藤真利子「長生きしたらまったくもたない」 介護で感じたお金の不安
藤真利子(ふじ・まりこ)/1955年、東京都生まれ。聖心女子大学文学部歴史社会学科在学中の77年、ドラマ「文子とはつ」でデビュー。78年の「飢餓海峡」でゴールデンアロー賞最優秀新人賞などを受賞。出演作に映画「もどり川」「薄化粧」、舞台「アマデウス」「テンペスト」「テレーズ・ラカン」「リチャード三世」など。昨年、自身の母を11年間介護した経験をつづった『ママを殺した』を上梓。現在、NHK大河ドラマ「西郷どん」に大久保利通の母、大久保福役で出演中。(撮影/関口達朗、ヘア&メイク/Eita(Iris))
作家・林真理子さんとは長年のご友人の藤真利子さん。2016年11月、最愛のお母さまを亡くされましたが、実はそれまで11年もの間、介護生活を送っていたのです。その看病の様子は著書『ママを殺した』に描かれています。仕事との両立、お金の不安、在宅介護の難しさなど、赤裸々に語ってくれました。親を持つすべての人、必読です。
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林:壮絶というか、よくここまで正直に書いたな、というのが私の感想です。もっとラクな方法、たとえばお母さんを施設にあずけて、女優さんとしてのお仕事をするという道もあったと思うんだけど、ここまで在宅でやるのかと思って、ショックを受けた人、多いと思いますよ。
藤:母と私って、ふつうの人とはちょっと違う生き方をしてきたと思うのね。二人三脚みたいに生きてきたから、母と離れていることがすごくつらかったの。だからあの本は介護の本じゃなくて、半分は私の半生、あと半分は介護なんですね。私は自分で本を書きたいと思ったわけではないんだけど、2016年の11月に母が亡くなって、たまたま葬儀の翌日にAbemaTVの「徹の部屋」という見城徹さん(幻冬舎社長)の番組に、林さんと私が出たのよね。
林:はい、一緒に出ました。
藤:そのときに母について私が話したら、それを見たTBSのプロデューサーから「爆報!THEフライデー」という番組に出てほしいと言われて。それで出たら、それがとっても視聴率がよかったみたいで、今の事務所の社長から「本を書きませんか」と言われたんです。母の半生は波瀾万丈で、頑張って生きてきたしるしを残したい気持ちはあったんだけど、まさか自分で書くとは夢にも思ってなくて、書けるとも思ってなくて、「えっ!」と思ったの。
林:ええ。
藤:林さんはいろんなところで私を応援してくださって、前の事務所をやめたときにも「相談したら?」って見城さんにも連絡してくださって。見城さんにもとてもよくしていただいているから、本ならまず見城さんに相談しようと思って、「爆報!THEフライデー」のDVDを送って見ていただいたの。そしたら「赤字はイヤだ」と言われて……。
林:まあ、ずいぶんキツいことを言いますね。
藤:「オビは林真理子とユーミンだ」と、まずオビから始まったんです。
林:貴乃花親方もオビに書いてましたね。
藤:貴乃花親方からたまたま電話かかってきたときに、そうだ、と思って「光司君、ママと一緒に撮った写真、使ってもいいかな。今、本を書いてるんだ」と言ったら、「真利子さん、ベストセラーですね」とか言って、「オビ書かせてください」って向こうから言ってくれたの。
林:いい人じゃないですか。昔からおすし食べに連れてってあげたりしたんでしょう?
