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勝間和代さんの告白が社会に見せたもの… カミングアウトの現実
勝間和代さんの告白が社会に見せたもの… カミングアウトの現実
世界にはさまざまな「カミングアウト」がある…(撮影/写真部・東川哲也) 【図表】自分の子どもが同性愛者だった場合、どう思うか(新書『カミングアウト』より) 「高校のときも、大学のときも、女の子を好きになる感覚はありました。でも、ダメなことだと思ってました。男性も好きになるし、女性を好きな気持ちには蓋をしないといけない、と」  女性パートナーとの交際をウェブメディアを通して告白した勝間和代さんだが、同時にカミングアウトの困難さも明かしている。性的マイノリティに限らずとも、自分にとって大事な、しかしそれまで言えなかったことを誰かに打ち明けることは、勇気のいる行為だ。 「だからこそ、カミングアウトをめぐっての様々な体験やその背景を彫り下げることは、人と人がどう出会い、わかり合っていくのか、問ういことにつながるテーマでもある」  そう語るのは、文化人類学者の砂川秀樹さんだ。著書『カミングアウト』(朝日新書)には、カミングアウトをした当時者の葛藤と、それを受け止める家族の戸惑いの様子が、実例で克明に描かれている。そのひとつが、自分がレズビアンであると両親に紹介した香織さん(仮名)の例だ。  香織さん(仮名)は中学生の頃、はじめて女性を好きだと気づいた。ただ、女性が好きなことを両親に言うつもりは、ずっとなかったという。仕事を始めるようになって、「結婚とかは考えない?」と両親に言われることが増えてきても、「するつもりはない」ときっぱり言い返した。  そんな香織さんは、30歳になって、一つ年上の佳奈さん(仮名)と付き合い始め、一緒に住むようになった。「友人と住む」と伝えられた香織さんの両親は、それを不思議には思わなかったという。それどころか、香織さんと佳奈さん、香織さんの両親と四人で一緒に食事するようになった。その食事の席で、香織さんがカミングアウトを真剣に考える出来事があったという。 *  *  * 「両親は、私たちのことに気づいていて、その上で理解して迎えているのではないかと思うときもありました」(香織さん)  しかし、実家で一緒に食事をしているときに、母親が佳奈さんに言った言葉に、そうじゃないことを思い知らされた。 「おつきあいされている方とかはいらっしゃらないんですか? もし結婚を考えることがあったら、うちの子のことは心配せずに、そうされてくださいね」  冗談っぽい言い方に、佳奈さんも苦笑したという。しかし、そんな佳奈さんの顔を見ていたら、とても気が重くなって、申し訳ないような気持ちになり、それまでどこか自分で蓋をしていた、親を騙しているような気持ちが次第に大きくなっていったという。  それでも、カミングアウトには迷いがあった。一人っ子だから、自分が同性を好きだと知ったら、どんなにショックを受けるだろうか。まったく理解されなくて、拒絶されたらどうしようか。1カ月ほど悩んだ香織さんはカミングアウトの決意をして実家に行った。 「実家へ向かうときは、人生で一番緊張しました」(香織さん)  しかし、話はなかなか切りだせなかった。そんな香織さんの迷いに気付いたのか、母親は「何か話があるんじゃないの?」「最近、食事に来ることもそんなになかったし、食事しても終わったらだいたいすぐに帰るじゃない?」と切り出した。 「私は言葉につまってしまって、母が自分の変化に気づいていたんだと思うと、いろんな感情がこみあげてきて、涙があふれました。涙で声が出ない中、やっと『実は、佳奈は友達じゃなくて、恋人で……』って言葉にしました」(香織さん)  両親から何の反応もなく、伝わっていないのではないかと思った香織さんは、「レズビアンなの」と口にした。そして、声をあげて泣いた。  香織さんの涙が落ち着いてきた頃、「いつからそうなの……?」と聞いてきた母親の声は涙声だった。「中学時代からずっと」と答えると、母親は、「そう、正直ショックだけれど……」と言ったきり黙ってしまった。すると、それまで何も言わなかった父親が「しょうがないだろう。それでお前は幸せなんだろう?」と、ちょっと強い口調で、怒っているように言ったという。 ■カミングアウトされた母親の「本当の」気持ち  母親とはその後も以前と同様、1週間に一回ほど電話のやりとりをしたが、お互いカミングアウトの話題は出さないまま、それまで2、3カ月に一度は帰っていたという実家にもいかず、半年ほどが過ぎた。そして、クリスマスが過ぎてすぐの頃、母親から電話があった。 「お正月には来られるんでしょ?」「佳奈さんも来られそうなら、一緒に連れてきなさい」  予想外の言葉に驚き、香織さんは「え? あ、うん、聞いてみる……」としか答えられなかった。元日の夜に佳奈さんと二人で実家を訪ねた。最初はぎこちない沈黙が続き、テレビから流れる正月の賑やかな声が、やたらと響いて浮いている感じだった。しかし緊張がほぐれてきたころ、母親がさらっと言った。 「二人とも今年も元気で仲良くね」  香織さんも佳奈さんも、一瞬、止まったという。そして、先に返事をしたのは佳奈さんだった。「ありがとうございます」。その声はちょっと涙声だった。それから父親がこう続けた。 「これからも香織をよろしくお願いします」  佳奈さんが「はい」と答えたときには、香織さんも泣いていた。 「ありがとう」  それから、4人で食事をすることも増えたという。実は、香織さんのカミングアウト後、両親はLGBTについて新聞記事や本で勉強していたのだ。  香織さんがカミングアウトしたとき、母親はこんな気持ちだったという。 「とてもショックで、目の前が暗くなるようだったけど、それ以上に、泣きじゃくる香織がかわいそうでつらかった。少し時間が必要だったけど、そんなつらい思いはもうさせたくないと思うようになったのよね」  カミングアウトの数だけ、葛藤や戸惑いがある。いずれにしても、カミングアウトは性的マイノリティ当事者だけの問題ではない。あなた自身は性的マイノリティでなくても、もしかしたら明日、誰かからカミングアウトを受けるかもしれない。先述の砂川秀樹さんは、『カミングアウト』の中でこう語る。 「異性愛者と一口に言っても、その感情のあり方、気持ちの表現の仕方はそれぞれだ。しかし、社会の中で、異性愛を前提として、男性の役割はこうあるべき、女性の役割はこうあるべきという固定化によって、ひとりひとりの多様なあり方は無視され、抑圧されたりもする。ゲイやレズビアンがともに生きているということを意識し、異性愛前提による男女の対が当たり前でなくなれば、知らないうちに自分で自分にはめていた枠がはずれて楽になっていくことだろう」  性的少数者がカミングアウトしやすい社会は、異性愛者にとっても生きやすい社会なのかもしれない。
朝日新聞出版の本読書
dot. 2018/06/07 16:00
AIが介護プランを立案する時代へ 目指すはケアマネの“有能秘書”
AIが介護プランを立案する時代へ 目指すはケアマネの“有能秘書”
シーディーアイの岡本茂雄CEO(左)とAI研究者のギドー・プジオル博士。開発中のAIは現在、豊橋市のほかに全国38事業所で試験導入されている(写真:ギドー・プジオル博士提供) 例)朝日太郎さんの介護プラン(AERA 2018年6月4日号より)  日本の介護保険のビッグデータは、世界的に見ても宝の山。  それを学習し、最適な介護プランを瞬時に作れるAI(人工知能)の開発プロジェクトが始まっている。取り組むのはベンチャー企業シーディーアイと米スタンフォード大学の人工知能研究者、ギドー・プジオル博士だ。  シーディーアイの岡本茂雄CEOは東京大学医学部を卒業後、筋萎縮性側索硬化症(ALS)患者に出会ったことをきっかけに、さまざまな企業で介護の質の向上に執念を燃やしてきた。ある会合でAI技術の医療・介護への応用を研究していたプジオル氏に会い、「日本では介護保険データが豊富にあり、個々のケアマネジャーもノウハウを持っている。だが、体系化されておらず社会全体の知恵になっていない」と訴えた。すると、プジオル氏はこう応じた。 「データをAIに学習させれば、より良い介護プランを瞬時に作れる。高齢者の健康状態を改善しながら社会保障費の削減もできれば、世界中できっと役に立つ。一緒にやりましょう」  目指すのは、ケアマネとAIがこんなやりとりをする世界だ。 「この介護プランの改善点は?」「毎日の歩行訓練をプラスすれば、転倒リスクを70%削減できます」「車いすを使うと?」「同様の2万3千件のケースを調べたところ、歩行器と理学療法の組み合わせで状況は93%改善します。車いすでは34%しか改善しないでしょう」「1年後の将来予測は?」「こちらです」  ケアマネの仕事をAIが代替するのではなく、AIが「有能な秘書」のようにケアマネを補助するイメージだ。  プロジェクトの実証実験には昨年、愛知県豊橋市が手を挙げ、同市の10万件分の介護保険データを提供。「ゼロ歳のAIが誕生した」(岡本さん)。実験にはケアマネ33人が参加。思いがけない事例も出てきた。  例えばAIが認知症の人について、従来のプランにはなかったショートステイの利用を提示したケース。ケアマネには予想外だったが、実際に採り入れてみると、昼夜逆転気味だった生活にリズムが生まれた。自分の案とAIの案が一致すると自信が出ると話すケアマネもいた。  一方、多くのケアマネが抵抗感を覚えたのは、AIのプラン作成の過程が見えないこと。介護プランを作る場合、ケアマネは身体の状態や細かなニーズを本人や家族から聞き取って、短期・長期の目標を設定。そこから介護サービスの利用プランを作る。対するAIはいきなり、利用するサービスの種別と頻度という「結論」を提示するため「なぜそのプランを出してくるのか理由がわからない。それを読み取る力がないと使いづらい」(実験に参加したケアマネ)。  現状でAIが「要介護度の軽減」を目標にしていることにも、異論が出た。「利用者にとっては、残された力を最大限使いながら、その人らしく生活することが最優先なのではないか」(同)  岡本さんはそうした課題を認識しつつ、こう話す。 「使ってもらい意見を出してもらうことで、AIはどんどん賢くなる。今は生まれたてだが1年後には20歳になれる可能性がある。みんなで育ててほしい」 (編集部・石臥薫子) ※AERA 6月4日号
AERA 2018/06/02 11:30
けいれんも容体急変も読み取り 看取りでも威力を発揮する「オンライン診療」 生活も丸ごと見える
