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妻夫木聡は邦画界に欠かせない俳優 『ある男』の快挙にもらい泣き
妻夫木聡は邦画界に欠かせない俳優 『ある男』の快挙にもらい泣き 延江浩(のぶえ・ひろし)/TFM「村上RADIO」ゼネラルプロデューサー (photo by K.KURIGAMI)  TOKYO FMのラジオマン・延江浩さんが音楽とともに社会を語る、本誌連載「RADIO PA PA」。「映画『ある男』」について。 *  *  *  最優秀作品賞、最優秀監督賞、最優秀脚本賞、最優秀主演男優賞、最優秀助演男優賞、最優秀助演女優賞、最優秀録音賞、最優秀編集賞と、映画『ある男』が本年度日本アカデミー賞8部門獲得の快挙を成し遂げた。  原作は平野啓一郎さんの同名小説。平野さん然(しか)り、主演男優賞に輝いたブッキーこと妻夫木聡さん然り、長年親しくさせてもらっている友人二人が深くかかわっている作品だけに、吉報が何より嬉しかった。 「文學界」2018年6月号に掲載された原作のリードには、「愛にとって、過去とは何だろう? 人間存在の根源に迫る最新長編」とあった。  550枚を一挙に読み、感動に震えながらラジオ番組の取材先、兵庫・淡路島で待つ平野さんに開口一番、「素晴らしい!」と伝えたのがつい先日のようだ。  初日取材後の夕食の席だったが、駆け付けた僕は立ったまま平野さんに握手を求めた。羽田から空路徳島へ、気分が高揚し、夜の大鳴門橋を渡っての道中が何とも長く感じられた。  そして、この小説は書籍化されると読売文学賞を受賞したが、そのストーリーは……。  主人公・弁護士の城戸への相談は何とも奇妙なものだった。  次男を脳腫瘍(しゅよう)で失ってしまった傷が癒やされることなく、離婚した女性は故郷に戻って再婚、新たに生まれた女の子と穏やかな日々を送っていた。ところが夫は事故死、そこで衝撃の事実が明らかになる。 「愛したはずの夫は、まったくの別人でした」  夫はどんな人物で、どんな人生を送っていたのか、身元を調べて欲しい。妻からのそんな依頼だった。 「ある男」の正体を追う弁護士に妻夫木聡さん、依頼人の主婦里枝役に安藤サクラさん、「ある男」として別の人生を生きた大祐役は窪田正孝さん。彼らの演技に人生の極を感じ、その儚(はかな)さと切なさに僕はしばらく席を立つことができなかった。 『ある男』(大ヒット上映中)(c)2022「ある男」製作委員会 『ある男』(大ヒット上映中)(c)2022「ある男」製作委員会  また、弁護士城戸と、刑に服しながらも真相への手がかりを与える詐欺師小見浦憲男役柄本明さんの壮絶なやりとりは、「羊たちの沈黙」のジョディ・フォスターとアンソニー・ホプキンスの鬼気迫る対決に匹敵するシーンのようにも感じ、隠された真実への道のりの過酷さを象徴していた。  映画館から自宅に帰るまで、往来をゆく顔、顔、顔を眺めながら、彼らのプロフィールは果たして本人が記した履歴書通りなのだろうか。そんなことまで考えた。  日本アカデミー賞受賞の場で石川慶監督へ感謝の言葉に触れた妻夫木さんは、こらえきれずに感涙にむせんでいた。自分の受賞のところでは泣かなかったのに、監督のところで泣いてしまったのは、「監督の苦労を目の前でずっと見てきたから、込み上げてしまいました」  僕もブッキーのそんな言葉にもらい泣きした。  優しさと人生への思いやり。役への真摯な取り組みとストーリーに対しての洞察。山田洋次、阪本順治、行定勲、犬童一心、李相日、三谷幸喜など名だたる映画監督作品に出演、俳優・妻夫木聡は日本映画になくてはならない俳優だ。ブッキー、おめでとうございます! 『ある男』(大ヒット上映中)(c)2022「ある男」製作委員会 『ある男』(大ヒット上映中)(c)2022「ある男」製作委員会 延江浩(のぶえ・ひろし)/1958年、東京都生まれ。慶大卒。TFM「村上RADIO」ゼネラルプロデューサー。小説現代新人賞、アジア太平洋放送連合賞ドキュメンタリー部門グランプリ、日本放送文化大賞グランプリ、ギャラクシー大賞など受賞。新刊「松本隆 言葉の教室」(マガジンハウス)が好評発売中※週刊朝日  2023年4月7日号
「折れたバットが飛んできたら…」幼い愛子さまが野球観戦で雅子さまに聞いたこと WBCで振り返る野球と皇室
「折れたバットが飛んできたら…」幼い愛子さまが野球観戦で雅子さまに聞いたこと WBCで振り返る野球と皇室 2009年、野球観戦のため神宮球場を訪れた当時の皇太子ご一家。愛子さまの初観戦だった  日本を熱狂の渦に巻き込んだワールド・ベースボール・クラシック(WBC)。天皇陛下と皇后雅子さま、長女の愛子さまも日本対米国の決勝戦を仲良くテレビで観戦。14年ぶりとなる日本チームの優勝をご一家で祝福した。野球好きとして知られている天皇ご一家。今回は画面越しで楽しんだが、球場で観戦を楽しむことも珍しくない。 *  *  * 「折れたバットが飛んできたら怖いでしょうね」  7歳の愛子さまの強い希望で実現した初めてのプロ野球観戦だった。場所は神宮球場(東京都新宿区)。2009年のヤクルト対横浜戦だ。試合中、打者のバットが折れるハプニングが起きた。すると愛子さまは、隣にいた雅子さまにそう質問をしたのだ。  愛子さまは双眼鏡を手に、ニコニコと子どもらしい笑顔を見せていた。お気に入りとして知られる横浜(当時)の内川聖一選手が活躍した場面では、身を乗り出して、パチパチと大きく拍手を送った。  愛子さまは活発な少女だった。宮内庁の職員を相手に、バスケットボールや野球をよく楽しんだ。中学時代、ソフトボール部だったお母さま譲りなのだろうか。投球力はかなりのものだという。 1988年、第70回全国高校野球選手権大会 始球式でボールを投げる浩宮さま  天皇陛下と雅子さまの野球熱は、筋金入りである。  中学時代にソフトボール部に所属した雅子さまは、当時から熱烈な野球ファンでもあった。「週刊ベースボール」を愛読していたエピソードはよく知られている。  今回、ご一家で観戦したWBCの試合も、皇太子ご夫妻時代に06年の第1回、そして09年の第2回と続けて、試合が行われた東京ドーム(東京都文京区)に足を運んでいる。 2006年、WBCの韓国戦を観戦する皇太子さまと雅子さま。右端は根来プロ野球コミッショナー、左端は渡辺恒雄読売新聞グループ本社会長(当時)  06年の観戦時には、当時、読売新聞グループ本社会長だった渡辺恒雄氏が皇太子さまの隣についた。野球好きのご夫妻らしく、「イチロー選手にお会いしたい」と希望を伝えたところ、試合前に貴賓室でイチロー選手との面会が実現した。  浩宮時代の天皇陛下の野球少年ぶりは、有名だ。当時のエピソードを振り返ると、少年らしい素顔が見えてくる。 1969年オールスター試合を観戦する浩宮さま(中央)、隣は野球解説者の佐々木信也さん  1969年、9歳のときには友人とプロ野球のオールスター戦を観戦。隣には解説者の佐々木信也さんが付き添った。ひいきのセ・リーグが攻撃する際には身を乗り出して応援したという。  浩宮さまにファウルボールが当たってはいけない――佐々木さんはそんな思いでグラブを持っていた。すると、浩宮さまは、 「僕が捕るよ!」  と、そのグラブをずっと手にはめ続けた。王貞治選手がゲームで活躍すると、当時の流行語だった「モーレツ」と声をあげて喜んだという。  浩宮時代には、夏の甲子園の始球式でボールを投げている。 1988年、第70回全国高校野球選手権大会 始球式でボールを投げる浩宮さま  88年の第70回記念大会の始球式。浩宮さまはスーツの上着を脱いでマウンドにあがった。打席に立ったのは、常総学院(茨城県)2年生の仁志敏久さん。のちにプロ入りし、巨人などで活躍した名選手だ。  仁志さんは、2015年に高校野球100年を記念するシンポジウム「新たな夏、プレーボール。」で、浩宮さまとの始球式をこう振り返っている。  <「浩宮さま(現天皇陛下)が始球式をされて、「打っちゃいけない、打っちゃいけない」と緊張していました。打たない練習をしたことがないので。(中略)直前に、同高校の木内監督から「球が通り過ぎたら振ればいいんだ」と言われ、「最初から言ってくれよ」と>  始球式で皇太子さまの投げたボールは、ワンバウンドしてしまった。 「やはり難しいものですね。本塁まで遠く感じました」  浩宮さまは、そう感想を漏らした。当時から変わらない実直な性格がうかがえる。 1971年庭でバッティングの練習をする浩宮さま。11歳の誕生日を前に豪華なスイング  天皇ご一家に限らず、公務で野球に触れる皇族方は多い。  東都大学野球連盟創立85周年を迎えた16年には、国学院大の特別招聘教授を務める三笠宮家の彬子さまが始球式を務めた。国学院大学のユニホームを着用した彬子さまは、投球後に元気いっぱいの笑顔で手を振られたのが印象的だった。  スポーツを通して皇室を見ると、意外な素顔が見えてくる。 (AERA dot.編集部・永井貴子)
結婚を決める瞬間は? 婚活をこじらせる「ピンときた・こない」にある男女の“傲慢さと善良さ”
結婚を決める瞬間は? 婚活をこじらせる「ピンときた・こない」にある男女の“傲慢さと善良さ” ※写真はイメージです。本文とは関係ありません(写真:caughtinthe / iStock / Getty Images Plus)  累計40万部を突破した『傲慢と善良』(朝日文庫)。ヒットの理由はひとつに、ミステリとしての面白さがある。主人公はひと組の男女。西澤架(かける)の婚約者、坂庭真実(まみ)がある日突然、姿を消す。彼女からストーカーの存在を聞いていたこともあり、架はその無事を祈りながら行方を探す。真実はなぜ消えたのか、どこでどうしているのか、ふたりは再び会うことができるのか……展開から目が離せない。  架と真実は、婚活アプリで出会った。いまや婚活アプリ、マッチングアプリがきっかけで結婚にいたるカップルはめずらしくない。こうしたサービスの普及で、出会いのチャンスは大きく広がった。しかしそれで誰もが結婚までの道のりを短縮できるわけではない。  出会うことはできる、けれど、この人と結婚するのが正解かどうか迷ってしまう。架もその壁にぶつかった。「何かが合わないと感じる」「ピンとくる相手と巡り合えない」「決め手がない」――出会っているのに出会えていない、といった状態がつづき、疲れを感じていた。  婚活に悩み、疲れ、ときに足掻く男女の心模様が圧倒的なリアリティでもって書かれていることも、同作がロングセラーとなった理由のひとつである。たくさんの読者から“刺さる”という声が届いている。  では、結婚する人たちには必ず、「ピンときた」瞬間や、「結婚するならこの人だ!」という決め手があるものなのだろうか。  大阪在住のリョウタさんは鳥取に赴任中、婚活パーティに参加した。しかし、結婚の意志はなかった。 「32歳のときですね。僕は結婚願望がなく、いずれは大阪の本社に戻る予定だったので、デートする相手が見つかればいいなぐらいのノリで参加しました。何人かとマッチングしたけど、その女性のことは好みの順でいうと3番ぐらい。正直なことをいうと、印象も薄かったんです」  後日、6歳年下のその女性とたまたま時間が合ったのでデートをした。何度かのデートの後、彼氏/彼女の関係に発展した。 「実は僕、女性と長期間つき合った経験がないんですよ。だいたい1、2年ぐらいで別れるタイミングがくる。彼女ともそんな感じだろうなと思っていました」 辻村深月著『傲慢と善良』(朝日文庫)※Amazonで本の詳細を見る 『傲慢と善良』に、こんなシーンがある。真実との結婚に踏み切れない架に、古いつき合いの女友だちが、婚活で出会ったなら「一年以内に結婚してあげるのが礼儀」だと手厳しく忠告するのだ。 「彼女は、結婚のことが頭にあったと思います。僕に結婚の意思がないなら、長く引っ張るのも彼女に悪いなという気持ちはあって、今回も長くて1年ぐらいだろうと思っていたんです。ところが、つき合いはじめて半年が経ったとき、異動の話が舞い込んできた。本社に戻るのかと思ったら、なんと海外赴任でした」  リョウタさんにとっては、チャンスだった。行かない選択肢はない。けれど、そうすると恋人のことはどうすればいいのか。 「遠距離恋愛という選択肢はありませんでした。過去に経験したことがあるんですが、つらい思い出しかなくて。でもじゃあ、これを機に結婚するかというと……なんとなく踏み切れない。というのも、彼女のことは好きだけど、身を焦がすようなアツい気持ちはまるでなかったんですね。若いころにはそんな恋愛もあったので、僕の年齢のせいかもしれないけど。この人がいないと生きていけない!とは思えませんでした」  リョウタさんがその後どんな選択をしたかについては後述し、ここで「これ以上の人はいない」と思って結婚を決断した男性のエピソードを紹介する。  東京在住で現在37歳のタクオさんは、今年で結婚10年目を迎える。出会ったときの妻は、22歳の大学生だった。当時のタクオさんは結婚は35歳で、と思っていたため、彼女との結婚は考えていなかった。過去には、結婚にまつわる苦い思い出もある。 「学生時代からつき合っていた女性がいたのですが、本人からもその母親からも結婚のプレッシャーをかけられていたんです。3人で食事して彼女が席をはずしたときに、お母さんが『いつ結婚するの?』って。親が口を出すことじゃないだろう、と思っていましたね」  娘が心配なのはわかるんですけど、とタクオさんは言い添える。『傲慢と善良』の真実は、婚活アプリに登録する以前は、お見合い相談所に登録していた。その相談所では、親がかりで婚活に臨む人も少なくないという。架はそのことを知って少なからず驚いた。結婚は本人同士のものではないのか。 「僕にも、5年もつき合ったなら結婚するのが筋だという気持ちはあったんです。でも彼女は、結婚後は専業主婦になる以外のことは考えていなくて、その違和感が消せなかった。高級車じゃなきゃイヤとか、ブランドもの以外は着たくないとか……見栄っ張りなところがあったんです」  実はタクオさんの実家は、地元では知らない人がいない会社を経営している。経済的にもかなり裕福だ。タクオさん自身は家族とは無関係の会社に勤めており、今後家業に参加するつもりもない。けれど彼女とその母親から「いつ家業を継ぐの?」と訊かれたことは一度や二度ではなかった。 「転職して東京に出てきてからは、マッチングアプリでいろんな女性と出会いました。彼女とは別れていなかったけど、遊びたかったんですよね。キャリアを築くために勉強をしている女性としばらくつき合ったとき、自立している女性ってかっこいいなって思ったんですよ。いずれ結婚するなら、相手はこんなふうに自分を持っている人がいい、と漠然とイメージするようになりました」  その女性とはお互いに忙しすぎて時間が合わず、交際はつづかなかった。その後もタクオさんは軽い遊び目的でマッチングアプリを利用し、ほどなくして妻となる女性と出会う。一方、作中の架は結婚を望みながらも“ピンとくる”相手に出会えず、50人以上とマッチングを繰り返した。 「いまでこそめずらしくないんでしょうけれど、10年前はマッチングアプリで出会ったっていうのはちょっと人には言えない感じ。だから結婚するとは夢にも思わなかった……のですが、彼女は実家の居心地が悪かったらしく僕の家に転がり込んできて、すぐに同棲開始。2年経ったころに、彼女の妊娠がわかりました」  当時の彼女は大学を卒業したばかりで、タクオさんも20代。人生設計からは大きくはずれていた。 「でも、これ以上の人はいないだろうなと思ったんですよね。覚悟を感じたんです。彼女はまだ20代前半で、今後いい人にいくらでも出会えそう。でも僕と家族になり、家庭を大切にしていくんだという気概のようなものが伝わってきました。つき合いはじめのときから意志が強くて周りに流されないところに惹かれていたんですよ。僕はフラフラと流されやすいところがあって、これを船にたとえるなら彼女は碇のような存在。よし、結婚するか、って感じでした」  現在、タクオさん夫妻には3人の子どもがいる。ちなみに、学生時代から交際していた彼女だが、その後、タクオさんと並行して4人の男性と交際していたことがわかった。友人たちには周知の事実だったが、いずれ結婚する相手だからとタクオさんには伏せてくれていたらしい。 