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愛子さまは愛馬「豊歓」の墓に花とニンジンを手向けた…命のふれあいからにじむ天皇ご一家の優しさ
愛子さまは愛馬「豊歓」の墓に花とニンジンを手向けた…命のふれあいからにじむ天皇ご一家の優しさ 21歳の誕生日に際しての愛子さま。愛子さまは小さな頃から馬に親しんできた=2022年、宮内庁提供    一般に公開される映像などから垣間見える天皇ご一家の「日常」には、犬や馬などの姿がよく見られる。楽しいときも困難なときも寄り添う身近な生き物たちは、ご一家にとって大切な存在になっている。 *   *   *  駅舎からトコトコと歩いてきた、7歳の愛子さま。その両腕からは、もこもこした子犬のお尻と尻尾がはみ出していた。   由莉は、生後2か月で保護犬としてご一家に引き取られた。大人しく愛子さまに抱っこされて初お披露目=2009年5月、栃木県のJR宇都宮駅、代表撮影    愛子さまが抱きかかえていたフワフワの子犬は、途中で雅子さまが交代。愛子さまの目線までかがんで受け取った雅子さまは、歩きながら、赤ちゃんをあやすように腕の中におさまる子犬を何度ものぞき込んでいた。   御料牧場に向かう皇太子(当時)ご一家。愛子さまから子犬の由莉をやさしく受け取る雅子さま=2009年5月、栃木県のJR宇都宮駅、代表撮影  愛子さまの愛犬「由莉」が、初めて一般の人の前に登場したのは2009年のゴールデンウィーク。栃木県の御料牧場での静養のため、ご一家はJR宇都宮駅に到着。その際に愛子さまが抱えていたのが、由莉だった。   【こちらも話題】 愛子さま夏のご静養先でのハプニング 大きすぎる愛犬を抱っこする姿に思わず歓声が https://dot.asahi.com/articles/-/199219   赤ちゃんをあやすように、何度も由莉の顔をのぞきこんだ雅子さま=2009年5月、栃木県のJR宇都宮駅、代表撮影    この年の2月、ご一家と長年暮らしていた愛犬の「まり」が、老衰でこの世を去った。そして同じ年の春、動物病院で保護されていた生後2カ月のメスの子犬が、ご一家のもとにやって来た。  「由莉」の名は、漢字を勉強した愛子さまが、「自由」の「由」と茉莉花(ジャスミン)の「莉」の字をあてたものだという。    由莉はその年の夏にも、成長した姿を見せた。  ぐっと体格がよくなった由莉は、7歳の愛子さまには重そう。愛子さまは、大切な「家族」を落とさないように何度もよいしょと抱え直しながら、出迎えた市民の前を歩いた。    由莉はご静養に何度も「同行」したほか、ご一家の誕生日の写真にもたびたび登場している。 46歳の誕生日をむかえる雅子さまと、当時皇太子だった陛下と愛子さま。由莉は甘えるように愛子さまに顔を向けていた=2009年、宮内庁提供    由莉が引き取られた09年の年末。雅子さまの誕生日に際しての写真には、ふた回りほど大きくなった由莉が、愛子さまに顔を向けて甘える様子が写っている。  皇太子だった陛下の11年の誕生日には、新しい家族となった猫を、ご一家と由莉が囲む場面もあった。ご一家の愛情を受けている様子がよく伝わってくる。     【こちらも話題】 愛子さまの手にトンボがとまった瞬間、愛犬の由莉ものぞき込んだ 静養先の天皇ご一家 https://dot.asahi.com/articles/-/199535   アニマルセラピー犬として活躍する由莉  由莉は、ご一家を支える存在でもあった。愛子さまが学習院初等科で欠席が続いた時期には、東宮御所の門から学習院初等科の正門まで、愛子さまと一緒に登校する姿があった。  由莉は、ご一家と暮らし始めてから、アニマルセラピー犬としての訓練を受けている。  もともと雅子さまは、アニマルセラピーに関心を寄せていた。長期療養が続いていた雅子さまも、治療の一環として皇居で乗馬を続けてきた。ご静養中も御料牧場に皇居から馬を輸送して、ご一家で乗馬を楽しむこともあった。  同じ時期、雅子さまは東京・築地にある聖路加国際病院を何度か訪れている。小児病棟で行われるアニマルセラピーに関心を持ち、現場を見学するためだった。そうした経験が、活動へとつながっているとみられる。   51歳の誕生日を迎える天皇陛下(当時、皇太子)と雅子さま、愛子さま。新たに家族になった猫に、由莉も興味津々=2011年、宮内庁提供    19年に秋田県を訪問した両陛下は、動物愛護センター「ワンニャピアあきた」を訪れている。そこで、雅子さまと懇談した女性が、犬と福祉施設などを訪れる活動をしていると話した。すると雅子さまは、 「うちの犬も、そういう活動をしているのですよ」  と、打ち明けた。由莉も、老人福祉施設やホスピス病棟を訪問する活動をしているのだという。  秋篠宮家の長女、小室眞子さんが結婚の前、両陛下へあいさつをするために御所を訪ねた。私的なお別れということもあり、由莉を連れた愛子さまも部屋にいた。家族が「全員」そろって、お別れのあいさつをしたのだろう。     【こちらも話題】 愛子さまが手づくり?愛犬「由莉」に「おにぎり柄」のバンダナ 絆の証のリンクコーデ https://dot.asahi.com/articles/-/202122   愛馬の墓に手向けた花とニンジン  馬も、ご一家にとって大切な存在だ。  ご一家は皇居や御料牧場で乗馬に親しみ、療養中の雅子さまを支えたのも馬だった。昨年、21歳の誕生日を迎えて公表された愛子さまの映像は、厩舎で馬の咲姫(さきひめ)にニンジンを与える場面だった。   21歳の誕生日に際しての愛子さま。愛子さまは小さな頃から馬に親しんできた=2022年、宮内庁提供    天皇ご夫妻が1994年に中東を訪れた際、オマーン国王からアハージージュという名前のアラブ馬を贈られている。そのアハージージュが産んだのが、愛子さまの愛馬となった豊歓(とよよし)だ。  今年4月、天皇ご一家は栃木県の御料牧場に滞在したが、そこには昨年末に死んだ豊歓のお墓がある。  愛子さまがずっとかわいがっていた豊歓も高齢になり、余生を過ごしていたのが御料牧場だった。墓にはたてがみと尾が納められており、愛子さまは墓に花とニンジンを供えたという。   3年8カ月ぶりとなるご静養で御料牧場に滞在し、馬にニンジンをあげる愛子さま=2023年4月、宮内庁提供    その御料牧場の滞在中、愛子さまはメスの子牛の出産に立ち会った。産まれた直前に虹が出たことから、愛子さまは子牛に「レインボー」と名前をつけた。  愛子さまはレインボーが立ち上がるまで見守り、子牛に母牛の乳を与えるなど、ご一家と生き物たちとの触れ合いが話題になった。  これからも身近な「命」が、天皇ご一家たちの支えになることだろう。 (AERA dot.編集部・永井貴子)   【こちらも話題】 愛子さまの手にトンボがとまった瞬間、愛犬の由莉ものぞき込んだ 静養先の天皇ご一家 https://dot.asahi.com/articles/-/199535
夫婦の危機を「片付け」で関係修復 夫婦円満のコツは「いい感じの距離感を保つ」こと
夫婦の危機を「片付け」で関係修復 夫婦円満のコツは「いい感じの距離感を保つ」こと 鈴木玲子さん(右)と鈴木順也さん(撮影/写真映像部・高野楓菜)    AERAの連載「はたらく夫婦カンケイ」では、ある共働き夫婦の出会いから結婚までの道のり、結婚後の家計や家事分担など、それぞれの視点から見た夫婦の関係を紹介します。AERA 2023年10月2日号では、Homeport COO・お片づけ習慣化トレーナーの鈴木玲子さん、NOW and HERE代表・ブランディングプロデューサーの鈴木順也さん夫婦について取り上げました。 *  *  *  2008年、夫38歳、妻28歳のときに結婚。現在、長女(12歳)と愛犬2匹と暮らす。 【出会いは?】2005年ごろ、仕事を通じて出会う。妻は化粧品メーカーのカタログ制作担当で、その制作を依頼した制作会社のグラフィックデザイナーが夫だった。 【結婚までの道のりは?】出会いから約半年後、夫が食事に誘ったことがきっかけで交際に発展。2年間の交際で結婚の意思は固まっていたが、式場予約の都合で3年後に結婚。 【家事や家計の分担は?】4、5年前から妻は出張が増え、夫は在宅作業が増えたことから家事分担が変わり、現在、夫は料理とキッチンの掃除、犬の散歩を、妻は部屋の掃除と洗濯、植物の手入れを担当する。財布は別々で、家計管理は妻が行う。 妻 鈴木玲子[43]Homeport COO お片づけ習慣化トレーナー すずき・れいこ◆1979年、神奈川県出身。大学卒業後、化粧品メーカーに就職し、東京本社では主に商品企画、福岡支部では人材育成に携わる。2018年に退職して整理収納アドバイザーになり、現職。家庭力アッププロジェクトトレーナーとしても活躍する  夫婦の危機、一度ありました。10年前、福岡に引っ越して2、3年経ったときのこと。今思えば、互いに初めて暮らす土地で職場も変わり、子守を頼めた親からも離れて、余裕がなかったせいだとわかります。が、当時の私は「自分だけ頑張ってる感」が強く夫を気遣えず……。変わらなくてはいけないと思い、苦手だった片付けの講座を受講。家と一緒に心の整理もつき、夫の頑張りに気づく余裕が生まれて関係修復に至れました。  その講座がきっかけで、私は整理収納アドバイザーの資格を取り、これを本業にしたいと思うように。前職とはかけ離れた分野への転職に躊躇しましたが、夫がやりたいことはやるべきだ、と。おかげで気持ちよく転職でき、娘に対しても、親の私がやりたいことをやるほうが、大人になることを楽しみにしてもらえてプラスだと気づけました。  こうして価値観をアップデートしてくれる夫に感謝です。私に負けず、やりたいこと(趣味のギター含む)をどんどんやってください! 鈴木玲子さん(右)と鈴木順也さん(撮影/写真映像部・高野楓菜)   夫 鈴木順也[53]NOW and HERE 代表 ブランディングプロデューサー すずき・じゅんや◆1970年、東京都出身。高校卒業後、国産カーディーラーに就職。独学でグラフィックデザインを学び、デザイン事務所や制作会社勤務を経て2022年に独立。ひとり起業家のブランディングプロデュースやデザインディレクションを手がける  雨降って地固まる。7、8年前の夫婦の危機を振り返ってそう思います。別れる覚悟をしたほど関係は悪化しましたが、間に入ってくれた弁護士さんが非常に淡々としていて、事務的な対応をされるたび、結婚生活の楽しかった思い出までリセットして本当にいいのか?と自問したことを覚えています。事務的すぎて不満に思うこともありましたが、おかげで別れずに済みました(笑)。  妻と自分はかなり違う性格で、妻はテキパキしていて物事の決断が速いのに対し、自分はマイペースで熟考したいタイプです。自分にとって、この違いが結婚の決め手の一つでした。似たタイプだと、補完し合えませんからね。仕事の話をするときも、違うタイプだからこその建設的な意見をもらえて助かります。  妻は今の仕事が好きなようなので、思い切りやって自分を輝かせてほしいと思います。互いにやりたいことをやるから認め合えるもの。これからも、いい感じの距離感を保つという理想を続けましょう。 (構成・茅島奈緒深) ※AERA 2023年10月2日号
「ねぇ、今日の夕食はなあに?」眞子さんと佳子さまもペロリと食べた 秋篠宮家元料理番の特製カレーレシピ
「ねぇ、今日の夕食はなあに?」眞子さんと佳子さまもペロリと食べた 秋篠宮家元料理番の特製カレーレシピ 赤坂御用地で家族団らんのひとときを過ごす秋篠宮ご一家。「パパ」の背中に抱きつく7歳の眞子さん。「幼い時期の佳子さまは、お姉さんについて回っていた」と宮田さん=1998年、宮内庁提供    天皇陛下の好物と言えば「カレー」が知られているが、昭和天皇や上皇さまなど皇室にカレー好きは多い。それは秋篠宮家でも同様らしい。天皇家と秋篠宮家で料理番を務めた宮田拓矢さんが、「食」を通じて浮かび上がる秋篠宮家の日常と宮家で作っていた特製カレーのレシピを教えてくれた。 *   *   * 「宮田さん。今日の夕ご飯は、なあに?」  ひょいっと厨房をのぞき込んできたのは、小さな眞子さん。まだ8歳か9歳の頃だ。 「ハンバーグですよ」  秋篠宮家の料理番を務めていた宮田拓矢さんが返事をすると、眞子さんはうれしそうな表情を見せながら、礼儀正しく「ありがとうございます」とお礼を伝えた。  眞子さんの洋服をつかみながら、うしろに隠れているのは佳子さま。学習院幼稚園に通っていたころで、姉の服を引っ張りながら後ろをついて回り、姉妹そろってよく厨房をのぞきにきていたという。   秋篠宮家、毎週火曜日はカレーの日 宮田拓矢さん=本人提供    宮田さんは、在ドイツ日本大使館の公邸料理人などの経験を経て、1999年に宮内庁管理部大膳課に。香淳皇后付となったが、2000年6月に香淳皇后が逝去すると、大膳課から「派遣」される形で秋篠宮家の料理番となった。   【こちらも話題】 佳子さま“ニッコリ笑顔”がTikTokで全世界に届くインパクト 「もう時代は変わった」と識者 https://dot.asahi.com/articles/-/206982 宮内庁大膳課のころの宮田さん=宮田さん提供    新しい料理番となった宮田さんに、秋篠宮妃の紀子さまはこんな条件を伝えた。 「週に1回、子どもたちにカレーを出してください」  秋篠宮家の食卓では、毎週火曜日がカレーの日に決まった。    紀子さまからは、二つの要望が伝えられた。「市販のカレールウを使わないこと」と「野菜を多く使うこと」である。  天皇家や宮家の食卓に並ぶ食事といえば、特別な献立を想像するかもしれない。しかし、市販の手軽なカレールウが使われることも珍しくなかったようだ。  宮田さんは、こう振り返る。 「妃殿下は、お子さま方に野菜をたくさん食べてほしいというお気持ちがあったのでしょう」  宮田さんは毎週、種類や味に変化をつけたカレーを秋篠宮家の食卓に出し続けた。  まだ幼い眞子さんと佳子さまの食がすすむよう、野菜を小さめに切った。リンゴやバナナ、乳製品で甘みとまろやかさを加えた欧風カレーが中心だが、チキンカレーやビーフカレー、秋にはきのこたっぷりのカレーも作った。眞子さんも佳子さんも、ペロリと食べてくれたという。 「何も残っていない白いお皿が厨房に戻ってくると、うれしくて胸をなでおろしました」   「日常の食事で結構ですよ」と秋篠宮さま  献立は、2週間ほど前に献立表をつくり、紀子さまの了解を得て決定する。 「天皇や皇族の食事というと、『豪華なものを召し上がっているのでしょう』と言われることも多いです。しかし、ごく普通の献立だと説明すると、みなさん驚きますね」    たとえば、夕食の献立は次のようなものだった。   ・ハンバーグ、サラダ、副菜、スープ、パンまたはご飯 ・魚の煮付け、野菜の煮物、みそ汁、漬物、ごはん    秋篠宮ご夫妻も、ごく普通の食事を望んだ。  フランスで料理を学んだ経験のある宮田さんは、あるときフランス料理風にアレンジを加えた食事を出したことがあった。  秋篠宮さまはひとこと、 「日常の食事で結構ですよ」  と、宮田さんに伝えたという。     