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悠仁さま17歳に 紀子さまの優しい母の眼差しから父子で初の地方公務まで【写真で振り返る】
悠仁さま17歳に 紀子さまの優しい母の眼差しから父子で初の地方公務まで【写真で振り返る】 9月6日17歳になられた秋篠宮家の長男悠仁さま   秋篠宮家の長男悠仁さまが9月6日で17歳になられた。一年前に宮内庁ホームページに掲載された「悠仁親王殿下16歳のお誕生日に当たり」によれば、筑波大付属高校ではバドミントン部で積極的に活動されているそうだ。部活や学業に励みながら、夏には秋篠宮さまと初の地方公務も経験された。そんな悠仁さまの誕生からこれまでを写真で振り返る。   *  *  * 【おくるみにくるまれた悠仁さま】 2006年9月15日、秋篠宮さまに付き添われ、愛育病院を退院する紀子さまと悠仁さま 代表撮影   2006(平成18)年9月6日 午前8時27分に悠仁さまが誕生。出生時の身長は48.8センチ、体重は2558グラムだった。   皇族の男子の誕生は父である秋篠宮さま以来、40年9カ月ぶり。実に約41年ぶりの男の子の誕生に日本中は大いに沸いた。   9月15日に愛育病院(港区)を母子で退院し、おくるみにくるまれた悠仁さまが初お目見えとなった。紀子さまが選ばれた産院は愛育病院で、皇室において、天皇一族の出産で皇居内産殿、宮内庁病院ではない場所が使用されるのは史上初めてだった。         【1歳の悠仁さまはお姉さまたちと】 2007年秋篠宮邸で眞子さま、佳子さまと遊ぶ悠仁さま 宮内庁提供   07年、悠仁さまは姉の秋篠宮家の長女眞子さま、次女佳子さまの見守る中、ちょこんとお座りをしてかわいい笑顔を見せる。   お誕生日に際して、宮内庁が発表する悠仁さまのご近影には、このときのようにお姉さまたちとの写真が定番。   【皇室の人気記事はこちら】 雅子さまご静養先でも別格のコミュニケーション能力 「テントは?」 天皇陛下へひと言アシスト https://dot.asahi.com/articles/-/200116   【ピカピカの1年生の悠仁さま】 2013年4月7日、悠仁さま入学式で校歌が刻まれた石碑の前で記念撮影におさまる秋篠宮ご夫妻と悠仁さま 代表撮影   悠仁さまはお茶の水女子大学附属幼稚園を卒園後、13年4月にお茶の水女子大学附属小学校へ入学された。現行の皇室典範の下で皇族が学習院初等科以外の小学校に入学するのは初めてのことだった。   ちょっぴり大き目に見える制服が初々しくかわいらしいピカピカの1年生だ。秋篠宮ご夫妻にも笑顔があふれる。   【悠仁さまの最新記事はこちら】 まもなく17歳の悠仁さま ちぎり絵から精巧な模型づくりへ、成長が伝わる「文化祭」の作品 https://dot.asahi.com/articles/-/198542     【初の海外訪問はブータンへ。和服姿で】 2019年8月、ブータンのワンチュク国王を表敬訪問するため、タシチョゾンに入る秋篠宮ご夫妻と長男の悠仁さま 代表撮影   19年8月16日から8月25日までブータンを秋篠宮ご夫妻とともに私的旅行という形で訪問された。もうすぐ13歳になられる中学1年生の悠仁さまにとって初の海外訪問だった。   秋篠宮ご夫妻とともにブータンのワンチュク国王を表敬訪問された悠仁さまは、羽織袴姿がりりしい。いまでは珍しい和装ショットだ。   【筑波大付属高校入学、抱負を語る】 2022年4月9日、筑波大付属高校の入学式を前に、新生活への抱負を語る秋篠宮家の長男悠仁さま 代表撮影   お茶の水女子大学付属中学校を経て、筑波大付属高校に進学。22年4月9日、入学式に臨む前に、記者たちの前で新生活の抱負を語られた。   ちょうど1年前の9月6日に宮内庁ホームページに掲載された「悠仁親王殿下16歳のお誕生日に当たり」によれば、悠仁さまは「高校生活をのびやかに楽しんでおられる」そうだ。   部活はバドミントン部で、先輩やコーチのアドバイスのもと基礎トレに励み、学校以外では、トンボの研究、野菜や稲の栽培をしているそうだ。 【併せて読みたい】 佳子さまの海外公式訪問が「ペルー側にとって喜ばしい」理由 小室眞子さんと経由地で会う可能性は?https://dot.asahi.com/articles/-/199664 【初めての地方公務は父子で】 2023年7月、秋篠宮さまと鹿児島県立曽於高校を訪問した悠仁さま 代表撮影   悠仁さまは、この夏7月29日から1泊2日の日程で、鹿児島県を訪問された。秋篠宮さまと一緒に全国高校総合文化祭の総合開会式に出席するのが目的で、初めての地方公務になった。   初めは緊張からか、父である秋篠宮さまの様子をちらりと見ることもあったが、同年代の高校生との交流もあり、父子で地方公務を楽しまれた。   この夏は父の地方公務を間近で見られ、そして17歳になり、心もからだもさらに大きく成長したのではないだろうか。   (AERAdot.編集部 太田裕子)  
「私は日本人以上に日本人の秘めた能力を理解している」 バスケ男子日本代表HCトム・ホーバスが語っていた指導論
「私は日本人以上に日本人の秘めた能力を理解している」 バスケ男子日本代表HCトム・ホーバスが語っていた指導論 魂のこもった激しい言葉で選手の能力を引き出し、「日本語のマジシャン」とも言われる(撮影/大野洋介)    バスケットボールのW杯で、アジア最上位に輝き48年ぶりに自力での五輪出場を決めるなど快進撃をみせた男子日本代表。そのチームを率いたのが、トム・ホーバスだ。23歳のときに来日し、トヨタで仕事をしながら選手としてプレーをし、2年前には、東京五輪で女子日本代表を銀メダルに導いた。本人や関係者を取材し、人物像に迫ったAERA2022年2月28日号の現代の肖像の全文を掲載する。(肩書や年齢は掲載当時のまま) * * *  スーツに身を包んだ長身のアメリカ人男性が、失望感が漂う観客席に流暢な日本語で叫んだ。 「スタートはよくなかったけど、みんな我慢してください」  一呼吸を置き、さらに語気を強める。 「間違いなく上手くなります。23年のワールドカップでは、もっといいバスケをお見せします」  2021年11月末、男子バスケットボールW杯アジア1次予選が仙台で行われ、日本代表はアジアの強豪・中国に63-79、73-106と大差で敗れた。コートサイドで日本を指揮していたのが、東京五輪で女子バスケ日本代表を銀メダルに導き、世界を驚かせたトム・ホーバス(55)。初陣を飾れなかった指揮官はファンに向かって詫びた。  急ごしらえのチームだった。プロバスケットボールBリーグが開幕中でメンバーが揃わず、合宿期間も実質1週間しかなかった。ホーバスが指導する細かな戦術を理解するには、あまりにも時間が足りなかった。  代表キャプテンで、日本人初の1億円プレーヤーでもある富樫勇樹(28=千葉ジェッツ)は、合宿期間中ホーバスの戦術の緻密さに驚いた。 「短期間にいくつもの戦術を覚えなければならなかった。こんな経験は初めて。選手全員がこんなに覚えるの!とびっくりしていました」  だがホーバスは「まだちょっとだけ」で、女子の半分も教えていないという。中国戦の敗因は「うちのファイティングスピリットが足りなかった」。  女子を銀メダルに導いた名将が、男子代表のHC(ヘッドコーチ=監督)に就任すると発表されたのは、五輪1カ月後の9月下旬。この発表に多くの人が驚いた。女子バスケの監督が、同じ国の男子にスライドするのは世界的にも稀。男子と女子では同じ競技とは言え、戦い方はまるで違う。この起用を決断した日本バスケットボール協会の技術委員長・東野智弥(51)は、男子代表の底上げができるのはホーバスしかいないと踏んだ。 【こちらもチェック!】 エース・渡辺雄太「最後まで諦めないのがうちのバスケ」 相次ぐドラマチックな勝利に沸いたW杯  ■自信を吹き込めば世界トップに辿り着く 「東京五輪の経験で一番大きかったのは、選手が私を信じ尊敬してくれ、私も選手を尊敬し信じたこと。男子とのリレーションシップはこれから合宿を重ねながら作る。ステップ・バイ・ステップです」と語る〈写真=(C)JBA〉    23年のW杯は日本、インドネシア、フィリピンの共催。ビッグイベントを成功させるには男子のテコ入れが急務だった。活躍が読める女子と違い、男子は世界の大舞台でほぼ勝ったことがない。東京五輪は開催国枠で出場したものの、1勝もできずに終わった。世界ランキングは現在32位、アジア・オセアニアで6位だ。低空飛行を続ける男子代表をジャンプアップさせるには、ホーバスの力がどうしても必要だったと東野は言う。 「彼は日本のバスケを知り、日本の文化を知っている。世界に勝つための戦略設定もあり、ストラテジー(戦略)の天才でもある」  そんな能力がいかんなく発揮されたのが、女子を率いた東京五輪だった。それまで、身長差が如実に表れる競技と言われるバスケットで、日本女子が銀メダルを取るとは誰もが考えていなかった。だが17年に監督に就任すると、こう宣言した。 「東京の決勝でアメリカと戦い、金を取ります」  ホーバスが当時を思い起こす。 「あの時、誰も僕のことを信じていなかったね。クレージーだって」  しかしホーバスには確信があった。アシスタントコーチとして関わったリオ五輪で日本は8位。その時の経験から、足りない身長を戦術や戦略、技術でカバーすれば、世界NO.1のアメリカとも互角に戦えると考えた。そして、日本に最も欠けていたのが「自信」。自信を吹き込めば、間違いなく世界トップに辿り着けると踏んだ。  リオ五輪に出場し、東京五輪の主将を務めた高田真希(32=デンソーアイリス)は、ホーバスの金メダル発言を聞き、「マジか!」と思ったという。  監督は高い目標を掲げがちだ。だが、ホーバスの性格をよく知る高田は、「本気だ」と感じ取った。 「そのためにこれからどんな厳しい練習が待っているか想像できた。覚悟しましたね」  選手に自信を持たせるためには、ハードワークが必要だった。勝つための万全な準備と言ってもいい。しかし、ただ単に長時間練習をすればいいというものではない。ホーバスは、日本の学校の部活で行われている「根性練習」の弊害を感じていた。長時間練習の環境にいると、選手たちは本能的に体力を温存し、配分しようとする。そのため選手らは自分の限界を低い地点で設定してしまっていた。日本スポーツ界の弊害でもあった。  ホーバスはまず、長年培われた選手の本能を取り払う必要があると考えた。なぜこの技術を身につけなければならないのか、それはどの場面で生きてくるのか、練習の中で常に考えさせた。  ホーバスは日本人以上に日本人の心を察知し、選手が気づいていない個々のアドバンテージを引き出した。我慢、気遣い、思いやり、誠実さ、緻密さなど一見勝負の世界ではマイナスになりそうなメンタリティーを巧みに結合させ、強固なチーム力として結晶させた。 「私は日本語があまり分からなかった。だから、相手の表情やしぐさなどを観察して理解しようとしてきた。その分、その人の“本当”が見えるのかもしれない。そして私は日本人以上に日本人の秘めた能力を理解していると思います」  ■トヨタで仕事をしながら4年連続得点王になる 日本に単身赴任して10年。25歳の息子ドミニクはグリーンベレー(米陸軍特殊部隊)、23歳の娘マリッサはサンフランシスコにIT系の会社を起業し独立(撮影/大野洋介)    1967年、アメリカのコロラド州にある小さな町デュランゴで生まれた。姉1人、兄3人の末っ子。父は軍人だったこともあり、厳格に育てられた。兄たちの影響で5歳からバスケを始める。  高校で州のチャンピオン。ペンシルベニア州立大学に進みNBA入りを目指した。コーチはバスケの戦術にたけ、確かな技術も教えてくれたが、厳しいばかりで選手の戦意を下げることもあった。 「この時に、コーチは戦術戦略にどんなにたけていても、選手のモチベーション維持に失敗したら、結果は得られないことを知った」  大学卒業と同時にNBAヒューストン・ロケッツのトライアウトを受けた。だが最終選考に残れず、プロの道を求めポルトガルに渡った。その1年後、トヨタ自動車のトライアウトを受ける。当時日本バスケは実業団リーグで、仕事をした上でバスケをやるというシステム。ビジネスにも興味があったホーバスには好都合だった。  90年に23歳で来日。言葉は通じなかったが、厳格な家庭で育ったせいか日本の水が妙に合った。 「例えば、会議が8時スタートだと7時50分には全員が揃う。海外ではそんなことありえない。規則正しく誠実で律儀なところが、僕のメンタリティーにぴったりだった」  海外マーケティング部に配属され、海外の社員4万人向けの英語版社内報の編集を担当した。 「日本の文化や伝統、日常を紹介する『ライフ・イン・ジャパン』というコラムを担当し、企画、取材、ライティングも一人でこなした。この仕事のお陰で日本を深く知ることができた」  ホーバスが日本語の先生だったと語る現トヨタカローラ愛媛社長の松田卓恵(52)とは、互いに辞書を片手に会話を重ねた。その松田が、ホーバスはとにかく真面目で研究熱心だったと語る。 「分からないことをそのままにしない。必ず“なぜ”“どうして”と聞いてくる。頭の中にグレーゾーンがあるのが嫌なんだと思う。今の彼の指揮を見ていてもわかる。問題は必ずクリアにする」  入社3年目には、海外の社員が東京本社で研修を受ける際の講師も任された。独特のカンバン方式、効率を徹底したトヨタ方式などのビジネスカルチャーを伝えるには深い知識が求められたが、「私は勉強の人」と自任するホーバスには刺激的な環境だった。  その一方、バスケでも大活躍、4年連続得点王に輝いた。仕事とバスケを高いレベルで両立させるのはなかなか難儀だが、当時コーチだった長谷川聖児(62)は、目標を立てたら必ずやり遂げるのがホーバス、という。 「仕事やバスケはもちろんのこと、自分の体にも意識が高かった。腰痛で医者から手術を求められていたのに、自分で完治させる目標を立てた。医学書などを読みあさり、自ら編み出したエクササイズで治し医者に驚かれていました。目標を立てたら必ず遂行する。今の彼そのもの」  ■アトランタ・ホークスで夢のNBA選手になる  この頃は多忙を極めた。朝、社宅がある東京都調布市から満員電車に乗り、飯田橋の東京本社へ。午後4時まで仕事をこなし、体育館がある国立に向かう。練習を終え帰宅するのが午後9時から9時半。それでも忙中閑あり。休日だったある日、息抜きに行った東京・六本木の外国人に人気のバーで日本人女性に一目惚れした。妻の英子だ。 「語学に堪能で独立心旺盛な彼女に興味を持ち、ナンパしました。でも初めは相手にされず、何度もトライしました」  トヨタ入社4年目に大きな転機が訪れた。4年連続得点王に輝いたこともあり、再度NBAに挑戦したい気持ちが抑えきれなくなった。  27歳でトヨタを退社し、アトランタ・ホークスのトライアウトを受けた。4カ月のテスト期間中、試合をこなしながら篩(ふるい)にかけられ、50人いた選手が15人に減り、3カ月後には5人になった。  合格は2人。最終発表日、自分のロッカーに戻ると、ロッカーの名前がスタッフの名前に取り換えられていた。終わった……と思った瞬間、ベテラン選手が「お前のロッカーはこっちだよ」と教えてくれた。 「あの時の喜びは一生忘れない。子どものころから夢見ていたNBA選手になれた。興奮しました」  だが、2試合に出場しただけで再契約されず、1年後にトヨタに復帰。その年、5年の交際を経た英子と結婚。トヨタでプロ選手として活躍する傍ら、コーチの面白さにも目覚めた。当時のアメリカ人コーチに選手の起用や戦術の助言を求められ、アドバイスしたことが面白いように機能した。  33歳で引退。家族とカリフォルニア州サンディエゴに住み、IT企業に就職。息子と娘にも恵まれ、3年後に副社長に昇進したものの、バスケへの思いは断ちがたく、子どもたちのチームのコーチをして紛らわせた。  すると10年、女子のJXサンフラワーズ(現ENEOSサンフラワーズ)からアシスタントコーチのオファーが届く。当初は日本から離れて10年も経ち、しかも女子チームということに気乗りはしなかったが、練習や試合を見学するとレベルの高さに驚き、快諾した。 ホーバスのバスケスタイルはPGが要。複雑なフォーメーションを単に覚えるのではなく、各ポジションの動きを頭に入れ、先の先まで読んで指示を出す(写真=朝日新聞社)    ホーバスは通訳をつけなかった。通訳に頼ると細かいニュアンスが伝わらなくなる。たとえ片言の日本語でも自分で伝えることが大事だと考えた。 「私は熱い人です。通訳がいると選手に思いが伝わらないし、選手は通訳の方を向く。私の目を見てほしい。日本人女性は心になくても“はい”という。だから本当の気持ちを確かめるために、必ず“私の目を見て話して”と言います」  戸惑うこともあった。ある選手を褒めると急に泣き出した。言葉を間違えたとドキリとしたが表情は嬉しそう。その時に、日本人選手は指導者に叱られるばかりで褒められた経験が少ないと察知、選手の能力を伸ばすには褒め言葉が必要と考えた。  コーチは刀鍛冶の工程に似ていると語る。 「職人は鉄を熱し、叩き、冷まし、それを何度も繰り返し名刀を作る。コーチも同じです」  トヨタで日本文化や日本人を知り、大学やNBAでバスケの戦術を学び、ENEOSで女子選手の生態を理解し、そして妻から日本人女性の真の強さをしこたま見せつけられた。  そんなホーバスの経験と知恵が女子日本代表HCに就任し、開花した。無意識に設定した選手の限界を突破させるため、「頭を使っているの!」「何やっているんですか!」と激しい言葉をぶつけ、ギリギリまで追い込んだ。ENEOS時代から指導を仰ぎ、長い付き合いの宮澤夕貴(28=富士通レッドウェーブ)は、ホーバスが自分たち以上に信じてくれたことが力になったという。 