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渡部の謹慎が終わっても「アンジャッシュ児嶋」のレギュラーが増え続けるワケ
渡部の謹慎が終わっても「アンジャッシュ児嶋」のレギュラーが増え続けるワケ アンジャッシュの児嶋一哉 「スッキリ」の後継番組として、4月からスタートした「DayDay.」(日本テレビ系)。南海キャンディーズの山里亮太、元NHKの武田真一アナ、日本テレビの黒田みゆアナがMCを務める平日朝の情報番組で、5日の放送ではアンジャッシュの児嶋一哉(50)が、水曜レギュラーとして初登場した。  現在、1月から放送されている平日昼のバラエティー番組「ぽかぽか」(フジテレビ系)にも金曜レギュラーで出演中の児嶋。2020年、相方の渡部建が不倫騒動で芸能活動を自粛した際、それをイジられるなどして露出が増加。“渡部謹慎バブル”などと言われたが、昨年2月に渡部が復帰した後も、レギュラー番組が増加しているところを見ると、バブルとは違ったかたちで重宝され始めているようだ。 「児嶋さんのYouTubeチャンネルは登録者数が90万人を超えるほどの人気です。21年には初めて訪れるという新大久保で、妻や女性マネジャーと買い物をする動画を公開。韓国食品スーパーで『何を買えばいいんだろう』と戸惑い、韓国コスメ専門店で妻と女性マネージャーが夢中に買い物をするなか、児嶋さんは何をしていいかわからない状態になるも、嫌な顔ひとつせず最後に会計だけ児嶋さんが払うというものでした。コメント欄には『主役はほぼ見守ってるだけなのに、なんでこんなにほっこり&満足感&いとおしさがあるんだ』など、好意的な声が集まっていました。キレ芸で知られる児嶋さんですが、実はこうした心が和む癒やし要素も持ち合わせていて、そんな一面が午前中やお昼の番組に合っているのかも」(テレビ情報誌の編集者)  夫婦仲も良さそうで、相方と違い不倫をするイメージが全くないところも、朝の番組にピッタリなのだろう。 「人生最高レストラン」(TBS系、20年11月14日放送)では、児嶋がドラマ「半沢直樹」(同系)に出演した際、セリフ練習のために妻が児嶋以外の全役をやっていて、「私の負担が大きくて大変でした」と明かされた。それに対して、MCを務める加藤浩次は「仲いいわ、それは」と感心していた。また、妻の手料理で好きなのはカレーといい、明日の朝も妻のカレーが食べられると思うと興奮して寝られなくなるという。 「自身もよくネタにしていますが、ポンコツエピソードもウケがいい。例えば、極度の方向音痴で、自宅から500m先のドン・キホーテに行くにも毎回カーナビを使わないとダメと明かしています。さらに記憶音痴で、妻に『俺、好きな色なんだったっけ?』と聞いたことがあり、いよいよヤバいと思ったそう。3月放送のバラエティー番組に長澤まさみさんと出演した際は、長澤さんの主演映画に出演したことがあるのに、そのことを忘れていたと告白。そのため、長澤さんが『あのときはどうも』みたいなあいさつをしに来てくれても、児嶋さんは『長澤まさみが笑顔で向かって来てる、ファンなのかな?』と、意味がわからないことになったとか。このエピソードに長澤さんが『でも、そのとき名前覚えてなかったかも。何さんでしたっけ?』と振ると、『児嶋だよ!』と、お約束の突っ込みで笑いを誘ってました。そうした抜けたところも愛嬌(あいきょう)と感じる人は少なくないと思います」(同) ■すれ違いコントも立場が逆転!?  一方で、児嶋には実直かつ努力家な一面もあるようだ。放送作家は言う。 「8年ほど前から漢字の練習をしているようです。児嶋さんいわく、クイズや大喜利で字が汚いとブレてしまい、回答が伝わらないことから始めたそうです。その2年前からは小学生新聞を定期購読し、常識を身につけているとか。また自身のYouTubeチャンネルでは、ド定番の『メーク動画』に果敢に挑むなど、本来芸人さんなら恥ずかしくて避けることを、児嶋さんは真面目に挑み続けている。こういう実直さが制作スタッフにも評判がいい。清潔感のあるオジサンという見た目で、若い女性タレントと絡んでもいやらしさがない。夫婦円満で癒やしがあり、柔らかな雰囲気も感じる。そんなキャラクターが今の時代に合っているからこそ、重宝されるのでしょう」  そんな児嶋の活躍で「今後は新しいアンジャッシュが見られるかもしれない」と語るのは、元「週刊SPA!」芸能デスクの田辺健二氏だ。 「もともと『牛肉、豚肉、鶏肉の違いがわからない』などのポンコツエピソードを数多く持ち、グルメ芸人の代表的存在だった渡部さんとのコントラストがアンジャッシュの魅力でもありました。とがりまくっていた若手芸人時代は共演者や後輩からイジられることを極度に嫌がっている印象でしたが、やがて自分がポンコツだということを受け入れ、コンビとしても厚みが出てきた。しかしその矢先に、渡部さんの不祥事が発生。それでも児嶋さんは相方の復帰を待ち続け、全力でバックアップするなどの姿勢がお茶の間にも伝わったことが、今回のレギュラー増につながっているのでは。上り調子の児嶋さんに対して、渡部さんの本格復帰に関してはまだ苦戦しそうですが、以前とは立場が逆転したとしてもこのコントラストこそ彼らの魅力でもあり強み。次は児嶋さんがコンビを引っ張るかたちでアンジャッシュとしての露出を増やし、新たな“すれ違いコント”もぜひ見てみたいですね」  渡部の騒動を経て、安定した人気を獲得した児嶋。アンジャッシュもお笑いコンビとして新たなかたちに進化するかもしれない。 (丸山ひろし)
血圧180、体重103キロでマジのダイエットを決意した鈴木おさむ 1週間での成果は
血圧180、体重103キロでマジのダイエットを決意した鈴木おさむ 1週間での成果は 放送作家の鈴木おさむさん  放送作家・鈴木おさむさんが、今を生きる同世代の方々におくる連載『1970年代生まれの団ジュニたちへ』。今回は、ダイエットについて。 *  *  *  今年で50歳。帯状疱疹を始め、色んな病気にかかっていて、50歳になると本当に体が弱ってくるんだなと感じています。  帯状疱疹の後遺症で、舌がずっと痺れていて、味覚に異常があります。コロナにかかったあと、半年以上味覚異常があって、最近でもたまに味覚がおかしくなる時があり。だから帯状疱疹とコロナってなんか関係あるのかなとかも思ってしまったり。ネットを見ると色んな情報やうわさが出てくるし、お医者さんによっても意見が違う。何をチョイスするのか難しい時代です。  そんななか、先日、舌の診察で病院に行った時に、病院にあった血圧計で血圧を測ったら、なんと上が「180」もあったんです。母も高かったし、血圧が高めなのは自覚していましたが、ここまでとは。  怖い! 血圧は脳系の病気もなりやすくなるし。なので、ずっとやろうやろうと思っていたダイエットをやることにしました。  初日。体重計に乗ると103キロ。100キロ超えてやがりました。血圧は上が159の下が100、脈拍は83。うん、上も下も高い。  今まで何度かダイエットをしたことはありますが、今回はマジのマジです。痩せることが目的と言うよりも、血圧なので。  だからちょっと本気になっています。2011年に、「金スマ」という番組で、僕ら夫婦はタニタのダイエットに挑戦しました。食事のカロリーを一日1500キロカロリーにおさえてタニタのレシピの食事を食べていくのですが。その時、分かったことは、歯ごたえのある物を食べるということと、旬のものを食べるということ。 妻・大島美幸さんとのツーショット  ダイエットにはストレスが一番の敵だと思っていたので、夜はハイボールの飲酒はOKにしてもらっていました。その結果、1カ月で15キロ近く落ちまして。  その時の、自分の中の「HOW TO」があるので、それを自分なりにやることにしました。  一番頼っているのは味噌汁です。味噌汁に野菜を沢山いれる。具沢山味噌汁で、歯ごたえをよくして食べ応えを感じる。ちょっとずつ体重は落ちていますが、1週間がたち、まだ100キロは切りません。  そして血圧。これが難しい。日によって違うんですが、僕は前の晩にお酒を飲んでいる方が翌朝下がっていることが多い。良く寝れるということなのか。血圧を下げる薬はまだ飲んでいません。血圧を下げることに関しても薬を飲む派、飲まない派、あれがいい、これがいいと色んな情報が届きます。  でも、結局、その人に合っているかどうかだと思うんです。ダイエットにしても、「夜食べなきゃいいんだよ」と言う人もいますが、僕は夜食べないのは仕事柄、無理なので、その分、朝と昼を気を付けます。  人それぞれの生活サイクルというものがあり、そのなかで、様々な情報から自分に合ったものをどうやって取捨選択するか。  病気に対して、一番慎重にならなきゃいけないのは「情報」のチョイスの仕方だなとあらためて思いました。  体重・血圧報告。ここでも、たまにやっていきますので! 自分なりの情報、お届けします。 ■鈴木おさむ(すずき・おさむ)/放送作家。1972年生まれ。19歳で放送作家デビュー。映画・ドラマの脚本、エッセイや小説の執筆、ラジオパーソナリティー、舞台の作・演出など多岐にわたり活躍。パパ目線の育児記録「ママにはなれないパパ」(マガジンハウス)、長編小説『僕の種がない』(幻冬舎)が好評発売中。漫画原作も多数で、ラブホラー漫画「お化けと風鈴」は、毎週金曜更新で自身のインスタグラムで公開、またLINE漫画でも連載中。「インフル怨サー。 ~顔を焼かれた私が復讐を誓った日~」は各種主要電子書店で販売中。コミック「ティラノ部長」(マガジンマウス)が発売中。
どうして秋篠宮ご夫妻なのか 新英国王の戴冠式への出席が両陛下ではない「理由」
どうして秋篠宮ご夫妻なのか 新英国王の戴冠式への出席が両陛下ではない「理由」 2013年、アムステルダムで開かれたオランダ国王の即位式にのぞむ東宮時代の両陛下  5月6日のチャールズ新英国王の戴冠式が約3週間後に迫った。チャールズ3世はカミラ王妃とともにロンドンのウェストミンスター寺院で、正式に王冠を授けられることになる。英王室から皇室に届いた戴冠式の「招待状」に対し、秋篠宮ご夫妻の参列が今月11日の閣議で正式に決まった。しかし、ネット上では、「どうして秋篠宮ご夫妻なのか」「天皇、皇后両陛下が参列すべきでは」という声がいまだにおさまらない。 *  * *  そもそも、なぜ戴冠式に出席するのが天皇陛下や雅子さまではなく、秋篠宮ご夫妻なのか。  英国から届く「招待状」には、宛名の記載はないと言われている。だが、これまでの各国の戴冠式では、皇太子クラスの出席が慣例であった。どうなっているのか。  このような疑問に対して、英国政治外交史を専門とする関東学院大学国際文化学部の君塚直隆教授は、こう解説する。 「主人公は、戴冠式で王冠を授かる時の王と王妃です。しかし、各国の王や女王の序列は、在位歴によって決定されます。主役の新王や新女王らよりも、祝福する側に、格付が上となる、他国の王や女王、先代の王や女王が出席しては具合が悪いわけです」 1937年の英国王ジョージ6世の戴冠式当日。昭和天皇の名代で弟宮である秩父宮雍仁親王と勢津子妃が参列した ■元首の参列は控える戴冠式  その慣習をつくったのは、欧州王室のトップに位置していた英王室であり、その線引きを明確にしたのは、1937年に行われたジョージ6世の戴冠式だった。 「ジョージ6世の戴冠式に、生母であるメアリー皇太后が出席したいと希望したのです。ジョージ6世の父・ジョージ5世の戴冠式に、生母であるアレクサンドラ王太后は、夫の喪は明けていたが出席していません。生母が息子の戴冠式をこの目で見たいとする思いはもっともです。しかし、それにはすこし問題がありました」  というのも、新国王の兄である前王のエドワード8世は、離婚歴のある米国人のシンプソン夫人との結婚を望み、議会と対立して王を退位した「王冠をかけた恋」で知られた人物だった。 ブータンを訪問し国立博物館を見学した秋篠宮ご夫妻と悠仁さま 「王位を投げ出したエドワード8世(退位後は、ウィンザー公爵)に戴冠式に参列してもらっては困る、と英政府や王室は考えたのです。一方で、新王や新女王の母である王太后が出席を望むのも理解できる。そこで、線引きを明確にするために、他国を含み、引退した王や女王は式に参列できないとした経緯があります」  それは現役の国王や女王の参列にも影響した。  エリザベス女王の戴冠式を控えた1952年。ウィンザー公爵は「イギリスの国王もしくは女王の戴冠式にはいかなる国の元首もしくは前元首も出席しないという慣習に反するため、1953年6月2日にウェストミンスター修道院(寺院)での戴冠式には出席するつもりはない」という声明を出したという。 ■戴冠式も人脈を培う場  さらにいえば、新王や新女王が親交を深めるべきは、各王室の次世代の王や女王となる王子や王女たちだ。戴冠式で参列するのも、将来パートナーとなる王室メンバーのほうが、互いにメリットがある。  日本でもこの慣習に従い、エリザベス英女王の戴冠式には、当時皇太子であった上皇さまが出席した。 2015年、トンガ国王の戴冠式の後、王宮で催された昼食会の会場で、ピロレブ王女(右)と話す東宮時代の両陛下  平成の時代も、皇太子であった天皇陛下は2008年、トンガ王国のツポウ5世国王の戴冠式に参列。13年にあったオランダのウィレム・アレクサンダー国王の即位式と15年のツポウ6世国王の戴冠式には、皇太子ご夫妻であったお二人がそろって参列している。   しかし、今回の戴冠式で王冠を授けられる新英国王チャールズ3世の場合は、やや事情が異なるのだという。 「74歳であるチャールズ3世は、20代から母のエリザベス女王を助け、外交歴は50年以上になる。つまり、各王室にお友達が非常に多い新国王です。しかし、即位が遅かったため、親交をはぐくんできた同世代の王子や王女たちは、すでに各国の王や女王に即位しています。そもそも英王室から届く戴冠式の招待状は、招待する相手を指名していないはずです。英王室が取り決めた慣習は存在するものの、双方でより理にかなった事情があれば、誰が出席してもよい性質のものだと理解しています」  実際、モナコでは、アルベール公とシャルレーヌ公妃は、真っ先に出席を表明した。  君塚教授は、英国の報道機関は「新国王のチャールズ3世も各国の王と交流を深めたいと考えている」といった内容の記事を報じていると話す。 「日本政府は、これまでの慣例に従って、皇嗣である秋篠宮さまを名代としました。とはいえ、昨今の王室を取り巻く状況を踏まえて参列者を決定する柔軟さもこれからは必要だと感じます」  君塚教授は、「戴冠式の参列者が両陛下でも問題はなかった」と考えていた。新国王のチャールズ3世と天皇陛下の関係がポイントだという。 「チャールズ新国王は皇太子時代に、平成と令和の即位の礼という重要な節目に2度も出席してもらっている。天皇、皇后両陛下は、エリザベス前女王の国葬に参列しています。そうなると、今回の戴冠式にチャールズ新国王への返礼の意を含む訪英を実現させてもよかったのではないかと感じます」 ■秋篠宮家と各王室のパイプ  一方で秋篠宮家も、各王室と親善において実績を積んできた。  平成の皇室は、メンバーの高齢化や皇太子妃であった雅子さまの体調がすぐれないといった問題に直面していた。外国の王室の葬儀や結婚式への出席も、機動力のある秋篠宮ご夫妻が出ることが多かった。いずれも2泊4日、往復は機中泊といった強行軍をこなしてきた。  葬儀への参列は国際親善の側面もある。両国の関係性や皇室とのゆかりの深さなども考慮される。04年に、オランダのユリアナ前女王(当時)の葬儀に参列し、ベアトリックス女王(同)主催の昼食会に出席し、親交を温めたのは秋篠宮ご夫妻だった。その2年前には、ベアトリックス女王の夫のクラウス殿下の葬儀にもご夫妻で参列している。秋篠宮さまは英国留学中に4回オランダを訪問するなど、王室一家と親交が深く、日蘭協会名誉総裁を務めている。 笑顔のオランダ・マルグリート王女(手前)と紀子さま。2018年にオランダ・ハーグで開催された肺の健康国際会議にて  アジア王室との交流も深い。13年には秋篠宮さまが、カンボジアのシアヌーク前国王の葬儀に参列。17年のタイのプミポン前国王の葬儀には、ご夫妻で参列している。  秋篠宮ご夫妻が、チャールズ新英国王の戴冠式に出席しても、十分に培った人脈で親善が期待できる。  君塚教授は、「秋篠宮ご夫妻に人脈がない」という批判は適切ではないと話す。一方で、戴冠式に出席することにすら批判が湧き起こる背景には、宮家自身が努力をおこたった結果である、と指摘する。 「宮家が築き上げた親善の実績と人脈を、もっと国民へアピールすべきであったと思います。いくらよい公務をしても、それが伝わらなければ評価はされません。その意味では、皇室のSNSを活用した発信に期待しています」 (AERA dot.編集部・永井貴子)
