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引退発表した鈴木おさむ 29歳のときに起きた出来事とその後に強く感じたこととは
引退発表した鈴木おさむ 29歳のときに起きた出来事とその後に強く感じたこととは 放送作家の鈴木おさむさん    鈴木おさむさんが、今を生きる同世代の方々におくる連載『1970年代生まれの団ジュニたちへ』。今回は、「辞める」ことについて。 * * *  この原稿は10月12日の夕方に書いています。今日、32年間やってきた放送作家業と脚本業を来年、3月31日に辞めることを発表させて貰いました。沢山の方からメッセージをいただきまして、本当にありがたいです。  僕が25年近くお仕事させていただている方からのメッセージで「放てば手に満てり」という言葉をいただきました。手にしているものを手放さないと何かをつかめないという意味ですね。辞めることが怖くないかといえば怖いです。でも、今のまま続けていくのがもっと怖いんですよね。 初連ドラ脚本に挑戦  29歳の時に初めての連続ドラマの脚本に挑みました。「人にやさしく」というドラマでした。初めての連続ドラマで、「笑っていいとも」「SMAP×SMAP」「めちゃめちゃイケてるっ」の3本はドラマの出演者も出ていたのでやっていたのですが、あとは半年お休みさせていただくことにしました。 【あわせて読みたい】 SMAP解散から6年 中居正広と香取慎吾の“対面”を見た鈴木おさむが感じた多くのこととは https://dot.asahi.com/articles/-/12467  そのときに、お休みさせて貰おうとしたら、結構、クビになりました。「ごめん、それだったらいいや」と。でも、そんななか、「いきなり!黄金伝説」のプロデユーサーは、「頑張って来いよ! 休んでる間もギャラは払い続けるから! 戻ってきてよ。期待してる」と。   なんと。半年間、会議も行ってないのにギャラを払い続けてくれたのです。数百万円ですよ。  でも、おもしろいもので、半年たって戻ったときに、その「黄金伝説」をきっかけに、そのスタッフからまた番組は増えていきました。  クビになった番組は、正直、自分のハマりが悪い番組でした。失った番組も多かったけど、その「黄金伝説」きっかけの番組がどんどん増えていき、クビになった番組の本数をすぐに超えていきました。  だから、「手放すこと」の大事さを、そのときに強く感じました。  そしてもう一つ。ここで書いておきたいこと。 【あわせて読みたい】 天国に旅立たれた鈴木おさむのただひとりの師匠。 僕もこれから、逃げずに、人の夢の種を撒いて生きます https://dot.asahi.com/articles/-/39625  僕はここ数年、仕事で「怖い」と言われることが多くなりました。自分は笑顔のつもりだったのですが、そうじゃない。  最近、思っていることがあります。努力を努力と思わない才能というものがあります。  成功してる人は努力と感じてない。  僕もありがたいことに若い頃から努力を努力と思っていなかった。だけど、作家を始めて3年ほどたったときに後輩が入ってきて、自分がそれまで当たり前にやってきたことをやらせたら辞めてしまいました。  ここ数年、番組などを成功させるための自分の当たり前が当たり前じゃなくなっていたんだと思います。自分でやった方がいいと思ってやったことが、冷たく思われたり。 「怖い」と思われていた!  おもしろく言ってるつもりが、相手はそう感じていなかったり。  だから「怖い」と思われていたことが多い。  これは本当に駄目だなと思っています。僕と近い年齢の方は、こういう経験結構あるかもしれませんね。  人を楽しませるためのものを作っているのに、近くにいる人を傷つけているのって、本当に駄目だなと。  それを一度リセットするためにも、「辞める」ことが必要なんだと思います。  スイッチをオフにしたところから、今一度大切にしなければいけないものを確認しないといけないんだなと。  ただ、あらためて、この辞めるという決断を受け入れてくれた人、そして仕事をしている人たちには本当に感謝しています。  この半年、辞めるということに向き合いながら、辞めるからこそ出来るものを作っていきたいと思います。 鈴木おさむさん、大島美幸さん夫妻(本人ブログから) 夜店でスーパーボールすくいをする鈴木おさむさんと息子の笑福君、後ろで見守る妻の大島美幸さん(本人インスタグラムから)   キックボクシングのトレーニングの様子=本人のインスタグラムから 大島美幸   ■鈴木おさむ(すずき・おさむ)/放送作家。1972年生まれ。19歳で放送作家デビュー。映画・ドラマの脚本、エッセイや小説の執筆、ラジオパーソナリティー、舞台の作・演出など多岐にわたり活躍。パパ目線の育児記録「ママにはなれないパパ」(マガジンハウス)、長編小説『僕の種がない』(幻冬舎)が好評発売中。漫画原作も多数で、ラブホラー漫画「お化けと風鈴」は、毎週金曜更新で自身のインスタグラムで公開、またLINE漫画でも連載中。「インフル怨サー。 ~顔を焼かれた私が復讐を誓った日~」は各種主要電子書店で販売中。コミック「ティラノ部長」(マガジンマウス)が発売中 【あわせて読みたい】 「結婚はあまりお勧めしません」鈴木おさむが結婚16年目に思うこと https://dot.asahi.com/articles/-/115846  
バイデン大統領の「愛犬」がホワイトハウスを“追放” 警護隊にかみつきまくる癖はなぜ治らなかったのか
バイデン大統領の「愛犬」がホワイトハウスを“追放” 警護隊にかみつきまくる癖はなぜ治らなかったのか バイデン大統領の愛犬「コマンダー」(写真:ロイター/アフロ)    10月5日、バイデン米大統領が飼っているオスのジャーマンシェパード「コマンダー」が、ホワイトハウスを退去したと発表された。原因は、コマンダーのかみつき癖。7月にシークレットサービス(大統領警護隊)の職員を病院送りにし、9月にも11回目のかみつき事件を起こしたことで、大統領夫妻もかばいきれなくなったようだ。ホワイトハウス報道官によると、コマンダーは慌ただしい環境で暮らすストレスによって攻撃的になっていたというが、その対処は“追放”しかなかったのだろうか? *  *  * 「犬は、基本的に怖がりで心優しい生き物。恐怖を感じて自分の身を守ろうとするときは、まずは『こっちに来ないで!』と吠え、次にうなり、かむのは最後の手段です」  こう話すのは、犬の保護活動を行うNPO法人「DOG DUCA」代表で、ドッグトレーナーの高橋忍さん。一連のかみつき事件について、コマンダー自身の事情があるとすれば、家族以外に警戒心を持つ傾向のあるジャーマンシェパードであること/縄張り意識の強いオスであること/元保護犬のため、過去に虐待や飼育放棄をされたかもしれないこと、などが挙げられるが、「多くの人間がきちんと愛情を注げば、問題行動は防げたはずだ」と話す。 コマンダーをなでるバイデン大統領夫妻(写真:ロイター/アフロ)   ホワイトハウス“追放”は2匹目  なぜ、コマンダーは人を襲い続けてしまったのか。高橋さんによると、二つのポイントがあるという。  一つ目は、乳児期を親やきょうだいと一緒に過ごしたかどうか。人と同じように、犬も仲間との関わりあいのなかで社会性やコミュニケーションスキルを身につけ、自分より強い相手には降参するなどのルールを覚える。しかし、その社会性が育っていないと、ほかの犬や人間を怖がり、ほえる・かむといった問題行動につながりやすいのだという。  もうひとつは、人をかんだときにどのような対処をしたかだ。かつては悪いことをしたら罰を与えるのが一般的なしつけだったが、攻撃行動というのはあくまで反射的なもので、罰によって抑止できるものではない。もし、コマンダーがかみついたときに、大勢で取り押さえたり、思いっきりリードを引っぱったりと苦痛や恐怖を与えていたら、ますます人間への警戒心が強くなり、かみつきがエスカレートすることは十分考えられるという。  実は、ホワイトハウスを追放された犬は、コマンダーが初めてではない。バイデン大統領のもう1匹の愛犬で、コマンダーと同じ元保護犬のジャーマンシェパード「メジャー」も、スタッフへの攻撃行動が治らず、大統領の友人宅に預けられた。  大勢のスタッフが絶え間なく出入りするホワイトハウスで、犬が幸せに暮らすことは不可能なのだろうか? この問いに、高橋さんは「いやいや」と大きく首を振った。 バイデン大統領の妻・ジル氏の制止を振り切って職員にかみついたケースも(写真:AP/アフロ)   環境よりも人間側の問題 「人間を怖がらない犬なら、テーマパークのような人混みだろうが、しっぽを振ってご主人についていくものです。バイデン大統領の犬がどのように生活していたのかは分かりませんが、2匹とも不幸な事態が続いてしまったのは、環境というより、周りの人間側の問題だと思います」  犬の攻撃行動を改善するうえで、高橋さんが何よりも重視するのが、「心のケア」だ。ホワイトハウスでは、コマンダーをひもでつないだり、訓練したりという取り組みが行われてきたというが、「いくら訓練しても、人を怖いと思っている限り、その結果であるかみつきは治らない」というのが、高橋さんの見立てだ。  人間への恐怖心を癒やすために最も有効なのは、エサをあげたり散歩をしたりと、犬にとっての直接的なメリットを根気強く提供し続けること。見慣れない人を怖がってしまうのであれば、家族以外のスタッフも代わる代わる世話をして、できるだけ多くの人が日常的に関わることが大切だという。  そうして心を開いてくれるようになったら、はじめて主従関係を結ぶステップに移行する。コマンダーがバイデン大統領の妻・ジル氏の制止を振り切って職員にかみついたケースが報じられていることから、大統領夫妻はコマンダーと主従関係を結べておらず、コントロールできていなかったと推測される。 NPO法人「DOG DUCA」代表でドッグトレーナーの高橋忍さん   犬はいつからでも変わることができる  主従関係を築くための一つのテクニックが、「テリトリーの外でエサをあげること」だと、高橋さんは言う。 「特定の部屋やサークルなど、いつも犬が生活している場所でエサをあげることは、人間にたとえると子ども部屋にごはんを運んでいるのと同じ状態。『リビングに下りてきなさい』と教えるように、あえて縄張りではない場所に来させ、そこで食事にありつけるという状況を作ることで、強い者が弱い者に与えるという主従関係が成立します」  高橋さんは、これまで1000頭以上の保護犬のトレーニングに携わってきた。その経験をもとに、「心のケアと育て直しができれば、犬はいつからでも変わることができる」と断言する。 「アパートの部屋に1年間閉じ込められ、孤独のあまりひどいかみつき癖がついたボーダーコリーなど、心を病んだ多くの子たちと向き合うなかで、心のケアの重要性を痛感してきました。バイデン大統領の犬であれば、きっと優秀なドッグトレーナーがついていたと思いますが、言うことを聞かせるスキルを持っているだけでなく、犬の痛みや不安を理解できる人間でないと、救えない子たちもいるのが現実です」  次にホワイトハウスにやってくるファーストドッグには、ご主人のそばで健やかに暮らせる日々が待っていますように。 (AERA dot.編集部・大谷百合絵)
「心肺蘇生しない」と決めていたのに慌てて119番通報 心肺蘇生中止348件 可能になった東京消防庁3年間で
「心肺蘇生しない」と決めていたのに慌てて119番通報 心肺蘇生中止348件 可能になった東京消防庁3年間で ※写真はイメージです(写真/Getty Images)    終末期の親を自宅で静かに看取ることを決めていても、いよいよというときに慌てた家族などが救急車を呼んでしまうことがあります。東京消防庁では、このような場合でも条件を満たせば心肺蘇生を中止することを可能としています。その運用がスタートしたのは2019年12月。これまでの間に、何らかの事情で救急車を呼んでしまったケース、その後心肺蘇生が中止されたケースはどのくらいあるのでしょうか。 *   *   *  終末期にどのような医療やケアを望むのか、前もって考え、家族や信頼する人、医療・介護従事者たちと繰り返し話し合い、共有することをACP(アドバンス・ケア・プランニング、通称:人生会議)といいます。在宅医療を受けている高齢者が、家族や在宅医などとACP をおこない、心肺停止になったとき心肺蘇生をおこなわず、自宅で静かに看取ってもらいたいと決めておいても、周囲の人が慌てて救急車を呼んでしまうことがあります。  救急隊は、心肺停止の人に対しては、心肺蘇生をおこないながら病院へ搬送することを使命としており、その場で「慌てて救急要請してしまったが、心肺蘇生をしないで」と家族などに言われても、簡単には任務を中断することができません。  こういったケースが増えてきたことを背景に、東京消防庁では、心肺蘇生を望まない意思が示され、一定の条件に合致した場合、心肺蘇生を中断し搬送しない対応をとっています。これは、医師、国・都の担当者、弁護士、民間代表者などの関係者が検討し条件や手順を定めたもので、2019年12月16日から運用がスタートしました。 2022年中に心肺蘇生を望まない意思が示されたのは127件  東京消防庁救急部救急指導課課長補佐兼救急技術係長の塩野目淑さんによると、心肺停止で心肺蘇生を望まない意思が示された件数は、次の通りです。 2019年(12月16~31日):5件 2020年:110件 2021年:125件 2022年:127件 2023年(8月31日まで):78件(速報値)      2020~2022年のそれぞれの年間件数は、心肺停止で搬送された年間件数の約1%に相当します。  東京消防庁の場合、心肺蘇生を中止する条件は、以下の四つです。 ACPがおこなわれた成人で心肺停止状態であること 傷病者が人生の最終段階にあること 「心肺蘇生を望まない意思」は傷病者本人の意思であること ACPで想定された症状と現在の症状とが合致すること(外傷など、ACPで想定された症状と違う場合は該当しない)  救急隊は、家族などから口頭または書面で「心肺蘇生を望まない」ことを伝えられると、かかりつけ医に連絡をとって本人の意思であることを確認し、かかりつけ医から中止を指示された場合に、心肺蘇生を中止することができます。    心肺蘇生が中止された例に、次のようなものがあります。  高齢男性が自宅のトイレ内で倒れ心肺停止となり、それを発見した娘が慌てて救急要請しました。ところが到着した救急隊に、妻はACPをおこなっていたことを口頭で伝えました。隊員が心肺蘇生をおこないつつ、別の隊員がかかりつけ医に電話したところ、かかりつけ医から、ACPをおこなっていること、心肺蘇生の中止の指示、20分程度で到着し引き継ぐことを聞き取りました。そこで、救急隊は心肺蘇生を中止し、到着したかかりつけ医に引き継ぎました。    心肺蘇生を中止したあとの引き継ぎには、以下の2通りの方法があります。 ・およそ45分以内にかかりつけ医が到着できる場合は、救急隊はそこで待機し、かかりつけ医に引き継ぐ ・およそ12時間以内にかかりつけ医が到着できる場合は、家族等に引き継ぎ、救急隊は引き揚げる  かかりつけ医と連絡がとれないケースには、次のようなものがあります。  がんを患っていて自宅での看取りを希望していた高齢男性が、21時ごろ、心肺停止状態となり、家族がかかりつけ医に連絡しました。しかし応答がなく困ってしまい救急要請。家族の話を聞いた救急隊が、かかりつけ医に複数回電話したものの連絡がとれなかったため、受診歴のある救急病院に搬送しました。 救急隊がかかりつけ医に連絡したケースのほとんどで、中止の指示が出された  塩野目さんは「導入時、かかりつけ医に連絡がとれないのではないか、また現場に来られないのではないかが、懸念されていました」と言います。 「スタートから2022年12月末までの約3年間で、心肺蘇生を望まない意思が示された367件のうち、かかりつけ医に連絡がとれなかったのは6件だけで、どの時間帯においても、ほとんどはかかりつけ医に連絡がとれました。また、心肺蘇生が中止されたのは348件で、家族への引き継ぎが85件、かかりつけ医への引き継ぎが263件と、多くはかかりつけ医に引き継ぐことができました。かかりつけ医の皆さんが熱心に取り組まれていることがこれらの数字に表れていると思います」(塩野目さん)  救急車を呼んでしまった理由では、「慌てた」が約40%と最も多いですが、「心肺停止状態ではなかった」「ACPをおこなっていることを知らなかった」などのケースもあります。    全国的に見ると、心肺蘇生を望まない意思が示された場合の対応方針を定めている消防本部は、2019年には315本部(全体の43.4%)でしたが、2021年には446本部(61.6%)と、2年間で131本部増加しています(各年8月1日現在。総務省消防庁「第2回救急業務のあり方に関する検討会 令和3年11月30日」。参考資料「傷病者の意思に沿った救急現場における心肺蘇生」から)。  定められた対応方針の内容は、①心肺蘇生を中止または中断できる、②心肺蘇生を継続する、③その他に分けられ、2021年には、①が204本部(45.7%)、②が207本部(46.4%)でした。  ACPをおこなっていても心肺蘇生の継続を基本とする地域では、慌てることのないように、関係者全員がACPを共有できるように、看取りに向けた準備や心構えがより重要になるようです。 (取材・文/山本七枝子)   塩野目淑(しおのめ・きよし) 東京消防庁救急部救急指導課 課長補佐兼救急技術係長。救急施策の立案、救急隊員の救急技術の向上などに携わる。
