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宮沢りえ“感情の階段”への困惑 「情緒を乱して」の監督の言葉と葛藤した経験語る
古谷ゆう子 古谷ゆう子
宮沢りえ“感情の階段”への困惑 「情緒を乱して」の監督の言葉と葛藤した経験語る
宮沢りえ(みやざわ・りえ、左):1973年生まれ。近年のおもな映画主演作に「紙の月」(2014年)、「湯を沸かすほどの熱い愛」(16年)。舞台出演作に「泥人魚」(21年)、「アンナ・カレーニナ」(23年)など/石井裕也(いしい・ゆうや):1983年生まれ。おもな監督作に「舟を編む」(2013年)、「ぼくたちの家族」(14年)、「映画 夜空はいつでも最高密度の青色だ」(17年)、「茜色に焼かれる」(21年)など(撮影/写真映像部 松永卓也)    実際に起こった障害者殺傷事件を題材にした小説を、石井裕也の脚本・監督で映画化した「月」。宮沢りえは、障害者施設で働き始める作家の堂島洋子を演じる。作り手、演じ手としての「覚悟」を語った。AERA2023年10月16日号より。 *  *  * ――原作は、辺見庸の同名小説。10代の頃から辺見の作品に多大な影響を受けてきたという石井裕也が原作を大きくアレンジし、映画化した。プロデューサーは、映画「新聞記者」で知られる故・河村光庸。目を背けたくなる現実、そして人間の心の闇に深く切り込んだ作品だ。ともに走り抜けていくうえで、二人はどんな声を掛け合っていたのか。 石井裕也(以下、石井):初めてお会いしたときは、作品とは必ずしも関係のない話も含め、多種多様なお話をさせてもらいました。この作品をやるんだ、という宮沢さんの覚悟はすごく強いものだったので安心していましたし、改めて意思を確認し合うといった野暮なことはしなかったです。宮沢りえさんという俳優を信じきっていたのだと思います。 宮沢りえ(以下、宮沢):私は、河村さんと一緒にお仕事をしてみたいという気持ちが最初にありました。日本に様々な映画があふれるなか、社会に対し憤りを持って作品を送り出している姿にすごく感動していましたし、河村さんとお仕事をしたいという思いが芽生えた時点で、自分のなかに「覚悟」はあったのだと思います。 「月」のお話をいただいたときは、正直、戸惑いもありました。なぜこれをつくりたいのか、という河村さんと石井監督の気持ちを100パーセント理解し、作品に挑めるだろうかという不安はあったけれど、「この題材ならやりません」と断ったら一生後悔するだろうなという思いもありました。役者として、社会に対しメッセージを発することができる作品に参加できるのはとても貴重で、光栄な機会だと感じました。  監督にお会いしたときは「ちょっと取り憑かれているな」と思うほどの真剣さが伝わってきましたね。どれくらいの時間をかけ取材し、執筆をされていたのか、私は正確にはわかりませんが、「憤り」を持っていると感じられた。だからこそ、信じることができたのだと思います。初めてお会いしたとき、長い時間、話しましたよね? 石井:そうですね。自分の作品に出演する俳優とそんなにも長い時間話をしたのは初めてでしたが、「次の作品でも、同じことをしてみようか」という僕自身の意識変革にも繋がりました。「こういう芝居をしよう」といった話ではなく、お互いの人生を合わせるというか、結びつける作業として必要なことだな、と。 ――石井には「裏の世界を描くためには、表の世界で活躍されてきた方に中心にいてほしい」という思いがあったという。 石井:宮沢さんは、僕も6歳のときから映画「ぼくらの七日間戦争」を通して知っている、言わばスーパースターなわけです。 宮沢:(笑)。 石井:今まで歩まれてきた道のりは、表層的な部分だけを切り取れば、「憧れ」として映るのかもしれませんが、同時に我々が体験したことのない、稀にみるような経験もされてきた。それこそ「表の世界にいる」ということのつらさであり、悲しさであると思うのですが、そのような方が世界の裏側に目を向け、飛び込もうとする勇敢さにまず圧倒されました。 「情緒を乱してほしい」  俳優の凄みはいくつかあると思っていますが、大きくは「目」と「呼吸」だと思っています。とくに、宮沢さんの息遣いは現場でも強く感じられるものでした。その場にいらっしゃるだけで「すごいな」と思わずにはいられない方が、自分がコントロールできない精神状況に陥りながらも強い呼吸をしている。それ自体ものすごいことだ、と。 宮沢:演出の際、監督は「もっと情緒を乱してほしい」「歪んだ情緒で」とおっしゃっていましたね。そう言っていただいたことで、台本に書かれていたト書きが理解できるようになった気がします。  最近は、私の人生のなかでも情緒がとても安定している時期だと思っているのですが、その言葉を受け「まともな情緒のまま台本を読んではいけないんだ」と思ったことを覚えています。正直、クランクイン前には感情の流れが正確には理解できていなかった。「どうやってこの感情に持っていくのだろう」という感情の階段のようなものは多くの場合、台本を読めば理解できるのですが、今回はまったくわからなかったんですね。  撮影に向かうバスの中でも、冷静に考えると「できない」となってしまう。でも、現場に入り支度をしていると、そこには覚悟を持ったスタッフがいて、監督がいる。するとバスの中ではあんなに悩んでいたのに、だんだんと悩まなくなっていく。監督が情緒に対する言葉を掛けてくださり、さらに現場の方々のエネルギーに誘われていった感覚があります。スタッフの方々が素晴らしかったですね。「絶対にこの船は行き着くぞ」という、異様なエネルギーがあって。 石井:現場って面白いもので、色々な人が相関関係にあるから、誰か一人が強いエネルギーを発すると、周囲も影響されていく。「これだけの覚悟を持った宮沢さんには、同じだけのエネルギーで臨まないとバランスが取れない」という思いでスタッフが頑張ったところもあるし、その逆もあったと思います。そういう宮沢さんに向き合う時の言葉として「情緒」という言葉が僕のなかから自然に引き出されたのではないかと思います。 なぜ撮られているのか 宮沢:いま思い出したのですが、夫役であるオダギリジョーさんと個人的な感情をやり取りする場面で、「カメラに映されている」ということに違和感を覚えてしまったことがありました。今までずっと撮られ続けてきている人生にもかかわらず、「なぜ、この顔がいまカメラに撮られているのだろう」という感覚が降ってきた時があって。とても混乱しました。時間が経ったいまも答えは出ないけれど、あのときは芝居をしていなかったのかなと考えてみたり、それまで味わったことのない不思議な時間でした。 石井:僕としては、「ぼくらの七日間戦争」を観ていた人間が、まさか35年後に宮沢さんを前に「新人女優じゃないんだから」と声を掛けることになるとは想像だにしていなかったわけです。 宮沢:そう、「新人女優じゃないんだから」って(笑)。空気を変えようと絞り出してくださった言葉がそれだったんですね。 石井:“俳優研究家”の僕としてはすごく面白い経験でした。うまい言葉が見つかりませんが、間違いなく未知なる場所に行こうとしている人間を直視するのは、言葉が悪いですがすごく面白かったです。めったに見られるものではないですから。 作家の洋子は、重度障害者施設で働き始め、自分と生年月日が同じ入所者や、同僚たちに出会う。10月13日公開(c)2023「月」製作委員会   未知の世界で迷子に ――長いキャリアを経て、洋子という役に出会えたことをどのように捉えているのだろう。 宮沢:あまり深く考えたことはありませんが、公開される日がくるのが怖く、「公開される」という言葉自体がしっくりきていないという感覚がまずあります。先ほどから監督は「ぼくらの七日間戦争」とおっしゃってくださっていますけれど(笑)、これまで色々な作品に携わってきて、どれくらい観てくださった方の記憶に自分が刻まれているのかはわかりませんが、明らかにこの「月」という作品での私は、「皆さんの記憶にこびりつきたい」と思って今までやってきたなかでも、かなり濃度の高いものがこびりついてほしいと思っているし、そんな役に自分の人生のなかで出会えたことは幸運だったなと思っています。 石井:物語のなかで描かれている重度の障害者施設は、僕も今回、この映画を作らなければ見ることもなかったでしょうし、恐らく入ることもなかった。大半の方が入ったことも、見たこともない場所だと思います。入ったら何がわかるか、というものではないですが、そこには見たことのない世界が広がっている。辺見さんの小説も、僕の脚本もそうですが、どんどん未知の世界に入り込み迷子になっていく。それを頭のなかで想像したり観念として理解しようとしたりするのではなく、実感を伴うことができるのは、宮沢りえさんという「身体」を伴ったからこそだと思います。見たことのない世界と観客の皆さんを、宮沢さんが繋いでくれる。その出来事自体が特別なことであり、宮沢さんと一緒に迷子になっていくという体験を作れたことが、映画の価値なのではないかと思っています。 (構成/ライター・古谷ゆう子) ※AERA 2023年10月16日号
宮沢りえ石井裕也
AERA 2023/10/14 10:30
「面白いか」「応援したいか」が仕事の原動力 経営学者・入山章栄
「面白いか」「応援したいか」が仕事の原動力 経営学者・入山章栄
学術とビジネス、日本と世界を軽やかに行き来し、自由な空気をまとう(撮影/植田真紗美)    経営学者・早稲田大学大学院、早稲田大学ビジネススクール教授・入山章栄。気鋭の経営学者として、ビジネスパーソンを始め多くの人が、入山章栄の思考を、アドバイスを聞きたいと列をなす。人の話をよく聞き、対話を大事にする。面白いと感じた人同士をつなげることも好きで、多動的に行動してきた。この「多動的」な行動が、経営学には難しいと言われる理論構築の基盤になった。知の探索と深化のために、東奔西走の日々だ。 *  *  * 「今、最もアポが取れない経営学者」。入山章栄(いりやまあきえ・50)を知る人なら、異論はないだろう。  本業は、早稲田大学ビジネススクールの教授。しかし、大学での講義やゼミ指導、自身の研究に費やす時間以外に、企業のアドバイザーや社外取締役としての活動、「ワールドビジネスサテライト」(テレビ東京)などメディアの出演・発信の予定で、入山のスケジュールは数カ月先まで埋まり、西へ東へ奔走する。  例えば、6月のある半日に密着すると、午前10時から早稲田の研究室で、テレビ番組用のコメント収録を1時間ほど。事前にオンラインで取材をした地方の中小企業5社の経営戦略について解説する内容だ。終わるや否やタクシーに飛び乗って、東京・浜松町のロート製薬のオフィスへ。4年前から社外取締役を務める同社の取締役会に参加するのかと思いきや、「YouTube収録をする」と言う。 「大企業が抱える課題は“対話不足”。社内の仲間がどんな思いでどんな事業に携わっているのか、生の言葉を交換し合うコミュニケーションが、既存の技術や知識の結合を生み、イノベーションの種になる」。そんな入山の提案で始まった社内配信番組では、自ら聞き役となる。  また、あるときは文化放送のスタジオに深夜まで籠(こも)る。ナビゲーターを務めるラジオ番組「浜松町 Innovation Culture Cafe」では、各界で注目する実業家や文化人をゲストに呼んでトークを展開する。テーマや人選も、入山が自ら企画に参加している。もともとラジオ好きという理由もあるが、「対話を公開する」という営みそのものが、日本の社会の活性化につながると信じている。  ゼミも授業もディスカッション中心。入山の解説は録画して事前に共有。観た前提で、学生全員で議論をする。国内外のアントレプレナーを呼んで、活動の情熱や志をひたすら語ってもらう授業は名物企画となっている。 国際機関で働く妻と子どもたちが暮らすマニラと東京で2拠点生活。愛犬の散歩は入山の日課だ。「歩いたり、車で運転したりするルートをあらかじめ決められるのは苦手。自分で道を探したいタイプです」(撮影/植田真紗美)   どんなアイデアも肯定 相手を緊張させない  入山の周辺に必ずあるもの。それは賑(にぎ)やかな「対話」だ。  話し好きの入山だが、よく観察すると、入山自身が話す割合は決して多くない。  肯定的な相槌(あいづち)や大袈裟(おおげさ)なほどのリアクションで相手の話を促し、会話の輪の中で発言が少ない人にさりげなく意見を求める。「学者は話が長い」と言われるが入山はむしろ逆。主役を自分以外に渡し、「ファシリテーター」として立ち回る名人だ。また、自分が面白いと感じた人同士をつなげて、新しい化学反応が生まれるのを見守るのも大好きだ。  例えば、キリン、ファンケル、マルイなど異業種の大企業数社が入山を講師に呼ぶ合同研修、通称「入山塾」でも、主役は参加者。企業同士がお互いの統合報告書に対して「忖度(そんたく)のない指摘」をし合い喧喧諤諤(けんけんがくがく)盛り上がる様子を、入山はニコニコしながら眺めているらしい。  ロート製薬の取締役会では、同じく社外取締役の米良はるか(レディーフォー社長)の推薦で、深い議論が必要な議案では臨時に議長役を務め、同社会長の山田邦雄(67)や役員の話を引き出していく。目薬の開発から発展し、化粧品分野での新規事業も成功させた山田は独自の発想力を発揮するリーダーとして知られるが、入山は「唯一の弱点」を嗅ぎ取っていた。 「天才肌の経営者ならではの悩みとして、自分の“頭の中”を社員にそのまま伝えるだけでは不十分で、大胆な成長戦略を実践しにくいもどかしさがある。思いやビジョンを言語化して伝達することが必要だと感じた」  同時に山田以外の役員の思考も表に出し、擦り合わせていく。「数十年後、社会にとってこの会社がどんな存在であってほしいか?」、そんな問いを投げかけて、掻き回す。  一方の山田は、入山の印象について「とにかく明るくて、いい意味で学者らしくない」と語る。「変わったアイデアでも肯定してくれるので、つい余計に喋(しゃべ)ってしまう。入山さんをビックリさせるくらいの報告をしようと、我々も刺激を受けています」 ラジオやYouTube番組の企画や人選も自ら進んで携わり、スポンサーも取ってくる。仕事を選ぶ基準は「面白いか」と「応援したいか」。深く共感できる相手には、つい「なんでもやりますよ」と言ってしまう(撮影/植田真紗美)    国内の大手シンクタンクを経て米ピッツバーグ大学で経営学博士号を取得し、ニューヨーク州立大学でアシスタントプロフェッサーとして従事。国際的な学術誌に論文を多数発表してきた入山は、世界を舞台に学術的バックボーンを磨いてきた“本物”の研究者である。それでいて、相手に緊張感を抱かせない柔らかさを併せ持つ。  誰に対してもオープンで快活。ガンダム愛やチャーハン愛も語り出したら止まらない。相手が社長だろうと学生だろうと「さん付け」の呼び方で区別せず、「なるほどね」「めちゃめちゃいいっすね」を連呼する。相手の意見を受け入れて、リスペクトを言葉にして表現し、手を叩(たた)いて笑う。おおらかな受容力を放つから、日に日に「私たちも入山先生にこんなお願いができないだろうか」と並ぶ人の列が長くなるのだろう。  今でこそ社交的に飛び回る入山だが、意外にも子ども時代は内向的だったという。  東京都調布市に生まれ、「勘と運だけで受かった」東京学芸大学附属大泉小学校へ。低学年までは快活な少年だったが、些細(ささい)な出来事がきっかけで次第に孤立するようになり、将来の夢も長く持てなかった。2キロほどあった通学路をボーッと下を向いて歩く暗い少年。近所の大人たちにはそう覚えられていたという。集団が苦手で、大手塾は1日でやめて家族経営の個人塾に入った。 数カ月前、自分の行動指針について考えて浮かんだ三つの言葉は「自由・自律・自責」だった。1年間のサバティカル(在外研究期間)を終えて、11月からゼミを再開する(撮影/植田真紗美)   世界に通用する仕事を 経営学博士号目指し留学  中学に入ると野球部に入り、キャプテンを任されたことをきっかけに徐々に性格も外向きに。真面目に勉強すれば模試で全国1位をとるほど成績はよかったが、なんのために勉強するのかという目的は見いだせなかった。  高校では「マイナースポーツのほうが勝率が高くなる」と転向したハンドボールに打ち込み、見事に都大会上位に進んだが、3年夏のインターハイが終わると燃え尽き症候群に。授業をサボって麻雀(マージャン)に頻繁に通い、気づけば成績は学年最下位に落ち込んだ。あわや留年というところを切り抜け、1浪して慶應義塾大学経済学部へ。しかしながら、試験科目が少ないという消極的な理由で選んだ大学生活では低空飛行を続けていた。  転機となったのは、3年次の履修説明会で“憧れるべき存在”に出会ったことだった。その人、木村福成(65)は、ウィスコンシン大学で博士号を取得し、ニューヨーク州立大学で教鞭(きょうべん)をとった国際派の経済学者。国際経済学への誘いを英語混じりで語る木村の姿を、シンプルに「かっこいい」と21歳の入山は見つめていた。世界とつながり、世界に通用する仕事に打ち込みたいという目標が芽生えた瞬間だった。  大学院修士課程修了後は、三菱総合研究所へ。アジア市場研究部に所属し、自動車メーカーや政府機関向けの調査研究に5年携わった。元同僚で先輩にあたる河村憲子は、会社員時代の様子をこう語る。 「当時、入山君はロン毛だったんです。型にはまらない自由な雰囲気から『王様』と呼ばれていました。外見は軽くても根は真面目で、人の話にもちゃんと耳を傾け、注意や説明を受けると柔軟に行動を変える素直さがありました。いわゆる“愛されキャラ”でしたね」  海外出張は年に数回あったが、入山はもっと深く世界とつながりたかった。そのために手っ取り早い方法は「留学だ」と閃(ひらめ)いた。博士号留学を目指し、米ジョージタウン大学大学院の入学も許可されたが、経済学を深めるイメージを持てずに辞退。恩師だった故・佐々波楊子(慶應義塾大学名誉教授)に相談したところ、「これからはMBA(経営学修士)の時代よ」と助言を受けた。  その言葉を素直に受け、経営学について調べてみた結果、数学ではなく自然言語でデータ解析をする学問手法であることに「自分に合う」と直感した。「人と同じ選択はしたくない」というこだわりを持つ入山にとって、修士課程のMBAではなく、あえて博士号に挑戦することは魅力だった。まして、海外で経営学博士号を修めた学者は同世代にほとんどいない。入山が好きな「レア化」の優位性が見えた。その読みどおり、安定した職を捨て、リスクをとった30歳の決断は、後に「気鋭の経営学者」と称され引っ張りだことなる入山のキャリアを決定づけるものとなった。 (文中敬称略)(文・宮本恵理子) ※記事の続きはAERA 2023年10月16日号でご覧いただけます
現代の肖像
AERA 2023/10/13 18:00
引退発表した鈴木おさむ 29歳のときに起きた出来事とその後に強く感じたこととは
鈴木おさむ 鈴木おさむ
引退発表した鈴木おさむ 29歳のときに起きた出来事とその後に強く感じたこととは
