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「プラダを着た悪魔」でブレークの俳優 監督、6人の子のパパとしての多忙な日々
中村千晶 中村千晶
「プラダを着た悪魔」でブレークの俳優 監督、6人の子のパパとしての多忙な日々
「ジャコメッティ 最後の肖像」は1月5日から全国で公開。主演:ジェフリー・ラッシュ、アーミー・ハマー (c)Final Portrait Commissioning Limited 2016 Stanley Tucci(スタンリー・トゥッチ)/1960年、ニューヨーク生まれ。「ラブリーボーン」(2009年)で演じた強烈な犯人役でアカデミー賞助演男優賞にノミネート。「シェフとギャルソン、リストランテの夜」(96年)で初監督・主演を務め、本作は監督6作目となる (c)INSTARimagesアフロ 「プラダを着た悪魔」で一躍有名になったスタンリー・トゥッチ。ハリウッドの名バイプレーヤーは監督、そして6人の子の父としても多忙な日々を送っている。  社会派から娯楽大作までさまざまな作品に登場し、まれなるインパクトを残す俳優・スタンリー・トゥッチ(57)。実は監督としても知られている。新作「ジャコメッティ 最後の肖像」では、天才彫刻家の晩年の18日間にフォーカスした。 「僕はいわゆる『伝記映画』には興味がない。今回は肖像画のモデルとなった作家・ロードが書いた原作に惹かれたんだ」  舞台は1964年のパリ。ジャコメッティに「すぐ終わる」と言われてモデルになった青年は、描いては消し、かんしゃくを起こす芸術家と永遠に続くかのような時間を過ごすことになる。 「ジャコメッティは持てるエネルギー全てを芸術に費やしていた。友人たちには寛大だったのに、恋愛や妻との関係には自己中心的なところがあって、それもおもしろいと思ったんだ。アーティストは誰もが創作だけをして生きていきたいと思うけど、誰もがそうできるわけじゃない。僕にしたって、家族を持ち、子育てをしながら物をつくる生活をしているからね」  トゥッチの父はアーティストで美術教師。母は作家。幼少からアートに親しみ、特にジャコメッティと親和性が高かった。 「彼の彫刻は現代的で、同時にいにしえのものでもある。見れば見るほど内側にあるものを感じさせるんだ。彼について書かれたものを読むと、彼が自分の創作のプロセスを実に饒舌に、言葉に落とせる人だとわかる」  例えば「何かを作る人間は作り終えても、まだ再考しているものだ」という考えにシンパシーを感じるという。 「役者としては演じ終わったら、それを箱に閉じ込めてすばやく消去するのが正しいやり方だろうね。僕が『ラブリーボーン』(2009年)で演じたキャラクターは最悪だったよ。いままでの役のなかでも一番きつかった。あんな最悪な人間の心象風景に身を置かなければならないなんて! でも最終的に引き受けてよかったと思える。たくさんのことを学んだから」  09年は妻をがんで亡くし、私生活でもつらい時期だった。それを乗り越え、12年に再婚。前妻の連れ子、自身の3人の子に加え、現在の妻との間に息子を 授かり、いま6人のパパである。 「僕がいいパパかって? ときどきはね(笑)。子育ては本当に大変な仕事だ。巣立った子もいるけれど、家には17歳の双子を筆頭に、15歳、もうすぐ3歳になる子がいる。上の子の大学の申し込みに頭を悩ませつつ、片方はまさにトイレのしつけ中、という極端な状況なんだよ。一人一人に向き合うと時間がいくらあっても足りない。みんなが家を空けているときに自分の作業がやっとできるんだ」  俳優と監督業はどんなバランスで成り立っているのだろう? 「僕にとって俳優業は生計を立てる手段だ。もちろんギャラに関係なくやりたい役もあるけれど、基本は役者をすることで家族の屋根を支えている。監督業は正直、お金にはならない。でも自分の伝えたいストーリーを自分が思う方法で伝えられる。その充実感は大きいよ。年を重ねるほどもっと監督をしたい思いが高まっている。実は役者業のほうは少し減らしていこうかなと思ってるんだけどね……」  ファンが悲鳴をあげそうだが、まだ3歳の子もいるパパ。当分はハリウッドの屋根も支えてくれそうだ。(文中敬称略)(ライター・中村千晶) ※AERA 2018年1月15日号
AERA 2018/01/12 16:00
杏、榮倉奈々、壇蜜…変わった“資格”を持つアノ芸能人
杏、榮倉奈々、壇蜜…変わった“資格”を持つアノ芸能人
意外な資格を持つ杏 (c)朝日新聞社 三味線の『藤本流準師範』と『民謡名取』を持つ榮倉奈々(c)朝日新聞社  タレントの高田純次(70)が気の向くままに海外をレポートする人気紀行バラエティー番組「高田純次のセカイぷらぷら」(BS12 トゥエルビ)がDVD化され、3月に2巻同時発売されることが決定した。同番組について高田は昨年末に行われた会見で「DVD化は当然! おじいちゃん、おばあちゃんから小学生、赤ん坊まで、根性いい人から悪い人までいろいろな人に見てほしい」とアピールした。  「テキトー発言」で人気を博す高田だが、意外な一面もある。なんと「宝石鑑定士」という資格を持っているのだ。 「もともと、俳優を志していた高田さんは劇団で研究生をしたり、自身で劇団を立ち上げましたが、なかなか軌道に乗れませんでした。20代の頃、結婚をしたものの、劇団の収入では生活ができないため、宝石販売会社に入社したんです。デザイナーとして働き、そこで鑑定士の資格を取得したそう。その後も妻子を養うために『警察に捕まるようなこと以外の職は、一通りやった』と話していました」(女性誌の編集者)  高田は副業として働く仕事で資格を取得したパターンだが、芸能界には他にも一風変わった意外な資格を持つ女優やタレントが多い。 「2017年、批判を受けた宮城県のPR動画で思わぬ注目を浴びた壇蜜さん(37)は『遺体衛生保全士』という資格を持っています。遺体に消毒や防腐処理、メイクなどを施して、生前に近い姿に戻し、腐敗や感染を防ぐ仕事で欧米ではエンバーマーとも呼ばれています。冠婚葬祭を学ぶ専門学校へ通っていたときに取得したと話していました。葬儀場で働いていた経験もあり、『壇蜜』という芸名も仏教を基に自ら考えたそうです。ミステリアスな雰囲気にさらに輪がかかりますよね」(同)  そのスタイリッシュな外見からは想像できない“資格”を持つのは、人気女優でありママの顔も持つ榮倉奈々(29)と杏(31)のふたりだ。 「2017年にママになるも、変わらぬスタイルをキープし話題となった榮倉さんは、三味線の『藤本流準師範』と『民謡名取』を持っていることで有名です。以前、バラエティー番組でその腕前を披露したことがあり、共演者を驚かせていました。三味線を再開して師範の免許を取りたいと思っていた時期もあったようです。また今や3児のママとなった杏さんは、『狩猟免許』というワイルドな資格を持っている。『鹿肉が好きだから自分で獲ってみたかった』とおどけて話していましたが、増えすぎて駆除された鹿が産業廃棄物になってしまう事実を知って、人が食べる機会を増やしたり、ドッグフードにするなど命を循環させたいという意識が強いようです。問題意識に取り組む姿勢はさすが杏さんだなと思いましたね」(テレビ情報誌の編集者)  佐々木希(29)と2017年に結婚し、公私ともに絶好調のアンジャッシュの渡部健(45)も実に“ロマンチックな資格”を持っている。 「食通として知られる渡部さんは『夜景鑑定士』の資格も持っているんです。彼が取得したのは3級で、日本夜景遺産に認定された場所の知識や、世界や日本の夜景文化の成り立ちの歴史を覚える必要があるようです。以前ラジオ番組で夜景の心理効果についても語っていました。暗い所から明るい所を見ると、不安からそばにいる人を頼りたくなったり、心の奥底で思っていることを吐き出したくなったりする『暗闇効果』により、女性は男性についつい本音を打ち明けてしまうそうです。佐々木さんもそんな彼の恋愛テクにおとされたのかななんて勘ぐってしまいますね(笑)」(同)  見てきたような資格や免許は、決して一夜漬けで取得できるものではない。そうした勉強熱心さが、浮き沈みが激しい芸能界において、現在の活躍に繋がっているのかもしれない。(ライター・天野まひる)
dot. 2018/01/12 11:30
SMAPの30年は「生きる勉強」 香取慎吾「もう後戻りはできません」
SMAPの30年は「生きる勉強」 香取慎吾「もう後戻りはできません」
香取慎吾(かとり・しんご)/1977年、神奈川県生まれ。88~2016年はスマップのメンバーとして歌手、俳優、司会など幅広く活躍。17年に新しい活動をスタートさせた(撮影/門間新弥、スタイリスト/黒澤彰乃、ヘア&メイク/石崎達也[STRIPE]) 橋田壽賀子(はしだ・すがこ)/1925年、韓国ソウル生まれ。脚本家として「おんな太閤記」「渡る世間は鬼ばかり」など、数々のヒット作を生み出す(撮影/門間新弥) 対談する橋田壽賀子さん(左)と香取慎吾さん(撮影/門間新弥、スタイリスト/黒澤彰乃、ヘア&メイク/石崎達也[STRIPE])  独立以来、常に話題となっている香取慎吾さん。92歳でありながら現役の脚本家として活躍を続ける橋田壽賀子さんとの対談では、これからの覚悟を表明した。 *  *  * 橋田:あなたはドラマは大河もやられたし、主演ではほかには? 香取:大河ドラマは「新選組!」、フジテレビで「西遊記」もやりました。大河は1年と言っても1年半撮るじゃないですか。それを乗り切るのは大変です。 橋田:脚本を書くほうは2年かかります。香取さんは個性が強くて、私が書くホームドラマにははまらない人です。美男子すぎるし。この方が生きるようなドラマは1オクターブ高いものを書かないといけない。 香取:1オクターブですか。 橋田:そう。香取さんとドラマの仕事をしたいけれど私には書けない。 香取:橋田先生は(「新選組!」の脚本を書いた)三谷幸喜さんのことはどう思われますか。 橋田:私とは違う世界の人です。あなたは三谷さんと合う。あの方の作るキャラクターに香取さんははまります。私はその辺のお兄さんかおじさんしか書けないから香取さんには申し訳なくて出ていただけない。まねしたいとか思わないけど、三谷さんの才能はすごい。同じ一流の倉本聰さんや山田太一さんに追いつきたいとは思わない。私は私。二流でいいと思っています。 香取:先日、熱海に「おじゃMAP!!」で伺った時に建物の地下に大きな教室を造っていたのを見せていただいたじゃないですか。そこで弟子を取って教えようとしたけれどやめたと聞いて驚きました。 橋田:倉本聰さんの富良野塾じゃないけれど、後輩を育てるのも私の役目だと思って5人ぐらいに脚本の勉強をさせようとスクリーンや布団、台所や机や椅子もそろえてたんです。 香取:そこまでしたのにどうしてやめたんですか。 橋田:忙しくてできなかった。70歳で仕事をやめてやろうと思ったけれど、仕事が来た。90歳になってもまだ書かされているからだめですよ。仕事しながらは私には無理です。  スマップのコンサートにはよく行かせていただいた。私が若い人の音楽にひかれた時にスマップがいた。そんなに新しくはないし古くもない。カッコイイのが5人歌っているのを見たくて、時間さえあれば必ずコンサートには行きました。 香取:新しすぎず古くない感じはありました。年々新しいジャンジャカしたものも出てきて、やりたい気持ちはありましたが、それはちょっと違うと。ステージでも新しいものをやっても反応はいまひとつでした。 橋田:そういう「ほどの良さ」が私の世代に合っていた。それでずーっとついていった。香取さんにとってスマップとはどんな存在でしたか。 香取:約30年ですから。生きる勉強をさせていただきました。 橋田:自分を見つめるまでに成長させてもらった、というのはよくわかります。5人でいろいろな人と比べられながら勉強したと思います。 香取:40年生きてきたうちの30年ですから。自分のすべてですね。それがあるからこそ、今もこれからもあると思います。 橋田:いい30年を過ごしたからこそ、これからの人生の選択ができると思う。そろそろ結婚したら人生、地に足が着いてきますよ。 香取:最近、人生の先輩たちが結婚を勧めるんです。萩本欽一さんとお話しさせていただいた時も結婚しないのかと言われました。なぜみんなそう言うのかな。 橋田:家庭を持つと自分の才能を開花できると思う。逆に家庭に縛られて自分のエネルギーを女房に取られてしまうと嫌がる人もいる。価値観の違いというか個性の違いです。あなたが嫌いならいいと思います。 香取:それほど嫌いという訳ではないんですが。 橋田:結婚して子どもを持つと変わりますよ。子どもができなかった私が言うのもなんですが。 香取:あまり子どもとか考えたことはないです。 橋田:いい意味で自分が子どもだものね。 香取:そういうところはあります。子どもの人生を考えるより、まだまだ自分が何かしたいという気持ちが強い。もっと自分を見たいという感じです。 橋田:それを後押ししてくれる人と巡り合えたらいいと思う。昨夜みたいに酒をそんなに飲まないほうがいい。親みたいなことを言ってごめんなさい(笑)。 香取:そう言ってくださってうれしいですよ。 橋田:香取さんは前と違って何か自信を持たれたような気がします。それで、明るくなられた。 香取:今までのルーティンとは違う形で仕事をするようになりました。今までは行って(仕事を)やって帰るパターンが多かった。今は一つひとつの仕事を話し合いながら決めていく。今日もそうですし、「おじゃMAP!!」でも番組作りで仲間と十分に話し合う。 橋田:今は自由にできるでしょ。何度も言うけれど私はあなたたちが出て良かったと思います。 香取:昨日、「おじゃMAP!!」のスタッフとも話していたんですが、バラエティー番組というのはドラマと違って終わりがないものだと思ってやっていた。しかし、2017年のこの「おじゃMAP!!」に関してはいつ終わってしまうかもしれないという思いでやっています。昨日もヨシこれで2018年もやれるぞと気勢をあげた。こういう思いでバラエティー番組を作っている人たちはそんなにいないと思った。今は番組一つひとつが勝負です。 橋田:私は香取さんにこの番組で芸能人だけでなく、いろいろな人に会ってほしい。香取さんは人から違う面を引き出せる才能を持っている。会ってほしい人は画家の草間彌生さんとか若い政治家のホープの小泉進次郎さんとかたくさんいます。 香取:そういえば草間さんの美術館もできたんです。一度行きたいと思っていたので、「おじゃMAP!!」でロケをしてもいいですね。 橋田:私は香取さんがどういった面を引き出すか見たい。相手から引き出す力はあなたの魅力です。「72時間ホンネテレビ」(注)はよくやったわね。よくあれだけの人を集めた。あなたたち3人の力が大きい。 ※注:昨年の11月2~5日、香取さん、草なぎ剛さん、稲垣吾郎さんの3人が、インターネットのAbemaTVで、72時間ノンストップで動画を配信した。 香取:やっていて自分たちも面白かったです。直前に決まった方もたくさんいて。 橋田:あなたたちはいつ眠っていたの? 香取:ぼくは全部でだいたい4時間ほどしか寝てないと思います。 橋田:交代に寝たの。 香取:いえ、結構移動が多くて。移動の車の中で寝てくださいと言われていました。でも、吾郎ちゃんは移動の車で眠れない人でほとんど寝ていなかったと思います。必死でした。 橋田:でも、大きなアドバルーンになったと思う。これからは絵も描いてほしいし、あなたが書いたものを読みたい。書くことは面白いし、あなたには書く才能もあると思う。 香取:最近SNSのツイッターを始めて、書いていると面白いなと思うことはあります。何も考えずにバーッと書いています。 橋田:あなたが書いて本を出したらすごく売れますよ。週刊朝日も狙っていますよ。(同席したデスクが「書いていただけるのなら週刊朝日で連載を」) 香取:思ったこともなかった。 橋田:転機がくるといろんなところから思ってもいない話が来ます。 香取:自分の文章の連載なんて人生で考えてみたこともなかった。そう言ってくださると、まだまだやっていないこともあるんだなと思いますね。 橋田:あなただから初めてのことが依頼される。ロートルになると声もかけられない。香取さんが本当に自分らしく生きていくのを見たい。 香取:橋田先生の言葉に背中を押され、もう後戻りはできません。ぼくは後ろを振り返るのは好きではないので、前を向いて突っ走る覚悟を改めてしました。 (構成/山本朋史、本誌・工藤早春) ※週刊朝日 2018年1月19日号より抜粋
週刊朝日 2018/01/11 11:30
香取慎吾は「明るくなった。何も重圧がない」? “先生”が指摘
香取慎吾は「明るくなった。何も重圧がない」? “先生”が指摘
