検索結果2079件中 1561 1580 件を表示中

中瀬ゆかり「3度も死にかけた中村うさぎさんに教わったこと」
中瀬ゆかり 中瀬ゆかり
中瀬ゆかり「3度も死にかけた中村うさぎさんに教わったこと」
中瀬ゆかり(なかせ・ゆかり))/和歌山県出身。「新潮」編集部、「新潮45」編集長等を経て、2011年4月より出版部部長。「5時に夢中!」(TOKYO MX)、「とくダネ!」(フジテレビ)、「垣花正 あなたとハッピー!」(ニッポン放送)などに出演中。編集者として、白洲正子、野坂昭如、北杜夫、林真理子、群ようこなどの人気作家を担当。 彼らのエッセイに「ペコちゃん」「魔性の女A子」などの名前で登場する名物編集長。最愛の伴侶、 作家の白川道が2015年4月に死去。ボツイチに。 作家・中村うさぎさん (c)朝日新聞社  50歳で、パートナーである作家・白川道こと「トウチャン」に突然先立たれ、ボツイチになった私。自宅から救急車で運ばれて病院で臨終宣告を受けたのだが、駆けつけた人々にどう連絡したのか、その日どうやって家に帰ったのか、いつ眠ったのか、などの記憶全体にモヤがかかっている。「人は見たいものだけを見て、聞きたいことだけを聞く」という言葉があるが、まさにそうで、私はこの日から、白川の不在を見ないように考えないように、心の目と耳を閉ざしたまま日々を消化していくことだけに腐心していくことになる。  この日から4日間、姉がそばにつきっきりでいてくれたし、会社もあったし、私はけして物理的にはひとりぼっちではなかったけれど、気を許せばどこまでも深い沼に落ちていきそうになって、後を追って死にたくなる気持ちをぐーっと押さえ続け、現実から目をそむけ続けるしか、トウチャンのいない世界をひとりで生きていく方法が思いつかなかった。  毎日容赦なく訪れる夜が怖くて、毎晩誰かとご飯を食べることにした。仕事相手、友人、知人……。男女を問わずとっかえひっかえ約束を入れ続けた。食欲はなかったが、胸の空洞にごはんを詰め込むようにして贅沢な外食を続けた。とりあえず1か月分の手帖が真っ黒に埋まるとホッとしたものだ。ひとりの家に帰るとやけにシンとした冷たい空気が流れていて、3匹の猫だけが所在なさげに寄り添ってくる。ふわふわした彼らをかき寄せながら、もう私には本当の意味での幸せな時間など二度と訪れないんだ、と冷静に絶望していた。  テレビでバカ話や下ネタでおどけながらも、本番の緊張が終わってしまえば、番組でのやりとりを手をたたいて笑ってくれたり、「あれはないぞ」と意見してくれるトウチャンがいなくなった、という不在ばかりが膨らんだ。シリアスな政治や経済、社会問題についてもコメントする前にサジェスチョンをくれた守護神を失ったこと――。それはまるで航路で海図を見失ったような――。そんな心細さばかりが増していた。そして、いつしか精神安定剤や導眠剤なしでは眠れないからだになってしまっていた。  そんな私の魂の鎮痛剤は、猫と酒と、本と映画。家で猫を傍らに引き寄せ、酒を飲みながら目から取り入れる一冊の本や一本の映画がどれだけ救いとなり、私の人生を再生に導いてくれたか!それはこの3年間、絶え間なく訪れた福音のようなものだった。  たとえば、白川を失くして間もなく出版された、中村うさぎさんの『他者という病』では、原因不明の大病をして3度死にかけ、仕事も失ってもなお「死ねなかった」うさぎさんの戦いに「自分だけが悲劇のヒロインではない」ことを教えてもらい、その1年後オランダのトーン・テレヘン氏の著作『ハリネズミの願い』(長山さき訳)に出会い、自分のハリが大嫌いで友だちのいない臆病なハリネズミが「でも誰も来なくてだいじょうぶです」という招待状を出さずに「もし誰かが来たら」という妄想でつづる物語が五臓六腑に染み入った。せつなさと可愛らしさ、孤独と人恋しさに満ちた優しくて哲学的な寓話にキュンキュンしながら、わたしにも、ハリネズミのようなコミュ障の部分があることを改めて自覚し、自らの「ハリ」のようなコンプレックスと向き合いながら、魂レベルで再び誰かとかかわって気持ちの上で溶け合いたい、という思いがふつふつとわきあがった。  そう、耐えられない喪失感の中でも、もう一度恋をしたい!誰かを強く愛したい!このままでは死ねない!と、この本によって再び思えたのだ。なんという、物語の力!!
中瀬ゆかり
dot. 2018/05/06 16:00
「たんけんぼくのまち」から34年、チョーさんから“大きくなったお友だち”へ
「たんけんぼくのまち」から34年、チョーさんから“大きくなったお友だち”へ
チョー(ちょー)/1957年埼玉県生まれ。俳優、声優。代表作に、チョーさん役で出演したEテレ「たんけんぼくのまち」、「いないいないばあっ!」のワンワン役(スーツアクター兼声優)、アニメ「ONE PIECE」ブルックなど。オフィシャルブログ「きのう チョー あした」も更新中(撮影/AERA dot.編集部・金城珠代) ワンワンだけど猫好き。2匹の元地域猫のどんちゃん(右、メス)とおおちゃん(左、オス)と暮らし始めたというチョーさん。「仕事が趣味みたいなもので、ほかに趣味も無いんですよ」(チョーさん提供) チョーさんがパパやママになった"お友だち"に伝えたいメッセージ【動画を見るにはココをクリック】  これほど存在感のあったスーツアクターがほかにいるだろうか。NHK・Eテレの乳幼児向け番組「いないいないばあっ!」の人気キャラクター、ワンワン役の演技だけでなく声も担うチョーさんが去年、還暦を迎えた。いまから34年前、NHK教育テレビ「たんけんぼくのまち」で楽しそうに街の地図を描く、丸メガネにキャップ姿の若かりしチョーさんを覚えている人も少なくないだろう。あのとき、テレビの前で見ていた“大人になった子どもたち”へ、「頑張っていますか?」と60歳の先輩からのメッセージをもらった。 *  *  * ――毎年、春になると親たちの間では「ワンワン引退説」が不安とともに広がります。去年はチョーさんが還暦を迎え、ワンワンと一緒に子育てをしてきた親にとっては心配な節目だったと思います。  そうですねー。若い役者さんはいくらでもいますからね。でもワンワン役の話が来たときに、「辞めてください」と言われるまでは、自分からは絶対に辞めないことにしたんです(笑)。死ぬまでやるつもりで。それがたまたま20年以上も続いて、僕はラッキーなんですよ。  26歳から「たんけんぼくのまち」でチョーさん役を8年間やったんですが、当時はまだ若くて、4年続いたころに、このままではダメなんじゃないかと思い始めたんです。子ども番組以外でも挑戦してみたい……って。だから自分から「辞めさせてください」って言って、8年で辞めたんです。  でも、その後、結局ドラマや映画という方向は皆無でした。そのときに自分から辞めちゃいけないんだなって実感したんですよね。「チョーさんやってよ」って言われている間は「はい、やらせてください」と言う! 「自分の方向性が……」とか偉そうなこと言って、辞めたいなんて言っちゃだめって思ったんです。 (スーツアクターで)自分の容姿が表に出ないっていうのはいいですよ! 顔は劣化しますから。アハハハ(笑)。お父さんお母さんが「ほらワンワンよ!」って言っても、この顔だと子どもたちはキョトンですからね。 ――若いころから俳優を目指していたんですね。  もともとは国語科の教員志望で大学は文学部だったんですが、大学時代に勧誘されるまま落語研究会に入ったんです。落語のことはまったく知らなかったんですが、初めて人前でしゃべるとそれが意外と面白かった。落研の仲間に成城学園に住んでいる友だちがいて、「ここが加山雄三さんの家だよ」「ここは三船敏郎さんの家だよ」って教えてくれるんですよ。こんな豪邸に住んでいる人がいるんだ、さすが銀幕のスターだな、テレビに出ている人はすごいなーって。全然関係ない世界だなっていうちょっとした寂しさと人前に出る楽しさが重なって、自分も何とか這い上がっていけば、ちょっとでも近づけるかなと思っちゃったんですよね。10代の甘い考えで、アハハハ(笑)。60歳になった今でも賃貸なんですけどね(笑)。  勉強しなかったせいなんだけど、4年生の夏に教員採用試験に落っこちちゃって、卒業までやることが無くなちゃったから夜にやっている研究所があると聞いて、青年座に行き始めました。  そしたらハマっちゃったんですよね。面白い!って。大学卒業すると同時に、文学座研究所を受けて、「落ちたら役者の世界に進むのはやめよう」と思っていたのに、受かっちゃった。「何のためにお金をつぎ込んできたのか!」とおふくろも泣いていました。地元で教師になって確実な生活をすると思っていたでしょうからね。 ――研究所ではどんな役を?  役というより、基礎ですよね。台本をもらってしゃべったり、マイムや寸劇をやったり。そのときに出されたお題を自分でどう考えて演じるか。学芸会みたいなものでしたけど、それが楽しいんですよ! 研究所を出た後に、自分たちで劇団を立ち上げて、お金がないから自分たちで脚本を書いて、構成して、演じるわけです。稚拙ながらもものを作り込むのは慣れていたので、「たんけんぼくのまち」のチョーさん役のオーディションでも設定を与えられたら、それに対して勝手に自分で世界を作って動くことができたんですね。 ――そういう経験が、いまのワンワンのキャラクターにも出ているわけですね。  そう、どちらかというと一人芝居なんです。 ――これまでにも『ONE PIECE』のブルック役や、映画『ロード・オブ・ザ・リング』のゴラム役など、声優の仕事もされていますが、そのきっかけは?  最初は食べるためでしたね。「たんけんぼくのまち」が終わったのが34歳のころ。アルバイトと貯金を切り崩して生活していて、このままだと食べていけないと思ったので、たまたま芝居を見に来てくださった声優事務所のマネージャーさんに声をかけられてラジオのCMに出させてもらったんです。当時はバブル期で30秒や1分のCMを演じただけでいままでアルバイトした数倍のお金をいただけて、これはいいなと思って(笑)。事務所に入って本格的にやろうと思ったのは30歳過ぎてからです。 ――「いないいないばあっ!」は2016年に20周年を迎え、ワンワン以外にも「パクパクさん」や「パクコさん」など、チョーさんなしでは成り立たない番組になっています。  僕はラッキーですね、ありがたいことです。だから、自分以外の人が「ここが合ってるよ」「チョーさんやってよ」って言ってくれることは、信じたほうが良いって思っています。30何年やってきてようやくわかりました! 自分を過信しちゃいけないって(笑)。 ――番組では結構激しいダンスや屋外を走るシーンもあり、コンサートでは全国各地を回っています。体力維持の方法は。 この仕事を始める前から、日課として毎日10キロ走っているんですが、体力維持の方法はそれだけですね。 ――この仕事を通して、伝えたいことや叶えたいことは。  実は、それもない!(笑)だって子どもたちに夢を与えるとか、こんな思いを持ってほしいとか、そんな偉そうなこと言えないですよ。おこがましいというか。自分がやってて楽しいからやっているんです。こちらはエネルギーを出すだけで、それを受けて止めてくれたら嬉しい。  あとは周りの反応が楽しいんですよね。スタジオだったらスタッフさんたち、イベントだったら来てくれているお父さんお母さん、おじいちゃんおばあちゃん、子どもたちの反応を見るのが楽しいんですよ。それが無かったら続かないでしょうね。  だって、みんな楽しそうにワンワンのことを見てますもん。ママ、パパ、楽しそうだな~、若いな~、パワーあるな~って思っています。ウフフ。だから、かえって僕がパワーを貰っているんですよね。無反応のときほど怖いものはなくて「失敗したなー」と思うんです。  アニメの(声優の)仕事では本番録音の時の反応がわからないんですよ。テストのときは周りの役者さんが反応してくれるけど、本番になるとスタジオがシーンとなっちゃう。反応が無いからこれでよかったのかどうかもわからない。悪い反応でもあれば、次はこうしようかなという気になります。 「ワンワンわんだーらんど」のようなイベントで行くと、その時の会場やお客さんの層、土地柄、季節でも反応が違います。みなさんの体調もあるだろうから。その反応によって「やっぱりやってよかったな」て思うこともあるし、「やらなきゃ良かった」って反省したり。 ――イベントでは子育て中のお父さんお母さんに会場で触れ合うこともありますよね。20数年間で変化はありますか。  やっぱりね、「あれ!?こんなにみなさん若かった!?」って思う。アハハハ(笑)。前はちょっと自分に近い感覚でやっていたのが、最近のママさんパパさんって若すぎない?って思っちゃう。それって自分が思いっきり年を取ってるんですよね。それに気が付かないんですよね。 ――幼い頃に「たんけんぼくのまち」でチョーさんを見ていた方たちが、20代後半から30代になっています。社会に出て、今度は親としてワンワンを見ているかもしれません。何かメッセージがあればお願いします。  いろんなことがあると思うけど、続けることです。あとは、考え過ぎないこと。ノーテンキにポジティブになっている方が良いですよ。  僕は何か落ち込むようなことがあっても、次の日に走ると消えちゃうんですよね。それって、おひさまの力だと最近思うんです。  朝、走りながら考えたり、いい天気の日に外で考えているときって、どちらかというとポジティブなものを考えている。おひさまって大事だなと思うんですよね。外で深呼吸しながら「もっとパワーを!私に!」って。そうするとね、まあいいや!って思うんですよね。  しんどいことがあっても、楽しい瞬間があったら、そっちの気持ちがずっと続いていく感じ。お子さんや家族の顔を見て、生きててよかったって思ったりするでしょう? その瞬間があれば今日はいいや、明日もその顔が見られたらいいなって。僕もかみさんと喧嘩したら、いいときだけを思い出すんですよ。こんなに良くしてくれるもんなーって(笑)。  怒ったり、気分が落ち込んだりしているときは、ちょっとその場を離れる。外の空気を吸ってくる。もんもんと一人で考え続けちゃダメです。外でおひさまの光を浴びるといい。1分でも2分でも。ちょっとボーッとすれば、今日はまずかったなーって思うわけですよ。  お気楽に。考えすぎずに。明日はもっと良いことあるよ。 (聞き手/AERA dot.編集部・金城珠代)
働き方出産と子育て
dot. 2018/05/05 11:30
5月3日は憲法記念日。「従順ならざる唯一の日本人」白洲次郎の涙の意味とは?
5月3日は憲法記念日。「従順ならざる唯一の日本人」白洲次郎の涙の意味とは?
新緑がまぶしい季節になりましたね。連休も後半にさしかかる今日、5月3日は憲法記念日です。施行から70年が経過し、改憲にゆれる日本国憲法。当時の敗戦の色濃い日本にあって、堂々と主義主張を唱えた日本人がいました。希代のダンディーとしても名高い白洲次郎です。彼が日本国憲法成立に果たした役割とその思いを紐解いてみましょう。 GHQに恐れられた男・白洲次郎 憲法記念日は、1947年5月3日に日本国憲法が施行されたことを記念して、その翌年に祝日法に基づいて制定されました。 GHQ(連合国軍総司令部)によって着手されてから、わずか8日間で原案が当時の政府に提示されたともいわれる日本国憲法。この一方的な展開に、真っ向から異議を唱えた人物がいました。「従順ならざる唯一の日本人」とGHQに評された白洲次郎です。 ダンディー伝説炸裂!豪放で魅力的な自由人 白洲次郎(しらす じろう、1902年2月17日~1985年11月28日)は、兵庫県芦屋市出身の実業家。幼い頃から豪放な性格でならし、ケンブリッジ大学留学時には、父親からの莫大な送金をスポーツカーに費やし、学友の伯爵家の御曹司とカーレースに出場。一流の背広の着こなしやキングス・イングリッシュを身につけ、17歳からのケンブリッジでの9年間で、白洲ならではの英国式ダンディズムを体得するに至ります。いわば、ダンディーな日本人の代名詞といえる、なんとも興味深い人物なのです。 その白洲が、世界を股にかけて仕事をしていた時に面識を得たのが、駐英国特命全権大使としてイギリスにいた吉田茂でした。白洲は後に首相となる吉田と意気投合し、日本国憲法制定前夜のGHQとの交渉に身を投じていくことになるのです。 白洲次郎の涙と、プリンシプルの意味 戦後、白洲は外相となった吉田茂に請われ片腕として、マッカーサーとの交渉からサンフランシスコ講和条約の締結まで、日本の外交を一身に担うことになります。 憲法に関する交渉は非常に厳しいものとなり、GHQによる「マッカーサー草案」がほぼそのままのかたちで、「憲法草案要綱」として公表されることになります。白洲はその時の無念の思いを、「『今に見てゐろ』と云フ気持抑ヘ切レス。ヒソカニ涙ス」と手記に書いています。 この涙の意味は、白洲次郎が大切にしていた有名な言葉「プリンシプル」に隠されているようです。プリンシプルとは、「原則、主義、信条」といった意味があります。GHQとの交渉のなかで、日本のプリンシプルというものを対等に持てなかったという思いがあったのでしょう。 サンフランシスコ講和条約の締結後、政治の表舞台から身をひいた白洲は、東京郊外・鶴川で田舎暮らしに戻ります。「武相荘(ぶあいそう)」と名付けられた白洲邸は、農家を買い取って住居としたもの。地方に住みながら、中央の政治にも目を光らせる、「カントリー・ジェントルマン」として余生を過ごしました。妻の白洲正子との旅を楽しみ、80歳になるまでポルシェ911を乗り回した白洲次郎。遺書にはたった二行「葬式無用、戒名不用」とありました。 憲法制定の過程には異議を唱えた白洲ですが、意外にも内容は良いと語っていたそうです。特に9条を評価していたといわれています。現在、改憲にゆれる日本国憲法。施行から70年を経た今、白洲次郎が思いを込めた日本のプリンシプルとは何か、あらためて考える時なのかもしれません。 参考文献 白洲次郎「プリンシプルのない日本 」新潮文庫 2006 参考サイト 武相荘ホームページ
tenki.jp 2018/05/03 00:00
新参も古参も釘付け! シルク・ドゥ・ソレイユ創設30周年記念作品の魅力
小野ヒデコ 小野ヒデコ
新参も古参も釘付け! シルク・ドゥ・ソレイユ創設30周年記念作品の魅力
アクロバティックなシーンに会場から拍手が湧く。演者と観客一体となって作るショーだ(撮影/写真部・小原雄輝) 「コントーション」。人間離れした柔軟性をもつ女性たちが舞う。深海生物をモチーフにした衣装に身を包み、妖艶に動く(撮影/写真部・小原雄輝) クララ役の池田一葉さん(中央)。「ストーリーの予習をしてもしなくても楽しめるので、騙されたと思って見てみてほしいです」(撮影/写真部・小原雄輝) 脚本家・演出家のミシェル・ラプリーズさん。カナダ生まれ。すでに次作に取り組み中と言う(撮影/写真部・小原雄輝)  あの夢幻世界が帰ってきた。シルク・ドゥ・ソレイユ「キュリオス」。19世紀に欧州の貴族が集めたルネサンス期の骨董(こっとう)品たちに命が宿る。 *  *  *  ツイッターやインスタグラムに投稿される「#シルクドゥソレイユ」の写真や動画の数々には、「感動」「感激」「ドキドキ」といった言葉が躍る。  今年2月から日本でツアー中の「KURIOS(キュリオス)」。「シルク」来日公演の14作目となる今作では、観客にフィナーレの撮影を解禁した。SNS時代に合わせた初の試みだ。  エンターテインメント集団「Cirque du Soleil(シルク ドゥ ソレイユ)」は、1984年にカナダ・ケベック州で生まれた。これまで「サルティンバンコ」「アレグリア」「キダム」などの作品を世界450以上の都市で上演し、延べ1億8千万人以上を動員してきた。来日公演は92年の「ファシナシオン」が初。  ファン歴10年以上という神奈川県に住む40代の会社員男性は、早速「キュリオス」も家族で観賞し、期待を裏切らない完成度に満足したと話す。 「『ドラリオン』や『トーテム』なども見てきましたが、とにかくレベルが高いスペシャリストたちを結合させる演出がすごい。撮影もできてお得感がありました。でも、撮るよりも、ずっと見ていたい気持ちのほうが強かったですね」 「シルク初体験」の記者にとっては、ひたすら目を見張った2時間だった。空中ブランコなど驚くべき身体能力を駆使する「動」に息をのみ、パントマイムの情緒的な「静」に見入り、多彩なパフォーマンスに釘付けに。会場からは拍手や口笛が飛び交い、演者と観客との一体感も味わった。  今回の公演で唯一の日本人として出演しているのが、クララ役の池田一葉さんだ。プロダンサーとして米国で活動していた池田さんが「シルク」に興味を持ったきっかけは、「O(オー)」のラスベガス公演を見たときだ。  職業柄、ショーを見ると「粗探し」をしてしまう池田さんが、「その余裕もないほど惹きつけられました」。  一員になりたいという思いが募った。アクロバティックな技を得意とするパフォーマーだけでなく、「シルク」は俳優やダンサーもメンバーになれると知り、2011年、初オーディションに臨んだ。不合格だったが、くじけずに挑戦し続け、6年越し、8回目にして射止めたのが今回のクララ役だ。夢をかなえた原動力は「あきらめの悪さ」と笑う。  クララは異次元に生きる人間ではないキャラクターだ。感情のゆるやかな変化を繊細に表現しながら、これまで使ったことがない筋肉の動きも同時に求められる。役作りで難しかったことを尋ねると、「全部です」と池田さん。見どころは「初めて恋心を抱いたクララが、主人公のシーカーのネクタイを直すところ」という。 「二人が触れるのはその1度だけなので見つけた人はラッキーです。躍動的な動きだけではなく、キャラクターの仕草で作品の世界観を細部まで作り上げるのも私たちの仕事です」(池田さん)  メンバーは作品ごとに選ばれる。今回は20カ国以上のパフォーマーと、照明や音声など技術スタッフから専属コックまで総勢125人の大所帯だ。創設30周年記念作品となる本作は2014年4月初演で、これまでカナダと米国の2カ国で公演した。日本ツアー期間は1年以上に及ぶ。 「これまで公演回数は千回以上ですが、日本では初めて。アメイジングです!」  柔らかな口調ながら熱を込めて語るのは、演出・脚本を手掛けたミシェル・ラプリーズさんだ。「シルク」への参加は00年からだが、出会いは約30年前にまで遡る。  父親とカナダのケベックシティーを訪れていたラプリーズさんは、どこからか流れてくるエキゾチックな音楽を耳にした。誘(いざな)われるまま音のほうへ歩いていくと、「シルク」の公演会場だった。  こっそり中を覗いたラプリーズ少年の目に、色とりどりの衣装をまとい、音楽に合わせて動く人々の姿が飛び込んできた。気付いたら涙が溢れ出ていた。 「まるで美しい感情が渦巻いているようでした。『今夜このショーを見たい』と父に泣きながら言ったんです」  そんな原体験をもつラプリーズさんが制作した「キュリオス」は、“curious(好奇心の強い)”と“curios(骨董品)”を含意する造語だ。「好奇心の飾り棚」を意味するサブタイトルもつく。産業革命の時代と近未来が混じり合う舞台上では、主人公シーカーが機械の世界に足を踏み入れる。キーワードは「11時11分」だ。1が四つ並ぶこの時刻を欧米では特別な時ととらえ、願い事をする人が多いという。そんな幸福な1分間にシーカーが集めた骨董品に命が吹き込まれ、めくるめく旅が始まる。 「私が大事にしていることは、ショーの後に余韻が残り続けること」とラプリーズさんは話す。たとえば、積み重ねられる椅子の上でバランスを取る「バランシング・オン・チェア」というパフォーマンス。手に汗握る思いで見守った観客は、帰宅後に椅子を見た時、何を感じるか。 「それはもう、それまでのただの座るためだけの椅子には思えないでしょう。日常に変化が訪れる。時計の針が11時11分になった時も同じです。キュリオスの世界観や感動した瞬間を日々の生活の中でも思い出してほしい」(ラプリーズさん)  観賞のコツはありますか? 「日本人は静かで、礼儀正しいことは知っていますが」とラプリーズさんは前置きしつつ、「面白い時は笑ったり、拍手したりと、感情を表現して見てもらえたらうれしい。これは“あなたのショー”ですから」 (編集部・小野ヒデコ) ※AERA 2018年4月30日-5月7日合併号
