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ためいきがでるほど美しい美智子さま「24歳でこの道に招かれた」 雅子さまが受け継ぐ意志と気品
ためいきがでるほど美しい美智子さま「24歳でこの道に招かれた」 雅子さまが受け継ぐ意志と気品 パキスタン・アフガニスタン国境のカイバル峠を視察する皇太子さま(当時)と美智子さま=1962年1月、パキスタン    上皇后美智子さまが20日、89歳の誕生日を迎えた。民間から皇室に入り、皇族としての務めを果たす姿は、その華やかさとともに注目を集めてきた。そして美智子さまの意志と気品は、雅子さまや愛子さまたちへと受け継がれている。 *   *   * 「二十四歳の時、想像すら出来なかったこの道に招かれ、大きな不安の中で、ただ陛下の御自身のお立場に対するゆるぎない御覚悟に深く心を打たれ、おそばに上がりました」  平成が翌年に終わる2018年10月の誕生日にあたり、皇室に入ったときのことをこのように振り返った美智子さま。    昭和の時代、上皇さま(当時は皇太子)や美智子さまの外遊は、第2次世界大戦の生々しい記憶も傷跡も残るなかだったが、その華やかさ注目を集めた。   パキスタンを訪問し、ラホールからダッカに向かう際に見送りの人たちに笑顔で応える皇太子さま(当時)と美智子さま=1962年1月、パキスタン・ラホール空港   ボゴール宮殿で、インドネシア各地の衣装を披露した女性たちに話しかける美智子さま=1962年2月、インドネシア・ボゴール   【こちらも話題】 SNSで驚異の動画再生回数 上皇ご夫妻の「仲良し」「手つなぎ」が若い世代に好感 https://dot.asahi.com/articles/-/194915     公務をこなしながら、3人の子育てを  18年11月の誕生日に際して美智子さまは、それまでの月日をこう振り返っている。 「皇太子妃、皇后という立場を生きることは、私にとり決して易しいことではありませんでした。与えられた義務を果たしつつ、その都度新たに気付かされたことを心にとどめていく――そうした日々を重ねて、六十年という歳月が流れたように思います」    そして、公務をこなしながらの子育てについては、こうつづった。 「三人の子どもたちは、誰も本当に可愛く、育児は眠さとの戦いでしたが、大きな喜びでした」     東京・上野動物園を初めて訪れた浩宮さま(天皇陛下)は、おサル(猿)電車に大喜び=1963年11月   東宮御所の庭で「お花摘み」をする、3歳になる紀宮さま(黒田清子さん)と美智子さま=1972年、東宮御所   【こちらも話題】 「ああ!」と顔を見合わせた天皇陛下と雅子さま 「この~木なんの木」おなじみのCMソングに大笑い https://dot.asahi.com/articles/-/203747     さらに増していく「華やかさ」  1993年、皇太子さま(当時)と雅子さまのご成婚が執り行われ、外交官というキャリアを積んだ美しい皇太子妃の誕生に、世間は新しい時代を感じた。  その後、秋篠宮家では眞子さま(小室眞子さん)や佳子さま、2001年には皇太子さまと雅子さまの長女愛子さまが誕生し、皇室はさらに華やかさを増していった。     東京都主催の祝賀記念式典で、警視庁と東京消防庁音楽隊、都交響楽団による音楽演奏を鑑賞する貴賓室に着いた皇太子さま(当時)と雅子さま=1993年6月、東京都   新年の一般参賀で、笑顔で話をする雅子さまと紀宮さま(黒田清子さん)。紀宮さまはこの年の11月に黒田慶樹さんと結婚した=2005年1月、皇居   ノルウェー、アイルランド訪問から帰国した天皇、皇后両陛下(当時)を出迎える。笑顔で談笑する皇太子さま(当時)と雅子さま、紀子さま、紀宮さま(黒田清子さん)=2005年5月、東京・羽田   成年の行事に臨む愛子さま。ティアラは新調せず、黒田清子さんから借りたものだった=2021年12月   ブータンを訪問し、伝統弓技に挑戦する秋篠宮家の長女眞子さま(小室眞子さん)=2017年、ブータン   鹿児島国体の総合閉会式で拍手する、秋篠宮家の次女佳子さま=2023年10月、鹿児島市    宮内庁によると、美智子さまは赤坂の仙洞御所で、季節の草花を楽しみながら、上皇陛下と穏やかに過ごしている。おふたりで朝夕に散策したり、昭和の時代から続けている朝食後本の音読をしたりして、規則正しい生活を送っているという。 (AERA dot.編集部・永井貴子)   【こちらも話題】 天皇陛下は「佳子ちゃん」 愛子さまは、秋篠宮家でなんと呼ばれているの? https://dot.asahi.com/articles/-/202891  
作家・小野美由紀が『わっしょい!妊婦』を書くまでの傷だらけの人生とは
作家・小野美由紀が『わっしょい!妊婦』を書くまでの傷だらけの人生とは 「出産は祝祭だ」と新刊で書いた小野は、「人を喜ばせたい」という思いを胸に文章を綴る(撮影/岡田晃奈)    作家・SFプロトタイパー・小野美由紀。この日本で、女が自分らしく生きていくのは至難の業だ。男のようにトップも目指せない。だからといって媚びるのも嫌だ。小野美由紀には、小さなころからどこにも居場所がなかった。世界が自分と折り合わない。気がつくと傷だらけだった。だが、出産し、見方が少し変わった。自分は自分のままで生きていっていいと思える、そんな物語が待っていた。 *  *  * 《子どもを産む気なんて、ぜーんぜん、なかった。  だってほら、子育てって、ものすごく大変そうだし。仕事だって楽しいし。(中略)  ところがどっこい。  つがいになった途端、入道雲のようにむくむくと湧いてきたのは「子どもを持ちたい」という欲望だった。突然鳴り響くファンファーレのように、あるいは獰猛な獣のように、ある日突然「私、産みたいんだ」という感情がお腹の底から飛び出してきた。》  そんな書き出しで始まる一冊の妊娠出産エッセイが、いま本好きの間でじわじわと話題になっている。本のタイトルは『わっしょい!妊婦』。書いたのは作家の小野美由紀(おのみゆき・37)だ。35歳で10歳年上の夫と結婚した小野が、コロナ禍と重なった自分自身の妊娠から出産までの約1年間を綴(つづ)った。妊娠・出産本というと、一般的にはほのぼの・ほっこりした雰囲気を想像するが、本書の魅力は作家の冷徹な観察眼と、過剰なまでのエネルギー、秀逸なユーモアが並立している点にある。例えば、夫の精子検査の場面はこうだ。 《「いた! 本当に、いた!」  夫は初めてトトロと出会った時のサツキとメイのように、大喜びではしゃぎ回った。私も初めて見る夫の精子の姿に瞠目(どうもく)した。》  また別の日には、出生前診断の受付で突然「ママ」と呼ばれ、心の底から驚く。 《「はい、じゃ、ママ、診察室Dに入ってください」  ……マ、ママぁーーーー??!!  フレディ・マーキュリーのように、私は心の中で絶叫した。》 iPadでゲラに修正を入れる。小説もエッセイも必ず最初はノートに手書きする。「パソコンだと頭だけで書いちゃう気がして、手書きすることで身体性を文章に込めたいんです」(撮影/岡田晃奈)   家族で暮らすのは小5まで 読書は異常なほど早熟  食べづわりと異常な食欲、乳首が伸びない悩み、保育園問題、夫との喧嘩(けんか)……妊婦に次々起こる事象を、小野はほぼ4行に1回ペースの笑いを交えて活写する。版元のCCCメディアハウスに勤務する担当編集者の田中里枝(45)は、メールで送られてきた原稿を最初に読んだとき、「編集者人生で、間違いなくいちばん笑いました」と振り返る。 「以前から小野さんの、ヒリヒリとした痛みを感じさせる小説やエッセイがすごく面白くて好きでした。でもこの本は読後感が違って、妊婦や女性だけでなく、男性でも読むと元気が出る、人間に対する賛歌だと感じたんです」  さらに、本書には小野の書く本文の下に、数十カ所にわたって夫のコメントが入る。コメントを書いた夫は、その意図を次のように語った。 「妊娠・出産というと女性のイベントで、男性は添え物のような扱いをされますが、本当は男性も“当事者”なんですよね。主人公はもちろん妻とおなかの子ですけれど、夫である自分がコメントを入れて別の視点を読者に提供することで、出産にまつわる世界観を少し揺るがすことができるかもと考えました」  実際に『わっしょい!妊婦』の感想をネットで検索してみると、男性からの「面白かった!」という声が多数ある。 「明らかに僕のための本であって、身重の妻を持つ男性が読むべき本」 「一冊を親友に、もう一冊を妻の親友の夫に贈った」  そうした感想を見た小野は、「妻の妊娠という謎現象について理解する機会を持てない男性が多いからこそ、本書がガイドとして響くのでは」と述べる。「わっしょい!」というタイトル通り「祝祭感」にあふれるこの一冊を、小野が作家としてこの世に産み出すまでには、自身「傷だらけ」と語る紆余(うよ)曲折の人生があった。  小野は5歳まで新宿で暮らし、その後の中学高校は国立、荻窪で育った生粋の東京人である。父親は日本近代文学の研究者で、映画化された小説も執筆する文化人。母親はメジャーな出版社で著名作家を担当する編集者で、文学的な資質という点では「サラブレッド」と呼んでも過言ではない。だが父母は内縁の関係で、父と一緒に暮らしたのは小野が5歳までだった。 大学を出て「何者でもない」ときに働いた歌舞伎町のバー「漆黒」のマスターとママと再会。小野がエッセイに書いた「漆黒」の文章を読み、幾人もの若者が店を訪ねてきたという(撮影/岡田晃奈)    子どもの頃は妄想力が豊かな一方で、まったく友達がいなかった。保育園に馴染(なじ)めず2回退園し、その後、幼稚園では演劇の脚本を読み「こんな役は演じたくない」とケチをつけた記憶がある。心配した母が、小野の誕生日に幼稚園の同級生を家に呼んだときは、傘で陣地を作り「ここから先に入ってくるな」と友達を追い返した。 「その頃、私には心の中にイマジナリーフレンドがいて、その子と話すほうが楽しかったんです」  そんな幼い小野の世話を、仕事で毎日深夜まで働く母の代わりにしたのが、母の実家の岡山から東京に単身出てきて同居を始めた祖母だった。私立桐朋学園小学校に進学すると、学校からの帰り道にある本屋で、毎日1冊、祖母に本やマンガを買ってもらうのが日課になった。  読書に関しては「異常なほどの早熟」だった。小野の母は村上龍のエッセイを編集しており、母の本棚に村上の本がぎっしり詰まっていた。米軍基地のある東京・福生で若者がドラッグやセックスに溺れる日々を描いた村上のデビュー作『限りなく透明に近いブルー』を読んだのは小学2年生のときだ。山田詠美も好きで、『風葬の教室』といういじめを受けている女の子の話を読んでシンパシーを覚えた。  小野もいじめられっ子だった。小学校では男子に毎日「ブス」と呼ばれ、担任にも嫌われた。思い出すと今でも体が強張(こわば)る。 「恐らく今でいう発達障害だったと思います。算数の授業で座ってられず、計算ドリルに絵を描いたりしてた。先生からは嫌われるか、すごく庇(かば)ってもらえるかの両極端でしたね」 ストレスから自傷行為も 高校は哲学書を読みあさる  母の勧めで中学受験をし、私立成蹊中学に入学する。中学2年と3年の担任を務め、現在も同校に勤務するのが久保田善丈(57)だ。大学院で学び、30歳で教員になった久保田にとって、小野は初めて担任する学年の特に印象深い生徒だった。 「小野さんは一言でいうと、たいへんめんどくさい生徒でした。でも、当時から突出した才能の持ち主であることはすぐわかりました。作文を書けばすごい文章だし、絵もとても上手かった。コミュ障なのになぜか体育祭の応援団長に立候補して、周囲の心配をよそにきっちりまとめたり。先生も周りの生徒も小野をへんてこな奴、と思っていたけれど、全員が『彼女には特別な才能がある』と感じていました」  一方、小野にとって中学3年の頃は「人生で一番ヤバかった時期」だった。過干渉気味で「いい大学、いい会社に入るのが人生の幸せ」という価値観を押し付けてくる母親のストレスから不登校気味になり、自傷行為をするようになった。無言の母への「メッセージ」として血や吐瀉物(としゃぶつ)を見せつけたこともある。小野は後にエッセイ『傷口から人生。』で母との衝突と関係の再生や、17年ぶりの父との再会を詳述する。きっとそれを書くことは小野にとって、過去と折り合いをつける試みだったのだろう。  何とか中学時代を乗り切った小野は、系列の高校に進むと、問題児ばかりが集まるクラスに入れられた。だがそこで初めて学校に「自分以外にも変な子がたくさんいる」と知った。 「放し飼いのようなクラスで、先生も自由にさせてくれました。クラスメートには今、コピーライターや政治家の右腕など、ちょっと変わった仕事についてる人が複数います」  高校時代もあまり学校には行かず、毎日のように書店に通った。やがて現代思想に興味を抱き、デリダやソシュール、フーコーなどの哲学書を読みあさったのもこの時期だ。哲学の本場、フランスに関心を持った小野は、現役で慶應義塾大学の文学部に進学する。  作家への憧れは幼い頃からあった。小学校の卒業文集の「将来の夢」には「文壇をひっくり返す女性作家になりたい」と書いた。ところが実際にはずっと「自分は作家になれるわけがない」と感じていた。編集者の母からいつも作文にダメ出しされており「自分の書くものには価値がない」と感じていたからだ。  大学でサークルにも入ってみたが、やはり毎日がつまらない。保育園からの「ここには自分の居場所がない」という思いは続いた。そこで目を向けたのが海外だ。  3年生のときにはカナダのモントリオールの大学に1年間交換留学。帰国後もアルバイトでお金を稼いでは、海外を旅行するようになった。2007年には沢木耕太郎に憧れ、陸路での世界一周旅行にもチャレンジした。インド、パキスタン、ウズベキスタン、トルコなどの国を経て海をわたりギリシャからヨーロッパを横断した。スペインで参加した巡礼の旅行には人生観にも大きな影響を受け、後に光文社新書『人生に疲れたらスペイン巡礼 飲み、食べ、歩く800キロの旅』にまとめた。旅行の資金稼ぎのために、銀座8丁目で40年以上営業している高級クラブでホステスのアルバイトをしたのもその頃だ。 「紙の本にこだわらない」という小野は、既存の文壇と一線を画した世界で新たな作家のスタイルを模索する。「読者として好きなのは、国や文化を超えて読まれるような大きな物語。自分もそんな物語を書いていきたい」と語る(撮影/岡田晃奈)   就職には何の魅力もない 「まれびとハウス」が話題に  そこで小野が見たものは、日本の社会の皮肉な実相だった。メガバンクの元頭取という常連男性は、新人の女の子を隣に座らせては15分程自分の手を揉(も)ませ、チップとして1万円を払っていた。 「金銭感覚がバグりますよね。銀座の店で働いて、世の中って本当にくだらないなと思いました」  店にはその人物と同じような一流企業の役員の男性が複数、毎日のように来ては湯水のように金を使っていた。男たちの目は一様に死んでいた。酒に酔って「俺は偉い」と威張る男たちを内心でホステスたちは馬鹿(ばか)にしていた。政治家一族に生まれた有名な議員がひどいセクハラをする姿も目の当たりにした。そういう客の隣には決まって置物のように静かなカバン持ちの部下がいた。 「問題はなぜその人たちが毎日一人で銀座に来るかですよ。結局、会社にも家にも居場所がない、本当に寂しい人たちだなと感じました」  自分も大学を卒業して企業に就職すれば、このヒエラルキーの一番下に入ることになる。何十年も頑張って働いて出世した末の「あがり」がこの場で「置物」になることなのか? そう思うと、就職すること自体に何の魅力も感じなくなった。 「女性の場合、この国では社会のトップを目指すというレールにすら乗れない。男のように働いて“名誉男性”になるか、女として男性のヨイショ役になるか。どちらの道もうんざりでした」  だが社会に出た後に、何をすべきか見当がつかない。小野も周囲の学生に流されるまま、就職活動に取り組んだ。ある日、最終選考先の企業が入る東京・丸の内のビルに向かう途中、なぜか涙が止まらなくなった。小野はその場で面接担当者に「すみません、行けなくなりました」と電話し、就職からドロップアウトした。 「表面を取り繕うのは上手いので、面接はいいところまで進むんです。でも本当はまったく就職したくないから、体が悲鳴を上げたんです」 開花した作家としての才能 シェアハウスで子育て  大学を出た小野は就職せず、インターンで知り合った学生たち6人とともに田端のシェアハウスで暮らし始めた。「まれびとハウス」と名付けられたその4LDKのマンションには数カ月で1千人を超える若者が来訪し、マスコミにも取り上げられた。小野はそこでトークイベントや勉強会を企画し、同時に新宿・歌舞伎町にあるバー「漆黒」でアルバイトをして生活費を賄うようになった。 (文中敬称略)(文・大越裕) ※記事の続きはAERA 2023年10月23日号でご覧いただけます
運動オンチのせいで自己肯定感を削られた「運動会」の記憶 3兄弟の母が親になって考える「優劣と評価」
