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全国60拠点、年商18億円の久遠チョコレート 代表・夏目浩次の従業員の6割が障害者の職場の作り方
全国60拠点、年商18億円の久遠チョコレート 代表・夏目浩次の従業員の6割が障害者の職場の作り方 「シンプルでいい」が夏目の口癖だ。みんなが働けて、みんなが笑える、そんな社会をチョコレートで実現する(写真:今村拓馬)    夏目浩次が率いる「久遠チョコレート」は、「アムール・デュ・ショコラ」でも選ばれるほど、人気のチョコレートだ。従業員のうち、6割が障害者。チョコレートは失敗しても温めたら作り直せるため、それぞれが合った仕事で人気を支える。障害者が働いても、月額1万円しかもらえないと知った憤りが、夏目の原点。使える人と、使えない人とを区別せず、支え合える社会にしたい。 *  *  * 「それでは、本祭典を代表するシェフたちの登場です!」  名古屋駅に直結するジェイアール名古屋タカシマヤ。バレンタインデーまで1カ月を切ったこの日、日本最大級のショコラの祭典「2024アムール・デュ・ショコラ」オープニングセレモニーのひな壇に夏目浩次(なつめひろつぐ・46)は立っていた。全国から集まった150ブランドのうち、29人の選ばれしシェフたちと並んだ姿は誇らしげでもあり、緊張しているようでもある。見知ったテレビクルーを見つけて、照れくさそうに大きくニカッと笑った。あ、いつもの夏目だ。  夏目が率いる「久遠チョコレート」の本店は、愛知県豊橋市の豊橋駅からほど近いアーケード商店街の一角にある。店に入るとチョコの甘い香りとともに、主力商品のQUONテリーヌがずらりと並んで圧巻だ。その種類は実に170種以上。フリーズドライしたいちごが甘酸っぱい「ベリーベリー」や、粗めに砕いたほうじ茶が香ばしい「宇治石臼ほうじ茶」、コロンビア54%チョコとオレンジピールが大人っぽい「ノアール」などなど。ミントブルーのルックスが魅力的な「チョコチップ&チョコミント」はドミニカ共和国50%チョコを使用し、爽やかな余韻が漂う。フレーバーに合わせて使用するチョコレートの産地も変える本格派。どれひとつとして同じ味はない。  それを作っている人々もまた個性的だ。従業員700人のうち6割以上が身体、精神、発達障害のある人たちだ。ほか子育てや介護でフルタイムは働けない女性や不登校や引きこもり経験者、LGBTQの人などを積極的に雇用している。 重度の障害のある人たちが働くパウダーラボ。材料を切る、混ぜる、砕くなどそれぞれが適材適所で能力を開花させるラボの雰囲気はあたたかく、笑顔に溢れている。(写真:今村拓馬)   内向的だが負けず嫌い 起きたくない朝もある  もともと夏目はチョコレートの専門家ではない。大学でバリアフリー建築と出合い、当時「障害者の全国平均月給が1万円」という安さを知って衝撃を受け、状況を変えようと行動を始めたのだ。2003年に前身となるパン屋をオープン、さまざまな失敗を経て、チョコレートとの出合いがすべてを変えた。14年にスタートした「久遠チョコレート」はいまや全国60拠点、年商18億円にまで成長している。だが14年当時を知る統括マネージャーの山本幸代(54)は「逆風の時代は長かった」と振り返る。 「風向きが変わったのは本当にここ4、5年です。それまでは『障害者を利用して商売をしている、きれい事だ』とか、福祉関係の重鎮たちからは『助成金のなかでやればいい、何を一人で騒いでいるんだ』と直接言われたこともありました。でも夏目さんは負けず嫌いの塊ですから、怒りのベクトルが『やってやる!』につながる。向こうが思っている以上の答えを出して『ほら、想像していたのと違うでしょ?』って。そういう人なんです」 170種以上あるQUONテリーヌ(写真:今村拓馬)    当の夏目は自身を「内向的で気が小さいんです」と分析して苦笑いする。 「そのくせ負けず嫌いで頑固。スイッチが入ると突っ込んでいっちゃうんですけど、あとで『ああ~、またやっちゃった!』ってなる。起きたくない朝もいっぱいあります(笑)」  自分はいたって普通の人間。なにも特別なことをしているわけじゃない。だからみんなにもこれが普通にできることなんだと気づいてほしい。そう夏目は繰り返す。しかしここまでの道のりは平坦ではなかったはずだ。障害のある家族がいたわけでも、障害者と身近に接してきたわけでもない。いったいなにが夏目を動かしたのだろう。  夏目は1977年、豊橋市に生まれた。3歳上の兄がいる。子どものころから頑固で負けず嫌い。いろいろアイデアを考えるのが好きで、小4のとき担任から「発明家で賞」を授与されている。 豊橋市内のスーパーから出る野菜くずなどで鶏を育て、自社の卵をまかなうことを計画中だ。講演を通じて親交のある九州産業大学の学生と鶏舎を見学する。(写真:今村拓馬)    いまにつながるかもしれない体験は、保育園時代に起こった。  夏目の父・忠男(85)は豊橋市の貧しい10人きょうだいの家庭に生まれ、中学卒業後すぐ上京し、縁あって国会議員の秘書を務めた。だが突然、「事務所の金を使い込んだ」という理由でクビを切られた。父によると大卒の秘書が増えるなか、中卒では格好が付かないというのが真の理由だったらしい。もちろん事実無根だが、父は黙って従うしかなかった。そんなある朝、夏目が保育園に行くと保育士の態度が違った。「あの親の子」という空気を感じ、露骨ないじめを受けるようになった。 「遠足に行って芝生の上でお弁当を食べていると、3、4人の保育士が前に立って見下ろしながら『おい、弁当まずそうだなあ』と言うんです。毎日、保育園で吐いていました。子どもだから反論できなかったけど、振り返るとこのときから理不尽なことや声なき声に敏感になったのかもしれない」  その後、父は市議会議員に立候補し、2度目の挑戦で当選。以後、6期24年も務めることになる。夏目を愛情込めて「小僧」と呼ぶ忠男も言う。 「いまに見とれよ、という気持ちがありましたね。それを見とったんじゃないかな、小僧はね」  負けん気の強さは父ゆずりだと夏目も認める。中学時代、背が小さいことでからかわれても「なにくそ」と思ってきた。が、決して正義感溢(あふ)れるヒーローなどではない。小2のとき障害のあるクラスメートをいじめる側に加担したことをいまも後悔している。小6のときひとりぼっちでいた転校生に、自分から声をかけにいく勇気はなかった。  だが、大人には反旗を翻した。中1のとき音楽教師の怒り方を「それはおかしいと思う」と指摘し、以後3年間、通信簿に1をつけられた。ほかの教師に「内申点が足りず志望高校を受けられないから先生に謝ってこい」と言われても「本番で受かりますから」と突っぱね、見事に合格した。 ジェイアール名古屋タカシマヤ「2024アムール・デュ・ショコラ」で有名シェフたちとひな壇に並んだ。(写真:今村拓馬)   始めたパン屋は先が見えず 準備した粉をぶちまけた  特に目的も定めず進学した大学の英語の授業で「ノーマライゼーション」という言葉に出合う。フラットなことが当たり前で、人と人に垣根はないという考え方に目が開いた。そんな社会を実現するため「政治家になろう」という思いが芽生えた。大学を卒業して信用金庫に就職したのも地元での人脈づくりのためだった。だが、どうも感触が違う。社会の大きな課題に取り組むよりも、地域の祭りや消防団に参加したり、地元の道路にガードレールを作ったりすることが求められる。大事なことだが、夏目には大きなビジョンがあるようには見えなかった。政治家の道はそうそうに諦めた。飽きっぽい自分にほとほと嫌気がさした。  信金も辞め、大学院に戻ってバリアフリーをテーマにし、障害のある人たちと関わるようになる。そんなときに出合ったのが『小倉昌男の福祉革命─障害者「月給1万円」からの脱出』という書籍だ。クロネコヤマトの生みの親である小倉は障害者が普通に働き稼ぐことができる場所を作ろうと「スワンベーカリー」を立ち上げていた。夏目は衝撃を受けた。 「自分のやっていたことはなんて薄っぺらかったんだろうと気づいたんです。車椅子ユーザーと『駅のどこで迷うか』などを調べて論文を書いていたけれど、そもそも月給1万円では駅に遊びに来ることもできないじゃないかと」 妻・安矢子と子どもたちと。休みの日は家族で旅行に行くことも多い(写真:今村拓馬)    スイッチが入ると、もう止まらない。小倉に「自分もやりたい」と手紙を書き、地元の福祉助産施設を見学して「工賃はいくらですか」「なぜ月給1万円なのですか」と質問し、露骨に嫌がられた。「自分たちもこれではいけないと思っている」という人も少数いた。だが大半は「仕方ない」「福祉にお金を持ち込まないでくれ」という対応だった。現場の人を責めたいわけではない。仕方がない、ですませる社会の空気に納得できなかった。  ついに小倉と東京で対面が叶(かな)った。「スワンベーカリーをやらせてください」と頭を下げたが、もらったのはただ一言「帰りなさい」。面談は数秒で終わった。いま思えば「甘いものじゃない」という戒めだったのだろう。が、帰りの新幹線で「これからどうしよう」と頭を抱えた。道はなくなったのか? いや、そうじゃない。ならば自分でやってやる! 負けん気に火がついた。 父・忠男から秘書時代の話を聞いたのはほんの数年前だ。「世の中はどうしても強い人の声を聞く。声なきものの声を聞かなければいけないと改めて思いました」(写真:今村拓馬)    障害者に最低賃金を払うパン屋を開きたい、と協力企業を探した。門前払いも多いなか、手を差し伸べてくれたのが「敷島製パン」(名古屋市)。パン製造のノウハウを教わり、知的障害のあるスタッフ3人を含む5人を雇用し、2003年に豊橋市の商店街にパン屋をオープンした。  が、大きな試練が待ち受けていた。  夏目安矢子(46)は信金時代に夏目と出会い、結婚。おなかに第1子を宿しながらパン屋を手伝うことになった。「とにかく大変だった」と振り返る。朝3時から仕込みをしてパンを焼いても、最後の最後で焦がしてしまい全てがダメになることもしょっちゅう。高温のオーブンでのやけども絶えない。売り上げが伸びなくても約束した賃金を支払い、人件費も重くのしかかった。あっという間に借金が1千万円を超えた。それでも投げ出すわけにはいかなかったと安矢子は言う。 「うちの子も働かせてほしい、といってくださる方が多くいらっしゃったんです。まだ20代だった私たちを信頼してくれる方たちがいる。一度始めたことを、やめるわけにはいかなかった」 (文中敬称略)(文・中村千晶) ※記事の続きはAERA 2024年4月15日号でご覧いただけます
宇宙物理学者が実感「日常は相対性に溢れていた!」アインシュタインの理論を理解する最初の一歩
宇宙物理学者が実感「日常は相対性に溢れていた!」アインシュタインの理論を理解する最初の一歩 ※写真はイメージです(Getty Images)    物理学といえば、アインシュタインの相対論があまりに有名だが、一般人からすれば難しく思えてしまうもの。だが、物理学者の須藤靖氏は、世の中には「一般に相対論で満ちあふれている」という。朝日新書『宇宙する頭脳 物理学者は世界をどう眺めているのか?』から一部を抜粋、再編集して解説する。 *  *  *  物理屋はアインシュタインの一般相対性理論をさして、一般相対論、あるいは単に相対論と呼ぶことが多い。専門家以外の一般の方々の場合、相対論と聞くとむしろ特殊相対論を思い浮かべるかもしれないが、特殊な人々は一般相対論を思い浮かべるというねじれた構図となっている。  相対論は、物理法則を記述する方程式はどのような座標系を用いて書いても同じ形になることを保証するという一般相対性原理が出発点だ。  こう聞くと何やら難しそうであるが、次のように言い換えてみるとどうだろう。  物事の善悪、真偽、○×などあらゆる物事には絶対的な基準は存在せず、あくまでそれらを取りまく環境との相対的な関係によって決まるからこそ、人によって判断が異なるのだ、と。にわかに深い人生訓の様相を帯び、すっと腑に落ちてこないだろうか。  今回はこの観点から、世の中は一般に相対論で満ちあふれているという私の日頃の主張を思いっきり展開してみたい。 『宇宙する頭脳』(朝日新聞出版)   僕と彼の相対性  実は私は今、この文章を韓国金浦空港待合室で書いている。韓国に旅行されたことのある方はご存じであろうが、韓国では食事の際、お箸とスプーンが必ずセットで出てくる。またほとんどの場合、熱々のご飯が金属の器に入って提供される。そのため、お茶碗は必ず手に持って食べるようにと厳しくしつけられてきた我々年配の日本人は必ずやけどをしてしまう。  一方で、「犬食い」をすることの多い昨今の日本の若者は何も疑問を感じることなく、本場の韓国料理を熱々の白米とともに思う存分堪能できてしまうのだ。  無論これには理由がある。日本では、人間には手があるのだから食事をするときには器の類を手で口元まで近づけて食べるべきであると考える。当然、手で持ってもやけどしないように、茶碗に熱伝導率の高い材質(つまり金属)が用いられることはない。  一方韓国では、食事の際に器を手に持つ動作はあたかも物乞いをしているように思われるために、悪いマナーであるとされる。  したがって、ご飯の器を手で持てないように意図的に金属を用いることで、そのような不心得者をなくしているわけだ。同様に、汁物もまたお碗の端に口をつけて飲むことはご法度であり、スプーンが必須となる。深い文化を背景とした極めて科学的かつ合理的システムなのだ。  と頭で理解はしていても、長年の習性はすぐには直らない。私は韓国で何度も無意識のうちにご飯の器を手に持ってしまい、アチーと叫んでは同じテーブルに着席していた韓国の先生方に「教養の低い日本人」というレッテルを貼られ白い目で眺められる羽目になる。  逆に、日本ではいつも犬食いはやめろと親に注意されてばかりいる我が愛娘こそむしろ、韓国ではしつけの行き届いた日本人という名声をほしいままにし、未来の日韓関係に大きな役割が期待されてしまう。韓国を修学旅行先に選ぶ日本の高校が増えている理由もまさにここにあるのだろう。  というわけで、列をなして羽田行き飛行機の搭乗を待っている神奈川県某高校の修学旅行生の団体が目の前にいる。2人で談笑中の男子高校生のところに、何やら女子高校生3人組が近づいて話しかけた。どうやら記念撮影をしたいらしい。  男子の1人が3人組からデジカメを渡され、もう1人の男子高校生と女子3人とが一緒の写真を撮らされている。そのたびに、「あー、変な顔しちゃったからやり直して」、「もっとこっちの角度から写してよ」と厳しい注文が飛ぶ。  やっと撮影が終わったので、今度は交代して、撮影役であった男子と3人組女子の4人の写真撮影となるのかな、とばかり思っていたところ、「じゃーねー」、「修学旅行のいい思い出になったよね」などと言いながら3人組は速やかに立ち去ったのだった。  衝撃であった。私の目にはその男子高校生2人の容姿にこれといった差異は見出せない。にもかかわらず、3人組にとっては相対的な違いが明確であったのであろう。  撮影役だけを押し付けられいいように使われたあげく一顧だにされず終わった片方の男子高校生が受けた精神的苦痛を考えると目頭が熱くなる。  ふと50年以上前の自分は幸せな高校生だったのか、気になってきた。 日本語の相対性  相対的と言えば、日本人はそもそも相手の立場に立って相対的な思考ができる国民である。下に弟や妹がいる男子は、親からも「お兄ちゃん」と呼ばれる。やがて自分に子供が生まれると妻から「お父さん」、さらに孫ができると妻からも子供からも「おじいちゃん」と呼ばれるようになる。  意を汲んで無理やり英語に訳すならばそれぞれelder brother of your younger brother, father of our children, grandfather of your grandchildrenとなるはずだから、名称の原点となる基準点が時々刻々変化していることがよくわかる。  これは自分の立場の変化に応じて、基準となる座標系の選び方の任意性を保証する一般相対性原理が日本人に理解されている証拠である。  英語では、子供ができようが孫ができようが、それとは無関係に奥さんからはファーストネームで呼ばれるのが普通だ。これはいわば常に同じ絶対座標系を使い続けているようなもので、物理学的には好ましくない。  とりわけこの思考法の違いは、日本人が最も不得意とする否定疑問文に対する答え方の場合に顕著となる。Do you like〜と聞かれようがDon’t you like〜と聞かれようがそれには全くおかまいなく、自分が好きならYes、嫌いならNoと答えるような硬直した言語を用いて思考する人々が、相対論マインドを身につけることは容易でなかろう。  英語においては明確な自己主張こそ絶対的であり、質問者の意図との相対的関係など気にしない。この意味において、日本語は相対論と親和性の高い言語なのである。 ○と×の相対性  日本語と英語の違いに限らず、暗黙のうちに記号に付与されている意味もまた国によって異なっている。今から30年以上前にアメリカの某会議で講演をしたときのこと。当時知られていた宇宙論的観測データを、異なる理論仮説がそれぞれどの程度うまく再現できるかについて〇△×の表を作成して説明した。  なかなかわかりやすい表であると一人悦に入りながら話していた私に、「〇と×はどちらが観測事実を説明できるという意味なのか」と質問された。そもそも何を聞かれているのかすら、すぐには理解できなかった。  日本人にとって、〇は正解、×は不正解というのは全く自明のお約束である。しかし、この約束は決して国際的に通用する絶対的取り決めではなかったのだ。  その後の私的調査の結果によると、中国、イタリア、フランス、アメリカでは、正解はチェックマーク、完全な不正解は×が普通とのこと。もし〇がついているとその解答はどこかおかしいぞという意味を持つらしい。ロシアでは、正解には何もつけず、不正解には×あるいは下線を引く。ドイツでは正解にチェックマーク、不正解に下線をつけることもあるが、それぞれ小さくr(richtig)、f(falsch)と書き込む先生が多いらしい。  考えてみれば、記号はあくまで相対的な取り決めの下で意味が付与されているに過ぎないことは自明である。自分が何の根拠もなく抱いていた絶対的世界観がもろくも崩れ去ったことを実感するとともに、自分の人生において相対性原理の重要性を痛感した瞬間であった。
「いつも脳裏に筋トレ」で日常に好循環 ポジティブ思考も手に入るジム通い
