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【30年比較】東大、京大、早慶、MARCH…難関21大学「合格者数ランキング」【1993-2023】
東京大 / 京都大 / 大阪大 / 北海道大 / 東北大 / 名古屋大 / 九州大早稲田大 / 慶應義塾大 / 上智大 / 東京理科大 / 明治大 / 青山学院大 / 立教大 / 中央大 / 法政大 / 学習院大 / 関西大 / 関西学院大 / 同志社大 / 立命館大進学調査を行う「大学通信」の調査のもと、大学別に2023年と1993年の合格者数の上位校を掲載した。「合格者数」はのべ合格者数で、1人の学生が複数の大学に合格しているケースも含まれる。また、既卒生の合格者も含まれる。高校への調査では、未回答の学校は掲載していない。大学公表値では、推薦など一部の入試方式の合格者が含まれていない場合がある。1993年の早稲田大と2023年の国立大は合格実績のある高校に調査した人数。93年の北海道大と私立大は大学が公表した人数(早稲田大を除く)。93年のその他の国立大はサンデー毎日と大学通信の共同調査。早稲田大は23年が一般入試の合格者のみのため、93年のランキングからは附属・系属校の内部合格者を除いた。高校名は現在の名称。私=私立、公=公立、国=国立(協力/大学通信)【関連記事】東大、京大、早慶…30年で激変! 「難関21大学」合格者数ランキング 渋幕、西大和「急成長」のナゼ
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東大、京大、早慶…30年で激変! 「難関21大学」合格者数ランキング 渋幕、西大和「急成長」のナゼ
「昔は大変だったんだよ……」。若者を諭すときに大人が使う、魔法の言葉。はたして受験の世界は、かつて“大変”だったのか。AERAは今年で創刊35周年。この間に「合格マップ」は、変わった。30年前の1993年と今年で合格者数を比較すると「強い高校」が見えてくる。AERA 2023年6月5日号の特集「変わる大学・高校」から記事を紹介する。 * * * 夢の国ディズニーランドの近くには、受験界の“王国”があった。 県立千葉、県立東葛飾、県立船橋。「千葉御三家」とも呼ばれる同県屈指の公立高校で、東京大を筆頭に難関大学へ多くの合格者を送り出してきた。そんな“公立王国”千葉の勢力図を大きく書き換えたのが、渋谷教育学園幕張だった。 愛称は「渋幕」。私立の中高一貫校である同校は、1983年に開校。東京ディズニーランドと同い年だ。新設校でありながら、いまでは東大に74人が合格。さらに、早稲田大に226人、慶應義塾大に136人が合格している(2023年春)。 学内に入るや2フロアにわたる図書館が目に飛び込んでくる。6万5千冊を超える蔵書のうち、1万冊以上は英語の本が占める。静謐な空間だが、「しゃべらない」などのルールはない。 「本を読む生徒もいれば、プロジェクターを映して議論する生徒もいる。ここでいろんな知を深めてほしいんです」 そう話すのは、同校進路部長の井上一紀教諭だ。今や押しも押されもせぬ進学校だが、開校してしばらくは、東大合格者数は数人ほどだった。それが02年には県内トップの県立千葉と合格者数が逆転。12年に東大合格者数トップ10に入って以来、東大の常連校になった。 大学受験の世界は目まぐるしく変化している。アエラでは、大学通信の協力を得て、難関大学への合格者数を調査。受験人口が多かった1993年と2023年を比較して「30年」の変化を追った。 ■ガリ勉よりも情操教育 東京・京都・大阪などの難関国立大と早稲田・慶應義塾・上智・東京理科・MARCH(明治・青山学院・立教・中央・法政)・関関同立(関西・関西学院・同志社・立命館)など人気21大学への合格者数の上位校をランキングにした。 なお、ここで比較した「合格者数」は、のべ合格者数だ。既卒生を含み、私立大の場合は優秀な生徒が複数の学部や学科に合格する場合がある。また、卒業生数が多ければ合格者数も多く出る可能性がある。それらを踏まえた上で、じっくり読み解いてほしい。 93年春に大学受験をした人は、現在48歳を過ぎた辺り。生まれたときは第2次ベビーブーム下で、各校の卒業生数を見てもわかるとおり、30年前と現在とでは生徒数の差が際立つ。 上位校が入れ替わった東日本に対し、大阪大や関関同立などは公立の強さが見て取れる。 「そんな中で、やはり東大の変化に注目です」 そう指摘するのは、大学通信情報調査部の井沢秀さんだ。今も昔も合格者数では開成がトップに位置するのは変わらないが、ラ・サールや東京学芸大学附属、桐蔭学園、巣鴨、県立千葉がトップ10から姿を消している。井沢さんは続ける。 「ラ・サールや巣鴨は医学部志向が高まり、東大へ進む生徒が減ったことが背景にあります」 一方、新たな顔ぶれとして先の渋幕のほか、聖光学院や西大和学園、日比谷などが並ぶ。 「ガリガリ勉強させるより、情操教育に力を入れているところが伸びています」(井沢さん) ■集大成はペットボトル 事実、大躍進を遂げた渋幕の田村聡明校長は、「楽しくなければ学校じゃない」と言い切る。 同校には特進コースのようなクラス編成はなく、東大志望生もそうでない生徒も同じ教室で学ぶ。多様な将来を描くクラスメートと過ごすことで、生徒たちは視野を広げていく。 「だから、自発的に動く生徒が多いんですよ」(田村校長) 推薦入試で東大に進学した生徒は、時間さえあればグラウンドでペットボトルロケットを飛ばしていた。どうすれば遠くまで飛ぶのか試行錯誤を続けた。 「卒業するときには『私の集大成を置いていきます』とボロボロになったペットボトルを置いていきました。見た人は『なんじゃこりゃ』と思うような作品ですけどね」(同) 自主性や柔軟性の高さでは、奈良県の西大和学園も同じ。 同校は1986年開校で渋幕同様に新設校だが、京大や阪大など関西の難関大に多くの生徒を送り出してきた。しかし、近年は京大ではなく、東大へ進む生徒が増えている。 飯田光政校長によれば15年くらい前から東大進学に風向きが変わりはじめたという。そして14年、高2の生徒たち67人が当時学年部長だった飯田校長のもとを訪れ、こう嘆願した。 「東大専用のコースを作ってください」 その言葉を飯田校長は、どう受け止めたのか。 「本腰を入れて勉強しようとしたら、京大向けのものばかりやないかと思ったんでしょうね。ただ、67人も入る部屋がなかったので急きょリフォームして大きな教室を作ったんですよ」 そして16年3月、史上最多の29人が東大に現役合格した。 「かっこいい生徒たちでした。ドラマみたいでしょう」 飯田校長は誇らしげに、そう語った。 (編集部・福井しほ) ※AERA 2023年6月5日号より抜粋
AERA
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小島よしおが「なんで本を読まないといけないの?」と聞く中1女子に伝えたい、意外な“理由”とは
「なんで本を読まないといけないのか」という相談を送ってくれたのは、中学1年生の女の子。数多くの子ども向けライブを開催し、YouTubeチャンネル「おっぱっぴー小学校」も人気の小島よしおさんが子どもの悩みや疑問に答えるAERA dot.の本連載。月に5~8冊読んでいるという小島さんが考える、本の魅力とは? 読書の時間が楽しくなるヒントも聞きました。 * * * 【相談40】なんで本を読まないといけないのか。学校でも「読書の時間」というものがあり、日本語と英語の本を読むように言われている。いまではほとんどの人がスマホを持っているのに、わざわざ本を買わなければいけない理由を知りたいです。(ぷりん・中学1年生・女子) 【よしおの答え】 ぷりんピーヤ、いろんな情報の受け取り方がある時代に、疑問を持てるってすばらしい!ぷりんちゃんが言うように、いまはスマホがあればすぐにいろんな情報にたどり着くことができる。ネット検索すれば知りたいことの答えはだいたい出ているし、もっと詳しく知りたかったら誰かが動画で解説してくれているし、もちろん電子書籍もあるからね。 だけどいまでも多くの学校が読書を推奨していると思うし、学校には図書館が必ずあるよね。よしおが小学生のころから「本を読もう」とは言われていたし、誰の言葉かわからないけど「本は心の栄養」って言ったりもする。簡単に情報を得られる世の中で、どうしていまだに読書がすすめられるのか、よしおと一緒に考えてみよう! まずはよしおの“読書体験”から話してみようかな。よしおは“読書家”って大きな声で言えるほどじゃないけど、本を読むことが好き。だいたい月に5~8冊は読んでいるかなあ。本を読むと新しいことを知ることができるのはもちろんだけど、“本を読んでいる俺、なんかかっこいいなあ!”って思うんだ(笑)。 よしおの後輩も、「明治神宮外苑のイチョウ並木(道沿いにイチョウの木がたくさん並んだ東京の名所だよ!)のベンチで村上春樹を読む自分に酔いしれていた」って言っていた。よしおも、大学時代は古めの喫茶店に入って芥川龍之介とか夏目漱石とかを読んで自分に酔っていたよ(笑)。「そんな目的で本読むの?」と思うかもしれないけど、これがけっこう充実した時間なんだ。 ■目で追いかけてページをめくる本の魅力 じゃあなんで本を読むとそんなに充実感があるのか、考えてみた。まずは、紙の本と電子書籍の違い。電子書籍は、スマホやタブレットが1台あれば何冊も持ち歩くことができるね。家でも、本を置く場所をとらないからスペースに余裕ができる。紙を使わないから環境にもいいかもしれないね。 ただ、スマホやタブレットには誘惑が多い。誰かからメッセージが来たり、SNSをついチェックしてしまったり……。一方本は重くてかさばるけど、文字を追うのに集中できる。誘惑がないからこそ、本の世界に集中できるんだ。 そしてなんといっても、紙の本は1冊読み終えると達成感がある。ランニングをして目的地に着いたようなね。物として実際に目に見えるから、「ああ、俺これだけ読んだんだなあ」って実感できるんだ。電子書籍もいいと思うけど、達成感を得たくて紙の本を読んでいるっていうのもあるかもしれないなあ。 じゃあ次にスマホで得られる情報と本で得られる情報の違いについて考えてみよう。ネットの情報はすぐに何かを知りたいときには調べればすぐに答えが出てくるからすごく便利だね。それに対して、本は読むのに時間がかかるけど、情報がきっちり整理されていてまとまっている。 ネットの情報が全て間違っているわけではないけど、正しいかどうかを見分けるのは至難の業。だけど本はいろんな人の目を通って出版されているから、信頼できると思うんだ。それに、自分の考えを整理したり、知識を深めたりするときに、切り取り記事よりも順序だてて物事を考える手助けになるのが本なのかな、って思う。 自分に蓄積される知識の量も違う気がするんだ。不思議なもので、ネットサーフィンをしていると情報がどんどん流れていってしまう感じがするんだよね。反対に本は、自分の目で追いかけて自分の手でページをめくるっていう能動的な行為だから、情報を自分で手にしている感じがする。そうすると、自分のなかでもどんどん知識が重なっていくのを感じるんだ。 本を手にする過程も、よしおにとっては大切な時間。ネットですぐに本を買うことはできるけど、よしおは本屋さんや図書館に行くのをおすすめしたい。自分が欲しい本以外にも、いろんな情報が一気に目に飛び込んでくる環境だから、とても刺激があるんだ。自分では気づいていなかったけど実は興味を持っていたことが目に入ってきたり、自分には興味がないことでも周りの人が興味を持っていることが何かわかったりする。それを体験するのが楽しいんだ。 ネットで本を買うのと比べて、入ってくる情報量が全然違うんだよね。寄り道ができるっていうか、余白を感じるというか。それを感じたくて、本が欲しいときにはなるべく本屋さんに行くようにしているよ。 ■本は読み切らなくてもOK! ここまで一方的によしおが思う本のすばらしさを伝えてみたけど、何かピンときたかな? 自分で実感しないとわからないことだから難しいかなあ。ところで、ぷりんちゃんの学校の「読書の時間」は決められた本を読むのかな。それとも読む本の内容は自由で、日本語の本と英語の本を自分で探してきて読むのかな。 もし自分で本を選べるなら、とにかくいろんなジャンルの本を手にとってみたらどうだろう。学生のころって、「本は最初から最後まで1冊読み切らないとだめ」って思い込みがあるかもしれないけど、もし読んでいる本が「ちょっと読むの苦しいな」って思ったらどんどん違う本に切り替えてOK! よしおも、同じ内容の本でも読む時期によって、読みやすいときとそうでないときがあるんだよね。その情報を欲しているときにスラスラ読めるのかも。喉が渇いているときっていっぱい水飲めるよね? そんな感覚に近いかな(笑)。 本って小説もあれば知識を得る教養系の本もあるし、いろんな人の経験や考えが書かれたエッセーとかコラムもある。本っていろんなジャンルがあるから、絶対に好きなものがある気がするんだよなあ。もし許されるなら「読書の時間」に複数冊机に置いて、いろんな本をかじり読みするといいかも。「これなら読める!」という本に出合えたら、そこから本を読む面白さや知ることの面白さを知ることができるかもしれないね。 決められた本を読まなきゃいけないなら、それをゲームにしちゃうっていう手もあるかな。例えば、決められた時間に何ページ読めるか毎回ページ数を数えてみるとか、クラスの子と読んだ本の内容のクイズを出し合うとか。「このとき、主人公は何色の服を着ていたでしょう?」とかね。 そもそも本が苦手なようだったら、漫画や映像から入るのもありだと思うよ。よしおは湊かなえさんの『Nのために』っていう本はドラマが面白くて、もっと内容を知りたいと思って小説を買って読んだんだ。より作品を楽しめるし、ドラマで描かれていないストーリーも知ることができたよ。 だけど、必ずしも本を買わなきゃいけないってことはないし、読まなきゃいけないってこともないと思う。本を読まなくてもいいと思う人がいるのは別に悪いことじゃないからね。それに、「~しなきゃいけない」って義務のように感じて苦しいよね。 でも、学校で決められた課題をそう簡単に覆すことはできないから、せっかく設けられた時間なら「こうしたら楽しいかな」って考えられたらいいな、ってよしおは思う。それに、よしおは本のおかげで充実した時間を過ごせているから、少しでもその良さがぷりんちゃんにも届くといいなあ、と思う。本の楽しみ方って実はいろいろあるからね。ぷりんちゃんが相談を送ってくれたことをきっかけに、何かが少しでも変わったらうれしいな! ……って、僕は思うんだけど、君はどう思うかな? (構成/濱田ももこ) ●小島よしお(こじま・よしお)/1980年、沖縄生まれ千葉育ちのお笑い芸人。早稲田大学教育学部国語国文学科卒業。「そんなの関係ねぇ!」でブレーク。2020年4月からYouTubeチャンネル「小島よしおのおっぱっぴー小学校」で子どもの学習を支援する動画を公開。キッズコーディネーショントレーナーの資格を持ち、子ども向けのイベントを多数開催している。 【質問募集中!】小島よしおさんに答えてほしい悩みや疑問を募集しています。お気軽にお寄せください!https://dot.asahi.com/info/2021100800087.html
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市川猿之助にずっと気を使っていた「香川照之」との関係性 行きつけの居酒屋で見せていた“本当の仲”
警視庁は24日、歌舞伎俳優の市川猿之助(47)を都内の施設に呼び、事情聴取を行った。両親が向精神薬中毒の疑いで死亡した経緯について詳しく話を聞いたとみられる。悲惨な「一家心中騒動」にはいまだ多くの謎が残るが、改めて猿之助の交友関係を取材すると、意外な人間模様が浮かび上がってきた。特に従兄弟で同じ歌舞伎役者でもある「香川照之」との微妙な関係が見え隠れする。 * * * 猿之助は都内のある居酒屋を行きつけの店にしていた。そこでは、彼の華麗な人脈がみてとれる。猿之助の知人が言う。 「その店は、もともと20年くらい前からリリー・フランキーさんが1人で飲んでいて、彼が“隠れ家”にしている飲み屋だったんです。そのうち、リリーさんが福山雅治さん、大泉洋さんらを呼んで、みんなでワイワイと飲むようになった。猿之助さんは福山さんが連れてきたと記憶しています」 猿之助は日本酒をキープしていて、それをおちょこで飲んでいたという。 「猿之助さんは学生時代からの福山雅治さんのファンで、福山さんがDJを務めるラジオ番組を聞いて、何通も手紙を書き送っていたそうです。その後、テレビドラマでも共演するようになり、公私ともに仲良くなったようですね」(同) 猿之助が俳優の香川照之(57)を居酒屋に呼ぶことも、しばしばだった。 「猿之助さんが先に店にいて、香川さんに電話をかけ、『今日はみんないるけどどう?』と言って、香川さんが遅れてやって来るのを見かけましたね。猿之助さんは一人でしゃべりまくって、いつも座の盛り上げ役。香川さんとも仲良く飲んでいましたよ」 同じ澤瀉屋(おもだかや)で市川中車を襲名した香川と、その従兄弟にあたる四代目猿之助は、私生活でも関係が深かったようだ。だが、一門でのパワーバランスや歌舞伎役者としてのプライドなども絡み複雑な関係だったとも言われ、「女性セブン」(23年6月8日号)は2人の間に長年の確執があったと報じている。 歌舞伎に詳しい著述家の米原範彦氏は2人の関係をこう語る。 「香川はずっと歌舞伎界を離れていたので、歌舞伎の世界に戻っても四代目の猿之助を立てるような立場になっていました」 それを象徴する出来事があった。 俳優としての香川は2013年に始まったドラマ「半沢直樹」シリーズ(TBS系)で、堺雅人演じる主人公の宿敵を怪演して大ブレークした。ある新聞社が正月特集で「半沢直樹」でブレークした香川を大きく扱おうとしたところ、突如、キャンセルになったという。 「澤瀉屋のリーダーの猿之助をさしおいて、新聞の正月版に大々的に載ることはできないと判断されたようです。香川は何かと、猿之助に気を使わざるを得ない存在なんだと感じました」(メディア関係者) 香川は、三代目猿之助(現・二代目猿翁)と浜木綿子の息子。本来なら香川が四代目猿之助を名乗っても不思議のない家柄ではあったが、香川が3歳の時、両親が離婚。三代目猿之助は00年に舞踊家の藤間紫と再婚したことで、香川とは長い間、断絶関係が続いた。 「三代目猿之助は浜と香川のことは“過去のこと”として完全に切り捨てた。三代目猿之助は香川に対し、『あなたは息子ではありません。私はあなたの父でもない。今後、2度と会うことはありません』と言ったという有名なエピソードもありました。だが、それでも香川はどうしても歌舞伎の世界に戻りたかった。その結果、香川は夫婦間の軋轢が生じて離婚までしたのですが、そのとき、歌舞伎界に戻れるように熱心にサポートしたのが四代目猿之助だったのです」(米原氏) 昨年夏、香川は銀座のクラブホステスの髪を引っ張るなどのスキャンダルを「デイリー新潮」に報じられ、テレビドラマやCMを次々に降板することとなった。その後、香川は市川中車として歌舞伎から人生の再出発を図ったが、その際にサポートしたのも猿之助だったという。 結局、昨年12月に香川は十三代目市川團十郎白猿襲名披露の舞台に「市川中車」として出演したことで、俳優復帰を果たした。 「市川團十郎の弟子筋が市川猿之助になります。それゆえ、團十郎に引っ張り上げてもらうにしても、猿之助を飛び越えることはできない。香川はいつも猿之助に気を使う立場だったのです。そんな状態のなかで、猿之助が事件を起こし、その代役として香川の長男の團子(だんこ)に光が当たるというのは、おどろおどろしい因果を感じます」(米原氏) 事件が起きた18日は、明治座で「市川猿之助奮闘歌舞伎公演」の真っただ中だった。猿之助は休演し、18日の昼の部はさすがに休演となったが、夜の部は二代目中村錦之助の長男・中村隼人(29)が務めた。翌19日には代役として、昼の部は香川の長男・市川團子(19)が務めた。 團子はわずか1日の稽古で本番に臨んだようだが、堂々たる芝居を披露し、スタンディングオベーションも巻き起こったという。 「團子は判官びいきの日本人の琴線に触れたのかもしれません」(演芸評論家の山本健一氏) 團子、隼人という若手のホープが澤瀉屋のピンチを救った形となった。米原氏はこう語る。 「歌舞伎という芸能にはしたたかさがある。猿之助がいなくても、必ずその代役が現れる。團子はまだそれほど稽古を積んでないと思いますが、驚くべき吸収力です。隼人も脚光を浴びて、きれいな顔をしていることも世に知られました。猿之助も好きだったけど、隼人も團子もいいよねというファンも増えたはずです。歌舞伎ファンではなかった人にも存在が知れ渡り、新しいファン層を広げる結果になったと思います」 歌舞伎界に詳しい早稲田大学の児玉竜一教授は、團子と隼人をこう評価する。 「團子と隼人の2人は見事に代役を演じました。隼人は間違いなく、猿之助が場所と役を与えて、育てた一人と言えるでしょう。猿之助が若手を育てたことが実を結んだことは、悲しい出来事が続いたなかで、ひとつの希望になったとは思います。今月の明治座のピンチを乗り切ったとしても、ずっと安泰ではありません。ここから先は、若手の人たちの自覚と精進次第だと思います」 はたして、澤瀉屋の未来やいかに。 (AERA dot.編集部・上田耕司)
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吉永小百合「週刊朝日」の休刊に寂しさ 「トップが悪いんじゃないですか」
101年間、時代とともに歩んできた「週刊朝日」は今号をもって休刊します。休刊にあたって女優・吉永小百合さんからメッセージをいただきました。読者の皆さんと重ねた年月は宝物です。またいつか、どこかでお会いしましょう。 * * * 私が初めて「週刊朝日」さんから取材を受けたのは、1965年です。コラムニストの荒垣秀雄さんとの対談でした。 政治経済の記事も入っている堅くてまじめな雑誌です。それに、荒垣さんは「天声人語」を長い間書かれた方とお聞きして、私なんて届くことのない世界の方ですから、そうとう緊張してお答えしたと思います。 でも堅い記事ばかりではなく、おもしろい連載もたくさんあるんですよね。特に「似顔絵塾」には強い印象が残っています。人を描く素晴らしさを感じました。 私は「夢千代日記」(第1部放送は81年)で胎内被爆者を演じてから、非戦・反核について、言うべきことはきちっと言わないといけないという思いが強くなりました。 芸能人が社会的な問題についてしゃべる機会や場というのは、なかなかありません。そんな中、「週刊朝日」さんは私の考えを紹介してくださいました。近年は、先に亡くなられた坂本龍一さんがオピニオンリーダーとして、お考えをきちんと言っていらして。私も一緒に活動をさせていただき、見習いたいと思っていましたし、これからもと思っているんですね。 日本だけでなく地球全体がめちゃくちゃな方向に進んでいる。そういう時代になってきたと思います。だからこそ、きちっと正面から題材に取り組んで書く雑誌には、頑張ってほしいと思っていました。 そんなときに休刊の発表です。発言の場がなくなっていく寂しさを感じます。トップが悪いんじゃないですか。100年も続いた大事な雑誌をやめるなんて。 映画の世界もフィルムからデジタルに変わって、私は今でもまだ慣れたとはいえません。加えてネット配信も普及してきました。映画を映画館で観ることで、感じるものもあると思うんですけど。 情報も、本や雑誌を買いに行かなくても、自分のもとに勝手にネットに乗ってくるようになりました。これを読もうと思わなくても、自分で考えて選ばなくても、勝手に情報がやってくる。自分でその場所に行き、目で見ることで感じたり、出会った人と言葉を交わすといった世界が、どんどん遠のいていってしまう危機感があります。 ですから私は昨年2月の「週刊朝日」創刊100周年記念号で、「200年を目指して、ぜひぜひ頑張ってください」とエールを送ったんですよ。そう言ったのに、という思いでいっぱいです。 (取材・構成/本誌・菊地武顕) ※週刊朝日 2023年6月9日号
週刊朝日
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夏に増殖する「トコジラミ」の被害が続出 血を吸われると「赤いぶつぶつ」になり深刻な皮膚トラブルも
最近、トコジラミ(別名・南京虫)に刺されたことによって、肌が赤く腫れあがった写真をSNSに投稿する人が目立っている。血を吸われると強烈なかゆみを引き起こし、家に居ついてしまうと駆除が難しいとされるこの害虫。ついには薬剤に耐性を持つ個体まで確認されているようだが、被害を防ぐにはどうすれば良いのか。虫ケア用品大手のアース製薬に対策を聞いた。 * * * 「トコジラミ捕獲、勘弁して。もうしんどい」 「激かゆ」 「トコジラミが怖すぎて、どうしていいか分からなくなったので誰か助けてください」 ここ最近、SNSでトコジラミによる被害への悲痛な声や、対策方法に関する投稿が相次いでいる。 自治体への相談件数も増加している。たとえば東京都では2005年の相談は26件で08年までは2桁で推移していたが、09年以降は3桁に急増。その後、300件を超す年も出始め、19年には458件にまで増えた。 戦後の日本で徹底的な駆除が行われ、1970年代には「撲滅された」とも言われていたトコジラミだが、インバウンド需要により増えた訪日客が持ち込んでしまったり、日本人が海外旅行先から、手荷物に入るなどしたトコジラミを持ち帰ってしまったことが原因ではないかと指摘されている。 さらに最近では、ピレスロイド系と呼ぶ従来は効き目があった薬剤に耐性を持つ、通称「スーパートコジラミ」の存在が報告されており、駆除がより難しくなっているようだ。 そもそも、トコジラミとはどんな害虫なのか。 アース製薬の担当者によると、トコジラミは「シラミ」ではなく「カメムシ」の仲間だそう。体長は4~5ミリ前後で、幼虫も成虫も人やペットの血を吸って生きる。 まずやっかいなのが、その強烈なかゆみだ。 刺された人の体質により個人差はあるが、「吸血されると赤色っぽい発疹ができて、唾液によるアレルギー反応で激しいかゆみを引き起こす場合があります」(担当者) 主な発生時期は6~9月だが、暖房が効いた日本の家屋では季節を問わず生息することが可能で、冬季の出現例も珍しくないという。 成虫は1日で3~6個のペースで、約3ヵ月産卵し続ける。 「飢餓に強く、3カ月くらいは吸血しなくても生きられます」(担当者)と、生命力、繁殖力からしても手ごわすぎる存在なのだ。 さらにやっかいなのが、トコジラミは「かくれんぼ」が上手だという点。明るい場所が苦手なため、日中はベッドや家具の隙間などの狭い場所に隠れていて、就寝後、部屋が暗くなるとはい出てきて寝ている住人の血を吸う。飛べないため蚊のような飛翔音もなく、目が覚めたらすでに刺されているため、被害に気づくのも難しい。 では、家にトコジラミがいるかどうかをどうやって確認すればいいのか。担当者はこう話す。 「刺された跡やかゆみがあったら、部屋に2ミリくらいの黒褐色の汚れがないか確認してみてください。それはトコジラミのふんで、天井や壁、カーテン、寝具付近で見つかるケースが多いです」 外から持ち込まないための注意も重要だ。担当者は、海外の宿泊先では室内の隙間などをよく確認し、部屋を明るくして荷造りすることをすすめる。帰宅後も、手荷物などをよくチェックすることが大切になる。 早期発見、早期駆除が重要のため、トコジラミの発生が疑われたら市販の有効成分を含んだ駆除剤を活用するとともに、吸血されないように肌に塗る虫よけ剤などを使うのも手だが、前述のように殺虫剤に耐性があるスーパートコジラミもいるため、新しい薬剤を使用したくん煙タイプの駆除剤がおすすめだという。 そして、そもそも繁殖力が極めて強い害虫であることもあり、専門の駆除業者への依頼を推奨する自治体も複数ある。 厄介すぎる“お客さん”が自宅に住み着いていないか。心当たりが少しでもあったら、特に梅雨の時期から夏にかけては念入りにチェックしてみる必要がありそうだ。 (AERA dot.國府田英之)
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Snow Man・佐久間大介 「人生を諦めているような子ども」が変われた理由
グループとしての目標、そして自身の目指す世界について、まっすぐに語った佐久間大介さん。Snow Manのサードアルバム「i DO ME」が、5月17日にリリースされる。AERA 2023年5月22日号から。 * * * ――5月17日リリースのサードアルバムのタイトルは「i DO ME」。「自分らしく」という意味にローマ字読みは「挑め」で、Snow Manらしさの追求に挑んだ。「らしさ」と言うと、アクロバットやダンスをイメージしがちだが、リード曲「あいことば」は、王道のJポップだ。 佐久間大介(以下、佐久間):僕らは今まで「Snow Man」というジャンルでやってきたつもりです。いい意味でジャニーズらしくない楽曲でも、Snow Manがやるなら「あり!」「いい!」と感じてもらえるように、全力で挑戦してきました。どんなジャンルも格好よく表現できるのが僕らの強みだと思うし、今後も追求したいところです。ということは、裏を返せば、僕らは“ジャニーズらしい王道のJポップ”とは違う道を切り拓いてきたということ。「あいことば」のような王道に挑むことで、また違うSnow Manを見ていただけると思う。「Snow Man」というジャンルもさらに広がるんじゃないかな、と思います。 僕らSnow Manは「国民的アイドル」になることを目指しています。そして、僕らは「王道アイドル」かというとそうではなくて、全員が個性の塊だと思うんです。ジャニーズには「国民的アイドル」の先輩がたくさんいますが、彼らが築いてきた道を、個性の塊の僕らがどう歩いて行けるのか。そういう意味でも、楽しい挑戦ができました。 ――アルバムのテーマ「自分らしく」は、特に好きな言葉だ。 佐久間:誰かに憧れて、自分を否定してしまう気持ちは、多かれ少なかれ誰もがどこかに持っていると思います。でも、大切なのは、自分のネガティブな面も受け入れて、「個性」に昇華させて、いかに好きになるかだと思う。僕自身もそうやってきました。成長するためにも必要だと思いますし、世の中も個性を大切にするほうへ動いていますよね。 ■畑を広げることが役目 ――「アニメが好き」という個性を早くからオープンにし、声優やアニメ関連のラジオ番組など、仕事につなげてきた。 佐久間:今でこそ、どんなジャンルでも好きという気持ちは尊重されるように、堂々と「アニメが好き」と言える世の中になってきたと思いますが、昔は「アニメが好き」を隠さなくてはいけない空気がありました。僕もジャニーズに入ってしばらくは、公言することができませんでした。 でも、Kis-My-Ft2の宮田(俊哉)くんが言える土壌を開拓してくれた。ゼロから1を作るのは、1から100にするより大変だと思います。僕の役目は宮田くんが作った畑を広げることだと思っています。 ラジオは、誰もが自分の「好き」を思いきり「好き」と言える世の中になったらいいなと思ってやっています。「好き」には熱量があるし、僕が本気で語るのを聞いて、「自分も言っていいんだ」と思う人が増えるといいな、と。 ■皆がご機嫌になれば ――4月からはEテレ「みんなの手話」のナビゲーターに就任した。手話に興味を持ったのは、漫画がきっかけだ。 佐久間:大好きな少女漫画に、手話を題材にした作品があったんです。手話がわかれば、もっと深く作品を理解できるのかなと思って、興味はずっとあったんですが、一歩目をどう踏み出したらいいかがわからなかった。そんなとき、番組のお話をいただいた。 収録が楽しくて仕方なくて、ずっと笑っています(笑)。出演者の皆さんと、早く手話で冗談まで言い合えるようになりたいです。テキストで学ぶ以外にも実践的な日常会話を学びたくて、目黒(蓮)のドラマ「silent」を、手話中心に見直したりもしています。手話を学ぶ以前はまったくわからなかった「あ、そういう意味で、ここでその手話を入れているんだ!」みたいな発見もあって、面白いです。 目標は「紅白歌合戦」で手話通訳をすることですが、ファンの皆さんとも手話で会話ができたらうれしい。新しいコミュニケーションツールを学んでいると思うと、本当にこれからが楽しみで仕方ないんです。 ――明るい声が響くと、現場の雰囲気も明るくなった。取材中も笑顔を絶やさない。自身をムードメーカーと任じている。 佐久間:僕が大切にしているのは、「どんなときも、自分が一番に楽しむ」ことです。そして、グループでいるときはメンバーを楽しませたくて、様子をうかがっています。僕らも人間だから、スケジュールがキツいときなんかは、どうしても「疲れた」「つらい」と思うこともある。でも、現場が重くなるのは嫌じゃないですか。そんなとき、いかに軽くするかが僕の役割だと思っています。僕、全員の機嫌の取り方をわかっているんです(笑)。そして、そうすることは全然苦じゃない。だって、皆がご機嫌になれば、素晴らしく楽しい現場になるんですから。 「楽しい」という気持ちは、絶対に人に伝わるんです。僕らを見てくださるファンや視聴者の皆さんにも、僕たちが本当に楽しんでいるのが伝わるから、幸せになったり、楽しく感じてくれるんだと思っています。 それに、死ぬ時に「めっちゃ楽しかった! 次も楽しそうだな~」と思う人生でありたい。そのためにも、「楽しい」と言っている時間を増やしたいんです。僕も苦手と感じる分野の仕事はありはしますが、「苦手」と「嫌い」を広げても、いいことはないでしょう。どんな小さなことでも「好き」と思う部分を広げていくと、どんどん好きになれるんです。 ■「なれたらいいな」力に ――明朗快活でポジティブ。だが、13歳でジャニーズに入所したときは「まったく違う性格」だったという。 佐久間:僕、人生、諦めているような子どもでした。人見知りだし、引っ込み思案だし、人の目を見て話せないし。でも、小学校2年生からダンスをやり始めて、初めて表現の楽しさを知ったんです。というより、ダンスが自分を表現する唯一の方法でした。 それでジャニーズに入ったんですけど、人見知りだから、最初は前に出られなかった。「このままでは埋もれてしまう」という危機感もあって、ある時期から気持ちを切り替えたんです。人と比べて落ち込むことをやめて、なるべく前に出ようと頑張ったり、積極的に人に話しかけたり。そのときは無意識だったんですが、憧れていたアニメのキャラクターに自分を寄せていくことで、変わっていけた気がしています。 僕が憧れたり好きになったりするのは、ほとんどが自分に近いキャラクター。たとえば、「うたの☆プリンスさまっ♪」の来栖翔くんは、背が小さくて金髪で明るくて元気で、でもすごく努力をしているアイドルです。これまで出会ってきたアニメにそんな存在があったからこそ、いつも「こういう自分になれたらいいな」を力にしてくることができた。アニメがなかったら今の僕はないと思います。 ■150%まで出す ――プロとしてステージに立つ心構えを叩きこまれたのは舞台「滝沢歌舞伎」だ。2019年からは滝沢秀明さんからSnow Manが座長を引き継ぎ、先月、その歴史に幕を下ろした。 佐久間:お客さまのことを一番に意識できるようになったのも、滝沢歌舞伎からでした。チケットを買って見に来てくださるということの重さ、そして、それに見合うクオリティーのパフォーマンスを行うことの大切さを、徹底的に滝沢くんに教えていただきました。100%じゃダメで、120%、150%まで出さないと、人の感情は動かない。感情を動かしてこそ、「感動」は起きる。その精神を僕らも引き継いできたつもりです。 僕らがSnow Manという名前をもらったのもあのステージ上だったし、滝沢歌舞伎はメンバー全員が育った場所でもあります。思い入れのある舞台が幕を閉じたのは寂しいですが、逆に、自分たちがやり切って幕を下ろすという形になったことを「うれしく思おう」と思っています。また、次のステージに上がるために感謝を込めて。 ――アルバムは2枚連続ミリオンヒット。テレビ番組にも多く登場し、Snow Manは国民的アイドルに成長したように見える。 佐久間:いまだにメンバーと振り返るんですけど、ファンの皆さんがここまでさまざまな記録を作ってくれる未来は、メンバーの誰にも見えていなかったと思います。僕らのいまを変えてくれたのはファンの皆さんです。だから、皆さんがすごいんです。本当にそう思っているし、地べたを這うように苦しんできた時代もあったので、マジで調子には乗れないんです(笑)。僕、一生、天狗にはなれないと思います。 目標はいつも変わりません。僕らを知っている人はまだまだ限られていると思います。グループ名だけでなく、メンバー一人一人の名前と顔を、日本中の誰もが知っているような、本当の国民的アイドルグループを目指しています。 (ライター・大道絵里子) ※AERA 2023年5月22日号
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宮崎美子、デビューの撮影に「週刊朝日なら脱がされないと思った」
1922年に創刊し101年の歴史を刻んだ「週刊朝日」は今号をもって休刊します。休刊にあたって本誌ゆかりの女優・宮崎美子さんが、デビューのきっかけとなった表紙についてお話してくださいました。 * * * 1980年、20代で週刊朝日の表紙に載せていただいて、60代になった2021年の週刊朝日99周年記念号ではまた表紙にしていただきました。 デビューのきっかけになった表紙の写真を撮影してくださったのが篠山(紀信)さんで、60代になってカレンダーの撮影をしてくださったのも篠山さん。あの“還暦ビキニ”でお騒がせしたカレンダーです(笑)。 そして、表紙に再登場させていただいた年は、私の芸能生活40周年の年で、やっぱり撮影は篠山さん。あの時は、グラビアページでも篠山さんと2人で登場させていただきました。週刊朝日と篠山さんには強いご縁を感じています。 99周年記念号で篠山さんに撮っていただいたとき、“芸能生活50周年記念の時も”という話を冗談半分にしていたのに、休刊なんて……どうしてくれるんですか!(笑) そもそも私が女子大生表紙企画に応募した理由は週刊朝日だからだったんです。当時の篠山さんは男性誌のグラビアで活躍しているイメージが強くて、何となく脱がせちゃうようなイメージがあったのですが、週刊朝日なら脱がされることはないだろうっていう安心感があったからなんです。たとえて言うなら母校のような安心感でしょうか。そんな母校が閉校になり、思い出や記憶は大事なものとして心に残っているけど、学校自体がなくなっちゃうんだというような喪失感があります。 たぶん年代的なこともあるのかもしれませんが、新聞や雑誌、普通の書籍も紙で読むほうが断然好きです。自分のペースで読める、ちょっと戻って読み返せる。電子書籍やネットで読む文章もいいとは思いますが、やっぱりページをめくりたいという思いがあります。実物として手元にあるというのも好きで、最初の表紙の号は今も大切に保管してあるんですよ。 週刊誌は毎週毎週、装いを少しずつ変えながら、きちんとした読み物が出されていく。これってすごい文化ですよね。活力だと思います。週刊誌を読んでいると、関心のある記事以外にも、「えっ?こんなのもあるんだ」という情報も載っていたという発見があるのがいいですね。私にとって週刊誌は情報との出会いの場でした。それが消えてしまうのは、本当に残念だと思います。 あっ! でもあくまで「休刊」なんですから、「復刊」だってありえるってことですよね。もし芸能生活50周年の年に復刊していたら、ぜひまた登場させてほしいです。 (取材・構成/本誌・鈴木裕也)※週刊朝日 2023年6月9日号
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小学1年で息子が「IQ154」と発覚したときに母親は何を思ったのか 「ギフテッド」の子ども持つ親の“本音”
物事に没頭しやすい、情報処理が速いといった特徴をもつことが多いと言われる「ギフテッド」。【前編】では、IQ154あり小学4年生で英検準1級に合格した小林都央さん(11)が学校生活に適応することに苦しんでいる現状を紹介した。一方で、自分の子どもがギフテッドだったら、親は何を思い、どう行動するのか。都央さんの母親である小林純子さんが実体験を語った。<阿部朋美・伊藤和行著『ギフテッドの光と影 知能が高すぎて生きづらい人たち』(朝日新聞出版)より一部を抜粋・再編集> 【前編】<小学4年で英検準1級に合格した「ギフテッド」少年の生きづらさ 「正直、学校は好きじゃない」と適応に苦しみ>より続く * * * ■幼稚園で全元素を暗記 幼少期の都央さんは、様々なものに興味を持った。漢字は3歳ごろから路線図で読めるようになった。初めて書いた字は「品川」だった。点字を覚え、フォントやピクトグラム(絵文字)に興味を持ち、歯車のおもちゃで遊ぶのも大好きだった。大人向けの機械式時計の本が愛読書だった。どうやって歯車がかみ合って動くのか、仕組みがわかるのが大好きだった。 幼稚園のころには分子に興味を持ち、すべての元素を英語と日本語で暗記した。「世の中のすべてのものは元素でできているので、こういうふうに結合することによってこういうものが生まれるみたいなことがわかるのがとても楽しかった」と都央さんは記憶している。純子さんに元素のクイズを出してくるが、難しくて答えられなかったという。幼稚園のころからパソコンに触れていた都央さんは、元素クイズを自動で出すゲームのプログラムを自作して遊んだ。 台風が近づいているというニュースを見ると「台風はどこで発生するんだろう」。雨が降ると、「降ってきた水はどこへ行くんだろう」と、疑問が次々と湧く。純子さんは「なんで?」といつも都央さんに問いかけられた。大人でも答えられないようなたくさんの疑問。純子さんは「とにかく常になんで、なんでと聞かれて、ちょっと私がパンクしそうになったので、ノートに書いて自分で調べてみてと伝えました。私の逃げ場のようにつくったノートです」。そう言って見せてくれた当時のノートには、都央さんの頭に浮かんだ疑問が並んでいた。 「なぜタイヤは黒い? 黒じゃなくてもいい?」 「どうして赤い火より青い火のほうが熱い?」 「なぜ日本には大統領がいないの?」 そして、図鑑などで調べた自分なりの答えが書き込まれていた。 ■みんなと遊んで気づいた「違い」 好奇心が旺盛な都央さんに体調の変化が現れたのも、幼稚園のころだった。日曜日の深夜に嘔吐(おうと)を繰り返した。救急車で運ばれたこともある。だが、疑われた感染症ではなかった。 その後も日曜日になると吐くことが続き、「心理的なもの」と診断を受けた。幼稚園での集団生活がストレスになっているようだった。夜にうなされることもあり、ドッジボールがある日は体調が悪そうに見えた。 後から、ボールが無秩序に動くルールが嫌で、体が拒否反応を起こしているとわかった。都央さんは「どんなルールでみんなが動いているかがわからなくて、怖いな、嫌だなっていう気持ちが強くなったんです。みんながランダムに動いて、ボールが自分めがけて飛んでくるのも怖かった」という記憶がある。ドッジボールがある時は、トイレに逃げ込んだ時もあった。 そのころから、周囲との違いも感じるようになったという。 「自宅で遊んでいる時は感じなかったのですが、幼稚園でみんなと過ごすようになって、ちょっと周りの人と話が合わないとか、周りの人が好きなことが自分はあまり好きではないとか、思うようになりました。ほかの友達が遊んでいるものもあまり面白いと感じられないなということもありました」(都央さん) 元素のことなどを話しても興味を持ってもらえないため、気持ちをセーブしながら周りの人と話していたという。 それまで、純子さんは都央さんのことを「ちょっと変わっているところがある」と思っていた。敏感で靴下は同じメーカーのものしかはかない。ただ、初めての子育てで他の子どもと比較はできず、「少しこだわりがあるのかな」と感じていた。周囲から「ギフテッド」の存在を教えてもらったのは、そんな時だ。知人に勧められ簡易的な検査を受けたところ、IQが高いとわかった。小学1年の時に受けた検査でIQが154だった。 ■「息子のつらさを初めて知った」 IQが高いとわかった時にはどんな心境だったのか。 純子さんは「息子がギフテッドかもしれないってわかった時に、お母さんって自分の子どもがお友達と同じように遊んで、同じように進学して、と知らず知らずのうちに思っているんだなって気づかされました。『普通じゃない、人と違う』ということが当時は不安でした。違うということを認めたくないという気持ちもありました」と当時の思いを語る。 同時に、IQを検査してくれた医師から、IQに差がある子どもたちと過ごすということは、学年が異なるクラスで過ごすようなものだと教えてもらった。 「学年が違うクラスで過ごすような感覚が日常なのは、それは息子にとって苦痛だなと、やっと息子のつらさがわかりました。IQが高いのは、いいことだと思ったこともあるのですが、話が合わない、関心事が合わない集団に日常的にずっといるっていう息子のつらさを初めて知った気がします」(純子さん) そして、IQが高い人は、ほかの人よりもセンサーが敏感で、相手が何をしてほしいかを察知することに優れ、それに応えようとして疲れてしまうとも聞いた。授業の内容は、都央さんにとって学びが多いとは言いがたいものだったという。 「授業は淡々と受けて、教室にいればいいので楽だなと思う一方で、楽しい時間ではないのでつらい場所でもある」とこぼす。 学校でつらい思いをする都央さんを見て、入学や進級のたびに担任の先生へ都央さんの個性について手紙を書いて理解を求めた。幸いなことに担任の先生もギフテッドについて調べ、理解してくれる努力をしてくれた。スクールカウンセラーも理解を示し、相談に乗ってくれるという。純子さんは「集団生活や行事など学校でしか学べないこともあると思います。息子がやりたいことの時間も取りつつ、負荷はかけないように学校に行く日も作ろうという試行錯誤の中で今のスタイルになった」という。 ■独学でAIをプログラミング ただ、都央さんにとっては、周りの小学生のように週に5日、一日6時間の授業を受けることが「時間のロス」に感じてしまうこともある。「自分が興味のあることをしている時が一番ワクワクする」と言い、いくつかの夢中になっていることがある。 その一つがプログラミングだ。21年に開かれた小学生向けのプログラミング大会では、小学4年で決勝に進出。一人暮らしの祖母のために考えた買い物アプリを発表し、特別賞を受賞した。翌年にも同じ大会で、5千件を超える応募作品の中からトップ10に選ばれた。AIが文章を作成するアプリをChatGPT(対話型AI)がリリースされる前に独自に制作し、決勝に進出した。 都央さんは「学校に行ってない、サボっている、頑張っていないとか言われるのですが、自分なりに頑張っているんだというのを知ってもらいたい」と話す。 ■人と違う個性、誇りになった 平日、美術館や図書館へ行くと、じろじろと見られることもある。だが、純子さんは胸を張って歩くようにしているという。 「学校は行くものだから、平日に子どもがいるのはおかしいでしょうと思われることもある。だけど、息子は家でたくさん勉強をこなして、今は散歩やリフレッシュなんです、と堂々としていたいなぁと思います。自分の中の常識や、外からどう見られているのかということで息子を苦しめてしまうことはできるだけしないようにしたいなって思います」 純子さんは「人と違う個性を持っていることが誇り」と次第に感じるようになった。ただ、ギフテッドについての理解は、社会でも学校現場でもまだまだ行き届いていないと感じる。「ギフテッド」という単語を聞くと、「なんでもできるすごい天才」というイメージを持たれてしまうことも危惧する。 試行錯誤しながら登校したり、リフレッシュ休みをとったりする日々だが、都央さん、純子さんの悩みは尽きない。学校ではみんなが同じようにすることに価値が置かれているように感じ、登校しないと評価されない。この先の進路を考えた時に、出席日数がネックになることも出てくるかもしれない。「足が速い、絵が上手と同じように、ギフテッドを個性の一つとしてとらえてほしい」。そう願っている。 (年齢は2023年3月時点のものです)
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さらば青春の光「独立10年」で「年商3.7億円」 大躍進の裏にあった「社長・森田」の“先行投資”