AERA 2018/05/02 11:30
TOKIO謝罪会見 全文掲載 「事情聴取が3回あり、刑事2人が家にきた段階でなぜ、打ち明けてくれなかったのか」(松岡)【後編】
TOKIO謝罪会見 全文掲載 「事情聴取が3回あり、刑事2人が家にきた段階でなぜ、打ち明けてくれなかったのか」(松岡)【後編】
会見で心境を語るTOKIOの松岡昌宏(右)と城島茂 (撮影/伊ヶ崎忍) 会見を開いたTOKIOのメンバー。左から長瀬智也、国分太一、城島茂、松岡昌宏 (撮影/伊ヶ崎忍) 長瀬智也(左)、国分太一 (撮影/伊ヶ崎忍)  山口達也(46)が、女子高生に対する強制わいせつの疑いで起訴猶予処分となったことを受け、TOKIOのメンバー4人、城島茂(47)、国分太一(43)、松岡昌宏(41)、長瀬智也(39)が2日、都内のホテルで会見した。  4人によると、山口は4月30日、TOKIOを脱退し、ジャニーズ事務所も退所すると辞表を手渡した。  その辞表はリーダーの城島が預かったままになっている、と会見で説明したが、ジャニーズ事務所の公式サイトでは、メンバーの数はすでに4人へと変更されていた。プロフィールページからも山口の写真と情報は外されている。    同社のジャニー喜多川社長は1日、ファックスで「彼らが、まず何をすべきか、これからをどうしていくか、彼らが考えて決めていくことを受け止めます」というコメントを発表している。4人の記者会見は90分に及んだが、その全文を掲載する。  記者らとの交わした一問一答は以下の通り。   ※前編よりつづく *  *  * ――事件があったのが2月のことでしたが、みなさんに報告がないまま4月を迎えたという形になりますが、そのことに関して一昨日、本人はどんな説明をしたのか? それと合わせまして、会見で本人は事件の隠蔽は否定していますが、説明を受けて、それを聞いて、その態度を見て、隠蔽という意図はあったのかどうか、そういった点をお聞かせください。 城島:本人の説明によりますと、その日は、その友人の方を呼んでっていう、同じようなことを言ってましたが、それから時間が流れて、いろいろあったんでしょうけど、そこに関して、後に事件性があるということを、本人もそこで知ったということで。そこの件に関して、我々も本当にそれまで、山口本人も気づいていなかったというところもあるので、多分そこら辺も、本人も当時びっくりしたと思います。それから事情聴取なり、警察の手続きなどがあるなかで、事務所の方にも話がいって、そこは本人も会見で言っていましたが、怖かった部分も、不安があった部分もあったと。実際に我々にも言っていますけど、だからといって、それでいいのかと、という部分もございます。でもそれは言っても時は戻るわけでもなく、なんともやるせない気持ちになったのも事実です。隠蔽に関してですが、そこは、そういう口調とか雰囲気とか、話の内容聞いてて、付き合い長いもんですから、そこでごまかしているようなら、それはメンバー全員分かると思うんですが。そこに関しては隠ぺいしようとしたとは、私は思いませんでした。 ――3月に捜査が始まってから1カ月近く、事件について報告がないまま仕事をしていたことに関してどう思いますか? 長瀬:会社に話がいったときにはもう、つい最近の話だったようで。僕らも25日の自分たちのレギュラー番組の収録後に聞いて、理解出来ないまま次の現場に向かってという形だったので、正直まだこう、冷静に飲み込めてない自分がいるんですけども……。やはり……その、彼は、一部の報道で、怖くて言えなかったと言っているのを耳にしました。そういう精神状態の中で一緒に仕事をしていて、メンバーである自分たちがそういう異変に気付けなかったのが、悔しい思いです。 国分:メンバー全員、こういった事件を知ったのは、自分たちが持っています番組の収録が終わった後、スタジオを出て、リーダーだけいつも違う場所で着替えるんですが、終わってここにいる4人が、同じ場所に入りました。着替えている最中にマネージャーから、実はこういうことがあったと聞かされました。何をいってるのか正直分からない状態だったんですが、恥ずかしながら、その5分前までは一緒に収録をしていて、そこで、山口の異変に気付くことができなかった。これは本当に自分たちの情けないことだと思います。  ただ、やはり23年間、これだけ長く一緒にやってきているのに、なぜ人一言もなかったのか、本当に悔しい思いもありましたし、その翌日、朝自分の番組でこの、いま起きてることを語らなければいけない、それでも正直何が起きているのか、僕の耳には皆さんと同じように、テレビを観て知るような状況でした。だからこそ、なんとかその前に教えてくれなかったのか、相談がなかったのか。悔しい気持ちはありますけど、冷静に考えると、それに気付けない自分、そして、相談できるような空気を作っていなかったこのグループとしての空気、そういうものもあったのかなと、不甲斐なく思います。 松岡:いま国分が言ったように、事務所、そしてメンバーになぜ言えなかったのか。僕らが気づかない間にそういう空気を出してしまっていたのか。そんなつもりは一切なかったんですけど。ただひとつ言えるのは、彼も会見で言っていましたし、ただあの時は、まだ不起訴が決まっていなくて、言えなかったこともたくさんあったと思います。僕らが彼自身から聞いたのは、そういったことがあり、起きたらいなかった。ああ帰ったんだなと思って、そのままにしていた。なんにもなかった。連絡が。ある日突然、家の前に刑事さんが2人来た。刑事さんが2人も来て、「山口さんですね。ちょっとご同行願えますか?」。それから3回事情聴取があって。刑事さんが家の下に2人もいて、なぜその時点で、事情聴取を受けたときに、事務所なり、メンバーに言ってくれなかったのかっていうのが、お恥ずかしい話、僕の中ではクエスチョンです。そこが今回の騒動の1つの原因なのかな、それも甘さなのかなと考えたときに、どういう気持ちテレビに出てたのかなっていう。自分が逆の立場だったらそのメンタルはないです。 ――今後の活動について具体的な話しはしましたか? 松岡:そういう甘えの根源になるグループなら、なくした方がいいと言いました。なんかつまらないオブラートに包んで言った記憶があります。解散と言えばよかったんですけど、言えない自分もいたのも確かです。あと辞表を出したときに、彼に僕は怒りました。もし、彼が、僕の立場だったら、彼は、僕が出した辞表を会社に出せるのか、と。それはずるいって言いました。 ――先日の会見の時に山口さんが、できればまたTOKIOに戻りたいというようなことを仰った。それから、2、3日経って辞めさせてくれという、この心境の変化というのを、城島さんはどういう風に受け止めていらっしゃいますか? 城島:本来はああいう泣き言いわないタイプなんですよ、あいつは。どんなときも一番男気があって、TOKIOの中での屋台骨といいますか、何かあったらメンバー全員「山口くん、山口くん」って。「ちょっと体調悪いんだけど何だろうね、山口くん」「ああ、それ風邪だね」とか。あとは精神的な部分も含めて、なんでも山口くんって言ってきたメンバーです。それはデビューして23年以上、長瀬が小学生の頃からみんなそんな感じでした。  なので、あの会見のときにああいう風に、甘えたことを言ったので、さすがに信じられない気持ちでした。絶対そんなこと言わないタイプなのにって。どういうことなのかなって思ったんですけど。自分自身のなかで、きちんと答えられる気持ち、人格としてはちゃんとタレント山口達也としてはあるんでしょうけど、自分自身のしでかした部分がそこで露呈してしまったのが、山口達也という人の、人間としての弱さが露呈した部分なのでしょう。私もリーダーとして一緒に長いこといますけども、ちょっとそういう部分は、正直、見たことなかったので。10代のころは、ちょっとした、親とケンカというような相談は受けてましたけど、まあ子供の頃ですから。さすがに大人になってそういうの見たことなかったのでびっくりしました。  しかし、何かあった時にTOKIOのメンバーがいるっていうのって、逆にじゃあメンバーそれぞれなんかあったときって、励みでもあったので。そこで、僕ら5人がメンバーという表現をよくしますけど、家族以上のもので、友人以上のものでという関係できましたから、どっかそこで一瞬、助けを求める心の声が、思わず出ちゃったのかなって。そこまで追い込まれてたのかな。そこまで悩ませてたのかなって。  だけどそれは自分の甘さなので、罪とはそれは関係ありません。人としての弱さ、あいつの弱さです。だからそこはちょっとびっくりしたんですが、でもその時には自分の中ではもう、辞める、こんなことあったら自分から辞めるって言わなきゃいけない。責任感が本当は一番強いやつだったんで、そこで本当は思ったはずです。それが辞表というかたちで、持ってきたんだと思います。多分、この会見をあいつは見ていると思いますが、そうだと私は信じていたいですし、信じています。 ――昨日、ジャニー喜多川社長がコメントをこの件について出されたんですが、ジャニー社長とはなにかお話をされたのでしょうか? 城島:昨日ですが、自分の都合ですが仕事がありまして、それで、電話を入れました。事の経緯はもちろんメディアで知っているとは思ったんですけど、やっぱりちゃんと言ってなかったので、というか、会う時間もちょっとなかったので電話だけでもと思いまして。事の経緯を伝えようと電話したんですけど、留守電になっちゃったんで、手短に留守電が入る時間くらいで(メッセージを)入れたんですけど、折返しその後、10分くらいしたらかかってきまして、とにかく心配していました。「どうしたの?」と。「大丈夫なの?」と。「いろいろあるみたいだけど、僕自身何が出来るかわからないけど、君たちももう50近い人間の集まりなんだから。ちょっと大丈夫なの?」という、心配をされました。「とにかく頑張ってくれ」と。「明日会見なんだろ、頑張れよ」という風に励まされた感じでした。 ――グループの存続などについては何も? 城島:そこら辺に関しては、とにかく……。山口が辞表を出しましたということは伝えました、その時に。もう一回会話の中で。なるほど、ということだったんですが、とにかく、その時に私自身、4人のメンバーがどうすればいいのかと、さっきもお話ししましたが、結果が、答えが出なかった部分があったので、辞表は僕が預かっていますと、リーダーとして。答えを出すのをちょっとまって頂けませんかといことを伝えたら、わかったという返事をいただきました ――以前、城島さんが、一人メンバーが抜けるようなことがあれば、芸能界から足を洗うくらいの覚悟でやられているという発言をされているということなんですけど、これについてはいかがでしょうか? 城島:これは、実際雑誌のインタビューでも答えていますし、ちょっと前にテレビの番組で言ったこともあります。実は、TOKIO結成してから自分は、自らリーダーという名のもとにおいて、自分の責任において、TOKIOという名前を消さない、継続していくことが、自分の役目だと、リーダーとしての。そういうことをずっと言ってまいりました。  メンバーもそれぞれ同じような、表現は違いますけれど、何かあったらっていう部分は持っていると思います。  実際にそれは自戒の念も込めて、自分自身、リーダーとしての自覚も込めて、そういうことを発してまいりました。実際、まさかこういうふうな状態になるとは、もちろん思ってもみませんでしたが、じゃあ実際どうするべきかという、グループの年長者、リーダーとしての責任においてどうすべきかというところになってきます。  しかし正直申しますと、やはり今後継続する部分と、いただいているお仕事がいろいろあります。その中でグループとしての仕事も継続という話も、ありがたいことにいただきました。  4人なのか、謹慎している山口が今後どうしていくのかという部分も含めてですね、そこら辺は山口に関してはわからない部分が多いんですが、とにかくTOKIO4人頑張ってくれという声をいただいております。その中で、自分自身の言動に関してどうするんだと言われたときに、これ以上周りの方にご迷惑をおかけするようなことがあってはならないというのが、その発言の責任もあるんですが、それもまたリーダーとしての責任ではないかと思っているのが実情です。 ――今回、このような悲しい事件がありましたが福島の復興再生のためにどのように取り組まれる考えでいらっしゃいますか? お考えをみなさまお聞かせください。 城島:TOKIOにとって、出身はみんなバラバラですけど、心の故郷(ふるさと)である福島、そして福島の皆さんに対して、言葉が出ないのが悔しいぐらいなんですけど。すみません……。いや、なんてお詫びしていいのか……。  自分たちが実際に福島でいろんな作業をさせていただいて、いろんなことを大自然の中から教わって、いろんなことを生産者の方から教わって。裏切る結果になってしまったのが、本当に申し訳ないです。今後、どうやっていくべきかといいますと、本当にこれまで以上にメンバーで、頑張っていくしかないなっていうのが、絞り出す答えです。こんな自分たちですけれども……。這ってでも、何してでも、頑張っていくしかないって思っております。 松岡:あれだけ大変な思いをされた福島の皆様に、僕らが応援させていただくという形をとらせていただきまして。番組等でお世話になった方々もいっぱいいます。本当に感謝しても感謝しきれないくらいお世話になりました。その方々に、結果、泥を塗ってしまう形になってしまったことを本当に申し訳ないと思っています。  何を言ってもきれいごとに聞こえてしまいます。まず、この4人でしっかり行動できることがあるのであれば、これからももし可能なんでしたら僕らにできることがあったらやらせてください、という気持ちです。 長瀬:こういうような形で裏切るような形になってしまったことが、申し訳ない気持ちでいっぱいですし、こういう質問が生まれてしまうことに対しても申し訳なく思っています。復興に対しても、今までと気持ちは変わりませんが、そこに対しても、今後、僕らが考えていく義務があるのかなと思っています。 国分:メンバーもそうだと思いますし、僕個人的にも、タレントとしてではなく個人の男として、福島の皆さんに成長させてもらったと思っています。公式で自分たちが福島を応援できなくなっても、個人個人が応援するということは忘れずに、これからも福島を応援し続けたいと思います。もちろん自分のやっている番組でも福島の農家さんの声を聞きました。かなり厳しい声もありました。それでも、福島の野菜自身は何も悪いことをしてませんし、それでまた風評が出てしまうのは本当に申し訳ないことだと思います。その野菜の信頼回復のためにも、公式でなくてもこれからも福島を応援していきたいと思います。 ――退職願というのは、TOKIOを辞めるというよりは、事務所も辞めるという意味で山口さんが言ったんですか? 城島:はい。ご迷惑をおかけしたということで、その内容は事務所を退所しますということでした。本人も言っていたんですけど、こういうものを書いたことがないから正解がわからないんだけど、書いてきたと言って差し出してきました。 ――山口さんが今後どういうふうに被害者の方々に向き合っていくのかは、話し合いの場ではなにか仰ってましたか? 国分:もちろん被害に遭った方が山口を許すかどうかわからないのと、もう一度実際に会って謝罪したいということは言っていました。しかし、相手がそれを望むかわからないというようなことは言っていました。 ――ジャニーさんからコメントが出たということに対して、他のメンバーの方はどういう風に捉えていますか? 松岡:自分たちを生んでくれた親ですから。親にそんなコメントを出させるような、情けない気持ちでいっぱいです。 城島:電話で話しましたが、社長とは。とにかく、怒られるものだと思ってましたが、逆に「どうなってるの?」と。「大丈夫なのか?」という、その声が、そういうふうに言わせた自分たちがものすごい情けなく、久々に社長の声を聞いたような気がしまして、心配していたからかもしれませんが、ものすごく弱々しいっていうか、心配しているからなんでしょうけど、ものすごく時が流れたのを感じて。確かに23年デビューしてから流れてるんだな、まだ心配させているんだなこのグループはという思いで申し訳ない気持ちになりました。 長瀬:こういう形でのコメントで申し訳ないなという気持ちです。いろいろ思うことや考えることはありましたけど、苦しくも、ありがたく受け取らせていただきました。 ――みなさんがこの事件を知ったのが1週間前です。みなさまにとって、TOKIOにとってこの1週間というのはどんなものだったのか、皆さん教えてください。 城島:正直、30日にメンバー全員そろうまでは、何がどうなっているのかという情報源が、警察の結果が出ていない部分も含めて、話せない部分もあるということだったので、本当に山口の会見ぐらいの情報しか自分もわからない部分がありました。  情報源はスポーツ紙でしたり、皆さんのワイドショーを拝見させていただいて、こういう感じで皆さんおっしゃっているんだなと。ゲストコメンテーターの方がいろんな意見があって、それはどうかというふうな部分も含めていろいろ皆さんがおっしゃってくださって、ありがたい意見もあればうれしい叱咤激励の言葉とか、批判も含めて、もちろんな意見だと思って聞いてまいりました。そんな1週間だったんですが。正直、太一の心労といいますか、その中でも自分の番組で自分のグループのことを伝えなきゃいけないというところ。現場とかロケとかで会うんですけど、長い付き合いですから口には出しません。横顔でその気持ちが痛いほどわかったので、彼のそういう横顔を見ているのがつらかった1週間でした。 松岡:この1週間、本当に被害に遭われた方と、その親御さんは一体どういう気持ちなんだろうって、思いました。自分だったらどうするんだろう。絶対に許さないと思います。そういうことと闘いながら、テレビを見て、こういう状態になっているということを自分の中で整理しながら、僕らを知ってくださる方々のコメントなんかが、すごく痛くて申し訳なくて、言いたくもないであろう後輩たちもコメントをしなきゃいけない部分も多々ありました。こんな情けねえ先輩を持って本当に申し訳ないと思いました。そんな1週間でした。 長瀬:事態を知って、そのまま次の現場に向かって次の日に海外で仕事だったもので。彼の会見を見てから空港に向かい。同行するスタッフの方にまず謝罪をさせていただき、現地で撮影しながらいろいろな報道とかを見させていただきながら……。いろんな気持ちになりました。  そして帰ってきて、こういう事態になってから初めて5人で会って、全て何も整理ができないまま物事が進んで。その中で、朝の報道番組で、太一君とかリーダーがコメントしているのをずっと見ていまして。隣にいれないことが苦しくなりましたね。なんか、きっと、4人バラバラだったと思うんですけど、なんか同じことを考えていたような気がします。 国分:この1週間はもう本当に複雑な気持ちがたくさん出た1週間でした。毎日のように、山口、そして自分たちの映像が出たりし、いろいろな方からアドバイスをもらったり、逃げ出したくなるようなときもありました。でも、今やっている自分の仕事は、ここを逃げていけない仕事だと思っています。これからも自分のやっている番組でこの報道が出ると思いますが、それをひっくるめてこれが今のTOKIOと思ってます。  すごい複雑ではありますけれども、この1週間本当にいろんなことを考えさせられた1週間です。ただ、忘れてはいけないのがそこに被害者の方がいる、そのご家族が普段の生活に戻れる。それをこれからも考えていきたいと思います。 ――音楽活動については現時点でどうなるのでしょうか? 長瀬:僕らは23年間バンドでやってきましたから。やはり、1つの音がなくなってしまうということは、そういうことなんだと思います。TOKIOの楽曲は彼が演奏する音がないと全く形にはならないので。今、そういう状況で、それからのことは、これから4人でまたゆっくりと考えながら、話し合いながら、やっていこうと思っています。 国分:去年から25周年に向けて5人で話し合ってきました。ここ最近僕らはツアーとかもなく、ファンの皆さんも楽しみにしていたと思います。その25年に向けてアルバム制作、この時期にやりましょう、いろんなことを考えてきましたが、今は、全て白紙にして、とりあえずは音楽活動は考えるのをやめて、向き合えることに今は向き合っていきたいと思っています。 城島:もともとTOKIOっていうのが、1988年か9年ぐらいのときに、山口達也と私、城島が出会いまして、それぞれギターとベースをやってたっていう部分もあって、バンドをやろうじゃないかという部分もあったので、そこからメンバー全員集まってきてバンドをみんなで、下手くそに原宿の小さいスタジオを自分たちでとって、ああでもないこうでもないって言って、やっていた時代がありました。そんなこんなで、そのころはまだデビューもしていませんし、TOKIOっていう名前はいただいてたんですが、うちの社長からは。まだ仕事もなんにもない時代からなんだかんだ、やっていたので。音楽がベースにあるのは間違いないと思うんですが、気がつけばバラエティーとか、いろんな役者の仕事とか、いろんなお仕事いただけるまでになりました。ありがたいです。ただ、今回こういうことになりまして、今白紙だと。音楽活動、正直、断腸の思いです。  しかしそんなことは言っていられません。やっぱり、被害者の方とご家族の方に対しての謝罪の思いと、どうしていくべきかと向かっていかなきゃいけないので、そんなことは言っていられません。きちんとTOKIOとして、果たすべきことやるべきことをやっていくしかないなと思っています。 松岡:一番、ファンの方々はそこを気にしてたと思います。その声も、実は僕らにはちゃんと届いていましたし、だからこそ去年からしっかり、アルバム制作、そして、25周年のライブというのも考えてました。喜んでもらおうと思っていろいろ考えてました。本当に申し訳ないです。 ――仕事を通じて、向き合って謝罪していきたいということを仰っていますが、具体的にはどういうふうに行動し、向き合っていくのでしょうか? 城島:今回メンバーでこうやって謝罪会見をすること自体が、被害者の親御さんとご家族の方から、そっとしておいてあげてほしいという部分もあったので、ふさわしい会見なのかという部分も私たちの中で葛藤がありました。しかし、ちゃんと連帯責任という面も含めまして、きちんとTOKIOとしてメンバー全員でここは謝罪すべきだという思いがありましたので、お時間をいただいたことご了承ください。  そして今、見ていらっしゃるかもしれませんが、どうやって向き合っていくかという部分におきましては、やっぱり、謝罪の念というのは実際に謝りに行くのか、どうするのかということも含めまして、今後メンバー全員でちょっと具体的にどうしていくべきかという部分も、話し合っていかなければいけないと思っています。それが逆に迷惑になるということでしたら、それもよくないことでしょうし、まずはとにかく事態がおおよそわかったのが30日、全員集まったのが30日、月曜夜ということだったので、まずはとにかく会見を開かせていただきたいと会社にお願いしまして、こういう状況です。  本当に、ちょっとずつでも時間がかかって申し訳ないんですが、後手後手に回っている感じがあります。本当に申し訳ないと思っています。自分らの中に精いっぱいできることをなるべく、きちっとやりたいと思っているので具体的な部分については今後考えていけたらと思っています。 (AERA dot.編集部)