「いつも脳裏に筋トレ」で日常に好循環 ポジティブ思考も手に入るジム通い タイコー代表取締役の三村悦久さん。歩行は日々の生活で必ずする。その時間を有効活用しようと足におもりをつけ始めた。筋トレも仕事も小さな努力の積み重ねが実になると実感(撮影/羽根田真智)    メンタルにも効く自己啓発としての筋トレが注目されている。身体以上にメンタルに効くという筋トレ効果について、筋トレ民たちに聞いた。AERA 2024年4月1日号より。 *  *  *  健康関連商品の輸入販売会社を経営している女性(53)は、「筋トレなしでは仕事が回らない」とまで感じている。エナジードリンクを飲むよりはるかに頭の回転が良くなる。手足がポカポカし、倦怠感が消える。どんなに忙しくても、いや、忙しいからこそ、短い時間でもいいからジムに行く。更年期に入るまでは「ジム=ダイエット」で、嫌々行っていた。いまや、目的が全く変わった。  笹川スポーツ財団「スポーツライフに関する調査報告書」(2000~2022)によると、年1回以上の筋トレ実施率(20歳以上)は2000年(7.3%)から2020年(17.6%)まで右肩上がりに上昇。コロナ禍を経た2022年では15.9%と減少に転じたものの、2000年と2022年で比較すると筋トレ実施人口は全体で2倍以上増加。男女別では男性で約2倍、女性約3倍になっている。 ポジティブ思考に 「ポジティブな思考回路が出来上がった。たとえネガティブな攻撃を受けてもはね飛ばせる」  こう言うのは、情報通信の設計・施工などを行う「タイコー」代表取締役の三村悦久さん(54)。創業者の父親から経営を引き継いだ2年目。業績が落ち、社外役員から「来年も同じなら役員総入れ替え」との通告を受けた。同時期、大腸にポリープが三つ見つかり切除。父親からは「健康管理も社長業の一つ」と言われた。当時1歳と3歳だった息子の存在も後押しとなり、体幹トレーニングができるジムに入会。それから7年。出張、接待、家庭サービスで忙しい合間を縫い、ジムに通っている。日頃から筋力を鍛えるため両足におもりをつけて、ゴルフや息子とのジョギング中も外さない。  ジム仲間はほぼ年下。率先してトレーニングに勤しむ三村さんの愛称は「隊長」だ。40キロのケトルベルでショルダープレスをしている三村さんに、30歳近く年が離れたコーチが負けじと挑んでくることもある。学生時代のスポーツのように大会優勝を目指すわけではなく、ひたすら自分に向き合うのが筋トレ。目の前の壁にチャレンジし乗り越えることの繰り返しで、自信がついた。息子の友達やパパ友から「ターくんパパ、筋肉すごい」と言われるのも、照れつつ誇らしい。 笹隈幹人さん。仕事の面でも負けず嫌いになった。結果を出すために努力をする。「今日はチートデイ、明日からまた節制」というメリハリをつける力もついた(写真:本人提供)    昨年は、創業以来の利益を達成した。今年の会社のスローガンは「小さな努力を積み重ねる」。一朝一夕では成らぬ筋肉づくりと通じるところがある。 65歳以上が約3割も  ボディメイク大会に5回の出場経験があり、昨年は某大会で3位に入賞した笹隈幹人さん(30)。学生時代はどちらかというとだらしない体形で、「◎◎君の体、かっこいいよね」と言う側だった。それが今では完全に逆の立場。彼から出た言葉も、三村さんと同じ「自信」と「ポジティブ」だ。 「体を褒められることが増え、自分に自信を持つようになり、性格が2段階増しくらいポジティブになった」(笹隈さん)  スイーツやコッテリ系のジャンクフードが大好き。しかし、たとえ目の前で誰かが食べていても、これを食べて体の仕上がりが納得いかないものになったら嫌だと思うと、我慢できる。仕事をしていても買い物をしていても脳裏に筋トレがあり、時間を作り出すためにどう効率よく物事を進めればいいか、自然と考えている。 「日々の生活にハリが出て、妻から『一層楽しそうだね』と言われます」(笹隈さん)  フィットネスクラブ「ゴールドジム」を運営するTHINKフィットネス代表取締役社長の手塚栄司さんは、筋トレの効果は数知れないという。 「ざっと挙げるだけでも、血管血流量の改善、男性ホルモンの分泌の向上、更年期症状の改善、骨の強化、フレイルやサルコペニア予防、セロトニンやドーパミンといった脳内ホルモン分泌促進などなど。最近は、マイオカインという物質の分泌が筋トレで高まり、脳細胞活性化やがん予防につながるとも報道されています」(手塚さん) (ライター・羽根田真智) ※AERA 2024年4月1日号より抜粋
「東急歌舞伎町タワー」も手掛けた建築家・永山祐子が素材と表現にこだわり抜くための交渉術とは
「東急歌舞伎町タワー」も手掛けた建築家・永山祐子が素材と表現にこだわり抜くための交渉術とは ポジティブでマイペース、ギスギスしたところがない。明るいオーラで周囲をやる気にさせていく(撮影/篠塚ようこ)    建築家、永山祐子。東京・新宿に立つ「東急歌舞伎町タワー」が昨年、話題となった。永山祐子は今、大阪・関西万博のパビリオンも手がける。素材やデザインにこだわると、予算がかかる。そこを「こうすればできる」と粘り強く交渉していき、理想に近づける。出産をしたことで、仕事の仕方も変わった。心強い味方を得て、どうしたら建築が人と場所を幸せにできるかを追求する。 *  *  *  海風が四方から吹き付ける人工島は、「寒い」を超えて「痛い」ほどの冷気だった。クレーンが林立する広大な現場では、大型の作業車がひっきりなしに行き交い、車輪から巻き起こる砂埃(すなぼこり)が容赦なく頬を打つ。そんなハードボイルドな景色の中で、建築家の永山祐子(ながやまゆうこ・48)が、建設途上の建物のディテールを一つひとつ、関係者とともに丹念に確認している。  永山は2025年日本国際博覧会(大阪・関西万博)で、「パナソニックパビリオン『ノモの国』」と「ウーマンズパビリオンin collaboration with Cartier」2館のファサード(正面部)デザインを手がけている。ノモの国では、8の字に曲げた金属フレームにオーガンディの布を張ったモチーフを連続させ、そこに風の揺らぎを誘導することで、軽やかさ、自由さを表現する。  ウーマンズパビリオンでは、日本の伝統である麻の葉文様を鋼材で組み立て、それを壁や天井に作り上げていく。ここで使う鋼材は、21年のドバイ国際博覧会日本館のファサードで使用したもののリユースで、SDGs時代ならではのインパクトも同時に発信する。  文章にすると簡単に終わってしまうが、華やかで軽快なデザインの裏には、綿密な構造計算とともに、人の心を動かす「美」へのあくなき探求、すなわち建築家にとってのレゾンデートル(存在意義)が横たわっている。  昨年に建築界の話題をさらった東京・新宿の「東急歌舞伎町タワー」の外装デザインも、永山の強い思いの賜物(たまもの)だ。噴水から噴き上がる水しぶきが天を衝(つ)くような超高層ビルは、その斬新、繊細な意匠で、日本一雑多であやしい町、歌舞伎町のイメージを塗り替えるランドマークとなった。 「JINS PARK 前橋」は2層の吹き抜けに配した大階段が特徴。手がけた仕事は機会がある度に立ち寄って、様子を確認している(撮影/篠塚ようこ)   「素材と表現には、いつもこだわっています。最近は人件費、資材の高騰もあり、なかなか当初の計算通りには行かないのですが、そこを乗り越えてイメージした形に近づいていく過程が、楽しくてやめられないですね」(永山) バッシングは仕方がない 建築は建ててこその世界  日本は世界に冠たる建築家の輩出国である。戦後の丹下健三から始まり、磯崎新、黒川紀章、安藤忠雄、隈研吾、妹島和世……と、時代を象徴するスターが次々と生まれてきた。永山はその後続世代で、藤本壮介、中村拓志らとともに前線に連なる一人だ。  だが建築家を取り巻く状況は、昔と今ではまったく変わってきている。永山がかかわる大阪・関西万博は費用の膨張に批判が続出。東急歌舞伎町タワーは、永山がまったく関与していない「ジェンダーレストイレ」が炎上を呼び込んだ。そうでなくとも、超高層プロジェクトは、投資リターンを最大化する事業スキームが最重要で、建築が持つ創造性はその下位に押し込められがちだ。キャンセル・カルチャー、リスクヘッジの世の中にあって、建築家はもはやスターではなく、世間から放たれる矢をかわすスケープゴートとして扱われかねない。  しかし、その現実を背負いながら、永山に悲壮感はまったくない。 「いろいろな意見があるのは当たり前で、バッシングが起こるのも、ある意味仕方ない。でも、建築は建ててこその世界。誰かがやらねばならないのだったら、私がその役を引き受けて行動する。その姿を次の世代に見てもらいたいのです」  と、直球の言葉を返してくる。  永山が率いる「有限会社 永山祐子建築設計」は現在、所員16人。超高層ビルから眼鏡、小箱のような手の上に乗るプロダクトまで、中身もオフィス、商業、美術館、住宅など、多様なプロジェクトを手がけている。男性優位、筋力優位のこの世界にあって、会社は永山も含めて女性が7人。本人を筆頭に子育て中のメンバーも多く、事務所の雰囲気はさらっとなごやか、昭和時代の大家族のような趣がある。 事務所での打ち合わせ。決断は素早い(撮影/篠塚ようこ)    所員の一人、小森陽子(38)が語る。 「ものすごく集中力のある、頼もしい指揮官です。でも出張に行った時は、ミカンを箱で買ってきたりして、お母さんみたいなところもあります」  永山自身、東京・杉並で両親、祖母、弟妹と、同じ敷地に叔母夫妻が暮らす大家族の長女として育った。父は生物物理の研究者、母は元・化学技官というアカデミックな家庭で、子どものころは漠然と生物の世界に進むことを思い描いていた。  それが建築という「大きな」ものに振れたのは、高校3年の時。通学時のバス停で友人から「建築家を目指す」と聞いた瞬間に、「私もこれだ!」と直感が天から降りてきた。小さな時から物語を想像することが好きで、部屋の片隅にマットレスで作った「ハウス」にこもる時間が至福。理系の教科も得意で、数学が表す数のロマンにも惹(ひ)かれる。早世した父方の祖父は、モダニズムの泰斗(たいと)、谷口吉郎門下で建築家を志していた。自分の中にあるさまざまな要素が一つにハマった時だった。  建築コースがあった昭和女子大学生活科学部に進学し、卒業後はアトリエ派の青木淳建築計画事務所での修業を選んだ。青木の事務所ではメンバーが4年で独立することが不文律で、永山もそのルール通り26歳で独立。青木から振られた東京・北青山の大型美容室の内装が初仕事となる。 「今から思えば20代で独立なんて無謀でしたが、その時は何も知らないから逆にできちゃったんだと思います。あ、仕事が来た!ということで一所懸命に応えたら、次も来た! その次も来た! と、今もその延長でやっている感じで」  語り口は明るく軽快だが、その言葉の後には「すべての仕事に100%以上の力で応える」という、永山の姿勢が続く。  100%以上を表す一例が04年に手がけた「LOUIS VUITTON大丸京都店」のファサードである。この時は京都の中心、四条通りに面した店舗の前面に、液晶ディスプレーに使われる偏光板を使って、シックな黒い縦格子を出現させた。本物の格子ではなく、角度によってガラスに映し出されるバーチャルな格子模様は、エッジを効かせながら、ハイブランドの店舗と古都の街並みをつなぐ仕掛けだった。 大阪・関西万博の現場を確認したこの日は、次に博多に移動だった(撮影/篠塚ようこ)   建築界で異端の素材 実験を重ね問題をクリア  永山と組んだファサードエンジニアの小野田一之(現・三和ファサード・ラボ社長)は、このアイデアを最初に聞いた時、それまでにない衝撃を受けたと言う。 「永山さんが自分で作った模型を持ってきたんです。それを見て、あっと驚きましたね。ツルッとした偏光板の奥をのぞくと、そこにないはずのものが立体的に見える。光学の世界で偏光板は普通の素材ですが、建築で使うなんて聞いたことがなかった。名だたる建築家でも、そうそう出てこないアイデアです」  偏光板は電子顕微鏡の専門家でもあった父との会話の中で知り、自分の中にストックしていた独自のものだった。異端の素材ゆえ、建設会社が最初に行った耐久性能試験ではあえなく却下。しかし、納得できなかった永山は諦めず、試験場の片隅を借り、ひと月をかけて実験をやり直した。 「最初の試験は紫外線や熱などの条件が非現実的で厳し過ぎたのです。私は現実的な条件を設定し直して、データとともに問題点がクリアできることを証明しました。フランスのクライアントを説得することも大事で、英語が得意でなかったけれど、必死で伝えました。なぜなら、自分が手がける証しとして、この素材だけは絶対に譲れないと決めていましたから」  この作品で才能ひしめく建築界の一角に喰(く)い込んだ永山は、アパレル店舗、個人住宅、カフェ「カヤバ珈琲(コーヒー)」(東京・谷中)や老舗旅館「木屋旅館」(愛媛県)のリニューアルで手腕を発揮していった。12年にはアーティストの藤元明(48)と結婚。公私ともに順調だった道のりの中で、初めて立ち止まったのは、長男の妊娠中に「豊島横尾館」(香川県)の話が来た時だ。  瀬戸内海に浮かぶ豊島の古民家を改装して、横尾忠則の美術館をつくるプロジェクトでは、地元の協力を得るためにも、現場通いが必須だった。この件に限らず、建築の仕事は現場なしでは成り立たず、その現場は東京から遠く離れていることが多い。仕事と結婚は両立できるが、出産を控え、さらに子どもを育てながらでは、仕事は完遂できないのではないか。いったんキャリアを中断し、事務所も縮小すべきではないか。そう考えた時に、母から「育児は全面的に協力するから、その話は受けなさい」という強力なプッシュを受けた。 ビンテージマンションの最上階2フロアをみずからリノベートした自宅で、夫の藤元明と小学生の長男、長女と。ガーデンテラスがある家は子どもたちと友達との格好の遊び場。「私は必死の形相でご飯を作っています(笑)」(撮影/篠塚ようこ)    母の永山幸子(75)は結婚に際して躊躇(ちゅうちょ)なく家庭を選んだ人だったが、「子育てがある場合、女性は男性と同じ時間を仕事に使えない。それは不公平なことだ」と、常々考えていたという。 「家庭と仕事、どちらが大事というのではなく、自分が力を発揮できる場所でがんばればいい。娘がチャンスを与えられ、仕事に打ち込みたいのなら、足りない部分を私が支えよう、と」(幸子) メンバーに仕事を任せると 事務所がさらにパワフルに  折しも美術館で横尾が設定したテーマは、子どもの誕生ともつながる「生と死」。受験生にはおなじみ、参考書の文字を隠す赤いシートをヒントに、真っ赤なガラス壁で向こう側の眺めをモノクロ世界に変異させた美術館は、彼岸此岸(しがん)を行き来する幻想的な空間に仕上がった。この作品で建築界のメジャーな賞であるJIA新人賞を受賞。長男に続き、翌年には長女も誕生して、いよいよ多忙は極まっていく。  もともと、人にまかせることができない性分で、特に建築については完璧主義。しかし、建築家としての創造、事務所の経営、家庭の運営、子育てと、何重もの役目が重なる中で、従来のやり方は通せない。立て込む仕事を前に「もうダメかも!」と震えながら、その局面をマネジメントの切り替えで乗り越えていった。  大きな変化は「人にまかすこと」だった。それまで所内全体で関わってきたやり方を変えて、プロジェクトごとに担当を割り振り、その上に永山が立って総合的なディレクションを行う。事務所は机に向かう場ではなく、ディスカッションと意思決定を行う場ととらえる。決断のスピードを速め、判断を過たないように、常に思考を整理しておく。そう決めてメンバーに仕事をまかせると、人は育ち、事務所自体がさらにパワフルな仕事集団になっていくことを実感した。 「3食がお弁当だったりする」というほど移動が多い日常。iPadは欠かせない道具。週に3回、母が自宅に来て家事と子育てをサポートしてくれている(撮影/篠塚ようこ)    この経験は建築家として次のステージに行く上でも大きな基盤になった。永山は言う。 「建築は大きなお金が動くものですので、表面的な意匠だけではなく、予算、スケジュール、人間関係、時代の文脈とすべてへの目配りが求められます。困難や変更はイヤというほど発生して、その度に心折れる気分になりますが、でも、やるしかない。いかにデザインするかと同時に、いかに実現まで持っていくかが、建築家のスキルだと思っていますので」 (文中敬称略)(文・清野由美) ※記事の続きはAERA 2024年4月1日号でご覧いただけます
放送作家を終える鈴木おさむに山下達郎が贈ったサプライズとは 32年間の感謝を思いながら
放送作家を終える鈴木おさむに山下達郎が贈ったサプライズとは 32年間の感謝を思いながら 放送作家の鈴木おさむさん    鈴木おさむさんが、今を生きる同世代の方々におくる連載『1970年代生まれの団ジュニたちへ』は今回が最終回になります。最後は「辞めるきっかけ」について。  * * *  長年続けてきたこの連載も本日が最後になりました。そして僕は今度の日曜日、3月31日をもって放送作家を辞めます。  僕はこの20年近く、「スマイルカンパニー」という会社にマネジメントをお願いしていました。「スマイルカンパニー」と言えば、山下達郎さんのために作られた事務所です。山下達郎&竹内まりや夫妻が在籍するアーティスト事務所です。 「これから絶対マネジメントが必要になるから、入った方がいいよ」と紹介されたのが「スマイルカンパニー」でした。  アーティスト事務所なのに、放送作家の僕を快く受け入れてくれて、僕のやりたいことを自由にアシストしてくれました。  そして山下達郎さんのコンサートにも何度も行かせて頂きました。  2019年9月3日。僕は、山下達郎さんのコンサートを市川文化会館に見に行かせていただきました。最後の最後に「おまけです」と言って歌ったのが「LAST STEP」という曲でした。一言で言うと「別れ」の歌なのですが、その曲を聞いてるうちに雷に打たれるようにいきなり「辞める」という選択肢が頭に浮かびました。  SMAPが解散してからずっとモヤモヤしていた自分に、いきなり「辞める」という選択肢が閃(ひらめ)き、前に進む道が出来た気がしたのです。  山下達郎さんがあの日歌った「LAST STEP」という曲のおかげで、次に進む覚悟を与えてくれたのです。  で、僕は東京FMで自分がパーソナリティーを務める番組をやっています。金曜日のお昼に2時間の生放送。「JUMP UP MELODIES」と言う番組で、3月22日の放送になんと山下達郎さんが来てくれたんです。  ノープロモーションです。そこで約1時間。山下達郎さんは、僕の質問に全て真剣に答えてくれました。僕は「40代からしんどくなり、そこを超えると50代から新たな道が見える」と色んなところで言ってますが、達郎さんも、同じく40代からのしんどさと50代からの生き方を語ってくれました。なんか答え合わせして貰ってるような気がしました。  そして、最後。僕はお別れの曲に、「LAST STEP」を選曲していました。それをかけようとすると、達郎さんがいきなり「ちょっと待ってください」と言って、なんと、2019年9月3日のLIVEの「LAST STEP」の音源を家からマスタリングして持ってきてくれて、なんとそれをかけてくれたんです。  その曲を聞いて、あの日を思い出しました。2019年9月3日。「辞める」という選択肢が急に閃いた日。  あれから、コロナ禍を経て4年たちましたが、放送作家を辞めるまで10日となった自分をその歌声が包んでくれて。  おつかれさま・・・と言ってくれている気がして。  そして、改めて、32年間やってきて沢山の人への感謝を思いながら曲を聞きました。  最後の最後に、山下達郎さんにこんなサプライズをして頂き、心から感謝しています。 本人インスタグラムから    放送作家を辞めるまであと、今日含めてあと3日。最後の最後までワクワクして終われたらいいな。  一足お先に、このエッセイを読んで頂いた皆様、ありがとうございました。  ライフ イズ エンターテインメント。  放送作家 鈴木おさむ  