お笑いコンビ「さらば青春の光」の勢いが止まらない。2013年に松竹芸能を退所して今年でちょうど10年となるが、本人たちが過去に出演したバラエティー番組では、その年商を「3億7000万円」と明かすほど大成功を収めている。週刊誌の芸能担当記者はこう語る。 「コンビの“頭脳”は、誰が見てもわかるように、事務所の社長でありネタ担当でもある森田哲矢さん。個人でもテレビのほかネット配信を含めると、現在17本のレギュラーを抱える超売れっ子です。相方の東ブクロさんとマネジャーとでギャラを3等分にするというルールは事務所設立当初に決めたそうですが、自分だけ膨大なレギュラー番組をこなし、単独ライブのネタを書き続けてもギャラにはさほど不満は感じてないそうです。あるインタビューでは『自分は億を稼ぐためにこの業界に入ったので、現時点での3等分は先行投資』と答えています」 テレビ出演は「コンビの知名度を上げるため」と割り切り、基本的にはすべて“言い値”で受けているという。これもまた、森田の戦略だ。 「個人事務所なので足元を見られ安いギャラを提案されたことも多いそうですが、先行投資と考えてほとんどの仕事を受けていたそうです。なので、予算のない深夜番組やネット配信からのオファーも非常に多い。その一方で、地肩の強い芸人なので、ゴールデン帯での平場でも強い。一時はスキャンダルのイメージからテレビでは扱いづらかった東ブクロさんもテレビ露出が増えていますし、コンビとしての出演はまだまだ伸びそうです」(前出の記者) 大手から独立し個人事務所として成功したケースはかつてのオフィス北野や、タイタンなどがあるが、個人事務所「ザ・森東」もそれらに続く存在になるのかもしれない。 松竹芸能を結成5年で辞め、今も続く「脱竹(=脱松竹芸能)」の急先鋒(せんぽう)としても知られる2人。仕事が劇的に増えたのは、彼らが主戦場として戦い続けた「キングオブコント」からの卒業からだった。お笑い界に詳しい放送作家はこう明かす。 「『キングオブコント』で優勝するためにネタを作りブラッシュアップしてきたさらば青春の光ですが、2018年に優勝まであと一歩のところで卒業を宣言。この潔さと彼らのネタに対する渇望がテレビ制作者を動かし、結果的にたくさんのオファーが舞い込んできたと語っています。彼らも賞レースを中心にしていた生活から一転、さまざまなメディアに露出するようになり、それが今のブレークにつながった。とはいえコントをやめたわけではなく、『キングオブコント』を卒業してからも、ほぼ毎年単独ライブを開催。最初は動員600人ほどの小さなライブでしたが、現在行われている単独ライブは全国6都市を回る過去最大規模で、動員は合計2万人超。チケットは早々と完売し、配信チケットも爆売れ中と、もう笑いが止まらない状況でしょう」 ■わずか2ページの本も完売 単独ライブとともに彼らの現在の主戦場といわれているのがYouTubeだ。現在、メインチャンネルの登録者数は93万人超で、合計6チャンネルを運営。事務所の売り上げの35%がYouTubeの収益だという。 「メインだけではなく、東ブクロさん単独のゴルフチャンネルなどのサブや、中華圏向けのチャンネルまでもやるほどの徹底ぶりで、ほかの芸人に比べ本気度が違います。彼らがYouTubeを始めたのも、『キングオブコント』卒業とほぼ同時期。『相方の愛車を金ピカに塗ってみた』『東ブクロの私生活をGPSでガチ追跡』など、地上波では実現不可能な企画を量産。際どさで攻めるそのスタイルと高い企画力は、熱狂的なファンから高い支持を得ています。先日も『東ブクロが高3のときに書いた作文を本人に内緒で出版』というドッキリ企画で、幻冬舎が制作した2ページだけのハードカバーを実際に販売し、即売会では1000部が完売。ファンを巻き込みつつネットで話題をつくることに加え、ファンとの距離感が近いのも彼らの人気の秘訣(ひけつ)かもしれません」(前出の放送作家) 元「週刊SPA!」芸能デスクの田辺健二氏は、さらば青春の光の大躍進を次のように分析する。 「コロナ禍を経て人々の働き方が大きく変わり、どの業界でも『個』の力がより求められるようになりました。オフィスにいなくてもリモートで稼げるとわかったサラリーマンが会社への帰属意識を持たなくなったように、企画力さえあれば大手芸能事務所に属さなくても勝負ができると証明したのが、さらば青春の光の2人なのです。劇場やテレビから配信ライブやYouTubeにシフトして、高い企画力によって熱狂的な固定ファンを生み出すことに成功しました。一方で、コントに対する思いも捨ててはいない。先日、単独ライブを見ましたが、露悪的で緻密なコントを披露し、大爆笑を生んでいました。いま、あらゆるメディアで大成功を収めている2人ですが、決してそこにあぐらをかくのではなく、『俺らの主戦場はコントのステージ』だという覚悟を感じさせるものでした。これからも持ち前の企画力とコント力を武器に、海千山千の猛者たちが乱立するお笑い戦国時代を悠々自適にサバイブしていってほしいですね」 テレビやYouTubeで荒稼ぎしても、主戦場はコントのステージ。そこだけは絶対に手を抜かない。その覚悟が彼らの大躍進を支えているようだ。 (藤原三星)
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息子が語る黒川紀章と膨大な借金「とにかく努力の人だったと知った」
TOKYO FMのラジオマン・延江浩さんが音楽とともに社会を語る、本誌連載「RADIO PA PA」。今回は中銀カプセルタワーと黒川紀章さんについて。 * * * 銀座8丁目の中銀(なかぎん)カプセルタワービルが昨年姿を消した。11階建てと13階建て2棟に140個のカプセルユニットがあり、SONYのAV機器が据え付けられ、円形の窓が近未来を示し、一つ一つのカプセルの中で日々の生活が営まれていた。 新陳代謝を意味する建築運動「メタボリズム」のリーダーだった黒川紀章はその象徴として中銀カプセルタワーを設計、1972年に竣工した。「時代の変化に沿って建物は変化し、増殖していくべきだ」。カプセルを交換しながら200年維持する構想だったが、どれか一つを取り換えるのが難しく、全てを一挙にという手法も所有者の意見がまとまらなかった。 時代に建築は即応するべきと黒川が唱えたが、このビルの消滅は衰退の一途を辿(たど)る日本のディストピアを示していた。これもまたメタボリズムなのだろう。 ギャラリーを営んでいる友人から誘われた。軽井沢にカプセルが遺(のこ)されているという。山の中腹で待っていると、先導のためにスポーツカーが下りてきた。「こんにちは」。降りてきた黒川未来夫(みきお)は長髪でロックミュージシャンのような風貌だった。世界に名を知られた建築家の息子は50代半ばだが、切れ長の目は父に似て鋭い知性を感じさせ、少年のような印象を持った。「カプセル建築は可能性が無限。都会にそびえ立つ中銀カプセルタワービルに対し、小さなサマーハウスを作ることでその可能性を示したかったようです」 外から眺めるとサマーハウスは森の中でひっそり呼吸しているように見えた。国内外で出版された黒川紀章作品集、レコード……。そこかしこに父の匂いのする品々が置かれた部屋で彼は話し始めた。 「父の周辺にはいたくなかったんです」。受けたのは東京藝術大学だが、建築ではなく美術学部。「藝大? 受かるわけない」と父の言葉も聴こえてきたが「2浪の末、合格しました。美術学部絵画科油画専攻です。この科が日本で現代美術を勉強する上で適した場所だと聞いていたから」 父が亡くなり息子は父の会社を継ぐが、そこには膨大な借金も残されていた。 「父は世界のコンペで闘い続けていた。そのためにも運転資金を必要としていたんですね。父が死ぬとたちまち資金が枯渇して……」 父の会社で激務の中、役員、社員から父のことを毎日のように聞く日々が始まった。もちろん良いことばかりではない。怒鳴られたり、叱咤(しった)されたり。殆(ほとん)ど知らなかった父の日常が見えてきた。「睡眠は3時間以内。それ以外は事務所での設計か、本を書くか、読書か。とにかく努力の人だったと知ったのです」 息子は父の作品を語った。「森の中の空港というテーマで設計されたクアラルンプール新国際空港は連鎖する森のような機能に対するデザインが高い次元にあるし、大阪の国立文楽劇場には伝統的なディテールが編み込まれ、それでいて和の建築ではない。見事と思った」 改めて話を聴いたのは半蔵門のビルの一室。夕刻になり、隣の建物も彼の父の作品だと気づいた。そのワコール麹町ビルを見上げ、今度一緒に黒川紀章が関わった建築を観て歩きたいと思った。 延江浩(のぶえ・ひろし)/1958年、東京都生まれ。慶大卒。TFM「村上RADIO」ゼネラルプロデューサー。小説現代新人賞、アジア太平洋放送連合賞ドキュメンタリー部門グランプリ、日本放送文化大賞グランプリ、ギャラクシー大賞など受賞。新刊「松本隆 言葉の教室」(マガジンハウス)が好評発売中※週刊朝日 2023年6月2日号
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50代の性行為「男性の8割がしたい」「女性の7割がしたくない」から考える 産婦人科医・宋美玄さん
50代になると、体力や視力が落ちてくるのと同様に、セックスの方も衰えてくる。人生100年時代といわれる今、人生の折り返しの年齢にある50代は、セックスとどう向き合うべきなのか。産婦人科医の宋美玄さんが解説する。(河出新書『50歳からの性教育』から一部抜粋) * * * 50歳前後は、男女とも身体に変化が訪れる年齢です。女性は40代半ばぐらいから卵巣の機能が低下し始め、女性ホルモンの一種、エストロゲンの分泌量が減り、着実に閉経へと向かいます。この時期を更年期と言い、さまざまな不調に見舞われる人も少なくありません。男性も、テストステロンという男性ホルモンの分泌量が減ります。女性と比べると減り方はゆるやかですが、女性と同じような更年期症状が出る人もいます。 これは生殖機能の終わりを意味します。性ホルモンにはさまざまな働きがあり、女性も男性もそれによって身体が機能して健康が守られていますが、基本的には妊娠する、させるために分泌されているホルモンだからです。それがなくなることで、生殖器、性機能の変化を実感する人も少なくありません。とはいえ、下半身だけが特別なわけではないのです。20、30代のときと比べて体力がなくなった、視力が低下した、肌の弾力が失われシワが増えた、脂っこいものを食べた後の消化がいまひとつになった……これまで特に気にすることなくできていた、たくさんのことができなくなる。それと同様に、セックスもこれまでと同じようにはいかなくなります。 一般的に加齢はネガティブに捉えられがちでしたが、近年では誰にでも起きる自然な現象であるからポジティブに受け止めようという動きも見られます。人生100年時代と考えると、長い長い後半戦を暗い気持ちで過ごすのを避けたいと思っての変化でしょう。身近なところでは、白髪は以前は加齢の象徴のように思われ、染めたり隠したりされてきましたが、自然の状態こそが美しいというグレイヘアが定着したのも、その一例でしょう。セックスにおいても同様で、加齢は必ずしもネガティブな出来事ばかりではないと思います。これまでのようにはできないということは、思い込みを捨てる絶好のチャンスと、とらえることもできます。 50歳というのは、そのよい節目ではないでしょうか。衝動に突き動かされるようにしてセックスしていた人も、その頻度が低くなったり程度が弱まったりします。いくつになっても旺盛な性的欲求を感じる人はいますが、それでもだんだん目減りしていきます。そんななかでセックスをしたいと思うなら、いまのうちに「しなければならない」を手放し、考えをシフトしておいたほうがいいと思います。 ■男性器中心主義セックスからの卒業 まず最初に見直したいのが「いつまでも性的に元気でなければならない」という思い込みです。この“元気”は、性的欲求を感じ、セックスを完遂できるまでの性機能が維持されている、というイメージのことです。そして完遂とは男性の射精を意味することとして、ひとまず話を進めます。 先述したとおり、性欲は年とともに低下していきますが、これは性欲を司つかさどる、テストステロンの分泌量が低下するからだと考えられています。男性ホルモンの一種ですが、女性も少量のテストステロンが分泌されています。「セックスしたい」という欲求は、もともと男女差が大きく、年齢が上がるごとにその差はますます開いていきます。20~69歳の男女、約5000人を調査した結果、「セックスしたいか」という問いに対して、「良く思う」「たまに思う」と回答したのは、50代男性で81.2%、60代男性で72.4%だったのに対して、50代女性は30.7%、60代女性は18%という結果が得られました。この年代を見ると「したい男性と、したくない女性」という構図に見えますが、私が日ごろ、クリニックで女性からセックスの悩みを聞いている実感もこれと同じです。 セックスはしたいとあまり思わなくなったけど、肌と肌を重ねたいと思っている女性は一定数います。その妨げとなっているのが、男性の「性器は大きく」「挿入時間は長く」という思い込みです。これは男性だけが囚われているもので、女性からすれば、男性器があまりに大きいと挿入時に痛みが出やすく、挿入時間が長いと腟の潤いがなくなるため、これまた痛みにつながります。この男女のすれ違いについて、私は『女医が教える 本当に気持ちのいいセックス』を出版して以来もう数え切れないほど発信しているのですが、男性に届いているという手応えがありません。これは男性同士で、大きさや挿入時間の長さを賞賛する一方で、サイズが小さく、早く射精することを「劣っている」と見なす文化があるからだと思います。本来なら抱かなくてよいはずのコンプレックスを抱きつづける男性がいて、それによって苦痛が発生している女性がいる……この思い込みで幸せになっている人はいないように思います。 これだけ性器のサイズと、挿入時間が取り沙汰されるのは、セックスを男性器中心に考えていることの表れでもあります。挿入こそがセックスで、それは射精で締めくくられるというイメージは男性だけでなく、実は女性にも広く共有されているのではないかと思います。女性が「セックスは好きではない」「気持ちよくなったことがない」というとき、それはたいてい挿入行為のことを指しています。「前戯は好き」「挿れる前までは気持ちいい」という女性は少なくありません。 「いつまでも元気でいなければならない」という思い込みを、男性が早々に捨てたほうがいいのは、これは裏を返せば「元気でなければセックスできない」ということになるからです。先述したように更年期に差し掛かったということは、生殖機能の終わりを意味します。女性は平均50歳で閉経を迎えますが、男性ははっきりとしたピリオドが打たれるわけではありません。それでも思うように勃起しなくなり、挿入できても射精まで勃起を維持できなくなり……といった具合に、性機能が次第にフェイドアウトしていきます。その時期は個人差が大きく、50歳前後だとまだ実感できない人も多いかもしれませんが、いつかは勃たなくなる日がくるのです。「勃起・挿入・射精ができない」=「セックスできない」となり、自縄自縛の状態に陥ります。そのことを恥と感じ、知られたくないと思いパートナーに触れなくなる男性もいます。これを相手が「自分に魅力がなくなったからだ」「何か悪いことをしたのかもしれない」と受け取って、知らない間に距離が開いていく……これはとても寂しいことです。 ●宋美玄(そん・みひょん)1976年生まれ。産婦人科医。日本新生児周産期学会会員、日本性科学会会員、日本産婦人科学会専門医。『女医が教える 本当に気持ちのいいセックス』(ブックマン社)がシリーズ化するなどヒット作多数。書籍や雑誌、テレビ・ラジオに出演し、女性の性や妊娠について積極的に発信を続けている。ほかの著書に『少女はどこでセックスを学ぶのか』(徳間書店)、『生理だいじょうぶブック』(小学館)、『セックス難民~ピュアな人しかできない時代~』(小学館新書)、『産婦人科医宋美玄先生が娘に伝えたい 性の話』(小学館、カツヤマ ケイコとの共著)など多数。
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岸部一徳、赤ん坊の世話もした「社会復帰」と「俳優修業」
沢田研二に萩原健一といったスポットライトを浴びる主役を斜め後ろから見続けてきた岸部一徳さんの美学。それはのちに久世光彦、樹木希林との、人生を変える出会いからもたらされた俳優としての道で花開く。暗転、そして舞台転換。新たに目の前に広がった場所には、逡巡と雌伏の季節に岸部のうちに胚胎した感性を注ぎ込める映画やドラマがあった。本誌編集長が聞く独占インタビューの第2回。 * * * 「僕は主役の、やや後ろ気味に立って見ているのに慣れているから」 岸部は今回のインタビューで、何度かこんな趣旨の言葉を口にした。注目を浴びることが生業の芸能界にあって、前に出るよりも一歩引いて、観察しているほうが性に合っているのだという。 1971年2月、グループサウンズ(GS)の面々、沢田研二、萩原健一、大野克夫、井上堯之、大口広司と結成したPYGは、GSファンにもロックファンにも総スカンを食らい、デビューから一貫して苦戦した。 「俺はジュリーには勝てない」 萩原が岸部に電話でこう吐露したのは、コンサートで客席がガラガラという事態が続いたころだ。 萩原は電話口で岸部に言った。 「歌はやっぱりジュリーのほうが全然いい。俺はもうやめようと思う」 萩原はライブパフォーマンスを含めすべてが「カッコいい」、“ショーケン”だ。 「沢田も、自分にはないものをショーケンは全部持ってると感じていたんじゃないかなあ」と岸部。「でもショーケンには彼の思いがあったんだろう。映画の裏方をやってみたいと言っていたけど、『約束』(72年)で結局主役の岸惠子さんの相手役で出演することになった。それからショーケンの俳優人生が始まったんですね」 PYGの終焉を迎える。それは岸部にとって大きな転機だった。 その後は井上堯之バンドの一員として沢田のバックで演奏したり、「太陽にほえろ!」(72年~)や「傷だらけの天使」(74年~)のテーマも演奏した。充実して見える活動が却(かえ)って、「音楽をやめようか」という岸部の気持ちを後押しすることになる。 テクニックの問題ではない。レッド・ツェッペリンのベーシスト、ジョン・ポール・ジョーンズにも認められたと伝わるほどの腕前だ。 ■樹木との出会い 赤ん坊の世話も 「いや、それも別に直接会って言われたわけじゃないからね。大野さん、井上さんみたいに才能があるわけでもない。音楽に対して自分は何かやってきたかな、作曲とか、アレンジができるのか、そういう勉強をしてきたのか。考えてみれば自分は女の子にモテたいぐらいのところから始めたんだけどね」 たまたま運良く人気が出てここまで音楽を続けてこられたが、こんなことでいいのだろうか。 「気付かなきゃいいんだけど、気付きだすともう、やめたくなるのよね。『やめるんだったら、いつがいいのかな』なんて思いながら、1年ほどね」 逡巡の時代、演出家の久世光彦のすすめで出演したのがドラマ「悪魔のようなあいつ」(75年)だ。荒木一郎演じる冴えないバイク屋の主人の借金を取り立てるチンピラ・左川を演じた。 当時TBSの久世光彦の演出には瞠目した。 「左川たちが路地みたいなところで立ちションベンをする。すると『溜めといてくれよ』って。本当におしっこしながらセリフを言ってって言う。で、本番でセリフが終わって、出すものも終わって歩いていくって、確かにそうなんだけど、セリフとの寸法が合わないわけ。テストまで我慢して溜めた分だけ出ちゃう(笑)。それで終わるまで撮ってる。今では考えられないですよね」 「人前でしゃべるより黙っているほうが好き」という岸部が、この世界で60年ほどを過ごしてこられたのは、いつも人との縁があったからだという。 久世のすすめで樹木希林の事務所「夜樹社」に入り、俳優としてのスタートを切った。 「希林さんと大楠道代さんの面接を受けた。『あなたに合う役があったらお願いするけれど、うちは生活のために仕事取ってきたりは一切しない。それでも大丈夫?』『はい』なんて話をして。本当に何年か、ほとんど仕事はなかったですね」 結婚して、子どもも生まれたばかり。渡辺プロ時代は入っただけ使うような暮らしだったので蓄えも雀の涙だった。家賃の安い住まいに引っ越しを続け、「ぜいたくをしない、友だちとも会わない」と生活を切り詰めた。赤ん坊の世話もよくした。 「朝5時に起きてね。でも海の向こうではジョン・レノンも同じことをやってると思えばちょっとカッコいいかなと思ってましたね」 ■「社会復帰」と俳優修業の日々 当時、岸部を心配した沢田が、人づてに自分が使っていないマンションを無償で貸した逸話もファンの間で知られている。「できて間もない中野ブロードウェイの高級マンション。ガードマンが常駐していて、屋上にプールがあって、お隣は青島幸男さん。毎日毎日、プールで子どもとプカプカしたり、ブラブラブラブラ……。『タイガースのリーダーは優雅ね、やっぱり』なんて言われて。ただ、ちょっと管理費がねえ、月4万以上した。後で沢田に『高いよ』って言ったけど(笑)」 仕事に恵まれないこの時期が岸部にとって「社会復帰」の時でもあり、俳優としての土台にもなった。NHKのドラマ人間模様「続 事件 海辺の家族」(79年)に起用された時、「どうやって俳優の勉強をしたらいいか」と岸部が尋ねると、脚本家の早坂暁は「一日中バスに乗ってずっと人を見ていればいい。僕はそうしているんだ」と答えたという。 「久世さんは、ドラマの中で台所仕事みたいな日常を本当にやる人。新人の女の子がどうにも芝居ができないってなったら、ベテランの加藤治子さんが代わりにやって見せてくれたり。それをみんなも最初からずっと見ているので勉強になる。『技術的な芝居なんかしなくていい』って、まあ本当は僕ができないから言ってくれていたんだと思うけど、素のままで一生懸命やればいいんだと。そういう優れた人たちの中で出発できたのは恵まれていました」 「良質なドラマに出る」という樹木らの方針もあり、初期こそ数は少ないものの、久世を始め、深町幸男、和田勉ら名だたる演出家の作品に出演するようになり、少しずつ俳優としての地歩を固めていった。 大林宣彦監督とも縁が深い。「時をかける少女」(83年)以来、映画では一番多く起用された。余談だが、「時を~」で原田知世の相手役・深町一夫を演じた高柳良一は慶應義塾高校出身で、瞳みのるの教え子だ。 岸部のキャリアは、映画「死の棘(とげ)」(90年)をおいては語れない。日本アカデミー賞最優秀主演男優賞を受賞した、メルクマール的な作品だ。 「映画は監督の作品なので。あれはもう本当に、個人賞、もう付録みたいなもので」 本作で小栗康平監督から「セリフに感情を乗せると浅いものにしかならないので感情を乗せないほうがいい」と言われ、内へ内へと向かい、掘り下げる表現を求められた。現場ではその意味を掴みかね、食事も喉を通らずノイローゼ状態に陥った。岸部にとって小栗は、今でも最も尊敬する監督であり、この時の経験が俳優という仕事の礎になったという。 「要するに、心の中をちゃんと作れないとダメだということですよね。日常生活でも、言葉で伝わらない、置き換えられない気持ちの動きみたいなものがある。言葉として、セリフとして発する前の、体の中に、心の中に残っている状態のほうが深いんだ、と。そこを大事にしないといけないよと言われたことは、今でも残ってますね」 90年代に入ると年4~6本のハイペースで映画に出演していく。今回のインタビューに際し、岸部の出演作を振り返ってみたが、筆者が過去に見て印象に残った作品の驚くほど多くに岸部は携わっていた。 オファーを引き受けるかどうかは、監督や脚本によるところが大きいという。 「でも、これは好みもあるんでね。自分の考え、思い、感性みたいなものでこれはいい作品だなと感じるかどうか。監督が何を撮りたいのか。それが当たるとか当たらないとかあんまり関係ないですね」 「死の棘」以来の主演作となった「いつか読書する日」(2005年)では青木研次の脚本に惹かれ、緒方明監督の「自分の撮りたいもの、自分の思ういい作品を誠実に映画にする」姿勢に敬意を抱いたという。 「顔」(00年)、「大鹿村騒動記」(11年)、「団地」(16年)など、阪本順治監督作品も多い。 「映画はやっぱり面白いと思う。テレビも向田(邦子)さんの『阿修羅のごとく』(79年~)とかね、好きなものがたくさんあるけれども。テレビは日常の延長線上で時代を映していますよね。映画は若いころに見たものを何年か経って見てみたら、違う解釈で見ていたことに気付く。それが面白い。新しい発見というか、そのころにはわからなかったことがありますからね」 ■ひと癖ある役も市井の人の役も 映画愛を語る岸部だが、テレビドラマでの活躍ぶりも、改めて言及するまでもない。「相棒」には02年のシーズン1から9まで小野田公顕役で出演。「官房長」の呼称は、岸部の代名詞にもなった。 「『相棒』は最初のころはこんなに長く続くとは思わなかった。打ち上げのたびに水谷(豊)さんと『続けるために面白いことをやるのではなくて普通の刑事ドラマではない挑戦ってなんだろう』とか、『いちばん良い時に終わることもあるかもね』なんて話をしてましたね」 降板したのはなぜ? 「ある時プロデューサーとご飯食べた時にね、『僕、やめようと思う』って、ふっと言葉が出てね。なんでだろう」 演技派としての地位を固める一方、新進のクリエーターと組んだ仕事では、新たな一面も見せた。 大滝秀治との掛け合いもシュールなキンチョールや、木村拓哉と共演した富士通FMVのCMを覚えている人も多いだろう。 三木聡監督の「転々」(07年)は「岸部一徳」として出演。眼鏡屋の前で眼鏡を洗っている岸部一徳を見かけた福原(三浦友和)と文哉(オダギリジョー)の「あの人誰だっけ」「岸部一徳じゃない?」「岸部一徳を街で見かけると良いことがあるんだって」というやりとりがある。 「三浦友和さんはあの作品でキネマ旬報の助演男優賞に選ばれたから、やっぱり良いことあったよね(笑)」 12年から始まったドラマ「Doctor-X 外科医・大門未知子」の神原晶役では手術代回収時にするスキップも有名になった。同作は7期まで続いている。最近、岸部が出演するドラマは長寿になるという業界内での「新伝説」が生まれたとか。 ひと癖ある役柄のインパクトが強いが、市井の人の役でも深い印象を残している。 06年からのNHK朝ドラ「芋たこなんきん」では、田辺聖子がモデルの主人公の祖父で、写真館を営む花岡常太郎を演じた。 仕事には厳しいが家族には優しく、浄瑠璃などの芸事も好きで温かみのある常太郎。 「僕の父に少し似ていたところもありますね」 岸部一徳の父、徳之輔は職業軍人で、終戦までは憲兵だった。 「戦争が終わってからは一度も定職に就かなかったですね。探偵の真似ごとをしたり、いろいろやったりしてましたけど。囲碁が好きだったから囲碁道場を開いてみたり。自分はお金がないんだけど、父の勝負に賭ける人がいて、勝つとすき焼きだったり。そういうのをいつもやってましたね」 岸部ら子どもたちも苦労は多かっただろう。 「どうなんでしょうね。みんな貧乏な時代だからねえ。うちは兄弟も多いんですよ。全部で10人くらいかな」 岸部はいったい、どんな幼少期を過ごしてきたのだろう。(次号に続く/敬称略) (本誌・渡部薫)※週刊朝日 2023年6月2日号
週刊朝日
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「市川猿之助」一家に何があったのか 近隣住民と歌舞伎関係者が見ていた「家族の内情」
18日午後、衝撃的なニュースが飛び込んできた。歌舞伎俳優の市川猿之助さん(47)、両親の市川段四郎さんと母親が自宅で倒れているところを発見され、その後、両親は死亡が確認された。猿之助さんは意識がある状態で入院しているという。報道によると、猿之助さんが倒れていた場所のそばで遺書のようなもの見つかったという。一家3人に一体何があったのか。近隣住民や関係者を取材した。 * * * 現場となった自宅は東京・目黒駅から徒歩20分ほどの閑静な住宅街にある。コンクリート造りのモダンな外観だ。猿之助さんの自宅に通じる道には、黄色いテープで警察の規制線が張られ、数人の警察官が警備にあたるものものしい雰囲気に包まれていた。 報道によると、警察官が駆け付けたときには、猿之助さんは半地下にあるクロゼットの中で意識がもうろうとした状態で見つかったという。一方、両親は2階のリビングで倒れており、母親はその場で死亡が確認された。段四郎さんも搬送先の病院で死亡した。いずれも目立った外傷はなかったという。 遺書のようなものがあったなど現場の状況から、猿之助さんが自殺を図ったとみられている。 近所に住む85歳の女性は、18日午前中の様子をこう話す。 「今朝、何かすごくにぎやかだなと思ったのよ。女の人の声とかがして、ガチャガチャ物音が聞こえた。何だろうなとは思っていたら、テレビで事件を知り、まさかと驚きました」 猿之助さんの自宅からは日頃から、歌舞伎の稽古をする音が聞こえてきたという。 「よく、歌舞伎のお稽古の歌声が聞こえてきたり、踊りのドンドンという音が響いていましたね。歌舞伎は嫌いじゃないから、うるさいとは感じませんでした」 かつて猿之助さん一家がお得意さんだったという米店の店主はこう話す。 「10年くらい前までは、うちのお米やお正月のお餅の配達をしていました。亡くなったお母さんはボーイッシュな髪形のおキレイな方でしたよ。ハキハキしたしゃべり方で、あのお母さんが自殺をするとはとても思えない。猿之助さんは子どもの頃からバスで名門の男子校に通う姿をよく見かけました。大人になってからは、よく1人で散歩するのを見ていました」 現在の猿之助さんは4代目となるが、亡くなった父・市川段四郎さんの兄が「3代目」の猿之助にあたる。歌舞伎に詳しい評論家はこう語る。 「3代目猿之助は猛優(もうゆう)と呼ばれ、歌舞伎をぶっ壊す革命児であり、パイオニアでした。『スーパー歌舞伎』をつくったのも3代目です。現在の4代目は、それにポップなセンスを味付けした。3代目に比べると猛優ではないが、器用でアグレッシブ。歌舞伎界における自分の位置というのを常に考えている人だという印象です」 亡くなった市川段四郎さんについてはこう話す。 「兄の3代目が太陽だとすれば、亡くなった段四郎さんは月で、対照的でした。段四郎さんは陰のある渋くて風格のある俳優でした。それが10年くらい前から、歌舞伎の舞台に全然出なくなった。松竹関係者に聞くと、体調不良で出られなくなったと。4代目は、父親の介護もしていたのではないかと思います」 くしくも、19日は猿之助さんのプライベートも含めたスキャンダルを報じた女性週刊誌の発売日でもあった。出版関係者は「猿之助さんがこの報道を苦にした可能性はある」と話す。 「女性週刊誌の記者が猿之助さんに直撃取材したのは、月曜日(15日)の夜。週刊誌は発売日の1日前に『早刷り』が関係各所に出回るので、猿之助さんは水曜日(17日)に記事を目にした可能性はあると思います。記事の内容は、猿之助さんのプライベートまで深く知ると思われる複数の人物が彼のパワハラ、セクハラ疑惑を語っているものだったので、猿之助さんがそれを目にしたら大きなショックを受けたことは想像にかたくありません」 実際にそのような行為があったのかは現時点ではわからないが、「客を呼べる役者」として猿之助さんが一門の中で強い力を持っていたことは事実だろう。 「今、客が呼べる役者としては片岡仁左衛門、坂東玉三郎、元海老蔵の市川團十郎、そして4代目猿之助の4人です。仕事はどんどん来るし、4代目自身、芸の上で苦難があっても、それを積極的に突破するパーソナリティーの持ち主。芸で悩んでいたとは考えにくく、原因があるとしたら私生活ではないか」(前出の評論家) 猿之助さんの一日も早い回復と、本人の口からの説明が待たれる。 (AERA dot.編集部・上田耕司)
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球界へ“最後の恩返し”も? 巨人「松井秀喜監督」が誕生する可能性は本当にあるのか
松井秀喜氏が巨人の監督に就任する可能性はあるのか。一時は完全消滅とも言われたが、水面化では新たな動きも出始めているようだ……。 松井氏が背負っていた背番号55をつける秋広優人が活躍していることで、最近はG党が松井氏の名前を聞く機会も増えている。 「背番号55の選手は〇〇ゴジラと呼ばれる時期もあった。しかし松井氏を超えるまでの活躍ができず、いつの間にか名称も自然消滅した。ようやく巨人にその番号が似合いそうな選手が現れた。(このタイミングで)元祖ゴジラが再注目されている」(在京テレビ局スポーツ担当) 松井氏が巨人を退団してからは、2008年にドラフト1位入団した大田泰示(現DeNA)が背番号55をつけた。将来を嘱望されていたが巨人では思ったような活躍ができず、日本ハムを経て現在はDeNAでプレーしている。その後、ようやく出てきた秋広という後継者候補に対する期待は大きく、同時に松井監督待望論も再燃し始めているという。 「松井氏に対しては長きにわたって巨人監督待望論があった。しかし球団関係者が何度も頭を下げてもクビを縦に振らなかったようです。監督就任は120%ないと思われ、松井氏の話題を出すのすらタブー視された時期もあった。しかしここへ来て変化も生まれている」(巨人担当記者) 5月3日の巨人対ヤクルト戦の前には東京ドームでは10年ぶりとなる始球式を務めた。登板前にはプロ1年目の1993年5月2日に高津臣吾(現ヤクルト監督)から放ったプロ1号本塁打の映像が大型ビジョンに流れた。 また最近は日本テレビ系の野球中継で、秋広の活躍に合わせて松井氏の名前を頻繁に出すようになった。「伝説再び」とまで口にしたアナウンサーもいるほどで、松井氏がクローズアップされ始めている。 「巨人は『松井氏を過去の人』として扱っていた時期もあった。松井氏自身も『過去の自分よりも現在を戦っている選手に注目して欲しい』というスタンス。秋広を売り出したいのもあるだろうが、両者の距離が縮まったようにも見える」(在京テレビ局スポーツ担当) 始球式後には映像のことを聞かれ、「あそこからプロの第一歩が始まった。ジャイアンツは私のふるさと」と答えるなど、古巣への愛着が今もあることが伺える。 だが、松井氏には巨人以外にもヤンキースという“古巣”が存在する。渡米後は拠点をニューヨークに構えていることもあり、同球団への復帰の可能性も取り沙汰されるが……。 「監督やコーチとしてヤンキースへ復帰することは考えられない。常勝を求められる球団で、スタッフになる人材もその道のプロが求められる。選手としての実績や名声は関係なく、マイナーから徹底的に勉強する必要がある。松井氏の言動を見ていると、その気持ちはなさそう」(在米スポーツライター) 「2009年のワールドシリーズではMVPに輝いたレジェンドOBの一人。OBオールスターではひときわ大きな歓声を浴びるなど、誰もがも感謝の気持ちを忘れていない。しかし監督、コーチになって欲しいと思う関係者やファンはいないだろう」(米紙ヤンキース担当記者) 米球界では選手時代の実績があるからといって指導者になれるわけではない。指導スキルを身につけ、現場での経験を積んだ者にチャンスが与えられる。松井氏はGM特別アドバイザーの肩書きを持ち、春季キャンプでは巡回コーチとして招かれる。しかし実際に現場の指導者として招聘される可能性は少ないという。 「現役引退後はビジネスや他ジャンルに興味が移る選手も少なくないが、松井氏の野球への情熱は変わらない。定期的に野球教室を開催したり、時には素振りや打撃練習をすることもあるらしい。もちろん趣味の範疇だが、野球と離れられないのだろう」(在米スポーツライター) 昨年9月にはニューヨーク州ハドソン・バレーでNPO法人「松井55ベースボールファウンデーション」主催の野球教室を行った。社会貢献活動の一環だが、野球に触れていたい気持ちがあるのは間違いない。 「巨人からの始球式の打診も毎年のようにあったという。今年、受諾したのはタイミングがあったのだろう。また家族のことを考えると、将来的には帰国することも視野に入れているはず。即座に行動に移すことはないだろうが、多くの選択肢を考えているはず」(巨人時代から松井氏を知るスポーツライター) 「昨今の巨人を取り巻く環境には頭を痛めているとも聞く。また、(松井氏に)『巨人のユニホーム姿が見たい』と言っている恩師・長嶋茂雄氏は高齢で心配な部分もある。責任感の強い男だけに、日本球界への最後の恩返しを考えている可能性もある」(在京テレビ局スポーツ担当) 2人の子供を持つ父親として教育問題など家族のこともあるだろう。また松井氏が在籍した時代からNPBは大きく変化し、巨人は当時のような絶対的な人気球団ではない。通算17年目を迎えた原辰徳監督の長期政権もマンネリ感が漂い始めている。多くのことが変わり始め、様々なことが頭を駆け巡っているはずだ。 「巨人からすると最後のチャンス。大谷翔平(エンゼルス)人気を見ても、スーパースターには野球と人間性の両方が必要だと再認識した。チームの象徴である監督がそういう人物なら最高。球団、読売グループをあげて全力で招聘に動くべき。松井監督誕生となった時にはとんでもない話題になる」(在京テレビ局スポーツ担当) 「『裏切り者と言われるかもしれないが……』という苦渋の表情を浮かべたメジャー挑戦会見から20年以上が経つ。当時は思うところがあったとしても、年月が解決しているはず。最後は松井氏本人の気持ち次第だが、可能性はあると思う」(巨人時代から松井氏を知るスポーツライター) WBCで侍ジャパンが優勝したこともあり、野球人気が上昇している。この良い流れを止めないためにも誰もが知っている象徴的人物が現場に復帰して欲しいという声は多い。松井氏が巨人監督就任となれば、社会問題とも呼べる騒ぎになるはず。果たしてXデーは訪れるのだろうか。
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「同じ世界に生きているけど全然違う世界を見ている」 IQ130「ギフテッド」の息子に母が言った「がんばらなくていいんだよ」の言葉
視力と聴力が突出して高い特徴を持つユウ君(10)。【前編】では、それが感覚過敏で、視覚が狭すぎて文字全体が見えない、聴力が高すぎて音が刺さるように痛いという生活に苦しむユウ君の姿を紹介した。【後編】では、知能テストの結果で息子が「ギフテッド」だと改めて認識した母親が、彼の特別な能力をどう生かし、社会生活とどう折り合いをつけていったのかを追った。<阿部朋美・伊藤和行著『ギフテッドの光と影 知能が高すぎて生きづらい人たち』(朝日新聞出版)より一部抜粋・再編集> 【前編】<音が痛い、文字が見えない「ギフテッド」…感覚過敏で「もうがんばりたくない」と話す10歳少年の苦しみ>より続く * * * ■凸凹のIQグラフ 最初、母は自閉症を疑った。専門のクリニックに行った。だが医師は「相手の気持ちをくみコミュニケーションをとれる一方、感覚過敏で人と接するのが苦手というのは、当てはまる例がない。特殊ですね」と困惑した表情で言った。眼科や耳鼻科にも通ったが「異常はない」と言われたという。 とにかく情報がほしい。何が原因で、親としてどうサポートしたらいいのか知りたい。病院を回った。 小学校の養護教諭に勧められ、学校の近くにある小児科の心理相談に行ってみた。そこで発達専門の心理士に診てもらった。心理士はまず、ユウ君と雑談した。そしてこう言った。 「落ち着きぶりや受け答えが、小学2年生ではないです。学校では疲れてしまうでしょう」 そして、発達に関する検査を受けたほうがいいと言い、「WISC-IV」という知能検査を受けることを勧めた。 知能検査と聞き、母は少しためらった。検査は無料だというが、所要時間は1時間から1時間半ほどかかり、検査する人とユウ君が2人きりになることを伝えられたためだ。内容は「図を見たり言葉を覚えたり、簡単なもの」と伝えられていたが、知らない人と話すことが苦手なユウ君は、予想通り嫌がった。 「わらにもすがる思いでした」と母。ユウ君を「どんなふうに支援したらいいかを見つけるためのものだよ」と説得した。1カ月後に検査を受けることになった。 検査の日は大雨だった。雨が地面にはねる刺激だけで「痛い」というユウ君。なんとか病院に着き、検査室に入った。 検査室から出てきたユウ君は、黙り、つらそうだった。母に泣きつき、帰宅しても食事せず、何もやる気が起きずにいる状態が1週間も続いたという。「まだこの時は息子の目の異常がよくわからず、検査がどんなに大変だったか私も想像できませんでした。今ではかわいそうなことをしてしまったとも思います」と振り返る。それでも、検査の結果により、母が知りたかったユウ君のつらさの原因がわかっていくため、母は「本当に大事な検査でした」と話す。 ユウ君の検査の数値は、2人の意向で具体的には示さないが、母によると、言語理解はIQ130を上回った。一方、知覚推理が平均を下回っていた。その差は40以上あった。処理速度とワーキングメモリーは、平均より少し上だった。最高値と最低値の差が40以上あるのは珍しいという。四つの指標を折れ線グラフにして線で結ぶと、激しい凸凹になっていることがわかる。 これは何を意味するのだろうか。結果をもとに心理士から最初に言われたのは、「言語理解が高すぎる」だった。心理士によれば、差が15以上あれば、集団生活で生きづらさを感じることがある、と一般に言われているという。「もし(最も高い)言語理解が平均に近かったら、問題なく学校に通えていたかもしれないですね」と心理士は話し、こう続けたという。 「特に言語理解が高い子は、完璧を求める傾向があり、不登校になりがちです」 ■数値化された「生きづらさ」の一因 母は、まさにユウ君の一面を言い当てていると感じた。まさかこれほど高いIQが出るとは思っていなかったが、それ以上に、IQが高いことが生きづらさを引き起こす原因になっているなんて思いもよらなかった。母は「発達障害でしょうか」と聞いた。心理士も悩みながら「そう診断はできません。『2E』ギフテッドに該当すると思います」と言った。 ギフテッド? うちの子が? 母はふたたび驚いた。だが、そんな思いはすぐに打ち消した。ユウ君は、難しい計算を解いたり、複雑な漢字を書けたりするわけではない。成績も普通だ。独特な才能といえば、野鳥図鑑に載る670種を隅から隅まで記憶していたり、説明書を見ずにレゴブロックで小惑星探査機「はやぶさ」の形を組み立てたりといったことがあるぐらいだ。ペンを持たせると鳥の絵をずっと描き続けるということもあるが、これがギフテッドというには少し大げさすぎると思った。 心理士には、ユウ君にどんな障害があるのかは詳しくはわからないと言われた。その上で、フリースクールや2E教育に力を入れる支援団体などを紹介された。ただ「無理に学校に行かせないでください」とも言われた。いつかは学校に戻ってくれるだろうと考えていた母も、このことを境に考え方を大きく変えた。検査によって初めてユウ君の生きづらさの一因が「数値」としてわかり、納得できたからだ。 「検査がなければ息子のことを理解できないままだったと思います。子どもの言うことを信じて寄り添うことが本当に大事なことだとわかりました。そのことは今でも自分に言い聞かせています」 ■ゆっくり歩んでいくしかない もう一つ、ユウ君には不思議な感覚がある。母がそれを知ったのは、それから半年ほどたったころだ。 近くの物が見えていないのに、どのようにぶつからずに歩いたり野球のボールをつかんだりしていたのかと聞いた。するとユウ君は「波が伝わる」と言った。「ボールから波が伝わってくるでしょ。それで何とか」と。 「自転車に乗るのは?」と聞くと、「自分から出る波が、周りの物から出る波をキャッチし、世界が一瞬だけ透明のようになる」。それによって、あいまいだが周りに何があるかわかり、大まかな空間把握をしているのだという。 ただ、この波も強くなると「たたかれたり刺されたりするような痛み」を感じるという。 しかし、波と言われても、母にはもちろん理解できなかった。「みんな波の感覚はなくて、痛みも感じていないよ」と伝えると、ユウ君は落ち込み、泣いた。ユウ君は、みんながそうした感覚を持ち、痛みを我慢するのが当たり前だと考えていたのだという。母は落ち込んだ。学校でも、電車内でも、自宅でも、そんなつらい状況をずっと我慢していたなんて。気づくことができず、母は申し訳ない気持ちでいっぱいになった。 「『がんばらなくていいんだよ』と伝えることぐらいしかできませんでした」 ある日、ユウ君は自宅にあった渦巻き形のランチョンマットを抱きしめていた。「ぐるぐるがいい」と言った。また、自宅にある天然の水晶を持ってみると、楽な感覚になるとも母に言った。水晶の結晶構造はらせん状であることが知られている。お守りにして持ち歩いているという。 母は言う。 「息子は同じ世界に生きているけど全然違う世界を見ています。とにかく受け入れて、ゆっくりと歩んでいくしかないと思っています」 そんなユウ君が脚光を浴びる出来事が、22年3月にあった。 ユウ君が描いた鳥の絵が、日本の企業などが企画したデジタルアートのコンペティションで、金賞を受賞したのだ。世界中から1248作品の応募があったなかで、唯一の最高賞だ。ある審査員からは「ずっと見つめていたくなる不思議なパワーを持つ」と評された。最高額の賞金1万ドルが贈られ、オークションにも出品され落札されたという。 タイトルは、「カワウ型飛行都市」。 細かなタッチの線や点で、水鳥のカワウと一体化した城が飛び立つ姿を黒のボールペンで描いている。母によると、A4のコピー用紙に書いたその絵を、スキャンしてデジタル化し応募しただけだという。ユウ君は、受賞時のコメントでこう自分を紹介した。 <ぼくの目は、みんなと同じようには見えていなくて、とても狭い範囲しかわかりません。自分の絵も、全部は見えなくて、一部分だけ見えます> <小さいものは、とてもよく見えるので、ずっと遠くの方を飛んでいる鳥を見るのが好きです> 賞金は、ユウ君の意向で、国外の難民を支援する団体や、障害やケアが必要な子どもの支援団体、ネパールで視覚障害者を支援している団体などに寄付しているという。「息子のカメラを買うお金ぐらいは残してもいいと思っていて、話し合い中です」と母は笑いながら教えてくれた。 公園での取材から1カ月ほどたった22年11月。ユウ君は、視覚発達の専門医による視野の検査を受けた。視野が5度しかないことがわかったという。医師は、一般的に人の視野は180~200度あると言い、なぜそんな狭い視野で歩いたり物をつかんだりできているのか不思議がったという。 ユウ君と初めて会った時、母に手伝ってもらいながら話してくれた言葉を私は思い出す。 「これまで、一生懸命みんなに合わせちゃっていて、なぜ自分がそんなに疲れてしまうのか、わからずいろいろつらかったです。僕の努力と我慢が足りないと思っていました。でも今は、鳥を観察したり、絵や漫画を描いたりして、心の中を表現したりできることが楽しいです」 23年1月、ユウ君は特別支援学校に転校し、新たなスタートを切っている。 (年齢は2023年3月時点のものです)
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知能が高すぎる「ギフテッド」で精神を病んだ40歳女性が見つけた希望 自ら望んで「閉鎖病棟」へ入った理由
