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人生を終えるその日まで、その人らしく過ごせる拠点を ほっちのロッヂ共同代表・藤岡聡子
人生を終えるその日まで、その人らしく過ごせる拠点を ほっちのロッヂ共同代表・藤岡聡子 荒れ果て、渇き切った時期もある。その渇きは吸収の原動力となり、新しい風景を生み出した(撮影/小山幸佑)    ほっちのロッヂ共同代表、藤岡聡子。2020年に軽井沢に開業した診療所「ほっちのロッヂ」は、「好きなことする仲間として、出会おう」が合言葉。死にゆく人は弱い存在ではない。人生を終えるその日まで、その人らしくなれる生命の表現があると藤岡聡子は信じている。小学校6年生のときに亡くした父の「最期に何ができたか」を、今も探している。その渇きが、藤岡の原動力となっている。 *  *  * 華やかなブラウスに身を包んだ老婦人が、自慢の豆で珈琲(コーヒー)を淹(い)れていた。東京で老舗喫茶店を創業した経歴を持つという婦人は、誇らしげな顔で台所に立ち、慣れた手つきで珈琲をカップに注いでふるまう。「おいしい!」と口々に上がる声に穏やかに微笑んだ。  実は耳が遠く、軽い認知症の症状がある。だからよく見ると、婦人が熱湯を扱いソファに腰掛けるまでの一連の動作を、数人のスタッフがさりげなくサポートしている。歓声の輪の中で、ひときわ大きく目を見開き相槌(あいづち)を打つ女性が、この不思議な舞台の仕掛け人、藤岡聡子(ふじおかさとこ・38)だ。 「目の前の人が『こうありたい』と願う“表現”をかなえるために何ができるか。支える行動もまた“表現”であり美しい。ケアされる側だけでなくケアする側も、誇りをもって表現できる舞台を私はつくりたい。私の役目は『ケアする人をケアすること』だと思っています」  ここは「ほっちのロッヂ」。長野県軽井沢町の森沿いにある、診療所・訪問看護・病児保育・通所介護の機能を備えた、地域密着型の医療と福祉の拠点だ。入り口には虹色のフラッグと手作りの木製看板がかかり、一見すると、おしゃれな山小屋のよう。しかし、広く取られた玄関前のスペースが「救急搬送に対応するため」と聞くと、ここが医療施設であることを思い出す。医療や福祉の“あたりまえの風景”を塗り替える存在として、国内外から注目され、視察が絶えない。  使命として掲げるのは、地域で暮らす一人ひとりが、自分が望む生き方を生涯続けるためのサポート。「症状や状態、年齢じゃなくって、好きなことする仲間として、出会おう」が合言葉だ。 始業は朝8時のミーティングから。利用者の情報共有と申し送り後、契約書の整理、ヨガプログラムの名称決めなど、藤岡への個別相談が続く。「いいんじゃない。やってみ」「大丈夫? 深呼吸して」と声をかけて送り出す(撮影/小山幸佑)   「診察室」は2階に 森の中でも患者の話を聞く  特に終末期在宅医療の支援に力を入れ、常時100人ほどを定期訪問する。地元の軽井沢町のみならず隣の御代田町からも訪問の依頼が絶えず、昨年には、世界50カ国の医療福祉関係者が参加するカンファレンスで、第10回アジア太平洋地域・高齢者ケアイノベーションアワード Social engagement programme部門グランプリを受賞した。 9月末に開催したトークイベント「私たちのWell-beingとケアと文化、現在地の語らい」では、僧侶の松波龍源、内科医の占部まりなど多彩なゲストと対話を深めた(撮影/小山幸佑)    なぜここが「イノベーティブ」と評価されるのか。安宅研太郎が設計を手がけた建物の中に入ると、違いはすぐに感じられた。吹き抜けのある開放的な木肌の広間には、円形のローテーブルやクッション、畳の小上がり、正面には大きなカウンターキッチンが配され、鍋から湯気が立っている。大きな窓越しには、絵画のような森の風景。絵本や小説が詰まった本棚、ピアノやパーカッション楽器と並んで壁にずらりと吊るされたドライフラワーは「朝市で売る定番商品」で、奥には子どもたちが集まるアトリエもある。  さながら食堂のある文化コミュニティー施設。そういえば「診察室」はどこにあるのかと聞けば、階段を上がった2階の部屋がそうだという。その診察室は吹き抜けで広間とつながり、小窓から人々の談笑の声が届く。天気がいい日は縁側や森の中でも患者の話を聞き、常時三~五つのケアチームが地域を回っている。  他の医療施設にはなく、ここにある風景はいくつもあるが、中でも特徴的なのは「働く人たちの姿」だろう。医療職の目印となる「白衣」を着たスタッフが見当たらないのだ。医師も看護師も介護士も普段着のまま働くため、ここでは「ケアする人」と「ケアされる人」の境目が曖昧に。病院ではタブーとされがちな笑い声が飛び交う時間の中では、「日常」と「医療」の境目も曖昧になる。そして、自らの肩書を「福祉環境設計士」と名付けた藤岡もまた、その境界線に立つ人間だ。  メッシュカラーを入れた髪をなびかせ、古着の上着にアウトドアブランドのパンツを合わせ、長靴姿で、森をグングンと歩く。「幼い頃から冒険物語が大好きだった」と向ける屈託のない笑顔は、いかにも医療や福祉の“業界人”らしくない。しかしながら、この形容はある意味、正解と言っていい。なぜなら藤岡は、そのどちらの資格も有しない“素人”として、この世界に飛び込んだからだ。 「死にゆく人は決して弱い存在ではない。死にゆく人が人生を終えるその日まで、その人らしくなれる生命の表現があると信じている。多分、私はずっとその証明をしたくて、ここまでやってきたのだと思います」  藤岡が「死のあり方」にこだわるのには理由がある。小学6年生のときに、自宅で父親を看取った。そのときの暗く重たい感情が、心の底に沈澱している。 時間を見つけてアートに触れる。10月に訪れた「わたしのからだは心になる?展」(東京都千代田区)では、鏡とディスプレーの仕掛けによって身体感覚を揺さぶられる「小鷹研究室」の体験装置などに夢中に(撮影/小山幸佑)   価値観を変えたギャル時代 英語が立ち直るきっかけに  人を救う医師であり、芸術を愛し、頼れる存在だった父が、病に倒れた。1年半ほどかけて病院での治療の限りを尽くした後、自宅療養へ移行した。ベッドの上で日に日に痩せ細っていく父。同時に、家の中に笑いが消えた。「お父さんが病気なんだから冗談なんて言っちゃダメ」とたしなめられる意味が分からなかった。「患者」という名前がついただけで、弱い存在へと押しやられ、その人らしさを表現できなくなるのはなぜなのか、納得がいかなかった。 「お前たちだけでも楽しんできなさい」と、兄姉と3人だけで送り出されたクラシックコンサートや登山。山頂を父と眺めることができないのはなぜなのか。目の前に広がる風景は、生と死を分断する谷に見えた。最期に父をどう看取ったのか、あまり覚えていない。直視できない現実だった。ただ、「もっと父のためにできることがあったんじゃないか」という渇きだけが残った。  父の死後、母も体調を崩し、入院。兄と姉は進学で家を離れがちになった。藤岡は消化しきれない気持ちを抱えたまま髪を染め、ピアスの穴をいくつも開け、「ド派手なギャル」という着ぐるみで寂しさを隠した。不登校になり、やんちゃなグループとつるみ、自暴自棄に陥る日々。どんなにグレても「可愛い」と言ってくれた祖父母のおかげで道は踏み外さなかったが、「行けるところが他になくて」夜間定時制高校へ。その環境は、藤岡の価値観を変えるほどのインパクトがあった。  年齢がバラバラの同級生はみんな“ワケあり”。さらに昼間に働き始めたガソリンスタンドの同僚は、いわゆる「内縁の妻」として血縁のない子どもを育てていた。さまざまな事情を抱えながら、みんな懸命に生きていた。キャバクラやスナックのバイトも経験し、闇に落ちる大人を何人も見た。強烈な人生のサンプルに揺さぶられながら、自分の輪郭を求めたいという気持ちが芽生えた。  転機は兄に連れて行かれたロックバーで偶然出会った年上女性。流暢に英語を操り、外国人の恋人の存在やアメリカで弁護士になる夢を軽やかに語る姿に藤岡はすっかり撃ち抜かれてしまった。「This is a pen.」の構文さえまともに知らなかった藤岡は、すぐにバイトを辞めて英会話の勉強を始めた。「私さ、英語の勉強をやってみたいんだよね」と勇気を出して言ってみると、担任以外の教師も手放しで喜んでくれた。 「それまでの私は、真っ暗闇の中にいました。でも、足元には無限に広がる道があるのだと気づけたんです。単純な夢であっても『なりたい自分』を見つけてそれを語るだけで、家族や教師が『よしよし、頑張れよ』と無条件で応援してくれることがうれしかった」 車で送迎が必要な学校に通う3児の母の日常は忙しい。「子どもには難しいチャレンジをどんどんしてほしい。朝を迎えるたびに、今日1日をどう生きるかを考えようと伝えています」(撮影/小山幸佑)    大学の観光学科という進路があると教わり、進学を決めた。人は誰かに応援されるだけで、大きな力を発揮する。自身の変化によってつかんだ発見が、藤岡の現在の活動に深くつながっている。  大学ではこれまでの空白を取り戻すように勉強に打ち込み、本も山のように読んだ。知識を広げた延長で教育系の仕事に興味を持ち、急成長中だった経営コンサルティング会社から内定を取るも、希望していた教育事業撤退の報せを聞き、入社を辞退。持ち前のバイタリティーで、すでに募集を締め切っていた人材教育会社に面接を取り付け、アルバイトとして入社することを許された。 地域に交流の場をつくる 「パンクなアクティビスト」 「1年間のお試し修業」の名目で経理・企画・営業など全部門を回されたことは、藤岡にとって好都合だった。短期間でビジネスの全体像を習得でき、その後のキャリアに大いに役立ったからである。最後に所属した営業部門でノルマだった高額の商材を売り切って、社員登用の誘いを受けたが「ここではもう全てをやり切った」と退社した。  会社を辞めた後、友人から誘われ、介護ベンチャーの創業に参画したのが24歳の頃。住宅型有料老人ホームを立ち上げると聞き、「父を看取った自分だからできることがあるのでは」と直感した。「若いのに、老人福祉なんて偉いね」という褒め言葉はピンと来なかった。藤岡は、ただ自分の渇きを満たすために踏み込んだだけだった。父の最期に何ができたのか、「あのときの答えを知りたい」という渇きを。  就職活動期に出会ったパートナーとの婚約、妊娠と人生が大きく動き出した矢先、今度は母の末期がんが見つかった。兄姉と交代で三重にある実家で看病し、最期は病院で看取った。このときも「死」や「看取り」の正解は見つからなかったが、死にゆく母から目を背けず向き合った家族とは、遺された後も共に生きる同志になれた。 「人はいつか死ぬ。自分にとって大切な人もまたいつか死にます。日常の中に『死』を身近に感じられる機会がもっと増えれば、あのときの私が死にゆく父を恐れて戸惑うこともなかったのではないか。そんな仮説が、いつも私の中にありました」  同時に、「老人ホームにはなぜ老人しかいないのか」という疑問も抱えていた藤岡は、「地域で暮らす人々が共に過ごす時間と場所を増やしたい」と、地域で社会課題を話し合う活動を活発化していく。 (文中敬称略)(文・宮本恵理子) ※記事の続きはAERA 2023年11月27日号でご覧いただけます
「夫は几帳面で私はおおざっぱ、だからピッタリフィットする」 将来は南極旅行が夢の夫婦
「夫は几帳面で私はおおざっぱ、だからピッタリフィットする」 将来は南極旅行が夢の夫婦 吉國隆行さん(右)と吉國真梨さん(撮影/写真映像部・和仁貢介)    AERAの連載「はたらく夫婦カンケイ」では、ある共働き夫婦の出会いから結婚までの道のり、結婚後の家計や家事分担など、それぞれの視点から見た夫婦の関係を紹介します。AERA 2023年11月27日号では、ファンリードでマネジメントから経営にも携わる吉國隆行さん、NTTデータ・スマートソーシングで不動産情報の編集を担当している吉國真梨さん夫婦について取り上げました。 *  *  * 夫39歳、妻36歳で結婚し、二人で暮らす。 【出会いは?】同じ互いにグループで訪れた、日本酒飲み放題の都内の居酒屋で知り合い、連絡先を交換。 【結婚までの道のりは?】出会いから1カ月ほどで交際を開始。当時、夫は「40前には結婚する」と友人たちに宣言していたようで、出会いからちょうど1年後に結婚。 【家事や家計の分担は?】家事の分担は、あまり決めておらず、お互い進んでやる感じ。家計は別々が基本だが、家庭で必要な出費は出し合う。 夫 吉國隆行[48]ファンリード ICTソリューション部 部長兼営業部部長・エクシーズ 取締役 よしくに・たかゆき◆1974年生まれ、大阪府出身。プログラミングの専門学校の講師を経て、IT業界に飛び込む。エンジニアとしてキャリアを積み、マネジメントの要請が強くなるにつれ、マネージャーにシフト。現在は経営にも携わる  妻を一言で言うと、小型犬です。世話が焼けるんだけど、かわいくて癒やされます。行動が何かとおもしろいので、一緒にいるといつも笑ってばかり。おかげで長く生きられそうです。  転職したい、と言い出した時には背中を押しました。それまで仕事のことを一切家庭に持ちこまなかったのに、よほど思うところがあるんだなと思いました。転職してからも大変そうですが、自分なりのアドバイスはしているつもりです。  私自身は仕事上の立場もあり、いろいろと1人で抱え込みがちですが、妻は「健康が一番。会社は辞めたっていいよ」と明るく送り出してくれます。自分をわかってくれる人がそばにいてくれるのはありがたいことですね。  2人とも食べたり飲んだりするのが好きで、週末は外でおいしい食事とお酒を味わいます。2次会は家です。録りためたテレビ番組などを見ながらゆっくり飲みます。年に数回の旅行も楽しみの一つ。将来は一緒に南極に行こうね。 吉國隆行さん(右)と吉國真梨さん(撮影/写真映像部・和仁貢介)   妻 吉國真梨[45]NTTデータ・スマートソーシング 不動産情報サイト「HOME4U」編集担当 よしくに・まり◆1978年生まれ、名古屋市出身。日本大学芸術学部卒。出版社で情報誌の記者・編集者などを経て、WEB専門のニュースサイトに転職。12年勤めたのち、2023年5月から現職。オリジナル性の高いコンテンツを制作 私たちはすべてが凹と凸です。夫は几帳面なタイプで、人生設計もお金の管理もすべてきっちりしています。私はかなりおおざっぱなタイプ。だからピッタリフィットするんだと思います。  転職を考えたのは、前の会社でやれることをやりきったからです。自分がこれまでやれていないことに新たに挑戦しようと思いました。転職にはリスクもありますが、失敗しても帰る場所があるので思い切って前に進めました。  夫は夫であるだけでなく、父親のような、兄のような、友だちのような、恋人のような、そんな存在です。1人で全部の役割を果たしてくれています。お得です(笑)。  そうやって夫がかじ取りをしてくれるからこそ、仕事に全集中できるメンタルと体力を維持できます。苦手なこともどうしようもない自分も受け入れてくれる夫がいるから、明日からまた頑張れます。  結婚がすべてという時代ではありませんが、私の人生では夫と出会えたことが間違いなく一番の幸せです。 (構成・浴野朝香) ※AERA 2023年11月27日号
国内史上最悪の「三毛別ヒグマ事件」は“人災”だった 無防備で生息域に送り込まれた入植者の悲劇
国内史上最悪の「三毛別ヒグマ事件」は“人災”だった 無防備で生息域に送り込まれた入植者の悲劇 「三毛別ヒグマ事件」が起こった場所に展示されているヒグマのレプリカ。住居を襲う様子を再現しているという=8月、北海道苫前町    今月2日、北海道南部の大千軒岳(福島町、標高1072メートル)を登山中だった北海道大学の学生が、ヒグマに襲われて死亡した。道内でのクマによる人身被害を振り返ると、明治から大正にかけての開拓時代に重大な被害が多発している。なかでも1915(大正4)年に起こった「三毛別(さんけべつ)ヒグマ事件」は、死者7人を出した日本史上最悪の獣害事件だ。さらに23(大正12)年の「石狩沼田幌新事件」では3人が亡くなった。悲劇が繰り返された理由を、専門家は「ある意味、人災だった」と指摘する。 *   *   * 「三毛別ヒグマ事件」は、作家・吉村昭のドキュメンタリー小説「羆嵐」やテレビドラマ、マンガなどで紹介され、広く知られるようになった事件だ。  事件が発生したのは道北の天塩地方、日本海沿岸の苫前村(現・苫前町)。  この地域は大正中期まで、ほぼ全域がヒグマの生息地。クマに襲われた2軒の開拓農家は、三毛別川の河口から20キロほどさかのぼった、そんな山間部で暮らしていた。    第一の事件は12月9日の昼前に起こった。突然、沢の近くにあった家屋(太田家)に巨大なクマが侵入。在宅中の妻と男子を襲って殺した後、妻の遺体を運び去った。  翌日、捜索隊は130メートルほど離れた地点で、ササなどを被せた遺体と、その近くにいたクマを見つけた。遺体のほとんどは食べ尽くされ、頭と四肢下部を残しているにすぎなかった。クマは捜索隊に向かってきたが、鉄砲などで反撃されると立ち去った。  取り戻された遺体は太田家に安置されたが、その夜にあった通夜の最中、クマが再び襲ってきたのだった。     【こちらも話題】 国内史上最悪の「三毛別ヒグマ事件」は“人災”だった 無防備で生息域に送り込まれた入植者の悲劇 https://dot.asahi.com/articles/-/207250    なぜ、クマは攻撃を繰り返したのか? 「ヒグマは捕獲した獲物に対して強く執着します。遺体にササをかぶせるのは『自分の食べ物だ』という印です。クマはそれを取り戻そうとしたわけです」  長年、ヒグマの生態を調査してきた北海道野生動物研究所の門崎允昭(まさあき)所長は、こう説明する。     三毛別ヒグマ事件の復元地=8月、北海道苫前町    クマは棺桶をひっくり返したが、空砲を撃つなどしたところ、外へ逃げた。  ところがその直後、第二の悲劇が起きた。逃げたクマは森に帰らず、太田家の北500メートルほどのところにあった明景(みよけい)家に侵入したのだ。  