愛子さま 伊勢神宮参拝でお召しの白のロングドレスは、神聖さと清らかさの象徴 
愛子さま 伊勢神宮参拝でお召しの白のロングドレスは、神聖さと清らかさの象徴  伊勢神宮を参拝する愛子さま。聖域でお召しの白いロングドレスの参拝服が美しい=3月26日、三重県伊勢市、朝日新聞社    白い参拝服に身を包んだ天皇、皇后両陛下の長女愛子さまが26日、皇室の祖先とされる天照大御神を祭る伊勢神宮(三重県伊勢市)を参拝した。大学の卒業と就職を報告をするためで、おひとりで地方を訪問するのは初めてのことだ。愛子さまが着用していたのは白い絹地のロングドレス。この色にも意味があるという。 *   *   *  小雨の降るなか、白い参拝服で扇子を手にした愛子さまは、伊勢神宮の参道をゆっくりと進み、正宮で玉串を捧げて参拝した。  天皇家では、成年や卒業など人生の節目に、皇祖神である天照大御神が祀られる伊勢神宮に参拝することが慣例となっている。  愛子さまは2014年に続いて2度目。このときは、前年の秋に執り行われた式年遷宮「遷御の儀」を受けて、ご一家での参拝だった。  12歳だった愛子さまは、正装として学習院女子中等科の制服で臨んだ。健康的に日焼けした愛子さまに、夏用のセーラー服がよくお似合いだった。  このときの伊勢神宮の周辺の沿道には、愛子さまの姿をひと目見ようと大勢の人たちが集まり、帰路に着くご一家を乗せた車は速度を落としてゆっくりと走った。  後部座席には、明るい笑みを浮かべて手を振る、当時の皇太子さまと雅子さま。おふたりの間に愛子さまが座り、恥ずかしそうに少しだけお手振りをしていた。そんな可愛らしい様子を、集まった地元の人たちも顔をほころばせて見守っていた。     【こちらも話題】 【祝ご卒業】愛子さま 卒業式の着物には堂々たる天皇家の「菊紋」 格式高い三つ紋の本振袖と凛とした紺袴で花のような美しさ https://dot.asahi.com/articles/-/217714     伊勢神宮を参拝する愛子さま。聖域でお召しの白いロングドレスの参拝服が美しい=3月26日、三重県伊勢市、朝日新聞社   愛子さまのご成長に地元も感慨深く  通例であれば、内親王は20歳の成年を迎えた年に、伊勢神宮へ参拝してきた。しかし、愛子さまは21年12月に20歳の成年を迎え、翌3月に成年の記者会見を開いたものの、コロナ禍がまだ落ち着いていない時期でもあった。 「愛子内親王殿下が参拝すれば、大勢の人が集まることは容易に予想できることでした」(当時の宮内庁関係者)  そうしたことも背景にあったのか、伊勢神宮への参拝は行われず、皇室の祖先などをまつる皇居・宮中三殿を参拝して、成年皇族となったことを報告した。    あれから10年を経て、愛子さま成年皇族として白い絹地の参拝服であるロングドレスを着用して神事に臨んだ。 「前に愛子さまがいらしたときは制服で、まだ幼さの残るご様子でしたが、今回いらした愛子さまは穏やかで、落ち着いた雰囲気をまとっていらした。立派な女性皇族にご成長なさったお姿を拝見できて、感慨深いことです」(地元飲食店の店主)   前年12月に成年を迎えたことを報告するため、伊勢神宮外宮に参拝した秋篠宮家の次女佳子さま=2015年3月、三重県伊勢市、代表撮影/JMPA   伊勢神宮では白、天皇陵ではグレーのドレス  参拝では人間の俗世と神の住まう聖なる世界の境を出入りするため、古式にのっとって参拝の前後にお手水で身を清める。  そして男性皇族はモーニングだが、愛子さまのように女性皇族はみな、絹の生地で仕立てられた白いロングドレスの参拝服を着用することになっている。  たとえば2014年に参拝した際の雅子さま、成年の報告をした秋篠宮家の長女、眞子さんや次女の佳子さま、ご一家で訪れた紀子さま、平成の皇后だった美智子さまも、白いロングドレスをお召しだった。     【こちらも話題】 愛子さま就職先の「日赤」では一般の事務作業も担当? 語学力を生かした海外連携が主な仕事に https://dot.asahi.com/articles/-/218078     20歳の成年を迎えた報告のため、伊勢神宮を参拝した秋篠宮家の長女、眞子さま(当時)=2011年11月、三重県伊勢市、代表撮影/JMPA    ロングドレスの白という色にも、意味があるという。宮内庁の関係者だった人物は、こう話す。 「祭祀の際、神域では神職も白色の装束を用います。神宮への参拝の際は、女性皇族も白い参拝服をお召しになります。白は神聖なものや清らかさを表す色であるから、と聞いています」  この白い絹地のロングドレスと帽子の素材に、純日本産の蚕である「小石丸」の繭で紡がれた絹織物が用いられたこともあったという。   秋篠宮ご夫妻と佳子さま、悠仁さまが伊勢神宮へ参拝。佳子さまは学習院女子高等学校の卒業式を終え、6歳の悠仁さまは翌4月からお茶の水女子大学附属小学校への入学を控える=2013年3月、三重県伊勢市、代表撮影/JMPA    愛子さまは翌日、伊勢神宮の参拝後の通例どおり、奈良県橿原市で皇室が初代天皇としている神武天皇陵を訪れた。この日は薄いグレーのロングドレスに黒の帽子、手に扇子を持って参拝し、大学卒業と就職を報告した。  神武天皇陵の参拝服は、伊勢神宮とは異なり、濃淡はあるがグレーに変わる。大正天皇陵と貞明皇后陵、昭和天皇陵と香淳皇后陵がある武蔵陵に参拝する際と同じだ。  この参拝服の色は「にび色」といい、喪や慎みの色だという。    この春、人生の節目を迎えた22歳の愛子さま。これからご両親と離れ、おひとりでの歩みが始まる。(AERA dot.編集部・永井貴子)   【こちらも話題】 愛子さま「節目の年」に伊勢神宮参拝 華のある品格と振舞いに「教養がどんどん身についている」と皇室ジャーナリスト  https://dot.asahi.com/articles/-/218082  
ガザの空爆下を逃げた26日間「現地スタッフの助けがなければ生きて帰れなかった」 国境なき医師団・白根麻衣子
ガザの空爆下を逃げた26日間「現地スタッフの助けがなければ生きて帰れなかった」 国境なき医師団・白根麻衣子 空爆下のガザ、退避までの26日間に地獄をくぐった。戦争はむごく、非道だ。即時停戦を(撮影/横関一浩)    白根麻衣子が、国境なき医師団のスタッフとして、ガザで人道支援に携わっていた昨年10月、その地が、空爆にさらされた。日常が一瞬にして地獄となった。命がおびやかされる中、白根たちは避難の日々を送る。安全な場所はなかった。白根は無事に帰国できた。だがガザでの戦争は終わっていない。ガザに戻りたい気持ちをこらえ、今は伝えることが使命と考える。 *  *  *  2023年10月7日早朝、パレスチナ自治区ガザ北部──「国境なき医師団(MSF)」の8階建ての宿舎は週末の静けさに包まれていた。  その6階に医療プロジェクトの財務や人事を担う白根麻衣子(しらねまいこ・37)の部屋があった。  前の日は休みで、白根は他のNGO(非政府組織)の仲間とビーチバレーに汗を流し、海辺のレストランでシーフード料理を味わった。心地よく眠り、青い唐草模様の掛け布にくるまっていた。 「ドーン ドン ヒューン」  と花火を打ち上げるような音がして目が覚めた。出窓を開けると、薄暗い空に無数の火の玉が尾を引いて飛んでいる。ガザを統べるイスラム組織ハマスが、イスラエルへミサイルを撃ち込んでいた。眠気はいっぺんに吹き飛んだ。 「退避しなくちゃ、と思い、手順に従って携帯電話だけ持って、地下1階の広い部屋に下りました。MSFは宿舎のビルを1棟まるごと借りていて、住んでいる外国人スタッフ11人全員が避難所の地下室に集まりました。そのうち、いつもどおり近くのエレズの検問所が開いて、外国人はイスラエル側に出られるだろうと、誰もが楽観的でした。ところが、すぐにイスラエルの報復の空爆が始まり、全然、収まらない。不安が募りました」  と白根はふり返る。携帯電話はまだ繋(つな)がっていた。サマータイムで日本との時差は6時間。東京の実家で、母・洋子(70)が娘の電話を受けた。 「麻衣子の第一声は、ママ、まるで真珠湾攻撃よ、でした。その後は、毎日、通信の都合で向こうの朝一番に1分間だけ、安否確認の電話がかかるのですが、こちらからはかけられません。電話のない日もあり、何度もうダメかと。怖かったです」  白根たちが望みを託したエレズ検問所は、ハマスが襲撃し、閉ざされた。 拠点からの移動を前に電話で遺書を預ける  イスラエルの空爆は激しくなり、目の前のビルが地響きをたてて崩れ落ちる。爆風で、宿舎の窓という窓のガラスが砕け散った。  白根は、4日間、地下室で過ごし、とうとう「その時」を迎えた。イスラエル軍の指示で宿舎を出て、国連の施設に移るよう促されたのだ。 「とにかく明るい」白根とミーティングをするMSF日本事務局のスタッフたち。赴任地は自分の希望では決められない。世界約500カ所の活動地から適切な場所が提示される(撮影/横関一浩)    MSFは、世界中すべての活動地を申告し、非暴力の中立を保ち、どの政治勢力からも保護されている。だが、拠点を出れば、いつ「標的」になるかわからない。拠点を軍隊に教えていても、15年には、アフガニスタンでMSFの病院が米軍の誤爆を受け、患者や医師42人が亡くなっている。  白根は覚悟を決めた。  東京のMSF側のサポート役で、紛争地で経験を積んだ看護師の白川優子(50)は、こう語る。 「電話で麻衣子さんから、万が一のことがあったら、と遺書を預かりました。長い文章を、母と姉と妹と甥(おい)っ子にって、恐怖で泣きながら伝えてくれました。大丈夫だよ、大好きだよ、愛してるよって言いながら、受け取ったんです。そのぐらい場所を移るのは危険でした」  母の洋子や白川は何としても麻衣子を助け出したい。しかし、白根と医師、看護師の3人の日本人スタッフがガザにいることが日本ではまったく報じられていなかった。メディアは気づいていない。MSFは情報を統制していた。  その理由を、MSF日本のメディア担当マネジャー・舘俊平は、次のように述べる。 「外国人スタッフがガザに閉じ込められている事実が公になれば、状況しだいでハマスに狙われる可能性もあった。現に彼らはイスラエルに越境して外国人を人質に取った。そこが問題でした」  情報をめぐる当事者と本部のせめぎ合いが続くなか、宿舎を出た白根たちはガザ北部から南部への移動を強いられ、国連施設を転々とする。  白根はひそかに知人の国際ジャーナリストにボイスメッセージを託した。 「ガザはいま地獄です。逃げる場所もないのに、逃げろといわれて。逃げろといわれても空爆はとまらなくて。一般市民はどこにもいく場所がありません」  と名を伏せた白根の悲痛な声が、23年10月13日、TBSのニュース番組で流れた。15日、白根ら外国人の一団は国連施設の露天の駐車場に送られる。  白根は日本の友人にLINEで窮状を訴えた。  洋子に「お母さん、もうがまんできません。麻衣子さんのメッセージをX(旧ツイッター)に流します」と意外な人物から連絡が入った。相手は夫の元総理・安倍晋三を凶行で亡くした妻の昭恵であった。  白根と昭恵は立教大学の社会人大学院、21世紀社会デザイン研究科の同期生だった。16日に昭恵は「避難民で溢(あふ)れ、水もトイレも寝る場所もありません。私たちは外で寝泊まりをしてます」という白根の伝言を投稿。世間に白根の存在が知られ、ガザの惨状が直(じか)に伝わってくるようになった。  空爆下の苦しい生活を、白根はこう回顧する。 母・洋子(中央)と姉の長男、左は1歳下の妹。家族の団欒(だんらん)が一番の楽しみ。昨年ガザから帰国直後、真っ先に母にリクエストしたのは「卵かけご飯」。海外の生卵は食中毒の危険があり、食べられない(撮影/横関一浩)   「パレスチナ人の現地スタッフの命懸けの助けがなければ、私たちは絶対に生きて帰れなかった。彼らは、爆弾を落とされ、銃撃を受けながら水や食料を探して私たちに運んでくれました。移動中、一緒に連れて行ってくれ、と群がるガザの市民たちを説得し、押しとどめて、クルマを運転してくれたのです。ほんとうに感謝しかありません」  ガザ南部の駐車場での避難生活は2週間以上続く。運命に弄(もてあそ)ばれる白根は眠れぬ夜を過ごした。 大手銀行に入行したが昭和の風習になじめず  白根は、1986年、建設関係の会社を営む父と、ピアノ教師の母との間に3人姉妹の次女として生まれた。のびのびと育てられ、両親に勉強しなさいと言われた記憶はない。  ただ、疑問や変だと感じることがあれば納得できるまで聞きなさいと教えられる。高校を卒業する前、父が長い闘病生活の末にがんで逝った。  国際貢献や人道支援に関心はなかった。「子どもにかかわる仕事をしたい」と京都女子大学の発達教育学部に進む。中学・高校の家庭科の教員免許を取ろうと教育実習に臨んで、理想とかけ離れた現実にぶち当たった。  授業は学習指導要領に縛られていて、教科書を読むだけで終わってしまう。自由な発想で何かをつくる授業をしたかったが、諦めた。自分には教育は向かないと感じ、方向をあらためる。 「大企業に入れば何とかなるだろう」と三菱東京UFJ銀行(現・三菱UFJ銀行)に就職した。  東京都下の支店に配属され、富裕層が相手の個人営業に携わる。保険や投資信託、不動産関連の金融商品などを売った。仕事はともかく、銀行の「ザ・昭和」の奇妙な風習になじめなかった。 「まず、ホテルで開かれた新人歓迎会で、芸を、と求められ、新入の女子全員で、韓国のアイドルグループ『少女時代』の真似(まね)をして歌って踊りました。男の子は漫才やモノマネ。いったい誰の歓迎会だろうって感じです。年末にも、また芸をやらされた。飲み会が週4回、お得意さんが相手だと女子が駆り出される。将来は寿退社か敷かれたレールを進むかのどちらか。げんなりしました」  白根は、入行3年目に仕事をしながら夜は立教大の社会人大学院に通った。  じつは、立教に入ったのは母の洋子のほうが先だった。洋子は、夫を亡くした後、音楽を使って地域を活性化したいと社会デザイン研究科の門を叩(たた)いた。年長の洋子は若い大学院生たちから「おかん」と親しまれ、院生の2組を結婚させている。 空爆下のガザでの26日間の避難生活。水道も電気も通っておらず、露天の駐車場で数少ない缶詰を分け合い、ペットボトルの水で身体を拭く。電話は朝7時、何度もかけ直し、やっと通じた(写真は国境なき医師団提供)(撮影/横関一浩)   アルジェリアの少年に会い国境なき医師団へ入る  洋子が立教での学びを楽しそうに家で話すのを聞き、麻衣子もあとに続いた。  ここが人生の分かれ目だった。社会人大学院にはさまざまな人が通っていた。会社を辞めて東日本大震災の被災地に寄り添う仕事を始めた人、危機管理の会社を起こした人、妻がキャリアを積んだのでパートタイムで働きながら勉強をしている人……多様な生き方を知り、白根は「やっぱり教育にかかわろう」と原点に返った。  イギリスに渡り、語学学校を経て、ウォーリック大学の大学院で教育マネジメントを学んだ。英国流のクリティカルシンキング(批判的思考)を徹底的に叩き込まれる。 「自分自身でなぜ、どうしてと問いをどんどんつくり、問題に向き合う手法を英国で教わったんです。たとえば、人事が遅刻を重ねる社員に警告を出すのは簡単です。だけど、その前に、なぜと問いを重ねれば、背景の深刻な理由があぶりだせるかもしれない。根本的な問題がわかれば、また別の対処法が考えられます」と白根は言う。  帰国後、軽井沢の全寮制国際高校、ユナイテッド・ワールド・カレッジISAKジャパンに転職した。サマーキャンプの運営を担当し、途上国の子どもにも奨学金を出して軽井沢に招く。そこで、13歳の少年と出会い、人生を見つめ直した。  少年は、アルジェリアの難民キャンプの出身だった。来日したときは英語を喋(しゃべ)れなかったが、寝る間も惜しんで勉強し、2週間後にはたどたどしいけれど、人前で武力紛争や、キャンプの過酷な暮らしについて話した。そして、「僕には夢がある。プロのサッカー選手になって、家族に楽をさせたい。がんばります」とスピーチを締めくくる。  白根は目頭が熱くなった。懸命に思いを伝えようとする姿に打たれ、世界の人道危機への目が開かれる。危機的な現場に飛び込んで働きたいと熱望し、国境なき医師団の日本事務局の総務部に入った。事務職を1年ほど務めた後、非医療の現地派遣スタッフの試験を受けて合格する。  初任地は、ウクライナの南部、ミコライウだった。17年、地域にまん延するC型肝炎の治療薬を普及させる事業の予算案を作り、経費を管理する。銀行時代に培った財務のスキルが役に立った。宴会芸に悩んだ日々も無駄ではなかったのだ。  18年の暮れ、次の任地のガザに入った。「帰還の大行進」という抗議デモの最中だった。  パレスチナの人びとは、70年前のイスラエル建国で父祖の地を追われた。その2世、3世の若者がパレスチナの旗を掲げ、帰還を求めて境界付近を行進する。  イスラエルの狙撃兵は、彼らの足を狙い撃った。特殊な弾丸で骨を砕き、痛みや感染症のリスクを身体に刻みつける。  そうした負傷者を治療する診療所の予算を白根は管理し、手術器具も購入した。ガザ滞在中に空爆に遭ったが、北部のエレズ検問所が開いて外国人は脱出でき、ことなきを得ている。  19年12月には戦乱と飢餓の地、アフガニスタンに赴いた。首都カブールに着いたものの治安が悪く、数週間足止めされる。西部のヘラートへ行き、国内難民キャンプの診療所の運営に加わった。そこにコロナ禍が襲いかかる。