運動オンチのせいで自己肯定感を削られた「運動会」の記憶 3兄弟の母が親になって考える「優劣と評価」 順位より親の言葉がつらかった運動会(イラスト/tomekko)    運動会は、「運動が苦手」な子どもたちにとっては気の重いイベントかもしれません。「順位」「勝ち負け」「競争」といった評価にさらされ、自己肯定感がダダ下がり、スポーツを楽しむどころではなくない子どもも一定数いるようです。そんな気持ちが露呈するたった一日の運動会。「子どもが得意なことで輝くってどういうこと?」――3人兄弟を子育て中のコミックエッセイストで、“超運動オンチ”なtomekkoさんに、「子どもに当ててほしいスポットライト」について綴ってもらいまいした。 *  *  *  スポーツの秋ですね。毎日のように近所の幼稚園や学校から運動会練習の賑やかな声が聞こえてきます。この時期、土曜日はほとんどどこかで運動会やってるんじゃないでしょうか。もちろんわが家も小学校に保育園にと運動会を駆けまわる10月です。  子どもの成長や活躍を見られるのは楽しみですよね。うちには運動があまり得意でない子もいますが、それなりに楽しみにしていて昔の運動会とは何かが違いそうだなぁと感じていました。  実は絶望的な運動オンチの私にとっては「運動会」というワード自体がトラウマでして。「運動会」と書いて「こうかいしょけい」と読むと思ってると言っても過言ではありませんでした。 全員強制出場の徒競走(万年ビリ、絶好調でもビリ2) 一つも入らない玉入れ(飛んでくる味方の玉にもビビる) 手が痛いだけでなんの戦力にもならない綱引き(なんなら邪魔ですよね私) 軽いという理由だけで担がれるものの疾風の如く奪い取られる騎馬戦の帽子(迫り来る勢いが怖い怖い怖い)  こんな感じなので、義務教育期間は毎年運動会なんて大雨で中止になれと呪い続けていました。まぁ、さすがにここまでひどいのは自分くらいだろうと思っていたんです。まわりはみんな晴れたらいいな、運動会楽しみだねとにこにこしている人ばかりだったから。  でも少し前、仲の良いママ友の口から 「実はさ……私超運動オンチで、運動会って昔から大っ嫌いなんだよね……」  という告白を聞いて衝撃を受けました。 (またまた〜どうせ50m8秒台ぐらいで私走るの遅いからぁとか言ってる人でしょ? 騙されませんよ本物の運動オンチは!) tomekkoさんの自画像    彼女は長男が赤ちゃんの頃にはじめてできたママ友で、いつ会っても明るい笑顔で友達も多い、見た目はスポーツ万能そうな陽キャ。コミュ障陰キャの私とは全然違う明るい人生を歩んできたのだろうな、と思っていたんです。しかし彼女の運動会の思い出を聞いてみると、まるで私の記憶を辿っているかのように共通点だらけ。  体育全般が苦手だった彼女にはスポーツ万能のお姉さんがおり、小学校の運動会では家族にいつも比較されて自己肯定感ゴリゴリに削られる地獄の時間だったそう。私にはきょうだいはいないものの、毎回ランチタイムは「あなたは闘争心が足りないからダメなのよ」「鈍臭いからスタートダッシュが遅いのよね」と母のダメ出しタイムになっていたことを思い出しました。 「他の教科ではこんなことって無いのに、運動が苦手なだけでこんなに人格否定されてメンタル潰される運動会ってなんだったんだろうね……」  と2人揃ってため息をついたのでした。  そんな彼女と公園遊びに出掛けたある日、子どもたちが使っていないバドミントンセットが転がっているのを見て、 「……ねぇ……やってみる……?」  どちらから言い出したのか忘れましたが、絶望的運動オンチ同士のバドミントン対決が実現しました。まぁ、まず当たらない、偶然当たればホームラン、羽根どっか行く。公園の端っこまで取りに走って戻ってようやく再開。ここにちょっとでもできる人が入ったら相当イラつくであろう永遠にラリーの始まらないラケット振り回し大会でした。  でもね、本人たちは羽根追っかけて走ってまた空振りして……の繰り返しに腹がよじれるほど笑っていました。 「あー! 体動かすって楽しいねー!!」  バドミントンの目的は全然果たしてないのに汗だくおばさん2人の出来上がり。運動できる人には理解不可能でしょうが、私たちは大満足だったんですよ。見ていた両家の夫たちも妻のへっぽこぶりがツボに入り動画を撮りながら笑い出し、大人たちがドタバタしながら大笑いしているのを見て、虫探しに夢中だった子どもたちもいつの間にか集まってきて最後は一緒に楽しみました。  それ以来この家族でキャンプやアウトドアに出かける時には「バドミントン持ってく?」が合言葉になっています。  何が言いたいかっていうと、運動オンチだって誰も傷付かず笑顔で「スポーツ楽しかった!」という感想を持てる方法はあるんですよね。  齢四十にしてそんな当たり前のことがようやくわかったのは、それまで経験した学校生活におけるスポーツが常に「競い、順位を付け、優劣をはかる」ものだったから。そしてバカにされたり恥をかいたと感じることが増えるごとに、どんどんスポーツに苦手意識が芽生え、大人になる頃には人前で体を動かすこと自体避けるようになってしまった。そんな人、結構いるんじゃないでしょうか。  運動や芸術のような得手不得手が分かれる科目って、小学生のうちに幅広く触れてみる機会を持つのは大切だけど、それを公の場で優劣をつけ評価することにメリットはあるんでしょうか?  持つ必要のない劣等感を持つきっかけは、できればなくしていきたい。だからってみんなでおてて繋いで一緒にゴール!なんて茶番をしてほしいとは微塵も思いません。 「運動会でしか輝けない子もいるんです」  一方でこんなツイートも以前見かけました。これもまた、分かる。ものごとにはいろんな側面があるものですね。  わが家には選抜リレー走者に選ばれる可能性のある子はいないけれど、リレーでは自分のことのようにチームを熱心に応援していたし、親のほうも小さい頃から知っている俊足の子を見つけると大きな声援を送っていました。  運動オンチから見ても、運動神経が良く負けず嫌いの子たちが全力で競技に向き合う姿は純粋にカッコいいし、拮抗した実力の競り合いって応援にも熱が入って盛り上がります。スポーツ、やらないけど見るのは好きって人も多いですもんね。だから、そういう子には存分に力を発揮してほしいと思っています。いつも興奮と感動をありがとう。  コロナ禍を経ていろいろな行事の内容が縮小された中で、わが子の学区の小学校では全員参加の徒競走が無くなり、今年も選抜リレーのみでした。いやー、コロナで気付けた学校行事の5大無駄ぐらいの一つだと思います。徒競走。  徒競走で個人に順位づけするのをなくした代わりに、指導要項の変化によりクラスや学年全員参加のダンス種目が入った学校も多いですよね。リズム感がない、振り付けを覚えられない、人前で踊るのが恥ずかしい……これまた子どもによってネガティブ要素を持ちやすい種目なのが先生たちにとっても悩みの種だろうとお察しします。  ダンスなんて特に「楽しむ」ことができなくなったら終わりだと思うもん……。  わが家の男子たちはたまたまそれなりに楽しんでいるようでしたが、クラスの団結力を見せるために一斉に踊るダンスがしんどい子もいないわけはないですよね。なんとなくだけどこれもまた、いずれ徒競走のように淘汰されていく未来が見えるような気がしてしまうのでした。  ところで6年生の長男は学校での話を全然しないので、だいたいの情報はママ友から仕入れている私。最近唯一得意な社会の時間に長男がコメントする時間を担任の先生がくださっている、という話も先日ママ友が教えてくれました。  驚いて本人に聞いてみると、長男だけでなくクラスの生徒一人一人の光るところを見つけて学校生活の中でさりげなくフォーカスしてくれる先生なのだとか。なんでそういう素敵な話をしないんだ! どんな科目にも得意不得意があるのは当然で、学習の成果を計るためにはテストで採点したり、順位をつけたりする必要もあるでしょう。得意な子にとってはそこでの評価が自信になり将来の夢につながる可能性もあると思います。  運動が得意な子が脚光を浴びる運動会のように、それ以外の子の得意や好きなことも何かしらの形でみんなに知ってもらったり認められたりする機会がたくさんある小学校生活であってほしい。  画一的な指導に生きづらさを感じてきた親世代からすると、少しずつ良くなっている公教育の今後に期待を込めて。 ○tomekko/主婦力は低いが妄想力は高いアラフォー。3兄弟に育てられる日々。イラストレーター、漫画家、コミックエッセイスト。小6、小2、年中の男子3兄弟に夫とほぼ男子校な日々を綴っているポンコツ母さん。主な著書に『飛んで火に入る』(講談社モーニング)、『おっとり長男もっちり次男きょうだい観察手帳』(赤ちゃんとママ社)など。『AERA with Kids』で連載中の「脱・カンペキ親修行」は6年目に突入!  
極楽とんぼの山本さんと朝に出会い、テンション上がっての息子と初めての男2人旅 鈴木おさむ
極楽とんぼの山本さんと朝に出会い、テンション上がっての息子と初めての男2人旅 鈴木おさむ 放送作家の鈴木おさむさん    鈴木おさむさんが、今を生きる同世代の方々におくる連載『1970年代生まれの団ジュニたちへ』。今回は、伊勢旅行について。  * * *  3カ月に一度くらいのペースで妻が「世界の果てまで イッテQ」(日テレ)のロケに行きます。笑福を授かる前は月に一度は行っていたので、だいぶお気遣いをいただいています。  大体6日ほど行ってます。なのでこの期間は、8歳の息子・笑福と2人になります。笑福が寂しくないようにと、僕の友達に家に来てもらったりと、賑やかに過ごすようにしています。  いつもは、週末は実家に行くことが多いのですが、今回は、放送作家を辞めたことを発表した直後だったのと、10月14日の結婚記念日が土曜日だったので、僕ら夫婦がお世話になっている伊勢に行くことにしました。  結婚7年目で結婚式を挙げた僕らですが、そのときに伊勢の猿田彦神社で挙げさせていただき、そのあと伊勢神宮で参拝しました。そのときから伊勢の方々とお付き合いさせていただいています。  伊勢はパワースポットと言う人も多いのですが、伊勢に住んでいる人がとても優しくパワーに溢れている。パワーピープルな方々が沢山住んでいる町。 品川駅で「おさむ!」の呼び声  土曜日の朝、6時半に家を出て、眠そうな息子・笑福を連れて品川駅に。すると「おさむ!」と僕の名前を呼ぶ声が。振り向くと、極楽とんぼの山本圭壱さんがいました。山本さんは、僕が22歳の時に深夜番組の「とぶくすり」で出会いました。朝からいきなり30年前に出会った人に出会い。なんかテンション上がりました。福の神に会うような気持ちに。 品川駅で極楽とんぼの山本圭壱さんと(本人インスタグラムから)    そして伊勢に。まず、僕は伊勢に行くと、外宮さんにお参り。そのあと、内宮さんに行く予定が、雨が降ったので、翌日に繰り越し。  子供が大好きなバスボム(お風呂に入れるやつ)を手作りできるところがあるということで、行くとそこは真珠屋さん。なんと伊勢の真珠のパウダーを入れたバスボムを作れるとのことで。15分ほどで出来ますが、たった15分で試行錯誤してとてもおもしろい時間。  そのあと旅館に行き、笑福と2人でご飯を食べて、温泉に入る。緩やかな時間を過ごす。  笑福とは実家には2人で泊まったことはありますが、実家以外での2人の宿泊は初。  夜、笑福がさみしがるだろう時間に伊勢のお友達が遊びに来てくれて。  そして翌日。内宮さんにお参り。伊勢のお友達とお子さんも来てくれまして。笑福はまあ、はしゃぐはしゃぐ。 笑う門には福来たる  内宮を走り回る笑福。ですが、途中で先を歩く僕を走って呼び止めに来たお友達。「笑福が・・・」と息を切っている。笑福の方に行ってみると、なんと笑福は伊勢神宮・内宮さんの端にあるドブのような場所に足を突っ込んでしまい、靴はもちろんズボンもビショビショ。なんで?なんでこの広い伊勢神宮の中のドブに突っ込む?? 笑福はドブに足を突っ込んだのに爆笑している。  このままじゃ旅行続行できないと、近くのイオンに行きサンダルを購入。着替えて旅行継続。おいしい寿司屋にも サンダルで行きました。  気づくと、ずっと笑ってました。伊勢の友達のアシストのおかげもありますが、ずっと。ドブにハマっても笑っているし。ドブにハマったことで友達も爆笑してるし。  息子・笑福の名前は「笑う門には福来たる。改めて、この名前の通りに成長してくれているなと思えた男2人の伊勢旅行でした。 引退発表した鈴木おさむ 29歳のときに起きた出来事とその後に強く感じたこととは   ■鈴木おさむ(すずき・おさむ)/放送作家。1972年生まれ。19歳で放送作家デビュー。映画・ドラマの脚本、エッセイや小説の執筆、ラジオパーソナリティー、舞台の作・演出など多岐にわたり活躍。パパ目線の育児記録「ママにはなれないパパ」(マガジンハウス)、長編小説『僕の種がない』(幻冬舎)が好評発売中。漫画原作も多数で、ラブホラー漫画「お化けと風鈴」は、毎週金曜更新で自身のインスタグラムで公開、またLINE漫画でも連載中。「インフル怨サー。 ~顔を焼かれた私が復讐を誓った日~」は各種主要電子書店で販売中。コミック「ティラノ部長」(マガジンマウス)が発売中
彼氏の名前のタトゥーを入れた鈴木涼美と、彼女に頼れずフラれた鴻上尚史 悩み相談のプロたちが明かす“恋愛失敗談”
彼氏の名前のタトゥーを入れた鈴木涼美と、彼女に頼れずフラれた鴻上尚史 悩み相談のプロたちが明かす“恋愛失敗談”   鈴木涼美さんと鴻上尚史さん(撮影/写真映像部・上田泰世)  夜の世界や男女のアレコレをテーマに筆をふるう作家の鈴木涼美さんが、AERA dot.で30~40代女性向けのお悩み相談をはじめます。そこで、AERA dot.の人気連載「鴻上尚史のほがらか人生相談」を担当している、演出家の鴻上尚史さんとの特別対談が実現! 誰かの悩みへの向き合い方をはじめ、お二人自身の悩みや、ほろ苦い恋の思い出まで飛び出した、赤裸々トークをお楽しみください。 *  *  * ――鈴木さんから、“お悩み相談の大御所”である鴻上さんに聞きたいことはありますか? 鈴木:私は、若い女の子の恋愛相談に答えてきた経験はあるんですけど、鴻上さんって老若男女のお悩みを聞かれているイメージがあって。いろいろな人に相談されるキャラクターっていつからできたんですか? 鴻上:演出家をやってると、幅広い世代の役者さんの相談に乗らなきゃいけないんですよ。それこそ、「妻が倒れたんだけど」っていう話から、「お金がなくて彼女にもフラれてどうしたいいかわからない」っていう話まで。中年の女性に、「最近体調が悪い。更年期かもしれない」なんて言われたときは、しょうがないから本屋さんに行って調べて、「体を温めたほうがいいんじゃないですか?」ってアドバイスしてみたり(笑)。 鈴木:ちゃんと勉強されるんですね……。 鴻上:結局、とにかく芝居を成功させることしか頭になかったので。明日もきちんと稽古に来てもらうために、みんなが心の中に抱えているものを軽くしなくちゃいけない。悩みのジャンルを選んでいる場合じゃなかったっていうことですね。「鴻上尚史のほがらか人生相談」は、気がついたらもう5年目です。最初は1年の約束だったのに、最近はなぜかオートマチックな延長制度になっていて、毎月毎月、編集者さんから質問が送られてくる。あれ、これはいつまで続くんだ?って(笑)。鈴木さんは、なんでお悩み相談を始めようと思ったんですか? 鈴木涼美さん(撮影/写真映像部・上田泰世) 恋愛弱者だけど、好き勝手答える 鈴木:私の場合、人の悩みや愚痴を聞くのが好きなんです。昔、女性誌のポッドキャストで恋愛相談を受けていたんですけど、こんな変な男と付き合ってるから聞いてくれよ!っていう相談がたくさん来るんですね。たとえば、「浅くて平たいおたまを買ってきたら、彼氏にちゃぶ台ひっくり返されたんですけど、どう思います?」みたいな。もう答えは「別れたほうがいいんじゃない?」しかないんだけど、そういう話って本当に面白い。人によって、疑問を持つポイントや、世界の生きづらさがちがうというか。私、今40歳で、結婚してないし、5年以上同じ人と付き合ったこともないし、たぶん恋愛弱者なので具体的なアドバイスを求められているわけではないんです。だからあえて自分のことは棚に上げて、好き勝手答えていました。 鴻上:でも、5年以上同じ人と付き合ったことがないっていうのは、自分に正直ってことでしょう。だって付き合って3年も経ったら、ドーパミンは出尽くして、ドキドキなんてしなくなるんだから。たまに、ドーパミンから、愛情ホルモンのオキシトシンに変えていけるカップルはいるけど……。 鈴木:そうやって、恋人から、家族とかパートナーとしての関係に変換できたことがないんです。 鴻上:変換できる人のほうが稀だと思いますね。 鈴木:でもみなさん結婚してるじゃないですか。 鴻上:我慢してるんですよ。だいたい夫婦間の基本的な感情は不機嫌ですから(笑)。 鴻上尚史さん(撮影/写真映像部・上田泰世) 二人の恋愛観は両極端⁉ ――お二人には、恋愛の失敗談はありますか? 鈴木:私、若いころは彼氏ができるたびに、こんなに好きになる人は一生現れないって思ってたんですよ。 鴻上:なるほど(笑)。 鈴木:それで、腰に、当時の彼氏の名前のタトゥーを入れました。イニシャルでKJ。でも3カ月くらいで別れたんですよね。しかも名前は偽名だったんです。 鴻上:そんなろくでもない男だったの!? 鈴木:だからそもそもイニシャルはKJではなかったのですが、別れてからは、なんとかタトゥーを修正して、Kは死んだ母親のペンネームの「Kari」、Jは私の誕生日が7月13日なので「July」にしました。 鴻上:あはは。エッセイのネタとしてはすごく面白い。 鈴木:いかに恋愛において先見性がなかったかっていう。 鴻上:のめり込むタイプなんですね。俺なんか、どんなに恋愛しても、やがて終わりが来るんだからって必ず思ってましたけどね。 鈴木:若いころからですか? 鴻上:うん。高校のときに1個下の女の子と付き合ってたんだけど、ある日の放課後、図書室で待ち合わせをして、俺が先に部活が終わったから勉強しながら待ってたの。そしたら彼女が、早く俺に会いたくて4階の図書室まで階段を駆けあがってきて。ハーハー息を切らしている顔を見た瞬間、すごく悲しくなったんだよね。あ、この子は数ヵ月後には、ゆっくり階段を上がってくるようになるだろうな、それを見るのが自分は耐えられなくなるだろうな、と思って。   鈴木涼美さん(撮影/写真映像部・上田泰世) 鈴木:独特な人間観ですね(笑) 鴻上:いやいやKJも独特だと思いますよ(笑)。俺の失敗談としては、大学から7年付き合った彼女のことかな。6年目くらいのバレンタインデーで大きなハートのチョコをもらって、ふたを開けたら、「わがまましてもいいのよ」って書いてあって。俺は小さいころから両親とも共働きで家にいなかったから、自分の悲しみや怒りを自分で処理できちゃう。でも相手としては、間違いなく寂しいよね。案の定、最後は別の男にぴゅっとかっさらわれて終わりました。彼女にはかわいそうなことをしたなーと思います。 ※【後編】<「編集者に尻を叩かれないと書けない」と悩む作家・鈴木涼美に、鴻上尚史がおくった“ほがらか”すぎるアドバイスとは>に続く (聞き手・構成/AERA dot.編集部・大谷百合絵) 【鈴木涼美さんへのお悩みを募集します!】 2023年11月から、新連載「涼美ネエサンの(特に役に立たない)オンナのお悩み道場」がスタートします。恋愛、夫婦、家族、仕事、友人など、鈴木さんと同世代の30~40代女性のお悩みを中心に募集中です。ご応募はコチラから! ●鈴木さんからのメッセージ ELLEのポッドキャスト「ビストロラビン」が終わってしまい、皆様のお悩みや相談などを聞く機会が減っていたので、ここでまたお話しを聞く機会ができてとても嬉しいです。私は結婚もしていないし子供もいないし仕事も不安定で、地べたにはいつくばって生きている感じなので、こんな風にすれば素敵な人生送れるよ!というアドバイスは何もないですが、ピンチに陥ったり崖っぷちに立ったりすることは多い日々だったので、痛み分けする気分で、気負わずなんでもお便りお待ちしてます。 鴻上尚史(こうかみ・しょうじ)/作家・演出家。1958年、愛媛県生まれ。早稲田大学卒。在学中に劇団「第三舞台」を旗揚げ。94年「スナフキンの手紙」で岸田國士戯曲賞受賞、2010年「グローブ・ジャングル」で読売文学賞戯曲賞など。近著に『「空気」を読んでも従わない~生き苦しさからラクになる』(岩波ジュニア新書)、『愛媛県新居浜市上原一丁目三番地』(講談社)、また本連載を書籍にした『鴻上尚史のほがらか人生相談~息苦しい「世間」を楽に生きる処方箋』がある。X(@KOKAMIShoji)も随時更新中 鈴木涼美(すずき・すずみ)/作家・エッセイスト。1983年、東京都生まれ。慶應義塾大学在学中にAV女優としてデビューし、キャバクラなどで働きつつ、東京大学大学院修士課程を修了。日本経済新聞社で5年半勤務した後、フリーの文筆家に転身。恋愛コラムやエッセイなど活躍の幅を広げる中、小説第一作の『ギフテッド』、第二作の『グレイスレス』は、芥川賞候補に選出された。著書に、『身体を売ったらサヨウナラ 夜のオネエサンの愛と幸福論』『非・絶滅男女図鑑 男はホントに話を聞かないし、女も頑固に地図は読まない』など。近著は、小説第三作となる『浮き身』。X(@Suzumixxx)も随時更新中