「トムさんの指導は厳しいけど、全部理にかなったものばかり。だからみな、この人についていけば、本当に金メダルが取れると思っていました。でも時々変な日本語で檄を飛ばすので笑いを堪えていると、“何? 変なこと言いましたか”って」  ■五輪直前にエースが怪我、5アウトに戦術を変更 女子バスケの銀メダルは海外でも話題に。ESPNの名物コメンテーター、ザック・ロウに「日本女子バスケはNBAのウォリアーズとロケッツから生まれた子どものようだ」と称され、最高の褒め言葉と捉えた(撮影/大野洋介)    覚醒した女子代表は17年、19年のアジアカップを連覇。ところが五輪直前になって暗雲が立ち込めた。エースの渡嘉敷来夢が膝の十字靱帯を損傷、主力選手の怪我も相次ぐ。これまで渡嘉敷を中心にした戦術を組み立てていただけに、チームのレベルダウンが心配された。しかしホーバスは揺るがなかった。「ないものねだりしてもしょうがない。今の戦力で最善を尽くす」と戦術を変更。  全員がアウトサイドプレーヤーとして攻める5アウトを選択。この戦術を成功させるためには全員が3P(スリーポイント)シュートを決める必要がある。そして攻撃のフォーメーションの種類を200近くに増やした。これまで数十ピースで埋めていたジグソーパズルをいきなり200ピースに替えたようなもの。だが指揮官は、彼女たちなら短期間でもマスターできると信じた。 「女子はそれまで90年代の力に頼るバスケをしていた。でも、日本人は細かいことが得意なはず。トヨタにいた時、ドアの音やハンドルの握り具合など、こんなに細部に拘るのかと驚いたことがある。でも、スポーツになぜその緻密さを生かさないのか不思議だった」  攻守でフォーメーションの指示を出すのはPG(ポイントガード)。多彩な指示とアシストで攻撃陣に3ポイントを量産させたPGの町田瑠唯(28=富士通レッドウェーブ)は、準決勝のフランス戦で18アシストの五輪新記録を樹立し、五輪ベスト5にも選ばれた。町田が五輪記録を作った理由を語る。 「20分で交代したナイジェリア戦での15アシストは、五輪タイでした。それを知ったトムさんが、もっとコートに立たせたら新記録を作れたかも、って本当に申し訳なさそうに謝るんです。だからトムさんにそんな思いをさせちゃいけないと、フランス戦で頑張りました」  深い信頼関係で結ばれ、一分の隙も無く結束した監督と選手の旅路の終わりは、銀色に輝く世界だった。  今季から男子代表の指揮を執るホーバスには大きな困難が待ち受ける。Bリーグのリーグ戦が長く、代表の合宿がなかなか組めない上、八村塁や渡辺雄太などのNBA組は大きな大会の直前にならなければ招集が難しい。加えて、女性ならホーバスの厳しい指導に耐えられても男子は厳しいと指摘する人もいる。  そんな声は当然、ホーバスに届いている。しかしホーバスは動じない。 「バスケはバスケだし、コーチングとは人間との関係性を築いていくことで、女子と変わらない」  ただ目標はまだ口にできないという。 「うちのチームの旅はまだ始まったばかり。もう少し我慢してください」  ホーバスは男子をパリまで導けるのか。2月末、W杯アジア地区予選大会1次予選の台湾戦とオーストラリア戦が沖縄で行われる。(文中敬称略)(文/ジャーナリスト・吉井妙子) ※AERA2022年2月28日号
結婚で「いまよりも、親よりも、よい生活」 高度成長期に「皆婚社会」ができたわけ
結婚で「いまよりも、親よりも、よい生活」 高度成長期に「皆婚社会」ができたわけ 戦後の農地改革で、自作農になった一家(写真と本文は関係ありません)  生涯未婚率が上がり、婚活に励む人も珍しくない昨今。しかし、今では考えられないが、誰もが結婚できた時代が日本にはあった。いったい、なぜなのか。家族社会学者である山田昌弘氏の著書『結婚不要社会』(朝日新書)から一部を抜粋、再編集し紹介する。 *  *  * 要素としての愛情と経済  近代社会における結婚は、経済的に自立するということでもあります。つまり、経済的に豊かな生活を築くことができる相手というものが結婚の基準になるわけです。  戦後日本の家族モデルは、夫が主に仕事、妻が主に家事という性別役割分業で豊かな生活を目指すというものです。それは高度成長期、家業から企業社会への緩やかな移行の中で達成されるわけです。  家業を継ぐ人のところに嫁に行く場合、夫の親と同居する──婿の場合は妻の親と同居する──のが普通です。  戦後は、家業の継承はだんだん少なくなりますが、農業を含めた家業も経済的に安定していました。農業や自営業は、政府によって保護されていたこともあって、農家や商店などの後継ぎと結婚しても家業がつぶれることはなく、だんだん豊かになることが可能だったのです。  農業に関しては農地改革の影響が大きかったと言えます。農地改革によって小作農がいなくなって皆が自作農になりました。  もう20年ほど前の調査になりますが、九州の農家に話を聞きに行ったことがあります。60歳くらいの母親が40歳くらいの息子と娘が結婚できなくて困っているというケースをインタビューしました。母親の話は次のような内容です。 「私が若い頃は、短大を出たお嬢さんがすごいお金持ちと結婚した。だから私も頑張って娘を短大に入れた。娘はいい人と結婚できるはずだから、農家には絶対に嫁にやらない。もし農家に嫁がせるんだったら、お手伝いさんつきのところじゃなきゃダメだ。娘にも、短大卒なんだからそうしろと言い聞かせて育てた」  息子のほうはどうかと聞くと、「うちは財産があるから、なんで息子が結婚できないかわからない」と。「財産ってなんですか」と聞いたら、「私が若い頃はみんな小作農だったけど、農地改革でちゃんと土地持ちになった。土地持ちになったんだから、そこに嫁がこないわけがない」と言うのです。  この母親は1950年代に農家に嫁いできました。当時は、戦後の農地改革で農家がみんな小作農から土地持ちになったことで、小作農の娘が自作農の後継ぎと結婚するという「上昇移動」の状況にありました。  つまり戦後しばらくは、同じ農業でも、ほとんどの人が自分の育った家庭よりもいい家庭と結婚できたわけです。20年前に60歳だったこの女性にとって結婚は、親は小作農だけれども、嫁いだ先は自作農という上昇移動だったのです。  農地改革は、結婚による上昇移動を急増させたという点においても、戦後の日本社会に大きな影響を与えたと言えるでしょう。  戦後、農地改革を経て20年くらいは、全国的に農業は経済的にもよかったわけです。農家に嫁いだら──婿に入ったら──本人は泥まみれになって働かなければなりません。けれども、将来豊かな家族が築けると誰もが思えました。夫の親と同居するといっても、平均寿命が短かったのでそれほど長い期間一緒に暮らすことはなく、介護の問題などもほとんどなかったのです。  この母親にとって結婚とは上昇移動なのでしょう。だから「自分の家よりもいいところに嫁にやらなきゃ」と思い、そのために娘を高学歴にした、けれども娘に見合う相手が見つからないということで悩んでいたのです。そして、跡継ぎの息子については「自分の家よりもよくないところで育った女の人はたくさんいるのに、なぜ相手が見つからないのか」と嘆いていたわけです。  戦後は、他の自営業でも農業と同じように上昇移動が期待できました。消費者が豊かになり、都市人口が増えることで商売も右肩上がりに売り上げが増えていきます。一方、都会に出たサラリーマン男性は、日本的雇用慣行(終身雇用や年功序列賃金)によって収入が安定して上昇移動が可能でした。  つまり、女性にとっては誰と結婚しても経済的条件を満たしたのが、戦後の結婚の特徴なのです。 「いまよりも、親よりも、よい生活ができると思える相手」というのが結婚の経済的条件であって、要は結婚前の生活との比較です。つまり、それまでの生活が貧しかったがゆえに、結婚後の生活が安定したり上昇したりするというわけです。だから戦後しばらくは、たとえ農家に嫁いだとしても、徐々に豊かになる家族というものが形成できたのです。  それは高度成長期が終わるまで続きます。貧しさを経験している昭和ひとけた生まれから戦中生まれ、団塊の世代までは95%以上の人が結婚しました。つまりこの世代のほとんどの人は、誰と結婚しても豊かな家族生活をつくれるという経済的条件を満たしていたと言うことができます。  要するに、上昇移動への期待があり、それが実現されていたからこそ、戦後から高度成長期までは、ほとんどの人が結婚する「皆婚社会」が成り立っていたわけです。   【関連記事】「結婚不要社会」の記事はこちらからも!   ●山田昌弘(やまだ・まさひろ)/1957年、東京生まれ。1981年、東京大学文学部卒。1986年、東京大学大学院社会学研究科博士課程単位取得退学。現在、中央大学文学部教授。専門は家族社会学。学卒後も両親宅に同居し独身生活を続ける若者を「パラサイト・シングル」と呼び、「格差社会」という言葉を世に浸透させたことでも知られる。「婚活」という言葉を世に出し、婚活ブームの火付け役ともなった。主な著書に、『近代家族のゆくえ』『家族のリストラクチュアリング』(ともに新曜社)、『パラサイト・シングルの時代』『希望格差社会』(ともに筑摩書房)、『新平等社会』『ここがおかしい日本の社会保障』(ともに文藝春秋)、『迷走する家族』(有斐閣)、『家族ペット』(文春文庫)、『少子社会日本』(岩波書店)、『日本はなぜ少子化対策に失敗したか』(光文社)『「家族」難民』『底辺への競争』『新型格差社会』(朝日新聞出版)などがある。
今川家はなぜ家格を維持していけたのか 嫡流家が「高家」とされるまでの足跡を追う
今川家はなぜ家格を維持していけたのか 嫡流家が「高家」とされるまでの足跡を追う 関ヶ原合戦跡地(写真:Getty Images)    歴史学者・黒田基樹氏は新著『徳川家康と今川氏真』(朝日新聞出版)で、徳川家康に最も影響を与えた人物であろう今川氏真と、氏真以降の今川家がどのような繁栄を遂げたのかを仔細に記している。同著から一部抜粋、再編集し、今川家嫡流家の足跡を紹介する。 *  *  * 氏真一族の秀忠への出仕  氏真の嫡男範以は、終生、他家に出仕することのないまま、死去してしまった。しかし氏真の一族が、まったく徳川家に出仕しなかったのではなかった。すでに範以の生前に、外孫の吉良義弥と次男の品川高久が徳川秀忠に出仕している。  まず確認されるのは外孫の吉良義弥で、慶長二年(一五九七)に秀忠に出仕したとされている(『寛永諸家系図伝第二』一三頁)。義弥はわずか一二歳であった。この年齢からすると、父義定がすでに徳川家に出仕していたことは間違いなかろう。義弥はその嫡男として、徳川家の嫡男・秀忠に出仕したのだと考えられる。  とはいえこの時の徳川家は、まだ羽柴家に従う「豊臣大名」の立場でしかなかった。ところがその後の同五年の関ヶ原合戦での結果、家康は事実上の「天下人」になり、同八年に征夷大将軍に任官したことで、名実ともに徳川家を主宰者とする新たな武家政権としての徳川政権、すなわち江戸幕府を確立させた。さらに同十年には、家康は将軍職と徳川家家督を嫡男秀忠に譲った。その後も家康は、徳川家の家長として、また「天下人」として存在したが、徳川家当主は秀忠となった。 【こちらもおすすめ!】 『徳川家康と今川氏真』の記事をまとめて読む。  義弥はそのもとで、同十三年に従五位下・侍従に任じられている。この官位は、当時においては国持クラスの有力大名が任じられるものであった。義弥の所領はいうまでもなく、それには遥かにおよばない。またその官位は、天皇居所に昇殿できる「公家」の身分を意味した。ここで義弥が侍従に任官されているのは、昇殿する必要があったからであり、それは朝廷への使者を務めたり、徳川家における式典作法などを管掌する役割を担うためであった。こうした地位は、のちに「高家」と称された。義弥はこうして幕府の「高家」に就任したのであった。  義弥が「高家」に任じられたのは、足利氏一族のなかで最高位の名門家である吉良家の嫡流家、西条吉良家の当主だったからであろう。室町時代の室町幕府の礼法などを継承していた存在のため、江戸幕府の式典作法を確立していくにあたって、その知識が必要だったのである。  吉良義弥に続いて、慶長三年に次男の品川高久が秀忠に出仕したことが伝えられている(同前一九頁)。高久は二三歳であった。これは氏真の申請によるものという。氏真としては、嫡男範以に出仕の意志がないため、さしあたって次男高久を出仕させることで、今川家の家系の存続を図ったのかもしれない。またこの時には、秀忠の上臈であった貞春尼の取り成しもあったかもしれない。この時に高久は、秀忠から「物加波」と名付けられていた馬を賜ったという(『寛政重修諸家譜第二』二二九頁)。また秀忠から、今川苗字は嫡流のみが称すものなので、在名の品川を苗字とすべきことを命じられたという(「今川一苗之記」『今川氏と観泉寺』四二頁)。この時に武蔵品川(品川区)に所領を与えられたか、屋敷を与えられたのであろう。仮名を新六郎と称したという。 【こちらもおすすめ!】 特集『徳川家のリアル』を読む。  関ヶ原合戦後の慶長六年に、上野碓氷郡で所領一〇〇〇石を与えられたという。妻は鷲尾筑後の娘(明珠院殿、寛永十七年四月十五日死去)であったらしく、そのあいだに、慶長十七年に嫡男高如(一六一二~七一)、次男高寛(一六一六~九七)が生まれている。他に二女(八木九郎右衛門妻・岡山弥清妻)があったとされる。高久は寛永十六年(一六三九)八月四日に六四歳で死去した。法名は松月院殿瑞雲文青大居士。死去まで仮名のままであったらしいので、徳川家家臣としての家格は高くはなかったことがうかがわれる。しかしその子高如の時、正保元年(一六四四)に「高家」に任じられている。品川家は、今川家の庶流にあたることから、幕府の式典作法を管轄するに相応しい家系と認識されてのことであったとみられる。  そして範以の嫡男で、氏真には嫡孫にあたる範英(直房)も、父範以死去から四年後の慶長十六年十二月に、秀忠に出仕したという。範英は一八歳であった。元服を踏まえて、氏真が申請してのことであったと思われる。またその際には、貞春尼の取り成しもあったことであろう。こうして今川家の嫡流家は、徳川家家臣の立場をようやくに確立させるのであった。範英は、仮名は今川家当主歴代の「五郎」を称し、のちに官途名主膳正、次いで刑部大輔を称した。祖父にあたる氏真の死後に、その遺領五〇〇石を継承したという(前掲『寛政重修諸家譜』二二七頁)。 【こちらもおすすめ!】 『徳川家康と今川氏真』の記事をまとめて読む。  そして寛永十三年十二月に従五位下・侍従に叙任され、「高家」に任じられた。ここに今川家嫡流家も、「高家」とされたのである。以後の今川家は、その家格を維持していくのであった。範英は、正保二年に武蔵多摩郡・豊島郡で新たに所領五〇〇石を与えられて、あわせて一〇〇〇石を領した。そして寛文元年(一六六一)十一月二十四日に六八歳で死去した。法名は浄岑院殿松山青公大居士。妻は筑後柳川領一〇万石の立花宗茂の養女(立花家家臣矢島重成の娘)で、延宝六年(一六七八)八月六日の死去、法名は浄徳院殿安室涼禅大姉。  二人のあいだには、嫡男範明(左京・松林院殿、慶安元年閏正月四日死去)と次男範興(五郎・幻桂童子か、慶安二年六月十六日死去)があったが、いずれも早世したため、範英には外甥にあたる岡山弥清の長男・氏堯(母は品川高久の娘、一六四二~七三)が養子に入って、継承している。なおその後、今川家の家督は、三度にわたって分家の品川家から養子が入って継承されている。今川家嫡流家は、氏真の血統によって、幕末まで受け継がれていった。 ●黒田基樹(くろだ・もとき)/1965年東京都生まれ。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。博士(日本史学)。専門は日本中世史。駿河台大学教授。著書に『お市の方の生涯』『徳川家康の最新研究』(ともに朝日新書)、『百姓から見た戦国大名』(ちくま新書)、『戦国大名』『戦国北条家の判子行政』『国衆』『家康の正妻 築山殿』(ともに平凡社新書)、『関東戦国史』(角川ソフィア文庫)、『羽柴家崩壊』『今川のおんな家長 寿桂尼』(ともに平凡社)、『戦国大名・伊勢宗瑞』『戦国大名・北条氏直』(ともに角川選書)、『下剋上』(講談社現代新書)、『武田信玄の妻、三条殿』(東京堂出版)など多数。
徳川家で重要視された今川家の女性家老・貞春尼は新たな家臣の取り立てにも関わった
