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ギフテッド教育のヒントになるか 戦時の天才児教育「悪だとは思わないが…」元財務相・藤井裕久さんが語る
ギフテッド教育のヒントになるか 戦時の天才児教育「悪だとは思わないが…」元財務相・藤井裕久さんが語る
金沢に疎開して特別科学教育を受けた藤井裕久さん  戦時中に、特別に才能のある児童生徒を集め行われたという「特別科学教育」。現代のギフテッド教育のあり方を考えるヒントになるだろう。【前編】では、金沢大学で発見された資料を元に、当時行われた教育について解説した。後編では、実際に金沢大学で特別科学教育を受けた、元財務大臣の藤井裕久さんと、京都大学で特別科学教育を受けた片岡宏さんのお二人に当時何が行われていたのかを聞いた。<阿部朋美・伊藤和行著『ギフテッドの光と影 知能が高すぎて生きづらい人たち』(朝日新聞出版)より一部抜粋・再編集> 【前編】<戦時中に日本で“ギフテッド”教育か 天才児を集めた英才教育の実態「米国に勝つ発明を」>からの続き *  *  * ■「自分たちだけ」の後ろめたさ  東京・白金台にある集合住宅。ここで事務所を構える元財務相の藤井裕久さん(享年90)は、秘書の男性に支えられながら応接室のソファにゆっくり座った。  私が訪れたのは21年12月。テレビでときおり見ていた丸顔の優しそうな笑顔はそのままだったが、丸顔だったほおは、げっそりとこけ、グレーのスーツを着ていてもやせた様子がわかるほどだった。年齢を感じさせた。  それでも、大蔵官僚から政治家に転身し、非自民連立政権時の大蔵相、民主党で幹事長なども務めた大物政治家だ。2012年に政界引退してからも、講演やテレビ出演などで弁舌をふるってきた。「あの戦争を経験したものとして、戦争につながることは絶対反対」。まっすぐ私を見据えて言う目には、力強さが宿っていた。だがこの7カ月後に亡くなった。  藤井さんは、金沢で特別科学教育を受けた一人だ。  生まれは東京・本郷。開業医の次男で、1945年4月に東京高等師範学校付属中学の1年生になってまもなく、担任教諭から「科学組へ行け」と言われたという。  各学年から15人ぐらいが選ばれていた。ただ当時は米軍爆撃機のB29による東京空襲が相次いでおり、東京を離れて金沢へ集団疎開し、授業を受けろという指示だった。 藤井さんが受けた特別科学教育の時間割。理数科目が全体の5割以上を占めていた  出発は同年5月25日。前日には自宅周辺が空襲にあい、25日当日も東京駅などが爆撃され、明け方の空は真っ赤に染まっていたという。  どんな思いで金沢への汽車に乗ったのか。私が聞くと、藤井さんはゆっくり窓の外の空を見つめて言った。 「選ばれた自分たちだけが金沢に逃げていくという感覚でした。自分たちだけが教育を受けるということが、どうにも後ろめたくてね。空襲で亡くなった同級生もいたので、なんというんでしょうね。重たい気持ちでした」 とはいえ、当時はまだ中学生。同年代の子どもたちが集まり、学習だけでなく寝食もともにする体験は、親がいない寂しさを紛らわせてくれたという。柔道をしたり河原で仕送りのコメを炊いて食べたり。 「思い出は『空腹』だったこと。お互いに助け合った仲間とは、生涯の友人になりました」 ■「君たちは新型兵器をつくる先兵だ」  一方、金沢での授業は厳しかった。三角関数や微分積分といった理数系の内容が多く、同級生と「偏っているなあ」と話した覚えがある。 日本の原子核物理学の父といわれた仁科芳雄博士の特別講義もあった。「君たちは新型兵器をつくる先兵だ」と言われたことを覚えている。  当時の藤井さんには何のことかわからなかったが、その年の8月、広島と長崎に原子爆弾が落とされたことを知らされると、「新型兵器とはこのことだったのか」と思い至ったという。藤井さんは「米国はすでに完成させていたのに、日本は中学生に科学教育を受けさせていたのだから、腹が立ち、情けなくなった」と回顧した。  終戦を告げる玉音放送は、寮の庭で聞いたという。その数日後、同級生らとともに金沢駅から上野駅までの汽車に乗って帰った。「やっと終わった、これでぐっすり眠ることができる」。こみ上げた思いは、これだけだったという。「私はあんまり勉強が得意ではなくて、当時受けた教育についてはほとんど覚えていないんですよ。仲間と濃密な時間をすごし、命を永らえたという意味では、特別科学教育は受けてよかったとは思いますが……」と複雑な表情で語った。 京都で特別科学教育を受けた片岡宏さん  時代は違うが、国が英才教育や才能教育を行うことをどう思うか、と最後に聞いた。藤井さんは「英才教育が悪だとは思わない」と言った。その上で「時の政権が教育や科学技術を戦争に利用する危険性は常にある。だから、戦争のために行われた歴史があることは、教訓としてほしい」。戦争を経験した政治家の、重い言葉だった。 ■「ノアの方舟」に乗った少年  特別科学教育は、京都でも行われていた。 「君、ノアの方舟に乗らんか」  1945年4月末、日本軍の飛行場をつくるため奈良県の田んぼを土で埋める勤労動員をしていた当時中学3年の片岡宏さん(92)は、担任の先生から突然声がかかったことを覚えている。  校長室に連れて行かれ「明日から勤労はしなくていい。代わりに特別科学学級の選抜試験に専念せよ」と言われたという。片岡さんは、「何のことかわからなかったが、働かなくていいことがうれしかった」と、当時の気持ちを教えてくれた。 だから、担任の先生が旧約聖書の「ノアの方舟」を例えに出して誘った意味を、片岡さんは京都へ行ってから理解した。  授業を受けることになった京都一中は、建物の一部が工場となっていた。教室の一部も倉庫として利用され、その他の教室はガラガラ。地元の生徒は、みな軍事工場や農場へ働きに行っており、教育を受けているのは、片岡さんと同様に特別科学教育を受けることになった生徒だけだと思い知らされた。片岡さんは「こんな状況で教育を受けていられるのは自分たちだけなんだ」と誇らしく思った。  片岡さんはいま、京都市の京都大学近くの自宅で子どもや孫に囲まれた生活を送る。京大医学部を卒業後に入った製薬会社で働きながら弁理士の資格を取り、退社後は個人事務所を開いて国内外の企業の特許出願のサポートをしてきた。 ■教科書は一切使わない  私が片岡さんのことを知ったのは、自身が受けた特別科学教育について、研究論文にまとめていたためだ。2005年に発表した「京都帝国大学主導の特別科学教育について」と題した論文には、国の計画や選抜試験などが細かく整理されている。そこでは、特別科学教育の京都での授業について、教科書は一切使わず、口述筆記と演習や実験などが行われたと記している。 「密度の高い内容であった」とも振り返り、具体的には、「数学は一時間目から級数展開で度肝を抜かれ、さらに関数論・確率論などへ発展する。物理は微分・積分の知識を前提とした些いささか難解な講義であった」と述べている。  講師には、当時京都帝大教授で、日本人初のノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹博士がいたことも明かしている。「湯川教授が毛髪をポマードで極めて丁寧に整髪しておられたことが記憶に残っている」と当時の思い出を記していた。  片岡さんの生まれ育ちは奈良県。地元中学では学年トップクラスの成績ではあったが、選抜された理由は誰からも説明されなかったという。関西の各府県から選ばれた約90人の生徒とともに、京都で下宿しながら、京都一中で特別科学教育を受けた。  このころの日本はすでに戦争末期。米軍が沖縄に上陸しており、大阪にも空襲が続いていた。奈良の自宅では食卓におかずはのらず、白米の配給も減っていた。母に連れられ農家に野菜を分けてもらう貧しい生活を送っていた。 ■ほとんどは京大、東大、阪大に進学  戦後の48年3月、他校より1年遅れて京都での特別科学教育も終了した。片岡さんの論文によると、ほとんどの生徒が京都大学や東京大学、大阪大学などに進学したという。ただ、片岡さん自身は職場や家族にも、特別科学教育の経験を話すことは避けてきた。エリート教育を受けたことを言うことは「自慢だ」と批判的にとらえられかねないと感じていたためだ。「日本社会、特に学校は『超平等主義』になった。みなで同じレールに乗ることが大事という社会になってしまった」と今も感じている。  そんななか、同じ教育を受けた特別科学教育のクラス仲間とは、同窓会を定期的に開いてきた。年齢とともに亡くなる仲間も増え、年賀状をやりとりする程度になったが「あの頃の思い出を語れる仲間は生涯の友」と大切な思い出となっている。  柔和な片岡さんの表情が固まった瞬間があった。私が、特別科学教育の評価について「いい制度だったと思うか」と聞いた時だ。少し間をおき、片岡さんは言った。 「私たちがエリート意識のような考えになることはありませんでしたよ。あの時代に、特別な教育を受けさせてもらえたことは本当にありがたかった。ただ、だからこそ、受けたくても受けられない同級生が多くいたことをずっと考えてきた。もろ手を挙げてよかったと大きな声では言えないのは、今でもそうです」  90 歳をすぎた今でも、慎重に言葉を選びながら話す姿が、印象的だった。 (年齢は2023年3月時点のものです) ●阿部朋美(あべ・ともみ)1984年生まれ。埼玉県出身。2007年、朝日新聞社に入社。記者として長崎、静岡の両総局を経て、西部報道センター、東京社会部で事件や教育などを取材。連載では「子どもへの性暴力」や、不登校の子どもたちを取材した「学校に行けないコロナ休校の爪痕」などを担当。2022年からマーケティング戦略本部のディレクター。 ●伊藤和行(いとう・かずゆき)1982年生まれ。名古屋市出身。2006年、朝日新聞社に入社。福岡や東京で事件や教育、沖縄で基地や人権の問題を取材してきた。朝日新聞デジタルの連載「『男性を生きづらい』を考える」「基地はなぜ動かないのか 沖縄復帰50年」なども担当した。
ギフテッド書籍朝日新聞出版の本
dot. 2023/06/17 10:00
戦時中に日本で“ギフテッド”教育か 天才児を集めた英才教育の実態「米国に勝つ発明を」  
戦時中に日本で“ギフテッド”教育か 天才児を集めた英才教育の実態「米国に勝つ発明を」  
金沢大学資料館に保管されている「科学教育関係」の資料  太平洋戦争末期、日本政府が特別に才能のある子どもたちに「特別科学教育」と呼ばれる英才教育を始めた。1944年の帝国会議の資料によれば、天才に特別な勉強をさせて、「アメリカ」に勝つ発明をさせるという荒唐無稽なことであった。では一体、「特別科学教育」ではどんな教育がなされてきたのか? 1997年に発見された金沢大学の資料にあたると、その教育の実態がわかってきた。<阿部朋美・伊藤和行著『ギフテッドの光と影 知能が高すぎて生きづらい人たち』(朝日新聞出版)より一部抜粋・再編集> *  *  * ■52年後に発見された資料  2021年12月、私は雪が舞う金沢大学の資料館にいた。金沢市郊外にある大学の角間(かくま)キャンパス北側にある資料館には、加賀藩校の扁額(へんがく)や学術文書など長きにわたる金沢の学びの歴史が貴重な資料とともに展示・保存されている。  私の目的は、日本政府が太平洋戦争末期に行った「特別科学教育」と呼ばれた英才教育の資料を閲覧することだった。  特別科学教育が行われたのは、太平洋戦争末期の1945年から敗戦をへて2、3年のわずかな期間だけだ。そのためか、こうした英才教育を日本政府が制度化して行っていた事実はあまり知られていない。私も知らなかった。だから、戦時中とはいえ、国が成績優秀な児童生徒を選抜した特別科学教育を行った歴史があったことを知ったときは、驚いた。私は、その教育システムや内容、授業を受けたかつての子どもたちを取材することで、現代のギフテッド教育のあり方を考えるヒントになると考えた。  書籍や研究論文を探した。当事者の回顧録や教員や学者による論文はいくつかあった。だが元資料を国が残している形跡はない。当時の資料に直接あたりたいと考えていたところ、金沢市に本社がある北國新聞の過去記事に行き当たった。戦後52年たった1997年、資料が発見されたとの記事が載っていた。 特別科学教育の時間割は、理数科目が全体の5割以上を占めていた  それによると、金沢大学理学部(当時)の書庫に保管されているのを、創立50年史を作成するための資料を探していた職員が発見したとのことだった。資料館に閲覧の申請をすませ、金沢へ向かった。  資料館職員の女性が倉庫から運んでくれた資料は、厚さ10センチほどのA4判が2冊。黄ばんだ表紙には、「科学教育関係 金沢高等師範学校」と書かれていた。目当ての資料だった。資料は、計数百ページに及ぶざら紙がひもでとじられ、ところどころ文字が消えていたり破れたりしていた。戦時中や戦後の混乱期に書かれたものであることをしのばせた。  その資料をひもとく前に、まず日本政府が特別科学教育を導入した経緯を、帝国議会の会議録からたどる。インターネットで検索すれば「帝国議会会議録検索システム」からすぐに読むことができる。  1944年9月、今の国会にあたる帝国議会は、戦争を追認し扇動する翼賛体制に変わっていた。衆院議員が「戦時英才教育機関」の設置を政府に求めていた。  その会議録(衆議院事務局、1944年9月10日 第85回帝国議会衆議院建議委員会)を読むと、当時の戦況を背景にした切迫感や、特別な英才教育を導入しようとした荒唐無稽な動機を知ることができる。  森田重次郎議員 「今の戦争は科学の戦争である。だから結局新しい精鋭な武器を持った方が勝つのだ。それには発明をしなければ駄目ではないか(中略)。青少年学徒の中から、最も天才的な頭を持って居る者を簡抜して、国家の施設で偏ったと言われるかも知れないけれども、いわゆる天才を伸ばす意味に於ける特別な勉強をさせて(中略)、『アメリカ』に勝つ、本当に新しい発明をして貰おうではないか」 ■東京、金沢、広島、京都で行われた  対戦国のアメリカに勝つため、国が天才児を選抜して英才教育を与え、新兵器を発明してもらおう、という提案である。当時は、日本軍が占領したサイパン島が米軍によって陥落させられるなど、戦況が日に日に悪化していた時期である。 答弁にたった文部省の高官は、大まじめでこう答えている。  今井健彦文部政務次官 「至極同感であります。(中略)戦時に於きましては適当な一方途と考えますので、十分研究致しまして御期待にそうよう致したいと思います」  そして年が明けた1945年1月、日本政府は、特別科学教育を始めた。 当時の文部省の広報誌「文部時報」などによると、東京、金沢、広島、京都の各高等師範学校と東京女子高等師範学校計5校で行われていた。  だが、特別科学教育の名の下に、子どもたちはどんな基準で選抜され、どんな内容の教育が行われ、講師はどんな人たちが務めたのかは、会議録や文部時報からは、読み取ることができなかった。  金沢大学資料館に保管されている資料では、その具体的な内容を細かく知ることができた。大変貴重な資料であった。  資料をひもといてみる。まず目についたのは、「金沢高等師範学校特別科学教育実施要項 昭和十九年度」と青字で書かれたページ。児童生徒の選抜基準についてこう定めていた。  1  科学技術に特に優秀なる成績を示すもの  2  資質の全般にわたり普通以上のもの  3  意志強固にして忍耐力強きもの  4  身体強健なるもの  5  父母および近親者に科学技術者を有するもの  6  本人および保護者に熱意あるもの  7  家庭の環境の良否  これらの項目に沿い、各中学校や国民学校で、定数の2倍の児童生徒を選抜し、選抜委員会で審査した、とあった。そして北陸各県の中学1~4年生と、国民学校4~6年生から、各学校長が選抜して推薦していたという。  全体で何人の児童生徒が選ばれたのかまでは読み取れないが、1クラスあたりの人数は15人ほどの少人数で組んだとも書かれている。講師は、高等師範学校の教員らが教壇に立ったという。 ■時間割は理数科目ばかり  課程表もとじられていた。「科学教育」という名前の通り、理数教科を重点的に教えていたことが読み取れる。  たとえば、制度開始当初の45年1~3月の中学1年のカリキュラムは、全360授業時間のうち、数学63時間、物象(物理・化学)54時間、生物36時間、工作36時間で、これら理数科目を合計すると全体の5割以上を占めていた。  国語は27時間と比較的少なく、音楽や図画などはゼロ。体操は63時間と多く、当時「敵性語」とされた英語を教えていたという記録もある。  押さえておきたいのは、このころ、選抜されなかった全国のその他多くの子どもたちは、戦禍で不足する労働力を補うため、勤労動員として軍需工場や食料生産工場などで強制的に働かされていたことだ。また、特別科学教育を受けた児童生徒の名簿を見ると、女性の名前は一人も見当たらなかった。勉強ができたのは、選ばれた一部のエリートだけだったという残酷な事実である。  しかし、日本は敗戦。特別科学教育はその後も続き、直後の45年10月には新しい特別科学教育要項案が、資料に残っていた。  当初の教育要項にはその目的が「皇運を扶翼し奉る先達を育成する」とあったが、敗戦後には「国民生活を飛躍的に向上し、進んで世界の平和に寄与すべき新科学文化を創造せんが為」に変わっていた。  だが文部省は46年10月、翌47年3月をもって、特別科学教育を打ち切ることを決め、各学校に通知した。理由を記した文書もその資料の中にあった。 「戦後の国内事情の著しい変化により、制度化して行うことは適当ではない」ということだった。当時、敗戦国の日本では、連合国軍総司令部(GHQ)による教育の民主化が進められていた。打ち切りと同じタイミングで、「教育の憲法」と言われる教育基本法が公布・施行された。  わずか数年の短命で終わった特別科学教育。選ばれて教育を受けた子どもたちが確かにいた。戦後、どういう生涯を送ったのか。この教育をどう振り返るのだろうか。今はもう90歳前後となる彼らの証言を得ようと、急いだ。  (年齢は2023年3月時点のものです)  ※【後編】<ギフテッド教育のヒントになるか 戦時の天才児教育「悪だとは思わないが…」元大蔵相・藤井裕久さんが語る>に続く ●阿部朋美(あべ・ともみ)1984年生まれ。埼玉県出身。2007年、朝日新聞社に入社。記者として長崎、静岡の両総局を経て、西部報道センター、東京社会部で事件や教育などを取材。連載では「子どもへの性暴力」や、不登校の子どもたちを取材した「学校に行けないコロナ休校の爪痕」などを担当。2022年からマーケティング戦略本部のディレクター。 ●伊藤和行(いとう・かずゆき)1982年生まれ。名古屋市出身。2006年、朝日新聞社に入社。福岡や東京で事件や教育、沖縄で基地や人権の問題を取材してきた。朝日新聞デジタルの連載「『男性を生きづらい』を考える」「基地はなぜ動かないのか 沖縄復帰50年」なども担当した。