ふわふわの白い大型犬にそっと手を伸ばす悠仁さま 生命への関心を育んだ赤坂御用地の「ナゾの生物」
ふわふわの白い大型犬にそっと手を伸ばす悠仁さま 生命への関心を育んだ赤坂御用地の「ナゾの生物」 もうすぐ2歳の悠仁さま。フワフワの大型犬に興味津々=2008年、長野県軽井沢町、代表撮影   「生き物好き」で知られる秋篠宮家の長男・悠仁さま。皇室ゆかりの上野動物園や自然豊かな赤坂御用地などで、たくさんの生き物たちに触れながら、興味関心を育んできたようだ。そんな生き物との触れ合いの様子をたどってみると、一般公開された写真に「ナゾの生物」が見え隠れしていた……。 *   *   *  ふわふわした毛並みの白い大型犬。その大きな背中に、秋篠宮家の長男・悠仁さまが手を伸ばしている。その様子を、秋篠宮ご夫妻と長女の小室眞子さん、次女の佳子さまが、やさしくほほ笑みながら見守っている。  2008年8月末、満2歳の誕生日を前にしたご一家の光景だ。  秋篠宮ご一家は、長野県軽井沢町に滞在する天皇ご夫妻(当時)と合流し、和やかなひとときを楽しんでいた。   軽井沢で当時の天皇ご夫妻と秋篠宮ご一家が合流。悠仁さまは元気に走り回っていたという=2008年、長野県軽井沢町、代表撮影      悠仁さまは、ホテルのオーナーが飼っている大型犬のヘンリーに興味津々。フワフワの背中にゆっくりと触れると、ご夫妻を振り返ってうれしそうに笑った。    皇室と動物、と聞いて思い浮かぶのは、東京・上野公園にある「恩賜上野動物園」。 「恩賜」という冠がつく通り、1886(明治19)年から1924(大正13)年まで宮内省が所管していた動物園だ。上皇さまや天皇陛下、秋篠宮さまも、幼いころから遊びに来ており、そして悠仁さまも何度も訪れている。  元園長の小宮輝之さんによると、悠仁さまは3歳を迎えた2009年の秋、ウサギなどの小さな動物に触ることができる園内の「子ども動物園」に遊びに来た。   上野動物園の「子ども動物園」でモルモットを触れ合う悠仁さま=2009年、東京都、代表撮影    最初はおそるおそるだったが、すぐに慣れて担当の職員に、 「どうやって持ちますか」  と尋ねながら、ひざの上にウサギを乗せて優しくなでたり、ハツカネズミにサツマイモをあげたりしていたという。 「ウサギやモルモットの抱っこが楽しかったようで、ヤギやヒツジも『抱っこする』とご自分よりも大きい動物の体にしがみついて離れないので、ハラハラしました」(小宮さん)   【こちらも話題】 【皇室振り返り】 悠仁さまがヤギの背中に乗っかった! 親族が明かすやんちゃな一面 https://dot.asahi.com/articles/-/200028   上野動物園の「子ども動物園」で、しゃがみこんでモルモットの顔をのぞき込む悠仁さま=2009年、東京都、代表撮影    来園する際には紀子さまが、 「そちらに遊びに行っていいですか」  と、電話をかけてきたという。  そして、一般の来園者に混じって歩く親子連れが、実は紀子さまと悠仁さまだと気づく人はいない。悠仁さまも、年が近い幼稚園や保育園の子どもたちの集団の中に入り、一緒に動物を眺めていたという。   「サル山に入って一緒に遊びたい」  あるとき、悠仁さまが、 「サル山に入って僕も一緒に遊びたい。えさをあげたい」  と、駄々をこねたこともあった。 「ここは入れないのよ」  紀子さまが優しく説明して、なんとか大人しくなったという。    子どもはみんな、好奇心が旺盛。小宮さんが「かわいらしかった」と目を細めるのは、悠仁さまがトラを見たいと言い出したときだ。  紀子さまの手をしっかりと握って、  「とーら。とーら」  と歌いながら、トラの放飼場(ほうしじょう)まで歩いていった。なのに、到着すると本物のトラよりも目の前にあるトラのレプリカが気に入ったのか、よじ登りはじめた。  トラの背中にまたがって、ニッコリと満足そうな笑顔を浮かべる悠仁さまに、紀子さまがカメラを向けて記念写真を撮ったという。   秋篠宮さまの誕生日を前にしたご一家。家禽の研究者である秋篠宮さまらしく、宮邸にはく製が並ぶ=2012年、宮内庁提供    皇室が生き物との触れ合いを大切にするのは、身近な環境が大きいのだろう。  東京の中心地にありながら、緑に包まれた赤坂御用地は、東京ドーム10個分の広さがあり、天皇ご一家も長い歳月を過ごし、いまは上皇ご夫妻が暮らす仙洞御所、皇族が暮らす秋篠宮邸や三笠宮邸、そして高円宮邸がある。季節の花々のほかに、オオタカやフクロウの繁殖が確認されるなど、生き物の宝庫でもある。     【こちらも話題】 17歳の悠仁さまは「根っからの研究者」 皇位継承者としての成長ぶりを“稲の先生”も実感 https://dot.asahi.com/articles/-/200901   悠仁さまの6歳の誕生日を前に撮影。右下の茂みに、何かが隠れている=2012年、宮内庁提供   茂みに潜むある動物とは?  その赤坂御用地で2012年、悠仁さまの6歳の誕生日に合わせて撮影された写真。赤い花と豊かな緑を背景に、チェックのシャツを着た悠仁さまをはさみ、姉の眞子さんと佳子さんが座っている。  実は、悠仁さまらの後ろの茂みに、ある動物が潜んでいる。写真の右下を見ると、何やら小さな動物の頭と前半身がうっすらと見えるのだ。   「マーラですね」  と、小宮さんが「正体」を教えてくれた。  マーラは、ウサギのようにも見えるが、草食のネズミの仲間。秋篠宮家で飼われていたのだという。  小宮さんは、秋篠宮さまと『日本の家畜・家禽』を共同執筆したことがあり、さらに秋篠宮さまが日本動物園水族館協会の総裁を務めることもあって、打ち合わせのために秋篠宮邸を訪ねたことがある。  秋篠宮さまは小宮さんに、こんな話をしたことがあるという。 「庭には、マーラがスタスタと歩いているんです」  さらに冗談めかした口調で、こう付け加えた。 「芝刈りもやってくれるのですよ」    実際、宮邸を訪れた人の多くが、生物に囲まれたユニークな雰囲気だと話す。秋篠宮家を知る人は、かつて筆者にこう話していた。 「大型犬や、殿下がご研究されている鶏、70センチにもなるネズミのマーラまで、さまざまな動物を飼っておられます。悠仁さまは、ぴょんぴょん跳ねるマーラと追いかけっこして遊ばれているそうですよ」    そんな環境で育ち、やんちゃな一面も見せていた悠仁さまも、現在は高校2年生になり、17歳の秋を迎えた。関心は動物にとどまらず、稲など作物の研究にまで幅を広げている。 来春には高校3年生。どんな進路を選ぶのか、世間の注目が集まっている。 (AERA dot.編集部・永井貴子)   【こちらも話題】 「ねぇ、今日の夕食はなあに?」眞子さんと佳子さまもペロリと食べた 秋篠宮家元料理番の特製カレーレシピ https://dot.asahi.com/articles/-/202365  
交際時代からけんかした記憶はゼロ 寝る前に夫婦間で一日の感謝を伝えて幸せな気持ちに
交際時代からけんかした記憶はゼロ 寝る前に夫婦間で一日の感謝を伝えて幸せな気持ちに 三森一輝さん(手前)と三森愛理子さん(撮影/小黒冴夏)    AERAの連載「はたらく夫婦カンケイ」では、ある共働き夫婦の出会いから結婚までの道のり、結婚後の家計や家事分担など、それぞれの視点から見た夫婦の関係を紹介します。AERA 2023年10月9日号では、LandBridge合同会社代表の三森一輝さん、ピラティスインストラクターの三森愛理子さん夫婦について取り上げました。 *  *  * 夫24歳、妻24歳で結婚。二人暮らし。 【出会いは?】警察官時代、夫がいた駅伝強化選手のチームに妻が仲間入り。共にトレーニングを重ねるうちに意気投合した。 【結婚までの道のりは?】ふとした会話の中で、夫が「何月ぐらいに結婚するのがいいかな」と言い出し、そのまま話が進んでしまった。 【家事や家計の分担は?】主に朝食と洗濯は妻、洗い物や掃除は夫が担うことが多いが、基本的には気づいたほうがやり、負担が偏らないよう気を付けている。家計は財布を一緒にしている。 夫 三森一輝[27]LandBridge合同会社代表 みもり・かずき◆1995年埼玉県生まれ。2014年に埼玉県立大宮東高校を卒業し、埼玉県警察に入職。交番、特殊部隊勤務を経て、22年にLandBridge合同会社を設立、ベトナムでのオフショア開発を手がける。実弟は福岡ソフトバンクホークスの三森大貴内野手  職場の駅伝チームで出会った妻は、全国大会を制した経験もあるトップレベルの柔道選手でした。柔道はもちろん、駅伝にも仕事にも手を抜く瞬間が一切なく、何事にも全力で取り組む姿に惹かれました。  初めて試合を観戦した時は、想像していたよりずっと危険に見えてハラハラしましたが、普段とはまるで別人のような鋭いまなざしで競技に臨む姿が誇らしく、美しいと思いました。  交際中からIT分野への転身を考えていたので、二人で楽しい場所に出かけたことはほとんどなくて、休日もカフェで勉強ばかり。それでも彼女は文句ひとつ言わず、自分もピラティスの勉強をすると言ってつきあってくれ、それぞれの学びに没頭しました。  僕の両親は20年以上一緒にビーチボールバレーに取り組んでいるし、妻の両親もふたりでいろいろなところに出かけていくとても仲の良い夫婦です。年齢を重ねても僕らの両親のようにふたりの時間を充実させて、一緒にスポーツを楽しんでいきたいです。 三森一輝さん(手前)と三森愛理子さん(撮影/小黒冴夏)   妻 三森愛理子[28]ピラティスインストラクター みもり・あいりす◆1995年石川県生まれ。6歳で柔道を始め、山梨学院大学法学部在学中に全日本学生柔道体重別選手権52キロ級を制覇。2018年から埼玉県警察で柔道選手として活躍し22年に現役引退。23年に退職し、ピラティスインストラクターとして独立  警察官時代は生活ペースが合わず顔さえ見ない日も多かったけれど、お互い独立してからは、平日に朝ご飯をともにすることができています。時間に追われることなく、向かい合って食事をしながら1日をスタートできることが、とても幸せです。  夫に対しては、寝る前にその日一日の感謝を伝えるようにしています。玄関の鍵を閉めてくれてありがとう、お風呂の排水口の髪の毛を捨ててくれてありがとう、などという、とても些細なことです。言うほうも言われたほうも幸せな気持ちになれるのはもちろん、夫も同じように返さなければならなくなるので、感謝してほしいことに気づいてもらいたい時にも便利です!  彼は母親と姉、妹にもまれながら育ったせいか、女性が細かいことやうるさいことを言ってきても、受け流して忘れるのが上手。おかげで、交際中からけんかをした記憶がまったくありません。これからもお互いの人生を充実させて、応援し合いながら過ごしていこうね。 (構成・森田悦子) ※AERA 2023年10月9日号
8歳の息子から貯金箱を取り上げたことに対し、息子の友人から言われた一言に感謝 鈴木おさむ
8歳の息子から貯金箱を取り上げたことに対し、息子の友人から言われた一言に感謝 鈴木おさむ 放送作家の鈴木おさむさん    鈴木おさむさんが、今を生きる同世代の方々におくる連載『1970年代生まれの団ジュニたちへ』。今回は、息子の金銭感覚と友達の話。 * * *  先日、8歳の息子・笑福の授業参観に出かけた時のこと。道徳の授業をしていました。先生が「皆さん、好きな言葉はなんですか?」と聞きました。  今の小学2年生はどんな言葉が返ってくるのだろう? 子供も授業参観だということを意識しているだろうから「お母さん」とか「お父さん」とかが溢れるのかなと思っていたのですが、最初に「ゲーム」と誰かが言ったことをきっかけに、そこから「ゲーム」「俺もゲーム」「ゲーム」とゲームの連打のあとに、「YouTube」「インスタ」と続いていき、誰かが「Google」と、言った時にはさすがに笑ってしまいました。  でも、気を遣って「お母さん」「お父さん」とみんなが言うよりも、「自由」であることにちょっとうれしかったりしましたね。  今日は子供のお金の話。皆さんは子供の頃、お小遣いをいくらもらっていましたか? 僕は小学1年の頃から毎日おばあちゃんがお小遣いをくれました。なんと毎日200円くれたのです。これってすごいことですよね。毎日200円貰うと、駄菓子屋に行ったら買えないものはありません。  200円を2日ためると400円なので、2日分のお小遣いで、ジャンプコミックスが1冊買えるのです。だから当時流行った漫画はとことん買いまくりました。「アラレちゃん」「キン肉マン」「リングにかけろ」など、僕の本棚には漫画が溢れかえりました。そして当時、レコード(EP)は1枚700円。なので、4日ためれば1枚買って100円おつりがくる。レコードも買いまくりました。当然、周りの友達からは羨ましがられました。  お小遣いを1日200円もらっていたことを話すと、今、驚かれます。  お小遣いを200円くれたおばあちゃんには本当に感謝しています。あの頃、漫画や音楽、エンタメに触れまくれたことによって、自分がこの仕事を選び、放送作家として、様々な企画や物語を作ることを出来たのはあの時の経験がかなり大きい。エンタメ貯金が出来ていたからだと思っています。  そして、笑福です。笑福にはお小遣いをあげていません。が、欲しいものは比較的買え与えています。特にゲーム。ゲームは僕も好きなので、ついつい僕が買ってしまうと、それが笑福の物になってしまったり。  プレステ5も自分が欲しくて買うのですが、結果、笑福は自分の物だと思っています。  僕らはお小遣いを上げていませんが、実家に帰ると、お父さんやお母さんからお金をもらうことも多い。なので、笑福には大きな貯金箱を買ってあげました。そこにお金を沢山ためています。  そして、この1年、コンビニなどで自分で物を買う楽しさを覚えました。ただ、今は覚え始めなので、金銭感覚があまり理解できていません。  欲しいものがあったらその貯金箱からお金を取って買うというルールにしたんですが、放っておくと、1回のコンビニの買い物で500円近く使ってしまった時もあったので、その時は500円の大きさを説明しました。が、こればかりは、時間がかかりそうです。  で、先日、うちの家に友達が数人来ていた時。コンビニに何か買いに行こうという話になりました。すると笑福は、貯金箱から400円取ろうとしました。500円の大きさを説明してからそんなに経っていません。そしたらお財布を忘れたという友達に、笑福が「400円貸してあげるよ」と言ったのです。 つい腹を立ててしまい  お金を稼ぐことの大変さは妻も笑福にかなり言っています。僕は軽く400円を「貸す」と言ったことに、つい腹を立ててしまいました。  笑福に「お金ってそんなに簡単に貸していい物じゃないから」と貯金箱ごと取り上げてしまいました。  笑福はとんでもなく落ち込んでいます。僕がそんな笑福に、お金についての思いとか、ガッカリしたことを伝えていると、僕のところに友達の一人が寄って来て言ったのです「お父さん、ちょっと言い過ぎじゃないかな」と。  その一言でハっとして。友達が来ていたのに、空気を悪くしてしまったことを反省しました。  その友達に「申し訳ない」と言い、笑福に100円渡すと、買い物に行きました。  笑福たちが行ったあと、自分のことも反省しましたが、ちょっと嬉しい気持ちになったのです。あの時、僕に注意しに来てくれた友達。笑福にはそんな友達がいるんだと。  育児は育自と言いますが。また気づかされました。友達、ありがとう。 ■鈴木おさむ(すずき・おさむ)/放送作家。1972年生まれ。19歳で放送作家デビュー。映画・ドラマの脚本、エッセイや小説の執筆、ラジオパーソナリティー、舞台の作・演出など多岐にわたり活躍。パパ目線の育児記録「ママにはなれないパパ」(マガジンハウス)、長編小説『僕の種がない』(幻冬舎)が好評発売中。漫画原作も多数で、ラブホラー漫画「お化けと風鈴」は、毎週金曜更新で自身のインスタグラムで公開、またLINE漫画でも連載中。「インフル怨サー。 ~顔を焼かれた私が復讐を誓った日~」は各種主要電子書店で販売中。コミック「ティラノ部長」(マガジンマウス)が発売中