白馬と現れた“金正恩の娘”が後継者? モデルは「エリザベス女王」
白馬と現れた“金正恩の娘”が後継者? モデルは「エリザベス女王」 金正恩氏の横に立つ娘(朝鮮通信)  日本海に向けて頻繁にミサイル発射実験を繰り返す北朝鮮に、気になる動きがあった。金正恩総書記の娘と見られる少女が、突如として北朝鮮メディアに登場するようになったのだ。まるで正恩氏の「後継者」のように扱われるこの少女、何者なのか。 *  *  *  色白で満月のように丸々とした顔、金ボタンの付いた黒いロングコート姿の少女が「父親」の傍らに立っている。  北朝鮮の国営メディア、朝鮮中央通信は3月20日、戦術核運用部隊が核弾頭による攻撃を想定した弾道ミサイル発射訓練を19日に実施した、と報じた。訓練には金正恩総書記が立ち会い、娘と見られる「ジュエ」氏も同行した。  ミサイル実験や公式行事に姿を見せ、メディア露出が相次ぐジュエ氏に注目が高まっているが、今回発表された現場写真では向かって右隅に立つ軍服姿の人物にも関心が集まった。サングラスにマスクを着けて、さらにモザイクで顔がわからないようにしているのだ。北朝鮮がこの「謎の男」を登場させた狙いについて日本大学国際関係学部の川口智彦准教授(北朝鮮地域研究)はこう見る。 「この時の訓練は、核使用について指揮命令系統を確認することが目的でした。モザイクの男の正体は、おそらく正恩氏の核使用命令を直接執行する指揮官だと思います。核使用の執行という極めて重要な訓練にジュエ氏を立ち会わせ、あえて謎めいた人物を登場させた。このことは、ジュエ氏を権威付ける逸話として記録されるはずです」  ジュエ氏が初めてお披露目されたのは、昨年11月18日。ICBM(大陸間弾道ミサイル)「火星17」の発射実験に成功したと発表したが、その現場に正恩氏とともに突如として現れたのである。北朝鮮メディアは「愛する子女様と女史(妻・李雪主[リソルジュ]氏)とともにおいでになった」などと報じた。  火星17は米国本土すべてを射程に収め、北朝鮮は「怪物ミサイル」と呼んでいる。昨年3月、北朝鮮は火星17の発射実験に成功したと大々的に宣伝したが、実はカムフラージュで開発済みの火星15を打ち上げたとの見方が広がっていた。 「火星17」の試射を視察する親子(朝鮮通信)  北朝鮮の事情に詳しい毎日新聞記者の鈴木琢磨氏は、こう指摘する。 「火星17の成功は金正恩政権発足10年の2022年最大のエポックです。そのタイミングでジュエ氏をデビューさせ、4代目もここにいる、国の未来は安泰だとのメッセージを国民に与えようとしたのでしょう。さらに今年7月27日は、北朝鮮では『戦勝節』と呼びますが、朝鮮戦争休戦70年を迎えます。北朝鮮では戦争で米国に勝ったことになっていますし、かつてない頻度でミサイルを発射し続けている現在は疑似戦争をしているといえます。今年に焦点を合わせて周到に準備を進め、父と娘が対米戦争を勝利に導いたという伝説をつくろうとしているのです」  だが、専門家の間では、ジュエ氏を後継者とするには慎重な見方も多い。ジュエ氏は13年1月に誕生したとされるが、10年生まれの長男、17年生まれの次男がいるとされている。家父長的なイメージの強い北朝鮮社会では、家督は男子が継承するのが通例と思われているからだ。韓国の国家情報院もジュエ氏を第2子と見ているが、北朝鮮は一切公表していないから、兄や弟の存在は依然として不明のままだ。  鈴木氏は「実は男の子がいない可能性もあります」と指摘し、こんなエピソードを披瀝する。 「金正日氏の元料理人」として知られる藤本健二氏が16年に北朝鮮へ渡航した時、正恩氏が晩餐会を開いて歓待した。ところが、妻の雪主氏の姿がなかったので藤本氏が尋ねると、正恩氏は「風邪をひき、娘と2人で療養しています」と答えたというのだ。 「兄や弟がいるのなら、その子たちの様子が話題に出ても不思議ではないはず。実際にいたとしても、風貌が金一族に似ていないとか、リーダーとしての資質に問題があるのかもしれない。カギは『白頭の血統』です。見てのとおり、ジュエ氏は正恩氏そっくりです。最高指導者に対する尊敬の念を国民に抱かせるため、容貌は最もわかりやすいメッセージなのです」 朝鮮人民軍創建75周年記念宴会で李雪主夫人や娘と共に記念写真に納まる金正恩氏(朝鮮通信)  正恩氏も髪形や衣装などを、建国の祖・金日成主席のイメージと重なるよう腐心してきた。白頭山は、日成氏が抗日パルチザン闘争の拠点としたことから、日成氏からの直系は「白頭の血統」と呼ばれる。前出の川口氏もこう語る。 「北朝鮮は日本の皇室やイギリスの王室を非常によく見ています。娘には、国民に慕われたエリザベス女王のようなイメージを狙っているのではないでしょうか」 ■影が薄い与正氏 サポート役徹底  2月8日の軍創建75周年の軍事パレード(閲兵式)では、ジュエ氏は正恩氏の手を握り、レッドカーペットの上を歩いて入場した。貴賓席の椅子は金の装飾が施され、母親の雪主氏が座ったものより立派で大きかった。川口氏が語る。 「2人の一歩後ろを、実質的にナンバー2の趙甬元(チョヨンウォン)・朝鮮労働党組織書記が歩いていたのですが、北朝鮮メディアは趙氏らが『尊敬するお子さまをお連れして』と表現していたので驚きました。ジュエ氏の地位が明らかにナンバー2より上にあることは、朝鮮人民ならば感じたでしょう。閲兵式で『白頭の血統、決死擁護』というスローガンが使われたことも象徴的だったと思います」  さらに、ジュエ氏が後継であることを強く印象づけたものは、「白馬」の登場だ。鈴木氏が解説する。 「軍事パレードでは、父・正恩氏が白頭山を駆け抜けた伝説の名馬と紹介された白馬に続いて、『最も愛するお子さまが最も愛している駿馬』とのナレーション付きで、ジュエ氏の白馬まで登場しました。白馬は最高指導者のシンボルです。まちがいなく後継であることを示唆しているはずです」  気になるのは、正恩氏の補佐役を務めている妹・与正氏の存在だ。閲兵式でも会場後方に立つなど、すっかり影が薄くなった印象だ。 「与正氏は何も遠ざけられているわけではありません。党副部長というノーマルな肩書に就いた以上、いまから『偉大なる与正氏』という演出はできない。そのことは与正氏自身わかっていて、彼女はクレバーで兄を支えるというポジションを逸脱したことは一度もありません」(鈴木氏)  4月15日には、金日成氏の生誕記念日「太陽節」を迎える。4代目となる「女王」伝説のため、新たな仕掛けが用意されているにちがいない。(本誌・亀井洋志)※週刊朝日  2023年4月21日号
国際ロマンス詐欺の対象ど真ん中な私 性搾取する日本人男性に諦めた今度はSNSの“甘い言葉”地獄
国際ロマンス詐欺の対象ど真ん中な私 性搾取する日本人男性に諦めた今度はSNSの“甘い言葉”地獄 写真はイメージです(Getty Images) 作家・北原みのりさんの連載「おんなの話はありがたい」。今回は、ネット上の国際ロマンス詐欺について。 *   *  *  国際ロマンス詐欺られ間近の日々である。  現代社会を生きる多くの人と同様、私も、スマホ依存症気味の日常を送っている。一番時間を使ってしまうのは、Instagramだ。ラジオ番組の収録風景とか、私の会社が出展するポップアップの様子とか、商談の雰囲気とか、各界で活躍している女性たちとの記念写真とか……。「こんな仕事してます!」「こんな人たちと仕事してます!」「こんな本を最近読んでます!」な情報発信をするのだ。正直、この時間にいったいここに何の意味が……という気持ちはまだどこかにありながらも、毎日大量に流れてくる友人や知人、時には全く知らない人の食事や、旅や、仕事の様子を見ることは完全に私の習慣になってしまった。  という状況のなかで、同世代の女性に聞きたいことがある。  国際ロマンス詐欺られ対策、どうしていますか?  インターネットの世界で、50代日本人女性な私は、恐らく、国際ロマンス詐欺の対象ど真ん中なのではないか。毎日のように、韓国や中国や中東諸国の男性から「素敵」「笑顔が美しい」という連絡がくる。たとえ猫の写真を載せていても、「猫が好きな優しい女性」という連絡がくる。ジャムをつけただけのフランスパンの写真であっても「この料理はあなたがつくったのですか」と優しいメッセージが送られてくる。旅行先での自然を見せれば「美しいあなたは旅好きです。今度東京来ます」という連絡が、しなやかに厚みのある美しい筋肉を優しげにちらつかせる30~40代の男たちから送られてくる。きっとこういうのに返信してしまうと、次はさらに優しい褒め言葉が送られてきて、気が付くと恋をしていて、彼がお金に困っているのを見かねて一瞬で巨額を失う地獄が待っている……と聞く。  こんな嘘みたいな言葉を吐く、実在するかどうかも曖昧な、きれいな男たちの甘い言葉に、なぜ引っかかってしまう女がいるのだろう……?と不思議な気持ちにはなるが、そういう「私は絶対に引っかからない」と思う者が詐欺にかかるのはよくある話だ。私だってわからない。外国人なのだから日本語がおかしいのは当たり前。外国人だから愛情表現がストレートでスピード感があるのかもしれない。そんな一歩を踏み出してしまう瞬間は、誰にでもあるのかもしれない。だいたいスマホ相手に時間をつぶしているような時など、心の隙間だらけなのだし。  国際ロマンス詐欺に引っかかった女性の話などを読んでいて面白いのは、「これが日本人男性だったら、絶対に返信しない」という人が多いことだ。SNSを通して出会った男性に7500万円を奪われたマンガ家の井出智香恵さんも、「日本人男性だったらこうはならない」とその被害を語るドキュメンタリーで強調されていた。裏を返せば、日本人の男は女に優しいことは言わない、日本人の男にここまでメロメロにならないことを知っているからこその「日本人男性には詐欺られない」自信なのだろう。だいたい日本人の若い男性が年上の女性に関心を持つこと自体がレアすぎるケースなので、最初から強く疑ってかかれるというものだ。  もはや国際的な定説のように語られているが、「日本人男性は女性にモテナイ」(私が言っているのではありません。世界が言ってます)。女性の恋人に「母親」を求めてくるとか、AVの見すぎなのかセックスが乱暴だとか、女性に幼さを求める幼さがイヤ……といった具体的なクレームがネット上ではいくつも転がっている。「飲み会で下ネタを言う日本人のビジネスマンが多くて驚いた」「ビジネスの席で女の私には一度も目を合わせず、話しかけもしなかった」とは海外の友人に実際に聞いたことだが、親密な個人的な関係でも、ビジネスの場でも、日本人男性は女性に関する振る舞いで問題が多いのかもしれない。そしてそれを大して問題だとも感じていない問題を解消することを、この国の女たちは既に深く諦めてしまっているのだろう。国際ロマンス詐欺の背景には、そんな日本人男性の問題が隠れていたりはしないだろうか。  統一地方選、前半戦が終わった。今回、個人的にザワザワしたのは神奈川県知事選だ。投開票日直前に、4回目の当選を目指す県知事・黒岩祐治氏のスキャンダルが報じられた。過去につきあった女性の告発をもとに書かれた記事だったが、なかなかのグロテスクなものだった。自分が欲しいAVの新作を女性に買うように命令し、かなえられないと不機嫌になり、セックスの時はAVを見続け、いざ自身が達する瞬間に女性に挿入してくるということが細かく記されていた。黒岩氏は前回の知事選の時より大幅に票を減らしたとはいうが、それでも圧倒的強さで当選している。そのくらい他の候補者が弱すぎたということなのだろうが、黒岩氏の振る舞いを「絶対に許せない」とまで感じる人が少なかったのだろう。妻を裏切ることも、セックスの時にAVを欠かさないことも、出世のためには女を簡単に切ることも、知事としては問題のない行為とされているのかもしれない。そのくらい、この国の男の人は甘やかされ、許されているのだ。  というよりも、そもそも、黒岩氏の話にざわざわしながらも、「まさか? そんなことが!?」と驚くような気持ちになれなかった私自身にも驚いている。慣れてしまっているのかもしれない。こういう種類の「キモサ」を数え切れないほど見聞きしてきたからだろう。そんな社会で「男なんてそんなもの」という諦めを女たちは心の底に澱(おり)のように重ねてきているのだ。  性搾取する男性に対して「キモイ」という言葉を投げかけると、「差別だ」と反発する人たちもいるが、「キモイ」とは性的に搾取される側の自己防衛の言葉だ。そもそも「キモイ」のは行為であって、存在そのものを指しているのではないが、女性と性的に関わろうとする際になぜ敢えて「キモイ」側を歩いてしまう男性がこんなにも多いのだろう。知事からして……。で、そういう日本の男たちのキモサに飼い慣らされたくない女たちを今度は、「悪い」男たちの国際ロマンス詐欺が待っているなんてな。リアルもオンラインも、この社会、女が生き抜くのは大変です。
「安倍家」「岸家」のブランド力はどこまで 衆院補選山口2、4区の行方に岸田首相の心中は
「安倍家」「岸家」のブランド力はどこまで 衆院補選山口2、4区の行方に岸田首相の心中は 吉田真次氏の事務所開きであいさつをする安倍昭恵氏  衆院補欠選挙が4月11日に告示される。その結果は岸田文雄首相にとっては“中間評価”でもあり、今後の政権運営を占う指標にもなる。岸田首相自ら現地入りした山口。二つの選挙区の現状を追った。  4月9日、大阪ダブル選と奈良県知事選の結果を見て、自民党の幹部は渋い表情でこう話した。 「大阪のダブル選は想定内だったが、奈良県知事まで維新に取られた。このあと統一地方選の後半戦、国政の衆参補欠選挙もある。結果次第では、岸田(文雄)首相が考える解散時期が前倒しになるんじゃないか」  岸田首相がとりわけ気をもむのは、衆参の補欠選挙だろう。  すでに参院大分選挙区が4月6日に告示された。11日からは衆院の山口2区、4区、和歌山1区、千葉5区の4選挙区でも選挙戦がスタートする。  なかでも山口の二つの選挙区は、安倍晋三元首相と岸信夫元防衛相の兄弟が地盤だった選挙区。「安倍家」「岸家」というブランド力が健在なのか、陰りを見せるのか注目されている。  山口4区は、昨年7月に凶弾に倒れた安倍元首相の「後継」として、下関市議だった吉田真次氏(38)が自民党から出馬を予定している。立憲民主党は、前参院議員で旧統一教会を長年追及してきたジャーナリストの有田芳生氏(71)を擁立した。  選挙告示が迫ったある日、下関市内に安倍元首相の支援者が少人数で集まっていた。そこにやってきたのが吉田氏と安倍元首相の妻・昭恵さんだった。 「吉田氏は慣れていないせいか、落ち着かない様子で頭を下げていました。昭恵さんはその保護者のようで、さすが安倍先生の妻という感じでした。昭恵さんは『吉田さんを絶対勝たせてください。主人がとった票数の上をいきたい』と熱がこもっていて、安倍先生の代理選挙のように感じました」  と集会に参加していた支援者が話した。  地元では、吉田氏は「安倍家の名代」という印象がある、といった声をよく聞く。  自民党のある山口県議は、 「昭恵さんが出馬してくれると一番よかったんだけど、吉田氏は安倍家が後継として選んだ人。有田氏が相手でも安倍家のブランドは強いので安心です」  と「安倍家」の看板を強調する。  こうした点について有田氏は、 「立候補するのは吉田氏だが、安倍家の威光を感じることもある。山口4区で安倍さんはスター。安倍さんの文句を言うことははばかられ、旧統一教会の話題に触れることもタブーだった。ただ、今回の選挙ではそうはいかないし、変化を感じることもあります。安倍さんの色紙が飾ってあるお店で、サインを求められることもありました」  と話していた。 集会で演説する有田芳生氏  前出の自民党の幹部は、 「山口4区で苦戦することがあるとすれば、有田氏が旧統一教会問題をあぶりだして火が付くこと。山口2区は世襲という批判が起きること」  と話す。  山口2区で自民党は、安倍元首相の実弟で元防衛相の岸信夫氏の後継として長男の岸信千世氏(31)が立候補を表明、無所属で民主党時代に法相を務めた平岡秀夫氏(69)が出馬する予定だ。  信千世氏は2月、出馬を表明した直後に開設したホームページで“家系図”を掲載した。父の信夫氏のほか安倍元首相、曽祖父の岸信介元首相やその弟、佐藤栄作元首相らの名前が書かれているだけで、母親ら女性は一切書かれていない“家系図”だった。首相の座についたのが3人、まさに「ブランド」を強調するかのようなものだった。 岸信介首相(1959年当時)  これがSNSなどで取り上げられ、批判が高まると“家系図”は消えた。  その信千世氏は3月27日、都内のホテルで政治資金パーティーを開いた。パーティー券は1枚2万円で500人ほどが参加したとみられる。  社長の出身地が山口県で、県選出の国会議員のパーティー券は10年以上買っているという会社員の男性は、 「信千世氏が会場の入り口で『よろしくお願いします』と参加者全員に声をかけていました。あいさつでは安倍元首相の思い出などを10分ほど話していましたね。だけど、当選もしていない信千世氏がパーティーとは正直、驚きました。会場も政治家のパーティーで使われるホテルとしては最高級ですから」  と話す。  安倍派のある国会議員は、 「山口4区、2区とも新顔の若い候補で知名度もない。勝つためには『安倍家』『岸家』というブランドを前面に押し出さないと厳しい部分がありますね」  と話したうえで、 「山口の二つの小選挙区は勝てるとは思いますが、他の三つが苦戦しますね。補選が2勝3敗で負け越せば、時間を置かずして衆院選挙区の『10増10減』の区割り見直しを反映した解散を岸田首相が決断するんじゃないかと、議員が2人寄ればそんな話ばかりです」  と背景事情を話す。  自民党の政務調査会の調査役を20年以上経験した政治評論家の田村重信さんは、 「小選挙区制度では、世襲、ブランドの威力はたしかに強いです。しかし2021年の衆院選で石原伸晃氏が敗北したように、批判的な考えの国民も多いことに自民党も気づかないといけない時代です。甘く見ていると、岸田首相も痛い目に遭うのでは」  と指摘している。   ◇   ◇  山口4区では吉田、有田両氏のほか、政治家女子48党が公認候補予定者について、同党幹事長の黒川敦彦氏(44)から、会社役員の渡部亜衣氏(37)に変更すると発表。地元新聞社の元社員・大野頼子氏(49)、投資家の竹本秀之氏(67)がいずれも無所属で立候補を表明している。 (AERA dot.編集部 今西憲之)