この家には妻子6人のほか、同宅に避難していた4人、計10人がいた。ヒグマは1時間近く人を襲い続け、妊婦の腹から引き出された胎児を含めて5人が亡くなった。遺体のほとんどに食害が見られた。    14日、十数人の猟師による狩りが行われ、クマは太田家の北2キロほどの地点で射殺された。  門崎さんはこのクマについて、冬眠直前だったと見る。 「ただ、当時の新聞記事を読むと、痩せていたという記述はありません。ですから、特に食べ物に困っていた、という状況ではなかったでしょう。それでもヒグマは人を襲って食べる猛獣だということです」     【こちらも話題】 リアルな狩猟描写が話題の漫画「クマ撃ちの女」 作者が語る本当の怖さと怪物ヒグマ「OSO18」の“正体” https://dot.asahi.com/articles/-/12434   夏祭りの帰り道での悲劇 「石狩沼田幌新事件」も、北海道開拓時代の1923年8月21日に起きた。  現場となった沼田町は、「三毛別ヒグマ事件」が起きた苫前村にも近い。開拓民一家が夏祭りの帰りにクマに襲われ、食害された事件だ。  現在の留萌本線・恵比島駅跡の近くで太子祭が行われていた。村はずれの開墾地に暮らしていた村田さん一家ら5人は、祭りを楽しんだ後、帰路についた。そして午後11時半ごろ、川沿いの道を北へ4キロほど歩いた地点で突然、闇の中から現れたヒグマに襲われたのだった。    クマは抵抗した2人の息子を激しく攻撃した。ほかの3人は近くの家に逃げ込んだものの、クマはそれを追ってきた。窓に両手をかけて覗き込み、家の中へ入ろうとした。     「石狩沼田幌新事件」が起こった沼田町・炭鉱資料館に展示されている、牛を襲ったヒグマのはく製=沼田町提供    なんとかクマの侵入を防ごうと、シラカバの皮を次々と炉に投げ込み、部屋を明るくするともに、家を覗き込むクマに対して手当たり次第にものを投げ、大声を上げた。  クマは驚いた表情で顔を引っ込めたが、表口の戸を押し倒して、家屋へ侵入してきた。みな、梁の上や押入れ、便所の中に隠れた。  ところが、子どもの身を案じた妻がふらふらと屋外に出たところ、クマが襲いかかった。夫は我も忘れて外へ飛び出し、「ちくしょう、ちくしょう」とクマをスコップで乱打したが、まったく効果はなく、妻を引きずって笹薮の中へ入ってしまった。ヒグマは音を立てて食べ始めたが、誰もどうすることもできなかった。    朝になってクマが立ち去ったので妻の姿を探すと、下半身を全て食いつくされた遺体が見つかった。地面に倒れていた息子の1人も絶命していた。  翌22日に消防団と青年団などが警戒にあたったが、クマは姿を見せなかった。さらに23日、となりの雨竜村(現・雨竜町)から助っ人の猟師らが加勢した。そのうち一人が「俺が仕留める」と言って森へ入ったが、戻らなかった。   「石狩沼田幌新事件」でヒグマに使用されたとされる弾丸=沼田町提供    その間に警官や御料局員らが到着し、24日から総勢220人体制で本格的な討伐作戦が始まった。  午前11時半ごろ、林内を約1.5キロ進んだところで、クマが隊員を襲ってきた。負傷者を出したものの、隊員は発砲。クマは急所を打ち抜かれて動かなくなった。  行方不明になった猟師の遺体はそれほど離れていない場所で発見された。残っていたのは頭だけだった。  仕留められたクマは体長2メートル、体重340キロ。オスの老獣だった。その毛皮は現在も沼田町の炭鉱資料館に展示されている。     【こちらも話題】 「朝一番でシャッターを開けたらクマがいた」 秋田の「マタギ」男性75歳が語る“今年の異常” https://dot.asahi.com/articles/-/206039   「石狩沼田幌新事件」で射殺された体長2メートル、体重340キロのヒグマの毛皮=沼田町提供   クマに無防備だった入植者  道内では当時、クマによる人身被害が後を絶たなかった。それはなぜなのか。  門崎さんは、 「北海道はヒグマを害獣に指定していたにもかかわらず、住民に対してはクマ対策をまったく行っておらず、無防備だったんですよ」  と指摘する。  一方、役人らには「クマよけラッパ」が支給されていた。それは人の存在をクマに伝えるもので、豆腐屋のラッパのような甲高い音が鳴り響くものだ。ところが、開拓民に対してはクマよけラッパを支給することも、使用の奨励もしなかった。    一方、昔から北海道に暮らしてきたアイヌは、外出する際は「タシロ」と呼ばれる鉈(なた)と、「マキリ」という小刀を腰の左右に身につけていた。 「クマは人を攻撃する際、抱きついて頭をかじったり、爪で引っかいたりします。そのとき、どちらかの手が使えれば、タシロかマキリを突き刺せます。アイヌはクマに痛みを感じさせることで撃退できることを、経験的に知っていたんです」  最近の事例では、今年10月に道南の大千軒岳を登山中の消防士がクマに襲われた際、ナイフで目の周囲や首を突き刺すと、クマは逃げ出したという。  しかし、そのようなアイヌが培ってきたクマ対策は、開拓民に活かされなかった。   「石狩沼田幌新事件」でヒグマに襲撃された家=沼田町提供    さらに両事件では、クマは容易に家屋に侵入している。  当時は、家屋の窓や戸口の下に、くぎがたくさん突き出た板を置くといった侵入対策があったが、開拓民のどの家も無防備だった。  門崎さんは、ヒグマはライオンやトラと同じ食肉目に属する猛獣であることを強調する。 「行政はそれを踏まえたうえで、入植者にクマ対策を周知すべきでした。ところがそのような教育がまったく行われず、本州からやってきた人々をクマの生息域に送り込んだわけです。その結果、多くの犠牲者が出ました。なので、人災の側面が大きいと感じています」 (AERA dot.編集部・米倉昭仁)   【こちらも話題】 ヒグマの“恐ろしさ”を知らしめた「日高福岡大ヒグマ事件」とは 「土饅頭」に隠されていた遺体 https://dot.asahi.com/articles/-/206665  
雅子さまの「純白のドレス」をもう一度見られる 愛子さまの「いちごパフェ」も ご結婚30年「特別展」後期
雅子さまの「純白のドレス」をもう一度見られる 愛子さまの「いちごパフェ」も ご結婚30年「特別展」後期   祝賀パレードで沿道に集まった人々に手をふるおふたり。純白のローブ・デコルテが展示されている =1993年6月9日  リニューアルオープンを迎えた皇居・東御苑にある「皇居三の丸尚蔵館」。ここでは、皇室の国宝の品を公開する開館記念展と、天皇陛下のご即位5年と天皇、皇后両陛下のご結婚30年を記念した特別展示が開催されている。11月3日から始まった特別展は26日で前期が終了。11月28日から12月24日にかけて展示される後期のチケットは、11月24日より発売される。  後期の展示で注目を集めると予想されるのは、ご成婚の祝賀パレードで雅子さまが身を包んだ純白のローブ・デコルテだろう。おふたりのご結婚、そして長女、愛子さまの誕生と成長。一つ一つの品から、ご一家が歩んだ道のりと思い出が伝わってくる。 *    *  *  1993年6月9日。朝から降っていた雨はやみ、薄日が差した。午後4時45分、おふたりを乗せた黒塗りのオープンカーが皇居を出発し、ご結婚の祝賀パレードが始まった。「徳仁皇太子」の隣で手を振るのは、純白のローブ・デコルテに身を包んだ「皇太子妃」雅子さまだ。頭上にはティアラが輝く。沿道は19万人の人びとで埋め尽くされ、NHKと民放各社が中継したパレードの視聴率は、関東地区でおよそ80%を記録した。 パレードを終え、新居となる東宮御所に着いたおふたり =1993年6月9日  皇居三の丸尚蔵館では、11月28日から12月24日まで特別展の後期展示が始まる。注目の品のひとつが、雅子さまが「朝見の儀」と祝賀パレードで着用したローブ・デコルテだ。雅子さまは、ご結婚の一連の行事や儀式で何着ものドレスに身を包んだが、これは特別な品の一つだ。一般の結納にあたる「納采の儀」で、皇太子さま(現・天皇陛下)から贈られた生地で仕立てられたドレスである。  ドレスをデザインしたのは、デザイナーの故・森英恵さんだ。祝賀パレードで羽織った上着の襟元には、バラの花びらをアレンジした飾りが華やかに添えられている。  駐日大使からご結婚のお祝い品として献上された「宝石の木」も見ごたえのある品だ。ラピスラズリとトルコ石の台座に金版で世界地図が描かれている。台座に立つ大樹の枝には、アメジストやシトリンなど貴石が実のように垂れ下がっている。  前期後期で一部展示品の入れ替えはあるものの、全期間を通じて、天皇ご一家の思い出の品を見ることができるのだ。   もちろん、ご一家も特別展に足を運んでいる。 即位5年と結婚30年を記念した特別展示を鑑賞する天皇ご一家 =2023年11月10日、三の丸尚蔵館  「懐かしいですね」  11月10日、天皇陛下と皇后雅子さま、長女の愛子さまはリニューアルオープンした皇居三の丸尚蔵館で、陛下の即位5年とおふたりのご結婚30年を記念した特別展示を鑑賞した。  ご一家は、ご結婚の際に雅子さまが着用したローブ・モンタントの前で足を止めた。 宮中饗宴の儀に出発する皇太子さま(当時)と杏色のローブ・モンタントに身を包む雅子さま =1993年6月、東宮御所   1993年6月15日から3日間にわたり行われた結婚の祝福を受ける「宮中饗宴(きょうえん)の儀」。雅子さまが1日目の1回目にお召しになったのが、光沢のある杏色のローブ・モンタントとビーズで彩られた美しい帽子だった。  雅子さまは、ドレスを前にしてこう目を細めた。 「久しぶりに見た気がします。懐かしいです」  一方で、隣にいた愛子さまは興味深そうに、こう話しかけていた。 「模様は?」 「自分では(ドレスを着用)できないのね」  また、おふたりが「結婚の儀」でお召しになった古式装束も展示されていた。 皇太子が身に着ける「黄丹袍(おうにのほう)」。現在は、皇嗣である秋篠宮さまが着用している   「結婚の儀」皇后陛下のご装束、五衣唐衣裳  皇太子であった陛下は、「黄丹袍(おうにのほう)」、皇太子妃の雅子さまは、一般では「十二単衣」と呼ばれる、「五衣唐衣裳(いつつぎぬからぎぬも)」の装束で儀式に臨んだ。装束に詳しい宮内庁関係者によれば、東宮(皇太子)が身に着ける、淡い黄みがかった緋の「黄丹袍(おうにのほう)」を「上りゆく朝日」と表現した書物もあったという。   天皇だけが身に着けることのできる「黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)」   「五衣唐衣裳(いつつぎぬからぎぬも)」の装束。薄紫の表着には、雅子さまのお印のハマナスが表されている。後期は夏の御料が展示される   「即位礼正殿の儀」で装束を身に着けた皇后雅子さま=2019年10月  天皇だけが身につけることができる赤茶色の伝統装束、「黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)」も全期間に渡り展示されている。袍に表された、桐と竹の上に鳳凰が舞い、州浜に麒麟が相対する「桐竹鳳凰麒麟文」は天皇だけが用いる文様。前期は冬の袍、後期は夏の袍が展示され、実物を目にすることのできる貴重な機会だ。 「天に太陽が上った色」とも言われる「黄櫨染御袍」は、令和の天皇の即位を国内外に宣言する「即位礼正殿の儀」で着用された。ウルシ科のハゼノキの皮とマメ科のスオウ、灰汁などで染めた淡い茶色の装束だ。即位式のほか、祭祀でも用いられている。  即位関連の儀式で用いられた屏風などの調度品も興味深い。たとえば、「即位礼正殿の儀」で宮殿中庭に配置された「旛」。「萬歳旛(ばんざいばん)」には、当時の安倍晋三内閣総理大臣が揮毫した文字が金糸で刺繍されている。 右は、当時の安倍晋三内閣総理大臣が揮毫した文字が刺繍された「萬歳旛(ばんざいばん)」  鑑賞に訪れた天皇陛下は、こうした伝統装束の着こなしについて熱心に愛子さまに説明していたという。   上皇ご夫妻から贈られた産衣(うぶぎ)、「御初召(おうぶめし)」を着て、雅子さまに抱かれる愛子さま 一般のお宮参りにあたる「賢所皇霊殿神殿(かしこどころこうれいでんしんでん)に謁するの儀」に向かう愛子さま =2002年3月 、代表撮影/JMPA  前期には、「おじいさま」と「おばあさま」から贈られた愛子さまの「御初召(おうぶめし」も展示された。愛子さまが誕生したのは、2001年12月1日。「命名の儀」と、一般のお宮参りにあたる「賢所皇霊殿神殿(かしこどころこうれいでんしんでん)に謁するの儀」では、当時の両陛下より贈られた産衣(うぶぎ)である「御初召」を着用して臨んだ。  この「御初召」は、特別な品だ。というのも、歴代皇后は皇居の紅葉山御養蚕所で蚕を育てる。愛子さまの産着は、美智子さまが育てた繭から採られた絹糸で織られたものだ。  特に、肌に触れる下召(下着)には、柔らかな絹糸が採れる純国産の小石丸の繭が用いられた。   「着袴(ちゃっこ)の儀」で用いられた袿袴(けいこ)   「着袴(ちゃっこ)の儀」を終えた愛子さまを優しく見守るおふたり。愛子さまは、桃色の道中着姿で参内に臨む=2006年11月、東宮御所 、代表撮影/JMPA  11月28日から12月24日にかけての後期には、愛子さまの装束も赤ちゃんの時期の「御初召」から、一般の七五三にあたる「着袴(ちゃっこ)の儀」で用いた「御童形服(ごどうぎょうふく)」と「袿袴(けいこ)」などに変わる。 「着袴(ちゃっこ)の儀」で着用した「御童形服(ごどうぎょうふく)」。袴は愛子さまが生まれた際に、天皇であった上皇さまが贈った品 =1993年11月 「着袴の儀」とは、数え年の5歳で初めて袴を着ける皇室の伝統行事で健やかな成長を願う儀式だ。愛子さまの赤い「御童形服」は、当時の住まいであった東宮御所の日月の間で執り行われた儀式で着用された。  桃色の袿(うちぎ)と丈の短い切袴(きりばかま)の「袿袴」。儀式を終えて皇居に参内する際は、動きやすい「袿袴」に着替えるものの、4歳の愛子さまには重くて大変な衣装だ。  当時の写真を振り返ると、雅子さまが小さな愛子さまを支えるように手を伸ばすシーンも残っており、ほほえましいご一家の様子が伝わってくる。  実は、ご一家の日常が伝わる品も見ることができる。全期間を通じて、私的な品も展示されているのだ。天皇陛下が幼少時に愛用した小さなヴァイオリンや、雅子さまがご結婚後に習ったフルートの実物も見ることができる。   笑顔で英国に出発する愛子さま =2018年夏  愛子さまの青春のひとコマを垣間見えるのは、愛子さまが撮影した写真作品だ。2018年の夏、16歳だった愛子さまは、学習院女子高等科のプログラムで英国の名門・イートン校が主催する夏季海外研修に参加した。  同級生と学生寮に宿泊し授業を受けた。滞在する間に、オックスフォード大学の周辺や学生寮などを自ら撮影した写真も展示されている。 「愛子さまらしい」写真もある。  いちごパフェのようなデザートの写真には、「イートン・メス」と説明が添えられている。これは、メレンゲと生クリームといちごなどで作る英国の伝統的なデザートのようだ。  別の写真には、ウィンザー城の入場券を持つ手が写っている。お友達と一緒に写したのだろうか。愛子さまたちの笑い声が聞こえてきそうな一枚だ。 悠紀地方風俗歌屏風 主基地方風俗歌屏風 ※特別展示「令和の御代を迎えて──天皇皇后両陛下が歩まれた30年」は12月24日まで、開館記念展「皇室のみやび──受け継ぐ美──」は来年の6月23日まで開催される。原則毎週月曜は休館。入館は「皇居三の丸尚蔵館」のウェブサイト(https://shozokan.nich.go.jp)からの事前予約制。無料・割引入館対象の人も事前予約が必要。チケットは、同ウェブサイトからのオンライン決済のみで、同館での販売は行っていない。  (AERA dot.編集部・永井貴子)
大島美幸が映画「ゴジラ-1.0」を見て泣いていた理由 鈴木おさむ「家族で見ることを薦めます」 