dot. 2018/05/02 00:00
X JAPAN・hide没後20年 難病少女との秘話「約束のチーズケーキ」 YOSHIKIが引き継いだ2人の絆
福井しほ 福井しほ
X JAPAN・hide没後20年 難病少女との秘話「約束のチーズケーキ」 YOSHIKIが引き継いだ2人の絆
初めて対面したhideさんと真由子さんの様子。メッセージを添えて、店内に飾ってある(撮影/福井しほ)  1998年にX JAPANのギタリストhideが突然、この世を去ってから5月2日で20年となった。鮮やかな赤髪とイエローハートのギターで世界中を魅了した。hideの軌跡をたどるとき、一人の少女が浮かび上がる。難病であるGM1ガングリオシドーシスと闘っていた貴志真由子さんだ。世界で23例目の難病で、医師からは20歳まで生きるのは難しいと言われていた。闘病最中の95年、真由子さんは難病の子どもたちの夢を叶える団体「メイク・ア・ウィッシュ・オブ・ジャパン」の支援で「憧れの人であるhideと会う」という夢を叶えた。  その後も2人の交流は続き、hideが亡くなった後もhideの仲間や関係者と密な時間を過ごしてきた。hideが亡くなった11年後、真由子さんも旅立った。そんな2人の息遣いを今も感じる場所が和歌山県にある。真由子さんの両親が経営する「レモネードカフェ」だ。1階はカフェスペース、2階はライブハウスという作りになっており、店内にはいたるところにhide関連のポスターやグッズが並べられている。母親である和子さんに話を聞いた。 * * * ――真由子さんはいつからhideさんを好きに?  小学5年生で入院して、入院中に上の娘が持っているCDを聴いて好きになりました。入院中もずっとCDを聴いていて、土日に外泊したときもずっと部屋で映像を見ていました。飛び抜けてX JAPANとhideさんが好きで、それ以外はhideさんが良いと言ったアーティストのCDを聴いていましたね。 ――hideさんとお会いするきっかけは? 「メイク・ア・ウィッシュ・オブ・ジャパン」という「3歳から18歳までの難病の子どもたちの夢を叶える」というボランティア団体があるんです。今の西洋医学では治療が難しいと言われていたので、「それなら何か一つ夢を叶えてあげたい」と思って電話をかけました。そこから話が進んで、お会いできるということに。1995年9月くらいに電話をして、12月31日にたまたまX JAPANの東京ドームのライブチケットを申し込んでいたので、それを伝えると「じゃあそのときに会いましょう」と。 ――hideさんとどんなお話をされたんですか。 「2月に入院するからお手紙ください」と伝えると「出すよ、友達だからね」って言ってくださって。会えると決まってから2カ月かけて、不自由な手でマフラーを編んでいました。それをhideさんに渡したら、その場で巻いてくれたんです。 ――憧れの人がその場で!  そのときは15分くらい報道の方も同席していたんですが、その後に「打ち上げに行きましょう」って言ってくださって。そこからずっとhideさんと交流が始まって、メンバーにも「ダチの真由子」と紹介してくれて。 ――「友達」って紹介してくれるなんて。最初の15分で「じゃあね」で終わっていても良かったわけじゃないですか。  そうなんです。最初は「これで最後だろうな」って思っていて。でもそこから交流がずっと続いていて。 ――嬉しいですね。  そうなんです。そのときに渡したマフラーはその後も使ってくれていました。hideさんのお母さんが「いつも同じような格好をしているから、すごく重宝しているんですよ」って言ってくださって。アメリカへ行くときも必ずスーツケースの中に入れるんですって。で、荷物が多くなったときはマネージャーの方が一度マフラーを取り出すんですけど、「これはダメ!」って必ず持っていくと伺って。hideさんが亡くなった後、そのマフラーはhideさんの形見として返していただいて手元にあります。 ――そうした関係はどれぐらい続いたのですか?  出会ってからhideさんが亡くなるまで2年半なんです。でも、その間の思い出がすごく濃かったんだなと思います。真由子が亡くなった後もhideさんの仲間の方が2階でライブをしてくださったり、色紙に「真由子、来たよ」って書いてくださったり。でも、それは「尊敬しているhideさんが可愛がっていた真由子だから」っていうのがあると思います。真由子自身にも魅力を感じてくださっているんでしょうけど、hideさんの素晴らしさが大きいと思います。 ――どちらも素敵だったからこそですね。hideさんとの思い出はありますか。  12月31日に初めて会って、1月には手紙が届きました。「ロスに行くけれど、真由子とドームで会えたおかげで忘れていたことを思い出させてくれてありがとう」という内容でした。3月4日が誕生日なんですけど、入院していたんです。そのとき、hideさんは海外にいたんですけど、帰国予定を1日早めて病院にお見舞いにきてくれました。 ――hideさんはどんな方でしたか?  気遣いのできる人でした。最初に出会ったとき、打ち上げに行くまで控室で待っていたら「真由子、喉渇いてない?」って聞いてくれて。部屋の隅にクーラーボックスが置いてあったんですけど、hideさんくらいのビッグアーティストだと、スタッフさんにお願いすることも全然おかしくないじゃないですか。でも、全部自分でするんです。烏龍茶を出して、プルタブを開けて、ストローをさして、「はい、真由子」って。自分のゲストに関することは自分でする、というか。スタッフは音楽を作りに来ているから、他の仕事はさせないというスタンスだったのです。 ――優しい方だったんですね。  他にもあって、騒ぎになってしまうからhideさんがお見舞い来てくれていることは主治医の先生と看護師さん以外には伏せていたんです。でもあるとき、一人の男の子が退院後すぐに再入院になってすごく落ち込んでいたんです。それを見た看護師さんが「明日まゆちゃんのところにhideさんが来るから、サイン書いてもらえたらね」って励ましたんですって。そうしたら、それが密かに広まってしまって。全員が色紙を持って、面会室の外に行列ができたんです。12~3人いたんですけど、事情を伝えると全員を一人ずつ面会室に入れて、2ショットで写真を撮って、全員にサインを書いてあげたんです。4時間ほどいてくださって。 ――当時、めちゃくちゃ忙しかったのに。  そうなんです。だけど、周りの子たちもすごく喜んでいました。真由子が危篤になった日の朝に「もうダメかも」とhideさんに電話で話していたんです。「せめてもう一度、電話ででも声を聞かせてもらえたら」と伝えたら、すぐに駆けつけてくれてました。 ――その時は東京にいらして?  2時間くらいかけてきてくれました。無菌室の入り口までhideさんを見送りに行ったら、hideさんのご両親まで来てくださっていて。思わず泣きついてしまいました。 ――hideさんと真由子さんだけの関係じゃなくて、家族同士でのお付き合いになっていたんですね。  はい、今だに交流はあります。 ――お店の看板メニュー「約束のチーズケーキ」はどんな由来が?  親の気持ちとか真由子の容態とかを書くノートがあって、その1ページ目にhideさんがメッセージを書いてくれたんです。チーズケーキが好きというのをどこかで知ったみたいで「チーズになるくらいすごいチーズケーキを食べような」ってメッセージを残してくれたんです。でも、真由子の身体がチーズケーキを食べられるようになる前にhideさんが亡くなってしまったので、2人で食べられなかったんです。店を始めるときは「好きだから」とチーズケーキを出していたんです。その後、真由子が亡くなったときに「やっとhideちゃんとチーズケーキ食べられるね」って棺にチーズケーキをどっさり入れたんです。その話を聞いた方が「その物語をちゃんと名前にしましょうよ」って言ってくださって、「約束のチーズケーキ」というのが浮かんだんです。 唯一、hideさんのカップとソーサーで飲めるのは「真由子ブレンド」。約束のチーズケーキと相性はバッチリ(撮影/福井しほ)   ――素敵なエピソードですね。  マフラーを巻いてくださったことと、危篤のときに駆けつけてくださったこと……。他にもいっぱいあります。hideさんと最後にお会いしたのがX JAPANのラストライブの後、事務所の打ち上げパーティーに招待してもらったんです。そのとき、移植して間もなかったので生ものは食べられませんでした。hideさんは「真由子は火の通ったものしか食べられないよね」って火の通った料理をとって「はい、これ真由子の」って渡してくれて。その後、私と旦那と上の娘には「なんでもオッケーだよね」って料理をとってくれたんです。私たちが遠慮してあまり食べられないだろうという気遣いからだと思います。人を喜ばせるということが好きみたいで、全部自分でしてくれる。帰りも私たちが先に帰るんですけど、車まで見送りに来てくださったり。  ファンの人たちがお店に来てくれたときはこういう話をたくさん話すんです。「あなたたちの好きなhideちゃんはこんなにも素晴らしい人なんだよ」って伝えたい。 「金魚を飼い始めました」hideを癒やしたメール ――本当にhideさんは素敵な方だったんですね。  でも、X JAPANやhideさんの周りにいる方はみんなそうなんです。2015年に真由子の7回忌があったとき、お店で何かできないかなと話したら、ここの2階でよくライブをしてくれているGEORGEさん(我孫子神音会、LADIESROOM)が「声をかけたらみんな来てくれるよ。和歌山だとスケジュールが合わないかもしれないから、千葉のライブハウスでやろう」って言ってくださって、2daysもやったんです。PATAさんは2日とも来てくださったんですよ。YOSHIKIさんは予定があったからビデオメッセージをくださって。GLAYのTAKUROさんもビデオメッセージをくださって。LUNA SEAのJさん、SUGIZOさん、RYUICHIさんも出演してくださりました。他にも本当にたくさんの方が来てくださったんです。  葬儀のときにも、PATAさんやI.N.Aさんも来てくださって。hideさんの事務所の人に亡くなったことを伝えたら、東京の事務所を閉めて全員で来てくださったんです。それで、「真由子ちゃんはもう一員だから皆に知らせます」と音楽業界にFAXを流してくださったんです。そうすると、色んなところからお花が届いて、80くらいかな。びっくりしました。そんなにまでしてくださるのかと。 ――「羨ましいな」とやっかむ人もいたのでは?  メイク・ア・ウィッシュでhideさんと会ったのがテレビで流れたとき、「もしかすると嫌な手紙があるかもしれないから」とテレビ局で中身を確認してくださっていたんです。でも、そういった手紙がまったくなかったのでテレビ局の方が「もう直接でも大丈夫かな」と封を切らずに送ってきてくださるようになりました。その後も嫌な思いをするものは一回もなかったんです。 ――すごい! あんなにたくさんのファンの方がいらっしゃるのに。  そうなんです。むしろ、「登校拒否だったけれど、真由子ちゃんが頑張っているのを見て学校に行き始めた」と言ってくださった方もいて。 ――真由子さんに背中を押されたんですね。  何度かそういう声はいただきましたね。それと、真由子は絶対につらいって言わなかったんです。看護師さんが一度「しんどいとかつらいとかなんで言わないの」って聞いたことがあったんです。すると、「私がつらいって言うと、それを聞いたお母さんがもっとつらいでしょ」って…。 ――hideさんも気遣いの人ですけど、真由子さんも気遣いの人ですね。  そこがきっと、波長が合ったんでしょうね。 ――まだ10代で、自分も大変なのに。  移植して1年後くらいに、危篤状態になったんです。そのとき隣にいた男の子も状態が悪くて、真由子とその子の「どっちがいつどうなるか」という状況でした。そんなとき、男の子が9歳の誕生日を迎えることを聞いた真由子が「私のお財布から、1本ずつ数えられるお花を10本買って渡して」って頼んだんです。「9歳なんだよ」って伝えたら「9歳まで頑張って生きたから、10歳まで1日でも長く近づいてほしいの」って言われたんです。病気で闘っている子にしか分からない1日の重みがあったんです。  それでね、hideさんも希望を持たせてくれるとき、すごく先のことを言わないんです。「また明後日電話するからね」って言われると、明後日まで頑張ろうと思えるじゃないですか。「元気になったらこうしよう」じゃない。漠然と大きなことを言うのではなく、一つずつはクリアできることを言ってくれる。そういう励まし方をする人でした。そういうhideさんの考え方を見ていたのかなと。 ――二人とも本当にすごいです。hideさんも骨髄ドナー登録されたんですよね。  そうですね。当時、会見なんかもありましたが、hideさんはあんなに大々的にやるつもりじゃなかったんです。「hideがドナー登録をするって言っているんですけど、どんな風にやればいいんですか」と事務所の方に聞かれたので色々と話をしていたんです。たまたまそれを知った方がセッティングしてしまって、後でhideさんは「そういうつもりじゃなかった、みんなと同じようにするつもりだった」って怒ったんです。でも、そのときのスタッフさんや取材に来ていた方たちが8人もドナー登録をしてくださったんですよ。 ――真由子さんはhideさんのドナー登録を聞いてどう思われたんですか。  喜ぶと思って伝えたんです。そうしたら、涙をこぼすんですよ。実はあの子は移植を受けている身なので、一生ドナー登録ができないんです。だから「hideちゃんと一緒のドナーカードを持てない」って。 ――ご本人しか持てない感情ですね。  どれだけ頑張っても自分にカードは持てないって。ハッとさせられました。 ――hideさんが亡くなられたとき、真由子さんはいつ知ったんですか。  亡くなられた日に病院の診察があったんです。携帯電話の電源も切っていて、検査後に電源をつけた直後にかかってきた友人からの電話で亡くなったことを聞きました。すぐにマネージャーさんに電話をしたら、「そうなんです。他から聞く前に直接耳に入れたかったけれど、つながらなくて」と言われて。本当はその夜、病院が終わったらhideさんのご両親がやっている横須賀のお店に行く予定で、「都合がつけばhideも来るかも」と聞いていたんです。(訃報を聞いて)真由子は喋らないし、ご飯も食べないしですごく落ち込んでいました。次の日の朝、hideさんのお母さんから「hideがこんなことになってしまって、まゆちゃんの身体に影響はないですか」って電話がありました。 ――息子さんが亡くなったばかりなのに、真由子さんのこと気遣ってくださったんですね。  親子揃ってすごいんです。それで、(遺体が安置されていた)築地本願寺に通っていたら、色んな人が話しかけてくださった。あるミュージシャンの方が「よくhideと飲んでいたんだけど、酔っ払う前に『今、真由子はこういう状態だからちょっと安心なんだ』と話してから飲むんだよ」と話してくださった。この話は他の方も話してくださって、hideさんのロスの仕事仲間も「真由子がもう少し元気になったらロスを案内したい」と言っていたと教えてくれたんです。 ――そんなお話を聞くと切ないですね。  でもね、みんなそうなんです。本願寺で最後のお別れをするとき、YOSHIKIさんは棺のそばで真由子の手を握って「まゆちゃん、今まではhideが支えたけれど、これからは僕たちみんなが支えるからね」って言ってくださった。 ――そのときはYOSHIKIさんも辛かったのに、真由子さんのことも大切にしてくださって。  初めて会ったときも打ち上げ会場から控室に戻るとき、YOSHIKIさんがいたんです。hideさんが「どうしたの?」って聞いたら、「2人のことを待ってた」って3人で手をつないで歩いてきたんです。hideさんが亡くなった後も、自宅まで来てくださったり。 ――hideさんの思いが連鎖してるんですね。  今もお付き合いが続いていることがすごいですよね。hideさんが亡くなったとき、これで切れてしまうだろうって思っていたけれど、その後もつながっていて。真由子が亡くなっても、まだ続いている。ありがたいです。  当時、hideさんとはメールをしていたんです。本当に短い文で、内容も真由子は「金魚を飼い始めました」とか送って、hideさんは「最近は雨ばっかりでね」とか。些細なことばかり。でも、X JAPANの解散が決まってから発表するまでの間にhideさんが「真由子のメールには本当に癒やされたよ」と言ってくれたんです。 ――お互いが心でつながっていたんですね。レモネードカフェにはたくさんの方が来られていますが、どんな場所であってほしいですか。  ここに来る方はなぜか、初めて来た人でもいつの間にか私たちを「お父さん、お母さん」と呼んでくれるんです。遠くから来てくださる方もいるので、できるだけいつも開けた状態にしたい。みんなが来てくれるから、一年でも長く続けたいですね。  取材日は真由子さんの月命日だった。真由子さんと交流があったという常連客から4月に初めてカフェに来たばかりの高校生と客層は幅広く、楽しげに語らう姿が印象的だった。真由子さんについて尋ねると「本当に優しい子で、天使みたいだった」「話していると自分の悪い面が浄化されるような気がする不思議な人」と口をそろえる。ある女性は「聖地はたくさんあるけれど、ここはホームという感じ」と話した。hideと真由子さんの思い出は、今でも多くの人の胸の中に生きている。(聞き手/AERA dot.編集部・福井しほ)
dot. 2018/05/01 00:00
指ヨガ、サップヨガ、陰ヨガ…みんなの知らない「ヨガ」の世界
指ヨガ、サップヨガ、陰ヨガ…みんなの知らない「ヨガ」の世界
愛犬と一緒にドッグヨガ。「ポーズを愛犬と一緒に行い、肉体的にも精神的にも密着度が高いので、愛がさらに深まります(笑)」(写真提供=日本ドッグヨーガ普及協会認定インストラクターの塩澤みきさん) 指ヨガの基本形(深堀ヨガスクール提供) サンセットヨガ  10年ほど前。何もかもに全力投球で心身が疲弊していたときに、出会ったのがリストラティブヨガだった。1ポーズ15分ぐらいかけてゆっくりと体を伸ばすあの快感が忘れられない。まだ知らないヨガの世界がある。タイプ別に紹介したい。  ホットヨガにビクラムヨガ、ハンモックヨガ、眼ヨガ、舌ヨガ、ドッグヨガ、終活ヨガ、ビールヨガ……。ちまたにはヨガがあふれている。  とはいえ、開脚をものともしない、柔軟性が求められるポーズばかりを頭に浮かべ、なんだか「手が届かない」イメージもつきまとう。そこで、まずは手軽なヨガを紹介したい。記者が気になったのは、指ヨガだ。さっそく、東京・西新宿の「深堀ヨガスクール」を訪れた。 「指先は第二の脳。指には不思議な力があると思う」  と考案者の深堀真由美さん。「指先は経絡の終点。指先を刺激すると脳は活性化します。物忘れの改善や集中力を高めるのにも効果があります」  背筋を伸ばし胸の前で両手を合わせる。そこから指を開き、指と指の間を広げ、手のひらを離す。これが基本の形。肩の力を抜き、接点は指先だけというのがポイント。この状態から、指を押し合うのが「花火のポーズ」で、イライラ解消に効果があるそうだ。基本の形から指先を手前、奥と交互に回していくのが「風車のポーズ」。こちらは二の腕の引き締めによいという。  花火のポーズでは、親指、人さし指、と1指ずつ押し合うが、力が入らない指があることに気づいた。親指同士は強めに押し合える。一方で、薬指には力が入りづらい。ただ手を動かしているだけなのに、体がぽかぽかになる。テレビを見ながらでも、いつでもすぐにできるのが魅力だ。  深堀ヨガスクールでは月1回、この指ヨガを行っていて、2年半通う70代女性は、ペットボトルのキャップが開けられるようになったとか。 「血流アップだけでなく、関節を強くし、長期的には骨折予防も期待できます」(深堀さん)  手軽なヨガで、親近感が湧いたところで、さらに足を延ばしてみた。テーマは「海辺」と言っていいだろうか。  東京・吉祥寺駅から歩いて5分。先月オープンした「BAYFLOW吉祥寺」は、1階がカフェ、2階はアパレル、そして3階がヨガスタジオとなっていて、開放感抜群のテラスが付いている。  レッスンが始まる30分前からスタジオは開放される。早めに到着し、更衣室で着替え、テラスに出て風に当たっていると、まるで海外のリゾートの一角にいるような気分になり、街中にいるのをつい忘れそうに……。  人気は「ビーチヨガ」や「サンセットヨガ」。正面スクリーンに映し出される海を見ながら、1時間15分かけて体を動かす。「ヨガは初めて」という人もちらほらといて、中には若い男性の姿も。  ヨガは室内で行うだけではない。海の上でも楽しめるようだ。それが「SUP(サップ)」の上で行うサップヨガ。  SUPは「STAND UP PADDLE BOARD(スタンドアップパドルボード)」の略。水上に浮かぶ不安定なボードの上で行うため、腹直筋や腹斜筋などを使い体幹が鍛えられる。普段あまり意識しない内転筋や腸腰筋も使う。  女優の田中律子さんが理事長を務める日本サップヨガ協会に聞けば、サーフィンをやってみたいけど難しいからサップヨガ、と参加する人もいる。驚いたのは、体験者の最高年齢は80歳超だそうで、こわばって硬くなっている体を、水面でゆらゆらしながらほぐしていくという。  暑い室内で行うホットヨガは一世を風靡(ふうび)したが、現在はどうだろう。「ホットヨガスタジオ ロイブ」を全国に30店舗展開する「ライフクリエイト」は、「リストラティブヨガ」を、大きなバランスボールを取り入れて行う。一般的な「リストラティブヨガ」は深いリラクセーションでうとうとしてしまうものだが、ホットスタジオで行うとは……。眠れないかもしれないが、冷え症の人には理想的な環境だろう。  そのほか、「リンパデトックスヨガ」などのオーソドックスなヨガから、「肩コリラックスヨガ」「腸活ヨガ」「ととのえてゆがみとりヨガ」「背中美人ヨガ」と、チャーミングな名称のヨガまでそろうが、いずれも暑い環境だからこそ、ほぐれやすいのが魅力だという。  同社商品企画部の松井真澄さんに聞くと、人気は「リンパデトックスヨガ」。全身のリンパ液の流れを促進させ、免疫力を上げるのが目的で、まるでエステのようだ。  マッサージ好きの記者は、たまらず試してみることに。開始前、スタジオ入り口でインストラクターからジェルを受け取る。それを体に塗りながらヨガをする。セルフマッサージとヨガのミックスのような時間は、体にたまった老廃物が流れていく感覚で、むくみも解消したような気持ちになる。  慢性的な肩こりに悩む記者が次に試したのは、「肩コリラックスヨガ」。