吉井妙子
ウィーログは「世界一温かい地図」 車いすユーザーの世界を広げる織田友理子
難病が進行し首より下は動かせなくなったが、今も全国各地を飛び回り海外渡航もこなす(撮影/篠塚ようこ)
一般社団法人「WheeLog」代表理事、織田友理子。難病の遠位型ミオパチーを患う織田友理子。22歳で診断され、現在は首から下が自分の意思では動かせない。その織田は、バリアフリーマップアプリ「ウィーログ」を立ち上げ、講演も、海外での活動もこなす。驚くほど行動的だ。それは、自分と同じような障害者が少しでも幸せに暮らせる世界にしたいから。常に行動に移し、制度に風穴を開ける。
* * *
リビングのテーブルには化粧用パレットがズラリと並べられている。夫は陶器のような肌をした妻の顔にファンデーションをのせると、慣れた手つきでアイシャドーを塗り、眉を描いた。夫に手鏡を見せられた妻は満足げな笑みを浮かべるも「やっぱりマスカラも塗ってほしい」とリクエスト。だが夫は「いやだよ、塗るのが怖い」と嫌がった。
遠位型ミオパチー患者の織田友理子(おだゆりこ・43)が仕事に向かう前、夫・洋一(43)と毎日こんなやりとりを繰り返している。洋一は妻の化粧が終わると、髪をブラッシングし、へアスタイルを整えた。そして何げなく顔に付いた一本の髪の毛を払う。
難病の遠位型ミオパチーは、体幹から遠い部位の手足から全身の筋肉が低下していく進行性の筋疾患。22歳で診断された織田は病状が進み、現在は首から下が自分の意思では動かせない。そのため、化粧や着替えは洋一がこなすが、化粧の仕方は動画を見ながら覚えたという。
織田の車いすの正面にあるテーブルには重装備されたパソコンが設置されている。画面のキーボードに目をやりながら織田が言う。
「視線入力ができるようになってから、また社会と強くつながれた気がします。以前は夫に打ってもらっていましたが、自分の意思でインターネットを利用しメールをやりとりできるのは、やはり行動範囲が広がると思います」
視線入力が必要な身になったとはいえ、驚くほど行動的だ。バリアフリーマップアプリ「WheeLog!」(ウィーログ)や遠位型ミオパチー患者会(PADM)の代表を務めるだけでなく、国内外のイベントや講演も数多くこなす。また新たな活動計画を次々に発案し、それを実践しようとする。
織田のそばに夫・洋一がぴたりと寄り添う。洋一は友理子のケアは自分が完璧にやると考えていたが、最近はテクノロジーやヘルパーの力を借りた方が友理子の行動が広がることが分かった(撮影/篠塚ようこ)
大学時代に転びやすくなる 検査で難病と診断される
そんな織田の行動にストップをかけるのが洋一だ。何でもやりたがる妻に「それはやる意味があるの?」とただす。無理は仕方がないが、無理し過ぎないように注意を払う必要があるからだ。だが織田は、それが腹立たしいと洋一を睨(にら)む。
「私は何でもすぐやりたいタイプなので、洋一さんが頭を冷やせと。でも冷静になって再考すると頷(うなず)いてくれる。結果的に思考がアップデートされることにもなり、それがなんか悔しい」
織田が情熱を注ぐウィーログは昨年末、外務省が主催する「ジャパンSDGsアワード」の内閣総理大臣賞に選ばれた。この賞はSDGs事業関連で、最も実績を残した組織・個人に与えられるもので、「コミュニティ活動を通じて情報収集・発信を行い、世界中でリアルタイムにバリアフリー情報を共有できるシステムは、国際社会でのロールモデルとなり得る」と評価された。
ウィーログは、車いすで「行けた」という情報を発信することで、誰かの「行きたい」を手助けするアプリ。車いすユーザーの外出はハードルが高いが、それでも車いすで行けたレストラン、観光地、あるいは駅のエレベーターの場所などそれぞれ気が付いた情報を地図に投稿。2017年5月にスタートさせたこのアプリは今や10万以上ダウンロードされ、10言語に対応していることから、62カ国の人が利用している。