ギフテッド書籍朝日新聞出版の本
dot. 2023/06/17 10:00
長野立てこもり事件と銃規制議論 形だけの規制ではない対策が急務に
福井しほ 福井しほ
長野立てこもり事件と銃規制議論 形だけの規制ではない対策が急務に
ライフル銃を修理する佐藤さん。「狩猟免許を取るために補助金を出す自治体もある。銃に怖いイメージを持つ人もいますが、使う人次第です」(撮影/編集部 福井しほ)  長野県中野市で起きた4人殺害・立てこもり事件で、容疑者は銃を所持、犯行に使用した。今回の事件は、銃規制をめぐる議論に一石を投じそうだ。AERA 2023年6月12日号の記事を紹介する。 *  *  *  田園風景が広がる集落で2人の男性警察官が銃撃されて命を奪われた。長野県中野市で発生した立てこもり事件で青木政憲容疑者(31)が使用したのは、サバイバルナイフとハーフライフルだった。  事件が起きたのは、5月25日の夕方。青木容疑者は女性2人をナイフで刺すなどし、通報を受けて駆けつけた警察官2人に向かって発砲した。この間わずか10分ほどだったという。  その後、容疑者は母親やおばを人質に自宅に立てこもり、約12時間後に投降。身柄を確保された。  青木容疑者は、県公安委員会から銃4丁の所持の許可を受けており、そのうちの1丁を使用したとみられている。 ■繰り返される議論  警察庁などによると、2022年の猟銃と空気銃の許可所持者は約8万6千人。許可丁数は猟銃が約15万丁、空気銃が約2万丁だった。銃を使った事件が起きるたび、その規制をめぐりさまざまな議論が繰り返されてきた。事件翌日には、谷公一国家公安委員長が「銃の取り扱いも含めて対応することになろうと思う」との見解を示すなど、規制強化の動きもありそうだ。 「佐世保の事件が起きたときには銃の所持者全員に一斉調査がありました。今回も似たようなことがあるかもしれません」  そう話すのは、埼玉県で猟銃専門店「豊和精機製作所」を経営する佐藤一博さんだ。2007年、長崎県佐世保市のスポーツクラブで男が散弾銃を乱射し、2人を射殺。6人が負傷し、男はその後自殺した事件を受け、銃規制は厳格化。狩猟免許の取得や銃の所持許可を得るときに必要な医師の診断書の作成が精神科医限定になった(現在はかかりつけ医でも可)。 「今回の事件では、クマなどを撃つときに使うスラッグ弾を使ったと言われていますが、すでに警察からスラッグ弾を何発持っているかという問い合わせを受けた人もいます」(佐藤さん) ■根本的な対策を  規制で事件を防ぐことはできるのか。日本大学危機管理学部の福田充教授は、「根本的な解決にはならない」と指摘する。 AERA 2023年6月12日号より 「狩猟免許や所持許可のハードルを高くすることで一定の効果はあるかもしれません。ですが、容疑者がナイフを使ったように、誰かに危害を加えたい人にとって凶器は銃である必要はありません」  福田教授によれば、アメリカなど銃が普及する国では、犯罪抑止には中長期的な心理的ケアが必要であるとの認識が進んでいるという。 「免許を取った時点では精神的に問題がなくても、その後バランスを崩すこともある。そのときにケアできる体制が周りにあるかどうかが重要です」  不安定な状態から過激化する人を出さないためには、コミュニティーでの見守りが不可欠だ。地元紙「信濃毎日新聞」によると、青木容疑者は精神に不調をきたし、都内の大学を中退。病院の受診を勧める両親に「俺は正常だ」と拒否したこともあると報じられている。  地元に戻った青木容疑者は狩猟免許を取得。長野県の北信猟友会に所属していたが、他の会員との交流はほとんどなかったという。  猟友会関係者は言葉少なにこう語る。 「事件の内容が明るみに出るにつれ、あまりのひどさに言葉がありません。ただ、こういう人が猟友会メンバーだったことを重く受け止めています」  林業や農業に携わる人にとって、猟銃は切り離すことができない仕事道具でもある。形だけの規制ではない対策が急務だ。 (編集部・福井しほ) ※AERA 2023年6月12日号
AERA 2023/06/06 07:30
“残虐な動画”の悪影響をどう防ぐか 専門家が指摘する「周りの大人の役割」
野村昌二 野村昌二
“残虐な動画”の悪影響をどう防ぐか 専門家が指摘する「周りの大人の役割」
“虐待動画”は、簡単にネットで検索できる。また、動画の自動再生機能によって関連動画が次々と再生されるため、意図せず虐待動画を見てしまうこともある(撮影/写真映像部・高野楓菜)  今年3月、埼玉県の中学校で男性教員が刃物で切りつけられ、少年が逮捕された。少年は、猫の死骸が相次いで見つかった事件への関与を認め、残虐な動画を視聴するうちにエスカレートしたという。子どもがネットを利用していれば、残虐な動画を見てしまうことある。どのように向き合えばいいのか。AERA 2023年6月5日号から。 *  *  *  誰もがスマホを持つ時代で、“残虐な動画”を見る可能性は誰にもある。動画によって攻撃的な行動に出ることを防ぐにはどうすればいいか。発達心理学が専門の法政大学の渡辺弥生教授は、「周りの大人の役割が重要」と話す。 「ネットの世界には、暴力的で残虐な動画が満ちあふれています。また、長い時間スマホを見ている子どもほど好奇心が薄れ、ネガティブな感情を抱きやすくメンタルヘルスが悪くなるという研究があります。周りの大人はまずそのことを理解し、『スマホを見てはダメ!』『残虐な動画は見てはいけない!』と頭ごなしに子どもの行動を制止するのではなく、視聴がどのような影響を与えるか、子どもの発達に応じ納得できる説明をするのと同時に、ストレスへの対処の仕方や現実の世界で楽しめるよう導く工夫をすることが大事です」  情報社会学者で城西大学の塚越健司助教は、動物虐待動画を巡る問題は「社会全体で考える課題だ」と指摘する。 「残虐な動画を見たから人を殺そうと思うのではなく、そうした心理状態にある時に見た動画と偶然マッチしたとも考えられます」  例えば、ヤクザ映画を観た後、気持ちが高揚して言葉が強くなることがあるが、それはあくまで一時的なものだ。メディアの効果を巡ってはさまざまな議論があるが、その影響は巷で考えられるほど大きくはないという考えもあるという。より重要な点は、20世紀の米社会心理学者ポール・ラザースフェルドが唱えた「コミュニケーションの2段階の流れ仮説」。これは簡単に言えば、人はメディアから直接影響を受けるのではなく、オピニオンリーダーとコミュニケーションする中で意見を形成していくというもの。その過程で、極端な意見が濾過(ろか)される機能があると話す。 AERA 2023年6月5日号より 「そうであるなら、子どもが残虐な動画を見ようが見まいが、そもそも殺人を犯そうという気持ちが醸成される社会そのものが問題です。そうした動画を見たとしても、身近なオピニオンリーダーである親や教師など、いろいろな人とコミュニケーションして感情を中和できる環境を社会全体でつくることが大切。家族であったり学校であったり、社会全体で取り組むべき課題です」  動物虐待もまた、あってはならないことだ。動物は言葉をしゃべらない。「助けて」と言えない。社会で、法律で、動物を命ある存在として守っていく仕組みをつくっていかなければいけない。(編集部・野村昌二) ※AERA 2023年6月5日号より抜粋
AERA 2023/06/05 11:00
動物虐待動画の背景に“快楽”と“承認欲求” エスカレートする恐怖とは
野村昌二 野村昌二
動物虐待動画の背景に“快楽”と“承認欲求” エスカレートする恐怖とは
残酷な動物虐待動画を見て精神的苦痛を受けたとして、動画をネットに投稿した男を訴えている女性。「私たちの訴えが、動物虐待動画を規制するきっかけになってほしいと思います」(撮影/編集部・野村昌二)  犬や猫を虐待する動画の存在が問題になっている。動画を見て心に深い傷を負う人もいるが、投稿を規制する法律はない。動物虐待動画に対する法規制を求める声が高まっている。AERA 2023年6月5日号から。 *  *  *  あまりの非道な行為に目を背けた。  2016年3月から翌17年4月にかけ、埼玉県の元税理士の50代の男が投稿したものとみられる動画だ。男は自ら猫を虐待する様子を撮影し、インターネットの匿名掲示板に投稿していた。17年8月、男は猫13匹を虐待し死傷させたとして動物愛護法違反容疑で警視庁に逮捕され、執行猶予付きの有罪判決を受けた。だが、男が投稿した動画は拡散し、今もネット上に残る。  犬や猫の動画は人気コンテンツのひとつだ。だが一方で、犬や猫を虐待する動画も存在し、問題となっている。  今年3月には、猫の虐待動画をネット上に公開していた広島県の20代の男が、動物愛護法違反の疑いで逮捕された。 「無法地帯です」  俳優で公益財団法人「動物環境・福祉協会Eva」理事長の杉本彩さんは、ネット空間における虐待動画について、そう指摘する。  犬や猫などをみだりに殺したり傷つけたりした場合、動物愛護法によって5年以下の懲役又は500万円以下の罰金が科せられる。昨年1年間に全国の警察が動物を虐待したとして動物愛護法違反で摘発した事件は166件と、10年前の約6倍。166件のうち猫が91件、犬は53件で、犬猫で約9割を占める。だが、動画を撮影・投稿すること自体を規制する法律はない。文字通り「枠の外」だ。 「いくら削除されても、動画を動物虐待の愛好家がダウンロードし、コレクションとして持っていて、見たくない人の目にも触れさせるために掲示板に貼りつけることもあります。そもそも、一度アップされた映像をすべて削除するのは不可能です」(杉本さん)  杉本さんによれば、虐待動画を投稿する年齢層は幅広く、中学生もいるという。投稿者の目的について杉本さんは、「快楽と承認欲求にある」と話す。 「同じような感覚を持っている、愛好家たちから承認されたいという承認欲求です。内容が残酷であればあるほど、愛好家の間で注目され、『カリスマ』のように扱われます。それが心地よく快楽につながり、動画の内容がさらにエスカレートしていくこともあります」 AERA 2023年6月5日号より ■“残虐な動画”見るうちにエスカレート  このような動画は、見た人にどのような影響を与えるか。それを考えさせられる事件が起きた。  3月、埼玉県戸田市の中学校で男性教員が刃物で切りつけられ負傷する事件が起きた。殺人未遂容疑で現行犯逮捕されたのは、高校生の少年。少年は「誰でもいいから人を殺したかった」「“残虐な動画”を見ているうちにエスカレートした」などと供述。少年がどの動画を見ていたかは不明だが、事件前月、戸田市に隣接するさいたま市で切断された猫の死骸が相次いで見つかった事件への関与も認めているという。  重大事件の予兆として、動物を虐待するケースは少なくない。  犯罪心理学が専門の東洋大学の桐生正幸教授は、「動物への虐待が人間に向かうのは稀」だとして、こう述べる。 「ただし、動物への虐待行為が、先天的に自分の感情をコントロールできないなどの生物学的要因に加え、幼少期に親から虐待を受けるなどして精神的苦痛を抱えている動機の場合、エスカレートすることがあります。そして、動物では満足できなくなり、虐待することで性的な興奮に結びついたりするとブレーキが利かなくなり、対象が人間に向かうと考えられます」 “残虐な”シーンは、視聴者の心理にどのような影響を与えるのか。発達心理学が専門の法政大学の渡辺弥生教授によれば、暴力シーンや攻撃シーンを見ると攻撃的な行動が高まることは、1960年代から海外の研究でよく知られているという。 「『モデリング理論』と呼ばれるもので、人だけでなくアニメのキャラクターなどモデルとなる他者の行動を、観察し真似をしながら学んでいくというものです。例えば、暴力シーンで、モデルが動物に残酷な行為をしている場面を観察するだけで、同様の行動を真似る可能性が高くなります。ただし、これは攻撃行動だけではなく、思いやりの行動についても当てはまり、他人の行動を観察するだけで学ぶことができるという考えです」  さらに、暴力シーンが攻撃行動を喚起する理論に焦点を当てると、ストレスとの関係も指摘されているという。嫌なことなどがあったりしてストレスを感じると、アドレナリンダやコルチゾンというホルモンが分泌されたり脳の扁桃体が興奮したりする。本来、人間が生きていくために必要なホルモンだが、慢性的に生理的に不安定な状態が続くと、自制心が揺らぎ、ネガティブな感情が喚起され攻撃的な行動に出る場合があるという。 ■ショックで眠れない日も、損害賠償を請求  また、最近の研究では、普段体験できない生々しい体験をしてみたい、新しい刺激を求めたいという刺激希求性が強いかどうかということや、仮想空間でストレスを発散できるということが、暴力的コンテンツの好みと関係することも報告されていると話す。 「虐待動画の影響を受けるのは、その人の道徳性やパーソナリティー、家庭や学校環境などバックグラウンドによるところも大きいです。ただ、適切な規範意識や社会的経験が十分獲得されておらず、さまざまな問題でストレスを抱えている10代未満に影響しやすい傾向はあると思います」(渡辺教授)  動物が苦痛を受けるシーンを見て、心に深い傷を負う人も少なくない。 「あの場面がフラッシュバックして、夜、眠れない時があります」  東日本に住む女性はそう話す。  自宅で猫を飼っている女性は数年前、ユーチューブで猫の動画を見ていると、関連動画として猫が虐待されている動画が上がってきた。冒頭の元税理士の男が投稿した動画だった。  女性はショックで体調を崩し、仕事にも行けなくなった。精神科に行くと、抑うつ神経症と診断され、この動画を見たのが原因と考えられると言われた。  今も女性は、猫が怯え、鳴き叫ぶ様子が頭から離れない。ユーチューブを見ることもできず、眠れない日もある。通院し、抗うつ剤を飲みながら暮らしているという。  20年11月、女性は、元税理士の男が投稿した虐待動画を見て精神的苦痛を受けた女性計6人で、さいたま地裁に660万円の損害賠償を求め提訴した。女性は訴える。 「被告の男は、自分の欲求だけで虐待動画をアップし、その動画を見た人がどうなるかも考えていませんが、その神経が全く理解できません。私たち原告は意を決し表に出ましたが、日本全国に虐待動画を見たことで心を痛め、精神的苦痛を受けている人はいっぱいいると思います。私たちの訴えが、動物虐待動画や残虐な動画を規制するきっかけになってほしいと思っています」  今年3月に開かれた本人尋問で被告の男は、原告らが閲覧したのは第三者が加工し、転載した動画だと説明。原告らの損害については「責任を取りかねる」と因果関係を否定した。  これに対し、原告代理人で動物愛護なども扱う竹村公利(きみとし)弁護士はこう話す。 「インターネットに動画を上げれば、第三者が拡散し、それを見た人が被害を受けるであろうということは当然予測できたはず。原告の損害は法的に賠償されるべきです」  竹村弁護士は、罰則規定を設けた動物虐待動画に対する法規制の必要性を提唱し、動物虐待動画等規制法の「素案」をつくり、動物愛護団体と共に国会議員などに働きかけを進めている。 「動物虐待動画を見た人に精神的障害をもたらしたり、青少年の成長過程に大きなダメージを及ぼしたりすることなどを考慮すれば、早急に動物虐待動画に対して法的規制を設ける必要があります。表現の自由は極めて重要な人権ですが、無制限ではありません」(竹村弁護士)  Eva理事長の杉本さんは、こういった動画は動物虐待として厳正に裁かれるべきだと話す。 「快楽のために動物を殺傷するということは絶対にあってはならないこと。しかし、虐待を愛好している人たちの間では、動物を虐待し殺しても大した罪にならないとなめています。まずは、そう思わせてはいけません」  杉本さんによれば、今まで動物愛護法違反で訴えられたケースで、実刑がついた事例は一例もないという。 「不起訴になった場合は、検察審査会に異議申し立てを行うなど厳正に裁いてもらえるアクションを起こしていく。そうした積み重ねが、動物虐待に対する処分の量刑に影響を及ぼし、動画の投稿を抑えることにもつながっていくと考えます」(杉本さん) (編集部・野村昌二) ※AERA 2023年6月5日号より抜粋
