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「幸齢者」になりたい! 達人が示す「人生後半戦」の極意
「幸齢者」になりたい! 達人が示す「人生後半戦」の極意
綾小路きみまろさん 「人間万事塞翁が馬」──。何が幸せをもたらすかは、後になってみなければわからない。齢(よわい)を重ねて充実した生活を送る「幸齢者」たちは人生の何に重きを置き、どんな日常から今の境地にたどり着いたのか。幸せのヒントを探した。 *  *  * ■この年になって人生もうひと花咲いた “幸せの好循環”手に入れた大崎博子さん 公園を散歩する大崎さん(写真・林ひろし)  御年89。雨の日以外は毎朝、仲間と太極拳を楽しみ、1日8千歩歩く。気の置けない友人と楽しむ趣味のマージャン、おしゃれにも気を使い、毎晩の晩酌は欠かさない。娘や孫に影響されてファンになった東方神起やBTSの動画を見て、韓流ドラマに熱中する──。もうすぐ卒寿を迎える女性が、そんな日々をツイッターでつぶやいている。現在、フォロワー数は17万人超え。今年2月には初の著書『89歳、ひとり暮らし。お金がなくても幸せな日々の作りかた』(宝島社)を出版し、あっという間に増刷された。  まさに“スーパーおばあちゃん”としか言いようがない、それが大崎博子さんだ。 「日課のウォーキングをしていると、“本を読んだよ”とか“ツイッター見てるよ”と声をかけられることが増えました。とてもうれしく思います。この年になると昔からの友達のほとんどは“あちら側”に行っちゃってるのに、私はまだこうして元気で好きなことをして、新しいお友達までできて、幸せです。この年になって人生にもうひと花が咲いた感じ。自分でもすごいことだと思います」  大崎さんは78歳のときパソコンを習い始めた。ツイッターを始めたのもそのころだ。娘に「おもしろいから」と言われてやってみたが、当初は娘以外に誰も反応してくれなくて、おもしろいとは思わなかった。 「ところが、その後に起きた東日本大震災で、電話がつながらなかったのにツイッターなら連絡が取れることがわかって、本格的に利用し始めたんです。原発事故への怒りをツイートしたら、ネットニュースで取り上げられて、一気にフォロワー数が増えたんです」 週刊朝日 2022年8月19・26日合併号より  それ以来、日常のこと、自身の戦争体験についてつぶやくたびにフォロワー数が増えていった。 「ウォーキングや太極拳、マージャン、オシャレやお掃除も大好き。それにツイートしたり本を書いたり……私は好きなことばかりをしているわけですが、そのおかげで若い友達もたくさんでき、それがまた幸せを生む。でもそれができるのは健康だから。健康だからこそ幸福を感じられるんだと思っています。だって、どこか痛いところがあったら、晩酌だって楽しめない。健康なら医療費も少なくて済むから、お金だってあんまりかからないのよ。年金で十分」  大崎さんに、幸せのために重要と考えられる五つの要素とその重要度を5段階で評価してもらったのが、「幸福チャート」だ(以下同)。健康だから趣味を楽しめる、趣味を楽しむから友達もできる、趣味を通して体も心も健康になる。  年を重ねてなお新たな出会いや気づきを得ている大崎さんは、「幸せの好循環」を手に入れたようだ。 ■TikTokでぎこちないダンスが大ウケ 「幸せ」お裾分けする岡山の「おじキュン!」 前列左がりょうちゃん(黄)、右がみのちゃん(赤)、後列左がとーちゃん(緑)、右がけんちゃん(青)  幸せを周囲にお裾分けする立場の人は、どんな幸福観を持っているのだろうか。そんな疑問がわき、いま若者に人気のSNS「TikTok」で流行のダンスを披露している、岡山県和気町の中高年グループ「おじキュン!」に話を聞いた。  メンバーはそれぞれ、カラーの腹巻き姿で話題の「きつねダンス」などを披露する。赤腹巻きのみのちゃん(67)、黄腹巻きのりょうちゃん(66)、青腹巻きのけんちゃん(52)、緑腹巻きのとーちゃん(52)の4人だ。  総再生数は1600万回、フォロワー数4万人超で、多くのメディアに取り上げられた。  そもそものきっかけは、少子高齢化がいや応なく進む和気町で、自分たちの手でどうにかして町おこしができないかという、とーちゃんの思いに賛同して4人が集まったこと。今年1月に「おじキュン!」を結成し、ぎこちないダンスを披露したところ大きな反響があった。 週刊朝日 2022年8月19・26日合併号より  塾講師をしながら町議会議員を務めるりょうちゃんはその反響を喜ぶ。 「ネットの力を痛感しました。あっという間に再生回数が伸びていく。町を歩いていて話しかけられたり、一緒に写真を撮りたいと言われたり、うれしい限りです(笑)。次も頑張ろうというやりがいも得られました」  りょうちゃんは去年、2度目の結婚をした。 「それは幸せなことですよ。この年で伴侶を見つけられたというのは大きな喜び。おじキュン!での喜びとはまた別の幸せです。この年になると自分の幸せよりも、周りの人が笑顔になったり喜んでくれたりするほうが幸せを感じられますから」  自分が町に貢献しているという実感が得られるのがうれしい。そう話してくれたのは、庭園業を営むとーちゃん。 「SNSを使った新たなチャレンジのために、4人で集まって練習するのが部活動みたいで楽しい。メディアにも紹介され、地元のイベントに出演したり、他県の自治体からもお声がけいただいたりするなど、町の認知度アップに少しは貢献できて、やってよかったと幸せな気持ちです」  やはり町議会議員のみのちゃんは、生きがいがお金より大切だと言う。 「みんなに楽しんでもらえて、おじキュン!はもう生きがいだね。お金なんかよりずっと大事。今は和気町と子供たちの将来を考えるのが一番幸せ」  畳材料総合卸業を営むけんちゃんは、今後の夢をこう語る。 「和気町と同じように高齢化問題を抱えている自治体で、いろんなおじキュン!が誕生したらいいなぁと思う。そうなったら全国大会を開きたいね」  いかにも楽しそうに話す「おじキュン!」。動画から「幸せ」感がみなぎっているのは、彼ら自身が奉仕と生きがい、仲間から得られる喜びにあふれているからだった。 ■「幸福度」ランク1位埼玉・鳩山町 「陸の孤島」で見えたつながる仕掛け 多くの高齢者が利用する「はとタク」  高齢者にとっての幸せとは何だろう。それを確かめるため、埼玉県鳩山町を訪れた。人口約1万3千人の鳩山町は、不動産会社「大東建託」が昨年発表した調査「街の幸福度ランキング」で見事、全国1位に輝いた。しかし、高齢化率が高く、“陸の孤島”とも称されるこの町がなぜ1位に?  実際に見て回ると、住民同士がつながる仕掛けがたくさんあることに気づいた。 週刊朝日 2022年8月19・26日合併号より  たとえば週1回、町内の4施設で行われる「地域健康教室」。毎回多くの町民が集まり、体を動かす。高度成長期に多くの住人が移り住んだニュータウン地区には、集会所や町おこしカフェ、シェアオフィスなどを集めた施設「コミュニティ・マルシェ」が2017年に開設された。  施設内のカフェでは趣味や特技を商品として売ることができるショップも併設されている。  公共交通が充実しておらず、「陸の孤島」と揶揄(やゆ)される半面、町民は原則、町内のどこへ行くにも1回200円の「はとタク」を利用できる。  手押し車を使って「マルシェ」にやってきた92歳の女性は、15年ほど前に夫を亡くして現在はニュータウンで一人暮らしをしているという。 「今日は買い物よ。あとはね、ちょっとおしゃべり(笑)。お友達とお茶飲んでね。そういう場所があるのは幸せね。はとタクのおかげでこの年になっても動けるのよ。そういう意味では幸せだと思うわ。この年でお友達にお茶に誘われるのって、幸せなことよ~。なるべく出歩いて、お話しして、足腰と頭を使ってる。コロナで子供や孫が来られないことだけが幸福とはいえない点ね」  ニュータウン地区で飲食店を経営している70代後半の女性は「コロナで商売は上がったりだよ」と言って笑う。店まで案内してもらい店内で話を聞いた。 「夫がこの店を残してくれて、常連さんがいまだに来てくれるのは幸せだよ。それから同級生はみんなもう定年で引退しているけど、私はこの年でまだ働けるからね。それも幸せだね。儲(もう)かってはいないけど(笑)。いまだに店に来てくれる常連さんと話すのが一番の楽しみ。それができるのも店をやっていたから。ただね、コロナ前は宴会もちょくちょくあったわけよ。宴会は楽しいね、儲かるし(笑)。人と人の距離を遠ざけるコロナが早く収まるなら、足腰が立つ限りまだ店を続けたいね」  年齢を重ねても幸せでいるために、地域のコミュニケーションが大事だと痛感した。  あなたはどんなとき、どんなことに幸福を感じ、今はどれだけ満たされているだろうか。自分だけの「黄金比」を見つけよう。(本誌・鈴木裕也) ■「人生は70代から」 苦労人・綾小路きみまろがたどり着いた幸福観 綾小路きみまろさん  もうすぐ72歳になります。ワクチン接種に行くと「高齢者の方はこちら」と書かれた札がある。それを見ながら進んでいる自分も高齢者なんだなと実感している今日このごろです。  私は定年退職のない仕事をしていますから、60代の10年間もブレークしたころと同じようにあっという間に過ぎていきました。だから年を取ったという実感がないんです。でも舞台から離れると、50代のころとは体調が違うなと思うんですね。何が一番違うかというと気力です。  私は70代という年代はラストチャンスだと思っていて、『人生は70代で決まる』という本を5月に出しました。その最後のチャンスを生かすには健康が第一。健康あってこその趣味であり、友達であり、コミュニケーションなわけです。ただし、健康なだけではチャンスは生かせません。前に進むための体力と気力が大切だと思っているんです。 週刊朝日 2022年8月19・26日合併号より  生きがいや趣味を楽しみたくても年を取ると長続きしません。若いときに“老後にこんなことをしよう”と考えていて、実際に年を取ったらできないことがたくさんあるんです。  私は60代で健康を意識してジョギングを始めました。でも70代になってひざが痛くなってやめました。ウォーキングを始めました。諦めました。今度はエアロバイクです。毎日40分漕(こ)いでいます。今度は腰を痛めました。焦らずほどほどに続ける気力と、それができる体力。それがないとチャレンジはできません。  下積み時代から40年、幸福観も変わってきます。下積み時代のころは「満たされてない幸せ」があったんです。「テレビに出てやる」「世に出るぞ」という目標やチャンスを待つ喜びがあったからです。燃えるものがあるということで幸せだったんです。  70代の今は違います。たどり着いた幸せというのでしょうか。新しいチャレンジをするのが難しくなりますよね。だから、手の届く幸せをほどほどに楽しもうと思うんです。  お金では幸せをつかめるとは限らない。70代になるまでの生きざまです。生きざま次第で手が届くものが違ってくるので、60代を大事に生きてほしいですね。(談)※週刊朝日  2022年8月19・26日合併号
シニア
週刊朝日 2022/08/18 07:00
被爆者の体験を聞き高校生が絵に 戦争体験を対話で継承する広島の平和教育
被爆者の体験を聞き高校生が絵に 戦争体験を対話で継承する広島の平和教育
広島の基町高校で7月1日に開かれた原爆の絵制作完成披露会。絵を共同制作した被爆者と生徒が説明(photo 写真映像部・東川哲也)  広島市内にある市立基町高校の生徒たちは2007年から被爆者と一緒に原爆の絵を描き続けている。体験の詳細を聞き出し、必死になって被爆者の想いに近づき描いた絵は15年間で合計182点になった。AERA2022年8月8日号の記事を紹介する。 *  *  *  広島の原爆ドームから北へ約1キロメートルの所にある広島市立基町高等学校。県内有数の進学校でもある同校では、個性的な平和教育を展開している。 ■今回は11点の絵が完成  15年前から被爆者と生徒が組んで原爆の絵を描く「『次世代と描く原爆の絵』プロジェクト」だ。被爆者の高齢化が進む中、被爆体験の継承を実践的に行う取り組みとして注目され、東京・銀座などのギャラリーでもこれまでに3回、絵の展覧会が開かれた。  今年、7月1日。同校の日本画教室で21年度「原爆の絵制作完成披露会」が開かれた。完成した絵は11点。6人の被爆者から11人の高校生が体験を聞き、制作した。披露会では、被爆者(被爆体験証言者)が、絵に描かれたシーンを説明、生徒はどのように苦心し、どこに力点を置いて描いたかなどを説明した。  その中の一点、「お母ちゃんを探して!」。絵のほぼ中心にもんぺをはいた女学生が立ち、足元には、つぶらな瞳の幼い女の子が両足を投げだすようにして座っていた。足をけがしているのだ。彼女の手は女学生のもんペのスソをつかんでいる。女学生の横には、血を流し、呆然(ぼうぜん)と壁にもたれかかる被爆者の姿。  絵に描かれた女学生は現在広島市に住む92歳の切明千枝子さん。1945年8月6日、爆心から南東約1.9キロメートルの屋外で被爆。偶然建物の陰にいたため、大きなけがややけどは負わなかった。当時、広島県立広島第二高等女学校4年生。15歳だった。大やけどを負った叔父(母の弟)を探しに宇品の病院へ。そこで女の子に出会った。 「その子が『お母ちゃん探してきて、探してきて』と離さないんですよ。でも私は叔父を探さないといけないので、ついウソをついたんです。お母ちゃんが見つかったら、ここにいると言ってあげるからね、と。いまでも顔が目に浮かぶんです。せめてその子の名前を聞いておけばよかった……死んでしまったかもしれませんね」  切明さんは声を震わせた。  描いたのは同校普通科創造表現コース2年生の福本悠那(はるな)さん。原爆の絵を描くのは初めてだ。 「横たわっている人の脱力した感じや女子学生と女の子の表情をどう表現するか難しかった」 右は被爆者の笠岡貞江さん(89)。笠岡さんの体験を絵にした広島市立基町高校3年の田邊萌奈美さん(左)は、昨年も笠岡さんの体験を描いている(photo 写真映像部・東川哲也) ■絵にすると一目瞭然  被爆者と生徒は、毎年10月頃に顔合わせを行う。どんな絵にするかは被爆者が希望する。それに沿って描いてもらいたい場面、状況などを確認。その後何度も会って、構図や色、トーンなどを細かく見直し、約8カ月かけて描き上げる。福本さんは完成までに切明さんと5回会っている。切明さんがこの取り組みに参加したのは2度目。 「被爆地として大きなプロジェクトだと思います。被爆体験を口で話しても、戦争を知らない人にはわかってもらいにくい。絵にすると一目瞭然ですからね」  被爆体験証言者の一人、笠岡貞江さん(89)は12歳の時、爆心から3.5キロの江波町の自宅で被爆。両親を原爆で亡くした。絵を描いてもらうのは今回で11回目。最初の頃の絵は、被爆直後のひどいやけどを負った被爆者や、川に浮き沈みする死体、黒こげになった身体にうじが湧いている姿など、生々しく、悲惨な絵が多い。しかし最近は、ケガをした自分を祖母が治療しているシーンや、母の死を知らずに帰宅した弟が言葉を失い呆然としている場面など、少し時間が経過した時の場面が増えた。被爆直後のことだけでなく、時系列的に希望する絵を変えているのだという。  今回描いてもらったのは、被爆後、友人たちと5人で、春に入学したばかりの進徳高等女学校に向かう途中の出来事だ。渡し船で川を渡り、川べりの道に出た時、進駐軍の兵士2人とばったり出くわした。青空も見えるような日中だった。 「初めて見る外国人の兵士で、背も高くて、もうびっくりして、後ずさりして、皆で体を寄せあってね。その時の怖さを描いてもらいたかったんです」  制作したのは3年生の田邊萌奈美さん。 「天気がいい中で、不気味な感じ、すくんでいる様子を描こうとしてもなかなかうまく伝わらなくて苦労しました」  友人数人にポーズを取ってもらい、体を寄せあい、背中に回した手やしぐさで「表情」を感じさせるように描いたという。田邊さんは昨年も笠岡さんの絵を描いている。「兄妹で父親を火葬」というタイトルだ。笠岡さんから、火葬の際、「疲れや非現実感から涙などは出ず、無表情だったと言われたことがとても印象に残っています」とコメントしている。 毎年、「原爆の絵」プロジェクトに取り組む基町高校普通科創造表現コースの生徒たち。被爆者と仲間の生徒の話をしっかりと聞いていた(photo 写真映像部・東川哲也) ■泣きながら描く生徒も  田邊さんは中学生の頃、基町高校のオープンスクールでこのプロジェクトを知り、自分も取り組みたいと思い進学した。  プロジェクトは広島平和記念資料館(原爆資料館)主催で2004年に始まった。被爆者が被爆証言をする際、言葉でなかなか言い表せない場面など、絵があれば体験がより伝えやすいからだ。当初は広島市立大学に委託。07年から創造表現コースのある基町高校で取り組むようになった。  07年から21年春まで指導した橋本一貫元教諭(現・非常勤講師)は依頼が来た時、まずやってみようと思ったものの難しさも感じたという。 「できあがるかどうか心配はありました。証言をただ聞き取るだけでは上っ面な絵しか出来ませんから、被爆者の想いを聞いて、描く場面の背景、ケガの状況や血の色とか根ほり葉ほり聞かないといけない。途中でやめたりしないか、トラウマになるのではないかとか考えました」  何度も描き直し、夜中にうなされ、泣きながら描いた生徒もいるという。しかし、15年間途中でやめたケースは一つもない。ただ、1カ月くらい筆を執れなくなるような生徒もいた。 「惨状を受け止めて絵として表現できない。想像力が追いついていかないという苦しみがあるんですね。被爆者の方の心境、悲しみを表現しようと、一生懸命考えてしまうわけです」 ■被爆者も見直す機会に  内面的なことだけでなく、被爆者が語る言葉の一つひとつがそもそもわからない。「大八車」「ゲートル」「国民服」「もんぺ」……。被爆者の口から、聞いたこともない言葉が出る度に、質問し、資料や写真を調べるところから始めなければならなかった。ただそうした苦しみを乗り越えて描き上げることに意味があると橋本元教諭は言う。 「生徒は技術的には未熟でも、必死になって、被爆者の想いに近づこうとする。僕も一度描いたことがあるのですが、なまじいろいろ知っているもので、淡々と描いてしまい、絵に感情がこもらないんです」 切明千枝子さん(中)は、大やけどを負った叔父を探しに行った病院で出会った、母とはぐれた幼い女の子のことがいまも忘れられない(photo 写真映像部・東川哲也) 「非被爆者」である高校生が「被爆者」の絵を描くとは、どういうことなのか。基町高校の取り組みを、11年から調査・研究している立教大学社会学部の小倉康嗣教授は、「一対一で聞く-語るというやりとりのなかで、『知ってるつもりでい』た被爆体験が異化されるという対話的相互行為が積み重ねられていく」と言う。異化とは、新たな気づきや意味を生み出すということだ。  そして、「(戦争体験の)継承とは、コミュニケーションなのだ」と語る。対話することで、被爆者の記憶が協働生成されるという。高校生とのやりとりの中で、被爆者自身が新たに忘れていたことを思い出し、それが、被爆者の感情を揺さぶり、刺激し、被爆者自身が自らの体験を見直していくきっかけにもなる。実際、生徒たちから質問され、全く覚えていないと思っていたことが、対話の中で少しずつ引き出されていった被爆者もいる。  この15年間で、プロジェクトに参加した被爆者は46人。制作に参加した生徒(一部教員も含む)のべ177人。両者の共同制作により、歴史の記録である182点の絵が誕生した。(ノンフィクション作家・高瀬毅) 「おびただしい遺体」飯田國彦。被爆翌日、住吉橋の袂は被爆者で凄絶な状況(制作・サンガー梨里)(photo 写真映像部・東川哲也) 「登校途中、アメリカ兵に出会った」笠岡貞江。戦後、学校に行く途中、米兵に出くわした恐怖(制作・田邊萌奈美)(photo 写真映像部・東川哲也) 「お母ちゃんを探して!」切明千枝子。はぐれた母親を必死で探す女の子に出会った(制作・福本悠那)(photo 写真映像部・東川哲也) 「つまずいたのは炭化した幼児だった」切明千枝子。瓦礫だらけの街で炭化した幼児の身体につまずいた(制作・山口伶)(photo 写真映像部・東川哲也) 「戦後の食糧難を乗り切る為に」瀧口秀隆。戦後の食糧難。母親は畑を作り野菜を作った(制作・久保田葉奈)(photo 写真映像部・東川哲也) 「お骨が入った紙袋」八幡照子。避難所である運動場に遺骨の入った紙袋が運ばれた(制作・川畠芽衣)(photo 写真映像部・東川哲也) 「東練兵場に設けられた救護テントで目にした若い娘さん」山本定男。救護テントで大やけどの若い女性が治療を受けていた(制作・伊藤早利)(photo 写真映像部・東川哲也) 「東練兵場近くの道端で亡くなっている兵隊さん」山本定男。練兵場の道路沿いで、兵士が被爆し、亡くなっていた(制作・日高乃愛)(photo 写真映像部・東川哲也) 「爆風で吹き飛ばされて」瀧口秀隆。家の外にいて原爆の爆風で吹き飛び気を失った(制作・寺西栞理)(photo 写真映像部・東川哲也) 「不気味な閃光」八幡照子。原爆投下で不気味な閃光が。その後意識を失う(制作・香川凪)(photo 写真映像部・東川哲也) 「父の友人の変わり果てた姿」八幡照子。不明の父の親友の頭蓋骨が見つかり、皆で拝んだ(制作・大原萌里)(photo 写真映像部・東川哲也) ※AERA 2022年8月8日号
AERA 2022/08/06 07:00
輸送密度「1千人未満」の地方鉄道 今のうちに乗っておきたい厳選「10」路線
野村昌二 野村昌二