大島美幸が映画「ゴジラ-1.0」を見て泣いていた理由 鈴木おさむ「家族で見ることを薦めます」  放送作家の鈴木おさむさん    鈴木おさむさんが、今を生きる同世代の方々におくる連載『1970年代生まれの団ジュニたちへ』。今回は、映画「ゴジラ-1.0」について。  * * *  ようやく話題の映画「ゴジラ-1.0」を見ました。これまで沢山のゴジラ映画が作られてきて、「シンゴジラ」を見たときに、「もう、このアプローチでゴジラを作ったら、このあと日本でゴジラを作ることは出来ないだろう」と思っていました。「もしも本当にゴジラが日本に来たら」という究極のシミュレーションムービーだった「シンゴジラ」。  ですが、今回の「ゴジラ-1.0」を見て、さらにアップデートされたと思いました。結論から言うと「超おもしろかった」のです。  まず、設定が凄い。第二次大戦後、敗戦した日本。最悪の時にゴジラは出てくる。一番出てきてほしくない時に出てきてしまうんです。残存する艦隊も引き揚げ船に使われているし、駆逐艦も大砲を撤去されたものしかない。日本が軍事力を持っていない時にやってきたゴジラと戦うのは、なんと民間人。「俺たちだけでやってやる」と言わんばかりに戦う。その戦い方にもリアリティーがある。 「神感」と純粋な怖さ  山崎貴監督はパンフレットで言っていましたが、「ゴジラってなんだろう」と問いかけたという。僕が子供時代に見たゴジラは「正義のヒーロー」になっていました。次々に来る怪獣たちをやっつける。それがシンゴジラでは「災害」的なものと捉えられていた。  山崎監督は「ゴジラは神様と生物の両方を兼ね備えた存在というイメージがあった」と言っている。確かにゴジラはどこかに「神感」があると僕も思っていた。人間がモラルを超えてやってしまったことに対して、神が作り出してしまったもの。  今回はその神感があるのだが、まず、純粋に「怖い」。ゴジラに対するのは圧倒的な恐怖である。さらに言うならば人間に対して、絶対的な悪。熊の被害が全国で起きているが、それに近い物も感じた。  今回の物語の主人公は神木隆之介さん演じる敷島浩一という男。戦時中、特攻に向かうはずだったのに特攻に行けなかった。ずっとその罪悪感を背負っている男が、戦後、一人の女性と出会う。それが浜辺美波さん演じる大石典子という女性。典子は戦争の孤児である赤ちゃんを拾って育てようとしていた。そんな「家族」ではない3人が一緒に住み始めていく。疑似家族である3人が徐々に家族になっていく中で、ゴジラの恐怖が近づいてくる。  この家族の話が、物語の主軸にきているので、これが「壊されるかもしれない」という思いで見ていくことになる。  特攻できなかった男が、この疑似家族を守るために、ゴジラと戦うことを決意する。  うちの妻も一緒に見ていたのですが、妻は中盤からずっと泣いていました。それはきっと、この家族を守ろうとする気持ちに泣いたんだと思います。 妻の大島美幸さん   終わらせたいという気持ち  8歳の息子と妻と僕と3人で見たこのゴジラは、息子は「エグくて怖くて面白かった」と言い、妻は「いや、怖かったし、泣けた」と。そして僕も「怖い! ゴジラがとにかく怖い」という思いと家族を守ろうとする敷島にも泣けたし、なにより、特攻に行けずに自分の中での戦争が終わってない敷島が自分の中での戦争を終わらせたいという気持ち。  来年の3月いっぱいで放送作家業を辞めると決めた僕は今、32年間の感謝の思いを込めて、やれることをとことんやろうと決めているのですが、自分の中で「終わらせる」から「次に進める」と思っていて。そんな気持ちが被ってかなり泣いてしまった。  そして、監督含めてスタッフの皆さんが熱い思いを持って「絶対におもしろいゴジラを作ってやるぞ」という気迫が凄い。クレジットの中には阿部秀司さんという、生き方がとても格好いい人生の大先輩の名前も出ていて、やっぱりな、と納得。  このタイミングでこの映画を見られたことに深く深く感謝です。  家族で見ることをおすすめします。   ■鈴木おさむ(すずき・おさむ)/放送作家。1972年生まれ。19歳で放送作家デビュー。映画・ドラマの脚本、エッセイや小説の執筆、ラジオパーソナリティー、舞台の作・演出など多岐にわたり活躍。パパ目線の育児記録「ママにはなれないパパ」(マガジンハウス)、長編小説『僕の種がない』(幻冬舎)が好評発売中。漫画原作も多数で、ラブホラー漫画「お化けと風鈴」は、毎週金曜更新で自身のインスタグラムで公開、またLINE漫画でも連載中。「インフル怨サー。 ~顔を焼かれた私が復讐を誓った日~」は各種主要電子書店で販売中。コミック「ティラノ部長」(マガジンマウス)が発売中  
妻の名前から職場までネット上に…ジャニーズ性被害「当事者の会」メンバーが語る二次被害
妻の名前から職場までネット上に…ジャニーズ性被害「当事者の会」メンバーが語る二次被害 二本樹顕理(あきまさ)さん。発信者が特定できれば、誹謗中傷した人への刑事告訴も考えているという。「誹謗中傷をなくしていきたい」    性被害告発後の二次被害が後を絶たない。そんな中、元ジャニーズJr.の男性が自殺した。自らも誹謗中傷に苦しむ二本樹顕理さん(40)が胸中を語った。AERA2023年11月27日号より。 *  *  * ──二本樹(にほんぎ)さんは、故ジャニー喜多川氏からの性加害を告発した後、誹謗中傷による二次被害を受けていると聞きます。 二本樹顕理(以下、二本樹):告発をしたのが今年の5月上旬でしたが、その直後からSNSを通じて受けています。実名で顔出しの告発は、ある程度の誹謗中傷は覚悟していました。しかし、正直、ここまで酷くなるとは思っていませんでした。 一番傷ついた言葉 ──どのような誹謗中傷でしょうか? 二本樹:さまざまです。「売名」「お金目的だろ」「タレントになり損ないの負け犬」……。他にも「バカ」「クソ」など人格を否定される誹謗中傷もたくさんあります。「あなたたちのせいでジャニーズ事務所が潰れた」「ジャニーズの名前を返せ」といった、敵対意識も持ちSNSで攻撃してくる人もいます。こうしたものは見たくなくてもどうしても目に入るので、精神的にものすごく落ち込みますし、うつ状態になったりします。 ──一番傷ついたのは、どのような誹謗中傷ですか。 二本樹:やはり、ジャニー氏からの性加害を訴えたことに対し、「証言は嘘だ」とか「嘘つき」などと言われることです。声を上げるだけでも本当につらいのに、追い打ちをかけるように誹謗中傷されるのは非常につらいです。 ──そもそも、どのような思いでジャニー氏からの性暴力を実名・顔出しで告発しようと思ったのでしょうか。 二本樹:私は13歳の時に旧ジャニーズ事務所に入所し、ジャニーズJr.として1年半在籍しましたが、その間、ジャニー氏から10回程度の性暴力を受けてきました。そのことに対しずっと声を上げたいと思っていたけど、あそこまで神格化されていた人物を糾弾するのは難しく、勇気がありませんでした。しかし、今年3月にイギリスのBBCがジャニー氏の性加害問題を報道し、つづいてカウアン・オカモトさん(27)が声を上げました。若い人が1人で矢面に立ち証言する姿に励まされ勇気をもらったのと同時に、いま自分が出ないと事実がまた闇に葬られてしまうと思いました。 5月31日、立憲民主党の国対ヒアリングで性被害について話す二本樹顕理さん   自殺ではなく「他殺」 ──しかし告発したことで誹謗中傷の二次被害を受けるようになり、ご家族にも被害が及んでいると聞きます。 二本樹:私の妻の名前や写真、職場までネット上で公開されました。先日も関西国際空港に家族といた時、「目撃情報」としてXに上げられました。私も妻も、外を出歩くのも不安になっています。日本では安心して生活できないので、妻と一緒に海外で暮らそうと考えています。 ──受けてきた二次被害に対して11月3日、大阪府警に被害届を出しました。 二本樹:私だけでなく、ジャニー氏から受けた性加害に対し、声を上げた被害者たちへの誹謗中傷をやめてほしいという思いがあります。他にも、同じような二次被害を受けて苦しんでいる人が多くいます。その結果、自ら命を絶つ人がいます。自ら命を絶った人は、名目上は「自殺」となっていますが、実質は「他殺」だと思います。 ──先日、二本樹さんが発起人の一人となり発足した「ジャニーズ性加害問題当事者の会」に所属していた元ジャニーズJr.の40代の男性が、10月中旬に亡くなっていたと報じられました。「自殺」とみられています。 二本樹:男性が亡くなられたことは、報道がある前から知っていました。誹謗中傷で苦しんでいると聞いていましたが、亡くなったと知らされた時は、本当に打ちのめされて。深い悲しみしか感じないです。 ──誹謗中傷をする人に、何と言いたいですか。 二本樹:なかには、軽い気持ちで誹謗中傷のコメントをする人がいるかもしれません。だけど、それが、どれだけ人を追い込み、命を奪うこともあると自覚してほしい。その上で、こうしたことは控えてほしいというのが、私の願いです。 (構成/編集部・野村昌二) ※AERA 2023年11月27日号
「99里は道半ば」で思い直したコンビニの成熟論 ローソン・竹増貞信社長
「99里は道半ば」で思い直したコンビニの成熟論 ローソン・竹増貞信社長 日本一の企業で働こうと三菱商事に入った。ローソンを日本一へ、それも規模だけでなく客の評価でもと思い、店頭を巡って提案を聴いて回っている(撮影/山中蔵人)    日本を代表する企業や組織のトップで活躍する人たちが歩んできた道のり、ビジネスパーソンとしての「源流」を探ります。AERA2023年11月20日号より。 *  *  *  日本のコンビニ業界の売上高は2015年度に11兆円余りに達した後、前年比の伸び率は3%台、2%台、1%台と落ち込んだ。この間、アナリストやメディアなどに「コンビニ市場は成熟し、成長は終わった」との見方が広がっていく。 「そうなのか」。3%台に落ちた2016年度の6月に社長になって一瞬、そう思った。確かに人口は減り、同業者の出店争いは過熱気味で、来店客数も売り上げも増やすのは容易ではない。でも、すぐに思い直す。そして、一つの言葉を思い出す。 「百里の道を行く者は、九十九里をもって半ばとす」  大阪府池田市の大阪教育大学付属池田小学校に通っていたとき、水野寿彦校長が毎週月曜日の朝礼で、全校生徒と唱和した言葉だ。  原典の中国の古典『戦国策』では「百里を行く者は九十里に半ばとす」と、九十九里ではなく九十里とあるが、日本では九十九里と言う人が多い。  事典には「100里の道は90里を行って、初めて半分が過ぎたと思うべきだ。最後の10里は難しい道で、事をなすには始めは簡単でも終わりは難しい」と解説され、最後まで気を緩めないようにとの教えだ、とある。 「コンビニ市場も、まだ、やれることはたくさんあるはずだ。店づくりや商品・サービスの提供は、99里どころか、まだ半分もきていないだろう。やり方を工夫して、ニーズを掘り下げれば、成長は可能なはずだ」  そう、思い直した。 夕方以降の品ぞろえニーズを見込んで高成長につなげる  2018年度、売上高は前年度比6.17%伸びた。業界全体では2.11%。成長の核は「夕方から夜にかけての品ぞろえの強化」だった。コンビニでは、売れ残っているおにぎりやサンドイッチを短時間で処分するので、夕方から夜にかけて品ぞろえが薄くなりがちだ。でも、仕事帰りのビジネスパーソンは、その時間帯に買いたいはずだ。読みは、当たった。  翌2019年度は、新型コロナウイルスの感染拡大で、小売業界全体が大打撃を受けた。コンビニ市場の成長率は1.03%へ下がり、2020年度にはついに0.50%減とマイナス成長に陥った。でも、水野校長の訓辞は正しい、との思いは続く。「圧倒的な美味しさ」「人への優しさ」「地球(マチ)への優しさ」を掲げ、営業戦略を強化した。   【こちらも話題】 「思いやりの詰まったお弁当 これからも開発していきます」ローソン社長・竹増貞信 https://dot.asahi.com/articles/-/206267 小柄でも運動神経は自信(写真:本人提供)    美味しさでは、プライベートブランドや冷凍食品を強化し、新発売したスイーツの「バスチー」は3日間で100万個を超えて売れた。優しさでは、栄養成分の表示を分かりやすくし、減塩や低糖質などを強調。地球環境保全では、プラスチックの使用量を減らし、売り切りによる食品ロスの削減を進めた。コロナ禍防止に客との密な接触を避けるため、全店にセルフレジを入れた。これらの策で、ローソンの売上高は3.40%増に踏みとどまる。  2020年度こそローソンもマイナス成長になったが、2021年度は4.04%、2022年度は5.00%と高めの成長を達成。「生活応援」や「地域密着」などが、原動力のキーワードだった。  竹増貞信さんがビジネスパーソンとして『源流』に挙げるのは、やはり水野校長の言葉だ。 スーツケース内の父の欧米土産はチョコレートだった  1969年8月、池田市に生まれる。父は繊維の輸出を手がける商社を経営し、スーツケースに商品のサンプルを詰めて欧米へ出張し、帰りはスーツケースに土産を入れてきた。開けるとチョコレートが入っていて、「海外の香り」がした。  父母と兄2人、妹の6人家族で、兄たちが自宅から歩いて10分弱の大教大付属池田小へいっていたので、自分も受験した。入学すると、市立小学校のグラウンドでやっていた少年サッカー団にいた同級生に「1人足りないからこないか」と誘われ、卒業するまで週末に通った。  水野校長が赴任してきたのは1年生の途中で、卒業後は会っていない。あの言葉は、同級生との会合で話題には出ないが、間違いなく卒業生は全員が覚えている、と思う。  大教大付属池田中学校でもサッカー部にいたが、大教大付属高校池田校舎ではラグビー部へ入った。高校ラグビー部が舞台のテレビドラマ「スクール☆ウォーズ」に刺激されたためで、10番のスタンドオフを務める。大阪大学経済学部では、体育会のゴルフ部で過ごした。  93年4月に三菱商事へ入社、食料グループ畜産部の牛肉担当チームへ配属される。2年前に牛肉の輸入自由化が始まり、会社は豪州で肉牛の牧場や加工場へ投資し、牛肉をコンテナ船に乗せて輸入して、スーパーや加工業者などへ売っていた。  ただ、円高による輸入物価の低下という追い風もあって参入者が増え、値引きの乱戦となって赤字になった。96年、会社は豪州での肉牛飼育から撤退を決めて、上司に「肉をスーパーや外食チェーンへ卸すグループ企業へ出向し、残った在庫を売りさばいてくれ」と言われて驚いた。入社の同期生に留学や海外勤務が出ていたのに、早々と出向。「何かやったのか」と噂され、気持ちの整理がつかぬまま、本社を離れる。 スーパーの店頭で牛肉を試食販売し使った妻のレシピ  出向先で全国のスーパーが載っている本を買い、あいうえお順に電話を入れて、取引を申し込む。会ってくれるとなれば、北海道から沖縄までいった。塩コショウと店頭販売用の電気調理器などを持っていき、先方の精肉部長に頭を下げて店頭に立たせてもらい、エプロン姿で試食会も開く。小学校の同級生で結婚していた妻が、レシピをつくって応援してくれた。  3年間の出向から本社の畜産部へ戻ると、課長へ昇格する。  米インディアナ州の豚肉処理加工会社への3年弱の出向を終え、広報部に5年いて、2010年に小林健・新社長の業務秘書となって約4年、仕えた。社長は外国の国家元首との面談など、ほとんどの場に同席させてくれ、多くのことを学んだ。  2014年2月ごろ、社長に呼ばれて「ローソンへいってくれ」と言われた。本社ビルの地下にローソンの店があり、夕方に一杯やるときつまみを買いにいくこともあるので「何を買ってくればいいですか」と尋ねたら、「いや、そうではない。ローソンの本社へいってくれないかということだ」と言われた。正月に、あと2年一緒にやろうと言われていたので驚いたし、寂しさも湧いたが、「分かりました」とだけ答える。  課題は、冒頭で触れたように「もう成熟した」とされたコンビニのビジネスモデルを見直して、ローソンの収益を再起動するコトだった。  2016年6月、46歳で社長に就任。秘書として仕えた小林氏に報告のメールを送ると「毎朝、下っ腹に力を入れて会社へいくのだ。健闘を祈る」と返事があった。何があっても動じない準備を常にして、腹に力を入れて一日を始めろ、ということだなと理解した。  この教えを、胸にある水野校長の言葉の隣に置いた。(ジャーナリスト・街風隆雄) ※AERA 2023年11月20日号   【こちらも話題】 「いくつになっても楽しく 続けていけば人生を豊かにする習い事」ローソン社長・竹増貞信 https://dot.asahi.com/articles/-/205675
【信濃町ルポ】池田大作氏死去を創価学会員はどう受け止めたのか 涙を浮かべて大誓堂に駆け込む姿も
【信濃町ルポ】池田大作氏死去を創価学会員はどう受け止めたのか 涙を浮かべて大誓堂に駆け込む姿も 創価学会の池田大作名誉会長    創価学会の池田大作名誉会長が15日夜、東京都内で老衰のため死去した。95歳だった。創価学会が18日発表した。池田氏の死去を公表した18日は創価学会の創立記念日にあたり、同教団の本部がある東京・信濃町には大勢の信者が押し寄せていた。学会員らは“カリスマ”の訃報をどう受け止めたのか。現地を取材した。 *  *  *  11月18日は創価学会の創立記念日で、今年で93年目を迎える。創価学会の本部があるJR信濃町駅付近には、今年も多くの学会員が駆けつけた。  池田大作名誉会長の訃報が流れた後の午後4時ごろ。駅前には「祝11・18おめでとうございます」と赤字で書かれた黄色い看板が目に入る。そこから歩いて2分ほどに位置する教団のグッズを扱う店舗付近では、創立記念日を祝うお菓子などが路上で売られているが、特別な日だからか、「例年より商品がなくなるスピードが速い」(男性店員)という。  現役の創価学会員は名誉会長の訃報をどう受け止めたのか。店舗近辺にいた70代の夫婦の夫はこう話す。 「池田名誉会長は人生の師。世界の平和から個人の幸せまでを願い、教えを説いた人。亡くなられたのは非常に悲しいことです」 11月18日は創価学会の「創立の日」で多くの信者が集まってきた。画像の一部を加工しています(撮影/板垣聡旨)    信濃町にある広宣流布大誓堂を訪れていた若い男女は、「こんな(めでたい)日なのにね」とつぶやきながら建物を背景にツーショットの写真を撮っていた。すでに行列ができており、15人ほどが並んでいた。途中から、道案内をしているスーツの若い男性が「お写真をお撮りします」と並んでいる人に声をかけていた。 「創価宝光会館」に運び込まれた花束の1つ。池田大作夫妻へのメッセージが書いてある(撮影/板垣聡旨)   「私の人生の師匠でした」  中には、目に涙を浮かべながら大誓堂へ駆け込む人もいた。目を真っ赤にしていた中年の女性に声をかけると、「今日はごめんなさい」と涙ぐんで去っていった。また、本部を道端からずっと見つめていた老女は「話す気にはなれないの。すみませんね」と頭を深く下げた。学会関係者は「もともと内向きな人が多く、かつショックが大きいので取材には答えづらいだろう」と述べた。  大誓堂から東へ歩いて50mほどにある「創価宝光会館」には花が次々運びこまれた。その中には、「大誓堂完成10周年 先生・奥様ありがとうございます」というメッセージが書かれた札が立てられた花束もあった。  一方で、複雑な思いを抱く人もいる。2世信者で元学会員の天野達志氏は、安保法制反対など自らの考えを発信したことなどが教団批判だと捉えられ、創価学会を追い出された。それでも、元学会員として池田氏への崇敬の念は消えていないと語る。 「池田先生の訃報は本当にショックです。私は先生に人生を学ばせていただきました。今、新型コロナなどのパンデミック、ウクライナとロシアの戦争などの殺し合い、そして甚大な自然災害が起こっています。人類がそれをどうやって乗り越え、解決していくか。それが私たちの信仰の根幹にあるわけです。池田先生はそのために、生命尊厳、平和思想など仏教の教えを自らが体現し、社会に広められました。まさに私の人生の師匠であったのです」 池田大作氏   変わってしまった創価学会  かつては中国との交流にも積極的だった池田氏だが、次第に表舞台に出ることは少なくなった。天野氏によると「2010年5月にあった本部幹部会を最後に、池田先生は表に出なくなった」と振り返る。そして、そのころから創価学会は変質し始めたと指摘する。 「(池田氏が表に出なくなった)5月あたりから第6代会長の原田稔氏が、組織の風土やルールを変えていってしまいました。生命尊厳、平和主義などの思想がないがしろにされ始めたと感じます。本来、平和の党でなければいけない公明党が安保関連法案に賛成するなどあり得ないことでした。結局、安保法制に反対した私も教団を追い出されることになりました。池田先生の教えはどこへいったのでしょうか。先生のご冥福を祈りつつ、弟子として先生の教えをこれからも守らなければいけないと感じています」  与党・公明党の支持基盤でもある創価学会の“カリスマ”の死去により、これから政治も巻き込んだ大きなうねりが生まれそうだ。 (AERA dot.編集部・板垣聡旨)
