
人生を終えるその日まで、その人らしく過ごせる拠点を ほっちのロッヂ共同代表・藤岡聡子
荒れ果て、渇き切った時期もある。その渇きは吸収の原動力となり、新しい風景を生み出した(撮影/小山幸佑)
ほっちのロッヂ共同代表、藤岡聡子。2020年に軽井沢に開業した診療所「ほっちのロッヂ」は、「好きなことする仲間として、出会おう」が合言葉。死にゆく人は弱い存在ではない。人生を終えるその日まで、その人らしくなれる生命の表現があると藤岡聡子は信じている。小学校6年生のときに亡くした父の「最期に何ができたか」を、今も探している。その渇きが、藤岡の原動力となっている。
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華やかなブラウスに身を包んだ老婦人が、自慢の豆で珈琲(コーヒー)を淹(い)れていた。東京で老舗喫茶店を創業した経歴を持つという婦人は、誇らしげな顔で台所に立ち、慣れた手つきで珈琲をカップに注いでふるまう。「おいしい!」と口々に上がる声に穏やかに微笑んだ。
実は耳が遠く、軽い認知症の症状がある。だからよく見ると、婦人が熱湯を扱いソファに腰掛けるまでの一連の動作を、数人のスタッフがさりげなくサポートしている。歓声の輪の中で、ひときわ大きく目を見開き相槌(あいづち)を打つ女性が、この不思議な舞台の仕掛け人、藤岡聡子(ふじおかさとこ・38)だ。
「目の前の人が『こうありたい』と願う“表現”をかなえるために何ができるか。支える行動もまた“表現”であり美しい。ケアされる側だけでなくケアする側も、誇りをもって表現できる舞台を私はつくりたい。私の役目は『ケアする人をケアすること』だと思っています」
ここは「ほっちのロッヂ」。長野県軽井沢町の森沿いにある、診療所・訪問看護・病児保育・通所介護の機能を備えた、地域密着型の医療と福祉の拠点だ。入り口には虹色のフラッグと手作りの木製看板がかかり、一見すると、おしゃれな山小屋のよう。しかし、広く取られた玄関前のスペースが「救急搬送に対応するため」と聞くと、ここが医療施設であることを思い出す。医療や福祉の“あたりまえの風景”を塗り替える存在として、国内外から注目され、視察が絶えない。
使命として掲げるのは、地域で暮らす一人ひとりが、自分が望む生き方を生涯続けるためのサポート。「症状や状態、年齢じゃなくって、好きなことする仲間として、出会おう」が合言葉だ。
始業は朝8時のミーティングから。利用者の情報共有と申し送り後、契約書の整理、ヨガプログラムの名称決めなど、藤岡への個別相談が続く。「いいんじゃない。やってみ」「大丈夫? 深呼吸して」と声をかけて送り出す(撮影/小山幸佑)
「診察室」は2階に 森の中でも患者の話を聞く
特に終末期在宅医療の支援に力を入れ、常時100人ほどを定期訪問する。地元の軽井沢町のみならず隣の御代田町からも訪問の依頼が絶えず、昨年には、世界50カ国の医療福祉関係者が参加するカンファレンスで、第10回アジア太平洋地域・高齢者ケアイノベーションアワード Social engagement programme部門グランプリを受賞した。
9月末に開催したトークイベント「私たちのWell-beingとケアと文化、現在地の語らい」では、僧侶の松波龍源、内科医の占部まりなど多彩なゲストと対話を深めた(撮影/小山幸佑)
なぜここが「イノベーティブ」と評価されるのか。安宅研太郎が設計を手がけた建物の中に入ると、違いはすぐに感じられた。吹き抜けのある開放的な木肌の広間には、円形のローテーブルやクッション、畳の小上がり、正面には大きなカウンターキッチンが配され、鍋から湯気が立っている。大きな窓越しには、絵画のような森の風景。絵本や小説が詰まった本棚、ピアノやパーカッション楽器と並んで壁にずらりと吊るされたドライフラワーは「朝市で売る定番商品」で、奥には子どもたちが集まるアトリエもある。
