒグラフ8月29日号では、「監督は18歳の同級生」と銘打った4ページの特集記事が掲載され、同年の準優勝投手・太田幸司(三沢)とともに注目を集めた。  さらに78年の週刊朝日甲子園大会号では、この記事に心を打たれ、ファンレターを送ってきた静岡県の野球ファンの女子高生と文通を重ね、2年後に結婚したというロマンチックな後日談も紹介されている。  試合中に監督が熱中症でダウンするアクシデントに見舞われたのが、2007年の広陵だ。  3回戦の聖光学院戦、試合が始まって間もなく、40度近い暑さのなか、中井哲之監督が頭痛など熱中症の症状を訴えた。  大会本部の理学療法士が駆けつけ、氷で冷やすなどの応急治療のあと、中井監督はベンチ裏に下がって安静に努めることになった。  選手交代以外はほとんど采配を振るうことができない“指揮官不在”の緊急事態のなか、監督に代わって選手たちが自主的にサインを出し合って試合を進めた。  心をひとつにした広陵ナインは、2回に四球を挟む4連打で3点を先制し、3回にも4連打で3点を加えて、序盤で6対0と大きくリード。  エース・野村祐輔(現広島)も「自分たちでやってやろうと思った」と7回途中まで3安打無失点に抑えた。  終わってみれば8対2の快勝に、中井監督は「選手のお蔭。本当によく頑張ってくれた。監督は何もしていない」とナインの健闘に感謝するばかりだった。  ふだんから自主性を促すため、練習試合で選手にサインを出させていたことが甲子園で生きた形だが、このチームからは野村をはじめ、捕手の小林誠司(現巨人)、内野手の土生翔平(元広島)と上本崇司(現広島)の4人がプロ入り。この顔ぶれなら、監督不在でも安心だった?  地区予選を勝ち抜き、甲子園出場を決めた直後、監督が突然退任を表明したのが、16年の常葉菊川だ。  07年春にセンバツ優勝、夏にベスト4、08年夏にも準優勝と甲子園で輝かしい実績を残している同校は、16年も7月27日の静岡大会決勝で袋井に12対0と大勝し、3年ぶり5度目の夏の甲子園出場を決めた。  ところが、センバツVにもひと役買った森下知幸監督が、翌28日午前の練習中に部員たちを集め、甲子園出発前の31日付での監督退任と高橋利和副部長の新監督就任を伝えたことが波紋を広げる。 「なかなか言えずに申し訳ない。寮生活での体調面もあり、自宅のある(県)東部地区に戻りたかった。高橋監督の下、(甲子園で)暴れてきてほしい」と激励されたナインだったが、動揺は隠せず、涙を流す選手もいた。  森下監督は8月から御殿場西の新監督就任が内定しており、ノーシードだった常葉菊川が予選で敗れた時点で退任を発表するつもりだったようだが、予想以上の健闘で甲子園出場が決まり、進退に悩んだ末、出発直前の退任発表になったとみられる。  その後、高野連も大会期間中に指導者がライバル校に異動するのは、選手たちへの影響や教育的見地から好ましくないとして、「特別な事情がない限り、交代は認められない」と学校側に通告。同校も強く慰留した結果、森下監督は退任を撤回し、甲子園大会終了までの続投が決まった。  同日夕方、記者会見した森下監督は「大変な思いをした選手たちにお詫びしたい。選手たちに頭を下げて、一緒に頑張ろうと思います」と甲子園での決意を述べた。  8月12日、初戦で秀岳館に1対6で敗れたあと、森下監督は「耐えに耐え、よく戦った。これをステップとし、今後の成長に向かってほしい」の言葉を贈り、同21日付で退任した。(文・久保田龍雄) ●プロフィール久保田龍雄/1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。最新刊は電子書籍「プロ野球B級ニュース事件簿2021」(野球文明叢書)。
甲子園2022
dot. 2022/08/15 18:00
「願望と現実の乖離」で深まる若者たちの孤独 SNSの利用が長いほど「感じやすい」
古田真梨子 古田真梨子
「願望と現実の乖離」で深まる若者たちの孤独 SNSの利用が長いほど「感じやすい」
「あなたのいばしょ」に寄せられる相談は1日約1千件。より具体的なサポートのために、書き込まれたテキストの分析作業が進む  若い世代を中心に孤独感を覚える人が増えている。SNSを利用していても結婚をしていても悩みは深い。政府も危機感はあるが、具体的な対策はこれからだ。AERA 2022年7月18-25日合併号の記事を紹介する。 *  *  *  埼玉県の会社員男性(32)は大学3年生の時、躁うつ病と診断された。2度の入院を経て、なんとか大学を卒業。症状が落ち着いた昨年、理解のある東京都内のメーカーに正社員として就職した。だが、今も薬は飲み続けている。  体調に異変が起きたきっかけは、ささいなことだった。進学校の高校から現役で大学に進学。それなりに自分に自信があったのに、入学後に入ったサークルで小さな壁を感じた。 「あれっ?と。ケンカをするとか、特別なできごとがあったわけではないけど、うまくはまらなかった」  自分の“キャラ”を変えようと無理にテンションを上げたり、それほど必要としていなかったのに彼女を作ってみたり。でも「何をやっても引かれた」。次第に周囲から人がいなくなり、ある日倒れた。 「さみしかったですね。家族が支えてくれたことと、サークルの中にずっと同じ態度で接してくれた先輩が1人いたことに救われました」  24時間、匿名のチャットで悩み相談を受け付けているNPO法人「あなたのいばしょ」(東京都)は今年2月、20歳以上の約3千人に対し、孤独調査を実施。孤独感がある人の割合は若い世代ほど高く、20代では42.7%に上った。また、孤独を感じている人は、うつ状態や不安障害を抱える傾向が約5倍という結果も出た。  同NPO理事長の大空幸星(こうき)さん(23)は言う。 「日本では長らく、孤独は高齢者の問題とされてきた。けれど、願望と現実が乖離(かいり)していると感じ、深く悩む若い人はどんどん増えている」  それは、自殺者数にも表れている。厚生労働省が3月に公表した2021年の調査によると、自殺者の総数は前年より減少した一方で、20代は3.6%増えて2611人に。小中高生も20年は計499人と、いじめ自殺が社会問題になった1986年を上回って過去最多だった。 高齢者の孤独を防ぐ政策は、民生委員を活用した取り組みなど多岐にわたる。いま、若者への支援が求められている(photo 写真映像部・東川哲也) ■SNSの使用時間が長いと孤独を感じやすい  若い世代が孤独を抱える理由の一つには、日本の若者特有の自己肯定感の低さが挙げられるだろう。18年、内閣府が日本や欧米など7カ国の若者を対象に意識調査を実施。各国それぞれ約1千人が回答したところ、自分に満足しているかとの質問に「そう思う」と答えた人は米国が最多の57.9%、日本は10.4%で極端に低かった。  孤独は、ときに犯罪をも引き起こす。  21年8月の夜、都内を走る小田急線の車内で、男女10人が刺されて重軽傷を負う事件があった。東京地検に殺人未遂の罪などで起訴された男(当時36)は、逮捕時に警視庁の調べに対して、こう供述したという。 「俺はなんて不幸な人生なんだと思っていた」  男は都内の高校を卒業後、中央大学に進むが中退、派遣社員などをしていた。『ルポ 若者ホームレス』などの著書がある大学教員の飯島裕子さんは、 「頻発する無差別殺傷事件の背景には社会的孤立がある。若い頃は、いろいろな期待値が高く、自分が恵まれていないと感じやすい」  政府も危機感は強い。「孤独は社会問題」ととらえ、21年2月、英国に次いで世界で2例目という「孤独・孤立対策担当大臣」を設置した。まだ成果は見えないものの、初の実態調査を実施している。4月に公表された結果によると、孤独を感じる人は、派遣社員や失業中、世帯年収100万円未満といった低所得者層に多かった。 「経済的に困窮すると、たとえば若い人なら飲み会に行けない、高齢者ならば冠婚葬祭のご祝儀や香典が用意できないといったちょっとしたきっかけから、友達や親戚との付き合いが切れてしまうケースがある。それが孤独につながる」(飯島さん)  とはいえ、SNSが発達し、誰でもいつでも、どこからでもつながることができる時代である。なぜ、人はこれほどまでに孤独なのだろうか。『ひとり空間の都市論』などの著書がある南後由和・明治大学准教授(社会学)は、 「SNSの使用時間が長い人のほうが孤独を感じやすい。物理的にはスマホの前に1人でいるのに、SNSの空間上では群衆の中にいる。ふと我に返った時に自己内省的な感覚に陥ることが多い」  と分析。その結果として、 「浅く広い人間関係が漂ってしまう。物理空間でしか満たされない親密性があるということでしょう」  と話す。だが一方で、リアルな関係が密すぎるゆえの窮屈さが、孤独を深めてしまう場合もある。それが、この問題の難しいところだ。 ■結婚しても本音が言えず、追いつめられていく  神奈川県の看護師の女性(33)は、コロナ禍で夫(32)が在宅勤務になった時、幼稚園のママ友たちとの何げない会話から、自尊心がぐらついたという。  女性の自宅は2DKで、夫は寝室で折り畳み式テーブルを広げて仕事をしている。だが、ママ友たちの家には、リビングと寝室の他にもうひと部屋あり、そこがワーキングスペースになっているというのだ。子ども同士が仲がよく、誘い合って公園に出かけたり、一緒に晩ご飯を食べたりしていたが、 「もともと気を使わなければならない相手だったけど、さらに本音が言えなくなってしまった。私の夫は100円単位まで家計に口を出し、私が働くことへの理解もない。結婚しても、子どもがいても孤独です。誰も自分のことをわかってくれないとすら思って追いつめられた」  誰もが向き合う「孤独」。ほどよい距離感はどこなのだろう。 「ひとりは寂しいけれど、ずっと誰かと関わるのは疲れる。そんな人に選ばれている」  と話すのは、「グローバルエージェンツ」(東京都渋谷区)の市川裕貴さん。同社は、独立した居室に加えて、入居者同士の交流用の豪華なラウンジがある「ソーシャルアパートメント」を運営している。06年に最初のアパートをオープンさせて以降、成長を続け、現在は首都圏に51棟。約3千人の入居者の平均年齢は30.6歳だ。  そんな中、あえて孤独を選択する人もいる。 「『孤独マインド』は、立派な武器になる」  と話すのは、コスメティック田中さん(25)。20年4月から「孤独マインド研究系YouTuber」として活動している。いまチャンネル登録者数は37.6万人。その多くが、現在進行形で悩みを抱えている高校生や、苦しい時期を乗り越えた若者たちだ。 「孤独は、周囲に振り回されずに人生を歩む力になると伝えている。だから、僕はいま友達を作る気がない」  ときっぱり。ブレない姿勢で「ぼっち大学生が就活で失敗しない方法」「ディズニーランドにひとりで行ってみた」などの動画を作成している。  そんな田中さんも将来を考えると、ふと心配になることがあるという。 「50歳でひとりは寂しそう。60歳でひとりは、かわいそうでコンテンツとしてかっこよさがなくなる。僕も世間の目を気にしているのかな。家族を持ったほうがさびしくはないかなとは思う」 (編集部・古田真梨子)※AERA 2022年7月18-25日合併号
AERA 2022/07/21 11:00
高野連が「謝罪文」を出す事態となった誤審も 夏の甲子園、地方大会の“信じがたい判定”
久保田龍雄 久保田龍雄
高野連が「謝罪文」を出す事態となった誤審も 夏の甲子園、地方大会の“信じがたい判定”
夏の甲子園を目指す戦いでは様々な“珍事”が発生  夏の甲子園出場をかけた地方予選もたけなわ。全国各地で球児たちの熱戦が繰り広げられているが、その一方で、誤審や判定をめぐるトラブルも少なくない。過去の地方大会で本当に起きた判定をめぐるまさかの珍事を紹介する。  本当は1死なのに、球審の勘違いで2死が宣告される珍事が起きたのが、1974年の東北大会(同年は山形、宮城で1代表)Aブロック代表決定戦、山形電波工(現創学館)vs山形東だ。  3回に逆転され、2対5とリードされた山形電波は5回、先頭打者は8番・鈴木忠広だったにもかかわらず、前の回の攻撃で二ゴロに倒れた7番・菅野忠が打席に入った。  公式記録員が首を捻っている間に投球が進み、山形東ベンチが「打順を間違えている」とアピールしたときには、菅野はフルカウントから中飛を打ち上げていた。  直後、アピールを受け入れた球審は、打順を間違えたことと中飛で、併せて2死を宣告。次打者・山岡博也は三振に倒れ、実質打者2人でスリーアウトチェンジになった。  だが、公認野球規則6.03bによれば、打順を間違えた「不正位打者」菅野の打撃完了後なので、この場合は、「正位打者」鈴木にアウトが宣告され(安打などで出塁していた場合は、出塁も取り消し)、1死無走者で次打者・山岡となるのが正しい。アウトをダブルで取ったのは、明らかに誤審だった。  試合後、この一件について問い合わせを受けた日本高野連大会本部は「電波側のアピールがない限り、試合は有効。記録上は2死でチェンジしたことになる」と説明した。  結果的にアウトをひとつ損した形の山形電波工は2対7で敗れ、東北大会進出を逃した。  審判のみならず、記録係まで勘違いをした結果、四球が幻と消えてしまったのが、88年の埼玉大会4回戦、大宮工vs松山だ。  3対2とリードした松山は8回、先頭の1番・鈴関知昭がフルカウントから四球を選んだ……。いや、選んだはずだった。  ところが、球審はフルカウントと勘違い。直後、松山側が「四球ではないか?」とアピールすると、球審はカウントを担当する塁審と本部席に確認したが、いずれも「フルカウント」と答えたので、そのままプレーを続行した。  鈴関はカウント4-2から二飛に倒れた。だが、その後、3番打者が安打を記録しているので、もし鈴関が四球で出塁し、送りバントなどで進塁していれば、松山は貴重な追加点を挙げていた可能性が高かった。  そして、この回の攻撃が無得点で終わったことが、両チームの明暗を大きく分ける。  最終回、1点を追う大宮工は2四球で2死二、三塁のチャンスをつくり、宮沢義治の二塁内野安打で逆転。松山は勝利まで「あと1人」から痛恨の逆転負けを喫した。  誤審が勝敗にも影響を及ぼす皮肉な結果に、斎藤俊夫県高野連理事長は「フォアボールとわかり、私が声をかけて試合を停止しようとしたが、間に合わなかった。審判、本部の記録係、役員のミスが重なった。松山には、県高野連会長名で謝罪文を出したい」と説明したが、謝罪文を貰っても、チーム関係者は気が晴れなかったのではと思われる。  誤審ではないが、判定の基準が厳し過ぎたことから、ギネス級のビックリ珍記録が生まれたのが、18年の西東京大会5回戦、日大鶴ケ丘vs明大中野八王子だ。  1回表、明大中野八王子の先発・江口陽太は、打者9人に対し、被安打3、与四球4で、2死から浦田光に交代した。その浦田も最初の打者に四球を許し、2投手で1イニング5四球を記録。いきなり7点を失った。だが、これはほんの序曲に過ぎなかった。 その裏、日大鶴ケ丘の先発・松田賢大も先頭打者から3連続四球で無死満塁のピンチを招き、早々と降板。2番手・高岡佳佑も3連続押し出しを許し、さらに3番手・三浦拓真も2死後に連続四球を与えたことから、1イニング8四死球となった。  その後も両軍投手陣は四死球の山を築き、明大中野八王子21、日大鶴ケ丘20の計41四死球。122対0のスコアで話題になった98年の青森大会、東奥義塾vs深浦も計38四死球だったから、その凄まじさがわかる。8強入りをかけた強豪同士の試合なら、なおさら信じられないような数字だ。  6回途中から登板した日大鶴ケ丘の右腕・勝又温史(現DeNA)を目当てにネット裏で観戦していたプロ7球団のスカウトたちも「こんな試合は見たことがない」と驚き呆れるばかりだった。  これほどまでに多くの四球が記録されたのは、球審が高さ、コースとも厳格に判定した結果、ストライクゾーンが狭くなっていたからだ。  丹念にコースを突いても、ほとんどが「ボール!」と判定され、「あれがボール?」とガックリする投手もいた。試合中、外部から審判への助言が原則禁止されているため、「もっとお手柔らかに」と注意できなかったことも、厳格な判定に拍車をかけた。生真面目さも度を超すと、考えものだ。  かくして、最高気温34.9度を記録した炎天下で4時間4分も要した大乱戦は、8回に3点差を追いついた日大鶴ケ丘が9回に4点を勝ち越し、19対15で勝利。萩生田博美監督は「(四死球)30個弱は経験しましたけど、ここまではないですね。(厳しい)条件の中で仕方がないです。粘ってよく踏ん張った」と困難を乗り越えた選手たちを労っていた。(文・久保田龍雄) ●プロフィール久保田龍雄/1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。最新刊は電子書籍「プロ野球B級ニュース事件簿2021」(野球文明叢書)。