「妻と交際中、僕の母に会わせたら、母は『もしウチが倒産するようなことがあっても、逃げずに支えてくれる人だね』と言ってました。前の彼女のことも知っているけど、あの子は逃げそう、と。親って案外ちゃんと見ているものだなと思いましたね」  結婚はふたりで決めるべきものだが、周囲がその相手をどう評しているかが、後押しとなることがある。作中の架は、真実をいい子だと感じている。友人たちに会わせてもその“評価”は変わらない。そんなにいい子ならすぐに結婚すればいい。しかし、そうはしなかった。架は真実の行方を探しながら、自分はなぜすぐに真実との結婚を進めなかったのかも考えていくことになる。  リョウタさんに話を戻そう。急に決まった海外赴任。交際半年の彼女とはこれを機に別れるという選択肢もあった。 「僕は彼女に、決定権を託しました。ちょっとズルかったかな。赴任先についていくか、いかないか。前者を選べば結婚することになるし、後者なら今後は別々の人生を生きることになる。彼女は海外どころか鳥取からもほとんど出た経験がない。英語も話せない。さすがに迷うだろうと思ったのですが……意外とあっさり『いいよ、ついて行く』と言ってくれたんですよ」  それはそれでうれしかった、とリョウタさんは振り返る。早々に婚姻届を出し、渡航の準備に追われた。 「ピンとくるものがあって結婚したわけじゃないけれど、そんな瞬間って本当に人生のなかであるんですかね。僕たちは今年で結婚7年。ふたりで仲よく暮らしています。僕は結構願望がないというより、結婚への期待値が低かったんだ、と振り返って気づきました。両親の関係が冷めきっていた影響もあるかな。だから、結婚相手にも何も期待しなかった。いまも妻が健康に生きて、ちゃんとご飯を食べて、生きていてくれればいいと思っています」  3年の海外赴任を終え、現在は大阪で暮らしている。  タクオさんもリョウタさんも、結婚をしたいとは思っていなかった。けれど、女性の妊娠や海外赴任といった外的要因によって、一気に結婚へと舵を切った。  結婚を決められない男性の話も聞いてみよう。 「いま3人の女性から結婚を望まれているんですよね」と語るのは、横浜在住の会社経営者、ミツオさん、47歳。女性の年齢はそれぞれ24歳、27歳、そして35歳。みんなマッチングアプリで出会った。ミツオさんは過去に結婚経験があり、元妻の間に3人の子どもがいて、そのことも伝えてある。 「年齢差がありますが、私はプロフィールに年収を書いているのでそれに惹かれてくるというのもあると思います。女性はあまり年齢差を気にしないようですね。私が結婚に前向きになれない理由のひとつには、離婚後、自分ひとりの生活が確立しているので、そこに結婚という形でも他人が入ってくることを歓迎できないというのがあります。違う環境で生きてきたんだから、生活していくなかでどうしてもズレは出てきますよね」  前の結婚では、妻のほうが多忙だったこともあり、家事も子育てもミツオさんが多くを担った。生活力はある。どんなカップルでも生活のなかで大小のズレは出てくる。それを一緒にすり合わせ、乗り越えたいと思うかどうか。 「もうひとつは、経済的な問題です。3人のうち2人は現在仕事に就いていないんです。専業主婦でいたいというのは、私のいまの経済力なら構わないんですが、子どもを持つかもしれないとなると、事情は変わります。私、子どもは好きなんですよ。でも、首都圏で子育てして大学まで行かせてとなると、心配がゼロとはいえない。私の年齢を考えると余計にね」  現在、継続して会っている女性のうちひとりはシングルマザーで、3人とも結婚するなら子どもがほしいという。 「経済的な基盤がない相手とは、積極的に結婚したいとは思えないです。彼女らは仕事していなかったり、仕事をしていてもこれ上のキャリアアップや収入増が期待できそうになかったりで、その環境から抜け出したい。そのために結婚を希望しているところもある……というのが透けて見えちゃうんですよね」  その背景に男女の賃金格差や、女性は男性と比べて非正規労働が圧倒的に多いという現実があることは無視できない。しかし個々の男性がそれを結婚という形で引き受け、その経済力をフォローしたいかというと、そうは思えなくても無理はないだろう。 「最初の結婚は20代前半で、勢いでしたようなものです。それでも経済的な基盤については事前に話し合っていて、ふたりで暮らしたほうが広いところに住めるし、生活費もおさえられるね!と意見が一致したから結婚しました」 『傲慢と善良』の架も、既婚の男友だち何人かに結婚しようと思った理由を聞いたところ、「そんなの勢いだよ」と返ってきた。  架が「ピンとこな」かった理由のひとつに、真実のことをよく知らないという理由もあった。アプリをとおしてマッチしたふたりは生育環境も交友範囲も違う。けれど、結婚の判断をするにはどこまで相手を知ればいいのか。  架は消えた婚約者を探し、いままで自分が知らなかった彼女の側面を知っていく。架が人伝に聞く真実という存在は、多くの人が共感できる「善良さと傲慢さ」を持っている。  そして架自身、真実を探しながら自分のことも知っていく。結婚したいのか、なぜすると決めたのか、自分は結婚に何を求めているのか。ここにも「善良さと傲慢さ」がある。  その共感は決して優しいものではなく、時に読者の心に深く突き刺さる厳しい現実でもある。だからこそ、女性からも男性からも、“人生で一番刺さった小説”という声が寄せられたのだろう。 (取材・文/三浦ゆえ)
瀬戸康史が向き合った「愛」 難しく考えるからグチャグチャになる
瀬戸康史が向き合った「愛」 難しく考えるからグチャグチャになる 瀬戸康史(撮影・小暮 誠) 『いま、会いにゆきます』などで知られ、発達障害を公表している作家・市川拓司さんの自伝的小説『私小説』がドラマ化される。高校時代に出会った妻への愛をすべての原動力とする作家ジン役を体現した瀬戸康史さんが見つめた「愛」とは? *  *  * 「役づくりはシンプルでした。妻である優美(ゆみ)のことが大好きで愛してる!ということを、まっすぐに演じるだけ。それがジンであり、モデルである市川さん自身を表現することなのかなと」  そう語る瀬戸さん。本作で演じた恋愛小説家ジンは、外に出ることや3人以上と会うことがうまくできない。点滅する光や大きな音が怖く、食べられないものが多い。なにより苦手なのが「人の悪意」だ。外出先で攻撃的な人や言葉に少しでも触れるとパニックを起こし、その場から動けなくなってしまう。ジンの特性は発達障害を抱える市川さんと重なる。 「演じるときに『障害』という意識はあまりなかったんです。僕も絵を描いていると、集中しすぎて平気で6時間くらい経っていることがある。もちろん市川さんの才能とは比べものにもなりませんが、共感できる部分が多かった。市川さんは小説を書いている途中におでこに保冷剤をつけたり、家の中を走ったりすることで自分の中にあるものを発散し、コントロールして創作をしている。大変なことだと思うけれど、でもパニックを起こすことも、没頭しちゃって熱くなることも個性の一つという感覚でとらえました。変に過剰になるのではなく無理なく演じられれば、とは思ったんです。それにたぶん、どの役を演じるときも僕の中でのやり方は一緒なんです。自分の中にあるものしか表現できないというか。僕は『木』をいつも想像するんです。この瀬戸康史という幹があって、さまざまに枝分かれをした先にあるのが作品や役だったりする。そしてそこについた『実』が役に対する完成品かなと」  そんな個性を持つジンの最大の理解者であり伴走者が妻の優美だ。ドラマは高校時代に出会い、結婚した二人の絆に焦点を当てている。 撮影・小暮 誠 「市川さんにお話を伺うと、15歳で奥さんと最初に出会ったときのドキドキが、45年間、毎日繰り返されているそうなんです。それってすごくないですか? 自分も妻をもちろん毎日好きだし、愛してもいるけど、そんなに新鮮な気持ちが持ち続けられるのか?(笑)と。それを現実にしていらっしゃる市川さんは素敵すぎる。その純粋さが伝わればいいなと」  原作でジンは妻を「(自分の)生命維持装置のようなもの」だと例えている。絆の深さに憧憬する半面、一人をそれだけ愛し続けることには、喪失の不安もつきまとうのではないか。 「僕は基本的に前向きな人間なので、ここで描かれる愛に疑問や不安は感じませんでした。一人をそれだけ愛することができたら幸せなことですから。ただやっぱりジンは人よりもかなり繊細で敏感な人。『もしも優美がいなくなったら自分の衰えるスピードがどんどん速くなる』というセリフがありましたが、そういう感覚もおそらく持っていらっしゃる。でも最終的に僕もスタッフも『それでも生きている“ジン”を描きたい』という思いで一致していたと思います。僕自身もジンを『消えそうだけど、絶対に消えない炎』というイメージで受け止めていました」  海外旅行に行けないジンが「妻の人生を犠牲にしているのではないか」「自分が彼女の負担になっているのでは」と葛藤するシーンもある。 「それって障害のあるなしなどに関係なく、誰もが考えることだと思うんです。別に相手はそんなことを思ってないのに、自分のなかで変に解釈して、勝手に相手に申し訳ないと思ってしまったり。でもそういう思いを経験するからこそ、お互いの絆がさらに強いものになったり、自分自身が心も強くなったりしていくのかなとは思います。ジンと優美は、本当に運命の出会いだったんだと思います。うらやましいですね。いや、僕も妻とは運命の出会いだと思っていますけど(笑)」  瀬戸さんは2020年に結婚し、先ごろ妻の第1子妊娠が発表された。 撮影・小暮 誠 撮影・小暮 誠 「僕と妻は好きなものがめちゃくちゃ似ているし、感覚が似ているんです。出身も同じ福岡だし、食の好みも合う。ただ性別がちょっと違うくらいで『もうこんな人、ほかにいない!』と思ったんですよね。例えば旅行行ったときに『これが見たい』『この美術館に行きたい』というような感覚が一緒だったりする、そういうことが大事かなと思うんです」  瀬戸さんは昨年主演した映画「愛なのに」でヨコハマ映画祭主演男優賞を受賞した。愛をテーマにした作品が続くなか、ジンを演じたことで、改めて「愛」と向かい合うことになった。 「愛することって難しく考えがちだけど意外と簡単なんじゃないかなと。愛することはただその人のことを大切に思うっていうことと、相手をリスペクトすること。それだけで十分な気がします。難しく考えるから、ときどきグチャグチャになっちゃうのかなと」  人生を重ねることで、愛との向き合い方に変化が出てきたともいう。 「愛って年齢によっても変わりますよね。10代、20代の愛といまは違う。簡単に言えば昔よりも大人になった。10代や20代のころは『もうちょっと、こっちを見てよ』『もっと自分を愛してほしい!』という思いがあった。自分自身にもあまり自信がないから、そう思ってしまうのかもしれない。まあ自信はいまもないんですけど。それに夫婦になっても変わりました。『愛』への信頼度が増したっていうのかな。それまでも愛を信じてなかったわけじゃないけど、やっぱり若いころは、不安になっちゃったり、ヤキモチを焼いたりしますよね。でもそれがいまは全くないですから」  瀬戸さんにとって「理想の愛、理想の関係」はどんなものだろう。 「天秤が傾いてない感じ、ですね。どちらかがどちらかをより愛しているとか、どちらが重いとかではなく、どっちも平等に、相手に接することができて、支えたいと思える。それが僕の理想です」 撮影・小暮 誠 (フリーランス記者・中村千晶)※週刊朝日  2023年3月31日号
佳子さま お引っ越し3月末の「期限」まで数日 「きちんと説明し、堂々とお使いになればいい」と専門家
佳子さま お引っ越し3月末の「期限」まで数日 「きちんと説明し、堂々とお使いになればいい」と専門家 3月16日、偕楽園(水戸市)で左近の桜の植樹式典に出席した佳子さま  活躍の目覚ましい秋篠宮ご一家。注目度が高いだけに、ご一家の一挙手一投足に視線が注がれる。佳子さまの「お引っ越し問題」もその一つだ。宮内庁サイドは、引っ越しのめどについて今年度中としているが、はたして――。 *  *  *  赤坂御用地にある秋篠宮本邸は、2022年9月30日に改修工事を終えた。プライベートな生活の場である私室部分の荷物も徐々に運び出され、秋篠宮ご夫妻と悠仁さまの生活や公務での活動も、新居に移っているという。  ご一家の引っ越し状況について宮内庁に問い合わせても、 「改修後の御本邸並びに御仮寓所(ごかぐうしょ)の私室部分の具体的な使われ方については、私的な事柄であることから、お答えは控えます」  との返答のみだ。  御仮寓所とは、秋篠宮本邸の改修工事の間に暮らしていた仮の住まい。19年2月から秋篠宮ご一家が使われていた。  しかし、依然として佳子さまの引っ越しは終わっていないと見られている。 改修を終えた秋篠宮邸(2022年11月撮影)  この改修工事自体、秋篠宮さまは、国民への負担を思い、長年断り続けた末の工事だった。築50年となる旧秩父宮邸を利用した秋篠宮邸(00年に増築)は老朽化が進んでいた。眞子さんと佳子さま、悠仁さまも成長し、住居部分も手狭になった。見かねた宮内庁が増築を伴う改修を打診しても秋篠宮さまは、 「やめておきましょう」  と断り続けてきたのだ。  しかし、ここにきて佳子さまの「引っ越し問題」が注目を集めてしまった。  騒ぎが大きくなった背景には、宮内庁側の説明に一貫性がないこと。そして、秋篠宮家から、きちんとした説明がないことだ。  秋篠宮邸が改修工事に入ると宮内庁が発表したのは、19年2月のこと。その際は、本邸の改修工事が終わった後に、仮住まいの御仮寓所が私室部分にも使用されるとは、ひと言も触れていない。各紙の報道にも、 「ご一家が宮邸に戻った後は、事務所と収蔵庫として使用される」  と、しっかりと記載されている。  宮内庁サイドが御仮寓所を「私室としても使う」と漏らしたのは、改修工事を終えた22年秋の報道陣への公開時だった。「御仮寓所を分室とし、私室も残る」と説明したのだ。 16日、植樹のためのスコップを持つ佳子さま。偕楽園(水戸市)にて  その後、秋篠宮ご夫妻と悠仁さまが改修を終えた秋篠宮邸で生活を始めても、佳子さまの御仮寓所での“分室暮らし”は続いていると見られる。  宮内庁も秋篠宮家も私生活であることを理由に、一切の説明をしない。しかし、めどといわれている「今年度中」があとわずかになっても、佳子さまが「引っ越しを終えた」という話は、いまだ聞こえてこない。  人間がひとり、別の建物で生活を続ければ、食事の世話に始まり、衣類の洗濯、部屋にとどまらずお風呂やトイレなど使用部分の掃除を行う人手も必要になる。食事を新宮邸で作っていたとしても、「分室」に運ぶ手間も必要だ。  秋篠宮さまが、「国民の負担になる」と改修工事を断り続けたのは、その費用も源流は税金だと認識しているからに他ならない。 16日、左近の桜の苗木に土をかける佳子さま(左)と大井川和彦知事。偕楽園にて  元宮内庁職員で皇室解説者の山下晋司さんは、こう話す。 「御仮寓所を佳子内親王殿下が引き続き使わなければいけないなら、当初の方針と違うわけですから、その理由をきちんと説明すべきです。社会情勢を鑑みるなどして、これまで改修をしてこなかったというのはご立派ですが、様々な方針変更に関しては、その理由がわかりません。これでは、臆測が生まれるのも当然で、国民の不信感も募ることになります」  皇族方のプライベートは、もちろん守られるべきだ。私生活に制約をかけられ、人生の多くを「公」に捧げてきた方々だ。生活のすべての原資が「税金である」などと追い詰めるべきではない。  しかし、説明のある部分とない部分の境界があいまいであれば、当惑が生じてしまう。山下さんは、こうも言う。 「秋篠宮同妃両殿下や長女の眞子さん、佳子内親王殿下は、平成の時代から多くの公務を担い、天皇を支えてこられました。このようなことで、臆測に基づいた批判が出てくるのは残念です。公私に関わらず、秋篠宮家にとって必要なら、宮内庁は国民に対してきちんと説明し、ご一家には宮邸の施設を堂々と使っていただきたい。批判を恐れて説明をしないと臆測を呼び、また批判に繋がるという悪循環になります」 (AERA dot.編集部・永井貴子)
天龍さんが語る“プレゼント” ジャイアント馬場からの贈り物はまさかの「年金」! 
