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    【追悼】上岡龍太郎さんが生前語った“隠居の極意”「食事は一日500円」

     元タレントの上岡龍太郎さんが5月19日、肺がんと間質性肺炎のため死去した。81歳だった。  上岡さんは1942年、京都市生まれ。60年に横山パンチの芸名で、横山ノックさん、横山フックさんと「漫画トリオ」を結成。68年に解散後は、流暢な語り口でテレビ番組の司会者などとして活躍した。  2000年に芸能界を引退した後は、表舞台にはほとんど表れなかった。週刊朝日は2003年9月、独占インタビューを掲載。当時のインタビューから上岡さんの人生を振り返る。 ※ ※ ※  早いもんで、隠居してから3年ですか。遊んで暮らすのは、これでなかなか忙しいもんでしてね。  歌舞伎、お芝居、落語。神戸ポートアイランドにサザンオールスターズを見に行って、それから比叡山延暦寺の薪歌舞伎は、しつらえがよかったなあ。芝居では風間杜夫の「風のなごり―越中おわら風の盆」。舞台であれだけ三味線弾けるのは、大変なことです。  ゴルフは週に平均3回。9月は、マウイ島でマラソンするので、ジョギングもせなあかんでしょう。夜は女房とカラオケです。  現役時代は街を歩いていても、目で殺すという技術を持ってたんです。声をかけられそうになると、話しかけたらあかんよお、機嫌わるなるよお、いう電波を目で送ってた。いまはだいぶ楽になってきまして、心斎橋なんか歩いても、若い子はもう僕のこと知らんね。にこにこしながら歩けるようになりました。  隠居がこんなにたのしいとは、思いもよらなかったですね。仕事に戻りたい気持ちは、こっから先もないですもん。ましてや大阪市長選に出るんやないかとか、参議院やとか言われるでしょう。とんでもない話で。こんな楽な生活送ってんのに、なんでいまさら責任のある、しんどいことせないかんのかと思う。  隠居のための蓄財ですか?  そらゼロではダメでしょう。でも周り見るとね、ほとんどの人は、たのしい隠居暮らしができるんやないかと思いますよ。  服なんかは、働いているうちに、しっかりしたもんを買こうといたらええんです。スーツでも着物でも、ひとつ、ええもん持ってたら、何年でも着られる。車なんか、もう15年乗ってますが、まだ5万キロしか走ってないしね。お金のあるうちに人生のインフラ整備しとくんです。  家は買わんほうがいいと思う。苦労して建てて固定資産税払うてたら、国に賃料払てるのと一緒です。しんどいローン組んで、銀行のもんで終わる人も多いし。  食べもんは、粗食ほど、うまいもんはないですよ。ご飯とみそ汁、干物に漬物。計算すると一日500円ですむ。現役のころから、ご飯さえ食べられたら、というのがベースにありましたんでね。  仕事に未練がないのは、幸せなことに、もう満喫させてもらったという気持ちがあるんです。  そら「漫画トリオ」はすごかったですよ。でも横山ノックさんがすごかった。僕とフックさんは全然たいしたことない。横山ノックという芸の塊みたいな極彩色の存在を、鵜飼いというか猿回しというか、うまく操縦して、しかも若い僕らが年長のノックさんをたたく。ノックさん、あのときの若さ、社会状況があって、あれだけの笑いが起きたのであって、もう無理です。  僕は最後まで素人なんです。ものすご芸人ぶってる、芸人の擬態をしている素人。それで森繁久彌さんや小泉今日子さんと対談し、立川談志師匠や桂米朝師匠に「オイッ」て言われながら酒も飲めた。中村勘九郎さんと先斗町走り回ったり、片岡仁左衛門さんと韓国キャバレー行ったりもできた。最高に幸せな素人なんです。  18歳で、この世界にポンと入ってね、周りはすごい人ばっかりやったですから。(秋田)Oスケさんの突っ込みなんか見てたら、声の出し方、言葉遣い、迫力、すごいと思いますよ。あんな豪速球は投げられへん、と。  恐ろしいような気持ちも、ある意味でねえ、ありました。夢若師匠(浮世亭夢若、松鶴家光晴と組む)が自殺されたときです。大好きな師匠でね。おんなじ出番やったんです。  それが犬の投資話でだまされて、追い込まれてしもうて。楽屋で聞いてエーッてなってるときに、錚々たる師匠連が言うてるんです。「これがほんまの犬死にかあ」て。これはすさまじい世界やと思うてね、どっかに距離を置く気持ちもあったんですね。  もう、一緒に仕事したいなあと思う人も、あんまりいなくなりました。逆にね、後半、だいぶ感じてましたが、自分との接し方に若い芸人が困っているのがわかるんです。  とくに今田(耕司)と東野(幸治)ね。東京で一緒の仕事があって、新幹線に乗ったら、別の車両やったけど、あいさつに来てくれた。非常に礼儀正しい。  「明日はよろしくお願いします」言うから、「ああ、こちらこそよろしく」言うて。そっから、ほぐれない。どうしよう、何を話したらええんや、いう戸惑いが感じられた。ああ、もう、そうなんやなあと思いましてね。  テレビのバラエティーも変わりました。仲良し同士でしかやらないでしょう。藤田まことさんも言うてましたけど、「てなもんや三度笠」なんか、大変な緊張感があった。仲のいいことはええこっちゃと武者小路実篤も言うてますけど、番組としては、あんまりおもしろくないんですね。会話にも知性がなくなる。  昔の放送の世界には、なるほど、と思わせる会話がありました。菅原通済さんやの石黒敬七さんやの、だれやわからんけど教養あるいうおじんもいましたしね。そういうコメンテーター、ほしいなあ。私? いや私はやりません。  世の中には、おもしろいことがいっぱい転がってますよ。近鉄ファンになったので、電車で大阪ドーム行くと、乗客を見るだけで、おもしろい。あの人は、どんな人生送ってきたんかなあなんて想像すると、小説読むようやないですか。若い子が床にペタンと座ってても、怒るのやなしに、この子はどうしてこうなったんやろ、と考えてたのしむ。  思いどおりにならんことほど、おもしろいんです。「楽しむ」という字と「愉しむ」というのとあるでしょう。楽することを、たのしいことやと思うからいかんのですよ。すべてを愉しむ。苦しい、しんどい、不便、そういうことを選んでやると愉しなります。  たとえばゴルフね、悪いところに行ったわ、池越えなあかんわ、これ打つの難しいわと思うから愉しいんで、いつも楽に打てたらおもしろないでしょう。そもそも王侯貴族の遊びですから、すべてが思いどおりになる人たちが、これは思いどおりにならんと愉しむんですから。  現役の会社員がゴルフするのがわからんですよ。なにも休みの日にゴルフせんでも、会社に行けば、思いどおりにならん愉しみを十分に堪能できるやろ、と。  俳句もそう。ああ、ええ景色やという思いを、五七五で言いなさいというから苦しくて、おもしろい。だから僕は種田山頭火は認めない。  分け入っても 分け入っても 青い山  だからあ、それを五七五で言わなダメでしょ、と。やっぱり松尾芭蕉さんはすごいです。いい句ありました。  蛸壺や はかなき夢を 夏の月  明石あたりでしょうねえ、ツボん中で、夢見てるタコが急にうわあって引き揚げられるんでしょうねえ。ノックさんが、執行猶予があけて選挙に出るいうウワサがあるでしょ。もし本気やったら、この句を贈ったろと思ってます。

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    簡単手作り梅干しはジップ付き袋で10分 梅干し研究家の「失敗しない」とは?

     梅干しづくりに挑戦する人は、コロナ禍で外出がままならない3年の間に増えたのではないかと思う。その証拠に、2022年に配信した記事『10分でおいしい梅干しが自分で作れる! はじめてでも簡単な「白干し梅」レシピ』はよく読まれた。 梅干し作りができる時期は年1回、生の梅干し用の梅が出回る6月上旬~下旬だけ。あらためて『はじめてでもおいしくできる 梅干し・梅レシピの基本』(朝日新聞出版)から、梅干し研究家・小川睦子さんに、所要時間10分、とにかく簡単な梅干しの漬け方を教わりたい。 *  *  *  梅干しづくりはやってみたけど、ちょっと面倒。そんな人に試してほしいのが、省略しても大丈夫な工程はとことん省いた、手間なし梅干しのレシピです。「初めてでも、忙しくても大丈夫」と小川さん。思い立ったらすぐに作れて、失敗もありません。 ■漬けこむのは6月、食べごろは10月  青梅でも完熟でも、熟しすぎたものでもいいので、6月に梅を手に入れたら、塩で漬けるだけ。作業はたった10分程度です。 食べごろになるのは10月ころ。それまでは、常温の室内に置いておきます。  茶色っぽく柔らかそうな見た目になれば、2~3カ月目から食べることができますが、塩辛く感じる時はさらに置いておきましょう。時間がおいしくしてくれます。半年くらい経つと、さらにおいしくなります。 ■【材料】 梅1kg 塩180g(梅の重量の18%) ジップ付き袋(大サイズ)を2枚 *梅の分量に合わせて塩を用意。例えば梅500gでは塩90g、梅300gでは塩54g、梅200gでは塩 36g(これらの分量の場合は、中サイズのジップ付き袋2枚) *しょっぱい味が苦手な方は、16%(梅1キログラムに対し塩160g)くらいまで減らしても大丈夫です。 *1kg 以上を漬ける場合は、袋を2つ以上に分けて作るとよいです。 ■【作り方】 (1)梅を用意します。  スーパーなどで販売されているものは通常1袋が1kgです。梅干し用と表示されているものをお求めください。地域やその年にもよりますが、6月上旬頃から下旬頃に梅干し用の梅がスーパーや八百屋さんなどに並ぶようになります。  基本的には、キズや打ち身があまりないものを選びましょう。とはいえ、少々のキズであれば、さほど気にする必要はありません。果物を選ぶ感覚と同じです。キズや傷みがひどい場合は、ジャムや梅味噌などを作るとよいでしょう。  収穫からあまり時間を置かずに作業を行うのが理想的です。お店の人に入荷日を確認して購入するとよいでしょう。  なお、梅の実は温度変化に弱いので、冷蔵庫から出した場合、常温で保存していたものよりも早いスピードでカビや腐敗が進む可能性もあります。お店で冷蔵庫に保管されていた梅は早めに作業を始めましょう。  梅の実は、「自分の住んでいる場所に近い梅が一番おいしい」という言い伝えもあるとか。産地、品種によって少しずつ味が違い、それぞれにおいしさがあるので、いろいろ試してみるとよいでしょう。  5月中旬~下旬頃は、「梅酒用」「梅シロップ用」と書かれたまだ青くてかたい梅が並びますが、「梅干し用」と表示されたものを手に入れてください。入荷時期はお店で聞いてみましょう。 (2)さらに熟すのを待ちます。(省略OK)  梅がまだ青い場合は、紙袋や段ボールなどに移して、黄色くなるまで2~3日常温の室内に置きます。ポリ袋のままではカビたり腐敗しがちです。熟してくると家中が梅の香りに包まれます。  熟してから漬けたほうがふっくらした仕上がりでおいしいですが、時間がない場合、この工程は省いてもOKです。 (3)梅を水で洗います。  ボウルに入れて2~3回水を替えて洗います。強くぶつけたりしなければ、ごく普通に果物などを洗う感覚でOKです。汚れが気になる場合はホワイトリカー(焼酎でも可)を少量使って洗うとよいでしょう。 (4)水気を拭きます。    清潔なふきんやタオル、キッチンペーパーなどで水気を拭き取ります。水気が残っていると、カビの原因になります。ざるに上げて水を切り、そのまま乾かしてもOKです。 (5)塩を入れます。   ジップ付き袋に梅と塩入れ、空気を抜いて袋をしっかりと閉じます。シャカシャカ振って、塩を全体になじませましょう。液が漏れる可能性もあるので、袋は2枚重ねにすると安心です。 (6)そのまま置きます。  塩を加えて数時間で梅から水分が出てきます。これが梅酢と呼ばれる梅のエキスです。漬け込んでから最初の1週間は1日に1回くらい軽く振って、梅酢を全体になじませるとよいでしょう。  その後は、このまま常温の室内に置いておきます。秋~冬まで待てば食べ頃です。1週間~10日ほど経って、梅酢がたっぷり出てきたら、消毒したガラスびんなどに移してもよいでしょう。  ひと手間加えるとすれば、土用干しと呼ばれる天日干しをするとさらにおいしくなります。梅雨明けの晴れた日に行います。  ジップ付き袋のまま、日光に当てます。屋外でも屋内でも日が当たればOK。合計で1週間ほど日光に当てることができれば、よりよいでしょう(土用干しを行わないものも、本書では「梅干し」と呼んでいます)。 小川睦子・梅干し研究所(UMEBOSHI-LABO)主宰。梅干し研究家であり、編集者&ライターでもある。幼少の頃より梅干しをこよなく愛し、梅干しの研究に励む傍ら、梅干しの魅力と梅干し作りの楽しさを伝える活動を関東と福岡を中心に行う。簡単にできる梅干し作りや梅干しを使った料理などの講座も好評。自然食品店などでは手作りの梅干しも販売する。 (構成 生活・文化編集部 森 香織)

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    オリラジ中田「松本人志への提言」に感じたズレ 松本はタモリに近い存在になりつつあるのでは?

     オリエンタルラジオの中田敦彦が、自身のYouTubeチャンネルで松本人志に対して提言をする動画を公開したことが話題になっている。 「【松本人志氏への提言】審査員という権力」と題した動画の中で、中田はベテラン芸人の漫才コンテスト番組『THE SECOND~漫才トーナメント~』で、松本がアンバサダーとして出演していたことに言及していた。松本はこの大会に顔を出しているだけではなく、『M-1グランプリ』と『キングオブコント』でも審査員を務めている。松本ばかりが審査員をしているのは業界のためにならないのではないか、と中田は語っていた。  それ以外にも、松本がお笑い界で絶対的な権威となっているため、彼に対して批判的なことを口にできないような空気がある、という趣旨のことも述べていた。  この動画がお笑い界内外に大反響を巻き起こした。霜降り明星のせいやは、中田が動画の中で自分の相方である粗品の名前を出したことに怒りを覚えたようで「真っ直ぐ勝負してないウンコみたいなやつが相方の名前使うな 中田」とツイートした。  また、松本本人もツイッターで「テレビとかYouTubeとか関係なく2人だけで話せばいいじゃん 連絡待ってる!」と中田に対する呼びかけと思われるメッセージを発信した。  個人的には、今回の中田の主張自体にはそこまで目新しさを感じなかった。なぜなら、彼は以前から動画やインタビュー記事の中で何度もこういう話をしているからだ。実際に動画で話している内容も、そこまで過激なものではない。サムネイル画像と動画タイトルに「松本人志」という名前をはっきり出したことで、動画を見ていない人にもメッセージの趣旨が伝わりやすかったため、この件がことさらに話題になったのだろう。  さて、それでは、中田が言うように、お笑い界で松本は絶対的な権威となっているのか。そして、彼に対する批判を許さないような空気や、松本の感性に合わない笑いが排除されるような風潮はあるのか。この点について個人的な見解を述べたい。  松本が多くのお笑い賞レースで審査員を務めているのは事実である。また、『人志松本のすべらない話』『IPPONグランプリ』『ドキュメンタル』など、数々のお笑いコンテンツに携わり、そこで中心的なポジションに就いているというのも事実だろう。  しかし、彼がそこで絶対的な権威としてほかの芸人を抑圧するように振る舞っているかというと、必ずしもそうであるとは思わない。もちろん松本はお笑い界とテレビ界におけるトップスターであり、松本の番組に出る芸人の多くが、松本にネタを見てもらいたい、褒めてもらいたい、認めてもらいたい、などと思っているのは間違いない。  しかし、芸人たちが松本に気に入られようとして、過度に彼だけに対して媚びるようなことをやっているとは感じたことがない。また、松本が審査員として携わっている大会でも、彼が最終的な審査結果を完全にコントロールしているわけではない。  たとえば、松本が審査員を務めた回の『M-1』では、最終決戦で松本が投票した芸人がそのまま優勝したケースもあれば、そうではないケースもある。複数の審査員がそれぞれ審査をしているので、松本の意見と全体の結果が食い違うのは珍しいことではない。お笑い界全体が松本の顔色をうかがって、彼の意見に合わせるような風潮があるのならば、こういう結果にはならないだろう。  また、先日行われた『THE SECOND』では、松本はアンバサダーとして決勝の現場にいた。審査は観客が行い、松本は直接かかわらない。  ここでは、松本の言動が審査結果に影響を与えることがないように、番組スタッフも松本本人も相当気を使っているのがうかがえた。松本の意見ですべてをコントロールしようとする意図が番組側や本人にあったのなら、決してこういう演出や審査方法にはなっていないだろう、という感じだった。  つまり、『THE SECOND』という大会を見て、その場に松本がいたということを根拠にして「松本絶対権力説」を語るのはそもそも無理筋だったのではないか。  それでは、これらの大会に関してはさておき、松本はお笑い界では絶対的な権威となっているのか。この点についても、そういう側面が全くないとは言えないが、そう言い切れるほどはっきりした何かがあるわけではない、というのが個人的な意見である。  松本が絶対的な権威になっていて、彼が認める笑いだけが正しい笑いであり、それ以外のものが排除されているのだとすれば、たしかに問題ではあるかもしれない。しかし、実態はどうかというと、あまりそういうふうになっているとは思えない。  すでにお笑い文化は多様化していて、多様なお笑いが認められている。そして、お笑い界のレジェンドの中で比較すると、松本はむしろ多様なお笑いに対して寛容な立場であるとも思う。  中田自身も、自分は松本には認められないようなジャンルで戦ってきた、という趣旨のことを語っていたが、過去には「武勇伝」「Perfect Human」「中田敦彦のYouTube大学」と、多くの人に支持されるヒット作を出し続けていて、それなりに評価も得ている。客観的に見て、そんな彼がお笑い界で不遇な立場に置かれているとは思えない。  さらに言うと、松本を絶対的な権力を振るう独裁者のようなイメージで語るのも、ミスリードではないかという気がする。松本はどちらかと言うと、権力なんて持ちたくないと思っている側の人間だ。彼は自分が中心となる番組でもいつもどこかだるそうにしているし、最近は口を開けば「引退したい」という話ばかりしている。権力の座にしがみつきたい、影響力を誇示したい、といった欲望が感じられるような人間ではない。  では、実際に松本が権威ある立場に就いているように見えるのはなぜかというと、必要に応じて周りの人が祭り上げているからだ。松本は神輿として担がれているだけであり、本人がその方向に誘導している感じはしない。  もちろん、松本にも血気盛んな時代はあったし、そのときにはもっとギラギラしていて、挑発的、排他的な言動もあった。しかし、ここ10年の松本にはそういうものを感じることはあまりない。  むしろ、松本は、本人の意向にかかわらず、常に気を使われている。そして、気を使われることに人一倍気を使っている、という構図が見えてくる。  これを「松本人志のタモリ化」と言い換えてもいいだろう。タモリもまた一種の権威である。しかし、決してそれを誇示しない。みんながタモリを慕い、勝手についてくる。タモリが中心にいることで、ただ楽しいだけのお昼の帯番組『笑っていいとも!』は伝説的な人気番組になった。  今の松本は『いいとも!』の頃のタモリに近い存在になっている。もちろん松本自身が鋭いコメントを繰り出したりすることもあるが、そこにいるだけで場が引き締まったり、共演者や視聴者に安心感を与えたりするというのも大きい。良くも悪くもそれが今の松本である。 「多様化するお笑い」と「タモリ化する松本」を当たり前のように受け入れて満足している多くの人にとっては、中田の松本批判は正しいかどうか以前に、前提となる現状認識にズレがあるところが引っかかるのではないか。  すでにこの騒動自体が多くの芸人によってネタとして消費されつつあるところにも、この国に根付いたお笑い文化の強さを感じる。誰もが松本に逆らうことを恐れてこの問題に口をつぐむ、というようなことにはなっていない。  お笑いはただ面白ければいいし、その理想はすでに実現している。中田も松本もこの素晴らしきお笑い界の構成員として、引き続き私たちに多くの笑いを提供していってほしい。(お笑い評論家・ラリー遠田)

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    【ゲッターズ飯田】6月の開運のつぶやき「人生は、予定通りに進まないからおもしろい」銀の鳳凰座

     占いは人生の地図のようなもの。芸能界最強の占い師、ゲッターズ飯田さんの「五星三心占い」が、あなたが自分らしく日々を送るためのお手伝いをします。12タイプ別に、毎週月曜日にその日の運勢、毎月5のつく日(毎月5、15、25日)に開運のつぶやきをお届けします。 【タイプチェッカー】あなたはどのタイプ?自分のタイプを調べる 【金の羅針盤座】 小さなことを積み重ねた人だけが、大きな勝利を得ることができる 【銀の羅針盤座】 他人を楽しませると、自分も人生を楽しめるようになるもの 【金のインディアン座】一生懸命な姿は、どこかで誰かが必ず見てくれているもの 【銀のインディアン座】人に真心をもって接することができると、階段を一段上がれる 【金の鳳凰座】自分が中心ではないほうが人生が楽しい場合もある 【銀の鳳凰座】人生は、予定通りに進まないからおもしろい 【金の時計座】変化を恐れずに、流れに乗ることが大切 【銀の時計座】わからなかったことがわかるから、人生はおもしろい 【金のカメレオン座】実力がないことや無能なこと、己の無知を知ることが成長のはじまり 【銀のカメレオン座】もっと本音を話して、もっと行動して、もっと積極的に生きるといい 【金のイルカ座】簡単に運気を上げたかったら、すべての人を「おもしろい」と思うといい 【銀のイルカ座】あなたの代わりは誰もいない。無理をしないで、自分も他人も認めるといい

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    新しいNISA「税金を払っても特定口座から移すべきか?」30年検証【東証協力】

    これまで買ってきた金融商品が特定口座で眠っている人はいったん税金を払い、売却してでも新しいNISA口座に移し替えるべき? アエラ増刊「AERA Money 2023春夏号」より抜粋してお届けする。  新しいNISAでたっぷり投資したいがお金がない。そんな人に向けて、こう言い切る人がいる。 「もし特定口座で投資信託(以下、投信)などを保有しているなら売って新しいNISA口座(以下、NISA口座)に移せ。そのほうが、いついかなる場合も有利」  そう言われると「そうなのか」と思ってしまう。特定口座で運用中の金融資産に大きな含み益がある場合は?  売却した際に払う税金のことを考えると「いついかなる場合も」と言えないのでは。  いったん20.315%の税金を払ってでも非課税のNISA口座に資金を移すか。それとも、利益確定による税金の支払いを先延ばしにして、その分も運用し続ける効果を重視するか。  このテーマに関し、本誌の試算結果をもとに、東証からコメントをいただいた。 「結局のところ、特定口座における税金の繰り延べ効果とNISA口座の非課税効果、どちらが大きいかという話ですね」(東証執行役員・長谷川高顕さん/以下同) 「大ざっぱ」な結論を先に。 「特定口座の資産にそれほど利益が出ておらず、将来の期待リターン(どれくらい上昇しそうか)が高いと判断するなら、早くNISA口座に移し替えるという考え方ができるでしょう(非課税効果>税金の繰り延べ効果)」 「特定口座の資産の含み益が大きく、将来の期待リターンが低いと判断するなら、NISA口座への移し替えは慎重にしたほうがいいという考え方もあります(非課税効果<税金の繰り延べ効果)」  具体的に期待リターンが何%で含み益が何%以上の場合、特定口座からNISA口座に移さないほうがいいのか。  東証の回答は「相場の動き方により結果が変わるため、厳密には数値化できない」。  本誌の検証によれば、含み益があっても特定口座からNISA口座に移したほうが、ほとんどのケースで非課税メリットにより最終的な受け取り額が多くなることが多かった。  ただ、投資対象のリターンが年平均2%以下、かつ特定口座の金融商品の含み益がかなり大きい場合、NISA口座に移しても有利にならないケースが発生していた。  たとえば、「特定口座で保有する金融商品が元手の4倍まで値上がり=評価額の50~75%が含み益」の状態なら、「移すのはちょっと待った」。NISA口座に移したあとの上昇が年平均2%以下なら税金面で負ける可能性がある。  逆に言えばあなたが「今後も年平均2%以上の値上がりをする」と期待していて、かつ特定口座の金融商品が元手の2倍以下しか値上がりしていない場合、特定口座からいったん売却してでもNISA口座に移すほうがよさそうだ。 「特定口座から評価額400万円(元手200万円、含み益200万円)の金融商品を売却し、税引き後の360万円をNISA口座に移して30年間保有」「同条件の金融商品を特定口座で30年間保有し続け、税金の支払いを売却時まで先延ばしにする」の2パターンを検証した。  どちらのパターンも2年目以降はNISA口座で毎年360万円の投資をしたと仮定して、30年後の両者の資産を比較する。  運用1年目から30年目までの年平均リターンが2%、5%、10%の場合は、いずれもNISA口座に移したほうが有利になった。一番シンプルな「増えるだけ」のパターンの検証である。  しかし年5%のリターンでも、10年に1度の50%もの暴落に3回または2回見舞われると、NISA口座に移さないほうが有利な場合があった。  最終的に元本割れしたら、特定口座のほうが少し得。NISAの非課税メリットがなくなるので当たり前の話だ。  含み益のあった特定口座の資金をそのまま運用したほうが、損失額は若干減るというわけ。NISAで損をしたら、いいことは何もない。  実際のTOPIXを使ってあらゆる期間を検証すると、わずかだが「特定口座から移さないほうが有利だったパターン」もあった。  1990年開始の30年間および20年間は、特定口座で保有し続けたほうが得だった。 「特定口座で保有している資産の含み益がどれぐらいあるか、今後どれぐらいのリターンを想定するかで結果は変わります。『いついかなるときも特定口座から移したほうがいい』とは言えません」  改めて結論。特定口座の含み益が元手の2倍以下なら移しても税金面で損する可能性は低いというのが本誌の見解。  また「今後の運用で2%どころかもっと儲かると思う人」も移し替えの検討を。 ◯長谷川高顕(はせがわ・たかあき)/東京証券取引所 執行役員 金融リテラシーサポート部 担当。1990年、東証に入社。子どもから成人まで中立の立場で金融経済教育情報を発信するチームのトップ。執行役員は2023年4月から 編集/綾小路麗香、伊藤忍 ※『AERA Money 2023春夏号』から抜粋

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    松下洸平「このワンシーンで人生が変わるかもしれないと思って臨んでいた」 心の支えと36歳の現在地

     ドラマ、映画、バラエティーにエッセイの執筆。加えて、一昨年には歌手として再デビューを果たした松下洸平さん。才能の露出が多方面に広がり、注目と評価が高まる今の心境とは。AERA 2023年6月5日号の記事を紹介する。 *  *  * ――自らを表現するメディアが多方面に広がっているが、どんなに忙しくなっても、優しく実直な人柄にブレがない。 松下洸平(以下、松下):2019年のNHK連続テレビ小説「スカーレット」に出演させていただいて以降、仕事の量が変わりましたが、最終的に僕がやることは、芝居をすること。そこはずっと同じですし、周囲のスタッフは駆け出しの頃から僕を知っている人ばかりで、特別扱いされないことも、ブレずにいられる理由ですね。  多くの人に見ていただいているということを意識するようになりましたが、一方で、良い意味で力の抜けた部分もいっぱいあるんですよ。今までは、ひとつひとつの現場で、それがどんなに小さな役であっても、どんなに短いシーンであっても、どこにチャンスが待っているかわからないという思いが強くて。それはそれはもう、ぐわーっと全力でやってました。常に「このワンシーンで人生が変わるかもしれない」と思って臨んでいましたから。それが今は、もうそんなに力む必要はない。決して傲慢な意味ではなく、自分で言うのはおこがましいのですが、多少なりとも自信がついたということだと思います。  力の抜けたお芝居とは、より生身の人間に近づいていくことでもあるので、勇気がいるんですけど、ここまでやってきた自分の蓄積を信じなくてはいけないなと思っています。 ■あの10年があったから  バラエティーは本当に楽しませてもらっています。先日は、大ファンだったジャルジャルさんとの共演が実現しました。好きな芸人さんとのお仕事は、僕にとってご褒美みたいなもの。ゲラなのでずっと笑ってますね。 ――2008年、21歳で「洸平」名義でCDデビュー。その後、俳優の道に進み、「スカーレット」に出るまでの約10年間を生き抜いたことが、今の支えとなっているという。 松下:あの10年がなかったら、僕は今ここにいません。思うようにいかない時期もありましたが、この仕事を続けたいという気持ちがあったし、何よりもその先にある成功を信じていました。いつかきっと光は差す、だから、やめないようにしなきゃ、と。具体的に出たい番組や共演したい方の名前、こんな仕事がしてみたい、と口に出してきました。言霊だけでやってきたわけじゃないですけど、とても大事なことだと思っています。  もう終わってしまいましたが、ずっと「笑っていいとも!」のテレフォンショッキングに出たかったんですよ。僕、ミーハーだから、旬な人が出るような番組に出たくて(笑)。タモリさんの横に座っている自分を想像してましたね。それと笑福亭鶴瓶さんがMCを務める「A-Studio+」。こちらは21年12月に念願叶って出演させていただきましたが、よく家でひとりで「今夜のゲストは松下洸平さんです」と言ってくれている場面を妄想してました。  もうひとつは「アナザースカイ」ですね。「ここが僕のアナザースカイ」と言うシーンをすでに何回も練習してますよ(笑)。トーンを変えながら、この言い方がいいかな、いや違うな、とか。僕のアナザースカイはどこか? それは、いつか番組に呼んでいただけるかもしれないから、まだ内緒です(笑)。 ■生身の自分に近い言葉 ――一昨年は「松下洸平」としてCDデビュー。全国ツアーも回った。 松下:お芝居の道に進んでからも、ずっと曲は書いてました。でも、書いても書いてもリリースできるわけはなくて。年に1回、ファンとの交流イベントで歌う機会があって、その時にお披露目するだけ。リリースできなくても形に残しておきたくて、自分でスタジオを借りて、自分でカメラを回し、家で編集して、YouTubeにアップしていました。今は発表できる場があることに感謝しています。  音楽をやっている僕は、自分の言葉を紡いでいる分、より生身の自分に近いんです。だから、自分勝手にならないよう、線を引いて、聴き手のことを考えながら曲づくりをしています。昨年末のライブでは、専門学校時代の信頼できる仲間と一緒にステージに立つことができ、ファンの存在を近くで感じることもできました。自分がどれだけたくさんの人に支えられて生きているかがよくわかりました。  歌手として再始動してまだ2年。俳優として芽生えたちょっとばかりの自信が、まだ音楽をやっている自分には備わっていないので、今後はそこを養っていきたいなと思っています。 ――幼い頃から、興味のあることにはとことん没頭するタイプだった。「歌手」という夢を見つけた時には、自信に加えて、迷いもあったという。 松下:歌手になろうと思ったのは、高校生の時です。美術科に通っていましたが、当初は進路が明確に決まっていませんでした。幼い頃から楽しいと思うことにしか目を向けないタイプで、中学から始めたダンスに引き続き没頭したり、友だちと遊んだり。心のどこかで自分の将来を探していた時、映画「天使にラブ・ソングを2」を観て、「これだ、歌手になろう」と。あの瞬間、どこからやってきたのか全くわからないですが、なんの根拠も無い己への絶対的な自信がありました。  もちろん絵を描くことも好きでしたし、美術の仕事ができればいいなとも思っていました。でも、そのためには大学受験をして、より専門的なことを学ぶ必要がある。……僕、勉強ができなくて(笑)。いま「映画を観て歌手を志した」と言いましたけど、オブラートに包まずに言ってもいいですか?(笑)。勉強よりもうちょっと楽しいことないかな、という思いがずっとあったところに、歌手という夢を見つけたというのが正確ですね。 「歌手になる」と母に伝えたら、びっくりしてました。母自身が、美術関連の仕事をしていて、自分のスキルでお金を稼ぐ大変さをよくわかっていたので、止めたかったんでしょうね。「なにか他にやりたいことないの?」と誘導尋問のように何度も言われました。 ■キャッチボールしたい  母から盲導犬の指導員の仕事をすすめられて、実際に見学に行き、迷ったこともありました。今でもたまに考えます。あの時、動物関係の道に進んでいたら、どんな人生だったのかな、と。  最終的に、やっぱり歌手になるための専門学校に行くと決めた時には、母はもうあきらめていて、「頑張りなさい」と言ってくれていました。専門学校に通った2年間は、もう本当にフリーダムでしたね(笑)。夢だけでおなかいっぱいで幸せで。これまでの人生で一番楽しかった時期かもしれないです。 ――今年8~9月、こまつ座40周年(第2弾)第147回公演「闇に咲く花」では伝説のエース投手として舞台に立つ。多方面で才能を発揮しているが、球技は苦手だ。キャッチボールができないという。 松下:井上ひさしさん原案の作品は「木の上の軍隊」「母と暮せば」をやらせていただきましたが、井上さんの戯曲は今回が初めて。太平洋戦争が終わって2年。飢えや悲しみがまだ消えない日々を生きる父親と、英霊として戻ってきた息子の会話劇です。演出の栗山民也さんとは10年以上前から一緒にやらせていただいていて、僕にとっては原点に返れる場所。成長を見ていただくというよりは、ここ数年で経験したことを武器にせず、何もない自分でぶつかって、「お前は変わらないな」と言ってもらいたいですね。  エース投手を演じますが、僕はキャッチボールができなくて(笑)。ボールを投げることはできますよ。どこに飛んでいくかわからないというだけで。そして、こちらに飛んできたボールは、キャッチする前に反射的に避けてしまう。今回は野球をするシーンはないのでよかったです(笑)。  でも、これを機に、ちゃんと練習しようかなと思っています。やっぱり、キャッチボールくらいはできないと(笑)。共演する浅利陽介くんは球技が上手なので、教えてもらう予定です。これまで番組の企画で何度か球技をして、お恥ずかしい姿を散々さらしてきましたが、それも今年で見納めになっちゃうと思います。たぶん、ですけど(笑)。 ■いつかは幸せな家庭を ――9月には映画「ミステリと言う勿れ」の公開も控える。その先もスケジュールがびっしり埋まっているが、思い描く未来とは。今年36歳。そのプライベートにも注目が集まる。 松下:映画では菅田将暉さんと初共演しました。淡々とすごいことをやってのける人でしたね。長いセリフが多かったですが、ミスが全くない。裏でとても努力されているんだろうな、と。年齢的には僕のほうが上ですが、学ばせてもらうことばかりでした。  菅田さんはご結婚されていて。僕もいつかは、とは思っています。「結婚しない」と決めていることはないですね。最近は周囲の友達がどんどん結婚していきます。焦りは別にないですけど、将来自分にとって理想的な家庭を築けたときのイメージをしたりすることはあります。妄想や想像は得意なんで(笑)。  30代半ばになり、少し遠い未来に思いを馳せることも増えました。昨年、ドラマ「アトムの童(こ)」でご一緒した風間杜夫さんが、撮影が深夜までかかった時にポツリと「オレ、明日2回公演なんだよ」とおっしゃって。連ドラと舞台を縫っておられるわけですが、それって20代の発言じゃないですか(笑)。バイタリティーあふれる姿を見ながら、自分が70代になった時、果たして同じことができるだろうかと。僕は最終的には、静かなところでのんびりと暮らしたい。  どのお仕事も好きなことなのですが、常に「自分にできるのか?」と問いかけながらやっていきたいと思っています。キャパを超えて無理してしまうと、体調を崩すなど周囲に迷惑をかけることにもなりかねません。この先も、いただいたお仕事と自分自身に丁寧に向き合っていきたいなと思っています。 (編集部・古田真梨子) ※AERA 2023年6月5日号

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    4時間前

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    「時透無一郎」が「玉壺」にだけ子どもっぽい“悪口”で応戦する理由 心の底に押し込めている「怒り」と「言葉」

    【※ネタバレ注意】以下の内容には、今後放映予定のアニメ、既刊のコミックスのネタバレが含まれます。  アニメ『鬼滅の刃』「刀鍛冶の里編」の放送が進み、鬼殺隊・最年少の「柱」である時透無一郎の過去が少しずつ明らかになっていった。幼少期の無一郎は、明るく温和な性格で、少し泣き虫な男の子だった。どう見ても、今の“毒舌キャラ”のイメージとはかけ離れている。鬼殺隊に入隊後の彼は、なぜあれほどまでにクールで辛辣になったのか。また、玉壺戦でこれまでのイメージをくつがえすほど、子どもっぽい「悪口」を言い始めた理由は何か。「上弦の伍」玉壺とのユーモラスな舌戦シーン、無一郎の過去、その後の彼の様子から、無一郎におとずれた“大きな変化”について考察する。 *  *  * ■「霞柱」時透無一郎  鬼殺隊最年少の柱・時透無一郎は、刀鍛冶の里において、14歳とは思えぬほどの剣技を次々と披露した。彼の類いまれなる天賦の才は、他の柱たちからも感嘆されるほどである。  しかし、無一郎には大切な家族を立て続けに亡くした壮絶な過去があり、「鬼」と「血」にまつわる深い因縁を抱えていた。無一郎は寸暇を惜しみ努力を重ねて、たった2カ月で「霞柱」へと成長している。その鍛錬の過酷さは熾烈を極め、それに耐える無一郎の我慢強さもまた常軌を逸していた。  柱たちの中でも、平素の無一郎は極めて「無口」でミステリアス。過去の悲惨な戦闘が原因で、記憶の一部が欠落しているため、自分について語ることもない。たまに口を開くと、相手への配慮もなしに端的に事実だけを伝えてしまう「クセ」があった。無一郎は「日輪刀」(※鬼を滅殺するための武具)を作る刀鍛冶たちに敬意も払わず、まだ幼い刀鍛冶の少年にすら、厳しい発言をしてしまっていた。 「刀鍛冶は戦えない 人の命を救えない 武器を作るしか 能がないから」(時透無一郎/12巻・第102話「時透くんコンニチハ」)  しかし、彼の「毒舌」は、鬼の玉壺との「悪口合戦」という形で本領発揮されることになる。 ■「霞柱」 vs 「上弦の伍」の悪口合戦  玉壺に対する無一郎の「毒舌」には2つのパターンがある。1つめのパターンは、敵である玉壺が言った言葉を「とにかく否定しておちょくる」という方法だ。 玉壺「…… 舐めるなよ小僧」 無一郎「いや 別に 舐めてるわけじゃないよ」 玉壺「お前のような手足の短いちんちくりんの刃 私の頚(くび)には届かない」 無一郎「いや さっき思いきり届いてたでしょ そもそも君の方が手足短いし」 (玉壺・無一郎/14巻・第119話「よみがえる」、第120話「悪口合戦」)  もう1つは、この「否定」とよく似たパターンだが、「とにかく同意しておちょくる」バージョン。「真の姿を見せてやる」と玉壺がもったいつけると、無一郎は「はいはい」と軽くあしらい、玉壺が「口を閉じてろ」と怒る場面があった。  この子どもじみた、不毛な否定・肯定のし合いは、便所虫、糞餓鬼、気色悪い、貧乏人、ちんちくりん、といった、彼らのユーモラスな語彙センスによって、「鬼殺隊の柱」と「上弦の鬼」の戦闘中の会話とは思えないほどバカバカしい。見ている誰もが笑いをこらえられない場面だ。 ■無一郎の「悪口」の真骨頂  そんな中、なんとか自分のペースを取り戻そうと、玉壺は「この程度で 玉壺様が 取り乱すとでも?」と、無一郎をいなそうとした。戦闘において冷静さを保つことは何よりも肝要だ。  しかし、無一郎は戦略的に、さらに「子どもっぽい悪口」を重ね、玉壺が逆上しそうな言葉を会話の中に巧みに散りばめていく。玉壺が誇りに思っているのは、「人間よりも長命であること」「自分が美しく品があること」「自分の壺が素晴らしいこと」「美的感覚が優れている」ということだった。無一郎は、それをこんな言葉で挑発した。 「随分感覚が鈍いみたいだね 何百年も生きてるからだよ」 「見た目も 喋り方も とにかく気色が悪いし」 「お前のくだらない壺遊びにいつまでも付き合ってられないし」 (時透無一郎/14巻・第120話「悪口合戦」)  とどめの一言はこれだった。 「気になっちゃって… なんかその壺 形歪んでない? 左右対称に見えないよ 下っ手くそだなあ」  こうやって玉壺の「芸術作品」を無一郎があざ笑うと、玉壺の怒りが頂点に達した。 「それは貴様の目玉が腐っているからだろうがアアアア!!!」 (玉壺/14巻・第120話「悪口合戦」) ■周囲に対する無一郎の辛辣さ  無一郎のこれまでの様子を振り返ってみると、彼の「きつい言葉」には、細かな違いがあることが見えてくる。  竈門兄妹の処遇をめぐる「柱合会議」の際に無一郎が発言したのは、お館様の言葉をさえぎるなという、炭治郎への注意だけだった。日に日に悪化するお館様の体調への気づかいもあり、場の状況からしても「柱」らしい言葉だった。  刀鍛冶の小鉄少年への辛辣なセリフは、「柱の時間と君たちの時間は全く価値が違う」というものだった。これは、自分の稽古の時間が阻害されていると思ったがゆえの発言だった。  このように仲間たちへの「辛辣さ」は的を射たもので、基本的には他人に口を挟まない性格でもあり、鬼の玉壺に対する怒涛の「悪口」とは根本的に異なっていることがわかる。では、なぜ無一郎は玉壺に対してだけは、急に怒涛の悪口を言い始めたのだろうか。 ■命を踏みにじる鬼に対する無一郎の怒り  いつも冷静で大人っぽい「霞柱・時透無一郎」とは違い、回想シーンに登場した、幼少期の無一郎は、明るく穏やかで、お人よしの少年だった。彼の性格が変わったのは、家族との別離が原因となっている。  無一郎は10歳の時に両親を相次いで亡くしているのだが、父母はそれぞれに家族のために尽くし、それが原因となって命を落としていた。無一郎の双子の兄・有一郎は、優しい両親とよく似た、お人よしの弟のことが心配でならない。大切な弟の無邪気で思いやりあふれる行動をなんとしても止めたいと、お前には何もできない、と厳しく言って聞かせようとした。  しかし、そんな兄も、鬼に襲われて死んでしまった。この時の悲惨な事件が原因で無一郎は記憶の一部に欠損があるが、それでも無一郎の「心」からは兄への愛情、父母との大切な思い出、理不尽な鬼への怒りは失われない。 「あの煮え滾る(にえたぎる)怒りを 思い出せ」(時透無一郎/14巻・第121話「異常事態」)  死ぬ間際の兄が発した、弟の身を案じる思いやりあふれる祈りの言葉と、血と涙にぬれたあの最期の顔が忘れられない。 ■鬼にだけ向かう「制御できない怒り」  無一郎の「悪意」と「怒り」は、強烈なかたちで鬼にだけ向かう。刀鍛冶の里編の重要キーワードは、「制御できない怒り」だ。玉壺に向かって告げた「お前はもう二度と生まれて来なくていいからね」という無一郎の言葉は、『鬼滅の刃』のセリフの中では、最上級の厳しい言葉だ。  時透無一郎の心と感情は、あの11歳の夏に鬼によって踏みにじられ、“殺された”。鬼に向かって暴言をぶつけてしまう無一郎は、「霞柱」になる以前の子どもの時のままだ。記憶を取り戻した無一郎から、幼い「悪口」がとめどなく紡ぎ出されてしまうことを、誰も止めることなどできないだろう。  無一郎は、鬼を決して許さず、自分を鼓舞し、自分の弱さをすべて断ち切る。若すぎる少年剣士は、「霞柱・時透無一郎」として、さらに過酷な鬼殺の道を突き進む。今後の戦いはより一層厳しいものになるが、この戦いの後に、記憶を取り戻した無一郎には大切な仲間ができる。  仲間思いの無一郎が一体何を成し遂げるのか。今後の彼の成長も楽しみでならない。 ◎植朗子(うえ・あきこ)1977年生まれ。現在、神戸大学国際文化学研究推進センター研究員。専門は伝承文学、神話学、比較民俗学。著書に『「ドイツ伝説集」のコスモロジー ―配列・エレメント・モティーフ―』、共著に『「神話」を近現代に問う』、『はじまりが見える世界の神話』がある。AERAdot.の連載をまとめた「鬼滅夜話」(扶桑社)が好評発売中。

    dot.