AERA 2023/06/04 11:00
「いつも男の人を養っちゃう」女性物理学者が2度の離婚を経て手に入れた「恵まれているなぁ」と実感する日々
高橋真理子 高橋真理子
「いつも男の人を養っちゃう」女性物理学者が2度の離婚を経て手に入れた「恵まれているなぁ」と実感する日々
大竹淑恵さん=理化学研究所(埼玉県和光市)の自室のデスクの前で  理化学研究所(理研)に勤める物理学者の大竹淑恵さんは、中性子(ニュートロン)という粒子を使って、橋や道路などのインフラの内部を「透視」する技術の開発をリードする研究者だ。自ら「遅咲き」という。30代後半から心身の不調に悩まされ、研究が軌道に乗ったのは50代に入ってから。60歳になって2度目の結婚に終止符を打ち、食生活を一新し、トレーニングにも励むようになった。これからも大好きな物理の研究を元気に続けたいからだ。今は仕事に、趣味に、充実した日々を送る。(聞き手・構成/科学ジャーナリスト・高橋真理子) >>【前編:「遅咲き」の女性物理学者62歳 「心身がガタガタだった」30代後半からの十数年を越えて挑んだ新しい分野】から続く *  * *――小型の中性子線装置をつくるプロジェクトはいつ始まったのですか?  2008年ぐらいから検討が始まりました。その前の2004年に私は肺塞栓を起こして死にかけたんです。そのとき「苦しい」と電話をかけたのが17歳年下のネットで知り合った男性で、すぐに彼が救急車を呼んで病院まで付いてきてくれたので死なずに済んだ。それで、彼と2度目の結婚をしました。事実婚でしたけど。 ――ちょっと待ってください。1度目の結婚はいつでしょうか?  早稲田の同学年の人と博士課程2年のとき。私は女子学院の出身で、早稲田の理工学部は男の子ばっかりだったので過ごしにくかった。入学早々に付き合う人ができて、大学生活がラクになりました。彼は建築史を専攻し、大学院から東京大学に進みました。美術のこととか、文学のこととか、たくさん教えてもらいました。  2人とも学生のときに結婚したので、健康保険はお互いの親の保険でした。茨城高専に就職したのは、とりあえず健康保険を持てる身分を得なきゃと思ったこともあるんです。 ――へえ~。  就職したらすぐ夫を扶養家族にしました。だけど、向こうはどうも博士号を取らない様子。短大などで教えたりしていましたが、私が国際会議に行ったりすると、もうバランスが取れず、というか彼の精神的安定が得られず、家庭内がひどい状態になりました。  私は日本の男性社会の中にいるよりヨーロッパで実験したり議論したりしているほうがよっぽど楽しいと思っていましたが、彼は私が海外出張するのをとても嫌がった。子どもはできなかったし、彼が東京から遠い大学で職を得たのをきっかけに別れました。そのあと、割とすぐに彼が結婚したので、私はホッとしました。  でも、よく考えたら、何も健康保険のことを私が考えなくてもいいんですよね。「自分で考えろ」でいいはずなのに。私はいつも男の人を養っちゃう。それで、相手が駄目になっちゃう。2度目も同じことをやったんですね(笑)。 ――2度目の結婚はいつですか?  45歳ぐらいです。ぜん息で夜眠れなくて、明け方からパソコンで論文を読み、合間にチャットをしていて知り合ったんです。たまたま彼は埼玉県の所沢市に住んでいた。「近いね」と言って会うようになり、2004年に救急車事件が起きた。運び込まれた病院の先生が母に連絡を取り、「彼氏っていう人と運ばれてきました」と伝えたそうです。  肺塞栓で酸素が足りなくなって心臓が相当に肥大していたようですが、薬だけで治っていきました。ところが、今度は母に進行した乳がんが見つかり、私が退院した次の次の日に手術をした。それで母の付き添いでまた病院通いです。 ■母と祖母、兄の看護と介護で駆け巡った ――お母さまは仕事をされていたのですか?  はい、高校の英語教師でした。父は高校の数学教師でした。母は一人っ子で、私たちは東京の初台で母の両親と同居し、私と兄は祖父母に育てられた。兄は子どものころにリウマチ熱にかかって、体が丈夫でなく、就職しても長続きしませんでした。  両親は私が高校生のころに我孫子に家を建てて祖父母の家から出ましたが、兄は初台に残った。祖父が亡くなったあとは、祖母の面倒を独身の兄が見てくれた。でも、収入がないので、一時期、私がその家の地代を払っていました。  2009年の1月に祖母が103歳で亡くなり、同じ年の9月に母が77歳で亡くなりました。その2年余りあと、兄が54歳で亡くなった。兄は病気がちだったので、私が大学病院に連れていったりしていましたから、母のがんがわかってからの数年は母と祖母、そして兄の看護や介護で大変でした。一番ひどいときは、3人が別々の病院に入って、3カ所を駆け巡った。  正直に言うと、2012年に兄が亡くなったとき、これは仕事に専念しなさいと神様に言われたなと思いました。 ――何とも言葉がありません。大変な苦労の連続でしたね。  いやいや、周りの人にすごく恵まれていました。だから仕事を続けることができた。  17歳年下の彼は受けた教育も家庭環境も全然異なる人でしたが、ものすごくよく本を読み、勉強する人でした。母は結婚にずーっと反対していましたけど、私は2005年から一緒に住み、2006年に教会で結婚式を挙げました。  私はクリスチャンなので、1度目も教会です。最初の離婚のとき、名字が変わることで論文の著者として嫌っていうほどの面倒な経験をしました。それもあって、2度目は事実婚を選んだ。でも、自分が信じている神様の前で誓ったので、私にとっては「結婚」です。 ■60歳を超えてようやくわかったこと ――まあ、命の恩人だったわけですからね。  そうなんです。それは大きいですね。あと、何だろうなぁ。あんまり皆が寄ってきてくれないんですよ。大学院のころから、「物理をやっています」と言うと途端に男性は2、3歩奥に行っちゃう。  先日、理研で昔秘書をやっていた年配の方に言われたんですけど、「先生はさぁ、男の人の前で甘えるとか、抜けをつくるとか、可愛く見せるとか、そういうことを覚えなさい」って。今更そんなこと言われてもねぇ(笑)。 ――それで2度目の「結婚」はどうなったのですか?  家族が亡くなってから、祖父母の家と実家を手放して中古マンションを買ったんです。私が研究者になることを後押ししてくれて、研究者であることを喜んでくれていた家族が残してくれたものだから、肉親すべてを失った私の生活がスムーズになる形にしたくて。  彼はIT関係の仕事をしていました。でも、根本的な価値に関わるいろんな話は合わなかった。車が欲しいと買って、ローンが払えなくなって代わりに私が払ったこともあった。結局、生活に必要なお金のほとんどを私が払っていました。駄目なんですよね、こういうことをしちゃ。60歳を過ぎてようやくわかりました(笑)。  コロナ禍になって一緒にいる時間が増え、家事の負担が私に集中してきて、「理不尽だ」という思いがようやく膨らんできた。それに2020年に60歳になったことも大きい。理研は60歳が定年で、その後は雇用形態が変わる。そのタイミングで「もう人の面倒を見るのはいいや」と思ったんです。 ――別れようと決意した。  ええ。中学時代からの友人でマンションを買うときもお世話になった司法書士に相談し、教会の牧師にも相談しつつ、行動方針を決めて、直接彼に話をしました。祖母、母、兄が逝ったときにはパートナーとして支えてくれた人でしたが、出ていってもらいました。 ――理研の契約は60歳を超えると1年ごとですか?  いえ、プロジェクトリーダーとして5年契約を結びました。5年でさらに使いやすい、できれば「世界初の可搬型」を開発し、社会の役に立てるようにしたい。それだけでなく、サイエンスの研究も展開したい。宇宙や量子コンピュータ―につながる物理の基礎に関わるサイエンスです。その研究に小型中性子源システムでアプローチするのは私の念願で、2年前から始めました。これで成果を出すのが私の悲願です。 勢ぞろいした理研の中性子チームのメンバー=2022年12月、大竹さん提供  そう思ってくると、別の課題に気づきました。それは私自身の「体力」。研究開発を加速させるには「老化」という足元の課題を克服しなければならない。何かしたいと思い、パーソナルトレーナーを探しました。非常にいい先生が見つかって、トレーニングを受けながら食生活も変えました。  それまでは、時間が取れないから食に対する時間と労力を極力省き、99%外食かコンビニかレトルト食品でした。60歳を過ぎてから、人間、ちゃんと食材を調理して食べて、体も大事にして、という基本を教えてもらって、実践しているところです。今やこのトレーナー先生の週2回のトレーニングがストレス軽減となり、すべての生活リズムの要になっています。 ■物理と音楽、根本的に好きなことを ――良かったですね。  はい。良かったといえば、私は両親が高校教師で良かった。高校時代、聖歌隊の隊長をやりませんか、という話があったとき、音楽を専門に勉強していない私がやると大学に現役合格できないと悩んだんですが、2人とも「10代のこの時期でないとやれないことがある」と背中を押してくれた。それで高2のときは音楽ばっかりやって、とても楽しかった。  お陰で浪人して、物理が好きでしたけど、受験勉強ではない物理ばかりやってしまったので、早稲田に合格したときは一生分の運を使ったと思いました。その後に出会った早稲田の先生も素晴らしかった。  実は6年ぐらい前から、高校時代の後輩が聖歌隊のときの先生に習いたいと言ってきて、私も月に1回、一緒にレッスンを受けるようになりました。コロナで中断しましたけど、再開したところです。  物理と音楽、これが私の根本にある大好きなことです。物理研究を進めて工学分野の多くの方たちと一緒に共通の目標に向かって仕事を進めつつ、サイエンスの研究に自分たちの装置で取り組めて、さらにプライベートでは音楽も再開できて、恵まれているなぁ、と実感しています。 大竹淑恵(おおたけ・よしえ)/1960年東京都生まれ。1989年早稲田大学大学院理学研究科素粒子・原子核理論専攻博士課程修了、同年茨城工業高等専門学校就職。1993年から1年間京都大学大学院・素粒子物性研究室研究員、1995年3~8月フランス・ラウエランジュバン研究所研究員、1996年から理化学研究所研究員。播磨研究所、和光キャンパス延與放射線研究室、社会知創成事業ものづくり高度計測技術開発チーム副チームリーダーを経て、2013年から光量子工学研究領域光量子基盤技術開発グループ(2018年より改組し、光量子工学研究センター)中性子ビーム技術開発チームチームリーダー。2020年からニュートロン次世代システム技術研究組合T-RANS理事長。2023年から日本中性子科学会会長。
中性子女性科学者理研高橋真理子
dot. 2023/05/02 17:00
「遅咲き」の女性物理学者62歳 「心身がガタガタだった」30代後半からの十数年を越えて挑んだ新しい分野
高橋真理子 高橋真理子
「遅咲き」の女性物理学者62歳 「心身がガタガタだった」30代後半からの十数年を越えて挑んだ新しい分野
小型の中性子線装置(RIKEN Accelerator-driven compact Neutron Systems=RANS)2号機の前で説明する大竹淑恵さん  理化学研究所(理研)に勤める物理学者の大竹淑恵さんは、日本中性子科学会の学会賞を2022年に受けた。中性子(ニュートロン)という粒子を使って、橋や道路などのインフラの内部を「透視」する技術の開発をリードする。標準化を目指す「ニュートロン次世代システム技術研究組合」の理事長でもある。  自ら「遅咲き」という。研究が軌道に乗ったのは50代に入ってから。30代後半から心身の不調に悩まされ、家族の看護と介護に翻弄された時期もあった。最初の結婚は6年間で終わり、40歳を過ぎて踏み切った17歳年下との事実婚は2年前に解消。「私はいつも男の人を養っちゃう。それで、相手が駄目になっちゃうんですね」。最近それに気が付いたと、豪快に笑うのである。(聞き手・構成/科学ジャーナリスト・高橋真理子) *   *  *――自然科学の総合研究所として、あの渋沢栄一らが1917年に創設したのが理研です。研究成果の社会への普及を当初から重視してきました。大竹さんがなさっているのも、一般には馴染みの薄い中性子線を社会に役立てる活動ですね。  理研でチームリーダーになったのは52歳のときです。その前から中性子線を出す小型装置、といっても長さ15メートルありますから一般的な感覚では大きな装置ですが、その開発に取り組み、コンクリートや鉄鋼材料の中を見る実験を重ね、新たな計測技術の開発に成功しました。この技術の実用化につながる長さ5メートルの2号機も開発し、現在は車に積めるぐらいの大きさの3号機を開発中です。  中性子は名前の通り「中性」ですから、物質の中をかなり通り抜けることができる。その先に計測器を置くと、物質の中の構造が見える。道路の場合は、地中に計測器を置けないので、中性子がぶつかって出るガンマ線や散乱中性子線を道路の上でキャッチするという、まったく新しい発想の計測技術を開発しました。現場で使える装置も開発しています。これで、コンクリート内部の塩分濃度や、吊り橋のケーブルの内部に水がたまっていることなどがわかります。つまり、社会インフラの劣化の程度を知ることができる。社会の安全を守るために、壊さずに内部の様子を知る方法が求められているのです。 日本中性子科学会の学会賞表彰状とメダル ――そうした業績が評価されての学会賞ですね。  正直に言って、びっくりしました。中性子の研究は大きな加速器や原子炉を使うのが王道だったところへ、なるべく小型の装置をつくって社会インフラの保守点検やものづくり現場での非破壊計測に使おうという、まったく新しい分野に挑み、実際に使えるところまで持ってきた点が評価されたと聞きました。  大学院での専門は理論物理でした。博士号を取ったあとに中性子の実験を始めたのですが、最初はもっぱら(現代物理学の基本である)量子力学の基礎に対する関心からでした。34歳のときフランス・グルノーブルにある世界一の中性子線施設で実験しましたが、本当に楽しかった。そのころから、まずは基礎科学の研究をし、50歳ぐらいから社会に貢献する研究をしようと思っていたんです。 ――へえ、きちんと人生設計をされていたんですね。理研に入ったのは35歳のときですね。  早稲田大学の博士課程を修了してすぐ、茨城県ひたちなか市にある国立の茨城工業高等専門学校(茨城高専)に就職しました。「量子力学を教えられる人を探している」というので応募しました。  学科主任の先生は「若い人は外に出そう」という方針で、研究を奨励する方でした。高専には週に4日行けばよく、1日は研究に専念する時間と費用を確保してもらっていたので、母校や近くの筑波大学に定期的に通いました。 東海村にある原研3号炉(JRR3)で実験していたときの大竹淑恵さん=大竹さん提供  一方、東海村が近かったので、原研(現・日本原子力研究開発機構原子力科学研究所)の3号炉で実験も始めました。大学院最後のころから共同研究を始めた京都大学の実験グループが中性子干渉を観測する設備をゼロからつくるところで、「近くにいるならちょっと手伝って」と言われ、京大の院生さんと一緒に床に線を引くところから始めた(笑)。実験は無理だと思っていましたけど、一つひとつ教えてもらって、だんだんのめり込んでいきました。  1993年には京大大学院の物理の研究室に1年間、内地留学しました。文部省(当時)にそういう制度があったんです。もっと研究したくなって中性子研究の中心地フランスに行き、このときは半年休職しました。帰国して半年後に理研に入りました。 ――きっかけが何かあったのですか?  原研3号炉で実験をしていた東京大学物性研究所の先生が、兵庫県の播磨科学公園都市に理研が建設した放射光施設「スプリング8」にも関わっていらして、「チャンスがあるかもよ」って教えてくださったんです。 ――スプリング8は、加速器から出てくる強力な電磁波を物質の解析や分析に利用するための巨大な施設です。和歌山カレー事件で分析に利用されて有名になりました。  そうですね。内地留学でお世話になった京大の先生も応援してくださり、ちょうどスプリング8が立ち上がる時期で、とてもラッキーでした。でも、私はこのとき体調を崩して、ガタガタの状況でした。 ■精神的に壊れてしまった ――どんなふうに?  半年の休職を取り戻すために帰国後は高専生の卒業指導にものすごく頑張ったんです。