「MEGUMIに勇気づけられる」「不倫の怒りは相手の属性次第」 作家・鈴木涼美が語る離婚観
「MEGUMIに勇気づけられる」「不倫の怒りは相手の属性次第」 作家・鈴木涼美が語る離婚観 MEGUMIさん  女優・タレントのMEGUMI(42)と、ロックバンド「Dragon Ash」の降谷建志(44)の離婚報道が世間をざわつかせている。かつてAV業界や夜の世界で働き、男女にまつわる著作を多数持つ作家の鈴木涼美さん(40)は、この騒動をどう見るのか。独自の離婚観、不倫観を交えて語ってもらった。 *  *  * ――MEGUMIさんに対し、ネット上では「第二の人生を謳歌してほしい」などと励ましの声が多く寄せられています。あたたかな応援ムードの背景には何があると思いますか?  私は結婚をしたことがありませんから、離婚の大変さは想像しかできませんが、元々のご本人の人気はもちろん影響しているでしょう。  MEGUMIさんの美しさっていい意味で親近感があって、殿上人みたいな感じがしないですよね。私は世代的に若い頃、安室奈美恵や浜崎あゆみに憧れましたが、どこか別世界の人と思ってしまう節もあります。でもMEGUMIさんは顔も日本人っぽいし、目標にしやすい感じがするというか。美容の本が大ヒットしたことからもわかるように、アラフォー女性の現実的なロールモデルになっているのだと思います。  そういう“同世代の憧れ”みたいな人が何か人生の大きな決断をすると、「人生の選択肢は何歳になっても幅広いんだ!」と実感して、勇気づけられる人も多いのではないでしょうか。現在の自分のいる場所が窮屈になったとしても、新たな場所を探してまた次のシーズンが始まる、いくらでも輝けるって思える。憧れの女優さんたちが自由に人生を選択していると、自分たちもそういう選択肢がとれるのだと思って少し気負いがとれるというのもあると思います。  私の友達にも、結婚式の二次会で旦那に、「浮気とか、私の嫌なことしたら、離婚する。藤原紀香だってバツイチだし、私怖くないから」って言ってた子がいましたし(笑)。   鈴木涼美さん 許せないポイントは人それぞれ ――降谷さんが不倫していたことも、MEGUMIさんへの応援ムードに拍車をかけているような……。  一つ事件があると、それだけが原因のように思われがちですけど、人の選択の理由って複合的なものだし、本当の原因なんて第三者には分かりませんよね。ですから私にはMEGUMIさんの決断に至る心境を推し量ることはできません。  私の友人に、夫が転勤になってすぐ離婚した子がいたんですけど、別れた旦那さんはすごくいい人で、仕事も申し分なくて、不倫だって一切しなかった。時期が重なったこともあり、周りは転勤がそんなに嫌だったのかなぁと勝手に憶測していましたが、何年も経ってから聞いたところ、実は結婚してから一回もセックスしていなかったことや、夫の潔癖症に悩んでいたことを知りました。  恋愛が冷めるポイントや相手の許せないポイントは、千差万別で他人にはわからないことも多くあります。ある日突然、今まで居心地がいいと思っていた彼のにおいが臭く感じるようになることだってあります。そういえば、父親を肺がんで亡くした女性が、旦那が工事現場の人に混じってこっそりタバコを吸っていたと知って離婚する、なんて映画もありましたね。他人にとっては特に問題にならないことでも、二人の間のことはわからないということです。 ――とはいえ不倫は、別れを選ぶ決定的な引き金になる女性も多いのでは?  これはMEGUMIさんの件とは関係なく、私の持論ですが、同じ不倫でもケースによって罪の重さというか、相手につける傷の深さがちがうと思うんですよね。「不倫は一律でNG」という人ももちろんいるでしょうが、「こういう相手との不倫だけは何があっても許せない」っていう特定の許せないポイントがある場合も少なくないから。旅先のワンナイトの夜遊びと、自分の友人や親友との浮気と聞けば、自分の心に及ぼす影響の濃淡が違うとわかると思います。 鈴木涼美さん 「たまたま仕事で出会った相手との純愛不倫と、銀座のホステスとの不倫ならどっちが嫌か」と聞いてみると、人によって意見が違うものです。「水商売の相手は仕事だろうけど、お金が介在しない場合は相手が本気になってしまうかもしれないし、心が持っていかれる気がする」という人もいましたが、私の母は「銀座のクラブに通ったらうちの家計が苦しくなる。それなら一切お金を使わない純愛の方がまし」って切り捨てていました(笑)。  あるいはもっと複雑に、不倫相手の“属性”によっても、怒りの度合いが変わりますよね。 うまいこと遊んでいる人の“決め事” ――属性とは……?  女性に、夫の不倫相手や彼氏の浮気相手がブスの方が凹むか、美人の方が凹むかと聞くと、人によって答えが両極で面白いですし、男性の場合は社会的立場が上か下かとか収入の大きさを気にしたりします。  以前、たまたま番組でご一緒した活躍中の芸人さんたちに、「いいなと思った女の子に『私、実は超大御所芸人の元カノなの』って言われるのと、『駆け出しの若手芸人の元カノなの』って言われるのと、どっちが嫌ですか?」と聞いたことがありますが、一人の芸人さんは「絶対に後輩のほうが嫌」と譲らず、もうお一方は「先輩の元カノはとんでもない、絶対に無理です」とおっしゃっていました(笑)。  あまり褒められたことではないですが、うまいこと遊びながら家庭も幸福そうな人を見ていると、最後の最後でパートナーが一番傷つくだろうなという相手は絶対に選ばない、というような自分の中の決め事があったりします。  たとえば、東大を出て弁護士であることにプライドを持っている妻だったら、若くて可愛いキャバ嬢と不倫されるより、ハーバード卒の国際弁護士と不倫されるほうがきっと自尊心が傷つくだろう、とか。相手のことをよく考えるとその人が何を尊んで何を軽蔑するかというようなことへの想像力は培われると思うんです。  人間関係を続けていくうえで、相手が何で喜ぶかを考えることはもちろん大切なことだとは思いますし、恋愛関係においてはこれをきちんと考えている人は結構いると思います。ただ、実際長く一緒にいようと思う場合は、何で傷つくかを理解することはそれ以上に大切だと私は考えています。そしてそれは、日頃よく相手の話を聞いていれば分かるはずです。  妻が一番傷つくことをする夫って、妻のことを何も知らないか、傷ついてもいいと思っているか、どっちかだと思われて仕方がないと思うのです。もちろん、逆の場合もそうです。 2回くらい結婚したって自然では? ――今、日本では3組に1組の夫婦が離婚しています。なぜ離婚はこれほど一般的になったのでしょうか?  単純に、世の中がそれを許容するようになったというのが大きいのではないでしょうか。かつて社会は中年女性の居場所を、家庭や、仕事場における“お局様”の枠など、とても狭く限定していました。  そのような社会では、よほど特殊な才能や経済的な幸運がない限り、一緒にいるのが楽しくなくなった相手とは別れるっていう自然の摂理に従うことは難しかった。でも今は、家庭があろうとなかろうと、社会で活躍して輝いている40代50代女性はたくさんいますよね。  自由恋愛を楽しむのは若い人の特権、なんていう世間的な思い込みも終わりつつあります。高齢者施設で恋愛が活発だというのはよく言われますし、少し前に話題になったNetflixの恋愛リアリティショー「あいの里」も、参加者は35歳以上の男女でした。  人生100年時代の今、寿命が長くなると結婚生活も長くなるわけで、人によっては2回くらい結婚したって自然な感じはしますね。実際、周りを見ていると、離婚をポジティブな選択肢として捉えている女の人は多い気がします。「子どもが高校を卒業したら考えてもいいなー」とか。  離婚したい理由はそれぞれですね。「キュンキュンしないから」とかギャルっぽい理由の人もいるし、「生物として夫より私のほうが優れている気がする」っていう謎の名言を残して、一緒に暮らしはじめて2ヵ月で離婚した友人もいます。  いくつになっても、別れたいと思ったときに別れる選択肢があるのは、心強いこと。私としても、自分と同じ独身仲間が増えるのは大歓迎なので、有名人の離婚のニュースはすごく明るく受け止めています(笑)。 (聞き手・構成/AERA dot.編集部・大谷百合絵) 鈴木涼美(すずき・すずみ)/作家・エッセイスト。1983年、東京都生まれ。慶應義塾大学在学中にAV女優としてデビューし、キャバクラなどで働きつつ、東京大学大学院修士課程を修了。日本経済新聞社で5年半勤務した後、フリーの文筆家に転身。恋愛コラムやエッセイなど活躍の幅を広げる中、小説第一作の『ギフテッド』、第二作の『グレイスレス』は、芥川賞候補に選出された。著書に、『身体を売ったらサヨウナラ 夜のオネエサンの愛と幸福論』『非・絶滅男女図鑑 男はホントに話を聞かないし、女も頑固に地図は読まない』など。近著は、小説第三作となる『浮き身』
佳子さまの絶妙なセルフプロデュース力「強い意思を感じる」皇室番組放送作家
佳子さまの絶妙なセルフプロデュース力「強い意思を感じる」皇室番組放送作家 鳥取空港に到着した秋篠宮家の次女佳子さま=2023年9月23日 代表撮影    秋篠宮家の次女佳子さまは「第10回全国高校生手話パフォーマンス甲子園」への出席予定で鳥取県を訪問されたとき、以前にも公務で着用したオレンジベージュのレースのワンピースにブラウンのショート丈ジャケット姿でお出ましになった。その装いに、皇室番組の放送作家のつげのり子さんは「目を見張った」と話す。それはなぜか。   *  *  *   9月23日、「第10回全国高校生手話パフォーマンス甲子園」の出席のために鳥取県入りされた佳子さま。   「鳥取空港に到着されたときの佳子さまの装いを拝見して、いままでの皇族の方にはない、大胆な装いだと目を見張りました」 鳥取空港に到着された佳子さまの装い 代表撮影    そう話すのは、皇室番組の放送作家のつげのり子さん。着目したのは、佳子さまのユニークなアクセサリーだ。   「佳子さまのブローチが木の風合いで、イヤリングもそれに合わせて木質系の素材が使われたものに見えました。女性皇族のアクセサリーといえばパールなど、キラキラしたものが多いように思いますが、今回の佳子さまのアクセサリーは素朴で地味な印象です。    しかし、佳子さまの存在感そのものが可愛らしさにあふれているので、木の風合いのアクセサリーは、逆にハッと目を引く効果を生み出していました。無難にキラキラした宝飾品をつけるのではなく、あえてこのセレクトをされたところに、佳子さまのチャレンジ精神を感じました。    下手をすると華やかさを失うかもしれないのに、それを新たな魅力に変えてしまう佳子さまは、本当にセルフプロデュースに長けていらっしゃると思います」 【こちらも話題】 天皇陛下は「佳子ちゃん」 愛子さまは、秋篠宮家でなんと呼ばれているの? https://dot.asahi.com/articles/-/202891   佳子さまの強い意思を感じる    鳥取ご訪問のときにお召しになったオレンジベージュのワンピースは、今年1月27日「第71回関東東海花の展覧会」のときも白のノーカラージャケットに合わせて着用されていた。 「第71回関東東海花の展覧会」で、愛知県による特別展示を鑑賞する秋篠宮ご夫妻と次女佳子さま=23年1月27日 代表撮影 「花の展覧会の会場には色とりどりの花々がある中で、佳子さまのオレンジベージュのワンピースも花のひとつであるように見えて、公務に溶け込もうとしている感じがしました。同じワンピースでも、その場に合わせて違った印象にコーディネートできるのは、自分がどう見られているのか、どう見せていけばいいかをセンス良く考えておられるからこそ、できるのだと思います」    たしかに、同じワンピースでもジャケットの色が白とブラウンとでは印象が変わる。そして、季節感や公務への溶け込み方も変わる。    佳子さまのこうしたセルフプロデュース力に、つげさんが強いメッセージと意思を感じるようになったのは、ここ最近だという。 【こちらも話題】 愛子さまの帰京時のワンピースは「GU」で2490円!? ファストファッションでも品と清潔感 https://dot.asahi.com/articles/-/200955   佳子さまが「赤」を着る理由 「第45回聴覚障害児を育てたお母さんをたたえる会」の第2部発表会に臨む秋篠宮家次女佳子さま=23年1月23日、東京都渋谷区の青山学院講堂、代表撮影 佳子さまがテニス協会100周年式典ご臨席されたときも赤いレースの装いだった=23年1月25日 代表撮影   「女性皇族の方は公務などでの装いに、メッセージを込めて洋服を選ばれると言われています。中でも佳子さまは、明確にその時々の意思を反映されているように思います。    それをはっきりと打ち出していたのが、昨年9月頃から今年2月にかけて、デザインは異なるのですが、全身『赤』の洋服をお召しになることが多かったことです。特に今年1月から2月は報道陣のカメラが撮影した佳子さまのお出ましは全部で12回、そのうち4回が『赤』の洋服でした。    一般的に、全身『赤』の洋服を着るには勇気がいりますよね。それをあえて選んでいるのは、赤は情熱の色と言われますが、佳子さまは『揺るぎない自分を世の中に知ってもらいたい』『自分自身が信じたことを貫く』という、明確な意思を表明されているのではないでしょうか。周りから何を言われても自分自身を見失わないということを、強いインパクトを持つ『赤』という色に託して意識的に表わされたのだと推察します。    それこそが、可愛いアイドル的なプリンセスだった佳子さまが、そこから脱皮して強い女性だということをアピールされている、セルフプロデュースなのかもしれません」 新年一般参賀に出席した秋篠宮さま、紀子さま、佳子さま、三笠宮妃百合子さま。佳子さまはボルドーカラーにも見える赤いドレスで=2023年1月2日 代表撮影   【こちらも話題】 佳子さまの「なめらかで美しい」手話は努力のたまもの  会場をなごませた「やさしさ」 https://dot.asahi.com/articles/-/200007   佳子さまの袖丈の長さ    着ている服の色やコーディネートだけでなく、佳子さまのセルフプロデュース力を感じるところは、他にもあるという。 全国高校生の手話によるスピーチコンテストで、手話であいさつをする秋篠宮家の次女佳子さま=23年8月27日 代表撮影 「佳子さまの自分を見せる工夫を感じられるのは、手話でスピーチされるとき。暗めな色合いの洋服を選ばれ、袖の長さが少し短めなんです。そうすることによって、手の動きがよく見えて、手話がわかりやすくなる効果があります。そこまで佳子さまは考えて、装いを決めていらっしゃるのでしょう。    佳子さまは成年皇族になって9年目となり、公務で自分に何が求められているかをきちんと把握され、『この場面ではこういうものを着ていく』などノウハウも熟知されてきているのだと思います」    今年12月には29歳を迎える佳子さま。強い意志を胸に宿しつつ、絶妙なセルフプロデュース力をますます磨いていかれることだろう。 (AERA dot.編集部・太田裕子) 〇つげのり子/放送作家、ノンフィクション作家。2001年の愛子さまご誕生以来皇室番組に携わり、テレビ東京・BSテレ東で放送中の「皇室の窓」で構成を担当。皇室研究をライフワークとしている。日本放送作家協会、日本脚本家連盟会員。著書に『天皇家250年の血脈』(KADOKAWA)、『素顔の美智子さま』『素顔の雅子さま』『佳子さまの素顔』(河出書房新社)、『女帝のいた時代』(自由国民社)、構成に『天皇陛下のプロポーズ』(小学館、著者・織田和雄)がある。
「なぜユダヤ人は不人気なのか」親日家イスラエル人が明かす胸の内 全世界から批判されても戦う理由