「離れていても大丈夫」 会えるのは月1、東京・京都の「2拠点婚」夫婦が結婚を決めたわけ
「離れていても大丈夫」 会えるのは月1、東京・京都の「2拠点婚」夫婦が結婚を決めたわけ 田村奈都海さん(右)と田村昂佑さん(撮影/楠本涼)    AERAの連載「はたらく夫婦カンケイ」では、ある共働き夫婦の出会いから結婚までの道のり、結婚後の家計や家事分担など、それぞれの視点から見た夫婦の関係を紹介します。AERA 2023年11月20日号では、洛中高岡屋の田村奈都海さん、イタンジの田村昂佑さん夫婦について取り上げました。 *  *  * 夫27歳、妻27歳のときに結婚。夫は東京、妻は京都で暮らしている。 【出会いは?】大学時代、若い世代に伝統文化の魅力を伝える学生団体の「京都着物企画」で妻が会長を務めている時、夫が1年下の後輩として入会した。 【結婚までの道のりは?】お互い社会人になってから交際を始めた。仕事の拠点は夫が東京、妻が京都のため、会えるのは月1回程度。一緒に住まなくても信頼関係を築けると思い、結婚に至った。 【家事や家計の分担は?】「2拠点婚」のため、家事と家計はそれぞれが担当、管理している。 妻 田村奈都海[28]洛中高岡屋 プランニング部 たむら・なつみ◆1995年、京都市生まれ。京都大学卒業後、大学病院に就職、集中治療室の看護師として5年間従事。今年6月、座布団と布団を製造・販売する「洛中高岡屋」に転職。創業100年超の老舗で父が3代目社長。くつろぐための道具を意味する「寛具」(かんぐ)を提供  福祉に興味があり、大学卒業後は関西の大学病院で、看護師をしていました。夫と付き合い始めたのはコロナ禍の時です。仕事柄、人と会えず、ましてや東京在住の夫と長い間過ごすことは論外で、会えない期間が長く続きました。  でも、お互い大切に思い合えて、信頼関係を築けました。同居のめどはたっていなくても「家族」というくくりで、夫のことも大事にしていきたいと思い、結婚しました。  私の家は老舗の座布団屋です。家業に就く予定はなかったのですが、今年、転職をしました。私の中で「看護」という軸は変わっていません。看護師として患者さんに寄り添う中で、その人の本来の姿に戻る“くつろぎ”の時間を作る大切さを感じました。それを、座布団や布団を通しても実現できると思ったんです。  今は営業、広報などを掛け持ちし多忙です。気分の浮き沈みもある中、夫はいつもどっしり構えてくれて精神的にも支えてくれる心強い存在です。離れていても、大丈夫だと思えています。 田村奈都海さん(前)と田村昂佑さん(撮影/楠本涼)   夫 田村昂佑[28]イタンジ マーケティング AFKy代表 たむら・こうすけ◆1995年、大阪府生まれ。京都大学卒業後、2019年に不動産会社「GAテクノロジーズ」に入社し、グループ会社の「イタンジ」に転籍。副業が認められているため、個人ではチョコレートブランド「AFKy(アフキー)」を立ち上げている  妻とは仕事上の拠点が異なり、交際中から結婚した今も、遠距離が続いています。 「2拠点婚」になっても結婚したのは、妻以上に尊敬できる人はいないと思ったから。そして、一緒に住まなくても、信頼関係が築けると思ったからです。  僕は映画を見たり、美術館に行ったりする際、「この構成を企画で生かせないか?」など、物事を仕事に結びつけて考えます。時には「世界を変えていけそうだ!」と思うアイデアが次から次へと浮かんでくると、寝付けなくなることも。そういう時は妻に電話をします。  僕にとって、妻と話したり、一緒にいたりする時が、唯一、仕事のことを考えない貴重な時間です。  私たちは同い年ですが、出会った大学時代は、妻の方が学年は一つ上でした。第一印象は「お姉さん」でしたが、それは今も変わりません。包容力があり、人として心から尊敬している妻と、将来は、のほほんと暮らしたいと思っています。 ※洛中高岡屋の「高」は、はしごだかが正式表記。 (構成・小野ヒデコ) ※AERA 2023年11月20日号
「心臓移植で子どもたちを救いたい」と法整備・改正にも奔走 福嶌教偉
「心臓移植で子どもたちを救いたい」と法整備・改正にも奔走 福嶌教偉 移植とともに歩んできた医師生活。支えたのは、「子どもを救う」というその一心だ(撮影/MIKIKO)    1997年に日本で臓器移植法が成立したが、その後もほぼ一貫して増え続けてきた心臓移植待機者。それが、2022年後半以降、減少に転じている。臓器提供者が増え、新規登録者を上回り始めたのだ。社会を変えた一端は、千里金蘭大学学長・国立循環器病研究センター移植医療部客員部長・福嶌教偉の熱意と活動だ。約200人もの移植やその後のフォローに関わる一方で、患者の命を救うため、国会議員に訴えかけ、法整備を実現させてきた。 *  *  *  うだるような暑さに日本中が包まれた8月下旬の週末、神戸市にある総合公園に16家族54人が集まった。子どもたちは歓声をあげて走り回り、飯盒(はんごう)で炊いた飯を食べ、温泉に浸かって夜は公園内の宿泊施設に泊まる、特段珍しくない夏の一コマ。唯一この会が他と違うのは、臓器移植を受けた子どもたちのためのサマーキャンプだったことだ。福嶌教偉(ふくしまのりひで・67)は生活相談に応じ、子どもたちのためのアクティビティを準備して動き回る。「娘がピアスを入れたいと言っていて……」。ある母親がそんな相談をする。何げない一言は、重篤な心臓病を抱えて心臓移植を受けた子が、年相応の悩みを持てるまでになった証しだった。  福嶌の歩みは日本の心臓移植の歴史そのものと言っていい。心臓移植とは、ほかに治療法がない重症心疾患患者の心臓を脳死者の心臓と入れ替える治療法のこと。従来の内科・外科治療で改善しない患者にとって最後の砦(とりで)だ。日本で脳死患者からの臓器提供を可能にする臓器移植法が成立したのは1997年。以降25年余りで、心臓に限っても800人が移植を受けた。福嶌が移植やその後のフォローに関わった患者は200人ほどに上る。  国立循環器病研究センター移植医療部医長の渡邉琢也(46)は、2022年まで同部の部長を務めた福嶌のもと、心臓移植待機患者や移植者の診察、術後管理、治療にあたってきた。渡邉は医師としての福嶌をこう言い表す。 「『救いたい』という気持ちを誰よりも強く持った先生です。重症心不全の治療は残念ながらどうしても助けられない人がいる分野で、医療資源や医療費の問題からどこまでやるのかも常に問われます。それでも、福嶌先生は『心臓では死なさない』と、信念と熱意を持って治療にあたっていました。どんなに状態が悪くても諦めることはない。それを引き継ぐのが僕らの役割だと思っています」 平日も休日も忙しく動き回るのは昔から。87年に大阪大に戻ったころはアパートに帰るのが月1~2回だった。2歳の娘に「また来てね」と言われたことも。それでも家族への思いは忘れたことがない(撮影/MIKIKO)    そして、移植についての姿勢をこう話す。 「福嶌先生からは、心臓移植には、提供するドナー、心臓をもらうレシピエント、さらに、日本の場合はドナーがまだ少ないから、その心臓を別の人に移植していたら助けられたはずの人がいると考えるように教えられました。僕らが主に接するのはレシピエントで、ドナーの状況は見えづらいけれど、ドナーへの敬意を持ち続けることの大切さはことあるごとに指導を受けていました」  救うことへの信念とドナーへの敬意。移植医としての福嶌の姿勢は、このふたつに凝縮される。  医学を志したのは小学6年生のとき。夢は「心臓をつくる」こと。夏休みのさなかに飛び込んできた「和田移植」のニュースがきっかけだった。  臓器移植法制定のはるか前、68年8月に札幌医科大学の教授・和田寿郎が実施した日本初の心臓移植だ。移植を受けた患者は、一時はマスコミに散歩の様子を披露するほど回復したが、術後83日目に亡くなった。死後、ドナーとレシピエント両方が和田の患者だったこと、レシピエントに移植以外の治療が残されていた可能性、心臓外科医である和田が専門外の脳死判定を行ったことなどあらゆる疑念が噴出し、日本の移植医療は臓器移植法成立まで約30年の停滞を余儀なくされる。 心臓をつくるため医学部へ 臓器移植法制定に奔走  ただし、レシピエントが回復基調にあった移植初期には和田は「ヒーロー」で、称揚する報道が相次いでいた。一方、ニュースを聞いた福嶌が感じたのは、「移植はあかん」だったという。 「ドナーさんの家族のストレスを思うと、脳死になった人の心臓をあげるのは僕は“なし”だと思った。だから、心臓をつくりたいと考えたんです」 「再生医療」など言葉さえなかったころで、周囲に話すと笑われるばかり。ただ、父親は笑わなかった。「それなら医学部や」という父の言葉で進路を決めた。高校卒業後、1浪して大阪大学医学部に進学。大学4年ごろまでは研究者になるつもりだったというが、卒後に選んだのは外科の臨床医だった。福嶌はこう言って笑う。 「医学部に来たからには臨床で人を助けたくなったんです。大学の同期である妻には、『僕は研究者になるから』と話していました。でも、臨床をやりたいと言いだして心臓外科医になり、ほとんど会えない生活になりました。心臓をつくる研究をしながらゆったり人生を歩むはずやったんだけど」 医療関係者の講習会で臓器・組織提供時のECMO使用法を実演する。実は実習中ミスがあり、福嶌は講習会後、長文のメールで原因を示し参加者に謝罪した。その誠実さも医療者としての福嶌を表している(撮影/MIKIKO)    各診療科を回る臨床研修が義務化される前のこと。初年度から第一線で猛烈に働いた。1年で胃潰瘍の手術をし、2年目には胃がん・肺がんを切った。85年に大阪市立小児保健センター心臓血管外科に移ると、小児心臓病治療に従事するようになる。その経験が、和田移植以来久しぶりに福嶌を心臓移植と向き合わせることになった。 「目の前の子どもを助けたいと思って一生懸命オペをして、治療するんです。でも、どうしても助けられない心臓病の子どもたちが何人もいました」  一部の先天性心疾患は重篤だと治療の術がなかった。何人もの子どもを見送った。ちょうどそのころ、米・ロマリンダ大学の教授、レオナード・ベイリーの講演を聞き、新生児心臓移植を成功させたことを知る。治療不可能な重症心疾患の子どもでも、心臓を丸ごと取り替える移植ならば助けることができる──。 「心臓をつくる夢も思い出しましたが、どう頑張っても半世紀はかかります。その間に目の前で死んでいく子どもたちを見ていられない。いまやるべきは移植だろうと思い定めました」  奇(く)しくも時期を同じくし、大阪大学に移植実現を目指すチームが立ち上がり、帰局の誘いがあった。大学に戻った福嶌は専門学会で和田移植の検証を進め、レシピエントを登録する機関を立ち上げる。国内で移植を実現する体制整備に注力した。この時期、大阪大学は和田移植以来の心臓移植実施にあと一歩まで踏み込んでいる。日本医師会が「脳死をもって個体死と認める」としたことを受け、大阪大学倫理委員会は90年、心臓・肝臓・腎臓の脳死臓器移植を認可したのだ。ただ、最終的には法制定を待つことに。91年からはロマリンダ大学へ留学、ベイリーの下で約50例の心臓移植手術に携わった。94年に帰国すると、今度は臓器移植法制定に向け奔走する。国会議員のもとを陳情に回り、患者団体が主催するシンポジウムを支えた。 小さな子が助からない法律 医師として耐え難い悔しさ  法整備は遅々として進まなかった。94年に議員立法で提出された臓器移植法案は2年半にわたり継続審議となりながら廃案。心臓が拍動する脳死者を死とみなすことの反発や、人の死を前提とした医療への忌避感が強かった。再提出され、激論の末に成立を見たのは97年。移植実現のため大阪大学に戻ってから10年がたっていた。 千里金蘭大学看護学部の教壇に立つ。日本にチャイルドライフ・スペシャリストの資格をつくり、育成するのが今後のテーマの一つ。同大は看護学部と教育学部を抱え、取り組みの場に最適だと話す(撮影/MIKIKO)    だが法律ができたその日、福嶌は打ちひしがれていた。法案は衆議院を通過後、参議院での採決直前に修正が加えられた。家族の同意で提供できるとした当初案から一転、ドナー本人が生前に脳死判定と臓器提供の意思を「書面で表示していること」が条件とされたのだ。意思表示が有効なのは民法の規定で15歳以上。移植には体格の制限があり、大人の心臓は乳児や身体の小さい小児に移植できない。つまり、法成立によって国内での乳幼児移植が事実上できなくなった。 「僕は子どもを救いたくて移植に取り組んできたのに、小さな子どもだけが助からない法律ができてしまったんです。術はあるのに、目の前の患者を救えない。医師として耐え難い悔しさでした」  それでも福嶌は諦めなかった。法改正に注力するため、03年にはメスを置いて外科手術の第一線から離れることを決意する。オペに愛着はあるが、社会の仕組みをつくることが何より大切だった。  中学・高校・予備校の同級生で、大学でも教養課程のクラスメート(学部は歯学部)だった森悦秀(よしひで・67)は卒業後も福嶌と親しく交流してきた。当時の福嶌の様子をよく覚えているという。 「議員に説明に行くと『君が移植をしたいからだろ』と取り合ってもらえない。やっと法律ができたと思ったら子どもを救えない形になってしまった。助けたいという根本が伝わらないと、とても悔しがっていました。彼は昔から正義感が強く、決めたら貫き通す人。『患者のため』という信念で悔しさを乗り越えてやり通せたのだと思います」 大学の研究室で昼食を掻き込む。いま、最も注力するのは重症患者をジェット機で搬送する仕組みづくりだ。11月からは試験運航のためのクラウドファンディングにも取り組み始めた(撮影/MIKIKO)   心臓を止めるための診察 「悲しくて仕方なかった」  福嶌は内科的治療やドナーの呼吸循環管理は続けながらもオペをやめ、国会に通い詰めるようになる。臓器移植法は成立時も改正時も、日本共産党を除く全政党が党議拘束をかけなかった。議員一人一人に何度も訴えかける意味は大きかった。当時、臓器移植患者団体連絡会の代表幹事として改正活動に取り組んだ大久保通方(みちかた・76)は福嶌を「唯一無二の親友」と表現する。04年以降の約5年、福嶌と大久保は毎週のように国会議員の事務所を回って法改正を訴え、署名を集め、公開講座を開き、連携して活動を続けた。 「先生の一番の原動力は、『子どもを救う』その一心でした。法改正が必要という先生はたくさんいたけれど、これだけ誠実に取り組んでくれた方はほかにいません。誠実で、正義感が強くて、でも非常にあったかい。すごい先生です」  活動が実を結んだのは09年7月。家族の同意のみで移植を可能とする臓器移植法改正案が可決され、ようやく国内での乳幼児心臓移植に道が拓(ひら)かれた。 (文中敬称略)(文・川口穣) ※記事の続きはAERA 2023年11月20日号でご覧いただけます
なぜ佳子さまに激しいバッシング? 「生まれながらの特権と、不満のはけ口に」名大河西准教授