当初は各地の車いすユーザーが街歩きイベントを行いながら、道路の段差や凸凹のある箇所、バリアフリートイレの箇所などを投稿していたが、現在は車いすユーザーの視線に立って施設をチェックする健常者の投稿が7割を超える。多様性を重んじる自治体や企業が、社員研修の一環でこの地図アプリを使い始めたことも一因だ。織田は、ウィーログは「世界一温かい地図」とほほ笑む。
「車いすユーザーも健常者も関係なく、それぞれが誰かの便利を想像し投稿している。アプリの中には人の優しさ、思いやりがぎっしり詰まっているんです」
1980年、大学教授の父・大内宏友、母・広美の3人姉妹の長女として生まれた。子どものころからリーダーシップに優れ、中学時代は管弦楽部で日本一、高校時代は筝曲部で全国2位。興味のあることにはトコトン熱中したが、運動が少し苦手だった。
(撮影/篠塚ようこ)
大学の頃から、ふとしたはずみに転ぶようになる。だが自分がそそっかしいからだと考えていた。4年になったころ、動きがおかしいと気づいた父が病院に行くように勧めた。大学病院で検査入院すると「遠位型ミオパチー空胞型(GNEミオパチー)」と診断された。潜性遺伝によるもので、日本には患者が400人ほどのウルトラオーファン(超希少性疾病)だった。
「治療法がないこの病気は、やがて寝たきりになると言われていましたが、徐々に進行するので診断当時はまだ体が自由に動いた。だから、気力で治してやるぐらいに考えていました」
公認会計士を目指し大学と並行して専門学校に通う織田に、周りは「そんなに頑張らなくても」と心配した。そのたびに唇を噛(か)む。頑張ることに喜びを感じる織田にとって、頑張るなは自己否定されたも同然だった。
だが2年後の24歳の時、医師に子どもを産むなら少しでも早くと告げられた。大学入学当時から付き合い始めた洋一とは常に一緒だった。学部は違うものの、織田の授業が終われば洋一が教室の出口で待ち、階段の昇降をサポート。専門学校にも一緒に通った。友人の牧野和子(43)は、二人に入り込む隙が無かったと笑う。
「私たちは女性7人の仲良しグループで、行動は常に一緒でした。でも友理子の隣にはなぜかいつも洋一がいた」
新薬の開発を求めて 製薬会社を回り打診
医師に子どもの話をされたとき、洋一と別れる決心をした。希少疾病に侵されている以上、洋一の未来を奪ってはいけないと考えたからだ。病気について微細に報告したにもかかわらず、洋一からの返事は「じゃあ、結婚するなら今だね」。
洋一は、病気は別れる理由にはならないと語る。むしろ病気が判明した頃から、友理子の手足になるのは自分と決めていた。法科大学院に学びながらも、妻の行動を支えることで自分の人生が豊かになると考えた。
「妻は僕にないものをたくさん持っている。新たなことを考え、それらを有機的に組み立て、最高のものを生み出そうとする。一緒にいるだけでワクワクしますね」
二人はすぐに結婚。1年後に男の子が誕生した。出産前に切迫流産の危険があり、4カ月入院。その間に筋力が衰え、出産後は車いすを使用せざるを得なくなった。
(撮影/篠塚ようこ)
車いすユーザーになると、途端に行動範囲が狭められる現実を知り、社会から取り残されている焦燥感に駆られた。しかも自分の病気はどのように進行するのか、福祉機器はどんなものがあるのか、福祉制度を利用するにはどのような手続きが必要なのか。そんな疑問を解消するため、同じ病気の人たちと情報交換したいと患者の会・PADMの発足に関わった。診断時、医師には「生きている間に同じ病気の人に会うことはない」と言われたが、ネットで発信すると数十人が集まった。
その直後、医学雑誌で遠位型ミオパチーに対するシアル酸補充療法の有効性がマウス実験で示されたという記事を目にした。未来に光が射した気がした。
発表したのは国立精神・神経医療研究センターの医師・西野一三(60)らのグループ。西野は「治験に持ち込むには患者の協力が必要」と告げた。
患者の会は、即座に行動に移す。遠位型ミオパチーを国の指定難病にしてもらうことと新薬の開発を求め、全国で署名活動を開始。織田らは治療費も助成されていなかった。