「中日ドラゴンズ応援団」の勤め人団長33歳が明かす驚きの日常 「実はオフのほうが忙しいんです」
「中日ドラゴンズ応援団」の勤め人団長33歳が明かす驚きの日常 「実はオフのほうが忙しいんです」 団長を務める天野浩智さん(写真/中日ドラゴンズ応援団提供)    プロ野球の試合をスタンドから観戦した経験があるファンはご存じだろう。外野席でトランペットを吹いたり、太鼓をたたいたりして応援をリードしている私設応援団が各球団にいる。特別応援許可団体の「中日ドラゴンズ応援団」で団長を務める天野浩智さん(33)は鉄道業界に勤務している。私設応援団の内情を聞かせてもらうと、驚きの日常を語ってくれた。 ――天野さんが中日の私設応援団員になった経緯を教えてください。  私は東京で生まれ育ちましたが、1990年代後半の星野仙一監督時代からドラゴンズファンになって。熱い球団で選手も応援も大好きになりました。関東はもちろん本拠地の名古屋や全国の外野席に応援に通っていたのですが、応援団の方に「入りませんか?」と誘っていただき、2017年に入団しました。応援団歴は7年目になります。 新幹線はほとんど利用しないという(写真/中日ドラゴンズ応援団提供) 【あわせて読みたい】 巨人、ヤクルト、中日がドラフトで欲しいのは? 佐々木麟太郎は指名すべきか、2位以下の戦略は ――お仕事もしながら、応援団員として活動するのは大変だと思いますが。  関東在住なので、名古屋、大阪で試合が開催される場合は長距離バスや飛行機を利用して移動しています。お金を浮かせたい事情もあるので、新幹線はほとんど利用しないです。翌日がデーゲームの場合は仕事を終えて、自宅に戻らず深夜の夜行バスや夜行列車の中で寝て移動します。仕事の都合で、試合後にまたすぐにバスで関東に戻る時も珍しくありません。現地に滞在している時間より、バスに乗っている時間のほうが長いこともあります。また、広島、札幌、福岡で試合が開催される時は、成田空港に発着している国内LCC(格安航空会社)を利用しています。他の団員も私と同じような移動手段が多いです。「青春18きっぷ」を利用して東京から福岡に移動した団員もいます。 【あわせて読みたい】 巨人、ヤクルト、中日がドラフトで欲しいのは? 佐々木麟太郎は指名すべきか、2位以下の戦略は   オフシーズンのほうが忙しいという(写真/中日ドラゴンズ応援団提供)     ――ペナントレースは143試合あります。移動費だけで相当な費用がかかりますね。   そうですね。応援団員は全国に現在57人いて、スケジュールの都合がつく団員が球場へ応援に駆けつけるのですが、移動費だけでなく球場のチケット代、滞在先の食事代なども自己負担なので1シーズンで100万円以上費やす団員もいます。 応援歌が完成するまでに4、5カ月はかかる(写真/中日ドラゴンズ応援団提供)   ――シーズンを終えると、少し生活が落ち着く感じでしょうか。  実はオフシーズンのほうが忙しいんです。団員が集まって応援のやり方を話し合うミーティングを定期的に開いているほか、新規の応援団員の募集、面接などがあり、現在も関西、広島方面は団員が少ないので募集に力を入れています。また、選手の新しい応援歌も時間をかけて作ります。今年は細川成也選手がブレークしたので、新規の個人応援歌に期待しているファンの方々が多いと思います。応援歌は、吹奏楽部出身など音楽経験のある団員も所属しており、団員みんなでメロディーを作ります。いくつかの案を出してもらった後、団員たちで話し合ってその選手に最も合うメロディーを選び、歌詞を考えます。どの言葉、どの表現が選手の個性を表わせるか、ファンの熱い気持ちを乗せられるか。何度も練り直すので応援歌が完成するまでに4、5カ月はかかります。 ファンの方たちと応援する喜びはかけがえのない時間(写真/中日ドラゴンズ応援団提供)   ――ファンの人気が高い応援歌を教えてください。  チャンステーマの「チャンス決めてくれ」は応援のボルテージが一気に上がりますね。スタンドの空気がガラッと変わる。ドラゴンズの応援歌の中では飛び抜けた曲だと思います。同じくチャンステーマの「サウスポー」も盛り上がりが凄いです。個人の応援歌だと、石川昂弥選手の曲が人気です。ビシエド選手のチャンスバージョンも好評ですね。岡林勇希選手、龍空選手の歌詞、メロディーも気に入っていただけるファンが多いみたいです。今年開催されたWBCでは、ドラゴンズから野手が1人も侍ジャパンに選出されなかったので悔しい思いがありました。次回のWBCではドラゴンズから一人でも多くの選手が選ばれて、応援歌を流したいです。 ――トランペットの演奏はどのようにして学ぶのでしょうか。  トランペット教室に通う団員がいますが、私は独学でした。なかなかうまく吹けなかった時は地元の多摩湖に行って練習していました。 ――ハードな生活を送りながら、中日の応援団員として活動する原動力はなんでしょうか。  ファンの方たちとドラゴンズを応援する喜びはかけがえのない時間です。選手たちが勝利に向かって精いっぱいプレーし、私たち団員はリード、トランペット、ドラム、旗、ボードとそれぞれの役割で応援をサポートする。ファンの方々と共に応援して、選手がその期待に応えてくれた達成感は日常生活では味わえません。「今日の応援よかったね」と声をかけていただいた時はうれしかったですし、猛暑の中、飲料水を提供していただく方もいらっしゃいました。ドラゴンズファンは温かい方が多いと常に感じていますし、感謝の気持ちでいっぱいです。 刺激に満ちた日々を過ごす(写真/中日ドラゴンズ応援団提供)   ――天野さんにとって、中日はどのような存在ですか。  応援団になる前の話ですが、スタンドで応援に通い詰めていた時にドラゴンズファンという共通点で妻と出会いました。応援団員になってからも、熱い志を持った大切な仲間に出会うことができました。団員の年齢層は高校生から40代後半までと幅広く、職業も様々ですが、ドラゴンズを応援する熱い気持ちで結ばれています。応援団の活動を通じ、試合だけでなくオフシーズンの練習会や応援に関する熱心なディスカッションなど、刺激に満ちた日々を過ごすことができています。ドラゴンズは大切な場所であり、かけがえのない存在です。 ――2011年の優勝以来、優勝から遠ざかり、最近10年間でAクラスが1度のみと低迷期が続いています。  悔しいシーズンが続いていますが、岡林選手、石川選手、高橋宏斗投手と若い選手が次々に台頭してドラゴンズの未来は明るいと信じています。これからも大好きなドラゴンズのために団結して優勝、日本一を達成できるよう、全力で応援し続けます。 (平尾類)
ジャニーズ事務所の“同族経営”の落とし穴 組織を守ることできなかったメリー氏とジュリー氏の方向性のすれ違い
ジャニーズ事務所の“同族経営”の落とし穴 組織を守ることできなかったメリー氏とジュリー氏の方向性のすれ違い 9月7日、ジャニーズ事務所の記者会見に出席した東山紀之氏と藤島ジュリー景子氏    ジャニーズ事務所やビッグモーターら次々と明るみに出る同族経営の企業による不祥事。一方で、国内の多くの企業は同族会社だ。健全な経営を続けるためには何が必要なのか。AERA 2023年10月9日号より。 *  *  *  ガバナンス不全に陥る悪(あ)しき同族経営──。そんなイメージが広がるが、国税庁の21年度「会社標本調査」によると、株主の上位3グループ以内が保有する発行済み株式又は出資の総額が50%を超える「同族会社」は国内の全企業の96.4%にのぼる。トヨタ自動車(豊田家)、キッコーマン(茂木家)、キヤノン(御手洗家)、パナソニック(松下家)といった大手から、地方の商店街にある電器店まで、周囲には同族経営の会社があふれている。そう簡単に批判できる問題ではないのだ。  著書に『新・日本の階級社会』がある早稲田大学の橋本健二教授(階級階層論)は、 「国内の小零細企業の大部分が後継者不足で、外部からの登用も難しい状況にある。伝統工芸や地場産業が生き残っていくためには同族経営は必要です」  とした上で、1955年から社会学者らによって10年ごとに実施されてきた「社会階層と社会移動(SSM)全国調査」の結果を分析し、こう指摘する。 「高度経済成長期はチャンスの多い時代で、会社員や労働者が事業を起こすなどして新たに経営者になる可能性がありました。しかし、その後は参入のチャンスが減り、経営者の子どもでないと経営者になれないという継承性が高まっています」  変わりゆく時代。その波にうまく乗りながら、健全な経営を続けていくには、何が必要なのだろうか。  著書に『「三代目」スタディーズ』のある神戸学院大学の鈴木洋仁准教授(歴史社会学)はこう話す。 「『組織』を続けていくのか、『血』を続けていくのか。『組織』の存続だと割り切れるか否かが、同族経営を含めたすべての企業の存続にかかっています」  例えば、サントリーは創業家出身の4代目社長だった佐治信忠・現会長が14年10月、新社長にローソン会長だった新浪剛史氏を迎えた。佐治会長は、当時の会見で、後継者を外部から選んだ理由を「社内外を探したが、最適なのが新浪さんだった」と説明し、こう強調した。 「サントリーも115歳になり、悪しき官僚化が進んだ。新しい風をもう一度吹き込んでほしい」 【こちらも話題】 ジャニーズ事務所やビッグモーターも 不祥事が相次ぐ同族経営のメリットとデメリット https://dot.asahi.com/articles/-/202818 ジブリは子会社に  日本映画を代表する作品となった「千と千尋の神隠し」や「もののけ姫」などの宮崎駿監督作品や「火垂るの墓」などの高畑勲監督作品など、国民的ヒット作を多数抱えるスタジオジブリも「組織」の存続に踏み出している。9月21日、日本テレビの子会社になることを発表。プロデューサーとしてジブリ作品に携わってきた鈴木敏夫社長は会見で、 「宮崎駿は82歳、私も75歳で、これからジブリをどうするか考え(宮崎監督の長男でアニメ監督の)吾朗君に託そうとしたが、宮崎も反対し吾朗本人も固辞した」  と明かし、こう続けた。 「個人が背負うにはジブリは大きな存在になりすぎた。作品づくりはこれまでと変えず、経営は大きな会社の力を借りようと、付き合いの深い日本テレビにお願いした」  このように、身内という枠に縛られずに最適な人材や体制を求めて、外からの視点を入れて強い組織をつくる選択をした企業もある。  一方、同族経営の政治版が世襲政治家だ。鈴木准教授は、世襲について、 「婿養子や妻を後継者にしてでも、『とにかく家が続けばいい』という、武家の時代から続く割り切った知恵です」  と指摘。その特権意識に世間から厳しい目が注がれることは、同族経営の企業が外部から不信感を得やすいことと構図が重なる。  では、創業者のジャニー喜多川氏(19年死去)による性加害問題で、批判の声がやまないジャニーズ事務所はどうだったのか。  被害者の聞き取りをした「再発防止特別チーム」は、副社長だったジャニー氏の実姉の藤島メリー泰子氏(21年死去)が、「60年代前半には(実弟の)ジャニー氏の性嗜好(しこう)異常を認識し、少年たちへの性加害が続いていることを知りながらも放置・隠蔽した」ことが被害の拡大を招いた最大の要因であると指摘している。それはつまり、身内を守り、身内の論理を優先させ、犯罪行為を隠蔽したということでしかない。 互いの方向性すれ違う  メリー氏の長女である藤島ジュリー景子氏(57)は9月7日の会見で、母のメリー氏との関係について、 「普通の母子関係と全く違いまして……。私とメリーと、ざっくばらんに話したことはございません」  とうつむいた。幼い頃から、後継者として厳しく育てられたというジュリー氏。その言葉には、普通の母子の関係を望んでいた切なさがにじんだ。  鈴木准教授は言う。 「ジュリー氏の母娘関係についての発言にはウソはないでしょう。母娘ともに『血』を大事にしたかった点は共通していますが、互いの方向性はすれ違っているし、組織を守ることもできなかった」  そこが、ジャニーズ事務所の落とし穴になったことは間違いなさそうだ。(編集部・古田真梨子) ※AERA 2023年10月9日号より抜粋
サラリーマン家庭で医学部に息子2人進学 親子で目指した合格 父「決意を確かめる意味で違う道も提案」
サラリーマン家庭で医学部に息子2人進学 親子で目指した合格 父「決意を確かめる意味で違う道も提案」 左から次男・國井悠生さん(岐阜大学医学部3年生)、父親の孝洋さん、長男・慶人さん(朝日大学病院研修医) 孝洋さん提供   医師にも医学部にも全く縁のない、ごく普通のサラリーマン家庭。そんな環境から息子2人を国立大学医学部に進学させた岐阜県在住の國井孝洋さん。長男・慶人さんは2017年に福井大学医学部に現役で合格し、現在は朝日大学病院に研修医として勤務。次男・悠生さんは21年に、岐阜大学医学部に一浪で合格。現在は同大3年生だ。地元の中小企業に勤める國井さんとパート職員の妻は、家庭でどのような教育を行ってきたのか。好評発売中の週刊朝日ムック『医学部に入る2024』で、國井さん親子を取材した。前編・後編の2回に分けてお届けする。 *  *  * 長男の医学部志望を機に始まった親子の医学部受験態勢  國井孝洋さんは岐阜市在住、建材を扱う地元企業に勤めるサラリーマンだ。妻の恵美さんはパート職員。親戚中を見渡しても、医学や医療に携わる人間は全くいない。そんな國井さん一家が医学部受験に関わるようになったのは、2016年7月。高校3年生の長男の慶人さんが「医学部を受験したい」という意思を両親に伝えたことが最初だった。孝洋さんが振り返る。 「親として子どもの将来に望む一番のものは、もちろん健康などが大前提としてあってのことですが、やはり生活の安定だと思うんです。そう考えると、定年がなく、資格として生涯生かせる道を志してくれたということは、妻も私も正直うれしかったですね。ただ、自分で決めたことは責任をもって成し遂げてほしいという思いがありましたから、その決意がどれほどのものかを確かめる意味で、敢えて違う道も提案してみたんです」  慶人さんの成績であれば、京大の理系学部や東工大も目指せる。そちらに進んで大企業に就職したり、研究職に就いたりという道もある。そう提案してみたが、慶人さんの意思は揺るがなかった。  幼い頃から人を助ける仕事に就きたいと思っていたところへ、高校の授業で職業について考える機会があった。 「そのときに、目の前の人を助ける実感が持てるのはやはり医師のいいところだなと改めて痛感し、医師になりたいと思いました」(慶人さん) 国公立大学ならば、医学部の学費も他学部と同じ  そこから医学部受験について孝洋さん・恵美さん夫妻の懸命な情報収集が始まる。最も気がかりだったのは、やはり学費の問題だ。医学部は富裕層しか行けないものという先入観を孝洋さん夫妻は持っていた。しかし、調べるうちに、そうではないことがわかってきた。 「確かに私立の場合は、6年間で3千万~4千万円かかると言われています。しかし国公立の場合は医学部の学費も他学部と同じ、すなわち年間60万円で、6年間で360万円なのです。