なぜ佳子さまに激しいバッシング? 「生まれながらの特権と、不満のはけ口に」名大河西准教授 ペルーから羽田空港に到着した秋篠宮家の次女佳子さま。疲れた様子も見せず、笑顔であいさつをしていた=11月10日、東京・羽田空港    多くの皇室の公務をこなし、メディアに登場する機会が増えている秋篠宮家の次女佳子さま。しかし、SNSなどでは否定的な書き込みも目立ち、佳子さまが秋篠宮家や天皇制に対する批判の矢面に立つ格好になっている。そして、皇室側から「反論」するような動きも見られない。天皇制に対する賛否はともかくとしても、なぜ佳子さまら個人に対する批判が止まないのか。 *   *   *   今月1日から10日まで、ペルーを公式訪問した佳子さま。その様子がニュースで報じられるたび、その記事のコメント欄やSNSには、厳しい言葉が繰り返し書き込まれた。 〈「視察という名の」海外観光旅行おつかれさま〉 〈どれだけの税金が投入されているのか〉  佳子さまは4日、世界遺産のマチュピチュ遺跡を視察。 「すごく壮大な景色で、写真では拝見したことがあったのですが、この場に立ってみてみると、おーという感じがすごくします。何かすてきな空気を感じます」  同行記者に感想を求められ、そのように返した佳子さまの言葉に対しても、 〈「おーという感じがすごくします」って、28歳の語彙(ごい)力とは…〉  などと書き込まれた。  首都リマでは、ペルーの手話でろう学校の子どもたちと接し、ペルー初の女性大統領であるボルアルテ氏も表敬訪問。忙しい日程をこなして帰国した。 〈佳子様お疲れ様でした。あのハプニングでよく頑張った!帰国したらゆっくり休んで下さいね。〉 〈佳子さまの笑顔はこの疲弊した日本に唯一の希望の光です〉  そんな好意的な反応も、真逆のコメントに押され気味だった。     【こちらも話題】 佳子さまが「エネルギッシュな笑顔」でペルーへ出発 なぜ秋篠宮家が南米の訪問を担うのか https://dot.asahi.com/articles/-/205363     「高校生手話パフォーマンス甲子園」に出席するため、鳥取空港に到着した佳子さま。翌日、新型コロナ感染がわかった=9月、鳥取県    批判的なコメントは、ペルー訪問に限らない。  佳子さまは9月末に鳥取県と宮城県をそれぞれ訪れた後、都内でのさまざまな行事をはさみ、10月も大阪府、そして鹿児島県を2度訪問した。  しかし、そんな過密な日程を報じた記事にも、 〈どうせニコニコ笑っているだけでしょ〉 〈公務をするたび警備費も含めていくら税金が消える〉 〈お車代はいくら?〉と  などといった内容が書き込まれていた。  訪問先の鳥取県で新型コロナ感染がわかったことを伝えた記事には、 〈コロナ感染でホテルで静養していたなんて、記事にする必要ある? 〉 〈マスクをしないなんて非常識〉  との言葉が並んだ。   国民がモノ申していいという「正当性」  少子高齢化で公務の担い手が減り続けている皇室で、皇嗣家では秋篠宮ご夫妻、そして内親王の佳子さまが、連日のように公務に取り組んでおり、さまざまなメディアで多く報じられている。  そして、そのニュースに対してネット上では賛否の意見が飛び交うが、「秋篠宮家は不要」といったもののほかに、皇族個人の人格を否定するような辛辣なコメントも少なくない。   「Yahoo!ニュース」のコメント欄(ヤフコメ)で公式コメンテーターを務める精神科医の井上智介さんは、 「そもそも政治家や公務員、皇室など公的な活動をする人物に対して、国民がモノを唱えるのは正当である、という認識が根本あります。それは、ときにゆがんだ正当性を増幅させる危険をはらんでいます」  と指摘する。  また、「努力をした」とイメージしやすいアスリートや芸能人などは批判しづらい一方で、コロナ禍による不況や急激な物価高で国民があえぐなか、「生まれながらの特権を持っている」と捉えられてしまった皇室は不満のはけ口になりやすいと、象徴天皇制を研究する名古屋大の河西秀哉准教授は指摘する。   【こちらも話題】 佳子さまが「エネルギッシュな笑顔」でペルーへ出発 なぜ秋篠宮家が南米の訪問を担うのか https://dot.asahi.com/articles/-/205363   ペルーへ出発する佳子さま=11月、東京・羽田空港   再び批判されるという天皇家の恐怖  国民からの批判に対し、皇室側からの「反論」は可能なのか。  宮内庁は平成の一時期、事実誤認があったメディアの報道に対し、ウェブサイトで指摘をしていた。しかし、国民を相手に何らかのアクションを起こしたことはない。  宮内庁は今年4月に「広報室」を新設。反論も含めた新しい情報発信が期待されたが、今のところ目立った取り組みは見えていない。  河西准教授は、 「皇室にとって国民の声は耳を傾けるべき存在。誰かを批判すればその人を傷つけたり、他の人からその人への攻撃が始まったりする可能性もある。そのため、根拠に乏しい内容であっても無下に否定はできないという苦しさがある」  と指摘する。  しかし、「何を書いても反論しない」「何を書いても訴えられない」と認識されれば、批判はエスカレートしていくばかりだと、河西准教授は懸念する。    他方、事実上反論ができないことで、皇室を萎縮させている可能性があると見る。 「国民の状況に配慮して、愛子さまはティアラを新調せず、皇后さまも衣装の新調を控えめになさっている。これは美談だと国民に受け入れられています。しかし、配慮だけが理由ではないように思います。平成の時代に大バッシングを受けている天皇ご一家にしてみれば、いつ自分たちも再び批判されるかという恐怖をお持ちでしょう。目立たず控えめにと思わざるをえなくなっているではないでしょうか」   「自分の批判は正しい」という思いは強固に  では、批判の声を受け止めていれば、いつか沈静化するのだろうか。  井上医師は否定的だ。     【こちらも話題】 佳子さま「食事や生活は宮邸?」「不仲ではない」 秋篠宮家と親交があるジャーナリストらの「反論」 https://dot.asahi.com/articles/-/196501      現実の社会なら周囲の目もあり、自制が働きやすい。しかし、ネットの世界は異なる。 「SNSで怖いのは、相手を批判する自分の行いに正当性を見つけやすいという点です。強い批判的な意見を書いた当初は罪悪感があっても、賛同するコメントが書き込まれたり、同じような意見を目にしたりすれば、『自分は正しい』という思いが強固になります」    そして、天皇や皇族も人間である以上、叩かれ続ければ精神的な傷を負うのは当然だ。 「人間は、よいことよりも悪いことのほうが記憶に残りやすい。『批判は気にしない』と思っていてもダメージを受ける。批判にさらされ続けば佳子さまも、姉の小室眞子さんが複雑性PTSD(心的外傷後ストレス障害)と診断されたように、うつの症状などが出てもおかしくはない」    皇室は、国民から敬愛される一方、強いバッシングも受ける存在だ。そのなかでも秋篠宮家は、長女の小室眞子さんの結婚騒動に端を発し、多額の税金をかけた宮邸の改修工事などの「火種」を抱えている。そのような状況だが、佳子さまにはその笑顔を絶やさないでほしいと願うばかりだ。 (AERA dot.編集部・永井貴子)   【こちらも話題】 佳子さまの本質はファッションではない 実は、皇室の「祈り」に向き合う存在 https://dot.asahi.com/articles/-/195016  
佳子さまの“パーフェクトスマイル”は現地で絶賛 「ほほ笑みのプリンセス」のペルー訪問
佳子さまの“パーフェクトスマイル”は現地で絶賛 「ほほ笑みのプリンセス」のペルー訪問   ペルーの「ろう学校」で、スペイン語の手話を披露される佳子さま(写真:AP/アフロ)  南米ペルーを公式訪問していた秋篠宮家の次女・佳子さまが、10日に帰国された。日本との外交関係樹立150周年を迎えたペルーへの訪問は、度重なる航空機トラブルや超過密スケジュールなどハードな局面もあったが、終始弾けるような“パーフェクトスマイル”で、現地の人々と親交を深められた。ペルーメディアから「ほほ笑みのプリンセス」と称賛された佳子さまの姿を、写真で振り返る。 *  *  *    1日午前、民間機で羽田空港を出発された佳子さま。エメラルドグリーンのスーツに光る真珠のブローチは、2019年に姉の小室眞子さんがペルーへ出発された際に着用していたものと同じデザインだったことから、「眞子さんから譲り受けたのでは?」と注目を集めた。 【こちらも話題】 佳子さまの絶妙なセルフプロデュース力「強い意思を感じる」皇室番組放送作家 https://dot.asahi.com/articles/-/203854 写真:ロイター/アフロ 写真:ロイター/アフロ 写真:ロイター/アフロ  経由地の米ヒューストンで、ペルー行きの便に搭乗した佳子さまだったが、機体レーダーの故障のため引き返すことに。さらに、乗り換えた便もエンジントラブルで離陸できず、予定より1日遅れの現地時間3日午前0時半ごろ、ようやく首都・リマのホテルに到着された。  それにも関わらず、3日は午前中からご公務スタート。日本とペルーの外交関係樹立150周年を記念した式典では、秋篠宮ご夫妻や姉の眞子さんも過去にペルーを訪問したことに触れ、「家にはペルーの本やアルパカのぬいぐるみがあり、ペルーの音楽を楽しむ機会も多くありました」などと明かされた。 【こちらも話題】 佳子さまの喪服姿はなぜ話題に? 安倍元首相国葬でのひと際目を引いた堂々たる気品 https://dot.asahi.com/articles/-/199223 写真:AP/アフロ  佳子さまは5日、ペルー南部の古都クスコを訪れ、インカ帝国時代の太陽神殿「コリカンチャ」の石組みの上に建てられたサント・ドミンゴ教会などを見学された。ターコイズブルーのお召し物は、姉の眞子さんがブータン訪問時に着ていたもの。  なお、この日の午前、サクサイワマン遺跡でアルパカの群れに出迎えられた際は、アルパカのペンダントを身につけ、「いろんな色のアルパカがいますね」「走る速度はどれくらいですか?」などとアルパカに興味津々のご様子だった。 写真:AP/アフロ 写真:AP/アフロ  現地時間の6日午前には、首都リマにある公立の「ろう学校」を視察。全日本ろうあ連盟の非常勤嘱託職員で、手話が得意な佳子さまは、訪問の1か月半前からスペイン語の手話も練習していたという。  小学4年生の算数の割り算の授業では、手話で「算数は好きですか?」などと児童に質問された。教諭によると、子どもたちは「なぜそんなにスペイン語の手話が上手いの?」と驚いていたそうだ。 【こちらも話題】 愛子さま「かっちり」佳子さま「ふんわり」 プリンセス・ファッションの違いの意味 https://dot.asahi.com/articles/-/203257 写真:ZUMA Press/アフロ 写真:ZUMA Press/アフロ  当初のスケジュールで最初のご公務として予定されていた、リマ市のマルテ広場訪問は、初日の航空機トラブルの影響により現地時間の7日午前に変更。広場には、1899年に初めて組織的にペルーに渡った日本人790人の名前が刻まれた記念碑がある。純白のスーツと手袋を身につけた佳子さまは、記念碑にバラやユリなどの花輪を供え、深々と拝礼された。 【こちらも話題】 「ねぇ、今日の夕食はなあに?」眞子さんと佳子さまもペロリと食べた 秋篠宮家元料理番の特製カレーレシピ https://dot.asahi.com/articles/-/202365 写真:ZUMA Press/アフロ 写真:ZUMA Press/アフロ  マルテ広場訪問を終えた佳子さまは、午後は着物に着替え、ペルー初の女性大統領であるボルアルテ大統領を表敬訪問された。この若草色の振袖も、以前姉の眞子さんが着用していたもの。大統領主催の昼食会では、「困難な時期もありましたが、両国はそれを乗り越え、友好親善関係を発展させてまいりました」などとおことばを述べられた。 【こちらも話題】 紀子さま 戴冠式での着物姿、なぜ「たるみ」と「よれ」が気になったのか【2023年上半期ベスト10】 https://dot.asahi.com/articles/-/197147 写真:AP/アフロ  滞在最終日となった現地時間の8日午前、佳子さまは、リマ市で日本文化を伝承する教育をしている「ラ・ウニオン学校」を訪れた。小学2年生の授業では、子どもたち一人ひとりに好きな食べ物を尋ね、「私も桃好きです」「おいしいですよね」などと交流を深められた。  またこの日は、同市内の日本人学校も訪問。児童からは「unlimited」という歌の合唱がおくられた。「箱庭の空ではもう足りない 未来の地図広げて」「たとえ道はわかれたって君を思うよ」などと歌い上げられると、瞳を潤ませるようなご様子を見せた。  約23時間に及ぶ長旅を経て、10日午後3時すぎ、民間機で羽田空港に到着された佳子さま。行きの航空機トラブルにより現地滞在日数は1日少なくなったが、スケジュールを調整し、当初予定していたすべての行事を完遂された。 (AERA dot.編集部・大谷百合絵) 【こちらも話題】 なぜ佳子さまの一人暮らしの理由が「税金節約」なのか 女性皇族が住む昭和な世界 https://dot.asahi.com/articles/-/196053
若き日の天皇陛下はハッとするほど新鮮な「ロングヘア」に「もみあげ」 ドン小西さんがスーツ姿を解説
若き日の天皇陛下はハッとするほど新鮮な「ロングヘア」に「もみあげ」 ドン小西さんがスーツ姿を解説 ブラジルを公式訪問後、立ち寄ったメキシコでテオティワカン遺跡を見学する「浩宮さま」(現・天皇陛下)。ロングヘアともみあげは当時、「男らしさ」の象徴だった=1982年10月、メキシコ    南米ペルーを訪れていた秋篠宮家の次女佳子さまが10日、ペルーとの外交関係樹立150周年の公式行事や日系人との交流など多くの日程をこなし、帰国した。約40年前、佳子さまと同じ20代で、自身初めての海外訪問として南米を訪れたのが、「浩宮さま」と呼ばれていた若き天皇陛下だ。佳子さまは華やかな振り袖姿などが注目されたが、ロングヘアでもみあげを伸ばしたスーツ姿の「浩宮さま」からも当時の様子が読み取れると、専門家は指摘する。 *   *   *  1982年10月、「浩宮さま」と呼ばれていた天皇陛下が初めて、海外を公式訪問した。  訪問先は、南米ブラジル。 「特にブラジル国民として発展に貢献している日系人に接し、理解を深めたいと思います」  日本を出発する前、ブラジル訪問の抱負をこう語った。  陛下は当時22歳。春に学習院大学を卒業して同大大学院に進み、翌年からの英国留学に向けて学びを深めている時期だった。  現地ではブラジル大統領を表敬訪問し、昭和天皇や皇太子ご夫妻(現在の上皇ご夫妻)のメッセージを伝え、自身も「今回のご招待を深く感謝します。この偉大な国を自身の目でよく見聞きし、理解を深めたい」と述べた。外相主催の昼食会でのあいさつなど行事は続き、日系移民の中心地だったサンパウロでは600人を超える日系人の熱狂的な歓迎を受けた。   ブラジル・リオデジャネイロのコルコバードの丘で、キリスト像の前に立つ「浩宮さま」(現・天皇陛下)。肩パットに胸筋をたくましく見せるスーツ姿からは、その「時代」が伝わる=1982年10月、ブラジル    シワひとつなく、パーンと張ったスーツを着た「浩宮さま」。当時の報道をたどると、まだ学生だった若い陛下が、初めての公式訪問で担った重責が伝わってくる。  ファッションデザイナーのドン小西さんは、陛下の当時の写真から、こう指摘する。 「がっしりした肩パッドと胸筋のたくましさが強調されたような仕立ての背広。これは英国調の保守的なデザインではある。一方で、日本における80年代は、『男らしさ』『女らしさ』がより強調された時代でもありました。肩と胸板をたくましくみせる『浩宮さま』の背広は、まさに時代を反映するようなデザインです」     【こちらも話題】 なぜ消えた? 天皇陛下もお似合いだったシルクハットが秋の園遊会で着用されなくなった理由 https://dot.asahi.com/articles/-/205455     ブラジルの日本大使館での歓迎会でお言葉を述べる「浩宮さま」(現・天皇陛下)。日系人から熱狂的な歓迎を受けた=1982年10月、ブラジル    80年代初頭の日本は、高度消費社会の幕開けの時期だった。景気も上向き、全てが前向きな世の中で、人びとは力強くて派手なものを好んだ。  アメリカの大学生のライフスタイルを紹介する雑誌も次々に登場。街には、横浜・元町生まれのファッション「ハマトラ」に身を包んだ女子大生や、ボタンダウンのシャツやトレーナーなど米国の名門私立(プレップ・スクール)に通う学生を模範とした「プレッピー」スタイルの学生があふれた。 「80年代は、若者が服装で個性を象徴する時代に突入する一方で、サラリーマンの背広は男が仕事で戦うための『戦闘服』であり『鎧(よろい)』だった」(ドン小西さん)   もみあげが象徴する「男らしさ」の時代 「浩宮さま」がやわらいだ表情を見せたのは、帰途でメキシコに立ち寄った際だ。  日系人の歓迎会に出席したほか、アステカ遺跡の発掘現場やテオティワカンのピラミッドなどを見学した。遺跡に登る「浩宮さま」の表情には開放感がある。  公式訪問ではないためか、「戦闘服」であるスーツを脱ぎ、白いブレザーに茶色いパンツ姿と、すこしだけカジュアルだ。   立ち寄ったメキシコでテオティワカン遺跡を見学し、ピラミッドに登る「浩宮さま」(現・天皇陛下)。白いジャケットの装いは、米国学生の模範ファッション「プレッピー」風=1982年10月、メキシコ    長年パリコレで取材を続けた石原裕子さんは、当時の「浩宮さま」は女性の憧れの存在だった、と振り返る。 「切れ長の目に涼しげな面差しは、古風にいえば牛若丸のよう。清潔感のある白いジャケットをお召しの姿は、『王子さま』を連想させますね。汚れを気にせずに白い服を着用できるのは、ぜいたくな装いですから」 「浩宮さま」の長く伸びた髪形も、あらためて見返すと新鮮だ。 「わずかに肩にかかるメンズロングは70年代のヒッピーブームの名残です。ロングヘアと伸びたもみあげ。あの時代の若者は、みんなこんなヘアスタイルでしたね」(石原さん)     【こちらも話題】 「ああ!」と顔を見合わせた天皇陛下と雅子さま 「この~木なんの木」おなじみのCMソングに大笑い https://dot.asahi.com/articles/-/203747     ブラジルでイグアスの滝を見学する「浩宮さま」(現・天皇陛下)。シャツのボタンを外してややラフな雰囲気=1982年10月、ブラジル    70年代末から80年代初めにかけては、シルベスター・スタローンやハリソン・フォード、アーノルド・シュワルツェネッガー、ジャッキー・チェンなど、たくましい肉体に太い眉毛ともみあげ、シャツから見える胸毛など「男らしい」ハリウッドスターが人気だった。 「一方で、陛下も伸ばしていらっしゃったもみあげは、若さの象徴として捉えられた面もありました」(石原さん)  米国の高校でもみあげを伸ばして卒業式に出席する生徒を、大人に反抗する若者としてマスコミが取り上げたこともあったからだ。   ディスコで入場を「断られた」訳  20代前半の「浩宮さま」時代のエピソードには、若者らしい遊びやファッションにまつわるものもあり、年相応の素顔が浮かび上がってくる。  たとえば、翌83年からの英オックスフォード大学留学中の思い出をつづった『テムズとともに』(徳仁親王著)には、週末にディスコに繰り出したものの、ドレスコードで「失敗」したエピソードが登場する。   「ここでも傑作な経験をした。土曜日の晩と記憶しているが、私はいかにもディスコが好きそうなMCR(※編集部注:ミドル・コモン・ルームの略)のある男性と一緒にとあるディスコに入ろうとして、入口で差し止められてしまった。理由を聞くと、ティーシャツやジーンズではその晩は入れない由である。ちなみに私がジーンズ、友達がティーシャツ姿であった。さらにその人は私たちの後方にいた警護官を指差し、『あなたは結構です』と言った。彼はネクタイこそしめていなかったが、ブレザー姿であったから許可されたのであろう。オックスフォード滞在中は、可能な限り他の学生と同じでありたいというのが私の本心であり、自分が誰かを名乗るなどとんでもない話である。素直にそのままあきらめて帰った。オックスフォードのディスコでも、週末にはある程度の服装を求められるという新しい知識を得ることができた」  陛下は、『テムズとともに』の刊行に寄せて、こうしたエピソードを「貴重な青春の思い出」と振り返っている。南米訪問でみせたロングヘアや気概あふれるスーツ姿もまた、貴重な青春の記録であるにちがいない。 (AERA dot.編集部・永井貴子)   【こちらも話題】 「雅子と訪れたい」と天皇陛下が願う英オックスフォード ランドリールームを泡だらけにした若き日 https://dot.asahi.com/articles/-/194984