須崎御用邸を散策中、眞子さん(右下)を追って海岸に降りようとする佳子さまに、あわてて手を差しのべる皇后さま(当時)と秋篠宮さま=1998年8月、静岡県下田市    さらに宮田さんにとって印象的だったのは、秋篠宮家のエコロジー(環境)への意識の高さだった。  紀子さまは、食材を無駄にすることを嫌った。たとえばプロの料理人は食材の形を均一にするが、その際に切りクズが発生する。ご夫妻は、そのまま破棄するようなことを好まなかった。  料理人がジャガイモやニンジンの皮をむいていると、紀子さまが聞いてきた。 「(野菜クズを)どうされるのですか」  宮田さんは、宮邸の裏に堆肥を肥料にするコンポストがあることを知った。20年以上前から秋篠宮家では、食材の皮までも有効に活用しようという意識があったのだ。   秋篠宮家で作った特製カレーのレシピ  特別豪華ではないが、皇室にふさわしい日常料理として、宮田さんはどんな工夫をしていたのか。宮田さんが秋篠宮家で作ったフルーツビーフカレーのレシピを紹介しよう(画像参照)。   宮田さんが秋篠宮家で作ったカレーのレシピ フルーツビーフカレーの材料。奥にあるリンゴとバナナで甘みを加える=宮田さん提供   <材料 4~5人分>(量は目安) 【カレーソース】  牛肉(250g)、トマト2個(450g)、ニンニク(1かけ)、ショウガ(1かけ)、タマネギ1個(180g)、ニンジン小1/2(70g)、チキンブイヨン(500cc)、塩・こしょう 【スパイス類】  カレー粉(3g)、パプリカパウダー(2g)、ターメリックパウダー(2g)、ガラムマサラ(2g)、クミンパウダー(2g)、ローリエ1枚 【隠し味の材料】  バナナ1/2本(50g)、りんご1/2個(100g)、ハチミツ(20g)、プレーンヨーグルト(大さじ1)、チーズ(30g)、醤油・ケチャップ・ウスターソース(各大さじ1g)     <作り方> (1)湯むきしたトマトを半分にカットして、種と皮を取りざく切りにする。(ニンジン、タマネギ)・(ニンニク、ショウガ)をみじん切りにして分けておく。 (2)深めの鍋でニンニクとショウガを香りが出るまで炒め、ニンジンとタマネギを加える。しんなりしたらトマト、スパイスとローリエの順番に鍋に入れる。 (3)リンゴ(種と芯を取る)とバナナをフードプロセッサーなどでなめらかにしたもの、肉以外のカレーソースの材料を順に加える。 (4)鍋が沸騰したら弱火で1時間煮る。冷めたらミキサーでカレーソースをなめらかにする。 (5)牛肉に塩とコショウで下味をつけて、フライパンでソテーする。鍋で温めたカレーソースに牛肉を加え、「隠し味」としてハチミツ、プレーンヨーグルト、チーズを入れて、醤油とウスターソースで味を調える。     トマトベースに、果物で甘みとまろやかさを出した欧風カレーだ。トマトの皮と種を取りのぞいて果肉だけを使うのは舌触りをよくし、水っぽくなるのを避けるため。カレー粉の他にスパイスを増やすことで、味に立体感が出るという。   秋篠宮家の食卓に並んだものと同じレシピで作ったフルーツビーフカレー=宮田さん提供    1日かけてつくったカレーソースを冷蔵庫で寝かせる。すると角が取れてまろやかな触感になるという。  もちろんプロの料理人は食中毒を起こさないために、細心の注意を払う。カレーソースを作った鍋は、即座に鍋ごと氷水につけながら、ソース全体が冷えるまでよく混ぜる。 「カレーソースを作ってすぐに冷蔵庫に入れればいいと誤解する人も少なくないのですが、冷蔵庫に入れてもソースの表面は冷えますが、中の温度は温かいままです。そこから菌が増殖します。だからカレーソースをかき混ぜて、全体を手早く冷やすことが大切なのです」(宮田さん)  冷蔵庫で保管する間も放っておくわけはなく、腐らないよう上下をかき混ぜる。  たとえばカレーは、ジャガイモやニンジンなど大きな塊の食材から腐りやすい。そのため宮田さんはカレーソースをピューレ状にして、食べる直前に大き目の具材を足す。   秋篠宮家の食卓に並んだものと同じレシピで作ったフルーツビーフカレー=宮田さん提供   「牛肉を鶏もも肉に代えれば、チキンカレーになる。秋ならばきのこ、夏は赤・緑のピーマンなど季節の野菜に火を通して食べる直前に加えると、変化がつきます。ぜひご家庭で試してみてください」 (AERA dot.編集部・永井貴子)   宮田拓矢(みやた・たくや)/牛肉料理店『Delica&Beefdish MIYATA』(愛知県岡崎市)オーナーシェフ。在ドイツ日本大使館の公邸料理人を経て、1999年に宮内庁管理部大膳課で香淳皇后付、2000年から秋篠宮家の料理人となる。東京三田倶楽部の副料理長などを経て、現職。秋篠宮家で作った「フルーツビーフカレー」は、『Delica&Beefdish MIYATA』で冷凍パックで購入可能。宮田さんの牛肉料理の一部は、愛知県岡崎市のふるさと納税でも取り寄せできる。   【こちらも話題】 愛子さまは赤いコートのクリスマスカラー 天皇陛下と雅子さまと「お忍び」でたずねたイルミネーションスポットはどこ? https://dot.asahi.com/articles/-/207282
奥田瑛二がホームレス状態だった不遇時代を語る「自分を取り戻すには『祠』に籠もる時間が大切」
奥田瑛二がホームレス状態だった不遇時代を語る「自分を取り戻すには『祠』に籠もる時間が大切」 夏井いつきさん《(c)sakura goto》と奥田瑛二さん《(c)Daisuke Miura (go relax E more)》    瀬戸内寂聴さんとの出会いをきっかけに俳句を始め、「寂明」という俳号まで授かった俳優の奥田瑛二さん。正岡子規について夏井いつきさんと語った『よもだ俳人子規の艶』(朝日新書)では、売れない俳優時代の話に。自分の中に引きこもることの大切さとともに、俳句との共通点を分析。本書から一部を抜粋、再編集し、紹介する。 *  *  * 【『よもだ俳人子規の艶』の記事はこちら】 #1 “子規とエロス”に奥田瑛二もどハマり?  #2 瀬戸内寂聴からの無茶ぶり「一筋縄ではいかなかった」 #3 奥田瑛二がホームレス状態だった不遇時代を語る #4 子規が歩いた遊郭の取り壊しに「何ともったいない」 #5 夏井いつきが奥田瑛二の監督的視点に感嘆 #6 誕生日にあえて吉原へ「あの侘しさといったら…」 #7 「子規の姿勢は映画監督と重なる。意図された技に近い」 #8 子規の俳句は『ハリー・ポッター』の絵画と同じ? #8 奥田瑛二が我流で句作を三十年続ける“快感”とは? #10 奥田瑛二がほれ込んだ「正岡子規のダンディズム」 #11 生誕156年、正岡子規の「よもだ」の魅力とは? 夏井:奥田さんには三つの名前があるわけだけど。本名の「安藤豊明」さんと、「寂明」さんと、そして芸名の「奥田瑛二」さん。  この中で、芸名の「奥田瑛二」とは、安藤さんにとってどういう存在なの? 奥田:「奥田瑛二」の名は、僕にとって弾道ミサイルみたいなもので、一番エネルギッシュで、どこにでも容赦なく飛んでいける装置かな。 夏井:え、弾道ミサイルってそういうものだった? 奥田:いえ、違います(笑)。ちゃんとした弾道ミサイルは、予め設定した地点を目指すんだけど、僕のミサイルは縦横無尽に飛んでいくようなイメージ。現世の森羅万象の中で、「奥田瑛二、一号」がずっと空を飛びまわっている。 夏井:ちなみに「奥田瑛二」の芸名はどうやって決めたの? 奥田:これも人から授けられて。 夏井:奥田さんは授けられる人生なんだ。他にも授けられたものが多そうだけど(笑)。 奥田:ええ、家も妻に授けられました(笑)。若い頃から俳優を目指すも、不遇時代はホームレス状態で、妻に出会って救われたんです。 夏井:奥様の惚気話が始まりそう……(笑)。 主観と客観 奥田:とはいえ、「不遇時代」だって楽しかったなあ。自分が一番やりたいことを貫くためなら、どんな日常だって卑屈にはならないでしょ。むしろ今となっては、あの頃の経験を感謝しているくらい。  僕は人生で、「祠」に籠もる時間がとても大事だと思っていて。天照大神は天岩戸に籠もったでしょう? 真っ暗な空間に一人籠もっていると、いろいろなことを考える。子宮回帰現象です。まっさらな自分に向かい合って、「自分とはどういう人間」で、「本当は何をしたいのか」を自問自答する。  そのうちに、外野が気になりだす。他の皆が、楽しくにぎやかに生きているのが聞こえてきて、おもむろに耳を澄まして外を眺める。そして、再び外に一歩二歩と、歩み出していける。 夏井:「祠」的な時間が必要なんだね。外界で働いたり遊んだりするばかりでなく、人生一度くらい自分の中に引きこもってもいいよと。 奥田:一度と言わず、二度や三度でも(笑)。漆黒の闇の底に落ち込んで、膝を抱えて、恐怖心やら不安やらにとことん付き合って這い上がってきた人間は、岩戸に隠れる前よりも、ずっと強くなっているはず。  こういう体験は、古今問わず必要とされてきたのに、現代は違います。一人で籠もれるような祠もなければ時間的余裕もない。あるいは一度「引きこもり」になっちゃったが最後、今度は表に出ていくタイミングを見つけられずに苦しんでしまう。  僕のオススメは、日常生活に身を置きながら、自分の分身を「心の祠」にポイッと入れるのを「習慣にすること」。 「俺は今、会社で仕事をしているけれど、お前さんはちょっと祠に籠もっていてくれ。そして自分自身を見つめてくれ」、と。  訓練でそれができるようになると、長時間引きこもらなくても、本来の自分を取り戻せるんじゃないかと。 夏井:面白いなあ。普段から自分の心の「祠」に、自分をちょっとだけ閉じこめる習慣を持つんだ。 奥田:子規も「主観」と「客観」について語っているように、「自分」は必ず二人いる。普段は「主観」で物事を感じ、活動しているけれど、一方でそれを「客観」的に眺めているもう一人の「自分」がいる。「祠」に籠もることが、まさに客観なんだと。俳句って、「主観」と「客観」を分離するところからだと思うんです。 夏井:まさに、俳句を始めた人は、「あ、自分の中にはもう一人の『自分』がいるんだ。主観と客観があるんだ」と気づき始めるよね。  たとえば、綿虫を見て、「あ、これが噂に聞く季語の綿虫というやつか」と気づくのが「認識」の第一歩。これまで、小さいのが綿みたいにフワフワ飛んでいる鬱陶しいだけの存在だったのが、俳句を始めた瞬間、季語の綿虫としてしっかりと認識されるわけ。  次に来るのが「観察」。「いったいどう表現したら、綿虫を知らない人の脳裏にも、映像として変換されて、ありありと見えるか」と。しげしげと綿虫を眺め始める。  ここで重要なのは、「客観的に観察すること」。つまり「客観視」なんだけど、客観視で最も難しいのが、自分自身を眺める時。隅から隅まで見知っているはずの「自分」が、一番見えていなかったりする。ましてや、自分が自身に対して「カッコいい自分」を演じてしまっていると、「素の自分」を、なかなか客観視できない。どこまでも主観的な自分で突っ走ってしまう。  そういう意味では、子規の客観視のレベルは、凡人を超越しているよね。最後には「自分が死ぬ」瞬間の光景さえ、「客観視」してしまうんだから。 糸瓜咲て痰のつまりし仏かな 奥田:すごいなあ。〈仏〉と言っちゃうんだ。 夏井:死にかけている自分を、幽体離脱のように天井の端っこから眺めている。これが本当の「客観視」。子規にとっては、もはや自分が死ぬことすら、一つの興味の対象になっていたんだろうなと。子規の辞世の句は、俳句をやっている人間にとっては、究極の到達点だよね。  俳人にとっては、自分がどんどん老いていく、その過程すらも興味の対象となっていく。老眼鏡がないと本が読めないとか、ちょっとした坂でもハアハア息切れがするとか。主観的には嫌なことには違いないんだけど、客観的には興味の対象なの。 奥田:心の鍛錬を積み重ねていけば、僕もそこまで行けるんじゃないかな。 夏井:身も心も鍛錬してダンディをこなしてきた奥田さんなら、一歩有利(笑)。 奥田:つけ加えると、「ダンディズム」は「ナルシシズム」ではない。鏡を見てポーズ付けて、「俺はいい男だ」と悦に入っているのとは全然違う感覚だから。 夏井:自分に酔う「ナルシシズム」は、客観視ではない。 奥田:子規の最期の光景なんか、職業柄か、つい映像が浮かんできちゃうんです。根岸の子規庵で、病床に臥せり、もう黄泉の国のほとんど三途の川付近にいる子規が、辞世の三句を詠んでいく。 糸瓜咲て痰のつまりし仏かな 痰一斗糸瓜の水も間にあはず をととひのへちまの水も取らざりき  五七五という世界最短の文学に、己を凝縮する。最期のエネルギーを俳句に託す一人の男の姿を、どうしても想像してしまいます。 夏井いつきさんと奥田瑛二さん、松山/出逢いのスナップ 【『よもだ俳人子規の艶』の記事はこちら】 #1 “子規とエロス”に奥田瑛二もどハマり?  #2 瀬戸内寂聴からの無茶ぶり「一筋縄ではいかなかった」 #3 奥田瑛二がホームレス状態だった不遇時代を語る #4 子規が歩いた遊郭の取り壊しに「何ともったいない」 #5 夏井いつきが奥田瑛二の監督的視点に感嘆 #6 誕生日にあえて吉原へ「あの侘しさといったら…」 #7 「子規の姿勢は映画監督と重なる。意図された技に近い」 #8 子規の俳句は『ハリー・ポッター』の絵画と同じ? #8 奥田瑛二が我流で句作を三十年続ける“快感”とは? #10 奥田瑛二がほれ込んだ「正岡子規のダンディズム」 #11 生誕156年、正岡子規の「よもだ」の魅力とは?   ●夏井いつき(なつい・いつき) 1957年愛媛県生まれ。俳人。俳句集団「いつき組」組長。8年間の中学校国語教師を経て俳人へ転身。94年「第8回俳壇賞」、2000年「第5回中新田俳句大賞」受賞。創作活動に加え、「句会ライブ」や講演など、俳句の種まき運動の傍ら、MBS「プレバト!!」など各メディアで幅広く活躍。15年より初代俳都松山大使。主な著書に、『句集 伊月集 鶴』『夏井いつきのおウチde俳句』(共に朝日出版社)、『夏井いつきの世界一わかりやすい俳句の授業』(PHP研究所)、『子規365日』(朝日文庫)、『瓢簞から人生』(小学館)など。   ●奥田瑛二(おくだ・えいじ) 1950年愛知県生まれ。俳優・映画監督。79年映画『もっとしなやかにもっとしたたかに』で初主演。86年『海と毒薬』で毎日映画コンクール男優主演賞、89年『千利休 本覺坊遺文』で日本アカデミー主演男優賞を受賞。94年『棒の哀しみ』ではキネマ旬報、ブルーリボン賞など8つの主演男優賞を受賞する。2001年監督デビュー。近年の出演作に、主演映画『洗骨』(19年/照屋年之監督)、連続テレビ小説「らんまん」(23年度前期/ NHK)などがある。主な著書に、『男のダンディズム』(KKロングセラーズ)、『私の死生観』(共著/角川oneテーマ21)など。
奥田瑛二が受けた瀬戸内寂聴からの無茶ぶり「一筋縄ではいかなかったですよ、こちらは」