天龍さんが語る“プレゼント” ジャイアント馬場からの贈り物はまさかの「年金」!  天龍源一郎(てんりゅう・げんいちろう)/1950年、福井県生まれ(撮影/写真部・掛祥葉子)  9月に「環軸椎亜脱臼(かんじくつい あだっきゅう)に伴う脊髄症・脊柱管狭窄症」であるということがわかり、現在は入院してリハビリ中の天龍源一郎さん。今回は入院先から主治医の許可をもらいながら、プレゼントにまつわる思い出を語ってもらいました。 * * *  プレゼントと言っても、俺は相撲時代、スポンサーやタニマチにいい顔をしていなかったから、ほかの力士と違って、たいしてプレゼントをもらってないんだよ。  そんな中で、相撲時代にもらったものといえば、化粧まわしに尽きるね。前にも話したことがあると思うが、俺の場合は21歳のときに十両に上がったその場所で、地元・福井の後援会の人達が手配してくれたんだ。  ところが、化粧まわしの代金の支払いが遅れていたらしく、場所が始まっても肝心の化粧まわしがなかなか届かなかったんだ。「代金は自腹で払うしかないのか……」と100~200万円の金の算段をし始めた  13日目にようやく届いてね。そのときは嬉しかったよ! 初めての化粧まわしは、四股名にちなんで登り龍がデザインだ。まあ、当時も“龍”がつく四股名の力士は俺以外にも多かったから、インパクトはそんなに無かったけど(笑)。それ以降もいくつか化粧まわしを作ってもらったけど、デザインはだいたい登り龍だね。  化粧まわしは、引退後は作ってくれた人にお返ししたり、誰かにプレゼントしたりした。俺だけじゃなく、化粧まわしは作ってくれた人にお返しすることは多いんだ。それでもいくつかは倉庫にしまっていたり、少しは手元に残っているものもある。廃業してちゃんこ屋をやっている人とか、自分の店に飾ったりしているだろう。俺も寿司屋をやっていた頃は店に飾っていたよ。やっぱり、普通の人からしたら珍しいから、お客さんも喜んでいたね。  全日本プロレスに入って、最初にジャイアント馬場さんからもらったのは、馬場さんが着なくなった服なんだけど、俺でもサイズが大きくて、どうしようもなかったね(笑)。 昨年6月24日に亡くなられた妻・まき代さんの写真と(公式インスタグラム@tenryu_genichiroより)【大会情報】『WRESTLE AND ROMANCE』Vol.11 シリーズ最終戦/日時:3月26日(日)17:30OPEN/18:00GONG/会場:東京・新木場1stRING/【チケット料金】(前売りチケット)※当日券は500円UP/▽特別リングサイド…6,500円(東西南1列目、2列目)▽指定席…5,500円(南側ひな壇)チケット販売所・天龍プロジェクト…https://www.tenryuproject.jp/product/575  そんな馬場さんからのプレゼントで大切にしているのは、モノではなくプロレスラーとしての姿勢を教えられたことだ。直接「プロレスラーとはこうあるべき」というものではなく、馬場さんの何気ない仕草や態度を見て覚えたもんだよ。  例えば、飯を食うときも常にファンに見られていることを意識して、立ち食いそばなんか食べない。ホテルに行ったらレストランできちんとしたものを食べる、ケチらないということだったり。俺も相撲上がりだから馬場さんの考えはカッコいいなと思ってマネするようにしたんだ。だから俺は引退するまでファミレスやコンビニに全くといっていいほど行ったことはない。  実際に行ってみるとファミレスもコンビニもなかなかいいところだし、コンビニのホットスナックは美味しいよね(笑)。馬場さんは「プロレスラーとしてこうしろ」と口うるさく言わないタイプだから、周りのレスラーはそんなことしていなかったけど、威厳を落とさないという姿勢は馬場さんからもらった大切なもののひとつだ。  馬場さんはニューヨークでトップを取ったから、アメリカナイズされていることを匂わせていたと思う。「俺は田舎じゃなくてニューヨークでメインを取っていた」という雰囲気をプンプンさせていたよ。アメリカ時代に培ったトップとしての振る舞い方をしていたね。  そんな馬場さんからもらったもので、一番なのが「年金」なんだ。全日本プロレスのレスラーは俺も含めてみんな知らなかったのだが、実は所属している期間、馬場さんは会社としてみんなの厚生年金を払っていてくれていたんだ。当時は年金のことなんて全然考えていなかったし、そもそも個人事業主としての契約だと思っていたから、そんなことをしているとはまったく思わなかったよ。  俺もほかのレスラーも年金をもらう歳になって初めて気が付くんだ。今でも数万円の年金が入り続けていて、本当にありがたいことだよ。グレート小鹿ともこの年金のことで話をしたことがあって、そのとき小鹿は「そうなるまでいろいろあったんだよ……」となんだか含みを持たせた言い方をしていたが。俺はどんなことがあったのか知る由もないが、今となっては年金が馬場さんからの一番のプレゼントだ。  俺がプレゼントをもらった相手は、昨年亡くなった妻のまき代がやっぱり多いし、印象的なものもすべて彼女からのものだ。思い出深いプレゼントはいくつかあって、ひとつは、まき代が「駐車場まで来て」と言うから行ってみたら、ベンツの300クーペが置いてあったこと。これはさすがにびっくりしたよ。  当時は国産の車に乗っていたんだけど、ジャンボ鶴田がベンツに乗っていたのを見て、プロレスラーとしてはこれくらいのクラスの車に乗らないと、恰好がつかないと考えたんじゃないかな。SWS時代は同じように「駐車場まで来て」と言われて行ってみたら、ベンツ560SECが停まっていたこともあったね。まき代からのプレゼントはいつもサプライズで、彼女は本当に人を驚かせるのが好きなんだ。  車以外で印象的だったのは腕時計。俺がいつも「馬場さんがプラチナのロレックスをしていてさぁ」なんて、ことあるごとにまき代に話していてら、誕生日に「はい、これ」って同じ時計をプレゼントしてくれたこともあった。  馬場さんが買った当時は1000万円くらいしたようだから、かなり高価だよ。本当は1000万円もする腕時計をはめる必要なんてないのに、さすが「天龍源一郎を一等賞にする」と公言した女房だ。そのロレックスも寿司屋の経営が悪くなって手放しちゃったけど、もったいないとは思わなかった。それでまき代の負担が少しでも楽になるといいなという気持ちが強かったからね。  だから、俺がもらった一番のプレゼントはまき代が俺の嫁になってくれたこと。それが最高のプレゼントだ。結婚当初は俺もやんちゃでいい加減だったけど、それでもずっと家庭を守ってくれて、子どもを育ててくれて、本当に俺は幸せだったと思う。まき代の男前さには誰も勝てないよ。  彼女のそんな姿を見ていたからか、娘の紋奈が一度もプロレスラー天龍源一郎のことを嫌うことがなかったことも嬉しいし、俺にとっての大切なプレゼントでもある。紋奈が小学生のころは「プロレスなんて八百長だ」とか、よくイジメられていたんだけど、イジメられても一人で怒って立ち向かっていたんだって。  娘のそんな姿を見ると俺も勇気づけられるし、プロレスなんて八百長といってしまえばそうかもしれないが、娘を見ていると、それ以上のものがプロレスにはあって、彼女たちにも大きな影響を与えてくれているんじゃないかと思うんだ。家族は俺にとっての最高のプレゼント。皆さんもにもそれぞれ思い出のプレゼントがあると思うけど、大切にしてください! (構成・高橋ダイスケ) 天龍源一郎(てんりゅう・げんいちろう)/1950年、福井県生まれ。「ミスター・プロレス」の異名をとる。63年、13歳で大相撲の二所ノ関部屋入門後、天龍の四股名で16場所在位。76年10月にプロレスに転向、全日本プロレスに入団。90年に新団体SWSに移籍、92年にはWARを旗揚げ。2010年に「天龍プロジェクト」を発足。2015年11月15日、両国国技館での引退試合をもってマット生活に幕を下ろす。
コロナ禍で孤立した人々へ マーク・フォースター監督が映画「オットーという男」で描く有効なコミュニケーションの形
コロナ禍で孤立した人々へ マーク・フォースター監督が映画「オットーという男」で描く有効なコミュニケーションの形 「オットーという男」  オットー(トム・ハンクス)は町内の嫌われ者。近所をパトロールしては、ゴミ出しや駐車に文句を言っている。孤独な彼は自ら人生を終わらせる決意をするが、向かいに騒がしい一家が引っ越してきて──。連載「シネマ×SDGs」の45回目は、スウェーデンのベストセラー小説&本国で映画化された「幸せなひとりぼっち」が原作である「オットーという男」のマーク・フォースター監督に話を聞いた。 *  *  *  原作小説を読み、スウェーデン版の映画にも魅了されました。人間の本質に迫っていると感じたのです。トム・ハンクスと彼の妻でプロデューサーのリタ・ウィルソンも映画化に興味を持っていると知り、幸せな企画が実現しました。 「オットーという男」  いま我々の住む世界では分断がどんどん進んでしまっています。しかし本作は違う背景を持つ人々が一つになり、そのなかで孤独な主人公が生きる意味を見つけていく物語です。いまの世の中にとても大事なメッセージを投げかけていると思います。オットーはシェークスピアのキャラクターのようです。どこの国も誰の人生にも彼のような人物がいます。私の家族にも、です。ですからアメリカに舞台を移しても違和感はないと確信がありました。なによりオットーをトム・ハンクスが演じてくれたことで私の仕事は楽になりました。彼はハリウッドでも最も愛すべき人物ですから。逆に「彼がちゃんと嫌われ者に見えているか?」を確認する必要はありましたけど。 「オットーという男」  私はとても楽観的な人間なんです。タイタニックが沈むときも「大丈夫だよ!」と言ってしまうタイプです(笑)。自分が綴る作品や惹かれるキャラクターにもそうした面があります。実際に世界は分断されているし、人種も文化も多種多様です。でも究極的に人間はみんな同じ心を持っていると私は信じています。人は一人で生きているのではなくつながることが大切です。そしてどんな困難もトンネルを抜ければ光があるのです。 「オットーという男」  コロナ禍の影響でオットーのように孤立している人は少なくないはずです。オットーと隣人マリソルとの関係は食べ物で始まります。これはコミュニケーションに有効な手段でおすすめです。本作をきっかけに近所の方と会話をしてもらったりしたらうれしいですね。 マーク・フォースター(監督、エグゼクティヴ・プロデューサー)Marc Forster/1969年、スイス出身。代表作に「チョコレート」(2001年)、「ネバーランド」(04年)、「007/慰めの報酬」(08年)など。全国で公開中 (取材/文・中村千晶) ※AERA 2023年3月27日号
「こうなったらどうしよう」と悩むことが多い妻、「死ぬわけじゃないから大丈夫」と笑って励ましてくれる夫
「こうなったらどうしよう」と悩むことが多い妻、「死ぬわけじゃないから大丈夫」と笑って励ましてくれる夫 妻の千田みらのさんと夫の千田光治さん(撮影/伊ケ崎忍)  AERAの連載「はたらく夫婦カンケイ」では、ある共働き夫婦の出会いから結婚までの道のり、結婚後の家計や家事分担など、それぞれの視点から見た夫婦の関係を紹介します。AERA 2023年3月27日号では、キャップジェミニで新卒採用を担当する千田みらのさん、BONXでエンタープライズセールスを担当する千田光治さん夫婦について取り上げました。 *  *  * 夫39歳、妻31歳で結婚し、二人で暮らす。 【出会いは?】妻の勤務先で夫がフリーランスとして働いていた時に出会う。 【結婚までの道のりは?】会社のチームで食事した際、体調が悪くなった妻を夫が介抱。時々、食事をするようになり、出会いから3年後に交際を始め、半年ほどで結婚。 【家事や家計の分担は?】特別な日の料理とごみ出しは夫、水回りの掃除と洗濯は妻。ほかの家事はやれる人がやる。家計は別々で、家賃はほぼ折半。 妻 千田みらの[34]キャップジェミニ ちだ・みらの◆1988年、埼玉県生まれ。都留文科大学大学院修了。フルブライト奨学生。帰国後、中学校の非常勤講師、商社、人材紹介会社を経て、2016年に入社。新卒採用を担当  20代の頃は、仕事を完璧にしなくてはという思いが強すぎて、自分だけではなく、他人のミスにも厳しかったんです。心にゆとりがなく、結局ミスを繰り返すという負のループに陥っていました。そんな私に「人は間違えるのは当たり前で完璧にはなれない」と声をかけてくれたのが夫です。  お付き合いを始めて、夫の家の方が広くて便利だったので自然に夫の家で暮らすようになりました。でも夫が「中途半端はよくないから、結婚しよう」と。結婚しても変わらず、一緒に食事をしたり、お酒を飲んだりする時間が本当に幸せです。  結婚してから休日はアクティブに過ごすようになりました。あまり泳げなかったのに、夫に教えてもらって1キロぐらい泳げるようになりました。二人で自転車に乗って出かけることも多いです。 「こうなったらどうしよう」と悩むことが多い私ですが、「死ぬわけじゃないから大丈夫」と笑って励ましてくれる夫に救われています。 妻の千田みらのさんと夫の千田光治さん(撮影/伊ケ崎忍) 夫 千田光治[42]BONX ちだ・こうじ◆1980年、大阪府生まれ。同志社大学社会学部出身。アクセンチュアで勤務後、キャップジェミニやユーグレナを経て、2018年にBONX入社。エンタープライズセールスを担当  以前あまりにも不健康だったので、37歳からトライアスロンを始めました。休みの日は彼女と一緒に自転車と水泳に加え、ヨガも楽しんでいます。体をいっぱい動かした後にいただくお酒は、仕事の後のお酒とはまた違って最高です。  彼女とは食べ物やお酒の好みが似ています。彼女や友人にすしを握って食べさせることができたら楽しいだろうなと思って、半年、すし職人になるための養成学校に通いました。二人で午前5時ごろ豊洲市場に新鮮な魚を買いに行くこともあります。  彼女は真面目でストイックな人です。彼女が慌てたり、困ったりした時にガチにならないように、僕は笑いを提供する役に徹したいと思っています。どんな時も笑いが出ると場が和みますよね。  そういう僕もストイックに仕事をするタイプで、仕事仲間との打ち合わせは、ついついヒートアップしてしまいます。今いるスタートアップの会社と一緒に成長していきたいです。 (構成・浴野朝香) ※AERA 2023年3月27日号
「立憲は大変な候補者出してきた」山口4区に有田氏参戦 安倍昭恵氏「主人の遺志継ぐ人を」
「立憲は大変な候補者出してきた」山口4区に有田氏参戦 安倍昭恵氏「主人の遺志継ぐ人を」 衆院山口4区補選への立候補を表明する有田芳生氏=2023年3月15日、山口県下関市  衆参5補欠選挙が、4月11日に告示される。昨年7月、安倍晋三元首相が凶弾に倒れ、空席となった衆院・山口4区に、前参院議員の有田芳生氏(71)が立憲民主党から立候補することを表明した。当初は、安倍元首相の「弔い選挙」で“無風”と見られていたが、有田氏の立候補表明で世界平和統一家庭連合(旧統一教会)の問題が争点になりそうだ。  安倍元首相の銃撃事件以降、旧統一教会の霊感商法や献金問題がクローズアップされたのを受け、昨年末の臨時国会で不当寄付勧誘防止法(被害者救済新法)が成立した。世論の盛り上がりも一時に比べ、落ち着きを見せてきたなかでの補欠選挙。  自民党は山口4区で、安倍元首相の後援会が推す前下関市議の吉田真次氏(38)を公認すると2月10日に発表した。吉田氏は、安倍元首相が使っていた場所で事務所開きをし、「安倍元総理の思いをしっかり引き継いでいく」と安倍元首相の後継であることを強く訴えた。安倍元首相の妻・昭恵さんも知名度を生かし、吉田氏とミニ集会にも参加。「主人の遺志を継いでくれる吉田氏を応援してほしい」と訴えているようだ。 吉田真次氏の事務所開きであいさつする安倍昭恵氏=2023年3月15日  吉田氏の公認が発表された以降も、野党は山口4区の公認候補がなかなか決まらない状況が続き、当初は“無風”との見方が強かったが、有田氏の立候補表明で局面が変わった。  自民党としては、沈静下していた旧統一教会の問題が蒸し返され、争点になるのは避けたい算段だったようだが、有田氏は出馬表明の会見で「旧統一教会と安倍元首相の長期政権の審判が争点」などと強調した。  自民党の山口県連のある幹部は、「立憲民主党は大変な候補者を出してきた、というのが正直なところ」と語った。  有田氏は、フリーのジャーナリストとして約40年も前から旧統一教会問題を追及し、昨年7月まで参院議員を2期務めた。  立憲民主党の大串博志・選対委員長は、 「昨年夏に参院選が終わり、しばらく国政選挙はないと見られていたなかで、補選が衆参で計五つもある。野党としてなんとか一矢報いたい。とりわけ安倍元首相の地元、山口4区は保守王国ということもあり、候補者を探したけど手を挙げる人がいない。そうした状況のなか、1月末に私が直接有田氏に『旧統一教会問題を訴えるには最高の場ではないか』と出馬をお願いし、決断していただいた」  と党本部主導の擁立だったと明かした。  さらに、自民党にとって山口4区は、野党との戦いとは別に党内の派閥争いもはらんでいる。  