雅子さま 園遊会で「敢えてブローチなし」 ユーミンも感嘆した美しきオーラと品格
雅子さま 園遊会で「敢えてブローチなし」 ユーミンも感嘆した美しきオーラと品格 園遊会に臨まれる天皇、皇后両陛下 代表撮影  11月2日、快晴の空の下、天皇皇后両陛下が主催する秋の園遊会が赤坂御苑(東京・元赤坂)で開催された。今回の女性皇族のドレスコードは洋装。少し色づき始めた秋の景色に色とりどりの装いは鮮やかだった。皇室の装いに詳しい歴史文化学研究者の青木淳子氏が解説する。   *  *  *   「秋の園遊会で皇族女性が三笠山に一堂に並ばれたお姿は、色とりどり。まるで秋の錦繍(きんしゅう)のようでした」とは歴史文化学研究者の青木淳子氏。赤坂御苑の小高い丘(三笠山)にズラリと並ばれた姿は、全景写真で見ると本当に鮮やかだ。 園遊会に臨む天皇、皇后両陛下、秋篠宮ご夫妻、皇族方=23年11月2日 代表撮影    園遊会の主催は天皇、皇后両陛下だが、さすが、雅子さまは控えめながらも別格の輝きだった。青木淳子氏は雅子さまのこの日の装いをこう解説する。 色づき始めた木々に映える雅子さまの園遊会での装い 代表撮影   「雅子さまのスーツは、銀杏(いちょう)の黄色を意識されているのでしょうか、秋の園遊会に季節感あふれる色の選択です。日差しによって黄緑にも見えるこの色は、鶸(ひわ)色といってもいいでしょう。生地は光沢のあるシルクシャンタン。お天気がよかったこの日、陽の光を受け、お姿も一層輝いたのではないでしょうか。    スーツと同色の布が巻かれた帽子。襟元と袖口部分の細やかなブレード(組紐)飾りが、シンプルでありながら、格調高いデザインです」 雅子さまは以前にもお召しになられて  鶸色とは小鳥のヒワ(鶸)の羽の色からつけられた色で、緑がかった黄色だそうだ。気づいた人もいるかもしれないが、秋の園遊会の雅子さまのスーツは、以前にもお召しになられていたものだ。 【こちらも話題】 雅子さまは「猫ちゃん!」と声を弾ませた 園遊会でひふみんの暴走も包み込んだ両陛下の真心 https://dot.asahi.com/articles/-/205518 第37回国民文化祭、第22回全国障害者芸術・文化祭の会場に到着し、永岡桂子文科相(当時)の出迎えを受ける天皇、皇后両陛下=22年10月23日   「2022年10月、沖縄訪問の際、『美ら島おきなわ文化祭』の開会式と、23年3月ルーマニア大統領夫妻との面談の折にお召しになられていました。黄色はご自身、そして周囲の方々を明るく照らす色で、世の中を明るく照らすという意味も込められているのかもしれません」 会見に臨む天皇、皇后両陛下とルーマニア大統領夫妻=23年3月7日 皇居・御所の小広間、宮内庁提供    と、青木淳子氏は推測する。それにしても、何回かお召しになられても、違う景色とともに映る姿はそれぞれに意趣が感じられ、印象的だ。青木淳子氏は品格がにじみ出ている点を指摘する。   「アクセサリーは、パールのネックレスとイヤリング。敢えてブローチをつけないところに、装いの品格が増していると思います」    招待されたシンガーソングライターの松任谷由実さんが園遊会後の囲み取材で、雅子さまの感想を求められて「理知的なオーラが伝わってきて、同じ日本女性として誇りに思います」と語っていたが、こうした装いの細部に渡る工夫で、まさに品格と輝きが増していたのかもしれない。 秋の園遊会の招待者。ユーミン(写真左)は和装で出席    園遊会の日の空の色のように鮮やかなブルーだったのは紀子さまだ。 園遊会に臨む天皇、皇后両陛下、秋篠宮ご夫妻 代表撮影 紀子さまは凝ったデザイン 「紀子さまはブルーのアンサンブルスーツと同色の帽子。秋の青空を思わせます。ヘチマ襟で、シンプルなデザインですが、脇の切り替え部分と帽子に別布があしらわれ、凝ったデザインとなっています。    ブルー系のかっちりとした印象が紀子さまにお似合いです。ネックレス、イヤリング、ブローチと、皇族女性の定番のアクセサリーづかいです」    シンプルながらもゴージャスだったのは、高円宮久子さま。 園遊会に出席した高円宮妃久子さま=23年11月2日 代表撮影   「高円宮久子さまはゴールドのスーツ。シンプルなデザインですが、生地は唐草の地紋が入り、ゴージャスな雰囲気です。   ゴールドと組み合わせた大粒のパールのネックレスやブローチが、豪華さを引き立てています。帽子にあしらわれたベージュのオーガンジーが柔らかさを出し、久子さまの優しさを物語るようです」 【こちらも話題】 雅子さまの姿勢はなぜ美しいのか 雨の中の佇まいが「感動するほど」マナーのプロ https://dot.asahi.com/articles/-/205025    久子さま同様、華やかだったのは高円宮家の長女・承子さまだ。 園遊会に出席した高円宮家の長女承子さま=23年11月2日 代表撮影   「承子さまは、明るいボルドー色のアンサンブルスーツ。重なった花びらを思わせる模様が織りで入った凝った布地です。    華やかな承子さまだから着こなせるスーツだといえます。白いつばのある帽子に同色のレースが、スーツの重厚感を軽くし、スッキリとした装いになっています」    承子さまと同世代の三笠宮家の長女・彬子さまは知的な装い、そして、三笠宮家の次女・瑤子さまはモダンだった。 園遊会に出席した故・寛仁さまの長女彬子さま=23年11月2日 代表撮影   「彬子さまは、水色のワンピースに紺の同じ丈のジャケットタイプのアンサンブル。スッキリとしたAラインが、彬子さまの知的な印象とマッチしています。頭の上にちょこんと乗ったトーク帽には、水色と紺の草花のようなオブジェが飾られ、装いのアクセントになっています。 園遊会に出席した故・寛仁さまの次女瑶子さま=23年11月2日 代表撮影    瑤子さまは、黒のツーピース。襟元と袖口にエメラルドグリーンの縁取り、帽子にも同じ色のリボンが付き、ポイントとなって、黒が引き立つお洒落でモダンなデザインです」    快晴の空の下、太陽の光に照らされ輝いていたのは常陸宮華子さまのスーツだ。 園遊会に臨まれる常陸宮華子さま、三笠宮家の長女・彬子さま、三笠宮家の次女・瑤子さま、高円宮久子さま、高円宮家の長女・承子さま     「常陸宮華子さまはエメラルドグリーンのスーツと同色の帽子。腰から下のペプラムの部分に繊細なレースがあしらわれています。歩むたびにレース部分が揺れ、華子さまのエレガントな雰囲気が伝わってきたことでしょう」    83歳の華子さまだが、これほどまでに鮮やかなエメラルドグリーンを着こなせるのはさすがである。園遊会というハレの日に、こうした色とりどりの盛装は見ているだけでも心が華やぐものだ。(AERA dot.編集部・太田裕子) 〇青木淳子/歴史文化学研究者、学際情報学博士(東京大学)。元大東文化大学特任准教授(2020年3月任期満了にて退職)、現在、大東文化大学・フェリス女学院大学・実践女子大学・学習院女子大学非常勤講師。日本フォーマル協会特別講師。著書に『パリの皇族モダニズム』(KADOKAWA)、『近代皇族妃のファション』(中央公論新社)など。大学卒業後婦人画報社(当時)にて、『美しいキモノ』特集号、『結婚の事典』の編集を担当。
「きのう何食べた?」は新時代のホームドラマに “異色カップル”山本耕史と磯村勇斗も新境地の演技
「きのう何食べた?」は新時代のホームドラマに “異色カップル”山本耕史と磯村勇斗も新境地の演技 「もう1組のゲイカップル」を好演する山本耕史(左)と磯村勇斗    西島秀俊と内野聖陽の主演で、現在テレビ東京系にて放送中のドラマ「きのう何食べた? season2」が前シーズンに引き続き、好評のようだ。「秋ドラマ 初回満足度ランキング」(Filmarks調べ)でもトップとなり、視聴者からの注目度も高い。  原作は「西洋骨董洋菓子店」「大奥」など、ドラマ化もされたヒット作を持つ、よしながふみの人気漫画(現在も「モーニング」にて連載中)。主人公は、2LDKのマンションで同居生活を送っている弁護士の「シロさん」こと筧史朗(西島)と、その恋人で「ケンジ」こと美容師の矢吹賢二(内野)。2人の毎日の「食」を通して浮かび上がってくる、男2人暮らしの人生の機微を描いた作品である。  2019年にSeason1が放送されると、X(旧Twitter)で世界トレンド1位になるなど好評を博し、さまざまなドラマ賞を受賞。2020年の元日に放送されたスペシャル版では、宮沢りえが16年ぶりに同局のドラマに出演したことでも話題になった。さらに21年には劇場版「きのう何食べた?」が公開され、いずれも高い評価を得ている。  そして今回のSeason2では、前シーズンからの時間経過を反映させつつ、変わらず2人暮らしを続けるシロさんとケンジの何げない日常が、彼らが食べる日々の「食」の風景とともに描かれていく。  料理がうまく、きちょうめんで倹約家のシロさんと、感受性にあふれ感情表現が豊かなケンジ。ストーリーは1話につき約1カ月単位で進み、セルフ・オムニバスとでも言える日常の一コマを切り取った描写がメインで、ドラマとしての連続性は比較的緩い。ひと手間加えたインスタントラーメンやカツ丼など実用的なレシピが紹介される料理シーンもシンプルで、特別な演出が施されているわけではないのだが、なぜか心に残る。     【こちらも話題】 及川光博「きのう何食べた?」美形な“ツン”キャラで魅了 元妻・檀れいとの関係も良好で“最強のイケオジ”に https://dot.asahi.com/articles/-/205412   「シロさん」役の西島秀俊   新しい時代のホームドラマ  少々雑な言い方かもしれないが、ふとゲイ設定を忘れさせるほどの、西島と内野の確かで豊かな演技力が本作最大の魅力となっていると筆者は思う。大げさな話ではなく、この2人がテーブルで向かい合って夕飯を食べているだけで、すでにドラマが成立しているのだ。これまで数多くのドラマで見慣れた料理や食事のシーンも、力量と存在感のある俳優が演じるとこんなにも“間”がもち、会話に聞き入ってしまうのだと改めて感じさせる。  同性カップルが主人公のドラマとしては、こちらも映画化された「おっさんずラブ」(※2024年1月に新シリーズ「おっさんずラブ-リターンズ-」がスタート)を思い浮かべる人も多いだろう。また、比嘉愛未と西野恵未の女性カップルによる「食」をテーマの一つとした「作りたい女と食べたい女」(※こちらも2024年初頭に続編が放送予定)も記憶に新しい。  また90年代のドラマになるが、井沢満脚本の「同窓会」(1993年)では、まだ同性愛やゲイカルチャーが社会的に異質なものとして捉えられていたこともあってか、同性愛がショッキングかつセンセーショナルな形で表現されていた。その時代と比べると、ゲイカップルの日常が違和感なくナチュラルに描かれている本作はエポックメイキングとも言える。グルメ要素が盛り込まれているものの、その意味で「きのう何食べた?」は新しい時代のホームドラマと言っても良いのではないだろうか。  もちろん、同性愛カップルにとって、立ちはだかる問題や乗り越えないといけない壁はまだまだ少なくないが、今、私たちが暮らす社会における同性愛に対する認知や理解といったのものが、緩やかではあるがテレビドラマに反映されつつあると言えるだろう。     【こちらも話題】 俳優・磯村勇斗の意外な原点 「きのう何食べた?」劇場版公開前に下積み時代振り返る https://dot.asahi.com/articles/-/65540   過去のドラマでは完璧な女装を披露した山本耕史   もう一組のカップルにも注目  そんな中、本作において注目したいのが、もう一組のカップルである小日向大策(山本耕史)と井上航(磯村勇斗)の存在である。  Season1の第3話でシロさんと半ば唐突な形で知り合った小日向は、異様に強い目ヂカラとマッチョなボディーで不思議な魅力を放ちながら彼に近づいていく。2人きりで食事をし、マジな雰囲気を醸し出した恋愛相談を受けたシロさんは一瞬、自分に気があるのではと勘違いしてしまうが、目に入れても痛くない大事な年下のパートナーである航に対する単なるノロケだったことに気づき、ホッとする。もちろんSeason2でもこの2人は登場する。  山本はかつて「さんかくはぁと」(1995年)というドラマで、体格を除きほぼ完璧な女装を披露したことがある。真っ赤なボディコンに身を包み、歌舞伎の女形を彷彿とさせる卵のようなツルッとした肌、柔らかで女性的なしぐさが、今でも脳裏に焼きついている。それを思い出すと、本作でのハマりぶりもまったく違和感はない。恋人役の磯村も憎たらしいほどのかわいさとわがままぶりで、年上の小日向をとことん振り回す演技と表情が板についており、こちらもシロとケンジに負けずとてもお似合いのカップルなのだ。  そして、この2人が繰り広げる出来事がアクセントやコントラストとなって、シロとケンジの関係が引き立つ構図になっているところが興味深く、ひいては作品に広がりと厚みをもたらすことに奏功している。本筋とは多少ズレてしまうかもしれないが、小日向と航のスピンオフドラマを熱望しているファンはきっと多いに違いない。     【こちらも話題】 内野聖陽「きのう何食べた?」続編で再注目 “オスなるもの”から解放され次の高みへ https://dot.asahi.com/articles/-/195407   「ケンジ」役の内野聖陽   老いても仲むつまじい西島と内野が見たい  作法や行儀、嗜好(しこう)に違いはあるものの、「食べる」という行為そのものに男女の差はないだろう。  今、自分たちが暮らす社会に目を向けると、世界規模でエスカレートする分断や対立が嫌でも目についてしまう毎日だ。人間は食べずには生きていけない。そんな中で、異性だろうと同性だろうと、好きな誰かと一緒に食事をする時間のかけがえのなさは、人類が誕生して以来、そしてこれからも未来永劫(えいごう)、変わらないだろう。  同様に、パートナーとともに人生を過ごす選択をした場合、時間の経過とともに、親兄弟を含めた家族との関係や法律的な制限、仕事関連のつきあい、ご近所や社会の目など、さまざまな問題に直面していく。同時にそれによって互いの価値観や生きざまが浮き彫りになっていき、時として“選択”を迫られることにもなるわけだが、これは別に同性カップルや、もっと言えばカップルに限ったことではない。男と女でも、男同士でも女同士でも、一人でも二人でもそれ以上でも同じだ。  私たちはこのドラマに描かれている、食の「等しさ」と、人生の「普遍性」にそこはかとなく心引かれるのではないだろうか。ならば、できることならこのまますてきに年齢を重ね、老いてなお仲むつまじく2人で食事をしてほほ笑み合う西島と内野の芝居をずっと見ていたい。 (中村裕一)
4度目の不倫報道でも「斉藤由貴」が絶対に“干されない”理由 すべての不倫を「生産的」にする格の違い