奥田瑛二が受けた瀬戸内寂聴からの無茶ぶり「一筋縄ではいかなかったですよ、こちらは」 生前の瀬戸内寂聴さん    俳優や映画監督としてだけでなく、俳人としても知られる奥田瑛二さん。夏井いつきさんとの子規トークをまとめた『よもだ俳人子規の艶』(朝日新書)では、正岡子規の句について語っているうちに、話題は奥田さんが俳句を始めた意外なきっかけに。本書から一部を抜粋、再編集し、紹介する。 *  *  * 【『よもだ俳人子規の艶』の記事はこちら】 #1 “子規とエロス”に奥田瑛二もどハマり?  #2 瀬戸内寂聴からの無茶ぶり「一筋縄ではいかなかった」 #3 奥田瑛二がホームレス状態だった不遇時代を語る #4 子規が歩いた遊郭の取り壊しに「何ともったいない」 #5 夏井いつきが奥田瑛二の監督的視点に感嘆 #6 誕生日にあえて吉原へ「あの侘しさといったら…」 #7 「子規の姿勢は映画監督と重なる。意図された技に近い」 #8 子規の俳句は『ハリー・ポッター』の絵画と同じ? #8 奥田瑛二が我流で句作を三十年続ける“快感”とは? #10 奥田瑛二がほれ込んだ「正岡子規のダンディズム」 #11 生誕156年、正岡子規の「よもだ」の魅力とは? 夏井:そもそも奥田さんが、俳句をやろうと思ったきっかけは何だったの? 奥田:俳句との出合いは三十代半ばで、ちょうど、テレビドラマの『金曜日の妻たちへIII』や『男女7人夏物語』に出演していた頃ですね。一年間、月刊誌『家庭画報』で著名な方々と対談するホスト役を仰せつかっていて、京都の瀬戸内寂聴さんを訪ねたんです。  最初は超ビビっていたのですが、そこは寂聴さん、見事でしたね。対談が始まった三十分後には、「ブランデー持ってきて」と(笑)。真っ昼間に、いい感じに飲みながら対談をさせていただいたんです。取材終了後、「今日はあなたがいらっしゃると聞いて、素晴らしい山の料理屋さんを用意したのよ」と。 夏井:いいね、いいね。 奥田:ところが、そこからが一筋縄ではいかなかった。寂聴さんの庵、「寂庵」の本堂を降りたところで、やおら振り返ってこう仰った。 「あ、ちょっと待って。奥田さん、一句詠んで」 夏井:そう来たか!(笑) 奥田:「はぁ?」ですよ、こっちは。 「俳句を一句詠んで。それを詠まなければ、今晩のご馳走はナシ」 「い、今ですか?」 「そう今。タクシーに乗るまでの間。そこの門で待っているから、それまでに詠んでね」 「え……」 夏井:寂聴さんでしか書けない筋書きだ(笑)。 奥田:門まで三十メートルくらいで、何か特別なことなんて起きようもない。途方にくれていたその瞬間、「ホーホケキョ」と鶯の鳴き声が聞こえてきた。見渡せば、周囲には竹の生け垣、その向こうには林の借景。どうやらそこから聞こえてくる。その瞬間、「救われた!」と。 「こっちよ、お乗りなさい、早く」と寂聴さんに声をかけられ、ダダダッと駆けていくとひと言確認のお言葉、 「できたの?」 「はい、できました」 「なら、お乗りなさい」  何とか無事にタクシーが発車しました。 夏井:寂聴さんは、その潔さを見たかったのかもね。 奥田:車が走り始めたら、今度は「ねえ、あなた、名前なんておっしゃるの?」って。 夏井:さんざん対談した後なのに? 奥田:ええ、さすがに「何を今更……」と内心思いながら、「奥田ですけど……」と応えたら、「違う違う、それは本名じゃないでしょ。俳優さんの時の名前でしょう。私が聞いているのは、本名」と。思わず、背筋が伸びちゃった。 夏井:そうか。芸名ではない、本名を知りたかったんだ。 奥田:「安藤豊明と申します」と答えたら、「あ、そう、ふーん」と黙り込んでしまわれた。いったい何なんだ? と首を傾げていたら、三度目の問いが飛んできた。 「で、できた句はどんな句? 言いなさい」 夏井:私もそれが聞きたい。 奥田:今でもちゃんと、覚えていますよ。 鶯の鳴けるやさしさ我に無し 夏井:ほうほう。 奥田:あ……寂聴さんの反応もそんな感じだった(笑)。「あ、そう。あ、そう」と、またもや黙ってしまわれた。その三十秒後くらいかな、再び振り返って仰った。 「あなた、俳句をおやりなさい。これまで俳句を詠んだことはあるの?」 「ありません、小学校で習ったぐらいです」 「あら、そう。今日から詠みなさい、俳句をね」と。 夏井:それが出発点なんだ。とってもいい話。 奥田:実は続きがあって……、「あなた、豊かに明るい『豊明』という名前なのよね。じゃあ、俳号を差し上げます」。 夏井:うわっ、俳号いただいたんだ。 奥田:それが「寂明」という俳号です。寂しくて、明るい。 夏井:へえ。「寂」が付いているということは、ご自分の弟子と認めてくださったわけだ。すごい。 奥田:そんな立派な俳号を頂戴しながら、忙しさにかまけて、しかも生来がチャランポランな性格なので、それにふさわしい俳句詠みに成長していない……というのが今の状態です。 夏井:奥田さんが俳句を詠む時は、寂明さんなの? 奥田:深い号を頂いたな、と今でもドキッとします。「寂しい」も「明るい」も、どちらも自分の奥底を言い表しているから。  でも、いまだにこの俳号を記すことを自分には許していなくて。俳句は自己流に好き勝手に詠んでますけど……。 夏井:ためらっているの? 奥田:自分にはまだ、「寂明」を名乗る資格がないと思ってて、どうしても「瑛二」って書いちゃうんです。 夏井:分かるような気がするなあ。寂聴さんが「あなた、寂明ね」と俳号をくださった。その有り難さが分かっているから、なおさら簡単に使えない。 奥田:まさにその通り。 夏井:俳号は、自分で付けても問題ないものだから、先生から頂いた場合には、それが自分と一体になるまでに時間が必要な場合もあるんだろうね。 奥田:先日も色紙に「瑛二」と記したら、ある人から「なんで『寂明』とお書きにならないんですか」と訊かれまして、「いや、瑛二でいいんです」としか応えなかった。だって、いろいろ説明すると最悪の場合、「自分にしっくりこないから、使っていない」と思われてしまう可能性もある。それは避けたかった。 「寂明」という俳号は、「自分を支えてくれる」と言ってもいいほど、寂聴さんから頂いた人生の宝物なんです。  僕は俳優からスタートして、絵描きにもなって、映画監督もしているけど、「死ぬ間際までできるのは、監督業だけ」と思っている。なぜなら俳優や絵描きは、途中で体力が尽きてしまう可能性が高いから。長いセリフが覚えられなくなったり、思うように体が動かせなくなったり、絵描きだって結構な体力を使うからね。  そう考えると、俳句も、死ぬまでずっと続けられるなと。僕にとっては、唯一の文学でもあるし。だから独学とはいえ、品性を保ちながら詠んでいきたいんです。 夏井:それが、奥田さんが俳句をやる時に自分にかけた「枷」なんだ。 奥田:はい。むしろ俳句は、枷をかけて一生続ける価値があると。だからかな……「寂明」という俳号は非常に恐れ多くもあり、同時に力づけてもくれる。今、自分から名乗らない理由は、この俳号が真に僕の原動力であるからかもしれない。 夏井:ズドンと腹に収まる話だったなあ。 【『よもだ俳人子規の艶』の記事はこちら】 #1 “子規とエロス”に奥田瑛二もどハマり?  #2 瀬戸内寂聴からの無茶ぶり「一筋縄ではいかなかった」 #3 奥田瑛二がホームレス状態だった不遇時代を語る #4 子規が歩いた遊郭の取り壊しに「何ともったいない」 #5 夏井いつきが奥田瑛二の監督的視点に感嘆 #6 誕生日にあえて吉原へ「あの侘しさといったら…」 #7 「子規の姿勢は映画監督と重なる。意図された技に近い」 #8 子規の俳句は『ハリー・ポッター』の絵画と同じ? #8 奥田瑛二が我流で句作を三十年続ける“快感”とは? #10 奥田瑛二がほれ込んだ「正岡子規のダンディズム」 #11 生誕156年、正岡子規の「よもだ」の魅力とは?   夏井いつきさん(左)と奥田瑛二さん。松山/出逢いのスナップ ●夏井いつき(なつい・いつき) 1957年愛媛県生まれ。俳人。俳句集団「いつき組」組長。8年間の中学校国語教師を経て俳人へ転身。94年「第8回俳壇賞」、2000年「第5回中新田俳句大賞」受賞。創作活動に加え、「句会ライブ」や講演など、俳句の種まき運動の傍ら、MBS「プレバト!!」など各メディアで幅広く活躍。15年より初代俳都松山大使。主な著書に、『句集 伊月集 鶴』『夏井いつきのおウチde俳句』(共に朝日出版社)、『夏井いつきの世界一わかりやすい俳句の授業』(PHP研究所)、『子規365日』(朝日文庫)、『瓢簞から人生』(小学館)など。   ●奥田瑛二(おくだ・えいじ) 1950年愛知県生まれ。俳優・映画監督。79年映画『もっとしなやかにもっとしたたかに』で初主演。86年『海と毒薬』で毎日映画コンクール男優主演賞、89年『千利休 本覺坊遺文』で日本アカデミー主演男優賞を受賞。94年『棒の哀しみ』ではキネマ旬報、ブルーリボン賞など8つの主演男優賞を受賞する。2001年監督デビュー。近年の出演作に、主演映画『洗骨』(19年/照屋年之監督)、連続テレビ小説「らんまん」(23年度前期/ NHK)などがある。主な著書に、『男のダンディズム』(KKロングセラーズ)、『私の死生観』(共著/角川oneテーマ21)など。  
「逆転」の訪問?愛子さまが紀子さまの誕生日のお祝いに駆け付けた理由 皇室の序列とは
「逆転」の訪問?愛子さまが紀子さまの誕生日のお祝いに駆け付けた理由 皇室の序列とは 秋篠宮妃紀子さまの誕生日に、お祝いのあいさつをするため赤坂御用地に入る天皇、皇后両陛下の長女愛子さま=9月11日、東京都港区、代表撮影    天皇ご夫妻の長女愛子さまが9月11日、誕生日を迎えた秋篠宮妃の紀子さまへのあいさつのため、赤坂御用地をたずねた。天皇や上皇に近い「内廷皇族」の内親王が宮妃を訪問したことに驚いた人も少なくなかったようだ。皇室の序列である「ご身位(しんい)」は、どうなっているのか。 *   *   *  ピンクの帽子をかぶり、赤坂御用地を訪問した愛子さま。にっこりほほえむ様子が「可愛らしい」と話題になった。  この日、愛子さまが帽子をかぶっていたのには理由がある。皇室では、「相手を訪問する」立場である時には帽子を着用し、自身の住まいなどで相手を迎える場合には帽子はかぶらないという慣習があるためだ。  一方で、驚きをもって、このニュースを見ていた人も少なからずいた。  元宮内庁職員で皇室解説者の山下晋司さんは、「このニュースを見たとき、まずは『えっ』と思いました」。  というのも、愛子さまは内廷皇族の内親王。皇室の序列である「ご身位」を考えると、宮妃である紀子さまよりも「上」に思えるからだ。   紀子さまは摂政になれない  皇室の「ご身位」は、皇室典範などで明確に規定されているわけではない。一般参賀やご一家の写真の並び順、晩さん会の席順などが参考になるものの、実際にはわかりづらいものだ。  山下さんによると、皇室典範に記された皇位継承順位や摂政の序列が基準になると考えられるという。   【こちらも話題】 愛子さま「ピンクの帽子」に大きなリボン 提案したデザイナーが語った“ふんわり”の効果 https://dot.asahi.com/articles/-/201617  皇位継承順位でいえば、皇嗣で57歳の秋篠宮さまが第1位。そして第2位に長男で17歳の悠仁さま、3位に上皇さまの弟で87歳の常陸宮さま、と続く。  摂政は、天皇が未成年だったり、病気や事故などによって国事に関する行為を行うことができない場合に置かれるものだが、摂政を決める順序も皇位継承順位が優先される。  ここで興味深いのは、選ばれる候補に女性皇族も含まれる点だ。  皇室典範では、「親王及び王」の次に、「皇后」、「皇太后」、「太皇太后」、「内親王及び女王」が続く。現在の女性の皇室メンバーだと、雅子さま、上皇后の美智子さま、そして愛子さまとなる。 「紀子妃殿下や常陸宮家の華子妃殿下、三笠宮家の百合子妃殿下など、皇室の外から皇族に嫁がれた宮妃には摂政の資格がありません。ただし、皇后となった方は別格です」  と、山下さんは解説する。   もっとも皇后に近いのは紀子さま  こうして見ると、序列が「上」に思える愛子さまが、なぜ紀子さまを訪問する形になったのか。  重要なのは、紀子さまが「皇嗣妃」である点だ。  皇嗣は、皇太子待遇の称号。つまり紀子さまは、皇太子妃と同格の妃で、将来の皇后に一番近い存在ということになる。   【こちらも話題】 愛子さまの帰京時のワンピースは「GU」で2490円!? ファストファッションでも品と清潔感 https://dot.asahi.com/articles/-/200955  愛子さまが紀子さまを訪ねたような「逆転」の訪問には、前例もあるようだ。  山下さんによると、平成の時代にも、当時の天皇ご夫妻の長女の紀宮さま(黒田清子さん)が、皇太子妃だった雅子さまの誕生日に、東宮御所へお祝いのあいさつに訪問したことがあったという。  山下さんは、こう続ける。 「紀宮殿下が皇太子妃殿下を訪問されたのは、次の皇后というお立場の方だからでしょう。今回、愛子内親王殿下が紀子妃殿下を訪問されたのも、それと同じ考えだと思います」    2021年に成人皇族となった愛子さまは9月、皇室に関する重要事項を審議する皇室会議の皇族議員の選挙に際し、初めて「立会人」の務めを果たした。皇室と愛子さまの動向に、国民の関心は高まるばかりだ。 (AERA dot.編集部・永井貴子)     【こちらも話題】 紀子さま57歳に 教育方針は「普通の子と同じように」 眞子さん、佳子さまに示した母の姿 https://dot.asahi.com/articles/-/200982  
苦しむ甲子園V投手も 大学・社会人に進んだ「高校生ドラフト候補」順調に成長しているのは