知能が高さゆえに周りから浮いてしまうことも多い「ギフテッド」。【前編】では、何事もできすぎるあまり小中学校ではいじめられ、勉強が嫌いになっていった立花奈央子さん(40)が社会人になるまでを紹介した。高卒で公務員になった立花さんは、いつしか精神を病み「うつ病」になっていた。そこで彼女が取った選択は、自らの意思で精神科病院の閉鎖病棟に入ることだった。<阿部朋美・伊藤和行著『ギフテッドの光と影 知能が高すぎて生きづらい人たち』(朝日新聞出版)より一部抜粋・再編集> 【前編】<「ギフテッド」ゆえに無視され、孤立した小中時代 40歳フォトグラファー女性が経験した“高い知能”こその苦難>より続く * * * ■自ら望んで閉鎖病棟に3カ月間 躁状態の時は、ストレス解消や現実逃避のため、デパートで好きな服を大量に買った。しかし、家に帰ると、いつのまにか買い物をした記憶がなくなっている。 一方、気持ちが沈んでいる時は、「死にたい。トラックが突っ込んできてほしい」と願う。精神科に行った。「うつ病」「解離性遁走」と診断された。突然どこか遠くへ行ってしまい、気がつくと自分がなぜそこにいるのかわからないことが続いた。しまいには知らない場所で警察に保護されていた。 「このままではだめになる。徹底的に治さなければ」と、精神科病院の閉鎖病棟に自ら望んで入った。約3カ月間すごし、外で生きられない患者たちの姿を目の当たりにした。外部から遮断され、あらゆる自分の時間が、他人によって管理されている中には、これ以上いたくないと思った。 今変わらなければこのまま人生が終わると思った。この閉鎖病棟での3カ月間で、自分の気持ちに向き合おうと決めた。 自分が本当に好きなことは何か、自分にとって大事な人は誰か、本来の自分とは何者か。突き詰めて考えた。 哲学や宇宙など、自分が興味のある話を、とことん人と語り合える時間が最も楽しい。そんな気の合う人たちとの時間を大切にしたい。自分の気持ちを抑えつけるのはやめようと決めた。 まず、区役所をやめた。自分を偽り、親が望む人間になろうという思いも捨て、退院後に身を寄せていた実家も出た。渋谷駅のハチ公前で、ストリートアートをしていた人たちに話しかけた。自分も一緒に描いたり、路上ミュージシャンと友達になったり。どんどん周りに自分の好きな人たちが増えていった。すると、ライターや撮影、ヘアメイクなどの仕事がフリーでできるようになっていった。 ■ようやく解けた「本当の私」 実家の父から久しぶりに電話がかかってきたのは、2019年。36歳になっていた。1歳下の弟が、知能検査を受け、発達障害だと診断されたとのことだった。立花さん自身も、自分が発達障害やADD(注意欠陥障害)かもしれないと思っていたため、一度検査を受けてみることにした。 「WAIS-IV」という知能検査を受けた。その結果、全般的なIQ(知能指数)が平均を大きく超える137だった。また、同検査の四つの指標のうち、ことばの理解力や推理力、思考力を示す「言語理解」はIQ130、目で見た情報から形を把握し推理する「知覚推理」はIQ128、情報を一時的に記憶する力の「ワーキングメモリー」がIQ131、作業の速度を測る「処理速度」がIQ130と、指標のすべてが平均を超える高い数値となっていた。 驚いた。臨床心理士からは「発達障害の可能性はほぼない。単に、知能が世の中の人より高いだけの健常者ですね」と言われた。立花さんはそれまで、自分の生きづらさは発達障害のせいだ、となんとなく思っていたが、それは間違っていたことがはっきりした。この時、初めて自分の特性が何なのかを知りたい、と思った。 結果を知人に言うと、「ギフテッドじゃん」と言われた。初めて聞く言葉だった。「ギフテッド」に関する専門書を片っ端から読んでみた。 特徴として書かれていた「情報を素早く理解」「いつも何かにのめり込み徹底的に調べる」という良さだけでなく、「注意散漫に見える」「同級生との関係づくりが下手」といった弱点までが、いちいち自分に当てはまった。「これ私のことだ」と思うと、胸がすっとした。 普通と違う私。他人に合わせ、ずっと生きづらさを抱えてきた私。子どものころから、本当の自分は何なのかと思ってきた疑問が、ようやく解けた気がした。「パズルのピースがはまるような感覚だった」という。 立花さんは言う。「私は、自分のことを『天才』とは思いません。ただIQが高いという個性があるのだということがわかりました。そのせいで、これまで息苦しさや孤独を抱えていたのだと理解できて本当に良かったです」。 そしてこう思った。きっと、同じような仲間がいるのではないか。自分の特性を理解してくれたり共感してくれたりする仲間ともっと話がしたい、と。もし、子どもの時から知っていたら? 「MENSA」という国際組織を知人が教えてくれた。IQの上位2%の人だけが入会でき、日本支部があるという。さっそく入会した。 MENSAは、1946年にイギリスで創設された国際組織だ。世界100カ国以上に13万人以上の会員がいるとされる。日本支部には約4700人の会員がおり、定期的に開かれるミーティングで話し合ったり、趣味や考えが合う会員同士がオフ会などで交流したりしているという。入会するには、独自の入会テストを受けて一定のスコアを出すか、知能検査の結果を示さなければならない。 立花さんは、MENSAで出会った人たちと、「性とは何か」「既成の価値観に縛られていないか」といった深い話をすることが楽しい。人のつながりが増え、好奇心があふれ、知的欲求が満たされるという。 ようやく好きなことを仕事にし、仲間にも巡り会えたという立花さん。ただそれはたくさんの回り道をして得たものだった。「もっと早くに知能検査を受けておけばよかったという後悔はないか」と聞くと、立花さんは「後悔はない」とはっきり言った。過去のつらい時期があったからこそ、充実した今があると思っているから、と。 ただ、どうしても考えてしまうことは、あるという。「もし、子どものころに自分の特性を知り、それを理解した教育や子育てをしてもらっていたら、あんなつらい経験をせず、もっと様々なことを学べたのではないか」と。いま後悔していないと言えるのは、浮きこぼれていてもはい上がることができたからではないか。自分と同じように生きづらさを抱えたまま悩んでいる人が、今もきっといるはずだ。 ■ゴールデン街の会員制バーで そんな思いを強くした立花さんが始めたのが、「サロン・ド・ギフテッド」だ。19年ごろから週1回、フォトグラファーの仕事のかたわら、東京・歌舞伎町の新宿ゴールデン街にあるバーで開いている。 22年12月中旬、私はそのバーを訪れた。毎週火曜日、オーナーから店を間借りした立花さんが、カウンターに立っている。 重い木製のドアを開けると、立花さんの「いらっしゃーい」という明るい声が聞こえてきた。カウンター席が6席だけのこぢんまりとした店。すでに5人の先客が、立花さんが出すビールやハイボールを飲みながら、会話を楽しんでいた。 サロンは、IQ130以上の条件がある会員制。特別に参加させてもらった私の隣に座っていたのは、この日初めて来たという東京大学に通う女性だった。理路整然とした話しっぷり。ただ子どものころは学校になじめず「つらかった」と吐露した。「だって、先生は私のこと全然理解してくれなかったから」と女性。今はギフテッドの子どもやその保護者を支援する団体に入って活動をしているという。 IQが150ありながら、会社の上司とコミュニケーションがうまくとれず退職したという男性もいた。話すスピードが速すぎて変人と思われないかという不安があり、自分のことを知らない人とは話をするのが怖くなったという。他にも、地下アイドルを「推す」中年男性や、マクドナルドで働く母親など、個性豊かな人たちが胸の内を語り合っていた。 立花さん自身にとっても、他人は他人、自分は自分と実感できる場所だという。 ■「ほっといてほしい」 さて、立花さんのトークを収録した朝日新聞ポッドキャストは、22年12月上旬に配信された。「同級生と話が合わない」「なじめたことは一度もない」「授業はクソつまらない」。そんな立花さんの率直な語りぶりが、多くのリスナーの好評を得た。 収録の終盤、司会者が立花さんに「自分の経験を踏まえ、どんな世の中になればいいと思うか」と聞いた。 「ほっといてほしいですね」 即答だった。立花さんが生きやすさを感じたタイミングは、高校生になって行動範囲が広がったり、社会人になって使えるお金が増えたりするなど、自分で選択できることが増えた時だったという。 「子どものころは大人の見守りは当然必要だと思いますけど、普通と違うからと枠にはめようとしたり、周りの子どもと比較したりするのは、やめてほしいですね。ましてや、ギフテッドだから才能をのばさないといけないとか、才能を見過ごしてはもったいない、といった考えは大きなお世話です。その人が、その人らしく生きられるような社会になることが大事なのだと思います」 立花さんのそんな言葉が、多くの人に届くといいと思った。 (年齢は2023年3月時点のものです)
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コスプレ趣味告白も「何も引かないよ」と夫 当事者たちが語る「オタク婚」の魅力
「オタク」というと異性とのコミュニケーションに疎く、恋愛が不得手なイメージが先行しがちだ。しかし近年は専門の結婚相談所も登場し、近い趣味を持つ者同士が出会えるようになって状況が変わりつつある。当事者たちが語る、「オタク婚」ならではの魅力とはーー。 「コスプレ趣味を告白したとき、『そうなんだ、現役でやってたとしても何も引かないよ』と言ってくれたのが現在の夫だったんです。その時に、ああ、この人となら一緒に暮らしていけると思いました」 こう話すのは、関東の一般企業で事務職として働くナナさん(仮名、41)。ナナさんには結婚前まで、家族も知らないもう一つの「顔」があった。コスプレイヤーだ。開眼のきっかけは、バイト先にオタクの女性がいたこと。「洋服も作れる子で、コスプレという世界を教えてもらって。全身を使って作品を表現するのがすごく面白い」とのめり込んで行ったという。 一方、周囲にはそのことをなかなか打ち明けられずにいた。30代に入り、結婚を意識するようになったナナさんは「生涯一緒にいる相手に、自分を押さえて付き合うのはしんどい。趣味に理解のある男性と出会いたい」と、「とら婚」というオタク専門の結婚相談所に登録する。 同相談所を運営しているのは、同人誌ショップで知られる「とらのあな」をグループ企業に持つとら婚株式会社。特徴は、入会者もアドバイザーも両者ともに「オタク」であることだ。入会時にはアドバイザーが入会者からアニメ、マンガ、ゲームなど趣味について詳しくヒアリングし、年齢・職業などのプロフィール項目と一緒に専用の検索システムに登録。会員は自分で相手を検索したり、アドバイザーから他の登録者の紹介を受けられ、気になる相手がいればお見合いを申し込むという仕組みだ。 紹介を受けた中でナナさんが気になったのが、IT企業に勤めるアニメ好きの男性、タカシさん(仮名、40)だった。自身から申し込みを送り、秋葉原の喫茶店で対面。趣味や仕事の話で盛り上がった。 ナナさんに対し「半年近い活動期間の中で一番話が弾んだ相手でした」と話すタカシさん。その後、数回のデートを経て、約3カ月後、タカシさんからナナさんにプロポーズをした。現在は休日に二人でアニメ映画を見に行ったり、フィギュアの展示会に出かけたりしている。結婚して良かったことは「家庭の中で趣味を共有できること」と二人は口を揃える。 「もし面白かったアニメ映画があった時、友達とLINEで感想を言い合うこともできますが、すぐ隣に共有できる人がいるのはやはり魅力的です」(タカシさん) 「実家にいた時は、コスプレ趣味を隠していたので衣装も見えないよう気を遣っていました。今はばれて困ることが何もないので、互いに部屋を開けっ放しにしている。すごく気楽です」(ナナさん) ナナさんのように、結婚に興味はあっても自身の趣味に引け目を感じていたり、「推し活」に熱中するあまり結婚から遠ざかっていたりする人々は、男女ともに少なからず存在する。「とら婚」は、そうした層に手を差し伸べるべく、「趣味と結婚の両立」をキャッチコピーに掲げ設立された。 開業後はSNSを通じて話題が広がり、2017年3月から6年3カ月間で、成婚者(プロポーズを経て退会した会員)は1200人にまで増えた。22年10月には、オンラインに特化した「とら婚コネクト」という新ブランドも立ち上がっている。チーフアドバイザーの正井さんはこう話す。 「お休みの日にマンガを読んだり、アニメを見る程度のライトな層から、プロで漫画家などのクリエイターをされている方々まで、客層は様々です。私達としては、どんな趣味も誇りに感じてパートナーを探して欲しいと思っています」 同じオタク同士であっても、結婚に辿りつくケースと辿りつかないケースは何が異なるのか。今回、「とら婚」を通じて成婚退会に至ったカップル数組に話を聞いた。共通していたのは女性側が世間一般の見方に囚われず、自分自身の価値軸でもって男性に魅力を見出していたことだ。 都内在住の主婦・アサミさん(仮名、37)は約4年前、「とら婚」を通じて知り合った鉄道運転手のカツヤさん(仮名、34)と結婚した。現在は夫婦で1児の子育てに奮闘している。 アニメ・漫画全般に関心があり、特に「初音ミク」などのボカロ(ボーカロイドの略/音声合成技術を用いた音楽)が好きだったというアサミさん。「大手の結婚相談所には初めから興味が持てませんでした。オタクに特化した結婚相談所に登録する男性の方が個性があり、人として魅力的と思った」と語る。 カツヤさんには一度の離婚歴があり、結婚時に購入した持ち家がある。担当のアドバイザーからは「離婚歴があることよりも、結婚後の住処が決まっていることの方が不利」と助言され、本格交際が始まる前に、ありのままの状況をアサミさんに打ち明けた。自身にとってなじみのない街だったが、カツヤさんの自宅を訪れ「のどかでいい場所」と感じたというアサミさん。結婚後の現在も、同じ家で一緒に暮らしている。 カツヤさんはゲームが好きで、休日はモンハン(モンスターハンター)を半日かけてプレイすることもある。「彼がゲームをやっている横で漫画を読んだりして、各々好きに過ごしています」とアサミさんは笑う。 「オタクの男性の良い点は、優しくて一途なところ。好きな作品があれば、それをずっと追いかけるぶれなさがあります」と話すのは、アカネさん(仮名、37)。大阪府在住で、現在は広告代理店で働いている。「とら婚」に所属していたヨシハルさん(仮名、40)と交際し、昨年末に成婚退会をした。 ヨシハルさんと出会った当時、アカネさんは別の結婚相談所に入っていたが「土日は婚活のために空けておき、異性と会えば同じ話をしてペコペコ、ニコニコする日々に疲れていた」と振り返る。 元々、アニメやゲームが好きで趣味を共有できる相手を求める気持ちがあったアカネさん。同じゲーム好きであるヨシハルさんとお見合いをした際「細かいアニメやゲームのネタが伝わって『これわかんねや』と嬉しかった」と話す。その後はスムーズに交際から成婚まで話が進んだ。 「婚活中の女性は、どうしても年収などステータス面で相手を見がち。ただ、どれだけプロフィールが良くても自分と趣味が合わなければそれまで。結局は『人対人』なので相手を見た方がいい」とアカネさんは言葉に力を込める。 オタク専門の結婚相談所「ミューコネクト」を運営する婚活コンサルタントの横井睦智さん(51)は、 これまで多くのオタク男性の婚活を見守ってきた立場から「オタクと結婚の相性は良い」と語る。 「安定した収入のもと趣味を充実させたいという思いから、公務員や会社員など安定した職に就いているオタクは多い。異性との交際経験は少ない人もいますが、皆さん概して社交的で謙虚です。一見目立たないかもしれませんが、安定した結婚生活を望んでいる女性にとっては打ってつけの存在だと思っています」 結婚生活に何を求めるかは人それぞれだ。一つのことにまっすぐなオタク男性は、その分浮気の可能性も低く、人生を長く過ごすパートナーにふさわしい「優良物件」なのかもしれないーー。そう心にメモをする独身記者であった。 (本誌・松岡瑛理)
週刊朝日
21時間前
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peco 「ママの死」を心配する4歳息子に抱きしめながら伝えた言葉とは
現在4歳になる男の子を育てるpeco(ぺこ)さんとryuchell(りゅうちぇる)さん。昨年8月、婚姻関係を解消しましたが、これまで通り3人で「新しい家族の形」を築いていくことを公表しました。本連載では、お二人の日々の育児や家庭について交互に語ってもらっています。今回はpecoさんに、息子さんが「死」に関心を持ち始めたことについて話を聞きました。 * * * 息子が「死」についていろいろと考えることが多くなっていて、この一年間くらいよく質問してきます。 きっかけは映画です。息子はディズニーの『リメンバー・ミー』という映画が大好きです。これはミゲルという主人公が死者の国に迷い込む、というお話です。死者の国でガイコツの人たちが暮らしているんです。家族の愛がテーマのとってもいい映画で、私も大好きです。 で、この映画を見て、息子が「死んだらどうなるの?」、「お空にいくの?」、「落ちてこない?」、「ガイコツになるの?」と聞いてくるようになりました。 こういう質問にどう答えるかって難しいですよね。ファンタジーのように答えることもできますし、「もうちょっと大きくなったら教えてあげる」とか、先延ばしにすることもできるかもしれません。 ただ、息子も4歳なので、しっかりと伝えていいかなと思いました。悲しい思いをさせたくないですが、とても大切なことですから。 それで「とても怖いし、悲しいんだけど、人はいつか死んじゃうの。死んだらお別れをしないといけないの。体を焼いてもらって、それで煙になって、お空にいけるんだよ」となるべくわかりやすく伝えました。 その後、息子なりに想像するところがあって、「ママも死んじゃうの?」、「ママが死んだらどうなるの?」って、泣いてしまうことがありました。半年くらいは頻繁に聞いてきました。 その後、去年の11月に私たちの結婚式でもお世話になったフラワーデザイナーのお友達が亡くなりました。また、先月、春休みで帰省したときに実家で飼っているワンちゃんが「もう長くないかもしれない」という状況になりました。 そこで改めて「死」というものを身近に感じたようです。 春休み以降は、「ママが死んだらどうしよう」とか、「ママとパパとアリソン(愛犬)が死んだら、僕は一人になるよ。どうするの?」って再びよく聞いてくるようになりました。笑顔で聞いてくるのですが、その後に色々と想像して、泣き出したりします。息子なりに「死」について、考えを整理しようとしているのだと思います。 先日伝えたのは、「いまママもパパも元気でしょ? いますぐに死ぬってことはないし、あなたを一人にしないよ」と抱きしめて言いました。「死んだら悲しい気持ちもわかるけど、いまこうやってハッピーに過ごしていることが大切なんだよ」ということも伝えました。 そしたら、今度は「明日の朝、ママが死んだらどうするの?」って具体的に聞いてきたんです。想像力があることは良いんですが、まだ元気ですし、「勝手に殺さんといて」とツッコミながら、もうお兄さんだし、もう少し教えてもいいかなと思いました。 携帯電話の開き方と、119番のかけ方を教え、それで、「救急車のお兄さんにつながるから、『ママが起きません』、『倒れました』と言えばいいんだよ」と伝えました。住所はまだ覚えていないので、これからぼちぼち教えていこうと考えているところです。 けっこう真剣に聞いていてくれたんですが、話が膨らんできて、さらに「日本の人がみんな死んだらどうするの?」って今度は聞いてきたんです。「それじゃ巨大隕石が落ちてくるレベルだから」って再度ツッコミ。 心配のスケールが大きくなって(笑)。心配しすぎないように、「絶対にあなたを一人にしないよ」と改めて伝えました。いろいろありますが、息子の心の成長を感じているところです。 (構成/AERA dot.編集部・吉崎洋夫)
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【売り切れ続出 発売即重版決定!】週刊朝日「休刊特別増大号」
大反響を呼んでいる2023年5月30日(火)発売の週刊朝日「休刊特別増大号」。朝日新聞出版は週刊誌として異例の発売後即重版を決定しました。大きな話題の本誌の重版分は順次、店頭やネット書店に並びます。 表紙は編集部員ら総勢33人が被写体となり写真家・浅田政志さんが撮影した「昭和の『週刊朝日』編集部」。吉永小百合さん、池澤夏樹さん、東山紀之さんら本誌ゆかり著名人101人超からの本誌へのメッセージ、村上春樹さん特別インタビュー、週刊朝日の代名詞といえる「女子大生表紙」プレ-バック、井上荒野さん特別読み切り短編小説など特別企画が目白押しで、100ページ近く増量しました。最初から最終ページまで読み応えたっぷり、日本最古の総合週刊誌の集大成となる永久保存版です。 【主な内容】 ・本誌ゆかりの著名人101人超が本誌に苦言・提言 ・林真理子対談<最後のゲストは阿川佐和子さん> ・伝説の「女子大生表紙」プレーバック ・村上春樹特別インタビュー ・井上荒野 特別読み切り短編小説「日傘をたたんだ日」 ・安田浩一「週刊誌と週刊朝日の100年」 ・週刊朝日が報じた人々の暮らし「バブルの幻から混迷の時代へ」 ・和田靜香「ずばり東京2023」など特別企画 ・矢部万紀子「美智子さまと週刊朝日の64年」 ・司馬遼太郎シリーズ「街道をゆく」<北のまほろば>再訪 ・独占インタビュー連載「岸部一徳かく語りき」 ・沢田研二をカリスマにした加瀬邦彦&元マネジャー森本精人 ・高峰秀子も佐藤栄作も小津安二郎も…!? 1963年の仰天企画「ジャンプしてください!」 ほか 週刊朝日2023年6月9日休刊特別増大号発売日:2023年5月30日(火曜日)<※重版分は順次発売>特別定価:560円(本体509円+税10%)
1時間前
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小島よしおが「なんで本を読まないといけないの?」と聞く中1女子に伝えたい、意外な“理由”とは
「なんで本を読まないといけないのか」という相談を送ってくれたのは、中学1年生の女の子。数多くの子ども向けライブを開催し、YouTubeチャンネル「おっぱっぴー小学校」も人気の小島よしおさんが子どもの悩みや疑問に答えるAERA dot.の本連載。月に5~8冊読んでいるという小島さんが考える、本の魅力とは? 読書の時間が楽しくなるヒントも聞きました。 * * * 【相談40】なんで本を読まないといけないのか。学校でも「読書の時間」というものがあり、日本語と英語の本を読むように言われている。いまではほとんどの人がスマホを持っているのに、わざわざ本を買わなければいけない理由を知りたいです。(ぷりん・中学1年生・女子) 【よしおの答え】 ぷりんピーヤ、いろんな情報の受け取り方がある時代に、疑問を持てるってすばらしい!ぷりんちゃんが言うように、いまはスマホがあればすぐにいろんな情報にたどり着くことができる。ネット検索すれば知りたいことの答えはだいたい出ているし、もっと詳しく知りたかったら誰かが動画で解説してくれているし、もちろん電子書籍もあるからね。 だけどいまでも多くの学校が読書を推奨していると思うし、学校には図書館が必ずあるよね。よしおが小学生のころから「本を読もう」とは言われていたし、誰の言葉かわからないけど「本は心の栄養」って言ったりもする。簡単に情報を得られる世の中で、どうしていまだに読書がすすめられるのか、よしおと一緒に考えてみよう! まずはよしおの“読書体験”から話してみようかな。よしおは“読書家”って大きな声で言えるほどじゃないけど、本を読むことが好き。だいたい月に5~8冊は読んでいるかなあ。本を読むと新しいことを知ることができるのはもちろんだけど、“本を読んでいる俺、なんかかっこいいなあ!”って思うんだ(笑)。 よしおの後輩も、「明治神宮外苑のイチョウ並木(道沿いにイチョウの木がたくさん並んだ東京の名所だよ!)のベンチで村上春樹を読む自分に酔いしれていた」って言っていた。よしおも、大学時代は古めの喫茶店に入って芥川龍之介とか夏目漱石とかを読んで自分に酔っていたよ(笑)。「そんな目的で本読むの?」と思うかもしれないけど、これがけっこう充実した時間なんだ。 ■目で追いかけてページをめくる本の魅力 じゃあなんで本を読むとそんなに充実感があるのか、考えてみた。まずは、紙の本と電子書籍の違い。電子書籍は、スマホやタブレットが1台あれば何冊も持ち歩くことができるね。家でも、本を置く場所をとらないからスペースに余裕ができる。紙を使わないから環境にもいいかもしれないね。 ただ、スマホやタブレットには誘惑が多い。誰かからメッセージが来たり、SNSをついチェックしてしまったり……。一方本は重くてかさばるけど、文字を追うのに集中できる。誘惑がないからこそ、本の世界に集中できるんだ。 そしてなんといっても、紙の本は1冊読み終えると達成感がある。ランニングをして目的地に着いたようなね。物として実際に目に見えるから、「ああ、俺これだけ読んだんだなあ」って実感できるんだ。電子書籍もいいと思うけど、達成感を得たくて紙の本を読んでいるっていうのもあるかもしれないなあ。 じゃあ次にスマホで得られる情報と本で得られる情報の違いについて考えてみよう。ネットの情報はすぐに何かを知りたいときには調べればすぐに答えが出てくるからすごく便利だね。それに対して、本は読むのに時間がかかるけど、情報がきっちり整理されていてまとまっている。 ネットの情報が全て間違っているわけではないけど、正しいかどうかを見分けるのは至難の業。だけど本はいろんな人の目を通って出版されているから、信頼できると思うんだ。それに、自分の考えを整理したり、知識を深めたりするときに、切り取り記事よりも順序だてて物事を考える手助けになるのが本なのかな、って思う。 自分に蓄積される知識の量も違う気がするんだ。不思議なもので、ネットサーフィンをしていると情報がどんどん流れていってしまう感じがするんだよね。反対に本は、自分の目で追いかけて自分の手でページをめくるっていう能動的な行為だから、情報を自分で手にしている感じがする。そうすると、自分のなかでもどんどん知識が重なっていくのを感じるんだ。 本を手にする過程も、よしおにとっては大切な時間。ネットですぐに本を買うことはできるけど、よしおは本屋さんや図書館に行くのをおすすめしたい。自分が欲しい本以外にも、いろんな情報が一気に目に飛び込んでくる環境だから、とても刺激があるんだ。自分では気づいていなかったけど実は興味を持っていたことが目に入ってきたり、自分には興味がないことでも周りの人が興味を持っていることが何かわかったりする。それを体験するのが楽しいんだ。 ネットで本を買うのと比べて、入ってくる情報量が全然違うんだよね。寄り道ができるっていうか、余白を感じるというか。それを感じたくて、本が欲しいときにはなるべく本屋さんに行くようにしているよ。 ■本は読み切らなくてもOK! ここまで一方的によしおが思う本のすばらしさを伝えてみたけど、何かピンときたかな? 自分で実感しないとわからないことだから難しいかなあ。ところで、ぷりんちゃんの学校の「読書の時間」は決められた本を読むのかな。それとも読む本の内容は自由で、日本語の本と英語の本を自分で探してきて読むのかな。 もし自分で本を選べるなら、とにかくいろんなジャンルの本を手にとってみたらどうだろう。学生のころって、「本は最初から最後まで1冊読み切らないとだめ」って思い込みがあるかもしれないけど、もし読んでいる本が「ちょっと読むの苦しいな」って思ったらどんどん違う本に切り替えてOK! よしおも、同じ内容の本でも読む時期によって、読みやすいときとそうでないときがあるんだよね。その情報を欲しているときにスラスラ読めるのかも。喉が渇いているときっていっぱい水飲めるよね? そんな感覚に近いかな(笑)。 本って小説もあれば知識を得る教養系の本もあるし、いろんな人の経験や考えが書かれたエッセーとかコラムもある。本っていろんなジャンルがあるから、絶対に好きなものがある気がするんだよなあ。もし許されるなら「読書の時間」に複数冊机に置いて、いろんな本をかじり読みするといいかも。「これなら読める!」という本に出合えたら、そこから本を読む面白さや知ることの面白さを知ることができるかもしれないね。 決められた本を読まなきゃいけないなら、それをゲームにしちゃうっていう手もあるかな。例えば、決められた時間に何ページ読めるか毎回ページ数を数えてみるとか、クラスの子と読んだ本の内容のクイズを出し合うとか。「このとき、主人公は何色の服を着ていたでしょう?」とかね。 そもそも本が苦手なようだったら、漫画や映像から入るのもありだと思うよ。よしおは湊かなえさんの『Nのために』っていう本はドラマが面白くて、もっと内容を知りたいと思って小説を買って読んだんだ。より作品を楽しめるし、ドラマで描かれていないストーリーも知ることができたよ。 だけど、必ずしも本を買わなきゃいけないってことはないし、読まなきゃいけないってこともないと思う。本を読まなくてもいいと思う人がいるのは別に悪いことじゃないからね。それに、「~しなきゃいけない」って義務のように感じて苦しいよね。 でも、学校で決められた課題をそう簡単に覆すことはできないから、せっかく設けられた時間なら「こうしたら楽しいかな」って考えられたらいいな、ってよしおは思う。それに、よしおは本のおかげで充実した時間を過ごせているから、少しでもその良さがぷりんちゃんにも届くといいなあ、と思う。本の楽しみ方って実はいろいろあるからね。ぷりんちゃんが相談を送ってくれたことをきっかけに、何かが少しでも変わったらうれしいな! ……って、僕は思うんだけど、君はどう思うかな? (構成/濱田ももこ) ●小島よしお(こじま・よしお)/1980年、沖縄生まれ千葉育ちのお笑い芸人。早稲田大学教育学部国語国文学科卒業。「そんなの関係ねぇ!」でブレーク。2020年4月からYouTubeチャンネル「小島よしおのおっぱっぴー小学校」で子どもの学習を支援する動画を公開。キッズコーディネーショントレーナーの資格を持ち、子ども向けのイベントを多数開催している。 【質問募集中!】小島よしおさんに答えてほしい悩みや疑問を募集しています。お気軽にお寄せください!https://dot.asahi.com/info/2021100800087.html
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息子が語る黒川紀章と膨大な借金「とにかく努力の人だったと知った」
TOKYO FMのラジオマン・延江浩さんが音楽とともに社会を語る、本誌連載「RADIO PA PA」。今回は中銀カプセルタワーと黒川紀章さんについて。 * * * 銀座8丁目の中銀(なかぎん)カプセルタワービルが昨年姿を消した。11階建てと13階建て2棟に140個のカプセルユニットがあり、SONYのAV機器が据え付けられ、円形の窓が近未来を示し、一つ一つのカプセルの中で日々の生活が営まれていた。 新陳代謝を意味する建築運動「メタボリズム」のリーダーだった黒川紀章はその象徴として中銀カプセルタワーを設計、1972年に竣工した。「時代の変化に沿って建物は変化し、増殖していくべきだ」。カプセルを交換しながら200年維持する構想だったが、どれか一つを取り換えるのが難しく、全てを一挙にという手法も所有者の意見がまとまらなかった。 時代に建築は即応するべきと黒川が唱えたが、このビルの消滅は衰退の一途を辿(たど)る日本のディストピアを示していた。これもまたメタボリズムなのだろう。 ギャラリーを営んでいる友人から誘われた。軽井沢にカプセルが遺(のこ)されているという。山の中腹で待っていると、先導のためにスポーツカーが下りてきた。「こんにちは」。降りてきた黒川未来夫(みきお)は長髪でロックミュージシャンのような風貌だった。世界に名を知られた建築家の息子は50代半ばだが、切れ長の目は父に似て鋭い知性を感じさせ、少年のような印象を持った。「カプセル建築は可能性が無限。都会にそびえ立つ中銀カプセルタワービルに対し、小さなサマーハウスを作ることでその可能性を示したかったようです」 外から眺めるとサマーハウスは森の中でひっそり呼吸しているように見えた。国内外で出版された黒川紀章作品集、レコード……。そこかしこに父の匂いのする品々が置かれた部屋で彼は話し始めた。 「父の周辺にはいたくなかったんです」。受けたのは東京藝術大学だが、建築ではなく美術学部。「藝大? 受かるわけない」と父の言葉も聴こえてきたが「2浪の末、合格しました。美術学部絵画科油画専攻です。この科が日本で現代美術を勉強する上で適した場所だと聞いていたから」 父が亡くなり息子は父の会社を継ぐが、そこには膨大な借金も残されていた。 「父は世界のコンペで闘い続けていた。そのためにも運転資金を必要としていたんですね。父が死ぬとたちまち資金が枯渇して……」 父の会社で激務の中、役員、社員から父のことを毎日のように聞く日々が始まった。もちろん良いことばかりではない。怒鳴られたり、叱咤(しった)されたり。殆(ほとん)ど知らなかった父の日常が見えてきた。「睡眠は3時間以内。それ以外は事務所での設計か、本を書くか、読書か。とにかく努力の人だったと知ったのです」 息子は父の作品を語った。「森の中の空港というテーマで設計されたクアラルンプール新国際空港は連鎖する森のような機能に対するデザインが高い次元にあるし、大阪の国立文楽劇場には伝統的なディテールが編み込まれ、それでいて和の建築ではない。見事と思った」 改めて話を聴いたのは半蔵門のビルの一室。夕刻になり、隣の建物も彼の父の作品だと気づいた。そのワコール麹町ビルを見上げ、今度一緒に黒川紀章が関わった建築を観て歩きたいと思った。 延江浩(のぶえ・ひろし)/1958年、東京都生まれ。慶大卒。TFM「村上RADIO」ゼネラルプロデューサー。小説現代新人賞、アジア太平洋放送連合賞ドキュメンタリー部門グランプリ、日本放送文化大賞グランプリ、ギャラクシー大賞など受賞。新刊「松本隆 言葉の教室」(マガジンハウス)が好評発売中※週刊朝日 2023年6月2日号
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新しいNISA 8つの「つまずきポイント」に金融庁ほか“お上”が正答【独自調査】
新しいNISAは公式資料だけではわかりづらいという声も。そんな「?」に金融庁、東証、日本証券業協会などが“正解をズバリ”答える保存版。AERA 2023年5月29日号の記事を紹介します。 * * * 2024年開始の新しいNISA(少額投資非課税制度)は年最大120万円まで株式投資信託などを買える「つみたて投資枠」と年240万円まで個別株、株式投資信託、ETFなどを買える「成長投資枠」があり、併用可。両方フルで使えば年最大360万円の投資が可能だ。生涯で投資できる金額を示す非課税保有限度額は1800万円(成長投資枠のみ使った場合は1200万円)。買った金融商品の一部または全部を売却すると、翌年にそのぶんの枠が復活する。 買ってから非課税で保有できる期間は無期限、NISA口座開設の“締め切り”もない(現行の一般NISAと、つみたてNISAには期限がある)。 この記事では、いざNISAを始めるときにつまずきがちなポイントに絞り、一次情報として正確な答えを掲載する。 本誌はこの新制度が22年12月の税制改正大綱で発表されて以来、金融庁をはじめとする“お上”への直接取材を続けてきた。このQ&Aは、その集大成からよりすぐったものだ。 ここから先は質問、回答、■本誌の補足の構成でまとめる。 質問:年に360万円も投資できない。特定口座で既に保有している株式投資信託やETFを新しいNISAに移したほうがいい? 回答:「特定口座から新しいNISAに移すには、いったん売却して買い直すことになる。売却時に利益が出ていれば、20.315%の税金がかかる。『税金を支払ってでも移したほうがいいか』に関する試算を確認したが、特定口座での含み益、新しいNISAに移したあとの相場状況で結果は異なる」(東証) ■期間を30年と仮定して試算したが、ほとんどの場合、いったん税金を払っても特定口座で売却して新しいNISA口座で買い直したほうがよい結果になった。ただ、いついかなるときも特定口座からNISAに移すのが有利と断言するのは誤りだ。 たとえば次の(1)、(2)の条件の両方を満たす場合「移さずに特定口座でそのまま保有していたほうが税金面で少し有利になるケース」が存在した。 (1)特定口座の含み益が大きい。評価額の75%以上(例:元本25万円+含み益75万円=評価額100万円)。 (2)新しいNISA口座に移してからの利益が年平均2%以下。 この試算だけで結論にはならないが、本誌は「特定口座の含み益が元手の2倍以下」「今後の運用で年平均2%以上になると思う人」なら特定口座からNISAに移しても税金面で損をする可能性が低いと考える。 質問:積み立ては必ず年12回行わなければならない? 回答:「最低年2回、買っていれば積み立てと見なす。これはつみたてNISAから変えていない」(日本証券業協会、金融庁) ■毎年2回以上、定期的に投資していれば制度的には積み立てと見なされる。「非課税累積投資契約」の法令に関する「細目及び実務上の取り扱い」の書類には、こう書かれている。「定期的に継続して行う」「2カ月に1回の頻度も可」「口座開設者の収入の状況を勘案したうえで、安定的な資産形成に資するものと考えられる場合には年2回の間隔まで、買い付けの頻度を伸長することも認められる」 ただ、年に2回など少ない回数の投資よりも毎月の積み立てがいいだろう。そもそも主要ネット証券などでは回数で指定できない。どうしても年数回の投資にしたい人は、新しいNISAの成長投資枠でやればいい。 質問:「年360万円×5年(最速)で1800万円投資」と「月10万円×15年などで1800万円投資」ではどちらがいい? 回答:「細かい試算を確認したが、どちらが正解という結論を出すことはできない」(東証) ■本誌試算によると、21年までの米国株のように強烈な右肩上がりの相場だと、最速5年での投資のほうが最終結果はよかったケースが多い。ただ、米国株(S&P500)でも、5年で投資し5~6年目に暴落が来ると、長期投資のほうが結果はよかった。日本株(TOPIX)では「直近30年間」や「バブル期ピークの89年から30年間」などで検証すると長期投資のほうが勝っていた。同じく日本株で「リーマン・ショックの08年に開始し、アベノミクス相場にも乗った15年間」では最短5年投資の勝利。このように相場の状況と保有期間次第で結果は変わる。結果を予想しながら投資金額・期間を決めず、自分にとって都合のいい金額で投資を。 質問:新しいNISAで金融商品を買ったあと、値上がりしたら非課税保有限度額(1800万円)に抵触することもある? 回答:「非課税保有限度額は簿価残高方式で管理、つまり今保有している金融商品について買ったときの金額を合計して判定する。よって、金融商品の購入後、値段が上がったからといって非課税保有限度額に抵触することはない」(金融庁) ■逆に値下がりしても、そのぶん枠が増えるわけではない。現行のNISAは「○年もののワイン(たとえば株式投資信託)をワインセラーから出してくる」感じだった。つみたてNISAなら、「ワインを買って『NISAワインセラー』に入れました。20年経ったら『特定口座ワインセラー』に移します」といったイメージ。新しいNISAでは、そういった概念がなくなる。「いくらで買ったか」が大事。複数回、同じ金融商品を買っていたら「平均いくらで買ったか」が焦点になる。 質問:新しいNISAで金融商品を売ると、非課税保有の「枠」が復活する。復活するのは売却した年の「翌年」。前年のいつまでに売れば、翌年に復活する? 回答:「売却注文を出し、『受け渡し』が年末までに完了していれば、翌年に復活する」(金融庁) ■受け渡しとは代金の決済をすること。日本の個別株や国内ETFは通常、約定日を含めて3営業日目が受け渡し日。株式投資信託は種類により約定日+2営業日以降だ。新しいNISAでは「12月30日(土日なら前営業日)までに証券口座に売却代金が振り込まれたら、翌年に枠が復活する」と思えばいい。 質問:枠の復活は最短で何年から? 回答:「29年以降。枠が復活するのは非課税保有限度額の上限1800万円まで投資し、その後に一部または全部を売却したあとの話だ」(金融庁) ■24年から毎年360万円を投資した人でも、枠を使い切るのは28年。仮に28年11月をもって1800万円分の投資を済ませ、12月に買値ベースで100万円分を売れば100万円分の「空き」ができるので、29年にその分の枠が復活するわけだ。 質問:成長投資枠で買った金融商品が値下がりした。損切り(損失を覚悟で売却)して翌年に枠を復活させ、買い直したほうがいい? 回答:「売却すると、買ったときの金額で枠が復活。この『損切りバージョン』の例は、『100万円で買ったものが50万円に下がって売却しました。復活する枠は100万円分です』となる。一見、非課税枠の面で得したように見えるが、枠の復活と投資判断は別の話。もう上がる見込みもなさそうだから売却して、その結果、枠が復活するという順番だ。『枠が復活するから売ろう』という考え方はしないほうがいい」(西原憲一さん/ファイナンシャルプランナー) ■損切りの売却により非課税枠で得したように感じても、「損切りなので、しっかり資産は減っている」ことをお忘れなく。 質問:株の配当やETFの分配金を自分で再投資に回したほうが複利で効率的にお金を増やせる。ただ、再投資すると、NISAの枠を新たに消費してしまう? 回答:「受け取った配当や分配金を再投資に回すと、新たに非課税保有限度額の枠を消費するのは事実」(金融庁、日本証券業協会) ■株の配当やETFの分配金を受け取ると、権利落ちにより評価額は(理論上)減る。配当や分配金を再投資に回した場合は単なる新規投資=新たに枠を消費したものとして扱われる。この観点から、ファンド内で分配金を再投資するタイプの株式投資信託のほうが、非課税保有限度額の枠を「最大限有効に使うという意味では」優れる。 (経済ジャーナリスト・向井翔太) (編集部・中島晶子) ※AERA 2023年5月29日号
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市川猿之助にずっと気を使っていた「香川照之」との関係性 行きつけの居酒屋で見せていた“本当の仲”
警視庁は24日、歌舞伎俳優の市川猿之助(47)を都内の施設に呼び、事情聴取を行った。両親が向精神薬中毒の疑いで死亡した経緯について詳しく話を聞いたとみられる。悲惨な「一家心中騒動」にはいまだ多くの謎が残るが、改めて猿之助の交友関係を取材すると、意外な人間模様が浮かび上がってきた。特に従兄弟で同じ歌舞伎役者でもある「香川照之」との微妙な関係が見え隠れする。 * * * 猿之助は都内のある居酒屋を行きつけの店にしていた。そこでは、彼の華麗な人脈がみてとれる。猿之助の知人が言う。 「その店は、もともと20年くらい前からリリー・フランキーさんが1人で飲んでいて、彼が“隠れ家”にしている飲み屋だったんです。そのうち、リリーさんが福山雅治さん、大泉洋さんらを呼んで、みんなでワイワイと飲むようになった。猿之助さんは福山さんが連れてきたと記憶しています」 猿之助は日本酒をキープしていて、それをおちょこで飲んでいたという。 「猿之助さんは学生時代からの福山雅治さんのファンで、福山さんがDJを務めるラジオ番組を聞いて、何通も手紙を書き送っていたそうです。その後、テレビドラマでも共演するようになり、公私ともに仲良くなったようですね」(同) 猿之助が俳優の香川照之(57)を居酒屋に呼ぶことも、しばしばだった。 「猿之助さんが先に店にいて、香川さんに電話をかけ、『今日はみんないるけどどう?』と言って、香川さんが遅れてやって来るのを見かけましたね。猿之助さんは一人でしゃべりまくって、いつも座の盛り上げ役。香川さんとも仲良く飲んでいましたよ」 同じ澤瀉屋(おもだかや)で市川中車を襲名した香川と、その従兄弟にあたる四代目猿之助は、私生活でも関係が深かったようだ。だが、一門でのパワーバランスや歌舞伎役者としてのプライドなども絡み複雑な関係だったとも言われ、「女性セブン」(23年6月8日号)は2人の間に長年の確執があったと報じている。 歌舞伎に詳しい著述家の米原範彦氏は2人の関係をこう語る。 「香川はずっと歌舞伎界を離れていたので、歌舞伎の世界に戻っても四代目の猿之助を立てるような立場になっていました」 それを象徴する出来事があった。 俳優としての香川は2013年に始まったドラマ「半沢直樹」シリーズ(TBS系)で、堺雅人演じる主人公の宿敵を怪演して大ブレークした。ある新聞社が正月特集で「半沢直樹」でブレークした香川を大きく扱おうとしたところ、突如、キャンセルになったという。 「澤瀉屋のリーダーの猿之助をさしおいて、新聞の正月版に大々的に載ることはできないと判断されたようです。香川は何かと、猿之助に気を使わざるを得ない存在なんだと感じました」(メディア関係者) 香川は、三代目猿之助(現・二代目猿翁)と浜木綿子の息子。本来なら香川が四代目猿之助を名乗っても不思議のない家柄ではあったが、香川が3歳の時、両親が離婚。三代目猿之助は00年に舞踊家の藤間紫と再婚したことで、香川とは長い間、断絶関係が続いた。 「三代目猿之助は浜と香川のことは“過去のこと”として完全に切り捨てた。三代目猿之助は香川に対し、『あなたは息子ではありません。私はあなたの父でもない。今後、2度と会うことはありません』と言ったという有名なエピソードもありました。だが、それでも香川はどうしても歌舞伎の世界に戻りたかった。その結果、香川は夫婦間の軋轢が生じて離婚までしたのですが、そのとき、歌舞伎界に戻れるように熱心にサポートしたのが四代目猿之助だったのです」(米原氏) 昨年夏、香川は銀座のクラブホステスの髪を引っ張るなどのスキャンダルを「デイリー新潮」に報じられ、テレビドラマやCMを次々に降板することとなった。その後、香川は市川中車として歌舞伎から人生の再出発を図ったが、その際にサポートしたのも猿之助だったという。 結局、昨年12月に香川は十三代目市川團十郎白猿襲名披露の舞台に「市川中車」として出演したことで、俳優復帰を果たした。 「市川團十郎の弟子筋が市川猿之助になります。それゆえ、團十郎に引っ張り上げてもらうにしても、猿之助を飛び越えることはできない。香川はいつも猿之助に気を使う立場だったのです。そんな状態のなかで、猿之助が事件を起こし、その代役として香川の長男の團子(だんこ)に光が当たるというのは、おどろおどろしい因果を感じます」(米原氏) 事件が起きた18日は、明治座で「市川猿之助奮闘歌舞伎公演」の真っただ中だった。猿之助は休演し、18日の昼の部はさすがに休演となったが、夜の部は二代目中村錦之助の長男・中村隼人(29)が務めた。翌19日には代役として、昼の部は香川の長男・市川團子(19)が務めた。 團子はわずか1日の稽古で本番に臨んだようだが、堂々たる芝居を披露し、スタンディングオベーションも巻き起こったという。 「團子は判官びいきの日本人の琴線に触れたのかもしれません」(演芸評論家の山本健一氏) 團子、隼人という若手のホープが澤瀉屋のピンチを救った形となった。米原氏はこう語る。 「歌舞伎という芸能にはしたたかさがある。猿之助がいなくても、必ずその代役が現れる。團子はまだそれほど稽古を積んでないと思いますが、驚くべき吸収力です。隼人も脚光を浴びて、きれいな顔をしていることも世に知られました。猿之助も好きだったけど、隼人も團子もいいよねというファンも増えたはずです。歌舞伎ファンではなかった人にも存在が知れ渡り、新しいファン層を広げる結果になったと思います」 歌舞伎界に詳しい早稲田大学の児玉竜一教授は、團子と隼人をこう評価する。 「團子と隼人の2人は見事に代役を演じました。隼人は間違いなく、猿之助が場所と役を与えて、育てた一人と言えるでしょう。猿之助が若手を育てたことが実を結んだことは、悲しい出来事が続いたなかで、ひとつの希望になったとは思います。今月の明治座のピンチを乗り切ったとしても、ずっと安泰ではありません。ここから先は、若手の人たちの自覚と精進次第だと思います」 はたして、澤瀉屋の未来やいかに。 (AERA dot.編集部・上田耕司)
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岸部一徳、赤ん坊の世話もした「社会復帰」と「俳優修業」