輸送密度「1千人未満」の地方鉄道 今のうちに乗っておきたい厳選「10」路線
【函館線】 長万部-小樽(JR北海道) 函館線は山線とも呼ばれて愛されてきた。だが、同区間は2031年春の北海道新幹線札幌延伸で、バスに転換され廃止されることが決まった(photo 矢野友宏氏提供)  車窓から見える絶景が旅人の心を癒やす地方鉄道。過疎化とコロナ禍で廃止を迫られる路線が増えてきた。夏休みの今こそ乗っておきたい10路線を、鉄道好きな各界の3人と筆者が紹介する。AERA 2022年8月8日号の「鉄道」特集から。 *  *  *  北の大地を走る列車は、「蝦夷富士」と呼ばれる名峰「羊蹄山」のふもとを行く。車窓には、壮大な自然が流れる。 「単に景色が雄大というだけではありません。このJR函館線の長万部(おしゃまんべ)-小樽間はあまり開発されてこなかった結果、100年以上前と同じような自然を車窓から眺めることができます。同じ風景を明治や大正の人も見ていたのかとか、そういう想像も広がっていくわけです」  と絶賛するのは、政治学者で鉄道好きを自任する「鉄学者」の原武史さん(59)。今もっとも乗っておきたい地方鉄道として、まず挙げたのがこの区間だった。  コロナ禍によるJR各社の赤字に端を発する形で、地方鉄道が廃止か存続か選択を迫られるケースが増えてきた。 はら・たけし/1962年生まれ。放送大学教授、明治学院大学名誉教授。専門は日本政治思想史。著書に『歴史のダイヤグラム』など(photo 本人提供) ■目安は「1千人未満」  そんな時だから、鉄道をこよなく愛する各界の3人に「今のうちに乗っておきたい地方鉄道」を3区間ずつ紹介してもらった。目安としたのが輸送密度「1千人未満」。輸送密度とは「1キロあたりの1日平均利用者数」のことだ。7月25日、国の検討会は「輸送密度」が1千人未満の区間などを対象に、バスなどへの転換も含め協議を進めるべきとする提言をまとめた。その区間は2020年度、JR6社で124区間と全体の28%を占める。  冒頭の長万部-小樽間の輸送密度は349人。今年3月、2030年度に北海道新幹線を札幌まで延伸する代わりに、バスに転換され廃止になることが決定した。原さんは言う。 「廃止になったら二度と乗ることができません。しかし、廃止するのは非常にもったいない区間です。この区間は大正天皇が皇太子時代の1911(明治44)年に乗り、60年代までは東京や函館と札幌や旭川など北海道の主要都市を結ぶ交通の大動脈でした。他の鉄道と比べて、歴史の厚みが違います」  次に原さんが乗りたい鉄道として挙げたのは、島根県と広島県の間の中国山地を走り抜けるJR木次(きすき)線の出雲横田-備後落合間。輸送密度は18人と、JR西管内では2番目に少ない。 「木次線は有名な観光地を抱えていませんが、乗ってみると、非常に魅力的な路線だというのがよくわかります」 【木次線】 出雲横田-備後落合(JR西日本) 3段式スイッチバックを上る「おろち号」。木次線には、松本清張の小説『砂の器』にも登場する亀嵩(かめだけ)駅もある(photo 木次線利活用推進協議会提供)  最大の魅力と言うのが、同区間の途中にある出雲坂根-三井野原(みいのはら)間の「3段式スイッチバック」。駅間は直線距離で1キロだが、高度差は162メートル。この急勾配を列車は「Z字形」に方向転換しながら上る。全国的に珍しく、JR西ではここだけだ。実は、木次線は96年3月、原さんが出雲大社(島根県)で結婚式を挙げた後、2人で乗った思い出の路線でもある。 「景色もすばらしく、スイッチバックで三井野原駅に着いたときには雪景色。古い駅舎やループ線と同じように、スイッチバックも貴重な鉄道遺産。長く保存する価値を持っていると思います」  地方鉄道は、鉄道会社が採算性を重視する姿勢を強めているため切り捨てられつつある。だが、長く保存する価値のある地方鉄道は数多(あまた)あると、原さんは指摘する。 ■人生を投影したくなる  最後に原さんが挙げる名古屋と大阪を直通で結ぶJR関西線の亀山-加茂間も、そんな思いのある区間だ。輸送密度は722人。ここも最初に挙げた函館線と同じく、かつての大幹線だった。だが、東海道線や東海道新幹線に取って代わられ衰退の一途をたどった。今や単線非電化で、1両か2両編成のディーゼルカーが走るだけのローカル線になった。 【関西線】 亀山-加茂(JR西日本) 沿線には歴史的な名所も多い。「笠置駅は、春はホームにたたずんでいるだけで満開の桜を愛でることができます」(原さん)  しかし、沿線には伊賀上野(三重県)や笠置(京都府)など歴史的に由緒ある場所が残る。特に笠置には鎌倉時代の後半、倒幕に動いた後醍醐天皇が籠城(ろうじょう)した笠置山がある。笠置駅は桜の名所だ。 「鉄道というのは、人生を投影したくなるものでもあります。例えば、かつて有名だった人がすっかり落ちぶれてしまうことがあります。関西線には、そんな人物を思わせるところがあるのです」(原さん) ■JR線9割近くに乗車  続いて話を聞いたのは、「女子鉄アナウンサー」として活躍するフリーアナウンサーの久(くの)野知美さん。高校生のとき通学に使った京阪電車で鉄道に目覚め、今や全国約2万キロあるJR線の9割近くに乗った、いわゆる「乗り鉄」だ。  久野さんが乗りたい地方鉄道のトップに挙げたのは、日本最北端を走るJR宗谷線の名寄-稚内間。輸送密度は165人。久野さんは数え切れないほど乗っていて、沿線は「第二の故郷」になっているという。 「線路は単線で、列車は大草原の中を走りますが、『何もないがある』といった空気感が大好きです。駅ではどこもほとんど人が降りないのに、けなげに扉が開きます。その駅もかつて多くの人が乗り降りしていたんだなと思いをはせたりします」 くの・ともみ/大阪府生まれ。フリーアナウンサー、「女子鉄」。フォトライターとしても活躍。8月に『東急電鉄とファン大研究読本』を上梓(photo 本人提供)  旅は基本的に一人旅。列車内では地元の乗客の会話に耳を傾け、自分は地元の人のような空気感を出して癒やされる。別の人生を味わう感じなのだという。  地方鉄道の魅力は? 「非日常との出会いです。景色との出会い、人との出会い、食べ物との出会い。触れ合うことで感動を覚え、思考を整理することができます」 ■「日本じゃない!」景色  久野さんが次に挙げるのは、愛媛県と高知県の山間部を結ぶJR予土(よど)線の北宇和島-若井間。輸送密度は205人に過ぎないが、まさに非日常を堪能できる区間だという。 「日本じゃない!と思うくらい、車窓からの景色がきれいです」  列車は、右に左に四万十川を見ながら走る。見渡す限りの空と川。久野さんが初めて予土線に乗ったのは、3年前の夏。絵の具で描いたのかと思うくらい、見事な深い緑に心を奪われた。 【予土線】 北宇和島-若井 (JR四国) 「トロッコは、国鉄時代の貨車を改造しています。貨物好きの私としては、そういった点もすごくポイントが高いです」(久野さん) (photo JR四国提供)  ここには、鉄道デザイナーの水戸岡鋭治さんがデザインしたトロッコ列車「しまんトロッコ」も走る。魅力は、ダイレクトに土地のにおいを感じられるところ。列車がトンネルに入った時の「ガタン、ガタン」という音も楽しいと、声を弾ませる。  久野さんは最後に、福岡県と大分県の県境をまたいで走るJR久大(きゅうだい)線の日田-由布院間を挙げる。20年度は豪雨で運休となっていたが、翌21年3月に全線で運転を再開した。 「『鉄分』の高い路線です」  普通列車のほか、観光列車の「ゆふいんの森」や「或る列車」、「ななつ星in九州」も走り、列車の乗り比べができるという意味だ。 【久大線】 日田-由布院(JR九州) この区間は観光列車の「ゆふいんの森」や「或る列車」も走る。写真は旧豊後森機関庫に静態保存されているSL29612号(photo 大分県玖珠町観光協会提供)  途中下車もお勧めだという。中でも豊後森駅。駅舎から300メートルほど離れた豊後森機関庫公園に、旧豊後森機関庫がある。国鉄時代に使われた蒸気機関車(SL)を格納する扇形の機関庫で、転車台が残り、「キューロク」の愛称で親しまれたSL29612号が保存されている。屋外にありながら、ピカピカ。スタッフや地元の人によって大切にされているからだ。久野さんは言う。 「地方鉄道はどこも大変ですが、こうして地元の人に支えられているのを見ると、鉄道への愛情の深さに感銘を受けます。私にとって乗りたい鉄道というのは、応援したい鉄道でもあります」  話を聞いたあと一人は、鉄道ジャーナリストとして活躍する松本典久さん(67)。幼少期から鉄道の魅力にはまった、根っからの鉄道好きだ。地形に逆らわず等高線に沿うようにS字に敷設された地方の線路に特に魅せられるという。新幹線のように直線で、トンネルと高架橋が多い線路は趣に欠けるとのことだ。 まつもと・のりひさ/1955年生まれ。鉄道ジャーナリスト。「廃線先生」としても知られ、著書に『鉄道旅のトラブル対処術』など(photo 本人提供) ■S字カーブが続く行路  そんな条件を満たしているというのが、大分県と熊本県を横断するJR豊肥(ほうひ)線の豊後竹田-宮地間。輸送密度は109人と、JR九州では豪雨災害で運休となっている区間を除いて、最も低い。 「大分を出発した列車は豊後竹田駅を過ぎると、くねくねと等高線に沿ってS字カーブが続く行路をぐんぐん上っていきます。太陽の光の具合でレールが光ったりすると、本当に美しい」 【豊肥線】 豊後竹田-宮地(JR九州) 阿蘇のカルデラを抜けて九州を横断する。2016年の熊本地震で被災したが、20年8月に全線再開。「山の車窓は秀逸」(松本さん)(photo 松本典久さん提供)  列車はやがて、標高754メートルとJR九州で最も標高の高い波野駅に着く。次の宮地駅までは、いくつかのトンネルを抜けていく。すると視界が広がり、雄大なカルデラ、それを取り囲む外輪山……。車窓に広がる光景にもワクワクすると、子どものように無邪気な笑顔を見せる。  中学の頃からSLを追って全国を回った松本さんが勧める区間は、秋田、青森両県の日本海沿岸を走るJR五能線の能代-深浦間だ。輸送密度は177人。 「岩礁地帯で変化に富んだ海側の海岸線を楽しめます。一方で、山側の景色も美しく、世界自然遺産の白神山地が続き、その迫力も見逃せません」 【五能線】 能代-深浦(JR東日本) 海岸線は岩礁地帯で変化に富んでいる。沿線は夕焼けが美しい。写真は、驫木(とどろき)駅と沈む夕日、そして普通列車(photo 青森県深浦町役場提供)  五能線は73年までSLが走る秘境感のある路線だった。だが、今も十分に旅気分を満喫させてくれる。普通列車が駅に停車しドアが開くたびに、海の香りがフワッと入ってくる──。そんなところも魅力だという。  地方鉄道が苦境にあえぐ中、松本さんは運営を継続するには様々な工夫が必要と指摘する。有力な方法の一つというのが「上下分離方式」。駅や線路などインフラは国や自治体が引き受け、その上を走る列車の運行を鉄道会社に委ねる仕組みだ。鉄道を道路などと同じ社会の資産と位置づける欧州では、一般的となっている。  松本さんが最後に挙げる福島県と新潟県を結ぶJR只見線の会津川口-只見間は、上下分離方式が採用される区間だ。同線は2011年7月の豪雨水害で橋や線路が流され、この区間は不通となった。一時は廃線も議論されたが、17年に土地や設備を地元自治体が保有しJR東が運行する上下分離方式での復旧で合意した。こうして今年10月、およそ11年ぶりに全線で運転を再開する。 【只見線】 会津川口-只見(JR東日本) この区間は現在、代行バスが走っているが10月に上下分離方式により全線で運転が再開される。只見線は風光明媚な路線(photo 松本典久さん提供) ■代行バスにも乗りたい  今、同区間は代行バスが走っている。松本さんは、それに乗ってみたいと話す。 「あくまで『代行』ではあるものの、列車と列車をつなぐもう一つの『列車』です。代行ということで恒常的ではない希少性もあり、路線バスとは違った乗り物という感じ。貴重な代行バスを体験するのも楽しいです」  鉄道の魅力は三者三様だ。  そして最後。鉄道好きの筆者が今乗りたいと思っている路線は、千葉県の房総半島の真ん中を貫くJR久留里線の久留里-上総亀山間だ。首都圏を走る列車ながら、輸送密度はわずか62人。 【久留里線】 久留里-上総亀山(JR東日本) 久留里線は、JR東日本千葉支社管内で唯一、ディーゼル車が走る。久留里は「名水の里」として知られる。写真は区間途中の平山駅近く(photo 千葉県君津市提供)  久留里線は、木更津から房総半島の山中へと進む。  ガタン、ゴトン……。  車窓の両側には田んぼが広がる。久留里から先、列車は川を渡り、山間に分け入っていく。絶景を見られるわけでもない。しかし、なぜかこんな情景に魅せられる。終着の上総亀山は無人駅。ただ、夏の入道雲が旅人を迎えてくれる。(編集部・野村昌二) ※AERA 2022年8月8日号
鉄道
AERA 2022/08/04 08:00
下半身不随の猫の介護は「私の生きる希望だった」 子どもを抱くことを諦めた女性と猫の13年間
水野マルコ 水野マルコ
下半身不随の猫の介護は「私の生きる希望だった」 子どもを抱くことを諦めた女性と猫の13年間
優しいカイ(左)に甘える後輩コウ  飼い主さんの目線で猫のストーリーを紡ぐ連載「猫をたずねて三千里」。今回、話を聞かせてくれたのは千葉県在住のペットシッター、河原時枝さん(57)です。結婚以来、複数の猫や犬と出会って暮らしてきましたが、13年前に保護したカイくんは、ケガで生涯にわたり介護が必要な子でした。カイくんとの生活を通して感じた、動物との縁や出会いの意味について、語ってもらいました。 * * *  私の家には今、3匹の猫と1匹の犬がいます。3月まではカイという猫もいました。まだまだ一緒にと思っていたのに突然のお別れが来てしまい、何をしても落ち着かないなか、このコーナーに応募しました。カイのこと、聞いてもらえるでしょうか。  カイは下半身に障害がある「介護猫」でした。 前足だけで力強く移動していたカイ  出会ったのは13年前の初夏。場所は、以前勤めていた職場の敷地内です。野良猫をよく見かける場所で、私は不幸な子が増えないように同僚と雌猫たちの避妊手術をしていたのですが、同僚に呼ばれて見に行くと、どこかの母猫が「このコを頼む」と連れてきたのか、地面に生後2カ月ほどの子猫(カイ)が横たわっていました。  もうダメかなと思ったのですが、口がかすかに動いたので、私は「早退します!」といい、カイを箱に入れてかかりつけの動物病院に急ぎました。といっても、当時5匹の猫を飼っていたので、助かったら里親を探そうという気持ちでいたのですが。  カイの状態は思ったより深刻でした。  カイの背骨には、傘のようなものでつつかれた“穴”が開いていたんです。  その穴に虫が湧いていて洗浄してもらったのですが、脊髄(せきずい)の神経が損傷していて、獣医師の先生に「治療しても、後ろ足が伸びたまま歩けないかもしれない」と言われれました。そういう状態だと里親を見つけにくいし、自分で面倒を見なければ、と覚悟が決まりました。  その後、カイは歩けないだけでなく“自力で排尿できない”こともわかりました。生涯に渡って介護が必要なのです。「圧迫排尿のやり方を教えましょうか?」と先生にいわれ、私は「はい」と即答しました。 退院してもしばらく家で体の固定をしていました  圧迫排尿とは、腹壁の中の膀胱(ぼうこう)を外から手でぎゅうっと押して、尿を外に絞り出してあげることです。片方の手で体を押さえ、もう片方の手で水風船のように膨らんだ膀胱を探し、ちょうどよい力加減で押すにはコツが必要です。入院の間、練習に通いました。  1週間ほどでカイは退院できましたが、骨がつくまでしばらく安静が必要で、わが家でも首と体をギプスのように固定して寝かせました。固定は生きるためにするケアですが、そのころのカイは「僕なんていつ死んでもいいんだ」というような力のない目をしていて、切なく思ったものです。でも食欲はあり、少しずつ、体が大きくなりました。  家に来て2、3カ月して固定が外れると、目に力が出て表情が明るくなりました。 固定が外れてキラキラの目力が出たカイ  後ろ足はだらんと伸びたままでしたが、上半身と肩の力で「匍匐(ほふく)前進」します。キャットタワーにもぶら下がったりして、前脚にムキムキ筋肉がついてきました。たくましく生きようとするカイのため、私は、圧迫排尿をがんばりました。  ■誰にも優しく甘え上手の人気者  カイには、ほかの猫と少し違うところがありました。  まず、自分が知っているどの猫よりもフレンドリーで穏やかでした。猫と暮らすと「生傷が絶えない」といいますよね。私も気の強い先代猫にひっかかれることがありましたが、カイは怒ったことが一度もなくて、私の気を引く時は、“ちょんちょん”と前脚で静かにこちらの体に触れるのです。  神様はカイに、体が不自由な分、誰にでも愛される性格を与えたのかな?  素直で優しいカイは、他の猫との関係も良好でした。先代の猫たちは、最初こそ「なんか動き方がへんかな」というように見ていましたが、すぐに打ち解けました。カイがずるずると足をひきずって進む後をついていったり、くっついて寝たり。 後輩のコウ(右)と遊ぶ(遊ばせてあげる)カイ  病院に預けた時も、カイはケージの中から「遊ぼう」と手を伸ばすので、看護師さんたちは「誘いにのってしまう」といって可愛がってくださいました。 甘えるの大好き。看護師さんに撫でてもらっています  また、たいていの猫は乗り物に乗るのが苦手だと思いますが、カイは車が好きで、騒ぐこともなくバッグの中でぐうぐう寝るのです。犬のふじ丸と一緒に、ペットと泊まれる宿をとって旅行にもいきました。毎年、石川県の夫の実家にも連れていったんですよ。かかりつけの病院が24時間体制ではないので、圧迫排尿のためには一緒に帰省した方が安心でした。  私たち夫妻に子どもがいないこともあり、両親もカイを孫のように思ってくれました。 昨秋、山中湖に一緒にでかけた時のショット  私たちには子どもがいないと言いましたが、欲しいとずっと思っていました。約10年間、不妊治療をして、その間に婦人科系の病気になり、カイと出会う数年前の40歳の時に子宮全摘出となり、子どもを抱くことを諦めたのです。  そういう時にホルモンのバランスを崩し、喪失感からうつになることも多いそうです。でも私はそのさなかに、たまたま2匹の先代猫を目も開かぬ状態で保護し、3時間起きのミルクやりのお世話をして、うつになることがありませんでした。猫に助けられたんです。  カイとの出会いも、偶然でなく必然だった気がします。  どんな時でも圧迫排尿をしないと生きていけないカイの命をつなぐことは、私にはまさに子育てと同じ。自分の体調が悪い時でもケアをしないとならない。でもそれは成長を見る楽しみと、自分の生きる希望になりました。 どんな時も穏やかだったカイ  カイの食欲は旺盛で、体重は6キログラムくらいになりました。  体は不自由ながらすくすくと育ってくれたのですが、10歳になる前くらいから少し体調に変化がでました。糖尿病を発症してインスリンを打ちはじめたのですが、運動が思うようにできないのでコントロールが難しく、何度か低血糖になりました。また、年齢とともに膀胱が固くなり、尿漏れしやすくなり、おむつやマナーパンツをつけるようになりました。  圧迫排尿を続けるとどうしても膀胱に菌も入りやすいのですが、だんだんと膀胱に炎症が起きて熱を出すことも増えました。そのため、今年に入ってからは一日おきに通院して、膀胱に管をいれて洗浄してもらっていました。下半身を冷やすとよくないので、居間にはカイ専用のコタツを置いて体を温めて。 下半身を温めるための専用のコタツにすっぽり. カイ(左)に寄り添う先輩のコジロウ  そうしたケアをしながらも、まだまだ私たちの側にいてくれるだろうと思っていたのです。しかし、カイはとつぜん旅立ってしまいました。  ■耳を疑った「カイくんが急変」の連絡  3月21日、動物病院に膀胱洗浄の予約を入れていました。元気だけど食欲が落ちて、少し熱がある。病院にいって事情を話すと、「点滴しましょう」ということになりました。  それで、普段は洗浄を終えるとすぐにカイと帰るのですが、預けることにしたのです。祝日でいつもの先生ではありませんでしたが、慣れた病院だし、お任せすることにしました。  夕方5時ごろ、病院から電話がかかってきたので、お迎えの知らせかなと思って携帯に出ると、「カイくんが急変しました、すぐ来てください!」と先生から思いもよらない言葉が。  なんで? 慌てて夫と病院に駆け付けると、診察台でカイが心臓マッサージを受けていました。朝に見た元気な姿が頭に焼き付いていて、実感できません。でも目の前の光景は夢ではなく現実でした。意識がない状態ですでにマッサージが30分も続いたので、「もう……いいです」と、先生にその手を止めてもらいました。  少し前まで何ともなかったので、(糖尿による血栓症など)突発的な症状が起きたとしか考えられないとの説明を受け、放心したまま家に連れ帰りました。この先どのくらい生きるかわからなかったけど、先代の猫たちは、がんなどである程度の時間と覚悟を持って家で看取っていたので、カイとの別れはあまりにもショックでした。  翌日、いつも担当してくださった先生に会いにいくと、こういってくださいました。 「どのコも分け隔てなく診ているけれど、カイちゃんには特別な思いがありました。今までよくがんばりましたね」  救われた思いでしたが、また涙があふれてしまうのでした。 ■これからは自由に走りまわって  あれから4カ月。まださみしくて写真をじっくり見ることもできませんが、カイと過ごした時間は本当に貴重だったと、日が経つにつれ強く感じています。 カイのことが大好きなコウ  亡くなってからわかったこともあります。荼毘(だび)に付した時に、火葬場の人から「この子の骨は子猫くらいの大きさだよ」といわれたんです。カイは体も大きいし筋力もあると思っていたけれど、他の猫のようには動けなかったので、骨はきゃしゃだった。それでもがんばって13年生きてきたんだなと、生命力を感じました。  そして、私にとってカイとの出会いは「大きな意味があった」とあらためて思うのです。  私は22年前に初めて猫を飼い、その後に愛玩動物飼養管理士の資格を取り、保護活動を始めました。そして、カイを迎えた数年後に、ペットシッターを始めました。  屋号は<ハウオリ・ハナ>。ハワイ語で「幸せな仕事」という意味なのですが、ほんの少しのペットシッターのお手伝いで、一人暮らしのお年寄りが犬や猫を手放さずに飼ったり、忙しい方が犬や猫を家族に迎えることができたりして、「少しでも、不幸にも処分されるような動物が減るように」と願いながら、お世話をさせていただいています。ちなみに、カイという名前も、ハワイ語の「海」から取りました。  カイとの暮らしを通し、下肢に障害のある猫とのつきあい方、圧迫排尿のやり方を覚えました。毎日の介護は多少の負担もあったけれど、今後のシッターにいきていくことでしょう。いかしていきたい、と思います。  だからカイには、貴重な経験をさせてくれて「ありがとう」といいたいです。 おとなになっても目が大きく美しかったカイ  5月に予約していた犬や猫と泊まれる温泉宿には行けなかったけど、カイとはおでかけをたくさんしたね。外に行く時はキャリーバッグに入っていたけど、虹の橋を渡った今、生まれて初めて“走って”いるのかな?  カイの走る姿は見ることができなかったので、目を閉じて想像してみます……。先にいった仲間と会えたら、一緒に思う存分ジャンプして、走り回ってね。  私はいつの日かまた、カイのような猫と会いたいです。 永遠に愛しているよ (水野マルコ) 【猫と飼い主さん募集】「猫をたずねて三千里」は猫好きの読者とともに作り上げる連載です。編集部と一緒にあなたの飼い猫のストーリーを紡ぎませんか? 2匹の猫のお母さんでもある、ペット取材歴25年の水野マルコ記者が飼い主さんから話を聞いて、飼い主さんの目線で、猫との出会いから今までの物語をつづります。虹の橋を渡った子のお話も大歓迎です。ぜひ、あなたと猫の物語を教えてください。記事中、飼い主さんの名前は仮名でもOKです。飼い猫の簡単な紹介、お住まいの地域(都道府県)とともにこちらにご連絡ください。nekosanzenri@asahi.com