苦しむ甲子園V投手も 大学・社会人に進んだ「高校生ドラフト候補」順調に成長しているのは 履正社時代の清水大成  あと約1カ月に迫った今年のドラフト会議。高校生の目玉である佐々木麟太郎(花巻東)は現時点でプロ志望届を提出しておらず、日本だけでなくアメリカの大学への進学も選択肢に入っていると報道されている。結論は提出期限となる10月12日のギリギリまで出ないと見られており、指名を検討している球団にとっては悩ましい日々が続くことになりそうだ。  これまでも佐々木ほど高い評価を得ていなくても、高校の時点でドラフト指名が有力視されながら進学を選択するケースは少なくない。しかし大学や社会人で思うような成長が見られず、苦しむ選手が多いことも確かだ。そんな中でも高校時代をさらに上回る評価を得ている選手は誰がいるのだろうか。  今年の候補でまず名前が挙がるのが度会隆輝(横浜→ENEOS・外野手)だ。横浜高校入学前から天才的なバットコントロールには定評があったが、高校3年時はコロナ禍で多くの公式戦が中止になった影響もあってプロ志望届を提出しながら指名は見送られた。しかし社会人きっての名門であるENEOSでも早くからレギュラーを獲得すると、2年目の昨年は都市対抗で4本塁打を放ってチームを優勝に導き、MVPにあたる橋戸賞を受賞。  今年は厳しいマークもあって都市対抗本選では2試合で1安打に終わったが、それ以外の大会では安定した打撃を見せている。また守備や走塁に関しても高校時代と比べて明らかにレベルアップしたこともプラス材料だ。数少ない即戦力が期待できる野手であり、1位指名の可能性も高いだろう。  大学4年生で順調な成長を見せてきた選手では上田大河(大商大高→大阪商業大・投手)の名前が挙がる。高校時代は全国的にはそこまで名前が知られていたわけではないが、当時から140キロ台中盤のスピードをマークしており、3年春には近畿大会でも好投。大学の付属高校で早くから進学が決まっていたためスカウト陣は完全に静観モードだったものの、もしプロ志望であれば十分に支配下で指名される実力の持ち主だった。  大学でも早くから主戦になると、昨年、今年と2年続けて大学日本代表にも選出。ストレートは150キロ前後までスピードアップし、鋭く変化するカットボールも一級品だ。先日の秋のリーグ戦でもノーヒットノーランを達成し、強烈なアピールを見せている。関西の大学ではナンバーワン投手と評価する声も多く、こちらも上位指名が期待できそうだ。  度会、上田に比べると少し評価が難しいものの、高校時代に続いて大学でもドラフト候補になっているのがともにU18W杯に出場した池田陽佑(智弁和歌山→立教大・投手)と熊田任洋(東邦→早稲田大・内野手)の2人だ。池田は早くから先発を任され、リーグ戦での経験値は十分だが、調子の波が大きくなかなか安定しない印象が強い。持ち味である打者の手元で動くボールで試合を作る能力はあるものの、プロで勝負できる絶対的な強みがほしいところだ。  一方の熊田も下級生の頃から中心選手としてプレーしているが、一時はショートからセカンドに回るなど順風満帆だったわけではない。今年の春は結果を残し、大学日本代表にも選ばれているものの、こちらもそこまで評価を上げられなかったという印象だ。ともに大学からのプロ入りは当落線上というのが現状だろう。  下級生で順調な成長を見せているのが篠木健太郎(木更津総合→法政大・投手)だ。高校時代は入学直後から投手陣の一角に定着。3年夏は千葉県の独自大会でも優勝投手になっている。当時から140キロ台中盤のストレートと鋭く変化するスライダーは超高校級で、プロ志望であれば3位程度で指名されていた可能性が高かっただろう。  しかしそんな声をかき消すように法政大では着実にスケールアップを果たし、自慢のストレートは150キロ台中盤をマークするまでになっている。スピードの割に三振が少なく、決め球には課題が残るものの、ボールの力は豊作と言われる今年の4年生を含めてもトップクラスであることは間違いない。来年の大学球界を代表する投手になりそうだ。  その一方で、大学で苦しんでいる選手も少なくないが、代表格がともに早稲田大に進学した飯塚脩人(習志野→早稲田大・投手)と清水大成(履正社→早稲田大・投手)の2人だろう。飯塚は3年春にセンバツ準優勝を果たし、U18W杯では抑えとして活躍。清水も3年夏にエースとして甲子園優勝を経験している。しかしともに大学では故障やフォームを崩したことでなかなか結果を残せず、現在の主戦はスポーツ推薦での入学ではなかった加藤孝太郎(下妻一)が務めている。飯塚、清水ともに卒業後の進路は未定だが、高校時代の輝きを取り戻してもらいたいと願っているファンも多いだろう。  高校からプロ入りするか、大学や社会人を経由するかという点については正解のない問題だが、その選手に適した進路やプロ入りするタイミングというのは間違いなくあることは確かである。不本意な形で結果を残せずに後悔することなく、納得のいく形で進路を選べる選手が一人でも多くなることを望みたい。(文・西尾典文) 西尾典文/1979年生まれ。愛知県出身。筑波大学大学院で野球の動作解析について研究。主に高校野球、大学野球、社会人野球を中心に年間300試合以上を現場で取材し、執筆活動を行っている。ドラフト情報を研究する団体「プロアマ野球研究所(PABBlab)」主任研究員。  
「自分は能力が低いと思っていた」 IQ132「ギフテッド」38歳男性が「二度の引きこもり」から脱出できた理由
「自分は能力が低いと思っていた」 IQ132「ギフテッド」38歳男性が「二度の引きこもり」から脱出できた理由 「ギフテッド」の竹中辰也さん(画像=本人提供)    ギフテッドと呼ばれる人たちがいる。高い知性や能力を発揮する一方で、発達の偏りや気性の激しさなど、さまざまな困難を抱えるケースも多い。好評発売中の書籍『ギフテッドの光と影 知能が高すぎて生きづらい人たち』(朝日新聞出版)では、そんなギフテッドたちの声を取り上げてきた。社会福祉法人で不登校・ひきこもり支援を行う竹中辰也さんも、IQ132を有する当事者だ。【前編】では自らの高い知能に気づかず、周囲に合わせようとして疲弊する学生時代の苦悩を聞いた。自分は普通よりも能力が低いんだ……そんな思いにとらわれ社会人では2度の引きこもりを経験した。だが、現在は「楽しく、自分らしく過ごせている」という。【後編】では引きこもりから脱出できたきっかけを取材した。 ※【前編】<小5で広辞苑を読破した「ギフテッド」男性を苦しめた「強すぎる想像力」 有名私立中高に入るも社会人では引きこもりに…>より続く *  *  *  同志社大学を卒業後、紳士服を取り扱うアパレル系企業に入社した竹中さん。希望した人材開発の仕事に携われたが、入社から程なくしてリーマンショックが発生し、部署が解体された。適性とは異なる販売の仕事で売り上げのプレッシャーをかけられ、顔の皮膚がボロボロになるなど強いストレスを感じるようになった。  それでもしばらくは耐えて働いたが、結局、会社を辞めた。その後、引きこもり生活に突入した。 【あわせて読みたい】 小学4年で英検準1級に合格した「ギフテッド」少年の生きづらさ 「正直、学校は好きじゃない」と適応に苦しみ 高校生のころの竹中さん(画像=本人提供)   「退職を機に、数年ぶりに実家に戻りました。両親はすごく歓迎してくれました。最初はかなり平和に過ごしていて、『失業手当の受給期間が終わったら、また働こう』と思っていました。ですが、受給が終わっても動きだすことはできませんでした。『初めて自分の意思でなにかをした』のが、僕にとっては退職だったからです。中学受験も大学進学も就活も、僕は周囲がやっていることを踏襲していただけでした。しかし退職は、初めて自分の意思で選んだ。だから、いざ決断した後に、どんな次の一歩を踏めばいいのかわからなくなってしまったんです」  最初は歓迎してくれていた父も、次第に態度を変化させた。竹中さんも反抗するかのように、両親とは一切口をきかず、トイレに行く以外は自分の部屋から出なくなっていった。結局、最初の引きこもりは1年8カ月に及んだ。  その後、会社員時代の貯金が尽きかけたことで一念発起し、平日は職業訓練に通い、土日は派遣の仕事をするように。そんな日々を4カ月送ったのち、とある人材派遣会社のコピーライターの仕事についた。  ただ、その会社はいわゆるブラック企業だった。数カ月で退職し、再び実家に引きこもった。  転機となったのは、2度目の引きこもりの後に、若者支援の仕事についたことだった。竹中さんが28歳のころだった。 【あわせて読みたい】 「障害者はバカでいたらいいのかな」 IQ130台の「ギフテッド」で“ろう”の女性が小学生で受けた理不尽ないじめと葛藤 「任されたのは、『京都府南部の高校をすべてまわって、中退しそうだったり、卒業後に働かなさそうな子どもを支援センターに連れて来る』という仕事でした。しかし、入社して2カ月後に上司がメンタルダウンを起こし、いきなり僕が事業の責任者になったんです。『ここは普通の会社ではない』と思いつつ、周囲が助けてくれたこともあり、仕事はそれなりにうまくいきました。ただ、現場を理解してくれない経営側と対立することもありました。そうした経緯もあり、同業者の紹介で、大阪の引きこもり支援の事業者に転職しました」  難病の父が自宅で個人塾を開いた結果、中学生のころから子どもたちに勉強を教えていた竹中さん。人生の中で自然に培われたスキルは、支援の仕事に合ってはいたが、自身としては、”向いている”とは思えなかったという。 「自分は、人の気持ちをあまり気にせず、結構ズバズバ言ってしまう人間だと思っています。また、なじめるコミュニティーとなじめないコミュニティーの差が大きく、その性格が前職での退職にも結びついてしまいました。『うまく言えないけれど、自分は他の人と少し違うな』という感覚が、確信に変わってきたころでした」  だからこそ、自分について一度きちんと調べてみようと考え、知能検査(WAIS-Ⅳ)を受けることにした。「自分は能力が低くて困ってるのか? 低いなら、どんな能力なのか?」を知りたかった。職場で交流のある心理士にも「もし発達の偏りがあれば教えてね」と言われていた。結果は、「IQ132」。大きな衝撃だった。 11歳ごろの竹中さん(画像=本人提供)   「発達の偏りは特になく、知能の項目は全体的に高スコアでした。周囲より自分が優れているとは思ったことがないので、驚きました。なにかの間違いかと思って、『MENSA』(高IQ団体)の入会テストを受けたところ、入会できたことで現実を受け入れられました。ただそれと同時に『どうしたらいいんだろう……』という気持ちにもなって。『能力が低いから、自分はこんなに困ってるんだ』と思っていたので、いっそのこと『お前はダメな人間だ』って言ってくれほうが楽だったんですよね」  それでも、時間をかけて検査結果に向き合うことは、自分と向き合うことにつながった。 「『自分は今まで、やり方が違っただけなんだな』と思えたのは大きかったですね。例えば、それまでの自分は、他者が抱えた課題でも、勝手に解決しようとする節がありました。『問題が起きている間に、自分だけが解決してしまっている』みたいなことが、学校でも職場でも多かったんですよね。『職場での会議の時に、上司より先に解決策を出してしまう』とか『先生が黒板に問題を書いている間に、答えがわかってしまう』みたいな話です。過去の傾向から類推して答えを出していたわけですが、答えを言うのが早すぎた結果、逆に周りから変な目で見られたりしていたことに気づきました。自分がそれまで周囲に受け入れられなかったのはやり方が間違っていたからで、『会議をきちんとする』『きちんと上に説明する』など、社会通念的に適切なプロセスを踏めばうまくいくとわかったし、実際、その後は周囲とのズレも少なくなりました」  自身のことを高IQだとは一切思っていなかった竹中さんだが、知能検査の結果を聞いた周囲の人は「そうだよね」といった反応だったという。たとえば、妻はそのひとりだった。 「そうやと思ってたよ、って言われましたね」 【前編】で詳しく記したように、もともとの性格や一風変わった家庭環境もあり、子どものころから周囲にあまり自分の本音を話せてこなかった竹中さん。しかし、妻とは自然体な関係でいられている。 「ただ、もちろん受け入れられない時もありますよ。例えば、『世界中でゾンビパニックが起きたらどうする? 僕は、そんな世界でもうまく生き抜いていけるようなサバイバル力を身につけたい』みたいな話をした時とか。僕としては『鴨川だとゾンビを止められないかもしれない』とか結構真剣に考えてるんですけど、妻には『はいはい』『何言ってんの?』って軽く流されたり(笑)」  竹中さんの特性や個性とは、いい意味で適度な距離感を持ちつつ、付き合ってくれる妻には助けられているようだ。竹中さんのSNSには、妻や母との何げないやりとりが多くつぶやかれている。ある日は琵琶湖の花火大会に参加したり、またある日は母と音楽フェスに参加したり……そこにはこんな思いがある。 「どうでもいいことを、あえて積極的につぶやくようにしているんです。というのも、ギフテッドの話をすると『ものすごく大変な人』と思われることが多いから。たしかにこれまでの人生では大変な時期もあったけど、大変なのは他の人もそうですし、今は楽しく、自分らしく過ごせていますから」 9歳ごろの竹中さん(画像=本人提供)    ギフテッドに対する理解が少しずつ深まるなかで、知的能力の高さや才能などの「長所」だけでなく、発達の偏りや気性の激しさなどの「困難」にも目を向けられるようになってきている。しかし、その結果、今度は「人生がつらい人」といった見られ方が加速している面も否定できない。  ただ、竹中さんのように、大人になってから自分を深く理解し、自分らしく生きられるようになった人も存在しているのだ。  若者の引きこもり支援に関わる一方で、現在では成人ギフテッド当事者として発信活動もしている竹中さん。これまで『素顔のギフテッド』(NHK)、『かつて天才と呼ばれた子どもたち』(Abemaプライム)などの番組に出演したが、ギフテッドの子どもたちには温かい目線が向けられることを願っている。 「子どもたちには、いろんな道を持ってほしいなって思います。幼少期からギフテッドの自覚があることで、ギフテッドとして生きていくことを強いられるのは良くない。いろんなものに興味を持って、豊かな人生を築いていってほしいなと思います。生きることは、脳にとっては絶対楽しいことのはずなので。そして、できれば他者と一緒に生きていってほしい。誰もいない狭い道を歩むよりも、誰かとぶつかったとしても広い道を進んでいく、そんな生き方を知ってほしいなと感じています。同じ物事を違う目線でまた見てる人がいたりして、話が合って膨らんで……そういう喜びは、自分ひとりでは得られないことですから」 (岡本拓)
妻から「一緒に日本代表を目指そう」と言われて叶えた夢 「パドルボード」の世界一を目指す夫婦
妻から「一緒に日本代表を目指そう」と言われて叶えた夢 「パドルボード」の世界一を目指す夫婦 堀部雄大さん(右)と堀部結里花さん(撮影/写真映像部・高野楓菜)    AERAの連載「はたらく夫婦カンケイ」では、ある共働き夫婦の出会いから結婚までの道のり、結婚後の家計や家事分担など、それぞれの視点から見た夫婦の関係を紹介します。AERA 2023年9月25日号では、消防士でライフセービング選手の堀部雄大さん、ライフセービング選手の堀部結里花さん夫婦について取り上げました。 *  *  * 夫36歳、妻27歳のときに結婚。長女(1)と3人暮らし。 【出会いは?】妻が大学生の時、夫が所属するライフセービングチームに参画。当時は競技における先輩、後輩の関係だった。 【結婚までの道のりは?】競技を極めるために海外へ行った際のホームステイ先が、たまたま夫も妻も同じだったことがきっかけで親しくなっていった。 【家事や家計の分担は?】家事は基本、できる人ができることをする。夫の夜勤時、妻が家事全般をするため、在宅時は夫が率先して洗濯や料理などを担当している。財布は一つで、妻が管理。 夫 堀部雄大[40]稲城市消防本部 消防士 ライフセービング選手 ほりべ・たけひろ◆1983年、東京都八王子市出身。ライフセービングの競技歴は20年以上。2011年から現職。警防課に所属し、火災や救助活動などにあたったり、救急の現場では救急隊と連携したりする「ポンプ隊」の小隊長を務めている  結婚当初、世界で活躍する妻をサポートする立場を選びました。でも、妻から「一緒に日本代表を目指そう」と言われた時、「自分も同じ舞台に立ちたい」というチャレンジ心が芽生えました。  昨年の「パドルボード」の世界大会に2人そろって日本代表に選ばれ、さらに夫婦で出場したチームリレー部門では銀メダルを獲得。娘を抱いて3人で表彰台に立つことができ、感慨深かったです。  妻はよく、「私らしいママでありたい」と口にしています。人生は一度きり。やりたいことを我慢するのではなく、したいことをすることが大事だと思っているので、彼女の言葉に共感します。  最近、娘は泳いだりボードに乗って波を手でかいたりする様子をまねることも。僕たちが頑張っている姿を見てくれていると感じています。  遠征や大会で1週間ほど海外へ行く際、職場の皆さんがいつも応援してくれます。厳しい勤務態勢の中でも、集中して競技に打ち込めることがとてもありがたいです。 堀部雄大さんと堀部結里花さん(撮影/写真映像部・高野楓菜)   妻 堀部結里花[31]ライフセービング選手 ほりべ・ゆりか◆1992年、東京都八王子市生まれ。大学時代にライフセービングに出合い、選手として活動。2011年から現在まで、日本代表に選出。大学卒業後は、小学校や高校で保健体育教師などの仕事をしながら、競技活動を続けている 「水辺の事故をゼロにする」という目的を持つライフセービングには、競技活動もあります。種目は多岐にわたり、夫と私は今、ボードに乗って手で波をこいでスピードや技術を競うレースの「パドルボード」で、世界一を目指しています。  夫は自分より相手を優先する優しい人で、練習時間を削って私の練習を見てアドバイスをくれます。そんな夫を見ていた時、ふと、「同じ熱量で競技に取り組んだ方が面白いのでは?」と思い、「一緒に表彰台に上りたいな」という言葉がこぼれました。  夫婦で日本代表になると決め、昨年、その夢が叶いました。私は大学時代から日本代表として何度も表彰台に上りましたが、比べものにならないほど、うれしかったです。  日本では、ライフセービングに競技があること自体知られていないと感じます。今後、パドルボードを体験する機会を作り、競技の面白さ、そして、自分の身を自分で守ることの大切さを伝えていきたいです。 (構成・小野ヒデコ) ※AERA 2023年9月25日号