徳川家で重要視された今川家の女性家老・貞春尼は新たな家臣の取り立てにも関わった 駿府城跡の発掘現場。「今川館」跡の発見が期待されている。駿府城は徳川とも今川ともゆかりが深い。    徳川家康に最も影響を与えた人物は誰だろう。今川氏真であったと考えるのは、日本中世史の歴史学者・黒田基樹氏だ。二人の交流は何と、氏真が死去するまで、およそ六〇年以上におよんでいた。さらにこれまで知られていなかったのが、天正七年に家康の三男徳川秀忠が誕生すると、その女性家老(「上臈」)にして後見役に、氏真の妹・貞春尼が任じられたという事実である。黒田氏の新著『徳川家康と今川氏真』(朝日新聞出版)から一部抜粋、再編集し、紹介する。 *  *  * 今川貞春の活躍  秀忠の上臈としての貞春尼の動向については、現在のところはわずかに二件が知られているにすぎない。いずれも小林輝久彦氏によって紹介されているものになる。おそらくは今後、関係史料の精査をすすめていけば、さらに検出されることと思われるが、ここでは確認されている二件の内容を紹介しておくことにしたい。  一つ目は、慶長十三年(一六〇八)に、八歳の秩父重能(慶長六年生まれ、母は武田信豊娘)を、秀忠の家臣に取り成していることである(『寛永諸家系図伝第六』二二九頁)。そこには「今川氏真の姉、剃髪して貞春と号す、大権現(家康)の鈞命によりて崇源院殿につかうまつる、大権現、重信(秩父)が子孫を貞春にとわせたまう。貞春、重信と好あるをもってのゆえに、詳らかに言上す。これによりて慶長十三年、重能八歳にて大権現に拝謁し、台徳院殿(秀忠)につかえたてまつる」とある。 【こちらもおすすめ!】 『徳川家康と今川氏真』の記事をまとめて読む。  貞春尼が氏真の姉というのは、誤伝とみなされる。貞春尼が、家康の命により、浅井江(崇源院殿、一五七三〜一六二六)に仕えた、と記されている。彼女は本来、秀忠の上臈であったから、それが事実であれば、秀忠付きの上臈から、浅井江付きの上臈に変更されたことになる。この点についてはあとで考えることにしたい。そして家康から、北条家旧臣の秩父重信(一五五四〜一六三〇)の子孫について問い合わせがあり、貞春尼は秩父重信とは旧知であったため、子孫について報告すると、慶長十三年に重信の子重能が家康に召し出され、秀忠家臣に取り立てられたことが記されている。  秩父重信は、天正十八年(一五九〇)の小田原合戦ののち、牢人して武蔵秩父に隠棲していたという。家康が重信のことを知った経緯は不明だが、その子孫を徳川家家臣に召し出したいと考え、貞春尼に問い合わせた、ということらしい。貞春尼は、かつて北条家のもとにあったため、秩父重信とは旧知で、その家族の動向も把握していたということらしい。そして子孫の存在を家康に報告して、それにより秩父重能が家康に召し出され、秀忠家臣に取り立てられた、ということのようである。 【こちらもおすすめ!】 特集『徳川家のリアル』を読む。 駿甲相三国同盟関係系図  ここからは貞春尼が、北条家のもとにいたことから、北条家旧臣と面識を持っていたこと、新たな家臣の取り立てに関与していたことがわかる。とりわけ家臣取り立てにおいては、実際にその仲介役を担っていることになる。家康から問い合わせがあったと記されているが、家康が秩父重信と面識があったとは考えがたく、そのためその存在を把握していたとも考えにくい。むしろ事実は、秩父重信が、子どもの徳川家家臣への取り立てを願い、旧知の貞春尼を頼って、その取り成しを頼んだものではなかったか、と思われる。そうであれば貞春尼は、徳川家の上臈として、家臣取り立てにも大いに関わっていたとみることができる。そしてこのことは、貞春尼はかつて武田義信妻として武田家にあったことから、武田家旧臣についても当てはまると考えられよう。  二つ目は、『言緒卿記』慶長十六年(一六一一)十月二十日条(大日本古記録本刊本上巻六〇頁)にみえる記事である。公家の山科言緒が、秀忠正妻・浅井江に帯三筋を進上した際に、取次を「京殿・今川テイ春」が務め、山科からそれぞれ帯一筋を贈られている。ここで貞春尼は、「御台所」浅井江の取次を務めている。同時にみえている「京殿」は、「副佐」という女性家老筆頭の立場にあったもので、室町幕府直臣・大草公重の娘で、浅井江が羽柴秀吉養女として秀忠と結婚した際に付き従ってきた存在であるらしく、こののち元和三年(一六一七)頃まで、女性家老筆頭の立場にあったらしい(福田千鶴『大奥を創った女たち』)。 【こちらもおすすめ!】 『徳川家康と今川氏真』の記事をまとめて読む。    貞春尼が浅井江の取次を務めているのは、この時だけしかみえていない。また浅井江への取次の際には、「京殿」に次ぐかたちで記されているので、その時の立場は、「副佐」であった「京殿」よりも下位に位置していたことが認識される。問題となるのは、貞春尼の立場である。この二件からは、彼女は浅井江の上臈とみなされることになる。しかし当初は、秀忠付きの上臈であったことからすると、その後に、浅井江付きの上臈に変更されたのか、もしくは秀忠付きの上臈ではあったが、浅井江への取次も担ったのか、ということが想定される。  もっともこの慶長年間における江戸城の奥向きのあり方については、まだ十分には判明しておらず、その解明は今後の検討課題であるといえよう。したがってこの時、貞春尼が、秀忠付きの上臈のままであったのか、浅井江付きに変更になっていたのかは判断できない。またそれらの史料で、浅井江の上臈とされているのは、当時の江戸城奥向きを秀忠正妻の浅井江が管轄していたから、女房衆はすべて浅井江の管轄下にあるということで、浅井江付きと表現されたにすぎないとみることもできる。いずれにしても、秀忠が浅井江と結婚した文禄四年(一五九五)以降は、浅井江に随従してきた「京殿」が、秀忠奥向きの筆頭に位置するようになったのであろうが、それまではこの貞春尼が筆頭に位置していたとみることは可能であろう。  これらの問題の解決は、今後の研究の進展に委ねざるをえないものの、これらの事例から、貞春尼は、徳川家当主・妻への取次を務め、また家長の家康から直接に諮問に与り、家臣取り立ての取り成しを務める、といった役割を果たしていたことを認識できる。それはすなわち、貞春尼は、徳川家の上臈、いわゆる女性家老として、徳川家の家政の運営において、極めて重要な立場にあったことを示すものになる。このことはひいては、戦国大名家において、女房衆という女性家臣の果たした役割の大きさへの注目につながる。そうした女性家臣の動向や役割については、これまで十分な検討はおこなわれていないが、今後において大いに追究していく必要のある領域とみなされる。 ●黒田基樹(くろだ・もとき)/1965年東京都生まれ。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。博士(日本史学)。専門は日本中世史。駿河台大学教授。著書に『お市の方の生涯』『徳川家康の最新研究』(ともに朝日新書)、『百姓から見た戦国大名』(ちくま新書)、『戦国大名』『戦国北条家の判子行政』『国衆』『家康の正妻 築山殿』(ともに平凡社新書)、『関東戦国史』(角川ソフィア文庫)、『羽柴家崩壊』『今川のおんな家長 寿桂尼』(ともに平凡社)、『戦国大名・伊勢宗瑞』『戦国大名・北条氏直』(ともに角川選書)、『下剋上』(講談社現代新書)、『武田信玄の妻、三条殿』(東京堂出版)など多数。
「君の名は」ブームや昭和の皇太子殿下が日本の結婚を変えた “恋愛結婚”が人々に根付くまで
「君の名は」ブームや昭和の皇太子殿下が日本の結婚を変えた “恋愛結婚”が人々に根付くまで 明仁皇太子御成婚が日本の結婚観の大きな転機だった(写真:AP/アフロ)    現在では少なくなったが、かつてはお見合いが一般的だった日本の結婚。戦後、日本国憲法ができ、周囲の影響力は弱まった。しかし、現代の“恋愛結婚”に至るまでには、さまざまなきっかけが必要だった。家族社会学者である山田昌弘氏の著書『結婚不要社会』(朝日新書)から一部を抜粋、再編集し紹介する。 *  *  * 戦後の自由結婚  実質的に結婚というものが変化するのは、1955年頃に始まる高度成長によって、経済構造が変化して以降のことでした。  1955年頃から企業社会が興隆してサラリーマン化が起き、家業が衰退します。つまり、息子である男性が経済的に親から徐々に自立することによって、親の影響力が低下していくわけです。  同時に起こったのが、いわゆる都市化です。地域社会が消滅するわけではありませんが、若い人たちが出身地から離れて都市に移住することによって、地域社会の影響力も徐々に低下していきます。  高度成長期には、恋愛結婚が普及して見合い結婚も変質し始めました。  明治時代にはすでに、「好き合った者同士が結婚する」というヨーロッパやアメリカの結婚のかたちがあるということは、ある程度知られていました。けれども、当時は恋愛という言葉も普及していなかったわけです。それを実際に見てよくわかっているのは欧米に遊学・留学した一部のエリート・インテリ、小説家や学者などに限られていました。  実際に見ていないものを現実のものとして受け入れることは、非常に難しいものです。その意味では、戦前までは欧米のような恋愛結婚についてほとんどの人が知らなかったと言ってよいでしょう。  ヨーロッパやアメリカでの中流階級の恋愛結婚の状況が知られるようになったのは、戦後の話です。  戦後、次々に入ってくる欧米の映画そしてテレビドラマを通して、親の反対を押し切って好き合った者同士が結婚して生活するという「現実」を大量に見聞きするようになります。映画は、戦前から数少ない娯楽として庶民の生活に入り込んでいましたが、戦中は欧米の映画は上映禁止だったので、大きな変化は戦後に一気に起こりました。  恋愛をあつかった当時の日本映画では、小津安二郎の作品が面白いと思います。恋愛結婚したいけれどもうまくいかなくて、結果的に見合いで結婚するというような話が多いのですが、小津監督は映画の中で父娘関係に焦点を当てています。結婚相手の男性があまり描写されないのも特徴的です。  たとえば「晩春」(1949年)。妻を早く亡くし、娘の結婚を心配する大学教授の父親は「恋愛結婚しないのかな」と思っている。でも、うまくいかない。「じゃあ、お父さんが決めてあげよう」という感じで、自分の妹が持ってきた縁談をすすめる。娘は悩みながらも父親の言う通りに結婚するというストーリーです。 「晩春」と同じ年に公開された映画の中では、今井正監督の「青い山脈」も若者の淡い恋愛を描いてヒットしました。主演女優はどちらも原節子です。  また、恋愛を描いたラジオドラマの「君の名は」がブームとなり、1953年に映画化されて大ヒットしました。  好き合った者同士の交際や、結婚するかしないかといった個人の事情、そういう類いの映画が戦後に庶民に広く受け入れられたのです。  そして皇太子殿下(平成の天皇陛下)と正田美智子さん(平成の皇后陛下)の1959年の御成婚は大きな転機をもたらします。結婚前から軽井沢での「テニスコートの恋」と報道され、自分たちでお互いに相手に選び、かつ周りの反対を押し切って結婚したというストーリーが語られて、それが庶民の目にさらされたわけです。  日本で最も家柄の高い人が自由に結婚相手を選んで恋愛結婚をしたということが、恋愛結婚の普及に一役も二役も買ったことは間違いありません。  アメリカのテレビドラマを多くの人が見るようになるのもこの頃からです。1953年に放送を開始したテレビが普及するのは、皇太子の御成婚が大きなきっかけでした。それまでは、動画といえば映画しかありません。当時は恋愛をストレートに描くアメリカのドラマもあるにはありましたが、それほど多くはありませんでした。ですが、自由に恋愛したりいろんな障害を乗り越えて結婚したりする男女が生き生きと描かれていて、一般庶民は、それらの生き方を自然にモデルとして受け入れ始めたのです。同時に、日本のテレビドラマも、恋愛が主題になりだします。気にしている同士がなかなか告白できなくて、最後に告白してハッピーエンドというような「ラブストーリー」が、お茶の間に入り込み始める。こうして恋愛をあつかった多くのドラマや映画、そして皇太子の結婚が、「結婚とは恋愛したうえでするものではないか」という社会的意識を醸成したのです(結婚と映画の考察にあたっては、中央大学特別研究の助成を受けた)。 見合い結婚の変化  戦後は恋愛結婚が普及し始めると同時に、見合い結婚も変質し始めます。特に、上流階級が見合いという名のもと、有無を言わせず「取り決め」で結婚を遂行していたのが、会う前でも断れるし、会ってからでも断れるという「断る自由」のある見合いを許容しだします。  つまり、戦後の見合い結婚というものは、恋愛結婚に限りなく近いわけです。紹介してくれるのが仕事の上役や親族というだけで、相手に会う前も会ってからも、交際を始めてからでも「断る」ことができます。  まだ世間的には、断ることは望ましくない。けれどもそれが可能になったがゆえに、たとえ見合い結婚でも「自分が選んだ相手と結婚したんだ」という感情を持てるようになったわけです。その意味では、戦前までの取り決め婚とはまったく違います。  この変化によって、恋愛はもちろん、見合いであっても結婚には愛情形成が必要という意識、つまりは好きな人と結婚するという意識が戦後に普及したのです。  もちろん、戦前にも見合いを断るというケースはありました。たとえば、谷崎潤一郎の小説『細雪』は戦中の大阪・船場の旧家・蒔岡家が舞台で、そこの四姉妹の暮らしぶりを、三女の雪子が何人もの見合い相手を断るというエピソードを軸に描いています。最初に、蒔岡家の条件をすべて満たす先方から断られて以来、年嵩のやもめであったりする見合い相手を雪子は断り続けるのです。この谷崎の名作は何度も映画やテレビドラマになっています。雪子は結局、華族の庶子という中年男性と結ばれるわけですが、市川崑監督の映画(1983年)の中で、ようやく雪子の結婚が決まったあと、姉がつぶやく「あの子、ねばりはったな」というセリフが印象的でした。「旧家の見合い」で谷崎は、戦前戦中のあの時代を描いたのです。 ●山田昌弘(やまだ・まさひろ)/1957年、東京生まれ。1981年、東京大学文学部卒。1986年、東京大学大学院社会学研究科博士課程単位取得退学。現在、中央大学文学部教授。専門は家族社会学。学卒後も両親宅に同居し独身生活を続ける若者を「パラサイト・シングル」と呼び、「格差社会」という言葉を世に浸透させたことでも知られる。「婚活」という言葉を世に出し、婚活ブームの火付け役ともなった。主な著書に、『近代家族のゆくえ』『家族のリストラクチュアリング』(ともに新曜社)、『パラサイト・シングルの時代』『希望格差社会』(ともに筑摩書房)、『新平等社会』『ここがおかしい日本の社会保障』(ともに文藝春秋)、『迷走する家族』(有斐閣)、『家族ペット』(文春文庫)、『少子社会日本』(岩波書店)、『日本はなぜ少子化対策に失敗したか』(光文社)『「家族」難民』『底辺への競争』『新型格差社会』(朝日新聞出版)などがある。
女の浮気は「刑事罰」、男の浮気は「当たり前」 今ではあり得ない戦前の結婚事情
女の浮気は「刑事罰」、男の浮気は「当たり前」 今ではあり得ない戦前の結婚事情 ※写真はイメージです(Getty Images)    好きな相手と結婚して自分たちの家庭を築く、現代の結婚では当たり前のことだ。しかし、かつての結婚はさまざまな“縛り”があった。今では非常識とも言える戦前の結婚の慣習を、家族社会学者である山田昌弘氏の著書『結婚不要社会』(朝日新書)から一部を抜粋、再編集し紹介する。 *  *  * 社会的制裁と一夫多妻  結婚のパターンは、イエ同士が取り決めて結婚相手を選ぶという「取り決め」から、自分で連れてきた相手を親が承認するというかたちまで、いろいろありましたが、親の影響力が強いことは確かでした。  結婚相手は、親や地域社会から見て、ふさわしいか否かで決定されます。ふさわしさというのは「家柄」への評価です。家柄とは家業の規模や経済力と言い換えることができます。明治から戦前までの日本は自営業が基盤だったので、家柄のふさわしさを判断する最も大きな要因は、家業の規模でした。  つまりは、同程度の家柄の相手同士で結婚するというのが通常であり、とりわけ家業継承を前提とする長男と跡取りの長女は、親の影響力がかなり強く、上流階級から庶民までさまざまな家業がありましたが、それぞれにふさわしい嫁や婿が選ばれました。  家業継承に直接関係しない長男以外の男性や跡取りの長女以外の女性は、これとは立場が相当異なります。  次男以下は、他家に働きに出ていたりして比較的自由に結婚できます。ただ、資質によっては結婚相手に選ばれず、結婚できませんでした。つまり次男以下は、結婚が自由だけれども難しいという立場にさらされていたわけです。  跡取りの長女は、次男以下の男性を婿に取らなければなりません。つまり、婿をむかえなければいけないということが運命づけられていました。跡取りの長女以外の女性は、誰と結婚しても取りあえず自由は自由なのだけれども、自分の親と同じ程度の家柄のイエに嫁として行くのが通常でした。  ただ跡取りの長女以外の女性は、自分よりも上の家柄に嫁ぐ「上昇婚」も可能なのです。とはいえ、裕福なイエの本妻になる可能性もあれば、お金持ちの第二、第三夫人になる可能性もあれば、結婚せずに親元に留まる可能性もあります。その意味では、男性よりもチャンスとリスクにさらされる立場であったことは確かでしょう。  結婚のプロセスとしては、イエ同士で決めた「取り決め」で相手と会わずに結婚するケースもあれば、実際に会ってから結婚するケースもあり、自分で選ぶというケースもそれなりにあるといったぐあいに多様でした。  階層ごとに特徴はありましたが、先にも述べた通り、最終的には親や地域の仲間が承認するという前提のもとに結婚します。つまり、親の家柄によってふさわしいかふさわしくないかが決定されました。  そして、ふさわしくない結婚に対しては、「村八分」や「勘当」といったサンクション(社会的制裁)がありました。親からの最大の制裁は、小説などによく描かれているように、家業を継げなくなって経済的に立ちいかなくなる「勘当」でしょう。  軽い制裁としては、親や仲間から嫌味を言われたりいじめられたりする「中傷」でしょう。これも小説などによくある通りです。  もう一つ特筆しておかなければいけないのは、明治から戦前までは「一夫多妻」の慣習が強くて、上流社会、特に華族や政治家、豪農、豪商では事実上の一夫多妻制だったということです。正妻は取り決めで選ぶけれども、妾というかたちで第二夫人以下は自由に選んでいたのです。  ただイスラム世界と違って、日本では正妻と第二夫人以下は原則として同居しません。別のところに第二夫人以下と子どもを住まわせます。逆に言えば、正妻以外を別のところに住まわせる経済力がなければ、一夫多妻はできなかったというわけです。  明治時代半ばまでの非嫡出子率は、約10%です。つまり、結婚していない女性から生まれた子どもの割合は、生まれた子ども全体のうちの1割ほどでした。  戦前までは未婚の母ではほとんど暮らしていけないので、それはほとんどの場合、一夫多妻の第二夫人以下だった可能性は高く、つまりは10人に1人の子どもは第二夫人以下の子どもだったということです。そこから推定すると、男性の10人に1人が一夫多妻だったということになります。そしてこの割合は、当時の上流~中流階級の割合に相当するのです。つまり、当時の上流~中流階級の多くが一夫多妻であったと言うこともできるわけです。  また、戦後すぐまでは姦通罪がありました。結婚している女性の浮気に関しては刑事罰(浮気相手の男性も同罪)が科される一方で、結婚している男性の浮気は、相手が結婚していない女性であれば売買春を含めて「当たり前」だったのです。  未婚女性は何らかの手段で生活していかなければなりません。その意味では自立している女性が少ない以上、明治から戦前までの未婚女性にとって男性の浮気というのは、ほとんどが自立して生活していくための売買春か、生活の面倒を見てもらう第二夫人以下になるためのものかという二つの行為とイコールだったのです。  要するに男性の浮気は社会的に非難されるものではなく、この二つ以外のケースは小説や新聞ざたにもなる稀な出来事だったと言えるでしょう。 ●山田昌弘(やまだ・まさひろ)/1957年、東京生まれ。1981年、東京大学文学部卒。1986年、東京大学大学院社会学研究科博士課程単位取得退学。現在、中央大学文学部教授。専門は家族社会学。学卒後も両親宅に同居し独身生活を続ける若者を「パラサイト・シングル」と呼び、「格差社会」という言葉を世に浸透させたことでも知られる。「婚活」という言葉を世に出し、婚活ブームの火付け役ともなった。主な著書に、『近代家族のゆくえ』『家族のリストラクチュアリング』(ともに新曜社)、『パラサイト・シングルの時代』『希望格差社会』(ともに筑摩書房)、『新平等社会』『ここがおかしい日本の社会保障』(ともに文藝春秋)、『迷走する家族』(有斐閣)、『家族ペット』(文春文庫)、『少子社会日本』(岩波書店)、『日本はなぜ少子化対策に失敗したか』(光文社)『「家族」難民』『底辺への競争』『新型格差社会』(朝日新聞出版)などがある。