沢田研二に萩原健一といったスポットライトを浴びる主役を斜め後ろから見続けてきた岸部一徳さんの美学。それはのちに久世光彦、樹木希林との、人生を変える出会いからもたらされた俳優としての道で花開く。暗転、そして舞台転換。新たに目の前に広がった場所には、逡巡と雌伏の季節に岸部のうちに胚胎した感性を注ぎ込める映画やドラマがあった。本誌編集長が聞く独占インタビューの第2回。 * * * 「僕は主役の、やや後ろ気味に立って見ているのに慣れているから」 岸部は今回のインタビューで、何度かこんな趣旨の言葉を口にした。注目を浴びることが生業の芸能界にあって、前に出るよりも一歩引いて、観察しているほうが性に合っているのだという。 1971年2月、グループサウンズ(GS)の面々、沢田研二、萩原健一、大野克夫、井上堯之、大口広司と結成したPYGは、GSファンにもロックファンにも総スカンを食らい、デビューから一貫して苦戦した。 「俺はジュリーには勝てない」 萩原が岸部に電話でこう吐露したのは、コンサートで客席がガラガラという事態が続いたころだ。 萩原は電話口で岸部に言った。 「歌はやっぱりジュリーのほうが全然いい。俺はもうやめようと思う」 萩原はライブパフォーマンスを含めすべてが「カッコいい」、“ショーケン”だ。 「沢田も、自分にはないものをショーケンは全部持ってると感じていたんじゃないかなあ」と岸部。「でもショーケンには彼の思いがあったんだろう。映画の裏方をやってみたいと言っていたけど、『約束』(72年)で結局主役の岸惠子さんの相手役で出演することになった。それからショーケンの俳優人生が始まったんですね」 PYGの終焉を迎える。それは岸部にとって大きな転機だった。 その後は井上堯之バンドの一員として沢田のバックで演奏したり、「太陽にほえろ!」(72年~)や「傷だらけの天使」(74年~)のテーマも演奏した。充実して見える活動が却(かえ)って、「音楽をやめようか」という岸部の気持ちを後押しすることになる。 テクニックの問題ではない。レッド・ツェッペリンのベーシスト、ジョン・ポール・ジョーンズにも認められたと伝わるほどの腕前だ。 ■樹木との出会い 赤ん坊の世話も 「いや、それも別に直接会って言われたわけじゃないからね。大野さん、井上さんみたいに才能があるわけでもない。音楽に対して自分は何かやってきたかな、作曲とか、アレンジができるのか、そういう勉強をしてきたのか。考えてみれば自分は女の子にモテたいぐらいのところから始めたんだけどね」 たまたま運良く人気が出てここまで音楽を続けてこられたが、こんなことでいいのだろうか。 「気付かなきゃいいんだけど、気付きだすともう、やめたくなるのよね。『やめるんだったら、いつがいいのかな』なんて思いながら、1年ほどね」 逡巡の時代、演出家の久世光彦のすすめで出演したのがドラマ「悪魔のようなあいつ」(75年)だ。荒木一郎演じる冴えないバイク屋の主人の借金を取り立てるチンピラ・左川を演じた。 当時TBSの久世光彦の演出には瞠目した。 「左川たちが路地みたいなところで立ちションベンをする。すると『溜めといてくれよ』って。本当におしっこしながらセリフを言ってって言う。で、本番でセリフが終わって、出すものも終わって歩いていくって、確かにそうなんだけど、セリフとの寸法が合わないわけ。テストまで我慢して溜めた分だけ出ちゃう(笑)。それで終わるまで撮ってる。今では考えられないですよね」 「人前でしゃべるより黙っているほうが好き」という岸部が、この世界で60年ほどを過ごしてこられたのは、いつも人との縁があったからだという。 久世のすすめで樹木希林の事務所「夜樹社」に入り、俳優としてのスタートを切った。 「希林さんと大楠道代さんの面接を受けた。『あなたに合う役があったらお願いするけれど、うちは生活のために仕事取ってきたりは一切しない。それでも大丈夫?』『はい』なんて話をして。本当に何年か、ほとんど仕事はなかったですね」 結婚して、子どもも生まれたばかり。渡辺プロ時代は入っただけ使うような暮らしだったので蓄えも雀の涙だった。家賃の安い住まいに引っ越しを続け、「ぜいたくをしない、友だちとも会わない」と生活を切り詰めた。赤ん坊の世話もよくした。 「朝5時に起きてね。でも海の向こうではジョン・レノンも同じことをやってると思えばちょっとカッコいいかなと思ってましたね」 ■「社会復帰」と俳優修業の日々 当時、岸部を心配した沢田が、人づてに自分が使っていないマンションを無償で貸した逸話もファンの間で知られている。「できて間もない中野ブロードウェイの高級マンション。ガードマンが常駐していて、屋上にプールがあって、お隣は青島幸男さん。毎日毎日、プールで子どもとプカプカしたり、ブラブラブラブラ……。『タイガースのリーダーは優雅ね、やっぱり』なんて言われて。ただ、ちょっと管理費がねえ、月4万以上した。後で沢田に『高いよ』って言ったけど(笑)」 仕事に恵まれないこの時期が岸部にとって「社会復帰」の時でもあり、俳優としての土台にもなった。NHKのドラマ人間模様「続 事件 海辺の家族」(79年)に起用された時、「どうやって俳優の勉強をしたらいいか」と岸部が尋ねると、脚本家の早坂暁は「一日中バスに乗ってずっと人を見ていればいい。僕はそうしているんだ」と答えたという。 「久世さんは、ドラマの中で台所仕事みたいな日常を本当にやる人。新人の女の子がどうにも芝居ができないってなったら、ベテランの加藤治子さんが代わりにやって見せてくれたり。それをみんなも最初からずっと見ているので勉強になる。『技術的な芝居なんかしなくていい』って、まあ本当は僕ができないから言ってくれていたんだと思うけど、素のままで一生懸命やればいいんだと。そういう優れた人たちの中で出発できたのは恵まれていました」 「良質なドラマに出る」という樹木らの方針もあり、初期こそ数は少ないものの、久世を始め、深町幸男、和田勉ら名だたる演出家の作品に出演するようになり、少しずつ俳優としての地歩を固めていった。 大林宣彦監督とも縁が深い。「時をかける少女」(83年)以来、映画では一番多く起用された。余談だが、「時を~」で原田知世の相手役・深町一夫を演じた高柳良一は慶應義塾高校出身で、瞳みのるの教え子だ。 岸部のキャリアは、映画「死の棘(とげ)」(90年)をおいては語れない。日本アカデミー賞最優秀主演男優賞を受賞した、メルクマール的な作品だ。 「映画は監督の作品なので。あれはもう本当に、個人賞、もう付録みたいなもので」 本作で小栗康平監督から「セリフに感情を乗せると浅いものにしかならないので感情を乗せないほうがいい」と言われ、内へ内へと向かい、掘り下げる表現を求められた。現場ではその意味を掴みかね、食事も喉を通らずノイローゼ状態に陥った。岸部にとって小栗は、今でも最も尊敬する監督であり、この時の経験が俳優という仕事の礎になったという。 「要するに、心の中をちゃんと作れないとダメだということですよね。日常生活でも、言葉で伝わらない、置き換えられない気持ちの動きみたいなものがある。言葉として、セリフとして発する前の、体の中に、心の中に残っている状態のほうが深いんだ、と。そこを大事にしないといけないよと言われたことは、今でも残ってますね」 90年代に入ると年4~6本のハイペースで映画に出演していく。今回のインタビューに際し、岸部の出演作を振り返ってみたが、筆者が過去に見て印象に残った作品の驚くほど多くに岸部は携わっていた。 オファーを引き受けるかどうかは、監督や脚本によるところが大きいという。 「でも、これは好みもあるんでね。自分の考え、思い、感性みたいなものでこれはいい作品だなと感じるかどうか。監督が何を撮りたいのか。それが当たるとか当たらないとかあんまり関係ないですね」 「死の棘」以来の主演作となった「いつか読書する日」(2005年)では青木研次の脚本に惹かれ、緒方明監督の「自分の撮りたいもの、自分の思ういい作品を誠実に映画にする」姿勢に敬意を抱いたという。 「顔」(00年)、「大鹿村騒動記」(11年)、「団地」(16年)など、阪本順治監督作品も多い。 「映画はやっぱり面白いと思う。テレビも向田(邦子)さんの『阿修羅のごとく』(79年~)とかね、好きなものがたくさんあるけれども。テレビは日常の延長線上で時代を映していますよね。映画は若いころに見たものを何年か経って見てみたら、違う解釈で見ていたことに気付く。それが面白い。新しい発見というか、そのころにはわからなかったことがありますからね」 ■ひと癖ある役も市井の人の役も 映画愛を語る岸部だが、テレビドラマでの活躍ぶりも、改めて言及するまでもない。「相棒」には02年のシーズン1から9まで小野田公顕役で出演。「官房長」の呼称は、岸部の代名詞にもなった。 「『相棒』は最初のころはこんなに長く続くとは思わなかった。打ち上げのたびに水谷(豊)さんと『続けるために面白いことをやるのではなくて普通の刑事ドラマではない挑戦ってなんだろう』とか、『いちばん良い時に終わることもあるかもね』なんて話をしてましたね」 降板したのはなぜ? 「ある時プロデューサーとご飯食べた時にね、『僕、やめようと思う』って、ふっと言葉が出てね。なんでだろう」 演技派としての地位を固める一方、新進のクリエーターと組んだ仕事では、新たな一面も見せた。 大滝秀治との掛け合いもシュールなキンチョールや、木村拓哉と共演した富士通FMVのCMを覚えている人も多いだろう。 三木聡監督の「転々」(07年)は「岸部一徳」として出演。眼鏡屋の前で眼鏡を洗っている岸部一徳を見かけた福原(三浦友和)と文哉(オダギリジョー)の「あの人誰だっけ」「岸部一徳じゃない?」「岸部一徳を街で見かけると良いことがあるんだって」というやりとりがある。 「三浦友和さんはあの作品でキネマ旬報の助演男優賞に選ばれたから、やっぱり良いことあったよね(笑)」 12年から始まったドラマ「Doctor-X 外科医・大門未知子」の神原晶役では手術代回収時にするスキップも有名になった。同作は7期まで続いている。最近、岸部が出演するドラマは長寿になるという業界内での「新伝説」が生まれたとか。 ひと癖ある役柄のインパクトが強いが、市井の人の役でも深い印象を残している。 06年からのNHK朝ドラ「芋たこなんきん」では、田辺聖子がモデルの主人公の祖父で、写真館を営む花岡常太郎を演じた。 仕事には厳しいが家族には優しく、浄瑠璃などの芸事も好きで温かみのある常太郎。 「僕の父に少し似ていたところもありますね」 岸部一徳の父、徳之輔は職業軍人で、終戦までは憲兵だった。 「戦争が終わってからは一度も定職に就かなかったですね。探偵の真似ごとをしたり、いろいろやったりしてましたけど。囲碁が好きだったから囲碁道場を開いてみたり。自分はお金がないんだけど、父の勝負に賭ける人がいて、勝つとすき焼きだったり。そういうのをいつもやってましたね」 岸部ら子どもたちも苦労は多かっただろう。 「どうなんでしょうね。みんな貧乏な時代だからねえ。うちは兄弟も多いんですよ。全部で10人くらいかな」 岸部はいったい、どんな幼少期を過ごしてきたのだろう。(次号に続く/敬称略) (本誌・渡部薫)※週刊朝日 2023年6月2日号
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稲垣えみ子「うまく老いて死んでいく方法とは 人生100年時代の醍醐味」
元朝日新聞記者でアフロヘア-がトレードマークの稲垣えみ子さんが「AERA」で連載する「アフロ画報」をお届けします。50歳を過ぎ、思い切って早期退職。新たな生活へと飛び出した日々に起こる出来事から、人とのふれあい、思い出などをつづります。 * * * 結局、不安ばかりの現代においても最も誰もが逃れられない大不安とは「老い」なんじゃないだろうか。 先日も、私より一回り若い知人に「元気なおばあちゃんになるにはどうしたらいいんでしょう」と聞かれた。大好きだった祖母も母も老いて施設に入り元気をなくしてしまったことがつらいという。でも全てを引き受け暮らしを変えることに耐えられる自分でもない。結局、大事な人の介護を他人に任せ、都心に家を買い子供を私立に入れ好きな仕事をしている私がいるんです。ああもっと誰もが自立した明るい老後が描けるようになればいいのになって……わかりますそのモヤモヤ! 本当にそうなれば、どれほど世の中は明るく前向きになることだろう。なぜそんなシンプルなことがとてつもなく難しくなってしまったのだろう。 現代の不幸とは、科学の発達と世の中の急激な変化が猛スピードで人間を追い越してしまったことだ。本来なら、医学の発達で人生100年時代がやってきたことに多くの人がバンザイを叫んでいいはず。でも現実はどうだろう? 多くの人が、この降ってわいた長寿に怯えている。「うまく老いて死んでいく」方法なんてちょっと前まで考える必要もなかったのが、今や誰もが直面しなくてはならない大テーマとなってしまった。 もちろんそれは私自身のテーマでもある。というか、その方法を見つけるために会社を50歳で卒業し、人生の下り方、すなわち「明るく元気に下っていく方法」を見つけようと足掻いているのである。 で、何事もやってみるもの。私はついに、その方法を見つけたのである。無論、万人にこの方法がフィットするかどうかはわからないが、少なくとも私自身は「これしかない」と確信するに至った。そして、そのことをこのたび新刊にすることができた。もう思い残すことはない。しかしまだ人生は続く。どこまで行っても「勝ち逃げ」はなし。それが人生100年時代の醍醐味なのであろう。そう思って今日もバタバタ生きる。きっとそれを幸せというのだ。 ◎稲垣えみ子(いながき・えみこ)/1965年生まれ。元朝日新聞記者。超節電生活。近著2冊『アフロえみ子の四季の食卓』(マガジンハウス)、『人生はどこでもドア リヨンの14日間』(東洋経済新報社)を刊行 ※AERA 2023年5月29日号
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松下洸平「僕にとって、とても大きな3年間」 朝ドラをきっかけにドラマや映画、バラエティーにも
ドラマ「合理的にあり得ない」に出演中の松下洸平さんがAERAに登場。NHK連続テレビ小説「スカーレット」で注目され、舞台や映画にも次々に抜擢。「課せられるものが大きくなっていることを実感している」という。AERA 2023年6月5日号の記事を紹介する。 * * * AERAで昨夏にスタートした自身の連載「じゅうにんといろ」での抜け感のある衣装とは違う、スマートなスーツ姿でスタジオに入ると、まずフォトグラファーの蜷川実花に「お久しぶりです」と丁寧に頭を下げ、笑顔で握手を交わした。 本誌の表紙は2020年10月以来、2度目。前回の撮影は、その前年の9月から放送されたNHK連続テレビ小説「スカーレット」で注目され、オファーが殺到し始めた頃だった。 あれから3年弱。ドラマや映画の話題作に立て続けに出演し、バラエティーでは飾らない姿で笑いを取り、CMで癒やしを届けてきた。さらに、一昨年は歌手として再デビューも果たした。今回の撮影後、初めての表紙を改めて見て、感慨深そうに言った。 「若いなー。これから先のいろんな壁のことをまだ知らない顔ですね(笑)。もちろん覚悟や決意はありましたけど、まだそこにぶち当たる前の表情だと思います」 その言葉に、自身に集まる視線と期待が高まることを感じながら、多忙を極める日々を乗り越えてきた充実感がにじんだ。 「僕にとって、とても大きな3年間でした。たくさんの作品に呼んでいただき、いろんな役とお仕事を経験させてもらいました。課せられるものが大きくなっていることは感じています」 現在はカンテレ・フジ系ドラマ「合理的にあり得ない」で天海祐希と共演し、今夏は舞台「闇に咲く花」に出演予定。映画「ミステリと言う勿れ」の公開も控える。その先もスケジュールはびっしりだ。 「でも、僕自身は特に変わってはいないんですよね。人としての厚みなんてまだまだですし」 決して偉ぶらず、実直。その人柄が人気をますます加速させている。(編集部・古田真梨子) ※AERA 2023年6月5日号
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18時間前
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小学1年で息子が「IQ154」と発覚したときに母親は何を思ったのか 「ギフテッド」の子ども持つ親の“本音”
物事に没頭しやすい、情報処理が速いといった特徴をもつことが多いと言われる「ギフテッド」。【前編】では、IQ154あり小学4年生で英検準1級に合格した小林都央さん(11)が学校生活に適応することに苦しんでいる現状を紹介した。一方で、自分の子どもがギフテッドだったら、親は何を思い、どう行動するのか。都央さんの母親である小林純子さんが実体験を語った。<阿部朋美・伊藤和行著『ギフテッドの光と影 知能が高すぎて生きづらい人たち』(朝日新聞出版)より一部を抜粋・再編集> 【前編】<小学4年で英検準1級に合格した「ギフテッド」少年の生きづらさ 「正直、学校は好きじゃない」と適応に苦しみ>より続く * * * ■幼稚園で全元素を暗記 幼少期の都央さんは、様々なものに興味を持った。漢字は3歳ごろから路線図で読めるようになった。初めて書いた字は「品川」だった。点字を覚え、フォントやピクトグラム(絵文字)に興味を持ち、歯車のおもちゃで遊ぶのも大好きだった。大人向けの機械式時計の本が愛読書だった。どうやって歯車がかみ合って動くのか、仕組みがわかるのが大好きだった。 幼稚園のころには分子に興味を持ち、すべての元素を英語と日本語で暗記した。「世の中のすべてのものは元素でできているので、こういうふうに結合することによってこういうものが生まれるみたいなことがわかるのがとても楽しかった」と都央さんは記憶している。純子さんに元素のクイズを出してくるが、難しくて答えられなかったという。幼稚園のころからパソコンに触れていた都央さんは、元素クイズを自動で出すゲームのプログラムを自作して遊んだ。 台風が近づいているというニュースを見ると「台風はどこで発生するんだろう」。雨が降ると、「降ってきた水はどこへ行くんだろう」と、疑問が次々と湧く。純子さんは「なんで?」といつも都央さんに問いかけられた。大人でも答えられないようなたくさんの疑問。純子さんは「とにかく常になんで、なんでと聞かれて、ちょっと私がパンクしそうになったので、ノートに書いて自分で調べてみてと伝えました。私の逃げ場のようにつくったノートです」。そう言って見せてくれた当時のノートには、都央さんの頭に浮かんだ疑問が並んでいた。 「なぜタイヤは黒い? 黒じゃなくてもいい?」 「どうして赤い火より青い火のほうが熱い?」 「なぜ日本には大統領がいないの?」 そして、図鑑などで調べた自分なりの答えが書き込まれていた。 ■みんなと遊んで気づいた「違い」 好奇心が旺盛な都央さんに体調の変化が現れたのも、幼稚園のころだった。日曜日の深夜に嘔吐(おうと)を繰り返した。救急車で運ばれたこともある。だが、疑われた感染症ではなかった。 その後も日曜日になると吐くことが続き、「心理的なもの」と診断を受けた。幼稚園での集団生活がストレスになっているようだった。夜にうなされることもあり、ドッジボールがある日は体調が悪そうに見えた。 後から、ボールが無秩序に動くルールが嫌で、体が拒否反応を起こしているとわかった。都央さんは「どんなルールでみんなが動いているかがわからなくて、怖いな、嫌だなっていう気持ちが強くなったんです。みんながランダムに動いて、ボールが自分めがけて飛んでくるのも怖かった」という記憶がある。ドッジボールがある時は、トイレに逃げ込んだ時もあった。 そのころから、周囲との違いも感じるようになったという。 「自宅で遊んでいる時は感じなかったのですが、幼稚園でみんなと過ごすようになって、ちょっと周りの人と話が合わないとか、周りの人が好きなことが自分はあまり好きではないとか、思うようになりました。ほかの友達が遊んでいるものもあまり面白いと感じられないなということもありました」(都央さん) 元素のことなどを話しても興味を持ってもらえないため、気持ちをセーブしながら周りの人と話していたという。 それまで、純子さんは都央さんのことを「ちょっと変わっているところがある」と思っていた。敏感で靴下は同じメーカーのものしかはかない。ただ、初めての子育てで他の子どもと比較はできず、「少しこだわりがあるのかな」と感じていた。周囲から「ギフテッド」の存在を教えてもらったのは、そんな時だ。知人に勧められ簡易的な検査を受けたところ、IQが高いとわかった。小学1年の時に受けた検査でIQが154だった。 ■「息子のつらさを初めて知った」 IQが高いとわかった時にはどんな心境だったのか。 純子さんは「息子がギフテッドかもしれないってわかった時に、お母さんって自分の子どもがお友達と同じように遊んで、同じように進学して、と知らず知らずのうちに思っているんだなって気づかされました。『普通じゃない、人と違う』ということが当時は不安でした。違うということを認めたくないという気持ちもありました」と当時の思いを語る。 同時に、IQを検査してくれた医師から、IQに差がある子どもたちと過ごすということは、学年が異なるクラスで過ごすようなものだと教えてもらった。 「学年が違うクラスで過ごすような感覚が日常なのは、それは息子にとって苦痛だなと、やっと息子のつらさがわかりました。IQが高いのは、いいことだと思ったこともあるのですが、話が合わない、関心事が合わない集団に日常的にずっといるっていう息子のつらさを初めて知った気がします」(純子さん) そして、IQが高い人は、ほかの人よりもセンサーが敏感で、相手が何をしてほしいかを察知することに優れ、それに応えようとして疲れてしまうとも聞いた。授業の内容は、都央さんにとって学びが多いとは言いがたいものだったという。 「授業は淡々と受けて、教室にいればいいので楽だなと思う一方で、楽しい時間ではないのでつらい場所でもある」とこぼす。 学校でつらい思いをする都央さんを見て、入学や進級のたびに担任の先生へ都央さんの個性について手紙を書いて理解を求めた。幸いなことに担任の先生もギフテッドについて調べ、理解してくれる努力をしてくれた。スクールカウンセラーも理解を示し、相談に乗ってくれるという。純子さんは「集団生活や行事など学校でしか学べないこともあると思います。息子がやりたいことの時間も取りつつ、負荷はかけないように学校に行く日も作ろうという試行錯誤の中で今のスタイルになった」という。 ■独学でAIをプログラミング ただ、都央さんにとっては、周りの小学生のように週に5日、一日6時間の授業を受けることが「時間のロス」に感じてしまうこともある。「自分が興味のあることをしている時が一番ワクワクする」と言い、いくつかの夢中になっていることがある。 その一つがプログラミングだ。21年に開かれた小学生向けのプログラミング大会では、小学4年で決勝に進出。一人暮らしの祖母のために考えた買い物アプリを発表し、特別賞を受賞した。翌年にも同じ大会で、5千件を超える応募作品の中からトップ10に選ばれた。AIが文章を作成するアプリをChatGPT(対話型AI)がリリースされる前に独自に制作し、決勝に進出した。 都央さんは「学校に行ってない、サボっている、頑張っていないとか言われるのですが、自分なりに頑張っているんだというのを知ってもらいたい」と話す。 ■人と違う個性、誇りになった 平日、美術館や図書館へ行くと、じろじろと見られることもある。だが、純子さんは胸を張って歩くようにしているという。 「学校は行くものだから、平日に子どもがいるのはおかしいでしょうと思われることもある。だけど、息子は家でたくさん勉強をこなして、今は散歩やリフレッシュなんです、と堂々としていたいなぁと思います。自分の中の常識や、外からどう見られているのかということで息子を苦しめてしまうことはできるだけしないようにしたいなって思います」 純子さんは「人と違う個性を持っていることが誇り」と次第に感じるようになった。ただ、ギフテッドについての理解は、社会でも学校現場でもまだまだ行き届いていないと感じる。「ギフテッド」という単語を聞くと、「なんでもできるすごい天才」というイメージを持たれてしまうことも危惧する。 試行錯誤しながら登校したり、リフレッシュ休みをとったりする日々だが、都央さん、純子さんの悩みは尽きない。学校ではみんなが同じようにすることに価値が置かれているように感じ、登校しないと評価されない。この先の進路を考えた時に、出席日数がネックになることも出てくるかもしれない。「足が速い、絵が上手と同じように、ギフテッドを個性の一つとしてとらえてほしい」。そう願っている。 (年齢は2023年3月時点のものです)
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「クソ素人」で大炎上 なぜ有名ラーメン店と客はもめやすいのか 背景にある「独特の文化」
埼玉県にあるラーメン店の店主が、「不味い」などとSNSで厳しいコメントを投稿した客に対し、「クソ素人」などと応戦し大炎上した。近年、ラーメン店側がSNSで“モノ申す”ケースは多々あるが、迷惑駐車や確信犯的な「大量残し」などの行為を批判するなど、一定の支持がある投稿もあれば、埼玉の店のように店主が激しくたたかれてしまうこともある。なぜ、SNSをめぐるこうした現象が後を絶たないのか。トラブルを防ぐために、店と客に何が求められているのか。 * * * 昔も今も、店独自のルールを設けているラーメン店は少なくない。そこに店主の“こだわり”がにじむのがラーメン店の特徴でもある。ルールといっても、客目線で高圧的と感じられるものから、「おすすめ」や「お願い」に近い内容のものまでさまざまだが、たとえば、 「スープからすすって」 「スープは飲み干して」 などの食べ方に関してのもの。 「食事中のおしゃべり禁止」 「食事中のながらスマホや読書は禁止」 など、客の回転率を上げるためや、並んで待っている人が早く食べられるように配慮を促すものなどがある。 また、熱狂的なファンがいる「ラーメン二郎」や、「二郎系」などと呼ばれる店では、野菜や生ニンニクなどのトッピングを増減できるところが多いが、増減を伝えるときのコール(言葉)の仕方にルールを設けている店がある。たとえば増量の際は「増し」「増し増し」とコールしたりする。 だが、冒頭の埼玉の店は、生ニンニクのトッピングの増減を伝える際、「増し」と「なし」を混同しないように、ニンニクを入れないなら「なし」ではなく「抜き」と言うようにお願いする掲示をしていた。ちなみに、同じ理由で「なし」は控えるように店内に示してある店はほかにもある。 埼玉の店では、客が「なし」と言ってしまったことがトラブルの発端になったようだ。その客が「もう二度と行かない」などとツイートすると、店主が「クソ素人」という言葉を交えて応戦し、店側が炎上した。 ボリュームが多いことで知られる店で、面白いもの見たさだったり、映える写真をとるためにあえて大盛りを注文し、結果としてトラブルになるケースもある。 ある人気店では、量がとても多いので、初めての客は大盛りを頼まないように掲示してあった。ある時、大盛りを頼もうとした客がいて、店側は口頭で控えるように伝えた。それでも大盛りにこだわったため提供したところ、その客は「こんなの食えねー」と笑いながら大量に残して帰っていったようだ。店側はSNSに客に対して厳しい言葉を投稿した。 こうした投稿は店側にも“理”があるので炎上はしにくい。この他、近所迷惑な路上駐車を繰り返している客に対して、店側が厳しくツイートした例などがある。 SNSを活用していない店でも「ルール」を掲げているところはある。 たとえば茨城県北西部の都市にある老舗の人気店。老夫婦が切り盛りしておりSNSとは無縁の、いかにも昭和のラーメン店といった風情で、おかみさんの接客も丁寧だ。だが、店内には「飲食中のスマホ、大声での会話禁止」「飲食しながら新聞を読むのは禁止」「お釣りのないようにお願いします」などと書かれた貼り紙があった。 こうした独自ルールやSNSでの投稿については賛否が分かれる。 食べ方の高圧的なルールについては、「お金を払っているのだから自由に食べさせて欲しい」「逆に食事を楽しめない」という批判的な声。 その一方で、行列への配慮やコールの仕方については、 「並んで待っている人に気を遣えない客がいたら、店が動くのは当然」 「仕事などで臭いがきついニンニクを食べたくない人もいるのだから、ミスを防ぐために『なし』はやめてと求めるのは、むしろミスを防ぐために良いことだと思う」 など肯定的な声もある。 客の迷惑行為に関しては、 「迷惑駐車で困っている人がいるのだから、SNSで注意されて当然」 「平気で食べ物を残すやつが悪い」といった客に対する厳しい指摘が目立つ。 そもそも、なぜラーメン店でこうした事例が目立つのか。 ラーメン評論家でフードジャーナリストの山路力也氏は「昔から、常連客しか来なかったような、いわゆるクローズド(閉鎖的)なコミュニティーとして存在していたラーメン店が数多くありました」としつつ、こう分析する。 「そうした店が、口コミサイトやSNSなどで存在を知られるようになり、常連だけではなく不特定多数の客が訪れるようになりました。そのため、店がそれまで大事にしてきた環境やコミュニティーを守るため、ルールを決めて掲示したり、ルールを守ってくれない客にSNSを通じて苦言を呈したりするようになったのではないでしょうか。昔から、物申す、物申したいという店主はたくさんいたでしょうし、実際に店の中で同様の発言や意見はしていたと思います。今はSNSが発達したため、それが可視化されるようになっただけなのだろうと考えています」 ただ、山路氏は、客商売である以上、SNSでの発言や言葉遣いには、より慎重にならなくてはいけない、とくぎを刺す。 「ファンビジネス的な側面もある業態なので、その発信の仕方ひとつでファンをつかむこともできる一方、逆にファンが減ったり、アンチが増えたりするリスクもあります。具体的な店名は挙げませんが、激しい言葉で客をののしったり、レスに対してケンカ腰で反応している投稿も散見されます。店側は、それで一瞬スッキリするのかも知れませんが、店のイメージやブランディング的にはマイナスでしかありません」 SNSは情報発信をする手段としては便利だが、時には無用のトラブルを生む。店主の投稿が炎上し、第三者に激しく非難されることになれば店にとってはダメージでしかない。そうした事態を避けるために、店と客には何が求められているのか。 「店は商品とサービスを提供し、客はその対価としてお金を支払う。その関係性に上下や貴賎はないと考えています。店も客も、お互いの立場や相手の気持ちをおもんぱかって行動することができれば、大抵のトラブルは回避できるのではないでしょうか」(山路さん) 店側も客も、「こちらが上」という印象を持たれない気遣いをすることが、最も大切なのかもしれない。 (AERA dot.編集部・國府田英之)
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草野マサムネ「“生のマジック”をずっと信じてる」 スピッツ3年半ぶり新作アルバムのレコーディングで感じた音楽の初期衝動
今月17日、前作の「見っけ」から3年半ぶりとなる17thオリジナルアルバム「ひみつスタジオ」をリリースしたスピッツ。6月からは2年ぶりの全国ツアーを開催。コロナ禍を乗り越え、4人は再び音楽の喜びを感じている。AERA 2023年5月29日号の記事を紹介する。 * * * ――「ひみつスタジオ」を全曲通して聴いたときに、まず浮かんだのが「回復」という言葉だった。こぼれ落ちた心のネジを拾い集め、ゆっくりと締め直してくれる感覚。1曲目の「i-O(修理のうた)」を始め、これまで以上に前向きさを感じる。 草野:ここ数年、世の中が明るくなかったじゃないですか。だから余計に明るい作品を届けたいと思ったところはありますね。自分たちも演奏したり歌ったりして元気が出る曲がいいなって。「時代性」みたいなものを意識して曲を作るわけではないですけど、結果的に何となく出ちゃう部分はあるかもしれません。 田村:「紫の夜を越えて」は、コロナの時期とちょっと関係してるよね? 草野:あれはニュース番組のエンディングに使われることが最初から決まってたしね。ちょうどコロナの感染拡大が連日報道されていた頃で、それ以外にも色々なニュース映像のバックで流れるイメージがあったから。ただ個人的には、あんまり色をつけたくないかな。リスナーの皆さんそれぞれが自由に聴いてほしいです。あんまり俺が「この曲はこうで」と説明したら、つまらなくなっちゃうだろうし。 三輪:それはそうね。 草野:最近はよく「自分が歌ってほしい歌詞」を作りたいなとは思う。若いときは言いたいことを言う感じでしたけど、長くやっていると、色んなところでライブをしたときのお客さんやスタッフさんの顔が思い浮かぶんです。それが自然に曲にも滲み出てきているんじゃないかな。 ■よみがえった初期衝動 崎山:今回のレコーディングは、その前にコロナで痛い目にあったぶん、すごい楽しかったよね。 草野:うん。スピッツだけじゃなくエンタメ界は皆そうだったと思うけど、一時期コロナ禍で思うような活動ができなかったんですよ。その間も、ちょこちょこレコーディングはしてたんですけど、いつリリースできるかわからない状況でした。なので、「今どんなことしてるんですか?」と聞かれたときに、「秘密の活動をしてます」と言うしかなくて(笑)。今回のアルバムのタイトルを考えるときに、そのことを思い出して、「実はこんなことしてました」っていうアンサーの意味も込めて「ひみつスタジオ」とつけました。 田村:今回のアルバムを録る前に「猫ちぐら」っていう曲を作ったんですけど、あれは全くメンバーと会わずにレコーディングしましたから。 草野:密にならないようにね。 田村:そうそう、交替でスタジオに入って、後で音を重ねて作った。そのときは新しい感覚というか、「こういうやり方もできるのか!」って面白くもあったんだけど、その後に「紫の夜を越えて」の収録で久しぶりにスタジオでメンバーと音を合わせたときに、「やっぱバンドっていいよなぁ!」ってすごいテンションあがったもんね(笑)。 草野:もうね、集まって「せーの!」でやると、全然違うなとは感じましたね。 田村:何て言うか、バンド始めた頃の初期衝動みたいなものがよみがえった感じがしたよ。お互いに刺激し合う感覚。 三輪:毎回「今あるものを全部出し切ろう」と思ってやってはいるんだけど、今回は久しぶりっていうこともあって、そういう楽しさが音にも出てるかなとは思う。 崎山:やっぱりコロナがあって、延期してた「見っけ」のホール公演も中止になっちゃって。そういうことを経て、今回「今できることをやろう」と集まった。だからメンバーがそろって音を出すのがとにかく楽しくて。リハとか本番とか関係なくずっと音を鳴らしてたい、みたいな(笑)。個人的には、コロナをはさんでちょっと原点回帰できた部分もあるかなって思います。 田村:あ、あと今回はスケジュールが変則的だったのも大きかったな。いつもはレコーディングとライブの期間を完全に分けているんですけど、今回はレコーディングの間に“NEW MIKKE”のツアーがあって、それがすごくいい方向に影響を与えてくれた気がします。何と言うか、バンドとしての自己肯定感が高まった感じがしたんだよね。ライブで感じたお客さんの反応や熱が、体に残ったままレコーディングに入れたっていうのもあるし、合間にライブ音源をたくさん聴く機会もあって、改めて手応えを感じられた部分もある。「やっぱスピッツいいじゃん!」って。 ■平常運転に戻ってきた ――6月からは2年ぶりの全国ツアーが始まる。ツアーのホール公演は7年ぶりとなるが、今の心境は? 草野:ホールでのライブが久しぶりなので、どうなるかなとは思ってますけど……。ただ、これ俺が言うのもなんですけど、うちのお客さんは優しいんでね(笑)。あんまり気構えることなくやりたいなと思います。肩に力が入り過ぎちゃうと、5割くらいの力しか出せなくなっちゃうから俺は。 田村:いろんな地域でライブをしたいというのは、結成当初からずっと思ってきたことで。そういう意味では、平常運転のスピッツに戻ってきた感はある。自分の故郷は田舎だったから、そこに好きなアーティストがきてくれるとすごいうれしかった。そういう気持ちがわかるから、やる側になってもそれは忘れたくないなと。 草野:初期からのファンの方も、最近聴き始めてきてくれた方にも、直接音を届けられる喜びを感じながら演奏したいです。 三輪:ツアーをまわると次にやるべきことが見えてきて、そこから新しい曲を作って、またライブをやって。そういうサイクルはずっと変わってないよね。 ■バンドの音で届けたい 草野:バンドの音楽ばっかり聴いて育ってきてるんで、自分たちの音楽はバンドの音で届けたいんですよね。今は打ち込みの再現性もすごいし、いい曲もたくさんあるんですけど、やっぱり“生のマジック”をずっと信じていたいと思う。そのへんはこだわってやってますけどね。 崎山:音を合わせているとビタッと合う瞬間というか、皆の調子が伝わってくるときはある。 草野:レコーディングのときも、1コーラス目はイマイチだなと思っていても、2コーラス目からすごいよくなってきて、最後にすごく盛り上がるテイクとかあって面白いよね。音で会話していると言いますか。 崎山:「あ、今何か違うこと考えてんな~」って、すぐわかるからね。それで「あーやっぱミスったよ」と思ってニヤリと笑ってたら、今度は自分がミスるみたいな(笑)。 草野:結局、全員ミスる(笑)。 田村:あと4人が想像している音が近いっていうのもない? ミックスで「ドラムの音をこうしたい」ってエンジニアさんに伝えるときも、メンバーは何となく見えてるんだけど、それを言葉で説明するのがなかなか大変だったりするときがある。 草野:メンバー間では共有できてるんだけど、サウンドを言語化するのってすごい難しいから。 田村:そうそう。ただ、音に対する共通言語みたいなものは全員持ってるんだよ。だから、ここまで長く続けてこられたという面もあるだろうし。今、昔の曲を聴いても飽きないのは、そこが一致しているおかげかなとも思う。 ■スピッツは変われない 草野:俺は昔の歌声とか聴くと恥ずかしいけどね(笑)。ただ、曲に関してはそんなにかな。さすがに15、16のときに書いた曲を聴いたらめちゃくちゃ恥ずかしいけど、そこから何となく手応えを掴んできたときにスピッツを結成したから。10代の曲が何で恥ずかしいかっていうと、言葉が背伸びしたり見栄張ったりしてるから。「それじゃだめなんだ」って、何年か作ってるうちに気づいた。そこから世界観はリアルではなく、時にシュールだったりするんだけど、選ぶ言葉は等身大の自分が共感できるものに変わっていった。曲に関してもそうかな。背伸びして、その時々で流行(はや)っている音楽を取り入れたりはしないから。 ――スピッツの音楽は変わらない。だから古びもしない? 草野:と言うより、変われないんですよ。そんなに器用じゃないんでね。同じ時期にデビューしたOriginal Loveが「渋谷系でかっこいいぞ!」と思っても、結局同じようにできなかった。多分、ヘヴィメタルをやってもスピッツっぽくなっちゃう。 三輪:あーそうね。 田村:我が道を行くというか、解釈が遅いというか……。 三輪:CDが出てきたときも、最初は「ぜってぇ買わねーぞ」って思ってたから(笑)。 草野:10代の頃はレコードばっかり聴いてたからね。ただ発表の形式はそれほど重要じゃないっていうか、「作った曲を人前で演奏して聴いてもらうこと」が自分たちのベースなので。ライブが根幹にあるのはずっと変わらないかな。 三輪:ツアー中に楽屋でくっちゃべってるだけでも、新しいヒントは出てくるしね。 草野:ずっと同じことしゃべってます、若いときから。 三輪:盛り上がるのは10代のときに聴いた音楽の話だよね。 草野:あと一時期は全員で同じゲームをやったり。 崎山:ドラマとか野球とか、最近は健康の話がホットです(笑)。 ■同じ熱量で進んでいく 田村:些細なことでも、何かを決めるときは必ず4人で相談してきたよね。それも長く続いてるポイントかもしれない。事務所と今後の話し合いをするときも、メンバー全員の同意を得たうえで進んでいく。 三輪:そこもすごいアナログな感じで。 草野:レコーディングでは、俺の単独の歌録りのときも、一応メンバーに同席してもらってるし。何か意見をもらうわけでもないんだけど。 三輪:いつも3人いるよね(笑)。気がついたことがあれば、ちょこちょこ言うみたいな。 草野:音楽に対する熱量が全員同じくらいなところもよかった気がする。「成り上がってやるぜ!」みたいなのもないし、逆に「趣味でいいっす」というわけでもない。全員「できればずっと音楽をやっていきたい」と自然体で思えてるところがいいよね。そう思うと、昔のロックスターって結構大変というか、ちょっと無理して気勢をあげてた人もいると思いますよ。幻想というか、偶像を壊しちゃいけないって。 田村:20代の頃は、「20~30年続いてるバンドなんてかっこわりいなぁ」って思ってたけどね。でも自分たちがそうなっちゃった(笑)。「長く続いてるバンドに音楽の初期衝動なんてあるわけないじゃん」って思ってたけど、今、実際に演奏できることに喜びを感じていて「そうは言ってもあるんじゃしょうがないよねぇ」って感じ。 草野:デヴィッド・ボウイだって衣装がいろんなところに引っかかって大変だったって聞いたよ? 頑張ってロックスターをやってたんだよ! 崎山:まあ、そこはうちは自然体な感じでね。 草野:年齢的にも無理するとね、すぐに活動休止になっちゃうんで(笑)。無理なく楽しくやっていきます。 (ライター・澤田憲) ※AERA 2023年5月29日号
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ryuchell「私の中では答えが出た」新しい家族のかたち後に見えた人生観とは
現在4歳になる男の子を育てるpeco(ぺこ)さんとryuchell(りゅうちぇる)さん。昨年8月、婚姻関係を解消しましたが、これまで通り3人で「新しい家族の形」を築いていくことを公表しました。本連載では、お二人の日々の育児や家庭について交互に語ってもらっています。今回はryuchellさんに、最近考えている人生観について語っていただきました。 * * * 最近すごく考えることがあります。 例えば、山登りをしていて、Aの道を進んで行って失敗したときに、「あぁ、自分は山登りに向いていないんだな」と思うのではなく、「Aがダメなら、BやCの道に行こう」と思うのが大事なんだなと思っています。 成功する人、夢を実現する人というのは、山の一本道を真っ直ぐグングンと登っているのではなくて、例えその道がダメだったとしても、視野を狭めずに、他の道を選べている人たちが多いと思うんです。 だけど、世の中には「1+1=2」というような確固たるセオリーのようなものがあって、「こうあるべき」とか、「こうしたらダメ」とか、セオリーにとらわれてしまうようなことって多いと思います。 自分にそのセオリーを当てはめてしまったりすると、それがうまくハマればいいですが、そうではないと苦しい思いをするんですよね。 私の場合、テレビに出させていただいていたときは、レギュラー番組を取っていかないといけないとか考えて、ガムシャラに働いているときがありました。2年前に自分の事務所を立ち上げたときも「しっかりしなきゃいけない」と思って自分ひとりで抱え込んでしまうようなこともありました。 だけど、今はレギュラー番組を取ろうという考えにはとらわれていません。そのおかげで家庭の時間もとりやすいですし、色々なお仕事もできています。先日終えることができた全国ツアーは比嘉企画(ryuchellさんの事務所の名前)として行いました。「これは自分でやったほうがいい」、「これは周りに頼っていい」と考えられるようになった結果です。 人生って、本当はもっと柔軟なプロセスがあっていいと思うんですよ。「1+1=2」というセオリーがあっても、同じ「2」という結果を出すには、「2×1=2」ですし、「3-1=2」という答えの出し方もあるじゃないですか。しなやかに考えることが大切なんだと思っています。 改めて思ったのは、自分の心の声を聞くことって大切だと思いました。自分の幸せがどこにあるのか、というと、やっぱり自分の心の中にあると思うんです。「自分らしく」というのが大事なんだと思います。 先日、無事に終えることができた全国ツアーでは、私の大好きな1980年代の世界観を全開で表現させていただきました。私自身、本当の自分を表現できたと思いますし、ファンの方々から「勇気をもらった」とか、「自分らしく輝いていて」と言っていただきました。 去年の8月に新しい家族のかたちになることを公表して、様々なお声をいただき、思い悩むこともありました。だけど、私の中では答えが出た感じで、望んでくれるファンの方々がいる限り、私は自分らしい生き方を体現し続けようと思っています。私はいま自分を表現できることで、とても幸せを感じています。 「自分らしく」というのは、私自身に対してだけではなく、周りの人に対しても自分らしくいてほしいなと思います。 人には色んな生き方があると思いますし、色んな家族のかたちも、愛し方があると思います。色んなものに何通りものかたちがあって、「これが幸せ」とか、「これが正解」というものはないんだと思います。 セオリーにとらわれると、自分も苦しいし、周りも苦しくなってしまうことがあると思います。幸せのかたちって本当にたくさんあると思います。人それぞれの多様な答えが尊重されるようになればいいなと思います。 (構成/AERA dot.編集部・吉崎洋夫)
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知能が高すぎる「ギフテッド」で精神を病んだ40歳女性が見つけた希望 自ら望んで「閉鎖病棟」へ入った理由
知能が高さゆえに周りから浮いてしまうことも多い「ギフテッド」。【前編】では、何事もできすぎるあまり小中学校ではいじめられ、勉強が嫌いになっていった立花奈央子さん(40)が社会人になるまでを紹介した。高卒で公務員になった立花さんは、いつしか精神を病み「うつ病」になっていた。そこで彼女が取った選択は、自らの意思で精神科病院の閉鎖病棟に入ることだった。<阿部朋美・伊藤和行著『ギフテッドの光と影 知能が高すぎて生きづらい人たち』(朝日新聞出版)より一部抜粋・再編集> 【前編】<「ギフテッド」ゆえに無視され、孤立した小中時代 40歳フォトグラファー女性が経験した“高い知能”こその苦難>より続く * * * ■自ら望んで閉鎖病棟に3カ月間 躁状態の時は、ストレス解消や現実逃避のため、デパートで好きな服を大量に買った。しかし、家に帰ると、いつのまにか買い物をした記憶がなくなっている。 一方、気持ちが沈んでいる時は、「死にたい。トラックが突っ込んできてほしい」と願う。精神科に行った。「うつ病」「解離性遁走」と診断された。突然どこか遠くへ行ってしまい、気がつくと自分がなぜそこにいるのかわからないことが続いた。しまいには知らない場所で警察に保護されていた。 「このままではだめになる。徹底的に治さなければ」と、精神科病院の閉鎖病棟に自ら望んで入った。約3カ月間すごし、外で生きられない患者たちの姿を目の当たりにした。外部から遮断され、あらゆる自分の時間が、他人によって管理されている中には、これ以上いたくないと思った。 今変わらなければこのまま人生が終わると思った。この閉鎖病棟での3カ月間で、自分の気持ちに向き合おうと決めた。 自分が本当に好きなことは何か、自分にとって大事な人は誰か、本来の自分とは何者か。突き詰めて考えた。 哲学や宇宙など、自分が興味のある話を、とことん人と語り合える時間が最も楽しい。そんな気の合う人たちとの時間を大切にしたい。自分の気持ちを抑えつけるのはやめようと決めた。 まず、区役所をやめた。自分を偽り、親が望む人間になろうという思いも捨て、退院後に身を寄せていた実家も出た。渋谷駅のハチ公前で、ストリートアートをしていた人たちに話しかけた。自分も一緒に描いたり、路上ミュージシャンと友達になったり。どんどん周りに自分の好きな人たちが増えていった。すると、ライターや撮影、ヘアメイクなどの仕事がフリーでできるようになっていった。 ■ようやく解けた「本当の私」 実家の父から久しぶりに電話がかかってきたのは、2019年。36歳になっていた。1歳下の弟が、知能検査を受け、発達障害だと診断されたとのことだった。立花さん自身も、自分が発達障害やADD(注意欠陥障害)かもしれないと思っていたため、一度検査を受けてみることにした。 「WAIS-IV」という知能検査を受けた。その結果、全般的なIQ(知能指数)が平均を大きく超える137だった。また、同検査の四つの指標のうち、ことばの理解力や推理力、思考力を示す「言語理解」はIQ130、目で見た情報から形を把握し推理する「知覚推理」はIQ128、情報を一時的に記憶する力の「ワーキングメモリー」がIQ131、作業の速度を測る「処理速度」がIQ130と、指標のすべてが平均を超える高い数値となっていた。 驚いた。臨床心理士からは「発達障害の可能性はほぼない。単に、知能が世の中の人より高いだけの健常者ですね」と言われた。立花さんはそれまで、自分の生きづらさは発達障害のせいだ、となんとなく思っていたが、それは間違っていたことがはっきりした。この時、初めて自分の特性が何なのかを知りたい、と思った。 結果を知人に言うと、「ギフテッドじゃん」と言われた。初めて聞く言葉だった。「ギフテッド」に関する専門書を片っ端から読んでみた。 特徴として書かれていた「情報を素早く理解」「いつも何かにのめり込み徹底的に調べる」という良さだけでなく、「注意散漫に見える」「同級生との関係づくりが下手」といった弱点までが、いちいち自分に当てはまった。「これ私のことだ」と思うと、胸がすっとした。 普通と違う私。他人に合わせ、ずっと生きづらさを抱えてきた私。子どものころから、本当の自分は何なのかと思ってきた疑問が、ようやく解けた気がした。「パズルのピースがはまるような感覚だった」という。 立花さんは言う。「私は、自分のことを『天才』とは思いません。ただIQが高いという個性があるのだということがわかりました。そのせいで、これまで息苦しさや孤独を抱えていたのだと理解できて本当に良かったです」。 そしてこう思った。きっと、同じような仲間がいるのではないか。自分の特性を理解してくれたり共感してくれたりする仲間ともっと話がしたい、と。もし、子どもの時から知っていたら? 「MENSA」という国際組織を知人が教えてくれた。IQの上位2%の人だけが入会でき、日本支部があるという。さっそく入会した。 MENSAは、1946年にイギリスで創設された国際組織だ。世界100カ国以上に13万人以上の会員がいるとされる。日本支部には約4700人の会員がおり、定期的に開かれるミーティングで話し合ったり、趣味や考えが合う会員同士がオフ会などで交流したりしているという。入会するには、独自の入会テストを受けて一定のスコアを出すか、知能検査の結果を示さなければならない。 立花さんは、MENSAで出会った人たちと、「性とは何か」「既成の価値観に縛られていないか」といった深い話をすることが楽しい。人のつながりが増え、好奇心があふれ、知的欲求が満たされるという。 ようやく好きなことを仕事にし、仲間にも巡り会えたという立花さん。ただそれはたくさんの回り道をして得たものだった。「もっと早くに知能検査を受けておけばよかったという後悔はないか」と聞くと、立花さんは「後悔はない」とはっきり言った。過去のつらい時期があったからこそ、充実した今があると思っているから、と。 ただ、どうしても考えてしまうことは、あるという。「もし、子どものころに自分の特性を知り、それを理解した教育や子育てをしてもらっていたら、あんなつらい経験をせず、もっと様々なことを学べたのではないか」と。いま後悔していないと言えるのは、浮きこぼれていてもはい上がることができたからではないか。自分と同じように生きづらさを抱えたまま悩んでいる人が、今もきっといるはずだ。 ■ゴールデン街の会員制バーで そんな思いを強くした立花さんが始めたのが、「サロン・ド・ギフテッド」だ。19年ごろから週1回、フォトグラファーの仕事のかたわら、東京・歌舞伎町の新宿ゴールデン街にあるバーで開いている。 22年12月中旬、私はそのバーを訪れた。毎週火曜日、オーナーから店を間借りした立花さんが、カウンターに立っている。 重い木製のドアを開けると、立花さんの「いらっしゃーい」という明るい声が聞こえてきた。カウンター席が6席だけのこぢんまりとした店。すでに5人の先客が、立花さんが出すビールやハイボールを飲みながら、会話を楽しんでいた。 サロンは、IQ130以上の条件がある会員制。特別に参加させてもらった私の隣に座っていたのは、この日初めて来たという東京大学に通う女性だった。理路整然とした話しっぷり。ただ子どものころは学校になじめず「つらかった」と吐露した。「だって、先生は私のこと全然理解してくれなかったから」と女性。今はギフテッドの子どもやその保護者を支援する団体に入って活動をしているという。 IQが150ありながら、会社の上司とコミュニケーションがうまくとれず退職したという男性もいた。話すスピードが速すぎて変人と思われないかという不安があり、自分のことを知らない人とは話をするのが怖くなったという。他にも、地下アイドルを「推す」中年男性や、マクドナルドで働く母親など、個性豊かな人たちが胸の内を語り合っていた。 立花さん自身にとっても、他人は他人、自分は自分と実感できる場所だという。 ■「ほっといてほしい」 さて、立花さんのトークを収録した朝日新聞ポッドキャストは、22年12月上旬に配信された。「同級生と話が合わない」「なじめたことは一度もない」「授業はクソつまらない」。そんな立花さんの率直な語りぶりが、多くのリスナーの好評を得た。 収録の終盤、司会者が立花さんに「自分の経験を踏まえ、どんな世の中になればいいと思うか」と聞いた。 「ほっといてほしいですね」 即答だった。立花さんが生きやすさを感じたタイミングは、高校生になって行動範囲が広がったり、社会人になって使えるお金が増えたりするなど、自分で選択できることが増えた時だったという。 「子どものころは大人の見守りは当然必要だと思いますけど、普通と違うからと枠にはめようとしたり、周りの子どもと比較したりするのは、やめてほしいですね。ましてや、ギフテッドだから才能をのばさないといけないとか、才能を見過ごしてはもったいない、といった考えは大きなお世話です。その人が、その人らしく生きられるような社会になることが大事なのだと思います」 立花さんのそんな言葉が、多くの人に届くといいと思った。 (年齢は2023年3月時点のものです)