また自治体による助成金もあり、たとえば岐阜県の場合は、他県の医学部に進学しても月に10万円、6年間で720万円貸与されますが、これは卒業後9年間、岐阜県内の病院に勤務すれば返済不要です」  そのほかに「地域枠」を設けている大学は全国にある。岐阜大学医学部医学科の場合、高校3年間の内申の平均点、共通テストで一定以上の成績を収め、学校推薦などを得て、面接、小論文をクリアすれば、6年間の学費が貸与され、毎月10~20万円の生活費も貸与される。これも卒業後9年間を岐阜県内の病院に勤務すれば返済不要となる。しかも1浪までこの条件が適用される。ほかに自治医科大学などに同じような制度がある。 「収入が理由で医学部進学をあきらめている親御さんに知っていただきたいです」  慶人さんは見事現役で福井大学医学部に合格。その後、弟の悠生さんも医学部を志望し、1浪した後、岐阜大学医学部に合格。高校時代ラグビーに打ち込んだ悠生さんは、慶人さんとはまた違った動機で医師を志した。 「ケガをするたびに整形外科の先生が本当に僕のことを考えて治療してくださったんです。こういう人になりたいと、スポーツドクターになる夢を持ち始めました」(悠生さん) 左が長男・國井慶人さん(朝日大学病院研修医)、右が次男・悠生さん(岐阜大学医学部3年生) 孝洋さん提供   英会話や算盤の代わりに通わせた「頭の体操」スクール  それにしても兄弟ともに国立大学医学部進学を果たすとは、家庭ではどのような教育を行ってきたのだろうか。 「私たちが最も大事に考えてきたのは『本人の意思なくして成長なし』ということです。何かを押し付けたり『勉強しなさい』と強制したりすることはしないと決めてきました。よく聞かれるのですが、我が家では英才教育らしきことは全くせず、一般的な英会話教室や公文式や算盤ですら全くやらせていません」 その代わり通わせたのが、頭の体操をする知能教室。そして小柄だった2人を強くさせ自信をもたせるための空手だ。しかしこれらも、まずは本人たちに体験させ意思を確認し、道場も選ばせた。 「自分で決めたことなら責任も感じるでしょうし、何より楽しいと思えること、やりたいと思えること、その中で成長していく自分を実感できることが一番だと考えたからです。通っていた極真空手の道場では、整列するときは帯の順で並びます。帯の色が変わることで自分の成長を確認できますし、難しい型ができるようになったり、組手のトーナメントで勝ち上がって入賞したりすることで、成長していく面白さを実感できたと思います」  家で日々の宿題や勉強を見るのは主に母の恵美さんだったが、子どもたちにやる気を出させるように「ポイント制」を取り入れた時期もあった。たとえば、宿題を何ページかやると何ポイントかもらえて、それをお菓子やゲームをする時間に交換できる、というものだ。 「そのころ、DSにハマッていたので、何ポイントかたまったら何分かゲームができると励みにしていたことを覚えています。頭の体操では、遊び道具やパズルなどを通して想像力を養えましたし、空手では自信がついた。いろいろな方向から刺激を与えてもらいましたし、さまざまな経験もさせてもらって感謝しています」(悠生さん) それぞれが打ち込んだ勉強方法 並行して、慶人さん、悠生さんともそれぞれの受験期には塾に通ってきた。医学部受験に際しては、医学部志望コースがある地元の塾に通った。 左が長男・國井慶人さん(朝日大学病院研修医)、右が次男・悠生さん(岐阜大学医学部3年生) 孝洋さん提供    慶人さんが医学部に目標を定めて勉強を始めたのは高3の7月。すでに部活の柔道部は引退していたので、毎日学校から帰ると休憩もせずに自転車で塾へ行き、塾が閉まる時間までずっと自習室で勉強を重ねた。いつも最後の1人か2人になるまで没頭した。 「どの教科も、とにかく基礎が大事だと思っていたので、教科書を4周、5周と何度も読み直して、簡単な問題集を何度も解き直して……ということをやりました。あと公式や定理については、ただ暗記するのではなく、なぜそれが成り立つのかを自分で考えながら進めていくことが力になったかなと思っています。英語についても、いろんな単語集にあれこれ手を出すのではなく、一つこれと決めたものを何周も何周も読んで完璧にするという勉強をしました」(慶人さん)  勉強を始めた時点では、周りにすでに過去問に取り組んでいる仲間もいた。しかし、ここで焦って同じ段階に行こうとしても基礎がなければその先の成長もない。自分は自分のペースで、自信を持って自分の勉強をしようと決めた。その結果、県下トップの県立高校で学年の真ん中ぐらいだった成績が、冬には上位1割に入るまでになった。最終的に福井大学を第1志望とした。 「絶対に浪人はしたくないという気持ちがあったのと、あとは岐阜からそれほど離れずに済むところにしたかったので、中部地方とその周辺の大学で自分のレベルに合ったところを候補として考えました。そのうえで、ひととおり過去問を解いてみて、相性がいいと思った大学を選んだという感じです」(慶人さん)  一方、悠生さんは、「高校時代の勉強量が本当に少なかった」と振り返る。   「自分なりに高3の春ぐらいから本腰を入れたつもりではいましたが、つい学校帰りに友達とどこかへ寄ったり、塾には行っていても勉強しなかったりということが多かったんです。なので浪人がきまったときはそれをすごく反省して、とにかく家にいるときっとダラダラしてしまうので、毎日予備校に行こうという目標を立てました。朝早く家を出て、11~12時間勉強して夜遅く帰る。1日も休まずにそれを続けました。親には『もう少し休憩する日があってもいいんじゃないのか』と心配されましたが、とにかく勉強に打ち込みました。そうしたら、目に見えて成績が伸びていくのがわかったので、そうするとすごい達成感があってさらに頑張れた。同じ東海高校出身の予備校仲間が3~4人いたので、みんなそういう生活をルーティンにして、一緒に成績が上がっていい流れになりました」(悠生さん)  志望校については、最終的に岐阜大学と名古屋市立大学に絞った。予備校の先生には、『受かる確率としては同じぐらいなので、あとはあなたがどちらに行きたいかだ』と言われて迷ったが、決め手となったのは、ラグビーだった。 「大学でもきっとラグビーをやるだろうなと思ったので、調べてみたら、岐阜大学のラグビー部がすごく強いことがわかったんです。そういう環境でやってみたいと思い、岐阜大学に決めました」  念願どおり岐阜大学医学部に合格し、現在はラグビー部で活躍するかたわら、オンラインでの家庭教師とラーメン屋でのアルバイトもこなす。 「とにかく時間が足りなくて、勉強と部活とバイト、どうやったら、それぞれきちんと成り立たせられるか、それが今の課題ですね」(悠生さん)   後編に続く。 後編:サラリーマン家庭で医学部に息子2人進学 公立高の兄・私立高の弟 「高い学力の仲間が周りにいる環境がよかった」 (取材・文/志賀佳織) ※週刊朝日ムック『医学部に入る2024』より
ryuchell遺稿「多様な価値観を互いに認められる社会になってくれれば」最後に連載で伝えたかったこと
ryuchell遺稿「多様な価値観を互いに認められる社会になってくれれば」最後に連載で伝えたかったこと   ryuchellさん    7月12日、AERA dot.で「peco & ryuchellの子育て日記―新しい家族のかたち」を連載していたタレントのryuchellさんが亡くなった。27歳だった。  連載は、ryuchellさんとpecoさんが隔週で交代するという形で2022年1月から始まった。当初の連載タイトルは「ryuchell & pecoの子育て日記」。日々の育児や、夫や妻として思うことなどを紹介する内容だった。  二人の間には2018年に生まれた息子がおり、ryuchellさんは積極的に出産の準備に取り組んだり、育児にも参加したりしていた。二人の育児の奮闘ぶりは、子育て世代の読者に共感されていた。  しかしその後、二人にとって大きな出来事が起きる。22年8月に婚姻を解消しながらも、「新しい家族のかたち」として、これまで通り息子と3人で暮らしていくことを公表した。ryuchellさんはこのとき、自らのセクシャリティも告白した。  その後、連載のタイトルは「peco & ryuchellの子育て日記 新しい家族のかたち」にリニューアルした。子育て以外にも、二人の悩みや葛藤、これから築き上げようとしている家族についても焦点を当てる内容となった。 連載開始時のryuchellさん    明らかにryuchellさんの心境の変化を感じたのは、今年に入ってからだ。ryuchellさんは自身2枚目となるアルバムをリリースし、全国ツアーも実施した。容貌もより女性らしくなり、SNSでは「かわいい」といった声もたびたびあがるようになっていた。  このときからryuchellさんは自分の新たな役割を実感していったように思える。4月、ツアー後の感想を聞いた際にryuchellさんはこう答えた。 「正直に言うと、私が表に出続けていいのだろうか、と自分の価値について思い悩むこともありました。ただ、ファンの方のお声が聞けて、改めて、『私も誰かのためになれている』、『勇気を与えることもできている』と思えました」  最後にryuchellさんを取材したのは6月19日だ。この日は最近の子どもとのかかわりや、仕事の話を聞いた。ファンの方々の恋愛や悩みの相談に乗ったり、講演会や番組に出たりする中で、自分の役割を改めて実感している様子だった。自身の批判の声についても言及があった。  そんな中でryuchellさんの訃報は突然やってきた。7月23日に配信予定だったryuchellさんの原稿を編集している矢先だった。今でも信じられない気持ちがある。  23日に配信予定だった原稿はryuchellさん本人に確認してもらうことができない。そのため、配信しないということも考えられた。しかし、ryuchellさんの最後の言葉を伝えられないのは担当者として不本意だと感じた。この記事にはryuchellさんが最近までどのようなことを考えていたのかが詰まっている。  そこでpecoさんと事務所の了承を得て、お伝えすることにした。  ryuchellさんのご冥福を改めてお祈りしたい。 (AERA dot.編集部・吉崎洋夫) *  *  * ●ryuchell「多様な価値観を互いに認められる社会になってくれれば」 ryuchellさん   (下記の内容は、6月19日にryuchellさんを取材し、未公表だったものをまとめたものです)  最近、地方の講演会のお仕事をいただくことが多いです。LGBTQの問題とか、社会の多様性についての考えとかをお話しさせていただいています。「もっと自由に生きていいんだよ」というような新しい生き方について講演する仕事が多いです。  今日も番組の収録だったんですが、同じようなテーマでした。  今の時代、自分の生き方や性のあり方、家族のあり方などについて固定観念が溢れていて、それに悩んでいる人が多いのだと思います。  自分のYouTubeチャンネルがありますが、企画を募集したところ、恋愛相談や悩み相談が200件、300件もきたんです。「同性を好きになってしまったけどどうしたらいい?」とか、「結婚してから自分の本当の性自認に気づいた。どうしたらいいか」とか、そういった悩みが多かったです。  こんなに相談が来るなんて意外でした。私は人のためになるのが好きだし、自分の考えもお伝えしたいので、皆さんの悩みに応えることにしました。ですが、すべての相談にお答えできず、相談を50個程度に絞って、YouTubeでお答えさせていただきました。(リンク ) ryuchellさん    そういう声を受け止めてあげることで、悩んでいる人も安心できるみたいです。お友だちや親とかに相談しづらい悩みでも、芸能人くらいの距離感だと打ち明けられることがあるように感じました。  講演会でも番組の収録でもYouTubeでも、性のこととか、多様性のこととかで自分の意見を求められるようになったと思います。私もセクシャリティについて発表して以来、自分の思いがより伝えやすくなったというのはあります。必要とされるのであれば、私はそれに応えていきたいと考えています。  以前はどこか自分に自信がないところがありました。自分の性の悩みを公表してから、様々なご意見をいただいて、すべてを鵜呑みにするわけではないですけど、「その通りだな」と思うところもあって、自信をなくしたりすることもありました。  だけど、ファンの方々から「勇気をもらった」「自分らしく輝いて」というお言葉をいただいて、講演やテレビなどのお仕事をいただく中で、自分の役割について見えてくるものがあって、少しずつ自信が出てきました。自分の軸が前よりも定まってきたと思います。  最近「かわいくなった」「イキイキしている」なんて言われることがあります。内面のキラキラみたいなものが、外見に出ているとしたら嬉しいですね。  私が表に出ることで、批判のお声もいただくこともありますが、顔を出して、面と向かって言ってくる人はいないので、そういう意見は気にしなくていいかなと思っています。  私はもっといろんな意見や考え方、価値観が尊重される社会になればいいなと思っています。古い価値観がなくなることが多様性なのではなくて、新しいものも古いものもいろんな意見があっていいよね、というのが本当の多様性なんだと思います。 「自分は理解できない」と考えがあるのはいいけど、「こうあるべき」という自分の価値観を他人に強要したり、人の歩もうとしているのを邪魔したりというのは間違っていると思います。  どうしても価値観が異なる人というのはいます。「自分とは違うけどこういう人はいるよね」「存在を認めてあげよう」という絶妙なことができるのが大人なんだと思います。  多様な価値観をお互いに認めてあげられる社会になってくれればいいなと思っています。 (構成/AERA dot.編集部・吉崎洋夫) 【あわせて読みたい】 【独自・前編】pecoが明かすryuchellと最後のやり取り「私は救われました」 家族にだけ見せていた姿とは https://dot.asahi.com/articles/-/202653 【独自・後編】pecoが語る ryuchell急逝後の心境「息子の強さで一緒に乗り越えていける」 https://dot.asahi.com/articles/-/202662  
愛子さまは愛馬「豊歓」の墓に花とニンジンを手向けた…命のふれあいからにじむ天皇ご一家の優しさ