国境が閉まる寸前に出国し、這(ほ)う這(ほ)うの体で日本に帰り着いた。  その後、白根は、韓国事務局の人事部門で働き、23年5月、半年間の契約で、またガザに着任する。派遣終了までひと月を切り、もうすぐ母の手料理が食べられると期待を膨らませたところで、先の見えない戦争に巻き込まれたのである。  23年10月下旬、白根らMSFの外国人スタッフ二十数人は、まだガザ南部の国連施設の駐車場で野宿生活を送っていた。目と鼻の先に隣国エジプトに通じるラファ検問所があるが、事実上封鎖されていた。  国際政治の舞台では、米大統領ジョー・バイデンがイスラエルを訪問し、首相のベンヤミン・ネタニヤフとガザへの人道支援を再開する交渉をしていた。両者の意見が一致し、10月21日よりラファ検問所が少しばかり開く。  エジプト側から支援物資を積んだトラックが入り始めたが、ガザ側の外国人の出国は認められなかった。  一方、駐車場の避難所は、治安が悪化した。パレスチナ人の避難民が押し寄せ、駐車場の塀をよじ登って侵入を試みる。投石が後を絶たない。外国人と一緒にいれば、生命を守れる、食べ物にありつけると皆、必死だった。  10月31日、突然、白根たちは駐車場から海岸へ移動させられる。塀に囲まれた貸別荘のような建物を宛(あて)がわれた。井戸があり、ソーラーパネルが設置されている。水と電気が手に入って、16日ぶりに屋根の下で眠った。 人であふれたラファ検問所 現地スタッフが命の恩人に  翌11月1日の早朝、「7時にラファの検問所が開く。エジプトに出られる」と噂が流れ、白根たちは車列を組んで国境に向かった。  午前10時、やっと国境が開いた。だが、エジプトやヨルダンなどとの二重国籍を持つパレスチナ人が殺到し、検問所は大混乱に陥った。  ふだんラファ国境は一般のパレスチナ人しか通らず、英語が話せる職員もいない。しかし、10月7日以降、エジプトは難民の流入を恐れて国境を閉ざした。再開後も、外国籍の者しか通過を認めなかったのだが、その数が半端ではなかった。  群衆を前に外国人は途方に暮れた。  するとMSFのパレスチナ人スタッフが白根らのパスポートを集め、人波をかき分けて出国管理事務所に突き進んだ。職員とねばり強く交渉する。  しばらくして、出国審査官がアラビア語で人名リストを読み上げた。MSFの現地スタッフは、マイクを握って、一人ずつ英語に言い換える。 「マイコ・シラネ」と呼ばれたとき、これは現実だろうかと白根は頬をつねる。現地スタッフに精一杯の感謝を伝え、こう聞かずにいられなかった。 「どうして、ここまでしてくれるの。いいんだよ、こんな状況なんだから、仕事のことなんか忘れてあなたの大切な人のそばにいていいんだよ」  男性の現地スタッフは、髭面に(ひげづら)笑みを浮かべて、 「だって、マイコ、君たちは僕らの家族じゃないか。MSFの家族が戦乱を避けて、安全な場所に行くのは誰だって助けるだろ。じゃあ元気でね」  と言い、ふたたび地獄のガザへと戻って行った。  白根は、はらはらと涙をこぼしながら、国境の長い通路をエジプトに向かって歩いた。解放された喜びと心苦しさが胸中で入り交じる。  白根の英国留学時代からの友人で菓子研究家のSAWAKO(37)は、帰国後の親友のひと言が耳に残っている。 「麻衣子さんと再会できて、ゆっくりランチを食べて話をした際、彼女、できることならもう一度、ガザに戻りたい、と言ったんです。びっくりしました。まだ何週間も経っていないのにですよ」  白根になぜ、厳しいフィールドに行こうとするのか、と問うと、こんな答えが返ってきた。 「現場は物事が動いていて、すごく躍動感があるんです。機動力を駆使して、一斉に医療プロジェクトにとりかかって、現実を変えられる。あれは現場にしかありません」  すでにガザではイスラエルの空爆と地上戦で3万人以上が亡くなっている。ハマスが取った人質の解放も進んでいない。国際社会はガザを見殺しにしながら互いの顔色ばかりをうかがう。  白根は、「26日間とはいえ戦争の惨状を目の当たりにした私には、それを伝える責任がある。即時停戦を願うばかりです」と言い残し、今年2月28日、次の赴任地、オーストリアへと旅立った。 (文中敬称略)(文・山岡淳一郎) ※AERA 2024年3月25日号
大谷翔平の相棒・水原一平氏がギャンブルに手を染めた理由 「世界一有名な通訳」が抱えていた“葛藤”とは
大谷翔平の相棒・水原一平氏がギャンブルに手を染めた理由 「世界一有名な通訳」が抱えていた“葛藤”とは 違法賭博に関与したとして解雇された水原一平氏    韓国・ソウルで開催されたメジャー開幕戦の興奮が冷めないなか、衝撃的なニュースが入ってきた。ドジャースが大谷翔平の通訳を務めている水原一平氏を違法賭博に関与したとして解雇したことを、現地時間20日に発表した。  現地で取材する記者は驚きを隠せない。 「寝耳に水でした。大谷が試合中に水原通訳と普段通りコミュニケーションを交わしていました。SNS上で『水谷さんの顔が疲れている』という指摘がありましたが、そこまで違和感はありませんでした。MLBの規則本に、違法ブックメーカーを介しての賭けはコミッショナー判断で処罰の対象になると明記されています。水原さんはなぜそんな危険なギャンブルに手を染めたのか……」 マシュー・ボウヤー氏  水原氏はこの問題が公になる前日の19日、米スポーツ局「ESPN」の取材に応じている。インタビューのなかで、ギャンブルにのめり込んだ経緯を明かしている。2021年にサンディエゴでポーカーゲームをしている時、違法賭博で連邦捜査の対象となっているマシュー・ボウヤー氏と会い、“つけ”で賭け始めたという。賭けの対象はサッカー、NBA、NFL、大学フットボールなど。野球賭博については全否定している。借金がふくらみ続けたが歯止めが利かなくなり、首が回らない事態に。借金の肩代わりを大谷に依頼すると合意したという。大谷の口座から450万ドル(約6億8000万円)が違法ブックメーカーに電信送金されたことを明かしている。記事によると、水原氏は「みなさんに知っていただきたい。翔平は賭博には一切かかわっていませんでした。私は、これが違法だと知らなかったということも皆さんに知っていただきたい」と強調したという。水原氏は肩代わりしてくれたお金を大谷に返済すると伝えたという。   【こちらも話題】 「水原一平ショック」二度と再会は叶わないかもしれないが…「大谷も辛いはず」元チームメイトらも複雑 https://dot.asahi.com/articles/-/218012   水原氏は大谷にとって不可欠な相棒だった    ところが、電撃解雇が発表された後に水原氏は一連の発言を撤回する。自身が賭博していたこと、巨額の借金があったことについて、大谷が「知らなかった」と主張。大谷サイドの弁護士も「翔平が大規模な窃盗の被害に遭っていることが判明したため、当局に問題を引き渡している」と大谷が送金に同意していない趣旨のコメントを発表した。  米国でも人気度が高い水原氏の電撃解雇はインパクトが大きく、ニュースが繰り返されて報じられているという。 プライベートでも時間を共有 「米国で注目されているのは、大谷が送金に関与していたかということです。色々な報道が出ていますが、確認された事実は大谷名義の口座から巨額が送金されているということ。本当に何も知らず、口座の管理を任せられた水原氏が独断で送金したのか。それとも、大谷は水原さんを助けたいと思い、自身が肩代わりすることに同意したのか。米国は不正なマネーロータリングに厳しい。今後、刑事事件で水原さんへの捜査が行われる可能性が高いですが、大谷も捜査機関が事情聴取するかもしれない。野球に集中するのが難しい環境なので心配です」(米国駐在の通信員)  水原氏は日本ハムで通訳を務め、大谷が18年にエンゼルスに移籍した際、専属通訳に。その役割は通訳にとどまらず、キャッチボールや球場への行き帰りの車の運転など身の回りのサポートを行い、プライベートでも時間を共有。大谷にとって不可欠な相棒だった。ESPNの取材によると、水原氏はインタビューの中で自身の1年間の給料が、30万ドル(4500万円)から50万ドル(7500万円)であることを明かしている。通訳としては破格の額で、何一つ不自由ない充実した生活を送っているように見えた。   【こちらも話題】 水原氏はなぜ大谷の口座にアクセスできたのか 残る“謎”に見え隠れする大谷が「守りたいもの」 https://dot.asahi.com/articles/-/218010   観戦する大谷の妻、真美子さん(中央)    なぜ、ギャンブルに手を染めて、7億円近い借金を背負ってしまったのか――。  米国で日本人メジャーリーガーの通訳を務めた経験がある関係者は、複雑な表情を浮かべる。 「メジャーの通訳は非常にハードな仕事です。選手のことを最優先に考え、生活を送る。他のチームメートと良好な関係を築く架け橋になることもあります。充実した仕事ですが精神はすり減る。何年経っても慣れた感覚にはならないですね。水原さんは『世界一有名な通訳』と言われ、日本でも米国でも人気ですが、普段はおっとりとした性格で目立つことを好まない。数年前にお会いした時に『水原さんも有名人ですね』と声を掛けたら、『いやいや、凄いのは翔平ですから』と否定していました。通訳という枠組みを超えて、どんどん有名になる自分に葛藤があったのかもしれない。張り詰めた日常の中で、気分転換でギャンブルに手を出したんですかね。違法のブックメーカーに膨大な借金を積み重ねることは想像できませんでしたが……。大谷に迷惑をかけたら本末転倒です。一番後悔しているのは水原さん自身でしょう」 借金の取り立てが来ることも  アスリートがギャンブルにハマって、借金が返せなくなる事態に追い込まれるケースは過去にもあった。 「『選手が借りた金を返さない』と球団に借金の取り立てが来ることもありました。事情聴取すると、『良い結果を残せないストレスで、ギャンブルにどんどんのめり込んだ』と。ギャンブル中毒になると正常な判断ができなくなるので、1人で立ち直るのは無理です。水原さんはギャンブルが昔から好きだったのか分かりませんが、大谷に迷惑をかけているという負い目はあったと思います。だから、巨額の借金が積み重なるまで言い出せなかったのでしょう」(スポーツ紙デスク)   【こちらも話題】 水原一平氏を待つ“想像以上のいばら道” 大谷翔平の“良き相棒”から一転窮地に https://dot.asahi.com/articles/-/217828    家族が受けたショックは計り知れない。大谷はメジャー開幕前に自身のインスタグラムで、妻の真美子さんと映った写真を公開している。その隣には水原氏と水原氏の妻の姿が。ソウルで開催された開幕戦では、スタンドで真美子さんと水原氏の妻が試合を見守る姿が見られた。 「精神的なショックが心配されるのは大谷だけではありません。水原さんの夫人の心理的ケアが必要です。大谷との結婚が発表された真美子さんにとっても米国で初めて暮らすなか、水原さんは頼りになる存在だったでしょう。結婚が公表されてから一気に時の人になり、精神的に疲れている部分はあると思います。大谷と米国で穏やかに生活できる日常が1日も早く戻ることを願うばかりです」(民放テレビ局関係者)  ドジャースに移籍し、結婚を発表し、開幕戦を終えた翌日に水原通訳が違法賭博に関与したとして電撃解任……。激動の幕開けとなったなか、大谷はどのようなパフォーマンスを見せられるか。心の整理をつけるのは難しいが、試合はやってくる。目標に掲げるワールドチャンピオンに向け、戦い続ける。 (今川秀悟)   【こちらも話題】 【声明全文】「水原一平」違法賭博問題で大谷翔平が会見 「僕は賭けていない」「言葉では表せないような感覚」 https://dot.asahi.com/articles/-/218016  
ドン小西のバブル自慢 8千万円のフェラーリ電話1本で購入、子どもの分までゴルフ会員権購入
ドン小西のバブル自慢 8千万円のフェラーリ電話1本で購入、子どもの分までゴルフ会員権購入 ドン小西さん(撮影:写真映像部・松永卓也)    バブル世代の浪費自慢は、長いこと若者に嫌われる話題ナンバーワン。でも今年は風向きが変わった。日経平均株価がバブル期にマークした過去最高値を更新したからだ。ドン小西さんに“バブル実話”を振り返ってもらった。AERA 2024年3月25日号より。 *  *  *  株価が戻るまで約34年。バブルの先人たちを見直した……かは別として、心おきなく自慢しよう。  1990年代に、自身のアパレルブランドのバブルが崩壊、約10億円の負債を抱えた。その元になったバブルな日々を、ドン小西さん(73)はこう語る。 「フィレンツェに夫婦で出張に行ったんだけどさ。妻との待ち合わせ場所の前にあった時計店で、70万~80万円の高級時計を衝動買いしちゃったんだよ。さらに帰りの飛行機でも、トイレの帰りにCAから薦められた高級時計を買って、妻から『ちょっとおかしい』と冷たい目を向けられたね」  ほかにも、世界限定バージョンの8千万円のフェラーリを電話1本で買ってしまったり、イタリア人の秘書を引き連れて、その自慢の車でコンビニに牛乳を買いに行ったことも。 子ども分までゴルフ権  これからますます高くなるので今が買い時という銀行のすすめで、小学生だった子どもの分まで1口数千万円するゴルフ会員権を購入したこともあった。ちなみに銀行がなんでゴルフ会員権の購入を勧めるかというと、購入代金を高い金利で借りてほしいから。 「手持ちがあっても、キャッシュで買うなんて許されなかった。全部借金なんだよね。そうそう、家だって同じだよ」  小西さんにとって極めつきといえる大きな買い物は、今も住んでいるその、港区白金のマンションだ。90年頃、新築時の販売価格は約7億円。さらに戸数が少ないせいで、1カ月の管理費が数十万円したこともあった。 「でも当時は、『管理費だけで高級マンションが借りられるじゃん』とか、無邪気に笑ってたよね。80年代はバブルなんて言葉もなかったし、好景気が終わる日が来るなんて思ってもみなかった。ま、社長といっても当時あたしはまだ40歳くらい。物怖じしないで何でも買うぞと決断できるオレってナウい(笑)って、本気で思ってたんだもの」 (ライター・福光恵) ※AERA 2024年3月25日号より抜粋
千葉・房総半島で「キョン」が大繁殖、北上して茨城県に迫る 「防衛ライン」で阻止できるか
千葉・房総半島で「キョン」が大繁殖、北上して茨城県に迫る 「防衛ライン」で阻止できるか キョンは住宅地にも出没し、家庭菜園を食い荒らす=千葉県自然保護課提供   「ギャー」と悲鳴のような不気味な声で鳴き、農作物の食害などが問題になっているシカ科の特定外来生物「キョン」が、房総半島を北上している。繁殖力が強いために、駆除に取り組む自治体も拡大を止めきれない状況で、すでに利根川を越えた茨城県内でも見つかっている。地元の猟師らは駆除したキョンの有効活用方法を提案して、キョンの阻止を訴えている。 *   *   * 「この地域には、キョンがいっぱいいる。人間より出合うんだから」  太平洋に面した千葉県いすみ市。地元の石川雄揮さん(46)に連れられていった竹林で、体長70センチほどのキョンがうずくまっていた。脚には、くくりわなに使った細いワイヤが巻きついていた。  キョンは日本のシカより小型で、中国東南部や台湾に生息する野生動物だ。本来は日本には生息していないが、勝浦市内にあったレジャー施設「行川(なめがわ)アイランド」(2001年に閉園)」で飼われていたものが逃げ出し、1960~80年代に房総半島に定着したとされている。  その後、生息域が拡大し、県は2000年に「県イノシシ・キョン管理対策基本方針」を策定。地元自治体が駆除に取り組んできたが、生息頭数や分布域の拡大は止まらなかった。県の推計によると、06年度は約1万頭だったが、22年度には約7万頭に。同年度の農作物被害は約3億円にのぼっている。  生態系や農業被害の拡大を受け、環境省は05年にキョンを特定外来生物に指定している。   「くくりわな」で捕らえたキョン=千葉県いすみ市、米倉昭仁撮影    シークヮーサーを栽培している農家の女性は、キョンの食害に悩まされていると訴える。 「キョンは毎日やってくる。みんなまるまる太っている。人の顔を見ても逃げないし、本当に憎たらしい」  食害に苦しむ農家などの依頼を受けて、キョンの駆除と活用に取り組んでいるのが石川さんだ。生き物を殺す作業は精神的にもつらいが、 「それでも続けてきたのは、獣害に遭ってきたおじいちゃんやおばあちゃんが泣きながら『ありがとう』と言ってくれるからです。誰かがやらなければ、という使命感が僕を支えてきた」  と話す。     千葉県いすみ市で、キョンの駆除と活用を進める石川雄揮さん=同市、米倉昭仁撮影   「報奨金で儲かる」ことはない  生息数を増やしているキョンの対策として、県内の自治体の多くが、キョンを捕殺した猟師に1頭あたり6千円の報奨金を支払っている。 「報奨金では、まったくもうからないですよ」  と、石川さんは引きつった笑みを浮かべた。  捕獲に使うくくりわな1個1万円弱。ねらったキョンではなく、力の強いイノシシがかかるとすぐに壊されてしまい、修理の手間や費用がかかる。  さらにやっかいなのが、アライグマだ。体は小さいが獰猛で、わなにかかると徹底的に噛んで使い物にならなくしまう。しかも生息数がかなり多い。 「アライグマにわなを壊されると、気力が失せます」  さらに毎日、設置したわなを見回らなければならないので、ガソリン代もばかにならない。  有害鳥獣の駆除は、ボランティアに近いのが実態だという。   千葉県で大繁殖するキョン。約7万頭(2022年)いると推定されている=千葉県自然保護課提供   命がただ「処分」されている  石川さんはもともと報道番組制作会社のディレクタ―で、テレビ朝日の「サンデープロジェクト」や後発番組の「サンデーフロントライン」などにも携わっていた。  14年に狩猟免許を取得し、翌年に東京からいすみ市に移り住んだ。現在は狩猟体験やグランピングなどを提供する合同会社「Hunt+(ハント・プラス)」を経営しながら、地域の獣害低減に取り組んできた。石川さんのもとには、千葉県の有害鳥獣の担当者も相談に訪れるという。    石川さんは、捕殺したキョンの活用を訴えてきた。その一つがジビエだ。  台湾でキョンの肉は高級食材として扱われているといい、赤みが主体の肉はとても上品な味だ。  最近は駆除した有害鳥獣を食肉処理する施設も、ジビエを提供するレストランも増えてきた。しかし、一般的な食肉としての需要がなかなか伸びていかないと、石川さんは嘆く。   千葉県で捕獲したキョンのなめし革に染色を施して漆で模様を描いた「印伝」=千葉県いすみ市、米倉昭仁撮影    さらに石川さんは、地元で捕れたキョンの革の利用を模索してきた。  キョン革の繊維は非常に細かく、強度と柔軟性、汚れの吸着性を併せ持つ。そのため、宝飾品やメガネ、楽器などを拭く最高級品のセーム革や、弓道の「ゆがけ」と呼ばれる手袋の材料として利用されている。  シカの革を使った関東、近畿地方の伝統工芸品「印伝」(いんでん)にも、キョン革が使われている。なめし革に染色を施して漆で模様を描き、革袋などが作られる。  現在の印伝の製品は、ほぼすべてが中国から輸入されたキョン革が使われているが、石川さんは「房州印伝」の商標をとるなどして国産化を試みてきた。 「年間数十万頭ものキョンの革を中国から輸入していながら、国内で捕獲したキョンはほとんど利用することなく、その命の多くをただ処分しています。この状況を少しでも良くしたい」  千葉県も今年度から、県の事業で捕獲したキョンの肉や加工品、革製品をふるさと納税の返礼品として用意するなど、活用に力を入れ始めた。   千葉県産のキョン革で作った財布=千葉県いすみ市、米倉昭仁撮影   茨城県にも迫る  房総半島内で、拡大を続けてきたキョン。  千葉県は21年度に、半島中央部の東西に位置する一宮町と市原市を結んだ「分布拡大防止ライン」を設定。キョンの北上をはばむ「防衛ライン」として、この付近での捕獲を集中的に進めている。  しかし、すでに県北部の成田市や柏市の周辺でも、キョンの目撃は相次いでいる。県自然保護課の市原岳人副課長は、 「ラインの北側に、キョンの生息域は広がっていないと認識しています」 と説明する。「防衛ライン」を越えて確認されているのはオスばかりで、メスは目撃されていないためだ。キョンは群れをつくらずに単独で行動することが多く、さらにオスはメスよりも行動範囲が広いと考えられている。     キョンを捕獲する「箱わな」を設置した石川雄揮さん=千葉県いすみ市、米倉昭仁撮影    一方、さらに北側の茨城県では昨年12月、利根川を越えた下妻市でキョンの死がいが見つかった。22年に石岡市、23年にも筑西市でも確認されており、県内で4例目となる。すべてオスだという。  茨城県環境政策課の飯村勝輝課長補佐は、 「対岸の火事どころではない状況です。かなりの危機感を持って対応を考えています」  と話す。来月には有害鳥獣の捕獲対象にキョンを追加し、自治体で駆除ができるようにするという。    房総半島で被害を増大させながら、生息域を拡大してきたキョン。  今後、半島内の「防衛ライン」を突破し、さらに利根川も越えてしまえば、もうだれも止められない――。「脅威」が、静かに広がっている。 (AERA dot.編集部・米倉昭仁)    