dot. 2022/07/20 18:00
のちに巨人入りした2人の対決も 夏の甲子園をかけて投げ合った“未来のプロ”たち
久保田龍雄 久保田龍雄
のちに巨人入りした2人の対決も 夏の甲子園をかけて投げ合った“未来のプロ”たち
春日部共栄時代の中里篤史  夏の甲子園大会出場をかけた地方大会もたけなわ。過去の大会では、のちにプロ入りした好投手同士が球史に残るライバル対決を繰り広げた試合も数多い。  代表的なひとつが、1998年の鹿児島大会決勝の鹿児島実・杉内俊哉(元ソフトバンク‐巨人)vs川内・木佐貫洋(元巨人-オリックス‐日本ハム)だ。  新チーム以来、秋、春の県大会で木佐貫に連敗していた杉内は「最後の夏は何としても勝ちたい」と固く心に期していた。  夏は春の県大会を制した川内が本命、3年連続夏の甲子園を狙う鹿児島実が対抗。両校とも初戦から圧倒的な強さで勝ち上がり、決勝戦で激突した。  先制したのは鹿児島実。3回1死から9番・杉内が左前安打を放ち、木佐貫の暴投に乗じて三塁に進んだあと、上位打線が3連打とつながり、3点を挙げた。「抑えてやると力んでしまった」と悔やんだ木佐貫は、4回以降、140キロ台の直球に変化球を織り交ぜる本来の投球を取り戻し、スコアボードにゼロを並べる。  一方、川内打線は、杉内の内角高め直球に9三振を喫しながらも8安打を放ったが、ピンチになると、コースを丹念に突いて打たせて取る杉内の術中にはまり、あと一打が出ない。7回に連続二塁打で1点を返し、なおも無死二塁のチャンスも強攻策が裏目に出て、追加点ならず。8回無死三塁も主軸が杉内に抑えられ、そのまま3対1で鹿児島実が逃げ切った。「苦しい試合だったけど、100点満点のピッチングでした」(杉内)。  試合終了直後、杉内が握手の手を差し伸べると、木佐貫も「甲子園では僕の分まで頑張ってほしい」と力強く握り返してきた。ライバルの激励の言葉を胸に刻んだ杉内は、甲子園の1回戦、八戸工大一戦でノーヒットノーランを達成している。  両エースが評判どおりの持ち味を発揮した白熱の投手戦となり、最後は紙一重とも言うべきプレーが明暗を分けたのが、2000年の埼玉大会決勝、浦和学院・坂元弥太郎(元ヤクルト‐日本ハムなど)vs春日部共栄・中里篤史(元中日‐巨人)だ。  坂元は2年連続地方大会決勝で敗れた悔しさを晴らそうと、スライダーを決め球に、打者に応じて組み立てを変える頭脳的投球を見せる。一方、関東屈指の本格派・中里は、自慢の直球を低めに集め、力でねじ伏せる。両投手とも再三走者を背負いながらも要所を締め、試合は1対1のまま延長戦に突入した。  10回表、春日部共栄は2死満塁から4番・島田健一が痛烈なピッチャー返しの打球を放つ。ところが、これで勝ち越しか?と思われた直後、ボールは「気付いたら、グラブの中に入っていた」(坂元)。  高校入学直前に母を癌で亡くした坂元は、病室で母が最後まで握りしめていたお守りを常に身に着け、「母が楽しみにしていた甲子園に連れていきたい」と心に誓っていた。そんな思いが天に届いたような結果オーライだった。  ピンチを脱した浦和学院はその裏、先頭の坂元の四球を足場に2死一、二塁とサヨナラのチャンス。中里も絶対の自信を持つ直球で勝負する。だが、外角低めを狙った球がわずかに真ん中寄りになった。けっして失投ではなかったが、3番・丸山亮太は気迫で中前に弾き返した。  島田が本塁に渾身のストライク返球を見せたが、捕球時にファンブルした分タイミングがずれ、わずかに早く二塁走者・坂元の左手が本塁ベースをタッチした。  サヨナラ負けの直後、中里は信じられないような表情でグラウンドにひざまずいたまましばらく動けなかったが、気持ちを切り替えると、「あの球を打たれたのは、相手の力が上だったから」と素直に結果を受け入れた。  勝利した浦和学院・森士監督が「島田君の打球は、たまたま坂元のグラブに入った。丸山の打球はたまたまセンターに抜けただけ」と評したように、まさに紙一重の戦いだった。  甲子園に出場した坂元は、1回戦の八幡商戦で大会タイ(当時)の19奪三振を記録した。  2年続けて神奈川大会で投げ合いを演じたのが、桐光学園・松井裕樹(楽天)vs横浜・柳裕也(中日)だ。  11年の決勝、先発した1年生・松井は、近藤健介(日本ハム)、乙坂智(元DeNA)ら横浜の強力打線を4回までわずか1安打無失点に抑えたが、5回に2安打目となる二塁打を打たれたところで、3年生の柏原史陽に交代した。  一方、2年生の柳も9回2死まで1失点で、相馬和磨にスイッチ。試合は1対1の延長10回2死から横浜が3連打し、近藤のサヨナラ打で甲子園出場を決めた。  翌12年、両校は準々決勝で再び相まみえる。前年同様、松井vs柳の先発対決となり、7回を終わって1対1とどちらも譲らない。  だが、10年秋から県大会で横浜に4連敗中の雪辱に燃える桐光は8回2死一、二塁から連打で2点を勝ち越し、柳をKO。代わった田原啓吾(元巨人)からも安打と押し出し四球で4対1とリードを広げた。  横浜も9回に4番・高浜祐仁(日本ハム)の三塁打などで1点差に追い上げ、なおも1死三塁と最後の粘りを見せる。だが、松井は冷静さを失わず、捕手が膝をついて捕球するほどの低めギリギリのスライダーで次打者のスリーバントスクイズを封じ、11個目の三振を奪うと、最後の打者を中飛に打ち取り、2年越しの“打倒横浜”の悲願を実現した。  甲子園に出場した松井は、1回戦の今治西戦で、前出の坂元を上回る22奪三振の大会新記録を達成している。(文・久保田龍雄) ●プロフィール久保田龍雄/1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。最新刊は電子書籍「プロ野球B級ニュース事件簿2021」(野球文明叢書)。
dot. 2022/07/13 18:00
安倍元首相銃撃死亡事件 スケジュール変更と「地方」が警備の穴か 元刑事が語る
渡辺豪 渡辺豪
安倍元首相銃撃死亡事件 スケジュール変更と「地方」が警備の穴か 元刑事が語る
安倍晋三氏に向けて発砲したとみられる男はSPらに確保された/2022年7月8日午前11時30分、奈良市  安倍晋三元首相が奈良市で銃のようなもので撃たれた事件では、警察の警備態勢も問われている。 「警備に穴が開いていたのはテレビ映像だけでもわかる」  こう話すのは、さいたま市に本社のある危機管理コンサルティング会社「セーフティ・プロ」代表取締役で危機管理コンサルタントの佐々木保博さん(64)だ。  元埼玉県警の刑事で要人警護の経験も豊富な佐々木さんは、警備に穴が開いた要因として、「前日夜の安倍元首相のスケジュール変更」と、現場が地方だった点を挙げる。 「前日夜に安倍元首相のスケジュールが変更されたと聞いています。人員が豊富な首都圏であれば問題なく対応できますが、要員が限られた奈良県警ぐらいの規模だと、なかなか対応は厳しいと思います」  警察庁の説明では、今回の演説会場の警備は奈良県警が本部警備部参事官をトップとする態勢で対応。県警の警察官に加え、警視庁から派遣された警護員(SP)も現場にいた。安倍元首相の警護のほか、雑踏警備や交通対策など「所要の警備態勢をとっていた」という。ただ、警察官や警護員の数などについては「態勢や警備のやり方に関わる」などとして、明らかにしていない。  佐々木さんによると、元首相には生涯、警視庁のSPが身辺警護につく。人数は明かしていないが、必ず複数のSPが24時間、警備するという。ただ、地方に行く際は、警視庁のSPは1人同行し、あとは地元県警で、となる可能性は高いという。 「SPは安倍元首相を視角に入れながら前面を監視することになります。今回の彼の対応に不備はないと思います」(佐々木さん)  ただ、問題は奈良県警が担う後方を含めた警備に穴があったことだ、と佐々木さんは指摘する。 「奈良県警の態勢をテレビ映像で見る限り、通常いるはずの後方を確認する警察官は見当たりません。警備に穴が開いているのは映像だけでも分かります」  安倍元首相は演説中に背後から撃たれたとみられ、後方から人が近い距離まで達するのを許した形だ。後方の警戒をどうしていたかについて、警察庁幹部は朝日新聞の取材に対し「警備のやり方になるので、答えを控える」とした上で、一般論として「当然、後ろから何かあることも念頭においた警備態勢をとっている」と説明している。 「これを言っていいのか分かりませんが」と少しためらいながら、佐々木さんはこう続けた。 「安倍元首相付きの警視庁のSPはかなり訓練されています。テレビ映像を見ていても彼の動きは訓練されたSPだと一目で分かります。一方、奈良県警の私服警官はおそらく横一列に並んで全員が前面監視に当たっていたように見えます。急きょ集められたのかなと思うぐらい、SPとしての動きではなかった」  今回、2発目の発砲が安倍元首相の致命傷になったことがうかがえる。1発目が発砲された時点で取り押さえることはできなかったのか。これについて佐々木さんは「1発目どころか、手荷物から(凶器を)取り出した時点で抑えにかかるのが常道です」と話す。 「結果論に聞こえるかもしれませんが、ガムテープを巻いた、人目に付く手荷物を持つ人物がいれば、通常はマークして行動注視します。首都圏であれば無線で『注視しろ』という指示が出ます。この指示が出ていれば、黙って容疑者の前に立ち、行動を注視しますが、今回そうした動きは全くなかった。連携が取れていない。慣れていないという印象は否めません」  要人が訪れる機会の少ない地方で起きた事件だったことが、警備態勢の穴につながったというわけだ。  8日午後、報道各社に状況や対応を説明した警察庁幹部は、現場での警備について「どういう警備態勢があったかについてしっかり確認していく必要がある。それが十分だったか十分検証していく必要がある」と述べたという。 (編集部・渡辺豪) ※AERAオンライン限定記事
AERAオンライン限定安倍晋三銃撃
AERA 2022/07/08 19:21
放送開始22年! 「人生の楽園」プロデューサーが語る「好きなことをして生きている方が、幸せを感じやすい」
放送開始22年! 「人生の楽園」プロデューサーが語る「好きなことをして生きている方が、幸せを感じやすい」
「人生の楽園」に登場した、鹿児島県の新島に移住した夫婦  新型コロナウイルスの感染拡大を機に働き方や暮らし方の見直しが進み、テレビや雑誌で地方移住に関する特集が組まれることが増えた。このテーマを早くから手がけてきたのが、テレビ朝日系列「人生の楽園」(土曜午後6時~)。2000年10月に放映を始め、今年の秋で22年目を迎える。  主に登場するのは、都会で働いていたが、縁あって新たな土地で「第二の人生」を歩み出した人々。移住先での取組や現地の風景が映し出され、西田敏行さんと菊池桃子さんの優しいナレーションが寄り添う。  決して派手な仕掛けはないながら、長年視聴者の心をとらえる秘密はどこにあるのか。番組プロデューサーの岡本基晃さん(53)に聞いた。 ──番組が始まった当時、地方暮らしへの世間的な関心は現在ほどは高くなかったと思います。どうしてこのテーマに着目することになったのですか。  もともと、この番組はいわゆる「団塊の世代」(1947~49年の間に生まれた世代)に向けて始まったものなんです。放映が始まった当時は彼らが50代に差しかかった時期。テレビの世界でも、その世代に向けた広告出稿を考えるスポンサーが増えていました。彼らにストレートに届く番組があってもいいのではないか、どんなテーマなら関心を持ってもらえるかを模索する中で浮かんだのが「第二の人生」というテーマです。  それまで「定年退職」は引退とほぼイコールでしたが、だんだんと健康寿命(健康上の問題で日常生活が制限されることなく生活できる期間)も のびて、「定年後をどう生きるか」ということへの関心が世の中で高まっていました。そこで、現役時代から一歩踏み出し、新しい人生を歩み始めた人々にスポットを当てることになりました。 ──メディア露出もそれほど多くない一般の方々の中から、どんな観点で取材対象を選んでいるのですか。  明確な基準があるわけではありませんが、新たな人生に向けてチャレンジする姿勢を持っていることは一つのポイントです。 「人生の楽園」に登場した、栃木県茂木町で竹細工工房を始めた夫婦  最近の放映回の中から、特に印象に残っている方々を3組ほど挙げてみます。  1組目は、鹿児島県の新島(しんじま)という無人島に夫婦で移住した50代の女性と、60代の男性です(19年11月2日放送、年齢は当時のもの)。女性は島の生まれで、進学を機に鹿児島市内に移り住み、結婚しました。50代になると、「島が荒れている」と聞いて清掃に通うようになり、ついには夫婦で移り住むことを決意します。いずれは島に人が住めるようにしたいというご夫婦やご家族の思いがひしひしと伝わってきました。  2組目は、埼玉県川越市でオーダーメイドの眼鏡工房を営む50代のご夫婦です(20年12月5日放送)。  旦那さんはもとコンピューター機器の会社員で、49歳のとき、お店で手作りフレームの眼鏡を見つけたことをきっかけに、独学で眼鏡作りを始めるようになります。その後、会社を早期退職し、川越市内にある古民家の納屋を改装して夫婦でお店を開きました。男性の心意気はもちろんのこと、実際に彼が作る眼鏡フレームもお洒落で魅力的でした。  3組目は、栃木県茂木町で竹細工工房を始めた40代のご夫婦です(21年5月29日放送)。  旦那さんはもともと都会でクラブDJをしていましたが、東日本大震災をきっかけに生き方を考え直し、故郷の宇都宮市にUターンします。竹細工職人だった祖父への憧れから、竹工芸家の下に弟子入りし、35歳で職人として独立しました。工房として使っている民家は、町から紹介された空き家を改築したものですが、とてもセンスが良く、生活に豊かさを感じました。  3組に共通していたのは、毎日をとても楽しそうに過ごしていたこと。たとえ収入が減ることがあっても、自分の好きなことをしていた方が、人間やはり幸せを感じやすいということだと思います。 ──20年以上番組が続けば、取材先とのネットワークも相当広がるのではないかと思います。過去の取材が起点となって、新たな企画が生まれることもあるのでしょうか。  はい。取材先からの紹介や現地での出会いが、次の取材へとつながるケースは結構あります。 「人生の楽園」に登場した、埼玉県川越市でオーダーメイドの眼鏡工房を営む夫婦  最近でいうと、千葉県松戸市で自作の野菜を使ったレストランを始めた30代夫婦を取り上げた回がそうです(22年6月25日放送)。その1年前、同じ松戸市内で祖父母が暮らしていた家を改装し、誰でも使えるレンタルスペースを始めた60代の女性を取材していました。当時、そのスペースを借りて出店していたのが当のご夫婦です。放映から少し時間が経ち、「実店舗を出した」と連絡をいただいたことが取材を始めるきっかけになりました。 ──松戸市のご夫婦を含め、最近は関東圏の、比較的若い方々が取り上げられることが増えているように思います。  コロナ禍が大きく影響しています。最初の緊急事態宣言が出た20年当時は、実の息子や娘ですら帰省を止められていた。ましてや遠方からの取材となると、なかなか受けてもらえませんでした。感染リスクも考慮して、現在は関東(茨城県、栃木県、群馬県、埼玉県、千葉県、東京都、神奈川県)の1都6県と山梨県に取材地域を絞っています。  年齢も同じです。もともとは50代を中心に取材していたのですが、撮影がきっかけで万が一クラスター感染が発生した場合、高齢者ほど重症化のリスクが高くなってしまう。制作を安全に進めるためにも、取材対象の世代を広げることにしました。いま通っている企画は、最も若くて30代後半あたりからです。 ──コロナ禍という危機も経ながら、現在まで20年以上にわたって番組の人気が続く理由をどう考えますか。 「奇をてらっていない」ことは大きいと思います。テレビには特殊な才能を持った人が出てくることが多いですが、この番組でが取り上げるのは、いわゆる「普通」の方々です。日々の生活に、特別な事件やサプライズが起こるわけではありません。誇張したりドラマチックに見せる「煽り」演出も入れたりしないように気を付けています。  変わった素人を紹介して一時的に人気になる番組もありますが、対象が尽きたり、視聴者に飽きられたりして終わってしまうことも多い。この番組の場合、普通の人の普通の生活を取り上げているので、対象は尽きませんし、視聴者からも飽きられにくい。特別な演出を排することが、結果として普遍性へとつながっている部分はあるのかなと思います。 番組プロデューサーの岡本基晃さん ◆  ◆  ◆  東日本大震災やコロナ禍を機に、若い世代の間でもUターンやIターン熱が加速していると言われる。  実感について、岡本さんは「コロナ前から、地方ロケに行くと若い世代の移住者を見かけることはよくありました。感染が広がってからは、さらに若年化の傾向が強まっていると思います。子育て支援制度の充実に力を入れる自治体も多く、『子どもを育てるなら都会よりも地方がいい』という認識が、親たちの間で広がってきているのではないでしょうか」と語る。  番組はどのような方向に進んでいくのか。「『第二の人生』を始める人々を応援するという番組のコンセプトは、今までも、これからも変わりません。ただ、『定年後』に必ずしも縛られる必要はないという方向にはシフトしてきています」。  時代の変化も柔軟に取り入れながら、番組自身もまた「第二シーズン」へと突入しつつある。 (本誌・松岡瑛理) ※週刊朝日オンライン限定記事
