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女性社長の名前 12年連続「和子」が最多はなぜ? 背景に日本企業の深刻な事情も
女性社長の名前 12年連続「和子」が最多はなぜ? 背景に日本企業の深刻な事情も 写真はイメージです(gettyimages)  東京商工リサーチによると、全国の女性社長は2023年に61万2224人に上り、初めて60万人を超えた。一番多い名前は「和子」で、12年連続トップだという。「和子」が首位の座に長く君臨するのはなぜか。  23年の女性社長の数は、調査を始めた10年から13年間で約3倍に増えた。今や全国の社長の6~7人に1人が女性にあたる計算だ。女性社長の割合も年々緩やかに上昇しているという。  女性社長が増えた理由について、東京商工リサーチは、創業支援など女性の活躍推進に向けた国や自治体の取り組みが効果を上げている点や、同族経営で高齢の代表者から妻や娘に事業を引き継ぐケースが増えていることなどを挙げる。  女性社長の名前で最も多かった「和子」は6184人だった(次のページの表)。2位の「幸子」(5745人)や3位の「洋子」(5575人)、4位の「裕子」(4877人)を引き離して首位が続いている。東京商工リサーチの担当者は言う。 「『和子』は昭和初期から20年代半ば(1950年前後)まで生まれ年別で最も多くつけられた人気の名前です。男性も含めて国内の社長は全体的に高齢化が進んでいることもあってトップが長く続いているのではないでしょうか」(情報本部)    例えば、明治安田生命が同社の保険契約者などを対象に毎年行っている生まれ年別の名前の調査をみると「和子」は昭和2(1927)年から昭和27(1952)年までの25年間のうち、昭和15(1940)、昭和17(1942)、昭和24(1949)年の3回を除いてずっと1位だった。「和子」が首位を譲ったこの3回も、いずれも2位に踏みとどまっている。 【こちらもおすすめ】 「あらゆる選択肢を排除せず」なら為替介入の寸前? 市場関係者の当局口先介入“早見表”を入手 https://dot.asahi.com/articles/-/201276   「和子」がこの時期に人気だった理由として、昭和の年号から「和」の字を取ったことがよく挙げられる。この時期(1927~52年)に生まれた人は、今年、71~96歳になる。  東京商工リサーチの別の調査「全国社長の年齢」によれば、今年1月に発表した直近の22年で社長の平均年齢は63.02歳で過去最高となった。社長の高齢化は進み、60代以上の割合は6割を超え、70代以上も33.3%を占める。  こうした状況を考え合わせると「和子」の1位はもう少しの間続くかもしれない。前出の担当者は続ける。 「あくまで肌感覚ですが、名前に関して今後1~2年の間は状況は変わらないかもしれません。でも、あと10年くらい経つと違った形になっている可能性は高そうです」  「和子」はいつまで1位であり続けるか。キラキラネームが上位に顔を出すのはいつか。企業の新陳代謝やトップの世代交代が進んだり、女性の活躍の場が一段と広がったりすれば、別の名前が取って代わるタイミングも前倒しされるかもしれない。 (AERAdot.編集部・池田正史)
徳川軍を翻弄、“生粋の戦国武将”が交渉で仕掛けた罠とは「騙されて得意げな顔で数日を無駄に」
徳川軍を翻弄、“生粋の戦国武将”が交渉で仕掛けた罠とは「騙されて得意げな顔で数日を無駄に」 復元された上田城の東虎口櫓門と北櫓    慶長五年(一六〇〇)六月、豊臣政権で独裁的地位を築きつつあった徳川家康は、会津(福島県会津若松市)の上杉景勝に謀叛の疑いありとして、出兵の号令をかけた。会津討伐は中止になるも、上杉氏の押さえとして、後の二代将軍・徳川秀忠は宇都宮城に留まることに。下野国から会津へ攻め入る白河口の総大将・秀忠を翻弄したのが、信濃国の国衆であった真田昌幸だ。その手腕を朝日新書『天下人の攻城戦 15の城攻めに見る信長・秀吉・家康の智略』(第十三章 著:水野伍貴)から一部抜粋、再編集して紹介する。 *  *  *   【こちらも話題】 #1 秀吉が水攻めした備中高松城はどんな城だったのか #2 秀吉の備中高松城の水攻め、画期的な戦略だったか再検討 #3 秀吉、中国攻めで攻撃した城・しなかった城の決め手は #4 『のぼうの城』舞台の忍城 猛攻を耐え抜いた成田氏のその後 #5 忍城の戦い、水攻めを決めたのは三成ではなく秀吉だった #6 関ヶ原合戦の行方を決定した「岐阜城の戦い」とは #7 上杉軍の猛攻も虚しく撤退 「北の関ケ原」とは #8 徳川軍を翻弄、“生粋の戦国武将”が交渉で仕掛けた罠とは #9 最新研究から知る「真田丸」の真実 「真田の抜け穴」は? #10 三度にわたる撤退命令と徳川方が追い込まれた「真田丸」での“勘違い”とは   生粋の戦国武将・真田昌幸  会津征討に従軍していた真田昌幸は、現・栃木県佐野市域で突如、離反して上田城に帰還した。当時、真田昌幸は三万八〇〇〇石の領地を治めていた。また、長男の信幸は豊臣政権から沼田を与えられ、二万七〇〇〇石の大名として独立している。昌幸と二男・信繁(幸村)は三成ら西軍に味方したが、信幸は徳川方に留まっている。  昌幸が西軍に与同した理由については、一般的に真田家を存続させるために父子で東西に分かれたと説明されている。しかし、史料を読み解くと、昌幸の決断が尋常ではないことが分かる。  昌幸から与同する旨を受けた三成は返書を書いている(「真田家文書」)。それによると、昌幸の書状は七月二十一日付で出されており、二十七日に三成の領地である佐和山(滋賀県彦根市)に到着したという。  少なくとも昌幸は二十一日の段階で三成に与同する決断をしていたことになるが、日数から考えて西軍が発した檄文と「内府ちかひの条々」は(二十一日の時点では)昌幸のもとに届いていない。つまり、昌幸は三成に毛利輝元ら二大老・三奉行が味方していることを正確には把握しておらず、噂として流れてきた三成と大谷吉継による反乱というレベルの認識で西軍に付くことを決めたことになる。  しかも、三成は書状の中で、挙兵の計画を事前に伝えていなかったことを昌幸に詫びている。詫びの文面が長く具体的であることから、昌幸は計画を伝えられていなかったことに対して不満を露にしたのであろう。この争乱に対する昌幸の意気込みが伝わってくる。  昌幸は、争乱に巻き込まれて御家存続の危機に直面してしまったとは思っておらず、むしろ、この争乱を領土拡張の好機ととらえていたのであろう。三成が豊臣政権と昌幸を繋ぐ奏者であったことから、論功行賞で有利な条件が期待できると昌幸は考えたと思われる。実際に昌幸は、西軍首脳部に甲斐国・信濃国(深志・川中島・諏訪・小諸)の切り取り次第(征服した土地の領有権の獲得)を約束させている。  昌幸の領地は、徳川領国の上野国に隣接している。また、西軍の勢力は美濃国(岐阜県南部)を東の限界点とし、信濃国は東軍に味方する諸大名が大半を占めている。こうした状況を顧みずに、千載一遇の好機を逃すまいと昌幸は西軍に与同する決断をした。生粋の戦国武将といえよう。  当時、秀忠は二十二歳。『徳川実紀』には、豊臣秀吉が北条氏を攻めた小田原の役の際、秀吉に呼ばれて秀吉の陣へ赴いたとあるが、実質的にはこの争乱(関ヶ原の役)が初陣であった。初陣の秀忠の前に、生粋の戦国武将・真田昌幸が立ちはだかったのである。 交渉の窓口となった本多家  白河口の防備を整えた秀忠は、上田城を制圧して上洛するために、八月二十四日、宇都宮城を出陣する。榊原康政、大久保忠隣、酒井家次、本多康重、牧野康成、酒井重忠、小笠原信之、本多正信ら、万石超えの大身家臣が多く編成された徳川軍主力を率いての出陣である。  これに川中島(長野市松代町)の森忠政、小諸(長野県小諸市)の仙石秀久、松本(長野県松本市)の石川三長、諏訪(長野県諏訪市)の日根野吉明ら信濃国の大名が従った。  本来は、本多忠勝も秀忠の隊に属していた。しかし、東海道を進んで、豊臣系大名の監督や、諸大名との交渉に当たる予定であった井伊直政が出発の直前に病にかかってしまったため、忠勝が東海道を進むこととなった。そして、嫡男・忠政が忠勝に代わって秀忠の隊に属すこととなったのである。  しかし、東海道を進む家康が三万二七三〇騎、秀忠が三万八〇七〇騎といわれているので、忠勝(本多家)が抜けることで兵力に大きな支障をきたすとは思えない。本多家が戦力を分散させてまで秀忠の隊に忠政を残したのには、戦略上の理由があるだろう。  筆者は、秀忠の隊に忠政を残した背景には、対真田交渉があったと考える。昌幸の長男・信幸は、忠勝の娘(小松殿)を妻としていた。忠勝は、真田家臣・湯本三郎右衛門尉(三郎左衛門)に宛てて、信幸の子供たちが忠勝のもとに無事到着した旨を報じており(「熊谷家文書」)、忠勝と信幸の関係は、形式的な縁戚ではなく、実質的な交流があったことが分かる。また、秀吉が健在であった頃、忠勝が信幸を介して、(真田氏の奏者である)石田三成と交流していたことも確認できる(「真田家文書」)。徳川氏は、忠政を秀忠の隊に残すことで、徳川秀忠─本多忠政─真田信幸─真田昌幸の交渉ルートを足がかりとして上田城を迅速に開城させようとしたのではないだろうか。  後世の編纂史料であるが、『真田家御事蹟稿』によると、昌幸が会津征討から離反した際、信幸は昌幸の離反を忠勝へ通報し、それを忠勝が井伊直政へ取り成したという。そして、上田城の攻撃前には、信幸とともに忠政も降伏勧告にあたったと記されている。  また、『真田家武功口上之覚』には、関ヶ原合戦の後、信幸が、昌幸と信繁の助命嘆願のために忠勝と井伊直政を頼り、直政の取り計らいによって助命された旨が記されている。  このように、真田氏が徳川氏と交渉を行う際、窓口となったのは本多家であった。秀忠の隊に忠政を残した理由は、上田城を迅速に開城させるための対真田交渉にあったといえる。つまり、上田城に侵攻するに当たっての徳川氏の方針は、力攻めではなく、交渉によって上田城を迅速に開城させることにあった。関ヶ原の役という大局でみれば、三万八〇〇〇石の大名である昌幸の所で徳川の主力が釘付けになるのは得策ではなく、昌幸を赦免してでも迅速に西上するのがよいことは明らかである。 偽りの降伏  八月二十四日に宇都宮を出陣した秀忠は、同月二十八日に松井田(群馬県安中市)に到着した。そして、九月一日に軽井沢(長野県北佐久郡)を経て、二日に小諸城に入城した。  小諸城に入った秀忠は、信幸と本多忠政に対して昌幸に降伏勧告を行うように命じ、両者と昌幸は国分寺(長野県上田市)で会談した。秀忠の家臣・遠山九郎兵衛と、信幸の家臣・坂巻夕庵が交渉に当たったともいわれている。  交渉の結果は、九月四日付で秀忠が森忠政に宛てた書状に記されている(「森家先代実録」)。それによると、昌幸は信幸を通じて頭を剃って降伏すると嘆願して来たため、昨日(三日)秀忠が助命を了承する旨を通達したが、今日(四日)になって昌幸が文句を言ってきたので赦免は取り止めて、攻め入ることにしたという。  赦免が受け入れられたにもかかわらず、急に態度を一変させているところから、軍記に描かれているとおり、昌幸は偽りの降伏をしたとみていいだろう。徳川氏は上田を迅速に平定するために、交渉の手筈を整え、昌幸を赦免する意向で臨んでいたが、昌幸はこれを逆手にとって時間稼ぎに利用したのである。 昌幸の巧みな戦略  九月五日、秀忠は小諸城を出立して上田城の東方にある染谷台に布陣した。そして、城に籠もる真田軍を城外に誘き出すため、翌六日に刈田を行った。  物見に出ていた真田兵と、刈田をおこなっていた徳川兵が小競り合いとなると、酒井家次らは真田兵を蹴散らして、大手門まで攻め込んだが、多くの犠牲を出した。これを見た秀忠は使者を派遣して「大将の下知なくして城を攻めるな」と叱責し、兵を引かせている。真田軍を城外に誘引する作戦であったが、逆に城まで深追いして犠牲を出す結果となった。  なお、秀忠の旗本である朝倉宣正、辻久吉、小野忠明(神子上典膳)、中山照守、戸田光正、斎藤信吉、鎮目惟明ら七人が、真田兵の追撃で活躍したといわれ、後世に「上田七本槍」と称されるが、この後、軍規違反を咎められて謹慎となっている。  九月七日になると、秀忠の意識に変化が生じている。この日、秀忠は井伊直政と本多忠勝へ宛てた書状で「真田表の仕置を命じて、近日、上方へ進みます」と述べており(「江戸東京博物館所蔵文書」)、西上を意識していたことが分かる。  七日の段階で家康から急ぎ西上するよう催促が来た形跡はないが、美濃国では、諸将が赤坂(岐阜県大垣市)に集結しているとの情報を秀忠は得ているので、決戦が近いことは理解していた。  翌八日には、森忠政に宛てた書状で「急ぎ上洛するようにと、家康から命令が来た」と述べている(「森家先代実録」)。秀忠の意識は、完全に西上に切り替わったといえる。  九日、秀忠は小諸城へ軍を引いた。そして、諸将に十一日に西上を開始する旨を告げている。  これをもって第二次上田城の戦いは終結した。名高い戦いではあるが、真田軍の戦術に目を向けると、城近くまで深追いしてきた敵を撃退するというシンプルなものであった。  前述のごとく、昌幸の周囲は東軍の勢力であり、援軍の見込みはない。そして、徳川軍と真田軍だけでも圧倒的な戦力差がある上に、信濃国の大名まで加わっている。まず、勝ち目はないだろう。  しかし、この戦いは上田城の局地戦だけではなく、家康ら東軍と、三成ら西軍による「大戦」である。つまり、昌幸が上田城に籠城している間に三成が家康に勝利すれば、昌幸は勝者になれるのである。秀忠の軍を破る必要はなく、拘束するだけでも十分に貢献となった。  第二次上田城の戦いに参戦していた大久保忠教(彦左衛門)は、『三河物語』に「佐渡(本多正信)が真田に騙されて、得意げな顔で数日を(無駄に)送った」と記している。昌幸がこの戦いで用いた最も巧みな戦略は、徳川氏の降伏勧告を逆手にとって時間稼ぎに利用した点である。   【ほかの回もあわせて】 #1 秀吉が水攻めした備中高松城はどんな城だったのか #2 秀吉の備中高松城の水攻め、画期的な戦略だったか再検討 #3 秀吉、中国攻めで攻撃した城・しなかった城の決め手は #4 『のぼうの城』舞台の忍城 猛攻を耐え抜いた成田氏のその後 #5 忍城の戦い、水攻めを決めたのは三成ではなく秀吉だった #6 関ヶ原合戦の行方を決定した「岐阜城の戦い」とは #7 上杉軍の猛攻も虚しく撤退 「北の関ケ原」とは #8 徳川軍を翻弄、“生粋の戦国武将”が交渉で仕掛けた罠とは #9 最新研究から知る「真田丸」の真実 「真田の抜け穴」は? #10 三度にわたる撤退命令と徳川方が追い込まれた「真田丸」での“勘違い”とは   ●水野伍貴(みずの・ともき)  一九八三年愛知県生まれ。高崎経済大学大学院地域政策研究科博士後期課程単位取得退学。修士(地域政策学)。株式会社歴史と文化の研究所客員研究員。著書・論文に『関ヶ原への道』(東京堂出版)、「関ヶ原合戦に関する新説の検討」(『十六世紀史論叢』一八号、二〇二三年)など。
天下人・家康、領国統治や外交の礎は今川家に 氏真を特別視していたと分かる史実も