山口4区で有権者が多いのは、人口25万人ほどの下関市だ。安倍元首相の地盤だったが、林芳正外相も下関市が「おひざ元」と公言してはばからない。  中選挙区制の時代は、安倍元首相の父、安倍晋太郎元外相と林外相の父、林義郎元蔵相(現・財務相)が激しく争った。  その流れを顕著に表すのが下関市議会だ。自民党会派は「安倍派」といわれる「創世下関」と、「林派」といわれる「みらい下関」という大きな勢力に分かれている。  今年2月の市議選で、安倍派は9人から6人に減ったが、林派は12人から13人に増えた。山口県は次の総選挙では小選挙区の区割り変更「10増10減」で四つの小選挙区が三つになる。  山口4区は山口3区と一体となるような区割りとされ、外相という要職を務める林氏が新山口3区の候補者として有力視されている。  ただ、今回の補欠選挙は「10増10減」の対象にならず、現行のままなので吉田氏が公認となる複雑な状況だ。 「勢いの差というのか、下関市議選では林派が台頭し、親分の安倍元首相を失った安倍派は後退という結果に。その後、林派が議長選でも勝利した。しかし、吉田氏が圧勝すれば、新山口3区に出たいと言ってくるのは間違いない。新山口3区にほぼ内定している林氏としては面白くないでしょう。統一地方選と同じタイミングでの補選だけど、林派はあまり力が入っていない。安倍派も親分がいないので、まとまりに欠ける。そこに有田氏という知名度がある候補者が来たので、選挙戦は楽勝ムードが一転して混沌(こんとん)としている」(前出・自民党山口県連幹部)  2月26日の自民党の党大会で、岸田文雄首相は総裁として、 「補欠選挙は今後の国政に大きな影響を与えるかもしれない、大変重要な選挙。なんとしても自民党の議席を守り抜いていこう」  などと力説した。  支持率低迷にあえぐ岸田政権にとって、補欠選挙はどの選挙区も落とすわけにはいかないが、野党が強い地盤といわれる参院・大分選挙区や、政治とカネの問題で薗浦健太郎氏が辞職した衆院・千葉5区については、厳しい見方をする自民党幹部もいる。 「大分と千葉は厳しい戦いになるでしょう。残る三つをとらなければ、岸田政権の存亡にかかわります。しかし和歌山1区も維新が候補者を擁立したので激しい争いになります。もし負け越しとなれば、岸田降ろしの序章となりかねません。岸田首相が前倒しで救済新法を成立させて沈静化したのに、山口4区に有田氏が出馬することで再び旧統一教会問題がクローズアップされ、政局になる危険性もはらんでいます。それが起爆剤になって、旧統一教会問題がまた広がって大騒ぎになり、統一地方選でも結果が出なければ、岸田政権が瀬戸際に追い込まれかねません」  と険しい表情だ。有田氏は、 「(自身の出馬で)選挙が面白くなってきたでしょう。旧統一教会問題は救済新法ができたといってもまだ終わったわけじゃない。山口4区で旧統一教会問題を語ることがタブーともされています。しかし私は旧統一教会問題を争点に掲げて、積極的に訴えていきます」  山口4区には、吉田、有田両氏のほか、政治家女子48党幹事長の黒川敦彦氏(44)も立候補を表明している。 (AERA dot.編集部 今西憲之)
管理職「なりたくない6割」時代の背景 出世より「持続可能な働き方」の価値観に変化
管理職「なりたくない6割」時代の背景 出世より「持続可能な働き方」の価値観に変化 街を行き交う人々。職場や組織内では管理職をめぐる悩みも多い(撮影/写真映像部・加藤夏子)  約6割が「管理職」に昇進したいと思わない──。目標であり、出世のための階段とされてきた管理職が揺らいでいる。責任の重さ、長時間労働、部下との関係。その憂鬱さ、つらさを訴える声が聞かれる。打つ手はないのか。AERA 2023年3月27日号の記事を紹介する。 *  *  * 【管理職 官公庁・企業・学校などで、管理または監督の任にある職。また、その任にある人】  辞書に載っている管理職の定義だ。かつては、出世コース上にあるとされ、多くの人が同期や先輩を出し抜き、我先にと目指したポジションに異変が起きている。  厚生労働省の「労働経済白書」(2018年版)によると、役職に就いていない職員や係長・主任相当の職員で「管理職に昇進したいと思わない」のは61.1%。「管理職以上(役員含む)に昇進したい」の38.9%を大きく上回っているのだ。  厚労省の元労働局長で、事業創造大学院大学の浅野浩美教授(キャリア論)は、 「管理職は、責任が重くなり、長時間労働になるので避けたいと考える傾向が強まっています。また、強く言えば、ハラスメントだと訴えられる可能性だってある。マネジメント力に自信がない人は手を挙げなくなっている」  と説明する。 ■「死にたい」と思った  その言葉を痛切に受け止めるのは、東京都内のメディア関連会社員の男性(59)だ。21年、勤務先の副社長を自ら降りた経験がある。  副社長になって4年目のことだ。海外にいることが多い社長に代わって実質的な経営の指揮を執っていたが、相次ぐ新興メディアの台頭で業績が急速に悪化。ギスギスしていく社内の雰囲気が全身に突き刺さるうちに、次第に心のバランスを失ったという。男性は、 「なんとか出社はしていましたが、毎日死にたいと思っていた。限界でした」  と話す。うつ病と診断され、心療内科に通った。他の役員が「しんどいでしょう」と声をかけてくれた時、素直に降格人事を受け入れたという。  同じ頃、信頼し、評価していた部下のひとりからパワハラで訴えられた。  育てようという一心で叱咤激励しながらも、家族のように親しく付き合っていたが、部下には受け入れてもらえず、会社からは懲戒処分を受けた。 AERA 2023年3月27日号より 「ショックでしたね。約15年前に初めて管理職になった当時は、違う景色が見えたような気がして、高揚感がありました。優秀な部下とともに日夜問わず夢中で働き、休日は自宅に招いて食事会もしていたのに。自分にはリーダーシップがあると思っていただけに、コミュニケーションの取り方に悩むことが増えました」(男性)  20年に実施された厚労省の「職場のハラスメントに関する実態調査」によると、過去3年以内にパワハラを受けたことがあると回答した人は31.4%。声をあげやすい環境が整いつつあるということでもあるが、前出の浅野教授は、こう指摘する。 「管理職は、部下の指導によりきめ細やかさを求められるようになりました。その上で、自分の仕事をこなしながら、この変化の激しい時代に職場のパフォーマンスも上げなければならない。大変なことばかりに見えて、敬遠されてしまうのは仕方がない面があります」 ■変化している意識  働き方の変化も「管理職離れ」を加速させている。  例えば、この5年ほどで急速に広がっている「ジョブ型雇用」。会社があらかじめ職務(ジョブ)と賃金を定め、それに見合う技能をもつ人を雇う制度だ。社員は原則その職務以外はせず、年齢が上がっても賃金は増えないとされている。働き方評論家で千葉商科大学准教授の常見陽平さんは、 「昇進はキャリアの断絶だと考えられるようになりました。管理職になることは、必ずしも好意的にとらえられていません。自分のやりたいこと、深めたいことを仕事にしたいと考える人が増えました。管理職になるということは、それまで夢中になってやっていたことができなくなるということです」  と話す。昇進や昇格は、仕事ぶりを評価されているからこそであり、会社からの期待の表れのはず。しかし、 「キャリア形成に対する人々の意識が変化しているということです。さらに、かつては部下といえば『男性新卒プロパー』しかいなかった企業で、非正規雇用、テレワーク、時短勤務など、雇用形態や勤務形態、給与も千差万別な部下をまとめる必要が出てきた。負担を感じる人は多いでしょう」(常見さん)  共働き家庭が増えたことも、管理職に対する意欲に影響を与えているようだ。 AERA 2023年3月27日号より  静岡県のメーカーで働く男性(60)は、かつて班長として部下を抱えていた時期があるが、課長への打診を断ったことがある。当時、45歳。とても忙しく、まだ保育園児だった2人の子どもの世話は、金融機関でフルタイム勤務をしている妻に任せがち。長期の海外出張に行った時に、妻が精神的にまいってしまったこともあったという。男性は、 「会社からはコストダウンを厳命されていたけれど、人を減らすことしか解決策がない状況だった。その分の仕事は、管理職がカバーしなければならないことは明らか。私がこれ以上忙しくなれば、妻が倒れてしまうと思いました」  と振り返る。妻が仕事を続けることを希望したことに加えて、右肩下がりの経済状況を考えると、共働きを続けられる「持続可能な働き方」を夫婦ともに選択する方が賢明だと判断したという。以来、イチ社員として定年までを過ごし、現在は再雇用の身だ。あの時の判断について男性は、こう話す。 「後悔は全くないです。管理職になっても、たいして給料は上がらない。休日もない状態で働き続けていたら、私自身の心身も家族もボロボロになっていたでしょう」  常見さんは、若い世代を中心に同様の価値観が広がっているとし、 「ストレスなく続けられるということは、働き方のひとつの答え。偉くなるより、一人前になりたいと考え、その選択ができるようになった」  と時代の変化を評価する。  けれど、管理職になりたくない人ばかりになると、組織が立ち行かなくなってしまうケースも出てくるだろう。打つ手はないのか。突破口になるかもしれない興味深いデータがある。 ■意欲が高いのは  21世紀職業財団(東京都)が22年、従業員101人以上の企業に勤務している20~59歳の正社員男女4500人を対象に行った調査によると、「管理職になりたい」割合は、総合職男性24.8%、総合職女性12.0%と、男性のほうが高かったが、「管理職に推薦されればなりたい」との回答は男性31.3%に対して女性は33.2%。わずかに、女性が上回っているのだ。  事業創造大学院大学の浅野教授は、 「上を目指したい気持ちのある女性は多いけれど、躊躇(ちゅうちょ)があることがわかる。自信が持てなかったり、子育てや夫との関係などを考えてしまったり。甘えているように見えるかもしれないけれど、その一方で、推薦されるなど後押ししてくれる理由があれば、管理職をやろうという女性はいるのです」  と話す。  また同財団の別の調査では、女性は男性に比べて、年齢が上がっても仕事への意欲が衰えないこともわかっている。内閣府によると、民間企業の女性管理職比率(課長相当職)は21年時点で12.4%だが、管理職のなり手不足に悩む企業は、この女性たちの意欲を見逃す手はないだろう。 「男女問わず、働く人は上司の言葉、態度、雰囲気で自分が評価されているか否かを感じ取り、それがやる気につながる。性別に基づくアンコンシャスバイアス(無意識の偏見)を取り除き、今こそ企業は本気を見せる時です」(浅野教授) (編集部・古田真梨子、小長光哲郎) ※AERA 2023年3月27日号より抜粋
「厳しく怖い」伝説の大江健三郎 編集者が体験した冷や汗と忘れられない笑顔
「厳しく怖い」伝説の大江健三郎 編集者が体験した冷や汗と忘れられない笑顔 大江健三郎さん  対談や連載など週刊朝日はノーベル賞作家の大江健三郎さんと深いご縁をいただいた。担当だった山本朋史元編集委員が大江さんの優しさを記憶に刻んでいた。 *  *  * 「編集者に厳しく怖い」。そんな伝説めいた大江評がなぜか本誌編集部に語り継がれていて近寄りがたい存在と目されていた。代表作をいくつか読んだだけで大江文学についてほとんど知らない事件記者だったぼくに1994年にノーベル文学賞受賞の記事を作れと指示が下った。困り果てて作家丸谷才一さんに泣きつき寄稿していただくことで救われた。徒手空拳で向かう相手ではない。受賞直後に単独インタビューなど、とても無理だった。  でも、大江さんに本誌に登場願いたい。ない知恵をしぼり、作家井上ひさしさんと20世紀末を振り返る対談をお願いしたのはたしか1998年の暮れのことだった。 「井上さんとだったらいいですよ」  快諾をいただき朝日新聞東京本社で行った対談は当初は3時間ほどで終わる予定だったが、お二人とも準備したものを語り尽くせず場所を変えて深夜に及んだ。  この対談は1999年新年号から2回にわたって掲載された。  お礼の手紙を出すと丁寧な返事をいただき、何度かやり取りが続いた。葉書や便箋に大江さん独特の角張った文字でびっしり書かれていた。当時の編集長から、 「大江さんに何か目玉になるような連載をやってもらえないか」  なかなか直接は口に出せないでいた。ある時、大江さんのほうから、 「子どもにもわかる童話のようなエッセイなら書いてもいいな」  と。願ってもない話だった。  なぜ学校に行かないといけないの?といった子どもの疑問に答えるエッセイの構想だった。最初の原稿を見せていただいた。簡単だが全体像を伝えるレジュメもできあがっていた。大江さんの故郷、愛媛県内子町で子ども時代に体験した話などを盛り込むという話も魅力的だった。  挿絵をどうするか。相談すると妻ゆかりさんが描いた絵を見せてくださった。繊細で詩的なタッチの完成度に驚いたものだ。タイトルは『「自分の木」の下で』。この時すでに大江さんの頭の中ではすべてができあがっていたのだと思う。担当記者のぼくのやることといえば、毎週月曜日に世田谷区の自宅に原稿を取りに行くこと。文学オンチのぼくでも楽勝、と思ったのは束の間。実はそんなに簡単ではなかった。 大江健三郎・著/大江ゆかり・画『「自分の木」の下で』『「新しい人」の方へ』は朝日文庫刊  大江さんはいつも目の前で原稿を渡して、私が読み終わるとじっと見つめられた。 「子どもでもわかるようにしたいので、あなたが読んで少しでもわかりにくい部分があったら遠慮なく言ってください」  原稿用紙をハサミで何度か切り貼りした跡があったり、原稿用紙の隅に小さな字で書き込みをしたり。何度も推敲されたに違いない。重厚だが難解と思い込んでいた大江さんの文体とはひと味違っていた。読み応えがある、しかもわかりやすい。 「週刊朝日の読者にピッタリ。すばらしいです」といった通りいっぺんの称賛だけでは足りない。ふさわしい言葉が出てこない。情けなくなった。何か言わねば。焦り狂って畏れ多くもある時、 「この部分が少しわかりにくいと思います。ぼくにはちょっと難しい」  と言ったことがあった。すると大江さんは表情を変えた。 「そこで待っていてください」 ■詩集と色紙 忘れがたい笑顔  私がゆかりさんと挿絵について話していると10分ほどで大江さんは、 「これでどうですか」  と文章を作り変えてこられた。この時ほど冷や汗をかいたことはなかった。  連載はモノクロ誌面なのに、ゆかりさんは毎回時間をかけて丁寧にカラーで挿絵を描いてくれた。 「毎回色がすばらしい。なんとかカラーで本にしたいですね」  というと大江さんは自分の原稿のこと以上に喜んでくれた。連載は一回4ページ。切り貼りや書き込みが多かったのに分量はいつも変わらずきちっとしていた。ゲラをファクスで送るのだが直しはほとんどなかった。編集部の手続きミスで叱られたことはあったが、理不尽な怒りではない。大江さんを怖いと思ったことはなかった。  16回続いた連載が単行本になると評判を呼び36万部を超えるベストセラーに。しばらくして続編もお願いすると、 「彼女さえよければ」  とゆかりさんを見た。主婦業をやりながら時間をかけて一回に2枚の絵を描くのは大変な作業であることは大江さんも認識していたのだろう。『「新しい人」の方へ』というタイトルで続編が始まったのは1年近く経った2003年新年号からだった。 週刊朝日 2023年3月31日号より  私事で恐縮だが、連載期間中に私の父が咽頭がんで死亡。数カ月後に母が末期の肺がんとわかった。看病のドサクサで原稿受け取りの日を変えてもらったことがある。すると大江さんは、 「病床でこの本をお母さんに読んであげたらいいですよ」  と一冊の詩集をくれた。ゆかりさんの手料理をご馳走になって、長男の光さんに悲しみを癒やすCD音楽を聞かせていただいたのもその頃だった。  古新聞に包んだ色紙を2枚いただいたこともあった。新井白石の「折たく柴の記」からの一文を筆記したもので、 「学業の道ではどんなに辛いことがあっても、自分を甘やかすことなく、いつも堪えて、人が一やることは十やり、十やることは百やりなさい」  私の無知を見通して、人の十倍勉強せよという励ます言葉をくださったのだと勝手に理解した。大江さんには、こういう優しさがあった。私が同時期に取材していたKSD事件の話も熱心に聞いてくれた。ちゃめっけたっぷりの笑顔が忘れがたい。2冊の本を再び手にしながらなんだか頭の中を寂しい風が抜けていくような気がする。(山本朋史)※週刊朝日  2023年3月31日号
愛子さま 春から学習院大に通学「日本文学を専攻した理由」を皇室番組放送作家が解説