Fラン大卒、資格なし…ひきこもり経験のある30代女性が「働きたい」と語る理由
Fラン大卒、資格なし…ひきこもり経験のある30代女性が「働きたい」と語る理由 右肩下がりの経済、SNSの普及による人間関係の複雑化──。誰もが「7040」「8050」の当事者になりうる時代だ(写真:gettyimages) ※写真はイメージ    老親と中高年のひきこもりの問題が、社会課題として認知されるようになった。ひきこもりといえば、男性をイメージしがちだが、実は中高年では女性の方が多い。女性がひきこもる背景には何があるのか。AERA 2023年9月25日号より。 *  *  *  近年、女性のひきこもりが多いことにも注目が集まっている。内閣府の2022年度「こども・若者の意識と生活に関する調査」の調査によると、ひきこもり状態にある40~64歳のうち、女性は半数以上の52.3%。15~39歳でも、女性が45.1%を占めた。「KHJ全国ひきこもり家族会連合会」共同代表の山本洋見さんは、「数字が実態に追いつき、顕在化しただけで、以前から悩む女性は多かった」とした上で、こう指摘する。 「女性は独身であれば、家事手伝いや嫁入り修業中。主婦や子育て中では自ずと社会との接点があると思われがちでしたが、家族以外とは接点をもたず、必要最低限の外出しかしない人は多くいます」  16年から全国で「ひきこもりUX女子会」を主宰してきた一般社団法人「ひきこもりUX会議」代表理事の林恭子さん(57)は、女性がひきこもる理由と背景をこう説明する。 「良き娘、良き妻、良き母であることを求められ、さらにフルタイムで働いて社会で活躍することが最先端のような風潮があります。プレッシャーが非常に大きく、それをこなせない自分を徹底的に責めてしまったり、抱えている生きづらさを夫や家族がわかってくれないと感じたりすると、より孤独感が深くなってしまう」  その言葉にうなずくのは、都内の女性(38)だ。教育熱心な両親のもと、中学受験をして私立に入学したが、集団生活になじめず、低血圧な体質もあって遅刻と欠席を繰り返した。いつも怒っていた母は、中学の終業式の日に菓子折りを持って職員室までお詫びに行ったという。そんな姿を見た女性は、 「自分の努力不足だと落ち込みました。両親からは良い大学へ進み、きちんと正社員で働いてほしいという圧を感じていたけれど、進学できたのはFラン大学。授業中にお菓子を食べながらおしゃべりしているような環境で、ここは幼稚園なの?と。周囲の誰ともうまくいかなかった」  21歳で大学を中退し、ひきこもった。その頃、父が他界し、折り合いの悪い母との生活が始まった。体調が良くなれば、工場や印刷会社で派遣社員として働いたが、職場の人間関係に疲れることが多く、続かなかった。強いストレスを感じると散財してしまい、クレジットカードと携帯電話が止まったこともある。30歳の頃に病院で発達障害の疑いがあると指摘されて、「自分が悪いわけじゃなかった」と少しラクになったという女性は、いま仕事を探している。 AERA 2023年9月25日号より   「私はFラン大卒で資格がなく、実務経験もない。就職に強いカードを何も持っていません。でも、働きたいんです。コミュニケーションが苦手だから、接客は難しいし、できれば在宅でできる仕事がいい。1人暮らしもチャンスがあればしてみたい」  ひきこもりUX女子会を主宰する林さんはこう話す。 「コロナ禍を経て、リモートワークが定着したので、自分に合った働き方を多少見つけやすくなったのではないでしょうか。『親が生きづらさの原因であり、同時に命綱』という状態を脱するためにも、1人暮らしは大切な転機。各地にある空き家や団地を活用するなどした居住支援の体制もあればと思います」  林さんは高校2年から約20年ひきこもった経験がある。 「もう一度、生きていこうと思えるまで、それだけの時間が必要でした。一方で、青春が全くなく、失ったものがあまりに大きかったので、ひきこもりを『良い経験』とか『だから今がある』とは思っていません。再び社会とつながりやすくなるよう仕組みを整えていってほしい」(林さん)  家庭だけで抱え込まないことも重要だ。約30年間、ひきこもり支援を続けている「市民の会エスポワール」代表の山田孝明さん(70)は、 「子どもが50代になると、就職が格段に難しくなり、親も無理がきかなくなる。『8050』になる前の『7040』のうちに支援団体とつながっておくべきです」  と訴える。(編集部・古田真梨子) ※AERA 2023年9月25日号より抜粋
女性社長の名前 12年連続「和子」が最多はなぜ? 背景に日本企業の深刻な事情も
女性社長の名前 12年連続「和子」が最多はなぜ? 背景に日本企業の深刻な事情も 写真はイメージです(gettyimages)  東京商工リサーチによると、全国の女性社長は2023年に61万2224人に上り、初めて60万人を超えた。一番多い名前は「和子」で、12年連続トップだという。「和子」が首位の座に長く君臨するのはなぜか。  23年の女性社長の数は、調査を始めた10年から13年間で約3倍に増えた。今や全国の社長の6~7人に1人が女性にあたる計算だ。女性社長の割合も年々緩やかに上昇しているという。  女性社長が増えた理由について、東京商工リサーチは、創業支援など女性の活躍推進に向けた国や自治体の取り組みが効果を上げている点や、同族経営で高齢の代表者から妻や娘に事業を引き継ぐケースが増えていることなどを挙げる。  女性社長の名前で最も多かった「和子」は6184人だった(次のページの表)。2位の「幸子」(5745人)や3位の「洋子」(5575人)、4位の「裕子」(4877人)を引き離して首位が続いている。東京商工リサーチの担当者は言う。 「『和子』は昭和初期から20年代半ば(1950年前後)まで生まれ年別で最も多くつけられた人気の名前です。男性も含めて国内の社長は全体的に高齢化が進んでいることもあってトップが長く続いているのではないでしょうか」(情報本部)    例えば、明治安田生命が同社の保険契約者などを対象に毎年行っている生まれ年別の名前の調査をみると「和子」は昭和2(1927)年から昭和27(1952)年までの25年間のうち、昭和15(1940)、昭和17(1942)、昭和24(1949)年の3回を除いてずっと1位だった。「和子」が首位を譲ったこの3回も、いずれも2位に踏みとどまっている。 【こちらもおすすめ】 「あらゆる選択肢を排除せず」なら為替介入の寸前? 市場関係者の当局口先介入“早見表”を入手 https://dot.asahi.com/articles/-/201276   「和子」がこの時期に人気だった理由として、昭和の年号から「和」の字を取ったことがよく挙げられる。この時期(1927~52年)に生まれた人は、今年、71~96歳になる。  東京商工リサーチの別の調査「全国社長の年齢」によれば、今年1月に発表した直近の22年で社長の平均年齢は63.02歳で過去最高となった。社長の高齢化は進み、60代以上の割合は6割を超え、70代以上も33.3%を占める。  こうした状況を考え合わせると「和子」の1位はもう少しの間続くかもしれない。前出の担当者は続ける。 「あくまで肌感覚ですが、名前に関して今後1~2年の間は状況は変わらないかもしれません。でも、あと10年くらい経つと違った形になっている可能性は高そうです」  「和子」はいつまで1位であり続けるか。キラキラネームが上位に顔を出すのはいつか。企業の新陳代謝やトップの世代交代が進んだり、女性の活躍の場が一段と広がったりすれば、別の名前が取って代わるタイミングも前倒しされるかもしれない。 (AERAdot.編集部・池田正史)
徳川軍を翻弄、“生粋の戦国武将”が交渉で仕掛けた罠とは「騙されて得意げな顔で数日を無駄に」
徳川軍を翻弄、“生粋の戦国武将”が交渉で仕掛けた罠とは「騙されて得意げな顔で数日を無駄に」 復元された上田城の東虎口櫓門と北櫓    慶長五年(一六〇〇)六月、豊臣政権で独裁的地位を築きつつあった徳川家康は、会津(福島県会津若松市)の上杉景勝に謀叛の疑いありとして、出兵の号令をかけた。会津討伐は中止になるも、上杉氏の押さえとして、後の二代将軍・徳川秀忠は宇都宮城に留まることに。下野国から会津へ攻め入る白河口の総大将・秀忠を翻弄したのが、信濃国の国衆であった真田昌幸だ。その手腕を朝日新書『天下人の攻城戦 15の城攻めに見る信長・秀吉・家康の智略』(第十三章 著:水野伍貴)から一部抜粋、再編集して紹介する。 *  *  *   【こちらも話題】 #1 秀吉が水攻めした備中高松城はどんな城だったのか #2 秀吉の備中高松城の水攻め、画期的な戦略だったか再検討 #3 秀吉、中国攻めで攻撃した城・しなかった城の決め手は #4 『のぼうの城』舞台の忍城 猛攻を耐え抜いた成田氏のその後 #5 忍城の戦い、水攻めを決めたのは三成ではなく秀吉だった #6 関ヶ原合戦の行方を決定した「岐阜城の戦い」とは #7 上杉軍の猛攻も虚しく撤退 「北の関ケ原」とは #8 徳川軍を翻弄、“生粋の戦国武将”が交渉で仕掛けた罠とは #9 最新研究から知る「真田丸」の真実 「真田の抜け穴」は? #10 三度にわたる撤退命令と徳川方が追い込まれた「真田丸」での“勘違い”とは   生粋の戦国武将・真田昌幸  会津征討に従軍していた真田昌幸は、現・栃木県佐野市域で突如、離反して上田城に帰還した。当時、真田昌幸は三万八〇〇〇石の領地を治めていた。また、長男の信幸は豊臣政権から沼田を与えられ、二万七〇〇〇石の大名として独立している。昌幸と二男・信繁(幸村)は三成ら西軍に味方したが、信幸は徳川方に留まっている。  昌幸が西軍に与同した理由については、一般的に真田家を存続させるために父子で東西に分かれたと説明されている。しかし、史料を読み解くと、昌幸の決断が尋常ではないことが分かる。  昌幸から与同する旨を受けた三成は返書を書いている(「真田家文書」)。それによると、昌幸の書状は七月二十一日付で出されており、二十七日に三成の領地である佐和山(滋賀県彦根市)に到着したという。  少なくとも昌幸は二十一日の段階で三成に与同する決断をしていたことになるが、日数から考えて西軍が発した檄文と「内府ちかひの条々」は(二十一日の時点では)昌幸のもとに届いていない。つまり、昌幸は三成に毛利輝元ら二大老・三奉行が味方していることを正確には把握しておらず、噂として流れてきた三成と大谷吉継による反乱というレベルの認識で西軍に付くことを決めたことになる。  しかも、三成は書状の中で、挙兵の計画を事前に伝えていなかったことを昌幸に詫びている。詫びの文面が長く具体的であることから、昌幸は計画を伝えられていなかったことに対して不満を露にしたのであろう。この争乱に対する昌幸の意気込みが伝わってくる。  昌幸は、争乱に巻き込まれて御家存続の危機に直面してしまったとは思っておらず、むしろ、この争乱を領土拡張の好機ととらえていたのであろう。三成が豊臣政権と昌幸を繋ぐ奏者であったことから、論功行賞で有利な条件が期待できると昌幸は考えたと思われる。実際に昌幸は、西軍首脳部に甲斐国・信濃国(深志・川中島・諏訪・小諸)の切り取り次第(征服した土地の領有権の獲得)を約束させている。  昌幸の領地は、徳川領国の上野国に隣接している。また、西軍の勢力は美濃国(岐阜県南部)を東の限界点とし、信濃国は東軍に味方する諸大名が大半を占めている。こうした状況を顧みずに、千載一遇の好機を逃すまいと昌幸は西軍に与同する決断をした。生粋の戦国武将といえよう。  当時、秀忠は二十二歳。『徳川実紀』には、豊臣秀吉が北条氏を攻めた小田原の役の際、秀吉に呼ばれて秀吉の陣へ赴いたとあるが、実質的にはこの争乱(関ヶ原の役)が初陣であった。初陣の秀忠の前に、生粋の戦国武将・真田昌幸が立ちはだかったのである。 交渉の窓口となった本多家  白河口の防備を整えた秀忠は、上田城を制圧して上洛するために、八月二十四日、宇都宮城を出陣する。榊原康政、大久保忠隣、酒井家次、本多康重、牧野康成、酒井重忠、小笠原信之、本多正信ら、万石超えの大身家臣が多く編成された徳川軍主力を率いての出陣である。  これに川中島(長野市松代町)の森忠政、小諸(長野県小諸市)の仙石秀久、松本(長野県松本市)の石川三長、諏訪(長野県諏訪市)の日根野吉明ら信濃国の大名が従った。  本来は、本多忠勝も秀忠の隊に属していた。しかし、東海道を進んで、豊臣系大名の監督や、諸大名との交渉に当たる予定であった井伊直政が出発の直前に病にかかってしまったため、忠勝が東海道を進むこととなった。そして、嫡男・忠政が忠勝に代わって秀忠の隊に属すこととなったのである。  しかし、東海道を進む家康が三万二七三〇騎、秀忠が三万八〇七〇騎といわれているので、忠勝(本多家)が抜けることで兵力に大きな支障をきたすとは思えない。本多家が戦力を分散させてまで秀忠の隊に忠政を残したのには、戦略上の理由があるだろう。  筆者は、秀忠の隊に忠政を残した背景には、対真田交渉があったと考える。昌幸の長男・信幸は、忠勝の娘(小松殿)を妻としていた。忠勝は、真田家臣・湯本三郎右衛門尉(三郎左衛門)に宛てて、信幸の子供たちが忠勝のもとに無事到着した旨を報じており(「熊谷家文書」)、忠勝と信幸の関係は、形式的な縁戚ではなく、実質的な交流があったことが分かる。また、秀吉が健在であった頃、忠勝が信幸を介して、(真田氏の奏者である)石田三成と交流していたことも確認できる(「真田家文書」)。徳川氏は、忠政を秀忠の隊に残すことで、徳川秀忠─本多忠政─真田信幸─真田昌幸の交渉ルートを足がかりとして上田城を迅速に開城させようとしたのではないだろうか。  後世の編纂史料であるが、『真田家御事蹟稿』によると、昌幸が会津征討から離反した際、信幸は昌幸の離反を忠勝へ通報し、それを忠勝が井伊直政へ取り成したという。そして、上田城の攻撃前には、信幸とともに忠政も降伏勧告にあたったと記されている。  