天下人・家康、領国統治や外交の礎は今川家に 氏真を特別視していたと分かる史実も 今川氏真像(国文学研究資料館所蔵)    歴史学者・黒田基樹氏は、新著『徳川家康と今川氏真』(朝日新聞出版)で、家康にとっての氏真の存在を多角的に分析し、いかに家康に影響を与えたのかを記している。特に、氏真が京都で生活するようになってからの関係は、その全容は明らかになっていないにせよ、何らかのコミュニケーションを撮り続けていたのではないかと同氏は推察する。同著から一部抜粋、再編集し紹介する。 *  *  *  家康は駿河を領国化すると、本拠を駿府に移した。これは当時の領国全体を統治するうえでの利便性によるであろうが、その一方で海道筋三ヶ国を領国とするようになり、いわば今川家に取って代わった存在になったことで、かつての今川家の本拠であった駿府こそが、その本拠に相応しいという観念もあったことであろう。少年期から青年期に、今川家の最盛期を駿府で過ごしたかたちになる家康にとって、駿府こそが、理想の本拠という認識があったかもしれない。  しかし同十八年に北条家滅亡をうけて、家康の領国が関東に転封されたのを機に、氏真は家康の側から離れて、京都で生活することになった。家康からは所領を与えられていたらしいから、家康から離れたわけではなかった。しかも翌年から、家康は、当時の政権の羽柴(豊臣)政権に従う「豊臣大名」として、嫡男秀忠ともども京都・大坂での居住を基本にした。これによりむしろ、家康は、日常的に氏真との交流を維持したとみることもできるであろう。そして何よりも秀忠の上臈として貞春尼が存在し続けていた。徳川家と今川家は、日常的に繋がっていたのである。  氏真の京都での生活の全容は判明しない。それでも家康とは、引き続いて交流していたことであろう。家康は慶長十一年に江戸に下向し、同十二年に駿府城を本拠にしてから、ほぼ上洛しなくなる。家康が再び自身の本拠に駿府を選んだのは、やはり同地に対する愛着によるように思う。しかしこれによって家康と氏真は、しばらく面談できない状態になった。慶長十七年四月に、氏真はついに徳川家の本拠・江戸に移住する。その途中で駿府を訪れると、ただちに家康は氏真と面談におよんでいる。家康にとって、氏真がいかに特別の存在であったかが、端的に示されている事実といえるであろう。  その二年後に氏真は七七歳で死去し、さらにその二年後に家康が七五歳で死去する。両者の交流は、六〇年以上におよぶ長期のものであった。しかも両者は、ともに戦国大名家・国衆家当主として領域国家を主宰する国王の立場にあり、少年期からともに過ごしてきた間柄にあったことを想えば、長い人生のなかで両者の立場には変化がみられたものの、互いに戦国を生きる盟友として認識しあっていたのではないかと思わずにはいられない。  そして家康は、「天下人」として戦国争乱を終結させる存在になったが、その過程において、領国統治や奥向き構造など、今川家の教養・文化に支えられていた。このようにみてくると、家康という存在は今川家あってのものであった、といってもよいほどであろう。家康と氏真が、死去の直前まで交流を続けていたことも、そう考えると納得できるように思う。 ●黒田基樹(くろだ・もとき)/1965年東京都生まれ。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。博士(日本史学)。専門は日本中世史。駿河台大学教授。著書に『お市の方の生涯』『徳川家康の最新研究』(ともに朝日新書)、『百姓から見た戦国大名』(ちくま新書)、『戦国大名』『戦国北条家の判子行政』『国衆』『家康の正妻 築山殿』(ともに平凡社新書)、『関東戦国史』(角川ソフィア文庫)、『羽柴家崩壊』『今川のおんな家長 寿桂尼』(ともに平凡社)、『戦国大名・伊勢宗瑞』『戦国大名・北条氏直』(ともに角川選書)、『下剋上』(講談社現代新書)、『武田信玄の妻、三条殿』(東京堂出版)など多数。
信長・家康が庇護した今川氏真が浜松城にいた理由とは 歴史学者が推察する役割
信長・家康が庇護した今川氏真が浜松城にいた理由とは 歴史学者が推察する役割 浜松城  遠江一国の経略を遂げ、遠江・三河二ヶ国の戦国大名になった徳川家康。その家康の遠江・三河統治のあり方は、今川家のそれを踏襲するものであった。また、今川氏真は武田軍によって駿河から退去を余儀なくされ、遠江懸川城に籠城したが、家康はそれを攻撃するも、すぐに氏真とそれを支援する北条氏政とのあいだで和睦を結んでいる。歴史学者・黒田基樹氏は、新著『徳川家康と今川氏真』(朝日新聞出版)で「家康が懸川城の攻略に拘らなかったのは、氏真とのかつての交流から生まれた、気心のようなものがあったように思う」と記している。家康にとって、氏真、そして今川家はどのような存在だったのか。同著から一部抜粋、再編集し紹介する。 *  *  *  懸川城から退去した氏真は、駿河大平城、次いで相模小田原に居住し、北条家の庇護をうけながら、武田家を撤退させて駿河に復帰することを図った。しかし元亀二年(一五七一)、妻早川殿の父・北条氏康の死去を契機に、北条氏政は武田信玄と再同盟した。これにより氏真は、北条家のもとで駿河復帰を果たすことはできなくなった。家康はその翌年から、武田信玄から領国への侵攻をうけ、領国の半分以上を経略されてしまう。 【こちらもおすすめ!】 『徳川家康と今川氏真』の記事をまとめて読む。  しかし天正元年(一五七三)四月に、武田信玄が死去したことで情勢は好転する。家康は反撃し、領国の回復活動を開始した。これをみた氏真は、駿河復帰の夢を家康に託すことにし、北条家のもとを離れて、家康を頼り、遠江浜松城に移住した。家康は当時、織田信長に従属する関係にあったから、それは信長の承認を必要とした。氏真は信長とは、それまで敵対関係にしかなく、しかも氏真にとって信長は父義元の怨敵にあたっていた。そのため氏真は、出家して信長に対して降参の作法をとって、敵意はないことを明示したうえで、家康の庇護をうけた。  家康が、さらに信長が、氏真を庇護することを承知したのは、武田家との抗争にあたり、元駿河国主の氏真を擁することで、武田家に対し駿河支配の正当性を獲得できるからであった。氏真は、信長・家康から、駿河経略のうえは同国を与えられることを約束されたとみなされ、その後は駿河国主予定者として、国主相当の政治的立場を復活させている。天正四年には駿河への最前線拠点であった牧野城の城主に任じられた。これは氏真が駿河経略の先鋒を務める姿勢を表明したものであった。ところが実際には、氏真は牧野城にはあまり在城せず、基本は浜松城に在所した。理由は判明していないが、家康から何らかの役割を求められていたためと考えられるように思う。戦国大名家としての教養の指南にあたっていたのではなかったか。 【こちらもおすすめ!】 『徳川家康と今川氏真』の記事をまとめて読む。  天正七年に家康の三男で、のちに嫡男にされる秀忠が誕生すると、その「御介錯上臈」、すなわち後見役の女性家老に、氏真妹の貞春尼が任じられ、また後見役の乳母に今川家旧臣の娘「大姥局」が任じられた。これは秀忠の養育が、今川家の関係者によっておこなわれたことを意味する。それにともなって徳川家の奥向きの構造も、今川家の作法で確立されていったことであろう。さらに同年に家康が北条家と同盟を形成するにあたっては、氏真家臣がその使者を務めた。氏真は北条家と旧知の間柄にあったため、北条家との関係を取り持つ役割を果たしたのである。そして家康にとって、北条家との同盟は、武田家との抗争において攻勢にでていく契機をなし、駿河への侵攻を開始するのであった。  ここまで氏真は、家康の領国統治や奥向き構造、さらには外交関係にも大いに助力していたとみることができる。かつての経験や教養が、十分に家康に寄与し、それを支えていたといえよう。しかし同十年に信長により武田家が滅亡し、駿河が家康に与えられて以降、氏真の動向はあまり確認されなくなる。家康は信長に、かねての約束から氏真に駿河半国を与えられるよう申請したらしいが、信長からは却下された。これにより氏真の駿河復帰の夢は完全に絶たれることになる。以後は家康のもとで、その家臣として生涯を過ごすほかはなくなった。それでも氏真の存在は、高い教養と政治的地位から、対外関係において貢献したことであろう。 ●黒田基樹(くろだ・もとき)/1965年東京都生まれ。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。博士(日本史学)。専門は日本中世史。駿河台大学教授。著書に『お市の方の生涯』『徳川家康の最新研究』(ともに朝日新書)、『百姓から見た戦国大名』(ちくま新書)、『戦国大名』『戦国北条家の判子行政』『国衆』『家康の正妻 築山殿』(ともに平凡社新書)、『関東戦国史』(角川ソフィア文庫)、『羽柴家崩壊』『今川のおんな家長 寿桂尼』(ともに平凡社)、『戦国大名・伊勢宗瑞』『戦国大名・北条氏直』(ともに角川選書)、『下剋上』(講談社現代新書)、『武田信玄の妻、三条殿』(東京堂出版)など多数。
退職金を賢くもらうには? 一時金or年金どっちを選択すべきか、意外な「ルール」も
退職金を賢くもらうには? 一時金or年金どっちを選択すべきか、意外な「ルール」も 写真はイメージです(gettyimages)    老後資金の大きな部分を占めるだけに、「もらい方」でミスしたくはない。最適の受け取り方法を探っていく。AERA 2023年9月18日号より *  *  *  退職一時金、「確定給付企業年金」(DB)、「企業型確定拠出年金」(企業型DC)、iDeCo(個人型確定拠出年金)の中で自分が受け取れるものを知り、一時金か年金でもらうかを選択していく。退職所得税制の改正は政府の動きを注視する必要があるが、控除額を変える場合も「経過措置を伴いながら時間をかけて進めるのでは」との見方が多い。現行制度の大枠が維持されるなら、当面は控除枠を目いっぱい利用するのが「王道」だろう。 まず控除枠をフル活用  大卒会社員で60歳受給の場合、勤続38年とすると控除額は2060万円。国の就労条件総合調査(2018年)によると、勤続20年以上の大学・大学院卒社員が定年時に受け取る退職金は平均1983万円だから、受け取るのが退職一時金だけなら多くの会社員が無税で全額を受け取れる。  一時金2千万円で、他に企業型DCが500万円ある場合はどうか。この場合、両方を一時金で受け取ると課税されてしまうので、企業型DCを年金でもらう選択肢が出てくる。  退職金制度に詳しい確定拠出年金アナリストの大江加代さんによると、昨年度からiDeCoが65歳まで加入可能になったため、iDeCoを使い、さらなる退職所得控除枠アップに挑む人も出ているという。 「60歳定年で再雇用の間はiDeCoに加入し、企業型DCを全額iDeCoに移換なさる方がいらっしゃいます。この場合、企業型DCの加入期間を、すべてiDeCoのそれと通算できるようになります。二つの加入期間を通算して、『20年超』のお得な部分を増やそうとしているのです」  40歳から59歳まで企業型DCに加入していた人が、60~64歳までiDeCoに加入し、資産全額を移したとしよう。すると「加入期間」は25年となり、別々の場合と違い、20年超の「70万円」控除を5年分使える。もっとも、60歳時などに退職一時金を受け取った場合、後述の理由でこの手は使えないので注意が必要だ。  一方、年金での受け取りを検討するのはどんな場合か。まず考えられるのはお金の管理が下手な人だ。一時金で巨額のお金を手にすると旅行に行きたくなり、投資の勧誘も来る。「誘惑」に勝てそうもない人は、少々手取りが少なくても年金を選ぶ方がいいかもしれない。 「DBは年金が得策」  大江氏によると、DBは年金でもらうのが得策という。 「残高には2%程度の利息を会社がつけてくれますし、iDeCoと違って口座管理料などの手数料もかかりません。なるべく長い年金にして、しっかり利息で増やしてもらうのがいいと思います」  ほかに、退職一時金や企業年金の使い方として最近注目されているのが「つなぎ資金」として使う策だ。 「WPP」という言葉を聞いたことはないだろうか。「Work longer、Private pensions、Public pensions」の頭文字をとったもので、「できるだけ長く働いて公的年金をもらう時期を遅くする『繰り下げ』を行い、終身でもらえる年金額を増やす」戦略を指す。「繰り下げ」をしている間、例えば60代後半に労働収入だけで足りない分を、企業年金を集中的に受け取ったり、退職金の一部を投入したりすることで賄う。 「少しずつ取り崩していくこれまでの戦略だと、何歳まで生きるかわからないから、どうしてもお金が尽きる不安がなくなりません。死ぬまで受け取れる公的年金を増やせれば、その不安を小さくできます」(大江氏) AERA 2023年9月18日号より    図の夫婦の場合で考えてほしい。夫の公的年金200万円は5年繰り下げると42%増えて284万円。妻の80万円と合わせると364万円で、年金だけで月に約30万円。夫婦2人なら生活できる金額だ。  もう一つ、選択肢が増え、今後は複数の一時金を「時間差」で受け取る場合も増えるだろう。例えば60代後半は勤労収入で生活費を賄えるので、DBの受給を遅らせるといった場合だ(規約で「できる」と定められている場合に限る)。そんな時に適用される退職金のルールもぜひ覚えておきたい。  まず一般的なのが「4年ルール」。ある一時金を受け取る場合、その前年以前「4年内」に別の一時金を受け取っていると、退職所得控除は先に使った勤続期間と重複する部分が使えなくなるとするもの。逆に言うと、二つの一時金を5年以上離して受け取ると、重複した期間を両方でダブルで使える。 AERA 2023年9月18日号より   「時間差ルール」に注意  ややこしいのは企業型DCとiDeCoが絡む場合だ。この二つの一時金を後で受け取る場合、「4年」が延びて「19年」になる。つまり、DCの一時金を受け取るその前年以前「19年内」にほかの一時金を受け取っていれば、退職所得控除で重複期間が使えなくなってしまう。これはDCが受給を始める時期を自由に選べるため、選択時期によって損得が出ることを避ける措置だ。しかし、これもルールに反しなければ「賢いもらい方」につなげられる。  DCの受け取り方に詳しいニッセイ基礎研究所の高岡和佳子主任研究員が言う。 「DCの受給開始時期は75歳まで延びていますので、最初の一時金を55歳以前に受け取れば、現行ルールでは75歳までに最初の一時金は20年前のものになり、『19年ルール』に該当しなくなります。FIREで55歳までに退職一時金を受け取った方や、意外なところでは50代前半で役員になった方も、その時点で退職一時金を受け取るので、企業型DCの一時金と両方で大きい退職所得控除額が適用されます」  なるほど、経済的に自立して早期リタイアを実現する「FIRE」や出世がお得なもらい方につながるとは思ってもみなかった。もう一つ、「19年ルール」はあくまでDCを後に受け取る場合に適用される。仮にDCを先に受け取れば、適用されるのは「4年ルール」だけ。会社の定年は65歳まで延長されたが、企業型DCの会社拠出が60歳で終わる場合などは、「60歳」で企業型DCを一時金で受け取り、「65歳」の新・定年の時に退職一時金を受け取ればよい。  以上述べてきた様々なポイントを踏まえて、退職金の受け取り方を考えてほしい。豊かな老後ライフがその先にあるはずだ。(編集部・首藤由之) ※AERA 2023年9月18日号より抜粋   【あわせて読みたい】 退職金の基本として押さえたい「手取り」イメージ 一時金と年金で受け取れる額に違い https://dot.asahi.com/articles/-/201174
ネットの誹謗中傷、10年前の約2.5倍 池袋暴走事故の遺族も被害に遭い「泣きました」