けいれんも容体急変も読み取り 看取りでも威力を発揮する「オンライン診療」 生活も丸ごと見える
たろうクリニック院長 内田直樹さん(39)/認知症の専門医として、福岡市とその近郊で在宅医療を提供。2017年、福岡市で実施されたオンライン診療にまつわる実証事業に参加(撮影/江藤大作) 悪性リンパ腫の父を在宅で看取った福岡市在住の家族。訪問診療とオンライン診療を受けていた。現在は母がオンライン診療を受けている(撮影/江藤大作) にのさかクリニック院長 二ノ坂保喜さん(67)/1996年に同院を開業し、在宅ホスピスに取り組む。バングラデシュに看護学校を建てる活動に従事。2014年、日本医師会「赤ひげ大賞」受賞(撮影/江藤大作)  離島や僻地で利用されるイメージが強かった「遠隔医療」。最近は、リアルタイムに多くの患者情報を得られる「オンライン診療」として、都市部でも広まりつつある。特殊な痙攣を画面から読み取り、看取りの現場でも威力を発揮。「いつでも対応してもらえる安心感があった」という家族の声も寄せられている。 *  *  *  今年5月にAERA本誌で実施した介護にまつわるアンケートでは、「オンライン診療を介護する家族に受けさせたい」と回答した人が53人(46%)。54歳の女性は、「慢性肺気腫だった母は病院に連れていくだけで体力を消耗。連れていくこちらも体力を消耗した。オンラインで適切な診断、投薬がされるなら、選択したかった」。  一方で、「オンライン診療より先に、地域医療のシステムを円滑にして、誰もがどの医師にかかっても、安心した受診ができるようにしてほしい」(62、女性)との意見もあった。  新しいテクノロジーには、期待と不安とが入り交じる。  福岡市在住の女性(56)の場合、スマホの操作にも慣れておらず、「当初は恐る恐る」オンライン診療に挑戦したという。女性は両親の「ダブル介護」と仕事の両立に悩んでいた。  両親は、長崎県佐世保市の高台の家で暮らしていたが、ともに認知症が進行。女性は長年遠距離介護で乗り切っていたが、老々・認認介護では持たないと判断。2年前から福岡市の自宅に両親を引き取った。  父は、アルツハイマー型認知症に加えて、悪性リンパ腫を発症。総合病院の血液内科の外来へ。両親の認知症は、たろうクリニック(福岡市)の物忘れ外来へ。通院の負担は少なくなかった。たろうクリニック院長の内田直樹医師(39)に相談すると、「オンライン診療の実証事業が始まる。通院とオンライン診療を組み合わせて来院間隔を空けますか?」と提案された。  折しもオンライン診療の導入を検討し始めた昨年7月、父親の悪性リンパ腫が悪化。余命は1~2カ月と伝えられた。当時、父は86歳と高齢で、母と相談の上、抗がん剤治療は受けないと決めた。女性は内田医師に「父を自宅で看取りたい」と伝えた。そこで、7月末から内田医師が定期的に訪問診療を行いながら、その合間をオンライン診療で補う方針が固まった。  電話と違い映像で様子がわかるのがオンライン診療のメリット。訪問診療時に手のひら大だった悪性リンパ腫の発疹が徐々に大きくなり、ただれている様子が画面上から伝わった。2回目のオンライン診療の際、内田医師は軟膏の種類を変えた。  看取りが近くなると、状態が刻々と変化する。夜中に痙攣が始まった父親の様子を女性が電話で伝えると、夜間の当直医が代表的な抗痙攣薬を処方。翌日、内田医師が様子を見るため、急遽オンライン診療を行ったところ、ピクッ、ピクッと微妙に間隔の空く、少し特殊な痙攣であることがわかった。内田医師は看取りが近いことを女性に伝えた。実際、父はその当日に息を引き取った。訪問診療が始まってから1カ月後の8月末のことだった。  お別れの際、家族みんなで父を取り囲み、体を拭いたり、手や足を洗ってあげたり。在宅ならではの「家族の時間」を過ごして父を見送れたと、女性は涙をにじませながら振り返った。 「どの段階で先生に診てもらったらいいかの判断は難しい。何かあるたびに来てもらうのは気がひけますし。だから、定期的な訪問以外にも、オンラインでいつでも対応してもらえたのは、安心感がありました」  内田医師は今回、医療者の負担を減らしながらも、オンラインによる診療を挟んで診療の頻度を増やし、医療の質を上げられたという。 「在宅の看取りにおいて、訪問診療とオンライン診療の組み合わせが有効だと確信しました」  にのさかクリニック(福岡市)院長の二ノ坂保喜医師(67)は、 「在宅医療の場でこそ、オンライン診療が役に立つと思った」  と話す。ツールを使って手を抜くのではなく、むしろ、より質を高められるような在宅医療をイメージしているという。  二ノ坂医師は在宅ホスピスの草分けだ。これまで千人近くを在宅で看取ってきた。訪問診療と同様、オンライン診療でも、そのまなざしは患者を取り巻く暮らしまるごとに向けられている。  二ノ坂医師のパソコンには、居間のソファに座る60代の男性と家族の姿が映し出された。がんの痛みが増し、体力も衰えて、4月末からは通院がかなわなくなった。訪問診療の合間にオンライン診療を活用していた。 二ノ坂「どうですか、◯◯さん。ちょっとキツいかな?」 男性(患者)「キツいです」 男性の妻「1時間半前にオキノーム(痛みを緩和する医療用麻薬)を飲んだんですが、(痛みの度合いが)10のうち7ぐらいだったのが、6ぐらいにしかならないと本人が言っています」 二ノ坂「では、もう一回飲みましょう。奥さんはどうですか? 奥さんの顔も映してよ」 妻(自分の顔を映しながら)「疲れてあまり眠れないです。そういえば先生、昨日、ベッドと車椅子が届きまして。(車椅子を映しながら)今日はこれを使って2回トイレに行きました」  男性の妻は、点滴台の代用として電気スタンドを工夫して使っている様子も画面に映した。こんなふうに、訪問診療と同様、患者の「生活の場」に触れられるところも、オンライン診療の利点だと二ノ坂医師は言う。  一方で、便利であるがゆえに患者や医師が対面による診療を軽視すれば、異常の発見が遅れるといったリスクも生みかねないと二ノ坂医師は指摘する。 「オンラインに限らずどんな道具でもそうだけど、根本に人と人との信頼関係がないとね。その関係性のベースに乗せる形でツールをうまく使っていくには、何が必要なのか。テクノロジーを使うなら、今後はそうした視点での検証が欠かせないでしょう」 (ノンフィクションライター・古川雅子) ※AERA 2018年6月4日号より抜粋
介護を考える
AERA 2018/06/01 07:00
男性力をチェック! 「俺」の更年期、医師に聞く乗り越え方
男性力をチェック! 「俺」の更年期、医師に聞く乗り越え方
小林一広(こばやし・かずひろ)さん/メンズヘルスクリニック東京院長。精神保健指定医。北里大学医学部卒業。院内に精神神経科、皮膚科、形成外科の専門医らでチームを作り、総合的な頭髪治療を提供。男性更年期専門外来もあり ザ・男性力チェック! こんな症状がある人は要注意!!  男性ホルモンが急減した状態を「LOH(ロー=late-onset hypogonadism)症候群」と呼ぶ。うつ病にもなりやすくなるという。どんな男性にも起こり得る「男性更年期障害」の乗り越え方を聞く。 *  *  *  最近、夜中に何度も目が覚める、気分が落ち込む、セックスをする気も起きない。急にそんな症状が出てきたら、それは「男性更年期障害」かもしれない。 「更年期障害は女性だけでなく、男性にも起こります。女性の場合、更年期障害の症状は閉経の前後に表れます(日本産科婦人科学会によると平均閉経年齢は約50歳)。でも男性の場合、更年期障害の症状が表れる年齢にはかなりの個人差があります。早い人だと30代後半から症状が出る場合も」とメンズヘルスクリニック東京院長の小林一広さん。  女性の更年期障害の主な原因は、女性ホルモンのエストロゲンの低下だが、 「男性の場合、男性ホルモン『テストステロン』の減少が心身にさまざまな不調を引き起こします。テストステロンは『男』という車を走らせるガソリンみたいなもの。積極的に行動する、元気の源のようなものなのです。その分泌量が減ってくれば、当然、車は“ガス欠”になり、走れなくなってしまう。男性ホルモンが急減した状態を『LOH症候群』といいます。症状的にはちょっと『うつ病』と似ています」  何もやる気にならず、思考はどんどんネガティブに。 「40~50代で、会社では上にも下にも気を使わないといけないポジション、家では子育て、住宅ローンに追われてストレス大爆発、というような方にこの症状が出るのが一番多いです」  ストレスを感じるほどテストステロンの分泌量は減るので、放置すれば負のスパイラルにはまることも。 「体に不快な症状を感じたときは男性更年期外来のある病院に早めに相談してみることです。その上でホルモン補充療法等、適切な治療方法を検討してください」  生活習慣の改善によってもテストステロン値は高く保つことができるという。 「まずは良質な睡眠を確保すること。寝る前にぬるめのお風呂にゆっくり浸かると副交感神経が優位になり、熟睡しやすくなります」  そして日々、運動を心がけるようにする。 「運動で筋肉に刺激を与えると、テストステロン値が高くなることが確認されています。運動不足の方はスクワット10回でいいので、毎日行うようにしましょう」  食事は、筋肉の材料となる良質なたんぱく質の摂取に気を使うようにする。 「脂身の少ない、牛赤身肉や鶏肉等がおすすめです。またテストステロンを作る精巣は活性酸素による酸化に弱いので、玉ねぎやにんにくなど抗酸化作用の強い食品も一緒に摂取を」  男性の場合、60代や70代で仕事の場を退いたとき一気にホルモンバランスを崩すこともある。 「そんなときこそ、家族が支えてあげてくださいね。更年期は女性も男性も“お互い様”なのですから」 (赤根千鶴子) ■こんな症状がある人は要注意!!「ザ・男性力チェック!」 <身体的な症状> ○疲れがとれない ○なんとなくだるい ○眠れない ○味覚変調 ○頻尿 <精神的な症状> ○仕事がつらい ○憂鬱になる ○やる気が出ない ○朝起きられない ○何事にも興味が起きない <性的な症状> ○性欲の減退 ○朝立ちの減少 ○性的能力の衰え ○夜間睡眠時勃起の減退 作成・メンズヘルスクリニック東京 ※週刊朝日 2018年6月8日号
週刊朝日 2018/06/01 07:00
中瀬ゆかり「ボツイチに勇気を与えた猪瀬直樹&蜷川有紀、年齢128歳カップルの熱愛」
中瀬ゆかり 中瀬ゆかり