4度目の不倫報道でも「斉藤由貴」が絶対に“干されない”理由 すべての不倫を「生産的」にする格の違い 「6年ぶり4度目」の不倫報道があった斉藤由貴    斉藤由貴(57)がまた、不倫を報じられた。今度は誰と? という反応をした人がいるかもしれないが、6年前の「W不倫」と同じ相手だ。  2017年、かかりつけの開業医との「手つなぎデート」をスクープされ「家族がみんなお世話になっているおじさん」だと説明。しかし、その後、キス写真が出てきたことで、 「女優としても、女性としても、頼りすぎてしまいました。でも、もう、終わりにしました」  と、謝罪文のなかで語った。  ところが、6年前のスクープに続いてふたりの関係を報じた「週刊文春」によれば、不倫が終わっていないことを思わせる出来事があったという。「狂乱動画入手 斉藤由貴 6年不倫で警察出動」と題された記事には、10月最後の土曜日の夜、相手の医師が経営するクリニックの前で「入れて!閉めないで!」と泣き叫ぶ彼女と、入れまいとする相手との修羅場が描かれている。  また、相手の医師が目撃者に対し、 「この人、薬を飲み過ぎておかしくなってしまったんです」  と説明していた、とも。  さらに、記事の後半、相手の医師は編集部とのやりとりのなかで、その説明について「言った覚えはない」としつつも「斉藤さんがまともな精神状態でなかったのは本当です」と発言。また、不倫後の離婚で財産を前妻にとられたことや、現在、斉藤の離婚問題の相談にのっていることを明かしたうえで、 「斉藤さんは僕になついている」  と、意味深なことを言っていた。 斉藤由貴(写真:西村尚己/アフロ)   不倫有名人としては「格が違う」  一方、彼女は、 「関係が続いているとかそういうのはないです」  と、不倫の継続を否定。所属事務所による、こんなコメントも掲載されている。 「警察に通報したのは斉藤本人で、その場の状況を受けて判断した対応と報告を受けております。現在も夫婦関係は変わっておらず(略)2017年以降お付き合いはしておりません」  ちなみに、彼女が不倫を報じられたのは1991年の尾崎豊、93年の川崎麻世に続き、この相手を2回と数えれば、6年ぶり4度目。高校野球の強豪紹介みたいだが、実際、不倫界きっての強豪だ。  一度の不倫で大失速する人も多いなか、むしろ「芸の肥やし」にして大女優への道を歩んできた。それゆえ、今回も逆風はそれほど吹いていない。  ネットニュースを見ても『学ばない斉藤由貴〝4度目不倫〟報道 「狂乱動画入手」の驚き 過去に謝罪会見も「芸能活動を続けている珍しい存在」』(夕刊フジ)とか『斉藤由貴「狂乱不倫動画」に世間は反応薄…広末涼子の不倫、6年前の自身の不倫からもトーンダウン』(日刊ゲンダイ)といった、彼女の揺るぎない存在感を面白がるものが目立つ。  筆者が感心したのは『ナイツ塙 コンビ独演会に大物女優 漫才でイジらなかったら本人が…「さすがだなと思った」』(スポニチアネックス)という記事だ。ナイツが自身のラジオ番組で明かしたところによると、彼女は今回の報道直後、彼らの独演会に来たという。  塙宣之いわく「俺たち時事ネタで50人くらいイジるんだけど、斉藤由貴さんは入れなかった。さすがに」とのことだが、彼女は終わったあと、自らこう言ってきたというのだ。 「私の名前がいつ出てくるかと思ってヒヤヒヤした」  なんというか、不倫有名人としての格の違いを感じさせる話だ。 31年前の斉藤由貴   「本当に学ばない人間なんだな」と自己分析  ではなぜ、彼女は例外的存在でいられるのか。  筆者は4年前、本サイトで「三度の不倫報道でも消えない 斉藤由貴に世間が優しいのはなぜか?」という記事を書いた。自身で行ったインタビューでの印象や、それ以外での彼女の過去発言などから、その打たれ強さの謎をひもといたものだ。その際の見解に新たな解釈を加えつつ、もう一度ひもといてみたい。  よく知られているように、彼女はモルモン教徒であり、また、子どもの頃から芸術家志向だった。それゆえ、健全と退廃、モラルとインモラルといった両極端なものに惹かれるところがあり、不倫をするにしても、官能的な満足だけでなく、魂のつながりを欲してきたことが感じられる。  たとえば、尾崎豊とのときには「同志みたいな感じなんです」、川崎麻世とのときには「傷をなめ合う仲」だと説明していた。さらに、川崎とのときには、 「前の人とのことがあったにもかかわらず、本当に学ばない人間なんだなと自分のことながら悲しい気持ちです」  という名言を残すわけだが、じつはこのとき、彼女は自分が「学ばない人間」であることを学んだのだ。というのも当時、こんな自己分析もしていた。 「宗教の重荷がなかったら自分がどこかへ飛んでいっちゃうから。逆にそういう重荷があるからこそ、自分が飛んでいこうと思ってあがくのかもしれない。(略)モラルとかインモラルとかいう言葉にしても、そのふたつが離れているほど、よりドラマチックな生き方になりますよね」(「VIEWS」) 28歳ごろの斉藤由貴   不倫のきっかけはダイエット?  自分がそういうタイプの人間である以上、信仰などを活用してうまくバランスをとっていくしかない、という人生観が見てとれる。  実際、この翌年、彼女は同じモルモン教徒の一般男性と結婚。3児の母となり、しばらくは平穏な家庭生活を続けていくわけだ。  ただし、モラル=健全の側に安住し続けられる人でもないので、子育ても落ち着いてくると、また、インモラル=退廃の側へといざなわれるようになる。きっかけは、ダイエットだ。  2012年に父親から「背中が丸いな」と言われたことから、3ヶ月で11キロ減量。これにより、アイドル時代の清純な芸風、結婚してからのコミカルな芸風に続き、悪女っぽい芸風も身につけ、女優としての活況をまた呈していくのである。  注目したいのは、開業医との不倫もこのダイエットのあたりから始まっていたこと。彼女は「女優業」について「空気のようなもの。吸わないと死んでしまう」と語っているが、女優としての高みを目指すうえでこの不倫が必要だったのかもしれない。そしてしっかり、芸や作品につなげたわけだから「生産的な不倫」ともいえる。  そういえば、彼女らしいエピソードとして、高2のとき、間違えて別の高校に行き、遅刻したというのがある。自分が通う公立高校と制服が似ていた近所の女子校にいつのまにかたどり着いてしまっていたそうで、その話をじつに楽しそうに語っていた。  おそらく、迷うことが好きで、そんな自分を楽しめる人でもあるのだ。これまでの不倫が「生産的」であることに加え、そんな「迷子キャラ」のようなものもなんとなく伝わるからこそ、世間も彼女には強く当たらないのではないか。つまり、世間も彼女についてかなり学んでいるわけだ。 斉藤由貴(写真:つのだよしお/アフロ)   芸能人としては「ギャップ」がなくなった  とはいえ、今回の不倫報道が盛り上がらないのは、ネタとして今ひとつというのも関係しているだろう。  尾崎は当時すでにカリスマ的存在で、覚せい剤での逮捕歴もあり、不倫発覚と破局の翌年、26歳で急死して、伝説の人となった。川崎もまた、華のあるイケメンで、かつ、不倫に怒ったカイヤ夫人(当時)の鬼嫁ぶりが話題を集めることに。開業医は一般人だが、前回の騒動時には「斉藤のものとおぼしきパンティーを頭にかぶった写真」が飛び出すなどして、面白がられた。  こうした相手側のインパクトやクセの強さは、彼女への当たりを弱めることにもつながったが、今回は相手側にも彼女にもそれほどの関心は集まってないようだ。  その背景には、世間の移り気というのもある。  16年の「ゲス不倫」から7年。さすがに不倫も飽きられてきたのか、最近は統一教会騒動やジャニーズ騒動など、洗脳やハラスメントといったものが関心を集めるようになってきた。メディアが優先して取り上げるのも、そういう騒動だ。  この原稿の前半で触れた「日刊ゲンダイ」の記事は「斉藤はアラ還を目前にして"無敵状態"になりつつある」と締めくくられているが「無敵」であるとともに「無関心」という要素も加わってきていることは否めない。それは世間が、彼女について学んだ結果、不倫をしても驚かなくなったということでもあり、ギャップがまったくなくなるのも芸能人としてはあまりよくないことだ。  なお「週刊文春」の続報では、斉藤夫妻がモルモン教の規律に反することでもある離婚に踏み切る可能性も出てきているという。が、そういう私生活の変化より、女優としてこれからどうなっていくかを注目したいところだ。  ここはいっそ、板につきすぎた感もある悪女っぽい役ではなく、思い切り聖女の方向に振り切った役を演じて、培ってきた女優力を示すときかもしれない。 ●宝泉薫(ほうせん・かおる)/1964年生まれ。早稲田大学第一文学部除籍後、ミニコミ誌『よい子の歌謡曲』発行人を経て『週刊明星』『宝島30』『テレビブロス』などに執筆する。著書に『平成の死 追悼は生きる糧』『平成「一発屋」見聞録』『文春ムック あのアイドルがなぜヌードに』など
皇族方は「ユーミン」がお好き!  「翳りゆく部屋」に「オリーブ」、専門家も驚いた”コアなファン”とは
皇族方は「ユーミン」がお好き! 「翳りゆく部屋」に「オリーブ」、専門家も驚いた”コアなファン”とは 園遊会に臨む天皇、皇后両陛下、秋篠宮ご夫妻=23年11月2日 代表撮影    天皇、皇后両陛下が主催する秋の園遊会が、赤坂御苑(東京・元赤坂)で開かれた。印象的だったのは皇族の方たちとユーミンとのやりとりだ。天皇陛下からは「翳りゆく部屋」「卒業写真」、秋篠宮さまからはアルバム「オリーブ」の名が挙がった。皇族方はなぜユーミンに惹かれるのか。AERA dot.でコラム「CULTURE&PEOPLE」を執筆する音楽評論家の森朋之氏が解説する。   *   *   *  5年ぶりとなった秋の園遊会には約1000人の招待者がいたが、シンガーソングライターの松任谷由実さんの前は大いに盛り上がっていたそうだ。   「特に、松任谷由実さんとはお話が盛り上がる皇族の方も多く、みなさま長時間お話しされていました。時折、取材の記者とカメラの位置まで聞こえてくるほどの笑い声が上がるほどでした」(皇室記者) 園遊会に出席し、シンガー・ソングライターの松任谷由実さん(前列右から2人目)と話す天皇、皇后両陛下 代表撮影    さすが、昨年50周年を迎えた日本屈指の大スター、ユーミンだ。ユーミンは、「なんだか緊張していて、せっかくのお言葉をみんな飛ばしちゃってるんですね……」と園遊会後の囲み取材で打ち明け、天皇陛下と交わした言葉を思い出すように話していた。 天皇陛下は「翳りゆく部屋」と「卒業写真」 「最後のほうに、私の曲をあげてくださって、『翳りゆく部屋』がお好きだと言ってくださったので、すごくうれしかったです。また、『卒業写真』も出してくださいましたね」    天皇陛下が挙げた「翳りゆく部屋」について、「70年代のユーミンの人気曲の1つです」と話すのは音楽評論家の森朋之氏。 【こちらも話題】 雅子さまを笑顔にしたひふみん“脱力系”猫談義、実は周到な準備があった! 「すばらしい一日でした」 https://dot.asahi.com/articles/-/205629   「ユーミンが結婚する前、荒井由実名義での最後のシングルです。本物のパイプオルガンの音色から始まる曲なんですが、ユーミンは立教女学院中学校・高等学校というミッションスクール出身で、当時、学校で聴いたパイプオルガンが、彼女の音楽のルーツの一部分でもあります。    また、ユーミンはブリティッシュロック、特にプロコル・ハルムというバンドに多大な影響を受けています。『翳りゆく部屋』は、そんな背景を感じさせる、クラシック的なオルガンやストリングスに、ロックを融合した特徴的な楽曲です。当時のユーミンの音楽性が端的に表れていると思います」   「翳りゆく部屋」は1976年3月5日リリースされた。天皇陛下は1960年2月23日生まれなので、リアルタイムで聴いたとすれば、16歳になったばかりのころだ。   「ファンからも人気の高い曲で、いまでもいろいろな人がカバーしています。最近だとエレファントカシマシの宮本浩次さんがカバーしていますね。歌詞が西洋的でロマンティック。当時、日本では4畳半フォークが流行っていた時代に、女子がグッとくるようなこんなオシャレなラブソングを書けるのは、ユーミンのすごさですよね」 【こちらも話題】 「秋の園遊会」雅子さまは“皇后の自覚”にじむ女郎花色 紀子さまはロイヤルブルーに“意志の強さ” https://dot.asahi.com/articles/-/205533    天皇陛下があげたもう一曲、「卒業写真」は、誰もが知る長く愛されている卒業ソングだ。   「天皇陛下は60年生まれですから、『卒業写真』がリリースされた1975年は、多感なころですよね。多くの人がポップミュージックに興味を持ち始める年齢で、陛下も記憶に残っていらっしゃるのでしょうか。   『卒業写真』も『翳りゆく部屋』と同様、ストリングスなどが入っていて、全体の印象としてはクラシック的な雰囲気のシックな曲です。天皇陛下がそれまでどのような音楽を聴いていらしたかわかりませんが、クラシックをお聴きになっていたのであれば、親しみやすい楽曲だったのではないかと思います」 園遊会に臨む天皇、皇后両陛下、秋篠宮ご夫妻 代表撮影   秋篠宮さまはアルバムの名前を  天皇陛下は学生時代からビオラを演奏され、いまも続けられている。ストリングスの入る、クラシック的な楽曲に耳を傾けられたのかもしれない。一方、園遊会で秋篠宮さまが挙げたのは、一つの楽曲ではなく、アルバム「オリーブ」だった。    これには、ユーミンも驚いたようで、園遊会後の囲み取材でこう語っている。   「秋篠宮ご夫妻はとてもたくさん曲の話を、お話してくださいました。学生時代に、スキーでよく聴かれたとか。秋篠宮さまは私の『オリーブ』というアルバムをとてもよく聴いてくださっていたようで、 なかなかコアファンも出してこないようなナンバーをおっしゃられたので、びっくりしました」    アルバム「オリーブ」を挙げられたことには、音楽評論家の森朋之氏も驚きを隠さない。 【こちらも話題】 雅子さまは「猫ちゃん!」と声を弾ませた 園遊会でひふみんの暴走も包み込んだ両陛下の真心 https://dot.asahi.com/articles/-/205518   「『オリーブ』のリリースは79年7月20日、秋篠宮さまは65年11月30日生まれなので当時14歳。当時から『オリーブ』を聴いていたとすれば、かなり熱心なユーミン・ファンだと思います。    というのもユーミンが大スターになる前、70年代後半の作品だからです。いま聴いても本当にいい曲ばかりですが、決して派手ではありません。80年代に入って100万枚以上の大ヒットを連発していた時期のアルバムに比べると、落ち着いた雰囲気の作品です」    楽曲の背景を聞くと、その曲をどうして好きになったかまでが想像できて興味深い。  ユーミンは、高円宮妃久子さま、三笠宮家瑤子さまとは「女性同士の話で盛り上がりました」とも明かしているが、皇族の方々それぞれに思い出ソングがあるのだろう。   (AERA dot.編集部・太田裕子) 【こちらも話題】 なぜ消えた? 天皇陛下もお似合いだったシルクハットが秋の園遊会で着用されなくなった理由 https://dot.asahi.com/articles/-/205455
「南極観測がここで役立つとは」 大学のIT業務を担う女性地球物理学者(52)が伝えたいこと
「南極観測がここで役立つとは」 大学のIT業務を担う女性地球物理学者(52)が伝えたいこと   駒澤大学総合教育研究部教授の坂野井和代さん  日本女性初の南極観測越冬隊員だった駒澤大学教授の坂野井和代さんは、南極に行く前の東北大学4年のときに同じ研究室で4歳年上の健さんと結婚した。南極での観測成果を博士論文にまとめたあと、ようやっとの思いで見つけた任期付きの勤務先は東京。東北大の助手になっていた健さんとの別居結婚生活が始まった。  今も夫は仙台、妻は東京で働く。駒大に就職する前年暮れに生まれた第1子、その6年後に生まれた第2子を別居生活のなかで育ててきた。いったい、どうやって――。(聞き手・構成/科学ジャーナリスト・高橋真理子) *   *   * 【前編から読む】 「あなたは見世物パンダだよ」 日本人女性初の南極観測越冬隊員になった科学者(52)の到達点 https://dot.asahi.com/articles/-/205391 ――東京での最初の仕事の任期は3年ですか?  はい、その3年目に第1子を妊娠しました。生まれたのが12月末です。要は大きいおなかを抱えて就職活動をしなければならなかった。おなかに子どもがいたので、とにかく安定した職というのを第一目標にして、選り好みせずに出せるところには全部出しまくった。 人生は偶然の連続  文系の私立大学に理系の研究者はあまり応募しないと思うんですけど、ここがパソコンとかコンピューターの管理ができる人を探していたんです。募集が出ていたのは「情報系」で、「理系」ではなかったんですけど、私は内容を見て「これだったらできる」と思い、「この仕事をできるから、採ってください」と書いた。 ――それでめでたく採用された。  はい。大学4年でサーバー管理したのが結婚につながったし、就職にもつながった。さらにその前に私がコンピューターに関心を持ったのは、メーカーの技術者だった父がマイコンとかパソコンとかを使っていて、その取り扱い説明書の後ろのほうに「こうやるとゲームができます」みたいなことが書いてあったから。要はプログラムすればできるっていうことなんですけど、それで私は面白そうだと思った。本当に人生って偶然の連続だなって思います。意図していないことがつながっていく。 ――ほんとですね。12月に出産して翌年4月から駒大に。お子さんはそこから保育園?  いえ、実は夫が半年の育児休業を取ったんです。駒澤では就職1年目は育休が取れないという労使協定があって、一方で夫はプロジェクトが一息ついたところで、「僕が育休を取るよ」と言って東京に来ました。取ってみたかったらしいんですよ。すごいマメな性格で、ご飯とかも私より作るんです。当時はイクメンっていう言葉すらない時代で、「どこに行ってもお母さんばっかりだ」って言いながら、予防接種とか健診とかに連れていっていました。  半年たって夫は仙台に帰り、子どもは認可外の保育園に入れました。夜10時まで預かってくれて、夕飯もちゃんと手作りしてくれるところで、しかも病気になったときは保育士さんを自宅に派遣してくれる。そういう保育園が川崎にあったんです。それを探し当てて、その近くに引っ越した。保育園代はものすごくかかりました。あと、横浜にいた私の両親にもずいぶん助けてもらいました。  夫は毎週末、東京に来ていましたけど、そのうち、どうせ行き来するんなら私が通勤で行き来しようとなって、自宅を仙台の1カ所にしました。2歳の子どもを東北大の保育園に入れて、平日は夫が面倒を見る。私は月曜日に新幹線で東京に出て、東京にいる間はカプセルホテルに泊まる。 ――え、カプセルホテル?  ホテルに泊まっちゃえば洗濯も掃除もしなくていいし(笑)、部屋を借りるより経済的だし。週末は仙台に帰って、何とか生活が回っていましたが、「小1の壁」がすごく大変だって聞いていたので、上の子が小1になったときに産休・育休を取れるタイミングで2人目を狙いました。 ――ほおー!  何とかうまくいって、私は1年間育休を取って、仙台で暮らせた。上の子が小学校に入って昼に帰ってきちゃっても私が家にいる。 サバティカルで子どもたちとハワイへ ――でも、1年たったら東京に行かないといけない。  はい。下の子も東北大の保育園に入れて、平日はお父さんが面倒を見た。下の子が保育園最後の年に私はサバティカル(研究休暇)で1年間、ほかの大学に行って研究ができたので、ハワイ大学の天文学研究所に子どもたちを連れて行きました。スプライトという雷雲の上で出る発光現象があって、学生時代にもその研究をしたんですけど、このときはマウイ島の山の上から観測しました。子どもの学校対応はちょっと大変でしたが、夫もときどき来て、1年間、楽しく異文化体験しました。  それが終わって、また仙台から東京に通勤する生活が始まったんですが、私もだんだん忙しくなって。夫は夫で海外の共同研究先にすごい頻度で行くようになった。