    8時間前

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    「新しいNISAのおすすめ東証ETFベスト16」 なぜ億り人は投資信託を買わないのか

     「これぞ定番」「個人投資家目線で注目」の東証ETFを、分配金で優雅に暮らす「億り人」が厳選。投資信託ではなく東証ETFを選ぶ理由も。アエラ増刊「AERA Money 2023春夏号」より。  定期的に分配金が支払われる東証ETFは、リタイア後の定期収入がなくなった人にとってありがたい存在。貴重な現金を得られる安定運用資産になるからだ。  現在49歳で、資産1億3000万円から得られる分配金や配当金で優雅な生活を過ごす個人投資家の桶井道さんも、その一人。東証ETFも好む。 「投資の出口戦略まで考えると、ETFのほうが有利だと思っています。老後、年をとって判断能力が落ちる中で、運用資産を計画的に取り崩していくのは大変です。  ネット証券で定期売却サービスがあるのは知っていますが、売却の設定をいくらずつにするか、80歳や90歳になっても金額や率、口数の指示ができるか、私は不安です。  ETFなら、定期的に分配金が支払われるので、自分でわざわざ元本を取り崩さなくても生活費に充てられます」  新しいNISAでは、日本円で分配金がもらえる東証ETFも買うつもりだという。 「海外ETFの分配金はドルで支給されますが、いちいち日本円に両替するのが面倒です。やはり、『分配金が◯万円振り込まれた』と直感的に喜べる東証ETFのほうがラクで楽しい。  東証ETFをたっぷり保有することは、優良株の配当で暮らすのと同じイメージを持っています。  しかも、S&P500やTOPIXが指標のETFなら『倒産』がなく、指数そのものが消滅するようなリスクとは無縁です(笑)」  東証ETFを選ぶ際は、純資産総額や出来高のチェックも大切だという。純資産総額が少なすぎると効率な運用がしづらいだろうし、運用そのものをやめてしまうリスクもある。  ある程度、日々の取引が活発なETFでないと、買いたいときに買い、売りたいときに売れない。メジャーな株価指数に連動する東証ETFなら安心。 「投資信託(以下、投信)の場合、いくらで買えるか事前にわからない点が残念です。私の投資先は海外が多いので、早くて2営業日後にしか判明しません。買い注文を出したあとに金融パニックが発生しても逃げられませんし……」  そこまで心配しなくていい気もするが、桶井さんは投資単位も大きいから、庶民とはリスク管理の度合いが違うのかも。 「投信を買うことは、すし屋のカウンターで値段を気にせず『時価』でおすしを食べる感じと似てるかなぁ」と語っていたが、そこまで……? だが、強烈な「東証ETF愛」は伝わってきた。 「米国以外にもユーロ圏、英国、スイス、インドなどの株式にも投資できます。海外REIT(不動産投信)や金(ゴールド)、債券も買える。しかも日本円で」  新しいNISAでは「iシェアーズ S&P 500 米国株ETF」(1655)や米国の25年以上の連続増配株を集めた「グローバルX S&P500配当貴族ETF」(2236)を買いたいそう。 「ダイワ上場投信-TOPIX高配当40指数」(1651)など、日本の高配当株ETFも物色中と語っていた。 「新しいNISAの成長投資枠1200万円の多くを東証ETFで運用するつもりです。生涯、分配金を非課税で受け取れるマシーンとして有効活用します」 ◯桶井 道(おけいどん)/個人投資家。47歳で資産1億円を達成し、早期退職。「52歳で年240万円の分配金収入」を目標に、世界30カ国の株や東証ETF、海外ETFに投資中 【本記事に入っている図の脚注は以下の通りです】※2023年4月7日現在。東京証券取引所に上場する日本籍のETFからS&P500、全世界株式(MSCI ACWI)、先進国株式(MSCI コクサイ)、国内株式の指数に連動するものを中心に掲載。「iシェアーズ・コアMSCI 先進国株(除く日本)ETF」は「MSCIコクサイ指数(税引き後配当込み、国内投信用、円建て)」。信託報酬は年率、税込み。純資産総額(「みんかぶETF」で時価総額の欄に記載の数字)は億円未満を四捨五入。選者:桶井 道 ※『AERA Money 2023春夏号』から抜粋

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    岸部一徳かく語りき 瞳みのるとの和解、そして自身の「終わり方」

     芸事が好きだった父、熊本への夜逃げ、弟・四郎の不遇──。自分について考え続ける日々のなかで到達した境地。それは俳優としての代表作「死の棘」での小栗康平監督の教えとも繋がっていく。寄る辺なさに留まり続けること、そして自分自身の「終わり方」。いま、岸部一徳さんが考えていること。本誌編集長が聞く独占インタビューの第3回。 *  *  *  岸部には兄弟が多い。「全部で10人くらいいるんです。僕は男では下から2番目」  1969年、加橋かつみ脱退後のザ・タイガースに加入した四郎は、すぐ下の弟だ。  生まれ育ったのは京都市、京都御所の西側。父親の徳之輔は戦前、職業軍人だった。47年生まれの岸部に父親の現役時代の記憶はない。 「親戚の人に聞いたら、軍服で馬に乗って部下も付いて、京都の真ん中をばーっと行って、ちょっと知り合いのところに寄ったり。背も高くて格好よかったようです」  謹厳で頑迷な父親像が浮かんでくるが、 「全然違いますね」  公職追放も影響したのだろう、戦後は定職に就かなかった。  賭け事が好きで借金も多く、一家は常に経済的に逼迫(ひっぱく)していた。小学1年の時、伯母を頼って熊本へ夜逃げしたことを覚えている。  質草になる布団は、2階から母や岸部たちが階下の兄たちに投げて宙を舞った。小学校は4回転校した。  だが、岸部の父親への視線は温かい。 「趣味が多くてね、あれもこれもちょっとずつ好き。よく言えば面白くて子どもには好かれる父親でした」  明治生まれにして英語も少しばかり操った。碁は小学生のころからプロ棋士を目指して鍛えたという腕前で麻雀も強い。松竹新喜劇に足繁く通い、歌舞伎や新派も大好き。興が乗ると子どもたちに台詞を諳(そら)んじてみせた。浄瑠璃にも明るい。読書家で家には菊池寛をはじめ初版本がたくさんあった。酒は飲まない。 「芸事が好きなんだよね。だから僕が東京行くって時はうれしかったんですね。先頭立って親のまとめ役をやってました。まあ、ひょっとしたら子どもが人気者になれば自分も何かこう、楽しくなるのかもと思ったのかも(笑)」  骨董や美術品の目利きでもあった。 「買えるわけじゃないけど、でも、そういうものが好きっていうのは、弟(四郎)に行ったんだろうね」  3学年下の弟・四郎。69年3月、加橋かつみの脱退を受けて急遽遊学先の米国西海岸から呼び戻され、一夜にして日本一の人気者の一員になった彼もまた、ザ・タイガースによって大きく人生を変えられた一人だ。  71年のグループ解散後、飄々(ひょうひょう)とした佇まいと軽妙な話術で人気タレントとなり、ワイドショーの司会も長く務めたが98年、5億円に上る借金で自己破産し番組を降板。以降は不遇の日々が続いた。  2003年、脳出血に倒れ、後遺症で視野狭窄に。07年に愛妻が急死した。12年には身を寄せていた千葉の姉の家で、夜中にトイレに行った際に転び大腿骨を骨折。リハビリ病院を経て移った県内のグループホームへ、岸部はよく見舞いに訪れたという。 「身の回りの世話は一回り上の姉たちがよくやってくれた。僕も月に何度か行ってたかな。お年寄りに交じって体操を一緒にやったりして」  四郎は典型的な末っ子で淋しがり屋だった。 「何かあっても『誰かが何とかしてくれるやろ』と思うタイプね。リハビリも、もうちょっとがんばってほしかったんだけど……。でも、暗くなりすぎないのは性格だよね。僕が行っても、話すよりおみやげを気にしたりして。わらび餅なんか小さく切ってやると『おいしい』なんて言ってね。ただ、最後のほうは、食べることもできなくなった。それからの衰弱が早かったですね」  20年8月28日、四郎は旅立った。享年71。 ■苦手なことがあってもいい  岸部が今回のインタビュー依頼を受けたのは、本誌の休刊という節目に「そろそろ自分のことを話してもいいかな」と思ったからだという。普段はテレビのバラエティー番組はおろかインタビュー番組にも出ない。取材はほぼ新作映画の公開時に、雑誌や新聞など活字メディアに絞っているのだという。 「トーク番組もバラエティーも見たりはします。ただ、俳優が演じるだけではなくてしゃべることや、自分自身を語ることが得意じゃないんですよね」と吐露する。 「苦手なものを克服してできるようになるのがいいという考え方もあるけど、そんなに広げなくても三つぐらい苦手があったら、一つくらいは『これは苦手』というのを置いておいてもいい」  音楽をやめてしばらく仕事がない時期を漂いながら、岸部はひたすら、自分について考え続けていた。 「やりたいことがあって音楽をやめたわけではなかったし、考える時間はたくさんあったから。たまたま勧められて俳優になった。芝居の勉強もしていないし、僕は得意なものがそうないから、苦手はなんだろうと考えた。たとえば人前でしゃべるのは不得手だから、じゃあこれは残そうと」  それは、映画「死の棘」(90年)で、小栗康平監督にたたき込まれた「言葉にする前の気持ちの動きこそが大切だ」という教えとも、のちに繋がっていく。  俳優という不安定な稼業で、心配に苛(さいな)まれる場面は多い。演技の技術について、私生活のこと、健康の維持、将来の不安──。それらを払拭しようと思えば、やれることはたくさんある。踊りや乗馬を習ったり、休日に芝居や映画を見たり、人付き合いをよくしたり。だが、岸部は心細さの解消のために働きかけようとは思わない。あえてそのまま留めておきたいという。  動けば安寧を得られるかもしれない。その代わり、不安という感情の動きは心から押し出され、微妙な揺らぎは掌(てのひら)からこぼれ落ちる。 ■人生後半戦の坂どう下っていく  岸部が俳優の世界に足を踏み入れてほどなく、日本はバブル経済の80年代に突入した。  政治の季節の残滓(ざんし)を狂乱の宴で上書きするかのように、世の中全体が浮足立っていた。テレビは昼夜なく「楽しくなければ」と謳った。一方、どん底ともいえるのが、娯楽の王座をテレビに明け渡した映画産業だった。週刊朝日が最高部数150万部を記録したのと同年の58年、11億2700万人をピークに映画人口は激減し、80年代には1億5千万人規模にまで縮小している(日本映画産業統計)。  芸能事務所は主戦場をテレビと見据え、タレントは視聴率に繋がる「好感度」という物差しに左右されるようになる。エンタメ界で量産されるのは不特定多数に好まれやすいバラエティー番組で、良質な映画作品が受け入れられる余地は少なかった。  この時期に「死の棘」が国際的に評価されたことは、寄る辺なさを抱える岸部自身にとっても、その後の俳優人生を位置づける大きな出来事だった。 「誰と出会い、誰と一緒にやっていくのか。それが一番大事。タイガース時代も含めて、すべてはそこへ繋がっていくよね」  岸部が樹木希林の事務所「夜樹社」の解散後、いくつかを経て自分で事務所を設立したのはバブルが弾けて間もない、95年のことだ。 「小さい事務所だからできることもある。映画やドラマの脚本を読む。CMだったらコンテは面白いのか。どうやって相手に正論を伝えるのか。自分の基準で面白いと思える仕事を選んで、そこでの闘いみたいなものがあって。そんなことを続けているうちになんとなく面白そうな事務所ですね、っていうふうになればいいなと思ってやってきた」  18年に亡くなった樹木は「三つぐらいの側面を見せて終わった気がする」と語る。 「希林さんは30代の若いころからおばあちゃん役をやったりして、ちょっとワケわからないことをしたり、むつかしい、怖い人みたいに見せるから、自分の俳優としての技術や、すごさを隠そうとする時期があったように思います」  それが変化したのは夜樹社が解散する前だ。80年代に入り、芝居のうまさで世間から注目されるようになった。 「あのころ、希林さんは、上手な芝居を少し、見せるようになったなと思った。そこからひねくれてるというようなイメージも取れてきて。晩年の作品を見ると、俳優としてのすごさよりも人間の優しさが溢れているようにも見えた」  岸部はこの日、取材場所の朝日新聞社のビルまで、地下鉄東銀座駅から歩いてきた。 「笠智衆さんは『僕は電車のあるうちは鎌倉から通うんです。それが健康法です』とおっしゃって、送り迎えは断っていた。希林さんも『社会生活ぐらいできなくてよく俳優なんてやってられるわね』と」  最近、岸部は自分自身の「終わり方」も考えるようになったという。  京都時代からの生き方、たとえば、しゃべるよりも人の話を聴き、苦手なものをあえて克服せず、古希を過ぎて少しまるくなった自分。 「それでも、うまく言えないんだけど、たどり着かないなぁっていう。終わりが来た時に、ああいうやり方、考え方でやっぱり良かったんだと思えるかどうかは、また別問題だなと」  俳優になって半世紀。大きな賞も獲った。周囲からは十分すぎるほどの成功に見えるかもしれない。名脇役、いぶし銀と評されることも少なくない。 「でも、良い俳優さんですね、なんて言われると知らないうちに人の評価に自分を合わせようとする気持ちが生まれる。すごいですね、と言われて、自分がすごいと思ってしまったらその『すごい自分』に合わせた生活になってしまう。そこがなんとなく僕には合わない。歳を取って、少しずつ仕事が少なくなって、いつの間にか人が忘れてくれるくらいがちょうどいいのかな。でももう少し、好きな人たち、好きな監督と仕事はしたいですけどね(笑)」 「人生百年時代」と言われる。55年に男女ともに60歳代だった平均寿命はそれぞれ20歳近く延び、60~70代を昔のように老年期と呼ぶにはあまりに若い。緩やかに長く続く人生後半戦の坂をどう下っていくのか、若い世代も不安を抱えている。  岸部たち団塊の世代は、未知の時代を走る先頭集団だ。  ザ・タイガースと決別した瞳みのるとは08年、37年ぶりにメンバー同士で元マネジャー・中井国二の仲立ちによって再会、「長い別れ」は雪解けを迎えた。瞳はあの71年1月24日、有楽町のガード下での別離の後、猛勉強を経て大学進学し慶應義塾高校の漢文教諭に転身。定年を前に退職して現在は音楽活動とともに専門である中国語を生かして日中文化交流にも注力している。森本タローが定期的に開くライブはいつも盛況だ。森本のファンだけではない、沢田研二や瞳のファンも、誰もが楽しめる温かい雰囲気で溢れている。 「タローは11月で喜寿(77歳)。12月には喜寿になって初のライブを考えていて、内容もいつもと少し違うみたいだし、楽しみだよね」  同じく音楽活動を続ける加橋かつみも4月、「THE G.S栄光のグループサウンズ」公演で元気な姿を見せたという。  6月25日は岸部と森本、瞳が参加する、さいたまスーパーアリーナでの沢田研二75歳“バースデーライブ”だ。6月に入れば、メンバーそろってのスタジオ練習が始まる。 「音楽はね、楽しい。(ザ・タイガース再結集は)13年でもやっているんだけど、しばらくベースから離れていて、練習するとまた弾けるようになる。そうするとやっぱり僕は音楽少年だったんだなって」  考えてみれば、ザ・タイガースのメンバーが集まってやれるのは最後かもしれない。願わくば、加橋にも参加してほしかった。でも、電話しても出ないから、そっとしておこう。 「タイガースのメンバーと出会えて良かった。うっかりしたら、良い俳優を最後まで通そうとか、そんなことになっていたかもわからない」  岸部はいま、そう思っている。(了/敬称略)(本誌・渡部薫)※週刊朝日  2023年6月9日号

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    上岡龍太郎さんからの最後の伝言に「笑い」のこだわり見る 話はいつも阪神タイガース

     阪神タイガースが大好きで、巧みな話術で笑いを取った元人気タレントの上岡龍太郎(かみおか・りゅうたろう=本名・小林龍太郎)さんが5月19日、大阪市内の病院で肺がんと間質性肺炎のため死去した。81歳だった。記者は昔、上岡さんに声をかけていただく場面が何度かあった。思い出すのは、いつも阪神タイガースの話をする上岡さんだ。  大阪府知事を務めた横山ノックさんと青芝フックさんとの3人の漫才トリオで人気だった上岡さん。トリオ解散後はノックさんが参院議員となり、上岡さんはお笑いだけでなく、司会業などで幅広く活躍した。  1988年からは、関西のお笑いをテレビを通じて全国に広げた番組「探偵!ナイトスクープ」(朝日放送)の初代局長を務め、上岡さんの代名詞ともなった。  一方で、上岡さんは、大の阪神ファンであることでも知られていた。 「阪神のオーナー」と自称し、甲子園球場にもよくやってきた。  大阪在住の筆者が、マスコミの仕事をはじめてまだ間もないころだった。  上岡さんと甲子園球場で一緒になり、その「解説」を聞かせてもらったことが何度かあった。  阪神は1985年、バース、掛布、岡田らに代表される強力打線を擁し、21年ぶりのリーグ優勝を果たした。しかし、その後チームは低迷していき、「暗黒時代」が続いた。  たしか1992年、中村勝広監督時代のときだった。その前年まで2年連続で最下位だったが、この年は新庄剛志(現日本ハム監督)ら若い選手が活躍し、シーズン終盤まで優勝争いをした年で、上岡さんが甲子園球場に来る回数も増えていた。  シーズン終盤のこと。普段は、自身がコメントを出しているスポーツ紙の座席で試合観戦していた上岡さんが、なんらかの手違いなのか、私がいた(テレビ局がおさえていた)座席にやってきたのだ。  試合が始まると上岡さんはおもむろに、 「今日の先発はどう思う? あんまりええ球がいってないように思うがな」  ピッチャーが投球練習しているときから上岡さんの解説がはじまった。  相手チームの1番バッターの打席に、 「次、フォーク投げなあかん」 「キャッチャー、どこ構えるねん」  とひとり解説を展開する上岡さん。三振を奪うと、 「ほれ、言うたやろ、まっすぐでいけって。言うた通りや」 「ひそかにスタンドからサイン出したんや」  と笑いも忘れずに入れてくる。  試合の終盤、阪神がピンチを迎え、ピッチャー交代の場面。アナウンスされたのは、上岡さんの予想とは違うピッチャーだった。 「阪神の“オーナー”がこいつで行け言うてるのに、中村は」 「打たれるって、ほんまに」  と言っていたら本当に打たれてしまい、2点取られてしまった。  でも、最後に阪神が逆転勝ちすると、 「“オーナー”としては満足や」 「今年はほんまに優勝いけるで。俺がうまく采配するように中村に言うとくわ」  とユーモアを入れて締めた。  上岡さんが選手時代から注目していたのは、今季から再び指揮を執っている岡田彰布監督だ。  早大からドラフト1位で阪神に入団し、中軸選手として活躍してきた阪神の“顔”だ。  そして、その顔は、日本を代表する喜劇役者、藤山寛美さんに「そっくり」と評判だった。  岡田監督が選手時代、上岡さんは、 「岡田は思い切ってやればいい。あかんかったら藤山寛美の娘、直美と一緒に舞台にあがればええねん。ええ役者になれる」  と「べた褒め」していた。  野球場以外でも上岡さんと話す機会があった。  ノックさんの選挙だったと思う。ただ、そこでもマスコミが囲むとほとんど阪神の話題だったと記憶している。 「昨日は代打に●●(選手の名前)が出た。あそこでやで。起用ミスや」 「先発に使っているピッチャーがダメ」  などと話し出すと、やはり止まらなかった。  90年代のころだった。 「よかったわ、江川に勝ったんや!」  といきなり上岡さんから言われたことがあった。なんのことかわからずキョトンとしていると、 「江川や。俺のほうが税金、たくさん納めていた。これで阪神もいける」  このころは、高額納税者の名簿が公表されていた時代で、上岡さんは上位の常連だった。  当時、引退して間もなかった元巨人のエース江川卓さんより、自分のほうが名簿で上位にランクしていたことを自慢したかったのだ。  何かと阪神に結びつく話ばかりだった。  そんな上岡さんの動きは注目されていた。ノックさんや西川きよしさんが政界に進出すると、 「次は上岡の番」  との声がどこかしこから出ていた。実際にいつだったかの参院選で、野党系の政党から上岡さんの名前が具体的に出たことがあった。  それについて上岡さんに直撃すると、 「政治な、ノックさんもきーぼー(西川きよしさん)も出てるからな。いろいろ聞こえてはくるんや」  と思わせぶりな発言に聞こえた。  その後、上岡さんが記者会見を開くことになり、いよいよかと、みんながその発言に注目すると、 「こういうのが夢やった。いかにも出馬するようにマイクがずらりと並んでいる」  とうれしそうに語り始め、 「どこからも出馬してくれとはきていません。出馬するなら政治の勉強してますわ。ここで話している時間がない」  と否定し、上岡さんの父親が2度、選挙に出たというエピソードを披露した。最後に、 「けど芸人として燃え尽きていなければ5年か10年したら出馬するかもね」  と締めくくったことで、その後も大阪市長選でも名前が挙がるなど、しばらく上岡さんの進退をめぐる関心は尽きなかった。  後日、改めて選挙への考えについて聞くと、 「ああやって話すとええ話題作りになって、キミら(マスコミ)もネタに事欠かないからええやろう」  とうそとも本当とも取れるような話し方をされ、悩まされた。自らの「問題発言」を逆手にとってネタにすることもあり、実に計算された巧みな話題作りが上岡さんの真骨頂でもあった。  2000年春、かねて宣言していた通り、上岡さんは芸能界から引退した。  私は表舞台から去った上岡さんに何度か取材を試みたが、まったく姿がつかめなかった。  ある日、張り込んでいる私を知っていたのか、上岡さんが一度だけ、人づてにこう伝言をくれた。 「朝寒いなか、張り込みしなくていいよ。選挙に出ることない。笑わせるネタがもうないから」ということだった。笑いにこだわった上岡さんらしい伝言だった。  ご冥福をお祈りします。 (AERA dot.編集部 今西憲之)

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    中学生が教師に土下座強要、「恋愛インフレ」…週刊朝日が報じた混迷の時代

     1980年代、日本はバブル経済の熱狂に沸いた。だが、その後にやってきたのは長い長い不況。天国と地獄を味わったこの時代は、飛び切りの逸話の宝庫でもあった。「週刊朝日」の記事からも、当時の“熱気”が伝わってくる──。 *  *  *  バブルの狂奔の少し前、後のカネ余りの時代を予感させる出来事が起きた。1980年4月25日夕方、配達車を運転中の工員・大貫久男氏(当時42)が東京・銀座の歩道のガードレールの支柱の上に風呂敷包みを見つけ、自宅に持ち帰ると1億円分の札束が出てきた。「史上最高の拾得物」に国中が大騒ぎになったが、落とし主は名乗り出なかった。  80年11月14日号の記事「みつけた!! 『1億円の落とし主』」では、「兜町の極めて質の高い筋」の話として、このカネは当時「兜町最大の仕手筋」と言われていた加藤アキラ(※)氏の事務所に運び込まれるはずだった3億円の一部だという説を報じている。  運搬役の2人が車のトランクに現金を積んで現場付近まで行き、そこからは1億円ずつ事務所まで手で持っていくはずが、2人の行き違いもあり、作業途中でガードレールの上に風呂敷包みを放置してしまったというのだ。  当時“ワケあり”なカネが現金で飛び交うのは日常茶飯事だった。 <いろいろな事情で人目をしのばなければならない兜町のカネのうちの大きな部分を占めるのが、政界のカネである。かつて政治家は土地ころがしで資金を捻出していたが、土地税制の強化でそれにうまみがなくなり、いまはもっぱら株をやっている>  果たして今回のカネは、どんな事情を含んでいたのか。本誌は当の加藤氏を直撃している。 <──一億円の落とし主は加藤さんだといわれていますね。 「ハハハ……、ええ、そうやっていや、これですね、(中略)どういったら嘘にならないのか、とにかく、いずれにしろ時ですね。やっぱり、時が、ある時がいると思うんです。(中略)そのまあいろいろありますわ。いろいろですね」>  奥歯にものの挟まったような微妙な反応。その後も結局、真相はわかっていない。一方、一躍有名になった大貫氏のもとには、脅迫状や借金の申し込みも届いた。大貫氏は本誌の取材にこう語る。 <「いままでぼく、堅実をモットーにしてきた男ですし、石橋を叩いても渡らないくらいの性格だから、周りでゴチャゴチャいわれても、どうってことないですよ。ここへきて、慌ただしくなって、体重も減りかげんになってますけどね>  一時は変装までして人目を忍んだ大貫氏。大金を拾えたのは、決して偶然ではなかったと語る。 <「常日ごろから、リサイクルというか、ぼくは心がけてるんです。無駄にしないように。そう思って見ると、まだ使える物が、たくさん捨ててあります。人から見ると理解できないかもしれんが、ぼくにはだから自然に(一億円の包みを拾うことが)できたんです」>  この時代、教育現場は混乱に陥っていた。83年3月4日号の記事は、すさまじい校内暴力の実態を浮き彫りにしている。  83年2月15日、東京都町田市の市立中学校の玄関で、英語教師が生徒から罵られた上、靴の泥落とし用の金属製のマットで襲いかかられ、反射的に相手の男子生徒Aを果物ナイフで刺す事件が起きた。世論の受け止め方は、現代からすると意外だ。 <いま、同中には毎日、全国から二、三十通の手紙が舞い込んでいる。全部が刺した●●(原文は実名)に同情し、「ツッパリ生徒はびしびし殴れ」といった内容だそうだ>  事件は、英語教師がAの親分格で「ツッパリ組の一人」だった男子生徒Bをクラブから追放したことがきっかけで起きた。英語教師の言動もBに「やめても行けるクラブはないだろう」と言い放つなど行き過ぎだったようだが、それでも同情が集まったのは、当時の学校が置かれた状況のせいもあるだろう。事件前年の秋からの学校の様子は次のようだったという。 <まず急速に生徒の服装が乱れ始めた。それまで全校で数人だった男子のパーマが、あっという間に二、三十人になった。教室のドアなどが、けっとばされて壊されだし、水道の蛇口がへし曲げられて折れた。授業中の教室からエスケープする生徒が目立ち始めた。  職員会議で「生徒と話し合う。暴力を許さない」ことを決め、休み時間のパトロールや廊下での立ち番などを始めたが、教師たちの目を盗んで、廊下で爆竹が鳴り、いたるところが落書きで埋まった> ■バブル崩壊後も高級外車志向?  もはや「学級崩壊」などというレベルではない。直接的な暴力もエスカレートしていった。 <教師が殴られることが頻発した。騒ぎのたびに、ツッパリ組の生徒がワッと集まり、それをさらに「普通の子」が囲んだ。破壊もエスカレートし、三年の男子便所の仕切り壁がなくなった。  ツッパリ生徒に土下座して謝る先生がついに出た。「アイツ『分かった分かった、やるよ』といって真っ青になって土下座したよ」と生徒たちが自慢げに吹聴して歩いた>  90年代初めにはバブルが崩壊。日本は不況の長いトンネルに入っていくが、しばらくはまだ浮かれモードが続いていた。92年7月10日号の記事「平成ノ正シイ暮ラシ方ノススメ」では、大東文化大経済学部を卒業した「K君」が80年代後半に使ったクリスマス経費について“恋愛インフレ”と称しこう紹介する。 <八七年のクリスマスでは、都内のレストランで食事。映画を見たあと自分のアパートでSEX、という貧乏デートですんだものが、翌八八年には、フランス料理のフルコースに渋谷の洒落たラブホテルと、ややグレードアップ。  これが八九年になると、食事はイタメシ、プレゼントはカルチエの三連リング、夜の泊まりは六本木の全日空ホテルで、費用は十万円の大台に乗った。  そして、迎えた九〇年は「東京は込むからイヤ」という彼女の一言のもと、軽井沢プリンスホテルをキープ。スキー代や食事代、往復の足代やなにやで十五万七千円にハネ上がった>  ちなみにこの記事、ポストバブルは「ダウンサイジングライフ」が大切だとして、こう説く。 <どうしてもBMWというなら、はなから新車をやめて、旧型の3シリーズにする>  そもそも車を買わない若者が増えた昨今からすると、まだまだ贅沢な話に思えてしまう。 ■リストラ担当がクビを切られ…  だが、不況の波は徐々に深刻化し、職場ではリストラの嵐が吹き荒れた。93年12月17日号の記事では、東京・有楽町にある国立の職業安定所「東京人材銀行」の室長のこんな談話を伝える。 <「最近は、人事担当だった人がよく来るんです。仲間を切って切って、最後に自分が切られたんですね。人事のスペシャリストといっても、他社では通用しないんで、なかなか求人がないけどね」  求職カードをみると、印刷会社で人事二十年の経歴をもつ、五十五歳の人が専門知識・能力の欄にこう書いていた。 「勧奨退職実施、希望退職者募集」  懲りない人である。高橋室長はこう付け加えた。 「ほっとけば希望月収の欄に、八十万円だの百万円だの書こうとする人が多い。どうしても大企業ぐせが抜けない。だからあなたはクビになったんでしょう、そういうとたいていの人は四十万円ぐらいに落とします。なかには『ばかにするな』と怒り出す人もいますけどね」>  このころ、インターネットとパソコンの急速な普及が世界を変えつつあった。が、せっかく買ったパソコンも使い方がわからない人ばかり。96年10月18日号の記事では、アップルコンピュータなどのサポート部門に電話してくる「パソコン難民」について報じている。 <「つながらないよ! パソコンはちゃんとセットしているのに、どうなってんだ」  と、電話口で中年男性に怒られた。「順を追って説明してください」と尋ねると、 「きのう買ったパソコンで、インターネットやろうと思って、電源を入れた」  という。「それから?」と先を促すと、 「それから電話をかけた」>  この男性は、電話さえかければネットにつながると思い込んでいたのだ。他にも黎明期ならではの逸話が出るわ出るわ……。 <「画面上の矢印が逆に動く」  とクレームを受けたメーカーもある。これも故障ではなく、マウスを前後さかさまに持っていただけの話だった。 「ねずみ(マウス)だから、しっぽ(コード)は手前に来るのが当然」  と、このユーザーは開き直ったという> <「環境(設定)を変えてといわれて、部屋の窓を開けた」 「ウィンドウを閉じてというので、部屋の窓を閉めた」  は、もはや業界の語り草。 「フロッピーディスクをコピーしてくださいと表示が出たので、複写機でコピーした」 「(ソフトは)立ち上がってますかと聞かれて、いすに座ってますと答えた」  など、この手の話はキリがない>  週刊朝日が101年間にわたって報じてきた市井の人々。たくましく、時におかしく生き抜いた彼ら彼女らこそが、時代の主役だった。(終)(本誌・村上新太郎、小泉耕平) ※機種依存文字のためカタカナで表記。漢字は日の下に高※週刊朝日  2023年6月9日号

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    沢田研二、元マネジャーが語る「美の表現者に目覚めた」瞬間

     1970~80年代、芸能界の頂点に君臨したジュリーこと沢田研二の75歳のバースデーライブが注目されている。さいたまスーパーアリーナの“リベンジ公演”を前に、元マネジャー、森本精人さんにスーパースターの魅力の神髄を聞いた。 *  *  *  ここ数年、ライブツアーを活動の中心とする沢田研二。バースデーライブは、興行主との集客に関する契約トラブルで“ドタキャン”せざるを得なかった2018年のリベンジ公演となる。今回は既に2万枚以上のチケットを完売。折からの昭和歌謡ブームで、往年のファンのみならず若者からも熱いまなざしを浴びる沢田の、衰え知らずの人気の秘密とはいったい──。 中将タカノリ(以下、中将):初めて沢田さんと会った時の印象は? 森本精人(以下、森本):ジュリーを初めて見たのは、学生時代にニッポン放送でアルバイトしてたころ。まだザ・タイガースで、明治製菓がスポンサーの番組に出演していた時でした。芸能人は見慣れていましたが、ほかの人にないオーラを感じたのを覚えています。 中将:その後、森本さんは渡辺プロダクションに入社されるわけですね。 森本:はい、僕が入社したころにタイガースが解散。はじめザ・ピーナッツのマネジメントを担当したんですが、ほどなくジュリーの担当になりました。 中将:身近に接した沢田さんはどんな方でしたか? 森本:過密スケジュールだし、「ザ・タイガースを超えたい」というプレッシャーを感じていたのか、少しエキセントリックな部分がありました。コンサートで演出のタイミングがずれたりカーテンから灯りが漏れたりすると、激怒してマイクを放り投げて帰ってしまったりね。ファンの女の子たちは泣いてましたよ。完璧を目指すが故にスタッフに対しても厳しい。でもなぜかみんなジュリーのことが大好きなんです。これは実際に接した人でないとわからない感覚かもしれません。僕にとってもすぐに神様のような存在になりました。 中将:厳しい人だったとは聞きますが、沢田さんを悪く言う人はあまりいません。 森本:プロデューサーの加瀬邦彦さん、バンマスの井上堯之さん、作家さんたちもみんなジュリーのことが大好きでした。表現者としての欲求もあっただろうけど、損得を超えた不思議な魅力があるんですね。人柄の良さでしょうか。安井かずみさんの「危険なふたり」(1973年)なんて個人的な願望が含まれてたかもしれません(笑)。 中将:森本さんがマネジメントを担当したのは82年のシングル「麗人」のころまで。約10年間を振り返って印象的だったことは。 森本:いくつもありますが、「危険なふたり」のころ、加瀬さんが早川タケジさんを連れてきてからの変化はすごかったですね。スタイリストの範疇(はんちゅう)を超えて、アートディレクターとしてジュリーのビジュアル観を提案してくれました。それを受けて、それまでメイクが好きじゃなかったジュリーも美の表現者として目覚めたんですね。 「勝手にしやがれ」(77年)でレコード大賞を獲ったのもすごくいい思い出です。そしてその後、「もう一度ジュリーにレコ大を」とみんなで奮闘したのが「TOKIO」(80年)。年が明けてすぐ生放送で披露して元旦にリリースするというプロモーションも素晴らしいし、衣装や楽曲もいい具合に時代の先を行ってたんじゃないでしょうか。あんな大掛かりなセットでテレビ局は大変だっただろうけど、現場のスタッフたちはみんな面白がってくれました。  当時はテレビが面白いことを追求していた熱い時代。演出ひとつにしてもいろんなキャッチボールがあって、たとえば「サムライ」(78年)の時にスタジオで50枚の畳を敷いた上で歌う有名なシーンは「夜のヒットスタジオ」(フジテレビ)でディレクター、プロデューサーだった疋田拓さんのアイデアでした。実はジュリーは初め「西洋的な『サムライ』の歌なのになんで畳なんか……」と嫌がってたんですが、「嫌だったら外すからとにかく一度見てくれ」と。演出の方たちがジュリーと勝負してくれたいい時期でした。誰もやったことがない表現をみんなで実現していったあの快感は忘れられませんね。 中将:森本さんが担当した期間は沢田さんがまさに絶頂に駆け上がる時期ですが、トラブルもありました。 森本:うん、やっぱり暴力事件で謹慎した時はつらかったですね。2回あったけど僕が居合わせたのは76年5月の「いもジュリー事件」。僕が新幹線で荷物を下ろしてる隙に「ジュリーがケンカしてる」ってなって、あわてて駆け寄ったら男が「こいつが殴りやがった」なんてわめいてる。聞けば、通りすがりに「いもジュリー」と言われついカチンときちゃったということで。もちろん手を上げちゃいけないんだろうけど、正義感の強い人だから理屈に合わないことをされたら黙っていられないんですね。1回目は僕はいなかったけど、あれも駅の職員がファンを「チャラチャラしやがって」となじったのをとがめたんでしょう。  いろいろありましたが、若い時にジュリーの仕事をさせてもらったおかげで、マネジメントの仕事は目をつぶっていてもできるくらい自信を持つことができました(笑)。 中将:沢田さんは85年に渡辺プロから独立しますが、特に2000年代以降の変化は大きいですね。 森本:反戦や反原発を歌うようになるとは思ってもみませんでしたね。渡辺プロのころはそういう主張は絶対NGだったんだけど、坂本龍一さんがそうだったように、ミュージシャンがメッセージを発信するのは当然のこと。自由になってそういうことに挑んでみたくなったんじゃないですかね。 中将:近年の沢田さんをどう思われますか? 森本:去年の映画「土を喰らう十二ヵ月」は今の素のジュリーの魅力が出ていていいなと思いました。さいたまのライブも素晴らしいと思いますし、若者からも注目されてると聞いてなるほどなと。力を抜かない全力のライブパフォーマンスや、頑なゆえににじみ出る人間的な魅力がそうさせるんじゃないでしょうか。でも僕からしたらそういった根本の魅力は昔と変わっていません。まだまだずっと活躍できる方だと思っていますし、そうであってほしいですね。この間も文春さんの取材に答えた後、「知りもしないことをベラベラしゃべるんじゃねえよ!」と笑いながら叱られたので、また叱られなきゃいいけど(笑)。 ◇  誰よりも身近で苦楽を共にした者だからこそわかる沢田の今。年を経ても“不変”のスターが織りなす極上の表現をこれからも長く楽しみたい。 (一部敬称略)(中将タカノリ)※週刊朝日  2023年6月9日号

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    熟年離婚を回避するならコレ 最初は恥ずかしくても必ず慣れる“秘訣”とは

     離婚した夫婦の同居期間が「20年以上」の割合は約70年間上昇傾向にあり、2020年では21.5%となっている。熟年離婚せず寄り添って暮らしていくためには。AERA 2023年6月5日号から。 *  *  *  女性の悩みに特化したライフスキル講座LSYを開発し、講座を運営する駒村利永子さんは7年前、40代で再婚。5歳上の夫は再々婚だ。夫婦の老活について尋ねると、すぐ返ってきたのが「パートナーは一番近い赤の他人」。 「長年一緒に暮らしていても、エスパーではないのですから『私の気持ち、察してよ』じゃ駄目。私たちは双方とも離婚経験があり、同じしくじりをしないため、自分が何をうれしく楽しいと感じているか、言葉で伝えることを肝に銘じています」  結婚したばかりの頃こんなことがあった。スノーボードを好きな夫が、「(お金もかかるし)婚約指輪はなくていいよ」と気遣った駒村さんに、スノーボードの道具一式をプレゼント。雪山へ行くことになった。 「好きでもないのに40代で初めてスノーボードをすることがどれだけ酷か。でも夫にとっては、『喜ばせようと思ってしているのに、なんで俺の気持ちが分からないんだ』。帰りの車で大喧嘩になりました」  以来、「ありがとう。でも、私はこうしてくれるともっとうれしい」と、感謝しつつ、しかし自分の気持ちを具体的に伝えるようにしている。大切な内容であればあるほど、ソファに隣同士に座り、相手の体に手を添えながら。 「夫婦の老活で重要なのは、他力と可愛げ。こう言うと特に昭和生まれの女性は『ぶりっこ』『猫撫で声』などとマイナス方向に捉えがちですが、そうではないのです。加齢とともに体力も気力も落ちていきます。笑顔で人に頼り、やってもらうことを増やし、身軽になっていかないと」 ■相手を褒めた方がいい  記者の友人は、夫が家事をするたび「白米の水加減、絶妙!」「磨いてくれたグラス、ピカピカ!」「ちょうど冷奴気分!」と感嘆の声を上げていたところ、夫がめきめき家事の腕を上げた。今では夫が家事のほぼすべてを担当。仕事から帰ると夫手製の料理が食卓に何品も並んでいる。友人曰く、「私がやるのは、私が飲むビールのプルタブを開けるだけ。超幸せ」。 「鏡学」という独自メソッドでカウンセリングを行う鎌田聖菜さんが言う。 「ハッピーになりたければ、自分が笑顔で接する。ご機嫌な毎日を過ごしていると、相手もご機嫌になり、家庭が居心地の良いものになっていきます」  前述の記者の友人の話ではないが、鎌田さんは「褒める」ことの必要性を強調する。 「『バカ旦那/嫁が』なんて周囲に言っていませんか。照れた上ではあっても言葉のエネルギーは大きい。『髪形似合うね』『料理おいしいね』とお互い褒める習慣を作ってください。最初は恥ずかしい。でも、3~4回やったら慣れます。誰だって、褒められたら気分がいい。褒めることは、相手に関心を持つことにもなります」  鎌田さんは、こうも言う。 「熟年離婚に至っても構わないなら、無理に何かしなくていい。でも2人でこの先もハッピーに過ごしていきたいなら、行動を起こすべきです」 (ライター・羽根田真智) ※AERA 2023年6月5日号より抜粋

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    不運な“出場停止処分”も メジャー契約結ぶも「MLB出場ゼロ」に終わった4人の日本人選手

     今年も千賀滉大(メッツ)、藤浪晋太郎(アスレチックス)、吉田正尚(レッドソックス)がメジャーデビューをはたした。その一方で、過去にはメジャー契約を交わしながら、1試合も出番なく終わった男たちもいる(文中の金額はいずれも推定)。  2年がかりで夢を叶えながら、メジャーの公式戦出場ゼロで終わったのが、中島裕之(現宏之)だ。  西武時代の2011年、遊撃手としてパ・リーグ初のシーズン100打点を達成した中島は、オフにポスティング移籍を目指したが、独占交渉権を得たヤンキースと条件面で折り合わず、西武に残留した。  翌12年オフ、中島は海外FA権を行使し、正遊撃手の補強を急務とするアスレチックスと総額5億5000万円プラス出来高で2年契約する。 「まだプレーしていないので、感じてみないとわからないが、やる自信だけはある」と活躍を誓った中島だが、開幕直前のオープン戦で一塁強襲安打を放って出塁した際に左太ももを痛め、故障者リスト入り。開幕後は3A・サクラメントに所属し、10試合連続安打を記録も、8月に40人枠から外れ、マイナーのまま1年目を終えた。  翌14年も4月に40人枠から外れ、3Aでも打率.128、0本塁打と振るわず、2A降格。10月にFAになった。  不振の原因は、天然芝の球場が大半の米国で、打球の速さの違いに戸惑い、守備のリズムを崩したことが、打撃にも悪い影響を与えたからといわれる。  また、アスレチックスは、日本のメーカーからの広告料やテレビの放映権料など年間10億円前後の収入を見込み、中島が十分期待に応えられなくてもメジャーの試合で使いたい意向だったが、「使い物にならず、目をつぶることができなくなった」という話も報じられた。  米国での成功例が少ない日本人内野手だが、中島も壁を打ち破ることができなかった。  開幕直前の不運な故障でメジャーのマウンドに立つ夢が消えたのが、森慎二だ。  西武のリリーフエースとして活躍した森は4年越しの直訴が認められ、ポスティングでデビルレイズと総額1億6200万円で2年契約を交わした。  だが、キャンプ中に起きた右肩の違和感が、運命を大きく変える。  段階的な投球練習とリハビリを経て、3月20日のオープン戦で初登板した森だったが、初回、先頭打者に3球目を投じた際に右肩を脱臼し、激痛でマウンドにうずくまった。検査の結果、関節唇損傷で全治1年と診断された。 「こうなったからには、焦っても仕方がない。今後のことはこれから考えたい」と2年目の復活に賭けたが、調子はなかなか上がらず、翌07年1月に契約解除。新たに結び直したマイナー契約も同年6月に解除された。  その後も森は、1年半リハビリを続けながら、メジャー再挑戦を目指したが、ついに夢は叶わなかった。  それでも、あきらめることなく努力を続け、BCリーグ・石川の選手兼コーチ時代に球速を138キロ程度まで回復させている。  森と同じ06年にメジャーに挑戦し、禁止薬物でクローズアップされたのが、入来祐作だ。  巨人時代の98年の日米野球でサミー・ソーサから2打席連続三振を奪い、メジャー志向を強めた入来は03年オフ、日本ハム移籍に際し、2年後のメジャー挑戦の容認を要望した。  そして、05年に6勝7敗、チームトップの防御率3.35を記録すると、ポスティングが不発に終わったあともオファーを待ちつづけ、翌06年1月中旬、メッツと年俸8600万円で契約した。  だが、キャンプのブルペンで、当落線上の投手でもハイレベルの球を投げるのを見た入来は、実力の差を痛感させられる。  キャンプ、オープン戦で結果を残せず、3A・ノーフォークで開幕を迎えた入来に、追い打ちをかけるように、4月28日、MLB禁止薬物規則違反が明らかになり、50試合の出場停止処分を受けた。日本で愛用していたサプリを禁止薬物と知らず使いつづけていたことが、アダとなったのだ。  6月下旬に処分は解けたものの、3Aで4勝8敗、防御率4.70に終わり、1年で自由契約となった。  翌07年はブルージェイズのテストを受け、ハイAからスタート。その後、2Aを経て、6月に3A昇格も、右腕の肉離れで再び2Aへ。8月下旬に解雇された。  米国で逆境に耐え抜いた2年間を、入来は「野球選手としては暗中模索の日々ながら、人生経験としては非常に刺激的で、充実した毎日でした」(自著「用具係 入来祐作~僕には野球しかない~」講談社)と前向きに振り返っている。  NPBを戦力外になったあとにテスト生としてメジャーに挑戦したのが、水尾嘉孝だ。  ドラフト1位で大洋に入団した水尾は3年間未勝利に終わるが、オリックス移籍後、97年に68試合に登板するなど、リリーフ左腕として活躍した。  そして、西武時代の03年オフに戦力外通告を受け、他球団のテストも35歳という年齢から不合格になると、「自分を偽ることなく、最後まで野球をやり切りたい」と決意して渡米。04年3月、エンゼルスのテストに合格し、年俸3600万円でメジャー契約を交わした。  だが、傘下の3A・ソルトレイクでは高山病に悩まされ、首や腰の故障も相次ぐなど、満足に投げることができなくなり、メジャーでの登板を実現できないまま、06年2月に引退した。(文・久保田龍雄) ●プロフィール久保田龍雄/1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。最新刊は電子書籍「プロ野球B級ニュース事件簿2021」(野球文明叢書)。

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    「最高の教師」主演の松岡茉優 SNSでの“地味”の声を乗り越えて代表作となるか

     7月からスタートするドラマ「最高の教師 1年後、私は生徒に■された」(日本テレビ系)で、主演を務める女優の松岡茉優(28)。松岡が演じるのは、卒業式の日に生徒の誰かに突き落とされる高校教師。始業式の日に遡り、生徒30人と向き合って真相を突き止めていく学園サスペンスで、松岡は教師役に初挑戦する。  本作は2019年に放送され人気を博した菅田将暉主演ドラマ「3年A組-今から皆さんは、人質です-」(同)を手掛けたプロデューサーと監督が参加。さらに、7年ぶりの民放連続ドラマとなる芦田愛菜が生徒役で出演することもあり、注目が集まっている。ただ、SNS上では「松岡茉優だとなんか地味」「主役のオーラを感じない」など厳しい声も見受けられる。松岡の地上波連続ドラマ主演は20年放送の「おカネの切れ目が恋のはじまり」(TBS系)以来となるが、注目のドラマで主演俳優としての存在感を発揮できるか。 「もともと、演技力に定評のある松岡さんですが、最近の出演作でも好演しています。昨年放送されたドラマ『初恋の悪魔』では二重人格者役で、表情やセリフのトーンで異なる性格を演じ分けるだけでなく、一瞬にして人格が変わったこともわかる高い演技力に称賛の声が集まりました。また、4月までWOWOWで放送された主演ドラマ『フェンス』では、沖縄を舞台に性的暴行事件の真相を追う雑誌ライターという骨太な役を熱演。今回の主演ドラマも重たそうな役柄ですが、難しい役を演じてきた松岡さんにはぴったりハマるでしょう」(テレビ情報誌の編集者)  松岡といえば、17年公開の映画「勝手にふるえてろ」で日本アカデミー賞優秀主演女優賞、18年公開の映画「万引き家族」で同賞の優秀助演女優賞を獲得するなど、その演技力の高さは誰もが認めるところだろう。  役者としてのプロ意識も高い。「Real Sound」(22年9月19日配信)のインタビューでは、「役作りをするうえで意識していること」について、その人物の気持ちやメッセージは原作や脚本の中にあると思っていると発言。演者である自分は、いかにその気持ちやメッセージを取りこぼさずに演じられるか、その役割を務め上げられるか、だと思っていると明かした。俳優として「コマ」に徹しようとする一面も、視聴者が信頼できるところなのだろう。  また、「タウンワークマガジン」(22年3月4日配信)のインタビューでは、「作品にはたくさんのお金や人が関わっていて、見てくださる方がいることで対価が発生し食べていける」と周囲への感謝の気持ちを述べている。そのうえで、「受け手の皆さんにより楽しみにしていただける作品に携わりたいと思いますし、そのピースの一つになれたら」と思いながら仕事をしているという。 「今回は、若い生徒役との共演も楽しみです。というのも、以前に『同年代よりも新しく出てくる女優さんのほうが気になるかも』とインタビューで話していたことがあります。若い人はかつて自分が持っていた気持ちや考えを持っており、そこがたくましいと感じると同時に、自身も身が引き締まるんだとか。また、『あんな人になりたいと思ってもらえるように頑張っていかないと』とも話しています。若い俳優たちと切磋琢磨(せっさたくま)することで、より良い作品になり、生徒役から次世代のスター候補が現れれば松岡さんの代表作になる可能性もあります」(前出の編集者) ■「華があるタイプではない」  さらに「ビジュアル的にもさまざまなキャラクターになれるところが松岡さんの魅力」と言うのは民放ドラマ制作スタッフだ。 「自身の顔立ちについて『華があるタイプではない』と、過去に映画賞の授賞式で話していたのは印象的でした。一方、役柄によって化粧や髪形を変化させるだけで、雰囲気を変えられるというメリットがあり、自身の顔は気に入っているそうです。そんな松岡さんだからこそ、幼く見えない説得力ある教師役を演じることができそうです。子役時代は『オーディションに200回落ちた』と告白していたこともあり、実は努力家で叩き上げという一面もあります。今回のドラマも、きっちり仕上げてくるでしょう」  芸能評論家の三杉武氏は松岡についてこう述べる。 「松岡さんは映画やドラマ、舞台とジャンルを問わず、自身が存在感を放つだけでなく、共演者を引き立てる繊細さやバランス感覚に優れています。もともとは子役出身で中学生のときに『おはガール』として活動していたこともあり、実は芸歴も長い。13年放送のNHK朝ドラ『あまちゃん』では作中に登場するアイドルグループのメンバーとして出演していましたが、自身もモーニング娘。の大ファンとして知られています。以前、自身の主演ドラマとのコラボでハロプロのフェスにサプライズ出演した際には、モーニング娘。メンバーとともにセンターポジションで見事な歌とダンスを披露しました。さまざまな才能を武器に、年齢を重ねてからも息の長い活躍が期待できるでしょう」  松岡が「教師」としてどんな顔を見せてくれるのか、今から楽しみだ。 (丸山ひろし)

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    【30年比較】東大、京大、早慶、MARCH…難関21大学「合格者数ランキング」【1993-2023】