放送作家の鈴木おさむさん    鈴木おさむさんが、今を生きる同世代の方々におくる連載『1970年代生まれの団ジュニたちへ』。今回は、「辞める」ことについて。 * * *  この原稿は10月12日の夕方に書いています。今日、32年間やってきた放送作家業と脚本業を来年、3月31日に辞めることを発表させて貰いました。沢山の方からメッセージをいただきまして、本当にありがたいです。  僕が25年近くお仕事させていただている方からのメッセージで「放てば手に満てり」という言葉をいただきました。手にしているものを手放さないと何かをつかめないという意味ですね。辞めることが怖くないかといえば怖いです。でも、今のまま続けていくのがもっと怖いんですよね。 初連ドラ脚本に挑戦  29歳の時に初めての連続ドラマの脚本に挑みました。「人にやさしく」というドラマでした。初めての連続ドラマで、「笑っていいとも」「SMAP×SMAP」「めちゃめちゃイケてるっ」の3本はドラマの出演者も出ていたのでやっていたのですが、あとは半年お休みさせていただくことにしました。 【あわせて読みたい】 SMAP解散から6年 中居正広と香取慎吾の“対面”を見た鈴木おさむが感じた多くのこととは https://dot.asahi.com/articles/-/12467  そのときに、お休みさせて貰おうとしたら、結構、クビになりました。「ごめん、それだったらいいや」と。でも、そんななか、「いきなり!黄金伝説」のプロデユーサーは、「頑張って来いよ! 休んでる間もギャラは払い続けるから! 戻ってきてよ。期待してる」と。   なんと。半年間、会議も行ってないのにギャラを払い続けてくれたのです。数百万円ですよ。  でも、おもしろいもので、半年たって戻ったときに、その「黄金伝説」をきっかけに、そのスタッフからまた番組は増えていきました。  クビになった番組は、正直、自分のハマりが悪い番組でした。失った番組も多かったけど、その「黄金伝説」きっかけの番組がどんどん増えていき、クビになった番組の本数をすぐに超えていきました。  だから、「手放すこと」の大事さを、そのときに強く感じました。  そしてもう一つ。ここで書いておきたいこと。 【あわせて読みたい】 天国に旅立たれた鈴木おさむのただひとりの師匠。 僕もこれから、逃げずに、人の夢の種を撒いて生きます https://dot.asahi.com/articles/-/39625  僕はここ数年、仕事で「怖い」と言われることが多くなりました。自分は笑顔のつもりだったのですが、そうじゃない。  最近、思っていることがあります。努力を努力と思わない才能というものがあります。  成功してる人は努力と感じてない。  僕もありがたいことに若い頃から努力を努力と思っていなかった。だけど、作家を始めて3年ほどたったときに後輩が入ってきて、自分がそれまで当たり前にやってきたことをやらせたら辞めてしまいました。  ここ数年、番組などを成功させるための自分の当たり前が当たり前じゃなくなっていたんだと思います。自分でやった方がいいと思ってやったことが、冷たく思われたり。 「怖い」と思われていた!  おもしろく言ってるつもりが、相手はそう感じていなかったり。  だから「怖い」と思われていたことが多い。  これは本当に駄目だなと思っています。僕と近い年齢の方は、こういう経験結構あるかもしれませんね。  人を楽しませるためのものを作っているのに、近くにいる人を傷つけているのって、本当に駄目だなと。  それを一度リセットするためにも、「辞める」ことが必要なんだと思います。  スイッチをオフにしたところから、今一度大切にしなければいけないものを確認しないといけないんだなと。  ただ、あらためて、この辞めるという決断を受け入れてくれた人、そして仕事をしている人たちには本当に感謝しています。  この半年、辞めるということに向き合いながら、辞めるからこそ出来るものを作っていきたいと思います。 鈴木おさむさん、大島美幸さん夫妻(本人ブログから) 夜店でスーパーボールすくいをする鈴木おさむさんと息子の笑福君、後ろで見守る妻の大島美幸さん(本人インスタグラムから)   キックボクシングのトレーニングの様子=本人のインスタグラムから 大島美幸   ■鈴木おさむ(すずき・おさむ)/放送作家。1972年生まれ。19歳で放送作家デビュー。映画・ドラマの脚本、エッセイや小説の執筆、ラジオパーソナリティー、舞台の作・演出など多岐にわたり活躍。パパ目線の育児記録「ママにはなれないパパ」(マガジンハウス)、長編小説『僕の種がない』(幻冬舎)が好評発売中。漫画原作も多数で、ラブホラー漫画「お化けと風鈴」は、毎週金曜更新で自身のインスタグラムで公開、またLINE漫画でも連載中。「インフル怨サー。 ~顔を焼かれた私が復讐を誓った日~」は各種主要電子書店で販売中。コミック「ティラノ部長」(マガジンマウス)が発売中 【あわせて読みたい】 「結婚はあまりお勧めしません」鈴木おさむが結婚16年目に思うこと https://dot.asahi.com/articles/-/115846  
鈴木おさむ
dot. 2023/10/13 11:30
「なぜか家に帰るとイライラする……」 そんな私を救ったのは“片づけ”だった
西崎彩智 西崎彩智
「なぜか家に帰るとイライラする……」 そんな私を救ったのは“片づけ”だった
散らかってはいないけれど落ち着かないリビング/ビフォー 5000件に及ぶ片づけ相談の経験と心理学をもとに作り上げたオリジナルメソッドで、汚部屋に悩む女性たちの「片づけの習慣化」をサポートする西崎彩智(にしざき・さち)さん。募集のたびに満員御礼の講座「家庭力アッププロジェクト®」を主宰する彼女が、片づけられない女性たちのヨモヤマ話や奮闘記を交えながら、リバウンドしない片づけの考え方をお伝えします。 case.53  家と向き合うことは自分や家族と向き合うこと 夫+子ども1人/看護師 「家の中がモノであふれて落ち着かない」「散らかっているから、探しものばかりでいつもイヤな気分になる」  家庭力アッププロジェクト®に参加される方の大半は、このようなお悩みを持っていらっしゃいます。  でも、今回ご紹介する女性は少し違いました。  片づけ前の家の様子を見ても、リビングやダイニングの床にモノがない。使うモノがきちんと収納スペースに収まって、スッキリしている。何が彼女を悩ませているのでしょうか? 「昨年、娘が受験のときにすごくイライラしていたんです。今とは人格が違うみたいに、娘に大きな声で怒鳴ったりしていました」  もともと家が散らかっていると落ち着かない彼女は、家の中をなるべくきれいに保っていました。でも、娘が塾から持ち帰る大量の資料やプリントにうんざり。やっと受験が終わったと思っても、イライラが止まりません。 「娘もあまり片づけが得意ではないので、私が仕事から帰ってくると、ゴミや教科書が置きっぱなしなんです。それを見て、『ただいま』と言う前に『片づけなさい!』と怒っていました」  片づけが終わってから「学校はどうだった?」と話しかけても、娘は「別に」とそっけない返事。それがまた彼女をいらだたせます。娘からすると、「おかえり」も言ってないのに怒られたのですから、しかたないことかもしれません。 「4月から夫が仕事で不在にすることが多くなり、娘と2人きりの時間が増えました。そうすると、どんどん娘との関係が悪化するのではないかと怖くなって……」 ソファを部屋の中心にゆったりくつろげる空間に変身/アフター    彼女は、家がだんだん散らかっていると自分の心に余裕がなくなってしまうことはわかっていました。でも、本当の問題はそれだけではない気もしています。悩んでいたある日、家庭力アッププロジェクト®の存在を知りました。 「これだ!と思ったんです。当時はモノが多くて部屋がごちゃごちゃしていたので、片づけを通して私のモヤモヤも晴れると思って参加を決めました」  あまり散らかっていない家でも、彼女がずっと「いつか片づけないと」と気にかけていた場所があります。「いる・いらない」の判断を後回しにしたモノをなんでも放り込んでいた納戸です。  納戸を片づけていると、昔の同僚やお世話になった人からもらった手紙と写真が出てきました。そこに書かれていた「いつもあなたの笑顔に救われました」という言葉を見て、彼女はハッとしました。 「私、どんな顔をして笑っていたのか思い出せなかったんです。当時の写真を見ながら、鏡の前で同じ顔をしようとしてもできなくて、涙が止まらなくなって……」  娘と笑顔で写っている写真を、リビングに飾りました。すると、娘はその写真を見るなり、「そう!ママってこういうイメージだったよ!」と。彼女は、この頃の笑顔を取り戻そうと誓いました。  さらに、片づけのおかげで自分のイライラの原因が判明します。  プロジェクトでは、自分の片づけたい気持ちを家族に強要しないということを学びます。同じ家を使う家族であっても、片づけに関して同じ気持ちだとは限りません。家族の気持ちを尊重することの大切さを感じたとき、彼女は気づきました。 「片づけ始めたら、私はずっと娘をコントロールしようとしていたんだとわかりました。『こうしたらいいのに』『なんでこうしてくれないの』と、娘に求める気持ちが強かったんです」  娘には娘の気持ちがある。自分がコントロールしようとしてはいけない。このことに気づくと、彼女の心は軽くなっていきました。  そして、娘にリビングはどんな空間にしたいのか尋ねると、「ママと一緒にテレビを見ながら、おやつパーティーをしたい」という答えが返ってきました。 家の中で唯一散らかっている場所でモノを押し込んでいた納戸/ビフォー 「娘の答えを聞いて、そういう時間をしっかり取れるようにしようと、片づけのゴールを決めました。それまでは、家に帰ると立ちっぱなしで家事をして、娘と話す時間がなかったので」  リビングの家具の配置換えもして、片づけが完了しました。今では、夜に娘とゆっくり過ごす時間を作れています。  納戸も含めて、家中のモノの定位置を決めたので、散らかってもすぐに片づけられます。イライラすることもありません。娘も定期的に学校のファイルやロッカーを片づけるようになり、「整理すると気分がいい!」と言うほどになりました。 「片づけって、自分で考えて、自分で行動して、自分で答えを出すんですね。くり返しているうちに自分の気持ちも整理できたし、達成感もあって自信を持てるようになりました。このプロジェクトに参加して、自分の未熟な部分をたくさん知ることができて、成長した45日間でした」 棚の中を整理して床置きもなくなりスッキリ/アフター   「本当は娘の受験の前にこのプロジェクトを知りたかった!」と笑いながら話してくれる彼女が、怒鳴っていた自分に戻ることはもうないでしょう。  片づけることで得られる結果は、家がきれいになることだけではないのです。彼女は家の散らかり具合と自分の感情の起伏がつながっていることを自覚できたので、片づけという手段を選べました。でも、そのような自覚がなく、家もきれいなのに、なぜか毎日イライラしている人はたくさんいると思います。  自分や家族と向き合う手段の一つとして「片づけ」があるということを、もっと多くの方に知っていただきたいです。 ●西崎彩智(にしざき・さち)/1967年生まれ。お片づけ習慣化コンサルタント、Homeport 代表取締役。片づけ・自分の人生・家族間コミュニケーションを軸に、ママたちが自分らしくご機嫌な毎日を送るための「家庭力アッププロジェクト?」や、子どもたちが片づけを通して”生きる力”を養える「親子deお片づけ」を主宰。NHKカルチャー講師。「片づけを教育に」と学校、塾等で講演・授業を展開中。テレビ、ラジオ出演ほか、メディア掲載多数。
AERAオンライン限定片付け
AERA 2023/10/11 07:00
両親と同じ「発想の自由さ」で先物取引へ転戦 丸紅・國分文也会長
両親と同じ「発想の自由さ」で先物取引へ転戦 丸紅・國分文也会長
先物取引で得た教訓は「バックアップ」。米国の野球では失策に備え他の選手が背後を固めること。万が一に備える手を、常に打っておく心得だ(撮影/狩野喜彦)    日本を代表する企業や組織のトップで活躍する人たちが歩んできた道のり、ビジネスパーソンとしての「源流」を探ります。AERA2023年4月10日号より。 *  *  *  1983年暮れ、米ニューヨークのマンハッタンに拠点を置く丸紅米国へ赴任し、米国市場で原油など石油類の取引を担当する。入社して9年目の31歳。商社の世界で「トレーダー」と呼ぶ花形の仕事に就いた。  当初は、日本の石油会社のための現物取引だけだった。どこの商社も、同様だ。だが、商品取引所には、新しいうねりが起きていた。先物取引の急増だ。石油業界の意図に支配されていた現物市場が、ウォール街の金融先物業者の思惑に引きずられ始めた。「石油類も金融商品のようになっていく」。わくわくしながら、先物の準備に入る。  だが、丸紅では、リスクの大きい石油類の先物は「ご法度」になっていた。ゴムやトウモロコシなどでは、需給動向をにらんで先物も扱っていたが、規模は大きくない。当時の丸紅米国の幹部らは相場経験があまりなく、リスクもわかっていない。  そういう状況なら、多くのビジネスパーソンは、諦めて別の標的を探すのだろう。でも、両親から受け継いだ「発想の自由さ」が、ぐいっ、と前へ踏み出させた。東京の本社へ「これからは先物が主流。やらせてほしい」と繰り返し、認めさせる。  価格、購入量、時期などすべて客の指示に沿った「固定的取引」から、世界の原油事情から市場の駆け引きまでを読んで、変動リスクを取って利益を生み出す「自在な取引」へ。トレーダーの腕次第の世界が、幕を開ける。中東情勢が平穏だった時期で、想定外の事態も起きず、最初の1年で大きく稼いだ。  ニューヨーク4年目の87年6月、ペンシルベニア州フィラデルフィアの郊外に先物専門の会社を設立し、出向した。従業員は24人で、トレーダーは他に3人。起業家になったつもりで臨んだから次第に前面へ出て、年間に約700万ドル(約9億円)の純利益を稼いでみせた。 湾岸戦争の勃発で相場が急落後に「凪」腕ふるえず清算へ  実は「この会社がうまくいったら、東京の本社へ帰らなくていい」とまで考えていた。常にわくわくすることをやっていたい。それには、普通なら昇格への「既定路線」とする道も捨てる。この「発想の自由さ」が、國分文也さんがビジネスパーソンとしての『源流』として挙げる両親から得た遺伝子。キーワードは「わくわく感」だ。  フィラデルフィアに約5年半いた間に、嵐がやってくる。91年1月、米国を中心とする多国籍軍がイラクを空爆し、湾岸戦争が始まった。前年8月にイラク軍が親米のクウェートへ侵攻し、国連の撤退勧告に応じなかったためだ。世界最大の産油地帯での砲火に、原油の供給減が連想され、即座に価格が急騰した。米国などのイラク攻撃は想定内で、値上がりを見込んだ先物の買い残を持ち、価格が上昇を続ければ巨利が出る。  ところが、開戦から数時間後に「イラクが抗戦できずに制圧される」との予測が流れ、相場は一気に急落した。1バレル=42ドル前後から20ドル未満へ。含み損が、100万ドル単位で膨らんでいく。ちょっと慌てたが、値動きがあるときは売買も容易で、何とか処理できた。  厳しかったのは、その後だ。湾岸戦争は2月末に終わり、相場は動きがない「べた凪」が続く。相場が動いてさえくれれば損を取り戻す機会もくるが、凪では出番がない。やがて、本社から事業の打ち切りと会社の売却を通告される。トレーダーの世界は結果がすべて。従業員に解雇を通告、会社は丸紅の子会社が買い取って清算へ向かう。  この間、よく眠れない夜が続く。自ら立ち上げた事業の打ち切りが無念だっただけでなく、解雇者の先行きが気になる。再就職先探しは、一緒に回った。帰国辞令は9月20日付だが、12月初めまで残る。帰国して数カ月後、最後の一人の仕事がみつかった、と知らせが届く。ほっとするとともに、重い教訓が残った。「いい結果ばかりを想定し、もしものときの備えがなかった。これでは、いけない」  この体験が「発想の自由さ」を支える強い軸となった。 2度の「漂流」を越えて(写真:本人提供)   両親は外出するか知らない人が集まり失った「居場所」  1952年10月、東京都世田谷区代田で生まれる。両親は祖父母宅に同居していたが、同区内に家を買い、転居した。父は絵画や詩に打ち込み、けっこう巧いと思ったが、なかなか高い評価を得られなかったようだ。母は元声楽家で、国立大学の付属中学校で音楽の教師をする傍ら、音楽大学を志望する高校生らに楽理を教えていた。  自宅の壁に父の本が並び、好きな本を読めた。家の中に、いつも音楽が流れていた。両親とも外出が多く、団らんのときは少なかったが、在宅しているときは知らない人が次々にきて、詩や音楽を自由に論議する。違和感はなかったが、居場所がなくなることもあり、そんなときは電車で3駅の祖父母宅へ向かった。近くの羽根木公園で遊んだことを、よく覚えている。  祖父は戦時中に軍関係の商売をやり、最後は日中貿易の会社をつくった。海外経験が豊富で朝食はオートミールと、家の中は外国の匂いがした。  成蹊小学校から母の勧めもあって、私立麻布学園の麻布中学校へ進む。麻布は自由な校風で知られ、校則もほとんどない。詰め襟の標準服はあるが、学園紛争期に撤廃された。クラブ活動の運営も、生徒が自主的にやっている。麻布へも学園紛争の波が寄せ、授業が止まったりした。そんなときは街へ出て、大人の世界に触れて「発想の自由さ」に磨きがかかる。わくわく感が、『源流』の水量を溜めていく時期だった。 早朝に出社して海外の情報をつかみいち早く注文を出す  75年春に慶大経済学部を卒業して丸紅へ入社。エネルギー本部石油ガス開発室に配属され、1年近く石油開発関連の仕事をした後、石油第一部製品課へ異動する。石油類のトレード担当の部署だ。だが、先輩が書いた原稿をテレックスで打ち込むばかりの日々。米国へいくまで後輩が配属されてこなかったので、わくわく感は退いていく。  そんななか、社歴や年齢に関係なく仕事を任せてくれる先輩が異動してきて、やっとトレードをやらせてもらう。毎朝8時前に出社し、海外拠点からのテレックスを調べ、いち早く情報をつかんで注文を出す。年長者を差し置いた態度に反発も受けたが、実績が認められて米国勤務が決まる。生意気かどうかよりも結果、性に合った世界だ。  フィラデルフィアでの仕事は米国での先物取引だったから、日本との時差に悩まされない。家族で、楽しい思い出もつくった。でも、約2千日で終わる。92年12月3日、会社の灯りを消し、扉にかけた鍵の感触は、ずっと手の中に残っている。  2013年4月に社長になったとき、社員たちにこんな言葉を贈った。「企業の上層部は、時流をつかんだ新規のビジネス提案に否定的になりがちだ。でも、過去の体験にとらわれていては、次の成長はない。上層部から否定されても立ち向かう気概を社員に持ってほしい」  30代になってまもない若手の「先物が主流になる」との着想を受け入れた企業風土。それを失わないように、と飛ばした檄だ。「発想の自由さ」からの流れは、いまも止まっていない。(ジャーナリスト・街風隆雄) ※AERA 2023年10月9日号
トップの源流
AERA 2023/10/07 19:00
実在する「データ大使館」に驚く。エストニアという国は未来の日本かもしれない【西加奈子さん×宮内悠介さん特別対談】
実在する「データ大使館」に驚く。エストニアという国は未来の日本かもしれない【西加奈子さん×宮内悠介さん特別対談】
西加奈子さん(左)と宮内悠介さん(撮影/朝日新聞出版写真映像部・高野楓菜)  作家・宮内悠介さん最新刊『ラウリ・クースクを探して』は、発売以来、新聞・雑誌の書評欄での紹介が相次ぎ、「ダ・ヴィンチ(2023年11月号)」(10月6日発売)では「今月の絶対はずさない!プラチナ本」に選出されるなど大きな話題となっています。「小説トリッパー」2023年秋季号に掲載された西加奈子さんとの対談では、「書くこと」とを巡り、様々な話題が展開しました。その充実の内容を特別に公開します。 *  *  * 小説の当事者性 西:編集者の方から「バルト三国のエストニアに生まれて、ソ連崩壊で運命を変えられたラウリ・クースクという男性の一代記です」と伺っていたので、今度の宮内さんの本、どれだけ分厚くなるんだろうと思っていたんです。プルーフが送られてきたら、とてもコンパクトだったので驚きました。240ページ弱ですもんね。でも、その中にぎっしりとラウリの人生やこの国の歴史が詰まっている。中央アジアが舞台だった『あとは野となれ大和撫子』は何ページくらいでした? 宮内:原稿用紙換算で言うと、600枚です。今回は300枚ですね。 西:拝読していて、ローベルト・ゼーターラーの『ある一生』という小説を思い出しました。アルプスの麓で暮らした男性の一代記なんですが、150ページぐらいしかないんですよね。彼がいかにして彼一人だけでは生きられなかったか、つまり時代という大きなものに翻弄されてきたか、という話で『ラウリ・クースクを探して』と、どこか共鳴している気がしました。ただ、ローベルト・ゼーターラーはオーストリア出身でオーストリアのアルプスの麓を舞台にしています。日本人である宮内さんは、どうしてエストニアが舞台の話を書こうと思われたんでしょうか。 宮内:旧ソ連を舞台にすることを最初に決めたんです。その理由は、作品に出てくるMSXというコンピュータが関係しています。東西冷戦時代、ソビエトはCOCOM(対共産圏輸出統制委員会)という輸出規制を受けていて、性能のいいコンピュータは輸入できなかったんです。そこでソビエトが取った戦略が、おもちゃみたいなコンピュータを輸入して教育などに使うことでした。その中に、日本のMSXというコンピュータもラインナップされていたんです。 西:小説の中に出てきたやつですね。ラウリは少年時代、MSXでゲームをプログラムすることに熱中していた。 宮内:私も小さい頃、MSXで遊んでいたんですよ。鉄のカーテンの向こうにも自分と同じようにMSXで遊んでいた子どもたちがいたんだ、という発見が着想の源になりました。そう言えばコンピュータについて小説で正面から扱ったことがあまりなかったなと思い、この作品でやってみたいな、と。旧ソ連の国家の中で、エストニアはIT大国として有名だったので、おのずと候補になっていきました。 西:当事者性の問題って最近、よく言われますよね。「日本人の作家が、エストニア人の話を書いていいのか?」というような。もちろん私は書いていいと思うし、大切なのは「どう書くか」ですよね。逆に「当事者だから書いていい」というのも違うんじゃないか。例えば私の場合であれば、短編で乳がん患者のことを書きましたが、自分が乳がんの当事者だからといって全ての同じ属性の人のことを語る権利を得たわけではない。同じ当事者であっても一人一人感じることは違うということを忘れてはいけないし、そもそも作家って自分が主導権を握るのではなくて、物語が要請してくるものを書くべきなのではないかと思うんです。と言いつつ今、そういうことを宮内さんに聞こうとしちゃってるんですけど(笑)。 宮内:日本人である私がエストニア人を書くことについては、細心の注意を払わなければいけないとは思っていました。ただ、先ほど西さんに言及していただいた『あとは野となれ大和撫子』を書いた時に、主人公を日系の女性にしたんですね。その選択が、日本人である自分が海外を舞台に書くことに対する言い訳っぽいな、と後になって感じたんです。それもあって今回は、日本人ではなくエストニア人の男性を主人公にしたんです。 