持参のハンドタオルを使って、肩こりの原因となる、肩甲骨を支える六つの筋肉をほぐしていく。  スタジオには、ヨガどころか、日ごろ運動とは縁遠そうな人もいたが、気持ちよさそうな様子を見ると、「とっつきにくいヨガ」という先入観は消え、むしろ、「自分の体と向き合えるきっかけになる」とも感じた。  さて、ここでヨガのお勉強。世に多く普及しているヨガは「ハタヨガ」がベースとなっている。ハタヨガとは、体と呼吸によって潜在的なエネルギーを引き出すヨガのことで、「ha=太陽」と「tha=月」に由来する。ハタヨガの一つに「陰ヨガ」がある。陰ヨガは座位か、寝た状態で行い、一つのポーズに5分以上かけ、ゆったりとして心身の声を聴く。  陰ヨガのインストラクターである中里貴子さんはこう語る。 「心身の状態は日によって異なる。朝と夜、雨の日と晴れの日、春と夏でも。また、仕事がない日とある日、病院に行く日、行かない日……。常に心と体に意識を向けてみて、心がザワザワとしていれば、落ち着かせるために呼吸をさらにゆっくりと。日々の生活に取り入れ、バランスを取ることこそ、ヨガ本来の目的です」  中里さんのアドバイスを受けながら、中年男性や高齢者向けのヨガを紹介しよう。  まずは50~60代の働き盛りの男性向け。 「瞑想的なヨガです。陰極まれば陽になり、陽極まれば陰になる、という言葉があります。陽は『スピーディー』とか『頑張る』ことで、陰は『休む』こと。ビジネスマンほど陰ヨガが向いています」(中里さん)  決して頑張りすぎないこと。「イテテテ」と口にしながら、無理に体を動かすのは避けよう。「楽ちん。気持ちいい」でいい。 「気持ちいいなぁと思えるヨガは体にも心にも効果があります」(同)  頑張ることを習慣化していると、体の悲鳴すら聞こえず、「気持ちいい」状態がわからない人もいるだろう。そういう人は、「呼吸が楽にできているか」を観察しよう。 「心と体の懸け橋は呼吸です。呼吸を感じてみると、無理をしているのかがわかります」  中里さんによると、「頑張る美学」を持っている人は、たとえばスタジオでは隣の人のポーズが気になり、なかなか集中できない。周囲の人ができているのだから自分もやらねば、となる。これでは呼吸も浅くなり、効果が薄いそうだ。  続いて70~80代。 「シニアの方には、健康寿命を延ばすために足腰の筋力をつけるヨガを勧めています。ヨガは『内臓の健康』『呼吸力のアップ』『筋力維持』が期待できます。そして免疫力が上がることで、健康につながります」(同)  中里さんは、シニア向けとして、自宅でできるオススメ簡単ポーズも教えてくれた。 【1】木のポーズ  両足で立った状態から、片方の足を内側に曲げ、反対側の太ももの付け根(できるだけ高いところ)につける。両手は合わせて上に。「一本足で立つことは、骨粗鬆症(こつそしょうしょう)予防にいい。集中力も上がります」 【2】ねじりのポーズ  横たわり体をねじるだけ。「内臓が活性化され、楽に呼吸できるようになります」 【3】スフィンクスのポーズ  うつぶせの状態から上半身を起こすだけ。「前かがみがちのシニアには体をそらすのが有効」  その中里さんは、最近「がんフレンズヨガ」にも力を注ぐ。自身も4年前に乳がんに罹患(りかん)。締めに「私は元気だ」と心で唱え、「自分を治せるのは自分しかいないことを気付かせるヨガ」(同)だという。 「参加者の中には、40歳前後の女性がいますが、こう言っていました。『がんと聞いてほっとした』と。『やっと立ち止まれる』と思ったそうです。それほど、みんな頑張りすぎているのです。頑張らない自分なんて許せないのです。でも人間は絶対走り続けられない動物。頑張るためには、一度立ち止まることが大事なんです」(同)  ヨガと一口に言っても、さまざまなタイプがある。選択肢は増える一方だが、「これは楽しそう」と思えたら、それを試してみてはどうだろう。長く続けてみたら、その先に、心も体も変化している自分と出会えるかもしれない。(本誌・大崎百紀) ※週刊朝日 2018年4月27日号
ダイエット美容
週刊朝日 2018/04/24 07:00
浅丘ルリ子が今明かす 石原裕次郎さんと過ごした「アフリカの夜」
浅丘ルリ子が今明かす 石原裕次郎さんと過ごした「アフリカの夜」
「石原裕次郎シアターDVDコレクション21」から。(c)ISHIHARA PROMOTION,INC. 「石原裕次郎シアターDVDコレクション21」から。(c)ISHIHARA PROMOTION,INC. 「石原裕次郎シアターDVDコレクション21」から。(c)ISHIHARA PROMOTION,INC.  石原裕次郎、浅丘ルリ子、三船敏郎、仲代達矢出演、モンテカルロ、ニース、モナコ、ケニアなど世界各地でロケを敢行したサファリラリー映画の傑作「栄光への5000キロ」(1969年公開)。欧州とアフリカに滞在し約2カ月に及んだ過酷な長期ロケ。日本から遠く離れた地で裕次郎さんと浅丘さんは親密な時間を過ごしていた。「石原裕次郎シアターDVDコレクション21」で浅丘ルリ子さんが語った「裕ちゃんとの夜」――。 *  *  *  撮影は約2カ月間、欧州とアフリカに滞在しました。その間、一度だけ日本に戻ったのですが、まこちゃん(石原まき子夫人)に頼まれて、裕ちゃん宛ての手紙を届けたことがありました。   製作費が限られている作品でしたので、スクリプター(記録係)をはじめ、ヘアメイクやスタイリストを連れて行くことが出来ませんでした。ですので、メイクや衣装の用意を全部自分で行いましたし、今考えてもマネジャーも付けず、よく私ひとりで行ったと思います。アフリカのホテルではサバンナモンキーがあちこちにいるし、トイレに入れば窓からキリンが覗くし、部屋に戻ってベッドに入れば、すごく大きなヤモリが現れて怖くて眠れない。スタッフに頼んで、一緒に泊まってもらったこともありました。それでも病気ひとつしませんでしたね。今でも健康には自信があるのですよ。  海外ロケではラリーの撮影が中心です。ホテルから近い場所で撮影が行われるときは、私もお邪魔しないように同行したこともありましたが、ほとんどの時間はホテルでひとり待ちぼうけです。編み物をしたり、プールで泳いだり、ホテルの厨房を借りて料理したり。日本食が少しずつ恋しくなってくる。お醤油を使った料理が食べたくなるんですね。アンナ役のエマニュエル・リバさんもいらっしゃいましたが、フランス語ができないのでコミュニケーションを取ることが出来ません。そう、よく映画をご覧になった方が劇中での私のフランス語を褒めてくださるのですが、実は一言も話せないのです。発音が良いようですね。  そうしてホテルでひとり寂しい思いをしていると、毎日、撮影から戻った裕ちゃんがコンコンと部屋をノックしては「今、帰ったよ。ご飯食べた?」と声をかけてくれました。大変な撮影できっと疲れているでしょうに、その気遣いが裕ちゃんらしくて嬉しかったですね。  それだけ長いロケですので、ジャン・クロードドルオーさんから熱いアプローチを受けたこともありました。いつも私のことをじーっと見つめたまま、目を離してくれないのです。仕方なく裕ちゃんに「ずっと見られていて、どうしましょう?」と相談したら、返ってきたのは「好きに見させてやれ。放っておけよ」とあっけらかんとした豪快な言葉。私も「わかった! 放っておくわ」と開き直るしかなく、なんだか気が楽になったことがありました  今思えば、石坂浩二さんは、これだけ長期ロケのある映画に快く送り出してくれたと思います。今だから言えますが、あのとき、石坂さんが「あなたが仕事を辞めるのはもったいない。女優の仕事を続けてください」と言ってくださった。おかげで今もこうして仕事を続けていられることをとても感謝しています。 (文/中山治美)
dot. 2018/04/22 11:30
「国民の敵」「気持ち悪いんだよ」と罵倒された小西議員が明かす、3等空佐との会話
亀井洋志 亀井洋志
「国民の敵」「気持ち悪いんだよ」と罵倒された小西議員が明かす、3等空佐との会話
自衛隊トップの河野克俊統合幕僚長 (c)朝日新聞社 民進党の小西洋之参院議員 (c)朝日新聞社 「おまえは国民の敵だ!」  防衛省の統合幕僚監部に勤務する30代の3等空佐が、野党議員に対して浴びせた罵声が物議を醸している。  4月16日午後8時40分頃、民進党の小西洋之参院議員は東京・永田町の参院議員会館を徒歩で出たところで、ジョギング中の3等空佐の男性と遭遇した。  小西氏がこう語る。 「歩道上で出くわしたところで、ぱっと視線を向けられたので、私は目礼しました。その男性は走りながら、何度も私のほうを振り返ったので、そのたびに目礼しました。国会図書館前の交差点で立ち止まると『小西か?』と声を掛けられました」  以下、小西氏の記憶をもとに事の経緯を詳述する。 「はい、小西です」と答えると、いきなり「おまえ、ちゃんと仕事しろ!」などと絡んできたというのだ。 「一般の方からもよく路上で声を掛けられ、励ましだけでなくご批判の言葉を頂くことがあります。ご批判の時は、私はいつも『信念に基づいて、国会議員として仕事をさせて頂いております。集団的自衛権の解釈変更について憲法違反であることを証明してきました』などとお伝えするようにしてきました」  この時も小西氏はそう答えると、男性は「俺は自衛官なんだよ。おまえは国民の敵だ!」と言い放ったという。 「あなた、自衛隊員なんですか?」  小西氏は驚きながらも話を続けた。 「憲法違反の戦争で、あなたがた自衛隊員が戦地に送られるのを阻止するために、政治生命を掛けて闘っています」  それでも男性は威圧的な態度で「おまえ、気持ち悪いんだよ」「国民の敵だ」「国会議員に意見して何が悪い?」などと罵り続けてきた。  3佐の発言は、自衛隊員の品位の保持や、選挙権の公使を除く政治的行為の制限などを定めた自衛隊法に違反する可能性がある。  小西氏は「自衛隊の服務規程や法令に違反する発言ではないか」と発言の撤回を求めたが、それでも男性は発言をやめなかったという。 「発言を撤回すれば許すことも考えるが、撤回しないのなら防衛省の人事当局に通報せざるを得ない。あなたは処分を受けることになりますよ」  小西氏は男性にそう告げたが、撤回を拒否されたため、その場から豊田硬防衛事務次官に電話して「自衛官を名乗る者から国民の敵だ、などと罵られている」と伝えた。折り返し、同省の武田博史・人事教育局長から慌てた様子で電話が入る。  男性は180センチほどの大柄な体格で、小西氏は対峙するためにも、近くで警備中の警察官を呼び寄せた。加勢の警察官も掛けつけ、所轄の麹町署からも警備課長が到着すると、ようやく男性は態度を変え始め、発言を撤回することになった。しかし、その言葉が「勉強になりました」であったため、周りの警察官たちからも失笑が漏れた。最終的には「すみません」との謝罪の言葉を口にして、その場を立ち去ったという。この間のやり取りは、およそ30分間近くに及んだ。小西氏が続ける。 「警察官は男性の名前だけ聞いて、所属を聞いていませんでした。私は当初、末端の若い自衛隊員だと思ったので不問にするつもりでした。武田人事教育局長から当日の深夜のうちに、事件があった以上は、防衛省として人物特定の調査を行うとも聞いていた。ところが、翌朝になって麹町署から統合幕僚監部の職員であることを知らされました。自衛隊を統率する部署であり、まさに南スーダン・イラク日報の隠蔽問題が問われています。このため、国民に対する責任から国会で取り上げることにしたのです」  そして、午後には人事教育局長から、「3佐」であることも知らされた。 「昔であれば、大本営の青年将校です。夕方に謝罪に来た河野克俊統合幕僚長に対しても、昨年の安倍総理の自衛隊明記の改憲発言について、幕僚長が『大変、有り難いこと』と違法な政治発言を行ったことも原因の一つだと指摘し、直属の部下の幹部自衛官の暴言の責任を取って、即刻辞職すべきと言い渡しました。戦前、青年将校たちが政治家に対して『国民の敵だ』と叫んでクーデター事件を起こした。だからこそ、どうあってもシビリアンコントロールを徹底させることが重要なのです」(小西氏)  この3佐は2005年に防衛大学校を卒業し、航空自衛隊を経て、現在は統合幕僚監部指揮通信システム部に所属する幹部自衛官だ。  よりによって、南スーダンPKOの日報隠蔽問題が取り沙汰されているさなかの“不祥事”だった。  小野寺五典防衛相は「小西議員に不快な思いをさせたのであれば申し訳ない」と語る一方で、「若い隊員なので様々な思いもある」と擁護するかのような発言もした。  4月19日の河野統合幕僚長の会見では、3佐が小西議員に「国民の敵だ」など何を具体的に言ったのかという質問が集中した。だが、河野氏は「調査を慎重に進めているので、コメントは控えたい」などと明言を避け続けた。  報道陣から「文民統制違反ではないか?」と指摘されると、幕僚長は平身低頭、こう釈明した。 「今回の(3佐の)行為を2.26事件や5.15事件と比較される報道もあります。そのような批判は厳粛に受け止めなければならないと思っています。しかし、いまは戦前とちがって、このような事態を自衛隊として絶対に許しませんので安心して頂きたい」  物騒な軍国主義時代が再び、到来することはない、という防衛省の主張はどこまで信用できるのか。 「防衛省・自衛隊と旧民主党は、ギクシャクしてきた。民主党政権当時、鳩山由紀夫首相が日米首脳会談でオバマ大統領に普天間飛行場移設問題について『私を信頼してほしい』と伝えたことに対し、1等陸佐が公然と首相発言を批判。北澤俊美防衛相が注意処分にしたことがあった。この1佐は、水陸軌道団が新設された相浦駐屯地に西部方面混成団長として就任するなど栄転。注意処分はその後の経歴にまったく影響していない」(軍事ジャーナリスト)  国会議員を面罵する隊員もいれば、面従腹背もまたお家芸か。(本誌・亀井洋志) ※週刊朝日 オンライン限定記事
週刊朝日 2018/04/21 00:00
“モンスター住人”に悩まされ…マンション管理人はAIに置き換わる?
“モンスター住人”に悩まされ…マンション管理人はAIに置き換わる?
全国で増え続けてきたマンション。快適なくらしの場となる一方で、新たな課題も増えている(写真は本文と直接関係ありません)(c)朝日新聞社 老朽マンションほど、管理費の滞納が多い(管理費等を3カ月以上滞納している住戸の割合)(週刊朝日 2018年4月27日号より) 老朽マンションが急激に増える(週刊朝日 2018年4月27日号より)  最近の人手不足でマンション管理員のなり手も減っている。都市部で新築ブームが続く一方で、中古物件の老朽化や入居者の高齢化も進むマンション。ゴミ屋敷やスラム化への道が待っている“限界マンション”とは? ■管理員追い込むモンスター住人  業者による修繕や整備があれば、受け付けや立ち会いをする。引っ越しシーズンとなれば、運送業者が適切に養生をしているかのチェックも欠かせない。もちろん、住民からの要望や問い合わせにも対応する。管理組合の理事会や総会に出席することもある。 「一般に考えられているよりもずっと重労働で、住人の接し方によってはストレスもたまりやすい仕事です。評価されたり、感謝されたりする機会は少ないのに、少しでも不備があると住人から叱責されることがあります。本来は管理員の仕事でないことについてまでも責め立てられ、やめてしまう人がいます」(不動産コンサルティング会社「さくら事務所」の土屋輝之さん)  ある業界関係者も、こう明かす。 「最近は『モンスター住人』に悩まされる管理員がいます。精神的に不安定な住人が、何かと難癖をつけて攻撃してくるんです。その物件は管理員を何人送り込んでもすぐにやめてしまう。そこまでひどくなくても、管理員室にいれば『仕事をしていない』と言われ、巡回に出ていれば『いつもいない』と言われる。やりがいを感じる機会が極端に少ない」  体力的にも精神的にも楽ではない仕事なのに、時給は地域にもよるが1千円前後が相場。決してよくないため、割に合わないとやめる人も少なくないという。  給与を上げれば、人を集めやすくなるとも考えられる。人手不足感の強い飲食店などはパートやアルバイトの時給引き上げ傾向が顕著だ。しかし、マンション管理員は上がっていないところも多い。 「管理員の報酬の原資は、管理組合が住民から徴収して管理会社に支払う管理委託料です。待遇を改善するには委託料を値上げする必要がありますが、管理組合側からは値下げ要求のほうがむしろ強いです。交渉がうまくいったケースはあまり聞きません」(土屋さん)  NPO法人「全国マンション管理組合連合会」の川上湛永会長は、組合の厳しい懐事情を打ち明ける。 「管理費の滞納や駐車場収入の低迷などで、修繕積立金不足に悩むマンションが増えています。管理費値上げなど、とても考えられないという管理組合が多い。数年前ならば、管理会社との契約更新時に値下げ交渉をするなど、管理会社を変えてコストダウンを図ったりすることができました。しかし、今はそんなことをすれば、新たな管理会社が見つからない可能性さえあります。むしろ、利幅の薄い小規模のマンションだと、管理会社側が更新してくれなくなることもあり得ると危惧しています」  国土交通省の調査によると、築年数が古いマンションほど、滞納者の占める比率が高かった=上のグラフ。老朽化したマンションほど、設備の保全や大規模修繕にかかる費用が膨らみやすい。日常の点検や確認がより大切になり、管理員の果たす役割は大きくなる。  マンション管理を巡る状況は厳しいが、管理員の採用倍率が8倍と、人手を確保している会社もある。約3500人の管理員を抱える大和ライフネクスト。人材開発一部の松本幸太郎部長は人気の秘密をこう話す。 「採用倍率は3年前までは20倍でした。今は8倍ですから、これでも、優秀な人材を採用しにくくなっていて、危機感を持っています。給与や時給の引き上げは限界があるため、働きやすく、やりがいを感じられる職場づくりに特に力を入れています」  管理員は一般的に、契約社員やパートなど非正規雇用が中心だ。しかし、同社は勤務条件にもよるが原則65歳まで正社員として雇う。休暇中の管理員の代わりに現場に入れる代行管理員を組織するなど、有給休暇を取りやすい環境を整えた。地域ごとにグループを設け、勉強会を毎月開催。物件によっては、「1日管理員体験」のイベントも催す。住人の子どもたちに、制服を着て仕事を体験してもらう。 「管理員はそれぞれの現場で一人で仕事をするため、孤独を感じやすい。このため、同じ仕事をする者同士で情報交換する機会を設けています。経験を発表し合い、共有できる仲間をつくることで、モチベーションを上げてもらうねらいです。住民とのコミュニケーションを深めて管理員や管理の仕事を身近に感じてもらい、理解・関心を深めてもらうことで、よりよい管理運営が期待できます」(松本さん) ■住民満足度UP 人工知能活用も  人工知能(AI)を使い、管理員の負担を減らしつつ、住民の満足度を上げようとする試みもある。  管理会社の「大京アステージ」は、マンションにAI管理員を置く実証実験をしている。東京電力グループのファミリーネット・ジャパンなどとの共同研究で、自動応答サービスを開発した。エントランスにモニターを設置し、画面にはAIの男性管理員のイラストが表示される。住民が話しかけると、応答するしくみだ。 「ゴミの日は何曜日?」 「近所のコンビニはどこ」  こうした質問に答えられるほか、簡単なあいさつもできる。今後、「共用部分の電球が切れた」などの連絡には「後ほど対応いたします」と答えたり、管理員が出勤時に確認したりする。すぐ答えられない質問などはコールセンターの番号を案内する。そのままコールセンターと通話できる機能搭載も考えているという。  山崎紀男・事業統括部長は、ねらいをこう話す。 「人手不足対策としてはもちろんですが、管理員がいない夜間などにも対応できます。このサービスで、入居者の利便性を高められるのではないかと考えました。現在、実験の結果を受けて質問や要望を分析し、学習させている段階です。実用化する時期は未定ですが、将来は管理員の負担を減らしつつ、入居者の満足度も高められるようになると期待しています」  AI管理員が実用化されても、人による管理すべてを取って代われるわけではない。さくら事務所の土屋さんは、管理員が働きやすくやりがいも感じられるようになるためには、住民の理解も不可欠だと訴える。 「共用部分の不備はすべて管理員の責任と思い込み、クレームをつける人もいます。しかし、実際は危険を伴う高所作業などが禁じられており、業者を手配してからということも多いのです。大切な住まい、資産であるマンションを管理してくれている人に対し、無関心であったり、苦情を言ったりするばかりでは残念です。仕事の内容を理解し、協力して資産価値を守っていこうとする姿勢もあっていいのではないでしょうか」 (森田悦子) ※週刊朝日  2018年4月27日号
住宅
週刊朝日 2018/04/20 07:00
「松坂大輔は、負けてはいけない存在」 PL学園の“好敵手”が明かす復活への思い
「松坂大輔は、負けてはいけない存在」 PL学園の“好敵手”が明かす復活への思い