週刊朝日 2022/07/02 18:30
レジリエンスの高い社会を目指して発信し続ける 評論家・チキラボ代表・荻上チキ
レジリエンスの高い社会を目指して発信し続ける 評論家・チキラボ代表・荻上チキ
少年のような眼差し。群れ、つるみ、騒ぐことに距離を置く生き方と無縁ではない(撮影/佐藤慧)  評論家・チキラボ代表、荻上チキ。ラジオ「Session」では、精度の高いニュースが放送される。それはパーソナリティーの荻上チキの力量によるところも大きい。パーソナリティーだけでなく、評論家として、アクティビストとして、荻上はいじめ問題をはじめ、様々な社会問題の解決の道を探る。自身も理不尽ないじめを受けた。人が不遇な状況に陥ったとき速やかに回復できる社会を作ろうと、本気で取り組んでいる。 *  *  *  いつも冷静に淡々と事実を伝え、論評する荻上(おぎうえ)チキ(40)の声は、その日、すこし張り詰めていた。 「第2次世界大戦も経験した80歳を超えたおばあさんは、自分の家をロシア兵の拠点にされ、自宅の屋根から、スナイパーが隣人を殺しつづけているのを目撃したと……」  2022年5月14日から24日にかけ、荻上は、親しいフォトジャーナリストら3人とロシアが侵攻したウクライナや周辺国を取材した。360万人が避難したポーランドで支援の実情を視察し、ウクライナの首都キーウへ。そこからロシア軍による住民虐殺があったブチャ、戦場となった近隣のイルピン、ボロディアンカを訪ね、自身がパーソナリティーを務めるTBSラジオの番組「荻上チキ・Session」(月曜~金曜午後3時30分~5時50分)でレポートした。 「チキさん、眠れていますか。心疲れてないかな」「Session」のパートナーで、フリーアナウンサーの南部広美が健康を気遣う言葉をかけた。夜に放送していた先代の番組「Session-22」が始まった13年からパートナーを務める南部は、ニュースを通して物事の見方を深められたり、気づかされたりすることの連続だという。  数多ある全国のラジオ番組の中で、「Session」は、ラジオの枠を超え、他のメディアにも知られる報道・情報番組だ。ニュースを伝えるだけでなく、専門性をもったゲストに毎回しっかりと話を聞き、データや事実を基に本質を考える荻上の力量が、番組の個性を際立たせている。放送文化の発展と向上に貢献した番組や個人、団体に贈られるギャラクシー賞でDJパーソナリティ賞。番組で展開した「薬物報道ガイドラインを作ろう」で、同賞ラジオ部門の大賞も受賞している。 ■転校して始まったいじめ ゲームや習い事が救いに  南部は番組を担当する前、別の職場で行き詰まり、一時海外で暮らしたことがある。 自宅の仕事部屋。壁一面の本棚には心理学系やメディア論、戦争関連の書籍、資料が目立つ。ラジオ番組の放送に出かける前にメールをチェックする。オンラインミーティングも頻繁に行う(撮影/佐藤慧) 「逃避でした。ただその時は苦しみの正体がよくわからなかった。でも、それがパワハラの一種による傷だということが、チキさんの言葉で一つずつ区分けされ、理解できるようになったんです。私だけでなく、チキさんの話を聞いてモヤモヤの理由がわかるリスナーさんはとても多いと思う」  生きづらさを抱え、困難に直面している人は多い。そこには社会的な背景や原因がある。実態を調べ、データで裏付けて言語化、見える化し、問題解決や改善へとつなげる。言いっぱなしにせず、社会を変えるためにどうすればいいのか。荻上がラジオをはじめ様々なメディアで発信する時にいつも意識していることだ。肩書は「評論家」。といっても、捉えどころのないタイプのそれではなく、専門知を使って社会問題の解決の道を探るアクティビストだ。一般社団法人社会調査支援機構「チキラボ」代表として、様々な社会問題の実態調査と情報発信を行い、いじめ問題の研究や啓発活動を行うNPO法人「ストップいじめ!ナビ」の代表理事も務めている。また「『ブラック校則をなくそう!』プロジェクト」を立ち上げ、いじめと関わる校則の理不尽な指導是正を訴えている。  アグレッシブに社会と正対し、解決へ向けての活動を行う行動力と発信力の原点には、少年期の理不尽な体験が影響している。  1981年、兵庫県明石市生まれ。小学校2年の時、父親の仕事の関係で埼玉県浦和市に転居する。学校で上級生から「お前が関西から来た奴か。ちょっと関西弁をしゃべってみろ」といじられた。「そんなこと急に言われても、わからへん」とおもわず関西弁が出た。とたんに笑われた。いじめの日々が始まった。当時、太っていた荻上は、運動は苦手、社交性がなく、本を読んだり、ゲームをしたりするのが好きだった。学年が上がり、クラス替えがあっても、いじめは続き、中学1年頃までつづいた。小学校3、4年生の時のあだ名は「貧乏神」。中1の時は「便器」。プロレスのドロップキックを食らい、上履きに画鋲を入れられ、傘を取られ、ランドセルを焼却炉の中に投げ込まれた。  毎日のようにいじめの方法が変わった。ボール遊びをしていて絡まれ10分間ぐらい蹴られ続けたこともある。そういう時は、自分の尊厳のラインを決めて、一線を越えたら反抗した。 「だけど反抗するといじめはエスカレートします。だから対処せず、時間が過ぎるのを待ちました」  とは言え、いじめの期間があまりに長い。どのように耐えたのか。 「学校はサブ、家でゲームなどをして遊ぶのがメインと考えていました。いじめられたことをひたすら忘却して、恨みを持ち越さないようにして」  両親は共働き。学校から帰ると誰からも干渉されず、夢中になれるのがゲームだった。テレビっ子でもあり、バラエティー番組を録画してデッキで編集。放送予定のチェックは欠かさなかった。一方で教育熱心な母親に勧められ、小学生の時から、塾はもとより、ピアノ、スイミング、スケート、習字、ボーイスカウトなど通った習い事は10種類ほどに上る。放課後なにもしないという日はなかった。学校と家庭以外にそうした「第三の場所」があったことは一つの救いだった。 「学校がいいと思える要素なんか一つもない。世界はムダでできていると考えていました。形式的には行っておくけど、なくてもいいんだと」  それでも、いじめによる事件は気になった。テレビニュースを食い入るように観た。そして落胆した。学校がいやで休む時もあった自分には、役に立つ情報がないと感じたからだ。  荻上の活動の一つ「ストップいじめ!ナビ」は、自身のそうした経験も踏まえ、やむにやまれず始めたものだ。  きっかけとなったのが、11年に滋賀県大津市で中学2年生がいじめられた末、自殺した事件だった。この時も、メディアは事件を繰り返し大きく報じたが、荻上がいじめにあっていた頃と同じように、社会の理解不足は変わっていないと感じた。 ■大学で文学理論の研究 文学を通して社会を読む  いじめについては、日本も含め世界的に1980年代から30年以上にわたり研究が重ねられてきていた。いじめには「傾向」があるという。いじめが起きやすい「ホットスポット」は教室。次が廊下や階段。教室の中のいじめが最も起きやすいのは「休み時間」が圧倒的に多い。学校は自由に動けず、持ち込める私物も制限されている。マンガを読んだり、息抜きしたりすることもできない。いじめは、個々人の心や道徳の問題ではなく、環境が大きく作用していることは、研究者の間では共通の理解だ。だとすれば知見に基づいて改善できるはず。しかしそうはなっていない。もっと社会全体で、いじめの構造や対策などを共有してもらい、提言や啓発活動を通して改善、解決に寄与したい。そう考え、12年からナビの活動を開始。14年にNPOとして法人化した。この間、13年に成立した「いじめ防止対策推進法」成立に向けて、政治家に働きかけもした。 (文中敬称略)(文・高瀬毅) ※記事の続きは「AERA 2022年6月20日号」でご覧いただけます。
現代の肖像
AERA 2022/06/18 17:00
高橋由伸2世と呼ばれた男も 高校でHR打ちまくったけどプロ入り逃した“大砲”たち
久保田龍雄 久保田龍雄
高橋由伸2世と呼ばれた男も 高校でHR打ちまくったけどプロ入り逃した“大砲”たち
慶応大時代は“高橋由伸2世”と注目された谷田成吾  高校通算本塁打数の歴代ランキングは、早稲田実時代の清宮幸太郎(現日本ハム)が111本で歴代トップ。野球ファンの間で通算本塁打数が関心を集めるようになったのは、64本を記録したPL学園時代の清原和博あたりからだが、ランキング上位に名を連ねながら、プロ入りしなかった選手も何人かいる。  清原と同世代で、通算78本塁打を記録した此花学院の田原伸吾もその一人だ。  清原を上回る本塁打数から“浪花のベーブ・ルース”と注目された田原は、1985年夏の大阪大会2回戦、東住吉工戦で万博球場の場外へ同点2ラン、3回戦の大商大付戦でも右翼ポール際に2試合連続のソロを放ち、通算本塁打数を78まで伸ばした。  だが、清原自身は田原を「いいバッターやった」と認めながらも、「まあ、やってる試合数が違う。PLはそんなに練習試合せえへんかったからね。なんぼ70何本いうても、おんなじ試合数やったらオレのほうが打ちますよ」(「高校野球熱闘の世紀。」 ベースボールマガジン社)と明言。実際、清原は64本中47本を公式戦で記録し、田原の7本を大きく上回っていた。  くしくも両者は、同年夏の大阪大会準々決勝で対決している。  初回、2点目のタイムリーとなる左前安打で出塁した清原は、「この男がそうか」と言いたげに、一塁手の田原に視線を投げかけた。田原も負けずに視線を合わせ、お互いパチパチと火花を散らした。  最大の見せ場となったのは、0対5の9回だった。桑田真澄に8回まで2安打に抑えられていた此花は、先頭の米崎薫臣が左翼線二塁打を放ち、最後の意地を見せる。そして、2死三塁で4番・田原に打順が回ってきた。  桑田の140キロ直球をジャストミートし、「(79本目の)ホームランと思った」右中間最深部への大飛球は、わずかに桑田の球威が勝り、フェンス最上部を直撃する二塁打になったが、此花は主砲のタイムリーで最後に一矢報いた。 「9回は涙が出た。みんなが“田原まで回せ”って言ってくれて、それで打てた。僕はみんなのお蔭で胸を張れます」と納得して高校最後の試合を終えた田原はその後、明大、熊谷組、TDKでプレーを続け、都市対抗にも出場している。  清宮に抜かれるまで通算107本塁打で歴代トップだったのが、神港学園の山本大貴だ。  高校入学後、1年夏から主軸を任され、2年先輩で通算94本塁打の伊藤諒介(法大-大阪ガス)、1年先輩で通算85本塁打の横川駿(立命大-王子)とともに超強力打線を構成した。  伊藤が10年夏の県大会前の練習試合で中田翔(現巨人)の87本を抜いて歴代トップになったあと、翌11年秋に山本が95本で先輩の記録を塗り替えているが、本人は「1本目も107本目もいつ打ったか正直覚えていない」という。  同校のグラウンドは両翼が85メートル、中堅が95メートルと狭く、本塁打が出やすい環境だったが、山本は3年春の練習試合で推定飛距離160メートルの場外弾を放つなど、飛ばし屋としての素質は際立っていた。  3年夏の兵庫県大会、初戦の相手・西宮東は、山本が左打席に立つたびに“秘密兵器”のワンポイント左腕を登板させたが、結果は左前安打と四球、死球で全打席出塁。「左の横手投げは得意なんですよ」とまったく意に介さなかった。  だが、3試合ノーアーチのまま迎えた5回戦、社戦では、中学時代にバッテリーを組んでいた近本光司(現阪神)に2三振を奪われるなど、3打数3三振1四球と快音が聞かれず、1対2で最後の夏が終わった。 「あれが僕の力です。最後はやっぱり(本塁打を)打ちたかったですね。この悔しさは通過点。(プロは)小さいころからの夢なので、社会人野球で鍛え直します」と雪辱を誓った山本だったが、JR西日本では出場機会に恵まれず、4年で現役引退となった。  ちなみに先輩の伊藤は、大阪ガス時代の19年秋の日本選手権初Vを手土産に現役を退き、168センチと小柄ながらパンチ力のある横川は、現在王子の主将を務めている。  高校卒業後、3度にわたってNPB入りを目指したが、夢を実現できずに終わったのが、通算76本塁打の谷田成吾だ。  中学3年の夏、甲子園に出場した慶応高ナインが高いレベルのプレーを明るい表情で演じている姿に憧れ、埼玉県川口市から越境入学。毎日1時間半かけて通学し、1年時から4番を打った。  高校最後の夏は、6月下旬の練習試合で死球を受け、右手甲を骨折した影響から、打撃のたびに痺れるような痛みをこらえながら、3試合で11打数4安打4打点を記録したが、神奈川県大会4回戦で日大藤沢に2対5で敗れた。 「次は神宮で活躍したい」の言葉どおり、慶大でも4年間で通算15本塁打を記録。“高橋由伸2世”と注目されるも、15年のドラフトではまさかの指名漏れに泣いた。  大学卒業後、JX-ENEOSでプレーを続け、2年後のチャンスを待ったが、17年のドラフトでも指名なしに終わる。  18年には米球団のトライアウト受験を経て、「今年指名されなければ野球を辞める」と四国アイランドリーグ・徳島に所属しながらラストチャンスに賭けたが、同年のドラフトでも名前を呼ばれずに終わると、「野球はこれで終わり。今日出た結果が自分の進むべき道」と気持ちを切り替え、IT企業に入社。現在は前出の徳島の取締役兼球団代表を務めている。  現役球児では、すでに清原超えを達成した花巻東2年の佐々木麟太郎が、どこまで記録を伸ばすか注目される。(文・久保田龍雄) ●プロフィール久保田龍雄/1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。最新刊は電子書籍「プロ野球B級ニュース事件簿2021」(野球文明叢書)。
プロ野球
dot. 2022/06/05 18:00
64歳で弁護士になった元新聞記者 60代での就活、30カ所で「門前払い」
64歳で弁護士になった元新聞記者 60代での就活、30カ所で「門前払い」