「離婚しない男」で訳アリの人妻を怪演 梨園の妻になってパワーアップした「藤原紀香」の“魔力”
「離婚しない男」で訳アリの人妻を怪演 梨園の妻になってパワーアップした「藤原紀香」の“魔力” 藤原紀香(写真:アフロ)    3月16日に最終回を迎えた伊藤淳史主演ドラマ「離婚しない男-サレ夫と悪嫁の騙し愛-」(テレビ朝日系)に出演し、注目を集めていた女優の藤原紀香(52)。妻の不倫の証拠を掴み、父親が親権を獲得するという困難な壁に立ち向かう主人公を描いた作品で、藤原は主人公のマンションの隣に引っ越ししてくる謎多き美女役として第4話から登場。大人の色気で主人公を誘惑するというキャラクターを演じた。  2月24日に放送された第6話では、胸元が開いたドレス姿で登場。主人公に沖縄の伝統菓子「ちんすこう」と「パイ」を振る舞い、「パイとちんすこうで、パイちんパーティーしましょ~!」「ちんでパイでパイでちん!」と大胆なセリフを連発。そんな振り切った演技にSNS上では、「離婚しない男の藤原紀香好きすぎる」「面白さやばい」など、好評の声が集まっていた。  藤原といえば2016年に歌舞伎俳優・片岡愛之助と結婚し、女優業の傍ら現在、梨園の妻として奮闘中。一方、3月3日まで上演された舞台「メイジ・ザ・キャッツアイ」で、怪盗キャッツアイの三姉妹の次女役として剛力彩芽、高島礼子とトリプル主演を務めるなど、最近は、ドラマ以外でも女優として存在感を発揮している。二足のわらじをしっかりと履きこなしているところに尊敬の念を抱く人も多いと思うが、梨園の妻になってからは、さらに見る人を惹きつけている印象がある。 藤原紀香(写真:Motoo Naka/アフロ)   「アンチがいて当然」というマインド 「最近の藤原はイキイキしていて楽しそうですよね。『メイジ・ザ・キャッツアイ』に出演中は舞台上だけでなく裏側でも疾走したり、階段を駆け上がったりしたため、インナーマッスルもキレキレになったとSNSで報告していました。一方、毎日どこかにアザができていたり、節々が痛かったりと満身創痍(そうい)を明かしつつも、『劇場へ通うことがワクワクする』とつづっていました。そんな仕事を楽しんでいる人は、見ていても気持ちが良いものです。また、『離婚しない男』では主人公の妻役を篠田麻里子が演じていますが、藤原はインスタグラムで自身の役について、『同じ事務所の可愛い麻里子のためなら、ひと肌でもふた肌でも脱ぐよーなんて笑いながら話してましたが そんな想いでつとめたお役です』と告白。後輩思いの姿は好感が持てます」(テレビ情報誌の編集者)  日々の充実ぶりが伝わってくる藤原。そんな姿に見ている側も楽しくなるが、自身の価値観もますますポジティブになっているようだ。 「with class」(2023年12月9日配信)では、あるときからアンチがいて当然というマインドに切り替え、ネガティブなことを言われるほど、自身の運気は上がっていくと思っていると告白。そして、人の悪口を言う人は自ら自分の運気を下げ、足を引っ張りたいはずの相手に自分の運気を差し出してしまっていると持論を展開した。自分をたたく人が現れた場合、「また運気が上がったよ~ありがとう!」と、心から思うようになったという。 「夫婦でバラエティー番組を見ていて、前夫の陣内智則が出ていても2人で笑っているとテレビ番組で話していたのも印象的です。さらに『道で陣内夫婦と紀香夫婦が偶然出会い、時間があるから夜ご飯でも行きましょうか』というシチュエーションになったらどうするかとMCから聞かれると、藤原は『あるかもしれない』と笑顔で答えていました。元夫にも好意的でテレビでもそれを言及できるポジティブさは、見ていてすがすがしい気分になる人も多いでしょう」(同) 藤原紀香(写真:つのだよしお/アフロ)   番組でUFOを本気で熱く語る  一方、藤原の魅力について民放バラエティー制作スタッフは「周りが困惑するような突拍子もないことを真剣に語るところが面白い」と話す。 「例えば、以前バラエティー番組で、興味があることについて“UFO関連”と挙げていました。いつか会えるだろうなというロマンがあり、宇宙人と会えるようにテレパシーを送っていたりすると明かしていました。また、テレパシーは『あなたたちの存在は知ってますよ。私には隠れなくていいので、降りてきてくださ~い』という内容で、空に向かって呼びかけるものの、宇宙人が降りてきたことは一度もないとか。また、夫がスペインに行った際にテレパシーを送ったところ、写メを撮ったらUFOが写っていたと回想。夫婦でUFOの存在を信じていて、宇宙船に乗ることが2人の夢だそうです。ときに怪しげな商品やスピリチュアル系グッズを宣伝して批判されることもありますが、彼女の場合、なぜか致命的なダメージにならない。そこは藤原さんの人間力のなせる技でしょう」  これだけの個性がある女優は芸能界でもなかなかいないだろう。しかも、年を重ねても美貌と抜群のスタイルをキープしており、もはや“藤原紀香”という一つのジャンルになりつつあるようにも思える。 バラエティーでも「フルスイング」 「週刊SPA!」元副編集長で芸能デスクの田辺健二氏は藤原についてこう分析する。 「女優としてのキャリアは長いですが代表作に恵まれず、一時は演技力のなさをイジられて『代表作はバスロマン』『いやレオパレス』などと出演していたCM名でネタにされていた時期もありました。陣内さんとの離婚後は間接的に離婚をイジられる場面も増えてしまい、バラエティーに出づらい期間が長かったように思います。しかし、愛之助さんとの再婚を経て、ここ数年はバラエティーでもフルスイングができるようになり、本来の紀香さんをお茶の間に知らしめることに成功している印象です。主演作品にこだわっていた時期もありましたが、最近ではピンポイントの出演でもしっかり爪痕を残し続けている。自然体になれた今こそ、女優としてより大きく花を咲かせるチャンスかもしれません」  華やかなオーラがありながら独自の路線を突き進む藤原。アラフィフとなっても、新たなファンが増えていきそうだ。 (丸山ひろし)
ヨーロッパを中心に広がる「安楽死」合法化 「日本も認めよ」の主張が本質をとらえていない理由
ヨーロッパを中心に広がる「安楽死」合法化 「日本も認めよ」の主張が本質をとらえていない理由 日本でも安楽死が様々な形で頻繁に話題に上るようになった(写真:GettyImages)    致死薬を使って命を絶つ「安楽死」。世界で初めて合法化したオランダをはじめヨーロッパを中心に広がっている。近年では隣国の韓国でも法改正に向けた議論が起こるなど動きを見せている。私たちは人生の最期をどう迎えるか──。AERA 2024年3月25日号より。 *  *  *  オランダのドリス・ファン・アグト元首相と妻のユージェニーさんが2月5日、亡くなった。ともに93歳。肩を寄せあい、穏やかな表情でこちらを見ている夫婦の写真とともに伝えられたのは、2人そろっての安楽死だった。2人は大学の同級生として出会い、70年間連れ添ってきた。晩年まで仲の良い夫婦として知られていたという。  オランダは2002年に、世界で初めて安楽死と医師による自殺ほう助を合法化した国だ。 「絶望的で耐え難い苦しみがある」「ほかに合理的な解決策がない」など六つの要件を満たせば、医師から薬や注射といった方法で、安楽死の処置を受けることができる。  元首相のファン・アグト氏は、政治家時代は、人工中絶の合法化に反対するなど保守的な立場を貫いた。だが、19年に脳内出血で倒れて以降は、後遺症に悩まされ周囲に、 「人生と苦しみが耐えられなくなったら、安楽死も選択肢だ」  と語るようになったという。最近になって、ユージェニーさんの体調も悪化したため、そろって安楽死の選択をしたと報じられている。  オランダ自発的安楽死協会(NVVE)によると、合法化されて以降、国内で安楽死を選ぶ人は増加傾向にある。  22年に確認された同国内の安楽死事例は計8720件。国内の死因の5.1%に当たる数字だ。ファン・アグト夫妻のように、カップルでの安楽死も20年13組、21年16組、22年29組と少しずつだが増えている。夫婦そろって要件を満たす必要があるため、そう簡単なことではないが「相手を看取る必要がなく、人生の最期の悲しみから守る」といった理由で、希望するカップルがいるという。 安楽死をしたオランダのドリス・ファン・アグト元首相(左)と妻のユージェニーさん。手をつないだまま亡くなったという(写真:ラドバウド大学HPから)    致死薬を使って亡くなる安楽死は、ヨーロッパを中心に1980年代から合法化する動きが広まった。現在、オランダ以外にも、ベルギー、ルクセンブルク、コロンビア、カナダ、ニュージーランド、オーストラリア(特別地域を除く)、スペイン、ポルトガルで合法化されている。また、医師による自殺ほう助のみを合法としているのは、スイス、オーストリア、米国のオレゴン州など10州がある。 SNSに「日本も安楽死を認めた方がいい」の声  合法化に向けて動き出そうとしている国も多く、そのひとつ韓国では18年、延命医療を終了できる法律が施行され、22年には安楽死も認める法改正案を野党議員が発議している。反論が多く、審議は止まってはいるが、人生の最期の迎え方についての激しい議論が始まっている。  安楽死は法律で認められると、どうなるのだろうか。  それぞれの国や州で安楽死や医師による自殺ほう助が認められる要件は異なるものの、共通しているのは、安楽死する人が増え続けている点だ。 児玉真美(こだま・まみ)/1956年生まれ。京大文学部卒。日本ケアラー連盟代表理事。英語教員を経て著述家。著書に『〈反延命〉主義の時代|安楽死・透析中止・トリアージ』(共著)など多数(写真:本人提供)    例えばカナダ。合法化されたのは16年と早くはなかったものの、わずか5年で安楽死の死者が4万人を突破し、全死者数の約3%を占めるまでになっているのだ。著書に『安楽死が合法の国で起こっていること』がある著述家の児玉真美さんは、 「安楽死の対象がどんどん拡大することをはじめ、『すべり坂』が様々な形で現実となっています」  と警鐘を鳴らす。 「すべり坂」とは生命倫理学で使われる比喩で、一度踏み出したら、どんどん坂道を転がり落ちるように要件がなし崩しに緩和されてしまう現象のことだ。 「合法化した当初は、対象者を終末期の患者に限定し、耐えがたい苦しみを救済するための策だとされていたものが、次第に重度障がい者、認知症の人、知的発達や精神障害のある人へと対象が拡大されていく動きは、非常に危険だと感じます」(児玉さん)  オランダでは、75歳以上に安楽死を認めようという法案が出されていて、安楽死と臓器移植医療が結びつき、安楽死直後に臓器を摘出することも現実に行われているという。 ALSの女性患者への嘱託殺人容疑で京都府警に移送される医師・大久保愉一被告=2020年7月23日、京都市下京区    多くの課題を抱える安楽死。日本では十分な議論はまだない。  だが、冒頭のオランダ元首相のファン・アグト夫妻の安楽死のニュースから1カ月後の3月5日、国内のSNSで「死にたい人には死なせてあげた方がいい」「死ぬ権利の保障を」「日本も安楽死を認めた方がいい」といった安楽死を肯定するような書き込みがあふれる出来事があった。  京都地裁で、知人の元医師・山本直樹被告(46)=自身の父を殺害したとして殺人事件に問われ、二審が懲役13年とした一審・京都地裁判決を支持。無罪を主張した山本被告側の控訴を棄却=の父(当時77)を殺害し、難病の筋萎縮性側索硬化症(ALS)の女性患者(当時51)から依頼を受けて殺害したとして、殺人や嘱託殺人などの罪に問われた医師、大久保愉一被告(45)の裁判員裁判の判決があったのだ。  逮捕当初から女性の殺害を認めてはいたものの「女性の願いを叶えるためだった」と主張していた大久保被告。女性が生前SNS上で、日本でも安楽死を受けられるようになることを求めていたこともあり、殺害行為に正当性があったのかを、裁判員がどう判断するかが焦点になっていたが、川上宏裁判長は「生命軽視の姿勢は顕著で、強い非難に値する」と述べ、懲役18年(求刑懲役23年)を言い渡した。 憲法13条は「生存していることが前提」  大久保被告が、女性の主治医ではなかったこと、SNSのやり取りだけで、診察や面会を一度もしていないこと、初対面の日にわずか15分ほどで殺害し、女性から130万円の報酬を受けての行為であることなどから嘱託殺人罪が成立すると結論づけた。  にもかかわらず、盛り上がる「安楽死を認めよ」の声、声、声──。  著述家の児玉さんは、こう強調する。 「大久保被告が医師であることが“目くらまし”になって、京都の事件だけが注目されますが、本質は山本被告の父親殺害事件でしょう。緻密で周到な計画のもとに障害のある人を殺害し、しかも京都の事件が発覚しなかったら完全犯罪で終わった可能性が高い」  大久保被告は当初、女性は朝になって自然死として処理されるだろうと計算していたようだが、呼吸がすぐに止まってしまったために事件となった。 「仮に大久保被告の読み通りになっていたら、次の嘱託殺人が行われていたかもしれません。障害者や高齢者に対するゆがんだ考えを持った人が医療知識を悪用・濫用した事件から、医療者による嘱託殺人や安楽死の是非が議論されることは、間違っています」(児玉さん)  安楽死や自殺ほう助、終末期医療など命に関するテーマを研究対象としている上智大学外国語学部ドイツ語学科の浅見昇吾教授(生命倫理)は「有罪は当然のこと」とした上で今回の判決は「ドイツとの違いが際立っていて興味深い」と指摘する。  ドイツでは、1871年に統一国家が成立して以来、自殺ほう助が認められていると考えられてきた。15年、自殺ほう助団体の宣伝活動や度重なるほう助を防ぐ法律が制定されたが、20年に連邦憲法裁判所がその制限を違憲とする判決を下している。 「憲法に規定されている『人格権』が生きることと同様に、自らの命を絶つことも権利として保障するとしました。また、自分の責任で自由に判断することを認め、自己決定権を尊重する姿勢がはっきりとあらわれた判決でした」(浅見教授)  一方、5日の京都地裁では、大久保被告の弁護側は個人の尊重を定めた憲法13条に照らし、「自分の生き方を決められるということは、生き方の最期も決められるはずだ」とも主張していた。だが判決は、同条は「個人が生存していることが前提であると解釈できる」と指摘。「自らの命を絶つために他者の援助を求める権利は導き出されない」とした。つまり、医療によって殺してもらう権利は認められないということなのだ。 イメージだけの議論よりも、社会保障を見直すべき  全てを自己責任で自由に判断できるとしたドイツに対し、他者の手を借りて死を選ぶことを否定した日本。それぞれの司法が示した価値観の軸足は大きく違う。日本で安楽死を合法化するためには、憲法を改正しなければならず、その実現はそう簡単なことではない。「安楽死を認めよ」という主張が本質をとらえていない理由は、ここにある。  では、この日本で、私たちはどんな最期を迎えるのだろうか。いま注目されているのは「尊厳死」だ。  自分の病気が治る見込みがなく、死期が迫ってきたときに、延命治療を断り、安らかで自然な死を自ら選ぶことだ。日本尊厳死協会の北村義浩理事長は、こう説明する。 「医療の進歩によって、手術や人工呼吸器、胃ろうの装着で死期を延ばすことが可能です。でも、死期を必死で延ばし、その期間を病いと闘いながら荒々しく過ごすのはつらい。医療費も高額です。だったら延命治療をやめて、好きなことを存分にやって、安らかに最期を迎えよう、と。近年、賛同者が増えてきています」  同協会では「リビング・ウイル」と題した書面を登録することができる。「延命治療は望まない」「痛みを和らげる緩和ケアはする」などと書かれ、署名するもので、元気なうちに作成することを勧めているという。医師でもある北村理事長は、 「安楽死は『いま殺して』というものであり、要件を確認する人や薬を投入する医療者が必要な殺人行為です。わが国では認められていません。対して尊厳死は『お迎えがきたら乗ります』という意思表示をしておくもの。本人の自己決定を大切にしているし、患者本人も周囲の家族や友人も心を整理することができます」  とした上で、 「日本では死ぬことについて話すことがタブー視される傾向がありますが、自分の最期について話すことは、どう生きたいかを考えることでもあります。それ自体が生きる糧になる」  若い世代を中心に生きづらさや閉塞感が蔓延する時代だ。前出の児玉さんは、「死にたい」という気持ちを抱える人がいることには理解を示しつつ、今やるべきことについて、こう話す。 「困難な時代を生きる苦しさが『安楽死を』という声で表現されているように思いますが、十分な知識を欠いたイメージだけで安楽死が議論されるのはとても危険なことです。それよりも社会保障のあり方を見直す具体的な議論がされるべきでしょう」 (編集部・古田真梨子) ※AERA 2024年3月25日号
