- トップ
- ランキング
ランキング
-
1
“マダム”のハンカチ「フェイラー」が30、40代向けのリブランディングに踏み切った理由 社長に聞く
贈り物などで、一度はここのハンカチを目にしたことがあるという人が多いかもしれない、ドイツのブランド「フェイラー」。1枚3000円ほどの高級感あるシュニール織ハンカチは、黒地に花柄が定番で、そのエレガントなイメージからマダムのためのアイテムという印象が強かった。ところがここ数年、カラフルでポップな柄の展開が目立ち、人気の柄はすぐ売り切れるなど、若い世代に受けている。ブランドの存続をかけた“リブランディング”について、フェイラージャパン代表取締役社長の八木直久氏に聞いた。 * * * ――黒地に花柄のエレガントなイメージが強かったのですが、ポップで可愛らしい印象へとガラッと変わりました。 日本で100年続くブランドを目指そうと、改革を決断しました。もともとドイツ発の創業1948年のブランドで、日本に上陸して今年で51年。これまで百貨店を中心に展開し、年配のお客さまからご愛顧いただいておりました。2012年に調査して明らかになったのは、メインの購買層が65歳以上だったこと。ブランドの存続ということを考えると、新たな層を獲得する必要性が浮かび上がってきました。いまの購買層のお子さん方にあたる、30~40代に向けた発信です。 ――昔からのファンも多いなか、改革はスムーズに進んだのでしょうか。 まずは社内の説得でした。売り上げの数字に問題があったわけでもなく、改革の必要性が見えにくい。スタッフの頭それぞれに、いつも来てくださるお客さまの顔が浮かんだのでしょう。「なぜ?」という声が起こったわけです。繰り返し、ブランド存続のために、ファン層を広げることの大切さを説きました。そして、これまでのファンの方にお手紙を書いたり、得意先の百貨店さんを訪れたりして、丁寧に説明をしてきました。 ブランド改革というと、これまでのファンを絶つのかという不安を伴うものです。そうではない。昔からのお客さまは大切にしながら、その下の年代層を増やしにいくための改革です。 ――具体的にどう進めていったのですか。 2014年から柄のバリエーションやアイテムを増やし始めました。2015年に動きを加速させ、銀座本店をはじめ、フェイラーの世界観をより深く伝える旗艦店をオープンさせました。さらに、ギフトコンセプトショップ「ラブラリーバイフェイラー」も立ち上げました。このラインは、フルーツやネイルボトルなどポップな柄や、ラーメンやサウナといったユニークな柄が特徴的で、ファッションビルにショップを構えることで、若い世代を取り込む戦略をとっています。 実は、お客さまからヒントを得たこともあります。フェイラーの代表格に99年に販売を開始した「ハイジ」という柄があるのですが、ドイツの野にいる生き物が四方いっぱいに駆け回っている愛らしい雰囲気から、お持ちの方が多いものです。 忘れもしない2017年の8月12日、スタッフが夏季休暇中に、「ハイジ」をめぐるムーブメントが起きたのです。あるファンの方が、語呂から今日は「ハイジの日」と、ご自分のインスタに商品写真とともに投稿してくださったんです。それを受けて他の方も次々と投稿され、後で気づいたスタッフ一同驚きました。ならば次の年から公式に「ハイジの日」を設けようと、以来、この日は例年「#ハイジの日」で盛り上がっています。今では公式インスタのフォロワー数も18万人超に広がり、関心を持っていただいています。 ――SNSでファンが拡大しているということですね。 時代のツールのおかげで「共感」が広まり、加速的に変化できたと考えています。ファンの方が「ハイジの日」を問わず、ご自身のインスタに、カフェや旅先などでのワンシーンとともにお気に入りのフェイラー商品を「#フェイラー」をつけて投稿してくださっていて、その数は1日150件を超えています。 私も毎日楽しくインスタをチェックしていますが、一つの柄だけでなく、ああこんな柄もあるんだと、次から次に連鎖的に知ってもらえる。そういった投稿を目にして、「初めてフェイラーを知った」という若い世代が出てきたんです。あるいは、お母さまが持っていたものが自分も持てるブランドなのだと気づいた。何よりも「なんか、変わったね」と、こちらからの発信以上に、お客さまに認識してもらえたことが大きいと感じます。 ――次々と新しい柄が展開されることが楽しく、驚きでもあります。 ハンカチ1枚あたりに使える糸は最大で18色、日本人のデザイナーを起用し、季節やオケージョンを意識したデザイン性を大切にしています。 フェイラーのシュニール織とは、本社のあるドイツ東部の小さな村で脈々と受け継がれてきた技術で、村の基幹産業にもなっています。一度平織りした布を裁断し、高速スピンをかけて綿糸の束にし、それを横糸にして再び織る。こうして2回織りすることで、柔らかな肌触り、優れた吸水性や速乾性が際立ち、色落ちしにくく丈夫な製品が出来上がります。 この独自のクオリティーを大切にしたうえで、定番柄を大切に、一方で進化もさせる。春に人気のミモザ柄は、黄色と水色の鮮やかな配色が特徴的で、従来の落ち着いた花柄の雰囲気ともまた違うわけですが、幅広い年代層のファンがしっかりとついています。 ――ディズニーやサンリオのキャラクター、アパレルブランドなど、他企業とコラボした柄も目を引きます。 コラボすることで、デザインに幅が出るようになりました。そして、互いにブランドの強みがあるぶん、それぞれの企業の先には、まだ自分たちが出会えていないお客さまがいる。その接点を得ることも、コラボの意義だと考えています。 大学とコラボし、学生さんたちと記念品を作ったこともあります。リサイクルを手掛ける企業に賛同し、余った端材からポーチを作ることもしています。 ――フェイラーの柄の雑貨が女性誌の付録になったときは、雑誌が売り切れるほどの人気でした。 出版社からのお声掛けで、機会をいただいたんです。ファンの方に響いただけでなく、付録を手にして、初めてフェイラーを知ったという声も多い。新たに出合ってもらえるきっかけになったと、手ごたえを感じています。そこから共感が生まれ、店舗に来ていただくなどご縁が深まるとよいなと思います。 ――今、力を入れていることはありますか。 「共感」の次のステージとして、お客さまと一緒にフェイラーをつくり上げていく「共創」に取り組んでいます。毎年アンバサダーを募り、現在333人の方が活動してくれています。2020年から、フェイラーのデザイナーと一緒に商品を作るプロジェクトも始めました。昨年は有志のアンバサダーと、8カ月ほどかけてハイジ柄のバッグを完成させたんです。もともとハイジの地の部分は無地ですが、チェック柄にするというマイナーチェンジを起こし、話題になりました。 ――実際にリブランディングでの変化は感じていますか。 中心層は完全に30~40代に変化してきています。SNSもそうですが、お母さまが使っているということも強力な口コミです。お母さまから娘さんへ、さらには、スタイやおくるみなど、赤ちゃんのためのアイテムも揃えていますので、またそのお子さんへと、フェイラーの魅力がさらに世代を超えて継がれていったらうれしく思います。 ――日本上陸100周年に向けて、どんなブランド像を思い描いていますか。 あるお客さまが、仕事で大事なプレゼンを控え、当日気持ちがすごくナーバスになっていたそうです。日常のルーティーンで、引き出しから手にとったフェイラーのハンカチの柄に、大丈夫だと力をもらったのだそうです。もしかしたら、この力はどの柄にも言えることかもしれない。ハンカチを手にするとわくわくする、楽しくなる、癒やされるといった情緒的価値こそ極め続けなければならない。少しでも知っていただきたく、昨年には表参道駅構内をジャックし、フェイラーのハンカチ100枚を展示しました。 日常は楽しいときばかりではない。誰にでも喜怒哀楽があるなかで、フェイラーがそっと寄り添い、ときには力になる。ささやかながらも、そういった存在になることこそ、価値があると考えています。 (構成/AERA dot.編集部 市川綾子)
dot.
6/8
-
2
市川猿之助にずっと気を使っていた「香川照之」との関係性 行きつけの居酒屋で見せていた“本当の仲”
警視庁は24日、歌舞伎俳優の市川猿之助(47)を都内の施設に呼び、事情聴取を行った。両親が向精神薬中毒の疑いで死亡した経緯について詳しく話を聞いたとみられる。悲惨な「一家心中騒動」にはいまだ多くの謎が残るが、改めて猿之助の交友関係を取材すると、意外な人間模様が浮かび上がってきた。特に従兄弟で同じ歌舞伎役者でもある「香川照之」との微妙な関係が見え隠れする。 * * * 猿之助は都内のある居酒屋を行きつけの店にしていた。そこでは、彼の華麗な人脈がみてとれる。猿之助の知人が言う。 「その店は、もともと20年くらい前からリリー・フランキーさんが1人で飲んでいて、彼が“隠れ家”にしている飲み屋だったんです。そのうち、リリーさんが福山雅治さん、大泉洋さんらを呼んで、みんなでワイワイと飲むようになった。猿之助さんは福山さんが連れてきたと記憶しています」 猿之助は日本酒をキープしていて、それをおちょこで飲んでいたという。 「猿之助さんは学生時代からの福山雅治さんのファンで、福山さんがDJを務めるラジオ番組を聞いて、何通も手紙を書き送っていたそうです。その後、テレビドラマでも共演するようになり、公私ともに仲良くなったようですね」(同) 猿之助が俳優の香川照之(57)を居酒屋に呼ぶことも、しばしばだった。 「猿之助さんが先に店にいて、香川さんに電話をかけ、『今日はみんないるけどどう?』と言って、香川さんが遅れてやって来るのを見かけましたね。猿之助さんは一人でしゃべりまくって、いつも座の盛り上げ役。香川さんとも仲良く飲んでいましたよ」 同じ澤瀉屋(おもだかや)で市川中車を襲名した香川と、その従兄弟にあたる四代目猿之助は、私生活でも関係が深かったようだ。だが、一門でのパワーバランスや歌舞伎役者としてのプライドなども絡み複雑な関係だったとも言われ、「女性セブン」(23年6月8日号)は2人の間に長年の確執があったと報じている。 歌舞伎に詳しい著述家の米原範彦氏は2人の関係をこう語る。 「香川はずっと歌舞伎界を離れていたので、歌舞伎の世界に戻っても四代目の猿之助を立てるような立場になっていました」 それを象徴する出来事があった。 俳優としての香川は2013年に始まったドラマ「半沢直樹」シリーズ(TBS系)で、堺雅人演じる主人公の宿敵を怪演して大ブレークした。ある新聞社が正月特集で「半沢直樹」でブレークした香川を大きく扱おうとしたところ、突如、キャンセルになったという。 「澤瀉屋のリーダーの猿之助をさしおいて、新聞の正月版に大々的に載ることはできないと判断されたようです。香川は何かと、猿之助に気を使わざるを得ない存在なんだと感じました」(メディア関係者) 香川は、三代目猿之助(現・二代目猿翁)と浜木綿子の息子。本来なら香川が四代目猿之助を名乗っても不思議のない家柄ではあったが、香川が3歳の時、両親が離婚。三代目猿之助は00年に舞踊家の藤間紫と再婚したことで、香川とは長い間、断絶関係が続いた。 「三代目猿之助は浜と香川のことは“過去のこと”として完全に切り捨てた。三代目猿之助は香川に対し、『あなたは息子ではありません。私はあなたの父でもない。今後、2度と会うことはありません』と言ったという有名なエピソードもありました。だが、それでも香川はどうしても歌舞伎の世界に戻りたかった。その結果、香川は夫婦間の軋轢が生じて離婚までしたのですが、そのとき、歌舞伎界に戻れるように熱心にサポートしたのが四代目猿之助だったのです」(米原氏) 昨年夏、香川は銀座のクラブホステスの髪を引っ張るなどのスキャンダルを「デイリー新潮」に報じられ、テレビドラマやCMを次々に降板することとなった。その後、香川は市川中車として歌舞伎から人生の再出発を図ったが、その際にサポートしたのも猿之助だったという。 結局、昨年12月に香川は十三代目市川團十郎白猿襲名披露の舞台に「市川中車」として出演したことで、俳優復帰を果たした。 「市川團十郎の弟子筋が市川猿之助になります。それゆえ、團十郎に引っ張り上げてもらうにしても、猿之助を飛び越えることはできない。香川はいつも猿之助に気を使う立場だったのです。そんな状態のなかで、猿之助が事件を起こし、その代役として香川の長男の團子(だんこ)に光が当たるというのは、おどろおどろしい因果を感じます」(米原氏) 事件が起きた18日は、明治座で「市川猿之助奮闘歌舞伎公演」の真っただ中だった。猿之助は休演し、18日の昼の部はさすがに休演となったが、夜の部は二代目中村錦之助の長男・中村隼人(29)が務めた。翌19日には代役として、昼の部は香川の長男・市川團子(19)が務めた。 團子はわずか1日の稽古で本番に臨んだようだが、堂々たる芝居を披露し、スタンディングオベーションも巻き起こったという。 「團子は判官びいきの日本人の琴線に触れたのかもしれません」(演芸評論家の山本健一氏) 團子、隼人という若手のホープが澤瀉屋のピンチを救った形となった。米原氏はこう語る。 「歌舞伎という芸能にはしたたかさがある。猿之助がいなくても、必ずその代役が現れる。團子はまだそれほど稽古を積んでないと思いますが、驚くべき吸収力です。隼人も脚光を浴びて、きれいな顔をしていることも世に知られました。猿之助も好きだったけど、隼人も團子もいいよねというファンも増えたはずです。歌舞伎ファンではなかった人にも存在が知れ渡り、新しいファン層を広げる結果になったと思います」 歌舞伎界に詳しい早稲田大学の児玉竜一教授は、團子と隼人をこう評価する。 「團子と隼人の2人は見事に代役を演じました。隼人は間違いなく、猿之助が場所と役を与えて、育てた一人と言えるでしょう。猿之助が若手を育てたことが実を結んだことは、悲しい出来事が続いたなかで、ひとつの希望になったとは思います。今月の明治座のピンチを乗り切ったとしても、ずっと安泰ではありません。ここから先は、若手の人たちの自覚と精進次第だと思います」 はたして、澤瀉屋の未来やいかに。 (AERA dot.編集部・上田耕司)
dot.
5/26
-
3
父、母を相次ぎ亡くした喪失感に寄り添ってくれない夫 離婚も考える49歳女性に鴻上尚史が示した結婚におけるシンプルな原則
父、母と相次いで亡くし、喪失感に苦しむ49歳女性。そんな辛い気持ちに夫は寄り添ってくれないと離婚も考える相談者に、鴻上尚史が示した「一緒にいる意味を問うシンプルな原則」とは? 【相談184】両親が相次いで亡くなり、喪失感が大きいなか夫は全く寄り添ってくれません(49歳 女性 たんぽぽ) はじめまして。 半年前に父を、今年3月に母を相次いで亡くしました。 両親はいずれも80歳をこえており、いつかは、と覚悟はしていましたが、二人とも特に深刻な持病もなく、突然亡くなってしまったこともあって、喪失感が大きいです。仕事に行き、なんとか日々の生活を送っています。 相談は、夫との関係のことです。 私は6年前に結婚しました。世にいう晩婚です。 私がやっとの思いで日々過ごしているのに、夫はテレビを見て笑ったり、少し両親の思い出話をしてもふーんと言ってスルーしたり、全く寄り添ってくれません。 婚姻期間が短いので、夫と私の両親との関係も薄く、特別な情がないのは仕方ないとは思います。 でも、私は虚しく、こんな男のために、辛い時も家事をしなければならないのか、とすら思うようになりました。 鴻上さんにお聞きしたいのは、男性って、そんな感じなのでしょうか。 一般的に男性は察するのは苦手、とか言われてますけど、ただそれなのか、それとも、夫婦関係を終わらせた方がよいのか、毎日考えています。 【鴻上さんの答え】 たんぽぽさん。大変ですね。「一般的に男性は察するのが苦手」かどうかは、僕には分かりません。権力を持って、周りがなんでも忖度してくれる人は、他人の感情を察するのが下手になるでしょうし、常に周りに気を配ってなければ自分の立場が危うくなる人は、他人を察することが得意になるでしょう。また、比較的安定した精神状態や生活水準なら、他人を思う余裕が生まれるし、過酷な状況で生きることに必死なら、他人に気配りしている場合じゃないでしょう。 ですから、たんぽぽさんの夫が、男性だから「察するのが苦手」と決めるのは、少し乱暴な気がします。昨今話題の進化心理学の発展によっては、性別での特徴として何か言われるようになるかもしれませんが、性別ではなく個人の違いを問題にした方がいいと思います。 また、もし男性一般が「察するのが苦手」だとしても、察することが苦手な夫が許される理由にはならないと思います。やっぱり、性別一般より個人だと思いますからね。 たんぽぽさん。「夫婦関係を終わらせた方がよいのか」と書かれていますが、離婚しても経済的な不安はないのでしょうか。 もし、経済的な問題を考えなくてすむのなら、結婚を続けるかどうかは、たんぽぽさんの「一緒にいる喜びと哀しみ」の判断だと思います。 「友情は喜びを二倍にし、哀しみを半分にする」という有名な言葉があるでしょう。ドイツの詩人で劇作家のシラーの言葉です。逆に言えば、こういう状態になる友情は素敵だということですね。大切な友人と一緒にいると、この言葉を実感しますよね。 僕は、恋愛も同じだと思っています。 あなたといると、喜びが二倍になり、哀しみが半分になる。だから、あなたといる。 あなたといても、喜びは二倍にならないし、哀しみは半分にならないのなら、あなたといる意味はない。 僕は、恋愛も結婚も、このシンプルな原則が基本だと思っているのです。 一緒にいて話すことで一割でも喜びが増えるのなら、一緒にいる意味がある。話し相手になり、相槌を打ってもらい、横にいてくれることで少しでも哀しみが減るのなら、一緒にいる意味がある。 逆に、一緒にいることで喜びが減り、哀しみが増えるのなら、一緒にいない方がいい。そんな恋愛も結婚も、お互いに不幸だから、やめた方がいい。 これが僕のアドバイスというか、考え方です。 たんぽぽさん。夫と一緒にいて、少しでも喜びが増え、哀しみが減るのなら、結婚生活を続ける。その逆ならやめた方がいい。僕はそう思います。 この考え方はどうですか? ■本連載の書籍化第4弾!『鴻上尚史のなにがなんでもほがらか人生相談』が発売中です。書き下ろしの回答2編も掲載!
dot.
6/6
-
4
「何が何でも東大理3」は今や昔? 灘校生に起きた変化
国内大学の最高峰とされる東京大学理科3類(理3)への進学率が際立って高いことで知られる灘高校(兵庫県)。いまも医学部志望者は多いものの、東大以外の国公立大学進学者も目立ってきた。卒業生への取材や、週刊朝日が実施した「東大合格者アンケート」をもとに、その変化を探った。 「医学部志望者の母数自体に、昔と比べて大きな変化はないと思います。ただ、かつてのように『何が何でも東大理3』という感じはなく、多浪を重ねて東大を目指す人の話もあまり聞きません。京医(京大医学部)や地方国公立大学も選択肢の一つに入る雰囲気にはなっています」 こう語るのは灘高校から理3に現役合格し、現在、教養学部に属する男子学生だ。 関西屈指の進学校として知られる灘高校は、東大医学部医学科への進学者が多い理3への合格者が多く輩出することで知られていた。灘高校は1学年あたり220人。理3合格者は2013年には現役・浪人を含め27人だったが、19年は21人、22年は10人に減少。かわって、近年では他の難関国公立大学への進学者も目立つ。23年度、同校から医学部医学科に合格したのは国公立・私立82大学合計で87人(うち現役は50人)。東大理3の合格者は15人、京都大学医学部が17人、大阪大学医学部が9人、奈良県立医科大が6人、神戸大医学部が3人。理3合格者は医学部合格者全体の2割を切り、関西圏の国立大学を中心に合格者が散る結果となった。先の学生によれば、「京大と奈良県立医大の後期をセットで受け、もし前者に落ちたら後者に進む」というパターンも見られるという。 灘校生が必ずしも東大にこだわらなくなっているという状況の変化は、何を意味するのか。OBや予備校関係者への取材から見えてきたのは、医学部の「目指し方」がかつてと比べ多様なものになりつつあるということだ。 同校には医学部志望者向けのコースはない。海保雅一校長は「特定の進路に生徒を誘導するような教育はしていない」と言葉に力を込める。 学内で指導が行われていないのであれば、何が医学部進学の動機づけとなっていたのか。大きく作用していたと考えられるのが、周囲が東大を目指すから自分も目指すという「ピアプレッシャー」だ。1980年代後半に同校を卒業し、東大理3から医学部へと進学した医療ガバナンス研究所の上昌広理事長は言う。 「私たちの世代では『東大一辺倒』の価値観が今よりも強かった。灘校から東大に行けなければ落ちこぼれも同然。たとえ京大であっても、医学部でなければ見方は同じでした。一方で、理3受験者自体が減っている今は、そんなことはなくなっています。養老孟司さんのような名物教授も減り、東大という大学自体が今の受験生にさほど魅力的な場所だと映らなくなっているのでしょう」 最難関校のプライドとプレッシャーから、在学生が「灘→東大」の王道ルートに駆り立てられる構造は、現在も根本的に変わっているわけではない。先の教養学部生は言う。 「中学受験を経て灘に入学する時点で、偏差値至上主義とも言える価値観はどの生徒にも少なからず刷り込まれています。もちろん高校生なりに色々と調べてはいるものの、東大理3の志望者に関しては憧れやプライドが先にあり、医学部の志望動機は後から理由づけしていることも多いと思います」 難関国立大学医学部に強い関西の進学塾「高等進学塾」で、医学部進学室長を務める保木本將人講師が言う。 「慶應大や関西医大など私立大学の医学部志望者の場合、ご両親が医師で自身も医師を目指すようになったケースが多い。奈良県立医大、三重大、高知大など、地方の国公立大学志望者も、純粋な医師志望者が多い印象です。一方、灘高校をはじめとするトップ校から東大の理科3類や京大医学部を目指す子は少し事情が異なります。医者という職業への憧れもあるものの、『偏差値ナンバーワンの大学に挑戦したい』という思いが志望動機になっていることも少なからずあります」 「偏差値ナンバーワンの大学に行きたい」という思いが動機づけになっている場合、「医学部志望」と「医師志望」とは必ずしも一致しない。近年は難関大学医学部への進学を志望しているものの、情報分野に関心を示す生徒も増えていると保木本講師は指摘する。 「灘校に限った話ではありませんが、上位校に通う子たちの中には、趣味で大学の数学やプログラミングを学んでいる子たちも多い。そういう子たちは医学部には進むけど、自分でプログラミングを勉強すればいいやと思っていたりする。卒業生の中には、医学部には行ったものの医師にはならず、プログラミングを学んでベンチャー企業を立ち上げた子もいます」 本誌が今春東大合格者を対象に実施したアンケートからも、こうした変化が読み取れる。 医師になるためには医師国家試験をパスし、2年間の初期(臨床)研修と3年間の後期(専門)研修を経て専門医資格を取得することが必要になる。その後、医療機関に勤務し、医長や部長を経て院長を目指すか、大学病院に勤務し臨床や研究に従事しつつ、講師や准教授を経て教授職を目指すかのいずれかが、これまでの医師の”エリートコース”とされた。 だが、アンケートに回答してくれた理3合格者55人(全入学者は101人)のうち、大学卒業後の理想の働き方として「医者」「研究者」と答えたのは8人。19%は「起業」で、「組織が好きではない。やりたいことを主体的にやりたい」(女、早稲田実業)「自分の意思を貫くことが出来るから」(男、灘)といった理由が挙げられた。次いで多かったのが「フリーランス」で16%。「自分の能力を生かして自由に仕事をしたい」(男、桐朋学園中教)「組織の利益とは別に、医師としてほんとうにすべきことができると思う」(男、四日市)など、全般として組織にとらわれない自由な働き方を求める声が目立った。 厚生労働省が2022年2月に発表した「医療従事者の需給に関する検討会」取りまとめでは、全国レベルで医師は毎年3500~4千人ほど増加しているものの、29年ごろには需給が均衡し「将来的には医師需要が減少局面になるため、医師の増加のペースについては見直しが必要」との見解が示されている。灘高校から東大医学部を経て、現在、地方の病院で研修医として働く小坂真琴さん(25)は言う。 「臨床医のキャリアは医師免許を取った後、横並びでスタートしますので、正直学歴はあまり関係がありません。国民皆保険制度が自分たちの定年まで維持されるかわからないですし、地方のクリニック経営は大変で、今から新規開業は厳しいという話も先輩医師からよく聞きます。かつてのように『医師資格さえあれば安泰』とは言いづらい状況があり、今の理3生にもそのような認識が共有されているのではないでしょうか」 たとえ東大であっても、医学部に受かれば「人生上がり」とは言い難い状況が生まれている。卒業後のキャリアも見据えた上での学部選びが、今後はさらに重要になってくると言えそうだ。 ※週刊朝日オリジナル記事 (本誌・松岡瑛理)
週刊朝日
6/6
-
5
岸部一徳かく語りき 瞳みのるとの和解、そして自身の「終わり方」
芸事が好きだった父、熊本への夜逃げ、弟・四郎の不遇──。自分について考え続ける日々のなかで到達した境地。それは俳優としての代表作「死の棘」での小栗康平監督の教えとも繋がっていく。寄る辺なさに留まり続けること、そして自分自身の「終わり方」。いま、岸部一徳さんが考えていること。本誌編集長が聞く独占インタビューの第3回。 * * * 岸部には兄弟が多い。「全部で10人くらいいるんです。僕は男では下から2番目」 1969年、加橋かつみ脱退後のザ・タイガースに加入した四郎は、すぐ下の弟だ。 生まれ育ったのは京都市、京都御所の西側。父親の徳之輔は戦前、職業軍人だった。47年生まれの岸部に父親の現役時代の記憶はない。 「親戚の人に聞いたら、軍服で馬に乗って部下も付いて、京都の真ん中をばーっと行って、ちょっと知り合いのところに寄ったり。背も高くて格好よかったようです」 謹厳で頑迷な父親像が浮かんでくるが、 「全然違いますね」 公職追放も影響したのだろう、戦後は定職に就かなかった。 賭け事が好きで借金も多く、一家は常に経済的に逼迫(ひっぱく)していた。小学1年の時、伯母を頼って熊本へ夜逃げしたことを覚えている。 質草になる布団は、2階から母や岸部たちが階下の兄たちに投げて宙を舞った。小学校は4回転校した。 だが、岸部の父親への視線は温かい。 「趣味が多くてね、あれもこれもちょっとずつ好き。よく言えば面白くて子どもには好かれる父親でした」 明治生まれにして英語も少しばかり操った。碁は小学生のころからプロ棋士を目指して鍛えたという腕前で麻雀も強い。松竹新喜劇に足繁く通い、歌舞伎や新派も大好き。興が乗ると子どもたちに台詞を諳(そら)んじてみせた。浄瑠璃にも明るい。読書家で家には菊池寛をはじめ初版本がたくさんあった。酒は飲まない。 「芸事が好きなんだよね。だから僕が東京行くって時はうれしかったんですね。先頭立って親のまとめ役をやってました。まあ、ひょっとしたら子どもが人気者になれば自分も何かこう、楽しくなるのかもと思ったのかも(笑)」 骨董や美術品の目利きでもあった。 「買えるわけじゃないけど、でも、そういうものが好きっていうのは、弟(四郎)に行ったんだろうね」 3学年下の弟・四郎。69年3月、加橋かつみの脱退を受けて急遽遊学先の米国西海岸から呼び戻され、一夜にして日本一の人気者の一員になった彼もまた、ザ・タイガースによって大きく人生を変えられた一人だ。 71年のグループ解散後、飄々(ひょうひょう)とした佇まいと軽妙な話術で人気タレントとなり、ワイドショーの司会も長く務めたが98年、5億円に上る借金で自己破産し番組を降板。以降は不遇の日々が続いた。 2003年、脳出血に倒れ、後遺症で視野狭窄に。07年に愛妻が急死した。12年には身を寄せていた千葉の姉の家で、夜中にトイレに行った際に転び大腿骨を骨折。リハビリ病院を経て移った県内のグループホームへ、岸部はよく見舞いに訪れたという。 「身の回りの世話は一回り上の姉たちがよくやってくれた。僕も月に何度か行ってたかな。お年寄りに交じって体操を一緒にやったりして」 四郎は典型的な末っ子で淋しがり屋だった。 「何かあっても『誰かが何とかしてくれるやろ』と思うタイプね。リハビリも、もうちょっとがんばってほしかったんだけど……。でも、暗くなりすぎないのは性格だよね。僕が行っても、話すよりおみやげを気にしたりして。わらび餅なんか小さく切ってやると『おいしい』なんて言ってね。ただ、最後のほうは、食べることもできなくなった。それからの衰弱が早かったですね」 20年8月28日、四郎は旅立った。享年71。 ■苦手なことがあってもいい 岸部が今回のインタビュー依頼を受けたのは、本誌の休刊という節目に「そろそろ自分のことを話してもいいかな」と思ったからだという。普段はテレビのバラエティー番組はおろかインタビュー番組にも出ない。取材はほぼ新作映画の公開時に、雑誌や新聞など活字メディアに絞っているのだという。 「トーク番組もバラエティーも見たりはします。ただ、俳優が演じるだけではなくてしゃべることや、自分自身を語ることが得意じゃないんですよね」と吐露する。 「苦手なものを克服してできるようになるのがいいという考え方もあるけど、そんなに広げなくても三つぐらい苦手があったら、一つくらいは『これは苦手』というのを置いておいてもいい」 音楽をやめてしばらく仕事がない時期を漂いながら、岸部はひたすら、自分について考え続けていた。 「やりたいことがあって音楽をやめたわけではなかったし、考える時間はたくさんあったから。たまたま勧められて俳優になった。芝居の勉強もしていないし、僕は得意なものがそうないから、苦手はなんだろうと考えた。たとえば人前でしゃべるのは不得手だから、じゃあこれは残そうと」 それは、映画「死の棘」(90年)で、小栗康平監督にたたき込まれた「言葉にする前の気持ちの動きこそが大切だ」という教えとも、のちに繋がっていく。 俳優という不安定な稼業で、心配に苛(さいな)まれる場面は多い。演技の技術について、私生活のこと、健康の維持、将来の不安──。それらを払拭しようと思えば、やれることはたくさんある。踊りや乗馬を習ったり、休日に芝居や映画を見たり、人付き合いをよくしたり。だが、岸部は心細さの解消のために働きかけようとは思わない。あえてそのまま留めておきたいという。 動けば安寧を得られるかもしれない。その代わり、不安という感情の動きは心から押し出され、微妙な揺らぎは掌(てのひら)からこぼれ落ちる。 ■人生後半戦の坂どう下っていく 岸部が俳優の世界に足を踏み入れてほどなく、日本はバブル経済の80年代に突入した。 政治の季節の残滓(ざんし)を狂乱の宴で上書きするかのように、世の中全体が浮足立っていた。テレビは昼夜なく「楽しくなければ」と謳った。一方、どん底ともいえるのが、娯楽の王座をテレビに明け渡した映画産業だった。週刊朝日が最高部数150万部を記録したのと同年の58年、11億2700万人をピークに映画人口は激減し、80年代には1億5千万人規模にまで縮小している(日本映画産業統計)。 芸能事務所は主戦場をテレビと見据え、タレントは視聴率に繋がる「好感度」という物差しに左右されるようになる。エンタメ界で量産されるのは不特定多数に好まれやすいバラエティー番組で、良質な映画作品が受け入れられる余地は少なかった。 この時期に「死の棘」が国際的に評価されたことは、寄る辺なさを抱える岸部自身にとっても、その後の俳優人生を位置づける大きな出来事だった。 「誰と出会い、誰と一緒にやっていくのか。それが一番大事。タイガース時代も含めて、すべてはそこへ繋がっていくよね」 岸部が樹木希林の事務所「夜樹社」の解散後、いくつかを経て自分で事務所を設立したのはバブルが弾けて間もない、95年のことだ。 「小さい事務所だからできることもある。映画やドラマの脚本を読む。CMだったらコンテは面白いのか。どうやって相手に正論を伝えるのか。自分の基準で面白いと思える仕事を選んで、そこでの闘いみたいなものがあって。そんなことを続けているうちになんとなく面白そうな事務所ですね、っていうふうになればいいなと思ってやってきた」 18年に亡くなった樹木は「三つぐらいの側面を見せて終わった気がする」と語る。 「希林さんは30代の若いころからおばあちゃん役をやったりして、ちょっとワケわからないことをしたり、むつかしい、怖い人みたいに見せるから、自分の俳優としての技術や、すごさを隠そうとする時期があったように思います」 それが変化したのは夜樹社が解散する前だ。80年代に入り、芝居のうまさで世間から注目されるようになった。 「あのころ、希林さんは、上手な芝居を少し、見せるようになったなと思った。そこからひねくれてるというようなイメージも取れてきて。晩年の作品を見ると、俳優としてのすごさよりも人間の優しさが溢れているようにも見えた」 岸部はこの日、取材場所の朝日新聞社のビルまで、地下鉄東銀座駅から歩いてきた。 「笠智衆さんは『僕は電車のあるうちは鎌倉から通うんです。それが健康法です』とおっしゃって、送り迎えは断っていた。希林さんも『社会生活ぐらいできなくてよく俳優なんてやってられるわね』と」 最近、岸部は自分自身の「終わり方」も考えるようになったという。 京都時代からの生き方、たとえば、しゃべるよりも人の話を聴き、苦手なものをあえて克服せず、古希を過ぎて少しまるくなった自分。 「それでも、うまく言えないんだけど、たどり着かないなぁっていう。終わりが来た時に、ああいうやり方、考え方でやっぱり良かったんだと思えるかどうかは、また別問題だなと」 俳優になって半世紀。大きな賞も獲った。周囲からは十分すぎるほどの成功に見えるかもしれない。名脇役、いぶし銀と評されることも少なくない。 「でも、良い俳優さんですね、なんて言われると知らないうちに人の評価に自分を合わせようとする気持ちが生まれる。すごいですね、と言われて、自分がすごいと思ってしまったらその『すごい自分』に合わせた生活になってしまう。そこがなんとなく僕には合わない。歳を取って、少しずつ仕事が少なくなって、いつの間にか人が忘れてくれるくらいがちょうどいいのかな。でももう少し、好きな人たち、好きな監督と仕事はしたいですけどね(笑)」 「人生百年時代」と言われる。55年に男女ともに60歳代だった平均寿命はそれぞれ20歳近く延び、60~70代を昔のように老年期と呼ぶにはあまりに若い。緩やかに長く続く人生後半戦の坂をどう下っていくのか、若い世代も不安を抱えている。 岸部たち団塊の世代は、未知の時代を走る先頭集団だ。 ザ・タイガースと決別した瞳みのるとは08年、37年ぶりにメンバー同士で元マネジャー・中井国二の仲立ちによって再会、「長い別れ」は雪解けを迎えた。瞳はあの71年1月24日、有楽町のガード下での別離の後、猛勉強を経て大学進学し慶應義塾高校の漢文教諭に転身。定年を前に退職して現在は音楽活動とともに専門である中国語を生かして日中文化交流にも注力している。森本タローが定期的に開くライブはいつも盛況だ。森本のファンだけではない、沢田研二や瞳のファンも、誰もが楽しめる温かい雰囲気で溢れている。 「タローは11月で喜寿(77歳)。12月には喜寿になって初のライブを考えていて、内容もいつもと少し違うみたいだし、楽しみだよね」 同じく音楽活動を続ける加橋かつみも4月、「THE G.S栄光のグループサウンズ」公演で元気な姿を見せたという。 6月25日は岸部と森本、瞳が参加する、さいたまスーパーアリーナでの沢田研二75歳“バースデーライブ”だ。6月に入れば、メンバーそろってのスタジオ練習が始まる。 「音楽はね、楽しい。(ザ・タイガース再結集は)13年でもやっているんだけど、しばらくベースから離れていて、練習するとまた弾けるようになる。そうするとやっぱり僕は音楽少年だったんだなって」 考えてみれば、ザ・タイガースのメンバーが集まってやれるのは最後かもしれない。願わくば、加橋にも参加してほしかった。でも、電話しても出ないから、そっとしておこう。 「タイガースのメンバーと出会えて良かった。うっかりしたら、良い俳優を最後まで通そうとか、そんなことになっていたかもわからない」 岸部はいま、そう思っている。(了/敬称略)(本誌・渡部薫)※週刊朝日 2023年6月9日号
週刊朝日
6/3
-
6
“将棋界一のドジっ子”渡部愛はコンサドーレ札幌を「箱推し」
AERAの将棋連載「棋承転結」では、当代を代表する人気棋士らが月替わりで登場します。毎回一つのテーマについて語ってもらい、棋士たちの発想の秘密や思考法のヒントを探ります。渡辺明九段、「初代女流名人」の蛸島彰子女流六段、「永世七冠」の羽生善治九段らに続く27人目は、日本女子プロ将棋協会のエースで「元女流王位」の渡部愛・女流三段です。発売中のAERA 2023年6月12日号に掲載したインタビューのテーマは「将棋以外の楽しみ」。 * * * 渡部愛の趣味はサッカー観戦。北海道コンサドーレ札幌の熱烈なサポーターだ。 「子どもの頃、親がサッカーの日本代表戦とかをテレビでよく見てて、その影響でサッカーの試合を見るのはすごく好きになりました」 好きな選手は? 「基本的には箱推しで、コンサドーレはチーム全体を応援しています。最近、調子がだんだん上がってきてます」 日本代表の試合は? 「ワールドカップは深夜まで全部見ました。コンサドーレはサイドから攻撃することが多いので、代表戦も右の伊東純也選手、左の三笘薫選手、サイドからの攻めに注目して見ています。端攻め? そうですね(笑)」 ツイッターには、観戦で各地を訪れた様子がアップされている。 「現地まで行くのは、最初はハードルが高くてなかなかできなかったんですけど、行き始めたらはまりました。すごく元気をもらえるのと、移動で歩いたりするのがいい運動になります」 「いまは空いてる土日とか、仕事終わりに時間があれば、コンサドーレがアウェーで関東に来たときに、あちこちのスタジアムを訪れています。4月には埼スタ(埼玉スタジアム2002)に行きました。都内で昼ぐらいまで指導会があって、15時からキックオフで。電車に1時間ぐらい乗って、最寄りの駅からは歩くと20分ぐらいかかります。ダッシュで走りました」 日本国内で、これから訪れてみたいところは? 「鳥栖です。佐賀県にはまだ行ったことがなくて。福岡から近いらしいので、土日で福岡と鳥栖、2試合連続で見て帰るコースが理想だと思っています。でもなかなか機会がなくて」 2023年2月。渡部は飛行機に乗り、コンサドーレのホーム開幕戦がおこなわれる札幌ドームに駆けつけた。そこでアクシデントに気づく。 「リュックの一番上に入れていたはずのユニホームがないんです。しびれました(苦笑)。早朝にリュックをしょって家を出て、羽田空港に向かう電車に乗ろうとして。けっこう時間がギリギリだったので、走ってる間にリュックが半開きになってしまって、どこかでユニホームを落としちゃったみたいです。警察とかにもいろいろ電話をかけてみたんですけど、届いてなくて。その後、女流王位リーグでたまたま残留できたのと、女流名人リーグに入れたので、自分へのご褒美でもう一度ユニホームを買い直しました」 サポーターの鑑ですね。 「でも痛すぎる出費でした(苦笑)」 (構成/ライター・松本博文) ※発売中のAERA2023年6月12日号では、対局前日にやらかしてしまった大失敗についても語っている。2021年春から今春までのこの連載をまとめた『棋承転結 24の物語 棋士たちのいま』(朝日新聞出版)が6月20日に出版予定
AERA
7時間前
-
7
全仏OP加藤未唯失格騒動 ボールガールは重労働! 日給6400円で太ももにサーブ直撃でおおあざも
全仏オープンテニスの女子ダブルス3回戦で加藤未唯選手が、ボールガールにボールを当て失格となった。ボールガールとはどんな仕事なのか。「肉体的にも精神的にも重労働」と、国際大会の経験者が教えてくれた。 * * * 事の発端は、日本時間4日に行われた全仏オープンテニス女子ダブルス3回戦。第2セット途中、加藤未唯選手が相手側コートに送った球がボールガールに直撃した。その後、ボールガールは涙が止まらず退場した。この加藤選手の返球が危険な行為とみなされ失格となってしまった。 「勝つためにコートに立つ選手たちをサポートするので、緊張感は半端ない」とは、日本国内で開催されたテニスの国際大会でボールガールを経験した女性(53歳)だ。 「私がボールガールをやったのは、全仏などの世界四大大会より規模は小さいですが、賞金は出ますし、ランキングポイントもつく試合でした。当然ですが出場選手は真剣です。私たちボールガールをはじめ、大会を支えるスタッフももちろん真剣に取り組んでいます」 ボールパーソンは、テニスコートの四隅に各1名、ネット際に2名の合計6名で試合中のボールを回す。サーブを打つ前に選手に球を渡したり、ネットに引っかかった球をダッシュで拾いに行ったりする姿を国際試合のテレビ中継などで見たことがある人も多いだろう。確かに、球に反応して瞬時に動き、大変そうだ。 「球を選手に渡すだけというと簡単そうに見えるかもしれないですが、私がボールガールをやった大会では、試合中使用できるのは8球です。サーブを打つ人に対して、右手に1球持ち、真っすぐに手を上げ、もう一方の左手は腰の位置で『ここにまだ他の球があります』と見せるように構えます。ワンバウンドで選手が取りやすい位置に球を投げて渡すのですが、それ自体はそんなに難しいことではない。サーブが入らなかったり、ポイントが取れなかったり、自分のプレーにイライラした選手が、球に八つ当たりして、どこかにポーンと打ってしまうと、さぁ大変! なんです」 コートの中に球があればいいが、フェンスの外に出てしまうと探しに行くのはボールパーソンの役目だ。試合球の8球中1球がロストボールするうえ、コートにいるボールパーソンは6名から5名に減る。「なんで、そっちに打ってんだよ!」と叫びたい気持ちで、心の中で舌打ちしながら球の行方を追うこともあるという。 「日本で行われる国際大会でボールパーソンを任される大学のテニスサークルに所属していたので、普段からラリーの練習のときには8球で回していました。試合で通用するボール回しができるように練習はとてつもなく厳しかった。大学1年生の練習は、ほぼ球拾い。4年生の先輩のところに球がいっても拾ってくれないんです。1年生がとにかく走って拾ってました」 今回、全仏の騒動では加藤選手の返球がボールガールに直撃してしまったが、話をしてくれたボールガール経験者も球が当たったことがあるという。 「1991年のセイコー・スーパー・テニスという大会でクロアチアのイワニセビッチ選手の試合のボールガールをやりました。世界屈指のビッグサーバーで最速220キロともいわれている選手です。そのイワニセビッチ選手がサーブを打ち、サービスボックスをわずかに外れフォルトになった球が右太ももに当たりました。頭部や眼球に当たりそうならばよけますが、胴体ならば当たったほうが自分の目の前に球が落ちるので、ロストボールになることもなく探す必要がないのでよけるという選択肢はなかった。しかし、痛い! 試合中はプレーを妨げる行為はできないので、声をあげずに、体はややくの字になりつつも姿勢は崩しませんでした」 試合終了後、球が当たったところは濃い紫色のあざになっていて、翌日は手のひら大に広がっていたそうだ。全仏のボールガールは球が直撃したあと、泣き出したと報じられているが、「痛かったのもあるかもしれないけれども、プレーを中断させられないという緊張感の方が強かったのかもしれない」と推察する。 「世界四大大会のボールパーソンは、例えば、ウインブルドン選手権では大会前年の10月から訓練をし、4月になると芝のコートで球を転がす練習を週4日するそうです。日給日本円で2万円と聞いたことがありますが、私がやったボールガールは日給6400円でした。朝の集合時間も早く、遅刻は厳禁。遅刻したら2度と声をかけてもらえません。試合終了までなので拘束時間は長く、毎回、脚はバキバキの筋肉痛。大会でボールパーソンが着用したテニスシューズやウエア、タオルなどが大会終了後に山分けするのは楽しかったですね。振り返ると、結構、精神的にも肉体的にも重労働なのに、よくやっていたなと思います。一流選手のプレーだけでなく、試合に向かう選手の感情までもが手に取るようにわかる場所での仕事はなかなか味わえない経験でした」 加藤選手はテニス界を巻き込む失格騒動を跳ね返し、混合ダブルスで4大大会初優勝を果たした。しかし、加藤選手はボールガールに対しての危険行為による失格を不服とし提訴しているため、この騒動との闘いはまだまだおさまりそうにもない。(AERAdot. 編集部)
dot.