『鬼滅の刃』「刀鍛冶の里編」第1話の注目キャラ「神崎アオイ」とは何者か “戦えない剣士”の苦悩と献身
『鬼滅の刃』「刀鍛冶の里編」第1話の注目キャラ「神崎アオイ」とは何者か “戦えない剣士”の苦悩と献身 鬼滅の刃「刀鍛冶の里編」キービジュアル(画像は公式HPより) 【※ネタバレ注意】以下の内容には、今後放映予定のアニメ、既刊のコミックスのネタバレが含まれます。  TVアニメ『鬼滅の刃』刀鍛冶の里編の放送が4月9日から始まった。遊郭の戦いで重傷を負った炭治郎たちは、医療施設である胡蝶しのぶの邸宅・蝶屋敷に運ばれ、しのぶの治療と指示のもと、看護担当の神崎アオイたちから温かい介抱を受けていた。アオイの献身ぶりには多くの鬼殺隊員が救われてきたが、実は彼女も“剣士”なのだ。しかし鬼との戦いには出向かず、後方支援に徹している。彼女は時々“戦えない”自分を卑下する様子を見せ、刀鍛冶の里編第1話でもそのような描写があった。アオイの心の内にはどのような思いが渦巻いているのだろうか。彼女の行動やセリフから考察する。 *  *  * ■神崎アオイの号泣  音柱・宇髄天元、竈門炭治郎、我妻善逸、嘴平伊之助は、遊郭の戦いで「上弦の陸」の鬼と対峙し、重傷を負った。2カ月の昏睡から炭治郎が目覚めると、看護の神崎アオイ、すみちゃん・きよちゃん・なほちゃん、鬼殺隊後方部隊「隠」の後藤、そして「花の呼吸」の使い手である栗花落カナヲは、その回復を心から喜んだ。とくに印象深かったのは、ふだんはしっかり者で冷静なアオイが、炭治郎のベッドのそばで大粒の涙を流したことだ。 「意識が戻って良かった~~~!!! あたしの代わりに行ってくれたから みんな…ウオオォン!!」(神崎アオイ/12巻・第100話「いざ行け里へ!!」) 「あたしの代わりに」――この一言には大きな意味が込められている。負傷した炭治郎たちを見て、アオイは自分自身をひどく責めていた。  鬼殺隊には鬼と対決する「柱」や剣士以外に、情報収集部隊、事後処理部隊、医療班、隊服縫製担当者など、「戦わない」隊員はたくさんいる。それにもかかわらず、なぜアオイは重い責任を感じていたのか。 ■アオイの後悔と苦悩  その理由を探るには、前シリーズの遊郭編冒頭をふり返る必要がある。遊郭潜入の指揮をとる「柱」の宇髄は、アオイたちを鬼のいる遊郭に連れて行こうとしていた。嫌がるアオイを左肩にかついだまま、宇髄はこんなことを言った。 「とりあえずコイツは任務に連れて行く 役に立ちそうもねぇが こんなのでも一応隊員だしな」(宇髄天元/8巻・第70話「人攫い」)  宇髄はアオイたちに「上官命令」だと強い言葉を投げかけながらも、問答無用で連れ去る無茶まではしていない。また、蝶屋敷の女の子たちが宇髄に「人さらい!」と口々に叫ぶ様子、助けに入った炭治郎が「(宇髄さんは女の子たちに)群がられている?」と考え込む様子が描かれるなど、笑いを誘うコミカルな場面でもあった。  しかし、アオイだけは終始深刻な様子で、青ざめた顔つきのまま戸惑いを隠しきれない。「役に立たない」、それでも「隊士である」という事実がアオイを苦しめる。 ■鬼殺隊隊士としてのアオイの働き  アオイが働く蝶屋敷には、鬼との戦闘で重傷を負った隊士たちがいつも運ばれてくる。切断された腕、もぎ取られた足、えぐられた目、切り裂かれた胴体、鬼の毒でただれた皮膚……。のたうちながら死んでいく隊士たちの世話は想像を絶する過酷さであろう。  炭治郎がはじめて蝶屋敷に運ばれてきた時も、アオイはすぐさま「怪我人ですね」と言って、素早く看護態勢に入った。キビキビとしたアオイの動きは、「隠」の後藤たちに「はやいっ」と驚かれるほどだった。  また、アオイは騒ぐ善逸に「いい加減にしないと縛りますからね」と一喝できるほどの胆力があり、剣士である炭治郎たちの回復訓練を手伝えるくらい高い身体能力も持っている。客観的に見れば、アオイが自分を卑下しなくてはならないような要因は何もないはずだ。 ■本心と優しさを隠すアオイ 『鬼滅』初登場時の神崎アオイの第一声は「どなたですか!!」という怒声だった。愛らしい顔立ちにもかかわらず、彼女はいつも眉間にシワを寄せている。キリッとした表情、厳しい口調、これがアオイの印象だろう。しかし、それは本当のアオイの姿ではない。  自分の家族が鬼に殺された経験があり、彼女の心の中には鬼への恐怖心と憎しみがある。それでもアオイは、鬼の禰豆子に優しかった。禰豆子の記憶の中のアオイは、好奇心に満ちた明るい笑顔で禰豆子を見つめている。柱合会議で破壊されてしまった禰豆子の箱を器用に直してやったのもアオイだった。この箱がないと、禰豆子は太陽光を浴びてダメージを負ってしまうことを聞いたからだろうか。盗み食いをくり返す伊之助には、特別に食事を用意してやるなど、アオイの行動は常に「優しさ」が根底にある。 ■自分の弱さを乗り越えようとするアオイ  厳しいアオイ、優しいアオイ。彼女の内面は複雑さに満ちている。「姉がわり」としてアオイを見守る胡蝶しのぶの回想シーンで、アオイの表情はいつも心細げで幼い女の子のようだ。しのぶだけはアオイの苦悩をわかっていたのだろう。  アオイたち蝶屋敷で暮らす「妹」を鬼から守ろうとするしのぶの思いに応えるためにも、アオイは自分の弱い心にフタをして、剣士たちの看護とリハビリに力を尽くした。それでも、彼女は剣士として戦えない自分を恥じる。 「選別でも運良く生き残っただけ その後は恐ろしくて 戦いに行けなくなった腰抜けなので」(神崎アオイ/7巻・第53話「君は」)  鬼の戦闘力を目の当たりにした少女が戦えなくなったとして、誰がそれを責めることができるだろうか。自分にも他人にもあれほど厳しい胡蝶しのぶでさえ、アオイに対して、剣士として前線に立つようにうながす様子はまったくない。  アオイの働きぶりは皆から感謝される献身的なもので、一見すると怒りっぽいように見える彼女の言動は、怪我をした隊士たちの回復を心から願うがゆえのものだった。 ■アオイの願いと献身  アオイは剣士であることを諦めたのに、鬼の被害をもっとも目にする場所で、仲間たちの残酷な死を見つめながら看護にあたっている。  それは一体なぜか。  アオイの願いは、他の鬼殺隊隊士たちと同じく、“みんなに”平凡な日常が返ってくることだからだ。失ったアオイの家族は戻ってこないが、彼女は仲間たちの「生」を心から願う。  日々のアオイの寂しさがよくわかるエピソードが残されている。自分と同じく蝶屋敷で暮らすカナヲが名字を決める時、アオイは自分の名字である「神崎」を勧め「これは?これじゃなくていいの?ほんとにいいの!?」と熱心に言う場面があった。作者の吾峠呼世晴氏は「姉妹が欲しかったアオイは 自分の苗字を激推しして 横からめっちゃ口出ししています」と言葉を添えているが、この時のアオイの必死さから、彼女の胸の内が伝わってくる。  自分は“戦えない”と言ったアオイは、毎日毎日、剣士ひとりひとりに寄り添い続ける。そんなアオイにかつて炭治郎は「アオイさんの想いは 俺が戦いの場に持って行くし」と告げたことがあった。アオイもまた、心はともに剣士たちと戦い、平和な夜を取り戻すことを祈っている。  アニメ新シリーズ「刀鍛冶の里編」第1話ではアオイの涙と素直な言葉が聞けた。アオイの覚悟もまた、炭治郎たちの活躍とともにアニメ最終話まで見届けたい。 ◎植朗子(うえ・あきこ)1977年生まれ。現在、神戸大学国際文化学研究推進センター研究員。専門は伝承文学、神話学、比較民俗学。著書に『「ドイツ伝説集」のコスモロジー ―配列・エレメント・モティーフ―』、共著に『「神話」を近現代に問う』、『はじまりが見える世界の神話』がある。AERAdot.の連載をまとめた「鬼滅夜話」(扶桑社)が好評発売中。
日本のプロより上? キューバ野球が“世界最強”だった時代、落合も驚愕した赤い稲妻
日本のプロより上? キューバ野球が“世界最強”だった時代、落合も驚愕した赤い稲妻 中日でもプレーしたオマール・リナレス(OP写真通信社)  かつて野球で世界最強を誇ったキューバが、ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)で4大会ぶりに準決勝進出をはたしたが、米国に2対14と大敗。“赤い稲妻”時代を知るファンにとって、寂しい結果となった。  米国留学生を通じて1864年に野球が伝来したキューバは、1890年代には75ものプロチームが存在するほど、急速に普及した。  だが、1959年のキューバ革命以降、米国との関係が急激に悪化。その後、キューバはアマチュアの国内リーグに一大転換し、選手たちは国家公務員という独自の形で、“国技・野球”を発展させていく。  72年にニカラグアで開催された世界選手権でキューバと初対戦し、0対2で敗れた日本は、スピードとパワーの差に圧倒され、「(米国以外に)こんなすごいチームがあったのか」と思い知らされた。  以来、日本はキューバのナショナルチームに7連敗を喫したが、78年のオランダ・ハーレム国際大会で8対2と打ち勝ち、初勝利を挙げた。3回に勝利を決定づけるタイムリーを放ったのは、東芝府中時代の落合博満だった。  だが、2週間後にイタリアで行われた世界選手権では、「あんな速いボール見たことなかった。ゆうに160キロは超えてたんじゃねえのかな」と落合も驚いたエース、ブラウディリオ・ビネンを攻略できず、2対3と雪辱された。  ここまでなら、アマチュアの話だったのだが、キューバは日本のプロチームとの対戦でも、侮りがたい実力をアピールする。  88年11月、山本浩二監督が就任したばかりの広島がキューバに遠征し、5試合を行ったが、結果は惨憺たるものだった。  第1戦は初回に1点を先制したものの、その裏、4点を失い、あとは防戦一方で3対8と完敗。さらに第2戦は6対8、第3戦は5対6、第4戦は1対7とアマチュア相手にズルズル4連敗。木製バットの広島に対し、キューバは金属バットというハンデを差し引いても、山本監督が「スピードとパワーはもちろんのこと、手首やバネの強さがすばらしい。かと言って、粗っぽいところはなく、1点を確実に取る攻撃をしてくる」(鉄矢多美子著「熱球伝説─キューバリナレスを育てた野球王国」 岩波書店)と舌を巻いたように、どちらがプロかわからないありさまだった。  広島は最終戦でようやく勝ち、全敗こそ免れたが、「キューバは日本のプロより強い」という印象を抱いたファンも多かったはずだ。  そんな“世界最強”キューバの好敵手として何度も名勝負を演じたのが、新日鉄堺時代の野茂英雄だ。  88年9月、イタリア・パルマ開催の世界選手権決勝トーナメントでキューバと対決した野茂は、初回にアントニオ・パチェコに先制2ランを浴びるが、2回以降立ち直り、試合は2対2のまま終盤へ。  8回に3対2と勝ち越した直後、野茂は2安打と併殺崩れで同点を許し、さらに安打で一、三塁とピンチを広げたところで無念の降板となったが、20歳の主砲、オマール・リナレスに対し、気迫を前面に出して力勝負を挑む野茂の雄姿は、今も関係者の間で語り草になっている。  野茂は翌89年5~6月に日本で開催された日本・キューバ野球選手権では、与田剛、潮崎哲也とともに投手陣の中心を担い、2勝1敗の成績でMVPを獲得した。当時の野茂はキューバ打線について、「やっぱりすごいですよ。バットを振った音がビューンとマウンドにまで聞こえてきますからね」と評している。  さらに同年8月、プエルトリコで開催されたインターコンチネンタルカップ決勝、キューバ戦に先発した野茂は、初回の先頭打者からオレステス・キンデラン、ルルデス・グリエルの4、5番まで5者連続三振という快投を見せる。  だが、1対0の4回、パチェコの捕ゴロが拙守で内野安打になったあと、リナレスの三塁線バント安打でリズムを崩され、キンデランに同点打、グリエルに3ランを浴びた。  5回8安打4失点で降板した野茂は「キューバは目の色が変わっていた。投げていても、すごい迫力を感じた」と大技小技織り交ぜてくるキューバの勝利への執念に脱帽した。キューバの各打者が「日本にこんな投手がいたなんて、驚きだね」(リナレス)と野茂の実力を認め、世界最強の誇りをかけて、全力でぶつかっていった結果でもあった。  92年のバルセロナ五輪から野球が正式種目になると、キューバはバルセロナと96年のアトランタ五輪で2大会連続の金メダルを獲得。アトランタ五輪決勝では、初回にリナレスとキンデランが日本のエース・杉浦正則に連続弾を浴びせるなど、8本塁打を記録し、13対9とパワーで圧倒した。その後、08年の北京五輪までの5大会で金3、銀2の好成績を残し、“赤い稲妻”と恐れられたのは、ご存じのとおりだ。  だが、国際大会で無敵を誇ったキューバも、2000年代以降、主力選手が活躍の場とより多くの報酬を求めて国外に亡命する例があとを絶たず、低迷期に突入する。  古豪復活のカギは、今回のWBCでも見られたように亡命した有力選手たちを招集し、真の最強チームを構成できるかどうかにかかっている。  メジャーで活躍中のキューバ出身選手も多いだけに、このまま“プロ解禁”が進めば、赤い稲妻復活の日も、さほど遠くないかもしれない。(文・久保田龍雄) ●プロフィール久保田龍雄/1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。最新刊は電子書籍「プロ野球B級ニュース事件簿2021」(野球文明叢書)。
朝日歌壇に詠まれた「週刊朝日」休刊 「駐在員の妻たちが大事に…」投稿者たちの思い