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さらば青春の光「独立10年」で「年商3.7億円」 大躍進の裏にあった「社長・森田」の“先行投資”
お笑いコンビ「さらば青春の光」の勢いが止まらない。2013年に松竹芸能を退所して今年でちょうど10年となるが、本人たちが過去に出演したバラエティー番組では、その年商を「3億7000万円」と明かすほど大成功を収めている。週刊誌の芸能担当記者はこう語る。 「コンビの“頭脳”は、誰が見てもわかるように、事務所の社長でありネタ担当でもある森田哲矢さん。個人でもテレビのほかネット配信を含めると、現在17本のレギュラーを抱える超売れっ子です。相方の東ブクロさんとマネジャーとでギャラを3等分にするというルールは事務所設立当初に決めたそうですが、自分だけ膨大なレギュラー番組をこなし、単独ライブのネタを書き続けてもギャラにはさほど不満は感じてないそうです。あるインタビューでは『自分は億を稼ぐためにこの業界に入ったので、現時点での3等分は先行投資』と答えています」 テレビ出演は「コンビの知名度を上げるため」と割り切り、基本的にはすべて“言い値”で受けているという。これもまた、森田の戦略だ。 「個人事務所なので足元を見られ安いギャラを提案されたことも多いそうですが、先行投資と考えてほとんどの仕事を受けていたそうです。なので、予算のない深夜番組やネット配信からのオファーも非常に多い。その一方で、地肩の強い芸人なので、ゴールデン帯での平場でも強い。一時はスキャンダルのイメージからテレビでは扱いづらかった東ブクロさんもテレビ露出が増えていますし、コンビとしての出演はまだまだ伸びそうです」(前出の記者) 大手から独立し個人事務所として成功したケースはかつてのオフィス北野や、タイタンなどがあるが、個人事務所「ザ・森東」もそれらに続く存在になるのかもしれない。 松竹芸能を結成5年で辞め、今も続く「脱竹(=脱松竹芸能)」の急先鋒(せんぽう)としても知られる2人。仕事が劇的に増えたのは、彼らが主戦場として戦い続けた「キングオブコント」からの卒業からだった。お笑い界に詳しい放送作家はこう明かす。 「『キングオブコント』で優勝するためにネタを作りブラッシュアップしてきたさらば青春の光ですが、2018年に優勝まであと一歩のところで卒業を宣言。この潔さと彼らのネタに対する渇望がテレビ制作者を動かし、結果的にたくさんのオファーが舞い込んできたと語っています。彼らも賞レースを中心にしていた生活から一転、さまざまなメディアに露出するようになり、それが今のブレークにつながった。とはいえコントをやめたわけではなく、『キングオブコント』を卒業してからも、ほぼ毎年単独ライブを開催。最初は動員600人ほどの小さなライブでしたが、現在行われている単独ライブは全国6都市を回る過去最大規模で、動員は合計2万人超。チケットは早々と完売し、配信チケットも爆売れ中と、もう笑いが止まらない状況でしょう」 ■わずか2ページの本も完売 単独ライブとともに彼らの現在の主戦場といわれているのがYouTubeだ。現在、メインチャンネルの登録者数は93万人超で、合計6チャンネルを運営。事務所の売り上げの35%がYouTubeの収益だという。 「メインだけではなく、東ブクロさん単独のゴルフチャンネルなどのサブや、中華圏向けのチャンネルまでもやるほどの徹底ぶりで、ほかの芸人に比べ本気度が違います。彼らがYouTubeを始めたのも、『キングオブコント』卒業とほぼ同時期。『相方の愛車を金ピカに塗ってみた』『東ブクロの私生活をGPSでガチ追跡』など、地上波では実現不可能な企画を量産。際どさで攻めるそのスタイルと高い企画力は、熱狂的なファンから高い支持を得ています。先日も『東ブクロが高3のときに書いた作文を本人に内緒で出版』というドッキリ企画で、幻冬舎が制作した2ページだけのハードカバーを実際に販売し、即売会では1000部が完売。ファンを巻き込みつつネットで話題をつくることに加え、ファンとの距離感が近いのも彼らの人気の秘訣(ひけつ)かもしれません」(前出の放送作家) 元「週刊SPA!」芸能デスクの田辺健二氏は、さらば青春の光の大躍進を次のように分析する。 「コロナ禍を経て人々の働き方が大きく変わり、どの業界でも『個』の力がより求められるようになりました。オフィスにいなくてもリモートで稼げるとわかったサラリーマンが会社への帰属意識を持たなくなったように、企画力さえあれば大手芸能事務所に属さなくても勝負ができると証明したのが、さらば青春の光の2人なのです。劇場やテレビから配信ライブやYouTubeにシフトして、高い企画力によって熱狂的な固定ファンを生み出すことに成功しました。一方で、コントに対する思いも捨ててはいない。先日、単独ライブを見ましたが、露悪的で緻密なコントを披露し、大爆笑を生んでいました。いま、あらゆるメディアで大成功を収めている2人ですが、決してそこにあぐらをかくのではなく、『俺らの主戦場はコントのステージ』だという覚悟を感じさせるものでした。これからも持ち前の企画力とコント力を武器に、海千山千の猛者たちが乱立するお笑い戦国時代を悠々自適にサバイブしていってほしいですね」 テレビやYouTubeで荒稼ぎしても、主戦場はコントのステージ。そこだけは絶対に手を抜かない。その覚悟が彼らの大躍進を支えているようだ。 (藤原三星)
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「市川猿之助」一家に何があったのか 近隣住民と歌舞伎関係者が見ていた「家族の内情」
18日午後、衝撃的なニュースが飛び込んできた。歌舞伎俳優の市川猿之助さん(47)、両親の市川段四郎さんと母親が自宅で倒れているところを発見され、その後、両親は死亡が確認された。猿之助さんは意識がある状態で入院しているという。報道によると、猿之助さんが倒れていた場所のそばで遺書のようなもの見つかったという。一家3人に一体何があったのか。近隣住民や関係者を取材した。 * * * 現場となった自宅は東京・目黒駅から徒歩20分ほどの閑静な住宅街にある。コンクリート造りのモダンな外観だ。猿之助さんの自宅に通じる道には、黄色いテープで警察の規制線が張られ、数人の警察官が警備にあたるものものしい雰囲気に包まれていた。 報道によると、警察官が駆け付けたときには、猿之助さんは半地下にあるクロゼットの中で意識がもうろうとした状態で見つかったという。一方、両親は2階のリビングで倒れており、母親はその場で死亡が確認された。段四郎さんも搬送先の病院で死亡した。いずれも目立った外傷はなかったという。 遺書のようなものがあったなど現場の状況から、猿之助さんが自殺を図ったとみられている。 近所に住む85歳の女性は、18日午前中の様子をこう話す。 「今朝、何かすごくにぎやかだなと思ったのよ。女の人の声とかがして、ガチャガチャ物音が聞こえた。何だろうなとは思っていたら、テレビで事件を知り、まさかと驚きました」 猿之助さんの自宅からは日頃から、歌舞伎の稽古をする音が聞こえてきたという。 「よく、歌舞伎のお稽古の歌声が聞こえてきたり、踊りのドンドンという音が響いていましたね。歌舞伎は嫌いじゃないから、うるさいとは感じませんでした」 かつて猿之助さん一家がお得意さんだったという米店の店主はこう話す。 「10年くらい前までは、うちのお米やお正月のお餅の配達をしていました。亡くなったお母さんはボーイッシュな髪形のおキレイな方でしたよ。ハキハキしたしゃべり方で、あのお母さんが自殺をするとはとても思えない。猿之助さんは子どもの頃からバスで名門の男子校に通う姿をよく見かけました。大人になってからは、よく1人で散歩するのを見ていました」 現在の猿之助さんは4代目となるが、亡くなった父・市川段四郎さんの兄が「3代目」の猿之助にあたる。歌舞伎に詳しい評論家はこう語る。 「3代目猿之助は猛優(もうゆう)と呼ばれ、歌舞伎をぶっ壊す革命児であり、パイオニアでした。『スーパー歌舞伎』をつくったのも3代目です。現在の4代目は、それにポップなセンスを味付けした。3代目に比べると猛優ではないが、器用でアグレッシブ。歌舞伎界における自分の位置というのを常に考えている人だという印象です」 亡くなった市川段四郎さんについてはこう話す。 「兄の3代目が太陽だとすれば、亡くなった段四郎さんは月で、対照的でした。段四郎さんは陰のある渋くて風格のある俳優でした。それが10年くらい前から、歌舞伎の舞台に全然出なくなった。松竹関係者に聞くと、体調不良で出られなくなったと。4代目は、父親の介護もしていたのではないかと思います」 くしくも、19日は猿之助さんのプライベートも含めたスキャンダルを報じた女性週刊誌の発売日でもあった。出版関係者は「猿之助さんがこの報道を苦にした可能性はある」と話す。 「女性週刊誌の記者が猿之助さんに直撃取材したのは、月曜日(15日)の夜。週刊誌は発売日の1日前に『早刷り』が関係各所に出回るので、猿之助さんは水曜日(17日)に記事を目にした可能性はあると思います。記事の内容は、猿之助さんのプライベートまで深く知ると思われる複数の人物が彼のパワハラ、セクハラ疑惑を語っているものだったので、猿之助さんがそれを目にしたら大きなショックを受けたことは想像にかたくありません」 実際にそのような行為があったのかは現時点ではわからないが、「客を呼べる役者」として猿之助さんが一門の中で強い力を持っていたことは事実だろう。 「今、客が呼べる役者としては片岡仁左衛門、坂東玉三郎、元海老蔵の市川團十郎、そして4代目猿之助の4人です。仕事はどんどん来るし、4代目自身、芸の上で苦難があっても、それを積極的に突破するパーソナリティーの持ち主。芸で悩んでいたとは考えにくく、原因があるとしたら私生活ではないか」(前出の評論家) 猿之助さんの一日も早い回復と、本人の口からの説明が待たれる。 (AERA dot.編集部・上田耕司)
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松下幸之助が、佐藤栄作が、岡本太郎がジャンプ! 週刊朝日の無茶振り企画で著名人が飛んだ
1963年、週刊朝日はある“学問”の開拓に着手した。その学問はジャンプする姿でその人の性格を解明する「ジャンポロジー」。その実験、いや楽しい企画に当時を代表する著名人が協力してくれていたのだ。 「いろんな人がジャンプしたらおもしろいんじゃないかという話が編集部から、出版写真部に相談があって始まりました」 そう話し始めたのは、「ジャンプ’63」の企画で撮影を担当した一人、写真家の稲村不二雄さんである。1960年にアメリカで『ジャンプ・ブック』という写真集が発行され、一部はグラフ誌「LIFE」にも掲載され注目を集めていた。 なぜジャンプの写真を掲載したのか。撮影したフィリップ・ハルスマンによると、ジャンプする姿は、その人の内なる特性が表出され性格がわかるに違いない、まるで心理学のテストのようだという。これを「ジャンポロジー」といい、学問として開拓しようとした試みだった。 週刊朝日では東京オリンピックの前年の63年、うさぎ年にスタートした。 当時の記事には「現代日本の各界各層にわたって、第一線で活躍をつづける老若男女の思いきった跳躍の姿に、みなさまは何を、どうお感じになりましたでしょうか」とある。各界の著名人がジャンプする写真67枚が掲載され、跳んだ人の数は109人にもなる。 それにしても、ジャンプする写真を撮るという取材をよく引き受けてくれたものだ。 「編集部が了解を取っているので、あとは現場に行って撮影するだけ。ただ一人は別でした」 その人は奈良女子大学教授の岡潔氏だ。稲村さんが奈良県に住む岡氏のもとに撮影に行くと、岡氏は「くだらない企画だ、そもそもジャンポロジーとかいうのがつまらんことだ」など、1時間以上にわたって説教をした。稲村さんがもうダメだと思っていたら、 「せっかく東京から来たんだから、1回だけ跳ぼうとおっしゃったんです。もう日も暮れ始めていました」 すると、そこに白い犬がどこからともなくやってきて、岡氏を見ながら、タイミングに合わせて1回ピョンと跳んだ。「それでこの写真が撮れました。この犬は岡さんの飼い犬ではなく、近所の家の犬です。奇跡の一枚ですね」と声をはずませた。 人の跳ぶ姿には個性が出ている こんなこともあった。松下幸之助氏の撮影に行くと、そこに石原慎太郎氏がいた。石原氏は国政への参加を目論んで、有力者へ協力をお願いに来ていたのだ。 「幸之助さんが、石原さんに『君も跳んだらどうだ』と促したのですが、『いやー、僕はいいですよ』と拒否されました」と少し残念そうに稲村さんは話した。しかし、石原氏はその5年後、国政へ“ジャンプ”した。 「これらの撮影は、スピードグラフィックス(スピグラ)と大型のカメラが使用され、被写体の方の疲れも考慮して3回のジャンプをお願いしていました。スピグラは一度シャッターを切ると、フィルムを入れ替えたりシャッターをリセットしたり、かなり手間がかかります。現在のデジタルカメラのようにすぐに結果がわかるカメラではないので、社に帰って現像が仕上がるまで胃が痛くなる撮影でした」 こんな苦労もあった。ジャンプをすると被写体はどうしても上を向いてしまう。さらに高さを強調するため下からカメラを構えるのでより顔が見えなくなってしまう。写真のあがりを見てこうしたことに気が付きはじめたそうだ。 上を見る人が多い中でもしっかりカメラを見て跳んでいる人もいる。その一人が小津安二郎氏だ。映画監督ということもあり、跳ぶときに、どう跳べばいいか、どう映るかをしっかりわかっていたのかもしない。 稲村さんが撮影した中でも一番思い出深いのがクレージーキャッツだ。クレージーキャッツのメンバーは7人いるので広い場所が必要になる。さらにみんながジャンプのタイミングを合わせないといけない。 「このときは当時新宿にあったフジテレビのスタジオを借りて撮影しました。跳ぶ前にハナ肇さんがメンバーに普通に跳んだんじゃつまんないから、それぞれポーズをつけようと話してくれました。そしてせーのってハナさんが掛け声をかけて決まりましたね」 写真を見ると7人それぞれの個性が出てクレージーキャッツらしさが出ている。やはりジャンプする姿には性格が出るようだ。 お堅い印象のある評論家の大宅壮一氏もしっかりジャンプしている。「大宅さんが書庫で跳びたいと狭い場所を指定してきました。佐藤栄作さんも撮影しましたが、とても気さくな人でしたね」と稲村さん。 当時、週刊朝日はかなりの発行部数があり、ステータスも高かったそうだ。週刊誌、とくに「『週刊朝日』に載りたいという著名人も多くいました」と稲村さんは懐かしんだ。 「週刊朝日は休刊しますが、楽しい記事の記憶は読者の心にずっと残るはずです」 本誌・鮎川哲也 ※当時の誌面に掲載された他の写真は朝日新聞デジタルでご覧いただけます。https://www.asahi.com/articles/ASR5S4KCJR5SUFJA001.html?iref=0530
週刊朝日
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「同じ世界に生きているけど全然違う世界を見ている」 IQ130「ギフテッド」の息子に母が言った「がんばらなくていいんだよ」の言葉
視力と聴力が突出して高い特徴を持つユウ君(10)。【前編】では、それが感覚過敏で、視覚が狭すぎて文字全体が見えない、聴力が高すぎて音が刺さるように痛いという生活に苦しむユウ君の姿を紹介した。【後編】では、知能テストの結果で息子が「ギフテッド」だと改めて認識した母親が、彼の特別な能力をどう生かし、社会生活とどう折り合いをつけていったのかを追った。<阿部朋美・伊藤和行著『ギフテッドの光と影 知能が高すぎて生きづらい人たち』(朝日新聞出版)より一部抜粋・再編集> 【前編】<音が痛い、文字が見えない「ギフテッド」…感覚過敏で「もうがんばりたくない」と話す10歳少年の苦しみ>より続く * * * ■凸凹のIQグラフ 最初、母は自閉症を疑った。専門のクリニックに行った。だが医師は「相手の気持ちをくみコミュニケーションをとれる一方、感覚過敏で人と接するのが苦手というのは、当てはまる例がない。特殊ですね」と困惑した表情で言った。眼科や耳鼻科にも通ったが「異常はない」と言われたという。 とにかく情報がほしい。何が原因で、親としてどうサポートしたらいいのか知りたい。病院を回った。 小学校の養護教諭に勧められ、学校の近くにある小児科の心理相談に行ってみた。そこで発達専門の心理士に診てもらった。心理士はまず、ユウ君と雑談した。そしてこう言った。 「落ち着きぶりや受け答えが、小学2年生ではないです。学校では疲れてしまうでしょう」 そして、発達に関する検査を受けたほうがいいと言い、「WISC-IV」という知能検査を受けることを勧めた。 知能検査と聞き、母は少しためらった。検査は無料だというが、所要時間は1時間から1時間半ほどかかり、検査する人とユウ君が2人きりになることを伝えられたためだ。内容は「図を見たり言葉を覚えたり、簡単なもの」と伝えられていたが、知らない人と話すことが苦手なユウ君は、予想通り嫌がった。 「わらにもすがる思いでした」と母。ユウ君を「どんなふうに支援したらいいかを見つけるためのものだよ」と説得した。1カ月後に検査を受けることになった。 検査の日は大雨だった。雨が地面にはねる刺激だけで「痛い」というユウ君。なんとか病院に着き、検査室に入った。 検査室から出てきたユウ君は、黙り、つらそうだった。母に泣きつき、帰宅しても食事せず、何もやる気が起きずにいる状態が1週間も続いたという。「まだこの時は息子の目の異常がよくわからず、検査がどんなに大変だったか私も想像できませんでした。今ではかわいそうなことをしてしまったとも思います」と振り返る。それでも、検査の結果により、母が知りたかったユウ君のつらさの原因がわかっていくため、母は「本当に大事な検査でした」と話す。 ユウ君の検査の数値は、2人の意向で具体的には示さないが、母によると、言語理解はIQ130を上回った。一方、知覚推理が平均を下回っていた。その差は40以上あった。処理速度とワーキングメモリーは、平均より少し上だった。最高値と最低値の差が40以上あるのは珍しいという。四つの指標を折れ線グラフにして線で結ぶと、激しい凸凹になっていることがわかる。 これは何を意味するのだろうか。結果をもとに心理士から最初に言われたのは、「言語理解が高すぎる」だった。心理士によれば、差が15以上あれば、集団生活で生きづらさを感じることがある、と一般に言われているという。「もし(最も高い)言語理解が平均に近かったら、問題なく学校に通えていたかもしれないですね」と心理士は話し、こう続けたという。 「特に言語理解が高い子は、完璧を求める傾向があり、不登校になりがちです」 ■数値化された「生きづらさ」の一因 母は、まさにユウ君の一面を言い当てていると感じた。まさかこれほど高いIQが出るとは思っていなかったが、それ以上に、IQが高いことが生きづらさを引き起こす原因になっているなんて思いもよらなかった。母は「発達障害でしょうか」と聞いた。心理士も悩みながら「そう診断はできません。『2E』ギフテッドに該当すると思います」と言った。 ギフテッド? うちの子が? 母はふたたび驚いた。だが、そんな思いはすぐに打ち消した。ユウ君は、難しい計算を解いたり、複雑な漢字を書けたりするわけではない。成績も普通だ。独特な才能といえば、野鳥図鑑に載る670種を隅から隅まで記憶していたり、説明書を見ずにレゴブロックで小惑星探査機「はやぶさ」の形を組み立てたりといったことがあるぐらいだ。ペンを持たせると鳥の絵をずっと描き続けるということもあるが、これがギフテッドというには少し大げさすぎると思った。 心理士には、ユウ君にどんな障害があるのかは詳しくはわからないと言われた。その上で、フリースクールや2E教育に力を入れる支援団体などを紹介された。ただ「無理に学校に行かせないでください」とも言われた。いつかは学校に戻ってくれるだろうと考えていた母も、このことを境に考え方を大きく変えた。検査によって初めてユウ君の生きづらさの一因が「数値」としてわかり、納得できたからだ。 「検査がなければ息子のことを理解できないままだったと思います。子どもの言うことを信じて寄り添うことが本当に大事なことだとわかりました。そのことは今でも自分に言い聞かせています」 ■ゆっくり歩んでいくしかない もう一つ、ユウ君には不思議な感覚がある。母がそれを知ったのは、それから半年ほどたったころだ。 近くの物が見えていないのに、どのようにぶつからずに歩いたり野球のボールをつかんだりしていたのかと聞いた。するとユウ君は「波が伝わる」と言った。「ボールから波が伝わってくるでしょ。それで何とか」と。 「自転車に乗るのは?」と聞くと、「自分から出る波が、周りの物から出る波をキャッチし、世界が一瞬だけ透明のようになる」。それによって、あいまいだが周りに何があるかわかり、大まかな空間把握をしているのだという。 ただ、この波も強くなると「たたかれたり刺されたりするような痛み」を感じるという。 しかし、波と言われても、母にはもちろん理解できなかった。「みんな波の感覚はなくて、痛みも感じていないよ」と伝えると、ユウ君は落ち込み、泣いた。ユウ君は、みんながそうした感覚を持ち、痛みを我慢するのが当たり前だと考えていたのだという。母は落ち込んだ。学校でも、電車内でも、自宅でも、そんなつらい状況をずっと我慢していたなんて。気づくことができず、母は申し訳ない気持ちでいっぱいになった。 「『がんばらなくていいんだよ』と伝えることぐらいしかできませんでした」 ある日、ユウ君は自宅にあった渦巻き形のランチョンマットを抱きしめていた。「ぐるぐるがいい」と言った。また、自宅にある天然の水晶を持ってみると、楽な感覚になるとも母に言った。水晶の結晶構造はらせん状であることが知られている。お守りにして持ち歩いているという。 母は言う。 「息子は同じ世界に生きているけど全然違う世界を見ています。とにかく受け入れて、ゆっくりと歩んでいくしかないと思っています」 そんなユウ君が脚光を浴びる出来事が、22年3月にあった。 ユウ君が描いた鳥の絵が、日本の企業などが企画したデジタルアートのコンペティションで、金賞を受賞したのだ。世界中から1248作品の応募があったなかで、唯一の最高賞だ。ある審査員からは「ずっと見つめていたくなる不思議なパワーを持つ」と評された。最高額の賞金1万ドルが贈られ、オークションにも出品され落札されたという。 タイトルは、「カワウ型飛行都市」。 細かなタッチの線や点で、水鳥のカワウと一体化した城が飛び立つ姿を黒のボールペンで描いている。母によると、A4のコピー用紙に書いたその絵を、スキャンしてデジタル化し応募しただけだという。ユウ君は、受賞時のコメントでこう自分を紹介した。 <ぼくの目は、みんなと同じようには見えていなくて、とても狭い範囲しかわかりません。自分の絵も、全部は見えなくて、一部分だけ見えます> <小さいものは、とてもよく見えるので、ずっと遠くの方を飛んでいる鳥を見るのが好きです> 賞金は、ユウ君の意向で、国外の難民を支援する団体や、障害やケアが必要な子どもの支援団体、ネパールで視覚障害者を支援している団体などに寄付しているという。「息子のカメラを買うお金ぐらいは残してもいいと思っていて、話し合い中です」と母は笑いながら教えてくれた。 公園での取材から1カ月ほどたった22年11月。ユウ君は、視覚発達の専門医による視野の検査を受けた。視野が5度しかないことがわかったという。医師は、一般的に人の視野は180~200度あると言い、なぜそんな狭い視野で歩いたり物をつかんだりできているのか不思議がったという。 ユウ君と初めて会った時、母に手伝ってもらいながら話してくれた言葉を私は思い出す。 「これまで、一生懸命みんなに合わせちゃっていて、なぜ自分がそんなに疲れてしまうのか、わからずいろいろつらかったです。僕の努力と我慢が足りないと思っていました。でも今は、鳥を観察したり、絵や漫画を描いたりして、心の中を表現したりできることが楽しいです」 23年1月、ユウ君は特別支援学校に転校し、新たなスタートを切っている。 (年齢は2023年3月時点のものです)
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畠山澄子さんに見た一筋の光明 古賀茂明
広島G7サミットが終わった。ゼレンスキー大統領の参加で世界の注目度も上がり、岸田文雄総理としては、「やった!」というところだろう。 しかし、サミットの成果は岸田氏のおかげだという人はいないだろう。 例えば、ウクライナ支援とロシアへの対抗姿勢で結束を示したと言うが、結束を示さない選択肢はG7のどの国にもなかった。ロシアのおかげで久々に結束を強めるN A T O(北大西洋条約機構)同様、G7もロシアとゼレンスキー氏のおかげでまとまることができた。岸田氏は全く無関係だ。 一方、岸田日本が足を引っ張ったのが気候温暖化対策だ。石炭火力発電の廃止時期明示に日本は徹底的に反対して潰した。電気自動車などの販売の数値目標も葬り去った。普通なら、日本が批判の矢面に立ちそうな場面だったが、ロシアと中国の手前、G7の結束の綻びを見せるわけにはいかないという事情を利用し、我儘を押し通した。恥も外聞もない振る舞いだが、ウクライナ問題にかき消されて大きな批判を浴びることはなかった。 さらに、このサミット最大の汚点となったのが核軍縮に関するいわゆる「広島ビジョン」だ。原爆資料館を首脳が訪れたことで、大きな進展があったと錯覚した人もいるが、実はこれは大きな後退だと言っても良い。皆さんには、このビジョンを日本語仮訳でも良いからぜひ読んでいただきたい。長々と書いてあるが、核軍縮を進める話に新しい話は全くなく、その大半は、自分たちの核保有の正当化と礼賛、そして、ロシア・中国・北朝鮮・イランの核保有及び核開発の批判である。 この文書から透けて見えるG7の本音を思い切りわかりやすく要約すれば、「ロシアや中国や北朝鮮の核兵器は危ない悪い核兵器だが、西側が持つ核兵器は安全を守るための良い核兵器である。核兵器のない世界という目標を達成するには、西側諸国の核兵器による抑止力を活用して西側諸国の安全をいささかも損なうことなく、慎重な上にも慎重を期して行わなければならない」というものだ。私にはそうとしか読めなかった。 もちろん、核兵器禁止条約への言及はなく、核兵器が絶対悪だという認識のかけらもない。わざわざ広島に集い資料館まで見て発表した宣言がこの中身では、およそ核軍縮なんかできっこないと宣言しているのと同じだ。これを受けて、被爆者たちが一様に憤りの声をあげたのは当然だろう。 ところが、マスコミの報道は非常に生ぬるく、徹底批判どころか、一歩前進などと評価するところまである始末。これを見た私には絶望しか感じられなかった。 ただ、一つだけ良いことがあった。5月21日のT B S「サンデーモーニング」で、N G Oピースボートの共同代表である畠山澄子氏(昨年夏頃から私も注目していたホープだ)が涙ながらに被爆者たちの憤りの声と、その被爆者たちがそれでも諦めないと言っていることを紹介し、「だから私も諦めない」と述べた場面を目にできたことだ。 大手メディアと違い、畠山氏のように権力を恐れず、勇気を持って声をあげる若者たちにこそ、未来を託したい。週刊朝日がなくなり暗い気持ちになりそうな読者に感謝の印として、「一筋の光明」をお伝えして私の最後のコラムとしたい。 ※週刊朝日 2023年6月9日号
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初夏・梅雨の熱中症 体が追いつかず“ベタベタ”汗に要注意
初夏だというのに、もうこんなに……と思わせるような暑い日が多い日本列島。真夏にかかるものと思われがちな熱中症も、この時期から警戒する必要があるという。熱中症発症のメカニズムから対策まで、いまから学んで備えておきたい。 * * * 初夏や梅雨から熱中症にかかる可能性について、池袋大谷クリニックの大谷義夫院長はこう語る。 「熱中症は7~8月のイメージが強いですが、毎年この時期に気温が上がり、熱中症で緊急搬送されるケースが報告され始めます。梅雨も気温が上昇するので、熱中症対策はしたほうがいいです」 気温が真夏ほど高くない初夏に熱中症になるのはなぜなのだろうか。 「人間には夏の暑さに耐えるための暑熱順化という体温調整の仕組みがあります。この暑熱順化は短期・長期の二つがあります。短期的な暑熱順化は、四季がある日本では夏に備えてその少し前から始まります。アジアやアフリカなどの常に暑い地域の人たちは長期的に暑熱順化します」(大谷院長) 長期的な暑熱順化は、皮膚の血流量を増やして、皮膚からの熱放射で体温調整を行う。一方、日本人などに見られる短期的な暑熱順化は、汗をかいて気化熱が奪われることで体温を調整する。 「ある実験では、同じ暑い温度の部屋にタイ人と日本人が入ると、日本人のほうが汗をかくと報告されています。5月でも熱中症が報告されるのは、急に気温が上がり、暑い夏に向けて汗をかく短期的な暑熱順化の体作りができていないから。梅雨明けの7月に熱中症が多数報告されるのは、梅雨の時期を経てさらに暑くなって暑熱順化が追いつかず、ベタベタした汗をかくからです」(同) 一体なぜ“ベタベタした汗”がいけないのだろうか? 「5月や梅雨には体はまだうまく汗をかけず、汗は塩分やミネラルが多く含まれてベタベタしている。8月になってうまく汗をかけるようになると、塩分などが外に漏れ出ないよう再吸収できるようになり、サラサラした汗になります。だから8月はすごく暑くても、塩分調節はゴールデンウィーク~梅雨明けに比べてそこまで必要ないのです」(同) 監察医として熱中症で亡くなった遺体にも接する機会がある、千葉科学大学危機管理学部保健医療学科の黒木尚長教授は「熱中症は『自分は体温が低いから大丈夫』『症状は出ない』と思い込んでいる人に起こりがち。体温が39度を超える前に、いち早く気がつかないといけません」と語る。 「特に、屋内熱中症に注意が必要です。電気代節約などの理由でクーラーをつけない人が多いですが、クーラーをつけないと、体温以上に室温が上がるケースはよくある。そして同じ気温なら、湿度が高いときのほうが熱中症になりやすいです。湿度が高いと汗が出にくく、体内の熱が高まって熱中症になる。うつ熱という状態です」(黒木教授) 黒木教授は「屋内熱中症は特に高齢者に多い」と、注意を促す。 「たとえばうちの高齢の母親に『なぜクーラーをつけないのか』と聞くと、『暑いと感じないから』と言っていました。高齢者が風呂で亡くなるのと似た理由です。熱さを感じないから、熱い風呂にも長く浸かれる。本来は汗だくだくになり、交感神経の働きで動悸が高まったり、熱中症の症状として頭痛や目まいも起きたりするのですが、高齢者はそういう症状が出にくい。脳の温度が40度以上になって、気づいたときには手遅れになる可能性もあります」(同) 部屋などの温度調節以外に、有効な熱中症対策はあるのか。 学校の教育現場や中小企業などで、水分・電解質補給の重要性に関する啓発活動を展開し、熱中症の認知と理解の向上に取り組む大塚製薬は、体の内側から冷やして熱から守る「アイススラリー」による新たな熱中症対策を提案している。大塚製薬の担当者はこう語る。 「スポーツの世界では、運動前に一時的に体温を下げる『プレクーリング』といった概念が提唱されており、体の内側から冷却する方法としてアイススラリーを飲用する対策方法が用いられています。アイススラリーは、細かい氷の粒子が液体に分散した流動性のある氷で、通常の氷に比べ結晶が小さく冷却効果が高いという形状によって、熱中症の根本的な要因である深部体温に直接作用します。発汗によって体温を適切にコントロールすることができない状況において、新しい熱中症対策として活用が期待されています」 大谷院長は、熱中症対策では水分補給が最も大切だと語る。 「5~6月にやっておきたい熱中症対策は、暑熱順化しやすい体作り。つまり適度に汗をかくことです。激しい運動は必要ありません。ジョギングやウォーキングなど有酸素運動で軽く汗をかくのがおすすめです。時速6キロ未満の早歩き程度のウォーキングを30~50分行えば十分です」 他に、食生活を通したこんな熱中症対策があるという。 「スイカを筆頭に、フルーツに塩を振って食べるのは理にかなっている。フルーツはほとんど水分で、カリウム、カルシウム、マグネシウムが少量含まれていますが、唯一足りないミネラルがナトリウム。ここに塩をかけると、かなり汗の成分に近いものが摂取できます。ある建築会社では、暑い工事現場での熱中症対策としてバナナに塩をかけるそうです。私も試してみましたが意外といけます。パイナップルに塩も合う。ただし、フルーツの食べすぎは糖分の過剰摂取につながるのでほどほどが肝心です」(大谷院長) 体温を適切にチェックするのも有効だ。黒木教授はこう語る。 「体に不調を感じたら、自分の体温を測定するクセをつけておくと良いです。道具は市販されている普通の体温計で十分。ちゃんとタオルで汗を拭いた脇に挟めば、正確な体温を計測できます。熱中症寸前の人は、測ると39度になっている可能性が高い。タオル、ハンカチと体温計だけいつも携行しておいて、異変を感じたら測ってみるだけでも全然違います。普段から自分の体温に意識をもつこと自体が、熱中症予防につながるのです」 くれぐれも熱中症を侮るなかれ。(桜井恒二)※週刊朝日 2023年6月2日号
週刊朝日
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音が痛い、文字が見えない「ギフテッド」…感覚過敏で「もうがんばりたくない」と話す10歳少年の苦しみ
ギフテッド、天から授けられた才能は「知能」に限られたものではない。都内在住のユウ君(10)は小学4年生。聴力と視力が突出して高い。幼少のころから音に敏感で、掃除機やクラクションの音に敏感ですぐに泣いてしまう。音が痛くてつらいというのだ。視力の面でも望遠鏡を使わなければ見えないような遠くのものはよく見えるが、近くのものがよくわからないという。「もうがんばりたくない」という息子を前に、母親は自分の息子が何か普通の子とは違うことに気づく。<阿部朋美・伊藤和行著『ギフテッドの光と影 知能が高すぎて生きづらい人たち』(朝日新聞出版)より一部抜粋・再編集> * * * ■驚異の視力 2022年10月、木の葉が色づき始めた東京都内の公園で、私はある親子と待ち合わせをしていた。出迎えてくれた母親と短いあいさつを交わし、公園の舗道を歩いていく。向こうから青色の自転車をこぐ少年がやってきた。 少年は、都内に住む小学4年のユウ君(10)。毎日、母(42)と2人でこの公園や近くの河川敷で、野鳥観察をしている。朝ごはんを食べた後、2人で自転車に乗って来るのが日課だそうだ。長い日は、昼過ぎまでずっと観察しているという。 ユウ君はキャップ帽、母はハット帽をかぶり、おそろいの軽登山靴を履いて鳥を追いかけている姿は、見ていてほほえましい。毎日来るため、常連のバードウォッチャーとも仲良くなり、母自身もずいぶん野鳥には詳しくなったという。その手には、ユウ君の愛読書である『野鳥図鑑670』があった。「雨の日も来るの?」と聞くと、ユウ君はうなずいた。母によると、雨の日は、水たまりにいる虫を狙いにくる鳥を見るのが、楽しいのだという。 ただ、楽しさだけではない苦悩を、母は打ち明けてくれた。 「息子は、目や耳の感覚がとても敏感です。自宅でさえ休める場所ではありません。できるだけ人が少なく自然が多いところで時間を過ごそうとして始めたのが野鳥観察でした」 「学校はどうしていますか?」と私が聞くと、母の顔は少し曇り、それでもその不安を振り切るように言った。 「今はもう学校に行かせなければ、という思いはありません。にぎやかな学校は、とても居づらい場所なんです。私がそれに気づいてあげるのも遅くて、息子はだいぶ苦しみました」 何があったのだろうか。親子に話を聞き、私は特異な才能とともに障害を併せ持つ人の存在を知ることになる。 ■才能と障害、二つの「特別」 私がユウ君のことを知ったのは、母のブログがきっかけだった。母は22年1月から、「ちょっぴりギフテッド」というタイトルでユウ君のことをつづっている。目がとまったのは、「2Eギフテッド」という言葉があったためだ。 2Eとは「twice-exceptional」の略で、「二つの特別」「二つの特別支援を要する」といった意味がある。「ギフテッド」のような飛び抜けた才能と、発達障害といった学習に支障がある障害を併せ持つ子どものことをいう。例えば、教科書の文字の読み書きはとても苦手だが、目で見たものをすぐに記憶して表現する力が優れているといった具合だ。 ユウ君の場合がまさにこれだった。 実際に会ったユウ君は、少し小柄だが、見た目はごく普通の少年だ。ランドセルを背負って歩いていれば、学校帰りに公園で遊んでいる小学生と思われても不思議はない。 だが母によると、特に目と耳の感覚が敏感で、知らない人と話したり、人混みの中で電車に乗ったりするとすぐに疲れてしまい、日々の生活に困難が多いという。学校は、小2の3学期からほとんど行っていない。勉強は、母が自宅で全教科を教えているという。 母はブログで「息子をどうやって自立させてあげられるのか、不安や悩みは尽きませんが、とにかく元気で過ごすのが一番大事だと、毎日の自然観察に付き合っています。不登校などで悩んでいる、パパ・ママさんたちに、少しでも参考になることがあれば」と書いていた。 「感覚が敏感な原因はわかっているのですか?」と聞くと、母は首を振った。 「『ギフテッド外来』というクリニックや、眼科、耳鼻科などあちこちで診てもらいましたが、『特殊』と言われるだけで、原因はわからないまま行き詰まっていました。もしかしたら似たような親子がいてつながれないかと思い、ブログで発信することにしました。親の私でも理解できないことがありますが、好きなことがあって、それをできているのはありがたいことです。息子の言うことを信じて寄り添うしかないと思っています」と母。 息子のために何とかしたいが、どうすればいいのかわからない母の切実な気持ちがひしひしと伝わった。 ■「音が痛くてつらい」 ユウ君は、盛岡市で生まれた。引っ込み思案で、公園に連れて行っても、他の子が遊んでいると「んー、やだ」と言って近づけないような、慎重な性格だったという。 母が「他の子と違うのでは」と感じ始めたのは幼少期だ。玄関のドアを開けるだけで目を覚まし、掃除機や車のクラクションの音にも敏感ですぐに泣いてしまっていた。日本三大花火の一つ、秋田県の「大曲の花火」を見に行っても、「怖い、怖い」とずっと泣いていた。 だが成長するにつれ、泣いたりだだをこねたりすることは少なくなっていったという。大人びた性格になり、幼稚園でも友達のおもちゃを取ったり投げたりすることはなかった。叱ったこともほとんどない。 父の転勤で東京に引っ越し、小1から都内の公立小学校へ通った。毎日通学し、地域の少年野球チームにも入った。ボールを投げたり打ったりすることは人並みにでき、にこにこと楽しそうに練習していたという。2年生になると、試合にも出られるようになった。小2の3学期が始まる日だったという。 始業式のその日もふだん通り学校へ行った。持って帰ってきたのは、その月の目標を書くカード。そこにユウ君は「自分がつらくならないようにすること」と書いていた。 驚いて母が聞くと、ユウ君は「音が痛くてつらい」と言った。教室にいると、同級生の声や物音の刺激が痛いのだという。「休みたい」と言った。これまであまり弱音を吐いたことはなかったので、疲れがたまっているだけだろうと母は思った。すぐに良くなるだろうと思っていたが、欠席が1週間、2週間と続いた。先生から「続くと長期化しますから」と言われたので、耳栓をさせ、静かな校長室や会議室で過ごすことになった。それでも良くならなかった。 勉強は、特別できたわけではないが、悪くもなかった。テストでは、問題文の読み間違いや図の見間違いでバツをつけられることが多かった。友達は多く、休み時間は外で遊ぶこともある普通の小学生だったのに、なぜだろう。母はスクールカウンセラーなどにも相談したが、ユウ君が、同級生たちがいる教室に戻ることはなかった。 母子で保健室登校を始めたある日、突然ユウ君が「痛い、痛い」と涙目で訴え出した。母は音や刺激は何も感じなかった。ユウ君が「誰かが外でボールをやっている」と言うので、母が保健室のドアを開けて校庭を見た。すると、上級生たちが体育の授業を始めるところで、ボールをバウンドさせたり、投げ合ったりしていた。保健室の中からは、その様子を見ることはできない。なのにユウ君は「針が刺さるような痛み」を感じると言った。母は愕然とした。 「私が全く気づかないところで、これまで息子は痛みを我慢していたのだと知ったのはこの時です。これでは、学校のどこにも居場所はないだろうと実感した瞬間でした」 ■顕微鏡のような目 耳だけではない。目の独特な見え方も、母はユウ君が学校に行かなくなってから初めて聞かされた。 「文字が見えていないんだけど……」 自宅で学習していると、ユウ君がポツリと言った。ユウ君は刺激を遮るため、部屋にテントを張ってその中で勉強をしている。教えるのは母。くわしく聞くと、教科書の一つ一つの文字が、顕微鏡で見るように拡大表示されて見えると言った。 教科書を開いて何が見えるかを母が聞くと、「まるい点々がたくさん」と言った。印刷された文字はインクの無数の点々が集合して見える仕組みであり、その点々が見えているのだという。 「どうやって文字を読んでいるの」。母が聞くと、ユウ君は「見えた部分を、ジグソーパズルのように高速で組み立てている」と答えた。そんなことをどうしてできるのかわからなかったが、母はとにかく信じるしかなかった。「三角形は?」と聞くと、「角が3個あるから三角形」と言った。形全体を認識しているのではなく、角の数が三つあることを数えて判断しているということだった。 テストの問題を読み間違えていたのはこのせいだったのかと母は納得した。たしかにユウ君は、点と点に定規をあてて直線を引くことができなかったり、間近にいる鳥の姿を見つけることができなかったりしたことがあった。それもこの独特な視覚のためだったのか、と理解した。 そして思った。もしかしてずっとつらかったの? 母がそう聞くと、ユウ君はうなずいた。「もうがんばりたくない」と言い、さめざめと泣いたという。 (年齢は2023年3月時点のものです) ※【後編】<「同じ世界に生きているけど全然違う世界を見ている」 IQ130「ギフテッド」の息子に母が言った「がんばらなくていいんだよ」の言葉>に続く
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別格の品格の雅子さまの着物姿 園遊会でもてなしの心あふれる着こなしを歴史文化学研究者が解説