ペットロス猫をたずねて
dot. 2022/07/30 14:00
子どもの近視が増加中! 専門医が教える「コロナ禍3年目」の夏に気をつけたい3つのポイント
子どもの近視が増加中! 専門医が教える「コロナ禍3年目」の夏に気をつけたい3つのポイント
おうち時間の増加で近視の子どもが増えている。写真はイメージ(iStock)  子どもたちはもうすぐ夏休みが始まります。楽しく過ごすには、なんといっても体調管理が必須。コロナ禍3年目となった、この夏ならではの気がかりを、小児科医の工藤紀子先生、眼科医の鳥居秀成先生、皮膚科医の野崎誠先生にうかがいました。現在発売中の子育て情報誌『AERA with Kids 2022夏号』(朝日新聞出版)から一部抜粋してご紹介します。 *    *   * 夏に不調を起こす原因は、こんなに! 【手洗い・消毒】■アルコール消毒より、石けんでの手洗い。基本をお忘れなく! 〇小児科専門医・医学博士 工藤紀子先生  長引くコロナ禍で、身近になったアルコール消毒。でも、「アルコール消毒を過信し、手洗いがおろそかになっている人が多いのが心配です」(工藤先生)。  アルコールは、アデノウイルスやノロウイルスなどには効きにくく、または皮膚の水分を奪い、手荒れを招きます。 「実際、手が荒れて、真っ赤になっている子どもも増えているのです。手荒れから、ほかの細菌に感染するリスクもあります。でも、石けんで洗えばウイルスは死滅します。アルコールで消毒をすればOKではなく、石けんを使う基本の手洗いをしっかり行いましょう」 ポイント1:石けんやハンドソープで手を洗う時は、指の間、爪の間、親指の付け根、手首も忘れずにしっかり!洗った後は水分をしっかり拭き取る事も手荒れの予防に。 【近視】■長引くおうち時間で、近視の子どもがグンと増えています 〇眼科医 鳥居秀成先生  黒板の字や掲示物が見えにくい、という子どもが増えています。 「コロナ禍を機に、子どもたちの近視が進んでいます」(鳥居先生)  おうち時間が長くなり、スマホやタブレットを長時間操作するようになったことが一因ですが、それだけではない様子。 「外に出て日光を浴びなくなったことも原因と見られています。実は、太陽光は近視の進行抑制に一役買っているのですが、その日光を浴びる時間が少なくなり、近視が増えているのです」 ポイント2:デジタルのスクリーンは、昼間に見ることがポイント。「日中なら、ブルーライトカットのアイテムもつけなくていいでしょう」と、鳥居先生。 長引くマスク生活は、肌荒れを引き起こす原因にも。写真はイメージ(iStock) 【肌荒れ】■マスクかぶれ、ムレ…。高学年になるとニキビも目立ちます 〇小児皮膚科・皮膚科医 野崎 誠先生  マスクで擦れて赤くなったり、外したときに肌の水分が奪われて乾燥したり。いわゆる「マスクかぶれ」は一年中ありますが、夏はニキビも気になります。 「暑さで蒸れて、マスク内がニキビのできやすい環境になるのです。小学生でも、高学年に多く見られます。マスクによるニキビの多くは、一般的なアクネ菌が原因のニキビと異なり、一種のカビに対するアレルギー反応で治りにくい傾向にあります。市販薬を使ってみても落ち着かない場合は、受診しましょう」(野崎先生) ポイント3:マスクニキビの予防は、こまめな洗顔がいちばん! できれば朝と夜に洗顔剤をつけて洗うこと。難しいなら水洗いでもOK。洗顔後は保湿を。  (取材・文/松田慶子) ※『AERA with Kids 2022年夏号』では、このほか熱中症対策や近視を遠ざける方法、日焼け予防などについてご紹介しています。 工藤紀子先生 〇くどう・のりこ/順天大学医学部卒業。同大大学院小児科思春期科博士課程修了。「育児は楽に楽しく安全に」をモットーに、年間のべ1万人の子どもを診察しながら、子育て中の家族に向けて育児のアドバイスを行う。著書に『小児科医のママが教える大切なウンチの話』(学事出版)など。  鳥居秀成先生 〇とりい・ひでまさ/慶應義塾大学医学部眼科学教室専任講師。2004年、同大医学部卒業後、同大医学部眼科学教室、けいゆう病院眼科などを経て20年から現職。主な研究テーマは白内障や近視、屈折矯正。太陽光の一部が近視の進行を抑える可能性を発見した一人。 野崎誠先生 〇のざき・まこと/わかばひふ科クリニック院長。2001年、山形大学医学部卒業。同大医学部、山形県公立置賜総合病院、国立成育医療研究センター等を経て、13年、小児皮膚科と一般皮膚科専門の現クリニックを東京都で開業。テレビ、新聞・雑誌、講演でも活躍。
AERAwithKidsコロナ手洗い肌荒れ近視
AERA with Kids+ 2022/07/23 09:00
【7月3日は波の日】これだけは忘れちゃいけない!サーフィンをするのに必要な7つのアイテム
【7月3日は波の日】これだけは忘れちゃいけない!サーフィンをするのに必要な7つのアイテム
7月3日は「7(な)」と「3(み)」の語呂合わせから「波の日」となっています。サーフィンに関心を持ってもらうことを目的として制定されており、日本記念日協会により認定されました。そこで今回は、サーフィンを始めるにあたって事前にそろえておくべきサーフギア、アイテムをご紹介します。イメージ画像 1.サーフボード サーフィンを始めるにあたって絶対に持っていなければならない物といえば“サーフボード”です。板を使って波乗りを楽しむスポーツですから、これ無くしてサーフィンを楽しむことはできません。 ただし、初心者がいきなりサーフボードを購入するというのはおすすめできません。偏に“サーフボード”と言っても、ロングボード、ショートボード、その中間の大きさのファンボードなど、長さや形状が様々。さらに細かいことを言えば、ショートボードの中でも“小波用”のものからプロが使用するような“ハイパフォーマンスボード”という形状の物まで、ありとあらゆるモデルが存在します。 なので、ある程度の知識と技量を備えたサーフィン経験者が周りに居ないという方は、まずはメジャーポイント近くのサーフショップに行くのがおすすめ。初心者用の浮力が大きく、柔らかい材質のボードをレンタルできますよ。また、初心者用のサーフィンスクールに申し込めば、専門のインストラクターが付いて海でのマナーやルールなどもイチから教えてくれます。 絶対にやめてほしいのが、知識の無いままネット通販などで格安ボードを購入してしまうこと。自分の身長・体重や体力に釣り合わないボードを使用しても、初心者のうちはまず波に乗れません。“海に行く”→“波に乗れない”→“海に行く”→“波に乗れない”→“上達しない”→“面白くない”の悪循環となってしまってほとんどの人が続きません。イメージ画像 2.ウエットスーツ サーフボードに次いで必要なサーフギアといえばウエットスーツです。「夏にサーフィンを始めるから水着で大丈夫!」という初心者の方をたまに見かけますが、7月上旬ぐらいの時期ですとまだまだ海水温が冷たいポイントばかり。千葉北エリアより北のポイントや北日本海などでは、とてもじゃないけれどウエットスーツ無しでサーフィンすることなどできません。 ウエットスーツは伸縮性の優れたジャージ素材の物から保温性が高いラバー素材の物まで様々。また、袖が無いものや膝から下の部分が無いもの、上半身だけのものなどタイプもいくつかに分かれます。その日の気温や水温に合わせて、生地の厚さ・袖の有り無しなどを使い分けていくのですが、最初はやはりレンタルが良いでしょう。 初心者用のサーフィンスクールであれば、ボードとウエットスーツのレンタルがセットになっているところがほとんどなので、その人の体形に合ったものを見繕ってくれます。何度か海に入ることで、どんなタイプのウエットスーツだと寒くないのか、ストレスなく動けるのかといったポイントがわかってきます。 また、ウエットスーツはサーフギアの中でも高価なアイテムなので、一度スクールを経験したぐらいで高額なオーダースーツを作るのはおすすめできません。サーフィンを始めてある程度上達してくれば体形も変わってきますし、季節も進んでいるはず。はじめのうちは、いわゆる“吊るし”と呼ばれる既製品を選んだり、使い捨てと割り切って格安の中古スーツを買うのも良いでしょう。イメージ画像 3.リーシュコード サーフボードとウエットスーツだけ持っていればすぐにサーフィンができるわけではありません。実はもうひとつ、サーフィンには「リーシュコード」という重要なアイテムがあります。 リーシュコードとは板と体をつなぐ紐のことで、体からサーフボードが離れてしまった時のためにあります。波に乗って転んだ時や、大きな波が来てボードが流されてしまった時に役立ちます。一度、手から離れたサーフボードは凶器そのもの。流された先で人にあたって怪我をさせてしまったら大事です。 日本サーフィン連盟ではリーシュコードを使用するよう周知しています。また、全国のメジャーポイントでリーシュコードを付けないいわゆる“ノーリーシュ”を容認しているところはありません。必ず自分用のリーシュコードを持っていきましょう。何度も使っているうちに劣化してちぎれてしまうことがあるので、予備のリーシュコードも携帯しておくとなお良しです。イメージ画像 4.サーフボードワックス サーフボードの表面は樹脂でコーティングされており、水に濡れると大変滑りやすくなります。なので、濡れたサーフボードの上に乗っても滑らないよう、滑り止めとして塗るのがサーフボードワックスです。蝋のような素材で出来ており、海水温に合わせて夏用、真夏用、春秋用、冬用などいくつか種類があります。香料が練り込まれているものがほとんどですが、最近では環境に優しいワックスもあるので、これから始める人は積極的にそういった商品を選ぶとGOODです。最近ではボードの表面に貼るタイプの“ワックスシート”というものもあるので、そちらで代用してもOKです。イメージ画像 5.日焼け止め 特に若い人にありがちなのですが、サーフィンに限らずマリンレジャーを楽しむ際に日焼け止めを塗らない人がいます。若い時に浴びた紫外線は年齢を重ねると表面化してきて、40代になる頃には顔や体がシミだらけ…なんてことも!それだけならまだマシで、強い紫外線を浴び続けると皮膚がんなど危険な病気の原因になる恐れもあります。 「今日は曇っているから大丈夫!」という考えも禁物。海の紫外線量をなめてはいけません。たとえ雨が降っていても、必ず日焼け止めを塗ってから海に入るようにしましょう。なお、街中で普段使いするようなソフトなものではなく、SPF50以上でPA+++以上のウォータープルーフタイプのものを使うと良いでしょう。イメージ画像 6.ビーチサンダル 真夏の海で遊んだことがある人ならわかると思いますが、太陽光に熱せられた砂浜の表面は50℃以上になっていることもあり、めちゃくちゃ熱いです!また、浜辺にはガラスの破片や鋭利なものが漂着することがあるので、ビーチサンダルは必ず履くようにしましょう。 初心者のうちはあまり行くことはないですが、ポイントによっては磯や岩場を歩くようなところもあり、裸足で歩くのは大変危険です。イメージ画像 7.少し大きめのタオル 濡れた身体を拭くのに必要なタオルですが、サーフィンに行く時は少し大きめのものを持って行くと良いでしょう。更衣室が無い海でも、体に巻き付けることで素っ裸にならずにウエットスーツや水着に着替えることができます。 「サーフィンスクールの室内で着替えるから大丈夫」と安心しきっていたら、着替えのスペースが他のスクール生と共有!?なんてこともしばしば。同性とはいえ、体の大切な部分を隠して着替えるのは最低限のマナーです。少し大きめのタオルがあれば1.大事な部分を隠して着替えられる 2.体を拭ける 3.ボードを拭ける 4.濡れたウエットスーツを包める、など色々な場面で活躍してくれます。イメージ画像 今回紹介した7つは、絶対に忘れてはいけないものリストとして玄関などに貼っておくと良いでしょう。サーフボードを忘れる人はいませんが、それ以外のアイテムは意外と忘れてしまうことがあるので注意が必要です。事前準備をしっかり整えて、今年こそサーフィンデビューしましょう! ※海でのルール&マナーを守りましょう。わからない場合は必ずスクールに申し込んだり、経験者に付き添ってもらいましょう。 ※海水浴シーズンの海はサーフィン可能なエリアが区切られているポイントが多くなります。エリア規制に従って安全にサーフィンを楽しみましょう。イメージ画像
tenki.jp 2022/07/03 00:00
加藤シゲアキが振り返る「青山学院中」の合格発表 「地獄と天国をいっぺんに見た」
加藤シゲアキが振り返る「青山学院中」の合格発表 「地獄と天国をいっぺんに見た」
※写真はイメージです(GettyImages)  中学受験を描いたドラマ「二月の勝者-絶対合格の教室-」(日本テレビ系)で塾講師役の出演も記憶に新しい、NEWSの加藤シゲアキさん。自身も中学受験を経て、私立中高一貫校から大学まで学んだ。アイドルとして、また作家としても活躍する今、中学受験と学生生活についてを振り返り、6月30日発売のAERAムック『偏差値だけに頼らない 中高一貫校選び2023』(朝日新聞出版)で語った。 * * * 「今もときどき友だちと話すんです。もし自分に子どもが生まれたら中学受験をさせる?って」  そう語る加藤シゲアキさんも、かつては中学受験生だった。 「うまくいくかどうかは別として、やってみることはいい経験になる、というのがぼくの意見。実際、中学受験は自分の力を客観視する姿勢や、知的好奇心、積極性などが身につくきっかけになったと思います」  所属するアイドルグループ「NEWS」は、来年が結成20周年。2020年に発表した小説『オルタネート』は吉川英治文学新人賞を受賞し、直木賞候補にも選出されるなど話題を集めた。今年は自身の小説を舞台化した作品で脚本を担当し、岸田國士戯曲賞の最終候補に残るなど、さらに活躍の場を広げている。 ■成績下降の苦い思い出が忙しくても勉強に向き合う習慣へとつながった  加藤さんが友だちに誘われて中学受験塾に通い始めたのは、小学5年生の終わり。やや遅めのスタートだったが、両親は加藤さんの意思を尊重してくれた。 「今思えば宿題はすごい量でしたが、もともと勉強は好きでしたし、辛さは感じませんでした。仕事を持ちながら塾の送迎や夜食作りをしてくれた母のほうが、ぼくより大変だったかもしれません」  目標から逆算してタスクを洗い出し、一つひとつこなしていくという受験勉強のプロセスは「昔から物事を論理的に考えるところがあった」という加藤さんの性格に合っていた。真面目な取り組みが功を奏し、入塾当初は下から2番目だったクラスは、いつしか上から2番目に。だがジャニーズ事務所に入所し、芸能活動を開始すると、一気に成績は下がった。 「予想はしていましたが、やはりショックでしたね。少し休んだだけでこんなに下がるということは、周りがそれだけ力をつけているということ。ぼくも受験はあきらめたくなかったので、仕事を始めたばかりではありましたが、いったん芸能活動を中断し、受験勉強に専念させてほしいと事務所に伝えました」  受験終了後の活動再開を視野に入れ、志望校は中高一貫の進学校から大学付属校に変更。加藤さんの思い切った決断を、当時の社長だったジャニー喜多川さんは応援してくれたという。  それから半年間、家庭教師をつけて臨んだ猛勉強の結果、見事、青山学院中等部に合格した。 「実はぼく、補欠で1番だったんです。合格者欄に名前がなくてがっかりしていたら、補欠者の1番上に名前があった(笑)。その場ですぐに繰り上がり合格が決まって、地獄と天国をいっぺんに見たような気分でした」 ■特別扱いはなし。友人との出会いは財産  入学後は芸能活動を再開したが、中学受験時の苦い思い出から「どんなに忙しくても、定期テストの勉強は1週間前から始める」というルールを自らに課した。 「芸能人だから成績が悪いと思われたくないというプライドもありました。だからいつもテストの点数はよかったですよ」と語る加藤さん。  出席や携帯電話持ち込みなどの特別扱いは一切なく、学校にいる間は一人の生徒としての時間を過ごすことができた。  受験勉強に縛られない中高の6年間は、趣味の読書や音楽への興味を深める時間にもなった。印象に残るのは、在校生がバンド演奏やダンスを披露する高等部恒例のイベント「ミュージックフェスティバル」。若者文化の中心地、渋谷という立地の影響もあり、当時すでにNEWSのメンバーだった加藤さんから見ても驚くような高いテクニックを持っている生徒も多かったという。  加藤さんが抱く青学生の印象は「協調性もあるけど、自立性もあってバランスがいい」。大学卒業までに得た多くの友人との出会いこそが、「青山学院で得た一番の財産」と語る。  文学賞を受賞した年には学校から招待を受け、久しぶりに中等部の校舎を訪れた。「ものすごくきれいになっていて、びっくりしましたよ! あんな素敵な校舎で学べる今の生徒たちが、うらやましいな」と笑う。 「小説を書くときに、学生時代に見た風景や思い出を設定に取り入れることはありますね。読んだ方から『青学っぽいね』って言われるのは、学校にそれだけはっきりした個性があるから。そんなところも、青山学院の魅力だと思います」 加藤シゲアキ(かとうしげあき)/1987年大阪府出身。中学受験を経て青山学院中等部・高等部・青山学院大学法学部卒。NEWSのメンバーとして活動しながら作家としても活躍、『オルタネート』(新潮社)は第42回吉川英治文学新人賞を受賞した。NEWS・29枚目のシングル「LOSER/三銃士」6月15日発売。 (木下昌子) ※AERAムック『偏差値だけに頼らない 中高一貫校選び2023』より
中学受験
AERA with Kids+ 2022/07/01 11:30
俵万智が語る“一人息子”の中学受験と寮生活 「中高6年間、毎日ハガキを送りました」
俵万智が語る“一人息子”の中学受験と寮生活 「中高6年間、毎日ハガキを送りました」