朝日歌壇に詠まれた「週刊朝日」休刊 「駐在員の妻たちが大事に…」投稿者たちの思い 2月19日付朝日新聞掲載の「朝日歌壇」  毎週日曜日の「朝日新聞」に掲載される「朝日歌壇」。2月19日のこの欄に3首、3月26日にも2首、本誌の休刊を惜しむ歌が選ばれた。残念ながら選に漏れた投稿もたくさんあったという。投稿者たちの“思い”を聞いてみた。 *  *  * <残念な「週刊朝日」休刊よ、東海林さだおの見開きもまた>と詠んだのは福島県相馬市の根岸浩一さん(63)。 「短歌を作り始めて5年くらい。新聞に投稿するということで、なるべく時事的なテーマで歌作りしています。最も多く詠んでいるのは震災からの復興の様子です。東日本大震災の時はものすごい揺れで、わが家は屋根瓦が落ち、壁にはヒビが入りました。幸い避難生活はせずに済みましたが、倒壊した家もたくさんありました」  あれから12年。復興は進んでいるが、それでも去年起きた地震で、再び被害に遭った人も多く見てきたと話す。  そんな根岸さんは本誌の大ファンだと言う。 「読み逃してしまった号があっても、それは図書館で読むなどして欠かさず読んでいる。歌にも詠みましたが、東海林さだおさんの『あれも食いたい これも食いたい』が好きで、読めなくなってしまうのはとても残念で、それを歌にしました」  実は4年前にも、朝日歌壇に根岸さんの歌は掲載されている。 「その時も週刊朝日のことを詠みました。週刊文春は表紙で買うけど、週刊朝日は巻末で買うという歌でした。つまり、文春は表紙を描く和田誠さん、朝日は山藤章二さんのブラック・アングルで買うという内容の歌だったんです。ご縁があるんでしょうかね(笑)」 <この国が軍拡に舵を切る最中「週刊朝日」休刊決まる>と詠んだのは静岡県磐田市の白井善夫さん(72)。週刊朝日の愛読者で、これまで2度、本誌紙面に登場している。1回目は2015年12月11日号で「犬ばか猫ばかペットばか」のコーナー、2回目は今年の3月3日号の「お便りクラブ」に蝶花楼桃花さんのことを書いて掲載されている。 「今度は大谷(翔平)選手の似顔絵を描いて『似顔絵塾』のコーナーにも応募しようかなと思っている」と言って笑う白井さん。白井さん一家は子供の頃から朝日ファンで、新聞は朝日、週刊朝日と朝日ジャーナルを購読してきたという。学生時代には、成田闘争、日中国交回復、北爆などをテーマにして書いた文章を朝日ジャーナルに投稿し、計4回掲載されている。 「今回投稿した短歌は、岸田政権が軍拡に舵を切り、原発も再稼働の動きがある、そんな時こそリベラルな雑誌の代表格である週刊朝日が活躍すべき時なのに……、という思いを歌にしました。本当に休刊してしまうのが残念です」  白井さんの短歌歴は約6年。朝日歌壇には何度も投稿しているが、入選は2度目。 「初めて掲載されたのはビギナーズラックだったんでしょうね。初入選首は菅原文太さんが亡くなって、トラック野郎たちがみんな追悼の意を込めてハチマキをして走っていた様子を詠みました。ギリギリ10席目に選ばれて、嬉しかったですね~」 <「新平家」取り合い読みし兄姉逝きて「週刊朝日」休刊となる>と詠んだのは神奈川県藤沢市の藤田勢津子さん(90)。  歌にある「新平家」とは1950年から57年まで本誌に連載されていた吉川英治の小説「新・平家物語」。連載当時、藤田さんは高校を卒業して専門学校に通っていたという。 「私の記憶では当時は1冊25円くらい(笑)。本家の『平家物語』は知っていたけど、吉川英治版はもっと温かく優しい物語で、とても話題になっていました。学校の帰りに週刊朝日を買って読み、家に持ち帰ると父も姉も読むんです。家族そろっての夕食時には新平家の話題で持ちきりでしたね。そんな具合に家族中で楽しみにしていたから、時には父が買って、姉も買って、私も買って……家に同じ号が3冊あった日もありました」  藤田さんは今回の歌が初投稿で、しかも「生まれて初めて作った歌です」という。 「父が俳句に命をかけていたような人で、普段から5・7・5のリズムが身についていました。つられて家族も5・7・5のリズムで会話したり(笑)。姉は短歌を作って朝日歌壇に掲載されたこともあったんですよ。たぶん兄も朝日俳壇に載ったことがあるはずです。そんな家庭だった。でも私はセンスがなくて。そんな私の歌が朝日歌壇に選ばれて、喜びを兄や姉に知らせたいのに、もう2人とも亡くなってしまいました」 ■ミラノ駐在時の貴重な情報源 <駐在員の妻たちが大事に回覧していた「週刊朝日」>と詠んだのは横浜市の臼井慶子さん(54)。25年ほど前に夫のイタリア・ミラノ赴任に同行した時の思い出を詠んだという。 「当時はインターネットもあまり普及していなかったんです。テレビの日本語放送もほんのわずかで、日本の情報に飢えていました。その頃は和歌山ヒ素カレー事件なんかが大きな話題になっていました。それで、こっちに来るという友達に『お土産に週刊誌とお煎餅をお願い』って、週刊朝日と週刊文春を買ってきてもらったんです」  ロンドンに赴任した夫の同僚は市内の古本屋で日本の週刊誌が買えたらしいが、そうした日本の出版物を扱う店は当時のミラノになかったのだ。 「私が通っていた日本語学校には、やはり赴任してきている銀行家の奥様たちがいらっしゃり、週刊朝日を読みたいというんです。お渡ししたら『回覧していい?』って(笑)。皆さん、日本の情報に飢えていらしたんですね」  臼井さんが短歌を始めたきっかけはNHKで放送していた初心者向けの短歌番組「短歌de胸キュン」を見て。 「出演していたフルーツポンチの村上(健志)さんやスピードワゴンの井戸田(潤)さんが作った歌を見て、こんなに素直に詠んでいいんだと感じたことでした。番組に投稿したら3回くらい採用されたんです。ちょうどその頃、知人から短歌サークルに入ったら?と誘われていたので、加入して詠み始めました。テーマを与えられて詠む“題詠”よりも自由に詠むほうが好きですね」  このほか<スマホなど無かった時代の情報源「週刊朝日」が休刊するとふ>と詠んだ埼玉県川越市の西村健児さんが入選している。  選者の一人・歌人の佐佐木幸綱氏は「朝日歌壇は新聞の一部だと考えているので、新しいニュースを詠んだ歌はできるだけすくい取りたいと考えています。2月19日の選評でも書きましたが、この回は週刊朝日休刊を惜しむ歌がたくさん送られていました。その中から厳選して2首を入選にしたんです」と言う。 読者の記憶にも強く残った宮崎美子さんの表紙(1980年1月25日号)  惜しくも入選を果たせなかったが本誌休刊について詠んだ人にも話を聞いた。 <美子さんが表紙飾りし週刊誌休刊のニュースにあの頃偲ぶ>と写真家・篠山紀信氏が撮影した女優・宮崎美子さん(当時は女子大生)の表紙を歌にしたのは千葉県銚子市の小山年男さん(93)。短歌歴は長く、これまで戦後の生活などを詠んだ歌を投稿し、県版の短歌コーナーには何度も掲載されているという。 「短歌はいい頭の体操。高齢者施設に入居していますので、コロナ感染対策で外出できないんです。なので歌の材料はどうしてもテレビのニュースから選んでしまいます。今回、週刊朝日の休刊を詠んだのも、新聞で知って感じたままを歌にしました」  小山さんはこの歌を恩返しというが、その理由は、学生時代に朝日新聞の販売店でバイトをしながら大学に通い、卒業後に教師になれたからだ。 「新聞学生だったんです。配達はつらかったこともある。特に雨の日と週刊朝日の発売が重なった時ね。普段の新聞に加えて週刊朝日を定期購読している人の家に配っていた。でもそのおかげで卒業できた。足を向けては寝られないと思うほど感謝していたけど、今回取材を受けて少しだけ錦を飾れた気持ちです」 ■進路を決定した週刊朝日の英語 <幼き日「よく知ってるね」と褒められし「週刊朝日」を毎週読みし>と詠んだ千葉県四街道市の久賀田洋子さん(79)は、両親が定期購読していたので小学生時代から週刊朝日を読んでいたという。 「中学生の頃、週刊朝日で覚えた“エポックメイキング”という単語を知ったかぶりで使ったら褒められたんです。それが嬉しくて英語に興味を持って勉強し、大学は英文科に進学して英語の教師になりました。週刊朝日が私の進路を決めたようなものなので、今も読んでいるんですよ」 <内館さん嵐山さん変わらない「週刊朝日」が好きだったのに>と詠んだのは大分県中津市の瀬口美子さん(70)。 「人生の先輩である内館さんと嵐山さんの連載が好きです。お二人ともものの見方が多角的で、勉強になっています。両親が読んでいたので週刊朝日はいつも家にあり、子供の頃からのお付き合いですね。友人が朝日歌壇に投稿しているのを知って、私も挑戦し始めた。今年で歌作り4年目です」 <新聞でわからぬことは「週朝」で親より尚(ひさ)し休刊無念>と詠んだ東京都の松本知子さん(72)は短歌歴7年の朝日歌壇常連投稿者だ。 「大学生だった娘がオープンカレッジをすすめてくれて、『初めての短歌』という講座に通ったのが8年前。講座で作った歌を投稿したのが朝日歌壇初入選。故郷でみかん農家をしている兄を詠んだ歌でした。それ以来、気に入った歌ができるたびに投稿して、これまでに74首掲載していただいているんです。歌で詠んだとおり“週朝”は毎号読んでいてね、私にとっては社会を知る大切な手段だったのに……」  話を聞かせていただいた皆さんが口をそろえて二つの言葉を口にした。「残念です」と「今までありがとう」だ。こちらこそありがとうございました。(本誌・鈴木裕也)※週刊朝日  2023年4月14日号
坂本龍一、コンサートで泣く子を「泣き声も音楽の一部」とフォロー ライブで振り返る“教授”の軌跡
坂本龍一、コンサートで泣く子を「泣き声も音楽の一部」とフォロー ライブで振り返る“教授”の軌跡 坂本龍一さん  坂本龍一が死去した。世界中のメディアが彼の死を一斉に報じ、多くのアーティスト――大貫妙子、加藤登紀子、北野武、石野卓球、矢野顕子、坂本美雨、SUGA(BTS)、デヴィッド・シルヴィアン、カエターノ・ヴェローゾなど――が哀悼の意を示した。同時に、坂本の経歴や功績を伝える追悼文も数多く発信された。しばらくはこの状態が続くのだろう。  YMOのヒットアルバム『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』(1979年)リリース当時、小学生だった筆者も、40年以上にわたって坂本の音楽に魅了されてきた。いちファンとして情報番組やニュース記事での取り上げられ方をみて、「坂本龍一さんのキャリアを正確に伝えるのは難しいんだな」と思ったのも正直なところだ。世界中に知られる楽曲をいくつも持つアーティストだから仕方がないのかもしれない。もちろん自分も、その功績を過不足なく網羅する追悼文を書けるかというと、自信はない。彼が残した音楽はあまりに巨大で、伝えられるべきエピソードは膨大だからだ。  だから今回は、極私的ではあるが、筆者が実際に足を運んだライブをいくつか振り返りつつ、坂本龍一の音楽的な軌跡を記してみようと思う。これから世界中の人が、自分の体験を通した「坂本龍一」を語り継ぐだろう。その一端を担えたらと思う。 *  *  * ■YMO「テクノドン・ライヴ』/1993年  筆者が初めて生の坂本龍一を観たのは1993年6月、東京ドームで行われたYMOの「テクノドン・ライヴ』だった。1983年に“散開”(解散)したYMOは1993年に“再生”(再結成)。70年代後半から80年代にかけて世界中にテクノブームを巻き起こした伝説のバンドの10年ぶりのコンサートとあって、観客は開演前から前のめりだったのだが、発表されたばかりのアルバム『テクノドン』を中心にしたステージはかなり前衛的で、会場全体が“静かに聴くモード”になったことを覚えている。この日、1曲目に演奏された「BE A SUPERAMAN」には、ウィリアム・S・バロウズが声で参加。1950年代のビート・ジェネレーションを代表する伝説の作家にオファーしたのは、坂本のアイデアだった。 映画「ラストエンペラー」の音楽でアカデミー賞作曲賞を受賞した坂本龍一さん ■sweet revenge Tour 1994  1987年の映画「ラストエンペラー」の音楽でアカデミー賞作曲賞を受賞。1992年にバルセロナ・オリンピック開会式の音楽を担当し、自らオーケストラを指揮するなど、世界的な音楽家としての名声を得た坂本は、1994年にアルバム『スウィート・リべンジ』を発表。ボサノバの要素を取り入れた本作を中心にしたツアーには、シンガー・ソングライターの高野寛やイギリス人バイオリニストのエヴァートン・ネルソンなど国内外のミュージシャンが参加した。  ポップな歌モノを中心としたコンサートは終始リラックスした雰囲気で進んだ。筆者が足を運んだ会場では、演奏中に小さい子どもが泣き出すアクシデントがあったのだが、坂本は「気にしないでくださいね。子どもの泣き声も音楽の一部だから」と優しくフォロー。坂本に対する“厳密で気難しい人”という筆者の勝手なイメージは百八十度変わった。 ■アルバム『BTTB』発売時のインストアイベント/1998年  1998年に発表された『BTTB』は、坂本が影響を受けたドビュッシー、モーリス・ラヴェル、エリック・サティなどを想起させるピアノのインスト曲を収めた作品。本作のリリースに際し、都内の複数のCDショップでインストアイベントが行われた。筆者は新宿のCDショップに参加。黒のセットアップとNew Balanceのスニーカーという格好で登場した坂本は、「どうもありがとうございます」と笑顔でピアノの前に座り、アルバムの収録曲を演奏した。筆者はピアノの真後ろにいたのだが、目の前に教授がいることの興奮で、何の曲を演奏したかも覚えていない。  翌1999年リリースのインスト曲「energy flow」(「ウラBTTB」収録)は、栄養剤のCMに起用され、大ヒットを記録。当時の筆者の感想は「もっといい曲たくさんあるよ」だった。 ■「MORELENBAUM2/SAKAMOTO」コンサート/2001年  ボサノバの生みの親として知られるアントニオ・カルロス・ジョビンが率いたバンド“バンダ・ノヴァ”のメンバーであるジャック・モレレンバウムと、その妻ポーラ、そして坂本龍一による「MORELENBAUM2/SAKAMOTO」。2001年8月に東京と大阪で行われたこのユニットコンサートの照明は、風力発電によってまかなわれていた(会場の赤坂ACTシアターの前には風力発電の装置が装備された車が置かれていた)。  ライブでは「MORELENBAUM2/SAKAMOTO」名義の楽曲のほか、地雷除去のキャンペーンのために制作された「ZERO LANDMINE」も演奏された。坂本龍一の呼びかけで結成されたユニット「N.M.L.」(NO MORE LANDMINE)名義で発表されたこの曲には、シンディー・ローパー、ブライアン・イーノ、桜井和寿(Mr.Children)などが参加。この後も坂本は、環境問題、社会問題に積極的に関わるようになる。 ■FUJIROCKFESTIVAL2011/YMO  震災の年の“フジロック”の最終日(7月31日)にYMOが登場。ライブが行われたのはグリーンステージ(メインステージ)だが、じつは同じ日に行われていたアトミック・カフェ(1980年代から続く反核・脱原発イベント)にも登場していた。筆者は運よくその場に居合わせていたのだが、メンバーの3人は福島第一原子力発電所の事故に対する不安や憤りを率直に話していた。なかでも坂本は、この国の原子力政策に対する怒りをストレートに表明していて、強く共感しつつも、少々驚いた記憶がある。  ライブには坂本、細野晴臣、高橋幸宏のほか、サポートメンバーの小山田圭吾、権藤知彦、クリスチャン・フェネスも出演。「ファイアークラッカー」「千のナイフ」「ライディーン」「東風」などの代表曲を新たなアレンジで披露した。この時点でファン歴30年だった筆者は、「ようやくYMOを観た」と強い感慨を覚えた。 ■トリビュート・ライブ「Glenn Gould-Remodels」/2017年12月  グレン・グールドの生誕85周年を記念して行われたイベント「Glenn Gould Gathering(グレン・グールド・ギャザリング)」。グールドを敬愛していた坂本がキュレーターをつとめ、トーク、サウンド・インスタレーション、映画上映などが行われたこのイベントのハイライトが、東京・草月会館でのリビュート・ライブ「Glenn Gould-Remodels」だった。出演は坂本のほか、ギタリストのクリスチャン・フェネス、電子音楽家のアルヴァ・ノト、ピアニストのフランチェスコ・トリスターノなど。現代音楽、実験音楽の要素を取り入れながら、それぞれの解釈でグールドを表現する刺激的なステージが繰り広げられた。  トークセッションには、若い音楽ファンに人気のバンド“サカナクション”の山口一郎が登壇。国内外のアーティストとのつながりを生かし、幅広いリスナーが様々な音楽に触れられる機会を作ったのも、坂本の功績だろう。 ■配信コンサート「Ryuichi Sakamoto: Playing the Piano 2022』/2022年12月 「ライブでコンサートをやりきる体力がない――。この形式での演奏を見ていただくのは、これが最後になるかもしれない」。そんな言葉とともに届けられた配信コンサートは、坂本が「日本でいちばんいいスタジオ」と評するNHK放送センターの509スタジオで1日数曲ずつ収録され、1本のコンサートになるように編集されたもの。坂本の存在を世界に知らしめた「Merry Christmas Mr. Lawrence」、YMOの「東風」をはじめとする代表曲から、ラストアルバム『12』の収録曲まで、厳選された13曲が披露された。過去を振り返るのではなく、自らの音楽の可能性を信じ、新たな表現に向かおうとする姿勢こそが、この配信ライブのすごさだろう。  坂本が作詞・作曲を手がけたYMOの「音楽」(アルバム『浮気なぼくら』収録/1983年)は、<ぼくは地図帳拡げてオンガク>というフレーズではじまる。まさに地図帳を拡げるように彼は、活動のフィールドと音楽的な表現を拡大し続けてきた。その軌跡を追うことは、音楽そのものの豊かさと可能性につながっているのだと思う。ご冥福をお祈りいたします。 (森 朋之) 森朋之(もり・ともゆき)/音楽ライター。1990年代の終わりからライターとして活動をはじめ、延べ5000組以上のアーティストのインタビューを担当。ロックバンド、シンガーソングライターからアニソンまで、日本のポピュラーミュージック全般が守備範囲。主な寄稿先に、音楽ナタリー、リアルサウンド、オリコンなど。
天龍さんが語る“プロレス団体” 「ギャラが高いんだよ!」と噛みついたレスラーとは?