ネットの誹謗中傷、10年前の約2.5倍 池袋暴走事故の遺族も被害に遭い「泣きました」 インタビューに応じる松永拓也さん。「ネットの誹謗中傷対策は、あらゆる側面からやっていく必要がある」「誹謗中傷のない社会になってほしい」と話す(撮影/倉田貴志)    ネットには誹謗中傷の言葉があふれている。池袋暴走事故で妻子を失くした遺族も誹謗中傷の被害に遭ったという。なぜ、ネット社会で誹謗中傷が起きるのか。AERA 2023年9月18日号より。 *  *  *  言葉の刃(やいば)は人を傷つける。重く、鋭く、心をえぐる。 「何より、妻と娘のことをモノみたいに言われるのが、本当に言葉にできないほどつらいものでした」  松永拓也さん(37)は静かに話す。  2019年4月、松永さんの妻・真菜さん(当時31)と長女・莉子ちゃん(当時3)が、車の暴走事故で亡くなった。  事故の後、松永さんは、2人の命を無駄にしないという思いからX(旧ツイッター)やブログで交通事故撲滅の活動を始めた。すると、さまざまな意見が寄せられるようになった。  大半が励ましのコメントだったが、中には、〈死ね〉〈消えろ〉〈悲劇のヒーロー気取りか〉といった誹謗中傷のコメントもあった。ありもしないことも書かれつらかったが、名前と顔を出して発言する以上、仕方がないとあきらめていた。  しかし昨年3月、愛知県内の20代の男が、松永さんのXのアカウントに返信する形で、次のように書き込んだ。 〈男は新しい女作ってやり直せばいいこと  お荷モツの子どもも居なくなった〉  これを目にした時、松永さんは「泣きました」と振り返る。 「莉子が生まれた時に感じた命の尊さ、3年間一緒に真菜と莉子と生きてきた幸せな日々。それを、会ったこともない人が『お荷物』だと。そんなことを言うのかと。人として、絶対に言ってはいけないこと。許せなかった」  松永さんは警察に被害届を出した。警察は被害届を受理し、男を侮辱容疑で書類送検して起訴した。男は、松永さんを中傷する意図はなく炎上商法のつもりだったなどと言った。だが今年1月、男は侮辱罪に問われ、求刑通り拘留29日が言い渡された。  ネットには誹謗中傷や差別の言葉があふれている。  7月12日、タレントのryuchellさんが、自ら死を選び27歳で亡くなった。明確な動機は明らかになっていないが、ryuchellさんは、SNS上の自身への執拗な誹謗中傷のコメントに悩まされていたという。  昨年8月、ryuchellさんは離婚して「新しい家族の形」として同居を続けると、直後からryuchellさんへの厳しい批判の声が上がった。〈育児を放棄している〉〈妻子を差し置いて好きなことをやっている〉──。そんな投稿があふれ、「いいね」や「リツイート」で批判の声が膨れ上がった。 妻子を失った松永拓也さんのXのアカウントに返信する形で送られた、松永さんを中傷する投稿。「お荷モツの子どもも居なくなった」などとあった(撮影/倉田貴志)   誹謗中傷の多くは正義感からの攻撃  なぜ、ネット社会で誹謗中傷が起きるのか。  総務省の「違法・有害情報相談センター」には22年度、ネット上の誹謗中傷等被害の相談件数は5745件あり、10年前の約2.5倍。ここ数年、高止まりが続く。  ネットメディア論が専門の国際大学GLOCOMの山口真一准教授は、次のように指摘する。 「ネット上で誹謗中傷をする多くの人は、正義感から攻撃を仕掛けています。しかもその正義は、社会的正義ではなくその人個人の正義です。1億人がいたら1億通りの価値観がありますが、とりわけ攻撃的な感情を持った一部の人が、ネットに書き込む行為に至り、他人を傷つけています」  山口准教授の調査では、ネットで「炎上」に参加している人の60~70%が、理由を「許せなかった」などと回答した。そのため、自分が書いているのは誹謗中傷だと気づかない。「批判」であり、こいつは悪いことをしているから書かれて当然、と考えているという。 「面と向かっても誹謗中傷する人はいますが、ネットはそれを加速させる側面があります。『非対面コミュニケーション』と言い、顔が見えない相手とのコミュニケーションでは、相手が人間だという意識が薄れ、攻撃的になりやすいことが分かっています」(山口准教授) AERA 2023年9月18日号より    ネット上の誹謗中傷に詳しい、慶應義塾大学大学院KMD研究所所員の花田経子(きょうこ)さんは、最近の誹謗中傷の事案を見ているとこう感じると言う。 「自分の気持ちを表明しているだけのように思います。つまり、相手を非難しているという自覚も、それを第三者が見てどう思うかという視点も抜け落ちています。近所の友だちと話をしている感覚で、本人に向けて書いていないと思います」  例えば、子育てに協力的でない夫に不満を持っている主婦が、ryuchellさんのSNSに「育児を放棄している」などと書き込むことはあり得ると、花田さんは考える。 「しかも、本人に届くと思わず投稿する。そんな人が大半だと思います」  誹謗中傷は「嫌なら見なければいい」と言われる。だが、小さな石でも、何千何万と投げられれば大きなダメージとなる。(編集部・野村昌二) ※AERA 2023年9月18日号より抜粋   【あわせて読みたい】 SNS誹謗中傷で注目の「発信者情報開示請求」 約350件請求した写真家の体験に学ぶ https://dot.asahi.com/articles/-/89650
退職金の基本として押さえたい「手取り」イメージ 一時金と年金で受け取れる額に違い
退職金の基本として押さえたい「手取り」イメージ 一時金と年金で受け取れる額に違い 「ルール」をあらかじめ知っておくことが、賢く退職金を手にするために重要だ(写真:gettyimages)    政府による退職金課税の見直し議論が注目を集めている。老後のライフプランに影響することも考えられる。まずは会社の制度を知り、退職金の「手取り」を計算してみることが大切だ。AERA 2023年9月18日号より。 *  *  *  退職金や企業年金に詳しいファイナンシャルプランナー(FP)の高橋昭さんが言う。 「退職金の増税論議が明らかになって以来、セミナー参加者の意識の変化を感じます」  政府が今年の「骨太の方針」に、「退職所得税制を見直す」と明記したことは本誌7月24日号で報じた。勤続年数が長くなると控除額が増額される仕組みが見直される可能性があるとする内容だったが、そのことをセミナーで解説すると参加者の表情が引き締まるというのだ。 「厳しい増税もあり得ることを知り、それに備えたライフプランを立てなければと思うのでしょうね。逆に、運用益の非課税措置など資産形成の有力手段であるNISAやiDeCoの話題になると身を乗り出してきます」(高橋さん)  退職金は年金で受け取れる会社もあれば、年金と一時金併用で受け取れる会社もある。  退職給付のもう一つの柱である「企業年金」は、あらかじめ給付額が決まっている「確定給付企業年金」(DB)と、従業員側の運用しだいで給付額が変わる「企業型確定拠出年金」(企業型DC)が双璧だ。  会社の制度ではないが、資産形成のために近年、国の制度整備が進む「iDeCo」(個人型確定拠出年金)もあわせて考える必要があるだろう。iDeCo以外は規約次第だが、一時金、年金、併用可の三つのもらい方がある。 AERA 2023年9月18日号より   会社の制度を勉強する  自分の会社の制度がどうなっているのかを知ることが大前提になる。冒頭の高橋さんが、 「退職金規定や自分の会社の企業年金の規約はもちろん、賃金規定や就業規則にも目を通しておいた方がいいでしょうね」  と言えば、退職金制度に詳しい確定拠出年金アナリストの大江加代さんは、 「選択の『あり』『なし』に注目して会社の制度を見てください。退職一時金は『定年時に一括』でほかに選択肢がありませんが、企業年金はいろいろな受け取り方を用意している会社も多くあります。自分にはどういう選択肢があるのかをまず把握してください」  と話す。  制度とあわせ、基本として押さえておきたいのが「手取り」のイメージだ。一時金でもらう場合と年金でもらう場合で実際に受け取る金額が違ってくる。  一時金の場合は、先述のように勤続年数が長くなると増額される「退職所得控除」が使える(控除額は表、企業年金やiDeCoも一時金で受け取る場合はこの控除が適用される。その場合は「勤続年数」を「加入期間」と読み替える)。ご覧の通り、勤続20年を超えると一気に増え、控除額は勤続30年で1500万円、同40年だと2200万円にもなる。  退職一時金が「退職所得控除」を超えなければ退職所得は「ゼロ」となり、税金はかからない。超えると、超えた分の半分の額に課税される。ただし「分離課税」だから、同じ年に得たほかの所得とは合算されない。勤続40年で3千万円を受け取るとすると、税金がかかるのは「400万円分」だ(〈3千万円-2200万円〉×1/2=400万円)。  一方、年金でもらう場合は、企業型DCやiDeCoでは運用次第だが、DBではもらっている間も残りの資産を会社が運用してくれるので、受け取る額は一時金より大きくなる(どれぐらい大きくなるかは制度ごとの「給付利率」による)。こちらは分離課税でなく、「雑所得」として扱われる。公的年金やDB、企業型DC、iDeCoを年金でもらうといずれも雑所得としてカウントされ、同時にもらえば合算されて総合課税される。 AERA 2023年9月18日号より   「手取り」考える習慣を  ただし「公的年金等控除」が使える。65歳未満なら年間60万円、65歳以上は同110万円までがそれぞれ非課税だ。それを超えると課税所得が発生し、基礎控除などほかの所得控除を差し引いてもプラス部分が残れば、その分に所得税・住民税、社会保険料(健康保険・介護保険)がかかってくる。  この税金と社会保険料が実はばかにならない。退職一時金2千万円の大卒会社員夫婦の場合で、一時金でもらう場合と年金でもらう場合の「手取り額」を試算したのが図だ。60代前半は再雇用で年収300万円で働き、65歳以降は公的年金200万円(妻は80万円)を受給すると仮定して計算した。結果は、全体の額面では年金で受け取る場合が10年間で5100万円と、一時金で受け取る場合(4900万円)より200万円多くなった。ところが手取りでは逆転し、一時金の方が140万円多くなる結果に。10年間とはいえ無視できない金額である。  先のFPの高橋さんは、常に「手取り」で考える習慣を身につけてほしいとする。 「実際の生活は『手取り』で賄うので、ざっくりでいいので手取りを計算する癖をつけてください。選択肢が複数なら、それぞれの手取り額を比べてからもらい方を決めるようにしましょう」 AERA 2023年9月18日号より   (編集部・首藤由之) ※AERA 2023年9月18日号より抜粋
阪神「元エース」が東京・新橋の居酒屋で迎えた歓喜の瞬間 常連たちに支えられ「夫婦」で号泣
阪神「元エース」が東京・新橋の居酒屋で迎えた歓喜の瞬間 常連たちに支えられ「夫婦」で号泣 阪神優勝で感極まる元エースの川尻哲郎さん(右)と妻の陽子さん(撮影/上田耕司)    18年ぶりの阪神タイガースのセ・リーグ優勝で沸いた14日。なかでも、ひときわ熱気を放つ店が東京・新橋にあった。阪神の元エース・川尻哲郎さんが経営する居酒屋「タイガースタジアム」だ。  試合開始後の18時半ごろに店内に入ると、すでに満席。記者は立ち見で取材したが、ファンたちの熱気で空気が薄く感じるほどだった。  阪神が得点するたびに店内からは大きな歓声が上がる。4点目を追加した7回裏には、黄色の風船が一斉に飛び交った。  いよいよ9回に入ると、あと3人、2人、1人とカウントダウンが始まった。途中で膨らませ過ぎた風船が暴発する音がするハプニングがありながらも、「アレ」の瞬間に向けて店内のボルテージが一気に高まっていく。  そして、9回裏。2アウトから巨人・北村をセカンドフライに打ち取った瞬間、歓喜の瞬間が訪れた。  白い風船が宙を飛び交うなか、川尻さんのもとに妻・陽子さんが駆け寄り、2人はがっしりと抱き合った。陽子さんは目に涙を浮かべ、哲郎さんの胸に頭をつけて号泣。哲郎さんも泣いている。夫婦で3年間、店を切り盛りしてきて、夢に見た瞬間だった。  哲郎さんはこう話す。 「このお店を開いて、これだけみんなが喜んでくれて、この日を迎えられてよかった。本当にうれしいです」  日本シリーズ優勝に向けては、 「クライマックスシリーズ(CS)は油断はできないけど、(阪神が)有利だと思います。日本シリーズはオリックスが相手なら、投手陣が強いので接戦になると思うけど、日本一を狙ってほしいですね」 【あわせて読みたい】 阪神・岡田監督が星野仙一超える“名将”か 戦略家の「知られざる素顔」とは 喜びを分かち合うように抱き合う川尻夫妻(撮影/上田耕司)    妻の陽子さんもこう続ける。 「待ちに待った“アレ”でしたから。気持ちが込み上げてきて、泣が止まらなかった」  店内にいるファンからも「ありがとう、ありがとう、川尻さん」とコールが鳴りやまなかった。  川尻氏が現役時代につけていた背番号「19」のユニフォームを着ていた安井元晶さん(61)はこう言った。 「私は寅(とら)年生まれで、西宮出身。私が生まれた1962年は阪神が優勝した年でした、もう最高です」  店の常連だという岩崎誠(61)さんは、「阪神優勝」と書かれた手作りの扇子とユニフォームを着て応援していた。 「私も1962年生まれで、2003年も2005年も甲子園にいた。今年は川尻さんと一緒に優勝を見ることができてうれしい。だって、川尻さんはかつて阪神のエースだった人ですよ。その川尻さんと優勝を分かち合えるなんて、本当に感謝しかありません」  過去の阪神優勝を知っている年配者だけでなく、若い人の姿もあった。立命館大学3年の酒井翔真さん(20)は、奈良からこの店に駆けつけたという。 「昨日は甲子園にいました。ファンのみなさんが心の底からエネルギーを放出している感じで、すごい熱気でした。岡田監督は“アレ”を封印すると言ってましたが、もう『日本一』でいい。かっこいいと思います」 【あわせて読みたい】 18年ぶりの優勝で伸びる意外な「阪神関連銘柄」は? 関西景気の恩恵や語呂合わせ効果も 優勝が決まった当日のタイガースタジアムの店内の様子(撮影/上田耕司)    翔真さんの父・宏一郎さん(47)は台東区在住で、店の常連。14日は人手が足りないので、ボランティアで店を手伝っていた。 「言葉にできないですね。もう涙が止まらなかったです。この18年間で、優勝を逃したのが2~3回あって本当に悔しい思いをしてきました。今年、岡田監督になって期待をしていたらその通りになってくれたので、その思いが爆発して涙が止まらなかった。たぶん、社会人になって初めての涙です。常連のメンバーと一緒に野球を見られて、喜びを分かち合えて、本当に幸せです」  同じく店の常連で、森下翔太選手の背番号「1」のユニフォームを着ていた田中孝さん(50)さんは興奮気味にこう話す。 「明日は仕事で来られへんかったから、絶対に今日優勝してほしかった。しかも、裏で広島とヤクルト戦をやっていて、その試合が終わるよりも早く、阪神が優勝を決めたのがナイスやった。今日はホームの甲子園で巨人に勝って優勝してほしかったし、巨人もそうされたくないから必死なのはわかった。本当にいい試合だった。長いペナントで優勝したんだから、もう95%達成。CSや日本シリーズはエクスビジョンやで(笑)」  今年、阪神が強くなったポイントについてはこう分析した。 「岡田監督に尽きる。査定額をフォアボールで出塁してもヒットと同じように30万円~100万円(推定)に上げたことは大きかった。あと、岡田監督は友達野球ではなく、上下関係があんねん。いい悪いは別として、それでしっかりとしたメリハリのあるチームをつくった。“アレ”っていうのはオリックス時代から言っていたけど、阪神に来てキャッチフレーズに仕上げたね」 優勝の瞬間には白い風船が宙を舞った(撮影/上田耕司)   「タイガースタジアム」では野球部をつくっており、オーナーの哲郎さんが監督を務めている。部員の1人である斎藤真吾さん(46)はこう話す。 「感無量です。もの心付いたときから阪神の帽子をかぶって少年野球をやっていました。バースがいたころからずっとファンです。今年は岡田監督がうまく選手を使っていたので、安心して見ていられました。調子が悪い選手をカバーする選手がいたことも大きいと思います。たとえば大山悠輔がダメなら佐藤輝明がカバーして、近本光司がケガした時には森下がいてくれた。CSはこのままの勢いで行くでしょう。というか、行ってくれないと困る」  夫婦で応援に来ている人もいた。豊島区から来た40代の夫婦は、夫が阪神ファンだという。 「私はファンというわけではないのですが、夫が『来たい』『優勝したら泣いてしまう』と言うので一緒に来ました。きょうは夫の12月のバースデーの前倒しプレゼントですね」  店に集ったそれぞれの人が、18年間の思いを抱えながら、歓喜の美酒に酔いしれていた。阪神のネクタイをした男性は「きょうは朝まで飲むつもりです。帰りたくないです」と話したが、店内の盛り上がりはしばらく収まりそうになかった。  店の外にでると、新橋の街はいつもと変わらない様子だった。だが、ガールズバーの呼び込みをしていた20代の女性はこんな“変化”を口にした。 「今日は阪神のユニフォームを着た人たちをちらほら見かけましたね。近くで外飲みをしていた人たちはパブリックビューイングを見て『ワーッ』と歓声を上げて盛り上がってましたよ」  大阪のような“騒ぎ”とはならないが、東京の阪神ファンにとっても、熱い一夜となった。 (AERA dot.編集部・上田耕司)
嫉妬心はなぜ生まれる? を脳ドクターが解説 嫉妬する人にありがちな3つの特徴 