弁護士としての抱負を語る上治さん(撮影・高橋奈緒〈写真映像部〉)  昨年1月に4度目の挑戦で司法試験に合格した元朝日新聞記者の上治信悟さん(64)が今春、弁護士になった。50代で法律の勉強を始め、9年かかって難関試験をパスした上治さんを待っていたのは、厳しい就職活動と知力と体力を振り絞る「卒業試験」だった。昨年7月9日号で紹介した司法試験合格記に続き、新人弁護士として踏み出すまでの歩みをつづってもらった。 *  *  *  私は昨年3月30日、1980年以来40年以上勤めた朝日新聞社を辞め、翌日から74期の司法修習生になった。修習を始める前から気になっていたのは、弁護士事務所に就職できるかということと、修習の終わりに実施され卒業試験にあたる国家試験「司法修習生考試」(通称「二回試験」)に合格できるか、だった。  60歳を超え、若い人と一緒に就職活動をしなければならなかった。一方、司法試験に合格したとはいえ、成績は1450人中1424位とぎりぎりだった。仕事先も見つからず、修習にもついていけずに二回試験に落第して弁護士になれないのではないか。そんな不安で合格の喜びにゆっくり浸る時間はなかった。  修習は埼玉県和光市にある司法研修所(研修所)での修習と裁判所、検察庁、弁護士事務所での分野別実務修習(実務修習)、選択型実務修習に分かれる。  私が属した74期A班はまず研修所で約1カ月間、導入修習をした。その後、指定の修習地で約7カ月間、実務修習をした後、研修所に戻って、二回試験のリハーサルのような論文試験や模擬裁判などで構成される約1カ月半の集合修習を受けた(新型コロナウイルスのため、研修所での修習は原則リモートになった)。  集合修習が終わった後は、実務修習地などで自分が選んだテーマを学ぶ約1カ月半の選択型実務修習に進み、最後に二回試験を受けた。私は東京が実務修習地となり、東京地検、東京地裁民事部、都内の弁護士事務所、東京地裁刑事部の順に実務修習をした。  選択型実務修習では実務修習の弁護士事務所をホームグラウンドとしながら、東京地裁民事部で再び修習をした。  実務修習と選択型実務修習では被疑者の取り調べをしたり、事件の記録を読んで有罪無罪、勝訴敗訴を検討するレポートや起訴状を起案したり、事件を傍聴したりした。  起案は何日もかかり、夜遅くまで残業することもあったが、指導役の裁判官や検察官、弁護士らから生の事件について指導を受け議論することは楽しく、実務家に近づいているというワクワクした気分になった。 司法修習の終了証書と弁護士バッジ(撮影・高橋奈緒〈写真映像部〉)  しかし、就職先が見つからなければ始まらない。63歳での就活である。受験で世話になった恩師は「(60歳を超えた人間を)喜んで採用してくれるところはないかも」と教えてくれた。高名な弁護士からは、「自分(一人)で事務所を開設する他ない」と率直に指摘された。  年齢を変えることはできない。修習が終わってすぐに一人で事務所を開設することを「即独」というが、そんな自信も全くなかった。何とかして見つけなければと、司法修習に入る前の昨年2月から就職活動を始めた。  しかし、春が過ぎ、夏になっても就活は終わらなかった。朝日新聞で53歳から8年間弱経験した著作権の仕事を生かそうと、日本弁護士連合会の求人情報サイトなどを手がかりに知的財産権を扱う都内の弁護士事務所、約30カ所に応募したが、ほとんど相手にされなかった。 「残念ながら、ご期待に沿えません。ご活躍をお祈り申し上げます」といった返事をくれる事務所さえ多くはなく、無視され続けた。  応募先を探す中で、20代を大量に採用する大手弁護士事務所にエントリーしてみようかと思った。ホームページ(HP)を開き、生年の欄にチェックを入れようとしたら、私の生年の「1957」はなかった。端から相手にされていないと感じた。テレビで宣伝している弁護士事務所など相手にしてくれるところもわずかにあったが、著作権の仕事ができそうになかったり、面接で落とされたりした。  約20年前に始まった司法制度改革で、多彩なバックグラウンドを有する人材を多数法曹に受け入れることがうたわれた。しかし、バックグラウンドがあっても年を取っていたらお呼びでないのかと思った。  そんな苦戦の最中、著作権を主要な業務の一つとしている「虎ノ門総合法律事務所」のHPを見つけた。 ■「覚悟」を求める事務所にトライ  弁護士の仕事は「きつい」「厳しい」「きりがない」という意味で「『3Kである』と断言します。この覚悟のない者には、そもそも我が事務所の門を叩く資格がありません」と書いてあった。事務所の雰囲気の良さや、遅くまで仕事をすることはないというような優しく甘いメッセージのHPが目につく中で、異彩だった。  ただ、先輩の弁護士や同期の修習生に聞くと、弁護士の仕事は忙しい。夜遅くまで仕事をするのは当たり前で、週末も仕事をする人が多い。3Kと断言するのはむしろ、正直だ。だいたい、楽ちんな仕事で成長できたり、喜びを味わったりすることはできないだろう。  当方、隠居仕事で弁護士を始めるつもりはない。そう考えた私はこの事務所に応募することを決め、修習の合間に1週間かけて応募書類を書き上げ、送った。  同事務所のHPには、毎年200人以上が新人採用に応募し採用は1人か2人とあった。今度もダメかなと思っていたら、代表から面接するという連絡が来て、神谷町にある事務所に出かけた。  最初は、型通りに志望動機を話した。そのうちに朝日新聞や日本新聞協会でやってきた著作権の仕事に代表も詳しく、仕事を通じた共通の知人もいることがわかり、志望動機よりも双方が知っている話に花が咲き、あっという間に90分くらいが経ってしまった。  面接自体は楽しかったものの、これで良かったのかと感じたが、1カ月後に2次面接に呼ばれた。代表、ベテラン、若手の弁護士の3人と面接し、またまた、90分くらい同じような話をした。それからさらに1カ月以上が過ぎ、採用が決まった。  運が良かったのは間違いない。ただ、編集出身の私が2010年、当時の定年まであと7年だった53歳で縁もゆかりもない知的財産部門に異動し落胆した時、腐らなくて良かったと思う。  そもそも私は60歳を過ぎてもできる限り働きたいと考えていた。著作権の仕事をしているうちに面白くなり、会社を辞めた後もできる仕事として弁護士を目指し法律の勉強を始めた。仕事にも熱が入り、社外に知己が増えた。なぜ、採用してくれたのかはわからないが、仕事を通じて得た知識、経験、人脈が役立ったのではないだろうか。人間万事塞翁が馬とはよく言ったものだ。  就職先が決まった後は、二回試験に合格することが最大の目標になった。不合格でも後の修習期の二回試験を2回受けることができるが、今さら、そんなことはご免だった。  二回試験は、ざっくりいって99%が合格するといわれる。しかし、司法試験では合格者の98%強が私よりも成績が上だった。若くて機敏で優秀な修習生に囲まれ、修習中の成績も大したことなかった私は「ひょっとして落ちるかも」と心配で、懸命に勉強した。司法試験に合格した後もこんなに勉強しなければならないとは思わなかった。  合格のため特に大事といわれたのが、昨年12月から今年1月にかけて行われた集合修習中の論文試験(10回)の復習である。就職先の先輩弁護士から「同じ問題は出ないが、同じ考え方の問題が出る」と助言されたこともあり、集中的に復習した。集合修習の論文試験の解説授業は録画されていたので見ながら復習できたが、授業で表示された教材は原則ダウンロード不可だった。 20人近い弁護士が所属する事務所で一番の新人だ (撮影・高橋奈緒〈写真映像部〉) ■根を詰めすぎて体はふらふらに  そこで、1科目200分から300分の解説授業の教材を1科目丸2、3日かけてノートにほぼ書き写した。これで根を詰めすぎたのか、ストレスのせいか体調が悪くなり、二回試験前日の今年3月22日に軽いふらふら状態になった。  翌日から土日を挟んで5日間5科目(検察、民事弁護、民事裁判、刑事弁護、刑事裁判の順)の試験が始まる。  1科目は午前10時20分から午後5時45分までの7時間25分である。合計37時間5分。司法試験の4日間19時間55分よりずっと長い。二回試験では、長いもので約100ページある記録を読んで答案構成をし、論文を書き上げなければならない。  ふらふらで思考力、体力が持つか心配になって病院に行ったら、点滴をしてくれた。そのおかげか体調はかなり回復し、翌日司法研修所に乗り込むことができ、1科目が終わるたびに疲れて家路についたものの、薬を飲みながら長丁場を乗り切った。  結果発表は4月19日の夕方だった。最高裁判所のHPに不合格者の番号が発表された。恐る恐るアクセスしたら、私の番号はなかった。「これで、弁護士になれる」。ほっとし、うれしさが湧いてきた。  私は4月21日に東京弁護士会に登録し、同日から虎ノ門総合法律事務所で働いている。これからは著作権やジャーナリズムに関する仕事をすることになると思う。  ただ、修習では一般民事と呼ばれるお金や土地、相続などに関する事件や、離婚や別れた子との面会交流といった家事事件、刑事弁護など幅広く修習した。一つひとつの事件にその人の人生がかかっていると思うことが多かった。  幸い、就職した事務所は著作権以外にも多彩な事件を扱っているので、私もいろいろ取り組みたい──。就職前、こう考えていたら、勤務初日、早速、家事事件の担当になった。「姉弁」である先輩弁護士の指導を受けながら依頼者のために働いている。  10年かかってたどりついた弁護士である。64歳から新しいキャリアを始める幸せを噛み締めながら、歩んでいきたい。※週刊朝日  2022年5月27日号
週刊朝日 2022/05/19 11:00
ミャンマーで拷問を受けて日本に逃げてきたロヒンギャ男性 帰る場所がないのに「難民」になれない苦悩
ミャンマーで拷問を受けて日本に逃げてきたロヒンギャ男性 帰る場所がないのに「難民」になれない苦悩
ロヒンギャのミョーチョーチョーさん(撮影/岩下明日香)  ロシアに侵攻されたウクライナから国外に逃れた難民が500万人を超えた。岸田文雄首相は16日、ウクライナからの避難民受け入れを踏まえ、紛争地からの「準難民」制度の創設を検討していると明らかにした。だが条約上は「難民」に当たらないという姿勢は崩しておらず、難民認定のハードルは依然として高い。2020年の日本の難民認定率はわずか1.2%。ウクライナに限らず、日本で難民に認められる日を待ち続けている外国人が大勢いる。入管施設における死亡事件なども問題になるなか、祖国に帰りたくても帰ることのできない当事者たちは、どのような思いでいるのか。「前編」ではミャンマーの少数民族ロヒンギャの男性のケースを紹介する。 *  *  * 「これはミャンマーで民主化活動をやっていたときにできた傷。右手で刀を持って、左手でガードするから体の左側に傷が多い。この傷は一生消えない」  ミャンマー西部、ラカイン州出身のミョーチョーチョーさん(36)。ミャンマー軍が迫害の対象としてきた、イスラム系少数民族のロヒンギャである。2006年に祖国を逃れ、日本にたどり着いた。日本で難民申請をしたが、16年たった今でも難民とは認められず、在留資格のない状態が続いている。  ミョーさんが2歳のとき、ミャンマー国軍がロヒンギャの村々を襲撃してきた。一家で親戚のいる最大都市・ヤンゴンへ逃げた。ミャンマーでは仏教徒が約9割を占め、キリスト教徒やイスラム教徒は少数派だ。都会にまぎれて暮らしていたが、顔立ちからしてイスラム教徒であることは、周囲から一目瞭然だったという。 「ミャンマー人は仏教系のアジア顔が9割。イスラム教徒はインド寄りの顔が多いので、私がイスラム教徒であることは隠せない。さらに、イスラム教徒の中でもロヒンギャは仲間外れにされる。だから、ヤンゴンにいたときは、ロヒンギャだとは名乗らなかった」 ■警察当局から受けた「拷問」  2004年、18歳だったミョーさんは、周囲の若者と同じようにミャンマーの民主化活動に参加した。刀を握って、武力でデモを鎮圧しようとする警察や治安部隊と対峙した。その時にできた傷は、冒頭で語ったように「一生消えない傷」となり、今もミョーさんの左腕には深く刻まれた無数の切り傷の痕が残っている。 ミョーさんの左腕に刻まれた切り傷の痕(撮影/岩下明日香)  民主化活動を続けたミョーさんは、警察当局に計4回拘束された。  4回目に拘束される直前の夜――ミョーさんを含む22人の民主化活動メンバーは喫茶店で集会を開いていた。そこに国軍と警察がトラック4台で乗り込んできた。 「動くな、頭を下に向けて上を向くな!」  銃口を突きつけられ、トラックに乗せられた。それまでは警察署への連行だったが、このときは、刑務所に直行だった。 「ミャンマーの刑務所は、すごく汚い。食事は1日1食で、おかずはない。硬く炊いた米に塩とお湯をかけて出される。石みたいな米で食べられないようなもの」  夜になると3人1組で尋問部屋に連れていかれ、そこで全裸にされ、こん棒で打たれた。国軍からは「なぜ軍の反対活動をするのか」「誰の指示なのか」と拷問された。  14日間の拷問の末、国軍はメンバーの親たちに連絡してワイロを要求。22人のうち7人が解放されることになった。そのとき、ミョーさんも解放された。 「親は民主化活動を止めませんでした。気をつけてやりなさいと、応援してくれていた。父は、自分の息子が間違っていることをしているわけではないと、わかってくれていたから……」  ただ、拘束されるたびにワイロを要求され、家計は苦しくなっていた。国軍に目をつけられたことで、「もう海外に逃げるしかない」と決心し、ミョーさんは06年に親戚のいる日本を目指した。 ■日本に来て知った「難民」の現実  ミャンマーでは1982年、軍事政権下で国籍法が改正され、135の先住民族にはミャンマー国籍が与えられた。先住民族は、第1次英緬(えいめん)戦争が始まる1824年より前に住んでいた民族とされた。そこにロヒンギャは含まれないとされ、先住民族の枠組みから除外されてきた(注1)。  それゆえ、ロヒンギャであるミョーさんには国籍がない。日本へ渡ろうにも通常ルートではパスポートを発行することができず、密航ブローカーを利用して出国せざるを得なかった。当時、ブローカーに払うパスポートの作成代は日本円で10万~15万円。他にも、短期滞在のビザ代や航空券代などの費用が必要だった。 「空港にも軍がいるから、ブローカーと一緒に行って、通してもらえるように事前にワイロを払った」  ワイロを渡しても計画の途中で国軍に捕まるかもしれない。空港を突破してミャンマーを出国できても、日本に到着したときに入国できるのか。不安と緊張でいっぱいだった。  日本に到着し、入国審査を通過したときは、「もう家族を苦しめることがなくなるんだ」と安堵した。ミャンマーに残してきた家族を、いつか安全な日本に呼び寄せて平穏に暮らせる日が来ることを願っていた。  だが、「現実は違った」とミョーさんは肩を落とす。 「日本は国連で難民を受け入れると発表していたのに……。ここに来てわかったことは、難民は全然認められないということ」  2006年8月に短期滞在ビザで入国してから約1週間後、東京入国管理局に出向いて難民申請をした。そして、役所で外国人登録証と、3カ月働ける「特定活動」の在留資格を得た。在留資格は、3カ月ごとに役所に申請していたが、11年ごろからは申請先が入管に変わったという。  12年、難民申請の1回目の審査結果が出た。入管からは「難民に該当しない」と、却下された。「なぜか」と理由を問うと、入管から「理由を知りたいなら裁判をしてください」という答えが返ってきた。 「異議申し立てをしたら、それもダメだという結果が出て、収容された」 ■入管職員の「常套手段」  12年1月から東京入国管理局に3カ月、茨城県牛久市にある東日本入国管理センターに9カ月、計1年間収容された。  牛久の収容施設には、外国人から「チケット」と呼ばれる入管の担当者がいたという。「チケット」は外国人を国に帰らせる手続きをする担当で、月2回の頻度で外国人に対して「あなたはいつ国に帰るの?」「あなたのビザは下りないよ」「日本は難民申請を認めていないから、あなたもわかるでしょ。だから、早く国に帰りなさい」と詰め寄っていたという。 「その言い方は、心を痛めつけるようだった。こっちが落ち込むようなことを言い続けて、外国人の口から『国に帰ります』と言わせようとしていた。それで、結構、他の外国人はキレて、その場でけんかになってしまうから、暴力は頻繁にあった。(担当者は)あたかも外国人が悪いかのように仕向けて、手を出してくるのを待っている。