5月11日に東京・元赤坂の赤坂御苑にて開かれた令和初の春の園遊会。あいにくの雨の悪天候であったが、天皇、皇后両陛下に続いてお出ましになった女性皇族の方々が一列に並んだ着物姿は絢爛でまさに圧巻だった。それぞれの「らしさ」あふれる着物に関して、皇室の装いに詳しい歴史文化学研究者の青木淳子氏が解説する。 * * * 園遊会の中盤は落雷もあったほどの悪天候だったが、晴れやかな気持ちにさせてくれたのは、天皇、皇后両陛下と招待者たちの弾む会話と、何より雅子さまのお召し物だ。 女性皇族のお召し物は、「平成」の時代の園遊会では和装、洋装を、当時の皇后陛下・美智子さまがお決めになったとされている。この春の園遊会は和装であったが、「もし令和も平成の流れを踏襲されているとしたら、今回の園遊会では、日本の代表的衣装である着物をお召しになる、と雅子さまが皇后としてお決めになったと考えられます」と青木氏は指摘する。 青木氏は今回の園遊会への雅子さまの気持ちをこう読み解く。 「和装は準備から着付けや身のこなしなど、洋装に比べて簡単ではなく、体への負担も大きいものです。でも、あえて和装になさったのは、コロナ禍からの久々の『あけ(明け)』や『ハレ(晴れ)』の気分を皆さまに味わっていただきたい、との思いがあったのではないでしょうか。そしてもちろん、そこに皇后としてのお気持ちが感じられます。園遊会での雅子さまの笑顔やお話ぶりを拝見すると、そのお気持ちは、皇后としての意気込みとかお覚悟とかいった、堅苦しいものではなく、自然体で、(国民の皆さまを代表していらっしゃる)招待客の皆さまを、晴れやかなお気持ちにさせたい、そしてそれを通して国民の皆さまにも、そう感じ取っていただきたい、そんなお心の表れではないか、と思いました」(青木氏) そんな雅子さまのお隣にいる天皇陛下は、会話の中で声を出して笑い合うなどの様子も見られ、まさに天皇、皇后両陛下ともに自然体だった。 「雅子さまの着物は訪問着で、グレーにも見えるごく薄い水色の地で、流水に紫の菖蒲や黄色の菊もしくは蒲公英(たんぽぽ)ともとれる模様。流水に葉と花が立ち上がるデザイン。菖蒲は5月の節句にちなんだお花。菖蒲は長寿のまじない、魔除けとして用いられています。園遊会に集まる方々の長寿を願う、という意味にもとることができます。また、菖蒲は古くから勝負と掛けることもあります。今回オリンピックの選手の方々との会話もありましたが、応援するお気持ちも読み取れます。帯は金に近い銀色。裂(きれ)取りのように、所々に朱や緑などの薄い色味がある、あたたかな印象の帯でした。二重太鼓に結ばれており、帯揚げは白(クリーム色)、帯締めは帯と似たような金銀色で揃えられていました」(青木氏) 園遊会は天皇、皇后両陛下が主催であるが、雅子さまの着物は主催側として、落ち着いていて控えめながらも圧倒的な品格のある、おもてなしの心があふれる着こなしでいらした。 「今回の雅子さまの着物は、5月という季節に合わせた菖蒲が描かれ、まるで庭園の四季の表情を表したかのようでした。2018年11月の秋の園遊会では、紅葉の図柄の着物でしたが、園遊会という戸外での行事の雰囲気に合わせて、自然を感じる図柄を選択されています。自然な雰囲気の中で招待客の皆さまをお迎えされるそのお気遣いが素敵でいらっしゃると改めてと思いました。皇后になられて5年目ですが、自然の風物を表した着物姿に、その会話や笑顔も相まって、皇后としての自然体のお姿から慈愛にあふれた心を見せていただけた思いです」(青木氏) 雅子さまの別格の気品とは違った形で華を添えたのは、園遊会デビューをされた秋篠宮家の次女・佳子さまの振り袖姿だ。 「佳子さまは、振り袖をお召しでした。クリーム色の地に、菊など四季の花々やおめでたい松などが、朱の地の雲取りの中に配置されています。金箔も使われ、豪華な印象です。帯は格式のある華文で、緑色を基調にし、補色の朱が差し色になっていて、古典的な配色ですが、とても若々しいコーディネートです。豪華な振り袖と帯ですが、髪の毛をアップにせず下ろしたヘアスタイルからあまり気張らない親しみやすさを大切にされた感じがしました」(青木氏) この振り袖は、過去にもお召しになったもので、青木氏は続けてこう解説する。 「着物は19年9月16日にオーストリア、ファンダーベレン大統領を表敬訪問されたとき、帯は19年9月20日にハンガリー、アーデル大統領を表敬訪問されたときのものです。チャールズ英国王の戴冠式でもサステナビリティーがテーマの一つでしたが、佳子さまも近年のSDGsなどを念頭におかれていると思います。初の園遊会でしたが、様々な工夫を凝らしてお手持ちの衣装を、より素敵に着こなされていますね。佳子さまにとって、オーストリア、ハンガリー訪問は初の海外ご公務であり、内外からも評価を得たことと思います。このようなときに着用した着物と帯だからこそ、園遊会デビューにふさわしいと選択されたのかもしれません。何かと注目される難しいお立場ですが、ひとつひとつのご公務に真摯に取り組み着実にこなしていきたい、とお考えなのではないでしょうか。今回は、着物や帯の色柄の選択よりも、こうした姿勢に『自身をいっそう大切にされながら、新しい皇族女性の在り方』、言い換えれば『皇族としての自分らしい在り方』を模索されている『佳子さまらしさ』を感じます」(青木氏) 佳子さまらしさに合わせて、母である紀子さまとの息の合った姿も素敵だったと青木氏は指摘する。 「紀子さまは、クリーム色の訪問着でした。梅や菖蒲といった花々に、雅楽の楽器である笙(しょう)や鼓が描かれています。雅な調べが聞こえてきそうな図柄です。帯は深い金色系の格のある蜀江柄(しょっこうがら)です。蜀江文とは中国から伝来した蜀江錦に織り出されている柄です。八角形と四角形がつながれたような文様で、きりっとした装いにまとめられています。雅楽という古典のモチーフや格式のある柄の帯を選択された紀子さまから、皇族としての矜持を保つ姿勢を感じます。紀子さまと佳子さまは、着物の地色をクリーム色に合わせられ、ヘアスタイルも下ろしたまま。親子でお立ちになったときに、とても良いバランスです。おふたりとも、下ろしたヘアスタイルで、あまり気張らない自然さを大切にされたお心を感じました」(青木氏) 佳子さま以外の若い女性皇族は、振り袖ではなく、それぞれ個性的な訪問着で参加されたことが印象的だった。 「三笠宮家の長女・彬子さまの訪問着は深い紫地で、雲枠の中に、小花や松竹の葉が朱や緑の刺繍で表されています。匹田(ひった)絞りの地が趣味的で、目を引きました。帯は緑を挿し色にした朱の華文で、大ぶりの珊瑚の帯留が凝った装いです。着物と帯、それぞれ古典的な色柄文様であるにもかかわらず、紫と朱の取り合わせが大胆で、帯留などの小物もあしらわれ、柔らかな色の着物が多い中、鮮明で、ある意味、個性的に感じられました。高円宮家の長女・承子さまは、クリーム色の地にオレンジ系の草花が全体に描かれ、金色の藤の図柄が背景に広がる、華やかな訪問着でした。帯は名物裂の間道(かんとう)。間道とは、室町時代に中国から渡来したしまの裂です。漢渡、漢島、広東とも書き、高級な織物として、茶人の間で大切に保存され伝えられた織物でもあります。ゴージャスな雰囲気で、承子さまに良くお似合いでした。独身の女性皇族でも、一律に振り袖、というのではなく、それぞれ個性を大切にした着物姿に成熟した人間としての魅力を感じます」(青木氏) それぞれの「らしさ」あふれる着物の競演であったことが振り返られる。 「招待客のスピードスケートの高木美帆さんは総絞の振り袖でしたが、絞りは、布を一つひとつ括るところから始まります。その制作工程には途方もない労力が尽くされています。制作者の心がこもったこの着物を選択して園遊会に臨んだ高木さんの意気込みが、装いから伝わってきます。他の参加者の方々も、それぞれの思いをこめた着物を着用されたことでしょう。大雨でしたが、着物の方々が集ったからこそ、その方々の意気込みとあたたかなエネルギーが伝わってきました。そしてそれを大きく受け止める天皇・皇后両陛下、皇族の皆さまの笑顔が素敵でした」(青木氏) 何より雅子さまが自然体でいらしたのは、あたたかなエネルギーに包まれていたからかもしれない。 (AERA dot.編集部・太田裕子) 〇青木淳子/歴史文化学研究者、学際情報学博士(東京大学)。元大東文化大学特任准教授(2020年3月任期満了にて退職)、現在、大東文化大学・フェリス女学院大学・実践女子大学・学習院女子大学非常勤講師。日本フォーマル協会特別講師。著書に『パリの皇族モダニズム』(KADOKAWA)、『近代皇族妃のファション』(中央公論新社)など。大学卒業後婦人画報社(当時)にて、『美しいキモノ』特集号、『結婚の事典』の編集を担当。
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知能が高すぎる「ギフテッド」で精神を病んだ40歳女性が見つけた希望 自ら望んで「閉鎖病棟」へ入った理由
知能が高さゆえに周りから浮いてしまうことも多い「ギフテッド」。【前編】では、何事もできすぎるあまり小中学校ではいじめられ、勉強が嫌いになっていった立花奈央子さん(40)が社会人になるまでを紹介した。高卒で公務員になった立花さんは、いつしか精神を病み「うつ病」になっていた。そこで彼女が取った選択は、自らの意思で精神科病院の閉鎖病棟に入ることだった。<阿部朋美・伊藤和行著『ギフテッドの光と影 知能が高すぎて生きづらい人たち』(朝日新聞出版)より一部抜粋・再編集> 【前編】<「ギフテッド」ゆえに無視され、孤立した小中時代 40歳フォトグラファー女性が経験した“高い知能”こその苦難>より続く * * * ■自ら望んで閉鎖病棟に3カ月間 躁状態の時は、ストレス解消や現実逃避のため、デパートで好きな服を大量に買った。しかし、家に帰ると、いつのまにか買い物をした記憶がなくなっている。 一方、気持ちが沈んでいる時は、「死にたい。トラックが突っ込んできてほしい」と願う。精神科に行った。「うつ病」「解離性遁走」と診断された。突然どこか遠くへ行ってしまい、気がつくと自分がなぜそこにいるのかわからないことが続いた。しまいには知らない場所で警察に保護されていた。 「このままではだめになる。徹底的に治さなければ」と、精神科病院の閉鎖病棟に自ら望んで入った。約3カ月間すごし、外で生きられない患者たちの姿を目の当たりにした。外部から遮断され、あらゆる自分の時間が、他人によって管理されている中には、これ以上いたくないと思った。 今変わらなければこのまま人生が終わると思った。この閉鎖病棟での3カ月間で、自分の気持ちに向き合おうと決めた。 自分が本当に好きなことは何か、自分にとって大事な人は誰か、本来の自分とは何者か。突き詰めて考えた。 哲学や宇宙など、自分が興味のある話を、とことん人と語り合える時間が最も楽しい。そんな気の合う人たちとの時間を大切にしたい。自分の気持ちを抑えつけるのはやめようと決めた。 まず、区役所をやめた。自分を偽り、親が望む人間になろうという思いも捨て、退院後に身を寄せていた実家も出た。渋谷駅のハチ公前で、ストリートアートをしていた人たちに話しかけた。自分も一緒に描いたり、路上ミュージシャンと友達になったり。どんどん周りに自分の好きな人たちが増えていった。すると、ライターや撮影、ヘアメイクなどの仕事がフリーでできるようになっていった。 ■ようやく解けた「本当の私」 実家の父から久しぶりに電話がかかってきたのは、2019年。36歳になっていた。1歳下の弟が、知能検査を受け、発達障害だと診断されたとのことだった。立花さん自身も、自分が発達障害やADD(注意欠陥障害)かもしれないと思っていたため、一度検査を受けてみることにした。 「WAIS-IV」という知能検査を受けた。その結果、全般的なIQ(知能指数)が平均を大きく超える137だった。また、同検査の四つの指標のうち、ことばの理解力や推理力、思考力を示す「言語理解」はIQ130、目で見た情報から形を把握し推理する「知覚推理」はIQ128、情報を一時的に記憶する力の「ワーキングメモリー」がIQ131、作業の速度を測る「処理速度」がIQ130と、指標のすべてが平均を超える高い数値となっていた。 驚いた。臨床心理士からは「発達障害の可能性はほぼない。単に、知能が世の中の人より高いだけの健常者ですね」と言われた。立花さんはそれまで、自分の生きづらさは発達障害のせいだ、となんとなく思っていたが、それは間違っていたことがはっきりした。この時、初めて自分の特性が何なのかを知りたい、と思った。 結果を知人に言うと、「ギフテッドじゃん」と言われた。初めて聞く言葉だった。「ギフテッド」に関する専門書を片っ端から読んでみた。 特徴として書かれていた「情報を素早く理解」「いつも何かにのめり込み徹底的に調べる」という良さだけでなく、「注意散漫に見える」「同級生との関係づくりが下手」といった弱点までが、いちいち自分に当てはまった。「これ私のことだ」と思うと、胸がすっとした。 普通と違う私。他人に合わせ、ずっと生きづらさを抱えてきた私。子どものころから、本当の自分は何なのかと思ってきた疑問が、ようやく解けた気がした。「パズルのピースがはまるような感覚だった」という。 立花さんは言う。「私は、自分のことを『天才』とは思いません。ただIQが高いという個性があるのだということがわかりました。そのせいで、これまで息苦しさや孤独を抱えていたのだと理解できて本当に良かったです」。 そしてこう思った。きっと、同じような仲間がいるのではないか。自分の特性を理解してくれたり共感してくれたりする仲間ともっと話がしたい、と。もし、子どもの時から知っていたら? 「MENSA」という国際組織を知人が教えてくれた。IQの上位2%の人だけが入会でき、日本支部があるという。さっそく入会した。 MENSAは、1946年にイギリスで創設された国際組織だ。世界100カ国以上に13万人以上の会員がいるとされる。日本支部には約4700人の会員がおり、定期的に開かれるミーティングで話し合ったり、趣味や考えが合う会員同士がオフ会などで交流したりしているという。入会するには、独自の入会テストを受けて一定のスコアを出すか、知能検査の結果を示さなければならない。 立花さんは、MENSAで出会った人たちと、「性とは何か」「既成の価値観に縛られていないか」といった深い話をすることが楽しい。人のつながりが増え、好奇心があふれ、知的欲求が満たされるという。 ようやく好きなことを仕事にし、仲間にも巡り会えたという立花さん。ただそれはたくさんの回り道をして得たものだった。「もっと早くに知能検査を受けておけばよかったという後悔はないか」と聞くと、立花さんは「後悔はない」とはっきり言った。過去のつらい時期があったからこそ、充実した今があると思っているから、と。 ただ、どうしても考えてしまうことは、あるという。「もし、子どものころに自分の特性を知り、それを理解した教育や子育てをしてもらっていたら、あんなつらい経験をせず、もっと様々なことを学べたのではないか」と。いま後悔していないと言えるのは、浮きこぼれていてもはい上がることができたからではないか。自分と同じように生きづらさを抱えたまま悩んでいる人が、今もきっといるはずだ。 ■ゴールデン街の会員制バーで そんな思いを強くした立花さんが始めたのが、「サロン・ド・ギフテッド」だ。19年ごろから週1回、フォトグラファーの仕事のかたわら、東京・歌舞伎町の新宿ゴールデン街にあるバーで開いている。 22年12月中旬、私はそのバーを訪れた。毎週火曜日、オーナーから店を間借りした立花さんが、カウンターに立っている。 重い木製のドアを開けると、立花さんの「いらっしゃーい」という明るい声が聞こえてきた。カウンター席が6席だけのこぢんまりとした店。すでに5人の先客が、立花さんが出すビールやハイボールを飲みながら、会話を楽しんでいた。 サロンは、IQ130以上の条件がある会員制。特別に参加させてもらった私の隣に座っていたのは、この日初めて来たという東京大学に通う女性だった。理路整然とした話しっぷり。ただ子どものころは学校になじめず「つらかった」と吐露した。「だって、先生は私のこと全然理解してくれなかったから」と女性。今はギフテッドの子どもやその保護者を支援する団体に入って活動をしているという。 IQが150ありながら、会社の上司とコミュニケーションがうまくとれず退職したという男性もいた。話すスピードが速すぎて変人と思われないかという不安があり、自分のことを知らない人とは話をするのが怖くなったという。他にも、地下アイドルを「推す」中年男性や、マクドナルドで働く母親など、個性豊かな人たちが胸の内を語り合っていた。 立花さん自身にとっても、他人は他人、自分は自分と実感できる場所だという。 ■「ほっといてほしい」 さて、立花さんのトークを収録した朝日新聞ポッドキャストは、22年12月上旬に配信された。「同級生と話が合わない」「なじめたことは一度もない」「授業はクソつまらない」。そんな立花さんの率直な語りぶりが、多くのリスナーの好評を得た。 収録の終盤、司会者が立花さんに「自分の経験を踏まえ、どんな世の中になればいいと思うか」と聞いた。 「ほっといてほしいですね」 即答だった。立花さんが生きやすさを感じたタイミングは、高校生になって行動範囲が広がったり、社会人になって使えるお金が増えたりするなど、自分で選択できることが増えた時だったという。 「子どものころは大人の見守りは当然必要だと思いますけど、普通と違うからと枠にはめようとしたり、周りの子どもと比較したりするのは、やめてほしいですね。ましてや、ギフテッドだから才能をのばさないといけないとか、才能を見過ごしてはもったいない、といった考えは大きなお世話です。その人が、その人らしく生きられるような社会になることが大事なのだと思います」 立花さんのそんな言葉が、多くの人に届くといいと思った。 (年齢は2023年3月時点のものです)
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市川猿之助にずっと気を使っていた「香川照之」との関係性 行きつけの居酒屋で見せていた“本当の仲”
警視庁は24日、歌舞伎俳優の市川猿之助(47)を都内の施設に呼び、事情聴取を行った。両親が向精神薬中毒の疑いで死亡した経緯について詳しく話を聞いたとみられる。悲惨な「一家心中騒動」にはいまだ多くの謎が残るが、改めて猿之助の交友関係を取材すると、意外な人間模様が浮かび上がってきた。特に従兄弟で同じ歌舞伎役者でもある「香川照之」との微妙な関係が見え隠れする。 * * * 猿之助は都内のある居酒屋を行きつけの店にしていた。そこでは、彼の華麗な人脈がみてとれる。猿之助の知人が言う。 「その店は、もともと20年くらい前からリリー・フランキーさんが1人で飲んでいて、彼が“隠れ家”にしている飲み屋だったんです。そのうち、リリーさんが福山雅治さん、大泉洋さんらを呼んで、みんなでワイワイと飲むようになった。猿之助さんは福山さんが連れてきたと記憶しています」 猿之助は日本酒をキープしていて、それをおちょこで飲んでいたという。 「猿之助さんは学生時代からの福山雅治さんのファンで、福山さんがDJを務めるラジオ番組を聞いて、何通も手紙を書き送っていたそうです。その後、テレビドラマでも共演するようになり、公私ともに仲良くなったようですね」(同) 猿之助が俳優の香川照之(57)を居酒屋に呼ぶことも、しばしばだった。 「猿之助さんが先に店にいて、香川さんに電話をかけ、『今日はみんないるけどどう?』と言って、香川さんが遅れてやって来るのを見かけましたね。猿之助さんは一人でしゃべりまくって、いつも座の盛り上げ役。香川さんとも仲良く飲んでいましたよ」 同じ澤瀉屋(おもだかや)で市川中車を襲名した香川と、その従兄弟にあたる四代目猿之助は、私生活でも関係が深かったようだ。だが、一門でのパワーバランスや歌舞伎役者としてのプライドなども絡み複雑な関係だったとも言われ、「女性セブン」(23年6月8日号)は2人の間に長年の確執があったと報じている。 歌舞伎に詳しい著述家の米原範彦氏は2人の関係をこう語る。 「香川はずっと歌舞伎界を離れていたので、歌舞伎の世界に戻っても四代目の猿之助を立てるような立場になっていました」 それを象徴する出来事があった。 俳優としての香川は2013年に始まったドラマ「半沢直樹」シリーズ(TBS系)で、堺雅人演じる主人公の宿敵を怪演して大ブレークした。ある新聞社が正月特集で「半沢直樹」でブレークした香川を大きく扱おうとしたところ、突如、キャンセルになったという。 「澤瀉屋のリーダーの猿之助をさしおいて、新聞の正月版に大々的に載ることはできないと判断されたようです。香川は何かと、猿之助に気を使わざるを得ない存在なんだと感じました」(メディア関係者) 香川は、三代目猿之助(現・二代目猿翁)と浜木綿子の息子。本来なら香川が四代目猿之助を名乗っても不思議のない家柄ではあったが、香川が3歳の時、両親が離婚。三代目猿之助は00年に舞踊家の藤間紫と再婚したことで、香川とは長い間、断絶関係が続いた。 「三代目猿之助は浜と香川のことは“過去のこと”として完全に切り捨てた。三代目猿之助は香川に対し、『あなたは息子ではありません。私はあなたの父でもない。今後、2度と会うことはありません』と言ったという有名なエピソードもありました。だが、それでも香川はどうしても歌舞伎の世界に戻りたかった。その結果、香川は夫婦間の軋轢が生じて離婚までしたのですが、そのとき、歌舞伎界に戻れるように熱心にサポートしたのが四代目猿之助だったのです」(米原氏) 昨年夏、香川は銀座のクラブホステスの髪を引っ張るなどのスキャンダルを「デイリー新潮」に報じられ、テレビドラマやCMを次々に降板することとなった。その後、香川は市川中車として歌舞伎から人生の再出発を図ったが、その際にサポートしたのも猿之助だったという。 結局、昨年12月に香川は十三代目市川團十郎白猿襲名披露の舞台に「市川中車」として出演したことで、俳優復帰を果たした。 「市川團十郎の弟子筋が市川猿之助になります。それゆえ、團十郎に引っ張り上げてもらうにしても、猿之助を飛び越えることはできない。香川はいつも猿之助に気を使う立場だったのです。そんな状態のなかで、猿之助が事件を起こし、その代役として香川の長男の團子(だんこ)に光が当たるというのは、おどろおどろしい因果を感じます」(米原氏) 事件が起きた18日は、明治座で「市川猿之助奮闘歌舞伎公演」の真っただ中だった。猿之助は休演し、18日の昼の部はさすがに休演となったが、夜の部は二代目中村錦之助の長男・中村隼人(29)が務めた。翌19日には代役として、昼の部は香川の長男・市川團子(19)が務めた。 團子はわずか1日の稽古で本番に臨んだようだが、堂々たる芝居を披露し、スタンディングオベーションも巻き起こったという。 「團子は判官びいきの日本人の琴線に触れたのかもしれません」(演芸評論家の山本健一氏) 團子、隼人という若手のホープが澤瀉屋のピンチを救った形となった。米原氏はこう語る。 「歌舞伎という芸能にはしたたかさがある。猿之助がいなくても、必ずその代役が現れる。團子はまだそれほど稽古を積んでないと思いますが、驚くべき吸収力です。隼人も脚光を浴びて、きれいな顔をしていることも世に知られました。猿之助も好きだったけど、隼人も團子もいいよねというファンも増えたはずです。歌舞伎ファンではなかった人にも存在が知れ渡り、新しいファン層を広げる結果になったと思います」 歌舞伎界に詳しい早稲田大学の児玉竜一教授は、團子と隼人をこう評価する。 「團子と隼人の2人は見事に代役を演じました。隼人は間違いなく、猿之助が場所と役を与えて、育てた一人と言えるでしょう。猿之助が若手を育てたことが実を結んだことは、悲しい出来事が続いたなかで、ひとつの希望になったとは思います。今月の明治座のピンチを乗り切ったとしても、ずっと安泰ではありません。ここから先は、若手の人たちの自覚と精進次第だと思います」 はたして、澤瀉屋の未来やいかに。 (AERA dot.編集部・上田耕司)
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「ギフテッド」で「ろう」の女性が教員になろうと思った理由 米国留学で出会った教授から伝えられた「救いの一言」
知能の高さゆえにさまざまな生きづらさを抱えていることも多い「ギフテッド」。【前編】ではIQ130を超え、かつ「ろう者」でもある女性が「障害があるのに何でもできる」ことが原因で理不尽ないじめを受けたことを紹介した。その後、女性は親からの重圧と周りからの目に翻弄され、心を病んでいくことになる。どん底だった女性を救ったのは米国への留学だった。<阿部朋美・伊藤和行著『ギフテッドの光と影 知能が高すぎて生きづらい人たち』(朝日新聞出版)より一部抜粋・再編集> ※【前編】<「障害者はバカでいたらいいのかな」 IQ130台の「ギフテッド」で“ろう”の女性が小学生で受けた理不尽ないじめと葛藤>から続く * * * ■「あなたのために」親の重圧 家庭環境はどうだったのか。尋ねると、女性はまた険しい顔を浮かべ、キーボードをたたき始めた。「褒められた記憶はない」「社会に出たら周りは聞こえる人ばかりなので、親は早くから慣れたらいいと思ったみたい」「当時は親に殺されるって思っていました。親は今は反省しているみたいですが」……。 「将来のために」と厳しくしつける両親だったそうだ。だが、聴覚障害がある子どもにこれほどつらい思いをさせることが信じられなかった。親が抱えていた不安はどういったものだったのだろうか。 女性によると、両親は女性が幼少時代、医師から「将来話せるようになるか、仕事に就けるかはわからない」と言われていたという。そのため、女性が将来一人で生きていけるようにと、聴者と同じ環境で育てようと考えたという。「聴者に認められるには勉強ができないといけない」「あなたのためにやっているの」などと、繰り返し言われた記憶が女性にはある。「親の前では『できる自分』を見せ続けなければならなかった」と振り返る。 ■学校と家庭、引き裂かれる心 今では信じられないことだが、女性が生まれた1980年代はまだ、手話を使うことは多くのろう学校で禁止されていた。障害者基本法の改正で、手話が言語であると初めて明記されたのは2011年。それまで聴覚障害者には、相手の口の形を読み取り、それを真似ることで言葉を発する「口話教育」が盛んに行われていた。 女性も今でこそ手話を使ってコミュニケーションをとるが、子どものころは両親や教員から「手話を使わないように」と言われていたそうだ。また教員から「いろいろな体験をさせて」とも言われていた両親には、キャンプや釣り、スキーなどによく連れて行ってもらったという。小学生のころは、スイミングスクールやエレクトーン教室などにも通い、家庭教師もついたという。 女性は当時を「何に対しても成績を残さないといけないと思っていました」と言い、「ここまでやれば認めてくれるかなって感じでやり続けていました」と振り返る。 親の期待に応えるには「できる自分」を出さなければいけない。しかし、学校では「できない自分」でいたい。女性の心は、次第に引き裂かれていった。家では何も話さなくなり、「死にたい」と考えるようになっていたという。エレクトーンや習字で失敗すると、自分で手や足を赤くなるまでたたいたりつねったりするようになっていった。 「親は、自分たちが死んでも私が一人で生きていけるようにという思いだったと思います。ただ私は、『できる自分』と『できないでいたい自分』との間で、どうあればいいのかわからなくなっていきました」 ■「がんばってるね」の一言が…… 進学校の県立高校に進むと、親は喜び、厳しいことは言わなくなった。そこで、女性はようやく「できる自分」を封印することができた。「できない人」は親しまれやすいと思い、テストでわざと20点や30点をとってはクラスで笑いのネタにして楽しんだ。ダウンタウンや明石家さんまなどが出ているお笑い番組を見ては、ものまねをしたり「どうウケるか」を考えて友達とはしゃいだりした。「いじめはなくなり、友達もできました」。 だが、「聞こえないのにすごいね」「聴覚障害があるのに、よくがんばっているね」。そう言われるたびに、女性は違和感を覚えた。勉強ができるのは、自分にとっては努力したことではなく、普通のこと。なのに、障害があるだけで、「がんばっている」と見なされるのが、つらかった。「だって、聞こえないことと、能力は関係ないはずですよね?」。 その通りだ。だけど、あらためてそう問われてみると、私の内心にも、ろう者に対して「聞こえないのはかわいそう」とか、「聞こえないのに頭がいいなんてすごい」といった考えがないとは言い切れない。 そのことを認めると、女性は「そういう心理的な反応は自然なことだと思います」と言った。大事なことは、「うちの親のように、振り返って、あれは先入観があったかもと考えることではないでしょうか。心理的なバイアスは誰にでも起きますから」。そう淡々と語る女性の姿を見ていると、何度もそうした偏見や差別に悩み、葛藤してきたのだろうと想像できた。 ■米国で認められた「スペシャル」な能力 女性の学生時代の話に戻る。地元の進学校を卒業した女性は浪人し、その後、地方の国立大学に進み、別の国立の大学院も出た。教育や心理学を学んだが、「できる人とできない人のどちらにも嫉妬して、心がめちゃくちゃ」な状態だったという。さらに不安定になった女性は、「自分はいるべき存在じゃない」とリストカットなどの自傷行為を繰り返していた。 転機は、米国への留学だった。語学を学んだあと、米国の聴覚障害者が多く通う大学院に入った。留学4年目のある時、心の不調を訴えると、学部長から「知能検査をしてみよう」と勧められたという。 知能検査の「WAI-IV」を受けた結果、四つの指標のうち、作業の速度を測る「処理速度」がIQ140と極めて高いスコアが出た。目で見た情報から形を推理する「知覚推理」もIQ117と高い数字が出た。一方、ことばの理解力や推理力、思考力を示す「言語理解」はIQ98、「ワーキングメモリー」はIQ95と平均的だった。 女性は「ただ、びっくりでした。なんとなく人より高いとは思っていましたがまさかこれほどとは」。そして、学部長に伝えると、「驚かないよ」と言ってくれた。 学部長から、「レポートが理路整然としていて深く考えていたから、普段から教授陣の間で評価していたんだ」と伝えられた。そして「今まで出会った中でスペシャルな生徒の一人だ」とたたえてくれた。障害に関係なく、自分の能力だけを認めてくれたことがうれしかった。 「学部長との出会いが大きかったですね。ずっと『できる』ことで嫌な思いをしてきたので、『できる』ことの良さを自分で感じたかったし、人にも思われたかったんです」 ■可能性を閉ざさない 教員を志したのは、そのころだ。米国のろう学校で、小中学生に将来の夢を聞く機会があった。子どもたちはなりたい職業よりも、「自分はバカだから」「周りの大人がそうだから」といったイメージで将来を考えていた。 日本のろう学校で知り合った子どもたちも同じことを言っていた。手話を使えば、子どもたちは豊かな表現をしたり深い考察をしたりと、それぞれに光る才能がある。しかし聴覚障害があるというだけで、自分の可能性を閉ざしている。 「子どもたちの様子を見ていると、自分の経験が何か役に立てるのではと思いました。それぞれが『できる』ことを、親や先生、何よりもその子自身が考えて学ぶ力を育てたいと思ったんですね。私は苦しかったけれど、大学院や留学をして聴覚障害に関して専門的に学ぶ機会に恵まれたのはたしかで、自分の『できること』がポジティブになるかもと思いました」 日本に戻り、教員になってまもなく10年になる。 社会には今も、ろう者に対して「かわいそう」「頭が悪い」「音楽に親しまない」といった先入観があると女性は感じている。 ろう者の中にも、手話はできるのに日本語がうまく読み書きできないことを理由に「勉強ができない」と思い込む子が多い。 そんな子には、「手話はばっちり。日本語に置き換えるのがまだ難しいね」と伝えている。手話と日本語を区別して評価すると、自信を持てる子どもは多いからだ。聞こえないことを理由に、できる、できないを評価するのではなく、その子の得意なことと苦手なことを見つめ、一緒にどうするかを考えられる教員になりたいと思っている。 女性は「それぞれが持つ才能をそのまま発揮できる社会になればいいと思います」との思いを私に伝えてくれた。 (年齢は2023年3月時点のものです)
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「市川猿之助」一家に何があったのか 近隣住民と歌舞伎関係者が見ていた「家族の内情」
18日午後、衝撃的なニュースが飛び込んできた。歌舞伎俳優の市川猿之助さん(47)、両親の市川段四郎さんと母親が自宅で倒れているところを発見され、その後、両親は死亡が確認された。猿之助さんは意識がある状態で入院しているという。報道によると、猿之助さんが倒れていた場所のそばで遺書のようなもの見つかったという。一家3人に一体何があったのか。近隣住民や関係者を取材した。 * * * 現場となった自宅は東京・目黒駅から徒歩20分ほどの閑静な住宅街にある。コンクリート造りのモダンな外観だ。猿之助さんの自宅に通じる道には、黄色いテープで警察の規制線が張られ、数人の警察官が警備にあたるものものしい雰囲気に包まれていた。 報道によると、警察官が駆け付けたときには、猿之助さんは半地下にあるクロゼットの中で意識がもうろうとした状態で見つかったという。一方、両親は2階のリビングで倒れており、母親はその場で死亡が確認された。段四郎さんも搬送先の病院で死亡した。いずれも目立った外傷はなかったという。 遺書のようなものがあったなど現場の状況から、猿之助さんが自殺を図ったとみられている。 近所に住む85歳の女性は、18日午前中の様子をこう話す。 「今朝、何かすごくにぎやかだなと思ったのよ。女の人の声とかがして、ガチャガチャ物音が聞こえた。何だろうなとは思っていたら、テレビで事件を知り、まさかと驚きました」 猿之助さんの自宅からは日頃から、歌舞伎の稽古をする音が聞こえてきたという。 「よく、歌舞伎のお稽古の歌声が聞こえてきたり、踊りのドンドンという音が響いていましたね。歌舞伎は嫌いじゃないから、うるさいとは感じませんでした」 かつて猿之助さん一家がお得意さんだったという米店の店主はこう話す。 「10年くらい前までは、うちのお米やお正月のお餅の配達をしていました。亡くなったお母さんはボーイッシュな髪形のおキレイな方でしたよ。ハキハキしたしゃべり方で、あのお母さんが自殺をするとはとても思えない。猿之助さんは子どもの頃からバスで名門の男子校に通う姿をよく見かけました。大人になってからは、よく1人で散歩するのを見ていました」 現在の猿之助さんは4代目となるが、亡くなった父・市川段四郎さんの兄が「3代目」の猿之助にあたる。歌舞伎に詳しい評論家はこう語る。 「3代目猿之助は猛優(もうゆう)と呼ばれ、歌舞伎をぶっ壊す革命児であり、パイオニアでした。『スーパー歌舞伎』をつくったのも3代目です。現在の4代目は、それにポップなセンスを味付けした。3代目に比べると猛優ではないが、器用でアグレッシブ。歌舞伎界における自分の位置というのを常に考えている人だという印象です」 亡くなった市川段四郎さんについてはこう話す。 「兄の3代目が太陽だとすれば、亡くなった段四郎さんは月で、対照的でした。段四郎さんは陰のある渋くて風格のある俳優でした。それが10年くらい前から、歌舞伎の舞台に全然出なくなった。松竹関係者に聞くと、体調不良で出られなくなったと。4代目は、父親の介護もしていたのではないかと思います」 くしくも、19日は猿之助さんのプライベートも含めたスキャンダルを報じた女性週刊誌の発売日でもあった。出版関係者は「猿之助さんがこの報道を苦にした可能性はある」と話す。 「女性週刊誌の記者が猿之助さんに直撃取材したのは、月曜日(15日)の夜。週刊誌は発売日の1日前に『早刷り』が関係各所に出回るので、猿之助さんは水曜日(17日)に記事を目にした可能性はあると思います。記事の内容は、猿之助さんのプライベートまで深く知ると思われる複数の人物が彼のパワハラ、セクハラ疑惑を語っているものだったので、猿之助さんがそれを目にしたら大きなショックを受けたことは想像にかたくありません」 実際にそのような行為があったのかは現時点ではわからないが、「客を呼べる役者」として猿之助さんが一門の中で強い力を持っていたことは事実だろう。 「今、客が呼べる役者としては片岡仁左衛門、坂東玉三郎、元海老蔵の市川團十郎、そして4代目猿之助の4人です。仕事はどんどん来るし、4代目自身、芸の上で苦難があっても、それを積極的に突破するパーソナリティーの持ち主。芸で悩んでいたとは考えにくく、原因があるとしたら私生活ではないか」(前出の評論家) 猿之助さんの一日も早い回復と、本人の口からの説明が待たれる。 (AERA dot.編集部・上田耕司)
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小学1年で息子が「IQ154」と発覚したときに母親は何を思ったのか 「ギフテッド」の子ども持つ親の“本音”
物事に没頭しやすい、情報処理が速いといった特徴をもつことが多いと言われる「ギフテッド」。【前編】では、IQ154あり小学4年生で英検準1級に合格した小林都央さん(11)が学校生活に適応することに苦しんでいる現状を紹介した。一方で、自分の子どもがギフテッドだったら、親は何を思い、どう行動するのか。都央さんの母親である小林純子さんが実体験を語った。<阿部朋美・伊藤和行著『ギフテッドの光と影 知能が高すぎて生きづらい人たち』(朝日新聞出版)より一部を抜粋・再編集> 【前編】<小学4年で英検準1級に合格した「ギフテッド」少年の生きづらさ 「正直、学校は好きじゃない」と適応に苦しみ>より続く * * * ■幼稚園で全元素を暗記 幼少期の都央さんは、様々なものに興味を持った。漢字は3歳ごろから路線図で読めるようになった。初めて書いた字は「品川」だった。点字を覚え、フォントやピクトグラム(絵文字)に興味を持ち、歯車のおもちゃで遊ぶのも大好きだった。大人向けの機械式時計の本が愛読書だった。どうやって歯車がかみ合って動くのか、仕組みがわかるのが大好きだった。 幼稚園のころには分子に興味を持ち、すべての元素を英語と日本語で暗記した。「世の中のすべてのものは元素でできているので、こういうふうに結合することによってこういうものが生まれるみたいなことがわかるのがとても楽しかった」と都央さんは記憶している。純子さんに元素のクイズを出してくるが、難しくて答えられなかったという。幼稚園のころからパソコンに触れていた都央さんは、元素クイズを自動で出すゲームのプログラムを自作して遊んだ。 台風が近づいているというニュースを見ると「台風はどこで発生するんだろう」。雨が降ると、「降ってきた水はどこへ行くんだろう」と、疑問が次々と湧く。純子さんは「なんで?」といつも都央さんに問いかけられた。大人でも答えられないようなたくさんの疑問。純子さんは「とにかく常になんで、なんでと聞かれて、ちょっと私がパンクしそうになったので、ノートに書いて自分で調べてみてと伝えました。私の逃げ場のようにつくったノートです」。そう言って見せてくれた当時のノートには、都央さんの頭に浮かんだ疑問が並んでいた。 「なぜタイヤは黒い? 黒じゃなくてもいい?」 「どうして赤い火より青い火のほうが熱い?」 「なぜ日本には大統領がいないの?」 そして、図鑑などで調べた自分なりの答えが書き込まれていた。 ■みんなと遊んで気づいた「違い」 好奇心が旺盛な都央さんに体調の変化が現れたのも、幼稚園のころだった。日曜日の深夜に嘔吐(おうと)を繰り返した。救急車で運ばれたこともある。だが、疑われた感染症ではなかった。 その後も日曜日になると吐くことが続き、「心理的なもの」と診断を受けた。幼稚園での集団生活がストレスになっているようだった。夜にうなされることもあり、ドッジボールがある日は体調が悪そうに見えた。 後から、ボールが無秩序に動くルールが嫌で、体が拒否反応を起こしているとわかった。都央さんは「どんなルールでみんなが動いているかがわからなくて、怖いな、嫌だなっていう気持ちが強くなったんです。みんながランダムに動いて、ボールが自分めがけて飛んでくるのも怖かった」という記憶がある。ドッジボールがある時は、トイレに逃げ込んだ時もあった。 そのころから、周囲との違いも感じるようになったという。 「自宅で遊んでいる時は感じなかったのですが、幼稚園でみんなと過ごすようになって、ちょっと周りの人と話が合わないとか、周りの人が好きなことが自分はあまり好きではないとか、思うようになりました。ほかの友達が遊んでいるものもあまり面白いと感じられないなということもありました」(都央さん) 元素のことなどを話しても興味を持ってもらえないため、気持ちをセーブしながら周りの人と話していたという。 それまで、純子さんは都央さんのことを「ちょっと変わっているところがある」と思っていた。敏感で靴下は同じメーカーのものしかはかない。ただ、初めての子育てで他の子どもと比較はできず、「少しこだわりがあるのかな」と感じていた。周囲から「ギフテッド」の存在を教えてもらったのは、そんな時だ。知人に勧められ簡易的な検査を受けたところ、IQが高いとわかった。小学1年の時に受けた検査でIQが154だった。 ■「息子のつらさを初めて知った」 IQが高いとわかった時にはどんな心境だったのか。 純子さんは「息子がギフテッドかもしれないってわかった時に、お母さんって自分の子どもがお友達と同じように遊んで、同じように進学して、と知らず知らずのうちに思っているんだなって気づかされました。『普通じゃない、人と違う』ということが当時は不安でした。違うということを認めたくないという気持ちもありました」と当時の思いを語る。 同時に、IQを検査してくれた医師から、IQに差がある子どもたちと過ごすということは、学年が異なるクラスで過ごすようなものだと教えてもらった。 「学年が違うクラスで過ごすような感覚が日常なのは、それは息子にとって苦痛だなと、やっと息子のつらさがわかりました。IQが高いのは、いいことだと思ったこともあるのですが、話が合わない、関心事が合わない集団に日常的にずっといるっていう息子のつらさを初めて知った気がします」(純子さん) そして、IQが高い人は、ほかの人よりもセンサーが敏感で、相手が何をしてほしいかを察知することに優れ、それに応えようとして疲れてしまうとも聞いた。授業の内容は、都央さんにとって学びが多いとは言いがたいものだったという。 「授業は淡々と受けて、教室にいればいいので楽だなと思う一方で、楽しい時間ではないのでつらい場所でもある」とこぼす。 学校でつらい思いをする都央さんを見て、入学や進級のたびに担任の先生へ都央さんの個性について手紙を書いて理解を求めた。幸いなことに担任の先生もギフテッドについて調べ、理解してくれる努力をしてくれた。スクールカウンセラーも理解を示し、相談に乗ってくれるという。純子さんは「集団生活や行事など学校でしか学べないこともあると思います。息子がやりたいことの時間も取りつつ、負荷はかけないように学校に行く日も作ろうという試行錯誤の中で今のスタイルになった」という。 ■独学でAIをプログラミング ただ、都央さんにとっては、周りの小学生のように週に5日、一日6時間の授業を受けることが「時間のロス」に感じてしまうこともある。「自分が興味のあることをしている時が一番ワクワクする」と言い、いくつかの夢中になっていることがある。 その一つがプログラミングだ。21年に開かれた小学生向けのプログラミング大会では、小学4年で決勝に進出。一人暮らしの祖母のために考えた買い物アプリを発表し、特別賞を受賞した。翌年にも同じ大会で、5千件を超える応募作品の中からトップ10に選ばれた。AIが文章を作成するアプリをChatGPT(対話型AI)がリリースされる前に独自に制作し、決勝に進出した。 都央さんは「学校に行ってない、サボっている、頑張っていないとか言われるのですが、自分なりに頑張っているんだというのを知ってもらいたい」と話す。 ■人と違う個性、誇りになった 平日、美術館や図書館へ行くと、じろじろと見られることもある。だが、純子さんは胸を張って歩くようにしているという。 「学校は行くものだから、平日に子どもがいるのはおかしいでしょうと思われることもある。だけど、息子は家でたくさん勉強をこなして、今は散歩やリフレッシュなんです、と堂々としていたいなぁと思います。自分の中の常識や、外からどう見られているのかということで息子を苦しめてしまうことはできるだけしないようにしたいなって思います」 純子さんは「人と違う個性を持っていることが誇り」と次第に感じるようになった。ただ、ギフテッドについての理解は、社会でも学校現場でもまだまだ行き届いていないと感じる。「ギフテッド」という単語を聞くと、「なんでもできるすごい天才」というイメージを持たれてしまうことも危惧する。 試行錯誤しながら登校したり、リフレッシュ休みをとったりする日々だが、都央さん、純子さんの悩みは尽きない。学校ではみんなが同じようにすることに価値が置かれているように感じ、登校しないと評価されない。この先の進路を考えた時に、出席日数がネックになることも出てくるかもしれない。「足が速い、絵が上手と同じように、ギフテッドを個性の一つとしてとらえてほしい」。そう願っている。 (年齢は2023年3月時点のものです)
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小学4年で英検準1級に合格した「ギフテッド」少年の生きづらさ 「正直、学校は好きじゃない」と適応に苦しみ
ギフテッドという言葉を聞いたことがあるだろうか。「飛び級で進学」「教科書は一度読めばほとんど理解」など、天才少年少女というイメージをもつ人も多いだろう。しかし本人は、「授業が全く面白くない」「同級生と話が合わない」「学校に行くのが辛い」といった負の側面を感じていることも少なくない。表からは見えづらい「心のうち」はいかなるものなのか。今回は、IQ154、小学4年生で英検準1級に合格したという小林都央さん(11)のケースを紹介する。<阿部朋美・伊藤和行著『ギフテッドの光と影 知能が高すぎて生きづらい人たち』(朝日新聞出版)より一部を抜粋・再編集> * * * ■小2で高IQ集団「MENSA」に認定 パソコンの画面に映る少年は、大きく口を開けて笑顔を見せてくれるとてもあどけない小学生だった。東京都に住む小林都央さん(11)とオンラインツールの「Zoom」で初めて会ったのは2021年12月のことだった。ヘアドネーション(髪の毛の寄付)のために伸ばした長い髪を束ね、くるくると変わる表情で語ってくれたのは、学校に通うことのつらさだった。 「学校に行かないといけない必要性や義務は理解しています。でもぼくにとって学校は、ありのままでいられない場所で、本音を言うと好きじゃない」 都央さんのIQ(知能指数)は154。平均とされる100を大きく上回る。特別な才能を持つとされる「ギフテッド」だ。 小学4年で英検準1級(大学中級程度)、小学5年で漢字検定2級(高校卒業程度)に合格し、英語と日本語を操るバイリンガル。人口の上位2%のIQを持つ人たちが参加する「JAPAN MENSA」に小学2年生で認定された。複数のプログラミング大会で、特別賞などを受賞。住んでいる地元の教育委員会からは、映像コンテストやギフテッド向けのプログラムで優秀な成績を収めたとして、2年連続で表彰を受けた。世界屈指の医学部を有し、最難関大のひとつであるアメリカのジョンズ・ホプキンス大学のギフテッド向けプログラムでは最優秀の成績を収めた。 都央さんの経歴には、こうした数々のきらびやかなものが並ぶ。一方で、幼いころから集団での生活にストレスを感じ、適応に苦しんできた。現在は週に2日ほど学校に行く「選択的登校」をとっている。 都央さんとの出会いのきっかけとなったのは、コロナ禍の一斉休校を機に不登校になった子どもたちを紹介した連載だった。連載が朝日新聞に掲載された21年11月、一通のメールが届いた。 「『不登校は問題』『学校には行かなくてはならない』という考えに疑問を持ちます。 僕は、勉強は好きです。友達と遊ぶのも好きです。でも、ずっと学校に行くのは好きではありません。今日は、午前中は勉強をして、午後から美術館に行く予定です。こんなスケジュールを考えるとワクワクしてきます」 大人びた文面に書かれた自己紹介には、小学4年生と書いてあった。学校に行かないといけない現状を憂う文章と書かれた学年が一致しなかった。 メールの差出人が都央さんだった。ちょうどメールをもらう前からギフテッドに関する取材を始めていた折。もしかして、都央さんはギフテッドではないだろうか。母親の純子さんとすぐに連絡を取り、やりとりをするうちに、都央さんが生まれつき飛び抜けた才能を持っていることが判明した。 Zoom取材での第一印象は、多彩な語彙(ごい)を操り、目を輝かせながらはきはきと答えてくれる小学生だった。だが学校生活に話題が及ぶと、次第に表情は硬くなっていった。都央さんの口から紡ぎ出される言葉は、学校という場がいかにつらいのかを物語っていた。 ■「行っても何も学ばない」 取材の前に都央さんがまとめてくれた「なぜ学校に行きたくないか」というチャート図がある。 「時間の無駄→行っても何も学ばない→つらいだけ」 「知っている→楽しくない→つまらない→つらいだけ」 だから、やりたいことを家でやりたい、そのほうが有意義と書かれている。都央さんにとって学校は「ありのままでいられない場所」となった。毎日登校することが負担になり、泣いて帰宅する日もあった。 どんな時に学校がつらいと思うのか。 授業で、海の生き物を描いて色を塗りましょうと先生が言った時、都央さんは、白いチンアナゴを描いて提出した。すると、先生からは「色を塗っていない」と言われてしまった。「白という色ですよ」と言ってもなかなか理解してもらえず、そこで諦めた。「自由に描いていいよ、と言われても理不尽な枠を決められているようだった」と感じた。 算数の時間に、指定された解き方以外のやり方を見つけても、言われた解き方の通りにしないといけない。 黒板は先生が書いた通りに書き写さないといけない。 「それが当たり前なんだから」。「言われたこと以外はしてはいけない」。そんなことを言われ、自分のアイデアを諦めることもある。がやがやと様々な音がする教室にいるだけで疲れてしまう。好奇心を抱くものを学びたいと思っても、それが叶わない。 ヘアドネーションのために髪を伸ばしていると、「なんで女子が入ってくるんだよ」と言われた。左右違う色の靴下をはいていくと「おかしい」と揶揄(やゆ)される。都央さんは「じゃあなんで左右同じ色をはいているのか、逆に聞き返したりします。たいてい答えられないです」と振り返る。 ■学校に行くことが解決法ではない 登校する時も、下校した時もつらそうな表情をしていた。「普通」の枠に押し込められ、そこから外れると指摘される。そんな学校生活を過ごす都央さんを見て、純子さんは「『自分らしさ』や『自分が好きなこと』を見つける機会が少なくなってしまうのは悲しいこと」と感じるようになった。 そうして、毎日登校するのではなく、疲れた時には「リフレッシュ休み」をとる。週に何日か学校に行く「選択的登校」という方法をとった。純子さんは悩みながら都央さんの思いを尊重したという。 「学校に行くのが当たり前で、なんとかして学校へ行かせようという風潮がある中で、息子にとって学校があんまり勉強できる場所じゃないようで。息子はすごく勉強したいのに、教室はザワザワしていたり、自分の学びたいことができなかったり。息子を見ていると、学校に行くことが解決法ではないと気づきました。自分の思い込みや世間体を気にして学校になんとしても行かせようと思わないようにしました」 二人でどうしたらいいのかと対話を重ねながら、選択的登校というスタイルにたどり着いたという。 (年齢は2023年3月時点のものです) 【後編】小学1年で息子が「IQ154」と発覚したときに母親は何を思ったのか 「ギフテッド」の子ども持つ親の“本音”に続く