日本で最初の恋愛結婚は福沢諭吉が証人になった「契約結婚」か 戦前の結婚事情を振り返る
日本で最初の恋愛結婚は福沢諭吉が証人になった「契約結婚」か 戦前の結婚事情を振り返る ※写真はイメージです(Getty Images)  個人が尊重され、多様化の進む現在、「結婚」に対しても個人の捉え方は広がりつつある。一方、かつての結婚事情は現代とまったく違っていた。家族社会学者である山田昌弘氏の著書『結婚不要社会』(朝日新書)から一部を抜粋、再編集し紹介する。 *  *  * 戦前の階層結婚  戦前までの日本の結婚パターンは、階層ごとに異なっていました。明治政府は近代化、つまり「結婚の自由」を推し進めたのですが、実質的な結婚の自由というものはほぼ無かったというのが実情です。  もちろん、ヨーロッパやアメリカの影響を受けて、「自由恋愛結婚」というものが巷間に流布するのですが、それとて一部のインテリ層にとどまっていたわけです。同時期に、恋愛をテーマにした小説も数多く描かれました。ただその内容は、自由な恋愛結婚を求めるのだけれども、周囲からの圧力でつぶされて登場人物が悩む、というのが基本路線です。  世間で最初の恋愛結婚として騒がれたのは、のちに初代文部大臣となる外務大丞の森有礼が1875年(明治8年)に行った「契約結婚」でしょう。「破棄しない限り互いに敬い愛すこと」といった条件に本人同士が合意し、友人の福沢諭吉が証人になって結婚。真実かどうかはともかく、自由に相手を選んだ結婚として大きく報道されました。  ただ同じインテリでも、森鴎外のように、留学先のドイツの女性と恋愛して結婚しようとしたけれども、結局はイエの圧力に負けてイエ同士の「取り決め」の結婚をするというパターンが圧倒的に多かったのです。  日本では、明治から戦前まで社会の基盤が家業共同体であるイエにあったので、結婚はイエの継続を第一の目的としていました。  基本的には長男が嫁を取ってイエの跡を継ぐ、男子がいなかった場合は長女に婿を取るという「長子単独相続」です。子どもがいなければ、夫婦養子を取りました。そうしたかたちで、家族というものがイエを継承することを第一の目的としていたので、結婚もそれに従っていたわけです。  法律的にも、本人同士が結婚に合意していても、跡取り同士(戸主同士)の場合は「親の承認」を得ないと結婚できませんでした(「明治民法」には、第七百五十条「家族カ婚姻又ハ養子縁組ヲ為スニハ戸主ノ同意ヲ得ルコトヲ要ス」、第七百七十八条「婚姻ハ左ノ場合ニ限リ無効トス 一 人違其他ノ事由ニ因リ当事者間ニ婚姻ヲ為ス意思ナキトキ」などの条文がある)。  また離婚に関しても、本人同士が離婚したくなくても、親が強制的に離婚させるということは一般的に行われていたわけです。  一方、長子でなければ、法律的には自由でした。男性30歳・女性25歳以上は親の同意が不要で、自由に結婚相手を選べたわけです(明治民法 第七百七十二条「子カ婚姻ヲ為スニハ其家ニ在ル父母ノ同意ヲ得ルコトヲ要ス但男カ満三十年女カ満二十五年ニ達シタル後ハ此限ニ在ラス」)。西洋化をはかった大日本帝国憲法には「居住・移転の自由」があり、これに「職業選択の自由」も含まれているとみなされました。  けれども、社会的・経済的条件というものがあって、法律という形式が整っていたとしても実情は異なるわけです。たとえば経済的には、基本的にどちらかの家業が本人の仕事となるので、「仕事がある・ない」という問題が生じるのです。  イエは経済的基盤と連動していました。結局は、家業を継承するために結婚相手を選ぶということが、結婚の基本となるわけです。  ただし、この基本には、階層格差が大きく影響します。  上流~中流階級の結婚は、イエの継承にふさわしい結婚相手でなければ不可能でした。だから親の介入、つまり「取り決め」は当たり前の世界です。そしてその裏側に、男性は本妻以外の女性と恋愛して、時には第二夫人にしてもかまわないという「一夫多妻」的な慣習があったわけです。  一方、庶民は比較的自由に相手を選べます。上流~中流階級とは違い、庶民同士なら誰と結婚しても「暮らし」は結婚前と一緒なので、比較的自由だったのです。とはいえ、地域の仲間の介入はありました。  たとえば、農村や漁村には夜這いの慣習がありました。夜這いは「お前はあそこに行け」などと地域の仲間に管理されていて、その結果、子どもができて結婚するということがよくあったわけです。ただ、それは緩やかな管理で、相手選びは比較的自由だったのです(服部誠「近代日本の出会いと結婚──恋愛から見合へ」平井晶子・他編『出会いと結婚』所収)。  とはいえいずれにせよ、階層を超えた結婚というものは稀でした。 ●山田昌弘(やまだ・まさひろ)/1957年、東京生まれ。1981年、東京大学文学部卒。1986年、東京大学大学院社会学研究科博士課程単位取得退学。現在、中央大学文学部教授。専門は家族社会学。学卒後も両親宅に同居し独身生活を続ける若者を「パラサイト・シングル」と呼び、「格差社会」という言葉を世に浸透させたことでも知られる。「婚活」という言葉を世に出し、婚活ブームの火付け役ともなった。主な著書に、『近代家族のゆくえ』『家族のリストラクチュアリング』(ともに新曜社)、『パラサイト・シングルの時代』『希望格差社会』(ともに筑摩書房)、『新平等社会』『ここがおかしい日本の社会保障』(ともに文藝春秋)、『迷走する家族』(有斐閣)、『家族ペット』(文春文庫)、『少子社会日本』(岩波書店)、『日本はなぜ少子化対策に失敗したか』(光文社)『「家族」難民』『底辺への競争』『新型格差社会』(朝日新聞出版)などがある。
「自宅に帰りたい」寝たきり患者を在宅へ ICT機器で病院が状態把握し悪化させないケア【離島の在宅医療・前編】
「自宅に帰りたい」寝たきり患者を在宅へ ICT機器で病院が状態把握し悪化させないケア【離島の在宅医療・前編】 訪問診療する対馬病院院長の八坂貴宏医師(撮影/木村和敬)   病院に行くことが難しい患者の自宅に、医師が訪問して診療するのが「在宅医療」だ。日本でもっとも離島が多い長崎県では、離島で在宅医療をおこなう医療機関は減少傾向にある。この課題に対して、同県は2022~23年度に医療ICTを活用して効率的な医療体制の構築を図る実証事業に取り組み始めた。その現場のひとつ、離島の対馬にある長崎県対馬病院の在宅医療を取材した。前編後編の2回に分けてお届けする。 *  *  * 過疎化・高齢化が進む離島  長崎県・対馬は、九州と韓国の間に浮かぶ島で、南北に約82キロと縦長の形をしている。人口は約2万8千人。病院は二つあり、最北端に上対馬病院、南半分のおよそ中心あたりに対馬病院がある。    今回取材した対馬病院は、2015年に新築移転した病院で、25の診療科を持ち、病床数は275床。医師47人が勤務している。 2015年に新築移転した対馬病院。25の診療科を持ち、病床数は275床。1日平均600人以上の外来患者が訪れる。内科患者の7割は65歳以上の高齢者だという(撮影/木村和敬)    19年4月に八坂貴宏医師が院長に就任し、在宅医療やICT導入に積極的に取り組んでいる。  在宅医療は、医師が訪問する「訪問診療」と看護師が訪問する「訪問看護」があり、組み合わせておこなうことも多い。ときに、患者や家族からの緊急の要請に応じて駆けつける「往診」もある。  こうした在宅医療は、過疎化・高齢化が進む離島やへき地で、診療機会の減少が懸念される患者への診療提供の方法として期待されている。高齢で日常生活動作が衰えた患者は、家族のサポートなしで遠くの病院まで通院できなくなるからだ。この課題に対して、長崎県はICTを活用して解決していこうと「地域医療充実のための医療ICT活用促進事業」(2022~23年度)を実施している(詳細は後述)。  この事業に離島で唯一参加しているのが対馬病院だ。院長の八坂医師自ら担当している。今回、この事業の実情を探るべく、7月上旬、対馬を訪れた。 長崎県の対馬(撮影/木村和敬)   今年6月にICT機器導入  対馬病院を出発して訪問診療に向かう車を追いかけて、南に約25分。途中、左手に海を臨みながら、港町を過ぎ、山あいの入り組んだ道に入っていく。戸建ての家の前に車を止めて、八坂医師と訪問看護師が赤木良夫さん(仮名、76歳)の自宅に上がる。出迎えた妻の幸子さん(仮名、66歳)が、1階リビングに置かれた良夫さんのベッドの前で八坂医師に話しかける。 「先生、今日は(夫の)顔色いいでしょう」  夫婦二人暮らし。良夫さんは、電気工の職人だったが、広範脊柱管狭窄症という脊椎の病気で現在は寝たきり生活を送っている。手足の筋力が低下し、自分で食事や排せつができず、1年前、尿路感染症を起こし対馬病院に入院していた。根本治療がなく、このままでは命も危ないという状態だったが良夫さんの「病院はいやだ。自宅に帰りたい」という希望から、在宅に切り替えた。 対馬病院から車で約25分かけて患者宅に訪問して診療をおこなう。遠いところでは1時間ほどかかる家もある(撮影/木村和敬)   「当初は『1カ月ももてばいい』という状態でした。なんとか夫の希望をかなえ、1年間在宅でやってこられました」  と幸子さんは話す。入院中は病院まで通い、つきっきりで看病するのが体力的にきつかったという。在宅になってからはそんな苦労からも解放された。週2、3回の訪問看護と月1回の訪問診療を受けながら、幸子さんが介護をしている。当初危うかった状態も、自宅に帰り食事がとれるようになって落ち着いた。 毎日3回、幸子さん(仮名、写真右端)が血圧や脈拍などを測定する(撮影/木村和敬)    この赤木家の在宅医療に、今年6月からICT機器が導入されている。幸子さんが毎日朝昼晩の3回、脈拍、血圧、体温、血液酸素濃度を測ると、数値がスマホに自動転送される。このデータがネットワークを介して対馬病院に届き、八坂医師は病院のパソコンや手持ちのタブレット端末で良夫さんの状態を把握することができる。これらのICT機器は、長崎県の実証事業として県から貸与されたものだ。 「これまでは毎日、ノートに脈拍、血圧などを記入して、訪問看護師さんが来るときに見せていました。高熱が出たとき、とくに夜の場合、看護師さんに電話してもいいものか迷っていましたが、いまは、状態を八坂先生が診ていてくれるという安心感があります。困ったときはチャット機能で問い合わせることもできて、とても助かっています」(幸子さん) 血圧や脈拍などを測定する機器、連携に利用されるスマホ(撮影/木村和敬)    八坂医師はICT機器導入の手ごたえをこう話す。 「24時間バイタルデバイスでチェックできるので、早め早めに対応ができるようになりました。おかげで、悪化させない、入院させないケアができやすくなったと思います」  良夫さん本人は、寝たきりではあるものの、電気工の職人として「(弟子に)技術を伝えたい、教えたい」と言って、それを生きる目標にしている。幸子さんは「それをかなえてあげたい」と献身的に介護を続けている。 病院内のモニターで、ICT機器を通じて送られてくる患者情報をチェック。タブレット端末でも見ることができる(撮影/木村和敬)   長崎県の医療状況  ここで、長崎県の医療状況やICT事業について簡単に説明しておこう。  長崎県は日本で最も島の数が多い都道府県だ。県の担当課によると、人口10万人あたりの医師数は、全国267.0人に対し、長崎県は332.8人と意外に多い。しかしこれは内訳として本土部が多く、離島部は213.7人と少ないのが現状だ。訪問診療をおこなう医療機関の数でみると、約半数が長崎市を中心とした本土の長崎医療圏に集中しており、離島医療圏では22施設と県全体の件数の2.8%にすぎない。  対馬の人口における65歳以上の割合は、38・6%。全国平均の28・6%はもちろん、長崎県33・0%よりも高い。  長崎県は、▼離島へき地を中心に住民の過疎化・高齢化が進行することで訪問診療のニーズが増える▼訪問診療実施医療機関は減少傾向(15年:456施設↓19年:418施設)にあることから、1機関あたりの負担軽減や離島僻地における診療機会の確保を図る必要性を認識。医療ICTを活用した効率的な医療体制の構築を図る狙いで、今回の事業を開始した。  具体的には、在宅医療に取り組む事業所に患者用のICT機器を貸出し、機器を通して各施設で患者の状態を共有できるようにする。患者や家族は、自宅で体温、脈拍、血圧、酸素飽和度などを毎日測定。データはスマホを介して、サーバに自動転送。事業者はパソコンやタブレット端末などで、患者の状態を把握できる。これにより、訪問診療の回数を減らすなど、医療機関側・患者側双方の負担を減らそうという試みだ。 ★「AERA dot.」のコラムニストだった大石賢吾・長崎県知事のインタビュー記事はこちら:精神科医コラムニストから長崎県知事に 「誰も取り残されない社会の仕組みづくり」目指して  応募できる事業者の条件は、患者の診療情報を複数の医療機関で共有できるシステム「あじさいネット」(長崎県医師会や長崎大学が運営)に加入していること。  長崎県は応募があった事業者から、11事業者を選定し、現在、各事業者で実証事業が進められている。このうち、離島部で選定されたのが対馬病院だ。  八坂医師は、対馬病院の在宅医療の状況についてこう話す。 「私が院長に就任する以前は、入院していた患者が退院して自宅に戻る場合、条件が合うケースにだけ、在宅医療を提案するという具合に、細々と実施していた状況です。私は、前任地の五島列島の上五島病院で在宅医療に取り組んできたので、対馬でもやるべきだと考えました」  院長就任翌年の20年には地域医療連携室を充実させ、地域の医療機関、行政、介護福祉施設などとの連携を進め、21年には訪問看護ステーションを設置し、医療保険・介護保険の両方で訪問看護をできるようにした。在宅医療の対象は、入院から退院する患者だけでなく、通常の外来で通院が困難になった患者にまで広げ、認知症にも対応するようにした。  現在、対馬病院で訪問診療に携わる医師は7、8人。訪問看護師は4人で、平均20~25人の在宅患者を担当している。八坂院長は、在宅医療に取り組む理由やICT事業応募の理由についてこう語る。 「私自身が島出身で、我々の仕事は患者の生活や生きていくことを支えることだと思っています。病気を治すことだけではないですから、病院の中で仕事をするのではなく、患者の生活が見える外へ出ていく在宅医療に取り組んでいます。ICTについては、離島だから本土並みの医療が受けられないということがあってはならないし、離島医療が都会と同じ医療の質を提供できる形を目指したいと思っています。その可能性が広がるものであれば何でも新しいことにチャレンジしてみたい。やれることはやるという感覚ですね」 最近の良夫さん(仮名)の様子を幸子さん(同)に確認する八坂医師。幸子さんは、「日々の状況を把握してもらえているので安心感があります」と話す(撮影/木村和敬)    ICT事業は今年2月から開始し、県から貸与された機器は3セット。研究ベースで1年間おこなうものなので、1人あたり3~6カ月程度で複数人に使うことで、どういう人がマッチしているかを検証していきたいという。すでに2人の患者の使用が終了している。うち1人は外来の60代糖尿病患者に使ってもらい、日々のデータ把握により、意識向上につながり、体重減少に成功した。もう1人は、在宅の90代慢性心不全患者で、同居の息子がICT機器でデータを管理。「毎日状態を病院に把握してもらっているので安心感があった」という声をもらったという。 取材・文/杉村 健(編集部) 後編に続く:医療的ケア児の通院「泣き出すと酸素量も低下」 5分で終わるオンライン診療導入で恩恵【対馬の在宅医療・後編】
西武・山川穂高は「1軍登録日数満たせばFA権取得も」 憤るファンと球界には温度差?