8時間前
-
8
かつて“ジャニーズファン”だったBBCプロデューサーが語った 喜多川氏の性加害疑惑番組の舞台裏
ジャニーズ事務所の創業者・ジャニー喜多川氏(享年87)の長年にわたる少年への性加害疑惑を全世界に伝えた英放送局BBCのドキュメンタリー番組「Predator: The Secret Scandal of J-Pop(J-POPの捕食者 秘められたスキャンダル)」は、日本でも大きな反響を呼んだ。番組を見て驚かされたのは、番組制作者が日本におけるジャニーズ事務所の立ち位置を非常によく理解していたことだ。この調査報道を行った中心人物であるBBCのプロデューサー、メグミ・インマンさんに尋ねると、その謎がとけた。彼女はジャニーズタレントのファンだったのだ。 * * * 「私は卒業式でSMAPの『夜空ノムコウ』を歌ったんですよ」 メグミ・インマンさんはそう言いながらほほ笑んだ。 日本人の母と英国人の父を持つインマンさんは東京で生まれた。生後しばらくして渡英し、9歳のときに来日。小学校4年生から中学校3年生まで日本で暮らした。 「あのころ、私はただの日本人の少女でした。『SMAP×SMAP』とか、(V6のメンバーが出演した)『学校へ行こう!』などのテレビ番組をよく見ていました。彼らと一緒に成長してきたような感じで、本当に親しみを持っていました」 数多くの音楽番組やドラマに出演していたジャニーズの歌手やタレントについて、当時は、何の疑問も持たずに楽しんでテレビを見ていた。 「でも、14歳のときに日本を離れると、ジャニーズがいかにユニークで、日本人にとって特別な存在であるかに気づきました。多くの日本人にとって、今回の番組が明らかにしたことは、不愉快な真実であり、信じたくない出来事だったと思います」 実は、インマンさんもその一人だったという。 「詳しく調べ始めると、少年たちのキラキラした映画のような活動の裏にある闇が見えてきました。とても暗い感じがして、信じたくない思いがしました」 ■日本の特異な問題ではない 2019年、BBCは日本で大きく報道されたジャニー喜多川氏の死去をきっかけに、「彼はいったい何者なのか」というテーマで取材を開始した。そこで浮かび上がったのが、長年にわたる性加害の疑惑だった。 しかし、なぜ英国に拠点を置くBBCが日本の性的虐待疑惑を取り上げたのか? 「これは日本でだけ起こった特異な事件ではありません。社会や組織で力を持った人がその力を悪用し、児童虐待や性的虐待を行う事件は世界中で起きています」 そう言うと、有名なケースとして09年に亡くなった米国の歌手、マイケル・ジャクソンによる児童虐待疑惑を挙げた。 「英国ではBBCの人気司会者だったジミー・サビル氏、ハリウッドには元映画プロデューサー、ハーベイ・ワインスタイン氏の性暴力事件がありました。喜多川氏のケースはそれらのひとつなのです」 長年、芸能人やセレブの児童虐待や性的虐待は、彼らが個人的に起こしたスキャンダルとされ、社会的な問題とはとらえられなかった。 ところが、17年に発覚したワインスタイン氏の性暴力事件をきっかけに、その風向きが大きく変わっていく。被害を訴えようとした女性たちの声を握りつぶそうとした業界の体質や、性暴力に対する社会の認識の甘さが疑問視され、「#MeToo(私も)」運動が広がった。 ■「本当にやるの?」 そんななか、BBCは喜多川氏に注目した。 「元ジャニーズJrらが書いた告発本がこれまでに何冊も出ていますが、性的虐待疑惑は1960年代にさかのぼります。疑惑はうわさのようなものではなく、1回限りの出来事ではなかったこともわかりました。本に描かれた性的虐待は非常によく似ており、システマチックに虐待が行われたことをうかがわせます。さらに、99年には『週刊文春』の報道もありました」 この報道について、ジャニーズ事務所と喜多川氏は名誉毀損(きそん)で提訴。最終的に東京高裁は記事の重要な部分について、真実性があると認めた。 しかし、この疑惑を後追いするマスコミは現れなかった。 「喜多川氏は当時も、死後も、日本のエンターテインメント業界で最も影響力を持つ人物の一人です。『Jポップのゴッドファーザー』といっても過言ではありません。マスコミがなぜ彼を恐れたかというと、明白な理由は、事務所との関係を台無しにしたくなかった、からです。事務所は各メディアに多大な利益をもたらしてきましたから。また、メディアとしては、ジャニーズファンとの関係も壊したくなかったのだと思います」 その点、BBCには同氏や事務所とのしがらみはない。ところが、取材を始めたインマンさんはさまざまな人から忠告を受けた。 「『本当にやるの? やめておいたほうがいいよ』『気をつけなさい』とか。みんなからそう言われて、非常に驚きました。ジャーナリストを含めて誰もがこの問題を追及することを恐れていました」 ■喜多川氏への愛情 番組を成立させるには被害者たちの証言を集めなければならない。 それについて尋ねると、「とても大変でした」と繰り返し、「これまで私が手がけてきた番組のなかで、最も難しかったものの一つです」と振り返った。 かつて事務所に所属していた元タレントたちに連絡をとり続けたものの、多くの人から証言を断られた。 苦労のかいあって、番組には4人の被害者が登場するのだが、驚いたのは、彼らのほとんどが今も喜多川氏へ強い愛情を持っていると語ったことだ。 「それを聞いたときは衝撃を受けました。私たちは児童性的虐待のセラピストにも話を聞きましたが、彼らが見せた感情は100%本物です。当時、10代だった子どもたちにとって自己防衛反応の一つでしょう。『グルーミング』が行われた状況で、自分の身に起こったことの善悪を判断するのは非常に難しい」 グルーミングというのは性的虐待の前に加害者が被害者を手なずける行為である。 「被害者の子どもたちにとって、喜多川氏は彼らのキャリアを親身に考えてくれるおじいちゃんのような存在でした。愛情ある関係が築かれました。そして、喜多川氏は多くの少年たちにとって初めて性的関係を持った相手となりました。とても混乱し、精神的に深いダメージを受けたと推測されます。でも、彼らの気持ちはとても複雑で、私たちが代弁するのは非常に難しいものでした」 新型コロナの影響で訪日が制限され、さらにとてもデリケートな内容の取材であったため、番組が完成するめどがつくまでに3年を要した。 ■オープンな議論を インマンさんらは被害者たちの声を聞いたうえで事務所に何回も取材を申し込んだが、結局、断られた。大勢の人々が苦しんでいる深刻な疑惑に対してまったく見合わない対応と映った。 これがもし、英国で起こったら、どのような展開になったのだろうか。 「英国にはジャニーズ事務所のような企業はありませんし、状況が非常に異なるため、その質問に答えるのはとても難しいです。いずれにせよ、喜多川氏はこれまでの50年間、そして今も守られ続けています」 インマンさんは「日本を奇妙な国のようにいうつもりはまったくありません」と言い、こう続けた。 「番組で話してくれた人や番組終了後にカミングアウトした人はみな非常に勇気のある人たちだと思います。取材に協力してくれた人全員にとても感謝しています。権力をかさに行われる児童性的虐待は目新しい問題ではありませんし、特定の国の問題でもありません。ただ、日本ではそれに対するオープンかつ率直な議論が欠けている気がします。このドキュメンタリーが日本に変化をもたらすきっかけになることを願っています。グルーミングなどのテーマについてもより多くの議論が行われることを期待しています」 (AERA dot.編集部・米倉昭仁)
dot.
6/7
-
9
体重83キロが124キロに 知の巨人・佐藤優が語った「過食」と「病」への当事者意識
週3度の透析、前立腺癌、冠動脈狭窄――。作家で元外務省主任分析官の佐藤優さんが、自身の病に向き合う『教養としての「病」』を主治医と共に上梓した。病における教養とは、当事者意識とは何か。一部を紹介する。 透析導入に至るまでの私と病気の関係について振り返っておきたい。私は慢性腎臓病になった最大の原因は、生活習慣によるものだったと考えている。特に過食による肥満だ。 1979年4月に同志社大学神学部に入学したときの私の体重は62キロだった。身長が167センチメートルだったので、ごく標準的な体重だ。それが大学院を出たときには83キロに増えていた。修士論文を書く過程で机に向かって本を読み、文書を書くのと、外交官試験の勉強が重なり、ほとんど運動をしなくなったのでそうなった(もっとも小学校のときから体育は苦手科目で、運動は嫌いだ。今でも大学の単位で体育を落としそうになる夢を見ることがある)。 1985年に外務省に入省し、86年から1年間、イギリスに留学しているときにだいぶ痩やせて体重は65キロになった。87年にモスクワに異動してからもこの体重を維持していたが、88年6月にモスクワ大使館の政務班で勤務し、89年頃からロシア人と会食をしながら情報を取るようになってから急に太り始めた。場合によっては、昼食と夕食をそれぞれ2回ずつとることもあった。 1日の摂取カロリーは5000キロカロリーを軽く超えるので太るのも当然だ。90年には100キロを超えるようになった。ときに110キロくらいになることもあったが、絶食をして100キロまで体重を落とした。 中学生時代からショートスリーパーで睡眠時間は3時間台だった。それがモスクワ勤務時代も日本の外務本省で働いているときも続いた。2002年5月14日に鈴木宗男事件に連座して、東京地方検察庁特別捜査部に逮捕され、東京拘置所の独房に勾留されると夜9時から朝7時半まで床に入っていることが強制されたが、なかなか寝付けずに辛い思いをした。拘置所から保釈されるとすぐに3時間台の睡眠に戻り、それが透析を導入するまで続いた。透析導入後は、疲れやすくなり毎日6~7時間は眠るようになった。 モスクワ時代には、年に2回くらい扁桃腺を腫らし、41~42度の熱を出すようなことがあったが、本格的な対症療法で済ませていた。今になって思うとこの扁桃腺炎が腎臓に悪影響を与えていたのだと思う。 ■健康よりも北方領土交渉を選ぶ 7年8ヵ月のモスクワ勤務を終えて、1995年4月から外務本省の国際情報局で勤務することになった。ロシア情報の収集や分析、北方領土交渉で、土日を含め毎日働くような状態が続いた。ロシアにも年に十数回は出張した。月の超勤時間が300時間を超えることも珍しくなかった。体重は100~120キロの間で変動した。 1996年秋、急性扁桃炎で高熱が続き、喉に激痛が走ったので、外務省の官舎のそばにあった船橋済生病院に入院した。その際に尿たんぱくがかなりでていてIgA腎症の疑いがあるということで、専門医を紹介されたが、一度診察を受けただけで、受診しなくなってしまった。当時の私には、健康よりも北方領土交渉のほうがはるかに重要だった。1998年5月の連休に再び扁桃腺炎で高熱が続き、喉に激痛が走った。このときに東京女子医大病院の耳鼻科に入院した。このときに東京女子医大病院との縁ができる。 それからしばらくは病院とはほとんど縁のない生活をしていた。 鈴木宗男事件の渦に巻き込まれたストレスで、2002年1月には105キロだった体重が5月14日の逮捕時には70キロに激減していた。2003年10月に保釈されたときは若干太り、75キロになっていた。 ■丸茂医院から女子医大へ 2004年春からは婚約者(現在の妻)と国分寺市に住むようになった。裁判を抱えながら、2005年3月にはデビュー作『国家の罠──外務省のラスプーチンと呼ばれて』(新潮社)を上梓し、作家として第2の人生を始めた。 ときどき扁桃腺を腫らし、西国分寺駅そばの丸茂医院に通院するようになった。丸茂菊男先生は慶應義塾大学医学部の卒業で、当時80代だったが、頭脳も明晰で手先も器用な名医だった。私と妻は2005年5月に入籍し、2009年春には新宿に引っ越した。ただし、かかりつけ医は丸茂先生のままだった。 2010年1月に丸茂先生から慢性腎臓病が進行している可能性があるので、大学病院で診てもらうといいと言われた。丸茂先生が書いた同年1月21日付の診断書から1部を引用する。 === 傷病名:(1)高血圧症、(2)高脂血症、(3)高尿酸血症、(4)肥満、(5)糖尿病、(6)ネフローゼの疑い、(7)尿崩症の疑い 紹介目的 平成16(2004)年5月より上記(1)~(5)を治療中でしたが、21(2009)年夏より下肢浮腫、尿蛋白強くなり、24時間蓄尿検査にて(6)(7)が疑われますので御高診宜よろしくお願いします。 症状経過及び検査結果 平成16(2004)年5月、上気道炎症状により来院、血圧150/110、肥満85キロ、身長167センチメートル、血液検査により(2)(3)判明 === こうして私は東京女子医大病院腎臓内科にお世話になるようになった。片岡浩史先生は腎臓内科3代目の主治医だ。 片岡先生との関係については、対談でも触れるので重複を避けるが、医学的見地からだけでなく、私の人生設計を考えて、最適のアドバイスをしてくださった。 ■当事者意識を持つ それでも作家としての仕事が忙しくなるにつれて会食が増え、体重が増加していった。2010年時点では83キロだった体重が2020年には124キロになってしまった。 肥満患者の特徴は、過食の事実を否認することだ。この年の11月、片岡先生から急速に腎臓が崩れているので、減量とたんぱく質制限、塩分制限をしないと数ヵ月以内に透析になると警告された。 同時に片岡先生は、病院の栄養士の石井有理先生を紹介してくださった。 ここでようやく私も当事者意識を持つようになり、石井先生の指導を受けながら食餌療法と運動療法を併用し、約1年で79キロまで体重を落とすことに成功した。一時、10キロ近くリバウンドしたが、再び減量に取り組んで、この2ヵ月で3キロほど体重を落とすことができた。当面は70キロを目標にして減量に取り組んでいる。 検査結果からだけで判断するならば、半年から1年前に透析導入になってもおかしくなかった。片岡先生は私の全身状態と意思を総合的に判断し、透析導入のタイミングをできる限り後ろ倒しにしてくれた。その結果、3年分くらいの仕事を1年で処理することができた。 私はキリスト教徒(プロテスタント)なので生命は神から預かったものと考えている。神がこの世で私が果たす使命が済んだと思うときに、私の命を天に召す。この世界に命がある限り、私にはやるべきことがあると考え、仕事と生活に全力を尽くすようにしている。 現時点で腎移植まで進むことができるかどうかは、分からない。腎移植が成功すれば、そこで長らえた命を自分のためだけでなく、家族と社会のために最大限に使いたいと思う。 そこまで進めないのならば、透析という条件下で、できる限りのことをしたいと思っている。 佐藤優(さとう・まさる)/作家、元外務省主任分析官。1960年、東京都生まれ。同志社大学大学院神学研究科修了後、外務省入省。主任分析官として対ロシア外交の最前線で活躍。2005年に発表した『国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて』で第59回毎日出版文化特別賞受賞、06年『自壊する帝国』で第5回新潮ノンフィクション賞、第38回大宅壮一ノンフィクション賞受賞。 (AERAオンライン限定記事)
AERA
6/8
-
10
自分を全開放せず6割ぐらいにとどめてみて 実体験をふまえて、しいたけ.さんがアドバイス
AERAの連載「午後3時のしいたけ.相談室」では、話題の占い師であり作家のしいたけ.さんが読者からの相談に回答。しいたけ.さんの独特な語り口でアドバイスをお届けします。 * * * Q:私の悩みはなぜか友人や同僚と親しくなるほど怖がられてしまうことです。友人に聞いても「真面目だし性格も明るいのになんでだろう?」と。目つきや言動ではない、でもなんか怖い?と言われます。しかも1人ではなく子ども時代から複数回です。どうしたら怖がられなくなるのでしょうか。(女性/主婦/35歳/さそり座) A:これ、実は僕もちょっと同じ成分があるような気がしています。 個人的な体験談になってしまうんですが、僕が大人になってから気をつけていることは、6割ぐらいの開放にとどめておくこと。気をつけないと、誰かと会って嬉しくなったときに、自分を全開放してしまう。それで相手から距離を取られたり、怖がられてしまったことが過去にあります。 例えば、誰かと初めて会ってすごくその場で話が盛り上がって、自分の中の感覚としてこれはご飯にお誘いしてもオーケーだと思ったのに、実はそうじゃなかったみたいな話が結構、僕の人生で多いんです(笑)。そういう失敗を経て、本当はコミュニケーション的には開放したほうが気持ちいいんだよなと思いながらも、それを意識的に6割ぐらいに控えてみたら、すごく人間関係が円滑に進むというか、うまくいきだしました。 ちょっと寂しいことではあるし、踏み越えちゃったほうが奇跡の関係性を作れることもあるんだけど、アベレージとして僕の場合は6割がちょうどよかったみたいです。もちろん、年齢とかタイミングとか、いろいろ絡むと思うので一概には言えませんが。 そして、基本的に、人と人にはやっぱり相性があります。 例えば引っ越した先で整体や美容室を探すとき、相性の合う人を探すのって本当に大変。僕は放っておいてほしいタイプなんですが、すごく喋りかけてくる人もいるし、そういう人のほうが助かる、と感じる人もいるかと思います。それって結局のところ「相性」でしかないし、だからこそ人間関係って面白いなと思うところでもあります。 同じような振る舞いをしても最近行く先々で怖がられちゃうみたいな時もあって、人生の中での比率というか「変数」みたいなものもあるから、自分の目つきや話し方をチェックすることも大事だけど、あんまり考えすぎないほうがいいんじゃないかと僕は思っています。 さそり座ってなぜか、「以心伝心」がものすごい時があります。うちの母親もさそり座なんですが、たまに「怖いな」と思うことがあって。例えば「今日はケーキが食べたいな」と思った日に、ちょうど冷蔵庫にケーキがあったりするんです。しかも、僕がまさに思い描いたコージーコーナーのガトーショコラが。 もしかすると、親切の一環として以心伝心をやりすぎてしまっていることがあるかもしれないから、そこもセーブしてみてもいいのかもしれないなと思いました。 ※AERA 2023年6月12日号
AERA
8時間前
-
11
「市川猿之助」一家に何があったのか 近隣住民と歌舞伎関係者が見ていた「家族の内情」
18日午後、衝撃的なニュースが飛び込んできた。歌舞伎俳優の市川猿之助さん(47)、両親の市川段四郎さんと母親が自宅で倒れているところを発見され、その後、両親は死亡が確認された。猿之助さんは意識がある状態で入院しているという。報道によると、猿之助さんが倒れていた場所のそばで遺書のようなもの見つかったという。一家3人に一体何があったのか。近隣住民や関係者を取材した。 * * * 現場となった自宅は東京・目黒駅から徒歩20分ほどの閑静な住宅街にある。コンクリート造りのモダンな外観だ。猿之助さんの自宅に通じる道には、黄色いテープで警察の規制線が張られ、数人の警察官が警備にあたるものものしい雰囲気に包まれていた。 報道によると、警察官が駆け付けたときには、猿之助さんは半地下にあるクロゼットの中で意識がもうろうとした状態で見つかったという。一方、両親は2階のリビングで倒れており、母親はその場で死亡が確認された。段四郎さんも搬送先の病院で死亡した。いずれも目立った外傷はなかったという。 遺書のようなものがあったなど現場の状況から、猿之助さんが自殺を図ったとみられている。 近所に住む85歳の女性は、18日午前中の様子をこう話す。 「今朝、何かすごくにぎやかだなと思ったのよ。女の人の声とかがして、ガチャガチャ物音が聞こえた。何だろうなとは思っていたら、テレビで事件を知り、まさかと驚きました」 猿之助さんの自宅からは日頃から、歌舞伎の稽古をする音が聞こえてきたという。 「よく、歌舞伎のお稽古の歌声が聞こえてきたり、踊りのドンドンという音が響いていましたね。歌舞伎は嫌いじゃないから、うるさいとは感じませんでした」 かつて猿之助さん一家がお得意さんだったという米店の店主はこう話す。 「10年くらい前までは、うちのお米やお正月のお餅の配達をしていました。亡くなったお母さんはボーイッシュな髪形のおキレイな方でしたよ。ハキハキしたしゃべり方で、あのお母さんが自殺をするとはとても思えない。猿之助さんは子どもの頃からバスで名門の男子校に通う姿をよく見かけました。大人になってからは、よく1人で散歩するのを見ていました」 現在の猿之助さんは4代目となるが、亡くなった父・市川段四郎さんの兄が「3代目」の猿之助にあたる。歌舞伎に詳しい評論家はこう語る。 「3代目猿之助は猛優(もうゆう)と呼ばれ、歌舞伎をぶっ壊す革命児であり、パイオニアでした。『スーパー歌舞伎』をつくったのも3代目です。現在の4代目は、それにポップなセンスを味付けした。3代目に比べると猛優ではないが、器用でアグレッシブ。歌舞伎界における自分の位置というのを常に考えている人だという印象です」 亡くなった市川段四郎さんについてはこう話す。 「兄の3代目が太陽だとすれば、亡くなった段四郎さんは月で、対照的でした。段四郎さんは陰のある渋くて風格のある俳優でした。それが10年くらい前から、歌舞伎の舞台に全然出なくなった。松竹関係者に聞くと、体調不良で出られなくなったと。4代目は、父親の介護もしていたのではないかと思います」 くしくも、19日は猿之助さんのプライベートも含めたスキャンダルを報じた女性週刊誌の発売日でもあった。出版関係者は「猿之助さんがこの報道を苦にした可能性はある」と話す。 「女性週刊誌の記者が猿之助さんに直撃取材したのは、月曜日(15日)の夜。週刊誌は発売日の1日前に『早刷り』が関係各所に出回るので、猿之助さんは水曜日(17日)に記事を目にした可能性はあると思います。記事の内容は、猿之助さんのプライベートまで深く知ると思われる複数の人物が彼のパワハラ、セクハラ疑惑を語っているものだったので、猿之助さんがそれを目にしたら大きなショックを受けたことは想像にかたくありません」 実際にそのような行為があったのかは現時点ではわからないが、「客を呼べる役者」として猿之助さんが一門の中で強い力を持っていたことは事実だろう。 「今、客が呼べる役者としては片岡仁左衛門、坂東玉三郎、元海老蔵の市川團十郎、そして4代目猿之助の4人です。仕事はどんどん来るし、4代目自身、芸の上で苦難があっても、それを積極的に突破するパーソナリティーの持ち主。芸で悩んでいたとは考えにくく、原因があるとしたら私生活ではないか」(前出の評論家) 猿之助さんの一日も早い回復と、本人の口からの説明が待たれる。 (AERA dot.編集部・上田耕司)
dot.
5/18
-
12
松下洸平「このワンシーンで人生が変わるかもしれないと思って臨んでいた」 心の支えと36歳の現在地
ドラマ、映画、バラエティーにエッセイの執筆。加えて、一昨年には歌手として再デビューを果たした松下洸平さん。才能の露出が多方面に広がり、注目と評価が高まる今の心境とは。AERA 2023年6月5日号の記事を紹介する。 * * * ――自らを表現するメディアが多方面に広がっているが、どんなに忙しくなっても、優しく実直な人柄にブレがない。 松下洸平(以下、松下):2019年のNHK連続テレビ小説「スカーレット」に出演させていただいて以降、仕事の量が変わりましたが、最終的に僕がやることは、芝居をすること。そこはずっと同じですし、周囲のスタッフは駆け出しの頃から僕を知っている人ばかりで、特別扱いされないことも、ブレずにいられる理由ですね。 多くの人に見ていただいているということを意識するようになりましたが、一方で、良い意味で力の抜けた部分もいっぱいあるんですよ。今までは、ひとつひとつの現場で、それがどんなに小さな役であっても、どんなに短いシーンであっても、どこにチャンスが待っているかわからないという思いが強くて。それはそれはもう、ぐわーっと全力でやってました。常に「このワンシーンで人生が変わるかもしれない」と思って臨んでいましたから。それが今は、もうそんなに力む必要はない。決して傲慢な意味ではなく、自分で言うのはおこがましいのですが、多少なりとも自信がついたということだと思います。 力の抜けたお芝居とは、より生身の人間に近づいていくことでもあるので、勇気がいるんですけど、ここまでやってきた自分の蓄積を信じなくてはいけないなと思っています。 ■あの10年があったから バラエティーは本当に楽しませてもらっています。先日は、大ファンだったジャルジャルさんとの共演が実現しました。好きな芸人さんとのお仕事は、僕にとってご褒美みたいなもの。ゲラなのでずっと笑ってますね。 ――2008年、21歳で「洸平」名義でCDデビュー。その後、俳優の道に進み、「スカーレット」に出るまでの約10年間を生き抜いたことが、今の支えとなっているという。 松下:あの10年がなかったら、僕は今ここにいません。思うようにいかない時期もありましたが、この仕事を続けたいという気持ちがあったし、何よりもその先にある成功を信じていました。いつかきっと光は差す、だから、やめないようにしなきゃ、と。具体的に出たい番組や共演したい方の名前、こんな仕事がしてみたい、と口に出してきました。言霊だけでやってきたわけじゃないですけど、とても大事なことだと思っています。 もう終わってしまいましたが、ずっと「笑っていいとも!」のテレフォンショッキングに出たかったんですよ。僕、ミーハーだから、旬な人が出るような番組に出たくて(笑)。タモリさんの横に座っている自分を想像してましたね。それと笑福亭鶴瓶さんがMCを務める「A-Studio+」。こちらは21年12月に念願叶って出演させていただきましたが、よく家でひとりで「今夜のゲストは松下洸平さんです」と言ってくれている場面を妄想してました。 もうひとつは「アナザースカイ」ですね。「ここが僕のアナザースカイ」と言うシーンをすでに何回も練習してますよ(笑)。トーンを変えながら、この言い方がいいかな、いや違うな、とか。僕のアナザースカイはどこか? それは、いつか番組に呼んでいただけるかもしれないから、まだ内緒です(笑)。 ■生身の自分に近い言葉 ――一昨年は「松下洸平」としてCDデビュー。全国ツアーも回った。 松下:お芝居の道に進んでからも、ずっと曲は書いてました。でも、書いても書いてもリリースできるわけはなくて。年に1回、ファンとの交流イベントで歌う機会があって、その時にお披露目するだけ。リリースできなくても形に残しておきたくて、自分でスタジオを借りて、自分でカメラを回し、家で編集して、YouTubeにアップしていました。今は発表できる場があることに感謝しています。 音楽をやっている僕は、自分の言葉を紡いでいる分、より生身の自分に近いんです。だから、自分勝手にならないよう、線を引いて、聴き手のことを考えながら曲づくりをしています。昨年末のライブでは、専門学校時代の信頼できる仲間と一緒にステージに立つことができ、ファンの存在を近くで感じることもできました。自分がどれだけたくさんの人に支えられて生きているかがよくわかりました。 歌手として再始動してまだ2年。俳優として芽生えたちょっとばかりの自信が、まだ音楽をやっている自分には備わっていないので、今後はそこを養っていきたいなと思っています。 ――幼い頃から、興味のあることにはとことん没頭するタイプだった。「歌手」という夢を見つけた時には、自信に加えて、迷いもあったという。 松下:歌手になろうと思ったのは、高校生の時です。美術科に通っていましたが、当初は進路が明確に決まっていませんでした。幼い頃から楽しいと思うことにしか目を向けないタイプで、中学から始めたダンスに引き続き没頭したり、友だちと遊んだり。心のどこかで自分の将来を探していた時、映画「天使にラブ・ソングを2」を観て、「これだ、歌手になろう」と。あの瞬間、どこからやってきたのか全くわからないですが、なんの根拠も無い己への絶対的な自信がありました。 もちろん絵を描くことも好きでしたし、美術の仕事ができればいいなとも思っていました。でも、そのためには大学受験をして、より専門的なことを学ぶ必要がある。……僕、勉強ができなくて(笑)。いま「映画を観て歌手を志した」と言いましたけど、オブラートに包まずに言ってもいいですか?(笑)。勉強よりもうちょっと楽しいことないかな、という思いがずっとあったところに、歌手という夢を見つけたというのが正確ですね。 「歌手になる」と母に伝えたら、びっくりしてました。母自身が、美術関連の仕事をしていて、自分のスキルでお金を稼ぐ大変さをよくわかっていたので、止めたかったんでしょうね。「なにか他にやりたいことないの?」と誘導尋問のように何度も言われました。 ■キャッチボールしたい 母から盲導犬の指導員の仕事をすすめられて、実際に見学に行き、迷ったこともありました。今でもたまに考えます。あの時、動物関係の道に進んでいたら、どんな人生だったのかな、と。 最終的に、やっぱり歌手になるための専門学校に行くと決めた時には、母はもうあきらめていて、「頑張りなさい」と言ってくれていました。専門学校に通った2年間は、もう本当にフリーダムでしたね(笑)。夢だけでおなかいっぱいで幸せで。これまでの人生で一番楽しかった時期かもしれないです。 ――今年8~9月、こまつ座40周年(第2弾)第147回公演「闇に咲く花」では伝説のエース投手として舞台に立つ。多方面で才能を発揮しているが、球技は苦手だ。キャッチボールができないという。 松下:井上ひさしさん原案の作品は「木の上の軍隊」「母と暮せば」をやらせていただきましたが、井上さんの戯曲は今回が初めて。太平洋戦争が終わって2年。飢えや悲しみがまだ消えない日々を生きる父親と、英霊として戻ってきた息子の会話劇です。演出の栗山民也さんとは10年以上前から一緒にやらせていただいていて、僕にとっては原点に返れる場所。成長を見ていただくというよりは、ここ数年で経験したことを武器にせず、何もない自分でぶつかって、「お前は変わらないな」と言ってもらいたいですね。 エース投手を演じますが、僕はキャッチボールができなくて(笑)。ボールを投げることはできますよ。どこに飛んでいくかわからないというだけで。そして、こちらに飛んできたボールは、キャッチする前に反射的に避けてしまう。今回は野球をするシーンはないのでよかったです(笑)。 でも、これを機に、ちゃんと練習しようかなと思っています。やっぱり、キャッチボールくらいはできないと(笑)。共演する浅利陽介くんは球技が上手なので、教えてもらう予定です。これまで番組の企画で何度か球技をして、お恥ずかしい姿を散々さらしてきましたが、それも今年で見納めになっちゃうと思います。たぶん、ですけど(笑)。 ■いつかは幸せな家庭を ――9月には映画「ミステリと言う勿れ」の公開も控える。その先もスケジュールがびっしり埋まっているが、思い描く未来とは。今年36歳。そのプライベートにも注目が集まる。 松下:映画では菅田将暉さんと初共演しました。淡々とすごいことをやってのける人でしたね。長いセリフが多かったですが、ミスが全くない。裏でとても努力されているんだろうな、と。年齢的には僕のほうが上ですが、学ばせてもらうことばかりでした。 菅田さんはご結婚されていて。僕もいつかは、とは思っています。「結婚しない」と決めていることはないですね。最近は周囲の友達がどんどん結婚していきます。焦りは別にないですけど、将来自分にとって理想的な家庭を築けたときのイメージをしたりすることはあります。妄想や想像は得意なんで(笑)。 30代半ばになり、少し遠い未来に思いを馳せることも増えました。昨年、ドラマ「アトムの童(こ)」でご一緒した風間杜夫さんが、撮影が深夜までかかった時にポツリと「オレ、明日2回公演なんだよ」とおっしゃって。連ドラと舞台を縫っておられるわけですが、それって20代の発言じゃないですか(笑)。バイタリティーあふれる姿を見ながら、自分が70代になった時、果たして同じことができるだろうかと。僕は最終的には、静かなところでのんびりと暮らしたい。 どのお仕事も好きなことなのですが、常に「自分にできるのか?」と問いかけながらやっていきたいと思っています。キャパを超えて無理してしまうと、体調を崩すなど周囲に迷惑をかけることにもなりかねません。この先も、いただいたお仕事と自分自身に丁寧に向き合っていきたいなと思っています。 (編集部・古田真梨子) ※AERA 2023年6月5日号
AERA
6/5
-
13
オリラジ中田にブチギレ「霜降り・せいや」 男気見せた発言で好感度アップ中
5月29日配信の自身のYouTubeチャンネルで、ダウンタウンの松本人志を批判したオリエンタルラジオの中田敦彦。その中田への怒りをあらわにして話題となったのが、霜降り明星のせいや(30)だ。中田は松本に対して「審査員をやりすぎなのではないか?」などの持論を展開するなか、「これ見てる粗品くん、どう思う?」と相方の粗品の名前を出した。これに対して、せいやは「真っ直ぐ勝負してないウンコみたいなやつが相方の名前使うな 中田」とツイッターに投稿したのだ。 かなり強い言葉で感情をあらわにしているが、SNSでは「ここぞってときは言うべきことを言える人なんだね」「せいやがカッコいいとか初めて思った」など、称賛の声も集まっていた。これまでは、「R-1」での優勝経験もあり、個人のYouTubeチャンネルの登録者数が150万人の粗品のほうが目立っている印象だったが、今回の一件で男気を見せたせいやも今後、存在感を増していきそうだ。 「実は、せいやさんは人柄のよさを感じさせるエピソードが多い。例えば、2019年には名前も明かさずにタレントの壇蜜さんと一緒に人命救助をしたことが報じられました。週刊誌の取材でその経緯を本人が語っているのですが、高齢の男性が酔っ払ってブロック塀に頭をぶつけて流血していたところを救助したそうです。せいやさんが『おっちゃん、大丈夫か?』と声をかけると、向こうから女性2人組が現れ、そのひとりが壇蜜さんだった。壇蜜さんに声をかけようかとも思ったそうですが、ケガ人が目の前にいるので我慢し、男性を飲食店の中に運び入れて着替えさせ、壇蜜さんが救急車を呼んでくれたとか。飲食店主である男性の息子は取材に対し、2人は名前を言うこともなく去っていったと話しています。困っている人を無視せずに、まず何か行動を起こそうとするところからも、男気がうかがえます」(テレビ雑誌編集者) せいやと言えば、20年にはオンライン飲み会で女性に対し下半身を露出したと「文春オンライン」が報じ、騒動になった。プライバシーの侵害だとして吉本興業は提訴し、せいや側が勝訴したが、このとき出廷したせいやは「僕としては『文春さんvs僕とA子さん』の構図やと思ってました」(「FRIDAY デジタル」22年4月19日配信)と証言。暴露したはずの女性をかばう姿勢を見せたこともある。 さらに、家族思いな一面もある。「霜降りバラエティ」(テレビ朝日系、20年10月29日)では、両親に家を買うことを一つの目標にしようと決めていたと語り、実際に家族のために家を購入。長らく団地に住んでいた両親に、2台分の駐車場と広いリビングのある4LDKの新築一軒家を4000万円、35年ローンで契約したと話していた。20代(当時)で両親に家をプレゼントするとは、家族を幸せにしたいという気骨のようなものを感じる。 「当然、相方思いなところもあります。21年に公開された霜降り明星のYouTubeチャンネルで、粗品が『休みの日の昼飯』として、カットされたステーキ1つに個包装になったバター1個をのせて食べ続けるというバターの爆食いを披露。これにせいやは『やめて! やめて!』と大声で叫び、『アカン。ちょっと次の回で説教します』『ホンマやめとけお前。体壊すて』と本気で心配。コメント欄にも『せいやさんが必死になって止めようとしてるのなんかかっこいい』『せいやが説教してくれるのがほんまにありがたい』など、発言には好意的な声が見受けられました」(同) ■粗品と組み合えるのはせいやだけ 元「週刊SPA!」副編集長・芸能デスクの田辺健二氏はこう語る。 「高校時代に『ハイスクールマンザイ』という高校生お笑いNo.1を決める賞レースで粗品さんとは別のコンビとして出場し、しのぎを削った間柄でした。その後、粗品さんはピン芸人になり、19歳で『オールザッツ漫才』のネタバトルで優勝するなど華々しいスタートを切って成功したのですが、そんな彼がどうしてもコンビを組みたかったのがせいやさんだった。コンビ結成6年目でM-1を制することができたのも、あの革新的なスピード漫才に丁寧に織り込まれた“動きのあるボケ”があったからこそ。粗品さんという“才能の塊”に対してしっかり組み合える芸人であることは間違いないですし、お互いにリスペクトがあるのも見ていて好印象を受けやすい。モノマネもしゃべりもピン芸も全方位的にスキルが高い人ですし、“第七世代”というキャッチーなワードを生み出すセンスも持ち合わせている。せいやさんの存在が、お笑い史にしっかり刻み込まれることは間違いないと思います」 風貌からは想像できないほどの「男気」を持つせいや。そのイメージが広まれば、ますますテレビでの活躍が期待できそうだ。 (丸山ひろし)
dot.
6/8
-
14
なぜ私は「余命宣告」をするのか 佐藤優と主治医がゴールとしての「死」を語る真意
作家で元外務省主任分析官の佐藤優さんが、病について、そしてその先にある死について、主治医の片岡浩史さんと語り合った。『教養としての「病」』から、一部を紹介する。 ■なぜ、私は「余命宣告」をするのか 佐藤優 今回本書のテーマに掲げたのは「教養としての“病”」ということです。「病気の知識は教養なのか?」という疑問を持つ人もいるかもしれませんが、圧倒的大多数の人たちは病気によって亡くなるのですから、誰もが病気について広く知っておかなければいけません。病気の最終的なゴールである死についても、目を背けずよく考えておく必要があります。いずれの場合も、人生の早い時期から始めておくことが望ましいでしょう。 ところが、現実にはそういう人たちは決して多くありません。そこに一石を投じたいということが今回の企画のスタートポイントでした。 片岡浩史 どんな病気であれ、ある一瞬に突然発生するものではありません。自覚症状が現われるのはある一瞬かもしれませんが、その萌芽はそれよりずっと前にあるわけです。 たとえば腎臓病の場合、50歳の人が自覚症状を訴えたとき、その原因は20代から始まった生活習慣だった、というケースはよくあります。 若くて元気なうちは、みんな病気のことなんて意識しませんよね。しかし、若くて元気なうちにこそ病気を防ぐことを日常的に意識しなければいけない、というのが私の考えです。そのためには、病気の先にある死についても意識する必要があります。今回の対談ではそこを読者のみなさんにお伝えできれば、と思っています。 佐藤 片岡先生は初診の患者に対して「余命宣告」をされていますよね。 片岡 はい。腎臓病は無症状のまま長い年月をかけて進行していく病気で、患者さんがその恐ろしさを自覚しにくいという特徴があります。「患者さんが自覚した時はもう手遅れ」、となることが多いため、私は意識的に、比較的早い段階で「その患者さんの予想される余命」についてお話をするようにしています。特に、20代から40代で肥満がある人は悪化するリスクが相当に高いので、厳しく言うんです。「このままだとあと何年しか生きられません。今の生活習慣は絶対に改めなければいけません」と。 私は今日まで、手遅れの状況になってはじめて事の重大さに気づいて、辛く悲しい思いをする患者さんをたくさん見てきました。そうはなってほしくないから強く言うわけです。 たとえ肥満の腎臓病患者であっても、若いうちから減塩や減量にしっかり取り組めば、健康長寿を実現することもできるということが重要です。 佐藤 慢性腎臓病はゆっくりと進行していきます。自覚症状も基本的にはない。ですから、軽症の患者は危機感を持ちにくいですよね。 片岡 そうなんです。無症状ということでは同じでも、「あなたは癌です」と言われたときは誰もが強い危機感を持つのでしょうが、腎臓病は必ずしも重く受け止められません。 しかし、症状が進行して人工透析に移行すれば、実は男女ともに平均余命がおよそ半分になってしまいます。たとえば50歳から人工透析を始めた男性の平均余命は14.6年です。4捨5入して、65歳までしか生きられないわけです。これに対して、一般男性の平均余命は30.5年。つまり、約81歳まで生きられる。その意味では、腎臓病は癌に匹敵するような恐ろしい病気だと言えます。 佐藤 腎臓病は「悪化」という1方向にしか進んでいきません。完治する、ということがないわけです。ようするに、一生ずっと病気と付き合い、一生ずっと病気について考え続けなければいけない。これは多くの癌や糖尿病も同じです。今は若くて健康な人であっても、国民的な病気については教養としてあらかじめ知っておくべきなんです。 片岡 まったく同感です。ですから、私は今回、佐藤さんがご自身の病気についての本を出版することになったのは、とてもありがたいことだと思っています。佐藤さんが世に発信することによって、腎臓病をはじめとするさまざまな病気について新たな知見を得る人が、何万人という単位で増えることを期待しています。 ■「最初の1歩」は医師の側から 片岡 今しがた佐藤さんがおっしゃったとおり、腎臓病になった人は一生病気と付き合っていかなければいけません。これはつまり、主治医と患者さんは何十年にもわたって付き合っていく、ということでもあります。このことについて私が1番重視しているのは「患者さんと良い人間関係を築く」ということです。そのためにはまず、1人1人の患者さんについてよく知っておかなければいけません。ですから、診察時の対話はとても大切にしています。 佐藤 病院に来ている1人1人の患者は、カルテの番号、診察券の番号で個体識別をされています。言ってみれば、社会的属性をはぎ取られている状態であるわけです。 患者の服装を見ても、男性も女性も診察を受けやすいように普段着で来ている人がほとんどです。病院ではスーツ姿の男性をあまり見かけませんし、スーツを着ているからといって、その人が会社員なのかどうかも分かりません。まして役員クラスの人なのかどうか、なんてことはまったく分からない。 それから、病院側からすれば患者はみんな同格です。お金持ちの患者を特別扱いするわけでもないし、生活保護を受けている患者だからといって粗末に扱うわけでもありません。 片岡 もちろんそうです。医者は患者さんの社会的地位などではなくて、1人1人の体、病状に合った治療をしていきます。 佐藤 それから、診察室に入った患者は普通、自己紹介なんてしません。そんなことよりも、自分の病状を医師に訴えて、理解してもらうのが先ですから。そうすると、医師の側もその患者さんが何者なのか分からない、ということがおそらく普通にあるのでしょうね。 片岡 そうですね。しかし、そこは大問題だと私は思っています。 佐藤 患者側も何となく、病気以外の話をするのは控えるという心構えになっています。 しかし、本来ならば医師と患者は共同体を作って、一緒に病気を治していく形にならないといけません。人間と人間の関係なのですから、患者の側からも自分は何者で、どういう仕事をしていて、何を大事にしているのか、ということを積極的に伝えていく必要があると思います。 片岡 いや、ただしそこは患者さんから言うのはむずかしいと思います。 そもそも、医者は急に何が起きてもおかしくない状況で仕事をしています。病気は災害のようにやってきます。そのため、医者は仕事の時間配分を自分のペースでコントロールすることができません。体調不良の患者さんを抱えているときや、外来でも同じ時間に多くの患者さんを診察しているときなど、ときとして眼の前の患者さんのお話をゆっくり聞いてご希望にお応えすることができないことがあります。 そして、すべての患者さんの状況を把握できるのは立場的に医者しかいないので、やはりまずは医者側から最初に聞き出すようにしなければなりません。とはいえ、なかなか医者の側からの「最初の1歩」を踏み出せていない現実はあるようです。 佐藤 他方、大学病院の医師たちは患者にオプション(選択肢)を細かく、細かく説明します。紙に書いて残して、なおかつ読み上げる。重要事項を読み上げるというのは、不動産屋の契約とよく似ていますよね。今はコンプライアンスがうるさくなっていて、多くの医師たちはそこのところで過剰に反応しています。 それから、患者はあらゆるプロセスにおいて書類にサインをしないといけません。医者との信頼関係を築いている患者なら、「読み上げなくてもいいですよ」とか「この場でサインしますよ」と言うケースもあるのでしょうが、それでもやっぱり「この書類は家に持ち帰って、よく読んで、次回診察のときにサインをください」とか「サインした書類は次回診察のときに事務に出してください」ということになります。その場でサインさせるのは良くない、という了解が医学界全体にあるのでしょうね。「患者さんに考える時間を与えなさい」と。 片岡 手術のリスクを延々と話すよりは、お互いの話を聞くことに時間を使ったほうが本当はいいんですけどね。 ■15分話せば 佐藤 片岡先生が普段担当している患者は、延べで何人ぐらいになりますか。 片岡 だいたい700人ぐらいです。私は女子医大の他によその病院にも行っていますので、常時診ているのはそれぐらいですね。 佐藤 それはすごい数ですね。午前・午後診療のとき、患者は何人ぐらい入っているんですか。 片岡 9時から5時までで3、40人です。たとえば40人の患者さんを入れていたとして、診察が8時間だとすると、1時間に5人です。そうすると1人の患者さんに12分しか取れません。忙しいときは1人あたり10分取るのも結構むずかしいです。 佐藤 患者が診察室に入ってくる前に、カルテや検査結果を見ないといけませんからね。 片岡 そうです。感覚としてはやっぱり10分ではきついなと思います。15分ぐらいあれば、みなさんをしっかり診られる感じはあります。その場合は1時間に4人。それだとたぶん病院は儲からないんですけど。 佐藤 私は、長いときで30分ぐらい先生とお話しすることがありました。これはおそらく他の患者さんも同じで、当然のことながら患者1人1人が待つ時間は長くなりますが、30分という時間は日露首脳会談や日米首脳会談といった「会談」の単位の1つです。ようするに、首脳同士が30分話せば「会談」ということになる。 ただし、首脳会談には通訳が入ります。だから実質15分なんですよ。15分話せば、外交の世界では会談です。これは裏返せば、15分あればお互いをかなり深く知れるということですから、場合によっては診察の中で30分も話すというのは、患者からすれば本当にきめ細かい対応です。 片岡先生は患者のプライベートな情報、「この人はこういう人」ということは、みんな把握されていますよね。 片岡 どこに住んでいて、通院に何分かかるとか、実はそういうことがわりと大事で、遠くから通院している患者さんは、やはり通院の間隔を空けてあげなければいけません。そういう形で、いろいろと考えつつやっています。 佐藤優(さとう・まさる)/作家、元外務省主任分析官。1960年、東京都生まれ。同志社大学大学院神学研究科修了後、外務省入省。主任分析官として対ロシア外交の最前線で活躍。2005年に発表した『国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて』で第59回毎日出版文化特別賞受賞、06年『自壊する帝国』で第5回新潮ノンフィクション賞、第38回大宅壮一ノンフィクション賞受賞。 片岡浩史(かたおか・ひろし)/腎臓内科医(東京女子医科大学)。医学博士。1970年、NY生まれ。京都大学卒業後にJR西日本で勤務。その現場経験を通じて医療現場で働きたいと思い、退社。鹿児島大学医学部で学ぶ。腎臓内科医として患者と向き合う一方で、腎臓病研究者として社会保険診療報酬請求書委員、診療ガイドライン作成委員として日本の「医療の質」の向上を追求・模索している。 ※AERAオンライン限定記事
AERA
4時間前
-
15
カンヌ脚本賞映画「怪物」を見た鈴木おさむが感じたこと 「羅生門スタイル」で見ることの大切さ
放送作家・鈴木おさむさんが、今を生きる同世代の方々におくる連載『1970年代生まれの団ジュニたちへ』。今回は、映画「怪物」について。 * * * 監督 是枝裕和×脚本 坂元裕二×音楽 坂本龍一の映画「怪物」が公開になりました。 カンヌで脚本賞を受賞し話題にもなりました。 あらすじを少し説明すると、安藤サクラさん演じるシングルマザーの早織は、ある日、息子・湊のスニーカーの片方がなくなり、けがをしていることに気づく。担任にやられたと答える湊。早織は学校に行き、校長達に事情を話すのだが、双方の言い分が食い違っていく。息子が担任にいじめを受けているのではないかと調べていくと・・・という話なのですが。もうこれ以上は言いません。 この映画は羅生門スタイルと言って、一つの事象を3つの視点から描いています。最初は母親目線で描かれていく息子の物語。次は担任の先生。そして最後は・・・。 見終わって、単純に僕が思ったのは、「超おもしろい」。僕は坂元裕二脚本の作品が大好きです。映画だと「花束みたいな恋をした」も大好きだし、ドラマだと「大豆田とわ子と三人の元夫」や「カルテット」「Mother」「Woman」と名作だらけで挙げていたらキリがない。なかでもフジテレビで放送された「それでも、生きていく」が大好き。 是枝監督と坂元裕二さん。大物同士が絡み合うと、化学反応がうまくいかないことが多いので、どうだろう?と勝手に思っていましたが余計な心配。 坂元裕二脚本を是枝監督がしっかりと“是枝味”で撮りあげるというプロとプロの技。 ずっと最初から緊張感が走り続ける。 坂元さんのインタビューを見たら、この物語の着想は「車を運転中に赤信号で待っていたら、前にトラックが止まっていて、信号が青になってもしばらく動かず、クラクションを鳴らしたところ、それでも動かない。ようやく動いたら横断歩道に車いすの方がいて、トラックはその車いすの方が渡りきるのを待っていたんです。トラックの後ろにいた自分にはそれが見えなかった。クラクションを鳴らしてしまったことを後悔している」と。さらに「自分が被害者だと思うことには敏感だが、加害者だと気付くのは難しい」と。それを聞いて本当にそうだなと思った。 以前、うちの息子が学校から帰ってきたとき、服が少し破れていたことがあった。その日、先生から電話があり、友達の生徒が息子の服を引っ張って少し破けてしまったと。その夜にわざわざ、相手の生徒さんとお母さんが謝りに来てくれたのですが・・・。 ふとその夜に妻と話していて思い出す。以前、うちに遊びに来た、息子と同じクラスの女の子の友達が教えてくれたことがあった。笑福が給食の時間に、ある生徒のパンに指を突っ込んでしまい、食べることが出来なくなってしまったと。そのある生徒が、その日謝りに来てくれた生徒だった。 そして考える。その日は服が破れたのはうちの息子だが、それより前に、その生徒のパンを食べられなくしてしまっている。そもそもうちの息子が悪いんじゃないかと、ドキドキしてくる・・・。 この映画を見て、そのことを思い出した。自分の方からしか見えてない景色で様々なことを判断してしまう。それは仕方ないことだが、知らず知らずのうちに、その判断が人を傷つけたり、いつの間にか加害者になっていることもあるのだと。 この映画は見ていて、とても痛い。でも、きっと自分の近くにある物語だと思う。だからこそ、親の立場を経験したことのある人はより、見るべきだなと思う。 ■鈴木おさむ(すずき・おさむ)/放送作家。1972年生まれ。19歳で放送作家デビュー。映画・ドラマの脚本、エッセイや小説の執筆、ラジオパーソナリティー、舞台の作・演出など多岐にわたり活躍。パパ目線の育児記録「ママにはなれないパパ」(マガジンハウス)、長編小説『僕の種がない』(幻冬舎)が好評発売中。漫画原作も多数で、ラブホラー漫画「お化けと風鈴」は、毎週金曜更新で自身のインスタグラムで公開、またLINE漫画でも連載中。「インフル怨サー。 ~顔を焼かれた私が復讐を誓った日~」は各種主要電子書店で販売中。コミック「ティラノ部長」(マガジンマウス)が発売中。
dot.
22時間前
-
16
簡単手作り梅干しはジップ付き袋で10分 梅干し研究家の「失敗しない」とは?