橋田壽賀子(はしだ・すがこ)/1925年、韓国ソウル生まれ。脚本家として「おんな太閤記」「渡る世間は鬼ばかり」など、数々のヒット作を生み出す(撮影/門間新弥) 香取慎吾(かとり・しんご)/1977年、神奈川県生まれ。88~2016年はスマップのメンバーとして歌手、俳優、司会など幅広く活躍。17年に新しい活動をスタートさせた(撮影/門間新弥、スタイリスト/黒澤彰乃、ヘア&メイク/石崎達也[STRIPE]) 対談する橋田壽賀子さん(左)と香取慎吾さん(撮影/門間新弥、スタイリスト/黒澤彰乃、ヘア&メイク/石崎達也[STRIPE])  昨年の秋、新たなスタートを切った香取慎吾さんと、92歳で現役の脚本家・橋田壽賀子さんは、同じ番組のレギュラーだった縁で、大の仲良し。活躍の場を広げる香取さんと、その才能を高く評価する橋田さんが語り合った。 *  *  * 橋田:お元気ですか。忙しいでしょう。少し眠そうな顔をしているけど大丈夫? 香取:昨日(12月15日)、「おじゃMAP!!」(フジテレビ系)の2017年最後の収録で稲垣吾郎ちゃんにゲストで来てもらったんです。番組収録が終わってからもいろいろな人が来てパーティーをやりました。夜中の2時半まで酒を浴びるほど飲んでしまって(笑)。でも大丈夫です。 橋田:今、最高にお幸せなんじゃないですか。 香取:いや、ぼくはずーっと幸せだった気がします。 橋田:この間、「おじゃMAP!!」の収録で熱海にいらした時も感じたんですが、香取さんは明るくなった。何も重圧がないという気がしました。 香取:それはあるかもしれません。 橋田:あなたももう40歳なんだから、誰からも縛られちゃダメよ。 香取:そう、もう40歳になったんです。 橋田:あなたの個性を生かす仕事をしなきゃ。これから香取さんの第二の人生なんだから。私もその年頃に映画会社をクビになって何をしていいかわからない時がありました。 香取:そうなんですか。 橋田:あなたの場合は引きとめられても出ていった、私はクビですからシチュエーションはずいぶん違います。それでもそれが転機になってテレビの世界に入っていった。当時は皇太子さま(現在の天皇陛下)のご成婚パレードがあって、テレビが茶の間に入り始めた。これからはテレビの時代だと思った。転機とは何かジャンプする時期です。 香取:年齢は気にせずにやってきたんですけど、最近この状況になって改めて40歳になったと感じます。40歳で新しいことを始めようとしている自分を見つめ直しています。 橋田:私はいちばんいいタイミングだと思います。若い未完成な時ではなく、円熟の時だもの。香取さんなら何でもできる。絵を描いたっていいし、プロデューサーだって俳優だっていい。今までの人生を洗い直して、自分がやりたいことをやっていけばいい。今日、このことだけは言いたかった。 香取:「おじゃMAP!!」の収録の帰り際に橋田先生がぼくのことを褒めてくださった。絵のことも。 橋田:あなたの絵はすごい。あんな発想できない。シュールな絵。夢があるし愛敬がある。ぜひ絵は描き続けてください。 香取:そう言ってくださると本当にうれしい。ぼくの絵も飾ってくださっていて。 橋田:私の誕生日祝いにいただいた絵なんです。カーネーションに牛がとまっているの。色使いも明るいし見ているとほほ笑んじゃう。温かい気持ちにさせてくれる絵です。四十にして惑わずと言いますけど本当ですね。40歳になるまでは自分の良さがなかなかわからない。最高の時期に飛び立った、そう思いませんか? 香取:そう思います。 橋田:私はスマップの追っかけでしたが、北京に一緒に行った時は応援団長に祭り上げられた。中国の偉い人にも会わされて大変でした。 香取:あの時は橋田先生が来てくれて良かった。ぼくは後ろに隠れていました。 橋田:政治家の偉い人もいて私も後ろに隠れた(笑)。話は変わるけれど、あなたは10歳で事務所に入って、11歳でスマップに入られたけれど学校はどうしたの? 香取:小学校も中学も横浜にある公立学校でした。 橋田:学校に行ってらした? 香取:いやーほとんど。一応両立していると言わなければならないですけど、ほとんど行けませんでした。 橋田:それもつらかったと思います。 香取:仕事が楽しかったから、学校で嫌なことがあると仕事に。子どもなんで仕事で疲れると学校に行きたくなりました。 橋田:すでに有名人でしょう。普通の学校生活はおできになった? 香取:できないですね。文化祭とか運動会とか行ったことはなかった。学校に行くと、ぼくを見るために人だかりができて先生の車に乗って家に帰ることもあった。午前中に学校に行ったのに家に戻されて、「文化祭したかったな」と思ったこともありました。 橋田:私なんか宿題をしないで学校に行ってよくバケツを持って立たされた。でも、それもいい思い出でした。そういう思い出は? 香取:ぼくはギリギリ先生に引っぱたかれたこともある世代で、そういうことをするといけないんだと教えられました。今はそういうのすぐに問題になってしまう。 橋田:香取さんの学校生活には興味がありました。 香取:遅刻をしたり、仕事で早退したりすることが多かった。そんな日々が続いている時に職員室に呼ばれたんです。何か悪いことをしたのかな、と不安になって行くと「君が今日いたのかどうかわからないので、帰る時は職員室に一声かけてくれ」と言われました。ぼくは先生に言ったつもりだったのですが(笑)。 橋田:お迎えが来るんですか。 香取:いえ、家に戻ってから電車で行っていました。14歳でCDデビューして、車が初めてつきました。中学の時でしたが、給食を教室で食べている時にCDが発売されたということで放送室から自分の歌が校内放送で流された。ぼくは友達もあまりいなかったけれど、みんなぼくのことは知っている。歌が流れるとみんながわーっとなった。その時はうれしかった。 橋田:今、大学に行って勉強したいとか思ったりしない? 香取:大学ですか。勉強したいとは少しだけ思います。ぼくは高校にも行っていませんから。 橋田:高校も行かなかったの? 私は学校に絶対行かなきゃだめとか思わないけれど、びっくりしました。 香取:心理学とか興味があって勉強したいとか思ったりすることもあります。 橋田:文章を書こうと思ったことはないの? あなたはちょっと型破りだから面白い文章を書けると思う。 香取:少し興味はあります。文章を書くのも好きです。ぼくは絵もそうですが誰かに習ったということがありません。最近、専門の人から「その筆よりこっちの筆を使ったら効果が出る」とか、「絵の具も別の種類を使うといいよ」と聞いてすごく幅が広がりました。 橋田:私が香取さんと仲良くなったのはタモリさんの「笑っていいとも!」ですが、その前に一度スマップの番組に出たことがあります。「おしん」を書いた脚本家と紹介されたら、「『おしん』を書いた人が生きているの?」とメンバーの誰かに驚かれた。よほど過去の人が書いていたと思われていたのね(笑)。 香取:ぼくは「笑っていいとも!」に約20年出させていただきました。タモリさんはいるし他に芸人さんがたくさんいてぼくは何もしないほうだった。 橋田:私も遊びに行っていただけで何もしなかった。 香取:芸人さんは初めての方でもすごい勢いでしゃべる。ぼくは橋田先生が来てくれて、自分のスピードと同じだったので安心できました。ぼくの中では橋田先生は、ゆったりした「いいとも」を作ってくれた方で、感謝しています。 橋田:出演は毎週月曜日でした。脚本をそれまでに書かないといけない。ひとつの区切りになって生活のリズムができた。そのうちに仕事に追われて無理になりましたが。 香取:リズムでいうとぼくも月曜日に「いいとも」があって、新宿アルタに着いてこれから1週間始まるぞという気持ちになった。それが終わって、ぼくは週の終わりに「SmaSTATION!!」という番組もやっていたのですが、それも終了しました。最近はいつが何曜日でというのがわからなくなってしまった。 橋田:お辞めになってから新しい仕事で忙しくなったでしょう? 香取:初めてのことがこんなにあるんだとは思います。今日、朝日新聞社に来るのも初めてでしたし。 (構成/山本朋史、本誌・工藤早春) ※週刊朝日 2018年1月19日号より抜粋
週刊朝日 2018/01/11 11:30
「ナチス映画」から考える セクハラのある現代で大切な女性の行動
中村千晶 中村千晶 坂口さゆり 坂口さゆり
「ナチス映画」から考える セクハラのある現代で大切な女性の行動
「否定と肯定」/2000年に実際に起こった裁判を描く。歴史学者のリップシュタット(レイチェル・ワイズ)は、ホロコースト否定論者と闘うことに……。東京・TOHOシネマズシャンテ他全国順次公開中 (c)DENIAL FILM, LLC AND BRITISH BROADCASTING CORPORATION 2016 原作者 デボラ・E・リップシュタットさん/1947年生まれ。米アトランタ・エモリー大学教授。現代ユダヤ史とホロコーストについて教鞭を執る。著書『否定と肯定』(ハーパーコリンズ・ジャパン)が発売中(撮影/鈴木芳果) 「ヒトラーに屈しなかった国王」/ナチスに降伏を迫られたノルウェーの国王が決断に至るまでの3日間を描く。本国で大ヒット。東京・シネスイッチ銀座他全国順次公開中 (c)2016 Paradox/Nordisk Film Production/Film Va¨st/Zentropa Sweden/ 映画監督 エリック・ポッペさん/1960年生まれ。新聞カメラマンとしてキャリアをスタート。98年監督デビュー。「おやすみなさいを言いたくて」は世界50カ国以上で公開(撮影/岡田晃奈) 「ユダヤ人を救った動物園 アントニーナが愛した命」/動物園を営むポーランド人夫妻が動物園を隠れ家に300人ものユダヤ人たちを救う。東京・TOHOシネマズみゆき座他全国順次公開中 (c)2017 ZOOKEEPER’S WIFE LP. ALL RIGHTS RESERVED. 俳優 ジェシカ・チャステインさん/1977年生まれ。舞台を中心に活躍した後、「ツリー・オブ・ライフ」で注目される。「ゼロ・ダーク・サーティ」ほか主演作が相次ぐ実力派(撮影/奥野和彦)  自国ファーストを掲げる国家が増え、個人主義や権威主義が民主主義を脅かす。そんな時代に一石を投じるナチス関連映画3本が、12月に公開された。  映画「否定と肯定」は、少し変わった角度からホロコースト問題を描いた作品だ。1996年、歴史学者のデボラ・E・リップシュタットはホロコースト否定論者のデイヴィッド・アーヴィングを著作で非難したとして、名誉毀損で訴えられる。悩んだ末、法廷で闘うことを決めた彼女は、アーヴィングの論旨の矛盾点を徹底的に調べ、「ホロコーストは本当にあった」ことを立証していく。  ホロコーストの犠牲者は600万人。サバイバーの母を持つ駐日イスラエル大使館の公使、イリット・サヴィオン・ヴァイダーゴルンが、 「『否定と肯定』のホロコースト裁判は今に通じる問題。世界中の多くの人がホロコーストをなかったことにしようとしています」と話すように、アーヴィングのやったことはまさに現代の「ポスト・トゥルース」「フェイクニュース」だ。歴史歪曲やニセの情報が拡散され、認知されることで、あたかも「それが真実かもしれない」と人々を惑わせる。リップシュタットは言う。 「アーヴィングのような人々にはあるタイプが当てはまる。それは“ヘイター”であること。アーヴィングは反ユダヤ主義者で人種差別主義者でしたが、彼らのような人々はその気持ちを内側に隠し、一見、人にリスペクトされるような学者を装っている。現代ではそういう人がものすごく増えていると感じます」  対抗手段は「とにかくチェックすること」に尽きるという。 「裁判のとき私の側に立ってくれた学者に言われました。『アーヴィングが“おはよう”と声をかけてきたら、窓の外を見て、本当に朝であるかどうかを確認してから“おはよう”と返しなさい』、と(笑)。私は学生たちにもそう教えています。著者がどんな経歴なのか、ネットの発言のニュースソースはどこにあるのか。うのみにするのではなく、『本当なのか?』という気持ちを持つこと。それがトゥルース=真実を見極めることにほかならないのです」  しかし、国家が歴史の事実を認めないという現実もある。 「私は『国』がその過ちを認めることができたとき、より高みにいけると考えています。例えばクリントン元米大統領はルワンダの大虐殺に対し、何もしなかったことを後に謝罪した。もちろん亡くなった方には何の意味もないけれど、認知した意味は大きい。でもアメリカ人の多くは自分の国が『謝る』ことに対して大きな抵抗感を示します。日本でも同じでしょう。謝ること、認めること=国の弱さと考えてしまう。しかしその考えは危険なものです。何が間違いだったのかを見つめ、認めることは本当に重要なのです」  リップシュタットの闘いは現代に大きな意味を投げかける。 「あの裁判を経て、いまこんな状況になっていることに落ち込みもします。でも私は楽観主義者。私の闘いを通してみなさんに立ち上がる勇気が生まれることを願っています。誰にでもできることはある。小さなことから変化は始まると思うのです」  ノルウェーが舞台ながら、いつの間にか日本の民主主義や天皇制に置き換えて見てしまうのが、「ヒトラーに屈しなかった国王」だ。40年4月9日、ナチスドイツ軍が首都オスロに侵攻。降伏を迫られた国王ホーコン7世が降伏協定を拒否するまでの緊迫した3日間を描く。監督のエリック・ポッペは制作理由の一つを、「いま世界の状況を見ても、民主主義について語るべき時期だと。今日的な意義が強いテーマだと思った」と語る。  ホーコン7世はデンマーク国王フレデリク8世の次男。1905年に国民投票によってノルウェー国王に選ばれた。国民投票で選ばれることが国王就任の条件だったという。そんな王は「選挙をオープンにすることを推し進めた人物だった」とポッペ。 「ホーコン国王がノルウェーに来た時、議会を見て上流階級の人間しかいないことに気づいて言いました。『漁師や労働者、みなさんが嫌いな共産主義者の代表はどこにいるのですか』と。つまり、議会は国民の鏡であるべきで、いろんな人を代表しなければいけない。それが民主主義だろうと言ったのです」  リサーチから脚本完成まで3年以上。ポッペは「ヒーローではなく、人間としての国王を描く」ため、当時の生存者や歴史学者たちだけでなく、現国王や王女たちにも話を聞き、プライベート写真を見せてもらって詳細を詰めていった。王が当時つけていた一般非公開の日記やメモを読むことも許されたため、台詞も「実際の国王の思いや言葉がそのまま反映できた」と言う。「私の存在すべてをノルウェーに捧げる」という台詞は、日記からの引用だ。  王は国民のために仕える存在であることを実践し続けたホーコン国王は、「民主主義を心から信じていたと言えると思います」とポッペは話す。 「ホーコン国王は首長として非常に優れた人でした。いま世界を見渡しても国民のために立ち上がる人はなかなかいません。彼は家族までも犠牲にして国民のために立ち上がろうとした。それこそが、我々がリーダーに求めるものだと思います」  では、極限の状況にあって人間が取るべき正しい道とは何だろうか。人間に備わった「善」を信じたくなる映画が「ユダヤ人を救った動物園 アントニーナが愛した命」だ。ナチスドイツ支配下のポーランドで300人ものユダヤ人の命を救った夫婦の実話を映画化した。  ワルシャワで動物園を営むアントニーナとヤン夫妻だが、ナチスドイツのポーランド侵攻によって園も経営困難に。一方、次々とゲットーに連行されていくユダヤ人たちを見かねた夫妻は、アントニーナに心を寄せるヒトラー直属の動物学者ヘックに、動物園をドイツ兵の食料を提供する養豚場にすることを提案。ゲットーから出る生ゴミを餌とすることで、ヤンはゴミを回収するたびにユダヤ人をトラックに乗せ、動物園の地下に匿う。  匿っていることが知られたら全員が殺されるという状況で、なぜ夫妻は命の危険を顧みず人々を救うことができたのか。主演のジェシカ・チャステインは言う。 「夫妻が残した言葉によれば、それが『正しいこと、やるべきことだったから』です。ヤンさんは、『どんな悪い人々だったとしてもひどい扱いを受けているなら助けるのは当然だろう。それが人間であることだし、思いやりを持つことが当然だ』と言っています」  だれもができることではない。だが、アントニーナは、権力を笠に夫のいない間を狙って関係を迫るヘックをうまくかわして、匿っているユダヤ人たちを守らなければならなかった。 「彼女は(ユダヤ人たちを守る)責任を感じていたからこそ、選択の余地がなかった。勇敢であるしかなかったんです。少しでも弱さを見せれば、きっとヘックに隠し事をしていると思われてしまうから。アントニーナは愛と思いやりを武器に闘いました」(チャステイン) 健康的な世界のために  こうした映画のテーマは「今を生きる自分たちにも意味がある」とチャステインは言う。  取材がちょうどハリウッドがセクハラ問題に揺れていた時期でもあり、チャステインはこう語った。 「(セクハラのある)現代も女性にとってすごく怖い時代。でも、自分の主義や思いに正しくあることが重要。それにかなった言葉を発信したり行動を取ったりするほうが、私は幸せでいられる。その結果、私と仕事をしたくないという人がいるならそれでいい。そのほうが夜眠る時に、すべての人にとってより健康的な世界になるためにやれることをやれたって思えるから」(文中敬称略) (フリーランス記者・坂口さゆり、ライター・中村千晶) ※AERA 2018年1月1-8日合併号
AERA 2018/01/06 16:00
冬は温泉!東北のおススメ温泉スポット〈レジャー特集|2018〉
冬は温泉!東北のおススメ温泉スポット〈レジャー特集|2018〉
とうとうお正月休みが終わってしまいました。さぁ仕事です! ……とは、なかなか気持ちが切り替わらないですよね。とりあえず温泉旅行の計画でも立てて、ぼちぼちエンジンをかけていきましょう。 2018年最初のレジャー特集は、全国の温泉スポットをご紹介していきます。今回は東北のおススメ温泉! 数ある温泉スポットの中からひときわ特徴のある「一度は訪れたい」温泉地をピックアップしました。早速チェックして、冬のレジャー計画の参考にしてくださいね!雪降りしきる秘湯の湯! 一度は訪れたいですよね 乳頭温泉郷/秋田県仙北市 乳頭山(1478m)のふもとの「乳頭温泉郷」には鶴の湯、妙乃湯、黒湯温泉、蟹場温泉、孫六温泉、大釜温泉、休暇村乳頭温泉郷という7つの宿があります。それぞれに色や泉質が異なる自家源泉があり、特に鶴の湯は半径50m以内に泉質の異なる4つの源泉が湧く珍しい温泉場です。 鶴の湯は乳頭温泉郷の中でも最も古く、江戸時代から秋田藩主の湯治場だったそう。こちらで特に評判なのが夜の露天風呂。ランプのほの暗い光が秘湯感を一層盛り上げて、幻想的な情景の中に身を置くことができますよ! 乳頭温泉郷 鶴の湯温泉 ■所在地:秋田県仙北市田沢湖田沢字先達沢国有林50 ■アクセス:JR「田沢湖」駅よりバスにて「乳頭温泉」停下車※バス停から宿まで送迎あり ■問い合わせ先:0187-46-2139 ■料金など詳細は鶴の湯温泉HPをご確認ください江戸時代から続く、秘湯感に満ちた乳頭温泉郷 鶴の湯温泉 高湯温泉/福島県福島市 福島県屈指の名湯との呼び名が高い「高湯温泉」。昔から湯治に訪れる方も多く、高血圧症、動脈硬化症、末梢循環障害、リウマチ、糖尿病、慢性中毒症、皮膚病などへの効能が知られています。高湯温泉をより効果的に利用するなら「三日一廻り、三廻り十日」という言葉に従い、「3日で1サイクルとして3サイクル、10日程度滞在しなさい」という湯治が効果的だそう。実際に10日間のんびり滞在できる方は限られていると思いますが、数日でもこの名湯で雪を眺めながらゆっくり温泉に浸かれたらいいですね! 高湯温泉 旅館たまご湯 ■所在地:福島県福島市町庭坂字高湯7 ■アクセス:JR「福島」駅より送迎バスあり ■問い合わせ先:024-591-1171 ■料金など詳細は旅館たまご湯HPをご確認ください豊かな効能が自慢の名湯・高湯温泉 旅館たまご湯 銀山温泉/山形県尾花沢市 山形県と宮城県の県境にある銀山温泉は、大正時代から変わらぬ姿の建物が立ち並ぶ、ノスタルジックな雰囲気が魅力の温泉郷。冬は特に、降りしきる雪をガス灯の明かりが温かく照らし、映画のワンシーンのような幻想的な光景を目にすることができます。 温泉に浸かりながらしんしんと降り続く雪を眺めるのも、冬の温泉の醍醐味ですよね。雪見の展望露天風呂を楽しみたい方には「瀧見館」がおススメ。温泉街から少し離れたロケーションながら隠れ家のような佇まいが人気の宿です。雪が降らない夜も見上げれば満天の星! ぜひ一度訪れたい温泉です。 銀山温泉 瀧見館 ■所在地:山形県尾花沢市銀山新畑522 ■アクセス:JR「大石田」駅より市営バスにて「銀山温泉」停下車、徒歩15分※JR「大石田」駅から宿まで送迎あり(2名以上、要事前連絡) ■問い合わせ先:0237-28-3399 ■料金など詳細は瀧見館HPをご確認ください ■銀山温泉の情報は銀山温泉公式HPをチェックしてくださいね温泉はもちろん雪・星・情景も魅力の温泉郷・銀山温泉 瀧見館 青荷(あおに)温泉/青森県黒石市 青荷(あおに)温泉は、青森県の「黒石温泉郷」にある秘湯。深い森の中に静かに佇む一軒宿で、なんと館内の照明のほとんどがランプなのです! 電気は通っておらず、もちろん携帯電話の電波も届きません。非日常を味わうには絶好の環境とも言えます。 泉質は炭酸泉で、神経痛や疲労回復に効能が期待できますが、その幻想的な雰囲気に魅せられ、最近は海外からも「ランプの宿」をめざして多くの観光客が訪れているそう。総ヒバづくりの「健六の湯」は渓流沿いにあり、せせらぎの音と鳥のさえずりに心も癒されます。敷地内には本格的な吊り橋も! まるで昔話やおとぎ話の世界に迷い込んだようなワクワク体験を、ここ「ランプの宿」で味わってみては? 青荷温泉 ランプの宿 ■所在地:青森県黒石市大字沖浦字青荷沢滝ノ上1-7 ■アクセス:弘南鉄道「黒石」駅よりバスにて「虹の湖公園」停下車※バス停から宿まで送迎あり ■問い合わせ先:0172-54-8588 ■料金などは「青荷温泉 ランプの宿」で検索して、詳細をご確認くださいランプの灯りが訪れる人を非日常へと誘う、青荷温泉 ランプの宿
tenki.jp 2018/01/06 00:00
議員時代より稼いだタレント、上西小百合 2018年は「脱炎上」?