愛子さまは愛馬「豊歓」の墓に花とニンジンを手向けた…命のふれあいからにじむ天皇ご一家の優しさ 21歳の誕生日に際しての愛子さま。愛子さまは小さな頃から馬に親しんできた=2022年、宮内庁提供    一般に公開される映像などから垣間見える天皇ご一家の「日常」には、犬や馬などの姿がよく見られる。楽しいときも困難なときも寄り添う身近な生き物たちは、ご一家にとって大切な存在になっている。 *   *   *  駅舎からトコトコと歩いてきた、7歳の愛子さま。その両腕からは、もこもこした子犬のお尻と尻尾がはみ出していた。   由莉は、生後2か月で保護犬としてご一家に引き取られた。大人しく愛子さまに抱っこされて初お披露目=2009年5月、栃木県のJR宇都宮駅、代表撮影    愛子さまが抱きかかえていたフワフワの子犬は、途中で雅子さまが交代。愛子さまの目線までかがんで受け取った雅子さまは、歩きながら、赤ちゃんをあやすように腕の中におさまる子犬を何度ものぞき込んでいた。   御料牧場に向かう皇太子(当時)ご一家。愛子さまから子犬の由莉をやさしく受け取る雅子さま=2009年5月、栃木県のJR宇都宮駅、代表撮影  愛子さまの愛犬「由莉」が、初めて一般の人の前に登場したのは2009年のゴールデンウィーク。栃木県の御料牧場での静養のため、ご一家はJR宇都宮駅に到着。その際に愛子さまが抱えていたのが、由莉だった。   【こちらも話題】 愛子さま夏のご静養先でのハプニング 大きすぎる愛犬を抱っこする姿に思わず歓声が https://dot.asahi.com/articles/-/199219   赤ちゃんをあやすように、何度も由莉の顔をのぞきこんだ雅子さま=2009年5月、栃木県のJR宇都宮駅、代表撮影    この年の2月、ご一家と長年暮らしていた愛犬の「まり」が、老衰でこの世を去った。そして同じ年の春、動物病院で保護されていた生後2カ月のメスの子犬が、ご一家のもとにやって来た。  「由莉」の名は、漢字を勉強した愛子さまが、「自由」の「由」と茉莉花(ジャスミン)の「莉」の字をあてたものだという。    由莉はその年の夏にも、成長した姿を見せた。  ぐっと体格がよくなった由莉は、7歳の愛子さまには重そう。愛子さまは、大切な「家族」を落とさないように何度もよいしょと抱え直しながら、出迎えた市民の前を歩いた。    由莉はご静養に何度も「同行」したほか、ご一家の誕生日の写真にもたびたび登場している。 46歳の誕生日をむかえる雅子さまと、当時皇太子だった陛下と愛子さま。由莉は甘えるように愛子さまに顔を向けていた=2009年、宮内庁提供    由莉が引き取られた09年の年末。雅子さまの誕生日に際しての写真には、ふた回りほど大きくなった由莉が、愛子さまに顔を向けて甘える様子が写っている。  皇太子だった陛下の11年の誕生日には、新しい家族となった猫を、ご一家と由莉が囲む場面もあった。ご一家の愛情を受けている様子がよく伝わってくる。     【こちらも話題】 愛子さまの手にトンボがとまった瞬間、愛犬の由莉ものぞき込んだ 静養先の天皇ご一家 https://dot.asahi.com/articles/-/199535   アニマルセラピー犬として活躍する由莉  由莉は、ご一家を支える存在でもあった。愛子さまが学習院初等科で欠席が続いた時期には、東宮御所の門から学習院初等科の正門まで、愛子さまと一緒に登校する姿があった。  由莉は、ご一家と暮らし始めてから、アニマルセラピー犬としての訓練を受けている。  もともと雅子さまは、アニマルセラピーに関心を寄せていた。長期療養が続いていた雅子さまも、治療の一環として皇居で乗馬を続けてきた。ご静養中も御料牧場に皇居から馬を輸送して、ご一家で乗馬を楽しむこともあった。  同じ時期、雅子さまは東京・築地にある聖路加国際病院を何度か訪れている。小児病棟で行われるアニマルセラピーに関心を持ち、現場を見学するためだった。そうした経験が、活動へとつながっているとみられる。   51歳の誕生日を迎える天皇陛下(当時、皇太子)と雅子さま、愛子さま。新たに家族になった猫に、由莉も興味津々=2011年、宮内庁提供    19年に秋田県を訪問した両陛下は、動物愛護センター「ワンニャピアあきた」を訪れている。そこで、雅子さまと懇談した女性が、犬と福祉施設などを訪れる活動をしていると話した。すると雅子さまは、 「うちの犬も、そういう活動をしているのですよ」  と、打ち明けた。由莉も、老人福祉施設やホスピス病棟を訪問する活動をしているのだという。  秋篠宮家の長女、小室眞子さんが結婚の前、両陛下へあいさつをするために御所を訪ねた。私的なお別れということもあり、由莉を連れた愛子さまも部屋にいた。家族が「全員」そろって、お別れのあいさつをしたのだろう。     【こちらも話題】 愛子さまが手づくり?愛犬「由莉」に「おにぎり柄」のバンダナ 絆の証のリンクコーデ https://dot.asahi.com/articles/-/202122   愛馬の墓に手向けた花とニンジン  馬も、ご一家にとって大切な存在だ。  ご一家は皇居や御料牧場で乗馬に親しみ、療養中の雅子さまを支えたのも馬だった。昨年、21歳の誕生日を迎えて公表された愛子さまの映像は、厩舎で馬の咲姫(さきひめ)にニンジンを与える場面だった。   21歳の誕生日に際しての愛子さま。愛子さまは小さな頃から馬に親しんできた=2022年、宮内庁提供    天皇ご夫妻が1994年に中東を訪れた際、オマーン国王からアハージージュという名前のアラブ馬を贈られている。そのアハージージュが産んだのが、愛子さまの愛馬となった豊歓(とよよし)だ。  今年4月、天皇ご一家は栃木県の御料牧場に滞在したが、そこには昨年末に死んだ豊歓のお墓がある。  愛子さまがずっとかわいがっていた豊歓も高齢になり、余生を過ごしていたのが御料牧場だった。墓にはたてがみと尾が納められており、愛子さまは墓に花とニンジンを供えたという。   3年8カ月ぶりとなるご静養で御料牧場に滞在し、馬にニンジンをあげる愛子さま=2023年4月、宮内庁提供    その御料牧場の滞在中、愛子さまはメスの子牛の出産に立ち会った。産まれた直前に虹が出たことから、愛子さまは子牛に「レインボー」と名前をつけた。  愛子さまはレインボーが立ち上がるまで見守り、子牛に母牛の乳を与えるなど、ご一家と生き物たちとの触れ合いが話題になった。  これからも身近な「命」が、天皇ご一家たちの支えになることだろう。 (AERA dot.編集部・永井貴子)   【こちらも話題】 愛子さまの手にトンボがとまった瞬間、愛犬の由莉ものぞき込んだ 静養先の天皇ご一家 https://dot.asahi.com/articles/-/199535
夫婦の危機を「片付け」で関係修復 夫婦円満のコツは「いい感じの距離感を保つ」こと
夫婦の危機を「片付け」で関係修復 夫婦円満のコツは「いい感じの距離感を保つ」こと 鈴木玲子さん(右)と鈴木順也さん(撮影/写真映像部・高野楓菜)    AERAの連載「はたらく夫婦カンケイ」では、ある共働き夫婦の出会いから結婚までの道のり、結婚後の家計や家事分担など、それぞれの視点から見た夫婦の関係を紹介します。AERA 2023年10月2日号では、Homeport COO・お片づけ習慣化トレーナーの鈴木玲子さん、NOW and HERE代表・ブランディングプロデューサーの鈴木順也さん夫婦について取り上げました。 *  *  *  2008年、夫38歳、妻28歳のときに結婚。現在、長女(12歳)と愛犬2匹と暮らす。 【出会いは?】2005年ごろ、仕事を通じて出会う。妻は化粧品メーカーのカタログ制作担当で、その制作を依頼した制作会社のグラフィックデザイナーが夫だった。 【結婚までの道のりは?】出会いから約半年後、夫が食事に誘ったことがきっかけで交際に発展。2年間の交際で結婚の意思は固まっていたが、式場予約の都合で3年後に結婚。 【家事や家計の分担は?】4、5年前から妻は出張が増え、夫は在宅作業が増えたことから家事分担が変わり、現在、夫は料理とキッチンの掃除、犬の散歩を、妻は部屋の掃除と洗濯、植物の手入れを担当する。財布は別々で、家計管理は妻が行う。 妻 鈴木玲子[43]Homeport COO お片づけ習慣化トレーナー すずき・れいこ◆1979年、神奈川県出身。大学卒業後、化粧品メーカーに就職し、東京本社では主に商品企画、福岡支部では人材育成に携わる。2018年に退職して整理収納アドバイザーになり、現職。家庭力アッププロジェクトトレーナーとしても活躍する  夫婦の危機、一度ありました。10年前、福岡に引っ越して2、3年経ったときのこと。今思えば、互いに初めて暮らす土地で職場も変わり、子守を頼めた親からも離れて、余裕がなかったせいだとわかります。が、当時の私は「自分だけ頑張ってる感」が強く夫を気遣えず……。変わらなくてはいけないと思い、苦手だった片付けの講座を受講。家と一緒に心の整理もつき、夫の頑張りに気づく余裕が生まれて関係修復に至れました。  その講座がきっかけで、私は整理収納アドバイザーの資格を取り、これを本業にしたいと思うように。前職とはかけ離れた分野への転職に躊躇しましたが、夫がやりたいことはやるべきだ、と。おかげで気持ちよく転職でき、娘に対しても、親の私がやりたいことをやるほうが、大人になることを楽しみにしてもらえてプラスだと気づけました。  こうして価値観をアップデートしてくれる夫に感謝です。私に負けず、やりたいこと(趣味のギター含む)をどんどんやってください! 鈴木玲子さん(右)と鈴木順也さん(撮影/写真映像部・高野楓菜)   夫 鈴木順也[53]NOW and HERE 代表 ブランディングプロデューサー すずき・じゅんや◆1970年、東京都出身。高校卒業後、国産カーディーラーに就職。独学でグラフィックデザインを学び、デザイン事務所や制作会社勤務を経て2022年に独立。ひとり起業家のブランディングプロデュースやデザインディレクションを手がける  雨降って地固まる。7、8年前の夫婦の危機を振り返ってそう思います。別れる覚悟をしたほど関係は悪化しましたが、間に入ってくれた弁護士さんが非常に淡々としていて、事務的な対応をされるたび、結婚生活の楽しかった思い出までリセットして本当にいいのか?と自問したことを覚えています。事務的すぎて不満に思うこともありましたが、おかげで別れずに済みました(笑)。  妻と自分はかなり違う性格で、妻はテキパキしていて物事の決断が速いのに対し、自分はマイペースで熟考したいタイプです。自分にとって、この違いが結婚の決め手の一つでした。似たタイプだと、補完し合えませんからね。仕事の話をするときも、違うタイプだからこその建設的な意見をもらえて助かります。  妻は今の仕事が好きなようなので、思い切りやって自分を輝かせてほしいと思います。互いにやりたいことをやるから認め合えるもの。これからも、いい感じの距離感を保つという理想を続けましょう。 (構成・茅島奈緒深) ※AERA 2023年10月2日号
「ねぇ、今日の夕食はなあに?」眞子さんと佳子さまもペロリと食べた 秋篠宮家元料理番の特製カレーレシピ
「ねぇ、今日の夕食はなあに?」眞子さんと佳子さまもペロリと食べた 秋篠宮家元料理番の特製カレーレシピ 赤坂御用地で家族団らんのひとときを過ごす秋篠宮ご一家。「パパ」の背中に抱きつく7歳の眞子さん。「幼い時期の佳子さまは、お姉さんについて回っていた」と宮田さん=1998年、宮内庁提供    天皇陛下の好物と言えば「カレー」が知られているが、昭和天皇や上皇さまなど皇室にカレー好きは多い。それは秋篠宮家でも同様らしい。天皇家と秋篠宮家で料理番を務めた宮田拓矢さんが、「食」を通じて浮かび上がる秋篠宮家の日常と宮家で作っていた特製カレーのレシピを教えてくれた。 *   *   * 「宮田さん。今日の夕ご飯は、なあに?」  ひょいっと厨房をのぞき込んできたのは、小さな眞子さん。まだ8歳か9歳の頃だ。 「ハンバーグですよ」  秋篠宮家の料理番を務めていた宮田拓矢さんが返事をすると、眞子さんはうれしそうな表情を見せながら、礼儀正しく「ありがとうございます」とお礼を伝えた。  眞子さんの洋服をつかみながら、うしろに隠れているのは佳子さま。学習院幼稚園に通っていたころで、姉の服を引っ張りながら後ろをついて回り、姉妹そろってよく厨房をのぞきにきていたという。   秋篠宮家、毎週火曜日はカレーの日 宮田拓矢さん=本人提供    宮田さんは、在ドイツ日本大使館の公邸料理人などの経験を経て、1999年に宮内庁管理部大膳課に。香淳皇后付となったが、2000年6月に香淳皇后が逝去すると、大膳課から「派遣」される形で秋篠宮家の料理番となった。   【こちらも話題】 佳子さま“ニッコリ笑顔”がTikTokで全世界に届くインパクト 「もう時代は変わった」と識者 https://dot.asahi.com/articles/-/206982 宮内庁大膳課のころの宮田さん=宮田さん提供    新しい料理番となった宮田さんに、秋篠宮妃の紀子さまはこんな条件を伝えた。 「週に1回、子どもたちにカレーを出してください」  秋篠宮家の食卓では、毎週火曜日がカレーの日に決まった。    紀子さまからは、二つの要望が伝えられた。「市販のカレールウを使わないこと」と「野菜を多く使うこと」である。  天皇家や宮家の食卓に並ぶ食事といえば、特別な献立を想像するかもしれない。しかし、市販の手軽なカレールウが使われることも珍しくなかったようだ。  宮田さんは、こう振り返る。 「妃殿下は、お子さま方に野菜をたくさん食べてほしいというお気持ちがあったのでしょう」  宮田さんは毎週、種類や味に変化をつけたカレーを秋篠宮家の食卓に出し続けた。  まだ幼い眞子さんと佳子さまの食がすすむよう、野菜を小さめに切った。リンゴやバナナ、乳製品で甘みとまろやかさを加えた欧風カレーが中心だが、チキンカレーやビーフカレー、秋にはきのこたっぷりのカレーも作った。眞子さんも佳子さんも、ペロリと食べてくれたという。 「何も残っていない白いお皿が厨房に戻ってくると、うれしくて胸をなでおろしました」   「日常の食事で結構ですよ」と秋篠宮さま  献立は、2週間ほど前に献立表をつくり、紀子さまの了解を得て決定する。 「天皇や皇族の食事というと、『豪華なものを召し上がっているのでしょう』と言われることも多いです。しかし、ごく普通の献立だと説明すると、みなさん驚きますね」    たとえば、夕食の献立は次のようなものだった。   ・ハンバーグ、サラダ、副菜、スープ、パンまたはご飯 ・魚の煮付け、野菜の煮物、みそ汁、漬物、ごはん    秋篠宮ご夫妻も、ごく普通の食事を望んだ。  フランスで料理を学んだ経験のある宮田さんは、あるときフランス料理風にアレンジを加えた食事を出したことがあった。  秋篠宮さまはひとこと、 「日常の食事で結構ですよ」  と、宮田さんに伝えたという。     須崎御用邸を散策中、眞子さん(右下)を追って海岸に降りようとする佳子さまに、あわてて手を差しのべる皇后さま(当時)と秋篠宮さま=1998年8月、静岡県下田市    さらに宮田さんにとって印象的だったのは、秋篠宮家のエコロジー(環境)への意識の高さだった。  紀子さまは、食材を無駄にすることを嫌った。たとえばプロの料理人は食材の形を均一にするが、その際に切りクズが発生する。ご夫妻は、そのまま破棄するようなことを好まなかった。  料理人がジャガイモやニンジンの皮をむいていると、紀子さまが聞いてきた。 「(野菜クズを)どうされるのですか」  宮田さんは、宮邸の裏に堆肥を肥料にするコンポストがあることを知った。20年以上前から秋篠宮家では、食材の皮までも有効に活用しようという意識があったのだ。   秋篠宮家で作った特製カレーのレシピ  特別豪華ではないが、皇室にふさわしい日常料理として、宮田さんはどんな工夫をしていたのか。宮田さんが秋篠宮家で作ったフルーツビーフカレーのレシピを紹介しよう(画像参照)。   宮田さんが秋篠宮家で作ったカレーのレシピ フルーツビーフカレーの材料。奥にあるリンゴとバナナで甘みを加える=宮田さん提供   <材料 4~5人分>(量は目安) 【カレーソース】  牛肉(250g)、トマト2個(450g)、ニンニク(1かけ)、ショウガ(1かけ)、タマネギ1個(180g)、ニンジン小1/2(70g)、チキンブイヨン(500cc)、塩・こしょう 【スパイス類】  カレー粉(3g)、パプリカパウダー(2g)、ターメリックパウダー(2g)、ガラムマサラ(2g)、クミンパウダー(2g)、ローリエ1枚 【隠し味の材料】  バナナ1/2本(50g)、りんご1/2個(100g)、ハチミツ(20g)、プレーンヨーグルト(大さじ1)、チーズ(30g)、醤油・ケチャップ・ウスターソース(各大さじ1g)     <作り方> (1)湯むきしたトマトを半分にカットして、種と皮を取りざく切りにする。(ニンジン、タマネギ)・(ニンニク、ショウガ)をみじん切りにして分けておく。 (2)深めの鍋でニンニクとショウガを香りが出るまで炒め、ニンジンとタマネギを加える。しんなりしたらトマト、スパイスとローリエの順番に鍋に入れる。 (3)リンゴ(種と芯を取る)とバナナをフードプロセッサーなどでなめらかにしたもの、肉以外のカレーソースの材料を順に加える。 (4)鍋が沸騰したら弱火で1時間煮る。冷めたらミキサーでカレーソースをなめらかにする。 (5)牛肉に塩とコショウで下味をつけて、フライパンでソテーする。鍋で温めたカレーソースに牛肉を加え、「隠し味」としてハチミツ、プレーンヨーグルト、チーズを入れて、醤油とウスターソースで味を調える。     トマトベースに、果物で甘みとまろやかさを出した欧風カレーだ。トマトの皮と種を取りのぞいて果肉だけを使うのは舌触りをよくし、水っぽくなるのを避けるため。カレー粉の他にスパイスを増やすことで、味に立体感が出るという。   秋篠宮家の食卓に並んだものと同じレシピで作ったフルーツビーフカレー=宮田さん提供    1日かけてつくったカレーソースを冷蔵庫で寝かせる。すると角が取れてまろやかな触感になるという。  もちろんプロの料理人は食中毒を起こさないために、細心の注意を払う。カレーソースを作った鍋は、即座に鍋ごと氷水につけながら、ソース全体が冷えるまでよく混ぜる。 「カレーソースを作ってすぐに冷蔵庫に入れればいいと誤解する人も少なくないのですが、冷蔵庫に入れてもソースの表面は冷えますが、中の温度は温かいままです。そこから菌が増殖します。だからカレーソースをかき混ぜて、全体を手早く冷やすことが大切なのです」(宮田さん)  冷蔵庫で保管する間も放っておくわけはなく、腐らないよう上下をかき混ぜる。  たとえばカレーは、ジャガイモやニンジンなど大きな塊の食材から腐りやすい。そのため宮田さんはカレーソースをピューレ状にして、食べる直前に大き目の具材を足す。   秋篠宮家の食卓に並んだものと同じレシピで作ったフルーツビーフカレー=宮田さん提供   「牛肉を鶏もも肉に代えれば、チキンカレーになる。秋ならばきのこ、夏は赤・緑のピーマンなど季節の野菜に火を通して食べる直前に加えると、変化がつきます。ぜひご家庭で試してみてください」 (AERA dot.編集部・永井貴子)   宮田拓矢(みやた・たくや)/牛肉料理店『Delica&Beefdish MIYATA』(愛知県岡崎市)オーナーシェフ。在ドイツ日本大使館の公邸料理人を経て、1999年に宮内庁管理部大膳課で香淳皇后付、2000年から秋篠宮家の料理人となる。東京三田倶楽部の副料理長などを経て、現職。秋篠宮家で作った「フルーツビーフカレー」は、『Delica&Beefdish MIYATA』で冷凍パックで購入可能。宮田さんの牛肉料理の一部は、愛知県岡崎市のふるさと納税でも取り寄せできる。   【こちらも話題】 愛子さまは赤いコートのクリスマスカラー 天皇陛下と雅子さまと「お忍び」でたずねたイルミネーションスポットはどこ? https://dot.asahi.com/articles/-/207282