    東京大 / 京都大 / 大阪大 / 北海道大 / 東北大 / 名古屋大 / 九州大早稲田大 / 慶應義塾大 / 上智大 / 東京理科大 / 明治大 / 青山学院大 / 立教大 / 中央大 / 法政大 / 学習院大 / 関西大 / 関西学院大 / 同志社大 / 立命館大進学調査を行う「大学通信」の調査のもと、大学別に2023年と1993年の合格者数の上位校を掲載した。「合格者数」はのべ合格者数で、1人の学生が複数の大学に合格しているケースも含まれる。また、既卒生の合格者も含まれる。高校への調査では、未回答の学校は掲載していない。大学公表値では、推薦など一部の入試方式の合格者が含まれていない場合がある。1993年の早稲田大と2023年の国立大は合格実績のある高校に調査した人数。93年の北海道大と私立大は大学が公表した人数(早稲田大を除く)。93年のその他の国立大はサンデー毎日と大学通信の共同調査。早稲田大は23年が一般入試の合格者のみのため、93年のランキングからは附属・系属校の内部合格者を除いた。高校名は現在の名称。私=私立、公=公立、国=国立(協力/大学通信)【関連記事】東大、京大、早慶…30年で激変! 「難関21大学」合格者数ランキング 渋幕、西大和「急成長」のナゼMARCH合格者数の上位校「大宮開成」「山手学院」 30年間で「伸びた学校」に変えた改革の“中身”

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    市川猿之助にずっと気を使っていた「香川照之」との関係性 行きつけの居酒屋で見せていた“本当の仲”

     警視庁は24日、歌舞伎俳優の市川猿之助(47)を都内の施設に呼び、事情聴取を行った。両親が向精神薬中毒の疑いで死亡した経緯について詳しく話を聞いたとみられる。悲惨な「一家心中騒動」にはいまだ多くの謎が残るが、改めて猿之助の交友関係を取材すると、意外な人間模様が浮かび上がってきた。特に従兄弟で同じ歌舞伎役者でもある「香川照之」との微妙な関係が見え隠れする。 *  *  *  猿之助は都内のある居酒屋を行きつけの店にしていた。そこでは、彼の華麗な人脈がみてとれる。猿之助の知人が言う。 「その店は、もともと20年くらい前からリリー・フランキーさんが1人で飲んでいて、彼が“隠れ家”にしている飲み屋だったんです。そのうち、リリーさんが福山雅治さん、大泉洋さんらを呼んで、みんなでワイワイと飲むようになった。猿之助さんは福山さんが連れてきたと記憶しています」  猿之助は日本酒をキープしていて、それをおちょこで飲んでいたという。 「猿之助さんは学生時代からの福山雅治さんのファンで、福山さんがDJを務めるラジオ番組を聞いて、何通も手紙を書き送っていたそうです。その後、テレビドラマでも共演するようになり、公私ともに仲良くなったようですね」(同)  猿之助が俳優の香川照之(57)を居酒屋に呼ぶことも、しばしばだった。 「猿之助さんが先に店にいて、香川さんに電話をかけ、『今日はみんないるけどどう?』と言って、香川さんが遅れてやって来るのを見かけましたね。猿之助さんは一人でしゃべりまくって、いつも座の盛り上げ役。香川さんとも仲良く飲んでいましたよ」  同じ澤瀉屋(おもだかや)で市川中車を襲名した香川と、その従兄弟にあたる四代目猿之助は、私生活でも関係が深かったようだ。だが、一門でのパワーバランスや歌舞伎役者としてのプライドなども絡み複雑な関係だったとも言われ、「女性セブン」(23年6月8日号)は2人の間に長年の確執があったと報じている。  歌舞伎に詳しい著述家の米原範彦氏は2人の関係をこう語る。 「香川はずっと歌舞伎界を離れていたので、歌舞伎の世界に戻っても四代目の猿之助を立てるような立場になっていました」  それを象徴する出来事があった。  俳優としての香川は2013年に始まったドラマ「半沢直樹」シリーズ(TBS系)で、堺雅人演じる主人公の宿敵を怪演して大ブレークした。ある新聞社が正月特集で「半沢直樹」でブレークした香川を大きく扱おうとしたところ、突如、キャンセルになったという。 「澤瀉屋のリーダーの猿之助をさしおいて、新聞の正月版に大々的に載ることはできないと判断されたようです。香川は何かと、猿之助に気を使わざるを得ない存在なんだと感じました」(メディア関係者)  香川は、三代目猿之助(現・二代目猿翁)と浜木綿子の息子。本来なら香川が四代目猿之助を名乗っても不思議のない家柄ではあったが、香川が3歳の時、両親が離婚。三代目猿之助は00年に舞踊家の藤間紫と再婚したことで、香川とは長い間、断絶関係が続いた。 「三代目猿之助は浜と香川のことは“過去のこと”として完全に切り捨てた。三代目猿之助は香川に対し、『あなたは息子ではありません。私はあなたの父でもない。今後、2度と会うことはありません』と言ったという有名なエピソードもありました。だが、それでも香川はどうしても歌舞伎の世界に戻りたかった。その結果、香川は夫婦間の軋轢が生じて離婚までしたのですが、そのとき、歌舞伎界に戻れるように熱心にサポートしたのが四代目猿之助だったのです」(米原氏)  昨年夏、香川は銀座のクラブホステスの髪を引っ張るなどのスキャンダルを「デイリー新潮」に報じられ、テレビドラマやCMを次々に降板することとなった。その後、香川は市川中車として歌舞伎から人生の再出発を図ったが、その際にサポートしたのも猿之助だったという。  結局、昨年12月に香川は十三代目市川團十郎白猿襲名披露の舞台に「市川中車」として出演したことで、俳優復帰を果たした。 「市川團十郎の弟子筋が市川猿之助になります。それゆえ、團十郎に引っ張り上げてもらうにしても、猿之助を飛び越えることはできない。香川はいつも猿之助に気を使う立場だったのです。そんな状態のなかで、猿之助が事件を起こし、その代役として香川の長男の團子(だんこ)に光が当たるというのは、おどろおどろしい因果を感じます」(米原氏)  事件が起きた18日は、明治座で「市川猿之助奮闘歌舞伎公演」の真っただ中だった。猿之助は休演し、18日の昼の部はさすがに休演となったが、夜の部は二代目中村錦之助の長男・中村隼人(29)が務めた。翌19日には代役として、昼の部は香川の長男・市川團子(19)が務めた。  團子はわずか1日の稽古で本番に臨んだようだが、堂々たる芝居を披露し、スタンディングオベーションも巻き起こったという。 「團子は判官びいきの日本人の琴線に触れたのかもしれません」(演芸評論家の山本健一氏)  團子、隼人という若手のホープが澤瀉屋のピンチを救った形となった。米原氏はこう語る。 「歌舞伎という芸能にはしたたかさがある。猿之助がいなくても、必ずその代役が現れる。團子はまだそれほど稽古を積んでないと思いますが、驚くべき吸収力です。隼人も脚光を浴びて、きれいな顔をしていることも世に知られました。猿之助も好きだったけど、隼人も團子もいいよねというファンも増えたはずです。歌舞伎ファンではなかった人にも存在が知れ渡り、新しいファン層を広げる結果になったと思います」  歌舞伎界に詳しい早稲田大学の児玉竜一教授は、團子と隼人をこう評価する。 「團子と隼人の2人は見事に代役を演じました。隼人は間違いなく、猿之助が場所と役を与えて、育てた一人と言えるでしょう。猿之助が若手を育てたことが実を結んだことは、悲しい出来事が続いたなかで、ひとつの希望になったとは思います。今月の明治座のピンチを乗り切ったとしても、ずっと安泰ではありません。ここから先は、若手の人たちの自覚と精進次第だと思います」  はたして、澤瀉屋の未来やいかに。 (AERA dot.編集部・上田耕司)

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    岸部一徳が語るザ・タイガース「『火のような後悔』があったのだろう」

     通常、取材はほぼ受けない俳優・岸部一徳さんのインタビューが、本誌休刊のタイミングで実現。3回連載の第1回の今回は、ザ・タイガース前史からPYGまで、本誌編集長がお話を伺いました。 *  *  *  岸部の日課に最近加わったのが、ベースの練習だ。 「ここ10年、ほとんど触っていなかったからねえ。2曲続けて弾いたりすると指が疲れてくるんで……。6月までには間に合わせないとね」  2018年10月。興行主との集客に関する契約トラブルで中止となった沢田研二のライブから5年。6月に改めて、さいたまスーパーアリーナで開催される沢田の“バースデーライブ”に岸部はゲスト出演する。 「去年会った時に沢田から話があってね。あの時ドタキャンだと騒動になったでしょう? だから『いろんなこと言われたんで、きちっとリベンジしたい』と。それで『ああ、いいよ』って」  岸部と同じくザ・タイガースの元メンバー、森本太郎と瞳みのるもステージに立つ。13年のザ・タイガース復活ツアーには参加した加橋かつみは、今回出演しないという。  ザ・タイガース。1960年代のグループサウンズ(GS)ブームを象徴する伝説のバンドは、今年デビューから57年目を迎えた。  岸部とメンバーとの出会いは中学校時代にまで遡る。森本と瞳とは京都市立北野中学の同級生、それぞれ別の高校に進学したのち、瞳が連れてきて知り合ったのが加橋だ。 「森本とは一番古いし、まあ楽だよね。瞳も中学からいつも一緒だった。大っきいのと小っちゃいのの二人で」  牛乳配達のバイトを瞳に紹介してもらったこともあった。  沢田は岸部、森本、瞳の2学年下になる。 「あのころの一つ二つって大きいよね。沢田は本当におとなしくて。年下の遠慮もあったのかな。いまは全然ないけどね(笑)。沢田と一緒にやりだしたのが、運が良かったと思う。彼がいなかったら僕らは京都止まりだったんじゃないかな」  ザ・タイガースの原形は岸部と森本、瞳、加橋の4人が65年6月に結成したサリーとプレイボーイズだ(岸部の愛称サリーはリトル・リチャードの「ロング・トール・サリー」が由来)。加橋と森本はすでにギターが弾けて、瞳もドラムをたたいたので、岸部はベース担当に。初めて抱いたのは京都の楽器屋で手に入れた4万円の中古だ。練習は西陣の、日本舞踊の小さな舞台の設(しつら)えがあった森本の家が多かった。 「貸しスタジオなんて昔はないから。近所から苦情がくるので、アンプも通さないで、小さな音でね」  ほどなくバンド名をファニーズと変え、翌年、京都市内のゴーゴー喫茶「田園」で先輩バンドの坊やをしながら時折ステージで歌っていた沢田と出会う。 「僕ら4人は誰も歌えないと思ってたんでね。沢田に入ってもらって、ボーカルのいるバンドにしようとしたんだ」 ■5人のバランス 絶妙だった  海の向こうでは、62年にデビューしたザ・ビートルズが瞬く間に世界を席巻していたころだ。オーディションに合格し大阪・道頓堀のジャズ喫茶「ナンバ一番」に出演するようになるとファニーズはファンが増えていった。だが、当時17歳の沢田に後の“ジュリー”の片鱗はまだ見えなかったという。 「僕たちはファッションもアイビーとかコンチとか、全体的に『カッコいい』っていうスタイルを身に着けていたけど、地味~でもっさりしてるのが沢田だったからね(笑)」  だが、「いるかいないか、わからないような内気な少年」は、マイクを握ると不思議な光を放った。当時ブルージーンズにいた内田裕也が前座のファニーズに目を留めたことがきっかけで、渡辺プロダクションからのデビューへ繋がった逸話はよく知られている。 「5人のバランスが絶妙だった」と後年、内田は振り返っている。  大阪時代のファニーズゆかりの地として往年のファンの間で有名なのが、メンバーが下宿していた西成区岸里(きしのさと)の「明月荘」だ。  ここで、ちょっとした新情報をひとつ。 「住んでいたのは1年ほどね。二人で3畳一間みたいなところを3部屋借りたんですよ」と岸部。  3部屋? ずっと「5人で2部屋」と伝わっていますけれど? 「3部屋。僕は瞳と相部屋で、沢田は森本と。で、加橋かつみは一人。それでもかつみは時々、母親のいる実家に帰っちゃったりする。やっぱり共同で二人部屋とか、かつみにはしんどかったのかもわからない」  東京行きが決まると、京都の四条花見小路にある旅館で、メンバーの親も同席して渡辺プロとの契約書にサインした。親側のまとめ役は職業軍人だった岸部の父親が買って出た。66年11月。5人の若者の姿は、開業間もない新幹線の車内にあった。  彼らの人生は東京で一変する。作曲家すぎやまこういちの一声でザ・タイガースと改名し、翌年1月に日劇ウエスタンカーニバルに初登場すると、新宿「ACB」、池袋「ドラム」、上野「テネシー」など都内のジャズ喫茶は連日満員に。2月に出したデビュー曲「僕のマリー」の売れ行きは最初こそ凪だったが、セカンドシングル「シーサイド・バウンド」で人気は爆発する。68年1月のウエスタンカーニバル出演時には、ブルー・コメッツ、ザ・スパイダースら並み居る人気バンドの中でも一頭地を抜く存在となっていた。 「ようやくどうにか一番になったという感じでしたね」。後に沢田は自叙伝『我が名は、ジュリー』で語っている。  上京してわずか1年。飛行機での移動では空港に専用の出入り口が用意され、車で走れば警察車両が先導し、発車時刻に遅刻しそうな時はマネジャーが新幹線さえ止めさせた。 「いきなり、19やハタチで何もかも特別扱いになった。ちょっとやっぱり、生意気になってたでしょうね」 ■GSブームと70年安保闘争  岸部は嵐のような日々を述懐する。住む場所も合宿生活を送った千歳烏山の一軒家から四谷左門町、目黒の池尻大橋と、自宅に押し掛けるファンから逃れるように引っ越しが続いた。ベルベットのジャケットにフリルのブラウス、バレエダンサーのような白いタイツ風の衣装も着た。 「恥ずかしくはなかったよ。ああいう時はああいうふうになるの。5人並んで真ん中にジュリーがいるから一応格好がつく。僕が一人でタイツはいてたら、おかしいでしょ(笑)」  GS全盛期は、そんな時代だった。「でもね」。岸部は言う。 「むつかしいのは、一方では安保闘争をやっている」  東大生の樺美智子が命を落とした60年の安保闘争。学生による反体制運動は続くベトナム反戦運動へとなだれ込み、GSブームの最高潮は、一連の大学紛争が激化した70年安保闘争の時期にぴたりと重なる。 「そんな時に、こっちは女の子相手に音楽やってるわけ。ファンに男なんて誰もいないから肩身が狭い。その肩身の狭さは、外国のほうを見てどうにかしようとするわけですよ。ビートルズとかローリング・ストーンズとか、あっちだってキャーキャー言われてる。『あんなすごいグループと僕らも同じなんだ』と思いながら、やってましたね」  68年6月、「木島則夫ハプニングショー」で、当時社会問題化していたGSと長髪男子の象徴のごとくザ・タイガースが批判にさらされたこともあった。  番組ではアウェー感が演出され、観覧者として参加していた教諭から、「GSファンは大脳が弱い」などという“口撃”も続く中、岸部は毅然と言っている。 「若者を全然理解しないようなのは本当の大人じゃないと僕は思う。だからこれから僕たちが何十年か先、大人になった時は、もっと綺麗な大人になりたいと思います」  日本全体が大きくうねり、転換していた時代だ。変化はメンバーにも生じていた。 「ちょっとずつ考え方に差が出てくるよね。音楽的な趣向が合わないとかじゃなくて、プロダクションの給料制に対してどうだとか、人気に見合うものをもらっているんだろうか、搾取されてどうするんだとかね。周りに『あんたたち、取られてるんだよ』っていう人も出たりする」  アイドル性を重視した渡辺プロのプロモーションも、「日本一のバンド」を目指して出発したメンバー間で少しずつ軋轢(あつれき)の種となっていた。  69年3月、レッスン中に姿を消したまま、加橋は戻らなかった。岸部の弟、シローの加入は話題にはなったものの、すでに瞳の心もグループから離れていた。 「ある日、ウエスタンカーニバルの時に、日劇の奈落にピー(瞳の愛称)に呼び出されてね。『こんな所にいないで、一緒に京都に帰ろう』って言うんだよ」  岸部にはそのころ、すでにザ・タイガースの解散をにらんで、沢田たちと新たなバンドを組む企画が進行中だった。 <なんで帰らないといけないの? 帰ってどうするの? まだやること、こっちでいっぱいあるんだよ> <一緒に帰らないんだったら、お前とはもう会わない> <いいよ> <一生絶交だ> 「子どもじゃないんだけどね。そんなやりとりがあったね」 ■武道館での解散「帰れコール」  71年1月24日、ザ・タイガースは日本武道館でのコンサートを最後に解散した。  公演の後、親や歴代のマネジャーも呼んで、有楽町のガード下にあるちゃんこ料理屋でお別れの食事会が開かれる。内田裕也の主催だった。  会が終わると瞳は、表に待たせていた家財一式を積んだ2トントラックに乗り込み、京都からコンサートを見にきてくれていた中学時代の親友2人と共に去っていった。振り返りもしなかった。 「よくそんな、ねえ。次の日だっていいじゃない(笑)。あの決意はすごいと思うけど」  ザ・タイガースというグループで青春を無駄にしてしまったという「火のような後悔」があったのだろうと、岸部は友の心中を思う。その後、瞳は37年間にわたってメンバーはおろか、芸能界との一切の交流を絶つ。  解散後、岸部は沢田とともに、ザ・テンプターズの萩原健一、大口広司、ザ・スパイダースの大野克夫、井上堯之とPYGの活動を本格始動し2月1日にデビュー。解散コンサートから1週間後のことだった。  PYGが目指したのは本格的なニュー・ロックだ。沢田と萩原のツインボーカル、天才と言われた大野、ミュージシャンに一目置かれる井上も加わり、「GSとは全く違う、もっと上のものを目指そう」と、今までに増して前向きだった。だが──。  出演したロックフェスでは「帰れコール」が飛び、トイレットペーパーや空き缶がステージに投げ込まれた。 「この人たち、ちょっとおかしいんじゃないと思ったぐらい、排除された。GSの残党が金儲けで集まったみたいに思われてるわけだから。出てる方はそんなことないのにね」  GSのファンからも、ロックファンからもそっぽを向かれ、コンサートの客席はガラガラ。メンバーの多忙も重なり、PYGは自然消滅していった──とされているが、実情は違ったらしい。  ある日、岸部のもとに電話がかかってくる。 「俺は、もうちょっと、沢田には勝てないなあ」  声の主はショーケンだった。(次号に続く/敬称略) (本誌・渡部薫)※週刊朝日  2023年5月26日号

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    50代の性行為「男性の8割がしたい」「女性の7割がしたくない」から考える 産婦人科医・宋美玄さん

     50代になると、体力や視力が落ちてくるのと同様に、セックスの方も衰えてくる。人生100年時代といわれる今、人生の折り返しの年齢にある50代は、セックスとどう向き合うべきなのか。産婦人科医の宋美玄さんが解説する。(河出新書『50歳からの性教育』から一部抜粋) *  *  *  50歳前後は、男女とも身体に変化が訪れる年齢です。女性は40代半ばぐらいから卵巣の機能が低下し始め、女性ホルモンの一種、エストロゲンの分泌量が減り、着実に閉経へと向かいます。この時期を更年期と言い、さまざまな不調に見舞われる人も少なくありません。男性も、テストステロンという男性ホルモンの分泌量が減ります。女性と比べると減り方はゆるやかですが、女性と同じような更年期症状が出る人もいます。  これは生殖機能の終わりを意味します。性ホルモンにはさまざまな働きがあり、女性も男性もそれによって身体が機能して健康が守られていますが、基本的には妊娠する、させるために分泌されているホルモンだからです。それがなくなることで、生殖器、性機能の変化を実感する人も少なくありません。とはいえ、下半身だけが特別なわけではないのです。20、30代のときと比べて体力がなくなった、視力が低下した、肌の弾力が失われシワが増えた、脂っこいものを食べた後の消化がいまひとつになった……これまで特に気にすることなくできていた、たくさんのことができなくなる。それと同様に、セックスもこれまでと同じようにはいかなくなります。  一般的に加齢はネガティブに捉えられがちでしたが、近年では誰にでも起きる自然な現象であるからポジティブに受け止めようという動きも見られます。人生100年時代と考えると、長い長い後半戦を暗い気持ちで過ごすのを避けたいと思っての変化でしょう。身近なところでは、白髪は以前は加齢の象徴のように思われ、染めたり隠したりされてきましたが、自然の状態こそが美しいというグレイヘアが定着したのも、その一例でしょう。セックスにおいても同様で、加齢は必ずしもネガティブな出来事ばかりではないと思います。これまでのようにはできないということは、思い込みを捨てる絶好のチャンスと、とらえることもできます。  50歳というのは、そのよい節目ではないでしょうか。衝動に突き動かされるようにしてセックスしていた人も、その頻度が低くなったり程度が弱まったりします。いくつになっても旺盛な性的欲求を感じる人はいますが、それでもだんだん目減りしていきます。そんななかでセックスをしたいと思うなら、いまのうちに「しなければならない」を手放し、考えをシフトしておいたほうがいいと思います。 ■男性器中心主義セックスからの卒業  まず最初に見直したいのが「いつまでも性的に元気でなければならない」という思い込みです。この“元気”は、性的欲求を感じ、セックスを完遂できるまでの性機能が維持されている、というイメージのことです。そして完遂とは男性の射精を意味することとして、ひとまず話を進めます。  先述したとおり、性欲は年とともに低下していきますが、これは性欲を司つかさどる、テストステロンの分泌量が低下するからだと考えられています。男性ホルモンの一種ですが、女性も少量のテストステロンが分泌されています。「セックスしたい」という欲求は、もともと男女差が大きく、年齢が上がるごとにその差はますます開いていきます。20~69歳の男女、約5000人を調査した結果、「セックスしたいか」という問いに対して、「良く思う」「たまに思う」と回答したのは、50代男性で81.2%、60代男性で72.4%だったのに対して、50代女性は30.7%、60代女性は18%という結果が得られました。この年代を見ると「したい男性と、したくない女性」という構図に見えますが、私が日ごろ、クリニックで女性からセックスの悩みを聞いている実感もこれと同じです。  セックスはしたいとあまり思わなくなったけど、肌と肌を重ねたいと思っている女性は一定数います。その妨げとなっているのが、男性の「性器は大きく」「挿入時間は長く」という思い込みです。これは男性だけが囚われているもので、女性からすれば、男性器があまりに大きいと挿入時に痛みが出やすく、挿入時間が長いと腟の潤いがなくなるため、これまた痛みにつながります。この男女のすれ違いについて、私は『女医が教える 本当に気持ちのいいセックス』を出版して以来もう数え切れないほど発信しているのですが、男性に届いているという手応えがありません。これは男性同士で、大きさや挿入時間の長さを賞賛する一方で、サイズが小さく、早く射精することを「劣っている」と見なす文化があるからだと思います。本来なら抱かなくてよいはずのコンプレックスを抱きつづける男性がいて、それによって苦痛が発生している女性がいる……この思い込みで幸せになっている人はいないように思います。  これだけ性器のサイズと、挿入時間が取り沙汰されるのは、セックスを男性器中心に考えていることの表れでもあります。挿入こそがセックスで、それは射精で締めくくられるというイメージは男性だけでなく、実は女性にも広く共有されているのではないかと思います。女性が「セックスは好きではない」「気持ちよくなったことがない」というとき、それはたいてい挿入行為のことを指しています。「前戯は好き」「挿れる前までは気持ちいい」という女性は少なくありません。 「いつまでも元気でいなければならない」という思い込みを、男性が早々に捨てたほうがいいのは、これは裏を返せば「元気でなければセックスできない」ということになるからです。先述したように更年期に差し掛かったということは、生殖機能の終わりを意味します。女性は平均50歳で閉経を迎えますが、男性ははっきりとしたピリオドが打たれるわけではありません。それでも思うように勃起しなくなり、挿入できても射精まで勃起を維持できなくなり……といった具合に、性機能が次第にフェイドアウトしていきます。その時期は個人差が大きく、50歳前後だとまだ実感できない人も多いかもしれませんが、いつかは勃たなくなる日がくるのです。「勃起・挿入・射精ができない」=「セックスできない」となり、自縄自縛の状態に陥ります。そのことを恥と感じ、知られたくないと思いパートナーに触れなくなる男性もいます。これを相手が「自分に魅力がなくなったからだ」「何か悪いことをしたのかもしれない」と受け取って、知らない間に距離が開いていく……これはとても寂しいことです。 ●宋美玄(そん・みひょん)1976年生まれ。産婦人科医。日本新生児周産期学会会員、日本性科学会会員、日本産婦人科学会専門医。『女医が教える 本当に気持ちのいいセックス』(ブックマン社)がシリーズ化するなどヒット作多数。書籍や雑誌、テレビ・ラジオに出演し、女性の性や妊娠について積極的に発信を続けている。ほかの著書に『少女はどこでセックスを学ぶのか』(徳間書店)、『生理だいじょうぶブック』(小学館)、『セックス難民~ピュアな人しかできない時代~』(小学館新書)、『産婦人科医宋美玄先生が娘に伝えたい 性の話』(小学館、カツヤマ ケイコとの共著)など多数。

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    雅子さま 園遊会で「帯留め」をひかえたのはなぜ?主催者としての「おもてなし」の心

     東京・赤坂御苑で、天皇、皇后が主催する春の園遊会が開かれた。コロナ禍などにより4年半ぶり、令和になって初めての開催となった。あいにくの雨空となったが、和装をお召しになった皇后をはじめとする女性皇族からは、雨にぬれながら出席した招待客に対するあたたかな「思い」がうかがえた。 *   *   * 「当時は一緒に何かされることはあったんですか」  皇后雅子さまは、招待客の中で隣り合っていた平昌、北京五輪の金メダリストであるスピードスケート選手の高木美帆さんと、東京五輪で金・銀・銅のメダルを獲得した卓球選手の伊藤美誠さんに、こう話題を振った。  高木さんと伊藤さんは、互いに顔を見合わせてにこやかにうなずき、思いを口にする。 「夏と冬で……」「本日がはじめましてなので」  伊藤さんは、両陛下に目線を合わせてうれしそうに答えた。 「夏と冬の競技がこうして会うこともないので、本当にありがたいです」  強い雨が降りしきる日だったが、その場は笑顔とあたたかな空気に包まれた。  平成の時代に侍従として仕え、駐チュニジア、駐ラトビア特命全権大使などを歴任した多賀敏行・中京大学客員教授は、園遊会での雰囲気の変化に目をみはった。 「主催者の両陛下も招待者も、笑顔でよくお話しされるな、というのが第一印象です。昭和はもちろん平成の園遊会でも、招待者はもうすこし静かな雰囲気でした。その距離感が皇室への敬意を保持していた部分はあります。一方で、令和の両陛下の独特の和やかさが令和流の礎となっていくのでしょう」 ■装いから見える「お気持ち」  園遊会は、天皇と皇后の主催で執り行われる。女性皇族は、外交団への接遇の意味を込めて、和服と洋服を交互でお召しになる。  順序には規則性があり、ある年の春の園遊会が「和装」で秋が「洋装」ならば、翌年の春は「洋装」で秋が「和装」といった具合だ。前回2018年の秋の園遊会が「和装」だったので、今回の園遊会は「和装」となった。  雅子さまは今回、内廷皇族の菊紋である十六葉八重表菊(じゅうろくようやえおもてぎく)の三つ紋の訪問着をお召しだった。  昭和の時代から皇室に着物をつくり、納めてきた「染の聚楽」代表の高橋泰三さんは、雅子さまの思いを見て取る。 「お客さまを招く側は、控えめな装いが基本です。淡い水浅葱色の和服を選ばれたのは、主催者側としての心構えにかなっていらっしゃいます。  流水文様は、夏草や秋草と組み合わせて風景を構築する意匠。染めで仕上げた花は、初夏の草花である花菖蒲でしょうか。もう少し遅いとお召しになれませんので、ちょうどよい柄をお召しですね。菊とともに一部を金駒繍で仕上げられ、流水文様と品よく調和しています」  なかでも泰三さんが注目したのは、雅子さまの帯だ。皇太子妃時代から、和服に帯留めを合わせることはほとんどなかったという。 「本来は、帯留めや宝石は正式な場ではつけず、観劇や食事会などおしゃれとして和服を着る場合に楽しむものでした。主催者である皇后雅子さまが、帯留めもアクセサリーもつけていらっしゃらないのは、さすがでいらっしゃると感じました」  京都の着物には、薄く削りだした貝の真珠層を糸状に細く切って帯や着物に織り込む「螺鈿(らでん)織り」と呼ばれる技術がある。金の合金を1万分の1ミリの薄さまで薄く延ばす石川の金箔(きんぱく)や各地の染めや織り、刺繍など、着物は日本の伝統技術そのものだ。 「着物は、きらきらと輝く螺鈿織りや金箔、刺繍といった技巧が装飾そのものでしたから、石の宝石は必要なかったのです」(泰三さん)  平成の皇后であった美智子さまも、結婚から間もない時期を除いては、公務の場で和服に帯留めやアクセサリーをつけることはなかったという。 ■ファンが多い女性皇族も  一方で、女性皇族の装いのきらびやかさは、多くのファンを惹きつけている。  ひときわ目を引くのは、本振り袖をお召しの秋篠宮家の次女の佳子さまだ。  未婚の女性の第一礼装である本振り袖に三つ紋を入れた格式の高い着物姿。秋篠宮家の家紋は、十四弁の菊花と秋篠宮さまのお印である栂(つが)の枝葉を四つずつ円形に連ねた意匠である。洗いざらされて薄くなった柿色を表す洗柿(あらいがき)色の生地に、さや形の地紋が入った本振り袖だ。 「さや形は卍(まんじ)つなぎを菱状にくずした意匠で、地模様は日のさし加減や角度によって陰影を楽しむことができます。  優しい洗柿色に金彩を配した雲霞(くもかすみ)の文様。雲は雨を呼び豊作を招く吉祥柄。笹と菊、梅といった吉祥の草花を組み合わせたあでやかな柄行きです。  帯は、肩にかかったはねとふくらみのあるお太鼓が美しい、ふくら雀結びのようです。帯の裏地の緑に合わせた緑の総絞りの帯揚げと朱色の帯締めの配色が全体を締めています」(泰三さん)  園遊会の佳子さまは、雨が小降りになると小まめに傘をたたんでいた。すこし上半身をかがめて招待者と目線を合わせながら、笑顔を絶やすことがなかった。明るく快活、同時に相手への気配りを忘れない優しさが伝わる。  あでやかだが、どこかやさしい色と柄行き。佳子さまのイメージにふさわしい着物の装いだった。  実は、女性皇族の和装でファンが多いのは、常陸宮妃である華子さまだ。  この日は、草花と野鳥を描き出した訪問着に、裏雲取りの菱格子柄を配した帯の取り合わせ。「ひときわ目を引くのが、墨黒色と金の帯。こちらは本当によいお品です」と泰三さんは話す。  華子さまは、旧陸奥弘前藩主の津軽家の出身。若いころからごく自然に和装をお召しだ。2015年の園遊会では、羽ばたくカワセミを描いた訪問着が印象的だった。泰三さんの元にも「着慣れていらっしゃる。さすがは、華子さま」といった称賛の声が絶えないという。  次の園遊会では、女性皇族たちは「洋装」をお召しになる。また、あたたかな笑い声に包まれた場になりそうだ。 (AERA dot.編集部・永井貴子)

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    オリラジ中田「松本人志への提言」に感じたズレ 松本はタモリに近い存在になりつつあるのでは?

     オリエンタルラジオの中田敦彦が、自身のYouTubeチャンネルで松本人志に対して提言をする動画を公開したことが話題になっている。 「【松本人志氏への提言】審査員という権力」と題した動画の中で、中田はベテラン芸人の漫才コンテスト番組『THE SECOND~漫才トーナメント~』で、松本がアンバサダーとして出演していたことに言及していた。松本はこの大会に顔を出しているだけではなく、『M-1グランプリ』と『キングオブコント』でも審査員を務めている。松本ばかりが審査員をしているのは業界のためにならないのではないか、と中田は語っていた。  それ以外にも、松本がお笑い界で絶対的な権威となっているため、彼に対して批判的なことを口にできないような空気がある、という趣旨のことも述べていた。  この動画がお笑い界内外に大反響を巻き起こした。霜降り明星のせいやは、中田が動画の中で自分の相方である粗品の名前を出したことに怒りを覚えたようで「真っ直ぐ勝負してないウンコみたいなやつが相方の名前使うな 中田」とツイートした。  また、松本本人もツイッターで「テレビとかYouTubeとか関係なく2人だけで話せばいいじゃん 連絡待ってる!」と中田に対する呼びかけと思われるメッセージを発信した。  個人的には、今回の中田の主張自体にはそこまで目新しさを感じなかった。なぜなら、彼は以前から動画やインタビュー記事の中で何度もこういう話をしているからだ。実際に動画で話している内容も、そこまで過激なものではない。サムネイル画像と動画タイトルに「松本人志」という名前をはっきり出したことで、動画を見ていない人にもメッセージの趣旨が伝わりやすかったため、この件がことさらに話題になったのだろう。  さて、それでは、中田が言うように、お笑い界で松本は絶対的な権威となっているのか。そして、彼に対する批判を許さないような空気や、松本の感性に合わない笑いが排除されるような風潮はあるのか。この点について個人的な見解を述べたい。  松本が多くのお笑い賞レースで審査員を務めているのは事実である。また、『人志松本のすべらない話』『IPPONグランプリ』『ドキュメンタル』など、数々のお笑いコンテンツに携わり、そこで中心的なポジションに就いているというのも事実だろう。  しかし、彼がそこで絶対的な権威としてほかの芸人を抑圧するように振る舞っているかというと、必ずしもそうであるとは思わない。もちろん松本はお笑い界とテレビ界におけるトップスターであり、松本の番組に出る芸人の多くが、松本にネタを見てもらいたい、褒めてもらいたい、認めてもらいたい、などと思っているのは間違いない。  しかし、芸人たちが松本に気に入られようとして、過度に彼だけに対して媚びるようなことをやっているとは感じたことがない。また、松本が審査員として携わっている大会でも、彼が最終的な審査結果を完全にコントロールしているわけではない。  たとえば、松本が審査員を務めた回の『M-1』では、最終決戦で松本が投票した芸人がそのまま優勝したケースもあれば、そうではないケースもある。複数の審査員がそれぞれ審査をしているので、松本の意見と全体の結果が食い違うのは珍しいことではない。お笑い界全体が松本の顔色をうかがって、彼の意見に合わせるような風潮があるのならば、こういう結果にはならないだろう。  また、先日行われた『THE SECOND』では、松本はアンバサダーとして決勝の現場にいた。審査は観客が行い、松本は直接かかわらない。  ここでは、松本の言動が審査結果に影響を与えることがないように、番組スタッフも松本本人も相当気を使っているのがうかがえた。松本の意見ですべてをコントロールしようとする意図が番組側や本人にあったのなら、決してこういう演出や審査方法にはなっていないだろう、という感じだった。  つまり、『THE SECOND』という大会を見て、その場に松本がいたということを根拠にして「松本絶対権力説」を語るのはそもそも無理筋だったのではないか。  それでは、これらの大会に関してはさておき、松本はお笑い界では絶対的な権威となっているのか。この点についても、そういう側面が全くないとは言えないが、そう言い切れるほどはっきりした何かがあるわけではない、というのが個人的な意見である。  松本が絶対的な権威になっていて、彼が認める笑いだけが正しい笑いであり、それ以外のものが排除されているのだとすれば、たしかに問題ではあるかもしれない。しかし、実態はどうかというと、あまりそういうふうになっているとは思えない。  すでにお笑い文化は多様化していて、多様なお笑いが認められている。そして、お笑い界のレジェンドの中で比較すると、松本はむしろ多様なお笑いに対して寛容な立場であるとも思う。  中田自身も、自分は松本には認められないようなジャンルで戦ってきた、という趣旨のことを語っていたが、過去には「武勇伝」「Perfect Human」「中田敦彦のYouTube大学」と、多くの人に支持されるヒット作を出し続けていて、それなりに評価も得ている。客観的に見て、そんな彼がお笑い界で不遇な立場に置かれているとは思えない。  さらに言うと、松本を絶対的な権力を振るう独裁者のようなイメージで語るのも、ミスリードではないかという気がする。松本はどちらかと言うと、権力なんて持ちたくないと思っている側の人間だ。彼は自分が中心となる番組でもいつもどこかだるそうにしているし、最近は口を開けば「引退したい」という話ばかりしている。権力の座にしがみつきたい、影響力を誇示したい、といった欲望が感じられるような人間ではない。  では、実際に松本が権威ある立場に就いているように見えるのはなぜかというと、必要に応じて周りの人が祭り上げているからだ。松本は神輿として担がれているだけであり、本人がその方向に誘導している感じはしない。  もちろん、松本にも血気盛んな時代はあったし、そのときにはもっとギラギラしていて、挑発的、排他的な言動もあった。しかし、ここ10年の松本にはそういうものを感じることはあまりない。  むしろ、松本は、本人の意向にかかわらず、常に気を使われている。そして、気を使われることに人一倍気を使っている、という構図が見えてくる。  これを「松本人志のタモリ化」と言い換えてもいいだろう。タモリもまた一種の権威である。しかし、決してそれを誇示しない。みんながタモリを慕い、勝手についてくる。タモリが中心にいることで、ただ楽しいだけのお昼の帯番組『笑っていいとも!』は伝説的な人気番組になった。  今の松本は『いいとも!』の頃のタモリに近い存在になっている。もちろん松本自身が鋭いコメントを繰り出したりすることもあるが、そこにいるだけで場が引き締まったり、共演者や視聴者に安心感を与えたりするというのも大きい。良くも悪くもそれが今の松本である。 「多様化するお笑い」と「タモリ化する松本」を当たり前のように受け入れて満足している多くの人にとっては、中田の松本批判は正しいかどうか以前に、前提となる現状認識にズレがあるところが引っかかるのではないか。  すでにこの騒動自体が多くの芸人によってネタとして消費されつつあるところにも、この国に根付いたお笑い文化の強さを感じる。誰もが松本に逆らうことを恐れてこの問題に口をつぐむ、というようなことにはなっていない。  お笑いはただ面白ければいいし、その理想はすでに実現している。中田も松本もこの素晴らしきお笑い界の構成員として、引き続き私たちに多くの笑いを提供していってほしい。(お笑い評論家・ラリー遠田)

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    岸部一徳かく語りき 瞳みのるとの和解、そして自身の「終わり方」

     芸事が好きだった父、熊本への夜逃げ、弟・四郎の不遇──。自分について考え続ける日々のなかで到達した境地。それは俳優としての代表作「死の棘」での小栗康平監督の教えとも繋がっていく。寄る辺なさに留まり続けること、そして自分自身の「終わり方」。いま、岸部一徳さんが考えていること。本誌編集長が聞く独占インタビューの第3回。 *  *  *  岸部には兄弟が多い。「全部で10人くらいいるんです。僕は男では下から2番目」  1969年、加橋かつみ脱退後のザ・タイガースに加入した四郎は、すぐ下の弟だ。  生まれ育ったのは京都市、京都御所の西側。父親の徳之輔は戦前、職業軍人だった。47年生まれの岸部に父親の現役時代の記憶はない。 「親戚の人に聞いたら、軍服で馬に乗って部下も付いて、京都の真ん中をばーっと行って、ちょっと知り合いのところに寄ったり。背も高くて格好よかったようです」  謹厳で頑迷な父親像が浮かんでくるが、 「全然違いますね」  公職追放も影響したのだろう、戦後は定職に就かなかった。  賭け事が好きで借金も多く、一家は常に経済的に逼迫(ひっぱく)していた。小学1年の時、伯母を頼って熊本へ夜逃げしたことを覚えている。  質草になる布団は、2階から母や岸部たちが階下の兄たちに投げて宙を舞った。小学校は4回転校した。  だが、岸部の父親への視線は温かい。 「趣味が多くてね、あれもこれもちょっとずつ好き。よく言えば面白くて子どもには好かれる父親でした」  明治生まれにして英語も少しばかり操った。碁は小学生のころからプロ棋士を目指して鍛えたという腕前で麻雀も強い。松竹新喜劇に足繁く通い、歌舞伎や新派も大好き。興が乗ると子どもたちに台詞を諳(そら)んじてみせた。浄瑠璃にも明るい。読書家で家には菊池寛をはじめ初版本がたくさんあった。酒は飲まない。 「芸事が好きなんだよね。だから僕が東京行くって時はうれしかったんですね。先頭立って親のまとめ役をやってました。まあ、ひょっとしたら子どもが人気者になれば自分も何かこう、楽しくなるのかもと思ったのかも(笑)」  骨董や美術品の目利きでもあった。 「買えるわけじゃないけど、でも、そういうものが好きっていうのは、弟(四郎)に行ったんだろうね」  3学年下の弟・四郎。69年3月、加橋かつみの脱退を受けて急遽遊学先の米国西海岸から呼び戻され、一夜にして日本一の人気者の一員になった彼もまた、ザ・タイガースによって大きく人生を変えられた一人だ。  71年のグループ解散後、飄々(ひょうひょう)とした佇まいと軽妙な話術で人気タレントとなり、ワイドショーの司会も長く務めたが98年、5億円に上る借金で自己破産し番組を降板。以降は不遇の日々が続いた。  2003年、脳出血に倒れ、後遺症で視野狭窄に。07年に愛妻が急死した。12年には身を寄せていた千葉の姉の家で、夜中にトイレに行った際に転び大腿骨を骨折。リハビリ病院を経て移った県内のグループホームへ、岸部はよく見舞いに訪れたという。 「身の回りの世話は一回り上の姉たちがよくやってくれた。僕も月に何度か行ってたかな。お年寄りに交じって体操を一緒にやったりして」  四郎は典型的な末っ子で淋しがり屋だった。 「何かあっても『誰かが何とかしてくれるやろ』と思うタイプね。リハビリも、もうちょっとがんばってほしかったんだけど……。でも、暗くなりすぎないのは性格だよね。僕が行っても、話すよりおみやげを気にしたりして。わらび餅なんか小さく切ってやると『おいしい』なんて言ってね。ただ、最後のほうは、食べることもできなくなった。それからの衰弱が早かったですね」  20年8月28日、四郎は旅立った。享年71。 ■苦手なことがあってもいい  岸部が今回のインタビュー依頼を受けたのは、本誌の休刊という節目に「そろそろ自分のことを話してもいいかな」と思ったからだという。普段はテレビのバラエティー番組はおろかインタビュー番組にも出ない。取材はほぼ新作映画の公開時に、雑誌や新聞など活字メディアに絞っているのだという。 「トーク番組もバラエティーも見たりはします。ただ、俳優が演じるだけではなくてしゃべることや、自分自身を語ることが得意じゃないんですよね」と吐露する。 「苦手なものを克服してできるようになるのがいいという考え方もあるけど、そんなに広げなくても三つぐらい苦手があったら、一つくらいは『これは苦手』というのを置いておいてもいい」  音楽をやめてしばらく仕事がない時期を漂いながら、岸部はひたすら、自分について考え続けていた。 「やりたいことがあって音楽をやめたわけではなかったし、考える時間はたくさんあったから。たまたま勧められて俳優になった。芝居の勉強もしていないし、僕は得意なものがそうないから、苦手はなんだろうと考えた。たとえば人前でしゃべるのは不得手だから、じゃあこれは残そうと」  それは、映画「死の棘」(90年)で、小栗康平監督にたたき込まれた「言葉にする前の気持ちの動きこそが大切だ」という教えとも、のちに繋がっていく。  俳優という不安定な稼業で、心配に苛(さいな)まれる場面は多い。演技の技術について、私生活のこと、健康の維持、将来の不安──。それらを払拭しようと思えば、やれることはたくさんある。踊りや乗馬を習ったり、休日に芝居や映画を見たり、人付き合いをよくしたり。だが、岸部は心細さの解消のために働きかけようとは思わない。あえてそのまま留めておきたいという。  動けば安寧を得られるかもしれない。その代わり、不安という感情の動きは心から押し出され、微妙な揺らぎは掌(てのひら)からこぼれ落ちる。 ■人生後半戦の坂どう下っていく  岸部が俳優の世界に足を踏み入れてほどなく、日本はバブル経済の80年代に突入した。  政治の季節の残滓(ざんし)を狂乱の宴で上書きするかのように、世の中全体が浮足立っていた。テレビは昼夜なく「楽しくなければ」と謳った。一方、どん底ともいえるのが、娯楽の王座をテレビに明け渡した映画産業だった。週刊朝日が最高部数150万部を記録したのと同年の58年、11億2700万人をピークに映画人口は激減し、80年代には1億5千万人規模にまで縮小している(日本映画産業統計)。  芸能事務所は主戦場をテレビと見据え、タレントは視聴率に繋がる「好感度」という物差しに左右されるようになる。エンタメ界で量産されるのは不特定多数に好まれやすいバラエティー番組で、良質な映画作品が受け入れられる余地は少なかった。  この時期に「死の棘」が国際的に評価されたことは、寄る辺なさを抱える岸部自身にとっても、その後の俳優人生を位置づける大きな出来事だった。 「誰と出会い、誰と一緒にやっていくのか。それが一番大事。タイガース時代も含めて、すべてはそこへ繋がっていくよね」  岸部が樹木希林の事務所「夜樹社」の解散後、いくつかを経て自分で事務所を設立したのはバブルが弾けて間もない、95年のことだ。 「小さい事務所だからできることもある。映画やドラマの脚本を読む。CMだったらコンテは面白いのか。どうやって相手に正論を伝えるのか。自分の基準で面白いと思える仕事を選んで、そこでの闘いみたいなものがあって。そんなことを続けているうちになんとなく面白そうな事務所ですね、っていうふうになればいいなと思ってやってきた」  18年に亡くなった樹木は「三つぐらいの側面を見せて終わった気がする」と語る。 「希林さんは30代の若いころからおばあちゃん役をやったりして、ちょっとワケわからないことをしたり、むつかしい、怖い人みたいに見せるから、自分の俳優としての技術や、すごさを隠そうとする時期があったように思います」  それが変化したのは夜樹社が解散する前だ。80年代に入り、芝居のうまさで世間から注目されるようになった。 「あのころ、希林さんは、上手な芝居を少し、見せるようになったなと思った。そこからひねくれてるというようなイメージも取れてきて。晩年の作品を見ると、俳優としてのすごさよりも人間の優しさが溢れているようにも見えた」  岸部はこの日、取材場所の朝日新聞社のビルまで、地下鉄東銀座駅から歩いてきた。 「笠智衆さんは『僕は電車のあるうちは鎌倉から通うんです。それが健康法です』とおっしゃって、送り迎えは断っていた。希林さんも『社会生活ぐらいできなくてよく俳優なんてやってられるわね』と」  最近、岸部は自分自身の「終わり方」も考えるようになったという。  京都時代からの生き方、たとえば、しゃべるよりも人の話を聴き、苦手なものをあえて克服せず、古希を過ぎて少しまるくなった自分。 「それでも、うまく言えないんだけど、たどり着かないなぁっていう。終わりが来た時に、ああいうやり方、考え方でやっぱり良かったんだと思えるかどうかは、また別問題だなと」  俳優になって半世紀。大きな賞も獲った。周囲からは十分すぎるほどの成功に見えるかもしれない。名脇役、いぶし銀と評されることも少なくない。 「でも、良い俳優さんですね、なんて言われると知らないうちに人の評価に自分を合わせようとする気持ちが生まれる。すごいですね、と言われて、自分がすごいと思ってしまったらその『すごい自分』に合わせた生活になってしまう。そこがなんとなく僕には合わない。歳を取って、少しずつ仕事が少なくなって、いつの間にか人が忘れてくれるくらいがちょうどいいのかな。でももう少し、好きな人たち、好きな監督と仕事はしたいですけどね(笑)」 「人生百年時代」と言われる。55年に男女ともに60歳代だった平均寿命はそれぞれ20歳近く延び、60~70代を昔のように老年期と呼ぶにはあまりに若い。緩やかに長く続く人生後半戦の坂をどう下っていくのか、若い世代も不安を抱えている。  岸部たち団塊の世代は、未知の時代を走る先頭集団だ。  ザ・タイガースと決別した瞳みのるとは08年、37年ぶりにメンバー同士で元マネジャー・中井国二の仲立ちによって再会、「長い別れ」は雪解けを迎えた。瞳はあの71年1月24日、有楽町のガード下での別離の後、猛勉強を経て大学進学し慶應義塾高校の漢文教諭に転身。定年を前に退職して現在は音楽活動とともに専門である中国語を生かして日中文化交流にも注力している。森本タローが定期的に開くライブはいつも盛況だ。森本のファンだけではない、沢田研二や瞳のファンも、誰もが楽しめる温かい雰囲気で溢れている。 「タローは11月で喜寿(77歳)。12月には喜寿になって初のライブを考えていて、内容もいつもと少し違うみたいだし、楽しみだよね」  同じく音楽活動を続ける加橋かつみも4月、「THE G.S栄光のグループサウンズ」公演で元気な姿を見せたという。  6月25日は岸部と森本、瞳が参加する、さいたまスーパーアリーナでの沢田研二75歳“バースデーライブ”だ。6月に入れば、メンバーそろってのスタジオ練習が始まる。 「音楽はね、楽しい。(ザ・タイガース再結集は)13年でもやっているんだけど、しばらくベースから離れていて、練習するとまた弾けるようになる。そうするとやっぱり僕は音楽少年だったんだなって」  考えてみれば、ザ・タイガースのメンバーが集まってやれるのは最後かもしれない。願わくば、加橋にも参加してほしかった。でも、電話しても出ないから、そっとしておこう。 「タイガースのメンバーと出会えて良かった。うっかりしたら、良い俳優を最後まで通そうとか、そんなことになっていたかもわからない」  岸部はいま、そう思っている。(了/敬称略)(本誌・渡部薫)※週刊朝日  2023年6月9日号

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    簡単手作り梅干しはジップ付き袋で10分 梅干し研究家の「失敗しない」とは?