愛子さま 春から学習院大に通学「日本文学を専攻した理由」を皇室番組放送作家が解説 21歳を迎えた愛子さま。4月からオンライン授業を経てリアルキャンパスライフが始まる(宮内庁提供)  4月から学習院大学4年生になる天皇、皇后両陛下の長女・愛子さま。コロナ禍でのオンライン授業を経て、この春からはキャンパスライフが始まる。専攻は日本語日本文学科だが、そもそもなぜ日本文学を選ばれたのだろうか? 愛子さまがご誕生のころから皇室番組に携わる放送作家のつげのり子さんに素朴な疑問を投げかけると、母娘の絆が見えてきた。 *   *   *  昨年3月17日の成年を迎えての記者会見で、愛子さまは文学部日本語日本文学科に在籍し、2年生からは「日本語日本文学系」を選択されているとお話しされていた。関心のある分野に関しての記者からの質問に、愛子さまはこう答えられている。 「関心のある分野は、いまだ模索中といったところではございますが、以前から興味を持っておりました、『源氏物語』などの平安時代の文学作品、物語作品を始め、古典文学には、引き続き関心を持っております」  そのようにお話しされる愛子さまのお父さまである天皇陛下は、同じ文学部を卒業されている。専攻は史学科で、卒業後は、学習院大学大学院人文科学研究科博士前期課程に進学。  さかのぼると高校時代には、いわゆる帝王学の一環として『古事記』『日本書紀』といった皇室史に関わる日本神話、『万葉集』『平家物語』など日本の古典文学から比較神話学なども学ばれており、愛子さまの大学での専攻の選択や興味、関心は父譲りの感もある。 「愛子さまが古典文学に興味を持たれた背景には、幅広く日本の歴史を学ばれてきた天皇陛下から、折に触れ歴史のお話を耳にされてきたこともあると思うのですが、実は雅子さまの影響もあったと思います」(つげさん)  と話す放送作家のつげのり子さんは、雅子さまのご学友から聞いた秘話を思い出すという。 「3年前に『素顔の雅子さま』(河出書房新社)という書籍を出したときに、雅子さまと小さいころから交流のあるご学友の方に取材をしました。そのとき話してくれたのが、雅子さまのお母さまである小和田優美子さんの教えです。『海外に出たときに、日本のことを知らないと、真の日本人とは言えないのではないか。ただ英語ができるだけで海外に行ったところで、日本の根本についての素養を身につけていないと、根なし草になってしまう。歴史や文化、礼儀作法などを学び、日本人としての矜持を胸に秘めて海外に出てこそ、国際人になることができる』というお考えを優美子さんはお持ちだったそうです。日本の美意識や伝統文化を知ることがなによりも大切であることを雅子さまにも教え込まれたのでしょう」(つげさん) 天皇誕生日の一般参賀のご一家  外交官の妻として、モスクワやニューヨークでの子育て生活を経験した母・優美子さんの揺るぎない国際人としての在り方は、しっかりと雅子さまにも受け継がれた。 「雅子さまはハーバード大学時代に日本文化クラブを設立されて、『さくらさくら』などの日本の曲をピアノで演奏したり、お茶を振る舞ったりしていらっしゃったそうです。日本文化を学生たちに伝える活動は、まさに日本人としてのアイデンティティを確立するものであり、国際人としての未来を切り開くものでした。お母さまから受け継いだ、そうした教えを雅子さまは愛子さまの子育てにも生かしていらしたのではないでしょうか」(つげさん)  国際人になるというと、まずは英語などの語学の勉強と単純に考えてしまいがちだ。もちろん言語も大切だが、真の国際人になるためには日本を知ることは必要不可欠なのかもしれない。脈々と受け継がれた教えは、自然と愛子さまは日本語、日本文学を専攻し、中でも平安文学に興味をもたれるのもうなずけてくる。 「愛子さまの日本への探究心は深く、学習院初等科のころから藤原道長について歴史研究レポートをまとめていらっしゃいます。学習院女子高等科のときも「平安時代に見る猫や犬、人との関わり」というレポートを書かれ、一貫して平安時代に興味を持っていらっしゃるようです。天皇ご一家は実際に猫や犬を飼っておられるので、そうした動物との関わりを平安時代の切り口で分析なさるというのは、愛子さまらしい示唆に富んでいますよね。猫、犬、平安時代、とご自身が好きなものを結びつけたこともオリジナリティがあって素晴らしいと感じます。大学4年生で卒論を書かれると思いますが、平安文学作品に関するテーマになるのではないでしょうか。卒論は公表はされないでしょうが、読んでみたいですよね」(つげさん)                            興味のあることを深掘りする姿はとてもすがすがしい。春本番、愛子さまの本格的なキャンパスライフには注目が集まることだろう。(AERAdot. 編集部・太田裕子) つげのり子/放送作家、ノンフィクション作家。2001年の愛子さまご誕生以来皇室番組に携わり、テレビ東京・BSテレ東で放送中の「皇室の窓」で構成を担当。皇室研究をライフワークとしている。日本放送作家協会、日本脚本家連盟会員。著書に『天皇家250年の血脈』(KADOKAWA)、『素顔の美智子さま』『素顔の雅子さま』『佳子さまの素顔』(河出書房新社)、『女帝のいた時代』(自由国民社)、構成に『天皇陛下のプロポーズ』(小学館、著者・織田和雄)がある。
教育方針でテレビ捨てた妻は厳しすぎ? 6歳息子の父が心配「友達と話が合わなくなる」に論語パパがズバリ
教育方針でテレビ捨てた妻は厳しすぎ? 6歳息子の父が心配「友達と話が合わなくなる」に論語パパがズバリ 6歳の息子を持つ30代の父親。「テレビなし育児」を貫く妻の教育方針に対し、「小学校に上がってから友達との話が合わなくなるのでは」と心配しています。「論語パパ」こと中国文献学者の山口謠司先生が、「論語」から格言を選んで現代の親の悩みに答える本連載。今回の父親へのアドバイスはいかに。 *    *   * 【相談者:6歳の息子を持つ30代の父親】  6歳の幼稚園年長の息子を持つ30代の父親です。妻の教育方針から我が家ではテレビを捨て、テレビなしで育てています。代わりに、本を読んだり、工作をしたり、体をつかった能動的な遊びが好きになり、本人に今のところ不満はなさそうです。しかし4月から小学校に通うようになったら、友達と話が合わず、おいてきぼりになってしまわないか、と心配です。周りとうまく調和できず「空気を読めない子」と思われてしまうかもしれません。 「友達との共通の話題は後になって取り戻せないもの。この先ずっとなしというのは、よくないのでは」と妻に伝えたところ、「テレビの話題がないと友達関係を築けないほうがおかしい」と取り合ってくれません。厳しすぎる妻を説得する方法はありませんか。 ※写真はイメージです(写真/Getty Images) 【論語パパが選んだ言葉は?】 ・「君子は和して同ぜず、小人(しょうじん)は同じて和せず」(子路第十三) ・「人の己(おの)れを知らざるを患(うれ)えず、人を知らざるを患(うりょ)うるなり」(学而第一) 【現代語訳】 ・「立派な人は、主体性を持ちつつ他人と調和し、やみくもに他人の意見に同調することがない。つまらない人はその逆で、たやすく同調するが心から親しくなることがない」 ・「人が自分のことをわかってくれないことを悩むのではない。自分が、人のことをわかってあげられていないことを悩むことこそが大切なのだ」 【解説】  お答えします。子育てにテレビは必要ありません。  私も生まれてこの方、現在に至るまで、テレビのない生活をしています。新聞もありません。父も母も「本当に必要な情報は、こちらから求めなくても自然に入ってくる」という考え方でした。私も長年の経験で同じように思います。  テレビや新聞から得られる情報は、本当のことなのかどうなのかよくわからない、文字通り「新しい話題」という意味での「ニュース」です。いちいち反応していたら、ゆっくり物事を考えたりする時間も、精神的ゆとりもなくなってしまいます。また、自分で処理しきれないほどの情報が満ちている今は、テレビがなくても、パソコンがあってインターネットにつながっていれば必要なことは自分で調べることもできますよね。  相談者さんの息子さんがテレビを見なくても「不満」を感じていないようなら、ぜひ、このままテレビなしの生活を続けてみてください。少なくとも小学校、中学校を卒業するくらいまでの最も多感な頃には、テレビより「本を読んだり、工作をしたり、体をつかった能動的な遊び」で、感受性や心の深さを育むべきだと思います。  2500年前の思想家・孔子の有名な言葉に、次のようなものがあります。 「君子は和して同ぜず、小人(しょうじん)は同じて和せず」(子路第十三) 「立派な人は、主体性を持ちつつ他人と調和し、やみくもに他人の意見に同調することがない。つまらない人はその逆で、たやすく同調するが心から親しくなることがない」という意味です。  相談者さん、テレビの話題で付和雷同するくらいの人間関係ならいつでも、誰にでも作ることができます。息子さんがテレビのない生活をしているからといって「空気を読めない子」になってしまうのでは、などと決して心配しないでください。表面的なその場限りのニュースで感情を揺さぶられたりしていては、孔子が言うような「小人」になりかねないからです。相談者さんも、「その時だけ人に同調して、本心からは調和することができない人」とは、一緒に仕事することも難しいでしょう?  もっとゆとりを持った深い心で物事を見つめ、構造的な思考ができる「君子」になれば、表面的なつきあいしかできない友達より、もっと深い考えを持つ人たちと、真の意味でのおつきあいができると思います。そのためにも、相談者さんは息子さんに豊かな感受性と「本当の優しさとは何か」ということを教えてあげることです。  孔子はこのようにも言っています。 「人の己(おの)れを知らざるを患(うれ)えず、人を知らざるを患(うりょ)うるなり」(学而第一) 「人が自分のことをわかってくれないことを悩むのではない。自分が、人のことをわかってあげられていないことを悩むことこそが大切なのだ」という意味です。  これは人々がよりよく生きるための基本ともいえます。自分のことばかりを考えて行動すると、争いやトラブルが絶えなくなりますから、こうした深い心、考え方を息子さんの中に育むことが、最も重要ではないでしょうか。  もう一度言います。子育てにテレビは必要ありません。実際に、テレビなしで60年間過ごしてきて、まったく困ったことがない私が保証します。 【まとめ】 テレビの話題で付和雷同するくらいの人間関係はいつでも作れる。もっと深い心と考え方を息子の中に育もう 山口謠司(やまぐち・ようじ)/中国文献学者。大東文化大学教授。1963年、長崎県生まれ。同大学大学院、英ケンブリッジ大学東洋学部共同研究員などを経て、現職。NHK番組「チコちゃんに叱られる!」やラジオ番組での簡潔かつユーモラスな解説が人気を集める。2017年、著書『日本語を作った男 上田万年とその時代』で第29回和辻哲郎文化賞受賞。著書や監修に『ステップアップ 0歳音読』(さくら舎)『眠れなくなるほど面白い 図解論語』(日本文芸社)など多数。2021年12月に監修を務めた『チコちゃんと学ぶ チコっと論語』(河出書房新社)が発売。母親向けの論語講座も。フランス人の妻と、大学生の息子の3人家族。
「悠仁さまも愛子さまも、早いうちに海外王室との親善の機会を」 昭和天皇も上皇さまも見た“19歳の世界”
「悠仁さまも愛子さまも、早いうちに海外王室との親善の機会を」 昭和天皇も上皇さまも見た“19歳の世界” 天皇誕生日の一般参賀に訪れた人たちに手を振る愛子さま  悠仁さまは、皇位継承順位2位にある。いまの皇室典範に則れば、若い世代で唯一の皇位継承者である。悠仁さまは、幼い時期からご両親と国内の土地を訪ね、そこに暮らす人たちと触れ合い文化を学んできた。天皇陛下が昔から、ご友人に「自分の足で現地に行き、自分の言葉でじかに、人びとと話をすることを大事にしたい」と語ってきたように、悠仁さまも自身の足で土地を歩き、学びを積んでいる。 ※記事の前半<<16歳の悠仁さまを執拗に批判する社会は正しいのか? 幼い時期から各地に足を運び風土を学ぶ「帝王学」の芽>>から続く *  *  *  平成の天皇、皇后両陛下が行ってきた慰霊の旅が令和にも引き継がれたように、悠仁さまも戦争の歴史と犠牲について学んできた。  秋篠宮ご夫妻が心を寄せてきた学童疎開船「対馬丸」の犠牲者を慰霊する集いや、沖縄戦の犠牲者を追悼する集会などにも参加してきた。7歳のときにはご両親と一緒に、沖縄本島南部の糸満市摩文仁にある「平和の礎」を訪れた。ご両親は、24万人余りの名前が刻まれた石碑を前に、この土地で起きた凄惨な犠牲について説明をしている。  10歳の冬には、ご両親と長崎県の原爆の爆心地にある「原爆落下中心地碑」に供花をした。長崎原爆資料館で熱線や爆風の被害を学んでいる。  翌年の夏には、東京・小笠原諸島を訪れた悠仁さま。美しい自然とともに戦争の痕跡がいまだ残るこの地で塹壕や軍道、軍用トラックなどが残る戦争の痕跡もめぐった。  11歳の夏を迎えた2018年の8月10日。広島市の平和記念公園を初めて訪れ、原爆死没者慰霊碑に拝礼し、被爆者の体験を聞いている。  5日後の終戦記念日。秋篠宮ご夫妻は、昭和史研究者・半藤一利氏を宮邸に招いた。半藤氏は、悠仁さまに戦争について話している。  悠仁さまは、半藤氏にこう問いかけた。 「どうして日本に原爆が落ちたのか」 「なぜ戦争になったのか」  秋篠宮さまは「統帥権」について質問した。秋篠宮さまはこのとき、皇位継承順位2位。親子で学ぶ姿がそこにあった。 伊勢神宮内宮の参拝に向かう悠仁さま(2022年10月撮影)  かつて皇室で皇太子や親王を導いた「傅育官(ふいくかん)」は、いまはいない。しかし、悠仁さまは幼いころから長い時間をかけて「帝王学」を身につけているのだろう。  前述のように、ご両親と公務の場に同行する経験も積んでいる。  一方で、皇室制度にも詳しい八幡和郎・徳島文理大学教授は、悠仁さまは「もっと公的な場に出る機会を積まれるべきだ」と話す。 「というのも、昭和天皇や上皇さまも御幼少の時期から、御学問所で天皇にふさわしい教養や知識を学んでいます。しかし、海外王室との親善や対応を行うという点では、宮内庁による教育は限界がありました。そこで宮内庁は、皇太子の時期に海外を訪問する機会を設けて実地で学びの場をつくったのです」  かつて、元老の山県有朋や原敬首相は、裕仁(ひろひと)皇太子(昭和天皇)も海外で学ぶべきであると勧めている。 「将来の君主として、皇太子が大戦後の欧洲各国を巡遊し、世界の大勢を審(つまび)らかにし、各国の君主・元首と交際して交誼(こうぎ)を厚くすべし」  裕仁皇太子は19歳だった1921(大正10)年3月から6カ月の間、英国やフランスをはじめとする欧州各国を訪れた。そこで目にしたのは、第1次世界大戦による犠牲の跡だ。  英国軍の多大な犠牲を出したベルギーの激戦地を目にした裕仁皇太子。深い衝撃を受け、英国王のジョージ5世にこう電報を送っている。 「『イープル戦場ノ流血凄惨』ノ語ヲ痛切ニ想起セシメ、予ヲシテ感激・敬虔ノ念、無量ナラシム」  フランスでも、破壊された街と荒廃した森を目にした。裕仁皇太子はその光景を嘆き、現地紙に、「戦争を讃美(さんび)し、暴力を謳歌(おうか)する者の眼には如何(いか)に映ず可(べ)きか」と、談話を寄せた。  戦後、昭和天皇としてこのときの欧州訪問を、こう振り返っている。 「英国国王ジョージ五世から立憲政治のあり方について聞いたことが終生の考えの根本にある」  上皇さまも父と同じ19歳の皇太子だった53年、エリザベス女王の戴冠式に昭和天皇の名代として参列するため、欧米を訪問している。上皇さまは、還暦を迎える93年の誕生日会見で、当時をこう振り返っている。 「英国の女王陛下の戴冠式への参列と欧米諸国への訪問は、私に世界の中における日本を考えさせる契機となりました」  53年という年は、第2次世界大戦に敗れた日本が国際社会に復帰した翌年で、日本や日本人を見る世界の目はまだまだ厳しかった。19歳の青年だった明仁親王にとっては、そのあと長い友情を育むことになる各国の王族との出会いの場であると同時に、英国民の冷たい視線にさらされた場でもあった。   前出の八幡教授は、こう話す。 「昭和天皇も上皇さまも皇族として海外王室との親善の旅に出たのは、ともに19歳でした。悠仁さまも、天皇家の長女として公務を担う愛子さまも早いタイミングで、どんどん海外で学び同世代の王室メンバーと人脈を築く経験が必要だと思います。さらには、おふたりとも国民に聞こえてくる動静が少なすぎる点は気になります。たとえば英エリザベス女王が王女時代、紛争で家を失った子どもたちに向けてラジオ放送で演説を行ったのは1940年、わずか14歳のときでした。悠仁さまは皇位継承者として、愛子さまは皇室を支える内親王というお立場です。学業優先とのご家庭の方針は、もっともです。しかし、ご両親とともに公務に同席し、ご経験をもっと重ねるべきではと感じます」  悠仁さまも来年の9月には、18歳の成年を迎える。在籍する筑波大学付属高校は超が付くほどの進学校だけに、旅となれば受験勉強との兼ね合いも難しいところだ。  ただ、若い世代の唯一の皇位継承者であることも現実である。悠仁さまの成長と教育に関心が集まっている。 (AERA dot.編集部・永井貴子)
【独自】熊本・国立小学校、教員急死の背景に「パワハラ」疑惑 「プライドをたたき、ゼロから鍛え上げる」過酷すぎる職場環境