「親が打ちひしがれれば、子どもは傷つきます。結果が出なかったときこそ親の出番だと肝に銘じていました」と語る俵万智さん(写真/朝日新聞社)  中学受験には保護者の意思が強く表れるものだが、俵万智さんと息子さんの場合では少し事情が違ったようだ。6月30日発売のAERAムック『偏差値だけに頼らない 中高一貫校選び2023』(朝日新聞出版)で、子ども自身の意思を尊重した中学受験と、中高時代の思い出について語った。 * * *  俵万智さんが歌集『サラダ記念日』を発表したのは、今から35年前。日々の出来事や恋人への思いを20代女性の話し言葉で詠んだ歌が共感を呼び、同書は歌集としては異例のベストセラーとなった。 ■小学校は全校児童13人。卒業を機に宮崎へ  俵さんの作品にたびたび登場し、読者の間ではおなじみの一人息子は、2022年春に宮崎県立の中高一貫校を卒業。現在は東京の大学に通っている。 「息子が中学に入るまでの5年間は、石垣島に住んでいました。小学校は全校児童が13人。年齢の違う子、まったく性格の違う子とも工夫して一緒に遊ぶので、少人数だからこそ社会性が育ったという面もあるかもしれません」  大自然の中で存分に遊べる石垣島は、好奇心旺盛な小学生男子にとっても、息子を土の庭で遊ばせたい一心で東京を離れる決心をした俵さんにとっても、理想の環境だった。だが、地元の中学は、小学校よりさらに小規模になる。 「思春期の多感な年頃は、もう少し人数の多い環境で、好きなことや気の合う友だちを見つける経験をしてほしい」。  子育てのために移り住んだ石垣島を出ると決めた理由も、また子育てだった。  受験勉強を始めたのは小6の夏休み。宮崎市内に短期の賃貸マンションを借り、進学塾の夏期講習に参加した。 「中学受験をしようと決めたのは、地元の子が大半の公立中で疎外感を味わうより、全員が『初めまして』になる環境のほうがいいと考えたからです。当時の息子にとって宮崎市は大都会。そこで塾に行くこと自体に憧れがあったようで、お弁当持参で楽しそうに通っていました」  自身は県立の進学校出身で、高校教員の経験もある俵さん。志望校選びでは気になる学校の情報を全国から集め、見学にも足を運んだ。  後に息子の進学先となる学校について知ったのは、高校生の短歌大会「牧水・短歌甲子園」の審査員として宮崎県を訪れたときのことだった。息子が中学受験をすることを地元のある教員に話したところ、「宮崎にもユニークな学校がありますよ」といくつか校名を挙げてくれたうちの一つだった。 ■寮生活でたくましく成長。生きる力も身についた 「男女共学の公立中高一貫校で、全寮制。しかも山の中にあると聞いて、早速オープンスクールに申し込みました。私はいくつか見る学校の中の一つのつもりだったのですが、息子はすっかり気に入り、『絶対この学校に通いたい。だから勉強も頑張る』と言い出して。このときの彼の熱意には、正直驚きました」 俵万智さん(写真/朝日新聞社)  実は当初、進学先の第一候補として別の学校を想定していたという俵さん。だが、一つのテーマをじっくり学ぶ「探究型学習」重視の教育方針や、寮を案内してくれた在校生のしっかりした受け答えに好印象を抱いたこと、そして何より息子本人の強い希望があったことから、迷わずその学校を第一志望に決めた。  息子の受験勉強中、俵さんがとくに意識していたのは「希望通りの結果が出なかった場合のこと」だった。 「受験がうまくいかなくて親が打ちひしがれていたら、子どもは自分のせいだと思って傷つきますよね。結果はどうあれ、頑張ったことはゼロにはならないし、お母さんと一緒に問題を解いた、難しい問題が解けて嬉しかったという経験をいい記憶のまま残すことはできるはず。もちろん不合格を前提に取り組んでいたわけではありませんが、もしうまくいかなかったらそのときこそ親の出番で、『あなたの頑張りはよく知っているよ』と言ってあげることが私の役割だと肝に銘じていました」 ■「携帯電話禁止の6年間。息子に毎日ハガキを送りました」  併願校も加えて臨んだ入試の結果は、第一志望合格。寮生活が始まると間もなく息子はホームシックになり、俵さんも寂しさを感じたが、長期休みなどで帰宅するたびに実感する息子の成長は、何よりの楽しみでもあった。同学年のルームメイトと過ごした息子の日常は「きっと、人間関係の練習問題が毎日出題されるような感じだったと思う」と俵さんは語る。 「相手を気遣いつつ自分の意見を伝える力、違ったタイプの人といい関係を築く力は鍛えられましたね。親ばかかもしれませんが、寮生活を通じて人としての器も大きくなったような気がします」  そしてもう一つ、俵さんが「今の時代になかなかできない、貴重な体験」と振り返るのが、携帯電話の持ち込みを禁止する学校と寮のルールだ。家族への連絡にも寮内の公衆電話を使うという徹底した状況だったからこそ、息子との特別な“絆”も生まれた。6年間、毎日息子宛てに送り続けたハガキだ。 「大したことは書きませんよ。ただ、君のことをお母さんは忘れていないからね、と伝えたかったんです。高3になって毎日のハガキはさすがに恥ずかしいだろうと『もうやめようか?』と聞いたら、『やめないでいいよ、友だちもみんな楽しみにしてる』と言われました(笑)」  大学入試は情報収集から志望校決定まですべて息子が行い、総合型選抜で見事合格を手にした。石垣島での生活や寮で過ごした中高時代の経験が息子の自立心を育み、それが大学入試の結果にも少なからず影響を与えたかもしれない。だが「大学合格」から逆算して、「今すべきこと」を決める方法には賛成できないと、俵さんは主張する。 「大学に入るための高校、高校に入るための中学という考え方はちょっと違うのかな、と。未来のために今があるのではなくて、今を充実させることが未来につながる。目の前にある日々を充実させることで、次の道も見えてくると私は思っています」  20年に発表し、短歌の世界で最も権威ある賞とされる迢空賞(ちょうくうしょう)を受賞した歌集『未来のサイズ』。同書には息子が寮に入って間もないころ、街で目にした小学生の姿に涙が出た日のこと、コロナ禍の一時帰宅による“期間限定”の二人暮らしの出来事が、愛とユーモアに満ちた言葉で歌われている。後書きの「歌を詠むとは、日常を丁寧に生きること」の一文に、息子との日常をそっと掬い上げ、歌に託してきた俵さんの思いを感じた。 俵 万智(たわら・まち)/1962年大阪府生まれ。早稲田大学在学中に短歌を始め、歌誌「心の花」入会。大学卒業後は国語教員として働きながら制作をつづけ、88年に『サラダ記念日』で現代歌人協会賞を受賞。2006年『プーさんの鼻』で若山牧水賞、21年『未来のサイズ』(角川書店)で迢空賞、詩歌文学館賞受賞。 ※AERAムック『偏差値だけに頼らない 中高一貫校選び2023』より (文/木下昌子)
中学受験
AERA with Kids+ 2022/06/30 11:30
「ケアをシェアできる社会」が日本人の孤独を癒やす 三浦展×小林和人×河尻亨一
「ケアをシェアできる社会」が日本人の孤独を癒やす 三浦展×小林和人×河尻亨一
マーケティング・アナリストの三浦展さん リノベーションやシェアリングエコノミーなど「所有からシェア」への消費行動の変化を、マーケティング・アナリストの三浦展さんは「第四の消費」と名付けた。6月、三浦さんは近い将来訪れる「第五の消費」を見据えて、「次の時代の日本人がどんな豊かさを求めて、どんな生活をするかを考える」ヒントとなる『永続孤独社会――分断か、つながりか?』(朝日新書)を出版した。同書刊行を前に行われたスペシャル座談会では、生活道具を扱うRoundabout/OUTBOUNDの店主・小林和人氏と、国内外の広告クリエイティブを分析してきた河尻亨一氏とともに、社会の消費活動の変遷とカルチャーの関係を中心に、来るべき「未来」を語り合った。 「【中編】「無印良品」から「ダイソー」「メルカリ」まで 00年代に起きた生活消費の変化」より続く *  *  * ■「楽しい」から「うれしい」へ  河尻:10年前、カンヌ国際クリエイティビティフェスティバルを取材していたとき、建築家のレム・コールハースの講演を聞いたら、いまは20世紀的な価値観と21世紀的な価値観が衝突している時代だと言うんです。それは「チャレンジ(挑戦)vs. コンフォート(快適)」の戦いであると。で、建築のデザインからほかの文化的事象にまで、両者のせめぎ合いが現れていることを解説する内容だったんですけど、さっきの三浦さんの部屋の話を聞いても、やっぱりそこのバトルですよね。無印とか禅的な部屋のスタイルに挑戦するのはマインドとしてギラギラしてますけど、そうではなく快適なソリューションを見いだしていく。 小林:「チャレンジvs.コンフォート」というのは、三浦さんが言う「楽しい」と「うれしい」の違いに近い何かを感じますね。見田宗介さんの「コンサマトリー(自己充足的)」と「インストゥルメンツ(道具的・手段的)」という概念を引用しながら「うれしい」はコンサマトリーだとおっしゃっていましたが、それってコンフォートに近い概念なのかなと。  たまたま九鬼周造の『「いき」の構造』を読んでいたら、その中にスピノザの言葉があって、ハッとしたんです。「『嬉しさ』とは精神が一層小さい完全性から、一層大きい完全性に移ること」と書いてあった。つまり、自己充足が個を超えた広がりを持ったときに、うれしさは生じるものだと。 三浦:赤ちゃんを見ると思わずうれしくなるってのがそれに近いかもしれない。コンサマトリーなうれしさですね。  他方、たとえばホームパーティーを企画するとき、みんなのうれしそうな顔を期待して企画するでしょう。うれしい顔にあふれた“楽しい会”にしたいと思って演出する。そしてみんなが本当に楽しんでくれると、結果として当人もうれしくなる。 小林:つまり、こうなってほしいという期待だったり目的だったりがあるからその行為を行い、それが自己充足感につながっていくわけですよね。 三浦:目的が達成できて自分が承認されると、うれしいになるんでしょうね。 河尻:パーパスを達成すると自己が充足するということですよね。その結果、本人に快適がもたらされる。まあ、考えてみると社会的に意義ある行為をすればうれしくなる、逆に自分の楽しさばかり追求していくとなんだかむなしい。そこは個人も企業も共通なのかも。 三浦:「人の役に立ててうれしい」はあっても、「役に立てて楽しい」というのはない。本書にもインタビューを掲載していますが、町田市の市議会議員選挙に知り合いの女性が立候補したんだけど、彼女は『第四の消費』を読んで、「町田を楽しい町に」ではなく「うれしい町に」というコピーで当選したんです。僕にはそれがうれしいんだけど(笑)。 小林:ところでケアをシェアするというのも、うれしさにつながるということでしょうか。 三浦:ケアというのは介護はもちろん、治療から予防まで含むんだけど、やさしい日本語で言うと「手入れ」や「手当」。靴を手入れするのもケアですよね。  で、中高年のひとり暮らしがさらに増えていくと、肩が凝っても自分でサロンパスを貼ってケアするしかない。それで治らないとマッサージ店に行って5000円払う。でも5000円払えない人はどうするか。コミュニティーの中に、肩くらい無料でもんであげるという場所があるといい。そういうふうにケアをシェアする社会になったほうがいい。困ったときに人の手や知恵を借りるのがシェアの基本ですから。 小林:もんであげた人の自己充足にもつながる? 三浦:そう。そうやって相互にケアしあって、コンフォートを得られる場所をどうつくるか? ということですね。 河尻:このあいだ新聞記事で読んだんですけど、「なぜ、シェアハウスに住むのか?」というアンケートを取ると、子育てをシェアできるという回答が多いらしいですね。仕事に出ているあいだ、子供の面倒を見てくれる人がいるからという。その代わりに空いてる日は同居人のご飯をつくってあげたりするのかもしれない。そういうのもケアのシェアですね。 三浦:子育てをシェアする住み方は本書でも紹介しましたが、今後増えるかもしれません。子ども食堂が発展していく可能性もある。  やはり今、日本人は多様な意味で寂しいし孤独なんですよ。さっきも話に出たように、2011~15年は、日本人の意識が孤独からつながりへ向いた時代だったけど、それから5年くらいで再び孤独を感じる人が増えたんじゃないか。  統計的には20代、特に女性で孤独度が高いですが、年を取ると孤独度が減ります。しかしそれは結婚している人が増えるからです。だが今後は結婚しない人も離婚する人も増えるから、年を取っても孤独度はそれほど減らないと予測されます。事実、男性は既に40代、50代で未婚が多いので、孤独度が減らないのです。孤独な男性は女性よりも事件犯罪を起こしやすいので問題が見えやすいですが、女性は問題が見えにくいという別の問題があるかもしれません。  老後の不安も含めて、「いつ孤独になってもおかしくない」というリスクは多くの人が感じていて、10年、20年たったときにその傾向はさらに強まっていくと思う。そう考えていくと、第四の消費とは究極的に「自分が孤独でなくなれる場所、悲しみや悩みを受け止めてくれる場所」をつくる行為なのかと思います。 ●三浦 展(みうら・あつし)1958年生まれ。社会デザイン研究者。1982年一橋大学社会学部卒業。株式会社パルコ入社。マーケティング情報誌『アクロス』編集室勤務。86年同誌編集長。90年三菱総合研究所入社。99年カルチャースタディーズ研究所設立。著書に『大下流国家』(光文社新書)、『都心集中の真実』(ちくま新書)など ●小林和人(こばやし・かずと)1975年生まれ。海外と郊外で育つ。1999年に吉祥寺の古いキャバレー跡のビルで国内外の生活用品を扱う「Roundabout」を友人数名で始める。2008年、物がもたらす作用に着目した品ぞろえを展開する「OUTBOUND」を開始。建物の取り壊しに伴い、2016年にRoundaboutを代々木上原に移転。2021年には「LOST AND FOUND」(ニッコー株式会社)の商品選定を担当。著書に『あたらしい日用品』(マイナビ)、『「生活工芸」の時代』(共著、新潮社)がある ●河尻亨一(かわじり・こういち)1974年生まれ。取材・執筆からイベント、企業コンテンツの企画制作ほか、広告とジャーナリズムをつなぐ活動を行う。カンヌライオンズを取材するなど、海外の最新動向にも詳しい。訳書に『CREATIVE SUPERPOWERS』(左右社)がある。『TIMELESS 石岡瑛子とその時代』(朝日新聞出版)で第75回毎日出版文化賞受賞(文学・芸術部門)
三浦展書籍朝日新聞出版の本永続孤独社会
dot. 2022/06/22 17:00
「無印良品」から「ダイソー」「メルカリ」まで 00年代に起きた生活消費の変化 三浦展×小林和人×河尻亨一
「無印良品」から「ダイソー」「メルカリ」まで 00年代に起きた生活消費の変化 三浦展×小林和人×河尻亨一
マーケティング・アナリストの三浦展さん リノベーションやシェアリングエコノミーなど「所有からシェア」への消費行動の変化を、マーケティング・アナリストの三浦展さんは「第四の消費」と名付けた。6月、三浦さんは近い将来訪れる「第五の消費」を見据えて、「次の時代の日本人がどんな豊かさを求めて、どんな生活をするかを考える」ヒントとなる『永続孤独社会――分断か、つながりか?』(朝日新書)を出版した。同書刊行を前に行われたスペシャル座談会では、生活道具を扱うRoundabout/OUTBOUNDの店主・小林和人氏と、国内外の広告クリエイティブを分析してきた河尻亨一氏とともに、社会の消費活動の変遷とカルチャーの関係を中心に、来るべき「未来」を語り合った。 *  *  * ■「拾う」「もらう」「借りる」が暮らしの基本に? 小林:先ほどの話(「前編」を参照)に絡めて言うと、派手な装飾や技巧から距離を置き、日用に根ざした簡素な器を指向する「生活工芸」が勃興したのも2000年代前半です。近年、それを定義づける機運が高まっていて、雑誌『工芸青花』編集長の菅野康晴さんは、「現代日本のバブル経済崩壊後に、もてる者たちが起動させた、もたざる者たちによる、もたざる者たちのための生活文化」と定義しています。「『もてる/もたざる』は経済にかぎらず、人脈、権威、技術、地盤、経験、権利等々」であると。 河尻:その定義を広く解釈すると、「無印良品」もそこに入ってくるかもしれない。バブル前ではあるけれど、もてる者、つまりセゾングループという大企業主導で立ち上がったシンプル志向のブランドであり、生活文化的な動きでもあるという意味で。 小林:ええ。それで思い出したのが、三浦さんが『無印ニッポン』で書かれていた「消費者主権」。つまりここまでは用意します、あとはあなたご自身が自分で好きなように使ってくださいという。自分流にものをアレンジする“余白”があるということですよね。 三浦:「無印良品とは“半製品”である」というのは、『月刊アクロス』の1984年2月号の特集「無印良品徹底研究」で、すでに書いたことなんです。 生活道具を扱うRoundabout/OUTBOUNDの店主・小林和人氏  ただ、いま聞いていて思ったけど、いまの消費者は主権を求めているのかな。当時は、買う側もバブル的な豊かさを疑っていたから、無印を選んだわけでしょう? 第三の消費の時代から30年をへて、いまの消費者は無印にさえ疲れているかもしれない。反体制ブランドが一種の体制になってしまった。 小林:80年代の前半、クリア塗装しただけの無印の鉛筆が売られているのを見て、子どもながらに衝撃を受けた覚えがあります。割れ椎茸を知ったのは後になってからですが。それらは、ひとつの生活態度の表明というか、無駄な工程は省き、これまで廃棄されていたものを「これでいい」とする姿勢で、かつての無印にはそういう強いメッセージ性があったけれど、現在はその劇薬性というのは相対的な意味でもだいぶ薄まってますね。 三浦:話はちょっと変わるけど、自分の部屋をリノベしたとき、最初は無印とか禅的な部屋をある程度イメージしていたのね。ほとんどモノを置かないような。ところが、結局暮らしているうちにどんどん本やものがあふれて、ごちゃごちゃしてきた。拾ってきたものもありますから。でもね、いま、最高に快適なんです。そのごちゃごちゃ感が(笑)。 小林:それって、三浦さんが自分で編んだ物語だからですよね。その物語は現在進行形で、またここから、三浦さんが散歩して見つけたものとか、面白いものを拾ったりするなかでブリコラージュ(寄せ集めて自分で作る)されていって、どんどん変化し続ける。  最初に取り入れようとしていた無印とか禅的なスタイルは、いうなれば既に完結したストーリーだと思うんですけど、いまの三浦さんの居心地がいい部屋の状態っていうのは、置かれてるものそのものが物語の伴走者なんですよね。暮らしという運動を一緒に走って現在進行形の物語を共に編んでいるからこそ、そこに一体感もあるし、快適でいられるっていうことなんじゃないかと。  完全にひとつのスタイルにしてしまうというのは、動かせない物語をただ与えられているだけで、そこに立ち会って関わっている実感だったり自由さは得られない。それが第三の消費と第四の消費の違いなのかも。 国内外の広告クリエイティブを分析してきた河尻亨一氏 三浦:拾ったもので生活をつくると、用途を変更せざるを得ないんです。みかん箱だけどタオルを入れたりだとか、陶器の箱だけどCDボックスにちょうどいいとか。そんなふうに用途を変えて使うのがいいと思ってる。  隈研吾さんとの『三低主義』でも書いたように、「拾う」「もらう」「借りる」はこれからの暮らしの基本だと思うんだけど、無印の商品って用途が変えられないし、中古になったら魅力が減りますから。  これはリノベーションにも言えることですが、無印良品もパタン化してしまったんですよね。すると、リノベした家に住むより、1970年代のダサい部屋にそのまま住むほうがかえって潔いというか、カッコいいという言い方ができる時代になっている。 ■『クウネル』はなぜリニューアルしたのか? 消費の2015年問題を考える 河尻:ちょっと話が大きくなってきたので、ここで一度整理しつつ、次に進めます。2000年代は「第四の消費」と呼んでいる時代の勃興期で、10年代になるとそのムーブメントが深化します。その代表格が「シェアリングエコノミー」でしょうね。三浦さんが『これからの日本のために「シェア」の話をしよう』をリリースしたのが11年で、翌年にその名もズバリ『第四の消費ーーつながりを生み出す社会へ』が出版されます。  当時は東日本大震災の影響やSNSの普及などもあり、社会的につながり志向が顕在化、シェアハウスやシェアオフィスが脚光を浴び、さまざまな共創型プロジェクトが盛んに行われるようになりました。  ところが、2015年頃を境にそのムーブメントが急速にしぼんだというか、「第四の消費」は変質していった印象もあり、後半はそのあたりの話をしてみたいです。この動きは今後どうなるのか。パンデミック後も視野に入れつつ展望を話しあってみたいと。 三浦:その変化を象徴するのはメルカリですね。つまり、フリマのデジタル化。メルカリが広く認知され始めたのも15年ぐらいだと思いますが(創業は13年)、こうなってくると自分らしさを表現するフリマではなく、単にいらないものを売る便利ツールになってしまっている。  あと、2015年以降、正社員率が増えているんです。人口が減ったせいもあって、正社員になれるようになった。アベノミクスの若者受けがよかった理由のひとつに、安倍さんが経団連に給料上げろとか、正社員にしろなどと言って、ある程度は実現できたということも背景にある。「シェアしよう」っていうことの背景には、「オレたち、困ってるんだ」っていうこともあったでしょうから。給料が上がると助け合わなくてもよくなっちゃう。 河尻:「アベノミクス」を言い出したのが2013年で、その“効果”が出始めたのも16~17年頃でしょう。広告やメディア業界を見ても、急速に五輪ムードに入っていき、第三の消費的価値観がジワッとカムバックします。それを象徴するのが『クウネル』のリニューアルなのでは?(16年1月号)。「かわいいものに、トキメキたい」をテーマに掲げて、バブル世代向けの編集に変わりましたよね。小林さんは、そのへんの変化って何か感じます? 小林:第四の消費の変質という話で言うと、ダイソーが「スタンダードプロダクツ」という新しいブランドを始めたんです。低価格帯だけどマット釉のかかったような、ぱっと見、かつての暮らし系雑誌に載っていそうな感じの、写真映えしそうな器とか、白樺の皮かと思いきや実はポリプロピレンで編まれたような、なんちゃって北欧ふうのバスケットとか。ウェブサイトを見ると、我々は地球環境に配慮して展開していますよっていうムードを醸し出していて。それで、批判するからには実際に見なくちゃと思って店舗に行ったら、「こんな感じでしょ」と言わんばかりの記号化、スタイル化がすさまじくて、まさに「ファストていねいな暮らし」だと思いました。 三浦:ファストていねいな暮らし(笑)。“第四の消費ふう”ということですね。そう考えると、いま、無印がすべきことは、たとえば、拾ってきたもので自分の暮らしをつくろうみたいな、そういう行為を提案することなんじゃないかな? そうなると「どこでもうけるんだ?」という話になるけど、思想としてはそういうことを提案すべきだと思う。それこそが禅的でもあるし。 河尻:「サステナブル」はいまグローバルカルチャーの本丸ですけどね。カンヌ国際クリエイティビティフェスティバルのような場では、この10年来の変化の中で、いまやSDGs、あるいはD&I(ダイバーシティ&インクルージョン)の視点を欠いたブランドやキャンペーンは基本相手にされなくなりました。ある種の社会貢献性とビジネスの成長を両立させる方法があるはずだということで、提唱されたのが「パーパス(社会的存在意義)」という理念です。ただ、この理念もなぜか日本に入ってくると“パーパスふう”になりがちです。それっぽいことでお茶を濁すというか……。  実際、周囲を見渡すと「なんちゃってSDGs」「とりあえずパーパス」とでも言うべきキャンペーンも目につき始めています。これはもったいない話です。パーパスの設定はリスクも伴いますが、成し遂げた会社は次の時代をつくると考えれば。私は「本質・本気・本音」と意訳していますが、広告にもオーセンティシティ(真正性)が求められる時代です。 小林:今日、僕のはいているパンツは「MITTAN」という衣服のブランドのもので、ここの特徴としては、自社製品は全部、実費でリペアしてくれるんですよ。靴下1枚から。ブランド側としては靴下まで直すというのは、ある種の決意表明だと思うんですよね。 河尻:本気のサステナブルですよね。 (後編に続く) ●三浦 展(みうら・あつし)1958年生まれ。社会デザイン研究者。1982年一橋大学社会学部卒業。株式会社パルコ入社。マーケティング情報誌『アクロス』編集室勤務。86年同誌編集長。90年三菱総合研究所入社。99年カルチャースタディーズ研究所設立。著書に『大下流国家』(光文社新書)、『都心集中の真実』(ちくま新書)など ●小林和人(こばやし・かずと)1975年生まれ。海外と郊外で育つ。1999年に吉祥寺の古いキャバレー跡のビルで国内外の生活用品を扱う「Roundabout」を友人数名で始める。2008年、物がもたらす作用に着目した品ぞろえを展開する「OUTBOUND」を開始。建物の取り壊しに伴い、2016年にRoundaboutを代々木上原に移転。2021年には「LOST AND FOUND」(ニッコー株式会社)の商品選定を担当。著書に『あたらしい日用品』(マイナビ)、『「生活工芸」の時代』(共著、新潮社)がある ●河尻亨一(かわじり・こういち)1974年生まれ。取材・執筆からイベント、企業コンテンツの企画制作ほか、広告とジャーナリズムをつなぐ活動を行う。カンヌライオンズを取材するなど、海外の最新動向にも詳しい。訳書に『CREATIVE SUPERPOWERS』(左右社)がある。『TIMELESS 石岡瑛子とその時代』(朝日新聞出版)で第75回毎日出版文化賞受賞(文学・芸術部門)
