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男性育休に「奥さんも育休とるなら休み調整してよ」はマタハラでNG! 育休申請にどう答えればOK?
男性育休に「奥さんも育休とるなら休み調整してよ」はマタハラでNG! 育休申請にどう答えればOK? 2017 年に改正された「男女雇用機会均等法」では、事業者に対し、妊娠・出産に関するハラスメント(マタニティハラスメント)を防止する措置を講じることが義務づけられている。業務の繁忙や人員不足などから、こうした制度利用を邪魔したり、交換条件で退職を迫ったりするようなケースはマタハラに該当する。 さらに、妊娠・出産に関する否定的な言動が、マタハラを生む原因や背景のひとつであるとして、改善が求められている。どのような言葉が妊娠に対する否定的な発言になるのだろうか?ハラスメント対策専門家・山藤祐子さん監修の書籍『トラブル回避のために知っておきたい ハラスメント言いかえ事典』(朝日新聞出版)から、マタハラにつながる言葉を紹介する。 *   *  * ■「(妊娠の報告を受けて)ちょうど忙しくなるときだな……。でも仕方ないね」は要注意 「困るなぁ」「迷惑かけないでくれよ」と言うのは、妊娠した女性に対する否定的な発言ととらえられるため控えるべきでしょう。 妻の妊娠・出産を報告した男性に対して、同様の発言をすることもハラスメントにあたります。 「ちょうど忙しくなるときだな」は事実を言っているだけなのでマタハラにはあたりません。しかし、「仕方ないね」は、やや否定的な印象を与えかねないため要注意です。 OK例は「おめでとう。今後の仕事の進め方は相談して決めていこう」です。妊娠の報告を肯定的に受け止め、妊娠中の仕事の進め方について相談に応じる姿勢をみせることが望ましいです。 ■「(産休の申請を受けて)長く休むより、やめた方がまわりに迷惑かけないよ」はNG 妊娠した女性が産前産後休業(産休)を取得することは「労働基準法」で認められています。また、産休を取得したことを理由に労働者を解雇したり、不当に扱ったりすることは『男女雇用機会均等法』で禁止されています。 産休の申し出を受けた際「まわりの迷惑になるから」と退職を促すことは、どちらの法律にも抵触する不適切な対応といえます。 また、「あなたの代わりはどうにかなるから。心配しないで」は、ハラスメントではないにしろ、ややトゲのある言い方に聞こえるかもしれません。 OK例は「後のことは心配しないで。戻ってくる日を待ってるよ」です。お互い様という気持ちで、思いやりのある声かけを心がけましょう。 ■「(男性から育休の申請を受けて)奥さんも育休とるんでしょ? だったら休み調整してよ」はNG 「育児・介護休業法」では、1歳未満の子どもを持つ男女の労働者に対し、育児休業の取得を認めています。しかし、「子育ては女性の仕事」といった意識が根強い日本では、男性の育休取得への理解は必ずしも進んでいないのが現状。育児参加を望む男性に対するパタニティハラスメント(パタハラ)も目立ちます。 2021年の「育児・介護休業法」改正には、男性の育休取得を促すことを目的に、「出生時育児休業」(通称・産後パパ育休)が盛り込まれました。従来の育休とは別に、子どもの出生後8週間以内に計4週間の休暇を取得できる制度です。 男性が育休を申し出た際、「子どもの世話なんてする暇があれば仕事しろ!」のような、男性が育児に参加する権利を侵害するような発言は当然パタハラにあたります。 また、個人の尊厳を傷つける「育休をとる男は仕事ができない」などの暴言を吐いたり、育休の取得を理由に本人の承諾なくプロジェクトからはずしたりといった不当な扱いをすることもパタハラです。 「奥さんも育休とるなら休み調整してよ」は、優越的な立場の上司から部下への発言は、「命令」に聞こえる可能性が高いため、育児介護法が変わりましたので、不用意な発言は避けるべきです。会社の都合を優先させるべきではありません。 女性と同じように、男性にも肯定的な表現で育休取得を後押しできるとよいでしょう。OK例は「了解しました。今後のことはまた相談しよう」です。 「育児・介護休業法」の改正により2022年10月からは、男性にも産休が認められることになりました。男性からの育休取得の申し出にもスムーズに応えられる態勢づくりが期待されます。 (構成 生活・文化編集部 岡本 咲)
村上春樹の「深化」を見た6年ぶりの長編小説 精神科医の斎藤環さんが指摘する「二つの新しい要素」とは
村上春樹の「深化」を見た6年ぶりの長編小説 精神科医の斎藤環さんが指摘する「二つの新しい要素」とは 写真映像部・馬場岳人  74歳の村上春樹が、6年ぶりの長編小説『街とその不確かな壁』でさらなる「深化」を見せた。専門家は今回を、そして今後をどう分析しているのだろうか。精神科医の斎藤環さんに聞いた。AERA 2023年5月1-8日合併号の記事を紹介する。 *  *  *  今回の作品は1980年に文芸誌のみに発表された中編『街と、その不確かな壁』が核となっている。  そこからどのように新しい世界観に到達したのか。精神科医の斎藤環さんは、それを語るうえで欠かせないのが『ねじまき鳥クロニクル』(94~95年)だと言う。 「精神医学的に言えば、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(85年)までの彼の作風はスプリッティング(分裂)──つまり世の中を善と悪、センスのいいものとダサいものなど二元論的に考える、そんなスプリッティング的な世界観でドライブしていました。ところが突然、『ねじまき鳥』以降はディソシエーション(解離)のモチーフに変化します。いわゆる壁抜けなどの世界観で、村上さんご自身もなぜそうなったかわからないと話しているくらい謎めいた変化でした」  この視点から見ると、新作の核となった『街と、』『世界の終り』の2作はまだ「分裂時代」の作品。どうしても物足りなさ、飽き足らなさがあったのではないかと斎藤さんは言う。 「その当時の作品を、解離という装置を手に入れたいま、もう一回書き直したいと思うのは自然ななりゆきかなと思います」  もう一つ、斎藤さんが最近の傾向として指摘するのが、『1Q84』(2009~10年)に登場した読み書きに障害のある少女以降、意識的に「発達障害モチーフ」を導入していることだ。今回の少年についても「発達障害的なキャラクターが媒介者の役割を果たす」ことがとても効いていて、世界観がより深まっていると指摘する。 「解離への変化と発達障害のモチーフ。この二つの新しい要素によって『世界の終り』などで書かれたものよりも緻密(ちみつ)で洗練された、深化した世界が書かれていると感じています」 『街とその不確かな壁』/4月13日に発売された村上春樹の長編小説『街とその不確かな壁』。デビュー翌年の1980年に文芸誌で発表した中編『街と、その不確かな壁』を書き直したものだ(撮影/写真映像部・佐藤創紀)  比喩表現などについても「相変わらず素晴らしかった」と言う。例えば子易さんの妻が姿を消した後のベッドに葱(ねぎ)が2本置かれていた描写。斎藤さんは「その意味を追究してもしようがない。それ以前に」としたうえでこう話す。 「ベッドの中に葱が2本あるというのは、すごく生々しく視覚的なイメージですよね。えたいのしれない失踪(しっそう)というものを強く印象付ける、忘れがたいシーンです。70代を迎えてなお、これほどにみずみずしい描写ができるのかと感心しました」 ■深層意識と意識の往還  忘れがたい描写は他にもある。少年が主人公の耳たぶをかむシーンだ。なぜ耳たぶを? 読者の間でも議論されるところだろう。斎藤さんはこう話す。 「あれが耳ではなく他の器官だったらどうか。見つめ合ったりキスをしたりという性的な交流ならありきたり。鼻をかじるだったらコメディーにしかなりません。他の器官だったらああいった印象にはつながらない。口と耳というセットは『声』の媒介を象徴している気もします」  村上春樹は今後、どんな作品を生み出していくのか。斎藤さんはこう言う。 「コロナ禍の引きこもり生活は、村上さんが自分の井戸に下りていく作業を加速し、容易にした部分があったかも。彼は深層意識の存在を信じていて、深層意識と意識の往還によって作品世界を深めていく。そのために自分の『地下室』に下りていく訓練は繰り返ししているはずです。老境を迎えて深層意識がますます熟成していくことを考えると、今後の新たな作品についても期待できると思っています」 (編集部・小長光哲郎) ※AERA 2023年5月1-8日合併号より抜粋
「ネットで変わったドラマ視聴の常識」カトリーヌあやこと山田美保子が語る
「ネットで変わったドラマ視聴の常識」カトリーヌあやこと山田美保子が語る 山田美保子(左)とカトリーヌあやこ(撮影/写真映像部・上田泰世)  5月末で休刊する「週刊朝日」。本誌で「楽屋の流行りモノ」を連載する放送作家・山田美保子さんと「てれてれテレビ」を連載するTVウォッチャー・カトリーヌあやこさんが、推しドラマやドラマ界の変遷について語り合った。 *  *  * ──お二人の一番思い出深い朝ドラは? 山田美保子(以下、山田):波瑠さん主演の「あさが来た」が印象的でした。五代友厚役でブレークしたおディーンさま(ディーン・フジオカさん)の破壊力は今でも忘れられない。 カトリーヌあやこ(以下、カトリーヌ):「五代ロス」という言葉も流行(はや)りましたからね。 山田:あのドラマは、主人公の夫役の玉木宏さんもすごく良かった。 カトリーヌ:遊び人の若旦那風で。妻より先に亡くなってしまうんだけど、最終回、二人が花畑で手をつなぐシーンが忘れられない。私は「カーネーション」も好きでした。その頃、「あさイチ」の司会だった有働由美子さんが綾野剛さんに食いついていた(笑)。あんなにはっきりと朝ドラで不倫を描いたことはなかったんじゃないかな。渡辺あやさんの脚本も良くて、破格の朝ドラという感じでした。 山田:渡辺さんもそうですが、「花子とアン」の脚本を書いた中園ミホさんなど、ようやく、女性のプロデューサーや脚本家が活躍する時代になってきたと感じます。 カトリーヌ:私が大好きなドラマ「アンナチュラル」(TBS系)の脚本も野木亜紀子さんですし、長澤まさみさん主演でテレビ界の内情をリアルに描いて話題になった「エルピス─希望、あるいは災い─」(フジテレビ系)のプロデューサーは佐野亜裕美さん。確かに女性が多い。 山田:私、ちょっと嫌なことがあると録画してある「エルピス」の最終話を必ず見るの。あれは本当に元気が出ます。 ──最近のドラマに感じることは? カトリーヌ:テレ東の影響か、深夜ドラマが増えましたね。テレ東はよくこんなことをドラマにするな、という企画力がすごい。「量産型リコ─プラモ女子の人生組み立て記─」というプラモデルのドラマとか、バッティングセンターを舞台にした「八月は夜のバッティングセンターで。」とか。 ステファン・ランビエル 安田顕 山添寛 山田:NHKとテレ東という、かつての「番組表の両端」がすごく挑戦してきている感じですね。NHKの月~木の夜15分間のドラマ枠「夜ドラ」も面白い。 カトリーヌ:なかなか他がやらない社会派なテーマに切り込んでくるイメージですね。 山田:一番大きな変化は、とにかく若い世代の方がテレビを見なくなっているということ。一人暮らしだとテレビすら持っていなくて、TVerをスマホで見ている。傾向として「みんなが見ているものを見る」という感覚があるみたい。「損をしたくない」というか。 カトリーヌ:損? 山田:ドラマを60分かけて見たけれど面白くなかった時、「(費やした)私の時間を返して」ってなる。 森本レオ 若葉竜也 藤原季節 カトリーヌ:ネットでいうと、ツイッターで視聴者同士が「実況」しながらドラマを見ることが増えていると感じます。ツイッターで話題になるように「ツッコミどころ」があらかじめ用意されているようなものもある。録画してしっかり見たい作品と、粗い部分も含めてツッコミながら楽しむ作品と、二極化してきているのかなと。 山田:「王様のブランチ」(TBS系)も、かつては視聴率ランキングでしたが、今は「つぶやかれた番組ランキング」に変わっていますからね。 カトリーヌ:メディアも今、転換期なのでしょうね。雑誌もウェブ化が進んで、スマホで見れるような時代になっている。 山田:それでも、今回の「週刊朝日」の休刊は本当にショックでした。私が連載(「楽屋の流行りモノ」)の中で紹介した商品が完売になったとか、人づてに聞いて反響の大きさを感じていたので、とても寂しいです。 カトリーヌ:私も、1996年のアトランタ五輪の時には現地で取材してファクスで編集部に原稿をお送りするなど、「週刊朝日」とは長いお付き合いでした。「てれてれテレビ」でも毎回、執筆もイラストも楽しく書かせてもらいました。良い思い出ばかりです。 ──カトリーヌさん、美保子さん、長い間本当にお世話になりました。楽しい連載をありがとうございました。 (構成/本誌・大崎百紀)※週刊朝日  2023年5月5-12日合併号
村上春樹の新作、「村上主義者」も「初心者」も称賛の声 専門家からは「辛口」の指摘も
村上春樹の新作、「村上主義者」も「初心者」も称賛の声 専門家からは「辛口」の指摘も 『街とその不確かな壁』/4月13日に発売された村上春樹の長編小説『街とその不確かな壁』。デビュー翌年の1980年に文芸誌で発表した中編『街と、その不確かな壁』を書き直したものだ(撮影/写真映像部・佐藤創紀)  6年ぶりに発売された村上春樹の長編小説『街とその不確かな壁』。「村上主義者」にも「初心者」にも好評だった。専門家は新作をどう見ているのだろうか。AERA 2023年5月1-8日合併号の記事を紹介する。 *  *  * 「今日はブルーベリー・マフィンを買ってきました!」  青谷夏野さん(24)はそう言いながら、紙袋の中から六つ取り出した──。  村上春樹(74)の6年ぶりの長編小説『街とその不確かな壁』の読書会が、発売から3日後の4月16日、大阪・西天満の「水野ゼミの本屋」で開かれた。参加者は、作品に登場するブルーベリー・マフィンを食べながら感想を語り合った。 「水野ゼミの本屋」とは、大阪工業大学知的財産学部の教授・水野五郎さん(57)のゼミ生が運営するシェア型書店と読書会スペースが融合した店。参加したのはゼミ生の青谷さんと松吉蒼馬さん(21)、一般参加の土井信吾さん(43)、水野さん、そして見学としてゼミ生の雑賀美月さん(18)だ。 ■思ったより読みやすい 「今回、なんで村上さんは僕の半生を知っているんだろうと思うくらい、自分の人生が描かれているような作品でした。2回の喪失が描かれていますけど、僕も親密な人と急に連絡が取れなくなるような経験を2回していて。びっくりしましたし、えぐられるような気持ちにもなりました」  土井さんはそんな感想を述べた。18歳のときから村上春樹のファンで、ほぼすべての作品を読んできた。新刊は、その中でも1位に躍り出そうなほどお気に入りだという。  村上作品を初めて読んだというのは青谷さん。 「ちょうどイタリアの作家、イタロ・カルヴィーノの『木のぼり男爵』を同時に読んでいたのですが、寓話(ぐうわ)という共通点があると思いました」  松吉さんも初めて。発売日にジュンク堂書店大阪本店が開店する前に行き、一番乗りで購入したという。 「ノーベル文学賞を取ると言われていて、難しい本だと思っていたんです。でも、冒頭は僕と同世代の話で進んでいったので思ったより読みやすかった」  水野さんは、過去の村上作品との違いを指摘した。 「固有名詞が少なくなりましたよね。