天龍さんが語る“プロレス団体” 「ギャラが高いんだよ!」と噛みついたレスラーとは? 天龍源一郎(てんりゅう・げんいちろう)/1950年、福井県生まれ(撮影/写真部・掛祥葉子)  9月に「環軸椎亜脱臼(かんじくつい あだっきゅう)に伴う脊髄症・脊柱管狭窄症」であるということがわかり、現在は入院してリハビリ中の天龍源一郎さん。今回は入院先から主治医の許可をもらいながら、プロレス団体にまつわる思い出を語ってもらいました。 *  *  *  俺が感じた全日本プロレスと新日本プロレスの違いは、全日本は昔から言われているように「ジャイアント馬場商店」で、新日本は「株式会社」というイメージ。驚いたのは、新日本に参戦しているとき、他のプロレスラーが「タクシーを使ったから清算しなきゃ」と話ていたことだ。  試合が終わって、団体のバスで帰ることもできるし、各々で帰宅することもできて、そのときにタクシーを使っても会社が清算してくれるんだよ。初めて聞いたときは「えー! そんなことできるの!?」って驚いたよ。全日本はタクシー代なんて自分の持ち出しになるし、そもそもバスで帰ると決めたらみんなでバスに乗って帰っていた。  だから新日本に参戦しているときは自宅から会場まで、会場から自宅までタクシーを使って、経費が会社持ちで助かったよ。1日1万円くらいかかるからね。それから驚いたのは、新日では試合終了が遅くなってバスで帰るとき、各々の席に弁当が置いてあったことだ。  これも最初は意味がわからなかったけど、他のレスラーから「それ、食べていいんですよ」って教えられてね。全日本だったらどこか途中のサービスエリアかドライブインみたいなところに寄って、各自で好きなもの食べるというスタイル。もちろん自費だ。  全日本は力道山関が日本プロレスでそうしていたから、馬場さんもそのスタイルを取り入れたのか、アメリカでトップを取った立場としてアメリカナイズされたスタイルを取ったんだろう。アメリカでは宿泊費も交通費もすべて自腹で、払われるのはファイトマネーのみ。  その中でやりくりしなければいけないので、厄介なのはケガだ。アメリカで病院に行こうものなら、俺が修行していた1970年代当時でも300~500ドルくらいかかってしまって、とてもファイトマネーだけではまかない切れない。膝を捻挫しときはサロメチールを塗りたくった上からラップをグルグル巻いて、自力でどうにか治したもんだよ。   昨年6月24日に亡くなられた妻・まき代さんの写真と(公式インスタグラム@tenryu_genichiroより)【大会情報】新シリーズ『STILL REVOLUTION』Vol.1/日時:4月19日(水)18:30OPEN/19:00GONG/会場:東京・新木場1stRING/【チケット料金】(前売りチケット)※当日券は500円UP/特別リングサイド…6,500円(東西南1列目 /2列目)/指定席…5,500円(南側ひな壇)【チケット販売所】天龍プロジェクト…https://www.tenryuproject.jp/product/575  それでまた、新日本で驚かされたのは、ケガをしたら「では、この病院で治療してください」って病院の指定もあって、治療費も出してくれるっていうんだ。全日本とはだいぶ待遇が違ったね。  では、肝心のファイトマネーはどうかというと、意外にも、長州力が全日に来たとき、その真意はわからないが、馬場さんがポロっと「長州、意外と安いな……」と言っていたんだ。  おそらく、一試合当たりのギャラのことだと思うんだけど、当時の長州は勢いがあって、サイン会は一回3000万円なんて言われていたときだよ。それなのに「俺たちの方がファイトマネー」は高いんだと意外だったよ。当時、新日は年間約200試合で、全日は140~150試合くらいだったから、その分、一試合辺りのギャラは抑えられていたのかもね。  俺が新日本に参戦したのは、あくまでゲスト扱いで、さらにうちのタフネゴシエーター、女房のまき代が交渉してくれたおかげで、かなりいい額をもらっていたよ。それが気に食わなかったのか、木村健悟に「あんた、たまにしか来ないくせにギャラが高いんだよ!」と言われたよ(笑)。  木村は当時、新日本の上層部にいたから俺のギャラを知っていたんだろうけど、それを聞いていた越中詩郎たちに「みっともないからそんなこと言うなよ!」なんて、なだめられていたね。木村がこれを読んでいたら、またイラっとしてるかな?  他にも、全日本が巡業で泊まるのはビジネスホテルだけど、新日本はシティホテルで、全日本の俺たちも「シティホテルに泊まりたいなぁ」なんて思っていたよ。アントニオ猪木さんは突っ張っているように見えて、実は選手たちのことをしっかり守っていたというか“働きやすい会社”を作り上げたんだよね。  新日本のバスで帰るとき、猪木さんがなかなかバス乗り場に来ないことがあったんだけど、そしたらみんな「もう、出ちゃえ」って猪木さんを待たずに出発していたからね。全日本じゃあ考えられないよ! どんなに遅くなっても馬場さんが喫茶店でコーヒーを飲み終わるまで全員で待っていたからね。猪木さんはそういうことを本当に気にしない人だった。  全日本はジャイアント馬場のもとで選手全員が一致団結していた団体だけど、新日はいろいろな派閥があって、その中で切磋琢磨して盛り上がっている団体。  猪木さんはレスラーに「リングに上がったらケンカのつもりでやれ!」と教えていたらしいけど、本当にその通りで、俺が新日本に参戦したときは、絶え間なく次々と攻撃してくるスタイルに面食らったよ。間なんてものが全然ないんだもの。逆に長州が全日本のリングに上がったときは全日本のレスラーが「間もタイミングもあったもんじゃない!」と愚痴っていたしね。  選手のスタイルが違うと、ファンの気質も違う。新日本のファンはやっぱり尖っていたし、全日本のファンは優しかったと思う。野次も全日本は「動きが遅いぞ~」「もっと早く動け~」というものが多かったが、新日は試合内容に対してガーガー言ってくることが多かったよ。  俺がフリーになって、そんな新日本と全日本の違いを肌で感じて、古巣の全日本が懐かしく思えて、「全日の頃はよかったな」って思っていたとき、ノアに参戦したんだ。全日本のアットホームな雰囲気を味わいたくてね。  でも、ノアは全日本ではなく、三沢光晴の団体だったね。当然と言えば当然だ。全日本のときは三沢たちの上に俺たちがいて、その上に馬場さんと馬場元子さんがいたけど、ノアは三沢が仕切っている団体で、他のレスラーも三沢に気を遣っているのが分かった。  ただ、プロレス自体はやっぱり全日色が残っていたよね。体に染み付いていたものだから、そのスタイルはなかなか変えられない。長州だって、どこに行っても好き勝手に動き回るスタイルだし。俺はどうかって? 俺の基礎には全日があるが、それから色々な団体のリングに上がって色々なものを身に着けた、いわば“天龍源一郎のスタイル”だ。そうでなきゃ“ミスター・プロレス”なんて呼ばれるわけないだろう(笑)。  SWSのときはトップの俺を前面に出してやるつもりだったが、それを嫌がるレスラーが多くてね。やりづらいというよりも「こいつ、わかってないな……」「お前みたいなあんちゃんにプロレスの何がわかるんだよ」という気持ちだった。  だから、WARを立ち上げたときは天龍源一郎を前面に出した団体にしたんだよね。これは馬場さんの「俺はアメリカでトップを取ったレスラーだ。俺の人気を超えられるか?」という姿勢や雰囲気を見て教えられたものだ。  今思い返すと、馬場さんと猪木さんがいた日本プロレスは本当にすごい団体だったね。馬場さんファンと猪木さんのファンが明確に分かれていて、見に行ったお客さんは楽しかっただろうなあ。  他にもDRAGON GATEやWJ、ハッスルなんかのリングに上がったこともあるが、俺が語るのも口幅ったいから、特に何も言わないでおくよ……。  最後に天龍プロジェクトだ。俺の娘で代表の紋奈がプロレス好きで、あっちこっちにネットを張って、いい選手たちに「うちのリングに上がって」と交渉して、選手も「天龍がやっている団体なら」と来てくれて、礼儀正しくやってくれているのが嬉しい。  プロレス団体として興行を再開して約3年になるけど、出場している選手たちが成長しているのがわかるし、その成長を見るのが俺も代表の紋奈も大好きなんだ!  経験を積んで成長すると、無駄な技を出したり、受けたりするといった、余計な動きが減ってくる。レスラーは最初、なんでもかんでも技を出したがるもんだが、経験を積むと「この技は今はいらない」と必要な技が何かわかってくるし、タイミングよくパパっと技が出てくると「練習しているな」と感じるんだ。  それから、一見何もしていない間も重要だ。無駄な動きをしていると、プロレスを見慣れているお客さんからしたら目障りでしょうがない。その間や無駄な動きを省いた究極が、酔っぱらって高座で寝ちゃった落語の名人、古今亭志ん生だろうな。お客さんも「志ん生が寝ている姿なんか滅多に見られないから、寝かせてやれ」と言ったというし、一流になると存在感だけでお客さんを楽しませられるんだ!  プロレスのファンもそんな存在感のあるレスラーを愛しているし、そのレスラーが一流かどうかはレスラーよりもお客さんがわかっているんじゃないか。だって、レスラーは一日一試合しかしないけど、お客さんは一日で何試合も見て、他の日も色々な団体の色々なレスラーの試合を見ている。  リングに上がっている選手より、ファンの方がレスラーを見る目が肥えているんだ。だから、レスラーはこのことを心してリングに上がって、カッコいい試合をしなければいけないんだぞ! って、最後にいいことを言ったね~。自分でもそう思うよ(笑)。さすが、ミスター・プロレスだろう! (構成・高橋ダイスケ) 天龍源一郎(てんりゅう・げんいちろう)/1950年、福井県生まれ。「ミスター・プロレス」の異名をとる。63年、13歳で大相撲の二所ノ関部屋入門後、天龍の四股名で16場所在位。76年10月にプロレスに転向、全日本プロレスに入団。90年に新団体SWSに移籍、92年にはWARを旗揚げ。2010年に「天龍プロジェクト」を発足。2015年11月15日、両国国技館での引退試合をもってマット生活に幕を下ろす。
うつや大病も克服 俳優・小山明子が大事にする「かきくけこ」とは
うつや大病も克服 俳優・小山明子が大事にする「かきくけこ」とは 小山明子(こやまあきこ)/ 1935年1月27日、千葉県生まれ。松竹にスカウトされ、55年に「ママ横をむいてて」でデビュー。60年に映画監督の大島渚氏と結婚し、その後フリーに。著作に大島氏の介護生活を綴った『パパはマイナス50点』など。  体は老いていけども、健康のまま長生きするにはどうしたらいいのか。いまは亡き映画監督の大島渚さんの妻であり、俳優の小山明子さん(88)には、生きていくうえで大切にしている標語があるという。 *  *  *  80歳を過ぎてから急激に「老い」を感じています。でも、受け入れなければしょうがないですよ。老いは必ず訪れるんだから。いまは筋肉が固まるのを防ぐために体を動かすようにしています。  一つは水泳。20年くらい前に始めました。水中で1時間、歩くなどしています。トレーニングにも週3日通っていて、機械を使って30分間筋トレしています。休みなしですからハードですよ。おかげで実年齢より若い77歳の筋肉量になりました。  昨年からコーラスも始めました。月1回、十数人のクラスで、自分たちの好きな曲を歌うの。私は大島によく歌ってあげていた「月の沙漠」をリクエストすることが多いですね。  麻雀で頭の体操も。これは月2回。8時間くらいやる日もあるんです。学生麻雀かってくらいやっています(笑)。  一昨年、経済的な心配事が原因でうつ病になりましたが、家族が支えてくれて立ち直ることができました。むしろうつを機に、家族との関わりが増えましたね。息子たちが急に優しくなって(笑)。長男とは月1回の「焼き鳥デート」をはじめたり、日曜日に孫とひ孫と食事をするようになったり。この間も88歳のお祝いをしてもらいました。  大島を介護していた61歳のときもうつ病になって、治るのに4年くらいかかりました。大島が亡くなってから10年間は、乳がんや心臓病、脊柱管狭窄症といろんな病気をして、全部手術したんです。手術のときには肉親のサインが必要で……。みんなに迷惑かけたなって思っています。健康のために運動をしているのも、このときの気持ちがあるからです。  そんな経験をしてきたからこそ、大切にしている標語があります。それは「かきくけこ」。「か」は感謝する、感動する、「き」は興味を持つ、「く」は工夫する、「け」は健康に注意する、「こ」は好奇心、転ばない。大島が介護のときに、「ありがとう」って言ってくれたから、気持ちよく介護ができました。それから、いまWBC(取材は決勝ラウンド前)が楽しみで、試合の日は夜の11時まで観ているの。普通、年を取ると好奇心が薄くなってくると思いますけど、それじゃダメ。やっぱり好奇心を持って、若い人と接することが大事です。  いま付き合っているのは60代が多くて、映画やお芝居を一緒に観に行っています。そういうお友達を作ったほうがいいですね。いま人生がすごく充実しています。 (本誌・唐澤俊介)※週刊朝日  2023年4月14日号
「女性は“誰かに属している”ことを求められる」 地方女子が感じる「生きづらさ」の正体
「女性は“誰かに属している”ことを求められる」 地方女子が感じる「生きづらさ」の正体 ※写真はイメージです。本文とは関係ありません(写真:violet-blue / iStock / Getty Images Plus)  辻村深月著『傲慢と善良』が大ヒットしている理由のひとつに、ストーリーを読みすすめるうちに現代社会における生きづらさが次々と浮かび上がってくる点があるだろう。  ひと組の男女がマッチングアプリを通して出会って、婚約する。本作の主人公である坂庭真実(まみ)と西澤架(かける)。すべてが順調に見えた。それなのに、真実は突然失踪する。  架はその行方を追い、真実を知る人に会って、話を聞く。それは真実がどう生きてきたかをたどる旅でもあった。そのなかで架は、婚約者が抱えていた生きづらさにまるで気づいていなかった自分を突きつけられる。ふたりが生きてきた環境に共通点が少なかったことも、その一因だ。  架は東京に育ち、小さいながら親から継いだ会社を経営し、社交的な性格も手伝って学生時代からの友人は男女問わず多い。一方の真実は群馬県に生まれ公務員の父と専業主婦の母のもとで育ち、地元の女子高、女子大を経て、やはり地元の県庁に臨時職員として就職して、親元から通った。  地元にいたときの真実は息苦しさに喘ぎ、しかし自分ではそうとは気づいていないようだった。  ここで、同じく地方に暮らし息苦しさを感じている女性たちの話を紹介しよう。北陸地方在住のモモエさんは、こう話す。 「このあたりではいまでも、女性は“誰かに属している”ことを求められます。独身なら●●さんのところの娘さん、結婚すれば▲▲家に嫁に行った。特に冠婚葬祭で親戚が集まるときに、それを強く感じます。私は未婚で両親と同居しているのですが、そうなると40代になっても“あそこの家の娘”としか認識されない。私がなんの仕事をしているとか、何が好きで、どんな人間であるとかは、誰も興味がない感じです」  結婚した女性は、たとえ仕事をもっていてもそこには注目されず、夫の勤め先などが話題になる、とモモエさんは付け加える。作中の真実は親のすすめに従ってお見合いをしたが、母親は相手の職業への思い入れが強かったようだ。その身上書を自分の友人に見せ、真実から怒られたこともある。 ※写真はイメージです。本文とは関係ありません  モモエさんが生まれ育った地域では、地縁と血縁が強い。適応すればそれはそれで楽なのかもしれないが、モモエさんのように疑問をもつと途端に息苦しくなる。でも、自分ひとりがその息苦しさを訴えたところで、変わるものではない。モモエさんの淡々とした口調には、あきらめの色が混ざっている。  地縁と血縁は、しがらみになりやすい。 「私が育った家では、プライバシーの概念というのがまったくなかったんですよ」と話してくれたのは、30代のアリサさん。現在は東京在住だが、山陰地方に生まれ育った。 「うちは祖父母も親族もみんな県内にいるのですが、しょっちゅう電話し合っては、母が『アリサが学校でこんなことしてね』『先生にこんなことを言われてね』と何から何まで話すんです。子どもながら、自分のことを勝手に言いふらされることに強い反発を覚えました。よかれと思ってなんでしょうけど、自分は世間話のネタでしかないんだと感じられたし、母親同士の集まりなど家族以外にも私のことを話しているのではないかと不安になって。結果、自分のことを一切知られたくないと思ってそれが態度にも出ていたので、親からすれば秘密主義の困った子どもに見えていたと思います」  30代のレナさんも同じく、生まれ育った東海地方でプライバシーのなさに苦手意識を感じていた。 「ご近所のあの子はどこの大学に行ったとか、あそこのうちの長男は仕事を辞めたらしいとか……。それを知って何になるんだろう、と思いますね。その噂になっている人のことを私はよく知らないし、興味もない。それでも耳に入ってくる煩わしさがありました」  口さがない人は、どこにでもいる。しかし地方でこうしたことがより起きやすいのは、同質性の高いコミュニティーでは、ひとりの情報をその他全員で共有することがよしとされる傾向があるからだろう。そして、自分の周囲はすべて同質だと思っているからこそ、学歴や職業、婚家といった“違い”が話題になりやすい。  加えて、コミュニティーが小さく、それでいて密であるためにこんなことも起きるという。 ※写真はイメージです。本文とは関係ありません 「友だちと出かけた先で、母親の同級生に会うとか知り合いに見られているとかもしょっちゅうで、『レナちゃん、来てたわよ』というのがウチにまで伝わってくる。