     梅干しづくりに挑戦する人は、コロナ禍で外出がままならない3年の間に増えたのではないかと思う。その証拠に、2022年に配信した記事『10分でおいしい梅干しが自分で作れる! はじめてでも簡単な「白干し梅」レシピ』はよく読まれた。 梅干し作りができる時期は年1回、生の梅干し用の梅が出回る6月上旬~下旬だけ。あらためて『はじめてでもおいしくできる 梅干し・梅レシピの基本』(朝日新聞出版)から、梅干し研究家・小川睦子さんに、所要時間10分、とにかく簡単な梅干しの漬け方を教わりたい。 *  *  *  梅干しづくりはやってみたけど、ちょっと面倒。そんな人に試してほしいのが、省略しても大丈夫な工程はとことん省いた、手間なし梅干しのレシピです。「初めてでも、忙しくても大丈夫」と小川さん。思い立ったらすぐに作れて、失敗もありません。 ■漬けこむのは6月、食べごろは10月  青梅でも完熟でも、熟しすぎたものでもいいので、6月に梅を手に入れたら、塩で漬けるだけ。作業はたった10分程度です。 食べごろになるのは10月ころ。それまでは、常温の室内に置いておきます。  茶色っぽく柔らかそうな見た目になれば、2~3カ月目から食べることができますが、塩辛く感じる時はさらに置いておきましょう。時間がおいしくしてくれます。半年くらい経つと、さらにおいしくなります。 ■【材料】 梅1kg 塩180g(梅の重量の18%) ジップ付き袋(大サイズ)を2枚 *梅の分量に合わせて塩を用意。例えば梅500gでは塩90g、梅300gでは塩54g、梅200gでは塩 36g(これらの分量の場合は、中サイズのジップ付き袋2枚) *しょっぱい味が苦手な方は、16%(梅1キログラムに対し塩160g)くらいまで減らしても大丈夫です。 *1kg 以上を漬ける場合は、袋を2つ以上に分けて作るとよいです。 ■【作り方】 (1)梅を用意します。  スーパーなどで販売されているものは通常1袋が1kgです。梅干し用と表示されているものをお求めください。地域やその年にもよりますが、6月上旬頃から下旬頃に梅干し用の梅がスーパーや八百屋さんなどに並ぶようになります。  基本的には、キズや打ち身があまりないものを選びましょう。とはいえ、少々のキズであれば、さほど気にする必要はありません。果物を選ぶ感覚と同じです。キズや傷みがひどい場合は、ジャムや梅味噌などを作るとよいでしょう。  収穫からあまり時間を置かずに作業を行うのが理想的です。お店の人に入荷日を確認して購入するとよいでしょう。  なお、梅の実は温度変化に弱いので、冷蔵庫から出した場合、常温で保存していたものよりも早いスピードでカビや腐敗が進む可能性もあります。お店で冷蔵庫に保管されていた梅は早めに作業を始めましょう。  梅の実は、「自分の住んでいる場所に近い梅が一番おいしい」という言い伝えもあるとか。産地、品種によって少しずつ味が違い、それぞれにおいしさがあるので、いろいろ試してみるとよいでしょう。  5月中旬~下旬頃は、「梅酒用」「梅シロップ用」と書かれたまだ青くてかたい梅が並びますが、「梅干し用」と表示されたものを手に入れてください。入荷時期はお店で聞いてみましょう。 (2)さらに熟すのを待ちます。(省略OK)  梅がまだ青い場合は、紙袋や段ボールなどに移して、黄色くなるまで2~3日常温の室内に置きます。ポリ袋のままではカビたり腐敗しがちです。熟してくると家中が梅の香りに包まれます。  熟してから漬けたほうがふっくらした仕上がりでおいしいですが、時間がない場合、この工程は省いてもOKです。 (3)梅を水で洗います。  ボウルに入れて2~3回水を替えて洗います。強くぶつけたりしなければ、ごく普通に果物などを洗う感覚でOKです。汚れが気になる場合はホワイトリカー(焼酎でも可)を少量使って洗うとよいでしょう。 (4)水気を拭きます。    清潔なふきんやタオル、キッチンペーパーなどで水気を拭き取ります。水気が残っていると、カビの原因になります。ざるに上げて水を切り、そのまま乾かしてもOKです。 (5)塩を入れます。   ジップ付き袋に梅と塩入れ、空気を抜いて袋をしっかりと閉じます。シャカシャカ振って、塩を全体になじませましょう。液が漏れる可能性もあるので、袋は2枚重ねにすると安心です。 (6)そのまま置きます。  塩を加えて数時間で梅から水分が出てきます。これが梅酢と呼ばれる梅のエキスです。漬け込んでから最初の1週間は1日に1回くらい軽く振って、梅酢を全体になじませるとよいでしょう。  その後は、このまま常温の室内に置いておきます。秋~冬まで待てば食べ頃です。1週間~10日ほど経って、梅酢がたっぷり出てきたら、消毒したガラスびんなどに移してもよいでしょう。  ひと手間加えるとすれば、土用干しと呼ばれる天日干しをするとさらにおいしくなります。梅雨明けの晴れた日に行います。  ジップ付き袋のまま、日光に当てます。屋外でも屋内でも日が当たればOK。合計で1週間ほど日光に当てることができれば、よりよいでしょう(土用干しを行わないものも、本書では「梅干し」と呼んでいます)。 小川睦子・梅干し研究所(UMEBOSHI-LABO)主宰。梅干し研究家であり、編集者&ライターでもある。幼少の頃より梅干しをこよなく愛し、梅干しの研究に励む傍ら、梅干しの魅力と梅干し作りの楽しさを伝える活動を関東と福岡を中心に行う。簡単にできる梅干し作りや梅干しを使った料理などの講座も好評。自然食品店などでは手作りの梅干しも販売する。 (構成 生活・文化編集部 森 香織)

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    【追悼】上岡龍太郎さんが生前語った“隠居の極意”「食事は一日500円」

     元タレントの上岡龍太郎さんが5月19日、肺がんと間質性肺炎のため死去した。81歳だった。  上岡さんは1942年、京都市生まれ。60年に横山パンチの芸名で、横山ノックさん、横山フックさんと「漫画トリオ」を結成。68年に解散後は、流暢な語り口でテレビ番組の司会者などとして活躍した。  2000年に芸能界を引退した後は、表舞台にはほとんど表れなかった。週刊朝日は2003年9月、独占インタビューを掲載。当時のインタビューから上岡さんの人生を振り返る。 ※ ※ ※  早いもんで、隠居してから3年ですか。遊んで暮らすのは、これでなかなか忙しいもんでしてね。  歌舞伎、お芝居、落語。神戸ポートアイランドにサザンオールスターズを見に行って、それから比叡山延暦寺の薪歌舞伎は、しつらえがよかったなあ。芝居では風間杜夫の「風のなごり―越中おわら風の盆」。舞台であれだけ三味線弾けるのは、大変なことです。  ゴルフは週に平均3回。9月は、マウイ島でマラソンするので、ジョギングもせなあかんでしょう。夜は女房とカラオケです。  現役時代は街を歩いていても、目で殺すという技術を持ってたんです。声をかけられそうになると、話しかけたらあかんよお、機嫌わるなるよお、いう電波を目で送ってた。いまはだいぶ楽になってきまして、心斎橋なんか歩いても、若い子はもう僕のこと知らんね。にこにこしながら歩けるようになりました。  隠居がこんなにたのしいとは、思いもよらなかったですね。仕事に戻りたい気持ちは、こっから先もないですもん。ましてや大阪市長選に出るんやないかとか、参議院やとか言われるでしょう。とんでもない話で。こんな楽な生活送ってんのに、なんでいまさら責任のある、しんどいことせないかんのかと思う。  隠居のための蓄財ですか?  そらゼロではダメでしょう。でも周り見るとね、ほとんどの人は、たのしい隠居暮らしができるんやないかと思いますよ。  服なんかは、働いているうちに、しっかりしたもんを買こうといたらええんです。スーツでも着物でも、ひとつ、ええもん持ってたら、何年でも着られる。車なんか、もう15年乗ってますが、まだ5万キロしか走ってないしね。お金のあるうちに人生のインフラ整備しとくんです。  家は買わんほうがいいと思う。苦労して建てて固定資産税払うてたら、国に賃料払てるのと一緒です。しんどいローン組んで、銀行のもんで終わる人も多いし。  食べもんは、粗食ほど、うまいもんはないですよ。ご飯とみそ汁、干物に漬物。計算すると一日500円ですむ。現役のころから、ご飯さえ食べられたら、というのがベースにありましたんでね。  仕事に未練がないのは、幸せなことに、もう満喫させてもらったという気持ちがあるんです。  そら「漫画トリオ」はすごかったですよ。でも横山ノックさんがすごかった。僕とフックさんは全然たいしたことない。横山ノックという芸の塊みたいな極彩色の存在を、鵜飼いというか猿回しというか、うまく操縦して、しかも若い僕らが年長のノックさんをたたく。ノックさん、あのときの若さ、社会状況があって、あれだけの笑いが起きたのであって、もう無理です。  僕は最後まで素人なんです。ものすご芸人ぶってる、芸人の擬態をしている素人。それで森繁久彌さんや小泉今日子さんと対談し、立川談志師匠や桂米朝師匠に「オイッ」て言われながら酒も飲めた。中村勘九郎さんと先斗町走り回ったり、片岡仁左衛門さんと韓国キャバレー行ったりもできた。最高に幸せな素人なんです。  18歳で、この世界にポンと入ってね、周りはすごい人ばっかりやったですから。(秋田)Oスケさんの突っ込みなんか見てたら、声の出し方、言葉遣い、迫力、すごいと思いますよ。あんな豪速球は投げられへん、と。  恐ろしいような気持ちも、ある意味でねえ、ありました。夢若師匠(浮世亭夢若、松鶴家光晴と組む)が自殺されたときです。大好きな師匠でね。おんなじ出番やったんです。  それが犬の投資話でだまされて、追い込まれてしもうて。楽屋で聞いてエーッてなってるときに、錚々たる師匠連が言うてるんです。「これがほんまの犬死にかあ」て。これはすさまじい世界やと思うてね、どっかに距離を置く気持ちもあったんですね。  もう、一緒に仕事したいなあと思う人も、あんまりいなくなりました。逆にね、後半、だいぶ感じてましたが、自分との接し方に若い芸人が困っているのがわかるんです。  とくに今田(耕司)と東野(幸治)ね。東京で一緒の仕事があって、新幹線に乗ったら、別の車両やったけど、あいさつに来てくれた。非常に礼儀正しい。  「明日はよろしくお願いします」言うから、「ああ、こちらこそよろしく」言うて。そっから、ほぐれない。どうしよう、何を話したらええんや、いう戸惑いが感じられた。ああ、もう、そうなんやなあと思いましてね。  テレビのバラエティーも変わりました。仲良し同士でしかやらないでしょう。藤田まことさんも言うてましたけど、「てなもんや三度笠」なんか、大変な緊張感があった。仲のいいことはええこっちゃと武者小路実篤も言うてますけど、番組としては、あんまりおもしろくないんですね。会話にも知性がなくなる。  昔の放送の世界には、なるほど、と思わせる会話がありました。菅原通済さんやの石黒敬七さんやの、だれやわからんけど教養あるいうおじんもいましたしね。そういうコメンテーター、ほしいなあ。私? いや私はやりません。  世の中には、おもしろいことがいっぱい転がってますよ。近鉄ファンになったので、電車で大阪ドーム行くと、乗客を見るだけで、おもしろい。あの人は、どんな人生送ってきたんかなあなんて想像すると、小説読むようやないですか。若い子が床にペタンと座ってても、怒るのやなしに、この子はどうしてこうなったんやろ、と考えてたのしむ。  思いどおりにならんことほど、おもしろいんです。「楽しむ」という字と「愉しむ」というのとあるでしょう。楽することを、たのしいことやと思うからいかんのですよ。すべてを愉しむ。苦しい、しんどい、不便、そういうことを選んでやると愉しなります。  たとえばゴルフね、悪いところに行ったわ、池越えなあかんわ、これ打つの難しいわと思うから愉しいんで、いつも楽に打てたらおもしろないでしょう。そもそも王侯貴族の遊びですから、すべてが思いどおりになる人たちが、これは思いどおりにならんと愉しむんですから。  現役の会社員がゴルフするのがわからんですよ。なにも休みの日にゴルフせんでも、会社に行けば、思いどおりにならん愉しみを十分に堪能できるやろ、と。  俳句もそう。ああ、ええ景色やという思いを、五七五で言いなさいというから苦しくて、おもしろい。だから僕は種田山頭火は認めない。  分け入っても 分け入っても 青い山  だからあ、それを五七五で言わなダメでしょ、と。やっぱり松尾芭蕉さんはすごいです。いい句ありました。  蛸壺や はかなき夢を 夏の月  明石あたりでしょうねえ、ツボん中で、夢見てるタコが急にうわあって引き揚げられるんでしょうねえ。ノックさんが、執行猶予があけて選挙に出るいうウワサがあるでしょ。もし本気やったら、この句を贈ったろと思ってます。

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    男女の秘め事、戦争…黒柳徹子が「徹子の部屋」を語る「100歳まで続けたい」

     日本を代表するインタビュー番組「徹子の部屋」は、1976年のスタートから今年で48年目を迎えた。「100歳まで続けたい」と語る黒柳徹子さんの尽きない好奇心と健康の源とは? *  *  *  1972年の夏のことだ。ニューヨークの演劇学校に通っていた徹子さんのもとに、NET(現在のテレビ朝日)のプロデューサーから電話があった。「日本で初めてのニュースショーがスタートするのですが、その司会をやってもらえませんか?」という依頼だった。 「ニューヨークに留学して1年、まだ日本に帰るつもりはなかったんです。でも、女性がメイン司会者のニュースショーができるというお話には興味を持ちました。それまでのニュースショーやワイドショーといえば、女性はアシスタント的な存在で、男性のそばでニコニコしていればいい、という感じ。おまけに、観ている主婦の反感を買わないように、主婦か主婦の経験がある人でないとダメと言われていた時代です。服装も白いブラウスに紺のスカートがお決まりだったので、『私は主婦でもないし、主婦の経験もありません。白いブラウスに、紺のスカートのような服装もできません』とお伝えすると、『今はむしろ、あなたのような独身でプラプラしてる方の感性が必要なんです』とおっしゃる(笑)。好きな服を着てもいいということだったので、『じゃあ帰ってみようかな』という気になったんです」  その頃、徹子さんが演劇学校で知り合った仲間は、年齢もバックグラウンドもバラバラ。肉体労働などで生活の糧を稼ぎながら、芝居のオーディションに挑戦している40代、50代も少なくなかった。誰もが夢を追いかけて集まるニューヨークで、必死で夢を追う人たちとの出会いによって、自分を必要としてくれる場所があるありがたみを再認識してもいた。  徹子さんが担当したニュースショー「13時ショー」は、76年2月に「徹子の部屋」というインタビュー番組になった。番組内容が変わるにあたって、徹子さんはいくつかの条件を出した。 「生放送のように、45分間の収録時間を守って、合間にCMの時間を入れたりして、編集は一切しないでほしいとお願いしました。編集の手を加えると、ゲストは『ここをカットしてください』と言いたくなるだろうし、ディレクターは『あそこを絶対に残したい』と思ってしまう。そうなると、局やプロデューサーの意向で、ゲストの発言をいかようにも変えて伝えることができてしまいます。それは嫌だったので、話が終わらなかったら、また来ていただきましょうよ、と。私自身、インタビューを編集されることで、ずいぶん『黒柳さんはおしゃべり』みたいに誤解されることがあって。でも、本当は人の話を聞くことのほうが好きなの」  第1回のゲストは森繁久彌さん。当時は、まだ大学生だったラビット関根(関根勤)さんのクイズコーナーもあった。 「関根さんが、宇野重吉さんとか嵐寛寿郎さんなんかのモノマネを、ご本人の前でやるのがおかしくて(笑)。クイズコーナーも視聴者参加型で盛り上がったのですが、しばらくして、『もっとゲストの話が聞きたい』という要望が視聴者から殺到したんです。人ってそんなに他の人の話が聞きたいのか、と私自身がビックリしました」  スタートから1年後、クイズコーナーは別番組として独立し、「徹子の部屋」は45分間みっちり、ゲストの話を聞くスタイルに。当時は俳優としてテレビドラマにも出演していた徹子さんだったが、あるとき、「もう女優の仕事は舞台だけにしよう」と決意させる出来事に遭遇する。 「若尾文子さんと一緒のドラマで、ほろ酔いの芸者さんの役をやったんですが、その演技を見ていた小道具さんが、私に『本当は飲んでるんでしょ』と言うんです。私のほろ酔い演技がよっぽどうまかったんだと思うけれど(笑)、その徳利の中身は、小道具さんが入れてくれたお水だったのに、『あなたが入れたお水を飲んだだけ』と言っても、全然信用してくれない。こんなに身近な人が、私の演技に騙されるなら、悪女の役なんかしちゃったら、『徹子の部屋』で、『悪女がゲストに話を聞いている!』って思われるかもしれないでしょう? それで、女優としては、もうテレビに出ないことに決めたんです」  話が盛り上がって、2日間にわたって登場してもらったゲストも少なくない。作家の宇野千代さんが出演したのは、宇野さんが84歳のとき。徹子さんが若さの秘訣を尋ねると、「あのね、クヨクヨしないの! 陰気は悪徳、陽気は美徳!」と軽快に語ったという。 「あんなにあっけらかんとした方は、後にも先にもいらっしゃいませんでした(笑)。作家の尾崎士郎さんや北原武夫さん、画家の東郷青児さんとのお付き合いすることになったきっかけなんかも話してくださって。宇野さんは、よく失恋するけれど、『失恋してちょっと泣いても、いい着物着て表へ出ちゃうと、男は女の数とおんなじほどいるから、すぐいい人がめっかっちゃうの』なんておっしゃって(笑)」  徹子さんがとくに驚いたのは、宇野さんが、男女の秘め事をサラリと明るく話すこと。 「東郷青児さんと出会ったときのことも、『僕の家に来ませんか、と言われたのでついていったの。そいで、寝ちゃったの』なんて(笑)。宇野さんは、『恋愛はスピードが命』だったそうですが、おしゃべりしていても、『こんなこと言って大丈夫かしら?』みたいな迷いがないんです。宇野さんの文章が素晴らしいのはもちろんですが、その天真爛漫な人間性は、テレビだからこそ伝わる部分もあるのかもしれないとも思いました。『不思議なことに、男とはケンカしない。別れた後もみんな仲良し』ともおっしゃっていました(笑)」  ある時期から、徹子さんは、戦争に行った俳優たちに、戦争の話を聞くようになった。きっかけは池部良さん。76年12月に、池部良さんがゲストに決まったとき、マネジャーからは「面白い話ができるかどうか。30年前にパリで買ったセーターをいまだに着ていて、そのぐらいしか話すことがない」と言われた。 ■誰もが「話」を持っている 「でも、なんとかなるかな?と思っていて、そのセーターの話を伺った後、何げなく『そういえば、終戦のときはどこにいらっしゃったんですか?』と聞いてみたんです。そうしたら、『太平洋の海の中にいました』とお答えになって。なんでも、映画スターになる前の池部さんは、陸軍少尉として上海に赴任していたんだそうです」  戦況が悪化し、南方に移動している途中で、乗っていた輸送船が潜水艦の攻撃を受けて沈没。池部さんは、海に飛び込んだときに体が沈むといけないからと、大事な軍刀を船に残していった。 「太平洋の真ん中を泳いでいたら、自分より年上の部下が、波間から、『上官殿、刀は持っております!』と言って、軍刀を頭の上に掲げたのを見て、池部さんは思わず泣いてしまったんですって。自分が身の安全のために残してきた軍刀を、部下はむちゃを承知で持ってきてくれた。その部下の忠誠心に、胸が張り裂けそうになった、と。でも、『海の中だから、涙は見せずに済みました』と付け加えていたのも、池部さんらしいなと思いました」  以来、「戦争体験を次の世代に伝える」という使命のもと、戦争の話をしてもらうことは、「徹子の部屋」の夏の恒例企画になった。 「戦争について語っていただいたほとんどの人がもうお亡くなりになっていますが、本当に、さまざまな体験を伺っているので、戦争資料としても貴重なものになっていると思います」 「徹子の部屋」はあと3年で50周年を迎える。以前はよく、「50年続けることが目標」と発言していたが、最近は「100歳まで続けたい」と思うようになった。 「長く続けてきて、改めて『人間には、誰にも面白い話があるものだなぁ』と実感しています。人間、生きている限り、『話』は増えていくものです。まだまだ、ゲストの方から、『徹子の部屋』に出たいとか、ぜひこんな話を聞いてほしい、と言っていただけているので、好奇心の続く限り、皆さんのお話を聞いていきたいと思っています」 (菊地陽子 構成/長沢明)※週刊朝日  2023年6月9日号

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    新しいNISA「税金を払っても特定口座から移すべきか?」30年検証【東証協力】

    これまで買ってきた金融商品が特定口座で眠っている人はいったん税金を払い、売却してでも新しいNISA口座に移し替えるべき? アエラ増刊「AERA Money 2023春夏号」より抜粋してお届けする。  新しいNISAでたっぷり投資したいがお金がない。そんな人に向けて、こう言い切る人がいる。 「もし特定口座で投資信託(以下、投信)などを保有しているなら売って新しいNISA口座(以下、NISA口座)に移せ。そのほうが、いついかなる場合も有利」  そう言われると「そうなのか」と思ってしまう。特定口座で運用中の金融資産に大きな含み益がある場合は?  売却した際に払う税金のことを考えると「いついかなる場合も」と言えないのでは。  いったん20.315%の税金を払ってでも非課税のNISA口座に資金を移すか。それとも、利益確定による税金の支払いを先延ばしにして、その分も運用し続ける効果を重視するか。  このテーマに関し、本誌の試算結果をもとに、東証からコメントをいただいた。 「結局のところ、特定口座における税金の繰り延べ効果とNISA口座の非課税効果、どちらが大きいかという話ですね」(東証執行役員・長谷川高顕さん/以下同) 「大ざっぱ」な結論を先に。 「特定口座の資産にそれほど利益が出ておらず、将来の期待リターン(どれくらい上昇しそうか)が高いと判断するなら、早くNISA口座に移し替えるという考え方ができるでしょう(非課税効果>税金の繰り延べ効果)」 「特定口座の資産の含み益が大きく、将来の期待リターンが低いと判断するなら、NISA口座への移し替えは慎重にしたほうがいいという考え方もあります(非課税効果<税金の繰り延べ効果)」  具体的に期待リターンが何%で含み益が何%以上の場合、特定口座からNISA口座に移さないほうがいいのか。  東証の回答は「相場の動き方により結果が変わるため、厳密には数値化できない」。  本誌の検証によれば、含み益があっても特定口座からNISA口座に移したほうが、ほとんどのケースで非課税メリットにより最終的な受け取り額が多くなることが多かった。  ただ、投資対象のリターンが年平均2%以下、かつ特定口座の金融商品の含み益がかなり大きい場合、NISA口座に移しても有利にならないケースが発生していた。  たとえば、「特定口座で保有する金融商品が元手の4倍まで値上がり=評価額の50~75%が含み益」の状態なら、「移すのはちょっと待った」。NISA口座に移したあとの上昇が年平均2%以下なら税金面で負ける可能性がある。  逆に言えばあなたが「今後も年平均2%以上の値上がりをする」と期待していて、かつ特定口座の金融商品が元手の2倍以下しか値上がりしていない場合、特定口座からいったん売却してでもNISA口座に移すほうがよさそうだ。 「特定口座から評価額400万円(元手200万円、含み益200万円)の金融商品を売却し、税引き後の360万円をNISA口座に移して30年間保有」「同条件の金融商品を特定口座で30年間保有し続け、税金の支払いを売却時まで先延ばしにする」の2パターンを検証した。  どちらのパターンも2年目以降はNISA口座で毎年360万円の投資をしたと仮定して、30年後の両者の資産を比較する。  運用1年目から30年目までの年平均リターンが2%、5%、10%の場合は、いずれもNISA口座に移したほうが有利になった。一番シンプルな「増えるだけ」のパターンの検証である。  しかし年5%のリターンでも、10年に1度の50%もの暴落に3回または2回見舞われると、NISA口座に移さないほうが有利な場合があった。  最終的に元本割れしたら、特定口座のほうが少し得。NISAの非課税メリットがなくなるので当たり前の話だ。  含み益のあった特定口座の資金をそのまま運用したほうが、損失額は若干減るというわけ。NISAで損をしたら、いいことは何もない。  実際のTOPIXを使ってあらゆる期間を検証すると、わずかだが「特定口座から移さないほうが有利だったパターン」もあった。  1990年開始の30年間および20年間は、特定口座で保有し続けたほうが得だった。 「特定口座で保有している資産の含み益がどれぐらいあるか、今後どれぐらいのリターンを想定するかで結果は変わります。『いついかなるときも特定口座から移したほうがいい』とは言えません」  改めて結論。特定口座の含み益が元手の2倍以下なら移しても税金面で損する可能性は低いというのが本誌の見解。  また「今後の運用で2%どころかもっと儲かると思う人」も移し替えの検討を。 ◯長谷川高顕(はせがわ・たかあき)/東京証券取引所 執行役員 金融リテラシーサポート部 担当。1990年、東証に入社。子どもから成人まで中立の立場で金融経済教育情報を発信するチームのトップ。執行役員は2023年4月から 編集/綾小路麗香、伊藤忍 ※『AERA Money 2023春夏号』から抜粋

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    郵便局の統廃合は「絶対タブー」の裏組織 先送りのツケを払わされるのは国民と利用者だ

     郵便局の利用者が漫然と減り続けるなか、全国2万4千の郵便局網の統廃合は必要だ――。日本経済新聞が1面トップで仕掛けた問題提起は、ある“力”によってすぐに火消しされた。『郵便局の裏組織 「全特」―支配と権力構造』(光文社)を上梓した朝日新聞経済部の藤田知也記者が、舞台裏を解説する。 *  *  * <郵便局網「整理が必要」 郵政社長 統廃合の検討表明>  日本経済新聞の5月12日付の1面トップに、こんな見出しがでかでかと掲載された。字面どおりに読めば、増田寛也社長が率いる日本郵政グループが、ついに統廃合の検討に踏み切るのか、と受け取れる。  ところが、いざ記事の中身を読むと、とたんに話が萎んでいく。  増田氏は、統廃合の時期は「2040年が一つのタイミング」と語り、その検討が始まるのは30年代後半だと書かれている。そんな先まで増田氏が社長を続ける可能性は低く、要するに「自分はやらない」「あと十数年はやらない」と宣言したも同然だ。  じつは、増田氏は社長の就任当初から、似たような発言を繰り返してきた。 「2040年を過ぎると人が驚くほどいなくなる。そういう時間軸で見ると、未来永劫ずっとネットワークを維持することはもちろんあり得ない」(2020年1月9日)  このときも統廃合は遠い将来の話で、むしろ自分はまったく手をつけず、郵便局網の価値向上に励むのだと説明していた。  そんな増田氏が改めて語った言葉をあえて切り取り、誤解しそうな見出しを1面であえてぶち上げたのは、記者自身が、あるいは多くの人が、やはり郵便局の統廃合は先送りせずに検討すべきだ、と考えているからではないか。  ただし、どんな思惑であれ、内容と不一致の見出しであれ、「統廃合」の議論はおろか、それを口にすることなど決して認めない。そう言わんばかりの利権団体がある。  日本郵政グループ内で「裏」と呼ばれる、全国郵便局長会(全特)だ。  日経報道の直後から、彼らはさっそく動き出した。 ■統廃合は「絶対タブー」  全特の末武晃会長は5月15日、日本郵政社長の増田氏と対峙していた。日経報道の3日後、週末を挟んだ最初の営業日だ。  末武氏が「強い遺憾の意」を伝えると、増田氏はこう釈明した。 「郵便局がすぐに廃止されるとの自治体の不安を払拭するため、かなり先まで今のまま残ることを伝えた。安心して自治体事務をゆだねてほしいとの思いで発言した」 「郵便局ネットワークの議論はまだ相当先でいい。まずは自治体の仕事をどれだけ増やせるかが大切だ」  末武氏は追い打ちをかけるように、日経新聞に記事の訂正を求め、社長の真意を局長と社員に説明するよう申し入れた。末武氏は5月16日付の会員向けメッセージでそう明かし、「非常に心配されていると思うが、今後も必要な対応を行っていく」と書き添えた。翌17日には予告どおり、増田氏による釈明がグループ全社員にあててメールされた。どっちが偉いのか、これではよくわからない。  末武氏の説明からは、たとえ遠い将来のことでも統廃合を口にするのは「絶対タブー」という信念が読み取れる。  そこまで彼らが「局数」にこだわるのはなぜなのか。  最大の理由は、局数の維持がピラミッド組織である郵便局長会の各層にとっての利権そのものだからだ、と筆者は考えている。 ■死守したいのは旧特定局の数  2万4千の郵便局のうち、約4千は業務を外部に委託する簡易郵便局。直営局とされる残り2万局のうち、約1100が大型の旧普通郵便局、そして約1万9千弱が旧特定郵便局だ。旧特定局長のほとんどが局長会の会員であり、全特が死守したいのも旧特定局の数だ。  局数は当然、局長ポストの数に直結する。そして、局長になる者はほぼ全員が局長会に入る。局長会に入るほうが採用に有利で、しかも局長会に入らなければ業務や出世が困難となる状況があるからだ。  そうした歪んだ人事構造に支えられ、局数の維持が局長会の会員数の維持にもつながる。会員は政治活動に取り組むことが条件なので、選挙などに無償で動かせる現役世代を安定的に確保できるようになる。  さらに、局長会の会員は毎年20万円超の出費を強いられるのが一般的だ。それは組織の運営費や国会議員に流れる政治資金といった活動費を数十億円規模で調達できる資金源にほかならない。  局長会は局長が自ら局舎を持つ「自営局舎」を推進しており、移転局舎があれば局長に取得するよう働きかける例が目立つ。土地を取得して局舎を建てるための資金を局長会の関連団体が融資することで、日本郵便が支出する店舗賃料を元手に、多額の利息収入を稼ぐことも可能にしている。  要するに、郵便局の統廃合に手をつけられれば、組織の力を維持する「ヒト」と「カネ」の供給システムが打撃を被る。これが口にすることも認めない最大の理由だろう。 ■「深刻化」する前に  いまいちど増田氏の言葉とともに、07年の郵政民営化後の道のりを思い起こしてほしい。  民営化で経営の自由度を高めたはずが、局長たちは「局数の維持」などを名目に民営化を凍結させ、さらに骨抜きにしていく法改正で足かせを増やすことに奔走した。局長会の要望を受け入れた法改正が実現すると、組織はあぐらをかいて本来の目的を見失い、「組織力の維持」自体が目的化していたのではないか。 「郵便局の価値向上」は民営化の当初からうたわれていたが、16年もの歳月を費消して、窓口は一体どれだけ向上したか。一部の局で最近ようやく電子マネーやスマホ決済ができるようになったが、ほかに大きな変化は思い浮かばない。これまでできなかったことが、このあと急にできるようになるとはとても思えない。  近年は、雇用を削り、サービスの質を落とし、料金を引き上げることで「利得」を捻出してきたのが経営の実態である。  21年からは「土曜配達」をなくし、昨年は「翌日配達」もやめた。夜間や週末の業務を減らし、日本郵便で21年からの5年間で全従業員の8%にあたる3万人を減らす計画だ。  郵便やゆうパックの料金はじわじわ値上がりした。19年度からは、郵便局網を守ることを口実に、郵政グループ全体で年200億円の税負担を軽くする特殊制度も始まった。その分だけ国民負担が重くなっている、ということだ。  郵便物の縮小を思えば致し方ない面もある。しかし、裏組織の利権に直結する「郵便局数の維持」は必死で守り抜くわりに、従業員や郵便利用者、国民の利益や負担はちゅうちょなく後回しにする姿勢が、増田体制のもとでも鮮明になっている。  経営規模が萎んでいくなか、いまの状態を維持して局数の延命を図るなら、郵便利用者と国民の負担は無尽蔵に膨らんでいく。それは「負の遺産」となって将来世代にツケを回すことにもなる。被害が深刻化する前に、私たち自身が郵便局の内実と経営が行き詰まる真因を理解し、その行く末に「審判」を下すべきではないか。  重たいコストを受け入れてでも2万4千すべての局を「必要な存在」として支えるのか。それともコストを抑えるため、本当に必要な規模のネットワークを特定して統廃合を推し進めるのか。  うわべのイメージではなく、事実とデータに基づいた真っ当な判断を下せるように、局長会の実態と郵便局の現場の実情が広く知られることを願ってやまない。 ◯ふじた・ともや/朝日新聞記者。2000年に朝日新聞社入社。「週刊朝日」記者を経て経済部に。新刊『郵便局の裏組織 「全特」-権力と支配構造』(光文社)が発売中。筆者への情報提供は fujitat2017@gmail.com へ

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    不運な“出場停止処分”も メジャー契約結ぶも「MLB出場ゼロ」に終わった4人の日本人選手

     今年も千賀滉大(メッツ)、藤浪晋太郎(アスレチックス)、吉田正尚(レッドソックス)がメジャーデビューをはたした。その一方で、過去にはメジャー契約を交わしながら、1試合も出番なく終わった男たちもいる(文中の金額はいずれも推定)。  2年がかりで夢を叶えながら、メジャーの公式戦出場ゼロで終わったのが、中島裕之(現宏之)だ。  西武時代の2011年、遊撃手としてパ・リーグ初のシーズン100打点を達成した中島は、オフにポスティング移籍を目指したが、独占交渉権を得たヤンキースと条件面で折り合わず、西武に残留した。  翌12年オフ、中島は海外FA権を行使し、正遊撃手の補強を急務とするアスレチックスと総額5億5000万円プラス出来高で2年契約する。 「まだプレーしていないので、感じてみないとわからないが、やる自信だけはある」と活躍を誓った中島だが、開幕直前のオープン戦で一塁強襲安打を放って出塁した際に左太ももを痛め、故障者リスト入り。開幕後は3A・サクラメントに所属し、10試合連続安打を記録も、8月に40人枠から外れ、マイナーのまま1年目を終えた。  翌14年も4月に40人枠から外れ、3Aでも打率.128、0本塁打と振るわず、2A降格。10月にFAになった。  不振の原因は、天然芝の球場が大半の米国で、打球の速さの違いに戸惑い、守備のリズムを崩したことが、打撃にも悪い影響を与えたからといわれる。  また、アスレチックスは、日本のメーカーからの広告料やテレビの放映権料など年間10億円前後の収入を見込み、中島が十分期待に応えられなくてもメジャーの試合で使いたい意向だったが、「使い物にならず、目をつぶることができなくなった」という話も報じられた。  米国での成功例が少ない日本人内野手だが、中島も壁を打ち破ることができなかった。  開幕直前の不運な故障でメジャーのマウンドに立つ夢が消えたのが、森慎二だ。  西武のリリーフエースとして活躍した森は4年越しの直訴が認められ、ポスティングでデビルレイズと総額1億6200万円で2年契約を交わした。  だが、キャンプ中に起きた右肩の違和感が、運命を大きく変える。  段階的な投球練習とリハビリを経て、3月20日のオープン戦で初登板した森だったが、初回、先頭打者に3球目を投じた際に右肩を脱臼し、激痛でマウンドにうずくまった。検査の結果、関節唇損傷で全治1年と診断された。 「こうなったからには、焦っても仕方がない。今後のことはこれから考えたい」と2年目の復活に賭けたが、調子はなかなか上がらず、翌07年1月に契約解除。新たに結び直したマイナー契約も同年6月に解除された。  その後も森は、1年半リハビリを続けながら、メジャー再挑戦を目指したが、ついに夢は叶わなかった。  それでも、あきらめることなく努力を続け、BCリーグ・石川の選手兼コーチ時代に球速を138キロ程度まで回復させている。  森と同じ06年にメジャーに挑戦し、禁止薬物でクローズアップされたのが、入来祐作だ。  巨人時代の98年の日米野球でサミー・ソーサから2打席連続三振を奪い、メジャー志向を強めた入来は03年オフ、日本ハム移籍に際し、2年後のメジャー挑戦の容認を要望した。  そして、05年に6勝7敗、チームトップの防御率3.35を記録すると、ポスティングが不発に終わったあともオファーを待ちつづけ、翌06年1月中旬、メッツと年俸8600万円で契約した。  だが、キャンプのブルペンで、当落線上の投手でもハイレベルの球を投げるのを見た入来は、実力の差を痛感させられる。  キャンプ、オープン戦で結果を残せず、3A・ノーフォークで開幕を迎えた入来に、追い打ちをかけるように、4月28日、MLB禁止薬物規則違反が明らかになり、50試合の出場停止処分を受けた。日本で愛用していたサプリを禁止薬物と知らず使いつづけていたことが、アダとなったのだ。  6月下旬に処分は解けたものの、3Aで4勝8敗、防御率4.70に終わり、1年で自由契約となった。  翌07年はブルージェイズのテストを受け、ハイAからスタート。その後、2Aを経て、6月に3A昇格も、右腕の肉離れで再び2Aへ。8月下旬に解雇された。  米国で逆境に耐え抜いた2年間を、入来は「野球選手としては暗中模索の日々ながら、人生経験としては非常に刺激的で、充実した毎日でした」(自著「用具係 入来祐作~僕には野球しかない~」講談社)と前向きに振り返っている。  NPBを戦力外になったあとにテスト生としてメジャーに挑戦したのが、水尾嘉孝だ。  ドラフト1位で大洋に入団した水尾は3年間未勝利に終わるが、オリックス移籍後、97年に68試合に登板するなど、リリーフ左腕として活躍した。  そして、西武時代の03年オフに戦力外通告を受け、他球団のテストも35歳という年齢から不合格になると、「自分を偽ることなく、最後まで野球をやり切りたい」と決意して渡米。04年3月、エンゼルスのテストに合格し、年俸3600万円でメジャー契約を交わした。  だが、傘下の3A・ソルトレイクでは高山病に悩まされ、首や腰の故障も相次ぐなど、満足に投げることができなくなり、メジャーでの登板を実現できないまま、06年2月に引退した。(文・久保田龍雄) ●プロフィール久保田龍雄/1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。最新刊は電子書籍「プロ野球B級ニュース事件簿2021」(野球文明叢書)。

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    沢田研二、元マネジャーが語る「美の表現者に目覚めた」瞬間

     1970~80年代、芸能界の頂点に君臨したジュリーこと沢田研二の75歳のバースデーライブが注目されている。さいたまスーパーアリーナの“リベンジ公演”を前に、元マネジャー、森本精人さんにスーパースターの魅力の神髄を聞いた。 *  *  *  ここ数年、ライブツアーを活動の中心とする沢田研二。バースデーライブは、興行主との集客に関する契約トラブルで“ドタキャン”せざるを得なかった2018年のリベンジ公演となる。今回は既に2万枚以上のチケットを完売。折からの昭和歌謡ブームで、往年のファンのみならず若者からも熱いまなざしを浴びる沢田の、衰え知らずの人気の秘密とはいったい──。 中将タカノリ(以下、中将):初めて沢田さんと会った時の印象は? 森本精人(以下、森本):ジュリーを初めて見たのは、学生時代にニッポン放送でアルバイトしてたころ。まだザ・タイガースで、明治製菓がスポンサーの番組に出演していた時でした。芸能人は見慣れていましたが、ほかの人にないオーラを感じたのを覚えています。 中将:その後、森本さんは渡辺プロダクションに入社されるわけですね。 森本:はい、僕が入社したころにタイガースが解散。はじめザ・ピーナッツのマネジメントを担当したんですが、ほどなくジュリーの担当になりました。 中将:身近に接した沢田さんはどんな方でしたか? 森本:過密スケジュールだし、「ザ・タイガースを超えたい」というプレッシャーを感じていたのか、少しエキセントリックな部分がありました。コンサートで演出のタイミングがずれたりカーテンから灯りが漏れたりすると、激怒してマイクを放り投げて帰ってしまったりね。ファンの女の子たちは泣いてましたよ。完璧を目指すが故にスタッフに対しても厳しい。でもなぜかみんなジュリーのことが大好きなんです。これは実際に接した人でないとわからない感覚かもしれません。僕にとってもすぐに神様のような存在になりました。 中将:厳しい人だったとは聞きますが、沢田さんを悪く言う人はあまりいません。 森本:プロデューサーの加瀬邦彦さん、バンマスの井上堯之さん、作家さんたちもみんなジュリーのことが大好きでした。表現者としての欲求もあっただろうけど、損得を超えた不思議な魅力があるんですね。人柄の良さでしょうか。安井かずみさんの「危険なふたり」(1973年)なんて個人的な願望が含まれてたかもしれません(笑)。 中将:森本さんがマネジメントを担当したのは82年のシングル「麗人」のころまで。約10年間を振り返って印象的だったことは。 森本:いくつもありますが、「危険なふたり」のころ、加瀬さんが早川タケジさんを連れてきてからの変化はすごかったですね。スタイリストの範疇(はんちゅう)を超えて、アートディレクターとしてジュリーのビジュアル観を提案してくれました。それを受けて、それまでメイクが好きじゃなかったジュリーも美の表現者として目覚めたんですね。 「勝手にしやがれ」(77年)でレコード大賞を獲ったのもすごくいい思い出です。そしてその後、「もう一度ジュリーにレコ大を」とみんなで奮闘したのが「TOKIO」(80年)。年が明けてすぐ生放送で披露して元旦にリリースするというプロモーションも素晴らしいし、衣装や楽曲もいい具合に時代の先を行ってたんじゃないでしょうか。あんな大掛かりなセットでテレビ局は大変だっただろうけど、現場のスタッフたちはみんな面白がってくれました。  当時はテレビが面白いことを追求していた熱い時代。演出ひとつにしてもいろんなキャッチボールがあって、たとえば「サムライ」(78年)の時にスタジオで50枚の畳を敷いた上で歌う有名なシーンは「夜のヒットスタジオ」(フジテレビ)でディレクター、プロデューサーだった疋田拓さんのアイデアでした。実はジュリーは初め「西洋的な『サムライ』の歌なのになんで畳なんか……」と嫌がってたんですが、「嫌だったら外すからとにかく一度見てくれ」と。演出の方たちがジュリーと勝負してくれたいい時期でした。誰もやったことがない表現をみんなで実現していったあの快感は忘れられませんね。 中将:森本さんが担当した期間は沢田さんがまさに絶頂に駆け上がる時期ですが、トラブルもありました。 森本:うん、やっぱり暴力事件で謹慎した時はつらかったですね。2回あったけど僕が居合わせたのは76年5月の「いもジュリー事件」。僕が新幹線で荷物を下ろしてる隙に「ジュリーがケンカしてる」ってなって、あわてて駆け寄ったら男が「こいつが殴りやがった」なんてわめいてる。聞けば、通りすがりに「いもジュリー」と言われついカチンときちゃったということで。もちろん手を上げちゃいけないんだろうけど、正義感の強い人だから理屈に合わないことをされたら黙っていられないんですね。1回目は僕はいなかったけど、あれも駅の職員がファンを「チャラチャラしやがって」となじったのをとがめたんでしょう。  いろいろありましたが、若い時にジュリーの仕事をさせてもらったおかげで、マネジメントの仕事は目をつぶっていてもできるくらい自信を持つことができました(笑)。 中将:沢田さんは85年に渡辺プロから独立しますが、特に2000年代以降の変化は大きいですね。 森本:反戦や反原発を歌うようになるとは思ってもみませんでしたね。渡辺プロのころはそういう主張は絶対NGだったんだけど、坂本龍一さんがそうだったように、ミュージシャンがメッセージを発信するのは当然のこと。自由になってそういうことに挑んでみたくなったんじゃないですかね。 中将:近年の沢田さんをどう思われますか? 森本:去年の映画「土を喰らう十二ヵ月」は今の素のジュリーの魅力が出ていていいなと思いました。さいたまのライブも素晴らしいと思いますし、若者からも注目されてると聞いてなるほどなと。力を抜かない全力のライブパフォーマンスや、頑なゆえににじみ出る人間的な魅力がそうさせるんじゃないでしょうか。でも僕からしたらそういった根本の魅力は昔と変わっていません。まだまだずっと活躍できる方だと思っていますし、そうであってほしいですね。この間も文春さんの取材に答えた後、「知りもしないことをベラベラしゃべるんじゃねえよ!」と笑いながら叱られたので、また叱られなきゃいいけど(笑)。 ◇  誰よりも身近で苦楽を共にした者だからこそわかる沢田の今。年を経ても“不変”のスターが織りなす極上の表現をこれからも長く楽しみたい。 (一部敬称略)(中将タカノリ)※週刊朝日  2023年6月9日号

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    日経平均株価バブル崩壊後高値更新 どこまで続く?年末3万3千円予想も米景気の見極めは7月以降