元近鉄・大西宏明氏が経営する大阪・心斎橋の焼肉店「笑ぎゅう」の店内には、松坂大輔から贈られた、Rソックス時代のユニホームが飾られている。(写真提供:喜瀬雅則)  大阪の心斎橋は、夜の遅い時間になってからも、人通りは絶えることのない“不夜城”だ。ファッションでも、飲食でも、まさに流行の最先端を走る、発信力の高い街でもある。  その激戦区で、大西宏明は、人気の焼肉店「笑ぎゅう」(読み方は“わらぎゅう”)をオープンして、6年が過ぎた。すっかり、実業家の顔となった元プロ野球選手にとって、かつて、グラウンドでパフォーマンスを見せていたナイターの時間帯は、いまや、大事な“書き入れ時”となった。 「だから、ナイターはリアルタイムでは見られないんですよ。正直言って、もうプロ野球に関して、勝ち負けは気にならなくなりました。でも、親しい選手の動向は、やっぱり、気になります。その中でも、松坂大輔ですよ。特別、気になります。むちゃくちゃ、気にしていますよ」  松坂大輔が、550日ぶりに、公式戦登板を果たした4月5日。巨人を相手に5回3失点と、無難にゲームメークした同級生のピッチング。大西は、仕事を終えた深夜に、そして起床後も、何本もニュース番組やワイドショーをはしごして、松坂の投球ぶりを、何度もその目で確かめた。 「彼に対して、僕なんかは、コメントできるくらいの選手ではないと思ってます。同級生であり、敵対した相手でもありますけど、ライバルというのはおこがましい。憧れの、同世代のスターです。だから、正直な気持ちはうれしい。一軍の舞台に戻って来てくれて、ホントにうれしいですよ」  大西も、松坂と同じ1980年生まれ。あの「松坂世代」の一人である。    20年前の夏、甲子園で生まれた伝説の一戦。準々決勝の横浜対PL学園戦は、延長17回の死闘となった。  大西は、PL学園の「5番打者」を務めていた。  2回、7回、11回。  PLが得点を刻んだイニングで、大西はいずれもヒットを放っている。圧巻は「11回裏」だった。  横浜が1点をリードしていた。松坂が、このまま守り切ったら、戦いは終わる。PLの反撃が始まった。  先頭の主将・平石洋介(現・楽天1軍ヘッドコーチ)が左前打で出塁。バントで送っての1死二塁で、4番・古畑和彦が三振を喫した。  大西は、近鉄、オリックス、横浜、ソフトバンクで9年間プレー、1軍で554試合に出場した。つまり、後にプロで活躍したプレーヤーだ。  シュアな打撃、堅実な守備、俊足。それは、単なる過信ではなく、大西の実力は確かに、群を抜いていた。 「自分が、PLの中で1番いいバッターのはずなんです」  そのプライドを、心の中に秘めていた。しかし、ネクストバッターズサークルで控えていた大西は、目の前の光景に、愕然とした。  俺には、投げてへん……。 「古畑に対して、松坂の“ギアの入り方”が違っていたんですよ。僕、それが、悔しかったんです」  試合の中で、投手は“アクセント”をつける。  ここで、こいつを抑えておかないと、相手のチームが勢いづいてしまう。そうしたキーマンを、全力で抑えに行く。その一方で、言葉は乱暴だが、下位打線には、ある意味、手を抜いて流すのだ。  4番の古畑を止めれば、PLは戦意を喪失する。勝負どころとみた松坂は、古畑に対して“本気の直球”を投げていたのが、大西には分かったのだ。 「11回は、それまでと、全然違う球だったんです。すごかったですよ」  古畑は、松坂の前に、6打数ノーヒット。完璧に封じ込められていた。古畑の三振で、2死二塁となった。  5番・大西が凡退すれば、その瞬間に試合が終わる。まさに絶体絶命の場面だ。その投手心理、バッテリーの思い。大西には、それがくっきりと見えていた。 「古畑に集中しすぎたんでしょうね。松坂が気を抜いたんじゃなくて、捕手の小山(良男・現中日スカウト)が、ちょっとホッとしたんでしょ? 初球、またカーブでした」  2回、7回のヒットも、いずれもカーブを打ったものだったと、大西は振り返る。 「だから、ストライクを取りに来たカーブなんですよ」  大西は、実はカーブを打つのが得意だった。そのデータは横浜ベンチにも浸透していたという。時がたって、松坂を育てた当時の横浜高部長・小倉清一郎の著書の中で「大西はカーブに要注意」と記されているのを見て、大西はうれしくなったという。  そのデータを無視したのか。いや、おそらく違うだろう。カーブに食いつかせておいて、ストレートかスライダー。松坂の真骨頂でもある“真っすぐ系”で仕留めるという算段だったのだろう。  ところが、そのカーブを、大西は三度とも、見事に仕留めた。打球は、レフト前へ。  6-6の同点。試合はまたも振り出しに戻り、延長17回の激闘へとつながっていくのだ。  大西は「カーブ3球」に関して、プロ入り後に松坂と、そして小山とも話し、振り返ったことがあるという。 「あの時、マウンドで初めて、松坂は小山に怒ったって聞いたんですよ」  大西は、その年の春のセンバツでも、松坂から2本のヒットを放っていた。その記憶は鮮明だ。 「スライダーをたまたま打ったのと、ストレートに、ぐちゃぐちゃに詰まって、ハーフライナーで内野の頭を越えたヤツですよ。だから、会心のヒットって、ないんです。5本打ってるのにね」  夏の3本も、いずれもカーブ。  それが、大西には物足りなかった。いや、むしろ、寂しかったのだ。本気で、来てくれないんだな―。  大西はその後、関西の名門・近大に進み、2002年のドラフト7巡目指名で近鉄(現オリックス)に入団する。プロに進むまでの4年間、大西が常にイメージしていたのは「松坂大輔」という、偉大なる同級生の存在だった。 「プロに行く。それにプラス、松坂大輔のストレートを打つことだけイメージしていました。もっと言えば、ホームランを打つ。それだけを目指していました」  大西のプロ2年目、2004年に迎えた、松坂との“プロ初対戦”。そのとき、18・44メートル先のマウンドに立つ松坂と、何かがシンクロしたかのような気がしたという。 「あうんの呼吸ってやつですよね。真っすぐオンリー。それでしか来ない。なんか、そういう感じだったんですよ」    6年ぶりの対決。その予感通り、そして、あの夏とは違った。  松坂は、カーブを投げなかった。ストレートを捉えた。 「めっちゃええ、センター前ヒットでした。僕の中でも、会心でした。それでもう、目標を達成してしもたんです」  大西は、そう言って笑いながら、両手の手のひらを見つめた。 「今も、あの感触が残っていますね」―。  松坂大輔を目標に、松坂大輔だけを見据え、ひた走ってきた9年間のプロ生活を終えた大西は、2012年4月、大阪・心斎橋に自らがオーナーを務める焼肉店「笑ぎゅう」を開店した。  当時、メジャーのレッドソックスに所属していた松坂に連絡を取ると、早速、国際便の小包が大西の元に届いた。  入っていたのは、レッドソックスでのユニホーム。店内のガラスケースの中に、その「松坂のユニホーム」が、常に展示されている。  それは、大西宏明という野球人が、松坂大輔という“最高のライバル”と戦い続けてきたという、確かな証でもある。  越えたくても、越えられなかった。  「あいつは、負けてはいけない存在なんです。それは『松坂大輔』でいることなんです」  2度の手術。ソフトバンクでの3年間で、1軍登板はわずか1試合。松坂の築き上げてきた栄光を思えば、その落差は激しい。それでも、マウンドに戻りたい。現役にこだわろうとする同級生の姿に、大西は共感するのだという。 「まだ、野球を辞めてはいけないんです。彼には責任があります。無理強いして悪いけど、責任があるんです。彼で、人生を左右された人間、僕らの世代にはいっぱいいます。彼からしたら『そんなん、知らんわ』でしょうけど、だからあいつには、最後まで野球をやってほしいんです。きっとその自覚もあるでしょう。だから、僕も言うんです」  2018年4月7日。大西の経営する焼肉店「笑ぎゅう」に、PL学園時代の同級生が来店していた。  そのチームメートが、その場で松坂に電話を入れた。  「大西もおるぞ」  電話を代わった。  「久しぶりやな」  「今度、店行くわ」  その日、松坂はチームの大阪遠征に帯同していた。次なる遠征時での来訪を、大西に告げた。  中日は、GW中の5月4~6日に、甲子園での阪神戦が組まれている。2度目の先発となる19日の阪神戦(ナゴヤドーム)で、きっちりと試合を作ることができれば、さらに勝つことができれば、その「甲子園凱旋」の可能性も出てくるかもしれない。 「無理は分かっているんですけど、あの“えげつないストレート”で抑えるのを、もう一度見たいんですけね。無理なんですけどね。でも、松坂大輔なら、何かをやりそうな期待感があるんです」  勝てよ、松坂。ええ肉、用意して、待ってるからな。  あの夏から、20年。  大阪で『復活』を祝う日を、大西は待ち望んでいる。(文・喜瀬雅則)       (敬称略) ●プロフィール 喜瀬雅則 1967年、神戸生まれの神戸育ち。関西学院大卒。サンケイスポーツ~産経新聞で野球担当22年。その間、阪神、近鉄、オリックス、中日、ソフトバンク、アマ野球の担当を歴任。産経夕刊の連載「独立リーグの現状」で2011年度ミズノスポーツライター賞優秀賞受賞。2016年1月、独立L高知のユニークな球団戦略を描いた初著書「牛を飼う球団」(小学館)出版。産経新聞社退社後の2017年8月からフリーのスポーツライターとして野球取材をメーンに活動中。
dot. 2018/04/19 16:00
小泉純一郎氏独白全文公開 「安倍さん、とっくに辞めてなきゃいけないはず」
小泉純一郎氏独白全文公開 「安倍さん、とっくに辞めてなきゃいけないはず」
週刊朝日の独占インタビューに応じた小泉純一郎元首相(撮影/写真部・東川哲也)  自民党の二階俊博幹事長、山崎拓元副総裁、小池百合子東京都知事らと18日夜、東京都内で会食した小泉純一郎元首相。森友、加計疑惑疑惑、財務事務次官セクハラ問題などで火だるまになっている安倍晋三首相の政権運営、9月の総裁選について意見が交わされたという。小泉氏は11日、週刊朝日の独占取材に応じ、安倍首相について「もう引き際」、「3選はないね」「バレてる嘘をぬけぬけと…」「国民はあきれてんだよ」と言及。ついに引導を渡した。55分に及んだ独白の全文を掲載する。 ──森友学園への国有地売却問題をどうお考えですか。  根本の嘘の始まりは、国会で「私や妻が関わっていたのなら、総理大臣も国会議員も辞めます」だね。昭恵さんは森友学園の元名誉校長でしょう。森友学園へ行き、挨拶までし、関係しているのに、なぜ、あんな嘘を言い続けるのか、わかんないね。「私たちが関係していた」って正直に言えばいいのに。おかしなことをしてないなら、嘘つく必要ないんだから。嘘の上塗りをするからおかしくなる。総理も国会議員も辞めると言ったので、本当ならとっくに辞めてなきゃいけないはず。なのに、バレている嘘をぬけぬけと今も言ってるなぁとあきれているんだよ、国民は。 ──昭恵夫人と面識はありますか?  安倍さんが幹事長の時代かな。山口県へ行ったとき、昭恵さんとも一緒に食事をしました。昭恵さんからは「首相って、そんなに大変なんですか」と質問されたので、「なってみればわかるから」と答えた。いま、本当に大変だ(笑)。 ──森友問題では財務省の決裁文書改ざんが発覚し、近畿財務局では自殺者も出ました。「記録はない」と言い続けた佐川宣寿前国税庁長官は、国会の証人喚問で改ざんを認めたものの、「刑事訴追の恐れがある」と証言を拒否しました。  あきれたね。彼は書類や記録がないと国会で嘘を言ってバレた。改ざんまでして嘘をついた。安倍首相、麻生(太郎)財務相は国会で「(佐川氏は)適材適所」と言い切ったが、それならどうして懲戒処分にするのか。どうしてこういう嘘を全員で言い続けるのかね。おかしいんじゃないか。 ──森友問題の発覚直後の昨年2月、8億円の値引きの根拠となった地下ゴミの撤去費をめぐり、財務省理財局が学園側に口裏合わせを要請したり、虚偽を記した文書に署名を求めたものの、拒否されたことを、太田充財務省理財局長が国会で白状しました。  嘘を重ね、隠しきれなくなり、疑問はますます深まっている。 ──沈静化していた安倍首相の友人、加計孝太郎氏が理事長の「加計学園」の獣医学部新設問題が再び国会で議論されています。2015年4月2日、官邸で愛媛県、今治市、加計学園の職員らが柳瀬唯夫・首相秘書官(当時)と面会した際、首相秘書官が「本件は首相案件」と伝えたとされる記録(備忘録)が出てきました。 (首相案件は)安倍さんは否定しているけどね。首相が一生懸命になっているのがわかったから、官邸、官僚らみんなが協力したんでしょう。 ──首相は愛媛県の記録より柳瀬元首相秘書官の記憶を信じると明言しました。  逃げ切れると思っているからいろいろ言っているんだろうね。 ──小泉氏の首相時代、「首相案件」というものは存在しましたか? 「郵政民営化」かな。首相の私がやると言ったからできた。自民党も野党もほとんど反対だったのを押し切った。参議院で否決され、万歳やって衆院を解散した。いま思うと非常識だったが、衆院選で勝って法案を通した。それだけ首相の権限というのは大きい。だからもし、安倍さんが「原発ゼロ」をやろうと言えば、できたはず。原発ゼロは与野党で協力できる政策で歴史的な偉業だったのに。原発ゼロは首相任期中にできるけど、安倍さんが目指す憲法改正はできない。国会で3分の2、そして国民投票で過半数を取らないと、そもそも無理だもの。できることをどうしてやらなかったのか。 ──安倍首相に直接、話したことはありますか?  去年、山梨県の笹川(陽平・日本財団会長)さんの別荘であった懇親会で会ったときにも忠告した。経済産業省が掲げる原発推進の三つのスローガン、「安全」「コストが安い」「クリーンエネルギー」は全部、嘘だとね。それで「経産省に騙されるなよ」と言うと安倍さん、黙って苦笑いしていたけどね。 ──安倍政権はこの先、どうなりますか。  危なくなってきたね。安倍さんの引き際、今国会が終わる頃(6月20日)じゃないか。(9月の)総裁選で3選はないね。これだけ、森友・加計問題に深入りしちゃったんだから。来年の参議院選挙への影響が出る。国会が終わると、1年前から選挙運動の準備をするのでそろそろ公認を決めなきゃいけない。参院候補者が浮足立つ。安倍さんで選挙はまずいなと。 ──総裁選となれば、誰がふさわしいですか?  原発ゼロというのは、河野太郎外務相が私より先に言いだした。もし、河野さんが原発ゼロを主張して総裁選に出たら、どうなるかわかりませんよ。外相としての仕事を乗り切って、実績を上げていけば、大化けする可能性はなきにしもあらず。(次の総理に名前が挙がっている)岸田(文雄)政調会長、石破(茂)元幹事長は原発には言及していないね。 ──ただ河野外相は入閣後、脱原発は封印しています。 (第2次橋本内閣で1996年に)3度目の厚生大臣に就任する前、橋本龍太郎首相(当時)から内示があったとき、私は「郵政民営化を主張してますから、党内反発がありますよ」と話した。橋本さんは「内閣の方針に従ってもらえば、持論として言ってもらっていい。だから受けてくれ」と言っていた。河野さんだって原発ゼロは内閣の方針ではなくても、持論は持論。その立場でいればいい。 ──小泉氏らが1月に発表した「原発ゼロ・自然エネルギー基本法案」をたたき台に、野党の立憲民主、自由など4党が3月9日、「原発ゼロ基本法案」を衆院に共同提出しました。  私は政党と連携するつもりはない。国会で議論してもらうことに意義がある。法案を出したって、国会で通りっこないのはわかっている。(最大勢力の)自民党が反対してるんだから。原発再稼働を推進する安倍首相が交代しないと原発ゼロに舵は切れないだろう。 ──東日本大震災で、福島第一原発で事故があったとき、近海を通りかかっていたアメリカ軍の原子力空母「ロナルド・レーガン」の乗組員、兵士たちが、救援物資の輸送や被災者の救助など、「トモダチ作戦」に参加。終了後、兵士らの一部が健康状態の悪化を訴え、福島県沖で放射線に被曝したと主張し、東京電力などに対して損害賠償を求めて米カリフォルニア州の連邦地裁などに裁判を起こしました。小泉氏は16年5月15日から17日の3日間、訪米し、被曝した元兵士ら10人と面会されました。  元兵士たちは、足を切断したり、目が見えなくなったり、下血をしたりと被曝の後遺症が出ている。福島原発のメルトダウンが起こっているのに、上官から放射性物質の危険性が伝えられなかった。兵士たちは防護服もなしで作業させられたり、海水を飲んだり、空母に積んであるヨウ素剤も足りず、飲んでいない元兵士もいた。 ──元兵士らは裁判で「ヨウ素剤を飲んでいないのに、上官から『飲んだことにしてサインしてくれ』と命令された」と証言しています。  米国にとっても不都合な真実が多い、難しい裁判だ。でも、助けてもらった米国兵にこれだけの症状が出ている事実は当初、わからなかった。数年経過し、おかしいなとだんだんと症状が出てきたんだ。甲状腺がんにもなった。それでも、裁判では被曝が原因とは断定できないとなってしまう。私も何かできないかと思った。 ──細川護煕氏、吉原毅・城南信用金庫顧問らと16年、「トモダチ作戦被害者支援基金」を設立し、当初の目標額は1億円だったが、今では3億円も集まったそうですね。しかし、安倍政権下で原発ゼロを訴えると、風当たりが強いのではないですか?  米国の元兵士たちを取材した民放のドキュメンタリー番組(昨年10月放送)は、私の登場シーンをすべてカットした。「トモダチ作戦」を追いかけているエィミ・ツジモト氏に紹介され、元兵士らに会いに米国へ行き、取材も現地で受けたが、放送直前、ツジモト氏から連絡があり、「小泉さんの場面は全部カットされた。上層部の意向でやむを得ず、現場スタッフが指示に従った」と聞かされた。米兵の被曝のことが放送されたことはよかったけど、ひどいなと思ったね。 ──安倍政権に対するメディアの忖度でしょうか?  別の民放で今年3月にインタビューを受けたときも約束を破られた。収録は50分ぐらいで「全部放送するんですか」と聞いたら、「15分ぐらいに編集する」と説明された。「経産省が訴える原発の3大スローガンである安全、コストが安い、クリーンエネルギーは全部嘘だ、と話した部分だけはカットしないでね」とお願いすると、「わかりました」とスタッフらは言っていたのに、放送された番組を見たら、カットされていたよ。 ──経産省は3月、国のエネルギー政策の基本方針を定める「エネルギー基本計画」の見直しを協議する有識者会議を開き、30年度の電源構成(エネルギーミックス)は原発20~22%を維持する方針を固めています。新増設や建て替えも検討されています。  安倍政権も経産省も時代遅れだ。国会の事故調査委員会は、福島第一原発の事故は「自然災害ではなく、人災である」と結論づけている。原発推進派は3・11の前、「(あのクラスの)大きな地震は来ない。高い津波は来ない」とタカをくくり、対策をおろそかにした。また過ちを繰り返すつもりか? ──電力会社、原発関連メーカーなど原子力ムラは健在ということでしょうか?  経産省は恥ずかしいと思わないのかな。規制する側の旧原子力安全・保安院と規制される側の東電の立場が崩壊した。規制する立場なのに、電力会社は経産省幹部の天下り先だから、立場が逆転してしまっていたんだ。その結果、規制される立場の虜になっていた。 ──安倍首相の側近、今井尚哉首相秘書官は経産省出身で資源エネルギー庁次長を歴任した原発推進派です。  秘書官なんて安倍さんにその気があれば、代えられたはず。安倍さんが経産省に乗っかって推進し、誰も闘わなかったからこうなった。だが、原発も嘘の上塗りに過ぎない。いずれ、挫折するよ。頭のいい人たちがどうしてわからないのか理解できないね。来年の参院選で野党がまとまって原発ゼロを争点にしたらまずい。自民党も安穏としていられなくなる。だが、首相が代われば、大きく変わる。次の総裁選で誰がそこへ踏み込むか。期待したいね。 (聞き手 本誌・上田耕司、森下香枝) ※週刊朝日  4月27日号
安倍政権
週刊朝日 2018/04/19 00:00
「激レアさん」で話題のシングルマザー美女が漁師のトップになるまで
「激レアさん」で話題のシングルマザー美女が漁師のトップになるまで
萩大島船団丸代表の坪内知佳さん(撮影/写真部・馬場岳人) 坪内さんは、ときには漁師ととっくみあいの喧嘩もしたという(撮影/写真部・馬場岳人)  4月16日放送の「激レアさんを連れてきた。」(テレビ朝日)に登場し話題となった、坪内知佳さん(31)。坪内さんの波瀾(はらん)万丈人生は、『荒くれ漁師をたばねる力』という本にもなっている。最初はCAをめざす可憐な女子大生だったという坪内さんが、荒くれ漁師のトップとして彼らの心をたばねていくまでには、幾度もの転機があった……。 *  *  *  日本海に面した山口県萩市。その沖合に浮かぶ萩大島は古くから漁業で栄えた漁師の島だ。  夕方出航した漁船が徹夜の漁を終えて、早朝、萩の港に戻ってくる。イキのいいアジやサバが次々と水揚げされる中、漁師たちの怒号に混じって、若い女性の声が響く。 「小西、おまえ、新人の面倒をちゃんとみたんか」 「魚はちゃんと向きをそろえて、丁寧に扱え!」  彼女のひと声で、荒くれ男の集団が、右へ左へと素直に動く。よほど彼女の言葉を信頼しているのだろう。  女性の名前は坪内知佳さん。萩大島の漁師たちで構成する船団「萩大島船団丸」の代表である。  なぜうら若き女性が、海の男たちを束ねる女ボスになったのか。そこには坪内さんをめぐる何度もの転機の歴史がある。  そもそも坪内さんは萩市とも、漁師ともまったく無関係。福井県の実業家の家に生まれた。CAに憧れて、高校時代にオーストラリアに留学。大学も外国語学部に進んで、CAへの道をひた走る今どきの女子大生だったのである。  ところが最初の転機は大学時代に訪れた。 「アレルギー性の病気にかかり、CAの道をあきらめざるを得なくなったんです」  夢を絶たれた坪内さんだったが、ほどなく気持ちを切り替えて、新しい夢を見つける。 「結婚して幸せなお嫁さんになりたいと思ったんです。当時つきあっている人が萩で勤めていたので、大学をやめて、萩市に嫁ぎました」 ●ナンパしたのは巻き網漁船のベテラン漁師  すぐに妊娠。21歳で男の子を出産し、幸せな結婚生活がスタートするはずだった。だが二度目の転機はこのとき訪れた。  坪内さんは結婚して3年で離婚してしまったのだ。幸い、英語が堪能だったので、観光協会の翻訳の仕事や旅館の仲居さんの指導の仕事などで、生活していくことができた。  三度目の転機は、この仲居さんの指導中にやってきた。 「年末の繁忙期でしたね。仲居さんのコンサルティングとして、お座敷に出ていたら、1人の漁師に声をかけられたんです」  声をかけてきたのは、萩大島の漁師、長岡秀洋さん。船団を率いて巻き網漁を行うベテランの漁師で、漁師たちをまとめる船団長だった。名刺を渡したのがきっかけで、長岡さんから小さな事務仕事を頼まれるようになった。 ●3万円で頼まれた漁業の再生。そして6次化の道へ  そしてある日、突然、長岡さんから「話がある」と電話が入った。  指定された喫茶店に行ってみると、そこには長岡さんを含め、3人の男性が待っていた。それぞれ萩大島で自分の船団を率いる船団の代表だった。 「このへんの海は魚が年々獲れなくなって、漁師の後を継ぐ若者も減っている。俺ら大変なんよ。あんたに漁業の明るい未来を考えてもらえないやろか」  男たちは1人1万円、計3万円を坪内さんに渡した。  これで漁業のコンサルタントを? 荒唐無稽の話だった。だが、坪内さんは「面白そう」と話に乗ってしまった。もともと好奇心旺盛。こわいもの知らずの性格だ。 「それに素朴でピュアな漁師たちのキラキラ光る目を見ていたら、彼らと何かやりたいと思ってしまったんです」  これが四度目の転機となる。そしてここからさらなる転機と怒濤の歴史が始まった。  萩大島の漁業の未来引き受けたはいいものも、何をどう始めたらいいかわからない。  何しろ、坪内さんは漁業のことは何も知らない。つい昨日まで家庭にいた、ふつうの専業主婦だったのだから。 「試行錯誤していたとき、見つけたのが農水省が推奨していた6次産業化の認定事業者の申請制度でした」  6次産業化とは1次産業である漁業の従事者が、魚を取るだけでなく、2次産業である加工や3次産業である販売も手がけることで、漁業の活性化をはかるというもの。  1次(漁業)×2次(加工)×販売(3次)で6次産業化、というわけだ。 「間に入る中間業者を省いて、直接消費者と取引することで、魚をより高い値段で売ることができます。漁獲量が減っても、漁師の収入を増やせるわけです」  農水省の認定事業者になる計画を長岡さんたちに持ちかけると二つ返事で賛成された。だが彼らには行政との交渉や販路の開拓などビジネスの根幹に関わるマネジメントがわからない。 「あんたが代表になってや」と言われて、やむなく代表を引き受けた。これが5度目の転機となる。 ●ジャージと長靴。スーツスタイルから大変身  3つの船団は「萩大島船団丸」として統一された。坪内さんは気がつくと60人の荒くれ漁師を率いる船団のボスになっていたのである。  だが本当の悪戦苦闘はここから始まる。最初にぶつかった壁は、旧態然とした漁業のしくみだった。  漁協を頂点とする仲卸、問屋、小売りのシステムは、消費者とじかに取引する「萩大島船団丸」のビジネスモデルとまっこうからぶつかったのだ。  漁協との対立。ほかの漁師仲間からも白い目で見られ、「萩大島船団丸」をやめていく漁師たちもあいついだ。 「漁業も知らない都会の小娘に何がわかる」  このとき坪内さんは決意した。 「私も地元の人間になってやる!」  ビジネスの現場で馴染んだスーツを脱ぎ捨て、ジャージと長靴姿に着替えた。そしてそれまで使っていた標準語ではなく、荒々しい漁師たちの「島言葉」を使い始めた。 「漁師たちに信頼してもらうためには、こちらから彼らの中に飛び込まないといけないと思ったんです」  6度目の転機だった。漁師たちはためらいながらも、坪内さんについてくるようになった。だが試練は次々と押し寄せる。 ●漁師と殴り合いのけんかのはてに  消費者との直接取引を始めたが、最初は思うように客先が伸びなかった。  坪内さんは「萩大島船団丸」の魚を買ってくれるお客さんを開拓するために、大阪の繁華街を飛び回っていた。  そんな坪内さんについて「大阪の飲み屋街で遊び回っとるらしい」といううわさがたち始めた。  漁師たちの坪内さんを見る目がだんだん厳しくなる。ついにある日、くすぶっていた不満が爆発した。  船団長の長岡さんと坪内さんの意見が対立。激しい言い合いからつかみ合いになったのだ。話し合いの場から立ち去ろうとした長岡さんを引き留めようと坪内さんが彼の服を掴むと、思わぬ展開に発展する。 「勢い余って長岡のメガネが飛ぶし、ウインドブレーカーは破けるし。長岡が急にシュンとしたんでおかしくて」  坪内さんは思わず吹き出してしまった。そんな坪内さんを見て長岡さんもどこか気が落ち着いたようだった。  漁師たちは息を飲んで坪内さんを見つめていた。気がつくと、坪内さんは海の男を前に一歩も引かない、荒くれ集団の女ボスになっていたのだ。  それからも漁師たちとの対立は数えきれないほど勃発した。漁師たちをまとめていた長岡さんが船団丸をやめて、半年ほど顔を出さなかったこともあるという。 「それでも、萩大島の漁業を何とかしたいという思いはみんな同じ。目的が同じならひとつになれます。最終的には長岡も戻ってきて、今もけんかしながら、試行錯誤を続けています」  坪内さんは漁師たちの収入を支えるため、多角化を行う新しい会社「株式会社GHIBLI」も設立した。  これから先、坪内さんと漁師たちには何度も試練や転機が訪れるだろう。それでも「海が青いうちは漁業を続ける。日本中の漁業を元気にしたい」と、漁師のボスの坪内さんは明るい未来を語るのだ。(文/辻由美子)