デートをしたくても誰かに見られて、親にも知られるかもしれない……と考えると、出かけるのもためらわれますよね」  いたるところに大小さまざまなしがらみがあって、行動するたびそれに引っかかる。作中での真実も、人間関係はすべて地元で築いてきたものだった。職場でも、お見合い相手と出かけたショッピングセンターでも、古い知り合いに出会う。  レナさんは、大学進学を機に上京した。祖父は「女の子には学問はいらん!」と言っていたが、両親の考えは違った。 「地元では、女性の働き口が少ないんです。ほとんどが非正規雇用だし、正社員でも給与が信じられないほど低い。女性がひとりで生活をすることが想定されていないんでしょうね。そこそこのお金を得るとなると医師、看護師、薬剤師などの医療関係か、教職以外にない」  女性は人生の早いうちからそれを知り、人生の選択を迫られる。 「高校生のとき進学を考えるにも、女子は『あの学科にいって、あの資格を取って、将来はあの職業に就く』って具体的な想定をしている子が多かったと思います。男子はもっと漠然としていたけど、きっとそれでもなんとかなるんですよ。私は大学進学時に奨学金を利用することになっていたので、地元の大学に進み地元で職に就くと将来きっと返済に困るだろう、という考えが両親にもあったようです」  作中の真実は、県庁勤めとはいえ臨時職員だった。契約は1年更新。経済的に困ることはなさそうだが、それは親元で暮らしているからだろう。  女性と職の問題は、結婚とも無関係ではない。  モモエさんは職場で、複雑な思いに駆られたことがある。「仕事がデキる」と評判の女性がいた。年のころは30歳手前。上司の覚えもよく、同僚や後輩からも人望があるが、昇進することはない。そんな彼女が辞表を出したと聞き、モモエさんは耳を疑った。しかも結婚を機に辞めるのだという。 ※写真はイメージです。本文とは関係ありません 「その3カ月前には彼氏がいないと言っていたのに……。お見合いをして、あれよあれよという間に話が決まったそうです。私、彼女が退職のあいさつが忘れらなくて。『これからは主人のためだけに生きていきます!』って言ったんですよね」  前時代的なセリフに驚かされはしたが、彼女の気持ちもわからなくもない。 「勤め先には女性社員が20人ほどいるけど、そのなかで既婚者は2人だけ。どちらにもお子さんはいません。そうした光景を見ていると、この先、結婚して家庭を維持し、人によっては子どもを育てながらこの会社で働いていくっていうイメージが持てませんよね」  そのような環境で、生活の安定を求めて結婚するケースをモモエさんはいくつも見てきた。しかし周囲に漂っている「結婚すれば幸せになる」「養われるのが女の幸せ」という考えには懐疑的だ。先のことは誰にもわからないし、人の妻となったことで安定を得られるとは思えない。  モモエさんは、今後も働きつづけたいと思っている。生きていくには当然のことだ。しかし40代で未婚、両親と同居している自分が、狭くて密なコミュニティーではどのように言われているのかは、だいたい想像がつく。本人が結婚を望んでいなくても周りからは「していない」ことだけが取り沙汰され、仕事をつづけたいということについては話題にものぼらない。モモエさんはその話しぶりからも自立した女性だとわかるが、地元でそれは評価されない。  その人の評価は、その人自身によってでなく、しがらみのなかのどの位置にいるかで決まる。真実の出身大学は、県下では有名な“お嬢さん大学”で、地元企業にはわざわざ就職の枠を設けているところもあるという。真実の姉から、それは「お嫁さん枠」を意味するのだと聞いて、東京育ちの架は驚く。  ただし真実はその枠には入らず、親の伝手で県庁に就職する。同じく臨時職員の同僚には、出産で一度辞めたが経験値を買われて再契約した女性もいる。キャリアを築くことはむずかしくとも、それなりに長く勤められたかもしれない仕事を辞めてまで、真実は地元から出た。 ※写真はイメージです。本文とは関係ありません  地元を離れるのは、簡単なことではない。今回お話を聞いたレナさんとアリサさんは、大学進学を機に親元、地元を離れて都市部に出ている。アリサさんは振り返る。 「母は自分が高卒で就職して悔しい思いをしたことから、四年制大学には絶対に行きなさいという教育方針だったのですが、県外にいくのは親も親戚も大反対。願書を出すギリギリまで電話がかかってきて『地元の大学じゃダメなの?』『県内でひとり暮らしして、通えるところにすればいいじゃない』といわれました」  アリサさんには高校生のときから将来就きたい職業が明確にあり、それに向けて資格をとるプランも立てていた。そのことは尊重されず、ただ地元にいることを求められる。押し切って大阪の大学に進学したアリサさん、ここではじめてのびのびできたのではないだろうか。 「それが、頭のなかにずっと親や親戚がいるんです。親がすぐには来られない遠くにいて、誰にも見られてないとわかっていても、ずっと口を出され干渉されている感じ。苦痛でしたね。そのうち、不思議なことが起きたんです。洋服がピンクやパステルカラー、フリルやレースといったファンシーなものばかりになってしまって……。地元にいるときは干渉されたくない、女の子らしさやかわいらしさを押し付けられるのを嫌って、ずっと無地で黒色の服ばかり着ていたんです。幼児がえりみたいなものですかね。同時に、私こういうのが実は好きだったんだと気づいて、少し泣いて、自分のなかの小学生の女の子が成仏した感じです」  レナさんは、大学の夏休みで帰省中に、水害に見舞われた。 「そのときは隣近所の人が声をかけあって物資をフォローしあったりして、地元のよさも感じました。つながりが密なのって、いい面も悪い面もありますよね。就職後に親元を出て地元でひとり暮らしという人もいますが、見ていると出たいのは親元ではなく地元そのものなのだろうなと思います。でも出たい気持ちがあっても、給料が全体的に低いので貯蓄もできない、ひとり暮らしをはじめる資金を貯めることもできない。タイミングもむずかしいですよね、進学や就職、それから結婚など、わかりやすいタイミングでないと、なんで?って言われちゃう」 辻村深月著『傲慢と善良』(朝日文庫)※Amazonで本の詳細を見る  作中の真実の上京も、周囲からは「なんで?」と思われた。母にも姉にその理由がわからない。彼女らから話を聞いた架も当然わからない、が、そこにこそ真実という人を知るヒントがあるように思えてならなかった。  地元のつながりのよさも知っている。そのうえでレナさんは、首都圏で就職し、いまのところ地元に帰る予定はない。連絡を取りつづける幼馴染は2人ほどいるが、同窓会の案内があっても出ようと思ったことはない。血縁はともかく、地縁が自分に必要だと思えない。ご近所、同級生、親の知り合い……「私のことは放っておいて!」と思う。レナさんにとって地元は「放っておいてくれが通じない場所」だった。  アリサさんは大学卒業後、山陰の地元に帰って就職する。息苦しさはすぐに復活した。地縁と血縁の強さを思い知らされた。母親は、無断でアリサさんの職場を覗きにきて「がんばってたわね」などという。これも親心、とは思えない。「逃げなければ」と思い続け、かわいがってくれた祖父母が他界したのを機に、今度は東京に出た。資格を活かした仕事に就き、やがて独立。もう地元に戻ることはないだろう。 「いまは、私のバックボーンを知っている人が身近にいない環境に逃げてこられたのだと感じて、それだけで楽です。今後地元に帰ることはあるか……そうですね、両親が自分の足であちこち行くことができなくなったら、考えられるかな。ひどいことを言うと思われるかもしれませんが、動けるかぎりは私がいくつになっても干渉してくると思うんです」  地元から出ることを、アリサさんは「逃げる」と表現する。進路を自分で決め資格を取り、一度は地元に戻ったものの、転職とともに再び地元を出る……すべて自分で獲得したものであるにもかかわらず「逃げた」という感覚が強いようだった。それほど“しがらみ”が怖いのだろう。いま暮らしている東京では、地域に根ざしたいと思いながらも地元の人たちと関係を築くことに及び腰になっている。 ※写真はイメージです。本文とは関係ありません  自分で選び、獲得した場所でも、しがらみができる可能性はもちろんある。  真実も、実家を、地元を出ることで何かから逃れることができたのだろうか。断ち切りたいしがらみはあったのだろうか。そして上京することで何かを獲得できたのか。ともかく結婚がしたくて、架と出会い、婚約した。架の友人たちとも何度かあった。その人間関係は、真実にとって新たなしがらみとなるものだったのか。  その後、真実は失踪してしまう。真実の地元で知人らから話を聞き歩くことで、架にはこれまで見えていなかった真実の輪郭が見えてくる。 『傲慢と善良』は二度読みたくなる小説だ。一度目は、真実の行方、そして架との関係がどうなるのかが気になってページをくる手が止まらない。二度目は、真実がずっと抱えてきた生きづらさをつぶさに拾い、自分や誰かと重ねながらじっくり読む。何度読んでも発見があり、だからこそ「人生でいちばん刺さった」と感じる人が、きっと多いのだろう。 (取材・文/三浦ゆえ)
人前に立ち人が喜ぶことが好きな妻、がんばっている人を応援するのが好きな夫
人前に立ち人が喜ぶことが好きな妻、がんばっている人を応援するのが好きな夫 谷村未菜実さんと谷村謙一さん(撮影/楠本涼)  AERAの連載「はたらく夫婦カンケイ」では、ある共働き夫婦の出会いから結婚までの道のり、結婚後の家計や家事分担など、それぞれの視点から見た夫婦の関係を紹介します。AERA 2023年4月10日号では、ユニバーサル・スタジオ・ジャパンでクルーとして働く谷村未菜実さん、「部活のみかた」で就活支援・企業営業を担当する谷村謙一さん夫婦について取り上げました。 *  *  *  夫28歳、妻28歳で結婚。夫婦ふたり暮らし。 【出会いは?】神戸大学のフィールドホッケー部に所属していた夫が、新入生の妻に声をかけたのがきっかけ。当時お互い別の恋人がいたが、妻は「この人と結婚するかも」と直感した。 【結婚までの道のりは?】お互いが恋人と別れたタイミングで交際スタート。お互いの仕事や夢を応援し合い、交際8年を経て結婚。 【家事や家計の分担は?】夫は大学時代の4年間、レストランでアルバイトをしていたため料理が得意。いまは帰宅時間の早い妻が家事をほぼ担当。ともに掃除が得意でないので、気にせずストレスフリーに生活している。財布は別々。 妻 谷村未菜実[28]ユニバーサル・スタジオ・ジャパン クルー たにむら・みなみ◆1994年、香川県生まれ。神戸大学発達科学部人間表現学科を卒業後、航空会社に入社。2019年からYTJの所属タレント、ダンス講師として活動。22年からはユニバーサル・スタジオ・ジャパンのクルーとして活躍している  私は3歳からクラシックバレエを習い、大学でもダンスや身体表現を学んでいました。卒業後は航空会社のグランドスタッフとして働きましたが、夢に挑戦したくなり25歳のときに事務所にタレントとダンス講師として所属したんです。大阪から横浜に引っ越して、ミュージカルのオーディションを受けたり、アイドルのオーディションに挑戦したりしました。  落ちるのが当たり前の世界で厳しかったですが、一回だけ舞台の主役をすることができたんです。「ああ、やりきったなあ」と感じて、人生の次のステップに進もうと思えました。彼に夢を応援してもらえたのは嬉しかったですね。  USJで働くことを勧めてくれたのも彼なんです。「あなたは人の前に立つのが好きだし、人が喜ぶことも好きでしょ」って。私は「なんとかなる」とあまり考えないで行動するタイプですが、彼は論理的なので、アドバイスしてもらうといつも「あ~、そうかも」と納得できて、助かっています。 谷村未菜実さんと谷村謙一さん(撮影/楠本涼) 夫 谷村謙一[29]部活のみかた 就活支援・企業営業担当 たにむら・けんいち◆1993年、大阪府生まれ。2016年に神戸大学を卒業後、「ウィル」に入社。フィールドホッケーに打ち込んできた経験を生かし、18年に母校のホッケー部の監督に就任。20年からグループ会社「部活のみかた」で国立大学部活生の就職支援を行っている 「部活のみかた」で部活生の就職支援を行っています。就活市場が早期化するなかで、特に国公立大の部活生が、就活に乗り遅れてしまう状況があるんです。でも学生時代、ひとつのことに打ち込んできた学生たちはいい素質を持っている。企業と彼らをうまくつなげたいと思っています。  僕はがんばっている人を応援するのが好きなんです。だから一番身近な存在である彼女がタレントの仕事にチャレンジしたいと言ったときも「おお! がんばっといで!」と送り出しました。大阪と横浜で遠距離になりいったんは「距離を置こう」となったこともありましたが、彼女の最後の舞台を観に行って「大変な世界でがんばってきたんだな」とあらためて感じました。  僕らはお互いじっとしているのが苦手なんです。僕は2018年から母校・神戸大学のホッケー部の監督もしています。ただ僕は人を飲みに誘ったりとかはあまりしないんです。彼女が遊び友だちで、飲み友だち。一緒に暮らしているだけで毎日が楽しいです。 (構成・中村千晶) ※AERA 2023年4月10日号
俳優・田山涼成が新たな演じ方に挑戦「70を過ぎての課題がうれしい」【後編】
俳優・田山涼成が新たな演じ方に挑戦「70を過ぎての課題がうれしい」【後編】 田山涼成(たやまりょうせい)/ 1951年生まれ。愛知県出身。76年文学座研究所卒業。劇団夢の遊眠社を経て、映像・舞台に幅広く活躍。近年の主な出演作に、舞台「ウエスト・サイド・ストーリー」Season2、映画「劇場版 きのう何食べた?」「仕掛人・藤枝梅安」第一作、ドラマ「無用庵隠居修行」「最高のオバハン 中島ハルコ」など。(撮影/写真映像部・高橋奈緒)  2年前の4月、東京で4日間だけ上演され、それ以降の日程が中止になってしまった舞台「サンソン─ルイ16世の首を刎ねた男─」が2年の時を経て再始動。71歳になった俳優・田山涼成さんは舞台が中止している間に、膝を痛めたことで年齢を意識した。この2年の変化を語った。 *  *  *  そんなタイミングで、「サンソン~」が再始動することを聞いて、再びやる気がみなぎっていった。ただ、実際に稽古が始まってみると、演出家の白井晃さんからある要求があった。 「前回のようにセリフを勢いよく言ったりはできないし、足を上げようとすると、ふらつくんです(笑)。精神的には何も変わっていないのに、明らかに肉体は衰えていた。ただ、(主演の稲垣)吾郎さんとのセリフの応酬がうまくいったりすると、僕の中ではすごく気持ちがよくて、胸がスッとしていました。なんですが、白井さんの中には僕が前回やった、勢いの良かったときの残像があるんでしょうね。『田山さん、もっとそのセリフ回しを速くできますか?』って言われてしまったんです(苦笑)」  そもそも、自身の“原体験”を大事にしながら演じる田山さんにとって、「サンソン~」で演じるギヨタンという役はとても難しい役だった。 「俳優の演じ方には、大きく分けて2種類あると僕は思っているんです。一つは、役の中に自分に近いものを見つけて、役を自分に引き寄せる演じ方。もう一つは、とにかく徹底的に役を研究して、自分を役に近づけていく演じ方。僕の場合は、どちらかというと原体験を大切にしたいほう。台本で、役についての説明がいろいろ書いてあっても、『あ、そういえば身近にこんな人いたな』とか、『こんなこと感じたことがあるけど、それに近いのかな』とか。自分の体験に基づいて人物を捉えていきたいんです」  そういった演じ方をするようになったのは、田山さんにとっての“芝居の原点”が関係している。 「10歳のとき、NHKの児童劇団で子役として活動を始めたんですが、そのときに朗読や発音なんかを教えてくれる先生から、『普段、お父さん見ていて、どんなことを感じる?』とか、『お母さんの癖を知ってる?』とか、身近にいるいろんな人のことを質問されたんです。その先生の言葉が、自分の中に深く刻まれてしまった。上京してからも、街中で女性と男性が喧嘩してて、女性が車を蹴ったのを見たときに、『ああ、女の人は怒ると車を蹴ったりするんだ』とか(笑)。電車の連結部分で、若い男女がキスしてるのを見て、『羞恥心はないのかなぁ』と思ったり。周りのいろんな印象的な出来事を、記憶に残す癖がついちゃった。演じるときは、その『原体験』とか『原風景』を広げていくようになって」 撮影/写真映像部・高橋奈緒  ところが、「サンソン~」で田山さんが演じるギヨタンは、フランス革命の時代に生きていた医師。田山さんがどんなに似たような原体験を探していっても、何も見つかるはずがなかった。 「だから僕は、『サンソン~』では、自分というものをいったんなくして、役に自分を近づけていくやり方をとったんです。その芝居が中止になって、再始動したときには、以前のような動きはできず、セリフのスピードも遅くなっていた。でも、70を過ぎてより高い課題を与えられたことが、うれしくてうれしくて。少しでも、白井さんのイメージに近づきたいです」  新しくキャスティングされた若い俳優からもいろいろと刺激をもらっているという。 「自分でも、『どうしてそんなにやりたがる?』って不思議なんですが、若い才能と出会ったときに、『何か刺激ちょうだい』って言いたくなる自分がいました。また欲が出てくるんですよ」  最近のさらなる楽しみは、妻が田山さんのためにお弁当を作ってくれることだとか。 「お弁当には、手書きでその日のメニューを書いた紙が入っています。出がけに『メニューを書いた紙がない!』って大騒ぎしたりするし、味も僕の体を思うあまり、すごく薄いんですが、その心遣いも含めて、おいしくいただいています」 「舞台のことを話すつもりが、女房自慢になっちゃったかなぁ」と言いながら、田山さんは豪快に笑った。(菊地陽子 構成/長沢明) ※記事の前編を読む>>「ベテラン俳優が直面した70歳の壁 医者の『お年ですから』にショック」はコチラ※週刊朝日  2023年4月14日号より抜粋