食事もろくにとらずに学生指導をし、睡眠時間も2、3時間といった生活を続けたら、小学生のときにかかった腎盂炎が本格的に再発してしまった。卒業研究発表が3月8日で、終わったら病院に行ってそのまま入院です。40度、41度の高熱が続き、薬を点滴しても下がらなかった。  採用面接がその1週間後ぐらいにあって、医者に頼み込んでこの日だけは東京に行かせてもらった。退院できたのは連休の直前でした。いったん千葉県我孫子市の実家に行きました。そのとき、父が倒れたんです。もともと心臓が悪く、見つけたときは相当危ない状態で、電話で医師の指示を受けて私が車で東京の病院に運んだ。運よく名医に手術をしていただけて、一命をとりとめたんですが、その間に実家が漏電で火事になったんですよ。 ――え~!  母も見舞いに出ていたので、家には誰もおらず、誰も死ななかったんですけど、全焼でした。結局、播磨に行けたのは5月も中旬でした。  でも、その後、私は精神的に壊れちゃった。朝起きられなくて夜寝られないとか、頭が発散しちゃう感じで。そもそも私は自己評価が低いんです。低いから頑張るんですけど、自己評価が低い人がうつ状態になると、本当に生きているのが大変になります。ものすごくつらかったですね。  薬を飲んで、ある程度持ち直して、仕事はしていました。ところが2000年に私が実家に行ったとき、母の不在中に父が亡くなりました。72歳でした。さまざまな後始末が一段落すると、ひどいぜん息になりました。  ぜん息のひどいのって、横になれないんですよ。横になると呼吸ができなくなる。3カ月ぐらい、夜中もずっと座っている状態になりました。それで体調が完全におかしくなって、そのころのことはあんまり記憶がない。播磨の近くには大きな病院もないし、和光に異動することになりました。 ■遊牧民のように装置を持って旅をする ――埼玉県和光市は理研の本拠地ですね。  ええ。すると、理研に導いてくれた物性研の先生が「和光に戻ったのなら、東海村の装置の面倒を見てくれないか」とおっしゃった。ご自分は放射光に専念したいから、と。もともと、それほどユーザーのいる装置ではなかったので、ゆっくりのペースで仕事ができた。その後、北海道大学の先生がここに新しい装置をさらに加える3年間のプロジェクトを立ち上げて、私もその下に入って元の装置の高度化に取り組みました。これで本格的に研究開発に戻れたっていう感じでしたね。 ――東海村って、和光から遠いですよね。  外環を走ったらすぐですよ。中性子実験をする人は、中性子線のあるところならどこだって行きます。フランスでもアメリカでもオーストラリアでも、それこそ遊牧民のように、自分のサンプルなり装置なりを持って旅をするんですよ。  >>【後編:「いつも男の人を養っちゃう」女性物理学者が2度の離婚を経て手に入れた「恵まれているなぁ」と実感する日々】に続く 大竹淑恵(おおたけ・よしえ)/1960年東京都生まれ。1989年早稲田大学大学院理学研究科素粒子・原子核理論専攻博士課程修了、同年茨城工業高等専門学校就職。1993年から1年間京都大学大学院・素粒子物性研究室研究員、1995年3~8月フランス・ラウエランジュバン研究所研究員、1996年から理化学研究所研究員。播磨研究所、和光キャンパス延與放射線研究室、社会知創成事業ものづくり高度計測技術開発チーム副チームリーダーを経て、2013年から光量子工学研究領域光量子基盤技術開発グループ(2018年より改組し、光量子工学研究センター)中性子ビーム技術開発チームチームリーダー。2020年からニュートロン次世代システム技術研究組合T-RANS理事長。2023年から日本中性子科学会会長。
中性子女性科学者理研高橋真理子
dot. 2023/05/02 17:00
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安積明子 安積明子
危機感増す公明に維新が「圧力」で永田町の解散風は? 岸田首相に笑顔なしの理由
衆参補欠選挙の投開票日の翌4月24日、首相官邸に入る岸田文雄首相。その胸中は  統一地方選、衆参補欠選挙が終わり、各党にもさまざまな変化があった。4補選で勝利した自民党だが、大きな“傷”も負い、広島サミットを間近に控えた岸田文雄首相も手放しでは喜べない状況のようだ。政治ジャーナリストの安積明子氏が、今後の政局について解説する。  * * *  永田町に“解散風”が吹き始めている。おそらく4月23日に投開票された五つの衆参補欠選挙で、自民党が4勝したためだろう。  昨年7月の参院選の最中に銃撃されて亡くなった安倍晋三元首相の弔い合戦となった衆院山口4区や、体調不良で岸信夫前防衛相が引退した山口2区は、もともと自民党の勝利が予想された。  たしかに、後継者として出馬した岸氏の長男・信千世氏には、世襲批判が吹き荒れた。伯父である安倍元首相はもちろん、曽祖父の岸信介元首相など、まるで血筋を誇示するような家系図を掲載したり、出馬前にもかかわらず東京のホテルでパーティーを開いたりしたことなどが、反感を抱かれた原因だった。  しかしこれら山口県の二つの選挙区は、岸田首相にとっては「当選確実」の選挙区だったに違いない。というのも岸田首相4月15、16日と、選挙戦最終日の22日に、自民党候補を応援すべく入ったのは、衆院和歌山1区、千葉5区と参院大分選挙区だったからだ。  そして和歌山1区の門博文氏は落選したものの、一部の下馬評で野党候補にリードされていた千葉と大分で、自民党候補は勝利を収めた。  大分ではかつて社民党党首も務めた立憲民主党の吉田忠智氏と一騎打ちの激戦を展開した末、自民党の白坂亜紀氏が341票の僅差(きんさ)で勝利した。  それは岸田首相にとって、大きな自信となったに違いない。5月のG7広島サミットにも幸先がよい。  だが、投開票日の翌24日の岸田首相の表情には、勝利のうれしさは見られなかった。 「今は解散は考えてはいない」  慎重さを装うその岸田首相の言葉に、ある自民党議員は「解散は遠いのではないか」と話した。理由は、四つの補選以外のあちこちの選挙区で「負け」があったためだ。  4月9日の奈良県知事選では、自民党県連が推薦し、立憲民主党県連が支持した平木省氏が日本維新の会公認の山下真氏に敗北。これが衆院和歌山1区補選で維新が勝利する導火線になった。また自民党大阪府連に至っては、大阪府知事選と大阪市長選で自主支援した候補が大差で敗れ、かろうじて最後の牙城(がじょう)であった大阪市議会も維新が過半数を獲得したため、壊滅状態になっている。  ベテランの落選も目立った。統一地方選の前半戦、9日に投開票だった熊本市議選では、議長を含む自民党の現職4人が落選し、改選前から6議席減らした。また新潟県議選では、70歳の自民党県連幹事長が落選している。  一方で日本維新の会は、衆院和歌山1区で勝利したうえ、目標とした首長と地方議員計600人を大きく上回る774人となった。もし600人を下回ったら代表を辞めると宣言していた馬場伸幸代表は、24日の会見で、野党第1党の議席を次期衆院選で実現すると宣言。大阪で連携していた公明党との関係も、9日に「一度リセットさせてもらう」と述べていた。  これまで維新は、公明党が議席を持つ衆院大阪3区、5区、6区、16区と兵庫2区、8区の六つの選挙区で候補を擁立することを控えてきた。それは大阪市議会で過半数を維持していなかったためで、公明党の支持が必要だったからだ。  だが、いまや維新は大阪府議会でも大阪市議会でも過半数を占めており、公明党に遠慮する必要はなくなった。  これは公明党に大きな衝撃をもたらした。  大阪は1957年の参院大阪選挙区補選で、当時創価学会渉外部長だった池田大作名誉会長らが逮捕され、その後無罪となった「大阪事件」の地であり、国家権力に勝利した場所として「常勝関西」を標榜してきた。  その基礎をつくったのが、30年以上にわたって関西の創価学会の組織を統括してきた副理事長兼関西総主事の西口良三氏だったが、その西口氏は2015年3月15日に死去。『西口時代』を知る公明党関係者は、「選挙になると西口さんが『あそこに行け』と指示をし、そこから必ず票が出た。もうあんな人は出てこないだろう」と語った。 関西の創価学会の組織をまとめ、「常勝関西」をつくりあげた、副理事長兼関西総主事の西村良三氏  たしかに公明党は、かつて参院大阪選挙区で80万票前後を維持していたが、近年は集票力を落とし、60万票を切っている。衆院小選挙区ではさらに厳しくなるが、そこに維新から追い打ちをかけられては、たまったものではない。  3月9日に公明党が急きょ、次期衆院選で埼玉14区に石井啓一幹事長、愛知16区に伊藤渉政調会長代理を立てることを発表したのは、大阪で失うかもしれない議席数を大阪以外で確保しようとする意味があったのだろう。また次期衆院選から新設される東京28区には、高木陽介政調会長が立つといううわさもある。  新28区はおおよそ練馬区の東半分を占めるが、4月23日に投開票された練馬区議選では公明党の公認候補4人が落選した。他にも大田区、目黒区、港区、杉並区の各区議選や兵庫県西宮市議選、高松市議選、大阪市議選、愛知県議選春日井市選挙区でも落とし、合計12人が落選したことになる。  もともと「完勝」を標榜する公明党だが、それが統一地方選で実現したのは2007年までで、2011年は2人、2015年には4人、2019年には2人と落選者を出している。しかし2桁というのは前代未聞だ。  2023年度予算が成立した3月28日、早期解散を懸念する山口那津男・公明党代表は、あいさつまわりにやってきた岸田首相に「解散じゃありませんね」と釘を刺したが、現状はこの時よりさらに悪化している。しかも維新が進出してくるとなると、目も当てられなくなるはずだ。ある永田町関係者は次のようにいぶかしがる。 岸田文雄首相と面談後の公明党の山口那津男代表=2023年4月25日 「それが維新の戦略ではないか。公明党に圧力をかければ、公明党は岸田首相に解散時期を遅らせるように懇願するはずだ。そうなれば維新にとって、全国進出する準備のために時間を稼ぐことができる」  もしそうなら、日本維新の会が政局をまわしていることになる。果たして維新の思惑通りにいくのか。岸田首相は維新の野望を阻むことができるのか。近いうちの解散を考えているからこそ、岸田首相の顔には苦悩がにじんでいるのではないだろうか。 (政治ジャーナリスト・安積明子) ■あづみ・あきこ 兵庫県出身。慶應義塾大学経済学部卒。国会議員政策担当秘書資格試験に合格し、政策担当秘書として勤務。その後テレビなど出演の他、著書多数。「『新聞記者』という欺瞞|『国民の代表』発言の意味をあらためて問う」(ワニブックス)などで咢堂ブックオブイヤー大賞(メディア部門)を3連続受賞。近著に「眞子内親王の危険な選択」(ビジネス社)。趣味は宝塚観劇。
公明党岸田首相維新
dot. 2023/05/01 14:18
「火炎瓶なら一発アウト」岸田首相襲撃事件を要人警護のプロが語る「一番の問題は犯行を未然に防げなかったこと」
渡辺豪 渡辺豪
「火炎瓶なら一発アウト」岸田首相襲撃事件を要人警護のプロが語る「一番の問題は犯行を未然に防げなかったこと」
岸田文雄首相の近くに爆発物が投げ込まれた和歌山市雑賀崎漁港の現場は大勢の聴衆が取り囲んだ。事件に巻き込まれない個々の危機管理意識も問われている(撮影・朝日新聞社)  選挙の応援演説中の政治家がまたもや標的になった。要人警護の課題にとどまらず、選挙演説の在り方や、国民の危機管理意識も問われている。 *  *  衆院補選の応援演説のため和歌山市の雑賀崎漁港を訪れた岸田文雄首相を襲った爆発事件。警察官と聴衆の男性が軽傷を負い、兵庫県川西市の無職、木村隆二容疑者(24)が威力業務妨害容疑で逮捕、送検された。 「パイプ爆弾がすぐに爆発しなかったのが不幸中の幸い。火炎瓶だったら一発アウトでした」  こう警鐘を鳴らすのは、さいたま市に本社のある危機管理コンサルティング会社「セーフティ・プロ」代表取締役で危機管理コンサルタントの佐々木保博さん(65)だ。  木村容疑者が投げた手製の爆発物が落下したのは首相の背後。爆発したのは投げられてから約50秒後だった。このタイムラグがあるかないかで、今回の事件の被害規模は大きく変わっていた可能性がある。 ■SPの初動は的確だった  元埼玉県警の刑事で要人警護の経験も豊富な佐々木さんは昨年7月に安倍晋三元首相が奈良市内で銃撃された際、警備に穴が開いた要因として「前日夜の安倍元首相のスケジュール変更」と、要人警護に不慣れな地方が現場だった点を挙げた。  今回はどうか。 「警備体制は私服のSPも含め明らかに増強されていました。岸田首相の背後にSPを配置し、演説場所の前列も関係者で埋めるなど不審者を首相に近寄らせない措置が取られていました。爆発物を投げ込まれた直後のSPの初動も的確で、装備品も有効に使われていたと思います」(佐々木さん)  今回の岸田首相の全国遊説に際しては、安倍元首相銃撃事件を受けて改正された「新警護要則」に基づき、入念な警備計画が練られたとされる。テレビ映像では、岸田首相のすぐ近くにいたSPが落下した直後の爆発物を蹴り飛ばすのと同時に、携行型の防弾盾を広げて首相の背後を覆いながら迅速に現場から退避させているのが分かる。無駄のない動きが見て取れるが、佐々木さんはこう指摘する。 「一番の問題は犯行を未然に防げなかったこと。この点においては何も変わっていない、と言わざるを得ません」 ■日本人の危機意識の低さ  安倍元首相銃撃事件と共通するのは選挙運動中の政治家が狙われた、という点だ。人の往来が激しい屋外では特に、不審者をチェックして未然に排除するのは難しい。今回の和歌山市での襲撃事件を受けて、演説場所によっては警察が岸田首相らの選挙演説の際、手荷物検査と金属探知機による検査を導入するケースも報道されている。選挙演説の在り方自体、見直す時期に来ているのかもしれない。  その上で、今回の警備対応に全く課題を感じなかったわけではない、と佐々木さんは言う。  木村容疑者は犯行後、すぐ近くにいた地元の漁業者に取り押さえられた。この際、木村容疑者の手には別のパイプ爆弾などが握られていた。直後に容疑者を取り押さえられていなければ2発目が投げられていた可能性は高かった。その意味でも、瞬時に身柄確保に動いた人がいたことと、SPもすぐに加わったのは良かった。佐々木さんが課題を感じたのはその後だ。 「容疑者に覆いかぶさる際、リュックの中に爆発物が入っていることも念頭に置き、リュックはすぐに容疑者から引き離すべきだったと思います」  リュックサックには爆発物とみられる複数の筒が残されていたことも分かっている。  佐々木さんはパイプ爆弾が投げられた後の聴衆の行動にも警鐘を鳴らす。 「私服のSPが後ろに下がるよう呼び掛けていましたが、中にはスマホで撮影する人もいました。爆発規模が大きければ負傷者がさらに増えたことも予想されます。これは警備の問題というよりも、日本人の危機管理意識の低さが反映されていると思います」  その気になれば誰もがネットの情報をもとに銃や爆発物を作れる時代。これまでとは異なる個々の危機管理能力が求められている。 (編集部・渡辺豪)
AERA 2023/04/18 18:11
朝日歌壇に詠まれた「週刊朝日」休刊 「駐在員の妻たちが大事に…」投稿者たちの思い
朝日歌壇に詠まれた「週刊朝日」休刊 「駐在員の妻たちが大事に…」投稿者たちの思い