奥田瑛二がホームレス状態だった不遇時代を語る「自分を取り戻すには『祠』に籠もる時間が大切」
奥田瑛二がホームレス状態だった不遇時代を語る「自分を取り戻すには『祠』に籠もる時間が大切」 夏井いつきさん《(c)sakura goto》と奥田瑛二さん《(c)Daisuke Miura (go relax E more)》    瀬戸内寂聴さんとの出会いをきっかけに俳句を始め、「寂明」という俳号まで授かった俳優の奥田瑛二さん。正岡子規について夏井いつきさんと語った『よもだ俳人子規の艶』(朝日新書)では、売れない俳優時代の話に。自分の中に引きこもることの大切さとともに、俳句との共通点を分析。本書から一部を抜粋、再編集し、紹介する。 *  *  * 【『よもだ俳人子規の艶』の記事はこちら】 #1 “子規とエロス”に奥田瑛二もどハマり?  #2 瀬戸内寂聴からの無茶ぶり「一筋縄ではいかなかった」 #3 奥田瑛二がホームレス状態だった不遇時代を語る #4 子規が歩いた遊郭の取り壊しに「何ともったいない」 #5 夏井いつきが奥田瑛二の監督的視点に感嘆 #6 誕生日にあえて吉原へ「あの侘しさといったら…」 #7 「子規の姿勢は映画監督と重なる。意図された技に近い」 #8 子規の俳句は『ハリー・ポッター』の絵画と同じ? #8 奥田瑛二が我流で句作を三十年続ける“快感”とは? #10 奥田瑛二がほれ込んだ「正岡子規のダンディズム」 #11 生誕156年、正岡子規の「よもだ」の魅力とは? 夏井:奥田さんには三つの名前があるわけだけど。本名の「安藤豊明」さんと、「寂明」さんと、そして芸名の「奥田瑛二」さん。  この中で、芸名の「奥田瑛二」とは、安藤さんにとってどういう存在なの? 奥田:「奥田瑛二」の名は、僕にとって弾道ミサイルみたいなもので、一番エネルギッシュで、どこにでも容赦なく飛んでいける装置かな。 夏井:え、弾道ミサイルってそういうものだった? 奥田:いえ、違います(笑)。ちゃんとした弾道ミサイルは、予め設定した地点を目指すんだけど、僕のミサイルは縦横無尽に飛んでいくようなイメージ。現世の森羅万象の中で、「奥田瑛二、一号」がずっと空を飛びまわっている。 夏井:ちなみに「奥田瑛二」の芸名はどうやって決めたの? 奥田:これも人から授けられて。 夏井:奥田さんは授けられる人生なんだ。他にも授けられたものが多そうだけど(笑)。 奥田:ええ、家も妻に授けられました(笑)。若い頃から俳優を目指すも、不遇時代はホームレス状態で、妻に出会って救われたんです。 夏井:奥様の惚気話が始まりそう……(笑)。 主観と客観 奥田:とはいえ、「不遇時代」だって楽しかったなあ。自分が一番やりたいことを貫くためなら、どんな日常だって卑屈にはならないでしょ。むしろ今となっては、あの頃の経験を感謝しているくらい。  僕は人生で、「祠」に籠もる時間がとても大事だと思っていて。天照大神は天岩戸に籠もったでしょう? 真っ暗な空間に一人籠もっていると、いろいろなことを考える。子宮回帰現象です。まっさらな自分に向かい合って、「自分とはどういう人間」で、「本当は何をしたいのか」を自問自答する。  そのうちに、外野が気になりだす。他の皆が、楽しくにぎやかに生きているのが聞こえてきて、おもむろに耳を澄まして外を眺める。そして、再び外に一歩二歩と、歩み出していける。 夏井:「祠」的な時間が必要なんだね。外界で働いたり遊んだりするばかりでなく、人生一度くらい自分の中に引きこもってもいいよと。 奥田:一度と言わず、二度や三度でも(笑)。漆黒の闇の底に落ち込んで、膝を抱えて、恐怖心やら不安やらにとことん付き合って這い上がってきた人間は、岩戸に隠れる前よりも、ずっと強くなっているはず。  こういう体験は、古今問わず必要とされてきたのに、現代は違います。一人で籠もれるような祠もなければ時間的余裕もない。あるいは一度「引きこもり」になっちゃったが最後、今度は表に出ていくタイミングを見つけられずに苦しんでしまう。  僕のオススメは、日常生活に身を置きながら、自分の分身を「心の祠」にポイッと入れるのを「習慣にすること」。 「俺は今、会社で仕事をしているけれど、お前さんはちょっと祠に籠もっていてくれ。そして自分自身を見つめてくれ」、と。  訓練でそれができるようになると、長時間引きこもらなくても、本来の自分を取り戻せるんじゃないかと。 夏井:面白いなあ。普段から自分の心の「祠」に、自分をちょっとだけ閉じこめる習慣を持つんだ。 奥田:子規も「主観」と「客観」について語っているように、「自分」は必ず二人いる。普段は「主観」で物事を感じ、活動しているけれど、一方でそれを「客観」的に眺めているもう一人の「自分」がいる。「祠」に籠もることが、まさに客観なんだと。俳句って、「主観」と「客観」を分離するところからだと思うんです。 夏井:まさに、俳句を始めた人は、「あ、自分の中にはもう一人の『自分』がいるんだ。主観と客観があるんだ」と気づき始めるよね。  たとえば、綿虫を見て、「あ、これが噂に聞く季語の綿虫というやつか」と気づくのが「認識」の第一歩。これまで、小さいのが綿みたいにフワフワ飛んでいる鬱陶しいだけの存在だったのが、俳句を始めた瞬間、季語の綿虫としてしっかりと認識されるわけ。  次に来るのが「観察」。「いったいどう表現したら、綿虫を知らない人の脳裏にも、映像として変換されて、ありありと見えるか」と。しげしげと綿虫を眺め始める。  ここで重要なのは、「客観的に観察すること」。つまり「客観視」なんだけど、客観視で最も難しいのが、自分自身を眺める時。隅から隅まで見知っているはずの「自分」が、一番見えていなかったりする。ましてや、自分が自身に対して「カッコいい自分」を演じてしまっていると、「素の自分」を、なかなか客観視できない。どこまでも主観的な自分で突っ走ってしまう。  そういう意味では、子規の客観視のレベルは、凡人を超越しているよね。最後には「自分が死ぬ」瞬間の光景さえ、「客観視」してしまうんだから。 糸瓜咲て痰のつまりし仏かな 奥田:すごいなあ。〈仏〉と言っちゃうんだ。 夏井:死にかけている自分を、幽体離脱のように天井の端っこから眺めている。これが本当の「客観視」。子規にとっては、もはや自分が死ぬことすら、一つの興味の対象になっていたんだろうなと。子規の辞世の句は、俳句をやっている人間にとっては、究極の到達点だよね。  俳人にとっては、自分がどんどん老いていく、その過程すらも興味の対象となっていく。老眼鏡がないと本が読めないとか、ちょっとした坂でもハアハア息切れがするとか。主観的には嫌なことには違いないんだけど、客観的には興味の対象なの。 奥田:心の鍛錬を積み重ねていけば、僕もそこまで行けるんじゃないかな。 夏井:身も心も鍛錬してダンディをこなしてきた奥田さんなら、一歩有利(笑)。 奥田:つけ加えると、「ダンディズム」は「ナルシシズム」ではない。鏡を見てポーズ付けて、「俺はいい男だ」と悦に入っているのとは全然違う感覚だから。 夏井:自分に酔う「ナルシシズム」は、客観視ではない。 奥田:子規の最期の光景なんか、職業柄か、つい映像が浮かんできちゃうんです。根岸の子規庵で、病床に臥せり、もう黄泉の国のほとんど三途の川付近にいる子規が、辞世の三句を詠んでいく。 糸瓜咲て痰のつまりし仏かな 痰一斗糸瓜の水も間にあはず をととひのへちまの水も取らざりき  五七五という世界最短の文学に、己を凝縮する。最期のエネルギーを俳句に託す一人の男の姿を、どうしても想像してしまいます。 夏井いつきさんと奥田瑛二さん、松山/出逢いのスナップ 【『よもだ俳人子規の艶』の記事はこちら】 #1 “子規とエロス”に奥田瑛二もどハマり?  #2 瀬戸内寂聴からの無茶ぶり「一筋縄ではいかなかった」 #3 奥田瑛二がホームレス状態だった不遇時代を語る #4 子規が歩いた遊郭の取り壊しに「何ともったいない」 #5 夏井いつきが奥田瑛二の監督的視点に感嘆 #6 誕生日にあえて吉原へ「あの侘しさといったら…」 #7 「子規の姿勢は映画監督と重なる。意図された技に近い」 #8 子規の俳句は『ハリー・ポッター』の絵画と同じ? #8 奥田瑛二が我流で句作を三十年続ける“快感”とは? #10 奥田瑛二がほれ込んだ「正岡子規のダンディズム」 #11 生誕156年、正岡子規の「よもだ」の魅力とは?   ●夏井いつき(なつい・いつき) 1957年愛媛県生まれ。俳人。俳句集団「いつき組」組長。8年間の中学校国語教師を経て俳人へ転身。94年「第8回俳壇賞」、2000年「第5回中新田俳句大賞」受賞。創作活動に加え、「句会ライブ」や講演など、俳句の種まき運動の傍ら、MBS「プレバト!!」など各メディアで幅広く活躍。15年より初代俳都松山大使。主な著書に、『句集 伊月集 鶴』『夏井いつきのおウチde俳句』(共に朝日出版社)、『夏井いつきの世界一わかりやすい俳句の授業』(PHP研究所)、『子規365日』(朝日文庫)、『瓢簞から人生』(小学館)など。   ●奥田瑛二(おくだ・えいじ) 1950年愛知県生まれ。俳優・映画監督。79年映画『もっとしなやかにもっとしたたかに』で初主演。86年『海と毒薬』で毎日映画コンクール男優主演賞、89年『千利休 本覺坊遺文』で日本アカデミー主演男優賞を受賞。94年『棒の哀しみ』ではキネマ旬報、ブルーリボン賞など8つの主演男優賞を受賞する。2001年監督デビュー。近年の出演作に、主演映画『洗骨』(19年/照屋年之監督)、連続テレビ小説「らんまん」(23年度前期/ NHK)などがある。主な著書に、『男のダンディズム』(KKロングセラーズ)、『私の死生観』(共著/角川oneテーマ21)など。
奥田瑛二が受けた瀬戸内寂聴からの無茶ぶり「一筋縄ではいかなかったですよ、こちらは」
奥田瑛二が受けた瀬戸内寂聴からの無茶ぶり「一筋縄ではいかなかったですよ、こちらは」 生前の瀬戸内寂聴さん    俳優や映画監督としてだけでなく、俳人としても知られる奥田瑛二さん。夏井いつきさんとの子規トークをまとめた『よもだ俳人子規の艶』(朝日新書)では、正岡子規の句について語っているうちに、話題は奥田さんが俳句を始めた意外なきっかけに。本書から一部を抜粋、再編集し、紹介する。 *  *  * 【『よもだ俳人子規の艶』の記事はこちら】 #1 “子規とエロス”に奥田瑛二もどハマり?  #2 瀬戸内寂聴からの無茶ぶり「一筋縄ではいかなかった」 #3 奥田瑛二がホームレス状態だった不遇時代を語る #4 子規が歩いた遊郭の取り壊しに「何ともったいない」 #5 夏井いつきが奥田瑛二の監督的視点に感嘆 #6 誕生日にあえて吉原へ「あの侘しさといったら…」 #7 「子規の姿勢は映画監督と重なる。意図された技に近い」 #8 子規の俳句は『ハリー・ポッター』の絵画と同じ? #8 奥田瑛二が我流で句作を三十年続ける“快感”とは? #10 奥田瑛二がほれ込んだ「正岡子規のダンディズム」 #11 生誕156年、正岡子規の「よもだ」の魅力とは? 夏井:そもそも奥田さんが、俳句をやろうと思ったきっかけは何だったの? 奥田:俳句との出合いは三十代半ばで、ちょうど、テレビドラマの『金曜日の妻たちへIII』や『男女7人夏物語』に出演していた頃ですね。一年間、月刊誌『家庭画報』で著名な方々と対談するホスト役を仰せつかっていて、京都の瀬戸内寂聴さんを訪ねたんです。  最初は超ビビっていたのですが、そこは寂聴さん、見事でしたね。対談が始まった三十分後には、「ブランデー持ってきて」と(笑)。真っ昼間に、いい感じに飲みながら対談をさせていただいたんです。取材終了後、「今日はあなたがいらっしゃると聞いて、素晴らしい山の料理屋さんを用意したのよ」と。 夏井:いいね、いいね。 奥田:ところが、そこからが一筋縄ではいかなかった。寂聴さんの庵、「寂庵」の本堂を降りたところで、やおら振り返ってこう仰った。 「あ、ちょっと待って。奥田さん、一句詠んで」 夏井:そう来たか!(笑) 奥田:「はぁ?」ですよ、こっちは。 「俳句を一句詠んで。それを詠まなければ、今晩のご馳走はナシ」 「い、今ですか?」 「そう今。タクシーに乗るまでの間。そこの門で待っているから、それまでに詠んでね」 「え……」 夏井:寂聴さんでしか書けない筋書きだ(笑)。 奥田:門まで三十メートルくらいで、何か特別なことなんて起きようもない。途方にくれていたその瞬間、「ホーホケキョ」と鶯の鳴き声が聞こえてきた。見渡せば、周囲には竹の生け垣、その向こうには林の借景。どうやらそこから聞こえてくる。その瞬間、「救われた!」と。 「こっちよ、お乗りなさい、早く」と寂聴さんに声をかけられ、ダダダッと駆けていくとひと言確認のお言葉、 「できたの?」 「はい、できました」 「なら、お乗りなさい」  何とか無事にタクシーが発車しました。 夏井:寂聴さんは、その潔さを見たかったのかもね。 奥田:車が走り始めたら、今度は「ねえ、あなた、名前なんておっしゃるの?」って。 夏井:さんざん対談した後なのに? 奥田:ええ、さすがに「何を今更……」と内心思いながら、「奥田ですけど……」と応えたら、「違う違う、それは本名じゃないでしょ。俳優さんの時の名前でしょう。私が聞いているのは、本名」と。思わず、背筋が伸びちゃった。 夏井:そうか。芸名ではない、本名を知りたかったんだ。 奥田:「安藤豊明と申します」と答えたら、「あ、そう、ふーん」と黙り込んでしまわれた。いったい何なんだ? と首を傾げていたら、三度目の問いが飛んできた。 「で、できた句はどんな句? 言いなさい」 夏井:私もそれが聞きたい。 奥田:今でもちゃんと、覚えていますよ。 鶯の鳴けるやさしさ我に無し 夏井:ほうほう。 奥田:あ……寂聴さんの反応もそんな感じだった(笑)。「あ、そう。あ、そう」と、またもや黙ってしまわれた。その三十秒後くらいかな、再び振り返って仰った。 「あなた、俳句をおやりなさい。これまで俳句を詠んだことはあるの?」 「ありません、小学校で習ったぐらいです」 「あら、そう。今日から詠みなさい、俳句をね」と。 夏井:それが出発点なんだ。とってもいい話。 奥田:実は続きがあって……、「あなた、豊かに明るい『豊明』という名前なのよね。じゃあ、俳号を差し上げます」。 夏井:うわっ、俳号いただいたんだ。 奥田:それが「寂明」という俳号です。寂しくて、明るい。 夏井:へえ。