「なぜユダヤ人は不人気なのか」親日家イスラエル人が明かす胸の内 全世界から批判されても戦う理由   イスラエル軍による地上侵攻が近い――。米国は武装組織ハマスへの報復を支持。一方で、パレスチナに同情を寄せる日本人は少なくない。ガザ地区を封鎖して電気や水の供給を止めるのは国際法違反だと非難する声は欧州からも聞こえてくる。こうした冷ややかな「空気」を、イスラエル人はどのように受け止めているのか。日本に留学経験がある軍事史家で、国立ヘブライ大学教授のダニ・オルバク氏がAERAdot.に緊急寄稿。胸の内を明かした。 英文はこちら「Why Israel is unpopular」 *  *  *  2023年10月7日土曜日の朝は、イスラエルでは祝祭日となるはずだった。ユダヤ教の大型連休の終わりは、ユダヤ教の経典であるトーラー(律法)の巻物を持って踊ることで祝われる。若者たちの多くは、自然が豊かなイスラエル南部のガザの国境付近で野外パーティーを開いて休日を祝うことを好んでいる。  この朝、ハマスの1500人以上の武装勢力が国境を越えてイスラエルに侵攻し、数十の軍事基地や村落、キブツ(集団農村)を占拠したのだ。彼らは自然保護団体を襲撃し、いくつかの大きな町に侵入した。事実、大虐殺の最中だった。  100人以上の人質を取っただけでなく、ハマスのテロリストたちは、遭遇したすべてのユダヤ人とアラブ人も民間人と兵士を問わず、組織的に殺害した。これはテロではなく、大虐殺である。  現在、イスラエルとアメリカの公式情報源によって確認されているように、小さな赤ん坊の斬首、村人を生きたまま焼き殺した。夫の目の前で妻を殺害などおぞましい行為があった。ナチス時代のホロコーストを生き延びた高齢者は自宅のベッドで撃たれた。あるハマスの過激派は若いベドウィン(遊牧民族)の少女に40発の銃弾を撃ち込んだ。飼い主を守ろうとした忠実な家族の犬は、冷酷に撃たれた。レイプの報告や証言もある。ベエリやクファル・アザのようないくつかの村では、人々は溝に押し込まれ殺された。  イスラエルにとって、これは単なるテロ組織との闘いではなく、むしろISISに似たグループとの闘いなのだ。日本の読者は、フリージャーナリスト後藤健二氏が2015年、シリアでISISに拘束され殺害された事件を覚えているだろう。同じような悲劇が先週の土曜日にイスラエル南部で1200人に起こったのだ。 日本の冷淡な対応に驚き、失望 人びとの善意が利用されている  イスラエルに対する国際的な支援は世界中から寄せられている。バイデン大統領は明確な連帯を表明し、他の敵が第二戦線を開くのを阻止するために米海軍機動部隊を派遣した。英国、フランス、イタリア、ドイツ、インドもイスラエルに味方している。ロシアの侵略と命がけで戦っている自由主義国家ウクライナも、ゼレンスキー大統領や最前線で戦うウクライナの戦士たちが連帯と支援のメッセージを送り、イスラエルに毅然とした態度で臨んだ。  このような背景から、日本研究者であり、日本に留学し、日本とその国民に深い憧れを抱いている多くのイスラエル人は、日本政府の冷淡な対応に驚き、失望している。日本政府は、ハマスの大量虐殺行為に対する非難と、民間人を殺害したイスラエルの対応に対する同様の「懸念」との「バランス」をとっていた。この反応の背後にある中東における日本の利益(原油?)については、今のところ言及しない。日本の外務省が在外邦人や在外大使館の安全を案じていることは明らかであり、それは理解できる。そこには日本人の善意があるかもしれない。  しかし、私たち全員が考えなければならないより深い問題がある。人々の善意がテロリストや大量殺人者に利用されることがあるということだ。例えば、パレスチナ難民を助けたいという寛大で善意の日本人から寄付された土嚢袋は、ハマスによってイスラエルへの侵攻を隠すために使われた。土嚢袋の中には、「パレスチナ難民に自由に配るための日本人からの寄付」と書かれているものまであった。日本や世界中の人々の善意と寛大さが、ハマスの大義名分のために使われたのだ。 ハマスが人道的扱いを過度に要求する理由 背景に第二次世界大戦の苦い記憶  第二次世界大戦の恐怖の後、欧米やアジア、特に日本では、多くの人々が戦争そのものを悪として糾弾し、平和、和解、人権を強調する崇高な世界観を採用した。紛争中に罪のない市民を守ることは、利己的な国家利益や軍事的優位を求める些細な野心よりも最優先されるようになった。そのため、ハーグ条約とジュネーブ条約に基づく武力紛争法は、「国際人道法」(IHL)と改名された。以前は、武力紛争法は戦争の惨禍を制限するための相互取り決めであるとされていた。たとえ国同士が遺憾ながら戦うことがあっても、一方はライバルの国民や捕虜を保護すべきであり、逆もまた然りであった。しかし第二次世界大戦後、各国が戦争法に違反するのを防ぐため、国際裁判所はこれらの人道法の多くは慣習的かつ無条件的なものであると裁定した。たとえ敵国が同じことをしなくても、私たちはその国の民間人を保護すべきなのである。  戦争法違反が比較的軽微だった時代には、少なくとも部分的には機能していた。しかし、ここ数十年、殺人テロ組織はこのルールを自分たちに有利なように利用してきた。ハマスがイスラエル南部で行ったように、彼らは民間人を虐殺し、自分たちの都合のいいように戦争のルールを無視し、罪のない民間人の陰に隠れ、善意の人々の人道的感情を享受することで、報復から身を守ることができた。  イスラエルは、その歴史のほとんどの期間、存亡の危機に直面してきたため、国際人道法違反を繰り返し非難された(※編注:ヨルダン川西岸のイスラエルによる入植活動は国際法違反とされ、日本政府は即時かつ完全に凍結されるべきとの立場)。残念ながら、こうした非難が真実のケースもあった。イスラエル軍の歴史を通じて、遺憾な残虐行為があり、その多くは処罰された。しかし、ハマスのような組織との戦争で、ハマス側が「人道的」扱いを過度に要求することは、罪のない人々や難民への人道支援を装って、そのような集団が武装することを許す盾となった。  何年もの間、ハマスが人口密集地からイスラエルに向けてロケット弾を発射し、さまざまな残虐行為を働いた。しかし、国際的な圧力により、イスラエルはガザの住民に水、電気、燃料、食料を供給せざるを得ないし、そうしてきた。ハマス側はこれらの資源を自国民の支援や再軍備に使い、民間人の犠牲を恐れる「人道主義」を利用して、イスラエルのあらゆる対応を制限した。   イスラエル軍は人間性を保持する でもハマスに崇高な意図は通用しない  イスラエルが不人気なのは、そのような人々の善意を隠れ蓑にした武装組織に直面したとき、イスラエル自国の民間人の命を守るために敵に攻撃をしなければならない場面が多かったからだ。それでも、イスラエルは長年にわたり、海外でさらに不人気になることを恐れて、ガザに水、電気、燃料、食糧を提供し、人道危機を防ぐために軍事的対応を制限してきた。惜しむらくは、その代償は許容範囲だろうと考えていたことだ。この過ちの結果、少なくとも1,200人のイスラエル人が残酷に殺害され、もしハマスが国際社会から再び支援を受けることが許されるなら、さらに多くの人々が殺害されるだろう。  第二次世界大戦のトラウマから生まれた「人道主義」は、パレスチナの人々やガザ地区の住民にとっても不利益をもたらした。ハマスが自らを守り、回復し、再軍備するのを助け、ガザとこの地域を、一時的な停戦を挟んだ終わりのない戦闘の連鎖へと追いやったのだ。  日本、ヨーロッパ、アメリカ、そしてイスラエルでさえも、多くのアナリストは、戦争への憎悪に忠実に、パレスチナ問題は対話と和平協定によってのみ解決できると考えていた。長い目で見れば、これは確かに真実である。パレスチナの人々は、地球上の他のすべての国と同じように、尊厳と良い生活をするに値する。  しかし、最近の出来事は、ハマスがイスラエルのすべてのユダヤ人と多くのアラブ人を絶滅させることを目的とし、この大義を推進するためにはいかなる合意や譲歩も利用する集団には、そのような崇高な意図は通用しないことを示している。これらの目標は、『我が闘争』におけるヒトラーの意図と同じように、イスラエルとパレスチナ自治区の代わりにパレスチナにイスラム国家を最終的に創設し、イスラエルの抹殺または解散を求めている。ハマスの憲法ともいえる「ハマス条約」に明確に記されている。このような組織との外交が無益である理由を理解するには、これらの文書を読む必要がある。  いうまでもなく、イスラエルは武力衝突の国際ルールを順守すべきである。私たちイスラエル人の多くが激怒しているように、敵のやり方を採用し、罪のない民間人に危害を加えてはならない。イスラエル軍の倫理規定には、"兵士は戦時においても人間性を保持する "と書かれている。イスラエル国防軍は、決して意図的に民間人を標的にすべきではなく、わが戦線の背後に避難しようとするガザの人々や投降した敵戦闘員を保護する義務がある。   民間人が密集する環境での戦争は民間人に避けられない危険を伴う。イスラエル軍は人道的回廊を作り、ハマスに属さない難民のための安全地帯を設けるべきだ。しかし、過去の誤った「人道主義」によって、作戦を早々に中止させたり、ハマスの標的への爆撃を制限したり、敵に電気、水、燃料を供給させたりすることは許されない。ハマスが自らの行動の結果から逃れられるようなことがあってはならない。ハマスの回復と再武装を許すことは、イスラエル人にとって存亡の危機であり、パレスチナ人にとっても、長期的には悲惨な結果をもたらすかもしれない。 指導者の罪を裁くことはこの地域のすべての人に有益だ  多くのアラブ人やパレスチナ人も、ハマスの所業に恐怖を感じている。アラブ人とドルーズ(イスラム系宗教団体)はイスラエル軍、警察、病院、その他の重要なサービスに従事している。アラブの町は連帯を示すためにユダヤ人被害者に避難所を提供した。イスラエルのアラブ人の多くは、ハマスに殺害された親族を追悼している。戦争が終わった後は、ガザの平和な住民のために、近代的な住居やインフラを備えた町を再建する絶好の機会となる。ハマスの問題をISISの問題のように扱うこと、つまりこの組織を解体し、指導者を逮捕し、人道に対する罪で裁くことは、この地域のすべての人々にとって有益なことだ。  私の推測では、ガザでの戦争の悲惨な現実が世界中のテレビ画面に映し出される中、イスラエルは、この苦い現実の結果を無視することを選ぶ多くの人々の間で不人気であり続けるだろう。しかし、ホロコーストから70年後、イスラエル人とユダヤ人は、不人気という代償を払ってでも、自分たちの家族を守らなければならない。私の願いは、平和を愛する日本や世界中の人々が、時には悪をなだめるのではなく、悪と戦わなければならないということを徐々に理解していくことである。  有名なアメリカ映画『グリーンマイル』では、主人公が残忍な殺人犯に言及し、彼がどのように被害者を操ったかを説明している: "彼は彼らを殺すために、彼らの互いへの愛を利用した"。ISISやハマスのような集団が、私たちの平和と人道への愛を悪用するのを許してはならない。少なくともイスラエルには、もはやそんな余裕はない。 【英文はこちら】 「Why Israel is unpopular」 Professor Danny Orbach, Hebrew University of Jerusalem 〇Danny Orbach ダニ・オルバフ 1981年イスラエル生まれ。ヘブライ大学歴史・アジア研究学科教授。ハーバード大学で博士号(歴史学)取得。専門は軍事史、日本および中国近現代史。イスラエル軍情報部に勤務後、テルアビブ大学、東京大学、ハーバード大学で歴史学と東アジア地域学を学ぶ。歴史学者、評論家、政治ブロガーとして、独、日本、中国、イスラエルと中東の歴史に関する考察を精力的に発表している。邦訳『暴走する日本軍兵士―帝国を崩壊させた明治維新の「バグ」』(2019、朝日新聞出版)がある。
「ああ!」と顔を見合わせた天皇陛下と雅子さま 「この~木なんの木」おなじみのCMソングに大笑い
「ああ!」と顔を見合わせた天皇陛下と雅子さま 「この~木なんの木」おなじみのCMソングに大笑い 鹿児島県訪問を終え、鹿児島空港に到着した両陛下=10月8日、鹿児島県霧島市    コロナ禍で延期されていた国体の開会式に出席するため、天皇、皇后両陛下が10月7日、鹿児島県を訪問した。翌日には県の特産物であるサツマイモの加工会社を視察。そこは、若手社員らも交えた、あたたかい交流の場になった。 *   *   * 「ええと、『この~木、なんの木』に出てくる木です……」   サツマイモの生産・加工を手がける鹿屋市の南橋商事の矢羽田(やはた)竜作社長(45)は、とっさにCMソングの一節を歌った。  というのも、天皇陛下が休憩室に置かれた一枚板のテーブルを気に入り、「すごくよかったです。材質は?」とたずねてきたのだ。  しかし、名前が出てこない。あせった矢羽田さんは思わず「CMで有名な木です」と歌ったのだ。答えは、モンキーポッド(アメリカネムノキ)。野生のサルが実を好んで食べたことが名前の由来だといわれる。  幸い、すぐに雅子さまが答えに気づいてくれた。 「ああ!」  おふたりは顔を見合わせると、 「あの木なんですね」  と笑った。    南橋商事は、平均年齢20代後半の社員9人と規模は小さいが、数年前から香港など海外にサツマイモを輸出するなどして成功し、県内でも勢いのある会社だ。  おふたりには畑で芋の収穫作業を見てもらう予定だったが、外は激しい雨と風。視察はサツマイモの貯蔵庫に変更された。  矢羽田さんは、県の特産品であるサツマイモの品種について説明。そのなかで、陛下らしいやりとりがあった。     【こちらの写真も】 写真で見るとすごい!雅子さまの美しい前傾姿勢の所作の瞬間     サツマイモの生産・加工会社を視察する天皇、皇后両陛下=10月8日、鹿児島県鹿屋市    鹿児島を中心に九州で栽培されている「黄金千貫」という品種が、芋焼酎の材料に使われるという説明を聞いた陛下は、矢羽田さんにこう聞いた。 「黄金千貫は、焼酎以外に何になるのですか」  天皇陛下といえば、若いころから「お酒がお好き」。大学を卒業して間もない時期に、都内の仏料理店「シェ松尾」に何人かの同窓生と集まったことがある。  当時の支配人は、 「シャンパンに始まって白ワイン、赤ワイン、最後にコニャックのマーテル・コルドンブルーを皆さまで1本空けられましたが、まったく乱れることはありませんでした」  と、酒豪ぶりを振り返っていた。  優しい甘みを持つ黄金千貫は、サツマイモを短冊状に切って揚げたお菓子「芋けんぴ」などにも使われる。そう聞いた陛下は、「なるほど」といった表情でうなずいたという。   サツマイモの生産・加工会社を視察する天皇、皇后両陛下=10月8日、鹿児島県鹿屋市   「焼き芋にするとすごくおいしい」  矢羽田さんによると、天皇皇后両陛下の同社訪問が正式に決まったのは今年7月。その後、県庁の担当者との打ち合わせのほかに、警察や消防が何度も入って警備のためのやりとりが続いた。 「想像以上に大変でした」  矢羽田さんは苦笑するが、同時に宮内庁サイドの柔軟な対応に驚いたという。  おふたりとやりとりするのは当初、矢羽田さんのみの予定だった。しかし、会社を支えてきた会長や若手従業員とも話をする場を設けてほしいと県を通じて希望を伝えた。  両陛下をはじめ、皇族方の公務の日程は分刻みで固められる。過密なスケジュールのため、5~10分の時間延長も厳しいことが少なくない。  だが、矢羽田さんの希望に、宮内庁サイドは予定を調整し、おふたりと会話をする場面を設定してくれたという。     【こちらも話題】 愛子さまの帰京時のワンピースは「GU」で2490円!? ファストファッションでも品と清潔感 https://dot.asahi.com/articles/-/200955     サツマイモの生産・加工会社を視察する天皇、皇后両陛下。天皇陛下は「子どもの頃に、芋ほりを体験しました」と振り返った=10月8日、鹿児島県鹿屋市    若い社員との懇談では、ざっくばらんな会話が続いた。  26歳の牧谷滉平さんは、同社の主力である九州の新品種「紅はるか」について話した。すでに入社7年のキャリアがあると聞いた雅子さまは、すこし驚いた表情を見せ、説明を受けた。  皮が見事なほど紅色で、これまでの芋よりも「はるか」においしいことから、この名前がつけられたという「紅はるか」。  牧谷さんは同社で働く前は「紅はるか」も知らなかったし、焼き芋もそうおいしいと感じたことはなかったものの、「紅はるか」の魅力を知った今は、おいしい芋や焼き芋を作るこの仕事が楽しい、と伝えた。   雅子さまは牧谷さんの話にうなずくと、にっこりと笑った。 「紅はるかは、焼き芋にするとすごくおいしいですよね」   わあ、と手をたたいて祝福  牧谷さんはおふたりとのやりとりを、こう振り返る。 「これまでは皇室を意識したこともほとんどなかった。今回お話する機会があると聞いて、ガチガチに緊張してしゃべれないと思っていた。でも実際にお会いすると、想像していたよりもリラックスしてお話できたことに驚きました」  くだけた会話も織り交ぜられたおふたりの気遣いに、若い従業員の緊張もほぐれたようだ。  おふたりは「休憩室をお借りしました。ありがとうございました」と何度もお礼を口にし、視察を終えた。  矢羽田さんは視察の終わりに、おふたりに3人目の子どもを妊娠中の妻を紹介。おふたりは驚いた表情を見せ、「わぁっ」と手をたたいて祝福してくれたという。 「動きますか」  そう話しながら、優しい目で妻のおなかを見つめる雅子さまが印象的だったという。   鹿児島県訪問を終えた天皇、皇后両陛下。鹿児島空港では、見送りに来た人たちに笑顔で手を振った=10月8日、鹿児島県霧島市    秋は全国各地で行事が続き、皇室の公務ラッシュとなる季節。温かな触れ合いが、また生まれそうだ。 (AERA dot.編集部・永井貴子)     【こちらも話題】 愛子さまの工作「ぶたちゃん」に陛下と雅子さまの「仔猫たち」 宮内庁の文化祭とは? https://dot.asahi.com/articles/-/198525  
「面白いか」「応援したいか」が仕事の原動力 経営学者・入山章栄