各地の街角に立ち、ビラを配り賛同者を募った。徐々に協力者が増え、6年間で204万人を超える署名を集め厚生労働省に提出。織田はその間、関係官庁に幾度となく陳情に出向いた。そしてついに2015年1月、指定難病に指定され、新薬が開発されれば、医療費助成を受けることが可能になった。
一方、新薬の開発にこぎつけるまでにはさらに困難を極めた。製薬会社を回り新薬の開発を打診するもののことごとく拒否された。製薬会社にすれば創薬には莫大(ばくだい)なコストと時間がかかり、400人未満の患者が対象では採算が取れないからだ。
そんな時、経済誌で希少疾病薬品を得意とするノーベルファーマの記事を目にした。一縷(いちる)の望みを懸け訪問。当時対応した同社社長の塩村仁(69)が述懐する。
「話し方は穏やかですが、何か迫力のようなものがあった。ただ、医薬品の実用化には莫大な資金が必要なので、助成金があればできると言ったところ、彼女は本当に国の助成金を取り付けてきたんです。そこまでされたら開発しないわけにはいきません」
東京都主催のファッションコンクールの審査員を務め、渋谷でのトークセッションに篠原ともえと登壇。身体障害者になってもおしゃれは諦めない。日々の小さな諦めは、人生の大きな諦めにつながるとの思いからだ。華奢な指先にはネイルアートも(撮影/篠塚ようこ)
デンマーク留学を経験し 福祉の援助を獲得する人に
織田は関係者らと関係省庁を訪ね、助成を取り付けることに成功、東北大学による治験が開始された。織田は症状が進んでいるため治験には参加できなかったが、10年以上の歳月をかけ新薬の開発に成功。23年7月、厚労省に申請し今は審査中だ。
「人間が作った制度は人間が変えられる」と信じ、国の制度に風穴を開けてきたが、その間、様々な批判が織田に届いた。
「希少疾患患者に薬は贅沢(ぜいたく)品」「税金の無駄遣い」。
それでも怯(ひる)まなかった。自分の後ろには何千人、何万人の障害者や難病患者が控えていると考えると、後ずさりするわけにはいかなかった。
「まだ、国の指定を受けていない難病は7千以上あると言われています。薬を待ち望んでいるすべての患者の手元に一日でも早く届くよう、私たちの活動がモデルケースになればいいな、と」
織田が、活動的な理由はもう一つあった。30歳の時にダスキン愛の輪基金でデンマークに留学し、現地の障害者の活動を知り触発されたことだ。3歳の息子と夫を日本に残すのは忍びなかったが、家族が背中を押した。ヘルパーとして同行した妹の金井節子(40)は、デンマーク留学で姉は変わったと証言する。
「姉は福祉の援助を受ける人から、獲得する人になった。当事者意識が強く芽生えたと思います」
福祉先進国のデンマークでは車いすユーザーが当たり前のように街に出て活動し、障害者一人一人に福祉車が国から貸与されていた。特に影響を受けたのが、当時の筋ジストロフィー協会会長の言動だった。彼は織田にこう告げた。
「要望を出したり交渉をするときに、ユーモアを交えること。面白い団体だと思ってもらうと、耳を傾けてくれる人が増える」
同情で支援を受けるのではなく、いかに健常者を巻き込みながら「面白そう」と思ってもらえる活動が出来るか。今もこの考えが心根にある。
食事の支援が必要な人のために開発された「とろみ食」の試食会兼クリスマスパーティー。多くの親子連れが参加し、摂食・嚥下障害などの学びを深めた。サンタ姿の伊藤史人や吉藤オリィも参加(撮影/篠塚ようこ)
14年、バリアフリー情報のYouTubeチャンネル「車椅子ウォーカー」を立ち上げる。だが自分の体験だけの情報発信は、課題解決のインパクトに欠けた。双方向で情報を共有できるようなプラットフォームはないか。考え付いたのが「ウィーログ」の構想だった。