また、『真田家武功口上之覚』には、関ヶ原合戦の後、信幸が、昌幸と信繁の助命嘆願のために忠勝と井伊直政を頼り、直政の取り計らいによって助命された旨が記されている。  このように、真田氏が徳川氏と交渉を行う際、窓口となったのは本多家であった。秀忠の隊に忠政を残した理由は、上田城を迅速に開城させるための対真田交渉にあったといえる。つまり、上田城に侵攻するに当たっての徳川氏の方針は、力攻めではなく、交渉によって上田城を迅速に開城させることにあった。関ヶ原の役という大局でみれば、三万八〇〇〇石の大名である昌幸の所で徳川の主力が釘付けになるのは得策ではなく、昌幸を赦免してでも迅速に西上するのがよいことは明らかである。 偽りの降伏  八月二十四日に宇都宮を出陣した秀忠は、同月二十八日に松井田(群馬県安中市)に到着した。そして、九月一日に軽井沢(長野県北佐久郡)を経て、二日に小諸城に入城した。  小諸城に入った秀忠は、信幸と本多忠政に対して昌幸に降伏勧告を行うように命じ、両者と昌幸は国分寺(長野県上田市)で会談した。秀忠の家臣・遠山九郎兵衛と、信幸の家臣・坂巻夕庵が交渉に当たったともいわれている。  交渉の結果は、九月四日付で秀忠が森忠政に宛てた書状に記されている(「森家先代実録」)。それによると、昌幸は信幸を通じて頭を剃って降伏すると嘆願して来たため、昨日(三日)秀忠が助命を了承する旨を通達したが、今日(四日)になって昌幸が文句を言ってきたので赦免は取り止めて、攻め入ることにしたという。  赦免が受け入れられたにもかかわらず、急に態度を一変させているところから、軍記に描かれているとおり、昌幸は偽りの降伏をしたとみていいだろう。徳川氏は上田を迅速に平定するために、交渉の手筈を整え、昌幸を赦免する意向で臨んでいたが、昌幸はこれを逆手にとって時間稼ぎに利用したのである。 昌幸の巧みな戦略  九月五日、秀忠は小諸城を出立して上田城の東方にある染谷台に布陣した。そして、城に籠もる真田軍を城外に誘き出すため、翌六日に刈田を行った。  物見に出ていた真田兵と、刈田をおこなっていた徳川兵が小競り合いとなると、酒井家次らは真田兵を蹴散らして、大手門まで攻め込んだが、多くの犠牲を出した。これを見た秀忠は使者を派遣して「大将の下知なくして城を攻めるな」と叱責し、兵を引かせている。真田軍を城外に誘引する作戦であったが、逆に城まで深追いして犠牲を出す結果となった。  なお、秀忠の旗本である朝倉宣正、辻久吉、小野忠明(神子上典膳)、中山照守、戸田光正、斎藤信吉、鎮目惟明ら七人が、真田兵の追撃で活躍したといわれ、後世に「上田七本槍」と称されるが、この後、軍規違反を咎められて謹慎となっている。  九月七日になると、秀忠の意識に変化が生じている。この日、秀忠は井伊直政と本多忠勝へ宛てた書状で「真田表の仕置を命じて、近日、上方へ進みます」と述べており(「江戸東京博物館所蔵文書」)、西上を意識していたことが分かる。  七日の段階で家康から急ぎ西上するよう催促が来た形跡はないが、美濃国では、諸将が赤坂(岐阜県大垣市)に集結しているとの情報を秀忠は得ているので、決戦が近いことは理解していた。  翌八日には、森忠政に宛てた書状で「急ぎ上洛するようにと、家康から命令が来た」と述べている(「森家先代実録」)。秀忠の意識は、完全に西上に切り替わったといえる。  九日、秀忠は小諸城へ軍を引いた。そして、諸将に十一日に西上を開始する旨を告げている。  これをもって第二次上田城の戦いは終結した。名高い戦いではあるが、真田軍の戦術に目を向けると、城近くまで深追いしてきた敵を撃退するというシンプルなものであった。  前述のごとく、昌幸の周囲は東軍の勢力であり、援軍の見込みはない。そして、徳川軍と真田軍だけでも圧倒的な戦力差がある上に、信濃国の大名まで加わっている。まず、勝ち目はないだろう。  しかし、この戦いは上田城の局地戦だけではなく、家康ら東軍と、三成ら西軍による「大戦」である。つまり、昌幸が上田城に籠城している間に三成が家康に勝利すれば、昌幸は勝者になれるのである。秀忠の軍を破る必要はなく、拘束するだけでも十分に貢献となった。  第二次上田城の戦いに参戦していた大久保忠教(彦左衛門)は、『三河物語』に「佐渡(本多正信)が真田に騙されて、得意げな顔で数日を(無駄に)送った」と記している。昌幸がこの戦いで用いた最も巧みな戦略は、徳川氏の降伏勧告を逆手にとって時間稼ぎに利用した点である。   【ほかの回もあわせて】 #1 秀吉が水攻めした備中高松城はどんな城だったのか #2 秀吉の備中高松城の水攻め、画期的な戦略だったか再検討 #3 秀吉、中国攻めで攻撃した城・しなかった城の決め手は #4 『のぼうの城』舞台の忍城 猛攻を耐え抜いた成田氏のその後 #5 忍城の戦い、水攻めを決めたのは三成ではなく秀吉だった #6 関ヶ原合戦の行方を決定した「岐阜城の戦い」とは #7 上杉軍の猛攻も虚しく撤退 「北の関ケ原」とは #8 徳川軍を翻弄、“生粋の戦国武将”が交渉で仕掛けた罠とは #9 最新研究から知る「真田丸」の真実 「真田の抜け穴」は? #10 三度にわたる撤退命令と徳川方が追い込まれた「真田丸」での“勘違い”とは   ●水野伍貴(みずの・ともき)  一九八三年愛知県生まれ。高崎経済大学大学院地域政策研究科博士後期課程単位取得退学。修士(地域政策学)。株式会社歴史と文化の研究所客員研究員。著書・論文に『関ヶ原への道』(東京堂出版)、「関ヶ原合戦に関する新説の検討」(『十六世紀史論叢』一八号、二〇二三年)など。
天下人・家康、領国統治や外交の礎は今川家に 氏真を特別視していたと分かる史実も
天下人・家康、領国統治や外交の礎は今川家に 氏真を特別視していたと分かる史実も 今川氏真像(国文学研究資料館所蔵)    歴史学者・黒田基樹氏は、新著『徳川家康と今川氏真』(朝日新聞出版)で、家康にとっての氏真の存在を多角的に分析し、いかに家康に影響を与えたのかを記している。特に、氏真が京都で生活するようになってからの関係は、その全容は明らかになっていないにせよ、何らかのコミュニケーションを撮り続けていたのではないかと同氏は推察する。同著から一部抜粋、再編集し紹介する。 *  *  *  家康は駿河を領国化すると、本拠を駿府に移した。これは当時の領国全体を統治するうえでの利便性によるであろうが、その一方で海道筋三ヶ国を領国とするようになり、いわば今川家に取って代わった存在になったことで、かつての今川家の本拠であった駿府こそが、その本拠に相応しいという観念もあったことであろう。少年期から青年期に、今川家の最盛期を駿府で過ごしたかたちになる家康にとって、駿府こそが、理想の本拠という認識があったかもしれない。  しかし同十八年に北条家滅亡をうけて、家康の領国が関東に転封されたのを機に、氏真は家康の側から離れて、京都で生活することになった。家康からは所領を与えられていたらしいから、家康から離れたわけではなかった。しかも翌年から、家康は、当時の政権の羽柴(豊臣)政権に従う「豊臣大名」として、嫡男秀忠ともども京都・大坂での居住を基本にした。これによりむしろ、家康は、日常的に氏真との交流を維持したとみることもできるであろう。そして何よりも秀忠の上臈として貞春尼が存在し続けていた。徳川家と今川家は、日常的に繋がっていたのである。  氏真の京都での生活の全容は判明しない。それでも家康とは、引き続いて交流していたことであろう。家康は慶長十一年に江戸に下向し、同十二年に駿府城を本拠にしてから、ほぼ上洛しなくなる。家康が再び自身の本拠に駿府を選んだのは、やはり同地に対する愛着によるように思う。しかしこれによって家康と氏真は、しばらく面談できない状態になった。慶長十七年四月に、氏真はついに徳川家の本拠・江戸に移住する。その途中で駿府を訪れると、ただちに家康は氏真と面談におよんでいる。家康にとって、氏真がいかに特別の存在であったかが、端的に示されている事実といえるであろう。  その二年後に氏真は七七歳で死去し、さらにその二年後に家康が七五歳で死去する。両者の交流は、六〇年以上におよぶ長期のものであった。しかも両者は、ともに戦国大名家・国衆家当主として領域国家を主宰する国王の立場にあり、少年期からともに過ごしてきた間柄にあったことを想えば、長い人生のなかで両者の立場には変化がみられたものの、互いに戦国を生きる盟友として認識しあっていたのではないかと思わずにはいられない。  そして家康は、「天下人」として戦国争乱を終結させる存在になったが、その過程において、領国統治や奥向き構造など、今川家の教養・文化に支えられていた。このようにみてくると、家康という存在は今川家あってのものであった、といってもよいほどであろう。家康と氏真が、死去の直前まで交流を続けていたことも、そう考えると納得できるように思う。 ●黒田基樹(くろだ・もとき)/1965年東京都生まれ。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。博士(日本史学)。専門は日本中世史。駿河台大学教授。著書に『お市の方の生涯』『徳川家康の最新研究』(ともに朝日新書)、『百姓から見た戦国大名』(ちくま新書)、『戦国大名』『戦国北条家の判子行政』『国衆』『家康の正妻 築山殿』(ともに平凡社新書)、『関東戦国史』(角川ソフィア文庫)、『羽柴家崩壊』『今川のおんな家長 寿桂尼』(ともに平凡社)、『戦国大名・伊勢宗瑞』『戦国大名・北条氏直』(ともに角川選書)、『下剋上』(講談社現代新書)、『武田信玄の妻、三条殿』(東京堂出版)など多数。
信長・家康が庇護した今川氏真が浜松城にいた理由とは 歴史学者が推察する役割
信長・家康が庇護した今川氏真が浜松城にいた理由とは 歴史学者が推察する役割 浜松城  遠江一国の経略を遂げ、遠江・三河二ヶ国の戦国大名になった徳川家康。その家康の遠江・三河統治のあり方は、今川家のそれを踏襲するものであった。また、今川氏真は武田軍によって駿河から退去を余儀なくされ、遠江懸川城に籠城したが、家康はそれを攻撃するも、すぐに氏真とそれを支援する北条氏政とのあいだで和睦を結んでいる。歴史学者・黒田基樹氏は、新著『徳川家康と今川氏真』(朝日新聞出版)で「家康が懸川城の攻略に拘らなかったのは、氏真とのかつての交流から生まれた、気心のようなものがあったように思う」と記している。家康にとって、氏真、そして今川家はどのような存在だったのか。同著から一部抜粋、再編集し紹介する。 *  *  *  懸川城から退去した氏真は、駿河大平城、次いで相模小田原に居住し、北条家の庇護をうけながら、武田家を撤退させて駿河に復帰することを図った。しかし元亀二年(一五七一)、妻早川殿の父・北条氏康の死去を契機に、北条氏政は武田信玄と再同盟した。これにより氏真は、北条家のもとで駿河復帰を果たすことはできなくなった。家康はその翌年から、武田信玄から領国への侵攻をうけ、領国の半分以上を経略されてしまう。 【こちらもおすすめ!】 『徳川家康と今川氏真』の記事をまとめて読む。  しかし天正元年(一五七三)四月に、武田信玄が死去したことで情勢は好転する。家康は反撃し、領国の回復活動を開始した。これをみた氏真は、駿河復帰の夢を家康に託すことにし、北条家のもとを離れて、家康を頼り、遠江浜松城に移住した。家康は当時、織田信長に従属する関係にあったから、それは信長の承認を必要とした。氏真は信長とは、それまで敵対関係にしかなく、しかも氏真にとって信長は父義元の怨敵にあたっていた。そのため氏真は、出家して信長に対して降参の作法をとって、敵意はないことを明示したうえで、家康の庇護をうけた。  家康が、さらに信長が、氏真を庇護することを承知したのは、武田家との抗争にあたり、元駿河国主の氏真を擁することで、武田家に対し駿河支配の正当性を獲得できるからであった。氏真は、信長・家康から、駿河経略のうえは同国を与えられることを約束されたとみなされ、その後は駿河国主予定者として、国主相当の政治的立場を復活させている。天正四年には駿河への最前線拠点であった牧野城の城主に任じられた。これは氏真が駿河経略の先鋒を務める姿勢を表明したものであった。ところが実際には、氏真は牧野城にはあまり在城せず、基本は浜松城に在所した。理由は判明していないが、家康から何らかの役割を求められていたためと考えられるように思う。戦国大名家としての教養の指南にあたっていたのではなかったか。 【こちらもおすすめ!】 『徳川家康と今川氏真』の記事をまとめて読む。  天正七年に家康の三男で、のちに嫡男にされる秀忠が誕生すると、その「御介錯上臈」、すなわち後見役の女性家老に、氏真妹の貞春尼が任じられ、また後見役の乳母に今川家旧臣の娘「大姥局」が任じられた。これは秀忠の養育が、今川家の関係者によっておこなわれたことを意味する。それにともなって徳川家の奥向きの構造も、今川家の作法で確立されていったことであろう。さらに同年に家康が北条家と同盟を形成するにあたっては、氏真家臣がその使者を務めた。氏真は北条家と旧知の間柄にあったため、北条家との関係を取り持つ役割を果たしたのである。そして家康にとって、北条家との同盟は、武田家との抗争において攻勢にでていく契機をなし、駿河への侵攻を開始するのであった。  ここまで氏真は、家康の領国統治や奥向き構造、さらには外交関係にも大いに助力していたとみることができる。かつての経験や教養が、十分に家康に寄与し、それを支えていたといえよう。しかし同十年に信長により武田家が滅亡し、駿河が家康に与えられて以降、氏真の動向はあまり確認されなくなる。家康は信長に、かねての約束から氏真に駿河半国を与えられるよう申請したらしいが、信長からは却下された。これにより氏真の駿河復帰の夢は完全に絶たれることになる。以後は家康のもとで、その家臣として生涯を過ごすほかはなくなった。それでも氏真の存在は、高い教養と政治的地位から、対外関係において貢献したことであろう。 ●黒田基樹(くろだ・もとき)/1965年東京都生まれ。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。博士(日本史学)。専門は日本中世史。駿河台大学教授。著書に『お市の方の生涯』『徳川家康の最新研究』(ともに朝日新書)、『百姓から見た戦国大名』(ちくま新書)、『戦国大名』『戦国北条家の判子行政』『国衆』『家康の正妻 築山殿』(ともに平凡社新書)、『関東戦国史』(角川ソフィア文庫)、『羽柴家崩壊』『今川のおんな家長 寿桂尼』(ともに平凡社)、『戦国大名・伊勢宗瑞』『戦国大名・北条氏直』(ともに角川選書)、『下剋上』(講談社現代新書)、『武田信玄の妻、三条殿』(東京堂出版)など多数。
退職金を賢くもらうには? 一時金or年金どっちを選択すべきか、意外な「ルール」も