松岡かすみ 松岡かすみ
議員時代より稼いだタレント、上西小百合 2018年は「脱炎上」?
2018年の抱負は、「とりあえず、脱炎上とかにしとこうかな(笑)」。やったことがないことに対し、前向きにチャレンジしたいと話す(撮影・松岡かすみ) 「議員時代より、確実に稼げるようになりました」  “政界の炎上クイーン”として世間を騒がせてきた、“浪速のエリカ様”こと上西小百合・前衆院議員の(34)。昨年10月の衆院選には出ず、議員バッジを外して約3カ月。いまはテレビを中心に、タレント活動を本格化させている。 「来るもの拒まずの前のめり姿勢」(上西氏)と話すように、ワイドショーのリポーターに扮し、選挙戦をリポートしたかと思えば、深夜番組で因縁のタレントと激闘を繰り広げるなど、持ち前のキャラクターを生かした“芸風”で話題に。 「皆さん、私なら何でもやってくれると思っているのか、グラビア写真集とか、温泉入浴企画とか、トンデモ系企画のオファーも多い(笑)露出系はある程度選別するとしても、呼ばれたらどこにでも行くという方針です」  上西氏と言えば、SNSなどでの過激な発言も注目された。昨年7月には、サッカーJ1浦和レッズをめぐる発言が大炎上し、事務所に殺害予告が複数届いた。事務所への抗議も殺到したという。 「アポなしで事務所に来る人もいて、秘書が会った人数は50人以上。電話は百本をゆうに超えていましたね」  でも当の本人は、振り返ってもいたって平静だ。「炎上によって傷ついたりしないですから」と、にっこり笑顔。 「私の発言によって、話題が長続きするなら、それもやり方の一つかなと思う。注目されなければそもそも話題にもならないし、スポーツでも政治でも、議論の種になるのならそれでいい。私の場合、お利口ぶって品を保つ必要もないので(笑)」  今井絵理子参院議員や山尾志桜里衆院議員らの不倫騒動に、秘書への暴言が発覚した豊田真由子元衆院議員など、昨年は女性議員の騒動が続いた。元祖お騒がせクイーンとしては、彼女らをどう見る? 「本当に、しゃきっとせんかい! ですよね。豊田さんは別としても、そもそも女性議員は、女を使って仕事し過ぎなんですよ」  衆院選最終日には、リポーターとして豊田氏を突撃。「最後の最後まで頑張ってください」と、二人が笑顔で握手を交わす様子は、ネット上で総ツッコミを食らった。 「私、豊田さんが泣いているところを間近で見たことがあるんですけど、あの人“泣き芸”で復帰できると思う(笑)それぐらい面白い。顔芸路線で売り出したらブレークしそう」  昨年は一部スポーツ紙で、豊田氏とタッグを組んで活動する説も流れたが……? 「いや、豊田さん、なぜか私のことダメらしいんです。私は仲良くしたいんですけど」  プライベートでは春に結婚予定。相手は「年上の男性」としか教えてくれなかった。 「彼には、議員時代より楽しそうでいいんじゃない? って言われています」  このまま政治の世界から遠ざかったりして? 「いえ、それはないです。国政には必ず復帰したい。タレント的な活動も、そのための戦略の一環。知名度を保つことは、復帰において重要ですから」  議員時代から力を入れるのが主権者教育。視察を兼ねて各地の学校を訪問し、講演活動も行う。 「ないがしろにされている主権者教育ですが、本来一番やらないといけない部分。これからも私にできることは、積極的に取り組みたい。それには、若い人が私に興味を持ってくれないと。そのための“売名行為”なら、これからも喜んでやりますよ」  2018年、新年の抱負として「脱炎上」を掲げる新生・上西小百合はどこまで伸びるか。“温かく”見守りたい。(本誌・松岡かすみ) ※週刊朝日 オンライン限定記事
週刊朝日 2018/01/01 11:30
長く滞在するとグッ! “金運アップ”神社12選
長く滞在するとグッ! “金運アップ”神社12選
鹿島神宮の御祭神は武道の神様・武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ) 京都府亀岡市の出雲大神宮は男女の縁、仕事の縁、お金の縁結びに  2017年もあっというまに、おしまい! 2018年こそは金運を上げたい。子どもの受験、孫の受験を成功させたい。スポーツ、芸能等のゆかりの寺社をめぐって、その運にあやかりたい。その願い、全部かなえてさしあげましょう。2018年初詣の参考リストとしてご活用ください。 金運アップ風水といえば、この人。紫月香帆さんに全国でおすすめの金運アップ神社をあげてもらった。 「まず大切にしていただきたいのは、酉年(2017年)を無事に過ごさせていただいてありがとうございましたという感謝の気持ちです。酉は風水においては、金運の神様。私としては、東京・浅草の鷲(おおとり)神社と、戌の日の安産祈願で有名な水天宮(すいてんぐう)にセットでおまいりされることをおすすめします」  その心は? 「鷲神社は、酉の市で有名な神社です。過ぎていく酉年に十分に感謝の心を伝えてから、新たに始まる戌年の金運アップエネルギーをいただく。この順番で拝みに行くのは、神様に対する礼儀として、神様に喜ばれます。何も同じ日にまわる必要はありませんが、ちょっと心にとめておいていただきたいですね」  神社をおまいりするときは、どんな場所でも“礼儀”を重んじて行動すること。 「神様の恩恵を受けるためには、午前中におまいりに行くことです。太陽が照り、“よい気”が放たれている日中におまいりするようにしましょう」  そして金運アップのお願いをするのであれば、正しい作法でお願いをする。 「長い行列に並んで、やっと自分に拝む順番がまわってきたからといって、すぐに『お金がたまりますように』『ボーナスが上がりますように』『今年こそ大金持ちになれますように』といった、勝手なお願いから入ってはいけません。拝む順番がまわってきたら心の中でまず、自分の住所、それから自分の名前の順にお伝えしたあと、『今日はここに拝みに上がらせていただき、本当にありがとうございます』とお礼の言葉をお伝えしてください。そのあとに自分の願いを心の中で言いましょう。名前を名乗らなければ、神様だってどこの誰のお願いかわかりませんし、不躾にお金のことから口にしても、聞き届けてはいただけません」  なるほど、これは心して守りたい作法。それではさらに他の金運アップ神社についても、くわしく教えていただこう。 「茨城県の鹿島神宮は、勝負運にパワーがあり金運を後押ししてくれますよ。森林のよい気がみなぎる奥参道を通り、奥宮まで行くのがおすすめです」  そして商売繁盛を願うなら、東京・神田の神田神社。 神田明神としても有名なこの神社は、約1300年の歴史を持つ。 「商売繁盛の神様・少彦名命(すくなひこなのみこと)が御祭神の一柱として祀られています。自分で起業している方や、お店を営んでいる方はぜひおまいりしてほしいですね」  東京・新大久保の皆中稲荷神社は、 「皆、中(あた)るというお名前どおり、ここはおまいりすると宝くじがよく当たる神社として有名です」  パワースポットとして有名なのは、神奈川県・葉山の森戸神社だ。 「森戸神社は海辺にあり、後ろ側が山という、風水的にとても地形がいい場所にあります。葉山は御用邸もありますし、多くの成功者が別荘を持っていらしたりするでしょう? “気”がとてもいいんですよ。森戸神社は金運アップ&子孫繁栄のお願いにおすすめです」  神奈川県・鎌倉の銭洗弁財天宇賀福神社は、 「持っているお金を太らせていきたいという方に。境内にある岩窟から湧き出てくる御霊水でお金を洗うと、お金が増えると言われています。洗ったお金は大事に使うよう、心がけましょう」  そして静岡県の金運アップ神社なら、 「富士山本宮浅間大社です。ここは木花之佐久夜毘売命(このはなのさくやひめのみこと)が祀られているので、女性の運気を上げてくれると言われています。自分の金運をレベルアップしたい人におすすめです」  また三嶋大社は、山林農産の守護神・大山祇命(おおやまつみのみこと)と、福徳の神として商・工・漁業者の崇敬を受ける積羽八重事代主神(つみはやえことしろぬしのかみ=俗にいう恵比寿様)を祀る神社。 「源頼朝が源氏再興を祈願した神社としても有名です。ここは不安定な金運を安定させたい人に行っていただきたい場所です」  そして京都・亀岡市の出雲大神宮。 「この神社は元出雲と呼ばれています。島根県の出雲大社とご縁が深い場所です。大国主命(おおくにぬしのみこと)と后神の三穂津姫命(みほつひめのみこと)を奉斎。御神体山から絶えず湧き出ている御霊水『真名井の水』は、天下の名水と言われており、長寿にいいと言われています。この神社は“縁結び”で有名ですが、単に男女の仲だけではなく、社会においてお互いが発展していくように、仕事のつながり、お金のつながりを結んでくれると言われています。人との縁をつかみ、自分のお金を大きく発展させていきたい人に、ぜひ」  四国ではもちろん、香川県の“こんぴらさん”(金刀比羅宮)だ。御祭神は大物主神(おおものぬしのかみ)と崇徳天皇。 「御本宮までの石段は785段あります。ここも金運アップをしてくれる場所です。金刀比羅宮の幸福の黄色いお守りは金運&運気上昇につながると言われています」  九州は博多の総鎮守として昔から信仰されている、櫛田神社。 「境内にある夫婦銀杏の木は縁結びにいいと言われています。商売繁盛とお金のご縁をお願いしましょう」  金運アップ神社には、なるべく長めに滞在するほうがよい。 「そのほうがより多くのパワーを吸収できます」 (エディター・赤根千鶴子) ※週刊朝日  2018年1月5-12日合併号
神社仏閣
週刊朝日 2017/12/31 07:00
安室奈美恵とデビュー前から一緒に歩んだメイクが明かす26年間の真実
安室奈美恵とデビュー前から一緒に歩んだメイクが明かす26年間の真実
最後の紅白でどんなステージを見せてくれるのか。(写真:avex提供)  2018年9月で引退するため、31日夜が最後の紅白となる安室奈美恵。その歌姫を「奈美恵ちゃん」と呼び、デビュー前の26年前から彼女の「美」を支え続けてきたヘア&メイクアップアーティスト・中野明海さん。おそらく業界内で最も古くから安室奈美恵の素顔を知り、彼女が信頼を寄せ続けてきた1人だ。アムラー現象から始まり、伝説と化した「美」はどうやって生まれ、進化してきたのか。「平成の歌姫」の誕生秘話をAERA dot.が独占インタビューした。 ――安室奈美恵さんと出会ったのはいつごろですか。  デビュー前の26年前になりますね。アイスのCM撮影で、沖縄からデビューする予定のかわいい女の子たち5人が踊る、というものでした。そこで会った、14歳になったばかりの彼女はもう既に“安室奈美恵”でした。体のバランスも、踊りのスケール感も、見せ方もすべてが特別で、私には1人だけ違う時空にいるように見えました。「何だこの子は! こんな逸材見たことがない!」って。その後、デビューしてからも雑誌やCDジャケット、CM撮影、ライブツアーなど、機会があれば喜んでやらせてもらっています。 ――現在放映中のテレビCM「安室奈美恵×docomo 25年の軌跡」は1992年のデビューから現在までの“安室奈美恵”を再現しています。どうやって挑んだのでしょうか。  いつも私と彼女は、あまり「ああしよう、こうしよう」と話し合ったりしないんです。特にヘアメイクは現場で微調整ができるので、「とにかく仕上げてみるね」っていう感じで。  昔、彼女がこう言ったことがあります。「ヘアメイクにはヘアメイクのプロフェッショナルがいて、衣装のプロ、映像のプロ、企画のプロがいる。私は歌って踊る音楽のプロ。メイクについて嫌か良いかはわかるけど、ここをこうしてほしいという具体的な言葉は持ち合わせていない」と。つまり、アイラインを2ミリ短くしてとか、このブランドのこの服を持ってきてとか、指示をするなら自分でやればいいわけです。奈美恵ちゃんは昔から、自分の趣味をわかってくれて、もっと専門的なことを知っている人に任せたいと考えていました。そうすることによって、自分が思ってもみないような素敵なものが出来上がる、って。なので私も「私に頼んでくれたんだから、私は私の世界で奈美恵ちゃんが嫌じゃない、もっと良く見える方法を考えればいい」と、私なりに120%の力を出すことを考えてやってきました。  今回のCMでは監督さんたちとの打ち合わせで、いまの奈美恵ちゃんの1992年風をつくるのではなく、「そこまでやるの!?」っていうぐらい徹底的に再現しようということになり、細部までこだわっています。過去のものも、私がやらせてもらったメイクが多くあるので必要な情報は頭の中にあるんです。そこから緻密に再現しました。 ――1992年のヘアメイクは、96年に新語・流行語大賞のトップテンに入った「アムラー」現象の原型のように見えます。特徴を教えてください。  髪はセンターパート(真ん中分け)で、カラーは白っぽいメッシュが入っています。髪の長さはいまよりも全然短いので、緻密に長さを決めてウィッグをつくりました。毛先にはレイヤーが入っています。  アイシャドーはシルバーブルーです。このときはまだまつ毛を上げて目元を強調する時代ではなかったので、ビューラーは使わず、リップはダーク。当時はもっとダークだったのですが、今回はフレッシュさを出すために少し明るめにしました。 ――懐かしいですね! 当時、このメイクはどのように生まれたのでしょうか。  モード界でもこういうメイクの流れはありましたが、細眉は奈美恵ちゃんが自分でキレイに整えていて、ご本人の好みから生まれたものです。  当時は黒人女性がかっこいい時代でした。スーパーモデルブームがあり、日本でもナオミ・キャンベルが大ブレイクし、音楽界ではジャネット・ジャクソンが人気でした。少し前ですが、スポーツ界にはジョイナー(米陸上選手、88年ソウル五輪で3冠)もいましたよね。  彼女はジャネットに影響を受けて歌とダンスを始めたぐらいジャネットが大好きだったし、彼女自身もこういうメイクが似合ったんです。私は「THE夜もヒッパレ」(日本テレビ系)や「ポップジャム」(NHK総合)などテレビ番組のお仕事はご一緒していなかったのですが、自分でダークめのリップを塗って、眉を描いて出ていたと聞きました。奈美恵ちゃんがそういう感じのメイクが好きだからと、私たちヘアメイクはそこに寄り添って、メイクをすることが多かったですね。毎回こうだったわけではありませんが。この時代に奈美恵ちゃんがいたからこそ日本中に広がったメイクだったと思います。 ――再現してみて、どうでしたか。  ご本人も鏡の前で「うわー、この色久しぶり!」って(笑)。「こうだったよね」って話しながらアイシャドーを塗り終えた瞬間、彼女がティーン・エイジャーの顔になったんです。「メイクってすごいね」って二人で話しました。ああ、久しぶりにこの顔に会ったって、奈美恵ちゃんも懐かしく思っていたと思います。 ――2000年はまた雰囲気が変わりました。「NEVER END」が九州・沖縄サミットのイメージソングになったのがこの年です。  ちょうどこの頃から、小室哲哉さんのプロデュースを離れ、ご自身でプロデュースを始めたころでした。バラードが続いた後、久しぶりにアップテンポな「Say the word」という曲で、ツインテールはご本人のアイデアです。雑誌の撮影などでやっていたので、お気に入りのアレンジだったんだと思います。このツインテールもブームになりましたね。  