『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(1985年)なんて、洋楽のミュージシャンから、ジャズのマニアックな曲名、料理名など固有名詞のオンパレードでした。当時は消費社会でもあり、物を知っていることがステータスになる時代。そういった固有名詞が減ったことで、もっと本質的で内省的で普遍的な物語になっていると思います」 読書会の参加者は全員、3日間で新刊を読了。右上から時計回りに、水野五郎さん、青谷夏野さん、土井信吾さん、松吉蒼馬さん(撮影/編集部・大川恵実)  変化もある一方で、図書館や幽霊、「ぼく」と「きみ」の恋の話など、これまでの小説に登場してきたモチーフがたくさんちりばめられている。土井さんはこんな印象を持った。 「どこか集大成のような感じがして、村上さんはこれが最後の長編作品のつもりで書いたのかもしれないですよね。5年くらいかけて長編を書かれる方だから。書く意欲はまだまだあると思いますけど、覚悟も決めているかもしれないなと思いました」 ■「読んで胸がいっぱい」  本を読んだ人からは、今回も称賛の声が相次ぐ。一方で、次回の長編小説はどうなるのだろうという「不安」も。専門家は今回を、そして今後をどう分析しているのだろうか。 「村上さんが育て上げてきた作品の要素が入ることで、彼が積み上げてきたものが見事に結実した素晴らしい作品。読んで胸がいっぱいになりました」  こう話すのは、日本大学教授で村上春樹に関する研究もしている山崎眞紀子さんだ。例えばコーヒーショップの女性には『ノルウェイの森』(87年)の緑や直子も投影されていると言う。 「彼女が『そして額にかかった前髪を指で払った』(540ページ)は研究者やファンなら直子を思い浮かべますし、スレンダーな体形からは緑が転写されていると感じます。また、『国境の南、太陽の西』(92年)の雨が海に降り注いでいくラストシーンが『海に降りしきる雨の光景も含まれていた』(655ページ)に投影されていたり。彼が大事にしている作品のパーツパーツが注ぎ込まれていると思います」  改めて心を打たれたのは、村上春樹が74歳にして失わずに持ち続けている「想(おも)い」だと言う。 「村上作品は現実と非現実が曖昧(あいまい)でわかりにくいという批判を受けることもあります。確かに心で感じることには実体はないけれど、それは絶対に心の中にある。例えば10代で人を好きになったときの心の震え。そんなピュアな、心の奥に持っている大事なものを何歳になっても持ち続けて生きていくことの素晴らしさを、新作では見事に描いていると思います」  では、進化した部分は何か。文芸評論家の川村湊さんは「一番の特徴は『父親との葛藤』が消えたことだ」と話す。 新刊にも図書館が登場するなど、村上春樹と図書館は切っても切れない。写真は村上作品にも登場した兵庫県芦屋市立図書館打出分室(撮影/編集部・大川恵実) 「これまでの作品でも『1Q84』(2009~10年)や『騎士団長殺し』(17年)で父親的な存在が登場するなど、そこは大きなテーマでした。しかし『猫を棄てる 父親について語るとき』(20年)を書いたことで、そのテーマは村上さんから消えたのでは。父親との葛藤は、やみくろやリトル・ピープルなど作品中の不気味な存在にも関係していたと私は思いますが、今回の作品にはそういった存在も一切出てきません」 ■まだ取り込めていない  一方で、辛口の指摘も。今回の作品は20年から、つまりコロナ禍に書いたものだと村上本人が「あとがき」で語っている。作品では登場人物の少年が壁の存在について「疫病を防ぐためだ」と話す。誰もが新型コロナウイルスを連想する。ただ、川村さんはこう言う。 「その言葉が後のストーリーにうまくつながっていくかと言えば、そうではない。疫病という言葉でコロナを連想する読者をきれいに裏切るならさらに良いのですが、ちょい出ししただけ。書いている最中に起きた出来事はうまくまだ取り込めていない感じがしましたね」  もう一つ、今起きていることと言えばウクライナ戦争だ。村上作品は、例えば『ねじまき鳥クロニクル』(94~95年)で39年のノモンハン事件を盛り込むなど戦争が影を落とすことが多い。だが、書評家の石井千湖さんは、その要素は今回なかったとしてこう語る。 「現実には戦争が起きていて、春樹さんはそこに関心の深い方だとは思いますが、小説はそんなにすぐに起きていることを反映できるものではないと思います。新興宗教のことを書いた『1Q84』はオウム真理教事件があって15年ほど後。コロナやウクライナ戦争のことは、もう少し時間がたってから作品の中に出てくるのではないでしょうか」  石井さんは、新作に「より個人的なもの」を感じたと言う。 「過去の長編ではもっと大きな世界の謎を書くことが多かったと思います。(登場人物の)子易さんの設定も、これまでなら戦争体験があるなど複雑な過去を持つものにしたはず。でも、今回は妻子を亡くしたという設定で、個人的な世界を掘り下げる印象を受けました。そんなところも面白く読めましたね」 (編集部・大川恵実、小長光哲郎) ※AERA 2023年5月1-8日合併号より抜粋
「カエル好きのお姉さん」が昭和女子中高の校長になるまで 理系教育への情熱の“根っこ”とは
「カエル好きのお姉さん」が昭和女子中高の校長になるまで 理系教育への情熱の“根っこ”とは 昭和女子大学付属昭和中高の真下峯子校長 「女子は理数が弱いという思い込みを捨てれば、もっと可能性が広がる」と、理系教育に力を入れる昭和女子大学付属昭和中高の真下峯子校長。その情熱の根っこは、幼いころの植物や動物への関心にあった。理科の面白さを追い求めてきた真下先生のこれまで、そしてこれからの教育への思いとは。 <<前編:「女の子だからできない」じゃなく「やってみたらできた」へ 昭和女子中高の女性校長が語る“理系教育”>>より続く *   *  * ■生き物の不思議にひかれ、生物学科へ ――先生ご自身は子どものころから生き物に興味があったそうですね。  小学生のころから、植物や動物が好きでしたね。自然の現象について、母親にいつも「どうして、どうして」と聞いていました。母親の影響も大きくて、夏休みの自由研究を一緒にやっていました。小学3年生の担任が理科の専門の先生で、自分の研究についていろいろ話してくれ、ますます理科に興味を持つようになりました。  高校の生物の発生の授業で、カエルの卵の原口背唇部という部位が中に入り込んで神経になると教わり、何でそうなるのか不思議でしょうがなかったんです。  今でいうiPS細胞なんですね。運命が決まっていない細胞が、何かのきっかけで髪の毛や皮膚になる。その仕組みが不思議で、もっと勉強したいと生物学科に進みました。 ――奈良女子大に進学されました。  学びたい発生学の研究が進んでいるのは、京都大や大阪大でした。たまたま奈良女子大に母親の知り合いがおり、奈良女子大ならと許されたのです。関西まで行けばなんとかなるだろうと(笑)。  奈良女子大では京都大や大阪大の先生も教えていました。オープン講座もあって、京都大や大阪大に出かけて授業を受けたりもしていました。大学院の特論は学部の学生も聴講できるのですが、一流の先生が最先端の研究を講義してくれる。感化されましたね。 ――その後埼玉に戻られ、教職の道に入られたわけですね。  事情があって、埼玉の実家に戻ることになりました。でも、生物のことは好きでしょうがない。何も持っていないとカエル好きの変わったお姉さんですが(笑)、学校の先生になれば堂々と生物に関われると。 埼玉で生物の教員をしていた当時。「アユの縄張り」への興味から、友釣りに挑戦するようになった。川で知り合った、アユ釣りの師匠たちと。(写真は提供)  中学の教員免許を取ったのですが、ちょっと物足りない。そこで高校の採用試験を受けました。高校ではいろいろな材料を使いながら、授業をするのが楽しかったですね。これでもか、というほど「理科は面白いよ」と生徒に伝えました。  ただ、私1人だと担当した生徒だけにしか理科の面白さを伝えられない。もっと大勢の子どもたちに伝えるために、私と同じような考えを持ってくれる先生を育てればいいと気が付いたんです。  そこで管理職の試験を受け、埼玉県立総合教育センターの指導主事になりました。私が研修を担当した先生のなかには、スーパーサイエンスハイスクールの指定校で理科を教えている先生もいる。1人でできることは限られていますが、次世代の先生方が活躍している姿を見ると、頼もしいです。 ■女子校は女子の特性を生かした理系教育ができる ――川越女子高校では、高2での文理選択をやめ、高2までは数学をしっかりやる、としたのですよね。  川越女子高校には教頭として赴任しました。生徒は能力が高く、やる気がある。この生徒たちが、理科や数学ができない、興味がないからといって選択肢を狭めるのは、実にもったいないと思ったんです。 「好きな子はどんどんやりましょう、そうでない子もやりましょう」と、女子生徒の選択肢を広げるためには、 理系の勉強をあきらめないことだと生徒に語り続けました。その時代の子たちも30歳を過ぎて、いろいろな方面でがんばっています。 ――世の中にはまだ、女子は理系が弱いという偏見があります。女子校にできることはありますか。  女子の選択の幅を狭めているのは数学や理科です。でも、女子は苦手と思い込んでいるだけ。中高の数学や理科は、コツコツやればできるんです。  鴎友学園女子中高の吉野明・前校長が、「女子校は、女子の特性に合わせた理数教育ができる」とおっしゃっていましたが、本当にその通りだと思います。  女の子のコツコツやる特性は、実は研究向き。アイデアや発想は男子が勝っているといわれますが、そんなことはありません。研究を続けていれば、新しい着眼点が出てきます。何もないところから、発見はできません。 ――今後の課題はありますか。  工学系にも興味をもってくれればいいな、と。生徒や保護者は昔のイメージで、工学というと「ガテン系で油にまみれている」という先入観があるようです。工学はものごとをコントロールする、バラエティーに富んだ可能生がある魅力的な分野です。  ある媒体でそういう発信をしたところ、いろいろな会社から「本当にその通り。工学がわかる女子社員がほしい」と連絡をいただきました。クレーンを作っている加藤製作所からは「工場見学や体験にもぜひ来てほしい」と招待を受け、中2の生徒と保護者と出かけて、クレーンの試乗体験や、建機を設計している女性社員との懇談会に参加させてもらいました。 ――奈良女子大が工学部を開設、お茶の水女子大が共創工学部(仮称)を開設予定と、女子大に工学部をつくる動きが出ています。東京工業大や東京理科大も入試に「女子枠」を設けると表明しています。  生徒には「今がチャンスだよ」と、話しています。「女の子だから」という思い込みを捨てて学びの選択肢を狭めなければ、可能性は広がっていることを伝えていきたいですね。 (構成/柿崎明子) 〇真下峯子(ましも・みねこ)昭和女子大学付属昭和中学校・高等学校校長。埼玉県生まれ。奈良女子大学理学部卒業。埼玉県に理科の教員として赴任。埼玉県立川越女子高等学校教頭、埼玉県立総合教育センター指導主事、大妻嵐山中学校・高等学校校長などを経て2020年から現職。
「女の子だからできない」じゃなく「やってみたらできた」へ 昭和女子中高の女性校長が語る“理系教育”
「女の子だからできない」じゃなく「やってみたらできた」へ 昭和女子中高の女性校長が語る“理系教育” 昭和女子大学付属昭和中高の真下峯子校長 「理科の楽しさを伝えたい」と、理系教育に尽力してきた昭和女子大学付属昭和中高の真下峯子校長。スーパーサイエンスコースを設け、大学やブリティッシュスクールとの連携にも力を入れるなど、次々と策を講じてきた。「女の子がやってみたらできちゃった、というモデルを証明したい」と話す真下校長の思いとは。 *   *  * ■メダカの記憶を研究 ――昭和女子大学付属昭和中高は、サイエンス教育に力を入れています。  2015年から学校改革を行い16年にグローバル留学コースを、18年にスーパーサイエンスコース(SS)を設けました。SSコースは当初中3からが対象だったのですが、私の校長着任後の21年から中1に引き下げました。  前校長の判断ですが、小学生のころからサイエンスに興味がある生徒に来てもらおうという、狙いがあったようです。やはり1年次からやることでスキルも厚くなるし、経験を積むことで考察も深くなります。 ――スーパーサイエンスコースの特徴はどのような点ですか。  1年次から実験や研究を重視し、サイエンスの学びをトレーニングします。その蓄えた力をもって、中3の後半からテーマを決めて研究に入ります。ある生徒は、「メダカの記憶の維持」というテーマを設定しました。観察のための実験装置を作って、いつのタイミングで測ればいいのか、試行錯誤しながらいろいろな条件で観察を続けました。  この成果として、中高生の研究のための学会「サイエンスキャッスル2021関東大会」で最優秀賞を受賞するなど、SSコースを設定した芽が出始めています。 ――理科が苦手という女子生徒は多いです。何が理科嫌いにさせているのでしょうか。  小学生のころは、みんな理科が好きなんです。でも中学生になったとたん、起こっている現象の理屈を考えなくてはならなくなるので、一気に難しくなりお手上げになってしまうのだと考えています。  SSコースの1年生が神奈川県・足柄の林間学寮に行ったときのことですが、車中、みんなでダンゴムシの絵を描いてみようということになったんです。私たち大人だと、普通上から見たダンゴムシを描きますよね。なかには真横の姿や、ひっくり返しておなかを描いた生徒もいて、みんなで笑ったり、感心しあったりしました。そうやって楽しむのも理科の原点なんです。  理科の第一歩は、対象物をきちんと見ること。そうすると自然に「なぜ」という疑問が湧いてきます。次のステップとして調べてみようとか、考えてみようとなる。そのときお手上げにならないように、スキルや方法をきちんと教えていくことが大切なんです。 SSコースの中学生が金柑の蒸留実験を行う様子。(写真は提供) ――楽しむことで、理科離れを防ぐのですね。  昨年夏に、専門家に依頼してデータサイエンスの特別講座を開催しました。募集したところ、30人集まればいいと思っていましたが、100人近く集まりました。SSだけでなく、本科コースやグローバル留学コースの生徒も、特に中学生が大勢参加しました。みんな関心はあるのです。  実験はもちろんですが、学校全体にデータサイエンス系も、プログラミング系もできるサイエンスをつくり上げていきたい。「女の子だからできない」じゃなくて、「やってみたらできちゃった」を、証明するモデルになってほしいと思います。 ――サイエンスを学ぶことで、どんな力がつきますか。  実験は、そううまくいくものではありません。100失敗して、1つ成功すればいいほう。世の中で脚光を浴びている研究の基には、失敗が山ほどあります。科学とはそういうものです。実験を繰り返し、結果が出るまでやることで、うまくいかなくてもへこたれない力がつきます。  実はその力は汎用性が高くて、社会に出て困難にぶつかったときに役にたちます。中高時代、サイエンスにがっつりと取り組んで失敗を繰り返しながらも目的に向かっていく、そういうタフな力を身につけてほしいのです。 ■大学との連携を強化し五修生制度導入 ――昭和女子大学の坂東眞理子理事長は、ジェンダー教育に熱心に取り組んでいます。大学との連携は。  坂東先生は、女性にいろいろなところで活躍してほしいという思いがあり、必要と思うコンテンツをどんどん取り入れてくれます。