西:言い訳っぽい、とおっしゃる宮内さんはすごく公正な方だなって思います。 宮内:今回ラッキーだったのは、作中のラウリと同い年ぐらいのエストニア人の方に発表前の原稿を読んでもらうことができたんですよね。その方にいろいろとツッコミを入れていただけたおかげで、リアリティを底上げすることができました。 西:例えば今ロシアがウクライナを侵攻していますが、国のせいで運命を変えられたという人は、世界中にたくさんいる。ラウリのような人は一人じゃないんだ、たくさんいるんだ、と改めて感じることができました。 宮内:あまり時勢とはリンクさせたくないんですけれども、今回は避けられないところがありました。エストニアはロシアの隣国ですから、次は自分たちの番ではないかと恐れている。その現実は、無視できるものではないとは思います。 日本人の未来に繋がるかもしれないエストニア 西:エストニアには行かれたことがあるんですか。 宮内:ないんです。本当は取材に行きたかったんですけれども、コロナ禍で海外旅行が制限されている時期だったので、断念しました。行ったことのない国を書くのは、たぶん二作目の南アフリカ以来ですね(『ヨハネスブルグの天使たち』)。 西:私は一度だけあるんです。フィンランドへ行った時、ヘルシンキからタリン(エストニアの首都)行きの船が出ていて、確か二時間ぐらいで着くんですよね。ちょっと行ってすぐ帰ってきただけなんですけど、街並みがとても綺麗だったし、日本語英語がすごく通じた記憶があります。 宮内:ジャパニーズ・イングリッシュって意外と世界各地で通じるんですよね。 西:当時は旧ソ連圏だとすら思っていなかったかも。宮内さんの小説を読んで、こんな歴史や文化があったんだと初めて知ることばかりで驚きました。例えば、Skypeってエストニア発祥なんですよね。それも知らなかった。あの手のものは、だいたいカリフォルニアあたりでできてると思ってました。 宮内:エストニアって不思議な国なんです。私と同い年の人間が革命を経験して、そこから急速な自由化と経済的な混乱を経て、今やIT大国となっている。一つの国が短い時間の中で、ものすごい変遷を経験していて。 西:結構前から、電子投票も実現しているんですよね。エストニア版のマイナンバーカードについての記述を読んで、これなら必要かも、と思ったりしました。読む前までは、日本のマイナンバーカードについて「何や、これ!」とか、けんけん言ってたんですけど(笑)。 宮内:エストニアは島がとても多い国なんです。突然の自由化を経て、2000くらいある島々に行政サービスを届けるためには、コンピュータを利用するしかなかったんですよね。そうする以外に仕方がなかった、という面があったようです。あと、とても小さい国なんですよ。島々を全部合わせても面積は日本でいう九州ぐらいで、人口も少ないから社会実験がしやすい。だから他国より一歩先んじて、eIDカードというマイナンバーカード的なものも普及できたみたいです。 宮内悠介著『ラウリ・クースクを探して』(朝日新聞出版) ※Amazonで本の詳細を見る 西:なるほど、切実さがあったんですね。小説の中のある登場人物が、「領土を失っても、国と国民のデータさえあれば、いつでもどこからでも国は再興できる」と言いますよね。それはどこまで宮内さんの想像かはわからないけれども、例えばユダヤ人は、迫害されてきた歴史の中で、簡単に持ち運べるものや目に見えないもの、例えば権利とか、そういうものを財産にしてきたという話を聞きました。「国と国民のデータさえあれば、いつでもどこからでも国は再興できる」という発想も、この国の歴史的背景から出てきたのかもしれないとか、いろいろ考えました。 宮内:「データ大使館」は、実在しているんです。 西:そうなんですか!! 宮内:国の領土は不確かなものだし、すぐ隣にはロシアもいる。ですから、国と国民のデータを同盟国に置いておいて、いつ国が侵略されても国そのものは滅びず、データとして存在し続けるみたいな考えが本当にあるようなんです。私も驚きました。 西:「じゃあ、国って何だろう?」ってなりますよね。領土は必要なのか、誰が国民として見なされるのか、とか。国ごと亡命するってなると、一人一人の体はどうなるんだろう。 宮内:いつの日か再興したときに、復旧が簡単になるということでしょうかね。亡くなってしまった人は残念ですが、生き延びた人は、データ大使館のデータを使って、従来の生活を取り戻すことができる。 西:すごい考え方ですね! 宮内:今回コンピュータを題材として扱うにあたって、「人類にとってコンピュータとは何だったんだろう?」と考えてみたんです。そういえば、今まで考えたことがなかったな、と。もちろん無数に答えがあるんでしょうけれども、この「データ大使館」の考え方は一つの有力な答えになり得るものだと思いました。電子投票といいマイナンバーカードといい、この国の現在は、もしかしたら日本人の未来にも繋がっているかもしれません。 私小説的な小説を書くとき 宮内:『ラウリ・クースクを探して』は、私の作品の中ではかなり異質なものになってると思います。これまでの作品は、先にテーマとかアイデアがあることが多かったんです。デビュー作の『盤上の夜』だったら盤上ゲームを扱おう、『〜大和撫子』だったら「国家をやろうぜ!」みたいなプロジェクトを扱おう、と。今回は「英雄ではない、ただの一人の人間を書きたい」という思いが先にありました。その人の半生を描き出す、伝記的なものを書いてみたかった。そもそも、一人の人間を掘り下げて書いていくような話自体、今までほとんど書いたことがなかったんです。 西:ラウリって、私たちと同世代の設定ですよね。 宮内:1977年生まれですので、私自身より2歳上です。 西:先ほど話した当事者性とも関わってきてしまうのだけど、同世代の主人公を書くとき、主人公が思っていることをやっぱり信頼できるって感覚になりませんか? 例えば、阪神大震災を30歳で経験した人と5歳で経験した人と17歳で経験した人とでは、感じ方が絶対違うじゃないですか。 宮内:全く違いますよね。 西:同世代であれば、自分は17歳で経験したってことを、信頼して主人公に託せる。でも、それを私はエストニアを舞台にやろうとは思わないから、宮内さんの選択はすごく興味深い。ラウリが幼い頃に感じたことは、宮内さんが感じたことと共鳴するところはあるんですか? 宮内:ラウリの幼少期の思い出は、僕が子供の頃やってきたこととほぼ一緒ですね。子供の頃からコンピュータが好きで、プログラミングに熱中していたんです。 西:そうなんですね! エストニアで育った少年の話ではあるけれど、私小説でもある。それができるのは、やはり物語という形を借りるからですね。 宮内:さきほどはテーマやアイデアが先にあるかどうかで、これまでの作品と今回の作品との違いに触れたんですが、プロットの立て方の違いも大きいんです。例えば『~大和撫子』は完全に構築的な作品だったので、すごく細かなプロットを立てていました。でも、今回はかなりゆるやかなプロットで、それも自分にとっては珍しいのです。それはゼロから曲を作るような話ではなくて、私小説的な面があったからなんだと思います。 西:じゃあ、もともとメロディはあったというか、自分の中にあったものを掘り起こしてゆく感じだったんですね。 宮内:私はわりと記憶で書く部分も多いんですが、特に今回はそうでした。ぴったり真ん中でソ連を崩壊させようとか、そういうことは決めていましたが、流れに任せて書いてみた部分も大きいです。 西:ラウリはプログラミングを通じて、イヴァンという同い年の男の子と出会うじゃないですか。宮内さん自身、イヴァンみたいな人とも出会っていた? 宮内:そうですね。コンピュータのおかげで、通常では出会えなかったような、仲のいい友達ができました。 西:二人の関係、とても素敵でした。たぶんこの小説を読んだ人はみな、自分が人生の中で出会った、イヴァンみたいな存在を思い出す気がします。 宮内:今回の小説のタイプは、西さんの小説で言うと『サラバ!』に該当すると思うんですよ。幼少期に外国にいて日本へ帰ってきた人が、もしかしたら必ず一度は書くような構造の話になっているのかなと思いました。ラウリ・クースクはずっとエストニアにいるんですけれども、実際は国を移動しているようなものですから。 西:私は『サラバ!』で主人公を同い年の男性にして、自分が経験したことをそれこそ彼に託すように書いていったんですが、男性にした理由は「僕はこの世界に、左足から登場した。」という最初の一行を思い付いたからなんですよね。ただ、今考えれば自分との距離を離しておいた方が、客観性が出てくるんじゃないかなって予感があったのかもしれません。 宮内:私もその感覚がありました。自分の出身地であるニューヨークを舞台に、日本人男性の話を書いたらこうはならなかった。あまりにも自分そのものだと、書いていて息苦しいところがあるのかもしれません。 コンピュータがもたらした変化 西:ラウリはタフな少年時代を送っていく中で、最初の頃は逃げ場がない状態ですよね。でも、コンピュータと出会うことで、鬱屈した狭い世界から広い世界に飛び出していくことができた。どれだけ狭い場所にいても世界中の人と簡単に繋がれるって、コンピュータがもたらした、最も素晴らしいことの一つなんじゃないのかなと、私なんかは思うんです。 宮内:本来はそうですよね。息苦しくなってしまった面もありますが……。 西:世界を広げてくれるツールのはずなのに、最近は世界を狭くするために使うことがあるのがもったいないですよね。「SNSで閉塞感を感じる」って、どういうことやねんって思います。ものすごくアンビバレントな存在だと思うんですよ。例えば最近、家のWi-Fiが調子悪くて「Wi-Fiおっそいわー」ってイライラしちゃったんだけど、こんなイライラ、10年前はなかったじゃないですか。10年前まではなかったイライラの感情を、コンピュータのせいで経験しちゃっている。それと同時に、バンクーバーに住んでいた時に、コロナで簡単に帰れなくなったんですが、コンピュータのおかげで日本の友達や親とずっと繋がっていられたんです。「せい」と「おかげ」が共存する、こんな両極端なツールってなかなか他にないと思うんですよ。いや、そういうものって今までの歴史にももちろんあったはずだけど、こんなに急速に変わるものってなかったんじゃないか。変化のスピードが、コンピュータとかインターネット界隈の特徴だなと感じます。 宮内:私も最近、ChatGPTの話に全然ついていけなくて、苛立たしいです。 西:宮内さんでも!?(笑) 宮内:「昨日、これができるようになりました」と、新たにできるようになることが毎日毎日多すぎて、全然ついていけないんですよ。情報を追いたくても追いきれない。 西:随分前からそうだったのかもしれないですけど、それって人間の脳や身体では処理できないようなことをしてるってことじゃないですか。すごい時代になったもんだなあって思うのは、友達の友達がChatGPTにハマっちゃったんですって。私は全然詳しくないんですけど、コンピュータがすぐ返事をくれるんですよね? その人はずっと悩み事を友達にスマホで伝えてたんだけど、友達は人間だから永遠には付き合えないじゃない? 途中で寝たり、仕事しているとすぐには返事が来なくなるけど、ChatGPTは永遠に返事をくれるから、めちゃくちゃハマっちゃったらしいんです。 宮内:身体がないですからね。疲れないですから。 西:心配して友達がその人に話を聞いたら、「もう友達になった。私に対してため口になったんだよ」と。それを聞いた友達が、「ChatGPTはいわゆる壁打ちだから、自分がそう仕向けてるんだよ。ため口にするタイミングを自分が作って、自分が全部そうさせてるだけなんだ……」って懇切丁寧に説明したんですって。そうしていくうちに、その人のアディクションは解けていったらしいんですけど。 宮内:本当にあるんですね、ChatGPTアディクション。 西:海外で、それで自殺した人がいるってニュースも読みました。 宮内:あっ。私も読みました、そのニュース。つらい話だったから、読んだはしから忘れちゃったのですが。 「書く」という行為がもたらすもの 西:ラウリが中学生の時に、お前は旧ソ連派につくかエストニア独立派につくのか、選ばされる場面がありますよね。中学生という、自分がまだ何者か確立していない時に、そんなに大きなものに目を向けて、選ばなければならないという状況自体があまりに酷ですよね。しかも、若い頃にした決断がのちのちの人生を決定してしまう。仕方のないことかもしれないけれど、人間って変わるのに、残酷な現実だなって感じました。ただ、宮内さんの小説はそういった現実も書きつつ、世界中にいる「ラウリ」の生を祝福する気配に満ちているじゃないですか。決して大ハッピーエンドとかではないけれども。そこが素晴らしいなと思いました。 宮内:バッドエンドにしようと思えばいくらでもできますけれども。ハッピーにするほうが、お話作りをするうえで難しいと感じていて、難しいと思うからこそ、そちらのほうにチャレンジしたいと考えています。だから、私は常になんとか明るくしようとするんですけれども、ちょいちょい失敗して暗くなる(苦笑)。今回は、作中人物に導かれてこうなった面があります。 西:また世代の話になりますが、私たちの若い頃は厭世的で、人間の暗い部分を吐露したほうが「本当のこと」を言ってるって思われがちだったじゃないですか。今は時代が悪すぎて、逆に明るいことを言おう、ポジティブなことを言おうっていうムーブメントがある気がしますが、特に私たちが20代の頃とか、露悪的なことを言うのがかっこいいみたいな風潮、なかったですか? 宮内:ありましたね。いろいろな悪しきテンプレがまかり通っていました。 西加奈子著『くもをさがす』(河出書房新社) ※Amazonで本の詳細を見る 西:書き続ける人はそうかもしれないですよね。それで癒えてしまったら、解決できてしまったら、書き続ける必要はないのかもしれないなって思います。   宮内:『くもをさがす』の場合は、いかがでしたか? 書いている時に西さんはかなりタフな状況にあったわけですけれども……。 西:あの本は、最後に「あなたに、これを読んでほしい」という一文を書いたんですが、読者の方が「『あなた』って、西さんのことじゃないですか?」と言ってくださって、本当にそうだなと思いました。違う世界線の「自分」に向けて書いたんだと思うんですよね。ただまぁ、本当にゲスいことを言うと、この経験を書いてカネにしたいって気持ちもありましたけどね。 一同:(笑) 宮内:ほんの少しだけ、元を取れましたか。 西:元を取らせていただく以上でした! 部数にももちろんびっくりしていますけど、読者の方からいっぱい手紙をいただけるのが本当に嬉しいんですよ。日々、大切なことを教えてもらっています。 宮内:私は、腎臓の数値が悪くてだいぶ落ち込んでたんですけれども、『くもをさがす』を読んで、こんなことで落ち込んでいられないなと思いました。 西:いやいや、落ち込んでええよ! 一同:(笑) 西:腎臓、大切やから。 大切なことだからこそクリシェになる 西:カナダで乳がんになり、手術した経験から決定的に理解することになったのは、自分の体は一つしかない、この体で自分の人生を生きていくしかないということでした。だからこそ、病状以外のところで自分に何が起こってるのかを知りたかったんですよ。例えば、誰かが怖いという言葉を発明してくれたから、自分の感情にその言葉を当てて使うんだけど、本当のところは怖いだけじゃないかもしれない。もしかしたらちょっと甘やかな気持ちもあるかもしれない。こんな経験なかなかできないから、探りたい、書きたい、残したいって気持ちがありました。そうすることで私の場合、わかりやすく救われました。さっき宮内さんが、自分にとって書くことはセラピーで、人生の経験や記憶を整理することだとおっしゃいましたが、私も全く同じことをしていたと思います。 宮内:……自分で言っといて何ですけど、書くことがセラピーって、よくあるクリシェすぎて恥ずかしくなってきました(笑)。 西:えっ!?(笑) でも、クリシェって、クリシェになり得るぐらい大切ってことじゃないですか。「人生はたった一回しかないんだ」とか、人生で今まで何回聞いたかなって思うけど、何回聞いても大切なんだと思うんですよね。「暗闇の中ではわずかな光も強烈に感じる」とか、何回もリマインドしなければいけないぐらい大切なことなんだと思うんです。 宮内:いや、おっしゃる通りです。私はもう少しクリシェと向き合わなければいけない。セラピーはクリシェだから恥ずかしいとか、そういうしょうもない自意識を脱しないとダメですね。 西:わかります。クリシェには強さがあるけど、強いがゆえのゴシック体の感じの押しつけがましさもあるじゃないですか。若い頃に、年上の人から「人生は一度きりだぞ」と言われても、うるせえって思ってた気がするんですよ。例えば、宮内さんご自身が仰ったからいいけど、誰かに「小説を書くことは、あなたにとってのセラピーですね」って言われたら腹立ちません? 宮内:腹立ちます(笑)。 西:例えば偶然見かけたポスターか何かで「人生は出会いがすべてである」ってゴシック体で書かれてたら、やかましいわ、ほんまその通りやけどおまえに言われたないねんって気持ちはあるじゃないですか。でも、そのベタを、どういうふうに表現するか。小説という形態は、ゴシックを明朝にするぐらいのことは、できると思うんですよね。どういう文脈でクリシェに巡り合ったかが大切だと思うので。 宮内:小説にはちゃんと、全てに文脈がありますからね。 西:そうそう。だから、対談とかインタビューって難しいんですよね。喋ったことが文脈なしにぽんっとタイトルにされたり、抜き出しでゴシックにされちゃうから。この対談のタイトルが「書くことは私にとってのセラピー」になっていたら地獄じゃないですか。 宮内:(笑)。 西:どういう文脈で出たかがわからないと、クリシェって、ものすごく危険ですよね。誰かから与えられたものではなく、自分から本当に理解して獲得していったものじゃないと、クリシェってなかなかうまく扱えないものなのかもしれない。がんの告知をされたとき、「まさか私が」って思ったんです。くっそベタやな自分、とびっくりしました(笑)。でも、それが、本当に私が思ったことだから。だからこそその辺り、私はこれから書く小説で、今まで以上に意識的に向き合おうと思っているんです。 宮内:私もこれから、そういったものを再発見していきたいですね。自分にとっては自明すぎて目に付かなかったものって、たくさんあるんだと思うんです。それは得てして、ベタなんですよね。その意味では、私の小説にしては珍しくエモさがあると思っていた今回の作品は、そこへ半歩踏み込んだものだったのかもしれません。 2023年7月10日 東京・築地にて (聞き手・構成/吉田大助)
dot. 2023/10/06 17:00
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平尾類 平尾類
「中日ドラゴンズ応援団」の勤め人団長33歳が明かす驚きの日常 「実はオフのほうが忙しいんです」