三浦展書籍朝日新聞出版の本永続孤独社会
dot. 2022/06/21 06:00
ゆるい、ボロい、スカスカに象徴される「第四の消費」とは何だったのか 三浦展×小林和人×河尻亨一
ゆるい、ボロい、スカスカに象徴される「第四の消費」とは何だったのか 三浦展×小林和人×河尻亨一
マーケティング・アナリストの三浦展さん リノベーションやシェアリングエコノミーなど「所有からシェア」への消費行動の変化を、マーケティング・アナリストの三浦展さんは「第四の消費」と名付けた。6月、三浦さんは近い将来訪れる「第五の消費」を見据えて、「次の時代の日本人がどんな豊かさを求めて、どんな生活をするかを考える」ヒントとなる『永続孤独社会――分断か、つながりか?』(朝日新書)を出版した。同書刊行を前に行われたスペシャル座談会では、生活道具を扱うRoundabout/OUTBOUNDの店主・小林和人氏と、国内外の広告クリエイティブを分析してきた河尻亨一氏とともに、社会の消費活動の変遷とカルチャーの関係を中心に、来るべき「未来」を語り合った。 *  *  * ■第四の消費は高円寺で発見した 河尻:この鼎談では「第四の消費」のこれまでを振り返りながら、今後の展望についてもお話しします。2000年代冒頭の20年を、ライフスタイルやカルチャーの側面から読み解く試みにもなりそうですが、三浦さんが最初、第四の消費的な新しい動きに気づいたのはいつ頃なんでしょう? 三浦:1998年です。この年は肌感覚としても世の中がガラッと変わった記憶があります。前年の、山一證券の経営破綻による金融危機の影響も大きくて。当時、僕は大手町に通勤していましたが、事務職の女性たちは白いブラウスにタイトスカート、エルメスのスカーフみたいな格好で、バブルというのかジュリアナ的なものがまだ残っていました。それが98年を境に変わっていくんです。  たまたま久しぶりに高円寺を歩いたら、古着屋がにぎわっていて驚きました。これは発見でしたね。井の頭公園のあたりでも、その頃から急にフリマが増えていく。会社を辞めて、またマーケティングでもしようと思っていた瞬間に未知の風景が見えてきたので、非常に印象的でした。吉祥寺の真っ暗だったハモニカ横丁に手塚一郎さんがハモニカキッチンを作ったのも同じ頃。あれも僕にとっては「住吉の長屋」ぐらいの衝撃でした。小林さんが吉祥寺の古ビルでラウンダバウト(Roundabout)を始めたのはいつから? 生活道具を扱うRoundabout/OUTBOUNDの店主・小林和人氏 小林:99年の8月からです。 三浦:だいたい同時期ですね。ラウンダバウトも壁紙を剥がしたままみたいな感じで、いままでと全然違うインテリアのお店が出てきたなと。いかにもスタイリッシュなデザインとは対極の、ゆるくて、ボロくて、力が抜けたような。世代論的に見ても、98年には、78年生まれが20歳になる。成人した団塊ジュニアたちがIT起業家になったり、フリマだ、古着だと言いはじめた。 河尻:小林さんがラウンダバウトを始めたきっかけは? 小林:僕は75年生まれで、99年に大学を卒業したんですけど、モノに興味を持ったきっかけは、ルイジ・コラーニというインダストリアルデザイナーです。中学生のとき、市の図書館で何げなく借りたルイジ・コラーニの作品集を見て、デザイナーという職業があることを衝撃とともに知りました。  ただ、家電のようにライン生産で大量製造されるプロダクトではなく、家具や文房具といった、生活のなかで把握できるスケールのモノのデザインに興味がありましたね。多摩美ではインテリアデザインを専攻しましたが、入学当時の95年頃はインテリア雑誌をめくると、まだバブルの残り香が感じられるような「ギラギラ」の商業空間が並んでいたんです。そこから遠ざかりたいと思ってしまって。 三浦:「ギラギラ」は「第三の消費」的ですね。ちなみに僕が裏原宿や高円寺の街を歩いていて浮かんだ言葉は「スカスカ」。スタイリッシュに作りこまれた空間ではなく、古いアパートを改造しただけのお店が多かった。 河尻:ラウンダバウトもスカスカ系? 小林:というより、最初は本気で店をやろうとさえ思ってなかったんですよね。ある日、仲間の1人が、吉祥寺の古ビルが1週間だけ借りられるという話を持ってきたんです。それでグループ展とかファッションショーとか、いろんなアイデアが出たんですけど、どうせなら内輪で終わらないものにしたいと考えたときに、店というのがもしかしたら自分たちと社会との唯一の接地面になり得るかもしれないと思いつき、店はどうだろう? となりました。  明治公園のフリマで買ってきた中古家電のラジカセ、パタパタ時計、アメリカンスクールのバザーで買った海外の絵本にポータブルプレーヤーなどを集めて、自分たちで手刷りしたTシャツなども用意してゴチャゴチャっと始めました。 国内外の広告クリエイティブを分析してきた河尻亨一氏 三浦:ようするにフリマだね(笑) 小林:ノリとしては、廃ビルを占拠してるみたいな感じでした。カッコよくいえばデンマークのクリスチャニア(自由区)みたいに。昔はキャバレーや学習塾が入っていたビルですが、通りがかりの人も結構、面白がって入ってきてくださって、それで味をしめて本格的にやろうということになった。 ■「ていねいな暮らし」が共感を生んだ00年代 河尻:「ゆるい」「ボロい」「スカスカ」などは、第四の消費を語る上でのキーワード。それは三浦さんのなかで、どういうプロセスをへて消費社会論に発展していったんですか? 三浦:高円寺の風景に衝撃を受けて、99年に会社を辞めてからは、それこそ毎日のように高円寺、下北沢、原宿、代官山などの街を歩いて写真を撮り、気づいたことをキーワード化する中で全体像が見えてきたんです。  簡単に言うと、そこで目にしたものは、近代化する日本が否定した価値観ですよね。近代化時代には、着るものはパリッと新品を着たい、クルマも新車を買いたい、家も新築がいいという価値観だった。それが古着や古民家、フリマ、ボロいカフェなんかがいい、ということになってきていたのがすごく新鮮に感じられた。  古い建物が面白いと思ったきっかけは馬場正尊さんです。彼がR不動産を始める前に一緒に中目黒なんかを歩いて、ボロいビルがカッコいいことに気づいた(三浦展『ヤバいビル』参照)。ブルースタジオのリノベーション本を見ても、「高円寺の月1万8000円のぼろアパートが6万円で貸せるようになった」なんて書いてある。リノベが普及していった最初の10年は、非常に面白かったですね。 河尻:小林さんにも、お店を始めて最初の10年くらいで感じた世の中の変化を聞いてみたいです。我々がいま「第四の消費」という言葉で言い表そうとしている新しいカルチャーは、2000年代にどう広まっていったのか。 小林:オープン当初は上の階はまだ空っぽで、それほど人の流れが多くはなかったんです。それで、上にカフェがあると、人の流れができていいなと思ってイデーから独立したばかりの知人に相談したら、元同僚がカフェをやりたがっていたから話してみようと。  その人が3階のスペースを見てひと目ぼれしてくれて、2000年に「フロア(FLOOR!)」というカフェが始まり、そこが雑誌『ポパイ』の表紙で取り上げられたあたりから、都心からのお客さんも来てくれるようになりました。 三浦:ラウンダバウトは、最初はゆるい中古家電の店だと思っていたけど、途中からセレクトが「ていねいな暮らし」系の雑貨に変わった印象がある。あれは何か意図があったの? 小林:最初はアメリカ西海岸のフリーマーケットを巡って、60年代のラジオや電話機などを買い付けてきたので、結構スペースエイジ色が濃かったんです。その後徐々に、業務用のステンレスバットだとか野田琺瑯(のだほうろう)とか、シンプルな生活道具の割合が高まってきました。  さっきルイジ・コラーニの話をしましたけど、自分のなかのもうひとつの下地として、柳宗理(やなぎ・そうり)の存在もあったんです。大学生のときにセゾン美術館で展示を見て、柳宗悦(やなぎ・むねよし)よりも先に宗理に出会い、そこでアノニマス・デザインの概念をインストールされたというか。  世の中の変化を感じたのは、2005年に『物語のある暮らし雑貨』というムックの取材を受けたあたりからですかね。それ以降、暮らし系の気配のするお客さんが増えてきました。 河尻:なるほど。クウネル族の時代とでもいうのか、2003年に創刊した雑誌『クウネル』は「ストーリーのあるモノと暮らし」というコンセプトを掲げていました。スローライフ的な価値観が脚光を浴びたのもその頃ですね。当時、キユーピーマヨネーズが「シンプルに生きることにした。」というキャッチコピーのCMを流していて、共感した記憶があります。ちなみに雑誌『アルネ』の創刊号では、柳宗理を特集しています(02年)。ていねいな暮らし系の雑誌は流行しましたね。 【中編】に続く ●三浦 展(みうら・あつし)1958年生まれ。社会デザイン研究者。1982年一橋大学社会学部卒業。株式会社パルコ入社。マーケティング情報誌『アクロス』編集室勤務。86年同誌編集長。90年三菱総合研究所入社。99年カルチャースタディーズ研究所設立。著書に『大下流国家』(光文社新書)、『都心集中の真実』(ちくま新書)など ●小林和人(こばやし・かずと)1975年生まれ。海外と郊外で育つ。1999年に吉祥寺の古いキャバレー跡のビルで国内外の生活用品を扱う「Roundabout」を友人数名で始める。2008年、物がもたらす作用に着目した品ぞろえを展開する「OUTBOUND」を開始。建物の取り壊しに伴い、2016年にRoundaboutを代々木上原に移転。2021年には「LOST AND FOUND」(ニッコー株式会社)の商品選定を担当。著書に『あたらしい日用品』(マイナビ)、『「生活工芸」の時代』(共著、新潮社)がある ●河尻亨一(かわじり・こういち)1974年生まれ。取材・執筆からイベント、企業コンテンツの企画制作ほか、広告とジャーナリズムをつなぐ活動を行う。カンヌライオンズを取材するなど、海外の最新動向にも詳しい。訳書に『CREATIVE SUPERPOWERS』(左右社)がある。『TIMELESS 石岡瑛子とその時代』(朝日新聞出版)で第75回毎日出版文化賞受賞(文学・芸術部門)
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醤油の配合を間違ったら…「六厘舎」出身のラーメン店主がミシュランを取るまで
井手隊長 井手隊長
醤油の配合を間違ったら…「六厘舎」出身のラーメン店主がミシュランを取るまで
カネキッチン ヌードルの「地鶏丹波黒どり醤油らぁめん」は一杯880円(筆者撮影)  日本に数多くあるラーメン店の中でも、屈指の名店と呼ばれる店がある。そんな名店と、その店主が愛する一杯を紹介する本連載。熊谷で“TKM”というシンプルすぎる一杯で大行列ができる店主が愛するラーメンは、名店「六厘舎」でスープを作り続けた男の紡ぐ、鶏のうま味が凝縮した清湯系の一杯だった。 ■具なし、スープなし、卵あり 「TKM」誕生の背景  JR高崎線・熊谷駅(埼玉県)から徒歩5分、突如現れる大行列にはいつも驚かされる。「ゴールデンタイガー」だ。およそラーメン店には見えないポップな店だが、常連客を中心に遠方からもラーメンファンが集まる。 「ゴールデンタイガー」の看板メニューは“TKM(タマゴカケメン)”。麺線のビシッと整った麺の上に卵の黄身が鎮座する。シンプルすぎるメニューながら、麺のうまさが際立つ一杯だ。「卵かけご飯」の“TKG”からヒントを得て付けた名前もこれまたポップで良い。 ゴールデンタイガーの「特製TKM」は一杯850円。生卵、鶏チャーシュー2枚、味玉がのっている(筆者撮影)  TKMのような汁なし麺は一般的には「まぜそば」「油そば」と呼ばれることが多い。なぜそう呼ばなかったのか。店主の金澤洋介さんは言う。 「“冷やしまぜそば”と呼ぶこともできたかもしれませんが、人と同じことをしたくなかったんです。写真を見たら驚くものにしたかったので、卵に目がいく盛り付けを目指しました」  TKMはまかないから生まれたメニュー。まかないとして具なし、スープなしで麺を食べていた時に「卵かけてみる?」と思いついたのがきっかけだ。卵は近隣の川本町にある田中農場のものを使っている。黄身のオレンジ色が濃く、臭みがないので生で食べるには最高の卵だ。  店の外観や内装はとにかくポップ。「ゴールデンタイガー」という店名はピザ屋をやっている知人がつけてくれた。ありきたりの名前で営業するより、目立つ店名にしたかったという。  金澤店主の決めポーズは、店名にちなんだ“タイガーポーズ”。お客さんと一緒にタイガーポーズをして写真を撮ると、SNSにその写真があふれた。こうしてだんだんファンがついていったのである。 ゴールデンタイガー店主の金澤洋介さん。「タイガーポーズ」が様になる(筆者撮影)  2020年10月からは麺を自家製麺にした。製粉会社と二人三脚で完成させた、加水が高めで弾力が強い麺は、麺だけ食べた時の説得力が半端ではない。コロナ禍に合わせて自社工場を作り、製麺と同時に店頭・オンライン販売用のお土産麺も準備した。イートインのみならず、オンラインでもファンが広がり、“TKM”は少しずつ広がっている。  すべてにアイデアがあふれ、唯一無二の存在になった「ゴールデンタイガー」。マーケティング視点でも参考になる店である。今後は、もう1、2店舗広げていきたいという。 「次はTKMの専門店を出してみたいです。TKMを国民食のひとつにできたらと考えているんです。『東池袋大勝軒』の山岸さんがいっぱい弟子をとってつけ麺文化を広めたように、TKMをどんどん広めていきたいと考えています」(金澤さん) ゴールデンタイガー/埼玉県熊谷市本町2-116アイジマビル1F/11:00~14:00、18:00~21:30LO。水曜定休日。営業情報は店のツイッター(@golden_tiger24)にて/筆者撮影  そんな金澤さんの愛するラーメンは、つけ麺の名店「六厘舎」でスープを作り続けた男が独立して一転、清湯(ちんたん)系でミシュラン・ビブグルマンを獲得した一杯だ。 カネキッチン ヌードル/東京都豊島区南長崎5-26-15 マチテラス南長崎 2F/[木~火] 11:30~15:00、18:00~21:00、水曜定休※麺、スープなくなり次第閉店/筆者撮影 ■醤油の配合を間違ったら… 「六厘舎」出身のラーメン店主がミシュランを取るまで  西武池袋線・東長崎駅南口から徒歩2分。飲食店の集まる小さなビル「マチテラス南長崎」の2階にその店はある。「カネキッチン ヌードル(KaneKitchen Noodles)」だ。ラーメンフリークの店主がたどり着いた至高の一杯で多くのラーメンファンをうならせる名店である。  店主の金田広伸さんは埼玉県朝霞市出身。若い頃はアニメーターを目指して代々木アニメーション学院へ。アニメーターとして2年間働いたが、実力不足を感じ、その後はアルバイトをしていたすし屋に就職した。 カネキッチン ヌードル店主の金田広伸さん。名店「六厘舎」で修行した(筆者撮影)  それも続かず、今度はホンダの自動車工場で働くことに。夜まで仕事をしては、夜中によくラーメンを食べていた。リーマン・ショックで仕事を辞め、職業安定所で仕事を探していたところ、つけ麺の名店「六厘舎」が地元近くの新座市で工場を開くため働き手を募集しているのを見つけた。そろそろ手に職をつけたいと思っていた金田さんは、「六厘舎」に就職する。33歳の時だった。  はじめの2年間は工場勤務。スープ作りがメインの仕事だったが、最終的にはレシピを任せられるようになった。ちょうど多店舗展開を始めた頃で、とにかく勢いがあった。はじめは60センチの寸胴(ずんどう)でスープを1日2本分炊く仕事だったが、どんどん量が増え1日20本に。24時間態勢でスープを炊く工場になった。 「体力的にはしんどかったですが、このスープと向き合った日々が今の自分を作っています。徹底的に覚えましたね。人が一生で作るスープの量は、この時期だけで余裕で作っていたと思います(笑)」(金田さん)  その後、東京駅の店や別ブランド「舎鈴」の立ち上げなど、いろいろな店舗を回った。年月とともに立場が変わり、従業員管理やマネジメントにも携わり、大変勉強になったという。  退職の2年前ぐらいから独立を見据えて食べ歩きを始める。特に好きだったのが「蔦」「鳴龍」「くろ喜(*)」。濃厚系のスープを作り続けてきた金田さんだったが、独立したらあっさりした清湯系をやろうと心に誓った。  書店で見つけた本に「鳴龍」のラーメンの作り方が書いてあり、それに倣って作ってみた。だが、似たようなラーメンは作れるが、どうしてもクオリティーが届かない。作りたいラーメンのイメージは決まっていたが、技術が追い付いていなかったのだ。自分がこれまで作ってきた濃厚系のラーメンとは基礎の基礎から違ったのである。 西武池袋線「東長崎駅」南口から徒歩2分の場所にある(筆者撮影)  そこで金田さんは「鳴龍」の店主・齋藤一将さんに直接質問し、食材の使い方や仕入れ先まで教えてもらうことに。独立前に、地元の朝霞にある定食屋を週1で間借りし、ラーメンを提供することにもなった。「ラーメン 金田」のオープンである。 「安定して同じものは作れなかったけれど、おいしいものはできていたと思います。『鳴龍』さんが麺を卸してくれて、本当にありがたかったです。最後の方は行列もできていたんですよ」(金田さん)  そしていよいよ独立の時。地元で店を開きたかったが物件がなく、エリアを広げ、東京都豊島区の東長崎に決めた。駅前ではありながら建物の2階というあまり条件の良くない物件。アニメーター時代によくこの辺りで仕事をしていたので土地勘があったことと、とにかく早くやりたいという気持ちが大きかったのだという。 「売れてしまえば場所は関係ないと思い、決めてしまいました。建物的に『ラーメン 金田』という名前が合わないと思い、大好きだった『Japanese soba noodles蔦』に敬意を表してオマージュしました」(金田さん) カネキッチン ヌードルの「地鶏丹波黒どり醤油らぁめん」。醤油の配合を間違ったことから生まれたという(筆者撮影)  こうして2016年12月、「カネキッチンヌードル」はオープンした。開店して3カ月は間借り時代のファンや、特集された雑誌を見てたくさんのお客さんが来た。だが、ワンオペで店がまったく回らず、許容量オーバー。金田さんはオープンから半年間の記憶がほぼないという。 「クオリティーが全く追い付いていませんでした。間借り時代とは道具も違い、コンロもIH。満足いくスープが炊けなかったんです。オープン景気が終わった頃、IHが壊れてガスに変えたことでようやくちゃんとスープが炊ける環境になりました」(金田さん)  この後転機になったのはオープンから1年半経った頃である。仕込み中に醤油の配合を間違ったことがあった。試しにそのまま作ってみたら、これが驚くほどうまかったのである。ここから醤油の量や火入れの有無を気にするようになる。 「これをきっかけにより食材と向き合えるようになりました。それぞれの素材の良さをマックスで引き出せるようにいろいろ工夫しました。醤油をきっかけにスープも変え、地鶏を使い始めました。オープンから2年である程度完成形に近づいた感じです」(金田さん)  この後、「カネキッチンヌードル」は『ミシュランガイド東京』で3年連続のビブグルマンを獲得。一気にトップの仲間入りを果たす。鶏清湯ラーメンブームの一端を担う名店として、今も行列を作り続けている。 カネキッチン ヌードル店主の金田広伸さん。素材の良さを生かしたラーメンづくりをしている(筆者撮影) 「ゴールデンタイガー」の金澤店主は、金田さんを兄のように慕う。 「イベントで初めてお会いして以来、いろいろ教えてくださる兄貴です。『六厘舎』の出身ということで数字管理やマネジメントにも詳しいですし、食材の扱い方についてもすごい知識を持っています。つるし焼のチャーシューの作り方も金田さんに教えてもらいました。TKMも気に入ってくださり、週1の限定でお店で出されているんですよね」(金澤さん)  金田さんもTKMを高く評価している。 「TKMがとにかくおいしいです。シンプルすぎるだけにこれを作るのは非常に難しいんです。金澤さんは明るい体育会系。職人の部分と経営者の部分のバランスが取れていて、お店が完成されている感じがします」(金田さん)  取材を通して思ったのは、金澤さんも金田さんも底抜けに明るいこと。そして、ラーメン作りだけでなく、経営面もしっかり考えられているのが印象的だった。長く店を続けるには、そのバランスが大事なのだと再認識した。(ラーメンライター・井手隊長) *「くろ喜」の「喜」は「七」を三つ並べたものです。 ○井手隊長(いでたいちょう)/大学3年生からラーメンの食べ歩きを始めて19年。当時からノートに感想を書きため、現在はブログやSNS、ネット番組で情報を発信。イベントMCやコンテストの審査員、コメンテーターとしてメディアにも出演する。AERAオンラインで「ラーメン名店クロニクル」を連載中。Twitterは@idetaicho ※AERAオンライン限定記事