退職金を賢くもらうには? 一時金or年金どっちを選択すべきか、意外な「ルール」も 写真はイメージです(gettyimages)    老後資金の大きな部分を占めるだけに、「もらい方」でミスしたくはない。最適の受け取り方法を探っていく。AERA 2023年9月18日号より *  *  *  退職一時金、「確定給付企業年金」(DB)、「企業型確定拠出年金」(企業型DC)、iDeCo(個人型確定拠出年金)の中で自分が受け取れるものを知り、一時金か年金でもらうかを選択していく。退職所得税制の改正は政府の動きを注視する必要があるが、控除額を変える場合も「経過措置を伴いながら時間をかけて進めるのでは」との見方が多い。現行制度の大枠が維持されるなら、当面は控除枠を目いっぱい利用するのが「王道」だろう。 まず控除枠をフル活用  大卒会社員で60歳受給の場合、勤続38年とすると控除額は2060万円。国の就労条件総合調査(2018年)によると、勤続20年以上の大学・大学院卒社員が定年時に受け取る退職金は平均1983万円だから、受け取るのが退職一時金だけなら多くの会社員が無税で全額を受け取れる。  一時金2千万円で、他に企業型DCが500万円ある場合はどうか。この場合、両方を一時金で受け取ると課税されてしまうので、企業型DCを年金でもらう選択肢が出てくる。  退職金制度に詳しい確定拠出年金アナリストの大江加代さんによると、昨年度からiDeCoが65歳まで加入可能になったため、iDeCoを使い、さらなる退職所得控除枠アップに挑む人も出ているという。 「60歳定年で再雇用の間はiDeCoに加入し、企業型DCを全額iDeCoに移換なさる方がいらっしゃいます。この場合、企業型DCの加入期間を、すべてiDeCoのそれと通算できるようになります。二つの加入期間を通算して、『20年超』のお得な部分を増やそうとしているのです」  40歳から59歳まで企業型DCに加入していた人が、60~64歳までiDeCoに加入し、資産全額を移したとしよう。すると「加入期間」は25年となり、別々の場合と違い、20年超の「70万円」控除を5年分使える。もっとも、60歳時などに退職一時金を受け取った場合、後述の理由でこの手は使えないので注意が必要だ。  一方、年金での受け取りを検討するのはどんな場合か。まず考えられるのはお金の管理が下手な人だ。一時金で巨額のお金を手にすると旅行に行きたくなり、投資の勧誘も来る。「誘惑」に勝てそうもない人は、少々手取りが少なくても年金を選ぶ方がいいかもしれない。 「DBは年金が得策」  大江氏によると、DBは年金でもらうのが得策という。 「残高には2%程度の利息を会社がつけてくれますし、iDeCoと違って口座管理料などの手数料もかかりません。なるべく長い年金にして、しっかり利息で増やしてもらうのがいいと思います」  ほかに、退職一時金や企業年金の使い方として最近注目されているのが「つなぎ資金」として使う策だ。 「WPP」という言葉を聞いたことはないだろうか。「Work longer、Private pensions、Public pensions」の頭文字をとったもので、「できるだけ長く働いて公的年金をもらう時期を遅くする『繰り下げ』を行い、終身でもらえる年金額を増やす」戦略を指す。「繰り下げ」をしている間、例えば60代後半に労働収入だけで足りない分を、企業年金を集中的に受け取ったり、退職金の一部を投入したりすることで賄う。 「少しずつ取り崩していくこれまでの戦略だと、何歳まで生きるかわからないから、どうしてもお金が尽きる不安がなくなりません。死ぬまで受け取れる公的年金を増やせれば、その不安を小さくできます」(大江氏) AERA 2023年9月18日号より    図の夫婦の場合で考えてほしい。夫の公的年金200万円は5年繰り下げると42%増えて284万円。妻の80万円と合わせると364万円で、年金だけで月に約30万円。夫婦2人なら生活できる金額だ。  もう一つ、選択肢が増え、今後は複数の一時金を「時間差」で受け取る場合も増えるだろう。例えば60代後半は勤労収入で生活費を賄えるので、DBの受給を遅らせるといった場合だ(規約で「できる」と定められている場合に限る)。そんな時に適用される退職金のルールもぜひ覚えておきたい。  まず一般的なのが「4年ルール」。ある一時金を受け取る場合、その前年以前「4年内」に別の一時金を受け取っていると、退職所得控除は先に使った勤続期間と重複する部分が使えなくなるとするもの。逆に言うと、二つの一時金を5年以上離して受け取ると、重複した期間を両方でダブルで使える。 AERA 2023年9月18日号より   「時間差ルール」に注意  ややこしいのは企業型DCとiDeCoが絡む場合だ。この二つの一時金を後で受け取る場合、「4年」が延びて「19年」になる。つまり、DCの一時金を受け取るその前年以前「19年内」にほかの一時金を受け取っていれば、退職所得控除で重複期間が使えなくなってしまう。これはDCが受給を始める時期を自由に選べるため、選択時期によって損得が出ることを避ける措置だ。しかし、これもルールに反しなければ「賢いもらい方」につなげられる。  DCの受け取り方に詳しいニッセイ基礎研究所の高岡和佳子主任研究員が言う。 「DCの受給開始時期は75歳まで延びていますので、最初の一時金を55歳以前に受け取れば、現行ルールでは75歳までに最初の一時金は20年前のものになり、『19年ルール』に該当しなくなります。FIREで55歳までに退職一時金を受け取った方や、意外なところでは50代前半で役員になった方も、その時点で退職一時金を受け取るので、企業型DCの一時金と両方で大きい退職所得控除額が適用されます」  なるほど、経済的に自立して早期リタイアを実現する「FIRE」や出世がお得なもらい方につながるとは思ってもみなかった。もう一つ、「19年ルール」はあくまでDCを後に受け取る場合に適用される。仮にDCを先に受け取れば、適用されるのは「4年ルール」だけ。会社の定年は65歳まで延長されたが、企業型DCの会社拠出が60歳で終わる場合などは、「60歳」で企業型DCを一時金で受け取り、「65歳」の新・定年の時に退職一時金を受け取ればよい。  以上述べてきた様々なポイントを踏まえて、退職金の受け取り方を考えてほしい。豊かな老後ライフがその先にあるはずだ。(編集部・首藤由之) ※AERA 2023年9月18日号より抜粋   【あわせて読みたい】 退職金の基本として押さえたい「手取り」イメージ 一時金と年金で受け取れる額に違い https://dot.asahi.com/articles/-/201174
ネットの誹謗中傷、10年前の約2.5倍 池袋暴走事故の遺族も被害に遭い「泣きました」
ネットの誹謗中傷、10年前の約2.5倍 池袋暴走事故の遺族も被害に遭い「泣きました」 インタビューに応じる松永拓也さん。「ネットの誹謗中傷対策は、あらゆる側面からやっていく必要がある」「誹謗中傷のない社会になってほしい」と話す(撮影/倉田貴志)    ネットには誹謗中傷の言葉があふれている。池袋暴走事故で妻子を失くした遺族も誹謗中傷の被害に遭ったという。なぜ、ネット社会で誹謗中傷が起きるのか。AERA 2023年9月18日号より。 *  *  *  言葉の刃(やいば)は人を傷つける。重く、鋭く、心をえぐる。 「何より、妻と娘のことをモノみたいに言われるのが、本当に言葉にできないほどつらいものでした」  松永拓也さん(37)は静かに話す。  2019年4月、松永さんの妻・真菜さん(当時31)と長女・莉子ちゃん(当時3)が、車の暴走事故で亡くなった。  事故の後、松永さんは、2人の命を無駄にしないという思いからX(旧ツイッター)やブログで交通事故撲滅の活動を始めた。すると、さまざまな意見が寄せられるようになった。  大半が励ましのコメントだったが、中には、〈死ね〉〈消えろ〉〈悲劇のヒーロー気取りか〉といった誹謗中傷のコメントもあった。ありもしないことも書かれつらかったが、名前と顔を出して発言する以上、仕方がないとあきらめていた。  しかし昨年3月、愛知県内の20代の男が、松永さんのXのアカウントに返信する形で、次のように書き込んだ。 〈男は新しい女作ってやり直せばいいこと  お荷モツの子どもも居なくなった〉  これを目にした時、松永さんは「泣きました」と振り返る。 「莉子が生まれた時に感じた命の尊さ、3年間一緒に真菜と莉子と生きてきた幸せな日々。それを、会ったこともない人が『お荷物』だと。そんなことを言うのかと。人として、絶対に言ってはいけないこと。許せなかった」  松永さんは警察に被害届を出した。警察は被害届を受理し、男を侮辱容疑で書類送検して起訴した。男は、松永さんを中傷する意図はなく炎上商法のつもりだったなどと言った。だが今年1月、男は侮辱罪に問われ、求刑通り拘留29日が言い渡された。  ネットには誹謗中傷や差別の言葉があふれている。  7月12日、タレントのryuchellさんが、自ら死を選び27歳で亡くなった。明確な動機は明らかになっていないが、ryuchellさんは、SNS上の自身への執拗な誹謗中傷のコメントに悩まされていたという。  昨年8月、ryuchellさんは離婚して「新しい家族の形」として同居を続けると、直後からryuchellさんへの厳しい批判の声が上がった。〈育児を放棄している〉〈妻子を差し置いて好きなことをやっている〉──。そんな投稿があふれ、「いいね」や「リツイート」で批判の声が膨れ上がった。 妻子を失った松永拓也さんのXのアカウントに返信する形で送られた、松永さんを中傷する投稿。「お荷モツの子どもも居なくなった」などとあった(撮影/倉田貴志)   誹謗中傷の多くは正義感からの攻撃  なぜ、ネット社会で誹謗中傷が起きるのか。  総務省の「違法・有害情報相談センター」には22年度、ネット上の誹謗中傷等被害の相談件数は5745件あり、10年前の約2.5倍。ここ数年、高止まりが続く。  ネットメディア論が専門の国際大学GLOCOMの山口真一准教授は、次のように指摘する。 「ネット上で誹謗中傷をする多くの人は、正義感から攻撃を仕掛けています。しかもその正義は、社会的正義ではなくその人個人の正義です。1億人がいたら1億通りの価値観がありますが、とりわけ攻撃的な感情を持った一部の人が、ネットに書き込む行為に至り、他人を傷つけています」  山口准教授の調査では、ネットで「炎上」に参加している人の60~70%が、理由を「許せなかった」などと回答した。そのため、自分が書いているのは誹謗中傷だと気づかない。「批判」であり、こいつは悪いことをしているから書かれて当然、と考えているという。 「面と向かっても誹謗中傷する人はいますが、ネットはそれを加速させる側面があります。『非対面コミュニケーション』と言い、顔が見えない相手とのコミュニケーションでは、相手が人間だという意識が薄れ、攻撃的になりやすいことが分かっています」(山口准教授) AERA 2023年9月18日号より    ネット上の誹謗中傷に詳しい、慶應義塾大学大学院KMD研究所所員の花田経子(きょうこ)さんは、最近の誹謗中傷の事案を見ているとこう感じると言う。 「自分の気持ちを表明しているだけのように思います。つまり、相手を非難しているという自覚も、それを第三者が見てどう思うかという視点も抜け落ちています。近所の友だちと話をしている感覚で、本人に向けて書いていないと思います」  例えば、子育てに協力的でない夫に不満を持っている主婦が、ryuchellさんのSNSに「育児を放棄している」などと書き込むことはあり得ると、花田さんは考える。 「しかも、本人に届くと思わず投稿する。そんな人が大半だと思います」  誹謗中傷は「嫌なら見なければいい」と言われる。だが、小さな石でも、何千何万と投げられれば大きなダメージとなる。(編集部・野村昌二) ※AERA 2023年9月18日号より抜粋   【あわせて読みたい】 SNS誹謗中傷で注目の「発信者情報開示請求」 約350件請求した写真家の体験に学ぶ https://dot.asahi.com/articles/-/89650
退職金の基本として押さえたい「手取り」イメージ 一時金と年金で受け取れる額に違い
退職金の基本として押さえたい「手取り」イメージ 一時金と年金で受け取れる額に違い 「ルール」をあらかじめ知っておくことが、賢く退職金を手にするために重要だ(写真:gettyimages)    政府による退職金課税の見直し議論が注目を集めている。老後のライフプランに影響することも考えられる。まずは会社の制度を知り、退職金の「手取り」を計算してみることが大切だ。AERA 2023年9月18日号より。 *  *  *  退職金や企業年金に詳しいファイナンシャルプランナー(FP)の高橋昭さんが言う。 「退職金の増税論議が明らかになって以来、セミナー参加者の意識の変化を感じます」  政府が今年の「骨太の方針」に、「退職所得税制を見直す」と明記したことは本誌7月24日号で報じた。勤続年数が長くなると控除額が増額される仕組みが見直される可能性があるとする内容だったが、そのことをセミナーで解説すると参加者の表情が引き締まるというのだ。 「厳しい増税もあり得ることを知り、それに備えたライフプランを立てなければと思うのでしょうね。逆に、運用益の非課税措置など資産形成の有力手段であるNISAやiDeCoの話題になると身を乗り出してきます」(高橋さん)  退職金は年金で受け取れる会社もあれば、年金と一時金併用で受け取れる会社もある。  退職給付のもう一つの柱である「企業年金」は、あらかじめ給付額が決まっている「確定給付企業年金」(DB)と、従業員側の運用しだいで給付額が変わる「企業型確定拠出年金」(企業型DC)が双璧だ。  会社の制度ではないが、資産形成のために近年、国の制度整備が進む「iDeCo」(個人型確定拠出年金)もあわせて考える必要があるだろう。iDeCo以外は規約次第だが、一時金、年金、併用可の三つのもらい方がある。 AERA 2023年9月18日号より   会社の制度を勉強する  自分の会社の制度がどうなっているのかを知ることが大前提になる。冒頭の高橋さんが、 「退職金規定や自分の会社の企業年金の規約はもちろん、賃金規定や就業規則にも目を通しておいた方がいいでしょうね」  と言えば、退職金制度に詳しい確定拠出年金アナリストの大江加代さんは、 「選択の『あり』『なし』に注目して会社の制度を見てください。退職一時金は『定年時に一括』でほかに選択肢がありませんが、企業年金はいろいろな受け取り方を用意している会社も多くあります。自分にはどういう選択肢があるのかをまず把握してください」  と話す。  制度とあわせ、基本として押さえておきたいのが「手取り」のイメージだ。一時金でもらう場合と年金でもらう場合で実際に受け取る金額が違ってくる。  一時金の場合は、先述のように勤続年数が長くなると増額される「退職所得控除」が使える(控除額は表、企業年金やiDeCoも一時金で受け取る場合はこの控除が適用される。その場合は「勤続年数」を「加入期間」と読み替える)。ご覧の通り、勤続20年を超えると一気に増え、控除額は勤続30年で1500万円、同40年だと2200万円にもなる。  退職一時金が「退職所得控除」を超えなければ退職所得は「ゼロ」となり、税金はかからない。超えると、超えた分の半分の額に課税される。ただし「分離課税」だから、同じ年に得たほかの所得とは合算されない。勤続40年で3千万円を受け取るとすると、税金がかかるのは「400万円分」だ(〈3千万円-2200万円〉×1/2=400万円)。  一方、年金でもらう場合は、企業型DCやiDeCoでは運用次第だが、DBではもらっている間も残りの資産を会社が運用してくれるので、受け取る額は一時金より大きくなる(どれぐらい大きくなるかは制度ごとの「給付利率」による)。こちらは分離課税でなく、「雑所得」として扱われる。公的年金やDB、企業型DC、iDeCoを年金でもらうといずれも雑所得としてカウントされ、同時にもらえば合算されて総合課税される。 AERA 2023年9月18日号より   「手取り」考える習慣を  ただし「公的年金等控除」が使える。65歳未満なら年間60万円、65歳以上は同110万円までがそれぞれ非課税だ。それを超えると課税所得が発生し、基礎控除などほかの所得控除を差し引いてもプラス部分が残れば、その分に所得税・住民税、社会保険料(健康保険・介護保険)がかかってくる。  この税金と社会保険料が実はばかにならない。退職一時金2千万円の大卒会社員夫婦の場合で、一時金でもらう場合と年金でもらう場合の「手取り額」を試算したのが図だ。60代前半は再雇用で年収300万円で働き、65歳以降は公的年金200万円(妻は80万円)を受給すると仮定して計算した。結果は、全体の額面では年金で受け取る場合が10年間で5100万円と、一時金で受け取る場合(4900万円)より200万円多くなった。ところが手取りでは逆転し、一時金の方が140万円多くなる結果に。10年間とはいえ無視できない金額である。  先のFPの高橋さんは、常に「手取り」で考える習慣を身につけてほしいとする。 「実際の生活は『手取り』で賄うので、ざっくりでいいので手取りを計算する癖をつけてください。選択肢が複数なら、それぞれの手取り額を比べてからもらい方を決めるようにしましょう」 AERA 2023年9月18日号より   (編集部・首藤由之) ※AERA 2023年9月18日号より抜粋