藤:そうよ。そして見城さんはいやいや担当の編集者を決めてくれて、私が10時間ぐらい話して、ライターさんがそれをまとめるというやり方でいったんは決まったの。でも私、「ちょっと待ったァ!」みたいな感じで、母と私とのいろんなこと、たとえば林さんにも言ってないし、昔からの友達にも言ってないし、私の彼にも話したことがないようなことを、知らないライターさんにしゃべれるかなと思ったの。
林:それはそうですよね。
藤:それで「やっぱり自分で書いてみます」と言ったの。編集者にはちょっとテストをされて、「だったら最初の『はじめに』を書いてください。それによって、この本をどんな本にしたいか、スタンスが決まる」って言われて。
林:プロの言葉ですね。
藤:それで「はじめに」を書いたんだけど、すごく短い文章だったので、これだけじゃ“審査”に通らないなと思って、第1章のあたまの、私が舞台に行っている最中に母が脳梗塞で倒れた日のことを書いて送ったの。そしたら「このまま書き進めてください」と言われて、ドラマのお仕事の合間に必死に書いたんです。私、何十枚かの原稿は書いたことあるけど、あれだけ長いものは書いたことがないでしょ。200字詰めの原稿用紙に手書きで書いたんだけど、「500枚」と言われて、最終的に504枚であげたんです。
林:本を書いたことがない人が、手書きで500枚って大変だと思う。
藤:林さんと同じで腱鞘炎みたいになって、始めたころは最後までもつかな、と思いました。でも、とりつかれたみたいになっちゃって、こっくりさんみたいに手がどんどん動いちゃうのよ。
林:私、だからパソコン使わないの。パソコンだとこっくりさんが来ないけど、手書きだと来るんです。いいことおっしゃる。
藤:そして1年後の母の命日(昨年11月7日)に発行できたんです。見城さんには「赤裸々に書け」と言われてたから、そのためには小さいときのこともちゃんと調べなきゃいけなくて、父(作家の故・藤原審爾さん)のお弟子さんとか、母の親戚に聞きに行ったり、私が中学生のころから母が倒れる年までの手帳があったので、それを見たり、あとはパスポートとか、(雑誌の古い切り抜きを取り出して)林さんと初めて会ったときの記事とか、香港に行ったときの写真とか……。
林:あ、若い! 私たち、女学生のようじゃないですか(笑)。藤真利子さん、ほんとに美しい。
藤:母がファイルしてくれてたの。そして(大学ノートを何冊か取り出して)これが介護ノート。母が倒れて、病院からうちに連れて帰ったその日から亡くなる日までの介護ノート。これはその一部で、全部で65冊あるの。「食事」「飲水」「熱」「血圧」「脈」「尿」……。
林:(パラパラと見て)「便 150」って書いてあるけど、在宅で測ってるわけ?
藤:うん。医療処置で管で尿瓶に取るから、量が測れるの。
林:すごい。女優さんしながらよくやりますね。たとえば夜、お仕事の帰りにちょっと飲んだとき、「イヤだな、また帰ってママの面倒見るの」とか思わなかった?
藤:ぜんぜん思わなかった。というか、ヘルパー代が結構なものなんですよ。うちは11時から夜の7時までが基本なんだけど、私が仕事のときに早く来てもらったり、外で食事して帰りが遅くなったりすると、その分ヘルパー代がかかるじゃない。だから仕事のとき以外は、なるべく夜は外に出ないようにしていた。
林:観月ありささんの結婚式でバリ島に行ったら、火山が爆発して帰れなくなって大変だったんでしょう?
藤:そう、あれが顕著な例。母は脳梗塞の後遺症で右半身不随で、口がきけなくて、「あーあー」とか「うーうー」とか言うのを、私たちが読み取るわけよ。あのときは母の状態がよくて、手を振って「行け、行け」みたいなサインをしたのね。それと、ヘルパーさんたちも「行かせてあげよう」という空気になって、みんなが協力してくれたの。それでお言葉に甘えて行ったわけ。
林:何泊したの?