「面白いか」「応援したいか」が仕事の原動力 経営学者・入山章栄 学術とビジネス、日本と世界を軽やかに行き来し、自由な空気をまとう(撮影/植田真紗美)    経営学者・早稲田大学大学院、早稲田大学ビジネススクール教授・入山章栄。気鋭の経営学者として、ビジネスパーソンを始め多くの人が、入山章栄の思考を、アドバイスを聞きたいと列をなす。人の話をよく聞き、対話を大事にする。面白いと感じた人同士をつなげることも好きで、多動的に行動してきた。この「多動的」な行動が、経営学には難しいと言われる理論構築の基盤になった。知の探索と深化のために、東奔西走の日々だ。 *  *  * 「今、最もアポが取れない経営学者」。入山章栄(いりやまあきえ・50)を知る人なら、異論はないだろう。  本業は、早稲田大学ビジネススクールの教授。しかし、大学での講義やゼミ指導、自身の研究に費やす時間以外に、企業のアドバイザーや社外取締役としての活動、「ワールドビジネスサテライト」(テレビ東京)などメディアの出演・発信の予定で、入山のスケジュールは数カ月先まで埋まり、西へ東へ奔走する。  例えば、6月のある半日に密着すると、午前10時から早稲田の研究室で、テレビ番組用のコメント収録を1時間ほど。事前にオンラインで取材をした地方の中小企業5社の経営戦略について解説する内容だ。終わるや否やタクシーに飛び乗って、東京・浜松町のロート製薬のオフィスへ。4年前から社外取締役を務める同社の取締役会に参加するのかと思いきや、「YouTube収録をする」と言う。 「大企業が抱える課題は“対話不足”。社内の仲間がどんな思いでどんな事業に携わっているのか、生の言葉を交換し合うコミュニケーションが、既存の技術や知識の結合を生み、イノベーションの種になる」。そんな入山の提案で始まった社内配信番組では、自ら聞き役となる。  また、あるときは文化放送のスタジオに深夜まで籠(こも)る。ナビゲーターを務めるラジオ番組「浜松町 Innovation Culture Cafe」では、各界で注目する実業家や文化人をゲストに呼んでトークを展開する。テーマや人選も、入山が自ら企画に参加している。もともとラジオ好きという理由もあるが、「対話を公開する」という営みそのものが、日本の社会の活性化につながると信じている。  ゼミも授業もディスカッション中心。入山の解説は録画して事前に共有。観た前提で、学生全員で議論をする。国内外のアントレプレナーを呼んで、活動の情熱や志をひたすら語ってもらう授業は名物企画となっている。 国際機関で働く妻と子どもたちが暮らすマニラと東京で2拠点生活。愛犬の散歩は入山の日課だ。「歩いたり、車で運転したりするルートをあらかじめ決められるのは苦手。自分で道を探したいタイプです」(撮影/植田真紗美)   どんなアイデアも肯定 相手を緊張させない  入山の周辺に必ずあるもの。それは賑(にぎ)やかな「対話」だ。  話し好きの入山だが、よく観察すると、入山自身が話す割合は決して多くない。  肯定的な相槌(あいづち)や大袈裟(おおげさ)なほどのリアクションで相手の話を促し、会話の輪の中で発言が少ない人にさりげなく意見を求める。「学者は話が長い」と言われるが入山はむしろ逆。主役を自分以外に渡し、「ファシリテーター」として立ち回る名人だ。また、自分が面白いと感じた人同士をつなげて、新しい化学反応が生まれるのを見守るのも大好きだ。  例えば、キリン、ファンケル、マルイなど異業種の大企業数社が入山を講師に呼ぶ合同研修、通称「入山塾」でも、主役は参加者。企業同士がお互いの統合報告書に対して「忖度(そんたく)のない指摘」をし合い喧喧諤諤(けんけんがくがく)盛り上がる様子を、入山はニコニコしながら眺めているらしい。  ロート製薬の取締役会では、同じく社外取締役の米良はるか(レディーフォー社長)の推薦で、深い議論が必要な議案では臨時に議長役を務め、同社会長の山田邦雄(67)や役員の話を引き出していく。目薬の開発から発展し、化粧品分野での新規事業も成功させた山田は独自の発想力を発揮するリーダーとして知られるが、入山は「唯一の弱点」を嗅ぎ取っていた。 「天才肌の経営者ならではの悩みとして、自分の“頭の中”を社員にそのまま伝えるだけでは不十分で、大胆な成長戦略を実践しにくいもどかしさがある。思いやビジョンを言語化して伝達することが必要だと感じた」  同時に山田以外の役員の思考も表に出し、擦り合わせていく。「数十年後、社会にとってこの会社がどんな存在であってほしいか?」、そんな問いを投げかけて、掻き回す。  一方の山田は、入山の印象について「とにかく明るくて、いい意味で学者らしくない」と語る。「変わったアイデアでも肯定してくれるので、つい余計に喋(しゃべ)ってしまう。入山さんをビックリさせるくらいの報告をしようと、我々も刺激を受けています」 ラジオやYouTube番組の企画や人選も自ら進んで携わり、スポンサーも取ってくる。仕事を選ぶ基準は「面白いか」と「応援したいか」。深く共感できる相手には、つい「なんでもやりますよ」と言ってしまう(撮影/植田真紗美)    国内の大手シンクタンクを経て米ピッツバーグ大学で経営学博士号を取得し、ニューヨーク州立大学でアシスタントプロフェッサーとして従事。国際的な学術誌に論文を多数発表してきた入山は、世界を舞台に学術的バックボーンを磨いてきた“本物”の研究者である。それでいて、相手に緊張感を抱かせない柔らかさを併せ持つ。  誰に対してもオープンで快活。ガンダム愛やチャーハン愛も語り出したら止まらない。相手が社長だろうと学生だろうと「さん付け」の呼び方で区別せず、「なるほどね」「めちゃめちゃいいっすね」を連呼する。相手の意見を受け入れて、リスペクトを言葉にして表現し、手を叩(たた)いて笑う。おおらかな受容力を放つから、日に日に「私たちも入山先生にこんなお願いができないだろうか」と並ぶ人の列が長くなるのだろう。  今でこそ社交的に飛び回る入山だが、意外にも子ども時代は内向的だったという。  東京都調布市に生まれ、「勘と運だけで受かった」東京学芸大学附属大泉小学校へ。低学年までは快活な少年だったが、些細(ささい)な出来事がきっかけで次第に孤立するようになり、将来の夢も長く持てなかった。2キロほどあった通学路をボーッと下を向いて歩く暗い少年。近所の大人たちにはそう覚えられていたという。集団が苦手で、大手塾は1日でやめて家族経営の個人塾に入った。 数カ月前、自分の行動指針について考えて浮かんだ三つの言葉は「自由・自律・自責」だった。1年間のサバティカル(在外研究期間)を終えて、11月からゼミを再開する(撮影/植田真紗美)   世界に通用する仕事を 経営学博士号目指し留学  中学に入ると野球部に入り、キャプテンを任されたことをきっかけに徐々に性格も外向きに。真面目に勉強すれば模試で全国1位をとるほど成績はよかったが、なんのために勉強するのかという目的は見いだせなかった。  高校では「マイナースポーツのほうが勝率が高くなる」と転向したハンドボールに打ち込み、見事に都大会上位に進んだが、3年夏のインターハイが終わると燃え尽き症候群に。授業をサボって麻雀(マージャン)に頻繁に通い、気づけば成績は学年最下位に落ち込んだ。あわや留年というところを切り抜け、1浪して慶應義塾大学経済学部へ。しかしながら、試験科目が少ないという消極的な理由で選んだ大学生活では低空飛行を続けていた。  転機となったのは、3年次の履修説明会で“憧れるべき存在”に出会ったことだった。その人、木村福成(65)は、ウィスコンシン大学で博士号を取得し、ニューヨーク州立大学で教鞭(きょうべん)をとった国際派の経済学者。国際経済学への誘いを英語混じりで語る木村の姿を、シンプルに「かっこいい」と21歳の入山は見つめていた。世界とつながり、世界に通用する仕事に打ち込みたいという目標が芽生えた瞬間だった。  大学院修士課程修了後は、三菱総合研究所へ。アジア市場研究部に所属し、自動車メーカーや政府機関向けの調査研究に5年携わった。元同僚で先輩にあたる河村憲子は、会社員時代の様子をこう語る。 「当時、入山君はロン毛だったんです。型にはまらない自由な雰囲気から『王様』と呼ばれていました。外見は軽くても根は真面目で、人の話にもちゃんと耳を傾け、注意や説明を受けると柔軟に行動を変える素直さがありました。いわゆる“愛されキャラ”でしたね」  海外出張は年に数回あったが、入山はもっと深く世界とつながりたかった。そのために手っ取り早い方法は「留学だ」と閃(ひらめ)いた。博士号留学を目指し、米ジョージタウン大学大学院の入学も許可されたが、経済学を深めるイメージを持てずに辞退。恩師だった故・佐々波楊子(慶應義塾大学名誉教授)に相談したところ、「これからはMBA(経営学修士)の時代よ」と助言を受けた。  その言葉を素直に受け、経営学について調べてみた結果、数学ではなく自然言語でデータ解析をする学問手法であることに「自分に合う」と直感した。「人と同じ選択はしたくない」というこだわりを持つ入山にとって、修士課程のMBAではなく、あえて博士号に挑戦することは魅力だった。まして、海外で経営学博士号を修めた学者は同世代にほとんどいない。入山が好きな「レア化」の優位性が見えた。その読みどおり、安定した職を捨て、リスクをとった30歳の決断は、後に「気鋭の経営学者」と称され引っ張りだことなる入山のキャリアを決定づけるものとなった。 (文中敬称略)(文・宮本恵理子) ※記事の続きはAERA 2023年10月16日号でご覧いただけます
引退発表した鈴木おさむ 29歳のときに起きた出来事とその後に強く感じたこととは
引退発表した鈴木おさむ 29歳のときに起きた出来事とその後に強く感じたこととは 放送作家の鈴木おさむさん    鈴木おさむさんが、今を生きる同世代の方々におくる連載『1970年代生まれの団ジュニたちへ』。今回は、「辞める」ことについて。 * * *  この原稿は10月12日の夕方に書いています。今日、32年間やってきた放送作家業と脚本業を来年、3月31日に辞めることを発表させて貰いました。沢山の方からメッセージをいただきまして、本当にありがたいです。  僕が25年近くお仕事させていただている方からのメッセージで「放てば手に満てり」という言葉をいただきました。手にしているものを手放さないと何かをつかめないという意味ですね。辞めることが怖くないかといえば怖いです。でも、今のまま続けていくのがもっと怖いんですよね。 初連ドラ脚本に挑戦  29歳の時に初めての連続ドラマの脚本に挑みました。「人にやさしく」というドラマでした。初めての連続ドラマで、「笑っていいとも」「SMAP×SMAP」「めちゃめちゃイケてるっ」の3本はドラマの出演者も出ていたのでやっていたのですが、あとは半年お休みさせていただくことにしました。 【あわせて読みたい】 SMAP解散から6年 中居正広と香取慎吾の“対面”を見た鈴木おさむが感じた多くのこととは https://dot.asahi.com/articles/-/12467  そのときに、お休みさせて貰おうとしたら、結構、クビになりました。「ごめん、それだったらいいや」と。でも、そんななか、「いきなり!黄金伝説」のプロデユーサーは、「頑張って来いよ! 休んでる間もギャラは払い続けるから! 戻ってきてよ。期待してる」と。   なんと。半年間、会議も行ってないのにギャラを払い続けてくれたのです。数百万円ですよ。  でも、おもしろいもので、半年たって戻ったときに、その「黄金伝説」をきっかけに、そのスタッフからまた番組は増えていきました。  クビになった番組は、正直、自分のハマりが悪い番組でした。失った番組も多かったけど、その「黄金伝説」きっかけの番組がどんどん増えていき、クビになった番組の本数をすぐに超えていきました。  だから、「手放すこと」の大事さを、そのときに強く感じました。  そしてもう一つ。ここで書いておきたいこと。 【あわせて読みたい】 天国に旅立たれた鈴木おさむのただひとりの師匠。 僕もこれから、逃げずに、人の夢の種を撒いて生きます https://dot.asahi.com/articles/-/39625  僕はここ数年、仕事で「怖い」と言われることが多くなりました。自分は笑顔のつもりだったのですが、そうじゃない。  最近、思っていることがあります。努力を努力と思わない才能というものがあります。  成功してる人は努力と感じてない。  僕もありがたいことに若い頃から努力を努力と思っていなかった。だけど、作家を始めて3年ほどたったときに後輩が入ってきて、自分がそれまで当たり前にやってきたことをやらせたら辞めてしまいました。  ここ数年、番組などを成功させるための自分の当たり前が当たり前じゃなくなっていたんだと思います。自分でやった方がいいと思ってやったことが、冷たく思われたり。 「怖い」と思われていた!  おもしろく言ってるつもりが、相手はそう感じていなかったり。  だから「怖い」と思われていたことが多い。  これは本当に駄目だなと思っています。僕と近い年齢の方は、こういう経験結構あるかもしれませんね。  人を楽しませるためのものを作っているのに、近くにいる人を傷つけているのって、本当に駄目だなと。  それを一度リセットするためにも、「辞める」ことが必要なんだと思います。  スイッチをオフにしたところから、今一度大切にしなければいけないものを確認しないといけないんだなと。  ただ、あらためて、この辞めるという決断を受け入れてくれた人、そして仕事をしている人たちには本当に感謝しています。  この半年、辞めるということに向き合いながら、辞めるからこそ出来るものを作っていきたいと思います。 鈴木おさむさん、大島美幸さん夫妻(本人ブログから) 夜店でスーパーボールすくいをする鈴木おさむさんと息子の笑福君、後ろで見守る妻の大島美幸さん(本人インスタグラムから)   キックボクシングのトレーニングの様子=本人のインスタグラムから 大島美幸   ■鈴木おさむ(すずき・おさむ)/放送作家。1972年生まれ。19歳で放送作家デビュー。映画・ドラマの脚本、エッセイや小説の執筆、ラジオパーソナリティー、舞台の作・演出など多岐にわたり活躍。パパ目線の育児記録「ママにはなれないパパ」(マガジンハウス)、長編小説『僕の種がない』(幻冬舎)が好評発売中。漫画原作も多数で、ラブホラー漫画「お化けと風鈴」は、毎週金曜更新で自身のインスタグラムで公開、またLINE漫画でも連載中。「インフル怨サー。 ~顔を焼かれた私が復讐を誓った日~」は各種主要電子書店で販売中。コミック「ティラノ部長」(マガジンマウス)が発売中 【あわせて読みたい】 「結婚はあまりお勧めしません」鈴木おさむが結婚16年目に思うこと https://dot.asahi.com/articles/-/115846  
バイデン大統領の「愛犬」がホワイトハウスを“追放” 警護隊にかみつきまくる癖はなぜ治らなかったのか
バイデン大統領の「愛犬」がホワイトハウスを“追放” 警護隊にかみつきまくる癖はなぜ治らなかったのか バイデン大統領の愛犬「コマンダー」(写真:ロイター/アフロ)    10月5日、バイデン米大統領が飼っているオスのジャーマンシェパード「コマンダー」が、ホワイトハウスを退去したと発表された。原因は、コマンダーのかみつき癖。7月にシークレットサービス(大統領警護隊)の職員を病院送りにし、9月にも11回目のかみつき事件を起こしたことで、大統領夫妻もかばいきれなくなったようだ。ホワイトハウス報道官によると、コマンダーは慌ただしい環境で暮らすストレスによって攻撃的になっていたというが、その対処は“追放”しかなかったのだろうか? *  *  * 「犬は、基本的に怖がりで心優しい生き物。恐怖を感じて自分の身を守ろうとするときは、まずは『こっちに来ないで!』と吠え、次にうなり、かむのは最後の手段です」  こう話すのは、犬の保護活動を行うNPO法人「DOG DUCA」代表で、ドッグトレーナーの高橋忍さん。一連のかみつき事件について、コマンダー自身の事情があるとすれば、家族以外に警戒心を持つ傾向のあるジャーマンシェパードであること/縄張り意識の強いオスであること/元保護犬のため、過去に虐待や飼育放棄をされたかもしれないこと、などが挙げられるが、「多くの人間がきちんと愛情を注げば、問題行動は防げたはずだ」と話す。 コマンダーをなでるバイデン大統領夫妻(写真:ロイター/アフロ)   ホワイトハウス“追放”は2匹目  なぜ、コマンダーは人を襲い続けてしまったのか。高橋さんによると、二つのポイントがあるという。  一つ目は、乳児期を親やきょうだいと一緒に過ごしたかどうか。人と同じように、犬も仲間との関わりあいのなかで社会性やコミュニケーションスキルを身につけ、自分より強い相手には降参するなどのルールを覚える。しかし、その社会性が育っていないと、ほかの犬や人間を怖がり、ほえる・かむといった問題行動につながりやすいのだという。  もうひとつは、人をかんだときにどのような対処をしたかだ。かつては悪いことをしたら罰を与えるのが一般的なしつけだったが、攻撃行動というのはあくまで反射的なもので、罰によって抑止できるものではない。もし、コマンダーがかみついたときに、大勢で取り押さえたり、思いっきりリードを引っぱったりと苦痛や恐怖を与えていたら、ますます人間への警戒心が強くなり、かみつきがエスカレートすることは十分考えられるという。  実は、ホワイトハウスを追放された犬は、コマンダーが初めてではない。バイデン大統領のもう1匹の愛犬で、コマンダーと同じ元保護犬のジャーマンシェパード「メジャー」も、スタッフへの攻撃行動が治らず、大統領の友人宅に預けられた。  大勢のスタッフが絶え間なく出入りするホワイトハウスで、犬が幸せに暮らすことは不可能なのだろうか? この問いに、高橋さんは「いやいや」と大きく首を振った。 バイデン大統領の妻・ジル氏の制止を振り切って職員にかみついたケースも(写真:AP/アフロ)   環境よりも人間側の問題 「人間を怖がらない犬なら、テーマパークのような人混みだろうが、しっぽを振ってご主人についていくものです。バイデン大統領の犬がどのように生活していたのかは分かりませんが、2匹とも不幸な事態が続いてしまったのは、環境というより、周りの人間側の問題だと思います」  犬の攻撃行動を改善するうえで、高橋さんが何よりも重視するのが、「心のケア」だ。ホワイトハウスでは、コマンダーをひもでつないだり、訓練したりという取り組みが行われてきたというが、「いくら訓練しても、人を怖いと思っている限り、その結果であるかみつきは治らない」というのが、高橋さんの見立てだ。  人間への恐怖心を癒やすために最も有効なのは、エサをあげたり散歩をしたりと、犬にとっての直接的なメリットを根気強く提供し続けること。見慣れない人を怖がってしまうのであれば、家族以外のスタッフも代わる代わる世話をして、できるだけ多くの人が日常的に関わることが大切だという。  そうして心を開いてくれるようになったら、はじめて主従関係を結ぶステップに移行する。コマンダーがバイデン大統領の妻・ジル氏の制止を振り切って職員にかみついたケースが報じられていることから、大統領夫妻はコマンダーと主従関係を結べておらず、コントロールできていなかったと推測される。 NPO法人「DOG DUCA」代表でドッグトレーナーの高橋忍さん   犬はいつからでも変わることができる  主従関係を築くための一つのテクニックが、「テリトリーの外でエサをあげること」だと、高橋さんは言う。 「特定の部屋やサークルなど、いつも犬が生活している場所でエサをあげることは、人間にたとえると子ども部屋にごはんを運んでいるのと同じ状態。『リビングに下りてきなさい』と教えるように、あえて縄張りではない場所に来させ、そこで食事にありつけるという状況を作ることで、強い者が弱い者に与えるという主従関係が成立します」  高橋さんは、これまで1000頭以上の保護犬のトレーニングに携わってきた。その経験をもとに、「心のケアと育て直しができれば、犬はいつからでも変わることができる」と断言する。 「アパートの部屋に1年間閉じ込められ、孤独のあまりひどいかみつき癖がついたボーダーコリーなど、心を病んだ多くの子たちと向き合うなかで、心のケアの重要性を痛感してきました。バイデン大統領の犬であれば、きっと優秀なドッグトレーナーがついていたと思いますが、言うことを聞かせるスキルを持っているだけでなく、犬の痛みや不安を理解できる人間でないと、救えない子たちもいるのが現実です」  次にホワイトハウスにやってくるファーストドッグには、ご主人のそばで健やかに暮らせる日々が待っていますように。 (AERA dot.編集部・大谷百合絵)