     2日の東京株式市場は、日経平均株価が前日比376円高の3万1524円で終えた。5月30日につけたバブル経済が崩壊した後の高値(3万1328円)を上回り、約33年ぶりの高値水準だ。株価はどこまで伸びるのか。  「日経平均株価は今後1~2年をかけて3万円台後半をめざす動きになるでしょう」  証券ジャパン調査情報部の大谷正之部長は、上昇トレンドは続くとみている。  その理由について、まず、海外投資家の姿勢を挙げる。東京証券取引所によると、海外投資家は5月第4週(22~26日)まで9週連続で日本株を買い越した。9週連続の買い越しは6年ぶり。海外投資家が足元の株高をけん引してきた格好だ。            「日本企業はこれまで内部留保をため込むだけで、資産を有効に活用できていないとみられていました。ところが、政府や東京証券取引所が、統治体制や株主還元に対する改革を企業に求めてきたこともあって、日本企業の姿勢は外国人投資家の目で見ても分かるように大きく変わった。著名投資家のウォーレン・バフェット氏が4月に来日して商社株への投資比率を増やしたことも、日本株が見直されるきっかけになりました」(大谷さん)   日本経済では物価の値上がりが続き、デフレ脱却が意識され始めていることもある。インフレ局面に入れば、相対的に価値が下がる現金や預金よりも、株式や不動産といった実物資産を持っている方が資産形成には有利だ。さらに株式投資には、2024年から投資信託などの運用益が非課税になるNISA(少額投資非課税制度)が拡充されるなど、制度面の追い風も吹く。積み立て投資など若い投資家層の関心も高くなっている。  「追い風となっている要因のいずれも、一過性のものではありません。さらに、半導体や電気自動車(EV)、脱炭素といった5~10年の長期にわたって拡大が期待できる市場が経済を押し上げている。こうした市場には多くの日本企業が食い込んでいます。足元の株価は急激に上昇してきたので一時的に調整する場面もあるでしょう。しかし、景気は新型コロナウイルスによる停滞から抜け出し、正常な循環サイクルに回帰しつつあり、次の回復ステージに向けて株価も新しい上昇トレンドが始まっているとみています」(同)   日本株の先行きを見通すうえで気になるのは米国経済だ。りそなアセットマネジメントの黒瀬浩一チーフ・ストラテジストは言う。  「米国の景気が急失速するのか、ソフトランディング(軟着陸)するのか、その見極めがつくまでは、海外の主要市場が一進一退する中で日本株だけがどんどん上がっていくようなことにはならないでしょう」   米景気の先行きをめぐり、市場関係者の見方は分かれている。米国のインフレ圧力は当初想定していたよりも強く、米米連邦準備制度理事会(FRB)は利上げの姿勢を緩めていないからだ。物価の値上がりを抑えるには金利を引き上げる必要があるが、景気を冷ます副作用も生じる。   市場関係者の間では、FRBは6月13~14日に予定する米連邦公開市場委員会(FOMC)では利上げを見送るとみられているものの、その次の7月の会合では利上げを実施するとの見方が強い。FRBの利上げの姿勢が長引けば、それだけ景気にも響く。   とはいえ、黒瀬さん自身は、米景気はソフトランディングに向かうと考えている。  「米国の中堅銀行3行が相次ぎ破綻した影響で沈静化に時間はかかっていますが、米政府は預金保護や公的資金の注入といった形で傷口を広げないように対処しています。企業向けの融資動向などにどう影響するかを引き続き見守っていく必要はありますが、信用不安が大きく広がる可能性は少ないのでは。米国では再生可能エネルギーや半導体関連の大規模な投資計画が進んでいます。新型コロナウイルスの感染拡大時に支給された給付金もまだ相当程度残っているとされ、これが消費に回れば景気を下支えする。秋口にもソフトランディングへの見方が強まれば、株価も上昇に向かうでしょう」(黒瀬さん)   黒瀬さんは、米景気の先行きに見極めがつく秋口まで、日経平均株価は2万9千円~3万1500円の値幅での一進一退の取引が続くものの、その後、ソフトランディングへの見方が強まれば年末にかけて3万3千円を目指す展開に向かうと予想する。  前出の大谷さん、黒瀬さんとも、日本株について“下値は堅い”印象だという。これまでに買い遅れた個人投資家は少なくなく、足元の上昇局面で買われている銘柄はまだ半導体や輸出関連など一部の大きな会社に限られている。   物色される銘柄や投資家層の一段の広がりがあれば、さらなる株価の上昇が期待できそうだ。 (Aera.dot編集部・池田正史)

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    岸部一徳が語るザ・タイガース「『火のような後悔』があったのだろう」

     通常、取材はほぼ受けない俳優・岸部一徳さんのインタビューが、本誌休刊のタイミングで実現。3回連載の第1回の今回は、ザ・タイガース前史からPYGまで、本誌編集長がお話を伺いました。 *  *  *  岸部の日課に最近加わったのが、ベースの練習だ。 「ここ10年、ほとんど触っていなかったからねえ。2曲続けて弾いたりすると指が疲れてくるんで……。6月までには間に合わせないとね」  2018年10月。興行主との集客に関する契約トラブルで中止となった沢田研二のライブから5年。6月に改めて、さいたまスーパーアリーナで開催される沢田の“バースデーライブ”に岸部はゲスト出演する。 「去年会った時に沢田から話があってね。あの時ドタキャンだと騒動になったでしょう? だから『いろんなこと言われたんで、きちっとリベンジしたい』と。それで『ああ、いいよ』って」  岸部と同じくザ・タイガースの元メンバー、森本太郎と瞳みのるもステージに立つ。13年のザ・タイガース復活ツアーには参加した加橋かつみは、今回出演しないという。  ザ・タイガース。1960年代のグループサウンズ(GS)ブームを象徴する伝説のバンドは、今年デビューから57年目を迎えた。  岸部とメンバーとの出会いは中学校時代にまで遡る。森本と瞳とは京都市立北野中学の同級生、それぞれ別の高校に進学したのち、瞳が連れてきて知り合ったのが加橋だ。 「森本とは一番古いし、まあ楽だよね。瞳も中学からいつも一緒だった。大っきいのと小っちゃいのの二人で」  牛乳配達のバイトを瞳に紹介してもらったこともあった。  沢田は岸部、森本、瞳の2学年下になる。 「あのころの一つ二つって大きいよね。沢田は本当におとなしくて。年下の遠慮もあったのかな。いまは全然ないけどね(笑)。沢田と一緒にやりだしたのが、運が良かったと思う。彼がいなかったら僕らは京都止まりだったんじゃないかな」  ザ・タイガースの原形は岸部と森本、瞳、加橋の4人が65年6月に結成したサリーとプレイボーイズだ(岸部の愛称サリーはリトル・リチャードの「ロング・トール・サリー」が由来)。加橋と森本はすでにギターが弾けて、瞳もドラムをたたいたので、岸部はベース担当に。初めて抱いたのは京都の楽器屋で手に入れた4万円の中古だ。練習は西陣の、日本舞踊の小さな舞台の設(しつら)えがあった森本の家が多かった。 「貸しスタジオなんて昔はないから。近所から苦情がくるので、アンプも通さないで、小さな音でね」  ほどなくバンド名をファニーズと変え、翌年、京都市内のゴーゴー喫茶「田園」で先輩バンドの坊やをしながら時折ステージで歌っていた沢田と出会う。 「僕ら4人は誰も歌えないと思ってたんでね。沢田に入ってもらって、ボーカルのいるバンドにしようとしたんだ」 ■5人のバランス 絶妙だった  海の向こうでは、62年にデビューしたザ・ビートルズが瞬く間に世界を席巻していたころだ。オーディションに合格し大阪・道頓堀のジャズ喫茶「ナンバ一番」に出演するようになるとファニーズはファンが増えていった。だが、当時17歳の沢田に後の“ジュリー”の片鱗はまだ見えなかったという。 「僕たちはファッションもアイビーとかコンチとか、全体的に『カッコいい』っていうスタイルを身に着けていたけど、地味~でもっさりしてるのが沢田だったからね(笑)」  だが、「いるかいないか、わからないような内気な少年」は、マイクを握ると不思議な光を放った。当時ブルージーンズにいた内田裕也が前座のファニーズに目を留めたことがきっかけで、渡辺プロダクションからのデビューへ繋がった逸話はよく知られている。 「5人のバランスが絶妙だった」と後年、内田は振り返っている。  大阪時代のファニーズゆかりの地として往年のファンの間で有名なのが、メンバーが下宿していた西成区岸里(きしのさと)の「明月荘」だ。  ここで、ちょっとした新情報をひとつ。 「住んでいたのは1年ほどね。二人で3畳一間みたいなところを3部屋借りたんですよ」と岸部。  3部屋? ずっと「5人で2部屋」と伝わっていますけれど? 「3部屋。僕は瞳と相部屋で、沢田は森本と。で、加橋かつみは一人。それでもかつみは時々、母親のいる実家に帰っちゃったりする。やっぱり共同で二人部屋とか、かつみにはしんどかったのかもわからない」  東京行きが決まると、京都の四条花見小路にある旅館で、メンバーの親も同席して渡辺プロとの契約書にサインした。親側のまとめ役は職業軍人だった岸部の父親が買って出た。66年11月。5人の若者の姿は、開業間もない新幹線の車内にあった。  彼らの人生は東京で一変する。作曲家すぎやまこういちの一声でザ・タイガースと改名し、翌年1月に日劇ウエスタンカーニバルに初登場すると、新宿「ACB」、池袋「ドラム」、上野「テネシー」など都内のジャズ喫茶は連日満員に。2月に出したデビュー曲「僕のマリー」の売れ行きは最初こそ凪だったが、セカンドシングル「シーサイド・バウンド」で人気は爆発する。68年1月のウエスタンカーニバル出演時には、ブルー・コメッツ、ザ・スパイダースら並み居る人気バンドの中でも一頭地を抜く存在となっていた。 「ようやくどうにか一番になったという感じでしたね」。後に沢田は自叙伝『我が名は、ジュリー』で語っている。  上京してわずか1年。飛行機での移動では空港に専用の出入り口が用意され、車で走れば警察車両が先導し、発車時刻に遅刻しそうな時はマネジャーが新幹線さえ止めさせた。 「いきなり、19やハタチで何もかも特別扱いになった。ちょっとやっぱり、生意気になってたでしょうね」 ■GSブームと70年安保闘争  岸部は嵐のような日々を述懐する。住む場所も合宿生活を送った千歳烏山の一軒家から四谷左門町、目黒の池尻大橋と、自宅に押し掛けるファンから逃れるように引っ越しが続いた。ベルベットのジャケットにフリルのブラウス、バレエダンサーのような白いタイツ風の衣装も着た。 「恥ずかしくはなかったよ。ああいう時はああいうふうになるの。5人並んで真ん中にジュリーがいるから一応格好がつく。僕が一人でタイツはいてたら、おかしいでしょ(笑)」  GS全盛期は、そんな時代だった。「でもね」。岸部は言う。 「むつかしいのは、一方では安保闘争をやっている」  東大生の樺美智子が命を落とした60年の安保闘争。学生による反体制運動は続くベトナム反戦運動へとなだれ込み、GSブームの最高潮は、一連の大学紛争が激化した70年安保闘争の時期にぴたりと重なる。 「そんな時に、こっちは女の子相手に音楽やってるわけ。ファンに男なんて誰もいないから肩身が狭い。その肩身の狭さは、外国のほうを見てどうにかしようとするわけですよ。ビートルズとかローリング・ストーンズとか、あっちだってキャーキャー言われてる。『あんなすごいグループと僕らも同じなんだ』と思いながら、やってましたね」  68年6月、「木島則夫ハプニングショー」で、当時社会問題化していたGSと長髪男子の象徴のごとくザ・タイガースが批判にさらされたこともあった。  番組ではアウェー感が演出され、観覧者として参加していた教諭から、「GSファンは大脳が弱い」などという“口撃”も続く中、岸部は毅然と言っている。 「若者を全然理解しないようなのは本当の大人じゃないと僕は思う。だからこれから僕たちが何十年か先、大人になった時は、もっと綺麗な大人になりたいと思います」  日本全体が大きくうねり、転換していた時代だ。変化はメンバーにも生じていた。 「ちょっとずつ考え方に差が出てくるよね。音楽的な趣向が合わないとかじゃなくて、プロダクションの給料制に対してどうだとか、人気に見合うものをもらっているんだろうか、搾取されてどうするんだとかね。周りに『あんたたち、取られてるんだよ』っていう人も出たりする」  アイドル性を重視した渡辺プロのプロモーションも、「日本一のバンド」を目指して出発したメンバー間で少しずつ軋轢(あつれき)の種となっていた。  69年3月、レッスン中に姿を消したまま、加橋は戻らなかった。岸部の弟、シローの加入は話題にはなったものの、すでに瞳の心もグループから離れていた。 「ある日、ウエスタンカーニバルの時に、日劇の奈落にピー(瞳の愛称)に呼び出されてね。『こんな所にいないで、一緒に京都に帰ろう』って言うんだよ」  岸部にはそのころ、すでにザ・タイガースの解散をにらんで、沢田たちと新たなバンドを組む企画が進行中だった。 <なんで帰らないといけないの? 帰ってどうするの? まだやること、こっちでいっぱいあるんだよ> <一緒に帰らないんだったら、お前とはもう会わない> <いいよ> <一生絶交だ> 「子どもじゃないんだけどね。そんなやりとりがあったね」 ■武道館での解散「帰れコール」  71年1月24日、ザ・タイガースは日本武道館でのコンサートを最後に解散した。  公演の後、親や歴代のマネジャーも呼んで、有楽町のガード下にあるちゃんこ料理屋でお別れの食事会が開かれる。内田裕也の主催だった。  会が終わると瞳は、表に待たせていた家財一式を積んだ2トントラックに乗り込み、京都からコンサートを見にきてくれていた中学時代の親友2人と共に去っていった。振り返りもしなかった。 「よくそんな、ねえ。次の日だっていいじゃない(笑)。あの決意はすごいと思うけど」  ザ・タイガースというグループで青春を無駄にしてしまったという「火のような後悔」があったのだろうと、岸部は友の心中を思う。その後、瞳は37年間にわたってメンバーはおろか、芸能界との一切の交流を絶つ。  解散後、岸部は沢田とともに、ザ・テンプターズの萩原健一、大口広司、ザ・スパイダースの大野克夫、井上堯之とPYGの活動を本格始動し2月1日にデビュー。解散コンサートから1週間後のことだった。  PYGが目指したのは本格的なニュー・ロックだ。沢田と萩原のツインボーカル、天才と言われた大野、ミュージシャンに一目置かれる井上も加わり、「GSとは全く違う、もっと上のものを目指そう」と、今までに増して前向きだった。だが──。  出演したロックフェスでは「帰れコール」が飛び、トイレットペーパーや空き缶がステージに投げ込まれた。 「この人たち、ちょっとおかしいんじゃないと思ったぐらい、排除された。GSの残党が金儲けで集まったみたいに思われてるわけだから。出てる方はそんなことないのにね」  GSのファンからも、ロックファンからもそっぽを向かれ、コンサートの客席はガラガラ。メンバーの多忙も重なり、PYGは自然消滅していった──とされているが、実情は違ったらしい。  ある日、岸部のもとに電話がかかってくる。 「俺は、もうちょっと、沢田には勝てないなあ」  声の主はショーケンだった。(次号に続く/敬称略) (本誌・渡部薫)※週刊朝日  2023年5月26日号

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    【30年比較】東大、京大、早慶、MARCH…難関21大学「合格者数ランキング」【1993-2023】

    東京大 / 京都大 / 大阪大 / 北海道大 / 東北大 / 名古屋大 / 九州大早稲田大 / 慶應義塾大 / 上智大 / 東京理科大 / 明治大 / 青山学院大 / 立教大 / 中央大 / 法政大 / 学習院大 / 関西大 / 関西学院大 / 同志社大 / 立命館大進学調査を行う「大学通信」の調査のもと、大学別に2023年と1993年の合格者数の上位校を掲載した。「合格者数」はのべ合格者数で、1人の学生が複数の大学に合格しているケースも含まれる。また、既卒生の合格者も含まれる。高校への調査では、未回答の学校は掲載していない。大学公表値では、推薦など一部の入試方式の合格者が含まれていない場合がある。1993年の早稲田大と2023年の国立大は合格実績のある高校に調査した人数。93年の北海道大と私立大は大学が公表した人数(早稲田大を除く)。93年のその他の国立大はサンデー毎日と大学通信の共同調査。早稲田大は23年が一般入試の合格者のみのため、93年のランキングからは附属・系属校の内部合格者を除いた。高校名は現在の名称。私=私立、公=公立、国=国立(協力/大学通信)【関連記事】東大、京大、早慶…30年で激変! 「難関21大学」合格者数ランキング 渋幕、西大和「急成長」のナゼMARCH合格者数の上位校「大宮開成」「山手学院」 30年間で「伸びた学校」に変えた改革の“中身”

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    熟年離婚を回避するならコレ 最初は恥ずかしくても必ず慣れる“秘訣”とは

     離婚した夫婦の同居期間が「20年以上」の割合は約70年間上昇傾向にあり、2020年では21.5%となっている。熟年離婚せず寄り添って暮らしていくためには。AERA 2023年6月5日号から。 *  *  *  女性の悩みに特化したライフスキル講座LSYを開発し、講座を運営する駒村利永子さんは7年前、40代で再婚。5歳上の夫は再々婚だ。夫婦の老活について尋ねると、すぐ返ってきたのが「パートナーは一番近い赤の他人」。 「長年一緒に暮らしていても、エスパーではないのですから『私の気持ち、察してよ』じゃ駄目。私たちは双方とも離婚経験があり、同じしくじりをしないため、自分が何をうれしく楽しいと感じているか、言葉で伝えることを肝に銘じています」  結婚したばかりの頃こんなことがあった。スノーボードを好きな夫が、「(お金もかかるし)婚約指輪はなくていいよ」と気遣った駒村さんに、スノーボードの道具一式をプレゼント。雪山へ行くことになった。 「好きでもないのに40代で初めてスノーボードをすることがどれだけ酷か。でも夫にとっては、『喜ばせようと思ってしているのに、なんで俺の気持ちが分からないんだ』。帰りの車で大喧嘩になりました」  以来、「ありがとう。でも、私はこうしてくれるともっとうれしい」と、感謝しつつ、しかし自分の気持ちを具体的に伝えるようにしている。大切な内容であればあるほど、ソファに隣同士に座り、相手の体に手を添えながら。 「夫婦の老活で重要なのは、他力と可愛げ。こう言うと特に昭和生まれの女性は『ぶりっこ』『猫撫で声』などとマイナス方向に捉えがちですが、そうではないのです。加齢とともに体力も気力も落ちていきます。笑顔で人に頼り、やってもらうことを増やし、身軽になっていかないと」 ■相手を褒めた方がいい  記者の友人は、夫が家事をするたび「白米の水加減、絶妙!」「磨いてくれたグラス、ピカピカ!」「ちょうど冷奴気分!」と感嘆の声を上げていたところ、夫がめきめき家事の腕を上げた。今では夫が家事のほぼすべてを担当。仕事から帰ると夫手製の料理が食卓に何品も並んでいる。友人曰く、「私がやるのは、私が飲むビールのプルタブを開けるだけ。超幸せ」。 「鏡学」という独自メソッドでカウンセリングを行う鎌田聖菜さんが言う。 「ハッピーになりたければ、自分が笑顔で接する。ご機嫌な毎日を過ごしていると、相手もご機嫌になり、家庭が居心地の良いものになっていきます」  前述の記者の友人の話ではないが、鎌田さんは「褒める」ことの必要性を強調する。 「『バカ旦那/嫁が』なんて周囲に言っていませんか。照れた上ではあっても言葉のエネルギーは大きい。『髪形似合うね』『料理おいしいね』とお互い褒める習慣を作ってください。最初は恥ずかしい。でも、3~4回やったら慣れます。誰だって、褒められたら気分がいい。褒めることは、相手に関心を持つことにもなります」  鎌田さんは、こうも言う。 「熟年離婚に至っても構わないなら、無理に何かしなくていい。でも2人でこの先もハッピーに過ごしていきたいなら、行動を起こすべきです」 (ライター・羽根田真智) ※AERA 2023年6月5日号より抜粋

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    「新しいNISAのおすすめ東証ETFベスト16」 なぜ億り人は投資信託を買わないのか

     「これぞ定番」「個人投資家目線で注目」の東証ETFを、分配金で優雅に暮らす「億り人」が厳選。投資信託ではなく東証ETFを選ぶ理由も。アエラ増刊「AERA Money 2023春夏号」より。  定期的に分配金が支払われる東証ETFは、リタイア後の定期収入がなくなった人にとってありがたい存在。貴重な現金を得られる安定運用資産になるからだ。  現在49歳で、資産1億3000万円から得られる分配金や配当金で優雅な生活を過ごす個人投資家の桶井道さんも、その一人。東証ETFも好む。 「投資の出口戦略まで考えると、ETFのほうが有利だと思っています。老後、年をとって判断能力が落ちる中で、運用資産を計画的に取り崩していくのは大変です。  ネット証券で定期売却サービスがあるのは知っていますが、売却の設定をいくらずつにするか、80歳や90歳になっても金額や率、口数の指示ができるか、私は不安です。  ETFなら、定期的に分配金が支払われるので、自分でわざわざ元本を取り崩さなくても生活費に充てられます」  新しいNISAでは、日本円で分配金がもらえる東証ETFも買うつもりだという。 「海外ETFの分配金はドルで支給されますが、いちいち日本円に両替するのが面倒です。やはり、『分配金が◯万円振り込まれた』と直感的に喜べる東証ETFのほうがラクで楽しい。  東証ETFをたっぷり保有することは、優良株の配当で暮らすのと同じイメージを持っています。  しかも、S&P500やTOPIXが指標のETFなら『倒産』がなく、指数そのものが消滅するようなリスクとは無縁です(笑)」  東証ETFを選ぶ際は、純資産総額や出来高のチェックも大切だという。純資産総額が少なすぎると効率な運用がしづらいだろうし、運用そのものをやめてしまうリスクもある。  ある程度、日々の取引が活発なETFでないと、買いたいときに買い、売りたいときに売れない。メジャーな株価指数に連動する東証ETFなら安心。 「投資信託(以下、投信)の場合、いくらで買えるか事前にわからない点が残念です。私の投資先は海外が多いので、早くて2営業日後にしか判明しません。買い注文を出したあとに金融パニックが発生しても逃げられませんし……」  そこまで心配しなくていい気もするが、桶井さんは投資単位も大きいから、庶民とはリスク管理の度合いが違うのかも。 「投信を買うことは、すし屋のカウンターで値段を気にせず『時価』でおすしを食べる感じと似てるかなぁ」と語っていたが、そこまで……? だが、強烈な「東証ETF愛」は伝わってきた。 「米国以外にもユーロ圏、英国、スイス、インドなどの株式にも投資できます。海外REIT(不動産投信)や金(ゴールド)、債券も買える。しかも日本円で」  新しいNISAでは「iシェアーズ S&P 500 米国株ETF」(1655)や米国の25年以上の連続増配株を集めた「グローバルX S&P500配当貴族ETF」(2236)を買いたいそう。 「ダイワ上場投信-TOPIX高配当40指数」(1651)など、日本の高配当株ETFも物色中と語っていた。 「新しいNISAの成長投資枠1200万円の多くを東証ETFで運用するつもりです。生涯、分配金を非課税で受け取れるマシーンとして有効活用します」 ◯桶井 道(おけいどん)/個人投資家。47歳で資産1億円を達成し、早期退職。「52歳で年240万円の分配金収入」を目標に、世界30カ国の株や東証ETF、海外ETFに投資中 【本記事に入っている図の脚注は以下の通りです】※2023年4月7日現在。東京証券取引所に上場する日本籍のETFからS&P500、全世界株式(MSCI ACWI)、先進国株式(MSCI コクサイ)、国内株式の指数に連動するものを中心に掲載。「iシェアーズ・コアMSCI 先進国株(除く日本)ETF」は「MSCIコクサイ指数(税引き後配当込み、国内投信用、円建て)」。信託報酬は年率、税込み。純資産総額(「みんかぶETF」で時価総額の欄に記載の数字)は億円未満を四捨五入。選者:桶井 道 ※『AERA Money 2023春夏号』から抜粋

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    50代の性行為「男性の8割がしたい」「女性の7割がしたくない」から考える 産婦人科医・宋美玄さん

     50代になると、体力や視力が落ちてくるのと同様に、セックスの方も衰えてくる。人生100年時代といわれる今、人生の折り返しの年齢にある50代は、セックスとどう向き合うべきなのか。産婦人科医の宋美玄さんが解説する。(河出新書『50歳からの性教育』から一部抜粋) *  *  *  50歳前後は、男女とも身体に変化が訪れる年齢です。女性は40代半ばぐらいから卵巣の機能が低下し始め、女性ホルモンの一種、エストロゲンの分泌量が減り、着実に閉経へと向かいます。この時期を更年期と言い、さまざまな不調に見舞われる人も少なくありません。男性も、テストステロンという男性ホルモンの分泌量が減ります。女性と比べると減り方はゆるやかですが、女性と同じような更年期症状が出る人もいます。  これは生殖機能の終わりを意味します。性ホルモンにはさまざまな働きがあり、女性も男性もそれによって身体が機能して健康が守られていますが、基本的には妊娠する、させるために分泌されているホルモンだからです。それがなくなることで、生殖器、性機能の変化を実感する人も少なくありません。とはいえ、下半身だけが特別なわけではないのです。20、30代のときと比べて体力がなくなった、視力が低下した、肌の弾力が失われシワが増えた、脂っこいものを食べた後の消化がいまひとつになった……これまで特に気にすることなくできていた、たくさんのことができなくなる。それと同様に、セックスもこれまでと同じようにはいかなくなります。  一般的に加齢はネガティブに捉えられがちでしたが、近年では誰にでも起きる自然な現象であるからポジティブに受け止めようという動きも見られます。人生100年時代と考えると、長い長い後半戦を暗い気持ちで過ごすのを避けたいと思っての変化でしょう。身近なところでは、白髪は以前は加齢の象徴のように思われ、染めたり隠したりされてきましたが、自然の状態こそが美しいというグレイヘアが定着したのも、その一例でしょう。セックスにおいても同様で、加齢は必ずしもネガティブな出来事ばかりではないと思います。これまでのようにはできないということは、思い込みを捨てる絶好のチャンスと、とらえることもできます。  50歳というのは、そのよい節目ではないでしょうか。衝動に突き動かされるようにしてセックスしていた人も、その頻度が低くなったり程度が弱まったりします。いくつになっても旺盛な性的欲求を感じる人はいますが、それでもだんだん目減りしていきます。そんななかでセックスをしたいと思うなら、いまのうちに「しなければならない」を手放し、考えをシフトしておいたほうがいいと思います。 ■男性器中心主義セックスからの卒業  まず最初に見直したいのが「いつまでも性的に元気でなければならない」という思い込みです。この“元気”は、性的欲求を感じ、セックスを完遂できるまでの性機能が維持されている、というイメージのことです。そして完遂とは男性の射精を意味することとして、ひとまず話を進めます。  先述したとおり、性欲は年とともに低下していきますが、これは性欲を司つかさどる、テストステロンの分泌量が低下するからだと考えられています。男性ホルモンの一種ですが、女性も少量のテストステロンが分泌されています。「セックスしたい」という欲求は、もともと男女差が大きく、年齢が上がるごとにその差はますます開いていきます。20~69歳の男女、約5000人を調査した結果、「セックスしたいか」という問いに対して、「良く思う」「たまに思う」と回答したのは、50代男性で81.2%、60代男性で72.4%だったのに対して、50代女性は30.7%、60代女性は18%という結果が得られました。この年代を見ると「したい男性と、したくない女性」という構図に見えますが、私が日ごろ、クリニックで女性からセックスの悩みを聞いている実感もこれと同じです。  セックスはしたいとあまり思わなくなったけど、肌と肌を重ねたいと思っている女性は一定数います。その妨げとなっているのが、男性の「性器は大きく」「挿入時間は長く」という思い込みです。これは男性だけが囚われているもので、女性からすれば、男性器があまりに大きいと挿入時に痛みが出やすく、挿入時間が長いと腟の潤いがなくなるため、これまた痛みにつながります。この男女のすれ違いについて、私は『女医が教える 本当に気持ちのいいセックス』を出版して以来もう数え切れないほど発信しているのですが、男性に届いているという手応えがありません。これは男性同士で、大きさや挿入時間の長さを賞賛する一方で、サイズが小さく、早く射精することを「劣っている」と見なす文化があるからだと思います。本来なら抱かなくてよいはずのコンプレックスを抱きつづける男性がいて、それによって苦痛が発生している女性がいる……この思い込みで幸せになっている人はいないように思います。  これだけ性器のサイズと、挿入時間が取り沙汰されるのは、セックスを男性器中心に考えていることの表れでもあります。挿入こそがセックスで、それは射精で締めくくられるというイメージは男性だけでなく、実は女性にも広く共有されているのではないかと思います。女性が「セックスは好きではない」「気持ちよくなったことがない」というとき、それはたいてい挿入行為のことを指しています。「前戯は好き」「挿れる前までは気持ちいい」という女性は少なくありません。 「いつまでも元気でいなければならない」という思い込みを、男性が早々に捨てたほうがいいのは、これは裏を返せば「元気でなければセックスできない」ということになるからです。先述したように更年期に差し掛かったということは、生殖機能の終わりを意味します。女性は平均50歳で閉経を迎えますが、男性ははっきりとしたピリオドが打たれるわけではありません。それでも思うように勃起しなくなり、挿入できても射精まで勃起を維持できなくなり……といった具合に、性機能が次第にフェイドアウトしていきます。その時期は個人差が大きく、50歳前後だとまだ実感できない人も多いかもしれませんが、いつかは勃たなくなる日がくるのです。「勃起・挿入・射精ができない」=「セックスできない」となり、自縄自縛の状態に陥ります。そのことを恥と感じ、知られたくないと思いパートナーに触れなくなる男性もいます。これを相手が「自分に魅力がなくなったからだ」「何か悪いことをしたのかもしれない」と受け取って、知らない間に距離が開いていく……これはとても寂しいことです。 ●宋美玄(そん・みひょん)1976年生まれ。産婦人科医。日本新生児周産期学会会員、日本性科学会会員、日本産婦人科学会専門医。『女医が教える 本当に気持ちのいいセックス』(ブックマン社)がシリーズ化するなどヒット作多数。書籍や雑誌、テレビ・ラジオに出演し、女性の性や妊娠について積極的に発信を続けている。ほかの著書に『少女はどこでセックスを学ぶのか』(徳間書店)、『生理だいじょうぶブック』(小学館)、『セックス難民~ピュアな人しかできない時代~』(小学館新書)、『産婦人科医宋美玄先生が娘に伝えたい 性の話』(小学館、カツヤマ ケイコとの共著)など多数。

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    「あまちゃん」待望の再放送に地元も異例の盛り上がり 三陸鉄道には「三陸元気!GoGo号」も走る

     あの「国民的ドラマ」、NHK朝の連続テレビ小説「あまちゃん」が、放送開始10年を記念して、4月から再放送がスタートした。あまちゃんをイメージした、ラッピング列車まで走る。お茶の間だけでなく、地元も、再びあまちゃん熱で盛り上がる。AERA 2023年6月5日号の記事を紹介する。 *  *  *  日本中に笑いと涙をもたらした、あの朝ドラが帰ってきた。 「『じぇじぇじぇ』って、聞くたび元気になります」  都内の会社員の女性(40代)は楽しそうに話す。  2013年に放送されたNHK連続テレビ小説「あまちゃん」だ。東京になじめない女子高校生の天野アキ(俳優・のん)が、母・春子(小泉今日子)の故郷、太平洋に面した岩手県久慈市をモデルにした架空の町「北三陸市」を訪れる。そこで、祖母・夏(宮本信子)に憧れ、海女を目指し、やがてご当地アイドルになり、東日本大震災からの復興に奮闘する物語。驚いた時に使う方言「じぇじぇじぇ」が流行語になり、ロケ地巡りの「聖地巡礼」が始まった。放送終了後には「あまロス」なる言葉まで生まれるなど、社会現象を巻き起こした。その「あまちゃん」のアンコール放送が、放送開始10年を迎えたタイミングで、4月からNHKBSプレミアムとBS4Kでスタートしたのだ。 ■異例の盛り上がり  再放送が始まると連日、ツイッターで関連ワードがトレンド入りするなど、ネット上をにぎわせている。「#あまちゃん」というハッシュタグも立ち、 <泣いて笑って笑って泣いた15分> <エモく懐かしく、胸に響いて…そして爽やかで…。だけど最後の最後はクスッと笑わせてくれる…だから…最高>  といった書き込みも殺到し、異例の盛り上がりを見せている。  冒頭の女性は、「圧倒的にアキがかわいい」と言う。 「地味で暗くて向上心も協調性もない」と言われたアキが、母や祖母など強い個性の人たちの影響を受け、挫折しながらも成長していく。 「話の展開がわかっているのに、アキの夢や恋をドキドキしながら見守っています」(女性)  ドラマのロケ地も再び盛り上がりを見せる。 「じぇじぇじぇ発祥の地」記念碑が立つ、ロケ地の一つ久慈市宇部町。「久慈市観光物産協会」事務局長の向川(むかいかわ)智之さんによれば、このゴールデンウィーク(GW)期間中は、町には多くの老若男女のあまちゃんファンが県外からも訪れた。同協会が入る「道の駅くじ やませ土風館」にある「海女衣装体験コーナー」では、若者が海女の衣装に着替え撮影を楽しんだという。 「あまちゃんのすごさを実感いたしました」(向川さん)  それにしても、10年経っても色褪せない「あまちゃん」の魅力とは何か。  理由は一つではないが、NHKメディア戦略本部でドラマジャンル編集長の下要(しもかなめ)さんは、「元気をもらえるのが一番大きいのでは」と語る。 「頑張れば報われる、明日に向かって進もうというのがあまちゃんのテーマだと思います。もちろん、アキは、悩んだり壁にぶつかったりします。けれど、常に前を向いて乗り越えていく。その姿が、閉塞感があり困難な今の時代を生きる私たちに、元気を与えてくれるのではないでしょうか」 ■圧倒的な総合力  フリーライターで『みんなの朝ドラ』の著書もある木俣冬(きまたふゆ)さんは、10年経って「あまちゃん」の再放送を見て、改めて感じたのは「圧倒的な総合力」だと言う。 「脚本、演出、ヒロイン、バイプレーヤー(脇役)たち、音楽、風景……等々、すべてに力があって、元気をもらえます」  さらに結束力を感じるが、そのモチベーションの第一は、東北を応援したいという気持ちではないかという。あまちゃんは東日本大震災から2年後にできたドラマで、東北へのリスペクトがあり、といってひたすら持ち上げたり気を使いすぎたりするのではなく、あえて田舎の欠点も描いている。宮城県出身の宮藤官九郎さんが脚本だったからか、それにも説得力があったという。  中でも、ひと際光るのは、夏、春子、アキの家族3代だと木俣さん。 「とりわけ、アキは透明感があって清純そうな面もありつつ時には毒づくこともあって、多彩な面があって目が離せません。朝ドラのヒロインはそれまで、たいてい清純一点張りでしたが、アキは表情がとても豊かです」  そしてこう続ける。 「なつかしい1980年代カルチャーも満載。テレビ、演劇、音楽、すべてにおいて日本がやたらと元気で明るく、表現に忖度がなかった頃のパワーが凝縮していたと、10年経って、尊く思います」 ■前に進む勇気  再びの「あまちゃんフィーバー」を象徴するかのように、岩手県沿岸を走る三陸鉄道(三鉄)に、あまちゃんをイメージしたラッピング列車も登場した。車体全面にあまちゃんの名場面や、のんさんにちなんだイラストといった、いわゆる「あま絵」が描かれた「三陸元気!GoGo号」だ。  三鉄は、ドラマでは「北三陸鉄道」と名前を変え登場する。ラッピング列車は、三鉄を応援するあまちゃんファンがクラウドファンディング(CF)で全国から資金を募り、目標額を上回る約791万円を集め、三鉄の協力を得て実現した。  CFの実行委員長を務めたのは、埼玉県に住む今西穂高(ほだか)さん(66)。  13年4月、33年勤めた会社をリストラされた。失意の中、東北を一人で旅している時に放送中の「あまちゃん」を見てハマり、元気をもらった。自分も何かに向かって行動しようという気持ちになれ、前に進む勇気を与えてくれたという。「アキが海に飛び込むシーンが何度かあり、どれも印象的でした。飛び込むとは、恐れながらも勇気を出して新しい世界に入ることを意味しています。自分を変えようとする『覚悟』を感じました」  その後、今西さんは再就職も決まり、三陸地方にも通い三鉄もよく利用するようになると、あまちゃんでも重要な役割を果たす三鉄に親しみを感じた。そして、この三鉄に「あま絵」で飾った列車を走らせたら、楽しく、沿線の人も喜んでくれるだろうと考えるようになり、CFで資金を募ったという。「三陸元気!GoGo号」は、今西さんの命名だ。 「多くの皆さんに三陸を訪れ、きれいな景色や美味しいお弁当を楽しみながら、『三陸元気!GoGo号』に乗っていただきたいと思います」(今西さん) ■再び日本を元気に  4月上旬、三鉄の久慈駅で行われた三陸元気!GoGo号の出発式には、のんさんも駆けつけた。 「たくさんの愛情を感じる列車。沿岸を走るのがすごく楽しみ」  とあいさつ。テープカットをした後、北の海女の姿になり、大漁旗を振って列車を見送った。  ラッピング列車は、久慈(岩手県久慈市)−盛(さかり)(同大船渡市)間の163キロを、10月1日までの毎週土日に運行する。それ以降は、通常ダイヤに組み込んで来年4月上旬まで運行する予定だという。  三陸鉄道も歓迎する。  同鉄道は1984年に開業。かつては、交通手段がなく隣の集落に行くのさえ船で岬を回らなければいけなかった三陸地方を一つにつないだのが三鉄だった。だが、開業時には年間268万人だった乗客数は、沿線自治体の少子化や人口減少、コロナ禍などで21年度は約61万人と4分の1にまで減少。22年度は、燃料費高騰も加わり、2年連続の赤字になる見通しなど厳しい状況が続く。  それだけに、三陸元気!GoGo号への期待も大きい。三鉄によれば、今年のGWは多くの観光客が列車を利用し、駅のホームではカメラを構えたファンが、列車が来るのを待った。4月29日から5月5日までの収入は、対前年を上回り121%になったという。 「今後は、新型コロナウイルスが5類に移行したことから『あまちゃん』の再放送と『三陸元気!GoGo号』の運行によって、たくさんの方に来ていただきたいと期待しております」(三陸鉄道)  あまちゃんが再び、三陸を、そして日本を元気にする。 (編集部・野村昌二) ※AERA 2023年6月5日号

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    「僕の行く場所にマーツーあり」 俳優・佐藤二朗が30年連れ添う妻に言われた戦慄の一言

     個性派俳優・佐藤二朗さんが日々の生活や仕事で感じているジローイズムをお届けします。今回は「動線」について。 *  *  *  30年近く一緒におりますと、動線まで似てくるんでしょうか。  最近、家の中で、僕が動く場所に、妻も動くんです。  あるいは妻が動く場所に、僕が動くんです。  僕が洗面所に行くと、妻、いわゆるマーツーも、別の用事で洗面所に来るんです。  リビング、キッチン、ベランダ、トイレ………とにかく僕が行こうとするところにマーツーが来るんです。  ただ、マーツーは逆の認識を持っているようで、 「どうして私の行く方、行く方、来るのよ」と言われます。 「夫婦は似てくる」とはよく聞きますが、そしてマーツーは「君とは何から何まで全っ然っっ違うんだから似てるわけがないっっっ!!!」と、この説を全身全霊で否定しますが、尋常ならざる確率で、僕の行く場所にマーツーあり、なのです。  もっとも、広い住まいでもありませんし、たまたま同じ場所に動くなんてことはさほど不思議ではありませんが。  さて。  どうしましょう。  この話、全然オチがありません。  少しでも当コラムをお読み頂いたことのある読者諸兄はご存じだと思うのですが、常に僕はこのコラムを、ノープランの思いつきで書き進めております。当コラム、連載開始から5年の月日が経ちますが、5年間、雨の日も風の日も、真夏の灼熱の日も、吐く息白い冬の日も、いつだってノープラン&思いつきで書いてきたのです。  なぜにそんなにノープランと思いつきを誇らしげに自慢してるのか自分でも分かりませんが………あ、ちょっと待ってください。先日こんなことがありました(←ホントに思いつき)。  マーツーが、家の中の各部屋のゴミを、1つにまとめてくれておりました。  その時も、僕が洗面所にいたら洗面所のゴミ、リビングに移動したらリビングのゴミ、僕の部屋に移動したら僕の部屋のゴミ(注・あくまで僕の脳内。マーツーの脳内ではおそらくすべて逆)、といった具合に僕の行く方、行く方に、ゴミの回収にやって来るマーツー。  しかもこの時は、空になったゴミ箱を、いちいち僕の用事の邪魔になるところにマーツー置くんです。  思わず僕が「ちょ、お母さん、ゴミ箱の位置、邪魔なんだけど」と言うと、マーツー、ボソリと、 「………お父さんの存在が邪魔」。  ちょ、ごめんなさい、いま書いてて背筋に悪寒が走りました。改めて書いてみると怖いなコレ。やはりノープランの思いつきで書くべきじゃないな。いやでも、ホントにマーツー、そう言ったのです。ゴルゴ13のような目で、重く低い声で僕にそう言ったのです。片手にライフルではなく空のゴミ箱を持ったデューク東郷です(←ゴルゴ13の主人公ですな)。  オチがなくて困っていたら、わりとほの暗いオチが待っていたわけですが、せわしなく家事を担ってくれている(もちろん家事は終わりなき大仕事。可能な限り分担すべきだと思っております)、そんなマーツーの邪魔にならぬよう、デューク東郷の標的にならぬよう(既になってたらどうしよう)、自宅での位置取りに気を配りたいと思っております。  さて最後に1つ宣伝をば。  年に一度、若い俳優たちに力試しの場を提供しようとの企画、舞台「ラフカット」。毎年4人の作家が約30分の短編脚本を提供し、キャストは全員オーディション。僕は4人の作家の1人として、16年前に書いた短編脚本を提供しています。舞台「ラフカット 2023」は、6月7日から6月11日まで新宿スペース・ゼロにて。  ご高覧頂けたら幸いっす。

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    13時間前

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    データサイエンスは就活に有利、「年収数千万円」の卒業生も 玉城絵美・琉球大教授が語る理工系の魅力と課題

     大学や大学院で「情報・データサイエンス畑」を歩み、起業家・研究者として活躍している琉球大学工学部教授の玉城絵美さん(39)が語るデータサイエンスの魅力と理系女子へのアドバイスとは――。AERA2023年6月5日号の特集「変わる大学・高校」から。 *  *  *  10代の頃から先天性の心臓病で入退院を繰り返していました。そんな生活を送る中で、「ロボットの技術を使って自由に外出できないか」と考えたのが、琉球大学工学部情報工学科(現・工学科知能情報コース)を志望したきっかけです。これがのちに私たちが「ボディシェアリング」(重さや抵抗などの固有感覚を他者やロボットと共有する技術)と提唱する概念を生む原点になりました。 「ボディシェアリング」の技術を実現する上で基礎になるのはデータサイエンスです。データサイエンスによって得られた知見に基づいて、AIを構築する複雑系工学という分野の研究を進める必要がありました。これらを習得するのに私が選んだ学科はベストマッチでした。データサイエンスの知識を習得したおかげで、「ボディシェアリング」実現に必要となる生理学や心理学といった専門分野以外の知識の習得もスムーズでした。特に認知心理の分野は統計学が必須のため、すごく助かりました。また、ベンチャー企業の創業や運営に不可欠なマーケティングにおいても、データサイエンスの知識が非常に役に立っています。つまり、研究だけでなく、ビジネスにも活用できる学問なのです。  数学が苦手という人も諦めないでください。私も数学は「ちょっと好き」という程度でした。琉球大学教授になる前の4年間、早稲田大学人間科学部で「データリテラシー」の講義を担当しました。文系学生が多いこの学部で、数学を苦手とする学生がデータサイエンスの知識を習得していく様子を見て、データサイエンスを応用するスキルは文系理系を問わない、と実感しました。統計学はツールとして必須ですが、パソコンを扱えれば大丈夫というくらいの気持ちで臆さずトライしてください。  データサイエンスの知識を有していることは、就活でもかなり有利に働きます。私の元に「GAFAM」(グーグル、アマゾン、フェイスブック、アップル、マイクロソフト)から「データサイエンスを修めた優れた学生はいませんか」という問い合わせが来るほどです。私が指導した学生は、広告会社や官公庁、メーカー、コンサルタント会社などに就職し、経営企画戦略やマーケティングなど重要な職種を任されています。データサイエンス+コンピュータービジョン+AIまでしっかり勉強した学生は年収数千万円の会社に就職しています。学部卒でもプログラミングとデータサイエンスを習得した学生は国内企業で年収600万円ほどを得ています。  気になるのは理工系の女子が少ないことです。理工系を選ぶと結婚や子育てなどのライフステージに不利に働くという固定観念が残っているように感じます。実際は、就活に有利なだけでなく、修士課程まで進めば転職しやすかったり、福利厚生の行き届いた企業を選択できたり、と生き方の幅が広がります。  とはいえ、女性への偏見が根強いのは事実です。私も大学の研究室で回路設計した際、「本当は男子学生に作ってもらったんでしょ」と言われた経験があります。横にいる後輩の男子学生には私がいろいろ教えてあげる立場だったんですが(笑)。女性の仲間が少ないことに不安を感じる人もいるかもしれません。でも、結束はすごいです。ほとんどの女性の先輩たちが助けてくれます。私も指導した女子学生たちとは卒業後も強いつながりを維持しています。先輩たちを頼りに、ぜひ新しいことにトライしてください。待っています。 ◯たまき・えみ/沖縄県出身。琉球大学工学部を卒業後、筑波大学大学院、東京大学大学院を修了。早稲田大学人間科学学術院人間情報科学科助教・准教授を経て、琉球大学工学部教授。今春から東京大学工学研究科システム創生学専攻教授(特定客員大講座)を兼務。2011年に手の動作を制御する装置PossessedHandを発表し、米誌「TIME」の「世界の発明50」に選ばれる。12年にベンチャー企業「H2L」を創業(現CEO) (構成/編集部・渡辺豪) ※AERA 2023年6月5日号

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    22時間前

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    「最高の教師」主演の松岡茉優 SNSでの“地味”の声を乗り越えて代表作となるか