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小島よしおが「なんで本を読まないといけないの?」と聞く中1女子に伝えたい、意外な“理由”とは
「なんで本を読まないといけないのか」という相談を送ってくれたのは、中学1年生の女の子。数多くの子ども向けライブを開催し、YouTubeチャンネル「おっぱっぴー小学校」も人気の小島よしおさんが子どもの悩みや疑問に答えるAERA dot.の本連載。月に5~8冊読んでいるという小島さんが考える、本の魅力とは? 読書の時間が楽しくなるヒントも聞きました。 * * * 【相談40】なんで本を読まないといけないのか。学校でも「読書の時間」というものがあり、日本語と英語の本を読むように言われている。いまではほとんどの人がスマホを持っているのに、わざわざ本を買わなければいけない理由を知りたいです。(ぷりん・中学1年生・女子) 【よしおの答え】 ぷりんピーヤ、いろんな情報の受け取り方がある時代に、疑問を持てるってすばらしい!ぷりんちゃんが言うように、いまはスマホがあればすぐにいろんな情報にたどり着くことができる。ネット検索すれば知りたいことの答えはだいたい出ているし、もっと詳しく知りたかったら誰かが動画で解説してくれているし、もちろん電子書籍もあるからね。 だけどいまでも多くの学校が読書を推奨していると思うし、学校には図書館が必ずあるよね。よしおが小学生のころから「本を読もう」とは言われていたし、誰の言葉かわからないけど「本は心の栄養」って言ったりもする。簡単に情報を得られる世の中で、どうしていまだに読書がすすめられるのか、よしおと一緒に考えてみよう! まずはよしおの“読書体験”から話してみようかな。よしおは“読書家”って大きな声で言えるほどじゃないけど、本を読むことが好き。だいたい月に5~8冊は読んでいるかなあ。本を読むと新しいことを知ることができるのはもちろんだけど、“本を読んでいる俺、なんかかっこいいなあ!”って思うんだ(笑)。 よしおの後輩も、「明治神宮外苑のイチョウ並木(道沿いにイチョウの木がたくさん並んだ東京の名所だよ!)のベンチで村上春樹を読む自分に酔いしれていた」って言っていた。よしおも、大学時代は古めの喫茶店に入って芥川龍之介とか夏目漱石とかを読んで自分に酔っていたよ(笑)。「そんな目的で本読むの?」と思うかもしれないけど、これがけっこう充実した時間なんだ。 ■目で追いかけてページをめくる本の魅力 じゃあなんで本を読むとそんなに充実感があるのか、考えてみた。まずは、紙の本と電子書籍の違い。電子書籍は、スマホやタブレットが1台あれば何冊も持ち歩くことができるね。家でも、本を置く場所をとらないからスペースに余裕ができる。紙を使わないから環境にもいいかもしれないね。 ただ、スマホやタブレットには誘惑が多い。誰かからメッセージが来たり、SNSをついチェックしてしまったり……。一方本は重くてかさばるけど、文字を追うのに集中できる。誘惑がないからこそ、本の世界に集中できるんだ。 そしてなんといっても、紙の本は1冊読み終えると達成感がある。ランニングをして目的地に着いたようなね。物として実際に目に見えるから、「ああ、俺これだけ読んだんだなあ」って実感できるんだ。電子書籍もいいと思うけど、達成感を得たくて紙の本を読んでいるっていうのもあるかもしれないなあ。 じゃあ次にスマホで得られる情報と本で得られる情報の違いについて考えてみよう。ネットの情報はすぐに何かを知りたいときには調べればすぐに答えが出てくるからすごく便利だね。それに対して、本は読むのに時間がかかるけど、情報がきっちり整理されていてまとまっている。 ネットの情報が全て間違っているわけではないけど、正しいかどうかを見分けるのは至難の業。だけど本はいろんな人の目を通って出版されているから、信頼できると思うんだ。それに、自分の考えを整理したり、知識を深めたりするときに、切り取り記事よりも順序だてて物事を考える手助けになるのが本なのかな、って思う。 自分に蓄積される知識の量も違う気がするんだ。不思議なもので、ネットサーフィンをしていると情報がどんどん流れていってしまう感じがするんだよね。反対に本は、自分の目で追いかけて自分の手でページをめくるっていう能動的な行為だから、情報を自分で手にしている感じがする。そうすると、自分のなかでもどんどん知識が重なっていくのを感じるんだ。 本を手にする過程も、よしおにとっては大切な時間。ネットですぐに本を買うことはできるけど、よしおは本屋さんや図書館に行くのをおすすめしたい。自分が欲しい本以外にも、いろんな情報が一気に目に飛び込んでくる環境だから、とても刺激があるんだ。自分では気づいていなかったけど実は興味を持っていたことが目に入ってきたり、自分には興味がないことでも周りの人が興味を持っていることが何かわかったりする。それを体験するのが楽しいんだ。 ネットで本を買うのと比べて、入ってくる情報量が全然違うんだよね。寄り道ができるっていうか、余白を感じるというか。それを感じたくて、本が欲しいときにはなるべく本屋さんに行くようにしているよ。 ■本は読み切らなくてもOK! ここまで一方的によしおが思う本のすばらしさを伝えてみたけど、何かピンときたかな? 自分で実感しないとわからないことだから難しいかなあ。ところで、ぷりんちゃんの学校の「読書の時間」は決められた本を読むのかな。それとも読む本の内容は自由で、日本語の本と英語の本を自分で探してきて読むのかな。 もし自分で本を選べるなら、とにかくいろんなジャンルの本を手にとってみたらどうだろう。学生のころって、「本は最初から最後まで1冊読み切らないとだめ」って思い込みがあるかもしれないけど、もし読んでいる本が「ちょっと読むの苦しいな」って思ったらどんどん違う本に切り替えてOK! よしおも、同じ内容の本でも読む時期によって、読みやすいときとそうでないときがあるんだよね。その情報を欲しているときにスラスラ読めるのかも。喉が渇いているときっていっぱい水飲めるよね? そんな感覚に近いかな(笑)。 本って小説もあれば知識を得る教養系の本もあるし、いろんな人の経験や考えが書かれたエッセーとかコラムもある。本っていろんなジャンルがあるから、絶対に好きなものがある気がするんだよなあ。もし許されるなら「読書の時間」に複数冊机に置いて、いろんな本をかじり読みするといいかも。「これなら読める!」という本に出合えたら、そこから本を読む面白さや知ることの面白さを知ることができるかもしれないね。 決められた本を読まなきゃいけないなら、それをゲームにしちゃうっていう手もあるかな。例えば、決められた時間に何ページ読めるか毎回ページ数を数えてみるとか、クラスの子と読んだ本の内容のクイズを出し合うとか。「このとき、主人公は何色の服を着ていたでしょう?」とかね。 そもそも本が苦手なようだったら、漫画や映像から入るのもありだと思うよ。よしおは湊かなえさんの『Nのために』っていう本はドラマが面白くて、もっと内容を知りたいと思って小説を買って読んだんだ。より作品を楽しめるし、ドラマで描かれていないストーリーも知ることができたよ。 だけど、必ずしも本を買わなきゃいけないってことはないし、読まなきゃいけないってこともないと思う。本を読まなくてもいいと思う人がいるのは別に悪いことじゃないからね。それに、「~しなきゃいけない」って義務のように感じて苦しいよね。 でも、学校で決められた課題をそう簡単に覆すことはできないから、せっかく設けられた時間なら「こうしたら楽しいかな」って考えられたらいいな、ってよしおは思う。それに、よしおは本のおかげで充実した時間を過ごせているから、少しでもその良さがぷりんちゃんにも届くといいなあ、と思う。本の楽しみ方って実はいろいろあるからね。ぷりんちゃんが相談を送ってくれたことをきっかけに、何かが少しでも変わったらうれしいな! ……って、僕は思うんだけど、君はどう思うかな? (構成/濱田ももこ) ●小島よしお(こじま・よしお)/1980年、沖縄生まれ千葉育ちのお笑い芸人。早稲田大学教育学部国語国文学科卒業。「そんなの関係ねぇ!」でブレーク。2020年4月からYouTubeチャンネル「小島よしおのおっぱっぴー小学校」で子どもの学習を支援する動画を公開。キッズコーディネーショントレーナーの資格を持ち、子ども向けのイベントを多数開催している。 【質問募集中!】小島よしおさんに答えてほしい悩みや疑問を募集しています。お気軽にお寄せください!https://dot.asahi.com/info/2021100800087.html
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「ギフテッド」ゆえに無視され、孤立した小中時代 40歳フォトグラファー女性が経験した“高い知能”こその苦難
さまざまな領域で特別な才能を有する「ギフテッド」と呼ばれる若者たち。だがその能力の高さゆえに、周囲からねたまれたり、いじめにあったり、無視されたりするなど、生きづらい人生を送ることも多い。フォトグラファーの立花奈央子さん(40)もそんなギフテッドのひとりで、かつてつらい体験をしたという。彼女はどのような学生時代を過ごし、フォトグラファーとして活躍できるようになったのか。その軌跡を紹介する。<阿部朋美・伊藤和行著『ギフテッドの光と影 知能が高すぎて生きづらい人たち』(朝日新聞出版)より一部抜粋・再編集> * * * ■「やっと光をあててくれた」 金髪の女性が歩いてきた。青い蛍光色のスタジャンを羽織り、スーツケースを引いている。「こんにちは」。明るい声で呼びかけられた。待ち合わせた人だと気づくのが遅れた私に、立花奈央子さん(40)は陽気に笑いかけてきた。 東京・新宿で写真スタジオを営むフォトグラファー。20代後半から、女装する男性を美しく撮ることをライフワークとし、これまで数々の写真展を開いたり、タレントのマネジメントをしたりしてきたという。他にもアイドルプロデュース、SNSブランディングなど、多彩な仕事を手がけている。 私が立花さんを知ったのは2022年春。立花さんが投稿サイト「nоte」に、「ADD(注意欠陥障害)を疑って調べたら、高IQ(ギフテッド)だった話」という文章を載せていたのを読んだ。「ギフテッド」とオープンにしている人は珍しい。インタビューを申し込んだ。 立花さんは「やっと光をあててくれて嬉しい」と言ってくれた。インタビューは2時間を超えた。生い立ちから、家族のこと、社会人になり心を病んだことなど、立花さんは質問の意図を的確に理解し、少々早い口調で、ざっくばらんに話してくれた。 ■一度読めばわかる教科書 立花さんは1982年、千葉市で生まれた。千葉市といっても沿岸の都市部ではなく、内陸部の田畑や牧場に囲まれた農村地帯。父は工務店を営み、母が店を手伝った。4人きょうだいの長女で、自宅には父の見習いの青年も住み込みで働いていた。幼児のころから読書とお絵かきが大好きな子どもだったという。 ただ、親や周りの評価は「変わった子」。目に入るものすべてに興味を示すからだ。例えば、活字を読んでいないと落ち着かず、ごはんを食べながら、食品のパッケージに書かれた栄養成分表示や、新聞を隅から隅まで読んでいたという。「全部目に入れてましたね。情報を吸収していないと気が済まない子でした」と立花さん。 小学校は、当時はまだ1クラス40人の大人数学級。立花さんは、授業は毎日、とても退屈に感じていたという。教科書をひととおり読めばだいたい理解できるのに、先生は、同じことを黒板に何度も書いたり説明したりする。「答えがすぐわかる問題をわざわざ出すのはなぜだろうと常々思っていました」。 授業中は、プリントの裏に落書きをして時間をつぶしていたという。鉛筆回しもよくやった。先生からは「態度が悪い」「もっと授業をちゃんと聞きなさい」と叱られたことを覚えている。学年が上がるごとに、退屈な授業や学校生活を、苦痛に感じるようになっていった。 勉強はしなくても、テストはいつも満点をとった。通知表は、体育以外はすべて「◎」。その代わり、同級生とは話が合わなかった。勉強していないのにできるからだろうか、いつの間にか嫌われていたという。 「無視されたり、工作でつくった作品を隠されたりしましたね。遠足の班分けは、いつも自分だけ最後まで残っていました。だんだん、自分が悪いことをしているからいじめられるのだと思うようになっていきました」 ただ、両親は学校に行くのは当たり前だという考えだったため、理由がなければ学校は休めない。「おなかが痛い」「頭が痛い」と言って学校を休むようになった。 中学ではさらに孤立した。同級生が話すアイドルや恋愛話にはまったく興味が湧かなかった。友達がいないと学校生活はつらいことばかりで、無理に話を合わせることもあった。だが、一人で「石に意識はあるのか」というテーマで漫画を描いたり、宇宙や時間についての専門書を読みふけったりすることのほうが楽しかったという。学校に行くよりも、母が買ってくれたパソコンで自身のサイトを立ち上げたり、当時はまっていた漫画「封神演義」のファンの集まりに行ったりするほうがよっぽど楽しかった。 小中学校ではどんな子どもでしたか。私が聞くと、立花さんはしばらく考えた。「みんなの『わからないこと』がわからず、浮いた存在でしたね。自分を否定されたくないからなんとか話を合わせようとはしていました。でも、心の中ではずっと生きづらさを抱えていました」 そんな息苦しさから解放されたいと、高校は「中学の同級生が誰も行かない」という理由で、千葉県内の進学校を選んだ。電車やバスを乗り継ぎ、通学に1時間以上かかる女子校。小中学時代を知る人はおらず、新しい友達はできた。見える世界も広がった。だが、勉強をすることが嫌いになっており、成績は良くなかった。 「ギフテッドといっても、勉強しなければ当然わかりません。周りは受験勉強を一生懸命しているので、どんどん差がつきました」 そもそも、立花さんには大学へ行く選択肢はなかった。父から「大学に行かせる金はない」と言われていたためだ。 ■心を削り続けた職場 最終学歴が中学の父は根っからの職人気質。また、4人きょうだいで、家計の苦しさから、父は娘を大学へ行かせようとは思っていなかったそうだ。「公務員になれ。自衛隊でもいい」。そんなことを父から言われていた立花さんは、言われるがまま高校3年で就職活動をし、東京都内の区役所に採用された。「自分のやりたいことよりも、相手が求めているものに合わせるような人間になっていました。自分が何をしたいのかは考えなくなっていた」という。 当時を、「泥の中にいるような感覚だった」と表現する立花さん。「他人とうまくいかないのは自分が悪いからだと思っていたんですよね。だから、いつのまにか自分のことを過小評価する人間になっていた」とも言った。 就職して一人暮らしを始めても、自分の居場所は見つけられなかった。 若手職員として、区のスポーツのイベント企画や高齢者福祉などを担当した。「公務員にあるべき服装を無理して考え、地味なスーツやブラウスを嫌々着ていましたよ」と笑う。 選挙の事務の仕事をして臨時の収入が入った時は、どう使おうか考えた末に、胸にタトゥーを彫った。だが、職場でそれが見えて上司や同僚に知られると、白い目で見られた。自分の好きなことをしても否定され、周りの視線や雰囲気に合わせ仕事をする日々が繰り返された。 1年ほど働いた19歳のある時、立花さんは心を病んで休職した。「公務員としてこうあるべきという枠にきちっと入らなければと思えば思うほど、自分の心を削っていっていたのだと思います」。 (年齢は2023年3月時点のものです) ※【後編】<知能が高すぎる「ギフテッド」で精神を病んだ40歳女性が見つけた希望 自ら望んで「閉鎖病棟」へ入った理由>に続く
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猿之助の両親の「薬物中毒死」に現役医師が疑義 「50~60錠では死に至らない」「意識を失っただけでは」
歌舞伎俳優の市川猿之助さん(47)と両親が自宅で倒れているのが見つかり、両親が死亡した「一家心中騒動」の余波はいまだ収まらない。猿之助さんは警視庁の聴取に「死んで生まれ変わろうと家族で話し合い、両親が睡眠薬を飲んだ」という話をしているという。警視庁の司法解剖では両親の死因は「向精神薬中毒の疑いとみられる」と報道されたが、24日発売の『週刊文春』は猿之助さんが両親に<ビニール袋をかぶせた>と報道した。現役の医師も「向精神薬で亡くなるのはかなり困難」と疑念を示した上で、「向精神薬を飲めば死ねる」という誤解が広がることは問題だ、と語る。 * * * 現在、警視庁は両親の死亡の経緯を調べるため、猿之助さんへの事情聴取を進めている。 「警察署が所有する施設で聴取を進めています。猿之助さんの話の内容は『家族会議を前夜(17日)に開いた』『死んで生まれ変わる』『両親が薬を飲んだ』など断片的なもので、自殺ほう助、自殺教唆などに当たるのかなど罪名は絞り切れていないようです」(社会部記者) 今後の焦点の一つは、薬物中毒になるほどの薬品を誰がどのように手に入れたのか、という点だ。 そもそも、向精神薬を大量に入手することはできるのか。 一般人が向精神薬をもらう際は、原則1カ月分しか処方されないようになっているが、薬を飲み切らずに新たに処方してもらうなどして、薬をためこむ人は少なくない。さらに、芸能人などの著名人となってくると一般人とは事情が変わってくることもあるようだ。 相馬中央病院内科医長の原田文植氏はこう説明する。 「猿之助さんほどの著名人の場合、病院に来ると騒ぎになるので、在宅医に診てもらうことはよくあります。また、毎月受診することも難しいでしょうから、本人の意向を受けて、一般の方々よりも長い期間の薬を出すことも考えられます。たとえ100錠を超えるような大量の薬が自宅にあったとしても、不自然ではありません」 では、その大量の薬はいったい誰のものだったのか。『週刊文春』では<猿之助が病院で処方してもらった睡眠導入剤>を飲んだと報じたが、他方で父・段四郎さんについては<認知症を患い>(週刊新潮)、<肝臓がんを患い>(週刊文春)などと書かれている。 認知症で夜眠れなくなっていたり、がんで不安を抱いていたりすれば、睡眠薬を含む向精神薬を処方されることもあると原田氏はいう。だが、同時にこう疑問を呈する。 「一般的に処方されている向精神薬は大量に飲んでも簡単には致死量に至りません。精神的に参っている人に処方される薬なので、それで自死できるようには作られていないのです。例え大量に飲もうとしても、体が拒否反応を起こして吐いてしまったりするので、そこまで飲めるかと言われると大きな疑問があります。特に高齢者であれば一層難しくなりますし、介護状態の人であればなおさら難しい」 週刊新潮では捜査関係者の話として<数種類の向精神薬を混ぜ合わせて一人あたり50~60錠ほど飲み込んだ>と具体的に説明をしている。この点について原田氏はこう見る。 「薬を混ぜ合わせて致死性を高めるような知識を猿之助さんが持っていたとは思えないし、そのような薬が処方されて自宅にあったとも考えにくいです。また、一般に処方される向精神薬を50~60錠飲んでも、まず死に至ることはありません。専門家の立場から言うと、向精神薬の大量摂取で死に至ることは『かなり困難』なのです」 もし薬による中毒でなければ、両親の死因は何だったのか。例えば、『週刊文春』の報道では、<両親はそれぞれ十錠ほどを口に含むと、間もなく意識を失った。猿之助は部屋にあったビニール袋を手に取り、その顔に被せてい>ったと伝えている。 猿之助さんは薬を飲んだ後に自らの命を絶とうとしたが「死にきれなかった」という報道もある。薬だけで自死することを想定していなかった可能性も残る。 原田氏はこう語る。 「猿之助さんの両親は睡眠薬などで意識を失ったあとに何らかの理由で亡くなったというほうが可能性があるのではないか、というのが私の見解です」。 原田氏が医師としてこうした見解を示すことには、大きな理由がある。事件の報道により、向精神薬について誤った認識が広がることを危惧しているからだ。 「事件を受けて、向精神薬を服用している患者さんから『大量に飲むと死んでしまうのか』という不安の声を多くいただいていますが、そんなことはありません。もし希死念慮がある患者さんが『この薬を飲むと死ねる』などという誤解が広がってしまえば、それは問題だと考えています」 両親はどうやって死に至ったのか。謎は深まるばかりだが、猿之助さんの口から真相が語られることが待たれる。 (AERA dot.編集部・吉崎洋夫) ※厚生労働省は悩みを抱えている人に対して、主に以下の相談窓口などの利用を呼びかけています。 ▼こころを落ち着けるためのWebページ ・こころのオンライン避難所 https://jscp.or.jp/lp/selfcare/ ▼電話やSNS による相談窓口の情報 ・#いのちSOS(電話相談) https://www.lifelink.or.jp/inochisos/ ・チャイルドライン(電話相談) https://childline.or.jp/index.html ・生きづらびっと(SNS 相談) https://yorisoi-chat.jp/ ・あなたのいばしょ(SNS 相談) https://talkme.jp/ ・こころのほっとチャット(SNS 相談) https://www.npo-tms.or.jp/service/sns.html ・10 代20 代女性のLINE 相談(SNS 相談) https://page.line.me/ahl0608p?openQrModal=true
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息子が語る黒川紀章と膨大な借金「とにかく努力の人だったと知った」
TOKYO FMのラジオマン・延江浩さんが音楽とともに社会を語る、本誌連載「RADIO PA PA」。今回は中銀カプセルタワーと黒川紀章さんについて。 * * * 銀座8丁目の中銀(なかぎん)カプセルタワービルが昨年姿を消した。11階建てと13階建て2棟に140個のカプセルユニットがあり、SONYのAV機器が据え付けられ、円形の窓が近未来を示し、一つ一つのカプセルの中で日々の生活が営まれていた。 新陳代謝を意味する建築運動「メタボリズム」のリーダーだった黒川紀章はその象徴として中銀カプセルタワーを設計、1972年に竣工した。「時代の変化に沿って建物は変化し、増殖していくべきだ」。カプセルを交換しながら200年維持する構想だったが、どれか一つを取り換えるのが難しく、全てを一挙にという手法も所有者の意見がまとまらなかった。 時代に建築は即応するべきと黒川が唱えたが、このビルの消滅は衰退の一途を辿(たど)る日本のディストピアを示していた。これもまたメタボリズムなのだろう。 ギャラリーを営んでいる友人から誘われた。軽井沢にカプセルが遺(のこ)されているという。山の中腹で待っていると、先導のためにスポーツカーが下りてきた。「こんにちは」。降りてきた黒川未来夫(みきお)は長髪でロックミュージシャンのような風貌だった。世界に名を知られた建築家の息子は50代半ばだが、切れ長の目は父に似て鋭い知性を感じさせ、少年のような印象を持った。「カプセル建築は可能性が無限。都会にそびえ立つ中銀カプセルタワービルに対し、小さなサマーハウスを作ることでその可能性を示したかったようです」 外から眺めるとサマーハウスは森の中でひっそり呼吸しているように見えた。国内外で出版された黒川紀章作品集、レコード……。そこかしこに父の匂いのする品々が置かれた部屋で彼は話し始めた。 「父の周辺にはいたくなかったんです」。受けたのは東京藝術大学だが、建築ではなく美術学部。「藝大? 受かるわけない」と父の言葉も聴こえてきたが「2浪の末、合格しました。美術学部絵画科油画専攻です。この科が日本で現代美術を勉強する上で適した場所だと聞いていたから」 父が亡くなり息子は父の会社を継ぐが、そこには膨大な借金も残されていた。 「父は世界のコンペで闘い続けていた。そのためにも運転資金を必要としていたんですね。父が死ぬとたちまち資金が枯渇して……」 父の会社で激務の中、役員、社員から父のことを毎日のように聞く日々が始まった。もちろん良いことばかりではない。怒鳴られたり、叱咤(しった)されたり。殆(ほとん)ど知らなかった父の日常が見えてきた。「睡眠は3時間以内。それ以外は事務所での設計か、本を書くか、読書か。とにかく努力の人だったと知ったのです」 息子は父の作品を語った。「森の中の空港というテーマで設計されたクアラルンプール新国際空港は連鎖する森のような機能に対するデザインが高い次元にあるし、大阪の国立文楽劇場には伝統的なディテールが編み込まれ、それでいて和の建築ではない。見事と思った」 改めて話を聴いたのは半蔵門のビルの一室。夕刻になり、隣の建物も彼の父の作品だと気づいた。そのワコール麹町ビルを見上げ、今度一緒に黒川紀章が関わった建築を観て歩きたいと思った。 延江浩(のぶえ・ひろし)/1958年、東京都生まれ。慶大卒。TFM「村上RADIO」ゼネラルプロデューサー。小説現代新人賞、アジア太平洋放送連合賞ドキュメンタリー部門グランプリ、日本放送文化大賞グランプリ、ギャラクシー大賞など受賞。新刊「松本隆 言葉の教室」(マガジンハウス)が好評発売中※週刊朝日 2023年6月2日号
週刊朝日
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雅子さま 園遊会で「帯留め」をひかえたのはなぜ?主催者としての「おもてなし」の心
東京・赤坂御苑で、天皇、皇后が主催する春の園遊会が開かれた。コロナ禍などにより4年半ぶり、令和になって初めての開催となった。あいにくの雨空となったが、和装をお召しになった皇后をはじめとする女性皇族からは、雨にぬれながら出席した招待客に対するあたたかな「思い」がうかがえた。 * * * 「当時は一緒に何かされることはあったんですか」 皇后雅子さまは、招待客の中で隣り合っていた平昌、北京五輪の金メダリストであるスピードスケート選手の高木美帆さんと、東京五輪で金・銀・銅のメダルを獲得した卓球選手の伊藤美誠さんに、こう話題を振った。 高木さんと伊藤さんは、互いに顔を見合わせてにこやかにうなずき、思いを口にする。 「夏と冬で……」「本日がはじめましてなので」 伊藤さんは、両陛下に目線を合わせてうれしそうに答えた。 「夏と冬の競技がこうして会うこともないので、本当にありがたいです」 強い雨が降りしきる日だったが、その場は笑顔とあたたかな空気に包まれた。 平成の時代に侍従として仕え、駐チュニジア、駐ラトビア特命全権大使などを歴任した多賀敏行・中京大学客員教授は、園遊会での雰囲気の変化に目をみはった。 「主催者の両陛下も招待者も、笑顔でよくお話しされるな、というのが第一印象です。昭和はもちろん平成の園遊会でも、招待者はもうすこし静かな雰囲気でした。その距離感が皇室への敬意を保持していた部分はあります。一方で、令和の両陛下の独特の和やかさが令和流の礎となっていくのでしょう」 ■装いから見える「お気持ち」 園遊会は、天皇と皇后の主催で執り行われる。女性皇族は、外交団への接遇の意味を込めて、和服と洋服を交互でお召しになる。 順序には規則性があり、ある年の春の園遊会が「和装」で秋が「洋装」ならば、翌年の春は「洋装」で秋が「和装」といった具合だ。前回2018年の秋の園遊会が「和装」だったので、今回の園遊会は「和装」となった。 雅子さまは今回、内廷皇族の菊紋である十六葉八重表菊(じゅうろくようやえおもてぎく)の三つ紋の訪問着をお召しだった。 昭和の時代から皇室に着物をつくり、納めてきた「染の聚楽」代表の高橋泰三さんは、雅子さまの思いを見て取る。 「お客さまを招く側は、控えめな装いが基本です。淡い水浅葱色の和服を選ばれたのは、主催者側としての心構えにかなっていらっしゃいます。 流水文様は、夏草や秋草と組み合わせて風景を構築する意匠。染めで仕上げた花は、初夏の草花である花菖蒲でしょうか。もう少し遅いとお召しになれませんので、ちょうどよい柄をお召しですね。菊とともに一部を金駒繍で仕上げられ、流水文様と品よく調和しています」 なかでも泰三さんが注目したのは、雅子さまの帯だ。皇太子妃時代から、和服に帯留めを合わせることはほとんどなかったという。 「本来は、帯留めや宝石は正式な場ではつけず、観劇や食事会などおしゃれとして和服を着る場合に楽しむものでした。主催者である皇后雅子さまが、帯留めもアクセサリーもつけていらっしゃらないのは、さすがでいらっしゃると感じました」 京都の着物には、薄く削りだした貝の真珠層を糸状に細く切って帯や着物に織り込む「螺鈿(らでん)織り」と呼ばれる技術がある。金の合金を1万分の1ミリの薄さまで薄く延ばす石川の金箔(きんぱく)や各地の染めや織り、刺繍など、着物は日本の伝統技術そのものだ。 「着物は、きらきらと輝く螺鈿織りや金箔、刺繍といった技巧が装飾そのものでしたから、石の宝石は必要なかったのです」(泰三さん) 平成の皇后であった美智子さまも、結婚から間もない時期を除いては、公務の場で和服に帯留めやアクセサリーをつけることはなかったという。 ■ファンが多い女性皇族も 一方で、女性皇族の装いのきらびやかさは、多くのファンを惹きつけている。 ひときわ目を引くのは、本振り袖をお召しの秋篠宮家の次女の佳子さまだ。 未婚の女性の第一礼装である本振り袖に三つ紋を入れた格式の高い着物姿。秋篠宮家の家紋は、十四弁の菊花と秋篠宮さまのお印である栂(つが)の枝葉を四つずつ円形に連ねた意匠である。洗いざらされて薄くなった柿色を表す洗柿(あらいがき)色の生地に、さや形の地紋が入った本振り袖だ。 「さや形は卍(まんじ)つなぎを菱状にくずした意匠で、地模様は日のさし加減や角度によって陰影を楽しむことができます。 優しい洗柿色に金彩を配した雲霞(くもかすみ)の文様。雲は雨を呼び豊作を招く吉祥柄。笹と菊、梅といった吉祥の草花を組み合わせたあでやかな柄行きです。 帯は、肩にかかったはねとふくらみのあるお太鼓が美しい、ふくら雀結びのようです。帯の裏地の緑に合わせた緑の総絞りの帯揚げと朱色の帯締めの配色が全体を締めています」(泰三さん) 園遊会の佳子さまは、雨が小降りになると小まめに傘をたたんでいた。すこし上半身をかがめて招待者と目線を合わせながら、笑顔を絶やすことがなかった。明るく快活、同時に相手への気配りを忘れない優しさが伝わる。 あでやかだが、どこかやさしい色と柄行き。佳子さまのイメージにふさわしい着物の装いだった。 実は、女性皇族の和装でファンが多いのは、常陸宮妃である華子さまだ。 この日は、草花と野鳥を描き出した訪問着に、裏雲取りの菱格子柄を配した帯の取り合わせ。「ひときわ目を引くのが、墨黒色と金の帯。こちらは本当によいお品です」と泰三さんは話す。 華子さまは、旧陸奥弘前藩主の津軽家の出身。若いころからごく自然に和装をお召しだ。2015年の園遊会では、羽ばたくカワセミを描いた訪問着が印象的だった。泰三さんの元にも「着慣れていらっしゃる。さすがは、華子さま」といった称賛の声が絶えないという。 次の園遊会では、女性皇族たちは「洋装」をお召しになる。また、あたたかな笑い声に包まれた場になりそうだ。 (AERA dot.編集部・永井貴子)
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「障害者はバカでいたらいいのかな」 IQ130台の「ギフテッド」で“ろう”の女性が小学生で受けた理不尽ないじめと葛藤
さまざまな領域で特別な才能を持つ「ギフテッド」の人たち。西日本に住む40代女性は、IQ130を超える知能を有し、耳が聞こえない「ろう者」でもある。持ち前の能力で勉強も日常生活も聴者と変わらないようにこなしてきた。それなのに、小学生時代にいじめの対象になった理由は、「聞こえないから」ではなく「聞こえないのにできるから」だった。<阿部朋美・伊藤和行著『ギフテッドの光と影 知能が高すぎて生きづらい人たち』(朝日新聞出版)より一部抜粋・再編集> * * * ■本当はわかる答え、書かずに出した 2022年8月、一通のメールが取材班に届いた。朝日新聞デジタルの連載「ギフテッド 才能の光と影」を読んだ読者からだった。フォトグラファーの立花奈央子さんの記事に共感したと感想を述べ、自身の経験をつづってくれていた。以下がその文面の一部だ。 「なかなか他の人に話せないことですが、私自身、ろう者で、後にIQ130台だとわかった者です。小2から一般の学校に通いました。先生や周囲の話していることが聞き取れない自分はわかって、聞き取れるはずの同級生はわからないことがとても不思議でした。テストで、本当はわかる答えを書かずに出したこともあります。 『聞こえない人が聞こえる人に認められるためには、勉強ができていないといけない』と信じている親と、『できることでいいことがあったためしがないから、できない自分でいたい』と思う自分との間でとても苦しかったです。(中略) 障害と、学識における「才能」の組み合わせは、とても生きづらいと思います。こういう人たちの存在はどれほど認識されているのでしょうか」 才能と、身体障害と、生きづらさ。「できない自分でいたい」と思わせたものとは何だったのか。聴者の私にはおよそ考えつかない視点だった。 メールをくれたのは、西日本に住む40代の女性。教員をしているという。すぐに、詳しくお話を伺いたいと返信すると、「才能のある身体障害児者に関心をもっていただいたこと、本当に嬉しく思います。微力ながらお手伝いさせていただきたい」と返信があった。 女性が住む、西日本のある地方都市へ向かった。 待ち合わせたのは、図書館が併設された文化施設。あてにしていた併設のカフェがコロナ下で閉店しており、施設に机とイスを借り、空きスペースで取材することになった。 直前に私からメールで「施設の駐車場の前にいます」と居場所を知らせたので、女性はすぐに気づいて、会釈してくれた。身長150センチほどの小柄な女性。清潔感のある白いシャツと薄ピンク色のマスクが印象的だった。当たり前だが、外見ではろう者であるとはわからない。 ■聞き取れなくても頭脳でカバー 女性は、先天性の難聴だ。3歳の時に「聴覚障害」と診断された。自身が初めてそのことを自覚したのは、4歳の時だったという。 「飛行機型のジャングルジムで遊んでいる時だったと思います。一緒に遊んでいる友達は、笑ったり、はしゃぎあったり、互いに反応しあいながら動いているように見えました。私は補聴器をしている間は少しの音は聞こえるけど、何と言っているかまではわからなくて。友達の相互作用の中に入れていない。ひとりぼっちになっているなと感じていました」 公務員だった両親は聴者だった。女性は幼稚園と小学校1年まではろう学校に通ったが、「聴者に慣れてほしい」という親の希望で、小2から一般の公立小学校へ転校したという。「体育館のステージに立ち、ろう学校と違ってたくさんの子どもが並んでいるのを見て、とてもワクワクしたのを覚えています。好奇心旺盛な子どもでした」 補聴器をつければ、少しの音は聞き取れた。先生や同級生が発する音と、相手の口の動きや表情、しぐさ、文脈などから意味を推し量り、少しずつコミュニケーションがとれるようになったという。 ただ授業中は、教壇から説明する先生の言葉は、距離があってほとんど聞き取れなかった。しかし勉強に関しては、あまり問題にならなかったという。学習の内容は、教科書を読めばほぼすべて理解できたためだ。 「ドリルやテストはだいたい満点でした。でも、テストは内容と時間を一方的に決められるので好きじゃなかった。夏休みの宿題は一日で終わらせていましたね。英語は、発音記号から(音を頭でイメージして)覚えていました」 ■「聞こえる」のにできないのが不思議 小学6年の時の通知表を見せてもらった。ほとんど「◎」の中で、5カ所だけ1~3学期を通して「○」の項目があった。 例えば国語では、「聞き手にも内容がよく味わえるように朗読する」「細かい点に注意して内容を正確に聞き取り、自分の意見や感想をまとめる」の項目は「○」。音楽では、「音の響き合いを感じて歌ったり、音色の特徴を生かして演奏したりする」が「○」だった。いずれも、聴力や発話が必要な項目だ。 耳が聞こえず、話すことも難しいのだから、できないのは当たり前だ。それなのに他の聴者の子どもと同じ基準で「○」と評価するのは、あまりに機械的すぎないか。そう思い、「学校ってやっぱり硬直的ですね」と感想を言うと、女性は苦笑いしながら言った。 「先生から通知表のコメントで『学習意欲低下』と書かれたこともありました。それはその通りなのですが、なぜ自分が勝手に教科書を先に進めて読んでいるのかということを知ろうとしてくれなかった。『聞こえないから、今どこを学んでいるのかわかっていないのだろう』と思われて、注意されることもよくありました。そうじゃないんだけどなあって」 女性にとっては、勉強はがんばってするものではなかった。ただ単に、教科書を読んでいれば、内容を理解でき、テストもできただけ。それが普通のことだとも思っていた。さらに言えば、耳が聞こえる同級生は、耳が聞こえない自分よりも、もっと勉強ができるはずだと考えていたという。 「先生が黒板に板書をしますよね。あれは、耳が聞こえない自分がノートをとるためにしてくれているのだろうと思っていましたから」 だから、テストの点数が自分より悪い同級生がいることが不思議だった。先生の話す内容を聞き取れない自分が理解できていて、聞き取れるはずの同級生がついてこられない状況が、理解できなかったのだ。「聞こえる人ってバカなんだ」と思うこともあったという。 ■ショックを受けたいじめの理由 そうこうしているうちに、同級生の目が冷たくなっていった。鬼ごっこで集中的にタッチされたり、集団無視されたりした。 「耳の聞こえる人たちって、なんでこんな効率悪いことするんだろうって不思議に思っていました」 5年生のある日。勇気を出し、学校のアンケートでいじめの被害を申告したことがあった。その後の保護者懇談で、担任の先生が、母にこう言ったという。 「聞こえないのにできるから、いじめられているようです」 女性はそれまで、同級生にいじめられるのは、耳が聞こえないからだと思っていた。耳が聞こえないから悪いのだと。それなのに、「聞こえないのにできるから」なんて、どう理解していいのかわからなかった。 「大ショックでした。それからです。障害者はバカでいたらいいのかな、そうすれば友達と仲良くなれるのかな、と思うようになったのは」 小学校の卒業式の時の写真を見せてもらった。同級生らと整列して後方を向いて立っている女性は、耳に補聴器をつけている。どこか、不安げな表情で斜め上を向いていた。 (年齢は2023年3月時点のものです) ※【後編】<「ギフテッド」で「ろう」の女性が教員になろうと思った理由 米国留学で出会った教授から伝えられた「救いの一言」>に続く
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市川猿之助、なぜ両親も…「母親は一生懸命に息子を応援」と鰻屋の女将 スキャンダル後の胸中とは
18日、歌舞伎俳優の市川猿之助さんと両親が自宅で倒れているのが見つかった。母親はその場で死亡が確認され、父・段四郎さんは病院に搬送後、死亡した。猿之助さんは意識がもうろうとした状態で発見されたが、現在は命に別状はないとされる。猿之助さんは歌舞伎界のトップ役者の一人で、両親にとっては自慢の息子。しかし、事件当日発売の女性週刊誌では、スキャンダルが報じられていた。思いつめた末の悲劇なのか。しかし、なぜ両親までも……。事件を読み解くための背景を探った。 * * * 市川猿之助さん一家が行きつけにしている東京・浅草の老舗の鰻料理店「うなぎ 小柳」。 雷門から徒歩4~5分くらいのところにある。 「うちの店はあと2年で創業100年なんですよ」 と女将は話す。そんな店に猿之助さんはやって来た。女将によると、猿之助さんが初めて来てから、かれこれ15年か20年くらいになるという。 「猿之助さんは鰻はうちの店以外は食べられないと言ってくれるのよ。『他の店で鰻を食べたら骨がのどにひっかかった』と言ってました。食べ歩きが好きな人ですから、自分に合う店を選んでいたんじゃないかな」 この店に通うようになったのはファンの差し入れがきっかけ。 「猿之助さんがまだ亀治郎さんだった頃、ひいきのファンがうちの店の鰻を、明治座で公演中の猿之助さんに差し入れたんですよ。それから猿之助さんがうちの店に食べに来るようになりました」 いつも必ず注文するメニューは決まっている。鰻重の最上級の「松」(税込み3520円)と「きも吸い」(税込み110円)。記者も同じものを注文して食べてみた。ご飯の上の鰻は柔らかい。甘くもなく、辛くもなく、さっぱりとしている。 「猿之助さんはビールは2人で1本くらい。それほど飲まれなかったですね」 父親の市川段四郎さんも母親も店に来たことがあるという。 「奥様はとってもかわいがっていて、息子さんを一生懸命、応援している人で、いつも息子さんの舞台を見に行っていました。うちの店には猿之助の舞台を見終わった後、和服で来ることが多かったですね。とってもかしこい方で、人を見る目がある。段四郎さんはやさしい感じの人でしたね」 猿之助が最後に来たのは今年1月14日(土曜)。 「1月の歌舞伎座公演の時ですね。午後7時頃、急に電話があり、4~5人で来ましたよ。2階でみんなで食べてました。元気な様子だったのに、こんなことが起きてびっくりしてます」 ◇梨園のスキャンダルは珍しいことではないが 両親は布団がかけられた状態で2階で発見され、猿之助さんは地下室で倒れていた。両親の死因は向精神薬中毒とみられている。 事件の真相は明らかになっていないが、猿之助さんの精神面に少なからず影響を与えたと思われるのが18日に発売された雑誌「女性セブン」(小学館)の報道だ。同誌では、スタッフや共演者、弟子へのハラスメント疑惑が掲載された。暴言を吐くなどのパワハラに加え、優越的な立場を利用した性的な強要があったという衝撃の内容で、発売前の同誌の取材に対し猿之助さんは「答える義務はありません」と答えたという。 報道の内容が事実なのか、事件の引き金が女性セブンの報道だったのかはわからない。ただ、報道と事件のタイミングから考えると、まったく影響がなかったとはいいきれないだろう。 一方、梨園のスキャンダルは珍しいことではない。例えば、中村芝翫(しかん)はたびたび不倫報道がされているほか、市川海老蔵も隠し子がいたことが報道で明らかにされている。業界に詳しい関係者は「歌舞伎界には昔から性に寛容なところがある」と話す。 「歌舞伎では男性が女形(女性の役)を演じるため、男女両方の芸を訓練していきます。その中で、性的な好みが男性や女性を行き来することがあります。歴史をひも解くと江戸時代に女形の修行の一環として少年が男性と関係を持つことが行われていました。今なら犯罪ですが、当時はこうしたことも芸の肥やしとされていたという歴史があります」 今回の事件では、父・段四郎さんと母親も亡くなっている。目立った外傷などはなかったとされる。世間では「なぜ両親も」といぶかしむ声があがっている。先の関係者は「『猿之助』の名前を汚すことに対して、申し訳ない気持ちを強くもってしまったのではないか」と、親子の心境を想像する。 「猿之助」とは、先祖代々襲名されている名前「名跡」(みょうせき)だ。猿之助さんは2012年に四代目「市川猿之助」を襲名した。名門「澤瀉屋」(おもだかや)を率いる立場だ。当然、その名は“重い”。「猿之助」家の芸風は、「古典的な歌舞伎を革新する進取の気風が持ち味」とされ、実際に猿之助さんはその名に恥じない活躍を見せていた。 父親の段四郎さんはセリフ回しと荒事系の所作を得意として、敵役や脇役などで活躍を見せる歌舞伎俳優だった。しかし、体調不良が続いており、長い間、舞台に立つことができていなかったとされる。 「一般の人たちからすれば想像はしにくいかもしれませんが、歌舞伎一本で生きてきた人たちにとって名前に傷がつくことは耐え難いことです。今回の報道がきっかけの一つとなり、段四郎さんも猿之助さんも『役者生命が終わった』と感じてしまったのかもしれません」 真相はどこにあるのか。 (AERAdot.編集部 上田耕司、吉崎洋夫)
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「同じ世界に生きているけど全然違う世界を見ている」 IQ130「ギフテッド」の息子に母が言った「がんばらなくていいんだよ」の言葉