梅干しづくりに挑戦する人は、コロナ禍で外出がままならない3年の間に増えたのではないかと思う。その証拠に、2022年に配信した記事『10分でおいしい梅干しが自分で作れる! はじめてでも簡単な「白干し梅」レシピ』はよく読まれた。 梅干し作りができる時期は年1回、生の梅干し用の梅が出回る6月上旬~下旬だけ。あらためて『はじめてでもおいしくできる 梅干し・梅レシピの基本』(朝日新聞出版)から、梅干し研究家・小川睦子さんに、所要時間10分、とにかく簡単な梅干しの漬け方を教わりたい。 * * * 梅干しづくりはやってみたけど、ちょっと面倒。そんな人に試してほしいのが、省略しても大丈夫な工程はとことん省いた、手間なし梅干しのレシピです。「初めてでも、忙しくても大丈夫」と小川さん。思い立ったらすぐに作れて、失敗もありません。 ■漬けこむのは6月、食べごろは10月 青梅でも完熟でも、熟しすぎたものでもいいので、6月に梅を手に入れたら、塩で漬けるだけ。作業はたった10分程度です。 食べごろになるのは10月ころ。それまでは、常温の室内に置いておきます。 茶色っぽく柔らかそうな見た目になれば、2~3カ月目から食べることができますが、塩辛く感じる時はさらに置いておきましょう。時間がおいしくしてくれます。半年くらい経つと、さらにおいしくなります。 ■【材料】 梅1kg 塩180g(梅の重量の18%) ジップ付き袋(大サイズ)を2枚 *梅の分量に合わせて塩を用意。例えば梅500gでは塩90g、梅300gでは塩54g、梅200gでは塩 36g(これらの分量の場合は、中サイズのジップ付き袋2枚) *しょっぱい味が苦手な方は、16%(梅1キログラムに対し塩160g)くらいまで減らしても大丈夫です。 *1kg 以上を漬ける場合は、袋を2つ以上に分けて作るとよいです。 ■【作り方】 (1)梅を用意します。 スーパーなどで販売されているものは通常1袋が1kgです。梅干し用と表示されているものをお求めください。地域やその年にもよりますが、6月上旬頃から下旬頃に梅干し用の梅がスーパーや八百屋さんなどに並ぶようになります。 基本的には、キズや打ち身があまりないものを選びましょう。とはいえ、少々のキズであれば、さほど気にする必要はありません。果物を選ぶ感覚と同じです。キズや傷みがひどい場合は、ジャムや梅味噌などを作るとよいでしょう。 収穫からあまり時間を置かずに作業を行うのが理想的です。お店の人に入荷日を確認して購入するとよいでしょう。 なお、梅の実は温度変化に弱いので、冷蔵庫から出した場合、常温で保存していたものよりも早いスピードでカビや腐敗が進む可能性もあります。お店で冷蔵庫に保管されていた梅は早めに作業を始めましょう。 梅の実は、「自分の住んでいる場所に近い梅が一番おいしい」という言い伝えもあるとか。産地、品種によって少しずつ味が違い、それぞれにおいしさがあるので、いろいろ試してみるとよいでしょう。 5月中旬~下旬頃は、「梅酒用」「梅シロップ用」と書かれたまだ青くてかたい梅が並びますが、「梅干し用」と表示されたものを手に入れてください。入荷時期はお店で聞いてみましょう。 (2)さらに熟すのを待ちます。(省略OK) 梅がまだ青い場合は、紙袋や段ボールなどに移して、黄色くなるまで2~3日常温の室内に置きます。ポリ袋のままではカビたり腐敗しがちです。熟してくると家中が梅の香りに包まれます。 熟してから漬けたほうがふっくらした仕上がりでおいしいですが、時間がない場合、この工程は省いてもOKです。 (3)梅を水で洗います。 ボウルに入れて2~3回水を替えて洗います。強くぶつけたりしなければ、ごく普通に果物などを洗う感覚でOKです。汚れが気になる場合はホワイトリカー(焼酎でも可)を少量使って洗うとよいでしょう。 (4)水気を拭きます。 清潔なふきんやタオル、キッチンペーパーなどで水気を拭き取ります。水気が残っていると、カビの原因になります。ざるに上げて水を切り、そのまま乾かしてもOKです。 (5)塩を入れます。 ジップ付き袋に梅と塩入れ、空気を抜いて袋をしっかりと閉じます。シャカシャカ振って、塩を全体になじませましょう。液が漏れる可能性もあるので、袋は2枚重ねにすると安心です。 (6)そのまま置きます。 塩を加えて数時間で梅から水分が出てきます。これが梅酢と呼ばれる梅のエキスです。漬け込んでから最初の1週間は1日に1回くらい軽く振って、梅酢を全体になじませるとよいでしょう。 その後は、このまま常温の室内に置いておきます。秋~冬まで待てば食べ頃です。1週間~10日ほど経って、梅酢がたっぷり出てきたら、消毒したガラスびんなどに移してもよいでしょう。 ひと手間加えるとすれば、土用干しと呼ばれる天日干しをするとさらにおいしくなります。梅雨明けの晴れた日に行います。 ジップ付き袋のまま、日光に当てます。屋外でも屋内でも日が当たればOK。合計で1週間ほど日光に当てることができれば、よりよいでしょう(土用干しを行わないものも、本書では「梅干し」と呼んでいます)。 小川睦子・梅干し研究所(UMEBOSHI-LABO)主宰。梅干し研究家であり、編集者&ライターでもある。幼少の頃より梅干しをこよなく愛し、梅干しの研究に励む傍ら、梅干しの魅力と梅干し作りの楽しさを伝える活動を関東と福岡を中心に行う。簡単にできる梅干し作りや梅干しを使った料理などの講座も好評。自然食品店などでは手作りの梅干しも販売する。 (構成 生活・文化編集部 森 香織)
dot.
6/4
-
17
雅子さま 園遊会で「帯留め」をひかえたのはなぜ?主催者としての「おもてなし」の心
東京・赤坂御苑で、天皇、皇后が主催する春の園遊会が開かれた。コロナ禍などにより4年半ぶり、令和になって初めての開催となった。あいにくの雨空となったが、和装をお召しになった皇后をはじめとする女性皇族からは、雨にぬれながら出席した招待客に対するあたたかな「思い」がうかがえた。 * * * 「当時は一緒に何かされることはあったんですか」 皇后雅子さまは、招待客の中で隣り合っていた平昌、北京五輪の金メダリストであるスピードスケート選手の高木美帆さんと、東京五輪で金・銀・銅のメダルを獲得した卓球選手の伊藤美誠さんに、こう話題を振った。 高木さんと伊藤さんは、互いに顔を見合わせてにこやかにうなずき、思いを口にする。 「夏と冬で……」「本日がはじめましてなので」 伊藤さんは、両陛下に目線を合わせてうれしそうに答えた。 「夏と冬の競技がこうして会うこともないので、本当にありがたいです」 強い雨が降りしきる日だったが、その場は笑顔とあたたかな空気に包まれた。 平成の時代に侍従として仕え、駐チュニジア、駐ラトビア特命全権大使などを歴任した多賀敏行・中京大学客員教授は、園遊会での雰囲気の変化に目をみはった。 「主催者の両陛下も招待者も、笑顔でよくお話しされるな、というのが第一印象です。昭和はもちろん平成の園遊会でも、招待者はもうすこし静かな雰囲気でした。その距離感が皇室への敬意を保持していた部分はあります。一方で、令和の両陛下の独特の和やかさが令和流の礎となっていくのでしょう」 ■装いから見える「お気持ち」 園遊会は、天皇と皇后の主催で執り行われる。女性皇族は、外交団への接遇の意味を込めて、和服と洋服を交互でお召しになる。 順序には規則性があり、ある年の春の園遊会が「和装」で秋が「洋装」ならば、翌年の春は「洋装」で秋が「和装」といった具合だ。前回2018年の秋の園遊会が「和装」だったので、今回の園遊会は「和装」となった。 雅子さまは今回、内廷皇族の菊紋である十六葉八重表菊(じゅうろくようやえおもてぎく)の三つ紋の訪問着をお召しだった。 昭和の時代から皇室に着物をつくり、納めてきた「染の聚楽」代表の高橋泰三さんは、雅子さまの思いを見て取る。 「お客さまを招く側は、控えめな装いが基本です。淡い水浅葱色の和服を選ばれたのは、主催者側としての心構えにかなっていらっしゃいます。 流水文様は、夏草や秋草と組み合わせて風景を構築する意匠。染めで仕上げた花は、初夏の草花である花菖蒲でしょうか。もう少し遅いとお召しになれませんので、ちょうどよい柄をお召しですね。菊とともに一部を金駒繍で仕上げられ、流水文様と品よく調和しています」 なかでも泰三さんが注目したのは、雅子さまの帯だ。皇太子妃時代から、和服に帯留めを合わせることはほとんどなかったという。 「本来は、帯留めや宝石は正式な場ではつけず、観劇や食事会などおしゃれとして和服を着る場合に楽しむものでした。主催者である皇后雅子さまが、帯留めもアクセサリーもつけていらっしゃらないのは、さすがでいらっしゃると感じました」 京都の着物には、薄く削りだした貝の真珠層を糸状に細く切って帯や着物に織り込む「螺鈿(らでん)織り」と呼ばれる技術がある。金の合金を1万分の1ミリの薄さまで薄く延ばす石川の金箔(きんぱく)や各地の染めや織り、刺繍など、着物は日本の伝統技術そのものだ。 「着物は、きらきらと輝く螺鈿織りや金箔、刺繍といった技巧が装飾そのものでしたから、石の宝石は必要なかったのです」(泰三さん) 平成の皇后であった美智子さまも、結婚から間もない時期を除いては、公務の場で和服に帯留めやアクセサリーをつけることはなかったという。 ■ファンが多い女性皇族も 一方で、女性皇族の装いのきらびやかさは、多くのファンを惹きつけている。 ひときわ目を引くのは、本振り袖をお召しの秋篠宮家の次女の佳子さまだ。 未婚の女性の第一礼装である本振り袖に三つ紋を入れた格式の高い着物姿。秋篠宮家の家紋は、十四弁の菊花と秋篠宮さまのお印である栂(つが)の枝葉を四つずつ円形に連ねた意匠である。洗いざらされて薄くなった柿色を表す洗柿(あらいがき)色の生地に、さや形の地紋が入った本振り袖だ。 「さや形は卍(まんじ)つなぎを菱状にくずした意匠で、地模様は日のさし加減や角度によって陰影を楽しむことができます。 優しい洗柿色に金彩を配した雲霞(くもかすみ)の文様。雲は雨を呼び豊作を招く吉祥柄。笹と菊、梅といった吉祥の草花を組み合わせたあでやかな柄行きです。 帯は、肩にかかったはねとふくらみのあるお太鼓が美しい、ふくら雀結びのようです。帯の裏地の緑に合わせた緑の総絞りの帯揚げと朱色の帯締めの配色が全体を締めています」(泰三さん) 園遊会の佳子さまは、雨が小降りになると小まめに傘をたたんでいた。すこし上半身をかがめて招待者と目線を合わせながら、笑顔を絶やすことがなかった。明るく快活、同時に相手への気配りを忘れない優しさが伝わる。 あでやかだが、どこかやさしい色と柄行き。佳子さまのイメージにふさわしい着物の装いだった。 実は、女性皇族の和装でファンが多いのは、常陸宮妃である華子さまだ。 この日は、草花と野鳥を描き出した訪問着に、裏雲取りの菱格子柄を配した帯の取り合わせ。「ひときわ目を引くのが、墨黒色と金の帯。こちらは本当によいお品です」と泰三さんは話す。 華子さまは、旧陸奥弘前藩主の津軽家の出身。若いころからごく自然に和装をお召しだ。2015年の園遊会では、羽ばたくカワセミを描いた訪問着が印象的だった。泰三さんの元にも「着慣れていらっしゃる。さすがは、華子さま」といった称賛の声が絶えないという。 次の園遊会では、女性皇族たちは「洋装」をお召しになる。また、あたたかな笑い声に包まれた場になりそうだ。 (AERA dot.編集部・永井貴子)
dot.
5/18
-
18
ジェーン・スー「求む!下戸でも隙をつくる方法! あるとないとでは、大違いなのです」
作詞家、ラジオパーソナリティー、コラムニストとして活躍するジェーン・スーさんによるAERA連載「ジェーン・スーの先日、お目に掛かりまして」をお届けします。 * * * こう見えて、私は下戸です。私の姿かたちを見たことのない人にとっては何のことやらと思いますが、どうやら私は酒が強そうに見えるようです。言いたいことはわかる。 父親が極度の下戸なこともあり、我が家ではアルコールが食卓に上ることはありませんでした。だから、飲みたいとも思わなかったのです。 飲めない体質だとわかったのは、リキュール入りのチョコレートボンボンを食べたときでした。味は苦いし、なんだか胸が苦しくなるし、いいことなし。大学時代の飲み会ではウーロン茶ばかりでした。 社会人になり、今度は仕事の付き合いで飲みの席に参加することが増えました。お酒が飲めたほうがよい場面もありトライもしましたが、一口二口でも毎度気分が悪くなるだけ。これは私には無理だと悟りました。以来、食べる専門です。 つい先日、そんな私の口のなかにアルコールが入ってきました! デザートのシャーベットに、うっすらリキュールが含まれていたのです。普段ならアルコール探知機の如く即座に気づくのですが、甘くて冷たくておいしくて、ついついペロリ。 同席していた友人と会話を続けているうちに、心臓がバクバクしてきました。呼吸も浅く なり、なにかおかしい。こりゃアルコールが入っていたな? いやあ久しぶり! こんにちはアルコール! 体調に変化はあれど、幸い「悪化」というほどでもなく、結果、普段の自分では決して解除できない備え付けの警戒網のようなものが、自然にほどけていくのを感じました。 俯瞰の自分がアルコール入りの自分を見下ろして思うことはひとつ。いまの私には、隙がある! お金を払ってでも手に入れたいと常々熱望している隙が! 色恋の話だけをしているのではありません。人付き合いにおいて、相手を緊張させずに済む「間」のようなものが隙です。これがあるとないとでは、大違いなのです。 私は隙がなく威圧的に見えるようです。それで助かる場面もありますが、隙があるほうがうまくいく場面も数多い。年齢を重ねるとますますそう。 普段からは想像できないほど、わけもなく自分がニコニコしているのがわかります。いつもこうだったら、いいのにねえ。お酒の力を借りずに隙を手に入れる方法、改めて探してみます。 ○じぇーん・すー◆1973年、東京生まれ。日本人。作詞家、ラジオパーソナリティー、コラムニスト。著書多数。『揉まれて、ゆるんで、癒されて 今夜もカネで解決だ』(朝日文庫)が発売中※AERA 2023年6月12日号
AERA
20時間前
-
19
自分をいじめた同級生がメディアで活躍していることを知り苦しいと訴える37歳女性に、鴻上尚史が「悔しいですよね」と声をかけ、勧めたこととは
自分をいじめた元同級生たちの活躍をメディアで知って苦しむ37歳女性。30年近くたったいまも克服できていない自分にがっかりしたと懊悩する女性に、鴻上尚史が「悔しいですよね」と声をかけ、「ゆっくりと焦らずに」と勧めたこととは? 【相談180】私をいじめた元同級生の活躍の様子をメディアで見て、表現できないほど苦しい気持ちになりました(37歳 女性 保田) 鴻上さん、いつも拝見しております。今日は喝を入れていただきたく投稿させていただきました。 私は小学生の頃、同級生の女の子たちからいじめに遭っていた時期がありました。原因ははっきりわからないままでしたが、私が何か気に入らないことをしたんだと思います。田舎の1クラスしかない小学校でして6年間逃げ場がなく、辛い時期を過ごしたのですが、家族からの励ましで何とか不登校にはならず通うことができました。 中学からはグループのリーダー格の2人が別の中学校へ進学し、それ以来顔を合わせることもなく大人になりました。昔のことは忘れて明るく前向きをモットーに過ごしておりました。昔は友人関係で苦労したよ!などと笑って話せるようにもなりました。 ところが先日、あるきっかけでリーダー格だった2人の今を知ることになりました。1人はテレビ局の制作部部長に、もう1人は有名なファッション誌の副編集長になり、活躍していることを知りました。 働く女性のお手本として誇らしげにメディアに登場している彼女たちの顔を見た瞬間、目の前が真っ暗になったような、頭を思いっきりど突かれたような、お腹の底から黒いものが湧き上がってくるような、表現できない苦しい気持ちになりました。同時に彼女たちから無視されたこと、私物を捨てられたこと、授業で育てていたヒヤシンスの水栽培を私の分だけひっくり返されたこと、グラウンド端の砂場に連れていかれ、背中やお腹を蹴られたこと、死ねばいいのにと笑いながら言われたこと、全てを鮮明に思い出してしまいました。 それからというもの、そのテレビ局、そのファッション誌、これらに関連するものを目にするたびに胸が苦しくなります。朝まで眠れないこともあります。見ないように、気にしないように努めても、彼女らが身を置く場所そのものがあまりにも世の中に浸透していて、辛かった過去を思い出してしまうのです。まるで小学生時代のように逃げ場がないような気持ちです。ただ辛いだけではありません。 私をあんな目に遭わせた彼女らが、知らん顔で大企業で活躍している姿を嫉ましくも思っていることに気付きました。 すると、今度は復讐したいという欲も湧き上がってきてしまったのです。企業宛てに●●さんにいじめられましたと手紙を送りつけようか、SNSに書き込んで周りから恥をかかせてやろうか、などと恐ろしいことを考えてしまいます。 いじめている側はいじめたことを覚えていないと聞きます。私のことも覚えていないかもしれません。彼女らももう大人になっているし、あの頃のままではないだろう、それに誹謗中傷されたと逆に訴えられるかもしれない、それだけはやめようと自分に言い聞かせていますが、これもいつまで自制できるかわかりません。 なにより、昔の辛い経験を乗り越えて明るく生きてきたつもりが、30年近くたった今も全く克服できていない自分に驚き、がっかりしています。誰かに相談したいのですが、家族にはまた心配をかけたくありませんし、同僚に暗い気持ちにさせるような話をするのも……と躊躇っています。 鴻上さん、このようにいつまでも昔に囚われてウジウジメソメソしている私に喝を入れていただけませんでしょうか? よろしくお願い申し上げます。 【鴻上さんの答え】 保田さん。つらい目に遭いましたね。「私に喝を入れていただけませんでしょうか」と書かれていますが、喝なんか入れる必要はないですよね。それどころか、よく我慢しました、よく頑張りました、よく生きてきました、よく耐えましたねと、ねぎらいたくなります。 送ってくれた相談には、実際の名前が書いてあって(編集部の判断で伏せたようです)本当に誰もが知っている会社と雑誌なので、保田さんの苦しみはすごいだろうと思います。 「二度目のいじめ」そのものだと思います。 保田さんの相談を読みながら、「いじめ問題はこんなふうに終わりがないんだなあ」と暗澹たる気持ちになりました。保田さんとレベルは違っても同じような経験をしている人は多いんじゃないかと想像します。 さて、保田さん。「企業宛てに●●さんにいじめられましたと手紙を送りつけようか、SNSに書き込んで周りから恥をかかせてやろうか」というのは、保田さんが予想するように、復讐の手段として効果的ではないと思います。 企業宛ての手紙は無視されるでしょうし、SNSは、保田さんが書くように、あまりにしつこく続けたら「名誉毀損」で訴えられる可能性があります(「グラウンド端の砂場に連れていかれ、背中やお腹を蹴られた」り「死ねばいいのにと笑いながら言われた」動画があればまだしも、残っているわけないですもんね)。 なによりも、復讐をずっと考えることは、保田さんの人生を台無しにすると思います。これは間違いないことだと僕は思っているのですが、ネガティブなことにフォーカスして生きていくと、ネガティブな顔になり、ネガティブな人やことが周りに集まり、ネガティブな人生を送ることになるのです。 昔の言葉で言うと「人を呪わば穴二つ」ですね。人を呪おうとすると、やがて自分も呪われて、墓穴が二つになるぞという戒めです。 でも、悔しいですよね。保田さんは何も悪くないのに。恨んで呪って当り前なのに。悪いのはこの二人なのに。なのに、この二人は、平気な顔で華やかな業界で名前を出しているなんて。 保田さんの感情は当然だと思います。「昔の辛い経験を乗り越えて明るく生きてきたつもりが、30年近くたった今も全く克服できていない自分に驚き」と書かれていますが、いきなり華やかな業界の中で名前を突きつけられたら、感情が揺さぶられるのは当り前です。いじめの記憶がフラッシュバックするのは普通のことです。それほど深く傷ついていたということです。それを懸命に抑えて、生きてきたということです。 保田さんが弱いわけでも、いじめを克服できてないわけでもありません。 「誰かに相談したいのですが、家族にはまた心配をかけたくありませんし、同僚に暗い気持ちにさせるような話をするのも……と躊躇っています」と書かれていますが、誰かに話すのがいいと僕は思います。 話すのは、とにかく自分の感情を吐き出すためです。抱え込まず、今の気持ちを正直に語るのです。 復讐の衝動が抑えきれなくなりそうなら、カウンセリングを受けるのもいいと思います。吐き出せば吐き出すほど、楽になっていくと思います。 今は本当につらい時期ですが、少しずつ少しずつ、感情を出していって下さい。 やがてきっと立ち直る時が来ると思います。あんなにひどかったいじめからなんとか立ち直った保田さんなんです。今度もきっと、なんとかなると思います。 焦らず、ゆっくりと、気持ちを吐き出していって下さい。 ■本連載の書籍化第4弾!『鴻上尚史のなにがなんでもほがらか人生相談』が発売中です。書き下ろしの回答2編も掲載! ↓↓【声で聴く】鴻上尚史が人生相談に込める思い↓↓
dot.
4/18
-
20
多様性の時代、女性・女系天皇を容認で「誰もが生きやすい国」に 古川隆久・日本大教授
皇位の継承が男系男子に限られている現在、安定的な皇位継承が危ぶまれている。皇室の存続のために制度改正が求められるが、女性・女系天皇をめぐる議論は停滞したままだ。なぜ議論は進まないのか、そしてこれからの皇室のあり方について日本大学教授・古川隆久さんに聞いた。AERA 2023年6月12日号の記事を紹介する。 * * * 皇室を存続させていくためには、女性・女系天皇を容認するしかありません。大切なことは、次に皇室で生まれる人から制度を適用するということです。 いま皇室にいる未婚の女性皇族は、結婚後に皇族の身分を離れることを前提として人生設計をしてきました。一方の悠仁さまは生まれて以降、いずれ皇位を継ぐ存在として過ごしてきた。この状況で、急にルール変更をすると大混乱が起きるのは当然のことです。愛子さまと悠仁さまのどちらがいいか、悪いかといった下品な話にもなってしまう。何よりご本人たちに、非常に酷です。「次の代から」として、今のうちに制度設計をしておけば、混乱は最小限にとどめることができると思います。 2021年4月、菅義偉内閣の時に、安定的な皇位継承のあり方を議論する政府の有識者会議のヒアリングを受けました。冒頭の意見を出しましたが、全く採用されず、同年12月の報告書では、女性・女系天皇への言及すらありませんでした。 私が意見を出した有識者会議のヒアリング相手は、保守派に偏っていたようにみえます。私は、保守派でも左派でもない真ん中にいる人間ですが、あの会議の中では私が最も「左」のひとりでしたから。05年11月、小泉政権の時の有識者会議では、女性・女系天皇を容認する最終報告書が出されているのに、大きな後退です。保守派の「伝統を守る」という現行憲法には出てこないような話にごまかされているから議論が進まないのです。 旧宮家を皇族に復帰させて婿養子にする案がありますが、それはつまり、女性皇族が恋愛結婚できなくなるということです。それでいいのでしょうか。 旧宮家の中には、結婚適齢期の方もいますが、本人はもちろん、父親と母親も皇族だったことはありません。祖父母が幼い頃に皇族だった時期があるだけで、その後は代々一般人として暮らしてきたわけです。天皇と血筋が離れている場合もある。その人たちの皇族復帰について、国民の理解は得にくいと思いますし、いずれ行き詰まってしまうでしょう。 諸外国の王室の多くが長子相続です。男系でも女系でもきちんと血は繋がっていますし、いずれ王室での同性婚なども出てくる。そんな多様性あふれる時代に、日本が男系男子にこだわる理由を説明できますか? 中には、女性の社会進出やジェンダーフリーに反対する声があるようですが、それは自由な人権を認めていないということです。そんな状態では、日本に住む人はいなくなってしまいます。天皇が日本衰退の原因になりかねないということです。女性・女系天皇を容認してこそ、誰もが生きやすい国になるのです。 皇位継承問題の先送りが続いています。令和への代替わりも終わり、小室眞子さんのご結婚をめぐる騒動も一段落。目立った行事のない今だからこそ、落ち着いて議論すべきです。次の代が生まれる前に、もっと言えば、悠仁さまが結婚適齢期に入る前にルールを整えておく必要があります。今すぐ始めないと、皇室は本当に絶えてしまうと思います。(構成/編集部・古田真梨子) ※AERA 2023年6月12日号
AERA
6/8
-
1
市川猿之助にずっと気を使っていた「香川照之」との関係性 行きつけの居酒屋で見せていた“本当の仲”
警視庁は24日、歌舞伎俳優の市川猿之助(47)を都内の施設に呼び、事情聴取を行った。両親が向精神薬中毒の疑いで死亡した経緯について詳しく話を聞いたとみられる。悲惨な「一家心中騒動」にはいまだ多くの謎が残るが、改めて猿之助の交友関係を取材すると、意外な人間模様が浮かび上がってきた。特に従兄弟で同じ歌舞伎役者でもある「香川照之」との微妙な関係が見え隠れする。 * * * 猿之助は都内のある居酒屋を行きつけの店にしていた。そこでは、彼の華麗な人脈がみてとれる。猿之助の知人が言う。 「その店は、もともと20年くらい前からリリー・フランキーさんが1人で飲んでいて、彼が“隠れ家”にしている飲み屋だったんです。そのうち、リリーさんが福山雅治さん、大泉洋さんらを呼んで、みんなでワイワイと飲むようになった。猿之助さんは福山さんが連れてきたと記憶しています」 猿之助は日本酒をキープしていて、それをおちょこで飲んでいたという。 「猿之助さんは学生時代からの福山雅治さんのファンで、福山さんがDJを務めるラジオ番組を聞いて、何通も手紙を書き送っていたそうです。その後、テレビドラマでも共演するようになり、公私ともに仲良くなったようですね」(同) 猿之助が俳優の香川照之(57)を居酒屋に呼ぶことも、しばしばだった。 「猿之助さんが先に店にいて、香川さんに電話をかけ、『今日はみんないるけどどう?』と言って、香川さんが遅れてやって来るのを見かけましたね。猿之助さんは一人でしゃべりまくって、いつも座の盛り上げ役。香川さんとも仲良く飲んでいましたよ」 同じ澤瀉屋(おもだかや)で市川中車を襲名した香川と、その従兄弟にあたる四代目猿之助は、私生活でも関係が深かったようだ。だが、一門でのパワーバランスや歌舞伎役者としてのプライドなども絡み複雑な関係だったとも言われ、「女性セブン」(23年6月8日号)は2人の間に長年の確執があったと報じている。 歌舞伎に詳しい著述家の米原範彦氏は2人の関係をこう語る。 「香川はずっと歌舞伎界を離れていたので、歌舞伎の世界に戻っても四代目の猿之助を立てるような立場になっていました」 それを象徴する出来事があった。 俳優としての香川は2013年に始まったドラマ「半沢直樹」シリーズ(TBS系)で、堺雅人演じる主人公の宿敵を怪演して大ブレークした。ある新聞社が正月特集で「半沢直樹」でブレークした香川を大きく扱おうとしたところ、突如、キャンセルになったという。 「澤瀉屋のリーダーの猿之助をさしおいて、新聞の正月版に大々的に載ることはできないと判断されたようです。香川は何かと、猿之助に気を使わざるを得ない存在なんだと感じました」(メディア関係者) 香川は、三代目猿之助(現・二代目猿翁)と浜木綿子の息子。本来なら香川が四代目猿之助を名乗っても不思議のない家柄ではあったが、香川が3歳の時、両親が離婚。三代目猿之助は00年に舞踊家の藤間紫と再婚したことで、香川とは長い間、断絶関係が続いた。 「三代目猿之助は浜と香川のことは“過去のこと”として完全に切り捨てた。三代目猿之助は香川に対し、『あなたは息子ではありません。私はあなたの父でもない。今後、2度と会うことはありません』と言ったという有名なエピソードもありました。だが、それでも香川はどうしても歌舞伎の世界に戻りたかった。その結果、香川は夫婦間の軋轢が生じて離婚までしたのですが、そのとき、歌舞伎界に戻れるように熱心にサポートしたのが四代目猿之助だったのです」(米原氏) 昨年夏、香川は銀座のクラブホステスの髪を引っ張るなどのスキャンダルを「デイリー新潮」に報じられ、テレビドラマやCMを次々に降板することとなった。その後、香川は市川中車として歌舞伎から人生の再出発を図ったが、その際にサポートしたのも猿之助だったという。 結局、昨年12月に香川は十三代目市川團十郎白猿襲名披露の舞台に「市川中車」として出演したことで、俳優復帰を果たした。 「市川團十郎の弟子筋が市川猿之助になります。それゆえ、團十郎に引っ張り上げてもらうにしても、猿之助を飛び越えることはできない。香川はいつも猿之助に気を使う立場だったのです。そんな状態のなかで、猿之助が事件を起こし、その代役として香川の長男の團子(だんこ)に光が当たるというのは、おどろおどろしい因果を感じます」(米原氏) 事件が起きた18日は、明治座で「市川猿之助奮闘歌舞伎公演」の真っただ中だった。猿之助は休演し、18日の昼の部はさすがに休演となったが、夜の部は二代目中村錦之助の長男・中村隼人(29)が務めた。翌19日には代役として、昼の部は香川の長男・市川團子(19)が務めた。 團子はわずか1日の稽古で本番に臨んだようだが、堂々たる芝居を披露し、スタンディングオベーションも巻き起こったという。 「團子は判官びいきの日本人の琴線に触れたのかもしれません」(演芸評論家の山本健一氏) 團子、隼人という若手のホープが澤瀉屋のピンチを救った形となった。米原氏はこう語る。 「歌舞伎という芸能にはしたたかさがある。猿之助がいなくても、必ずその代役が現れる。團子はまだそれほど稽古を積んでないと思いますが、驚くべき吸収力です。隼人も脚光を浴びて、きれいな顔をしていることも世に知られました。猿之助も好きだったけど、隼人も團子もいいよねというファンも増えたはずです。歌舞伎ファンではなかった人にも存在が知れ渡り、新しいファン層を広げる結果になったと思います」 歌舞伎界に詳しい早稲田大学の児玉竜一教授は、團子と隼人をこう評価する。 「團子と隼人の2人は見事に代役を演じました。隼人は間違いなく、猿之助が場所と役を与えて、育てた一人と言えるでしょう。猿之助が若手を育てたことが実を結んだことは、悲しい出来事が続いたなかで、ひとつの希望になったとは思います。今月の明治座のピンチを乗り切ったとしても、ずっと安泰ではありません。ここから先は、若手の人たちの自覚と精進次第だと思います」 はたして、澤瀉屋の未来やいかに。 (AERA dot.編集部・上田耕司)
dot.
5/26
-
2
父、母を相次ぎ亡くした喪失感に寄り添ってくれない夫 離婚も考える49歳女性に鴻上尚史が示した結婚におけるシンプルな原則
父、母と相次いで亡くし、喪失感に苦しむ49歳女性。そんな辛い気持ちに夫は寄り添ってくれないと離婚も考える相談者に、鴻上尚史が示した「一緒にいる意味を問うシンプルな原則」とは? 【相談184】両親が相次いで亡くなり、喪失感が大きいなか夫は全く寄り添ってくれません(49歳 女性 たんぽぽ) はじめまして。 半年前に父を、今年3月に母を相次いで亡くしました。 両親はいずれも80歳をこえており、いつかは、と覚悟はしていましたが、二人とも特に深刻な持病もなく、突然亡くなってしまったこともあって、喪失感が大きいです。仕事に行き、なんとか日々の生活を送っています。 相談は、夫との関係のことです。 私は6年前に結婚しました。世にいう晩婚です。 私がやっとの思いで日々過ごしているのに、夫はテレビを見て笑ったり、少し両親の思い出話をしてもふーんと言ってスルーしたり、全く寄り添ってくれません。 婚姻期間が短いので、夫と私の両親との関係も薄く、特別な情がないのは仕方ないとは思います。 でも、私は虚しく、こんな男のために、辛い時も家事をしなければならないのか、とすら思うようになりました。 鴻上さんにお聞きしたいのは、男性って、そんな感じなのでしょうか。 一般的に男性は察するのは苦手、とか言われてますけど、ただそれなのか、それとも、夫婦関係を終わらせた方がよいのか、毎日考えています。 【鴻上さんの答え】 たんぽぽさん。大変ですね。「一般的に男性は察するのが苦手」かどうかは、僕には分かりません。権力を持って、周りがなんでも忖度してくれる人は、他人の感情を察するのが下手になるでしょうし、常に周りに気を配ってなければ自分の立場が危うくなる人は、他人を察することが得意になるでしょう。また、比較的安定した精神状態や生活水準なら、他人を思う余裕が生まれるし、過酷な状況で生きることに必死なら、他人に気配りしている場合じゃないでしょう。 ですから、たんぽぽさんの夫が、男性だから「察するのが苦手」と決めるのは、少し乱暴な気がします。昨今話題の進化心理学の発展によっては、性別での特徴として何か言われるようになるかもしれませんが、性別ではなく個人の違いを問題にした方がいいと思います。 また、もし男性一般が「察するのが苦手」だとしても、察することが苦手な夫が許される理由にはならないと思います。やっぱり、性別一般より個人だと思いますからね。 たんぽぽさん。「夫婦関係を終わらせた方がよいのか」と書かれていますが、離婚しても経済的な不安はないのでしょうか。 もし、経済的な問題を考えなくてすむのなら、結婚を続けるかどうかは、たんぽぽさんの「一緒にいる喜びと哀しみ」の判断だと思います。 「友情は喜びを二倍にし、哀しみを半分にする」という有名な言葉があるでしょう。ドイツの詩人で劇作家のシラーの言葉です。逆に言えば、こういう状態になる友情は素敵だということですね。大切な友人と一緒にいると、この言葉を実感しますよね。 僕は、恋愛も同じだと思っています。 あなたといると、喜びが二倍になり、哀しみが半分になる。だから、あなたといる。 あなたといても、喜びは二倍にならないし、哀しみは半分にならないのなら、あなたといる意味はない。 僕は、恋愛も結婚も、このシンプルな原則が基本だと思っているのです。 一緒にいて話すことで一割でも喜びが増えるのなら、一緒にいる意味がある。話し相手になり、相槌を打ってもらい、横にいてくれることで少しでも哀しみが減るのなら、一緒にいる意味がある。 逆に、一緒にいることで喜びが減り、哀しみが増えるのなら、一緒にいない方がいい。そんな恋愛も結婚も、お互いに不幸だから、やめた方がいい。 これが僕のアドバイスというか、考え方です。 たんぽぽさん。夫と一緒にいて、少しでも喜びが増え、哀しみが減るのなら、結婚生活を続ける。その逆ならやめた方がいい。僕はそう思います。 この考え方はどうですか? ■本連載の書籍化第4弾!『鴻上尚史のなにがなんでもほがらか人生相談』が発売中です。書き下ろしの回答2編も掲載!
dot.
6/6
-
3
“マダム”のハンカチ「フェイラー」が30、40代向けのリブランディングに踏み切った理由 社長に聞く
贈り物などで、一度はここのハンカチを目にしたことがあるという人が多いかもしれない、ドイツのブランド「フェイラー」。1枚3000円ほどの高級感あるシュニール織ハンカチは、黒地に花柄が定番で、そのエレガントなイメージからマダムのためのアイテムという印象が強かった。ところがここ数年、カラフルでポップな柄の展開が目立ち、人気の柄はすぐ売り切れるなど、若い世代に受けている。ブランドの存続をかけた“リブランディング”について、フェイラージャパン代表取締役社長の八木直久氏に聞いた。 * * * ――黒地に花柄のエレガントなイメージが強かったのですが、ポップで可愛らしい印象へとガラッと変わりました。 日本で100年続くブランドを目指そうと、改革を決断しました。もともとドイツ発の創業1948年のブランドで、日本に上陸して今年で51年。これまで百貨店を中心に展開し、年配のお客さまからご愛顧いただいておりました。2012年に調査して明らかになったのは、メインの購買層が65歳以上だったこと。ブランドの存続ということを考えると、新たな層を獲得する必要性が浮かび上がってきました。いまの購買層のお子さん方にあたる、30~40代に向けた発信です。 ――昔からのファンも多いなか、改革はスムーズに進んだのでしょうか。 まずは社内の説得でした。売り上げの数字に問題があったわけでもなく、改革の必要性が見えにくい。スタッフの頭それぞれに、いつも来てくださるお客さまの顔が浮かんだのでしょう。「なぜ?」という声が起こったわけです。繰り返し、ブランド存続のために、ファン層を広げることの大切さを説きました。そして、これまでのファンの方にお手紙を書いたり、得意先の百貨店さんを訪れたりして、丁寧に説明をしてきました。 ブランド改革というと、これまでのファンを絶つのかという不安を伴うものです。そうではない。昔からのお客さまは大切にしながら、その下の年代層を増やしにいくための改革です。 ――具体的にどう進めていったのですか。 2014年から柄のバリエーションやアイテムを増やし始めました。2015年に動きを加速させ、銀座本店をはじめ、フェイラーの世界観をより深く伝える旗艦店をオープンさせました。さらに、ギフトコンセプトショップ「ラブラリーバイフェイラー」も立ち上げました。このラインは、フルーツやネイルボトルなどポップな柄や、ラーメンやサウナといったユニークな柄が特徴的で、ファッションビルにショップを構えることで、若い世代を取り込む戦略をとっています。 実は、お客さまからヒントを得たこともあります。フェイラーの代表格に99年に販売を開始した「ハイジ」という柄があるのですが、ドイツの野にいる生き物が四方いっぱいに駆け回っている愛らしい雰囲気から、お持ちの方が多いものです。 忘れもしない2017年の8月12日、スタッフが夏季休暇中に、「ハイジ」をめぐるムーブメントが起きたのです。あるファンの方が、語呂から今日は「ハイジの日」と、ご自分のインスタに商品写真とともに投稿してくださったんです。それを受けて他の方も次々と投稿され、後で気づいたスタッフ一同驚きました。ならば次の年から公式に「ハイジの日」を設けようと、以来、この日は例年「#ハイジの日」で盛り上がっています。今では公式インスタのフォロワー数も18万人超に広がり、関心を持っていただいています。 ――SNSでファンが拡大しているということですね。 時代のツールのおかげで「共感」が広まり、加速的に変化できたと考えています。ファンの方が「ハイジの日」を問わず、ご自身のインスタに、カフェや旅先などでのワンシーンとともにお気に入りのフェイラー商品を「#フェイラー」をつけて投稿してくださっていて、その数は1日150件を超えています。 私も毎日楽しくインスタをチェックしていますが、一つの柄だけでなく、ああこんな柄もあるんだと、次から次に連鎖的に知ってもらえる。そういった投稿を目にして、「初めてフェイラーを知った」という若い世代が出てきたんです。あるいは、お母さまが持っていたものが自分も持てるブランドなのだと気づいた。何よりも「なんか、変わったね」と、こちらからの発信以上に、お客さまに認識してもらえたことが大きいと感じます。 ――次々と新しい柄が展開されることが楽しく、驚きでもあります。 ハンカチ1枚あたりに使える糸は最大で18色、日本人のデザイナーを起用し、季節やオケージョンを意識したデザイン性を大切にしています。 フェイラーのシュニール織とは、本社のあるドイツ東部の小さな村で脈々と受け継がれてきた技術で、村の基幹産業にもなっています。一度平織りした布を裁断し、高速スピンをかけて綿糸の束にし、それを横糸にして再び織る。こうして2回織りすることで、柔らかな肌触り、優れた吸水性や速乾性が際立ち、色落ちしにくく丈夫な製品が出来上がります。 この独自のクオリティーを大切にしたうえで、定番柄を大切に、一方で進化もさせる。春に人気のミモザ柄は、黄色と水色の鮮やかな配色が特徴的で、従来の落ち着いた花柄の雰囲気ともまた違うわけですが、幅広い年代層のファンがしっかりとついています。 ――ディズニーやサンリオのキャラクター、アパレルブランドなど、他企業とコラボした柄も目を引きます。 コラボすることで、デザインに幅が出るようになりました。そして、互いにブランドの強みがあるぶん、それぞれの企業の先には、まだ自分たちが出会えていないお客さまがいる。その接点を得ることも、コラボの意義だと考えています。 大学とコラボし、学生さんたちと記念品を作ったこともあります。リサイクルを手掛ける企業に賛同し、余った端材からポーチを作ることもしています。 ――フェイラーの柄の雑貨が女性誌の付録になったときは、雑誌が売り切れるほどの人気でした。 出版社からのお声掛けで、機会をいただいたんです。ファンの方に響いただけでなく、付録を手にして、初めてフェイラーを知ったという声も多い。新たに出合ってもらえるきっかけになったと、手ごたえを感じています。そこから共感が生まれ、店舗に来ていただくなどご縁が深まるとよいなと思います。 ――今、力を入れていることはありますか。 「共感」の次のステージとして、お客さまと一緒にフェイラーをつくり上げていく「共創」に取り組んでいます。毎年アンバサダーを募り、現在333人の方が活動してくれています。2020年から、フェイラーのデザイナーと一緒に商品を作るプロジェクトも始めました。昨年は有志のアンバサダーと、8カ月ほどかけてハイジ柄のバッグを完成させたんです。もともとハイジの地の部分は無地ですが、チェック柄にするというマイナーチェンジを起こし、話題になりました。 ――実際にリブランディングでの変化は感じていますか。 中心層は完全に30~40代に変化してきています。SNSもそうですが、お母さまが使っているということも強力な口コミです。お母さまから娘さんへ、さらには、スタイやおくるみなど、赤ちゃんのためのアイテムも揃えていますので、またそのお子さんへと、フェイラーの魅力がさらに世代を超えて継がれていったらうれしく思います。 ――日本上陸100周年に向けて、どんなブランド像を思い描いていますか。 あるお客さまが、仕事で大事なプレゼンを控え、当日気持ちがすごくナーバスになっていたそうです。日常のルーティーンで、引き出しから手にとったフェイラーのハンカチの柄に、大丈夫だと力をもらったのだそうです。もしかしたら、この力はどの柄にも言えることかもしれない。ハンカチを手にするとわくわくする、楽しくなる、癒やされるといった情緒的価値こそ極め続けなければならない。少しでも知っていただきたく、昨年には表参道駅構内をジャックし、フェイラーのハンカチ100枚を展示しました。 日常は楽しいときばかりではない。誰にでも喜怒哀楽があるなかで、フェイラーがそっと寄り添い、ときには力になる。ささやかながらも、そういった存在になることこそ、価値があると考えています。 (構成/AERA dot.編集部 市川綾子)
dot.
22時間前
-
4
「市川猿之助」一家に何があったのか 近隣住民と歌舞伎関係者が見ていた「家族の内情」
18日午後、衝撃的なニュースが飛び込んできた。歌舞伎俳優の市川猿之助さん(47)、両親の市川段四郎さんと母親が自宅で倒れているところを発見され、その後、両親は死亡が確認された。猿之助さんは意識がある状態で入院しているという。報道によると、猿之助さんが倒れていた場所のそばで遺書のようなもの見つかったという。一家3人に一体何があったのか。近隣住民や関係者を取材した。 * * * 現場となった自宅は東京・目黒駅から徒歩20分ほどの閑静な住宅街にある。コンクリート造りのモダンな外観だ。猿之助さんの自宅に通じる道には、黄色いテープで警察の規制線が張られ、数人の警察官が警備にあたるものものしい雰囲気に包まれていた。 報道によると、警察官が駆け付けたときには、猿之助さんは半地下にあるクロゼットの中で意識がもうろうとした状態で見つかったという。一方、両親は2階のリビングで倒れており、母親はその場で死亡が確認された。段四郎さんも搬送先の病院で死亡した。いずれも目立った外傷はなかったという。 遺書のようなものがあったなど現場の状況から、猿之助さんが自殺を図ったとみられている。 近所に住む85歳の女性は、18日午前中の様子をこう話す。 「今朝、何かすごくにぎやかだなと思ったのよ。女の人の声とかがして、ガチャガチャ物音が聞こえた。何だろうなとは思っていたら、テレビで事件を知り、まさかと驚きました」 猿之助さんの自宅からは日頃から、歌舞伎の稽古をする音が聞こえてきたという。 「よく、歌舞伎のお稽古の歌声が聞こえてきたり、踊りのドンドンという音が響いていましたね。歌舞伎は嫌いじゃないから、うるさいとは感じませんでした」 かつて猿之助さん一家がお得意さんだったという米店の店主はこう話す。 「10年くらい前までは、うちのお米やお正月のお餅の配達をしていました。亡くなったお母さんはボーイッシュな髪形のおキレイな方でしたよ。ハキハキしたしゃべり方で、あのお母さんが自殺をするとはとても思えない。猿之助さんは子どもの頃からバスで名門の男子校に通う姿をよく見かけました。大人になってからは、よく1人で散歩するのを見ていました」 現在の猿之助さんは4代目となるが、亡くなった父・市川段四郎さんの兄が「3代目」の猿之助にあたる。歌舞伎に詳しい評論家はこう語る。 「3代目猿之助は猛優(もうゆう)と呼ばれ、歌舞伎をぶっ壊す革命児であり、パイオニアでした。『スーパー歌舞伎』をつくったのも3代目です。現在の4代目は、それにポップなセンスを味付けした。3代目に比べると猛優ではないが、器用でアグレッシブ。歌舞伎界における自分の位置というのを常に考えている人だという印象です」 亡くなった市川段四郎さんについてはこう話す。 「兄の3代目が太陽だとすれば、亡くなった段四郎さんは月で、対照的でした。段四郎さんは陰のある渋くて風格のある俳優でした。それが10年くらい前から、歌舞伎の舞台に全然出なくなった。松竹関係者に聞くと、体調不良で出られなくなったと。4代目は、父親の介護もしていたのではないかと思います」 くしくも、19日は猿之助さんのプライベートも含めたスキャンダルを報じた女性週刊誌の発売日でもあった。出版関係者は「猿之助さんがこの報道を苦にした可能性はある」と話す。 「女性週刊誌の記者が猿之助さんに直撃取材したのは、月曜日(15日)の夜。週刊誌は発売日の1日前に『早刷り』が関係各所に出回るので、猿之助さんは水曜日(17日)に記事を目にした可能性はあると思います。記事の内容は、猿之助さんのプライベートまで深く知ると思われる複数の人物が彼のパワハラ、セクハラ疑惑を語っているものだったので、猿之助さんがそれを目にしたら大きなショックを受けたことは想像にかたくありません」 実際にそのような行為があったのかは現時点ではわからないが、「客を呼べる役者」として猿之助さんが一門の中で強い力を持っていたことは事実だろう。 「今、客が呼べる役者としては片岡仁左衛門、坂東玉三郎、元海老蔵の市川團十郎、そして4代目猿之助の4人です。仕事はどんどん来るし、4代目自身、芸の上で苦難があっても、それを積極的に突破するパーソナリティーの持ち主。芸で悩んでいたとは考えにくく、原因があるとしたら私生活ではないか」(前出の評論家) 猿之助さんの一日も早い回復と、本人の口からの説明が待たれる。 (AERA dot.編集部・上田耕司)
dot.