大学には実務家の教員が大勢いて、学問だけではなく、社会とどうつながっているのか実践的な学びもなさっている。本科コースのなかには探究の授業のチームで大学の研究室を訪れて、そんな先生方に指導してもらっている生徒もいます。  40年前から、高2までに卒業のための必要単位を取り、高3から昭和女子大で学ぶ「五修生制度」を取り入れています。飛び級だと高校の卒業資格が取れませんが、この制度なら取得するこができます。  今年は6人、昨年は8人がこの制度を利用しました。先日面談したある生徒は国際的な公認会計士を目指しており、高3の1年間の余裕をその勉強にあてたいと考え制度を利用したと話していました。  昭和女子大は中国の上海交通大学や、米国のテンプル大学などとダブルディグリープログラムを結んでおり、5年間で2つの大学の学位を取ることができますが、五修生制度を使えば大学4年修了時に取ることが可能です。  23年からは、他の大学に進学する可能性も残したい生徒のために、五修生制度とは別に昭和女子大科目等履修生制度も導入しました。高校2、3年生が対象で、放課後に大学の授業を履修できます。昭和女子大に進学した場合は、それが単位として認められます。いろいろな面で、大学との連携が強化されていますね。 ――高大連携は、他大学にも広がっています。  生徒たちの進路選択を広げるために、昭和女子大にないコンテンツを持っている大学との連携をしていこうと、働きかけています。現在は東京理科大、早稲田大、芝浦工業大、東京農工大、お茶の水女子大に協力していただいています。  お茶の水女子大は千葉・館山に湾岸生物教育研究所があるのですが、すぐ近くに本校の海浜学寮があるので、生徒たちが研修で訪れたときに指導いただけるように、お願いしています。 ――大学生もメンターとして受け入れていますね。  昭和女子大の学生はもちろんですが、東京理科大生はチームをつくり学習サポートに入ってくれています。今年からは早稲田大も学習支援に来てくれることになりました。実験には危険もつきものですから、1つのグループに学生さんがついてくれるのは、教員にとっても安心です。  実験だけでなく、授業にも入ってサポートしてもらっています。先生と生徒は1対36ですが、先生と生徒の間に学生がいることで、授業がもっと密になる。また先生ではない、年齢の近い学生がアドバイスしてくれたり、教えてくれたりするので、生徒も気負わず素直に受け入れられます。  勉強だけでなく、学生から研究や学問の苦労話や失敗談など生の声を聞くのも、生徒にとって貴重な体験です。学生が生徒たちのロールモデルになってくれています。 ■グローバル教育への挑戦 ――主にイギリス人の子弟が通う、ブリティッシュスクールとの連携も深まっています。グローバル教育はどうなっていますか。  お隣がブリティッシュスクールという、物理的に非常に恵まれた環境にあります。以前はボランティア活動を一緒にする程度でしたが、先方の校長先生ともっと交流を深めましょうということで思いが一致しました。  今はグローバル留学コースや本科コースの生徒とブリティッシュの生徒が、1週間ほど授業をエクスチェンジしたり、SSコースの生徒があちらの理科の授業を受けたりしています。当然英語での授業なので、サイエンスに英語という武器が加わります。授業でのアカデミックな交流がしやすいように、両校の時間割の調整を検討しているところです。  授業以外にも、地球環境を守るための活動をしたりブックトークをしたりと、できるだけいろいろなことを一緒にやる方向で動いています。生徒たちは「ブリティッシュスクールの子たちは同年代なのにとても教養が高い」と、良い刺激を受けていますね。  グローバル留学コースは、高1のときに1年間カナダへ留学するのが必須となっています。帰国して国際系の大学を目指す生徒が多いですが、なかには海外の医学部に行きたいという生徒もいます。サイエンスコースの生徒に影響されたのでしょう。お互いに刺激し合って、進路が広がっていると感じます。 (構成/柿崎明子) 真下峯子(ましも・みねこ) 昭和女子大学付属昭和中学校・高等学校校長。埼玉県生まれ。奈良女子大学理学部卒業。埼玉県に理科の教員として赴任。埼玉県立川越女子高等学校教頭、埼玉県立総合教育センター指導主事、大妻嵐山中学校・高等学校校長などを経て2020年から現職。 <<後編:「カエル好きのお姉さん」が昭和女子中高の校長になるまで 理系教育への情熱の“根っこ”とは>>へ続く
「常識のないまま始めてしまった」 つけ麺のスープ割りも知らなかった店主が五つのラーメン店を成功させるまで
「常識のないまま始めてしまった」 つけ麺のスープ割りも知らなかった店主が五つのラーメン店を成功させるまで 「喜九家」の特製中華。鴨チャーシュー、豚チャーシュー、味玉、もみ海苔、ナルト、メンマ、三つ葉、ネギがのっている(筆者撮影  日本に数多くあるラーメン店の中でも、屈指の名店と呼ばれる店がある。そんな名店と、その店主が愛する一杯を紹介する本連載。極上の自家製麺が光る埼玉・北浦和の名店の店主が愛するのは、和食出身の弁当屋から転身した店主が長年の失敗の後にたどり着いた一杯だった。 ■天ぷら屋の黒舞茸に一目ぼれ「他店と似ているものは作りたくない」  JR京浜東北線・北浦和駅の西口から徒歩3分。「柳麺 呉田-goden-」は浦和を代表する大人気店だ。極上の自家製麺のファンが多く、「ざるチャーシュー」や「黒舞茸と近江黒鶏の昆布水つけ麺」などここでしか食べられない独創的な一杯を提供している。  神戸市出身の店主・中野憲さんは地元の老舗「もっこす」からラーメンのキャリアをスタート。その後上京し、護国寺に当時あった名店「ちゃぶ屋」の森住康二さんに師事。4年修業をした後、横浜家系ラーメンの名店「六角家」でさらに修業を重ね、2015年に独立した。バラエティーに富んだキャリアで、それがそのまま中野さんの作るラーメンの独創性につながっている。 「柳麺 呉田-goden-」店主の中野憲さん。神戸の名店「もっこす」で修行した経験も(筆者撮影) 「呉田」のラーメンは常に変化し続けていて、全てのメニューが創業当時と違う。同じものを愚直に追い求めていくよりは、常に新しくしていくのが「呉田」流だ。 「新しい食材が入ってきたらすぐに試したいタイプなので、いいものはどんどん取り入れていきます。変わり続けるのがうちのスタイルですね。変わり続ける中で、いつか自然と普遍的な一杯に行き着けばそれがベストかなと考えています」(中野さん) 柳麺 呉田-goden-/埼玉県さいたま市浦和区常盤9-16-7/火曜から金曜昼11時~14時30分、夜17時30~21時30分L.O/土曜昼11時~15時、夜18時~21時30分L.O/日曜祝11時~16時、月曜定休。詳細はお店のTwitter(@godenken)にて/筆者撮影  とにかく好奇心旺盛な中野さんは、ラーメン店だけでなく他の飲食店で出会った食材でも自分のラーメンに落とし込めないかを常に考えている。「黒舞茸と近江黒鶏の昆布水つけ麺」はある天ぷら屋で出会った黒舞茸に一目ぼれして作ったメニューだ。 「柳麺 呉田-goden-」の黒舞茸と近江黒鶏の昆布水つけ麺は一杯1200円。太め平打ちの自家製麺が特徴(筆者撮影) 「他の店と似ているものは作りたくないという考えが前提にあるんだと思います。常に何かを超えたいという気持ちでラーメンに向き合っているので。自分が思いついたアイデアでも、既に他の誰かがやっているということは本当によくあるんですが、諦めずに探し続けることで独創的なラーメンにたどり着けることがあるんですよね」(中野さん)  ラーメンは作る人によって十人十色。食べる側にも好き嫌いはある。その中で、中野さんは一人でも多くの人が好きと言ってくれる新しいラーメンを作ろうと日々試作を続ける。  そんな中野さんが紹介するのは、埼玉の和食出身の弁当屋の店主が始めた失敗の多すぎるラーメン店だ。 「喜九家」の特製中華。鴨チャーシュー、豚チャーシュー、味玉、もみ海苔、ナルト、メンマ、三つ葉、ネギがのっている(筆者撮影) ■3年間赤字続き、つけ麺の「スープ割」も知らなかった  東京都青梅市で2011年に創業した「喜九家」(「喜」は「七」を三つ並べたもの。以下、店名の「喜」はすべて同じ)。店名の「喜九家」は店主である大野喜久さんの名前「喜久」を旧字体で表現したものだ。  本店は青梅だが、「喜九八~garage~」、「拉麺 イチバノナカ」、「喜りん食堂」、「喜九八~エキチカ~」と埼玉県所沢市に四つの店を展開し、青梅、所沢エリアをリードする人気グループとなっている。  大野さんは所沢市生まれ。両親が共働きで、昔から自分で料理を作る生活だった。日々台所に立つのは当たり前で、将来の仕事として料理に非常に興味があったという。  ラーメンを好きになったのは、高校時代に東京・中野にある名店「青葉」に食べに行ったのがきっかけだ。その後高校を卒業し、大学進学に向けて浪人生活をスタートする。だが、親の会社が倒産寸前になったことで進学を断念。次の日には警備員のアルバイトを始めた。 「1年間お金をためて料理学校へ通って、料理の道を志そうと思いました」(大野さん)  もともとイタリアンがやりたくて料理学校に入ったが、バイト先の和食居酒屋で食べたアナゴの煮物にいたく感動し、和食にシフトした。その後、静岡県の東伊豆にある「稲取銀水荘」で3年半修業。その後、居酒屋やホテルなどを転々として、結婚。妻の実家が青梅で営んでいた弁当屋を継ぐことになった。27歳の頃だった。 「喜九家」店主の大野さん(右)(筆者撮影)  朝2時に起きて、弁当を作って配達し、夕方の4時頃に仕事が終わる生活。だんだんとそれに飽きてきて、弁当を作った後の時間でラーメン屋を開くことにした。これが「喜九家」である。2011年、34歳の頃だった。  イタリアンや和食、そして弁当屋とさまざまなジャンルを経験してきた大野さんだが、昔からラーメン屋をやってみたい気持ちがあった。いつか来るその日のために基礎作りをしていた。 「銀水荘では、まかないで勝手にラーメンを作って怒られたこともあります。でも、板長だけはその味を褒めてくれました」(大野さん)  念願かなって、いよいよラーメン店の開業。「喜九家」では、みそつけ麺と豚骨魚介の中華そばを提供した。  しかしその後3年間は赤字の日々が続くことになる。 麺は平打ちの手もみ風(筆者撮影) 「弁当屋をやっていなかったら確実につぶれていました。一日1万円の赤字を出していましたからね。そもそも、ラーメンに全く詳しくなく、みそつけ麺を最初に注文したお客さんに『スープ割りをください』と言われ、その瞬間にスープ割りが必要だということを知ったぐらいでした。常識のないままお店を始めてしまったんです」(大野さん)  メニューを何種類も作ったり、営業終了後には残ったスープも混ぜてみたりと正解を探し続けた。少しずつ味のブラッシュアップをしながらギリギリのところでお店を維持。3年目にブロガーの投稿とツイッターで火が付いて、徐々にお客さんが増えてきた。特に「鶏ポタつけ麺」が人気となり、これが大野さんの代表作となる。 「失敗の期間が長すぎる分、他店の味の研究などインプットの量はハンパではないことになっています。でも、パクらないのが私の信条です。あくまでお客さまに伝わる味なのかを意識しながらお店とメニューを増やしてきました」(大野さん) 喜九家/東京都青梅市今寺5-18-49/[平日] 11:30~14:30(L.O.)、[土・日・祝] 11:00~スープ切れまで/月曜定休※祝日の場合は営業。詳細はお店のTwitter(@wwwwinaka)にて/筆者撮影  今では5店舗を経営するオーナーとなった大野さん。お客さんのいない期間が長すぎたからこそ、お客に寄り添ったラーメンが作れるのだ。 「呉田」の中野店主は大野さんを“天才”と評する。 「大野さんは各地のラーメンを食べ歩き、その味をインプットし続ける探求心の塊のような人です。特にスープ作りについては天才。名店のスープを何でも再現できるぐらいの腕を持つすごい人です」(中野さん)  大野さんは中野さんを弟分としてかわいがっている。 「うちのお客さんが教えてくれて『呉田』に食べに行きました。今では腐れ縁のような関係です。『呉田』の麺は本当においしい。うちの店でも『呉田』の麺を使ってコラボさせてもらっていますが、麺がうますぎてそれに合わせるスープを作るのが本当に大変です(笑)。ファンも多いですし、良いお店作りをしていると思います」(大野さん)  常に新しいものを取り入れながらも自分の味を追い求める中野さんと、お客さんに伝わる味かを常に意識する大野さん。時代に合わせてブラッシュアップすることに変わりはないが、目線がブレないからこそそれぞれのラーメンがおいしくなり続けるのだ。(ラーメンライター・井手隊長) 「喜九家」店主の大野喜久さん。イタリアンや和食の経験もある(筆者撮影) ※AERAオンライン限定記事
童謡「南の島のハメハメハ大王」は実在したカリスマ大王? ハワイ王朝100年の歴史を紐解く
童謡「南の島のハメハメハ大王」は実在したカリスマ大王? ハワイ王朝100年の歴史を紐解く オアフ島・ホノルルのダウンタウン、ハワイ王国の国会議事堂だった「アリイオラニ・ハレ」の前に立つカメハメハ大王像  最大9連休になる今年のゴールデンウイーク。行動制限なしのゴールデンウイークは3年ぶりということで、海外旅行者数は前年比400%と激増し、人気の旅行先はハワイだ、ということは、4月20日に配信した記事 ハワイでは「横断歩道でスマホ」は条例違反! うっかり破ると罰金が科される現地ルール でも報じた。  ハワイは言うまでもなく50あるアメリカ合衆国の州の一つだが、独立した国として存在していたころのハワイをご存じだろうか。発売されたばかりの『ハレ旅ハワイ』から、ハワイ王朝の歴史を振り返りたい。  ハワイ諸島には古くから、ポリネシア人が暮らしていた。そこに1795年、ハワイ王国を建国した人こそ、童謡「南の島のハメハメハ大王」のモデルにもなった、初代カメハメハ大王。彼は風貌にも体力にも秀で、人の心をつかむカリスマ性に優れた天才だったとされる。その死後、ハワイ王朝は8代約100年にわたってこの南の国を統治していた。しかし、やがて欧米の文化が流入し、最終的にはアメリカ人入植者によるクーデターで、滅びてしまった。  初代カメハメハ大王から、王朝の最後を目撃した悲劇の王女まで、ハワイ王朝100年を彩る主要人物はこの6人だ。 初代カメハメハ大王  ハワイ王国の建国者で初代国王。ハワイ島のカパアウで生まれた。武術にたけ、知力に優れ、多くの人に愛された英雄。秀でた外交手腕によって独立を守り続けた。その功績をたたえる銅像は、ハワイ諸島に3体、ワシントンに1体の計4体。偉業を記念した祝日も制定されている。この人なしに今のハワイは生まれなかった  カメハメハ大王3世  初代カメハメハ大王の息子であり、王朝3代目の国王。2代目の急死後、10歳で即位した。欧米による侵略の危機にさらされるなかで憲法を制定し、ハワイを立憲王国としたほか、首都をホノルルに遷都。近代国家の体裁を整えた。ハワイ初の学校も建設し、文字を持たなかったハワイはこの30年で世界有数の識字率を誇る国になった。 カメハメハ大王3世が日曜礼拝に訪れたというカワイアハオ教会。外壁にサンゴが使われた、オアフ島最古のキリスト教教会 カラカウア大王  選挙で選ばれた7代目の国王。アメリカがハワイの経済や政治への影響力を持ちはじめたことからアジアと手を組もうと考えたが、志半ばで死去。ハワイの伝統文化を愛し、ハワイの創世神話を自ら出版したが、「税金の無駄遣い」などという意見もあったという。ユーモアにあふれた人だったとされる。  アメリカ唯一の宮殿、イオラニ宮殿。カラカウア大王の命で建設され、住居として使用された。クーデター後は政府の公邸に カピオラ王妃  カラカウア大王の妻。「Kulia I Ka Nu’u(最善を尽くす)」をモットーとし、ハワイの女性のためにカピオラニ産院を建設。ハンセン病患者のために寄付金を集めるなど福祉に貢献した。56歳で夫を亡くし、ワイキキの別荘で64年の生涯を閉じた。慈悲の心にあふれた母のように穏やかな人だったとされる。  リリウオカラニ女王  王政復古主義を掲げた第8代女王。カラカウア大王の妹。新憲法を発布しようと試みたが、一部の大臣の同意を得られず退位を迫られる。王政が廃止され、ハワイが共和国となった後は王政復古を求める反乱の首謀者として逮捕され、イオラニ宮殿に幽閉された。女王廃位後も人々の敬愛を受け、ハワイを代表する曲として今も広く愛される「アロハ・オエ」を作詞・作曲したことでも知られる。 リリウオカラニ女王の邸宅だったワシントン・プレイス。彼女の死後、2002年までは知事公舎として使用された。現在は博物館 カイウラニ王女  ハワイ王朝最後の王位継承者。カラカウア大王の姪。スコットランド人の父を持つ。カラカウア王の命で13歳のときにイギリスのボーディングスクールに留学したが、1890年代半ばには王朝の崩壊を知って渡米。ハワイ王国の復興を訴えた。1897年に帰国し、ハワイ併合後の1899年、23歳の若さで死去した。 カイウラニ王女が幼少期を過ごした地に立つホテル、シェラトン・プリンセス・カイウラニ。ロビーには肖像画も飾られている (構成 生活・文化編集部 永井優希)