【祝ご卒業】「古典の才女」愛子さまの知性を育んだアナログ玩具とは? 弾けんばかりに笑う天皇家の家族タイムがポイント
【祝ご卒業】「古典の才女」愛子さまの知性を育んだアナログ玩具とは? 弾けんばかりに笑う天皇家の家族タイムがポイント 美智子さまへ誕生日のお祝いのあいさつに向かう愛子さま。つぼみが混じるゴヨウツツジの花飾りは、次世代の皇室を担う愛子さまに重なる=2023年10月、東京・半蔵門、読者の阿部満幹さん提供    3月20日、天皇、皇后両陛下の長女愛子さまが学習院大学を卒業した。4月からは日本赤十字社での勤務がスタートする。これまでに日本の古典や文学に強い関心を寄せ、文才の高さを示してきた愛子さま。両陛下はその知性を、どのように育んできたのか。ご一家の写真から、知育玩具の専門家が読み解いた。 *   *   * ――パパの番よ。そのスティックを抜いて。 「そんな声が聞こえてきそうですね」  日本知育玩具協会の藤田篤理事長が、そう語りながら見ているのは、2008年2月、皇太子であった陛下が49歳の誕生日に公開された1枚の写真だ。  愛子さまはこのとき7歳。弾けるような笑顔で、「パパ」に向かって人差し指を向けている。そんな陛下と愛子さまを笑顔で見守る雅子さまも、リラックスしている様子だ。  藤田さんによれば、ご一家が遊んでいるのはドイツの木製玩具メーカーであるハバ社製の「スティッキー」というバランスゲーム。倒れないように棒(スティック)を順番に抜いていくゲームで、昔からの定番の人気商品だという。   皇太子さま49歳の誕生日に公表された1枚。「スティッキーゲーム」ではじけるような笑顔を見せるご一家=2008年、東宮御所、宮内庁提供    注目すべきは、弾けるような愛子さまの表情と動作だ。 「愛子さまは、『その棒――』というようにお父さまに向けて指を差し、さらに弾けるような笑顔を見せていらっしゃる。つまり、愛子さまはゲームの肝である棒が崩れるドキドキ感をご存じなのです。撮影のためににわかにセットしたものではなく、日ごろからご一家で親しんでいらっしゃることが伝わります」  このゲームは、大人のひと工夫で小さな子どもも楽しめる点が魅力だという。たとえば棒が滑って難しければ、滑り止め代わりに布を敷いて難易度を下げることもできる。 「昔ながらの定番の商品です。時流に流されないものを愛子さまの玩具に選んでいらっしゃるのも、陛下と雅子さまのご方針なのでしょう」     【こちらも話題】 「生まれながらの気品の美しさ」愛子さまとシャーロット英王女 プリンセスへ集まる期待 https://dot.asahi.com/articles/-/216297   皇太子妃時代の雅子さまが46歳の誕生日に、公表された写真。ご一家でボードゲームに熱中している=2009年、東宮御所、宮内庁提供   幼くても「人」として真剣に勝負  愛子さまが学習院初等科に入学してからは、ご一家でゲームを楽しむ機会が増えたようだ。  雅子さまが46歳の誕生日を迎えた2009年の写真では、ご一家がボードゲームを楽しんでいる。8歳の冬を迎える愛子さまが、知性を育むゲームに興味を持っていることが伝わってくる。スティッキーゲームを楽しんでいる写真から1年10カ月ほど経過した時期で、愛子さまの表情やご一家の様子もだいぶ落ち着いている。  藤田さんは、写真からではゲームの商品名まではわからないと断りつつも、「興味深い光景」と話す。 「まるで普通の家庭の団らんの風景を垣間見ている印象です。デジタルのゲームではなく、実在性のあるアナログの玩具で憩いの時間を持ち続けていらっしゃっていること。印象に残るのは、ご両親の表情です。8歳の愛子さまに対して、小さな子どもではなく、『人』として真剣に向き合い、コミュニケーションを取っていらっしゃることが伝わる1枚です」   愛子さまに全員が注目した瞬間  愛子さまへ注がれた愛情の深さが伝わる、とてもシンボリックな写真――。  藤田さんがそう話すのは、2010年の新年に公表された、当時の天皇ご一家の団らんの様子がわかる1枚だ。  愛子さまが組み立てているのは、スイスで戦後まもなく生まれた老舗玩具メーカー、ネフ社が作る積み木「ネフスピール」。   【こちらも話題】 愛子さまを「抱きしめ」続けた天皇陛下の温かいまなざし 離乳食とお風呂の育児にも参加! https://dot.asahi.com/articles/-/207875     2010年の新年を迎えるにあたって公表された平成の天皇ご一家。積み木に取り組む愛子さまに、その場にいる天皇陛下や皇族方全員が注目している=御所、宮内庁提供    藤田さんは、その場にいる全員が愛子さまの手元に注目していることが素晴らしいと話す。確かに「おじいちゃん」、「おばあちゃん」である平成の天皇陛下や皇后美智子さま、「おば」と「おじ」の秋篠宮ご夫妻、従妹の眞子さんに、愛子さまを手伝う佳子さま、小さな悠仁さままでが、愛子さまの手元に注目している。 「つまり、その場の人間がみんな、愛子さまに対して『すごいね』『応援しているよ』とメッセージを発し、あたたかな気持ちで包み込んでいるのです。このとき皇太子であった陛下は、『愛子を見てくれているんだね』といった表情を悠仁さまに向けていらっしゃる。皇后であった美智子さまも『ここまで上手になって』といった慈愛のまなざしを注ぎ、従妹の佳子さまは、愛子さまの面倒をよく見ています」  藤田さんは、何かに取り組む子どもに対して周囲が応援し、あたたかな気持ちで包み込むことが成長にとって大事なことだと話す。   積み木で得る3つの教育的効果  積み木遊びは、知育玩具としても、実は奥が深い。  子どもは積み木に「触り」、「積んで」「崩して」を繰り返す。これは経験したことのない新しい刺激や環境に注意を向けて、確認をして探ろうとする「探索行動」の始まりだという。 10歳の誕生日を迎えた愛子さま。バランスを取りながら、難しい積み木に挑戦する愛子さまの表情は生き生きとしている=2011年、東宮御所、宮内庁提供    積み木遊びには三つの重要な教育効果がある、と藤田さんは言う。  一つ目は、幼い頃からカラフルな色に触れることで、美しさに関する感性を刺激する。  二つ目は、積み木を組み合わせて建物や動物といった対象物に見立てる想像力が育まれる点だ。  三つ目は、数学的な感性。     【こちらも話題】 天皇陛下64歳 愛子さまに願う「感謝と思いやりの心を持って」愛情あふれるお言葉で振り返る https://dot.asahi.com/articles/-/215156     皇太子さま50歳の誕生日に公表された1枚。真剣な表情でカードを引く愛子さまと、見守る両陛下=2009年、東宮御所、宮内庁提供    たとえば、この1辺が5センチのネフスピールを組み合わせてゆくと、積み木の長さが規則的な間隔で増えていくことに気づく子どもも、なかにはいるだろう。遊びのなかでこうした数学的な法則を体感し、経験を獲得できるのが魅力のひとつでもある。 「テストはマルかバツかの世界ですが、積み木は組み立てては崩しという実験の世界です。挑戦してみて、大いに失敗と再挑戦を経験できる遊びです。テストのようにすぐに結果が目に見えませんが、地中に根を張る樹木のように、お子さんのなかで確実に知の根を張っています。真剣に遊ぶお子さんを認めてあげることは、とても大切なのです」     2009年の新年に公表された平成の天皇ご一家。愛子さまと悠仁さまが遊ぶのは、北海道で木製の玩具を制作する「三浦木地」による「さざなみ」という玩具。木の玉がコロコロと心地よい音色で転がり落ちる=皇居・御所、宮内庁提供  皇室の知育玩具選びについて、藤田さんはこう話す。 「皇室の方々もそれなりにデジタルの世界にも通じていらっしゃるとは思います。一方で、お子さまの教育に関しては実体験を大切にし、家族で一丸となってゲームを楽しみながらコミュニケーションを図っていらっしゃる。ホッとするような光景です」  小さな愛子さまを囲んでの一家団欒の写真。そこに写っているものうかがえるのは、愛子さまに対する深い愛情と大きな期待だ。(AERA dot.編集部・永井貴子)     藤田篤(ふじた・あつし)/1966年、青森県弘前市生まれ。日本知育玩具協会理事長。北海道大学で発達心理学を学ぶ。愛知県で知育玩具を扱う「木のおもちゃと絵本のカルテット」を経営。2014年に一般社団法人日本知育玩具協会を設立。著書に『子育てを感動にするおもちゃと絵本』。   【こちらも話題】 古典の才女 愛子さまの知性を育んだのは「親子で会話ができる絵本」 両陛下が選んだ「絵本リスト」 https://dot.asahi.com/articles/-/210124  
【下山進=2050年のメディア第21回】能登半島地震 地元紙「北國新聞」のいちばん長い日
【下山進=2050年のメディア第21回】能登半島地震 地元紙「北國新聞」のいちばん長い日 編集局紙面会議。左端が編集局長の坂野洋一。卓上には、2日の特別夕刊の紙面が広げられ輪島に2日午前3時前に入った三上聡一の朝市の火災の写真が見える(写真:北國新聞)    元日は、新聞記者にとっても一息つける日だ。元旦の朝刊が出てしまえば、3日の朝刊までは、最低限の人員を番としておくだけで、幹部も休みをとる。  石川県の県紙「北國(ほっこく)新聞」の編集局長坂野洋一(さかのよういち)も、金沢の南にある能美市の妻の実家で子供や妻の両親とともにのんびりと正月休みをとっていた。  最初に16時6分の揺れがきた。体感でもかなり大きな地震だった。すぐにスマホから編集局にいる当番デスクに電話をした。 「けっこう大きな揺れだったけど、速報をださなくていいかな」  相談をしていると、今度は16時10分にもっと大きな揺れがきた。テレビはNHKをつけていたが、津波警報がすぐに流れ、アナウンサーが絶叫し始めた。珠洲にあるNHKの固定カメラに切り替わり、なんだろうか煙のようなものがたちのぼっている。  揺れがおさまるのを待ってもう一度デスクに電話をした。 「これから社に向かう。まず現場の安否確認をしてくれ。津波がくる。絶対無理をしないように」 「北國新聞のいちばん長い日」はこうして始まった。 正月休みで現場に誰もいない 「北國新聞」については、このコラムが週刊朝日に連載されていた昨年4月に、「もっとも部数を減らしていない新聞」としてとりあげている。ABC部数でみても、2013年まで紙の新聞の部数を伸ばし続け35万部強、以降はゆるやかに部数を減らしているが、震災前の時点でピーク時から9パーセントしか減らしていない。これは、たとえば朝日新聞がピーク時の2000年で830万部、2023年12月にはそれが350万部強まで減っている(58パーセント減)ことを考えれば、いかに驚異的な数字かがわかるだろう。  その理由について週刊朝日のコラムでは、北國新聞でしか読めない記事ということについて徹底的に考えた編集方針にある、と書いた。たとえば、他の地方紙のように共同通信の記事を一面で使うということはない。そのかわりに、一面は、徹底的に地ダネでいく。石川県は文化と歴史の地だから、お茶や美術の話もバンバン一面にくる。  これは少し考えれば合理的な判断だ。読者はNHKやNHK NEWS WEBで、共同電が流すような国際ニュースや中央のニュースを見ることができる。そうであれば、「北國新聞」にしかできないことに特化していこうということだ。  この編集方針は、1991年に社長・主筆に就任した飛田秀一(とびたひでかず)によって打ち立てられたものだ。飛田は、地元政界や経済界に大きな影響力をもち、30年以上にわたって代表取締役(2012年からは会長)と主筆を務めて同社に君臨してきたが、右腕となった温井伸とともに、取締役を退任することを、昨年12月26日に北國新聞社は発表したばかりだった。    坂野が北國新聞社の5階の編集局に入ったのは、17時30分をすぎていた。  編集局長室に入ると、1月4日の取締役会と臨時株主総会で選出される新役員の中核メンバー、砂塚隆広(すなづかたかひろ・現代表取締役社長)、小中寿一郎(こなかじゅいちろう・現代表取締役専務)、吉田仁(ひとし・現常務)がいた。  特別号外を出すことは、このメンバーですでに決められていた。  臨時株主総会は4日だが、この震災は、新体制でとりくむということの象徴のような景色だった。  坂野は締切り時間とページ数をまず決めなければならない。  昨年5月5日の地震の際の特別号外は、21時締切りで4ページだった。それにならって、まず、今回も21時締切り、4ページと決めた。  締切りまで3時間あまり、しかし、その時点で記事も写真も何もないのだ。しかも今回の地震でもっとも被害をうけているらしい奥能登の二市(珠洲市、輪島市)の支局、総局が正月とあってほぼ空っぽだった。  輪島総局長の村上浩司は金沢市で親族と過ごしており、珠洲支局長の山本佳久は北陸新幹線が延伸する敦賀駅を見に行っていた。輪島に滞在している記者は地震発生の時点でゼロ、珠洲も4月に入社したばかりの一年生記者の谷屋洸陽(たにやこうよう)がただ一人いるだけだった。  坂野はそのことにまず焦った。はたして地元紙らしい紙面がつくれるのだろうか?  共同通信経済部の女性記者がたまたま輪島に帰省しており、地震発生直後の16時50分に撮影した地割れに座り込む人々の写真がまず入ってきた。これは使える。  そして、次に坂野が見せられたのが、おしよせる津波を正面から撮影した写真だった。  一年生記者の谷屋は、地震直後に珠洲市役所から海まで怯えながらも歩いていき、150メートルまで近づいたところで、防波堤を黒いものが乗り越えてくるのを見た。それをスマートフォンで撮影した写真が送られてきたのだった(谷屋は撮影後すぐに逃げて無事)。  これで特別号外ができた。坂野は、そう感じた。  こうして21時に降版した特別号外は、白山市の印刷工場で1万部を刷り22時30分までには、金沢を中心に各戸投函の形で配られた。  この時刻には、まだ輪島には記者は誰もいない。  社会部兼写真部の三上聡一(としかず)は、16時30分には輪島にむけて社を出発していた。金沢市内にいた輪島総局長の村上も任地に戻るため金沢市内を出発していた。他にも輪島に入ろうとした記者はいたが、2日未明までに輪島に入れたのは三上だけだった。  というのは、能登半島のくびれに位置する穴水町から奥は、道路網がずたずたになっており通行がほとんど不可能だったからだ。たとえば村上の車は路上の大きな割れ目にはまり、タイヤがパンク、車中泊をすることになった。三上が奇跡的に輪島の朝市の火災現場に到着したのは、金沢を出発して10時間後、2日の午前3時前だった。  黒い夜空に炎を轟々と吹き上げる地獄のような風景がそこにはあった。  2日の朝、編集局に出勤した坂野はこうした写真をみているうちに、新聞休刊日の2日にも、特別夕刊をだすことを決断する。  三上には、サイドの記事を書いてもらうことになったが、ここで坂野は、「自分が見たまま、感じたままを書け」という指示をデスクを通じて出す。  北國新聞の記者たちは能登に故郷を持つものもいる。人も知っている。その能登がたいへんなことになっている。地元紙が被災地の記事を書くのに、賢しらな客観報道などいらない。自分が見たままを書け。そう、坂野は指示をだして、3日の朝刊は社会面を2面まるまる使って、奥能登の珠洲、輪島、能登、穴水の様子を現地の記者たちの署名ルポで埋めることになった。 奥能登二市二町の新聞販売店の安否  編集局が総力戦で紙面づくりをしているのと同じころ販売局は販売局員総出で、奥能登二市二町(輪島、珠洲、能登、穴水)にある新聞販売店の安否確認の電話をかけ続けていた。  その数45店。1万7000部強の部数がある。  1月5日までに43店まで連絡がついたが、どうしても店長に連絡がとれない店がふたつあった。このうち孤立集落のひとつである輪島市町野の販売所に記者がたどりついた。 「二階建ての住居の一階がぺちゃんこに潰れている」との報告が写真とともに販売局に入る。  販売局長の清水隆行はその写真を見ながら暗澹たる気分になる。  駄目か……。  以下、次回。 ※AERA 2024年3月25日号
「悪夢の政権」「批判だけ」…自民のレッテル貼りに惑わされるな リベラルが結集すれば政権交代は可能 古賀茂明