5/18
-
5
岸部一徳かく語りき 瞳みのるとの和解、そして自身の「終わり方」
芸事が好きだった父、熊本への夜逃げ、弟・四郎の不遇──。自分について考え続ける日々のなかで到達した境地。それは俳優としての代表作「死の棘」での小栗康平監督の教えとも繋がっていく。寄る辺なさに留まり続けること、そして自分自身の「終わり方」。いま、岸部一徳さんが考えていること。本誌編集長が聞く独占インタビューの第3回。 * * * 岸部には兄弟が多い。「全部で10人くらいいるんです。僕は男では下から2番目」 1969年、加橋かつみ脱退後のザ・タイガースに加入した四郎は、すぐ下の弟だ。 生まれ育ったのは京都市、京都御所の西側。父親の徳之輔は戦前、職業軍人だった。47年生まれの岸部に父親の現役時代の記憶はない。 「親戚の人に聞いたら、軍服で馬に乗って部下も付いて、京都の真ん中をばーっと行って、ちょっと知り合いのところに寄ったり。背も高くて格好よかったようです」 謹厳で頑迷な父親像が浮かんでくるが、 「全然違いますね」 公職追放も影響したのだろう、戦後は定職に就かなかった。 賭け事が好きで借金も多く、一家は常に経済的に逼迫(ひっぱく)していた。小学1年の時、伯母を頼って熊本へ夜逃げしたことを覚えている。 質草になる布団は、2階から母や岸部たちが階下の兄たちに投げて宙を舞った。小学校は4回転校した。 だが、岸部の父親への視線は温かい。 「趣味が多くてね、あれもこれもちょっとずつ好き。よく言えば面白くて子どもには好かれる父親でした」 明治生まれにして英語も少しばかり操った。碁は小学生のころからプロ棋士を目指して鍛えたという腕前で麻雀も強い。松竹新喜劇に足繁く通い、歌舞伎や新派も大好き。興が乗ると子どもたちに台詞を諳(そら)んじてみせた。浄瑠璃にも明るい。読書家で家には菊池寛をはじめ初版本がたくさんあった。酒は飲まない。 「芸事が好きなんだよね。だから僕が東京行くって時はうれしかったんですね。先頭立って親のまとめ役をやってました。まあ、ひょっとしたら子どもが人気者になれば自分も何かこう、楽しくなるのかもと思ったのかも(笑)」 骨董や美術品の目利きでもあった。 「買えるわけじゃないけど、でも、そういうものが好きっていうのは、弟(四郎)に行ったんだろうね」 3学年下の弟・四郎。69年3月、加橋かつみの脱退を受けて急遽遊学先の米国西海岸から呼び戻され、一夜にして日本一の人気者の一員になった彼もまた、ザ・タイガースによって大きく人生を変えられた一人だ。 71年のグループ解散後、飄々(ひょうひょう)とした佇まいと軽妙な話術で人気タレントとなり、ワイドショーの司会も長く務めたが98年、5億円に上る借金で自己破産し番組を降板。以降は不遇の日々が続いた。 2003年、脳出血に倒れ、後遺症で視野狭窄に。07年に愛妻が急死した。12年には身を寄せていた千葉の姉の家で、夜中にトイレに行った際に転び大腿骨を骨折。リハビリ病院を経て移った県内のグループホームへ、岸部はよく見舞いに訪れたという。 「身の回りの世話は一回り上の姉たちがよくやってくれた。僕も月に何度か行ってたかな。お年寄りに交じって体操を一緒にやったりして」 四郎は典型的な末っ子で淋しがり屋だった。 「何かあっても『誰かが何とかしてくれるやろ』と思うタイプね。リハビリも、もうちょっとがんばってほしかったんだけど……。でも、暗くなりすぎないのは性格だよね。僕が行っても、話すよりおみやげを気にしたりして。わらび餅なんか小さく切ってやると『おいしい』なんて言ってね。ただ、最後のほうは、食べることもできなくなった。それからの衰弱が早かったですね」 20年8月28日、四郎は旅立った。享年71。 ■苦手なことがあってもいい 岸部が今回のインタビュー依頼を受けたのは、本誌の休刊という節目に「そろそろ自分のことを話してもいいかな」と思ったからだという。普段はテレビのバラエティー番組はおろかインタビュー番組にも出ない。取材はほぼ新作映画の公開時に、雑誌や新聞など活字メディアに絞っているのだという。 「トーク番組もバラエティーも見たりはします。ただ、俳優が演じるだけではなくてしゃべることや、自分自身を語ることが得意じゃないんですよね」と吐露する。 「苦手なものを克服してできるようになるのがいいという考え方もあるけど、そんなに広げなくても三つぐらい苦手があったら、一つくらいは『これは苦手』というのを置いておいてもいい」 音楽をやめてしばらく仕事がない時期を漂いながら、岸部はひたすら、自分について考え続けていた。 「やりたいことがあって音楽をやめたわけではなかったし、考える時間はたくさんあったから。たまたま勧められて俳優になった。芝居の勉強もしていないし、僕は得意なものがそうないから、苦手はなんだろうと考えた。たとえば人前でしゃべるのは不得手だから、じゃあこれは残そうと」 それは、映画「死の棘」(90年)で、小栗康平監督にたたき込まれた「言葉にする前の気持ちの動きこそが大切だ」という教えとも、のちに繋がっていく。 俳優という不安定な稼業で、心配に苛(さいな)まれる場面は多い。演技の技術について、私生活のこと、健康の維持、将来の不安──。それらを払拭しようと思えば、やれることはたくさんある。踊りや乗馬を習ったり、休日に芝居や映画を見たり、人付き合いをよくしたり。だが、岸部は心細さの解消のために働きかけようとは思わない。あえてそのまま留めておきたいという。 動けば安寧を得られるかもしれない。その代わり、不安という感情の動きは心から押し出され、微妙な揺らぎは掌(てのひら)からこぼれ落ちる。 ■人生後半戦の坂どう下っていく 岸部が俳優の世界に足を踏み入れてほどなく、日本はバブル経済の80年代に突入した。 政治の季節の残滓(ざんし)を狂乱の宴で上書きするかのように、世の中全体が浮足立っていた。テレビは昼夜なく「楽しくなければ」と謳った。一方、どん底ともいえるのが、娯楽の王座をテレビに明け渡した映画産業だった。週刊朝日が最高部数150万部を記録したのと同年の58年、11億2700万人をピークに映画人口は激減し、80年代には1億5千万人規模にまで縮小している(日本映画産業統計)。 芸能事務所は主戦場をテレビと見据え、タレントは視聴率に繋がる「好感度」という物差しに左右されるようになる。エンタメ界で量産されるのは不特定多数に好まれやすいバラエティー番組で、良質な映画作品が受け入れられる余地は少なかった。 この時期に「死の棘」が国際的に評価されたことは、寄る辺なさを抱える岸部自身にとっても、その後の俳優人生を位置づける大きな出来事だった。 「誰と出会い、誰と一緒にやっていくのか。それが一番大事。タイガース時代も含めて、すべてはそこへ繋がっていくよね」 岸部が樹木希林の事務所「夜樹社」の解散後、いくつかを経て自分で事務所を設立したのはバブルが弾けて間もない、95年のことだ。 「小さい事務所だからできることもある。映画やドラマの脚本を読む。CMだったらコンテは面白いのか。どうやって相手に正論を伝えるのか。自分の基準で面白いと思える仕事を選んで、そこでの闘いみたいなものがあって。そんなことを続けているうちになんとなく面白そうな事務所ですね、っていうふうになればいいなと思ってやってきた」 18年に亡くなった樹木は「三つぐらいの側面を見せて終わった気がする」と語る。 「希林さんは30代の若いころからおばあちゃん役をやったりして、ちょっとワケわからないことをしたり、むつかしい、怖い人みたいに見せるから、自分の俳優としての技術や、すごさを隠そうとする時期があったように思います」 それが変化したのは夜樹社が解散する前だ。80年代に入り、芝居のうまさで世間から注目されるようになった。 「あのころ、希林さんは、上手な芝居を少し、見せるようになったなと思った。そこからひねくれてるというようなイメージも取れてきて。晩年の作品を見ると、俳優としてのすごさよりも人間の優しさが溢れているようにも見えた」 岸部はこの日、取材場所の朝日新聞社のビルまで、地下鉄東銀座駅から歩いてきた。 「笠智衆さんは『僕は電車のあるうちは鎌倉から通うんです。それが健康法です』とおっしゃって、送り迎えは断っていた。希林さんも『社会生活ぐらいできなくてよく俳優なんてやってられるわね』と」 最近、岸部は自分自身の「終わり方」も考えるようになったという。 京都時代からの生き方、たとえば、しゃべるよりも人の話を聴き、苦手なものをあえて克服せず、古希を過ぎて少しまるくなった自分。 「それでも、うまく言えないんだけど、たどり着かないなぁっていう。終わりが来た時に、ああいうやり方、考え方でやっぱり良かったんだと思えるかどうかは、また別問題だなと」 俳優になって半世紀。大きな賞も獲った。周囲からは十分すぎるほどの成功に見えるかもしれない。名脇役、いぶし銀と評されることも少なくない。 「でも、良い俳優さんですね、なんて言われると知らないうちに人の評価に自分を合わせようとする気持ちが生まれる。すごいですね、と言われて、自分がすごいと思ってしまったらその『すごい自分』に合わせた生活になってしまう。そこがなんとなく僕には合わない。歳を取って、少しずつ仕事が少なくなって、いつの間にか人が忘れてくれるくらいがちょうどいいのかな。でももう少し、好きな人たち、好きな監督と仕事はしたいですけどね(笑)」 「人生百年時代」と言われる。55年に男女ともに60歳代だった平均寿命はそれぞれ20歳近く延び、60~70代を昔のように老年期と呼ぶにはあまりに若い。緩やかに長く続く人生後半戦の坂をどう下っていくのか、若い世代も不安を抱えている。 岸部たち団塊の世代は、未知の時代を走る先頭集団だ。 ザ・タイガースと決別した瞳みのるとは08年、37年ぶりにメンバー同士で元マネジャー・中井国二の仲立ちによって再会、「長い別れ」は雪解けを迎えた。瞳はあの71年1月24日、有楽町のガード下での別離の後、猛勉強を経て大学進学し慶應義塾高校の漢文教諭に転身。定年を前に退職して現在は音楽活動とともに専門である中国語を生かして日中文化交流にも注力している。森本タローが定期的に開くライブはいつも盛況だ。森本のファンだけではない、沢田研二や瞳のファンも、誰もが楽しめる温かい雰囲気で溢れている。 「タローは11月で喜寿(77歳)。12月には喜寿になって初のライブを考えていて、内容もいつもと少し違うみたいだし、楽しみだよね」 同じく音楽活動を続ける加橋かつみも4月、「THE G.S栄光のグループサウンズ」公演で元気な姿を見せたという。 6月25日は岸部と森本、瞳が参加する、さいたまスーパーアリーナでの沢田研二75歳“バースデーライブ”だ。6月に入れば、メンバーそろってのスタジオ練習が始まる。 「音楽はね、楽しい。(ザ・タイガース再結集は)13年でもやっているんだけど、しばらくベースから離れていて、練習するとまた弾けるようになる。そうするとやっぱり僕は音楽少年だったんだなって」 考えてみれば、ザ・タイガースのメンバーが集まってやれるのは最後かもしれない。願わくば、加橋にも参加してほしかった。でも、電話しても出ないから、そっとしておこう。 「タイガースのメンバーと出会えて良かった。うっかりしたら、良い俳優を最後まで通そうとか、そんなことになっていたかもわからない」 岸部はいま、そう思っている。(了/敬称略)(本誌・渡部薫)※週刊朝日 2023年6月9日号
週刊朝日
6/3
-
6
かつて“ジャニーズファン”だったBBCプロデューサーが語った 喜多川氏の性加害疑惑番組の舞台裏
ジャニーズ事務所の創業者・ジャニー喜多川氏(享年87)の長年にわたる少年への性加害疑惑を全世界に伝えた英放送局BBCのドキュメンタリー番組「Predator: The Secret Scandal of J-Pop(J-POPの捕食者 秘められたスキャンダル)」は、日本でも大きな反響を呼んだ。番組を見て驚かされたのは、番組制作者が日本におけるジャニーズ事務所の立ち位置を非常によく理解していたことだ。この調査報道を行った中心人物であるBBCのプロデューサー、メグミ・インマンさんに尋ねると、その謎がとけた。彼女はジャニーズタレントのファンだったのだ。 * * * 「私は卒業式でSMAPの『夜空ノムコウ』を歌ったんですよ」 メグミ・インマンさんはそう言いながらほほ笑んだ。 日本人の母と英国人の父を持つインマンさんは東京で生まれた。生後しばらくして渡英し、9歳のときに来日。小学校4年生から中学校3年生まで日本で暮らした。 「あのころ、私はただの日本人の少女でした。『SMAP×SMAP』とか、(V6のメンバーが出演した)『学校へ行こう!』などのテレビ番組をよく見ていました。彼らと一緒に成長してきたような感じで、本当に親しみを持っていました」 数多くの音楽番組やドラマに出演していたジャニーズの歌手やタレントについて、当時は、何の疑問も持たずに楽しんでテレビを見ていた。 「でも、14歳のときに日本を離れると、ジャニーズがいかにユニークで、日本人にとって特別な存在であるかに気づきました。多くの日本人にとって、今回の番組が明らかにしたことは、不愉快な真実であり、信じたくない出来事だったと思います」 実は、インマンさんもその一人だったという。 「詳しく調べ始めると、少年たちのキラキラした映画のような活動の裏にある闇が見えてきました。とても暗い感じがして、信じたくない思いがしました」 ■日本の特異な問題ではない 2019年、BBCは日本で大きく報道されたジャニー喜多川氏の死去をきっかけに、「彼はいったい何者なのか」というテーマで取材を開始した。そこで浮かび上がったのが、長年にわたる性加害の疑惑だった。 しかし、なぜ英国に拠点を置くBBCが日本の性的虐待疑惑を取り上げたのか? 「これは日本でだけ起こった特異な事件ではありません。社会や組織で力を持った人がその力を悪用し、児童虐待や性的虐待を行う事件は世界中で起きています」 そう言うと、有名なケースとして09年に亡くなった米国の歌手、マイケル・ジャクソンによる児童虐待疑惑を挙げた。 「英国ではBBCの人気司会者だったジミー・サビル氏、ハリウッドには元映画プロデューサー、ハーベイ・ワインスタイン氏の性暴力事件がありました。喜多川氏のケースはそれらのひとつなのです」 長年、芸能人やセレブの児童虐待や性的虐待は、彼らが個人的に起こしたスキャンダルとされ、社会的な問題とはとらえられなかった。 ところが、17年に発覚したワインスタイン氏の性暴力事件をきっかけに、その風向きが大きく変わっていく。被害を訴えようとした女性たちの声を握りつぶそうとした業界の体質や、性暴力に対する社会の認識の甘さが疑問視され、「#MeToo(私も)」運動が広がった。 ■「本当にやるの?」 そんななか、BBCは喜多川氏に注目した。 「元ジャニーズJrらが書いた告発本がこれまでに何冊も出ていますが、性的虐待疑惑は1960年代にさかのぼります。疑惑はうわさのようなものではなく、1回限りの出来事ではなかったこともわかりました。本に描かれた性的虐待は非常によく似ており、システマチックに虐待が行われたことをうかがわせます。さらに、99年には『週刊文春』の報道もありました」 この報道について、ジャニーズ事務所と喜多川氏は名誉毀損(きそん)で提訴。最終的に東京高裁は記事の重要な部分について、真実性があると認めた。 しかし、この疑惑を後追いするマスコミは現れなかった。 「喜多川氏は当時も、死後も、日本のエンターテインメント業界で最も影響力を持つ人物の一人です。『Jポップのゴッドファーザー』といっても過言ではありません。マスコミがなぜ彼を恐れたかというと、明白な理由は、事務所との関係を台無しにしたくなかった、からです。事務所は各メディアに多大な利益をもたらしてきましたから。また、メディアとしては、ジャニーズファンとの関係も壊したくなかったのだと思います」 その点、BBCには同氏や事務所とのしがらみはない。ところが、取材を始めたインマンさんはさまざまな人から忠告を受けた。 「『本当にやるの? やめておいたほうがいいよ』『気をつけなさい』とか。みんなからそう言われて、非常に驚きました。ジャーナリストを含めて誰もがこの問題を追及することを恐れていました」 ■喜多川氏への愛情 番組を成立させるには被害者たちの証言を集めなければならない。 それについて尋ねると、「とても大変でした」と繰り返し、「これまで私が手がけてきた番組のなかで、最も難しかったものの一つです」と振り返った。 かつて事務所に所属していた元タレントたちに連絡をとり続けたものの、多くの人から証言を断られた。 苦労のかいあって、番組には4人の被害者が登場するのだが、驚いたのは、彼らのほとんどが今も喜多川氏へ強い愛情を持っていると語ったことだ。 「それを聞いたときは衝撃を受けました。私たちは児童性的虐待のセラピストにも話を聞きましたが、彼らが見せた感情は100%本物です。当時、10代だった子どもたちにとって自己防衛反応の一つでしょう。『グルーミング』が行われた状況で、自分の身に起こったことの善悪を判断するのは非常に難しい」 グルーミングというのは性的虐待の前に加害者が被害者を手なずける行為である。 「被害者の子どもたちにとって、喜多川氏は彼らのキャリアを親身に考えてくれるおじいちゃんのような存在でした。愛情ある関係が築かれました。そして、喜多川氏は多くの少年たちにとって初めて性的関係を持った相手となりました。とても混乱し、精神的に深いダメージを受けたと推測されます。でも、彼らの気持ちはとても複雑で、私たちが代弁するのは非常に難しいものでした」 新型コロナの影響で訪日が制限され、さらにとてもデリケートな内容の取材であったため、番組が完成するめどがつくまでに3年を要した。 ■オープンな議論を インマンさんらは被害者たちの声を聞いたうえで事務所に何回も取材を申し込んだが、結局、断られた。大勢の人々が苦しんでいる深刻な疑惑に対してまったく見合わない対応と映った。 これがもし、英国で起こったら、どのような展開になったのだろうか。 「英国にはジャニーズ事務所のような企業はありませんし、状況が非常に異なるため、その質問に答えるのはとても難しいです。いずれにせよ、喜多川氏はこれまでの50年間、そして今も守られ続けています」 インマンさんは「日本を奇妙な国のようにいうつもりはまったくありません」と言い、こう続けた。 「番組で話してくれた人や番組終了後にカミングアウトした人はみな非常に勇気のある人たちだと思います。取材に協力してくれた人全員にとても感謝しています。権力をかさに行われる児童性的虐待は目新しい問題ではありませんし、特定の国の問題でもありません。ただ、日本ではそれに対するオープンかつ率直な議論が欠けている気がします。このドキュメンタリーが日本に変化をもたらすきっかけになることを願っています。グルーミングなどのテーマについてもより多くの議論が行われることを期待しています」 (AERA dot.編集部・米倉昭仁)
dot.
6/7
-
7
簡単手作り梅干しはジップ付き袋で10分 梅干し研究家の「失敗しない」とは?
梅干しづくりに挑戦する人は、コロナ禍で外出がままならない3年の間に増えたのではないかと思う。その証拠に、2022年に配信した記事『10分でおいしい梅干しが自分で作れる! はじめてでも簡単な「白干し梅」レシピ』はよく読まれた。 梅干し作りができる時期は年1回、生の梅干し用の梅が出回る6月上旬~下旬だけ。あらためて『はじめてでもおいしくできる 梅干し・梅レシピの基本』(朝日新聞出版)から、梅干し研究家・小川睦子さんに、所要時間10分、とにかく簡単な梅干しの漬け方を教わりたい。 * * * 梅干しづくりはやってみたけど、ちょっと面倒。そんな人に試してほしいのが、省略しても大丈夫な工程はとことん省いた、手間なし梅干しのレシピです。「初めてでも、忙しくても大丈夫」と小川さん。思い立ったらすぐに作れて、失敗もありません。 ■漬けこむのは6月、食べごろは10月 青梅でも完熟でも、熟しすぎたものでもいいので、6月に梅を手に入れたら、塩で漬けるだけ。作業はたった10分程度です。 食べごろになるのは10月ころ。それまでは、常温の室内に置いておきます。 茶色っぽく柔らかそうな見た目になれば、2~3カ月目から食べることができますが、塩辛く感じる時はさらに置いておきましょう。時間がおいしくしてくれます。半年くらい経つと、さらにおいしくなります。 ■【材料】 梅1kg 塩180g(梅の重量の18%) ジップ付き袋(大サイズ)を2枚 *梅の分量に合わせて塩を用意。例えば梅500gでは塩90g、梅300gでは塩54g、梅200gでは塩 36g(これらの分量の場合は、中サイズのジップ付き袋2枚) *しょっぱい味が苦手な方は、16%(梅1キログラムに対し塩160g)くらいまで減らしても大丈夫です。 *1kg 以上を漬ける場合は、袋を2つ以上に分けて作るとよいです。 ■【作り方】 (1)梅を用意します。 スーパーなどで販売されているものは通常1袋が1kgです。梅干し用と表示されているものをお求めください。地域やその年にもよりますが、6月上旬頃から下旬頃に梅干し用の梅がスーパーや八百屋さんなどに並ぶようになります。 基本的には、キズや打ち身があまりないものを選びましょう。とはいえ、少々のキズであれば、さほど気にする必要はありません。果物を選ぶ感覚と同じです。キズや傷みがひどい場合は、ジャムや梅味噌などを作るとよいでしょう。 収穫からあまり時間を置かずに作業を行うのが理想的です。お店の人に入荷日を確認して購入するとよいでしょう。 なお、梅の実は温度変化に弱いので、冷蔵庫から出した場合、常温で保存していたものよりも早いスピードでカビや腐敗が進む可能性もあります。お店で冷蔵庫に保管されていた梅は早めに作業を始めましょう。 梅の実は、「自分の住んでいる場所に近い梅が一番おいしい」という言い伝えもあるとか。産地、品種によって少しずつ味が違い、それぞれにおいしさがあるので、いろいろ試してみるとよいでしょう。 5月中旬~下旬頃は、「梅酒用」「梅シロップ用」と書かれたまだ青くてかたい梅が並びますが、「梅干し用」と表示されたものを手に入れてください。入荷時期はお店で聞いてみましょう。 (2)さらに熟すのを待ちます。(省略OK) 梅がまだ青い場合は、紙袋や段ボールなどに移して、黄色くなるまで2~3日常温の室内に置きます。ポリ袋のままではカビたり腐敗しがちです。熟してくると家中が梅の香りに包まれます。 熟してから漬けたほうがふっくらした仕上がりでおいしいですが、時間がない場合、この工程は省いてもOKです。 (3)梅を水で洗います。 ボウルに入れて2~3回水を替えて洗います。強くぶつけたりしなければ、ごく普通に果物などを洗う感覚でOKです。汚れが気になる場合はホワイトリカー(焼酎でも可)を少量使って洗うとよいでしょう。 (4)水気を拭きます。 清潔なふきんやタオル、キッチンペーパーなどで水気を拭き取ります。水気が残っていると、カビの原因になります。ざるに上げて水を切り、そのまま乾かしてもOKです。 (5)塩を入れます。 ジップ付き袋に梅と塩入れ、空気を抜いて袋をしっかりと閉じます。シャカシャカ振って、塩を全体になじませましょう。液が漏れる可能性もあるので、袋は2枚重ねにすると安心です。 (6)そのまま置きます。 塩を加えて数時間で梅から水分が出てきます。これが梅酢と呼ばれる梅のエキスです。漬け込んでから最初の1週間は1日に1回くらい軽く振って、梅酢を全体になじませるとよいでしょう。 その後は、このまま常温の室内に置いておきます。秋~冬まで待てば食べ頃です。1週間~10日ほど経って、梅酢がたっぷり出てきたら、消毒したガラスびんなどに移してもよいでしょう。 ひと手間加えるとすれば、土用干しと呼ばれる天日干しをするとさらにおいしくなります。梅雨明けの晴れた日に行います。 ジップ付き袋のまま、日光に当てます。屋外でも屋内でも日が当たればOK。合計で1週間ほど日光に当てることができれば、よりよいでしょう(土用干しを行わないものも、本書では「梅干し」と呼んでいます)。 小川睦子・梅干し研究所(UMEBOSHI-LABO)主宰。梅干し研究家であり、編集者&ライターでもある。幼少の頃より梅干しをこよなく愛し、梅干しの研究に励む傍ら、梅干しの魅力と梅干し作りの楽しさを伝える活動を関東と福岡を中心に行う。簡単にできる梅干し作りや梅干しを使った料理などの講座も好評。自然食品店などでは手作りの梅干しも販売する。 (構成 生活・文化編集部 森 香織)
dot.
6/4
-
8
「何が何でも東大理3」は今や昔? 灘校生に起きた変化
国内大学の最高峰とされる東京大学理科3類(理3)への進学率が際立って高いことで知られる灘高校(兵庫県)。いまも医学部志望者は多いものの、東大以外の国公立大学進学者も目立ってきた。卒業生への取材や、週刊朝日が実施した「東大合格者アンケート」をもとに、その変化を探った。 「医学部志望者の母数自体に、昔と比べて大きな変化はないと思います。ただ、かつてのように『何が何でも東大理3』という感じはなく、多浪を重ねて東大を目指す人の話もあまり聞きません。京医(京大医学部)や地方国公立大学も選択肢の一つに入る雰囲気にはなっています」 こう語るのは灘高校から理3に現役合格し、現在、教養学部に属する男子学生だ。 関西屈指の進学校として知られる灘高校は、東大医学部医学科への進学者が多い理3への合格者が多く輩出することで知られていた。灘高校は1学年あたり220人。理3合格者は2013年には現役・浪人を含め27人だったが、19年は21人、22年は10人に減少。かわって、近年では他の難関国公立大学への進学者も目立つ。23年度、同校から医学部医学科に合格したのは国公立・私立82大学合計で87人(うち現役は50人)。東大理3の合格者は15人、京都大学医学部が17人、大阪大学医学部が9人、奈良県立医科大が6人、神戸大医学部が3人。理3合格者は医学部合格者全体の2割を切り、関西圏の国立大学を中心に合格者が散る結果となった。先の学生によれば、「京大と奈良県立医大の後期をセットで受け、もし前者に落ちたら後者に進む」というパターンも見られるという。 灘校生が必ずしも東大にこだわらなくなっているという状況の変化は、何を意味するのか。OBや予備校関係者への取材から見えてきたのは、医学部の「目指し方」がかつてと比べ多様なものになりつつあるということだ。 同校には医学部志望者向けのコースはない。海保雅一校長は「特定の進路に生徒を誘導するような教育はしていない」と言葉に力を込める。 学内で指導が行われていないのであれば、何が医学部進学の動機づけとなっていたのか。大きく作用していたと考えられるのが、周囲が東大を目指すから自分も目指すという「ピアプレッシャー」だ。1980年代後半に同校を卒業し、東大理3から医学部へと進学した医療ガバナンス研究所の上昌広理事長は言う。 「私たちの世代では『東大一辺倒』の価値観が今よりも強かった。灘校から東大に行けなければ落ちこぼれも同然。たとえ京大であっても、医学部でなければ見方は同じでした。一方で、理3受験者自体が減っている今は、そんなことはなくなっています。養老孟司さんのような名物教授も減り、東大という大学自体が今の受験生にさほど魅力的な場所だと映らなくなっているのでしょう」 最難関校のプライドとプレッシャーから、在学生が「灘→東大」の王道ルートに駆り立てられる構造は、現在も根本的に変わっているわけではない。先の教養学部生は言う。 「中学受験を経て灘に入学する時点で、偏差値至上主義とも言える価値観はどの生徒にも少なからず刷り込まれています。もちろん高校生なりに色々と調べてはいるものの、東大理3の志望者に関しては憧れやプライドが先にあり、医学部の志望動機は後から理由づけしていることも多いと思います」 難関国立大学医学部に強い関西の進学塾「高等進学塾」で、医学部進学室長を務める保木本將人講師が言う。 「慶應大や関西医大など私立大学の医学部志望者の場合、ご両親が医師で自身も医師を目指すようになったケースが多い。奈良県立医大、三重大、高知大など、地方の国公立大学志望者も、純粋な医師志望者が多い印象です。一方、灘高校をはじめとするトップ校から東大の理科3類や京大医学部を目指す子は少し事情が異なります。医者という職業への憧れもあるものの、『偏差値ナンバーワンの大学に挑戦したい』という思いが志望動機になっていることも少なからずあります」 「偏差値ナンバーワンの大学に行きたい」という思いが動機づけになっている場合、「医学部志望」と「医師志望」とは必ずしも一致しない。近年は難関大学医学部への進学を志望しているものの、情報分野に関心を示す生徒も増えていると保木本講師は指摘する。 「灘校に限った話ではありませんが、上位校に通う子たちの中には、趣味で大学の数学やプログラミングを学んでいる子たちも多い。そういう子たちは医学部には進むけど、自分でプログラミングを勉強すればいいやと思っていたりする。卒業生の中には、医学部には行ったものの医師にはならず、プログラミングを学んでベンチャー企業を立ち上げた子もいます」 本誌が今春東大合格者を対象に実施したアンケートからも、こうした変化が読み取れる。 医師になるためには医師国家試験をパスし、2年間の初期(臨床)研修と3年間の後期(専門)研修を経て専門医資格を取得することが必要になる。その後、医療機関に勤務し、医長や部長を経て院長を目指すか、大学病院に勤務し臨床や研究に従事しつつ、講師や准教授を経て教授職を目指すかのいずれかが、これまでの医師の”エリートコース”とされた。 だが、アンケートに回答してくれた理3合格者55人(全入学者は101人)のうち、大学卒業後の理想の働き方として「医者」「研究者」と答えたのは8人。19%は「起業」で、「組織が好きではない。やりたいことを主体的にやりたい」(女、早稲田実業)「自分の意思を貫くことが出来るから」(男、灘)といった理由が挙げられた。次いで多かったのが「フリーランス」で16%。「自分の能力を生かして自由に仕事をしたい」(男、桐朋学園中教)「組織の利益とは別に、医師としてほんとうにすべきことができると思う」(男、四日市)など、全般として組織にとらわれない自由な働き方を求める声が目立った。 厚生労働省が2022年2月に発表した「医療従事者の需給に関する検討会」取りまとめでは、全国レベルで医師は毎年3500~4千人ほど増加しているものの、29年ごろには需給が均衡し「将来的には医師需要が減少局面になるため、医師の増加のペースについては見直しが必要」との見解が示されている。灘高校から東大医学部を経て、現在、地方の病院で研修医として働く小坂真琴さん(25)は言う。 「臨床医のキャリアは医師免許を取った後、横並びでスタートしますので、正直学歴はあまり関係がありません。国民皆保険制度が自分たちの定年まで維持されるかわからないですし、地方のクリニック経営は大変で、今から新規開業は厳しいという話も先輩医師からよく聞きます。かつてのように『医師資格さえあれば安泰』とは言いづらい状況があり、今の理3生にもそのような認識が共有されているのではないでしょうか」 たとえ東大であっても、医学部に受かれば「人生上がり」とは言い難い状況が生まれている。卒業後のキャリアも見据えた上での学部選びが、今後はさらに重要になってくると言えそうだ。 ※週刊朝日オリジナル記事 (本誌・松岡瑛理)
週刊朝日
6/6
-
9
自分をいじめた同級生がメディアで活躍していることを知り苦しいと訴える37歳女性に、鴻上尚史が「悔しいですよね」と声をかけ、勧めたこととは
自分をいじめた元同級生たちの活躍をメディアで知って苦しむ37歳女性。30年近くたったいまも克服できていない自分にがっかりしたと懊悩する女性に、鴻上尚史が「悔しいですよね」と声をかけ、「ゆっくりと焦らずに」と勧めたこととは? 【相談180】私をいじめた元同級生の活躍の様子をメディアで見て、表現できないほど苦しい気持ちになりました(37歳 女性 保田) 鴻上さん、いつも拝見しております。今日は喝を入れていただきたく投稿させていただきました。 私は小学生の頃、同級生の女の子たちからいじめに遭っていた時期がありました。原因ははっきりわからないままでしたが、私が何か気に入らないことをしたんだと思います。田舎の1クラスしかない小学校でして6年間逃げ場がなく、辛い時期を過ごしたのですが、家族からの励ましで何とか不登校にはならず通うことができました。 中学からはグループのリーダー格の2人が別の中学校へ進学し、それ以来顔を合わせることもなく大人になりました。昔のことは忘れて明るく前向きをモットーに過ごしておりました。昔は友人関係で苦労したよ!などと笑って話せるようにもなりました。 ところが先日、あるきっかけでリーダー格だった2人の今を知ることになりました。1人はテレビ局の制作部部長に、もう1人は有名なファッション誌の副編集長になり、活躍していることを知りました。 働く女性のお手本として誇らしげにメディアに登場している彼女たちの顔を見た瞬間、目の前が真っ暗になったような、頭を思いっきりど突かれたような、お腹の底から黒いものが湧き上がってくるような、表現できない苦しい気持ちになりました。同時に彼女たちから無視されたこと、私物を捨てられたこと、授業で育てていたヒヤシンスの水栽培を私の分だけひっくり返されたこと、グラウンド端の砂場に連れていかれ、背中やお腹を蹴られたこと、死ねばいいのにと笑いながら言われたこと、全てを鮮明に思い出してしまいました。 それからというもの、そのテレビ局、そのファッション誌、これらに関連するものを目にするたびに胸が苦しくなります。朝まで眠れないこともあります。見ないように、気にしないように努めても、彼女らが身を置く場所そのものがあまりにも世の中に浸透していて、辛かった過去を思い出してしまうのです。まるで小学生時代のように逃げ場がないような気持ちです。ただ辛いだけではありません。 私をあんな目に遭わせた彼女らが、知らん顔で大企業で活躍している姿を嫉ましくも思っていることに気付きました。 すると、今度は復讐したいという欲も湧き上がってきてしまったのです。企業宛てに●●さんにいじめられましたと手紙を送りつけようか、SNSに書き込んで周りから恥をかかせてやろうか、などと恐ろしいことを考えてしまいます。 いじめている側はいじめたことを覚えていないと聞きます。私のことも覚えていないかもしれません。彼女らももう大人になっているし、あの頃のままではないだろう、それに誹謗中傷されたと逆に訴えられるかもしれない、それだけはやめようと自分に言い聞かせていますが、これもいつまで自制できるかわかりません。 なにより、昔の辛い経験を乗り越えて明るく生きてきたつもりが、30年近くたった今も全く克服できていない自分に驚き、がっかりしています。誰かに相談したいのですが、家族にはまた心配をかけたくありませんし、同僚に暗い気持ちにさせるような話をするのも……と躊躇っています。 鴻上さん、このようにいつまでも昔に囚われてウジウジメソメソしている私に喝を入れていただけませんでしょうか? よろしくお願い申し上げます。 【鴻上さんの答え】 保田さん。つらい目に遭いましたね。「私に喝を入れていただけませんでしょうか」と書かれていますが、喝なんか入れる必要はないですよね。それどころか、よく我慢しました、よく頑張りました、よく生きてきました、よく耐えましたねと、ねぎらいたくなります。 送ってくれた相談には、実際の名前が書いてあって(編集部の判断で伏せたようです)本当に誰もが知っている会社と雑誌なので、保田さんの苦しみはすごいだろうと思います。 「二度目のいじめ」そのものだと思います。 保田さんの相談を読みながら、「いじめ問題はこんなふうに終わりがないんだなあ」と暗澹たる気持ちになりました。保田さんとレベルは違っても同じような経験をしている人は多いんじゃないかと想像します。 さて、保田さん。「企業宛てに●●さんにいじめられましたと手紙を送りつけようか、SNSに書き込んで周りから恥をかかせてやろうか」というのは、保田さんが予想するように、復讐の手段として効果的ではないと思います。 企業宛ての手紙は無視されるでしょうし、SNSは、保田さんが書くように、あまりにしつこく続けたら「名誉毀損」で訴えられる可能性があります(「グラウンド端の砂場に連れていかれ、背中やお腹を蹴られた」り「死ねばいいのにと笑いながら言われた」動画があればまだしも、残っているわけないですもんね)。 なによりも、復讐をずっと考えることは、保田さんの人生を台無しにすると思います。これは間違いないことだと僕は思っているのですが、ネガティブなことにフォーカスして生きていくと、ネガティブな顔になり、ネガティブな人やことが周りに集まり、ネガティブな人生を送ることになるのです。 昔の言葉で言うと「人を呪わば穴二つ」ですね。人を呪おうとすると、やがて自分も呪われて、墓穴が二つになるぞという戒めです。 でも、悔しいですよね。保田さんは何も悪くないのに。恨んで呪って当り前なのに。悪いのはこの二人なのに。なのに、この二人は、平気な顔で華やかな業界で名前を出しているなんて。 保田さんの感情は当然だと思います。「昔の辛い経験を乗り越えて明るく生きてきたつもりが、30年近くたった今も全く克服できていない自分に驚き」と書かれていますが、いきなり華やかな業界の中で名前を突きつけられたら、感情が揺さぶられるのは当り前です。いじめの記憶がフラッシュバックするのは普通のことです。それほど深く傷ついていたということです。それを懸命に抑えて、生きてきたということです。 保田さんが弱いわけでも、いじめを克服できてないわけでもありません。 「誰かに相談したいのですが、家族にはまた心配をかけたくありませんし、同僚に暗い気持ちにさせるような話をするのも……と躊躇っています」と書かれていますが、誰かに話すのがいいと僕は思います。 話すのは、とにかく自分の感情を吐き出すためです。抱え込まず、今の気持ちを正直に語るのです。 復讐の衝動が抑えきれなくなりそうなら、カウンセリングを受けるのもいいと思います。吐き出せば吐き出すほど、楽になっていくと思います。 今は本当につらい時期ですが、少しずつ少しずつ、感情を出していって下さい。 やがてきっと立ち直る時が来ると思います。あんなにひどかったいじめからなんとか立ち直った保田さんなんです。今度もきっと、なんとかなると思います。 焦らず、ゆっくりと、気持ちを吐き出していって下さい。 ■本連載の書籍化第4弾!『鴻上尚史のなにがなんでもほがらか人生相談』が発売中です。書き下ろしの回答2編も掲載! ↓↓【声で聴く】鴻上尚史が人生相談に込める思い↓↓
dot.
4/18
-
10
オリラジ中田「松本人志への提言」に感じたズレ 松本はタモリに近い存在になりつつあるのでは?
オリエンタルラジオの中田敦彦が、自身のYouTubeチャンネルで松本人志に対して提言をする動画を公開したことが話題になっている。 「【松本人志氏への提言】審査員という権力」と題した動画の中で、中田はベテラン芸人の漫才コンテスト番組『THE SECOND~漫才トーナメント~』で、松本がアンバサダーとして出演していたことに言及していた。松本はこの大会に顔を出しているだけではなく、『M-1グランプリ』と『キングオブコント』でも審査員を務めている。松本ばかりが審査員をしているのは業界のためにならないのではないか、と中田は語っていた。 それ以外にも、松本がお笑い界で絶対的な権威となっているため、彼に対して批判的なことを口にできないような空気がある、という趣旨のことも述べていた。 この動画がお笑い界内外に大反響を巻き起こした。霜降り明星のせいやは、中田が動画の中で自分の相方である粗品の名前を出したことに怒りを覚えたようで「真っ直ぐ勝負してないウンコみたいなやつが相方の名前使うな 中田」とツイートした。 また、松本本人もツイッターで「テレビとかYouTubeとか関係なく2人だけで話せばいいじゃん 連絡待ってる!」と中田に対する呼びかけと思われるメッセージを発信した。 個人的には、今回の中田の主張自体にはそこまで目新しさを感じなかった。なぜなら、彼は以前から動画やインタビュー記事の中で何度もこういう話をしているからだ。実際に動画で話している内容も、そこまで過激なものではない。サムネイル画像と動画タイトルに「松本人志」という名前をはっきり出したことで、動画を見ていない人にもメッセージの趣旨が伝わりやすかったため、この件がことさらに話題になったのだろう。 さて、それでは、中田が言うように、お笑い界で松本は絶対的な権威となっているのか。そして、彼に対する批判を許さないような空気や、松本の感性に合わない笑いが排除されるような風潮はあるのか。この点について個人的な見解を述べたい。 松本が多くのお笑い賞レースで審査員を務めているのは事実である。また、『人志松本のすべらない話』『IPPONグランプリ』『ドキュメンタル』など、数々のお笑いコンテンツに携わり、そこで中心的なポジションに就いているというのも事実だろう。 しかし、彼がそこで絶対的な権威としてほかの芸人を抑圧するように振る舞っているかというと、必ずしもそうであるとは思わない。もちろん松本はお笑い界とテレビ界におけるトップスターであり、松本の番組に出る芸人の多くが、松本にネタを見てもらいたい、褒めてもらいたい、認めてもらいたい、などと思っているのは間違いない。 しかし、芸人たちが松本に気に入られようとして、過度に彼だけに対して媚びるようなことをやっているとは感じたことがない。また、松本が審査員として携わっている大会でも、彼が最終的な審査結果を完全にコントロールしているわけではない。 たとえば、松本が審査員を務めた回の『M-1』では、最終決戦で松本が投票した芸人がそのまま優勝したケースもあれば、そうではないケースもある。複数の審査員がそれぞれ審査をしているので、松本の意見と全体の結果が食い違うのは珍しいことではない。お笑い界全体が松本の顔色をうかがって、彼の意見に合わせるような風潮があるのならば、こういう結果にはならないだろう。 また、先日行われた『THE SECOND』では、松本はアンバサダーとして決勝の現場にいた。審査は観客が行い、松本は直接かかわらない。 ここでは、松本の言動が審査結果に影響を与えることがないように、番組スタッフも松本本人も相当気を使っているのがうかがえた。松本の意見ですべてをコントロールしようとする意図が番組側や本人にあったのなら、決してこういう演出や審査方法にはなっていないだろう、という感じだった。 つまり、『THE SECOND』という大会を見て、その場に松本がいたということを根拠にして「松本絶対権力説」を語るのはそもそも無理筋だったのではないか。 それでは、これらの大会に関してはさておき、松本はお笑い界では絶対的な権威となっているのか。この点についても、そういう側面が全くないとは言えないが、そう言い切れるほどはっきりした何かがあるわけではない、というのが個人的な意見である。 松本が絶対的な権威になっていて、彼が認める笑いだけが正しい笑いであり、それ以外のものが排除されているのだとすれば、たしかに問題ではあるかもしれない。しかし、実態はどうかというと、あまりそういうふうになっているとは思えない。 すでにお笑い文化は多様化していて、多様なお笑いが認められている。そして、お笑い界のレジェンドの中で比較すると、松本はむしろ多様なお笑いに対して寛容な立場であるとも思う。 中田自身も、自分は松本には認められないようなジャンルで戦ってきた、という趣旨のことを語っていたが、過去には「武勇伝」「Perfect Human」「中田敦彦のYouTube大学」と、多くの人に支持されるヒット作を出し続けていて、それなりに評価も得ている。客観的に見て、そんな彼がお笑い界で不遇な立場に置かれているとは思えない。 さらに言うと、松本を絶対的な権力を振るう独裁者のようなイメージで語るのも、ミスリードではないかという気がする。松本はどちらかと言うと、権力なんて持ちたくないと思っている側の人間だ。彼は自分が中心となる番組でもいつもどこかだるそうにしているし、最近は口を開けば「引退したい」という話ばかりしている。権力の座にしがみつきたい、影響力を誇示したい、といった欲望が感じられるような人間ではない。 では、実際に松本が権威ある立場に就いているように見えるのはなぜかというと、必要に応じて周りの人が祭り上げているからだ。松本は神輿として担がれているだけであり、本人がその方向に誘導している感じはしない。 もちろん、松本にも血気盛んな時代はあったし、そのときにはもっとギラギラしていて、挑発的、排他的な言動もあった。しかし、ここ10年の松本にはそういうものを感じることはあまりない。 むしろ、松本は、本人の意向にかかわらず、常に気を使われている。そして、気を使われることに人一倍気を使っている、という構図が見えてくる。 これを「松本人志のタモリ化」と言い換えてもいいだろう。タモリもまた一種の権威である。しかし、決してそれを誇示しない。みんながタモリを慕い、勝手についてくる。タモリが中心にいることで、ただ楽しいだけのお昼の帯番組『笑っていいとも!』は伝説的な人気番組になった。 今の松本は『いいとも!』の頃のタモリに近い存在になっている。もちろん松本自身が鋭いコメントを繰り出したりすることもあるが、そこにいるだけで場が引き締まったり、共演者や視聴者に安心感を与えたりするというのも大きい。良くも悪くもそれが今の松本である。 「多様化するお笑い」と「タモリ化する松本」を当たり前のように受け入れて満足している多くの人にとっては、中田の松本批判は正しいかどうか以前に、前提となる現状認識にズレがあるところが引っかかるのではないか。 すでにこの騒動自体が多くの芸人によってネタとして消費されつつあるところにも、この国に根付いたお笑い文化の強さを感じる。誰もが松本に逆らうことを恐れてこの問題に口をつぐむ、というようなことにはなっていない。 お笑いはただ面白ければいいし、その理想はすでに実現している。中田も松本もこの素晴らしきお笑い界の構成員として、引き続き私たちに多くの笑いを提供していってほしい。(お笑い評論家・ラリー遠田)
dot.