そして、7人くらいの職員がパーッと入ってきて、外国人を縛って、別の部屋に連れていく」  ミョーさんには、それが外国人への制圧を正当化するための常套手段に思えたという。収容施設には監視カメラも設置されているが、これまでその映像は明るみに出なかった。ただ、21年3月、スリランカ人女性のウィシュマ・サンダマリさん(当時33)が収容中に死亡した事件を機に、少しずつ映像などの物証が出てくるようになり、入管の在り方が問われるようになってきた。 「日本社会で、ふつうに出会う日本人はみんな優しい。でも、入管の中はどうしてあんなにひどいんだろう。考えても答えが出ない。日本は労働力が足りないから外国から労働者を入れようとしているのに、すでに日本にいる外国人には、ビザを与えない。真面目に生きようとしているだけなのに……」  13年1月、ミョーさんは「仮放免者」として牛久から出所した。だがあくまで「仮放免」であり、在留資格がないという扱いは変わらない。就労は許可されず、移動の自由も制限される。  ミョーさんが移動できるのは、東京、神奈川、埼玉の3都県のみ。所在を証明するために、ミャンマーの軍事クーデターへの反対活動をしている様子を撮影、印刷して、写真にある自分の顔にマル印と場所などを記入して、2カ月半ごとに入管に提出しなければならないという。 「移動の理由を、『民主化活動のため』と書いただけでは許可してもらえない。ちゃんと証拠も見せないといけないんです。もしミャンマーでクーデターがなかったら、『活動のため』という理由も通らない」 ■ロヒンギャ大虐殺で家族はバングラデシュに避難   17年、ミョーさんの出身地であるミャンマー西部のラカイン州では、国軍の掃討作戦によってロヒンギャの虐殺が起きていた。9000人以上が殺害され、74万人以上ものロヒンギャが隣国バングラデシュに逃げて難民になった。ミョーさんの家族は、18年にバングラデシュに避難していた。  自分名義の携帯電話を契約することができないミョーさんは、周囲の手を借りながらやっとの思いで弟とフェイスブックでつながった。弟と話をすると「もう手遅れだよ」と泣いていた。ミョーさんの父親は、がんに侵されていたのだ。 「お父さんは、元気なときだけビデオ通話に出てくれた。でも、わかるんですよ。痩せてきて、顔色が悪くなっているのが見えるから。本当につらかった……」  ミョーさんは19年12月から21年4月まで、再び出入国在留管理局に収容された。弟によると、この間に父親は、せきをすると血が出るほど病状が悪化していた。だが、就労することが許されないミョーさんに、できることはなかった。  22年2月6日、弟から連絡が入った。「お父さんは今朝亡くなった」と。 「長男として何もできなかった。助けたいけど、日本で働けないから、治療費を送金することもできなかった。私はこんなに安全な国にいて、こんなに丈夫な体なのに。働けるんだったらなんでもしますよ。ちゃんと働いて日本の税金だって納めたい。せめて、お父さんの葬儀代を送りたかった……」  入管からは何度も「ミャンマーに帰りなさい」と言われてきた。だが、ミャンマーは、ロヒンギャを国民として認めていない。ミョーさんは途方に暮れる。 「ミャンマーのどこに帰る場所があるのか。私のような難民は、帰りたくても帰る場所がない。どうしたらいいんでしょうか……」 【後編】に続く。 (AERA dot.編集部 岩下明日香) ※注1『ミャンマー政変 ――クーデターの深層を探る』北川成史著 (ちくま新書)を参照
ロヒンギャ入管難民
dot. 2022/04/28 08:00
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久保田龍雄 久保田龍雄
落合博満、清原和博を育てた“伝説のコーチ”は? 大打者誕生を陰で支えた名伯楽たち
西武で清原和博ら多くの名打者を育てた土井正博コーチ(写真提供・埼玉西武ライオンズ)  稀代の天才打者・イチロー誕生の陰に、共同作業で振り子打法をつくり上げた河村健一郎2軍打撃コーチの存在があったように、球史に残る大打者は、名打撃コーチの手によって世に出た例が多い。多くの大打者を生み出した名伯楽たちを紹介する。  西武コーチ時代に清原和博、松井稼頭央、中島宏之、秋山翔吾らを育てたのが、土井正博だ。  1985年に西武2軍打撃コーチに就任すると、翌86年、「お前に任せたい選手がいる」という根本陸夫管理部長の要請で1軍打撃コーチに昇格。その選手は、ドラフト1位のスーパールーキー・清原だった。  近鉄時代に18歳で4番打者を務めた土井コーチが、同じ18歳のホームランバッターの育成を任されたのは、まさに運命的な出会いだった。  だが、教えるほうも実質1年生とあって、5月以降、清原が打ちはじめ、「新人王当確」と騒がれると、重圧を感じて一気に白髪が増えたという。清原も執拗に内角を攻められ、調子を崩してしまう。  そんな苦悩のさ中、「自分の18歳のときと比べてみろ。お前が一番わかるやろ」という根本管理部長の言葉で、「技術的なことばかりに頭がいっていた」と気づいた。  そして、3、4年後にトップクラスの打者になれるよう「ゆっくり育てたらいい」と気持ちを切り替えたのが功を奏し、同年、清原は新人史上最多タイの31本塁打、打率.304の好成績で見事新人王を獲得した。  土井コーチは89年シーズン途中、麻雀賭博問題で志半ばにしてチームを去るが、96年に西武の打撃コーチ復帰が決まると、清原はFA権行使を猶予し、西武で最後の1年を恩師とともに過ごしている。  若手時代の清原に死球の避け方を教えることができず、野球人生の後半でケガに泣かされたことを悔やんでいた土井コーチは、松井、中島、秋山らに防具をつけさせて打席に立たせ、内角球に対してギリギリまで体を開かない技術を伝授。内角攻めへの恐怖心を克服させ、打撃の幅を広げる指導法で、いずれも球界屈指の打者に育て上げた。  約30年にわたるコーチ歴で、落合博満をはじめ、西村徳文、小久保裕紀、田口壮、サブローらを育て、“伝説の打撃コーチ”と呼ばれたのが、高畠導宏だ。  79年にロッテに入団した落合は、左腕を伸ばして打つ独特のフォームを山内一弘監督に認めてもらえず、2軍暮らしが続いていた。25歳でプロ入りした落合にとって、選手生命にも影響しかねない危機的状況である。  だが、落合の才能を見抜いていた高畠コーチは、巨人から移籍してきた張本勲にも協力を求め、説得の末、山内監督に1軍で使うことを了承させた。それでも山内監督は、落合が2打席続けて凡退すると、3打席目に代打を送ろうとしたが、高畠コーチのアイコンタクトを受けた張本がベンチを出ようとする山内監督を引き留め、交代を思いとどまらせたことも1度ならずあったという。そして、もう1打席回ってきたチャンスで結果を出した落合は、プロ3年目に首位打者を獲得し、大打者への道を歩みはじめる。  西村をスイッチヒッターとして成功させるなど、育成面で多大な功績を挙げた高畠コーチだが、落合のように監督に評価されていない“大器”をあの手この手を駆使して試合に出させるのも、名伯楽の条件のひとつなのだと実感させられる。  最後は現職のヤクルト・杉村繁1軍打撃コーチを紹介する。  2000年、広報などのフロント業務から打撃コーチ補佐に転身。1軍打撃コーチ時代の04年秋、日本ハムに移籍した稲葉篤紀の後釜に青木宣親を育てるよう若松勉監督から命じられると、逆方向に強いライナーを打つ打法を指導し、青木を“安打製造機”として開花させた。  08年から11年までの横浜コーチ時代にも、それまで2割台の打者だった内川聖一の首位打者獲得に貢献し、新人時代の筒香嘉智の長打力にも磨きをかけた。  さらに13年のヤクルト復帰後も、2軍打撃コーチ時代に当時本塁打王が目標だった山田哲人に「足が速いから、広角にヒットを打ったほうが、長いこと野球界でできるんでは」と助言し、後の“トリプルスリー男”の礎を築いた。  筆者はヤクルト広報時代の杉村さんに大変お世話になった。人柄の良さそのままに何でも気軽に相談できる人だった。  何かの事情で取材を受けられないときでも、きちんと筋道立てて、こちらが納得するまで丁寧に理由を説明してくれた。  野球とは直接関係のない人気ミュージシャンの特集記事を担当し、「愛聴している選手を紹介してほしい」という面倒な話を持っていったときも、杉村さんは嫌な顔ひとつせず、「じゃあ、クリ、いきましょう」と外野手の栗山英樹を呼んでくれた。実際話を聞いてみると、マニアックな曲まで知っていて、まさにドンピシャリの人選。「野球以外のことも含めて、選手を本当によく見ているんだな」と感心させられた。  おそらく、コーチになっても、持ち前の気さくさで選手の良き相談役を務めるとともに、日ごろから選手をよく観察し、適切な助言ができるのだと推察される。  高校時代、巨人・原辰徳監督とともに“東の原、西の杉村”と並び称された強打の三塁手同士のライバル対決は、お互い指導者の立場になった現在も続いている。(文・久保田龍雄) ●プロフィール久保田龍雄/1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。最新刊は電子書籍「プロ野球B級ニュース事件簿2021」(野球文明叢書)。
プロ野球清原和博落合博満
dot. 2022/04/12 18:00
男子御三家「武蔵中」の志願者数がここまで増えた理由とは? 2022中学受験
男子御三家「武蔵中」の志願者数がここまで増えた理由とは? 2022中学受験
写真はイメージです/GettyImages  コロナ感染が急拡大するなかで実施された今年の中学入試ですが、受験者数・受験率ともに8年連続での上昇となりました。安全志向が働き、中堅上位から下位校のボリュームゾーンで受験者数が増加しましたが、「御三家」と呼ばれる難関校や、人気の大学付属校はどうだったのでしょうか。※本文中の志願者数はのべ志願者数(応募者数) *  *  *  森上教育研究所代表の森上展安さんは、「難関校は通常、広域から志願者が集まるのですが、コロナ禍で遠距離移動を回避するような状況下では、中堅校に比べて志願者数が伸びにくい」と話す。また難関校には、1年おきに増減を繰り返す、隔年減少が見られるという。  今年の男子難関校の注目は武蔵(東京都練馬区)だ。584人から640人と増やしている。サピックス教育情報センター本部長の広野雅明さんは、その理由をこう話す。 「2019年に就任した杉山剛士校長は、埼玉のトップ公立校・県立浦和高校の校長を務めた経験があり、大学進学に良い結果を出してくれるのではないかと期待されています。また武蔵学園の広報が力を入れ、中高の魅力の発信に努めている。さらに田中愛治・早稲田総長、五神真・前東大総長など、OBがアカデミックの世界で活躍している影響も大きいと思います」  開成(東京都荒川区)は1243人から1206人と微減。昨年減少した麻布(東京都港区)は、881人から934人と増加に転じた。逆に昨年増加した駒場東邦(東京都世田谷区)が、645人から565人に減らした。昨年新理科館が完成した海城(東京都新宿区)は1998人から2060人に伸長した。  今年、男子御三家のなかで、開成の入試当日の欠席者が他校に比べてやや多かったという。その理由を広野さんは「御三家のなかで、唯一開成だけがコロナ感染者や濃厚接触者のための追試を設けていたことも理由の一つ」として、こう説明する。 ■追試のために開成にダブル出願する人も 「開成以外の難関校を第1志望とする受験生が、万が一試験日前にコロナに感染するなどして第1志望を受けられなかった場合には開成を追試で受験しようと、第1志望と開成にダブル出願するケースもあったようです」  女子御三家は、桜蔭(東京都文京区)が581人から557人、雙葉(東京都千代田区)が385人から381人と微減。女子学院(東京都千代田区)が723人から769人と増加した。豊島岡女子学園(東京都豊島区)は今年から高校募集を停止するが、影響はなく例年並みだった。昨年増加した鴎友学園女子(東京都世田谷区)は1327人から1317人へと微減、逆に吉祥女子(東京都武蔵野市)は1482人から1583人に増加した。  栄光学園(神奈川県鎌倉市)は811人から750人と減少し、逆に聖光学院(横浜市)が1390人から1431人と増加した。フェリス女学院(横浜市)は435人から464人と増加。千葉のトップ校・渋谷教育学園幕張(千葉市)は昨年減少したが、2380人から2568人と復調した。渋谷教育学園渋谷(東京都渋谷区)は2100人から2277人に増加。近年、特に男子の志願者が増えているという。 「渋谷教育学園渋谷は2月2日にも入試を行う学校ですが、男子受験生が2月1日に併願するのが一番多いのは開成なんです。受験者層のレベルが上がって、厳しい入試になっています」(広野さん) ■日大系の付属校は失速  大学付属校でも、難関校は隔年減少が見られた。また、早稲田大、慶應義塾大、MARCH(明治大・青山学院大・立教大・中央大・法政大)よりも、日本大や東洋大、東海大などの中堅校の付属校の志願者が増える傾向が続いている。  昨年多くの受験生を集めた日本大学系の付属校は、今年も志願者を集めたものの、勢いが落ちている。日本大学系唯一の男子校として人気の日本大豊山(東京都文京区)は、昨年の3012人から2678人へと減少した。 「模試では毎回のように志望者数が上昇していましたが、入試本番ではその勢いが低下しました。日大のアメフト問題の時は影響しなかったのですが、今回は前理事長の脱税事件で、私学助成金が交付されなくなったことが響いたのでは」(安田さん)  午後入試の導入をきっかけに大幅に志願者を増やした獨協(東京都文京区)は、獨協医科大学が系列校に合計10人の推薦枠を設けたことで、昨年の1858人から2208人と増加した。 ■注目は理系大学の付属校  東京農業大学第一(東京都世田谷区)も、2178人から2274人に増加している。 「大学がすぐ近くにあり、理系志向の受験生に人気です。近所には鴎友学園女子、恵泉女学園もあるので女子は併願しやすい」(広野さん)  神奈川県は志願者減となった学校が多かったが、神奈川大附属(横浜市)は1778人から2200人へ、関東学院(横浜市)も1401人から1905人へ増加した。 「理工系大学出身者の就職状況が好調なことから、理工系大学付属の志願者も増えています」(安田さん)  工学院大附属(東京都八王子市)は506人から777人へ、東京電機大(東京都小金井市)は1318人から1374人へ、東京都市大付属(東京都世田谷区)は3534人から3966人へ増加した。社会や経済のDX(デジタル改革)が急激に進むなか、今後もこうした理工系大学付属校の志願者は増えそうだ。 (文/柿崎明子)
中学受験<速報>2022中学入試
AERA with Kids+ 2022/03/12 10:00
世界で最も多くマスターズを撮った写真家・宮本卓が感嘆した「日本のゴルフコース」の様式美
米倉昭仁 米倉昭仁
世界で最も多くマスターズを撮った写真家・宮本卓が感嘆した「日本のゴルフコース」の様式美