嫉妬心はなぜ生まれる? を脳ドクターが解説 嫉妬する人にありがちな3つの特徴   恋人や夫・妻の携帯電話を勝手にチェックして嫌われたり、既読スルーで喧嘩になったりなど、嫉妬心を抑えられずに悩んでいる人は多い。脳内科医で、「脳の学校」の代表や加藤プラチナクリニックの院長も務める加藤俊徳(かとう・としのり)さんによれば、「嫉妬する人は現在の自分に満足せず、自分と人を比べて考える人」だという。加藤さんが監修した『脳ドクターが教える 脳とココロの引き寄せルール』(朝日新聞出版)から、脳科学の観点から、嫉妬する人の心理と3つの特徴と嫉妬心を抑える方法を抜粋して紹介する。 *  *  *  嫉妬心の多くは「現在の自分に満足していない」ときに出てきます。他人の評価を入れずに自分で自分を受け入れられる基準を決めてみましょう。自分らしい基準を持つと、嫉妬を生じさせる機会が減ります。 嫉妬する人は「比べる人」  嫉妬心は「あの人は〇〇なのに対して自分は△△だ」と“比較”する思考から生まれます。逆にいうと、嫉妬しない人は自分と相手を比べて考えないのです。三角関係になったときでも「彼は私とあの女のどっちを選ぶんだ!」と天秤にかける思考をせず、自分と彼との関係だけに着目します。つまり、敵を蹴落とすための引き寄せではなく、ふたりが幸せになるような引き寄せを意識しているんですね。 嫉妬する人は「暇な人」  嫉妬しない人の特徴として、もうひとつ挙げられるのが「やることがある」ということです。人間は、やるべきことがなくなると(ネガティブな)感情が働き始めます。“ヒマだから悩む”というのが脳のしくみなんです。ただ座っているうちは嫉妬心が膨らんでいく一方ですが、体を動かして行動し始めると嫉妬が消えて、あんなに落ち込んでいた自分がバカバカしく思えてきたりもします。自分の脳がもっと別なことを考える目的があれば、脳は嫉妬に暇を与えないのです。 嫉妬しないために「運動」する  ですから、嫉妬心をなくすには運動系脳番地を使うのがいちばん早いです。家を隅から隅まで掃除する、ひとり旅に出る、筋トレを始めるなど予定をたくさん入れて、脳を忙しくさせてあげましょう。 この世の中は、各種広告をはじめ嫉妬をあおるような情報であふれています。情報操作による価値観に縛られて「嫉妬させられている」可能性もあるということを知ってください。人と比べず自分の価値観だけで判断しましょう。「なぁんだ、取り合うほどのヒトじゃない」と気づくかもしれませんよ。 (構成 生活・文化編集部 端 香里)
戦国大名家のトップ・今川家を手本とした家康 懸川城攻略に拘らなかった理由も気心故か
戦国大名家のトップ・今川家を手本とした家康 懸川城攻略に拘らなかった理由も気心故か 掛川城  徳川家康にとって今川家の存在はどのような意味を持ったのか。歴史学者・黒田基樹氏は新著『徳川家康と今川氏真』(朝日新聞出版)で、氏真こそ、家康に最も影響を与えた人物であろうと考える。同著から一部抜粋、再編集し紹介する。 *  *  *  そもそも家康は、岡崎松平家の当主として、戦国大名・国衆という領域国家の主宰者として必要な、武将として、また政治家としての教養を修得したのは、今川家のもとでのことであった。天文十八年(一五四九)、もしくは同十九年に、八歳か九歳の時から、今川家の本拠であった駿府に居住した。それらの教養は、そこで修得したのであった。それはいわば、今川家によって育成されたことを意味しよう。  そして今川家の嫡男として存在したのが、今川氏真であった。家康よりも四歳年長であった。家康は、今川家御一家衆・関口氏純の婿になって、今川家の親類衆として存在した。したがって氏真は、その宗家にあたる存在であったといいうる。弘治三年(一五五七)に氏真が今川家当主になると、家康はそれに従う関係にあった。そして宗家とその親類衆ということから、親密な関係を形成したことであろう。 【こちらもおすすめ!】 『徳川家康と今川氏真』の記事をまとめて読む。  当時の今川家は、駿河・遠江・三河三ヶ国を領国とした、海道筋随一の大規模戦国大名であった。しかも室町幕府を主宰する足利将軍家の御一家として、高い政治的地位とそれに相応する文化・教養をもとに、近隣の甲斐武田家・相模北条家よりも優越する地位にあった。周辺の戦国大名家をリードする、いわば戦国大名家のトップランナーともいうべき存在であった。家康はそのもとにあって、少年期から青年期を過ごしたのであり、今川家からうけた影響は、計り知れないものがあったことは間違いない。家康にとって、今川家こそが、戦国大名家としての手本に他ならなかったであろう。  永禄三年(一五六〇)の尾張桶狭間合戦で、今川義元が戦死したことで、三河・尾張情勢は急変し、それに応じて家康は、尾張織田信長と同盟したうえで、今川家に敵対する。そこから家康は、足かけ九年におよんで氏真と軍事抗争を展開した。しかし家康が果たしえたのは三河一国の統一であり、遠江経略をすすめることはできなかった。同十一年に、氏真と武田信玄の関係悪化により、家康は織田信長を通じて信玄と同盟を結び、氏真に対して協同の軍事行動を展開し、遠江経略をすすめた。  氏真は武田軍によって駿河から退去を余儀なくされ、遠江懸川城に籠城した。家康はそれを攻撃するが、すぐに氏真とそれを支援する北条氏政とのあいだで和睦を結び、その際に氏真・氏政と入魂にするという誓約まで結んだ。家康が懸川城の攻略に拘らなかったのは、氏真とのかつての交流から生まれた、気心のようなものがあったように思う。  これにより家康は遠江一国の経略を遂げ、遠江・三河二ヶ国の戦国大名になった。家康の遠江・三河統治のあり方は、支城制の採用といい、在地支配の仕組みといい、今川家のそれを踏襲するものであった。家康にとって今川家は、やはり戦国大名としての手本であったといいうる。 ●黒田基樹(くろだ・もとき)/1965年東京都生まれ。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。博士(日本史学)。専門は日本中世史。駿河台大学教授。著書に『お市の方の生涯』『徳川家康の最新研究』(ともに朝日新書)、『百姓から見た戦国大名』(ちくま新書)、『戦国大名』『戦国北条家の判子行政』『国衆』『家康の正妻 築山殿』(ともに平凡社新書)、『関東戦国史』(角川ソフィア文庫)、『羽柴家崩壊』『今川のおんな家長 寿桂尼』(ともに平凡社)、『戦国大名・伊勢宗瑞』『戦国大名・北条氏直』(ともに角川選書)、『下剋上』(講談社現代新書)、『武田信玄の妻、三条殿』(東京堂出版)など多数。
徳川家康と今川氏真の深い交流 両家を結びつけ、今川家存続の鍵を握った貞春尼の最期
徳川家康と今川氏真の深い交流 両家を結びつけ、今川家存続の鍵を握った貞春尼の最期 再建された駿府城の坤櫓(写真:Getty Images)  歴史学者・黒田基樹氏は新著『徳川家康と今川氏真』(朝日新聞出版)で、徳川家康に最も影響を与えた人物であろう今川氏真と考える。加えて、天正七年に家康の三男徳川秀忠が誕生すると、その女性家老(「上臈」)にして後見役に、氏真の妹・貞春尼が任じられたという事実を記した。同著から一部抜粋、再編集し、晩年の氏真の動きと、貞春尼のエピソードを紹介する。 *  *  * 氏真夫妻の駿府・江戸下向  氏真の京都での活動が確認されるのは、慶長十七年(一六一二)正月二十四日、冷泉為満邸での和歌会に参加したものになる。前年十二月に、嫡孫範英が徳川秀忠への出仕を遂げているから、その直後にあたる。そして氏真はその後、江戸に赴くことになる。範英の出仕が遂げられたことをうけて、京都を離れて、範英のもとで生活することを決したのであろう。  同年四月、氏真は駿府に赴いて、家康に対面している。「駿府記」同年四月十四日条には、「今川入道宗ぎん(ぎんは門がまえ「言」)〈俗名氏真〉京都より来府、則ち御前に出でて、御物語と云々」と記されている(『史籍雑纂第二』二三二頁)。氏真は駿府城に到着するとすぐに、家康のもとに出仕して、会談したことが知られる。氏真はこの時、もう七五歳になっていた。対して家康も、七一歳になっていた。そしてこれが、氏真の具体的な動向として確認される最後のものになっている。その後に、氏真は江戸に向かったとみなされる。 【こちらもおすすめ!】 『徳川家康と今川氏真』の記事をまとめて読む。  家康は、慶長十一年まで伏見城で天下統治をおこなっていたが、同年九月に江戸城に移り、さらに同十二年に新たな天下統治のための本拠として駿府城を構築し、そこに移住していた。その間に京都に上洛したのは、同十六年三月から四月、後水尾天皇の即位式と羽柴秀頼との対面のためであった。もしかしたらその時に、氏真は数年ぶりに家康に対面し、そこで嫡孫範英の徳川家への出仕を申請したのかもしれない。またそれをうけて、家康は氏真に、江戸への移住をすすめた、ということも考えられるかもしれない。  氏真はおそらく、京都でしばしば家康・秀忠に対面できたであろうから、家康が伏見城に在城していた時までは、それなりに対面していたであろう。しかし家康が駿府城に移ってからは、それは叶わなくなっていた。そうであれば慶長十六年の家康の上洛の時に、五年ぶりの対面がおこなわれたことであろう。そうするとこの時の対面は、一年ぶりのことであったかもしれない。  その後、氏真が家康と対面したことを記す記録はみられていない。「駿府記」にもこの時のことしか記されていない。しかし同史料は、駿府での家康の動向のすべてを記しているわけではない。氏真が駿府に赴いてきて、家康に対面したことはあったかもしれない。また家康は、慶長十八年九月から同十九年正月まで、江戸城に滞在している。そのあいだに江戸に居住していた氏真と対面がなかったとはいえないであろう。  家康と氏真は、それぞれ駿府と江戸に居住するようになったことで、かつて家康が京都に居住していた時のように面談する機会は、少なくなっていたであろう。しかし家康と氏真は、最後まで交流を続けたことと思われる。 【こちらもおすすめ!】 『徳川家康と今川氏真』の記事をまとめて読む。 今川貞春の死去  氏真が江戸に移住してから四ヶ月後の慶長十七年(一六一二)八月十九日に、妹の貞春尼が死去した。法名は嶺寒院殿松誉貞春禅定尼(「北条家過去名簿」)、あるいは嶺松院殿栄誉貞春大姉(万昌院過去帳)といった。七一歳くらいであったと推定される。もしかしたら氏真の江戸への移住は、貞春尼の病状が悪化したなどの連絡があったためかもしれない。妹の最期を看取るため、江戸に下ってきたということも考えられる。  貞春尼は、最後まで、秀忠の上臈として存在していたとみなされる。秀忠が誕生して以来、三三年におよんで秀忠に奉公してきた。しかもそれは単なる奉公ではなく、女性家老として、また後見役として、秀忠を支えてきたのであった。そうして徳川家の奥向きにおいて重要な役割を担ってきたのであった。これは今川家の一員が、徳川家を支えていたことを意味する。この貞春尼の存在によって、徳川家と今川家はしっかりと結び付いていたのであった。この意味において、駿河没落後の今川家において、彼女こそが最も活躍した人物であったといっても過言ではなかろう。  氏真は、彼女の最期を看取ったことであろう。そこでは、氏真妻の早川殿をはじめ、嫡孫範英、次男高久、娘婿の吉良義定とその家族たちも集ったことであろう。彼女がいたからこそ、ここにいたるまで氏真とその家族は存続できたとみることができる。いわば彼女は、その後の今川家の存続をもたらした、最大の功労者であったといいうるであろう。 ●黒田基樹(くろだ・もとき)/1965年東京都生まれ。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。博士(日本史学)。専門は日本中世史。駿河台大学教授。著書に『お市の方の生涯』『徳川家康の最新研究』(ともに朝日新書)、『百姓から見た戦国大名』(ちくま新書)、『戦国大名』『戦国北条家の判子行政』『国衆』『家康の正妻 築山殿』(ともに平凡社新書)、『関東戦国史』(角川ソフィア文庫)、『羽柴家崩壊』『今川のおんな家長 寿桂尼』(ともに平凡社)、『戦国大名・伊勢宗瑞』『戦国大名・北条氏直』(ともに角川選書)、『下剋上』(講談社現代新書)、『武田信玄の妻、三条殿』(東京堂出版)など多数。
「あなたが、家を出なさい」 ひきこもる50代女性の母親に識者がアドバイスした真意
「あなたが、家を出なさい」 ひきこもる50代女性の母親に識者がアドバイスした真意 高齢になった親が、中高年になったひきこもりの子どもを支える──。8050問題は家庭の中に抱え込まれたまま長期化するケースも多い(撮影/写真映像部・上田泰世)    内閣府が2019年に公表した調査によると、40~64歳のひきこもりは推計約61万人。長期・高齢化するひきこもりは、80代の親が50代の子どもを支える「8050問題」として、社会課題になっている。識者はどうとらえているのか。AERA 2023年9月11日号から。 *  *  *  中高年ひきこもり61万人は、これまでこの社会には“存在しない”とみなされていた層だ。まさに今の社会のありようを象徴する「病理」の犠牲者であると、長年、中高年ひきこもりと家族の支援を続けている「NPO法人 遊悠楽舎」(神奈川県逗子市)代表、明石紀久男さんは感じている。  なぜ、50代になっても自分の人生を生き得ない人たちがこれほど存在するのか。長期間の支援を通し、多くの家族と会い、親子双方の話を聞いた中で、明石さんがたどり着いたのが、「話し合えない家族」だ。彼らの間には、感情の交流がない。 「父親は母親に、子育ての責任を押し付けてきた。しかし、どれだけ夫婦で話し合いをしてきたか。夫婦間にあるのは、事務連絡と情報共有だけ。何を感じ、何を考えたのか、夫婦で話そうともしていない。それは子どもに対しても同じ。高度経済成長期以降、家族という最も小さな共同体から感情が失われたと思えて仕方がない」  だからこそ、明石さんが強調するのは、「親が親をおりる」ことの大切さだ。 「親でいる限り、子どもは家族の一員であり、一個の人格ではない。親をおりないと、子は子の役割から逃れられない。立場や役割を手放し、お互いが個人に戻って初めて、個人と個人の対等な関係になる。そして、人として尊重されるという経験を、子どもは得ることができるのです」  80代の父親は現役の会社役員、妻は専業主婦、50代の一人娘は大学時代からひきこもった。企業戦士の父親は家族で外食をしても、娘がナイフの音を立てただけで、「音を立てるなと言っただろ! 出て行け!」と怒鳴り、店から追い出す。日常的に父親による虐待がある家庭だった。  一方の母親は、「まあまあ」と波風が立たないように夫の顔色を見て、娘との仲を取り持つ。話し合うのではなく、波風を立てないようにすることが、母親の役割だと思ってきた。 あかし・きくお/1950年生まれ。98年から「不登校児やひきこもり者」とその家族の相談を始め、2001年にフリースペース遊悠楽舎を開設(撮影/写真映像部・上田泰世)   「夫の顔色をうかがい、子どもにもいい顔をする母親は多い。そして、娘を手元に置いておきたく、手放せない」  長期間の支援を通して何も変わらない事態に、明石さんはついに母親に「あなたが家を出なさい」と助言した。 「あなたは『娘が泣いていて、苦しい』とずっと言っている。『もう、私が持たない』と。この異常な状態を誤魔化してキープしたから、今がある。異常な状態を崩すには、傷ついているあなたが行動するしかない」  母親は思案して、夫に「家を出る」ことを告げた。すると、夫が変わった。今までの一方的な上からの物言いを改めたところ、娘と談笑するシーンも見られるようになったという。  母親はついに親をおりる覚悟をした。そのことが、共依存のような異常な状態を維持し続けてきた家族のありように、一つの変化をもたらしたのだ。 「お母さんが覚悟を決めたから、何かが変わり始めた。その覚悟が緩んだら、元の木阿弥になると思うけれど」 「自助自立」の社会で親子が運命共同体になった  一方、社会福祉を専門とする白梅学園大学名誉教授の長谷川俊雄さんは、8050問題は家族の問題ではなく、社会構造との関連で把握する問題だと見る。 「誰に対しても自助自立を強要する、ここ30年来の社会的排除の結果、親子が運命共同体になってしまい、孤立して生きることを受動的に選択せざるを得なかったのだと思います。『相互扶助』や『共生』ではなく、『自己責任』を強いられる社会は、弱者には非常に苦しい。社会から退去せざるを得ず、“命のその日暮らし”をするしかない親と子が、どれほどいることか」  社会から孤立した生活を長年にわたり維持してきた8050の親子に、無理やり外側から介入し、生活を変える支援を押し付けることは暴力的な側面がある、と注意喚起する。 「大切なのはまず、安否確認。そして、相手を不安にさせない、関係を作るための努力。背景と経過を見極めた上での、個別に応じた支援が非常に重要になる。8050を、一方的に決めつけて捉えることは危険です」  前出の明石さんもまた、社会の問題であり、家族だけにその責を負わすべきではないと考える。一方でこう思う。 「では、社会を変えるのは誰か。やはり家族から、僕は出発したい。こういう社会を作った大人たち、80世代の責任はある。一つ屋根の下、子どもが葛藤を抱え人生を諦めているのなら、そこに支援を届けるべきだと僕は思う」  開業医の父親の下、医者の道を強制されたが、拒否して教員の道に進んだ長男は、20代後半でアパートから出られなくなり、自宅に戻り、50歳になるまで自室で自分を責め続けた。父親は長男に罵詈雑言を浴びせるだけ。当初は明石さんと会うことすら拒否していたが、「どうやったら快適にひきこもれるか、一緒に考えようよ」と声をかけたところ、長男はこう言った。 「僕は親の家でなんか暮らしたくない」  そこで、生活保護を申請してアパートを借り、建築現場での遺跡発掘のアルバイトを紹介した。今は「仕事を終えて、お店で軽く、お酒を飲むのがささやかな楽しみです」と明石さんに話す。  親の家にいたままだったら、不本意な60代、70代を迎えていたはずだ。ひきこもる当事者にこそ光を届けたいと明石さんは願う。  まだまだ、外側からの光が届かない8050、9060の家族が、どれほどこの国に埋もれていることか。中高年ひきこもり61万人はこの社会の歪みを、その存在を通して訴えている。(ジャーナリスト・黒川祥子) ※AERA 2023年9月11日号より抜粋