AERAオンライン限定ラーメン井手隊長
AERA 2022/06/05 12:00
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永井貴子 永井貴子
木梨憲武「僕の役目は“成美相談所”です」 妻・安田成美の支えがつむぐ「自由奔放」な家族と「絵」
都内のアトリエでインタビューに応じる木梨さん  (撮影/写真映像部・戸嶋日菜乃、スタイリスト/大久保篤志)  本業であるタレント業に加え、ラジオ番組のパーソナリティー、映画俳優、そしてミュージシャン――。「とんねるず」の木梨憲武さん(60)は、還暦を迎えてもその勢いが衰えることはない。さらに、美術作家としての顔も持つ木梨さん。「木梨憲武展 Timing―瞬間の光り―」の全国美術館ツアーのフィナーレを飾る東京会場での展覧会が始まった。活動の場を広げ続ける木梨さんに、AERAdot.は単独インタビューをおこなった。制作への思いとともに、妻で女優の安田成美さんとの会話、3人の子どもへの木梨家の教育方針と父親としての顔までを、木梨さんのアトリエで話を聞いた。 *  *  *  都心部ながら住宅街としても知られる瀟洒(しょうしゃ)な街並みの一角。  ビルの細い階段をのぼりアトリエに足を踏み入れると、壁や床に無造作に並べられたキャンバス画とオブジェの作品群が飛び込んでくる。  インタビューをしたのは、展覧会の東京での開催まであと2週間ほどに迫ったタイミングだった。  壁に立てかけられた描きかけのキャンパスや、棚に並ぶカラフルにペイントされた、だるまの一群。これも制作途中の作品なのかと木梨さんにたずねると、 「うーん、だるまは、どこに展示するか迷っているけれどね。置く予定です」  と悩まし気な様子。開催に向けて、レイアウトをぐるぐると思いめぐらせる様子が伝わってくる。 Flower 2018年 (C)NORITAKE KINASHI (撮影/写真映像部・戸嶋日菜乃、スタイリスト/大久保篤志) ■「じじい」だから健康には気をつかうね  木梨さんが最初に個展を開いたのは1994年。番組のロケをきっかけに絵筆を執った。  相方の石橋貴明さん(60)とともに、とんねるずでの活動を軸にテレビや映画俳優、さらには音楽アルバムまでヒットさせる異才ぶり。第一線で活躍しながら、同時に30年近く絵やオブジェなどアート作品の制作を続けている。  今年3月に還暦を迎えた木梨さんは、こう笑う。 「いやもうじじいだから。昔と違って細かい作品をつくるのは、だめだね」  八面六臂(はちめんろっぴ)の活躍をする木梨さんの朝は、とにかく早い。 制作中の作品を前に(撮影/写真映像部・戸嶋日菜乃、スタイリスト/大久保篤志) 「午前3時に起きたらさすがに、『やべっ』となっちゃうけれど、4時前には布団から抜け出します。いまの季節、夏に向けて日の出もちょうどいい具合に早くなるでしょう。明るくなるのを待って、6時ごろには竹ぼうきで自宅の周りをはくの。5年くらい前から掃除するのにハマっちゃって」  木梨さんがパーソナリティーを務めるラジオ番組「土曜朝6時 木梨の会。」(TBSラジオ)の日も朝5時のスタジオ入りだ。  仕事はできる限り日中に集中させる。朝が早い分、寝るのも早い。誰かとお酒を飲むときも夕方5時半スタートが基本だという。 「夜遅くまでお酒の場にいると楽しいと朝までいっちゃうから、あえて早く切り上げるようにしてるの。もうじじいだから、健康には気をつけていますよ」  繰り返し「じじい」を口にする木梨さん。そのアクティブさは、年齢を感じさせない。 窓 2018年 (C)NORITAKE KINASHI  インタビューの前にアトリエで流れていたテンポの良い音楽は、6月発売の音楽アルバムの収録曲だった。 「音楽でもやりたいことは、たくさんある」 ■吉田美和とのコラボで「ノリカム」実現?  今年4月、自身のラジオ番組に、DREAMS COME TRUEの中村正人さんをゲストに呼んだ。その際、自身のインスタグラムに中村さんとのオフショット写真を上げ、こんな“野望”を発信した。 <将来の夢シリーズ!ノリカム→NORIとカムトゥルースタートします!> <中村っちOK!あとは吉田美和を口説けばあるどー!!>  壮大な新プロジェクトへの意欲を見せているが、「ノリカム」の進み具合を当の本人にたずねると、ゆっくりこう答えた。 「いまは、吉田(美和)さんの返事待ちかな。吉田さんは伝説の人だから、邪魔しないように、ね」  アトリエの壁の中央、いちばん良い位置には、「抽象画」が飾られている。実はこれ、現在26歳の長男が4歳のころに、キャンバスに描いた絵なのだという。もう20年以上も前だ。 「何を描いたかは、あえて聞いていません。でも、当時『ブーブー』と言っていたから、車でも描いたつもりでしょうね。子どもは、狙うことなく大人が見てハッとするような大胆なモノを作ってしまう。すごく刺激になるんです」 2017年の舞台「クライムズ・オブ・ザ・ハート」に出演したときの安田成美さん  木梨さんと俳優の安田成美さん夫婦は、2男1女に恵まれた。  父親として、子どもたちに絵を教えているのだろうか。 「いや、したことないですね。ただ昔は、僕も家で描いていたからキャンバスや絵の具、筆など子どもが好きに手に取れる場所に何でもあったから、好き勝手に筆を持っていたみたい。自宅には、子どもらが描いた絵や立体作品なんかが飾ってありますよ。アトリエに子どもが来て、自由に描いていたこともあったしね」  英才教育といった子育てとはまた違う、子どもの裁量を大切していることが伝わる。 「上にあるかな?」  木梨さんがおもむろにそうつぶやくと、アトリエの上のフロアからスタッフが2枚の油絵を持ってきた。次男が昔、学校の課題で描いた両親の絵だという。木梨さんと成美さんが柔らかな表情でほほ笑んでいる。木梨家の温かな空気が伝わってくるような絵だ。  木梨さんは多忙を極める一方で、成美さんも俳優として活躍している。「共働き」の木梨家で3人の子育てを、どう乗り切ったのだろうか。 フェアリーズ ー街ー 2019年 (C)NORITAKE KINASHI ■反抗期も子どもと一緒にケンカしちゃう 「ほぼすべて成美さんです。3人分のお弁当を作り、勉強から子どもからの進路相談から何もかも、成美さんがやってくれた。子どもが成美さんに何か話しているその横で僕が、うんうんって頷いている。僕の役目は、成美さんが迷った時の『成美相談所』、そんな感じですよ」  それぞれの道を自由に、歩む三人の子どもたち。反抗期はなかったのか。 「あまり記憶にないですね。反抗されても、子どもと一緒になってケンカしちゃうだけだったかな。俺自身が4番目の子どもみたいなもので、精神年齢は小学3年生くらい。子どもたちは俺のところに寄ってこないもん。それに、子どもらは成美さんには逆らっちゃいけないってわかっているしね」  木梨さんの作品は、抽象画やデザイン画が多いが、人物画はほとんどない。いつか、自分も小学3年生の目線になって、自分と成美さんを「パパ」と「ママ」として俯瞰した肖像画を描いてみるのもいいね、と木梨さんは話す。 「REACH OUT」の新作のミニチュア版を手にする木梨さん(撮影/写真映像部・戸嶋日菜乃、スタイリスト/大久保篤志) 「港区の児童作品展の審査員をしているんだけど、その年齢の絵って発想力がすごい。すごく自由。あこがれるのは小学3年生の『狙ってない発想力』だね」  型にとらわれない木梨さん。自身の展示には、手をモチーフにした「REACH OUT」シリーズを板金で組み立てる巨大オブジェも登場する。現在、組み立てている最中だ。いまは、2メートルぐらいの高さだが、最終的には3メートルを超える高さにしたいと話す。  この「REACH OUT」は、もう20年以上続けている作品のシリーズだ。REACH OUTとは、文字通り「外に向かって手を伸ばす」という意味から、「触れる」「連絡する」「訴える」など様々な意味を持つ言葉だ。  昨今、「触れる」ことができない世の中における「REACH OUT」の作品は、どのような意味を持つのか。 「外に手を伸ばす、手をつなぐ、その両方の意味が込められています。困った人には、助けるための手を差し伸べ、いつか手を伸ばし返す。実際には手を触れることができなくとも、人と人が手をつなぐ大切さは変わらないですから」 ■「まさか、出さないよね」と、安田成美さん  コロナ禍の2020年、巡回中だった全国美術館ツアーはいったん延期。あれから2年を経たいま、タイトルの「Timing(タイミング)」に込めたメッセージに変化はあったのだろうか。 「このコロナ禍に世界中で混乱が起きました。触れ合うことが良くないことに変わるなど、あたり前だと思っていた価値観さえ変わりました。でも2年が経ち、ようやくコロナ禍にも切り返しが見えてきた。この22年はいろいろなことで方向転換の時期じゃないのかな。俺はなるべく物事を良くとらえるようにしている。『新しいタイミングが来たんだよ』というメッセージを込めたい」 Walking footsteps 歩み 2018年  (C)NORITAKE KINASHI  展覧会のコンセプトや展示方法などを決めるのは木梨さん本人。しかし、作品へのアドバイスを含めて影響力を持つのは、妻の成美さんだ。  成美さんは、女子美術大学付属高校の出身。美術方面の知識の下地がある。 「成美さんがアトリエの階段をトントントンとのぼってきて、『まさか、これいまのまま(木梨憲武展に)出さないよね』って。俺も、『いっ、いや、もちろん出さないよ。うん』て、慌てて返事したり(笑)。自宅に作品を持ち帰ることもありますが、ドキドキして反応を期待していても、スーッと作品の前を通り過ぎることもあります。その反応も面白いんですけどね」  そう笑みをこぼす。 アトリエの奥には、レイアウトを迷っているという「だるま」作品が並ぶ(撮影/写真映像部・戸嶋日菜乃、スタイリスト/大久保篤志)  還暦を迎えた木梨さん。これから、どこに目標を置いているのか。 「とくに絵で賞を取りたいといったものはないですね。今度はアジアで個展を開いてみたいかな。音楽もどんどんやりたい。悩んだときは、日本のジェームス・ブラウンともいうべき北島三郎さんに相談するんです。北島さんは、デビュー前の若い頃、それこそ新宿や繁華街を『流し』で歩き、3曲100円で歌っていた時代があるそうです。流しの時代のひとりのお客さまも、みな大切なお客さまだ、と。僕も美術展や音楽、舞台のひとりのお客さんもテレビ画面の向こうのたくさんのお客さんも、みんな同じです。一人ひとり、僕の活動に目を向けてくれるお客さんを思いながら、活動を続けたいですね」 (AERA dot.編集部・永井貴子) 3116 2015年  (C)NORITAKE KINASHI セーヌ川 1994年 (C)NORITAKE KINASHI ※「木梨憲武展 Timing-瞬間の光り-」(東京会場)会期:2022年6月4日(土)~6月26日(日) ※会期中無休会場:上野の森美術館(東京都台東区)開館時間:9時半~17時半(金土日は19時まで) ※入場は閉館の30分前まで。公式HP https://www.kinashiten.com/
とんねるず吉田美和安田成美木梨憲武
dot. 2022/06/04 11:30
叡王初防衛を達成しても謙虚な藤井聡太 番勝負13連勝で大山康晴の連勝記録まであと4勝
松本博文 松本博文
叡王初防衛を達成しても謙虚な藤井聡太 番勝負13連勝で大山康晴の連勝記録まであと4勝
叡王戦のスポンサーは不二家。藤井が毎局、どんなスイーツを選ぶのかも注目された。贈られたペコちゃんの人形は藤井家の玄関に飾られる  叡王戦五番勝負で初防衛を果たした藤井聡太五冠。2連勝(1千日手=引き分け)で迎えた5月24日の第3局を接戦で制した後も謙虚さは変わらなかった。AERA 2022年6月6日号の記事を紹介する。 *  *  *  対局後、出口若武六段(27)はがっくりとうなだれた。藤井聡太叡王(19)相手に敗れ、これだけ悔しさをあらわにする対局者は、最近ではそう見られなかったかもしれない。  終局後、両対局者は大盤解説場に移動し、壇上からファンの前に姿を見せた。 「最後勝ちがあったような気はしていたので、ここで終わってしまうのはとても悔しいというか……。またがんばりたいと思います」  出口はそこまで言ったあと、あとは涙が止まらなくなり、しばらくうつむいていた。将棋ほど負けて悔しいゲームはない。強敵を相手に、あと少しで勝ちというところまでこぎつけていながら、わずか一手のミスによって勝ちを逃してしまう。少しでも将棋を知る者であれば、打ちひしがれた出口の姿を見て、その無念が伝わり、身につまされるような思いがしただろう。観客席からはしばらく出口に対して、拍手が鳴りやまなかった。本局は出口が惜敗した一局として、後世に伝えられるだろう。 「自分に負けた相手があれだけ激しく泣かれているのを見ると、どんな気持ちになるものなんでしょうか?」  記者会見の場で藤井は、そんな質問を受けた。それを聞いて、どうしようというのか。はっきりものを言う棋士であれば「愚問」と切り捨てたかもしれない。しかし藤井は誠実に、出口の心情を気遣いながら、言葉を選んでこう述べた。 「出口六段からすると、やはりそういうふうに思われるのも自然というか、それはやっぱり自分であってもそう思うところはあるのかな、とも思います」 ■番勝負で13連勝を達成  現代将棋界のトップの言葉は、常に謙虚だ。 「中盤で長考した場面が多かったんですけど。ただ、それでもなかなか判断がつかないこともあったので。そのあたりは課題を感じました」(藤井)  かくして藤井は堂々の叡王防衛を達成した。あとは例によって藤井自身は興味がなく、棋界ウォッチャーたちが注目する記録の数々をたどっていこう。  藤井は10代のうちにタイトル通算8期を獲得した。数字の上では加藤一二三九段(82)や木村義雄十四世名人(故人)に並ぶものだ。 AERA 2022年6月6日号より 「加藤九段や木村十四世名人の頃とはやっぱりタイトルの数がまったく違うので。並んだという気持ちはまったくありません」(藤井)  タイトル戦番勝負での通算成績は28勝4敗(勝率8割7分5厘)。大山康晴十五世名人(故人)、中原誠十六世名人(74)、羽生善治九段(51)、渡辺明名人(38)といったレジェンドたちは6割前後だ。五番勝負で3勝2敗の勘定になるわけで、それで十分に天下を制してきた。もちろん藤井の対局数はまだ圧倒的に少ないが、現状、いかに図抜けた勝率かがわかるだろう。  また藤井は番勝負で13連勝を達成した。これは羽生が平成前期、七冠達成前後にたたき出した連勝記録に並ぶものだ。あとは大山が昭和の半ば、その全盛期に残した17連勝という大記録が控えている。藤井がこれから始まる棋聖、王位の防衛戦で勝ち進めば、その更新も視野に入ってくる。 ■楽ではない戦いが続く  五冠を堅持した藤井は残る三つのタイトル、王座、棋王、名人を獲得すれば夢の八冠制覇達成だ。ただし王座挑戦権を争うトーナメントで大橋貴洸(たかひろ)六段(29)に敗れたため、今年度の王座獲得はなくなった。藤井はこれで大橋に2勝4敗。だからといって番狂わせという感もない。大橋ほどの実力ある棋士ならば、藤井に勝ってもなんら不思議はない。藤井もまたこれから、決して楽ではない戦いが続いていく。  藤井竜王への挑戦権を争うトーナメントでは、本命の永瀬拓矢王座(29)らタイトル戦常連のほかに、大橋や伊藤匠五段(19)といったフレッシュな顔ぶれも名を連ねた。今期叡王戦の出口のように、誰が挑戦者になっても不思議はない。  藤井が棋王挑戦権を争うトーナメント、そして名人挑戦権を争うA級順位戦はこれから始まる。ハードスケジュールが続く藤井にとって追い風となるのは、今年から「名古屋将棋対局場」が開設されたことだ。愛知県瀬戸市在住の藤井はこれまで、タイトル戦以外の対局は基本的に、将棋会館のある大阪か東京まで移動していた。ホームの地である名古屋でいくらかでも指せるようになれば、移動時間も大幅に短縮される。  藤井は幼い頃から、地元では才能を知られていた。また同時に、負けると大泣きすることでも有名だった。人目をはばからず悔し涙を流していた少年は時を経て、東海地区にタイトルを持ち帰り、史上最年少五冠となった。成長したのは将棋の技量ばかりではない。敗者を気遣う優しさもまた、将棋界の王者にふさわしいものだ。(ライター・松本博文) ※AERA 2022年6月6日号より抜粋
藤井聡太
AERA 2022/06/01 11:00
藤井聡太が叡王戦3連勝ストレートで初防衛 苦戦しながらもミスの一手を見逃さず
松本博文 松本博文
藤井聡太が叡王戦3連勝ストレートで初防衛 苦戦しながらもミスの一手を見逃さず
藤井聡太叡王はタイトル戦番勝負に8回出場して、いまだ敗退なし。将棋史上空前のペースで勝ち進み、早くも王者の風格を漂わせてきた(写真:日本将棋連盟提供)  藤井聡太五冠が叡王戦五番勝負で出口若武六段に3連勝し、初防衛を果たした。第3局では苦戦しながらもミスを見逃さず、大熱戦を制した。AERA 2022年6月6日号の記事を紹介する。 *  *  *  藤井聡太叡王(19)に出口若武六段(27)が挑戦する叡王戦五番勝負は、藤井叡王の3連勝ストレートで幕を閉じた。最終的な結果だけを見れば「下馬評の通り」というべきかもしれない。しかし藤井にとっては決して、楽な戦いではなかった。  藤井2連勝(1千日手=引き分け)で迎えた第3局は5月24日におこなわれた。戦型は両者ともに飛車先の歩を突いていく相掛かり。コンピューター将棋の研究によって高度に発展を遂げた、現代最新の進行となった。  序盤で藤井は、左右に玉を揺らす奇妙なステップを踏んだ。そこだけクローズアップすれば、手損をして先手番の得を失うようにも見える。ほとんどの観戦者には、意図がわからない。アマチュアがそう指せば上位者からは「棋理に反するもの」と指摘されるだろう。しかし他ならぬ、人類最強の藤井がそう指したのだ。きっとなにか深遠な意味があるのだろうと、推し量るよりない。  藤井が金を前線に押し上げたのに対して、出口は角を切ってその金と刺し違え、思い切った攻めに出る。 「攻めを呼び込んで指してみてどうかな、と思っていたんですけど」(藤井) ■59秒ギリギリで香打ち  進んで、藤井には誤算があったようで、出口も十分に戦える形勢となった。本来持てる実力に加え、勢いにも乗る出口は強かった。そうでなければ、藤井と番勝負まで戦うところにたどりつけるはずがない。  形勢は微妙に揺れ動く。少なくとも出口にとっては、右肩上がりでグラフが藤井よしに推移していく「藤井曲線」に乗せられてそのまま、という将棋ではなかった。  両者ともに4時間の持ち時間を使い切って、あとは一手60秒未満で指す終盤戦。藤井はあわて気味に、59秒ギリギリで香を打った。 AERA 2022年6月6日号より 「やっぱりちょっと形勢が厳しそうかと思って。ただ、他に手がわからなかったので、仕方ないかなと思って指しました」(藤井)  ここまで藤井をあわてさせる場面は、そうそう見られない。そして最終盤、ついに出口に勝ち筋が現れた。自玉そばに駒を打ってうまく詰みをしのげば、あとは反撃に転じて勝てる。容赦のない秒読みの声が出口にもかけられる。打つべき駒は角か銀か。出口はひたいに手をやり、56秒で銀を打った。升目にうまく駒が収まらず、いくつかの駒が乱れた。出口の銀打ちは常識的な手だ。しかし正解ではなかった。わずか一手の誤りで、出口の手から勝利が離れていった。正着は攻防に利く角だった。  王者の藤井は、もう間違えない。あとはいつもながらに正確な速度計算で、きわどい一手争いを制した。藤井は王手で金を打つ。出口玉はきれいな詰みだ。出口が深く頭を下げて投了し、今シリーズ一番の大熱戦に終止符が打たれた。(ライター・松本博文) ※AERA 2022年6月6日号より抜粋