中瀬ゆかり「ボツイチに勇気を与えた猪瀬直樹&蜷川有紀、年齢128歳カップルの熱愛」
中瀬ゆかり(なかせ・ゆかり))/和歌山県出身。「新潮」編集部、「新潮45」編集長等を経て、2011年4月より出版部部長。「5時に夢中!」(TOKYO MX)、「とくダネ!」(フジテレビ)、「垣花正 あなたとハッピー!」(ニッポン放送)などに出演中。編集者として、白洲正子、野坂昭如、北杜夫、林真理子、群ようこなどの人気作家を担当。 彼らのエッセイに「ペコちゃん」「魔性の女A子」などの名前で登場する名物編集長。最愛の伴侶、 作家の白川道が2015年4月に死去。ボツイチに 蜷川有紀&猪瀬直樹の著作『ここから始まる 人生100年時代の男と女』(集英社)  私がちょうど新しい恋を探そうと奮起しはじめた時に猪瀬直樹元都知事と女優で画家の蜷川有紀さんの熱愛発覚記事が週刊誌に出た。私と同じボツイチの猪瀬さんがこんな美女と!と興奮し、記事をむさぼり読んだ。そして直後にある会合でお2人と遭遇したので、すぐさま駆け寄って祝福させていただいたのも、同じボツイチ同士、心から熟年カップルを祝福したかったからだ。先月、二人合わせて128歳という婚約会見も開かれていたが、猪瀬さんは亡くなられた奥様(同志のような素晴らしい伴侶だったと聞いている)と同じ誕生日と血液型を持つ蜷川さんと運命的にめぐり合い、再び熱烈な恋に落ちたということで、これは偶然と呼ぶにはあまりにも不思議な符号。運命の導きを感じたのは想像に難くない。猪瀬さんの熱愛発覚記事は、もう誰も愛せないかも、などと弱っていた私には朗報だった。  そんなある夜、女友達Mから衝撃的なメールが入った。「ナカセさーん、いい話が舞い込んだよ。よかったらお見合いしてみない?」。マジかっ!自慢じゃないが、私は適齢期にもお見合いの話が一件も持ち込まれなかったし、今となっては百戦錬磨の仲人口をフル回転させて薦められようのない物件と成り果てておる。まさかの人生初のリアルお見合い話がボツイチの今、立ち直ろうとしているタイミングで来るなんて!これは運命か!?私は震える指で返信を打った。「スグシリョウオクレ」。  ほどなく送られてきた釣書には「●●大学大学院博士課程卒」「●●大学教授」「●●区在住・持ち家」などの高スペックな単語がずらりと並んでいる。趣味は「散歩」。添付された写真は緊張しているのか、口を一文字に結んだ真面目そうな表情だ。私と同じく50代のその教授はこんな好条件を背負いながら一度も結婚経験がないという。  Mに電話して「ちょっとぉ、相手の方は私が激デブだとかババアとかボツイチだとか知って引かない?」と問うと、「もちろんそんな大事な事実は私も気になって最初に確認しました。でも先方が『体型や年齢や婚歴は全く気にしません。お話の面白い女性がいいです』っていうから、これはイケルと踏んだわけよ!持つべきものは現実的な友でしょ?」得意げに笑うMはさらに畳み掛けて、「長年の付き合いで今更の質問だけど、ナカセさんの男のタイプって、具体的にはどんな?白川さんがあまりに特殊案件すぎたから、推測不能でさ」。  そう言われれば、トウチャンと暮らした18年があまりにも強烈で、一緒にいたい相手の条件など考えたこともなかった。自己スペック点検同様、この千載一遇のチャンスに、改めて好きな男性のタイプや条件があるなら、考えてみようじゃないか。  死んだトウチャンは無頼派作家と言われ、おおらかで男っぽい人だった。ギャンブル依存症でお金にだらしなくて随分泣かされたが、それを補って余りあるほどユーモアセンスが抜群に高くて、頭もよく、一緒にいて毎日が刺激的でとにかく2人して笑いっぱなしだった。私は面食いを自認し失笑を買っているが、それは自他ともに認めるイケメン、という意味ではなく、私の「好きな顔」をしているかどうか。これは説明不可能だが、どうにもこうにも好みの顔というのがあって、それは「好みのブサメン」も含まれる。たとえばトウチャンは子泣き爺顔だけれど、子泣き爺界では間違いなく抜群のイケメンだった(コナザイル)。  本と映画は私の人生の必需品なので、一緒に楽しめる相手じゃないと無理だ。猫好きであってほしい。笑いのツボが一緒で、ワハハと大笑いする人が好き。恥の概念が共有できて、他人にいけずをしない人がいい。清潔感があって気持ちにピュアな部分が残っているのが理想だな。頭のいい人であってほしいが、それは学歴のことではなく、いわゆる「地頭のよさ」。お金……借金まみれにはさすがに懲りたが、自分で自分を食べさせることができる最低限の稼ぎがあれば十分で、仕事は誇りを持ってやっていればなんでもいい。そしてこれは絶対予測不可能だけど、私より長生きしてくれる人。再度先立たれるのは辛すぎる。  私の理想の男性像は、考えてみれば特別な条件は何一つなくすべてささやかな願いのようだが、いくつも重なると結構ハードルが高い。死ぬほど寂しくて、自分自身のスペックもかなり厳しいのに、優しければ誰でもいい、というシンプルなことでもなく、これだけ外せない条件があったことに自分でも驚いた。  そして実は個々の条件云々よりフィーリング。まさに人間は「相性」がすべてであることは、これまでの経験値から知っている。パートナーだけでなく、友人、さらにいえば親きょうだいですら相性が命。パートナーの場合、これに加えて、運と縁とタイミング。これが揃わないと付き合えないのだ。  見合い相手(?)の完璧な釣書を眺めながら、バツイチボツイチ不良物件の私はいったいどんな釣書をお返しすべきなのか……パソコンのキーボードを前に何度も指が止まった (中瀬ゆかり)
中瀬ゆかり
dot. 2018/05/31 16:00
がん再々発の女優・古村比呂さん「闘う気力がなくなった」 がんとともに歩む生き方
がん再々発の女優・古村比呂さん「闘う気力がなくなった」 がんとともに歩む生き方
古村比呂さん(右)と日本対がん協会会長の垣添忠生さん(撮影/写真部・小原雄輝)  がんの治療と仕事を両立しながら、将来の夢を描く女優の古村比呂さん。実は2017年11月に再々発し、18年2月に開かれたがんとの共生を掲げるイベント「ネクストリボン」で公表した。日本対がん協会の垣添忠生会長との対談では、これまでを振り返り、がんサバイバーへのメッセージを語った。 *  *  * 垣添:大勢の前で再々発を公表されたのは、かなり勇気を要したと思います。 古村:ネクストリボンの主催者(朝日新聞社、日本対がん協会)の方に、「再々発しても出演してよろしいですか」と確認すると、「古村さんのような方が出てくださることが、ネクストリボンの志です」という言葉をいただいて。今は自分らしく、仕事もしながらがんと向き合っています。 垣添:とてもいい選択ですね。がん発覚からの経過をお話しいただけますか。 古村:最初に子宮頸がんとわかったのが2012年の1月です。子宮を全摘しました。経過観察となりましたが、去年の3月、定期検診で、再発がわかりました。 垣添:どんなお気持ちでしたか? 古村:ちょうど手術から5年の日で、問題がなければ一区切りのはずでした。自覚症状もなく、乾杯する気持ちでいたので、受け入れられなくて……。感情が浮かばないというか、ストーンと自分の気持ちをシャットアウトする感じでした。 垣添:それをどのようにして受け入れたのですか? 古村:「がんというものは、想像しないことばかり起きるんで、受け入れないと前へ進めないな」と考えるようにしました。放射線治療と抗がん剤治療を1カ月ほど受けて無事寛解して、出たかったドラマ「トットちゃん!」の収録も終えました。 垣添:再々発は、もっとショックだったと思います。 古村:昨年11月、定期検診で再々発が見つかりました。もう開き直るしかない、という気持ち。今年1月から抗がん剤治療を始めました。 垣添:日本対がん協会の医師による無料電話相談も利用していただいたとか。 古村:はい。ちょっと違う角度から自分の治療や病状を見たかったんです。相談した先生に「100人に1人ぐらいの珍しい症状です。私があなたの主治医でも、同じ治療を選択します」と穏やかにおっしゃっていただき、ホッとしました。 垣添:人生は「禍福はあざなえる縄のごとし」ですから、今度は100人に1人の幸運に当たる可能性もありますよ。ご家族の支えも大きいのではないですか? 古村:私はシングルマザーで、20歳を超えた息子が3人います。弱音を吐くと、「大丈夫だよ」「そんな日もあるよ」と励ましてくれたりもしますが、「しんどいよ」と言うと、「あ、そう」みたいに重く受け止めないこともあります。 垣添:男の子だから、軽く突っぱねるふりをするのでしょう。 古村:でも、それでリラックスできるんですよね。 垣添:やはりご家族がいないと、厳しい体験を乗り越えるのは難しい? 古村:私の場合は、そうですね。いろいろとこぼしています。 垣添:生活ではどんな工夫を? 古村:食事は野菜中心にして、できるだけ家で食べています。あと、疲れを残さないように、睡眠時間を確保しています。 垣添:がんとの向き合い方は変わってきましたか? 古村:以前は「がん細胞と闘うぞ」という意識が強かったのですが、3回目になると、闘う気力がなくなりました。ある日、「がん細胞さん、もう闘うのはやめて、お互いに本来の姿に戻りましょうね。ともに歩んでいきましょう」と語ったんです。すると肩の力が抜けて、リラックスできました。しんどいときには「がん細胞からのメッセージかな」と思って無理をしないようになりました。 垣添:がんと向き合っている方にとって、非常に重要なメッセージですね。 古村:はい。長期戦で、今日はよくても明日はわからない。日によって調子が違うので、がんばりすぎるのはちょっとつらいかなあ、と思います。サバイバーの方には、「自分の体と対話して、力を抜けるところを見つけて、今を大切に生きましょう」と語りかけたいですね。 垣添:大事な心構えであり、知恵です。 古村:心の持ちようで、ずいぶん違うなと思います。 垣添:落ち込んだときは、どのように気持ちを切り替えていますか? 古村:とことん思い詰めます。でも、必ず底があるんです。やがておなかがすいて、また気持ちが上がっていきます。 垣添:心の起伏はありますよね。しかし、やまない雨はない、明けない夜はない、です。 古村:無理に気持ちにブレーキをかけないようにしています。あと、治るという希望を持てることは、とても大きいです。 垣添:そのとおりですね。がんは5年生存率が6割を超えました。世の中のがんに対する認識が変わっていけば、がんになっても安心して暮らせる社会の実現につながると思います。 古村:私も最初は「がん=死」と浮かびました。