00年のメイクは目元にブラウン系のグラデーション。しっかり細めに描いていた眉毛は、自然な感じになりました。メイクは全体的にクールでかっこいい感じから、柔らかく可愛い方向に幅が広がっていった時代だと思います。  こうやって抜き出してみるとガラッと変わっているように見えますが、「さあ、今日から新しい方向で」と変えていたわけではありません。ヘアメイクは日々のことですし、やってきたことがすべてつながって、自然に変わっていく感じです。ジャケット撮影の間に雑誌やCMの撮影なども挟まっていくので、時代の空気感とか流行を吸い込みながら変わってきたんだなと、今回振り返ってみて改めて感じます。 ――2010年は黒い衣装で、力強い雰囲気が出ています。  このときは奈美恵ちゃんがやりたいことを思いっきりやっていて、女性アーティストとして一つの王国を築いたような印象を受けていた時期でした。"安室奈美恵"ってこんな感じ!という方向に、突き進んでいるような。髪はかき上げて雰囲気を醸し出すというよりは、前へ走っていくようなイメージです。どう動いても髪が本人の動きを邪魔しない。強さや疾走感を大事にしていました。  アイシャドーはトープ(灰色がかった茶色)っぽい、グレーブラウンやチャコール系の色をよく使っていました。眉は自然な感じに整えていることが多いですね。 ――アリーナツアーで50万人を動員するなど、ライブも忙しい時期ですね。ライブで思い出に残っていることはありますか。  実は私は2000年ごろまでしかライブを一緒に回っていません。私自身も子どもを2人育てながら働いていて、1人目のときは東京・大阪・名古屋、ほか10カ所ぐらいのライブを回っていました。2人目を産んだときには、彼女は全国で何十公演もやるようになっていて、2人を育てながらライブを回るのは厳しくなってきていました。これは女性が働きながら子育てをして生きていくうえで、避けては通れない悩みですけれど……。  そんなときに彼女が「明海さんはもうライブツアーを回らなくていいですよ」って声をかけてくれました。アシスタント2年目の子が育ってきていたので「その子で頑張ってみましょう」って。そして「いつでもどこでも遊びに来てくださいね」って言ってくれました。人として深い人で、「来られないならもういいです」っていうことは一切なく、みんなでうまくやりましょうと考える人なんです。 ――新しい人にも任せられる懐の深さがあるんですね。  本人が強いから、ちょっとしたことで揺らがないんですよね。私のアシスタントから独り立ちしていった子たちと3、4人で奈美恵ちゃんのヘアメイクをほとんどやらせてもらってきましたが、彼女たちが育っていったのは本当に奈美恵ちゃんのおかげなんですよ。初めての人に顔を触らせるのって、怖いじゃないですか。メイクはお習字と同じで、同じお手本を見て描いたところで手が違うと全部違うものが出来上がるもの。どんな仕上がりになるのか不安があって当然だと思う。でも彼女は、どうしても私の都合が悪いときに「あの子にやってもらいましょうよ」ってサラッと言うんですよ。「不安じゃないの?」って聞くと、「だって明海さんのメイクをずっと見てきたんだから、変になるわけないじゃないですか」って。そういうところが本当にカッコイイんです。 ――2017年は異彩を放っていますね。これは現在の安室さんを表しているのでしょうか。  今の彼女が好きなスタイルというよりは、ちょっと先の未来をイメージしています。こんなの流行るといいなっていう提案でもなく、自由と広がりがあって、どうにでも創造していける感じですね。いままでにあまりない感じ、というのが裏テーマです。  奈美恵ちゃんは何でも似合うので、CDのジャケット写真のアイラインの引き方だけでも、すべて違う提案をしてきました。買ってくれた人に「いつも違って、いつもキレイ。いつもカッコイイ」って思ってほしいじゃないですか。でも、私がどんなメイクをしても彼女は瞬時に消化して、自分の表情や動きでもっと素晴らしいものにしてきてくれました。人に見せるというポテンシャルが非常に高いんです。引き出しが多くて、同じ撮影をしていても振り幅が広い。ご本人は「私は服とメイクを変えると違って見えるから得してるんです」って、言うだけなんですが(笑) ――そうやって26年以上、一緒に仕事をしてきた安室さんが引退を表明しました。その後のインタビュー番組では、悩みや不安を抱えていたことも率直に語っています。今の彼女をどう見ていますか。  引退を表明したからといって彼女が別人になるわけでもなく、この撮影のときも「あと1年楽しみましょ」って、いつもと変わらない様子で言っていました。ご本人の中で悩んでいた時期はあったのかもしれませんが、どんなときも自分の意思で仕事を選び、セルフプロデュースをしているなと私は感じていました。  よく「この時期はCDが300万枚売れた」とか「この時期はどうだったか?」って聞かれますが、そういうことはなにも関係なかったんです。彼女との関係で人生の山や谷を語るなら、私にとっては14歳の奈美恵ちゃんを見たときが1番の山だったかもしれません。本当にビックリしたんですよ。それからは、撮影するごとに感動の山が何度もやってきています。お洋服もヘアメイクも何でもハマる彼女と一緒にやれることが、楽しくてしょうがなかった。  そういう意味では、私の大好きなミューズの1人がいなくなるのは寂しくてしょうがないですね。でも彼女が元気で幸せでいてくれさえすれば、私はそれでうれしいです。 ――自分の素材を棚に上げてお聞きしますが、どうすれば安室ちゃんに近づけるか教えてください。「安室ちゃんみたいになりたい!」という女性たちに向けて、何かアドバイスを。  私は、自分の好きなものをちゃんと見極めるセンスの良さや自由さが、人生においてとても大事だと思っています。好きなもの、信じるものがその人の個性になる。それは26年以上、彼女を見てきて実感するのですが、いわゆるアムラー現象だって、その後の「奈美恵ちゃんっぽさ」だって、彼女が好きなことをやり続けて作ってきたものです。  私は人は見た目だと思っているんですよ。外見は中身が外に現れたものだし、外側がちゃんとしている人は中身もちゃんとしていると思う。奈美恵ちゃんがTシャツとデニムしか着ない人だったら、こんなにたくさんの女性たちが憧れ続ける存在にはならなかった。それは、メイクひとつを取ってもそうです。  メイクをしないで生きていく人はもちろんいるし、それはそれで全然いいと思う。テクニックも二の次。自分を信じるものをちゃんと貫き通すことが、素敵な個性と人格を形成していくと私は信じています。 (聞き手/AERA dot.編集部・金城珠代)
dot. 2017/12/31 00:00
綿矢りさ、夫は「シーサーに似てるかな」 結婚生活を語る
綿矢りさ、夫は「シーサーに似てるかな」 結婚生活を語る
綿矢りさ(わたや・りさ)/1984年、滋賀県に生まれ、京都府で育つ。2001年、高校在学中に初めて書いた小説「インストール」で第38回文藝賞を当時最年少の17歳で受賞。早稲田大学教育学部在学中の04年、2作目の『蹴りたい背中』で第130回芥川賞を最年少で受賞。12年、『かわいそうだね?』で大江健三郎賞を受賞。著作に『憤死』『ウォーク・イン・クローゼット』『手のひらの京』『私をくいとめて』など。12月23日に同名小説の映画化「勝手にふるえてろ」が公開。(撮影/写真部・大野洋介)  2004年に最年少で芥川賞を受賞し、その後も多くの読者を惹きつけ続けてきた、綿矢りささん。同名小説の映画化「勝手にふるえてろ」がまもなく公開。文壇の先輩である作家の林真理子さんが綿谷さんの原点や結婚生活などを聞きしました。 *  *  * 林:綿矢さん、高校生のときはどんな感じだったんですか。 綿矢:本を読んでいる子が周りに多くて、世界の文豪を読んでいる人もいて、その人たちに本を教えてもらったこともありました。太宰治を読んだときにすごく感銘を受けて、それで自分で小説を書いてみようと思ったんです。ちょうど受験の時期だったので、賞がとれたら上京できるかなと思って。東京に行ってみたかったので。 林:賞をとって上京しようと思って書いて、実際に受賞するなんてすごいことですよ。そのとき書いたのが文藝賞(「インストール」)で、早稲田に入るとき有利になったんですか。 綿矢 それだけで入りました(笑)。自己推薦が始まったころで、自分で自分を推薦するんですけど、面接と論文で受験しました。 林:文藝賞は、田中康夫さんや山田詠美さんが受賞した非常に権威のある賞ですけど、何枚くらいですか。 綿矢:私は110枚ぐらいで応募しましたが、もっと多くてもいいのかもしれません。 林:その当時からワープロですか。 綿矢:ワープロでした。感熱紙に印刷して送ったので、「重い」って編集者の人に文句を言われました(笑)。 林:私が大学を卒業したころ、中沢けいさんが「海を感じる時」で群像新人文学賞をとって、高校生で小説が書けるんだ、賞もとれるんだ、私も書いてみようと思って書いてみたんだけど、10枚も書けませんでしたよ(笑)。もちろん才能の問題もあるけど、集中力と「必ず完成させるんだ」という強い意志がないと、100枚も書けないと思う。 綿矢:「自分の人生がかかってるんだ」みたいな切羽詰まった感じがあったからできたんだと思います。その後も勢いだけで書いてたから、小説をどう書いたらいいのかわからなくて、ひたすら読むばっかりで自分は書けないというときもあって、難しい職業だなと思いました。 林:ご両親は本を読む方だったんですか。 綿矢:そんなに本が好きというわけじゃなかったんですけど、「本代だけはお小遣いとは別にいくらでも出してあげる」と言われていて、それで本が趣味になったという感じです。 林:素晴らしいです。 綿矢:古本屋に行って、自分で好きな本を買ってきて読んでました。 林:京都育ちですよね。京都はしょっちゅういろんな展覧会をやっていますし、寺院もありますが、ああいうものに触れる少女だったんですか。 綿矢:高校生のときは外出があまり好きではなくて、京都のお寺を巡ったりはしたことありませんでした。家で本や漫画を読んだり、テレビドラマを見たりして、京都の文化には疎くて。内向的なタイプだったので、東京に出てきたときにいきなり一人暮らしが始まって、すごく大変でした。 林:しかも19歳で芥川賞をとってすごい騒ぎになったから、内向的な少女としては大変だったでしょう。 綿矢:昼間は大学で授業を受けて、夜に書こうと思うんですけど、プレッシャーもあってぜんぜん書けませんでした。 林:今はお子さんがいるから、夜、出かけたりもしませんよね。 綿矢:そうですね。独身時代は同年代の小説を書いてる人たちと遊んだりしていたので、けっこう外に出てましたけど、今、それをしたら育児放棄になるので(笑)。 林:ご主人はお役人ですよね。どこで知り合ったんですか。 綿矢:『勝手にふるえてろ』を書くちょっと前に書いてた小説がボツになって……。 林:えっ、ボツになったの? 綿矢:ぜんぜんうまく書けなかったので、ボツになりました。その取材のために理系の大学院生に会わせてほしいと文藝春秋の編集者の人に頼んだら、紹介してくれたのが菌を繁殖させる研究をしていた夫でした。そこから友達づき合いが長くて、その後、結婚しました。だから文藝春秋がキューピッドですね。芥川賞ももらったし、足を向けて寝れないんです(笑)。 林:へーえ、そうなんだ。イケメンですか。 綿矢:私にとっては(笑)。癒やし系というか、雰囲気的には沖縄のシーサーに似てるかな。地黒で笑顔の明るい人です。林先生も出版界とは関係ない方と結婚されたんですよね。 林 そうです。うちも理系で、本も読まないような人がいいなと思って。ご主人、本は読みます? 綿矢:まったくです。 林:うちもそうですよ。それはいいんですけど、理解がなくて、作家がどんなに大変かまったくわかってくれないんです。「なんで出歩いてばっかりいるんだ」「なんで夜、人と会わなきゃいけないんだ」……。 綿矢:女の人は家にいてほしいという感じですか。 林:そう。綿矢さんのご主人は理解あります? 綿矢:「妻として」みたいな厳しい感じはないですけど、お互いの仕事をまったくわかり合えてなくて。私は夫の仕事の話を幼稚園レベルでしかわかってないから、うなずいて聞いてるし、夫もこっちのことぜんぜんわからないので、あまり追及しないですね。新しい世界が広がっておもしろいです。 林:家事は分担しているんですか。 綿矢:そうですね。家事は夫も得意なので、やってもらっています。 林:そこもうちとはまったく違うところですね。 (構成/本誌・直木詩帆) ※週刊朝日  2017年12月29日号より抜粋
林真理子
週刊朝日 2017/12/24 11:30
小島慶子「次男が小学校卒業、親子の感慨深い夜」
小島慶子 小島慶子
小島慶子「次男が小学校卒業、親子の感慨深い夜」
小島慶子(こじま・けいこ)/タレント、エッセイスト。1972年生まれ。家族のいるオーストラリアと日本との往復の日々。近著に小説『ホライズン』(文藝春秋)。最新刊は『るるらいらい 日豪往復出稼ぎ日記』(講談社) オーストラリアでは、12月が学年末(※写真はイメージ)  タレントでエッセイストの小島慶子さんが「AERA」で連載する「幸複のススメ!」をお届けします。多くの原稿を抱え、夫と息子たちが住むオーストラリアと、仕事のある日本とを往復する小島さん。日々の暮らしの中から生まれる思いを綴ります。 *  *  *  オーストラリアでは、12月が学年末。我が家では次男が小学校を卒業しました。パースに引っ越して2年目の4年生から転入した地元の公立小です。いい友達がたくさんできました。  去年のはじめ、次男は何を思ったか「僕サッカーやめて勉強する」と、学区外の公立ハイスクールの試験を受けることを決断。それから1年間頑張った甲斐あって志望校に合格したものの、地元の学校に進む仲間たちとお別れするのがにわかに寂しくなり、どっちに行こうかと悩んでいました。結局地元校には進まない決断をしたので、仲良しのみんなといるのもこれが最後です。2月からは、新しい仲間との生活が始まります。  私も中学から遠くの学校に進んだので、その気持ちはちょっとわかる気がします。好きな子と会えなくなるのは寂しかったなあ。  卒業式の日のスケジュールは盛りだくさんです。朝から学校の集会ホールで式典をし、終了後は校庭で大学生みたいな帽子投げのセレモニー。そのあとバスに乗ってみんなでボウリングに行き、レストランでランチです。一旦帰宅し、夕方からは学校で開かれるダンスパーティーに繰り出します。ボウリングとランチ代で60ドル(約5100円)を事前に学校に納めました。  次男の友達のお母さんが「ダンスパーティーに行く前に、仲良しのみんなで貸しリムジンに乗らない?」と誘ってくれました。シティーをひと回りドライブするプランです。一人30ドル(約2550円)は高いけど、お祝いだからいいか。車の中では案の定、大はしゃぎしたそうです。  よれた制服のポロシャツから新品の柄シャツに着替えて、ちょっとおしゃれした次男。照明を落とし、すっかりディスコ化した集会ホールで誰かと手を繋いで踊りながら、切ない思いをしたのかな。  親もまた、ついに我が家から小学生がいなくなったのかと、感慨深い夜でした。 ※AERA 2017年12月25日号
小島慶子
AERA 2017/12/23 07:00
渡辺麻友「卒業というより人間1年目」アイドルの先に見据える未来とは?