6/3
-
11
屈強な自衛官でも、心は壊れる。うつで地獄を見た元自衛官2人が話す、本当に役に立つメンタルスキル【前編】
4月から新しい環境で生活をスタートさせた人も多いでしょう。新生活に慣れた頃にやってくるのが、五月病。最近では六月病という言葉も使われます。 元陸上自衛隊のメンタル教官で、定年退官後はNPO法人メンタルレスキュー協会理事長を務め、数多くのカウンセリング経験を持ち、新書『自衛隊メンタル教官が教える 心の疲れをとる技術』の著者の下園壮太さん。陸上自衛隊の幹部自衛官だったときに、上司のパワハラでうつとなり地獄を見て、その後、退官して現在は航空業界で働くわびさん。その際の経験を記した著書『メンタルダウンで地獄を見た元エリート幹部自衛官が語る この世を生き抜く最強の技術』は、各方面で反響を呼びました。 自衛官の先輩、後輩でもある二人が、自身の自衛官時代のうつ体験、そしてそこからの回復の道のりについて、語りあいました。 * * *■自衛隊でまず、叩きこまれること わび:下園先生は防衛大学を何期に卒業されたのですか。 下園:26期です。 わび:私は一般の大学を卒業してから陸上自衛隊に入隊したのですが、下園先生の25年ほど後輩になります。 下園:わびさんも、入隊後に「陸上自衛隊幹部候補生学校」で学んだんですよね。鍛えられる場所だったでしょう。 わび:のんびりとした大学生活を送っていたので、幹部候補生学校の規律の厳しさには面食らいました。起床ラッパで目を覚ましたら3分以内に着替えて外で整列しないといけないわけですから。印象的だったのが半長靴(はんちょうか)という隊員用のブーツを毎日ピカピカに磨かなければならず、できなければ何度でもやり直しになることでした。 下園:大学時代から全寮制の生活を送ってきた防大卒でも厳しいと感じるので、一般大卒の方にはなおさらだったでしょう。そうしたしきたりを通じて、それまでの価値観をいったん壊し、自衛隊の流儀をたたき込みながら、メンタルの強さを育んでいくのが自衛隊の流儀ですね。戦場にいることを想定した組織ですから、普通の日常生活とは違う感覚、意識を植え付けます。 戦場にいるときに、上官の命令にいちいち、「これをやる意味はあるのですか?」などと反論していたら、その間に敵にやられてしまうかもしれないので、まずは上官の命令に即座に動けるような訓練をするわけです。 わび:自衛隊で教わったことで今も役に立っていることはたくさんありますが、「簡明を基調とせよ」というのも心に刻まれています。上官に報告するときに、モタモタと話していると、「結論から言え。グダグダ話して、結論を言わないうちにお前が敵にやられたら、他に報告する人間はいないんだぞ」と叱られました。 極端に聞こえるかもしれませんが、言われてみれば、これが戦場の現実です。それ以来、口頭の報告でも文章でも、簡明を基調とし、結論から伝えることを習慣にしています。 下園:その考え方は、自衛隊以外の会社でも当てはまるものですね。自衛隊というのは、シビアな戦場を生き抜くことを基本とした行動や考え方が蓄積されていますので、その他の世界でも有用なことがたくさんあります。 ■屈強な自衛官だからといって、メンタルが強いわけではない わび:本当にそう思います。ただ、だからといって、自衛官がみんな絶対に壊れない強靱なメンタルを持っているのかというと、そういう訳ではありません。 下園:そうですね。自衛官は、自分の身体に自信を持っている人が多いです。だからこそ、ちょっとした病気をしたり、ケガで思うように動けなくなったりしたときに、ズンと落ち込んでしまうことがあります。 有名な人でいえば、東京オリンピックのマラソンで銅メダルを獲得した円谷幸吉さん。陸上自衛隊の幹部候補生学校の登山走大会では、彼が残した記録が今でも破られていないはずです。 そんな円谷さんも、持病の腰痛が悪化し、理想となる走りができなくなり、メキシコ五輪に向けての訓練中に自死してしまったわけです。 そこから読み取れるのは、1つのことに全集中してしまうよりも、複数のより所を持つべきであるということ。それも、「静」と「動」、身体を動かすことと、静かにできることの両方を持つことをオススメしています。 わび:私自身もメンタルを壊したことがあるので、よくわかります。「剛健」であれという幹部候補生学校の理念に染まった私は、学級委員的なポジションである「自律実践係」に立候補します。幹部のあるべき姿を追いかけ、「意識高い系」の幹部自衛官としてキャリアをスタートしました。 その後、師団司令部から幹部上級課程(AOC)を経て、方面総監部へと異動したのですが、そこでうつになったんです。 下園:師団司令部と方面総監部、それに陸上幕僚監部を加えた3つの部署は業務内容の高度さや多忙さ、緊張感などで過酷な部署なんですよ。私も師団司令部で任務に当たっていたときは辞めたくなりました(笑)。 わび:師団司令部の仕事は非常に高度で緊張感もありましたが、人間関係に恵まれ、明るく前向きに取り組むことができました。私生活も順調で、AOCを修了したころに双子に恵まれました。転落のきっかけとなったのは、方面総監部への転属です。そこで、パワハラにあったんです。 ■パワハラで身も心もぼろぼろに 下園:どんなパワハラでしたか。 わび:嫌がらせと理不尽な叱責です。報告や連絡を後回しにされるのは当り前。仕事のことばかりでなく、弁当の中身や子どもの名前などのプライベートについても言いがかりをつけられました。 常に「怒られる」ことが頭から離れず、缶コーヒーの種類も選べないほどになってしまいました。どの缶コーヒーなら怒鳴られずに済むのかなって考えてしまって……。 覚えていないのですが、ある日、職場で叫びながら自分のデスクの中に潜っていたようで、そのまま病院に運ばれました。「過労状態」「うつ病」「不安神経症」と診断を受け休職することになりました。 下園:アメリカの学者であるホームズとレイがまとめた、ライフイベントのストレス表があります。様々なライフイベントが心に与えるストレスを数値化して評価するものです(表参照 ※外部配信先では図版などの画像が全部閲覧できない場合があります。図版をご覧になりたい方は、AERA dot.でご覧ください)。 お子さんが生まれたとわびさんはおっしゃっていましたが、家族が増えるという幸せな出来事も、実は心に重圧を与えるものなんです。さらに異動による新しい仕事と労働環境の変化があった。そんな状態の時に、たまたま強烈なパワハラのストレスが加わって、心が悲鳴を上げてしまったのでしょうね。 わび:追い込まれすぎてしまっていて、別の上司に助けを求めたり、担当窓口に相談したりする気力もありませんでした。 ■メンタルを指導する教官自身がうつになる 下園:私も在職中にうつになったことがあります。でも、言葉は変ですが、わびさんに比べると“恵まれた”うつでした。 1996年に自衛隊初の心理幹部に就任してから、色々な場所に派遣されてカウンセリングをしたり、講演をしたり、最初の著書を執筆したり、家を建てたり、新しい車買ったりと、私も、多数のライフイベントが重なっていたんです。 そんな折、アメリカで「9.11」テロが発生し、よりメンタルヘルスの重要性が認知されるようになりました。張り切った私はより精力的に仕事をしていたのですが、ある講演のときに急に吐き気がして話せなくなって講演を中止して、そのまま倒れてしまったんです。 わび:それは大変ですね。 下園:講演では「誰でもうつになる」と言いながら、自分は絶対にならないという変な自信がありました。でも、まんまとそうなったわけです。 翌日には師団等の幹部約500名を集めた重要な講演があったのですが、それもドタキャンさせてもらいました。私がラッキーだったのは、それを許容できる職場だったことですね。講師役を変わってくれる勇気ある同僚もいたし、メンタルヘルスを担当する部署だったので、休める雰囲気もあったのです。信頼できる精神科のドクターと一緒に活動していたので、すぐに受診し、うつの診断をもらいました。 休養のため1カ月は完全に休みを取り、休み後も業務量を絞って勤務をするうちに、1年ほどで元の状態に戻ることができました。「また壇上で喋れなくなったらどうしよう」という恐怖のあった講演の仕事も、復帰から1年経った頃には再びできるようになりました。 ■うつからの回復には「自信」がポイントになる わび:復活するきっかけはあったのですか? 下園:やはり「自信」を回復したことでしょう。自信とは、成功を重ねて、「もう失敗しないだろう」という予測ができるようになることだと思うんです。 私の場合は、先ほども言ったように周りの理解のもとに少しずつ仕事をできたことにあると思います。カウンセラーとしてクライアントと面談をする際にも、回復を焦らないように抑えつつ、ある段階からは1歩ずつ挑戦して、「できた」という達成感を積み重ねて自信にするように伝えています。 わび:私の場合も、小さな達成感の積み重ねでメンタルダウンから回復しました。医師の指示に従いながらトレーニングをしたり、神社の御朱印巡りをしたりすることで、職場復帰への自信をはぐくむことができたんです。 下園:それはよかった。 わび:復帰後には、陸上自衛隊のある学校へと異動になるのですが、そこでの自衛官との出会いが私を大きく変えました。「自衛官はかくあるべき」と凝り固まっていた思考から、人生という物事を戦略的、大局的に見る術を獲得できたのです。 その方は高度な知識を持っていましたが、いわゆる出世コースからは外れた人でした。以前の自分でしたら、自分の目標とする自衛官ではないとたいして気にもしなかったかもしれませんが、その生き方は爽快で、組織にとって本当に必要だと思うことは、上司に忖度することなく意見していました。 この方の「人生戦略」とも言える生き方、考え方は、私のメンタルを回復する土台となりました。 下園:わびさんのキャリアを拝見していると、今の言葉は非常に納得できます。AOC(幹部上級課程)では戦術・戦略についても学びます。ただ、一般的な自衛隊幹部は、AOCで学んだことをきちんと理解できる人はそれほど多くないと思っています。なぜなら、現場での経験が少ないから。また、戦場では当たり前の「人の極限の心理状態」を知らないから。 でも、わびさんはAOC入校前から師団司令部に所属し、宮崎県の口蹄疫問題や東日本大震災などの災害派遣の実績もある。さらに幸か不幸かメンタルダウンを経験した。だからこそ、その戦術的・戦略的な考え方を自分のものにできたのだと思います。その知識を生かし、退官後も異なる職場で活躍できている。しっかりとレジリエンス(しなやかな回復力)を身に付けられたのとだと思います。 わび:ありがとうございます。 ■うつからの回復は慎重に、でもどこかで勇気も必要になる 下園:もうひとつ、わびさんのキャリアで良いチョイスだと思ったのが、メンタルヘルス回復期の熊本地震の災害派遣です。 わび:私も運命的な出来事だったと考えています。職場復帰から3年ほどの時間が経っていましたが、薬は手放せず、メンタルダウン以前の自信を取り戻せてはいませんでした。その頃に熊本地震が発生しました。 災害派遣に参加することに周囲の人は反対しましたが、熊本は幹部候補生学校を出た後に最初に配属されたところであり、東日本大震災での活動経験もある私にとっては、なかば使命感のような思いから志願したんです。 災害派遣先の南阿蘇司令部は、師団長自らが指揮をとる緊張感のある現場でした。まったく知り合いもおらず、手探りの任務でしたが最終的に「来てもらってよかった」との言葉をいただけたのです。それがすごく自信になりました。 下園:うつからのリカバリーは、とても難しいことです。沈んでしまった心をなんとか引き上げて現実に向き合えるまで持ってこなければならないのですが、どのステージで挑戦するのかのチョイスが大事です。私もカウンセリングで、「焦らないで復帰しよう」と伝えながら、どこかのタイミングで、「勇気を出してやってみよう」と背中を押すようにしています。周囲が反対したにもかかわらず、飛び込んでいったわびさんの勇気は素晴らしいと思います。 ※後編「五月病、六月病にも効く「心の予防注射」とは? うつで地獄を見た元自衛官2人が話す、本当に役に立つメンタルスキル」へつづく (構成/星政明) 下園壮太(しもぞの・そうた)1959年、鹿児島県生まれ。NPO法人メンタルレスキュー協会理事長。元・陸上自衛隊衛生学校心理教官。1982年、防衛大学校を卒業後、陸上自衛隊入隊。筑波大学で心理学を学び、1999年に陸上自衛隊初の心理幹部として、多くの自衛隊員のメンタルヘルス教育、リーダーシップ育成、カウンセリングを手がける。2015年に退官し、講演や研修を通して、独自のカウンセリング技術の普及に努める。惨事ストレスに対応するMR(メンタル・レスキュー)インストラクターでもある。主な著書に『自衛隊メンタル教官が教える 心の疲れをとる技術』『自衛隊メンタル教官が教えるイライラ・怒りをとる技術』(以上、朝日新書)など多数。 わび航空業界で働く危機管理屋。某国立大学卒業後、陸上自衛隊幹部候補生学校に入隊。高射特科大隊で小隊長、その後、師団司令部や方面総監部で勤務。入隊後10年間は順風満帆だったが、早朝から深夜までの激務と上司によるパワハラが重なり、メンタルダウン。第一線からの異動を経て、「出世ばかりが人生ではない」「人に認められるためではなく、もっと楽しく生きたい」と思い、市役所に転職。激務だった自衛隊時代に比べると天国のような場所だったが、自らの成長の機会を得るため、転職後1年半で航空業界にキャリアチェンジ。給料は市役所時代の倍に跳ね上がった。自衛隊などの社会人経験で身につけたメンタルコントロール術、仕事や人間関係に対する向き合い方などを中心にツイッターで発信を開始。普通の会社員にもかかわらず、開始して2年で8万人フォロワー突破。ツイートはネットニュースにも取り上げられ、人気を博している。著書に『メンタルダウンで地獄を見た元エリート幹部自衛官が語る この世を生き抜く最強の技術』(ダイヤモンド社)。
dot.
6/6
-
12
契約金“5億円超え”で騒動になった男も 期待外れに終わった「ドラ1大型左腕列伝」
身長190センチ前後の大型左腕といえば、現役では、188センチの山崎福也(オリックス)、191センチの上原健太(日本ハム)、日本人左腕歴代最長身、193センチの弓削隼人(楽天)が該当する。彼らはアマチュア時代から“和製ランディ・ジョンソン”の異名で呼ばれることが多いが、過去には「将来のエース」と期待されながら、不発に終わった者も少なくない。 新人王候補と期待されながら、プロで伸び悩んだのが、2004年に自由枠で横浜に入団した192センチ左腕・那須野巧だ。 日大時代は4年の春に優勝投手になるなど、通算22勝を記録。最速149キロの速球は「ホームベースの1メートル手前から伸びる」といわれた。 1年目は5月15日の日本ハム戦でプロ初先発初登板デビューも、初回に小笠原道大と新庄剛志にタイムリーを浴びるなど、6回4失点と力みから制球を乱し、「さすがに緊張した。1軍は甘くないなあと」とプロの厳しさを味わった。 その後、5月22日の西武戦で5回4失点ながら、うれしいプロ初勝利を挙げたものの、同29日のロッテ戦は里崎智也に満塁弾を浴び、1回4失点KOで中継ぎに降格。1年目は1勝2敗、2年目も3勝8敗と不本意な成績に終わった。 さらに翌07年は、開幕直後の4月11日に入団時の契約金が最高標準額(1億円プラス出来高5000万円)を大幅に超える5億3000万円だったことも明るみになる。 そんな騒動のなか、「グラウンド上で精一杯のプレーをして結果を出す」と誓った那須野は、4月24日の巨人戦で、夫人の出産に立ち会うため、一時帰国した守護神・クルーンの代役として8、9回を抑え、プロ初セーブを挙げた。 だが、同26日の巨人戦では、1点リードの8回から三浦大輔をリリーフした直後、4連続長短打を浴び、三浦の2年ぶりのG戦白星を消してしまう。 先発に戻った08年も5勝12敗、防御率6.47と安定感を欠き、翌年以降は1勝もできないまま、「最後まで熱いものがなかった」と、11年のロッテを最後にユニホームを脱いだ。 高校時代に“和製ランディ”の異名をとりながら、プロでは通算1勝で終わったのが、ロッテの190センチ左腕・木村優太(本名・雄太)だ。 秋田経法大付時代は甲子園に出場していないが、素質豊かな最速144キロ左腕に12球団がこぞって注目した。 2003年春、筆者は取材で会った広島のスカウトから「今年のウチの1位は木村で決まり」と聞かされた。同郷の秋田出身のスカウトが密着しているという。 だが、同年のドラフトでは、木村はどの球団からも指名されず、東京ガスに入社したので、「広島の話は?」と首を捻ったことを覚えている。 その後、07年春に西武の裏金問題が発覚し、木村が高校時代から「栄養費」を貰っていたことが明らかになった。1年間の謹慎処分を受けた木村は、解禁後の08年の都市対抗で活躍し、ロッテに1位指名で入団する。 2年間2軍暮らしのあと、西本聖コーチとフォーム改造に取り組み、11年8月24日に1軍初昇格。同日のソフトバンク戦に7回からリリーフで初登板をはたすと、1イニングを1安打無失点に抑え、内川聖一、カブレラから三振を奪った。 だが、初勝利までの道のりはさらに遠かった。15年4月8日のオリックス戦、先発・木村は初回を除いて毎回走者を出しながらも、5回を1失点と踏ん張る。そして、0対1の5回に今江敏晃の逆転2点タイムリーが飛び出し、7年目の初勝利を手にした。 「長かった。やっと勝てたなという気持ち。アマチュア時代から気にかけてくれている人も多いので、勝てて良かった」と笑顔を見せた29歳の遅咲き左腕だったが、4月15日の日本ハム戦では、大谷翔平に2点タイムリー二塁打を浴びるなど、4回途中5失点KO。その後は結果を出せないまま、翌16年シーズン後に戦力外通告を受けた。 1軍デビュー直後にあっと驚く快投を演じながら、エースになることができなかったのが、楽天の191センチ左腕・片山博視だ。 報徳学園時代に2度甲子園に出場。打者としても高校通算36本塁打を記録した片山は、投打いずれもドラフト上位候補と注目され、05年の高校生ドラフトで楽天から1巡目指名を受けた。 1年目に肘を痛め、一時は130キロも出ない苦境を克服した片山は、08年に1軍初昇格。2度目の先発となった7月2日のロッテ戦では、「逃げない」の言葉を胸に刻み、6回1死一、三塁のピンチに、ベニー、ズレータを連続三振に切って取る。9回2死三塁も、今江を遊ゴロに打ち取り、鮮やかな3安打完封でプロ初勝利を挙げた。 「まだ実感がわかないです。1軍で勝ちたい気持ちでやってきた。この3年間はあっという間でした」と初々しいコメントを口にする21歳の若武者に、野村克也監督も「ナイスゲーム!よく踏ん張ってくれた。あの子の真っすぐはスライスする。いわゆる“真っスラ”なんだ。右打者が詰まるのはそれ」と賛辞を惜しまなかった。 だが、その後は相次ぐ故障から15年に打者転向、16年に投手復帰、さらにはトミー・ジョン手術と苦闘を続けた末、育成契約の17年を最後に退団。18年からBCリーグ・埼玉武蔵で主に野手、現在はコーチ兼野手として登録されている。(文・久保田龍雄) ●プロフィール久保田龍雄/1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。最新刊は電子書籍「プロ野球B級ニュース事件簿2021」(野球文明叢書)。
dot.
3/12
-
13
猿之助と“恋仲”疑惑のマネジャー・A氏の両親を直撃 偽名&ギャラ100万には「ひどいですよね、違います」
歌舞伎俳優の市川猿之助(47)が「一家心中」を図ったとみられる事件で、父親の市川段四郎さん(享年76)と母親の延子さん(享年75)が亡くなってから約3週間がたった。司法解剖の結果、両親の死因は向精神薬中毒死の疑いとされたが、いまだ多くの謎が残されている。そのひとつが、猿之助が書いたと思われる「遺書」に記されていたという運転手兼マネジャーの俳優・A氏の存在。猿之助とA氏は「恋人関係にあった」と報じるメディアもあるが、真相はどうなのか。A氏の両親を直撃した。 * * * 「週刊文春」(6月8日号)は、A氏を知る歌舞伎関係者の話として、A氏と猿之助について「(2人が)恋人関係にあることは周知の事実です」と報じた。同誌によると、猿之助はA氏に2通の「遺書」を残したとされ、そこには<愛するA 大好き 次の世で会おうね>などと書かれていたという。だが、記事ではA氏には女性の恋人がいたという状況証拠を示したりしながら、A氏の人柄について特集した。最後はA氏本人にも直撃しているが、記者の質問に対して、A氏が「違います。タカハシです」と他人を装ったり、「おしゃべりするんだったら、ギャラを100万くらいいただけますか?」など金銭を要求してきたやりとりを詳報している。 はたして、A氏とはどのような人物なのか。AERA dot.はA氏を最もよく知るであろう両親のもとを訪ねた。 最寄り駅からバスに10分くらい乗ると、宅地開発によって造成された住宅街に着く。そのバス停から5分ほど歩くと、A氏の実家がある。庭の盆栽の緑が鮮やかな一軒家で、手入れがよく行き届いていた。 近所の主婦はこう話す。 「Aさんのお父さんは、若い頃にテレビの青春ドラマで活躍した有名な俳優さんです。ご両親はここに住んで40年近くになるかな。Aさんは6人きょうだいで育ち、みなさんもう家を出ていらっしゃると思います。現在はご夫妻だけで住まわれているようです。時々、散歩をしているのをお見かけしますよ」 Aさんは次男として、この家で育った。自身のブログでは6人きょうだいであることを明かし、6人のうち5人が男で、妹が1人いるとつづっていた。また、両親と久しぶりに回転寿司に行ったことなども楽しそうに書いている。 そんなA氏は父親に憧れ、若いころから芸能活動を開始したが、俳優としてはヒット作に恵まれず、鳴かず飛ばずだった。それが、数年前に猿之助に見初められてから、歌舞伎の舞台で重要な役に抜擢されるようになったという。父親もA氏も、猿之助の舞台に上がった経験がある。 はたして、猿之助とAさんとの関係は「週刊文春」に書かれた通りなのか。実家から出てきた母親に直撃した。 ――息子さんのAさんについてお聞きしたい。 「すいません、今、何も話はできませんので」 ――「週刊文春」がAさんを直撃したら偽名を名乗り、「おしゃべりするんだったらギャラいただけますか? 100万くらいいただけますか。先払いでお願いします」と答えたと報じていましたが。 「ひどいですよね」 ――それは本心からでしょうか。 「違いますよ」 ――Aさんと猿之助さんは「恋人関係」にあるとも報じられています。 「とんでもない、誤解です」 ――「週刊文春」によれば、猿之助さんの自宅にはAさん宛ての遺書が残されていて、スケッチ用のキャンバスに<愛するA 大好き 次の世で会おうね>、仏壇の前には<Aを養子にし、遺産の全てを相続する>などと相続についての書き置きもあったと報じられました。実際、どうなのでしょうか。 「わからないです。猿之助さんに聞くしかないです」 ――Aさんは猿之助さんのマネジャーみたいなことをやっておられたんでしょうか。 「はい、そうですね」 ――地方巡業の時には一緒にホテルに泊まったとか。 「それは知らないです。わからないです」 ――旦那さんは今、ご在宅ですか。 「今、いないです」 そう言って、母親は自宅の中に入った。 しばらくすると、マスクをした男性がバイクに乗って帰ってきた。 「お父さまですか」と聞くと、「はい」と答えた。 ――私も昔、テレビドラマを見てました。ヒット曲も聴いてました。 「あ、はい」 ――いろいろと報道されていますが、実際のところ、どうなんでしょうか。 「今、猿之助さんがお話しない以上、こちらは何もお話できませんから」 そう言い残して、母親が開けた玄関の中に入って行った。 松竹は猿之助さんの10月までの公演の休演を発表し、公式HPで現状をこう説明した。 「現在も様々な報道がなされておりますことは弊社としても承知いたしておりますが、依然として事態の解明が途上でございますので、弊社としましてコメントや経緯に関するご説明等は引き続き差し控えさせていただきたく存じます」 病院に搬送される途中で、「家族会議をした」と話したという猿之助。まだ警察による事情聴取が続いているが、密室の中での出来事だけに捜査は難航も予想される。真相解明を待ちたい。 (AERA dot.編集部・上田耕司)
dot.
12時間前
-
14
多様性の時代、女性・女系天皇を容認で「誰もが生きやすい国」に 古川隆久・日本大教授
皇位の継承が男系男子に限られている現在、安定的な皇位継承が危ぶまれている。皇室の存続のために制度改正が求められるが、女性・女系天皇をめぐる議論は停滞したままだ。なぜ議論は進まないのか、そしてこれからの皇室のあり方について日本大学教授・古川隆久さんに聞いた。AERA 2023年6月12日号の記事を紹介する。 * * * 皇室を存続させていくためには、女性・女系天皇を容認するしかありません。大切なことは、次に皇室で生まれる人から制度を適用するということです。 いま皇室にいる未婚の女性皇族は、結婚後に皇族の身分を離れることを前提として人生設計をしてきました。一方の悠仁さまは生まれて以降、いずれ皇位を継ぐ存在として過ごしてきた。この状況で、急にルール変更をすると大混乱が起きるのは当然のことです。愛子さまと悠仁さまのどちらがいいか、悪いかといった下品な話にもなってしまう。何よりご本人たちに、非常に酷です。「次の代から」として、今のうちに制度設計をしておけば、混乱は最小限にとどめることができると思います。 2021年4月、菅義偉内閣の時に、安定的な皇位継承のあり方を議論する政府の有識者会議のヒアリングを受けました。冒頭の意見を出しましたが、全く採用されず、同年12月の報告書では、女性・女系天皇への言及すらありませんでした。 私が意見を出した有識者会議のヒアリング相手は、保守派に偏っていたようにみえます。私は、保守派でも左派でもない真ん中にいる人間ですが、あの会議の中では私が最も「左」のひとりでしたから。05年11月、小泉政権の時の有識者会議では、女性・女系天皇を容認する最終報告書が出されているのに、大きな後退です。保守派の「伝統を守る」という現行憲法には出てこないような話にごまかされているから議論が進まないのです。 旧宮家を皇族に復帰させて婿養子にする案がありますが、それはつまり、女性皇族が恋愛結婚できなくなるということです。それでいいのでしょうか。 旧宮家の中には、結婚適齢期の方もいますが、本人はもちろん、父親と母親も皇族だったことはありません。祖父母が幼い頃に皇族だった時期があるだけで、その後は代々一般人として暮らしてきたわけです。天皇と血筋が離れている場合もある。その人たちの皇族復帰について、国民の理解は得にくいと思いますし、いずれ行き詰まってしまうでしょう。 諸外国の王室の多くが長子相続です。男系でも女系でもきちんと血は繋がっていますし、いずれ王室での同性婚なども出てくる。そんな多様性あふれる時代に、日本が男系男子にこだわる理由を説明できますか? 中には、女性の社会進出やジェンダーフリーに反対する声があるようですが、それは自由な人権を認めていないということです。そんな状態では、日本に住む人はいなくなってしまいます。天皇が日本衰退の原因になりかねないということです。女性・女系天皇を容認してこそ、誰もが生きやすい国になるのです。 皇位継承問題の先送りが続いています。令和への代替わりも終わり、小室眞子さんのご結婚をめぐる騒動も一段落。目立った行事のない今だからこそ、落ち着いて議論すべきです。次の代が生まれる前に、もっと言えば、悠仁さまが結婚適齢期に入る前にルールを整えておく必要があります。今すぐ始めないと、皇室は本当に絶えてしまうと思います。(構成/編集部・古田真梨子) ※AERA 2023年6月12日号
AERA
21時間前
-
15
ロバート・グラスパーが若手にダメ出し 現代ジャズ最高峰ミュージシャンにインタビュー
アルバム「ブラック・レディオIII」で5度目のグラミー賞(第65回グラミーション/ベストR&Bアルバム)を受賞したことも記憶に新しいロバート・グラスパー。5月に来日公演を行った世界的ジャズミュージシャンへの単独インタビューが実現した。 * * * ■来日公演は連日ソールドアウト 5月29、30日にBillboard Live東京で行われた来日公演は、全ステージが発売早々にソールドアウト。日本での人気ぶりを改めて証明した。 まず登場したのはDJのジャヒ・サンダンス。先鋭的なヒップホップがプレイされるなか、ロバート・グラスパーとバーニス・トラヴィスII(ベース)、ジャスティン・タイソン(Dr)がステージに上がり、演奏がはじまった。ジャズ、R&B、ヒップホップ、オルタナティブ・ロックなどを融合したアンサンブル、メンバー個々のセンスと技術を活かしたインプロビゼーション。ジャズの伝統と革新を同時に感じさせる演奏で満員の観客を惹きつける、最高のステージだった。 2010年代以降の世界のジャズシーンを牽引し、多くのミュージシャンに影響を与えているロバート・グラスパーは、日本でも頻繁にライブを行ってきた。昨年12月、コロナが少し収まりかけていた時期にいち早く来日し、カウントダウン・ライブを行ったことも印象に残っている。 「自分のスタジオを作って、娘が誕生して。パンデミックの時期も良いことはたくさんありました」というロバート・グラスパー。昨年からはツアーも再開し、度々日本を訪れている。 「日本には20年くらい前から何度も来ています。日本の文化やファッションが好きだし、何より音楽を好きでいてくれる日本の人たちが大好きなんです。私にとって日本は、平和を感じられる場所。その雰囲気を吸収した状態で曲を作るのは、すごくいいことだと思います。とにかくずっと旅をして、演奏しているので、無意識のうちに何かに影響されたり、受け取っているものがあるんでしょうね。日本に来たら必ず買うもの? 僕は日本のファッションが好きだけど、残念ながら自分には合うサイズがない(笑)。妻や子どもは着物がほしいと言っています。必ず買うものはキットカットかな。いろんな味があるのは日本だけだから(笑)」 ■音楽シーンを席巻した『ブラック・レディオ』 00年代前半からジャズミュージシャンとして音楽活動をスタートさせたロバート・グラスパー。彼の名が世界中に届いたきっかけは、「ロバート・グラスパー・エクスペリメント」名義で2012年に発表した『ブラック・レディオ』だった。ジャズ、R&B、ヒップホップなどを自在に取り入れた音楽性は当時の音楽シーンに衝撃を与え、史上初めて4つのジャンルのチャート(ヒップホップR&B、アーバン・コンテンポラリー、ジャズ、コンテンポラリー・ジャズ)で同時にトップ10入りしたアルバムとなった。 「『ブラック・レディオ』は当時の音楽業界にとても大きなインパクトを与えたし、本当に多くの人たちをインスパイアした作品だと自負しています。今となってはクラシック・アルバムですが、自分でも誇りを覚えますね。あのレコードによってジャズはいろんなジャンルと融合できることを証明できたと思うし、いろんなタイプのミュージシャンとコラボすることが増えた。自分の活動が広がったんですよね」 『ブラック・レディオ』以降、ジャズの姿は大きく変わった。アメリカ、ヨーロッパ、そしてここ日本でもジャンルの交流が進み、優れた作品が次々と発表されたのだ。ロバートは長い間止まっていたジャズの時計を再び動かしたと言っていいだろう。 「音楽は同じ場所に留まっているのではなく、動き続けるべき、進化するべきだと思っています。それを私に教えてくれたのは、トランペット奏者のロイ・ハーグローヴ。ヒューストンの芸術系の高校に通っているとき、学校に教えてきてくれて、その後、ツアーにも帯同したんです。ジャズを進化させようとする彼にインスパイアされて、“次は自分がその役割を担わなくてはいけない”と思うようになりました」 ■目指すのはコミュニティを作ること ロバートは、数多くのミュージシャンとの共演やコラボを繰り返していることでも知られる。最近ではカマシ・ワシントン(サックス)、テラス・マーティン(サックス/プロデューサー)――いずれも現代のジャズを象徴する存在だ――と“ディナー・パーティー”を結成。LAのフェス<コーチェラ2023>に続き、5月に埼玉県・秩父で行われたジャズフェスティバルにも出演を果たした。 「才能のあるミュージシャンと一緒に音楽を生み出すことは本当に刺激的だし、これからも続けたい。ただ、基本的には“自分が好きな音楽を作る”ということがいちばん大事だと思っています。自分のやり方で自分がいいと思う音楽をクリエイトし、みなさんがそれを気に入ってくれたらいいな、と。私の音楽を通して初めてジャズを知り、ジャズクラブに来てくれる人も多いですからね。ただ、それは自分のゴールではなくて。私が目指しているのは、いろいろな世代、いろいろなジャンルのミュージシャンが集まるコミュニティを作ることなんです。日本人のミュージシャン、BIG YUKIもその一人です」 ■若い世代に言いたいこと 「下の世代のミュージシャンから刺激を受けることも多いです。“トラップ・ハウス・ジャズ? なんだそれは?”と新しいジャンルについて教えられることもあるので」という笑顔で語るロバート。一方で彼は、「“若いミュージシャン、ラクしてないか?”と思うこともある」と苦言を呈する。 「音楽大学の学生から、インスタのDMなどで“あなたの楽曲の楽譜を見せてくれませんか?”と言われることがあるんですが、そういうときは“自分で聴いて、譜面に起こして、練習しろ”と返します。私が若いときは、ハービー・ハンコック、チック・コリアといった素晴らしいミュージシャンの作品のCDやカセットテープを聴き、譜面を書き、ひたすら弾いた。そうやって耳と身体と感覚を使って音楽をやってきたからこそ、今の自分があると思っています。筋肉はトレーニングで鍛えるべきで、簡単に身に付けることはできない。怠け者になるな!と言いたいですね」 2022年にリリースされた『ブラック・レディオ3』は、コロナ渦の真っ只中で制作された作品だ。しばらくは「ずっと家のカウチに座っていなくちゃいけなくて、退屈でした」という状態だったが、つながりのあるミュージャンたちとリモートでやりとりし、遠隔的なセッションをスタートさせた。また、パンデミックの最中にアメリカで起こったさまざまな出来事も、彼に大きな刺激を与えたという。 「ジョージ・フロイドの死、それに伴う抗議運動。LAの自分の家の近所でビルが燃えたこともあったし、あの時期、アメリカで起きていたことは『ブラック・レディオ3』に強く反映していると思います。このアルバムに収録した『ブラック・スーパーヒーロー』という曲は、若者、特に黒人の若者に向けています。彼ら、彼女らにとって大切なのは、尊敬できるヒーローのような存在の人がいるということ。何が正しくて、何が間違っているか。夢を持つことの大切さ、そして、それを叶えることが可能なんだと教えてくれる人ですね」 あなたにとってのヒーローは?と訪ねると答えは「母親」だという。 「私にとってのヒーローは、母です。昼はオフィスで仕事をして、夜はクラブで歌って、私のためにすごくがんばってくれた。母のおかげで自分は音楽に囲まれて育ったし、影響はとても大きいです」 (森朋之) ロバート・グラスパー(Robert Glasper)/ジャズ/ゴスペル/ヒップホップ/R&B/オルタナティブ・ロックなど多様なジャンルを昇華したスタイルで、次世代ジャズの最重要人物として注目を集める現代最高峰のピアニスト。2012年、“エクスペリメント”名義でリリースした『ブラック・レディオ』が第55回グラミー賞「ベストR&Bアルバム」部門を受賞。ピアニストとしては初の受賞という快挙を達成する。20年にはH.E.R.とミシェル・ンデゲオチェロをフィーチャーした「Better Than I Imagined」で第63回グラミー賞最優秀R&Bソングを獲得。22年2月にリリースした『ブラック・レディオ3』は、第65回グラミー賞で「最優秀R&Bアルバム賞」を受賞。 *取材協力:ビルボードライブ
dot.
6/7
-
16
沢田研二をスーパースターにした加瀬邦彦「一番苦手なことをしよう。踊るんだ!」
グループサウンズ(GS)の頂点にいた沢田研二(ジュリー)を、日本全国津々浦々、老若男女を魅せる「スーパースター」にしたのは、希代のプロデューサー、加瀬邦彦だ。ザ・ワイルドワンズのリーダーでギタリストだった加瀬は1960年代後半に若者たちが巻き起こしたGSブームをどう生き、そしてジュリーをつくりあげたのか。 1966年6月、日本武道館。斬新な音楽性で世界中を席捲したザ・ビートルズの日本公演には、数多の若者が押し寄せた。その人波、25歳の加瀬の姿もあった。本来であれば、加瀬は寺内タケシとブルージーンズのメンバーとして前座を務めるはずだった。しかし出演者はビートルズと接触はおろか観覧さえできないことを知り、直前にグループを脱退。一観客として会場にいたのだ。 当時、日本の音楽シーンではビートルズや後続のザ・ローリング、ストーンズの影響を受けたミュージシャン達によってグループサウンズブームが盛り上がりつつあった。1966年3月にジャッキー吉川とブルー・コメッツがリリースした「青い瞳」は販売数50万枚といわれるヒットに。以前、加瀬が短期間所属していたザ・スパイダースも、いまだヒット曲はないものの着々と存在感を増してきていた。この頃の加瀬の置かれた特殊な境遇について、ザ・ワイルドワンズの島英二は語る。 「ブルージーンズを脱退した際、普通ならクビになるところを渡辺プロダクションから強く引き留められたそうです。それだけ加瀬さんは周囲から才能を期待されていたのでしょう」 ビートルズの武道館公演前後から、加瀬は渡辺プロからの期待に応える形でワイルドワンズの結成に向け動き出していた。まず加瀬の誘いに応じたのはドラマーの植田芳暁。 「当時、僕は早稲田の大学生になる前の浪人生で、アメリカンスクール在学中の友達とバンドを結成していたんですが、ある時、池袋のデパートの屋上で開催された『日米対抗バンド合戦』というイベントに出演しました。加瀬さんはイベントに協賛していたYAMAHAの方から『ドラムを叩きながら歌える珍しい奴がいた』という評判を聞いて連絡をくれたんです。『あの加瀬さんから誘いが来た!』と驚きましたが、日比谷で初めてお会いした時のアイビールックの洗練されたファッションと誠実な人柄にはさらにシビれました。条件もとても良かったし、すぐに加瀬さんと一緒にやっていこうと心に決めました」 植田に続き、加瀬は人づてに鳥塚しげき、島らをメンバーに抜擢。いずれも関東の学生バンドシーンではホープと目されていた面々だが、年齢は6、7歳年下。ミュージシャンとしてめざましい前歴があるわけではなかった。加瀬がワイルドワンズで目指していたバンド像について「加瀬さんはビートルズのようなグループを目指しながらも、音楽的にはアメリカ西海岸で流行っていたウエストコーストサウンド、たとえばバーズやママス&パパスのようなフォークロックを志向していました。また下積みのようなことはせず、初めからレコードデビューやその後のメディア露出を前提に活動していくとも言っていました。業界に染まった感じじゃなく、学生らしいさわやかさを前面に押し出したイメージを描いていたんですね。加瀬さんは学生時代から加山雄三さんと親交があったことが有名ですが、音楽界、芸能界だけじゃなく美術界、演劇界など交友関係が幅広く、当時から際立ったセンスとプロデュース眼のある人でした」と鳥塚。加瀬の戦略はみごと功を奏し、1966年11月にリリースしたデビュー・シングル「想い出の渚」は公称100万枚超の大ヒットに。爽やかなコーラスと加瀬の奏でる12弦ギターの響きは今も多くの人に愛されている。 その後も「愛するアニタ」(1968年)、「バラの恋人」(1968年)といったヒットをものにし、またザ・タイガースに「シー・シー・シー」(1968年)を提供するなど、ソングライターとしても注目を高めていった加瀬。1971年にワイルドワンズが解散してからは沢田研二付きの作曲家、音楽プロデューサーとして辣腕をふるった。当時、渡辺プロの社員として沢田のマネージャーを担当した森本精人は当時の加瀬について次のように語る。 「加瀬さんが関わるようになったのは『許されない愛』(1972年)からでしょうか。曲作りとビジュアル面やステージの演出を担当していただきました。印象的なのは、沢田が『シャボン玉プレゼント』(ABCテレビ)でポール・アンカの『ダイアナ』をカバーして歌った時。加瀬さんから『森本、沢田のダイアナはどうだった?』と聞かれ『とても良かったと思います』と答えたのですが、それからしばらくして出来上がってきたのがあの『危険なふたり』(1973年)でした。『ダイアナ』と同じく年上の女性への愛を歌った内容でロカビリー調。ご存じの通り大ヒットをおさめるわけですが、沢田の魅力を引き出すことにかけては加瀬さんの右に出る人はいませんでした」 1970年代から1980年代にかけ、加瀬は沢田という時代の偶像を通して日本の音楽シーンに大きな変革をもたらしてゆく。 「加瀬さんの功績は楽曲提供もさることながら、早川タケジさんをアートディレクターに抜擢したことです。当時はいち歌手にアートディレクターが付くなんて思いもしない時代でした」と森本。セツ・モードセミナー出身のイラストレーターで、当時、テレビCMのスタイリストとしても注目を浴びつつあった早川。彼の先進的なセンスを知った加瀬は、共通の知人を介して沢田のプロジェクトチームに加わるよう懇願したのだ。早川は当時の加瀬との仕事について「僕が加瀬さんとご一緒したのは『危険なふたり』の少し前から1980年代前半のEXOTICSの時期まで。メイクやボディーペイント、ギラギラの衣装、ずいぶん過激でアブノーマルな演出を提案したと思うんですが、加瀬さんはそれを全部面白がって実現してくれました。ロック以外に、ハリウッドミュージカルや宝塚など、レビュー全般にも強い興味をお持ちの方でした。私も歌舞伎や映画全般、ミュージカルにも興味がありましたので、仕事面では大変気が合いました。あんなに豊かなエンターテイメント観を持ったプロデューサーは後にも先にも加瀬さんしか知りません。おまけに人柄が良くて、器の大きい方でした。子供の頃から変わり者で対人関係の苦手な僕だけど、加瀬さんといて嫌な思いをしたことは一度たりともなかったです」と懐かしむ。 加瀬のプロデュース力は「勝手にしやがれ」(1977年)、「カサブランカ・ダンディ」(1979年)など自身が制作に関わっていない楽曲でも発揮され、1980年の「TOKIO」で大輪の花を咲かせた。貧しさを忘れ、経済大国となった日本の首都・東京の栄華と反面の孤独を、当時最先端のテクノポップサウンドに乗せて歌ったエポックメイキングな楽曲だ。「『TOKIO』のシングル盤は1980年1月1日リリース。流通の事情を考えたら普通あり得ませんが、『この曲で1980年代が始まるんだ』という意気込みで関係先に頼み込んで実現しました。この難プロジェクトを先導したのは加瀬さん。紅白歌合戦が終わった後、生放送番組「ゆく年くる年」(NHK)で沢田が大きなパラシュートを背負ってこの曲を披露した時は痛快でしたね。この曲以降、沢田はよりビジュアル重視にシフトチェンジしてゆくのですが、それに合わせバックバンドをデビュー以来の井上堯之バンドから若いバンドに切り替えるよう決断したのも加瀬さんでした」(森本) 沢田と並行してアグネス・チャンやアン・ルイスらにも盛んに楽曲提供し、作曲家としての地位を確立した加瀬。1981年にはワイルドワンズを再結成し、ふたたび自身の表現活動にも積極的に取り組むようになった。その後、徐々にマイペースな活動にシフトした加瀬だが、2010年に沢田研二とコラボレーションした「ジュリー with ザ・ワイルドワンズ」では久々に往年の辣腕プロデューサーぶりを発揮したという。 「突然言い出したのでびっくりしましたが、『渚でシャララ』(2010年)というシングルでオリコン1位を目指そうと。聞けば長年プロデューサーを務めた恩返しなのか、もう沢田君も了承してくれてると言うんです」(植田)「『ただ演奏するだけじゃつまらないから、俺たちの一番苦手なことをしよう。踊るんだよ!』と言われて『えーっ!』と。みんな覚えるのに一週間くらいかかったんだけど『SMAP×SMAP』(フジテレビ)に出た時、SMAPのメンバーたちは1時間もしないうちに完璧に踊っていたのを覚えています(笑)」(島)「結局、オリコン1位は獲れなかったんですが、2010年のライブツアーがミュージック・ペンクラブ音楽賞のコンサート・パフォーマンス賞を受賞したんです。あの企画は僕たちがこれまで生きてきた中でも5本の指に入る印象的な出来事でしたね」(鳥塚)。 その後、70代に差しかかってもももいろクローバーZとコラボレーションするなど、精力的な活動を展開していた加瀬だったが、2014年に咽頭がんを発症。結果、手術で声帯を失ってしまったことは根っからの音楽人である加瀬の心に大きな穴をあけたに違いない。翌年4月20日、加瀬は自宅の洗面所で呼吸用のチューブをふさいだ状態で亡くなっているところを発見された。享年74歳だった。「実は亡くなる5日前にご自宅に会いに行ってたんです。その時はお元気で『俺も腰の手術したから、もし加瀬さんが歩けなくなっても背負っていけるよ』なんて言って笑い合ってたんですが、まさかあんなことになるなんて・・・。正直、今でも立ち直れていない部分があります」(島) 加瀬の死後、経営していたライブハウス「ケネディハウス」を受け継ぎ、ワイルドワンズに加入した次男の加瀬友貴(ともたか)は父についてこう振り返る。 「仕事でもプライベートでも、常に自分がワクワクできるなにかを探していました。子供の僕にたびたび『最近はどんな音楽やファッションが流行ってるの?』と尋ねてきて、その情報をちゃんと自分のものにしている柔軟な人でした。音楽やプロデュース業について『2歩先だと早すぎる。1歩先だとすぐ追いつかれるから1歩半くらい先に進んでるのがちょうどいいんだよ』と言っていたのが印象に残っています。亡くなってしまったことは残念ですが、今は残ったオリジナルメンバーと共に前向きに活動を続けてゆき、父の思いと音楽を後世に受け継いでいきたいと思います」 現在、YouTubeやTikTokなどのSNSでは10代、20代の若者を中心に昭和ポップスのリバイバルが起こっており、そこでは加瀬が奏で、プロデュースした楽曲たちも大きな人気を集める。身体は滅びても、時代を超えて音楽が残る……ミュージシャンとしてこれほどの幸福が他にあるだろうか。常に絶妙なバランス感覚で時代を先んじてきた加瀬の精神、人としてのありようは、今後の音楽人やクリエーターにとっても大きなヒントとなるに違いない。 (一部敬称略) 中将タカノリ(ちゅうじょう・たかのり)/シンガーソングライター・音楽評論家。2005年、加賀テツヤ(ザ・リンド&リンダース)の薦めで芸能活動をスタート。昭和歌謡、アメリカンポップスをフィーチャーした音楽性が注目され、楽曲提供も多数手がける。代表曲に「雨にうたれて」など。2012年からは音楽評論家としても活動。数々のメディアに寄稿、出演し、近年の昭和歌謡ブーム、平成J-POPブームに寄与している。今年5月10日にキングレコードから橋本菜津美とのデュエットシングル「夜間飛行~星に抱かれて~」リリース。
週刊朝日
6/6
-
17
雅子さま 園遊会で「帯留め」をひかえたのはなぜ?主催者としての「おもてなし」の心
東京・赤坂御苑で、天皇、皇后が主催する春の園遊会が開かれた。コロナ禍などにより4年半ぶり、令和になって初めての開催となった。あいにくの雨空となったが、和装をお召しになった皇后をはじめとする女性皇族からは、雨にぬれながら出席した招待客に対するあたたかな「思い」がうかがえた。 * * * 「当時は一緒に何かされることはあったんですか」 皇后雅子さまは、招待客の中で隣り合っていた平昌、北京五輪の金メダリストであるスピードスケート選手の高木美帆さんと、東京五輪で金・銀・銅のメダルを獲得した卓球選手の伊藤美誠さんに、こう話題を振った。 高木さんと伊藤さんは、互いに顔を見合わせてにこやかにうなずき、思いを口にする。 「夏と冬で……」「本日がはじめましてなので」 伊藤さんは、両陛下に目線を合わせてうれしそうに答えた。 「夏と冬の競技がこうして会うこともないので、本当にありがたいです」 強い雨が降りしきる日だったが、その場は笑顔とあたたかな空気に包まれた。 平成の時代に侍従として仕え、駐チュニジア、駐ラトビア特命全権大使などを歴任した多賀敏行・中京大学客員教授は、園遊会での雰囲気の変化に目をみはった。 「主催者の両陛下も招待者も、笑顔でよくお話しされるな、というのが第一印象です。昭和はもちろん平成の園遊会でも、招待者はもうすこし静かな雰囲気でした。その距離感が皇室への敬意を保持していた部分はあります。一方で、令和の両陛下の独特の和やかさが令和流の礎となっていくのでしょう」 ■装いから見える「お気持ち」 園遊会は、天皇と皇后の主催で執り行われる。女性皇族は、外交団への接遇の意味を込めて、和服と洋服を交互でお召しになる。 順序には規則性があり、ある年の春の園遊会が「和装」で秋が「洋装」ならば、翌年の春は「洋装」で秋が「和装」といった具合だ。前回2018年の秋の園遊会が「和装」だったので、今回の園遊会は「和装」となった。 雅子さまは今回、内廷皇族の菊紋である十六葉八重表菊(じゅうろくようやえおもてぎく)の三つ紋の訪問着をお召しだった。 昭和の時代から皇室に着物をつくり、納めてきた「染の聚楽」代表の高橋泰三さんは、雅子さまの思いを見て取る。 「お客さまを招く側は、控えめな装いが基本です。淡い水浅葱色の和服を選ばれたのは、主催者側としての心構えにかなっていらっしゃいます。 流水文様は、夏草や秋草と組み合わせて風景を構築する意匠。染めで仕上げた花は、初夏の草花である花菖蒲でしょうか。もう少し遅いとお召しになれませんので、ちょうどよい柄をお召しですね。菊とともに一部を金駒繍で仕上げられ、流水文様と品よく調和しています」 なかでも泰三さんが注目したのは、雅子さまの帯だ。皇太子妃時代から、和服に帯留めを合わせることはほとんどなかったという。 「本来は、帯留めや宝石は正式な場ではつけず、観劇や食事会などおしゃれとして和服を着る場合に楽しむものでした。主催者である皇后雅子さまが、帯留めもアクセサリーもつけていらっしゃらないのは、さすがでいらっしゃると感じました」 京都の着物には、薄く削りだした貝の真珠層を糸状に細く切って帯や着物に織り込む「螺鈿(らでん)織り」と呼ばれる技術がある。金の合金を1万分の1ミリの薄さまで薄く延ばす石川の金箔(きんぱく)や各地の染めや織り、刺繍など、着物は日本の伝統技術そのものだ。 「着物は、きらきらと輝く螺鈿織りや金箔、刺繍といった技巧が装飾そのものでしたから、石の宝石は必要なかったのです」(泰三さん) 平成の皇后であった美智子さまも、結婚から間もない時期を除いては、公務の場で和服に帯留めやアクセサリーをつけることはなかったという。 ■ファンが多い女性皇族も 一方で、女性皇族の装いのきらびやかさは、多くのファンを惹きつけている。 ひときわ目を引くのは、本振り袖をお召しの秋篠宮家の次女の佳子さまだ。 未婚の女性の第一礼装である本振り袖に三つ紋を入れた格式の高い着物姿。秋篠宮家の家紋は、十四弁の菊花と秋篠宮さまのお印である栂(つが)の枝葉を四つずつ円形に連ねた意匠である。洗いざらされて薄くなった柿色を表す洗柿(あらいがき)色の生地に、さや形の地紋が入った本振り袖だ。 「さや形は卍(まんじ)つなぎを菱状にくずした意匠で、地模様は日のさし加減や角度によって陰影を楽しむことができます。 優しい洗柿色に金彩を配した雲霞(くもかすみ)の文様。雲は雨を呼び豊作を招く吉祥柄。笹と菊、梅といった吉祥の草花を組み合わせたあでやかな柄行きです。 帯は、肩にかかったはねとふくらみのあるお太鼓が美しい、ふくら雀結びのようです。帯の裏地の緑に合わせた緑の総絞りの帯揚げと朱色の帯締めの配色が全体を締めています」(泰三さん) 園遊会の佳子さまは、雨が小降りになると小まめに傘をたたんでいた。すこし上半身をかがめて招待者と目線を合わせながら、笑顔を絶やすことがなかった。明るく快活、同時に相手への気配りを忘れない優しさが伝わる。 あでやかだが、どこかやさしい色と柄行き。佳子さまのイメージにふさわしい着物の装いだった。 実は、女性皇族の和装でファンが多いのは、常陸宮妃である華子さまだ。 この日は、草花と野鳥を描き出した訪問着に、裏雲取りの菱格子柄を配した帯の取り合わせ。「ひときわ目を引くのが、墨黒色と金の帯。こちらは本当によいお品です」と泰三さんは話す。 華子さまは、旧陸奥弘前藩主の津軽家の出身。若いころからごく自然に和装をお召しだ。2015年の園遊会では、羽ばたくカワセミを描いた訪問着が印象的だった。泰三さんの元にも「着慣れていらっしゃる。さすがは、華子さま」といった称賛の声が絶えないという。 次の園遊会では、女性皇族たちは「洋装」をお召しになる。また、あたたかな笑い声に包まれた場になりそうだ。 (AERA dot.編集部・永井貴子)
dot.