次第に、がんに対する受け止め方は世代によっても違うとわかってきました。「治療をしながら仕事と日常生活を送れる」と伝えていくのは、これからなんじゃないかなと感じています。 垣添:がんは経済問題でもあり、社会問題でもあります。偏見や差別がなくなれば、就労の問題も解決していくでしょう。 古村:治療と仕事を両立している仲間が増えていくと、私も力になります。 垣添:治療が一段落したら、どんなことをやってみたいですか? 古村:私、最初の治療の後遺症でリンパ浮腫(手術でリンパ節を取り除いた場合、腕や脚がむくむ後遺症)になったんです。リンパ浮腫の人たちと交流する「シエスタの会」を立ち上げているので、全国の仲間を訪ね、話を聞いて写真を撮り、写真集にしたいですね。 垣添:仲間を励ますと同時に、古村さん自身も励まされる。すばらしいですね。 古村:もちろん、芝居もいっぱいしたいです。 垣添:どんなお芝居を? 古村:喜劇です。大好きなんです。笑いって、すごく力になる。がんになる前は、ドラマで殺人犯の役ばかりやってて、すごい疲れて(笑)。治療にも笑いが必要だな、って思います。 垣添:そうですね。最近、落語家を招いて、患者さんに笑ってもらう試みをする病院が増えてきました。 古村:いいですね。私も気づけば、がんになって、笑いを忘れていたところがありました。 垣添:悩みに集中しすぎると、笑う余裕をなくしてしまいます。上智大学のアルフォンス・デーケン先生が、「ユーモアとは、にもかかわらず笑うこと」とおっしゃっています。私は、非常につらいときに意識的に笑顔をつくると、心が緩んでくるのを発見しました。 古村:口角上げてね。 垣添:そうそう。無理にでも笑顔をつくると、本当に笑えるようになります。ところで、古村さんのブログはメジロや夕日など自然の写真が多く、すてきですね。 古村:北海道江別市の大原野で育ったので、自然があたりまえだったんです。今も家の前が公園で、野鳥などを見ると落ち着きます。 垣添:なるほど。私は、北海道の山はよく登っています。羅臼岳、石狩岳、雌阿寒雄阿寒、大雪山系……。 古村:すごいですねー。 垣添:今、「がんサバイバーを支援しよう」というのぼりを持って、福岡から札幌まで、断続的に歩いているんです。全部で3500キロ。ゴールの札幌では、胃がんのサバイバーでもある高橋はるみ・北海道知事にもお目にかかるんですよ。一緒に歩きませんか? 古村:私も行ってみたいです。 ◯こむら・ひろ 1965年、北海道生まれ。85年にデビュー。87年、NHK朝の連続テレビ小説「チョッちゃん」に主演。その後もドラマ、映画、舞台、CMなどで活躍している。著書に『がんを身籠って』(主婦と生活社) ◯かきぞえ・ただお 1941年、大阪府生まれ。東京大学医学部卒。国立がんセンター中央病院長、同総長などを経て、公益財団法人「日本対がん協会」会長。福岡から北海道まで全国3500キロの「がんサバイバー支援ウォーク」を展開中 ※対談の様子(動画)は、日本対がん協会「がんサバイバー・クラブ」で視聴できます。 (構成/中村智志)
病気
週刊朝日 2018/05/31 07:00
旅するスーパーグレートマザー、与謝野晶子
旅するスーパーグレートマザー、与謝野晶子
29日は晶子忌。与謝野晶子(1878‐1942)は、奔放な情熱を込めた『みだれ髪』や、日露戦争従軍中の弟を思う長詩「君死にたまふことなかれ」で反響を呼んだ歌人として、よく知られています。一方で晶子は、11人の子に立派な教育を授けて育て上げ、一家の大黒柱の役割も果たした、スーパーグレートマザーでもありました。今回は旅で詠まれた歌碑も辿りながら、エネルギッシュな晶子の、晩年の温泉旅を振り返ります。浜松市 方広寺〔奥山のしろがねの気が堂塔をあまねくとざす朝ぼらけかな〕 晶子は女性史における明星でもあった 歌人、詩人、小説家、古典の現代語訳者、教育者、評論家(思想家)、随筆家。そして妻、母親と、多彩な顔を晶子は持っていました。はじまりは、夫・与謝野鉄幹が1900(明治33)年に創刊した「明星」。晶子の『みだれ髪』の官能的な歌風が大きなトリガーとなり、同年代の浪漫主義運動の一大勢力となります。まだまだ、封建的な空気の遺る時代。晶子は、鉄幹の唱えた近代短歌革新理念に導かれ、人間性と自由恋愛を肯定した短歌を詠み、歌にも女性像にも、新しい時代の到来を示したのです。 『みだれ髪』から有名な三首をご紹介します。 ・その子二十櫛にながるる黒髪のおごりの春のうつくしきかな ・清水へ祇園をよぎる桜月夜こよひ逢ふ人みなうつくしき ・やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君薩摩川内市 市比野温泉郷〔水鳴れば谷かと思ひ遠き灯の見ゆれば原と思ふ湯場の夜〕  晶子が一家の大黒柱に しかし日露戦争以降、資本主義経済の発展とともに生じてきた深刻な社会問題に浪漫主義は応えることができず、自然主義が台頭すると、鉄幹は歌壇の圏外に押しやられます。一家の経済の中心となったのは晶子でした。夫妻の弟子であった石川啄木は、『啄木日記』の中で、活動の舞台となった詩歌結社・新詩社や与謝野家の生活費は、「晶子女史の筆一本で支えられている」と明かしています。晶子が新聞や雑誌の歌の選を行い、原稿を書き続けて支えたのです。晶子を「親身の姉のような気がする」と語った啄木はしかし、1912(明治45)年、渡欧した鉄幹に呼ばれて晶子がパリに旅立ったのちに、死去。 晶子が、啄木を追悼した歌です。 ・しら玉は黒き袋にかくれたり吾が啄木はあらずこの世に津軽海峡 立待岬〔啄木の草稿岡田先生の顔も忘れじはこだてのこと〕 パリへ、そして全国の温泉旅へ 鉄幹の渡欧費用を用立てた晶子は、7人の子の母であったにも関わらず、自らの費用や日本に残す子供の世話の目処を立たせ、パリ行きを果たします。まさに晶子の一生は、不可能を可能にするエネルギーに満ちたものだと言えるでしょう。そしてこの旅は、鉄幹との関係やそれぞれの創作に、新鮮な風をもたらします。ヨーロッパの「個人主義」を体感した晶子は、帰国後も次々に子供に恵まれ、作歌活動や評論活動にますます邁進し、日本中を旅して歩くのです。 すでに大正期から夫妻の旅行は頻繁にありましたが、子供たちが大きくなり独立し始めた昭和に入ると、頻度が急増します。特に昭和6年は、旅行回数が最多回数で13回、北海道から九州までの各地を訪問しています。弟子や土地の人に招待される巡業的なこれらの旅行を、夫妻は「旅かせぎ」と称し、子供の学費や新詩社の資金調達にあてました。東京での夫妻の歌会はサロン化し、のちにも名を馳せた小説家や文壇人、学者が出入りしていました。地方でも同じように、同じ空間で文化的な雰囲気を味わいたいファンが、夫妻を待ち焦がれていたのでしょう。 63歳に亡くなる前年まで、生涯の間に百カ所を超える温泉を訪れた晶子。箱根や湯河原など、毎年のように訪れた地もあり、各地で歌碑も建てられています。講演会・懇親会場あるいは、作歌指導や揮毫の場となった湯宿では、仕事でも多少なりとも、心身が癒されたことでしょう。「旅行をすると歌が出来る」とも、子供たちに語ったそうです。複合効果のある旅を遂行できる健康に恵まれていたのでしょうが、のちに子息が語ったように「苦労の連続だったが、よく頑張った」ことと予測されます。伊香保温泉 石段街 晶子の「伊香保の街」の詩が刻まれている 元祖旅するブロガー?女性の自立を示したグレートマザー 晶子は、「女性が経済的に独立できれば、男女平等は成し遂げられる」と一貫して唱えていました。60歳となった1938(昭和13)年には、ライフワーク『新新訳源氏物語』全6巻の刊行も始まります。 全国を旅して歩く合間にも、膨大な歌や、世間への評論を発表し続けた晶子。一連の活動を、移動サロンおよびコミュニティー活動と考えると、現代の旅するブロガーにも、通じるところがありそうです。この時代に子沢山の一家を養い、夫の活動の場も積極的に開拓した晶子は、まさにスーパー・グレートマザー。若い頃の奔放さのみならず、熟年後の実り多きライフスタイルのお手本としても、もう一度作品を読み直したいですね。 最後に、そんな晶子の余韻が漂う俳句をお届けします。 ・音高く日傘ひらきぬ晶子の忌 〈渡辺千枝子〉 ・大仏の若葉さやけし晶子の忌 〈野口里井〉 ・晶子忌や針をつきさす赤い布 〈藤岡筑郎〉 【句の引用と参考文献】 『新日本大歳時記 カラー版 夏』(講談社) 『カラー図説 日本大歳時記 夏』(講談社) 平子恭子 (著) 『与謝野晶子 (年表作家読本) 』(河出書房新社) 与謝野 光 (著) 『晶子と寛の思い出 』(思文閣出版) 杉山由美子 (著) 『与謝野晶子 温泉と歌の旅』(小学館)高山村山田温泉高井橋 〔鳳凰が山をお於(お)へるおくしなの山田の渓(たに)の秋に逢ふかな〕
tenki.jp 2018/05/29 00:00
「ご褒美、もらえるよね?」夫の強すぎる“欲求”に辟易する妻
「ご褒美、もらえるよね?」夫の強すぎる“欲求”に辟易する妻
(※写真はイメージ) 子づくりのための性行為での悩み(AERA 2018年5月28日号より)  セックスの価値観の違いは、夫婦間のバランスを大きく崩す原因となりうる。妊娠、出産を経て、そのバランスが崩れてしまう夫婦も少なくない。  性欲のバランスに折り合いがつかなかったばかりに、パートナーとの子づくりやセックスを諦めてしまったという人もいる。29歳の時、第1子妊娠を機に結婚したユウコさん(36)。夫は交際中からセックスに淡泊で、勇気を出して誘っても「今日は疲れている」「眠いから」。出産後は、夫のタイミングで年に2、3回あるかないかだ。  人づきあいがうまく、家事にも協力的な「いい夫」。多少淡泊なのは、目をつぶれると思っていた。ただ、次第に、自分の中にモヤモヤがたまっていった。  決定打となったのは、2人目の子づくりだ。子づくり自体には賛成だった夫。ユウコさんは排卵検査薬を使いタイミングを伝えた。でも、いざその日になると、夫は早く帰宅はするものの、何もせずに寝てしまうことも。そんな日が続き、「無駄だな」と検査をやめてしまった。  以来、ユウコさんから誘うことはなくなった。夫とは会話も続くし、旅行も一緒に行く。ただ、手をつなぐこともない。「仲のいいお友達」だ。  ユウコさんは、半年ほど前から同じく妻とのセックスレスに悩む同僚と不倫関係にある。月に1度、仕事終わりに食事をしてホテルに行く。恋人というより、何でも相談できる「信頼できる仕事のパートナー」だという。家庭を壊すことは互いに望んでいない。むしろ不倫が始まってから夫に対する不満は減った。