視力と聴力が突出して高い特徴を持つユウ君(10)。【前編】では、それが感覚過敏で、視覚が狭すぎて文字全体が見えない、聴力が高すぎて音が刺さるように痛いという生活に苦しむユウ君の姿を紹介した。【後編】では、知能テストの結果で息子が「ギフテッド」だと改めて認識した母親が、彼の特別な能力をどう生かし、社会生活とどう折り合いをつけていったのかを追った。<阿部朋美・伊藤和行著『ギフテッドの光と影 知能が高すぎて生きづらい人たち』(朝日新聞出版)より一部抜粋・再編集> 【前編】<音が痛い、文字が見えない「ギフテッド」…感覚過敏で「もうがんばりたくない」と話す10歳少年の苦しみ>より続く * * * ■凸凹のIQグラフ 最初、母は自閉症を疑った。専門のクリニックに行った。だが医師は「相手の気持ちをくみコミュニケーションをとれる一方、感覚過敏で人と接するのが苦手というのは、当てはまる例がない。特殊ですね」と困惑した表情で言った。眼科や耳鼻科にも通ったが「異常はない」と言われたという。 とにかく情報がほしい。何が原因で、親としてどうサポートしたらいいのか知りたい。病院を回った。 小学校の養護教諭に勧められ、学校の近くにある小児科の心理相談に行ってみた。そこで発達専門の心理士に診てもらった。心理士はまず、ユウ君と雑談した。そしてこう言った。 「落ち着きぶりや受け答えが、小学2年生ではないです。学校では疲れてしまうでしょう」 そして、発達に関する検査を受けたほうがいいと言い、「WISC-IV」という知能検査を受けることを勧めた。 知能検査と聞き、母は少しためらった。検査は無料だというが、所要時間は1時間から1時間半ほどかかり、検査する人とユウ君が2人きりになることを伝えられたためだ。内容は「図を見たり言葉を覚えたり、簡単なもの」と伝えられていたが、知らない人と話すことが苦手なユウ君は、予想通り嫌がった。 「わらにもすがる思いでした」と母。ユウ君を「どんなふうに支援したらいいかを見つけるためのものだよ」と説得した。1カ月後に検査を受けることになった。 検査の日は大雨だった。雨が地面にはねる刺激だけで「痛い」というユウ君。なんとか病院に着き、検査室に入った。 検査室から出てきたユウ君は、黙り、つらそうだった。母に泣きつき、帰宅しても食事せず、何もやる気が起きずにいる状態が1週間も続いたという。「まだこの時は息子の目の異常がよくわからず、検査がどんなに大変だったか私も想像できませんでした。今ではかわいそうなことをしてしまったとも思います」と振り返る。それでも、検査の結果により、母が知りたかったユウ君のつらさの原因がわかっていくため、母は「本当に大事な検査でした」と話す。 ユウ君の検査の数値は、2人の意向で具体的には示さないが、母によると、言語理解はIQ130を上回った。一方、知覚推理が平均を下回っていた。その差は40以上あった。処理速度とワーキングメモリーは、平均より少し上だった。最高値と最低値の差が40以上あるのは珍しいという。四つの指標を折れ線グラフにして線で結ぶと、激しい凸凹になっていることがわかる。 これは何を意味するのだろうか。結果をもとに心理士から最初に言われたのは、「言語理解が高すぎる」だった。心理士によれば、差が15以上あれば、集団生活で生きづらさを感じることがある、と一般に言われているという。「もし(最も高い)言語理解が平均に近かったら、問題なく学校に通えていたかもしれないですね」と心理士は話し、こう続けたという。 「特に言語理解が高い子は、完璧を求める傾向があり、不登校になりがちです」 ■数値化された「生きづらさ」の一因 母は、まさにユウ君の一面を言い当てていると感じた。まさかこれほど高いIQが出るとは思っていなかったが、それ以上に、IQが高いことが生きづらさを引き起こす原因になっているなんて思いもよらなかった。母は「発達障害でしょうか」と聞いた。心理士も悩みながら「そう診断はできません。『2E』ギフテッドに該当すると思います」と言った。 ギフテッド? うちの子が? 母はふたたび驚いた。だが、そんな思いはすぐに打ち消した。ユウ君は、難しい計算を解いたり、複雑な漢字を書けたりするわけではない。成績も普通だ。独特な才能といえば、野鳥図鑑に載る670種を隅から隅まで記憶していたり、説明書を見ずにレゴブロックで小惑星探査機「はやぶさ」の形を組み立てたりといったことがあるぐらいだ。ペンを持たせると鳥の絵をずっと描き続けるということもあるが、これがギフテッドというには少し大げさすぎると思った。 心理士には、ユウ君にどんな障害があるのかは詳しくはわからないと言われた。その上で、フリースクールや2E教育に力を入れる支援団体などを紹介された。ただ「無理に学校に行かせないでください」とも言われた。いつかは学校に戻ってくれるだろうと考えていた母も、このことを境に考え方を大きく変えた。検査によって初めてユウ君の生きづらさの一因が「数値」としてわかり、納得できたからだ。 「検査がなければ息子のことを理解できないままだったと思います。子どもの言うことを信じて寄り添うことが本当に大事なことだとわかりました。そのことは今でも自分に言い聞かせています」 ■ゆっくり歩んでいくしかない もう一つ、ユウ君には不思議な感覚がある。母がそれを知ったのは、それから半年ほどたったころだ。 近くの物が見えていないのに、どのようにぶつからずに歩いたり野球のボールをつかんだりしていたのかと聞いた。するとユウ君は「波が伝わる」と言った。「ボールから波が伝わってくるでしょ。それで何とか」と。 「自転車に乗るのは?」と聞くと、「自分から出る波が、周りの物から出る波をキャッチし、世界が一瞬だけ透明のようになる」。それによって、あいまいだが周りに何があるかわかり、大まかな空間把握をしているのだという。 ただ、この波も強くなると「たたかれたり刺されたりするような痛み」を感じるという。 しかし、波と言われても、母にはもちろん理解できなかった。「みんな波の感覚はなくて、痛みも感じていないよ」と伝えると、ユウ君は落ち込み、泣いた。ユウ君は、みんながそうした感覚を持ち、痛みを我慢するのが当たり前だと考えていたのだという。母は落ち込んだ。学校でも、電車内でも、自宅でも、そんなつらい状況をずっと我慢していたなんて。気づくことができず、母は申し訳ない気持ちでいっぱいになった。 「『がんばらなくていいんだよ』と伝えることぐらいしかできませんでした」 ある日、ユウ君は自宅にあった渦巻き形のランチョンマットを抱きしめていた。「ぐるぐるがいい」と言った。また、自宅にある天然の水晶を持ってみると、楽な感覚になるとも母に言った。水晶の結晶構造はらせん状であることが知られている。お守りにして持ち歩いているという。 母は言う。 「息子は同じ世界に生きているけど全然違う世界を見ています。とにかく受け入れて、ゆっくりと歩んでいくしかないと思っています」 そんなユウ君が脚光を浴びる出来事が、22年3月にあった。 ユウ君が描いた鳥の絵が、日本の企業などが企画したデジタルアートのコンペティションで、金賞を受賞したのだ。世界中から1248作品の応募があったなかで、唯一の最高賞だ。ある審査員からは「ずっと見つめていたくなる不思議なパワーを持つ」と評された。最高額の賞金1万ドルが贈られ、オークションにも出品され落札されたという。 タイトルは、「カワウ型飛行都市」。 細かなタッチの線や点で、水鳥のカワウと一体化した城が飛び立つ姿を黒のボールペンで描いている。母によると、A4のコピー用紙に書いたその絵を、スキャンしてデジタル化し応募しただけだという。ユウ君は、受賞時のコメントでこう自分を紹介した。 <ぼくの目は、みんなと同じようには見えていなくて、とても狭い範囲しかわかりません。自分の絵も、全部は見えなくて、一部分だけ見えます> <小さいものは、とてもよく見えるので、ずっと遠くの方を飛んでいる鳥を見るのが好きです> 賞金は、ユウ君の意向で、国外の難民を支援する団体や、障害やケアが必要な子どもの支援団体、ネパールで視覚障害者を支援している団体などに寄付しているという。「息子のカメラを買うお金ぐらいは残してもいいと思っていて、話し合い中です」と母は笑いながら教えてくれた。 公園での取材から1カ月ほどたった22年11月。ユウ君は、視覚発達の専門医による視野の検査を受けた。視野が5度しかないことがわかったという。医師は、一般的に人の視野は180~200度あると言い、なぜそんな狭い視野で歩いたり物をつかんだりできているのか不思議がったという。 ユウ君と初めて会った時、母に手伝ってもらいながら話してくれた言葉を私は思い出す。 「これまで、一生懸命みんなに合わせちゃっていて、なぜ自分がそんなに疲れてしまうのか、わからずいろいろつらかったです。僕の努力と我慢が足りないと思っていました。でも今は、鳥を観察したり、絵や漫画を描いたりして、心の中を表現したりできることが楽しいです」 23年1月、ユウ君は特別支援学校に転校し、新たなスタートを切っている。 (年齢は2023年3月時点のものです)
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ミッツ・マングローブ「カミラ新王妃が蘇らせる特権階級意識」
ドラァグクイーンとしてデビューし、テレビなどで活躍中のミッツ・マングローブさんの本誌連載「アイドルを性(さが)せ」。今回は、「カミラ王妃」について。 * * * 英国の新国王チャールズ3世の戴冠式が行われました。昨年崩御したエリザベス2世による統治を継ぎ、これで英国(イングランド・ウェールズ・スコットランド・北アイルランド)の他に、カナダ・オーストラリア・ジャマイカなどを含む14カ国の君主・元首として即位した旨を内外に宣明した新国王。 中でも感慨深かったのが、これまではあくまで「国王の配偶者」という意味の「王妃」だったカミラ王妃が、此度の国王戴冠に伴い、晴れて正式に「カミラ王后」となったことです。 ここで故ダイアナ妃の存在を引き合いに出すのは野暮の極みですが、正直「カミラ王后陛下」の誕生を目の当たりにする日がやって来るなんて、26年前には想像すらできませんでした。「ブレずに生きる」ということは、時に厳粛で保守的な慣習や伝統すらも変えてしまう力があるのだと痛感した次第です。 エリザベス2世による長い統治の中で、英国王室は様々な変革を遂げてきました。70年前の戴冠式で、歴史上初となるテレビ中継が行われたのを皮切りに、女王・国王のクリスマススピーチの放送が毎年の恒例となり、最近ではYouTubeやSNSといったネットメディアを使った発信も盛んです。 エリザベス2世の夫であった故エジンバラ公や、息子であるチャールズ3世、さらには孫のウィリアム皇太子らが、時代に即した王室像を打ち出せたのは、連綿と続いてきた君主制・王制の「務め」に最後まで粛々と向き合ったエリザベス2世の揺るぎない存在感があったからこそだと言えるでしょう。 今の英国王室に一抹の不安を覚えるとしたら、それは「今後、保守と近代化のバランスを誰がどのように取るのか?」です。もちろん一般社会から見れば、どこの国の王室も超保守的伝統の上に成り立っているのは明らかですが、世間や時代の温度感に寄り添い過ぎるのは、王室の王室たる威厳や偶像を破壊しかねないことでもあります。 故ダイアナ妃の精神を受け継いだウィリアム皇太子夫妻の「積極的に市民と触れ合う姿をアピールする姿勢」も気になるところです。イギリスは、日本とは比べものにならないぐらい階級意識の強い国です。上流・中流・労働者と、歴然とした大別の概念が当たり前の社会において、王族はその頂に君臨する紛れもない特権階級であると同時に、英国の格式と歴史そのもの。 「特権は悪」と決めつけられてしまう現代社会において、王室が「質素・簡素」を標榜し、あらゆる方面へ配慮を示すことは、「特権階級として生き残る術」として大事なのは理解できます。しかし、あまり物分かりの良い顔をし過ぎるのも得策ではない気がします。意識改革とは、言うならば「妥協」であり「迎合」です。 新しい英国王室には、今一度「特権階級」の真骨頂を見せつけてほしいと願うとともに、私は生まれて初めてカミラ王妃に期待をしています。しきりに前髪を直しながら迷惑そうな表情を浮かべていた彼女の戴冠シーンは、「これぞ特権階級!」という傍若無人さに溢れていました。さらにあのグレイヘア。そこいらの庶民では出せないハリとツヤがあります。 ミッツ・マングローブ/1975年、横浜市生まれ。慶應義塾大学卒業後、英国留学を経て2000年にドラァグクイーンとしてデビュー。現在「スポーツ酒場~語り亭~」「5時に夢中!」などのテレビ番組に出演中。音楽ユニット「星屑スキャット」としても活動する※週刊朝日 2023年5月26日号
週刊朝日
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岸部一徳が語るザ・タイガース「『火のような後悔』があったのだろう」
通常、取材はほぼ受けない俳優・岸部一徳さんのインタビューが、本誌休刊のタイミングで実現。3回連載の第1回の今回は、ザ・タイガース前史からPYGまで、本誌編集長がお話を伺いました。 * * * 岸部の日課に最近加わったのが、ベースの練習だ。 「ここ10年、ほとんど触っていなかったからねえ。2曲続けて弾いたりすると指が疲れてくるんで……。6月までには間に合わせないとね」 2018年10月。興行主との集客に関する契約トラブルで中止となった沢田研二のライブから5年。6月に改めて、さいたまスーパーアリーナで開催される沢田の“バースデーライブ”に岸部はゲスト出演する。 「去年会った時に沢田から話があってね。あの時ドタキャンだと騒動になったでしょう? だから『いろんなこと言われたんで、きちっとリベンジしたい』と。それで『ああ、いいよ』って」 岸部と同じくザ・タイガースの元メンバー、森本太郎と瞳みのるもステージに立つ。13年のザ・タイガース復活ツアーには参加した加橋かつみは、今回出演しないという。 ザ・タイガース。1960年代のグループサウンズ(GS)ブームを象徴する伝説のバンドは、今年デビューから57年目を迎えた。 岸部とメンバーとの出会いは中学校時代にまで遡る。森本と瞳とは京都市立北野中学の同級生、それぞれ別の高校に進学したのち、瞳が連れてきて知り合ったのが加橋だ。 「森本とは一番古いし、まあ楽だよね。瞳も中学からいつも一緒だった。大っきいのと小っちゃいのの二人で」 牛乳配達のバイトを瞳に紹介してもらったこともあった。 沢田は岸部、森本、瞳の2学年下になる。 「あのころの一つ二つって大きいよね。沢田は本当におとなしくて。年下の遠慮もあったのかな。いまは全然ないけどね(笑)。沢田と一緒にやりだしたのが、運が良かったと思う。彼がいなかったら僕らは京都止まりだったんじゃないかな」 ザ・タイガースの原形は岸部と森本、瞳、加橋の4人が65年6月に結成したサリーとプレイボーイズだ(岸部の愛称サリーはリトル・リチャードの「ロング・トール・サリー」が由来)。加橋と森本はすでにギターが弾けて、瞳もドラムをたたいたので、岸部はベース担当に。初めて抱いたのは京都の楽器屋で手に入れた4万円の中古だ。練習は西陣の、日本舞踊の小さな舞台の設(しつら)えがあった森本の家が多かった。 「貸しスタジオなんて昔はないから。近所から苦情がくるので、アンプも通さないで、小さな音でね」 ほどなくバンド名をファニーズと変え、翌年、京都市内のゴーゴー喫茶「田園」で先輩バンドの坊やをしながら時折ステージで歌っていた沢田と出会う。 「僕ら4人は誰も歌えないと思ってたんでね。沢田に入ってもらって、ボーカルのいるバンドにしようとしたんだ」 ■5人のバランス 絶妙だった 海の向こうでは、62年にデビューしたザ・ビートルズが瞬く間に世界を席巻していたころだ。オーディションに合格し大阪・道頓堀のジャズ喫茶「ナンバ一番」に出演するようになるとファニーズはファンが増えていった。だが、当時17歳の沢田に後の“ジュリー”の片鱗はまだ見えなかったという。 「僕たちはファッションもアイビーとかコンチとか、全体的に『カッコいい』っていうスタイルを身に着けていたけど、地味~でもっさりしてるのが沢田だったからね(笑)」 だが、「いるかいないか、わからないような内気な少年」は、マイクを握ると不思議な光を放った。当時ブルージーンズにいた内田裕也が前座のファニーズに目を留めたことがきっかけで、渡辺プロダクションからのデビューへ繋がった逸話はよく知られている。 「5人のバランスが絶妙だった」と後年、内田は振り返っている。 大阪時代のファニーズゆかりの地として往年のファンの間で有名なのが、メンバーが下宿していた西成区岸里(きしのさと)の「明月荘」だ。 ここで、ちょっとした新情報をひとつ。 「住んでいたのは1年ほどね。二人で3畳一間みたいなところを3部屋借りたんですよ」と岸部。 3部屋? ずっと「5人で2部屋」と伝わっていますけれど? 「3部屋。僕は瞳と相部屋で、沢田は森本と。で、加橋かつみは一人。それでもかつみは時々、母親のいる実家に帰っちゃったりする。やっぱり共同で二人部屋とか、かつみにはしんどかったのかもわからない」 東京行きが決まると、京都の四条花見小路にある旅館で、メンバーの親も同席して渡辺プロとの契約書にサインした。親側のまとめ役は職業軍人だった岸部の父親が買って出た。66年11月。5人の若者の姿は、開業間もない新幹線の車内にあった。 彼らの人生は東京で一変する。作曲家すぎやまこういちの一声でザ・タイガースと改名し、翌年1月に日劇ウエスタンカーニバルに初登場すると、新宿「ACB」、池袋「ドラム」、上野「テネシー」など都内のジャズ喫茶は連日満員に。2月に出したデビュー曲「僕のマリー」の売れ行きは最初こそ凪だったが、セカンドシングル「シーサイド・バウンド」で人気は爆発する。68年1月のウエスタンカーニバル出演時には、ブルー・コメッツ、ザ・スパイダースら並み居る人気バンドの中でも一頭地を抜く存在となっていた。 「ようやくどうにか一番になったという感じでしたね」。後に沢田は自叙伝『我が名は、ジュリー』で語っている。 上京してわずか1年。飛行機での移動では空港に専用の出入り口が用意され、車で走れば警察車両が先導し、発車時刻に遅刻しそうな時はマネジャーが新幹線さえ止めさせた。 「いきなり、19やハタチで何もかも特別扱いになった。ちょっとやっぱり、生意気になってたでしょうね」 ■GSブームと70年安保闘争 岸部は嵐のような日々を述懐する。住む場所も合宿生活を送った千歳烏山の一軒家から四谷左門町、目黒の池尻大橋と、自宅に押し掛けるファンから逃れるように引っ越しが続いた。ベルベットのジャケットにフリルのブラウス、バレエダンサーのような白いタイツ風の衣装も着た。 「恥ずかしくはなかったよ。ああいう時はああいうふうになるの。5人並んで真ん中にジュリーがいるから一応格好がつく。僕が一人でタイツはいてたら、おかしいでしょ(笑)」 GS全盛期は、そんな時代だった。「でもね」。岸部は言う。 「むつかしいのは、一方では安保闘争をやっている」 東大生の樺美智子が命を落とした60年の安保闘争。学生による反体制運動は続くベトナム反戦運動へとなだれ込み、GSブームの最高潮は、一連の大学紛争が激化した70年安保闘争の時期にぴたりと重なる。 「そんな時に、こっちは女の子相手に音楽やってるわけ。ファンに男なんて誰もいないから肩身が狭い。その肩身の狭さは、外国のほうを見てどうにかしようとするわけですよ。ビートルズとかローリング・ストーンズとか、あっちだってキャーキャー言われてる。『あんなすごいグループと僕らも同じなんだ』と思いながら、やってましたね」 68年6月、「木島則夫ハプニングショー」で、当時社会問題化していたGSと長髪男子の象徴のごとくザ・タイガースが批判にさらされたこともあった。 番組ではアウェー感が演出され、観覧者として参加していた教諭から、「GSファンは大脳が弱い」などという“口撃”も続く中、岸部は毅然と言っている。 「若者を全然理解しないようなのは本当の大人じゃないと僕は思う。だからこれから僕たちが何十年か先、大人になった時は、もっと綺麗な大人になりたいと思います」 日本全体が大きくうねり、転換していた時代だ。変化はメンバーにも生じていた。 「ちょっとずつ考え方に差が出てくるよね。音楽的な趣向が合わないとかじゃなくて、プロダクションの給料制に対してどうだとか、人気に見合うものをもらっているんだろうか、搾取されてどうするんだとかね。周りに『あんたたち、取られてるんだよ』っていう人も出たりする」 アイドル性を重視した渡辺プロのプロモーションも、「日本一のバンド」を目指して出発したメンバー間で少しずつ軋轢(あつれき)の種となっていた。 69年3月、レッスン中に姿を消したまま、加橋は戻らなかった。岸部の弟、シローの加入は話題にはなったものの、すでに瞳の心もグループから離れていた。 「ある日、ウエスタンカーニバルの時に、日劇の奈落にピー(瞳の愛称)に呼び出されてね。『こんな所にいないで、一緒に京都に帰ろう』って言うんだよ」 岸部にはそのころ、すでにザ・タイガースの解散をにらんで、沢田たちと新たなバンドを組む企画が進行中だった。 <なんで帰らないといけないの? 帰ってどうするの? まだやること、こっちでいっぱいあるんだよ> <一緒に帰らないんだったら、お前とはもう会わない> <いいよ> <一生絶交だ> 「子どもじゃないんだけどね。そんなやりとりがあったね」 ■武道館での解散「帰れコール」 71年1月24日、ザ・タイガースは日本武道館でのコンサートを最後に解散した。 公演の後、親や歴代のマネジャーも呼んで、有楽町のガード下にあるちゃんこ料理屋でお別れの食事会が開かれる。内田裕也の主催だった。 会が終わると瞳は、表に待たせていた家財一式を積んだ2トントラックに乗り込み、京都からコンサートを見にきてくれていた中学時代の親友2人と共に去っていった。振り返りもしなかった。 「よくそんな、ねえ。次の日だっていいじゃない(笑)。あの決意はすごいと思うけど」 ザ・タイガースというグループで青春を無駄にしてしまったという「火のような後悔」があったのだろうと、岸部は友の心中を思う。その後、瞳は37年間にわたってメンバーはおろか、芸能界との一切の交流を絶つ。 解散後、岸部は沢田とともに、ザ・テンプターズの萩原健一、大口広司、ザ・スパイダースの大野克夫、井上堯之とPYGの活動を本格始動し2月1日にデビュー。解散コンサートから1週間後のことだった。 PYGが目指したのは本格的なニュー・ロックだ。沢田と萩原のツインボーカル、天才と言われた大野、ミュージシャンに一目置かれる井上も加わり、「GSとは全く違う、もっと上のものを目指そう」と、今までに増して前向きだった。だが──。 出演したロックフェスでは「帰れコール」が飛び、トイレットペーパーや空き缶がステージに投げ込まれた。 「この人たち、ちょっとおかしいんじゃないと思ったぐらい、排除された。GSの残党が金儲けで集まったみたいに思われてるわけだから。出てる方はそんなことないのにね」 GSのファンからも、ロックファンからもそっぽを向かれ、コンサートの客席はガラガラ。メンバーの多忙も重なり、PYGは自然消滅していった──とされているが、実情は違ったらしい。 ある日、岸部のもとに電話がかかってくる。 「俺は、もうちょっと、沢田には勝てないなあ」 声の主はショーケンだった。(次号に続く/敬称略) (本誌・渡部薫)※週刊朝日 2023年5月26日号
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西武・山川が書類送検で下位低迷の松井監督に「責任を負わせるのは酷」と同情の声
警視庁は23日、西武の山川穂高を強制性交等の疑いで書類送検した。山川は12日に登録抹消されて1軍復帰のメドは現時点で立っていない。西武は「当球団の選手が書類送検されたことは誠に遺憾であります。ファンの皆さまや関係の皆さまにご心配をおかけしており、誠に申し訳ございません」とコメントを出した。 スポーツ紙デスクは、山川の今後についてこう語る。 「現段階で有罪が確定したわけではありませんが、起訴される可能性が低いというわけでもない。相当処分でも起訴されるケースはあります。検察が起訴、不起訴の判断に半年以上かかることも考えられる。仮に不起訴となった場合も、グラウンドでプレーする理解が得られるかというと疑問です。西武は山川がいないものとして今後のチーム作りを考えた方が現実的だと思います」 NPBでは過去に性犯罪で解雇された事例がある。大洋の主力投手として活躍していた中山裕章が1991年オフに幼児への連続強制わいせつ事件を起こし、神奈川県警に逮捕された。大洋は球団幹部が中山と面談をした上で反省の色が濃く、将来的な復帰を見据えて中山に保留手当を支払うことを検討したが、セ・リーグ連盟は「処分が甘すぎる」と差し戻しに。契約解除となった。その後、94年に中日で支配下登録され、2001年まで中日でプレー。その後は台湾球界で活躍した。 当時の大洋を取材したスポーツ紙記者は振り返る。 「中山は間違いなく大洋の将来を背負って立つ素晴らしい投手だった。性犯罪という前代未聞な事件を起こした時はショックでした。中山の場合は被害者との示談が成立して検察側は起訴しませんでしたが、野球ファンの夢を裏切った、社会的影響の大きさを考慮した上で球界を離れることになった」 今回の事件で山川にも言い分はあるかもしれないが、ファンは裏切られた思いが強いだろう。愛妻家として知られ、家族を大切にするイメージが強かった。昨季は本塁打、打点の2冠に輝くなど、3度の本塁打王を獲得。球界を代表する和製大砲としての地位を築き、今年3月のWBCでは侍ジャパンの一員として世界一に貢献した。大会中は自身のインスタグラムでダルビッシュ有(パドレス)、大谷翔平(エンゼルス)、ラーズ・ヌートバー(カージナルス)らと写った写真を掲載。ベンチスタートが多かったが試合中に声を張り上げ、代打の切り札として奮闘する姿は多くの野球ファンの心をつかんだ。 だが、今回の騒動で「なぜ侍ジャパンを出場辞退しなかった?バレないと思ったのか」、「世界一に泥を塗ってしまう行為をしたのに、なぜ出場したのか」などSNS上には批判の声が殺到する事態に。 山川は順調に行けば今年中にFA権を獲得し、オフは複数球団による争奪戦が有力視されていたが、今後の野球人生は一転し、現役続行の危機を迎えている。 今季は4月上旬に右ふくらはぎの張りで3週間戦線離脱。5月2日に1軍に復帰したが、17試合出場で打率.254、0本塁打、5打点だった。チームも5月に入って下降線をたどり、下位に低迷。西武を取材するスポーツ紙記者は、こう語る。 「山川がいないからチームが低迷しているわけではありません。山川がいない時期が長かった3、4月は13勝11敗と健闘している。ただ、今後を考えると山川がいないのは大きな痛手です。松井稼頭央監督も大きな誤算だったと思います。西武はただでさえ戦力的に厳しい。投手陣はそろっていますが、昨オフに攻守の要だった森友哉がFAでオリックスに移籍して打線の迫力不足は否めない。ここで主砲の山川が想定外の形で起用できなくなり、周囲から色々な声が耳に入ってくるので野球に集中するのが難しい状況になっている。松井監督に低迷の責任を負わせるのは酷ですよ。チームを作り直すために2、3年の猶予が必要です」 西武は主力選手がFAで流出しても、若手の台頭で強さを維持してきた歴史がある。 「山川は今オフにFAで他球団に移籍する可能性も考えられただけに、半年前倒ししてチームを作り直す感覚で良いと思います。若手選手たちはレギュラーを奪うチャンスだと捉えればいい。松井監督が現役時代にメジャー挑戦した際は、中島宏之(現巨人)が遊撃の定位置をつかみ、エースの菊池雄星(現ブルージェイズ)がマリナーズに移籍した後は高橋光成が先発の柱になった。救世主となる若手の台頭が楽しみです」(民放のテレビ局関係者) 山川がいなくても、西武の戦いは続く。就任1年目の松井監督は大きな試練を味わっているが、「常勝西武」を再構築できるか。その手腕が注目される。 (今川秀悟)
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岸部一徳、赤ん坊の世話もした「社会復帰」と「俳優修業」
沢田研二に萩原健一といったスポットライトを浴びる主役を斜め後ろから見続けてきた岸部一徳さんの美学。それはのちに久世光彦、樹木希林との、人生を変える出会いからもたらされた俳優としての道で花開く。暗転、そして舞台転換。新たに目の前に広がった場所には、逡巡と雌伏の季節に岸部のうちに胚胎した感性を注ぎ込める映画やドラマがあった。本誌編集長が聞く独占インタビューの第2回。 * * * 「僕は主役の、やや後ろ気味に立って見ているのに慣れているから」 岸部は今回のインタビューで、何度かこんな趣旨の言葉を口にした。注目を浴びることが生業の芸能界にあって、前に出るよりも一歩引いて、観察しているほうが性に合っているのだという。 1971年2月、グループサウンズ(GS)の面々、沢田研二、萩原健一、大野克夫、井上堯之、大口広司と結成したPYGは、GSファンにもロックファンにも総スカンを食らい、デビューから一貫して苦戦した。 「俺はジュリーには勝てない」 萩原が岸部に電話でこう吐露したのは、コンサートで客席がガラガラという事態が続いたころだ。 萩原は電話口で岸部に言った。 「歌はやっぱりジュリーのほうが全然いい。俺はもうやめようと思う」 萩原はライブパフォーマンスを含めすべてが「カッコいい」、“ショーケン”だ。 「沢田も、自分にはないものをショーケンは全部持ってると感じていたんじゃないかなあ」と岸部。「でもショーケンには彼の思いがあったんだろう。映画の裏方をやってみたいと言っていたけど、『約束』(72年)で結局主役の岸惠子さんの相手役で出演することになった。それからショーケンの俳優人生が始まったんですね」 PYGの終焉を迎える。それは岸部にとって大きな転機だった。 その後は井上堯之バンドの一員として沢田のバックで演奏したり、「太陽にほえろ!」(72年~)や「傷だらけの天使」(74年~)のテーマも演奏した。充実して見える活動が却(かえ)って、「音楽をやめようか」という岸部の気持ちを後押しすることになる。 テクニックの問題ではない。レッド・ツェッペリンのベーシスト、ジョン・ポール・ジョーンズにも認められたと伝わるほどの腕前だ。 ■樹木との出会い 赤ん坊の世話も 「いや、それも別に直接会って言われたわけじゃないからね。大野さん、井上さんみたいに才能があるわけでもない。音楽に対して自分は何かやってきたかな、作曲とか、アレンジができるのか、そういう勉強をしてきたのか。考えてみれば自分は女の子にモテたいぐらいのところから始めたんだけどね」 たまたま運良く人気が出てここまで音楽を続けてこられたが、こんなことでいいのだろうか。 「気付かなきゃいいんだけど、気付きだすともう、やめたくなるのよね。『やめるんだったら、いつがいいのかな』なんて思いながら、1年ほどね」 逡巡の時代、演出家の久世光彦のすすめで出演したのがドラマ「悪魔のようなあいつ」(75年)だ。荒木一郎演じる冴えないバイク屋の主人の借金を取り立てるチンピラ・左川を演じた。 当時TBSの久世光彦の演出には瞠目した。 「左川たちが路地みたいなところで立ちションベンをする。すると『溜めといてくれよ』って。本当におしっこしながらセリフを言ってって言う。で、本番でセリフが終わって、出すものも終わって歩いていくって、確かにそうなんだけど、セリフとの寸法が合わないわけ。テストまで我慢して溜めた分だけ出ちゃう(笑)。それで終わるまで撮ってる。今では考えられないですよね」 「人前でしゃべるより黙っているほうが好き」という岸部が、この世界で60年ほどを過ごしてこられたのは、いつも人との縁があったからだという。 久世のすすめで樹木希林の事務所「夜樹社」に入り、俳優としてのスタートを切った。 「希林さんと大楠道代さんの面接を受けた。『あなたに合う役があったらお願いするけれど、うちは生活のために仕事取ってきたりは一切しない。それでも大丈夫?』『はい』なんて話をして。本当に何年か、ほとんど仕事はなかったですね」 結婚して、子どもも生まれたばかり。渡辺プロ時代は入っただけ使うような暮らしだったので蓄えも雀の涙だった。家賃の安い住まいに引っ越しを続け、「ぜいたくをしない、友だちとも会わない」と生活を切り詰めた。赤ん坊の世話もよくした。 「朝5時に起きてね。でも海の向こうではジョン・レノンも同じことをやってると思えばちょっとカッコいいかなと思ってましたね」 ■「社会復帰」と俳優修業の日々 当時、岸部を心配した沢田が、人づてに自分が使っていないマンションを無償で貸した逸話もファンの間で知られている。「できて間もない中野ブロードウェイの高級マンション。ガードマンが常駐していて、屋上にプールがあって、お隣は青島幸男さん。毎日毎日、プールで子どもとプカプカしたり、ブラブラブラブラ……。『タイガースのリーダーは優雅ね、やっぱり』なんて言われて。ただ、ちょっと管理費がねえ、月4万以上した。後で沢田に『高いよ』って言ったけど(笑)」 仕事に恵まれないこの時期が岸部にとって「社会復帰」の時でもあり、俳優としての土台にもなった。NHKのドラマ人間模様「続 事件 海辺の家族」(79年)に起用された時、「どうやって俳優の勉強をしたらいいか」と岸部が尋ねると、脚本家の早坂暁は「一日中バスに乗ってずっと人を見ていればいい。僕はそうしているんだ」と答えたという。 「久世さんは、ドラマの中で台所仕事みたいな日常を本当にやる人。新人の女の子がどうにも芝居ができないってなったら、ベテランの加藤治子さんが代わりにやって見せてくれたり。それをみんなも最初からずっと見ているので勉強になる。『技術的な芝居なんかしなくていい』って、まあ本当は僕ができないから言ってくれていたんだと思うけど、素のままで一生懸命やればいいんだと。そういう優れた人たちの中で出発できたのは恵まれていました」 「良質なドラマに出る」という樹木らの方針もあり、初期こそ数は少ないものの、久世を始め、深町幸男、和田勉ら名だたる演出家の作品に出演するようになり、少しずつ俳優としての地歩を固めていった。 大林宣彦監督とも縁が深い。「時をかける少女」(83年)以来、映画では一番多く起用された。余談だが、「時を~」で原田知世の相手役・深町一夫を演じた高柳良一は慶應義塾高校出身で、瞳みのるの教え子だ。 岸部のキャリアは、映画「死の棘(とげ)」(90年)をおいては語れない。日本アカデミー賞最優秀主演男優賞を受賞した、メルクマール的な作品だ。 「映画は監督の作品なので。あれはもう本当に、個人賞、もう付録みたいなもので」 本作で小栗康平監督から「セリフに感情を乗せると浅いものにしかならないので感情を乗せないほうがいい」と言われ、内へ内へと向かい、掘り下げる表現を求められた。現場ではその意味を掴みかね、食事も喉を通らずノイローゼ状態に陥った。岸部にとって小栗は、今でも最も尊敬する監督であり、この時の経験が俳優という仕事の礎になったという。 「要するに、心の中をちゃんと作れないとダメだということですよね。日常生活でも、言葉で伝わらない、置き換えられない気持ちの動きみたいなものがある。言葉として、セリフとして発する前の、体の中に、心の中に残っている状態のほうが深いんだ、と。そこを大事にしないといけないよと言われたことは、今でも残ってますね」 90年代に入ると年4~6本のハイペースで映画に出演していく。今回のインタビューに際し、岸部の出演作を振り返ってみたが、筆者が過去に見て印象に残った作品の驚くほど多くに岸部は携わっていた。 オファーを引き受けるかどうかは、監督や脚本によるところが大きいという。 「でも、これは好みもあるんでね。自分の考え、思い、感性みたいなものでこれはいい作品だなと感じるかどうか。監督が何を撮りたいのか。それが当たるとか当たらないとかあんまり関係ないですね」 「死の棘」以来の主演作となった「いつか読書する日」(2005年)では青木研次の脚本に惹かれ、緒方明監督の「自分の撮りたいもの、自分の思ういい作品を誠実に映画にする」姿勢に敬意を抱いたという。 「顔」(00年)、「大鹿村騒動記」(11年)、「団地」(16年)など、阪本順治監督作品も多い。 「映画はやっぱり面白いと思う。テレビも向田(邦子)さんの『阿修羅のごとく』(79年~)とかね、好きなものがたくさんあるけれども。テレビは日常の延長線上で時代を映していますよね。映画は若いころに見たものを何年か経って見てみたら、違う解釈で見ていたことに気付く。それが面白い。新しい発見というか、そのころにはわからなかったことがありますからね」 ■ひと癖ある役も市井の人の役も 映画愛を語る岸部だが、テレビドラマでの活躍ぶりも、改めて言及するまでもない。「相棒」には02年のシーズン1から9まで小野田公顕役で出演。「官房長」の呼称は、岸部の代名詞にもなった。 「『相棒』は最初のころはこんなに長く続くとは思わなかった。打ち上げのたびに水谷(豊)さんと『続けるために面白いことをやるのではなくて普通の刑事ドラマではない挑戦ってなんだろう』とか、『いちばん良い時に終わることもあるかもね』なんて話をしてましたね」 降板したのはなぜ? 「ある時プロデューサーとご飯食べた時にね、『僕、やめようと思う』って、ふっと言葉が出てね。なんでだろう」 演技派としての地位を固める一方、新進のクリエーターと組んだ仕事では、新たな一面も見せた。 大滝秀治との掛け合いもシュールなキンチョールや、木村拓哉と共演した富士通FMVのCMを覚えている人も多いだろう。 三木聡監督の「転々」(07年)は「岸部一徳」として出演。眼鏡屋の前で眼鏡を洗っている岸部一徳を見かけた福原(三浦友和)と文哉(オダギリジョー)の「あの人誰だっけ」「岸部一徳じゃない?」「岸部一徳を街で見かけると良いことがあるんだって」というやりとりがある。 「三浦友和さんはあの作品でキネマ旬報の助演男優賞に選ばれたから、やっぱり良いことあったよね(笑)」 12年から始まったドラマ「Doctor-X 外科医・大門未知子」の神原晶役では手術代回収時にするスキップも有名になった。同作は7期まで続いている。最近、岸部が出演するドラマは長寿になるという業界内での「新伝説」が生まれたとか。 ひと癖ある役柄のインパクトが強いが、市井の人の役でも深い印象を残している。 06年からのNHK朝ドラ「芋たこなんきん」では、田辺聖子がモデルの主人公の祖父で、写真館を営む花岡常太郎を演じた。 仕事には厳しいが家族には優しく、浄瑠璃などの芸事も好きで温かみのある常太郎。 「僕の父に少し似ていたところもありますね」 岸部一徳の父、徳之輔は職業軍人で、終戦までは憲兵だった。 「戦争が終わってからは一度も定職に就かなかったですね。探偵の真似ごとをしたり、いろいろやったりしてましたけど。囲碁が好きだったから囲碁道場を開いてみたり。自分はお金がないんだけど、父の勝負に賭ける人がいて、勝つとすき焼きだったり。そういうのをいつもやってましたね」 岸部ら子どもたちも苦労は多かっただろう。 「どうなんでしょうね。みんな貧乏な時代だからねえ。うちは兄弟も多いんですよ。全部で10人くらいかな」 岸部はいったい、どんな幼少期を過ごしてきたのだろう。(次号に続く/敬称略) (本誌・渡部薫)※週刊朝日 2023年6月2日号
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大河ドラマ「光る君へ」に脚本家が不安のワケ「危険な企画だと思った」【後編】
大河ドラマ「功名が辻」(2006年)、「セカンドバージン」(10年)、「家売るオンナ」(16年)、「星降る夜に」(23年)など、数多くの人気ドラマの脚本を手がけてきた脚本家の大石静さん。6月22日から、宮藤官九郎さんとの共同作「離婚しようよ」がNetflixで配信されます。さらに、来年の大河ドラマ「光る君へ」の脚本を担当する大石さん。作家の林真理子さんが、まさにいま、執筆中である「光る君へ」の舞台裏に迫りました。 * * * 林:「離婚しようよ」を書きながら大河ドラマも書いてたんですか。 大石:違います。私は一度に一つしかやらないです。連続ドラマは。 林:連ドラってすごく体力いるんでしょう。 大石:体力がいると言うより、過酷ですね。大河は、民放の5クール分あるんですよ。それをぶっ続けでやるの。いま私、来年の大河の第13話を書いてるんですけど、もうすでに死にそうって感じ。最後まで生きてるかどうかわかんないな(笑)。 林:来年の大河は紫式部ですよね。 大石:そうです、『源氏物語』じゃなくて紫式部の生涯を描きます。でも『源氏物語』も、昔、漫画で読んだぐらいの知識しかないからいちおう少しは勉強したんですけど、ほんとに紫式部はすごい芸術家だなと思いますね。林さんの『STORY OF UJI 小説源氏物語』も拝読しました。 林:ありがとうございます。 大石:私は宇治十帖(『源氏物語』54帖のうちの末尾の10帖)がいちばんおもしろいと思うんですよ。 林:私も、自分で言うのもなんですけど、あれはすごくよくできてると思う。 大石:よくできてる。いろんな方の現代語訳をチラチラと読みましたが、林さんのがいちばんおもしろかったです。 林:あの作品はフランスの心理小説みたいにしたんですよ。装丁もすごく美しい本にして。あんまり売れなかったけど(笑)。紫式部役は吉高由里子さんですね。 大石:吉高さん、平安顔でしょ。衣装合わせのときの写真、見せちゃおう。(スマホを見せて)ほら、カワイイでしょう。 林:すごくカワイイ! メチャカワ! 藤原道長の役は誰ですか。 大石:柄本佑さん。あの人、長身で、シュ~ッとしていて、むちゃくちゃ色っぽいんですよ。その色気がうまく出るといいなと思ってます。 林:『紫式部日記』を読んで、私たちと似てるなと思ったのは、紫式部って作家の目でいろんな人を見てるんですよね。偉い人の輿を担いでいる人がすごく苦しそうで、「あれは私だ」って言ったりする。あれを読んで私、1千年前の人がぐっと身近になった。 大石:そうですよね。フィクションじゃないと本当のことは書けないとか、そういうこともサラッと言ってて。彼女は、(藤原)道長のことを好きだったと、私は思うんですけど、彼に庇護されながらも批判するまなざしもあって、ほんとに『源氏物語』は哲学的作品だなと思いました。 林:大石さん、大河は何回目? 大石:2回目です。 林:「平安時代をやってください」ってNHKから言われたの? 大石:「大河をやってください。紫式部の物語で」って。私、「山本五十六とかやったらおもしろいんじゃないですか?」とかいろいろ言ったんだけど(笑)、「山本五十六だったらあなたに頼みません」みたいな感じだったんです。私、仕事はいつも即決なんですけど、今回はどうしようかなあと思ってすごく迷いました。 林:そうでしたか。 大石:「大河、やりたい、やりたい」って言ってるときは、誰も振り向いてくれず無視され続けていたけど(笑)、「こんなトシになって言われてもなあ」という気持ちと、平安時代って誰も何も知らないし、なじみのない時代を、視聴者が見てくれるのかと考えました。戦国時代だったら、こうなってああなって、本能寺で信長は死ぬってわかるので、みんな乗りやすいですけど。チャレンジングではあるけど、危険な企画だと思いました。史料もないし。だけど、私、70歳になって、この先こんなに「ぜひやってくれ」と求められることはもうないだろうと思うし、これを断ると後悔しそうで、イチかバチかやってみようと思ったんです。道長が書いた『御堂関白記』という日記があるでしょう。 林:はい、はい。 大石:あれは国宝かつ「世界の記憶」(旧記憶遺産)で、一般には公開されてないんですけど、それを見せてもらいに行ったら、道長に「書け」って言われているような感じがして、ゾクッとしました。 林:まあ、素晴らしいです。でも、平安時代の彼女たちってほとんど外に出てないで、ずっと家の中にいる。あの時代は合戦もないし、そういう中での大河ドラマって大変だと思う。そこは大石静流でどうにかしちゃうんですか。 大石:大河って戦国とか明治維新とか、必ずグッと変わるきっかけがあるけど、道長政権のときは太平の世だから目立った戦もないし、人の心の中の激動を描くしかないので、それをどう退屈させずに見せるかっていうのは難しいです。いままでの大河とはだいぶ趣が違うと思いますので、不安ではありますね。でも「ゴッドファーザー」と「華麗なる一族」を足したような、ゾクゾクする物語にするよう奮闘中です。 林:楽しみです。私、京都の風俗博物館で十二単を着せてもらったことがあって、「脱がされるときはどうするんですか?」って聞いたんです。そしたら亡くなった渡辺淳一先生も同じことを聞いたみたいで、「作家ってどうして着ることより脱がせることばっかり考えるんですかね」って(笑)。 大石:私もどうやって一瞬で脱ぐんだろうと思ってたんだけど、十二単ってわりと下の身分の女房たちの正装で、たとえば私たちがホテルでルームサービスを頼んだとき、運んでくる人はネクタイしてきちっとしてるけど、私たちはパジャマで受け取ったりするでしょう。そういう感じで、貴族ほどラクな格好をしていたらしいです。わりとペロッと脱げるらしいんですよ。十二単といっても、さすがに12枚はなくて7、8枚で、しかも全部脱ぐという感覚は、当時はなかったと思います。 林:『源氏物語』でも、廊下の隅でそういうことをしようとするじゃないですか。びっくりしますよ。 大石:現代ではびっくりだけど、あの時代は「はじめまして」という感じで女を抱くんじゃないですか。 林:あいさつ代わりに? 大石:そう。女も転職するみたいな感じで男をポンポン代える。いまのように不倫が糾弾されるような世の中ではなく、“何でもあり”という人間のパワーを感じますね。 林:でも、平安の人って、どうして顔も見ない人に恋い焦がれてラブレターを送れるんだろう。不思議ですよね。 大石:私もそれは不思議。 林:私が『源氏』の小説を書いたときに見てくれた山本淳子先生(平安朝文学研究者)は、手紙のやりとりをするときの香の焚き染め方、添えるお花、歌の素晴らしさ、筆跡の見事さ、そういう総合芸術でその女の人を好きになるんだから、いまみたいに「顔がカワイイ」とか、「スタイル俺好み」というのよりずっと美意識が高かったんです、っておっしゃってた。 大石:私もその話を山本先生に聞いたけど、夜は真っ暗で何も見えないんですよね。ブスでも勝負かけられていいなと思いました(笑)。 林:山本先生曰く、「長くて冷たい髪の毛を男の人が闇の中で捕まえたりするのもエロチックですよね」って。 大石:エロチック。真っ暗で見えないから、裸を愛でるってことはないんですよ。顔もどうでもいい。匂いとか手触りで判断する。そしてセックス自体がいいとなったら本気になっていくんじゃないですか。3日通ったら「結婚した」と言えるらしいですよ。 林:私、日大の仕事もあって、いま小説の連載は『平家物語』だけなんですけど、『平家物語』をやりたいなと思ったのは、昔、藤純子(現・富司純子)さんと尾上菊五郎さん(当時は尾上菊之助)がやった「源義経」……。 大石:ああ、昔の大河ね(1966年放送)。 林:それを見ていて、女の人たちが海に落ちていくときに、琴の音の中で金魚が……。 大石:金魚? 林:緋の袴で金魚みたいに沈んでいくあのシーンが子ども心に忘れられなくて、それから何十年もたって書きたいなと思って。 大石:なるほどね。あの戦で沈んでいく女の人たちがキラキラして金魚みたいだって、林さんのそういう感性はとんでもなく鋭いですね。そんなことはなかなか言えないですよ。 林:大河は、戦国の時代が続いたから、今度の平安、めちゃくちゃ楽しみ。男性の平安はあったけど、女性の平安は初めてだし。 大石:そうなんです。どうかうまくいきますように……。 林:大河を終えたら、少し体を休めようって思ってます? 大石:ちょっとはね。 林:でも、大石さんのことだから、きっと仕事のオファーがいっぱい来るんでしょう? 大石:それはどうかわからないけど、私、自分ですごく営業するタイプなの。いまスケジュールが空いてなくても、これと思うプロデューサーに局でひょっこり会ったりすると、「ぜひお願いします」って必ず言うの。 林:大石さんみたいな大物がそんなこと言うの? 大石:捨て身で営業するのが私の生き方。この人はいけそうだなとか才能ありそうだなと思う若い人には早めに言っておくの。何年かしたらそこから仕事が来るっていうことありますよ。 林:私たち、受注産業だもんね。大石センセイ、私の原作も何かお願いしますよ……、とか言って営業かけちゃって(笑)。 大石:基本、私はオリジナルしかやらないんですけど、大河で疲れたあとは原作もののほうがいいかも。そのときは渾身の力を込めてやらせていただきます。 林:うれしい。よろしくお願いします! (構成/本誌・唐澤俊介、編集協力・一木俊雄) ※記事の前編はこちら>>「宮藤官九郎は『すごくコワかった』 大石静が“嘆願”した意外な内容」※週刊朝日 2023年6月2日号より抜粋
週刊朝日
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雅子さまの皇后としての存在感 「目を見た瞬間、心がほどけた」と上白石萌音 全国赤十字大会で
皇后雅子さまが5月18日、東京都渋谷区の明治神宮会館で、名誉総裁を務める日本赤十字社の全国赤十字大会に出席した。日本赤十字社のアンバサダーを務め、大会で雅子さまと笑顔で言葉を交わした俳優の上白石萌音さんは「目を見た瞬間に心がほどけるのがわかりました。とても穏やかで気品に満ちていて、とても幸せな時間でした」と話した。皇后としての存在感とともに、雅子さまに笑顔が増えてきた。 * * * 公務の場で、雅子さまが笑う場面がぐっと増えた。 先日開催された春の園遊会でも、天皇陛下と雅子さまの笑い声が周囲に届いていた。それは緊張した招待者の気持ちを和ませるものになっただろう。 全国赤十字大会でも、雅子さまと上白石さんが終始、楽しそうな表情を見せていた。 大会の様子を取材した記者は「名誉総裁である雅子さまが受章者代表13人に有功章を授与する場面があります。受章者のひとりが何度かよろけた場面がありましたが、雅子さまは落ち着かれてお待ちになっていました。会釈もこれまでより丁寧にゆっくりとされていた。名誉総裁の皇后らしいご様子だったと感じました」と言う。 皇室の事情に詳しい人物は、こう話す。 「雅子さまの皇后としての存在感が増したのには、いくつかの背景があると感じます。ひとつは、愛子さまの存在でしょう」 全国赤十字大会への出席にあたり、天皇陛下と雅子さまは御所で日赤社長らから活動の説明を受けた。その際、福祉活動に関心のある長女の愛子さまも同席した。 「まだ皇后さまの体調には波があり、万全ではない。この先、内親王である愛子さまがご両親に寄り添い、支えていかれるとすれば、皇后さまにとっても心強いことと思います」(前出の人物) ■増えた大型の公務 さらに、大型の公務に携わる機会が増した影響もあると見る。 コロナ禍が収束に向かったこの1年の間に、公務が大幅に復活した。昨秋は国民体育大会(国体)で栃木県、国民文化祭のために沖縄県、全国豊かな海づくり大会で兵庫県と、地方を相次いで訪問。さらに英国のエリザベス女王の国葬に参列するために訪英した。国民や海外王室との交流が、皇后としての存在感を育んでいるのだろう。 雅子さまの体調について、昨年末に医師団は「ご体調には波があり、大きい行事のあとなどにはお疲れが残り、ご体調が優れないこともある」としている。その中でも天皇陛下の支えのもと、務めを果たしているご様子だ。 さらに6月は、天皇陛下と雅子さまにとって繁忙期に入る。 まず6月3日から1泊2日で岩手県を訪問。植樹祭に出席するほか、奇跡の一本松や東日本大震災津波伝承館、復興商店街の「キャッセン大船渡」など、東日本大震災の関連施設を訪れて、地元の人々と交流する予定だ。 さらに6月下旬には、インドネシアへの公式訪問が調整されている。今年は日本とASEANの友好協力50周年の節目の年であり、インドネシアがASEANの議長国を務めている。 元宮内庁職員で皇室解説者の山下晋司さんによると、平成の時代では一部の例外を除き、通常の国際親善のための外国訪問は4か月ほど前に閣議決定されていたという。 雅子さまも同行する方向で調整しているインドネシア訪問が6月下旬であれば、あと1か月ほどしかないが、閣議決定には至っていない。 「皇后陛下がご一緒されるとしても、ご視察先などを含めた全行程ではなく、歓迎行事、晩さんなど国賓接遇のセットメニューと一部の行事等にお出ましになる程度ではないかと思っています」(山下さん) ■6月にはご結婚30周年 そして6月9日には、両陛下ご結婚30年の節目を迎える。 ご結婚25年の際は、東宮御所で三権の長らを招いた祝賀行事が催されたが、ほかは身内の行事とご結婚を振り返っての感想が文書で公表された。ごく簡素なものだった。 今回はどうなのか。直近の予定との兼ね合いも考慮し、三権の長のあいさつや祝賀行事は行わない可能性が高いようだ。 まだまだご体調に波はあるものの、天皇陛下と雅子さまの笑顔が国民に届く機会が増えてきたのは確か。両陛下による令和流が、すこしずつ色を見せ始めているようだ。 (AERA dot.編集部・永井貴子)
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