渡辺麻友「卒業というより人間1年目」アイドルの先に見据える未来とは?
(撮影/門間新弥) 卒業は10月のコンサートを経て、「やっと実感がわいてきた」という。カメラの前でくるくると表情を変える姿はまさに王道アイドルだが、清楚で可憐な雰囲気からは想像もつかないほど、自分に厳しくストイックな性格だ(撮影/門間新弥)  渡辺麻友が今年いっぱいでAKB48を卒業することが決まっている。これからは芝居と歌に力を入れる。芝居は「ど下手」というが、等身大ではなく、振り切れた役に挑みたいと語った。 *  *  *  6月の第9回AKB48選抜総選挙で、渡辺麻友(23)は今年いっぱいの活動をもってAKB48を卒業すると発表した。2007年にデビューして以来、総選挙には一度も欠かさず参加。14年には初の1位を手にし、今年は3年ぶりの王座奪還を目指していたが、結果は2位に終わった。 ──卒業はいつ頃から考えていたんですか?  ここ2年くらいずっと考えていました。考えに考えて今年3月、自分で自分のおしりをたたくような感じで決断して、「今年いっぱいで卒業させていただきたいです」と、秋元(康・総合プロデューサー)さんにLINEでメッセージを送りました。秋元さんも「はい、分かりました」という感じで。  とくに誰にも相談していません。あんまり人に相談することが得意じゃなくて……。メンバーでは唯一、ゆきりん(柏木由紀)には事前に話してたんですけど、それも自分で決めた後の報告でした。家族にもさらっと言いました。向こうも「まぁ、本人が決めたことなら」というくらいの反応で。  12歳でAKB48に入って、人生の半分を過ごしてきました。AKB48でやり残したことはありません。総選挙でもう一度、1位に? もう大丈夫です(笑)。今年も本当は出るつもりはなかったですし、未練はありません。 ──型破りなアイドル像が求められる風潮の中、「アイドルサイボーグ」と言われるほどの王道を歩み続けました。  私にできることをひたすらコツコツやってきただけです。ぶっちゃけたり、プライベートを切り売りしたりするのが本当に苦手で。でも、「それだけだと面白みがない」と言われたので、もっと素の感じも出していけたらいいなぁと思って努力はしてみました。  初のソロアルバム「Best Regards!」が12月20日に発売。派生ユニットの「渡り廊下走り隊」時代も含めてすべてのソロ曲を収録し、歌手・渡辺麻友の軌跡を楽しめる。一方、16年に米ロサンゼルスで撮影した特典映像には、王道アイドルからほど遠い“塩対応”まゆゆの姿も。  見知らぬ土地で、危機迫る状況だったので。必死で、ついあんな感じになっちゃいました。素に近いものがあるかもしれません。  アルバムには古い曲も最新の曲も入っています。10代の幼い感じから、歌声の変化を楽しんでもらえるんじゃないかと思います。中でも、ダブル主演したドラマ「戦う!書店ガール」(フジテレビ系)の主題歌にもなった「出逢いの続き」は大好きな曲です。ドラマを深夜に書店で撮影して、朝からはAKB48の仕事をして……と大変だったけどすごく成長できた時期だったなと思い出します。 ──今後はどんな活動に力を入れたいですか。  お芝居と歌を頑張りたいです。聴いていただく方の魂に響くような、より深みのある歌をうたえるようになりたい。  肩書ですか? AKB48をやめるので「アイドル」ではないです。でも「女優」というのもなんだか違うような。そんな力量は兼ね備えていないので、自分からは言えないです。ひどい芝居、ど下手ですので。修業に行きたいです。  まずは豊富な人生経験でしょうか。AKB48にいたので、人間らしい生き方をしてきていないんです。批判しているわけではなく、私自身がAKB48として、アイドルとして生きていくことを選んだので、そうすると人と接することがおろそかになったり、遮断せざるを得なかったりして……。自分の意思でそうしてきたので。うーん、難しいですね。これは当事者にしかわからない感覚で、他人にはとても理解してもらえないですし、言葉では説明しようもないんですけど。  だから私の感覚では、卒業というより、人間1年目なんです。メンバー、スタッフさん、ファンのみなさん、いつも大勢の人と接してきましたけど、それはアイドルとして。そうじゃなく、これからは人間として人と向き合う時間を増やしたい。それをお芝居に生かしていきたいなと思っています。これまでは等身大の役が多かったので、サイコパスとか全く正反対の、振り切れた役もやってみたいです。 ──恋愛も解禁ですか?  もちろん。結婚願望もありますよ。でも今は仕事に熱中しすぎてタイミングがなさそうだなと思います。不器用なので同時に二つのことができないんです。だからこの11年間、恋愛する暇なんて1秒もなかった。なんでも器用にできるようになりたいです。  基本、生き急いでるので。「まったり休んでる余裕はないだろ、もっとレベル上げなきゃ」と。仕事7:プライベート3くらいが理想なんですけど、無理やり休むようにしないと、プライベートな時間もボイストレーニングとかピラティスとか、仕事につながるレッスンを入れちゃう。完全なオフにならないんです。 「焦り過ぎだよ」って、よく言われます。でも、今の私にはぜんぜん何もないので、それくらいの努力をしないと一線で活躍されている方たちにいつまでも追いつけない。1分1秒がもったいない、という生き方はこれからも変わらないと思います。 (構成/編集部・竹下郁子) ※AERA 2017年12月25日号
AERA 2017/12/21 16:00
元猿岩石の森脇が明かした最近、10年ぶりに再会した大物芸能人とは?
元猿岩石の森脇が明かした最近、10年ぶりに再会した大物芸能人とは?
森脇和成(もりわき・かずなり)/1974年8月1日生まれ、広島県出身。1994年に有吉弘行さんと猿岩石結成。「進め!電波少年」のユーラシア大陸横断ヒッチハイクの旅で、全国デビュー。ヒット曲「白い雲のように」はミリオンセラー。芸能界引退後は、実業家、会社員を経験し、2015年より役者として活動開始(撮影/新津勇樹) 「進め!電波少年」の名物企画、ユーラシア大陸横断ヒッチハイクから20年以上経過したが、有吉弘行氏とコンビを組んでいた元猿岩石の森脇和成さん(43)は今、どうしているのか?  有吉さんと森脇さんが猿岩石を結成したのは今から20年以上前だ。  ヒッチハイクの旅で、世に知られることとなり、歌手デビューを果たしたりとその人気の勢いは凄まじいものだった。しかし猿岩石ブームが落ち着くと、その後は芸能界から離れ、実業家やサラリーマンを経験。  現在は、舞台を中心に役者活動をしていた。森脇さんの近居をインタビューした。 「ネガティブ人間で出不精」と称する森脇さん。  自宅にいるときはアニメを片っ端から見ているという。そんな森脇さんも、誘いがあれば断れないという性格で、役者関係や会社員時代の上司と飲みに行くこともあるという。ちなみに有吉さんや電波少年時代のメンバーとの交流に関しては、ほとんどないという。 「ドロンズの大島さんとは、今でもSNSでつながっていますけどね」  しかし、ここ最近、大物との再会を果たした。それは、 「爆風スランプさんです。しかも、中野さんと河合さんのお二人に」  爆風スランプといえば、ヒッチハイクする猿岩石のために「旅人よ~The Longest Journey」という応援歌を作ってくれた。しかも、サンプラザ中野さんは、ヒッチハイクでロンドンにゴールした際にも、彼らの目の前で熱唱している。  そんなゆかりある人物との再会。それは、共通の知人を介して実現したという。 「めったに自分から誘うようなタイプではないんですが、僕からお願いして実現しました」  実に10年振りの再会だったといい、その夜はヒッチハイクの話を肴に酒を酌み交わす大賑わいの宴だったのかと思いきや「ずっと、動物の会話をしていましたね。しかも、ランチです。それで2時間くらいしたら、じゃあまたねって感じで解散して、全くヒッチハイクの話は出ませんでしたよ(笑)。なんか、不思議とすげー久しぶりだね、っていう感じじゃなかったですね」  平日の昼間に、爆風スランプの2人と森脇さんがランチとはなかなかの絵である。しかも、ヒッチハイクで駆け付けた時の場所にちなみ、インド料理屋。そして会話の内容がほとんど動物の話とは。熱いエールを届ける爆風スランプの2人のイメージだけあって、その場では森脇さんの胸を熱くするような魂の叫びが飛び交っていると思いきや、その意外性に言葉が出なかった記者。だが、それだけ心が通い合っている関係性なのかもしれないと感じた。  年末に森脇さんが出演する舞台は、クリスマスを題材にしたファンタジーコメディーだ。森脇さんから舞台の見どころを伺った。 「華やかなクリスマスの裏側では、色んな思いをしている人たちがいるのも事実。そんな、もう一つの夜に光りを当てた舞台です。感動あり、笑いありで、老若男女問わず楽しめる舞台です」  森脇さんは元々、芝居には興味があったという。 「お客さんの反応が加わって、一つの芝居になるという一体感が好きで。それに、色んな役柄に入り込めるのも、魅力ですかね。多分、僕は台本がある仕事が向いていると思うんです。だから演出家さんに言われたとおり忠実にやるというのを心掛けています」  以前にも、ミュージカルや舞台、映像などを経験したなかで、自分はバラエティーで場の空気を読んで喋るよりも、台本を読み込んで、じっくり作りこんでいく作業が向いていると実感したという。また、アドリブなどはせずに、台本通りにやるのことをポリシーとしている。気になる今回の芝居は、コメディーもので役どころは刑事のボス役だという。 「有難いことに、最近舞台では主役級の役を頂いているんですが、本当のことを言うと、もっと小物の役をやりたいんです(笑)。というか、脇役で物語を盛り上げていくような、そんな存在になりたいんです」  シリアスからコメディーまで演じられる個性派俳優を目指しているという。 ■ユーチューバーとしてのもう一つの顔  役者とは別に、最近はユーチューバーとしての活動も話題を呼んでいる。 「きっかけは、街を歩いていた時に、ラファエルさんという有名なユーチューバーに声をかけられて、それで話を聞いたら、え?っそんなに稼げるのってなって」  その時の出会いにより、森脇さんはユーチューバーとしての活動を始める。この半年間で、「自身の知名度調査」と称し渋谷で若者に質問したり、猿岩石の名曲「白い雲のように」をカラオケのアカペラで採点、さらにはオーディションで相方を募り、実家の広島までヒッチハイクしながら帰る旅など、多くの企画を敢行してきた。 「でも、あくまでも本業ではなくて、生活の糧のためにやっているんですよ。正直、役者だけだとまだ食べていけないので。それにいつ、どこで、何をやってもいいというセルフプロデュースのスタイルが気にいってるんです」  ユーチューバーを開始した当初よりは、減ってきたというが、現在もチャンネル登録者は6万人後半台を維持している。HIKAKINさん(チャンネル登録535万人)やラファエルさん(160万人)には、まだまだ及ばないが、当面の目標は10万人で、最終的には100万人を目指すという。  ヒッチハイク後、芸人、実業家、サラリーマン、そして、ユーチューバーや役者として活動の場を移り替えてきた森脇さん。ヒッチハイクによって、その後の人生の酸いも甘いも経験してきたはずだ。 「今振り返ると、ヒッチハイクをして良かったです。多分、20年前に戻っても、やっていましたよ、というかあの時は、他に選択肢はなかったので」 (文・新津勇樹)
dot. 2017/12/21 11:30
プロポーズは…本邦初公開、野宮真貴の夫は意外な人物?
中村千晶 中村千晶
プロポーズは…本邦初公開、野宮真貴の夫は意外な人物?