     7月からスタートするドラマ「最高の教師 1年後、私は生徒に■された」(日本テレビ系)で、主演を務める女優の松岡茉優(28)。松岡が演じるのは、卒業式の日に生徒の誰かに突き落とされる高校教師。始業式の日に遡り、生徒30人と向き合って真相を突き止めていく学園サスペンスで、松岡は教師役に初挑戦する。  本作は2019年に放送され人気を博した菅田将暉主演ドラマ「3年A組-今から皆さんは、人質です-」(同)を手掛けたプロデューサーと監督が参加。さらに、7年ぶりの民放連続ドラマとなる芦田愛菜が生徒役で出演することもあり、注目が集まっている。ただ、SNS上では「松岡茉優だとなんか地味」「主役のオーラを感じない」など厳しい声も見受けられる。松岡の地上波連続ドラマ主演は20年放送の「おカネの切れ目が恋のはじまり」(TBS系)以来となるが、注目のドラマで主演俳優としての存在感を発揮できるか。 「もともと、演技力に定評のある松岡さんですが、最近の出演作でも好演しています。昨年放送されたドラマ『初恋の悪魔』では二重人格者役で、表情やセリフのトーンで異なる性格を演じ分けるだけでなく、一瞬にして人格が変わったこともわかる高い演技力に称賛の声が集まりました。また、4月までWOWOWで放送された主演ドラマ『フェンス』では、沖縄を舞台に性的暴行事件の真相を追う雑誌ライターという骨太な役を熱演。今回の主演ドラマも重たそうな役柄ですが、難しい役を演じてきた松岡さんにはぴったりハマるでしょう」(テレビ情報誌の編集者)  松岡といえば、17年公開の映画「勝手にふるえてろ」で日本アカデミー賞優秀主演女優賞、18年公開の映画「万引き家族」で同賞の優秀助演女優賞を獲得するなど、その演技力の高さは誰もが認めるところだろう。  役者としてのプロ意識も高い。「Real Sound」(22年9月19日配信)のインタビューでは、「役作りをするうえで意識していること」について、その人物の気持ちやメッセージは原作や脚本の中にあると思っていると発言。演者である自分は、いかにその気持ちやメッセージを取りこぼさずに演じられるか、その役割を務め上げられるか、だと思っていると明かした。俳優として「コマ」に徹しようとする一面も、視聴者が信頼できるところなのだろう。  また、「タウンワークマガジン」(22年3月4日配信)のインタビューでは、「作品にはたくさんのお金や人が関わっていて、見てくださる方がいることで対価が発生し食べていける」と周囲への感謝の気持ちを述べている。そのうえで、「受け手の皆さんにより楽しみにしていただける作品に携わりたいと思いますし、そのピースの一つになれたら」と思いながら仕事をしているという。 「今回は、若い生徒役との共演も楽しみです。というのも、以前に『同年代よりも新しく出てくる女優さんのほうが気になるかも』とインタビューで話していたことがあります。若い人はかつて自分が持っていた気持ちや考えを持っており、そこがたくましいと感じると同時に、自身も身が引き締まるんだとか。また、『あんな人になりたいと思ってもらえるように頑張っていかないと』とも話しています。若い俳優たちと切磋琢磨(せっさたくま)することで、より良い作品になり、生徒役から次世代のスター候補が現れれば松岡さんの代表作になる可能性もあります」(前出の編集者) ■「華があるタイプではない」  さらに「ビジュアル的にもさまざまなキャラクターになれるところが松岡さんの魅力」と言うのは民放ドラマ制作スタッフだ。 「自身の顔立ちについて『華があるタイプではない』と、過去に映画賞の授賞式で話していたのは印象的でした。一方、役柄によって化粧や髪形を変化させるだけで、雰囲気を変えられるというメリットがあり、自身の顔は気に入っているそうです。そんな松岡さんだからこそ、幼く見えない説得力ある教師役を演じることができそうです。子役時代は『オーディションに200回落ちた』と告白していたこともあり、実は努力家で叩き上げという一面もあります。今回のドラマも、きっちり仕上げてくるでしょう」  芸能評論家の三杉武氏は松岡についてこう述べる。 「松岡さんは映画やドラマ、舞台とジャンルを問わず、自身が存在感を放つだけでなく、共演者を引き立てる繊細さやバランス感覚に優れています。もともとは子役出身で中学生のときに『おはガール』として活動していたこともあり、実は芸歴も長い。13年放送のNHK朝ドラ『あまちゃん』では作中に登場するアイドルグループのメンバーとして出演していましたが、自身もモーニング娘。の大ファンとして知られています。以前、自身の主演ドラマとのコラボでハロプロのフェスにサプライズ出演した際には、モーニング娘。メンバーとともにセンターポジションで見事な歌とダンスを披露しました。さまざまな才能を武器に、年齢を重ねてからも息の長い活躍が期待できるでしょう」  松岡が「教師」としてどんな顔を見せてくれるのか、今から楽しみだ。 (丸山ひろし)

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    18時間前

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    MARCH合格者数の上位校「大宮開成」「山手学院」 30年間で「伸びた学校」に変えた改革の“中身”

     この30年間でMARCH(明治・青山学院・立教・中央・法政)への大学合格者数を伸ばしている高校がある。どんな教育方針なのだろうか。埼玉の大宮開成と横浜市の山手学院を取材した。AERA 2023年6月5日号の記事を紹介する。 *  *  *  駿台予備学校によると、5月の「駿台全国模試(ハイレベル)」では理系3教科型の受験者数がこの30年間で約2万人から約2万7千人に増加。それに対し、文系3教科型は約2万3千人から約1万1千人に減少した。まさに文理逆転の構図である。  駿台入試情報室部長の城田高士さんは、この30年間で「伸びている学校」の共通点を指摘する。 「やらされるのではなく、自分から進んで学ぶ自主性のある生徒さんが多い印象です。『入試ってイヤだよね』ではなく、『入試があるから頑張れる』というロジックを持っている生徒さんが多いように思います」  生徒の自主性を育てるには、周りの教職員がどうサポートするのかも重要だ。埼玉の大宮開成もこの30年で実績を伸ばし、立教、中央、法政の3大学で1位に。今やMARCHの合格者数トップを誇る進学校になった。  同校は1959年に女子校として設立。大学進学を希望する生徒はほとんどいなかったが、96年に打ち出した「学校大改革」で大きく変わる。渡邉涼也進路指導部長は言う。 「進学にも力を入れようと、97年から共学化。特進コースを設置しました。ただ、大学受験のノウハウはなく、ほとんどゼロからのスタートでした。若手教員は予備校講師の授業を見学して、受験指導というものを学びながらやっていました」  他校の受験生に追いつくために、学びの環境を整えた。すると、初年度から早慶に受かった生徒が1人。結果が出た。 ■人の発想力は2のn乗  現在、予備校講師による授業はなくなった。年月が経つにつれ教師の授業も洗練されていったからだという。 「受験戦略も担任が主軸となって組み立てるので、進路指導部長の私は資料を渡すだけ。もともと進学校ではなかったこともあり、先生が自由にやれる余白があるのも大きいです」  渡邉さんはそう言い、今では「教員全員が進路指導部のよう」と、自信にあふれる。  横浜市の丘陵地にある山手学院も、青山学院や明治、立教への合格者数をぐんと伸ばしている。創立当初からグローバル教育に力を入れ、近年は国公立への進学者数も増えた。 「リーダーとして活躍する人になるには、いろんな発想をしていかなければいけない。持論ですが、人の発想力は2のn乗に比例するという感覚があります。そのnは知識の量なんです」  そう説明するのは、時乗洋昭校長だ。nの幅を広くするために、文系や理系、ひいては芸術まで学べる環境のほうがいいと考えたという。授業のほかにも、土曜講座として韓国語やタイ料理を学ぶ時間もある。保護者が参加できるものもあり、親と子ども、学校とがコミュニケーションをとる場にもなっている。 「生徒の自発性を重視するのは、大学受験でも同じです」  時乗校長がそう話すように、生徒が行きたいところを自発的に目指せる環境が、実績へとつながった。このnの考え方と受け止め方こそ、30年間での成長力につながっているに違いない。(編集部・福井しほ)  ※AERA 2023年6月5日号より抜粋

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    小島よしおが「なんで本を読まないといけないの?」と聞く中1女子に伝えたい、意外な“理由”とは

    「なんで本を読まないといけないのか」という相談を送ってくれたのは、中学1年生の女の子。数多くの子ども向けライブを開催し、YouTubeチャンネル「おっぱっぴー小学校」も人気の小島よしおさんが子どもの悩みや疑問に答えるAERA dot.の本連載。月に5~8冊読んでいるという小島さんが考える、本の魅力とは? 読書の時間が楽しくなるヒントも聞きました。 *   *  * 【相談40】なんで本を読まないといけないのか。学校でも「読書の時間」というものがあり、日本語と英語の本を読むように言われている。いまではほとんどの人がスマホを持っているのに、わざわざ本を買わなければいけない理由を知りたいです。(ぷりん・中学1年生・女子) 【よしおの答え】 ぷりんピーヤ、いろんな情報の受け取り方がある時代に、疑問を持てるってすばらしい!ぷりんちゃんが言うように、いまはスマホがあればすぐにいろんな情報にたどり着くことができる。ネット検索すれば知りたいことの答えはだいたい出ているし、もっと詳しく知りたかったら誰かが動画で解説してくれているし、もちろん電子書籍もあるからね。  だけどいまでも多くの学校が読書を推奨していると思うし、学校には図書館が必ずあるよね。よしおが小学生のころから「本を読もう」とは言われていたし、誰の言葉かわからないけど「本は心の栄養」って言ったりもする。簡単に情報を得られる世の中で、どうしていまだに読書がすすめられるのか、よしおと一緒に考えてみよう!  まずはよしおの“読書体験”から話してみようかな。よしおは“読書家”って大きな声で言えるほどじゃないけど、本を読むことが好き。だいたい月に5~8冊は読んでいるかなあ。本を読むと新しいことを知ることができるのはもちろんだけど、“本を読んでいる俺、なんかかっこいいなあ!”って思うんだ(笑)。  よしおの後輩も、「明治神宮外苑のイチョウ並木(道沿いにイチョウの木がたくさん並んだ東京の名所だよ!)のベンチで村上春樹を読む自分に酔いしれていた」って言っていた。よしおも、大学時代は古めの喫茶店に入って芥川龍之介とか夏目漱石とかを読んで自分に酔っていたよ(笑)。「そんな目的で本読むの?」と思うかもしれないけど、これがけっこう充実した時間なんだ。 ■目で追いかけてページをめくる本の魅力  じゃあなんで本を読むとそんなに充実感があるのか、考えてみた。まずは、紙の本と電子書籍の違い。電子書籍は、スマホやタブレットが1台あれば何冊も持ち歩くことができるね。家でも、本を置く場所をとらないからスペースに余裕ができる。紙を使わないから環境にもいいかもしれないね。  ただ、スマホやタブレットには誘惑が多い。誰かからメッセージが来たり、SNSをついチェックしてしまったり……。一方本は重くてかさばるけど、文字を追うのに集中できる。誘惑がないからこそ、本の世界に集中できるんだ。  そしてなんといっても、紙の本は1冊読み終えると達成感がある。ランニングをして目的地に着いたようなね。物として実際に目に見えるから、「ああ、俺これだけ読んだんだなあ」って実感できるんだ。電子書籍もいいと思うけど、達成感を得たくて紙の本を読んでいるっていうのもあるかもしれないなあ。  じゃあ次にスマホで得られる情報と本で得られる情報の違いについて考えてみよう。ネットの情報はすぐに何かを知りたいときには調べればすぐに答えが出てくるからすごく便利だね。それに対して、本は読むのに時間がかかるけど、情報がきっちり整理されていてまとまっている。  ネットの情報が全て間違っているわけではないけど、正しいかどうかを見分けるのは至難の業。だけど本はいろんな人の目を通って出版されているから、信頼できると思うんだ。それに、自分の考えを整理したり、知識を深めたりするときに、切り取り記事よりも順序だてて物事を考える手助けになるのが本なのかな、って思う。  自分に蓄積される知識の量も違う気がするんだ。不思議なもので、ネットサーフィンをしていると情報がどんどん流れていってしまう感じがするんだよね。反対に本は、自分の目で追いかけて自分の手でページをめくるっていう能動的な行為だから、情報を自分で手にしている感じがする。そうすると、自分のなかでもどんどん知識が重なっていくのを感じるんだ。  本を手にする過程も、よしおにとっては大切な時間。ネットですぐに本を買うことはできるけど、よしおは本屋さんや図書館に行くのをおすすめしたい。自分が欲しい本以外にも、いろんな情報が一気に目に飛び込んでくる環境だから、とても刺激があるんだ。自分では気づいていなかったけど実は興味を持っていたことが目に入ってきたり、自分には興味がないことでも周りの人が興味を持っていることが何かわかったりする。それを体験するのが楽しいんだ。  ネットで本を買うのと比べて、入ってくる情報量が全然違うんだよね。寄り道ができるっていうか、余白を感じるというか。それを感じたくて、本が欲しいときにはなるべく本屋さんに行くようにしているよ。 ■本は読み切らなくてもOK!  ここまで一方的によしおが思う本のすばらしさを伝えてみたけど、何かピンときたかな? 自分で実感しないとわからないことだから難しいかなあ。ところで、ぷりんちゃんの学校の「読書の時間」は決められた本を読むのかな。それとも読む本の内容は自由で、日本語の本と英語の本を自分で探してきて読むのかな。  もし自分で本を選べるなら、とにかくいろんなジャンルの本を手にとってみたらどうだろう。学生のころって、「本は最初から最後まで1冊読み切らないとだめ」って思い込みがあるかもしれないけど、もし読んでいる本が「ちょっと読むの苦しいな」って思ったらどんどん違う本に切り替えてOK! よしおも、同じ内容の本でも読む時期によって、読みやすいときとそうでないときがあるんだよね。その情報を欲しているときにスラスラ読めるのかも。喉が渇いているときっていっぱい水飲めるよね? そんな感覚に近いかな(笑)。  本って小説もあれば知識を得る教養系の本もあるし、いろんな人の経験や考えが書かれたエッセーとかコラムもある。本っていろんなジャンルがあるから、絶対に好きなものがある気がするんだよなあ。もし許されるなら「読書の時間」に複数冊机に置いて、いろんな本をかじり読みするといいかも。「これなら読める!」という本に出合えたら、そこから本を読む面白さや知ることの面白さを知ることができるかもしれないね。  決められた本を読まなきゃいけないなら、それをゲームにしちゃうっていう手もあるかな。例えば、決められた時間に何ページ読めるか毎回ページ数を数えてみるとか、クラスの子と読んだ本の内容のクイズを出し合うとか。「このとき、主人公は何色の服を着ていたでしょう?」とかね。  そもそも本が苦手なようだったら、漫画や映像から入るのもありだと思うよ。よしおは湊かなえさんの『Nのために』っていう本はドラマが面白くて、もっと内容を知りたいと思って小説を買って読んだんだ。より作品を楽しめるし、ドラマで描かれていないストーリーも知ることができたよ。  だけど、必ずしも本を買わなきゃいけないってことはないし、読まなきゃいけないってこともないと思う。本を読まなくてもいいと思う人がいるのは別に悪いことじゃないからね。それに、「~しなきゃいけない」って義務のように感じて苦しいよね。  でも、学校で決められた課題をそう簡単に覆すことはできないから、せっかく設けられた時間なら「こうしたら楽しいかな」って考えられたらいいな、ってよしおは思う。それに、よしおは本のおかげで充実した時間を過ごせているから、少しでもその良さがぷりんちゃんにも届くといいなあ、と思う。本の楽しみ方って実はいろいろあるからね。ぷりんちゃんが相談を送ってくれたことをきっかけに、何かが少しでも変わったらうれしいな!  ……って、僕は思うんだけど、君はどう思うかな? (構成/濱田ももこ) ●小島よしお(こじま・よしお)/1980年、沖縄生まれ千葉育ちのお笑い芸人。早稲田大学教育学部国語国文学科卒業。「そんなの関係ねぇ!」でブレーク。2020年4月からYouTubeチャンネル「小島よしおのおっぱっぴー小学校」で子どもの学習を支援する動画を公開。キッズコーディネーショントレーナーの資格を持ち、子ども向けのイベントを多数開催している。 【質問募集中!】小島よしおさんに答えてほしい悩みや疑問を募集しています。お気軽にお寄せください!https://dot.asahi.com/info/2021100800087.html

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    【30年比較】東大、京大、早慶、MARCH…難関21大学「合格者数ランキング」【1993-2023】

    東京大 / 京都大 / 大阪大 / 北海道大 / 東北大 / 名古屋大 / 九州大早稲田大 / 慶應義塾大 / 上智大 / 東京理科大 / 明治大 / 青山学院大 / 立教大 / 中央大 / 法政大 / 学習院大 / 関西大 / 関西学院大 / 同志社大 / 立命館大進学調査を行う「大学通信」の調査のもと、大学別に2023年と1993年の合格者数の上位校を掲載した。「合格者数」はのべ合格者数で、1人の学生が複数の大学に合格しているケースも含まれる。また、既卒生の合格者も含まれる。高校への調査では、未回答の学校は掲載していない。大学公表値では、推薦など一部の入試方式の合格者が含まれていない場合がある。1993年の早稲田大と2023年の国立大は合格実績のある高校に調査した人数。93年の北海道大と私立大は大学が公表した人数(早稲田大を除く)。93年のその他の国立大はサンデー毎日と大学通信の共同調査。早稲田大は23年が一般入試の合格者のみのため、93年のランキングからは附属・系属校の内部合格者を除いた。高校名は現在の名称。私=私立、公=公立、国=国立(協力/大学通信)【関連記事】東大、京大、早慶…30年で激変! 「難関21大学」合格者数ランキング 渋幕、西大和「急成長」のナゼMARCH合格者数の上位校「大宮開成」「山手学院」 30年間で「伸びた学校」に変えた改革の“中身”

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    息子が語る黒川紀章と膨大な借金「とにかく努力の人だったと知った」

     TOKYO FMのラジオマン・延江浩さんが音楽とともに社会を語る、本誌連載「RADIO PA PA」。今回は中銀カプセルタワーと黒川紀章さんについて。 *  *  *  銀座8丁目の中銀(なかぎん)カプセルタワービルが昨年姿を消した。11階建てと13階建て2棟に140個のカプセルユニットがあり、SONYのAV機器が据え付けられ、円形の窓が近未来を示し、一つ一つのカプセルの中で日々の生活が営まれていた。  新陳代謝を意味する建築運動「メタボリズム」のリーダーだった黒川紀章はその象徴として中銀カプセルタワーを設計、1972年に竣工した。「時代の変化に沿って建物は変化し、増殖していくべきだ」。カプセルを交換しながら200年維持する構想だったが、どれか一つを取り換えるのが難しく、全てを一挙にという手法も所有者の意見がまとまらなかった。  時代に建築は即応するべきと黒川が唱えたが、このビルの消滅は衰退の一途を辿(たど)る日本のディストピアを示していた。これもまたメタボリズムなのだろう。  ギャラリーを営んでいる友人から誘われた。軽井沢にカプセルが遺(のこ)されているという。山の中腹で待っていると、先導のためにスポーツカーが下りてきた。「こんにちは」。降りてきた黒川未来夫(みきお)は長髪でロックミュージシャンのような風貌だった。世界に名を知られた建築家の息子は50代半ばだが、切れ長の目は父に似て鋭い知性を感じさせ、少年のような印象を持った。「カプセル建築は可能性が無限。都会にそびえ立つ中銀カプセルタワービルに対し、小さなサマーハウスを作ることでその可能性を示したかったようです」  外から眺めるとサマーハウスは森の中でひっそり呼吸しているように見えた。国内外で出版された黒川紀章作品集、レコード……。そこかしこに父の匂いのする品々が置かれた部屋で彼は話し始めた。 「父の周辺にはいたくなかったんです」。受けたのは東京藝術大学だが、建築ではなく美術学部。「藝大? 受かるわけない」と父の言葉も聴こえてきたが「2浪の末、合格しました。美術学部絵画科油画専攻です。この科が日本で現代美術を勉強する上で適した場所だと聞いていたから」  父が亡くなり息子は父の会社を継ぐが、そこには膨大な借金も残されていた。 「父は世界のコンペで闘い続けていた。そのためにも運転資金を必要としていたんですね。父が死ぬとたちまち資金が枯渇して……」  父の会社で激務の中、役員、社員から父のことを毎日のように聞く日々が始まった。もちろん良いことばかりではない。怒鳴られたり、叱咤(しった)されたり。殆(ほとん)ど知らなかった父の日常が見えてきた。「睡眠は3時間以内。それ以外は事務所での設計か、本を書くか、読書か。とにかく努力の人だったと知ったのです」  息子は父の作品を語った。「森の中の空港というテーマで設計されたクアラルンプール新国際空港は連鎖する森のような機能に対するデザインが高い次元にあるし、大阪の国立文楽劇場には伝統的なディテールが編み込まれ、それでいて和の建築ではない。見事と思った」  改めて話を聴いたのは半蔵門のビルの一室。夕刻になり、隣の建物も彼の父の作品だと気づいた。そのワコール麹町ビルを見上げ、今度一緒に黒川紀章が関わった建築を観て歩きたいと思った。 延江浩(のぶえ・ひろし)/1958年、東京都生まれ。慶大卒。TFM「村上RADIO」ゼネラルプロデューサー。小説現代新人賞、アジア太平洋放送連合賞ドキュメンタリー部門グランプリ、日本放送文化大賞グランプリ、ギャラクシー大賞など受賞。新刊「松本隆 言葉の教室」(マガジンハウス)が好評発売中※週刊朝日  2023年6月2日号

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    ヘンリー王子とメーガンさんにすきま風 「3年持つはずがない」がここにきて現実味

     5月6日、国王チャールズ3世(74)の戴冠式が執り行われた。規模は縮小されたが、歴史と伝統を尊重した荘厳な式であった。国王に続いて、王位継承順位1位のウィリアム皇太子(40)と2位のジョージ王子(9)を国民の前に示して、王室の継続性と安定性をアピールした。  王室の慶事に暗い影を落としたのは、ヘンリー王子(38)だった。わずか28時間ほどの滞在で、他の王族との交流も深めず、まるで逃げるようにアメリカに帰った。それなら妻子と合流した王子はさぞ幸せであるかというと、聞こえてくる話はそうではない。いつでも手を握り腕を絡ませる王子とメーガンさん(41)だったのに、風向きが少々変わってきたようなのだ。  5月19日は2人の5回目の結婚記念日だった。アツアツの写真やコメントを予想する向きも多かったが、何も出てこなかった。メーガンさんの戴冠式欠席の理由は、アーチー王子の4歳の誕生日を祝うためとされた。しかし、パパとママと妹リリベット王女(1)に囲まれた彼の笑顔を見ることはなかった。戴冠式翌日に目に飛び込んできたのは、メーガンさんが、イギリスから帰国しているはずのヘンリー王子とではなく、友人やボディーガードとハイキングする姿だった。  5月20日、イギリスのタブロイド紙は、ヘンリー王子は自宅近くの高級ホテルにメーガンさん抜きで利用する秘密の部屋をキープしていると報じた。「王子は、ここをメーガンさんからの逃げ場と考えている」との説明だ。またさらに、会員制クラブ、サン・ヴィセンテ・バンガローズにも王子は頻繁に通う。バリーズ・ブートキャンプで汗を流した後は決まって立ち寄る。プライバシーが究極の贅沢とうたうクラブハウスには、写真撮影禁止など厳格なポリシーがある。王子は「隠れ家」を少なくとも2カ所持つとのニュースが広がると、夫妻の広報担当者があわてて否定した。  一方、メーガンさんは仕事にまい進する。ネットフリックスで王室生活をテーマにした長編映画を制作する意欲を見せているのだ。以前に生い立ちをもとにしたアニメーション「パール」をネットフリックスから公開しようとしたが、中止になった。やはりネットフリックスは英王室の裏話を生々しく明かしてほしいし、メーガンさんもそれに応えたい。しかし、ヘンリー王子は必ずしも賛成していない。むしろイギリスに家族で帰る希望さえ持つという。  そもそも王子夫妻が2018年に結婚したとき、イギリスのメディアから「3年持つはずがない」と言われた。結婚2年足らずで王室離脱、オプラ・ウィンフリーさんのインタビューを受け、「ハリー&メーガン」のドキュメンタリー番組を公開し、ヘンリー王子は暴露本『スペア』を出版した。いずれもテーマは英王室批判で、それによる収入も莫大だ。こうしたことから二人の人気はイギリスはもとより、アメリカでも凋落傾向にある。  しかしメーガンさんは、しぶるヘンリー王子を置きざりにしてでもさらにスーパースターへの道を駆け上がりたい。先日は、大手エージェンシーのウィリアム・モリス・エンデヴァーと契約、芸能活動などに力を入れていく。メーガンさん担当とされるCEOアリ・エマニュエル氏の兄は、オバマ元米大統領の首席補佐官で元シカゴ市長、現在の駐日大使だ。政界進出の夢を捨てていないメーガンさんにとっては重要なコネになる可能性がある。自分には公爵夫人、子どもたちには王子と王女の称号を得た。もう、ヘンリー王子は必ずしも必要がないのかもしれない。夫妻の目指す方向には徐々にずれが生じている。  メーガンさんが前夫に離婚を告げる際は、封筒に婚約・結婚指輪を入れて送り付け、それきりだった。父親との関係もそうだ。心臓病で緊急手術を受けようと、「孫と会いたい」と繰り返そうと、関係修復の姿勢を見せない。メーガンさんは、英王室に入るときに閉鎖したブログ「ティグ」を再開する予定だ。ヘンリー王子と出会う前のティグには次のような言葉がつづられている。「自分を完成させるのに他人は必要ない。自分一人で十分だ」。ヘンリー王子とメーガンさんの不仲説は、離婚へと突き進むのだろうか。 (ジャーナリスト・多賀幹子) ※AERAオンライン限定記事

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    【追悼】上岡龍太郎さんが生前語った“隠居の極意”「食事は一日500円」

     元タレントの上岡龍太郎さんが5月19日、肺がんと間質性肺炎のため死去した。81歳だった。  上岡さんは1942年、京都市生まれ。60年に横山パンチの芸名で、横山ノックさん、横山フックさんと「漫画トリオ」を結成。68年に解散後は、流暢な語り口でテレビ番組の司会者などとして活躍した。  2000年に芸能界を引退した後は、表舞台にはほとんど表れなかった。週刊朝日は2003年9月、独占インタビューを掲載。当時のインタビューから上岡さんの人生を振り返る。 ※ ※ ※  早いもんで、隠居してから3年ですか。遊んで暮らすのは、これでなかなか忙しいもんでしてね。  歌舞伎、お芝居、落語。神戸ポートアイランドにサザンオールスターズを見に行って、それから比叡山延暦寺の薪歌舞伎は、しつらえがよかったなあ。芝居では風間杜夫の「風のなごり―越中おわら風の盆」。舞台であれだけ三味線弾けるのは、大変なことです。  ゴルフは週に平均3回。9月は、マウイ島でマラソンするので、ジョギングもせなあかんでしょう。夜は女房とカラオケです。  現役時代は街を歩いていても、目で殺すという技術を持ってたんです。声をかけられそうになると、話しかけたらあかんよお、機嫌わるなるよお、いう電波を目で送ってた。いまはだいぶ楽になってきまして、心斎橋なんか歩いても、若い子はもう僕のこと知らんね。にこにこしながら歩けるようになりました。  隠居がこんなにたのしいとは、思いもよらなかったですね。仕事に戻りたい気持ちは、こっから先もないですもん。ましてや大阪市長選に出るんやないかとか、参議院やとか言われるでしょう。とんでもない話で。こんな楽な生活送ってんのに、なんでいまさら責任のある、しんどいことせないかんのかと思う。  隠居のための蓄財ですか?  そらゼロではダメでしょう。でも周り見るとね、ほとんどの人は、たのしい隠居暮らしができるんやないかと思いますよ。  服なんかは、働いているうちに、しっかりしたもんを買こうといたらええんです。スーツでも着物でも、ひとつ、ええもん持ってたら、何年でも着られる。車なんか、もう15年乗ってますが、まだ5万キロしか走ってないしね。お金のあるうちに人生のインフラ整備しとくんです。  家は買わんほうがいいと思う。苦労して建てて固定資産税払うてたら、国に賃料払てるのと一緒です。しんどいローン組んで、銀行のもんで終わる人も多いし。  食べもんは、粗食ほど、うまいもんはないですよ。ご飯とみそ汁、干物に漬物。計算すると一日500円ですむ。現役のころから、ご飯さえ食べられたら、というのがベースにありましたんでね。  仕事に未練がないのは、幸せなことに、もう満喫させてもらったという気持ちがあるんです。  そら「漫画トリオ」はすごかったですよ。でも横山ノックさんがすごかった。僕とフックさんは全然たいしたことない。横山ノックという芸の塊みたいな極彩色の存在を、鵜飼いというか猿回しというか、うまく操縦して、しかも若い僕らが年長のノックさんをたたく。ノックさん、あのときの若さ、社会状況があって、あれだけの笑いが起きたのであって、もう無理です。  僕は最後まで素人なんです。ものすご芸人ぶってる、芸人の擬態をしている素人。それで森繁久彌さんや小泉今日子さんと対談し、立川談志師匠や桂米朝師匠に「オイッ」て言われながら酒も飲めた。中村勘九郎さんと先斗町走り回ったり、片岡仁左衛門さんと韓国キャバレー行ったりもできた。最高に幸せな素人なんです。  18歳で、この世界にポンと入ってね、周りはすごい人ばっかりやったですから。(秋田)Oスケさんの突っ込みなんか見てたら、声の出し方、言葉遣い、迫力、すごいと思いますよ。あんな豪速球は投げられへん、と。  恐ろしいような気持ちも、ある意味でねえ、ありました。夢若師匠(浮世亭夢若、松鶴家光晴と組む)が自殺されたときです。大好きな師匠でね。おんなじ出番やったんです。  それが犬の投資話でだまされて、追い込まれてしもうて。楽屋で聞いてエーッてなってるときに、錚々たる師匠連が言うてるんです。「これがほんまの犬死にかあ」て。これはすさまじい世界やと思うてね、どっかに距離を置く気持ちもあったんですね。  もう、一緒に仕事したいなあと思う人も、あんまりいなくなりました。逆にね、後半、だいぶ感じてましたが、自分との接し方に若い芸人が困っているのがわかるんです。  とくに今田(耕司)と東野(幸治)ね。東京で一緒の仕事があって、新幹線に乗ったら、別の車両やったけど、あいさつに来てくれた。非常に礼儀正しい。  「明日はよろしくお願いします」言うから、「ああ、こちらこそよろしく」言うて。そっから、ほぐれない。どうしよう、何を話したらええんや、いう戸惑いが感じられた。ああ、もう、そうなんやなあと思いましてね。  テレビのバラエティーも変わりました。仲良し同士でしかやらないでしょう。藤田まことさんも言うてましたけど、「てなもんや三度笠」なんか、大変な緊張感があった。仲のいいことはええこっちゃと武者小路実篤も言うてますけど、番組としては、あんまりおもしろくないんですね。会話にも知性がなくなる。  昔の放送の世界には、なるほど、と思わせる会話がありました。菅原通済さんやの石黒敬七さんやの、だれやわからんけど教養あるいうおじんもいましたしね。そういうコメンテーター、ほしいなあ。私? いや私はやりません。  世の中には、おもしろいことがいっぱい転がってますよ。近鉄ファンになったので、電車で大阪ドーム行くと、乗客を見るだけで、おもしろい。あの人は、どんな人生送ってきたんかなあなんて想像すると、小説読むようやないですか。若い子が床にペタンと座ってても、怒るのやなしに、この子はどうしてこうなったんやろ、と考えてたのしむ。  思いどおりにならんことほど、おもしろいんです。「楽しむ」という字と「愉しむ」というのとあるでしょう。楽することを、たのしいことやと思うからいかんのですよ。すべてを愉しむ。苦しい、しんどい、不便、そういうことを選んでやると愉しなります。  たとえばゴルフね、悪いところに行ったわ、池越えなあかんわ、これ打つの難しいわと思うから愉しいんで、いつも楽に打てたらおもしろないでしょう。そもそも王侯貴族の遊びですから、すべてが思いどおりになる人たちが、これは思いどおりにならんと愉しむんですから。  現役の会社員がゴルフするのがわからんですよ。なにも休みの日にゴルフせんでも、会社に行けば、思いどおりにならん愉しみを十分に堪能できるやろ、と。  俳句もそう。ああ、ええ景色やという思いを、五七五で言いなさいというから苦しくて、おもしろい。だから僕は種田山頭火は認めない。  分け入っても 分け入っても 青い山  だからあ、それを五七五で言わなダメでしょ、と。やっぱり松尾芭蕉さんはすごいです。いい句ありました。  蛸壺や はかなき夢を 夏の月  明石あたりでしょうねえ、ツボん中で、夢見てるタコが急にうわあって引き揚げられるんでしょうねえ。ノックさんが、執行猶予があけて選挙に出るいうウワサがあるでしょ。もし本気やったら、この句を贈ったろと思ってます。

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    市川猿之助にずっと気を使っていた「香川照之」との関係性 行きつけの居酒屋で見せていた“本当の仲”

     警視庁は24日、歌舞伎俳優の市川猿之助(47)を都内の施設に呼び、事情聴取を行った。両親が向精神薬中毒の疑いで死亡した経緯について詳しく話を聞いたとみられる。悲惨な「一家心中騒動」にはいまだ多くの謎が残るが、改めて猿之助の交友関係を取材すると、意外な人間模様が浮かび上がってきた。特に従兄弟で同じ歌舞伎役者でもある「香川照之」との微妙な関係が見え隠れする。 *  *  *  猿之助は都内のある居酒屋を行きつけの店にしていた。そこでは、彼の華麗な人脈がみてとれる。猿之助の知人が言う。 「その店は、もともと20年くらい前からリリー・フランキーさんが1人で飲んでいて、彼が“隠れ家”にしている飲み屋だったんです。そのうち、リリーさんが福山雅治さん、大泉洋さんらを呼んで、みんなでワイワイと飲むようになった。猿之助さんは福山さんが連れてきたと記憶しています」  猿之助は日本酒をキープしていて、それをおちょこで飲んでいたという。 「猿之助さんは学生時代からの福山雅治さんのファンで、福山さんがDJを務めるラジオ番組を聞いて、何通も手紙を書き送っていたそうです。その後、テレビドラマでも共演するようになり、公私ともに仲良くなったようですね」(同)  猿之助が俳優の香川照之(57)を居酒屋に呼ぶことも、しばしばだった。 「猿之助さんが先に店にいて、香川さんに電話をかけ、『今日はみんないるけどどう?』と言って、香川さんが遅れてやって来るのを見かけましたね。猿之助さんは一人でしゃべりまくって、いつも座の盛り上げ役。香川さんとも仲良く飲んでいましたよ」  同じ澤瀉屋(おもだかや)で市川中車を襲名した香川と、その従兄弟にあたる四代目猿之助は、私生活でも関係が深かったようだ。だが、一門でのパワーバランスや歌舞伎役者としてのプライドなども絡み複雑な関係だったとも言われ、「女性セブン」(23年6月8日号)は2人の間に長年の確執があったと報じている。  歌舞伎に詳しい著述家の米原範彦氏は2人の関係をこう語る。 「香川はずっと歌舞伎界を離れていたので、歌舞伎の世界に戻っても四代目の猿之助を立てるような立場になっていました」  それを象徴する出来事があった。  俳優としての香川は2013年に始まったドラマ「半沢直樹」シリーズ(TBS系)で、堺雅人演じる主人公の宿敵を怪演して大ブレークした。ある新聞社が正月特集で「半沢直樹」でブレークした香川を大きく扱おうとしたところ、突如、キャンセルになったという。 「澤瀉屋のリーダーの猿之助をさしおいて、新聞の正月版に大々的に載ることはできないと判断されたようです。香川は何かと、猿之助に気を使わざるを得ない存在なんだと感じました」(メディア関係者)  香川は、三代目猿之助(現・二代目猿翁)と浜木綿子の息子。本来なら香川が四代目猿之助を名乗っても不思議のない家柄ではあったが、香川が3歳の時、両親が離婚。三代目猿之助は00年に舞踊家の藤間紫と再婚したことで、香川とは長い間、断絶関係が続いた。 「三代目猿之助は浜と香川のことは“過去のこと”として完全に切り捨てた。三代目猿之助は香川に対し、『あなたは息子ではありません。私はあなたの父でもない。今後、2度と会うことはありません』と言ったという有名なエピソードもありました。だが、それでも香川はどうしても歌舞伎の世界に戻りたかった。その結果、香川は夫婦間の軋轢が生じて離婚までしたのですが、そのとき、歌舞伎界に戻れるように熱心にサポートしたのが四代目猿之助だったのです」(米原氏)  昨年夏、香川は銀座のクラブホステスの髪を引っ張るなどのスキャンダルを「デイリー新潮」に報じられ、テレビドラマやCMを次々に降板することとなった。その後、香川は市川中車として歌舞伎から人生の再出発を図ったが、その際にサポートしたのも猿之助だったという。  結局、昨年12月に香川は十三代目市川團十郎白猿襲名披露の舞台に「市川中車」として出演したことで、俳優復帰を果たした。 「市川團十郎の弟子筋が市川猿之助になります。それゆえ、團十郎に引っ張り上げてもらうにしても、猿之助を飛び越えることはできない。香川はいつも猿之助に気を使う立場だったのです。そんな状態のなかで、猿之助が事件を起こし、その代役として香川の長男の團子(だんこ)に光が当たるというのは、おどろおどろしい因果を感じます」(米原氏)  事件が起きた18日は、明治座で「市川猿之助奮闘歌舞伎公演」の真っただ中だった。猿之助は休演し、18日の昼の部はさすがに休演となったが、夜の部は二代目中村錦之助の長男・中村隼人(29)が務めた。翌19日には代役として、昼の部は香川の長男・市川團子(19)が務めた。  團子はわずか1日の稽古で本番に臨んだようだが、堂々たる芝居を披露し、スタンディングオベーションも巻き起こったという。 「團子は判官びいきの日本人の琴線に触れたのかもしれません」(演芸評論家の山本健一氏)  團子、隼人という若手のホープが澤瀉屋のピンチを救った形となった。米原氏はこう語る。 「歌舞伎という芸能にはしたたかさがある。猿之助がいなくても、必ずその代役が現れる。團子はまだそれほど稽古を積んでないと思いますが、驚くべき吸収力です。隼人も脚光を浴びて、きれいな顔をしていることも世に知られました。猿之助も好きだったけど、隼人も團子もいいよねというファンも増えたはずです。歌舞伎ファンではなかった人にも存在が知れ渡り、新しいファン層を広げる結果になったと思います」  歌舞伎界に詳しい早稲田大学の児玉竜一教授は、團子と隼人をこう評価する。 「團子と隼人の2人は見事に代役を演じました。隼人は間違いなく、猿之助が場所と役を与えて、育てた一人と言えるでしょう。猿之助が若手を育てたことが実を結んだことは、悲しい出来事が続いたなかで、ひとつの希望になったとは思います。今月の明治座のピンチを乗り切ったとしても、ずっと安泰ではありません。ここから先は、若手の人たちの自覚と精進次第だと思います」  はたして、澤瀉屋の未来やいかに。 (AERA dot.編集部・上田耕司)

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    知能が高すぎる「ギフテッド」で精神を病んだ40歳女性が見つけた希望 自ら望んで「閉鎖病棟」へ入った理由

     知能が高さゆえに周りから浮いてしまうことも多い「ギフテッド」。【前編】では、何事もできすぎるあまり小中学校ではいじめられ、勉強が嫌いになっていった立花奈央子さん(40)が社会人になるまでを紹介した。高卒で公務員になった立花さんは、いつしか精神を病み「うつ病」になっていた。そこで彼女が取った選択は、自らの意思で精神科病院の閉鎖病棟に入ることだった。<阿部朋美・伊藤和行著『ギフテッドの光と影 知能が高すぎて生きづらい人たち』(朝日新聞出版)より一部抜粋・再編集> 【前編】<「ギフテッド」ゆえに無視され、孤立した小中時代 40歳フォトグラファー女性が経験した“高い知能”こその苦難>より続く *  *  * ■自ら望んで閉鎖病棟に3カ月間  躁状態の時は、ストレス解消や現実逃避のため、デパートで好きな服を大量に買った。しかし、家に帰ると、いつのまにか買い物をした記憶がなくなっている。  一方、気持ちが沈んでいる時は、「死にたい。トラックが突っ込んできてほしい」と願う。精神科に行った。「うつ病」「解離性遁走」と診断された。突然どこか遠くへ行ってしまい、気がつくと自分がなぜそこにいるのかわからないことが続いた。しまいには知らない場所で警察に保護されていた。 「このままではだめになる。徹底的に治さなければ」と、精神科病院の閉鎖病棟に自ら望んで入った。約3カ月間すごし、外で生きられない患者たちの姿を目の当たりにした。外部から遮断され、あらゆる自分の時間が、他人によって管理されている中には、これ以上いたくないと思った。  今変わらなければこのまま人生が終わると思った。この閉鎖病棟での3カ月間で、自分の気持ちに向き合おうと決めた。  自分が本当に好きなことは何か、自分にとって大事な人は誰か、本来の自分とは何者か。突き詰めて考えた。  哲学や宇宙など、自分が興味のある話を、とことん人と語り合える時間が最も楽しい。そんな気の合う人たちとの時間を大切にしたい。自分の気持ちを抑えつけるのはやめようと決めた。  まず、区役所をやめた。自分を偽り、親が望む人間になろうという思いも捨て、退院後に身を寄せていた実家も出た。渋谷駅のハチ公前で、ストリートアートをしていた人たちに話しかけた。自分も一緒に描いたり、路上ミュージシャンと友達になったり。どんどん周りに自分の好きな人たちが増えていった。すると、ライターや撮影、ヘアメイクなどの仕事がフリーでできるようになっていった。 ■ようやく解けた「本当の私」  実家の父から久しぶりに電話がかかってきたのは、2019年。36歳になっていた。1歳下の弟が、知能検査を受け、発達障害だと診断されたとのことだった。立花さん自身も、自分が発達障害やADD(注意欠陥障害)かもしれないと思っていたため、一度検査を受けてみることにした。 「WAIS-IV」という知能検査を受けた。その結果、全般的なIQ(知能指数)が平均を大きく超える137だった。また、同検査の四つの指標のうち、ことばの理解力や推理力、思考力を示す「言語理解」はIQ130、目で見た情報から形を把握し推理する「知覚推理」はIQ128、情報を一時的に記憶する力の「ワーキングメモリー」がIQ131、作業の速度を測る「処理速度」がIQ130と、指標のすべてが平均を超える高い数値となっていた。  驚いた。臨床心理士からは「発達障害の可能性はほぼない。単に、知能が世の中の人より高いだけの健常者ですね」と言われた。立花さんはそれまで、自分の生きづらさは発達障害のせいだ、となんとなく思っていたが、それは間違っていたことがはっきりした。この時、初めて自分の特性が何なのかを知りたい、と思った。  結果を知人に言うと、「ギフテッドじゃん」と言われた。初めて聞く言葉だった。「ギフテッド」に関する専門書を片っ端から読んでみた。  特徴として書かれていた「情報を素早く理解」「いつも何かにのめり込み徹底的に調べる」という良さだけでなく、「注意散漫に見える」「同級生との関係づくりが下手」といった弱点までが、いちいち自分に当てはまった。「これ私のことだ」と思うと、胸がすっとした。  普通と違う私。他人に合わせ、ずっと生きづらさを抱えてきた私。子どものころから、本当の自分は何なのかと思ってきた疑問が、ようやく解けた気がした。「パズルのピースがはまるような感覚だった」という。  立花さんは言う。「私は、自分のことを『天才』とは思いません。ただIQが高いという個性があるのだということがわかりました。そのせいで、これまで息苦しさや孤独を抱えていたのだと理解できて本当に良かったです」。  そしてこう思った。きっと、同じような仲間がいるのではないか。自分の特性を理解してくれたり共感してくれたりする仲間ともっと話がしたい、と。もし、子どもの時から知っていたら? 「MENSA」という国際組織を知人が教えてくれた。IQの上位2%の人だけが入会でき、日本支部があるという。さっそく入会した。  MENSAは、1946年にイギリスで創設された国際組織だ。世界100カ国以上に13万人以上の会員がいるとされる。日本支部には約4700人の会員がおり、定期的に開かれるミーティングで話し合ったり、趣味や考えが合う会員同士がオフ会などで交流したりしているという。入会するには、独自の入会テストを受けて一定のスコアを出すか、知能検査の結果を示さなければならない。  立花さんは、MENSAで出会った人たちと、「性とは何か」「既成の価値観に縛られていないか」といった深い話をすることが楽しい。人のつながりが増え、好奇心があふれ、知的欲求が満たされるという。  ようやく好きなことを仕事にし、仲間にも巡り会えたという立花さん。ただそれはたくさんの回り道をして得たものだった。「もっと早くに知能検査を受けておけばよかったという後悔はないか」と聞くと、立花さんは「後悔はない」とはっきり言った。過去のつらい時期があったからこそ、充実した今があると思っているから、と。  ただ、どうしても考えてしまうことは、あるという。「もし、子どものころに自分の特性を知り、それを理解した教育や子育てをしてもらっていたら、あんなつらい経験をせず、もっと様々なことを学べたのではないか」と。いま後悔していないと言えるのは、浮きこぼれていてもはい上がることができたからではないか。自分と同じように生きづらさを抱えたまま悩んでいる人が、今もきっといるはずだ。 ■ゴールデン街の会員制バーで  そんな思いを強くした立花さんが始めたのが、「サロン・ド・ギフテッド」だ。19年ごろから週1回、フォトグラファーの仕事のかたわら、東京・歌舞伎町の新宿ゴールデン街にあるバーで開いている。  22年12月中旬、私はそのバーを訪れた。毎週火曜日、オーナーから店を間借りした立花さんが、カウンターに立っている。  重い木製のドアを開けると、立花さんの「いらっしゃーい」という明るい声が聞こえてきた。カウンター席が6席だけのこぢんまりとした店。すでに5人の先客が、立花さんが出すビールやハイボールを飲みながら、会話を楽しんでいた。  サロンは、IQ130以上の条件がある会員制。特別に参加させてもらった私の隣に座っていたのは、この日初めて来たという東京大学に通う女性だった。理路整然とした話しっぷり。ただ子どものころは学校になじめず「つらかった」と吐露した。「だって、先生は私のこと全然理解してくれなかったから」と女性。今はギフテッドの子どもやその保護者を支援する団体に入って活動をしているという。  IQが150ありながら、会社の上司とコミュニケーションがうまくとれず退職したという男性もいた。話すスピードが速すぎて変人と思われないかという不安があり、自分のことを知らない人とは話をするのが怖くなったという。他にも、地下アイドルを「推す」中年男性や、マクドナルドで働く母親など、個性豊かな人たちが胸の内を語り合っていた。  立花さん自身にとっても、他人は他人、自分は自分と実感できる場所だという。 ■「ほっといてほしい」  さて、立花さんのトークを収録した朝日新聞ポッドキャストは、22年12月上旬に配信された。「同級生と話が合わない」「なじめたことは一度もない」「授業はクソつまらない」。そんな立花さんの率直な語りぶりが、多くのリスナーの好評を得た。  収録の終盤、司会者が立花さんに「自分の経験を踏まえ、どんな世の中になればいいと思うか」と聞いた。 「ほっといてほしいですね」  即答だった。立花さんが生きやすさを感じたタイミングは、高校生になって行動範囲が広がったり、社会人になって使えるお金が増えたりするなど、自分で選択できることが増えた時だったという。 「子どものころは大人の見守りは当然必要だと思いますけど、普通と違うからと枠にはめようとしたり、周りの子どもと比較したりするのは、やめてほしいですね。ましてや、ギフテッドだから才能をのばさないといけないとか、才能を見過ごしてはもったいない、といった考えは大きなお世話です。その人が、その人らしく生きられるような社会になることが大事なのだと思います」  立花さんのそんな言葉が、多くの人に届くといいと思った。  (年齢は2023年3月時点のものです)

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    岸部一徳かく語りき 瞳みのるとの和解、そして自身の「終わり方」