仕事働く女性朝日新聞出版の本読書
dot. 2018/04/17 07:00
インターネットの予言的私小説!?『僕らのネクロマンシー』発売記念対談! 著書・スマートニュース 佐々木大輔×情報学研究者ドミニク・チェン
インターネットの予言的私小説!?『僕らのネクロマンシー』発売記念対談! 著書・スマートニュース 佐々木大輔×情報学研究者ドミニク・チェン
 インターネットがなくてはならない現代。インターネットに関わる本ももちろん溢れるように存在している昨今ですが、本書『僕らのネクロマンシー』(NUMABOOKS)はインターネットを題材とした小説単行本です。  今年2月に一般発売されたばかりの本書。手掛けたのは、元LINE執行役員で現在はスマートニュースに勤務する佐々木大輔さん。佐々木さんの故郷である岩手県遠野市が舞台となっています。  去る4月7日、本書の発売を記念して、著書である佐々木さんと起業家・情報学研究者のドミニク・チェンさんによる対談イベントが、東京・下北沢の本屋「B&B」で開催されました。  インターネットの世界を歩んできた二人による今回の対談。佐々木さんは本書について「インターネットに関わる情報技術についての話。今後起こりうる未来と、現状のゴシップをこの本に詰め込みました」と紹介。それに対しドミニクさんは「読んでみて『分かる分かる』という感じが止まりませんでした」とまず感想を述べました。  ドミニクさんいわく「ITと降霊術が一緒になっていることがポイント」という本書。降霊術とは、亡者の霊を呼び寄せようとする魔術を指すのですが、ドミニクさんによれば、今この降霊術に注目している人は多いそう。その中でも「ITを熟知している人でないと書けない内容で、専門用語などが含まれているものの、物語なのですべてを理解しないでも読み進められる内容です」とドミニクさんは話します。  一方で、物語自体は、主人公が祖母の葬儀のために岩手県遠野市にある実家を訪れるところからはじまります。「最初はそのつもりではなかったのですが、書いていくうちに亡くなった祖母の話が多くなりました。祖母にきちんと挨拶できずに亡くなったことをずっと悔やんでいて、そういう意味で祖母に捧げる本でもあります」(佐々木さん)  こう話す佐々木さんは、16カ月の月日を掛けて本書を書き上げたそうです。「仕事の合間を縫って書いたのですが、当時は年間200回の会食があって、土日は家事と育児に専念するという生活でした。そのなか移動中や深夜になんとか時間を捻出して執筆に費やしました。そういう状態だったから逆に書けたのかもしれません。書き終わったら、新しいことにチャレンジしたいと思い会社を辞めました(笑)」(同)  さらに佐々木さんは、2018年に起きたことを言い当てた「予言本」にもなっていることを説明。「グーグルやフェイスブックで起こりそうだなという内容を書きました」と佐々木さん。ドミニクさんは会場に向けて「ビジネスマンこそ読むべき内容です」と話していました。  2時間にわたって行われた今回の対談イベント。最後にドミニクさんが「続編も期待したいです」と佐々木さんに期待を寄せて、イベントは終了しました。  インターネットの業界に携わっている人のみならず、土地の伝承、伝説、家族といった普遍的テーマが題材にもなっているので、小説好きな人にも読みやすい一冊となっています。  なお本書は350部限定発売となっており、この発行部数や販売方法、装丁デザインに至るまで、販売方法や装丁は、本書と舞台を同じくする柳田國男の『遠野物語』初版本へのオマージュを含んでいるそうです。表紙は遠野で撮影した樹氷の写真にアクリルが施されており、ひとつずつ手作業で貼り合わせているのだそう。希少価値を価格に反映する「時価」を採用しており、販売は専用サイトのみとなっています。気になる方はぜひチェックしてみてはいかがでしょうか? ■http://numabooks.com/awizardoftono.html
BOOKSTAND 2018/04/16 17:45
関ジャニ・渋谷すばる脱退会見全文公開 錦戸「背中を押すしかないな」
福井しほ 福井しほ
関ジャニ・渋谷すばる脱退会見全文公開 錦戸「背中を押すしかないな」
グループ脱退の経緯について言葉を選びながら話す渋谷(撮影・福井しほ) 渋谷への思いを語る錦戸(撮影・福井しほ) 会見の後半には、少し笑いが起きる場面も(撮影・福井しほ)  ジャニーズ事務所の人気グループ「関ジャニ∞」が15日、都内のホテルで記者会見を開き、メンバーの渋谷すばる(36)が脱退し、今年12月31日をもってジャニーズ事務所を退所することを発表した。会見には怪我で療養中の安田章大以外の6人が出席。渋谷は脱退の理由を「この先は今までの環境ではなく全て自分自身の責任下で今後の人生を音楽で全うすべく、海外で音楽を学び、今後さらに自分の音楽というものを深く追求していきたい」と説明した。  会見に同席した横山は、涙ながらに「正直、今日の日が来ないでくれればいいと思った」と話しながらも、ファンに向けて「僕らもすばるに負けないよう、全力をで前を見て突っ走っていくので、お力をお貸しいただければと思います」と語った。    会見の全文は以下の通り。 *** 渋谷すばる(以下、渋谷):本日は貴重な時間を頂戴しまして、お集まりいただきありがとうございます。私、渋谷すばるからお伝えさせていただきたいことがございます。  この度、ジャニーズ事務所を辞めさせていただく決断をいたしました。15歳のときにジャニーズに入れていただいてから、21年間音楽を追求してきました。関ジャニ∞として、活動させていただく中で、自分の音楽というものを軸にグループを少しでも大きくしていけるようにという想いで活動してきたつもりです。36歳という年齢を迎え、人生残り半分と考えたときに、今まではジャニーズ事務所、関ジャニ∞というグループにありがたくも守られ、支えられ、時には甘えさせてもいただきましたが、この先は今までの環境ではなく全て自分自身の責任下で今後の人生を音楽で全うすべく、海外で音楽を学び、今後さらに自分の音楽というものを深く追求していきたいと思いました。  この決断により、一番近くで活動を共にしてきたメンバーに大変な迷惑をかけてしまうことを本当に申し訳なく思っております。ジャニーズ事務所の方々、関ジャニ∞に関わってくださるすべての方に多大なご迷惑をおかけしてしまうこと、大変申し訳なく思っております。関ジャニ∞を応援してくださっている方々を悲しませ、がっかりさせたり、驚かせてしまったりと様々な思いにさせてしまうことを本当に申し訳なく思っております。    メンバーと何度も話し合いました。その度に自分を見つめ直し、考え直しました。ですが、自分の意志が変わることはありませんでした。自分勝手な決断で申し訳ありません。今まで育てていただいたジャニーズ事務所、関ジャニ∞、今まで関わらせていただいたすべての方々、応援してくださっているすべての方々への感謝を忘れず、今後の人生を歩んでいきます。まだまだ未熟者であり、この先の厳しさというものも感じております。今後の音楽人生で示していけるよう、精進いたします。以上です。 横山裕(以下、横山):皆様、お忙しい中集まっていただき、ありがとうございます。まずはじめに、ファンの方に心配をかけ、僕たちに関わってくれているスタッフの皆様、各関係者の皆様にご迷惑をかけることを本当に申し訳なく思っております。どうもすみません。  正直、今日という日が本当に来ないでほしいという思いでいっぱいでした。僕らなりに全力ですばるにいてほしいという思いも伝えました。でも、すばるの思いは強く、何の迷いもなく、それを聞いたときに、僕たちも下を向いてちゃいけないと本当に思いました。これから、すばるを厳しい道が待っていると思います。僕たちもすばるに負けないよう、全力で前を向いて、突っ走っていくので、皆様どうか、お力を貸していただければ幸いです。これからもよろしくお願いします。 丸山隆平(以下、丸山):皆さんお忙しい中お集まりいただきありがとうございます。まさかデビューする当時はこのようなことがあるとは思ってもいなかったですし、ファンの方々にもすごく仲の良いグループだっていうので、そういう空気を楽しんでいただいた時間がたくさんあったんですけど。  本当に仲が悪くなってとか、どうこうあってということではなく、きっとね、エイター(関ジャニ∞ファンの愛称)の中にも、ファンの方の中にもどんな風にこういう事実を受け止めるのかというのは、僕たちの手の届かないところで色んな風に想像したり考えたりするのは当然だと思います。  これはやっぱり関ジャニ∞でみんなで向き合って、すばるくんとも向き合って出た結果です。メンバーということに変わりはないです。これからすばるくんがいる関ジャニ∞、そうじゃない関ジャニ∞という形で進んでいくとは思うんですけど、エイトであるということは事実なんで、これからもそういう思いだったり、みんなで一緒にいた時間だったりというのをファンの方だったり応援してくださった方と共有しながら進んでいけたらなと思っております。どんな風に感じるか分からないですけど、どうかこう、前向きに、プラスのほうに、僕たちも考えて進んでいきたいと思っているので、変わらず渋谷すばる共々、関ジャニ∞を応援していただければなと思っています。本当にありがとうございます。 大倉忠義(以下、大倉):お忙しい中、ありがとうございます。まぁ、あの、こういう結果になってしまったことは非常に残念なんですが、なんですかね、メンバーってすごい不思議な存在で、他人なんですけど、家族のようであり。そういう大事な存在の一人が下した決断ということを、もちろん応援したいし、一緒に7人で夢を追いかけていきたかったですけれど、すばるくんがそういう夢を持ったのであれば、応援するべきなのかなということを思いました。  この数日、ファンの方々は色んな憶測を呼ぶような形になってしまいましたけれど、なんですかね。悲しい、寂しいという思いはあると思いますが、僕らと同じような気持ちで背中を押してあげてほしいなと思います。 錦戸亮(以下、錦戸):お忙しい中、ありがとうございます。せっかくの日曜日にありがとうございます。錦戸亮です。  そうですね、初めて聞いたときは正直びっくりもしたんですけど、なんでしょう。今こうして僕たちがジャニーズ事務所という大きな事務所にいて、さっきすばるくんが言ってましたけど、守られたりだとか、色んなことが分かった状況で、それでもここを飛び出してやっていきたいって決めるっていうことでも、すごい決断だったと僕的には思うんです。    そこまでの覚悟だったり、本当に自分がやりたいことを見つけたすばるくんの決断を僕は尊重したいですし、もちろん頑張ってほしいですし、「これで良かったやろ」って証明してくれるような未来を作っていってほしいです。綺麗事かもしれないですけど。僕ら自身も6人でこれからやっていって、すばるくんに「どうや」って言えるような僕らでいたいですし、頑張るからなって思いましたね。なんでしょう、すばるくんの歌声が一生聴けなくなるわけではないので、応援していただけると、すばるくん、6人の関ジャニ∞を応援していただけると嬉しいです。 村上信五(以下、村上):お忙しい中お集まりいただきありがとうございます。村上信五です。メンバーが言った言葉がすべてではあるんですけども、ベストアルバムやツアーなど色々準備していく最中での出来事で、まずはファンの皆様にこのような形で色々と驚かせてしまって申し訳ないです。  話を聞きましたときに、ここまでの思いとは正直最初は思っていなかったというのもあります。すばるがいたジャニーズの21年というのは、僕と横山の21年でもありますので、そこでも彼が下した決断というのはイチ男としての決断なんだなと。  付き合いの長い僕らからすると、それは尊重する以外の何物でもなかったですし、今回の話し合いの中で一度も揉めるということもなければ、「なんやねん」と憤ることも何一つなく、話して話して、そうかと。    じゃあもう、すばるが言ったように、まだ見えていない音楽というものを僕らがいずれ聴くまで、僕たちは関ジャニ∞というグループで頑張ろうか、お互い頑張ろうということがきちんと話せた上でのこの度の形ということになりました。  これからはどうなっていくかというのは正直僕らも分からないことでもありますし、どうしていったらいいのかは、やるべきことを一つひとつやっていき、ファンの皆様に安心して僕らを見ていただける状況を作っていくことだと思います。  ファンの方は分かると思うんですけど、「エイター」という言葉はすばるから最初に出てきた言葉でもありますし、それは一番ファンの皆さんが分かっていることです。この言葉を残してでも、旅立っていくということも含めて、我々はそれを受け継いだ上で向き合っていくことだと思います。   家族であり、友人であり、ライバルでもありという、色んな時期を経てきています。ジャニーズジュニアのときはこのメンバーで、関ジャニ∞というグループでデビューできるか分からない中で過ごしてきました。そんな中で、今回の決断ですので、僕らにしか分からないところでの思いというものもたくさんあります。それでも、イチ男としての決断はもう背中を押す以外にはなかったことです。しばらくまだ活動は続きますので、その前にきちんとご説明差し上げなければいけないなということでこの度の会を設けさせていただきました。 安田章大(コメント):本日、このような大切な場であるにも関わらず、欠席することになってしまったことをお詫び申し上げます。2月中旬に初めて渋谷の意志を聞いたときは正直理解が追いつきませんでした。唯一無二のグループになることを目指して共に歩んでいる道中ということもあり、もちろん彼の選択を止めました。必死に止めました。  しかし、渋谷の意志は固く、すでに前を向いて歩み始めようとしてることも理解しました。渋谷の性格を知っている以上、これは彼の背中を押すべきなんだろうと。音を楽しむことを常に追求し続けてきた渋谷だからこそ、奏でられる音楽がきっとこの先あると思っています。関ジャニ∞を離れても、渋谷の音楽に聞き惚れていけば、という想いを込めて渋谷を送り出したいと思っております。    関ジャニ∞を支えてくださっている全ての皆様、ずっと一番近くで応援してくださっているエイターのみんな、これから先、関ジャニ∞と渋谷は今まで以上に覚悟を持って日々の仕事に精進していきますので、これからも支えていただけますよう、どうぞよろしくお願い申し上げます。 ――具体的にどんな音楽をこれから目指していきたいですか。 渋谷:考え始めたのは35歳を過ぎたあたりからだと思います。年齢的なタイミングというか、人生半分くらいきたのかなぁとぼんやり考え始めたのが最初で、この意志が自分の中で固まったなと自分で感じたのは今年の1月あたりやと思います。意志が固まった以上はなるべく早くお伝えしないと、今後のことを考えると、色んなご迷惑が大きくなるだけかなと思いまして、このタイミングになったということですね。音楽というものを今までちゃんと勉強したことがないので、そういった音楽の学校なのかというのも色んなところがあると思うので、そういうところにまずは行って学びたいなというところです。 ――それは関ジャニ∞ではできないことなんでしょうか。 渋谷:えーっと、音楽の学校に通うということですか? できるできないはまぁ、そうですね……。できなくはないとは思います。今まで自分は音楽が好きだということで活動してきたんですけど、ここ何年間かは特に音楽の活動をたくさんやらせていただけて、グループとしても、個人としても音楽活動をさせていただけた中で、自分としてはものすごく、命懸けでやらせていただいたつもりではあるんですが、その経験があったからこそ、さらにここから先の人生は自分だけの責任でどこまでやれるかということに今後の人生を懸けていきたいなと思いました。 ――先ほど、年齢的にも人生のことを考えてとのことですが、具体的に活動の中できっかけになったことはあったんでしょうか。 渋谷:これというきっかけというよりは、ずっと音楽が好きで活動してきたというのがあって、これがきっかけというのはないです。同じことになりますが、自分の中ではこの21年間すべてという感覚なんですけど、ここ最近色んな音楽活動をさせていただけていたというのが自分の中では大きいですね。 ――バラエティ番組に出るのが嫌だったという報道もありました。 渋谷:責任を持って否定させていただきます。 ――やっぱりそれはノリノリで? 渋谷:はい! ――渋谷さんにとっての関ジャニ∞という存在はどういうものでしたか。 渋谷:どういう存在……。間違いなく、自分の中では一番大きくて大切な存在で、家族より長い時間を共に過ごしてきた人たちなので、中途半端な覚悟や中途半端な想いでは何一つできなくて、何をするにも全員命懸けで取り組んできたからこその今があると思っています。自分もその経験があってこその今回のこの決断に至ったので、本当に心からの感謝と、心からの申し訳ない気持ちです。 ――メンバーに支えられて、甘えてここまできたとありましたが、もっと甘えて、あとちょっと自由にさせてもらえないか、というようなことは浮かびませんでしたか? 渋谷:なかったです。今まで自分は音楽が好きで活動をしてきて、その中で年齢的なことを考えることもあり、今後の人生は自分で音楽を一から学んでやっていきたいという意志が固まったので、辞めさせていただきたいという意志を伝えました。 ――今、メンバーの皆さんのご挨拶を、どんな風に言葉が入ってきましたか。 渋谷:感謝しかないです。感謝と申し訳なさと、どんな理由があれ、どんな自分の決断だとしてもこれはもう迷惑をかけてしまうことは間違いないことなので、そこに関してはただただ申し訳ない気持ちしかないです。にも関わらず、一人ひとりが言ってくれた言葉というのも、頑張ってこいよというような気持ちを感じ取れたので、本当に感謝しかありません。 ――15歳から21年間ジャニーズ事務所にいて、今思うことは。 渋谷:本当に良かったなと思っています。色んな経験をさせてもらいましたし、特に15歳という年齢からの21年間という一番多感な時期もそうですし、そういう時間をこのジャニーズというところで色んなお仕事をさせていただく中で自分という人間も作られてきたので、本当にそうですね、感謝しかないです。今後の人生もジャニーズというところで21年間、関ジャニ∞というグループで活動させていただけたということは自分の人生で一生の誇りだと思うので、この感謝と誇りというものを常に胸において生きていきたいです。 ――大変だった、しんどかったということはありましたか? 渋谷:楽しいことしかなかったですね。それは一人じゃなかったですから。ありがたいことに仲間がずっと横にいてくれたので、誰かが辛そうな時は助け合えてきたのがグループの良いところで、特に大阪から一緒に出てきたというところもあり、絆が深いグループではあるので。辛いというより、助け合えたり楽しい時間がほとんどでした。 ――今後は海外を拠点にとのことですが、場所はどちらでどのようなジャンルの音楽をやっていきたいと考えられていますか? 渋谷:音楽の学校とはいえ、色んなところがあると思うんです。語学も分からないと自分でできないんで、語学も含めて学びたいなと思っています。とりあえずは英語圏がいいかなと漠然とは思っています。英語を習得したいというのもありますし、世界共通語ですし。英語はできたらなと思っています場所はこれから具体的に探していきたいなと思っています。 ――今後思い描いているご自身の将来の形は? 渋谷:音楽を学びながら、自分の音楽表現というものは今までとは変わらないかもしれないですけど。自分から出てくるものを音楽として形にしていけたらなと思っています。 ――ジャニ―さんから何かお言葉はありましたか? 渋谷:直接電話をさせていただきまして、今回こういう決断をしましたということは伝えさせていただきました。 ――具体的にどんなお話をされましたか? 渋谷:今回この決断をしましたという経緯といいますか、こういう風に決めましたということと、今まで育てていただいた感謝の気持ちをまずお伝えしました。「そう決めた以上は応援するしかないので、頑張りなさい」という言葉をいただきました。 ――ジャニ―さんにはいつ報告を? 渋谷:えっと、2日前とかですかね。 ――7人全員で話し合ったのは何回くらいで? 渋谷:全員では2回とかですかね。7人全員という席は2回、各々で食事に行って話したりとか、連絡をもらったりとか常にそういうのはありましたね。 ――去年同じ事務所でグループの解散や先輩の退所というケースもありましたが、そういった先輩の姿が多少なりとも影響はあったのでしょうか。 渋谷:まったくないです。 ――決断に至って、どなたか先輩に相談はされましたか。 渋谷:まったくないです。 ――全て一人で決められた? 渋谷:そうです。 ――今、渋谷さんが目標としている存在はありますか? 渋谷:特にないです。この人になりたいというのはないですけど、自分なりの音楽表現で何かをちょっとでもお伝えしていけたらというのは思っていますけど。 ――たとえば事務所の先輩で目標とする方はいらっしゃるんですか? 渋谷:ジャニーズの中でですか? 目標とする方がいたら僕は辞めていないと思います。 ――留学はいつから行くとかは決まっていない? 渋谷:そうですね。これから自分の活動の最後がどこになるのかというのもこれからだと思うので、その辺が見えてきてから決めようかなと。 ――ファンの方の前で挨拶をするのはこれが最後の可能性が高い? 渋谷:ですかね。今後の残された活動といいますか、その中でどんなことをやっていくのかはこれからというところですので。 ――海外を拠点に音楽を追求されるということですが、その後のビジョンは。 渋谷:勉強をしていく中で今までも曲を作るということはしてはいたので、それを一から勉強していく中で、自分から出てくるものがあればそれを形にしていこうとは思っていまして。それを何かしらの形で発表するのかどうかは今は分からないのですが、そういうタイミングや機会があるならば、そういうこともいずれはできたらなと思っています。 ――芸能界を引退するわけではないということですよね。 渋谷:そうですね。音楽表現をしていくということですので、芸能界というのをどこまでというのはあれですが、引退というわけではないです。 ――今日がメンバーとして出る最後という形なのでしょうか。 村上:収録している番組もありますし、これから録るものは一緒にやります。 ――せめて今年いっぱい、コンサートツアーが終わるまでという決断はなかったんでしょうか。 渋谷:自分の意志が固まったのが今年の1月くらいで、自分の中でそうなった以上はなるべく早く事務所やメンバーにお伝えしないと、今後色んな仕事をいただいたり決まっていたりしたならば、どんどん大きくなるだけだなと思ったのでお伝えしました。ですが、自分がお伝えした時にはアルバムの制作やツアーの制作は始まっていたので、その段階で決まっている仕事は最後まで責任を持ってやらせていただきますという意志でお話をさせていただきまして。  後は事務所の判断もそうですし、実際活動をする6人のメンバーなので、そこはお任せさせていただきますと。コンサートの制作は始まっていたので、全て終わるまで責任を持ってやらせてくださいとお伝えさせていただきました。 ――コンサートは6人体制なんですよね。それに対しては? 渋谷:全て受け入れて、自分の残されたやるべきことを責任を持ってやらせていただきたいと。 ――辞めるという発表はご自身ではなく、相談してこの時期ということに? 渋谷:そうです。 ――記者会見という形で皆さん一緒に出られたというのはどういう思いがあったんでしょう。 渋谷:僕としてはこんな場を設けていただいて、この自分の勝手な決断をちゃんと喋らせていただけたのはありがたい気持ちです。自分のことなんで、自分だけで良かったのかもしれないですが、メンバーも一緒に立ってくれているというのはありがたいです。 横山:僕たちもやっぱり生の声でファンの皆様にも伝えなければいけないと思いましたし、何よりもすばるを送り出さないといけないという決意が大きいです。 丸山:第一はファンの方のためですね。もちろん、すばるくんやグループだったりというのもあるので、当然のことかなと。後、会見したほうが分かりやすいじゃないですか。そういう形でお届けするのがグループとしての誠意かなと思いますし。 大倉:なんででしょうか。僕は最初、嫌だったんですけど。でも、ファンの方のためを想ってっていうのと、やっぱり勝手な決断をしたすばるくんのことを嫌いになれなかったですね。だから、こういう場に立つのであれば、こういうところでどんな発言をするのか横で聞いていたいなと思いました。 錦戸:この知らせを聞いたファンの方々はすごくショックを受ける方もいらっしゃるでしょうし、僕たちも最初はそうだったんですけど。でも、それよりも門出の日と言いましょうか。そっちのほうが強いですかね。 村上:会見に出た色んな理由がありきですけど、すばるも大変ですよね。僕らも大変ですけど。ファンの方々が心の整理をするまでに時間もかかると思いますし、その中でやっぱり会見をやるというのが、すばるが自分の口できっちり話すというのが一番だと思いますから。コメントだけだと伝わらない部分もあると思いますから。そこで、付き合いが長いわけですから、口下手な男が一人で立ったら心配なところもありますから。全員でいたほうがいいやろうとこういった形をとらせていただきました。 ――メンバーの皆さんはこれからツアーが待っていますが、ツアーへの意気込みを聞かせてください。 村上:まず曲はどうするか、セットリストのことも含めてですけど、それはもうすばるが歌っていたところをどうするかというのは最初に向き合うべき課題にはなります。そこで、僕とかヨコ(横山)が歌った時に笑われないようにしないといけないですし、それは最初に決めてしまったらそれが僕らの表現の一つになってきますから、僕らなりにベストを尽くして、考えた上で皆様に届けたときに、きちんと6人でやっていけるんだなと提示できるのが最善かなと思っております。 ――メンバーの皆さんは先ほど必死で止めたということでしたが、具体的にどんな言葉で引きとめたんですか? 横山:そうですね、うーん。正直やっぱりすばるが辞めた関ジャニ∞というのが想像つかなったですし、すばるが歌で仕事を一生懸命やっていたこと、歌に命懸けだったことももちろん知っていたことだったので、それを僕たち関ジャニ∞と一緒に夢見ることはできひんのかなと。色んな思いを伝えましたけど、やっぱりそんな中途半端な思いで言うようなやつじゃないので。  すばるが「こいつめんどくさいなぁ」って思うくらい言ったと思うんですけど、よく考えたら僕が知っているすばるはそんな中途半端な思いで生きているやつじゃないので。みんなから言った通り、これは背中を押してあげて、イチ男として決断したことやから、俺らも絶対に下を向いていちゃいけないという思いでした。 丸山:好きすぎて何も言えなかったですね。面と向かってはなかなか、何がプラスになるか分からないけど、グループっていいですよね。自分が思ったことをみんな話してくれるから、みんな同じことを思ってるなっていうのが改めて実感する機会になりました。面と向かって話せない分を、夜中に文章で送りましたけど、読み返すのも恥ずかしいくらい好きさが溢れていたので、何を書いたかも思い出したくないです。2人だけで共有したい。 大倉:皆さんが今質問された通りのことですね。それを関ジャニ∞にいて叶えられない夢なのかとか、疑問に思ったことは全部ぶつけましたね。海外でやる意味、それは日本にいて勉強できるんじゃないかとか。後、自分の人生がということを言っていたけど、うーん。(渋谷が)自分の人生っていうことで考えてやったときに、僕たちの人生はそのまま続くわけではなくて、変化するわけで。その上での決断なのかという質問をした時に、「それは申し訳ないけれど、自分の人生を優先させてもらった」というのを聞いて、俺らのことを考えた上での決断なら僕らはもう言うことはないですね。 錦戸:たぶん、すばるくんにとったらホンマにこいつらしつこいなと思うくらい、みんな必死でどうにか止められへんかなぁって思ったんですけど、やっぱり冷静に考えたときに、僕はですけど、すばるくん自身がどういう状況におったり、恵まれた環境におるっていうことが分かった上での決断をしたんやな、この人はと思って。背中を押すしかないなと思いました。だから、行動しようって思ったモチベーションがそっち(音楽表現)にあるんなら、僕らは一人の男の人生を止める権利はないんやなって思いました。 村上:話聞いた時の第一声は「なんでや」でしたけど、そりゃあ。それで、ちょこっと話を聞いて、「それは嫌や!」ですよね。最初は。まずは「なんでや」と「嫌や」しかなかったですよ。話し合いを進めていくうちに、みんなが言った通りですけど、スタッフに迷惑をかけることも、ファンのことを第一に考えた上で、ここまで腹括ってるねんなっていうのは、目を見れば分かりました。皆さんからいただいた質問は僕らから何度もぶつけた質問でもありますし、それでもというのであれば。僕は地元も近いところで育って、同世代というところもあって、「関ジャニ∞のメンバーとしてはもちろん嫌やで。でも、幼馴染としては、頑張ってこい」と言うしかない思いを言ってくれましたので。 ――背中を押そうと思った具体的なエピソードを教えてください 村上:話というより、目ですね。これはそうですね、最後みんなで話したときも「本当に辞めるっていう決断なんやね」って何度も聞いて。これを聞くのは怖い時間でしたけど、みんなの前で、何も発せず、うんと頷くのみでした。そのときに目を見ても、曇りなくだったので。目を見れば分かる時間を過ごしてきたというのもあります。多くを語らずとも。 ――関ジャニ∞の活動の中で一番印象に残っていることは? 渋谷:メンバーと楽屋でしょうもない話をしている空気というか、(そういう時間が)絶え間なくいつもずーっとあったなぁというのがありますね。 ――他のメンバーの皆さんは思い出とかはありますか? 村上:思い出……死ぬわけじゃないからね!思い出はまぁ、まだしばらく一緒にいますし、これで最後なんやなという時が思い出になるんじゃないですか?今振り返るにはまだ早い気もしますしねぇ。その時が来たら。現状は今でしょうね(笑)。 ――渋谷さんが新たに活動を始めたらファンになりますか? 村上:そりゃなるでしょうね。聴きますしね。 ――さっき、横山さんは泣いていましたが、あの涙は。 横山:泣いてないです。 ――顔が真っ赤でした。入ってきた時も、渋谷さんは目が真っ赤だったような気がしました。 渋谷:すみません、直前に目薬をさしました。花粉症なんです。 ――エイターの皆さんにはメッセージはありますか? 渋谷:とにかく申し訳ない気持ちはもう言い尽くせないものがありますし、特にコンサートを楽しみにされていた方はたくさんいらっしゃると思うので、申し訳ない気持ちでしかないです。今、自分が自分の勝手な判断で辞めるんですが、その後のグループというものを6人が今、さらに大きく強くしていくために、今まで以上に心を一つにして、絆を深めているんです。なので、こんな自分が言うことではないとは思うんですが、これからも、ここからの関ジャニ∞を見守っていただけたらなと思っています。 <ジャニーズ事務所が明らかにした経緯>  2018年2月15日に、渋谷より「音楽を追求するために海外を拠点に生活していきたいので、事務所を辞めたい」と申し入れがありました。  渋谷以外のメンバー6人としましては、2018年8月から突入するCDデビュー15周年に向けて様々な打合せと準備を昨秋から進めてきていた中での突然の申し出ということもありその思いもよらない決断に正直なところ驚きを隠せませんでした。  7人で活動してくために考えられるあらゆる選択肢を協議するため、6人揃っては勿論のことメンバー個々やスタッフを交えて幾度となく話し合いを重ね、6人の想いを渋谷に対して時には全員で、また、時には個々でも説得を重ねてきました。  様々な仕事への影響を最小限にする必要があった為、最終的な話し合いの期限を丸山が舞台の大阪公演から帰京する4月10日に設定致しましたが、結果的に渋谷の「海外で音楽を学びたい」という想いは揺るがず、6人もその決意を受け入れ、今回のご報告に至った次第です。 <今後についての活動について>  すでに発表されている5月30日に発売予定のベストアルバム「GR8EST」が7人体制最後のリリースになります。15周年のイベントは来年8月まで継続いたしますので、そのキックオフとなる夏のツアーから6人体制となり、渋谷の関ジャニ∞としての活動は、その開幕する前までとすることになりました。  つきましては、7月15日からの5大ドームツアー「関ジャニ’sエイターテインメント GR8EST」は6人体制で開催し、初日の札幌公演以降すべての関ジャニ∞の活動が6人体制となります。 <安田章大欠席についての事務所コメント> 本日、メンバーの安田章大は欠席とさせていただきます。今週のはじめ、自宅で転倒し背中を強く打ちつけてしまいまして、打撲の症状がまだ回復しておりません。大事な会見の場ですけれども、医師の判断を仰ぎ、本日のところは大事を取らせていただきました。 (AERA dot.編集部・福井しほ)
dot. 2018/04/15 00:00
上司銃殺し、逃げた19歳巡査「市民の身近な存在に」とかつて地元紙に語る
上司銃殺し、逃げた19歳巡査「市民の身近な存在に」とかつて地元紙に語る
 滋賀県彦根市の河瀬駅前交番で、彦根署の井本光巡査部長(41)が4月11日夜、拳銃で撃たれ死亡した事件で、滋賀県警は12日未明、同じ交番に勤務していた同僚の巡査の男(19)を同県愛荘町で発見、殺人容疑で逮捕した。  交番で上司を射殺し、逃走するという前代未聞の事件の犯人はどんな男なのか。  巡査は昨年春に警察学校に入校し、今年1月から滋賀県警彦根署に配属され、交番勤務に2週間ほど前からついていた。殺害された井本巡査部長は、指導役でもあった。  事件が発覚したのは、11日夜、パトカーが交番から4kmほど離れた愛荘町の田畑に突っ込み、放置されているという110番通報だ。まず、交番に別の警官が駆け付けたところ、椅子に座り机に前のめりで倒れている井本巡査部長を発見。背後から2発の拳銃で撃たれており、即死状態だった。その一方で、一緒に勤務についているはずの巡査とは連絡もとれない。交番の防犯カメラ映像で、巡査が発砲するシーンが映っていたことから、緊急配備。7百人の警官を投入し巡査を捜索した。  未成年者だったが、拳銃を所持している可能性があり滋賀県警は緊急性があるとマスコミに実名と顔写真を提供し、懸命の捜査にあたった。  日付がかわった、12日未明に鉄道の線路上を歩いていた巡査の男を発見して、逮捕した。 「防犯カメラから井本巡査部長は、事務の仕事をしていたところ、背後から巡査が2発、発射したことがわかっている」(捜査関係者)  巡査は逮捕後、拳銃を捨てた場所に捜査員らを案内した。またATMで逃走資金にしようとしたのか、50万円をおろしていた。  巡査は取り調べに対しては淡々と、「その場からパトカーに乗って逃げました。井本巡査部長はイスに座ったまま前に倒れ、ピクリともしなかったので、死んだと思いました」「怒鳴られたから撃った」などと供述しているという。 「警察学校では徹底して、拳銃の重要さを教えられる。握るな、指を入れるなと指導される。それがどうしてこんなことに」と前出の捜査関係者も絶句する。  巡査は滋賀県内出身。高校時代は野球部に所属し、3年生の時は、外野手として夏の地方大会などにも出場。警官を目指したのは、滋賀県警が開催したオープンキャンパスで警察の逮捕や捜査の様子を体験。その際、地元紙のインタビューに<「警察官になりたくて来た。交番や生活安全課で働き、市民の身近な存在になりたい」>と巡査は答えていた。  その言葉通り、交番の勤務をスタートさせたばかりでの凶行だった。 「高校時代は、明るくて楽しいヤツだった。野球部でもタレントのものまねやったり、チームのムードメーカーで負けていても、大きな声出して鼓舞するような性格。オープンキャンパスの後では『警察はすごい、逮捕のシーンはすごい迫力だった』といい、警察学校への入校も喜んでいた。彦根署での勤務が決まってからも『警察は法律から、ち密な捜査、体力勝負の警備となんでもできなきゃ市民の力になれない。とにかく頑張る』と元気いっぱいに話していた。どうしてこんな事件を起こしてしまったのか。信じられない」(高校時代の同級生)  一方、殺害された井本巡査部長は妻も警官で子供もいる。 「巡査はパワハラ、怒鳴られたからと言っているようだが、警官だからある程度は厳しい。だが、井本巡査部長はパワハラと言われるような指導をする人間ではない。本当に信じられない事件だ」と同僚は話す。  警官が所持する拳銃で、同じ警官を射殺という警察史上はじめてという犯行。今後、警官の拳銃所持の在り方に一石を投じることになりそうだ。(取材班)
dot. 2018/04/13 00:00
5年で3倍…増える発達障害学生 就活で直面する厳しい現実
5年で3倍…増える発達障害学生 就活で直面する厳しい現実
就労移行支援を受けていたときの男性のノート。自分の特性を整理し、対処法を身につける練習も重ねた。履歴書では「配慮いただきたい点」として、「まとめてではなく、一つずつ指示をしてほしい」などを挙げた(撮影/豊浦美紀) 少人数でグループ討論を進めるコミュニケーション・サポート・プログラムの様子。講師の岡本純平さんが丁寧に解説する(撮影/豊浦美紀) 卒業後の進路状況[2015年卒業後](AERA 2018年4月16日号より)  発達障害を抱える学生は、この5年で約3倍になった。修学支援が整うなか、就活・就職後に初めてつまずくケースも少なくない。社会に出る前に特性を受容し、対処法を身につける。そんなきめ細かな就活支援が広がりつつある。 *  *  *  たった1枚の履歴書に、丸1日。朝から書き始めて、徹夜しても仕上がらなかった。  ボールペンで1文字ずつ、定規をあててそろえながら書く。本当は鉛筆で下書きするつもりだったが、母親は、 「何社分も必要なのに、それじゃあ間に合わないよ」  などと言う。直接書き始めたものの、結局、1枚仕上げるのに用紙を10枚無駄にした。  デザイン系専門学校を昨年卒業した男性(22)の話だ。就職活動には、スタートからつまずきを感じていた。  苦労して完成させた履歴書を学校で先生に添削してもらうと「細かすぎる」。多数の間違いも指摘された。企業からの案内メールに気づかず返信しないという痛いミスもあった。  それでも、なんとかたどりついた面接。専門用語が飛び交う中で、 「デザイナーって何だと思う?」  と問われ、必死に考えて答えると、 「勘違いしているね」  打ちのめされた気持ちだった。 「就活を通して自分の甘さを痛感したし、『健常者』の学生との差のようなものも感じて、落ち込みました」  男性は、発達障害の診断を受けていた。小学校時代にまばたきが止まらないチック症状が続き、神経発達症の一つである「トゥレット症候群」と診断されたのが最初。「ことばの教室」に通っていたが、「遊具で遊びたくてじっとしていられず先生を困らせる」ことが多く、注意欠陥・多動性障害(ADHD)の可能性も指摘された。高校卒業前にはアスペルガー症候群とも診断された。興味・関心が偏ったり、社会性やコミュニケーション能力が欠如したりするとされている。 ●幼少期からサポート受け、障害者枠で就職  男性のように発達障害を抱える学生は近年、大幅に増えている。日本学生支援機構(JASSO)の調査によると、2011年時点で大学や短大、高等専門学校に在籍する発達障害の学生は1453人。全学生の0.04%だったが、16年には4150人と0.13%にまで増えている。5年で実に、2.9倍になった計算だ。  なぜこれほど増えたのか。  背景には05年に施行された発達障害者支援法がある。発達障害は、このときに脳機能の障害として定義づけられ、乳幼児期からの早期発見や医療・福祉・教育面での支援体制も段階的に整えられてきた。  その結果、公立小中学校で通級指導を受ける発達障害の児童生徒数は06年度に6900人ほどだったのが16年度には6.9倍の4万7千人超に増えた(文部科学省調べ)。12年の調査では公立小中学校児童の6.5%に発達障害の可能性があるとも推計されていて、今後も学生に占める割合は増えると見られている。  発達障害がありながら進学してきた学生たちにとって、大きな課題が就職だ。冒頭の男性が就活で苦労したように、卒業後の進路状況は厳しい。JASSOの調査では、15年度卒業の全学生の就職率が74.8%なのに対し、発達障害の学生は35.9%とかなり低い。しかし、低いながらも年々、就職率は上昇している。背景にあるのは、学内外で障害に合わせた就活・就労支援を受けている学生が増加していることだ。  5年前に発達障害学生向けの就活支援事業を始めた企業Kaien(東京都新宿区)では、10人ほどだった登録者が今では200人を超えた。鈴木慶太代表が説明する。 「幼少期から支援を受け、そのまま障害者枠で就職し、合理的配慮を受けた方がいいと考える親子も増えています」 ●自分の特性把握し、イラストレーターの夢 「障害者枠」とは、誰もが応募できる「一般枠」と異なり、障害者手帳を持っている人たちだけが応募できる求人枠だ。企業は障害者枠で採用した従業員に対し、働く上で不都合を感じないよう、適切な範囲で本人が要望する「合理的配慮」をすべきだとされている。一方で、一般枠よりも職種が限られ、給与なども低いことが多い。  障害者雇用促進法は、事業主に対し、従業員の規模に合わせて一定数の障害者を雇う義務を課しているが、今春、民間企業の法定雇用率が2.0%から2.2%に引き上げられた。身体障害のある求職者が減少していることもあり、企業は将来を見越して、発達障害者の採用に力を入れ始めているという。  冒頭の男性もその後、Kaienで就労移行支援を受けた。障害者枠の企業面接会では、担当者が会話に気を使ってくれたのか緊張しなかったという。無事、大手印刷会社に採用が決まった。 「自分の特性を把握してある程度自己管理できるようになり、会社の配慮を受けて働ける。今は、イラストレーターという夢もできました」  発達障害の診断の有無にかかわらず、「コミュニケーションが苦手だ」と感じている学生のための支援もある。障害者雇用支援を手がける企業パーソルチャレンジが2年前に始めた「コミュニケーション・サポート・プログラム(CSP)」がそれだ。1日かけてグループ討論などを重ね、精神保健福祉士の若井彩美さんらとの個人面談でフィードバックを行う。 「ほかの人との協力が苦手だと思っていたけれど実はそうではなかった、と話す学生さんもいます」(若井さん)  CSPでは発達障害学生向けの就活コースも用意。自己理解を深めてもらいながら、「障害者枠と一般枠の違い」を法律や人事制度、求人票の見方まで含めて指南し、一律ではない自分に合った働き方があることを伝える。  講師の岡本純平さんは話す。 「発達障害は、個人の特性や濃淡が幅広い。配慮が必要だとしても、期待される能力とのバランスによって、職種を広げてくれる企業もあります」  CSPを受講中の男子大学院生(24)は、小学3年時にアスペルガー症候群の診断を受けたが、学校生活に支障はなかった。挫折が訪れたのは、難関国立大学に入学し大学院に進んでからだ。 ●大学で伸ばした専門性活かす 障害開示せず就活も  研究室でプロジェクトを進めていく中で、周りのペースについていけず、やるべきことを進められない。周囲の学生たちと話すことさえ怖くなり、研究室にいられなくなった。学内の相談室に行って初めて「発達障害のためにつまずいている」と自覚したという。  大学からCSPを紹介され、今は岡本さんらとフィードバックを重ねながら自己管理の工夫を実践している。  障害者手帳は持っているが、就活は障害を開示しない「クローズ」で臨むつもりだ。今は障害による不安よりも、これまで頑張ってきた自分の能力を重視したいと思うようになったという。  こうした就活支援を大学独自に行う動きも広がっている。  5万人の学生を抱える早稲田大学では、14年に「発達障がい学生支援部門」を立ち上げた。17年度は98人の学生を支援した。保健センターの井上真郷所長・学生部副部長は、 「傾向のある学生も含めれば、学内で1%にあたる500人ほどいてもおかしくないと考えています」  と話す。学内には、学生生活全般について同センターの学生相談室があるほか、修学支援の窓口として障がい学生支援室がある。定期的に面談を行いながら配慮部分を調整するほか、学生自身による対処法も一緒に検討する。  就活支援はこうした活動の延長線上にある。数年前からは、学生の特性が分かっている学生相談室・支援室とキャリアセンターが連携し、学生と企業の間に入って直接マッチングするという新たな取り組みも始めている。  具体的な仕事内容と学生の希望・個性をみて個別に紹介し、双方が前向きなら職員・学生・企業が一緒に面談する。担当職員は、企業側が特性を理解してくれているか、合理的配慮を含めた受け入れ環境が整っているかを確認する。