「いつまで甘えてんだ!」と父は罵声と共に殴りかかった 長期化するひきこもりと“話し合えない家族”
「いつまで甘えてんだ!」と父は罵声と共に殴りかかった 長期化するひきこもりと“話し合えない家族” 相談室で明石さんは、威圧的に感じないように正面ではなく、敢えて斜めの位置に座る。相談記録には、ここでやっと吐き出すことができた切実な言葉が書き留められている(撮影/門間新弥)    80代の高齢になった親が、社会からひきこもった50代の子どもの生活を支える──。いまや8050問題は社会全体の課題だ。長いコロナ禍の裏で、当事者たちの孤立化は一層進んだ、と識者は指摘する。AERA 2023年9月11日号から。 *  *  * 「8050問題」にコロナ禍はどのような影響をもたらしたのか。長年、中高年ひきこもりと家族の支援を続けている「NPO法人 遊悠楽舎」(神奈川県逗子市)代表、明石紀久男さんは孤立化がより進んだと見る。 「コロナ禍で露呈したのは、日本社会の閉鎖性。これがひきこもっていた人たちにはかなり堪えた。今まで聞こえなかった男性の声や夫婦げんかの物音が聞こえるだけで、心理的恐怖を感じ、奥深くひきこもるようになったケースもあり、孤立が深まったと思います」 「8050問題」が世に注目されたのは2019年、立て続けに起きた二つの事件(登戸殺傷事件、元農林水産事務次官による息子殺害事件)による。  中高年ひきこもりは、それまで見えない存在になっていたが、犯罪という不幸な形で社会のただ中に出現した。同年に内閣府が公表した調査では40~64歳のひきこもりが推計約61万人で、15~39歳の同約54万人を上回ることがわかった。ひきこもりは高齢化問題でもあることが明らかになった。  ひきこもりの長期化は、「話し合えない家族」を作ってきた、家族の病理だと明石さんは見る。 「相談が親からあっても継続しないのは、経済力があって養えるから。親にとって大した問題になっていない。『家の恥』としてひた隠しにしてきたのが、長期化の原因でしょう」  明石さんが相談室で相対する家族で目立つのは、強い父親と夫から三歩下がって従う母親の姿だ。夫が一方的に話し、最後に妻に「おまえ、何かあるか」と聞く、主従関係のような夫婦が多い。  ある父親は90代前半、母親は80代後半。50代の次男は仕事に挫折、20代半ばで家に戻り、自室にひきこもった。 あかし・きくお/1950年生まれ。98年から「不登校児やひきこもり者」とその家族の相談を始め、2001年にフリースペース遊悠楽舎を開設(撮影/写真映像部・上田泰世)   「おまえ、どうすんだ!」「いつまで甘えてんだ! いい加減にしろ!」  次男に父親は罵声を浴びせ、殴りかかった。社会から撤退せざるを得なかった息子の苦しみを考えもしなかった。 「次男はどうしようもないから家にいるのに、どうすればいいかを考えるのではなく、頭ごなしに怒鳴ればなんとかなる、と父親は思っている」 子どもの気持ちより「ちゃんとした料理」  高度経済成長期のエリートサラリーマンだった父は、一家の支配者として家族に君臨していた。一方、母親といえば戦後に一般化した「専業主婦」という、夫や子どもの「お世話をする」、奉仕の役割を担う存在だった。“強い父”に怯える次男は、母親に救いを求めるしかない。しかし……。 「次男は父親がいない時、台所で料理をする母親の後ろをうろうろしているという。だけど、母親は台所仕事の方が忙しい。息子が何か言いたがっているのに、夫のためにちゃんとした料理を作ることを優先する」 「ちゃんとした料理」より、大切なのは「子どもの気持ち」。優先順位が間違っていると明石さんは言う。だが、小さい頃もひきこもりが長期化してからも、母親の優先順位に変わりはない。 「ちゃんとした家族であることが優先されて、子どもの気持ちに気づけない。話し合えない家族の、まさに典型だと思います」 「ちゃんとした食卓」を囲み、「何かあったの?」と親から尋ねられても、話などできるはずがない。父親も母親も、子どもの内面を考えようとも、気持ちに寄り添おうともしてこなかった。  こうした歪んだ歴史を積み重ねての、「8050」だと明石さんは言う。外側だけ見れば、経済的に恵まれた「勝ち組」に見えるかもしれない。  明石さんはこの次男へ想いを伝えたいと手紙を書き、次男が食事をする食卓に置いてほしいと母親に頼んだ。 「しかし、なかなか読まないものだから、父親が勝手に判断して引き出しに仕舞い込んだ。『手紙が汚れるから』と。そんなことはどうでもいい。目につくところに、置き続けてほしかった」  ここでも次男の気持ちより、手紙の汚れを避けるという体面が優先された。明石さんは「直接会いたい」と家庭を訪問したが、その日、次男は朝から外出し、外部との接触を頑なに拒否した。  そして、支援機関との唯一の窓口だった母親は、コロナ禍に骨折して入院、退院間際にコロナの感染者が出て入院が長引いたことで認知症が進行してしまった。次男へのアプローチは今、より困難になっている。母親の代わりに、父親が息子のために支援機関に出向くことはない。  母親が子どもの面倒を見過ぎるケースも多いという。80代父親は元校長、同年代の母親は専業主婦という夫婦だが、50代の娘と息子が両方ひきこもっている。娘は発達障害で精神障害者保健福祉手帳を持ち、障害年金とテープ起こしの仕事で対価を得ているが、母親が娘を離さない。 「とにかく、母親がべったり。お互いの病院にも一緒に行くし、娘のためにと提案した女性の居場所にも母親が付いてくる。『テープ起こしがしんどい』といえば、お母さん、『じゃあ、やめなさい。やらなくていいから』と。そうやって家から出そうとしない。『あの子は、私がいないとダメなのよ』、と」  息子の存在は外側からはうかがい知れない。息子にも発達障害の傾向があると明石さんは感じているが、「いい家庭」という体面を重視し、両親は子どもを家に引き込み、外に出さない生活をさせている。元校長の父親は家事や子育てを妻に任せて、家族に関わらない。(ジャーナリスト・黒川祥子) ※AERA 2023年9月11日号より抜粋
「ジジイども、見たか」発 落語愛への一本道 落語家・桂二葉
「ジジイども、見たか」発 落語愛への一本道 落語家・桂二葉 オリジナル手ぬぐいを染めてもらっている東京・浅草の「ふじ屋」で。店名にちなみ、草履の鼻緒は藤の柄(撮影/武藤奈緒美)    落語家、桂二葉は女性の帯の締め方で、高座に上がる。女性なら当たり前のようだが、落語界では少数派だ。2021年、「NHK新人落語大賞」で大賞を受賞、一挙にブレイクしたのは、50年超の歴史で初めての女性だったから。その上、記者会見で口にしたのが、「ジジイども、見たか」だったから。そんな二葉の熱き落語愛、どうぞお見知り置きのほどを。 *  *  *  7月20日、有楽町朝日ホールでの落語会。前座に続いて登場した桂二葉(かつらによう・37)の1席目は「幽霊の辻(つじ)」、次いで笑福亭鶴瓶(しょうふくていつるべ)が登場、「芝浜」で仲入りとなり、明けて二葉の2席目。 「おい、らくだ、らく、いてへんのかいな」  上方落語を代表する大ネタ「らくだ」が始まった。その瞬間、会場から落語会では珍しいどよめきが起きた。観客一人ひとりの「おっ」が重なって「おー」となる。そんなどよめきだった。 「らくだ」という嫌われ者が長屋で死んでいるところから始まる噺(はなし)だ。見つけたのは、らくだに輪をかけたろくでなし「脳天の熊五郎」。通りがかった紙屑(かみくず)屋を使い、葬式の準備をする。ところが酒を飲んだ紙屑屋が、突然豹変(ひょうへん)し……。  この日は途中まででまとめたが、演じ切れば1時間近くなる。熊五郎の狼藉(ろうぜき)ぶりは飛び切りで、女性落語家が演じることはほとんどないネタだ。  初演は2023年2月、「桂二葉しごきの会」(ABCラジオ)だった。「しごきの会」は上方落語の未来を背負う若手を鍛えるという趣旨で、1972年に始まった。初回は桂小米(こよね・のちの枝雀(しじゃく))で、二葉は15人目にして初の女性。そんな経緯も含め、「おっ」となったというわけだ。  簡単に二葉の経歴を紹介する。  入門は11年、師匠は桂米二(よねじ)(65)。米二は桂米朝(べいちょう・人間国宝、15年没)の弟子だから、米朝の孫弟子だ。上方落語には真打制度がないが、大賞を取った「NHK新人落語大賞」の出場資格は「二つ目(大阪の場合は同程度の芸歴)」だ。東京の大賞受賞者を見ると、受賞から数年で真打になっている。 岐阜市にある敬念寺での「第8回敬念寺落語会」。午前は檀家さん、午後は一般のお客さんに「金明竹」「真田小僧」「天狗さし」。抽選会もあって大盛り上がり、写真撮影やサインにも気さくに応じた(撮影/武藤奈緒美)    ちなみに「NHK新人落語大賞」は何度か名前を変えているが、ルーツは72年。二葉は21年、天狗(てんぐ)をつかまえてすき焼き屋をしようと思いつくアホが活躍する噺「天狗さし」を演じ、大賞を受賞した。受賞後の記者会見の最後の方で「ジジイども、見たかっていう気持ちです」と言った。本人によれば「可愛い感じ」で言ったそうだが、ニューヨーク・タイムズにも取り上げられた。そこからは破竹の勢い。今年3月には「探偵!ナイトスクープ」(ABCテレビ)の探偵にも選ばれた。 大人の感覚に敏感な子ども 母は「アホやなー」とほめた  さて、冒頭の落語会に戻る。演芸写真家・橘蓮二がプロデュースする「桂二葉チャレンジ!!」シリーズの4回目だった。22年10月にスタート、初回の相手は春風亭一之輔(しゅんぷうていいちのすけ)、次が春風亭昇太(しょうた)、柳家喬太郎(やなぎやきょうたろう)、そして鶴瓶で「最終章」。4回すべて満席でこの日、大入り袋も配られた。動員数は延べ3千人になる。  二葉の武器は明るく高い声。自然で自在な声にのせ、得意ネタは「アホ、子ども、酔っ払い」。入門からしばらくアフロヘアにしていたのは、「女性落語家」と思われるより先に「アホっぽい」と思われたいからで、一門の集まりで対面した米朝に「はやってんのか?」と尋ねられたという伝説も持つ。その上「ジジイども、見たか」だから、根っから大胆な人物に違いない──。  ところが二葉、大人の感覚に敏感で、話すのが苦手な子だったという。例えば保育園の卒園アルバムの「将来の夢」。「あるわけないやろ」と思ったが「ケーキ屋さん」が正解だとわかっていたからそう言った。ランドセルも黒がよかったが、赤を選んだ。その点、3歳下の弟は将来の夢を「忍者」と言い、茶色で横型のランドセルを選んだ。「男の子ってアホやから、余計なこと考えずに言ったり選んだり、えらいなって思ってました」  二葉の両親が事実婚だということは、「ジジイども、見たか」と共に有名になった。二葉が弟に「男のくせに泣いてる」と言うと、「男も女も泣くやろー」と言った母。勉強が苦手で「N」と「M」の区別がつかない二葉に「Mは1本、多いねんで」と根気よく教えてくれた。勉強が得意だった弟の西井開(34)は臨床心理士になり、『「非モテ」からはじめる男性学』などの著書もある。  西井によれば、58年生まれの母はウーマンリブやフェミニズムに触発され、「規範」から解放されることに肯定的、または促す人だった。優等生の西井が学校で「いい子」と評価されると「おもんない」と言い、連絡帳に書かれた先生の記述を消した二葉には「アホやなー」とほめた。父は学童保育の指導員で、2人はその学童に通っていた。 女性落語家への違和感 自分は嘘なくアホができる  西井の観察では、父の手前ヤンチャに振る舞えない二葉は、学童の“アホなお兄さん”への憧れを強く持っていた。その一方で身体能力が高く、学童で取り組んでいた和太鼓が群を抜いてうまく、発表のたびに圧倒的に目立ったのが二葉だった。  アホ=愛嬌(あいきょう)ある目立ちたがり屋への憧れに、和太鼓で注目された原体験があるから、「落語家になるって聞いた時、違和感はありませんでした」。  二葉を落語に結びつけたのは、実は鶴瓶だ。大学時代、「きらきらアフロ」というトーク番組を見て好きになり、追っかけになる。落語会にもすぐに行き、他の落語家も見るようになった。女性落語家を見ると違和感を覚え、その理由を知りたくて全員を見に行った。無理をしている、特にアホな人を演じると痛々しい。そうわかった。 「いけると思いました。自分がアホやという自信は子どもの時からあったけど、言えずに来た。でも落語でならできる。自分なら嘘(うそ)なくアホができる」。入門に備え貯金をしようと就職、師匠を探して米二にたどりついた。  毎日新聞大阪本社学芸部記者の山田夢留(むる)(46)は、駆け出しの頃の二葉の言葉にハッとさせられた。「女性というのは、アホと距離がある」。すごく腑(ふ)に落ちた。小さい頃から面白いことを言うのは男の子で、女の子は「しっかりしなさい」と育てられる。だから女性がシンプルに面白いことを言っても、見る側が「女性」というフィルターを通すから笑えない。今も「痩(や)せてる」「太ってる」をネタにしがちな女性お笑い芸人のことなども含め、「笑いとジェンダー」が氷解する一言だった。 京都・鴨川近くの「かもがわカフェ」には修業時代から通っている。「うちのお客さんは、みんな応援してますよ」と、オーナーの高山大輔(写真手前)。二葉は「大ちゃん」と呼ぶ(撮影/武藤奈緒美)   目標としたら、がむしゃら 怒りをパワーにするタイプ  この人はすごい噺家(はなしか)になる。そう感じ、初めてインタビュー記事を載せたのが16年8月。19年4月からは「勝手に大阪弁案内」という二葉の連載を始めた。2回目に二葉が書いたのは「いちびり」。はしゃいだりふざけたりを堂々とできるけど愛嬌がある、アホな子どものことだ。  師匠の米二はなぜかアフロヘアで落語会に通ってくる二葉をおもしろいと思い、着物の着方も二葉に任せた。「彼女のアホは、ええアホやと思います。ほんまにいたら難儀やけど、見ててにこやかになれる。アホもいろいろいますから、極めていきたいんでしょうね」  米二が語る修業時代の二葉は、健気(けなげ)で可愛い。いわく、初めて稽古をつけたら何もわかっていなくて驚いた、あれだけ自分の落語会に来ていたのに、上手(かみて)も下手(しもて)も知らなかった、目の前の自分を真似(まね)るので左右が逆になるから、並んで稽古をすることにした、台詞(せりふ)覚えもすごく悪い、ところが覚えると、これがなんとなく落語になっている。 「なんとも言えないおかしみを感じました。我々の方ではそれを、フラがあるっていいますが」  1年ほどしたら、稽古中に泣くようになった、想定外だったが、それで女は面倒だとは思わなかった、悔しいからだとわかったし、泣きやんでもまた泣くから、稽古は「もう今日あかんな、今日やめとこな」と……温かい語り口が心に響く。  米二がほめるのが、二葉の根性だ。上方落語協会主催の「上方落語若手噺家グランプリ」、「上燗屋(じょうかんや)」で初めて決勝に残った18年、「どこがあきませんでしたか」とすぐに聞きに来た。 「目標としたら、がむしゃらにくらいつく。