藤井聡太
AERA 2022/05/31 08:00
「タトゥーでも入場OK」に踏み切った入浴施設の現実 「入れ墨=反社」の印象が消えないワケは
國府田英之 國府田英之
「タトゥーでも入場OK」に踏み切った入浴施設の現実 「入れ墨=反社」の印象が消えないワケは
入れ墨がタトゥーがあると入場できない入浴施設は多い。写真はイメージ 26日朝、読売新聞が配信した<「タトゥー客お断り」の銭湯、地元J3選手は例外>という記事がSNSなどで話題となった。タトゥーがある人の入場を禁止している岐阜県内の入浴施設が「FC岐阜の選手は例外」という張り紙をしたことで、一部の利用客から「FC岐阜の選手だけ特別扱いをするのか」との声が上がり、張り紙を撤去したという内容だった。ネットでは賛否両論が沸いたが、数は少ないものの、入れ墨やタトゥーがある人でも入浴できると公表している施設はある。入れ墨=反社会的勢力との印象が強い日本で、なぜ受け入れを決めたのか。そもそも、入れ墨=反社のイメージはいつごろから根付いたのか。施設や識者を取材した。 *  *  * 岩手県一関市にあるサウナを備えた入浴施設「古戦場」は、2021年6月「当店はタトゥー・入れ墨のある方の入浴を許可しております」と入り口に貼り紙を掲示し、ツイッターでも公表した。  同店は1951年に開業し、サウナを備えた入浴施設としては老舗である。浅野裕美社長は、 「昔から入れ墨があるお客さまはおみえになっていて、他のお客さまから『そういう人がいるならもう来ない』などとクレームを頂いたこともありました。私自身も入れ墨やタトゥーをしている人間ではありませんので、それを目にした時に何も思わないということではありません」  と率直に思いを話す。  公衆浴場法では、銭湯が拒否できる客や、客の禁止行為について、「営業者は伝染性の疾病にかかっている者と認められる者に対しては、その入浴を拒まなければならない」「入浴者は、公衆浴場において浴そう内を著しく不潔にし、その他公衆衛生に害を及ぼすおそれのある行為をしてはならない」と定めている。入れ墨についての明確な規定はない。  安倍政権は17年2月、「入れ墨があることだけを理由に入浴を拒むことはできない」との答弁書を閣議決定した。ちなみに、スーパー銭湯や日帰り温泉施設は「公衆浴場」ではなく「その他公衆浴場」に分類されるが、この閣議決定は「その他公衆浴場」も対象にしたものだ。  だが実態は、銭湯でも過去のトラブルを理由として入浴禁止とする施設があり、スーパー銭湯や日帰り温泉は禁止している施設が多い。タトゥーのある人が多い訪日客の増加や、日本の若者でもファッション感覚でタトゥーを彫る人が増える中、受け入れの是非はたびたび議論になってきた。  古戦場のようなタトゥー容認施設は今のところ少数派だが、浅野社長は「OKですよ、とはっきりさせた方が、お客様側も当施設に来るか来ないかの判断がしやすいと考えました」と意図を説明する。  古戦場では、「(サウナ後の)外気浴の場所での喫煙」「サウナの場所取り」などを禁じており、注意しても守らない場合は出入り禁止とするケースもある。 「これまで発生した(上記の)マナー違反やケンカなどのトラブルは、入れ墨のないお客さまによるものでした。一方、入れ墨があるお客さまはどちらかというと遠慮がちに、静かに過ごされている方ばかりでした。こうした実態を考えた結果、皆さまが安らぐ場所として入浴マナーを守ってくだされば、入れ墨の有無に関係なく、どなたでもいらしてくださいというルールにしました」(浅野社長)  公表後、特に問題は起きておらず客入りにも影響はないという。なぜ入れ墨のある客がいるのかとクレームが入ることもまれにあるが、その際は施設の考えを説明するようにしている。 「入浴禁止の施設が大半ですからね。こんなふうにタトゥーを入れているんですと丁寧に説明してくださって、本当に入浴させてもらえるのかと問い合わせしてくるお客さまもたくさんいます」(浅野社長)  そもそも、日本人の入れ墨文化はどのように発展してきたのか。昔から、“その筋”の人たちだけに限られたものだったのか。  入れ墨の文化に詳しく「イレズミと日本人」などの著書がある都留文科大学の山本芳美教授は、「入れ墨=暴力団組員というイメージが根付いたのは、1960年から70年ごろの『ヤクザ映画ブーム』の影響があると思います。実際には、さまざまな職種の人たちに根付いてきた歴史があります」と話す。  山本教授によると、入れ墨を彫る文化が確認できるのは縄文・弥生時代。土偶や埴輪を手がかりに、装飾目的や同じ集落に生きる人々のアイデンティティーを示す意味合いがあったと考えられているという。  だが、そうした入れ墨文化は6世紀後半には途切れた。 「なぜ消えたかは謎なのですが、1000年以上の長い時を経て、17世紀の江戸時代に入ってから復活しました。上方(京都や大阪)の遊女が、客の名前を腕に小さく彫るようになったのです」(山本教授)  固定客をつけるための「営業」であったとみられる。  第8代将軍徳川吉宗の1720年。犯罪者に対し、中国で行われていた「黥刑(げいけい)」と呼ばれる、顔や身体に文字や印などの小さな入れ墨を彫る付加罰が科されるようになった。前科をさらすものだが、その入れ墨を隠すために、その上からさらに大きな入れ墨を彫る前科者たちも出始めた。  その後、1766年ごろには侠客(きょうかく)たちに般若やろくろ首の大きな入れ墨を彫る人たちが現れた。さらに火消しや職人たちの間でも入れ墨が流行ったという。 「火消しであれば『水を呼ぶ』というおまじない的なものだったり、寺社に仏像などの彫刻物があるように、神仏に近づくために体に彫るという意味合いがあったようです。ただ、武士は絶対に入れませんでしたし、町人もごくわずか。社会全体から見ればごく少数の『はねっかえり』の人たちで、当時は憧れの視線で見られる一方で、敬遠される側面はあったのだと思います」(山本教授)  明治時代に入ると、入れ墨は法により規制されるようになった。  といっても、現在の軽犯罪法のようなもので科料程度ですんだため、職人らが彫る習慣は続いた。日本に来た外国人の間で彫師の技術が評判となり、記念に入れ墨を彫って帰国する外国人もいたそうだ。  戦後の1948年に定められた軽犯罪法では、入れ墨に関する規制はなくなった。 「戦後しばらくはお風呂のない家が多く、銭湯で職人さんたちの入れ墨を目にする機会が日常にありました。しかしその後、家でお風呂に入る人がどんどん増え、他人の裸を見る機会が減っていきました。さらにヤクザ映画などの影響もあり、入れ墨=反社会的勢力という印象が強くなっていったのだと考えられます」(山本教授)  政府は6月中にも訪日外国人観光客の受け入れを再開する方針だ。インバウンドが回復すれば、近い将来、入浴施設のタトゥー問題について再び議論が起きるかもしれない。(AERA dot.編集部・國府田英之)
タトゥー入れ墨日帰り温泉銭湯
dot. 2022/05/27 11:30
大谷翔平がアメリカの小さな少年野球チームに与えた「希望」
志村朋哉 志村朋哉
大谷翔平がアメリカの小さな少年野球チームに与えた「希望」
大谷翔平が野球界で最もエキサイティングな選手だと言い切るティム・ウェリンガさんと息子のクリスチャンくん(撮影:志村朋哉)  2022年のメジャーリーグ開幕戦で、史上初の「1番・投手」で先発出場を果たしたエンゼルスの大谷翔平(27)。今季も、私たちの想像を超える記録を生み出してくれることだろう。実は、現地・アメリカでは日本ではあまり知られてない、大谷をめぐるさまざまな“ドラマ”がある。大谷翔平の番記者を務めた経験もある在米ジャーナリストの志村朋哉氏の新著『ルポ 大谷翔平 日本メディアが知らない「リアル二刀流」の真実』(朝日新書)から一部を抜粋・編集して掲載する。 *  *  * ■「オオタニ」を愛する3歳の少年  大谷がメジャー2年目だった2019年秋、物心がついた時から野球が好きでたまらない自分の息子(当時3歳)を地元の少年野球リーグに入れた。他に手を挙げる親がいなかったので、私は息子のチームの監督を任された。  3~4歳で構成されるこの最年少ディビジョンに参加するのは、よほどの野球好きか親が熱心な子どもたちなので、人数は4チームだけ、合わせて30人弱しかいなかった。アウトや点数も記録せず、子どもが楽しく体を動かすことが目的である。言葉もたどたどしい幼児たちが、ぶかぶかのユニホームを着て、一生懸命に走って、投げて、打つ姿はかわいい。  私が任されたのは、メジャーリーグの球団名にちなんだメッツというチーム。偶然にも、息子を含めてやる気のある子が3~4人集まったため、残りの子たちも触発されて全員がメキメキと上達した。半ば無理やりバッターボックスに立たされる子どもが多いリーグで、メッツは当たり前のように強烈なライナーを放ち、他チームの親を驚愕させた。  そんなメッツの中でも特に熱心だったのが、当時3歳になったばかりのルーカスくん。いつも練習に来るなり、キャッチボールやノックをしてほしそうに私に近寄ってきた。打撃練習では、こっちが心配になってやめるまでティーに置かれたボールを楽しそうに何十球と打ち続ける。  母エイプリル・マルティネスさんは、エンゼルスの地元オレンジ郡在住にもかかわらず、大のヤンキースファン。ルーカスくんはお母さんの影響で、いつもバットとボールを手に、メジャー中継を見ながら育ってきた。  そのルーカスくんに一番好きな選手は誰かと聞いてみたら、なんと大谷翔平という答えが返ってきた。まだ舌足らずで、普段はほとんど何を言っているか理解できないのだが、この時は大人でも覚えづらい「オオタニ」をハッキリと口にした。 「昨シーズンから大ファンなんですよ」とマルティネスさんは言った。「エンゼル・スタジアムで大谷が打席に立つたびに観客が盛り上がっていたからだと思います。ルーカスはテレビの前で、いつも大谷のスイングをまねようとしています」  メールアドレスを見ただけでファンだと分かるヤンキース一筋のマルティネスさんだが、息子が大谷のようになりたいのは大歓迎だという。 「ルーカスにはスポーツマンで人間的に優れた選手を目標にしてほしい。大谷の態度はプレーに限らず模範的です。ダッグアウトにいる時も、ちゃんとチームメートの応援をしている。野球は一人ではできない。ルーカスには、それを学んでほしい」 ■大谷にほれた野球狂  私がコーチを務めていたメッツで、誰よりも打球を飛ばしていたのが、当時3歳のクリスチャンくん。自らを野球狂と称する父ティム・ウェリンガさんの影響で、立てるようになる前からボールを投げていたという。  シカゴで生まれ育ったウェリンガさんは、「超」がつくほどのシカゴ・ホワイトソックスのファン。他球団の選手に肩入れなどするなと、周りから刷り込まれてきたという。にもかかわらず、そのウェリンガさんが、野球界で最も注目しているというのが大谷だ。私が大谷の記事を連載していると漏らすと、興奮して大谷のすごさを語り始めた。 「彼は常識をくつがえす選手です」とウェリンガさんは語った。 「ピッチャーとしてエース級で、打撃でもトップクラスであることを証明した。ベーブ・ルースでも現代では無理だったと思います。これ以上、エキサイティングでユニークなことがスポーツ界でありますか?」 「息子は投げるのも打つのも好きです。大谷のおかげで、父親として子どもに二刀流という大きな夢を持たせてあげることができるようになりました。不可能という思い込みから、僕らを解放してくれたんです」  ウェリンガさんが初めて大谷のことを知ったのは2016年にさかのぼる。ウェリンガさんは、実在の選手を編成してチームを作り、実際の活躍に応じて入るポイントで競い合う「ファンタジーベースボール」というシミュレーションゲームを仲間とリーグを作って、何年もやり続けている。これからメジャーリーグに来て活躍しそうな選手を早めにチームに加えるため、世界のリーグに目を光らせていたが、ダルビッシュ有のような投手を見つけようと日本の野球を調べていたら、大谷の名前が出てきた。しかし、YouTubeで検索すると、出てきたのはホームランをかっ飛ばす大谷の動画だった。 「日本だと投手と打者の両方でやるのが普通なのか」と疑問に思った。しかし、見ていると、大谷が打つのは、たまたまではなく特大のホームラン。「これは絶対に取らねば」と思った。「この日本人選手は次のベーブ・ルースになる」とリーグの仲間に自信満々で言ったら、仲間から「そんな訳ないだろ。良い投手にはなるかもしれないけど、二刀流は日本ではできても、アメリカじゃ無理だ」と鼻で笑われた。 ■すべての野球少年のロールモデル  大谷がメジャー挑戦を発表した時は、「下部組織に良い選手がそろっているホワイトソックスを選んでくれるのではないか」という期待もあったが、それはかなわなかった。でも、エンゼルスを選んだ時は、「いつでも球場に見に行ける」と喜んだ。  アメリカに来た大谷をテレビや球場で見た最初の印象は、「子供のような無邪気さがある」だった。あれだけ能力があるのだから、「もっとシリアスで高飛車なのかと思っていた」と言う。しかし、ふたを開けてみれば、いつも笑顔で発言も謙虚だった。 「野球のうまさを抜きにしても、彼のことを嫌う人はいないでしょう」とウェリンガさんは言う。  二刀流は無理だと言う周りの野球ファンに「ムキになって」反論しているうちに、大谷が現役で一番好きな選手になったと振り返る。  1990年代に少年時代を過ごしたウェリンガさんは、他の子供と同じく、華やかなプレーや性格で絶大な人気を誇ったケン・グリフィー・ジュニアのファンだった。しかし、大谷の2021年の活躍で、自身の中でそのグリフィーを超えたと話す。二刀流という誰もできないことをやった。しかも、投打のそれぞれでトップレベル。「ホワイトソックスの選手ではないから応援できない」という次元を超えた、「Anomaly(通常の枠組みを逸脱しているもの)」なのだと言う。 「野球ファンとして、彼に敬意を示さなくてはならない。翔平は応援するけど、エンゼルスは応援しない術を身につけました。エンゼルス対ホワイトソックスの試合では、翔平が6回くらいを抑えた後に、エンゼルスのリリーフ陣が打たれてホワイトソックスが勝てばいい。簡単なことです(笑)」  息子を含めて、大谷は全ての野球少年のロールモデル(お手本となる人物)だと述べた。  野球の実力はもちろんだが、お金や周囲の期待に振り回されない「強い芯」があるからだと言う。 「彼は僕らが野球を愛する理由を体現してくれている。若い世代は地位や人気やお金のことばかり気にしていると思われていますが、大谷はその逆です。人気球団のヤンキースに行かず、2年待てば2億ドル以上の大型契約を結べたにもかかわらず、早くアメリカにやってきた。子どものように純粋に野球が好きなんでしょう。彼は野球が必要としているスターなんです」 (在米ジャーナリスト・志村朋哉)
エンゼルス大谷翔平書籍朝日新聞出版の本
dot. 2022/04/29 11:00
「ラーメン議連」「こんにゃく議連」「おしゃれ向上議連」…乱立する「議連」は本当に必要? 参加議連500超えの議員も
吉崎洋夫 吉崎洋夫
「ラーメン議連」「こんにゃく議連」「おしゃれ向上議連」…乱立する「議連」は本当に必要? 参加議連500超えの議員も
「ラーメン文化振興議員連盟」の会長に就任した石破茂元幹事長  自民党の有志が、石破茂元幹事長を会長に「ラーメン議連」(ラーメン文化振興議員連盟)を設立する。全国のご当地ラーメンを振興し、地方創生につなげることなどを目的にしているという。この一報を受け、ネット上には<なぜ、多くの国民が呆れかえるような「ラーメン議連」を設立なんて考えるのだろうか><まーた、新たな利権創造か>などと批判的なコメントが多く集まった。  そもそも議連とは何なのか。ほかの議連を調べてみると、「こんにゃく議連」や「豆腐議連」といった意外なものから、「新たな資本主義を創る議員連盟」といったものまである。はたしてその存在意義とは?  デジタル大辞泉で「議連」を調べると、「特定の目的を達成するために、政党・派閥・参院・衆院の枠にとらわれず活動する議員集団」と書いてある。政策研究大学院大の増山幹高教授は議員連盟の実態についてこう説明する。 「議員連盟は国会議員だけではなく、地方議員が中心に活動しているものもあり、真面目なものから実態のないものまで幅広く存在します。しっかりとした議連は特定の問題に対して関心を共有し、その解決に向けて活動をしている。特定の業界と密接に関係した議連もあり、そこでは業界と関係をつくるために議連を利用する議員もいる。他方で、特に届け出もなく設立できるので、会長と副会長の二人だけで議連を名乗っているケースもあるのではないかと見ています」  石破氏の他には、誰がどのような議連に入っているのか。  自民党で人気の高い小泉進次郎衆院議員は、実は落語好きで有名だ。2018年に立ち上がった「落語議連」(落語を楽しみ、学ぶ国会議員の会)の発起人となっている。この議連は落語文化の振興を目的にしている。ちなみに、小泉氏は19年に立ち上げられた「ニシキゴイ議連」(錦鯉文化産業振興議員連盟)でも発起人の一人。海外で人気のニシキゴイを「国魚」にし輸出拡大を目指すという。  昨年6月に岸田文雄前政調会長(当時)によって立ち上げられた「新たな資本主義を創る議員連盟」は、派閥横断型の議連で、最高顧問に安倍晋三氏や麻生太郎氏の名前が並ぶ。総裁選を前に党内の地盤を固める狙いがあると見られていた。表向きの目的は「新たな資本主義の構築を目指す」ための議連だ。  いったいいくつの議連があるのか。ベテラン議員秘書に聞くと「多すぎてまったくわからない」という。インターネットでその数を調べると、800以上の多種多様な議連を見つけることができた。なかには「趣味的な議連もある」(自民党関係者)という。活動を休止している議連も多いと見られる。  ラーメン議連に絡めて食をテーマにした議連に絞って見ると、豆腐議連(日本の豆腐文化を守る議員連盟)、こんにゃく議連(こんにゃく対策議員懇談会)、漬物議連(漬物振興議員連盟)、和食議連(日本食文化普及推進議員連盟)、果樹議連(果樹農業振興議員連盟)、かつお・まぐろ議連(かつお・まぐろ漁業推進議員連盟)などなど挙げるときりがないほどだ。  議員ホームページに公開されているプロフィールを見ると、100を超える議連に所属している議員もいる。逢沢一郎衆院議員は79の議連に所属している。石井正弘経済産業副大臣は256も所属していた。ある議員の秘書は「議員が活動をしているように見せるためたくさん載せている」と話す。  編集部が見つけた中で最も多かったのは、前衆院議員の左藤章氏の535だった。昨年10月の衆院選で落選し、現在は議連に所属していない。21年7月26日時点の数字だ。  ここまで多くの議連に入る必要はあるのか。左藤氏本人に尋ねてみた。 「議連は政策の知識をつけるのにとても役に立つので、不可欠です。一面的な見方にならないように同じような議連でも複数のものに入ったりします。大阪・関西万博推進本部幹事長代理をやっていた関係で、外国との友好議連にも多く入っていました。いきなり外国の大使に『お願いします』といっても相手にしてもらえませんからね。地道に関係を築く場にもなっている。業界団体とは関係なく、日本の将来を考えて立ち上げる議連も多い。そういったものに入っていくうちにここまで増えました」  左藤氏が加入していた議連の中には、「おしゃれ向上議連」や「チアリーディング推進議連」といったものもある。どういった経緯で参加したのか。 「繊維会社の技術者として働いていたので、国会議員をはじめみんなおしゃれをしましょう、というこの議連に参加しました。チアリーディングは、リズム感がよくなったり、団体スポーツなのでチームワークがよくなるんですよね。思いやりの気持ちが育つ。それを応援したいと思いました」  500を超える議連に加入して活動はできていたのか。会費はどうなっているのだろうか。 「正直、頭を整理するのに大変なときもありました。だから、基本的には自分の興味のある議連にしか入りません。会費は月に300円とか500円が多いです。最も高額なもので月1万500円、一番安いので100円というのもありました。月の会費はかなりの金額になっていましたね笑」  なかには強い影響力を及ぼす議連もある。  その一つが、フェミニスト議連(全国フェミニスト議員連盟)だ。ホームページによると会員は200人。世話人の名簿を見ると、地方議員らが中心になっている様子だ。あらゆる女性差別をなくすことや、政治における男女共同参画推進法の理念を達成することなどを目的にしている。  昨年8月、松戸市(千葉県)のご当地バーチャルユーチューバー(Vチューバー)が出演する千葉県警の交通啓発動画に対して、フェミニスト議連が「女児を性的な対象としている」と抗議。その後、動画は削除されるに至ったが、今度はフェミニスト議連に抗議の声が殺到し、大論争になったことがある。  先述のこんにゃく議連も政治的影響力が強いとされる議連の一つだ。  こんにゃく産地である群馬県の国会議員が中心に活動している。会長は群馬県選出の小渕優子衆院議員だ。父・小渕恵三元首相も代表を務めていたという。群馬県は4人も首相を輩出したことのある自民王国。県出身の議員は党の要職に就く者も多く、「こんにゃく議連の政治力は強い」という見方がある。  こんにゃく議連の事務局長を務める尾身朝子衆院議員のホームページには、こんな記述がある。 <この会(こんにゃく議連)ではこんにゃく食文化のPRに努めてきました。また、TPP締結の際には国産のこんにゃく芋の保護のため、関税を約900%という高さで設定しました。また、こんにゃく芋は出荷までに非常に手間暇がかかります。農家の皆さまの作業面や資金面など、あらゆる負担が少しでも軽減されるよう、今後も努めていきます>  こんにゃく議連関係者は「TPPのとき国内のこんにゃく芋を守るために動いた」という。  ちなみに、こんにゃく業界では、5月29日はこん(5月)にゃく(29日)の日となっており、この日にこんにゃく議連の総会が開かれる。新型コロナの影響で、前回の開催は19年。国会議員のほか、農水省や県の担当者、業界団体の日本こんにゃく協会やJA(農業協同組合)の代表者ら30名強が参加し、こんにゃくを巡る情勢について説明や意見交換があったという。尾身朝子議員の秘書はこんにゃく議連についてこう説明する。 「こんにゃく芋は出荷までに3年かかり、一年おきに掘り返して埋め直すなど大変手間がかかります。生産者は、こんにゃくに付加価値を加えるなど消費者の皆さんに、もっとこんにゃくを楽しんでいただけるよう工夫しています。こんにゃく栽培の現状を知ってもらい、国産こんにゃくの保護やピーアールのための会になっています」  はたしてラーメン議連は地方創生につながる役割を果たすことができるのか。冒頭の増山教授はこう見る。 「所属している議連の数や名前ではなく、議連で特定の議員がどのような活動をしているのか目を向けるべきです。ラーメン議連が永田町の趣味のクラブになるのか、地方創生という目的を実現するものになるかは、今後の議員次第ですね」  今後の活動に注目しよう。(AERA dot.編集部・吉崎洋夫)