「罪悪感は?」と聞くと、「ないですね」ときっぱり。 「私にとって、セックスで得られる安心感は人生の大事な部分なんです。それがかなう場所を、なくしたくない」(ユウコさん)  一方、アヤさん(42)は夫の強すぎる性欲と、出産を機に変わってしまった夫婦の関係性に悩んでいる。  深夜に夫が寝室に近づいてくる気配を感じると、アヤさんはさっと布団をかぶり、寝たふりをする。隙あらばセックスに誘う夫を避けるためだ。仕事と育児で疲れている、と断ると「勇気を出したのに」と激しく凹むか、「なんで?」と怒りだす。  出産後6年間、何度となく繰り返されるいさかいに、アヤさんは心底疲れ切っていた。 いつからこうなったのか。交際中、2人は対等な関係だった。しかし、36歳で長女を出産。慣れない育児に奔走する中、夫は家事も育児もせず、仕事で帰宅も遅かった。当然、ワンオペ状態に。睡眠時間を確保するのに精いっぱいで「性欲はどこかに飛んでいった」。夫は第2子を望んでいるが、アヤさんは「とても考えられない」という。 「家事も、セックスも……すべて私が『与える側』になってしまいました。夫にとってセックスは、自販機に100円入れたらジュースが出てくるみたいに『結婚したら当然与えられるもの』という認識なんです」  ある時、仕事の関係で夫に子どもの面倒を頼んだ。帰宅すると、夫は目をらんらんと光らせ、 「今日は頑張ったから、いいよね? ご褒美、もらえるよね?」  セックスは「ご褒美で与えるもの」か? 疑問に思いつつ、時に夫に押し切られることも。 「完全に『奉仕の心』。マザー・テレサのような気分」(アヤさん) 「セックス」も「子ども」も、人によって価値観は異なるが、人生の重要な要素になりがちだ。だからこそがんじがらめになる。解決の糸口はないものか。  妊活サポートアプリ「コウノトリ」は、生理日を入力すると、オギノ式で妊娠しやすい排卵前の日が自動的に計算され、夫婦間で共有できるというもの。直接「この日だよ」と伝えるのに抵抗のある女性から好評だ。  開発者のアマネファクトリーの谷本純さん(43)は、結婚後子どもを授かるまでに8年ほどかかった。病院で調べても、夫婦共に異常なし。タイミング法を試したが、「今回はいけるかも」と期待しては「またダメか」と肩を落とす日々が数年続いた。 「今周期もダメ、今周期もダメというのが何年も続くと、だんだんタイミングを取ること自体が怖くなってしまい。排卵日を伝えることで、夫が嫌な思いをしていないかも心配でした」  年齢的にも焦りがあった。谷本さんが妊活をしていたのは30代前半から半ば。年齢を重ねれば、それだけ妊娠できる可能性は低くなり、障害のある子どもが生まれるといったリスクも高まる。  高度不妊治療にも挑んだが「何かが違う」という違和感がぬぐえず、4年ほどで治療をやめた。ところが数年後、自然妊娠が発覚。治療のストレスから解放されたことや、自分の身体と向き合い、生理や排卵のタイミングを意識した生活を送れたことが大きかったという。 「一生懸命仕事をしていると、どうしても結婚も妊娠を考えるタイミングも遅くなる。同じ思いで苦しむ人を少しでもなくしたい、というのが開発のきっかけでした」(谷本さん) 類似アプリの中には基礎体温などと連動させ精度の高い予測ができるものも。しかし、コウノトリはあえてシンプルにした。 「あくまで夫婦のコミュニケーションの手助けをしたい、という思いなんです」(谷本さん)  前出のアヤさんも、コミュニケーションの形を変えることで、夫婦関係に光明が差し始めている。夫が「5分だけでいい」と妥協し始めたのだ。キスやハグをしたり、夫のマスターベーションを手伝ったり。5分経つと夫は満足して自室に戻っていく。  最近アヤさんは、ネットの掲示板で、こんな言葉を見つけた。 「セックスに若いころのような盛り上がりを期待するのは無理。自分の中で50%くらいの盛り上がりで良しとすべき」 「それくらいでいいのかな、と思い始めています」(アヤさん) (文中カタカナ名は仮名)(編集部・市岡ひかり) ※AERA 2018年5月28日号より抜粋
AERA 2018/05/23 16:00
証券の街から金融の街へ 生まれ変わる「兜町」の過去と現在
証券の街から金融の街へ 生まれ変わる「兜町」の過去と現在
1931年竣工の旧東京証券取引所。奥が三角形状の市場館(取引所)で、手前がドーム状の本館(業務棟)。88年に現在の建物に改築された(写真:東京証券取引所提供) 東京証券取引所30年史(AERA 2018年5月21日号より) 1960年代の兜町。バブル期にかけて、100社以上の証券会社がひしめき合う街へと発展したが、現在、兜町に居を構える証券会社は20社程度に減少している (c)朝日新聞社 現在の東京証券取引所 (c)朝日新聞社  日本最大の金融街、兜町が様変わりしつつある。かつては人間臭さに溢れ返っていたが、切った張ったの証券マンの姿は今は少ない。「人」から「機械」へ──。生まれ変わる街に生きる人々をジャーナリスト・田茂井治氏が追った。 *  *  *  3月某日午前9時。日本経済のランドマークとも言える建造物の前に、ベビーカーを押しながら子どもをあやす女性の姿があった。 「こんな時代が来るとは思わなかった」  いくつもの証券会社を渡り歩き、今は投資情報の配信会社に勤めるAさん(57)はその光景を眺めながら漏らした。  東京・日本橋兜町──日本橋川と隅田川、1865年に埋め立てられた楓川に囲まれた地形から、「シマ」とも呼ばれた日本最大の金融街が様変わりしている。「かつてはどこもかしこもタバコの匂いがした」(日本取引所グループ広報・IR部長の三輪光雄氏)が、今はOL風の女性や子連れの主婦、大きなバックパックを背負った外国人旅行者も行き交う。切った張ったの鉄火場に身を投じ、目をギラつかせた証券マンの姿はむしろ少ない。 「昔からある明かりは少しずつ消えていってウチもどこまで持つか。でも、新しい明かりも灯りつつあるのよね」  1951年、バラック造りの甘味処として茅場町にオープンし、この街とともに歩んできた純喫茶「SUN茶房」の中台毎子(つねこ)さんは話す。  東京証券取引所の“家主”として知られる平和不動産は、「投資と成長が生まれる街づくり」をテーマに兜町・茅場町一帯の再開発を進める。2014年からの10年間を“1stステージ”と位置づけ、東証周辺の土地を次々と購入。兜町と茅場町の間を走る永代通り沿いの旧山種ビルがあった一角は20年度までに地上15階・地下2階の大型商業ビルへと生まれ変わる予定だ。 「多くの証券会社はこの街を去ってしまいましたが、国内外問わず資産運用に携わる投資顧問会社やファンド、フィンテック系ベンチャーなどを誘致して、証券の街から金融の街へと変えていきたい」(平和不動産開発企画部次長・疋田哲也氏) ●背が高く、声が大きい、場立ちがシマを闊歩  そんな再開発に対する期待は高い。“兜町の重鎮”として知られる十字屋ホールディングスの安陽太郎社長(77)は「あと5年もしたら日本橋の表通りのような綺麗なオフィスが立ち並び、世界の機関投資家が兜町に出張所を構えるようになるかもしれない」と話す。  だが、シマの住人たちの言葉には哀愁も滲む。兜町は世界経済のうねりに翻弄され続けてきたからだ。  前出のAさんはバブルが弾けるちょうど10年前の79年に高卒で、旧日本長期信用銀行系の第一証券(現三菱UFJモルガン・スタンレー証券)に入社した。配属は「市場部」。いわゆる“場立ち”としデビューを飾ったのだ。 「背が高くて声が大きかった、というだけ。当時から180センチ以上あったので後ろからでも声を張り上げれば注文が通りやすかった」(Aさん)  当時の日本経済はすべて“人”が動かしていた。場立ちはその最前線にいた猛者たち。投資家から証券会社に入った注文は、取引所に常駐する各証券会社の担当者に伝達され、その注文伝票が場立ちに手渡された。場立ちはその伝票を片手に立会場内を奔走。売買の仲立ちを専門に行う「実栄証券」の担当者に、「別子(住友金属鉱山)成り行き5万売り!」と叫び、「1円で2万、2円で3万買った!」などと返答があれば売買が成立。直近の株価が851円だとすれば851円で2万株、852円で3万株の商いが成立した、という意味だ。 「ただ、人間だもの。ミスがしょっちゅう起こるわけ。そのたびに『カクイチ!』って呼び出しが入る。第一証券の社章が四角の中に横棒一本だったから。成り行きの絶対通さないといけない注文が通ってなかった場合は、実栄の担当者に頼み込んで東証に常駐していたディーラーに繋いでもらうんです。そのディーラーに頭を下げて、無理やり新規の注文を作ってもらっていた」  すべてのやり取りが対人間。人間関係を築くためにAさんは毎晩のように大手証券会社や実栄証券の担当者と飲みの席や麻雀を共にしたという。当時の東証には紺のブレザーを着こんだ場立ちを含めて約3千人もの人間が寄り集まっていた。その中で身を立てるべく、泥臭い関係を築いていったのだ。兜町は金融の最前線というイメージとは程遠い、人間臭さに溢れ返っていた。 「ジンクスと縁起を担ぐ街。ラッキーなことに魂をかける人ばかりでした」  東証金融リテラシーサポート部の千田康匡氏はこう前置きしながら、取引所の建設時のエピソードを明かす。 「1927年に横河民輔という建築家の設計で旧市場館(現本館)が竣工したのですが、“いい風が吹くように”と四方八方に扉が設置されたので、今の東証にもいくつもの扉があるんです。一方で、市場館の中の立会場はもともと3階建てにする予定だったのですが、証券会社から『バカ言うな。青天井にしろ』と猛反発を受けて、吹き抜け構造で天窓が設置されました」  東証の“顔”といえば左右を指す二つの矢印とともに「TOKYO STOCK EXCHANGE」のパネルがかけられた東口だが、この出入り口は“ここぞ”という日に、場立ちたちが行き交っていたという。 「辰巳の方角(南東)にあったことから、“立つ身”から転じて縁起のいい方角とされたのです。97年に自主廃業した山一證券は東証の南口からすぐのところにありましたが、勝負の日は南口から入らずに、わざわざ東口から場立ちが入場したようです」(千田氏)  縁起担ぎは兜町の食文化にも見られた。うなぎは“うなぎのぼり”として好んで食べられた。1949年創業の老舗うなぎ屋として証券マンに親しまれてきた「松よし」の2代目店主・江本良雄さんもこう当時を振り返る。 「80年代は前場が終わった11時にはもう行列ができていた。証券マンはせっかちでしょ。席につくかつかないかぐらいでうなぎが出てこないとダメなんだよ。