瀧内公美「自分のお芝居に飽きていた」 苦手な“音”を鍛える今【後編】
瀧内公美「自分のお芝居に飽きていた」 苦手な“音”を鍛える今【後編】 瀧内公美(たきうちくみ)/ 1989年生まれ。「彼女の人生は間違いじゃない」(2017年)で映画初主演。「火口のふたり」(19年)でキネマ旬報ベスト・テン主演女優賞、「由宇子の天秤」(21年)でラス・パルマス国際映画祭最優秀女優賞を受賞。近年の舞台出演作に、イキウメ「天の敵」、ミュージカル「INTO THE WOODS」。ドラマでは「リバーサルオーケストラ」などがある。(撮影/小黒冴夏 ヘアメイク/森下奈央子)  昨年は4本の舞台に出演した俳優・瀧内公美さん。ドラマや映画でも引っ張りだこの実力派は、現在、憧れの演出家の厳しい指導に、果敢に立ち向かっている。 *  *  *  今年、新たな自分に出会えそうな作品と目下格闘中だ。PARCO劇場開場50周年記念シリーズとして上演される泉鏡花作「夜叉ケ池」で、瀧内さんは、主人公の鐘楼守である萩原の妻・百合を演じる。 「演出の森(新太郎)さんの舞台に出ることは、私の夢でしたので、お話をいただいたときは、もう二つ返事でお受けしました(笑)。ただ、これまでに森さんの演出を受けられた方から、『千本ノックのように厳しい』とか、『テーブル稽古をみっちりやる。セリフの“音”についてすごくこだわりがある』とうかがっていて……。でもそれが、すごく今の私にピッタリな課題だと思いました。というのも私自身、“音”から入るアプローチにずっと苦手意識があったんです。自分の気持ちや感覚を優先させて芝居をしてきたのが、最近そういう自分のお芝居に飽きていたこともあって。苦手意識のある音に関して鍛えられれば、新しい表現方法を身につけることができるかもしれないから」  去年は4本の舞台に出演したが、その度に、「舞台は音のメディアだ」と感じた。 「舞台って、座席によって目に入る情報は変わるけれど、音だけは、どの席にも届けなくちゃならない。私がまだお芝居を始める前に小劇場で感じた声の変化だけでお芝居の世界に引き込まれていったように、舞台上で物語のうねりを作っていくのは、視覚以上に音なんです。だから、今回のお稽古では、本読みのときのやり取りを全部録音して、それを聞きながら家でセリフの練習をしています」  指摘された箇所を家で何度も練習し、次の日の稽古で披露すると、また次の課題を与えられる。繰り返し繰り返し、音を体の中にたたき込むと、やがてその音の出し方を、体が自然に覚えてくれることに気づいた。 撮影/小黒冴夏 ヘアメイク/森下奈央子 「ちょうど最近、オーケストラのドラマをやらせてもらったせいもあって、稽古場の森さんが指揮者のように見えてきました(笑)。私たちが出す音を聞いてて、今度はこっちの音を調整しながら、一つの交響楽に仕上げていくような。個人稽古が終わったあと、初めてみんなで合わせたとき、『わ、オーケストラになった!』みたいな感動がありました」  そうして彼女は、舞台の面白さの一つに、「稽古で誤読ができる」ことを挙げた。 「みんなで台本を読んでいると、細かなやり取りの中に、『あ、そっちの意味だったんだ』みたいな発見がたくさんありますよね。しかも、舞台が本番に入ると、お客様が『そんなところで笑うんだ』とか、新しい発見をくださる。舞台の稽古は、よく『恥をかく場所だ』とか言われるんですが、幾つになってもそういう場所があるってことがうれしいし、ありがたいです」  インタビューをしていると、瀧内さんがとてもいい“聞く耳”を持っていることに驚かされる。この「夜叉ケ池」のテーマについても、森さんの説明をちゃんと聞き、自分の中に落とし込んでいた。 「演劇って、エンタメの中でもとくに、社会への苛立ちをぶつけられるものだと思うんです。森さん曰く、『夜叉ケ池』は幽玄でファンタジーだと謳っているけれど、根底にあるテーマはもっとおどろおどろしいはずだ、と。作品の中には、泉鏡花の社会に対する怒りや苛立ちが詰め込まれていて、世界の崩壊と再生にもつながるとても熱い物語だと説明してくださった。一方で、もののけたちの登場はポップだったりして、今までに観たことのない、想像を裏切る新たな『夜叉ケ池』をお届けすることになると思います」 (菊地陽子、構成/長沢明) ※記事の前編はこちら>>「瀧内公美が語る下積み時代 舞台挨拶後はバイトで必死に皿洗い」 ※週刊朝日  2023年5月5-12日合併号より抜粋
「里田まい」新ブランド商品が即完売で将来年収はマー君越え!? 実業家としての意外な資質
「里田まい」新ブランド商品が即完売で将来年収はマー君越え!? 実業家としての意外な資質 里田まい  4月6日、楽天の田中将大投手が史上59人目となるNPB通算1500奪三振を達成した。メジャーリーグでも日本球界でも第一線で活躍してきた田中投手だが、それを長年支え続けてきたのが妻でタレントの里田まい(39)だ。  里田は4月に自身のブランド「THE MINE COLLECTION」の立ち上げを発表。アメリカで初めての育児を経験し、「いっそ自分が長く飽きずに使えるものを、自分で作りたい」と思ったのが、ブランドを設立するきっかけだったとSNSでつづっていた。一見、唐突な起業にも思えるが、実は構想から4年をかけて実現したとも明かし、第1弾としてトートバッグと万能クラッチポーチを発売した。 「ネット上では『なぜ今さら?』などの否定的なコメントもありましたが、フタを開けてみれば、トートバッグ(グレー)は2日もたたないうちに完売となる人気ぶり。元メジャーリーガーの夫を持ち、ニューヨークで育児に奮闘していた里田さんの姿は、同世代ママから憧れの存在となっていましたから、完売にも納得です。子育て世代を意識した、小物がたくさん入る多機能で便利なバッグとポーチの2種類から始めるというのも、かなり手堅い感じがします。価格も高すぎず、安すぎずの絶妙な値付けで、バッグ類から展開し今後は洋服にも広げていくという戦略でしょう。事業の進め方を見ると、実はやり手なのかも、と思わずにはいられませんでした」(女性誌のライター)  結婚後は、メジャーリーガーの妻として裏方に徹していた感もある里田。全盛期のタレント時代は「クイズ!ヘキサゴンII」(フジテレビ系・2005~11年)の「おバカキャラ」が浸透したこともあり、そこまでクレバーな印象を持つ人は多くないかもしれない。だが「実はポテンシャルは相当高い」と言うのは、女性週刊誌の芸能担当記者だ。 「里田さんは運動神経が抜群で、高校はソフトテニスで推薦入学したほど。(出身の)北海道大会での準優勝や、全国大会出場の経験もあるんです。また、まったくの初心者から3カ月で乗馬技術を習得し、北海道・花畑牧場のホースショーではサドルを装着せず馬を乗りこなすパフォーマンスをしたことが有名です。02年のハロプロ運動会ではMVPにも輝いており、スザンヌさん、木下優樹菜さんの3人で結成したアイドルユニットでNHK紅白歌合戦にも出場しています。何をやっても吸収が早く、いろいろな活動を同時にできるマルチな才能があるのです」  タレント時代を知る民放バラエティー番組の制作スタッフもこう証言する。 「里田さんは、『ヘキサゴン』で同じくおバカタレントだった木下さんやmisonoさんとは異なり、当時からどこか品がありました。彼女の場合、実際は頭も良く、スポーツ万能の優等生タイプで、おバカを演じていたのかもしれません。あと、あまり注目されていませんが、里田さんは実際に見るとかなりスタイルも良くて、モデル顔負けなんです。人を惹きつける不思議な魅力がある女性だと記憶しています」 ■米国で英語を猛勉強  一方、田中投手との結婚当初は“球界の宝”を任せて大丈夫なのかと不安視する声もあった。しかし、結婚後は表立った芸能活動は控え、ジュニア・アスリートフードマイスターの資格を取り、食生活でも田中投手をしっかりサポートするようになった。こうした姿に世間の彼女に対するイメージは激変していった。 「料理は得意でなかったそうですが、資格を取って、SNSでプロ顔負けの料理を披露するまでになったのですから、すごいのひとこと。また14年に田中投手のニューヨーク・ヤンキース移籍が決まると、英語を猛勉強したともいわれています。以前、自身のブログで『出かけ先には、簡単な英文が載ってる本と、携帯の翻訳機能は欠かせない!』とつづっており、『相手が言ってることがわかったときがとても嬉しくて、どんどん話したくなる!!!』と明かしていました。持ち前の頭の良さで、どんどん英語を上達させていったのでしょう」(前出の芸能担当記者)  里田のインスタグラムのフォロワー数は70万人を超えているが、そこにも彼女の魅力が見え隠れする。 「彼女のインスタグラムはいつも笑顔であふれているんですが、それが作り笑顔ではなく、心から笑っているんだろうなというのが伝わってくる。ポジティブな表現が多いので、フォロワーも読んでいて元気が出るというか、明るい気持ちになるようです。芸能人のうわべだけのポジティブさではない、本当に人生を楽しんでいる様子が伝わってくるんです」(同)  芸能評論家の三杉武氏は里田についてこう述べる。 「里田さんにインタビューをさせていただいた際も、礼儀正しく、こちらの質問にも真摯に対応してくださり、さらに、記事の見出しになりそうなエピソードを自ら進んで話してくださいました。とてもプロ意識が高く、頭の回転の速い聡明(そうめい)な人だなという印象でした。他の現場でも同様だったと思いますし、実際にテレビ業界の人からも悪い話は聞いたことがありません。もともとの資質に加えて、花畑牧場での下積み時代の経験も高いプロ意識に結びついているのでしょう。『おバカタレント』でブレークしていたときもけっして下品さを感じさせず、年配の視聴者からもウケが良かったですし、起業がうまくいっているのもうなずけます」  その類まれなる才覚で、年収でまさかのマー君越えが実現する日が来るかもしれない。 (高梨歩)
「声なき声を聴いてほしい」労組役員の責務 アサヒグループホールディングス・小路明善会長
「声なき声を聴いてほしい」労組役員の責務 アサヒグループホールディングス・小路明善会長 青山界隈の風景は昔の面影も残す。ここへ来ると、労組役員時代に聴いた先輩の「遺言」が頭に浮かんで、また自らを戒める(撮影/狩野喜彦)  日本を代表する企業や組織のトップで活躍する人たちが歩んできた道のり、ビジネスパーソンとしての「源流」を探ります。AERA 2023年4月24日号の記事を紹介する。 *  *  *  1980年3月、朝日麦酒(現・アサヒビール)の仙台支店を休職し、東京・青山の表参道交差点近くにあった労働組合本部の専従役員になった。28歳。苦しい業績が続き、ほどなく経営陣は約530人の希望退職者を募ることを決断した。年長の社員たちに照準を合わせた、いわば指名解雇だ。労組も会社の苦境を考えると、受け入れざるを得なかった。  ここから、想像もしたことがない「茨の道」が始まる。対象の年長者に退職を促す「肩たたき」をするのは、会社だ。でも、受け入れた労組も協力し、本部役員らが手分けして会って、退職の意向を確認した。  それまで、労組が何をしているのか知らなかったし、関心もなかった。岩手県と福島県の営業を担当し、酒類の卸会社や大事な取扱店を回り、市場シェアを回復すること以外に考えたこともない。ある日、仙台の労組支部長に東京である組合大会へ出るように言われた。「若手として発言してこい」とのことだった。  仙台支店は東北の拠点。物流、経理などの担当者もいて、総勢は約50人。なかで20代の営業マンは自分だけ。大会で何か言った覚えはあるが、たいした内容ではない。ところが後日、労組の支部長に本部役員になるように言われた。2度、断った。労組の仕事をやるために、入社したわけではない。すると、支店長に呼ばれた。朝日麦酒では全社員が労組に加入する制度なので、断って労組を除名されると会社を辞めなくてはならなくなる、と説かれる。「本部役員を引き受けろ」との示唆だ。 ■希望退職で面談 胸に染み込んだ大先輩の言葉  希望退職の意向面談で、ある工場の50代の先輩に言われた。 「状況は、分かった。私は辞めていく。ただ、声の大きい人の話を聴くだけでなく、声なき声、コツコツと真面目に仕事をしてきたのに辞めていく人たちの声を聴いてくれ。それを、会社に伝えてくれ」  が~ん、と頭を叩かれた気がした。胸に染み込む言葉だった。これが、小路さんのビジネスパーソン人生を定めた『源流』となる。  2011年7月、持ち株会社アサヒグループホールディングスの傘下で、ビール事業を展開するアサヒビールの社長になった。出した三つの方針で、最初の一つが「社員は会社の命である」との表明だ。これは、あの希望退職の体験から出た。50代の先輩の言葉は、忘れたことがない。あのようなことは、二度としたくない。そう思い続けていたから、社員たちに「約束」したかった。 苦難のときも明るく(写真:本人提供) ■本社工場売却で相談に乗った組合員らの将来  難局は、希望退職の問題だけで終わらない。会社は、東京・吾妻橋にあった本社工場の売却も表明した。キャッシュを手に入れ、資金繰りを楽にするためだ。これも、組合は了解せざるを得なかった。  当時、工場で働く人たちは朝日麦酒へ入社するのではなく、工場と雇用契約を結んでいた。だから転勤がない一方、もし工場がなくなると辞めるか、別の工場へ移籍するしかない。毎晩、工場の人たちと会い、将来の相談に乗った。思うようにいかなかった例も、少なくない。この体験も『源流』に合流する。  本部役員は4年程度の見通しだったのに、後任がこなくて、89年秋まで10年近くやった。ナンバー2の書記長も務めた。それなりの規模の企業の経営者で労組役員を経験したことがある人はいても、これほど長くなった例は珍しいだろう。厳しい年月だったが、道の進み方を学んだ。  1951年11月、長野県松本市で生まれる。