3人いてる弟子の中で、根性は一番です」  前出の山田も「若手噺家グランプリ」の二葉を覚えている。準優勝した21年、出場者全員が並ぶ結果発表でのことだ。舞台上の二葉はひとり、憮然(ぶぜん)とした表情で立っていた。気楽に話せるようになっていたので、客前であんな土気(つちけ)色の顔はどうだろうと言ってみた。「負けた時にニコニコできひん」と返ってきた。  二葉が賞レースへの思いを強めたのは、米二の語った「若手噺家グランプリ」だった。初めての予選通過がうれしかったし、自信がついた。 「女も落語できるんやでって証明したかったし、賞をとったら一つ認めてもらえる。いいきっかけになりました」  前出の西井に、二葉の人気はどこから来ると思うかと尋ねた。少し考え、「怒りみたいなものがあるような気がします」と返ってきた。女に落語ができるのか、女の落語家だから聞かなくていい。そういうことを言われると、時おり二葉は西井に電話をかけてきた。会話から彼女が女性差別への関心と、道を開いてきた先輩女性落語家へのリスペクトを高めていることが伝わってきた。 「アホをやりたいと落語家になったのに、『女性落語家』という薄い膜の中に閉じ込められている。そんな感覚があるのかなと思いました」  二葉はこう語る。 「確かに怒りをパワーにするタイプだと思います。何で自分の思ってる落語ができないのとか、なんでこんなおもろい落語やってんのに認めてくれへんねんとか。『女流』って言葉もすごく嫌やったけど、そういうことも勝ってから言おうと思いました。勝っても勝たなくても言うべきことは言うたらええと思うけども、やっぱり説得力は違うし、それは勝ってからやなって」  賞をとるための戦略を、ある時からすごく考えるようになったと二葉。「私の研究によると」と照れたように言って、NHK新人落語大賞の「傾向と対策」を語ってくれた。  (1)お行儀の悪い感じは嫌い→酔っ払いネタはダメ(2)“正しい”ものが好き→夜這(よば)いなどのネタはペケ(3)長い話を上手にまとめるのは好き→20年、「佐々木裁き」で決勝進出、力及ばず(4)予選はNHKの人が相手→牧村史陽著『大阪ことば事典』に触れる(5)決勝はウケたもん勝ち→事典ははずし、言いたいことを言う。  二葉の戦略は、懸命さの表れでもある。  動楽亭は米朝一門の桂ざこばが席亭をする寄席(よせ)小屋だ。毎日6人の落語家が日替わりで出る昼席に、弟弟子の桂二豆(にまめ)が出るようになっても二葉には声がかからなかった。女性の先輩も出演したことがあったようだが、長く「男性のみ」になっていた。「もうええわって思てたんですけど、途中でええわちゃうなって思って」。出番はなくても動楽亭に通い、楽屋仕事を一生懸命やった。 「ま~ぶる!桂二葉と梶原誠のご陽気に」(火曜午前10時~)本番前。前回の放送で話題になったゆで卵のむき方を実践。「梶原さんとは仲良しやから」、言いたいことを言い合える(撮影/武藤奈緒美)    続けていると1人の先輩がざこばに、「二葉も出してはどうか」と言ってくれた。ざこばは電話を取り出して、一門の落語家が多く所属する米朝事務所の社長と相談を始めた。「ここは押さな」と思った二葉、「頑張ります」と横から言った。電話が終わり、出演が決まった。 「ありがとうございますって、泣きましたね。うれしいっていうのか、悔しいっていうのか、小さい薄い壁やけど、なんかちょっと壊せたみたいに思ったから」  20年1月、初出演。22年9月に米朝事務所を辞めるまで出演した。  毎週火曜日放送の「ま~ぶる!桂二葉と梶原誠のご陽気に」(KBS京都ラジオ)は二葉にとって初の看板番組だ。ディレクターの大坪右弥(26)は、ラジオでの二葉の魅力は「嘘をつかないこと」だという。みんながうなずく場面でも、違うと思えばうなずかない。だから信頼され、全国からメールが来る。  NHK新人落語大賞受賞後、「私の周りのジジイども!」のコーナーを作った。二葉の声は「怒り」をポップに柔らかくする、大賞受賞で自信と解放感が増したように見える、と大坪。 「らくだ」の話に戻る。「しごきの会」と「チャレンジ!!」で、二葉は台詞を変えている。一つは紙屑屋が酔って自分語りをする台詞。道具屋を構えていたが、酒のせいで紙屑屋になった。最初の妻は「いいところ」から嫁に来たという場面。 「前のかか、女一通りの道、みんなできた。縫い針、茶、花。けど貧乏慣れしてなかった」  それをこう変えた。 「前のかか、縫い針、茶、花、みんなできた。けど貧乏慣れしてなかった」 ずっとメラメラしている 毎朝、米朝の写真に感謝 「女一通り」をなくした。最初は教わった師匠通りにするのが礼儀だから、すべて忠実に演じた。それを2回目から外したのは、「なんか引っかかるし、別に言わんでもいいかなと思って。引っかかったままやると、嘘っぽくなるので」。気になる言葉は他にもある。「『嫁はん』とか言いたくないんです。『奥さん』もあまり言いたくない。できるだけお名前で呼んだりしてるんですけど」  登場人物に「お名前」と言う二葉。「お玄関」に「お師匠はん」「おネギ」も聞いた。母の話は「身内の話であれですが」と言ってからし、「米二師匠が『らくだ』をほめていました」と言うと、「親バカみたいですみません」と反応した。そんな品の良さが落語ににじむ。という話はさて置いて。 「ぽかぽか」の収録で通うフジテレビ。「もっと上手に話せるようになりたいけど、なかなか慣れません」(撮影/武藤奈緒美)    噺ごと腑に落ちないものもある。たとえば「立ち切れ線香」。芸妓(げいこ)に入れ上げた大店の若旦那が仕置きとして蔵に閉じ込められ、来なくなった若旦那を待ち焦がれた芸妓が死んでしまうという噺。ツッコミどころ満載のようだが、今も演じる落語家は多い。米朝が語り、枝雀が舞台袖で涙したというエピソードもある。  二葉は、「どの辺に心が動いたのか、聞いてみたいです。不思議やわ」と言いつつ、「ちょっと挑戦してみたくなるんです」と言う。「立ち切れ線香は上方落語屈指の人情話」、そう聞くと心が揺れる。こういう「古典」を、どう残していくのか難しい。それでも古典落語にこだわっている。 「古典がうんとうまい女の人って、あまりいないじゃないですか。そこへの欲があるんです。醍醐味(だいごみ)があります。たまらなくワクワクします」  かつては朝まで飲んでいたという二葉だが、もう2年以上、飲んでいない。「なんかもう、飲もうって思わへんのです。酔っ払ってる暇がない。ずっと考えていて、なんかメラメラしてます」  目下の悩みは忙しさだ。大阪より東京で落語の仕事が増えている。上方落語が大好きだし、盛り上げたいのに「本末転倒」だとジレンマを口にする。自転車操業になっている、ネタがたくさんあるわけではないから、「あかんなと思ってます。ほんまに地道に覚えなあかん」。  二葉の自宅玄関には、米朝の写真が飾られている。だってスーパースターですから、と。たくさん話を復活させて、今につなげてくれた、各地で独演会をして、お客さんを育ててくれた、すごいことです、毎朝「ありがとうございますっ!」と言って家を出ます。そう息急き切ったように話す。  二葉にこれからのことを聞くと、「5年、10年後はわからへんけど、90ぐらいの自分は」見えているという。点滴をしながら高座に上がり、最後まで滑稽な噺をして死んでいきたい、と。 「もっとうまくなりたいです。自分の言葉で、まっすぐに声が出る。そういう落語ができたらなって思います。伸び代が、えげつなくあります。それがわかってきたから、すごく楽しみです」  高く明るい声だった。(文中敬称略)(文・矢部万紀子) ※AERA 2023年9月11日号
火曜から金曜は妻が単身赴任 その時々で変化をしながら、柔軟に生きていく夫婦
火曜から金曜は妻が単身赴任 その時々で変化をしながら、柔軟に生きていく夫婦 中西亮太さん(右)と笹木郁乃さん(撮影/写真映像部・上田泰世)    AERAの連載「はたらく夫婦カンケイ」では、ある共働き夫婦の出会いから結婚までの道のり、結婚後の家計や家事分担など、それぞれの視点から見た夫婦の関係を紹介します。AERA 2023年9月11日号では、アイシンで車のソフトウェアの開発を担当する中西亮太さん、PR会社「LITA」で社長を務める笹木郁乃さん夫婦について取り上げました。 *  *  * 夫26歳、妻24歳のときに結婚。長男(10)と3人暮らし。 【出会いは?】2006年、新卒で入社した会社の同期として、研修で同じグループになった。 【結婚までの道のりは?】夜に外食先で「四川大地震」のニュースを見た妻は、「いつ死ぬかわからない」と思い、その足で夫が住む家に行き、玄関先でプロポーズをした。 【家事や家計の分担は?】平日は夫、週末は妻が家事全般を担当。週末はデリバリーなどを活用し、家族と過ごす時間を優先している。財布は別々、その都度出し合っている。 夫 中西亮太[42]アイシン 電子先行開発部 次世代システム開発室 なかにし・りょうた◆1981年、三重県出身。大阪大学卒業後、2006年にアイシンに入社し、研究開発に従事。主に、車のボディーやプラットフォームのソフトウェアの開発を担当。現在はトヨタ自動車に出向し、車のソフトウェアの開発を担当している  発想が面白く、子どものようにキャッキャしている妻は、見ていて飽きません。何事にも100%で突き進み、壁にぶち当たったと思ったら、今度は方向を変えて全力で突き進んで別の壁にぶつかっているイメージ。一方の僕は、進む先にはどういった壁があるのかを調べ上げて、極力当たらないように進むタイプなので、性格は真逆です。  その姿勢は、仕事面でも表れています。東京に会社を作った妻から、愛知の家で過ごす時間は週の半分にしたいと相談された時は、さすがに「ちょっとそれは……」と思いましたね。何度も話し合った結果、妻は金曜夜から火曜朝は愛知で過ごすという妥協点に落ち着いたところです。平日は両親の手も借りてやりくりする中、息子は僕が作った料理を「おいしい」と言って食べてくれます。最近、野菜を切ることに興味を持ち始め、二人で料理をすることも。  今の生活に落ち着いて2年ほどになります。その時々で変化をしながら、柔軟に生きていきたいと思っています。 【こちらもチェック!】 AERAの連載「はたらく夫婦カンケイ」はこちら 中西亮太さん(右)と笹木郁乃さん(撮影/写真映像部・上田泰世)   妻 笹木郁乃[39]LITA 社長 ささき・いくの◆1983年、仙台市生まれ。山形大学卒業後、2006年にアイシンに入社し、研究開発に従事。09年に転職し、寝具やクッションを製造販売する「エアウィーヴ」のPR、15年に「愛知ドビー」のPRを経て独立。17年にPR会社「LITA」を立ち上げた  結婚後、転職と起業をする中で、子どもを授かりました。起業した会社を東京に据えたこともあり、週の半分は東京で過ごしたいという希望を夫に打診したところ、「それって結婚している意味ある?」と言われました。いつも応援してくれる夫からの反対に、思わず唇を尖らせてしまいました。当時は自分の会社のことで手一杯で、夫の意見に耳を傾けていなかった。話し合いを重ねても折り合いがつかず、離婚を考えたことも。  でもその前に、約1週間の“プチ別居”をすることに。その結果感じたことは、「寂しい」でした。私たちはお互いを尊敬し合っていて、息子が大好き。仕事で失敗しても、家族の存在があるから挑戦できていると気づきました。改めて話し合った結果、火曜から金曜は単身赴任をする生活でひとまず落ち着きました。  これまで未来ばかりを見据えていましたが、最近は「今も幸せに生きる」と思うように。先日ソファを新調したので、家族3人で座って映画を観たいと思っています。 (構成・小野ヒデコ) ※AERA 2023年9月11日号
岸田首相の「最低賃金1500円引き上げ」発言に呆れ 「リアルな国民の生活がわかっていない」荻原博子
岸田首相の「最低賃金1500円引き上げ」発言に呆れ 「リアルな国民の生活がわかっていない」荻原博子 すぐにでも最低賃金の引上げを! 2030年代半ばまでに最低賃金を1500円まで引き上げるーー。岸田文雄首相は8月31日、「新しい資本主義実現会議」でそんな目標を語った。経団連や日本商工会議所からは肯定的な意見が相次いでいるが……。岸田首相の発言について、経済ジャーナリストの荻原博子さんは「国民の生活実態を全く把握できていない」と言い切る。 *  *  * ーー岸田首相の「1500円発言」に賛否の声が相次いでいます。  2030年代半までという中長期的な目標に対して、正直呆れています。 日本は1990年代半ばからずっとデフレで、賃金は上がらず物価も上がらずの状態にありました。ところが、2022年から消費者物価指数(CPI)が上がり始め、インフレの時代に突入しつつあります。実際に2022年度のCPIは前年度より3%上昇。伸び率は1981年度(4%)以来、41年ぶりの水準でした。  デフレのときは最低賃金がそれほど上がらなくても、国民はさほど困らなかった。しかしインフレに突入しているいまだからこそ、すぐにでも最低賃金の引き上げに取り組まなくてはいけないのです。 ーー先進国の中でも日本の最低賃金事情は最低レベルです。現在、日本は961円で、ドイツやフランスは1386円。韓国は991円です。  日本でこのままの状態が続くと、格差が広がります。生産活動の中心を支えている15〜64歳を指す生産年齢人口が減少傾向にあります。2023年2月1日時点の生産年齢人口は7400万人で、総人口の59.4%まで下がりました。  これからどうなるか。若い働き手には自然と高い賃金が支払われる一方で、中高年で職が不安定な最低賃金で働かなければいけない人が今後、いっぱい出てきます。  特に就職氷河期世代はその影響を大きく受けるのではないでしょうか。年齢も50代に差しかかるところです。正社員の職を希望しても非正規しか選択肢がない人も多い。彼らに残されたのは最低賃金を受け入れることになるのです。 ーー一方で、岸田首相は内閣発足時に目玉の政策の一つとして「賃上げ促進税制」を掲げています。  同制度は、従業員のボーナスを含む給与総額を一定率増やした企業を増加分の一定割合を税額控除の対象とし、法人税などの負担が軽減されるものです。  ところが、税の優遇を受けられるのは法人税を納めている企業のみ。国税庁の調査によると、日本の6割以上の企業は赤字であり、法人税を納めていない。岸田首相はこの制度を格差是正のために打ち出したと話していますが、効果は限定的なものにしかすぎません。  本当に賃上げ政策をしっかりやるのであれば、同一労働同一賃金を徹底的にすべきではないでしょうか。同制度は、2018年に働き方改革関連法が成立し、そこに盛り込まれました。狙いは非正規雇用が約4割を占める中、正規職との格差を埋めるためです。  ところが、同制度の対象には契約期間を定めずにフルタイムで働く非正規雇用者の「無期雇用労働者」は含まれていません。2013年には労働契約法が改正されており、更新を重ねて契約期間が通年で5年を超える労働者には、契約期間を無期に転換するルールが定められました。しかし、がんばって働いているのに永遠に正規職との格差が埋まらない現実もあります。格差を是正するのであれば、いますぐここを改正すべきではないでしょうか。  一方で日本は、夫が過労死寸前で鬼のように働いても、それでも家計が足りなければ妻がパートにでて稼がなければいけない現状があります。だけど、パートでの稼ぎで年収が106万円を超えると社会保険料の負担が発生し、手取りが減少します。結局のところ、稼ぐことに必死な人の労働意欲は削がれてしまいます。  経団連などの顔を伺っているだけの岸田首相。リアルな国民の生活がわかっていないのです。国民が抱える”頭痛”は、今後も増していくのではないでしょうか。 (AERAdot.編集部・板垣聡旨)
天皇ご一家を待つ東京駅が「ブタのぬいぐるみ」で厳戒態勢に 皇室ファンの熱意が招いた緊張感
