
「健康」に関する記事一覧
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座ると「ひざが三つ」!? 道鏡が女帝に寵愛された理由
歴史上の人物が何の病気で死んだのかについて書かれた書物は多い。しかし、医学的問題が歴史の人物の行動にどのような影響を与えたかについて書かれたものは、そうないだろう。 『戦国武将を診る』などの著書をもつ日本大学医学部・早川智教授は、歴史上の偉人たちがどのような病気を抱え、それによってどのように歴史が形づくられたことについて、独自の視点で分析。医療誌「メディカル朝日」で連載していた「歴史上の人物を診る」から、道鏡の症例を紹介する。 * * * 【弓削道鏡 (700?~772年)】 神武天皇以来2600余年というのはいくら何でも吹きすぎだが、日本の皇統は古墳時代から連綿と続いている。王朝交代説もあるが具体的な証拠はない。その皇統が最大の危機に陥ったのは奈良時代末期、称徳天皇の下で権勢を振るった弓削道鏡と宇佐八幡宮神託事件だろう。 壬申の乱で皇位を獲得した天武天皇の直系曽孫・聖武天皇は、初めて臣下である藤原氏出身の光明子を皇后とし、基王を皇太子としたが、病で早世したため妹の阿倍内親王を立太子した。 阿倍内親王は天平勝宝元年(749年)に父からの譲位により孝謙天皇として即位、父帝の没後、橘奈良麻呂の乱を治めて9年間統治した。天平宝字2年(758年)病気であった光明皇太后に仕えるため退位したが、藤原仲麻呂の乱を機に淳仁天皇を廃して称徳女帝として重祚した。 孝謙女帝が上皇であった時に、寵愛を受けたのが弓削道鏡である。物部氏一族の弓削氏の出自とも天智天皇の末裔ともいう。奈良仏教の一つ法相宗を極め、サンスクリット語や禅にも通じた。 天平宝字5年(761年)、平城宮改修のため近江国保良宮に遷宮した時、病を得た孝謙上皇を看病して信頼を得た。藤原仲麻呂失脚後は太政大臣禅師、さらに法王となり、政界宗教界ともに総攬するようになった。さらに、宇佐八幡宮より道鏡を皇位に就けよという神託が伝えられた。しかし、和気清麻呂がこの神託が虚偽であることを上申、称徳天皇の没後、道鏡も失脚し配流先の下野国で没した。

「徳川家康の死因は天ぷらの食べ過ぎ」じゃなかった!? 現代の医師が診断
歴史上の人物が何の病気で死んだのかについて書かれた書物は多い。しかし、医学的問題が歴史の人物の行動にどのような影響を与えたかについて書かれたものは、そうないだろう。 日本大学医学部・早川智教授の著書『戦国武将を診る』(朝日新聞出版)はまさに、名だたる戦国武将たちがどのような病気を抱え、それによってどのように歴史が形づくられたことについて、独自の視点で分析し、診断した稀有な本である。本書の中から、早川教授が診断した徳川家康の症例を紹介したい。 * * * 【徳川家康(1542~1616)】 医学系の学会にはさまざまな国から研究者を招待することが多い。日本に何度も来ている教授連中はスシ、サシミ好きが多いが、東欧や東南アジア出身で生魚には抵抗がある人も少なくない。その点、今まで天ぷらでもてなしてハズレはない。特にお座敷天ぷらのカウンターは興味津々のようだが、天ぷらも、過食は命に関わることもある。 ■戦国の最終勝者 徳川家康は三河国の小領主・松平広忠の子として天文11年(1542年)岡崎城に生まれた。幼名は竹千代、6歳の時に父の命で駿府へ送られるが、その途中織田信秀配下に捕らえられて尾張へ、2年後に人質交換で駿府へ移される。今川義元の下で元服し、松平次郎三郎元信と名乗り、その後蔵人佐元康と改めた。父の死後は義元の軍師でもあった太原雪斎の指導を受けた。永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いで義元が討たれると、前線にあった元康は、今川軍が放棄した岡崎城に入り自立する。 今川氏真と断交し信長と同盟、翌年には元康の「元」の字を取って家康と名を改め三河を統一する。信長には妻と最愛の長男信康を殺害、切腹させられるなど理不尽な仕打ちも受けたが、上洛支援や朝倉・浅井の連合軍を姉川で破るなど誠実に尽くす。天正10年(1582年)、宿敵武田を滅ぼした後、駿河拝領の礼のため安土城の信長を訪れ、さらに堺で遊覧中に本能寺の変に遭遇する。すんでの所を京都の商人、茶屋四郎次郎清延の案内で脱出。

ミケランジェロも悩まされた「帝王病」とは? 現代の医師が診断
歴史上の人物が何の病気で死んだのかについて書かれた書物は多い。しかし、医学的問題が歴史の人物の行動にどのような影響を与えたかについて書かれたものは、そうないだろう。 『戦国武将を診る』などの著書をもつ日本大学医学部・早川智教授は、歴史上の偉人たちがどのような病気を抱え、それによってどのように歴史が形づくられたことについて、独自の視点で分析。医療誌「メディカル朝日」で連載していた「歴史上の人物を診る」から、偉大な芸術家・ミケランジェロを紹介する。 * * * 【ミケランジェロ (1475~1564年)】 ヴァチカン宮殿にあるローマ教皇の書斎「署名の間」には有名なラファエロの「アテネの学堂」の壁画がある。中央には天上を指差すプラトンと地上を指差すアリストテレスが、階段には定規を持つユークリッド、ハーモニーを吟ずるピタゴラスら、ギリシャ古典時代の大学者が描かれている。 ■芸術家をモデルに 画中の人物は、作者と同時代の尊敬する芸術家にモデルをとったという。実際、プラトンは老齢のレオナルド・ダ・ヴィンチの自画像にそっくり。アリストテレスは、大先輩ミケランジェロ(Michelangelo Buonarroti)をモデルにしている。階段下で頬杖をついて物思いにふける中年男性は、万物流転を説いたヘラクレイトスとされる。これもモデルは同じである。最初のデッサンにはないことから、尊敬する巨匠を目の当たりにし、書き加えたという。威風堂々たるアリストテレスよりこちらのほうが、鼻の曲がったミケランジェロの自画像に似ている。 米国ジョージタウン大学の循環器科医Espinelはヘラクレイトスとされる人物の右膝の皮下に黄白色の結節があること、ミケランジェロが尿路結石に苦しんだ記録があることから、これが痛風結節であるという仮説を提唱した。 「アテネの学堂」が描かれた1510年はミケランジェロ35歳。脂の乗り切った時期である。自ら鎧をまとって戦うことで有名な教皇ユリウス2世は、ミケランジェロを招き、システィーナ礼拝堂の天井画を描くよう命じた。「アテネの学堂」とほぼ同時期であることから、ラファエロはミケランジェロを頻繁に見る機会があったことになる。