西武・山川穂高は「1軍登録日数満たせばFA権取得も」 憤るファンと球界には温度差?    プロ野球・埼玉西武ライオンズの山川穂高選手(31)が、知人女性に対する強制性交の疑いで5月に書類送検され、8月29日に不起訴処分(嫌疑不十分)が出た。西武のファンはこのことをどう受け止めているのだろうか。そして、山川選手の処遇は……。2軍の試合にも応援に駆けつける熱心なファンの声を聞いた。  8月31日午後2時過ぎ。まだまだ厳しい暑さが続くなか、神奈川県横須賀市の横須賀スタジアムでは、プロ野球イースタン・リーグ(2軍)「横浜DeNAベイスターズvs西武ライオンズ」の試合が行われていた。  同スタジアムはDeNAのホーム。アウェーのとなる西武の三塁側スタンドには、平日の日中にもかかわらず、60人超のファンが応援に来ていた。  テレビ局の野球担当記者が語る。 「2軍の応援にはコアなファンが来ます。特に平日の日中に集まる人の声は、ファン代表といっても過言ではありません」  そんなファンたちは、今回の山川選手の不起訴処分をどう捉えたのか。試合観戦の邪魔にならないように聞いてみた。 これだけ騒がせて  東京から来たという30代の男性会社員は、 「これだけ騒がせておいて、本人や球団側から何も説明がない。『不起訴でした』で終わりになるのでは納得がいかない。説明するのは社会人として当然のことでは」  と憤りをあらわにした。ただその上で、 「山川の実力には期待している。ムードメーカー的な存在でもあるから、球団には必要」  とも語った。 【こちらも読まれています】 西武・山川穂高は今季限りで退団の可能性…「救いの手を差し伸べる球団」はあるのか  西武の青のTシャツを着た50代の男性会社員は、 「西武は人間教育に甘い面がある。2000年に松坂大輔さんが起こした道路交通法違反の問題で、球団は職員を『替え玉』として出頭させた。そこから西武の球団運営を批判的な目で見ている」  と球団に対する不満を打ち明けた。  男性が語る替え玉問題とは、2000年9月、当時20歳で、すでに投手としての実績を上げ、大きな注目を浴びていた松坂さんが、運転免許停止中にもかかわらず車を運転して駐車違反をし、身代わりに当時の広報課長が出頭した件だ。  その後、松坂さんは道交法違反の疑いで、広報課長は犯人隠避の疑いでそれぞれ東京地検に書類送検された。西武の小野賢二社長(当時)がその後、謝罪のコメントを出した。 「とはいえ、西武には山川が必要。山川が西武に入団する前から彼を見てきた。実力は十分にある選手で期待はしている。今後の西武の対応も信じている」(前出の50代男性) 観戦に訪れたファンたち 【こちらも読まれています】  山川穂高が不起訴処分も西武に居場所なし? 「他球団に電撃トレード」か 「山川が2軍の時から見ている」  横浜市から来たという別の50代の男性は、 「不起訴はさておき、妻がいるのに不貞行為をしたことは印象が悪い。僕の妻は拒絶反応ですよ。もう二度と出てくるなと言っています。ただ、山川が2軍にいるときから僕は見てきたから、頑張ってほしいなとも思っている。いばらの道だとは思うが、頑張ってほしい」  と前出のファンと同様に、山川への期待感は残っている印象だった。西武のロゴが描かれた紺のTシャツを着ており、ファン歴も長い。 横浜DeNAベイスターズの2軍の本拠地「横須賀スタジアム」 【あわせて読みたい】 佐々木麟太郎が一番伸びそうな球団は? 今年の「ドラフト目玉4人」欲しいチームは  女性ファンにも話を聞いてみた。  西武ライオンズのマークが入った透明のバッグを肩に掲げている40代の女性は、知り合いのファンたちと数人で来たという。  山川選手のことを聞くと、 「正直、いらない」  とバッサリ。さらに続けて、 「いなくなってもらえると助かるなと思っています。いなくても回っている。ファンとしては周りから騒がれているのが嫌なんです。そんなに騒がれるのであれば、いなくてもいいんじゃない、と思った。あと、山川選手がFA(フリーエージェント)で他の球団に移籍するかどうかも話題になっていますが、彼を取りたがるところはないのでは」  と厳しい意見だった。 1軍でのプレー日数によってはFA権も  仮に女性が言うように、山川選手が国内でのFA権(好きな球団と選手契約を結べる権利)を取得しようとするのであれば、「今季はあと2週間とちょっと1軍でプレーすれば権利を得ることができます」(前出・テレビ局野球担当記者)。  前出のテレビ局野球担当記者がこう語る。 「山川選手のことは、球界ではそれほど騒がれてはいないです。強いて言うのであれば、関心はFA権取得までの1軍登録日数がどうなるか。ソフトバンクに行くかどうかが話題になっていたからね」  とあっさりとした様子。では、球団側はどんな雰囲気なのだろうか。  8月30日の不起訴処分を受け、まず日本プロ野球選手会の談話が発表された。   山川選手が再び輝く日はくるのだろうか  そのなかでは球団に対し、 「埼玉西武ライオンズ球団におかれましては、不起訴処分が出されたことを前提に、客観的事実に基づく慎重なご対応をいただくことを求めたく存じます」  などと書かれている。  「西武はこのことについては、もう報道してほしくない、というのが本音のようです。おそらく、もう触ってくれるな、という感じ」(前出のテレビ局野球担当記者)  西武の後藤高志オーナーは7月、報道陣に対し、「山川選手への対応は検察の判断が出てから」と話していた。  ファンの気持ちも様々。どのような判断がなされるのか。 (AERA dot.編集部・板垣聡旨)
不倫が世間から注目される時代 すでに「愛情に基づく」近代的結婚は崩れ始めている
不倫が世間から注目される時代 すでに「愛情に基づく」近代的結婚は崩れ始めている ※写真はイメージです(Getty Images)    戦後の民主化や産業化とともに、大きく変わった「結婚」。しかし、現代はその「近代的結婚」が「崩れ始めている時代」だと中央大学教授で家族社会学者の山田昌弘氏は分析する。山田氏の著書『結婚不要社会』(朝日新書)から一部を抜粋、再編集し紹介する。 *  *  *  前近代社会では、結婚していない人の居場所がありました。このことは拙著『「家族」難民──生涯未婚率25%社会の衝撃』(朝日新聞出版/2014年)などで詳述していますが、前近代社会では結婚していなくても、たとえば「部屋住み」といったかたちで、嫡男ではない独身者が村の中で暮らし続けることが保証されていました。また、日本ならお寺に入る、ヨーロッパなら修道院に入るという生き方もあったわけです。  要するに結婚しない、できない、してはいけない人たちが一定程度の割合でいて、その人たちをどう経済的に処遇するか、アイデンティティをどうするかという問題を解決する居場所が用意されていたわけです。  しかし近代社会というのは、「結婚していない人の居場所がない社会」としてスタートしたのです。  近代社会は、夫婦に特権的な位置づけを与えました。逆に言うと、家族以外で自分の生活を保証してくれる存在がなくなっていくのが近代化ということです。  前近代社会は親戚や村といった共同体が何か困ったときには助けてくれました。  近代社会においては、核家族以外の人には助けを期待できません。助けてくれる親がいる、もしくは子どもがいる場合もありますが、それも核家族によって形成されるものです。つまり、自分で家族をつくって子どもをつくらない限り、いざとなったときにはたいへん困る社会になったというわけです。  同時に、家族以外の親密な相手というのも「例外」になります。たとえば、親密な相手として友だちという存在もあるでしょう。けれども、友だちがいつでも心の拠り所になったり自分の生きがいになったりということはないわけです。  いつでも自分を承認してくれる親しい相手というのが家族以外になくなるというのが、じつは近代社会の特徴なのです。  いまではほとんどありませんが、結婚したら他の異性とのつき合いをなくす、というのは一昔前では日常的な習慣としてありました。結婚以外の性的な関係や異性同士の親密な関係は望ましくないものとされるのにはこうした土壌があったのです。  近代社会の成立期、つまり前近代的結婚から近代的結婚に移るときには、いわゆる愛情のない結婚というものがたくさんあります。だから、結婚外に愛情があるというかたちで「不倫」といったものをテーマにした小説などもたくさん生まれたわけです。  前近代社会は一夫多妻的だったので、男性が複数の女性と性的で親密な関係を持つことは当たり前でした。また、塩野七生さんの『海の都の物語──ヴェネツィア共和国の一千年』(中央公論新社/1980年)に描かれているように、16~17世紀のヴェネツィアでは、女性が「不倫」するのは当たり前だったのです。夫が航海で外に出ている間に、妻が男遊びをするのはごく普通のことでした。  それが近代的結婚になって、「結婚は愛情に基づく」となったとたんに、愛情に基づかない結婚をしている人が愛情を求めて不倫をするというかたちで、人々が興味を持つテーマとして、小説に取り上げられるわけです。  そして、近代的結婚が崩れ始めている時代、つまり現代がそうですが、この現代的結婚においても不倫は話題になります。ただしそれは、結婚外の性行動だって構わないじゃないかという確信犯的なかたちで、婚外関係を持つ人が増えてくるわけです。  要するに、近代的結婚が立ち上がるときと、近代的結婚が崩れ始めるときに、如実に時代に表面化してくるのが不倫である、といえるでしょう。 ●山田昌弘(やまだ・まさひろ)/1957年、東京生まれ。1981年、東京大学文学部卒。1986年、東京大学大学院社会学研究科博士課程単位取得退学。現在、中央大学文学部教授。専門は家族社会学。学卒後も両親宅に同居し独身生活を続ける若者を「パラサイト・シングル」と呼び、「格差社会」という言葉を世に浸透させたことでも知られる。「婚活」という言葉を世に出し、婚活ブームの火付け役ともなった。主な著書に、『近代家族のゆくえ』『家族のリストラクチュアリング』(ともに新曜社)、『パラサイト・シングルの時代』『希望格差社会』(ともに筑摩書房)、『新平等社会』『ここがおかしい日本の社会保障』(ともに文藝春秋)、『迷走する家族』(有斐閣)、『家族ペット』(文春文庫)、『少子社会日本』(岩波書店)、『日本はなぜ少子化対策に失敗したか』(光文社)『「家族」難民』『底辺への競争』『新型格差社会』(朝日新聞出版)などがある。
ステージ4のがんと闘う僧侶・高橋卓志「沖縄戦の図」前に音楽と般若心経の共演で鎮魂の祈り
ステージ4のがんと闘う僧侶・高橋卓志「沖縄戦の図」前に音楽と般若心経の共演で鎮魂の祈り   高橋卓志さん(撮影・亀井洋志)    ステージ4の大腸がんと闘病中の僧侶、高橋卓志さん(74)は毎年、沖縄へ慰霊の旅を続けてきた。「残りのいのち」を生きる中で、戦争の不条理を伝えていきたいと考えている。今年も6月に病躯をおして沖縄へ飛んだ。  高橋さんは沖縄戦の犠牲者を追悼する6月23日の「慰霊の日」に合わせ、19日から沖縄を訪れた。沖縄戦は「ありったけの地獄を集めた」と形容された地上戦で、日米合わせて約20万人が亡くなり、住民約12万人が戦禍に巻き込まれて犠牲になった。米軍に追い詰められた住民、軍人が逃げ場を失い、最後の激戦地となった沖縄島の南部には、多くの戦跡が点在する。高橋さんは喜屋武岬、ひめゆりの塔、魂魄の塔など戦跡を巡り、戦没者を悼んでお経をあげた。  高橋さんはこう語る。 「日本の戦時国家体制によって、沖縄では住民の4人に1人がいのちを落としました。戦火の中で死に逝く人々の理不尽と不条理に向き合うことは、いのちの本質に触れることです。だから、僕は沖縄に通い続けている。今回、沖縄に旅立つ前夜、奥歯が痛み出して臼歯が2本抜けたうえ、抗がん剤の副作用にも悩まされている。長旅は危険だと思いながら、沖縄行きを強行しました」  今回の旅には同行者がいた。11弦ギター演奏の第一人者で、作曲家の辻幹雄さん(71)だ。辻さんは世界各地で活躍する一方、1994年に千葉県芝山町で成田空港問題終結に向けた野外コンサートを実施。96年、チェルノブイリ原発事故後10年の節目に、ベラルーシ共和国をはじめ東欧・北欧で鎮魂のコンサートツアーを行ってきた。  高橋さんとは長年の友人で、辻さんの代表曲の一つ「長崎の鐘」は2015年、高橋さんが住職を務めていた神宮寺(長野県松本市)に籠もって作曲したという。「長崎の鐘」は、原爆で被爆しながら医療活動に尽力した医師、永井隆博士の長編詩だ。その詩の朗読に辻さんが11弦ギターの曲を付けたもので、神宮寺でのコンサートで初めて披露された。数々のミュージシャンとお経で共演してきた高橋さんも般若心経を唱え、鎮魂の祈りは重層的に響き合った。   作曲家の辻幹雄さん    辻さんが神宮寺で「長崎の鐘」を作曲中、高橋さんは、画家の丸木位里・俊夫妻の「原爆の図」を展示する丸木美術館(埼玉県東松山市)へ行くことを勧めた。辻さんが語る。 「高橋さんから『曲作りのヒントになるかもしれないよ』と助言され、帰りがけに丸木美術館に寄りました。『原爆の図』や『アウシュビッツの図』を見ながら、このままではいけないなと感じました。自分は傍観者であり、その立ち位置ではダメだと痛感しました。作家とか作曲家、画家の多くは政治的な問題に無関心ですが、やはり、丸木先生がやってこられたようなことに足を踏み入れなければならない時もあるんです」  辻さんはその後も「自分は何かをやり残していないか」という焦燥感が、心の中でくすぶり続けていたという。思い立って今年の春ごろ、高橋さんに電話をかけ、「また音楽と般若心経の掛け合いをやりたいと思っているんだよね」と伝えた。  高橋さんは「最後の仕事としてやらなければならないことの一つが、戦争の事実と悲惨さを伝承すること」と考えている。その表現方法として、読経と音楽の共演を録音し、CD化する構想があった。高橋さんと辻さんは「もうやるしかないよね」と意気投合した。それがこの旅の主目的にもなった。  沖縄県宜野湾市の佐喜眞美術館は、丸木夫妻の「沖縄戦の図」全14部を展示している。多くの住民が死へと追いやられた「喜屋武岬」、日本兵による「久米島の虐殺」など、戦火から逃げ惑う人々、戦場に斃(たお)れた人々の姿が描かれている。  館長の佐喜眞道夫さん(77)と高橋さんは親しい間柄で、神宮寺での平和を考えるイベント「いのちの伝承」に丸木夫妻の絵を貸し出してきた。佐喜眞さんは高橋さんの願いを快諾。6月21日、「沖縄戦の図」展示ホールで高橋さんの読経と、辻さんの11弦ギターの音色が静かに響いた。今回はリハーサルだったが、曲作りに向けて辻さんはこう考えていた。 「沖縄戦の図」の制作過程に迫るドキュメンタリー映画の上映にあたり、「沖縄戦の図」への思いを語った佐喜眞美術館の佐喜眞道夫館長(2023年4月) 「今回、絵が発するエネルギーを感じながら即興で演奏しましたが、CDに収録するのは新曲になります。普通はレクイエム(鎮魂曲)を想定するでしょうし、僕はすでに何曲かつくっています。でも、高橋さんが求めているものは違うと思っている。彼が思い描いているのは断末魔です。ニューギニア、ボルネオなどアジア・太平洋の戦跡へ慰霊法要に赴き、死の間際の呻き声、慟哭を聞いたと言います。だから、丸木先生の絵に共感するのでしょう。音楽では、レクイエムは死者に手向ける曲ですが、その前の段階である死へと向かう苦痛の時間、そこから湧いてくる悲しみや不条理を表現する曲作りは、誰も手がけていない分野です。それが最大の障壁でしたが、何とか曲を完成させました」  体調が心配だが、お経は高橋さんに詠んでもらうことしか考えていない。お経は事前に収録することもできる。レコーディングは佐喜眞美術館でやらなければならないと、辻さんは強い意思を語った。  地上戦の残酷さから、丸木位里さんは「沖縄を描くことが一番、戦争を描いたことになる」と語っていたという。館長の佐喜眞さんは、丸木夫妻の「『沖縄戦の図』は沖縄に置きたい」という意向に応え、美術館の建設を決意した経緯があった。  佐喜眞美術館は米軍普天間基地に食い込むように立ち、建物の3方向をフェンスに囲まれている。佐喜眞さんは祖母から引き継いだ約1800平方メートルの土地を米軍から取り戻し、94年に美術館を開館した。だが、土地の返還交渉は容易なことではなかった。那覇防衛施設局(現・沖縄防衛局)に3年以上通い詰めても「佐喜眞さんの返還要請は米軍に伝えてあるが、返還を渋っている」などと同じ言葉をくり返すばかりだった。 「そのうち諦めるだろうと門前払い同然でした。続いて、宜野湾市に協力をお願いしたところ企画部長の比嘉盛光さん(後の宜野湾市長)が普天間基地の司令官と直接交渉してくれたのです。米軍の窓口は不動産管理部長のポール・ギノザさんという沖縄移民でした。私が美術館をつくりたい旨を説明すると、ポールさんは『ミュージアムができたら宜野湾市はよくなるね。問題ないよ』と言うので驚きました。私は3年以上も防衛施設局と交渉したけれど埒(らち)が明かなかったと話したら、ポールさんは『あんなものに話をしても、この問題は解決しませんよ』と言うんです。彼らからすれば、日本政府は『あんなもの』なんですよ」  米軍普天間基地の現状は、基地負担の軽減とは逆行する形で飛来する軍用機の数が増え続けている。「復帰50年」を迎えた22年度、沖縄防衛局の目視調査によると、普天間基地に航空機が離着陸した回数は1万5483回(うち外来機が3126回)に上り、調査を開始した17年度以降、2番目の多さとなった。騒音被害は増加し、航空機の部品落下事故も相次いでいる。04年に宜野湾市の沖縄国際大学の構内に米軍ヘリが墜落したが、同じ事態がいつ起きてもおかしくない状況だ。何と佐喜眞さんは事故が起きることも想定し、美術館を建てていた。 「ヘリが落ちてくるかもしれないから、私は墜落事故が起きても美術館は壊れないような建物にしてほしいと、設計者にお願いしたんです。この美術館は橋をつくるような鉄骨が入っているから、ヘリは壊れても美術館は平然としているそうです」 (ジャーナリスト・亀井洋志) 沖縄国際大学(沖縄県宜野湾市)の構内に米軍ヘリが墜落した現場(2004年) ※AERA オンライン限定記事  