2月19日付朝日新聞掲載の「朝日歌壇」  毎週日曜日の「朝日新聞」に掲載される「朝日歌壇」。2月19日のこの欄に3首、3月26日にも2首、本誌の休刊を惜しむ歌が選ばれた。残念ながら選に漏れた投稿もたくさんあったという。投稿者たちの“思い”を聞いてみた。 *  *  * <残念な「週刊朝日」休刊よ、東海林さだおの見開きもまた>と詠んだのは福島県相馬市の根岸浩一さん(63)。 「短歌を作り始めて5年くらい。新聞に投稿するということで、なるべく時事的なテーマで歌作りしています。最も多く詠んでいるのは震災からの復興の様子です。東日本大震災の時はものすごい揺れで、わが家は屋根瓦が落ち、壁にはヒビが入りました。幸い避難生活はせずに済みましたが、倒壊した家もたくさんありました」  あれから12年。復興は進んでいるが、それでも去年起きた地震で、再び被害に遭った人も多く見てきたと話す。  そんな根岸さんは本誌の大ファンだと言う。 「読み逃してしまった号があっても、それは図書館で読むなどして欠かさず読んでいる。歌にも詠みましたが、東海林さだおさんの『あれも食いたい これも食いたい』が好きで、読めなくなってしまうのはとても残念で、それを歌にしました」  実は4年前にも、朝日歌壇に根岸さんの歌は掲載されている。 「その時も週刊朝日のことを詠みました。週刊文春は表紙で買うけど、週刊朝日は巻末で買うという歌でした。つまり、文春は表紙を描く和田誠さん、朝日は山藤章二さんのブラック・アングルで買うという内容の歌だったんです。ご縁があるんでしょうかね(笑)」 <この国が軍拡に舵を切る最中「週刊朝日」休刊決まる>と詠んだのは静岡県磐田市の白井善夫さん(72)。週刊朝日の愛読者で、これまで2度、本誌紙面に登場している。1回目は2015年12月11日号で「犬ばか猫ばかペットばか」のコーナー、2回目は今年の3月3日号の「お便りクラブ」に蝶花楼桃花さんのことを書いて掲載されている。 「今度は大谷(翔平)選手の似顔絵を描いて『似顔絵塾』のコーナーにも応募しようかなと思っている」と言って笑う白井さん。白井さん一家は子供の頃から朝日ファンで、新聞は朝日、週刊朝日と朝日ジャーナルを購読してきたという。学生時代には、成田闘争、日中国交回復、北爆などをテーマにして書いた文章を朝日ジャーナルに投稿し、計4回掲載されている。 「今回投稿した短歌は、岸田政権が軍拡に舵を切り、原発も再稼働の動きがある、そんな時こそリベラルな雑誌の代表格である週刊朝日が活躍すべき時なのに……、という思いを歌にしました。本当に休刊してしまうのが残念です」  白井さんの短歌歴は約6年。朝日歌壇には何度も投稿しているが、入選は2度目。 「初めて掲載されたのはビギナーズラックだったんでしょうね。初入選首は菅原文太さんが亡くなって、トラック野郎たちがみんな追悼の意を込めてハチマキをして走っていた様子を詠みました。ギリギリ10席目に選ばれて、嬉しかったですね~」 <「新平家」取り合い読みし兄姉逝きて「週刊朝日」休刊となる>と詠んだのは神奈川県藤沢市の藤田勢津子さん(90)。  歌にある「新平家」とは1950年から57年まで本誌に連載されていた吉川英治の小説「新・平家物語」。連載当時、藤田さんは高校を卒業して専門学校に通っていたという。 「私の記憶では当時は1冊25円くらい(笑)。本家の『平家物語』は知っていたけど、吉川英治版はもっと温かく優しい物語で、とても話題になっていました。学校の帰りに週刊朝日を買って読み、家に持ち帰ると父も姉も読むんです。家族そろっての夕食時には新平家の話題で持ちきりでしたね。そんな具合に家族中で楽しみにしていたから、時には父が買って、姉も買って、私も買って……家に同じ号が3冊あった日もありました」  藤田さんは今回の歌が初投稿で、しかも「生まれて初めて作った歌です」という。 「父が俳句に命をかけていたような人で、普段から5・7・5のリズムが身についていました。つられて家族も5・7・5のリズムで会話したり(笑)。姉は短歌を作って朝日歌壇に掲載されたこともあったんですよ。たぶん兄も朝日俳壇に載ったことがあるはずです。そんな家庭だった。でも私はセンスがなくて。そんな私の歌が朝日歌壇に選ばれて、喜びを兄や姉に知らせたいのに、もう2人とも亡くなってしまいました」 ■ミラノ駐在時の貴重な情報源 <駐在員の妻たちが大事に回覧していた「週刊朝日」>と詠んだのは横浜市の臼井慶子さん(54)。25年ほど前に夫のイタリア・ミラノ赴任に同行した時の思い出を詠んだという。 「当時はインターネットもあまり普及していなかったんです。テレビの日本語放送もほんのわずかで、日本の情報に飢えていました。その頃は和歌山ヒ素カレー事件なんかが大きな話題になっていました。それで、こっちに来るという友達に『お土産に週刊誌とお煎餅をお願い』って、週刊朝日と週刊文春を買ってきてもらったんです」  ロンドンに赴任した夫の同僚は市内の古本屋で日本の週刊誌が買えたらしいが、そうした日本の出版物を扱う店は当時のミラノになかったのだ。 「私が通っていた日本語学校には、やはり赴任してきている銀行家の奥様たちがいらっしゃり、週刊朝日を読みたいというんです。お渡ししたら『回覧していい?』って(笑)。皆さん、日本の情報に飢えていらしたんですね」  臼井さんが短歌を始めたきっかけはNHKで放送していた初心者向けの短歌番組「短歌de胸キュン」を見て。 「出演していたフルーツポンチの村上(健志)さんやスピードワゴンの井戸田(潤)さんが作った歌を見て、こんなに素直に詠んでいいんだと感じたことでした。番組に投稿したら3回くらい採用されたんです。ちょうどその頃、知人から短歌サークルに入ったら?と誘われていたので、加入して詠み始めました。テーマを与えられて詠む“題詠”よりも自由に詠むほうが好きですね」  このほか<スマホなど無かった時代の情報源「週刊朝日」が休刊するとふ>と詠んだ埼玉県川越市の西村健児さんが入選している。  選者の一人・歌人の佐佐木幸綱氏は「朝日歌壇は新聞の一部だと考えているので、新しいニュースを詠んだ歌はできるだけすくい取りたいと考えています。2月19日の選評でも書きましたが、この回は週刊朝日休刊を惜しむ歌がたくさん送られていました。その中から厳選して2首を入選にしたんです」と言う。 読者の記憶にも強く残った宮崎美子さんの表紙(1980年1月25日号)  惜しくも入選を果たせなかったが本誌休刊について詠んだ人にも話を聞いた。 <美子さんが表紙飾りし週刊誌休刊のニュースにあの頃偲ぶ>と写真家・篠山紀信氏が撮影した女優・宮崎美子さん(当時は女子大生)の表紙を歌にしたのは千葉県銚子市の小山年男さん(93)。短歌歴は長く、これまで戦後の生活などを詠んだ歌を投稿し、県版の短歌コーナーには何度も掲載されているという。 「短歌はいい頭の体操。高齢者施設に入居していますので、コロナ感染対策で外出できないんです。なので歌の材料はどうしてもテレビのニュースから選んでしまいます。今回、週刊朝日の休刊を詠んだのも、新聞で知って感じたままを歌にしました」  小山さんはこの歌を恩返しというが、その理由は、学生時代に朝日新聞の販売店でバイトをしながら大学に通い、卒業後に教師になれたからだ。 「新聞学生だったんです。配達はつらかったこともある。特に雨の日と週刊朝日の発売が重なった時ね。普段の新聞に加えて週刊朝日を定期購読している人の家に配っていた。でもそのおかげで卒業できた。足を向けては寝られないと思うほど感謝していたけど、今回取材を受けて少しだけ錦を飾れた気持ちです」 ■進路を決定した週刊朝日の英語 <幼き日「よく知ってるね」と褒められし「週刊朝日」を毎週読みし>と詠んだ千葉県四街道市の久賀田洋子さん(79)は、両親が定期購読していたので小学生時代から週刊朝日を読んでいたという。 「中学生の頃、週刊朝日で覚えた“エポックメイキング”という単語を知ったかぶりで使ったら褒められたんです。それが嬉しくて英語に興味を持って勉強し、大学は英文科に進学して英語の教師になりました。週刊朝日が私の進路を決めたようなものなので、今も読んでいるんですよ」 <内館さん嵐山さん変わらない「週刊朝日」が好きだったのに>と詠んだのは大分県中津市の瀬口美子さん(70)。 「人生の先輩である内館さんと嵐山さんの連載が好きです。お二人ともものの見方が多角的で、勉強になっています。両親が読んでいたので週刊朝日はいつも家にあり、子供の頃からのお付き合いですね。友人が朝日歌壇に投稿しているのを知って、私も挑戦し始めた。今年で歌作り4年目です」 <新聞でわからぬことは「週朝」で親より尚(ひさ)し休刊無念>と詠んだ東京都の松本知子さん(72)は短歌歴7年の朝日歌壇常連投稿者だ。 「大学生だった娘がオープンカレッジをすすめてくれて、『初めての短歌』という講座に通ったのが8年前。講座で作った歌を投稿したのが朝日歌壇初入選。故郷でみかん農家をしている兄を詠んだ歌でした。それ以来、気に入った歌ができるたびに投稿して、これまでに74首掲載していただいているんです。歌で詠んだとおり“週朝”は毎号読んでいてね、私にとっては社会を知る大切な手段だったのに……」  話を聞かせていただいた皆さんが口をそろえて二つの言葉を口にした。「残念です」と「今までありがとう」だ。こちらこそありがとうございました。(本誌・鈴木裕也)※週刊朝日  2023年4月14日号
週刊朝日 2023/04/09 17:00
高校野球で「そんなの認めない」 ペッパーミルだけじゃない、審判の怒りを買った“球児の行為”
久保田龍雄 久保田龍雄
高校野球で「そんなの認めない」 ペッパーミルだけじゃない、審判の怒りを買った“球児の行為”
今年のセンバツでは「ペッパーミル」パフォーマンスが審判から注意を受けた  先日終了した第95回センバツ高校野球では、ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)で優勝した侍ジャパンの一員、ラーズ・ヌートバー(カージナルス)のパフォーマンス「ペッパーミル」を真似た東北高の選手が、審判からやめるよう注意される事件が起きた。試合後、監督も「何でこんなことで、子供たちが楽しんでいる野球を大人が止めるのかな」と疑問を呈するなど、波紋を呼んだ。  ペッパーミルは、両手で胡椒挽きを使って、胡椒を振りかける真似を演じることによって、「小さなことからコツコツつないでいこうぜ」と自軍の選手たちにチームワークの大切さを伝えるパフォーマンスであり、けっして相手チームを挑発する意味合いはない。  だが、エラーで出塁した直後という配慮を要するシチュエーションから、「不適切な行為」と審判団に受け止められたようだ。高野連も「不要なパフォーマンスやジェスチャーは、従来より慎むようお願いしてきました。試合を楽しみたいという選手の気持ちは理解できますが、プレーで楽しんでほしい」と“してはいけない”理由を説明した。  そして、高野連側も認めているとおり、球児たちのパフォーマンスが問題視された事件も、今に始まったわけではない。  最も有名なのが、1985年夏の西東京大会2回戦、南野vs永山で起きた“ホームラン取り消し事件”だ。  0対0の2回、南野は無死一塁で6番・斉藤俊一が左越えに先制2ランを放った。これが記念すべき公式戦初本塁打。喜んだ斉藤は三塁を回る際に、飛び出してきたベースコーチと右手と右手を合わせ、バチンと叩き合った。  ところが、このパフォーマンスが塁審に「高校生として見苦しい行為」と判断され、「肉体的援助」(野球規則7.09h)としてアウトを宣告されてしまう(記録は三塁打)。  だが、本塁打の場合、ベースコーチの肉体的援助は、プレーに何ら影響はなく、無理やり感は否めない。都高野連も「審判のミスと言われてもしょうがない判定でした」と“勇み足”を認めた。  パフォーマンスが気になったのなら、ひとこと注意すればいいのに、問答無用でいきなりアウトは、行き過ぎと言うしかない。  ホームランのパフォーマンスといえば、2004年7月には「ハッスルポーズ」が禁止されている。  両腕と腰を前後に振って気合を入れるハッスルポーズは、プロレスラーで総合格闘家としても活躍した小川直也がリング上で見せたパフォーマンスとして知られるが、小川と親しかった巨人時代の清原和博も、本塁打を放ち、ベースを回る際に披露。甲子園を目指し、地方大会を戦っている高校球児の中にも、真似をする者が続出した。  こうした風潮に対し、高野連は「ガッツポーズについての規制はない」としながらも、「本塁打を打ったときに、グラウンドを1周する間、ずっと拳を上げたままだとか、応援席に手を振りつづけるなど、目に余る行為には、さすがに注意するようにしています」として、“禁止令”を出した。  これにはファンからも「自然に出たらどうするんだよ」「高校生のイメージを勝手に造り上げている」などとツッコミが相次いだ。  一方、「創作ダンスとの組み合わせ」とMLB公式サイトでも紹介された個性的な「ヌンチャク打法」を禁止されたのが、滑川総合の代打の切り札・馬場優治だ。  2015年夏の埼玉県大会5回戦、埼玉栄戦の7回に代打で登場した背番号12・馬場は、バットをヌンチャクのようにめまぐるしく振り回し、エビぞりの姿勢で飛び跳ねる派手なパフォーマンスを披露。試合後、この動画がユーチューブにアップされると、ダルビッシュ有も興味を示すなど、“ニンジャ・ヒッター”として世界的に注目を集めた。  だが、県高野連は「遅延行為になるし、バットが捕手に当たる可能性もある」として、「認めるわけにいかない」と学校側に通達した。  注意されたのは打者だけではない。投手も種々のパフォーマンスが何度か“教育的指導”の対象になっている。  2018年夏の甲子園で金足農のエースとしてチームを準優勝に導いた吉田輝星(現日本ハム)もその一人だ。  吉田は初回の守備に就く際とグラウンド整備後の6回、最終回の計3度にわたって、中堅手と侍の居合い抜きのような「侍ポーズ」(別名「シャキーンポーズ」)を交わし合うことによって、緊張をほぐしていた。チームの快進撃とともに、侍ポーズもその象徴的な存在として、すっかりおなじみになっていた。  ところが、準決勝の日大三戦を前に大会本部から「野球と関係のないパフォーマンスは不必要」という理由で、自粛を通達されてしまう。このため、この日の吉田は、よく見なければそれとわからない控えめなポーズを見せるだけにとどまった。  また、同年夏の甲子園では、創志学園の2年生エース・西純矢(現阪神)も、2回戦の下関国際戦で、球審から「必要以上にガッツポーズをしないで」と注意されている。  昨今は、ケースによっては誤審も認めるなど、時代の変化とともに対応も柔軟になりつつある高校野球だが、「高校生らしさ」を金科玉条に大人の価値観を押し付けることについての是非は、今後も論議の的になりそうだ。(文・久保田龍雄) ●プロフィール久保田龍雄/1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。最新刊は電子書籍「プロ野球B級ニュース事件簿2021」(野球文明叢書)。
dot. 2023/04/05 17:30
ストーカー減らない要因にSNSの普及 対象が見つけやすく、身近な存在と思い込む
野村昌二 野村昌二
ストーカー減らない要因にSNSの普及 対象が見つけやすく、身近な存在と思い込む
会社員の女性が1月、ストーカーの男に刺されて亡くなったJR博多駅近くの現場。今も花や飲み物などが手向けられている  ストーカー規制法は3回の改正で規制対象が広がってきたが、凶悪な事件が繰り返されている。要因として、関係者はSNSの浸透を指摘する。AERA 2023年3月20日号の記事を紹介する。 *  *  *  なぜ、ストーカーは減らないのか。  福岡市博多区のJR博多駅近くの路上で1月16日、会社員の女性(当時38)が元交際相手の男(31)に刃物で刺され死亡した。男はストーカー規制法に基づき、再び行為を繰り返せば刑事罰にもつながる「禁止命令」を受けていた。  さらに、先月20日に知人女性が住むマンションに侵入した疑いで逮捕されたNHKのアナウンサーの男(47)にも、逮捕後にストーカー規制法の禁止命令が出されたことがわかった。男の女性に対するストーカー行為が悪質なものであり、緊急性があると判断されたという。男が釈放後、女性に対するストーカー行為を繰り返せば、再び逮捕される可能性がある。  ストーカー規制法は2000年、前年に埼玉県桶川市で起きた桶川ストーカー事件を受け施行された。「つきまとい行為等」に警告や禁止命令を出すことができ、違反すれば逮捕できるようになった。  その後、新たな手口が増えるたびに規制対象は広がった。これまで3回にわたり改正され、今ではSNSへの執拗(しつよう)な書き込みや、GPS機器などを使い相手の位置情報を無断で取得する行為も規制対象に加えられている。それでも、被害の相談は絶えず、事件は繰り返される。  全国の警察が受けたストーカー相談は近年、2万件前後で高止まり状態が続く。そして、殺人に至るような凶悪な事件も後を絶たない。 AERA 2023年3月20日号より  20年以上、ストーカー被害者支援や加害者のカウンセリングに取り組むNPO法人「ヒューマニティ」(東京都)理事長の小早川明子さんは、ストーカーが減らないのはSNSの普及が最大の要因と見る。 「以前は交際や恋愛感情のもつれから起きることがほとんどでした。それが、SNSの浸透によって対象を見つけやすくなった。そして相手を身近な存在と思い込む。つきまとうインフラが整い、匿名性の気安さから残酷なこともできる。気が付いたら対象と行為にハマっている」  小早川さん自身、仕事をめぐり執拗なストーカー行為を受けた。「お前は俺を傷つけた」と言われ、謝罪しても離れてくれなかった。その時の心境をこう語る。 「ひたすら困惑し、おびえ、脱出の活路を見いだそうと考え続けました」 (編集部・野村昌二) ※AERA 2023年3月20日号より抜粋
AERA 2023/03/15 17:30
契約金“5億円超え”で騒動になった男も 期待外れに終わった「ドラ1大型左腕列伝」
久保田龍雄 久保田龍雄
契約金“5億円超え”で騒動になった男も 期待外れに終わった「ドラ1大型左腕列伝」