両親は公務員で、5歳下の弟と4人家族。キリスト教系の幼稚園へ通い、教会に入った瞬間、独特の雰囲気を感じた。賛美歌を歌うと、別世界にきた気がした。園児たちに寄り添ってくれた先生は「たけみつ」と言い、家族以外の名前を覚えた最初の人だった。  市立中学校と県立松本県ケ丘高校では、長身を生かしてバレーボール部で過ごす。東京五輪で「東洋の魔女」と呼ばれた日本の女子チームが金メダルを獲り、バレーボール人気が高まったころだ。  大学は青山学院大学法学部。表参道交差点の西で、組合本部があったところと逆方向だが、同じ青山界隈。「青山」は、小路さんの歩みのキーワードになる。青山学院はプロテスタントのメソジスト派で、教会がなくて、地味な講堂に礼拝場がある。入学式にいったとき、それを目にして、幼稚園時代を思い出す。そして、賛美歌に「再会」する。クリスチャンにはならなかったが、キリストの教えが無意識のうちに生き方の一つになっている。  1975年4月、朝日麦酒に入社。衣・食・住・金融の分野を1社ずつ受け、最初に内定をくれた朝日麦酒を選ぶ。大学受験でも、四つ受けて最初に合格したところに決めた。これも縁、縁を大事にしたい人間だ。 ■先輩に教わった「非凡な努力」重ねた営業現場  入社研修を終えると1カ月、先輩について営業に回って仕事のイロハを教わる。そこで30歳過ぎの先輩が言ったのは「まだビールのこともよくわからないだろうが、きみにできることが一つある。それは、努力だ。知識がなくても1日に20軒、250日の全営業日に10年間、得意先を回り続けたら、間違いなく一流の営業マンになる」という言葉だ。これを、先輩は「非凡な努力」と呼んだ。 「能力×努力=成果」で、仮に能力が誰かの半分でも、3倍も4倍も努力すれば「能力×努力」は大きく上回る。創意工夫して取り組めば、成果は大きくなっていく。東京支店の千葉営業所を経て仙台支店へ配属になった間、1日に20軒との教えを、守り続けた。  38歳で、大激戦区の東京・銀座の営業担当課長になった。その3年半前、メーンバンクの住友銀行(現・三井住友銀行)の副頭取だった樋口廣太郎氏が、社長に就任した。樋口氏は古くなりかかったビールを思い切って廃棄し、大胆な新製品を次々に投入。社名も古さを捨てて「アサヒビール」へ改称した。まだ労組幹部のときで、何度も衝突したが、好きなトップ像だった。  樋口氏の最大の功績が、87年3月に発売して爆発的にヒットした「スーパードライ」だ。これを武器に、銀座地域で他社製品を扱っていた飲食店に、アサヒへ切り替えてもらう。自転車で、銀座八丁の路地裏やガード下を巡った。「非凡な努力」とまでは自賛しないが、手応えは忘れない。  2016年3月に持ち株会社の社長となり、一昨年に会長兼取締役会議長に就任。1年前には経団連の副会長となり、「Well−being」という言葉を口にするようになる。辞書に幸福、福利、健康とあるが、物質的な豊かさだけに目を向けるのではなく、もっと心の豊かさ、幸せ感を大切にしよう、と言いたい。  なぜ、いまそんなことを言うかというと、所得が安定して伸びていくことは大切だが、それを確保したなら社会的にも精神面でも満たされるところへ、目を向けなければいけない。経済界にとっても、重要な宿題だ。所得格差、教育格差、医療格差、男女格差など、探してみるとたくさんの格差がある。その拡大を止めることがスタートライン。『源流』からつながる答えだ。(ジャーナリスト・街風隆雄) ※AERA 2023年4月24日号
俳優・佐藤二朗「若い頃はぐちゃぐちゃウジウジでエエでないの」
俳優・佐藤二朗「若い頃はぐちゃぐちゃウジウジでエエでないの」 俳優・佐藤二朗さん  個性派俳優・佐藤二朗さんが日々の生活や仕事で感じているジローイズムをお届けします。今回は、50代で振り返る下積み時代について。 *  *  *  現在、とある映画の撮影真っ只中です。  まだまだ情報解禁は先の話ゆえ、詳しくは書けませんが、この現場に、僕は初めてご一緒する市村正親さんがいらっしゃいます。  本当にビックリするくらい、底抜けに明るく、若々しく、1ミリたりとも偉ぶる感じがなく、とてもとても話しやすい。 あまりに明るく、テンション高く、若々しいので、思わず僕が「い、市村さん、一体おいくつなんですか?」と聞いたところ、「74ちゃいです!」と元気にお答えになってました。  僕は「精神年齢6歳の53歳児」を標榜しており、精神年齢の低さには定評(?)があるつもりなんですが、なんというか、年季が違う。僕も妻のことを「お母たぬ」と呼んだりしてますが、同じ幼児言葉でも市村さんが使うと、なんかこう、重みが違う。幼児言葉の重みってなんだという気もしますが、とにかく話し相手に肩肘張らせないというか、とてもとても楽しい人なんです。  なんかこの人ともっと話をしたいと思い、撮影の空き時間にいろんなお話をお聞きしました。  西村晃さんの付き人だった時代のこと、劇団四季に入り立ての時代のこと、20代の無鉄砲で怖いもの知らずでお金がなかった時代のこと、これらの時代の経験が市村さんにとってかけがえのない宝物になっていること……。  そこに、こちらも敬愛する先輩、堤幸彦さんも入り(堤さんもAD時代、とことんお金がない下積み生活を経験している)、さらに僕も「暗黒の20代」とよく言ってるくらいなので、市村さん、堤さん、僕の3人で、70代、60代、50代の下積み話にしばし花が咲きました。  もちろん下積み話をウェットに美談化する感じは微塵もなく、ひたすら明るく楽しくゲラゲラ笑いながら話して、ほんの短い時間でしたが、敬愛する2人の先輩と得難い時間を過ごせました。  そんな中、先日、脚本を提供する舞台の、キャストオーディションがありました。  年に一度、若い俳優たちに力試しの場を提供しようとの企画で、「ラフカット」という公演。今年でなんと29年目! 毎年4人の作家が30分の短編戯曲を提供し、キャストは全員オーディション。何を隠そう、僕も26年前、この公演のオーディションを受け、舞台演出家の鈴木裕美さんや堤泰之さんと出会い、俳優としてのキッカケをつかみました。  今年6月に本番を迎える「ラフカット 2023」では、僕は4人の作家の1人として、16年前に書いた短編脚本を提供しています。その僕の脚本に出演するキャストのオーディションがあったのです。  オーディションに参加してくれた俳優たちのほとんどは、20代30代といった若い方々。  正直に申し上げて、合格した皆さんも、残念ながら今回は不合格だった皆さんも、50代60代70代になっても俳優をやり続ける人は、おそらくほんの一握りだと思います。というか、そんな偉そうなことを言ってる僕だって、一寸先は闇です。  ただ思うのです。  中には稀に、なんの苦労もなく、スイスイとうまくいっちゃう人もいて、そういう人は心の底から羨ましいし、そういう運も味方に引き寄せるのはその人の実力と言ってもいいと思うし、素晴らしいことだと思うんですが、 基本、ぐちゃぐちゃでエエでないの。  ぐちゃぐちゃで、めっちゃウジウジで、めっちゃクヨクヨでエエでないの。  そういう若い頃の信じられないくらいの苦悩が、いつか花を咲かせる、なんて無責任なことは言えないし、その花だって一握りの人しか咲かないかもしれないけど。  君たちがこのあと俳優を続けようと、別の世界に行こうと、そのぐちゃぐちゃやウジウジやクヨクヨは、きっと君の人生にいつか彩りを添える。  そんな青臭いにもほどがあることを、2人の敬愛する先輩と語り合いながら、たくさんの若い粗削りの俳優たちをオーディションしながら、思ったのでした。
天龍さんが語る“大将” ジャイアント馬場と大鵬「小さなことにこだわらず」ケチはダメ!
天龍さんが語る“大将” ジャイアント馬場と大鵬「小さなことにこだわらず」ケチはダメ! 天龍源一郎(てんりゅう・げんいちろう)/1950年、福井県生まれ(撮影/写真部・掛祥葉子)  昨年9月に「環軸椎亜脱臼(かんじくつい あだっきゅう)に伴う脊髄症・脊柱管狭窄症」であるということがわかり、現在は入院してリハビリ中の天龍源一郎さん。今回は入院先から主治医の許可をもらいながら、“大将”にまつわる思い出を語ってもらいました。 *  *  *  俺がWARを立ち上げた頃、「天龍さん」とか「源ちゃん」とか、いろいろな名前で呼ばれるのが面倒くさくて「大将と呼べ!」と周りに言うようになって、それから大将と呼ばれるようになったけど、俺の中での大将といえば、やっぱり俺がいた二所ノ関部屋の大横綱・大鵬さんだ。  あのころは大鵬さんだけでなく、ほかの部屋の大関や横綱も大将と呼ばれていて、これは相撲界のしきたりというか慣習みたいなものなんだと思う。もともと相撲界は陸軍が仕切っていたから、その影響でトップの人を大将と呼ぶようになったんじゃないかな。仮に海軍が仕切っていたら、今頃俺は元帥と呼ばれていたかもしれないな(笑)。  ただ、俺にとっての大将は大鵬さんだけど、実は俺が大鵬さんを大将と呼んだことは一度もない。下っ端の若い衆の俺が大鵬さんを大将と呼ぶのは、なれなれしすぎるんだよね。ずっと大鵬関か横綱と呼んでいたよ。  現在、俺は相撲界とつながりがないからハッキリとは言えないけど、相撲界もだいぶ変わってきて、今、大将と呼ばれる力士はいないんじゃないかな?   俺が相撲を辞めるころでもほとんどいなくなって、当時だと北の富士さんが大将という感じだったね。北の富士さんは親分肌だったし、あのころの相撲取りはみんな「横綱たるものなめられてはいけない」「若い衆に対してはこうあるべき」という筋が通っていたというか“横綱”というものを背負っていたように思う。それを輪島関が来て、ぶっ壊してくれたよ(笑)。  それでも輪島関は、横綱の振る舞いとしてリンカーンコンチネンタルに乗ったり、銀座の店に飲みに行ったり、北の富士さんを見て学んだ部分も多かったと思う。それまでは、大関、横綱もタニマチのケツにくっついてゴチになっているのが多かったからね。 昨年6月24日に亡くなられた妻・まき代さんの写真と(公式インスタグラム@tenryu_genichiroより)【大会情報】『Osaka Crush Night2023』開催日時:2023年5月20日(土) OPEN16:00/GONG17:00/会場:アゼリア大正ホール(大阪市大正区小林東3-3-25)【チケット料金】(前売りチケット)※当日券は500円UP▽特別リングサイド…8,000円(東西南北最前列)▽リングサイド…6,000円(東西南北2列目)▽指定席A…5,000円(東西3列目/南北3.4列目)▽指定席B…4,000円(東西4列目/北5列目) ▽小中高生指定席…1,000円(指定席A.B枠内を振替) 【チケット販売所】天龍プロジェクトオフィシャルwebショップhttps://www.tenryuproject.jp/product/616  自腹で銀座の店で飲み歩く人なんてはほとんどいなかったんじゃないかな。その型にはまった横綱像みたいなのを輪島関はキレイに今風に改めてくれたよね。場所中は京王ホテルに泊まったり、いい店で飲み食いしたり、悪いことではないんだよ。  ただ、その振る舞いに最初は俺たちも戸惑ったね。「横綱がこんなことしていいの!?」って。それに輪島関は花籠部屋で、近くには母校の日大相撲部があったから、学生を連れて遊んだりもしていた。そっちの方が気楽だったんだろうね。学生をぞろぞろ連れて批判もされたけど、花籠親方も何も言っていなかったようだし、そういう指導方針だったんだろうね。それから横綱像が変わっていったと思う。  北の富士さんがゴルフをやったり、玉乃島さんがボウリングやったりと、徐々に横綱像が変化してきたけど、まだ大将と呼ばれていた時代だ。そんな中での輪島関の振る舞いは、豪快だけど大将っていう感じじゃなかったよね。  相撲界最後の大将は、強いて挙げるとすれば北の湖かな。彼は北の富士さんのような雰囲気を醸し出していたし、北の湖の名前を出したら、千代の富士も出さないとね。彼も2人に共通する雰囲気があったよ。彼らは俺が見た中で「俺が横綱だ」って、自分自身を戒めている人たちの最後かな。  ただし、朝青龍や白鵬、稀勢の里といった世代の力士は面識がなく、人となりも分からないから、あくまでも“俺が見てきた”中ではの話だ。意外と彼らも大将然としていたかもしれないね。  プロレスで大将といえば、俺の場合はやっぱりジャイアント馬場さんになるんだけど、これが大鵬さんとはまったくタイプが違うんだよね。馬場さんはアメリカでトップをとって、生き抜いて、金を残したという自信が常にあったね。「俺はアメリカでは、どのサーキットでもメインを張っていたんだ」という強烈な自負が馬場さんの人間像を作ったんだと思う。  大鵬さんのような大将は、親のように下の者の面倒を見る親分だ。昔の任侠(にんきょう)の親分タイプで、飯を食いに行くぞとなると、付け人を20人も連れて「食え、食え! 飲め、飲め!」と腹いっぱい食わせてやる、そんなタイプ。  馬場さんはアメリカのビジネススタイルが身についているから、下の者に対してそんなことはしなかった。一方の俺は相撲で育ったから、若い連中に「上に行くとこんなことができるんだ」と見せたかったのもあって、下の奴に飯を食わせたり酒を飲ませたりしたもんだ。ずいぶん金を使ったが、俺は大将らしい振る舞いをしたと思っている。  それが女房に言わせると「うちは娘が一人しかないないのに、家族が7~8人もいるような金を使い方をして大変だよ! 本当にバカなことをしているね!」なんだけど(苦笑)。俺が大将として振る舞う裏では、女房が一番苦労していたんじゃないかな……。  つまり、いい大将の陰には内助の功があるんだよ。俺が自分の女房以外に本当にそう思うのは、勝新太郎さんを支えた中村玉緒さんだ。辛抱強く、ちゃんと辻褄(つじつま)を合わせて、勝さんの地位を落とさず、ずっと超一流のままで、最期まで看取ったからね。ほんわかした方なのに、あの破天荒な勝さんをフォローできるなんて本当にすごい。並みの人では絶対にできないよ。  最後に、もう一人大将を挙げるとすれば、銀座の「鮨處おざわ」の大将、小澤論だ。小澤と俺は同い年で、楽ちゃん(六代目三遊亭楽太郎)たちと一緒に飲み歩いた仲間。相撲時代から仲良くしている白田山の谷川親方に、小澤の店に連れて行ってもらったことがきっかけで知り合ったんだ。  盛り付けや酢飯の具合が俺にぴったりで、本当に旨いと思った寿司がここだったんだよね。それに当時は30歳を少し過ぎたくらいだったんだけど、同い年の人が銀座の一等地に店を持っているんだから驚いたよ。  小澤は中学を出てから、たしか東京都三鷹市にあった店に丁稚奉公で入って、それから身を立てたという男だ。それから、谷川親方が場所中で忙しいときも俺は一人で小澤の店に足を運んで、店が終わるころになると「天龍さん、クラブに行こうよ」なんて言ってきて、銀座で一緒に飲むようになったんだ。  楽ちゃんも一緒になって朝まで飲むんだけど、小澤は深夜から明け方になると「河岸に行かなきゃいけない」ってんで、そのまま抜けて築地に仕入れに行くんだ(笑)。小澤は銀座のクラブで飲むにしても自分の店の白衣を着て歩くような人でね。彼も「銀座の鮨おざわ」を背負っているっていう自負と自信があったんだと思うよ。  飲みに行く面子は俺と小澤と楽ちゃんと岡ちゃんで、途中で「三沢(光晴)も呼ぼう」って、誘ってね。小澤の店で飲み食いしてもせいぜい2~3万円、多くても4~5万円だけど、店が終わって飲みに行くとクラブを2~3軒ハシゴするから小澤はどう見たって足が出ちゃうのに、連絡すると店を人に任せて来るくらいだから、彼も楽しかったんだと思うよ。女房に「あのときがあんたたちの青春だったね」と言われるくらい、飲み歩いたもんだ。俺は13歳からずっと相撲部屋にいたから、本当に俺にとっては青春だった。  小澤は俺の引退試合も見に来てくれたりと、付き合いは続いている。俺が寿司屋を始めるとき、最初は回転寿司にしようと思って小澤に相談したら「天龍源一郎が回転寿司なんてみっともない!」と反対され、ちゃんと職人がカウンターで握るタイプの店にしたこともあったね。おかげでずいぶん借金がかさんだよ! 後年になってそのことを小澤に言ったら「俺、そんなこと言ったっけ?」だって。このことは俺が唯一小澤を恨んでいることだ(笑)。  大将にもいろいろとタイプはいるけど、最低限必要なのは小さなことにこだわらず、泰然自若としていること。大鵬さんも馬場さんも、やっぱりみんなそういう雰囲気があったよ。それにつきる。あとは、気風がいいこと。やっぱりケチはダメだよ! ほら、俺もずいぶん金を使ったから(笑)。 (構成・高橋ダイスケ) 天龍源一郎(てんりゅう・げんいちろう)/1950年、福井県生まれ。「ミスター・プロレス」の異名をとる。63年、13歳で大相撲の二所ノ関部屋入門後、天龍の四股名で16場所在位。76年10月にプロレスに転向、全日本プロレスに入団。90年に新団体SWSに移籍、92年にはWARを旗揚げ。2010年に「天龍プロジェクト」を発足。2015年11月15日、両国国技館での引退試合をもってマット生活に幕を下ろす。