     芸事が好きだった父、熊本への夜逃げ、弟・四郎の不遇──。自分について考え続ける日々のなかで到達した境地。それは俳優としての代表作「死の棘」での小栗康平監督の教えとも繋がっていく。寄る辺なさに留まり続けること、そして自分自身の「終わり方」。いま、岸部一徳さんが考えていること。本誌編集長が聞く独占インタビューの第3回。 *  *  *  岸部には兄弟が多い。「全部で10人くらいいるんです。僕は男では下から2番目」  1969年、加橋かつみ脱退後のザ・タイガースに加入した四郎は、すぐ下の弟だ。  生まれ育ったのは京都市、京都御所の西側。父親の徳之輔は戦前、職業軍人だった。47年生まれの岸部に父親の現役時代の記憶はない。 「親戚の人に聞いたら、軍服で馬に乗って部下も付いて、京都の真ん中をばーっと行って、ちょっと知り合いのところに寄ったり。背も高くて格好よかったようです」  謹厳で頑迷な父親像が浮かんでくるが、 「全然違いますね」  公職追放も影響したのだろう、戦後は定職に就かなかった。  賭け事が好きで借金も多く、一家は常に経済的に逼迫(ひっぱく)していた。小学1年の時、伯母を頼って熊本へ夜逃げしたことを覚えている。  質草になる布団は、2階から母や岸部たちが階下の兄たちに投げて宙を舞った。小学校は4回転校した。  だが、岸部の父親への視線は温かい。 「趣味が多くてね、あれもこれもちょっとずつ好き。よく言えば面白くて子どもには好かれる父親でした」  明治生まれにして英語も少しばかり操った。碁は小学生のころからプロ棋士を目指して鍛えたという腕前で麻雀も強い。松竹新喜劇に足繁く通い、歌舞伎や新派も大好き。興が乗ると子どもたちに台詞を諳(そら)んじてみせた。浄瑠璃にも明るい。読書家で家には菊池寛をはじめ初版本がたくさんあった。酒は飲まない。 「芸事が好きなんだよね。だから僕が東京行くって時はうれしかったんですね。先頭立って親のまとめ役をやってました。まあ、ひょっとしたら子どもが人気者になれば自分も何かこう、楽しくなるのかもと思ったのかも(笑)」  骨董や美術品の目利きでもあった。 「買えるわけじゃないけど、でも、そういうものが好きっていうのは、弟(四郎)に行ったんだろうね」  3学年下の弟・四郎。69年3月、加橋かつみの脱退を受けて急遽遊学先の米国西海岸から呼び戻され、一夜にして日本一の人気者の一員になった彼もまた、ザ・タイガースによって大きく人生を変えられた一人だ。  71年のグループ解散後、飄々(ひょうひょう)とした佇まいと軽妙な話術で人気タレントとなり、ワイドショーの司会も長く務めたが98年、5億円に上る借金で自己破産し番組を降板。以降は不遇の日々が続いた。  2003年、脳出血に倒れ、後遺症で視野狭窄に。07年に愛妻が急死した。12年には身を寄せていた千葉の姉の家で、夜中にトイレに行った際に転び大腿骨を骨折。リハビリ病院を経て移った県内のグループホームへ、岸部はよく見舞いに訪れたという。 「身の回りの世話は一回り上の姉たちがよくやってくれた。僕も月に何度か行ってたかな。お年寄りに交じって体操を一緒にやったりして」  四郎は典型的な末っ子で淋しがり屋だった。 「何かあっても『誰かが何とかしてくれるやろ』と思うタイプね。リハビリも、もうちょっとがんばってほしかったんだけど……。でも、暗くなりすぎないのは性格だよね。僕が行っても、話すよりおみやげを気にしたりして。わらび餅なんか小さく切ってやると『おいしい』なんて言ってね。ただ、最後のほうは、食べることもできなくなった。それからの衰弱が早かったですね」  20年8月28日、四郎は旅立った。享年71。 ■苦手なことがあってもいい  岸部が今回のインタビュー依頼を受けたのは、本誌の休刊という節目に「そろそろ自分のことを話してもいいかな」と思ったからだという。普段はテレビのバラエティー番組はおろかインタビュー番組にも出ない。取材はほぼ新作映画の公開時に、雑誌や新聞など活字メディアに絞っているのだという。 「トーク番組もバラエティーも見たりはします。ただ、俳優が演じるだけではなくてしゃべることや、自分自身を語ることが得意じゃないんですよね」と吐露する。 「苦手なものを克服してできるようになるのがいいという考え方もあるけど、そんなに広げなくても三つぐらい苦手があったら、一つくらいは『これは苦手』というのを置いておいてもいい」  音楽をやめてしばらく仕事がない時期を漂いながら、岸部はひたすら、自分について考え続けていた。 「やりたいことがあって音楽をやめたわけではなかったし、考える時間はたくさんあったから。たまたま勧められて俳優になった。芝居の勉強もしていないし、僕は得意なものがそうないから、苦手はなんだろうと考えた。たとえば人前でしゃべるのは不得手だから、じゃあこれは残そうと」  それは、映画「死の棘」(90年)で、小栗康平監督にたたき込まれた「言葉にする前の気持ちの動きこそが大切だ」という教えとも、のちに繋がっていく。  俳優という不安定な稼業で、心配に苛(さいな)まれる場面は多い。演技の技術について、私生活のこと、健康の維持、将来の不安──。それらを払拭しようと思えば、やれることはたくさんある。踊りや乗馬を習ったり、休日に芝居や映画を見たり、人付き合いをよくしたり。だが、岸部は心細さの解消のために働きかけようとは思わない。あえてそのまま留めておきたいという。  動けば安寧を得られるかもしれない。その代わり、不安という感情の動きは心から押し出され、微妙な揺らぎは掌(てのひら)からこぼれ落ちる。 ■人生後半戦の坂どう下っていく  岸部が俳優の世界に足を踏み入れてほどなく、日本はバブル経済の80年代に突入した。  政治の季節の残滓(ざんし)を狂乱の宴で上書きするかのように、世の中全体が浮足立っていた。テレビは昼夜なく「楽しくなければ」と謳った。一方、どん底ともいえるのが、娯楽の王座をテレビに明け渡した映画産業だった。週刊朝日が最高部数150万部を記録したのと同年の58年、11億2700万人をピークに映画人口は激減し、80年代には1億5千万人規模にまで縮小している(日本映画産業統計)。  芸能事務所は主戦場をテレビと見据え、タレントは視聴率に繋がる「好感度」という物差しに左右されるようになる。エンタメ界で量産されるのは不特定多数に好まれやすいバラエティー番組で、良質な映画作品が受け入れられる余地は少なかった。  この時期に「死の棘」が国際的に評価されたことは、寄る辺なさを抱える岸部自身にとっても、その後の俳優人生を位置づける大きな出来事だった。 「誰と出会い、誰と一緒にやっていくのか。それが一番大事。タイガース時代も含めて、すべてはそこへ繋がっていくよね」  岸部が樹木希林の事務所「夜樹社」の解散後、いくつかを経て自分で事務所を設立したのはバブルが弾けて間もない、95年のことだ。 「小さい事務所だからできることもある。映画やドラマの脚本を読む。CMだったらコンテは面白いのか。どうやって相手に正論を伝えるのか。自分の基準で面白いと思える仕事を選んで、そこでの闘いみたいなものがあって。そんなことを続けているうちになんとなく面白そうな事務所ですね、っていうふうになればいいなと思ってやってきた」  18年に亡くなった樹木は「三つぐらいの側面を見せて終わった気がする」と語る。 「希林さんは30代の若いころからおばあちゃん役をやったりして、ちょっとワケわからないことをしたり、むつかしい、怖い人みたいに見せるから、自分の俳優としての技術や、すごさを隠そうとする時期があったように思います」  それが変化したのは夜樹社が解散する前だ。80年代に入り、芝居のうまさで世間から注目されるようになった。 「あのころ、希林さんは、上手な芝居を少し、見せるようになったなと思った。そこからひねくれてるというようなイメージも取れてきて。晩年の作品を見ると、俳優としてのすごさよりも人間の優しさが溢れているようにも見えた」  岸部はこの日、取材場所の朝日新聞社のビルまで、地下鉄東銀座駅から歩いてきた。 「笠智衆さんは『僕は電車のあるうちは鎌倉から通うんです。それが健康法です』とおっしゃって、送り迎えは断っていた。希林さんも『社会生活ぐらいできなくてよく俳優なんてやってられるわね』と」  最近、岸部は自分自身の「終わり方」も考えるようになったという。  京都時代からの生き方、たとえば、しゃべるよりも人の話を聴き、苦手なものをあえて克服せず、古希を過ぎて少しまるくなった自分。 「それでも、うまく言えないんだけど、たどり着かないなぁっていう。終わりが来た時に、ああいうやり方、考え方でやっぱり良かったんだと思えるかどうかは、また別問題だなと」  俳優になって半世紀。大きな賞も獲った。周囲からは十分すぎるほどの成功に見えるかもしれない。名脇役、いぶし銀と評されることも少なくない。 「でも、良い俳優さんですね、なんて言われると知らないうちに人の評価に自分を合わせようとする気持ちが生まれる。すごいですね、と言われて、自分がすごいと思ってしまったらその『すごい自分』に合わせた生活になってしまう。そこがなんとなく僕には合わない。歳を取って、少しずつ仕事が少なくなって、いつの間にか人が忘れてくれるくらいがちょうどいいのかな。でももう少し、好きな人たち、好きな監督と仕事はしたいですけどね(笑)」 「人生百年時代」と言われる。55年に男女ともに60歳代だった平均寿命はそれぞれ20歳近く延び、60~70代を昔のように老年期と呼ぶにはあまりに若い。緩やかに長く続く人生後半戦の坂をどう下っていくのか、若い世代も不安を抱えている。  岸部たち団塊の世代は、未知の時代を走る先頭集団だ。  ザ・タイガースと決別した瞳みのるとは08年、37年ぶりにメンバー同士で元マネジャー・中井国二の仲立ちによって再会、「長い別れ」は雪解けを迎えた。瞳はあの71年1月24日、有楽町のガード下での別離の後、猛勉強を経て大学進学し慶應義塾高校の漢文教諭に転身。定年を前に退職して現在は音楽活動とともに専門である中国語を生かして日中文化交流にも注力している。森本タローが定期的に開くライブはいつも盛況だ。森本のファンだけではない、沢田研二や瞳のファンも、誰もが楽しめる温かい雰囲気で溢れている。 「タローは11月で喜寿(77歳)。12月には喜寿になって初のライブを考えていて、内容もいつもと少し違うみたいだし、楽しみだよね」  同じく音楽活動を続ける加橋かつみも4月、「THE G.S栄光のグループサウンズ」公演で元気な姿を見せたという。  6月25日は岸部と森本、瞳が参加する、さいたまスーパーアリーナでの沢田研二75歳“バースデーライブ”だ。6月に入れば、メンバーそろってのスタジオ練習が始まる。 「音楽はね、楽しい。(ザ・タイガース再結集は)13年でもやっているんだけど、しばらくベースから離れていて、練習するとまた弾けるようになる。そうするとやっぱり僕は音楽少年だったんだなって」  考えてみれば、ザ・タイガースのメンバーが集まってやれるのは最後かもしれない。願わくば、加橋にも参加してほしかった。でも、電話しても出ないから、そっとしておこう。 「タイガースのメンバーと出会えて良かった。うっかりしたら、良い俳優を最後まで通そうとか、そんなことになっていたかもわからない」  岸部はいま、そう思っている。(了/敬称略)(本誌・渡部薫)※週刊朝日  2023年6月9日号

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    岸部一徳、赤ん坊の世話もした「社会復帰」と「俳優修業」

     沢田研二に萩原健一といったスポットライトを浴びる主役を斜め後ろから見続けてきた岸部一徳さんの美学。それはのちに久世光彦、樹木希林との、人生を変える出会いからもたらされた俳優としての道で花開く。暗転、そして舞台転換。新たに目の前に広がった場所には、逡巡と雌伏の季節に岸部のうちに胚胎した感性を注ぎ込める映画やドラマがあった。本誌編集長が聞く独占インタビューの第2回。 *  *  * 「僕は主役の、やや後ろ気味に立って見ているのに慣れているから」  岸部は今回のインタビューで、何度かこんな趣旨の言葉を口にした。注目を浴びることが生業の芸能界にあって、前に出るよりも一歩引いて、観察しているほうが性に合っているのだという。  1971年2月、グループサウンズ(GS)の面々、沢田研二、萩原健一、大野克夫、井上堯之、大口広司と結成したPYGは、GSファンにもロックファンにも総スカンを食らい、デビューから一貫して苦戦した。 「俺はジュリーには勝てない」  萩原が岸部に電話でこう吐露したのは、コンサートで客席がガラガラという事態が続いたころだ。  萩原は電話口で岸部に言った。 「歌はやっぱりジュリーのほうが全然いい。俺はもうやめようと思う」  萩原はライブパフォーマンスを含めすべてが「カッコいい」、“ショーケン”だ。 「沢田も、自分にはないものをショーケンは全部持ってると感じていたんじゃないかなあ」と岸部。「でもショーケンには彼の思いがあったんだろう。映画の裏方をやってみたいと言っていたけど、『約束』(72年)で結局主役の岸惠子さんの相手役で出演することになった。それからショーケンの俳優人生が始まったんですね」  PYGの終焉を迎える。それは岸部にとって大きな転機だった。  その後は井上堯之バンドの一員として沢田のバックで演奏したり、「太陽にほえろ!」(72年~)や「傷だらけの天使」(74年~)のテーマも演奏した。充実して見える活動が却(かえ)って、「音楽をやめようか」という岸部の気持ちを後押しすることになる。  テクニックの問題ではない。レッド・ツェッペリンのベーシスト、ジョン・ポール・ジョーンズにも認められたと伝わるほどの腕前だ。 ■樹木との出会い 赤ん坊の世話も 「いや、それも別に直接会って言われたわけじゃないからね。大野さん、井上さんみたいに才能があるわけでもない。音楽に対して自分は何かやってきたかな、作曲とか、アレンジができるのか、そういう勉強をしてきたのか。考えてみれば自分は女の子にモテたいぐらいのところから始めたんだけどね」  たまたま運良く人気が出てここまで音楽を続けてこられたが、こんなことでいいのだろうか。 「気付かなきゃいいんだけど、気付きだすともう、やめたくなるのよね。『やめるんだったら、いつがいいのかな』なんて思いながら、1年ほどね」  逡巡の時代、演出家の久世光彦のすすめで出演したのがドラマ「悪魔のようなあいつ」(75年)だ。荒木一郎演じる冴えないバイク屋の主人の借金を取り立てるチンピラ・左川を演じた。  当時TBSの久世光彦の演出には瞠目した。 「左川たちが路地みたいなところで立ちションベンをする。すると『溜めといてくれよ』って。本当におしっこしながらセリフを言ってって言う。で、本番でセリフが終わって、出すものも終わって歩いていくって、確かにそうなんだけど、セリフとの寸法が合わないわけ。テストまで我慢して溜めた分だけ出ちゃう(笑)。それで終わるまで撮ってる。今では考えられないですよね」 「人前でしゃべるより黙っているほうが好き」という岸部が、この世界で60年ほどを過ごしてこられたのは、いつも人との縁があったからだという。  久世のすすめで樹木希林の事務所「夜樹社」に入り、俳優としてのスタートを切った。 「希林さんと大楠道代さんの面接を受けた。『あなたに合う役があったらお願いするけれど、うちは生活のために仕事取ってきたりは一切しない。それでも大丈夫?』『はい』なんて話をして。本当に何年か、ほとんど仕事はなかったですね」  結婚して、子どもも生まれたばかり。渡辺プロ時代は入っただけ使うような暮らしだったので蓄えも雀の涙だった。家賃の安い住まいに引っ越しを続け、「ぜいたくをしない、友だちとも会わない」と生活を切り詰めた。赤ん坊の世話もよくした。 「朝5時に起きてね。でも海の向こうではジョン・レノンも同じことをやってると思えばちょっとカッコいいかなと思ってましたね」 ■「社会復帰」と俳優修業の日々  当時、岸部を心配した沢田が、人づてに自分が使っていないマンションを無償で貸した逸話もファンの間で知られている。「できて間もない中野ブロードウェイの高級マンション。ガードマンが常駐していて、屋上にプールがあって、お隣は青島幸男さん。毎日毎日、プールで子どもとプカプカしたり、ブラブラブラブラ……。『タイガースのリーダーは優雅ね、やっぱり』なんて言われて。ただ、ちょっと管理費がねえ、月4万以上した。後で沢田に『高いよ』って言ったけど(笑)」  仕事に恵まれないこの時期が岸部にとって「社会復帰」の時でもあり、俳優としての土台にもなった。NHKのドラマ人間模様「続 事件 海辺の家族」(79年)に起用された時、「どうやって俳優の勉強をしたらいいか」と岸部が尋ねると、脚本家の早坂暁は「一日中バスに乗ってずっと人を見ていればいい。僕はそうしているんだ」と答えたという。 「久世さんは、ドラマの中で台所仕事みたいな日常を本当にやる人。新人の女の子がどうにも芝居ができないってなったら、ベテランの加藤治子さんが代わりにやって見せてくれたり。それをみんなも最初からずっと見ているので勉強になる。『技術的な芝居なんかしなくていい』って、まあ本当は僕ができないから言ってくれていたんだと思うけど、素のままで一生懸命やればいいんだと。そういう優れた人たちの中で出発できたのは恵まれていました」 「良質なドラマに出る」という樹木らの方針もあり、初期こそ数は少ないものの、久世を始め、深町幸男、和田勉ら名だたる演出家の作品に出演するようになり、少しずつ俳優としての地歩を固めていった。  大林宣彦監督とも縁が深い。「時をかける少女」(83年)以来、映画では一番多く起用された。余談だが、「時を~」で原田知世の相手役・深町一夫を演じた高柳良一は慶應義塾高校出身で、瞳みのるの教え子だ。  岸部のキャリアは、映画「死の棘(とげ)」(90年)をおいては語れない。日本アカデミー賞最優秀主演男優賞を受賞した、メルクマール的な作品だ。 「映画は監督の作品なので。あれはもう本当に、個人賞、もう付録みたいなもので」  本作で小栗康平監督から「セリフに感情を乗せると浅いものにしかならないので感情を乗せないほうがいい」と言われ、内へ内へと向かい、掘り下げる表現を求められた。現場ではその意味を掴みかね、食事も喉を通らずノイローゼ状態に陥った。岸部にとって小栗は、今でも最も尊敬する監督であり、この時の経験が俳優という仕事の礎になったという。 「要するに、心の中をちゃんと作れないとダメだということですよね。日常生活でも、言葉で伝わらない、置き換えられない気持ちの動きみたいなものがある。言葉として、セリフとして発する前の、体の中に、心の中に残っている状態のほうが深いんだ、と。そこを大事にしないといけないよと言われたことは、今でも残ってますね」  90年代に入ると年4~6本のハイペースで映画に出演していく。今回のインタビューに際し、岸部の出演作を振り返ってみたが、筆者が過去に見て印象に残った作品の驚くほど多くに岸部は携わっていた。  オファーを引き受けるかどうかは、監督や脚本によるところが大きいという。 「でも、これは好みもあるんでね。自分の考え、思い、感性みたいなものでこれはいい作品だなと感じるかどうか。監督が何を撮りたいのか。それが当たるとか当たらないとかあんまり関係ないですね」 「死の棘」以来の主演作となった「いつか読書する日」(2005年)では青木研次の脚本に惹かれ、緒方明監督の「自分の撮りたいもの、自分の思ういい作品を誠実に映画にする」姿勢に敬意を抱いたという。 「顔」(00年)、「大鹿村騒動記」(11年)、「団地」(16年)など、阪本順治監督作品も多い。 「映画はやっぱり面白いと思う。テレビも向田(邦子)さんの『阿修羅のごとく』(79年~)とかね、好きなものがたくさんあるけれども。テレビは日常の延長線上で時代を映していますよね。映画は若いころに見たものを何年か経って見てみたら、違う解釈で見ていたことに気付く。それが面白い。新しい発見というか、そのころにはわからなかったことがありますからね」 ■ひと癖ある役も市井の人の役も  映画愛を語る岸部だが、テレビドラマでの活躍ぶりも、改めて言及するまでもない。「相棒」には02年のシーズン1から9まで小野田公顕役で出演。「官房長」の呼称は、岸部の代名詞にもなった。 「『相棒』は最初のころはこんなに長く続くとは思わなかった。打ち上げのたびに水谷(豊)さんと『続けるために面白いことをやるのではなくて普通の刑事ドラマではない挑戦ってなんだろう』とか、『いちばん良い時に終わることもあるかもね』なんて話をしてましたね」  降板したのはなぜ? 「ある時プロデューサーとご飯食べた時にね、『僕、やめようと思う』って、ふっと言葉が出てね。なんでだろう」  演技派としての地位を固める一方、新進のクリエーターと組んだ仕事では、新たな一面も見せた。  大滝秀治との掛け合いもシュールなキンチョールや、木村拓哉と共演した富士通FMVのCMを覚えている人も多いだろう。  三木聡監督の「転々」(07年)は「岸部一徳」として出演。眼鏡屋の前で眼鏡を洗っている岸部一徳を見かけた福原(三浦友和)と文哉(オダギリジョー)の「あの人誰だっけ」「岸部一徳じゃない?」「岸部一徳を街で見かけると良いことがあるんだって」というやりとりがある。 「三浦友和さんはあの作品でキネマ旬報の助演男優賞に選ばれたから、やっぱり良いことあったよね(笑)」  12年から始まったドラマ「Doctor-X 外科医・大門未知子」の神原晶役では手術代回収時にするスキップも有名になった。同作は7期まで続いている。最近、岸部が出演するドラマは長寿になるという業界内での「新伝説」が生まれたとか。  ひと癖ある役柄のインパクトが強いが、市井の人の役でも深い印象を残している。  06年からのNHK朝ドラ「芋たこなんきん」では、田辺聖子がモデルの主人公の祖父で、写真館を営む花岡常太郎を演じた。  仕事には厳しいが家族には優しく、浄瑠璃などの芸事も好きで温かみのある常太郎。 「僕の父に少し似ていたところもありますね」  岸部一徳の父、徳之輔は職業軍人で、終戦までは憲兵だった。 「戦争が終わってからは一度も定職に就かなかったですね。探偵の真似ごとをしたり、いろいろやったりしてましたけど。囲碁が好きだったから囲碁道場を開いてみたり。自分はお金がないんだけど、父の勝負に賭ける人がいて、勝つとすき焼きだったり。そういうのをいつもやってましたね」  岸部ら子どもたちも苦労は多かっただろう。 「どうなんでしょうね。みんな貧乏な時代だからねえ。うちは兄弟も多いんですよ。全部で10人くらいかな」  岸部はいったい、どんな幼少期を過ごしてきたのだろう。(次号に続く/敬称略) (本誌・渡部薫)※週刊朝日  2023年6月2日号

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    岸部一徳が語るザ・タイガース「『火のような後悔』があったのだろう」

     通常、取材はほぼ受けない俳優・岸部一徳さんのインタビューが、本誌休刊のタイミングで実現。3回連載の第1回の今回は、ザ・タイガース前史からPYGまで、本誌編集長がお話を伺いました。 *  *  *  岸部の日課に最近加わったのが、ベースの練習だ。 「ここ10年、ほとんど触っていなかったからねえ。2曲続けて弾いたりすると指が疲れてくるんで……。6月までには間に合わせないとね」  2018年10月。興行主との集客に関する契約トラブルで中止となった沢田研二のライブから5年。6月に改めて、さいたまスーパーアリーナで開催される沢田の“バースデーライブ”に岸部はゲスト出演する。 「去年会った時に沢田から話があってね。あの時ドタキャンだと騒動になったでしょう? だから『いろんなこと言われたんで、きちっとリベンジしたい』と。それで『ああ、いいよ』って」  岸部と同じくザ・タイガースの元メンバー、森本太郎と瞳みのるもステージに立つ。13年のザ・タイガース復活ツアーには参加した加橋かつみは、今回出演しないという。  ザ・タイガース。1960年代のグループサウンズ(GS)ブームを象徴する伝説のバンドは、今年デビューから57年目を迎えた。  岸部とメンバーとの出会いは中学校時代にまで遡る。森本と瞳とは京都市立北野中学の同級生、それぞれ別の高校に進学したのち、瞳が連れてきて知り合ったのが加橋だ。 「森本とは一番古いし、まあ楽だよね。瞳も中学からいつも一緒だった。大っきいのと小っちゃいのの二人で」  牛乳配達のバイトを瞳に紹介してもらったこともあった。  沢田は岸部、森本、瞳の2学年下になる。 「あのころの一つ二つって大きいよね。沢田は本当におとなしくて。年下の遠慮もあったのかな。いまは全然ないけどね(笑)。沢田と一緒にやりだしたのが、運が良かったと思う。彼がいなかったら僕らは京都止まりだったんじゃないかな」  ザ・タイガースの原形は岸部と森本、瞳、加橋の4人が65年6月に結成したサリーとプレイボーイズだ(岸部の愛称サリーはリトル・リチャードの「ロング・トール・サリー」が由来)。加橋と森本はすでにギターが弾けて、瞳もドラムをたたいたので、岸部はベース担当に。初めて抱いたのは京都の楽器屋で手に入れた4万円の中古だ。練習は西陣の、日本舞踊の小さな舞台の設(しつら)えがあった森本の家が多かった。 「貸しスタジオなんて昔はないから。近所から苦情がくるので、アンプも通さないで、小さな音でね」  ほどなくバンド名をファニーズと変え、翌年、京都市内のゴーゴー喫茶「田園」で先輩バンドの坊やをしながら時折ステージで歌っていた沢田と出会う。 「僕ら4人は誰も歌えないと思ってたんでね。沢田に入ってもらって、ボーカルのいるバンドにしようとしたんだ」 ■5人のバランス 絶妙だった  海の向こうでは、62年にデビューしたザ・ビートルズが瞬く間に世界を席巻していたころだ。オーディションに合格し大阪・道頓堀のジャズ喫茶「ナンバ一番」に出演するようになるとファニーズはファンが増えていった。だが、当時17歳の沢田に後の“ジュリー”の片鱗はまだ見えなかったという。 「僕たちはファッションもアイビーとかコンチとか、全体的に『カッコいい』っていうスタイルを身に着けていたけど、地味~でもっさりしてるのが沢田だったからね(笑)」  だが、「いるかいないか、わからないような内気な少年」は、マイクを握ると不思議な光を放った。当時ブルージーンズにいた内田裕也が前座のファニーズに目を留めたことがきっかけで、渡辺プロダクションからのデビューへ繋がった逸話はよく知られている。 「5人のバランスが絶妙だった」と後年、内田は振り返っている。  大阪時代のファニーズゆかりの地として往年のファンの間で有名なのが、メンバーが下宿していた西成区岸里(きしのさと)の「明月荘」だ。  ここで、ちょっとした新情報をひとつ。 「住んでいたのは1年ほどね。二人で3畳一間みたいなところを3部屋借りたんですよ」と岸部。  3部屋? ずっと「5人で2部屋」と伝わっていますけれど? 「3部屋。僕は瞳と相部屋で、沢田は森本と。で、加橋かつみは一人。それでもかつみは時々、母親のいる実家に帰っちゃったりする。やっぱり共同で二人部屋とか、かつみにはしんどかったのかもわからない」  東京行きが決まると、京都の四条花見小路にある旅館で、メンバーの親も同席して渡辺プロとの契約書にサインした。親側のまとめ役は職業軍人だった岸部の父親が買って出た。66年11月。5人の若者の姿は、開業間もない新幹線の車内にあった。  彼らの人生は東京で一変する。作曲家すぎやまこういちの一声でザ・タイガースと改名し、翌年1月に日劇ウエスタンカーニバルに初登場すると、新宿「ACB」、池袋「ドラム」、上野「テネシー」など都内のジャズ喫茶は連日満員に。2月に出したデビュー曲「僕のマリー」の売れ行きは最初こそ凪だったが、セカンドシングル「シーサイド・バウンド」で人気は爆発する。68年1月のウエスタンカーニバル出演時には、ブルー・コメッツ、ザ・スパイダースら並み居る人気バンドの中でも一頭地を抜く存在となっていた。 「ようやくどうにか一番になったという感じでしたね」。後に沢田は自叙伝『我が名は、ジュリー』で語っている。  上京してわずか1年。飛行機での移動では空港に専用の出入り口が用意され、車で走れば警察車両が先導し、発車時刻に遅刻しそうな時はマネジャーが新幹線さえ止めさせた。 「いきなり、19やハタチで何もかも特別扱いになった。ちょっとやっぱり、生意気になってたでしょうね」 ■GSブームと70年安保闘争  岸部は嵐のような日々を述懐する。住む場所も合宿生活を送った千歳烏山の一軒家から四谷左門町、目黒の池尻大橋と、自宅に押し掛けるファンから逃れるように引っ越しが続いた。ベルベットのジャケットにフリルのブラウス、バレエダンサーのような白いタイツ風の衣装も着た。 「恥ずかしくはなかったよ。ああいう時はああいうふうになるの。5人並んで真ん中にジュリーがいるから一応格好がつく。僕が一人でタイツはいてたら、おかしいでしょ(笑)」  GS全盛期は、そんな時代だった。「でもね」。岸部は言う。 「むつかしいのは、一方では安保闘争をやっている」  東大生の樺美智子が命を落とした60年の安保闘争。学生による反体制運動は続くベトナム反戦運動へとなだれ込み、GSブームの最高潮は、一連の大学紛争が激化した70年安保闘争の時期にぴたりと重なる。 「そんな時に、こっちは女の子相手に音楽やってるわけ。ファンに男なんて誰もいないから肩身が狭い。その肩身の狭さは、外国のほうを見てどうにかしようとするわけですよ。ビートルズとかローリング・ストーンズとか、あっちだってキャーキャー言われてる。『あんなすごいグループと僕らも同じなんだ』と思いながら、やってましたね」  68年6月、「木島則夫ハプニングショー」で、当時社会問題化していたGSと長髪男子の象徴のごとくザ・タイガースが批判にさらされたこともあった。  番組ではアウェー感が演出され、観覧者として参加していた教諭から、「GSファンは大脳が弱い」などという“口撃”も続く中、岸部は毅然と言っている。 「若者を全然理解しないようなのは本当の大人じゃないと僕は思う。だからこれから僕たちが何十年か先、大人になった時は、もっと綺麗な大人になりたいと思います」  日本全体が大きくうねり、転換していた時代だ。変化はメンバーにも生じていた。 「ちょっとずつ考え方に差が出てくるよね。音楽的な趣向が合わないとかじゃなくて、プロダクションの給料制に対してどうだとか、人気に見合うものをもらっているんだろうか、搾取されてどうするんだとかね。周りに『あんたたち、取られてるんだよ』っていう人も出たりする」  アイドル性を重視した渡辺プロのプロモーションも、「日本一のバンド」を目指して出発したメンバー間で少しずつ軋轢(あつれき)の種となっていた。  69年3月、レッスン中に姿を消したまま、加橋は戻らなかった。岸部の弟、シローの加入は話題にはなったものの、すでに瞳の心もグループから離れていた。 「ある日、ウエスタンカーニバルの時に、日劇の奈落にピー(瞳の愛称)に呼び出されてね。『こんな所にいないで、一緒に京都に帰ろう』って言うんだよ」  岸部にはそのころ、すでにザ・タイガースの解散をにらんで、沢田たちと新たなバンドを組む企画が進行中だった。 <なんで帰らないといけないの? 帰ってどうするの? まだやること、こっちでいっぱいあるんだよ> <一緒に帰らないんだったら、お前とはもう会わない> <いいよ> <一生絶交だ> 「子どもじゃないんだけどね。そんなやりとりがあったね」 ■武道館での解散「帰れコール」  71年1月24日、ザ・タイガースは日本武道館でのコンサートを最後に解散した。  公演の後、親や歴代のマネジャーも呼んで、有楽町のガード下にあるちゃんこ料理屋でお別れの食事会が開かれる。内田裕也の主催だった。  会が終わると瞳は、表に待たせていた家財一式を積んだ2トントラックに乗り込み、京都からコンサートを見にきてくれていた中学時代の親友2人と共に去っていった。振り返りもしなかった。 「よくそんな、ねえ。次の日だっていいじゃない(笑)。あの決意はすごいと思うけど」  ザ・タイガースというグループで青春を無駄にしてしまったという「火のような後悔」があったのだろうと、岸部は友の心中を思う。その後、瞳は37年間にわたってメンバーはおろか、芸能界との一切の交流を絶つ。  解散後、岸部は沢田とともに、ザ・テンプターズの萩原健一、大口広司、ザ・スパイダースの大野克夫、井上堯之とPYGの活動を本格始動し2月1日にデビュー。解散コンサートから1週間後のことだった。  PYGが目指したのは本格的なニュー・ロックだ。沢田と萩原のツインボーカル、天才と言われた大野、ミュージシャンに一目置かれる井上も加わり、「GSとは全く違う、もっと上のものを目指そう」と、今までに増して前向きだった。だが──。  出演したロックフェスでは「帰れコール」が飛び、トイレットペーパーや空き缶がステージに投げ込まれた。 「この人たち、ちょっとおかしいんじゃないと思ったぐらい、排除された。GSの残党が金儲けで集まったみたいに思われてるわけだから。出てる方はそんなことないのにね」  GSのファンからも、ロックファンからもそっぽを向かれ、コンサートの客席はガラガラ。メンバーの多忙も重なり、PYGは自然消滅していった──とされているが、実情は違ったらしい。  ある日、岸部のもとに電話がかかってくる。 「俺は、もうちょっと、沢田には勝てないなあ」  声の主はショーケンだった。(次号に続く/敬称略) (本誌・渡部薫)※週刊朝日  2023年5月26日号

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    オリラジ中田「松本人志への提言」に感じたズレ 松本はタモリに近い存在になりつつあるのでは?

     オリエンタルラジオの中田敦彦が、自身のYouTubeチャンネルで松本人志に対して提言をする動画を公開したことが話題になっている。 「【松本人志氏への提言】審査員という権力」と題した動画の中で、中田はベテラン芸人の漫才コンテスト番組『THE SECOND~漫才トーナメント~』で、松本がアンバサダーとして出演していたことに言及していた。松本はこの大会に顔を出しているだけではなく、『M-1グランプリ』と『キングオブコント』でも審査員を務めている。松本ばかりが審査員をしているのは業界のためにならないのではないか、と中田は語っていた。  それ以外にも、松本がお笑い界で絶対的な権威となっているため、彼に対して批判的なことを口にできないような空気がある、という趣旨のことも述べていた。  この動画がお笑い界内外に大反響を巻き起こした。霜降り明星のせいやは、中田が動画の中で自分の相方である粗品の名前を出したことに怒りを覚えたようで「真っ直ぐ勝負してないウンコみたいなやつが相方の名前使うな 中田」とツイートした。  また、松本本人もツイッターで「テレビとかYouTubeとか関係なく2人だけで話せばいいじゃん 連絡待ってる!」と中田に対する呼びかけと思われるメッセージを発信した。  個人的には、今回の中田の主張自体にはそこまで目新しさを感じなかった。なぜなら、彼は以前から動画やインタビュー記事の中で何度もこういう話をしているからだ。実際に動画で話している内容も、そこまで過激なものではない。サムネイル画像と動画タイトルに「松本人志」という名前をはっきり出したことで、動画を見ていない人にもメッセージの趣旨が伝わりやすかったため、この件がことさらに話題になったのだろう。  さて、それでは、中田が言うように、お笑い界で松本は絶対的な権威となっているのか。そして、彼に対する批判を許さないような空気や、松本の感性に合わない笑いが排除されるような風潮はあるのか。この点について個人的な見解を述べたい。  松本が多くのお笑い賞レースで審査員を務めているのは事実である。また、『人志松本のすべらない話』『IPPONグランプリ』『ドキュメンタル』など、数々のお笑いコンテンツに携わり、そこで中心的なポジションに就いているというのも事実だろう。  しかし、彼がそこで絶対的な権威としてほかの芸人を抑圧するように振る舞っているかというと、必ずしもそうであるとは思わない。もちろん松本はお笑い界とテレビ界におけるトップスターであり、松本の番組に出る芸人の多くが、松本にネタを見てもらいたい、褒めてもらいたい、認めてもらいたい、などと思っているのは間違いない。  しかし、芸人たちが松本に気に入られようとして、過度に彼だけに対して媚びるようなことをやっているとは感じたことがない。また、松本が審査員として携わっている大会でも、彼が最終的な審査結果を完全にコントロールしているわけではない。  たとえば、松本が審査員を務めた回の『M-1』では、最終決戦で松本が投票した芸人がそのまま優勝したケースもあれば、そうではないケースもある。複数の審査員がそれぞれ審査をしているので、松本の意見と全体の結果が食い違うのは珍しいことではない。お笑い界全体が松本の顔色をうかがって、彼の意見に合わせるような風潮があるのならば、こういう結果にはならないだろう。  また、先日行われた『THE SECOND』では、松本はアンバサダーとして決勝の現場にいた。審査は観客が行い、松本は直接かかわらない。  ここでは、松本の言動が審査結果に影響を与えることがないように、番組スタッフも松本本人も相当気を使っているのがうかがえた。松本の意見ですべてをコントロールしようとする意図が番組側や本人にあったのなら、決してこういう演出や審査方法にはなっていないだろう、という感じだった。  つまり、『THE SECOND』という大会を見て、その場に松本がいたということを根拠にして「松本絶対権力説」を語るのはそもそも無理筋だったのではないか。  それでは、これらの大会に関してはさておき、松本はお笑い界では絶対的な権威となっているのか。この点についても、そういう側面が全くないとは言えないが、そう言い切れるほどはっきりした何かがあるわけではない、というのが個人的な意見である。  松本が絶対的な権威になっていて、彼が認める笑いだけが正しい笑いであり、それ以外のものが排除されているのだとすれば、たしかに問題ではあるかもしれない。しかし、実態はどうかというと、あまりそういうふうになっているとは思えない。  すでにお笑い文化は多様化していて、多様なお笑いが認められている。そして、お笑い界のレジェンドの中で比較すると、松本はむしろ多様なお笑いに対して寛容な立場であるとも思う。  中田自身も、自分は松本には認められないようなジャンルで戦ってきた、という趣旨のことを語っていたが、過去には「武勇伝」「Perfect Human」「中田敦彦のYouTube大学」と、多くの人に支持されるヒット作を出し続けていて、それなりに評価も得ている。客観的に見て、そんな彼がお笑い界で不遇な立場に置かれているとは思えない。  さらに言うと、松本を絶対的な権力を振るう独裁者のようなイメージで語るのも、ミスリードではないかという気がする。松本はどちらかと言うと、権力なんて持ちたくないと思っている側の人間だ。彼は自分が中心となる番組でもいつもどこかだるそうにしているし、最近は口を開けば「引退したい」という話ばかりしている。権力の座にしがみつきたい、影響力を誇示したい、といった欲望が感じられるような人間ではない。  では、実際に松本が権威ある立場に就いているように見えるのはなぜかというと、必要に応じて周りの人が祭り上げているからだ。松本は神輿として担がれているだけであり、本人がその方向に誘導している感じはしない。  もちろん、松本にも血気盛んな時代はあったし、そのときにはもっとギラギラしていて、挑発的、排他的な言動もあった。しかし、ここ10年の松本にはそういうものを感じることはあまりない。  むしろ、松本は、本人の意向にかかわらず、常に気を使われている。そして、気を使われることに人一倍気を使っている、という構図が見えてくる。  これを「松本人志のタモリ化」と言い換えてもいいだろう。タモリもまた一種の権威である。しかし、決してそれを誇示しない。みんながタモリを慕い、勝手についてくる。タモリが中心にいることで、ただ楽しいだけのお昼の帯番組『笑っていいとも!』は伝説的な人気番組になった。  今の松本は『いいとも!』の頃のタモリに近い存在になっている。もちろん松本自身が鋭いコメントを繰り出したりすることもあるが、そこにいるだけで場が引き締まったり、共演者や視聴者に安心感を与えたりするというのも大きい。良くも悪くもそれが今の松本である。 「多様化するお笑い」と「タモリ化する松本」を当たり前のように受け入れて満足している多くの人にとっては、中田の松本批判は正しいかどうか以前に、前提となる現状認識にズレがあるところが引っかかるのではないか。  すでにこの騒動自体が多くの芸人によってネタとして消費されつつあるところにも、この国に根付いたお笑い文化の強さを感じる。誰もが松本に逆らうことを恐れてこの問題に口をつぐむ、というようなことにはなっていない。  お笑いはただ面白ければいいし、その理想はすでに実現している。中田も松本もこの素晴らしきお笑い界の構成員として、引き続き私たちに多くの笑いを提供していってほしい。(お笑い評論家・ラリー遠田)

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    郵便局の統廃合は「絶対タブー」の裏組織 先送りのツケを払わされるのは国民と利用者だ

     郵便局の利用者が漫然と減り続けるなか、全国2万4千の郵便局網の統廃合は必要だ――。日本経済新聞が1面トップで仕掛けた問題提起は、ある“力”によってすぐに火消しされた。『郵便局の裏組織 「全特」―支配と権力構造』(光文社)を上梓した朝日新聞経済部の藤田知也記者が、舞台裏を解説する。 *  *  * <郵便局網「整理が必要」 郵政社長 統廃合の検討表明>  日本経済新聞の5月12日付の1面トップに、こんな見出しがでかでかと掲載された。字面どおりに読めば、増田寛也社長が率いる日本郵政グループが、ついに統廃合の検討に踏み切るのか、と受け取れる。  ところが、いざ記事の中身を読むと、とたんに話が萎んでいく。  増田氏は、統廃合の時期は「2040年が一つのタイミング」と語り、その検討が始まるのは30年代後半だと書かれている。そんな先まで増田氏が社長を続ける可能性は低く、要するに「自分はやらない」「あと十数年はやらない」と宣言したも同然だ。  じつは、増田氏は社長の就任当初から、似たような発言を繰り返してきた。 「2040年を過ぎると人が驚くほどいなくなる。そういう時間軸で見ると、未来永劫ずっとネットワークを維持することはもちろんあり得ない」(2020年1月9日)  このときも統廃合は遠い将来の話で、むしろ自分はまったく手をつけず、郵便局網の価値向上に励むのだと説明していた。  そんな増田氏が改めて語った言葉をあえて切り取り、誤解しそうな見出しを1面であえてぶち上げたのは、記者自身が、あるいは多くの人が、やはり郵便局の統廃合は先送りせずに検討すべきだ、と考えているからではないか。  ただし、どんな思惑であれ、内容と不一致の見出しであれ、「統廃合」の議論はおろか、それを口にすることなど決して認めない。そう言わんばかりの利権団体がある。  日本郵政グループ内で「裏」と呼ばれる、全国郵便局長会(全特)だ。  日経報道の直後から、彼らはさっそく動き出した。 ■統廃合は「絶対タブー」  全特の末武晃会長は5月15日、日本郵政社長の増田氏と対峙していた。日経報道の3日後、週末を挟んだ最初の営業日だ。  末武氏が「強い遺憾の意」を伝えると、増田氏はこう釈明した。 「郵便局がすぐに廃止されるとの自治体の不安を払拭するため、かなり先まで今のまま残ることを伝えた。安心して自治体事務をゆだねてほしいとの思いで発言した」 「郵便局ネットワークの議論はまだ相当先でいい。まずは自治体の仕事をどれだけ増やせるかが大切だ」  末武氏は追い打ちをかけるように、日経新聞に記事の訂正を求め、社長の真意を局長と社員に説明するよう申し入れた。末武氏は5月16日付の会員向けメッセージでそう明かし、「非常に心配されていると思うが、今後も必要な対応を行っていく」と書き添えた。翌17日には予告どおり、増田氏による釈明がグループ全社員にあててメールされた。どっちが偉いのか、これではよくわからない。  末武氏の説明からは、たとえ遠い将来のことでも統廃合を口にするのは「絶対タブー」という信念が読み取れる。  そこまで彼らが「局数」にこだわるのはなぜなのか。  最大の理由は、局数の維持がピラミッド組織である郵便局長会の各層にとっての利権そのものだからだ、と筆者は考えている。 ■死守したいのは旧特定局の数  2万4千の郵便局のうち、約4千は業務を外部に委託する簡易郵便局。直営局とされる残り2万局のうち、約1100が大型の旧普通郵便局、そして約1万9千弱が旧特定郵便局だ。旧特定局長のほとんどが局長会の会員であり、全特が死守したいのも旧特定局の数だ。  局数は当然、局長ポストの数に直結する。そして、局長になる者はほぼ全員が局長会に入る。局長会に入るほうが採用に有利で、しかも局長会に入らなければ業務や出世が困難となる状況があるからだ。  そうした歪んだ人事構造に支えられ、局数の維持が局長会の会員数の維持にもつながる。会員は政治活動に取り組むことが条件なので、選挙などに無償で動かせる現役世代を安定的に確保できるようになる。  さらに、局長会の会員は毎年20万円超の出費を強いられるのが一般的だ。それは組織の運営費や国会議員に流れる政治資金といった活動費を数十億円規模で調達できる資金源にほかならない。  局長会は局長が自ら局舎を持つ「自営局舎」を推進しており、移転局舎があれば局長に取得するよう働きかける例が目立つ。土地を取得して局舎を建てるための資金を局長会の関連団体が融資することで、日本郵便が支出する店舗賃料を元手に、多額の利息収入を稼ぐことも可能にしている。  要するに、郵便局の統廃合に手をつけられれば、組織の力を維持する「ヒト」と「カネ」の供給システムが打撃を被る。これが口にすることも認めない最大の理由だろう。 ■「深刻化」する前に  いまいちど増田氏の言葉とともに、07年の郵政民営化後の道のりを思い起こしてほしい。  民営化で経営の自由度を高めたはずが、局長たちは「局数の維持」などを名目に民営化を凍結させ、さらに骨抜きにしていく法改正で足かせを増やすことに奔走した。局長会の要望を受け入れた法改正が実現すると、組織はあぐらをかいて本来の目的を見失い、「組織力の維持」自体が目的化していたのではないか。 「郵便局の価値向上」は民営化の当初からうたわれていたが、16年もの歳月を費消して、窓口は一体どれだけ向上したか。一部の局で最近ようやく電子マネーやスマホ決済ができるようになったが、ほかに大きな変化は思い浮かばない。これまでできなかったことが、このあと急にできるようになるとはとても思えない。  近年は、雇用を削り、サービスの質を落とし、料金を引き上げることで「利得」を捻出してきたのが経営の実態である。  21年からは「土曜配達」をなくし、昨年は「翌日配達」もやめた。夜間や週末の業務を減らし、日本郵便で21年からの5年間で全従業員の8%にあたる3万人を減らす計画だ。  郵便やゆうパックの料金はじわじわ値上がりした。19年度からは、郵便局網を守ることを口実に、郵政グループ全体で年200億円の税負担を軽くする特殊制度も始まった。その分だけ国民負担が重くなっている、ということだ。  郵便物の縮小を思えば致し方ない面もある。しかし、裏組織の利権に直結する「郵便局数の維持」は必死で守り抜くわりに、従業員や郵便利用者、国民の利益や負担はちゅうちょなく後回しにする姿勢が、増田体制のもとでも鮮明になっている。  経営規模が萎んでいくなか、いまの状態を維持して局数の延命を図るなら、郵便利用者と国民の負担は無尽蔵に膨らんでいく。それは「負の遺産」となって将来世代にツケを回すことにもなる。被害が深刻化する前に、私たち自身が郵便局の内実と経営が行き詰まる真因を理解し、その行く末に「審判」を下すべきではないか。  重たいコストを受け入れてでも2万4千すべての局を「必要な存在」として支えるのか。それともコストを抑えるため、本当に必要な規模のネットワークを特定して統廃合を推し進めるのか。  うわべのイメージではなく、事実とデータに基づいた真っ当な判断を下せるように、局長会の実態と郵便局の現場の実情が広く知られることを願ってやまない。 ◯ふじた・ともや/朝日新聞記者。2000年に朝日新聞社入社。「週刊朝日」記者を経て経済部に。新刊『郵便局の裏組織 「全特」-権力と支配構造』(光文社)が発売中。筆者への情報提供は fujitat2017@gmail.com へ

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    ヤングケアラーだった「ノブコブ・徳井」が同じ境遇の子に伝えたいこと 「あの壮絶な少年時代があったから芸人になった」