パサージュ琴海(長崎市、撮影:宮本卓) *   *   * 昨年のマスターズ・トーナメントで松山英樹選手が日本人初優勝を果たし、表彰式で「グリーンジャケット」が贈られた歴史的瞬間。そこには宮本さんの姿があった。 「マスターズで勝つ、というのは、とてつもない偉業なんですけれど、松山君って、シャイな男で、どう喜びを表現していいのか、分からない感じだった。硬い表情のまま表彰式に出て行って、これはマズいな、と。それでグリーンジャケットを着せてもらったとき、『ヒデキ、こうだよ! こう!』と、ぼくがガッツポーズを見せたら、気がついてくれて、あのガッツポーズが実現した。そこでようやく笑顔が出た」  そのやりとりが開催地、オーガスタ・ナショナルGC(米ジョージア州)の公式YouTubeに残されているという。 「周囲のフォトグラファーからも『タクのおかげでいい写真が撮れた!』って、感謝されました」  これまでマスターズの取材は34回。写真家としては世界最多で、表彰式の際「タク、ここは君の場所だ」と、他の取材者から最前列を譲られた。まさにレジェンドといえる存在。  しかし、若いころは「野球のカメラマンに、『ゴルフなんて、仕事になるの?』って、よく言われた」と振り返る。 「まあ、『好きなことを続けていれば、なんとかなるさ』と、やってきた。目標としてきたのは、クレジットを見なくても『これは宮本が撮ったんじゃないの』って、外国人にも気づいてもらえる写真を撮ること。そんな個性あるゴルフ写真をずっと目指してきた」  そのきっかけは、スポーツ雑誌「Number」(文藝春秋)だという。 「1980年の創刊号に特集されたニール・ライファーの写真がすごかったんですよ。それまで日本のスポーツ写真は試合の結果が分かるような記録写真ばかりで、スポーツをアートとしてとらえたライファーの写真はとても新鮮だった」  青春時代、音楽に没頭していた宮本さんは神奈川大学卒業後、来日ミュージシャンらを撮影してギャラを稼いだ。ライファーの写真に出合ったのはそのころだった。 廣野ゴルフ倶楽部(兵庫県三木市、撮影:宮本卓) ■一見さんお断りの「スノッブ」な世界  83年、「アサヒゴルフ」(広済堂出版)の「カメラマン募集」が目に留まり、応募すると採用に。  しかし、最初はコースの歩き方も分からず、ラフに打ち込まれた中嶋常幸選手のボールを蹴飛ばしてしまい、縮み上がった。  翌年、出版社の体制が変わったのを期にフリーの写真家となり、87年に初渡米。  当初は現地でトーナメントを追いかけていたが、しばらくすると、世界中のゴルフコースを撮影したいと思うようになった。  アメリカのゴルフ雑誌で特集されていた「コースランキングベスト100」を目にすると、「歴史的なコースがたくさんあって、すごくバラエティーに富んでいる。表情が全部違う」と、興味が湧いた。 「自分のウイークポイントは、飽き性だな、と思っていて、ゴルフの写真をなりわいに楽しくやっていくには何かいい方法はないかなって、考えたんです。それで、試合だけじゃなくて、名門コースを巡って世界中を旅したら楽しいんじゃないか、と思った」 PGMマリアゴルフリンクス(千葉県木更津市、撮影:宮本卓)  当時、手紙をよく書いたという。 「日本人のこういうものなんですけれど、写真を撮らせてもらえないか、と。正面玄関のドアをノックした。どんなに大変な思いをしてもきちんと手続きを踏んで、撮影や販売の許可を得るのがぼくのポリシー」  ところが、撮影は思うようには進まなかった。名門コースからは門前払いの返事ばかり。 「有名なレストランじゃないですけれど、一見さんお断りの『スノッブ』な世界。すごく厳しいルールのあるメンバーシップコースばかりで、もう、一歩たりとも入れない。プレイすることはもちろん、写真を撮ることはさらに難しかった」 ■「ミヤモトさん、サインすると、パワーを持ちますよ」  試合とコースの両方を追い始めたころ、「すごく貧乏だった」と、宮本さんは振り返る。 「当然のことながら、会社からお金をもらって取材に行くと、好きなようには撮れない。それが自分の性格には合わなかった。だから、全部、自分の費用で行った。コツコツと、1枚撮って、1枚売るという生活をしていた」 東京ゴルフ倶楽部(埼玉県狭山市、撮影:宮本卓)  そんな宮本さんに転機が訪れたのは2001年。ひょんなきっかけから当時世界一といわれていた「ペブルビーチゴルフリンクス」(カリフォルニア州)のオフィシャルフォトグラファーとなるのだ。 「同時多発テロ事件で、飛行機が飛ばなくなってしまい、撮影現場にたどり着けなくなってしまった。それで、予定していた3週間分の仕事がとんでしまった」  当時、宮本さんはロサンゼルスを拠点に活動していた。 「暇になったものだから、それまでに撮影したフィルムをプリントして、趣味で買いためてきた古いアルバムに貼ったんです。そうしたら、すごくゴージャスな写真集のようなものができた」  誰かに見てほしいと思った宮本さんはそれをペブルビーチに送った。「会ったこともない人に、見てくださいって」。  すると、すぐに電話がかかってきた。「『あなたにすぐ会いたい』って、言うんです」。  ロスから7時間、車を飛ばしてペブルビーチに着くと、いきなり「うちと契約しましょう」という話になった。  しかし、宮本さんは契約書へのサインを躊躇した。条件がかなり厳しかったのだ。すると、こう、殺し文句が。 「『ミヤモトさん、それにサインすると、パワーを持ちますよ』って。それは、どういうことなんだろう、と思いながら、恐る恐るサインした」 ■1秒でも早く田舎を出たかった  宮本さんはすぐに「パワー」の意味を理解した。「ペブルビーチ・オフィシャルフォトグラファー」の肩書の威力は絶大だった。「どんなコースでも『ぜひ撮ってください』と。でも、そうなるまでにすごく時間がかかりましたね」。  以後、宮本さんは世界中のコースに思う存分、足を運ぶ一方、「日本のコースはまともに見ずにアメリカに来てしまった」と、当時の自分を振り返る。 「日本のよさなんか、最初のころは分からなかったんですよ」 我孫子ゴルフ倶楽部(千葉県我孫子市、撮影:宮本卓)  和歌山県海南市で生まれ育った宮本さんには「1秒でも早く田舎を出て、東京に行きたい」という思いがあった。「で、上京すると、今度はアメリカに憧れた」。  しかし、60歳が近づくと、やり残したテーマは何か? 考えるようになった。 「そうしたら、『ああ、やっぱり、自分の故郷だな』と。日本のコースと撮りたいと、心の底から思った。それで帰国を決意した」  日本に戻ったのは12年。それまで宮本さんは海外で美しいコースの景色を数多く目にしてきた。しかし歳を重ねると、日本のきめ細かな四季の移り変わりが心に染みるようになったという。 「日本の自然の美しさが、ようやく素直に『美しい』と感じられるようになった。でも、ゴルフ場というのは、ある意味、その美しい自然を一度壊してつくるわけです。ところが、優れたコースというのは、周囲の自然と調和して、ずっと前からあったかのごとく、なじんでいる。だから、とても心地いい。その設計の妙を、写真家として、かたちにしていかなければならない」 鳴尾ゴルフ倶楽部(兵庫県川西市、撮影:宮本卓) ■足の裏に感じる微妙な起伏を写す  さらに宮本さんは、「ゴルフは錯覚のスポーツ」と語る。 「例えば、実際の距離が150ヤードあったとしても、それが近くに見えたり、遠くに見えたりする。そうすると、選手が戸惑うわけです。それも設計の妙で、バンカーや木の配置、光の取り入れ方などを工夫している。実に奥深いものだな、と思います」  フェアウエーも練習場のような平らではなく、足の裏から感じるくらいの微妙な起伏が設けられている。 「それがやはり、コースの難しさにつながっている。選手はそのわずかな起伏を感じて打ち方を変えるわけですが、写真家はそれをどう表現するか?」  撮影の秘訣は、コースを丹念に歩くこと、という。 「他の人よりも早く起きて、遅くまで歩く。それが自分にできること。とにかく歩いて歩いて、コースの隅々まで感じることが大切。光は刻々と変わるし、立ち位置が変われば太陽の位置も変わる。それをつかむことがこの仕事だと思っています」  その原動力となってきたのがほかでもない、写真だ。 「ぼくは昔、世界にはこんなすごいゴルフ場があるのか、と思って、穴が開くほど写真を見つめ、それが掲載された雑誌が汚れるくらい読んだ。いつかそこに行ってやろうって、目標を立てたわけです。つまり、そこに写真の持つ力の強さがある。今度は立場を変えて、ぼくが日本のコースの素晴らしさを世界に向けてアピールしたい。『このコースに行ってみたい』って、外国の人が思ってくれるような写真が撮れたらいいな、と。そんな思いでやってきた」  実際、宮本さんがインスタグラムに日本のコースの写真を掲載すると、「その素晴らしさをみなさんが感じてくれて」と、うれしそうに話す。 「そういう意味では、今回、写真展に展示する18枚は日本が世界に誇れるコースです」 (アサヒカメラ・米倉昭仁) 【MEMO】宮本卓写真展「HIKARI has come すべてはこの瞬間の為に」キヤノンギャラリー S(東京・品川) 3月10日~4月25日
HIKARI has comeすべてはこの瞬間の為にアサヒカメラキヤノンギャラリーゴルフ写真家写真展宮本卓松山英樹
dot. 2022/03/09 17:00
在宅医療の現場はリスクだらけ「包丁やトンカチを振りかざす」患者も…身の危険を感じた看護師が激白
在宅医療の現場はリスクだらけ「包丁やトンカチを振りかざす」患者も…身の危険を感じた看護師が激白
1月29日、渡辺宏容疑者を乗せた車  埼玉県ふじみ野市で立てこもりが発生し、医師の鈴木純一さん(44)らが犠牲になった1月27日から約1カ月。事件日、渡辺宏容疑者(66)=殺人容疑で送検、18日に理学療法士への殺人未遂容疑で再逮捕=は、在宅クリニックの関係者7人を呼び出し、前日に亡くなった高齢の母親(92)に心臓マッサージを要求し、それを断られ、散弾銃を発砲。鈴木医師が撃たれて死亡、理学療法士の男性(41)が重傷を負った。病院や施設ではなく、家で最期を迎えたいと望む患者や家族に寄り添った在宅医療だが、事件により、在宅ケアに携わる医療・介護従事者に戦慄が走った。ある訪問看護師は「撃たれたのは自分だったかもしれない」と不安がこみあげ、在宅で行う医療で経験してきたリスクを取材で明かした。 *  *  *  都内で看護師をしているAさんは、7年前、60代の独身の息子が90代の母親を介護する家庭で訪問看護を請け負っていた。社会問題である「8050」がさらに高齢化した「9060」世帯だ。90歳を超えた母親は、脳梗塞と心不全を患っており、意識がほとんどなかった。看護師Aさんは、母親の心臓が止まったら「安らかに看取る」ことを事前の共通認識として息子と話し合っていた。だが、母親が息を引き取ると、その場にいた看護師Aさんに矛先が向けられた。 「息子さんから『医療ミスだったのではないか』と咎められ、裁判になりました。それも、母親が亡くなって2年程経ってからです。機能が低下している高齢者の心臓は、いつかは止まるとわかっていても、それがいつになるのかがわからない状況が続きます。ついに止まると、その状況が受け入れられなくて、その場にいた医療者のせいにしたくなったのだと思います」(訪問看護師Aさん)  息子は裁判で「最後に心肺蘇生をしてほしかった」と主張し、慰謝料2200万円以上を請求。最終的に在宅医療におけるインフォームド・コンセント(十分な説明と同意)ができていなかったことが看護師側の過失となり、5年間の話し合いの末、和解金約200万円で決着が付いた。和解金は賠償責任保険で賄った。  ふじみ野市で鈴木医師が撃たれた事件によって、自身の体験がよみがえったという。 「明日は我が身と思い、怖くなりました。母親の死を受け止められなかったのですから、もしあの息子さんも銃を持っていたら、私に向けて撃ってきてもおかしくなかったと思いました。息子さんは介護の仕方に独特の持論を持っており、医療として『こうした方がいいですよ』といっても聞く耳を持たない人で、とてもこだわりが強い人でした。病院であれば、家族に『離れていてください』といって治療に専念できるのですが、在宅医療では家主が主導権を握るので、私たちは言えなくなってしまうことがあります」(訪問看護師Aさん)  大往生の末、最期を家で家族と一緒に過ごし、看取られることを望む高齢患者やその家族が在宅医療を利用することが多い。最期の望みをサポートすることに意義を抱いていた看護師Aさんは、「患者・家族のためを思った医療なのに、看取りで訴えられたり、事件が起きたりすると、在宅医療をできなくなる」と嘆いた。 ■カメラで「監視されている」緊張感  別の訪問看護ステーションの看護師Bさんは、患者から刃物で脅されたことがあった。 「自分の思っていることを伝えられない病状の患者さんから、『どうして伝わらないんだ』という意思表示として、包丁やトンカチを振りかざされたことがあります。ちょっとイライラするとすぐ持ち出します」(訪問看護師Bさん)  看護師に対して自分の要望を理解してほしいがための表現方法だったようで、看護師Bさんが「しまってください」といえば、刃物などをしまう患者だった。 「病院であれば、刃物を持ってくる人はいませんが、一般の家庭では包丁は必ずあります。なかには日本刀をコレクションされている人もいます。今回の事件を受けて、いつまた同じような事件が起きてもおかしくないと思っていました」(訪問看護師Bさん)  病院なら他の看護師や警備員にすぐ助けを求めることができる。だが、在宅では看護師が1人か少人数で患者宅に訪問するため、想定外の危険に遭遇したら対処しきれない。さらに、最近では認知症の高齢者がいる家庭に、見守りのためのカメラを設置しているところも増えてきた。それにより、危機感だけでなく「監視さている」という緊張感にもつながっているという。 立てこもり事件があった現場付近 「看護師の監視目的ではなく、ご家族の安否確認のためだとは思いますが、視られていると感じることはあります。実際に、映像を基に『あの時、何をしていたんですか』とご家族から問い合わせをいただくことがあります。録音やスマホで動画を撮られることもあります」(訪問看護師Bさん)  他にも、看護師は入浴介助や血圧測定の時に男性患者からセクシャルハラスメントを受けることもしばしば。引火すると危険な酸素ボンベの横でタバコを飲む肺がんの患者もいた。ゴミ屋敷の家では、玄関を開けたらゴミ山を這い登って、物と物に挟まれたまま寝返りすら打てない患者のケアにあたることも……。  様々な家庭に踏み込むのだが、特に精神的に堪えるのは、患者家族による人格否定ともいえる言葉のハラスメントだと、前出の看護師Aさんは言う。 「気管切開した患者の痰を引いていると、『あんたそれで本当に看護師なの?』などと、ずっとクレームを言い続ける奥様がいて、メンタルをやられた看護師が退職してしまったことがありました。優秀な看護師でしたが、担当を変えると説得しても、もう続けられなくなってしまうところまで追い詰められてしまいました」(訪問看護師Aさん)  その妻は、夫が気管切開をした時にも病院に対して「なんで手術したのか」と怒っていたようだ。夫が気管切開により命をつなぎとめた――妻はこの“不満”を医療従事者に八つ当たりしていた。 「今までは、病院や施設で行ってくれていた食事や排泄の世話、吸引などを全て奥様が介助してやらなくてはならなくなり、時間の拘束感やプレッシャーなどから、看護師に八つ当たりのような言葉をぶつけて来たのかもしれません」(訪問看護師Aさん)  何人もの看護師が入れ替わった末、弁護士の介入で訪問看護の契約を解除した。 ■「優しすぎる」在宅医療・介護スタッフに懸念  30年以上にわたり在宅医療に携わる「いらはら診療所」(千葉県松戸市)の和田忠志医師は、「安全な職場環境を保障する議論が在宅医療には欠落している」と指摘する。 「国や専門職団体も在宅医療のポジティブな面だけを発信し、人材を増やそうとはするものの、労働者が危険な目に遇うことに対してはこれまで関心を払って来ませんでした。密室の在宅医療は、病院と比べて事故や被害に対するシステムが非常に脆弱。ヘルパーがインシュリン注射の針を踏む針刺し事故や犬にかまれることも珍しくなく、多くは泣き寝入りするのが実態です」  被害に直面した在宅医療や介護従事者が「優しすぎる」ことにも懸念を抱いている。 「介護の人なら包丁を振り回しても大丈夫だろうと思われていることがあります。それを訪れてきた宅配便や銀行員にやったら警察を呼ばれます。セクハラも電車の中で起きたら逮捕されること。ところが、介護の人は『怖かったですね』と、サービスの打ち切りで対処します。犯罪として立件する体質が在宅医療や介護にはほとんどないのです。これでは、次の事業所でも暴力や性被害が起きる可能性があるので危険だと思っています」(和田医師)  全国訪問看護事業協会が2018年に、3245人(うち9.5割女性)の訪問看護師から回答を得た調査では、これまでに利用者とその家族から身体的暴力を受けたことがあると答えたのは45.1%、精神的暴力は52.7%、セクハラは48.4%だった。有効な対策と改善の必要性が示された。  和田医師は、対策として、(1)セクハラ被害の報告がある所には同性のスタッフにする、(2)1人を避けて2名で訪問、(3)自治体の介護保険課に被害を報告、(4)危険な場合は警察の生活安全課に相談して警察官の同行を求めるなど、行政と連携した安全確保の手段を講じてほしいと訴える。 ■終末期のプランを十分に検討して  医師の鈴木純一さんが亡くなった事件を機に、在宅医療の専門職団体でも議論が始まっている。一般社団法人日本在宅ケアアライアンスの理事長、新田國夫医師は、高齢者の終末期医療を前もって検討する「アドバンス・ケア・プランニング(ACP)」をすすめる。 「80代、90代になると、多くは認知症や誤嚥性肺炎、転倒などによる骨折からADL(日常生活動作)が低下し、心肺機能が弱り、心不全、呼吸不全になります。人間の限界値に達する時をどうするのか。ACPとは、前もって本人の意思形成を促し、表明することです。家族とケアをする看護師や医師を含めて計画を立てることです」  ただ、あらかじめプランを立てていても、実際には自分の思いとは違う事が生じてくるという。 「患者本人と家族、ケアをする医療者との意見が一致しないことは多いです。本人の意思とは違って、家族の思い、医療者の思い、周りの人の思いが対立構造を示す事も頻回にあります。90歳を超えると、施せる医療は限られてきますが、本人、家族がどうしたいか過剰な医療の期待ではなく、生きがい、生活の満足度、いのちを視点として、もしもの場合を十分に話し合っておく必要があります」(新田医師)  日本在宅医療連合学会の代表理事である石垣泰則医師は、「在宅医療における医療従事者と、医療を受ける側の患者の双方が安心できるあり方を検討する」としている。 「在宅医療では、病院よりも人間性に突っ込んだ付き合いが患者・家族と医療者の間に生まれます。頼りにしている先生としてみる一方で、望まない状況で最期を迎えると、家族の感情が湧きあがってしまうことは、よくあることなのです」  鈴木医師を散弾銃で殺めた渡辺容疑者は、2016年ころにも母親の診療をめぐって別の医師を罵倒していたことが報じられている。あらかじめ、事情がわかっていたとしても、医療では患者を看なければならないジレンマがある。 「医師には医師法の中に応招義務があり、『診察治療の求があつた場合には、正当な事由がなければ、これを拒んではならい』という義務を負わされています。看護師や介護の教育においても、患者は弱者であるから見捨ててはならないと教えられてきたことから、在宅医療においても問題がある家庭だからといって医療の提供を拒むことはできないわけです」(石垣医師)  超高齢化社会において、在宅医療は多くの人が選択する手段だ。それを担う人材の安全性に目を向け、具体的な対応が求められている。 (AERAdot.編集部・岩下明日香)
在宅医療
dot. 2022/02/28 11:42
自公「相互推薦」にあつれき…連立23年目の危機 良好関係から一変した理由
自公「相互推薦」にあつれき…連立23年目の危機 良好関係から一変した理由
AERA 2022年2月28日号より  夏の参院選に向け、自民党と公明党の間にすきま風が吹いている。連立発足から23年。長いつきあいとなる両党に何があったのだろうか。AERA 2022年2月28日号から。 *  *  *  岸田文雄政権を支えるはずの自民、公明両党の関係がぎくしゃくしている。きっかけは、今夏の参院選に向けて自民党が公明党への推薦を渋り、公明党が腹を立てたこと。公明党は自民党への支援を見送るとまで言い出した。亀裂は選挙にとどまらず、国会運営や政策協議にも広がりそうな雲行きだ。連立スタートから23年、自公関係は「熟年の危機」を迎えている。  自公連立政権が発足したのは1999年。参院で過半数割れに苦しむ小渕恵三首相が決断した。その後、政策づくりや国会運営に加え、各種選挙での協力が続いた。2009年の総選挙で民主党政権が発足、自民、公明両党は下野したが、12年には政権を奪取。自公連立の安倍晋三政権が再スタートした。  7年8カ月続いた安倍政権では、菅義偉官房長官が公明党の支持母体である創価学会の佐藤浩副会長とのパイプを駆使して自公の協力関係を強化した。 ■細る両党間のパイプ  例えば消費税の軽減税率問題。15年、自民党と財務省は消費税を8%から10%に引き上げる際、いったん10%の税額を支払った後に、食料品などに対して申請すれば2%が還付される制度をまとめた。これに対して創価学会は「食料品は最初から8%に据え置くべきだ」と要求。菅官房長官が創価学会の意向に沿う形で「食料品8%」で強引に決着させ、菅・佐藤ラインの威力を見せつけた。  自民、公明両党による連立は、人間関係で維持されてきた面がある。連立発足時には小渕首相と創価学会の秋谷栄之助会長との個人的なつながりがあったし、その後も大島理森、漆原良夫両氏は自公の国会対策委員長として緊密に連絡を取り合った。菅、佐藤両氏の関係もその延長線上にある。  ポスト安倍の菅政権でも自公関係は良好だったが、岸田政権になって様相が一変した。岸田首相自身には公明党・創価学会との有力なパイプがない。自民党の要である茂木敏充幹事長や遠藤利明選挙対策委員長にも、公明党・創価学会側に親密な相手がいない。 AERA 2022年2月28日号より  そこに今夏の参院選の推薦問題が浮上した。両党は16年の参院選から相互推薦をしてきた。改選数4の埼玉、神奈川、愛知と、改選数3の兵庫、福岡の計5選挙区で、自民党は自前の候補とは別に公明党候補を推薦。一方の公明党側は、1人区の32県などで自民党候補を推薦するという仕組みだ。  ところが、昨年秋に岸田政権が発足した後、自民党側の推薦決定が遅れた。茂木幹事長が公明党・創価学会の組織票より無党派の若者の票を重視する方針だという情報も流れ、公明党側は不満を募らせた。公明党の山口那津男代表は自民党の対応の遅れを批判。「私たちだけが自民党を推薦することが国民に理解してもらえるか」と語り、自民党からの推薦が固まらない以上、一方的な自民党候補への推薦はあり得ないとの考えを示した。  公明党の実動部隊である創価学会も、いらだちを隠さない。1月27日には異例の声明を発表。16年、19年の参院選の1人区などで自民党候補を推薦してきたが、今回は「人物本位」で投票する方針を明確にしたのだ。声明では「公人としてふさわしい人格や見識を備えた人」を支援するとしている。要するに、自民党が5選挙区で公明党候補の支援を明確にしないなら、公明党・創価学会も1人区などで自民党候補を推せないという考え方を明確にしたのだ。 ■河井候補を推す対価  とりわけ、公明党が重視しているのが、改選数3の兵庫だ。16年の選挙で公明党候補は自民党候補に次いで2位につけた。19年の参院選で公明党・創価学会は、当時の安倍首相と菅官房長官の要請にこたえる形で、広島選挙区(改選数2)で自民党の河井案里候補を全面支援。河井候補は当選し、自民党の現職だった溝手顕正候補は落選した。その後、河井陣営の大規模な買収事件が発覚。河井参院議員は辞職に追い込まれ、支援した公明党も批判にさらされた。  当時、公明党が河井候補を推す「対価」として自民党に求めたのが、兵庫選挙区での公明党候補への支援だった。菅官房長官が公明党の要請にこたえて、兵庫入り。公明党候補をてこ入れした。激戦の末、公明党候補は維新の候補に次いで2位。自民党候補は3位に滑り込んだ。  今夏の参院選では、維新が2人目の擁立を検討しており、立憲も議席を狙う。自民党にしてみれば、「自前の候補(末松信介文部科学相)の当選を確保するのがやっとだ」という厳しい情勢下で、公明党候補を推薦する余裕はないというのが本音だ。  神奈川でも公明党への逆風が吹いている。衆院神奈川6区で立候補する予定だった遠山清彦元財務副大臣が政府系金融機関の融資の違法仲介を繰り返したとして起訴され、裁判が続いている。遠山元副大臣は、新型コロナウイルスの感染が拡大する中で東京・銀座の高級クラブで会食を重ねていたことが明るみに出て、議員辞職に追い込まれていた。国会議員の不祥事に対して、創価学会の女性部などから不満が出ており、参院選への影響は避けられない。公明党としては、自民党からの推薦を受けて業界団体の取り込みを図りたいところだ。自民党が公明党への支援に動かないなら、「自民党が求めている1人区での推薦も見送るのは当然」というのが、公明党側の理屈だ。  自民党内では、参院選への影響を心配する声が出始めた。石破茂元幹事長は「公明党からの推薦がもらえない選挙区は結構しんどいことになる。あまりなめてはいけない」と話す。参院選全体の勝敗を左右する1人区の多くでは、自民党候補と野党の統一候補が一騎打ちとなる。自民党が従来のように公明党票を取り込めないと、野党候補を利する場面も出てきそうだ。(政治ジャーナリスト・星浩)※AERA 2022年2月28日号より抜粋
AERA 2022/02/22 08:00
医師殺害事件で浮かんだ在宅医療の課題 医療者を敵視する利用者も
松岡かすみ 松岡かすみ
医師殺害事件で浮かんだ在宅医療の課題 医療者を敵視する利用者も
※写真はイメージです  全国の在宅医療・介護関係者に強い衝撃を与えた1月の事件。埼玉県ふじみ野市の住宅で、男が散弾銃を発砲し、医師を殺害。殺された医師は、事件前日に亡くなった容疑者の母親が利用していた在宅クリニックの担当医だった。需要を増す在宅医療の課題が浮かび上がった。 *  *  * 「台所には包丁があり、その気になれば凶器になるものは家中にある。患者や家族の生活の場に入っていくことの怖さを改めて感じてしまう」  関東地方の在宅医は、事件を受けてこう漏らす。  患者宅に医師が訪問する在宅医療は、病院と比べ、医師をはじめとした援助者と、患者や家族ら利用者との距離感が近い。このため、援助者と利用者がうまく関係性を築けていないと、苛立ちやクレームなど負の感情を医療者にストレートにぶつけてしまう家族もいる。自身も在宅医で、45年にわたって医療現場を見てきた小笠原望医師(大野内科理事長)が言う。 「患者の生死が伴う医療の現場では、奇麗事では済まされない家族の思いを目の当たりにします。そうした家族の思いと医療関係者、介護関係者ら援助者側の思いとが、必ずしも一致しないときもある。特に在宅の場合には、どこまで何をするか、しないかといった難しい判断を、家族が迫られる局面も少なくない」  在宅療養では、家族の「きちんとしなければ」という気持ちが強すぎるあまりに、医療者にかなり高い要求を求めることがあるという。例えば、一人の医師が一日に何軒もの患者宅を移動する分、身体状態や道路状況などにより、やむを得ず予定時間に遅れて訪問する場合がある。遅刻するときには事前に患者宅に連絡を入れるルールだが、怒りが収まらない家族もいる。また医療者が伝え方に気をつけていても、悪いように解釈して、攻撃的な態度に出る人も。訪問看護師としても活躍する看護師の大軒愛美さんは言う。 「そうした人ほど、社会性が乏しく孤立しているケースが多い。特に年齢が上がるにつれ、その傾向が強まる印象です。相談する相手がいないことから、自分の考えが全てになってしまう。他人が自分と異なる意見を口にすると、否定されたと解釈するなど、医療者を敵視してしまう人もいる」 ※写真はイメージです  実際、深刻なトラブルが後を絶たない。2018年に全国訪問看護事業協会が実施した調査によれば、患者や家族から身体的暴力を受けた訪問看護師は45%、精神的暴力は53%、セクハラが48%と、回答した訪問看護師約3100人のうち、約半数が何らかの被害を経験している。病院でも医療者への暴言や嫌がらせなどは見られるものの、在宅医療は患者宅で一対一になることも多く、リスクも高い。相手が相当に困難な人物である場合、医療者が相談できる場所はあるのか。 「残念ながら、自分たちで解決するより他に選択肢がないのが現状です」とは、冒頭の在宅医だ。この在宅医の場合は、トラブルが想定されるケースについては「何かあったときのために」事前に担当地域の地域包括支援センターに一報を入れている。ただ、同センターが個別のケースに介入することは立場上難しく、「話は聞いてくれるが、教科書的な返事しか返ってこない」(前出の在宅医)。その結果、トラブルに発展しそうなときに相談できる場所がないのが実情だという。 「『金を払っているんだから何でもやれ』というような横柄な態度の利用者も普通にいます。もっと医療者を守るような対策がないと、在宅医療が破綻しかねないし、医療従事者になりたいという人もますます減ってしまう」(同)  前出の小笠原医師は、別の病院の医師から「患者や患者家族とうまくコミュニケーションが取れない。客観的な意見が聞きたいので、話し合いに同席してもらえないか」と相談を受けたことがある。その医師は、患者と家族、そして在宅医療と介護に関わる関係者全員を集め、外部の小笠原医師も同席する形で、治療方針などについて協議する場を設けた。 「だがこれは本当に特例。個別のケースに他の医師が入ることは基本的にはない」(小笠原医師)  在宅療養への需要が高まる中、医療者が助けを求めることができる制度やネットワークが必要になるといえる。  一方で、家族側が何らかの理由で医師に不満を募らせることもあるかもしれない。どうしても医師とうまくコミュニケーションが取れない、不満が拭えないといった場合には、別の医師に変えることもできる。医師に直接言いづらい場合には、地域包括支援センターやケアマネジャーなどに相談するのも手だ。 ◆患者の死で孤立する人の支援を  ただ家族も在宅医療をやると決めたなら、まずは医療者や介護者と信頼関係を作ろうとする姿勢が大事になる。その上で、何か気になることや困ったことがあったら、自分の中で抱え込まずに、相談すること。  心を開いて話をしても、聞いてもらえない、医療者が大事なことを勝手に決めていってしまうなどと感じたら、そう感じたことを伝えてみる。それでも何も変わらないなら、交代の検討も視野に入れるべきかもしれない。前出の在宅医は言う。 「医師や看護師が、患者や家族の話をしっかり聞いて話し合えること、そして医療者側の価値観やルールを押し付けてこないこと。この二つは医療者の必須条件。もしこれらが欠けていると感じたら、それを伝えて、どう対応するかを見極めるのも一つの手です」  80代の親が50代の子どもの暮らしを経済的に支える「8050問題」が取り沙汰されるようになって久しい中、患者が亡くなることで独りぼっちになり、経済的にも精神的にも追い詰められてしまう人への対策も急務だ。社会から孤立した人は、表立って存在が見えづらいからこそ、より深刻化してしまう。「グリーフケア」と呼ばれる、大切な人との死別経験から生じるつらさを解消するための外来が少しずつ増えてはいるものの、在宅医療でも病院でも、基本的に残された家族のためのサポートは用意されていない。前出の大軒さんは、こう強調する。 「日本人はまだまだ精神的な相談そのものに対する抵抗感が強い。ですが社会から孤立した人が話せる相手が一人でもいれば、悲惨な事件は防げるかもしれない。昨今多発している巻き込み自殺を図ろうとした事件を見ていると、対策を急がないと、また同じような事件が起こりかねない」  コロナ禍でますます需要が高まる在宅医療。医療者に、いわれのない矛先が向けられることが二度とあってはならない。(フリーランス記者・松岡かすみ)※週刊朝日  2022年2月25日号
週刊朝日 2022/02/22 08:00
在宅医「『焼香に来い』はありえない」 立てこもり医師死亡事件を考える
松岡かすみ 松岡かすみ
在宅医「『焼香に来い』はありえない」 立てこもり医師死亡事件を考える