元フジテレビアナ「松尾翠さん」が初めて明かす 夫・福永祐一氏のダービー初制覇の裏にあった秘話
元フジテレビアナ「松尾翠さん」が初めて明かす 夫・福永祐一氏のダービー初制覇の裏にあった秘話 サウジアラビアでの最終レースの前の福永祐一さん(左)と松尾翠さん(画像=松尾さん提供)  2月末でジョッキーを引退し、調教師に転向した福永祐一氏(46)。日本中央競馬会(JRA)で歴代4位の通算2636勝を挙げた名騎手を支えたのは、妻の松尾翠さん(39)だ。落馬事故によるけがを乗り越えながら、クラシック完全制覇などの偉業を成し遂げた福永氏を心身両面でバックアップしてきた。今、夫の騎手引退について何を思うのか。結婚10年の夫婦の歩みとともに、輝かしい実績の裏にあった秘話を聞いた。 *  *  * ――福永祐一さんは、2月25日のサウジアラビア国際競走がラスト騎乗となりました。福永さんのジョッキー人生を最も近くで見てきた松尾さんとしては、今、どのような思いがありますか。  本当に……いろいろありましたね(笑)。けがが重なってしまったときもあったし、思うように勝てなかったときもありました。でも、私はそれを悪くとらえることは絶対にしたくないと思っていました。大きな流れのなかで『今は少しかがむとき』と考え、これは壮大な人生のドラマのひとつなんだと思って、日々を過ごしてきました。そうして振り返ってみると、なかなか勝てなかったダービーを取って、3冠馬にも出会うことができた。魔法のような、ドラマチックな経験を何度もさせてもらいました。でも、実はそれは魔法ではなくて、彼が日々コツコツと技術や思考を磨きながら歩んできたからこそ、成し得たことです。だから、その一日一日を振り返ると、本当にいろいろあったなあと。 ――福永さんと松尾さんは2013年8月にご結婚され、今年は結婚10年という節目でもあります。この10年間、「騎手の妻」として心がけていたことはありますか。  アスリートの妻として栄養面のサポートやコンディションを整える環境づくりは心がけていましたが、それ以上に、レースの“結果”はあまりこだわらないようにしていました。おそらく皆さんが思っているよりも騎手は一日に多くのレースに乗っていますし、本当にまずは無事にけがなく帰ってきてくれることが一番でした。それでも、騎手は勝負師ですから「このレースは負けて悔しい」という気持ちは絶対にあるはずなので、それを引きずらないように、私は家の中の雰囲気を明るくすることを常に心がけていました。 3月4日の引退式で撮った夫婦ツーショット。(画像=松尾さん提供)  夫が騎手を引退して解放されたことがひとつあります。土日の“緊急コール”です。小さいものでも落馬事故があると、すぐに騎手クラブから電話が入るシステムになっています。だからテレビでレースを見られないタイミングで携帯が光ると「何かあったのかな」といつもドキッとしていました。だから土日はどこかでずっと気を張っている状態で、電話が鳴ると体がキュッと反応してしまう。毎週の土日にその緊張感がなくなったことは大きな変化です。 ――福永さんは、天才ジョッキーと呼ばれた父・洋一さんが落馬で大けがを負いジョッキーを引退したのを間近で見ています。また福永さん自身も1999年に落馬事故があり、左腎臓摘出という重傷を負いました。心配も大きかったと思います。  そうですね、だから常に落馬のことは頭の片隅にありました。お義父さんだけでなく、実は、お義母さんの弟さんも落馬で大きなけがをしています。騎手の引退が決まり、調教師試験にも受かった後のレースで落馬してしまい、短期記憶が持てないほどのダメージを負ってしまったのです。身内に2人も落馬事故で後遺症を負った方がいるなかで、果たして、夫は五体満足でジョッキー人生を終えることはできるのだろうかと考えたこともあります。どこかでずっと不安はありました。でも、それで私が「早くやめてほしい」と思うのかといえば、それはない。彼はどれだけリスクがあっても、騎手で生きていく道を選んで頑張っているのだから、私はそれを見守るしかないという気持ちでした。 ――松尾さんと結婚後の2015年10月にも福永さんは落馬で右肩のじん帯断裂、右胸骨骨折という大けがを負ってしまいました。このときは、どんな心境でしたか。  逆にこのときは「私の出番だ」と気持ちを切り替えました。もちろん第一報を聞いた際は「あ、きた……」と思いましたが、すぐに治療からリハビリまでの情報収集を始めていました。本人が落ち着いてからは、どこを目指して復帰したいのかも聞いてリハビリなどの計画を立てました。いざとなったら、もうやるしかないから意外と動けるものなんですよね。 現在は体験型書店「SENSE OF WONDER」を設立し経営者としても活躍する松尾翠さん(画像=松尾さん提供)  むしろ、精神的にグッとくるのは復帰週でした。いよいよ復帰できる、といううれしい気持ちに混ざって、「また同じことがあるかもしれない」という恐怖心が湧き上がってくる。でも、けがを何回も重ねると「また起こっても、そのときも同じように大丈夫なはずだ」と思えるようになりました。この10年でかなりメンタルが強くなった気がします。 ――福永さんは、JRAの騎手として歴代4位となる通算2636勝という記録を打ち立てました。松尾さんがベストレースをひとつ挙げるとすればどのレースですか。  やはり、初めて勝った日本ダービーですね(18年、ワグネリアンに騎乗)。20回以上は見返したと思います(笑)。このときは金子真人オーナーの馬なのですが、その数年前に金子オーナーとはハワイのマウイ島でお会いしていたんです。家族ぐるみですごく仲良くしていただいて、金子オーナーも奥さまも、人としてとても器が大きく、すてきで、大好きなお二人なんです。帰国後もご自宅に遊びに行かせていただいたりして、本当に仲良くしてもらいました。だから、「もし金子オーナーの馬でダービーを勝って、大好きな人たちと喜びを分かち合えたら、こんなに素晴らしいことはないよね」ってよく夫とも話していたんです。そんなことが実現したら本当にドラマみたいだし、マウイ島で出会ったことも運命かもしれない、壮大なドラマすぎて信じられないね、ってことを冗談交じりで言っていました。  でも、そのダービーではまさかの大外枠でした。ダービーで大外は絶対的に不利といわれている枠。夫と私は京都・河原町のコッペパン屋さんにいたのですが、大外に決まったと聞いて「わあ」ってまずビックリして。でも、「これで勝ったら本当にすごいよ、ドラマだよ」って話していました。  そうしたいろんなことが重なって、念願だったダービーを勝つことができた。その瞬間は、本当に自分でもドラマを見ているような気持ちでした。 (聞き手/AERA dot.編集部・作田裕史) ※後編<松尾翠さんだけが知る夫・福永祐一氏の素顔 トップジョッキーらしからぬ家での行動とは?>に続く  ◎松尾翠(まつお・みどり) 1983年生まれ。元フジテレビアナウンサー。「森田一義アワー 笑っていいとも!」「めざましどようび」など多くの番組で活躍した後、2013年にフリーアナウンサーへ転向。同年にJRAの福永祐一騎手(当時)と結婚し、現在は3児の母。京都在住。出産後、体験型の書店「SENSE OF WONDER」を設立。選書、イベント、執筆に加え、オンラインショップでおすすめ本の販売も行っている。
「過去より未来を楽しく話せる関係がいいのでは」 家族というチームで動ける方が絶対いいと説得し、妻に理解してもらえた夫
「過去より未来を楽しく話せる関係がいいのでは」 家族というチームで動ける方が絶対いいと説得し、妻に理解してもらえた夫 伊藤真穂さん(右)と伊藤寛さん(撮影/加藤夏子)  AERAの連載「はたらく夫婦カンケイ」では、ある共働き夫婦の出会いから結婚までの道のり、結婚後の家計や家事分担など、それぞれの視点から見た夫婦の関係を紹介します。AERA 2023年4月24日号では、NTTデータ・グループ事業統括部で課長代理を務める伊藤真穂さん、経営コンサルティング会社でマネジャーを務める伊藤寛さん夫婦について取り上げました。 *  *  * 夫30歳、妻33歳のときに結婚。長女(5)と次女(3)と暮らす。 【出会いは?】乗馬クラブの体験レッスンで偶然同じグループになり、待ち時間に話が弾んだ。互いにギャラリー運営に興味があると知り、一緒に不動産屋に行く約束をした。 【結婚までの道のりは?】不動産屋の帰りに、夫が結婚を前提に交際を申し込んだ。知り合って3カ月後に妻が結婚を受け入れて1年後に挙式。 【家事や家計の分担は?】動ける方が動く。保育園の送りは夫、迎えは妻、出張など不在時は妻の両親に頼ることも多い。料理は基本妻だが、夫も作る。財布は別で、住居や教育費は夫、衣・食費は妻。 妻 伊藤真穂[41]NTTデータ グループ事業統括部 課長代理 ミツトリヒトギ いとう・まほ◆1982年、東京都生まれ。幼少期を英国で過ごす。成蹊大学法学部卒業後、NTTデータ入社。建設・メディア・電力業界向けの営業に携わり、現職でセールスプロモーションを担う。親友とデザインユニットを組んで、島根でギャラリーカフェも運営している  撮影地の月島(東京)には、初めて一緒に暮らした長屋があります。再開発で思い出の路地がなくなると聞いて今回来ました。  私たちが2度目に会ったのは不動産屋。寛くんが興味のあったエリアが私の地元だったので案内し、その帰りに付き合う話に。ギャラリー兼住居として使うのに、収益を考えていくらまで出せるのかとか私がズバズバ指摘しても、彼は必要な会話と受けとめて嫌がらなかったのは好印象でした。ただ知り合って間もないのに結婚話は驚きましたね。  気持ちが変わったのは「過去より未来を楽しく話せる関係がいいのでは」と言われて。これからやりたいことをどれだけ共有できるかが大切で、家族になって動いた方が積み重ねられる総数が多くなるという説明に腹落ちしたんです。  実際今も私がやりたいことを相談すると、全力で肯定してくれて、家事や育児のやりくりを含めてサポートしてくれます。一番の味方がそばにいることで、自分の存在の肯定感にもつながっています。 伊藤真穂さん(右)と伊藤寛さん(撮影/加藤夏子) 夫 伊藤寛[38]経営コンサルティング会社 マネジャー いとう・ひろし◆1985年、大阪府生まれ。大阪大学人間科学部卒業。システムエンジニア、システム開発のコンサルタントを経て、現職。金融業界を中心にデジタルトランスフォーメーションや、新しいテクノロジーの活用などを支援するサービスを提供している  私は結婚願望が強かったんです。学生時代から7年間付き合った人がいたのですが、相手の方は結婚しない考えを貫き、その間結婚とは?と考え続けました。やはり私は結婚したくて。  真穂さんと初対面で話す中で、私が大阪で好きだったコモンカフェなどを知っていて、すごく趣味が合う人だなと。  初デートで、不動産屋で書いた契約書類を隣で見ているので私の情報はもう知っている。感覚も方向性も一緒なので、家族というチームで動ける方が絶対いいと説得し、理解してもらったんです。  私の考えてきた結婚とは?制度として社会的に認知され、周りに理解してもらえる関係のステータスを持つ。そこが大事なのかなと思いました。  結婚して何より優先すべき家族がいるという絶対的な軸ができました。今は家族皆が安心できる場があるのが幸せです。私たちは家でも仕事の議論をします。そこで新しいものの見方を共有でき、互いのためになる場合が多い。双方向なのがいいと思います。 (構成・桝郷春美) ※AERA 2023年4月24日号
異次元の少子化対策は正社員パワーカップル向け? 「子育てで貧乏になる」構図に専門家は疑問
異次元の少子化対策は正社員パワーカップル向け? 「子育てで貧乏になる」構図に専門家は疑問 園児と交流する岸田文雄首相=東京都新宿区  岸田内閣が先月末にまとめた「異次元の少子化対策」のたたき台に対して、冷ややかな視線が向けられている。朝日新聞社が今月8、9日に実施した世論調査によると、少子化問題の改善に「期待できない」という回答が61%を占め、「期待できる」の33%を大きく上回った。日本では1990年代から少子化対策が進められてきたが、事実上、失敗に終わってきた。その原因について、家族社会学が専門の中央大学の山田昌弘教授は「これまでの少子化対策は、子育て世帯の3割程度にすぎない正社員同士の夫婦の世帯に向けたものだった」と指摘する。大多数の世帯に届かない施策が、また繰り返されかねないという。 *     *     * 「少子化が加速しているといっても、ここ20年、東京23区内で生まれた子どもの数は減っていないんですよ」と、山田教授は言う。 「23区には大卒の大企業の正社員同士の共働き、いわゆる『パワーカップル』が集中している。ここでは育児休業制度の推進や保育所の整備が成功した。パワーカップルにとっては子どもを産みやすくなっている。一方、夫が中小企業勤めで、妻がパートという地方の典型的な世帯や、そもそも結婚していない人に対してはあまり意味のない対策です。そんなわけで、ずっと少子化が続いてきた」  厚生労働省の「人口動態統計」によると、日本全体の出生数は2001年が117万662人、21年は81万1622人で、30.7%も減少した。それに対して、東京23区の出生数は01年が6万4240人、21年は6万9345人で、0.8%増えた。その差は歴然としている。  パワーカップルはタワーマンション購入の中心層でもある。臨海部にタワマンが林立する中央区は東京23区内でも特に出生率が高い。同区の合計特殊出生率は06年まで1.0以下だったが、その後は上昇に転じ、10年ほど前から1.4前後を推移し、全国平均の1.30(21年)を上回ってきた。 ■届かぬ多数派の声 「しかし、地方に目を向けると正社員同士の共働き世帯なんて少数派です。なので、育休はとれないし、もともと保育所は余っていた」と、山田教授は言う。  総務省の「平成29(2017)年就業構造基本調査」によると、夫婦ともに正規雇用の共働き世帯は3割ほどしかおらず、6割近くを正規雇用と非正規雇用からなる夫婦が占める。  