団長を務める天野浩智さん(写真/中日ドラゴンズ応援団提供)    プロ野球の試合をスタンドから観戦した経験があるファンはご存じだろう。外野席でトランペットを吹いたり、太鼓をたたいたりして応援をリードしている私設応援団が各球団にいる。特別応援許可団体の「中日ドラゴンズ応援団」で団長を務める天野浩智さん(33)は鉄道業界に勤務している。私設応援団の内情を聞かせてもらうと、驚きの日常を語ってくれた。 ――天野さんが中日の私設応援団員になった経緯を教えてください。  私は東京で生まれ育ちましたが、1990年代後半の星野仙一監督時代からドラゴンズファンになって。熱い球団で選手も応援も大好きになりました。関東はもちろん本拠地の名古屋や全国の外野席に応援に通っていたのですが、応援団の方に「入りませんか?」と誘っていただき、2017年に入団しました。応援団歴は7年目になります。 新幹線はほとんど利用しないという(写真/中日ドラゴンズ応援団提供) 【あわせて読みたい】 巨人、ヤクルト、中日がドラフトで欲しいのは? 佐々木麟太郎は指名すべきか、2位以下の戦略は ――お仕事もしながら、応援団員として活動するのは大変だと思いますが。  関東在住なので、名古屋、大阪で試合が開催される場合は長距離バスや飛行機を利用して移動しています。お金を浮かせたい事情もあるので、新幹線はほとんど利用しないです。翌日がデーゲームの場合は仕事を終えて、自宅に戻らず深夜の夜行バスや夜行列車の中で寝て移動します。仕事の都合で、試合後にまたすぐにバスで関東に戻る時も珍しくありません。現地に滞在している時間より、バスに乗っている時間のほうが長いこともあります。また、広島、札幌、福岡で試合が開催される時は、成田空港に発着している国内LCC(格安航空会社)を利用しています。他の団員も私と同じような移動手段が多いです。「青春18きっぷ」を利用して東京から福岡に移動した団員もいます。 【あわせて読みたい】 巨人、ヤクルト、中日がドラフトで欲しいのは? 佐々木麟太郎は指名すべきか、2位以下の戦略は   オフシーズンのほうが忙しいという(写真/中日ドラゴンズ応援団提供)     ――ペナントレースは143試合あります。移動費だけで相当な費用がかかりますね。   そうですね。応援団員は全国に現在57人いて、スケジュールの都合がつく団員が球場へ応援に駆けつけるのですが、移動費だけでなく球場のチケット代、滞在先の食事代なども自己負担なので1シーズンで100万円以上費やす団員もいます。 応援歌が完成するまでに4、5カ月はかかる(写真/中日ドラゴンズ応援団提供)   ――シーズンを終えると、少し生活が落ち着く感じでしょうか。  実はオフシーズンのほうが忙しいんです。団員が集まって応援のやり方を話し合うミーティングを定期的に開いているほか、新規の応援団員の募集、面接などがあり、現在も関西、広島方面は団員が少ないので募集に力を入れています。また、選手の新しい応援歌も時間をかけて作ります。今年は細川成也選手がブレークしたので、新規の個人応援歌に期待しているファンの方々が多いと思います。応援歌は、吹奏楽部出身など音楽経験のある団員も所属しており、団員みんなでメロディーを作ります。いくつかの案を出してもらった後、団員たちで話し合ってその選手に最も合うメロディーを選び、歌詞を考えます。どの言葉、どの表現が選手の個性を表わせるか、ファンの熱い気持ちを乗せられるか。何度も練り直すので応援歌が完成するまでに4、5カ月はかかります。 ファンの方たちと応援する喜びはかけがえのない時間(写真/中日ドラゴンズ応援団提供)   ――ファンの人気が高い応援歌を教えてください。  チャンステーマの「チャンス決めてくれ」は応援のボルテージが一気に上がりますね。スタンドの空気がガラッと変わる。ドラゴンズの応援歌の中では飛び抜けた曲だと思います。同じくチャンステーマの「サウスポー」も盛り上がりが凄いです。個人の応援歌だと、石川昂弥選手の曲が人気です。ビシエド選手のチャンスバージョンも好評ですね。岡林勇希選手、龍空選手の歌詞、メロディーも気に入っていただけるファンが多いみたいです。今年開催されたWBCでは、ドラゴンズから野手が1人も侍ジャパンに選出されなかったので悔しい思いがありました。次回のWBCではドラゴンズから一人でも多くの選手が選ばれて、応援歌を流したいです。 ――トランペットの演奏はどのようにして学ぶのでしょうか。  トランペット教室に通う団員がいますが、私は独学でした。なかなかうまく吹けなかった時は地元の多摩湖に行って練習していました。 ――ハードな生活を送りながら、中日の応援団員として活動する原動力はなんでしょうか。  ファンの方たちとドラゴンズを応援する喜びはかけがえのない時間です。選手たちが勝利に向かって精いっぱいプレーし、私たち団員はリード、トランペット、ドラム、旗、ボードとそれぞれの役割で応援をサポートする。ファンの方々と共に応援して、選手がその期待に応えてくれた達成感は日常生活では味わえません。「今日の応援よかったね」と声をかけていただいた時はうれしかったですし、猛暑の中、飲料水を提供していただく方もいらっしゃいました。ドラゴンズファンは温かい方が多いと常に感じていますし、感謝の気持ちでいっぱいです。 刺激に満ちた日々を過ごす(写真/中日ドラゴンズ応援団提供)   ――天野さんにとって、中日はどのような存在ですか。  応援団になる前の話ですが、スタンドで応援に通い詰めていた時にドラゴンズファンという共通点で妻と出会いました。応援団員になってからも、熱い志を持った大切な仲間に出会うことができました。団員の年齢層は高校生から40代後半までと幅広く、職業も様々ですが、ドラゴンズを応援する熱い気持ちで結ばれています。応援団の活動を通じ、試合だけでなくオフシーズンの練習会や応援に関する熱心なディスカッションなど、刺激に満ちた日々を過ごすことができています。ドラゴンズは大切な場所であり、かけがえのない存在です。 ――2011年の優勝以来、優勝から遠ざかり、最近10年間でAクラスが1度のみと低迷期が続いています。  悔しいシーズンが続いていますが、岡林選手、石川選手、高橋宏斗投手と若い選手が次々に台頭してドラゴンズの未来は明るいと信じています。これからも大好きなドラゴンズのために団結して優勝、日本一を達成できるよう、全力で応援し続けます。 (平尾類)
中日私設応援団最下位
dot. 2023/10/05 06:00
「腹が……減った」チョコザップに1カ月通った運動不足の50代記者に起きた変化
渡辺豪 渡辺豪
「腹が……減った」チョコザップに1カ月通った運動不足の50代記者に起きた変化
24時間営業でスタッフがいないチョコザップの店舗。利用者が次々に入れ替わり、それぞれのトレーニングメニューに励む(撮影/伊ケ崎忍)    ようやく暑さも一段落して、日頃の運動不足解消に、さあ体でも動かそうか、とお考えの方も多いだろう。でも何を、どうやって? なかなか始まらない、始められない方々に、記者の「コンビニジム」体験記を紹介する。AERA 2023年10月9日号より。 *  *  *  長年の不摂生で内臓の調子が春以降ずっと悪い。おまけに猛暑で食欲も減衰。この夏は日課のウォーキングも途切れがちで、ほぼ室内にこもりきりだった。さすがにこれではまずい。少しでも体力を取り戻すべく、ジム通いを決心した。とはいえ、すぐに飽きる可能性もある。高価な入会金や会費を払うのは論外だ。そもそも猛暑の日中にジムに出かける気にもなれない。通うなら早朝か深夜。そう考えると、「コンビニジム」しか選択肢はなかった。  ずっと気になっていたのが、RIZAPが運営する「chocoZAP」(チョコザップ)だ。昨年7月のブランド開始以降、急成長を続け、店舗数は880店舗、会員数は80万人(いずれも8月15日現在)を突破。業界トップの人気を誇る。「どうせなら仕事を兼ねて」ということで、秋の気配が程遠い9月1日から体験ルポに臨んだ。 スマホをかざして入館  初期費用は入会金と事務手数料で5千円(税込み)、月会費3278円(同)を合わせて8278円。入会すると体組成計とヘルスウォッチがもらえる。これらをスマホにダウンロードしたチョコザップのアプリと連動させる。体重を測るのは昨年の健康診断以来だ。恐る恐る数字をのぞくと59.8キロ。BMI(身長と体重の関係で肥満度を表す指標)は21.2で、いずれも「標準」と表示されていたが、60キロを切っているのには驚いた。中学生以来だろうか。  無理もない。思い起こせばこの2カ月間、肉や魚はほぼ口にせず、毎日ソーメンばかり、というヴィーガンのような食生活だった。体内年齢は44歳と実年齢より10歳若かったものの、内臓脂肪は9.0。メタボリック症候群の診断基準である「10以上」の一歩手前だった。健康診断で「境界型糖尿病」と診断されたこともあるため自覚はしていたものの、やはり運動不足はカラダに良くないのだと悟った。  仕事がひと段落した午後9時。いよいよ「初チョコザップ」へ。アプリを起動し、最寄りのジムの混雑具合を確認する。金曜夜のため混んでいるかと思ったが、表示は空きを示す「空」だった。ジムは自宅から片道2.6キロ、徒歩で約20分。ウォーキングにはもってこいの距離だ。スマホに表示された入館証のQRコードを入り口でかざして入館する。 アプリに表示された体組成計の計測値に基づく記者のカラダ記録。ヘルスウォッチと連動し、血圧や心拍数、体表面温度も記録、表示される    ジムの中はエアコンが利いていて快適だった。持ち物はスマホだけ。着替えや靴を履き替える必要もない。入り口近くに、鍵のないむきだしの棚が設置されていた。これも低料金に抑えるためだろうが、さすがに盗難のリスクが気になり、スマホを置くのは控えた。チョコザップ広報によると、スマホや財布などの貴重品はロッカーに置かず、手荷物として持って利用する人が多いとのこと。盗難予防措置として各店舗に約10台の監視カメラを設置しているという。 たまらず焼きそば食う  ジムの広さはコンビニの店内ほど。10人近くの男女が入館していたが、トレーニングマシンの約半分は空いていた。「静かだな」というのが最初の印象だった。マシンの重りの金属音が時折、「ガシーン」と響くだけでBGMもなく、会話をする人もいない。トレーニングメニューはアプリで推奨している週2回の「ちょいトレ」と決めていた。上半身を鍛えるチェストプレス、ラットプルダウン、下半身を鍛えるレッグプレス、アダクションという4種類のマシンを使った15回×2セットのメニューだ。これを約20分で完了。それだけで、パソコン仕事で蓄積されていた全身の凝りが意外なほどすっきりした。退館時も出口でスマホ認証が必要なのは、スマホの置き忘れを防止する意図もあるのだろう。利用者の回転が速く、来た時のメンバーの半分くらいは入れ替わっていた。  ちなみに、トレーニングマシン1台あたりの平均利用時間は約4.8分。1人当たりの平均滞在時間は30分程度という。  うっすら汗ばむ程度の運動量。秋風というには生暖かいが、外気が心地よく感じられたのは久しぶりだった。その直後、自分が「孤独のグルメ」の主人公、井之頭五郎になった気がした。「腹が……減った」。たまらずコンビニで焼きそばを買い、部活帰りの中学生のように一瞬で平らげてしまった。  スキマ時間を使って、「ちょこっと運動したいニーズ」に応えるコンセプトは、先方の都合に合わせて不規則に取材が入る私の生活にマッチしていた。特に早朝の時間帯は利用者が少なく、落ち着いて利用できる。 アプリに表示された体組成計の計測値に基づく記者のカラダ記録。ヘルスウォッチと連動し、血圧や心拍数、体表面温度も記録、表示される   気づけば1日おきに…  週2回のつもりだったのが、気づけば1日おきに通っていた。設置されているトレーニングマシンをほぼすべて使うようになったが、15回×2セットをこなしても滞在時間は30分を超えない。相変わらずジムを出ると、たまらなくおなかがすいた。ジムの階下には「吉野家」があった。ここでトレーニングの後、朝牛セット(牛丼とお新香、みそ汁)を食べるのが日課になった。  入会時にチョコザップの広報担当者からこんなアドバイスを受けていた。 「短期間で痩せるといった結果を出すというよりは、無理のない範囲で生活習慣に取り入れて継続して運動することで健康になってもらえれば、と考えています。体感として心身がリフレッシュしたとか気分が良くなったという変化に留意してください」 1カ月で数値は横ばい  実際、約1カ月利用して体重などカラダのデータはいずれもほぼ横ばいだった。が、心境には変化が生じていた。そのことを自覚したのは、あるハプニングに遭遇した時だ。ジムに着いた際、スマホアプリの画面がフリーズし、入館証が表示されないトラブルが一度だけあった。スタッフがいない施設だけに、入館証が表示できなければ撤退せざるを得ない。この直前まで、私の頭の中では「きょうはどのマシンから使おうかな」と少し弾む心持ちで、既にトレーニングをしている自分の姿がイメージされていた。それが不意に奪われた衝撃は、自分でも意外なほど大きかった。もちろん、帰り際に牛丼を食べる気にもなれない。  もうウォーキングだけで気分転換できるカラダではなくなっていた。私にとっての「ちょいトレ習慣」は、もはや一日のスタートとして欠かせない生活リズムに組み込まれつつあったのだ。帰宅後、アプリで紹介されていた自宅でできる筋トレメニューをこなしてなんとか気分をすっきりさせた。そのあと、チョコザップのコールセンターに問い合わせ、入館証の表示が無事復旧した時には、文句どころか、担当者にお礼を繰り返す始末。その時、ふと思った。この料金と時間で心身がリフレッシュできるのは何物にも代えがたい。それが健康にもつながるというのであれば、通い続ける以外に選択肢はない、と。(編集部・渡辺豪) ※AERA 2023年10月9日号
wellness
AERA 2023/10/04 11:00
iPS細胞初移植の女性医師が50歳で目覚めた“4次元”の重要性 医療システム改革を大胆提言
高橋真理子 高橋真理子
iPS細胞初移植の女性医師が50歳で目覚めた“4次元”の重要性 医療システム改革を大胆提言
眼科医・ビジョンケア社長 高橋政代さん(62)  世界初のiPS細胞を使った眼科手術を主導した高橋政代さんは、再生医療をはじめ費用が高い最先端治療の普及には医療制度の変革が必要だとアピールしている。日本の医療には、保険診療と自由診療があり、自由診療はお金がかかるほか、医療の質が担保されていないという課題がある。そこに学会が関与する形で民間保険を入れて、自由診療の枠組みを利用して高額な先進的医療を多くの人が受けられるようにすべき、というのだ。「国民皆保険」という世界に誇る制度をこれで守れると位置づける。未来を見据えて大胆に進み続ける高橋さん。ここまで、どんな道を歩んできたのだろう。(聞き手・構成/科学ジャーナリスト・高橋真理子) >>【前編】「ブルドーザーに乗ったサッチャー」と呼ばれて 「そんなん無理」を超えてきた女性眼科医(62)の歩み *  *  * ――お生まれは大阪ですね。  はい、父は普通のサラリーマン、母は専業主婦で、一人っ子です。地元の小学校から、大阪教育大学附属池田中学校へ。近所のおばちゃんが「この子わりと賢いから挑戦してみたら」って言ったらしいんです。母はそんな意識がなくて、塾も行ったことがなかった。 ――それで受かったんですか。  あのころの中学受験では、塾に行かない人も半分ぐらいいたと思いますよ。家で過去問はやりました。電話帳みたいに厚いやつ。大学受験のときも予備校には行かなかった。夏期講習だけは行って、有名な物理の先生の授業を聴いたら、物理の点数が途端に上がりました。あ~、わかった~っていう感じで。これにはびっくりしました。 「絶対嫌や」と反抗した ――お母さまが医学部受験を勧めたとか。  そうです。親戚には歯医者が多かったんですけど、母は「戦争になっても食いっぱぐれがない」とか言って、医者を勧めた。母親はわりと勝気だったんだけど、昔だから、女学校しか行かせてもらえなかったとか、専業主婦で我慢しなあかんかったとか、あったんだと思うんです。で、自分で生活できるようにしたほうがいいと私に言っていた。 ――そう言われて、何の疑問もなく?  いや、もう絶対嫌やって反抗してました。血を見るのは嫌だ、とか言って。でも、そのころは本当に嫌だと思っていましたけど、別に慣れるんですね。だから、みんなに言いたい。そう思って医学部の受験をやめる女の子はいっぱいいると思いますけど、そんなのはどうもない(笑)。  結局、反抗したけれど、じゃあ、何をやりたいのか、何学部に行きたいのかというのがなかった。あちこちで言ってますけど、30代半ばで米国に留学するまでは、自分でやりたいことというのは何もなかったんです。自分の意見というのもなくて、誰の意見にも合わせるから、「合わせの小池」って、あ、私の旧姓は小池っていうんですけど、そう呼ばれていた。聞いているばっかりで、自分でしゃべることってあんまりなかったですね。 ――今と大違いですね。  そうなんです。同級生は「あんなに可愛かったのに、どうしてこうなった」と言います(笑)。35歳でやりたいことに出会ってから、言いたいことがどんどん出てきて。今は人が言っている最中にかぶせて話してしまう。これはまずいから自重しないと、と思っているところです(笑)。 テニスなのに泥だらけ ――ちょっと時間を戻すと、京大の医学部に入って、卒業と同時に結婚。お相手は同級生でいま京大iPS細胞研究所長の高橋淳先生でした。  彼の専門は脳外科ですけど、テニス部で一緒だったんです。彼のテニスは高校野球みたいなんですよ。 ――え? 一生懸命ということですか?  そう、何故かテニスなのに泥だらけになる。それぐらい、どんな無理と思われるボールでもくらいついていく。それと、女子と男子で練習するとき、女子にはみんな容赦するのに、彼は容赦しなかった。それが良かったですね。いま思い出しました。  私は母親にかなり洗脳されて、ちゃんと手に職をつけて、結婚して子育てもするんだと思い込んでいた。だから、子育てをしやすい科として眼科を選びました。卒業直後の研修医時代は手に職をつけるためしっかり勉強しないといけないので、「その間は子どもを産みません」と姑さんに手紙を書いた。あのころはすぐに「子どもはまだ?」って聞かれるから、先制攻撃です。 ――すごいな、それは。  2年の研修医が終わって大学院に行っている間に1人目を産み、2人目は大学院を修了して京大付属病院で助手をしているときに産みました。小さい子が2人いる生活はしんどかったですね。脳外科の旦那は睡眠3時間で働いていて、家にいない。0歳と2歳の子をお風呂に入れるのは大変で、自分の顔を洗うとか髪を洗うとかできなかった。 ――あ~、乳幼児のお風呂は大人が2人いないと無理です。  今から考えてもよくやったと思います。あのころは当直免除とかもなかったですし。それでも、眼科はリベラルで、女性だからといって蔑視されることはなかった。すごく優秀な女性の上司がいましたし、私と同年代で子持ちの女性教員が3人いた。教授が心の広い人だったというか、何も考えていないというか、とにかくラッキーでした。他の科なんか、妊娠したら大学病院を辞めるという不文律がありましたから。 ――え~、産婦人科や小児科にとっては妊娠を経験した女性医師は千人力でしょうに。  本当にそうですよ。今は時代が変わりましたけど、当時の京大病院で眼科以外に女性教員がいる科はほとんどなかったですね。眼科の女性教員の同僚はみな豪傑で、私も含め仕事に穴は開けないし、夜の9時10時まで手術をしていた。でも通常は保育園のお迎えがあるから7時に帰る。そこで仕事を切り上げないといけないことにすごくストレスを感じていましたね。 それをやるのは私だ ――運命の分かれ道となる米国留学に行かれたのが1995年ですね。  夫が脳の神経幹細胞を研究するために米国ソーク研究所に留学したので、子ども2人を連れてついて行きました。それまで自分はあまり研究に向いていないと思っていたんですけど、ここで幹細胞の研究を始めたら、すごく面白い。臨床医をしてきた私は幹細胞の価値がすぐわかった。幹細胞を使って網膜を再生できれば、失明した人に光を取り戻すことができる。それをやるのは私だと思った。 留学時代の記念写真。左端に座るのが高橋政代さん、その奥にいるのが夫の高橋淳さん= 1995年、米国ソーク研究所(高橋政代さん提供)  それで、日本に帰ってからも幹細胞の研究を続けました。当時はES(胚性幹)細胞を使って研究し、2004年には霊長類のES細胞を使った動物実験で治療ができるという世界初の論文を出した。京大の助教授時代です。世界はヒトへの臨床応用に向かってどんどん動いていきましたが、日本では倫理的に慎重さを要求された。ES細胞はヒトの受精卵から作るからです。そこに、皮膚細胞から作れるiPS細胞が出てきたわけです。 ――新聞でも、iPS細胞はES細胞と違って倫理的問題がない、と盛んに書きました。それに、患者本人の細胞を使って作れば、拒絶反応が起こる心配もない。  ES細胞には枕詞のように「倫理的問題のある」という説明がつきましたが、これはおかしいと当時から思っていました。カトリックでは「生命の誕生は受精のとき」と教義にありますから問題視するのはわかりますが、日本では中絶が行われている。にもかかわらずES細胞を問題視するのはダブルスタンダードです。それよりも拒絶反応のことが問題でした。対象疾患の一つ、加齢黄斑変性は高齢になって発症する。高齢者に免疫抑制剤を使用したくなかった。  マウスでiPS細胞ができたと論文発表されたのが2006年で、その年に私は京大から神戸市の理研に移りました。翌年にはヒトでiPS細胞ができたと論文発表された。私は山中先生に「5年で臨床試験をします」と宣言したんです。国も再生医療の特質に合わせた法律、制度づくりを進めてくれて、再生医療については世界最先端の法律ができた。それもあって、異例のスピードで第1例の手術にこぎつけました。 ――米国から帰ってきてから全速力で駆け抜けてきた感じですね。ところが、1例目の手術をしたころは泣き暮らしていたとおっしゃったのには本当に驚きました。そこから不死鳥のように立ち上がったのも素晴らしい。帰国してからの子育てはどうされていたのですか? 米国から一時帰国したときの一家4人=1996年、関西空港(高橋政代さん提供)  米国では臨床医として働く必要はなくて研究だけできたので、本当に解放されて、楽しかった。上の子は6歳になって、小学校の前の段階のプレスクールに入ったんですけど、あらゆることが「お母さんは働いている」という前提で進むから、すごく楽だった。アフタースクールが充実していて、民間の会社が何社も入って、スポーツをやる、勉強する、音楽や美術に親しむとか、いろいろ特徴があって、親が選べるんですよ。お金はかかりますけれど、すごくサービスがいい。学校にずらっとバスが並んで、子どもたちはそれに乗って会社の施設まで行って、遊んだり勉強したりしたあと送ってもらう。  日本に帰ってきたら、学童保育は全然違った。楽しくなかったみたいで、子どもが行きたがらなくなって。保育園は7時まで預かってくれたので自分だけでところどころアウトソースして子育てしていましたが、小学校低学年はすごく早く帰ってくる。それで、姑さんに放課後の子どもの面倒を見てもらうことにしたんです。 ――お姑さんはお仕事をされていなかったんですか?  少し前に保育園の副園長を引退したところでした。 ――お~。安心してお任せできますね。  