横浜時代の那須野巧(OP写真通信社)  身長190センチ前後の大型左腕といえば、現役では、188センチの山崎福也(オリックス)、191センチの上原健太(日本ハム)、日本人左腕歴代最長身、193センチの弓削隼人(楽天)が該当する。彼らはアマチュア時代から“和製ランディ・ジョンソン”の異名で呼ばれることが多いが、過去には「将来のエース」と期待されながら、不発に終わった者も少なくない。  新人王候補と期待されながら、プロで伸び悩んだのが、2004年に自由枠で横浜に入団した192センチ左腕・那須野巧だ。  日大時代は4年の春に優勝投手になるなど、通算22勝を記録。最速149キロの速球は「ホームベースの1メートル手前から伸びる」といわれた。  1年目は5月15日の日本ハム戦でプロ初先発初登板デビューも、初回に小笠原道大と新庄剛志にタイムリーを浴びるなど、6回4失点と力みから制球を乱し、「さすがに緊張した。1軍は甘くないなあと」とプロの厳しさを味わった。  その後、5月22日の西武戦で5回4失点ながら、うれしいプロ初勝利を挙げたものの、同29日のロッテ戦は里崎智也に満塁弾を浴び、1回4失点KOで中継ぎに降格。1年目は1勝2敗、2年目も3勝8敗と不本意な成績に終わった。  さらに翌07年は、開幕直後の4月11日に入団時の契約金が最高標準額(1億円プラス出来高5000万円)を大幅に超える5億3000万円だったことも明るみになる。  そんな騒動のなか、「グラウンド上で精一杯のプレーをして結果を出す」と誓った那須野は、4月24日の巨人戦で、夫人の出産に立ち会うため、一時帰国した守護神・クルーンの代役として8、9回を抑え、プロ初セーブを挙げた。  だが、同26日の巨人戦では、1点リードの8回から三浦大輔をリリーフした直後、4連続長短打を浴び、三浦の2年ぶりのG戦白星を消してしまう。  先発に戻った08年も5勝12敗、防御率6.47と安定感を欠き、翌年以降は1勝もできないまま、「最後まで熱いものがなかった」と、11年のロッテを最後にユニホームを脱いだ。  高校時代に“和製ランディ”の異名をとりながら、プロでは通算1勝で終わったのが、ロッテの190センチ左腕・木村優太(本名・雄太)だ。  秋田経法大付時代は甲子園に出場していないが、素質豊かな最速144キロ左腕に12球団がこぞって注目した。  2003年春、筆者は取材で会った広島のスカウトから「今年のウチの1位は木村で決まり」と聞かされた。同郷の秋田出身のスカウトが密着しているという。  だが、同年のドラフトでは、木村はどの球団からも指名されず、東京ガスに入社したので、「広島の話は?」と首を捻ったことを覚えている。  その後、07年春に西武の裏金問題が発覚し、木村が高校時代から「栄養費」を貰っていたことが明らかになった。1年間の謹慎処分を受けた木村は、解禁後の08年の都市対抗で活躍し、ロッテに1位指名で入団する。  2年間2軍暮らしのあと、西本聖コーチとフォーム改造に取り組み、11年8月24日に1軍初昇格。同日のソフトバンク戦に7回からリリーフで初登板をはたすと、1イニングを1安打無失点に抑え、内川聖一、カブレラから三振を奪った。  だが、初勝利までの道のりはさらに遠かった。15年4月8日のオリックス戦、先発・木村は初回を除いて毎回走者を出しながらも、5回を1失点と踏ん張る。そして、0対1の5回に今江敏晃の逆転2点タイムリーが飛び出し、7年目の初勝利を手にした。 「長かった。やっと勝てたなという気持ち。アマチュア時代から気にかけてくれている人も多いので、勝てて良かった」と笑顔を見せた29歳の遅咲き左腕だったが、4月15日の日本ハム戦では、大谷翔平に2点タイムリー二塁打を浴びるなど、4回途中5失点KO。その後は結果を出せないまま、翌16年シーズン後に戦力外通告を受けた。  1軍デビュー直後にあっと驚く快投を演じながら、エースになることができなかったのが、楽天の191センチ左腕・片山博視だ。  報徳学園時代に2度甲子園に出場。打者としても高校通算36本塁打を記録した片山は、投打いずれもドラフト上位候補と注目され、05年の高校生ドラフトで楽天から1巡目指名を受けた。  1年目に肘を痛め、一時は130キロも出ない苦境を克服した片山は、08年に1軍初昇格。2度目の先発となった7月2日のロッテ戦では、「逃げない」の言葉を胸に刻み、6回1死一、三塁のピンチに、ベニー、ズレータを連続三振に切って取る。9回2死三塁も、今江を遊ゴロに打ち取り、鮮やかな3安打完封でプロ初勝利を挙げた。 「まだ実感がわかないです。1軍で勝ちたい気持ちでやってきた。この3年間はあっという間でした」と初々しいコメントを口にする21歳の若武者に、野村克也監督も「ナイスゲーム!よく踏ん張ってくれた。あの子の真っすぐはスライスする。いわゆる“真っスラ”なんだ。右打者が詰まるのはそれ」と賛辞を惜しまなかった。  だが、その後は相次ぐ故障から15年に打者転向、16年に投手復帰、さらにはトミー・ジョン手術と苦闘を続けた末、育成契約の17年を最後に退団。18年からBCリーグ・埼玉武蔵で主に野手、現在はコーチ兼野手として登録されている。(文・久保田龍雄) ●プロフィール久保田龍雄/1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。最新刊は電子書籍「プロ野球B級ニュース事件簿2021」(野球文明叢書)。
プロ野球
dot. 2023/03/12 11:30
「父をあぼんしたら…」ALS患者嘱託殺人事件の元医師の驚きの“思想” 父親殺害の裁判始まる
今西憲之 今西憲之
「父をあぼんしたら…」ALS患者嘱託殺人事件の元医師の驚きの“思想” 父親殺害の裁判始まる
京都地裁  難病の筋萎縮性側索硬化症(ALS)の患者から「安楽死」の依頼を受け、知人の医師と共謀して殺害した罪で起訴された元医師の山本直樹被告(45)が、父親への殺人罪に問われた事件。山本被告に対する裁判員裁判が1月12日、京都地裁で始まった。弁護側は、知人の医師が実行犯で、単独の犯行であると主張し、無罪を訴えた。この事件、「安楽死事件」と性質は一変し、検察側の冒頭陳述からは、父親や老人全般に対する被告らの激しい侮蔑や偏見が見て取れる。  山本被告と医師の大久保愉一(よしかず)被告(44)は、ALSの女性患者(当時51)から女性自身の殺害を依頼され、2019年11月、京都市内の女性患者のマンションを訪れ、薬物を注入して殺害したとして嘱託殺人の罪に問われている。その事件の捜査の過程で、山本被告の父、靖さん(当時77)を殺害した疑いが浮上し、山本被告と共謀したとして大久保被告と、山本被告の母親の淳子被告(78)も殺人罪で起訴された。  ALSの女性患者への嘱託殺人事件は裁判員裁判にならないこともあり、靖さんの事件の裁判とは分離された。 靖さん殺害事件の初公判で山本被告は、検察側の起訴内容について、 「私は母親や大久保被告と共謀して父を殺害したことはありません」  と否認し、無罪を主張した。 山本直樹被告(ツイッターから)  検察側は冒頭陳述で、山本被告らの犯行の詳しい経緯などについて述べた。  まず、動機について。検察は、靖さんが長く精神疾患を患い、入退院を繰り返していたことで、山本被告や淳子被告は約30年間、苦しい状況だったとした。そこで、山本被告の知人の大久保被告とともに「厄介払いのため、殺害を計画した」とした。  検察は、3被告が殺意を持っていた証拠として、3人がやりとりした150通のメールすべてを証拠として開示した。 「厄介」とされる靖さんのことを、「くそじじい」「ぼけじい」「粗大ごみ」などと誹謗し、「あぼん(死なす、殺すといった意味)」といった隠語を使って、 「父をあぼんしたら、普通の家庭」 「いい加減あいつ(靖さん)をあぼんしないと」 「医療従事者が(靖さんを)長生きさせている。早くあぼんさせてくれ」 「あぼんの目的達成のため、寿命を縮める最後のチャンス」  などと殺意を示すようなやりとりが交わされていた。  そして、11年3月5日。山本被告と淳子被告は、長野県の精神科の病院に入院していた靖さんを、神奈川県の病院に転院させるとの理由で連れ出し、新幹線で大宮駅(埼玉県)に到着すると、車いすの靖さんをレンタカーで東京都江戸川区内のアパートに運び込み、そこに合流した大久保被告が「靖さんに薬液を投与して殺害した」(検察)。  靖さんを殺害後、淳子被告は偽造された死亡診断書を役所に出して火葬許可書を入手。犯行前から近くの葬儀場や山本被告らが宿泊するホテルなども手配しており、殺害の5日後の3月10日に火葬したとした。数日後には、 「化け物(靖さん)さらばじゃ」  とのメールもあったという。  その後、4月22日、山本被告はタイなどを経由して、アフリカ南部の国、エスワティニ(旧スワジランド)に行き、空港近くに靖さんの遺骨を埋めたとされる。その時の現地の写真もメールで送っていた。遺骨を埋めるためだったのか、パームツリーのような木の下で、赤い土を掘っている様子が写っていた。  検察側は、犯行の3日前に、「ゴールは近い」と靖さん殺害の決意をメールしている点や、犯行の直前に、大久保被告が山本被告に、車いすに人が乗ったまま運べる車を手配できるレンタカー会社のURLなどを送り、 「(新幹線は)大宮駅がちょうどいい。高崎駅まで迎えに行ってもいいが」  と具体的に提案している点などを踏まえ、 「事前にアパートやレンタカー、車いすを予約するなど、綿密な計画を立てて実行した」 「入院していた病院での診察記録などから、靖さんが病死や自然死することは考えられない」  などとして、3人が共謀して犯行に及んだと指摘した。 大久保愉一被告(ブログから)  一方の山本被告。  弁護側は冒頭陳述で、検察とは違う展開を述べた。 「山本被告と淳子被告は靖さんを連れ出して計画を実行しようとしました。しかし、新幹線の中で考え直し、中止することにして、大久保被告もそれに同意しました」 「新幹線の車中で(何らかの薬で)靖さんをぐったりさせるのが山本被告の役目でしたが、中止したのでしませんでした」 「靖さんをアパートに連れて行った時でした。山本被告と淳子被告の2人が目を離した間に、大久保被告が殺害してしまったのです。その場には山本被告も淳子被告もいない、大久保被告の単独犯。こんなことがあるのかと思われるでしょうが、これが現実なんです」 「大久保被告は、高齢者や障がい者は何ら価値がなく、長生きさせる方がおかしいという考えの持ち主です。大久保被告が自分の判断でやった犯行です」  などと主張し、当初の殺害計画は中止したため山本被告に殺意はなく、犯行現場にもいなかったと、無罪主張の根拠を述べた。  しかし、大久保被告が殺害したために、その後の計画を復活させ、警察への通報は避けて、死亡届の入手と火葬へと動いたとした。  検察、弁護側両者の冒頭陳述では、靖さんを殺害するまでの経緯は食い違うが、大久保被告が実行犯であるという点は一致している。  検察が主張した、大久保被告の薬液注入による靖さん殺害事件。この事件が発覚するきっかけとなった、ALSの女性患者の嘱託殺人事件についても、山本被告と大久保被告が、なんらかの薬物を投与して殺害したとされる。  この両被告は以前、電子書籍で共著の本を出版した。そのタイトルは、「扱いに困った高齢者を『枯らす』技術:誰も教えなかった、病院での枯らし方」。  本の説明書きには、 「証拠を残さず、共犯者もいらず、スコップや大掛かりな設備もなしに消せる方法がある。医療に紛れて人を死なせることだ」 「入院中の病室で普通にあるものを使えば、急変とか病気の自然経過に見せかけて患者を死なせることができてしまう」  などと書かれている。  それを実践したのが、靖さんやALSの女性患者の事件だったのだろうか。  靖さんの事件では、遺体が検視も司法解剖もされずに火葬されており、「遺体なき殺人事件」だ。  異例ずくめの裁判は、淳子被告の初公判が2月13日の予定で、大久保被告の日程は決まっていない。山本被告は、2月7日に判決が言い渡される予定だ。 (AERA dot.編集部 今西憲之)
dot. 2023/01/13 17:21
【週刊朝日・あの現場はいま(5)】「勝手踏切」侵入で書類送検された 山添拓参院議員と「撮り鉄」の現状
【週刊朝日・あの現場はいま(5)】「勝手踏切」侵入で書類送検された 山添拓参院議員と「撮り鉄」の現状
秩父鉄道の「勝手踏切」  2021年9月、日本共産党の論客で“撮り鉄”として知られる山添拓参院議員が、鉄道営業法や軽犯罪法の違反容疑で書類送検された。20年11月にプライベートな鉄道撮影を目的に訪れた埼玉県長瀞町で、秩父鉄道を横切る“勝手踏切”を横断したためだ。  勝手踏切とは、鉄道事業者が設置した踏切ではなく、地域住民らが慣例的に通行している非正規の踏切だ。国土交通省が21年に調査したところ、全国に約1万7千カ所あることがわかった。鉄道ライターが解説する。 「踏切以外の場所で線路を渡るのは鉄道営業法で禁止されています。さらに運行に支障が生じた場合は、刑法の往来危険罪に問われる場合もあります。ところが、現実的には地域住民が自由に利用している“生活歩道”なのが現状です。神奈川県の江ノ島電鉄では、津波や土砂崩れといった災害時の避難路として機能している箇所もあるため、杓子定規に否定できないのも見逃せません」  国交省の調査によると、最多は愛媛県の1031カ所、次いで長野県の872カ所、新潟県の825カ所の順だ。山添議員が渡ったという秩父鉄道は「管内で19カ所」としている。  山添議員は自身のツイッターで「軽率な行為だったと反省しています」「地域住民によって道がつけられ、水路に渡し板がかけられていた箇所を、列車が接近していない時間帯に、通行可能な道であるという認識のもとに、約1秒程度で渡りました」「今後、二度とこのようなことのないようにいたします」と3連投で謝罪している。 SL目当ての「撮り鉄」  その現場はどこにあるのだろうか。この“事件”を報道した各紙は、現場を特定するのに難儀した模様だ。正式な踏切ではないため、警告灯もなければ遮断桿もない。実際、読売新聞の記事は「樋口駅の東」とし、東京新聞では「樋口駅の西」とあった。そこで筆者が現場を訪ねてみると、読売新聞が指摘したとおぼしき場所に「渡り板」はなく、東京新聞が記述した場所にはあった。  秩父鉄道運輸部に問い合わせたところ、「細かい場所は公表していません」としながらも、「樋口駅と(西隣の)野上駅の間」と教えてくれた。どうやら東京新聞が正しかったようだ。  秩父鉄道は蒸気機関車「SLパレオエクスプレス」を運行していることでも有名だ。風光明媚な場所を大迫力のSLが駆け抜けるとあって、全国の“撮り鉄”たちを引き寄せる。その一人に話を聞くと、「ここは秩父署が重点的に巡回している場所で、山添議員だけではなく、過去に何人も検挙されている、いわば名所なんです」とのこと。  山添議員はその後、21年9月30日付で不起訴処分になっているが、正規踏切外での鉄道横断は避けたいものだ。※週刊朝日  2023年1月6-13日合併号
週刊朝日 2023/01/09 11:30
ドラマ「相棒」の撮影の舞台となった大学はどこ? 全国「ロケ地大学」ランキング
ドラマ「相棒」の撮影の舞台となった大学はどこ? 全国「ロケ地大学」ランキング
「相棒」が撮影された川村学園女子大学の学長室(提供:川村学園女子大学)  10月20日、川村学園女子大の公式ツイッターでこんな告知がなされていた。 「#相棒21 第1話・第2話の #ロケ地 として、#川村学園女子大学 我孫子キャンパスの学長室と食品加工実習室準備室が使われました」  たしかに、テレビ朝日系ドラマ「相棒」(10月12日放映)の最終シーン、エンドロールには出演者、スタッフ、協力企業などが並び、撮影地として「川村学園女子大学」が登場していた。  番組を見た同大学OGが教えてくれた。 「キャンパスは『相棒』の撮影に何度か使われています。でも、今回どこがロケ地になったのか、わかりませんでした。まさか学長室とは。学生時代には入ったことがなかったので、『相棒』で初めて知りました」  川村学園女子大は昨年冬も「相棒」のロケ地になった。大学は次のように告知している。 「川村学園女子大学 我孫子キャンパスのグラウンドが12月15日放送のテレビ朝日ドラマ『相棒』のロケ地になりました。当日は水谷豊さんと反町隆史さんもいらっしゃいました」(大学ウェブサイト 2021年12月16日)  この年からさかのぼること8年前にも、同大学で撮影があった。なるほど「相棒」にとって、 川村学園女子大は良き相棒らしい。 「相棒」は2000年に2時間ドラマとしてスタート、2002年から毎年、秋から春にかけて放映されており、今年で21シーズン目に入った。毎回、高い視聴率を誇る。  各大学のウェブサイト、ツイッター、フェイスブックで紹介された「相棒」撮影のいわば備忘録をいくつか紹介しよう。  麗澤大は番組内容までしっかり案内した。 「テレビ朝日系の人気ドラマ『相棒』の新シリーズ(シーズン16)が、10月18日(水)からスタートしました。放送日時は毎週水曜日の午後9時からです。このドラマは、警視庁内の『特命係』に所属している警部・杉下右京(演:水谷豊さん)が、相棒の冠城亘(演:反町隆史さん)と共に難事件を解決する刑事ドラマです。右京と亘のコンビも今回のシリーズで3年目を迎え、二人の関係の行方がますます楽しみな作品となっています」(2017年11月9日) 川村学園女子大学我孫子キャンパス(提供:川村学園女子大学)  関東学院大は、前後編の2話分あった。大学の良い宣伝につながると思ったようだ。 「放送中のテレビ朝日『相棒 season18』の第8話『檻の中 前篇』、第9話『檻の中~告発』の撮影が、関東学院大学の横浜・金沢八景キャンパスで行われました。ぜひご覧下さい」(2019年12月4日)  この回では、東京電機大が作った小道具が使われている。同大学が誇らしげに伝える。 「テレビ朝日の連続ドラマ『相棒 season18』に、理工学部ヒューマノイド研究部が協力しました。