昼休み後の13時半頃になると、もう夜の出前の注文が入ってた」 ●符丁を使いこなして接待した証券外務員たち  松よしのなかでも実に泥臭い人間模様が垣間見えたという。 「うちのうな重は一番安いのが2千円で、高いのが4500円。私らはその注文を符丁で告げるんです。『2』を示す符丁は『リ』だから、2千円のものは“リマル”。4500円のものは『4=月』で『5=丁』だから“ツキチョウ”。証券の外務員の人はそれを覚えて、あまりお金のないお客さんを接待するときは『リマル二つ』とか注文するの。連れてこられた人はどのうな重を注文したのかわからないでしょ。でも、私らは『上顧客じゃないんだな』ってわかるわけ(笑)」(江本さん)  証券マンたちの姿が徐々に減り始めたのは80年代半ばのこと。82年に国内で初めて株式売買システムが稼働。33銘柄に対して導入されたのを契機に、システム化が加速。まず場立ちが排除された。前出・日本取引所グループの三輪氏が入社する2年前の88年には150ほどの立会場銘柄を残して全銘柄に対して売買システムが導入された。 「まだ、バブル崩壊の実感が乏しい時期でしたので、活気はものすごかった。そのなかで我々の仕事は正常に商いが成立しているか監視すること。売買が錯綜した場合には、笛を吹いて一時的に売買を止めるのが私の役目の一つでした。ところが力ない笛を吹くと立会場内にブーイングがこだまする。逆に相場が上り調子のときに綺麗な笛を吹くと拍手が起きる。今でも忘れられません。ソニーが9100円をつけたときの笛を吹いたのが私だった。当時の課長に『いい笛だったよ』って褒められたんです(笑)」(三輪氏)  だが、そのころを境に兜町を活気づけていた場立ちたちはさらに姿を消していくことに。90年11月に「立会場事務合理化システム」が導入されて立会場銘柄が縮小。99年に完全に立会場と場立ち制度が廃止されたのだ。  ちょうどIT化の波が押し寄せてきた時代だ。同年には株式売買委託手数料を完全自由化。手数料の安いネット専業証券が脚光を浴び始めた。人から機械へ。その流れにはもはや抗いようもなかった。元立花証券の名物アナリストで今も活躍する平野憲一氏(70)も次のように話す。 「活気のなくなった兜町を08年にリーマン・ショックが直撃した。銘柄情報などを配信する調査情報部を縮小したり、廃止したりする証券会社も現れた。アナリストはお金を稼がない、と」 ●アルゴ取引でディーラーも兜町から姿を消す  場立ち、アナリストの次はディーラーだった。10年1月、東証が「アローヘッド」を導入。海外機関投資家の間で“アルゴリズム取引”と呼ばれる高速取引が浸透するなか、東証がこれに対応。1千分の1秒単位での売買執行が可能になったことで、投資判断まで機械に委ねられることとなったのだ。 「高速システムの前では人の力の限界が見えた。かつてのように半ば人為的に大相場をつくり出すなんてことはできなくなった。これはもうダメだ、ヤメだと判断した」  前出の安氏は12年に十字屋証券の廃業を決断した理由をこのように回想する。戦前から続く中小証券の顔役が事実上、“証券業”から足を洗った瞬間だった。同じ年に大正11年創業の老舗証券会社であった赤木屋証券も廃業。赤木屋ホールディングスに社名を変え、現在はコーヒー豆の卸業を営んでいる。背景には東証の株式会社化もあった。01年まで証券会社による会員組織として運営されていた東証は、「株式会社東京証券取引所」へ移行した後、13年に大阪証券取引所を吸収合併。証券会社が保有していた“会員権”は日本取引所グループの株券へと姿を変えたことで、それを売って廃業していく中小証券会社が相次いだのだ。 「最盛期には100社を超える証券会社が兜町にひしめき合っていましたが、今では20社弱に減っています」(前出の平和不動産・疋田氏)  だが今、平和不動産が茅場町に所有するビルでは、新たな金融の芽が花開こうとしている。 「金融ベンチャーや独立系の投資顧問会社が集積してくると着実に茅場町・兜町の街並みは変わる。うちもビジネスチャンスが増えると感じています」  昨年7月に麹町から茅場町に引っ越してきたクラウドファンディング事業を手がけるクラウドクレジットの杉山智行社長(35)はこう話す。同じフロアにはロボアドバイザー事業を展開するロボット投信も入居。フィンテック協会などが拠点を置くインキュベーションオフィスもある。そのエネルギーはかつての場立ちたちに勝るとも劣らない。  ベビーカーを押す母親のすぐそばには、独り立ちを始めたベンチャーたちの息遣いが感じられるだろう。(ジャーナリスト・田茂井治) ※AERA 2018年5月21日号
AERA 2018/05/21 16:00
練馬区長選に挑戦した25歳フリーライター SNSで叩かれても説く「政治のすゝめ」
練馬区長選に挑戦した25歳フリーライター SNSで叩かれても説く「政治のすゝめ」
練馬区長選挙に挑戦した田中将介(写真/筆者提供) 演説中に声を掛けられ…(写真/筆者提供) 選挙を共に戦った仲間たち(写真/筆者提供)  政治の基本といわれる地盤、看板、カバン――。そのすべてがない田中将介という25歳のフリーライター―がこの4月、練馬区長選挙(4月15日投開票)に挑戦した。  精魂尽き果てるまで戦った結果、19782票を集めたが、圧勝したのはやはり現職。11%の得票率だったので供託金は返還されたものの、当選には遠く叶わなかった。  そんな彼の選挙戦に密着したフジテレビ「ザ・ノンフィクション」(4月29日)が放送されると、大きな反響を呼んだ。「政治をなめるな」「一生出馬するな」……。励ましの言葉もあったが、SNSや個人メッセージなどでは批判が圧倒的だった。だが、後悔は微塵もないという。そんな田中将介が綴る「政治のすゝめ」とは? *  *  *  選挙が終わった2週間後の日曜日午後―。僕の選挙に密着した「ザ・ノンフィクション」がオンエアされ、テレビをスタッフの皆で囲むように見ていたが、空気がだんだんと重くなるのが手に取るようにわかった。一緒に闘ったスタッフの1人は夜、電話越しで泣いていた。こうした反響は僕自身も初めての経験だった。しばらくの間、寄せられた批判が夢にも出てきた。夜は眠れず、目覚めは悪く、ぐったりとしてしまう。誰かと話していても言葉は出ず、ため息ばかりが出た。それだけメディアの影響力は大きかった。と同時に、一部の情報だけを信じている人たちが多いことも改めて実感した。 SNSで反論したい気持ちが溢れ出てくるけれど、僕の意志とは違う。批判が事実と異なっていたとしても、ぐっとこらえるしかなかった。そんな様子を見て、知人は僕にこう言った。 「文句を言う前に『お前は本当に投票にいったのか』って言いたい。俺は必死になって頑張る人間を応援するよ」  まず、投票に行き、政治に参加する。これはとても大切なことだと実感した。 ■人生は時にブレーキも必要か? 「なんで区議選挙ではなく区長選挙なの?」  よく聞かれるのがこの手の質問だ。 「国の規模ではできないことを地方自治で実現したい」「世の中を早く変革できる」「現練馬区長が72歳。対抗馬もいない。一騎打ちならば勝算がある」  いくらでも理由は出てくる。けれど、僕の心の奥底にあったのは「社会の閉塞感をどうにかしたい」という切なる願いだった。  膨大な書類の作成、手続き、政策づくり、ポスター・ビラの作成。取り組み始めたのは告示1ヶ月前。  多くの知恵が必要だったため、知り合いに人を紹介してもらった。しかし、挨拶に行く度、「手段が間違っている」「最初は区議からだろ」「田中君、人生、時にはブレーキも必要だよ」とお叱りを受けた。身体が起き上がらなくなる日もあった。  「区議なら公認を出すから区長選は現実的にやめておけ」という話もあった。  それでも、これまでの敷かれたレールに沿った現実的な戦略では、社会は何も変わらないんじゃないかという思いが勝った。  誰もやったことのない25歳での首長選挙への挑戦は今後、何か社会に大きな意味をもたらせると自分に言い聞かせた。  幼い頃から野球一筋。高校卒業と同時に起きた東日本大震災をきっかけに、途上国や社会問題に興味を持ち、国際NGOでのインターンシップや、海外ボランティアに励んだ。もっと真実に近づきたいとメディアに興味を持ち、就職活動ではマスコミを志望するものの失敗。他業種の会社は受けず、そのままフリーのライターとなった。しかし、悲壮感はなかった。「絶対に自立する」と覚悟をもって大学を卒業した。  しかし、その想いとは裏腹に、実績も経験もない僕に仕事があるはずはなかった。パックご飯と納豆の毎日。収入が月1000円以下のときもあった。貯金を切り崩し、不安で眠れない毎日、気がつけば毎朝5時に目がさめる。 ■選挙は300万円あれば、出れます  「世の中に何も価値を生み出していない」と自己嫌悪に陥った。希望と絶望の淵にいた半年間を経て、自分の名前で仕事がもらえるようになりつつあった。名の通った媒体に初めて原稿が掲載されたときは、何度も自分の文章を読み返し、反応を逐一チェックするほど心が躍った。少しは、人の役に立てた気がした。  こうして、駆け出しライターのキャリアが始まった矢先に、入ってきたのが、練馬区長選挙の情報だった。出馬の決断までに時間がかかった。選挙を戦う不安よりも、仕事がない僕を拾い上げてくれた方たちに対し「裏切り」ではないかという申し訳なさが上回っていた。  「応援するよ。いつでも戻っておいで」挨拶回りしたときにかけてくれた言葉を僕は忘れない。  選挙といえば、莫大なお金がかかる。ある政治家に相談に行った際、スバリ本質をつかれた。 「本当に勝つ気でやるなら、最低500万円は必要。出るだけで満足ならば、それなりのお金でいいけれど」  勝ちたい気持ちはもちろんあるが、資金にも限界がある。加えて、刻々と時間は迫っている。選挙の提出書類のサポートに入ってくれた方と話し合った。 「等身大こそお前らしさだ。選挙カーはいらない。メガホンはどうする?」 選挙に使う道具を選別し、「300万円」が選挙に必要な資金になった。  ライターや学生時代のアルバイトで貯めてきた自己資金は200万円。あと100万円が必要だった。知り合いの経営者の顔が浮かぶ。しかし、頭から振り払った。まずは自分の親に借りた上で、さらに必要であれば友人を頼るのが筋だ。  その前にまず、親に選挙に出るという旨を伝えなければ、と意を決して、母親に連絡をした。 「政治の道に進みたいと思っている。明日、夜ご飯のときに話す」  迎えた翌日、話を切り出すのに、時間がかかった。不穏な空気が流れる中、「もうどうにでもなれ」と、話を切り出した。 