15年、この着想を米グーグル主催の社会貢献アイデアコンテストに応募するとグランプリを受賞、賞金5千万円を手にした。賞金をアプリ開発資金に投入。島根大学助教の伊藤史人(48)やロボット研究者の吉藤オリィ(36)らの手を借り、17年にウィーログをリリース。今や車いすユーザーの必携アプリになっている。
ウィーログは織田の人生も広げた。15年にケニアで開催された米国大統領(当時)のバラク・オバマが主宰する国際会議に招待されプレゼン。19年には国連が後援する世界最大のICTイベント「ワールドサミットアワード」でグローバルチャンピオンを受賞。21年のドバイ万博にはグローバルイノベーターとして招聘(しょうへい)された。
また、神経筋疾患分野の国際的組織「TREAT-NMD」(本部・イギリス)のアジア代表委員を務めたこともあり、マサチューセッツ工科大学からは社会課題を解決するメンバーに選ばれるなど、活動分野は世界にも広がった。訪問した国は20カ国以上。バリアフリーの大切さやSDGsの推進を訴えている。
社会の弱者のために 命がけでも社会を変えたい
織田は頭で考えたものを次々に実行し、自分の体験を通し社会に見過ごされていることを発信、国や企業、あるいは研究者らを動かし課題をクリアしてきた。
「人間が作った制度は、人間が変えられる。さまざまな制度はその時代の最適解として作られますが、社会や環境が変化すると必ずずれが起きる。そのずれを感知し、是正していくことは人間の叡智(えいち)だし、社会の進化だと思います」
とはいえ、社会の制度や仕組みを変えることは一筋縄ではいかない。おかしいと考えても、制度となれば引き下がってしまうのが人情だ。だが織田は、にこやかに、軽やかに、一歩前に出る。
日々の会議はオンラインで。高2の息子に「お母さんたちの活動以外で人の役に立つにはどんな活動があるの?」と聞かれたと、頬が緩む。学校行事には進んで参加(撮影/篠塚ようこ)
体こそ不自由だが、頭の回転が速く、魂ははちきれんばかりに元気。織田に関わった人たちはいつしか協力者になり、サポート側に回っている。視線入力ソフトを開発し、ウィーログの基盤も作った伊藤もそんな一人だ。
「障害者ができないことは、テクノロジーでカバーできることもある。織田さんは身を挺(てい)し次々と課題を突き付けてくるので、答えを出すのに必死です。しかも提出期限が短い」
それでもサポートするのは、織田には身体障害者や社会の弱者のために命を削ってでも社会を変えたいという信念があるからだ、と伊藤はいう。
そんな織田の綽名(あだな)は「篤姫」ならぬ「圧姫」。姫のような可愛らしい表情をしつつ、無言で人を動かす力があるからだ。元ホテルマンの松下雄一(41)と理学療法士の杉山葵(31)は、織田の「障害者に対する社会の壁を壊す」という強い信念に心を動かされ、ウィーログの事務局スタッフに転職。二人が口を揃(そろ)える。
「計画を実現しようとする力は半端ない。ただ即断即決なので、僕らは付いていくのがやっと」
一方でアプリの保守・運営、進化には年間1千万円以上のランニングコストが必要とされる。これまでクラウドファンディングや寄付で賄ってきたが、企業との協働を探り自ら営業。持続可能なアプリに成長させなければ、バリアフリーな社会の実現は難しいという危機感があるからだ。
「寝たきりになってもおかしくない」身体状況ながら身を粉にして働く織田だが、代表を務めるウィーログや患者の会は無給だ。
「仕事をしている間はヘルパーを利用できない現行の福祉制度があるからです。障害が重くなればなるほど、仕事が出来なくなっていく仕組み。手助けがなければ何もできない今の私にはヘルパーさんは命綱。だからどんなに仕事をしてもお金をいただくことはできない。障害者から仕事を奪いかねないこの制度も、いつか変えたいですね」
日本の車いす利用者は現在200万人と言われる。人はいずれ老いる。障害者に無関心でいることは、自分の将来に無関心でいるのと同じこと。
織田は私たちの未来の水先案内人でもある。
(文中敬称略)(文・吉井妙子)
※AERA 2024年2月19日号
AERA
2024/02/16 18:00