日本の小学校は、母親がPTA役員などをするものという体制で回っているから、米国とはまるで違う。私もPTAの広報委員会に昼間出席したりしましたよ。  男女共同参画に関して日本の一つの問題は、家事や育児のアウトソースを嫌がることですね。お金がかかっても、ちょっと家事を手伝ってもらうだけで、すごい楽なんですよ。アジアの国々では、第一線で働く女性の家にはお手伝いさんがいる。日本も戦前はそうだったんですが、それを手放してから、全部奥さんがやらないかんとなった。今は男女区別なくなってきましたが、アウトソースを抵抗なく活用できるようになるといいですよね。 ――お嬢さんたちは今どうされているのですか?  2人とも就職して、結婚して、働きながら子どもを産みました。それは、私が母親から譲り受けたように、娘たちに「結婚するのよ」「早めに子どもを産んだほうがいいよ」って刷り込んだから。卵子や精子の老化という科学的問題がありますから。子どもってね、反抗するけど、なんか刷り込まれて叶えようとするのかな、と思います。 公的保険以外の財源が必要  私は今、4次元の会社にしようと言っているんです。2次元は薬などのモノをつくる、3次元は手術など含めて医療をつくる。再生医療はこれで、ここまではできた、と。次は社会の仕組みをつくる、それが4次元の会社です。医療のシステムを変えないと再生医療は広がらない。今の医療費抑制の中でイノベーティブな医療を進めるには、公的保険以外の財源が必要で、それには互助的な民間保険を活用するのがいいと私は言っています。そして、エビデンスのある自由診療という高度医療のカテゴリーをつくって、質が確保されたものにする。 ――自由診療というと、医師会が反対するのではないですか? 国民皆保険は世界に誇る制度で、公的保険を使って必要な医療を受けられるようにするのが筋だ、と言っていたと思います。  医師会の方に「皆保険を守るために必要です」と説明したら納得してくれた。これは今、私の中で一番ホットな問題です。自然科学でいくら頑張っても社会科学が進んでいないと社会実装できないとわかったから。50歳で「社会」に目覚めたんです。 研究メンバーと高橋政代さん(ビジョンケア提供) 【お知らせ】11月11日(土)、オンラインセミナー「研究者に聞く仕事と人生-アエラドットの連載から学ぶ」が東京理科大理数教育センター主催で開催されます。  【前編から読む】 「ブルドーザーに乗ったサッチャー」と呼ばれて 「そんなん無理」を超えてきた女性眼科医(62)の歩み https://dot.asahi.com/articles/-/202745 高橋政代(たかはし・まさよ)/1961年大阪市生まれ。1986年京都大学医学部卒業、1992年京大大学院医学研究科博士課程修了、医学博士。1992~2001年京大医学部付属病院眼科助手(途中1995年から2年間米国ソーク研究所研究員)、2001年10月~2006年9月京大医学部付属病院探索医療センター開発部助教授、2006年4月~2012年3月理化学研究所網膜再生医療研究チームチームリーダー、2012年4月~2019年7月理研網膜再生医療研究開発プロジェクトプロジェクトリーダー、2019年8月~株式会社ビジョンケア代表取締役社長、2022年4月~神戸市立神戸アイセンター病院研究センター顧問、立命館大学客員教授・立命館先進研究アカデミー(RARA)フェロー。
dot. 2023/10/03 17:00
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米倉昭仁 米倉昭仁
全国から女性ファンが訪れる海上保安庁の「潜水士」に密着 “海猿”を目指す「エリート」たちの素顔とは
撮影:米田堅持   *   *   *  海上保安官の姿を20年以上撮影してきた米田堅持さんはこの夏、「潜水士」を養成する海上保安大学校(海保大)の研修科潜水技術課程(潜水研修)に密着した。  潜水士は、転覆船や沈没船から要救助者の救出や行方不明者の潜水捜索などを行う、海難救助のスペシャリストである。  約1万4400人の海上保安官のうち潜水士は約200人。「希望してもなれない人のほうがはるかに多い人気の職種」だという。  ところが、20年ほど前まで「人を救助するよりも遺体を揚げることのほうが多い、汚れ仕事だと言われた時代が長く続いた」。  それが一変したのは2004年に公開され、大ヒットした映画「海猿」がきっかけだったという。  伊藤英明演じる海上保安官は厳しい潜水研修を乗り越えて潜水士となり、救助を待つ人々がいる危険な現場へ飛び込んでいく。この映画以来、潜水士になりたくて海上保安官を目指す若者が一気に増えた。 撮影:米田堅持   毎年脱落者が出る研修  潜水士のファンもすごいという。 「海保大では毎年6月に『海神祭(わたつみさい)』という学園祭が行われるんですが、女性を中心に潜水士のファンが全国からやってくる。お目当てはプールで行われる『潜水研修実演』です。この整理券の配り方を間違えると、『暴動』が起きるくらい彼女たちの熱気はすごい。実際、ぼくから見ても潜水士は筋肉ムキムキだし、かっこいい。それに驚くほど真面目ですよ。陸上勤務になってからも出世する人が多い」 【あわせて読みたい】 海上保安庁「海猿」の精鋭を追った写真家・米田堅持 37人しかいない“海のエリート”たち 撮影:米田堅持    潜水士を目指す海上保安官の多くは20代の巡視船艇の乗組員である。彼らは日々、体を鍛え、各管区で開かれる「潜水研修候補者選考会」に出してもらえるようにアピールする。選考会出場には十分な体力だけでなく、上司の推薦も必要とされる。 「というのも、救難現場では2人1組のバディで行動するなど、チームワークが大切だからです」  選考会では年齢や健康状態、体力、泳力等によってごくわずかな上位者のみが研修生に選抜される。そして、年に2回、全国11管区から選抜された先鋭約20人が広島県呉市にある海保大にやってくる。彼らはここで約2カ月間の潜水研修に挑むのだ。 「毎回、途中で脱落する研修生が1人か2人は出てきます。『プール実習』の試験に合格しない場合もありますが、研修についていけなくなって、自分から『出直してきます』という子もいます」  まれに、水に入れなくなってしまう研修生もいるという。 「あまりにもずっと泳いでいるので、水が怖くなってしまうんです」 厳しい訓練は絵にならない   頭の中まで筋肉?  研修前半のプール実習では、水中での安全管理や動き方など、潜水士としての基礎をたたき込まれる。それはまさに映画「海猿」の世界だという。 「座学もありますが、基本的に朝8時前後から日暮れまで、台風接近を除けば、天候にかかわらず、ひたすら走ったり泳ぎ続ける。彼らを撮影していると、『まだ泳ぐんだ』と、こちらがうんざりしてしまうほどです」  泳ぎの基本は足ひれをつけて泳ぐ「ドルフィン」である。 「まず最初にドルフィンで、がーっと1500メートル泳いで体をほぐす。これが速いんですよ。こちらは駆け足で撮らないとついていけないくらい。それから場合によってはクロール、背泳ぎ、バタフライで各100メートル泳ぐ」  その後、5キロの重りを両手に持って15分間同じ場所で泳ぎ続ける「立ち泳ぎ」などの訓練が行われる。 「これがすごい。水に沈みそうな研修生の表情は必死だし、息はあっぷあっぷだから、水しぶきがバンバン上がる」 【あわせて読みたい】 海上保安庁の精鋭、特殊救難隊の訓練の様子 撮影:米田堅持    最大重量20キロの重りを深さ5メートルの潜水プールの底から水面へ決められた時間内に持ち上げる「錘(すい)上げ」もある。潜水士は捜査官でもあるので、沈没した船内から証拠物を引き上げなくてはならないからだ。 「みんな体力お化けみたいな人たちで、どうしてこんなに体力があるんだろうと思います。よく海上保安官の間で、潜水士、特に特救隊クラスになると、『あの人たちは頭の中まで筋肉だから』っていうのもわかる気がしますね」 厳しい訓練は絵にならない  研修の後半は「海洋実習」が行われる。海保大の桟橋周辺で泳ぐことから始まり、海に慣れたら次第に潜水具を装着しての捜索訓練など、難易度が増していく。 「例えば、(水面上に浮かんで位置を標示する)ブイの周辺に教官がゴルフボールを投げ込んで、決められた時間内にそれを探させる。研修生たちは海底を列になって、ブイを中心に円を描くように『環状捜索』を行う。時間切れで水面に上がってきて、『見つかりませんでした』となると、教官からめちゃくちゃ怒られます」  写真家として悩ましいのは訓練が厳しくなればなるほど、「絵にはならない」ことだ。 「桟橋でドルフィンやっているときはまだいいんですけれど、海中に潜って捜索訓練が始まると、何も見えない。潜水具からの泡だけがポコポコと水面に浮いてきて、それが移動する。ある意味、シュールな光景なんですが、それを撮っても作品展を開けるような写真にはなりません」  とは言うものの、夜間の訓練を写した様子は実際の救難現場のようで、緊迫感がある。当然のことながら危険度も高い。 撮影:米田堅持   50年以上殉職者ゼロ  今回の撮影で特に印象深かったのは厳重な安全管理だ。  潜水研修には教官2人のほか、先輩潜水士の「指導潜水士」が10人、さらに見張りを行う「支援員」が加わる。なので、研修生の人数と、教官や支援員の人数がほぼ同数ぐらいになる。  研修生の各バディには一人ずつ指導潜水士がつき、潜水具がきちんと装着されているか、動作が適切であるか、常にチェックする。支援員はプールサイドや桟橋、船の上から溺れている研修生がいないか確認する。それらが全て一体化して研修が行われる。 「実際の救難現場でも必ず潜水士の安全管理を強化する支援員がいるんです。潜水士を養成する際には、それがさらに厳格に行われる。教官は普段、研修生に厳しい声をかけますが、一方でトラブルが起こっていないか、すごく神経を使って研修生を観察している。そういうことはここに来なければわかりません」  海保が潜水業務を本格的に開始したのは1970年。以来、今日まで潜水士の殉職者は一人もいない。 「潜水研修を終える際、海保大の副校長が研修生を前に『君たちには殉職者ゼロの歴史を引き継ぐ重大な責任がある』と訓示して彼らを送り出した。潜水士の行動原則を実感しました」  海保を長年撮影した米田さんでさえ、現場を訪れるたびに「まだまだ知らないことがある」と語る。  次はコロナ禍で中断していた海上保安学校(京都府舞鶴市)と幹部を養成する海保大の撮影を再開する予定だ。 (アサヒカメラ・米倉昭仁) 【MEMO】米田堅持「海猿への道」 富士フォトギャラリー銀座(東京・銀座) 10月6日~10月12日
アサヒカメラ米田堅持海猿海上保安庁
dot. 2023/09/30 17:00
サラリーマン家庭で医学部に息子2人進学 親子で目指した合格 父「決意を確かめる意味で違う道も提案」
サラリーマン家庭で医学部に息子2人進学 親子で目指した合格 父「決意を確かめる意味で違う道も提案」
左から次男・國井悠生さん(岐阜大学医学部3年生)、父親の孝洋さん、長男・慶人さん(朝日大学病院研修医) 孝洋さん提供   医師にも医学部にも全く縁のない、ごく普通のサラリーマン家庭。そんな環境から息子2人を国立大学医学部に進学させた岐阜県在住の國井孝洋さん。長男・慶人さんは2017年に福井大学医学部に現役で合格し、現在は朝日大学病院に研修医として勤務。次男・悠生さんは21年に、岐阜大学医学部に一浪で合格。現在は同大3年生だ。地元の中小企業に勤める國井さんとパート職員の妻は、家庭でどのような教育を行ってきたのか。好評発売中の週刊朝日ムック『医学部に入る2024』で、國井さん親子を取材した。前編・後編の2回に分けてお届けする。 *  *  * 長男の医学部志望を機に始まった親子の医学部受験態勢  國井孝洋さんは岐阜市在住、建材を扱う地元企業に勤めるサラリーマンだ。妻の恵美さんはパート職員。親戚中を見渡しても、医学や医療に携わる人間は全くいない。そんな國井さん一家が医学部受験に関わるようになったのは、2016年7月。高校3年生の長男の慶人さんが「医学部を受験したい」という意思を両親に伝えたことが最初だった。孝洋さんが振り返る。 「親として子どもの将来に望む一番のものは、もちろん健康などが大前提としてあってのことですが、やはり生活の安定だと思うんです。そう考えると、定年がなく、資格として生涯生かせる道を志してくれたということは、妻も私も正直うれしかったですね。ただ、自分で決めたことは責任をもって成し遂げてほしいという思いがありましたから、その決意がどれほどのものかを確かめる意味で、敢えて違う道も提案してみたんです」  慶人さんの成績であれば、京大の理系学部や東工大も目指せる。そちらに進んで大企業に就職したり、研究職に就いたりという道もある。そう提案してみたが、慶人さんの意思は揺るがなかった。  幼い頃から人を助ける仕事に就きたいと思っていたところへ、高校の授業で職業について考える機会があった。 「そのときに、目の前の人を助ける実感が持てるのはやはり医師のいいところだなと改めて痛感し、医師になりたいと思いました」(慶人さん) 国公立大学ならば、医学部の学費も他学部と同じ  そこから医学部受験について孝洋さん・恵美さん夫妻の懸命な情報収集が始まる。最も気がかりだったのは、やはり学費の問題だ。医学部は富裕層しか行けないものという先入観を孝洋さん夫妻は持っていた。しかし、調べるうちに、そうではないことがわかってきた。 「確かに私立の場合は、6年間で3千万~4千万円かかると言われています。しかし国公立の場合は医学部の学費も他学部と同じ、すなわち年間60万円で、6年間で360万円なのです。また自治体による助成金もあり、たとえば岐阜県の場合は、他県の医学部に進学しても月に10万円、6年間で720万円貸与されますが、これは卒業後9年間、岐阜県内の病院に勤務すれば返済不要です」  そのほかに「地域枠」を設けている大学は全国にある。岐阜大学医学部医学科の場合、高校3年間の内申の平均点、共通テストで一定以上の成績を収め、学校推薦などを得て、面接、小論文をクリアすれば、6年間の学費が貸与され、毎月10~20万円の生活費も貸与される。これも卒業後9年間を岐阜県内の病院に勤務すれば返済不要となる。しかも1浪までこの条件が適用される。ほかに自治医科大学などに同じような制度がある。 「収入が理由で医学部進学をあきらめている親御さんに知っていただきたいです」  慶人さんは見事現役で福井大学医学部に合格。その後、弟の悠生さんも医学部を志望し、1浪した後、岐阜大学医学部に合格。高校時代ラグビーに打ち込んだ悠生さんは、慶人さんとはまた違った動機で医師を志した。 「ケガをするたびに整形外科の先生が本当に僕のことを考えて治療してくださったんです。こういう人になりたいと、スポーツドクターになる夢を持ち始めました」(悠生さん) 左が長男・國井慶人さん(朝日大学病院研修医)、右が次男・悠生さん(岐阜大学医学部3年生) 孝洋さん提供   英会話や算盤の代わりに通わせた「頭の体操」スクール  それにしても兄弟ともに国立大学医学部進学を果たすとは、家庭ではどのような教育を行ってきたのだろうか。 「私たちが最も大事に考えてきたのは『本人の意思なくして成長なし』ということです。何かを押し付けたり『勉強しなさい』と強制したりすることはしないと決めてきました。よく聞かれるのですが、我が家では英才教育らしきことは全くせず、一般的な英会話教室や公文式や算盤ですら全くやらせていません」 その代わり通わせたのが、頭の体操をする知能教室。そして小柄だった2人を強くさせ自信をもたせるための空手だ。しかしこれらも、まずは本人たちに体験させ意思を確認し、道場も選ばせた。 「自分で決めたことなら責任も感じるでしょうし、何より楽しいと思えること、やりたいと思えること、その中で成長していく自分を実感できることが一番だと考えたからです。通っていた極真空手の道場では、整列するときは帯の順で並びます。帯の色が変わることで自分の成長を確認できますし、難しい型ができるようになったり、組手のトーナメントで勝ち上がって入賞したりすることで、成長していく面白さを実感できたと思います」  家で日々の宿題や勉強を見るのは主に母の恵美さんだったが、子どもたちにやる気を出させるように「ポイント制」を取り入れた時期もあった。たとえば、宿題を何ページかやると何ポイントかもらえて、それをお菓子やゲームをする時間に交換できる、というものだ。 「そのころ、DSにハマッていたので、何ポイントかたまったら何分かゲームができると励みにしていたことを覚えています。頭の体操では、遊び道具やパズルなどを通して想像力を養えましたし、空手では自信がついた。いろいろな方向から刺激を与えてもらいましたし、さまざまな経験もさせてもらって感謝しています」(悠生さん) それぞれが打ち込んだ勉強方法 並行して、慶人さん、悠生さんともそれぞれの受験期には塾に通ってきた。医学部受験に際しては、医学部志望コースがある地元の塾に通った。 左が長男・國井慶人さん(朝日大学病院研修医)、右が次男・悠生さん(岐阜大学医学部3年生) 孝洋さん提供    慶人さんが医学部に目標を定めて勉強を始めたのは高3の7月。すでに部活の柔道部は引退していたので、毎日学校から帰ると休憩もせずに自転車で塾へ行き、塾が閉まる時間までずっと自習室で勉強を重ねた。いつも最後の1人か2人になるまで没頭した。 「どの教科も、とにかく基礎が大事だと思っていたので、教科書を4周、5周と何度も読み直して、簡単な問題集を何度も解き直して……ということをやりました。あと公式や定理については、ただ暗記するのではなく、なぜそれが成り立つのかを自分で考えながら進めていくことが力になったかなと思っています。英語についても、いろんな単語集にあれこれ手を出すのではなく、一つこれと決めたものを何周も何周も読んで完璧にするという勉強をしました」(慶人さん)  勉強を始めた時点では、周りにすでに過去問に取り組んでいる仲間もいた。しかし、ここで焦って同じ段階に行こうとしても基礎がなければその先の成長もない。自分は自分のペースで、自信を持って自分の勉強をしようと決めた。その結果、県下トップの県立高校で学年の真ん中ぐらいだった成績が、冬には上位1割に入るまでになった。最終的に福井大学を第1志望とした。 「絶対に浪人はしたくないという気持ちがあったのと、あとは岐阜からそれほど離れずに済むところにしたかったので、中部地方とその周辺の大学で自分のレベルに合ったところを候補として考えました。そのうえで、ひととおり過去問を解いてみて、相性がいいと思った大学を選んだという感じです」(慶人さん)  一方、悠生さんは、「高校時代の勉強量が本当に少なかった」と振り返る。   「自分なりに高3の春ぐらいから本腰を入れたつもりではいましたが、つい学校帰りに友達とどこかへ寄ったり、塾には行っていても勉強しなかったりということが多かったんです。なので浪人がきまったときはそれをすごく反省して、とにかく家にいるときっとダラダラしてしまうので、毎日予備校に行こうという目標を立てました。朝早く家を出て、11~12時間勉強して夜遅く帰る。1日も休まずにそれを続けました。親には『もう少し休憩する日があってもいいんじゃないのか』と心配されましたが、とにかく勉強に打ち込みました。そうしたら、目に見えて成績が伸びていくのがわかったので、そうするとすごい達成感があってさらに頑張れた。同じ東海高校出身の予備校仲間が3~4人いたので、みんなそういう生活をルーティンにして、一緒に成績が上がっていい流れになりました」(悠生さん)  志望校については、最終的に岐阜大学と名古屋市立大学に絞った。予備校の先生には、『受かる確率としては同じぐらいなので、あとはあなたがどちらに行きたいかだ』と言われて迷ったが、決め手となったのは、ラグビーだった。 「大学でもきっとラグビーをやるだろうなと思ったので、調べてみたら、岐阜大学のラグビー部がすごく強いことがわかったんです。そういう環境でやってみたいと思い、岐阜大学に決めました」  念願どおり岐阜大学医学部に合格し、現在はラグビー部で活躍するかたわら、オンラインでの家庭教師とラーメン屋でのアルバイトもこなす。 「とにかく時間が足りなくて、勉強と部活とバイト、どうやったら、それぞれきちんと成り立たせられるか、それが今の課題ですね」(悠生さん)   後編に続く。 後編:サラリーマン家庭で医学部に息子2人進学 公立高の兄・私立高の弟 「高い学力の仲間が周りにいる環境がよかった」 (取材・文/志賀佳織) ※週刊朝日ムック『医学部に入る2024』より
医学部に入る2024
dot. 2023/09/30 11:30
「就職氷河期世代」国立大学院卒・手取り月11万円、副業はパン工場 40代男性「身体も心も限界です」非正規公務員の現実
野村昌二 野村昌二
「就職氷河期世代」国立大学院卒・手取り月11万円、副業はパン工場 40代男性「身体も心も限界です」非正規公務員の現実