いま明かされる結婚生活とは?(※写真はイメージ)  世界的に有名なバンド「ピチカート・ファイヴ」の元ボーカリストとして知られる妻・野宮真貴さん。最も多忙を極めた1990年代半ばに結婚&出産していたことは、意外に知られていない。このたび本邦初公開となる夫・昼間徹史さんが登場! ソニー・ミュージックエンタテインメントで、元ちとせやアンジェラ・アキを見いだした昼間さんと野宮さんのいま明かされる結婚生活とは──!? *  *  * 妻:彼との出会いは93年、フジテレビの「ウゴウゴルーガ2号」という番組です。そのテーマ曲をピチカート・ファイヴが依頼されて、それでできたのが「東京は夜の七時」。 夫:僕は新卒でフジテレビに入社して2年目。ディレクターの傍らたまたまフランス語ができたので、シュールくんという自称フランス人のキャラクターで声の出演もした。それで彼女と何回か会っていたんです。 妻:あの番組は社員の人たちがみんなで声を担当していたんだよね。 ――最高にクールでオシャレなバンドの歌姫と、一介の(失礼!)テレビ局社員。しかも年齢差は七つ。いったい、どうやって付き合うことになったのか? 妻:初対面で、「爽やかな青年だな!」と思ったんです。私、それまでミュージシャンとしか付き合ったことがなかったから、新鮮に感じたんですね。でも自分から電話番号聞くのもアレなんで、うまいこと根回しをして、彼のほうから言わせるようにした(笑)。 夫:周囲のみんなが僕たちをくっつけよう、みたいに動いてくれたんだよね。 妻:そうそう。私が「なんか彼、いいと思うんだよね~」と言ったら、みんなが協力してくれた。 夫:僕にとっては初対面から野宮さんはいわゆる、CDのジャケット写真からイメージする人とは違っていた。みなさん、スーパーモデルのような人だと思ってるみたいだけど(笑)。 ――ジャケット写真の妻といえば、真っ赤な口紅にキリッとひかれたアイライン。隙なく完璧な女性、というイメージだ。 夫:たしかにオシャレではあったけれど、物腰が柔らかくて、優しい人だなあと思ったんです。 妻:私、全然モテなかったので、「いいな」と思ったら自分から行動しないと、何も起こらないんですよ。でも出会って1カ月で彼は自分探しに旅立っちゃったんです。私もワールドツアーに行くことになったので「じゃあ、ロンドンで会おうね」って。 ――ツアーの先々で二人は落ち合い、一緒に行動した。会えないときは日々の出来事を手紙で送り合った。 妻:プロポーズもワールドツアーの最中だったね。 夫:そう。パリのエッフェル塔で。そこはキメました。 妻:でも、そのあと、彼は「まだ自分を探す」って旅に出かけちゃって。 夫:96年に帰国し、子どもを授かったので、自分探しは終わり。結局、自分は見つけられずに奥さんを見つけたってことですね(笑)。 妻:当時、彼は無職だったけど、まあいいかと。結果的に育児も手伝ってもらえて助かりました。 夫:野宮さんの素晴らしいところは、男性に依存せずに生きていて、対等のパートナーとして生活しているところです。 ――妻は当時、結婚も出産も一切公表していなかった。 妻:そう。発表をするまでもない、普通のことだと思ってたから。妊娠5カ月までは全国ツアーをして、7カ月までCM撮影やレコーディングもしていました。 夫:当時は年齢も非公開で、プライベートを出していなかったしね。 妻:産休は3カ月くらいだったかな。さみしいときもありましたよ。ワールドツアーで1カ月半会えないと、その間に息子も成長しちゃってて。お互いに一瞬、「誰?」みたいな。 夫:僕はその後、ソニー・ミュージックに就職してドリカムやジュディマリなどを担当しました。でも野宮さんとはレコード会社が違うから、仕事での接点はなかった。 ――ファッションアイコンとして圧倒的な存在感を放つ妻。実生活ではどんな感じなのだろう──? 夫:いや、野宮さんって、生活のなかで邪魔にならないんですよ。 妻:なあにそれ?(笑) 夫:まず体が細いじゃないですか。で、ベッドの端のほうに寝てるんです。「なんで? こんなにスペースあるのに?」って。 妻:端っこが好きなんです。 夫:あと、「これをやる!」とか計画を立てるタイプじゃない。基本的に流れる柳のような人です。ふわ~っとして。でも、すごく芯は強い。 妻:私たちはそれぞれ得意なもの、苦手なものが違って、うまく補い合っているんです。私は料理が得意じゃないけど、彼は上手だし。 夫:でも僕は食器洗いや洗濯が嫌い。 妻:私はあまり社交的じゃないんだけど、彼はすごく社交的で人づきあいもうまい。私、人の名前も全然覚えられないし。 夫:僕はそれ得意。僕らは好きなこともまったく違う。僕は運動が好きだけど。 妻:私、運動しませんから。 夫:僕はだいたい走ってれば幸せで、5年くらい前からマラソンをやっている。 妻:パリマラソンも2回行ったね。彼は語学ができるから、海外でも助かります。普段外食するときも、店選びもメニューもすべて仕切ってくれるからラク。 夫:それ、うちの息子もうまいよね。 妻:うまいうまい。 ※野宮真貴は「ほどほど」がうまくいっている? プロの夫の見立てへつづく (聞き手・中村千晶) ※週刊朝日 2017年12月22日号より抜粋
週刊朝日 2017/12/19 11:30
“M‐1最下位”芸人がとろサーモンを本気で祝福できるワケ
鈴木おさむ 鈴木おさむ
“M‐1最下位”芸人がとろサーモンを本気で祝福できるワケ
鈴木おさむ/放送作家。1972年生まれ。高校時代に放送作家を志し、19歳で放送作家デビュー。多数の人気バラエティーの構成を手掛けるほか、映画・ドラマの脚本、エッセイや小説の執筆、ラジオパーソナリティー、舞台の作・演出など多岐にわたり活躍 2010年の優勝コンビ、笑い飯。毎年、新しいスターが出るM-1グランプリ。(写真は2010年)(c)朝日新聞社  放送作家・鈴木おさむ氏の『週刊朝日』連載、『1970年代生まれの団ジュニたちへ』。今回は「M-1グランプリ」について。 *  *  *  世の中には芸能界に入るためのオーディションはたくさんある。だが、そのオーディションで受かったり、優勝しても、即座にブレークすることはない。今のテレビで一夜にして、人の人生を大きく変えるのは、M‐1ぐらいだろう。  M‐1グランプリ2017で、とろサーモンが優勝した。結成15年。ラストイヤーとなる出場での優勝。決勝に残ったのはミキに和牛。このキラキラして勢いに乗ってる2組と、泥水をすすりまくったとろサーモン。  僕がお酒を飲みに行く芸人さんの中には、40歳過ぎて売れてない芸人さんは結構いる。みんなおもしろいが売れてない。  M‐1はコンビを組んでから15年以内のコンビに出場権があるが、芸歴15年未満の芸人さんはM‐1という目標がある。だが、僕の周りにいる芸人さんはそこに出るという目標を持てないのだ。  数年前、M‐1に出たあるコンビがいた。漫才の腕を磨き続けて、いつか絶対M‐1の決勝に出て売れてやると意気込んだ。気合を入れて臨んだ準決勝。そこで勝ち抜けば、テレビ放送のある決勝に出られる。だが、そのコンビのボケが一瞬だけ噛んでしまった。M‐1の会場にはスポーツ観戦的な緊張感もある。一瞬の噛みで、お客も「噛んだ」って思ってしまう。  そのたった一瞬の噛みでペースを壊した彼らは、その年、決勝には出られなかった。その翌年、彼らは見事、決勝に出た。だが、決勝に出た中で、最下位という結果だった。M‐1の決勝に出たことで、漫才の営業は増えただろう。  だけど、テレビの仕事が増えることはなかった。そして、芸歴も20年に近づき、彼らは日々漫才のネタを作り続け、腕を磨いている。  もうM‐1に出られない。そんな彼らが、今後、どうやってブレークのきっかけをつかんでいくのかはわからないが。「いいネタを作れば裏切らない」と信じ、作っている。  僕がよく行く五反田のスナックがある。そこのマスターは15年以上、芸人をやって辞めた男だ。そんな彼の店には、売れてない芸人さんたちもやってくる。芸歴20年以上たち、M‐1という目標もなくなった芸人さんたちを、マスターはどんな思いで見ているのか?多分、マスターは辞めて5年たった今でも、「もう一度やりたい」という思いが心の隅にあるだろうし、それを必死で打ち消しながら、スナックに立っている気がする。  とろサーモンの久保田に優勝した2日後、用があってLINEをしたら、返信には「嘘みたいなスケジュールで、まだ信じられなく働いております」と書いてあった。そのあとに「野良犬で15年ずっと外で生き抜いた汚い犬が急にスタジオという室内で飼われだすのは免疫ついてないですわ」と書いてあった。ギリギリ間に合ったとろサーモン。  M‐1の行われた夜、そのスナックで、M‐1で最下位だったコンビのボケに会った。ハイボールを飲みながら「とろサーモン、優勝できてよかったな~」。そう呟いた彼の言葉は本音だろうし、そこに妬みもない。そこでチャンスを掴めず、もがき続けているからこそ本気で祝えるのだろう。 ※週刊朝日 2017年12月22日号
鈴木おさむ
週刊朝日 2017/12/14 16:00
ミッツ・マングローブ「21世紀型トレンディー俳優・濱田岳の総合商社力」
ミッツ・マングローブ ミッツ・マングローブ
ミッツ・マングローブ「21世紀型トレンディー俳優・濱田岳の総合商社力」
ミッツ・マングローブ/1975年、横浜市生まれ。慶應義塾大学卒業後、英国留学を経て2000年にドラァグクイーンとしてデビュー。現在「スポーツ酒場~語り亭~」「5時に夢中!」などのテレビ番組に出演中。音楽ユニット「星屑スキャット」としても活動する ミッツ・マングローブ「21世紀型トレンディー俳優・濱田岳の総合商社力」(※写真はイメージ)  ドラァグクイーンとしてデビューし、テレビなどで活躍中のミッツ・マングローブさんの本誌連載「アイドルを性(さが)せ」。今回は「俳優・濱田岳」を取り上げる。 *  *  *  こうも寒くなってくると、仕事以外は家に籠もる日が多くなってきます。熱々のピザを出前してもらい、もっぱら『80,sごっこ』に勤しむのが冬の楽しみです。例えば家の中を『1988年冬』に設定したら、かける音楽もそれ以前のものに限定し、テレビ画面には当時のドラマや歌番組のビデオを延々流す。できれば携帯もリンリン電話型のイヤホンを接続してムードを高めます。  今夜ももれなく昭和63年冬モードの我が家。三上博史主演のドラマ『君が嘘をついた』(出演:麻生祐未・鈴木保奈美・工藤静香ほか)を横目にこの原稿を書いているわけですが、先ほどリモコンを押し間違えてしまった際、現在のテレビ画面に映っていたのが濱田岳さんでした。超トレンディーな三上博史から『21世紀のリアリティ王・濱田岳』へのお茶の間タイムトリップは、なかなか愕然とさせられます。三上博史がバブル時代における象徴的俳優であったことは紛れもない事実ですが、一方で2010年代後半のそれはというと、案外『濱田岳』なんじゃないかという点での『愕然』です。今のテレビドラマは、主役のイケメン俳優や美人女優よりも、むしろ『濱田岳的』な役者たちの存在感と技巧で出来ている気がします。例えばムロツヨシさん。例えば浅利陽介さん。皆さん有無を言わせぬ上手さと器用さ、そして時代に弄ばれない『非トレンディー的』な立ち位置が重宝され、結果それが今の『トレンド』になっているという点で、『三上博史=濱田岳』の式が成立するわけです。  濱田岳さんを観ていると、かつてテレビ画面の中にあった『ヒヤヒヤ感』をふと忘れてしまうことがあります。それぐらい安定した精神状態で画面と対峙できるのです。ツッコミたくなるような拙さや危うさはもちろん、わざとらしさも暑苦しさもいっさいありません。まるで安心と信頼と実績を一手に担う総合商社のような人です。   ふと想像してしまう時があります。『釣りバカ日誌』だけでなく、『金八先生』も『北の国から』も『寅さん』も、ひょっとすれば『古畑任三郎』も、すべて濱田岳さんが受け継ぐのではないかと。いっそ『機動戦士ガンダム』の実写版もアムロ役・濱田岳で行けそうな気が……。そして仮にそうなったとしても、驚くほど違和感なく受け入れてしまいそうです。この濱田岳的『受け入れられ力』こそ、今の世知辛い時代を生き抜くために必要な最大の強みなのかもしれません。ひとりでも多くに拒絶されない力。  こうなったら濱田岳さんには行けるところまで行って頂きたいものです。ヒヤヒヤしたい時は、いつものように『80,sごっこ』をして三上博史や浅野温子を観られれば私は大丈夫なので。とりあえず月9は濱田岳主演で名作伝承シリーズをやってみてはどうでしょうか? 『東京ラブストーリー』も『101回目のプロポーズ』も『ひとつ屋根の下』も『ロンバケ』も、90年代以降の作品であればどれもすんなりハマると思います。濱田岳&満島ひかりコンビの『101回目のプロポーズ』なんて、リアル過ぎて全然笑えなさそうです。  ちなみに『教師びんびん物語』だけは、トシちゃん演じる徳川龍之介役は『みやぞん』でお願いします。もちろん主題歌『抱きしめてTONIGHT』のカバーもセットで。 ※週刊朝日 2017年12月15日号
ミッツマングローブ
週刊朝日 2017/12/13 16:00
米軍ヘリの窓、普天間第二小に落下 「無言の抵抗」はいつまで続くのか
渡辺豪 渡辺豪
米軍ヘリの窓、普天間第二小に落下 「無言の抵抗」はいつまで続くのか
普天間第二小学校のグラウンドで遊ぶ児童たち。普天間飛行場の米軍機が目前に駐機している=沖縄県宜野湾市の同小学校で。2011年、渡辺豪撮影  12月13日、米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)に隣接する市立普天間第二小学校のグラウンドに、米軍大型輸送ヘリの窓ガラスとみられる部品が落下、現場にいた男子児童1人が軽傷を負った。  筆者は「沖縄タイムス」に記者として在職していた2011年、取材で第二小に通い、「基地の街の子~文集『そてつ』より」という連載記事を執筆した<のちに『私たちの教室からは米軍基地が見えます』(ボーダーインク)として上梓>。  第二小は、沖縄の本土復帰の翌年に当たる1973年度から毎年度、在校生の文集「そてつ」を刊行している。タイトルには逆境を乗り越え、岩をも貫いて生きる蘇鉄のようにたくましく育ってもらいたい、との願いが込められている。  興味をもった筆者は、当時の知念春美校長の許可を得て、数週間かけて過去の「そてつ」を全部読ませてもらった。子どもたちの日常生活をリアルに切り取った、印象深い言葉が並んでいた。予想した通り、毎年必ず「普天間基地」をテーマに取り上げる児童がいた。 「普天間基地」を作文の題材に取り上げた小学生の詩や作文の紹介にとどまらず、「基地の街」で育った子たちが大人になった今、「動かぬ基地」に何を思うのか、じっくり腰を据えて聞きたいと思った。そんな思いから、10編の作文や詩の作者を一軒一軒訪ね歩いて、インタビューしたのが同書だ。当時の取材から印象深い言葉や出来事を紹介したい(年齢、肩書などは取材当時)。 ■黒板の「正」の字に込めた思い  82年度の「そてつ」に、「普天間飛行場」というタイトルの作文を書いた小学5年の女子児童がいた。冒頭だけ紹介する。 「ビューン  ゴゴゴゴゴゴー。」  また、ヘリコプターだ。あっ今私たちの小学校の上をとおった。 「うるさあーい。」  とも言うこともできず、ただ先生の話が一時ストップするだけだ。  そりゃ戦争を始めた日本が悪いけれど、罪のない私たち子どもまでがぎせいになることはないと思います。  四年の時 「うるさあーい、しずかにしろー。」  と、どなったこともあります。もやもやしていた心がすきーとして、なぜだが、むしょうにうれしくなってくるような気分だったのです。 (以下略)  この作文を書いた、少し勝ち気そうな児童は、約30年後も宜野湾市内に暮らし、中学教諭になっていた。40歳で2児の母親でもある女性は、学校でも自宅でも上空に米軍ヘリが旋回し、常に危険にさらされる生活だったと振り返り、こう言った。 「低空飛行は怖かった。中にいる軍人の顔も見える。登下校のときも落ちるんじゃないか、落ちたらどこへ逃げようかという意識が、いつも頭の中をめぐっていました」  第二小時代の授業風景で女性が記憶していたのは、黒板の片隅に書かれた「正」の字だ。当時、教室にはエアコンが未設置で、冬場をのぞき、窓はたいてい開け放たれていた。このため、ダイレクトに米軍機の騒音にさらされ、たびたび授業が中断した。その都度、黒板の端っこに「正」の字で回数を記す担任教諭がいたという。それを見れば、1日の授業で何回中断したかが一目瞭然となった。  普段は声高に「基地被害」を唱えることもない教諭の「無言の抗議」であることを、児童の多くは気付かなかった。だが女性はある日、「何これ?」と教諭に尋ねた。そのとき担任教諭はこう諭したという。 「この数が多ければ多いほど、あなたたちは、よその地域の人と比べてマイナスが大きい、ということになるんだよ」  女性はこのとき初めて、「自分たちにはマイナスのものがあるんだな」と自覚したと振り返った。 ■幻の接触事故  4人の娘も全員、母子2代にわたって第二小育ちの女性(49)からは、5年生のときの授業中の光景として、こんなエピソードを聞いた。  米軍機が学校の上空を通過した際、「ガガガガ」と尋常でない反響音がした。騒音に慣れた児童たちも、このときばかりは、何ごとか、と教室の窓から身を乗り出して屋上を仰いだという。女性はこう語った。 「今思えば、その後、ニュースにもならなかったので、何も起きていなかったのかもしれませんが、あのときは、米軍機の機体が屋上のタンクにでもかすったのだろう、くらいに思っていました」  筆者が驚いたのは、そう思いながら日々をやり過ごしていた、という事実だった。筆者の戸惑いに気付いたのか、女性はこう付言した。 「それぐらい、米軍機が近くを飛ぶのは当たり前なんです」  このインタビューのずっと後、筆者は写真撮影のため第二小の屋上に立ち入らせてもらった。そのとき、四隅に配置されたポールの先端部に赤色灯が取り付けられているのに気付いた。宜野湾市によると、第二小の新校舎建て替え時、基地との距離があまりに近いことに危機感を抱いた。そのため、夜間や天候不良で視界の悪いときなどに米軍機のパイロットの目印となるよう、安全対策の一環として市の判断で据え付けたのだという。女性の記憶に残る「幻の接触事故」は、この赤色灯のおかげで「幻」で済んだ可能性もあったのかもしれない。 ■不吉な言葉は口に出せなかった 「そてつ」には、各号の巻頭で校長がメッセージを寄せるのが習わしになっている。86年度に書かれた以下の、テンポのよい文体が印象に残った。 普天間第二小学校は 校舎が古く タイルがはげて きたない と、人はいいます でも、毎日、毎日 みがきますから、セメントは ピカピカ光ってきます。 (中略) 普天間第二小学校は 基地のそばで 飛行機の音が うるさい と、人はいいます そうなんですけど でも、 どうしましょう  この文章を書いた当時の校長に、在職時の記憶を尋ねると、こう話してくれた。 「米軍機の離着陸時には、教室の窓ガラスがガタガタと揺れるような状態でした。あんなに基地と隣接しているのはどう考えてもおかしい。もし、米軍機が墜落したら、と心配する声は当時のPTAの人たちにもありましたが、私は仮定の話だとしても、そんな不吉なことを口にしたくはなかった。心に思っていても決して言葉にはできなかった。それだけは今も記憶にあります」 ■聞こえなくても…  最も心に刺さった作文がある。タイトルは「聞けない耳 きけない口」だ。5年生の女子児童が書いた。  校舎すれすれに飛行機が飛んだ。みんなは、耳をおさえた。私にもその音が聞こえた。かすかではあるが、たしかに聞こえたのだ。これが音なのだ。とび上がるほどうれしかった。  身体的不自由な人と言うと、いろいろある。手足が不自由、目が不自由、耳や口が不自由。私はその中の耳や口が不自由である。でも、私はくじけていない。くじけても何もならんと思うからだ。 (以下略)  79年度の「そてつ」にこの文を書いた女性を探すのには最も苦労した。細い糸をたぐるようにしてようやくたどり着いたのは、義妹に当たる女性(41)だった。職場を訪ね、作文のコピーを見てもらうと、読み始めて間もなく、女性はハンカチを取り出し、目頭を押さえた。 「頑張り屋の姉らしさが出ていますね。今もこのままの人です」  そう言って仲介してくれた。  作文を書いた女性は43歳。3人の子どもをもつシングルマザーだった。沖縄県内のスーパーで商品の出し入れの仕事をしている。メールでのやり取りを経て、手話の上手な10歳の次女を伴って面談に応じてくれた。想像した通り、聡明(そうめい)そうで活力に満ちた目が印象的な人だった。第二小時代の思い出について尋ねると、あふれ出るように語ってくれた。  校庭で友だちと鬼ごっこをしているとき、みんなが急にしゃがみこんだり、耳をふさいだりするので、米軍機が上空を通過するのが分かった、という。米軍機の着陸する場面が当たり前のように教室の窓から見えたことや、米軍機の騒音のため何度も授業が中断したことも…そして、これらが今も変わらないことに女性は心を痛めていた。  第二小へ通ううち、当時の知念校長のはからいで学校給食を食べさせてもらったことがある。そのとき、校内放送でクラシック音楽が流れてきた。第二小の昼食時間のBGMはクラシックと決まっているそうだ。 「いい音楽を子どもたちの耳に触れさせ、心にゆとりをもたせたい」という知念校長の発案だった。いかに劣悪な環境に置かれようと、子どもたちの心の安寧に最善を尽くす――。知念校長の教育者としての覚悟と誇り、そして「無言の抵抗」が込められているように感じられた。  当たり前のことだが、地元の人たちにとって「基地被害」は、96年の日米の普天間返還合意後に始まった問題ではない。96年というのは、全国メディアが「普天間問題」というかたちで「ニュース」として発信し始めた年であって、地元住民には単なる通過点にすぎない。そして今この瞬間も、子どもたちが駆け回る校庭のすぐ真上を米軍機が飛び交っている。そんな目を覆いたくなる現実を痛感する取材となった。(AERA編集部・渡辺豪) <おことわり…沖縄タイムス連載時や、『私たちの教室からは米軍基地が見えます』(ボーダーインク)に収容した際はすべて実名で紹介しましたが、今回は当事者にネット掲載の許可をあらためて得る時間がなかったため匿名としました> ※AERAオンライン限定記事
沖縄問題
AERA 2017/12/13 00:00
地域住民がお金を出し合って病院を設立… 徳洲会の光と影
地域住民がお金を出し合って病院を設立… 徳洲会の光と影
311床で職員数は約500人。ロビーは狭く、建物の老朽化が進んだため、2018年5月に新築移転する予定(撮影/山岡淳一郎)  団塊の世代が後期高齢者となる「2025年問題」に直面する日本。厚生労働省は「地域包括ケアシステム」を掲げ、自治体の尻を叩く。医療と介護などが連携した仕組みが求められる中、地域の住民が組合費を出し合ってつくった病院がある。ノンフィクション作家・山岡淳一郎氏がレポートする。 *  *  *    東京都心から北へ約60キロ、羽生総合病院(311床、以下羽生病院)には診療開始前から患者が詰めかけていた。人口約5万5千人の埼玉県羽生市で総合病院はここだけだ。利根川の向こうの群馬県館林市からも患者が来る。年間約3千台の救急車を受け入れる。医療が手薄な地方都市の“命綱”である。  病院長の松本裕史(59)は、午前8時に各部門長の診療報告を受け、朝礼で短い指示を出した。続けて事務長と病院運営の打ち合わせを行う。  その間に訪問看護ステーションから連絡が入り、「僕が執刀した患者さんだから、往診に行くよ」と答えた。松本は院長、胸部・消化器外科医、さらに訪問診療医という三つの顔を持つ。 午前9時、診療開始。羽生病院の忙しい一日が幕をあける。松本は語る。 「院長として14年前に赴任して以来、手術も、往診もやってきました。病院で治療した患者さんを、退院後も介護ケア、在宅診療などで切れ目なくお世話する。当初から徳田虎雄前理事長が、そう方針を掲げ、実践してきました」  事実、羽生病院を中核に介護老人保健施設「あいの郷」、3カ所の「ふれあいクリニック」、介護支援センターなどがネットワークを形成。シームレスな医療、介護サービスを展開している。 ●青写真と現実のギャップ 難しい患者「情報」の共有化  近年、約650万人の団塊の世代が後期高齢者となる「2025年問題」がクローズアップされてきた。超高齢化社会への突入を前に、厚生労働省は「病院から地域へ」を掲げ、「地域包括ケアシステム」の構築を推奨する。  厚労省は中学校区程度の生活圏域で30分以内に住民が必要な医療、介護、生活支援を受けられる体制を整えるよう自治体の尻を叩く。羽生病院を基軸とする羽生市の取り組みは、地域包括ケアのモデル事例に入っている。  だが、官僚が描いた青写真と現実のギャップも横たわる。一例が患者の「情報」の共有化である。地域包括ケアの質は情報が左右する。ひとりの患者の病歴や治療、介護の情報が病院や診療所、介護施設などで共有されてこそ切れ目のないケアが可能となる。  けれども、カルテひとつとっても地域の診療所と病院が双方向で共有しているとは言い難い。松本が指摘する。 「たとえば救急の患者さんの場合、ふだんの血圧はどうか、糖尿ではないか、検査結果はどうか、かかりつけ医のデータがほしい。私たちのグループ内では、いち早く電子カルテで診療所や介護施設、在宅診療部門などと双方向ですべて共有し、必要に応じて取り出せるようにしました。でも他の開業医とはまだ難しい。情報の壁があります」  そもそも羽生病院は、厚労省の制度設計を追いかけて地域と結びついたのではない。住民のニーズに応えているうちに現在の形ができたようだ。  老健施設「あいの郷」は、羽生病院から車で5分のところにある。事務長の勇仁(いさみひとし)は「近さ」の利点をこう述べる。 「施設にはドクターが1人いますが、入所者さんの容体の急変にも十分、救急対応できます。羽生病院を退院して、こちらに入っている方もいます。病院との連携は大きいですね」  素朴な疑問が頭をもたげる。なぜ羽生病院は地域に密着できたのだろう。疑問を解く鍵は「出自」にある。じつは、羽生病院と関連施設の運営母体は、医療法人ではなく、「埼玉医療生活協同組合」である。地域住民が、お金を出して組合に加入し、運営する組織だ。  徳洲会は埼玉医療生協の立ち上げに深くかかわり、医療、介護事業を切り盛りしてきた。その来歴に地域密着のドラマが潜んでいる。話は、1980年代、医療生協設立前夜にさかのぼる。  82年2月、徳田は「早く、早く」と秘書に猛スピードで車を運転させ、羽生市内の集会をハシゴしていた。  羽生では交通事故で息子を亡くした父親が、「救急医療が実現すれば救える命がある」と総合病院の誘致に熱心だった。しかし、地元医師会の猛反対で、膠着状態が続く。徳洲会は住民側に医療生協の設立を提案し、若手職員数十人を羽生に送り込んだ。 ●抗う外部から招かれた院長 徳洲会からの独立もくろむ  若い職員は、研修所で雑魚寝の合宿をしながら、飛び込みで住民を訪ねて回る。病院建設の意図を説き、ひと口5千円の入会金を払って組合員になってほしいと「営業」をした。半信半疑の住民に「徳田が皆さまに説明をする準備会を開きますので、ぜひ、お越しください」とつなぎとめる。  そして、寒風吹きすさぶ日に市内十数カ所で車座集会が企画された。徳田は「急げ、急げ」と秘書に催促し、住民と対面して回ったのである。  行く先々で「貧乏人も金持ちも関係ない。生命だけは平等だ」と力説し、住民の心をつかんだ。医師会の反対を抑えて医療生協設立の機運が高まった。当時、若手職員を指導した埼玉医療生協専務理事、中川和喜は、住民を巻き込んだ活動の「副産物」について、こう回想する。 「いきなり見ず知らずのお宅を訪ねて、5千円出して医療生協に入ってくださいと頼むわけです。緊張しますよ。門前払いを食うのは当たり前。だけど病院をつくりたい。その思いが住民の皆さんに通じるのを徳田さんは見ていて、『これだっ』と選挙に出る腹を固めた。このやり方で選挙運動もやろう、と。ローラー作戦で一軒ずつ回って懐に飛び込む方法を見つけたんです」  約3万2千人の住民が出資して埼玉医療生協が創設された。医療生協なので徳洲会の名前は冠せられないが、医師である徳田の弟が理事長に就いた。弟は激情型の兄と違って温厚で、紳士然としていた。この弟が夭逝しなければ、徳洲会は違う組織になっていたのではないか、ともいわれる。  83年9月、関東の医療法人から院長を迎え、羽生病院が開院した。各科の医師は院長の人脈で集められる。病院は順調に滑り出したかに見えた。  ところが、「年中無休・24時間診療」「患者からはミカンひとつももらわない」という徳洲会のやり方に外部から招かれた院長は抗う。徳田のコントロールを脱し、独立しようともくろんだ。院長たちは母体の埼玉医療生協の幹部に徳洲会からの脱退をもちかける。  不穏な動きを察した徳田は羽生に急行した。医療生協の意思決定は、組合員の理事会で行われる。徳田は埼玉医療生協の理事会に乗り込み、 「徳洲会を取るか、現状の医者たちを取るか、はっきりしてほしい」  と、鬼の形相で迫った。 ●効力を発揮した議員バッジ 厚生省の対応が変わる  理事会は、医療生協の立ち上げをゼロから支えてきた徳洲会を選んだ。  院長以下、医師全員と事務方トップの専務理事は憤り、84年1月、一斉に辞めた。患者を抱えた病院で、医者が職場放棄したのだからたまらない。羽生病院は空中分解の危機に直面した。  徳田は徳洲会に入職して日の浅い医師を新しい院長に据える。岸和田、沖縄南部、茅ケ崎などのグループ病院から腕利きの医師を応援で送り込み、診療体制を維持した。羽生病院は、あわや内部崩壊の寸前で、踏みとどまる。その後、持ち直し、地域の中核病院に育った。経緯を知る中川は振り返る。 「住民の皆さんの資金で始まった病院ですから、絶対に潰してはならない。応援の医師、看護師、事務職員、必死でした。地域あっての病院、病院あっての地域。貴重な教訓を得ました」  徳田は、行政や医師会との闘いや、古いピラミッド型の医師組織との軋轢(あつれき)を経て、「政治力」の必要性を痛感する。自分が政治力をつければ反発を抑え、病院を建て続けられると読んだ。衆議院選挙に打って出る。83年、86年と落選するが、90年に三度目の正直で当選をはたす。羽生での住民運動は選挙活動の参考になった。  では、国会議員のバッジは、徳田の狙いどおり効力を発揮したのだろうか。徳洲会の元幹部(61)は、こう証言する。 「厚生省の対応が変わりました。徳田は保守系議員で、国政調査権を持っている。邪険にはできない。反感を買ったら昇進できない。役人は保身に入る。政治ってこんなものかと思いました」  当初、徳田は自民党入りを望んだがかなわず、政党の「自由連合」をこしらえる。政策の軸が定まらない自由連合に有力な政治家は集まらず、政党要件を満たすのが精一杯だった。  この自由連合に、徳田は莫大な政治資金を投じた。選挙では大勢の候補者を立て、徳洲会の関連会社を迂回させて巨額の融資を行う。選挙運動には病院の職員を大量に動員した。「政治とカネ」の歪みがたまっていく。  2002年、徳田は全身の筋力が衰える難病、ALS(筋萎縮性側索硬化症)と診断される。  羽生病院の現院長、松本は、徳田がALSの診断を受けて間もないころ、招聘の面接を受けている。群馬大学医学部出身の松本は、三井記念病院、国立がん研究センター、伊勢崎市民病院で経験を積み、徳洲会に招かれた。 ●解体の危機に瀕した徳洲会 徳田一族との関係を絶つ  ある夜、面接で東京・赤坂の徳洲会本部に出向いた。徳田はじめ職員が事務所の床に胡坐をかいて車座にすわり、餃子や春巻き、焼きそばと、料理店で買ったものを分け合って食べていた。 「おお、来たか、一緒に食おうって。びっくりしました(笑)。徳洲会独特、奄美の文化ですかねぇ。徳田さんは、じーっと私の目の奥をのぞきこんで、喋りました。あんな目で見られたのは初めてでした」と松本は述懐する。  2度目の面接で、松本は院長就任を受けた。すると、徳田はこう告げた。 「病院は任せる。好きなようにやれ。これまで僕は院長をクビにしたことはない。ただ、職員が院長をクビにすることはある。部下が、この院長にはついていけないと思ったらクビを切られる。だから、院長は人の3倍働かんといかん。仕事の量と質で勝て」  徳田の忠告はずしんと腹にこたえた。松本は、院長、外科執刀医、そして往診医、3足のわらじを履く決心をした。  地域に密着した羽生の医療は、松本にとって新鮮だった。地道に病院を運営し、新築移転が視野に入ってきた。  その矢先、「徳洲会事件」が起きた。徳田の次男の選挙運動にグループ病院の職員が数百人単位で動員され、あとで手当が支払われていた。公職選挙法違反で関係者10人が逮捕、起訴され、有罪が確定する。羽生病院からも職員が駆り出されていた。痛恨事であった。 「最終的に許可した私の責任です。選挙にかかわった職員は、警察の事情聴取や家宅捜索で、大変な負担と心の傷を抱え込みました。職員の前で、申し訳ない、もう二度と諸君にこんな思いはさせない、と謝りました」(松本)  解体の危機に瀕した徳洲会は、徳田一族との関係を断つ。いまも71病院、年商4201億円の規模を保っている(17年6月現在)。  日々、現場で医療に携わる松本には、釈然としない面が残っている。 「事件は収束したけど、首脳部にはケジメの記者会見を開いてほしかった。徳洲会は生まれ変わる、医療に専念すると社会的な宣言をしてもらいたかった。いまさらですが……」(同)  これは3万人超の徳洲会職員に共通する思いだろう。  羽生病院は、来年5月、車で6、7分の幹線道路沿いの広い敷地に新築移転する。地域包括ケアを進めたい厚労省は、病院の機能分化、地域連携を推す。だが、それは医療機関が多い都市型の発想にすぎず、医療過疎地にはなじまない。新しい羽生病院は、高度医療から慢性病への対応まで多機能集中型となる。松本は言う。 「機能分化しようにも他に大きな病院がない。高齢の患者さんを、何時間もかけて大学病院やがんセンターに通わせていいのか。新病院は、グループ病院とネットワークで結び、ドクターヘリで患者さんの移送も考えています」  医療は、現場での実践と制度の間を揺れ動きながら積み上げられていく。つなぐのは人であり、一朝一夕には築けないものだ。  徳田虎雄の歴史的評価にも、もう少し時間が必要なのかもしれない。(文中敬称略) (ノンフィクション作家・山岡淳一郎) ※AERA 2017年12月11日号
AERA 2017/12/11 07:00
非暴力主義の思想から生まれた「ホテル・カリフォルニア」
大友博 大友博
非暴力主義の思想から生まれた「ホテル・カリフォルニア」