「心肺蘇生しない」と決めていたのに慌てて119番通報 心肺蘇生中止348件 可能になった東京消防庁3年間で
「心肺蘇生しない」と決めていたのに慌てて119番通報 心肺蘇生中止348件 可能になった東京消防庁3年間で ※写真はイメージです(写真/Getty Images)    終末期の親を自宅で静かに看取ることを決めていても、いよいよというときに慌てた家族などが救急車を呼んでしまうことがあります。東京消防庁では、このような場合でも条件を満たせば心肺蘇生を中止することを可能としています。その運用がスタートしたのは2019年12月。これまでの間に、何らかの事情で救急車を呼んでしまったケース、その後心肺蘇生が中止されたケースはどのくらいあるのでしょうか。 *   *   *  終末期にどのような医療やケアを望むのか、前もって考え、家族や信頼する人、医療・介護従事者たちと繰り返し話し合い、共有することをACP(アドバンス・ケア・プランニング、通称:人生会議)といいます。在宅医療を受けている高齢者が、家族や在宅医などとACP をおこない、心肺停止になったとき心肺蘇生をおこなわず、自宅で静かに看取ってもらいたいと決めておいても、周囲の人が慌てて救急車を呼んでしまうことがあります。  救急隊は、心肺停止の人に対しては、心肺蘇生をおこないながら病院へ搬送することを使命としており、その場で「慌てて救急要請してしまったが、心肺蘇生をしないで」と家族などに言われても、簡単には任務を中断することができません。  こういったケースが増えてきたことを背景に、東京消防庁では、心肺蘇生を望まない意思が示され、一定の条件に合致した場合、心肺蘇生を中断し搬送しない対応をとっています。これは、医師、国・都の担当者、弁護士、民間代表者などの関係者が検討し条件や手順を定めたもので、2019年12月16日から運用がスタートしました。 2022年中に心肺蘇生を望まない意思が示されたのは127件  東京消防庁救急部救急指導課課長補佐兼救急技術係長の塩野目淑さんによると、心肺停止で心肺蘇生を望まない意思が示された件数は、次の通りです。 2019年(12月16~31日):5件 2020年:110件 2021年:125件 2022年:127件 2023年(8月31日まで):78件(速報値)      2020~2022年のそれぞれの年間件数は、心肺停止で搬送された年間件数の約1%に相当します。  東京消防庁の場合、心肺蘇生を中止する条件は、以下の四つです。 ACPがおこなわれた成人で心肺停止状態であること 傷病者が人生の最終段階にあること 「心肺蘇生を望まない意思」は傷病者本人の意思であること ACPで想定された症状と現在の症状とが合致すること(外傷など、ACPで想定された症状と違う場合は該当しない)  救急隊は、家族などから口頭または書面で「心肺蘇生を望まない」ことを伝えられると、かかりつけ医に連絡をとって本人の意思であることを確認し、かかりつけ医から中止を指示された場合に、心肺蘇生を中止することができます。    心肺蘇生が中止された例に、次のようなものがあります。  高齢男性が自宅のトイレ内で倒れ心肺停止となり、それを発見した娘が慌てて救急要請しました。ところが到着した救急隊に、妻はACPをおこなっていたことを口頭で伝えました。隊員が心肺蘇生をおこないつつ、別の隊員がかかりつけ医に電話したところ、かかりつけ医から、ACPをおこなっていること、心肺蘇生の中止の指示、20分程度で到着し引き継ぐことを聞き取りました。そこで、救急隊は心肺蘇生を中止し、到着したかかりつけ医に引き継ぎました。    心肺蘇生を中止したあとの引き継ぎには、以下の2通りの方法があります。 ・およそ45分以内にかかりつけ医が到着できる場合は、救急隊はそこで待機し、かかりつけ医に引き継ぐ ・およそ12時間以内にかかりつけ医が到着できる場合は、家族等に引き継ぎ、救急隊は引き揚げる  かかりつけ医と連絡がとれないケースには、次のようなものがあります。  がんを患っていて自宅での看取りを希望していた高齢男性が、21時ごろ、心肺停止状態となり、家族がかかりつけ医に連絡しました。しかし応答がなく困ってしまい救急要請。家族の話を聞いた救急隊が、かかりつけ医に複数回電話したものの連絡がとれなかったため、受診歴のある救急病院に搬送しました。 救急隊がかかりつけ医に連絡したケースのほとんどで、中止の指示が出された  塩野目さんは「導入時、かかりつけ医に連絡がとれないのではないか、また現場に来られないのではないかが、懸念されていました」と言います。 「スタートから2022年12月末までの約3年間で、心肺蘇生を望まない意思が示された367件のうち、かかりつけ医に連絡がとれなかったのは6件だけで、どの時間帯においても、ほとんどはかかりつけ医に連絡がとれました。また、心肺蘇生が中止されたのは348件で、家族への引き継ぎが85件、かかりつけ医への引き継ぎが263件と、多くはかかりつけ医に引き継ぐことができました。かかりつけ医の皆さんが熱心に取り組まれていることがこれらの数字に表れていると思います」(塩野目さん)  救急車を呼んでしまった理由では、「慌てた」が約40%と最も多いですが、「心肺停止状態ではなかった」「ACPをおこなっていることを知らなかった」などのケースもあります。    全国的に見ると、心肺蘇生を望まない意思が示された場合の対応方針を定めている消防本部は、2019年には315本部(全体の43.4%)でしたが、2021年には446本部(61.6%)と、2年間で131本部増加しています(各年8月1日現在。総務省消防庁「第2回救急業務のあり方に関する検討会 令和3年11月30日」。参考資料「傷病者の意思に沿った救急現場における心肺蘇生」から)。  定められた対応方針の内容は、①心肺蘇生を中止または中断できる、②心肺蘇生を継続する、③その他に分けられ、2021年には、①が204本部(45.7%)、②が207本部(46.4%)でした。  ACPをおこなっていても心肺蘇生の継続を基本とする地域では、慌てることのないように、関係者全員がACPを共有できるように、看取りに向けた準備や心構えがより重要になるようです。 (取材・文/山本七枝子)   塩野目淑(しおのめ・きよし) 東京消防庁救急部救急指導課 課長補佐兼救急技術係長。救急施策の立案、救急隊員の救急技術の向上などに携わる。
ふわふわの白い大型犬にそっと手を伸ばす悠仁さま 生命への関心を育んだ赤坂御用地の「ナゾの生物」
ふわふわの白い大型犬にそっと手を伸ばす悠仁さま 生命への関心を育んだ赤坂御用地の「ナゾの生物」 もうすぐ2歳の悠仁さま。フワフワの大型犬に興味津々=2008年、長野県軽井沢町、代表撮影   「生き物好き」で知られる秋篠宮家の長男・悠仁さま。皇室ゆかりの上野動物園や自然豊かな赤坂御用地などで、たくさんの生き物たちに触れながら、興味関心を育んできたようだ。そんな生き物との触れ合いの様子をたどってみると、一般公開された写真に「ナゾの生物」が見え隠れしていた……。 *   *   *  ふわふわした毛並みの白い大型犬。その大きな背中に、秋篠宮家の長男・悠仁さまが手を伸ばしている。その様子を、秋篠宮ご夫妻と長女の小室眞子さん、次女の佳子さまが、やさしくほほ笑みながら見守っている。  2008年8月末、満2歳の誕生日を前にしたご一家の光景だ。  秋篠宮ご一家は、長野県軽井沢町に滞在する天皇ご夫妻(当時)と合流し、和やかなひとときを楽しんでいた。   軽井沢で当時の天皇ご夫妻と秋篠宮ご一家が合流。悠仁さまは元気に走り回っていたという=2008年、長野県軽井沢町、代表撮影      悠仁さまは、ホテルのオーナーが飼っている大型犬のヘンリーに興味津々。フワフワの背中にゆっくりと触れると、ご夫妻を振り返ってうれしそうに笑った。    皇室と動物、と聞いて思い浮かぶのは、東京・上野公園にある「恩賜上野動物園」。 「恩賜」という冠がつく通り、1886(明治19)年から1924(大正13)年まで宮内省が所管していた動物園だ。上皇さまや天皇陛下、秋篠宮さまも、幼いころから遊びに来ており、そして悠仁さまも何度も訪れている。  元園長の小宮輝之さんによると、悠仁さまは3歳を迎えた2009年の秋、ウサギなどの小さな動物に触ることができる園内の「子ども動物園」に遊びに来た。   上野動物園の「子ども動物園」でモルモットを触れ合う悠仁さま=2009年、東京都、代表撮影    最初はおそるおそるだったが、すぐに慣れて担当の職員に、 「どうやって持ちますか」  と尋ねながら、ひざの上にウサギを乗せて優しくなでたり、ハツカネズミにサツマイモをあげたりしていたという。 「ウサギやモルモットの抱っこが楽しかったようで、ヤギやヒツジも『抱っこする』とご自分よりも大きい動物の体にしがみついて離れないので、ハラハラしました」(小宮さん)   【こちらも話題】 【皇室振り返り】 悠仁さまがヤギの背中に乗っかった! 親族が明かすやんちゃな一面 https://dot.asahi.com/articles/-/200028   上野動物園の「子ども動物園」で、しゃがみこんでモルモットの顔をのぞき込む悠仁さま=2009年、東京都、代表撮影    来園する際には紀子さまが、 「そちらに遊びに行っていいですか」  と、電話をかけてきたという。  そして、一般の来園者に混じって歩く親子連れが、実は紀子さまと悠仁さまだと気づく人はいない。悠仁さまも、年が近い幼稚園や保育園の子どもたちの集団の中に入り、一緒に動物を眺めていたという。   「サル山に入って一緒に遊びたい」  あるとき、悠仁さまが、 「サル山に入って僕も一緒に遊びたい。えさをあげたい」  と、駄々をこねたこともあった。 「ここは入れないのよ」  紀子さまが優しく説明して、なんとか大人しくなったという。    子どもはみんな、好奇心が旺盛。小宮さんが「かわいらしかった」と目を細めるのは、悠仁さまがトラを見たいと言い出したときだ。  紀子さまの手をしっかりと握って、  「とーら。とーら」  と歌いながら、トラの放飼場(ほうしじょう)まで歩いていった。なのに、到着すると本物のトラよりも目の前にあるトラのレプリカが気に入ったのか、よじ登りはじめた。  トラの背中にまたがって、ニッコリと満足そうな笑顔を浮かべる悠仁さまに、紀子さまがカメラを向けて記念写真を撮ったという。   秋篠宮さまの誕生日を前にしたご一家。家禽の研究者である秋篠宮さまらしく、宮邸にはく製が並ぶ=2012年、宮内庁提供    皇室が生き物との触れ合いを大切にするのは、身近な環境が大きいのだろう。  東京の中心地にありながら、緑に包まれた赤坂御用地は、東京ドーム10個分の広さがあり、天皇ご一家も長い歳月を過ごし、いまは上皇ご夫妻が暮らす仙洞御所、皇族が暮らす秋篠宮邸や三笠宮邸、そして高円宮邸がある。季節の花々のほかに、オオタカやフクロウの繁殖が確認されるなど、生き物の宝庫でもある。     【こちらも話題】 17歳の悠仁さまは「根っからの研究者」 皇位継承者としての成長ぶりを“稲の先生”も実感 https://dot.asahi.com/articles/-/200901   悠仁さまの6歳の誕生日を前に撮影。右下の茂みに、何かが隠れている=2012年、宮内庁提供   茂みに潜むある動物とは?  その赤坂御用地で2012年、悠仁さまの6歳の誕生日に合わせて撮影された写真。赤い花と豊かな緑を背景に、チェックのシャツを着た悠仁さまをはさみ、姉の眞子さんと佳子さんが座っている。  実は、悠仁さまらの後ろの茂みに、ある動物が潜んでいる。写真の右下を見ると、何やら小さな動物の頭と前半身がうっすらと見えるのだ。   「マーラですね」  と、小宮さんが「正体」を教えてくれた。  マーラは、ウサギのようにも見えるが、草食のネズミの仲間。秋篠宮家で飼われていたのだという。  小宮さんは、秋篠宮さまと『日本の家畜・家禽』を共同執筆したことがあり、さらに秋篠宮さまが日本動物園水族館協会の総裁を務めることもあって、打ち合わせのために秋篠宮邸を訪ねたことがある。  秋篠宮さまは小宮さんに、こんな話をしたことがあるという。 「庭には、マーラがスタスタと歩いているんです」  さらに冗談めかした口調で、こう付け加えた。 「芝刈りもやってくれるのですよ」    実際、宮邸を訪れた人の多くが、生物に囲まれたユニークな雰囲気だと話す。秋篠宮家を知る人は、かつて筆者にこう話していた。 「大型犬や、殿下がご研究されている鶏、70センチにもなるネズミのマーラまで、さまざまな動物を飼っておられます。悠仁さまは、ぴょんぴょん跳ねるマーラと追いかけっこして遊ばれているそうですよ」    そんな環境で育ち、やんちゃな一面も見せていた悠仁さまも、現在は高校2年生になり、17歳の秋を迎えた。関心は動物にとどまらず、稲など作物の研究にまで幅を広げている。 来春には高校3年生。どんな進路を選ぶのか、世間の注目が集まっている。 (AERA dot.編集部・永井貴子)   【こちらも話題】 「ねぇ、今日の夕食はなあに?」眞子さんと佳子さまもペロリと食べた 秋篠宮家元料理番の特製カレーレシピ https://dot.asahi.com/articles/-/202365  
交際時代からけんかした記憶はゼロ 寝る前に夫婦間で一日の感謝を伝えて幸せな気持ちに
交際時代からけんかした記憶はゼロ 寝る前に夫婦間で一日の感謝を伝えて幸せな気持ちに 三森一輝さん(手前)と三森愛理子さん(撮影/小黒冴夏)    AERAの連載「はたらく夫婦カンケイ」では、ある共働き夫婦の出会いから結婚までの道のり、結婚後の家計や家事分担など、それぞれの視点から見た夫婦の関係を紹介します。AERA 2023年10月9日号では、LandBridge合同会社代表の三森一輝さん、ピラティスインストラクターの三森愛理子さん夫婦について取り上げました。 *  *  * 夫24歳、妻24歳で結婚。二人暮らし。 【出会いは?】警察官時代、夫がいた駅伝強化選手のチームに妻が仲間入り。共にトレーニングを重ねるうちに意気投合した。 【結婚までの道のりは?】ふとした会話の中で、夫が「何月ぐらいに結婚するのがいいかな」と言い出し、そのまま話が進んでしまった。 【家事や家計の分担は?】主に朝食と洗濯は妻、洗い物や掃除は夫が担うことが多いが、基本的には気づいたほうがやり、負担が偏らないよう気を付けている。家計は財布を一緒にしている。 夫 三森一輝[27]LandBridge合同会社代表 みもり・かずき◆1995年埼玉県生まれ。2014年に埼玉県立大宮東高校を卒業し、埼玉県警察に入職。交番、特殊部隊勤務を経て、22年にLandBridge合同会社を設立、ベトナムでのオフショア開発を手がける。実弟は福岡ソフトバンクホークスの三森大貴内野手  職場の駅伝チームで出会った妻は、全国大会を制した経験もあるトップレベルの柔道選手でした。柔道はもちろん、駅伝にも仕事にも手を抜く瞬間が一切なく、何事にも全力で取り組む姿に惹かれました。  初めて試合を観戦した時は、想像していたよりずっと危険に見えてハラハラしましたが、普段とはまるで別人のような鋭いまなざしで競技に臨む姿が誇らしく、美しいと思いました。  交際中からIT分野への転身を考えていたので、二人で楽しい場所に出かけたことはほとんどなくて、休日もカフェで勉強ばかり。それでも彼女は文句ひとつ言わず、自分もピラティスの勉強をすると言ってつきあってくれ、それぞれの学びに没頭しました。  僕の両親は20年以上一緒にビーチボールバレーに取り組んでいるし、妻の両親もふたりでいろいろなところに出かけていくとても仲の良い夫婦です。年齢を重ねても僕らの両親のようにふたりの時間を充実させて、一緒にスポーツを楽しんでいきたいです。 三森一輝さん(手前)と三森愛理子さん(撮影/小黒冴夏)   妻 三森愛理子[28]ピラティスインストラクター みもり・あいりす◆1995年石川県生まれ。6歳で柔道を始め、山梨学院大学法学部在学中に全日本学生柔道体重別選手権52キロ級を制覇。2018年から埼玉県警察で柔道選手として活躍し22年に現役引退。23年に退職し、ピラティスインストラクターとして独立  警察官時代は生活ペースが合わず顔さえ見ない日も多かったけれど、お互い独立してからは、平日に朝ご飯をともにすることができています。時間に追われることなく、向かい合って食事をしながら1日をスタートできることが、とても幸せです。  夫に対しては、寝る前にその日一日の感謝を伝えるようにしています。玄関の鍵を閉めてくれてありがとう、お風呂の排水口の髪の毛を捨ててくれてありがとう、などという、とても些細なことです。言うほうも言われたほうも幸せな気持ちになれるのはもちろん、夫も同じように返さなければならなくなるので、感謝してほしいことに気づいてもらいたい時にも便利です!  彼は母親と姉、妹にもまれながら育ったせいか、女性が細かいことやうるさいことを言ってきても、受け流して忘れるのが上手。おかげで、交際中からけんかをした記憶がまったくありません。これからもお互いの人生を充実させて、応援し合いながら過ごしていこうね。 (構成・森田悦子) ※AERA 2023年10月9日号