「区長選挙に出ることにした」  両親は「絶句」。全員の箸がとまる。それでも話していくうちに、なぜ息子がその選択をしたのか理解しているように見えた。しかし、そうではなかった。「もう決めているんでしょ?いくら必要なんだ?」諦めに近い感情だった。  これまでもそうだった。大学を休学するときも、就職しないと決めたときも事後報告だった。こうして、両親は僕の決断を認めてくれた。いや、認めざるを得なかった。父親の一言ははっきりと覚えている。 「俺は選挙に出ることは恥ずかしいことじゃないと思っている」。 ふっと肩の力が楽になった。  僕のスローガンは「好きが結集した彩りのある練馬に」。その下に3つのビジョン、20個の政策を掲げた。「好きこそ物の上手なれ」という言葉があるように、「好き」の力は強い。その力が社会の活力につながれば、社会は大きく前進するのではないかと思っている。そして、もう一つこの言葉にこだわった理由があった。  人の揚げ足をとり、頭ごなしに否定する今の社会が僕は嫌いだった。  SNSでお互いの知識を見せつけあい、無責任に、快楽のために人をののしる、そんな社会が今、はっきりと姿を現していた。  YouTuberなど、これまでの常識では考えられない職業が生まれはじめ、それに熱狂する人々が集まる。  働き方や趣味の幅、深さが変わってきた今の時代、大人の言論空間を見た若者たちは、表に出ることを避け、小さな、そして居心地の良いコミュニティに閉じこもっていく。あらゆる方向に分断されていく現象に、未来への大きな不安を抱かざるをえなかった。僕が掲げたビジョンの一つに、挑戦に前向きな街づくりというものがある。  「このままでは、挑戦する人が減ってしまう」という危機感から「個人の好きなことを誰かに否定されることなく思い切りできる環境をつくりたい」と願うようになった。  失敗を恐れずチャレンジしていく、そしてその挑戦を応援していくことこそが、時代の変化に適応するために必要だ。  僕自身が好きなことに挑戦できたのは、周りの人が手を差し伸べてくれたからだった。お互いの足を引っ張り合う社会ではなく、お互いが優しく背中を押し合う社会。こんな綺麗ごとを本気で実現すると周りに語った。  政治は一部の人のものではない。人に豊かさや幸せをもたらすことのできる、優しくて可能性に満ち溢れたものだと信じていた。  「語るよりもまず実行」「批判よりも改善策を」  友人にもらった言葉が頭に浮かぶ。不思議と区長選挙に出ることの怖さはなくなっていった。  告示日から約10日前の記者会見で、心意気を伝えた。記者から、何度も「戦略はやはりSNSですか?」と問われる。記者にとっては、SNSと言えば若者らしい選挙戦として伝えやすい。 ■若者はSNSというメディアのステレオタイプ  ただ、僕にとって、携帯電話戦略ですか?と問われているのと同じ感覚だった。「SNS戦略というほど私たちはSNSに特別な意識はありません。日常の一部です。友達の携帯番号やメールアドレスは知りません。SNSでしか友達に連絡がとれません」  ネットの活用をわざわざ掲げないのも一つの意図だった。  4月8日、ついに告示日を迎えた。補欠だった野球部時代、バッターボックスにも立てなかった。多くの支えによって、バットを振るスタートラインに立つことができた。失うものは何もない。全てをさらけ出そう。お金も、組織も、知名度もない。けれど、僕にはたくさんの仲間がいる。  完全無所属、無鉄砲と揶揄されながらも僕は出馬に踏み切った。結局、現職と私以外に、2人が出馬を表明、4人での戦いとなった。初日に集まった仲間は、100名を超えた。おそらくポスター貼りはどの陣営よりも早かっただろう。  練馬区のポスター掲示板は、71地域に分けられ、合計584箇所あった。1地域に1人を配置すれば、1人約8枚ずつで貼り終わることができる。不測の事態に備えて、予備の人員も必要だ。ライングループに84名が集結した。 「選挙史上最速でポスター貼りを終わらせるぞ」  これがポスター部隊の合言葉だった。結果、お昼頃には、ほぼ全ての地域で終了の報告がライングループに流れていた。  他にも、区長選挙のみ許されている「ビラ」がある。これは、選挙中、有権者に配布できる。その数、16000枚。しかし、このビラには、選挙管理委員会から配られる「証紙」と呼ばれるシールを貼らなければ、配ってはいけないルールがある。この証紙貼りも選挙3日目には全て貼り終わっていた。  迎えた第一声。初めての演説で、どきどきはしていたが、自分の話せることを話したらいいと言われてから気は楽になっていた。  あとで聞いたところによると、いきなり「具体的な政策は話さない」と言ったので、政治をよく知る人はずっこけたらしい。  練馬区の課題も、具体的な政策も、徹底的に調べ、詳しい人に聞き、自分なりに落とし込んだ。それでも、あえて政策や課題について明言を避けていたのは、どこか僕自身が話している感じがしなかったからだ。個々の問題の現場がどれだけ大変な思いをしているか、ほとんど足を運んだこともないのに、ネット上の知識をひけらかすことは本望ではない気がした。  僕自身のこと、実現したい社会、3つのビジョンを中心に第一声を終えた。しかし、それと同時に、どこかに違和感を抱いていた。 「蚊の鳴くような声で話してるくらいなら、今すぐ出馬をとりやめてこい」とある演説場所で、60代の男性に30分以上お叱りを受けた。何も言い返すことはできなかった。信頼している友人が私に言った。「田中の言葉で語ってないんじゃないかな」  4月なのに吹き荒れる北風。コートを着ていても我慢できない寒さ。食事もろくに喉を通らず、眠れない日々が続いていた。告示までの準備における極度の疲労もあいまって、「僕の気持ちなんて誰もわからない」と喉元まで出かかった言葉を何度も飲み込む。  告示前から毎日、襲い掛かっていた不安とプレッシャーから僕は逃げ出したくて仕方なかった。「こうしたらいいじゃん」という友人たちの優しい言葉を受け止める余裕は、持ち合わせていなかった。それでもわざわざ遠いとこから足を運んで、一緒に戦ってくれている仲間たちの姿が視界に入ってくる。気がつけば、涙があふれてきた。一息ついて、仲間たちに頭を下げた。「あと1時間、よろしくお願いします」  僕も周りのスタッフも、選挙活動で、何をどうしたらいいのかわからない。そんな中で終えた初日の夜のミーティングで、「毎日試行錯誤して、自分たちが正しいと思える戦い方をしていこう」と話した。  これまでの型にあてはまらない戦略を考えた結果、たどりついたのは、シンプルなものだった。外に立ち続け、ビラ16000枚を配り切ること。他の候補者ができない、かつ、若さと仲間を最大限に活かせることだった。  強力な組織票と実績を持つ現職の区長に挑むには、無党派層を最大限囲い込むことが必要だ。そのためには、集まってくれたボランティアの仲間たちの存在が不可欠になる。しかし、候補者が近くにいないと、ボランティアはビラを配ってはいけないという公職選挙法が存在する。僕はビラを配らない時間を含め、朝の6時台から、夜0時近くまで、外に立ち続けることにした。 ■選挙ではオンラインよりどぶ板  もちろん、インターネットやSNSを最大限に使った選挙は徹底して行う。参謀の積極的にサポートによって、これもまた、他候補にはない圧倒的な発信力だった。一方で、僕は正直に仲間にこう伝えていた。 「オンラインの力は信じていない」  ネットでとれる票は限られているからだ。オンライン戦略は信頼している仲間に全て任せ、僕は街頭に立ち続けた。  戦略は多岐にわたった。資金集めだけでなく、仲間集めやムーブメントを起こすことを目的としたクラウドファンディング。支援額は4日間で110万円にのぼった。ミーティングのライブ配信や、ライングループの立ち上げ。こうした戦略の根本にあるのは、やはり「人」であり「仲間」だった。  Facebook上に集まった100人を超える選挙対策グループ、SNSにいる約3000人の友人。そして、泊り込みで同じ時間を共有してくれた5人の仲間、ビラ配布に毎回集まってくれる10名近い地元の仲間だった。  選挙に行ったことのない20歳の後輩が、朝の6時から一緒に駅前で声を出してくれた。オンライン上で「スピーカーはありませんか?」といえば数分も経たないうちに、「私持っているよ」と反応してくれた。知恵を求めるとその問題の当事者の声がダイレクトに返ってきた。  投票率は結果的に過去最低となった。選挙前、「10%上がったら革命を起こせるよ」とある知人から言われた。街頭での感触、区民の期待感、期日前投票の大幅な増加、投票日の雨予報から一転、広がった青空。これはもしかして……。 しかし、そう簡単に社会は動かなかった。 「出馬のハードルは高い」。よく言われることだが、僕はそうは思わない。確固たる意思があれば、不思議と壁は乗り越えられるというのが正直な感想だ。それよりも、小さなことでも最初の一歩を踏み出すハードルの方が、今の社会は高い気がする。 僕の友人がこんな嬉しいことを書いてくれた。 「何の批判も飛んでこない安全地帯で無責任に政治の批判する人が多い中で、これだけ心も体も財布も絞って『自分が変える』と立ち上がった姿はほんとにかっこ良かったです。正直、田中君の公約や演説の100%全てを支持してたわけじゃないけど、どんな考え・出自の人でも政治の場に挑戦できる民主主義の土壌が出来たらいいなと思って微力ながら応援させていただきました」  何かに挑戦をする人を応援できる社会をつくりたいと改めて選挙を通じて思った。僕自身も仲間のサポートに大いに救われた。挑戦はこわい。全てをさらけだすから恥ずかしい。何かに理由をつけて言い訳をしてしまう。それでも一歩踏み出した人間に、多くの応援が結集する、失敗に寛容な社会を将来、作ってみたい。だが、勝てなかった人間が何を言っても説得力はない。どんなに批判されても、4年後にもう一度、挑戦したい。そんな気持ちを胸にしまい、自分の最適な道を模索していきたい。(田中将介)
dot. 2018/05/20 14:00
「不倫は絶対ない」 妻へのウソがバレた42歳男性の帰る家なくなった地獄
西澤寿樹 西澤寿樹
「不倫は絶対ない」 妻へのウソがバレた42歳男性の帰る家なくなった地獄