『Hotel California (Remastered)』/Eagles 大友博(おおともひろし)1953年東京都生まれ。早大卒。音楽ライター。会社員、雑誌編集者をへて84年からフリー。米英のロック、ブルース音楽を中心に執筆。並行して洋楽関連番組の構成も担当。ニール・ヤングには『グリーンデイル』映画版完成後、LAでインタビューしている。著書に、『エリック・クラプトン』(光文社新書)、『この50枚から始めるロック入門』(西田浩ほかとの共編著、中公新書ラクレ)など  12月はロックの歴史にとって大きな節目となる出来事がたくさんあった。そのなかで音楽ライターの大友博さんは、イーグルスの「ホテル・カリフォルニア」を取り上げる。 * * *  このコラムの中心テーマは、いわゆる“This Day in Rock Music”。ロック史を振り返り、アップ日前後に起きたことや世に出た作品を、なるべく直近の話題と絡めながら、僕なりの視点で紹介していこうというものだが、11月から12月にかけてのこの時期はけっこう「出来事」が多くて、悩んだりもした。  触れたいなと思いながら期を逸してしまったもののなかには、1976年11月25日の『ザ・ラスト・ワルツ』、69年12月6日のオルタモント・スピードウェイ・フリー・フェスティヴアルがある。前者は、多くの大物アーティストが駆けつけたザ・バンドのフェアウェル・コンサート。後者は、ローリング・ストーンズを中心にサンタナ、ジェファーソン・エアプレイン、CSNYらが参加した大規模なフリー・コンサートで、約4カ月前のウッドストックを多分に意識したものであったはずだが、演奏中の会場で殺人事件が起き、「ロック史最悪の日」とまで呼ばれることとなってしまったもの。どちらも映像作品化されているので、ご覧になった方も多いだろう。  そして12月8日はジョン・レノンの命日ということになるわけだが、おそらくこの時期はかなり多くの方が同じような記事や投稿を目にされることになると思うので遠慮し、ここでは、76年の12月8日にアメリカで発売されたアルバムにスポットを当てることとしたい。イーグルスの通算5作目で、これまでに3000万枚以上を売り上げたといわれている『ホテル・カリフォルニア』だ。  70年代のロック文化を代表する名盤の一つとして世代を超えて聴き継がれ、さまざまな形で語られてきたその名盤の登場の約10カ月前、イーグルスは初来日公演を行なっている(今でもあのころの興奮を記憶にとどめているが、75年12月にクロスビー&ナッシュ、年が明けて1月にドゥービー・ブラザーズ、2月にイーグルス、3月にニール・ヤングが相次いで初来日をはたすという、アメリカ音楽好きにはたまらない4カ月間だった)。  72年に「テイク・イット・イージー」でデビューしたころ、イーグルスの音楽はカントリー・ロックと紹介されることが多かった。それは、ザ・バーズやバッファロー・スプリングフィールド、フライング・ブリトー・ブラザーズらの仕事を70年代に受け継ごうとした努力の結果でもあったわけだが、彼らはその後、次第に音楽性の幅を広げていき、美しいハーモニーを生かした「ベスト・オブ・マイ・ラヴ」とハードな方向性を強く打ち出した「ワン・オブ・ディーズ・ナイツ/呪われた夜」を全米チャートNO.1に送り込んでいる。初来日の段階ではすでに、アメリカン・ロックを代表するバンドとしての地位を固めてしまっていたのだ。  武道館で観たその初来日のステージに、デビュー以来サウンドの要として働いてきたマルチ弦楽器奏者バーニー・レドンの姿がなかった。それなりに情報をつかんではいたが(インターネットなど想像外の時代で、海外の雑誌を買うことも容易ではなかった)、大好きなミュージシャンだっただけに、実際に自分の目で確認して、がっかりしてしまったものだ。代わりに参加したのは、すでにソロ・アーティストとしても活躍していたジョー・ウォルシュ。大きな話題にはなったものの、彼の特徴的なギターがイーグルスのサウンドに加わることを、当時の僕はあまり好意的に受け止めていなかったように記憶している。  記録によれば、『ホテル・カリフォルニア』のレコーディングはその年の3月から10月にかけて、マイアミのクライテリア・スタジオとロサンゼルスのレコード・プラントで行なわれたという。プロデューサーは3作目『オン・ザ・ボーダー』の制作途中からイーグルスとの関係を急速に深め、4作目の『ワン・オブ・ディーズ・ナイツ』を大成功へと導いたビル・シムズィク。ウォルシュの一連の作品も彼が手がけたものだった。  そのウォルシュと、「呪われた夜」のシャープなソロで一躍注目の存在となったドン・フェルダー。二人の優れたギタリストを前面に押し出した新編成を生かし、コンセプト固めと曲づくりはドン・ヘンリーとグレン・フライが主導するスタイルでレコーディングは進められていった。  とりわけ、非暴力主義の元祖とも呼ばれる偉大な著述家ヘンリー・デイヴィッド・ソロウから強い影響を受けたと語るドン・ヘンリーの存在は大きく、彼の思想や視線とウォルシュ/フェルダーのギターを核にした新しいサウンドが理想的な形で実を結んだのが、あの「ホテル・カリフォルニア」だったといえるだろう。  94年にテキサス州ダラスでヘンリーにインタビューする機会があったのだが、そのテーマについて彼は「文明社会が犯してきた過ち」といった意味のことを話していた。そしてちょっと笑いながら、「日本にもいえることだよね」と付け加えたのだった。  発表後の長いツアーで、メンバーは疲れきり、衝突や意見対立も生まれ、「テイク・イット・トゥー・ザ・リミット」の大ヒットに貢献したランディ・マイズナーがこの間にバンドを去っている。結局、79年の『ロング・ラン』を最後にイーグルスはロック界から姿を消してしまうのだが、94年発表『ヘル・フリーゼズ・オーヴァー』のライヴ・パート冒頭でフライが語っていたとおり、それは解散ではなかった(For the record, we never broke up. We just took a 14-year vacation.)。  その後も彼らはライヴ中心の活動をつづけ、2007年には2枚組の力作『ロング・ロード・アウト・オブ・エデン』を発表。16年1月にグレン・フライが亡くなってしまったが、今年17年の夏は、彼の息子ディーコンと、イーグルスから大きな影響を受けた世代の大物カントリー系アーティスト、ヴィンス・ギルを加えた編成で何度かステージに立っている。この新生イーグルスがこれからどんな活動をつづけていくのか、オリジナル作品が届けられる可能性はあるのか、デビュー当時から追いかけてきたファンの一人として、気長に見守っていきたいと思う。(音楽ライター・大友博)
大友博
dot. 2017/12/10 16:00
「あと1年楽しもう」安室奈美恵と歩んだ26年、ヘアメイクが明かす細眉の秘話
「あと1年楽しもう」安室奈美恵と歩んだ26年、ヘアメイクが明かす細眉の秘話
中野明海(なかの・あけみ)/ヘア&メイクアップアーティスト。幼少期から化粧品やメイクアップ・ファッションの世界に憧れ、1985年よりフリーのヘア&メイクアップアーティストとしてのキャリアをスタート。年齢にかかわらず、その人らしさや、本来持つ可愛さ、魅力を最大限に引き出すメイクで、多くの女優・アーティストを担当。雑誌、広告、映像でのヘアメイクをはじめ、「KOBAKO ホットアイラッシュカーラー」など化粧品やツールの開発も手がける  来年9月の引退を表明した歌姫を「奈美恵ちゃん」と呼び、デビュー前の26年前から彼女の「美」を支え続けてきたヘア&メイクアップアーティスト・中野明海さん。おそらく業界内で最も古くから安室奈美恵の素顔を知り、彼女が信頼を寄せ続けてきた1人だ。アムラー現象から始まり、伝説と化した「美」はどうやって生まれ、進化してきたのか。メイクのコツは?「平成の歌姫」の誕生秘話をAERA dot.が独占インタビューした。 *  *  * ――安室奈美恵さんと出会ったのはいつごろですか。  デビュー前の26年前になりますね。アイスのCM撮影で、沖縄からデビューする予定のかわいい女の子たち5人が踊る、というものでした。そこで会った、14歳になったばかりの彼女はもう既に“安室奈美恵”でした。体のバランスも、踊りのスケール感も、見せ方もすべてが特別で、私には1人だけ違う時空にいるように見えました。「何だこの子は! こんな逸材見たことがない!」って。その後、デビューしてからも雑誌やCDジャケット、CM撮影、ライブツアーなど、機会があれば喜んでやらせてもらっています。 ――現在放映中のテレビCM「安室奈美恵×docomo 25年の軌跡」は1992年のデビューから現在までの“安室奈美恵”を再現しています。どうやって挑んだのでしょうか。  いつも私と彼女は、あまり「ああしよう、こうしよう」と話し合ったりしないんです。特にヘアメイクは現場で微調整ができるので、「とにかく仕上げてみるね」っていう感じで。  昔、彼女がこう言ったことがあります。「ヘアメイクにはヘアメイクのプロフェッショナルがいて、衣装のプロ、映像のプロ、企画のプロがいる。私は歌って踊る音楽のプロ。メイクについて嫌か良いかはわかるけど、ここをこうしてほしいという具体的な言葉は持ち合わせていない」と。つまり、アイラインを2ミリ短くしてとか、このブランドのこの服を持ってきてとか、指示をするなら自分でやればいいわけです。奈美恵ちゃんは昔から、自分の趣味をわかってくれて、もっと専門的なことを知っている人に任せたいと考えていました。そうすることによって、自分が思ってもみないような素敵なものが出来上がる、って。なので私も「私に頼んでくれたんだから、私は私の世界で奈美恵ちゃんが嫌じゃない、もっと良く見える方法を考えればいい」と、私なりに120%の力を出すことを考えてやってきました。  今回のCMでは監督さんたちとの打ち合わせで、いまの奈美恵ちゃんの1992年風をつくるのではなく、「そこまでやるの!?」っていうぐらい徹底的に再現しようということになり、細部までこだわっています。過去のものも、私がやらせてもらったメイクが多くあるので必要な情報は頭の中にあるんです。そこから緻密に再現しました。 東京・渋谷のスクランブル交差点を舞台に、安室奈美恵さんと携帯電話の進化を振り返るテレビCM「安室奈美恵×docomo 25年の軌跡」。最初のシーンは1992年。安室さんがデビューし、NTTドコモが誕生した年だ。手にするのは、それまでのショルダーホンに比べて超小型化した携帯電話。安室さんはこの後、95年に小室哲哉プロデュース第1弾「Body Feels EXIT」をリリース、96年に「Don't wanna cry」で日本レコード大賞を史上最年少受賞、97年「CAN YOU CELEBRATE?」がダブルミリオンを記録した(写真:NTTドコモ提供) ――1992年のヘアメイクは、96年に新語・流行語大賞のトップテンに入った「アムラー」現象の原型のように見えます。特徴を教えてください。  髪はセンターパート(真ん中分け)で、カラーは白っぽいメッシュが入っています。髪の長さはいまよりも全然短いので、緻密に長さを決めてウィッグをつくりました。毛先にはレイヤーが入っています。  アイシャドーはシルバーブルーです。このときはまだまつ毛を上げて目元を強調する時代ではなかったので、ビューラーは使わず、リップはダーク。当時はもっとダークだったのですが、今回はフレッシュさを出すために少し明るめにしました。 ――懐かしいですね! 当時、このメイクはどのように生まれたのでしょうか。  モード界でもこういうメイクの流れはありましたが、細眉は奈美恵ちゃんが自分でキレイに整えていて、ご本人の好みから生まれたものです。  当時は黒人女性がかっこいい時代でした。スーパーモデルブームがあり、日本でもナオミ・キャンベルが大ブレイクし、音楽界ではジャネット・ジャクソンが人気でした。少し前ですが、スポーツ界にはジョイナー(米陸上選手、88年ソウル五輪で3冠)もいましたよね。  彼女はジャネットに影響を受けて歌とダンスを始めたぐらいジャネットが大好きだったし、彼女自身もこういうメイクが似合ったんです。私は「THE夜もヒッパレ」(日本テレビ系)や「ポップジャム」(NHK総合)などテレビ番組のお仕事はご一緒していなかったのですが、自分でダークめのリップを塗って、眉を描いて出ていたと聞きました。奈美恵ちゃんがそういう感じのメイクが好きだからと、私たちヘアメイクはそこに寄り添って、メイクをすることが多かったですね。毎回こうだったわけではありませんが。この時代に奈美恵ちゃんがいたからこそ日本中に広がったメイクだったと思います。 ――再現してみて、どうでしたか。  ご本人も鏡の前で「うわー、この色久しぶり!」って(笑)。「こうだったよね」って話しながらアイシャドーを塗り終えた瞬間、彼女がティーン・エイジャーの顔になったんです。「メイクってすごいね」って二人で話しました。ああ、久しぶりにこの顔に会ったって、奈美恵ちゃんも懐かしく思っていたと思います。 次に再現されるのは2000年。前年に始まった「iモード」が爆発的にヒットし、折りたたみ式の携帯電話も登場。ストラップをつけたり、本体にデコレーションしたり、カスタマイズされた携帯電話を持つ人たちが街に溢れたのはこのころだ。安室さんが九州・沖縄サミットのイメージソング「NEVER END」をリリースしたのも00年。翌年には小室哲哉プロデュースを離れ「Say the word」を発表、03年にはZEEBRAやVERBALらと「SUITE CHIC」としてオリジナルアルバムをリリースした(写真:NTTドコモ提供) ――2000年はまた雰囲気が変わりました。「NEVER END」が九州・沖縄サミットのイメージソングになったのがこの年です。  ちょうどこの頃から、小室哲哉さんのプロデュースを離れ、ご自身でプロデュースを始めたころでした。バラードが続いた後、久しぶりにアップテンポな「Say the word」という曲で、ツインテールはご本人のアイデアです。雑誌の撮影などでやっていたので、お気に入りのアレンジだったんだと思います。このツインテールもブームになりましたね。  00年のメイクは目元にブラウン系のグラデーション。しっかり細めに描いていた眉毛は、自然な感じになりました。メイクは全体的にクールでかっこいい感じから、柔らかく可愛い方向に幅が広がっていった時代だと思います。  こうやって抜き出してみるとガラッと変わっているように見えますが、「さあ、今日から新しい方向で」と変えていたわけではありません。ヘアメイクは日々のことですし、やってきたことがすべてつながって、自然に変わっていく感じです。ジャケット撮影の間に雑誌やCMの撮影なども挟まっていくので、時代の空気感とか流行を吸い込みながら変わってきたんだなと、今回振り返ってみて改めて感じます。 2007年にアルバム「PLAY」をリリースした安室さんは、翌年、ベストアルバム「BEST FICTION」をリリースし、そのアリーナツアーでは50万人を動員。2010年を再現したのがこのビジュアル。手にするのはスマートフォンだ。この年にはドコモの「Xi」がサービス開始した(写真:NTTドコモ提供) ――2010年は黒い衣装で、力強い雰囲気が出ています。  このときは奈美恵ちゃんがやりたいことを思いっきりやっていて、女性アーティストとして一つの王国を築いたような印象を受けていた時期でした。"安室奈美恵"ってこんな感じ!という方向に、突き進んでいるような。髪はかき上げて雰囲気を醸し出すというよりは、前へ走っていくようなイメージです。どう動いても髪が本人の動きを邪魔しない。強さや疾走感を大事にしていました。  アイシャドーはトープ(灰色がかった茶色)っぽい、グレーブラウンやチャコール系の色をよく使っていました。眉は自然な感じに整えていることが多いですね。 ――アリーナツアーで50万人を動員するなど、ライブも忙しい時期ですね。ライブで思い出に残っていることはありますか。  実は私は2000年ごろまでしかライブを一緒に回っていません。私自身も子どもを2人育てながら働いていて、1人目のときは東京・大阪・名古屋、ほか10カ所ぐらいのライブを回っていました。2人目を産んだときには、彼女は全国で何十公演もやるようになっていて、2人を育てながらライブを回るのは厳しくなってきていました。これは女性が働きながら子育てをして生きていくうえで、避けては通れない悩みですけれど……。  そんなときに彼女が「明海さんはもうライブツアーを回らなくていいですよ」って声をかけてくれました。アシスタント2年目の子が育ってきていたので「その子で頑張ってみましょう」って。そして「いつでもどこでも遊びに来てくださいね」って言ってくれました。人として深い人で、「来られないならもういいです」っていうことは一切なく、みんなでうまくやりましょうと考える人なんです。 ――新しい人にも任せられる懐の深さがあるんですね。  本人が強いから、ちょっとしたことで揺らがないんですよね。私のアシスタントから独り立ちしていった子たちと3、4人で奈美恵ちゃんのヘアメイクをほとんどやらせてもらってきましたが、彼女たちが育っていったのは本当に奈美恵ちゃんのおかげなんですよ。初めての人に顔を触らせるのって、怖いじゃないですか。メイクはお習字と同じで、同じお手本を見て描いたところで手が違うと全部違うものが出来上がるもの。どんな仕上がりになるのか不安があって当然だと思う。でも彼女は、どうしても私の都合が悪いときに「あの子にやってもらいましょうよ」ってサラッと言うんですよ。「不安じゃないの?」って聞くと、「だって明海さんのメイクをずっと見てきたんだから、変になるわけないじゃないですか」って。そういうところが本当にカッコイイんです。 CMの最後に登場するのは現在、2017年のイメージ。安室さんはデビュー25周年を迎えた4日後の9月20日、公式サイトで18年9月16日をもって引退することを発表。オールタイム・ベストアルバム「Finally」をリリースした(写真:NTTドコモ提供) ――2017年は異彩を放っていますね。これは現在の安室さんを表しているのでしょうか。  今の彼女が好きなスタイルというよりは、ちょっと先の未来をイメージしています。こんなの流行るといいなっていう提案でもなく、自由と広がりがあって、どうにでも創造していける感じですね。いままでにあまりない感じ、というのが裏テーマです。  奈美恵ちゃんは何でも似合うので、CDのジャケット写真のアイラインの引き方だけでも、すべて違う提案をしてきました。買ってくれた人に「いつも違って、いつもキレイ。いつもカッコイイ」って思ってほしいじゃないですか。でも、私がどんなメイクをしても彼女は瞬時に消化して、自分の表情や動きでもっと素晴らしいものにしてきてくれました。人に見せるというポテンシャルが非常に高いんです。引き出しが多くて、同じ撮影をしていても振り幅が広い。ご本人は「私は服とメイクを変えると違って見えるから得してるんです」って、言うだけなんですが(笑) ――そうやって26年以上、一緒に仕事をしてきた安室さんが引退を表明しました。その後のインタビュー番組では、悩みや不安を抱えていたことも率直に語っています。今の彼女をどう見ていますか。  引退を表明したからといって彼女が別人になるわけでもなく、この撮影のときも「あと1年楽しみましょ」って、いつもと変わらない様子で言っていました。ご本人の中で悩んでいた時期はあったのかもしれませんが、どんなときも自分の意思で仕事を選び、セルフプロデュースをしているなと私は感じていました。  よく「この時期はCDが300万枚売れた」とか「この時期はどうだったか?」って聞かれますが、そういうことはなにも関係なかったんです。彼女との関係で人生の山や谷を語るなら、私にとっては14歳の奈美恵ちゃんを見たときが1番の山だったかもしれません。本当にビックリしたんですよ。それからは、撮影するごとに感動の山が何度もやってきています。お洋服もヘアメイクも何でもハマる彼女と一緒にやれることが、楽しくてしょうがなかった。  そういう意味では、私の大好きなミューズの1人がいなくなるのは寂しくてしょうがないですね。でも彼女が元気で幸せでいてくれさえすれば、私はそれでうれしいです。 ――自分の素材を棚に上げてお聞きしますが、どうすれば安室ちゃんに近づけるか教えてください。「安室ちゃんみたいになりたい!」という女性たちに向けて、何かアドバイスを。  私は、自分の好きなものをちゃんと見極めるセンスの良さや自由さが、人生においてとても大事だと思っています。好きなもの、信じるものがその人の個性になる。それは26年以上、彼女を見てきて実感するのですが、いわゆるアムラー現象だって、その後の「奈美恵ちゃんっぽさ」だって、彼女が好きなことをやり続けて作ってきたものです。  私は人は見た目だと思っているんですよ。外見は中身が外に現れたものだし、外側がちゃんとしている人は中身もちゃんとしていると思う。奈美恵ちゃんがTシャツとデニムしか着ない人だったら、こんなにたくさんの女性たちが憧れ続ける存在にはならなかった。それは、メイクひとつを取ってもそうです。  メイクをしないで生きていく人はもちろんいるし、それはそれで全然いいと思う。テクニックも二の次。自分を信じるものをちゃんと貫き通すことが、素敵な個性と人格を形成していくと私は信じています。 (聞き手/AERA dot.編集部・金城珠代)
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