さながら食堂のある文化コミュニティー施設。そういえば「診察室」はどこにあるのかと聞けば、階段を上がった2階の部屋がそうだという。その診察室は吹き抜けで広間とつながり、小窓から人々の談笑の声が届く。天気がいい日は縁側や森の中でも患者の話を聞き、常時三~五つのケアチームが地域を回っている。
他の医療施設にはなく、ここにある風景はいくつもあるが、中でも特徴的なのは「働く人たちの姿」だろう。医療職の目印となる「白衣」を着たスタッフが見当たらないのだ。医師も看護師も介護士も普段着のまま働くため、ここでは「ケアする人」と「ケアされる人」の境目が曖昧に。病院ではタブーとされがちな笑い声が飛び交う時間の中では、「日常」と「医療」の境目も曖昧になる。そして、自らの肩書を「福祉環境設計士」と名付けた藤岡もまた、その境界線に立つ人間だ。
メッシュカラーを入れた髪をなびかせ、古着の上着にアウトドアブランドのパンツを合わせ、長靴姿で、森をグングンと歩く。「幼い頃から冒険物語が大好きだった」と向ける屈託のない笑顔は、いかにも医療や福祉の“業界人”らしくない。しかしながら、この形容はある意味、正解と言っていい。なぜなら藤岡は、そのどちらの資格も有しない“素人”として、この世界に飛び込んだからだ。
「死にゆく人は決して弱い存在ではない。死にゆく人が人生を終えるその日まで、その人らしくなれる生命の表現があると信じている。多分、私はずっとその証明をしたくて、ここまでやってきたのだと思います」
藤岡が「死のあり方」にこだわるのには理由がある。小学6年生のときに、自宅で父親を看取った。そのときの暗く重たい感情が、心の底に沈澱している。
時間を見つけてアートに触れる。10月に訪れた「わたしのからだは心になる?展」(東京都千代田区)では、鏡とディスプレーの仕掛けによって身体感覚を揺さぶられる「小鷹研究室」の体験装置などに夢中に(撮影/小山幸佑)
価値観を変えたギャル時代 英語が立ち直るきっかけに
人を救う医師であり、芸術を愛し、頼れる存在だった父が、病に倒れた。1年半ほどかけて病院での治療の限りを尽くした後、自宅療養へ移行した。ベッドの上で日に日に痩せ細っていく父。同時に、家の中に笑いが消えた。「お父さんが病気なんだから冗談なんて言っちゃダメ」とたしなめられる意味が分からなかった。「患者」という名前がついただけで、弱い存在へと押しやられ、その人らしさを表現できなくなるのはなぜなのか、納得がいかなかった。
「お前たちだけでも楽しんできなさい」と、兄姉と3人だけで送り出されたクラシックコンサートや登山。山頂を父と眺めることができないのはなぜなのか。目の前に広がる風景は、生と死を分断する谷に見えた。最期に父をどう看取ったのか、あまり覚えていない。直視できない現実だった。ただ、「もっと父のためにできることがあったんじゃないか」という渇きだけが残った。
父の死後、母も体調を崩し、入院。兄と姉は進学で家を離れがちになった。藤岡は消化しきれない気持ちを抱えたまま髪を染め、ピアスの穴をいくつも開け、「ド派手なギャル」という着ぐるみで寂しさを隠した。不登校になり、やんちゃなグループとつるみ、自暴自棄に陥る日々。どんなにグレても「可愛い」と言ってくれた祖父母のおかげで道は踏み外さなかったが、「行けるところが他になくて」夜間定時制高校へ。その環境は、藤岡の価値観を変えるほどのインパクトがあった。