3カ月のうち4週間ぐらいは海外にいる、みたいな。そうすると、子どもたちの面倒を見きれないので、この生活スタイルは限界だなと思って、横浜に自分の家を持ちました。 富士山中腹の宝永山に登ったときの坂野井さん一家。左から健さん、次男、和代さん、長男=2021年10月  上が中2、下が小2のときから、横浜に家族がいてお父さんは仙台から週末に帰ってくる生活が始まって今に至っています。そこからは子どもの面倒は基本的に私が見るようになりました。上のお兄ちゃんがめちゃくちゃ頼りになった。下の子は学童に通いましたけど、私がお迎えに間に合わないときはお兄ちゃんに迎えに行ってもらって。 ――いやあ、なんともダイナミックな家族の歴史ですね。お仕事が忙しくなってきたというのは、とくにどの辺が?  女性活躍ってあるじゃないですか。学外で、私だと国立極地研究所が多いんですけど、いろんな委員会に必ず女性を入れてくださいってなっていて、私の年代で超高層大気の分野で極地の研究をしている女性ってほぼ私しかいないから、全部回ってくるんですよね(笑)。そういうのがあふれて、たぶん、今でも両手で数えきれないくらいやっている。  学内でも、肩書がついてくると会議が多くなってきます。私立大学だと、講師から准教授、教授へって年齢とともに順調に上がっていくんです。その点、国立はどの段階でもガチ公募で、学外から応募する人と競争しないといけない。そこは国立と私立でだいぶ違いました。そういう意味で、私立大学は子どもを持って働きやすかったと思います。  駒澤で新しく「データサイエンス・AI教育プログラム」というのを始めるとなったとき、とりまとめをやってほしいと言われて学長補佐になりました。今年9月で仕事が終わりましたが、任期中にオンライン授業をきちんと制度化するという仕事もやった。今は総合情報センター所長をやっています。学内のパソコンやネットワークを管理する部署の所長なので、セキュリティーのこととか勉強しながら。 ――そういう責任あるポストが次から次に来るんですね。  文系大学の中でITのことがわかる人が少ないので、そういう仕事が回ってくるんです。やっぱり自分の能力が生かせている感じがして、楽しいですね。あと、大学の業務をやっているときって、意外と南極観測隊の経験が役立つんですよ。南極観測隊って指揮系統がしっかりしていて、意思決定のプロセスもものすごくしっかりしている。そうでないと隊員が死んじゃいますから。天候の急変などがよくあり、隊長はこういう状況で人員と資材はこうなっているからこの作業を先にやるというようなことをみんなに説明して、隊員は納得して動く。学校で業務をやるときって、まさにこれと一緒なんです。 ――確かに。 駒澤大学のキャンパスにある東京都選定歴史的建造物「耕雲館」(1928年築)の前に立つ坂野井和代さん  たぶん、普通に研究者をやっていたら、なかなかそういう体験ができません。まさか南極観測がこんなところで役立つとは(笑)って、正直、驚いています。 南極で聞いたうれしい言葉  さんざん「女性としてどうか」と聞かれた南極ですが、私の場合は基本的に夜に1人で観測して昼間は寝る、という夜勤生活で、ほかの隊員と接触する機会が少なかったんですよ。ただ、行事にはなるべく参加しましたし、天候が悪くて観測できないときなどは昭和基地内の「バー」に行っておしゃべりしました。越冬も後半に入ったころ、南極は3回目というベテラン隊員がバーのカウンターで「女性が越冬するって聞いて、最初はどうなることかと思ったけど、別にどうってことないなあ」とポロっと言ったんです。これは私にとって本当に嬉しい言葉だった。今も忘れられない言葉です。 ――坂野井さんも男性隊員たちも、お互いを気づかう気持ちがあったからこそなんでしょうね。  女性を迎えるためにさまざまな準備や配慮をしてくださっていたことは感じました。でも、私のほうはあまり気をつかっていなかったような気がする(笑)。南極体験は私の財産ですが、博士論文を書いたことも良かった。データ解析してまとめるのは本当に大変でしたけど、どんな課題が降ってきたときも、データに基づいて考えることが自然にできたのは、博士課程で研究プロセスを学んだ結果だなって思います。いま、博士課程に進む人が減っていますが、私、博士課程に行くことはすごく勧めたいんです。絶対、ほかの道に行っても役に立つ。  ただ、博士号を取ってもいろんな道があることは知ってほしい。私のように最終的に教育者になる道もある。「これじゃなきゃダメ」って思っちゃうと、結構苦しくなるときが多いのかなと思います。私は「これでもいいや」と思ってきた。要所要所で。だから生き残れた気がしています。 【お知らせ】11月11日(土)、オンラインセミナー「研究者に聞く仕事と人生-アエラドットの連載から学ぶ」が東京理科大理数教育センター主催で開催されます。 坂野井和代(さかのい・かずよ)/1971年静岡県富士市生まれ。東北大学理学部卒、同大学院へ。1997年8月~1999年3月日本南極地域観測隊参加のため休学、2002年同大学院理学研究科博士課程修了、理学博士。2002~2005年通信総合研究所(現・情報通信研究機構)任期付き研究員。2005年駒澤大学講師、2009年同准教授、2018年同教授。2021年10月~2023年9月同学長補佐、2022年4月~同総合情報センター所長。2020年~公益財団法人日本極地研究振興会理事、2023年~公益社団法人私立大学情報教育協会理事。
雅子さまを笑顔にしたひふみん“脱力系”猫談義、実は周到な準備があった! 「すばらしい一日でした」
雅子さまを笑顔にしたひふみん“脱力系”猫談義、実は周到な準備があった! 「すばらしい一日でした」 園遊会に出席し、将棋棋士の加藤一二三さん夫妻(右手前)と話す天皇、皇后両陛下=23年11月2日 代表撮影    5年ぶりの開催となった秋の園遊会。約1000人の招待者の中で、話題だったのは「ひふみん」こと将棋棋士九段の加藤一二三さん(83)の猫談義だろう。報道される映像では、ひふみんが、天皇、皇后両陛下に唐突に猫トークを始めたようにも切り取られてもいるが、会話の裏話にはひふみんなりの「先手」があったようだ。   *   *   *  天皇陛下、雅子さまが、招待者でシンガーソングライターの松任谷由実さんとの会話を終えると、加藤一二三さん夫妻の前に立たれた。先にひふみんに「お会いできてうれしく思います」と声かけをされたのは天皇陛下だ。    ひふみんは「ありがとうございます」と感謝の言葉に続けて、自分自身の将棋界での功績はさておき、語り出したのは前人未到のタイトル全8冠を独占した「藤井聡太」。   ひふみん:「将棋界は最近、藤井聡太さんという若手が現れまして、大変盛り上がっていて、非常にいいことだと思っています」   天皇陛下:「藤井さんは素晴らしいですね」   ひふみん:「藤井さんは21歳で、大変研究熱心で、藤井さんが活躍することによって周りの棋士も研究することになっていいことです」 天皇陛下が会話を軌道修正  たしかに、前人未踏の偉業を成し遂げた藤井聡太はすごいが、招待者は加藤一二三さんご夫妻だ。すかさず、天皇陛下は「加藤さんも大変、本当に、将棋界のために、大変ご尽力なさって……」と、会話の軌道修正をされた。 【こちらも話題】 「秋の園遊会」雅子さまは“皇后の自覚”にじむ女郎花色 紀子さまはロイヤルブルーに“意志の強さ” https://dot.asahi.com/articles/-/205533 秋の園遊会の天皇、皇后両陛下=23年11月2日 代表撮影    なぜ、「藤井聡太」の話をしたのかに対し、ひふみんは、後日、情報番組で「藤井聡太さんはどんな人? と陛下から聞かれるかもしれないと思った」と語っていた。ひふみん的には、天皇陛下は藤井聡太さんの偉業に関心があるのではないかと考えて準備していたようだ。    天皇陛下は、今年のお誕生日に際しての記者会見で「この一年を振り返って印象に残ったこと」への回答に、明るい話題のひとつに「将棋界では藤井聡太さん」と語っている。そこに着目して、ひふみんは会話の切り口に「藤井聡太」を出し、先手を取ったのだった。 雅子さまはすかさず質問を  天皇陛下の機転の利いた軌道修正で、ひふみんの現在の活動に話は戻った。ひふみんは「ときどき、大学とか高校で講演をしておりまして。将棋の話とか、好きな音楽の話とか、ときどき動物の話もします」と話した。    会話の糸口を逃さず、雅子さまは、すかさず「動物は何がお好きなんですか?」と言葉を投げかけられた。ひふみんが「猫です!」と答えると、雅子さまは「猫ちゃん!」と声を弾ませたのだ。 【こちらも話題】 雅子さまは「猫ちゃん!」と声を弾ませた 園遊会でひふみんの暴走も包み込んだ両陛下の真心 https://dot.asahi.com/articles/-/205518 園遊会に出席し、将棋棋士の加藤一二三さん夫妻(右手前)と話す天皇、皇后両陛下=23年11月2日 代表撮影    雅子さまがマスク越しでもわかる微笑みで「猫ちゃん!」と声を弾ませて反応してくれたからか、ひふみんの猫談義は、ここからさく裂した。園遊会後の囲み取材で、ひふみんは猫談義をこう語っている。   「猫は私、たまたま人生の半ばで猫と関わりを持つことになったんですけれども、京都大学の動物学者が、猫はですね、5歳以上の能力がある。自分の名前を覚えている。友達とか仲間の猫の名前も覚えている。それから飼い主の名前も覚えている。それで猫は楽観派ですって。    僕も猫は随分世話をすることがあったので、ああ、やっぱり猫は楽観派というのは、僕は思ってたんですよね。京都大学の動物学者が、猫の研究をしたというのは、非常に良くてですね。もちろん、犬の研究もしているんでしょうけどね。    猫はご存知のように、天皇陛下ご一家も猫は世話をなさっておりますからね。それで話が通じたかと思っております」 天皇陛下が「ここにも猫が」  園遊会では、そんなひふみんの脱力系猫談義を、天皇陛下が「ここにも猫がいるんですよ」と赤坂御苑の敷地を手で指し示され、うまくまとめられていた。瞬時に短いひと言で話をまとめた天皇陛下は、例えては失礼かもしれないが、タモリや黒柳徹子のはるか上をいく異次元の名司会者のようだった。 【こちらも話題】 雅子さまの姿勢はなぜ美しいのか 雨の中の佇まいが「感動するほど」マナーのプロ https://dot.asahi.com/articles/-/205025    この猫談義も「藤井聡太」の振りと同様、ひふみんは事前に考えてきたことのようだ。囲み取材では、天皇、皇后両陛下と言葉を交わされたことに「非常に緊張してまして」といいつつも、「ある程度、どういうお話を申し上げるのかというのは、一応ね」と事前の準備をしていたそうだ。   「まぁ、将棋の話だったら藤井聡太さんのお話。それから大学、高校でも講演しているので、その時に僕はクラシック音楽が好きなんで、クラシック音楽と、あと猫のお話を申し上げた次第ですけどね。    天皇陛下、皇后陛下に申し上げるのは、これはやっぱり猫のお話してもいいのか、差し支えないかと思っておりました。それはちょっと、なんで猫なのかという感じになりますけど、天皇陛下ご一家が猫を非常に長年にわたって世話しておられますから」 ひふみんは猫のおかげで性格が!   お話し好きだと言われる天皇陛下と雅子さまの機転の利いた会話の連係プレーにより、ひふみんの猫談義もあたたかいものに包まれた感じだ。    囲み取材でひふみんは「猫と関わることで、性格がね、自分で言うのも変だけれども、心もちね性格がちょっと穏やかになった。元々の性格はね、どっちかと言うと穏やかでないタイプなんですよ」と語り、舞台裏でも猫談義は続いた。    そして、ひふみんは囲み取材の最後に「すばらしい1日でした」と締めくくった。天皇陛下と雅子さまのしなやかな対応力、そして、ひふみんの周到な準備に、人と人との会話とはこういうものであるべきだという大切さとあたたかさを感じた。   (AERA dot.編集部・太田裕子) 【こちらも話題】 「秋の園遊会」雅子さまは“皇后の自覚”にじむ女郎花色 紀子さまはロイヤルブルーに“意志の強さ” https://dot.asahi.com/articles/-/205533  
菊地凛子「ブギウギ」ライバル役も好評 本格再始動で“悪役”の第一人者に躍り出るか
菊地凛子「ブギウギ」ライバル役も好評 本格再始動で“悪役”の第一人者に躍り出るか 菊地凛子(写真:Evan Agostini/Invision/AP/アフロ)    現在、NHK朝ドラ「ブギウギ」で、主人公・鈴子の終生のライバル役で、故淡谷のり子さんをモデルにした「りつ子」を演じているのが女優の菊地凛子(42)だ。11月1日放送回では、写真と歌声だけの登場にもかかわらず、完コピぶりや醸し出す貫禄にネット上は騒然となった。昨年は「鎌倉殿の13人」でNHK大河ドラマ初出演を果たし、来春にはバカリズムとタッグを組んだドラマへの主演が発表されるなど、テレビでの活躍が続く。「国際的に活躍する映画女優」「個性強めのエキセントリックなキャラクター」というパブリックイメージの強い菊地だが、ここ数年は方向性が少々変わってきているようだ。 「菊地さんは2006年にブラッド・ピット主演のハリウッド映画『バベル』でハリウッド・デビューしました。この作品で演じたろうあの女子高生は高く評価され、49年ぶりに日本人女優として米アカデミー賞助演女優賞にノミネートされました。当時はまだ無名でしたが、わずか25歳でハリウッドから逆輸入される形でブレークを果たしたのです」  当時について菊地は「英語は苦手だけど、人が好き。知らない人に出会って、懐に飛び込むジャンプ力はあるかも」(「スポーツ報知」7月22日配信)と語っている。一方、「(海外は日本と違い)現場で言葉が飛び交っていても、私だけひとり自分の部屋の中にいるような感覚になれるんです。(中略)海外のほうが、脇目も振らずに役に没頭できて、いいパフォーマンスにつなげられる」(「文春オンライン」7月29日配信)とも。ハンディすら武器に変えて世界の舞台で闘ってきた。   出世作「バベル」に出演した際の菊地凛子(2006年)   女性の悪役を演じきれる俳優は少ない  14年には、音楽家の菊地成孔のプロデュースで「Rinbjö(リンビョウ)」を名乗り、音楽に挑戦。菊地成孔は「移動中の携帯に電話がかかって来て『菊地凛子です。音楽がやりたいんでプロデュースしてください』と言われ(中略)『どんな風にしますか?』と聞くと『とにかくエロくてグロいので』と仰った」(「CINRA」14年10月15日配信)と振り返っていた。「戒厳令」というデビューアルバムのタイトルも、そうした彼女の性格に合わせたものなのかもしれない。 「13年公開のハリウッド映画『47RONIN』で初の悪役に挑戦した際は、同じく悪役を演じた浅野忠信がインタビューで『僕らは日本の芸能界でもアウトサイダーな2人。だから悪役にちょうどいい』と話し、菊地を高く評価していました。『鎌倉殿の13人』でも、主人公・北条義時の悪妻を演じる姿に注目が集まりました。女性の悪役というのは、実は一番難しく、演じ切れる俳優は少ない。日本の映画・ドラマ界で今、菊地さんは悪役でもっとも輝く俳優ではないでしょうか」(民放ドラマ制作スタッフ)  そんな“アウトサイダー女優”の菊地は、プライベートでは15年に結婚。お相手に選んだのは、12歳年下の俳優・染谷将太だった。 「共通の知人だった森山未來のダンス留学に向けての送別会で出会ってから結婚まで、終始、菊地が積極的だったと報じられていました。入籍も、34歳の誕生日を控えて、年齢差がひとまわりになる前に入籍を急いだとも。ちなみに、年下の男性との結婚を勧めたのは大先輩の桃井かおりだったそうです。飲み仲間だという桃井が、入籍も出産もしなかったことを後悔する姿を見て、結婚について考え始めたと報じられていました」(週刊誌の芸能担当記者) 米サンダンス映画祭で取材に答える菊地凛子(2014年)   主演映画で国際映画祭「3冠」を達成  結婚後、帰国して2人の子どもを出産。子育てもあり「この10年くらいは仕事をしたいと思っても具体的に進むことが少なかった」(「文春オンライン」23年7月29日)と芸能界から少し遠ざかっていたようだ。 「30代になって中堅ゆえの“年齢の壁“にぶつかったり、ライフステージの変化もあってペースダウンしたりする中でも、19年には染谷が監督、菊地が脚本を務めたショートムービーを制作しています。お互いの仕事のタイミングを調整し合うなど協力して、仕事もプライベートも大事にする生活をしてきたとトーク番組で語っていました。夫婦としても、アーティストとしても、相性はバッチリのようです。さらに、最近は『子育てをしながら、妻として生きることも大事にしながら、女優としても頑張ろうと考えるようになった』とスポーツ紙のインタビューで語っています。子育ても一段落し、俳優として本格的に再始動が始まっています。今年は朝ドラのほか、初単独主演映画が国際映画祭で3冠を獲得し、話題には事欠きません」(同)  芸能評論家の三杉武氏は、菊地についてこう述べる。 「『バベル』での演技で一躍脚光を浴びた菊地さんですが、その後も『パシフィック・リム』でヒロインを演じ、主演を務めた『トレジャーハンター・クミコ』でインディペンデント・スピリット賞の主演女優賞にノミネートされるなど、米映画界で存在感を放っています。クセの強い個性的な役を演じることが多い一方で、ナチュラルな笑顔からクールな表情まで表現力が豊かで、人間味あふれる演技も魅力です。近年は日本のドラマや邦画でも活躍しており、7月に公開され邦画としては初の単独主演作となった『658km、陽子の旅』では、疎遠になっていた父親の死の知らせをキッカケに東京から故郷の青森・弘前までヒッチハイクで旅をする42歳のフリーター女性を好演しました。これから、さらなる活躍が期待できそうです」  本格復帰した“アウトサイダー女優”が今後、どんな演技を見せてくれるのか、楽しみだ。 (雛里美和)

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