ベテラン俳優が直面した70歳の壁 医者の「お年ですから」にショック【前編】
ベテラン俳優が直面した70歳の壁 医者の「お年ですから」にショック【前編】 田山涼成(たやまりょうせい)/ 1951年生まれ。愛知県出身。76年文学座研究所卒業。劇団夢の遊眠社を経て、映像・舞台に幅広く活躍。近年の主な出演作に、舞台「ウエスト・サイド・ストーリー」Season2、映画「劇場版 きのう何食べた?」「仕掛人・藤枝梅安」第一作、ドラマ「無用庵隠居修行」「最高のオバハン 中島ハルコ」など。(撮影/写真映像部・高橋奈緒)  2年前までは、「舞台の上では、まだまだなんでもできる」と思っていた。そう話すのは、71歳になった俳優・田山涼成さんだ。18世紀のフランス・パリに生きた稲垣吾郎さん演じる実在の死刑執行人が主人公の舞台「サンソン─ルイ16世の首を刎ねた男─」が幕を開けたのが、2021年4月23日。その舞台で田山さんは、ギロチンの発案者であるギヨタンを演じながら、勢いよくセリフを言い、ときに跳ねたり足を上げたりしていた。  ところが開演から4日間上演された後、新型コロナウイルスの感染拡大の影響で、以降の舞台が中止になってしまった。その1年前も、ステイホームで一日をどうやって過ごしたらいいかわからない状況に置かれていた。あの日常をまた繰り返すのか。目の前が真っ暗になった。 「コロナ禍で、初めて自宅にこもったときは、普段読まない本を読んだり、それがつらくなると、今度は昔の映画なんかを見始めた。でも、僕は会社勤めをしたことがなく、若い頃からずーっと芝居を続けてきたので、『現場に行かない』という日常にまったく慣れていなかった。そのせいか何をやってもすぐ飽きてしまったんです。しかも、毎日のスケジュールが空っぽだから、時間の感覚を確認するのが食事だけになってしまう。妻も、食事しか変化がつけられないことがわかっているせいか、『朝ごはん、何にする?』って聞くようになって……」  この日、田山さんはとても粋なジャケットにネクタイ、メガネにハットを被って、取材現場に現れた。「決まってますね」と言うと、「スタイリングはすべて妻が」と照れ臭そうに答える。田山さんといえば、知る人ぞ知る愛妻家。劇団時代に知り合った妻は、結婚を機に劇団を辞め、アルバイトをして家計を支えた。 「僕がプロポーズして、芝居が終わって数日後に結婚したんです。あのとき妻が働いてくれなかったら、俳優として芽の出なかった30代を乗り越えられたかどうか」 撮影/写真映像部・高橋奈緒  妻には頭の上がらない田山さんも、コロナ禍で夫婦のコミュニケーションが「食」に集約されていく中では、それなりにヤンチャもしていた。 「朝だけでなく、夜も『何食べたい?』って聞かれるものですから、普段、健康のことを考えてあまり油物を出さない妻に、油物をリクエストしたり。そうすると、すごく量が少ないんですよ。しかも、食べ終わって時計を見ると16時半ぐらいだったりして(笑)。ここからどうやって過ごすのって話ですよね。テレビを観て、お風呂入って、出てきてちょっとウイスキーを飲んで、時計を見たら23時。その頃になると無性に汁物が食べたくなる。でも、妻に汁物が食べたいなんて言えないから、ひたすら彼女が寝るのを待って。コンビニで、5分20秒ぐらいチンするだけでできるラーメンがあるので、それを夜中の2時ぐらいに食べるんです」  妻に隠れての悪事は、食べるところまではうまくいった。問題は、プラスチックのどんぶりをどう処分するかだ。 「そのままゴミ箱に捨てるわけにはいかないから、細かく切って……。そんなことをやっていたら結局すぐばれて、『やめてね』と軽く言われました」  徐々に舞台や映像の仕事が復活したところで、せっかく幕を開けた舞台が休止になってしまった。 「70歳になる少し前、実はちょっと膝を痛めて。当時はまだ『何でもできる!』って思ってたから、ジョギングなんかしちゃったら、余計に膝が痛くなってしまった。整形外科の先生に『お年ですから、やめてください』と言われてショック(苦笑)」  初めて自分の年齢を意識し、70歳になることが怖くなった。 「それで、年齢に関する本を読んだりするようになると、今度は、和田秀樹先生の『70歳が老化の分かれ道』っていう本に出合うんです。本の中では、僕が年齢に逆らっていろいろやろうと思っていたことが全部否定されていた。要は、『何もしなくていい』という内容だったので、『あ、バタバタあがかなくても、このままでいいんだ』って開き直ったんです(笑)」 (菊地陽子 構成/長沢明) ※記事の後編を読む>>「俳優・田山涼成が新たな演じ方に挑戦『70を過ぎての課題がうれしい』【後編】」はコチラ ※週刊朝日  2023年4月14日号より抜粋
加速する「ジェンダーレス制服」導入の動き そもそも制服制度は必要なのか
加速する「ジェンダーレス制服」導入の動き そもそも制服制度は必要なのか AERA 2023年4月10日号より  多様な性自認やジェンダーへの配慮から、制服の選択肢を増やす学校が増えている。これからの制服制度がどうあるべきか、改めて議論が必要なときだろう。AERA 2023年4月10日号の記事を紹介する。 *  *  *  男女別の学校制服の歴史は長い。制服制度に詳しい関西学院大学の桜井智恵子教授(教育社会学)によると、学校制服は「富国強兵」に邁進する明治期に生まれ、性別役割分業を象徴するアイテムでもあったという。 「明治期に入り、軍服をベースに士官学校や師範学校で洋装の制服が用いられるようになりました。女性用の洋装の制服が生まれたのは40年ほど後ですが、男性を支える『良妻賢母』として女性らしさを強調したデザインが用いられました。性別役割を強調した男女別の制服が現在まで続いているのです」  戦後になり、そして平成の時代に入っても学校現場で男女の区別は色濃く残った。1990年までは技術科と家庭科が男女別学で学ばれた。それ以降も、「男女で分けた管理方法を変えると現場が混乱する」と考える教員が多かった。 ■4年間で4倍以上に  しかし2010年代以降、ジェンダー平等や多様性への配慮は当然に求められるようになりつつある。制服大手のトンボによると、同社の学生服を採用する全国の中学校・高校のうち、女子制服にスラックスを導入している学校は2018年には370校だったが21年に1千校を超え、22年には1500校超に増えた。最近では、制服のモデルチェンジを検討する学校の9割以上が要望事項に「多様性に配慮した制服」を挙げるという。  女子スラックスの導入を足掛かりに、「スラックス/スカートやネクタイ/リボンの自由選択」「キュロットなど『第三の制服』導入」などへと取り組みを進める例も多い。 ■見直し求める声も  こうした取り組みは一般に「ジェンダーレス制服」と呼ばれるが、必ずしもセクシュアルマイノリティーだけを対象にしたものではない。トンボの担当者はこう話す。 キュロットタイプの制服。多様な性に対応するだけでなく、自転車の運転がしやすい、下着が見えにくいなどの利点もあるという 「『ジェンダーレス』や『多様な性に配慮した』ことをアピールしすぎると、当事者が恩着せがましく感じたり、着づらくなったりと逆効果になりかねませんし、見栄えや着心地を犠牲にしてしまうことも考えられます。重要なのは、制服を着用するすべての生徒にとって精神的な負担がかからないよう、さりげなく配慮されていることだと考えています。『着心地・見栄えの良さを両立したパターン設計とデザイン性』『アイテムの自由選択制』『強制カミングアウトしない環境づくり』の3点にポイントを置きながら、制服の提案を心掛けています」  実際、スラックスとスカートの選択を可能にしている学校でスラックスを選ぶ女子生徒の多くは、寒さ対策やはきやすさを理由にしている。  一方、制服そのものの見直しを求める声もある。21年には、現役の公立高校教員や高校生らが、制服と私服の選択制を求める要望書と1万8千筆超のネット署名を文部科学省に提出した。山崎高校のようにキュロットの制服を導入する学校は少しずつ増えているが、そうした取り組みを伝えるニュース記事に対しても、SNSなどでは「制服の意味を見失っている」「ならば私服でいいのでは」との投稿が多くみられた。  前出の桜井教授は、ジェンダーレス制服の取り組みを「残念ながらうわべだけのリベラリズム」としてこう話す。 「ジェンダーレス制服は管理・規律の中で選択肢をつくっているだけともいえます。子ども食堂が増えたことを喜ばしいと言えないのと同様に、手放しで称賛するのは違和感があります。自由に人間らしく生きるために、そもそも制服は必要なのか。子どもの自死が過去最悪の状況になっている今、教育現場、ひいては社会全体のあり方が本当にこれでいいのか、制服制度も含めて考えるときだと思います」 ■制服はTPOを守る  一方、制服の役割としてしばしば言及されるのが経済格差による「スクールカースト」の発生を防ぐことだ。制服は決して安価ではなく、ファストファッションを活用すれば制服よりもリーズナブルに学生生活を送ることも可能だろう。それでも、山崎高校の武田由哉校長は「生徒一人一人が自分で考えて自由に服を選び、学校生活を送ることが最終の形」としつつ、言う。 2023年度から性別問わず選択式になった宮崎県日南市の公立中学校の制服。左から2種類のスラックス、キュロット、スカート 「高校生は様々なことに興味・関心を持つ時期で、服やファッションに対してもそうでしょう。しかし、経済的な自立はできていません。私服では家庭環境によって大きな『差』や『負担』が生まれることも想定されます」  弁護士、兵庫教育大学大学院准教授で、私立中高一貫校教員でもある神内聡さんもこう話す。 「制服の選択肢を広げる取り組みは必要ですが、私個人は制服の着用義務自体には肯定的です。制服はTPOを守るひとつの手段です。私服を導入してもそれを理由に生徒間の力関係が生じず、TPOも乱れにくい学校ならば私服もアリでしょうが、難しい学校もあると思います」  実際、地域差はあるが、私服を導入している高校には比較的学力の高い学校が多い。また、生徒自身が制服着用を望んでいる面もある。神内さんは続ける。 「かつてある中学校で調査したときは、ほとんどの生徒が制服を希望しました。『制服なら個性を競わなくていい』という理由が中心です。制服・私服選択制を導入しても、マスク着用と同じように周囲に同調して選択が偏り、少数派の居心地が悪くなるかもしれません」  1879年に学習院が日本最初とされる学生服を導入してから、140年以上がたった。多様な性自認やジェンダーへの配慮が当然に必要なことはもはや論をまたないが、その先に制服制度がどうあるべきか、改めて議論が必要なときだろう。(編集部・川口穣) ※AERA 2023年4月10日号より抜粋
芸人とスキー選手の“二刀流”で成功「おばたのお兄さん」イメージ最悪から勝ち組になれたワケ
芸人とスキー選手の“二刀流”で成功「おばたのお兄さん」イメージ最悪から勝ち組になれたワケ おばたのお兄さん  3月4日に行われた全日本マスターズスキー選手権30歳代の部で、見事3位に輝いたお笑いタレント・おばたのお兄さん(34)。翌日、インスタグラムで「昨日ピン芸人の猛者たちはお台場でR-1の頂点目指して戦いましたが、僕は僕で志賀高原で頂点目指して滑ってきました」と報告。芸人との“二刀流”にSNS上では、「すごすぎます」「すばらしい」など称賛の声が相次いだ。  運動神経抜群のおばた。2017年に小栗旬のモノマネでブレークしたが、出始めの頃はその芸風から一発屋と揶揄されたことも。18年にはフジテレビの山崎夕貴アナと結婚したが、交際中だった頃には浮気報道もあった。真面目な山崎アナがチャラ芸人に引っかかったような印象にとらえられ、一時期は好感度が急落した。こうしたこともあり、当初は決してイメージがいい芸人とはいえなかったが、最近ではそれも変化してきている。 「最初は小栗旬のモノマネ芸人というイメージが強く、『そのうち消えそう』と思っていた視聴者も多かった。しかし、コロナ禍の自粛期間中にSNSで公開したモノマネ動画が大バズり。特に、当時話題を集めていたオーディション・プロジェクト『Nizi Project』のプロデューサー・J.Y. Parkのモノマネを披露し、その再現度の高さが大きな反響を呼びました。また、木箱や自転車型トレーニング器具のペダルを使って、アニメ映画『千と千尋の神隠し』の釜爺のモノマネを公開した際は、その発想力に感心する声も。SNSの月間広告収入で世界1位になったこともあり、最高で300万円の月間広告収入を得たことも明かしています。山崎アナと結婚した当初は“格差婚”とも言われましたが、SNSでのブレーク以降、その印象もなくなったように思います」(テレビ情報誌の編集者)  SNSで存在感を発揮し、再び注目を集めたおばた。小栗旬のモノマネだけではなかった幅の広さに、見直した人もいるだろう。また、最近は役者として舞台でも活躍している。  橋本環奈と上白石萌音がWキャストで主人公・千尋役を演じ、話題を集めた舞台「千と千尋の神隠し」(22年)では、湯屋で働く青蛙役として出演。劇中では青蛙のパペットを持ちながら演じ、その跳躍力も話題に。こちらもネット上でも「ジャンプに見とれた!」「青蛙すごすぎてファンになった」と、好評の声が多かった。  さらに21年に上演された高畑充希主演のミュージカル「ウェイトレス」では、コメディー感あふれる役どころで笑いを誘い、歌も上手に歌いこなして大活躍。「マイナビニュース」(21年9月1日配信)では同舞台について、共演した高畑や宮澤エマから「ちゃんと役として、面白いコメディーになっているところがいいよね」と言われ、“おばたのお兄さん”が出ないよう、役として生きることを心がけていたのでうれしかったと明かしていた。こうした、俳優業での活躍でも見直され、過去のイメージは薄れていったのかもしれない。 「愛妻家な一面がにじみ出ているところも好感を持たれています。自身のYouTubeチャンネルに妻の山崎アナがたびたび登場しているのですが、気分が落ち込んでいる山崎アナにスニーカーをプレゼントした動画が話題になったことも。山崎アナは『かわいい!』と喜び、『なんで買ってくれたの?』と聞くと、おばたは『嫌なことがあったときって、下向いちゃうじゃん。だから、下向いたときに気分が上がるようにかわいい靴、買ってきた』と、ナルシシスト風のキャラを作って笑いを誘うような語り口で返答。一方、これに山崎アナは笑うのではなく感激して泣いてしまい、『これはもらい泣きするわ』とつられて泣いてしまう視聴者もいたようです」(女性週刊誌の芸能担当記者)  山崎アナとの夫婦円満ぶりも有名だ。つい先日、第1子妊娠が発表されたばかり。おばたは家庭でも頼りになる存在のようだ。 「家事全般は夫のほうが得意で、自身は料理があまり得意ではないと2月にインタビューで明かしていた山崎アナ。夫が水回り、自身は掃除などを担当し、料理はそのつど相談するなど、無理なく役割分担しているそうです。また、お互い縛らずに各自のペースを尊重し、2人とも自由にプライベートの予定を入れているとか。結婚前は浮気報道などがありましたが、夫婦円満な芸能人はえてして好感度が高くなります。無事に子どもが誕生しイクメン化したら、ますます人気も上昇して需要も増えると思います」  元「週刊SPA!」芸能デスクの田辺健二氏はおばたについてこう評する。 「彼の一番の武器は芸人としてのサバイバル能力と集中力でしょう。新人時代は、NSCで現・レインボーの池田直人さんと『ひので』というコンビを組み、結成1年目で劇場のトップ層に食い込むほどの活躍を見せるも、3年で解散。ピン芸人で一刻も早く世の中に認知されるために『モノマネ番組』を主戦場とし、研究に研究を重ねて小栗旬さんのモノマネを極めたことで、一気にブレークしました。さらに、放送直後に渋谷センター街でゲリラ的にモノマネを披露し、その映像を吉本興業の社員に売り込むという徹底ぶり。新型コロナが流行して仕事が激減したときも、入念にSNSを研究してフォロワー数を爆発的に伸ばしました。彼はピンチをチャンスに変え、お笑い界をサバイブしてきた。今はスキー選手として日本一になるため、冬はお笑いの仕事をセーブしてスキーに集中しているとか。そうやって自分を追い込み、危機的状況を生み出すことで、また爆発的な集中力を発揮し、華麗にサバイブしていく芸人だと思います」  お笑い以外でも類いまれなる才能を発揮しているおばた。これからは、もう一段高い活躍が期待できそうだ。 (丸山ひろし)
大接戦の徳島県知事選 妻で女優の水野真紀の登場なるか?後藤田氏が語った夫婦の事情