5/18
-
18
オコエ、大竹、細川…大成功の現役ドラフト 今オフ注目の「天才打者」にも熱視線
昨年12月にNPB史上初めて行われた「現役ドラフト」は大成功と言ってよいのではないだろうか。 楽天でくすぶっていた巨人・オコエ瑠偉は選手層の厚い外野陣で開幕スタメンを勝ち取り、リードオフマンとして躍動。ソフトバンクから阪神に移籍した大竹耕太郎も先発ローテーションに入り、3試合登板で3勝0敗、防御率0.51と抜群の安定感で首脳陣の信頼を高めている。DeNAで1軍定着できなかった和製大砲・細川成也も中日でクリーンアップに定着。確実性が課題とされていたが、スタメンで出続けていることでリズムをつかんでいる。打率3割を超えるアベレージで殻を破ろうとしている。巨人から広島に移籍した戸根千明も救援投手として躍動。4月15日のヤクルト戦で9回を3者凡退に仕留めると、秋山翔吾の逆転サヨナラ2ランで白星を手にした。 現役ドラフトは、出場機会に恵まれていない選手や才能を生かし切れていない選手に環境を変えるチャンスを与え、球界の活性化につなげる目的で導入された。移籍する選手たちはトレードのコマとしては厳しいが、他球団では需要があるという位置づけがしっくりくるだろうか。オコエや細川のように伸び悩んでいた選手がいれば、阪神から西武に移籍した陽川尚将のように1軍で活躍した実績を持つ選手もいる。 「トレードは交換要員で折り合いがつかず、成立しないケースも少なくない。かといって無償トレードはファンの心情を考えると、なかなか踏み切れない。その点で現役ドラフトは出場機会が少ない選手に他球団でチャンスを与えるという前向きな印象が強い。一昔前と違い、他球団に移籍した選手が活躍することで『放出するべきではなかった』とファンから批判の声が上がる時代ではない。今後も現役ドラフトは選手に新たなチャンスを与える場として注目されるのではないでしょうか」(スポーツ紙デスク) 2023年の現役ドラフトの日程はまだ発表されていないが、球界活性の役目を十分に果たしており、開催される可能性は高いだろう。まだ春先で今後に1軍で活躍することは十分に考えられるが、現状打破できずに伸び悩んでいる選手たちは少なくない。では、新天地で大化けする潜在能力を秘めた選手は誰だろうか。 スポーツ紙記者は、こう分析する。 「プロ6年目の広島・中村奨成は地元出身のスター選手としてドラフト1位で入団しましたが、厳しい立場になっている。捕手は坂倉将吾が中心となり、曾澤翼も控えている。中村奨はファームでも正捕手をつかめていない。左足関節捻挫で戦線離脱して現在はリハビリ生活を送っています。捕手としての評価は他球団でも微妙ですが、打撃センスは高く評価されている。外野手として引き取り手はあると思います。また、巨人の岸田行倫も他球団の評価が高い。攻守のバランスが良い選手ですが、正捕手は侍ジャパンでWBCに出場した大城卓三で、小林誠司もいる。強肩の山瀬慎之助、喜多隆介と若手の成長株も台頭しており、岸田は出場機会を減らしている。26歳という年齢を考えるとこのままくすぶっているのはもったいない」 他球団のスコアラーは評価が高い選手として、西武・高木渉、DeNA・阪口皓亮、阪神・北條史也の名を挙げる。高木は昨年イースタンで本塁打王のタイトルを獲得。パンチ力が魅力の左打者だが1軍に定着できず、プロ5年目の今年も開幕からファーム暮らしで、1軍昇格を目指している。阪口は身長188センチの長身から最速150キロ超の直球が武器の大型右腕。高卒5年目の昨季はイースタンで最多奪三振のタイトルを獲得したが、1軍登板は1試合のみ。ただ、高木と阪口は共に23歳とまだ若い。今後の伸びしろを考えると、素質開花を待つ可能性は十分にある。 一方、北條は立場が異なる。岡田彰布監督が今年から就任し、一塁は大山悠輔、三塁は佐藤輝明に固定。守備力を重視し、遊撃を守っていた中野拓夢が二塁にコンバートされ、遊撃は木浪聖也、小幡竜平がレギュラー争いを繰り広げている。糸原健斗、日本ハムからトレードで移籍した渡邉諒も控えており、開幕2軍スタートの北條は厳しい状況になっている。阪神は右の強打者として重宝されていた陽川が現役ドラフトで西武に移籍したことから、北條もこのままファーム暮らしが続けば、現役ドラフトの候補になる可能性があるだろう。 前出の他球団スコアラーは、こう指摘する。 「現役ドラフトは伸び悩んでいる中堅選手の救済措置の意味合いが強い。その意味では巨人に候補が多い。湯浅大、廣岡大志、北村拓己、若林晃弘…彼らは二遊間を守る選手たちですが、坂本勇人の後継者として期待される中山礼都、門脇誠が一本立ちするようだと、チャンスが少なくなる。阪神の高山俊も現役ドラフトの可能性がゼロではない。低迷している時期が長いのでトレードのコマとして旬を過ぎた感じがありますが、打撃センスは天才的です。環境を変えることでもう一花咲かせられるかもしれない」 ドラフト1位で入団した高山は1年目の16年に134試合出場で打率.275、8本塁打、65打点をマーク。新人王を獲得して将来を嘱望されたが、その後は攻守で精彩を欠いて出場機会を減らしていく。打撃フォームの改造を何度も敢行したが実を結ばず、21年は1軍出場なし。昨年も38試合出場で打率.189、0本塁打、0打点と不本意な成績に終わった。今年は岡田新監督の期待が大きかったが、実戦で結果を残せず開幕2軍スタートで汗を流している。 この他ではソフトバンク・高橋純平、楽天・和田恋、ロッテ・柿沼友哉、ヤクルト・松本友も他球団の評価が高い。オコエ、細川のように眠れる才能が覚醒するか。(今川秀悟)
dot.
5/3
-
19
体重83キロが124キロに 知の巨人・佐藤優が語った「過食」と「病」への当事者意識
週3度の透析、前立腺癌、冠動脈狭窄――。作家で元外務省主任分析官の佐藤優さんが、自身の病に向き合う『教養としての「病」』を主治医と共に上梓した。病における教養とは、当事者意識とは何か。一部を紹介する。 透析導入に至るまでの私と病気の関係について振り返っておきたい。私は慢性腎臓病になった最大の原因は、生活習慣によるものだったと考えている。特に過食による肥満だ。 1979年4月に同志社大学神学部に入学したときの私の体重は62キロだった。身長が167センチメートルだったので、ごく標準的な体重だ。それが大学院を出たときには83キロに増えていた。修士論文を書く過程で机に向かって本を読み、文書を書くのと、外交官試験の勉強が重なり、ほとんど運動をしなくなったのでそうなった(もっとも小学校のときから体育は苦手科目で、運動は嫌いだ。今でも大学の単位で体育を落としそうになる夢を見ることがある)。 1985年に外務省に入省し、86年から1年間、イギリスに留学しているときにだいぶ痩やせて体重は65キロになった。87年にモスクワに異動してからもこの体重を維持していたが、88年6月にモスクワ大使館の政務班で勤務し、89年頃からロシア人と会食をしながら情報を取るようになってから急に太り始めた。場合によっては、昼食と夕食をそれぞれ2回ずつとることもあった。 1日の摂取カロリーは5000キロカロリーを軽く超えるので太るのも当然だ。90年には100キロを超えるようになった。ときに110キロくらいになることもあったが、絶食をして100キロまで体重を落とした。 中学生時代からショートスリーパーで睡眠時間は3時間台だった。それがモスクワ勤務時代も日本の外務本省で働いているときも続いた。2002年5月14日に鈴木宗男事件に連座して、東京地方検察庁特別捜査部に逮捕され、東京拘置所の独房に勾留されると夜9時から朝7時半まで床に入っていることが強制されたが、なかなか寝付けずに辛い思いをした。拘置所から保釈されるとすぐに3時間台の睡眠に戻り、それが透析を導入するまで続いた。透析導入後は、疲れやすくなり毎日6~7時間は眠るようになった。 モスクワ時代には、年に2回くらい扁桃腺を腫らし、41~42度の熱を出すようなことがあったが、本格的な対症療法で済ませていた。今になって思うとこの扁桃腺炎が腎臓に悪影響を与えていたのだと思う。 ■健康よりも北方領土交渉を選ぶ 7年8ヵ月のモスクワ勤務を終えて、1995年4月から外務本省の国際情報局で勤務することになった。ロシア情報の収集や分析、北方領土交渉で、土日を含め毎日働くような状態が続いた。ロシアにも年に十数回は出張した。月の超勤時間が300時間を超えることも珍しくなかった。体重は100~120キロの間で変動した。 1996年秋、急性扁桃炎で高熱が続き、喉に激痛が走ったので、外務省の官舎のそばにあった船橋済生病院に入院した。その際に尿たんぱくがかなりでていてIgA腎症の疑いがあるということで、専門医を紹介されたが、一度診察を受けただけで、受診しなくなってしまった。当時の私には、健康よりも北方領土交渉のほうがはるかに重要だった。1998年5月の連休に再び扁桃腺炎で高熱が続き、喉に激痛が走った。このときに東京女子医大病院の耳鼻科に入院した。このときに東京女子医大病院との縁ができる。 それからしばらくは病院とはほとんど縁のない生活をしていた。 鈴木宗男事件の渦に巻き込まれたストレスで、2002年1月には105キロだった体重が5月14日の逮捕時には70キロに激減していた。2003年10月に保釈されたときは若干太り、75キロになっていた。 ■丸茂医院から女子医大へ 2004年春からは婚約者(現在の妻)と国分寺市に住むようになった。裁判を抱えながら、2005年3月にはデビュー作『国家の罠──外務省のラスプーチンと呼ばれて』(新潮社)を上梓し、作家として第2の人生を始めた。 ときどき扁桃腺を腫らし、西国分寺駅そばの丸茂医院に通院するようになった。丸茂菊男先生は慶應義塾大学医学部の卒業で、当時80代だったが、頭脳も明晰で手先も器用な名医だった。私と妻は2005年5月に入籍し、2009年春には新宿に引っ越した。ただし、かかりつけ医は丸茂先生のままだった。 2010年1月に丸茂先生から慢性腎臓病が進行している可能性があるので、大学病院で診てもらうといいと言われた。丸茂先生が書いた同年1月21日付の診断書から1部を引用する。 === 傷病名:(1)高血圧症、(2)高脂血症、(3)高尿酸血症、(4)肥満、(5)糖尿病、(6)ネフローゼの疑い、(7)尿崩症の疑い 紹介目的 平成16(2004)年5月より上記(1)~(5)を治療中でしたが、21(2009)年夏より下肢浮腫、尿蛋白強くなり、24時間蓄尿検査にて(6)(7)が疑われますので御高診宜よろしくお願いします。 症状経過及び検査結果 平成16(2004)年5月、上気道炎症状により来院、血圧150/110、肥満85キロ、身長167センチメートル、血液検査により(2)(3)判明 === こうして私は東京女子医大病院腎臓内科にお世話になるようになった。片岡浩史先生は腎臓内科3代目の主治医だ。 片岡先生との関係については、対談でも触れるので重複を避けるが、医学的見地からだけでなく、私の人生設計を考えて、最適のアドバイスをしてくださった。 ■当事者意識を持つ それでも作家としての仕事が忙しくなるにつれて会食が増え、体重が増加していった。2010年時点では83キロだった体重が2020年には124キロになってしまった。 肥満患者の特徴は、過食の事実を否認することだ。この年の11月、片岡先生から急速に腎臓が崩れているので、減量とたんぱく質制限、塩分制限をしないと数ヵ月以内に透析になると警告された。 同時に片岡先生は、病院の栄養士の石井有理先生を紹介してくださった。 ここでようやく私も当事者意識を持つようになり、石井先生の指導を受けながら食餌療法と運動療法を併用し、約1年で79キロまで体重を落とすことに成功した。一時、10キロ近くリバウンドしたが、再び減量に取り組んで、この2ヵ月で3キロほど体重を落とすことができた。当面は70キロを目標にして減量に取り組んでいる。 検査結果からだけで判断するならば、半年から1年前に透析導入になってもおかしくなかった。片岡先生は私の全身状態と意思を総合的に判断し、透析導入のタイミングをできる限り後ろ倒しにしてくれた。その結果、3年分くらいの仕事を1年で処理することができた。 私はキリスト教徒(プロテスタント)なので生命は神から預かったものと考えている。神がこの世で私が果たす使命が済んだと思うときに、私の命を天に召す。この世界に命がある限り、私にはやるべきことがあると考え、仕事と生活に全力を尽くすようにしている。 現時点で腎移植まで進むことができるかどうかは、分からない。腎移植が成功すれば、そこで長らえた命を自分のためだけでなく、家族と社会のために最大限に使いたいと思う。 そこまで進めないのならば、透析という条件下で、できる限りのことをしたいと思っている。 佐藤優(さとう・まさる)/作家、元外務省主任分析官。1960年、東京都生まれ。同志社大学大学院神学研究科修了後、外務省入省。主任分析官として対ロシア外交の最前線で活躍。2005年に発表した『国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて』で第59回毎日出版文化特別賞受賞、06年『自壊する帝国』で第5回新潮ノンフィクション賞、第38回大宅壮一ノンフィクション賞受賞。 (AERAオンライン限定記事)
AERA
18時間前
-
20
ガーシー容疑者、弁護人に「協力姿勢でいきます」 急転直下の逮捕劇の裏側で起きていたこととは
アラブ首長国連邦(UAE)のドバイから6月4日に帰国し、成田空港で暴力行為等処罰法違反(常習的脅迫)容疑などで逮捕された前参院議員のガーシー(本名・東谷義和)容疑者(51)。関係者によると、「自主的に戻ってきたわけではない」という。今回の逮捕劇の舞台裏ではどんな動きがあったのか。 成田空港に現れたガーシー容疑者は、水色のTシャツに白の短パン、サンダル姿。「国会に出席する」と言って黒くしていた髪は金髪になっていた。 ガーシー容疑者は捜査員に伴われ、集まった報道陣の前で時折、笑みを浮かべながら捜査車両に乗り込み、警視庁へと移送された。 著名人の私生活などを暴く「暴露系ユーチューバー」として100万人を超える登録者(2022年に停止)がいたガーシー容疑者は、2022年7月の参院選比例区にNHK党(現・政治家女子48党)から立候補し、28万票余りを獲得して当選した。 一方で、YouTubeで配信した動画が名誉毀損(きそん)にあたる疑いがあるとして、複数の俳優や経営者らが告訴状を警視庁に提出し、受理された。ガーシー容疑者は、任意での事情聴取を求められたが帰国せず、ドバイに滞在し続け、国会にも出席しない状況が続いた。 昨年11月、ドバイでAERAdotがガーシー容疑者に取材したときはこう答えていた。 「YouTubeで暴露していることは、当事者に聞いたり、自身が経験したりしてきちんとやっているので、訴えられようが自信はあります。だから、3月には帰国すると言っているのです」 今年1月には兵庫県内の実家など関係先について警視庁が家宅捜索し、関係者が帰国直後に逮捕されるなど、徐々に包囲網は狭まっていった。5月には捜査員もドバイに派遣されていた。 日本の外務省も3月に旅券返納命令を出し、4月12日付で失効。だがガーシー容疑者は、ドバイで10年(条件によっては5年)有効の「ゴールデンビザ」を取得したとSNSで話しており、滞在を続けていた。 ガーシー容疑者は今回の帰国直前まで、それまでと変わらない生活だったようだ。ガーシー容疑者の知人は、 「(ガーシー容疑者は)金曜日(6月2日)はメンテナンス中のSNSを今後どうやっていくかの打ち合わせなどをしていて、普通にしていましたよ」 と話している。 つまり、翌3日に急展開したとみられる。 ガーシー容疑者の突然の帰国、逮捕の背景についてある捜査関係者は、 「外務省が積極的に動いてくれたから」と話した。 外務省の関係者は、 「UAE当局はGPSやスマートフォンからガーシー容疑者がドバイのどこにいるのかを把握していました。ガーシー容疑者は自分の意思で帰国したのではなく、UEA側が『法律でここには滞在ができない』と示したからです。ガーシー容疑者はクレームをつけたそうですが、有無を言わさなかった。当局がガーシー容疑者の身柄を確保すると、そう時間をおかずにドバイの空港に連れて行き、飛行機に乗せたと聞いています。大使館員が飛行機に同乗したというのも急の連絡でした。警視庁の捜査員もドバイに行く時間がなかったようです」 と話し、 「ガーシー容疑者は、パスポートが失効しているのにビザがあるという不透明な状態で滞在を続けていたんです。国際手配については当初、所在に関する情報提供を求める『青切符』だったのが、身柄拘束を求める『赤切符』も出たことで、UAE当局も動いたのだと思います。友好国の日本が国際手配している人物が滞在し続けているというのは、UAEにとって政治的に芳しくないと判断したのでしょう。日本側もそういう交渉をしていました」 と打ち明けた。 今後、捜査はどのように進むのか。 元検事の落合洋司弁護士は、 「名誉棄損が常習的脅迫になり、それが国際手配で逮捕となる例はかなり珍しい。警察がかなり踏み込んだといえます。ガーシー容疑者は参院議員だったので、その影響力などを検討し、積極的に動いたと感じます」 と話した。 今後のガーシー容疑者については、 「ポイントは、ガーシー容疑者がYouTubeで配信した、名誉棄損、常習的脅迫などの疑いのある動画でどの程度、利益を得ていたか。警察、検察が徹底的にカネの部分に踏み込み、犯罪収益のような立証ができれば、裁判で有罪、実刑判決になる可能性もあります」 との見方を示した。 一方、ガーシー容疑者と接見した高橋裕樹弁護士はその後、YouTubeでガーシー容疑者の様子や今後について話した。 「かなり柔和な表情で『正直ほっとした気持ちがあります。日本に戻り、すっきりしたという気持ちとほっとしたという気持ちが強いです』とおっしゃっていました。空港にマスコミがたくさんいるのを目の当たりにして、すごいですねえ、という話を警察としているときに顔がほころんで、笑顔が出ていたようです」 今後の弁護方針については、 「東谷さんが動画で配信した事実関係については、客観的な証拠があるところなので、『やったことはやったことなので協力姿勢でいきます』と話していました」 弁護人は複数による弁護団になるとの見通しを示し、「現時点では方針は確定できないです」と話した。 (AERA dot.編集部 今西憲之)
dot.
6/6
-
1
【追悼】上岡龍太郎さんが生前語った“隠居の極意”「食事は一日500円」
元タレントの上岡龍太郎さんが5月19日、肺がんと間質性肺炎のため死去した。81歳だった。 上岡さんは1942年、京都市生まれ。60年に横山パンチの芸名で、横山ノックさん、横山フックさんと「漫画トリオ」を結成。68年に解散後は、流暢な語り口でテレビ番組の司会者などとして活躍した。 2000年に芸能界を引退した後は、表舞台にはほとんど表れなかった。週刊朝日は2003年9月、独占インタビューを掲載。当時のインタビューから上岡さんの人生を振り返る。 ※ ※ ※ 早いもんで、隠居してから3年ですか。遊んで暮らすのは、これでなかなか忙しいもんでしてね。 歌舞伎、お芝居、落語。神戸ポートアイランドにサザンオールスターズを見に行って、それから比叡山延暦寺の薪歌舞伎は、しつらえがよかったなあ。芝居では風間杜夫の「風のなごり―越中おわら風の盆」。舞台であれだけ三味線弾けるのは、大変なことです。 ゴルフは週に平均3回。9月は、マウイ島でマラソンするので、ジョギングもせなあかんでしょう。夜は女房とカラオケです。 現役時代は街を歩いていても、目で殺すという技術を持ってたんです。声をかけられそうになると、話しかけたらあかんよお、機嫌わるなるよお、いう電波を目で送ってた。いまはだいぶ楽になってきまして、心斎橋なんか歩いても、若い子はもう僕のこと知らんね。にこにこしながら歩けるようになりました。 隠居がこんなにたのしいとは、思いもよらなかったですね。仕事に戻りたい気持ちは、こっから先もないですもん。ましてや大阪市長選に出るんやないかとか、参議院やとか言われるでしょう。とんでもない話で。こんな楽な生活送ってんのに、なんでいまさら責任のある、しんどいことせないかんのかと思う。 隠居のための蓄財ですか? そらゼロではダメでしょう。でも周り見るとね、ほとんどの人は、たのしい隠居暮らしができるんやないかと思いますよ。 服なんかは、働いているうちに、しっかりしたもんを買こうといたらええんです。スーツでも着物でも、ひとつ、ええもん持ってたら、何年でも着られる。車なんか、もう15年乗ってますが、まだ5万キロしか走ってないしね。お金のあるうちに人生のインフラ整備しとくんです。 家は買わんほうがいいと思う。苦労して建てて固定資産税払うてたら、国に賃料払てるのと一緒です。しんどいローン組んで、銀行のもんで終わる人も多いし。 食べもんは、粗食ほど、うまいもんはないですよ。ご飯とみそ汁、干物に漬物。計算すると一日500円ですむ。現役のころから、ご飯さえ食べられたら、というのがベースにありましたんでね。 仕事に未練がないのは、幸せなことに、もう満喫させてもらったという気持ちがあるんです。 そら「漫画トリオ」はすごかったですよ。でも横山ノックさんがすごかった。僕とフックさんは全然たいしたことない。横山ノックという芸の塊みたいな極彩色の存在を、鵜飼いというか猿回しというか、うまく操縦して、しかも若い僕らが年長のノックさんをたたく。ノックさん、あのときの若さ、社会状況があって、あれだけの笑いが起きたのであって、もう無理です。 僕は最後まで素人なんです。ものすご芸人ぶってる、芸人の擬態をしている素人。それで森繁久彌さんや小泉今日子さんと対談し、立川談志師匠や桂米朝師匠に「オイッ」て言われながら酒も飲めた。中村勘九郎さんと先斗町走り回ったり、片岡仁左衛門さんと韓国キャバレー行ったりもできた。最高に幸せな素人なんです。 18歳で、この世界にポンと入ってね、周りはすごい人ばっかりやったですから。(秋田)Oスケさんの突っ込みなんか見てたら、声の出し方、言葉遣い、迫力、すごいと思いますよ。あんな豪速球は投げられへん、と。 恐ろしいような気持ちも、ある意味でねえ、ありました。夢若師匠(浮世亭夢若、松鶴家光晴と組む)が自殺されたときです。大好きな師匠でね。おんなじ出番やったんです。 それが犬の投資話でだまされて、追い込まれてしもうて。楽屋で聞いてエーッてなってるときに、錚々たる師匠連が言うてるんです。「これがほんまの犬死にかあ」て。これはすさまじい世界やと思うてね、どっかに距離を置く気持ちもあったんですね。 もう、一緒に仕事したいなあと思う人も、あんまりいなくなりました。逆にね、後半、だいぶ感じてましたが、自分との接し方に若い芸人が困っているのがわかるんです。 とくに今田(耕司)と東野(幸治)ね。東京で一緒の仕事があって、新幹線に乗ったら、別の車両やったけど、あいさつに来てくれた。非常に礼儀正しい。 「明日はよろしくお願いします」言うから、「ああ、こちらこそよろしく」言うて。そっから、ほぐれない。どうしよう、何を話したらええんや、いう戸惑いが感じられた。ああ、もう、そうなんやなあと思いましてね。 テレビのバラエティーも変わりました。仲良し同士でしかやらないでしょう。藤田まことさんも言うてましたけど、「てなもんや三度笠」なんか、大変な緊張感があった。仲のいいことはええこっちゃと武者小路実篤も言うてますけど、番組としては、あんまりおもしろくないんですね。会話にも知性がなくなる。 昔の放送の世界には、なるほど、と思わせる会話がありました。菅原通済さんやの石黒敬七さんやの、だれやわからんけど教養あるいうおじんもいましたしね。そういうコメンテーター、ほしいなあ。私? いや私はやりません。 世の中には、おもしろいことがいっぱい転がってますよ。近鉄ファンになったので、電車で大阪ドーム行くと、乗客を見るだけで、おもしろい。あの人は、どんな人生送ってきたんかなあなんて想像すると、小説読むようやないですか。若い子が床にペタンと座ってても、怒るのやなしに、この子はどうしてこうなったんやろ、と考えてたのしむ。 思いどおりにならんことほど、おもしろいんです。「楽しむ」という字と「愉しむ」というのとあるでしょう。楽することを、たのしいことやと思うからいかんのですよ。すべてを愉しむ。苦しい、しんどい、不便、そういうことを選んでやると愉しなります。 たとえばゴルフね、悪いところに行ったわ、池越えなあかんわ、これ打つの難しいわと思うから愉しいんで、いつも楽に打てたらおもしろないでしょう。そもそも王侯貴族の遊びですから、すべてが思いどおりになる人たちが、これは思いどおりにならんと愉しむんですから。 現役の会社員がゴルフするのがわからんですよ。なにも休みの日にゴルフせんでも、会社に行けば、思いどおりにならん愉しみを十分に堪能できるやろ、と。 俳句もそう。ああ、ええ景色やという思いを、五七五で言いなさいというから苦しくて、おもしろい。だから僕は種田山頭火は認めない。 分け入っても 分け入っても 青い山 だからあ、それを五七五で言わなダメでしょ、と。やっぱり松尾芭蕉さんはすごいです。いい句ありました。 蛸壺や はかなき夢を 夏の月 明石あたりでしょうねえ、ツボん中で、夢見てるタコが急にうわあって引き揚げられるんでしょうねえ。ノックさんが、執行猶予があけて選挙に出るいうウワサがあるでしょ。もし本気やったら、この句を贈ったろと思ってます。
dot.
6/2
-
2
岸部一徳かく語りき 瞳みのるとの和解、そして自身の「終わり方」
芸事が好きだった父、熊本への夜逃げ、弟・四郎の不遇──。自分について考え続ける日々のなかで到達した境地。それは俳優としての代表作「死の棘」での小栗康平監督の教えとも繋がっていく。寄る辺なさに留まり続けること、そして自分自身の「終わり方」。いま、岸部一徳さんが考えていること。本誌編集長が聞く独占インタビューの第3回。 * * * 岸部には兄弟が多い。「全部で10人くらいいるんです。僕は男では下から2番目」 1969年、加橋かつみ脱退後のザ・タイガースに加入した四郎は、すぐ下の弟だ。 生まれ育ったのは京都市、京都御所の西側。父親の徳之輔は戦前、職業軍人だった。47年生まれの岸部に父親の現役時代の記憶はない。 「親戚の人に聞いたら、軍服で馬に乗って部下も付いて、京都の真ん中をばーっと行って、ちょっと知り合いのところに寄ったり。背も高くて格好よかったようです」 謹厳で頑迷な父親像が浮かんでくるが、 「全然違いますね」 公職追放も影響したのだろう、戦後は定職に就かなかった。 賭け事が好きで借金も多く、一家は常に経済的に逼迫(ひっぱく)していた。小学1年の時、伯母を頼って熊本へ夜逃げしたことを覚えている。 質草になる布団は、2階から母や岸部たちが階下の兄たちに投げて宙を舞った。小学校は4回転校した。 だが、岸部の父親への視線は温かい。 「趣味が多くてね、あれもこれもちょっとずつ好き。よく言えば面白くて子どもには好かれる父親でした」 明治生まれにして英語も少しばかり操った。碁は小学生のころからプロ棋士を目指して鍛えたという腕前で麻雀も強い。松竹新喜劇に足繁く通い、歌舞伎や新派も大好き。興が乗ると子どもたちに台詞を諳(そら)んじてみせた。浄瑠璃にも明るい。読書家で家には菊池寛をはじめ初版本がたくさんあった。酒は飲まない。 「芸事が好きなんだよね。だから僕が東京行くって時はうれしかったんですね。先頭立って親のまとめ役をやってました。まあ、ひょっとしたら子どもが人気者になれば自分も何かこう、楽しくなるのかもと思ったのかも(笑)」 骨董や美術品の目利きでもあった。 「買えるわけじゃないけど、でも、そういうものが好きっていうのは、弟(四郎)に行ったんだろうね」 3学年下の弟・四郎。69年3月、加橋かつみの脱退を受けて急遽遊学先の米国西海岸から呼び戻され、一夜にして日本一の人気者の一員になった彼もまた、ザ・タイガースによって大きく人生を変えられた一人だ。 71年のグループ解散後、飄々(ひょうひょう)とした佇まいと軽妙な話術で人気タレントとなり、ワイドショーの司会も長く務めたが98年、5億円に上る借金で自己破産し番組を降板。以降は不遇の日々が続いた。 2003年、脳出血に倒れ、後遺症で視野狭窄に。07年に愛妻が急死した。12年には身を寄せていた千葉の姉の家で、夜中にトイレに行った際に転び大腿骨を骨折。リハビリ病院を経て移った県内のグループホームへ、岸部はよく見舞いに訪れたという。 「身の回りの世話は一回り上の姉たちがよくやってくれた。僕も月に何度か行ってたかな。お年寄りに交じって体操を一緒にやったりして」 四郎は典型的な末っ子で淋しがり屋だった。 「何かあっても『誰かが何とかしてくれるやろ』と思うタイプね。リハビリも、もうちょっとがんばってほしかったんだけど……。でも、暗くなりすぎないのは性格だよね。僕が行っても、話すよりおみやげを気にしたりして。わらび餅なんか小さく切ってやると『おいしい』なんて言ってね。ただ、最後のほうは、食べることもできなくなった。それからの衰弱が早かったですね」 20年8月28日、四郎は旅立った。享年71。 ■苦手なことがあってもいい 岸部が今回のインタビュー依頼を受けたのは、本誌の休刊という節目に「そろそろ自分のことを話してもいいかな」と思ったからだという。普段はテレビのバラエティー番組はおろかインタビュー番組にも出ない。取材はほぼ新作映画の公開時に、雑誌や新聞など活字メディアに絞っているのだという。 「トーク番組もバラエティーも見たりはします。ただ、俳優が演じるだけではなくてしゃべることや、自分自身を語ることが得意じゃないんですよね」と吐露する。 「苦手なものを克服してできるようになるのがいいという考え方もあるけど、そんなに広げなくても三つぐらい苦手があったら、一つくらいは『これは苦手』というのを置いておいてもいい」 音楽をやめてしばらく仕事がない時期を漂いながら、岸部はひたすら、自分について考え続けていた。 「やりたいことがあって音楽をやめたわけではなかったし、考える時間はたくさんあったから。たまたま勧められて俳優になった。芝居の勉強もしていないし、僕は得意なものがそうないから、苦手はなんだろうと考えた。たとえば人前でしゃべるのは不得手だから、じゃあこれは残そうと」 それは、映画「死の棘」(90年)で、小栗康平監督にたたき込まれた「言葉にする前の気持ちの動きこそが大切だ」という教えとも、のちに繋がっていく。 俳優という不安定な稼業で、心配に苛(さいな)まれる場面は多い。演技の技術について、私生活のこと、健康の維持、将来の不安──。それらを払拭しようと思えば、やれることはたくさんある。踊りや乗馬を習ったり、休日に芝居や映画を見たり、人付き合いをよくしたり。だが、岸部は心細さの解消のために働きかけようとは思わない。あえてそのまま留めておきたいという。 動けば安寧を得られるかもしれない。その代わり、不安という感情の動きは心から押し出され、微妙な揺らぎは掌(てのひら)からこぼれ落ちる。 ■人生後半戦の坂どう下っていく 岸部が俳優の世界に足を踏み入れてほどなく、日本はバブル経済の80年代に突入した。 政治の季節の残滓(ざんし)を狂乱の宴で上書きするかのように、世の中全体が浮足立っていた。テレビは昼夜なく「楽しくなければ」と謳った。一方、どん底ともいえるのが、娯楽の王座をテレビに明け渡した映画産業だった。週刊朝日が最高部数150万部を記録したのと同年の58年、11億2700万人をピークに映画人口は激減し、80年代には1億5千万人規模にまで縮小している(日本映画産業統計)。 芸能事務所は主戦場をテレビと見据え、タレントは視聴率に繋がる「好感度」という物差しに左右されるようになる。エンタメ界で量産されるのは不特定多数に好まれやすいバラエティー番組で、良質な映画作品が受け入れられる余地は少なかった。 この時期に「死の棘」が国際的に評価されたことは、寄る辺なさを抱える岸部自身にとっても、その後の俳優人生を位置づける大きな出来事だった。 「誰と出会い、誰と一緒にやっていくのか。それが一番大事。タイガース時代も含めて、すべてはそこへ繋がっていくよね」 岸部が樹木希林の事務所「夜樹社」の解散後、いくつかを経て自分で事務所を設立したのはバブルが弾けて間もない、95年のことだ。 「小さい事務所だからできることもある。映画やドラマの脚本を読む。CMだったらコンテは面白いのか。どうやって相手に正論を伝えるのか。自分の基準で面白いと思える仕事を選んで、そこでの闘いみたいなものがあって。そんなことを続けているうちになんとなく面白そうな事務所ですね、っていうふうになればいいなと思ってやってきた」 18年に亡くなった樹木は「三つぐらいの側面を見せて終わった気がする」と語る。 「希林さんは30代の若いころからおばあちゃん役をやったりして、ちょっとワケわからないことをしたり、むつかしい、怖い人みたいに見せるから、自分の俳優としての技術や、すごさを隠そうとする時期があったように思います」 それが変化したのは夜樹社が解散する前だ。80年代に入り、芝居のうまさで世間から注目されるようになった。 「あのころ、希林さんは、上手な芝居を少し、見せるようになったなと思った。そこからひねくれてるというようなイメージも取れてきて。晩年の作品を見ると、俳優としてのすごさよりも人間の優しさが溢れているようにも見えた」 岸部はこの日、取材場所の朝日新聞社のビルまで、地下鉄東銀座駅から歩いてきた。 「笠智衆さんは『僕は電車のあるうちは鎌倉から通うんです。それが健康法です』とおっしゃって、送り迎えは断っていた。希林さんも『社会生活ぐらいできなくてよく俳優なんてやってられるわね』と」 最近、岸部は自分自身の「終わり方」も考えるようになったという。 京都時代からの生き方、たとえば、しゃべるよりも人の話を聴き、苦手なものをあえて克服せず、古希を過ぎて少しまるくなった自分。 「それでも、うまく言えないんだけど、たどり着かないなぁっていう。終わりが来た時に、ああいうやり方、考え方でやっぱり良かったんだと思えるかどうかは、また別問題だなと」 俳優になって半世紀。大きな賞も獲った。周囲からは十分すぎるほどの成功に見えるかもしれない。名脇役、いぶし銀と評されることも少なくない。 「でも、良い俳優さんですね、なんて言われると知らないうちに人の評価に自分を合わせようとする気持ちが生まれる。すごいですね、と言われて、自分がすごいと思ってしまったらその『すごい自分』に合わせた生活になってしまう。そこがなんとなく僕には合わない。歳を取って、少しずつ仕事が少なくなって、いつの間にか人が忘れてくれるくらいがちょうどいいのかな。でももう少し、好きな人たち、好きな監督と仕事はしたいですけどね(笑)」 「人生百年時代」と言われる。55年に男女ともに60歳代だった平均寿命はそれぞれ20歳近く延び、60~70代を昔のように老年期と呼ぶにはあまりに若い。緩やかに長く続く人生後半戦の坂をどう下っていくのか、若い世代も不安を抱えている。 岸部たち団塊の世代は、未知の時代を走る先頭集団だ。 ザ・タイガースと決別した瞳みのるとは08年、37年ぶりにメンバー同士で元マネジャー・中井国二の仲立ちによって再会、「長い別れ」は雪解けを迎えた。瞳はあの71年1月24日、有楽町のガード下での別離の後、猛勉強を経て大学進学し慶應義塾高校の漢文教諭に転身。定年を前に退職して現在は音楽活動とともに専門である中国語を生かして日中文化交流にも注力している。森本タローが定期的に開くライブはいつも盛況だ。森本のファンだけではない、沢田研二や瞳のファンも、誰もが楽しめる温かい雰囲気で溢れている。 「タローは11月で喜寿(77歳)。12月には喜寿になって初のライブを考えていて、内容もいつもと少し違うみたいだし、楽しみだよね」 同じく音楽活動を続ける加橋かつみも4月、「THE G.S栄光のグループサウンズ」公演で元気な姿を見せたという。 6月25日は岸部と森本、瞳が参加する、さいたまスーパーアリーナでの沢田研二75歳“バースデーライブ”だ。6月に入れば、メンバーそろってのスタジオ練習が始まる。 「音楽はね、楽しい。(ザ・タイガース再結集は)13年でもやっているんだけど、しばらくベースから離れていて、練習するとまた弾けるようになる。そうするとやっぱり僕は音楽少年だったんだなって」 考えてみれば、ザ・タイガースのメンバーが集まってやれるのは最後かもしれない。願わくば、加橋にも参加してほしかった。でも、電話しても出ないから、そっとしておこう。 「タイガースのメンバーと出会えて良かった。うっかりしたら、良い俳優を最後まで通そうとか、そんなことになっていたかもわからない」 岸部はいま、そう思っている。(了/敬称略)(本誌・渡部薫)※週刊朝日 2023年6月9日号
週刊朝日
6/3
-
3
父、母を相次ぎ亡くした喪失感に寄り添ってくれない夫 離婚も考える49歳女性に鴻上尚史が示した結婚におけるシンプルな原則
父、母と相次いで亡くし、喪失感に苦しむ49歳女性。そんな辛い気持ちに夫は寄り添ってくれないと離婚も考える相談者に、鴻上尚史が示した「一緒にいる意味を問うシンプルな原則」とは? 【相談184】両親が相次いで亡くなり、喪失感が大きいなか夫は全く寄り添ってくれません(49歳 女性 たんぽぽ) はじめまして。 半年前に父を、今年3月に母を相次いで亡くしました。 両親はいずれも80歳をこえており、いつかは、と覚悟はしていましたが、二人とも特に深刻な持病もなく、突然亡くなってしまったこともあって、喪失感が大きいです。仕事に行き、なんとか日々の生活を送っています。 相談は、夫との関係のことです。 私は6年前に結婚しました。世にいう晩婚です。 私がやっとの思いで日々過ごしているのに、夫はテレビを見て笑ったり、少し両親の思い出話をしてもふーんと言ってスルーしたり、全く寄り添ってくれません。 婚姻期間が短いので、夫と私の両親との関係も薄く、特別な情がないのは仕方ないとは思います。 でも、私は虚しく、こんな男のために、辛い時も家事をしなければならないのか、とすら思うようになりました。 鴻上さんにお聞きしたいのは、男性って、そんな感じなのでしょうか。 一般的に男性は察するのは苦手、とか言われてますけど、ただそれなのか、それとも、夫婦関係を終わらせた方がよいのか、毎日考えています。 【鴻上さんの答え】 たんぽぽさん。大変ですね。「一般的に男性は察するのが苦手」かどうかは、僕には分かりません。権力を持って、周りがなんでも忖度してくれる人は、他人の感情を察するのが下手になるでしょうし、常に周りに気を配ってなければ自分の立場が危うくなる人は、他人を察することが得意になるでしょう。また、比較的安定した精神状態や生活水準なら、他人を思う余裕が生まれるし、過酷な状況で生きることに必死なら、他人に気配りしている場合じゃないでしょう。 ですから、たんぽぽさんの夫が、男性だから「察するのが苦手」と決めるのは、少し乱暴な気がします。昨今話題の進化心理学の発展によっては、性別での特徴として何か言われるようになるかもしれませんが、性別ではなく個人の違いを問題にした方がいいと思います。 また、もし男性一般が「察するのが苦手」だとしても、察することが苦手な夫が許される理由にはならないと思います。やっぱり、性別一般より個人だと思いますからね。 たんぽぽさん。「夫婦関係を終わらせた方がよいのか」と書かれていますが、離婚しても経済的な不安はないのでしょうか。 もし、経済的な問題を考えなくてすむのなら、結婚を続けるかどうかは、たんぽぽさんの「一緒にいる喜びと哀しみ」の判断だと思います。 「友情は喜びを二倍にし、哀しみを半分にする」という有名な言葉があるでしょう。ドイツの詩人で劇作家のシラーの言葉です。逆に言えば、こういう状態になる友情は素敵だということですね。大切な友人と一緒にいると、この言葉を実感しますよね。 僕は、恋愛も同じだと思っています。 あなたといると、喜びが二倍になり、哀しみが半分になる。だから、あなたといる。 あなたといても、喜びは二倍にならないし、哀しみは半分にならないのなら、あなたといる意味はない。 僕は、恋愛も結婚も、このシンプルな原則が基本だと思っているのです。 一緒にいて話すことで一割でも喜びが増えるのなら、一緒にいる意味がある。話し相手になり、相槌を打ってもらい、横にいてくれることで少しでも哀しみが減るのなら、一緒にいる意味がある。 逆に、一緒にいることで喜びが減り、哀しみが増えるのなら、一緒にいない方がいい。そんな恋愛も結婚も、お互いに不幸だから、やめた方がいい。 これが僕のアドバイスというか、考え方です。 たんぽぽさん。夫と一緒にいて、少しでも喜びが増え、哀しみが減るのなら、結婚生活を続ける。その逆ならやめた方がいい。僕はそう思います。 この考え方はどうですか? ■本連載の書籍化第4弾!『鴻上尚史のなにがなんでもほがらか人生相談』が発売中です。書き下ろしの回答2編も掲載!
dot.
6/6
-
4
オリラジ中田「松本人志への提言」に感じたズレ 松本はタモリに近い存在になりつつあるのでは?
オリエンタルラジオの中田敦彦が、自身のYouTubeチャンネルで松本人志に対して提言をする動画を公開したことが話題になっている。 「【松本人志氏への提言】審査員という権力」と題した動画の中で、中田はベテラン芸人の漫才コンテスト番組『THE SECOND~漫才トーナメント~』で、松本がアンバサダーとして出演していたことに言及していた。松本はこの大会に顔を出しているだけではなく、『M-1グランプリ』と『キングオブコント』でも審査員を務めている。松本ばかりが審査員をしているのは業界のためにならないのではないか、と中田は語っていた。 それ以外にも、松本がお笑い界で絶対的な権威となっているため、彼に対して批判的なことを口にできないような空気がある、という趣旨のことも述べていた。 この動画がお笑い界内外に大反響を巻き起こした。霜降り明星のせいやは、中田が動画の中で自分の相方である粗品の名前を出したことに怒りを覚えたようで「真っ直ぐ勝負してないウンコみたいなやつが相方の名前使うな 中田」とツイートした。 また、松本本人もツイッターで「テレビとかYouTubeとか関係なく2人だけで話せばいいじゃん 連絡待ってる!」と中田に対する呼びかけと思われるメッセージを発信した。 個人的には、今回の中田の主張自体にはそこまで目新しさを感じなかった。なぜなら、彼は以前から動画やインタビュー記事の中で何度もこういう話をしているからだ。実際に動画で話している内容も、そこまで過激なものではない。サムネイル画像と動画タイトルに「松本人志」という名前をはっきり出したことで、動画を見ていない人にもメッセージの趣旨が伝わりやすかったため、この件がことさらに話題になったのだろう。 さて、それでは、中田が言うように、お笑い界で松本は絶対的な権威となっているのか。そして、彼に対する批判を許さないような空気や、松本の感性に合わない笑いが排除されるような風潮はあるのか。この点について個人的な見解を述べたい。 松本が多くのお笑い賞レースで審査員を務めているのは事実である。また、『人志松本のすべらない話』『IPPONグランプリ』『ドキュメンタル』など、数々のお笑いコンテンツに携わり、そこで中心的なポジションに就いているというのも事実だろう。 しかし、彼がそこで絶対的な権威としてほかの芸人を抑圧するように振る舞っているかというと、必ずしもそうであるとは思わない。もちろん松本はお笑い界とテレビ界におけるトップスターであり、松本の番組に出る芸人の多くが、松本にネタを見てもらいたい、褒めてもらいたい、認めてもらいたい、などと思っているのは間違いない。 しかし、芸人たちが松本に気に入られようとして、過度に彼だけに対して媚びるようなことをやっているとは感じたことがない。また、松本が審査員として携わっている大会でも、彼が最終的な審査結果を完全にコントロールしているわけではない。 たとえば、松本が審査員を務めた回の『M-1』では、最終決戦で松本が投票した芸人がそのまま優勝したケースもあれば、そうではないケースもある。複数の審査員がそれぞれ審査をしているので、松本の意見と全体の結果が食い違うのは珍しいことではない。お笑い界全体が松本の顔色をうかがって、彼の意見に合わせるような風潮があるのならば、こういう結果にはならないだろう。 また、先日行われた『THE SECOND』では、松本はアンバサダーとして決勝の現場にいた。審査は観客が行い、松本は直接かかわらない。 ここでは、松本の言動が審査結果に影響を与えることがないように、番組スタッフも松本本人も相当気を使っているのがうかがえた。松本の意見ですべてをコントロールしようとする意図が番組側や本人にあったのなら、決してこういう演出や審査方法にはなっていないだろう、という感じだった。 つまり、『THE SECOND』という大会を見て、その場に松本がいたということを根拠にして「松本絶対権力説」を語るのはそもそも無理筋だったのではないか。 それでは、これらの大会に関してはさておき、松本はお笑い界では絶対的な権威となっているのか。この点についても、そういう側面が全くないとは言えないが、そう言い切れるほどはっきりした何かがあるわけではない、というのが個人的な意見である。 松本が絶対的な権威になっていて、彼が認める笑いだけが正しい笑いであり、それ以外のものが排除されているのだとすれば、たしかに問題ではあるかもしれない。しかし、実態はどうかというと、あまりそういうふうになっているとは思えない。 すでにお笑い文化は多様化していて、多様なお笑いが認められている。そして、お笑い界のレジェンドの中で比較すると、松本はむしろ多様なお笑いに対して寛容な立場であるとも思う。 中田自身も、自分は松本には認められないようなジャンルで戦ってきた、という趣旨のことを語っていたが、過去には「武勇伝」「Perfect Human」「中田敦彦のYouTube大学」と、多くの人に支持されるヒット作を出し続けていて、それなりに評価も得ている。客観的に見て、そんな彼がお笑い界で不遇な立場に置かれているとは思えない。 さらに言うと、松本を絶対的な権力を振るう独裁者のようなイメージで語るのも、ミスリードではないかという気がする。松本はどちらかと言うと、権力なんて持ちたくないと思っている側の人間だ。彼は自分が中心となる番組でもいつもどこかだるそうにしているし、最近は口を開けば「引退したい」という話ばかりしている。権力の座にしがみつきたい、影響力を誇示したい、といった欲望が感じられるような人間ではない。 では、実際に松本が権威ある立場に就いているように見えるのはなぜかというと、必要に応じて周りの人が祭り上げているからだ。松本は神輿として担がれているだけであり、本人がその方向に誘導している感じはしない。 もちろん、松本にも血気盛んな時代はあったし、そのときにはもっとギラギラしていて、挑発的、排他的な言動もあった。しかし、ここ10年の松本にはそういうものを感じることはあまりない。 むしろ、松本は、本人の意向にかかわらず、常に気を使われている。そして、気を使われることに人一倍気を使っている、という構図が見えてくる。 これを「松本人志のタモリ化」と言い換えてもいいだろう。タモリもまた一種の権威である。しかし、決してそれを誇示しない。みんながタモリを慕い、勝手についてくる。タモリが中心にいることで、ただ楽しいだけのお昼の帯番組『笑っていいとも!』は伝説的な人気番組になった。 今の松本は『いいとも!』の頃のタモリに近い存在になっている。もちろん松本自身が鋭いコメントを繰り出したりすることもあるが、そこにいるだけで場が引き締まったり、共演者や視聴者に安心感を与えたりするというのも大きい。良くも悪くもそれが今の松本である。 「多様化するお笑い」と「タモリ化する松本」を当たり前のように受け入れて満足している多くの人にとっては、中田の松本批判は正しいかどうか以前に、前提となる現状認識にズレがあるところが引っかかるのではないか。 すでにこの騒動自体が多くの芸人によってネタとして消費されつつあるところにも、この国に根付いたお笑い文化の強さを感じる。誰もが松本に逆らうことを恐れてこの問題に口をつぐむ、というようなことにはなっていない。 お笑いはただ面白ければいいし、その理想はすでに実現している。中田も松本もこの素晴らしきお笑い界の構成員として、引き続き私たちに多くの笑いを提供していってほしい。(お笑い評論家・ラリー遠田)
dot.