冒頭で紹介した風俗で副業をする女性は、政治家が言う貧困対策はリップサービスにしか聞こえないといい、「(政治に)あきらめているから、副業をしています」と話した(撮影/写真映像部・馬場岳人)    低収入で不安定な待遇の非正規公務員。生活のために副業せざるを得ず、心身ともに限界を迎えているという。非正規公務員の実情に迫った。AERA 2023年10月2日号より。 *  *  *  副業によって追い詰められていく人は少なくない。  いつまでこんな仕事をつづけなければいけないのか──。  福岡県の地方都市。40代の男性は、深夜のパン工場で副業をしながらそう思う。  本業は、県内の高齢者施設で介護の仕事をしている非正規公務員。25年ほど前に国立大学の大学院を修了した。研究職に就きたかったが、折しも就職氷河期。正社員への道はなく、主に非正規公務員として雇い止めを繰り返しながら働いた。高齢者施設は昨年10月から、県から派遣される形で働いている。時給は950円で、週5日フルタイムで働き、収入は手取りで月11万円程度。  ギリギリの暮らしのなか、さらに状況が悪化する出来事が起きた。昨年、同居する70代の母親が転んで骨折し、リハビリのため特別養護老人ホームに入所することになったのだ。入居費は月7万円。とても、本業の収入だけでは賄えない。  今年になって始めたのが、近所のパン工場での副業だった。主に夜勤で、月5日から10日働く。時給は県の最低賃金の900円で、月5万~8万円の収入がある。こうして何とか生活できているが、疲労が蓄積しひざを痛めたという。  しかも、介護は全くの未経験。入居者のおむつ替えや入浴など慣れない仕事に手間取っていると、年下の正規職員から「使い物にならないので、やめてくれ」とパワハラも受ける。 「身体も心も限界です」  何とか正社員の仕事に就きたい男性は、就職氷河期世代を対象とした公務員の正規職員の採用試験を受けている。昨年は最終面接までいったが、不合格だった。今年も10月に挑戦する予定だ。男性は言う。 「私のような就職氷河期世代は『負け組』といわれます。再チャレンジできるようなシステムをつくっていただきたい」 【こちらも話題】 ITスキルを生かした副業で1200万円 30代男性「こんなに自分が必要とされる」衝撃  男性のような非正規の地方公務員は、総務省の調査で全国に約113万人いる。国は20年、非正規の地方公務員に賞与を出すなど待遇改善を図るとして、会計年度任用職員制度を導入した。  だが、非正規公務員の待遇改善に取り組む「公務非正規女性全国ネットワーク(はむねっと)」共同代表の瀬山紀子さんは、非正規公務員が置かれた状況は「明らかに不安定になった」と指摘する。 「会計年度任用職員制度の導入以前は、単年度ごとの契約更新であっても、長期にわたり働くことができた自治体も少なくありませんでした。しかし制度がはじまり、1年ごとの雇用が全国的に厳格化されたと言え、雇用がより不安定化しました」  そして収入は「不安定なまま」(瀬山さん)。はむねっとが22年に行った調査では、回答した705件のうち、21年の就労収入が200万円未満は53%に上った。瀬山さんによれば、制度導入と同時に時給や労働時間を引き下げた自治体が多く、収入増につながっていないという。 「こうした状況下で、仕事を掛け持ちせざるを得ない非正規公務員はかなりいると思います。低収入の上、いつ切られるかわからない不安定雇用では、不安は大きく心身が疲弊し、未来も見えずにやめていく人は少なくありません」(瀬山さん) 私は「使い捨て」  西日本の高校で、美術の非正規教員として働く40代の男性も、漠然とした将来への不安と背中合わせで暮らしている。 「使い捨て公務員です」  大学で絵画を専攻し、絵を追求したいとの思いから、比較的自由が利く非正規教員として働くようになった。  給与は1コマ約2800円。一つの学校で週に平均6コマを担当する。三つの学校を掛け持ちするが、年収は合わせて200万円いくかいかないか。多い時は学習塾など三つの副業を掛け持ちしていたが、体調を壊し、いまは教育関係の副業一つに絞っている。収入は年60万~70万円ほどだという。  不安は収入だけではない。体を壊して働けなくなっても、雇用保険が適用されない。さらに、給与は授業のコマ数に応じて支給されるが、授業が終わった後の部屋の片づけや生徒の成績評価を無給でさせられるなど、理不尽なことも少なくない。そして、何より心配なのが、先のことだ。   【あわせて読みたい】 生きるために「風俗」で副業 手取り月16万円、4人の子持ち40代シングルマザーの覚悟 AERA 2023年10月2日号より AERA 2023年10月2日号より    契約は単年度ごとなので、いつ「雇い止め」になるかわからない。しかも、1校で契約を更新されなかったら、残り2校の収入だけではとても生活できない。いつも年度末になると、来年はどうなるか不安になる。  将来を描くことができますか──。そう問うと男性は言った。 「全く描くことができません」  はむねっとの瀬山さんは、現状を変えるには「賃金格差の是正と、雇用年限の廃止の二つの対策が必要」と説く。 「非正規公務員は不当に買い叩かれています。仕事を掛け持ちしなくていいように、正規と非正規との賃金格差をなくすこと。そして、単年度雇用を廃止し、安心して働ける職場環境を築くことが重要です。継続して質のいい公共サービスを提供するためには、働き手が安心して働ける環境が重要です」 『「副業」の研究』の著書もある東洋大学の川上淳之(あつし)教授(労働経済学)は言う。 「副業をすれば何とかなるという生活は、決して望ましい解決策ではありません。長期的に一つの仕事で安定した収入を得られるよう、生活面も含めた環境整備や社会福祉政策の実施が求められます」 (編集部・野村昌二) ※AERA 2023年10月2日号より抜粋   【こちらも話題】 「横須賀市をもっと良い街にしたい」 市職員が起業と副業を決意、市長に直談判した事情
副業
AERA 2023/09/30 11:00
【独自】pecoが明かすryuchellと最後のやり取り「私は救われました」 家族にだけ見せていた姿とは
吉崎洋夫 吉崎洋夫
【独自】pecoが明かすryuchellと最後のやり取り「私は救われました」 家族にだけ見せていた姿とは
pecoさん(撮影/写真映像部・東川哲也)    AERA dot.で「peco & ryuchellの子育て日記 新しい家族のかたち」を連載してきたryuchellさんが7月12日に亡くなってから、約2か月半が過ぎた。四十九日を終え、pecoさんがAERAdot.編集部のインタビューに応じてくれた。深い悲しみが残るなか、一つの区切りをつけ、これから仕事も再開していくという。AERA dot.での連載も10月から再スタートする予定だ。  本格的な活動再開を前に、ryuchellさんへの心境や、5歳になった息子の受け止め、ryuchellさんとの最後のやり取りなどについて語った。〈前編〉 *  *  * ――ryuchellさんが亡くなる直前の様子はどうだったのでしょうか。  私と息子は7月からサマースクールでグアムにいました。11日が息子の誕生日で、数日前にryuchellも日本から来てくれました。前日の10日は息子も学校をお休みして、3人で一緒にお出かけして遊んで、お祝いしたんです。  11日は息子を学校に送り出してから二人で朝ご飯を食べに行って、本当にいつもと変わらないような時間を過ごしました。  このとき息子の話とか、くだらない話とかたくさんしたんですが、ryuchellはこれからのことも語っていました。「心理学の勉強をしたい」って。  実はryuchellは去年の8月にカミングアウトをしてから、「心理学を学びたい」と言っていたんです。「自分と同じように悩んでいる人を助けたい」と言っていました。  ただ、具体的に調べたら、大学に行く必要があったりして、「時間もないし、資格をとるのは難しい」となって、話が止まっていたんです。     pecoさん      だけど、私のママ友が「小学校を作って、校長先生になる」と言っていたという話をしたら、刺激を受けたみたいで、「一回諦めたけど、心理学を勉強したい」「勉強の仕方を考える」って言っていたんです。私も「いいやん!」と後押ししました。  そのあと空港までryuchellを見送りました。ryuchellは本当にフランクに「じゃあね、バイバーイ」という感じで、あっさりと帰って行きました。私と息子はあと10日ほどグアムにいる予定だったので、「しばらく会えないんだから、もっと別れを惜しみーや」って思うくらいな感じでした。  空港に送って1時間後くらいに、ryuchellから電話がかかってきて、そのときも普通に話したんです。ryuchellに振り込め詐欺の電話がかかってきたということでした。  ネットで調べると同じ手口があって、明らかに詐欺だったので私が「もう電話に出ないでいいよ」と言って、ryuchellも「なんでこんな電話かかってくるの、ヤダー」みたいな感じでした。「しつこく電話がくるようなら、警察にいこうか」なんて話していました。電話で話したのは、これが最後でした。  その日の夜中にも私にLINEでメッセージがきて、「起きてる?」って。私も「起きてるよ。どうしたん?」って返しました。そしたら「グアム楽しかった。ありがとう。○○(息子の名前)大丈夫?」って来ました。「りゅうちぇるも来てくれてとっても喜んでいたよ。私たちをグアムに行かしてくれてありがとう」と返しました。ryuchellから「楽しんでね。おやすみ」と来て、私も「おやすみ」と返しました。  ryuchellが亡くなったのは、この後です。 pecoさん(撮影/写真映像部・東川哲也)    あとからわかったことですが、ryuchellが最後に連絡をしてくれていたのが私でした。最後に私たち、息子のことを心配し、連絡をくれたんです。この事実に私は救われました。この事実があるから、私は最後にryuchellに対して「ありがとう」と言えたと思います。いまこうやってお話することもできたと思います。  ryuchellがグアムに来たのは「これを最後にしよう」と思ってきたわけではないと私は自信をもって思えます。「心理学をやりたい」と言っていたのも本音だったし、空港で「バイバーイ」とお別れしたのも、普通でした。私にかかってきた最後の電話も、いつものryuchellでした。  気づくことができませんでしたが、最後のLINEはryuchell的には最後だと思って、連絡して来たのだと思います。  遺書はありませんでした。その瞬間、ryuchellがどういう心境だったのか、何を考えていたのか、なぜその選択をしたのか、私たちにはわかりません。 ――昨年8月に婚姻解消をした際、インタビューで「ryuchellが壊れかけていた」という話もありました。その後はどういう様子だったのでしょうか。ryuchellさんに対して批判の声がありましたが、思い悩んでいるようなことはあったのでしょうか。  どちらかというと、私は強い人間ですが、ryuchellは傷つきやすいというか、繊細な人間だったと思います。  ryuchellは自分のセクシャリティの問題を発表して、すっきりしたところもあったと思います。ありがたい応援のお声もたくさん届いていました。 ryuchellさん      この半年間のryuchellはとても解放されて、私から見ても変化がすごかったです。見た目が変わって、とてもキレイでカワイイ女の子という感じでした。  私もそれを見ていてとても嬉しかったし、ryuchellもなりたい自分になれて、褒めてくれる人がたくさんいて、とても幸せだっただろうなと思います。  ただ、その裏では思い悩んでいるryuchellの姿もありました。この1、2年は感情の起伏が激しいときがありました。  だけど、息子の前ではそういった姿を見せず、しっかりとした”ダダ“(パパ)でいてくれました。感情を爆発させるにしても、それは私と二人きりのときで、息子の前ではそういった姿を見せることはありませんでした。  声を大にして言いたいのは、ryuchellはしっかりと親をやっていたということです。「ryuchellが育児放棄をしている」などという声がありましたが、私はすごく悔しかったです。私は反論したかったですが、ryuchellに「何も言わないでほしい」と止められました。  確かにryuchellはこの半年間、本当に女の子になっていました。以前は私の代わりに退治してくれていた虫を退治できないくらいに。だけど、息子から「肩車してほしい」と頼まれたら、いつも喜んでしていました。あの可愛くいたい女の子のryuchellなら「できない」って言いたかったと思うけど、一回もそうは言わなかったです。  それは息子の前では親としてやっていくという覚悟だったんだと思います。息子の中では最後まで「楽しいダダ」「大好きなダダ」でした。グアムで息子の誕生日会をして3人で撮った最後の写真をいま自宅で飾っていますが、息子はそれを見て「最後にお誕生日会ができて良かった」と言っていました。それはryuchellが最後まで親として振る舞った結果なんだと思います。 グアムで息子くんの誕生日を祝うpecoさんとryuchellさん   息子くん(左)と愛犬アリソンとryuchellさん   ――ryuchellさんに対して、どういったお気持ちをもっていますか。  12日の夕方にマネージャーさんからこのことについて連絡を受けました。そのときは、「なにしてんねん、ばかやろう」という強い感情が湧きましたが、最初だけでした。その後はどちらかというと冷静でした。  冷静になれたのは、グアムで出会った家族の方のお蔭です。夕方に連絡がきて、私もひどいショックを受けましたが、その方たちが朝まで私に付き添ってくれて。「いまが一番頑張るとき」と励ましてくれたのが本当にありがたかったです。「息子を守ることだけを考えよう」と思えました。  朝ご飯におにぎりをつくってくれて、飛行機も手配してくれて、空港まで送ってくれて、すぐに息子と日本に戻ることができました。私ひとりではここまでできなかったと思います。  ryuchellに対して「アホやなぁ」とは思いますが、責めるような思いはないです。私はこれまで本当の愛をくれたryuchellに感謝しています。息子に出会わせてくれたことに感謝しています。(後編に続く) (構成/AERA dot.編集部・吉崎洋夫) 【後編はこちら】 【独自】pecoが語る ryuchell急逝後の心境「息子の強さで一緒に乗り越えていける」 https://dot.asahi.com/articles/-/202662 【ryuchellさんの遺稿を公表します】 ryuchell遺稿「多様な価値観を互いに認められる社会になってくれれば」最後に連載で伝えたかったこと https://dot.asahi.com/articles/-/202685    
ryuchellpeco
dot. 2023/09/30 10:00
小5で広辞苑を読破した「ギフテッド」男性を苦しめた「強すぎる想像力」 有名私立中高に入るも社会人では引きこもりに…
岡本拓 岡本拓
小5で広辞苑を読破した「ギフテッド」男性を苦しめた「強すぎる想像力」 有名私立中高に入るも社会人では引きこもりに…
11歳ごろの竹中さん。臨海学校での1枚(画像=本人提供)    ギフテッドと呼ばれる人たちがいる。高い知性や能力を発揮する一方で、発達の偏りや気性の激しさなど、さまざまな困難を抱えるケースも多い。好評発売中の書籍『ギフテッドの光と 影 知能が高すぎて生きづらい人たち』(朝日新聞出版)では、そんなギフテッドたちの声を取り上げてきた。社会福祉法人で不登校・ひきこもり支援を行っている竹中辰也さんもその一人だ。小学生時代に広辞苑を通読。130を超えるIQを有するが、自己評価は決して高くない。その背景には、特殊な家庭環境と、ギフテッドに広く見られる強い感受性による困難があった。 *  *  *  京都市で、3人きょうだいの長男として育った竹中さん。幼少期から本が好きな子どもだった。 「母によると、昔からとにかく本を読んでいたそうです。ピーターパンやウルトラマンの本も好きでした。アメリカに住むおばが送ってくれた英語版の『3匹のこぶた』を日本語版と見比べて、『この言葉はこういう意味なのかな?』と推し量りながら読むのが、推理ゲームのようで楽しかったのを覚えています。中学受験の勉強が始まった小4からは、家庭内の教育方針が急に『マンガやテレビはダメ。でも新聞や辞典は読んでもいい』と変わりました。そこからよく読むようになったのが広辞苑です。広辞苑って、実は図版なども多く載っていて、結構おもしろいんですよ。結局、小4から小5にかけて、『あ』から『ん』まで読み通しましたね。他に娯楽もなかったので、『こんなに言葉ってあるんだな』と思いながら、毎日ずっと寝る直前まで読んで、広辞苑を枕にして眠りについていました」 【あわせて読みたい】 「障害者はバカでいたらいいのかな」 IQ130台の「ギフテッド」で“ろう”の女性が小学生で受けた理不尽ないじめと葛藤 9歳ごろの竹中さん。林間学校で(画像=本人提供)    言葉への強い知的好奇心を感じさせるエピソードだが、とはいえ、受験勉強がはじまる前はマンガも愛読していた。そのため、周囲の友だちと比べて変わっている自覚は一切なかった。 「自分にギフテッド的な傾向があるか、子どものころは自分では全然わからなかったんですよね。辞書は好きで読んでいただけで、勉強だとも思ってませんでしたから」  ただ、子ども時代を振り返ってみると、ギフテッドらしい面もある。例えば、「想像性OE」はその1つだ。  ギフテッドに広く共通して見られる特性として、過度激動(Overexcitabilities、以下OE)と呼ばれるものがある。神経の感受性が増すことによって、通常よりも刺激を生理的に強く経験する性質を指し、「想像性OE」はその1つの特性だ。  想像力の強さは一般的に称賛されやすい資質ではあるものの、幼い子どもにとっては大変な面もある。竹中さんはこの「想像性OE」が強く、実際には起きないことを想像して、恐怖にさいなまれることが多かったようだ。 「例えば、火山の噴火の映像をテレビで見ると、その日の夜は『もし、近所にある比叡山が爆発したらどうなるのかな?』と頭の中でシミュレートしていましたね。『もし噴火したら、鴨川は防波堤になるのかな?』『マグマを遮断するのは、さすがに無理かもしれない……』と真剣に考えて、眠れなくなっていたんです。今なら調べれば比叡山は火山ではないことがわかりますが、当時は家にはパソコンもなくて……不安になって、泣いたりしては、何とか折り合いをつけている状況でした」 【あわせて読みたい】 小学4年で英検準1級に合格した「ギフテッド」少年の生きづらさ 「正直、学校は好きじゃない」と適応に苦しみ 高校生の頃の竹中さん(画像=本人提供)    ギフテッドに関する専門書によると、ギフテッドの子どもの多くは、想像上の友達やペットがいたり、複雑な構想や劇的なドラマを思い描くことを好むという(『ギフティッド その誤診と重複診断』)。このような想像力の強さは、創作に生かすことができたり心の癒やしになったりすることもある一方で、心に過度な負担をかける場合もある。  また、竹中さんの場合は、父が難病患者だったことも、不安に傾きがちな心に影響を及ぼした。父が30歳の時に遠位型ミオパチーという、筋肉が障害される疾患だと診断されたのだ。日本に400人程度しかいない難病だった。 「きちんとケアをすれば長生きできる病気ではあるのですが、当時は父から病名をはっきり伝えられていませんでした。両親としては子どもたちを不安にさせまいと考えたんでしょうけど……。病気の父と一緒に暮らしていると、『他の家のお父さんよりも早く死んでしまうんじゃないか』と不安になって、あえて父が亡くなった時のことを脳内でシミュレーションするようになりました。不安だからこそ何回もやって、いつか来る現実に対する抵抗力を上げようとしていたんです」  なお、遠位型ミオパチーは遺伝性疾患だが、父親由来の遺伝子と母親由来の遺伝子の両方に変異がある場合にしか発症しない疾患だ。だから、竹中さん自身が将来発症する可能性はなかったが、幼いころはそこまでわからなかった。 現在の竹中さん(画像=本人提供)   「もしかすると、自分も……」  日常生活の中で自然に”死”というものと向き合うようになるなかで、言葉にできない不安を感じたが、両親や友人にはなかなか言えなかった。  ただ、竹中さんの父は、病気で伏せっているばかりではなく、むしろ活動的な人だったらしい。その際たるエピソードは、竹中さんが小5の時に個人塾を開いた、というものだろう。 「小学校4年生の時に学習塾に入ったのですが、そこでトップを取り続けて、飛び級で一番上のクラスまで上がったんです。その結果、それまで僕に勉強を教えていた父が『自分には教える才能がある!』という勘違いをしてしまって(笑)」  父の教育熱が一気に高まった結果、竹中さんは友達と遊ぶことを禁じられ、モチベーションが低下。学力も低下し始めた。また当時は、竹中さんの勉強のことで、父と祖父が対立することもしばしばだった。小6の時には、父が投げたハサミが祖父に当たって、祖父の手首から血が出るといった騒ぎもあったという。 「今思えば、当時の自分はうつになっていたと思います。ものすごいストレスがかかっていて、家の中の物を壊すなどしてしまっていた時期もありました」  その後、竹中さんはなんとか関西の名門・同志社香里中学校に合格したが、個性的な父に振り回されることは中学以降も続いた。 「学習塾を開いたものの、父はマイナスの計算ができず、中学の勉強を教えることができなかったんです。でも、講師を雇う余裕もない……。そこで僕が勉強を教えたり、母が丸つけをしたりするようになりました。ほほ笑ましく思うかもしれませんが、今では『当時の自分は、ヤングケアラーだったんじゃないか?』と思うこともあります。家計を支えるために仕事を手伝わなきゃいけないので、部活にも入れず、好きなゲームもできず、学校から帰ってきたら塾に行って夜の8時ぐらいまで授業を手伝っているような日々でしたから」  もともと周囲に合わせる性格だったうえに、一風変わった家庭環境だったこと。その結果、「自分が抱える不安や悩みは、自身ではなく、この家庭環境に由来するんだろう」と竹中さんは考えるようになった。  今でこそ、それらの一部がギフテッドとしての特性に起因していたとわかるが、その頃はまだギフテッドという言葉も知らなかった。  その後、竹中さんは同志社香里高校を経て、同志社大学に進学。大学で美術学を学んでいたことも影響し、就活では広告代理店を志した。だが縁はなく、最終的に紳士服を取り扱うアパレル系企業に入社した。 「自分はどうして広告を作りたかったのかなと考えた時に、『何らかのマッチングをはかっていけるといいな』と思ったことに気づいたんです。ならば『人材開発』の仕事だったら自分にもできるのかなと考えて、会社では人事の仕事をメインに働かせてもらっていました。ただ、自分が入社した年にリーマンショックが起きたんです……」  翌年の採用人数は400人から100人に減り、その翌年には0人に。人材開発セクションは仕事がなくなり、部署は解体。竹中さん自身も、店頭に立つ仕事に変わった。 「現場では『売り上げを伸ばせ』というプレッシャーを上からかけられていました。県内で3位となり表彰されたこともあったんですが、お客さんのことを考えずに数字ばかり追い求めるのは性に合いませんでした。なにより『周囲に合わせすぎる自分の性格では、あと40年もこの仕事を続けるのは無理だな』と気づいたんです。そこから人生がおかしくなり始めたように感じます」  その後、竹中さんは退職。引きこもり生活に突入することになる。後編では、竹中さんの数年にわたる引きこもり時代と、人生を再生させることになった「あるきっかけ」を聞いた。 (岡本拓) ※【後編】<「自分は能力が低いと思っていた」 IQ132「ギフテッド」38歳男性が「二度の引きこもり」から脱出できた理由>に続く