    お笑いコンビ「平成ノブシコブシ」の徳井健太さん(42)は、10代のころ、統合失調症の母親に代わって家事や妹の世話を日常的に行う「ヤングケアラー」でした。中学から高校にかけては「マジで青春がなかった」という徳井さん。過酷な経験といま家族の世話に追われている子どもたちへのメッセージを、時事YouTuberのたかまつななさんが聞きました。(「たかまつななチャンネル」で動画を配信しています) *  *  * ■「ドアの隙間から1万円札」閉じこもった母親と幼い妹 ――徳井さんがヤングケアラーだったと聞いて驚きました。  そんな大それたものじゃないのよ。もともとヤングケアラーなんて言葉はなかったじゃん。『敗北からの芸人論』(新潮社)という本を出したときに、ある記者さんから取材を受けて「徳井さんってヤングケアラーなんじゃないですか」って言われたのが初めてだったの。「何それ」と思って。そこが問題なのかなっていう。 ――ご自身では問題に気づかなかったということですね。どなたのお世話をされていたんですか?  母親ですね。俺が中学のときだから30年前か、うちは団地に住んでいて、父親は高卒で大企業で働いていたんだけど、高卒だと役職に就けないから、会社から2年間大学に行かせられていたの。(大学から)帰ってきたら課長、部長になれよってことで出張に行くことになって、その間、会社が全額給料も出すし、学費も出すと。それで父親がいなくなってから母親の様子がおかしくなってきた。  誰かが悪口を言っているとか、隣の人が文句を言っているとか。今思えば幻聴だろうね。それで母親は自分の部屋から一歩も出なくなって、心がどんどん弱っていって。  俺には6個下の妹がいて、まだ小学1年くらいだったのかな。ご飯を作る人がいないし、洗濯する人がいないし、買い物する人がいない。  たまに母親がドアの隙間から1万円と買い物リストをフッと出してくるので、じゃあこれを買ってくればいいんだなって俺が買ってきて料理して。問題なのは、普通なのよそれが。そんな大変なことって思わないでやっていたから。 ――妹さんの面倒も見ていたんですね。  そこまで手厚くはやっていなかったと思うけど、俺がやっていたんだろうね。母親は寂しかったんだろうね。母親は中卒で、父親は高卒なのさ。両親が20歳とか21歳のときに俺を産んでるから、お母さんは社会に出ていないのよ。働いてもいないし。お父さんだけがよりどころで、いなくなっちゃったから心が崩壊していってという感じだから。 ■中学・高校の6年間、ヤングケアラーだった ――1日のスケジュールはどんな感じだったんですか?  中学1年だから忙しいのよ。学校も普通に行って部活もやって帰ってきたから意外と時間もなくて。バレー部に入って、朝練をやっていたからさ。朝6時に起きて、部活をやって8時に学校に行くでしょ。授業が午後4時に終わって6時に部活が終わるよね、そこからご飯を作るよね。洗濯して8時。そこから勉強して10時に寝るとかだから。 ――ヤングケアラーだった期間はどれくらいですか?  家事は小学4年くらいのときからやっていたね。母親がダメになってから父親が帰ってきて地元の北海道に戻るのさ。中学2年から高校3年まで北海道にいた。その間もずっと母親が闘病中だったから、中高6年間ぐらいかな。 ――家族の世話をしていることで、自分の生活に支障はありましたか?  友達とは遊んでいなかったね。でも俺は別に遊びたくなかったんだよな。北海道に帰ってから、中学2年から高校3年まで新聞配達を朝夕やるのさ。それは生活のためとかじゃなくて、小遣いがほしくて。だから青春がマジでないのよ俺。誰かと手をつないで歩いたとかそんなのもなくて。友達はできなかったね。 ――周囲に相談できる人はいなかったんですか?  相談する人はいなかったし、相談するほどのことでもないと思っちゃったんだよね。もし30年前にヤングケアラーって言葉があれば、もしかしたら俺がそうかもって思って、学校の先生とかに相談できたかもしれないけど。 ーー辛くなかったのですか?  辛くないんだよな。これが俺の個性なのか、後天的なものか分からないんだけどさ。例えば八百屋さんの息子、娘がいたとして、親は八百屋さんのほうが忙しくて朝から晩まで働いてたら、家事を手伝うじゃん。そこに寝たきりのおばあちゃんがいたら介護もするじゃん。これ、みんなから褒められるんだよ。「そんな小さいのにおばあちゃんの介護をして、家の家事までして偉いね」って。言われたら子どもって嬉しいじゃん。俺そういう子たちって辛くないと思うんだよね。自分の生きる意味ってあるんだって、どっちかというとそう思っちゃうから。  お笑いをやった若手の頃とかは、普通に面白話としてこういう話を喋っていたのよ。だけどウケない。俺は「お前馬鹿だな」っていう感じで言ってほしいのに、みんな「大丈夫か」とか言ってくる。おかしいな、みんな俺が思っているリアクションと違うな、これあんまり面白くないんだと思っていた。本当35歳とか40歳ぐらいになって、なるほど、ウケないじゃなくて、俺が不幸って思われていたのかって気づいた。 ■家に帰って温かいみそ汁とご飯があったら…… ――今振り返ると、当時の生活や家庭の状況をどう思いますか?  よく悪い道に走らなかったなって思う。俺みたいな人が100人いたら、たぶん95人は悪のほうに行くと思うんだよね。でも、お笑いってマジで多様性の塊じゃん。みんな優しいし、とにかく笑うから、なんとか悪事に手を染めずにここまでこられた。今思うと、あの壮絶な少年時代があったから芸人になったし、芸人を続けられたし、普通とは違う切り口で笑いを取れたりしているから。  でも実際問題、あのとき誰かが手伝ってくれたり、俺の話を聞いてくれたりしたら違っただろうとは思う。芸人にはなっていなかったかもしれない。家事も大変だったからね。妹はほぼ子守に近かったから。家に帰って、温かいみそ汁とご飯と魚とかがあったら、なんて楽だろうと思ったりはしました。  ヤングケアラーの子たちは、いい大学を目指したいって言っても希望も折られていくじゃん。それで悪の道に進んでも、その子たちを責めるのもちょっと酷かなと思う。俺は運が良かったけど、普通だったら、ここでたかまつななとヤングケアラーがどうなんてしゃべっている身分じゃないんだろうなと。俺は大人になってから周りに恵まれたと思う。 ――厚生労働省の調査によると、今、子どもの4~6%が大人に代わって家族の世話をしているそうです。家族の問題を知られたくないことから、周りに相談できない子どもたちもたくさんいると思いますが、どうすれば相談できるようになると思いますか?  たぶん俺、すごい人に壁を作っていると思うのよ、昔から。そういうのを踏み越えて、俺が嫌だって言っても徳井ん家に行こうよみたいになって、「これだめなんじゃないの」とか、「良くないんじゃない」って言ってくれる人がいたら、そうなのかなって思ったかもね。友達が実際に家に来ることは何度かはあったけど、みんな気まずい。あんまり家庭のことに首を突っ込むんじゃないって言われていたのかもね。  ヤングケアラーの子たちに対して、家庭のことに首を突っ込まれなかったら助けられないだろうね。突っ込んだら突っ込んだで難しいけど、例えば、8人に怒られたとしても、2人の子どもの未来が救えるんだったら、それでもいいのかなって思うけどね。  それとお笑いの力が大きいと思うけどね。いじめられていた話も、芸人がしゃべると面白いじゃん。だけど、いじめられている人たちには、ちゃんと心に優しく刺さるじゃん。多分、他人からヤングケアラーだよって言われるのって、あんまり本人に通じないと思うんだよね。だから本人の目に入る、お笑い番組だったり、YouTubeだったり、漫画でもいいんだけど、そういうときに自分がヤングケアラーだって自覚するように、うちら大人がばらまき続けるしかないかね。 ■自分がそうだと気づいたら声を上げて ――ヤングケアラーの子だと、部活や進学を諦めている人もいると思いますが、どう心の整理をつければいいと思いますか?  俺がもし家族のためにとか、こういう母親がいるからと思っていたら、たぶん北海道で就職していたと思うのよ。だけど俺は家族なんてどうでもいいから自分の夢を追いかけたい、この家族と離れたいと思って、今ここにいるけど。だから本当に夢があったり、かなえたいことがあるんだったら、俺は家族を捨ててもいいと思うけどね。 ――最後に、今、ヤングケアラーだと気づいていない子もいるかもしれないし、苦しんでいる方もいると思うんですけど、当事者の方にメッセージをお願いします。  苦しんでいる人はすぐ声を上げたほうがいいでしょうね。今はSNSもあるし、周りにいろいろな大人もいるし、学校の先生も。苦しいって言える人は普通に苦しいって言えばいいし、助けてくれる人もいっぱいいると思うけど。  苦しくない、自分は普通だって思いながら日々削られている子たちには、言葉はたぶん刺さらないから、そうなのかもなって思っている小学生、中学生がもしいたら、土足でもその子の心に入って行ったほうがいいと思う。 「あのとき俺なら」っていう思いを後でするぐらいなら、今後その子と絶交になったとしても、ズッて踏み込んで、その子が大丈夫か、大丈夫じゃないかを確認してあげたほうがいいと思います。 ーーお話しにくい点もあったと思いますが、本日はありがとうございました。 全然ないですよ、俺には話しにくいことなんて全然ないです。そこが問題なんだろうな。 (聞き手・構成/たかまつなな 監修:一般社団法人ケアラーアクションネットワーク協会代表 持田恭子)

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    MARCH合格者数の上位校「大宮開成」「山手学院」 30年間で「伸びた学校」に変えた改革の“中身”

     この30年間でMARCH(明治・青山学院・立教・中央・法政)への大学合格者数を伸ばしている高校がある。どんな教育方針なのだろうか。埼玉の大宮開成と横浜市の山手学院を取材した。AERA 2023年6月5日号の記事を紹介する。 *  *  *  駿台予備学校によると、5月の「駿台全国模試(ハイレベル)」では理系3教科型の受験者数がこの30年間で約2万人から約2万7千人に増加。それに対し、文系3教科型は約2万3千人から約1万1千人に減少した。まさに文理逆転の構図である。  駿台入試情報室部長の城田高士さんは、この30年間で「伸びている学校」の共通点を指摘する。 「やらされるのではなく、自分から進んで学ぶ自主性のある生徒さんが多い印象です。『入試ってイヤだよね』ではなく、『入試があるから頑張れる』というロジックを持っている生徒さんが多いように思います」  生徒の自主性を育てるには、周りの教職員がどうサポートするのかも重要だ。埼玉の大宮開成もこの30年で実績を伸ばし、立教、中央、法政の3大学で1位に。今やMARCHの合格者数トップを誇る進学校になった。  同校は1959年に女子校として設立。大学進学を希望する生徒はほとんどいなかったが、96年に打ち出した「学校大改革」で大きく変わる。渡邉涼也進路指導部長は言う。 「進学にも力を入れようと、97年から共学化。特進コースを設置しました。ただ、大学受験のノウハウはなく、ほとんどゼロからのスタートでした。若手教員は予備校講師の授業を見学して、受験指導というものを学びながらやっていました」  他校の受験生に追いつくために、学びの環境を整えた。すると、初年度から早慶に受かった生徒が1人。結果が出た。 ■人の発想力は2のn乗  現在、予備校講師による授業はなくなった。年月が経つにつれ教師の授業も洗練されていったからだという。 「受験戦略も担任が主軸となって組み立てるので、進路指導部長の私は資料を渡すだけ。もともと進学校ではなかったこともあり、先生が自由にやれる余白があるのも大きいです」  渡邉さんはそう言い、今では「教員全員が進路指導部のよう」と、自信にあふれる。  横浜市の丘陵地にある山手学院も、青山学院や明治、立教への合格者数をぐんと伸ばしている。創立当初からグローバル教育に力を入れ、近年は国公立への進学者数も増えた。 「リーダーとして活躍する人になるには、いろんな発想をしていかなければいけない。持論ですが、人の発想力は2のn乗に比例するという感覚があります。そのnは知識の量なんです」  そう説明するのは、時乗洋昭校長だ。nの幅を広くするために、文系や理系、ひいては芸術まで学べる環境のほうがいいと考えたという。授業のほかにも、土曜講座として韓国語やタイ料理を学ぶ時間もある。保護者が参加できるものもあり、親と子ども、学校とがコミュニケーションをとる場にもなっている。 「生徒の自発性を重視するのは、大学受験でも同じです」  時乗校長がそう話すように、生徒が行きたいところを自発的に目指せる環境が、実績へとつながった。このnの考え方と受け止め方こそ、30年間での成長力につながっているに違いない。(編集部・福井しほ)  ※AERA 2023年6月5日号より抜粋

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    「あまちゃん」待望の再放送に地元も異例の盛り上がり 三陸鉄道には「三陸元気!GoGo号」も走る

     あの「国民的ドラマ」、NHK朝の連続テレビ小説「あまちゃん」が、放送開始10年を記念して、4月から再放送がスタートした。あまちゃんをイメージした、ラッピング列車まで走る。お茶の間だけでなく、地元も、再びあまちゃん熱で盛り上がる。AERA 2023年6月5日号の記事を紹介する。 *  *  *  日本中に笑いと涙をもたらした、あの朝ドラが帰ってきた。 「『じぇじぇじぇ』って、聞くたび元気になります」  都内の会社員の女性(40代)は楽しそうに話す。  2013年に放送されたNHK連続テレビ小説「あまちゃん」だ。東京になじめない女子高校生の天野アキ(俳優・のん)が、母・春子(小泉今日子)の故郷、太平洋に面した岩手県久慈市をモデルにした架空の町「北三陸市」を訪れる。そこで、祖母・夏(宮本信子)に憧れ、海女を目指し、やがてご当地アイドルになり、東日本大震災からの復興に奮闘する物語。驚いた時に使う方言「じぇじぇじぇ」が流行語になり、ロケ地巡りの「聖地巡礼」が始まった。放送終了後には「あまロス」なる言葉まで生まれるなど、社会現象を巻き起こした。その「あまちゃん」のアンコール放送が、放送開始10年を迎えたタイミングで、4月からNHKBSプレミアムとBS4Kでスタートしたのだ。 ■異例の盛り上がり  再放送が始まると連日、ツイッターで関連ワードがトレンド入りするなど、ネット上をにぎわせている。「#あまちゃん」というハッシュタグも立ち、 <泣いて笑って笑って泣いた15分> <エモく懐かしく、胸に響いて…そして爽やかで…。だけど最後の最後はクスッと笑わせてくれる…だから…最高>  といった書き込みも殺到し、異例の盛り上がりを見せている。  冒頭の女性は、「圧倒的にアキがかわいい」と言う。 「地味で暗くて向上心も協調性もない」と言われたアキが、母や祖母など強い個性の人たちの影響を受け、挫折しながらも成長していく。 「話の展開がわかっているのに、アキの夢や恋をドキドキしながら見守っています」(女性)  ドラマのロケ地も再び盛り上がりを見せる。 「じぇじぇじぇ発祥の地」記念碑が立つ、ロケ地の一つ久慈市宇部町。「久慈市観光物産協会」事務局長の向川(むかいかわ)智之さんによれば、このゴールデンウィーク(GW)期間中は、町には多くの老若男女のあまちゃんファンが県外からも訪れた。同協会が入る「道の駅くじ やませ土風館」にある「海女衣装体験コーナー」では、若者が海女の衣装に着替え撮影を楽しんだという。 「あまちゃんのすごさを実感いたしました」(向川さん)  それにしても、10年経っても色褪せない「あまちゃん」の魅力とは何か。  理由は一つではないが、NHKメディア戦略本部でドラマジャンル編集長の下要(しもかなめ)さんは、「元気をもらえるのが一番大きいのでは」と語る。 「頑張れば報われる、明日に向かって進もうというのがあまちゃんのテーマだと思います。もちろん、アキは、悩んだり壁にぶつかったりします。けれど、常に前を向いて乗り越えていく。その姿が、閉塞感があり困難な今の時代を生きる私たちに、元気を与えてくれるのではないでしょうか」 ■圧倒的な総合力  フリーライターで『みんなの朝ドラ』の著書もある木俣冬(きまたふゆ)さんは、10年経って「あまちゃん」の再放送を見て、改めて感じたのは「圧倒的な総合力」だと言う。 「脚本、演出、ヒロイン、バイプレーヤー(脇役)たち、音楽、風景……等々、すべてに力があって、元気をもらえます」  さらに結束力を感じるが、そのモチベーションの第一は、東北を応援したいという気持ちではないかという。あまちゃんは東日本大震災から2年後にできたドラマで、東北へのリスペクトがあり、といってひたすら持ち上げたり気を使いすぎたりするのではなく、あえて田舎の欠点も描いている。宮城県出身の宮藤官九郎さんが脚本だったからか、それにも説得力があったという。  中でも、ひと際光るのは、夏、春子、アキの家族3代だと木俣さん。 「とりわけ、アキは透明感があって清純そうな面もありつつ時には毒づくこともあって、多彩な面があって目が離せません。朝ドラのヒロインはそれまで、たいてい清純一点張りでしたが、アキは表情がとても豊かです」  そしてこう続ける。 「なつかしい1980年代カルチャーも満載。テレビ、演劇、音楽、すべてにおいて日本がやたらと元気で明るく、表現に忖度がなかった頃のパワーが凝縮していたと、10年経って、尊く思います」 ■前に進む勇気  再びの「あまちゃんフィーバー」を象徴するかのように、岩手県沿岸を走る三陸鉄道(三鉄)に、あまちゃんをイメージしたラッピング列車も登場した。車体全面にあまちゃんの名場面や、のんさんにちなんだイラストといった、いわゆる「あま絵」が描かれた「三陸元気!GoGo号」だ。  三鉄は、ドラマでは「北三陸鉄道」と名前を変え登場する。ラッピング列車は、三鉄を応援するあまちゃんファンがクラウドファンディング(CF)で全国から資金を募り、目標額を上回る約791万円を集め、三鉄の協力を得て実現した。  CFの実行委員長を務めたのは、埼玉県に住む今西穂高(ほだか)さん(66)。  13年4月、33年勤めた会社をリストラされた。失意の中、東北を一人で旅している時に放送中の「あまちゃん」を見てハマり、元気をもらった。自分も何かに向かって行動しようという気持ちになれ、前に進む勇気を与えてくれたという。「アキが海に飛び込むシーンが何度かあり、どれも印象的でした。飛び込むとは、恐れながらも勇気を出して新しい世界に入ることを意味しています。自分を変えようとする『覚悟』を感じました」  その後、今西さんは再就職も決まり、三陸地方にも通い三鉄もよく利用するようになると、あまちゃんでも重要な役割を果たす三鉄に親しみを感じた。そして、この三鉄に「あま絵」で飾った列車を走らせたら、楽しく、沿線の人も喜んでくれるだろうと考えるようになり、CFで資金を募ったという。「三陸元気!GoGo号」は、今西さんの命名だ。 「多くの皆さんに三陸を訪れ、きれいな景色や美味しいお弁当を楽しみながら、『三陸元気!GoGo号』に乗っていただきたいと思います」(今西さん) ■再び日本を元気に  4月上旬、三鉄の久慈駅で行われた三陸元気!GoGo号の出発式には、のんさんも駆けつけた。 「たくさんの愛情を感じる列車。沿岸を走るのがすごく楽しみ」  とあいさつ。テープカットをした後、北の海女の姿になり、大漁旗を振って列車を見送った。  ラッピング列車は、久慈(岩手県久慈市)−盛(さかり)(同大船渡市)間の163キロを、10月1日までの毎週土日に運行する。それ以降は、通常ダイヤに組み込んで来年4月上旬まで運行する予定だという。  三陸鉄道も歓迎する。  同鉄道は1984年に開業。かつては、交通手段がなく隣の集落に行くのさえ船で岬を回らなければいけなかった三陸地方を一つにつないだのが三鉄だった。だが、開業時には年間268万人だった乗客数は、沿線自治体の少子化や人口減少、コロナ禍などで21年度は約61万人と4分の1にまで減少。22年度は、燃料費高騰も加わり、2年連続の赤字になる見通しなど厳しい状況が続く。  それだけに、三陸元気!GoGo号への期待も大きい。三鉄によれば、今年のGWは多くの観光客が列車を利用し、駅のホームではカメラを構えたファンが、列車が来るのを待った。4月29日から5月5日までの収入は、対前年を上回り121%になったという。 「今後は、新型コロナウイルスが5類に移行したことから『あまちゃん』の再放送と『三陸元気!GoGo号』の運行によって、たくさんの方に来ていただきたいと期待しております」(三陸鉄道)  あまちゃんが再び、三陸を、そして日本を元気にする。 (編集部・野村昌二) ※AERA 2023年6月5日号

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    「同じ世界に生きているけど全然違う世界を見ている」 IQ130「ギフテッド」の息子に母が言った「がんばらなくていいんだよ」の言葉

     視力と聴力が突出して高い特徴を持つユウ君(10)。【前編】では、それが感覚過敏で、視覚が狭すぎて文字全体が見えない、聴力が高すぎて音が刺さるように痛いという生活に苦しむユウ君の姿を紹介した。【後編】では、知能テストの結果で息子が「ギフテッド」だと改めて認識した母親が、彼の特別な能力をどう生かし、社会生活とどう折り合いをつけていったのかを追った。<阿部朋美・伊藤和行著『ギフテッドの光と影 知能が高すぎて生きづらい人たち』(朝日新聞出版)より一部抜粋・再編集> 【前編】<音が痛い、文字が見えない「ギフテッド」…感覚過敏で「もうがんばりたくない」と話す10歳少年の苦しみ>より続く *  *  * ■凸凹のIQグラフ  最初、母は自閉症を疑った。専門のクリニックに行った。だが医師は「相手の気持ちをくみコミュニケーションをとれる一方、感覚過敏で人と接するのが苦手というのは、当てはまる例がない。特殊ですね」と困惑した表情で言った。眼科や耳鼻科にも通ったが「異常はない」と言われたという。  とにかく情報がほしい。何が原因で、親としてどうサポートしたらいいのか知りたい。病院を回った。  小学校の養護教諭に勧められ、学校の近くにある小児科の心理相談に行ってみた。そこで発達専門の心理士に診てもらった。心理士はまず、ユウ君と雑談した。そしてこう言った。 「落ち着きぶりや受け答えが、小学2年生ではないです。学校では疲れてしまうでしょう」  そして、発達に関する検査を受けたほうがいいと言い、「WISC-IV」という知能検査を受けることを勧めた。  知能検査と聞き、母は少しためらった。検査は無料だというが、所要時間は1時間から1時間半ほどかかり、検査する人とユウ君が2人きりになることを伝えられたためだ。内容は「図を見たり言葉を覚えたり、簡単なもの」と伝えられていたが、知らない人と話すことが苦手なユウ君は、予想通り嫌がった。 「わらにもすがる思いでした」と母。ユウ君を「どんなふうに支援したらいいかを見つけるためのものだよ」と説得した。1カ月後に検査を受けることになった。  検査の日は大雨だった。雨が地面にはねる刺激だけで「痛い」というユウ君。なんとか病院に着き、検査室に入った。  検査室から出てきたユウ君は、黙り、つらそうだった。母に泣きつき、帰宅しても食事せず、何もやる気が起きずにいる状態が1週間も続いたという。「まだこの時は息子の目の異常がよくわからず、検査がどんなに大変だったか私も想像できませんでした。今ではかわいそうなことをしてしまったとも思います」と振り返る。それでも、検査の結果により、母が知りたかったユウ君のつらさの原因がわかっていくため、母は「本当に大事な検査でした」と話す。  ユウ君の検査の数値は、2人の意向で具体的には示さないが、母によると、言語理解はIQ130を上回った。一方、知覚推理が平均を下回っていた。その差は40以上あった。処理速度とワーキングメモリーは、平均より少し上だった。最高値と最低値の差が40以上あるのは珍しいという。四つの指標を折れ線グラフにして線で結ぶと、激しい凸凹になっていることがわかる。  これは何を意味するのだろうか。結果をもとに心理士から最初に言われたのは、「言語理解が高すぎる」だった。心理士によれば、差が15以上あれば、集団生活で生きづらさを感じることがある、と一般に言われているという。「もし(最も高い)言語理解が平均に近かったら、問題なく学校に通えていたかもしれないですね」と心理士は話し、こう続けたという。 「特に言語理解が高い子は、完璧を求める傾向があり、不登校になりがちです」 ■数値化された「生きづらさ」の一因  母は、まさにユウ君の一面を言い当てていると感じた。まさかこれほど高いIQが出るとは思っていなかったが、それ以上に、IQが高いことが生きづらさを引き起こす原因になっているなんて思いもよらなかった。母は「発達障害でしょうか」と聞いた。心理士も悩みながら「そう診断はできません。『2E』ギフテッドに該当すると思います」と言った。  ギフテッド? うちの子が? 母はふたたび驚いた。だが、そんな思いはすぐに打ち消した。ユウ君は、難しい計算を解いたり、複雑な漢字を書けたりするわけではない。成績も普通だ。独特な才能といえば、野鳥図鑑に載る670種を隅から隅まで記憶していたり、説明書を見ずにレゴブロックで小惑星探査機「はやぶさ」の形を組み立てたりといったことがあるぐらいだ。ペンを持たせると鳥の絵をずっと描き続けるということもあるが、これがギフテッドというには少し大げさすぎると思った。  心理士には、ユウ君にどんな障害があるのかは詳しくはわからないと言われた。その上で、フリースクールや2E教育に力を入れる支援団体などを紹介された。ただ「無理に学校に行かせないでください」とも言われた。いつかは学校に戻ってくれるだろうと考えていた母も、このことを境に考え方を大きく変えた。検査によって初めてユウ君の生きづらさの一因が「数値」としてわかり、納得できたからだ。 「検査がなければ息子のことを理解できないままだったと思います。子どもの言うことを信じて寄り添うことが本当に大事なことだとわかりました。そのことは今でも自分に言い聞かせています」 ■ゆっくり歩んでいくしかない  もう一つ、ユウ君には不思議な感覚がある。母がそれを知ったのは、それから半年ほどたったころだ。  近くの物が見えていないのに、どのようにぶつからずに歩いたり野球のボールをつかんだりしていたのかと聞いた。するとユウ君は「波が伝わる」と言った。「ボールから波が伝わってくるでしょ。それで何とか」と。 「自転車に乗るのは?」と聞くと、「自分から出る波が、周りの物から出る波をキャッチし、世界が一瞬だけ透明のようになる」。それによって、あいまいだが周りに何があるかわかり、大まかな空間把握をしているのだという。  ただ、この波も強くなると「たたかれたり刺されたりするような痛み」を感じるという。  しかし、波と言われても、母にはもちろん理解できなかった。「みんな波の感覚はなくて、痛みも感じていないよ」と伝えると、ユウ君は落ち込み、泣いた。ユウ君は、みんながそうした感覚を持ち、痛みを我慢するのが当たり前だと考えていたのだという。母は落ち込んだ。学校でも、電車内でも、自宅でも、そんなつらい状況をずっと我慢していたなんて。気づくことができず、母は申し訳ない気持ちでいっぱいになった。 「『がんばらなくていいんだよ』と伝えることぐらいしかできませんでした」  ある日、ユウ君は自宅にあった渦巻き形のランチョンマットを抱きしめていた。「ぐるぐるがいい」と言った。また、自宅にある天然の水晶を持ってみると、楽な感覚になるとも母に言った。水晶の結晶構造はらせん状であることが知られている。お守りにして持ち歩いているという。   母は言う。 「息子は同じ世界に生きているけど全然違う世界を見ています。とにかく受け入れて、ゆっくりと歩んでいくしかないと思っています」  そんなユウ君が脚光を浴びる出来事が、22年3月にあった。  ユウ君が描いた鳥の絵が、日本の企業などが企画したデジタルアートのコンペティションで、金賞を受賞したのだ。世界中から1248作品の応募があったなかで、唯一の最高賞だ。ある審査員からは「ずっと見つめていたくなる不思議なパワーを持つ」と評された。最高額の賞金1万ドルが贈られ、オークションにも出品され落札されたという。  タイトルは、「カワウ型飛行都市」。 細かなタッチの線や点で、水鳥のカワウと一体化した城が飛び立つ姿を黒のボールペンで描いている。母によると、A4のコピー用紙に書いたその絵を、スキャンしてデジタル化し応募しただけだという。ユウ君は、受賞時のコメントでこう自分を紹介した。 <ぼくの目は、みんなと同じようには見えていなくて、とても狭い範囲しかわかりません。自分の絵も、全部は見えなくて、一部分だけ見えます> <小さいものは、とてもよく見えるので、ずっと遠くの方を飛んでいる鳥を見るのが好きです>  賞金は、ユウ君の意向で、国外の難民を支援する団体や、障害やケアが必要な子どもの支援団体、ネパールで視覚障害者を支援している団体などに寄付しているという。「息子のカメラを買うお金ぐらいは残してもいいと思っていて、話し合い中です」と母は笑いながら教えてくれた。  公園での取材から1カ月ほどたった22年11月。ユウ君は、視覚発達の専門医による視野の検査を受けた。視野が5度しかないことがわかったという。医師は、一般的に人の視野は180~200度あると言い、なぜそんな狭い視野で歩いたり物をつかんだりできているのか不思議がったという。  ユウ君と初めて会った時、母に手伝ってもらいながら話してくれた言葉を私は思い出す。 「これまで、一生懸命みんなに合わせちゃっていて、なぜ自分がそんなに疲れてしまうのか、わからずいろいろつらかったです。僕の努力と我慢が足りないと思っていました。でも今は、鳥を観察したり、絵や漫画を描いたりして、心の中を表現したりできることが楽しいです」   23年1月、ユウ君は特別支援学校に転校し、新たなスタートを切っている。 (年齢は2023年3月時点のものです)

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    吉永小百合「週刊朝日」の休刊に寂しさ 「トップが悪いんじゃないですか」

     101年間、時代とともに歩んできた「週刊朝日」は今号をもって休刊します。休刊にあたって女優・吉永小百合さんからメッセージをいただきました。読者の皆さんと重ねた年月は宝物です。またいつか、どこかでお会いしましょう。 *  *  *  私が初めて「週刊朝日」さんから取材を受けたのは、1965年です。コラムニストの荒垣秀雄さんとの対談でした。  政治経済の記事も入っている堅くてまじめな雑誌です。それに、荒垣さんは「天声人語」を長い間書かれた方とお聞きして、私なんて届くことのない世界の方ですから、そうとう緊張してお答えしたと思います。  でも堅い記事ばかりではなく、おもしろい連載もたくさんあるんですよね。特に「似顔絵塾」には強い印象が残っています。人を描く素晴らしさを感じました。  私は「夢千代日記」(第1部放送は81年)で胎内被爆者を演じてから、非戦・反核について、言うべきことはきちっと言わないといけないという思いが強くなりました。  芸能人が社会的な問題についてしゃべる機会や場というのは、なかなかありません。そんな中、「週刊朝日」さんは私の考えを紹介してくださいました。近年は、先に亡くなられた坂本龍一さんがオピニオンリーダーとして、お考えをきちんと言っていらして。私も一緒に活動をさせていただき、見習いたいと思っていましたし、これからもと思っているんですね。  日本だけでなく地球全体がめちゃくちゃな方向に進んでいる。そういう時代になってきたと思います。だからこそ、きちっと正面から題材に取り組んで書く雑誌には、頑張ってほしいと思っていました。  そんなときに休刊の発表です。発言の場がなくなっていく寂しさを感じます。トップが悪いんじゃないですか。100年も続いた大事な雑誌をやめるなんて。  映画の世界もフィルムからデジタルに変わって、私は今でもまだ慣れたとはいえません。加えてネット配信も普及してきました。映画を映画館で観ることで、感じるものもあると思うんですけど。  情報も、本や雑誌を買いに行かなくても、自分のもとに勝手にネットに乗ってくるようになりました。これを読もうと思わなくても、自分で考えて選ばなくても、勝手に情報がやってくる。自分でその場所に行き、目で見ることで感じたり、出会った人と言葉を交わすといった世界が、どんどん遠のいていってしまう危機感があります。  ですから私は昨年2月の「週刊朝日」創刊100周年記念号で、「200年を目指して、ぜひぜひ頑張ってください」とエールを送ったんですよ。そう言ったのに、という思いでいっぱいです。 (取材・構成/本誌・菊地武顕) ※週刊朝日  2023年6月9日号

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    小学1年で息子が「IQ154」と発覚したときに母親は何を思ったのか 「ギフテッド」の子ども持つ親の“本音”

     物事に没頭しやすい、情報処理が速いといった特徴をもつことが多いと言われる「ギフテッド」。【前編】では、IQ154あり小学4年生で英検準1級に合格した小林都央さん(11)が学校生活に適応することに苦しんでいる現状を紹介した。一方で、自分の子どもがギフテッドだったら、親は何を思い、どう行動するのか。都央さんの母親である小林純子さんが実体験を語った。<阿部朋美・伊藤和行著『ギフテッドの光と影 知能が高すぎて生きづらい人たち』(朝日新聞出版)より一部を抜粋・再編集> 【前編】<小学4年で英検準1級に合格した「ギフテッド」少年の生きづらさ 「正直、学校は好きじゃない」と適応に苦しみ>より続く *  *  * ■幼稚園で全元素を暗記  幼少期の都央さんは、様々なものに興味を持った。漢字は3歳ごろから路線図で読めるようになった。初めて書いた字は「品川」だった。点字を覚え、フォントやピクトグラム(絵文字)に興味を持ち、歯車のおもちゃで遊ぶのも大好きだった。大人向けの機械式時計の本が愛読書だった。どうやって歯車がかみ合って動くのか、仕組みがわかるのが大好きだった。  幼稚園のころには分子に興味を持ち、すべての元素を英語と日本語で暗記した。「世の中のすべてのものは元素でできているので、こういうふうに結合することによってこういうものが生まれるみたいなことがわかるのがとても楽しかった」と都央さんは記憶している。純子さんに元素のクイズを出してくるが、難しくて答えられなかったという。幼稚園のころからパソコンに触れていた都央さんは、元素クイズを自動で出すゲームのプログラムを自作して遊んだ。   台風が近づいているというニュースを見ると「台風はどこで発生するんだろう」。雨が降ると、「降ってきた水はどこへ行くんだろう」と、疑問が次々と湧く。純子さんは「なんで?」といつも都央さんに問いかけられた。大人でも答えられないようなたくさんの疑問。純子さんは「とにかく常になんで、なんでと聞かれて、ちょっと私がパンクしそうになったので、ノートに書いて自分で調べてみてと伝えました。私の逃げ場のようにつくったノートです」。そう言って見せてくれた当時のノートには、都央さんの頭に浮かんだ疑問が並んでいた。 「なぜタイヤは黒い? 黒じゃなくてもいい?」 「どうして赤い火より青い火のほうが熱い?」 「なぜ日本には大統領がいないの?」  そして、図鑑などで調べた自分なりの答えが書き込まれていた。 ■みんなと遊んで気づいた「違い」  好奇心が旺盛な都央さんに体調の変化が現れたのも、幼稚園のころだった。日曜日の深夜に嘔吐(おうと)を繰り返した。救急車で運ばれたこともある。だが、疑われた感染症ではなかった。  その後も日曜日になると吐くことが続き、「心理的なもの」と診断を受けた。幼稚園での集団生活がストレスになっているようだった。夜にうなされることもあり、ドッジボールがある日は体調が悪そうに見えた。  後から、ボールが無秩序に動くルールが嫌で、体が拒否反応を起こしているとわかった。都央さんは「どんなルールでみんなが動いているかがわからなくて、怖いな、嫌だなっていう気持ちが強くなったんです。みんながランダムに動いて、ボールが自分めがけて飛んでくるのも怖かった」という記憶がある。ドッジボールがある時は、トイレに逃げ込んだ時もあった。  そのころから、周囲との違いも感じるようになったという。 「自宅で遊んでいる時は感じなかったのですが、幼稚園でみんなと過ごすようになって、ちょっと周りの人と話が合わないとか、周りの人が好きなことが自分はあまり好きではないとか、思うようになりました。ほかの友達が遊んでいるものもあまり面白いと感じられないなということもありました」(都央さん)  元素のことなどを話しても興味を持ってもらえないため、気持ちをセーブしながら周りの人と話していたという。  それまで、純子さんは都央さんのことを「ちょっと変わっているところがある」と思っていた。敏感で靴下は同じメーカーのものしかはかない。ただ、初めての子育てで他の子どもと比較はできず、「少しこだわりがあるのかな」と感じていた。周囲から「ギフテッド」の存在を教えてもらったのは、そんな時だ。知人に勧められ簡易的な検査を受けたところ、IQが高いとわかった。小学1年の時に受けた検査でIQが154だった。 ■「息子のつらさを初めて知った」  IQが高いとわかった時にはどんな心境だったのか。  純子さんは「息子がギフテッドかもしれないってわかった時に、お母さんって自分の子どもがお友達と同じように遊んで、同じように進学して、と知らず知らずのうちに思っているんだなって気づかされました。『普通じゃない、人と違う』ということが当時は不安でした。違うということを認めたくないという気持ちもありました」と当時の思いを語る。  同時に、IQを検査してくれた医師から、IQに差がある子どもたちと過ごすということは、学年が異なるクラスで過ごすようなものだと教えてもらった。 「学年が違うクラスで過ごすような感覚が日常なのは、それは息子にとって苦痛だなと、やっと息子のつらさがわかりました。IQが高いのは、いいことだと思ったこともあるのですが、話が合わない、関心事が合わない集団に日常的にずっといるっていう息子のつらさを初めて知った気がします」(純子さん)  そして、IQが高い人は、ほかの人よりもセンサーが敏感で、相手が何をしてほしいかを察知することに優れ、それに応えようとして疲れてしまうとも聞いた。授業の内容は、都央さんにとって学びが多いとは言いがたいものだったという。 「授業は淡々と受けて、教室にいればいいので楽だなと思う一方で、楽しい時間ではないのでつらい場所でもある」とこぼす。  学校でつらい思いをする都央さんを見て、入学や進級のたびに担任の先生へ都央さんの個性について手紙を書いて理解を求めた。幸いなことに担任の先生もギフテッドについて調べ、理解してくれる努力をしてくれた。スクールカウンセラーも理解を示し、相談に乗ってくれるという。純子さんは「集団生活や行事など学校でしか学べないこともあると思います。息子がやりたいことの時間も取りつつ、負荷はかけないように学校に行く日も作ろうという試行錯誤の中で今のスタイルになった」という。 ■独学でAIをプログラミング  ただ、都央さんにとっては、周りの小学生のように週に5日、一日6時間の授業を受けることが「時間のロス」に感じてしまうこともある。「自分が興味のあることをしている時が一番ワクワクする」と言い、いくつかの夢中になっていることがある。  その一つがプログラミングだ。21年に開かれた小学生向けのプログラミング大会では、小学4年で決勝に進出。一人暮らしの祖母のために考えた買い物アプリを発表し、特別賞を受賞した。翌年にも同じ大会で、5千件を超える応募作品の中からトップ10に選ばれた。AIが文章を作成するアプリをChatGPT(対話型AI)がリリースされる前に独自に制作し、決勝に進出した。  都央さんは「学校に行ってない、サボっている、頑張っていないとか言われるのですが、自分なりに頑張っているんだというのを知ってもらいたい」と話す。 ■人と違う個性、誇りになった  平日、美術館や図書館へ行くと、じろじろと見られることもある。だが、純子さんは胸を張って歩くようにしているという。 「学校は行くものだから、平日に子どもがいるのはおかしいでしょうと思われることもある。だけど、息子は家でたくさん勉強をこなして、今は散歩やリフレッシュなんです、と堂々としていたいなぁと思います。自分の中の常識や、外からどう見られているのかということで息子を苦しめてしまうことはできるだけしないようにしたいなって思います」  純子さんは「人と違う個性を持っていることが誇り」と次第に感じるようになった。ただ、ギフテッドについての理解は、社会でも学校現場でもまだまだ行き届いていないと感じる。「ギフテッド」という単語を聞くと、「なんでもできるすごい天才」というイメージを持たれてしまうことも危惧する。  試行錯誤しながら登校したり、リフレッシュ休みをとったりする日々だが、都央さん、純子さんの悩みは尽きない。学校ではみんなが同じようにすることに価値が置かれているように感じ、登校しないと評価されない。この先の進路を考えた時に、出席日数がネックになることも出てくるかもしれない。「足が速い、絵が上手と同じように、ギフテッドを個性の一つとしてとらえてほしい」。そう願っている。 (年齢は2023年3月時点のものです)

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    紀子さま 戴冠式での着物姿、なぜ「たるみ」と「よれ」が気になったのか

     英ロンドンのウェストミンスター寺院で執り行われた、チャールズ国王の戴冠式。長引くインフレや失業率の高さなどに配慮して、これまでより簡略化された式典となった。参列者のドレスコードも緩やかになり、各国の王妃や皇太子妃らがひざ丈のドレスなどで臨むなか、松竹梅の柄の着物をお召しになって参列した秋篠宮家の紀子さま。和装を世界にアピールする場にもなったが、親子2代にわたって皇室に着物を納めてきた関係者はため息をつく。 *   *   *  1億ポンド(約170億円)規模と報道されたチャールズ新国王の戴冠式。これまでより参列者の数も絞られ、かつてのような豪華な夕食会も開かれなかった。  参列者のドレスコードも緩やかになった。  2013年のオランダ国王の即位式では、東宮であった天皇陛下と雅子さまが参列した。雅子さまは、日中の正装であるローブモンタント(長袖ロングドレス)をお召しだった。  一方、チャールズ新国王の戴冠式では、ひざ丈のドレスやナショナルドレス(民族衣装)の装いで出席した各国のロイヤルメンバーもすくなくなかった。  宮内庁関係者がこう明かす。 「英国側からドレスコードについて何度か連絡があり、その度に基準が緩やかになったと聞いています。最後は、ナショナルドレスでも構わないということになり、紀子さまも着物を選ばれたそうです」 ■「一体どうされた?」  戴冠式が執り行われるウェストミンスター寺院に向かう秋篠宮ご夫妻。にこやかに微笑むおふたりの写真は、世界に配信された。  モーニング姿の秋篠宮さまの隣で歩を進める紀子さまが選んだ着物は、吉祥文様である松竹梅や小花や波柄、そして金彩がほどこされた淡い色の訪問着。七宝文様の袋帯には、慶事に合わせる白金の帯締と帯揚げ、金銀の祝扇をさしている。金色のバッグも明るさを添えている。  紀子さまの帯は、18年にオランダ・ハーグ市を訪問しマルグリート王女と歓談した際や、19年の都内での公務でもお召しであった品だ。新調せずに、馴染んだ和装を選ぶ紀子さまに、不況が続く国内外への配慮がうかがえる。  目を引くのは、背と両袖に秋篠宮家の家紋を入れた、三つ紋の訪問着である点だ。  天皇と皇族方は、それぞれの家紋を持っている。  天皇ご一家である内廷皇族は、十六葉八重表菊(じゅうろくようやえおもてぎく)。他の皇族は、十四葉一重裏菊(じゅうよんようひとえうらぎく)を用いる。  各宮家は、創設にあたり紋章(家紋)をつくる。  皇嗣家である秋篠宮家は、中心に十四弁の菊の花を置き、周りに横向きの菊花と秋篠宮さまのお印である栂(つが)の枝葉を四つずつ円形に連ねた意匠。  ご夫妻で相談しながら選んだという。  紀子さまらしい、華やかながら控えめな和装である。  だが、「染の聚楽」代表の高橋泰三さんは、ため息をつきながら戴冠式の様子を見ていた。今回の着物は、泰三さんが納めたものではないが、「染の聚楽」は、昭和の時代から皇室に着物をつくり納めていたこともある。 「日本の伝統文化を世界にアピールするよい機会ですから、和装をお召しと知り、楽しみにニュースを拝見したのです。お召しの着物は、手の込んだ刺繍はなく、染で細かな意匠を描いた訪問着でした。むしろ色無地の方が帯を引き立たせたかもしれません」  一方で泰三さんは、紀子さまの映像や写真を目にして驚いたという。 「着物業界の人間も同じ思いを抱いたようで、私のもとに何件も『紀子さまのお着物は、一体どうされたのか』と問い合わせがありました」 ■着物を着こなす紀子さま  具体的に、どのあたりに違和感を持ったのか。 「真っ先に目についたのは、紀子さまの着物のたるみとよれ具合です。日本の新聞やテレビでよく使用された写真を見ると、歩く紀子さまの裾が妙にたるんで、よれています。裾も大きく崩れ、後ろがめくれています。和装の顔ともいえる袋帯も内側の袋の部分がぐんにゃりと生地がヘタっているようにも見えます」  紀子さまは、普段からよく着物をお召しで和装には慣れている。今回のように、歩くだけで足元が大きく乱れることはない、と泰三さんは首をひねる。 「質の良い正絹は、幾重にも絹糸を重ねて密度が濃く織り上げられます。そのため昔は、目方つまり重量で正絹の価値を測っていました。良い正絹は生地自体の重みがあるため、身体にきれいに沿う。逆に、正絹の織の密度が粗い場合は、ペラペラと薄い着物になります。生地も軽いため、歩いていても着物の裾にたるみやよれが出たり、めくれやすくなったりします。紀子さまの着物にこれほどたるみとよれが出てしまったのは、薄い生地であったためかもしれませんね」  天皇や皇族方は、国内外の要人の接遇を行い、厳粛な式典にも出席する。装いは、接遇の相手やそこに集まる人々に敬意を示す手段でもある。  装いが注目される皇后や女性皇族は、360度どの角度から写真や映像を撮影されても困らないような、気遣いと立ち居振る舞いを常に求められる。   和装では着くずれやしわを防ぐため、公務の際に車で移動するときもシートに背中をもたれないよう配慮している。さらにシルエットを整えるために帯板を何枚か重ねるなど、工夫を重ねるケースもあるという。 「紀子さまは、普段の公務では美しく着物を着こなす方です。それなのに、たくさんの『しわ』が寄ったような和装の写真が世界中で用いられてしまったのは、残念です。ともあれ、戴冠式は各国の王族が集まり、世界中に映像や写真が配信される場です。日本の伝統文化と技術をアピールできる和装を選んでいただいたのは嬉しいことです」  天皇の名代として、戴冠式への参列と国際親善の役目をとどこおりなく果たした秋篠宮ご夫妻。  皇嗣家として重責を担うご一家には、ますますの活躍が求められそうだ。 (AERA dot.編集部・永井貴子)

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    ジェーン・スー「目標1万歩ウォーキング 生活を変えると、気になるものも変わってくる」

     作詞家、ラジオパーソナリティー、コラムニストとして活躍するジェーン・スーさんによるAERA連載「ジェーン・スーの先日、お目に掛かりまして」をお届けします。 *  *  *  4月半ばからウォーキングを始めました。これから暑くなるというのに、スタートするタイミングが悪いなあと我ながら思います。  とはいえ、いまや東京で「暑くも寒くもなく花粉も飛んでいない梅雨以外の時期」なんて4月下旬から6月頭までと、10月から頑張って年末くらいまで。夏になると夜もうだるような蒸し暑さです。ラジオで毎日「熱中症に気を付けて!」と言いながら、自分が倒れては元も子もない。よって、いつまで続けられるかは気温次第。  歩き始めて、1万歩ちゃんと歩くことはなかなか大変だとわかりました。ちょこちょこした移動も含めた「1日に1万歩」なら、一駅手前で降りるなどの工夫次第でどうにかなる。しかし「歩くぞ!」と心に決めて、運動としてのウォーキングだけで1万歩を達成するのはなかなかヘビー。先日は、夜に1時間半6キロシャキシャキ歩いてみたけれど、それでも9千歩程度でした。一気に1万歩を目指すのは、週末に1度できたら御の字でしょう。  平日は1日3回程度に分けて歩きます。理想的なのは、自宅からラジオ局、ラジオ局から事務所、事務所から自宅をすべて徒歩にすること。これで1万歩は余裕です。  私は汗かきなので、歩き始めて5分もしないうちに滝のような汗が顔面や背中に滴ってきます。リュックには着替えのTシャツが入っているから大丈夫だけれど、それにしても汗だく。  生活を変えると、気になるものも変わって面白いですね。昔はスポーツ用と銘打った強力な日焼け止めがドラッグストアに必ず置いてあったけれど、いまは街使用向けのものですらSPF50が標準となり、あとは落ちにくさが問われるわけですが、ウォータープルーフ機能を強く謳っているものは意外と少ない。「汗、水に強い」と控えめに書いてあるくらいです。肌に悪そうな印象を持たれたくないからなのかしら。  朝、やや頼りなさを感じる日焼け止めを顔や首、腕に塗りたくり、日傘を右手に、タオルを左手に家を出る毎日。途中、コンビニで水を買い、ごくごくと飲みながら40分。気温25度くらいまでなら、なんとか体力を温存しながら歩けます。ラジオが終わったらまた歩くのだから、私はやはり体力があるほうと言えるでしょう。強い体に産んでくれた親に感謝です。 ○じぇーん・すー◆1973年、東京生まれ。日本人。作詞家、ラジオパーソナリティー、コラムニスト。著書多数。『揉まれて、ゆるんで、癒されて 今夜もカネで解決だ』(朝日文庫)が発売中 ※AERA 2023年6月5日号

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