6/3
-
5
簡単手作り梅干しはジップ付き袋で10分 梅干し研究家の「失敗しない」とは?
梅干しづくりに挑戦する人は、コロナ禍で外出がままならない3年の間に増えたのではないかと思う。その証拠に、2022年に配信した記事『10分でおいしい梅干しが自分で作れる! はじめてでも簡単な「白干し梅」レシピ』はよく読まれた。 梅干し作りができる時期は年1回、生の梅干し用の梅が出回る6月上旬~下旬だけ。あらためて『はじめてでもおいしくできる 梅干し・梅レシピの基本』(朝日新聞出版)から、梅干し研究家・小川睦子さんに、所要時間10分、とにかく簡単な梅干しの漬け方を教わりたい。 * * * 梅干しづくりはやってみたけど、ちょっと面倒。そんな人に試してほしいのが、省略しても大丈夫な工程はとことん省いた、手間なし梅干しのレシピです。「初めてでも、忙しくても大丈夫」と小川さん。思い立ったらすぐに作れて、失敗もありません。 ■漬けこむのは6月、食べごろは10月 青梅でも完熟でも、熟しすぎたものでもいいので、6月に梅を手に入れたら、塩で漬けるだけ。作業はたった10分程度です。 食べごろになるのは10月ころ。それまでは、常温の室内に置いておきます。 茶色っぽく柔らかそうな見た目になれば、2~3カ月目から食べることができますが、塩辛く感じる時はさらに置いておきましょう。時間がおいしくしてくれます。半年くらい経つと、さらにおいしくなります。 ■【材料】 梅1kg 塩180g(梅の重量の18%) ジップ付き袋(大サイズ)を2枚 *梅の分量に合わせて塩を用意。例えば梅500gでは塩90g、梅300gでは塩54g、梅200gでは塩 36g(これらの分量の場合は、中サイズのジップ付き袋2枚) *しょっぱい味が苦手な方は、16%(梅1キログラムに対し塩160g)くらいまで減らしても大丈夫です。 *1kg 以上を漬ける場合は、袋を2つ以上に分けて作るとよいです。 ■【作り方】 (1)梅を用意します。 スーパーなどで販売されているものは通常1袋が1kgです。梅干し用と表示されているものをお求めください。地域やその年にもよりますが、6月上旬頃から下旬頃に梅干し用の梅がスーパーや八百屋さんなどに並ぶようになります。 基本的には、キズや打ち身があまりないものを選びましょう。とはいえ、少々のキズであれば、さほど気にする必要はありません。果物を選ぶ感覚と同じです。キズや傷みがひどい場合は、ジャムや梅味噌などを作るとよいでしょう。 収穫からあまり時間を置かずに作業を行うのが理想的です。お店の人に入荷日を確認して購入するとよいでしょう。 なお、梅の実は温度変化に弱いので、冷蔵庫から出した場合、常温で保存していたものよりも早いスピードでカビや腐敗が進む可能性もあります。お店で冷蔵庫に保管されていた梅は早めに作業を始めましょう。 梅の実は、「自分の住んでいる場所に近い梅が一番おいしい」という言い伝えもあるとか。産地、品種によって少しずつ味が違い、それぞれにおいしさがあるので、いろいろ試してみるとよいでしょう。 5月中旬~下旬頃は、「梅酒用」「梅シロップ用」と書かれたまだ青くてかたい梅が並びますが、「梅干し用」と表示されたものを手に入れてください。入荷時期はお店で聞いてみましょう。 (2)さらに熟すのを待ちます。(省略OK) 梅がまだ青い場合は、紙袋や段ボールなどに移して、黄色くなるまで2~3日常温の室内に置きます。ポリ袋のままではカビたり腐敗しがちです。熟してくると家中が梅の香りに包まれます。 熟してから漬けたほうがふっくらした仕上がりでおいしいですが、時間がない場合、この工程は省いてもOKです。 (3)梅を水で洗います。 ボウルに入れて2~3回水を替えて洗います。強くぶつけたりしなければ、ごく普通に果物などを洗う感覚でOKです。汚れが気になる場合はホワイトリカー(焼酎でも可)を少量使って洗うとよいでしょう。 (4)水気を拭きます。 清潔なふきんやタオル、キッチンペーパーなどで水気を拭き取ります。水気が残っていると、カビの原因になります。ざるに上げて水を切り、そのまま乾かしてもOKです。 (5)塩を入れます。 ジップ付き袋に梅と塩入れ、空気を抜いて袋をしっかりと閉じます。シャカシャカ振って、塩を全体になじませましょう。液が漏れる可能性もあるので、袋は2枚重ねにすると安心です。 (6)そのまま置きます。 塩を加えて数時間で梅から水分が出てきます。これが梅酢と呼ばれる梅のエキスです。漬け込んでから最初の1週間は1日に1回くらい軽く振って、梅酢を全体になじませるとよいでしょう。 その後は、このまま常温の室内に置いておきます。秋~冬まで待てば食べ頃です。1週間~10日ほど経って、梅酢がたっぷり出てきたら、消毒したガラスびんなどに移してもよいでしょう。 ひと手間加えるとすれば、土用干しと呼ばれる天日干しをするとさらにおいしくなります。梅雨明けの晴れた日に行います。 ジップ付き袋のまま、日光に当てます。屋外でも屋内でも日が当たればOK。合計で1週間ほど日光に当てることができれば、よりよいでしょう(土用干しを行わないものも、本書では「梅干し」と呼んでいます)。 小川睦子・梅干し研究所(UMEBOSHI-LABO)主宰。梅干し研究家であり、編集者&ライターでもある。幼少の頃より梅干しをこよなく愛し、梅干しの研究に励む傍ら、梅干しの魅力と梅干し作りの楽しさを伝える活動を関東と福岡を中心に行う。簡単にできる梅干し作りや梅干しを使った料理などの講座も好評。自然食品店などでは手作りの梅干しも販売する。 (構成 生活・文化編集部 森 香織)
dot.
6/4
-
6
市川猿之助にずっと気を使っていた「香川照之」との関係性 行きつけの居酒屋で見せていた“本当の仲”
警視庁は24日、歌舞伎俳優の市川猿之助(47)を都内の施設に呼び、事情聴取を行った。両親が向精神薬中毒の疑いで死亡した経緯について詳しく話を聞いたとみられる。悲惨な「一家心中騒動」にはいまだ多くの謎が残るが、改めて猿之助の交友関係を取材すると、意外な人間模様が浮かび上がってきた。特に従兄弟で同じ歌舞伎役者でもある「香川照之」との微妙な関係が見え隠れする。 * * * 猿之助は都内のある居酒屋を行きつけの店にしていた。そこでは、彼の華麗な人脈がみてとれる。猿之助の知人が言う。 「その店は、もともと20年くらい前からリリー・フランキーさんが1人で飲んでいて、彼が“隠れ家”にしている飲み屋だったんです。そのうち、リリーさんが福山雅治さん、大泉洋さんらを呼んで、みんなでワイワイと飲むようになった。猿之助さんは福山さんが連れてきたと記憶しています」 猿之助は日本酒をキープしていて、それをおちょこで飲んでいたという。 「猿之助さんは学生時代からの福山雅治さんのファンで、福山さんがDJを務めるラジオ番組を聞いて、何通も手紙を書き送っていたそうです。その後、テレビドラマでも共演するようになり、公私ともに仲良くなったようですね」(同) 猿之助が俳優の香川照之(57)を居酒屋に呼ぶことも、しばしばだった。 「猿之助さんが先に店にいて、香川さんに電話をかけ、『今日はみんないるけどどう?』と言って、香川さんが遅れてやって来るのを見かけましたね。猿之助さんは一人でしゃべりまくって、いつも座の盛り上げ役。香川さんとも仲良く飲んでいましたよ」 同じ澤瀉屋(おもだかや)で市川中車を襲名した香川と、その従兄弟にあたる四代目猿之助は、私生活でも関係が深かったようだ。だが、一門でのパワーバランスや歌舞伎役者としてのプライドなども絡み複雑な関係だったとも言われ、「女性セブン」(23年6月8日号)は2人の間に長年の確執があったと報じている。 歌舞伎に詳しい著述家の米原範彦氏は2人の関係をこう語る。 「香川はずっと歌舞伎界を離れていたので、歌舞伎の世界に戻っても四代目の猿之助を立てるような立場になっていました」 それを象徴する出来事があった。 俳優としての香川は2013年に始まったドラマ「半沢直樹」シリーズ(TBS系)で、堺雅人演じる主人公の宿敵を怪演して大ブレークした。ある新聞社が正月特集で「半沢直樹」でブレークした香川を大きく扱おうとしたところ、突如、キャンセルになったという。 「澤瀉屋のリーダーの猿之助をさしおいて、新聞の正月版に大々的に載ることはできないと判断されたようです。香川は何かと、猿之助に気を使わざるを得ない存在なんだと感じました」(メディア関係者) 香川は、三代目猿之助(現・二代目猿翁)と浜木綿子の息子。本来なら香川が四代目猿之助を名乗っても不思議のない家柄ではあったが、香川が3歳の時、両親が離婚。三代目猿之助は00年に舞踊家の藤間紫と再婚したことで、香川とは長い間、断絶関係が続いた。 「三代目猿之助は浜と香川のことは“過去のこと”として完全に切り捨てた。三代目猿之助は香川に対し、『あなたは息子ではありません。私はあなたの父でもない。今後、2度と会うことはありません』と言ったという有名なエピソードもありました。だが、それでも香川はどうしても歌舞伎の世界に戻りたかった。その結果、香川は夫婦間の軋轢が生じて離婚までしたのですが、そのとき、歌舞伎界に戻れるように熱心にサポートしたのが四代目猿之助だったのです」(米原氏) 昨年夏、香川は銀座のクラブホステスの髪を引っ張るなどのスキャンダルを「デイリー新潮」に報じられ、テレビドラマやCMを次々に降板することとなった。その後、香川は市川中車として歌舞伎から人生の再出発を図ったが、その際にサポートしたのも猿之助だったという。 結局、昨年12月に香川は十三代目市川團十郎白猿襲名披露の舞台に「市川中車」として出演したことで、俳優復帰を果たした。 「市川團十郎の弟子筋が市川猿之助になります。それゆえ、團十郎に引っ張り上げてもらうにしても、猿之助を飛び越えることはできない。香川はいつも猿之助に気を使う立場だったのです。そんな状態のなかで、猿之助が事件を起こし、その代役として香川の長男の團子(だんこ)に光が当たるというのは、おどろおどろしい因果を感じます」(米原氏) 事件が起きた18日は、明治座で「市川猿之助奮闘歌舞伎公演」の真っただ中だった。猿之助は休演し、18日の昼の部はさすがに休演となったが、夜の部は二代目中村錦之助の長男・中村隼人(29)が務めた。翌19日には代役として、昼の部は香川の長男・市川團子(19)が務めた。 團子はわずか1日の稽古で本番に臨んだようだが、堂々たる芝居を披露し、スタンディングオベーションも巻き起こったという。 「團子は判官びいきの日本人の琴線に触れたのかもしれません」(演芸評論家の山本健一氏) 團子、隼人という若手のホープが澤瀉屋のピンチを救った形となった。米原氏はこう語る。 「歌舞伎という芸能にはしたたかさがある。猿之助がいなくても、必ずその代役が現れる。團子はまだそれほど稽古を積んでないと思いますが、驚くべき吸収力です。隼人も脚光を浴びて、きれいな顔をしていることも世に知られました。猿之助も好きだったけど、隼人も團子もいいよねというファンも増えたはずです。歌舞伎ファンではなかった人にも存在が知れ渡り、新しいファン層を広げる結果になったと思います」 歌舞伎界に詳しい早稲田大学の児玉竜一教授は、團子と隼人をこう評価する。 「團子と隼人の2人は見事に代役を演じました。隼人は間違いなく、猿之助が場所と役を与えて、育てた一人と言えるでしょう。猿之助が若手を育てたことが実を結んだことは、悲しい出来事が続いたなかで、ひとつの希望になったとは思います。今月の明治座のピンチを乗り切ったとしても、ずっと安泰ではありません。ここから先は、若手の人たちの自覚と精進次第だと思います」 はたして、澤瀉屋の未来やいかに。 (AERA dot.編集部・上田耕司)
dot.
5/26
-
7
ヘンリー王子とメーガンさんにすきま風 「3年持つはずがない」がここにきて現実味
5月6日、国王チャールズ3世(74)の戴冠式が執り行われた。規模は縮小されたが、歴史と伝統を尊重した荘厳な式であった。国王に続いて、王位継承順位1位のウィリアム皇太子(40)と2位のジョージ王子(9)を国民の前に示して、王室の継続性と安定性をアピールした。 王室の慶事に暗い影を落としたのは、ヘンリー王子(38)だった。わずか28時間ほどの滞在で、他の王族との交流も深めず、まるで逃げるようにアメリカに帰った。それなら妻子と合流した王子はさぞ幸せであるかというと、聞こえてくる話はそうではない。いつでも手を握り腕を絡ませる王子とメーガンさん(41)だったのに、風向きが少々変わってきたようなのだ。 5月19日は2人の5回目の結婚記念日だった。アツアツの写真やコメントを予想する向きも多かったが、何も出てこなかった。メーガンさんの戴冠式欠席の理由は、アーチー王子の4歳の誕生日を祝うためとされた。しかし、パパとママと妹リリベット王女(1)に囲まれた彼の笑顔を見ることはなかった。戴冠式翌日に目に飛び込んできたのは、メーガンさんが、イギリスから帰国しているはずのヘンリー王子とではなく、友人やボディーガードとハイキングする姿だった。 5月20日、イギリスのタブロイド紙は、ヘンリー王子は自宅近くの高級ホテルにメーガンさん抜きで利用する秘密の部屋をキープしていると報じた。「王子は、ここをメーガンさんからの逃げ場と考えている」との説明だ。またさらに、会員制クラブ、サン・ヴィセンテ・バンガローズにも王子は頻繁に通う。バリーズ・ブートキャンプで汗を流した後は決まって立ち寄る。プライバシーが究極の贅沢とうたうクラブハウスには、写真撮影禁止など厳格なポリシーがある。王子は「隠れ家」を少なくとも2カ所持つとのニュースが広がると、夫妻の広報担当者があわてて否定した。 一方、メーガンさんは仕事にまい進する。ネットフリックスで王室生活をテーマにした長編映画を制作する意欲を見せているのだ。以前に生い立ちをもとにしたアニメーション「パール」をネットフリックスから公開しようとしたが、中止になった。やはりネットフリックスは英王室の裏話を生々しく明かしてほしいし、メーガンさんもそれに応えたい。しかし、ヘンリー王子は必ずしも賛成していない。むしろイギリスに家族で帰る希望さえ持つという。 そもそも王子夫妻が2018年に結婚したとき、イギリスのメディアから「3年持つはずがない」と言われた。結婚2年足らずで王室離脱、オプラ・ウィンフリーさんのインタビューを受け、「ハリー&メーガン」のドキュメンタリー番組を公開し、ヘンリー王子は暴露本『スペア』を出版した。いずれもテーマは英王室批判で、それによる収入も莫大だ。こうしたことから二人の人気はイギリスはもとより、アメリカでも凋落傾向にある。 しかしメーガンさんは、しぶるヘンリー王子を置きざりにしてでもさらにスーパースターへの道を駆け上がりたい。先日は、大手エージェンシーのウィリアム・モリス・エンデヴァーと契約、芸能活動などに力を入れていく。メーガンさん担当とされるCEOアリ・エマニュエル氏の兄は、オバマ元米大統領の首席補佐官で元シカゴ市長、現在の駐日大使だ。政界進出の夢を捨てていないメーガンさんにとっては重要なコネになる可能性がある。自分には公爵夫人、子どもたちには王子と王女の称号を得た。もう、ヘンリー王子は必ずしも必要がないのかもしれない。夫妻の目指す方向には徐々にずれが生じている。 メーガンさんが前夫に離婚を告げる際は、封筒に婚約・結婚指輪を入れて送り付け、それきりだった。父親との関係もそうだ。心臓病で緊急手術を受けようと、「孫と会いたい」と繰り返そうと、関係修復の姿勢を見せない。メーガンさんは、英王室に入るときに閉鎖したブログ「ティグ」を再開する予定だ。ヘンリー王子と出会う前のティグには次のような言葉がつづられている。「自分を完成させるのに他人は必要ない。自分一人で十分だ」。ヘンリー王子とメーガンさんの不仲説は、離婚へと突き進むのだろうか。 (ジャーナリスト・多賀幹子) ※AERAオンライン限定記事
AERA
6/1
-
8
【合格者数ランキング】旧帝大や早慶上理、MARCH…「30年」で伸びた高校・消えた高校
【国立】東京大 / 京都大 / 大阪大 / 北海道大 / 東北大 / 名古屋大 / 九州大【私立】早稲田大 / 慶應義塾大 / 上智大 / 東京理科大 / 明治大 / 青山学院大 / 立教大 / 中央大 / 法政大 / 学習院大 / 関西大 / 関西学院大 / 同志社大 / 立命館大進学調査を行う「大学通信」の調査のもと、大学別に2023年と1993年の合格者数の上位校を掲載した。「合格者数」はのべ合格者数で、1人の学生が複数の大学に合格しているケースも含まれる。また、既卒生の合格者も含まれる。高校への調査では、未回答の学校は掲載していない。大学公表値では、推薦など一部の入試方式の合格者が含まれていない場合がある。1993年の早稲田大と2023年の国立大は合格実績のある高校に調査した人数。93年の北海道大と私立大は大学が公表した人数(早稲田大を除く)。93年のその他の国立大はサンデー毎日と大学通信の共同調査。早稲田大は23年が一般入試の合格者のみのため、93年のランキングからは附属・系属校の内部合格者を除いた。高校名は現在の名称。私=私立、公=公立、国=国立(協力/大学通信)【関連記事】東大、京大、早慶…30年で激変! 「難関21大学」合格者数ランキング 渋幕、西大和「急成長」のナゼ30年間で“定員割れ私大”急増も、バンカラ明治大が女子学生の人気大学に変貌した意外な理由MARCH合格者数の上位校「大宮開成」「山手学院」 30年間で「伸びた学校」に変えた改革の“中身”
5/31
-
9
郵便局の統廃合は「絶対タブー」の裏組織 先送りのツケを払わされるのは国民と利用者だ
郵便局の利用者が漫然と減り続けるなか、全国2万4千の郵便局網の統廃合は必要だ――。日本経済新聞が1面トップで仕掛けた問題提起は、ある“力”によってすぐに火消しされた。『郵便局の裏組織 「全特」―支配と権力構造』(光文社)を上梓した朝日新聞経済部の藤田知也記者が、舞台裏を解説する。 * * * <郵便局網「整理が必要」 郵政社長 統廃合の検討表明> 日本経済新聞の5月12日付の1面トップに、こんな見出しがでかでかと掲載された。字面どおりに読めば、増田寛也社長が率いる日本郵政グループが、ついに統廃合の検討に踏み切るのか、と受け取れる。 ところが、いざ記事の中身を読むと、とたんに話が萎んでいく。 増田氏は、統廃合の時期は「2040年が一つのタイミング」と語り、その検討が始まるのは30年代後半だと書かれている。そんな先まで増田氏が社長を続ける可能性は低く、要するに「自分はやらない」「あと十数年はやらない」と宣言したも同然だ。 じつは、増田氏は社長の就任当初から、似たような発言を繰り返してきた。 「2040年を過ぎると人が驚くほどいなくなる。そういう時間軸で見ると、未来永劫ずっとネットワークを維持することはもちろんあり得ない」(2020年1月9日) このときも統廃合は遠い将来の話で、むしろ自分はまったく手をつけず、郵便局網の価値向上に励むのだと説明していた。 そんな増田氏が改めて語った言葉をあえて切り取り、誤解しそうな見出しを1面であえてぶち上げたのは、記者自身が、あるいは多くの人が、やはり郵便局の統廃合は先送りせずに検討すべきだ、と考えているからではないか。 ただし、どんな思惑であれ、内容と不一致の見出しであれ、「統廃合」の議論はおろか、それを口にすることなど決して認めない。そう言わんばかりの利権団体がある。 日本郵政グループ内で「裏」と呼ばれる、全国郵便局長会(全特)だ。 日経報道の直後から、彼らはさっそく動き出した。 統廃合は「絶対タブー」 全特の末武晃会長は5月15日、日本郵政社長の増田氏と対峙していた。日経報道の3日後、週末を挟んだ最初の営業日だ。 末武氏が「強い遺憾の意」を伝えると、増田氏はこう釈明した。 「郵便局がすぐに廃止されるとの自治体の不安を払拭するため、かなり先まで今のまま残ることを伝えた。安心して自治体事務をゆだねてほしいとの思いで発言した」 「郵便局ネットワークの議論はまだ相当先でいい。まずは自治体の仕事をどれだけ増やせるかが大切だ」 末武氏は追い打ちをかけるように、日経新聞に記事の訂正を求め、社長の真意を局長と社員に説明するよう申し入れた。末武氏は5月16日付の会員向けメッセージでそう明かし、「非常に心配されていると思うが、今後も必要な対応を行っていく」と書き添えた。翌17日には予告どおり、増田氏による釈明がグループ全社員にあててメールされた。どっちが偉いのか、これではよくわからない。 末武氏の説明からは、たとえ遠い将来のことでも統廃合を口にするのは「絶対タブー」という信念が読み取れる。 そこまで彼らが「局数」にこだわるのはなぜなのか。 最大の理由は、局数の維持がピラミッド組織である郵便局長会の各層にとっての利権そのものだからだ、と筆者は考えている。 死守したいのは旧特定局の数 2万4千の郵便局のうち、約4千は業務を外部に委託する簡易郵便局。直営局とされる残り2万局のうち、約1100が大型の旧普通郵便局、そして約1万9千弱が旧特定郵便局だ。旧特定局長のほとんどが局長会の会員であり、全特が死守したいのも旧特定局の数だ。 局数は当然、局長ポストの数に直結する。そして、局長になる者はほぼ全員が局長会に入る。局長会に入るほうが採用に有利で、しかも局長会に入らなければ業務や出世が困難となる状況があるからだ。 そうした歪んだ人事構造に支えられ、局数の維持が局長会の会員数の維持にもつながる。会員は政治活動に取り組むことが条件なので、選挙などに無償で動かせる現役世代を安定的に確保できるようになる。 さらに、局長会の会員は毎年20万円超の出費を強いられるのが一般的だ。それは組織の運営費や国会議員に流れる政治資金といった活動費を数十億円規模で調達できる資金源にほかならない。 局長会は局長が自ら局舎を持つ「自営局舎」を推進しており、移転局舎があれば局長に取得するよう働きかける例が目立つ。土地を取得して局舎を建てるための資金を局長会の関連団体が融資することで、日本郵便が支出する店舗賃料を元手に、多額の利息収入を稼ぐことも可能にしている。 要するに、郵便局の統廃合に手をつけられれば、組織の力を維持する「ヒト」と「カネ」の供給システムが打撃を被る。これが口にすることも認めない最大の理由だろう。 「深刻化」する前に いまいちど増田氏の言葉とともに、07年の郵政民営化後の道のりを思い起こしてほしい。 民営化で経営の自由度を高めたはずが、局長たちは「局数の維持」などを名目に民営化を凍結させ、さらに骨抜きにしていく法改正で足かせを増やすことに奔走した。局長会の要望を受け入れた法改正が実現すると、組織はあぐらをかいて本来の目的を見失い、「組織力の維持」自体が目的化していたのではないか。 「郵便局の価値向上」は民営化の当初からうたわれていたが、16年もの歳月を費消して、窓口は一体どれだけ向上したか。一部の局で最近ようやく電子マネーやスマホ決済ができるようになったが、ほかに大きな変化は思い浮かばない。これまでできなかったことが、このあと急にできるようになるとはとても思えない。 近年は、雇用を削り、サービスの質を落とし、料金を引き上げることで「利得」を捻出してきたのが経営の実態である。 21年からは「土曜配達」をなくし、昨年は「翌日配達」もやめた。夜間や週末の業務を減らし、日本郵便で21年からの5年間で全従業員の8%にあたる3万人を減らす計画だ。 郵便やゆうパックの料金はじわじわ値上がりした。19年度からは、郵便局網を守ることを口実に、郵政グループ全体で年200億円の税負担を軽くする特殊制度も始まった。その分だけ国民負担が重くなっている、ということだ。 郵便物の縮小を思えば致し方ない面もある。しかし、裏組織の利権に直結する「郵便局数の維持」は必死で守り抜くわりに、従業員や郵便利用者、国民の利益や負担はちゅうちょなく後回しにする姿勢が、増田体制のもとでも鮮明になっている。 経営規模が萎んでいくなか、いまの状態を維持して局数の延命を図るなら、郵便利用者と国民の負担は無尽蔵に膨らんでいく。それは「負の遺産」となって将来世代にツケを回すことにもなる。被害が深刻化する前に、私たち自身が郵便局の内実と経営が行き詰まる真因を理解し、その行く末に「審判」を下すべきではないか。 重たいコストを受け入れてでも2万4千すべての局を「必要な存在」として支えるのか。それともコストを抑えるため、本当に必要な規模のネットワークを特定して統廃合を推し進めるのか。 うわべのイメージではなく、事実とデータに基づいた真っ当な判断を下せるように、局長会の実態と郵便局の現場の実情が広く知られることを願ってやまない。 ◯ふじた・ともや/朝日新聞記者。2000年に朝日新聞社入社。「週刊朝日」記者を経て経済部に。新刊『郵便局の裏組織 「全特」-権力と支配構造』(光文社)が発売中。筆者への情報提供は fujitat2017@gmail.com へ
dot.
6/2
-
10
「あまちゃん」待望の再放送に地元も異例の盛り上がり 三陸鉄道には「三陸元気!GoGo号」も走る
あの「国民的ドラマ」、NHK朝の連続テレビ小説「あまちゃん」が、放送開始10年を記念して、4月から再放送がスタートした。あまちゃんをイメージした、ラッピング列車まで走る。お茶の間だけでなく、地元も、再びあまちゃん熱で盛り上がる。AERA 2023年6月5日号の記事を紹介する。 * * * 日本中に笑いと涙をもたらした、あの朝ドラが帰ってきた。 「『じぇじぇじぇ』って、聞くたび元気になります」 都内の会社員の女性(40代)は楽しそうに話す。 2013年に放送されたNHK連続テレビ小説「あまちゃん」だ。東京になじめない女子高校生の天野アキ(俳優・のん)が、母・春子(小泉今日子)の故郷、太平洋に面した岩手県久慈市をモデルにした架空の町「北三陸市」を訪れる。そこで、祖母・夏(宮本信子)に憧れ、海女を目指し、やがてご当地アイドルになり、東日本大震災からの復興に奮闘する物語。驚いた時に使う方言「じぇじぇじぇ」が流行語になり、ロケ地巡りの「聖地巡礼」が始まった。放送終了後には「あまロス」なる言葉まで生まれるなど、社会現象を巻き起こした。その「あまちゃん」のアンコール放送が、放送開始10年を迎えたタイミングで、4月からNHKBSプレミアムとBS4Kでスタートしたのだ。 ■異例の盛り上がり 再放送が始まると連日、ツイッターで関連ワードがトレンド入りするなど、ネット上をにぎわせている。「#あまちゃん」というハッシュタグも立ち、 <泣いて笑って笑って泣いた15分> <エモく懐かしく、胸に響いて…そして爽やかで…。だけど最後の最後はクスッと笑わせてくれる…だから…最高> といった書き込みも殺到し、異例の盛り上がりを見せている。 冒頭の女性は、「圧倒的にアキがかわいい」と言う。 「地味で暗くて向上心も協調性もない」と言われたアキが、母や祖母など強い個性の人たちの影響を受け、挫折しながらも成長していく。 「話の展開がわかっているのに、アキの夢や恋をドキドキしながら見守っています」(女性) ドラマのロケ地も再び盛り上がりを見せる。 「じぇじぇじぇ発祥の地」記念碑が立つ、ロケ地の一つ久慈市宇部町。「久慈市観光物産協会」事務局長の向川(むかいかわ)智之さんによれば、このゴールデンウィーク(GW)期間中は、町には多くの老若男女のあまちゃんファンが県外からも訪れた。同協会が入る「道の駅くじ やませ土風館」にある「海女衣装体験コーナー」では、若者が海女の衣装に着替え撮影を楽しんだという。 「あまちゃんのすごさを実感いたしました」(向川さん) それにしても、10年経っても色褪せない「あまちゃん」の魅力とは何か。 理由は一つではないが、NHKメディア戦略本部でドラマジャンル編集長の下要(しもかなめ)さんは、「元気をもらえるのが一番大きいのでは」と語る。 「頑張れば報われる、明日に向かって進もうというのがあまちゃんのテーマだと思います。もちろん、アキは、悩んだり壁にぶつかったりします。けれど、常に前を向いて乗り越えていく。その姿が、閉塞感があり困難な今の時代を生きる私たちに、元気を与えてくれるのではないでしょうか」 ■圧倒的な総合力 フリーライターで『みんなの朝ドラ』の著書もある木俣冬(きまたふゆ)さんは、10年経って「あまちゃん」の再放送を見て、改めて感じたのは「圧倒的な総合力」だと言う。 「脚本、演出、ヒロイン、バイプレーヤー(脇役)たち、音楽、風景……等々、すべてに力があって、元気をもらえます」 さらに結束力を感じるが、そのモチベーションの第一は、東北を応援したいという気持ちではないかという。あまちゃんは東日本大震災から2年後にできたドラマで、東北へのリスペクトがあり、といってひたすら持ち上げたり気を使いすぎたりするのではなく、あえて田舎の欠点も描いている。宮城県出身の宮藤官九郎さんが脚本だったからか、それにも説得力があったという。 中でも、ひと際光るのは、夏、春子、アキの家族3代だと木俣さん。 「とりわけ、アキは透明感があって清純そうな面もありつつ時には毒づくこともあって、多彩な面があって目が離せません。朝ドラのヒロインはそれまで、たいてい清純一点張りでしたが、アキは表情がとても豊かです」 そしてこう続ける。 「なつかしい1980年代カルチャーも満載。テレビ、演劇、音楽、すべてにおいて日本がやたらと元気で明るく、表現に忖度がなかった頃のパワーが凝縮していたと、10年経って、尊く思います」 ■前に進む勇気 再びの「あまちゃんフィーバー」を象徴するかのように、岩手県沿岸を走る三陸鉄道(三鉄)に、あまちゃんをイメージしたラッピング列車も登場した。車体全面にあまちゃんの名場面や、のんさんにちなんだイラストといった、いわゆる「あま絵」が描かれた「三陸元気!GoGo号」だ。 三鉄は、ドラマでは「北三陸鉄道」と名前を変え登場する。ラッピング列車は、三鉄を応援するあまちゃんファンがクラウドファンディング(CF)で全国から資金を募り、目標額を上回る約791万円を集め、三鉄の協力を得て実現した。 CFの実行委員長を務めたのは、埼玉県に住む今西穂高(ほだか)さん(66)。 13年4月、33年勤めた会社をリストラされた。失意の中、東北を一人で旅している時に放送中の「あまちゃん」を見てハマり、元気をもらった。自分も何かに向かって行動しようという気持ちになれ、前に進む勇気を与えてくれたという。「アキが海に飛び込むシーンが何度かあり、どれも印象的でした。飛び込むとは、恐れながらも勇気を出して新しい世界に入ることを意味しています。自分を変えようとする『覚悟』を感じました」 その後、今西さんは再就職も決まり、三陸地方にも通い三鉄もよく利用するようになると、あまちゃんでも重要な役割を果たす三鉄に親しみを感じた。そして、この三鉄に「あま絵」で飾った列車を走らせたら、楽しく、沿線の人も喜んでくれるだろうと考えるようになり、CFで資金を募ったという。「三陸元気!GoGo号」は、今西さんの命名だ。 「多くの皆さんに三陸を訪れ、きれいな景色や美味しいお弁当を楽しみながら、『三陸元気!GoGo号』に乗っていただきたいと思います」(今西さん) ■再び日本を元気に 4月上旬、三鉄の久慈駅で行われた三陸元気!GoGo号の出発式には、のんさんも駆けつけた。 「たくさんの愛情を感じる列車。沿岸を走るのがすごく楽しみ」 とあいさつ。テープカットをした後、北の海女の姿になり、大漁旗を振って列車を見送った。 ラッピング列車は、久慈(岩手県久慈市)−盛(さかり)(同大船渡市)間の163キロを、10月1日までの毎週土日に運行する。それ以降は、通常ダイヤに組み込んで来年4月上旬まで運行する予定だという。 三陸鉄道も歓迎する。 同鉄道は1984年に開業。かつては、交通手段がなく隣の集落に行くのさえ船で岬を回らなければいけなかった三陸地方を一つにつないだのが三鉄だった。だが、開業時には年間268万人だった乗客数は、沿線自治体の少子化や人口減少、コロナ禍などで21年度は約61万人と4分の1にまで減少。22年度は、燃料費高騰も加わり、2年連続の赤字になる見通しなど厳しい状況が続く。 それだけに、三陸元気!GoGo号への期待も大きい。三鉄によれば、今年のGWは多くの観光客が列車を利用し、駅のホームではカメラを構えたファンが、列車が来るのを待った。4月29日から5月5日までの収入は、対前年を上回り121%になったという。 「今後は、新型コロナウイルスが5類に移行したことから『あまちゃん』の再放送と『三陸元気!GoGo号』の運行によって、たくさんの方に来ていただきたいと期待しております」(三陸鉄道) あまちゃんが再び、三陸を、そして日本を元気にする。 (編集部・野村昌二) ※AERA 2023年6月5日号
AERA
6/2
-
11
新しいNISA「税金を払っても特定口座から移すべきか?」30年検証【東証協力】
これまで買ってきた金融商品が特定口座で眠っている人はいったん税金を払い、売却してでも新しいNISA口座に移し替えるべき? アエラ増刊「AERA Money 2023春夏号」より抜粋してお届けする。 新しいNISAでたっぷり投資したいがお金がない。そんな人に向けて、こう言い切る人がいる。 「もし特定口座で投資信託(以下、投信)などを保有しているなら売って新しいNISA口座(以下、NISA口座)に移せ。そのほうが、いついかなる場合も有利」 そう言われると「そうなのか」と思ってしまう。特定口座で運用中の金融資産に大きな含み益がある場合は? 売却した際に払う税金のことを考えると「いついかなる場合も」と言えないのでは。 いったん20.315%の税金を払ってでも非課税のNISA口座に資金を移すか。それとも、利益確定による税金の支払いを先延ばしにして、その分も運用し続ける効果を重視するか。 このテーマに関し、本誌の試算結果をもとに、東証からコメントをいただいた。 「結局のところ、特定口座における税金の繰り延べ効果とNISA口座の非課税効果、どちらが大きいかという話ですね」(東証執行役員・長谷川高顕さん/以下同) 「大ざっぱ」な結論を先に。 「特定口座の資産にそれほど利益が出ておらず、将来の期待リターン(どれくらい上昇しそうか)が高いと判断するなら、早くNISA口座に移し替えるという考え方ができるでしょう(非課税効果>税金の繰り延べ効果)」 「特定口座の資産の含み益が大きく、将来の期待リターンが低いと判断するなら、NISA口座への移し替えは慎重にしたほうがいいという考え方もあります(非課税効果<税金の繰り延べ効果)」 具体的に期待リターンが何%で含み益が何%以上の場合、特定口座からNISA口座に移さないほうがいいのか。 東証の回答は「相場の動き方により結果が変わるため、厳密には数値化できない」。 本誌の検証によれば、含み益があっても特定口座からNISA口座に移したほうが、ほとんどのケースで非課税メリットにより最終的な受け取り額が多くなることが多かった。 ただ、投資対象のリターンが年平均2%以下、かつ特定口座の金融商品の含み益がかなり大きい場合、NISA口座に移しても有利にならないケースが発生していた。 たとえば、「特定口座で保有する金融商品が元手の4倍まで値上がり=評価額の50~75%が含み益」の状態なら、「移すのはちょっと待った」。NISA口座に移したあとの上昇が年平均2%以下なら税金面で負ける可能性がある。 逆に言えばあなたが「今後も年平均2%以上の値上がりをする」と期待していて、かつ特定口座の金融商品が元手の2倍以下しか値上がりしていない場合、特定口座からいったん売却してでもNISA口座に移すほうがよさそうだ。 「特定口座から評価額400万円(元手200万円、含み益200万円)の金融商品を売却し、税引き後の360万円をNISA口座に移して30年間保有」「同条件の金融商品を特定口座で30年間保有し続け、税金の支払いを売却時まで先延ばしにする」の2パターンを検証した。 どちらのパターンも2年目以降はNISA口座で毎年360万円の投資をしたと仮定して、30年後の両者の資産を比較する。 運用1年目から30年目までの年平均リターンが2%、5%、10%の場合は、いずれもNISA口座に移したほうが有利になった。一番シンプルな「増えるだけ」のパターンの検証である。 しかし年5%のリターンでも、10年に1度の50%もの暴落に3回または2回見舞われると、NISA口座に移さないほうが有利な場合があった。 最終的に元本割れしたら、特定口座のほうが少し得。NISAの非課税メリットがなくなるので当たり前の話だ。 含み益のあった特定口座の資金をそのまま運用したほうが、損失額は若干減るというわけ。NISAで損をしたら、いいことは何もない。 実際のTOPIXを使ってあらゆる期間を検証すると、わずかだが「特定口座から移さないほうが有利だったパターン」もあった。 1990年開始の30年間および20年間は、特定口座で保有し続けたほうが得だった。 「特定口座で保有している資産の含み益がどれぐらいあるか、今後どれぐらいのリターンを想定するかで結果は変わります。『いついかなるときも特定口座から移したほうがいい』とは言えません」 改めて結論。特定口座の含み益が元手の2倍以下なら移しても税金面で損する可能性は低いというのが本誌の見解。 また「今後の運用で2%どころかもっと儲かると思う人」も移し替えの検討を。 ◯長谷川高顕(はせがわ・たかあき)/東京証券取引所 執行役員 金融リテラシーサポート部 担当。1990年、東証に入社。子どもから成人まで中立の立場で金融経済教育情報を発信するチームのトップ。執行役員は2023年4月から 編集/綾小路麗香、伊藤忍 ※『AERA Money 2023春夏号』から抜粋
AERA
6/3
-
12
岸部一徳が語るザ・タイガース「『火のような後悔』があったのだろう」
通常、取材はほぼ受けない俳優・岸部一徳さんのインタビューが、本誌休刊のタイミングで実現。3回連載の第1回の今回は、ザ・タイガース前史からPYGまで、本誌編集長がお話を伺いました。 * * * 岸部の日課に最近加わったのが、ベースの練習だ。 「ここ10年、ほとんど触っていなかったからねえ。2曲続けて弾いたりすると指が疲れてくるんで……。6月までには間に合わせないとね」 2018年10月。興行主との集客に関する契約トラブルで中止となった沢田研二のライブから5年。6月に改めて、さいたまスーパーアリーナで開催される沢田の“バースデーライブ”に岸部はゲスト出演する。 「去年会った時に沢田から話があってね。あの時ドタキャンだと騒動になったでしょう? だから『いろんなこと言われたんで、きちっとリベンジしたい』と。それで『ああ、いいよ』って」 岸部と同じくザ・タイガースの元メンバー、森本太郎と瞳みのるもステージに立つ。13年のザ・タイガース復活ツアーには参加した加橋かつみは、今回出演しないという。 ザ・タイガース。1960年代のグループサウンズ(GS)ブームを象徴する伝説のバンドは、今年デビューから57年目を迎えた。 岸部とメンバーとの出会いは中学校時代にまで遡る。森本と瞳とは京都市立北野中学の同級生、それぞれ別の高校に進学したのち、瞳が連れてきて知り合ったのが加橋だ。 「森本とは一番古いし、まあ楽だよね。瞳も中学からいつも一緒だった。大っきいのと小っちゃいのの二人で」 牛乳配達のバイトを瞳に紹介してもらったこともあった。 沢田は岸部、森本、瞳の2学年下になる。 「あのころの一つ二つって大きいよね。沢田は本当におとなしくて。年下の遠慮もあったのかな。いまは全然ないけどね(笑)。沢田と一緒にやりだしたのが、運が良かったと思う。彼がいなかったら僕らは京都止まりだったんじゃないかな」 ザ・タイガースの原形は岸部と森本、瞳、加橋の4人が65年6月に結成したサリーとプレイボーイズだ(岸部の愛称サリーはリトル・リチャードの「ロング・トール・サリー」が由来)。加橋と森本はすでにギターが弾けて、瞳もドラムをたたいたので、岸部はベース担当に。初めて抱いたのは京都の楽器屋で手に入れた4万円の中古だ。練習は西陣の、日本舞踊の小さな舞台の設(しつら)えがあった森本の家が多かった。 「貸しスタジオなんて昔はないから。近所から苦情がくるので、アンプも通さないで、小さな音でね」 ほどなくバンド名をファニーズと変え、翌年、京都市内のゴーゴー喫茶「田園」で先輩バンドの坊やをしながら時折ステージで歌っていた沢田と出会う。 「僕ら4人は誰も歌えないと思ってたんでね。沢田に入ってもらって、ボーカルのいるバンドにしようとしたんだ」 ■5人のバランス 絶妙だった 海の向こうでは、62年にデビューしたザ・ビートルズが瞬く間に世界を席巻していたころだ。オーディションに合格し大阪・道頓堀のジャズ喫茶「ナンバ一番」に出演するようになるとファニーズはファンが増えていった。だが、当時17歳の沢田に後の“ジュリー”の片鱗はまだ見えなかったという。 「僕たちはファッションもアイビーとかコンチとか、全体的に『カッコいい』っていうスタイルを身に着けていたけど、地味~でもっさりしてるのが沢田だったからね(笑)」 だが、「いるかいないか、わからないような内気な少年」は、マイクを握ると不思議な光を放った。当時ブルージーンズにいた内田裕也が前座のファニーズに目を留めたことがきっかけで、渡辺プロダクションからのデビューへ繋がった逸話はよく知られている。 「5人のバランスが絶妙だった」と後年、内田は振り返っている。 大阪時代のファニーズゆかりの地として往年のファンの間で有名なのが、メンバーが下宿していた西成区岸里(きしのさと)の「明月荘」だ。 ここで、ちょっとした新情報をひとつ。 「住んでいたのは1年ほどね。二人で3畳一間みたいなところを3部屋借りたんですよ」と岸部。 3部屋? ずっと「5人で2部屋」と伝わっていますけれど? 「3部屋。僕は瞳と相部屋で、沢田は森本と。で、加橋かつみは一人。それでもかつみは時々、母親のいる実家に帰っちゃったりする。やっぱり共同で二人部屋とか、かつみにはしんどかったのかもわからない」 東京行きが決まると、京都の四条花見小路にある旅館で、メンバーの親も同席して渡辺プロとの契約書にサインした。親側のまとめ役は職業軍人だった岸部の父親が買って出た。66年11月。5人の若者の姿は、開業間もない新幹線の車内にあった。 彼らの人生は東京で一変する。作曲家すぎやまこういちの一声でザ・タイガースと改名し、翌年1月に日劇ウエスタンカーニバルに初登場すると、新宿「ACB」、池袋「ドラム」、上野「テネシー」など都内のジャズ喫茶は連日満員に。2月に出したデビュー曲「僕のマリー」の売れ行きは最初こそ凪だったが、セカンドシングル「シーサイド・バウンド」で人気は爆発する。68年1月のウエスタンカーニバル出演時には、ブルー・コメッツ、ザ・スパイダースら並み居る人気バンドの中でも一頭地を抜く存在となっていた。 「ようやくどうにか一番になったという感じでしたね」。後に沢田は自叙伝『我が名は、ジュリー』で語っている。 上京してわずか1年。飛行機での移動では空港に専用の出入り口が用意され、車で走れば警察車両が先導し、発車時刻に遅刻しそうな時はマネジャーが新幹線さえ止めさせた。 「いきなり、19やハタチで何もかも特別扱いになった。ちょっとやっぱり、生意気になってたでしょうね」 ■GSブームと70年安保闘争 岸部は嵐のような日々を述懐する。住む場所も合宿生活を送った千歳烏山の一軒家から四谷左門町、目黒の池尻大橋と、自宅に押し掛けるファンから逃れるように引っ越しが続いた。ベルベットのジャケットにフリルのブラウス、バレエダンサーのような白いタイツ風の衣装も着た。 「恥ずかしくはなかったよ。ああいう時はああいうふうになるの。5人並んで真ん中にジュリーがいるから一応格好がつく。僕が一人でタイツはいてたら、おかしいでしょ(笑)」 GS全盛期は、そんな時代だった。「でもね」。岸部は言う。 「むつかしいのは、一方では安保闘争をやっている」 東大生の樺美智子が命を落とした60年の安保闘争。学生による反体制運動は続くベトナム反戦運動へとなだれ込み、GSブームの最高潮は、一連の大学紛争が激化した70年安保闘争の時期にぴたりと重なる。 「そんな時に、こっちは女の子相手に音楽やってるわけ。ファンに男なんて誰もいないから肩身が狭い。その肩身の狭さは、外国のほうを見てどうにかしようとするわけですよ。ビートルズとかローリング・ストーンズとか、あっちだってキャーキャー言われてる。『あんなすごいグループと僕らも同じなんだ』と思いながら、やってましたね」 68年6月、「木島則夫ハプニングショー」で、当時社会問題化していたGSと長髪男子の象徴のごとくザ・タイガースが批判にさらされたこともあった。 番組ではアウェー感が演出され、観覧者として参加していた教諭から、「GSファンは大脳が弱い」などという“口撃”も続く中、岸部は毅然と言っている。 「若者を全然理解しないようなのは本当の大人じゃないと僕は思う。だからこれから僕たちが何十年か先、大人になった時は、もっと綺麗な大人になりたいと思います」 日本全体が大きくうねり、転換していた時代だ。変化はメンバーにも生じていた。 「ちょっとずつ考え方に差が出てくるよね。音楽的な趣向が合わないとかじゃなくて、プロダクションの給料制に対してどうだとか、人気に見合うものをもらっているんだろうか、搾取されてどうするんだとかね。周りに『あんたたち、取られてるんだよ』っていう人も出たりする」 アイドル性を重視した渡辺プロのプロモーションも、「日本一のバンド」を目指して出発したメンバー間で少しずつ軋轢(あつれき)の種となっていた。 69年3月、レッスン中に姿を消したまま、加橋は戻らなかった。岸部の弟、シローの加入は話題にはなったものの、すでに瞳の心もグループから離れていた。 「ある日、ウエスタンカーニバルの時に、日劇の奈落にピー(瞳の愛称)に呼び出されてね。『こんな所にいないで、一緒に京都に帰ろう』って言うんだよ」 岸部にはそのころ、すでにザ・タイガースの解散をにらんで、沢田たちと新たなバンドを組む企画が進行中だった。 <なんで帰らないといけないの? 帰ってどうするの? まだやること、こっちでいっぱいあるんだよ> <一緒に帰らないんだったら、お前とはもう会わない> <いいよ> <一生絶交だ> 「子どもじゃないんだけどね。そんなやりとりがあったね」 ■武道館での解散「帰れコール」 71年1月24日、ザ・タイガースは日本武道館でのコンサートを最後に解散した。 公演の後、親や歴代のマネジャーも呼んで、有楽町のガード下にあるちゃんこ料理屋でお別れの食事会が開かれる。内田裕也の主催だった。 会が終わると瞳は、表に待たせていた家財一式を積んだ2トントラックに乗り込み、京都からコンサートを見にきてくれていた中学時代の親友2人と共に去っていった。振り返りもしなかった。 「よくそんな、ねえ。次の日だっていいじゃない(笑)。あの決意はすごいと思うけど」 ザ・タイガースというグループで青春を無駄にしてしまったという「火のような後悔」があったのだろうと、岸部は友の心中を思う。その後、瞳は37年間にわたってメンバーはおろか、芸能界との一切の交流を絶つ。 解散後、岸部は沢田とともに、ザ・テンプターズの萩原健一、大口広司、ザ・スパイダースの大野克夫、井上堯之とPYGの活動を本格始動し2月1日にデビュー。解散コンサートから1週間後のことだった。 PYGが目指したのは本格的なニュー・ロックだ。沢田と萩原のツインボーカル、天才と言われた大野、ミュージシャンに一目置かれる井上も加わり、「GSとは全く違う、もっと上のものを目指そう」と、今までに増して前向きだった。だが──。 出演したロックフェスでは「帰れコール」が飛び、トイレットペーパーや空き缶がステージに投げ込まれた。 「この人たち、ちょっとおかしいんじゃないと思ったぐらい、排除された。GSの残党が金儲けで集まったみたいに思われてるわけだから。出てる方はそんなことないのにね」 GSのファンからも、ロックファンからもそっぽを向かれ、コンサートの客席はガラガラ。メンバーの多忙も重なり、PYGは自然消滅していった──とされているが、実情は違ったらしい。 ある日、岸部のもとに電話がかかってくる。 「俺は、もうちょっと、沢田には勝てないなあ」 声の主はショーケンだった。(次号に続く/敬称略) (本誌・渡部薫)※週刊朝日 2023年5月26日号