【独自】熊本・国立小学校、教員急死の背景に「パワハラ」疑惑 「プライドをたたき、ゼロから鍛え上げる」過酷すぎる職場環境 熊本市にある熊本大学教育学部附属小学校の校門  熊本の国立小学校に勤めていた教員が、職場でパワーハラスメントを受けて自殺したようだ──。編集部への情報提供をもとに関係者たちに取材すると、学校内で先輩教員からの行き過ぎた指導が横行していたことや、教員が亡くなった原因がきちんと調査されていないことが明らかになった。全国の公立校の“手本”となるべき国立校に深く根を下ろす、病巣の実態とは。 *  *  * 「熊本大学教育学部附属小学校(以下、附属小)でパワハラが原因とみられる教員の自殺があったが、実質的に隠ぺいされている。教育界の闇を改善してほしい」  本誌に対し、怒りと失望をにじませてこう訴えたのは、附属小の内部事情に通じているA氏だ。パワハラを受けて亡くなったと問題視されているのは、当時40代だった元教諭Bさん(男性)。一昨年4月に附属小に赴任し、その翌月亡くなった。附属小勤務は初めてとはいえ、教員歴は15年以上のベテランだった。  Bさんの死の原因は公表されておらず、それがA氏が疑うように「パワハラによる自殺」だったことを直接示す証拠や証言はない。  Bさんの妻をはじめとした遺族は本誌の取材に対し、「お話しすることはありません」と沈黙している。附属小関係者の口も重く、ある教員は学外の友人に「Bの死は職場では突然死のように扱われている」と語ったものの、何があったのかは濁したという。  だが取材を進めると、「自殺だったというのは周知の事実」「附属小では長時間労働やパワハラが蔓延している」という話が出てきた。 「B先生は周囲の教員に『睡眠不足』『眠れない』などと漏らしていた」 「亡くなる数日前には教卓に伏せて寝ていて、担任のクラスの児童が心配していた」  との証言もあった。  Bさんの高校の同級生は、「訃報を知って同級生一同驚きました。3人の子どもをもうけ、家も建て、穏やかな生活を送っていると思っていたのに」と話す。 「Bは大人しく、とても真面目で優しい人間でした。以前ホームセンターで会ったときは、当時の赴任先で顧問だった野球部のために飲み物などの買い出しをしていました。夫婦で教員だったので、奥様は余計ショックでしょうね」 熊本市にある熊本大学教育学部附属小学校の校舎  Bさんが勤務していた附属小は、特異な環境として知られていたという。 「附属小への赴任は、県や市の小学校教員のうち優秀な人に声がかかるものの、ハードさから大半は断るそうです。そんななか、やる気を持って赴任したはずのBが短期間で自殺に追い込まれたとしたら、なんて職場なのだろうと思います。どうして亡くなったのか、きちんと知りたい」  附属小は創立約150年の歴史をもち、画家の藤田嗣治などを輩出した名門校。受験や附属幼稚園からの内部進学によって入学する児童たちは、総じて「優秀」だ。  だが国立学校という性質上、一般的な公立校と比べて教員の負担は大きくなりがちだ。文部科学省の指揮下で最先端の教育を実践する「研究機関」として、授業研究や教育実習生の指導など、膨大な“プラスアルファ”の業務が発生する。A氏によると、「附属小勤務はいわゆるエリートコースで、授業スキルを磨きたい真面目な先生や、管理職を目指す上昇志向の強い先生が集まる」という。 ■手作り弁当強要 異論には叱責も  これらの事情から、「非常に忙しく、先輩からは厳しい指導を受ける」のが附属小勤務の定評だが、実際の職場環境を知るC氏とD氏は、その行き過ぎた実態を明かす。  教員の間には「附属小勤務歴が長いほど偉い」という独特の文化があり、「一回り年下の同僚から怒鳴られることもある」(C氏)、「児童や保護者の前でも平気で叱責される」(D氏)。さらには、「教材室(3人でシェアする教員室)に先輩教員のお客さんが訪ねてきたら、後輩教員はその間起立していなければならない」(D氏)という不文律まであった。  またC氏によると、新人には運動会やうさぎ狩り(明治時代から続くとされる冬の伝統行事。教員と児童で野山に入り、竹の棒を打ち鳴らしながらうさぎを網に追い込む)などのイベント準備も一任され、経験のなさゆえに苦痛に感じる教員は少なくない。それでも大半は、「異を唱えるとさらに大きな叱責がある」「最初の1年さえ耐えれば、次の新人が来てくれる」と考え、声を上げずにやり過ごしてきたという。  だが、過去に附属小で教育実習を受けた経験者たちからは「小学校教員になりたいと思わなくなった」と、不満が噴出する。理由は以下の体験談の数々から一目瞭然だ。 「ずっと立ちっぱなしだったし、トイレに行ける雰囲気でもなかった」 「深夜1時ごろまで自宅での残業が必要だった」 「手作りの弁当を強要された。しかも、彩りが悪いと注意された」 「市販のサンドイッチは弁当箱に詰め替えて、自作を装うよう指導された。ペットボトルも禁止で、水筒に入れ直した」……。  さらに、数年前に校内を訪れた関係者からは、「実習生が教員に怒鳴られていた」との目撃証言もあがっている。  附属小におけるパワハラや長時間労働を生み出す温床として問題視されているのが、長年行われてきた「授業研究会(通称・校内研)」だ。様子を知る人々の話を総合すると、その実態はこうだ。  毎週木曜日、その週の担当教員は同僚に授業の様子を公開する。基本的に校内の全教員が参観するため、その時間は、担当教員のクラス以外の児童は自習となる。  放課後は2~3時間にわたる「事後研究会」が開かれ、先輩教員からの厳しい指導がある。授業の様子を撮影した録画を見せながら、「ほら、このとき子どもに顔を向けていない」などと細かく指摘されることもあり、D氏によると「附属小歴の短い教員のプライドをたたき、ゼロから鍛え上げる」のだという。  その後、半強制の飲み会が待ち受けているのも、「昔からの伝統」(C氏)。翌日も仕事があるにもかかわらず深夜まで拘束され、飲み代や代行運転の費用もかさむ。耐えかねて管理職に相談する教員もいたが、改善されることはなかった。 ■異例の転出者数「もみ消し」の噂  さらにコロナ禍では、酒盛りの場は学校内へと移った。輪になって集まり、指導とは名ばかりの「いびり」や「吊るし上げ」が加速し、帰宅できなくなった教員が教材室のソファで寝泊まりすることが常態化。附属小は“不夜城”と呼ばれていた。授業研究会はBさんが亡くなって以降中止になったが、昨年から再開しているという。  附属小の教員が自殺したという話は、事件から半年も経たないうちに小学校内外に広まった。同時に、「大学はまともに調査をしていないようだ」という噂もあったが、Bさんの死の翌年にあたる2022年度の定期人事異動が発表されると、関係者たちの疑念は一気に膨らんだ。  校長・教頭ふくめ、附属小の教員の3分の1以上にあたる9人が他校に転出したのだ。転出者は例年、数人なので、異例の事態だった。「附属小で何かがもみ消されようとしている、と噂が流れました」(D氏)  実は、Bさんが亡くなった後、大学は附属小の職場環境について現場の教員たちへの聞き取り調査を実施しており、一部の関係者は大学幹部から、調査結果の説明を受けていた。事情を知る人によると、その内容は、 「授業研究会では大量のレポートが課されるため、『ふとんで寝ることができない』と話す新任の先生がいた」 「一生懸命やっているにもかかわらず人格を否定するような言葉をストレートにぶつけられ、傷ついた方もいた」  などというもの。長時間労働やパワハラが蔓延していたことをうかがわせるが、肝心のBさんの死の詳細については一切が伏せられた。  説明をした大学幹部は「自殺だったかどうかは回答しない」「附属小での勤務の在り方を調査しただけで、教員が亡くなったこととの関連は調べていない。これ以上調査すれば、学校組織を壊すことに必ずつながる」と言ったといい、各所から「組織を守るために教員の死を隠ぺいするのか」と憤る声があがっている。  大学の調査報告について、組織内部にいる人はどう思うのか。複数の大学教員に見解を求めたところ、同大教育学部准教授の白石陽一氏は「このような不誠実さやいい加減さを見れば、普通の大人は隠ぺいだと感じる」と非難した。 「教員の自殺を受けて調査を始めたということは、自殺と労働環境の間に因果関係があるかもしれないと判断したからのはず。それにもかかわらず、自殺の理由は調査しないなんて、責任逃れ以外の何物でもない」 熊本大学教育学部の本館(熊本市)  関係者たちの証言によると、附属小への調査結果を受けて、いちおう現場の教員数人に処分が下っている。  だが、その理由は「熊本大学の就業規則違反となる校内での飲酒」。前出の証言にあった「授業研究会の名を借りた酒盛り」が問題視されたと思われるが、Bさんを追い詰めるようなパワハラ行為があったかどうかは追及されていない。  しかも、下された処分の種類は、「訓告」程度だという。これは文書や口頭で注意をするもので、懲戒の扱いにはならない。公立学校内で飲酒があった場合は停職処分相当という見方もあり、県内の教育委員会関係者からは「この処分は軽すぎる」という意見が出ている。大学内外で「報道発表を避けるために軽い処分にしたのではないか」と、臆測が飛び交うのも無理はない。  本誌は大学に対し、処分内容についての情報公開請求をしたが、 「当該事実の有無を明らかにすることは、当該教職員の特定が可能になるおそれがあり、当該個人の権利利益を害するおそれがある」  と、拒否された。  前述のとおり、附属小では昨年、教員の大掛かりな入れ替えがあった。関係者たちは「これ以上の処分や事情聴取は難しくなった」と見ており、A氏も「真相究明をあいまいにすれば、現状をますます悪化させるのではないか」と危惧している。 ■報告書は非開示 大学内にも怒り  一連の大学側の対応に納得できない白石准教授は、昨年9月、学長宛てに「要望書」を提出した。教員の死の真相究明と、そのための第三者による調査委員会の設置が、主な訴えだ。翌月、大学からの回答が届いたが、その内容は、 「亡くなった教員についての調査は既に完了し、これ以上は必要ない。調査報告書も開示しない」 「附属小の問題を改善するための第三者委員会が既に立ち上がっており、今月(昨年10月)、最初の会合が開かれた」  というものだった。白石准教授は語気を強めてこう語る。 「調査報告書を開示しない理由を尋ねても、『開示しないことになっているから』の一点張り。まったく許しがたい。それに第三者委員会を立ち上げたといっても、学校内のハラスメントや労務災害に詳しい専門家が参加しているのかは不透明。『附属小の問題を改善する』という目的を果たせる委員会になっているのか、疑問が残る」  本誌は、教員の死やそれをめぐる対応などについて、大学広報に見解を求めた。すると、文書で以下のような回答が返ってきた。 「附属学校及び大学としては教員の私生活等について詳しく知りうる立場にないことから、逝去の背景について意見を述べることは出来ません」 「本学の附属学校について、数度にわたって改革に向けた調査を実施し、検討委員会を開催し、改善に努めているところです。具体的には、校務支援システムを導入する、教育実習や授業研究会に関する負担を軽減するなどの対応を行っています」  附属小では、Bさんが亡くなった後も、赴任したばかりの教員から休職者が出ているという。本当に状況は改善されたのだろうか。  子どもたちの学び舎でパワハラや長時間労働が横行し、現場の教員が亡くなってもきちんとした調査を行わない。結果、旧態依然とした体質の被害者が後を絶たない実態があるのだとしたら、冒頭でA氏が訴える「教育界の闇」は、恐ろしく深い。(本誌・大谷百合絵)※週刊朝日  2023年3月24日号
12歳の息子が余命一年と宣告された55歳男性に、鴻上尚史が差し出した心からの感謝と祈りと言葉
12歳の息子が余命一年と宣告された55歳男性に、鴻上尚史が差し出した心からの感謝と祈りと言葉 鴻上尚史さん(撮影/写真部・小山幸佑)  12歳の息子が余命一年と宣告され、懊悩する55歳男性。仏教の本を読んで生命について考えていると告白する相談者に、鴻上尚史が差し出した心からの感謝と祈りと言葉。 【相談176】12歳の次男が小児がんになり、余命一年と言われました(55歳 男性 飛行機)  鴻上様、いつも楽しく読ませて頂いています。著書も買わせて頂いております。  50代の父親です。私の次男12歳が小児がんになりました。難病で、1年半かけて入院し、治療をしました。その間、妻はつきっきりで、私と長男(高2)は2人で生活をしていました。決められた治療を終え、良好な兆しが見えて退院したものの、再発しました。難病ゆえ、再発したら手立てはないと言われています。あと1年くらいの余命だとも言われました。  現在は特に症状もなく、退院し、自宅でゲームをやったり普通に食事をしたりしています。でも完治したわけではないので、この先にくる未来を考えると胸が塞がります。どうやって精神のバランスを取ればいいのか、この状況をどうやって納得すればよいのか、全く分かりません。  仏教の本を読んで、生命について考え、答えを見つけようとしていますが、答えなんてないのかもしれません。何とか本人の前では明るくいるようにしています。妻も明るく強い素晴らしい女性なので、何とか日々を過ごしています。長男も明るく過ごしています。本人も明るく元気で、本当に可愛くていい子です。それが救いです。家庭内には笑いもあって、何らいつもと変わらない日々を過ごしています。  仏教では因果応報という言葉が出てきます。結果には必ず原因があるということでしょうか。でも、息子のがんに原因はないんです。大人のがんと違い、不摂生やストレスが原因ではなく、細胞分裂の際のコピーの失敗、などと言われています。でもその痛烈な一撃が我が家にやってきてしまったのです。  何とか踏ん張って、仕事もしていますが、仕事ができている自分が不思議なくらい、頭の中はぐちゃぐちゃです。仏教に助けを求めようとしても、因果応報と言われると、原因なんてない!と叫びたくなります。なぜうちの子が?と考えてもしょうがない、理由も原因もないんだ、ただ運命を受け入れて、今を精一杯生きるのだ、と自分に言い聞かせて、何とか立っています。何か悪いことをしたから病気になったわけではありません。ただ、病気になったんです。それを受け入れろ、と言われているんです。鴻上さんへ何を聞きたいのかも分かりません。ただ、こういうことを聞いて欲しいだけだったのだと思います。   ※写真はイメージです。本文とは関係ありません(iStock / Getty Images Plus)%%%BR%%%作家・演出家の鴻上尚史氏が、あなたのお悩みにおこたえします! 夫婦、家族、職場、学校、恋愛、友人、親戚、社会人サークル、孤独……。皆さまのお悩みをぜひ、ご投稿ください(https://publications.asahi.com/kokami/)。採用された方には、本連載にて鴻上尚史氏が心底真剣に、そしてポジティブにおこたえします 【鴻上さんの答え】 飛行機さん。大変ですね。本当に、本当に、大変ですね。  僕は飛行機さんをなぐさめる言葉を持ちません。飛行機さんの悩みを解決できる方法もアイデアもありません。飛行機さんの苦しみや哀しみをなんとかする能力もありません。  僕にできることは、飛行機さんの文章を読み、「ほがらか人生相談」で、こうやって「飛行機さん、読みましたよ。何度も何度も、飛行機さんの文章を読みましたよ」と告げることだけです。  人間の力ではどうしようもない時、宗教に救いを求めることは珍しいことではないと思います。  説明できないこと、理不尽なことを説明してくれる大きな物語が宗教です。何も悪くない、何の罪もない12歳の息子さんが突然、余命一年と宣告される。こんな理不尽はありません。あってはならない、胸張り裂ける現実です。  仏教の専門家の人が「因果応報」についてなんと答えるか僕は分かりません。「因果応報」とはどんな場合でも受け入れることだと答えるのでしょうか。それとも、この場合は「因果応報」とは違うと答えるのでしょうか。  飛行機さんの文章から、飛行機さんがとても聡明な人だと分かります。  そして、とても前向きで誠実で勇気ある人だということも分かります。 本連載の書籍化第4弾!『鴻上尚史のなにがなんでもほがらか人生相談』が発売中です!  こんなつらい現実の中で書かれた文章から、飛行機さんの、歯を食いしばって前向きに生きようとする苦労が感じられます。そして家族のみなさんの強さや努力もひしひしと感じます。  母親のつらさも、高校2年生の長男さんのつらさもどれほどかと思います。それなのに、ただ暗くなるのではなく、笑いも起こる家庭は本当に奇跡のように素晴らしいことだと思います。  飛行機さん。よく「ほがらか人生相談」に投稿してくれました。僕は何もできませんが、飛行機さんと家族のみなさんが毎日がんばっているということを知っただけでも、僕はよかったと思います。  僕に唯一できることは、飛行機さんと家族のみなさんが次男さんと過ごす日々が、どうか、一日でも長く、穏やかでありますようにと祈ることだけです。  飛行機さん。メールを送ってくれて本当にありがとうございました。 ■本連載の書籍化第4弾!『鴻上尚史のなにがなんでもほがらか人生相談』が発売中です。書き下ろしの回答2編も掲載! ↓【音声で聴くにはこちら】鴻上尚史が「人生相談」に込める思い↓
「勝地涼」がバラエティーで飛躍 元妻・前田敦子とのエピソードトークが人気!?