渡辺容疑者を乗せた車  在宅医が患者家族に殺害される悲惨な事件が起こった。行き場のない歪んだ感情が医療者に向けられてしまったこの事件。患者と家族の生活の場に入っていき、生死と向き合う在宅医の仕事には、時にトラブルもつきまとう。その実態を追った。 *  *  * 「こんな事件があったら、患者宅に行くのが怖い」  全国の在宅医を震撼させる事件が起こった。埼玉県ふじみ野市の住宅で、1月27日夜、男が散弾銃を発砲し、医師の鈴木純一さん(44)らが死傷した立てこもり事件が発生。殺人の疑いで送検されたのは、住人の渡辺宏容疑者(66)。胸を撃たれて死亡した鈴木医師は、事件前日に亡くなった容疑者の母親(92)が数年前から利用していた在宅クリニックの担当医師だった。  渡辺容疑者は、母親と二人暮らし。仕事はしておらず、一人で母親を介護していた。母親の死亡は、かかりつけ医である鈴木医師らが確認。渡辺容疑者は、鈴木医師を含む在宅クリニックの関係者数人を名指しで指定し、「27日午後9時ごろに焼香に来てほしい」と呼びつけた。鈴木医師ら男女7人が自宅を訪れると、死後1日以上が経過している母親を前に、「生き返るはずだから心臓マッサージをしてほしい」と依頼。鈴木医師らが蘇生は難しい旨を説明して断ると、散弾銃を取り出して発砲したとみられている。容疑者は警察の調べに対し、「医師やクリニックの人を殺して自殺しようと思った」などと供述しているという。 「行き場のない歪んだ感情が、医療者に向けられた悲惨な事件。患者と家族の生活に入り込んでいく在宅医療の怖い面も見せつけられた」  こう話すのは、関東地方でこれまで多くの在宅看取りに携わってきた在宅医だ。在宅医療や在宅介護の現場では、患者本人はもちろんのこと、家族との関わりも重要になる。本人が意思決定できない場合には、家族に判断を委ねる場面も多く、在宅医をはじめとした援助者の仕事には、家族へのケアも含まれる。そんな中、患者への思い入れが強すぎるゆえに「どうしても死を受け入れることができない」家族がいるという。 現場に向かう警察官ら  例えば、死期が迫って意識が低下していることを受け入れられず、投与している薬のせいにする。自分の知識や価値観のみで判断しようとし、治療方針に強い不満を抱く。また死期が明らかに迫っているのに、「まだ食べられるはず」「お風呂にも入れるはず」と、医師の言うことを聞かない家族もいるという。 「患者がいつまでも死なないと思っている家族は、一定数います。そうした人ほど思い込みが強く、固執するところがあり、なかなか会話が通じない。結果的にトラブルにも発展しやすい」(前出の在宅医)  治療方針を巡って、医師と家族の意見が合わないことは少なからず見られることだ。延命治療をするかどうか、入院するかどうか、在宅医療ならどこまで何をするか──。「これでいい」と命の判断をすることは家族にとっても医療者にとっても難しい。患者を思うあまりに、行き場のない感情を爆発させてしまう家族もいる。自身も在宅医であり、45年にわたって医療の現場を見てきた小笠原望医師(大野内科理事長)は言う。 「命に限りがあることを認められない家族がいるときの医療は、とても難しい。そして家族と折り合わない中での在宅医療は、さらに困難を極めます。今回の事件は、『母の命を永久に』というのが、容疑者の医療への要求だったように見える。医療に対する度を越した要求の高さ、そして“母子分離”ができていない母と息子の関係性が事件の引き金になったのでは」  年齢を重ねてもなお、親と子との距離感が非常に近く、子が親に依存したり、必要以上に執着しているケースは少なからず見られる。80代の親が、自宅に引きこもる50代の子どもの生活を、経済的にも精神的にも支える「8050問題」が取り沙汰されるようになって久しいが、無職の息子である容疑者と年金受給者の母親という構図から、今回の事件にもこうした問題が潜んでいると見る向きも強い。子が親に依存し、互いの距離感が近いケースには、実は「80~90代の高齢の母と60代前後の息子」という構図が多く見られるという。訪問看護師としても活躍する大軒愛美さんが言う。 現場近くには花が手向けられていた 「60代前後になっても、精神的にも経済的にも親から自立できていない男性と高齢の母親、という組み合わせは珍しくありません。過去に携わったケースで、98歳の母親と60代の息子さんの二人暮らしがありましたが、息子さんはどうしても母親の死を受け入れられず、『何とか助けてほしい』と泣いて懇願していました。世間一般では、大往生と言える年齢であっても、どうしても死を受け入れられない。そうしたケースは、母と息子の二人暮らしであることが少なくない印象です」 ◆「焼香に来い」はありえない連絡  前出の関東地方の在宅医が携わったケースの中には、死亡確認をして死亡診断書を書いた後に、息子が救急車を呼んだケースもあった。 「自分の世界は母親だけ、というまま60代になってしまったような人でした。亡くなってからもずっと母親を撫で回して離れない。どうしても死を受け入れられないことから、わらにもすがる思いで救急車を呼んだのでしょうが、医療にも限界がありますから……」  一般的に、「この医療機関を利用する」という決定権は利用者側にある。医療機関は、一度患者を受け入れたら、患者や家族が困難な人物であっても、途中で「うちで診ることは難しい」と正面からは言いづらい。だが「どうしてもの場合には、何らかの理由をつけて逃げることもできなくはない」と、ある在宅医が明かす。「ただし、鈴木医師のように地域の8割の在宅患者を担当していたという状況では、見捨てて手を引く、という選択肢はなかったのかもしれない」(前出の在宅医)  さらに今回の事件のように、家族から「焼香に来てほしい」という連絡が医療機関に入ることは、複数の在宅医や看護師が「普通はありえないこと」だと首を振る。在宅医の仕事は、患者の死亡診断書を書いた時点で契約が終わるからだ。だが鈴木医師は事件当日、自身を含む関係者7人という大所帯で容疑者宅に弔問に訪れていた。25年にわたり、家での看取りを支援し続ける桜井隆医師(さくらいクリニック院長)は言う。 「おそらく、容疑者に問題があると認識していたからこそ、母親が亡くなった後の彼へのケアと労いの意味合いを込めて、関係者全員で行ったのでは。そこまでしてくれる医師は、普通いません。容疑者は他に関わっている人がいないからこそ、一番よく面倒を見てくれた人に攻撃を向けてしまったのでは」 (フリーランス記者・松岡かすみ)※週刊朝日  2022年2月18日号
週刊朝日 2022/02/09 08:00
日中「パンダ外交」 “国賓級”出迎えの裏で飼育員は竹収集に奔走!?
菊地武顕 菊地武顕
日中「パンダ外交」 “国賓級”出迎えの裏で飼育員は竹収集に奔走!?
1972年11月4日に撮影されたカンカンとランラン  日本にパンダがやってきて50年。日中国交正常化の象徴として実現した来日の裏では政治家らの思惑が渦巻き、飼育員たちは手探りの奮闘を余儀なくされた。“国賓級”の待遇で迎えられた当のパンダたちも、過熱するフィーバーにフラフラとなり……知られざる秘史をひもとく。 *  *  *  1972年9月29日、北京で日中共同声明の調印式が行われ、田中角栄、周恩来両首相(肩書は当時のもの、以下同)が固く手を握り合った。両国の国交が正常化した瞬間である。 日中国交回復を果たし、空港で握手する田中角栄首相と周恩来首相  日本中を驚かせる発表は、その後の記者会見で行われた。二階堂進官房長官が、オスとメス2頭のパンダが中国から日本へ贈られると語ったのだ。  政治評論家の森田実さんが説明する。 「日本にパンダが贈られると予想をする人もいなかったわけではありませんが、願望レベルの話でした。裏では極秘に進んでいたのでしょうが、官房長官の会見で初めて明らかになった。政治家はサプライズが好きですからね。でも今と違うのは、角栄さん自身でなく官房長官が発表したこと。昔の首相たちは派手な場にしゃしゃり出ず、他の人に花をもたせたものです」  この会見に最も驚き、慌てたのは、後にパンダの受け入れ先となる上野動物園だろう。事前に何も聞いていなかった。それどころか、訪中していた代表団が帰国してからも一切連絡が来なかった。 「発表は『パンダが日本国民に贈られる』。上野に贈られると発表されたわけではありませんでした」(上野動物園教育普及課。以後、上野動物園)  にもかかわらず、二階堂会見が報じられるや、同園には問い合わせが殺到した。『上野動物園百年史』には、当時の様子がこう記されている。 <電話交換室は、突然の嵐に襲われることになった。あらゆる報道関係、テレビ、ラジオ、新聞、雑誌はもちろん、一般市民の方々からもひっきりなしに電話がかかって来たからである。(略)しかし、この時点では、何時、何処に、どのようなパンダが来るか、一切不明だったのである>  とはいえ、飼育の準備をしなければならない。 銀座のデパートにあふれたパンダグッズ 「それまで園で実際にパンダを見たことのある人は一人。中川志郎飼育課長が、ロンドン動物園に研修に行ったときに見ただけでした。急いで海外の文献を探しましたが、『人とパンダ』という書物、図鑑、シカゴのブルックフィールド動物園が編集した解剖書の3冊が手に入っただけでした」(上野動物園)  その一方、国内の多くの動物園が立候補を表明し誘致運動をするなど、混乱を極めた。  この動きに決着がついたのは、10月5日になってから。上野動物園の園長らが首相官邸に呼ばれ、二階堂官房長官から「上野で飼育してほしい」と伝えられたのである。  パンダが到着するのは、10月28日。二階堂会見から1カ月、正式の飼育依頼から3週間余りしか時間はなかった。 「普通の動物でも、そんなに短期間で来ることはありません。中国から飼育担当者が来日したのはパンダと一緒なので、事前に中国側から指導をしてもらったわけでもありません。すべて手探りでした。どんな動物であっても、飼うのにはリスクが伴います。国を背負っての飼育ですから、相当なプレッシャーがあったと思います」(上野動物園)  パンダ舎が新設されるまでは、トラ舎の一角を改造して暫定的に使用することに決めた。  ところがこれについて、「隣にトラがいることでパンダは恐怖感を抱くに違いない」と一部から批判を浴びた。ロンドンやモスクワの飼育環境をもとに出した結論だったが、過熱した周囲が知識もないままに勝手な想像で騒ぎ立てたのである。  飼料確保にも苦労した。『上野動物園百年史』によると、 <とくに問題になったのは飼料用の笹、竹の収集であった。1日分や2日分ならばともかく、1日20kg以上の竹や笹をこれから継続的にずっと確保しておくことは決して容易なことではなかったからである。飼料班の人々は、都内はもちろん、埼玉県、千葉県、栃木県など、竹のありそうな所を求めて走った>  蒸混合料と呼ばれるトウモロコシ粉、大豆粉などを混ぜ合わせて蒸したものも準備された。飼料班は都内の飼料会社を駆け巡り、上質の粉を仕入れた。しかしこれは後に、パンダと共に来日した北京動物園の飼育責任者からダメ出しを食らった。 空港からの移動はパトカーの先導で厳戒態勢の下行われた 「日本の粉の質が良すぎたようです。もっと質の悪いものを与えてほしいと指導されました」(上野動物園)  日本の粉は精製されすぎていて、これでは下痢を起こすと指摘されたのだ。皮肉なことに日本のメーカーは、質の悪い粉を作らない。試行錯誤の末、トウモロコシと大豆をミキサーにかけて粗めの粉を作って蒸したところ、中国側から「可以(OK)」が出た。  ところで、「パンダ外交」の裏では、政治家たちによる様々な思惑が渦巻いていた。先に日中国交正常化に伴い、パンダが贈られるかもしれないという声があったと記したが、その根拠を森田さんが解説する。 「1930年代に、あるアメリカ人が中国でパンダの子どもを生け捕りにして帰国。生きたパンダの可愛さに触れたことで、パンダブームが起きた。これを受け、中国はパンダを外交戦略に利用した。蒋介石は第2次大戦中の41年、抗日戦への助けを期待して、アメリカにパンダを贈っています」  中華人民共和国樹立後は、毛沢東主席がパンダ外交を引き継いだ。 「旧ソ連などに贈っています。角栄さんの訪中に先立つ72年2月にニクソン米大統領が訪中したときも、毛沢東は2頭寄贈しました」(森田さん)  もっとも、当のパンダは人間の思惑や苦労など知るよしもない。10月28日午後6時50分。2頭のパンダ、オスのカンカンとメスのランランが、JAL専用機で羽田空港に降り立った。二階堂官房長官が出迎えるなど、まるで“国賓”のような待遇だった。  すぐに室内温度20度に設定されたトラックに移され、パトカーの先導のもと時速40キロ、ノンストップで8時30分に上野動物園に到着した。  パンダ舎に入った2頭は気が高ぶっていた。特にカンカンは臭い嗅ぎを繰り返し、走り回るなど興奮状態が続く。11時50分には突如、クーン、クーンと鳴き出した。  中川飼育課長は、この鳴き声から寂しさと不安を感じとった。後に上梓した書籍『パンダがはじめてやってきた!』には<胸にしみこむような物悲しいような響きをもっている。(略)幾百の言葉よりも切実に私たちとパンダを結びつけた>と著している。 週刊朝日2022年1月21日号より)  実際に来日を果たしたことで、ブームは過熱。パンダ舎の裏側にある東京芸術大学の屋上には、望遠レンズを構えたカメラマンが張り込んだ。  一般人からの関心もあまりに高いので、夜間は園職員による定時巡回に加え、上野公園前交番の警察官がパンダ舎周辺をパトロールした。  そんななか、徐々に日常生活を取り戻していった2頭だったが、お披露目においてパニックになってしまった。  11月4日。歓迎式典と関係者への特別公開が催された。式典出席者は150名! 報道陣が350名!! オランウータンによってくす玉が割られて「歓迎 ジャイアントパンダ 蘭蘭 康康」の垂れ幕が下がると、2頭のパンダが相次いで外に出てきた。湧き起こる拍手、響き続けるシャッター音。パンダたちは落ち着きを失い、呼吸のペースが上昇。予定を早め2時間で室内に収容された。  さらに翌日の一般公開。早朝から続々と人が詰めかけ、特設入場門前には2キロもの列ができた。ガードマンと機動隊5個中隊が派遣されたが、開門と同時に駆け出した人々を整理しきれなかった。  そのため急遽、1列にして止まらず歩きながら見学する方法に切り替え、「2時間並んで見物50秒」と嘆息された。  いずれにせよ、殺到する見物者と整理のための大声に、パンダはおびえた。興奮して走り続け、ついには口から泡を吹いてしまったという。  パンダ人気は絶大で、翌73年の上野動物園の入園者数は約880万人に達した。なんと対前年比で約300万人の増加となったのである。  上野の街も活気づいた。上野観光連盟の二木忠男会長が語る。 「大きなパンダの風船を台車にのせ山車のようにして、中央通りから公園の入り口まで盛大に練り歩きました。商店街ではパンダのぬいぐるみが売られましたが、まだ詳しくわからなかったので、尻尾は黒かったそうです。2008年にリンリンが亡くなり、一時、上野からパンダがいなくなった。すると人出ががくんと落ちたんです。パンダはこの街に欠かせない存在だと改めて知りました」  空前の大ブームを引き起こした72年のパンダ来日。これを実現したことで田中首相の人気はさらに上昇したかと思いきや、同年12月の総選挙で自民党は議席を減らしてしまった。おごりが目立ち始めた自民党に対し、有権者は思いのほか冷静だったのだ。そればかりか、日中国交正常化が田中失脚の足がかりとなったと森田さんは説明する。 「当時のアメリカは中ソの切り離しをたくらみ、キッシンジャーが工作してニクソン訪中が実現した。ところが日本までが、アメリカ側の承諾なしに中国と国交を復活させた。そんな勝手をした角栄さんを許せないアメリカは、上院でロッキード事件を明るみに出したんです」  あれから50年。令和のパンダフィーバーの裏で、今度はどんなドラマが展開されるのだろうか。(本誌・菊地武顕)※週刊朝日  2022年1月21日号
動物
週刊朝日 2022/01/17 07:00
医師676人のリアル

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すべては命を救うため──。朝から翌日夕方まで、36時間の連続勤務もざらだった医師たち。2024年4月から「働き方改革」が始まり、原則、時間外・休日の労働時間は年間960時間に制限された。いま、医療現場で何が起こっているのか。医師×AIは最強の切り札になるのか。患者とのギャップは解消されるのか。医師676人に対して行ったアンケートから読み解きます。

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どんな人にも「忘れられない1日」がある。それはどんな著名な芸能人でも変わらない。人との出会い、別れ、挫折、後悔、歓喜…AERA dot.だけに語ってくれた珠玉のエピソード。

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