8歳の息子から貯金箱を取り上げたことに対し、息子の友人から言われた一言に感謝 鈴木おさむ
8歳の息子から貯金箱を取り上げたことに対し、息子の友人から言われた一言に感謝 鈴木おさむ 放送作家の鈴木おさむさん    鈴木おさむさんが、今を生きる同世代の方々におくる連載『1970年代生まれの団ジュニたちへ』。今回は、息子の金銭感覚と友達の話。 * * *  先日、8歳の息子・笑福の授業参観に出かけた時のこと。道徳の授業をしていました。先生が「皆さん、好きな言葉はなんですか?」と聞きました。  今の小学2年生はどんな言葉が返ってくるのだろう? 子供も授業参観だということを意識しているだろうから「お母さん」とか「お父さん」とかが溢れるのかなと思っていたのですが、最初に「ゲーム」と誰かが言ったことをきっかけに、そこから「ゲーム」「俺もゲーム」「ゲーム」とゲームの連打のあとに、「YouTube」「インスタ」と続いていき、誰かが「Google」と、言った時にはさすがに笑ってしまいました。  でも、気を遣って「お母さん」「お父さん」とみんなが言うよりも、「自由」であることにちょっとうれしかったりしましたね。  今日は子供のお金の話。皆さんは子供の頃、お小遣いをいくらもらっていましたか? 僕は小学1年の頃から毎日おばあちゃんがお小遣いをくれました。なんと毎日200円くれたのです。これってすごいことですよね。毎日200円貰うと、駄菓子屋に行ったら買えないものはありません。  200円を2日ためると400円なので、2日分のお小遣いで、ジャンプコミックスが1冊買えるのです。だから当時流行った漫画はとことん買いまくりました。「アラレちゃん」「キン肉マン」「リングにかけろ」など、僕の本棚には漫画が溢れかえりました。そして当時、レコード(EP)は1枚700円。なので、4日ためれば1枚買って100円おつりがくる。レコードも買いまくりました。当然、周りの友達からは羨ましがられました。  お小遣いを1日200円もらっていたことを話すと、今、驚かれます。  お小遣いを200円くれたおばあちゃんには本当に感謝しています。あの頃、漫画や音楽、エンタメに触れまくれたことによって、自分がこの仕事を選び、放送作家として、様々な企画や物語を作ることを出来たのはあの時の経験がかなり大きい。エンタメ貯金が出来ていたからだと思っています。  そして、笑福です。笑福にはお小遣いをあげていません。が、欲しいものは比較的買え与えています。特にゲーム。ゲームは僕も好きなので、ついつい僕が買ってしまうと、それが笑福の物になってしまったり。  プレステ5も自分が欲しくて買うのですが、結果、笑福は自分の物だと思っています。  僕らはお小遣いを上げていませんが、実家に帰ると、お父さんやお母さんからお金をもらうことも多い。なので、笑福には大きな貯金箱を買ってあげました。そこにお金を沢山ためています。  そして、この1年、コンビニなどで自分で物を買う楽しさを覚えました。ただ、今は覚え始めなので、金銭感覚があまり理解できていません。  欲しいものがあったらその貯金箱からお金を取って買うというルールにしたんですが、放っておくと、1回のコンビニの買い物で500円近く使ってしまった時もあったので、その時は500円の大きさを説明しました。が、こればかりは、時間がかかりそうです。  で、先日、うちの家に友達が数人来ていた時。コンビニに何か買いに行こうという話になりました。すると笑福は、貯金箱から400円取ろうとしました。500円の大きさを説明してからそんなに経っていません。そしたらお財布を忘れたという友達に、笑福が「400円貸してあげるよ」と言ったのです。 つい腹を立ててしまい  お金を稼ぐことの大変さは妻も笑福にかなり言っています。僕は軽く400円を「貸す」と言ったことに、つい腹を立ててしまいました。  笑福に「お金ってそんなに簡単に貸していい物じゃないから」と貯金箱ごと取り上げてしまいました。  笑福はとんでもなく落ち込んでいます。僕がそんな笑福に、お金についての思いとか、ガッカリしたことを伝えていると、僕のところに友達の一人が寄って来て言ったのです「お父さん、ちょっと言い過ぎじゃないかな」と。  その一言でハっとして。友達が来ていたのに、空気を悪くしてしまったことを反省しました。  その友達に「申し訳ない」と言い、笑福に100円渡すと、買い物に行きました。  笑福たちが行ったあと、自分のことも反省しましたが、ちょっと嬉しい気持ちになったのです。あの時、僕に注意しに来てくれた友達。笑福にはそんな友達がいるんだと。  育児は育自と言いますが。また気づかされました。友達、ありがとう。 ■鈴木おさむ(すずき・おさむ)/放送作家。1972年生まれ。19歳で放送作家デビュー。映画・ドラマの脚本、エッセイや小説の執筆、ラジオパーソナリティー、舞台の作・演出など多岐にわたり活躍。パパ目線の育児記録「ママにはなれないパパ」(マガジンハウス)、長編小説『僕の種がない』(幻冬舎)が好評発売中。漫画原作も多数で、ラブホラー漫画「お化けと風鈴」は、毎週金曜更新で自身のインスタグラムで公開、またLINE漫画でも連載中。「インフル怨サー。 ~顔を焼かれた私が復讐を誓った日~」は各種主要電子書店で販売中。コミック「ティラノ部長」(マガジンマウス)が発売中
「中日ドラゴンズ応援団」の勤め人団長33歳が明かす驚きの日常 「実はオフのほうが忙しいんです」
「中日ドラゴンズ応援団」の勤め人団長33歳が明かす驚きの日常 「実はオフのほうが忙しいんです」 団長を務める天野浩智さん(写真/中日ドラゴンズ応援団提供)    プロ野球の試合をスタンドから観戦した経験があるファンはご存じだろう。外野席でトランペットを吹いたり、太鼓をたたいたりして応援をリードしている私設応援団が各球団にいる。特別応援許可団体の「中日ドラゴンズ応援団」で団長を務める天野浩智さん(33)は鉄道業界に勤務している。私設応援団の内情を聞かせてもらうと、驚きの日常を語ってくれた。 ――天野さんが中日の私設応援団員になった経緯を教えてください。  私は東京で生まれ育ちましたが、1990年代後半の星野仙一監督時代からドラゴンズファンになって。熱い球団で選手も応援も大好きになりました。関東はもちろん本拠地の名古屋や全国の外野席に応援に通っていたのですが、応援団の方に「入りませんか?」と誘っていただき、2017年に入団しました。応援団歴は7年目になります。 新幹線はほとんど利用しないという(写真/中日ドラゴンズ応援団提供) 【あわせて読みたい】 巨人、ヤクルト、中日がドラフトで欲しいのは? 佐々木麟太郎は指名すべきか、2位以下の戦略は ――お仕事もしながら、応援団員として活動するのは大変だと思いますが。  関東在住なので、名古屋、大阪で試合が開催される場合は長距離バスや飛行機を利用して移動しています。お金を浮かせたい事情もあるので、新幹線はほとんど利用しないです。翌日がデーゲームの場合は仕事を終えて、自宅に戻らず深夜の夜行バスや夜行列車の中で寝て移動します。仕事の都合で、試合後にまたすぐにバスで関東に戻る時も珍しくありません。現地に滞在している時間より、バスに乗っている時間のほうが長いこともあります。また、広島、札幌、福岡で試合が開催される時は、成田空港に発着している国内LCC(格安航空会社)を利用しています。他の団員も私と同じような移動手段が多いです。「青春18きっぷ」を利用して東京から福岡に移動した団員もいます。 【あわせて読みたい】 巨人、ヤクルト、中日がドラフトで欲しいのは? 佐々木麟太郎は指名すべきか、2位以下の戦略は   オフシーズンのほうが忙しいという(写真/中日ドラゴンズ応援団提供)     ――ペナントレースは143試合あります。移動費だけで相当な費用がかかりますね。   そうですね。応援団員は全国に現在57人いて、スケジュールの都合がつく団員が球場へ応援に駆けつけるのですが、移動費だけでなく球場のチケット代、滞在先の食事代なども自己負担なので1シーズンで100万円以上費やす団員もいます。 応援歌が完成するまでに4、5カ月はかかる(写真/中日ドラゴンズ応援団提供)   ――シーズンを終えると、少し生活が落ち着く感じでしょうか。  実はオフシーズンのほうが忙しいんです。団員が集まって応援のやり方を話し合うミーティングを定期的に開いているほか、新規の応援団員の募集、面接などがあり、現在も関西、広島方面は団員が少ないので募集に力を入れています。また、選手の新しい応援歌も時間をかけて作ります。今年は細川成也選手がブレークしたので、新規の個人応援歌に期待しているファンの方々が多いと思います。応援歌は、吹奏楽部出身など音楽経験のある団員も所属しており、団員みんなでメロディーを作ります。いくつかの案を出してもらった後、団員たちで話し合ってその選手に最も合うメロディーを選び、歌詞を考えます。どの言葉、どの表現が選手の個性を表わせるか、ファンの熱い気持ちを乗せられるか。何度も練り直すので応援歌が完成するまでに4、5カ月はかかります。 ファンの方たちと応援する喜びはかけがえのない時間(写真/中日ドラゴンズ応援団提供)   ――ファンの人気が高い応援歌を教えてください。  チャンステーマの「チャンス決めてくれ」は応援のボルテージが一気に上がりますね。スタンドの空気がガラッと変わる。ドラゴンズの応援歌の中では飛び抜けた曲だと思います。同じくチャンステーマの「サウスポー」も盛り上がりが凄いです。個人の応援歌だと、石川昂弥選手の曲が人気です。ビシエド選手のチャンスバージョンも好評ですね。岡林勇希選手、龍空選手の歌詞、メロディーも気に入っていただけるファンが多いみたいです。今年開催されたWBCでは、ドラゴンズから野手が1人も侍ジャパンに選出されなかったので悔しい思いがありました。次回のWBCではドラゴンズから一人でも多くの選手が選ばれて、応援歌を流したいです。 ――トランペットの演奏はどのようにして学ぶのでしょうか。  トランペット教室に通う団員がいますが、私は独学でした。なかなかうまく吹けなかった時は地元の多摩湖に行って練習していました。 ――ハードな生活を送りながら、中日の応援団員として活動する原動力はなんでしょうか。  ファンの方たちとドラゴンズを応援する喜びはかけがえのない時間です。選手たちが勝利に向かって精いっぱいプレーし、私たち団員はリード、トランペット、ドラム、旗、ボードとそれぞれの役割で応援をサポートする。ファンの方々と共に応援して、選手がその期待に応えてくれた達成感は日常生活では味わえません。「今日の応援よかったね」と声をかけていただいた時はうれしかったですし、猛暑の中、飲料水を提供していただく方もいらっしゃいました。ドラゴンズファンは温かい方が多いと常に感じていますし、感謝の気持ちでいっぱいです。 刺激に満ちた日々を過ごす(写真/中日ドラゴンズ応援団提供)   ――天野さんにとって、中日はどのような存在ですか。  応援団になる前の話ですが、スタンドで応援に通い詰めていた時にドラゴンズファンという共通点で妻と出会いました。応援団員になってからも、熱い志を持った大切な仲間に出会うことができました。団員の年齢層は高校生から40代後半までと幅広く、職業も様々ですが、ドラゴンズを応援する熱い気持ちで結ばれています。応援団の活動を通じ、試合だけでなくオフシーズンの練習会や応援に関する熱心なディスカッションなど、刺激に満ちた日々を過ごすことができています。ドラゴンズは大切な場所であり、かけがえのない存在です。 ――2011年の優勝以来、優勝から遠ざかり、最近10年間でAクラスが1度のみと低迷期が続いています。  悔しいシーズンが続いていますが、岡林選手、石川選手、高橋宏斗投手と若い選手が次々に台頭してドラゴンズの未来は明るいと信じています。これからも大好きなドラゴンズのために団結して優勝、日本一を達成できるよう、全力で応援し続けます。 (平尾類)
ジャニーズ事務所の“同族経営”の落とし穴 組織を守ることできなかったメリー氏とジュリー氏の方向性のすれ違い
ジャニーズ事務所の“同族経営”の落とし穴 組織を守ることできなかったメリー氏とジュリー氏の方向性のすれ違い 9月7日、ジャニーズ事務所の記者会見に出席した東山紀之氏と藤島ジュリー景子氏    ジャニーズ事務所やビッグモーターら次々と明るみに出る同族経営の企業による不祥事。一方で、国内の多くの企業は同族会社だ。健全な経営を続けるためには何が必要なのか。AERA 2023年10月9日号より。 *  *  *  ガバナンス不全に陥る悪(あ)しき同族経営──。そんなイメージが広がるが、国税庁の21年度「会社標本調査」によると、株主の上位3グループ以内が保有する発行済み株式又は出資の総額が50%を超える「同族会社」は国内の全企業の96.4%にのぼる。トヨタ自動車(豊田家)、キッコーマン(茂木家)、キヤノン(御手洗家)、パナソニック(松下家)といった大手から、地方の商店街にある電器店まで、周囲には同族経営の会社があふれている。そう簡単に批判できる問題ではないのだ。  著書に『新・日本の階級社会』がある早稲田大学の橋本健二教授(階級階層論)は、 「国内の小零細企業の大部分が後継者不足で、外部からの登用も難しい状況にある。伝統工芸や地場産業が生き残っていくためには同族経営は必要です」  とした上で、1955年から社会学者らによって10年ごとに実施されてきた「社会階層と社会移動(SSM)全国調査」の結果を分析し、こう指摘する。 「高度経済成長期はチャンスの多い時代で、会社員や労働者が事業を起こすなどして新たに経営者になる可能性がありました。しかし、その後は参入のチャンスが減り、経営者の子どもでないと経営者になれないという継承性が高まっています」  変わりゆく時代。その波にうまく乗りながら、健全な経営を続けていくには、何が必要なのだろうか。  著書に『「三代目」スタディーズ』のある神戸学院大学の鈴木洋仁准教授(歴史社会学)はこう話す。 「『組織』を続けていくのか、『血』を続けていくのか。『組織』の存続だと割り切れるか否かが、同族経営を含めたすべての企業の存続にかかっています」  例えば、サントリーは創業家出身の4代目社長だった佐治信忠・現会長が14年10月、新社長にローソン会長だった新浪剛史氏を迎えた。佐治会長は、当時の会見で、後継者を外部から選んだ理由を「社内外を探したが、最適なのが新浪さんだった」と説明し、こう強調した。 「サントリーも115歳になり、悪しき官僚化が進んだ。新しい風をもう一度吹き込んでほしい」 【こちらも話題】 ジャニーズ事務所やビッグモーターも 不祥事が相次ぐ同族経営のメリットとデメリット https://dot.asahi.com/articles/-/202818 ジブリは子会社に  日本映画を代表する作品となった「千と千尋の神隠し」や「もののけ姫」などの宮崎駿監督作品や「火垂るの墓」などの高畑勲監督作品など、国民的ヒット作を多数抱えるスタジオジブリも「組織」の存続に踏み出している。9月21日、日本テレビの子会社になることを発表。プロデューサーとしてジブリ作品に携わってきた鈴木敏夫社長は会見で、 「宮崎駿は82歳、私も75歳で、これからジブリをどうするか考え(宮崎監督の長男でアニメ監督の)吾朗君に託そうとしたが、宮崎も反対し吾朗本人も固辞した」  と明かし、こう続けた。 「個人が背負うにはジブリは大きな存在になりすぎた。作品づくりはこれまでと変えず、経営は大きな会社の力を借りようと、付き合いの深い日本テレビにお願いした」  このように、身内という枠に縛られずに最適な人材や体制を求めて、外からの視点を入れて強い組織をつくる選択をした企業もある。  一方、同族経営の政治版が世襲政治家だ。鈴木准教授は、世襲について、 「婿養子や妻を後継者にしてでも、『とにかく家が続けばいい』という、武家の時代から続く割り切った知恵です」  と指摘。その特権意識に世間から厳しい目が注がれることは、同族経営の企業が外部から不信感を得やすいことと構図が重なる。  では、創業者のジャニー喜多川氏(19年死去)による性加害問題で、批判の声がやまないジャニーズ事務所はどうだったのか。  被害者の聞き取りをした「再発防止特別チーム」は、副社長だったジャニー氏の実姉の藤島メリー泰子氏(21年死去)が、「60年代前半には(実弟の)ジャニー氏の性嗜好(しこう)異常を認識し、少年たちへの性加害が続いていることを知りながらも放置・隠蔽した」ことが被害の拡大を招いた最大の要因であると指摘している。それはつまり、身内を守り、身内の論理を優先させ、犯罪行為を隠蔽したということでしかない。 互いの方向性すれ違う  メリー氏の長女である藤島ジュリー景子氏(57)は9月7日の会見で、母のメリー氏との関係について、 「普通の母子関係と全く違いまして……。私とメリーと、ざっくばらんに話したことはございません」  とうつむいた。幼い頃から、後継者として厳しく育てられたというジュリー氏。その言葉には、普通の母子の関係を望んでいた切なさがにじんだ。  鈴木准教授は言う。 「ジュリー氏の母娘関係についての発言にはウソはないでしょう。母娘ともに『血』を大事にしたかった点は共通していますが、互いの方向性はすれ違っているし、組織を守ることもできなかった」  そこが、ジャニーズ事務所の落とし穴になったことは間違いなさそうだ。(編集部・古田真梨子) ※AERA 2023年10月9日号より抜粋