「勝地涼」がバラエティーで飛躍 元妻・前田敦子とのエピソードトークが人気!? 勝地涼  離婚をした芸能人が元パートナーについて語ることは少ない。人気商売ゆえ、どうしても好感度に関わる話題には敏感になるからだ。しかし、近年そんなタブーを打ち破り、バラエティー番組でのぶっちゃけ発言などでじわじわと好感度をアップさせているのが俳優の勝地涼(36)だ。  勝地といえば、2018年に元AKB48で女優の前田敦子と結婚し、翌年には長男が誕生。しかし、21年に「自分の至らなさによるもの」(勝地)、「生活スタイルや価値観の違い」(前田)を理由に離婚を発表。当時は元人気アイドルの前田を擁護する声が多く、「(ネットニュースに)いろいろ書かれて、ないことだらけ書かれて悔しくて」と勝地が明かしていたこともある(フジテレビ系「人志松本の酒のツマミになる話」、2月24日放送)。また、勘違いによって「『勝地が不倫した』と思っちゃっている人がいる」と指摘し、やめてほしいと切実に訴えかけた。勝地によれば、いまだに「お前、不倫してるくせにテレビ出てんなよ」など、勘違いした思い込みでDMを送ってくる人がいるといい、「不倫してない」と身の潔白を主張していた。 「離婚直後は『原因は勝地のDV』などとも報じられました。真相は夫婦にしかわからないですが、2人は離婚後に良好な関係をキープしていることからも、DVがあった可能性は低いでしょう。先日は親子3人でトイ・ストーリーホテルに泊まり、ディズニーランドに行ったことをインスタグラムで報告していましたし、バラエティー出演時も、前田さんや息子さんとのやりとりを話す姿もよく見られます。SNS上には『別れたほうが仲よしっていい』『いいパパ』などと、勝地さんの好感度がアップしているように思えます」(テレビ情報誌の編集者)  前田のことを悪く言わないことも、勝地の評価が上がっている理由のひとつだろう。  2月23日に生出演したバラエティー番組「ぽかぽか」(フジテレビ系)で、MCの神田愛花から「(生活のルールで)前の奥さまに何か言われていたことはありませんか?」と質問されると、「バラエティーとかでこういう話をしてもいいよとか言ってくれる方なので、助かってますよね。器が大きい」と前田を絶賛。「こういう話は相手もあることなので、やりづらかったりするじゃないですか。でも『気にしないで』って(言ってくれる)」と心意気ある元妻の発言を明かしていた。「ボクらの時代」(フジテレビ系、21年12月26日放送)に出演した際も「今もいい関係を築いてくれてるのは、向こうのおかげだと思ってるんで」と謝意を語っていた。  俳優としては若くしてその演技が注目された勝地。時には、視聴者の記憶に残るインパクトの強い役を演じて話題になった。 「05年公開の『亡国のイージス』で物語の鍵を握る役柄を演じ、19歳で日本アカデミー賞新人俳優賞を受賞しています。また、13年に大ヒットしたNHK連続テレビ小説『あまちゃん』では、“前髪クネ男”ことTOSHIYA役で出演したのですが、たった1回の登場だったにもかかわらず、視聴者に強烈なインパクトを残しました。記憶に新しいのが、21年末に放送されたドラマ『志村けんとドリフの大爆笑物語』での加藤茶さん役。あまりのそっくりさに、『本人かと思った』という視聴者の声が相次ぎました」(同) ■日本を代表する喜劇役者に  役者人生で転機となったのは俳優・古田新太や脚本家・宮藤官九郎からの助言だったと各所で話している。日本アカデミー賞新人俳優賞受賞後は二枚目俳優路線で活動していた勝地だったが、だんだんと壁にぶつかり、起用されなくなった日々があったという。そんな時期、古田から「賢そうなふりをするな」ともアドバイスを受け、「バカでいいんだ」と気づき、以後リラックスして演技ができるようになったと話している(MBS「ごぶごぶ」、20年12月1日放送)。また、古田からは「お前さ、勘違いしているかもしれないけどこっち側だよ。多分バカだし、カッコつけているけど、こっち側だぞ」と言われたという(フジテレビ系「ノンストップ!」、23年2月27日放送)。古田からのアドバイスにより、「それで生きやすくなりました。ありがたいです」と感謝の気持ちを明かしていた。  コメンテーターで元「週刊SPA!」芸能デスクの田辺健二氏は、勝地についてこう語る。 「主演の座にこだわることなく、若くしてバイプレーヤーの道を丁寧に突き進んできたことが、今の成功につながっていると思います。2000年にデビューして以降、現在に至るまで毎年ドラマに出演し続けているというのは驚異的です。勝地さんのように“笑いの間”がちゃんとわかっていて、コメディー作品でも存在感を発揮できる人は非常に貴重です。今では日本を代表する喜劇役者と言っても過言ではなく、コメディー作品でより輝きを増す稀有な俳優です。舞台の世界でも宮藤官九郎さんだけでなく、野田秀樹さんや岩松了さん、ケラリーノ・サンドロヴィッチさんなど演劇界の重鎮たちからもオファーを受けています。これだけの出演作がありながら、いまだに“前髪クネ男”が代表作と言われ続けているのが不思議ですが、そこが勝地さんらしいところでもある。今後は勝地さんにしかできない“当たり役”を追求してもらいたいですね」  唯一無二の存在感で、ドラマや舞台に引っ張りだこという状況はこれからも続きそうだ。 (高梨歩)
女性どうしを分断する「年収の壁」 「働き損」を解消するためにはどうすれば?
女性どうしを分断する「年収の壁」 「働き損」を解消するためにはどうすれば?  税金や社会保険料負担を避けるため時間を抑えて働く「年収の壁」。女性の就労を阻害し、女性労働者を分断する要因とも指摘されている。AERA 2023年3月13日号の記事を紹介する。 *  *  *  野村総合研究所(NRI)未来創発センターが昨年9月、パートもしくはアルバイトとして働く全国の20~69歳の有配偶者の女性を対象に行った調査で、「年収額を一定の金額以下に抑えるために就業時間や日数を調整(就業調整)している」と回答したのは61.9%。このうち、「働き損」がなければもっと働きたいとする人は、「とてもそう思う」(36.8%)と「まあそう思う」(42.1%)を合わせて約8割に上った。調査を担当した武田佳奈研究員はこう解説する。 「『年収の壁』を超えて働けば、増えた収入が打ち消されたり、世帯収入が減ってしまう『働き損』にもなりかねません。かといって、これを取り戻すほどに年収を上げるには、労働時間を大幅に増やす必要が出てきます。そのため非正規雇用者、特にパートタイム労働者の大半は『働き損』が生じない範囲に年収を抑えようとします」 「年収の壁」は、働くほど保育を利用しにくくなる問題もはらむ。同センターの試算では、「年収の壁」のうちでも最も多くの人が意識する年収100万円を上限とすると、現在の平均時給である1263円で働けるのは月66時間まで。一方で、国が定める保育の利用が可能となる保護者の就労時間の下限は48~64時間。このまま時給が上昇していくと「年収の壁」を超えない範囲で働ける時間はさらに短くなり、間もなく64時間を割り込む。国をあげて「もっと働いてください」と呼びかけているにもかかわらず、長く働くと「働き損」になり、さらには子どもを保育所に預けられなくなるかもしれない、というわけだ。武田さんは言う。 「『年収の壁』は、夫が働き、妻が家庭を守るという考え方が一般的だった時代に、所得のない専業主婦にも年金を受け取る権利を与えようと生まれた経緯があります。しかし、共働き世帯の数が共働きでない世帯の数を上回り、夫婦がともに働いて家計を支えることが珍しくなくなりました。実態の変化に制度の変化が追いつかず、こうした大きな矛盾が生じてしまっています」 「年収の壁」は年金受給額にもはね返る。  都内の派遣社員の女性(46)は誕生月に送られてくる「ねんきん定期便」で年金記録を見たのをきっかけに、夫の扶養の枠から外れて働く決心をしたという。「130万円の壁」を超えて厚生年金の被保険者として働く期間が長いほど、将来の年金額を増やせると気付いたからだ。 「もっと働けるのに、このままだともったいない。老後も見据え、厚生年金の受給額を少しでも増やそうと考えました」  女性は36歳で結婚したのを機に夫の扶養に入ったが、それまでの十数年間、フルタイムで勤務し、厚生年金にも加入していた。女性は「一時は扶養に入っていたくせに、と言われるかもしれませんが……」とためらいつつ、こんな本音を吐露した。 「扶養されるのはおおむね女性です。これって、女性は男性に養われるもの、という考え方から来ているのでは。独身か既婚か、自営業の妻かサラリーマンの妻かで扱いが違うのもおかしい。それぞれの立場から訴えると、結局、女性どうしが分断されていく感じがするのもすごく嫌な気がします」 ■働き損を解消するには  一方、「年収の壁」の範囲内で働いている都内のパート女性(46)は「子育てや家事、体力面を考えるとあまりたくさんは出勤できません」と訴える。制度の見直しについては「コツコツ安い時給で働いているパートに、いきなり月額2万円近い社会保険料の負担は目減り感が強すぎます」と段階的な移行を求めた。  夫の勤務先から家族手当を受けている埼玉県のパート女性(55)は「少なくとも130万円以内で働く人には勤務先の規模なども考慮して社会保険の加入・不加入を選択できる制度にしてほしい」と注文する。  NRI未来創発センターは「年収の壁」による「働き損」を解消するため、二つの施策を国に提言している。一つは「年収の壁」を超え、社会保険料の支払い負担が増えたことで発生する手取りの減少を補う施策。二つ目は「働き損」につながる家族手当の所得制限撤廃を企業に促す施策だ。これらの施策が実行されて「働き損」がなくなり、仮に非正規で働く妻が労働時間を2割増やしたとすると、100万円だった年収は単純計算で120万円に、500万円だった世帯年収は520万円に増える。これは世帯年収の4%増に相当し、実質的な賃上げと同程度のインパクトをもたらすという。前出の武田さんは言う。 「こうしたインセンティブを実感できれば、労働者は『年収の壁』を自ら超え、今よりも多く働くようになるでしょう。これが実現すれば、足元の物価上昇に対する経済対策、そして新たな労働力の確保に即効的に効果をもたらします。ひいては女性の経済的自立やそれを通じた分厚い中間層の復活にもつながると考えています」 (編集部・渡辺豪) ※AERA 2023年3月13日号より抜粋
「韓国人増加プロジェクト」は日本にはない発想 少子化で外国人妻の受け入れは20年前から
「韓国人増加プロジェクト」は日本にはない発想 少子化で外国人妻の受け入れは20年前から 韓国の地域の食堂を切り盛りするベトナム人女性(吉田美智子撮影 朝日新聞社)  韓国の少子高齢化は日本以上に急速に進む。昨年の出生率は0.78%と過去最低を更新し、高齢化率は2065年には日本を上回るとの推計もある。実は韓国は20年も前から、農村部や地方都市では結婚移民女性(外国人妻)を、製造業や農漁業では外国人労働者を受け入れてきた。国主導で語学や文化教育など支援策を展開する一方、難民の受け入れ時などには排外主義も噴出。韓国の事例は、日本の政策の参考となるのか。『移民大国化する韓国 労働・家族・ジェンダーの視点から』(明石書店)から一部抜粋・再編集し、実態に迫った。(聖学院大学教授・春木育美、朝日新聞記者・吉田美智子) ■「韓国人増加プロジェクト」  ある小学校の教室で勉強する3人の子どもたちとその母親たちの顔が、順番に映し出される。それに続いて、小学生の女の子の声が流れる。女の子は韓国人である。 「私の友達のビョンミンは、インドネシア語がすごく上手です。インドネシアから来たお母さんのおかげです。ビョンミンの夢は、インドネシアと韓国に貢献する通訳官です」 「私のクラスで一番勉強ができるエジンも、お母さんがフィリピンから来ました。医者になって世界中の人を治療したいそうです。エジンが夢を抱けるのも、フィリピン人のお母さんのおかげです」 「私の学校の生徒会長のジウォンさんは、国連総長になって、世界中の子どもを助けたいと言います。世界で活躍することを夢見るジウンさんも、お母さんがベトナムから来ました」  続けてナレーションが流れる。 「韓国の子どもたちに、世界は広いということを気づかせてあげてください。多文化家族(国際結婚家庭)は、子どもたちが世界と出会う、最初の窓口です」  韓国政府機関が流すCMの映像からは、国際結婚家庭の子どもたちの優秀さや、子どもを立派に育てている結婚移民の母親を称えようとする意気込みが感じとれる。一方で、気になるのは、子どもたちの夢の「大きさ」である。ランク付けされた職業観や一握りの勝者しか生まない熾烈な競争社会が、韓国では超少子化の大きな一因となっている。現実に目を向けると、国際結婚家庭の大学進学率は40.5%と、全国の進学率(71.5%)と比べて著しく低い。  韓国では2000年代以降、国際結婚が急増した。農村部や都市低所得層の結婚難、国際結婚仲介業のグローバル化などがその背景にある。2019年の統計では、国際結婚は全結婚総数の9.9%を占める。ピーク時の2005年は全結婚者数の13.5%だった。国際結婚家庭の子どもは年々増えており、すっかり身近な存在になった。  韓国政府は「新しい韓国家族」を全面的に支援する目的で、「多文化家族支援センター」を全国228カ所に設置し、体系的かつ手厚い無償の韓国語教育や相談業務、生活支援を行ってきた。国際結婚は夫と妻の年の差が大きいこともあり、近年は結婚移民女性の社会参加と経済的自立を図るための就業・創業支援事業にも力を入れている。  韓国政府が2000年代から多額の予算を投入して大々的な支援体制を整備したのは、結婚移民女性が、韓国男性の結婚難を解消し、次世代の再生産を担う国益に合致した存在であるとみなされたためである。結婚移民女性には韓国人の子どもを産み育てることが期待されたがゆえに、国際結婚家庭に対する育児支援策もまた手厚いものとなった。産後のケアヘルパーや子どものための韓国語教師・言語療法士の派遣からバイリンガル教育の提供、奨学金の付与や大学入試での特別枠など、子どもの成長過程に合わせた配慮がなされている。 こうした国際結婚家庭への広範囲の支援策は、「韓国人増加プロジェクト」として始まったものである。少子高齢化による人口減を補填し、労働力を維持し社会発展に役立つと考えられてきたため、年を追うごとに予算が増大した。 ■手厚い支援と人材活用  自治体や行政機関の住民への通知も、多言語対応が進む。自治体窓口にたずねてきた外国人住民との意思疎通に支障がある場合は、コールセンターに無料で電話通訳を依頼することもできる。学齢期の子どもがいる結婚移民者や外国人家庭には、韓国語で書かれた学校からの各種のお知らせを各国語に翻訳して保護者の携帯などに転送するサービスを行う自治体もある。   