ギフテッドIQ
dot. 2023/09/23 16:00
中高年ひきこもりの家族も“当事者” 不満を抱え込まず「しんどい」と言える場を
秦正理 秦正理
中高年ひきこもりの家族も“当事者” 不満を抱え込まず「しんどい」と言える場を
ひきこもる40~50代の子を持つ親に加え、最近はその兄弟姉妹からの相談も増えているという。問題を抱え込むのは、当事者も家族も苦しい。「つながる」ことは必要だ    KHJ全国ひきこもり家族会連合会には、さまざまな相談が寄せられるが、ひきこもる40~50代の子を持つ親だけでなく、最近はその兄弟姉妹からの相談も増えているという。AERA 2023年9月25日号から。 *  *  *  夜7時すぎ、都内の雑居ビルの一室では会議が白熱していた。 「この見出しでは当事者に寄り添えていないんじゃないか」 「当事者は支援する人たちの本音が知りたい。そういった記事があってもいいはず」  積極的に発言し、意見をぶつけ合う。KHJ全国ひきこもり家族会連合会がつくる情報誌「たびだち」の編集会議だ。編集部員はひきこもりから復帰した人や、今もひきこもる人、ひきこもりを抱える親などの“当事者”たち。自身の経験を伝えたい、ひきこもる人たちの思いを届けたいと、会議は熱を帯びる。編集長を務める同連合会の副理事長でジャーナリストの池上正樹さん(60)は、笑みをたたえながら聞き手に徹する。 「意識しているのは話しやすい空気づくり。これを言ったらばかにされるんじゃないかとか、意見を述べるのを躊躇してほしくない。本人たちは言葉一つ一つに対して繊細で敏感。それぞれが大切にしていること、思いにきちんと耳を傾けることです」 自分が脅かされる  池上さんのもとには当事者たちからさまざまな相談が寄せられる。ひきこもる40~50代の子を持つ親が、自分の死後の子の将来を案じて相談に来るケースとともに、最近増えているのは「兄弟姉妹からの相談」だという。 「高齢の親と同居するひきこもりのきょうだいがいるが、親が動かない。『いずれ親に代わり自分がきょうだいの人生を背負わなければいけないのか』という不安から相談に来ます。自身にも家庭があり生活もある。それが脅かされるんじゃないか、と」  支援団体とつながる親はまれで、70代、80代の親の中にはひきこもる子を「家の恥」などとして、相談したがらない事例が多い。問題を先延ばしにする中で親は年老いていき、見るに見かねてきょうだいが相談に来る。 いけがみ・まさき/1962年生まれ。ジャーナリスト。著書に『ルポ「8050問題」高齢親子“ひきこもり死”の現場から』(河出書房新社)など    実際に、持ち家がひきこもりのきょうだいに相続され、「自分は社会に出て頑張っているのに、何もしていないきょうだいが相続できるのはおかしい」といった不満をはっきりと口にする相談者も少なくないという。 「当事者の親は動かずにいる一方で、社会の中で現役の働き手として活動しているきょうだいたちは情報も収集する。公的機関はあてにならないと考えれば、民間支援に頼るなど行動に移す人も多いのです」  そして、きょうだいの年齢が40代後半以上であれば、親世代と同様に「社会復帰=働く=正規雇用」という昭和的発想が刷り込まれていて、就労による復帰にこだわりがちだという。 「コロナ禍以降、在宅ワークが増え、雇用形態も多様化しているのに、『ボーナスもない、生活が安定しない』など、新しい価値観に対応しきれていない印象です。そんな時代とのずれも家族関係の不和、ひいては崩壊につながりかねません」  今、「7040」問題予備軍というべき“グレーゾーン”にいる家族は増えているという。内閣府の2022年度の「こども・若者の意識と生活に関する調査」によると、ひきこもり状態にある40~69歳のうち9割以上に就業経験があった。 責める気持ちあった 「精神疾患などが要因のケースもありますが、社会的要因がきっかけの人も多い。職場での人間関係のストレスやコロナ禍で職を失った結果、ひきこもる人もいます。仕事に就けずにいる瞬間を切り取れば、怠けていた、努力が足りなかったと見られ、自責の念に駆られ、追い詰められていく。誰もがひきこもり状態に陥る可能性はあるのです」  実は、池上さん自身も、なかなか自立できずにいる弟を抱える当事者だった。四つ下の弟は人付き合いが苦手で、職を転々としていた。 「語学が得意で夢もあり、弟なりに頑張っているんだろうと思いつつ、なぜ長続きしないのか、努力が足りないんじゃないかと、当時の私はどこかに弟を責める気持ちがありました」 「たびだち」2023年早春号の表紙。イラストは当事者男性が描いた    両親が亡くなると、弟はよりひきこもりがちになった。とはいえ、弟には両親の遺産も家も残り、弟の生活や将来に深刻さをそこまで感じていなかった。 「持ち家には弟が住んでいて、相続等には不公平感も覚えていましたが、仕方がないのではとあきらめていました」  ところが、いつのまにか弟は借金も抱えていた。池上さんは弟をアシスタントとして雇うなどさまざまなサポートを提案したがうまくいかず、最後に会ってから数カ月後、弟は部屋で亡くなっていた。池上さんは自戒も込めてこう話す。 「当時、弟がいることは周囲にあまり言っていなかった。言うとしても少しごまかして話していました。家族のことで『しんどい』と言える場がなく、なんで?という気持ちばかりが先に立ち、弟との対話は十分ではなかったと、今になって思います」 「しんどい」言っていい  死に至る事例は全国各地で起きている。親が亡くなり後を追うように亡くなる。家族間での殺傷事件や心中事件。親が亡くなった後どうしていいかわからないままに時間がたち死体遺棄で逮捕されるケースもある。そうした事態を避けるためには、追い詰められる前に家族が外とつながり、家族だけで抱え込まないことだという。 「家族だけで抱え込むのは当事者にとっても家族にとっても苦しい。同じような経験をした仲間とつながることが効果的です。家族やきょうだいも『一人じゃない』ということがわかって、ほっとできる。医療機関の評判を共有できたり、それぞれの経験を聞くことで気づきがあったりします。家族同士でしかわかり合えないつらさを吐き出して、『しんどい』と言ってほしい」  そう言える場所を見つける。それは家族会でも何でもいい。 「外で家族に対する愚痴を言ってもいいんです。心の中に溜まる思いを吐き出せる場所を見つけられるだけでも、自分を追い詰めないことにつながります」  今春発行された「たびだち」の表紙は、金魚に乗って空を飛ぶ子どものイラスト。その脇にはしゃがみこんで泣いている子どもも描かれている。描いたのは、就業経験はあるが20年以上ひきこもり状態が続く40代後半の男性。池上さんと知り合ったきっかけは母親が家族会の講演に来たこと。「今は息子と話すことができない」と相談された。  池上さんが「お子さんは普段何を大切にしているか」と尋ねると、母親は「物心ついたときからずっと絵を描いている」。見せてもらった絵がうまく、「たびだちで描いてもらえないか」と依頼すると、本人から電話があり、絵を描いてくれた。 「今も会うことはできないのですが、母親も喜んでいました。今は引きこもりながらでも強みを生かして収入を得ることができる。これも一つの社会との関わり方、つながり方ですよね」 (編集部・秦正理) ※AERA 2023年9月25日号
AERA 2023/09/23 07:30
妻から「一緒に日本代表を目指そう」と言われて叶えた夢 「パドルボード」の世界一を目指す夫婦
小野ヒデコ 小野ヒデコ
妻から「一緒に日本代表を目指そう」と言われて叶えた夢 「パドルボード」の世界一を目指す夫婦
堀部雄大さん(右)と堀部結里花さん(撮影/写真映像部・高野楓菜)    AERAの連載「はたらく夫婦カンケイ」では、ある共働き夫婦の出会いから結婚までの道のり、結婚後の家計や家事分担など、それぞれの視点から見た夫婦の関係を紹介します。AERA 2023年9月25日号では、消防士でライフセービング選手の堀部雄大さん、ライフセービング選手の堀部結里花さん夫婦について取り上げました。 *  *  * 夫36歳、妻27歳のときに結婚。長女(1)と3人暮らし。 【出会いは?】妻が大学生の時、夫が所属するライフセービングチームに参画。当時は競技における先輩、後輩の関係だった。 【結婚までの道のりは?】競技を極めるために海外へ行った際のホームステイ先が、たまたま夫も妻も同じだったことがきっかけで親しくなっていった。 【家事や家計の分担は?】家事は基本、できる人ができることをする。夫の夜勤時、妻が家事全般をするため、在宅時は夫が率先して洗濯や料理などを担当している。財布は一つで、妻が管理。 夫 堀部雄大[40]稲城市消防本部 消防士 ライフセービング選手 ほりべ・たけひろ◆1983年、東京都八王子市出身。ライフセービングの競技歴は20年以上。2011年から現職。警防課に所属し、火災や救助活動などにあたったり、救急の現場では救急隊と連携したりする「ポンプ隊」の小隊長を務めている  結婚当初、世界で活躍する妻をサポートする立場を選びました。でも、妻から「一緒に日本代表を目指そう」と言われた時、「自分も同じ舞台に立ちたい」というチャレンジ心が芽生えました。  昨年の「パドルボード」の世界大会に2人そろって日本代表に選ばれ、さらに夫婦で出場したチームリレー部門では銀メダルを獲得。娘を抱いて3人で表彰台に立つことができ、感慨深かったです。  妻はよく、「私らしいママでありたい」と口にしています。人生は一度きり。やりたいことを我慢するのではなく、したいことをすることが大事だと思っているので、彼女の言葉に共感します。  最近、娘は泳いだりボードに乗って波を手でかいたりする様子をまねることも。僕たちが頑張っている姿を見てくれていると感じています。  遠征や大会で1週間ほど海外へ行く際、職場の皆さんがいつも応援してくれます。厳しい勤務態勢の中でも、集中して競技に打ち込めることがとてもありがたいです。 堀部雄大さんと堀部結里花さん(撮影/写真映像部・高野楓菜)   妻 堀部結里花[31]ライフセービング選手 ほりべ・ゆりか◆1992年、東京都八王子市生まれ。大学時代にライフセービングに出合い、選手として活動。2011年から現在まで、日本代表に選出。大学卒業後は、小学校や高校で保健体育教師などの仕事をしながら、競技活動を続けている 「水辺の事故をゼロにする」という目的を持つライフセービングには、競技活動もあります。種目は多岐にわたり、夫と私は今、ボードに乗って手で波をこいでスピードや技術を競うレースの「パドルボード」で、世界一を目指しています。  夫は自分より相手を優先する優しい人で、練習時間を削って私の練習を見てアドバイスをくれます。そんな夫を見ていた時、ふと、「同じ熱量で競技に取り組んだ方が面白いのでは?」と思い、「一緒に表彰台に上りたいな」という言葉がこぼれました。  夫婦で日本代表になると決め、昨年、その夢が叶いました。私は大学時代から日本代表として何度も表彰台に上りましたが、比べものにならないほど、うれしかったです。  日本では、ライフセービングに競技があること自体知られていないと感じます。今後、パドルボードを体験する機会を作り、競技の面白さ、そして、自分の身を自分で守ることの大切さを伝えていきたいです。 (構成・小野ヒデコ) ※AERA 2023年9月25日号
はたらく夫婦カンケイ
AERA 2023/09/22 18:00
難民キャンプの疲れ切った少女が一瞬、微笑んだのはなぜ…写真家・長倉洋海が子どもを撮り始めたきっかけは?
難民キャンプの疲れ切った少女が一瞬、微笑んだのはなぜ…写真家・長倉洋海が子どもを撮り始めたきっかけは?
シラカバが立ちならぶシルクロードの旧街道をロバ車で帰路につく=2009年、中国・新疆ウイグル自治区(撮影/長倉洋海)  これまで68カ国を訪れ、世界中の紛争地やアマゾンなどの辺境の地を中心に取材を続けてきたフォトジャーナリストの長倉洋海さん。彼が子どもたちを撮るようになったのは、ある少女を目にしたことがきっかけだった。各地の子どもたちのいきいきとした姿を集めた写真集『元気? 世界の子どもたちへ』(朝日新聞出版)の発売に合わせ、インタビューを抜粋して紹介する。 *  *  *  世界中のどこへ行っても、最初にぼくを受け入れてくれるのは、子どもたちでした。1980年代、激しい内戦が続き、多くの人が難民となった中央アメリカ・エルサルバドルでも、市場や下町で子どもたちに「やぁ、元気?」と声をかけると、興味津々、笑顔で近寄ってきてくれました。 「写真を撮ってもいい?」  言葉が分からなかったとしても、しゃがみ込んで目線を合わせ、身振り手振りするだけで“会話”ができます。楽しいときにアハハと笑い、悲しかったら涙を浮かべ、ガッカリしたら肩を落とし、心の中のありのままの様子を見せるようにしていたら、子どもたちはいつの間にかぼくを仲間として受け入れてくれるようになりました。  再び訪れたときには、撮らせてもらった写真を持って子どもたちのもとを訪ねると「わぁー!」と大喜びしてくれ、お互いの心の距離がぐっと縮まります。 「ヒロミ、面白いものがあるよ! こっちに来て!」  ぼくの手を引いて友だちに紹介してくれたり、住んでいる家や自分が好きな場所を案内してくれたりします。  最初は警戒して遠巻きに見ていた大人たちも、子どもたちの様子を見て、ぼくに心を開いてくれるようになりました。国境や民族、年齢、性別など大人の世界を隔てている壁が、子どもたちにはないのです。  訪れるたびに子どもたちの知らなかったさまざまな表情を発見できました。その間にも子どもたちはどんどん成長していきました。エルサルバドルの難民キャンプで1982年に出会った3歳の少女ヘスースは現在44歳。あれから夜間学校に通い、農園の仕事に就いて、やがて結婚し、3人の子を持つ母親になりました。そんな子どもたちが、ぼくが撮った写真を、自分の成長や家族の記録として大事に持っていてくれるのを見ると、とてもうれしい気持ちになります。 完成間近の家の前で馬の世話をするベジール=2003年、コソボ(撮影/長倉洋海)  コソボ紛争(1998~99年)では、家を焼かれ一族36人で共同生活をしていたクラスニーチェ家の長男・ザビットの家族に惹かれて撮影しました。4年ぶりに訪れると、一家はトラックの荷台で生活しながら家を建て始めていました。最初に訪れたときには、井戸の中に遺体が折り重なっていたり、家族の遺体を掘り起こしている人がいたり、悲惨な状況でしたが、訪れるごとに厳しかった状況も少しずつ変わっていきました。  一方で、最初の頃と変わらないものもあります。ヘスースは今も幼い頃と同じように相手 の気持ちを和らげてくれるヒマワリのような笑顔を見せてくれていますし、ザビットの一家は小さな家にみんなで仲良く暮らしています。そんな姿にぼくはいつも心が満たされます。 「どうしてぼくだけ…」子どもを撮るきっかけに幼少期の記憶  1980年、戦場カメラマンを目指していた20代のころです。エチオピアの戦火を逃れソマリアにやってきた難民がいるキャンプを訪れたことがあります。  強い日差しが照りつける中で、国境からトラックで難民キャンプに移送されてきて疲れ切って地面に座り込んでいた少女を見つけ、ぼくはカメラを向けたのです。その間、想像していなかったことが起きました。その子がこちらを見てほほ笑んだのです。  どんなにつらい中でも、写真を撮られるなら少しでも元気な自分を見せたい。そんな気持ちだったのでしょうか。それからは紛争地帯でもただ悲しんでいるだけじゃなく、少しでも彼らの心に迫る写真を撮りたいと思うようになりました。  ぼくが撮るのは、思ってもいなかった表情や姿を見せてくれる人々の写真です。なかでも子どもたちが遠くを見るような表情やフッとため息をつく大人のような表情に心惹かれます。子どもたちがいつも元気で明るいばかりではなく、しんどいところもあるんだなと、知ることができるからです。  ぼくが子どもを撮るきっかけになったのは、最初に訪れたエルサルバドルの首都の中央市場でした。一生懸命に露店で母親を手伝って働く子どもたちを見てからです。ぼくが幼い頃、家は商店をしていたので、親と一緒に市場に買い出しに行ったり、店の番をしたりしていました。でも「どうして手伝わないといけないの。みんな遊んでいるのに、どうしてぼくだけ……」と思っていたのです。そんな自分と随分違うなあと感心させられました。 内戦が終わり、平和になったエルサルバドル。市場で働く子どもの姿は減りました=2001年、エルサルバドル(撮影/長倉洋海)  市場で働く子どもたちは客に野菜や果物を売っては母親のところに戻って売り上げたお金を渡し、また次の商品を手にすると元気に駆け出していくのです。  紛争地帯や辺境の地でも「ぼくならつらくてめげてしまうだろうな」と思ってしまうようなシーンがたくさんありました。でも、ぼくが出会った子もたちは下を向いてメソメソするんじゃなく、「負けないぞ」というように踏ん張っていました。そんな姿に、ぼくはたくさんのシャッターを切ってきたのです。  つらいことや悲しいことは、私たちにもあるはずです。でも、何とか乗り越えようとする。その姿が「とても素敵で美しいんだ」とも思うようになりました。 「人は人と出会って過去の自分も今の自分も見えてくるんだ」と思うようにもなりました。写真界のトップに立って「世界のナガクラ」と評価されることを夢見ていましたが、今は「長倉洋海にしか撮れない写真」を目指しています。 (取材・構成/生活・文化編集部 金城珠代)
dot. 2023/09/20 16:00
【下山進=2050年のメディア第8回】『アリスとテレスのまぼろし工場』監督の岡田麿里は29年前あのトンネルを
下山進 下山進
【下山進=2050年のメディア第8回】『アリスとテレスのまぼろし工場』監督の岡田麿里は29年前あのトンネルを