「悪夢の政権」「批判だけ」…自民のレッテル貼りに惑わされるな リベラルが結集すれば政権交代は可能 古賀茂明 古賀茂明氏    自民党裏金事件の真相解明がほとんど前に進まない。  3人の国会議員と会計責任者らが訴追された以外は、いまだに何もわかっていないに等しい。岸田文雄首相は真相究明を行うどころか、なんとかしてそれをうやむやにしたまま幕引きしようとしている。税金を払うかどうかも議員の選択に任せるという驚きの対応だ。 「火の玉になって国民の信頼を取り戻す」という大嘘をなんのためらいもなく吐く岸田首相の姿は、森友事件に関して、自分や妻が関わっていたら首相だけでなく議員も辞めると大見えを切った安倍晋三元首相を彷彿とさせる。 「モリ・カケ・サクラ」を乗り切った安倍氏の倫理観を筆者は「アベノリンリ」と名付けた。「李下に冠を正さず」という国の指導者に求められる高いレベルの倫理規範とは対極の「捕まらなければ何をしても良い」という「地に堕ちた倫理観」。「倫理観」とさえ言えないのでカタカナで表現したのだが、岸田首相はこの「アベノリンリ」をそのまま踏襲してしまった。 「アベノリンリ」は岸田首相だけでなく、自民党全体を覆っている。これまで裏金スキャンダルとは無縁であるかのように装っていた、茂木敏充幹事長も自己の政治資金団体から使途公開義務の緩い「その他の政治団体」に資金を移して使途隠しをする脱法行為を行っていたことが判明した。この手法は他の多くの議員も使っているようだ。もはや、自民党内でクリーンな政治家を探すことはほとんど不可能な状況である。  安倍元首相が広告塔となって関係を深めた旧統一教会とのズブズブの関係を暴露された盛山正仁文部科学相もまた、「アベノリンリ」に取り憑かれた代表格である。安倍氏が蜜月ぶりを示したこともあり、多くの自民党議員は安心して旧統一教会との関係を深めた。いまだに選択的夫婦別姓さえ実現できないのは、その影響もあると言われる。  国会や記者会見での質問にしどろもどろになりながらもその地位にしがみつく盛山氏の厚顔無恥ぶりには開いた口が塞がらないが、それでも岸田首相が盛山氏をクビにできない理由は、他にも旧統一教会との関係を隠したまま閣僚の地位にある者がいるため、1人クビにするとその後に辞任ドミノに追い込まれる可能性があるからだという話も語られる。   「アベノリンリ」蔓延の根は驚くほど深い。   【こちらも話題】 “平和の党”を掲げる公明党は今や戦争大国への道に加担 中国にも見放され揺らぐ存在意義 古賀茂明 https://dot.asahi.com/articles/-/216622  安倍元首相は「アベノリンリ」以外にも大きな負の遺産を残した。岸田首相がこれだけ支持率が下がってもなお強気なのは、そのおかげである。  その遺産とは、筆者が「馬鹿な国民哲学」と名付けた国民を見下す政治哲学だ。  これだけ国民にそっぽを向かれながら、驚くことに岸田首相は今なお解散総選挙を夢見ているらしい。その考えを支えるのが、「国民は馬鹿だから、どんなに怒っていても時間が経てば忘れる」「そのためには他のことで気をそらせば良い」という、安倍元首相の「馬鹿な国民哲学」だ。  4月の国賓級待遇での訪米でバイデン大統領との蜜月ぶりをアピールし、5月のゴールデンウィークで国民の雰囲気が明るくなるのを待つ。6月からの定額減税実施で庶民の懐が温まり、7月の夏休み入りとパリ五輪開幕での日本選手の活躍で明るい話題がテレビとネットに溢れる。8月には6月の賃金の統計が発表されて「実質賃金大幅上昇!」となり、お盆休みを迎える。そこまで来れば、国民の大多数は裏金問題など忘れるから、9月初めに臨時国会を召集して冒頭解散すれば良いというわけだ。  日本維新の会は自民と戦うよりも立憲民主党叩きに熱心で、野党分裂選挙の可能性が高く、自民大負けは防げる可能性はあるという読みだ。そうなれば、その後の総裁選では、選挙の顔を選ぶ必要性は薄れ、大物国会議員たちの談合により自己の総裁再選も可能だという希望に賭けているのだろう。  繰り返しになるが、こんな夢物語を支えているのが、安倍氏譲りの「馬鹿な国民哲学」であることを忘れてはならない。  岸田首相を強気にさせるもう一つの重要な要素が「弱い野党」だ。これも実は、安倍元首相が残した遺産である。  自民党の支持率が下がっても野党の支持率はさほど上がらない。その原因は、「悪夢の民主党政権」という安倍元首相が好んで使った「レッテル貼り」にある。民主党政権の運営にはいくつかの問題はあったが、「失われた30年」で日本経済を根底から弱体化させ、集団的自衛権の行使容認などの憲法違反の政策を強行した自民党と比べれば、はるかにましな結果を残した。しかも、民主党政権にとって最大の障害となった福島第一原発事故の原因は、安全対策を怠り原発推進政策を続けた自民党にあった。   【こちらも話題】 政治家は「詐欺師」と「臆病者」、有権者は「無気力」…政治の危機を救うのは立憲の“世代交代”しかない 古賀茂明 https://dot.asahi.com/articles/-/216029 自民党の二階俊博氏(左)と麻生太郎氏   「レッテル貼り」は他にもある。野党は「批判だけ」というものだ。実際には、立憲民主党は国会に多くの法案を提出している。その内容を見れば、有権者は同党の政策立案能力に驚くはずだ。しかし、自民党が、立憲は「批判だけ」というレッテル貼りを行い、立憲提出の法案を審議さえしないため、国民はこれに気づかない。大手マスコミの政治部記者も政策についての知見がなく、何が重要なのか理解できないために報道しないという問題も大きい。さらにネットなどで人気のある「似非有識者」たちも、立憲提出の法案など読むことすらしないまま、平気で「野党は批判ばかりで……」などと無責任なコメントをしていることもこれに拍車をかけている。  最近も、少し形を変えたレッテル貼りが行われた。「昭和の政治」批判だ。衆議院の予算案審議で、立憲民主党の山井和則議員が長時間の演説を行い自民党の裏金問題や予算案について厳しく追及したのに対して、維新などは、「こんな政治をやっていては国民の支持は得られない」という趣旨の批判を行い「昭和の政治」と揶揄した。  だが、裏金こそ「昭和の政治」の象徴であり、5年で約50億円を使った二階俊博元幹事長や高級クラブで遊びまくる麻生太郎元首相など「歩く昭和」である。また、維新の目玉政策である万博もカジノもまさに「昭和の政治」そのものではないか。  最近も自民党青年局のストリップバーまがいの乱痴気騒ぎで国民を呆れさせたが、老害議員だけでなく、若手議員も「昭和の議員」だということを露呈した。ついでに言えば、「エッフェル姉さん」や不倫議員など話題提供に事欠かない自民党女性局の議員たちも彼らと同罪である。維新議員の不祥事も後を絶たない。  よくよく考えてみると、自民や維新がこうしたレッテル貼りを行うのは自然なことかもしれない。自らのスキャンダルから国民の目をそらすには、面白おかしく立憲のイメージを傷つけるのが一番手っ取り早いからだ。政策の中身で勝負しようとしても、その内容で負けていることを自覚しているからこうした手法に頼らざるを得ないのだということも国民はよく認識しなければならない。   【こちらも話題】 支持率最低でも岸田首相が国民の声を聞かない理由 「諸悪の根源」国会議員票で決まる自民党総裁選のルールを変えろ! 古賀茂明 https://dot.asahi.com/articles/-/215329  安倍政権下では、大手マスコミ(特に政治部)が、こうしたレッテル貼りをそのまま垂れ流したことで、「悪夢の3年」「批判だけ」「昭和の政治」などという野党批判は、国民に広く浸透した。大マスコミの責任は大きい。  意外と知られていないのだが、立憲の国会議員のうち約6割は、民主党政権崩壊後に議員になった。民主党の責任とは無関係だ。彼らの中には、社会で活躍した実績を持ち、やる気も能力もある実力派が数多くいる。有能な女性も多い。女性といえば、リベラル野党の中には国会論戦で実力を見せる社民党の福島瑞穂党首や共産党の田村智子委員長ら政党のトップで活躍する議員もいる。  日本をダメにしたのは高齢男子。彼らに牛耳られ、そのうえに、若手も女性もダメな自民党は終わった政党だ。一方のリベラル野党には、優秀で高潔な若手と女性の議員がいる。  2月20日配信の本コラムで紹介したとおり、今回の裏金問題を受けて各党が政治改革案を出しているが、自民、立憲、維新の3大政党の中で最も進んだ案を出したのが立憲である。一例だけ挙げれば、政治資金パーティーを個人対象も含めて禁止という画期的な案を出した。自民はもちろん、実は、維新もこれには反対だ。立憲では、ベテランは反対したものの若手議員が力で押し切った。日本の将来を託すのはどの政党かということは一目瞭然だろう。  今こそ、立憲は、女性・若手を大抜擢し、国民へのアピールの最前線におくべきだ。そうすれば国民は彼らの将来性に気づくはずだ。  昨年末の時点で、自民党員が2022年末から3万人減少したというニュースが報じられたが、その流れは加速しているようだ。2月9日配信の本コラムで紹介したとおり、今年の1月23日に行われた「自民党員だけを対象にした極秘調査」によれば、自民党員の「支持政党」を尋ねる質問に自民支持と答えたのはわずか67.5%だった。また立憲支持が維新支持を上回った。次の衆議院選挙で必ず自民候補に投票すると答えた党員もわずか54.2%。22.5%は「多分投票しない」と答え、「迷っている」も21.7%だ。   【こちらも話題】 立憲の若手議員の底力を見た「政治改革案」 維新から「改革政党」の座を奪い取れ! 古賀茂明 https://dot.asahi.com/articles/-/214694  この調査結果は、自民の票が激減し、野党の票に上積みされ、二重の意味で与野党の差が縮まる効果が生じることを意味する。  維新の勢いが止まった今、維新との選挙協力がなくても、リベラル勢力が結集すれば、自民と維新に競り勝つ選挙区が数多く出てくるはずだ。  これまで政権交代は夢のまた夢などと諦めていた国民にとって、今最も必要なことは、政権交代の可能性がこれまでになく高まっていることを明確に認識することだ。  一方、野党第一党の立憲民主党に求められることは、第一に、自らの能力に自信を持つこと。第二に、「批判だけ」という批判を恐れぬ勇気を持ち、政治改革について安易な妥協をしないこと。そして、何よりも大事なのは、国民を信じること、である。  強い気持ちでこれを貫徹すれば、政権交代は決して夢ではない。   【こちらも話題】 自民党の裏金は完全に「脱税」である 「政治資金は非課税」というフェイクにだまされるな 古賀茂明 https://dot.asahi.com/articles/-/213962
日本人選手は平凡な成績なのに“高報酬” LIVゴルフの際立つ”タイパ”の良さ
日本人選手は平凡な成績なのに“高報酬” LIVゴルフの際立つ”タイパ”の良さ 現在はLIVゴルフでプレーする香妻陣一朗  2021年に設立され、翌22年に初のシーズンを迎えた「LIVゴルフ」が3年目のシーズンを迎えている。サウジアラビアのオイルマネーを資金源に、次々に世界のトッププロを引き抜いてきた新興ゴルフリーグで、この3年のゴルフ界に数々の議論を巻き起こしてきた。  一番の驚きは、その巨額な資金で、当初、フィル・ミケルソン(米)は2億ドル(約298億円)、ダスティン・ジョンソン(米)は1億5000万ドル(約223億円)、ブライソン・デシャンボー(米)は1億ドル(約149億円)で引き抜いたとされている。  さらに昨年12月には世界ランキング3位のジョン・ラーム(スペイン)を獲得。その契約金は700億円超えと言われており、“お金でトッププロを買っている”というアンチの声などどこ吹く風だ。  とにかく、2020年以降のメジャー15戦を見ると「LIVゴルフ」所属のプロが7勝を占めており、PGAツアーと「LIVゴルフ」のそれぞれに所属するトッププロたちの勢力図は甲乙つけがたいという状況だ。  ここまで「LIVゴルフ」でプレーしているプロたちが、世界最高峰のPGAツアーではなく「LIVゴルフ」を選択する理由は何かと聞かれれば、もちろんお金がトッププライオリティだろう。  3日間54ホールで年間の試合数は2023年と2024年が14試合ずつだけ。毎週のように全米中を転戦していたプロたちにとってみれば、巨額の契約金を手にしながら負担の少ない日程でプロ活動ができるとなれば、「LIVゴルフ」に気持ちがなびくのも無理はない。  PGAツアーや国内男子ツアーなど世界の男子ツアーでは当たり前の4日間72ホール競技が、3日間54ホールになるだけでも負担が少なくなるのに、もらえる賞金は優勝すれば400万ドル(約6億万円)。しかも予選落ちがなく、54人の出場選手全員が賞金を手にできるとなれば、所属する選手にとってはこれ以上の待遇はないのかも知れない。  では「LIVゴルフ」の選手とPGAツアーの選手は、獲得賞金にどのくらいの差があるのか? 昨シーズンを例に挙げて比較してみる。  その前にまずは賞金総額を比べてみよう。2023年の「LIVゴルフ」は14試合の日程で4億500万ドル(約603億円)を用意していたが、対するPGAツアーは、ツアーへの貢献度を計るPIP(プレイヤー・インパクト・プログラム)の1億ドル(約149億円)を含め約5億6,000万ドル(約834億円)を用意。38試合という大会数もあるが、「LIVゴルフ」に対抗するための大幅な賞金増の影響で、PGAツアーの方が総額は大きかった。  昨年の賞金ランキングを見てみると、PGAツアーのトップ10合計(フェデックスカップのボーナスなども含む)は約2億1,000万ドル(約313億円)だったが、「LIVゴルフ」のベスト10合計は約1億4,700万ドル(約219億円)。プレーした大会数の差もあるが、こちらもPGAツアーが上回っている。  次に各ツアーで一番賞金を稼いだ面々を比較するとどうなるのだろうか?  昨シーズン、PGAツアーで最も稼いだのは世界ランク4位のビクトル・ホブラン(ノルウェー)だ。23年はザ・メモリアルトーナメント、BMW選手権、さらには最終戦のツアー選手権と3勝するなど23試合で約1,410万ドル(約21億円)を獲得した他、フェデックスカップ王者となり1,800万ドル(約26億8,000万円)のボーナスもゲット。さらにはPIPの500万ドル(約7億5,000万円)を加え、3,710万ドル(約55億3,000万円)をコース上で稼ぎ出した。          一方の「LIVゴルフ」はテーラー・グーチ(アメリカ)が個人戦13試合で1,730万ドル(約25億8,000万円)を獲得。さらに年間王者として1,800万ドル(約26億8,000万円)を受け取り、最終戦におけるチーム戦の配分80万ドル(約1億2,000万円)も加えると3,610万ドル(約53億8,000万円)とした。これはホブランに100万ドル(約1億5,000万円)及ばない数字となった。  しかし試合数で見ると、ホブランの23試合(2022-23シーズンのため2022年に開催された大会も含む)に対してグーチのそれは13試合。こうして見ると、「LIVゴルフ」の方がタイパは良いようだ。  ちなみに日本人で唯一「LIVゴルフ」にフル参戦している香妻陣一朗はどうだろうか?  こちらは2024年の数字となるが、マヤコバ大会38位タイ、ラスベガス大会34位タイ、ジッダ大会31位タイ、香港大会41位タイという成績。54選手が出場する中では平凡な結果となっているが、4大会合計で56万1,125ドル(約8,400万円)という賞金額は、1大会の賞金総額が1億円程度の国内ツアーと比較すると、かなり高い報酬で当然ながらコスパも良い。  しかも3日間54ホール、ショットガン方式とはいえ、歴代のメジャーチャンピオンたちとともにプレーできる機会が得られることは香妻にとっても収穫が多いだろう。 「LIVゴルフ」でプレーしている以上、世界ランキングのポイントは得られないし、今後のPGAツアー参戦も不透明。4大メジャー出場も厳しくなる。しかし、「LIVゴルフ」に参戦できる権利があれば、短期間で巨額の報酬を得られる可能性があるのは事実となっているのだ。しかもトップ選手が「LIVゴルフ」へ移籍するとなれば高額な契約金も手にすることができる。  ゴルファーとしての名誉を取るか? プロスポーツ選手としての実を取るのか?「LIVゴルフ」が獲得を目指す選手は、今後もこの狭間で悩むことになりそうだ。  
マティスの作品が色の塗り方で大炎上? 俳優・竹中直人さんの想像力を活かしたアート鑑賞法
マティスの作品が色の塗り方で大炎上? 俳優・竹中直人さんの想像力を活かしたアート鑑賞法 【来日作品】アンリ・マティス《マティス夫人の肖像》/1905年 油彩/カンヴァス 46×38cm ニース市マティス美術館蔵/フランス/(c)Succession H. Matisse  役者、映画監督だけでなく、アート作品も手掛ける竹中直人さん。想像でおじさんの顔を描き「おぢさんの小さな旅?」と題する個展まで開いた竹中さんに、類稀な想像力を活かして楽しむ竹中式アート鑑賞法を聞いてみた。国立新美術館で開催中の「マティス 自由なフォルム」展に合わせて発売された『マティス 自由なフォルム 完全ガイドブック』から、竹中直人さんのインタビュー後編を特別に公開します。 ※前編「『ごめん、やっぱり描けないや』アート作品も手掛ける竹中直人さんが、高3の時にどうしても描けなかった絵とは」よりつづく *  *  * ――来日作品の《マティス夫人の肖像》をご覧いただいてどんな想像をされますか? こういう色の塗り方が当時大炎上したんですが。 竹中:今のSNSみたいですね。マティスは、当たり前に絵を描くというのが、つまらなくなったのかな……。素晴らしいデッサン力を持っているのに、それを自ら壊していくというのは、既に自分の中に完成されたものが存在しているということですものね。 ――ありえない色を顔に塗って。 竹中:壊すのではないけれど、お芝居も日々変化していくものです。固まっていくとつまらない。芝居の変化というか……。最終的には[何もしない]ということに辿り着く気がします。例えば笠智衆(りゆうちしゆう)さんのように演じない、表現しようとしない、ただそこにいるというのかな……。決して悟りの境地ではないけれど。この絵で言えば、何も色を塗らない部分がとてもロマンチックだったりします。 『マティス 自由なフォルム 完全ガイドブック』(朝日新聞出版)>>本の詳細はこちら ――足し算ではなくて引き算なわけですね。 竹中:もしかしたら強い光に照らされて他の色は全て飛んでいたのかも知れない。排除するというのは技術的なことではなく意識の世界だと思います。意識がそこに色を添えたり、色を排除したりしているんだというふうに考えるとめちゃくちゃかっこいい絵に見えてきますね。 ――想像をふくらませると、見え方が広がりますね。 竹中:狂言や歌舞伎など日本の伝統芸能には型があって崩せないものがありますがその時代に合わせて変化もしてゆきます。マティスは自分で作った型をさらに壊していって、マティスならではの個性に辿り着く。まさに挑戦的です。マティスならではの線、マティスならではの色。光、影。自分の妻を描くというのはすごいですね。そこには想像を超えた夫婦の姿がある。とてもロマンチックです。 ――ある意味「妻」の肖像でなければできなかったのかもしれませんね。さて《ブルー・ヌードIV》も来日しますが、ブルーについて何か想像されますか。  【来日作品】アンリ・マティス《ブルー・ヌードIV》/1952年 切り紙絵 103×74cm オルセー美術館蔵(ニース市マティス美術館寄託)/パリ、フランス/(c)Succession H. Matisse 竹中:海や水の中というか、女性を感じます。マティスは、女性から受ける影響が大きかったように思います。「いや、そんな事はないな」とマティスは言うかも知れませんが(笑)。でもどんな芸術家もみんなそうですよね……。女性のほうからの愛情もすごく深かったんだろうな……。マティスの才能を信じるこころ。愛ですね……。そして性的なエネルギーも常に深かったんじゃないのかな……。それが描くちからになっている。こういう線で女性の体を描くのはそういうことなのかな……。藤田嗣治(ふじたつぐはる)なんて5人の女性と結婚していますものね。画家はモテるんですね……。 竹中直人さん ――最後に読者へメッセージをお願いします。 竹中:マティスは、とてもチャーミングです。色彩がとても豊かで、でもシンプルで……。身近に感じることができる作品が多いと思います。マティスの作品を見つめていると「自分でも描いてみよう」という気持ちになるんじゃないかな……。「私なんか」などと思わず、私でも基礎がなくても自由に描けるんだという思いにかられると思います。いくつになっても想像する楽しさを与えてくれる展覧会ではないでしょうか。これを機会にぜひマティスの絵を見つめて想像を膨らませて……。マティスの深い祈りを想い、ロマンチックな気分になってください。 ――ありがとうございました。 竹中直人(たけなか なおと) 1956年3月20日生まれ、神奈川県出身。 多摩美術大学グラフィックデザイン科卒業。その後、劇団青年座入団。83年に「ザ・テレビ演芸」でデビュー。 96年にNHK大河ドラマ「秀吉」で主演を務め話題に。『シコふんじゃった。』(92)、『EAST MEETS WEST』(95)、『Shall we ダンス?』(96)では日本アカデミー賞最優秀助演男優賞を受賞。主演も務めた初監督作『無能の人』(91)がヴェネチア国際映画祭で国際批評家連盟賞、第34回ブルーリボン賞主演男優賞を受賞した。監督作に『119』(94)、『東京日和』(97)、『連弾』(01)、『サヨナラCOLOR』(05)、『山形スクリーム』(09)、『R-18文学賞 vol.1 自縄自縛の私』(13)、『ゾッキ』(21)、『∞ゾッキ平田さん』(22)、『零落』(23)がある。 「マティス 自由なフォルム」 2024年2月14日(水)~5月27日(月) 国立新美術館 企画展示室2E https://matisse2024.jp