大接戦の徳島県知事選 妻で女優の水野真紀の登場なるか?後藤田氏が語った夫婦の事情 徳島の観光資源でもある阿波踊りで優雅に舞う踊り手たち=2022年8月  全国でもまれな保守3分裂で揺れる徳島県知事選。メディアの情勢調査でも保守候補3人の大接戦という情勢が見えてきている。地元では、最後の決め手は、あの女性の登場ではないか、とささやかれる。  徳島県知事選では、現職で6期目を狙う飯泉嘉門氏(62)を自民党徳島県連が推薦。これに対して、自民党の衆院議員を8期務めた後藤田正純氏(53)や自民党の参院議員を2期務めた三木亨氏(55)も出馬し、保守三つ巴となっている。共産党も古田元則氏(75)を擁立している。  自民党県連に推薦願を出したのは、飯泉氏と三木氏だった。 「最終的には推薦を飯泉氏に出しました。しかし、実際に飯泉氏を応援している自民党県議は22人中、半分ほどです。残りは三木氏にいったり、静観を決め込んだりしている。後藤田氏を表立って支持するという県議はいません」(自民党県議)  前回2019年の知事選で、後藤田氏は県連が推す飯泉氏の多選を批判し、新顔候補を応援、県連と対立した。飯泉氏が5選を果たした後も県連と後藤田氏の確執は続き、今回の知事選の候補推薦にあたって県連内部では、 「“後藤田知事”だけは避けたい」という声が出ていたという。  朝日新聞や読売新聞が行った情勢調査では、知名度が高い後藤田氏がやや優勢だが保守3候補が僅差、あるいは激しく競り合うと伝えられた。まだまだどう転ぶかわからない状況だ。  そこで注目されているのが後藤田氏の妻、女優の水野真紀さんの登場だという。 水野真紀さん  真紀さんは、かつての後藤田氏の衆院選では応援に姿を見せ、夫への支持を訴えた。  筆者は、自民党が大敗し、民主党(当時)に政権交代をした2009年の衆院選で、後藤田氏が地盤の旧徳島3区を取材した。人だかりを見つけて後藤田氏がいるのかと思って近づくと、聴衆が握手を求めて殺到していたのは真紀さんだった、ということが何度もあった。 「真紀さんを見たくて来た。女優さんが目の前にいてうれしいよ」  という有権者もいたほどだ。そして、自民への逆風が吹き荒れるこの選挙戦でも後藤田氏は民主党候補を僅差で破って当選を果たした。  その後も小選挙区で当選を重ねた後藤田氏だったが、前回2021年の衆院選では小選挙区で敗北し、初めて比例復活での当選となった。  後藤田氏陣営の支援者がこう話す。 「前回の衆院選は劣勢と伝えられていたので、奥様の真紀さんが徳島入りしてくれれば盛り返すことができると待望していましたが、実現しなかった。後藤田氏の女性スキャンダルが繰り返し報じられ、真紀さんとうまくいっていないのかと、心配する声が多々ありました。今回は知事選で、衆院選のように比例復活がない。ぜひ、真紀さんには徳島入りして後藤田氏の横に並んでほしいと期待しています」  3月24日朝、後藤田氏は徳島県板野町で街頭演説を開催。弁士に招いたのは、自民党国会議員時代の同僚で、石川県知事の馳浩氏だった。 「自民党の部会で紙をなくす、タブレットにと言い出したのが後藤田さん。70歳のおじいちゃんの国会議員が、紙でなければと言っていたが資源節約、経費削減。党職員も大助かり。後藤田さんは見ての通り、生意気で正論を言い、反感も買う。だが言うべきことを言う、先を見通す、それが政治の仕事」  馳氏は、こう述べた後、お互いの妻に触れた。馳氏の妻は、人気タレントの高見恭子さんだ。 馳浩氏の妻でタレントの高見恭子さん 「彼は私を見習っている。私の妻、知っていますか? 高見恭子。最初の選挙には来てもらったが以降27年間、女房を選挙に呼んでいません。芸能事務所と契約があり損害になりかねない。(選挙に来ると)妻は政治の色、自民党とつき、2度と仕事ができない。だから私も来なくていいと言っている」  馳氏が言うと、後藤田氏も、 「そう、私も呼んでいない」「お互いに仕事がある」  と呼応した。馳氏が続けて、 「妻は『私行かないと当選できない?』と心配してくれます。後藤田さんも同じだと思いますよ。けど、オレが政治したくて、後藤田さんも本人がやりたくてやっている。私も後藤田さんも妻を尊重している。だから選挙には呼ばない。私は5回くらい離婚したと噂されて、愛人までいると怪文書まで出された。けど、今日も朝5時に女房に羽田空港まで送られて、徳島空港に到着した」  と、自身の夫婦仲をネタに語ると、後藤田氏は苦笑していた。  妻を応援に呼ばないと公言する後藤田氏だが、対立陣営からは警戒する声が漏れる。 「真紀さんは応援に入らないと言っているが、旧徳島3区が廃止され新しい区割りになった2014年の衆院選の時は、真紀さんが初日からほとんど徳島に張り付き、すごい人気だった。真紀さんの人気はある意味、後藤田氏より絶大。この厳しい選挙戦の中で、『真紀さんが徳島に入るんじゃないか』という噂が流れるだけで、後藤田氏には大きなプラスになりかねない」(三木陣営) 「3人、だれが勝ってもおかしくない。真紀さんが後藤田氏の選挙戦にやってくるのか気になる。一気に展開が変わりかねない」(飯泉陣営)  勝敗のカギを握る真紀さんは、果たして姿を見せるのか? (AERA dot.編集部 今西憲之)
坂本龍一さんが生前語った「優しいハグ」と希望 「敵対するものをつぶしたとしても、別の新しい敵対勢力が生まれるだけ」
坂本龍一さんが生前語った「優しいハグ」と希望 「敵対するものをつぶしたとしても、別の新しい敵対勢力が生まれるだけ」 音楽家・坂本龍一さん/1952年、東京都生まれ。映画「母と暮せば」(山田洋次監督)の音楽担当。東北ユースオーケストラの代表理事・監督も務める(撮影/写真部・松永卓也)   音楽家でアーティストの坂本龍一さんが3月28日、死去した。所属事務所が4月2日に発表した。71歳だった。  坂本さんは、2014年に中咽頭がんを患っていることを発表。コンサート活動の中止を強いられ、療養生活を送った。その後、20年6月には直腸がんが発覚した。昨年12月にはオンラインで全世界にピアノコンサートを配信。公の場に姿を見せた最後の姿になった。所属事務所によると、がんの治療を受けながらも、体調の良い日は自宅内のスタジオで創作活動を続け、最期まで音楽とともに過ごしたという。  音楽家として活躍する一方で、政治や社会への問題も提起し続けた。今年2月には、明治神宮外苑地区の再開発の見直しを求める手紙を東京都の小池百合子知事らに送っていたという。  芸術の再前衛を走りながらも、なぜ発言と行動を続けるのか。2016年にアエラ誌上で実施した同世代の作家で同じく発言を続ける作家の高橋源一郎さんとの対談では、「声をあげ続けることの大切さ」を語っていた。安保法制が施行され、社会が揺れていた当時、坂本さんを突き動かした希望とは、なんだったのか。当時の記事を再掲する。 *  *  *  高橋源一郎:今日はとてもうれしいです。坂本さんとはほぼ同世代ですけど、きちんとお話しするのはこれが初めてですね。 坂本龍一:そうですね。僕が1学年下かな。 高橋:僕は高校生のときから学生運動に参加していましたが、1971年から72年にかけての連合赤軍(※1)事件以降、日本から反体制的な政治運動をやろうというマインドがほとんど見られなくなりました。今年、ほんとうに久しぶりにSEALDsのデモに参加したんですが、40年以上も前の忘れ物を取りに行った気持ちがしました。そういう意味では、いまの日本人としては、というかミュージシャンとしては珍しく、坂本さんはずいぶん前からデモに参加していて。 ■何にも似ていない運動 坂本:それでも2000年ぐらいからですよ。僕の場合、藝大(東京藝術大学)の音楽学部に入ったのが70年で、その頃、ちょうど勉強していた西洋音楽が一種のデッドエンドを迎えるんです。大学に入っても勉強すべきモデルがない状態で、ポンと音楽的に放り出されてしまった。で、その当時から、自分が義憤を感じたり、疑問を感じたりしている政治的問題と音楽とがどう結びついているのかを考えていたけど、答えが出ないまま、今まできてしまった感じがある。 高橋:SEALDsの運動がおもしろいなと思うのは、特定の何かをサンプルにして運動を始めたわけではないことです。普通は何かに影響されたり、もっと言うとオルグされたりして始めるものなのに、40年以上、学生の政治運動らしいものがなかった。だから彼らは、ネットやユーチューブで、それこそ在特会(※2)からオキュパイ・ウォールストリート(※3)まで見て、いいとこどりをしている感じがしますね。そういういい意味で素人っぽい政治運動って過去にはほとんどなかったんじゃないでしょうか。 音楽家・坂本龍一さん/1952年、東京都生まれ。映画「母と暮せば」(山田洋次監督)の音楽担当。東北ユースオーケストラの代表理事・監督も務める、作家・高橋源一郎さん。1951年、広島県生まれ。著書に『ぼくらの民主主義なんだぜ』(朝日新書)、SEALDsとの共著に『民主主義ってなんだ?』(撮影/写真部・松永卓也) 坂本:そうですね。さらに言えば、SEALDsのデモは、日本の自由と民主主義を求める運動としては、明治の自由民権運動以来の高まりではないかと感じてます。僕らがやっていた60年代、70年代の安保闘争よりも重要なんじゃないかな。それに45年の空白があるから、彼らはいわゆる昔の学生運動の負の歴史をひきずっていない。シュプレヒコールの代わりに、ヒップホップを参考にコール・アンド・レスポンス(※4)を作ったりして、かっこいい。音楽家からみると、彼らのラップ的なスピーチは結構ノリがいいんですよ。それまでの日本人がやっていた盆踊り的なラップとは違って、黒人的というか、アメリカ的なラップに近くなっている。新しくて、かっこいい半面、おじいちゃん、おばあちゃんは参加するのは難しいかもしれない。福島などの、当事者の方が参加できるようなデモのスタイルを見つけることは課題だとずっと考えていて。 高橋:SEALDsの運動はすべてが正しいわけではないし、当然、たくさん欠陥もあるし、彼らもそれは認識していると思います。彼らが良かったのは、「デモをしよう」ではなく、「国会前に行こう」というメッセージを出したことでした。眺めているだけでも、たたずんでいるだけでもいいから、国会前に行くことが、意思表示になるよと伝えたことですね。 ■デモって実は効果的 坂本:03年にイラク戦争(※5)反対の大きなデモがありましたよね。世界中で「World Citizen(世界市民)」を掲げ、各国で同じ日にデモをしたんです。僕はニューヨークで参加したんですけど、ニューヨークで50万人、ロンドンでは200万人が集まった。それに比べると、東京では圧倒的に少なかった。悲しかったですね。現状を変えようともしない人が、素直にストリートに出ていっている人をバカにする風潮があるけど、そういう人は自分が非常に低いレベルにあることに気がついたほうがいい。 高橋:デモって、実は思っている以上に効果がありますからね。さっき久々にデモに行ったと言いましたが、その少し前に僕は祝島(※6)でおじいちゃん、おばあちゃんたちがやっている反原発デモに行ってるんですね。超ゆるいんですよ(笑)。参加者の平均年齢が70歳を超えてるんじゃないかな。だから、週に1回、時間も30分ぐらいで、雨が降ったらやめるし、風が吹いたらやめるし、身内に不幸があってもやらない(笑)。歩きながら「原発をつくらせないぞ~」「つくらせないぞ~」とやってるかと思うと、歩きながらNHKの朝の連続ドラマの話をしている(笑)。でも、それで30年間続けて、実際に原発はつくられていない。 坂本:3・11の後、ずいぶん長いこと原発は再稼働されなかったしね。今は少しずつ再稼働されていますけれど、それでもまだ彼らは様子を見てる。今回の安保法制も、あれだけ反対の声があがらなければ、もっと早く可決しちゃってましたね。 高橋:この前、ある政治学者と話したんですが、安保法制のデモは政権のトラウマになって、憲法改正をやる気がなくなったんじゃないかとおっしゃってました。あんなデモがあるなら改正をすっぱりあきらめて、解釈改憲に向かうんじゃないかって。 坂本:今の状況で改憲しないことがいいのかは、長期的にみると判断が難しい。つまり、憲法解釈で実質、憲法改正と同じ状況がつくれるならそれでいいじゃないかと、彼らが思っちゃってる。解釈で逃げられてしまった感じですね。 音楽家・坂本龍一さん/1952年、東京都生まれ。映画「母と暮せば」(山田洋次監督)の音楽担当。東北ユースオーケストラの代表理事・監督も務める(撮影/写真部・松永卓也) ■ネットを公共の場に 坂本:何十年も日本に政治運動がなかったのは、みんなが集まって発言する場所がないことも大きかったと思う。SEALDsは国会前に人を集めたけれど、そもそも国会前は道路だから集まるには不便だし、理想的な場所ではない。大きな公園は規制が厳しくて、市民が自由に使える感じではない。 高橋:そう、日本は人々がパブリックなことを話し合うための場所をなくすことに、見事に成功したんですね。本拠地がないと、運動は続かないですから。結局どうしたか。SEALDsはネットを公共の場所にした。 坂本:LINEとかね。彼らは非常にうまくSNSを利用している。すごいね。 高橋:ええ。今、僕たちは民主主義を自分たちが手に取れるものにしなくちゃいけない時期に来ているのかもしれません。僕は、朝日新聞で論壇時評を書いていることもあり、民主主義について考えることが多くなりました。そして、民主主義とは何かを考えると、民主主義を再定義しなければいけないんじゃないかと思うようになってきたんです。 坂本:日本では従来、民主主義って、自分たちがつくったり、考えたりするものじゃなかったけど、ようやく考える時代になったのかな。 ■パッと日常に戻る 高橋:そう思うんですよ。ギリシャの古代アテナイ(※7)では市民6千人ぐらいが集まって、自分たちの社会や政治について話し合って決めていました。それが初めての民主主義と言われていますね。祝島のデモがまさにそれでした。週に1回、島民が集まって、政治的な主張を30分する。それが終わると、パッと日常に戻る。パートタイムの政治参加。それが、古代アテナイ由来の「民主主義」なんですね。実際、原発はつくられていません。いま、民主主義の誕生にまで立ち返って、その本質を考えてみるべきときなのかもしれませんね。 坂本:代議制民主主義(※8)というものに、もう一度疑問の目を向けるべきときなんだと思うんです。日本の政治システムでは、直接首相を選べない。アメリカにしても、大統領選はすごく複雑なシステムで、直接選べるわけではない。権力側が、システムを複雑化させ、本来の主権者たる国民から、直接政治(※9)を遠ざけようとする傾向がある。直接政治を取り戻す、手にすることはとても大事なことだなあ。 高橋:デモクラシーとは、すごく簡単に言うと、主権を他人に渡さないということです。逆に言うと、主権が自分の手の中にあるということは大きな責任を伴うことだから、何かの折には公的なことに参加しなければいけない。それが今の日本では主権を他人に渡しちゃっている状態です。選挙のときだけ主権者になっても、安倍政権に対しても、強行採決にしても、僕たちは止めることすらできない。 坂本:アメリカにしても、民主主義は実現してない。民主主義を輸出するんだと声高に叫んで、イラク戦争を始めたり、世界中で戦争をしていますけど、アメリカ人の多くは、これは全然民主主義じゃないと思っている。 高橋:本来、「民主主義」は、その社会で生きる僕たちを活性化してくれるシステムであり、概念であり、言葉のはずと思うんです。 音楽家・坂本龍一さん/1952年、東京都生まれ。映画「母と暮せば」(山田洋次監督)の音楽担当。東北ユースオーケストラの代表理事・監督も務める(撮影/写真部・松永卓也) ■憎まないという戦い 坂本:それにしても、意外と僕らの上の世代で戦争を経験している人たちが、右寄りの反応を示すのが不思議なんですよ。やられたから、もう一度やり返せみたいな心情なのかなあ。ちょっと理解できない。 高橋:うちの父親も右翼だったからなあ……(笑)。でも、経験がある故に、戦争を絶対肯定しない戦中派の人たちも多いと思います。結局戦争にしろテロにしろ難民問題にしろ、それが生まれるのは、国家の論理がまずあるからだと思います。その国家の論理に、国家の論理で立ち向かおうとすると、争いが起き、泥沼化していく。パリの同時多発テロのあと、遺族が「(ISを)憎まない」(※10)と発言して話題になったけど、憎まない、攻撃しないというのは、国家の論理には加担しないということだと思います。僕たちは国民である前にまず人間であり、国という枠を超えて考えて、行動していいはずですよね。 坂本:そうですね。たとえ戦いで敵対するものをつぶしたとしても、根本的には経済的な差別や、階級的な差別、人種や宗教の問題だから、別の新しい敵対勢力が生まれるだけ。富の再分配を考えたり、差別をなくしたりしていくような社会をつくらない限り、次々と起こります。 高橋:まったくその通りです。だからこそ、国家がやろうとする無謀な争いには、個人として反対なんだと強く言い続ける必要があると思います。 坂本:それは、安保法制やヘイトスピーチに対しても同じで、自分たちの意見を表明するために声をあげ続けなくてはいけないし、世界中で大勢の人が声をあげることが大事。今、その動きが日本でも生まれてきたことは、法や政治の面では厳しくなっているけれども、希望なんじゃないかな。 高橋:ええ。そして敵対するものに、敵対しないことですね。相手と同じものになってしまうから。 坂本:優しくハグする。それが一番ですね。 (構成/編集部・大川恵実) ※「AERA」 2016年1月4日号掲載 【脚注】 (※1)連合赤軍  新左翼組織の一つ。共産主義者同盟赤軍派と京浜安保共闘が合流して結成。山岳ベース事件、あさま山荘事件などを起こした。 (※2)在特会(在日特権を許さない市民の会)  東京・新大久保等でヘイトスピーチを伴う街宣をする。それに反対する「カウンター」も現れた。 (※3)オキュパイ・ウォールストリート(ウォール街を占拠せよ)  2011年、米・ウォール街で発生。公園を占拠し「格差社会の是正」などの主張を様々な形でアピールした。 (※4)コール・アンド・レスポンス  呼びかけとそれに応答すること。例えば「民主主義って何だ?」「これだ!」という一連のやりとり。米国のラップ音楽等で頻繁に使われる。 (※5)イラク戦争  2003年3月、イラクが大量破壊兵器を保有しているとして米が攻撃を開始。日本も自衛隊が重火器を携行する初めての海外任務に参加した。   (※6)祝島  山口県上関町祝島。1982年に中国電力の上関原発計画が浮上して以来、住民が毎週月曜に原発反対デモをしている。 (※7)ギリシャの古代アテナイ  古代ギリシャの都市国家(ポリス)。民主主義発祥の地と言われる。 (※8)代議制民主主義  有権者が選挙を通して政治家を選び政治家が政策決定を行う。間接民主制、議会制民主主義とも同義。 (※9)直接政治  代議制民主主義の対概念として直接民主制がある。市民の意見をそのまま政治に反映するシステム。 (※10)「(ISを)憎まない」  パリ同時多発テロで妻を失った仏人男性が容疑者に向け発したメッセージ。

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