移住労働者労働組合と支援者による集会(吉田美智子撮影 朝日新聞社) こうした通訳・翻訳業務に主に携わるのが、結婚移民者である。政府は各地で無償の通訳・翻訳教育講座を開講している。結婚移民者の活用は、各国語の韓国人通訳者を一から養成するよりもコストがかからずに済み、就労支援にもつながるため合理的である。高度な専門知識を要する医療通訳者や法廷通訳者を養成するための講座もある。税徴収・滞納整理員として、結婚移民者を雇用している例もある。たとえば、税金を滞納しているベトナム人の滞納者には、ベトナム出身の結婚移民者が徴税人として連絡し、自国語で納税するよう促している。  このように結婚移民者は、広範囲の外国人支援策の重要な支え手となっている。つまり、外国人のための多言語対応を手厚くするほど、結婚移民者の雇用の創出につながる好循環となっているともいえる。 結婚移民者への集中的な韓国語教育の提供および活用という政策は、日本にはない発想である。  日本を上回る勢いで少子高齢化が進み、人口減が始まった韓国では、日本と同様、女性の労働力化を進めることで労働力不足を補おうとしている。結婚移民女性のように、合法的な滞在と自由な就労が許可されている人材を、うまく活用していこうというのもそのためである。さらに、結婚移民者には、条件付きで重国籍を認めているため、帰化して韓国籍になる者も多い。 ■単純労働者の受け入れから20年  非熟練労働者を受け入れる日本の在留資格「特定技能」に似た制度に、韓国の「雇用許可制」がある。韓国は雇用許可制を2004年に導入した。2018年までに累計70万人以上が制度を利用して働いた。  韓国南部の光州外国人労働者支援センター。無料の韓国語講座を受講していたウズベキスタン人のマンスーリさん(25)は来韓2ヶ月、現代系列の冷蔵庫の製造工場で働く。給与は母国の3倍の月額200万ウォン(20万円)で、ほとんど母国の両親に仕送りしている。父親も10年ほど前、雇用許可制を利用して韓国で働き、帰国後にはそのお金で事業を興した。マンスーリさんは「お金を貯めて、ソウル大でITビジネスを勉強したい」と夢を膨らませる。 韓国のサムジンスチールで働く外国人労働者(吉田美智子撮影 朝日新聞社)  しかし、制度の創設から20年。母国から家族を帯同できず、転職には雇用主の同意が必要など何かと制約のある制度には批判も強い。 韓国政府は2018年から、雇用許可制の利用者の中から、一定の所得や学歴があり韓国語能力や技能を獲得した者には在留資格の変更を認め、家族の帯同や定住化を認めるという制度を導入した。法務省は「能力のある外国人労働者は、非熟練労働から専門人材に移行し、次の段階に進むことができる」と説明する。選別的な移民の受け入れが始まっている。 ■留学生に期待される労働力  韓国への留学生数は、2000年の3963人から2020年には137万人に急増した。留学生の出身国は、中国、ベトナム、モンゴル、日本、米国が上位5カ国となっている。  韓国では日本と同様に、留学生の就労(アルバイト)を許可しており、単純労働の担い手として労働力不足を補っている。ただ、国内の若者の就職難が深刻なことから、留学生を高度人材として受け入れ、移民として活用するという視点は乏しい。  韓国政府は現在、留学生を非熟練労働の補填要員として活用すべく、留学生ビザから、建設業や製造業、農畜産業などに従事できる「非専門就業ビザ」への変更を認める制度への改正を進める。いわゆる3K(きつい、汚い、危険)のイメージをもたれやすい業界の労働力不足を、留学生で穴埋めをしていこうとするものである。 ■排外主義の高まり  韓国は2000年代からすでに外国人支援策の枠組みを構築し、各種の制度を整えてきた。居住外国人を対象として、最大515時間の韓国語教育などを行う「社会統合プログラム」実施機関が全国に設置されている。こうした制度的枠組みは、韓国政府が打ってきた布石のなかでも、今後、最大級の強みとして作用するだろう。尹錫悦政権は現在、移民政策をコントロールするために「移民庁」新設に乗り出している。  懸念されるのは、近年の排外主義の高まりである。2010年代に入り、結婚移民者やその子どもの支援策、難民支援に対する反発が目立つようになった。支援を受けるべきなのは「自分たちが先だ」という声が上がり、韓国政府は既存施策の大きな修正を迫られている。どんなに制度や仕組みを整え、予算を増やしても、人々のマインドセットが伴わなければ、共生社会への道のりは険しいことが韓国の事例からわかる。
山登りを通して人の輪をつくる冒険案内人 国際山岳ガイド・近藤謙司
山登りを通して人の輪をつくる冒険案内人 国際山岳ガイド・近藤謙司 「自分の山は人ありき」と近藤は言う。ときめきや高揚感を伝えたいと、冒険案内人を続ける(撮影/加戸昭太郎)  国際山岳ガイド・近藤謙司。国内はもちろん、エベレストなど世界七大陸最高峰やヒマラヤ、ヨーロッパアルプスに「普通の」登山者を案内する「冒険案内人」。国際山岳ガイド・近藤謙司は、ただ、山に登らせるだけでなく、メンバーの輪をつくり、旅全体を楽しませる山のエンターテイナーでもある。心底わくわくし、ときめく体験を独り占めしたくない。その思いを受け取った冒険者たちは、今日も近藤と一緒に山頂を目指す。 *  *  *  昨年12月21日、にぎわいを取り戻しつつあった羽田空港国際線出発ロビーに、ひときわ大きなボストンバッグとバックパックを抱えた集団がいた。輪の中心にいる近藤謙司(こんどうけんじ・60)は手際よくパックの重さを量り、荷物を振り分けていく。  近藤は世界の山へ顧客を案内する国際山岳ガイドで、5人の参加者と南米最高峰・アコンカグア(6961メートル)へ向かう。22日間の遠征登山だ。参加者は年齢も出身地も登山経験もさまざま。大阪から来た中森章(49)はこの日が近藤と初対面だった。メンバーのなかに知人もいない。高揚感より緊張が強かったというが、その不安は近藤と出会い、すぐに霧散した。 「山のプロであるのはもちろん、話を聞くのも振るのもうまい。口調は丁寧だけれど、そのなかにグッと距離を縮めるような空気感がありました」  和気洋洋と遠征は進んだ。年を越した1月4日、近藤は現地ガイドと共に中森を含む顧客3人を登頂に導いた。参加者のうち2人は体調悪化などで登頂できなかったが、一般的な登頂率が20~30%と言われるなか上々の結果だろう。そして、一足先に登頂を断念して下山した参加者が他メンバーの登頂と無事の帰りを喜んで「号泣していた」エピソードからもチームの成熟がうかがえる。  近藤につく肩書は数多い。国際山岳ガイド、日本山岳ガイド協会理事、株式会社アドベンチャーガイズ代表。なかでも本人が好むのが、経営する社名にも通じる「冒険案内人」という言葉だ。国内はもちろん、世界七大陸最高峰やヒマラヤ、ヨーロッパアルプスに「普通の」登山者を案内する。世界最高峰エベレスト(8848メートル)には、一般から参加者を募る公募登山隊という形式でこれまでに7度登頂した。かつて限られた登山家のものだったヒマラヤ登山は1990年代後半以降急速に大衆化し、誰もが夢見ることを許されるようになった。日本におけるその立役者が近藤だ。 国内でも岩場から雪山まで1年を通して山をガイドする。ガイドの経歴も実績も群を抜くが、後輩からも客からも「けんけん」と慕われる。昔から、リーダーにはなっても王様にはならないのが近藤だ(撮影/加戸昭太郎) ■冒険って本当にときめく 山を独り占めしたくない 「冒険って本当にときめくんです。僕自身遠征登山の中でわくわくし、成長し、生かされた。だから独り占めしたくない。もちろん冒険は難しい山に限らなくて、山に登ったことがない人にとってはハイキングも冒険です。対象がどこであれ、本気で行きたいと思う人は連れて行きたいんですよ」  平地では天性のホストでエンターテイナー、山の中ではスーパーガイド──。それが、近藤を知る人が口をそろえる人物評だ。  2016年に20歳でエベレストに登頂し、今は登山ガイドとして活躍する伊藤伴(いとうばん・27)は小学生のときから近藤に連れられ、山を歩いてきた。中学3年で西ヨーロッパ最高峰のモンブラン(4808メートル)、高校3年でネパールのロブチェ・イースト(6119メートル)、そして大学3年でエベレストとステップアップした。 「けんけん(近藤)はただ山に登らせてくれるだけじゃなく、旅全体を楽しませてくれる。そして、『がんばれ』とは言わないけれどやる気を引き出すし、長い遠征を過ごすメンバーの輪をつくるのもすごくうまい。まさに『青空ホスト』です」  高所での強さにも驚かされる。近藤と伊藤はエベレスト登頂後、最終キャンプで1泊し、すぐ南にそびえる世界4位の高峰ローツェ(8516メートル)に継続登頂した。このふたつの山は標高7900メートルまでルートが同一だ。  エベレストには毎シーズン、山頂まで固定ロープが張られるが、ローツェ側はルートが完成しない年もある。この年も固定ロープが途中で途切れていた。しかし、近藤は古いロープをつなぎ合わせて伊藤を確保し、落ちていた登攀(とうはん)用具を使って雪壁を登った。近藤は「なんかスイッチ入ったんだよね」とこともなげだが、伊藤は言う。 「ルートが途切れているのを見て僕が落胆していると、『伴、行くぞ』って。けんけんは登山技術はもちろん、状況に合わせて最適解を見つけ、トータルで登らせる力がすごいガイドだと思う。僕も今は人を山に連れて行く立場ですが、目標です」  近藤は1962年、東京都足立区で生まれた。人を楽しませること、人と人とをつなぎ合わせることが好きなのは昔から。高校1年時のクラスメートでもある妻の久美子はこう言って笑う。 「『俺の友達はおまえの友達だから』って、いつも知らない人を勝手に連れてくるんです。昔も今も全然変わってないかな」 ■山岳ガイド・根岸知との出会いが人生を変えた  中学校に入るとバンド活動にのめりこんだ。ドラムを担当し、高校時代には内田裕也の前座を務めたことも。バンドに熱中する一方、高校では山岳部にも入部した。「高校から始めても遅くないスポーツ」として選んだという。週末は精力的に山に登ったが、生活の7割は音楽。楽器を買うためアルバイトもした。バイクの免許を取り、ツーリングにも繰り出した。そうするうち、出席日数が足りず2年生で留年。そして2度目の高2の冬、山岳ガイド・根岸知との出会いが人生を変えた。  持ち前の性格で留年後のクラスでも慕われたが、2度目の修学旅行は気恥ずかしさから参加を辞退する。返金された積立金を、母は「自分のために使ったら」と提案してくれた。ほしい楽器はたくさんあった。だがこのとき、近藤は物ではなく経験を買うべきだと考えたという。部活では禁じられていた雪山登山に行こうと思い立った。  当時、高校生を本格的な雪山に案内するガイドは少なかった。片っ端から問い合わせ、やっと受け入れてくれたのが根岸だった。5~6人で北アルプス・五竜岳へ。根岸がつくる食事を食べ、雪洞を掘って眠った。トラブルに対処する根岸の技術、客を楽しませる力、さまざまな立場の大人と同じ釜の飯を食う経験。どれもがまぶしかった。 「山では自分たちの境遇は関係なくて、厳しさも美しさも同じようにみせてくれる。そして根岸さんは本物のエンターテイナーでした。僕は雪山にも、根岸知というガイドにも感動したんです」  近藤は常々、「雨でも、登頂できなくても楽しませるのがプロ」だと語る。根岸の姿が根底だ。  それ以降、近藤は根岸に師事する。ツアーを手伝い、海外登山も経験した。そして1983年と85年には、根岸の紹介で登山家・医学博士の今井通子が率いるエベレスト北壁登山隊に加わった。一般ルートとは段違いの難易度でそびえる北壁の冬季初登頂を目指す、野心的な計画だった。83年は荷運び要員だったが、85年は隊を代表して登頂に挑むアタック隊員に選ばれた。このとき近藤と共に頂上を目指したのが登山家の大蔵喜福(おおくらよしとみ・72)だ。 「83年の挑戦のあと、謙司くんはどんどん山にのめりこみました。一緒に雪山にも通いましたし、自分でも相当トレーニングしたんでしょう。2年でこれほど力をつけるとは思わなかった。85年は私が上部でルート工作し、ほかの隊員が物資を上にあげていたけれど次々に脱落した。力が残っていたのは謙司くんぐらいだったんです」  近藤と大蔵は氷の斜面に無理やり張ったテントで夜を越し、山頂を目指した。だが荷揚げが間に合わず、ロープも酸素も足りていない。気温氷点下50度、チリ雪崩のなかふたりは北壁を8450メートルまで登攀したが、登頂を断念した。  大蔵とはその後も関係が続いた。近藤に娘が生まれると家族ぐるみで付き合った。「ウマがあって、一緒にいて気分がよかった」と大蔵は言う。  近藤は87年に久美子と結婚後、先鋭的な登山からガイド業に比重を移す。山旅や辺境旅行に強いアトラストレックへ就職、アルプス、カムチャツカ、チベットなど各地を歩いた。同僚の古谷聡紀(58)とアドベンチャーガイズを創業したのは36歳のとき。アトラストレックでは、社の方針で標高6千メートル以上の山をあまり案内していなかった。より本格的な遠征登山の楽しさを味わってほしい。そう考えていたとき、古谷から「一緒にやろう」と誘われた。古谷は言う。 「近藤はお客さまとの人間関係を基盤にガイドするのがうまかった。一方、私は旅行の手配や戦略を考えるのが得意。そして私も近藤も、こんなおもしろいところがある、一緒に行こうよとお客さまに提案し、冒険したいと考えていました。志向が一致し、強みを生かしあえると思ったんです」 ■日本初の8千メートル峰 公募隊を率いて成功収める  南米の6千メートル峰をガイドすると、客のあいだで「8千メートル峰にも」と声が上がった。標高8千メートルを超える山はヒマラヤとカラコルムに14座。酸素量は平地の3分の1、「デスゾーン」と呼ばれる極限の環境だ。ただ、酸素ボンベを使い、登山サポートを担うシェルパをつければ、高所順応次第で技術的にはさほど難しくない山もある。8千メートル、ゆくゆくはエベレスト──。当時の日本にそれを実現できる場はなかった。海外の公募隊に参加するものもいたが、言葉や文化の壁がある。そのハードルをなくせば、より多くの人が8千メートルを目指せるはずだった。  日本初の8千メートル峰公募隊となった2002年のチョ・オユー(8201メートル)遠征は、これ以上ない成功を収めた。顧客11人に近藤と大蔵喜福が同行し、近藤・大蔵と顧客7人が登頂。なかでも近藤と顧客4人は先導のシェルパとともに外国隊をごぼう抜きし、シーズン最初の登頂チームとなった。近藤は大きな自信と称賛を得た。 (文中敬称略) (文・川口穣) ※記事の続きはAERA 2023年3月13日号でご覧いただけます

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