年齢がバラバラの同級生はみんな“ワケあり”。さらに昼間に働き始めたガソリンスタンドの同僚は、いわゆる「内縁の妻」として血縁のない子どもを育てていた。さまざまな事情を抱えながら、みんな懸命に生きていた。キャバクラやスナックのバイトも経験し、闇に落ちる大人を何人も見た。強烈な人生のサンプルに揺さぶられながら、自分の輪郭を求めたいという気持ちが芽生えた。
転機は兄に連れて行かれたロックバーで偶然出会った年上女性。流暢に英語を操り、外国人の恋人の存在やアメリカで弁護士になる夢を軽やかに語る姿に藤岡はすっかり撃ち抜かれてしまった。「This is a pen.」の構文さえまともに知らなかった藤岡は、すぐにバイトを辞めて英会話の勉強を始めた。「私さ、英語の勉強をやってみたいんだよね」と勇気を出して言ってみると、担任以外の教師も手放しで喜んでくれた。
「それまでの私は、真っ暗闇の中にいました。でも、足元には無限に広がる道があるのだと気づけたんです。単純な夢であっても『なりたい自分』を見つけてそれを語るだけで、家族や教師が『よしよし、頑張れよ』と無条件で応援してくれることがうれしかった」
車で送迎が必要な学校に通う3児の母の日常は忙しい。「子どもには難しいチャレンジをどんどんしてほしい。朝を迎えるたびに、今日1日をどう生きるかを考えようと伝えています」(撮影/小山幸佑)
大学の観光学科という進路があると教わり、進学を決めた。人は誰かに応援されるだけで、大きな力を発揮する。自身の変化によってつかんだ発見が、藤岡の現在の活動に深くつながっている。
大学ではこれまでの空白を取り戻すように勉強に打ち込み、本も山のように読んだ。知識を広げた延長で教育系の仕事に興味を持ち、急成長中だった経営コンサルティング会社から内定を取るも、希望していた教育事業撤退の報せを聞き、入社を辞退。持ち前のバイタリティーで、すでに募集を締め切っていた人材教育会社に面接を取り付け、アルバイトとして入社することを許された。
地域に交流の場をつくる 「パンクなアクティビスト」
「1年間のお試し修業」の名目で経理・企画・営業など全部門を回されたことは、藤岡にとって好都合だった。短期間でビジネスの全体像を習得でき、その後のキャリアに大いに役立ったからである。最後に所属した営業部門でノルマだった高額の商材を売り切って、社員登用の誘いを受けたが「ここではもう全てをやり切った」と退社した。
会社を辞めた後、友人から誘われ、介護ベンチャーの創業に参画したのが24歳の頃。住宅型有料老人ホームを立ち上げると聞き、「父を看取った自分だからできることがあるのでは」と直感した。「若いのに、老人福祉なんて偉いね」という褒め言葉はピンと来なかった。藤岡は、ただ自分の渇きを満たすために踏み込んだだけだった。父の最期に何ができたのか、「あのときの答えを知りたい」という渇きを。
就職活動期に出会ったパートナーとの婚約、妊娠と人生が大きく動き出した矢先、今度は母の末期がんが見つかった。兄姉と交代で三重にある実家で看病し、最期は病院で看取った。このときも「死」や「看取り」の正解は見つからなかったが、死にゆく母から目を背けず向き合った家族とは、遺された後も共に生きる同志になれた。
「人はいつか死ぬ。自分にとって大切な人もまたいつか死にます。日常の中に『死』を身近に感じられる機会がもっと増えれば、あのときの私が死にゆく父を恐れて戸惑うこともなかったのではないか。そんな仮説が、いつも私の中にありました」
同時に、「老人ホームにはなぜ老人しかいないのか」という疑問も抱えていた藤岡は、「地域で暮らす人々が共に過ごす時間と場所を増やしたい」と、地域で社会課題を話し合う活動を活発化していく。
(文中敬称略)(文・宮本恵理子)
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