「寂」が付いているということは、ご自分の弟子と認めてくださったわけだ。すごい。 奥田:そんな立派な俳号を頂戴しながら、忙しさにかまけて、しかも生来がチャランポランな性格なので、それにふさわしい俳句詠みに成長していない……というのが今の状態です。 夏井:奥田さんが俳句を詠む時は、寂明さんなの? 奥田:深い号を頂いたな、と今でもドキッとします。「寂しい」も「明るい」も、どちらも自分の奥底を言い表しているから。  でも、いまだにこの俳号を記すことを自分には許していなくて。俳句は自己流に好き勝手に詠んでますけど……。 夏井:ためらっているの? 奥田:自分にはまだ、「寂明」を名乗る資格がないと思ってて、どうしても「瑛二」って書いちゃうんです。 夏井:分かるような気がするなあ。寂聴さんが「あなた、寂明ね」と俳号をくださった。その有り難さが分かっているから、なおさら簡単に使えない。 奥田:まさにその通り。 夏井:俳号は、自分で付けても問題ないものだから、先生から頂いた場合には、それが自分と一体になるまでに時間が必要な場合もあるんだろうね。 奥田:先日も色紙に「瑛二」と記したら、ある人から「なんで『寂明』とお書きにならないんですか」と訊かれまして、「いや、瑛二でいいんです」としか応えなかった。だって、いろいろ説明すると最悪の場合、「自分にしっくりこないから、使っていない」と思われてしまう可能性もある。それは避けたかった。 「寂明」という俳号は、「自分を支えてくれる」と言ってもいいほど、寂聴さんから頂いた人生の宝物なんです。  僕は俳優からスタートして、絵描きにもなって、映画監督もしているけど、「死ぬ間際までできるのは、監督業だけ」と思っている。なぜなら俳優や絵描きは、途中で体力が尽きてしまう可能性が高いから。長いセリフが覚えられなくなったり、思うように体が動かせなくなったり、絵描きだって結構な体力を使うからね。  そう考えると、俳句も、死ぬまでずっと続けられるなと。僕にとっては、唯一の文学でもあるし。だから独学とはいえ、品性を保ちながら詠んでいきたいんです。 夏井:それが、奥田さんが俳句をやる時に自分にかけた「枷」なんだ。 奥田:はい。むしろ俳句は、枷をかけて一生続ける価値があると。だからかな……「寂明」という俳号は非常に恐れ多くもあり、同時に力づけてもくれる。今、自分から名乗らない理由は、この俳号が真に僕の原動力であるからかもしれない。 夏井:ズドンと腹に収まる話だったなあ。 【『よもだ俳人子規の艶』の記事はこちら】 #1 “子規とエロス”に奥田瑛二もどハマり?  #2 瀬戸内寂聴からの無茶ぶり「一筋縄ではいかなかった」 #3 奥田瑛二がホームレス状態だった不遇時代を語る #4 子規が歩いた遊郭の取り壊しに「何ともったいない」 #5 夏井いつきが奥田瑛二の監督的視点に感嘆 #6 誕生日にあえて吉原へ「あの侘しさといったら…」 #7 「子規の姿勢は映画監督と重なる。意図された技に近い」 #8 子規の俳句は『ハリー・ポッター』の絵画と同じ? #8 奥田瑛二が我流で句作を三十年続ける“快感”とは? #10 奥田瑛二がほれ込んだ「正岡子規のダンディズム」 #11 生誕156年、正岡子規の「よもだ」の魅力とは?   夏井いつきさん(左)と奥田瑛二さん。松山/出逢いのスナップ ●夏井いつき(なつい・いつき) 1957年愛媛県生まれ。俳人。俳句集団「いつき組」組長。8年間の中学校国語教師を経て俳人へ転身。94年「第8回俳壇賞」、2000年「第5回中新田俳句大賞」受賞。創作活動に加え、「句会ライブ」や講演など、俳句の種まき運動の傍ら、MBS「プレバト!!」など各メディアで幅広く活躍。15年より初代俳都松山大使。主な著書に、『句集 伊月集 鶴』『夏井いつきのおウチde俳句』(共に朝日出版社)、『夏井いつきの世界一わかりやすい俳句の授業』(PHP研究所)、『子規365日』(朝日文庫)、『瓢簞から人生』(小学館)など。   ●奥田瑛二(おくだ・えいじ) 1950年愛知県生まれ。俳優・映画監督。79年映画『もっとしなやかにもっとしたたかに』で初主演。86年『海と毒薬』で毎日映画コンクール男優主演賞、89年『千利休 本覺坊遺文』で日本アカデミー主演男優賞を受賞。94年『棒の哀しみ』ではキネマ旬報、ブルーリボン賞など8つの主演男優賞を受賞する。2001年監督デビュー。近年の出演作に、主演映画『洗骨』(19年/照屋年之監督)、連続テレビ小説「らんまん」(23年度前期/ NHK)などがある。主な著書に、『男のダンディズム』(KKロングセラーズ)、『私の死生観』(共著/角川oneテーマ21)など。  
「逆転」の訪問?愛子さまが紀子さまの誕生日のお祝いに駆け付けた理由 皇室の序列とは
「逆転」の訪問?愛子さまが紀子さまの誕生日のお祝いに駆け付けた理由 皇室の序列とは 秋篠宮妃紀子さまの誕生日に、お祝いのあいさつをするため赤坂御用地に入る天皇、皇后両陛下の長女愛子さま=9月11日、東京都港区、代表撮影    天皇ご夫妻の長女愛子さまが9月11日、誕生日を迎えた秋篠宮妃の紀子さまへのあいさつのため、赤坂御用地をたずねた。天皇や上皇に近い「内廷皇族」の内親王が宮妃を訪問したことに驚いた人も少なくなかったようだ。皇室の序列である「ご身位(しんい)」は、どうなっているのか。 *   *   *  ピンクの帽子をかぶり、赤坂御用地を訪問した愛子さま。にっこりほほえむ様子が「可愛らしい」と話題になった。  この日、愛子さまが帽子をかぶっていたのには理由がある。皇室では、「相手を訪問する」立場である時には帽子を着用し、自身の住まいなどで相手を迎える場合には帽子はかぶらないという慣習があるためだ。  一方で、驚きをもって、このニュースを見ていた人も少なからずいた。  元宮内庁職員で皇室解説者の山下晋司さんは、「このニュースを見たとき、まずは『えっ』と思いました」。  というのも、愛子さまは内廷皇族の内親王。皇室の序列である「ご身位」を考えると、宮妃である紀子さまよりも「上」に思えるからだ。   紀子さまは摂政になれない  皇室の「ご身位」は、皇室典範などで明確に規定されているわけではない。一般参賀やご一家の写真の並び順、晩さん会の席順などが参考になるものの、実際にはわかりづらいものだ。  山下さんによると、皇室典範に記された皇位継承順位や摂政の序列が基準になると考えられるという。   【こちらも話題】 愛子さま「ピンクの帽子」に大きなリボン 提案したデザイナーが語った“ふんわり”の効果 https://dot.asahi.com/articles/-/201617  皇位継承順位でいえば、皇嗣で57歳の秋篠宮さまが第1位。そして第2位に長男で17歳の悠仁さま、3位に上皇さまの弟で87歳の常陸宮さま、と続く。  摂政は、天皇が未成年だったり、病気や事故などによって国事に関する行為を行うことができない場合に置かれるものだが、摂政を決める順序も皇位継承順位が優先される。  ここで興味深いのは、選ばれる候補に女性皇族も含まれる点だ。  皇室典範では、「親王及び王」の次に、「皇后」、「皇太后」、「太皇太后」、「内親王及び女王」が続く。現在の女性の皇室メンバーだと、雅子さま、上皇后の美智子さま、そして愛子さまとなる。 「紀子妃殿下や常陸宮家の華子妃殿下、三笠宮家の百合子妃殿下など、皇室の外から皇族に嫁がれた宮妃には摂政の資格がありません。ただし、皇后となった方は別格です」  と、山下さんは解説する。   もっとも皇后に近いのは紀子さま  こうして見ると、序列が「上」に思える愛子さまが、なぜ紀子さまを訪問する形になったのか。  重要なのは、紀子さまが「皇嗣妃」である点だ。  皇嗣は、皇太子待遇の称号。つまり紀子さまは、皇太子妃と同格の妃で、将来の皇后に一番近い存在ということになる。   【こちらも話題】 愛子さまの帰京時のワンピースは「GU」で2490円!? ファストファッションでも品と清潔感 https://dot.asahi.com/articles/-/200955  愛子さまが紀子さまを訪ねたような「逆転」の訪問には、前例もあるようだ。  山下さんによると、平成の時代にも、当時の天皇ご夫妻の長女の紀宮さま(黒田清子さん)が、皇太子妃だった雅子さまの誕生日に、東宮御所へお祝いのあいさつに訪問したことがあったという。  山下さんは、こう続ける。 「紀宮殿下が皇太子妃殿下を訪問されたのは、次の皇后というお立場の方だからでしょう。今回、愛子内親王殿下が紀子妃殿下を訪問されたのも、それと同じ考えだと思います」    2021年に成人皇族となった愛子さまは9月、皇室に関する重要事項を審議する皇室会議の皇族議員の選挙に際し、初めて「立会人」の務めを果たした。皇室と愛子さまの動向に、国民の関心は高まるばかりだ。 (AERA dot.編集部・永井貴子)     【こちらも話題】 紀子さま57歳に 教育方針は「普通の子と同じように」 眞子さん、佳子さまに示した母の姿 https://dot.asahi.com/articles/-/200982  
苦しむ甲子園V投手も 大学・社会人に進んだ「高校生ドラフト候補」順調に成長しているのは
苦しむ甲子園V投手も 大学・社会人に進んだ「高校生ドラフト候補」順調に成長しているのは 履正社時代の清水大成  あと約1カ月に迫った今年のドラフト会議。高校生の目玉である佐々木麟太郎(花巻東)は現時点でプロ志望届を提出しておらず、日本だけでなくアメリカの大学への進学も選択肢に入っていると報道されている。結論は提出期限となる10月12日のギリギリまで出ないと見られており、指名を検討している球団にとっては悩ましい日々が続くことになりそうだ。  これまでも佐々木ほど高い評価を得ていなくても、高校の時点でドラフト指名が有力視されながら進学を選択するケースは少なくない。しかし大学や社会人で思うような成長が見られず、苦しむ選手が多いことも確かだ。そんな中でも高校時代をさらに上回る評価を得ている選手は誰がいるのだろうか。  今年の候補でまず名前が挙がるのが度会隆輝(横浜→ENEOS・外野手)だ。横浜高校入学前から天才的なバットコントロールには定評があったが、高校3年時はコロナ禍で多くの公式戦が中止になった影響もあってプロ志望届を提出しながら指名は見送られた。しかし社会人きっての名門であるENEOSでも早くからレギュラーを獲得すると、2年目の昨年は都市対抗で4本塁打を放ってチームを優勝に導き、MVPにあたる橋戸賞を受賞。  今年は厳しいマークもあって都市対抗本選では2試合で1安打に終わったが、それ以外の大会では安定した打撃を見せている。また守備や走塁に関しても高校時代と比べて明らかにレベルアップしたこともプラス材料だ。数少ない即戦力が期待できる野手であり、1位指名の可能性も高いだろう。  大学4年生で順調な成長を見せてきた選手では上田大河(大商大高→大阪商業大・投手)の名前が挙がる。高校時代は全国的にはそこまで名前が知られていたわけではないが、当時から140キロ台中盤のスピードをマークしており、3年春には近畿大会でも好投。大学の付属高校で早くから進学が決まっていたためスカウト陣は完全に静観モードだったものの、もしプロ志望であれば十分に支配下で指名される実力の持ち主だった。  大学でも早くから主戦になると、昨年、今年と2年続けて大学日本代表にも選出。ストレートは150キロ前後までスピードアップし、鋭く変化するカットボールも一級品だ。先日の秋のリーグ戦でもノーヒットノーランを達成し、強烈なアピールを見せている。関西の大学ではナンバーワン投手と評価する声も多く、こちらも上位指名が期待できそうだ。  度会、上田に比べると少し評価が難しいものの、高校時代に続いて大学でもドラフト候補になっているのがともにU18W杯に出場した池田陽佑(智弁和歌山→立教大・投手)と熊田任洋(東邦→早稲田大・内野手)の2人だ。池田は早くから先発を任され、リーグ戦での経験値は十分だが、調子の波が大きくなかなか安定しない印象が強い。持ち味である打者の手元で動くボールで試合を作る能力はあるものの、プロで勝負できる絶対的な強みがほしいところだ。  一方の熊田も下級生の頃から中心選手としてプレーしているが、一時はショートからセカンドに回るなど順風満帆だったわけではない。今年の春は結果を残し、大学日本代表にも選ばれているものの、こちらもそこまで評価を上げられなかったという印象だ。ともに大学からのプロ入りは当落線上というのが現状だろう。  下級生で順調な成長を見せているのが篠木健太郎(木更津総合→法政大・投手)だ。高校時代は入学直後から投手陣の一角に定着。3年夏は千葉県の独自大会でも優勝投手になっている。当時から140キロ台中盤のストレートと鋭く変化するスライダーは超高校級で、プロ志望であれば3位程度で指名されていた可能性が高かっただろう。  しかしそんな声をかき消すように法政大では着実にスケールアップを果たし、自慢のストレートは150キロ台中盤をマークするまでになっている。スピードの割に三振が少なく、決め球には課題が残るものの、ボールの力は豊作と言われる今年の4年生を含めてもトップクラスであることは間違いない。来年の大学球界を代表する投手になりそうだ。  その一方で、大学で苦しんでいる選手も少なくないが、代表格がともに早稲田大に進学した飯塚脩人(習志野→早稲田大・投手)と清水大成(履正社→早稲田大・投手)の2人だろう。飯塚は3年春にセンバツ準優勝を果たし、U18W杯では抑えとして活躍。清水も3年夏にエースとして甲子園優勝を経験している。しかしともに大学では故障やフォームを崩したことでなかなか結果を残せず、現在の主戦はスポーツ推薦での入学ではなかった加藤孝太郎(下妻一)が務めている。飯塚、清水ともに卒業後の進路は未定だが、高校時代の輝きを取り戻してもらいたいと願っているファンも多いだろう。  高校からプロ入りするか、大学や社会人を経由するかという点については正解のない問題だが、その選手に適した進路やプロ入りするタイミングというのは間違いなくあることは確かである。不本意な形で結果を残せずに後悔することなく、納得のいく形で進路を選べる選手が一人でも多くなることを望みたい。(文・西尾典文) 西尾典文/1979年生まれ。愛知県出身。筑波大学大学院で野球の動作解析について研究。主に高校野球、大学野球、社会人野球を中心に年間300試合以上を現場で取材し、執筆活動を行っている。ドラフト情報を研究する団体「プロアマ野球研究所(PABBlab)」主任研究員。  
「自分は能力が低いと思っていた」 IQ132「ギフテッド」38歳男性が「二度の引きこもり」から脱出できた理由