藤:3泊して、次の日の夜中の12時に乗って日本に帰る予定だったんだけど、帰りの飛行機に乗る寸前に「飛ばない」ってことになって、しかも、その前の爆発では1週間飛ばなかったという情報があったわけ。どうしようと思って、あちこちヘルパーさんに電話して土下座するというのも変だけど、土下座するようにお願いして、やっとのことで一日一日埋めていって、2日遅れぐらいで帰れたの。それはまあ大変なことだった。
林:一人っ子だし、ご親戚はいないんですか。
藤:いるんだけど、母の面倒をみるのは、慣れたヘルパーさんしか無理だったのよ。誰かいればいいってものじゃないのね。しゃべれないし、医療処置もあるから。
林:藤真利子さんは有名作家のお嬢さんで、聖心女子大を出て、すぐに売れっ子になり、何の不自由もなく暮らしてきたというイメージがあるので、こんな壮絶な介護をされていたと知って、びっくりしました。
藤:この話をすると、「そんな苦労をしてたようには見えなかった」って言われるんだけどね。あとは、お金の心配ですよ。介護の途中できちんと計算すると、この速度でこれだけのお金がなくなっていって、母が長生きしたらまったくもたないんですよ、うちの財政は。だからといって死んでほしいとは思わないし……。
林:うちの母のときもそう。母が94歳のときに、大手企業の部長をしていた弟が介護離職したの。母のこれからの人生は「プレミアム」だから自分が介護をすると言って。でも、まさか101歳まで生きると思わないから。弟にはかわいそうなことをしました。
藤:これは介護をしている人の宿命というか、お金と生きる年月とを照らし合わせるみたいな、それがすごくイヤなのよ。残酷。私の場合は、じゃあどうしようと思って、まずいちばんは自分が切り詰める。
林:でも、女優さんだから、流行のお洋服とかも必要だし。
藤:何の興味もなくなっちゃった。着物はたくさんあるけど、私、自分で半襟もつけられないのよ。倒れるまでは母が着せてくれてたんだけど、倒れてからは着付けの先生と、着物の髪ができる人に頼んだら、なかなかお金がかかるでしょ。そんな余裕もないの。自分のものから切り詰めていくしかない。でも、そんなに切り詰められるものじゃないの。毎月出ていくお金って確実にあるのよね。
林:お誘いだってあるわけでしょう? 「飲みに行こう」とか「食事に行こう」とか。
藤:お世話になった方にお誘いを受けるときは、まかせても大丈夫なヘルパーさんの日。林さんと会うときも、6時とかの早い時間に会って10時半か11時にうちに着くようにして、ヘルパーさんが終電に間に合うように、みたいな形でやってきたのよ。帰り際にタクシーを拾ってくれる人もいるんだけどね、お金がかかるからいちばん近い駅で降りて電車に乗って帰ってた。たとえば六本木で乗ると四谷で降りて電車に乗ったり。
林:そうなの? 知らなかった。
藤:最近は、女優をやっていても制作費がだいぶ少なくなって、たくさん出ても「えっ?」という収入だったりするしね。
林:華やかなスタジオから帰ってきて、その落差に愕然とすることはなかったですか。よく切り替えができるなと思う。
藤:朝、母の世話をしているときに、「きょう来る帝劇のお客さん、私が朝こんなことをしているなんて誰も思わないだろうな」と思ってた。私は世間的には内緒にしてたのね。そんな私的な事情でNGを出すなんて、プロっぽくなくてイヤだなと思ったので、スタッフには「一切伏せてください」ってお願いしてたの。もちろん仲のいい林さんとか見城さんとかユーミンとかには話をしてたけど。
林:施設に入れようとは一度も思わなかったんですか。
藤:入れようとしたの、最初は。だけど重度すぎて入れなかった。最後の最後に病院にお世話になったときに療養型病院を紹介されたんだけど、今度は、うちの母の程度はいちばん軽いの。脳梗塞の後遺症で動けないし、しゃべれないし、自分では何もできないのに、いちばん軽いって。
林:そうなの?
藤:私がいないあいだ、病院に2週間あずかってもらったとき、褥瘡(じょくそう・床ずれ)にされちゃったのよ。その褥瘡の処置だけのために療養型病院が受け入れてくれるって。そして「褥瘡が治ったら出ていってください」って。「出ていくって、どこに行ったらいいんですか」と聞いたら「紹介します」って言うの。そうやってたらい回しにされていくわけ。それが嫌で、家に連れて帰ったの。
(構成/本誌・直木詩帆)
※週刊朝日 2018年2月23日号
週刊朝日
2018/02/16 11:30