岡田麿里。『アリスとテレスのまぼろし工場』は丸の内ピカデリー他で公開中。(c)新見伏製鐵保存会  配給:ワーナー・ブラザース映画 MAPPA    埼玉県の秩父と東京の間には、山々があり、長いトンネルがある。西武鉄道は飯能からは単線となるので各駅停車に乗り換え、そのトンネルを抜ける。  執筆に疲れた日曜日などふらりと秩父に行くようになったのは、まだ私が編集者だった時代に、岡田麿里さんの本をつくってからのことだ。 『学校へ行けなかった私が「あの花」「ここさけ」を書くまで』という長いタイトルの本で、「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。」や「心が叫びたがってるんだ。」などのヒットアニメのシナリオを書いていた岡田さんの自伝だ。  タイトルからわかるように、岡田さんは、学校へ行けなかった。小学校五年生のころから学校を休むようになり、中学・高校の間はほとんど行けず、5年半、秩父にあった実家の自分の部屋にひきこもっていた。  この本は、編集者だった私にとっては、脳梗塞で倒れたり、はては局長を解任されたりと会社をやめるきっかけとなった出来事が起こった時期につくった本だ。会社をやめるというのはやはり大変なことで、それまでの関係性を社外の人と維持するのは、難しいこともあるのだが、岡田さんは、事情をわかったうえでその後も自然につきあってくれた。  その岡田さんが脚本・監督のアニメ『アリスとテレスのまぼろし工場』が公開された。  これを観て衝撃をうけたこともあって書いているのがこの回。  物語の構造がこれまで見たどんな話とも違う世界観なのだ。  主人公は高校受験を控えた中学生たちなのだが、高校受験の日が来ることはない。山間にある大きな製鉄所に大人たちは働きに出かけるが、ここではもう鉄はつくっていない。黒々とした山々と海に囲まれたその街の外に出ることができない。  かつて都会に出て行く鉄道が走っていた山をくり抜いたトンネルは、閉鎖されている。主人公たちが高校受験の勉強をしていた深夜に、製鉄所で爆発事故が起こってから、そのトンネルをつたって外に出ることができなくなってしまったのだ。 『アリスとテレスのまぼろし工場』より。亀裂の入った冬空の向こうに、満天の星空が見える。それが現実の世界だ。(c)新見伏製鐵保存会  配給:ワーナー・ブラザース映画 MAPPA    そしてその街はずっと冬のまま、季節は固定され、主人公たちも成長せず、街の人々も同じだ。たとえば、事故の時に身重だった女性は、出産することなく、身重のままだ。  そして「変化」は悪いことだとされ、街の人々は、自分を忘れることのないよう自分確認票を書くことが義務づけられている。  というのは、「変化」しようとして夢を持ったりすると、その人間に亀裂が走り、消えてしまうからだ。亀裂はその人間だけでなく街にも走る、そしてその亀裂の向こう側に見える景色で次第に観客は気づいていくのだ。亀裂のむこう側に見える街こそが現実の世界で、そこには時間も流れ、人々も成長していっていることを。  そのまぼろしの街の製鉄所は、鉄をつくっているのではなく、その亀裂をふさぐ神機狼(しんきろう)という煙をつくっている。  その製鉄所の第五高炉は、神聖なる場所とされ立ち入りが禁止されているが、そこには、少女が囲われている。その少女だけには時間が流れ、成長していくというパラドックス。  そしてその少女はトンネルからやってきた。  これまでルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』やC・S・ルイスの『ナルニア国物語』の時代から、むこう側の世界がまぼろしの世界だった。ところが、『アリスとテレスのまぼろし工場』では、主人公たちがいる世界がまぼろしで、むこう側が現実なのだ。  それは不思議な映像で、亀裂がどんどんふさがれなくなってくると、こちら側が冬であるのに対して、同じ街の夏の光景が見えてくる。しんしんとふっていた静かな雪が、主人公とヒロインが初めて心を通わせる(これは変化だ)キスのシーンで、雨音も激しい夏の雨に変わっていく。  暗い冬の街と、夏祭の花火もあでやかな現実の街、それが重なる幻想的な光景。  岡田さんに、試写会のあと「向こう側が現実っていうのがすごい」とラインを送るとこんな答えがすぐに返ってきた。 「思い出したの、昔の気持ち」 「自分だけが皆から外れたとこにぽつんといる感じ」 「私は現実に参加できていないみたいな」  本をつくっていた時岡田さんがふとした話を思い出した。  学校にいけず、ずっと家にいると、自分は変化をしていないのに、たまに電話をしてきたり訪ねてくる友人の話がめまぐるしく未来に向かっていることにたじろいだ、と。前に話をした時あの子は、あの男子が好きで好きでしょうがなかったはずなのに、その人の話はまったく出てこず、別の人に夢中になっている、とか。  映画には武甲山とおぼしき山も出てくる。武甲山を始めとする秩父を囲む山々は、当時の岡田さんにとって、閉じ込められる「緑の檻」だった。  国語の女性教師が、「秩父のセメント業を身を削って支えてきた武甲山に感謝の作文を書きましょう」と言った武甲山を、岡田さんは爆破したいと真剣に思っていた。  本ができてサイン会を池袋の書店で開いたときのこと。そもそも知らない人に会うのが苦手な岡田さんをやっとのことで説得してサイン会をした。固い表情をした少女が「私もずっと学校に行けません」と言って震える手で本を差し出したときに、岡田さんはにこやかに笑ってサインをしたあとで、涙ぐんでいた。  岡田さんに変化が訪れたのは、高校卒業後、長いトンネルを通って東京に出て一人暮らしを始め、ゲームの専門学校に入ってからだ。  ここで、物語をつくる、シナリオを書くという生涯の仕事にめぐりあう。 『アリスとテレスのまぼろし工場』も、第五高炉に閉じ込めていたその少女をトンネルを使って現実の世界に返すというのがクライマックスだ。  現実の世界を汽車がひた走るラストの映像は、18歳の自分自身へのオマージュでもあるのだな、と思った。  29年前に一人の少女が、あの部屋を出て、トンネルを抜けて未来へ向かったのだ。     下山進(しもやま・すすむ)/ノンフィクション作家・上智大学新聞学科非常勤講師。メディア業界の構造変化や興廃を、綿密な取材をもとに鮮やかに描き、メディアのあるべき姿について発信してきた。主な著書に『2050年のメディア』(文春文庫)など。 ※AERA 2023年9月25日号
下山 進
AERA 2023/09/19 11:00
「ぼくはゴリゴリの大阪人」 百々俊二の写真家人生50年と松本清張、田辺聖子、中上健次との出会い
米倉昭仁 米倉昭仁
「ぼくはゴリゴリの大阪人」 百々俊二の写真家人生50年と松本清張、田辺聖子、中上健次との出会い
撮影:百々俊二    9月16日から入江泰吉記念奈良市写真美術館で百々(どど)俊二さんの写真展「よい旅を 1968-2023」が開催される。そこに飾られる作品は50年以上にわたる写真家人生の軌跡である。 1968年1月、当時、九州産業大学芸術学部の学生だった百々さんは長崎県佐世保市を訪れた。 「あのころはベトナム戦争の時代で、佐世保で『原子力空母エンタープライズ寄港阻止闘争』というのがあったんです。野宿するような感じで滞在して反対闘争を撮った。そこで、ぼくは写真家になろうと決めた」と、百々さんは振り返る。  47年、大阪生まれの百々さんは高校時代、「アサヒカメラ」や「アサヒグラフ」をよく見ていた。 「父親が朝日新聞に勤めていたので、タダで手に入ったからね。将来は何か表現に携わりたいな、と思ったけれど、絵では日本画家の兄貴にかなわない。それならば写真かな、っていう感じでした」  福岡県・博多にある九産大と、東京の日大芸術学部を受験すると、両方に合格した。 「でも日大には行かなかった。ぼくはゴリゴリの大阪人ですから。それに、受験で行った博多がすごくよかったんですよ。路面電車に乗ると、博多弁でしゃべっている女子高生がめちゃくちゃかわいい。ラーメンもうまいしね。それでもう、ここに来ようと、単純に思った」 撮影:百々俊二    しかし、九産大の写真学科に入学したものの、具体的に何をするのかは決めていなかった。 「そんなとき、佐世保へ行って、『ああ、これやな』と思った。とにかく、(リアリズムを追求した写真家)土門拳が好きでしたから」  とは言っても、報道写真家を目指したわけではないという。 「どちらかといえば、作家志向だった。まあ、そんなふうにしてぼくの写真家人生が始まったわけです」 松本清張とロンドンへ  百々さんは「土門拳がいいな」と思いつつ、「アレ・ブレ・ボケ」の写真で知られる森山大道にも強く引かれた。 「今でも鮮明に覚えてますけど、本屋の写真コーナーに行ったら森山さんの写真集『にっぽん劇場写真帖』(室町書房、68年)が平積みにしてあった。1冊980円。ラーメン1杯100円のときです。それを2冊買って、1冊はボロボロになるくらい見た」 撮影:百々俊二    大学を卒業した70年、百々さんはロンドンを訪れ、「アレ・ブレ・ボケ」の写真を実践した。「ハイドパークとか面白くて、ずっと写真を撮っていた」。  実は、ロンドンを訪れたのはテレビのクイズ番組の賞品だったという。 「弟が毎日放送のクイズ番組にぼくの名前で応募したんです。そうしたら『変わった名前だからオーディションに来てくれ』みたいな感じで、行った。そうしたら、予選でトップになって、本戦に進んだ」  10問連続正解すればロンドン・ローマ旅行である。 「ぼくは10問連続正解したんです。それでロンドンとローマにタダで行けた。天国みたいなもんですよ。あちこち観光名所をまわる予定をすべて断って、夜、ホテルに帰る以外はカメラを手に街を歩いた」  ロンドンの街を写した作品は「カメラ毎日」に掲載された。すると、「その写真を松本清張さんが見たんです。それで、『ロンドンの小説を書くから、もう1回、行かへんか』と誘われて、一緒にまた行きました」。 撮影:百々俊二   田辺聖子が書いた序文  このころ、百々さんとしては珍しくヌードを撮影している。 「このヌードの写真は彼女です。この人がぼくの奥さんになるわけです」  72年、結婚を機に大阪へ戻り、本格的に地元の撮影を始めた。浪速区・新世界の界隈、特に西成地区を歩いた。最初は35ミリカメラを使っていたが、80年代に入ると中判カメラの二眼レフでも撮り始めた。 「35ミリカメラでは人とすれ違うようにスナップ写真を写していた。でも、そうではなくて、労働者のおっちゃんやら、出会った人としっかりと向き合って撮らんとあかんな、という感じで、会話しながら二眼レフで撮るようになった」  写した写真はプリントして撮影のたびに持ち歩いた。 「撮った人に出会ったら写真をあげる、ということをやっていた。みんな、どこに住んどるかわからへんからね。『あいつ、写真くれよるで』って、知られるようになりました」  そんな写真を作品集『新世界 むかしも今も』(長征社、86年)にまとめた際、序文を芥川賞作家の田辺聖子に依頼した。かつて田辺の実家は大阪市・中之島近くで写真館を営んでいた。 「田辺さんに、新世界の写真を撮っているから写真集の序文を書いてほしいと、手紙を書いたら、写真が見たいから持っておいで、と言う。ご自宅を訪れると、若い人がこんな写真を撮ってるのはおもろい、言うて、すぐに書いてくれはった」 撮影:百々俊二   紀伊半島と中上健次  百々さんの代表作、紀伊半島シリーズを撮り始めたのは90年。 「みんながやってない方法を考えないと、しゃあない」と思い、それまで使ってきた小型カメラからエイトバイテン(8×10インチ)という巨大なカメラにがらりと切り替えた。 「細部まできっちりと被写体の世界を写せる大判カメラを使って、スナップショット的に撮ろうと思った。1分もかからずに、ピントを合わせて、フィルム入れて、カシャっと撮る。そのうえで、しなやかに、手のひらでふわっととらえるような感覚で撮影する。それを自分の思いだけでとらえるんじゃなくて、向こうの世界っていうんかな、それをとらえな、いかんなと思った」  そのころ、紀伊半島を撮影した写真家はほとんどいなかった。紀伊半島は遠く、あまりにもスケールが大きかった。 「高速道路が全然なかったころです。大阪の写真学校の仕事を9時ごろ終えて、それから車でダーッと山道や海岸沿いの道を走ると、現地に朝の4時~5時ごろ着いた」  撮影を始めてしばらくすると、紀伊半島を舞台に数々の作品を書いた中上健次と出会った。中上は熊野古道で知られる和歌山県新宮市出身である。 「当時、中上さんは大阪・天王寺でミニコンサートをプロデュースして、都はるみが歌ったりしていた。ぼくはそれを聞きに行って、中上さんと会った。こんなことをやってるんや、言うたら、『紀州 木の国・根の国物語』(角川書店)を送ってくれた。集落での職業とか、路地の話とか、非常に詳しく書かれている。この本は紀伊半島を撮る資料というか、相当力になりました」 撮影:百々俊二   濃密な地霊のようなもの  百々さんは紀伊半島を車で走りながら、集落の家々や自然の雰囲気を観察した。「ここが、いいな」と感じると、車を止め、三脚につけたカメラを担いで徹底的に歩いた。 「紀伊半島の山はすごく深い。それが魅力なんですが、深い山の中にぽつぽつと集落があって、炭焼きをしたり、牛や馬のなめし革を作ったり、いろいろななりわいの生活がある」  三脚に取りつけた大判カメラを持ち歩いても、山村の住民はそれがカメラとはわからない。 「まあ不審者です。ははは。紀伊半島の後、大阪の路地をこのカメラで撮っていると、『おっさん、この辺は何か、道路を拡張するんか。測量機か』って言われた。それは紀伊半島の撮影でも同じで、みんな不思議がった。カメラだと納得してもらうためにピントグラスに映った写す対象をのぞかせると、『いやあ、おもろいなあ』って。そこで『撮らしてよ』言うと、『ああ、いいよ、いいよ』という感じになった」 撮影:百々俊二    95年、写真集『楽土紀伊半島』(ブレーンセンター)を出版。しかし、心残りがあった。 「この写真集はモノクロで撮ったんですが、それだけでは物足りない、という気持ちがあった。紀伊半島には光と闇というか、不思議な暗さがある。濃密な地霊のようなものが漂っている感じがするんですよ。そういうものを写すにはカラーのほうがいいな、と思った」  カラーで紀伊半島を撮り終えたのは99年。翌年、写真集『千年楽土』(同)を送り出した。 手のひら合わせた記念写真  生まれ育った大阪の街を大判カメラで撮り始めたのは2007年。同じ年、百々さんは不思議な写真を撮影している。そこには、ブレた二つの手のひらが写っている。 「ああ、それは還暦の記念写真ですわ。ぼくの手のひらと、奥さんの手のひらを合わせて、ちょっとブラして、ちょっとじっとせい、っていう感じで、2人で練習して写しました」 (アサヒカメラ・米倉昭仁) 【MEMO】百々俊二写真展「よい旅を 1968-2023」 入江泰吉記念奈良市写真美術館 9月16日~11月26日
アサヒカメラ百々俊二入江泰吉記念奈良市写真美術館写真展写真家
dot. 2023/09/15 17:00
阪神「元エース」が東京・新橋の居酒屋で迎えた歓喜の瞬間 常連たちに支えられ「夫婦」で号泣
上田耕司 上田耕司
阪神「元エース」が東京・新橋の居酒屋で迎えた歓喜の瞬間 常連たちに支えられ「夫婦」で号泣
阪神優勝で感極まる元エースの川尻哲郎さん(右)と妻の陽子さん(撮影/上田耕司)    18年ぶりの阪神タイガースのセ・リーグ優勝で沸いた14日。なかでも、ひときわ熱気を放つ店が東京・新橋にあった。阪神の元エース・川尻哲郎さんが経営する居酒屋「タイガースタジアム」だ。  試合開始後の18時半ごろに店内に入ると、すでに満席。記者は立ち見で取材したが、ファンたちの熱気で空気が薄く感じるほどだった。  阪神が得点するたびに店内からは大きな歓声が上がる。4点目を追加した7回裏には、黄色の風船が一斉に飛び交った。  いよいよ9回に入ると、あと3人、2人、1人とカウントダウンが始まった。途中で膨らませ過ぎた風船が暴発する音がするハプニングがありながらも、「アレ」の瞬間に向けて店内のボルテージが一気に高まっていく。  そして、9回裏。2アウトから巨人・北村をセカンドフライに打ち取った瞬間、歓喜の瞬間が訪れた。  白い風船が宙を飛び交うなか、川尻さんのもとに妻・陽子さんが駆け寄り、2人はがっしりと抱き合った。陽子さんは目に涙を浮かべ、哲郎さんの胸に頭をつけて号泣。哲郎さんも泣いている。夫婦で3年間、店を切り盛りしてきて、夢に見た瞬間だった。  哲郎さんはこう話す。 「このお店を開いて、これだけみんなが喜んでくれて、この日を迎えられてよかった。本当にうれしいです」  日本シリーズ優勝に向けては、 「クライマックスシリーズ(CS)は油断はできないけど、(阪神が)有利だと思います。日本シリーズはオリックスが相手なら、投手陣が強いので接戦になると思うけど、日本一を狙ってほしいですね」 【あわせて読みたい】 阪神・岡田監督が星野仙一超える“名将”か 戦略家の「知られざる素顔」とは 喜びを分かち合うように抱き合う川尻夫妻(撮影/上田耕司)    妻の陽子さんもこう続ける。 「待ちに待った“アレ”でしたから。気持ちが込み上げてきて、泣が止まらなかった」  店内にいるファンからも「ありがとう、ありがとう、川尻さん」とコールが鳴りやまなかった。  川尻氏が現役時代につけていた背番号「19」のユニフォームを着ていた安井元晶さん(61)はこう言った。 「私は寅(とら)年生まれで、西宮出身。私が生まれた1962年は阪神が優勝した年でした、もう最高です」  店の常連だという岩崎誠(61)さんは、「阪神優勝」と書かれた手作りの扇子とユニフォームを着て応援していた。 「私も1962年生まれで、2003年も2005年も甲子園にいた。今年は川尻さんと一緒に優勝を見ることができてうれしい。だって、川尻さんはかつて阪神のエースだった人ですよ。その川尻さんと優勝を分かち合えるなんて、本当に感謝しかありません」  過去の阪神優勝を知っている年配者だけでなく、若い人の姿もあった。立命館大学3年の酒井翔真さん(20)は、奈良からこの店に駆けつけたという。 「昨日は甲子園にいました。ファンのみなさんが心の底からエネルギーを放出している感じで、すごい熱気でした。岡田監督は“アレ”を封印すると言ってましたが、もう『日本一』でいい。かっこいいと思います」 【あわせて読みたい】 18年ぶりの優勝で伸びる意外な「阪神関連銘柄」は? 関西景気の恩恵や語呂合わせ効果も 優勝が決まった当日のタイガースタジアムの店内の様子(撮影/上田耕司)    翔真さんの父・宏一郎さん(47)は台東区在住で、店の常連。14日は人手が足りないので、ボランティアで店を手伝っていた。 「言葉にできないですね。もう涙が止まらなかったです。この18年間で、優勝を逃したのが2~3回あって本当に悔しい思いをしてきました。今年、岡田監督になって期待をしていたらその通りになってくれたので、その思いが爆発して涙が止まらなかった。たぶん、社会人になって初めての涙です。常連のメンバーと一緒に野球を見られて、喜びを分かち合えて、本当に幸せです」  同じく店の常連で、森下翔太選手の背番号「1」のユニフォームを着ていた田中孝さん(50)さんは興奮気味にこう話す。 「明日は仕事で来られへんかったから、絶対に今日優勝してほしかった。しかも、裏で広島とヤクルト戦をやっていて、その試合が終わるよりも早く、阪神が優勝を決めたのがナイスやった。今日はホームの甲子園で巨人に勝って優勝してほしかったし、巨人もそうされたくないから必死なのはわかった。本当にいい試合だった。長いペナントで優勝したんだから、もう95%達成。CSや日本シリーズはエクスビジョンやで(笑)」  今年、阪神が強くなったポイントについてはこう分析した。 「岡田監督に尽きる。査定額をフォアボールで出塁してもヒットと同じように30万円~100万円(推定)に上げたことは大きかった。あと、岡田監督は友達野球ではなく、上下関係があんねん。いい悪いは別として、それでしっかりとしたメリハリのあるチームをつくった。“アレ”っていうのはオリックス時代から言っていたけど、阪神に来てキャッチフレーズに仕上げたね」 優勝の瞬間には白い風船が宙を舞った(撮影/上田耕司)   「タイガースタジアム」では野球部をつくっており、オーナーの哲郎さんが監督を務めている。部員の1人である斎藤真吾さん(46)はこう話す。 「感無量です。もの心付いたときから阪神の帽子をかぶって少年野球をやっていました。バースがいたころからずっとファンです。今年は岡田監督がうまく選手を使っていたので、安心して見ていられました。調子が悪い選手をカバーする選手がいたことも大きいと思います。たとえば大山悠輔がダメなら佐藤輝明がカバーして、近本光司がケガした時には森下がいてくれた。CSはこのままの勢いで行くでしょう。というか、行ってくれないと困る」  夫婦で応援に来ている人もいた。豊島区から来た40代の夫婦は、夫が阪神ファンだという。 「私はファンというわけではないのですが、夫が『来たい』『優勝したら泣いてしまう』と言うので一緒に来ました。きょうは夫の12月のバースデーの前倒しプレゼントですね」  店に集ったそれぞれの人が、18年間の思いを抱えながら、歓喜の美酒に酔いしれていた。阪神のネクタイをした男性は「きょうは朝まで飲むつもりです。帰りたくないです」と話したが、店内の盛り上がりはしばらく収まりそうになかった。  店の外にでると、新橋の街はいつもと変わらない様子だった。だが、ガールズバーの呼び込みをしていた20代の女性はこんな“変化”を口にした。 「今日は阪神のユニフォームを着た人たちをちらほら見かけましたね。近くで外飲みをしていた人たちはパブリックビューイングを見て『ワーッ』と歓声を上げて盛り上がってましたよ」  大阪のような“騒ぎ”とはならないが、東京の阪神ファンにとっても、熱い一夜となった。 (AERA dot.編集部・上田耕司)
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dot. 2023/09/15 12:57
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