dot. 2022/04/28 16:00
大谷翔平がアメリカの「野球少年の母」にとことん好かれる理由
志村朋哉 志村朋哉
大谷翔平がアメリカの「野球少年の母」にとことん好かれる理由
大谷翔平の大ファンだというジェニー・ムーアさん(右)と、息子のウォーカーくんが、エンゼル・スタジアムの大谷翔平の写真の前で記念撮影(ムーアさん提供)  2022年のメジャーリーグ開幕戦で、史上初の「1番・投手」で先発出場を果たしたエンゼルスの大谷翔平(27)。今季も、私たちの想像を超える記録を生み出してくれることだろう。実は、現地・アメリカでは日本ではあまり知られてない、大谷をめぐるさまざまな“ドラマ”がある。大谷翔平の番記者を務めた経験もある在米ジャーナリストの志村朋哉氏の新著『ルポ 大谷翔平 日本メディアが知らない「リアル二刀流」の真実』(朝日新書)から一部を抜粋・編集して掲載する。 * * * ■助手席に顔写真  内装業を手がけるスティーブ・スミスさん(45)は、2010年からライトスタンドの年間予約席を買い続ける熱心なエンゼルスファンだ。自宅から球場まで約1時間ドライブして、2021年はエンゼル・スタジアムでのホームゲームをほぼ全て生で観戦した。  そんなスミスさんが、「これまでの人生で最も熱狂している」と言うくらい入れ込んで応援しているのが大谷だ。エンゼルスの主砲であるマイク・トラウトでさえ「大谷ほど興奮させてはくれない」と話す。 「メジャーで投手としてやっていくだけでも、とんでもなくしんどいのに、打者としても毎日出場するなんて想像を絶する。もう二度と見られないかもしれない。だから欠かさず生で見るつもりです」  球場に行く時は、大谷の顔写真パネルを車の助手席にくくりつけていた。いかついスミスさんの横に巨大な「大谷」が浮かぶ。そんな異様な光景に驚いた通りがかりの人に写真や動画を撮られることもあったそうだ。 「家族によくからかわれますよ」と笑って話す。 「私の枕の上に大谷の顔写真パネルを置かれたりします」  スミスさんは、大谷のファンになった瞬間を鮮明に覚えている。大谷がメジャー公式戦デビューした2018年3月29日だ。  長男タイラーくんの11歳の誕生日プレゼントで、敵地オークランドでの開幕戦を見に行った。オープン戦で不振だった大谷にあまり期待はしていなかったが、試合前の打撃練習を見て驚愕した。 「15本くらい連続で柵越えするんですよ。しかも500フィート(152メートル)以上、飛んでいたように見えました。『こいつは何者なんだ!』と興奮しました。息子も私も目の前の光景が信じられなかった。二人とも一瞬でとりこになりましたよ」 ■強迫観念さえ感じる  大谷の野球カードや、球場で入場者に配布される大谷グッズを集め始めた。敵地での試合も、大谷が打席に立つと、家族でテレビで食い入るように見る。故障や不振に苦しむ大谷を他のエンゼルスファンが批判するたびに、「健康だったらすごいんだ」と言い返した。  けがが完治してシーズンを通しての二刀流が期待されていた21年は、初日から大谷のユニホームを着て球場に通った。大谷は、そんなスミスさんの想像をはるかに上回る活躍を見せた。  同年5月6日のレイズ戦では、大谷の第10号本塁打を、持参したグローブでキャッチした。その歓喜の瞬間をとらえた映像は、エンゼルスのハイライト動画の一部として繰り返し球場で流された。それを見る度に興奮がよみがえったという。 「あんなに幸せな気分は人生で幾度と味わえません。あれ以来、大谷のホームランを捕ったり偉業に居合わせたりするチャンスを逃したくない、という強迫観念さえ感じています」  スミスさんの席があるライトスタンドは、大谷がよくホームランを打つので、いつも混んでいると言う。 「大谷が打席に立つたびに、いつも動画を撮っています。周りのファンもみんなカメラを向けます。トラウトもすごいですが、あまりにそつがないところが逆につまらないと感じることもあります。大谷の場合、ピッチャーもしているのに、毎回、単なるヒットではなく一発を狙っています。だから面白いんです。観客がみんな固唾(かたず)をのんで見守り、スイングするたびに歓声が上がったりため息が漏れたりします。あんな光景は見たことありません」  スミスさんも、クラブチームで野球をする息子にとって大谷は良いお手本だと話す。 「野球は『失敗のスポーツ』です。だから感情をコントロールして、次のプレーだけを考えるよう息子に教えてきました。大谷の振る舞いは本当に素晴らしい。あれだけ活躍できる理由の一つです。大谷が怒っている姿を私は見たことがありません。心の中でどう思っているかは分かりませんが、それを出しません。失敗してもすぐに気持ちを切り替えるのが誰よりも上手です」  唯一の不満は、大谷がトラウトなどと比べて近寄り難いところだと言う。 「野球だけに集中したいのは分かります。でも、もう少しファンと交流してほしい。トラウトのように、ホームゲームでも時間をとって子どもたちにサインなどをしてくれたらいいなと思います」 「通訳を通してしか話を聞く機会がないので、彼の性格や人格があまり伝わってきません。例えば、フィールドの外では、どんな人なのか。コメントも当たり障りがないですし」  それでも、スミスさんは大谷に魅了されている。 「彼は何年に一人などという選手ではありません。これまで見たことのない存在なんです。おそらくどんなポジションでもこなせるでしょう。『ショートを守れ』と言われてもできると思います。それだけすごいアスリートなんです」 「さすがに21年のような活躍は、もう難しいと思います。でも、その予想が外れることを願っていますよ」 ■野球少年の母が語る大谷  エンゼルス本拠地から車で1時間くらいの砂漠の町アップルバレーに住むウォーカー・ムーアくん(14)は、熱心な野球少年が集まるクラブチームに所属している。メジャーリーグでプレーするのを目標に、チーム練習がない日も、投球と打撃の個人レッスンを受けるか、裏庭に作ったケージで父親と欠かさずトレーニングに励んでいる。  そんなウォーカーくんが憧れの野球選手として挙げるのが、ドジャーズのムーキー・ベッツとトレイ・ターナー、エンゼルスのトラウト、そして大谷だ。 「大谷はとにかく化け物です。ベーブ・ルース以外に、あんなにバッティングもピッチングもできる選手はいません。練習や試合に対する意識の高さは素晴らしいです」  それでいて、常に楽しそうにしているのも魅力的だと言う。 「大谷がイチローと(フィールドで)会った時に、あいさつをしに行っていた姿が印象に残っています。とても楽しそうに話をしていました」  クラブチームの仲間とも大谷について話すという。 「大谷のセンター方向への打ち方とか、打つ時の後ろ足の使い方とかについてです。僕はツーストライクと追い込まれた時、大谷の(前足を上げずに打つ)真似をしています。振り遅れないで素早くスイングするためです」  ウォーカーくん以上に、大谷に魅了されているのが、母ジェニー・ムーアさん(46)だ。ニュースで大谷が取り上げられるたびに、自身のフェイスブックのタイムラインにシェアしている。自身も本格的にソフトボールをやっていたムーアさんは、大谷はウォーカーくんにとって理想のロールモデルだと熱く語る。 「翔平はとても謙虚で野球を愛しているのが伝わってきます」とムーアさん。「野球に人生をささげ、徹底的なトレーニングを積んでいるので、難なくプレーしているように見えます」  何より「立ち振る舞いが素晴らしい」と言う。 「野球を見るのは好きですが、スター選手のうぬぼれた態度は見ていられません。選手としての価値を下げます。その点、翔平は見ていてすがすがしいです。……試合前のウオームアップに、通訳やトレーナーなんかと出てくると、とても気さくな感じに見えます。インタビューに答える時も、いつも笑顔です。常に楽しんでいるように見えます」 「自分のいる立場や環境を受け入れ、それを楽しみ、感謝の気持ちを忘れない。大金を手に入れてうぬぼれて、ありがたみを忘れてしまう選手もいますから。判定が気に食わないからといって、審判に失礼な態度をとるなんて許されません」 ■大谷の動向を追いたい 「翔平は特大ホームランも打ちますが、三振することもあります。でも、かんしゃくを起こしたり、バットをたたきつけたり、審判をにらみつけたりはしません。とてもありがたいことです。ウォーカーに教えようとしていることですから」 「三振することもあれば、エラーすることもあれば、間違った判定をされることもあります。でも気持ちを切り替えなければ、次のプレーに影響してしまいます。翔平は冷静に受け止め、対処しているように見えます。もしかすると、冷静でいられるよう教えられてきたのかもしれない。日本の文化は、この国の文化とは違うはずですから。なので、そこから他者への敬意が生まれているのでしょう」  ウォーカーくんにも、良い選手になる以上に、感謝の気持ちを忘れないでほしいと話す。 「周りのさまざまなサポートの上に成り立っているからです。もちろん本人の努力もありますが、当たり前だと思ってはいけない。コーチやチームメート、対戦相手、審判に敬意を持って接するべきです。そうでなければ、プレーする資格はありません」  エンゼルスの大ファンだというムーアさんは、大谷を初めて見た時から、特別な選手だと感じたと言う。トラウトにも、ここまでの思い入れを感じたことはないそうだ。 「ウォーカーの言うように、翔平は『怪物』です。一般的な日本人男性の体格ではありません。背が高くて、手足が長く、とにかく大きな選手です。物腰や態度を見ても、文句のつけようがなく輝いています。トラウトは素晴らしい選手ですが、翔平のように動向を追いたいと思ったことはありません」  大谷の二刀流での活躍も、いくつものポジションをこなす息子の姿と重なる。 「ウォーカーはあらゆる役割をこなせます。ピッチャー、キャッチャー、外野、内野など、置かれたポジションで常に全力を尽くします。『このポジションは嫌だ』と言う子どももいますが、なんでもやってみるべきです」 「翔平の二刀流は素晴らしいことだと思います。二刀流ができる可能性を持った若い選手はたくさんいると思います。でも前例がなかったので、試すことすら避けられてきた。でも翔平ができることを証明したので、もっと挑戦する選手が出てくると思います」 (在米ジャーナリスト・志村朋哉)
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dot. 2022/04/26 13:15
「花の82年組」中森明菜、小泉今日子、早見優 伝説的「当たり年」が到来した理由
「花の82年組」中森明菜、小泉今日子、早見優 伝説的「当たり年」が到来した理由
「82年組」のレコードジャケット (撮影/写真部・戸嶋日菜乃)  日本が上り調子だった80年代、アイドル人気も熱かった。中でも“なんてったって”際立つのは1982年。数々の伝説(レジェンド)たちがデビューした当たり年だ。あれから40年が過ぎた今、アイドル黄金時代到来の秘密をひもとく──。 *  *  *  誰が呼んだか“花の82年組”。  中森明菜、小泉今日子、石川秀美、早見優、シブがき隊、堀ちえみ、三田寛子……世代を超えて高い知名度を誇り、しかもその多くが現在も一線で活躍する彼ら彼女らは、皆1982年にデビューした。日本の芸能史でもまれにみる当たり年であったことから、前年秋デビューの松本伊代も含め、いつしかそう呼ばれるようになった。  当時の熱気の一端が感じられるスポットが、東京・神田の居酒屋「80年代酒場 部室」。店内には80年代アイドルのポスターやレコードジャケット、グッズなどがぎっしりと並び、タイムスリップしたような感覚を味わえる。店を訪れるお客さんの層は、 「80年代前半に青春を送った、“スーパーど真ん中”世代の方が多いですね」  と、店主の安野智彦さん(53)。安野さん自身も当時は中学生で、まさに“スーパーど真ん中”世代の一人。早見優のファンだったという。 「『明星』や『平凡』の切り抜きを、下敷きがわりに使っていたクリアケースにみんな入れてましたよね。雑誌は切り抜いたあとだらけになりました(笑)」 「82年組」が残した作品群には、近年、当時をリアルタイムで知らない若者たちからも注目が集まっている。ハロー!プロジェクトのアイドルグループ・BEYOOOOONDS(ビヨーンズ)のメンバー、島倉りかさん(21)は、自身が生まれるよりずっと前の昭和歌謡の魅力にハマり、造詣が深い。 「昭和歌謡は楽曲からどんどん好きになっていったのですが、最初はリリースされた年などは意識していませんでした。でも、歴史を知ることで流れを意識できるようになり、こういう作品を下敷きにしてこういうアレンジの曲が生まれたのか!というように、新しい発見、おもしろさを感じられるようになりました」 小泉今日子さん  島倉さんが好きな82年組アイドルの曲を聞くと、小泉今日子の「たとえばフォーエバー」をあげた。88年の主演映画「快盗ルビイ」の挿入歌として流れた曲だ。 「最近、毎日聴いています。中森明菜さんもそうなのですが、曲ごとに雰囲気や表情がガラッと変わるのがすごくて。演技でも活躍された方が多いですが、そういった演技力も歌の表現に必要なんだなと感じて、自分も舞台などで学んだ演技を曲にこめていかなきゃと思っています」  地球上の生命の進化が爆発的に多様化したカンブリア紀のように、なぜ、82年という年にスーパーアイドルが多発することになったのだろうか。そのことを考えるために、時計の針を少し戻してみたい。 「日本のいわゆるアイドルというものは、南沙織さんのデビュー、71年に始まったというのが定説なんですね」  と、歴史を語るのは、アイドル評論家の中森明夫さん。ちなみに、中森さんのペンネームも、82年組の一人、中森明菜からとったものだ。 “元祖アイドル”南沙織がデビューした年、71年10月には、オーディション番組「スター誕生!」がスタートした。 「この番組から、森昌子さん、桜田淳子さん、山口百恵さんの“花の中3トリオ”が誕生し、70年代のアイドルブームを牽引します。そして76年には、同番組をきっかけにピンク・レディーがデビューします」  キャンディーズ、天地真理、麻丘めぐみ、小柳ルミ子、アグネス・チャン、浅田美代子、石野真子……男性では郷ひろみ、野口五郎、西城秀樹の「新御三家」が大活躍した時代。しかし78年にはキャンディーズが解散し、80年には山口百恵が引退、結婚。そのころにはピンク・レディーの人気にも陰りが見え始めていた。 「そんななか、忽然と80年に登場したのが松田聖子さんなんです」  と中森さんは熱を込めて語る。 「山口百恵さんとバトンタッチするかのように登場した松田聖子さんという存在。彼女が作り上げたスタイルが、これまでの70年代アイドルからのモードを変えた。のちの80年代アイドルの扉を開いたのが松田聖子さんなんです」  松田聖子が「裸足の季節」で歌手デビューを果たした80年には、河合奈保子や柏原芳恵もデビューした。82年とならぶ大豊作の年でもあった。 「現在のようにライブやインターネットを通じて草の根で人気が高まるような形はまだなく、プロダクションやレコード会社、テレビ局など、大人たちのバックアップがなければ売れない時代でした。ブレークした80年アイドルに、大人たちが集中してバックアップする体制をとった。そうなると、どうしても次の年のアイドルへの力の入れ方が手薄になってしまいますよね」(中森さん)  アイドル史の中で「空白の1年」のような81年が、ネクスト聖子、ポスト聖子の誕生への準備期間のような役割を果たしたのかもしれない。そして、満を持して登場したのが「花の82年組」だったのだ。中森さんは言う。 「82年組のデビュー当時のレコードジャケットや写真を見ると、中森明菜さんや小泉今日子さんも、すべて『聖子ちゃんカット』です。街ゆく女の子たちもそうでした。82年組は、最初はみんな『松田聖子フォロワー』として売り出された、見分けもつかないような存在だった。そこから、それぞれの個性を開花させ、独自のポジションを見つけていったんです」  令和のいまで言えば「テンプレ型アイドル」といったところか……後のレジェンドたちは、そこからどん欲に個性を磨き、それぞれの才能を開花させていった。 中森明菜さん  中森明菜はセカンドシングル「少女A」で、かつての山口百恵を彷彿させる不良少女の雰囲気でブレークした。小泉今日子は髪をバッサリ切ってショートカットとなり、「KYON2」という愛称も同時に印象づけるセルフプロデュースに近い路線を展開。堀ちえみはドラマ「スチュワーデス物語」でのセリフ「私はドジでノロマなカメです」が流行語になるなど、演技で注目を集めた。前出の安野さんは言う。 「店内のBGMで82年組の曲がかかると、誰ともなく『あー、82年組!』と声があがり、そこから82年組の曲のリクエストが続く。『私は断然、明菜派』『スタイルのいい石川秀美!』『妹みたいな伊代ちゃんがよかった』『俺はカッコいいキョンキョン!』と、各自のイチ推しアイドルの話題で盛り上がることもよくあります。松本伊代さんの『センチメンタル・ジャーニー』と早見優さんの『夏色のナンシー』は、特に盛り上がる人気曲ですね」 堀ちえみさん  令和を駆けるアイドル・島倉さんの目から見ても、82年組の魅力は圧倒的な「個性」だという。 「松田聖子さんというザ・アイドル、王道のかわいらしさを築いた方がいらっしゃったからこそ、ただのかわいいだけじゃない、より目立ったり輝いたりするための個性が必要とされた時代だったのかなと思います。楽曲ももちろんですが、人間的にも個性的な魅力を持った方々が多く登場したのかなと思います」  グループで活動するアイドルが多数を占める現在と違い、当時はほとんどがソロだった。 「自分がグループで活動しているからこそ、当時の方々のすごさをより感じます。私はメンバーのみんながいないと不安になることが多くて(笑)。みなさんは、それを毎日毎日、代わりもいないなかでやってこられて、プレッシャーもすごかったでしょうし、すごいなと思います。一人で客席にどのような姿を見せるのか、常にカメラに映っているという意識など、勉強になることばかりです」 「82年組」以後も、菊池桃子(84年)、中山美穂、本田美奈子、南野陽子、浅香唯(85年)、酒井法子(87年)など活躍したアイドル歌手は多数いるが、82年を上回るほどの「豊作」年はなかった。85年にはおニャン子クラブが「セーラー服を脱がさないで」でデビュー。グループアイドルと、そこから派生するソロという時代に突入し、アイドルのあり方は大きく変わっていった。  早見優や松本伊代、石川秀美、堀ちえみらは現在もプライベートで交流を持ち、お互いのブログやSNSなどに登場するなど、82年組は仲の良さでもよく知られている。  アイドル卒業後のありかたも、やはり松田聖子が切り開いた部分が大きいと中森さんは指摘する。 「百恵さんは結婚を機に引退し、その後は一度も復帰していません。ずっとアイドルを続けるということは、70年代には考えられなかった。そこも松田聖子さんが、結婚、出産しても引退せず、『ママドル』という言葉も生み出し、ずっとアイドル的存在であり続けるという道を切り開いた。82年組は歌手やタレントなどそれぞれのポジションを見つけて活躍を続けている方々が多いですが、聖子さんの道を引き継いでより発展させていったということですね」 (週刊朝日2022年4月22日号より) (本誌・太田サトル)※週刊朝日  2022年4月22日号
週刊朝日 2022/04/17 10:00
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