天皇ご一家を待つ東京駅が「ブタのぬいぐるみ」で厳戒態勢に 皇室ファンの熱意が招いた緊張感 静養先から東京駅に到着した天皇ご一家=9月5日、読者提供    天皇ご一家が9月5日、栃木県の那須御用邸での静養から帰京した。JR東京駅の構内には集まったのは、ご一家の到着を待つ人たち。その中にご一家への「プレゼント」を抱えた人がいたことで、その場で手荷物検査が始まる事態になった。にぎやかな現場に緊張を走らせた、その理由は――。 *   *   *  JR職員の誘導で天皇ご一家が新幹線の改札から姿を見せると、お迎えをしようと集まった人たちから歓声が上がった。 「ゆっくりできましたか」  奉迎者から声が飛ぶと、雅子さまは声の方向を向いてほほ笑み、会釈をした。愛子さまも手を振り、にこやかにあいさつをしながら足早に去っていった。    しかし、その数十分前、駅の構内にはピリピリした空気が張り詰めていた。というのも、ご一家を待つ人たちの中に、透明な袋でラッピングしたブタのぬいぐるみを持つ奉迎者がいたからだ。 「あのぬいぐるみは危険ではないのですか」 「爆発物であったら?」 周囲からの声に、奉迎者の整理にあたっていた警察官たちの空気は一変。奉迎者を対象に手荷物検査が始まり、警察官から注意喚起が繰り返された。 「プレゼントは、天皇ご一家には渡せません。物はすべてカバンにしまってください」   【こちらもおすすめ!】 愛子さまの手にトンボがとまった瞬間、愛犬の由莉ものぞき込んだ 静養先の天皇ご一家   JR那須塩原駅に到着し、集まった人たちと交流する天皇、皇后両陛下と長女愛子さま=8月21日、栃木県那須塩原市、代表撮影    警察官の呼びかけを受けて、ブタのぬいぐるみを持った奉迎者はあきらめてカバンに入れたようだった。  その場にいた奉迎者は、ため息をつく。 「バッグを空けて、中身を確認されましたが、今までにこんなことはなかった。東京駅のロータリーで待つ奉迎者には検査はなかったようですが」 8月には「カバ」の人形が  現場に「厳戒」態勢が敷かれたのには、理由があった。8月21日、天皇ご一家が那須御用邸に滞在するため、JR那須塩原駅に到着した際のハプニングだ。  天皇陛下と雅子さま、そして愛子さまは、駅に集まった人たちのそばに歩み寄り、「夏休みですか?」「勉強は?」などと声をかけていた。  そのなかに、自身で撮影した写真で作ったカレンダーを、雅子さまに手渡す人がいた。  雅子さまは丁寧に受け取ってページをめくり、天皇陛下もカレンダーをのぞき込むしぐさをみせて、相手への感謝を示した。雅子さまは車に乗って出発するまで、しっかりと手に持っていた。    誰かのプレゼントを受け取ってもらえたなら、私の物も――となるのが人情だ。  しかし、天皇や皇族が公衆の場で贈り物を受け取ることが常態化すれば、爆発物や毒物などを紛れ込ませるなど、テロに利用される危険が出てくる。また、自分の著書や作品、自社製品などを渡した人が「皇室に献上した」と宣伝に利用する恐れもある。   【こちらもおすすめ!】 雅子さまに市民が手渡した「冊子」 天皇陛下や皇族にプレゼントを渡してもいいの?    そして8月22日のJR東京駅。  軽井沢へご静養に向かう上皇さまと上皇后美智子さまをお見送りしようと集まった人たちに対し、警察官は「プレゼントはできません」「物を渡したりしないでください」と繰り返し呼びかけ、上皇さまたちと奉迎者たちとの距離を空けようと交通整理した。    しかし、軽井沢から上皇ご夫妻が帰京した8月29日、ふたたびハプニングは起きた。  東京駅のロータリーで上皇ご夫妻を待つ奉迎者のなかに、カバの人形のようなものを抱えた人がいた。透明な袋にラッピングされており、プレゼントしようとしていたものと思われた。それを見つけた警察官が、 「渡しては駄目ですよ!」  と厳重注意。周囲も騒然となったという。 なぜ「ブタ」のぬいぐるみが?  今回、天皇ご一家に奉迎者が渡そうとしていたのは、「ブタ」のぬいぐるみだった。  ブタと言えば、愛子さまが幼稚園生のころにお気に入りだったのが、栃木県の御料牧場にいるブタたちだった。  愛子さまは2007年に開催された宮内庁の「文化祭」で、「ぶたちゃん」と題した手作りの工作を出品している。松ぼっくりや落ち葉で飾り付けした牧場で、ピンク色の小さなブタたちが思い思いに楽しんでいる、ほほえましい作品だ。また、03年の「文化祭」でも当時の皇太子ご夫妻が、親子らしきブタが集まる写真を「僕たちも一緒」というタイトルで出品している。  奉迎者が渡そうと用意した「プレゼント」には、皇室に対する「熱意」が込められているのかもしれない。それだけに「騒ぎ」の余波は続きそうだ。 (AERA dot.編集部・永井貴子)
欧米で「不倫叩き」がないワケ 他人の「不倫」が気になるのは、愛情を追求していない結婚のせいか
欧米で「不倫叩き」がないワケ 他人の「不倫」が気になるのは、愛情を追求していない結婚のせいか ※写真はイメージです(Getty Images)  たびたび著名人の不倫がスクープされ、世間がにぎわう日本。しかし、欧米で不倫が糾弾されることは少ないという。その背景にある結婚に対する認識の違いを、家族社会学者である山田昌弘氏の著書『結婚不要社会』(朝日新書)から一部を抜粋、再編集し紹介する。 *  *  * 欧米と日本の違い  欧米では、経済生活は原則「自立」です。男女とも経済的に自立して他人には頼らない。西ヨーロッパ諸国では、その自立を社会保障で政府が支えるのです。だから結婚後も、家計は原則的に夫と妻は分離しています。日本で一般的な夫が妻に稼いだお金を全部渡すというのは、あり得ないことなのです。  日本人の女性は、当然のように「結婚したら、夫のお金は私のお金として管理できるはずだ」と思っていますが、欧米では男性も女性も、そういうことはあり得ないと思っています。妻も自分で稼ぐか、夫が自分の稼ぎから自分のこづかいを差し引いて、残った一定の額を生活費として渡すというのが当たり前なのです。  アメリカのロサンゼルスに日本人とアメリカ人の出会いを斡旋している業者は、アメリカ人男性と結婚した日本人女性が驚く典型的な例として、この家計の分離を挙げていました。事前にそうした説明をしても、トラブルは絶えないそうです。  じつは、欧米でフェミニズム運動が強かった要因の一つには、こうした「経済生活の自立」すなわち自分で自由に使えるお金が欲しいという動機があります。逆に言えば、女性が夫の収入を全部コントロールしていることが、日本でフェミニズムがあまり浸透しなかった大きな理由だと思います。  女性が働くことが必須の欧米は、逆に言うと、お金を稼がない女性は男性の言うことをきかなければいけないという社会でもあるわけです。だからお金を稼がない妻が多数派の日本では、逆に夫が妻に頭を下げておこづかいをもらうので、「男の言いなりにならない」というフェミニズムが浸透しにくい。これは当然のなりゆきでもあるのです。  また欧米では、いわゆる女性差別が日本以上に禁止されています。離婚する・しないにかかわらず、まず自分で働くというのが当たり前だし、未婚・既婚・離婚にかかわらず、女性が男性と同等に働けるようになっています。そして、特にヨーロッパでは、子どもを持つ人および子どもに対する社会福祉が整っています。  つまり、生活を保持するのにお互い配偶者に一方的に頼らないし、頼ることができないのが欧米の社会なのです。要するに欧米では、男性は女性に家事や育児を頼らない・頼れないし、女性も経済生活を頼らない・頼れないという意識が浸透する中で、結婚が不要になっていったわけです。 経済と親密性の分離  このように欧米では、結婚における経済と親密性は分離しています。そして親密性の中でも、ドキドキとときめいたり性を楽しんだりすることを最優先する「恋愛感情最優先社会」が実現しているのです。  逆に言えば、欧米では、結婚の中で気持ち、つまり恋愛感情が満たされるようにずっと志向していくわけです。だからたとえば、子どもを家に置いて夫婦でデートをしなければいけないし、セックスレスになったら離婚になるので、夫婦である限りセックスレスになってはいけないという考え方があるのです。  恋愛感情最優先社会の欧米人から見ると、日本の結婚はとても「つまらないもの」かもしれません。  結婚が不要になった究極のかたちは、イギリスの社会学者アンソニー・ギデンズによって提唱された「純粋な関係性」という理念でしょう。  それは、お互いがお互いを好きであるから結びついて一緒にいる、コミュニケーションするという関係性です。その関係性は、どちらかが嫌になったら解消するということが前提になっています。  また、ドイツの社会学者ウルリッヒ・ベックは「世界家族」という概念を提唱しました。お互いが遠距離で別々に生活しながら、スカイプやメールなどでコミュニケーションしている家族をそう名付けたわけです(ウルリッヒ・ベック他『愛は遠く離れて』)。これはつまり、なにも一緒に生活していなくても、お互いが心理的に選び合っているというだけで満足するような関係性です。 「純粋な関係性」や「世界家族」は、今日の日本で発達している「バーチャルな関係性」とも通底しています。  要するに、生活を一緒にするということが、結婚なり親密性なりの必須条件ではなくなってきたということなのです。  日本でも単身赴任など、別居している家族はたくさんありますが、親密性というよりも、経済・扶養で結びついているケースが多い。欧米では、結婚は婚姻届という紙切れではなく、経済的なものでもない。お互いの心理的なつながりだけを追求する社会になっている、というのがギデンズやベックの見立てです。  もちろん、心理的なつながりだけを追求する社会がいいか悪いかというのは、また別の話です。ただ、自分の気持ちだけが第一に優先される社会になったことで、結婚というものが不要になりつつあることは確かでしょう。  つまり、結婚するのも結婚を続けるのも、すべて「気持ち」になってしまったわけです。自分がしたいと思えばすればいい。だからそういう人しかしないというのが今日の欧米で一般的になっている結婚なのです。  ちなみに、日本のような「不倫叩き」が欧米にもあるのか。欧米では、それが本気か本気ではないかによって裁断されるでしょう。結婚相手と別れる前提のもとで別の人とつき合い始めるという状態はよくあることで、それで糾弾されることはありません。  ただ、一時的な浮気であれば、やはり欧米でも叩かれるはずですが、一方的に離婚できるので、日本のように大騒ぎになることはありません。  日本はいろいろな意味で離婚しにくいから不倫が増えるわけですが、じつは日本の夫婦は欧米とは違い、愛情を追求せずに経済生活を最優先するから別れないという面が大きいのです。  つまり日本では、欧米とは真逆のかたちで結婚における経済と親密性の分離が起こっているということなのです。  ともあれ、「結婚しても愛情を感じられない人たち」と「結婚できない人たち」が増えているのですから、日本で不倫が注目されるのは、いわば当然のことかもしれません。  ちなみに、私が代表をしている研究グループの最近の調査では、独身者のうち2.8%は既婚者と交際しています(男性1.2%、女性4.0%〈学術振興会科学研究費の助成による調査による[課題番号16H03699「未婚化社会における『結婚支援活動』の実証研究」]〉)。 ●山田昌弘(やまだ・まさひろ)/1957年、東京生まれ。1981年、東京大学文学部卒。1986年、東京大学大学院社会学研究科博士課程単位取得退学。現在、中央大学文学部教授。専門は家族社会学。学卒後も両親宅に同居し独身生活を続ける若者を「パラサイト・シングル」と呼び、「格差社会」という言葉を世に浸透させたことでも知られる。「婚活」という言葉を世に出し、婚活ブームの火付け役ともなった。主な著書に、『近代家族のゆくえ』『家族のリストラクチュアリング』(ともに新曜社)、『パラサイト・シングルの時代』『希望格差社会』(ともに筑摩書房)、『新平等社会』『ここがおかしい日本の社会保障』(ともに文藝春秋)、『迷走する家族』(有斐閣)、『家族ペット』(文春文庫)、『少子社会日本』(岩波書店)、『日本はなぜ少子化対策に失敗したか』(光文社)『「家族」難民』『底辺への競争』『新型格差社会』(朝日新聞出版)などがある。
悠仁さま17歳に 紀子さまの優しい母の眼差しから父子で初の地方公務まで【写真で振り返る】
悠仁さま17歳に 紀子さまの優しい母の眼差しから父子で初の地方公務まで【写真で振り返る】 9月6日17歳になられた秋篠宮家の長男悠仁さま   秋篠宮家の長男悠仁さまが9月6日で17歳になられた。一年前に宮内庁ホームページに掲載された「悠仁親王殿下16歳のお誕生日に当たり」によれば、筑波大付属高校ではバドミントン部で積極的に活動されているそうだ。部活や学業に励みながら、夏には秋篠宮さまと初の地方公務も経験された。そんな悠仁さまの誕生からこれまでを写真で振り返る。   *  *  * 【おくるみにくるまれた悠仁さま】 2006年9月15日、秋篠宮さまに付き添われ、愛育病院を退院する紀子さまと悠仁さま 代表撮影   2006(平成18)年9月6日 午前8時27分に悠仁さまが誕生。出生時の身長は48.8センチ、体重は2558グラムだった。   皇族の男子の誕生は父である秋篠宮さま以来、40年9カ月ぶり。実に約41年ぶりの男の子の誕生に日本中は大いに沸いた。   9月15日に愛育病院(港区)を母子で退院し、おくるみにくるまれた悠仁さまが初お目見えとなった。紀子さまが選ばれた産院は愛育病院で、皇室において、天皇一族の出産で皇居内産殿、宮内庁病院ではない場所が使用されるのは史上初めてだった。         【1歳の悠仁さまはお姉さまたちと】 2007年秋篠宮邸で眞子さま、佳子さまと遊ぶ悠仁さま 宮内庁提供   07年、悠仁さまは姉の秋篠宮家の長女眞子さま、次女佳子さまの見守る中、ちょこんとお座りをしてかわいい笑顔を見せる。   お誕生日に際して、宮内庁が発表する悠仁さまのご近影には、このときのようにお姉さまたちとの写真が定番。   【皇室の人気記事はこちら】 雅子さまご静養先でも別格のコミュニケーション能力 「テントは?」 天皇陛下へひと言アシスト https://dot.asahi.com/articles/-/200116   【ピカピカの1年生の悠仁さま】 2013年4月7日、悠仁さま入学式で校歌が刻まれた石碑の前で記念撮影におさまる秋篠宮ご夫妻と悠仁さま 代表撮影   悠仁さまはお茶の水女子大学附属幼稚園を卒園後、13年4月にお茶の水女子大学附属小学校へ入学された。現行の皇室典範の下で皇族が学習院初等科以外の小学校に入学するのは初めてのことだった。   ちょっぴり大き目に見える制服が初々しくかわいらしいピカピカの1年生だ。秋篠宮ご夫妻にも笑顔があふれる。   【悠仁さまの最新記事はこちら】 まもなく17歳の悠仁さま ちぎり絵から精巧な模型づくりへ、成長が伝わる「文化祭」の作品 https://dot.asahi.com/articles/-/198542     【初の海外訪問はブータンへ。和服姿で】 2019年8月、ブータンのワンチュク国王を表敬訪問するため、タシチョゾンに入る秋篠宮ご夫妻と長男の悠仁さま 代表撮影   19年8月16日から8月25日までブータンを秋篠宮ご夫妻とともに私的旅行という形で訪問された。もうすぐ13歳になられる中学1年生の悠仁さまにとって初の海外訪問だった。   秋篠宮ご夫妻とともにブータンのワンチュク国王を表敬訪問された悠仁さまは、羽織袴姿がりりしい。いまでは珍しい和装ショットだ。   【筑波大付属高校入学、抱負を語る】 2022年4月9日、筑波大付属高校の入学式を前に、新生活への抱負を語る秋篠宮家の長男悠仁さま 代表撮影   お茶の水女子大学付属中学校を経て、筑波大付属高校に進学。22年4月9日、入学式に臨む前に、記者たちの前で新生活の抱負を語られた。   ちょうど1年前の9月6日に宮内庁ホームページに掲載された「悠仁親王殿下16歳のお誕生日に当たり」によれば、悠仁さまは「高校生活をのびやかに楽しんでおられる」そうだ。   部活はバドミントン部で、先輩やコーチのアドバイスのもと基礎トレに励み、学校以外では、トンボの研究、野菜や稲の栽培をしているそうだ。 【併せて読みたい】 佳子さまの海外公式訪問が「ペルー側にとって喜ばしい」理由 小室眞子さんと経由地で会う可能性は?https://dot.asahi.com/articles/-/199664 【初めての地方公務は父子で】 2023年7月、秋篠宮さまと鹿児島県立曽於高校を訪問した悠仁さま 代表撮影   悠仁さまは、この夏7月29日から1泊2日の日程で、鹿児島県を訪問された。秋篠宮さまと一緒に全国高校総合文化祭の総合開会式に出席するのが目的で、初めての地方公務になった。   初めは緊張からか、父である秋篠宮さまの様子をちらりと見ることもあったが、同年代の高校生との交流もあり、父子で地方公務を楽しまれた。   この夏は父の地方公務を間近で見られ、そして17歳になり、心もからだもさらに大きく成長したのではないだろうか。   (AERAdot.編集部 太田裕子)  