同研究部が製作したロボットを小道具として提供し、12月4日(水)と12月11日(水)の2回にわたり放送されます」(2019年12月4日)  城西大現代政策学部はフェイスブックでこう報告した。 「遠目で分かりにくいかもしれませんが、教室でドラマの撮影が行われていました。城西大学はよくドラマのロケで使われています。3月に終わったドラマ『相棒』の最終回のロケ地も本学で、清光会館も使われていました」(2019年5月11日)  日本大理工学部は事前告知である。テレビ局にとってはありがたい。それとも、番組情報が漏れて、かえって困惑していただろうか。 「3月18日(水)夜8時から放送予定のドラマ『相棒season18』最終回スペシャルの撮影に、応用情報工学科が協力しています。放送前のため、詳細についてはお伝えすることが出来ませんが、皆さん是非ご覧ください」(2020年3月16日)  埼玉県立大では撮影協力番組の一覧表でこう触れている 「公開年月/2018.12、作品/『相棒 season17』、主な使用施設/共通施設棟・講堂 南棟廊下・食堂、主な出演者 水谷豊 反町隆史」。  ほかに、「相棒」は全シーズン、映画(劇場版)をとおして、宇都宮大、埼玉大、埼玉県立大、駿河台大、武蔵大、東京薬科大、目白大、立教大などで撮影が行われている。 大学のテレビドラマ・映画ロケ地協力件数ランキング  朝日新聞出版「大学ランキング2023」では、テレビドラマ、映画のロケ地ランキングを掲載している。1位は 埼玉県立大だった。  最近では映画「夏への扉-キミのいる未来へ-」(2021年)、ドラマ「ミス・ジコチョー~天才・天ノ教授の調査ファイル~」「ランウェイ24」「盗まれた顔~ミアタリ捜査班~」(以上、2019年)の撮影が行われている。  同大学では、撮影の施設使用について、ウェブサイトでこんな説明をする。 「撮影による施設使用は、学内行事のない土・日・祝日、又は授業期間外の夏季休業期間中(8月上旬~9月下旬)、春季休業期間中(2月中旬~3月下旬)としています。また、撮影内容その他によっては、使用を許可できない場合がございますので御了承ください。撮影使用料(1時間当たり)、ムービー撮影(映画、ドラマなど) 40,744円(税込)」  同誌、ロケ地ランキング24位で、「相棒」の撮影にも使われた明星大は撮影を歓迎するような告知をしている。 「このたびは本学での撮影をご検討いただき誠にありがとうございます。本学では教育・研究その他本学の業務等に支障のない範囲で、また撮影に使用された旨を本学の広報媒体に使用させていただける場合について、撮影にご協力いたします」(大学ウェブサイト)  同大学では撮影許可条件を次のように記している。 *本学の業務、教育・研究・課外活動等に支障がないこと。 *本学の業務等に支障を及ぼさない時間、場所及び撮影方法であること。 *撮影内容が本学の信用・イメージを損なうものでないこと。 *公序良俗に反しないこと。 *撮影に要する備品・電源等は、撮影者側で用意すること。 *施設はすべて現状貸しとし、撮影現場の原状復帰は撮影者側が責任をもって行うことを誓約すること。 *「撮影協力:明星大学」等のクレジット表記を行うこと。 *撮影が行われた旨の告知を本学ウェブサイト・SNS等で行うことを承諾すること(公開日・内容については別途協議を行う)。(大学ウェブサイト)  このなかで「撮影内容が本学の信用・イメージを損なうものでないこと」「公序良俗に反しないこと」は具体的にどのようなものだろうか。  ロケが行われているある大学の関係者に「撮影NG」についてたずねたところ、(1)教職員、学長、学生がセクハラ、傷害、殺人に関与する、(2)大学ぐるみで不正を行う、大学が倒産する、(3)大量殺人やテロのような犯罪の舞台となる――こんな内容は許可できないそうだ。人間愛、有名企業や偉人のサクセスストーリーを描いた話は歓迎されるようだ。  刑事ドラマの場合、殺害現場ではなく、登場人物が散策したり談笑したりする場として緑あふれるキャンパス、近代的な建物や学長室がよく使われる。 川村学園女子大学我孫子キャンパス(提供:川村学園女子大学)  ドラマ、映画の撮影に使われる大学にはいくつか特徴がある。都市部からそれほど離れていない(車で2時間以内)。緑が多く、近代的な建物がそびえ、おしゃれな施設がある。また、俳優やスタッフの送迎、撮影機材の運搬に大型の自動車やバスが使われるため駐車場のスペースが十分にあることだ。そして、撮影にあたって見学者が押しかけないことも重要だ。 川村学園女子大学我孫子キャンパスの桜並木(提供:川村学園女子大学)  そういう意味で、冒頭に紹介した「相棒」の相棒、川村学園女子大はロケーション、雰囲気などぴったりで、テレビ業界では撮影に向いている大学として知られている。なかでもフジテレビ、テレビ朝日系が多い。いくつか紹介しよう。 「8月18日(水)放送の刑事7人において川村学園女子大学で撮影されたシーンの放送がありました。撮影当時は東山紀之さんもいらっしゃいました」(2021年8月19日) 「川村学園女子大学 我孫子キャンパスはテレビ朝日ドラマ『特捜9』(5月19日放送第7話)のロケ地になりました。撮影当日は井ノ原快彦さんもいらっしゃいました」(2021年5月20日) 「川村学園女子大学 我孫子キャンパスはフジテレビ新春ドラマ『教場2』のロケ地になりました。木村拓哉さんをはじめ目黒蓮さんや福原遥さんなどたくさんの俳優さんが3日間にわたりいらっしゃいました。音楽室・図書館・庭園・廊下などが撮影に使用されました」(2021年1月5日) 「川村学園女子大学 我孫子キャンパスは土曜プレミアム『4つの不思議なストーリー~超常ミステリードラマSP・最後の買い物』のロケ地となりました。大教室・図書館・中庭が撮影に使われました」(2020年12月27日) 「川村学園女子大学 我孫子キャンパスは、フジテレビ1月期ドラマ『知ってるワイフ』のロケ地になりました。2021年1月7日(木)夜10:00~から放送が始まり、大学時代の回想シーンとしてたびたび映ることになります。皆様ぜひ見てくださいね」(2020年12月18日)   川村学園女子大学我孫子キャンパス(提供:川村学園女子大学)  川村学園女子大事務部の熊谷憲輝さんは、ドラマの撮影に使われることについて次のように話してくれた。 「『相棒』が多いのはたまたまだと思います。我孫子キャンパスの正門から校舎まで一直線でつながっているメインストリートは、緑が多くとても美しい風景で和ませてくれます。校舎は扇形の変わったデザインで目を引きます。こうした環境、施設がドラマに合っているのでしょう。また、建物には長い廊下があり、これもドラマのさまざまなシーンで求められているようで、よく使われます」  大学として心がけていることをたずねた。 「新型コロナ感染拡大の時期なので、使用した施設の消毒やスタッフの検温・マスクの着用などはテレビ局と相談して進めました。卒業生が『大学が映っていたね』と職員に連絡をくれることがあります」  キャンパスがドラマの撮影に使われたことによって、受験生の関心が急に集まるというわけではない。しかし、在校生や教職員、卒業生の愛校心を高めてくれる。そして、撮影協力、という文化的な社会貢献を果たすことにもなる。  ドラマのエンドロールで大学名が出てきたら、ぜひチェックしておきたい。わが街の大学でドラマに登場するすてきな施設を知っておこう。 (文/教育ジャーナリスト・小林哲夫)
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dot. 2022/11/23 17:00
意外! 全くその球団いたイメージなし 一流選手が晩年にプレーした“最後の働き場所”
久保田龍雄 久保田龍雄
意外! 全くその球団いたイメージなし 一流選手が晩年にプレーした“最後の働き場所”
現役最終年は西武でプレーした清水隆行(OP写真通信社)  FAやトレードの話題で賑わうシーズンオフ。働き盛りの選手が新天地でさらなる活躍を目指す一方で、チーム構想から外れたベテランがもうひと花咲かせようと、“最後の働き場所”を求めるケースも多い。  だが、主力として長く在籍していたチームのイメージが強いあまり、中には現役最終年にどのチームでプレーしていたか、印象が薄い選手も存在する。  今オフ、ロッテの新監督に就任した吉井理人もその一人だ。  ドラフト2位で入団した近鉄を振り出しに、ヤクルト、メッツ、ロッキーズ、エクスポズ、オリックス、ロッテと日米7球団に在籍した“球界渡り鳥”も、最後のロッテ時代を覚えているファンは、そう多くないはずだ。  それもそのはず。吉井は現役最終年の2007年はオリックスで開幕を迎え、4月25日の楽天戦では、24歳年下の高卒ルーキー・田中将大に投げ勝っているので、「吉井の最後の所属球団はオリックス」と錯覚しやすい。  実は、この楽天戦が、同年の吉井の唯一の白星だった。10試合で1勝6敗、防御率5.75と結果を出せず、コリンズ監督から中継ぎ降格を命じられた吉井は、あくまで先発にこだわり、移籍を希望して2軍で調整を続けていた。  そんな矢先、メッツ時代の指揮官でもあるロッテ・バレンタイン監督が「さまざまな局面をくぐり抜けてきた投手」と評価して獲得に動く。  6月25日の横浜戦で、久保康友が左手甲に打球を受けて骨折し、代役の先発候補を緊急補強しなければならないチーム事情もあり、同28日に平下晃司との交換トレードで、ロッテ・吉井が誕生した。  だが、7月5日の古巣・オリックス戦で移籍後初先発した吉井は、2点リードの2回に連打で5点を失い、5回途中で降板。同12日の西武戦も初回にKOされるなど、4試合で0勝3敗、防御率13.14と期待に応えることができなかった。シーズン後の10月27日に戦力外通告を受け、ロッテ在籍はわずか4カ月で終わりを告げた。  その後、近鉄時代にバッテリーを組んだ日本ハムの梨田昌孝監督から1軍投手コーチの要請を受け、現役を引退して指導者の道に進む。  19年からロッテのコーチに就任し、佐々木朗希を育成した実績などから、来季は新監督に。これも現役最終年に在籍した“ご縁”が生きたと言えるだろう。  巨人の“攻撃型2番打者”として10年以上レギュラーを張りつづけた清水隆行も、現役最終年に西武でプレーしていた事実は、ともすれば忘れられがちだ。  08年、入団以来最少の41試合出場に終わった清水は「もう一度一線で勝負してみたい」と出場機会を求めて、西武に金銭トレードで移籍した。  入団会見で「埼玉は高校(浦和学院)、大学(東洋大)と7年間お世話になった場所ですから、一生懸命ボールを追いかけ、バットを振っていたころを思い出して全力でプレーしたいと思います」と誓った清水は、登録名も「崇行」に変えて心機一転09年の新シーズンに臨む。  春先に右足太ももを痛め、思うようにオープン戦に出場できないなど、移籍早々試練に見舞われるも、4月3日の開幕戦、ロッテ戦でいきなり3打数3安打。同9日のオリックス戦でも、移籍1号の右越え3ランを含む5打数3安打3打点と、新天地でも“攻撃型”をアピールした。  だが、好調は長続きせず、出場44試合、打率.208、1本塁打、7打点に終わると、清水は「巨人と西武で過ごした14年間は、夢のような時間だった。一生の宝物。よくやったと自分に言える」と納得してユニホームを脱いだ。  1年間の評論家生活を経て、11年からコーチとして巨人に復帰しているので、なおさら、西武にいた印象が薄れている感もある。  現役最終年は育成選手だったことから、中日に在籍していたことをあまり知られていないのが、多村仁志だ。  横浜時代の04年に40本塁打を記録し、ソフトバンク時代の10年にもチーム三冠に輝いた通算195本塁打の右の大砲も、古巣・DeNA復帰後はチームの若返りに伴って年々出番が減少。15年は出場4試合、0本塁打に終わり、戦力外通告を受けた。  すでに38歳になっていたが、現役続行を望んだ多村は、トライアウトは受験しなかったものの、横浜時代の先輩・谷繁元信が監督で、唯一オファーのあった中日に背番号「215」、年俸300万円の育成選手として入団する。  中日は07年にも育成選手で入団した中村紀洋が日本シリーズMVPに輝き、日本一に貢献した実績があり、多村も“第2の中村を目指す!”を目標に1日も早い1軍昇格を目指した。球団も早い段階での支配下登録を考え、交流戦でのDH起用が有力視されていた。  だが、春季キャンプ中に右足肉離れを発症。シーズン開幕後も5月下旬に故障が再発し、離脱中に支配下登録期限の7月末を過ぎてしまう。これまで何度もけがに泣き、「けがさえしなければ、球史に残る大選手になっていたのに……」と惜しまれた多村は、現役最終年もけがが付いて回った。 “最後の夢”を絶たれた多村は「若い選手のお手本になろう」と2軍で最後までプレーを続け、10月1日に戦力外通告を受けると、現役引退を発表。「やりきった感がある。22年間、いいプロ野球人生を送れました」と完全燃焼して現役生活に別れを告げた。(文・久保田龍雄) ●プロフィール久保田龍雄/1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。最新刊は電子書籍「プロ野球B級ニュース事件簿2021」(野球文明叢書)。
プロ野球
dot. 2022/10/29 18:00
恐怖の「貞子」がコメディエンヌ化した理由 呪いは達成?「リング」原作者の驚きの計画とは
大谷百合絵 大谷百合絵
恐怖の「貞子」がコメディエンヌ化した理由 呪いは達成?「リング」原作者の驚きの計画とは
渋谷のスクランブル交差点に大量発生した貞子たち。逃げる者、苦笑いして遠巻きに見つめる者、恐る恐る近づいてくる者……。周囲の反応はまちまち。KADOKAWA提供  長い黒髪を前に垂らした女がテレビからはい出てきて、見る者を呪い殺す。1998年公開のホラー映画「リング」で、人々を恐怖のどん底にたたき落とした貞子。シリーズを重ねるたびにおぞましさは増すばかり……のはずが、どうも様子がおかしい。今年10月公開の新作を含め、貞子がコメディエンヌの顔を覗かせているのだ。  異変の始まりは、2012年公開の「貞子3D」だった。制作陣の「シンプルに、3Dで貞子が飛び出したら怖いよね?」というアイデアから生まれた本作。スマホや街頭ビジョンなど画面という画面から襲ってくる貞子の無双っぷりや、石原さとみ演じる主人公が鉄パイプ片手に戦うアクションシーンは話題を呼んだ。  だがそれ以上に世間をざわつかせたのが、宣伝活動だ。50人以上の貞子が東京・渋谷のスクランブル交差点に突如現れて行進した「渋谷ジャック」や、人気キャラクター「ハローキティ」とのコラボ。果てはプロ野球の始球式まで参戦したが、一球投げると力尽きてその場に倒れた。  自由の翼を手に入れた貞子の飛躍は、その後も止まらない。16年には、「リング」とともにジャパニーズホラーの双璧を成す「呪怨」とタッグを組み、映画「貞子vs伽椰子」で化け物同士の頂上決戦が実現。今年3月5日(貞子の日、ちなみに仏滅)には、YouTubeチャンネル「貞子の井戸暮らし」を開設した。工場でバイトデビューをしたり、エクササイズで脂肪を“成仏”させたり、貞子の日常をゆるーく紹介している。 「貞子3D」以降のシリーズの制作を担うのは、KADOKAWA文芸・映像事業局の今安玲子プロデューサー。これまでで最も印象深い取り組みについて尋ねると、感慨深げに「やはり始球式ですね」と振り返った。 「やるべきかどうかは悩みました。でもまあ、貞子を連れて(東京ドームがある)水道橋に行ってみるかと(笑)。式の後、みんなで中華屋に行って、お店のテレビで夜のニュース番組をチェックしてたんですけど、エンタメコーナーに取り上げてもらえていなくて。『まあ、芸能人じゃないし取り上げないよね』ってぶつぶつ言ってたら、その後のスポーツコーナーに出たんですよ。そこからネット上にアップされた始球式動画の再生回数がすごく伸びて。批判はなく、むしろ貞子を怖がっていた人との溝を埋められた手応えがありました。それで、堂々とキャラクターとしての貞子を売っていく方針が固まったんです」 サンリオの「ハローキティ」とコラボした、メルヘンな貞子。(C)2022 SANRIO CO., LTD. APPROVAL NO. L634602  一方で、今安さんは「3Dを制作する前から、貞子というキャラクターは一人歩きしていた」とも話す。 「バラエティー番組に出たり、いろんな方がパロディー化したり、愛される存在としての土壌はできていたんです。好き放題やっているように思われるかもしれませんが、『リング』のブランドを守りつつ、みなさんに楽しんでもらえる道を模索しています。原作の鈴木光司先生は、貞子を“孝行娘”って呼んでいて。孝行娘が多くの方に育ててもらい、広い世界に羽ばたいていけるよう、親戚のおばさんぐらいの感じでサポートできればと思っています」  では、“親”である鈴木さんは、現状の娘の姿をどう受け止めているのか。本人に聞いてみた。 「これはいい感じだなあって。シリーズを長期的に続けるためには、コメディーの要素は絶対必要。ホラーだけでは飽きられちゃうからね。1998年に『リング』を見た人たちは『なんじゃこりゃ、全然ちがうじゃないか』って言うかもしれないけど、かわりにまた新しい若いファンがついてくる。これでいいと思うんだよ。