「自分は能力が低いと思っていた」 IQ132「ギフテッド」38歳男性が「二度の引きこもり」から脱出できた理由 「ギフテッド」の竹中辰也さん(画像=本人提供)    ギフテッドと呼ばれる人たちがいる。高い知性や能力を発揮する一方で、発達の偏りや気性の激しさなど、さまざまな困難を抱えるケースも多い。好評発売中の書籍『ギフテッドの光と影 知能が高すぎて生きづらい人たち』(朝日新聞出版)では、そんなギフテッドたちの声を取り上げてきた。社会福祉法人で不登校・ひきこもり支援を行う竹中辰也さんも、IQ132を有する当事者だ。【前編】では自らの高い知能に気づかず、周囲に合わせようとして疲弊する学生時代の苦悩を聞いた。自分は普通よりも能力が低いんだ……そんな思いにとらわれ社会人では2度の引きこもりを経験した。だが、現在は「楽しく、自分らしく過ごせている」という。【後編】では引きこもりから脱出できたきっかけを取材した。 ※【前編】<小5で広辞苑を読破した「ギフテッド」男性を苦しめた「強すぎる想像力」 有名私立中高に入るも社会人では引きこもりに…>より続く *  *  *  同志社大学を卒業後、紳士服を取り扱うアパレル系企業に入社した竹中さん。希望した人材開発の仕事に携われたが、入社から程なくしてリーマンショックが発生し、部署が解体された。適性とは異なる販売の仕事で売り上げのプレッシャーをかけられ、顔の皮膚がボロボロになるなど強いストレスを感じるようになった。  それでもしばらくは耐えて働いたが、結局、会社を辞めた。その後、引きこもり生活に突入した。 【あわせて読みたい】 小学4年で英検準1級に合格した「ギフテッド」少年の生きづらさ 「正直、学校は好きじゃない」と適応に苦しみ 高校生のころの竹中さん(画像=本人提供)   「退職を機に、数年ぶりに実家に戻りました。両親はすごく歓迎してくれました。最初はかなり平和に過ごしていて、『失業手当の受給期間が終わったら、また働こう』と思っていました。ですが、受給が終わっても動きだすことはできませんでした。『初めて自分の意思でなにかをした』のが、僕にとっては退職だったからです。中学受験も大学進学も就活も、僕は周囲がやっていることを踏襲していただけでした。しかし退職は、初めて自分の意思で選んだ。だから、いざ決断した後に、どんな次の一歩を踏めばいいのかわからなくなってしまったんです」  最初は歓迎してくれていた父も、次第に態度を変化させた。竹中さんも反抗するかのように、両親とは一切口をきかず、トイレに行く以外は自分の部屋から出なくなっていった。結局、最初の引きこもりは1年8カ月に及んだ。  その後、会社員時代の貯金が尽きかけたことで一念発起し、平日は職業訓練に通い、土日は派遣の仕事をするように。そんな日々を4カ月送ったのち、とある人材派遣会社のコピーライターの仕事についた。  ただ、その会社はいわゆるブラック企業だった。数カ月で退職し、再び実家に引きこもった。  転機となったのは、2度目の引きこもりの後に、若者支援の仕事についたことだった。竹中さんが28歳のころだった。 【あわせて読みたい】 「障害者はバカでいたらいいのかな」 IQ130台の「ギフテッド」で“ろう”の女性が小学生で受けた理不尽ないじめと葛藤 「任されたのは、『京都府南部の高校をすべてまわって、中退しそうだったり、卒業後に働かなさそうな子どもを支援センターに連れて来る』という仕事でした。しかし、入社して2カ月後に上司がメンタルダウンを起こし、いきなり僕が事業の責任者になったんです。『ここは普通の会社ではない』と思いつつ、周囲が助けてくれたこともあり、仕事はそれなりにうまくいきました。ただ、現場を理解してくれない経営側と対立することもありました。そうした経緯もあり、同業者の紹介で、大阪の引きこもり支援の事業者に転職しました」  難病の父が自宅で個人塾を開いた結果、中学生のころから子どもたちに勉強を教えていた竹中さん。人生の中で自然に培われたスキルは、支援の仕事に合ってはいたが、自身としては、”向いている”とは思えなかったという。 「自分は、人の気持ちをあまり気にせず、結構ズバズバ言ってしまう人間だと思っています。また、なじめるコミュニティーとなじめないコミュニティーの差が大きく、その性格が前職での退職にも結びついてしまいました。『うまく言えないけれど、自分は他の人と少し違うな』という感覚が、確信に変わってきたころでした」  だからこそ、自分について一度きちんと調べてみようと考え、知能検査(WAIS-Ⅳ)を受けることにした。「自分は能力が低くて困ってるのか? 低いなら、どんな能力なのか?」を知りたかった。職場で交流のある心理士にも「もし発達の偏りがあれば教えてね」と言われていた。結果は、「IQ132」。大きな衝撃だった。 11歳ごろの竹中さん(画像=本人提供)   「発達の偏りは特になく、知能の項目は全体的に高スコアでした。周囲より自分が優れているとは思ったことがないので、驚きました。なにかの間違いかと思って、『MENSA』(高IQ団体)の入会テストを受けたところ、入会できたことで現実を受け入れられました。ただそれと同時に『どうしたらいいんだろう……』という気持ちにもなって。『能力が低いから、自分はこんなに困ってるんだ』と思っていたので、いっそのこと『お前はダメな人間だ』って言ってくれほうが楽だったんですよね」  それでも、時間をかけて検査結果に向き合うことは、自分と向き合うことにつながった。 「『自分は今まで、やり方が違っただけなんだな』と思えたのは大きかったですね。例えば、それまでの自分は、他者が抱えた課題でも、勝手に解決しようとする節がありました。『問題が起きている間に、自分だけが解決してしまっている』みたいなことが、学校でも職場でも多かったんですよね。『職場での会議の時に、上司より先に解決策を出してしまう』とか『先生が黒板に問題を書いている間に、答えがわかってしまう』みたいな話です。過去の傾向から類推して答えを出していたわけですが、答えを言うのが早すぎた結果、逆に周りから変な目で見られたりしていたことに気づきました。自分がそれまで周囲に受け入れられなかったのはやり方が間違っていたからで、『会議をきちんとする』『きちんと上に説明する』など、社会通念的に適切なプロセスを踏めばうまくいくとわかったし、実際、その後は周囲とのズレも少なくなりました」  自身のことを高IQだとは一切思っていなかった竹中さんだが、知能検査の結果を聞いた周囲の人は「そうだよね」といった反応だったという。たとえば、妻はそのひとりだった。 「そうやと思ってたよ、って言われましたね」 【前編】で詳しく記したように、もともとの性格や一風変わった家庭環境もあり、子どものころから周囲にあまり自分の本音を話せてこなかった竹中さん。しかし、妻とは自然体な関係でいられている。 「ただ、もちろん受け入れられない時もありますよ。例えば、『世界中でゾンビパニックが起きたらどうする? 僕は、そんな世界でもうまく生き抜いていけるようなサバイバル力を身につけたい』みたいな話をした時とか。僕としては『鴨川だとゾンビを止められないかもしれない』とか結構真剣に考えてるんですけど、妻には『はいはい』『何言ってんの?』って軽く流されたり(笑)」  竹中さんの特性や個性とは、いい意味で適度な距離感を持ちつつ、付き合ってくれる妻には助けられているようだ。竹中さんのSNSには、妻や母との何げないやりとりが多くつぶやかれている。ある日は琵琶湖の花火大会に参加したり、またある日は母と音楽フェスに参加したり……そこにはこんな思いがある。 「どうでもいいことを、あえて積極的につぶやくようにしているんです。というのも、ギフテッドの話をすると『ものすごく大変な人』と思われることが多いから。たしかにこれまでの人生では大変な時期もあったけど、大変なのは他の人もそうですし、今は楽しく、自分らしく過ごせていますから」 9歳ごろの竹中さん(画像=本人提供)    ギフテッドに対する理解が少しずつ深まるなかで、知的能力の高さや才能などの「長所」だけでなく、発達の偏りや気性の激しさなどの「困難」にも目を向けられるようになってきている。しかし、その結果、今度は「人生がつらい人」といった見られ方が加速している面も否定できない。  ただ、竹中さんのように、大人になってから自分を深く理解し、自分らしく生きられるようになった人も存在しているのだ。  若者の引きこもり支援に関わる一方で、現在では成人ギフテッド当事者として発信活動もしている竹中さん。これまで『素顔のギフテッド』(NHK)、『かつて天才と呼ばれた子どもたち』(Abemaプライム)などの番組に出演したが、ギフテッドの子どもたちには温かい目線が向けられることを願っている。 「子どもたちには、いろんな道を持ってほしいなって思います。幼少期からギフテッドの自覚があることで、ギフテッドとして生きていくことを強いられるのは良くない。いろんなものに興味を持って、豊かな人生を築いていってほしいなと思います。生きることは、脳にとっては絶対楽しいことのはずなので。そして、できれば他者と一緒に生きていってほしい。誰もいない狭い道を歩むよりも、誰かとぶつかったとしても広い道を進んでいく、そんな生き方を知ってほしいなと感じています。同じ物事を違う目線でまた見てる人がいたりして、話が合って膨らんで……そういう喜びは、自分ひとりでは得られないことですから」 (岡本拓)
妻から「一緒に日本代表を目指そう」と言われて叶えた夢 「パドルボード」の世界一を目指す夫婦
妻から「一緒に日本代表を目指そう」と言われて叶えた夢 「パドルボード」の世界一を目指す夫婦 堀部雄大さん(右)と堀部結里花さん(撮影/写真映像部・高野楓菜)    AERAの連載「はたらく夫婦カンケイ」では、ある共働き夫婦の出会いから結婚までの道のり、結婚後の家計や家事分担など、それぞれの視点から見た夫婦の関係を紹介します。AERA 2023年9月25日号では、消防士でライフセービング選手の堀部雄大さん、ライフセービング選手の堀部結里花さん夫婦について取り上げました。 *  *  * 夫36歳、妻27歳のときに結婚。長女(1)と3人暮らし。 【出会いは?】妻が大学生の時、夫が所属するライフセービングチームに参画。当時は競技における先輩、後輩の関係だった。 【結婚までの道のりは?】競技を極めるために海外へ行った際のホームステイ先が、たまたま夫も妻も同じだったことがきっかけで親しくなっていった。 【家事や家計の分担は?】家事は基本、できる人ができることをする。夫の夜勤時、妻が家事全般をするため、在宅時は夫が率先して洗濯や料理などを担当している。財布は一つで、妻が管理。 夫 堀部雄大[40]稲城市消防本部 消防士 ライフセービング選手 ほりべ・たけひろ◆1983年、東京都八王子市出身。ライフセービングの競技歴は20年以上。2011年から現職。警防課に所属し、火災や救助活動などにあたったり、救急の現場では救急隊と連携したりする「ポンプ隊」の小隊長を務めている  結婚当初、世界で活躍する妻をサポートする立場を選びました。でも、妻から「一緒に日本代表を目指そう」と言われた時、「自分も同じ舞台に立ちたい」というチャレンジ心が芽生えました。  昨年の「パドルボード」の世界大会に2人そろって日本代表に選ばれ、さらに夫婦で出場したチームリレー部門では銀メダルを獲得。娘を抱いて3人で表彰台に立つことができ、感慨深かったです。  妻はよく、「私らしいママでありたい」と口にしています。人生は一度きり。やりたいことを我慢するのではなく、したいことをすることが大事だと思っているので、彼女の言葉に共感します。  最近、娘は泳いだりボードに乗って波を手でかいたりする様子をまねることも。僕たちが頑張っている姿を見てくれていると感じています。  遠征や大会で1週間ほど海外へ行く際、職場の皆さんがいつも応援してくれます。厳しい勤務態勢の中でも、集中して競技に打ち込めることがとてもありがたいです。 堀部雄大さんと堀部結里花さん(撮影/写真映像部・高野楓菜)   妻 堀部結里花[31]ライフセービング選手 ほりべ・ゆりか◆1992年、東京都八王子市生まれ。大学時代にライフセービングに出合い、選手として活動。2011年から現在まで、日本代表に選出。大学卒業後は、小学校や高校で保健体育教師などの仕事をしながら、競技活動を続けている 「水辺の事故をゼロにする」という目的を持つライフセービングには、競技活動もあります。種目は多岐にわたり、夫と私は今、ボードに乗って手で波をこいでスピードや技術を競うレースの「パドルボード」で、世界一を目指しています。  夫は自分より相手を優先する優しい人で、練習時間を削って私の練習を見てアドバイスをくれます。そんな夫を見ていた時、ふと、「同じ熱量で競技に取り組んだ方が面白いのでは?」と思い、「一緒に表彰台に上りたいな」という言葉がこぼれました。  夫婦で日本代表になると決め、昨年、その夢が叶いました。私は大学時代から日本代表として何度も表彰台に上りましたが、比べものにならないほど、うれしかったです。  日本では、ライフセービングに競技があること自体知られていないと感じます。今後、パドルボードを体験する機会を作り、競技の面白さ、そして、自分の身を自分で守ることの大切さを伝えていきたいです。 (構成・小野ヒデコ) ※AERA 2023年9月25日号
Fラン大卒、資格なし…ひきこもり経験のある30代女性が「働きたい」と語る理由
Fラン大卒、資格なし…ひきこもり経験のある30代女性が「働きたい」と語る理由 右肩下がりの経済、SNSの普及による人間関係の複雑化──。誰もが「7040」「8050」の当事者になりうる時代だ(写真:gettyimages) ※写真はイメージ    老親と中高年のひきこもりの問題が、社会課題として認知されるようになった。ひきこもりといえば、男性をイメージしがちだが、実は中高年では女性の方が多い。女性がひきこもる背景には何があるのか。AERA 2023年9月25日号より。 *  *  *  近年、女性のひきこもりが多いことにも注目が集まっている。内閣府の2022年度「こども・若者の意識と生活に関する調査」の調査によると、ひきこもり状態にある40~64歳のうち、女性は半数以上の52.3%。15~39歳でも、女性が45.1%を占めた。「KHJ全国ひきこもり家族会連合会」共同代表の山本洋見さんは、「数字が実態に追いつき、顕在化しただけで、以前から悩む女性は多かった」とした上で、こう指摘する。 「女性は独身であれば、家事手伝いや嫁入り修業中。主婦や子育て中では自ずと社会との接点があると思われがちでしたが、家族以外とは接点をもたず、必要最低限の外出しかしない人は多くいます」  16年から全国で「ひきこもりUX女子会」を主宰してきた一般社団法人「ひきこもりUX会議」代表理事の林恭子さん(57)は、女性がひきこもる理由と背景をこう説明する。 「良き娘、良き妻、良き母であることを求められ、さらにフルタイムで働いて社会で活躍することが最先端のような風潮があります。プレッシャーが非常に大きく、それをこなせない自分を徹底的に責めてしまったり、抱えている生きづらさを夫や家族がわかってくれないと感じたりすると、より孤独感が深くなってしまう」  その言葉にうなずくのは、都内の女性(38)だ。教育熱心な両親のもと、中学受験をして私立に入学したが、集団生活になじめず、低血圧な体質もあって遅刻と欠席を繰り返した。いつも怒っていた母は、中学の終業式の日に菓子折りを持って職員室までお詫びに行ったという。そんな姿を見た女性は、 「自分の努力不足だと落ち込みました。両親からは良い大学へ進み、きちんと正社員で働いてほしいという圧を感じていたけれど、進学できたのはFラン大学。授業中にお菓子を食べながらおしゃべりしているような環境で、ここは幼稚園なの?と。周囲の誰ともうまくいかなかった」  21歳で大学を中退し、ひきこもった。その頃、父が他界し、折り合いの悪い母との生活が始まった。体調が良くなれば、工場や印刷会社で派遣社員として働いたが、職場の人間関係に疲れることが多く、続かなかった。強いストレスを感じると散財してしまい、クレジットカードと携帯電話が止まったこともある。30歳の頃に病院で発達障害の疑いがあると指摘されて、「自分が悪いわけじゃなかった」と少しラクになったという女性は、いま仕事を探している。 AERA 2023年9月25日号より   「私はFラン大卒で資格がなく、実務経験もない。就職に強いカードを何も持っていません。でも、働きたいんです。コミュニケーションが苦手だから、接客は難しいし、できれば在宅でできる仕事がいい。1人暮らしもチャンスがあればしてみたい」  ひきこもりUX女子会を主宰する林さんはこう話す。 「コロナ禍を経て、リモートワークが定着したので、自分に合った働き方を多少見つけやすくなったのではないでしょうか。『親が生きづらさの原因であり、同時に命綱』という状態を脱するためにも、1人暮らしは大切な転機。各地にある空き家や団地を活用するなどした居住支援の体制もあればと思います」  林さんは高校2年から約20年ひきこもった経験がある。 「もう一度、生きていこうと思えるまで、それだけの時間が必要でした。一方で、青春が全くなく、失ったものがあまりに大きかったので、ひきこもりを『良い経験』とか『だから今がある』とは思っていません。再び社会とつながりやすくなるよう仕組みを整えていってほしい」(林さん)  家庭だけで抱え込まないことも重要だ。約30年間、ひきこもり支援を続けている「市民の会エスポワール」代表の山田孝明さん(70)は、 「子どもが50代になると、就職が格段に難しくなり、親も無理がきかなくなる。『8050』になる前の『7040』のうちに支援団体とつながっておくべきです」  と訴える。(編集部・古田真梨子) ※AERA 2023年9月25日号より抜粋

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