週刊朝日
5/21
-
13
MARCH合格者数の上位校「大宮開成」「山手学院」 30年間で「伸びた学校」に変えた改革の“中身”
この30年間でMARCH(明治・青山学院・立教・中央・法政)への大学合格者数を伸ばしている高校がある。どんな教育方針なのだろうか。埼玉の大宮開成と横浜市の山手学院を取材した。AERA 2023年6月5日号の記事を紹介する。 * * * 駿台予備学校によると、5月の「駿台全国模試(ハイレベル)」では理系3教科型の受験者数がこの30年間で約2万人から約2万7千人に増加。それに対し、文系3教科型は約2万3千人から約1万1千人に減少した。まさに文理逆転の構図である。 駿台入試情報室部長の城田高士さんは、この30年間で「伸びている学校」の共通点を指摘する。 「やらされるのではなく、自分から進んで学ぶ自主性のある生徒さんが多い印象です。『入試ってイヤだよね』ではなく、『入試があるから頑張れる』というロジックを持っている生徒さんが多いように思います」 生徒の自主性を育てるには、周りの教職員がどうサポートするのかも重要だ。埼玉の大宮開成もこの30年で実績を伸ばし、立教、中央、法政の3大学で1位に。今やMARCHの合格者数トップを誇る進学校になった。 同校は1959年に女子校として設立。大学進学を希望する生徒はほとんどいなかったが、96年に打ち出した「学校大改革」で大きく変わる。渡邉涼也進路指導部長は言う。 「進学にも力を入れようと、97年から共学化。特進コースを設置しました。ただ、大学受験のノウハウはなく、ほとんどゼロからのスタートでした。若手教員は予備校講師の授業を見学して、受験指導というものを学びながらやっていました」 他校の受験生に追いつくために、学びの環境を整えた。すると、初年度から早慶に受かった生徒が1人。結果が出た。 人の発想力は2のn乗 現在、予備校講師による授業はなくなった。年月が経つにつれ教師の授業も洗練されていったからだという。 「受験戦略も担任が主軸となって組み立てるので、進路指導部長の私は資料を渡すだけ。もともと進学校ではなかったこともあり、先生が自由にやれる余白があるのも大きいです」 渡邉さんはそう言い、今では「教員全員が進路指導部のよう」と、自信にあふれる。 横浜市の丘陵地にある山手学院も、青山学院や明治、立教への合格者数をぐんと伸ばしている。創立当初からグローバル教育に力を入れ、近年は国公立への進学者数も増えた。 「リーダーとして活躍する人になるには、いろんな発想をしていかなければいけない。持論ですが、人の発想力は2のn乗に比例するという感覚があります。そのnは知識の量なんです」 そう説明するのは、時乗洋昭校長だ。nの幅を広くするために、文系や理系、ひいては芸術まで学べる環境のほうがいいと考えたという。授業のほかにも、土曜講座として韓国語やタイ料理を学ぶ時間もある。保護者が参加できるものもあり、親と子ども、学校とがコミュニケーションをとる場にもなっている。 「生徒の自発性を重視するのは、大学受験でも同じです」 時乗校長がそう話すように、生徒が行きたいところを自発的に目指せる環境が、実績へとつながった。このnの考え方と受け止め方こそ、30年間での成長力につながっているに違いない。(編集部・福井しほ) ※AERA 2023年6月5日号より抜粋
AERA
6/1
-
14
男女の秘め事、戦争…黒柳徹子が「徹子の部屋」を語る「100歳まで続けたい」
日本を代表するインタビュー番組「徹子の部屋」は、1976年のスタートから今年で48年目を迎えた。「100歳まで続けたい」と語る黒柳徹子さんの尽きない好奇心と健康の源とは? * * * 1972年の夏のことだ。ニューヨークの演劇学校に通っていた徹子さんのもとに、NET(現在のテレビ朝日)のプロデューサーから電話があった。「日本で初めてのニュースショーがスタートするのですが、その司会をやってもらえませんか?」という依頼だった。 「ニューヨークに留学して1年、まだ日本に帰るつもりはなかったんです。でも、女性がメイン司会者のニュースショーができるというお話には興味を持ちました。それまでのニュースショーやワイドショーといえば、女性はアシスタント的な存在で、男性のそばでニコニコしていればいい、という感じ。おまけに、観ている主婦の反感を買わないように、主婦か主婦の経験がある人でないとダメと言われていた時代です。服装も白いブラウスに紺のスカートがお決まりだったので、『私は主婦でもないし、主婦の経験もありません。白いブラウスに、紺のスカートのような服装もできません』とお伝えすると、『今はむしろ、あなたのような独身でプラプラしてる方の感性が必要なんです』とおっしゃる(笑)。好きな服を着てもいいということだったので、『じゃあ帰ってみようかな』という気になったんです」 その頃、徹子さんが演劇学校で知り合った仲間は、年齢もバックグラウンドもバラバラ。肉体労働などで生活の糧を稼ぎながら、芝居のオーディションに挑戦している40代、50代も少なくなかった。誰もが夢を追いかけて集まるニューヨークで、必死で夢を追う人たちとの出会いによって、自分を必要としてくれる場所があるありがたみを再認識してもいた。 徹子さんが担当したニュースショー「13時ショー」は、76年2月に「徹子の部屋」というインタビュー番組になった。番組内容が変わるにあたって、徹子さんはいくつかの条件を出した。 「生放送のように、45分間の収録時間を守って、合間にCMの時間を入れたりして、編集は一切しないでほしいとお願いしました。編集の手を加えると、ゲストは『ここをカットしてください』と言いたくなるだろうし、ディレクターは『あそこを絶対に残したい』と思ってしまう。そうなると、局やプロデューサーの意向で、ゲストの発言をいかようにも変えて伝えることができてしまいます。それは嫌だったので、話が終わらなかったら、また来ていただきましょうよ、と。私自身、インタビューを編集されることで、ずいぶん『黒柳さんはおしゃべり』みたいに誤解されることがあって。でも、本当は人の話を聞くことのほうが好きなの」 第1回のゲストは森繁久彌さん。当時は、まだ大学生だったラビット関根(関根勤)さんのクイズコーナーもあった。 「関根さんが、宇野重吉さんとか嵐寛寿郎さんなんかのモノマネを、ご本人の前でやるのがおかしくて(笑)。クイズコーナーも視聴者参加型で盛り上がったのですが、しばらくして、『もっとゲストの話が聞きたい』という要望が視聴者から殺到したんです。人ってそんなに他の人の話が聞きたいのか、と私自身がビックリしました」 スタートから1年後、クイズコーナーは別番組として独立し、「徹子の部屋」は45分間みっちり、ゲストの話を聞くスタイルに。当時は俳優としてテレビドラマにも出演していた徹子さんだったが、あるとき、「もう女優の仕事は舞台だけにしよう」と決意させる出来事に遭遇する。 「若尾文子さんと一緒のドラマで、ほろ酔いの芸者さんの役をやったんですが、その演技を見ていた小道具さんが、私に『本当は飲んでるんでしょ』と言うんです。私のほろ酔い演技がよっぽどうまかったんだと思うけれど(笑)、その徳利の中身は、小道具さんが入れてくれたお水だったのに、『あなたが入れたお水を飲んだだけ』と言っても、全然信用してくれない。こんなに身近な人が、私の演技に騙されるなら、悪女の役なんかしちゃったら、『徹子の部屋』で、『悪女がゲストに話を聞いている!』って思われるかもしれないでしょう? それで、女優としては、もうテレビに出ないことに決めたんです」 話が盛り上がって、2日間にわたって登場してもらったゲストも少なくない。作家の宇野千代さんが出演したのは、宇野さんが84歳のとき。徹子さんが若さの秘訣を尋ねると、「あのね、クヨクヨしないの! 陰気は悪徳、陽気は美徳!」と軽快に語ったという。 「あんなにあっけらかんとした方は、後にも先にもいらっしゃいませんでした(笑)。作家の尾崎士郎さんや北原武夫さん、画家の東郷青児さんとのお付き合いすることになったきっかけなんかも話してくださって。宇野さんは、よく失恋するけれど、『失恋してちょっと泣いても、いい着物着て表へ出ちゃうと、男は女の数とおんなじほどいるから、すぐいい人がめっかっちゃうの』なんておっしゃって(笑)」 徹子さんがとくに驚いたのは、宇野さんが、男女の秘め事をサラリと明るく話すこと。 「東郷青児さんと出会ったときのことも、『僕の家に来ませんか、と言われたのでついていったの。そいで、寝ちゃったの』なんて(笑)。宇野さんは、『恋愛はスピードが命』だったそうですが、おしゃべりしていても、『こんなこと言って大丈夫かしら?』みたいな迷いがないんです。宇野さんの文章が素晴らしいのはもちろんですが、その天真爛漫な人間性は、テレビだからこそ伝わる部分もあるのかもしれないとも思いました。『不思議なことに、男とはケンカしない。別れた後もみんな仲良し』ともおっしゃっていました(笑)」 ある時期から、徹子さんは、戦争に行った俳優たちに、戦争の話を聞くようになった。きっかけは池部良さん。76年12月に、池部良さんがゲストに決まったとき、マネジャーからは「面白い話ができるかどうか。30年前にパリで買ったセーターをいまだに着ていて、そのぐらいしか話すことがない」と言われた。 ■誰もが「話」を持っている 「でも、なんとかなるかな?と思っていて、そのセーターの話を伺った後、何げなく『そういえば、終戦のときはどこにいらっしゃったんですか?』と聞いてみたんです。そうしたら、『太平洋の海の中にいました』とお答えになって。なんでも、映画スターになる前の池部さんは、陸軍少尉として上海に赴任していたんだそうです」 戦況が悪化し、南方に移動している途中で、乗っていた輸送船が潜水艦の攻撃を受けて沈没。池部さんは、海に飛び込んだときに体が沈むといけないからと、大事な軍刀を船に残していった。 「太平洋の真ん中を泳いでいたら、自分より年上の部下が、波間から、『上官殿、刀は持っております!』と言って、軍刀を頭の上に掲げたのを見て、池部さんは思わず泣いてしまったんですって。自分が身の安全のために残してきた軍刀を、部下はむちゃを承知で持ってきてくれた。その部下の忠誠心に、胸が張り裂けそうになった、と。でも、『海の中だから、涙は見せずに済みました』と付け加えていたのも、池部さんらしいなと思いました」 以来、「戦争体験を次の世代に伝える」という使命のもと、戦争の話をしてもらうことは、「徹子の部屋」の夏の恒例企画になった。 「戦争について語っていただいたほとんどの人がもうお亡くなりになっていますが、本当に、さまざまな体験を伺っているので、戦争資料としても貴重なものになっていると思います」 「徹子の部屋」はあと3年で50周年を迎える。以前はよく、「50年続けることが目標」と発言していたが、最近は「100歳まで続けたい」と思うようになった。 「長く続けてきて、改めて『人間には、誰にも面白い話があるものだなぁ』と実感しています。人間、生きている限り、『話』は増えていくものです。まだまだ、ゲストの方から、『徹子の部屋』に出たいとか、ぜひこんな話を聞いてほしい、と言っていただけているので、好奇心の続く限り、皆さんのお話を聞いていきたいと思っています」 (菊地陽子 構成/長沢明)※週刊朝日 2023年6月9日号
週刊朝日
6/3
-
15
自分をいじめた同級生がメディアで活躍していることを知り苦しいと訴える37歳女性に、鴻上尚史が「悔しいですよね」と声をかけ、勧めたこととは
自分をいじめた元同級生たちの活躍をメディアで知って苦しむ37歳女性。30年近くたったいまも克服できていない自分にがっかりしたと懊悩する女性に、鴻上尚史が「悔しいですよね」と声をかけ、「ゆっくりと焦らずに」と勧めたこととは? 【相談180】私をいじめた元同級生の活躍の様子をメディアで見て、表現できないほど苦しい気持ちになりました(37歳 女性 保田) 鴻上さん、いつも拝見しております。今日は喝を入れていただきたく投稿させていただきました。 私は小学生の頃、同級生の女の子たちからいじめに遭っていた時期がありました。原因ははっきりわからないままでしたが、私が何か気に入らないことをしたんだと思います。田舎の1クラスしかない小学校でして6年間逃げ場がなく、辛い時期を過ごしたのですが、家族からの励ましで何とか不登校にはならず通うことができました。 中学からはグループのリーダー格の2人が別の中学校へ進学し、それ以来顔を合わせることもなく大人になりました。昔のことは忘れて明るく前向きをモットーに過ごしておりました。昔は友人関係で苦労したよ!などと笑って話せるようにもなりました。 ところが先日、あるきっかけでリーダー格だった2人の今を知ることになりました。1人はテレビ局の制作部部長に、もう1人は有名なファッション誌の副編集長になり、活躍していることを知りました。 働く女性のお手本として誇らしげにメディアに登場している彼女たちの顔を見た瞬間、目の前が真っ暗になったような、頭を思いっきりど突かれたような、お腹の底から黒いものが湧き上がってくるような、表現できない苦しい気持ちになりました。同時に彼女たちから無視されたこと、私物を捨てられたこと、授業で育てていたヒヤシンスの水栽培を私の分だけひっくり返されたこと、グラウンド端の砂場に連れていかれ、背中やお腹を蹴られたこと、死ねばいいのにと笑いながら言われたこと、全てを鮮明に思い出してしまいました。 それからというもの、そのテレビ局、そのファッション誌、これらに関連するものを目にするたびに胸が苦しくなります。朝まで眠れないこともあります。見ないように、気にしないように努めても、彼女らが身を置く場所そのものがあまりにも世の中に浸透していて、辛かった過去を思い出してしまうのです。まるで小学生時代のように逃げ場がないような気持ちです。ただ辛いだけではありません。 私をあんな目に遭わせた彼女らが、知らん顔で大企業で活躍している姿を嫉ましくも思っていることに気付きました。 すると、今度は復讐したいという欲も湧き上がってきてしまったのです。企業宛てに●●さんにいじめられましたと手紙を送りつけようか、SNSに書き込んで周りから恥をかかせてやろうか、などと恐ろしいことを考えてしまいます。 いじめている側はいじめたことを覚えていないと聞きます。私のことも覚えていないかもしれません。彼女らももう大人になっているし、あの頃のままではないだろう、それに誹謗中傷されたと逆に訴えられるかもしれない、それだけはやめようと自分に言い聞かせていますが、これもいつまで自制できるかわかりません。 なにより、昔の辛い経験を乗り越えて明るく生きてきたつもりが、30年近くたった今も全く克服できていない自分に驚き、がっかりしています。誰かに相談したいのですが、家族にはまた心配をかけたくありませんし、同僚に暗い気持ちにさせるような話をするのも……と躊躇っています。 鴻上さん、このようにいつまでも昔に囚われてウジウジメソメソしている私に喝を入れていただけませんでしょうか? よろしくお願い申し上げます。 【鴻上さんの答え】 保田さん。つらい目に遭いましたね。「私に喝を入れていただけませんでしょうか」と書かれていますが、喝なんか入れる必要はないですよね。それどころか、よく我慢しました、よく頑張りました、よく生きてきました、よく耐えましたねと、ねぎらいたくなります。 送ってくれた相談には、実際の名前が書いてあって(編集部の判断で伏せたようです)本当に誰もが知っている会社と雑誌なので、保田さんの苦しみはすごいだろうと思います。 「二度目のいじめ」そのものだと思います。 保田さんの相談を読みながら、「いじめ問題はこんなふうに終わりがないんだなあ」と暗澹たる気持ちになりました。保田さんとレベルは違っても同じような経験をしている人は多いんじゃないかと想像します。 さて、保田さん。「企業宛てに●●さんにいじめられましたと手紙を送りつけようか、SNSに書き込んで周りから恥をかかせてやろうか」というのは、保田さんが予想するように、復讐の手段として効果的ではないと思います。 企業宛ての手紙は無視されるでしょうし、SNSは、保田さんが書くように、あまりにしつこく続けたら「名誉毀損」で訴えられる可能性があります(「グラウンド端の砂場に連れていかれ、背中やお腹を蹴られた」り「死ねばいいのにと笑いながら言われた」動画があればまだしも、残っているわけないですもんね)。 なによりも、復讐をずっと考えることは、保田さんの人生を台無しにすると思います。これは間違いないことだと僕は思っているのですが、ネガティブなことにフォーカスして生きていくと、ネガティブな顔になり、ネガティブな人やことが周りに集まり、ネガティブな人生を送ることになるのです。 昔の言葉で言うと「人を呪わば穴二つ」ですね。人を呪おうとすると、やがて自分も呪われて、墓穴が二つになるぞという戒めです。 でも、悔しいですよね。保田さんは何も悪くないのに。恨んで呪って当り前なのに。悪いのはこの二人なのに。なのに、この二人は、平気な顔で華やかな業界で名前を出しているなんて。 保田さんの感情は当然だと思います。「昔の辛い経験を乗り越えて明るく生きてきたつもりが、30年近くたった今も全く克服できていない自分に驚き」と書かれていますが、いきなり華やかな業界の中で名前を突きつけられたら、感情が揺さぶられるのは当り前です。いじめの記憶がフラッシュバックするのは普通のことです。それほど深く傷ついていたということです。それを懸命に抑えて、生きてきたということです。 保田さんが弱いわけでも、いじめを克服できてないわけでもありません。 「誰かに相談したいのですが、家族にはまた心配をかけたくありませんし、同僚に暗い気持ちにさせるような話をするのも……と躊躇っています」と書かれていますが、誰かに話すのがいいと僕は思います。 話すのは、とにかく自分の感情を吐き出すためです。抱え込まず、今の気持ちを正直に語るのです。 復讐の衝動が抑えきれなくなりそうなら、カウンセリングを受けるのもいいと思います。吐き出せば吐き出すほど、楽になっていくと思います。 今は本当につらい時期ですが、少しずつ少しずつ、感情を出していって下さい。 やがてきっと立ち直る時が来ると思います。あんなにひどかったいじめからなんとか立ち直った保田さんなんです。今度もきっと、なんとかなると思います。 焦らず、ゆっくりと、気持ちを吐き出していって下さい。 ■本連載の書籍化第4弾!『鴻上尚史のなにがなんでもほがらか人生相談』が発売中です。書き下ろしの回答2編も掲載! ↓↓【声で聴く】鴻上尚史が人生相談に込める思い↓↓
dot.
4/18
-
16
“マダム”のハンカチ「フェイラー」が30、40代向けのリブランディングに踏み切った理由 社長に聞く
贈り物などで、一度はここのハンカチを目にしたことがあるという人が多いかもしれない、ドイツのブランド「フェイラー」。1枚3000円ほどの高級感あるシュニール織ハンカチは、黒地に花柄が定番で、そのエレガントなイメージからマダムのためのアイテムという印象が強かった。ところがここ数年、カラフルでポップな柄の展開が目立ち、人気の柄はすぐ売り切れるなど、若い世代に受けている。ブランドの存続をかけた“リブランディング”について、フェイラージャパン代表取締役社長の八木直久氏に聞いた。 * * * ――黒地に花柄のエレガントなイメージが強かったのですが、ポップで可愛らしい印象へとガラッと変わりました。 日本で100年続くブランドを目指そうと、改革を決断しました。もともとドイツ発の創業1948年のブランドで、日本に上陸して今年で51年。これまで百貨店を中心に展開し、年配のお客さまからご愛顧いただいておりました。2012年に調査して明らかになったのは、メインの購買層が65歳以上だったこと。ブランドの存続ということを考えると、新たな層を獲得する必要性が浮かび上がってきました。いまの購買層のお子さん方にあたる、30~40代に向けた発信です。 ――昔からのファンも多いなか、改革はスムーズに進んだのでしょうか。 まずは社内の説得でした。売り上げの数字に問題があったわけでもなく、改革の必要性が見えにくい。スタッフの頭それぞれに、いつも来てくださるお客さまの顔が浮かんだのでしょう。「なぜ?」という声が起こったわけです。繰り返し、ブランド存続のために、ファン層を広げることの大切さを説きました。そして、これまでのファンの方にお手紙を書いたり、得意先の百貨店さんを訪れたりして、丁寧に説明をしてきました。 ブランド改革というと、これまでのファンを絶つのかという不安を伴うものです。そうではない。昔からのお客さまは大切にしながら、その下の年代層を増やしにいくための改革です。 ――具体的にどう進めていったのですか。 2014年から柄のバリエーションやアイテムを増やし始めました。2015年に動きを加速させ、銀座本店をはじめ、フェイラーの世界観をより深く伝える旗艦店をオープンさせました。さらに、ギフトコンセプトショップ「ラブラリーバイフェイラー」も立ち上げました。このラインは、フルーツやネイルボトルなどポップな柄や、ラーメンやサウナといったユニークな柄が特徴的で、ファッションビルにショップを構えることで、若い世代を取り込む戦略をとっています。 実は、お客さまからヒントを得たこともあります。フェイラーの代表格に99年に販売を開始した「ハイジ」という柄があるのですが、ドイツの野にいる生き物が四方いっぱいに駆け回っている愛らしい雰囲気から、お持ちの方が多いものです。 忘れもしない2017年の8月12日、スタッフが夏季休暇中に、「ハイジ」をめぐるムーブメントが起きたのです。あるファンの方が、語呂から今日は「ハイジの日」と、ご自分のインスタに商品写真とともに投稿してくださったんです。それを受けて他の方も次々と投稿され、後で気づいたスタッフ一同驚きました。ならば次の年から公式に「ハイジの日」を設けようと、以来、この日は例年「#ハイジの日」で盛り上がっています。今では公式インスタのフォロワー数も18万人超に広がり、関心を持っていただいています。 ――SNSでファンが拡大しているということですね。 時代のツールのおかげで「共感」が広まり、加速的に変化できたと考えています。ファンの方が「ハイジの日」を問わず、ご自身のインスタに、カフェや旅先などでのワンシーンとともにお気に入りのフェイラー商品を「#フェイラー」をつけて投稿してくださっていて、その数は1日150件を超えています。 私も毎日楽しくインスタをチェックしていますが、一つの柄だけでなく、ああこんな柄もあるんだと、次から次に連鎖的に知ってもらえる。そういった投稿を目にして、「初めてフェイラーを知った」という若い世代が出てきたんです。あるいは、お母さまが持っていたものが自分も持てるブランドなのだと気づいた。何よりも「なんか、変わったね」と、こちらからの発信以上に、お客さまに認識してもらえたことが大きいと感じます。 ――次々と新しい柄が展開されることが楽しく、驚きでもあります。 ハンカチ1枚あたりに使える糸は最大で18色、日本人のデザイナーを起用し、季節やオケージョンを意識したデザイン性を大切にしています。 フェイラーのシュニール織とは、本社のあるドイツ東部の小さな村で脈々と受け継がれてきた技術で、村の基幹産業にもなっています。一度平織りした布を裁断し、高速スピンをかけて綿糸の束にし、それを横糸にして再び織る。こうして2回織りすることで、柔らかな肌触り、優れた吸水性や速乾性が際立ち、色落ちしにくく丈夫な製品が出来上がります。 この独自のクオリティーを大切にしたうえで、定番柄を大切に、一方で進化もさせる。春に人気のミモザ柄は、黄色と水色の鮮やかな配色が特徴的で、従来の落ち着いた花柄の雰囲気ともまた違うわけですが、幅広い年代層のファンがしっかりとついています。 ――ディズニーやサンリオのキャラクター、アパレルブランドなど、他企業とコラボした柄も目を引きます。 コラボすることで、デザインに幅が出るようになりました。そして、互いにブランドの強みがあるぶん、それぞれの企業の先には、まだ自分たちが出会えていないお客さまがいる。その接点を得ることも、コラボの意義だと考えています。 大学とコラボし、学生さんたちと記念品を作ったこともあります。リサイクルを手掛ける企業に賛同し、余った端材からポーチを作ることもしています。 ――フェイラーの柄の雑貨が女性誌の付録になったときは、雑誌が売り切れるほどの人気でした。 出版社からのお声掛けで、機会をいただいたんです。ファンの方に響いただけでなく、付録を手にして、初めてフェイラーを知ったという声も多い。新たに出合ってもらえるきっかけになったと、手ごたえを感じています。そこから共感が生まれ、店舗に来ていただくなどご縁が深まるとよいなと思います。 ――今、力を入れていることはありますか。 「共感」の次のステージとして、お客さまと一緒にフェイラーをつくり上げていく「共創」に取り組んでいます。毎年アンバサダーを募り、現在333人の方が活動してくれています。2020年から、フェイラーのデザイナーと一緒に商品を作るプロジェクトも始めました。昨年は有志のアンバサダーと、8カ月ほどかけてハイジ柄のバッグを完成させたんです。もともとハイジの地の部分は無地ですが、チェック柄にするというマイナーチェンジを起こし、話題になりました。 ――実際にリブランディングでの変化は感じていますか。 中心層は完全に30~40代に変化してきています。SNSもそうですが、お母さまが使っているということも強力な口コミです。お母さまから娘さんへ、さらには、スタイやおくるみなど、赤ちゃんのためのアイテムも揃えていますので、またそのお子さんへと、フェイラーの魅力がさらに世代を超えて継がれていったらうれしく思います。 ――日本上陸100周年に向けて、どんなブランド像を思い描いていますか。 あるお客さまが、仕事で大事なプレゼンを控え、当日気持ちがすごくナーバスになっていたそうです。日常のルーティーンで、引き出しから手にとったフェイラーのハンカチの柄に、大丈夫だと力をもらったのだそうです。もしかしたら、この力はどの柄にも言えることかもしれない。ハンカチを手にするとわくわくする、楽しくなる、癒やされるといった情緒的価値こそ極め続けなければならない。少しでも知っていただきたく、昨年には表参道駅構内をジャックし、フェイラーのハンカチ100枚を展示しました。 日常は楽しいときばかりではない。誰にでも喜怒哀楽があるなかで、フェイラーがそっと寄り添い、ときには力になる。ささやかながらも、そういった存在になることこそ、価値があると考えています。 (構成/AERA dot.編集部 市川綾子)
dot.
22時間前
-
17
契約金“5億円超え”で騒動になった男も 期待外れに終わった「ドラ1大型左腕列伝」
身長190センチ前後の大型左腕といえば、現役では、188センチの山崎福也(オリックス)、191センチの上原健太(日本ハム)、日本人左腕歴代最長身、193センチの弓削隼人(楽天)が該当する。彼らはアマチュア時代から“和製ランディ・ジョンソン”の異名で呼ばれることが多いが、過去には「将来のエース」と期待されながら、不発に終わった者も少なくない。 新人王候補と期待されながら、プロで伸び悩んだのが、2004年に自由枠で横浜に入団した192センチ左腕・那須野巧だ。 日大時代は4年の春に優勝投手になるなど、通算22勝を記録。最速149キロの速球は「ホームベースの1メートル手前から伸びる」といわれた。 1年目は5月15日の日本ハム戦でプロ初先発初登板デビューも、初回に小笠原道大と新庄剛志にタイムリーを浴びるなど、6回4失点と力みから制球を乱し、「さすがに緊張した。1軍は甘くないなあと」とプロの厳しさを味わった。 その後、5月22日の西武戦で5回4失点ながら、うれしいプロ初勝利を挙げたものの、同29日のロッテ戦は里崎智也に満塁弾を浴び、1回4失点KOで中継ぎに降格。1年目は1勝2敗、2年目も3勝8敗と不本意な成績に終わった。 さらに翌07年は、開幕直後の4月11日に入団時の契約金が最高標準額(1億円プラス出来高5000万円)を大幅に超える5億3000万円だったことも明るみになる。 そんな騒動のなか、「グラウンド上で精一杯のプレーをして結果を出す」と誓った那須野は、4月24日の巨人戦で、夫人の出産に立ち会うため、一時帰国した守護神・クルーンの代役として8、9回を抑え、プロ初セーブを挙げた。 だが、同26日の巨人戦では、1点リードの8回から三浦大輔をリリーフした直後、4連続長短打を浴び、三浦の2年ぶりのG戦白星を消してしまう。 先発に戻った08年も5勝12敗、防御率6.47と安定感を欠き、翌年以降は1勝もできないまま、「最後まで熱いものがなかった」と、11年のロッテを最後にユニホームを脱いだ。 高校時代に“和製ランディ”の異名をとりながら、プロでは通算1勝で終わったのが、ロッテの190センチ左腕・木村優太(本名・雄太)だ。 秋田経法大付時代は甲子園に出場していないが、素質豊かな最速144キロ左腕に12球団がこぞって注目した。 2003年春、筆者は取材で会った広島のスカウトから「今年のウチの1位は木村で決まり」と聞かされた。同郷の秋田出身のスカウトが密着しているという。 だが、同年のドラフトでは、木村はどの球団からも指名されず、東京ガスに入社したので、「広島の話は?」と首を捻ったことを覚えている。 その後、07年春に西武の裏金問題が発覚し、木村が高校時代から「栄養費」を貰っていたことが明らかになった。1年間の謹慎処分を受けた木村は、解禁後の08年の都市対抗で活躍し、ロッテに1位指名で入団する。 2年間2軍暮らしのあと、西本聖コーチとフォーム改造に取り組み、11年8月24日に1軍初昇格。同日のソフトバンク戦に7回からリリーフで初登板をはたすと、1イニングを1安打無失点に抑え、内川聖一、カブレラから三振を奪った。 だが、初勝利までの道のりはさらに遠かった。15年4月8日のオリックス戦、先発・木村は初回を除いて毎回走者を出しながらも、5回を1失点と踏ん張る。そして、0対1の5回に今江敏晃の逆転2点タイムリーが飛び出し、7年目の初勝利を手にした。 「長かった。やっと勝てたなという気持ち。アマチュア時代から気にかけてくれている人も多いので、勝てて良かった」と笑顔を見せた29歳の遅咲き左腕だったが、4月15日の日本ハム戦では、大谷翔平に2点タイムリー二塁打を浴びるなど、4回途中5失点KO。その後は結果を出せないまま、翌16年シーズン後に戦力外通告を受けた。 1軍デビュー直後にあっと驚く快投を演じながら、エースになることができなかったのが、楽天の191センチ左腕・片山博視だ。 報徳学園時代に2度甲子園に出場。打者としても高校通算36本塁打を記録した片山は、投打いずれもドラフト上位候補と注目され、05年の高校生ドラフトで楽天から1巡目指名を受けた。 1年目に肘を痛め、一時は130キロも出ない苦境を克服した片山は、08年に1軍初昇格。2度目の先発となった7月2日のロッテ戦では、「逃げない」の言葉を胸に刻み、6回1死一、三塁のピンチに、ベニー、ズレータを連続三振に切って取る。9回2死三塁も、今江を遊ゴロに打ち取り、鮮やかな3安打完封でプロ初勝利を挙げた。 「まだ実感がわかないです。1軍で勝ちたい気持ちでやってきた。この3年間はあっという間でした」と初々しいコメントを口にする21歳の若武者に、野村克也監督も「ナイスゲーム!よく踏ん張ってくれた。あの子の真っすぐはスライスする。いわゆる“真っスラ”なんだ。右打者が詰まるのはそれ」と賛辞を惜しまなかった。 だが、その後は相次ぐ故障から15年に打者転向、16年に投手復帰、さらにはトミー・ジョン手術と苦闘を続けた末、育成契約の17年を最後に退団。18年からBCリーグ・埼玉武蔵で主に野手、現在はコーチ兼野手として登録されている。(文・久保田龍雄) ●プロフィール久保田龍雄/1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。最新刊は電子書籍「プロ野球B級ニュース事件簿2021」(野球文明叢書)。
dot.
3/12
-
18
ジェーン・スー「目標1万歩ウォーキング 生活を変えると、気になるものも変わってくる」
作詞家、ラジオパーソナリティー、コラムニストとして活躍するジェーン・スーさんによるAERA連載「ジェーン・スーの先日、お目に掛かりまして」をお届けします。 * * * 4月半ばからウォーキングを始めました。これから暑くなるというのに、スタートするタイミングが悪いなあと我ながら思います。 とはいえ、いまや東京で「暑くも寒くもなく花粉も飛んでいない梅雨以外の時期」なんて4月下旬から6月頭までと、10月から頑張って年末くらいまで。夏になると夜もうだるような蒸し暑さです。ラジオで毎日「熱中症に気を付けて!」と言いながら、自分が倒れては元も子もない。よって、いつまで続けられるかは気温次第。 歩き始めて、1万歩ちゃんと歩くことはなかなか大変だとわかりました。ちょこちょこした移動も含めた「1日に1万歩」なら、一駅手前で降りるなどの工夫次第でどうにかなる。しかし「歩くぞ!」と心に決めて、運動としてのウォーキングだけで1万歩を達成するのはなかなかヘビー。先日は、夜に1時間半6キロシャキシャキ歩いてみたけれど、それでも9千歩程度でした。一気に1万歩を目指すのは、週末に1度できたら御の字でしょう。 平日は1日3回程度に分けて歩きます。理想的なのは、自宅からラジオ局、ラジオ局から事務所、事務所から自宅をすべて徒歩にすること。これで1万歩は余裕です。 私は汗かきなので、歩き始めて5分もしないうちに滝のような汗が顔面や背中に滴ってきます。リュックには着替えのTシャツが入っているから大丈夫だけれど、それにしても汗だく。 生活を変えると、気になるものも変わって面白いですね。昔はスポーツ用と銘打った強力な日焼け止めがドラッグストアに必ず置いてあったけれど、いまは街使用向けのものですらSPF50が標準となり、あとは落ちにくさが問われるわけですが、ウォータープルーフ機能を強く謳っているものは意外と少ない。「汗、水に強い」と控えめに書いてあるくらいです。肌に悪そうな印象を持たれたくないからなのかしら。 朝、やや頼りなさを感じる日焼け止めを顔や首、腕に塗りたくり、日傘を右手に、タオルを左手に家を出る毎日。途中、コンビニで水を買い、ごくごくと飲みながら40分。気温25度くらいまでなら、なんとか体力を温存しながら歩けます。ラジオが終わったらまた歩くのだから、私はやはり体力があるほうと言えるでしょう。強い体に産んでくれた親に感謝です。 ○じぇーん・すー◆1973年、東京生まれ。日本人。作詞家、ラジオパーソナリティー、コラムニスト。著書多数。『揉まれて、ゆるんで、癒されて 今夜もカネで解決だ』(朝日文庫)が発売中 ※AERA 2023年6月5日号
AERA
6/1
-
19
山田裕貴の主演ドラマが全世界配信中 「僕の手には負えないところまで来てしまったな」という感覚
NHK大河ドラマ「どうする家康」で、徳川四天王の一人、本多忠勝を演じるほか、放送中のドラマ「ペンディングトレイン─8時23分、明日 君と」に主演する山田裕貴さんがAERAに登場。「面白かった」という声が聞きたい、スタッフの喜ぶ顔が見たい。そんな思いが原動力となっているという。AERA 2023年6月12日号の記事を紹介する。 * * * 数多の俳優にカメラを向けてきた蜷川実花が撮影の手を止め、こう口にした。 「ワンランク上にのぼっていく人たちの“直前の瞬間”をたくさん目にしてきた。もっと上に行く人ならではのオーラが、いまの山田くんにはある」 そして、「1年前に撮ったときとは全然違う」と。山田は素直に喜び、「じゃあ、今日は前夜祭だ」と声を掛け合った。 放送中のドラマ「ペンディングトレイン─8時23分、明日 君と」に主演し、NHK大河ドラマ「どうする家康」では、本多忠勝役として強い印象を残す。はたから見れば、順風満帆。けれど、山田は自らが置かれた立場に少し戸惑っているように見えた。 「僕にもう少し語彙力があれば、もっとわかりやすくいまの気持ちを伝えられるのかもしれませんが、『僕の手には負えないところまで来てしまったな』という感覚はあります。色々な方が携わるようになり、昔のように『自分はこれがやりたい』という気持ちだけでは進められなくなった、ということなのかもしれません」 「ペンディングトレイン」はNetflixで全世界に配信されている。これまでとはスケールが違う。そのうえ、主演だ。 「めったにないチャンスで、何も起こせなかったとしたら、僕にはいったい何ができるのだろう、と考えるんです。この作品をきっかけに日本のドラマが注目されるようになったり、そんな大きな話でなくとも、身内以外の人から『話題になったね』と言ってもらったり、少しでも世界を変えられることができなかったら、なんのためにみんなで頑張ってきたのだろうと考えてしまう」 生身の人間として、自分だけの言葉を発していく。自分と闘い、迷い、葛藤している人間が醸し出す美しさが、いまの山田には確かにあった。(ライター・古谷ゆう子) ※AERA 2023年6月12日号
AERA
6/6
-
20
松下洸平「このワンシーンで人生が変わるかもしれないと思って臨んでいた」 心の支えと36歳の現在地
ドラマ、映画、バラエティーにエッセイの執筆。加えて、一昨年には歌手として再デビューを果たした松下洸平さん。才能の露出が多方面に広がり、注目と評価が高まる今の心境とは。AERA 2023年6月5日号の記事を紹介する。 * * * ――自らを表現するメディアが多方面に広がっているが、どんなに忙しくなっても、優しく実直な人柄にブレがない。 松下洸平(以下、松下):2019年のNHK連続テレビ小説「スカーレット」に出演させていただいて以降、仕事の量が変わりましたが、最終的に僕がやることは、芝居をすること。そこはずっと同じですし、周囲のスタッフは駆け出しの頃から僕を知っている人ばかりで、特別扱いされないことも、ブレずにいられる理由ですね。 多くの人に見ていただいているということを意識するようになりましたが、一方で、良い意味で力の抜けた部分もいっぱいあるんですよ。今までは、ひとつひとつの現場で、それがどんなに小さな役であっても、どんなに短いシーンであっても、どこにチャンスが待っているかわからないという思いが強くて。それはそれはもう、ぐわーっと全力でやってました。常に「このワンシーンで人生が変わるかもしれない」と思って臨んでいましたから。それが今は、もうそんなに力む必要はない。決して傲慢な意味ではなく、自分で言うのはおこがましいのですが、多少なりとも自信がついたということだと思います。 力の抜けたお芝居とは、より生身の人間に近づいていくことでもあるので、勇気がいるんですけど、ここまでやってきた自分の蓄積を信じなくてはいけないなと思っています。 ■あの10年があったから バラエティーは本当に楽しませてもらっています。先日は、大ファンだったジャルジャルさんとの共演が実現しました。好きな芸人さんとのお仕事は、僕にとってご褒美みたいなもの。ゲラなのでずっと笑ってますね。 ――2008年、21歳で「洸平」名義でCDデビュー。その後、俳優の道に進み、「スカーレット」に出るまでの約10年間を生き抜いたことが、今の支えとなっているという。 松下:あの10年がなかったら、僕は今ここにいません。思うようにいかない時期もありましたが、この仕事を続けたいという気持ちがあったし、何よりもその先にある成功を信じていました。いつかきっと光は差す、だから、やめないようにしなきゃ、と。具体的に出たい番組や共演したい方の名前、こんな仕事がしてみたい、と口に出してきました。言霊だけでやってきたわけじゃないですけど、とても大事なことだと思っています。 もう終わってしまいましたが、ずっと「笑っていいとも!」のテレフォンショッキングに出たかったんですよ。僕、ミーハーだから、旬な人が出るような番組に出たくて(笑)。タモリさんの横に座っている自分を想像してましたね。それと笑福亭鶴瓶さんがMCを務める「A-Studio+」。こちらは21年12月に念願叶って出演させていただきましたが、よく家でひとりで「今夜のゲストは松下洸平さんです」と言ってくれている場面を妄想してました。 もうひとつは「アナザースカイ」ですね。「ここが僕のアナザースカイ」と言うシーンをすでに何回も練習してますよ(笑)。トーンを変えながら、この言い方がいいかな、いや違うな、とか。僕のアナザースカイはどこか? それは、いつか番組に呼んでいただけるかもしれないから、まだ内緒です(笑)。 ■生身の自分に近い言葉 ――一昨年は「松下洸平」としてCDデビュー。全国ツアーも回った。 松下:お芝居の道に進んでからも、ずっと曲は書いてました。でも、書いても書いてもリリースできるわけはなくて。年に1回、ファンとの交流イベントで歌う機会があって、その時にお披露目するだけ。リリースできなくても形に残しておきたくて、自分でスタジオを借りて、自分でカメラを回し、家で編集して、YouTubeにアップしていました。今は発表できる場があることに感謝しています。 音楽をやっている僕は、自分の言葉を紡いでいる分、より生身の自分に近いんです。だから、自分勝手にならないよう、線を引いて、聴き手のことを考えながら曲づくりをしています。昨年末のライブでは、専門学校時代の信頼できる仲間と一緒にステージに立つことができ、ファンの存在を近くで感じることもできました。自分がどれだけたくさんの人に支えられて生きているかがよくわかりました。 歌手として再始動してまだ2年。俳優として芽生えたちょっとばかりの自信が、まだ音楽をやっている自分には備わっていないので、今後はそこを養っていきたいなと思っています。 ――幼い頃から、興味のあることにはとことん没頭するタイプだった。「歌手」という夢を見つけた時には、自信に加えて、迷いもあったという。 松下:歌手になろうと思ったのは、高校生の時です。美術科に通っていましたが、当初は進路が明確に決まっていませんでした。幼い頃から楽しいと思うことにしか目を向けないタイプで、中学から始めたダンスに引き続き没頭したり、友だちと遊んだり。心のどこかで自分の将来を探していた時、映画「天使にラブ・ソングを2」を観て、「これだ、歌手になろう」と。あの瞬間、どこからやってきたのか全くわからないですが、なんの根拠も無い己への絶対的な自信がありました。 もちろん絵を描くことも好きでしたし、美術の仕事ができればいいなとも思っていました。でも、そのためには大学受験をして、より専門的なことを学ぶ必要がある。……僕、勉強ができなくて(笑)。いま「映画を観て歌手を志した」と言いましたけど、オブラートに包まずに言ってもいいですか?(笑)。勉強よりもうちょっと楽しいことないかな、という思いがずっとあったところに、歌手という夢を見つけたというのが正確ですね。 「歌手になる」と母に伝えたら、びっくりしてました。母自身が、美術関連の仕事をしていて、自分のスキルでお金を稼ぐ大変さをよくわかっていたので、止めたかったんでしょうね。「なにか他にやりたいことないの?」と誘導尋問のように何度も言われました。 ■キャッチボールしたい 母から盲導犬の指導員の仕事をすすめられて、実際に見学に行き、迷ったこともありました。今でもたまに考えます。あの時、動物関係の道に進んでいたら、どんな人生だったのかな、と。 最終的に、やっぱり歌手になるための専門学校に行くと決めた時には、母はもうあきらめていて、「頑張りなさい」と言ってくれていました。専門学校に通った2年間は、もう本当にフリーダムでしたね(笑)。夢だけでおなかいっぱいで幸せで。これまでの人生で一番楽しかった時期かもしれないです。 ――今年8~9月、こまつ座40周年(第2弾)第147回公演「闇に咲く花」では伝説のエース投手として舞台に立つ。多方面で才能を発揮しているが、球技は苦手だ。キャッチボールができないという。 松下:井上ひさしさん原案の作品は「木の上の軍隊」「母と暮せば」をやらせていただきましたが、井上さんの戯曲は今回が初めて。太平洋戦争が終わって2年。飢えや悲しみがまだ消えない日々を生きる父親と、英霊として戻ってきた息子の会話劇です。演出の栗山民也さんとは10年以上前から一緒にやらせていただいていて、僕にとっては原点に返れる場所。成長を見ていただくというよりは、ここ数年で経験したことを武器にせず、何もない自分でぶつかって、「お前は変わらないな」と言ってもらいたいですね。 エース投手を演じますが、僕はキャッチボールができなくて(笑)。ボールを投げることはできますよ。どこに飛んでいくかわからないというだけで。そして、こちらに飛んできたボールは、キャッチする前に反射的に避けてしまう。今回は野球をするシーンはないのでよかったです(笑)。 でも、これを機に、ちゃんと練習しようかなと思っています。やっぱり、キャッチボールくらいはできないと(笑)。共演する浅利陽介くんは球技が上手なので、教えてもらう予定です。これまで番組の企画で何度か球技をして、お恥ずかしい姿を散々さらしてきましたが、それも今年で見納めになっちゃうと思います。たぶん、ですけど(笑)。 ■いつかは幸せな家庭を ――9月には映画「ミステリと言う勿れ」の公開も控える。その先もスケジュールがびっしり埋まっているが、思い描く未来とは。今年36歳。そのプライベートにも注目が集まる。 松下:映画では菅田将暉さんと初共演しました。淡々とすごいことをやってのける人でしたね。長いセリフが多かったですが、ミスが全くない。裏でとても努力されているんだろうな、と。年齢的には僕のほうが上ですが、学ばせてもらうことばかりでした。 菅田さんはご結婚されていて。僕もいつかは、とは思っています。「結婚しない」と決めていることはないですね。最近は周囲の友達がどんどん結婚していきます。焦りは別にないですけど、将来自分にとって理想的な家庭を築けたときのイメージをしたりすることはあります。妄想や想像は得意なんで(笑)。 30代半ばになり、少し遠い未来に思いを馳せることも増えました。昨年、ドラマ「アトムの童(こ)」でご一緒した風間杜夫さんが、撮影が深夜までかかった時にポツリと「オレ、明日2回公演なんだよ」とおっしゃって。連ドラと舞台を縫っておられるわけですが、それって20代の発言じゃないですか(笑)。バイタリティーあふれる姿を見ながら、自分が70代になった時、果たして同じことができるだろうかと。僕は最終的には、静かなところでのんびりと暮らしたい。 どのお仕事も好きなことなのですが、常に「自分にできるのか?」と問いかけながらやっていきたいと思っています。キャパを超えて無理してしまうと、体調を崩すなど周囲に迷惑をかけることにもなりかねません。この先も、いただいたお仕事と自分自身に丁寧に向き合っていきたいなと思っています。 (編集部・古田真梨子) ※AERA 2023年6月5日号
AERA
6/5
別の視点で考える
特集をすべて見る
この人と一緒に考える
コラムをすべて見る
カテゴリから探す
-
ニュース
-
教育
-
エンタメ
-
スポーツ
-
ヘルス
-
ビジネス