サラリーマン家庭で医学部に息子2人進学 親子で目指した合格 父「決意を確かめる意味で違う道も提案」
サラリーマン家庭で医学部に息子2人進学 親子で目指した合格 父「決意を確かめる意味で違う道も提案」 左から次男・國井悠生さん(岐阜大学医学部3年生)、父親の孝洋さん、長男・慶人さん(朝日大学病院研修医) 孝洋さん提供   医師にも医学部にも全く縁のない、ごく普通のサラリーマン家庭。そんな環境から息子2人を国立大学医学部に進学させた岐阜県在住の國井孝洋さん。長男・慶人さんは2017年に福井大学医学部に現役で合格し、現在は朝日大学病院に研修医として勤務。次男・悠生さんは21年に、岐阜大学医学部に一浪で合格。現在は同大3年生だ。地元の中小企業に勤める國井さんとパート職員の妻は、家庭でどのような教育を行ってきたのか。好評発売中の週刊朝日ムック『医学部に入る2024』で、國井さん親子を取材した。前編・後編の2回に分けてお届けする。 *  *  * 長男の医学部志望を機に始まった親子の医学部受験態勢  國井孝洋さんは岐阜市在住、建材を扱う地元企業に勤めるサラリーマンだ。妻の恵美さんはパート職員。親戚中を見渡しても、医学や医療に携わる人間は全くいない。そんな國井さん一家が医学部受験に関わるようになったのは、2016年7月。高校3年生の長男の慶人さんが「医学部を受験したい」という意思を両親に伝えたことが最初だった。孝洋さんが振り返る。 「親として子どもの将来に望む一番のものは、もちろん健康などが大前提としてあってのことですが、やはり生活の安定だと思うんです。そう考えると、定年がなく、資格として生涯生かせる道を志してくれたということは、妻も私も正直うれしかったですね。ただ、自分で決めたことは責任をもって成し遂げてほしいという思いがありましたから、その決意がどれほどのものかを確かめる意味で、敢えて違う道も提案してみたんです」  慶人さんの成績であれば、京大の理系学部や東工大も目指せる。そちらに進んで大企業に就職したり、研究職に就いたりという道もある。そう提案してみたが、慶人さんの意思は揺るがなかった。  幼い頃から人を助ける仕事に就きたいと思っていたところへ、高校の授業で職業について考える機会があった。 「そのときに、目の前の人を助ける実感が持てるのはやはり医師のいいところだなと改めて痛感し、医師になりたいと思いました」(慶人さん) 国公立大学ならば、医学部の学費も他学部と同じ  そこから医学部受験について孝洋さん・恵美さん夫妻の懸命な情報収集が始まる。最も気がかりだったのは、やはり学費の問題だ。医学部は富裕層しか行けないものという先入観を孝洋さん夫妻は持っていた。しかし、調べるうちに、そうではないことがわかってきた。 「確かに私立の場合は、6年間で3千万~4千万円かかると言われています。しかし国公立の場合は医学部の学費も他学部と同じ、すなわち年間60万円で、6年間で360万円なのです。また自治体による助成金もあり、たとえば岐阜県の場合は、他県の医学部に進学しても月に10万円、6年間で720万円貸与されますが、これは卒業後9年間、岐阜県内の病院に勤務すれば返済不要です」  そのほかに「地域枠」を設けている大学は全国にある。岐阜大学医学部医学科の場合、高校3年間の内申の平均点、共通テストで一定以上の成績を収め、学校推薦などを得て、面接、小論文をクリアすれば、6年間の学費が貸与され、毎月10~20万円の生活費も貸与される。これも卒業後9年間を岐阜県内の病院に勤務すれば返済不要となる。しかも1浪までこの条件が適用される。ほかに自治医科大学などに同じような制度がある。 「収入が理由で医学部進学をあきらめている親御さんに知っていただきたいです」  慶人さんは見事現役で福井大学医学部に合格。その後、弟の悠生さんも医学部を志望し、1浪した後、岐阜大学医学部に合格。高校時代ラグビーに打ち込んだ悠生さんは、慶人さんとはまた違った動機で医師を志した。 「ケガをするたびに整形外科の先生が本当に僕のことを考えて治療してくださったんです。こういう人になりたいと、スポーツドクターになる夢を持ち始めました」(悠生さん) 左が長男・國井慶人さん(朝日大学病院研修医)、右が次男・悠生さん(岐阜大学医学部3年生) 孝洋さん提供   英会話や算盤の代わりに通わせた「頭の体操」スクール  それにしても兄弟ともに国立大学医学部進学を果たすとは、家庭ではどのような教育を行ってきたのだろうか。 「私たちが最も大事に考えてきたのは『本人の意思なくして成長なし』ということです。何かを押し付けたり『勉強しなさい』と強制したりすることはしないと決めてきました。よく聞かれるのですが、我が家では英才教育らしきことは全くせず、一般的な英会話教室や公文式や算盤ですら全くやらせていません」 その代わり通わせたのが、頭の体操をする知能教室。そして小柄だった2人を強くさせ自信をもたせるための空手だ。しかしこれらも、まずは本人たちに体験させ意思を確認し、道場も選ばせた。 「自分で決めたことなら責任も感じるでしょうし、何より楽しいと思えること、やりたいと思えること、その中で成長していく自分を実感できることが一番だと考えたからです。通っていた極真空手の道場では、整列するときは帯の順で並びます。帯の色が変わることで自分の成長を確認できますし、難しい型ができるようになったり、組手のトーナメントで勝ち上がって入賞したりすることで、成長していく面白さを実感できたと思います」  家で日々の宿題や勉強を見るのは主に母の恵美さんだったが、子どもたちにやる気を出させるように「ポイント制」を取り入れた時期もあった。たとえば、宿題を何ページかやると何ポイントかもらえて、それをお菓子やゲームをする時間に交換できる、というものだ。 「そのころ、DSにハマッていたので、何ポイントかたまったら何分かゲームができると励みにしていたことを覚えています。頭の体操では、遊び道具やパズルなどを通して想像力を養えましたし、空手では自信がついた。いろいろな方向から刺激を与えてもらいましたし、さまざまな経験もさせてもらって感謝しています」(悠生さん) それぞれが打ち込んだ勉強方法 並行して、慶人さん、悠生さんともそれぞれの受験期には塾に通ってきた。医学部受験に際しては、医学部志望コースがある地元の塾に通った。 左が長男・國井慶人さん(朝日大学病院研修医)、右が次男・悠生さん(岐阜大学医学部3年生) 孝洋さん提供    慶人さんが医学部に目標を定めて勉強を始めたのは高3の7月。すでに部活の柔道部は引退していたので、毎日学校から帰ると休憩もせずに自転車で塾へ行き、塾が閉まる時間までずっと自習室で勉強を重ねた。いつも最後の1人か2人になるまで没頭した。 「どの教科も、とにかく基礎が大事だと思っていたので、教科書を4周、5周と何度も読み直して、簡単な問題集を何度も解き直して……ということをやりました。あと公式や定理については、ただ暗記するのではなく、なぜそれが成り立つのかを自分で考えながら進めていくことが力になったかなと思っています。英語についても、いろんな単語集にあれこれ手を出すのではなく、一つこれと決めたものを何周も何周も読んで完璧にするという勉強をしました」(慶人さん)  勉強を始めた時点では、周りにすでに過去問に取り組んでいる仲間もいた。しかし、ここで焦って同じ段階に行こうとしても基礎がなければその先の成長もない。自分は自分のペースで、自信を持って自分の勉強をしようと決めた。その結果、県下トップの県立高校で学年の真ん中ぐらいだった成績が、冬には上位1割に入るまでになった。最終的に福井大学を第1志望とした。 「絶対に浪人はしたくないという気持ちがあったのと、あとは岐阜からそれほど離れずに済むところにしたかったので、中部地方とその周辺の大学で自分のレベルに合ったところを候補として考えました。そのうえで、ひととおり過去問を解いてみて、相性がいいと思った大学を選んだという感じです」(慶人さん)  一方、悠生さんは、「高校時代の勉強量が本当に少なかった」と振り返る。   「自分なりに高3の春ぐらいから本腰を入れたつもりではいましたが、つい学校帰りに友達とどこかへ寄ったり、塾には行っていても勉強しなかったりということが多かったんです。なので浪人がきまったときはそれをすごく反省して、とにかく家にいるときっとダラダラしてしまうので、毎日予備校に行こうという目標を立てました。朝早く家を出て、11~12時間勉強して夜遅く帰る。1日も休まずにそれを続けました。親には『もう少し休憩する日があってもいいんじゃないのか』と心配されましたが、とにかく勉強に打ち込みました。そうしたら、目に見えて成績が伸びていくのがわかったので、そうするとすごい達成感があってさらに頑張れた。同じ東海高校出身の予備校仲間が3~4人いたので、みんなそういう生活をルーティンにして、一緒に成績が上がっていい流れになりました」(悠生さん)  志望校については、最終的に岐阜大学と名古屋市立大学に絞った。予備校の先生には、『受かる確率としては同じぐらいなので、あとはあなたがどちらに行きたいかだ』と言われて迷ったが、決め手となったのは、ラグビーだった。 「大学でもきっとラグビーをやるだろうなと思ったので、調べてみたら、岐阜大学のラグビー部がすごく強いことがわかったんです。そういう環境でやってみたいと思い、岐阜大学に決めました」  念願どおり岐阜大学医学部に合格し、現在はラグビー部で活躍するかたわら、オンラインでの家庭教師とラーメン屋でのアルバイトもこなす。 「とにかく時間が足りなくて、勉強と部活とバイト、どうやったら、それぞれきちんと成り立たせられるか、それが今の課題ですね」(悠生さん)   後編に続く。 後編:サラリーマン家庭で医学部に息子2人進学 公立高の兄・私立高の弟 「高い学力の仲間が周りにいる環境がよかった」 (取材・文/志賀佳織) ※週刊朝日ムック『医学部に入る2024』より
ryuchell遺稿「多様な価値観を互いに認められる社会になってくれれば」最後に連載で伝えたかったこと
ryuchell遺稿「多様な価値観を互いに認められる社会になってくれれば」最後に連載で伝えたかったこと   ryuchellさん    7月12日、AERA dot.で「peco & ryuchellの子育て日記―新しい家族のかたち」を連載していたタレントのryuchellさんが亡くなった。27歳だった。  連載は、ryuchellさんとpecoさんが隔週で交代するという形で2022年1月から始まった。当初の連載タイトルは「ryuchell & pecoの子育て日記」。日々の育児や、夫や妻として思うことなどを紹介する内容だった。  二人の間には2018年に生まれた息子がおり、ryuchellさんは積極的に出産の準備に取り組んだり、育児にも参加したりしていた。二人の育児の奮闘ぶりは、子育て世代の読者に共感されていた。  しかしその後、二人にとって大きな出来事が起きる。22年8月に婚姻を解消しながらも、「新しい家族のかたち」として、これまで通り息子と3人で暮らしていくことを公表した。ryuchellさんはこのとき、自らのセクシャリティも告白した。  その後、連載のタイトルは「peco & ryuchellの子育て日記 新しい家族のかたち」にリニューアルした。子育て以外にも、二人の悩みや葛藤、これから築き上げようとしている家族についても焦点を当てる内容となった。 連載開始時のryuchellさん    明らかにryuchellさんの心境の変化を感じたのは、今年に入ってからだ。ryuchellさんは自身2枚目となるアルバムをリリースし、全国ツアーも実施した。容貌もより女性らしくなり、SNSでは「かわいい」といった声もたびたびあがるようになっていた。  このときからryuchellさんは自分の新たな役割を実感していったように思える。4月、ツアー後の感想を聞いた際にryuchellさんはこう答えた。 「正直に言うと、私が表に出続けていいのだろうか、と自分の価値について思い悩むこともありました。ただ、ファンの方のお声が聞けて、改めて、『私も誰かのためになれている』、『勇気を与えることもできている』と思えました」  最後にryuchellさんを取材したのは6月19日だ。この日は最近の子どもとのかかわりや、仕事の話を聞いた。ファンの方々の恋愛や悩みの相談に乗ったり、講演会や番組に出たりする中で、自分の役割を改めて実感している様子だった。自身の批判の声についても言及があった。  そんな中でryuchellさんの訃報は突然やってきた。7月23日に配信予定だったryuchellさんの原稿を編集している矢先だった。今でも信じられない気持ちがある。  23日に配信予定だった原稿はryuchellさん本人に確認してもらうことができない。そのため、配信しないということも考えられた。しかし、ryuchellさんの最後の言葉を伝えられないのは担当者として不本意だと感じた。この記事にはryuchellさんが最近までどのようなことを考えていたのかが詰まっている。  そこでpecoさんと事務所の了承を得て、お伝えすることにした。  ryuchellさんのご冥福を改めてお祈りしたい。 (AERA dot.編集部・吉崎洋夫) *  *  * ●ryuchell「多様な価値観を互いに認められる社会になってくれれば」 ryuchellさん   (下記の内容は、6月19日にryuchellさんを取材し、未公表だったものをまとめたものです)  最近、地方の講演会のお仕事をいただくことが多いです。LGBTQの問題とか、社会の多様性についての考えとかをお話しさせていただいています。「もっと自由に生きていいんだよ」というような新しい生き方について講演する仕事が多いです。  今日も番組の収録だったんですが、同じようなテーマでした。  今の時代、自分の生き方や性のあり方、家族のあり方などについて固定観念が溢れていて、それに悩んでいる人が多いのだと思います。  自分のYouTubeチャンネルがありますが、企画を募集したところ、恋愛相談や悩み相談が200件、300件もきたんです。「同性を好きになってしまったけどどうしたらいい?」とか、「結婚してから自分の本当の性自認に気づいた。どうしたらいいか」とか、そういった悩みが多かったです。  こんなに相談が来るなんて意外でした。私は人のためになるのが好きだし、自分の考えもお伝えしたいので、皆さんの悩みに応えることにしました。ですが、すべての相談にお答えできず、相談を50個程度に絞って、YouTubeでお答えさせていただきました。(リンク ) ryuchellさん    そういう声を受け止めてあげることで、悩んでいる人も安心できるみたいです。お友だちや親とかに相談しづらい悩みでも、芸能人くらいの距離感だと打ち明けられることがあるように感じました。  講演会でも番組の収録でもYouTubeでも、性のこととか、多様性のこととかで自分の意見を求められるようになったと思います。私もセクシャリティについて発表して以来、自分の思いがより伝えやすくなったというのはあります。必要とされるのであれば、私はそれに応えていきたいと考えています。  以前はどこか自分に自信がないところがありました。自分の性の悩みを公表してから、様々なご意見をいただいて、すべてを鵜呑みにするわけではないですけど、「その通りだな」と思うところもあって、自信をなくしたりすることもありました。  だけど、ファンの方々から「勇気をもらった」「自分らしく輝いて」というお言葉をいただいて、講演やテレビなどのお仕事をいただく中で、自分の役割について見えてくるものがあって、少しずつ自信が出てきました。自分の軸が前よりも定まってきたと思います。  最近「かわいくなった」「イキイキしている」なんて言われることがあります。内面のキラキラみたいなものが、外見に出ているとしたら嬉しいですね。  私が表に出ることで、批判のお声もいただくこともありますが、顔を出して、面と向かって言ってくる人はいないので、そういう意見は気にしなくていいかなと思っています。  私はもっといろんな意見や考え方、価値観が尊重される社会になればいいなと思っています。古い価値観がなくなることが多様性なのではなくて、新しいものも古いものもいろんな意見があっていいよね、というのが本当の多様性なんだと思います。 「自分は理解できない」と考えがあるのはいいけど、「こうあるべき」という自分の価値観を他人に強要したり、人の歩もうとしているのを邪魔したりというのは間違っていると思います。  どうしても価値観が異なる人というのはいます。「自分とは違うけどこういう人はいるよね」「存在を認めてあげよう」という絶妙なことができるのが大人なんだと思います。  多様な価値観をお互いに認めてあげられる社会になってくれればいいなと思っています。 (構成/AERA dot.編集部・吉崎洋夫) 【あわせて読みたい】 【独自・前編】pecoが明かすryuchellと最後のやり取り「私は救われました」 家族にだけ見せていた姿とは https://dot.asahi.com/articles/-/202653 【独自・後編】pecoが語る ryuchell急逝後の心境「息子の強さで一緒に乗り越えていける」 https://dot.asahi.com/articles/-/202662  

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