実績はまだ数人程度だが、今後も積極的に進めていく予定だという。  佐々木ひとみキャリアセンター長が就活支援への思いを語る。 「せっかく大学で伸ばした専門性を、障害というくくりだけで安易に失わせたくない。少しでも本人が能力を活かして、適切な配慮を受けながら活躍できるよう、企業とも協力していきたい」  07年にいち早く支援室を立ち上げた富山大学では今春、発達障害学生の46%が一般枠で就職、21%が大学院進学を決めた。好調な進路状況を支えるのは、入学直後からの支援体制だ。  同大では学生の事務窓口や保健管理センター、教職員とも情報共有し、発達障害の可能性のある学生がいたら支援相談室に招く。週1回のペースで面談しながら修学上の問題の解決方法を一緒に考え、配慮点などを教職員に伝える。本人にはレポート課題などの優先順位のつけ方や先生とのやりとり方法を、ほぼマンツーマンで指導する。  例えば、高校側から支援の引き継ぎを受けていた男子学生は当初、渋々面談に訪れた。そのうち自分の受けていた授業が登録科目でないことが分かったり、カフェでパソコンに夢中になっているうちに授業に行きそびれたりといった問題が次々に生じ、自ら支援室に通うようになったという。  学生は相談員とともに一つずつ対処法を身につける一方、支援室が週1回開いている発達障害学生のランチ会にも参加し、日々のつまずきを互いに振り返りながら会話の練習も重ねた。そして最終的に、一般枠で就職した。 ●企業に出向き説明 就職後のフォロー最大5年  こうした取り組みに当初からかかわる西村優紀美アクセシビリティ・コミュニケーション支援室長は話す。 「学生は、学校生活の中で徐々に『困っていること』を自覚し、支援の中で、それまで感じていた生きづらさ・つまずきが自分のせいではなく特性のためだと理解する。『今は自分で判断してできることが増えた』と自信をつけることもできる。特性との向き合い方が分かってくると、社会に出てからの対処法もイメージできるようになります」  就職後のフォローも原則3年、最大5年まで行っている。定期的に面談やメールで近況報告をもらうが、悩みを相談する中で退職を思いとどまったケースもある。職員が企業に出向き、事情を説明することもあるという。  支援室の桶谷文哲・特命講師が話す。 「本人の特性や配慮内容を伝えて企業側の理解を進めることも、学生を見守ってきた私たちだからこそできる役目かなと思っています」  Kaienにとっても、発達障害について企業の理解を進めることは大事な戦略の一つだという。  同社は今年2月に初めて「発達障害学生のための企業合同面接会」を企画し、大手など20社が参加した。その面接会の前に、鈴木代表は企業担当者を集めて「発達障害学生の採用ポイント」を1時間かけて話した。発達障害の特性から仕事上での注意点、彼らの「伸びしろ」まで含め、イラスト入りのパワーポイントで細かく説明した。  鈴木代表が語る「発達障害者の雇用についての課題と展望」は明快だ。 「今はまだ発達障害者が選べる職種も限られているが、その原因は学生側と企業側の双方にある。本人の自己理解を含めた努力と、企業側の理解・配慮をできるだけ近づけたいんです」  目標は「こういう形でなら周囲と同じように働ける」という状況を整えたうえで、適材適所を実現させることだ。 「その上で本人のパフォーマンスが低ければ給料が下がっても仕方ない。この考え方は、障害者だけでなく主婦や高齢者らにも当てはまり、政府が進めている『働き方改革』にも通じるのではないでしょうか」 (ライター・豊浦美紀) ※AERA 2018年4月16日号
就活発達障害
AERA 2018/04/12 11:30
有働由美子の「今後はジャーナリストとして…」に込められた本音
有働由美子の「今後はジャーナリストとして…」に込められた本音
「あさイチ」を降板した翌日にNHKを退局していた有働由美子さん (c)朝日新聞社  3月30日に「あさイチ」を降板した有働由美子さんが31日付でNHKを退局していたことが発表された。惜しむ声と声援の輪が広がっている。  NHKの朝の顔だったアナウンサーの有働由美子さん(49)の突然の退局に、NHK局内でも驚きの声が上がった。 「そんな噂は全くなかったのでびっくりした。局内でも『性格がいい』『仕事がしやすい』と見られていて、彼女のことを悪く言う人はあまりいません。仕事人として言うべきことはしっかり言いますし、言うことも常識的なのでよくいる『困ったちゃん』ではなかった。芸能人ゲストに対しても、彼女の距離の取り方は絶妙でした」(40代の女性局員) ●女性局員「ショック」  有働さんは、NHKの女性局員にとって「希望の星」だった。 「有働さんは女子アナ出身で初めて、一般企業の取締役にあたる理事になるとも目されていたので、今後の出世を捨てて退局することにショックを受けている人も多いはず。『世間的にもヤフーニュースで速報が出るくらいの人なんだな』と、改めてその存在の大きさを感じました」(同前)  それだけに「なぜ今?」という動揺が広がる。一部では「『あさイチ』降板は有働さんの意思ではなかったのでは」といった臆測もあるが、NHKの後輩で、アナウンサーからジャーナリストに転身した堀潤さん(40)はこう話す。 「逆に局側から相当慰留されたのでは。今後もNHKの仕事をするそうですし」  有働さんはアナウンサーとして、報道、紅白歌合戦総合司会、スポーツ、海外赴任、情報番組と多くの現場を経験している。国民的番組となった「あさイチ」には、番組の立ち上げから関わってきた。 「やれることは全部やった。そろそろ次のステージに行きたいという、あくなき成長への欲求では。あさイチであれだけ自分の素を出して視聴者から支持されたことで、大きな手応えを得たと思います」  堀さんが注目するのは、有働さんが出した「今後はジャーナリストとして活動する」という趣旨のコメントだ。「あえてアナウンサーではないと名乗る心境に共感します」と話す。 ●民放など10社超争奪戦 「報道の現場でアナウンサーは『記者が書いた原稿を読むための人』と思われがち。自分の視点や言葉で、制約なく発信したいという思いも強い。有働さんはスポーツや経済界、いろいろな人脈をお持ちです。あれだけ現場を歩いていたら、やりたいことが出てきますよね。自ら取材もする立場に回りたいというのが本音では」(堀さん)  一方、芸能リポーターのあべかすみさん(58)は同じコメントについて「すぐに民放に移籍するのではないという意味でしょう。NHKに対する義理を大事にしているのではないでしょうか」とみる。  あべさんによると、有働さんに対する番組出演などのオファーは民放や芸能事務所など10社を超えるという。 「『あさイチ』卒業が決まった段階から争奪戦がありました。安定したしゃべりに機転の利く対応。生理や更年期といった話題にも対応できる。ちょっとしたエロさもありざっくばらんなので、おじさま受けも抜群なんです。夜の報道番組にはうってつけと評価されています」  世間のアラフォー、アラフィフ女性からは「いつも出勤前に元気をもらっていた」「勝手に『同志』だと思っていたので寂しい」と退局を惜しむ声と同時に、エールもあがる。  書店業界で働く50代の女性は「有働さんは『あさイチ』でも出演者との人間関係がよくて、見ていて安心感があった」と語る。 「お辞めになるのは残念だが、50歳になる前に新たな挑戦をしたい気持ちはわかるし、あのような転身は他の人にも勇気を与える。応援しています」 (編集部・小柳暁子) ※AERA AERA 2018年4月16日号
AERA 2018/04/10 11:30
ブルゾン、彦摩呂、ニッチェ江上ら芸能人の“子ども時代”
ブルゾン、彦摩呂、ニッチェ江上ら芸能人の“子ども時代”
1990年、岡山県生まれ。島根大学中退。芸人。事務所の後輩にあたる2人とユニットを組んで活躍することも。2016年にテレビ初出演。17年、ネタの「35億」が「2017ユーキャン新語・流行語大賞」でトップ10入りした  入学式シーズン。ピカピカのランドセルを背負う子どもたちは、どんな将来を思い描くのか。人気タレントの皆さんに、思い出の写真の頃を振り返っていただきました。 ■ブルゾンちえみ 小学3年生の頃、私の遊びの中心は「お絵かき」でした。どこかに旅行となったら、カバンの中には必ず「らくがき帳」を入れ、それを忘れると、とても不安になった。毎日毎日毎日……、よく飽きなかったなあと今では思います。ほかにも、本を読んだり、ジグソーパズルをしたり、家での一人遊びが大好きで、「今日はパズルやるから遊べない」と、友達の誘いを断ることもありました。友達も、一つのことに熱中すると、それしか見えなくなる私の性格を理解してくれていましたから、はたからは寂しそうに見えたかもしれないけど、本人は充実していました。そんな幼少期の特性が、仕事に熱中している今の自分を作ってくれたと思います。 ■せんだみつお チャンバラ遊びが大好きだった僕は、小学3年生のときに、宮崎から東京・荻窪に引っ越してきました。わんぱくでしたがガキ大将でも参謀役でもなく、みんなの周りをチョロチョロ動き回っているタイプでしたね。田舎育ちで都会に順応できるか親は心配したそうですが、僕はクラスの男子を集めて、九州弁を教えるなどして溶け込んでいました。東京に来てからは映画三昧。大好きなチャンバラ映画を見まくり、時代劇スターに憧れていました。 20代でテレビの司会者として成功しましたが、人気は10年と続かず、役者として頑張り始めたころ、憧れの萬屋錦之介さんとドラマ「破れ新九郎」で共演。僕は長屋の差配という端役でしたが、子どものころの夢がかないました。 ■彦摩呂 シングルマザーだった母は、仕事をしながら僕と兄の2人に必ず手作りのご飯を作ってくれました。子どもながら疲れた顔をしているなと思ったこともありましたが、僕が母の料理を「おいしいなぁ~」と言って食べると、それが嬉しそうな顔に変わるんです。当時はまさか“食レポ”でおいしさを伝える仕事をするなんて思ってもいませんでしたけど(笑)。 当時憧れていた仕事は、ゾウの飼育員。同じ格好をしたくて、雨も降ってないのに長靴履いて過ごしてました。「ゾウの飼育員は公務員だから、試験に合格するために勉強しなさい」って言われて、諦めました(笑)。 ■ニッチェ 江上敬子 小学1年生の頃は痩せていて、髪もサラサラだったのに、小学3年生になって急に太りだして髪もチリチリになりました。私の身に何が起こったのか謎なんです(笑)。 子ども時代の私は、とても活発でした。それと、恋多き女子でもありました。好きな子のためにマフラーを編んだり、チョコレートを手作りしたりしてましたね。30歳の時に無事、結婚できたのも、そんな女子力のおかげかも(笑)。当時は、漠然とですが、何でもいいから有名になってから死にたいなと考えていたと思います。まさか芸人になるとは思ってませんでしたけどね。 ■メイプル超合金 安藤なつ 小学5年生の時、近所の公民館で行った子ども会か何かの「6年生を送る会」で舞台に出て、友達と出し物に参加した時だと思います。子どもの頃は、近所の山に友達と登り、山腹の洞窟に集まってお菓子を食べるのが好きでした。 友達と遊んでばかりで、とにかく勉強や宿題が大嫌い。小学2年生の時に作文で「アイドルになりたい」って書いたら、先生は「もっとほかの仕事もあるんじゃないかな」だって。中学時代はお笑いに夢中になり、深夜のお笑い番組で芸人さんが「相方に逃げられた」って言ってたのを見て「私が代わりをやります」って手紙を送って、断られたこともある。でも今はそんな夢がかないました。 ■内山信二 6歳でデビューしていたので、運動会に参加できたのは小学校6年間で1回だけ。他の年は練習しかしてません。運動は苦手でしたが、笑いが取れるので体育の時間は大好き。わざと細い子と柔軟体操して重さで押しつぶしたり、徒競走ですぐ転んで、笑わせてました。 子役時代から憧れていた仕事がありました。それはお坊さん。だって、お金をもらってあんなに感謝される仕事ってありますか? 豪華な寿司とかも食べられるしって思ってた(笑)。16歳になった頃、芸能の仕事が激減して、お坊さんになる道も真剣に考えたんですよ。そんな思いがあるから、ずっと坊主頭にしてるのかもしれません(笑)。 (取材・文/本誌・鈴木裕也) ※週刊朝日 2018年4月13日号
週刊朝日 2018/04/09 11:30
「尊厳のある死とは口から食べられるかどうか」ドクターG・山中克郎医師の死生観
梶葉子 梶葉子
「尊厳のある死とは口から食べられるかどうか」ドクターG・山中克郎医師の死生観
山中克郎医師(諏訪中央病院総合内科/院長補佐)  命を救うのが医師の仕事である一方で、「命の終わり」を提示するのも医師の務め――。救急や外科手術、がんやホスピスなど死に直面することが避けられない現場で日々診療を行っている医師20人に、医療ジャーナリストの梶葉子がインタビューした『医者の死生観 名医が語る「いのち」の終わり』(朝日新聞出版)。その中から、NHK人気医療番組「総合診療医 ドクターG」でも知られ、大学病院の教授職を辞して八ヶ岳の山々を望む信州の地に移った、諏訪中央病院総合内科・山中克郎医師の「死生観」を紹介する。 *  *  *  僕は、「おじいちゃん子」だったんです。四日市で開業していた母方の祖父が大好きで、よく遊びに行っていました。患者さんがいない時に診察室に入り込むと、病院独特のフェノールのにおいがして。そのにおいがとても好きでね。白い洗面器に消毒液が入っていて、そこで手を洗って脇に下がっているタオルで拭く、そんな時代ですよ。  診察室の隣には、祖母が調剤をする調剤室がありました。子どもの手の届かない、高い棚に置かれたガラスの容器にはドクロのマークが付いていて、劇薬と書いてある。あれを飲むと死んじゃうんだ、なんて思って、ゾクゾクしていた覚えがあります。  人生で初めて人の死というものを実感したのは、大学2年生の時。予備校時代にとても仲が良かった先輩がいて、医学部を目指して一緒に勉強し、別々の大学に入ったんですが、彼が突然の事故で亡くなってしまった。その時、人間というものは簡単に死んでしまうんだな、と、つくづく感じたんです。  そんなことも影響したのか、医学部で色々な病気の勉強をしながら、自分もいつかこのどれかにかかるかもしれない、長生きできないかもしれない、と思っていました。だからこそ必死で勉強しよう、自分がやりたいことを追求しなければ、なんて考えながらの学生時代。ちょっと陰気な若者でしたね。 ■治療を重ねても亡くなっていく白血病患者への無力感  初期研修を修了して最初に入ったのは血液内科です。高校時代に見た、山口百恵さん演じる主人公が白血病になってしまう、というドラマの影響があったのかもしれません。  実際に血液内科医になってみると、当時はあまり良い治療方法がなかったこともあって、化学療法でせっかく寛解しても、結局、1~2年以内にみんな再発してしまうんです。再治療をしてもすぐに悪くなって、若い男女でもどんどん亡くなっていく。  懸命に治療をしているのに、来る日も来る日もそういう状況が続くと疲れてきて。3年目くらいには、結果的に亡くなってしまうなら自分が何をやっても無力なのではないか、という想いにとらわれて、うつ状態のようになってましたね。もう、いやだ!って。  亡くなった患者さんで、どうしても忘れられない人がいます。血液内科医になって間もない頃ですが、20代後半という年齢も、お互いの子どもの年も、ちょうど同じくらいだったんですよ。白血病の中でも非常に悪いタイプで、診断がついて半年以内に骨髄移植をしたんですが、骨髄がうまく着かなかった。彼が亡くなった時には、涙が止まらなくなってしまってね。上司に「今日はもう、帰っていいよ」と言われたほどです。  あれから約30年経ちますが、彼の名前も亡くなる時の状況も、はっきり覚えてますね。総合診療という言葉を初めて知ったのは、国立名古屋病院に勤務していた時。突然、上司に呼ばれて、総合診療の勉強をしに1年間アメリカに行かないか、と言われたんです。急な話で、当時は総合診療がどういうものかも知らなかったけれど、血液内科だけで終わりたくはなかったし、なんだか面白そうだし、行くか、と。  UCSF(カリフォルニア大学サンフランシスコ校)での1年間で、人生が180度変わりました。内科の奥深さ、総合診療のドクターたちの幅広く深い知識。衝撃でしたね。ただ、日本ではまだ総合診療というものが知られておらず、帰国後は苦労しました。色々と試行錯誤して、結局、救急室での診療に落ち着いたという経緯があります。 ■人間は必ず死ぬ。それもいつ襲ってくるか、分からない  総合診療はいわば最前線ですから、医学生の頃、漠然と「いつか自分も」と考えていたように、常に感染の危険があります。また、どこかに災害支援に行けば、二次災害に巻き込まれる可能性もないわけではない。年齢的にももう50代半ばを過ぎ、数年のうちに何かあっても不思議ではない。なので、死というものは受け入れざるを得ないなぁ、と思いますね。  最近、どうやって死のうかな、なんて考えるんですよ。自分の中では、尊厳を持って死にたい、というのが大きくて、患者さんにお話しする時も意識をします。もちろん、自分の考え方が絶対だとは思わないし、人に押し付ける気は毛頭ないけれども。  僕の価値観で言うと、尊厳のある死とは口から食べられるかどうか、また、意識がちゃんと保たれているかどうか。それがなくなってまで延命処置をするのは、どうかな、と。この場合の延命というのは、とにかく心臓が止まらないようにサポートをする、ということですが。  基本的には、個人それぞれの考え方が尊重されるべきだと思っています。ただ、今の医学教育では死を扱うことがとても少ない。病気の人を「治す」ことが大部分を占めていて、終末期をどう迎えるか、尊厳のある死とは何なのかということをディスカッションした覚えが、私自身にも全くないんですよね。でもこれからは、そういうことがとても大事です。  都会と違ってここでは、在宅に帰った入院患者さんを私たちが訪問診療で診ます。病院にいる時の様子と、家に帰った時の患者さんの様子、両方が見られる。全然違うんですよね。病院では嚥下が難しかったのに、家ではちゃんと口からご飯食べてたり。また、家で亡くなる方も多いので、見学の医学生や研修医の先生たちと一緒に、本当に幸せな死に方とは何なのか、自分だったらどうして欲しいのか、もう一度考え直すことができる。教育的にも、とても良い機会です。  やっぱり、死というものを身近に感じていないと、生きることにも一生懸命になれないのではないかと思うんです。人間は、必ず死ぬ。それも、いつ襲ってくるか分からない。だからこそ、今、若い人には自分が本当にやりたいことをやって欲しいし、自分もそれを追求したい。 ■身近な人の死は、生と死の隔たりを少し取り除く  母はとても信心深い人で、高野山にたびたび行っていました。僕も連れて行かれて宿坊に泊まり、奥之院などにもよく行きましたね。大木の木立が荘厳で、新鮮な気分になるんです。歴史に出てくる人たちのお墓が多くて、織田信長や明智光秀の墓というのもありますよ。敵対してたはずなのに、お墓は近い(笑)。死んでしまったら、みんな同じなんですよね。  母は普段から夜になると毎日、般若心経を上げていました。何か困ったことがあると、弘法大師が助けに来てくれるとか、(亡くなった)おばあちゃんが来てくれる、と言って。僕自身もそれが、受験勉強など苦しい時の励みにもなってましたね。  かわいがってくれた祖父母が亡くなった時には、生と死の隔たりが少し取り除かれたような気分になったし、もし今後、両親が亡くなったら、余計にそういう気持ちが強くなるでしょう。死んだら先に逝ったみんなのところに行く、向こうに行ったらみんなが待っていてくれる、というような。それは強く思いますね。  僕自身が死ぬ時のことを考えれば、自分の介護で妻や子どもたちを何年も束縛することは、あまりしたくない。最期には、自分の人生幸せだったなぁ、と心から思えて、妻と子どもたちに「ありがとう」って言って死ねたらいいな、と思っています。 ※『医者の死生観 名医が語る「いのち」の終わり』から
シニア病院終活
dot. 2018/04/08 07:00
更年期をチャンスに

更年期をチャンスに

女性は、月経や妊娠出産の不調、婦人系がん、不妊治療、更年期など特有の健康課題を抱えています。仕事のパフォーマンスが落ちてしまい、休職や離職を選ぶ人も少なくありません。その経済損失は年間3.4兆円ともいわれます。10月7日号のAERAでは、女性ホルモンに左右されない人生を送るには、本人や周囲はどうしたらいいのかを考えました。男性もぜひ読んでいただきたい特集です!

更年期がつらい
学校現場の大問題

学校現場の大問題

クレーム対応や夜間見回りなど、雑務で疲弊する先生たち。休職や早期退職も増え、現場は常に綱渡り状態です。一方、PTAは過渡期にあり、従来型の活動を行う”保守派”と改革を推進する”改革派”がぶつかることもあるようです。現場での新たな取り組みを取材しました。AERAとAERA dot.の合同企画。AERAでは9月24日発売号(9月30日号)で特集します。

学校の大問題
働く価値観格差

働く価値観格差

職場にはびこる世代間ギャップ。上司世代からすると、なんでもハラスメントになる時代、若手は職場の飲み会なんていやだろうし……と、若者と距離を取りがちですが、実は若手たちは「もっと上司や先輩とコミュニケーションを取りたい」と思っている(!) AERA9月23日号では、コミュニケーション不足が招く誤解の実態と、世代間ギャップを解消するための職場の工夫を取材。「置かれた場所で咲きなさい」という言葉に対する世代間の感じ方の違いも取り上げています。

職場の価値観格差
カテゴリから探す
ニュース
〈見逃し配信〉「社員旅行」はオワコンなのか? 行きたくなかった若者も満足させた「令和の社員旅行」の最前線
〈見逃し配信〉「社員旅行」はオワコンなのか? 行きたくなかった若者も満足させた「令和の社員旅行」の最前線
社員旅行
dot. 8時間前
教育
子どもが「本を読めた」と言うのに、聞くと「オチ」がわかっていないのはナゼ? 読書に必要な力とは
子どもが「本を読めた」と言うのに、聞くと「オチ」がわかっていないのはナゼ? 読書に必要な力とは
笹沼颯太
AERA with Kids+ 4時間前
エンタメ
「ジャンポケ斉藤」を知る芸能記者・中西正男が感じていた“異変” 「メンバー2人からはきつく注意されていた」
「ジャンポケ斉藤」を知る芸能記者・中西正男が感じていた“異変” 「メンバー2人からはきつく注意されていた」
ジャンポケ
dot. 4時間前
スポーツ
双子を出産した「有村智恵」が語る“プロゴルファー”と“母親”との葛藤 「どちらかに決めないといけないのはおかしい」
双子を出産した「有村智恵」が語る“プロゴルファー”と“母親”との葛藤 「どちらかに決めないといけないのはおかしい」
有村智恵
dot. 4時間前
ヘルス
〈上皇后美智子さま右大腿骨上部骨折手術終了〉転倒で大腿骨骨折の86歳女性「電車で手芸サークルに行きたい」 訪問リハビリで歩行可能に
〈上皇后美智子さま右大腿骨上部骨折手術終了〉転倒で大腿骨骨折の86歳女性「電車で手芸サークルに行きたい」 訪問リハビリで歩行可能に
リハビリテーション
dot. 4時間前
ビジネス
都内ホテルの平均単価、コロナ後に2倍近く高騰 探せば「1万円以内」の穴場エリアも
都内ホテルの平均単価、コロナ後に2倍近く高騰 探せば「1万円以内」の穴場エリアも
AERA 5時間前