山田教授は3年前、自らが座長を務めた財務省財務総合政策研究所の「人口動態と経済・社会の変化に関する研究会」で、「日本の少子化対策の失敗の原因」について次のように報告した。 <「大卒」「大都市居住」「大企業勤務」に偏った政策が行われ、「非大卒」「地方居住」「中小企業労働者、非正規雇用者、自営業者、フリーランス、(100万人以上いる飲食を伴う接客業従事女性)」の声が届いていないのでは>  そして山田教授は今、あらためて指摘する。 「これは『男女共同参画』でも同じ構図です。昨年、私は岸田首相の前で非正規雇用者や自営業者、フリーランスの人たちへの対策を述べたのですが、それに対して出てきたのは国民健康保険の保険料免除と子育て給付金の検討くらいです。規模が小さすぎて、ほとんど対策になっていません」 ■大企業優先の対策  先月、岸田首相は少子化対策の一環として、男性の育児休業の取得率の目標を25年度に50%に、30年度に85%に引き上げることを明らかにした。それに先立ち、今月1日から従業員1千人を超える企業は、男性従業員の育休取得率を公表することが義務づけられた。  だが、日本の企業の従業員数における中小企業の割合は約7割である。なぜ、少数派の大企業から男性の育児休業取得率公表を義務化したのか?  厚労省の担当者に尋ねると、「従業員1千人を超える企業にまずは育休をとっていただくことで社会的な機運を醸成していく。そのようなねらいで審議会で議論が行われ、この制度がつくられました。中小企業につきましては、今後の施行状況を見ながら、と思っております」。  これに対して山田教授は、「結局、やりやすいところから対策を立てるわけですよ。で、中小企業労働者や非正規雇用者、未婚者への対策は一番後まわしになる。でも、そういう人たちが結婚して、子どもを産むようにしないと少子化対策の成果は出ないわけです。なので、今回の少子化対策だけで改善するか、疑問です。大企業の正社員以外の大多数の人たちは置いてけぼりになるのではと、不安です」。 ■少子化の主因に無策  山田教授は、こうも言う。 「少子化の主因は、日本人の4人に1人が結婚しないで、子どもを持たないことです。しかし、今回のたたき台を見ると、そちらの対策への言及はありません」  令和4(2022)年版の「少子化社会対策白書」によると、20年、50歳になった時点で一度も結婚をしたことがない人の割合は、男性28.3%、女性17.8%だった。 「そんなわけで、都会のパワーカップルはますます子どもを産みやすくなる。半面、地方の収入が不安定な人は結婚もできなければ、結婚しても子どもをたくさん持てない。男性の収入が右肩上がりに増えたころと違って、子どもが将来の生活にとって足かせになっている。子どもを産んで育てると貧乏になってしまうからやめておこうとか、子どもは1人だけにしておこうと思ってしまう。この構図は、少なくとも今回の対策では変わらないでしょう」 ■マッチングアプリで激化  21年の国立社会保障・人口問題研究所の「出生動向基本調査」では、理想の数の子どもを持たない理由として挙げられたのは、「子育てや教育にお金がかかりすぎる」が52.6%で最多だった。 「なので、高等教育の費用を軽減すれば、多少は子どもの数は増えるのではないか、というのが私の見立てです」  ただ、若年層の状況は多様化しており、対策は難しいという。 「気になるのは、地方の女性の地位が低すぎることです。地方で女性が活躍できる場を広げるとともに、非正規雇用者へのサポートが必要でしょう。非正規雇用者は都会にも大勢いますから」  最近は結婚相手を探す際、「マッチングアプリ」の利用が広まりつつあり、結婚相手選びの条件がますます厳しくなってきているようだ。 「大企業に勤めて生活が安定している人と、そうではない人との格差が激しくなっている。その格差が解消されないかぎり、結婚しない人がたくさん出てくる。それは男性だけではなくて、女性にも及んでいます」  結局のところ、この問題に真摯に向き合わなければ、少子化対策はまた失敗に終わるだろう。残念ながら見通しは暗そうだ。 (AERA dot.編集部・米倉昭仁)
想定外のスピードで進む少子化 20・30代の低・中所得層が子どもを持たない選択が増加
想定外のスピードで進む少子化 20・30代の低・中所得層が子どもを持たない選択が増加 1990年に「東糀谷六丁目アパート」で開催された夏のラジオ体操(自治会長提供写真)  2022年の出生数が、ついに80万人を割った。国立社会保障・人口問題研究所が推計した80万人を割るのは2033年よりも速いペースで少子化進んでいる。その要因は何か。AERA 2023年4月24日号の記事を紹介する。 *  *  *  東京の空の玄関口、羽田空港。その目と鼻の先に「都会の限界集落」がある。 「若者も子どももいない。高齢者ばかり」  東京都大田区東糀谷の都営団地「東糀谷(ひがしこうじや)六丁目アパート」。自治会会長の今野奏平(こんのそうへい)さん(85)は、苦笑する。  団地は全5棟で総戸数749戸。高度経済成長期の1970年代半ばにつくられ、当時は若い世帯も多く子どもも180人近くいた。夏はラジオ体操や盆踊り、秋には運動会もあって、子どもたちの声が団地に響いた。  だが、96年の公営住宅法改正で、世帯収入が制限を超えると社会人となった子どもは同居できなくなり、若者は団地を離れた。「新陳代謝」は進まず、高齢化が進む東京でも突出した「限界集落」となった。限界集落とは、65歳以上の高齢者が人口の50%を超えた地域のこと。東糀谷6丁目の高齢化率は63.3%(今年1月時点)と、東京23区で最も高齢化が進む。  今野さんの子どもは、1人は独立し、今は70代の妻と40代の娘との3人暮らしだ。 「子どもの声がしないのは、寂しいね」(今野さん)  東京の特別な地域の話ではない。この風景は、人口減少が進行する日本の「未来予想図」とも言える。  79万9728人──。  2月下旬、厚生労働省が公表した昨年の出生数の速報値に衝撃が走った。統計を取り始めた1899年以降、初めて80万人を割りこむことになったのだ。  国立社会保障・人口問題研究所(社人研)の将来推計では、80万人を割るのは2033年とされていたが、11年も速いペースで少子化が進んでいることになる。原因を、厚労省の担当者は、「コロナ禍で妊娠や出産、育児への不安が影響したと考えられる」と話す。だが、出生数の減少はコロナ前から続いている。 現在の「東糀谷六丁目アパート」の様子。公園は潰され、老朽化した棟を建て替え中だ(撮影/小山幸佑) ■自分の生活すら不安  本誌は3月下旬、ウェブ上で「少子化」に関するアンケートを実施した。「あなたが考える少子化の理由は?」の問いに、将来への不安や経済的な理由を挙げる声が目立った。  第一生命経済研究所主任エコノミストの星野卓也さんは、想定外のスピードで少子化が進んでいる要因として「経済的問題が大きい」と指摘する。 「特に20代、30代の低・中所得層が子どもを持たないという選択をしてきています」  厚労省の国民生活基礎調査(21年)によれば、20~30代の世帯で子どもがいる割合は、高所得層(年収600万~1千万円未満)は7割を超えたが、低所得層(同300万円未満)は約2割、中所得層(同300万~600万円未満)は約4割にとどまった。さらに、子どもを持つ世帯の割合を21年と、00年、10年とで比較すると、高所得層は大きな変化はなかったが、低所得層と中所得層は1~2割低下した。 「年金など老後資金への不安も高まり、自分たちの生活すら不安な中で、『子どもは贅沢(ぜいたく)』と感じ、より子どもを持たない選択をする人が増えていると考えられます」(星野さん)  出生数が減り続ける一方、死者数も増え続けている。22年の死者数は、過去最多の約158万人。死者数から出生数を引いた「自然減」は、過去最大の約78万人。少子高齢化による人口減少の進行を象徴する結果となった。(編集部・野村昌二) ※AERA 2023年4月24日号より抜粋
仲里依紗に聞く夫婦円満の秘訣「私はやりたいことをやるし、夫も自由に釣りに行ってほしい」
仲里依紗に聞く夫婦円満の秘訣「私はやりたいことをやるし、夫も自由に釣りに行ってほしい」 撮影/松永卓也(写真映像部) ヘアメイク/那須 陽子  スタイリスト/ 番場 直美  俳優として多くの作品で活躍する一方、チャンネル登録者数179万人のYouTubeでは飾らぬ日常をさらけ出す動画が人気の仲里依紗さん。4月28日公開の劇場版「TOKYO MER~走る緊急救命室~」では、鈴木亮平さん演じる救命医療チームのチーフドクター・喜多見幸太の妻、高輪千晶医師を演じる。妊娠後期でありながら、高層ビルの爆発事故に巻き込まれてしまう役どころだ。撮影秘話や、自身の夫婦円満の秘訣について話を聞いた。 *  *  * ――2021年のドラマ放送から2年ぶりに高輪千晶を演じることに。久しぶりの撮影現場はいかがでしたか?  ドラマの段階でとてもスケールが大きな作品で、たくさんの方に見ていただいていたので、「そりゃ映画になるよね!」とは思っていました。  私が演じる高輪千晶は、ドラマではあまり共演者との接点がない役柄だったんです。主人公で「元夫」の喜多見先生ともリモートで会話していたくらい。でも劇場版では実際に事故現場に行き、MERのメンバーに助けてもらう役。一緒にお芝居ができるのは新鮮でした。  ただ、実際の撮影については「本当に大変だったね……」って言葉しか出てこないです(笑)。 ――妊婦でありながら爆発事故に巻き込まれるという過酷な状況だったからでしょうか。  それもあります。高層ビルの階段を何度も上り下りしましたし、あとは、とにかく暑さ! 夏の撮影だから、もう朝からみんな、全身汗だくで。水着を着て撮影したほうがいいんじゃないか、というくらいでした。特に私は、妊婦用のシリコーンをおなかにつけていたので、あせもがたくさんできちゃいましたね。 「TOKYO MER~走る緊急救命室~」での仲里依紗さん(高輪千晶役) ――喜多見と千晶はドラマでは「元夫婦」でしたが、それが劇場版では再婚していて、しかも千晶は妊娠している。そうした変化について、演じる上で何か意識されましたか?  ねぇ、いつの間にか再婚していました(笑)。千晶って、実はもともとMERにあまりいい印象を持っていないキャラクターなんです。喜多見先生と離婚した原因も、仕事があまりに忙しいからだし。でも、今回は自分が火災に巻き込まれ、MERのメンバーに助けられることになって、夫の仕事のことも改めて心から認める気持ちになったのかな、とは思いましたね。 撮影/松永卓也(写真映像部) ヘアメイク/那須 陽子  スタイリスト/ 番場 直美 ――高層ビルの火災に巻き込まれるシーンでは、自分の命を捨ててもおなかの子どもを助けて逃げてくれと喜多見に懇願する場面が。もし同じ状況に直面したら、仲さんならどうしますか?  それは、やっぱり私も、子どもをとにかく先に連れて逃げてほしい、と言うでしょうね。実は、自分の命より子どもの命を優先したいという気持ちって、実際に親になるまでは正直よくわからなかったんですよ。  だけど、実際に子どもを産んでみたら、「絶対に子どもの命を守りたいよね」という気持ちが、わかるようになりました。多分、親になると体にインプットされる本能のようなものなんでしょうね。 ■仕事とプライベートの切り替えは1秒! 全部楽しんでやるのがコツ 撮影/松永卓也(写真映像部) ヘアメイク/那須 陽子  スタイリスト/ 番場 直美 ――今回の映画のように深刻なシーンが続く作品だと、家に戻っても感情が引きずられたりしませんか?   それは全然ないんですよ。むしろ「今回役に入り込んで、なかなか役が抜けなくて困りました」なんて言ってみたい。かっこいいじゃないですか!   でも実際の私はどんなに号泣シーンを撮影していても、「カット!」の声がかかった1秒後には、ケロッと仲里依紗に戻ります。モニターチェックをすると自分で自分が怖くなるくらい。 ――鑑賞している側からすると、役に入り込んで涙を流していらっしゃるようで、こちらも感情移入してしまいますが。  ありがとうございます。でも、実は涙を流す最大の秘訣は「事前に水をたくさん飲むこと」なんですよ。乾燥していると涙は出ない。私の場合、潤すことも大事で、やってみてください(笑)。  私にとっては台本に書かれていることが全て。台本を読んで、監督の求めるものをできるだけその通りに演じる。それだけなんです。  例えれば、オーダーが入ったハンバーガーを、“ピクルス抜き”“オニオン抜き”“全部のせ”と言われた通りに、「はい、わかりました!」とおいしく作る。――そんな感じです。 ――切り替えができているからこそ、数々の作品に出られて多忙な毎日でも、ご活躍できるのかもしれませんね。 撮影/松永卓也(写真映像部) ヘアメイク/那須 陽子  スタイリスト/ 番場 直美  もちろんお仕事だからどれも真剣にやるんですけど、いつも笑いながら楽しんでいます。火災でスプリンクラーが発動し、ずぶ濡れになったシーンを演じても、終わった途端「やばい、ずぶ濡れだ~!」って笑っています。お仕事は、全部楽しくやるのがモットーですね。 ■夫婦円満のコツは「お互い様の気持ちを忘れない」こと ――映画の中で千晶が喜多見に「仕事ばかりで家に帰ってこない」とけんかするシーンがありますが、仲さんもご夫婦でお互い忙しく飛び回っていらっしゃいます。ご家族の中でバランスを保つ秘訣は?  うーん、バランスを取るというよりも、夫婦ってお互い様の関係だということを忘れないことですかね。だから、お互いがすることを受け入れるという気持ちは大切にしています。  正直、私は、夫がお仕事が忙しくてなかなか家に帰ってこられなくてももちろん構わないし、逆に、喜多見先生の立場なら「そんなことで怒られても……」って嫌になりそうです(笑)。  私は自分がやりたいことはやるし、相談じゃなくて、全て決定事項として夫に伝えています。 「この日は撮影でいないから」、「この時期はパリコレに行くね」とか。  逆に彼のほうが「釣りに行きたいんだけど、いいかな?」とか聞いてくれるんですが、好きなことをしてほしいので、何で聞く必要があるのかな~と思っていますね(笑)。  あとはたくさんの人に助けられて、家族を回していますね。ありがたいです。 ――息子さんとお仕事の話をすることはありますか?  時々、聞かれたら、今どんなことをしてるよということは伝えます。でも、これまでの作品って、不倫がテーマだったり、ちょっと怖いシーンがあったりというものが多くて、なかなか子どもが見られるものが少なかったんですね。でも、今回の「TOKYO MER」は、まさに小学生男子にもピッタリの作品!  実は、知らない間に、息子が友達と映画館に見にいく約束をしていたんです。びっくりしたけれど、嬉しかったですね! 今から、息子の感想を聞けるのがすごく楽しみです。  あ、でも、千晶は黒髪だし眉毛もあるし、いつもの私と見た目も性格も違いすぎて、ママだって気づかなかったらどうしよう……(笑)。 (取材・文/玉居子泰子) 撮影/松永卓也(写真映像部) ヘアメイク/那須 陽子  スタイリスト/ 番場 直美 〇なか・りいさ/1989年生まれ。ドラマ・映画に出演するほか、ファッション誌でモデルとして活躍。2006年、劇場版アニメ「時をかける少女」でヒロインの声を務め、高い評価を受け話題に。2010年に映画「時をかける少女」、「ゼブラーマン~ゼブラシティの逆襲~」で「第34回日本アカデミー賞」新人俳優賞など数々の映画賞を受賞。1児の母。 劇場版「TOKYO MER~走る緊急救命室~」/「TOKYO MER」とは、オペ室を搭載した大型車両=ERカーで事故や災害現場に駆け付け、自らの命を顧みず患者のために戦う東京都知事直轄の救命医療チーム。横浜ランドマークタワーで爆発事故が発生し、数千人が逃げ惑う前代未聞の事態に。重傷者が続出するなか、喜多見の妻・千晶もビルに取り残されていることが判明し――。命の危機に挑む医療従事者たちの勇気と絆を描いた物語。4月28日(金)から全国公開。