「私は日本人以上に日本人の秘めた能力を理解している」 バスケ男子日本代表HCトム・ホーバスが語っていた指導論
「私は日本人以上に日本人の秘めた能力を理解している」 バスケ男子日本代表HCトム・ホーバスが語っていた指導論 魂のこもった激しい言葉で選手の能力を引き出し、「日本語のマジシャン」とも言われる(撮影/大野洋介)    バスケットボールのW杯で、アジア最上位に輝き48年ぶりに自力での五輪出場を決めるなど快進撃をみせた男子日本代表。そのチームを率いたのが、トム・ホーバスだ。23歳のときに来日し、トヨタで仕事をしながら選手としてプレーをし、2年前には、東京五輪で女子日本代表を銀メダルに導いた。本人や関係者を取材し、人物像に迫ったAERA2022年2月28日号の現代の肖像の全文を掲載する。(肩書や年齢は掲載当時のまま) * * *  スーツに身を包んだ長身のアメリカ人男性が、失望感が漂う観客席に流暢な日本語で叫んだ。 「スタートはよくなかったけど、みんな我慢してください」  一呼吸を置き、さらに語気を強める。 「間違いなく上手くなります。23年のワールドカップでは、もっといいバスケをお見せします」  2021年11月末、男子バスケットボールW杯アジア1次予選が仙台で行われ、日本代表はアジアの強豪・中国に63-79、73-106と大差で敗れた。コートサイドで日本を指揮していたのが、東京五輪で女子バスケ日本代表を銀メダルに導き、世界を驚かせたトム・ホーバス(55)。初陣を飾れなかった指揮官はファンに向かって詫びた。  急ごしらえのチームだった。プロバスケットボールBリーグが開幕中でメンバーが揃わず、合宿期間も実質1週間しかなかった。ホーバスが指導する細かな戦術を理解するには、あまりにも時間が足りなかった。  代表キャプテンで、日本人初の1億円プレーヤーでもある富樫勇樹(28=千葉ジェッツ)は、合宿期間中ホーバスの戦術の緻密さに驚いた。 「短期間にいくつもの戦術を覚えなければならなかった。こんな経験は初めて。選手全員がこんなに覚えるの!とびっくりしていました」  だがホーバスは「まだちょっとだけ」で、女子の半分も教えていないという。中国戦の敗因は「うちのファイティングスピリットが足りなかった」。  女子を銀メダルに導いた名将が、男子代表のHC(ヘッドコーチ=監督)に就任すると発表されたのは、五輪1カ月後の9月下旬。この発表に多くの人が驚いた。女子バスケの監督が、同じ国の男子にスライドするのは世界的にも稀。男子と女子では同じ競技とは言え、戦い方はまるで違う。この起用を決断した日本バスケットボール協会の技術委員長・東野智弥(51)は、男子代表の底上げができるのはホーバスしかいないと踏んだ。 【こちらもチェック!】 エース・渡辺雄太「最後まで諦めないのがうちのバスケ」 相次ぐドラマチックな勝利に沸いたW杯  ■自信を吹き込めば世界トップに辿り着く 「東京五輪の経験で一番大きかったのは、選手が私を信じ尊敬してくれ、私も選手を尊敬し信じたこと。男子とのリレーションシップはこれから合宿を重ねながら作る。ステップ・バイ・ステップです」と語る〈写真=(C)JBA〉    23年のW杯は日本、インドネシア、フィリピンの共催。ビッグイベントを成功させるには男子のテコ入れが急務だった。活躍が読める女子と違い、男子は世界の大舞台でほぼ勝ったことがない。東京五輪は開催国枠で出場したものの、1勝もできずに終わった。世界ランキングは現在32位、アジア・オセアニアで6位だ。低空飛行を続ける男子代表をジャンプアップさせるには、ホーバスの力がどうしても必要だったと東野は言う。 「彼は日本のバスケを知り、日本の文化を知っている。世界に勝つための戦略設定もあり、ストラテジー(戦略)の天才でもある」  そんな能力がいかんなく発揮されたのが、女子を率いた東京五輪だった。それまで、身長差が如実に表れる競技と言われるバスケットで、日本女子が銀メダルを取るとは誰もが考えていなかった。だが17年に監督に就任すると、こう宣言した。 「東京の決勝でアメリカと戦い、金を取ります」  ホーバスが当時を思い起こす。 「あの時、誰も僕のことを信じていなかったね。クレージーだって」  しかしホーバスには確信があった。アシスタントコーチとして関わったリオ五輪で日本は8位。その時の経験から、足りない身長を戦術や戦略、技術でカバーすれば、世界NO.1のアメリカとも互角に戦えると考えた。そして、日本に最も欠けていたのが「自信」。自信を吹き込めば、間違いなく世界トップに辿り着けると踏んだ。  リオ五輪に出場し、東京五輪の主将を務めた高田真希(32=デンソーアイリス)は、ホーバスの金メダル発言を聞き、「マジか!」と思ったという。  監督は高い目標を掲げがちだ。だが、ホーバスの性格をよく知る高田は、「本気だ」と感じ取った。 「そのためにこれからどんな厳しい練習が待っているか想像できた。覚悟しましたね」  選手に自信を持たせるためには、ハードワークが必要だった。勝つための万全な準備と言ってもいい。しかし、ただ単に長時間練習をすればいいというものではない。ホーバスは、日本の学校の部活で行われている「根性練習」の弊害を感じていた。長時間練習の環境にいると、選手たちは本能的に体力を温存し、配分しようとする。そのため選手らは自分の限界を低い地点で設定してしまっていた。日本スポーツ界の弊害でもあった。  ホーバスはまず、長年培われた選手の本能を取り払う必要があると考えた。なぜこの技術を身につけなければならないのか、それはどの場面で生きてくるのか、練習の中で常に考えさせた。  ホーバスは日本人以上に日本人の心を察知し、選手が気づいていない個々のアドバンテージを引き出した。我慢、気遣い、思いやり、誠実さ、緻密さなど一見勝負の世界ではマイナスになりそうなメンタリティーを巧みに結合させ、強固なチーム力として結晶させた。 「私は日本語があまり分からなかった。だから、相手の表情やしぐさなどを観察して理解しようとしてきた。その分、その人の“本当”が見えるのかもしれない。そして私は日本人以上に日本人の秘めた能力を理解していると思います」  ■トヨタで仕事をしながら4年連続得点王になる 日本に単身赴任して10年。25歳の息子ドミニクはグリーンベレー(米陸軍特殊部隊)、23歳の娘マリッサはサンフランシスコにIT系の会社を起業し独立(撮影/大野洋介)    1967年、アメリカのコロラド州にある小さな町デュランゴで生まれた。姉1人、兄3人の末っ子。父は軍人だったこともあり、厳格に育てられた。兄たちの影響で5歳からバスケを始める。  高校で州のチャンピオン。ペンシルベニア州立大学に進みNBA入りを目指した。コーチはバスケの戦術にたけ、確かな技術も教えてくれたが、厳しいばかりで選手の戦意を下げることもあった。 「この時に、コーチは戦術戦略にどんなにたけていても、選手のモチベーション維持に失敗したら、結果は得られないことを知った」  大学卒業と同時にNBAヒューストン・ロケッツのトライアウトを受けた。だが最終選考に残れず、プロの道を求めポルトガルに渡った。その1年後、トヨタ自動車のトライアウトを受ける。当時日本バスケは実業団リーグで、仕事をした上でバスケをやるというシステム。ビジネスにも興味があったホーバスには好都合だった。  90年に23歳で来日。言葉は通じなかったが、厳格な家庭で育ったせいか日本の水が妙に合った。 「例えば、会議が8時スタートだと7時50分には全員が揃う。海外ではそんなことありえない。規則正しく誠実で律儀なところが、僕のメンタリティーにぴったりだった」  海外マーケティング部に配属され、海外の社員4万人向けの英語版社内報の編集を担当した。 「日本の文化や伝統、日常を紹介する『ライフ・イン・ジャパン』というコラムを担当し、企画、取材、ライティングも一人でこなした。この仕事のお陰で日本を深く知ることができた」  ホーバスが日本語の先生だったと語る現トヨタカローラ愛媛社長の松田卓恵(52)とは、互いに辞書を片手に会話を重ねた。その松田が、ホーバスはとにかく真面目で研究熱心だったと語る。 「分からないことをそのままにしない。必ず“なぜ”“どうして”と聞いてくる。頭の中にグレーゾーンがあるのが嫌なんだと思う。今の彼の指揮を見ていてもわかる。問題は必ずクリアにする」  入社3年目には、海外の社員が東京本社で研修を受ける際の講師も任された。独特のカンバン方式、効率を徹底したトヨタ方式などのビジネスカルチャーを伝えるには深い知識が求められたが、「私は勉強の人」と自任するホーバスには刺激的な環境だった。  その一方、バスケでも大活躍、4年連続得点王に輝いた。仕事とバスケを高いレベルで両立させるのはなかなか難儀だが、当時コーチだった長谷川聖児(62)は、目標を立てたら必ずやり遂げるのがホーバス、という。 「仕事やバスケはもちろんのこと、自分の体にも意識が高かった。腰痛で医者から手術を求められていたのに、自分で完治させる目標を立てた。医学書などを読みあさり、自ら編み出したエクササイズで治し医者に驚かれていました。目標を立てたら必ず遂行する。今の彼そのもの」  ■アトランタ・ホークスで夢のNBA選手になる  この頃は多忙を極めた。朝、社宅がある東京都調布市から満員電車に乗り、飯田橋の東京本社へ。午後4時まで仕事をこなし、体育館がある国立に向かう。練習を終え帰宅するのが午後9時から9時半。それでも忙中閑あり。休日だったある日、息抜きに行った東京・六本木の外国人に人気のバーで日本人女性に一目惚れした。妻の英子だ。 「語学に堪能で独立心旺盛な彼女に興味を持ち、ナンパしました。でも初めは相手にされず、何度もトライしました」  トヨタ入社4年目に大きな転機が訪れた。4年連続得点王に輝いたこともあり、再度NBAに挑戦したい気持ちが抑えきれなくなった。  27歳でトヨタを退社し、アトランタ・ホークスのトライアウトを受けた。4カ月のテスト期間中、試合をこなしながら篩(ふるい)にかけられ、50人いた選手が15人に減り、3カ月後には5人になった。  合格は2人。最終発表日、自分のロッカーに戻ると、ロッカーの名前がスタッフの名前に取り換えられていた。終わった……と思った瞬間、ベテラン選手が「お前のロッカーはこっちだよ」と教えてくれた。 「あの時の喜びは一生忘れない。子どものころから夢見ていたNBA選手になれた。興奮しました」  だが、2試合に出場しただけで再契約されず、1年後にトヨタに復帰。その年、5年の交際を経た英子と結婚。トヨタでプロ選手として活躍する傍ら、コーチの面白さにも目覚めた。当時のアメリカ人コーチに選手の起用や戦術の助言を求められ、アドバイスしたことが面白いように機能した。  33歳で引退。家族とカリフォルニア州サンディエゴに住み、IT企業に就職。息子と娘にも恵まれ、3年後に副社長に昇進したものの、バスケへの思いは断ちがたく、子どもたちのチームのコーチをして紛らわせた。  すると10年、女子のJXサンフラワーズ(現ENEOSサンフラワーズ)からアシスタントコーチのオファーが届く。当初は日本から離れて10年も経ち、しかも女子チームということに気乗りはしなかったが、練習や試合を見学するとレベルの高さに驚き、快諾した。 ホーバスのバスケスタイルはPGが要。複雑なフォーメーションを単に覚えるのではなく、各ポジションの動きを頭に入れ、先の先まで読んで指示を出す(写真=朝日新聞社)    ホーバスは通訳をつけなかった。通訳に頼ると細かいニュアンスが伝わらなくなる。たとえ片言の日本語でも自分で伝えることが大事だと考えた。 「私は熱い人です。通訳がいると選手に思いが伝わらないし、選手は通訳の方を向く。私の目を見てほしい。日本人女性は心になくても“はい”という。だから本当の気持ちを確かめるために、必ず“私の目を見て話して”と言います」  戸惑うこともあった。ある選手を褒めると急に泣き出した。言葉を間違えたとドキリとしたが表情は嬉しそう。その時に、日本人選手は指導者に叱られるばかりで褒められた経験が少ないと察知、選手の能力を伸ばすには褒め言葉が必要と考えた。  コーチは刀鍛冶の工程に似ていると語る。 「職人は鉄を熱し、叩き、冷まし、それを何度も繰り返し名刀を作る。コーチも同じです」  トヨタで日本文化や日本人を知り、大学やNBAでバスケの戦術を学び、ENEOSで女子選手の生態を理解し、そして妻から日本人女性の真の強さをしこたま見せつけられた。  そんなホーバスの経験と知恵が女子日本代表HCに就任し、開花した。無意識に設定した選手の限界を突破させるため、「頭を使っているの!」「何やっているんですか!」と激しい言葉をぶつけ、ギリギリまで追い込んだ。ENEOS時代から指導を仰ぎ、長い付き合いの宮澤夕貴(28=富士通レッドウェーブ)は、ホーバスが自分たち以上に信じてくれたことが力になったという。 「トムさんの指導は厳しいけど、全部理にかなったものばかり。だからみな、この人についていけば、本当に金メダルが取れると思っていました。でも時々変な日本語で檄を飛ばすので笑いを堪えていると、“何? 変なこと言いましたか”って」  ■五輪直前にエースが怪我、5アウトに戦術を変更 女子バスケの銀メダルは海外でも話題に。ESPNの名物コメンテーター、ザック・ロウに「日本女子バスケはNBAのウォリアーズとロケッツから生まれた子どものようだ」と称され、最高の褒め言葉と捉えた(撮影/大野洋介)    覚醒した女子代表は17年、19年のアジアカップを連覇。ところが五輪直前になって暗雲が立ち込めた。エースの渡嘉敷来夢が膝の十字靱帯を損傷、主力選手の怪我も相次ぐ。これまで渡嘉敷を中心にした戦術を組み立てていただけに、チームのレベルダウンが心配された。しかしホーバスは揺るがなかった。「ないものねだりしてもしょうがない。今の戦力で最善を尽くす」と戦術を変更。  全員がアウトサイドプレーヤーとして攻める5アウトを選択。この戦術を成功させるためには全員が3P(スリーポイント)シュートを決める必要がある。そして攻撃のフォーメーションの種類を200近くに増やした。これまで数十ピースで埋めていたジグソーパズルをいきなり200ピースに替えたようなもの。だが指揮官は、彼女たちなら短期間でもマスターできると信じた。 「女子はそれまで90年代の力に頼るバスケをしていた。でも、日本人は細かいことが得意なはず。トヨタにいた時、ドアの音やハンドルの握り具合など、こんなに細部に拘るのかと驚いたことがある。でも、スポーツになぜその緻密さを生かさないのか不思議だった」  攻守でフォーメーションの指示を出すのはPG(ポイントガード)。多彩な指示とアシストで攻撃陣に3ポイントを量産させたPGの町田瑠唯(28=富士通レッドウェーブ)は、準決勝のフランス戦で18アシストの五輪新記録を樹立し、五輪ベスト5にも選ばれた。町田が五輪記録を作った理由を語る。 「20分で交代したナイジェリア戦での15アシストは、五輪タイでした。それを知ったトムさんが、もっとコートに立たせたら新記録を作れたかも、って本当に申し訳なさそうに謝るんです。だからトムさんにそんな思いをさせちゃいけないと、フランス戦で頑張りました」  深い信頼関係で結ばれ、一分の隙も無く結束した監督と選手の旅路の終わりは、銀色に輝く世界だった。  今季から男子代表の指揮を執るホーバスには大きな困難が待ち受ける。Bリーグのリーグ戦が長く、代表の合宿がなかなか組めない上、八村塁や渡辺雄太などのNBA組は大きな大会の直前にならなければ招集が難しい。加えて、女性ならホーバスの厳しい指導に耐えられても男子は厳しいと指摘する人もいる。  そんな声は当然、ホーバスに届いている。しかしホーバスは動じない。 「バスケはバスケだし、コーチングとは人間との関係性を築いていくことで、女子と変わらない」  ただ目標はまだ口にできないという。 「うちのチームの旅はまだ始まったばかり。もう少し我慢してください」  ホーバスは男子をパリまで導けるのか。2月末、W杯アジア地区予選大会1次予選の台湾戦とオーストラリア戦が沖縄で行われる。(文中敬称略)(文/ジャーナリスト・吉井妙子) ※AERA2022年2月28日号

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