阪神「元エース」が東京・新橋の居酒屋で迎えた歓喜の瞬間 常連たちに支えられ「夫婦」で号泣
阪神「元エース」が東京・新橋の居酒屋で迎えた歓喜の瞬間 常連たちに支えられ「夫婦」で号泣 阪神優勝で感極まる元エースの川尻哲郎さん(右)と妻の陽子さん(撮影/上田耕司)    18年ぶりの阪神タイガースのセ・リーグ優勝で沸いた14日。なかでも、ひときわ熱気を放つ店が東京・新橋にあった。阪神の元エース・川尻哲郎さんが経営する居酒屋「タイガースタジアム」だ。  試合開始後の18時半ごろに店内に入ると、すでに満席。記者は立ち見で取材したが、ファンたちの熱気で空気が薄く感じるほどだった。  阪神が得点するたびに店内からは大きな歓声が上がる。4点目を追加した7回裏には、黄色の風船が一斉に飛び交った。  いよいよ9回に入ると、あと3人、2人、1人とカウントダウンが始まった。途中で膨らませ過ぎた風船が暴発する音がするハプニングがありながらも、「アレ」の瞬間に向けて店内のボルテージが一気に高まっていく。  そして、9回裏。2アウトから巨人・北村をセカンドフライに打ち取った瞬間、歓喜の瞬間が訪れた。  白い風船が宙を飛び交うなか、川尻さんのもとに妻・陽子さんが駆け寄り、2人はがっしりと抱き合った。陽子さんは目に涙を浮かべ、哲郎さんの胸に頭をつけて号泣。哲郎さんも泣いている。夫婦で3年間、店を切り盛りしてきて、夢に見た瞬間だった。  哲郎さんはこう話す。 「このお店を開いて、これだけみんなが喜んでくれて、この日を迎えられてよかった。本当にうれしいです」  日本シリーズ優勝に向けては、 「クライマックスシリーズ(CS)は油断はできないけど、(阪神が)有利だと思います。日本シリーズはオリックスが相手なら、投手陣が強いので接戦になると思うけど、日本一を狙ってほしいですね」 【あわせて読みたい】 阪神・岡田監督が星野仙一超える“名将”か 戦略家の「知られざる素顔」とは 喜びを分かち合うように抱き合う川尻夫妻(撮影/上田耕司)    妻の陽子さんもこう続ける。 「待ちに待った“アレ”でしたから。気持ちが込み上げてきて、泣が止まらなかった」  店内にいるファンからも「ありがとう、ありがとう、川尻さん」とコールが鳴りやまなかった。  川尻氏が現役時代につけていた背番号「19」のユニフォームを着ていた安井元晶さん(61)はこう言った。 「私は寅(とら)年生まれで、西宮出身。私が生まれた1962年は阪神が優勝した年でした、もう最高です」  店の常連だという岩崎誠(61)さんは、「阪神優勝」と書かれた手作りの扇子とユニフォームを着て応援していた。 「私も1962年生まれで、2003年も2005年も甲子園にいた。今年は川尻さんと一緒に優勝を見ることができてうれしい。だって、川尻さんはかつて阪神のエースだった人ですよ。その川尻さんと優勝を分かち合えるなんて、本当に感謝しかありません」  過去の阪神優勝を知っている年配者だけでなく、若い人の姿もあった。立命館大学3年の酒井翔真さん(20)は、奈良からこの店に駆けつけたという。 「昨日は甲子園にいました。ファンのみなさんが心の底からエネルギーを放出している感じで、すごい熱気でした。岡田監督は“アレ”を封印すると言ってましたが、もう『日本一』でいい。かっこいいと思います」 【あわせて読みたい】 18年ぶりの優勝で伸びる意外な「阪神関連銘柄」は? 関西景気の恩恵や語呂合わせ効果も 優勝が決まった当日のタイガースタジアムの店内の様子(撮影/上田耕司)    翔真さんの父・宏一郎さん(47)は台東区在住で、店の常連。14日は人手が足りないので、ボランティアで店を手伝っていた。 「言葉にできないですね。もう涙が止まらなかったです。この18年間で、優勝を逃したのが2~3回あって本当に悔しい思いをしてきました。今年、岡田監督になって期待をしていたらその通りになってくれたので、その思いが爆発して涙が止まらなかった。たぶん、社会人になって初めての涙です。常連のメンバーと一緒に野球を見られて、喜びを分かち合えて、本当に幸せです」  同じく店の常連で、森下翔太選手の背番号「1」のユニフォームを着ていた田中孝さん(50)さんは興奮気味にこう話す。 「明日は仕事で来られへんかったから、絶対に今日優勝してほしかった。しかも、裏で広島とヤクルト戦をやっていて、その試合が終わるよりも早く、阪神が優勝を決めたのがナイスやった。今日はホームの甲子園で巨人に勝って優勝してほしかったし、巨人もそうされたくないから必死なのはわかった。本当にいい試合だった。長いペナントで優勝したんだから、もう95%達成。CSや日本シリーズはエクスビジョンやで(笑)」  今年、阪神が強くなったポイントについてはこう分析した。 「岡田監督に尽きる。査定額をフォアボールで出塁してもヒットと同じように30万円~100万円(推定)に上げたことは大きかった。あと、岡田監督は友達野球ではなく、上下関係があんねん。いい悪いは別として、それでしっかりとしたメリハリのあるチームをつくった。“アレ”っていうのはオリックス時代から言っていたけど、阪神に来てキャッチフレーズに仕上げたね」 優勝の瞬間には白い風船が宙を舞った(撮影/上田耕司)   「タイガースタジアム」では野球部をつくっており、オーナーの哲郎さんが監督を務めている。部員の1人である斎藤真吾さん(46)はこう話す。 「感無量です。もの心付いたときから阪神の帽子をかぶって少年野球をやっていました。バースがいたころからずっとファンです。今年は岡田監督がうまく選手を使っていたので、安心して見ていられました。調子が悪い選手をカバーする選手がいたことも大きいと思います。たとえば大山悠輔がダメなら佐藤輝明がカバーして、近本光司がケガした時には森下がいてくれた。CSはこのままの勢いで行くでしょう。というか、行ってくれないと困る」  夫婦で応援に来ている人もいた。豊島区から来た40代の夫婦は、夫が阪神ファンだという。 「私はファンというわけではないのですが、夫が『来たい』『優勝したら泣いてしまう』と言うので一緒に来ました。きょうは夫の12月のバースデーの前倒しプレゼントですね」  店に集ったそれぞれの人が、18年間の思いを抱えながら、歓喜の美酒に酔いしれていた。阪神のネクタイをした男性は「きょうは朝まで飲むつもりです。帰りたくないです」と話したが、店内の盛り上がりはしばらく収まりそうになかった。  店の外にでると、新橋の街はいつもと変わらない様子だった。だが、ガールズバーの呼び込みをしていた20代の女性はこんな“変化”を口にした。 「今日は阪神のユニフォームを着た人たちをちらほら見かけましたね。近くで外飲みをしていた人たちはパブリックビューイングを見て『ワーッ』と歓声を上げて盛り上がってましたよ」  大阪のような“騒ぎ”とはならないが、東京の阪神ファンにとっても、熱い一夜となった。 (AERA dot.編集部・上田耕司)
嫉妬心はなぜ生まれる? を脳ドクターが解説 嫉妬する人にありがちな3つの特徴 
嫉妬心はなぜ生まれる? を脳ドクターが解説 嫉妬する人にありがちな3つの特徴   恋人や夫・妻の携帯電話を勝手にチェックして嫌われたり、既読スルーで喧嘩になったりなど、嫉妬心を抑えられずに悩んでいる人は多い。脳内科医で、「脳の学校」の代表や加藤プラチナクリニックの院長も務める加藤俊徳(かとう・としのり)さんによれば、「嫉妬する人は現在の自分に満足せず、自分と人を比べて考える人」だという。加藤さんが監修した『脳ドクターが教える 脳とココロの引き寄せルール』(朝日新聞出版)から、脳科学の観点から、嫉妬する人の心理と3つの特徴と嫉妬心を抑える方法を抜粋して紹介する。 *  *  *  嫉妬心の多くは「現在の自分に満足していない」ときに出てきます。他人の評価を入れずに自分で自分を受け入れられる基準を決めてみましょう。自分らしい基準を持つと、嫉妬を生じさせる機会が減ります。 嫉妬する人は「比べる人」  嫉妬心は「あの人は〇〇なのに対して自分は△△だ」と“比較”する思考から生まれます。逆にいうと、嫉妬しない人は自分と相手を比べて考えないのです。三角関係になったときでも「彼は私とあの女のどっちを選ぶんだ!」と天秤にかける思考をせず、自分と彼との関係だけに着目します。つまり、敵を蹴落とすための引き寄せではなく、ふたりが幸せになるような引き寄せを意識しているんですね。 嫉妬する人は「暇な人」  嫉妬しない人の特徴として、もうひとつ挙げられるのが「やることがある」ということです。人間は、やるべきことがなくなると(ネガティブな)感情が働き始めます。“ヒマだから悩む”というのが脳のしくみなんです。ただ座っているうちは嫉妬心が膨らんでいく一方ですが、体を動かして行動し始めると嫉妬が消えて、あんなに落ち込んでいた自分がバカバカしく思えてきたりもします。自分の脳がもっと別なことを考える目的があれば、脳は嫉妬に暇を与えないのです。 嫉妬しないために「運動」する  ですから、嫉妬心をなくすには運動系脳番地を使うのがいちばん早いです。家を隅から隅まで掃除する、ひとり旅に出る、筋トレを始めるなど予定をたくさん入れて、脳を忙しくさせてあげましょう。 この世の中は、各種広告をはじめ嫉妬をあおるような情報であふれています。情報操作による価値観に縛られて「嫉妬させられている」可能性もあるということを知ってください。人と比べず自分の価値観だけで判断しましょう。「なぁんだ、取り合うほどのヒトじゃない」と気づくかもしれませんよ。 (構成 生活・文化編集部 端 香里)
戦国大名家のトップ・今川家を手本とした家康 懸川城攻略に拘らなかった理由も気心故か
戦国大名家のトップ・今川家を手本とした家康 懸川城攻略に拘らなかった理由も気心故か 掛川城  徳川家康にとって今川家の存在はどのような意味を持ったのか。歴史学者・黒田基樹氏は新著『徳川家康と今川氏真』(朝日新聞出版)で、氏真こそ、家康に最も影響を与えた人物であろうと考える。同著から一部抜粋、再編集し紹介する。 *  *  *  そもそも家康は、岡崎松平家の当主として、戦国大名・国衆という領域国家の主宰者として必要な、武将として、また政治家としての教養を修得したのは、今川家のもとでのことであった。天文十八年(一五四九)、もしくは同十九年に、八歳か九歳の時から、今川家の本拠であった駿府に居住した。それらの教養は、そこで修得したのであった。それはいわば、今川家によって育成されたことを意味しよう。  そして今川家の嫡男として存在したのが、今川氏真であった。家康よりも四歳年長であった。家康は、今川家御一家衆・関口氏純の婿になって、今川家の親類衆として存在した。したがって氏真は、その宗家にあたる存在であったといいうる。弘治三年(一五五七)に氏真が今川家当主になると、家康はそれに従う関係にあった。そして宗家とその親類衆ということから、親密な関係を形成したことであろう。 【こちらもおすすめ!】 『徳川家康と今川氏真』の記事をまとめて読む。  当時の今川家は、駿河・遠江・三河三ヶ国を領国とした、海道筋随一の大規模戦国大名であった。しかも室町幕府を主宰する足利将軍家の御一家として、高い政治的地位とそれに相応する文化・教養をもとに、近隣の甲斐武田家・相模北条家よりも優越する地位にあった。周辺の戦国大名家をリードする、いわば戦国大名家のトップランナーともいうべき存在であった。家康はそのもとにあって、少年期から青年期を過ごしたのであり、今川家からうけた影響は、計り知れないものがあったことは間違いない。家康にとって、今川家こそが、戦国大名家としての手本に他ならなかったであろう。  永禄三年(一五六〇)の尾張桶狭間合戦で、今川義元が戦死したことで、三河・尾張情勢は急変し、それに応じて家康は、尾張織田信長と同盟したうえで、今川家に敵対する。そこから家康は、足かけ九年におよんで氏真と軍事抗争を展開した。しかし家康が果たしえたのは三河一国の統一であり、遠江経略をすすめることはできなかった。同十一年に、氏真と武田信玄の関係悪化により、家康は織田信長を通じて信玄と同盟を結び、氏真に対して協同の軍事行動を展開し、遠江経略をすすめた。  氏真は武田軍によって駿河から退去を余儀なくされ、遠江懸川城に籠城した。家康はそれを攻撃するが、すぐに氏真とそれを支援する北条氏政とのあいだで和睦を結び、その際に氏真・氏政と入魂にするという誓約まで結んだ。家康が懸川城の攻略に拘らなかったのは、氏真とのかつての交流から生まれた、気心のようなものがあったように思う。  これにより家康は遠江一国の経略を遂げ、遠江・三河二ヶ国の戦国大名になった。家康の遠江・三河統治のあり方は、支城制の採用といい、在地支配の仕組みといい、今川家のそれを踏襲するものであった。家康にとって今川家は、やはり戦国大名としての手本であったといいうる。 ●黒田基樹(くろだ・もとき)/1965年東京都生まれ。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。博士(日本史学)。専門は日本中世史。駿河台大学教授。著書に『お市の方の生涯』『徳川家康の最新研究』(ともに朝日新書)、『百姓から見た戦国大名』(ちくま新書)、『戦国大名』『戦国北条家の判子行政』『国衆』『家康の正妻 築山殿』(ともに平凡社新書)、『関東戦国史』(角川ソフィア文庫)、『羽柴家崩壊』『今川のおんな家長 寿桂尼』(ともに平凡社)、『戦国大名・伊勢宗瑞』『戦国大名・北条氏直』(ともに角川選書)、『下剋上』(講談社現代新書)、『武田信玄の妻、三条殿』(東京堂出版)など多数。

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