韓国の社会問題に根ざした濃密なサスペンススリラー「ビニールハウス」
韓国の社会問題に根ざした濃密なサスペンススリラー「ビニールハウス」 (c)2022 KOREAN FILM COUNCIL. ALL RIGHTS RESERVED    ソウル郊外の農村のビニールハウス。イ・ムンジョン(キム・ソヒョン)は、夫と離婚し、一人そこで暮らしている。10代の一人息子と良い家に住むことを願う彼女は、訪問介護士兼家政婦として視力を失った大学教授と認知症を患う彼の妻の世話を献身的にしていた。が、ある事件が起こり──!? 「ビニールハウス」のイ・ソルヒ監督に本作の見どころを聞いた。 (c)2022 KOREAN FILM COUNCIL. ALL RIGHTS RESERVED   *  *  *  私の母は社会福祉士として働き、叔母も介護の仕事をしていました。私にとってそれは特別な仕事ではなく、そこから主人公ムンジョンのキャラクターが生まれました。彼女がビニールハウスで暮らしていることに驚く方が多いようです。実際、貧困からそこを住居にする方はいます。一方で農家が利便性のため暮らしている例もあります。 (c)2022 KOREAN FILM COUNCIL. ALL RIGHTS RESERVED    韓国では在宅のヘルパーに国の支援がなく、ムンジョンのような訪問介護士兼家政婦は民間サービスのみです。ムンジョンを雇っている老夫婦は富裕層なので可能ですが、現実は老夫婦が二人で孤軍奮闘しながら亡くなるケースが多い。老人の孤独死のニュースを見る度に「どういう状況だったんだろう?」と想像してしまうのです。 (c)2022 KOREAN FILM COUNCIL. ALL RIGHTS RESERVED    ムンジョンは訪問先で認知症を患う老婦人に罵倒されても、優しく精魂込めてケアをします。でも自分の母親も認知症で病院に入っておりその世話は看護師に任せています。このアイロニカルな設定も実は母を見て思いついたものです。母は他人の介護はできても自分の母親が認知症を患って家にいた時期は本当につらそうで、逃げ出したがっていた。この話をすると母はあまり喜ばないのですが(笑)、実の親子だからこそ難しいものなのかもしれません。こうした深刻な問題をドキュメンタリーにしてもおそらく誰も見てくれないでしょう。なのでサスペンススリラーの力を借りることにしました。 イ・ソルヒ(監督・脚本・編集)Lee Sol-hui/1994年生まれ。韓国映画アカデミー(KAFA)で映画監督コースを専攻。初長編映画である本作で釜山国際映画祭ほか受賞多数。15日から全国順次公開(c)2022 KOREAN FILM COUNCIL. ALL RIGHTS RESERVED    韓国ではすべての世代において、自分の感情を押し殺す傾向があります。特に近年は激しい競争社会になり「つらい」「もうやめたい」などが言えなくなっている。自殺率も高く、そこに起因して起こる事件が多いと感じています。私はこの物語は世界全ての人に通じる話だと思っています。いずれは誰もが老いるのですから。 (取材/文・中村千晶) ※AERA 2024年3月18日号
相手のキーパーソンに照準を 札幌で得た取引の基本 川崎重工業・金花芳則会長
相手のキーパーソンに照準を 札幌で得た取引の基本 川崎重工業・金花芳則会長 米国でiPodを早々と買った。先端機器好きは楽をするため。父はものづくり自分は機械少年血筋だと思う(撮影/狩野喜彦)    日本を代表する企業や組織のトップで活躍する人たちが歩んできた道のり、ビジネスパーソンとしての「源流」を探ります。AERA2024年3月18日号より。 *  *  *  入社4年目の1979年から約8年、札幌市で、市営地下鉄へ納入する車両の試験走行や改善を重ねた。ここで予想外のことが起きて、ビジネスパーソンとしての道が定まっていく。  札幌市の地下鉄は72年の冬季五輪へ向けて工事が進み、71年12月に南北線が開業した。その後、東西線と東豊線が開通。どれも車両はアルミ合金製で軽く、音の静かなゴムタイヤで走る。全車両の車台が川崎重工業(川重)製で、川重が主契約者だ。  着任当初は、担当の部長と2人で動いた。と言っても、市交通局との協議をまとめる部長の鞄持ちで、ついて回るだけ。部長は交通局との会議で、電機分野を受注した会社の幹部らを両脇に従え、課題を次々に切れ味よくさばく。後ろの席にいて「すごいな」と感心していた。 年長者にも怒鳴る交通局係長の要求徹底的に実現した  ところが、1年もたたないうちに部長は本社の技術部長へ栄転、「後はきみがやれ」と言われた。会議の仕切り方はみてはいたが、想定もしていない。以後、中央に座らされ、左右にいる父の年齢に近い電機会社の部長たちが露骨に「こんな若造に仕切れるのか?」という雰囲気を出す。「困ったな」と思ったが、ともかく勉強を重ねた。  接し方が難しかった人は、交通局側にもいた。議論に答えを出す係長だ。係長は30歳くらいで、年長の電機会社の部長でも不快なことがあると「帰れ」と怒鳴る。身を縮めてやり過ごしていた間に、閃いた。父くらいの年齢の面々に言うことを聞かすには「この係長をつかまえればいい」と頷く。  以来、係長に照準を合わせ、求めていることを的確に把握して、徹夜で対応策を考え、徹底的に実現していく。相手も、正面から受け止めてくれた。両脇の面々が「あの係長を押さえられる金花はいいね」と、一目置くようになる。冬の厳しい寒さも楽しむゆとりが、生まれた。  商売相手側のキーパーソンをつかむ──金花芳則さんがビジネスパーソンとしての『源流』になった、と思う体験だ。その後のロンドンやニューヨークの勤務でも同じ。どうやら場の状況や力関係、空気などを読むのが、得意なようだった。 70年万博で英語を鍛える(写真:本人提供)    1954年2月に神戸市で生まれ、両親と弟の4人家族。父は川重の技術者で、工場見学へ連れていってくれた。小学校時代は算数を教わり、いつも「技術者の匂い」をかいでいた。  県立神戸高校時代のある日。街で40代くらいの外国人男性に声をかけられた。ジョーという名の米国人で、大学の教師だった。親しくなり、自室にカラーテレビがなかったジョーは、日曜日にやってきてNHKの大河ドラマを観て帰る。  2人の会話はほぼ英語で、両親が「何を話しているの?」と尋ねた。この経験で、就職後に札幌で英語を話す機会に、抵抗感なくこなせた。 自動運転車両の開発会社の資料で知って就職先に決める  72年4月、大阪大学基礎工学部の電気工学科へ進む。4年生になって、就職先に自宅から通勤できるメーカーを考えていたとき、川重の資料でコンピューター制御の自動運転車両「KCV」を開発中と知る。「これをやりたい」と思い、受けた。76年4月に入社し、希望通りに車両事業部のKCV開発室へ配属される。KCVは高層ビルや高速道路の間を縫うように軌道を走らせるため、急カーブも急勾配もこなさなければならない。のちに「ポートライナー」として実用化した。  兵庫県加古川市の試験線で約3年、先輩と2人で試験車両を動かして様々な点を計測し、改良点を考えた。タイヤはゴム製で、同じゴムタイヤの札幌地下鉄との縁が生まれていた。  札幌から本社の車両部へ戻って約1年後の88年10月、ロンドン事務所のアシスタントマネジャーへ赴任した。川重は、英仏海峡トンネルを走るワゴン車の台車の試作車2両を受注していた。毎週のようにパリへいき、台車の試験に立ち会う。翌年にロンドン市営地下鉄のセントラルライン向け台車1436台も受注し、それも受け持った。「人生で、一番仕事をした」と思うほど、働いた時期だ。ここでは、市交通局で技術分野の総帥だった副総裁に食い込んだ。  副総裁は、思わぬところでも力になってくれた。神戸から社長がきて交通局の総裁を訪ねた際、台車の溶接や塗装で苦情を言われた。大きな問題ではなかったが、社長は腹を立て、宿泊先のホテルに現地法人のトップとともに呼ばれて怒鳴られる。「これは、クビになるな」と思い、帰宅して妻に話すと「そうなったら、2人でタコ焼き屋をしましょう」と言ってくれた。  翌朝、交通局へいって出社してきた副総裁に事情を話すと、「では『昨日はああ言ったが、ちょっと言い過ぎた』と手紙を書こう」とホテルにいた社長へファクスを送ってくれた。発注者が受注者にそういう手紙を出すのは、異例だ。  1436台の台車を納入し終えたころ、神戸の車両事業部長から「ニューヨークがいろいろ困っているので、いって手伝ってやれ」と指示がきた。米ニューヨーク市交通局(NYCT)向け車両の走行試験のことだ。1年くらいで終わるだろうと思い、妻と長男は日本へ帰し、単身でニューヨークへ赴く。米国駐在は結局、13年半に及ぶ。  ニューヨーク市の事務所は、車両基地の近くに置いたトレーラーハウス。ロンドンでは背広にネクタイで「紳士」を演じていたが、ここではジーパンにTシャツ姿で仕事をした。 端に座って寡黙な男相手の責任者と知り夜中にも訪ねた  週に1度、どんなトラブルをどう処置したかの会議がNYCTであり、それにも出た。すると、部屋の端のパイプ椅子に座って、寡黙な男がいる。部下に「誰?」と聞くと、NYCTの技術責任者だ、と言う。「何で、あんなところに座っているの?」と続けると、「川崎が嫌いなのです。問題ばかり起こして最悪だと」と答えた。  ここで、『源流』からの流れが、勢いを増す。「彼を落とせばいいのだ」と思い定め、夜中にも訪ねて話し込み、言われたことは全部やる。仲よくなり、07年10月に帰国した後も、ニューヨークへいけば会っている。いまニューヨークの地下鉄車両のほぼ半分が、川重製だ。  2016年6月に社長就任。地球環境対策の水素ビジネスなど、成長が期待できる分野で「攻め」を鮮明にした。地球環境の改善には、二酸化炭素(CO2)を多く排出する化石燃料の使用を抑制しなければならない。  現在、世界に電車の架線がない地域が多く、そこはディーゼル車が走り、多くのCO2を出している。それに代えて、川重が開発中の水素を使った燃料電池で走る新車両の時代が必ずくる、とみる。  いま、世界の自動車や車両のメーカー、電力などエネルギー関連の企業など、主要な約150社のトップによる水素協議会の共同議長も務め、水素の利用促進の議論も重ねている。『源流』となったキーパーソンの発見と攻略。今度は、自らに150社の目が注がれている。(ジャーナリスト・街風隆雄) ※AERA 2024年3月18日号
パスポートに「スタンプがない」と思わぬ面倒事が… 空港の出入国自動化ゲートをめぐる“混乱” 
パスポートに「スタンプがない」と思わぬ面倒事が… 空港の出入国自動化ゲートをめぐる“混乱”  自動化ゲート。筆者の体験では30秒もかからずに通過できる(写真提供:パナソニック コネクト)      日本を出国し、海外から帰国する際、空港の出入国審査でパスポートに押してもらうスタンプだが、最近は自動化ゲートを導入する空港が増え、スタンプが押されないケースが増えている。ただ、その場合は注意が必要だ。スタンプがないことで、いろいろと不便なことがあるようだ。  昨年12月、印刷会社に勤めるKさん(56)は妻と東京都江東区にある中国ビザ申請サービスセンターに出向いた。年末年始に中国旅行を計画していた。  以前に比べると中国への短期観光旅行のハードルがあがり、ビザが必要になった。申請には往復航空券や宿泊先ホテルの予約確認書のほか旧パスポートなども必要だ。Kさん夫妻はそれらを提出するとこう言われた。   「韓国に行ったときの出国スタンプがありません」 「は?」 免許証が……  昨年、Kさん夫妻は韓国に行き、帰国する際はソウルの仁川国際空港を利用したが、出入国審査カウンターは無人の自動化ゲートを通過したため、出国のスタンプは押されなかった。そのスタンプがない理由を問われたのだ。事情を詳しく説明し、ビザは受け取れたというが……。  タイに駐在している建設会社員のTさん(40)も、海外から帰国する際に自動化ゲートを使ったことで、大きな“痛手”を負った。  昨年、日本でさまざまな手続きをしなければならないため、一時帰国した。仕事の関係で日本での滞在日数は4日間しかなかった。  そうしたなか、運転免許証の再取得のために東京都品川区の運転免許試験場に向かったのは、タイに戻る前日だった。そこでこう言われたという。 「パスポートに出国と入国のスタンプがないので再取得の手続きはできません」  Tさんも「自動化ゲート」を利用していた。出入国在留管理庁でスタンプを押してもらうように言われたので連絡をとったが、「1日では処理できない」という返事。免許の再取得はできずにタイに戻った。期限内に再度帰国すれば再取得はできたが、仕事の関係で帰国は難しく、結局、日本での運転免許証は失効してしまった。 【合わせて読みたい】 夏休みの旅行はLCCよりMCC?「運賃安め、座席広め、パンやコーヒー無料」韓国、香港、台湾で勢い https://dot.asahi.com/articles/-/195138?page=1 自動化ゲートは、パスポートの読み取り、その後、顔認証へと進む(写真提供:パナソニック コネクト)    世界の空港で自動化ゲートの設置が進んでいる。出入国審査のスピードアップが目的だ。日本は指紋認証ゲートからはじまり、現在の顔認証ゲートに進んだ。2017年に羽田空港に3台設置されて以来、順次、その台数は増えている。  パスポートを機械が読み取り、次いで顔認証。日本人の場合、出入国でこのゲートを使うことが可能だ。出入国審査は簡素化され、かかる時間も短縮されたが、パスポートにスタンプは押されない。  日本の場合、自動化ゲートを通過した先に1カ所、職員がいるブースがあり、そこにパスポートを出すと出入国スタンプを押してくれる。旅の記念という人もいて、ブース前に列ができていることもある。 スタンプが海外旅行保険にも影響  筆者が今年1月、成田空港着で帰国すると、そのブースに注意書きが貼られていた。そこには、運転免許証の再取得や転入届、年金の合算対象期間の証明などスタンプが必要な項目が書かれていた。出入国在留管理庁の成田空港支局によると、顔認証ゲート導入時から掲示していたというのだが……。  自動化ゲートを使い、スタンプがないパスポートにスタンプを押してもらうには手間がかかる。出入国在留管理庁で手続きをする場合は開示請求が必要になる。開示決定は30日以内とされている。 「出入国スタンプの場合、さすがに30日はかかりませんが、手作業ですからすぐには対応できません。利用した空港に出向いたほうが早いのでそちらを勧めています」(出入国在留管理庁)  同庁の成田空港支局によると、空港内窓口が対応し、確認でき次第スタンプを押すという。  出入国スタンプは海外旅行保険にもかかわってくる。旅行中のけがや盗難などが対象になる。その申請には出国日と帰国日が必要になる。 「自動化ゲートが増え、スタンプがない場合はEチケットや旅行の日程を証明できるもので代替できるようにしています」(三井住友海上)  転入届には帰国日を特定しなくてはならない。スタンプがない場合は航空券の半券などで対応してくれることもあるようだが、スタンプがあったほうがはるかにスムーズに手続きはできる。 【こちらもおすすめ】 「滑走路の誤進入は世界で頻繁に起きている」 現役パイロットが抱く日本の事故対策への懸念 https://dot.asahi.com/articles/-/211826?page=1  この状況は海外も大差はない。韓国や台湾でも自動化ゲートの設置が進んでいるが、やはりスタンプは省略される。しかも、日本のようにゲートの先にスタンプを押してくれるブースはなく、空港内のオフィスに出向く。  台湾から帰国したHさん(42)は、この台湾桃園国際空港のオフィス前で30分も待った。スタッフが不在で戻るまで待たなくてはいけなかったという。 自動化ゲート使ったのに  タイから帰国したSさん(69)は、バンコクのスワンナプーム国際空港の自動化ゲートを使って出国した。そこで職員にスタンプがほしいというと、脇の通路を通って出国審査場に戻り、有人ゲートに並んでください、と指示されたという。 「自動化ゲートはスピーディーでいいんですけど、使った意味がまったくありませんでした。有人ゲートは混んでいて通過するのに30分もかかりました」  自動化ゲートをめぐる混乱はまだ続きそうだ。 (下川裕治) しもかわ・ゆうじ 1954年生まれ。旅行作家。アジアや沖縄を中心に著書多数。ネット配信の連載は「クリックディープ旅」(毎週)、「たそがれ色のオデッセイ」(週)、「沖縄の離島旅」(毎月)。

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