新陳代謝しなくちゃ。小説版とちがって、映画シリーズにテーマや小難しい話はない。ジェットコースターに乗った気分で楽しんでもらいたいっていうのがコンセプトだな」  実は鈴木さん、元からホラーに対する興味はまったくないという。原作小説の『リング』は、映画のようなホラージャンルではなく、ミステリー作品だ。 「小説には幽霊なんか出てこない。非科学的なものが大嫌いなんで。だけど、世間に貞子が定着したのは映画のおかげだと思うから、大感謝してるよ」  それでも、「貞子を出しすぎないように」というオーダーは、新作映画がコンスタントに作られる今も一貫している。「幽霊が出た瞬間、人間の想像力はシャットダウンする。出そうな雰囲気だけを作りあげて、想像力を刺激するのが一番怖い」というのがポリシーだ。  そんな鈴木さんにも、想像して恐ろしくなるものがあるのだとか。 2012年、プロ野球・北海道日本ハムファイターズ対千葉ロッテマリーンズ戦で始球式に登場した貞子。絶対に髪の奥の素顔は見せない、完璧な投球を披露。KADOKAWA提供 「俺の場合、空想上の恐怖は数学から派生する。紀元前6世紀の偉大な数学者ピタゴラスは、無理数という存在を認識した瞬間、恐怖で頭がおかしくなっちゃうんだよ。無理数って、円周率の3.141592……みたいに、不規則な数字が永遠に続く小数のこと。さあ、我々が数直線の上を歩いているとしましょう。1だったら1で止まる。1.5だったら、もうちょっと深いとこで止まる。なのに無理数のところにきたら、すとーん。果てしない奈落がある。無理数じゃないものは実数と言いますが、無理数のほうが圧倒的に多い。ってことは、我々の歩いてる道は無理数の穴ぼこだらけなの。怖くなっただろう?」  さて、ホラー嫌いな鈴木さんから生まれ、今やコメディエンヌの素養を見出されつつある貞子だが、国内外問わず、ホラー界におけるエポックメイキングな存在であることは間違いない。ホラー作品に詳しい映画評論家・氏家譲寿さんは「『四谷怪談』以降、『リング』が日本ホラーを再定義した」と捉えている。  氏家さんによると、1980年代の日本では「13日の金曜日」に代表される、殺人鬼が出てくる残酷な映画が人気を集めていた。88年には和製スプラッターホラーの先駆けと言われる「死霊の罠」が公開されたが、東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件などを機に自主規制ムードが漂いはじめる。それでも、黒澤清が監督を務め、松重豊が殺人モンスターの警備員を怪演した「地獄の警備員」(92年)など、“血みどろ”はアンダーグラウンドで生き延びていた。いっぽう、90年代中ごろに入ると、「羊たちの沈黙」や「セブン」のようなスタイリッシュなサイコスリラーが一世を風靡するように。そんななかで、「リング」が放たれたのだ。  幽霊によって驚かすのは、日本ホラーの原点である「四谷怪談」的な恐怖に立ち戻ったといえる。だがそれだけでなく、圧倒的に異様なビジュアルと動きの貞子を登場させることで強烈なインパクトを出したのが、氏家さんが考える「リング」の一番の功績だ。  思わず椅子から飛び上がるようなドキッとする恐怖演出は“ジャンプスケア”と呼ばれる。「『死霊館』シリーズなど、2000年以降の海外のホラー作品で幽霊が出てくるジャンプスケアものは、少なからず『リング』の影響を受けていると思います」(氏家さん)。 YouTubeチャンネル「貞子の井戸暮らし」で、エクササイズする貞子。まずはテレビから出て、片腕ずつワンツーワンツーと上下させると、きれいな二の腕が手に入るらしい。  恐怖100%の存在だった貞子が人々に親しまれつつある現象については「ホラーキャラクターは、作品のシリーズ化が進むにつれ愛される傾向があります」と解説する。 「『13日の金曜日』のジェイソンも『エルム街の悪夢』のフレディも、『あのマスクの人ね、火傷の人ね』と、どこかクスリと笑える存在になっている。行動パターンがわかると水戸黄門的な安心感が生まれるし、バックボーンを知ると愛着も湧くものです」  昨今の貞子がまとうコメディーの雰囲気が如実に表れているのが、10月28日に公開されるシリーズ最新作「貞子DX」だ。恐ろしいシーンもあるのだが、どこか笑いを誘う愉快なムードが通奏低音になっている。  メガホンをとった木村ひさし監督は、映画のコンセプトについて「今までよりもポップな感じで」とオーダーを受けたと明かす。 「僕、1作目の『リング』を映画館で見ているんですけど、こりゃ家で一人で見るのはだめだと思うくらい恐ろしかった。でも今作は驚かす系の怖さに寄せて、お客さんが恐怖を引きずったまま映画館を出ないように作りました。Twitterで、『怖いのは苦手だから見ない』っていうメッセージももらうんですよね。僕としてはそんなこと言わないで見てって言いたいんだけど、全く怖くないわけではないから、『まあでも面白いと思うよ』みたいな(笑)」  初めて「リング」シリーズに挑んだ木村監督は、映画を撮るなかで貞子に対する眼差しが変わったそうだ。 「怖いっていうよりもちょっと悲しい感じがしました。出演した女性が、できあがった作品を見て泣いちゃったんですよ。『貞子は呪った相手を頑張って追いつめても、その人が“あること”をした瞬間、自分から井戸の底に飛び込んでしまう。何度も井戸から這い上がっては落ち、這い上がっては落ちを繰り返してるのが切なかった』と言ってました。実際に襲われるのは嫌ですけど、自分の近くにさえいなければ、貞子ってそんなに悪いやつじゃないんじゃないかなと思います」 シリーズ最新作「貞子DX」のポスター。(C)2022『貞子 DX』製作委員会 「実は悪いやつじゃない貞子」とは斬新な切り口だが、原作者の鈴木さんが思い描いている貞子像はさらにその上を行く。長年温めている映画のタイトルは、なんと「貞子 the ミュージカル」だ。 「映画『ラ・ラ・ランド』を100回ぐらい見てて、あの世界を作りたい。50人の貞子がキレッキレのダンスをして出てきたら壮大よ。元々、貞子は女優志望の素晴らしい美人の設定なの。小説を書いたときイメージしてたのは鈴木保奈美。だから物語は劇団を舞台にして、貞子は最終的にミュージカル女優になる。みんなびっくりするだろうね。エンターテイメントでは、固定観念が破壊されたときが一番面白いんだから。さらに次の作品は、貞子が世界を救う話。悪霊が出てきて、『今だ貞子、お前の出番だ!』って言うと、正義の味方・貞子が退治してくれて……」(鈴木さん)  貞子はまだ当分、世の中の注目を集め続けそうだ。そういえば、前出の氏家さんは、ポロリと怖いことを口にしていた。 「呪いのビデオを見たら他の人に見せなきゃいけないように、貞子の本懐って“自己増殖”なんです。今、日本では、『リング』を見たことがなくても、ほとんどの人が貞子を知っている。自分の存在を広めたいという貞子の目的は、現実世界で達成されつつあるんですよね」 (本誌・大谷百合絵) ※週刊朝日オリジナル記事
ホラーリング映画木村ひさし貞子貞子 DX鈴木光司
週刊朝日 2022/10/13 11:30
「九州3児死亡」事件の被告が元ヤクザの牧師に明かした本心 わが子を殺した容疑の被告を支援する理由
國府田英之 國府田英之
「九州3児死亡」事件の被告が元ヤクザの牧師に明かした本心 わが子を殺した容疑の被告を支援する理由
元暴力団組員で、現在は「罪人の友 主イエス・キリスト教会」牧師の進藤龍也氏  福岡県内などで養子の男児を虐待死させ、実子2人を殺害した罪に問われている田中涼二被告(43)に、ある牧師が面会を重ね、証人として裁判に出廷している。田中被告は過去に牧師から更生の手助けを受けたものの、借りた金すら返さないまま姿を消した。“裏切り”を受けた牧師は、なぜまだ田中被告を支援するのか。その根底には「罪から目をそらしたままにはさせない」という強い思いがあった。 *  *  * 田中被告をサポートしているのは「罪人の友 主イエス・キリスト教会」(埼玉県川口市)の進藤龍也牧師(51)である。進藤さんは元暴力団組員で、服役中に聖書と出会い33歳で洗礼を受けた。暴力団から足を洗おうと教会にやってくる組員や、元組員らの更生の手助けを続けている。  福岡県に本部がある暴力団の構成員だった田中被告が、進藤さんの教会を訪れたのは9年ほど前のこと。更生を目指していた別の元組員に連れられてきた。その時はキリスト教には興味を示さなかったが、解体現場の仕事を紹介すると、しばらく続けたという。  当時の田中被告の様子を進藤さんはこう語る。 「涼二は足を洗いたいと言いつつも、ヤクザが抜け切れていませんでした。僕にはよく懐いてきたのですが、他にはふんぞり返った態度でね。教会には、涼二とは違う組の元ヤクザたちが何人も来ていましたから、なめられたくないと思ったのでしょう。涼二は妻(当時)にも暴力をふるっていました。私たちの目の前で手をあげ始めて、止めに入ったこともありましたね」  ある時、周囲に悪態をついた田中被告を進藤さんが注意したところ、逆切れして出ていき、そのまま音信不通になった。  だが、数カ月たったある日、田中被告が再び現れた。 「女房に逃げられて言えた義理じゃないけど、金を貸してほしい」  聞けば、妻が大阪の実家に逃げ帰ってしまい、話をしに行きたいのだという。 「7万円を貸したのですが、その後、一切連絡は来ませんでした。解体現場の社長からもまとまった金を借りて、ギャンブルに使っていたこともわかりました。今思えば、大阪にも行かずギャンブルに使ったのかもしれません」(進藤さん) 福岡県警に移送される田中涼二容疑者(当時)=2021年4月  その半年後、田中被告は、またも進藤さんのもとにやってきた。 「九州に帰るから金を貸してほしい」  申し訳なさそうな態度ではあった。 「連絡もしてこない人間に、何度も金は貸せません。ただ、僕もそこまで鬼にはなれないので、近所の中華料理屋に連れて行ってご飯を食べさせました。どこでなにをしていたのか知りませんが、よほど空腹だったのでしょう。がばがば食べていましたよ」  進藤さんは500円硬貨を渡し、バスで市役所に行って生活保護の手続きをとるように伝えた。  だが、やはりというべきか、その後は音信不通に……。  8年ほどの月日が過ぎたころ、福岡県と鹿児島県のホテルで子ども3人の遺体が見つかった事件の容疑者として、田中被告が逮捕された。実子を殺害したホテルには田中被告が書いた遺書が残され、無理心中を図ろうとした末の犯行だった。田中被告はホテルの4階から飛び降りたが、一命をとりとめ子どもの後を追えなかった。  どれだけ本気だったかは定かでないが、一度は更生を目指した田中被告が凶悪事件の容疑者になった。進藤さんはクリスチャンである妻とともに、福岡へ面会に行った。 「生きていてもしょうがない」「死にたい」  再会した田中被告の表情はうつろで、その言葉には、自らが犯した罪と向き合う姿勢はなかった。  進藤さんは問うた。 「で? 死んでどうするんだ?」 「……」  田中被告の答えはなかった。  進藤さんは妻とともに面会や手紙のやりとりを重ね、聖書を説き、田中被告に問い続けた。 「殺した子どもたちとあの世で再会したとき、何も変わっていない父がそこにいるのか。犯した罪を見つめ、悔い改め、生まれ変わった父がそこにいるのか」 「死刑になってすべてを終わりにしたいと願ったり、罪から目をそらしたま刑務所で過ごすことを償いとは呼ばない」  進藤さんによると、田中被告は幼少期から両親の愛情に恵まれなかった。父からは日常的に暴力を受け、母はそれを止めなかった。中学に入ると荒れた生活を送るようになり、両親はその後自殺した。最初の妻の父が暴力団構成員で、その父に誘われて組に入った。 無期懲役求刑の後、田中被告から進藤牧師に送られてきた手紙。画像の一部を加工しています。(提供=進藤牧師)  進藤さんは幼いころの田中被告を思い、こう考えを話す。 「生まれながらの悪人というのは、僕はいないと思っています。涼二も、助けが必要な時に誰も助けてくれなかった。組に入るときも止めてくれる人がいなかった。誰かが守ってくれれば、ここまで道を踏み外さないチャンスはあったんじゃないか。だからこそ、心の奥底にある良心を引き出し、罪と向き合わなければいけない。死んで責任を取りたいという気持ちもわからないではないが、それは一瞬の苦しみであり、楽な道だと思っています」  9月30日に行われた裁判で、検察側は無期懲役を求刑した。そのあとに送られてきた田中被告の手紙にはこうあった。 「生きて罪を償わなくてはいけない、それが子供たちへの償いになる」  かつて裏切るように姿を消した田中被告への支援。  それは子ども3人の死から目を背けることを許さず、償いを続けながら生きるという、より苦しい道へと導いたということでもある。  一審判決は、10月11日に言い渡される。(AERA dot.編集部・國府田英之)
dot. 2022/10/10 11:30
世間を賑わせた22人の「その後」を長期取材。意外な真実やドラマが浮かび上がる!
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『人生はそれでも続く (新潮新書)』読売新聞社会部「あれから」取材 新潮社  新聞などで取り上げられるニュースは、ある出来事や人物の「今」を切り取って報道されることが多いもの。しかし、出来事にも人にも必ずといっていいほど「その後」があります。  書籍『人生はそれでも続く』は、読売新聞が2020年2月から原則月1回のペースで朝刊に掲載している連載「あれから」をまとめた一冊。「あれから」は、世間を賑わせたニュースの当事者がその後どうなったのかをたどってみるという企画です。  「あの人は今」的な特集はよくありますが、同書が他と大きく異なっているのは長期にわたる綿密な密着取材をおこなっている点。「ぜひこの人に話を聞いてみたい」という人物を探し出したら、短くても3か月、長い場合は1年近くをかけて当事者の話に耳を傾け、さらにはカギを握る周囲の関係者にも話を聞くよう努めているといいます。表層的な「あの人は今」企画で終わらないため、圧倒的な説得力があります。  たとえば同書のなかで、多くの人の記憶に残っているだろう人物のひとりが、作曲家の新垣 隆さん。2014年に開いた記者会見で、自身が「耳が聞こえない作曲家」として話題を集めた佐村河内守さんのゴーストライターであることを明かし、一躍時の人となりました。しかし、近況について詳しく知る人は少ないのではないでしょうか。  騒動後、新垣さんは音楽とは関係ないバラエティ番組に持ち前(?)の「断らない(断れない)」スタンスで露出を続け、ピアノの即興演奏の実力も広く知られるようになり、騒動から1年が過ぎた頃にはオファーが次々と入るようになったそうです。もともと音楽仲間の間でその実力は認められており、業界では一目置かれる存在だった新垣さん。2018年には桐朋学園大学の非常勤講師に復帰し、2020年からは大阪音楽大学の客員教授やオンラインの「シブヤ音楽大学」学長も務めるようになりました。今ではじゅうぶん、自身の名前で音楽の道を突き進んでいることがわかります。音楽好きの人なら、川谷絵音らとともにジェニーハイとして活躍していることも知っているかもしれません。  同書には、生死にかかわる大きな事件の当事者になった人も登場します。2010年8月、会社員の多田さんは埼玉県の両神山で遭難し、壮絶な13日間を生き延びたことで話題となりました。  2001年9月、ニューヨークの世界貿易センタービルにハイジャックされた旅客機が突っ込んだ際、90階にあった中国銀行ニューヨーク支店で支店長をしていた久保津さんは、7名の部下たちに即座に避難指示を出し、ビルが崩壊する直前に脱出しました。  2015年9月、埼玉県熊谷市に住んでいた加藤さんは、最愛の妻と娘2人を殺害され、突如遺族として生きることになりました。人生観どころか死生観まで一変してしまうような事態に直面した人々の言葉には大変な重みがあり、なにげない日常の大切さに気づかされます。  他にも、日本初の飛び入学で大学生になった17歳(1998年)、「マリアンヌちゃん裁判」で脚光を浴びた6歳(1956年)、赤ちゃんポストに預けられた男児(2007年)、名回答がベストセラーとなった「生協の白石さん」(2005年)、「王子様」という本名から改名した18歳(2019年)など計22人の「あれから」が掲載されています。これらの人々が発する貴重な言葉の数々は、読む人に大きな余韻を残すことでしょう。 [文・鷺ノ宮やよい]
BOOKSTAND 2022/09/22 20:00
医師676人のリアル

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すべては命を救うため──。朝から翌日夕方まで、36時間の連続勤務もざらだった医師たち。2024年4月から「働き方改革」が始まり、原則、時間外・休日の労働時間は年間960時間に制限された。いま、医療現場で何が起こっているのか。医師×AIは最強の切り札になるのか。患者とのギャップは解消されるのか。医師676人に対して行ったアンケートから読み解きます。

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