子どもも大人も、神様は万人のうえに平等に授ける“大ピンチ” 人気の『大ピンチずかん』の大人たちの使い道
子どもも大人も、神様は万人のうえに平等に授ける“大ピンチ” 人気の『大ピンチずかん』の大人たちの使い道 すずき・のりたけ/1975年、静岡県浜松市生まれ。会社員、グラフィックデザイナーを経て絵本作家に。主な作品に『ぼくのトイレ』『しごとば』シリーズなど(撮影/戸嶋日菜乃)  2022年2月に発売された、子どもの世界でありがちな失敗を絵本にした『大ピンチずかん』は現在累計発行部数25万部を超える大ヒット絵本に。そのおとな版を考えてみた。こんな失敗、あなたもあるのでは? AERA 2023年4月17日号の記事を紹介する。 *  *  * 『大ピンチずかん』の著者・鈴木のりたけさんはこの本の意外な効能も感じているという。大人たちにとっての使い道だ。  例えば。この本がヒットして、テレビなどで取り上げられることも多くなると、スタジオのゲストやコメンテーターらが、「自分もこんなピンチありました」と、次々失敗をカミングアウトすることも増えていった。 「それも大ピンチを大人が楽しそうに言い合ってる。あー、ピンチ体験にはそういう力もあるんだなとうれしかったですね。まあ、あまりシリアスなものではなく、酒のつまみぐらいのライトなピンチ限定ですが」  そういうことなら! 自分も手持ちの「大人の大ピンチずかん」を披露させてもらおう。まず、コロナ禍の始まる数年前のことだ。ある夫婦が、電車で小一時間乗ったところにある下町の大手回転寿司店に出かけた。新しいシステムの寿司レーンが登場したタイミングで、ライターの妻が何か記事が書けないかチェックしにいったのだ。 イラスト 土井ラブ平 ■ジョッキは自動で出てこないのに  この店は当時の最新式の店舗で、生ビールを注ぐのもセルフサービス。だがこのセルフビールサーバーの前で、夫に大ピンチが訪れた。回転寿司にありつくだけのためにこんな遠くまで連れてこられ、一秒でも早くグビグビしたい。そんな状況で注意書きも読まず、セルフを名乗る以上、冷えたジョッキも自動で出てくるだろうと思い込んだ。そして「そそぐ」ボタンをプッシュ!  ジョ~。  ジョッキは自動的に出てくることなく、非情にもビールは垂れ流された。まあ、このまま放っておけば、ピンチは最小限に抑えられたのだが、夫の酒への執着が次なるピンチを呼び込んでしまう。こともあろうに、ビールを手のひらで受け止めて飲もうとしたのだ。  でもそんな浅い思惑通りに、手のひらでグビグビできるわけもなく。流れ出るビールは、腕をつたい、セーターの袖も床もびしょびしょに。そんなとき周囲の人の悲鳴を聞いて、野次馬根性で何が起きたのか見に来たのが、妻だった。見れば悲鳴の元は我が夫で、生ビールまみれであたふたしてるんですけど。  しかも妻を見つけて、「○○、ジョッキジョッキ! 持ってきて! 頼む! お願い!」と妻の名前を叫んでる。ところが妻は知らない人のフリをして、ビールに滑らないようにつま先歩きでスルー。だって、カッコ悪いんだもん。あ、実を言うと、妻は私だ。 ■誰だよ、佐藤先生って  ついでに言うと、ライター人生二十数年。仕事中のピンチも山ほどあった。例えばまだ40代のピチピチライターだった頃のことだ。とある高名な大学教授のもとに取材に行き、インタビューをレコーダーに録音して帰ってきた。  後日、レコーダーの文字起こしをしていて、途中から青ざめた。仮に、取材相手は田中先生だとして、相手の名前を質問などにはさむのは、ライターの定番ワザ。最初の頃こそ「田中先生は……」「田中先生がおっしゃっていたように……」と、ちゃんと正しい名前で読んでいた40代ライターだが、開始20分程度で何をどう間違ったのか、田中先生が「佐藤先生」に変化。 「佐藤先生のご研究が興味深くて……」「さすが佐藤先生は発想が違いますね」。そこから1時間程度、田中先生をずっと佐藤先生と呼んだまま取材は終了していた。誰だよ、佐藤先生って。  運の悪いことに同行していたカメラマンも名刺交換をしなかったため、ライターの呼び方を手がかりに「佐藤先生、今度は目線もらっていいですか?」などと、名前の間違いが伝染する始末。そして何より感心したのは、佐藤……じゃなかった、田中先生の懐の深さだ。  田中先生と呼んだときも、佐藤先生と呼んだときも、声のトーンひとつ変えずにやさしく真摯に対応してくれるなんて、さすが高名な教授。あれから10年以上。ちっとも反省せずに同じような間違いをその後も数回犯し、一方自分の名前の漢字を間違えられたときは、厳重に注意する。田中先生、小さい私をお許しください。 『大ピンチずかん』の鈴木さんも言うように、子どものピンチと違って、大人がピンチを乗り越えると、それはむしろ勲章に。今回もあちこちから大ピンチ話が集まってきた。まず知り合いの編集者のテレワーク時の大ピンチはこんな感じ。 「画面共有あるじゃないですか。あれで資料を見せたんですよ」  そこまではうまくいったのだが、自分のデスクトップの画面を会議のメンバーに共有したまま、解除するのを忘れてしまったのが運のツキ。 「外部の人にメッセージしたり、関係ない調べ物をしたり。会議に参加していないのがもろバレでした」  オンライン会議は、あるあるネタの宝庫。こんな50代女性の大ピンチも聞いた。 「パジャマがカメラに映るとかよく聞きますけど、私の場合は、超ミニのホットパンツでうっかり立ち上がり、取引先のおじさんたちを悩殺してしまいました」 ■レジでチューチュートレイン状態  さらに、コンビニでパートをしている友人によれば、中高年のお客さんのバーコード決済が始まると、レジ店員のピンチの合図だ。 「オンラインにならずチャージできなかったり、スマホが突然聞いてくるパスワードを忘れていたり。人が足りないときは、お客さんの列が長くなり、Choo Choo TRAIN(チューチュートレイン)のダンスのように順番にレジをのぞいている。レジにいるほうはほんと冷や汗ものですよ」  最後に近所の高齢者に聞いた。フルーツポンチの入った瓶のふたが、どうやっても開かない。温めてもダメ、たたいてもダメ。もう割れてもいいと金づちでふたを思い切りたたいてから、全身全霊の力を込めてラストチャレンジ。 「キュッとふたが動いて喜んだのもつかの間、力を入れようと瓶を真横にしていたので中身を床に全部ぶちまけてしまった。待ってー」  神様は万人のうえに平等に大ピンチを授けてくださる。大丈夫だよのメッセージが必要な子どもと違って、大人はピンチへの耐性が強くなり、ピンチを恐れず厚かましくなるという落とし穴もありそうだ。大ピンチマウントもほどほどに。自分がね。 (ライター・福光恵) ※AERA 2023年4月17日号より抜粋
宝塚卒業後のセカンドキャリア 高度なコミュ力を武器に居場所を切り開く
宝塚卒業後のセカンドキャリア 高度なコミュ力を武器に居場所を切り開く 【タカラヅカ・ライブ・ネクスト社員】森脇由梨(もりわき・ゆり):2010年から21年まで在団。元・雪組男役(芸名・真地佑果)。21年に入社。GANMI×宝塚歌劇OG DANCE LIVE「2STEP」をプロデュース/【ダンサー、振付師】風馬翔(ふうま・かける):2008年から18年まで在団。元・宙組男役。20年にタカラヅカ・ライブ・ネクストの登録アーティストに。「2STEP」にダンサーとして出演(撮影/写真映像部・高野楓菜)  転職が当たり前になり、新卒採用や学歴主義が効力を失いつつある時代。その中で、在学・在団中にメンタルとフィジカル双方を鍛え抜いた宝塚歌劇団OGも、多彩な道を歩んでいた。AERA 2023年4月17日号より紹介する。 *  *  *  花、月、雪、星、宙(そら)の5組と、ベテランが所属する専科を合わせて総勢400人以上の団員を抱える宝塚歌劇団(以下、歌劇団)。毎年40人前後の新人が入団する一方で、同じ数の団員が卒業していく。その時期に明確な基準があるわけではないが、タカラジェンヌが退団を決める時は、頭の中で鐘が鳴り響くのだそう。元・宙組男役の風馬翔(ふうまかける)さんの場合も、「10年目に、ものすごい勢いで鐘が鳴りました」と“その時”が来た。問題は、退団後の身の振り方だ。  2008年に入団し、場を締めるシブい男役かつダイナミックなダンサーとして活躍した。舞台に立つ以上に、スタッフの仕事にも興味があり、師とあおぐ振付師に憧れ、助手として稽古場を支えた。歌劇団を後にしても、ダンスと振り付けという両方のスキルで舞台に関わり続けたいと思い、沖縄の伝統舞踊エイサーの演舞団体に飛び込んだり、アルゼンチンでタンゴの修業をしたり。そのひたむきさが買われて、OG活用を掲げる「タカラヅカ・ライブ・ネクスト(TLN)」から声がかかり、登録アーティスト8人のうちの一人になった。 ■外の社会を知らない  TLNは宝塚歌劇の運営母体の阪急電鉄が「OGが退団した後もさまざまな場で活躍できるよう支援する」ことを目的に、20年に設立した子会社だ。今年5、6月にはBTSの「Butter」の振付制作に参加した男性ダンスグループ「GABMI」と歌劇団OGによるダンスライブ「2STEP」を制作・上演予定で、風馬さんもそこに出演する。 撮影/写真映像部・高野楓菜  異色の演目をプロデュースするのは、元・雪組男役の森脇由梨さん(31)だ。  10年に入団した森脇さんは、多くのタカラジェンヌと同じく、舞台に没頭する10代、20代を過ごした。ただ「あまりにも宝塚の世界が好き過ぎて」、外の社会を知らない自分のことは気がかりだった。30歳を目前に卒業を決意したタイミングがTLNの設立と重なり、同社から「制作に向いている」と背中を押され、21年に入社した。  当初はメールのCC、BCCも分からなかったが、パソコン教室に通って知識を習得。初のプロデュース作品となる「2STEP」では、企画から出演者の選定、交渉、広報などすべてを担当する。 ■技能に報いる枠組みを  来年が110周年の節目となる歌劇団は、各時代を象徴する国民的スターを輩出しながら、前世紀までは育成の主眼は「良妻賢母」に置いていた。だが、社会の価値観が変化した今、その焦点は「自立する女性像」に移行している。  一方で、森脇さんが言うように、在団中のタカラジェンヌは外部と触れる時間がなく、退団後にどうやって自立していけばいいのかという悩みも抱える。その溝を埋めるべく、OGのキャリアパスについても、阪急グループが関わるようになってきたのである。TLN社長の小川友次さんは、次のように語る。 「青春を傾けて、自己研鑽(けんさん)を積んだ彼女たちは、いずれ退団します。その時に、プロフェッショナルな技能に報いる枠組みがあれば、本人だけでなく、エンタメ界にとってもプラスになる」  小川さんは、宝塚歌劇101周年にあたる15年から6年間、歌劇団理事長を務め、海外ミュージカルの上演や配信事業の拡大で手腕を発揮した。かねてからOGが集結するドリームチーム「夢組」の構想を語っており、その第一歩がTLNともいえる。  背景にはもう一つ、ネット時代における宝塚ブランドの保護という、今日的な課題もある。  かつてはOGの活躍というと、テレビや舞台、映画に限られていたが、今は文章、写真、音声、動画と、あらゆるトーンの発信がSNSで可能になっている。中には暴露ブームに乗ったような露出もあり、いかにブランドイメージを守っていくかが悩ましい。その点で、OGの活動に本家がお墨付きを与えることは一つの方策になる。  場はエンタメ界だけではない。元・月組の娘役、憧花(とうか)ゆりのさん(42)は、19年間の在団後、20年に宝塚ホテル(兵庫県)が移転、新築した時に支配人に就任して話題を集めた。同ホテルは、阪急阪神グループの一つ、阪急阪神ホテルズの運営だ。 【宝塚ホテル支配人】憧花ゆりの(とうか・ゆりの)/2000年から18年まで在団。元・月組娘役、組長。20年、移転開業した宝塚ホテルの支配人に就任。今春、大阪芸術大学通信教育部音楽学科卒業(撮影/写真映像部・高野楓菜)  憧花さんは現役時代、70人あまりの組メンバーを統率する組長を務めていた。通常の舞台だけでも重労働だが、そこに団員の悩み相談や、劇団との事務連絡、調整などさまざまな仕事が加わる。その重責を担う真摯(しんし)な姿が、グループ内の関係者に伝わり、白羽の矢が立ったのだ。 【日本舞踊・所作指導】貴柳みどり(たかやぎ・みどり)/1985年から2005年まで在団。元・宙組娘役、副組長。07年に「レム日比谷」支配人に就任。23年3月に退社し、現在は日本舞踊と所作指導に携わる(撮影/写真映像部・高野楓菜) ■ファンの期待壊さずに  宝塚ホテルの新規開業に先立つ07年、東京で同社が開業した「レム日比谷」で支配人に抜擢(ばってき)されたのは、元・宙組娘役の貴柳(たかやぎ)みどりさん(56)だった。貴柳さんも在団中は副組長として、責任ある立場を全うしていた。  いずれのホテルも宝塚の公演がある時は、館内がファンで埋まる。その期待を壊すことなく、誘導やクレーム対応を行い、夢と現場の架け橋になるのは、まさに組長、副組長の仕事だ。 「お客さまに頭を下げることは身についていますし、ロビーに人が立て込んだ時も、『みなさま、こちらにお並びくださいませ』と、セリフのようにすっと言葉が出てきます」と、貴柳さんは余裕の笑みを見せる。 ■医療系の大学に進学  2人はOGが出演するホテルのイベント企画でも、ネットワークを生かして貢献。憧花さんは退団後に大阪芸術大学で音楽理論を勉強し、貴柳さんは日本舞踊師範の腕前で、NHK大河ドラマの所作指導に携わる。宝塚で身につけたスキルは、ライフワークにもつながっている。  阪急の傘の下だけでなく、個人で自分ならではの道を開拓していく人も、もちろんいる。 【診療情報管理士、フリーランス】鳳真由(おおとり・まゆ)/2005年から16年まで在団。元・花組男役。22年、国際医療福祉大学卒業。診療情報管理士。並行して舞台やイベントへの出演などタレント活動も行う(撮影/写真映像部・高野楓菜)  元・花組男役の鳳真由(おおとりまゆ)さん(36)は「路線」と呼ばれる人気スターだったが、16年に「思い残すことはない、やり切った」として退団。18年に以前から関心のあった医療分野を学ぶために、国際医療福祉大学に入学した。卒業論文のタイトルは「医療者と表現者のパフォーマンスにおける共通点」。心臓外科医や元トップスターへのインタビューを通して「統率の取れたチーム」「一体感」「没入感」というキーワードを見いだした。鳳さん自身、医療の勉強とともに、OG関連の舞台やトークイベントへの出演など、宝塚で培ったタレントを発揮してフリーランス活動を展開している。卒論のキーワードは、医療と舞台という、一見無関係な世界をつなぐ自分の拠(よ)り所にもなっている。  今回、話を聞いたOGたちには、相手の話をきちんと聞き、要点を的確にまとめて、滑舌よく返すという高度なコミュニケーションの力が共通していた。転職がすでに当たり前になった現在、宝塚という特別な世界にいた人たちも、感性、実力、適応力、コミュ力を武器に、次の居場所を切り開いている。その姿は企業社会とも地続きだろう。 ※AERA 2023年4月17日号

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