結婚しない人が抱える“二つの孤立” 近代社会で未婚者が生きにくくなった理由とは
結婚しない人が抱える“二つの孤立” 近代社会で未婚者が生きにくくなった理由とは ※写真はイメージです(Getty Images)    戦後の近代社会になり、変化した日本人の結婚観。現在では、結婚できない人も増えた。中央大学教授で家族社会学者の山田昌弘氏は、未婚者にとって日本社会は生きづらいところもあるいう。山田氏の著書『結婚不要社会』(朝日新書)から一部を抜粋、再編集し紹介する。 *  *  * 近代的結婚の「経済的」特徴  近代社会の最大の特徴は、「個人化」と言うことができます。いわゆる伝統的規範が緩んで、社会的生活が個人の選択にゆだねられる部分が増えるのが近代社会の特徴なのです。  念のため断っておきますが、ここで言う個人化というのは、個人のわがままという意味ではありません。そうではなく、「個人にとって選択肢ができた」という意味です。つまり近代社会になって、どういう人と結婚するかという結婚相手に関する選択肢が生まれたし、結婚しないという選択肢も出てきたのです。  では、個人化によって社会はどのように変わるのでしょうか。  結婚にかかわる変化では、大きな二つの点にまとめることができます。  まず社会経済的に言えば、近代社会では、将来にわたる生活が自動的に保証されない社会が出現します。  前近代社会の男性(特に長男)は、親の仕事を継ぐ選択しかありません。逆に言えばこれは、仕事が生涯において保証されていたということでもあります。女性は、自分の父親と似たような仕事のイエに結婚して入るので、自分の母親と似たような生活をしながら一生を送るというのが前近代社会でした。 【こちらもおすすめ!】 『結婚不要社会』の記事をまとめて読む。  一方、近代社会になって職業選択の自由化が生じるわけですが、これは自分で仕事を見つけないと仕事がないという社会です。つまり、生活をするためには自分で仕事を見つけなければならない社会になったのです。  前近代社会の結婚は、イエとイエの結びつきであり、あくまでもイエのためのものでした。農家や商店など、いわゆる家業が経済基盤である社会では、「後継ぎ」によってその基盤を次の世代に受け渡さなければなりません。だから結婚が必須だったわけです。要するに前近代社会では、イエの農地やイエの店舗が生活を保証するものだったということです。  近代社会では、そうした伝統的家業が衰退して企業社会が一般化し、多くの人が「被雇用者」として働きます。それは、「職業選択の自由」が生まれたということなのですが、要は、親の仕事を継ぐ必要がなくなる代わりに、自分で仕事を見つけなければならなくなったということです。それはつまり、近代社会は「生活が自動的に保証されない社会」であるということを示しているわけです。 近代的結婚の「心理的」特徴  次に確認したいのは、心理的な面です。  心理面で言えば、「近代は、アイデンティティを自動的に保証しない社会である」、ということです。  前近代社会には、生涯にわたって自分の「居場所」がありました。あったというより、縛られていたと表現したほうがいいかもしれません。居場所がある前近代社会では、自分が何者であるかという問いは意味がなく、自分の友人や知人が比較的自然に与えられます。  それが近代になると、「人生の意味」を自分で見つけなければいけない社会になります。人間関係的に言えば、自分を承認してくれる相手を独自の力で見つけなければいけなくなり、孤立するリスクも引き受けなければいけない社会になったのです。  こうした生活上の不安や心理的な不安、人間関係の不安を解決する手段として、「近代家族」というものが出現したわけです。 【こちらもおすすめ!】 『結婚不要社会』の記事をまとめて読む。  以下、詳しく説明していきましょう。  前近代社会では伝統的宗教やコミュニティなどが、自分の将来にわたる存在意義や人生の意味、つまりアイデンティティを保証していたのですが、近代社会では宗教やコミュニティが衰退することによって、アイデンティティが自動的には保証されない社会になったのです。  少し難しく言うと、キルケゴールやサルトルなどの実存主義哲学者が言う「存在論的不安」「実存的不安」──「はたして自分はこれでいいのか」とか「自分は一人ぼっちじゃないのか」といった不安──があらわれて、それを自分で解消しなければいけない時代になったわけです。  そうした存在論的不安というものを解消するために、近代社会では自分を承認してくれる相手──自分がここにいてもいいと思えるような存在──を自分で見つける必要がある社会が出現しました。  自分の存在を承認してくれるというのは、「親密性」の根底にあるものです。つまり近代社会の人間関係は、前近代社会のように伝統的に与えられた人間関係ではなくて、自分で人間関係を選んだり選ばれたりするようになったということ。要するに近代社会では、自分が親密な相手として選ばれないリスクが出現してきたというわけです。  ちなみに今日の日本には、創価学会や立正佼成会のような比較的新しくできた宗教的組織があって、そこにアイデンティティを見出している人たちが少なからずいますし、経済的な相互扶助が見られる教団もあります。たとえば、大きな教団だと奨学金などもあるし、「子どもに仕事がなくて困っている」と相談すると、就職の口利きをしてくれるということがあるのです。  もちろん、そうした宗教的共同体で生きている人は伝統的宗教を含めても日本の人口の数パーセントに過ぎないでしょう。  じつは社会が成長しているときは、宗教的共同体に限らず、自分が所属しているコミュニティの外に出て生きたほうが「得」です。コミュニティの内部にいて仲間と支援し合うよりも、それぞれが個別に豊かになっていくほうが経済的には得なのです。  親族集団でも、親族が貧しいからといってサポートし続けていたら、いつまでたっても自分は豊かになれません。親族集団から離れて自分一人が豊かになろうとしたほうがやはり貯えは増えるでしょう。  他の人が自分を助けてくれるということは、自分も他の人を助けなければいけないという表裏の関係にあるわけです。そして、成長社会のもとでは「自分の家族だけを心配していればいい」という社会のほうが、能力のある人にとっては得です。ゆえに近代社会では、宗教集団や親族集団が徐々に機能しなくなってきたわけです。近代社会の特徴である「個人化」とは、要するにそういうことなのです。  高度経済成長期の日本は、地域社会や親族集団に頼らなくなった社会であり、かつ97%の人が結婚できる社会でした。その意味でも高度成長というのは、いわば「いいとこ取り」ができる特別な時期でした。そして、あえて乱暴に言えば、そこで落ちこぼれた人たちがあやしげな新興宗教に走り、やがてオウム真理教にまで行きついてしまったのでしょう。 【こちらもおすすめ!】 『結婚不要社会』の記事をまとめて読む。 近代的結婚の成立要素  本論に戻ります。近代化が結婚にもたらすものは、要するに「個人の選択」です。  歴史社会学者のエドワード・ショーターが『近代家族の形成』で描いた19世紀のイギリスやフランスのように、配偶者選択が親の統制から離れて、徐々に個人の選択にゆだねられる傾向が強まりました。これはアメリカでも起きた現象ですが、アメリカは建国当初から自由を原則とする近代社会のような形態だったので、その変化はイギリスやフランスに比べてかなり急速でした。 「個人の選択」をもたらした大きな要因は、産業革命です。それによって親の資本を継承する社会でなくなったことが、結婚に個人化という決定的な変化をもたらしたというわけです。つまり、個人が配偶者を選んで近代家族をつくるようになる条件には、男性が親の家業を継ぐのではなく、男性がイエの外で働くことが可能になるという「仕事の個人化」が含まれているのです。  家業を継ぐということは、つまり資本を継ぐということです。自営業の後継者には、親に逆らって結婚する自由が制限されるのはごく当然のことでしょう。もちろん前近代社会でも、勝手に好きな相手と結婚してイエの外に飛び出すということがありました。近代初期の小説などにそれらがモデルとして描かれているのはよく知られていることです。  人間社会がすべてにおいて一挙に変わることはありません。しかしながら、産業革命によって急増した被雇用者の若者を中心に、結婚によって新しい家族を形成して親から独立して生活をするという傾向がどんどん強まっていきます。自分で配偶者を見つけなければ生涯独りで生きなければならず、生活にもそれなりの困難が生じるのですから当然の変化でした。  これが近代的結婚の一つのかたちです。ですから、「男性が独力で生活費を稼ぐ社会にならなければ、近代的結婚は成り立たない」という言い方もできるわけです。  こうして結婚が個人の選択になると、理念的には、若者は結婚によって新しい家族を形成して、親から独立して生活することを求められるようになります。それは今日では当たり前のことでしょうが、昔は当たり前ではありませんでした。  先にも述べた通り、前近代社会では、夫婦は代々の家業の後継ぎと後継ぎの妻であることが求められたのです。それが近代社会になると、イエの外に出た核家族が「生活共同と親密性の単位」になるわけです。 「生活共同と親密性の単位」とは、夫婦が経済的に独立した単位であると同時に、存在論的不安解消のためのアイデンティティの源泉となることを意味しています。  つまり近代社会では、親から独立して夫婦が生活を営むようになると同時に、そこで築く核家族が「生きがい」になるのです。家族をつくって親密な生活を送ること、そして、子どもをつくって育てることが人々の生きがいとなります。家族がいればさびしくないし、家族生活を営むことが生きがいになるというわけです。  こうして結婚というものが、単に性的に好きな相手と「つがい」になるということだけではなくて、共同生活の相手と親密な相手を得ること、そういう家族を形成するための重要なイベントになるわけです。  つまり近代社会における結婚は、夫婦という単に社会的な単位を形成するだけのものではなく、子どもの養育も含めた共同生活の相手であり、親密な相手、つまりは自分を承認してくれる相手を得るという人生の決定的なイベントになります。  逆に言えば、近代社会において結婚しないということは、経済的な孤立プラス心理的な孤立という、深刻な二つの孤立を同時にもたらすことになるのです。  前近代社会は、結婚しなくてもイエや宗教、コミュニティなどで、経済的な安定と心理的な保証を得る場がありました。独身であってもイエのきょうだいが面倒を見たり、お寺や修道院などに入ることもできました。しかし、近代社会は結婚しないと非常に困る社会になりました。つまり、結婚しない人が生きにくい社会が近代社会でもあったのです。 ●山田昌弘(やまだ・まさひろ)/1957年、東京生まれ。1981年、東京大学文学部卒。1986年、東京大学大学院社会学研究科博士課程単位取得退学。現在、中央大学文学部教授。専門は家族社会学。学卒後も両親宅に同居し独身生活を続ける若者を「パラサイト・シングル」と呼び、「格差社会」という言葉を世に浸透させたことでも知られる。「婚活」という言葉を世に出し、婚活ブームの火付け役ともなった。主な著書に、『近代家族のゆくえ』『家族のリストラクチュアリング』(ともに新曜社)、『パラサイト・シングルの時代』『希望格差社会』(ともに筑摩書房)、『新平等社会』『ここがおかしい日本の社会保障』(ともに文藝春秋)、『迷走する家族』(有斐閣)、『家族ペット』(文春文庫)、『少子社会日本』(岩波書店)、『日本はなぜ少子化対策に失敗したか』(光文社)『「家族」難民』『底辺への競争』『新型格差社会』(朝日新聞出版)などがある。  
徳川秀忠の養育にあたった「大姥局」の存在 今明かされる、今川家の存在感
徳川秀忠の養育にあたった「大姥局」の存在 今明かされる、今川家の存在感 徳川秀忠が生まれた浜松城    これまで徳川家康は今川家に対して否定的と考えられてきたが、認識をあらためるべきと説くのは、歴史学者・黒田基樹氏だ。家康と武田信玄による侵攻を受けて領国を失い、戦国大名としては没落した今川氏真。かつての主従の立場は逆転するものの、二人は和睦を結び再び交流を続けていた。さらに驚くべきは、今川氏真の妹・貞春尼が、徳川秀忠の女性家老(「上臈」)にして後見役だったという新事実である。貞春尼は徳川家の家政の運営において、極めて重要な立場にあったという。新著『徳川家康と今川氏真』から一部抜粋、再編集し、紹介する。 *  *  *  また貞春尼の存在に関連して、秀忠の養育に大きな役割を果たし、晩年まで秀忠に大きな影響力を持っていたとみられている、乳母の「大姥局」について触れておきたい。「大姥局」は、今川家旧臣の岡部与惣兵衛尉貞綱の妹で、同じく今川家旧臣という河村善右衛門(重忠とされる)の妻であったという。夫の河村重忠は、氏真の駿河没落以前に死去していて、彼女はその後、氏真に仕える女房衆になったとみられ、氏真の小田原居住にも同行していたという。そして家康が幼少時から認知していたため、秀忠の乳母に召し出されたという(「柳営婦女伝系」『徳川諸家系譜第一』一五四頁・「玉輿記」『史料徳川夫人伝』三四八頁)。  ただし「岡部与惣兵衛尉貞綱」という人物は当時の史料で確認できない。文亀二年(一五〇二)生まれで、永禄九年(一五六六)に六五歳で死去したとされる(「柳営婦女伝系」)。しかしそれでは「大姥局」より二三歳も年長になる。あるいは「大姥局」は、正しくは貞綱の娘であったかもしれない。また夫の河村重忠についても当時の史料では確認されない。なお「大姥局」には、弟に長綱があったとされるが、天文十六年(一五四七)生まれとされている。「大姥局」より二二歳も年少になる。これらからすると、それらの系譜関係には検討の余地があるように思う。 【こちらもおすすめ!】 『徳川家康と今川氏真』の記事をまとめて読む。 「大姥局」については、福田千鶴氏によるまとめがあるので(『徳川秀忠』)、それをもとに概略をみておきたい。大永五年(一五二五)生まれで、幼名は「かな」といったという。秀忠誕生時には、五五歳であったことになる。家康が幼少より認知していたというのは、家康が駿府に居住していた時期は、二五歳から三六歳にあたるので、その時に認知していた、というのはありうることではある。「大姥局」としては、天正十八年(一五九〇)から慶長十三年(一六〇八)までの動向が知られていて、また秀忠妾の静(四男保科正之生母)は、「大姥局」の部屋子であったという。慶長十八年正月二十六日に、江戸において八九歳で死去したという。法号を正真院といった。 「大姥局」は、氏真の小田原居住にも同行していたというから、夫の死後は氏真に仕えるようになり、浜松移住にも同行したとみなされよう。そして家康から、秀忠の乳母に付けられたという。ただし乳母といっても、その時に五五歳であったから、乳を与えるのではなく、養育を担う役割としての「乳母」とみなされよう。しかも「柳営婦女伝系」「玉輿記」ともに、「御乳附けとして相勤め、御介抱仰せ付けらる、大姥と呼ぶ」と記している。ここに「御介抱」とあるのが重要で、貞春尼と同じく、後見役を担ったことを意味しているととらえられる。  そうすると「大姥局」は、貞春尼とともに秀忠の養育にあたった存在になる。年齢は「大姥局」のほうが、貞春尼よりも一七歳ほども上であった。しかし身分は、貞春尼が上臈として上位に位置していた。両者は、氏真の駿河没落以降、行動をともにしていた存在になる。そうすると「大姥局」が乳母になったのは、貞春尼の取り立てによると考えたほうが妥当と思われる。もちろん家康も旧知の存在であったため、それを了承したと考えられるであろう。こうしたことからすると、貞春尼は、他にも多くの今川家ゆかりの女性を、徳川家の奥向きの女性家臣として取り立てていたと推測できるように思う。徳川家の奥向きにおいて、貞春尼が担った役割は大きなものがあったとみて間違いなかろう。 ●黒田基樹(くろだ・もとき)/1965年東京都生まれ。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。博士(日本史学)。専門は日本中世史。駿河台大学教授。著書に『お市の方の生涯』『徳川家康の最新研究』(ともに朝日新書)、『百姓から見た戦国大名』(ちくま新書)、『戦国大名』『戦国北条家の判子行政』『国衆』『家康の正妻 築山殿』(ともに平凡社新書)、『関東戦国史』(角川ソフィア文庫)、『羽柴家崩壊』『今川のおんな家長 寿桂尼』(ともに平凡社)、『戦国大名・伊勢宗瑞』『戦国大名・北条氏直』(ともに角川選書)、『下剋上』(講談社現代新書)、『武田信玄の妻、三条殿』(東京堂出版)など多数。
雅子さまの英語は「知的で滑らか」 愛子さまもよどみなくスピーチ 語学力が高い皇室メンバーは?
雅子さまの英語は「知的で滑らか」 愛子さまもよどみなくスピーチ 語学力が高い皇室メンバーは? ヨーロッパ3カ国訪問中、ベルギー国王の別荘シエルニョン城でアルベール国王とパオラ王妃夫妻(左端)と週末を過ごす天皇、皇后両陛下と紀宮さま(いずれも当時)=1993年9月、ベルギー    皇室として、語学の重要性を意識していたのが上皇さまだ。息子である天皇陛下の英語教育に力を注ぎ、ご自身も海外への正確な情報発信に取り組んだ。そして今、皇室のメンバーそれぞれが、外国語を駆使した活躍を見せている。 *   *   *  皇室が海外に向けて情報発信する重要性に気づき、熱心に推し進めたのが上皇さまだ。  上皇さまは、19歳のときに英国のエリザベス女王(当時)の戴冠式にあわせて海外諸国を歴訪。このときに苦労した体験などから、「浩宮には若いうちにぜひ英国での留学を」と強く望んだという。  平成の天皇に侍従として仕え、『外交官の「うな重方式」英語勉強法』の著者でもある中京大学の多賀敏行・客員教授は、こう振り返る。 「当時の天皇であった上皇さまは、天皇の外国訪問前の記者会見の内容が正しい英語に翻訳され、早く発表されることを希望されていた。逆に言えば、英語で発信しなければ、現地のメディアに取り上げられないとの現実があった」  外国訪問時や、国内で要人を迎えての晩さん会などでの天皇のスピーチは、宮内庁の式部職が外務省と協議して大筋を作成する。しかし、外国訪問前の記者会見は違ったという。 「上皇さまがご自身の言葉と表現で原稿を完成させて、長女の黒田清子さんがワープロで打ち込むこともありました」(多賀さん)  そして記者会見が終わると同時に、外務省出身の多賀さんはアイルランド人の御用掛と陛下の会見の翻訳作業にあたった。作業は深夜に及ぶこともあったという。   【こちらもおすすめ】 愛子さまの手にトンボがとまった瞬間、愛犬の由莉ものぞき込んだ 静養先の天皇ご一家 https://dot.asahi.com/articles/-/199535   ベアトリックス女王(左)とアレキサンダー皇太子(右)ご一家の案内で王室馬車庫を見学する皇太子(当時)ご一家=2006年8月、オランダ、代表撮影    翻訳作業は任せていても、上皇さま自身の語学力は相当に高いものだった。英語はもちろん、昭和の時代に上皇ご夫妻は東大教授の故・前田陽一氏のもとで仏語も磨いていた。  多賀さんが、外国の賓客の通訳を務めたことがあった。多賀さんが日本語に訳し終えると、上皇さまはご自身で英語を聞き取っている様子だった。そこで、詳細な通訳は必要ないだろうと判断して次は簡単に訳したところ、上皇さまから、 「(日本語訳が)簡単すぎる。きちんと訳してください」   と「クレーム」がついたという。 「やはり、ほぼ完璧に聞き取っておられるのだと確信しました」  多賀さんは、上皇さまとの思い出を懐かしむように笑った。   教育パパ、ママだった上皇ご夫妻  ほかの皇室メンバーも、英語に堪能な方ばかりだ。 「格調が高い英国英語であるQueen's English(クイーンズイングリッシュ)をお使いになる方」と多賀さんが話すのが、上皇后美智子さまだ。  美智子さまが皇太子妃時代から、詩や和歌の英訳や、英語での朗読を続けていたのは有名な話だ。美しい日本語で知られる詩人、まど・みちおの作品の英訳も評価が高い。  接遇の場面などでは、海外の詩の一節などを原文で、ごく当たり前のように口にされることもあったと多賀さんは話す。   【こちらもおすすめ】 愛子さまの休日 カツ丼とお団子をペロリ 高円宮家の絢子様とバッタリ鉢合わせ https://dot.asahi.com/articles/-/199226    秋篠宮さまは、長年の親交があるジャーナリストの江森敬治さんに、英語は両親から教わったと話している。  上皇さまは秋篠宮さまに、英語は母音と子音を組み合わせて発音することを教えた。秋篠宮さまは英語の発音を聞いて、英語のスペルを書く練習をしたという。美智子さまの発音もとてもきれいで、秋篠宮さまは江森さんに「英単語は小さなころから読めました」と話していたそうだ。  1975年にエリザベス女王が来日した際には、6歳の清子さんが恥ずかしがることなく庭に咲いていた花を女王に贈り、秋篠宮さまも女王と会話をしている。    天皇陛下や雅子さまも、長女の愛子さまの外国語教育に熱心だ。  天皇陛下は英語のほかに仏語やスペイン語も学んでいるが、「愛子には、英語より先にスペイン語に触れさせたい」と、陛下のスペイン語教師を6歳の愛子さまにつけて、スペイン語のレッスンをスタートさせた。  また、学習院初等科の4年生のときから英語の授業があったが、愛子さまは夏休みなどに学習院女子大学でのイングリッシュ・セミナーに参加。とある体験施設で、よどみない英語でのスピーチを披露したこともあったという。    秋篠宮妃の紀子さまも、動物の生態を描いた「ちきゅうのなかまたち」という外国の絵本のシリーズの翻訳を2007年から手がけている。式典では英語でのスピーチもさらりとこなす。  紀子さまは手話にも精通しており、日本語のほかに英語、インドネシア語の手話もマスターしているという。長女の小室眞子さんと次女の佳子さまも、英語教育に定評のある国際基督教大学(ICU)で学び、それぞれ英国留学を経験。佳子さまは2月、世界各地の青年と交流するイベントでも、参加者と英語で懇談する姿を見せた。   【こちらもおすすめ】 すっかり「パパ」と「ママ」の陛下と雅子さま 運動会で望遠レンズの先には成長した愛子さま https://dot.asahi.com/articles/-/198782   IOC総会で、東京の最終プレゼンテーションの壇上で話す高円宮妃久子さま=2013年9月、アルゼンチン・ブエノスアイレス   外務省から評価の高いおふたり  多賀さんによれば、外務省関係者の間で英語の評価が抜群に高いのは、雅子さまと高円宮妃の久子さまなのだという。  雅子さまは米国での暮らしが長く、外務省時代には英オックスフォード大学への留学経験もある。1991年に米ベーカー国務長官が来日した際は、外務省北米2課に所属していた雅子さまが通訳を務めた。英語での基調講演を聞く際に、同時通訳は必要ないという。 「雅子さまの英語はさすがといいますか、知的で発音が滑らか。きれいな英語です。英語での接遇場面がほとんど公表されないのが、もったいないと感じます」(多賀さん)    久子さまの高い語学力が広く認識されたのが、2013年にアルゼンチン・ブエノスアイレスで開催された国際オリンピック委員会(IOC)の総会の場だった。  久子さまは流暢な仏語と英語で東京の魅力を発信し、東京への五輪招致を強力に後押しした。皇族が招致活動にかかわることに宮内庁は苦言を呈したものの、その確かな語学力が絶賛された。  久子さまは英国の高校を経て、ケンブリッジ大学ガートン・コレッジを卒業。英語の著書も出している。3人の娘たちに聞かせていた話をまとめ、自身が英文で書き下ろした『夢の国のちびっこバク』は、絵本界の巨匠ブライアン・ワイルドスミスの絵で1996年に英国で出版、続けて日本語版も発売された。98年には『氷山ルリの大航海』を日本語版、英語版で同時出版している。    いずれも高い語学力を誇る、皇室の方々。多賀さんは言う。 「これほど高いレベルの外国語の能力を保持する『組織』は、皇室以外にはないと昔から言われていました。皆さま、素晴らしい語学力をお持ちなのですから、もっと積極的に公表していただきたい」 (AERA dot.編集部・永井貴子)
「木原事件」の本丸は木原氏ではない 捜査中止にはより高いレベルで政治的な指示があったはず 古賀茂明
「木原事件」の本丸は木原氏ではない 捜査中止にはより高いレベルで政治的な指示があったはず 古賀茂明 古賀茂明氏    木原誠二官房副長官の刑事事件捜査介入疑惑に関する大手メディアの報道に大きな違和感を持つのは私だけだろうか。  この疑惑は、「週刊文春」7月13日号が独占スクープした。木原氏の妻が元夫の不審死事件に関して重要参考人として事情聴取や家宅捜索を受けていたことや木原氏が捜査に介入した疑いがあることを報じたものだ。  当初は大手メディアの全社が完全無視した。  文春は、捜査を担当し木原夫人を直接取り調べた元警察官の「事件性あり」とする詳しい証言を続報したが、警視庁が「本件は事件性がない」とし、警察庁長官もこれを追認する発言をして火消しに回った。文春は、元警察官の記者会見まで行って追い打ちをかけたが、警察はもちろんのこと、大手メディアは一貫して本件を大きく取り上げない姿勢を貫いている。  2006年のこの「殺人」事件については、当初、木原夫人の元夫の自殺とされたが、18年になって警視庁内で疑わしい点があるということで本格的な再捜査が始まった。しかし、その8カ月後に突然捜査が終了させられたというのだ。その際、木原氏が政治家として影響力を行使したのではないかというのが文春の見立てである。  木原氏の妻が木原氏と結婚する前に重要参考人として警察の取り調べを受けていたこと自体は、木原氏の落ち度ではない。しかし、結婚後の18年に、事件のことを知って、警察に対して何らかの政治的圧力をかけていたという文春の報道が真実なら大問題だ。岸田文雄首相の最側近で、日本の政治の舵取りに大きな影響を与える立場にある木原氏にそうした過去があるということになれば、違法行為でなくても、岸田政権の信頼性に直接打撃を与えるのは必至である。 【あわせて読みたい】 ■台湾有事を起こすのは平和主義を捨てた日本だ 麻生氏「戦う覚悟」発言にみえる大きな勘違い 古賀茂明 ■秋本議員の汚職事件は自民特有の利権争奪戦の一コマ ただのスキャンダルで終わらせるな 古賀茂明 木原官房副長官    もちろん、本件を報道すれば国民も大きな関心を持つはずだ。報道機関なら追加取材をして、文春報道の真偽を確認し、また木原氏はもちろん岸田首相や谷公一国家公安委員長などの政府の責任者に厳しく説明を求めるべきである。  しかし、依然として、新聞やテレビの腰は不思議なほど重い。  そこで今回はまず、この事件についてなぜこれほど報道がなされないのかということについて考えてみたい。  メディアの側から見ると、報道を抑制する二つの要素がある。  その第一が警察との関係だ。これは主に社会部の問題になる。そこには報道を止める四つの事情がある。 警察は、「本件には事件性がない」と公に宣言し、警察の記者クラブの記者にも非常に強く伝えている。それなのに、無理して取材したり、大きな記事にすると、警察の機嫌を損ね、他の案件で取材がしにくくなる。最悪の場合は、自社だけが重要な情報を教えてもらえず、いわゆる「特落ち」するリスクもある。それを恐れて記者もデスクも無理をしたがらない。 警察が動かない以上、深追いしても結局は立件されずニュースにできない可能性が高い。時間の無駄だ。それなら、最初からやめて他のことをやろうという心理が働く。 大手メディア、特に新聞社は経済的に苦しく、取材費がない。また優秀な記者の退社も相次ぎ、人手も足りない。取材する十分なリソースがないのだ。無駄に終わるかもしれない取材に人も金も注ぎ込むわけにはいかないということになる。 警察が動かず立件もされないのに、木原氏やその関係者を追及する記事を書くと、名誉毀損などで訴訟沙汰になり敗訴のリスクがあるので、無理はしないという判断になる。  二つ目の要素は、政治との関係だ。そこには二つの事情がある。 木原氏は閣僚ではないが、岸田氏最側近である。木原氏を攻撃すれば、それは岸田首相を攻撃するのと同じ。そこで、岸田忖度で報道を控える可能性がある。ただし、安倍政権や菅義偉政権の時に比べれば、その影響は小さくなっているように見える。 木原氏は官邸のキーパーソンであり、政治部は、彼から情報をもらえなくなると困る。そこで、社会部に対して、本件を報道しないで欲しいと要請ないし圧力をかける。社会部もそれに影響される。  以上が報道が少ないことへの私なりの解釈だが、本件については、もう一つ不思議に思うことがある。それは、文春が報じる「木原氏本人の政治介入の結果として、捜査が突然中止になった」というストーリーの不自然さだ。  木原氏は、18年の再捜査当時、筆頭の政調副会長ではあったが、大臣でもなく、それほど大きな力を持ってはいなかった。もちろん、政治家の妻を取り調べるとなれば、警察もハードルは高いとわかっていたはずだが、それでも警察上層部はゴーサインを出した。木原氏が抵抗したり、脅しをかけてくることくらい百も承知で、それでもやると決めた案件だ。それなのに、木原氏の脅しだけで突然捜査中止となるだろうか。文春によれば、木原氏が妻に車内で「俺が手を回しておいたから心配するな」と話していたことがドライブレコーダーに残っていたそうだ。「手を回した」の具体的意味は不明だが、木原氏が警察幹部に圧力をかけたとしても、それで警察が諦めると考えるのには前述のとおり無理がある。木原氏よりも高い政治的レベルの指示で捜査にストップがかかったと見るのが自然だろう。  ところで、18年と言えば、まだ安倍晋三政権、菅義偉官房長官の時代だ。そして類似案件として思い出すのが、伊藤詩織さんレイプ事件である。その容疑者として、元TBSの記者で安倍元首相と非常に近い関係にあった山口敬之氏に逮捕状が執行されようとした時に、菅氏の元秘書官でのちに警察庁長官になった中村格氏がその当時の警視庁刑事部長としてその執行を止めた(本人が週刊新潮の取材に対してその事実を認めている)という前代未聞の事件である。  山口氏と安倍氏が非常に近い関係にあったので、安倍氏または菅氏などの政権中枢からの指示または忖度で逮捕状執行が止められたという疑惑が取り沙汰されたが、この時もやはり、大手メディアの社会部は完全に沈黙した。  木原事件の捜査再開は詩織さん事件の後であるが、当時の警察庁官房長が詩織さん事件の逮捕状執行を止めた中村格氏だった。官房長なら、立場上、警察に関する重要情報は全て入る。中村氏を通じて菅氏にも木原夫人に捜査の手が伸びていることは伝えられていたのではないか。  菅氏は無派閥で木原氏は岸田派。あまり関係なさそうだが、木原氏は爺殺しと言われるほど時の権力者に取り入るのがうまかったという。菅氏は、創価学会対策などで木原氏を重用し、可愛がっていたとも報じられている。従って、菅氏やその周辺の影響力が捜査中止に繋がったという見立ても、詩織さん事件からの類推として、あながち見当ハズレとは言えないように私には思えてくる。  そして、もう一つ不思議だと思うことがある。  誰が、文春に情報提供をしているのかということだ。元警察官の証言は、取材の過程で浮上したものらしい。元々は警察からの内部告発ということなのかもしれないが、報道の趣旨が、とにかく木原氏極悪人説で固まっていることが不思議である。途中では、本筋とは関係のない違法風俗通いまで報道された。最側近の木原氏を叩けば、岸田氏は軽々に切るわけにはいかず守ろうとするだろうという読みの下に、木原集中砲火を続けているようにも見える。  現に岸田氏は木原氏を守る姿勢を貫いている。その結果、木原氏の評判が落ちれば、岸田政権の支持率が下がるという方程式が成立した。  それを喜ぶのは岸田氏追い落としを狙う勢力である。  ここでも私の頭には菅氏の名前が浮かぶ。菅氏は岸田氏の政敵。最近はあからさまに岸田批判を展開している。前述のとおり、菅氏は官房長官として当時の全ての情報に接していたと見るのが妥当だ。当時は木原氏を守ったが、今は政敵の懐刀となっているから守る義理はない。  しかし、菅氏が自分でそこまでやるとも考えにくい。菅氏の総理再登板を願う安倍・菅政権の残党が動いている可能性の方が高いかもしれない……  などと思いを巡らせていると、文春の8月31日号(8月23日発売)に驚くような記事が出た。それは、岸田政権で木原氏と並び官房副長官を務める元警察庁長官の栗生俊一氏が、露木康浩警察庁長官に「どうにかしてやれよ」と発破をかけ、それを受けて露木氏が「火消しをしろ」(木原事件を事件性なしでうまく収めろという趣旨)と重松弘教警視庁刑事部長に命じたというスクープだ。これが事実なら、この事件は、木原氏の過去における捜査への政治介入疑惑から、現政権による警察捜査への直接の政治介入というはるかに深刻な疑惑に「格上げ」となる。  これほどの機密情報がいとも簡単に漏れるのはなぜか。文春報道の裏には、OBも含めて警察官僚組織の中でかなりの権力を持つ者がいると見た方が良いだろう。そして、栗生氏と安倍・菅政権の最有力官僚の一人であった元警察幹部官僚の北村滋元内閣情報官とは対立関係にあるとの報道もある。  やはり、今回の騒動の裏には、岸田政権と対立する政治勢力の動きがあるとしか私には思えない。それは、18年の捜査ストップの真相については情報を流さず、闇の中に閉じ込めておきたい勢力でもあるということだ。  ここまで長々と書いたが、結局核心部分の答えは不明のままだ。  ただ、はっきり言えるのは、木原事件は、「木原事件」で終わらせるのではなく、もっと深い闇から漏れ出してきた真相に導く端緒として扱わなければならないということである。  隠れた真の悪人は誰かを暴くのがメディアの責任だが、それを大手メディアの記者たちに期待するのはしょせん無理なことなのだろうか。 【古賀茂明 政官財の罪と罰の記事一覧はこちら】
ローソン社長・竹増貞信「ハワイでのFC再契約記念ツアーに650人 オーナーさんとの絆を確認」
ローソン社長・竹増貞信「ハワイでのFC再契約記念ツアーに650人 オーナーさんとの絆を確認」 竹増貞信/2014年にローソン副社長に就任。16年6月から代表取締役社長   「コンビニ百里の道をゆく」は、54歳のローソン社長、竹増貞信さんの連載です。経営者のあり方やコンビニの今後について模索する日々をつづります。 *  *  *  ハワイ・マウイ島の山火事にて被災された方々に、心よりお見舞い申し上げます。  ローソンでは1991年からハワイで「FC(フランチャイズ)再契約記念ツアー」を実施しており、ハワイは特別な場所です。FCの契約期間(10年以上)を満了し、新たに5年または10年、再契約されたオーナーご夫妻を中心にご招待しています。毎年6月と11月に実施していましたが、コロナの制限が解除され、この6月、4年ぶりの開催となりました。  3泊5日の旅で、改めてオーナーの皆さんと本部の絆を確認するローソンにとってとても大事なイベントです。  以前は参加対象者の7割ほどの出席率。今回は9割近く、約650人の方が来てくださいました。皆さん心待ちにしていたんだなと実感しました。サンセットディナークルーズでは、私はホテルから皆さんを乗せたバスを船着き場でお出迎え。各回約100人ずつで、私は計6回乗船しました(笑)。  コロナの間は大変だったけどローソンのお店をやってきてよかった。そんな言葉を聞くと本当にうれしくなりました。遠く離れたハワイでは皆さん本音で、日頃は言えないこともお話しされるなど、ツアーの良さを再確認しました。 ハワイで行われた「FC(フランチャイズ)再契約記念ツアー」の様子   「おやじとお袋からオーナーを引き継ぎました。これからの10年は2代目として頑張ります」とか、30年契約されている方がお孫さんを連れてこられたり、オーナーさんのご家族として一緒に104歳の女性もいらっしゃったり、楽しい時間を過ごしました。  ローソンももうすぐ50周年。次の50年も皆さんと力を合わせて作り上げて、100周年も皆さんとまたこの船の上でお会いしたい。そんな話もしました。そのとき私は105歳くらい。オーナーさんたちと共にバトンをしっかりつないでお客様に愛されるローソンを創り続けたい、そんな思いを強くした旅でした。 竹増貞信(たけます・さだのぶ)/1969年、大阪府生まれ。大阪大学経済学部卒業後、三菱商事に入社。2014年にローソン副社長に就任。16年6月から代表取締役社長 ※AERA 2023年9月4日号
徳川秀忠の養育係抜てきの貞春尼は「家康が今川家の存在を頼りにしていた証」だった
徳川秀忠の養育係抜てきの貞春尼は「家康が今川家の存在を頼りにしていた証」だった 今川氏真像。国文学研究資料館所蔵  徳川家康が少年期に今川家で「人質」として過ごし、酷い仕打ちを受けたかのような言説のため、今川氏真との抗争に勝利した後、今川家との関わりはなかったかのように誤解されている。しかし「家康の人生において、今川氏真・貞春尼きょうだいの与えた影響は大きかった」と歴史学者・黒田基樹氏は説く。今回、氏真の妹・貞春尼が徳川秀忠の女性家老(「上臈」)にして後見役であったという、新たな事実が確認された。黒田氏の新著『徳川家康と今川氏真』(朝日新聞出版)から一部抜粋、再編集し、紹介する。 *  *  *  秀忠の「御介錯上臈」に貞春尼を任じたのは、家康と考えられる。ただしそうした奥向きにおける人事権は、正妻が管轄していたから、本来ならば正妻の築山殿がおこなうべきことであったと考えられる。秀忠の誕生はこの年・天正七年四月七日のことであった。この時にはまだ築山殿は生存していた。秀忠の母は西郷殿(西郷相、三河嵩山西郷吉勝養女か、一五六二か〜八九)で、当初は家康の女房衆にして妾であったが、のちに秀忠が家康嫡男になったことで、妻の一人になったと推定される。西郷殿が家康に女房衆として奉公することになったのは、築山殿の差配のもとでのことであろう。  しかし秀忠の出産について、築山殿が承認してのことであったかは、わからない。正妻には、妾の選定や出産の承認などの権限があったとみなされ、正妻が承認しない出産の場合は、当主の子どもとして認知されなかったのである。秀忠は浜松城で誕生しているが、築山殿がそれを承認していたのであれば、出産は岡崎でのことであったはずと考えられる。四年前の次女・督姫(母は妾・西郡の方、一五七五〜一六一五)の場合は、わざわざ岡崎で出産したとみなされることからすると、秀忠の誕生は、築山殿の承認をうることなく、家康の独断によった可能性が高いと思われる(拙著『家康の正妻 築山殿』)。 【こちらもおすすめ!】 『徳川家康と今川氏真』の記事をまとめて読む。 徳川家康像。東京大学史料編纂所所蔵    この時、家康と築山殿・信康との関係はすでに悪化していた。それは前年の天正六年からみられていた。それが「築山殿・信康謀叛事件」として、この年天正七年八月に、家康が信康を追放・幽閉し、最後は自害させ、築山殿を幽閉し、最後は築山殿自ら自害するにいたる。事件の詳細をここで記すことは省略し、詳しくは拙著『家康の正妻 築山殿』を参照いただきたい。したがって秀忠誕生時には、家康と築山殿の関係は悪化していたと考えられるので、家康が秀忠誕生に関して築山殿に承認を求めることはなかったと思われる。そうであれば家康は、秀忠の誕生を独断で認め、それにともなってその上臈の人選も、家康がおこなったと考えられるであろう。  家康が秀忠の上臈に、貞春尼を選んだのは、彼女が名門戦国大名家の今川家の出身であったからに違いない。家康は、遠江・三河二ヶ国の戦国大名として存在するようになったものの、所詮は国衆からの成り上がりにすぎなかった。そのため徳川家を戦国大名家として確立させるには、それに相応しい文化・教養の獲得が必要であった。それを修得するのに、今川家は恰好の存在であったに違いない。しかも氏真とその家族は、現に家康のもとに存在していたのであった。家康がこれを活用しない手はなかったであろう。  しかも秀忠の誕生は、築山殿・信康との関係が悪化していて、信康処罰も検討されていたなかでのことであったろう。家康は秀忠誕生をうけて、これを新たな嫡男にすることを考えたと思われる。幼名を「長丸」と付けたのも、新たな嫡男としての意味合いであったに違いない。それゆえ秀忠を、戦国大名家の後継者に相応しく養育する必要があり、そこで貞春尼を上臈に任じて後見役としたのだろうと考えられる。貞春尼はこの時、三八歳くらいであった。しかも未亡人として、氏真に厄介になっていた存在であった。秀忠の後見役に、それ以上の適任はいなかったといいうる。  こうして貞春尼は、秀忠の養育係になった。これは家康が、今川家の存在を決して忌避していたのではなかったことを示し、むしろ頼りにしていたことを示している。  なお家康と築山殿の関係悪化について、江戸時代成立の史料では、家康が今川家を裏切り、その怨敵である織田家と親しくしたことを原因とする言説がみられている。しかしこの時、今川家当主の氏真とその家族は、浜松の家康のもとにあった。江戸時代成立の史料は、このことを完全に見落としている。それらの言説が、江戸時代に作り出された創作にすぎないことは確実であろう。  また築山殿にとっても、氏真とその家族が家康のもとにいることは、家康が今川家を尊重しているものとして認識され、実家の宗家が身近に存在していたことは、心強くもあり、安心していたことであったろう。家康と築山殿の関係悪化は、決して家康による今川家に対する否定的な態度から生じたのではなかったことは確実であろう。実態は、天正三年四月頃に起きた武田家への内通事件であった「大岡弥四郎事件」に、築山殿も関与して武田家に内通したことが原因であったとみなされる。 ●黒田基樹(くろだ・もとき) 1965年東京都生まれ。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。博士(日本史学)。専門は日本中世史。駿河台大学教授。著書に『お市の方の生涯』『徳川家康の最新研究』(ともに朝日新書)、『百姓から見た戦国大名』(ちくま新書)、『戦国大名』『戦国北条家の判子行政』『国衆』『家康の正妻 築山殿』(ともに平凡社新書)、『関東戦国史』(角川ソフィア文庫)、『羽柴家崩壊』『今川のおんな家長 寿桂尼』(ともに平凡社)、『戦国大名・伊勢宗瑞』『戦国大名・北条氏直』(ともに角川選書)、『下剋上』(講談社現代新書)、『武田信玄の妻、三条殿』(東京堂出版)など多数。
かつての抗争相手の妹を徳川秀忠の「育ての親」に 家康は今川家を頼りにしていたのか
かつての抗争相手の妹を徳川秀忠の「育ての親」に 家康は今川家を頼りにしていたのか 徳川家康像。東京大学史料編纂所所蔵    一〇年近く抗争を繰り返し、三河統一後は、以前の主従関係が入れ替わった徳川家康と今川氏真。一般的に、家康は今川家に対して否定的だと考えられてきた。ところが新たに分かったのは、家康が氏真の妹・貞春尼を女性家老に任命していたという事実。二人の関係性について、これまでの認識を大きくあらためなければならない、と説くのは歴史学者・黒田基樹氏だ。黒田氏の著書『徳川家康と今川氏真』(朝日新聞出版)から一部抜粋、再編集し、紹介する。 *  *  *  天正七年(一五七九)という年は、家康にとっても、また家康と氏真の関係においても、大きな画期となった年であるといえる。  家康にとっては、第一に、新たな嫡男となる徳川秀忠(幼名長丸、一五七九〜一六三二)が生まれたこと、第二に、北条家と同盟を成立させて、武田家に協同で対抗するようになったこと、第三に、正妻・築山殿と嫡男信康の謀叛事件を解決したことである。そして家康と氏真の関係においては、新たな嫡男となった秀忠の「上臈」、すなわち女性家老に氏真の妹の貞春尼がついたこと、北条家との同盟成立において、その取次を氏真家臣の朝比奈泰勝が務め、以後の北条家との同盟においても取次を務め続けたこと、である。 【こちらもおすすめ!】 『徳川家康と今川氏真』の記事をまとめて読む。 今川氏真像。国文学研究資料館所蔵    なかでも最も大きな要素をなしたのは、秀忠の上臈として貞春尼が位置したことであろう。このことはこれまで知られていなかった新事実で、先に取り上げた「今川家瀬名家記七」所収「瀬名氏系図」によって初めて確認された。  ここに貞春尼について、「秀忠公御介錯上臈」と記されている。この内容は、これまで知られていた今川家関係の系図・軍記史料には全くみられていないことであった。「介錯」というと、切腹の際に死を助けることとして知られているが、他にも「後見、介添え」という意味がある。ここでの意味はもちろん後者である。そしてこれは、その表現から、誕生後すぐからのことと理解される。これにより貞春尼は、秀忠が誕生してすぐに、その上臈として、すなわち女性家老として、秀忠の後見役を務めたことが知られる。  貞春尼が、徳川家に女房衆(女性家臣)として奉公したことについては、すでに小林輝久彦氏(「今川氏女嶺松院について」)によって指摘されていたが、そこでは彼女の地位までは判明していなかった。しかしこの記載によって、その立場は女性家老たる「上臈」であったことがわかったのである。そして貞春尼の女房衆としての活動は、慶長十六年(一六一一)まで確認されていて、その死去は翌年のことであった。このことから貞春尼は、秀忠が誕生して以降、自身が死去するまで、上臈として秀忠を後見したのであり、それはすなわち、彼女こそが秀忠の「育ての親」にあたっていたと認識できる。 【こちらもおすすめ!】 特集『徳川家のリアル』を読む。  この事実は、その後における秀忠への教育や徳川家の奥向きの展開について、また家康・秀忠と氏真の関係を考えるうえで、極めて重要な事実といわざるをえない。徳川家の奥向きは、今川家の関係者により差配されたのであり、それゆえ、そこでみられた作法なども今川家の礼法が採用されたことは容易に推測できるであろう。また家康・秀忠と氏真の関係についても、貞春尼の存在を介して、互いに晩年まで繋がりを持っていたと認識されることになろう。これまでの言説では、家康は今川家を忌避する傾向にあったと理解するものもあったが、事実は全く異なっていたのである。家康は、新たな嫡男となる秀忠の教育と、戦国大名家として成長する徳川家の奥向きの構築を、今川家に託していたといいうるのである。 ●黒田基樹(くろだ・もとき) 1965年東京都生まれ。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。博士(日本史学)。専門は日本中世史。駿河台大学教授。著書に『お市の方の生涯』『徳川家康の最新研究』(ともに朝日新書)、『百姓から見た戦国大名』(ちくま新書)、『戦国大名』『戦国北条家の判子行政』『国衆』『家康の正妻 築山殿』(ともに平凡社新書)、『関東戦国史』(角川ソフィア文庫)、『羽柴家崩壊』『今川のおんな家長 寿桂尼』(ともに平凡社)、『戦国大名・伊勢宗瑞』『戦国大名・北条氏直』(ともに角川選書)、『下剋上』(講談社現代新書)、『武田信玄の妻、三条殿』(東京堂出版)など多数。
佳子さまの海外公式訪問が「ペルー側にとって喜ばしい」理由 小室眞子さんと経由地で会う可能性は?
佳子さまの海外公式訪問が「ペルー側にとって喜ばしい」理由 小室眞子さんと経由地で会う可能性は? 秋篠宮家の次女・佳子さま  宮内庁は18日、秋篠宮家の次女・佳子さまが、11月に南米のペルーを訪問されると発表した。佳子さまの海外公式訪問は2回目、2019年9月のオーストリア・ハンガリーに続いて4年ぶりとなる。平成になって以降、皇室メンバーのペルー訪問は4回目となるが、どうして遠いペルーに、そして佳子さまが訪問されるのか。 *          *   *  今回の訪問は、日本とペルーとの外交関係樹立150周年という節目を受けての招待という。  南米には明治以降、多くの日本人が移り住み、苦労の末に日系人社会を築き上げた歴史がある。元宮内庁職員で、皇室解説者の山下晋司さんは、 「日本を出て異国の地で暮らす人たちは、日本にいる人たちよりも、皇室に対する気持ちが強いようです。そういった環境が、節目の年に皇室の方の訪問を熱望する声を大きくしているのでしょう」  と解説する。  山下さんによると、上皇、上皇后陛下は海外で辛苦を重ねてきた日本人移民に対する思いが強いといい、さらに平成以降は1999年に黒田清子さん、2019年には佳子さまの姉である小室眞子さんが公式訪問するなど、皇室のメンバーが4回訪問している。  そして今回、佳子さまが訪問されることになった。 【こちらも話題】 佳子さま一人暮らし公表のタイミングがなぜいま? 皇室解説者が気づいた「嘘」 https://dot.asahi.com/articles/-/195540 2019年9月、オーストリア・ウイーンの王宮にある大統領府でファンダーベレン大統領(当時/写真右)と記念撮影する佳子さま 「今回、佳子内親王殿下に招請があったとのことですが、水面下でどのようなやりとりがあったかはわかりません。しかし、ペルー側には、できれば『天皇』に近い方に来ていただきたい、という気持ちはあると思います」  と山下さんは見る。しかし、天皇陛下がペルーを訪問するにはハードルが高い。陛下の長女・愛子さまは、まだ大学生だ。そうなると、上皇陛下の「孫」であり、4年前にペルーを訪問した小室眞子さんの「妹」である佳子さまの訪問は、「ペルー側にとっては喜ばしいのでは」と山下さんは話す。   注目される佳子さまのペルー訪問  佳子さまがペルーを訪問すると報道された後にネット上で話題に上ったのが、現在アメリカ・ニューヨークで暮らす姉の小室眞子さんと再会するかどうかだった。日本とペルーとの直行便がないため、米国で飛行機を乗り継ぐ可能性があるというわけだ。    山下さんは、「4年前に眞子さんがペルーを訪問されたとき、アメリカに留学中だった小室圭さんと経由地のヒューストンで会うのではないか、と噂されたことを思い出します」と振り返る。  当時、眞子さんが婚約者である小室圭さんに会うことを否定的に捉える空気が世間にあり、「小室さんは眞子さんの婚約内定者であり、公務に支障がない範囲で私的に会うことに何ら問題はありません。それを何か悪いことのように言われるのは、おかしなことだと思っていました」と山下さん。 【こちらも話題】 まもなく17歳の悠仁さま ちぎり絵から精巧な模型づくりへ、成長が伝わる「文化祭」の作品https://dot.asahi.com/articles/-/198542 21年10月26日、秋篠宮ご夫妻に見守られ、佳子さまと抱き合う眞子さま(当時) 代表撮影 「日本国内でも、公務に支障のない範囲でお友達などに会われるのは普通のこと。国内外を問わず、訪問先の近くにお友達などがいらっしゃればお会いになっても問題はありません。ただ、天皇陛下や皇族が先方のご自宅などに出向かれるのは警備上の問題もあるでしょうから、相手の方にご宿泊先に来ていただくのが望ましいですね。  ましてやかけがえのないお姉さまに、経由地でお会いされることに全く問題はありません。電話などでお話しはされているでしょうが、2年間一度も会っていないお姉さまに会いたいと願われるのは当然のことだと思います」    なお、宮内庁は今回、佳子さまが眞子さんと会う可能性について、「承知していません」と回答したと報じられている。  山下さんは、 「おふたりがお会いになるなら、私的なこととはいえ、宮内庁として取材設定などの対応をしてもいいのではないかと思っています。佳子内親王殿下の”一人暮らし”問題と同じで、何かを隠そうとしているように見えるからおかしなことになる。おふたりのご都合がつくなら、お会いになればいいと思います」   佳子さまは11月上旬にペルーを訪問し、日程は10日間ほどだという。 (AERA dot. 編集部・太田裕子) 【あわせて読みたい~皇室回想 あのとき~】 愛子さま御成人に「未来の天皇」見たり! ミッツ・マングローブ https://dot.asahi.com/articles/-/199220

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