最初から真実を伝えて途方に暮れるのと、隠し続けて最後にばれて途方に暮れるのと、どっちがいいのか。人間の心理的には後者を選びやすいという(※写真はイメージ)  中谷美紀主演のW不倫ドラマ『あなたには帰る家がある』(TBS系)が「ドロドロすぎる」、「ホラーだ」と話題だ。浮気を問い詰められたとき、つい口から出てしまったウソが地獄をもたらすこともある。カップルカウンセラーの西澤寿樹さんが夫婦間で起きがちな問題を紐解く本連載、今回は「ウソの代償」をテーマに解説する。 *  *  *  政界でも、このところ、自身の言動が「ウソか本当か」をめぐって説明に追われるケースが増えていますが、私にはこれがよく見る風景に重なって見えます。浮気がばれた、風俗に行ったのがばれた、借金がばれた……いろいろ都合の悪いことがばれたときと、その対応方法が似ているな、と思うのです。どんな問題であれ、人間が取る対応パターンというのはそんなに多くないということでもあります。  最初の分かれ道は、認めるか、認めないかです。認めればその場で修羅場になりかねません。一方、認めなければ、その場はおさまるかもしれませんが代償を負うこともあります。  佳子さん(仮名、当時39歳)は笑顔を絶やさない優しそうな雰囲気の女性でした。夫(当時42歳)の行動があまりにおかしいので、浮気を疑い、しかしそんな恐ろしいこときっとないはずだと否定し、と頭の中で何度も何度も行ったり来たりして何年も過ごしたそうです。ある日、どうしても抑えきれなくなって、意を決して問い詰めました。夫の返答は 「絶対してない!」 と佳子さんの目を見て断言されました。それでも食い下がって怪しい点を問いただすと 「そんなに俺のことが信用できないのか!」 と逆切れされてしまいました。なんかおかしいという、いわゆる「女の勘」程度の根拠しか持たない佳子さんは、「これだけ自信を持っていっているのだから本当に夫はやましいことがないのかもしれないな」「自分がおかしいのかも」と思いつつ、でもやっぱり完全に納得したわけでもない状態でしたが、それ以上の追及する術もなく、諦めるしかありませんでした。  夫からすれば、一件落着です。  一方、事実を認めた場合ですが、目鼻立ちがはっきりした雪江さん(仮名、35歳)とどちらかというと婦唱夫随と言えるような穏やかそうな夫(33歳)の話です。  雪江さんは、夫は今までは帰宅時間はせいぜい8時、遅くも9時には帰ってテレビやスマホのゲームをするというのが日常で、それが崩れることは会社の飲み会など年に数回だったのに、このところ、10時過ぎに帰ってゲームもせずに早々に寝てしまうことが月に何回もあることに気づきました。そういえば、今までどうせスマホゲームしかしていないと思っていたので気にしてなかったのですが、どうもスマホを隠そうとしているようにも思えてきました。なんかおかしいと悶々としていましたが、ある日、自分の中で「何か」がはじけて、 「あなた、携帯見せて」 と迫りました。最初は抵抗していた夫ですが、今まで雪江さんがいうことに抵抗することなどなかったので、雪江さんはなおさらおかしいという思いを強め、何時間にもわたる攻防の末、結局夫が折れてスマホを見せました。  夫は顔面蒼白になり泣きながら浮気を認めました。それでも「正直に言ったから許してあげる」となるはずもなく、妻の阿鼻叫喚は昼夜問わず1週間以上続き、最後には2人とも仕事にも行けなくなり憔悴しきってしまいました。  両方の親も巻き込み、近所の人にDVを疑われて警察に通報されたり、雪江さんが「もう死ぬ」と言いだしたり、夫としては確かに自分に非があるにしても、この状況をいったいどうしたら抜け出せるのか皆目見当がつかず途方に暮れていました。  そうなってしまうから、隠し続けた方がいい、と考えるのも人情としてはわからないわけではありません。その言い訳は「知らない方が幸せなことだってある」です。  事実を知った瞬間に、「あり得ない」と問答無用で離婚に突き進む人もいます。あくまで「浮気」であって配偶者と別れたいわけではないのなら、それも隠し続けた方がよいと思う理由でしょう。  しかし、(夫から見て)一件落着したはずの佳子さんには後日談があります。実は、私がお聞きしたのは後日談からです。  3年後、再び夫の怪しい行動が見られたのです。このところ妙に仕事がらみの飲み会が多いのです。佳子さんは、前回の経験から確実な証拠をつかむまで夫を泳がせることにしました。夫に気づかれないように毎日カバンや財布をチェックしていたところ、カバンの隠しポケットの中から既に2錠飲んだ形跡がある怪しい錠剤が見つかりました。証拠の写真をとって、そっと戻しました。ネットで調べてみるとまさかとは思いましたが、やはりED(勃起不全)治療薬でした。手が震え、腹わたが煮えくり返る思いでしたがその後も平静を装い続けました。数日後、会社の親睦会だと言って遅く帰ってきた夫のカバンを確かめました。  1錠減っていました。  最初はとぼけていた夫も、さすがに事実を認めざるを得なくなりました。我慢に我慢を重ねた佳子さんの怒りと傷つきは並大抵のものではありませんでした。あまりのショックで起き上がることすらできなくなってしまい、でも夜は眠れないという日々が続き、病院で睡眠薬と精神安定剤を出してもらいましたが全く効きません。  夜になると不安になって居てもたってもいられなくなって3分おきに夫に電話やメールをしてみたり、叫び出したくなったり、涙が止まらなくなったりと、もはや人格が壊れてしまったのではないかと思うほどの事態が、もうかれこれ1年近く続いているというのです。  夫は妻の信頼を得るべく、会社を出るときには会社から電話をするとか、自分の居場所が分かるアプリをスマホに入れて妻に常に開示したり、自分なりには努力や譲歩をしているのですが、妻の状況がよくなる気配はありません。  また、夫は自分がそばにいることで妻がこうなってしまっているのだから、(自分は別れたくないけど)いっそのこと別れるのが妻を楽にしてあげる方法ではないか、とも考えそれを提案したら、「あなたはそうやって逃げるのね!」と妻が逆上してしまいました。  やはり、途方に暮れてしまっています。  最初から真実を伝えて途方に暮れるのと、隠し続けて最後にばれて途方に暮れるのと、どっちがいいのか?ですが、人間の心理的には後者を選びやすいように思います。  国会や政治の世界なら、言い逃れればセーフになるというのが経験則かもしれませんが、夫婦の問題だと、佳子さんのケースのように短期的にはそういう側面があっても、長期的には言い逃れはさらに問題の解決を困難にします。  そもそも、事実を隠すのも認めるのも、そもそもの話が聞いて嬉しいような話ではないので、もめるのは決まっています。そして、ずっと一緒に生活している以上、完全に隠しきることはかなり困難です。  アニメの『サザエさん』でマスオさんが寝言で「ナオミー」と女性の名前を叫んだというエピソードがありました。寝言は無意識だからコントロールできません。寝言だけではなくて、一緒に生活するということは、自分の無意識的な言動を相手に大量にさらしているので、自分が気づかないどこかからほころびが出てしまうことを完全に抑えることは難しいのです。サザエさんの話はさすがに競馬の馬の名前だったという落ちでしたが。  一旦ウソでごまかして、あとでばれることの問題は、 ・浮気されたことによる傷つきと怒り だけでも大変なのにさらに ・ウソをつかれたことによる傷と不信感 が乗っかってしまうことです。  自分を裏切った相手を信じるのは難しいことですが、それだけならまだ言葉自体の信頼は失っていない部分があります。しかし、そこにウソをつかれたことの傷と不信感が乗っかってしまうと、より深く傷つく上に、言葉が信頼できなくなってしまいますから、「ウソで自分たちを出し抜いてきた、隣村のうそつき族の住民たちとどう信頼関係をつくるか」という論理的に抜け出し得ない領域に入ってしまいます。  こういった問題を解こうとするときは、まず「ウソをつかれたことによる傷と不信感」の方に焦点を当てる必要があります。当事者のどちらも、行為としての浮気は分かりやすいので、そちらに意識が向きがちですが、それだと顔の骨が骨折しているのに、表面に見えるアザの手当てをしているようなものです。  パートナーが、「ウソをつかれたことによる傷と不信感」に苦しんでいるのだとしたら、GPSをつけるとか、今いる場所の写メを送り続けるなどは明後日を向いた解決策だというのがわかると思います。少しでも痛みを軽減させてあげたいから「楽しいことを提供する」というのも明日を向いた話です。「浮気されたことによる傷つきと怒り」に苦しんでいる場合でも同じです。  そういった、明日、明後日の話ではなく、今ここにあるパートナーの苦しみという形がなくとらえどころのないものにどう関わるかが、今の課題です。 「共感」という優等生的な答えはちょっと横において、少々下品ですが「つれしょん」と言ってみたいと思います。誰かがトイレに行くというと、一緒に行くというあれです。まずそもそも尿意にはなんだか一種の伝染効果がありますよね。言われるまでは尿意がなかったのに、誰かがトイレに行くというと、不思議と自分も尿意が出てきたりしますよね。それは一種の共感だと思います。  尿意=苦しみ、トイレに付き合う=苦しみに付き合う と考えてみてください。明日、明後日を考えてしまう人には、「苦しみに付き合う」がなかなか難しいのですが、それなら自分はそれが苦手なんだな、と自覚するのが、最初の一歩です。(文/西澤寿樹) ※エピソードは、事実をもとに再構成してあります。
不倫夫婦結婚西澤寿樹離婚
dot. 2018/05/18 11:30
中瀬ゆかり「ジャバザハット感満載のあたしが奮い起す幸せになる勇気」
中瀬ゆかり 中瀬ゆかり
中瀬ゆかり「ジャバザハット感満載のあたしが奮い起す幸せになる勇気」
中瀬ゆかり(なかせ・ゆかり))/和歌山県出身。「新潮」編集部、「新潮45」編集長等を経て、2011年4月より出版部部長。「5時に夢中!」(TOKYO MX)、「とくダネ!」(フジテレビ)、「垣花正 あなたとハッピー!」(ニッポン放送)などに出演中。編集者として、白洲正子、野坂昭如、北杜夫、林真理子、群ようこなどの人気作家を担当。 彼らのエッセイに「ペコちゃん」「魔性の女A子」などの名前で登場する名物編集長。最愛の伴侶、 作家の白川道が2015年4月に死去。ボツイチに。 ジャバザハット感満載のあたしが奮い起す幸せになる勇気(※写真はイメージ) 「生涯未婚率」(生涯独身率)。これは50歳時点で一度も結婚したことがない人間の割合をいう。1950年時点では男性1.5%、女性1.4%だったのに対し、最新データでは、男性は23.4%、つまり4人に1人が、そして女性は14.1%、つまり7人に1人が未婚だという、非婚時代。この割合は今後さらに高くなるとみられている。私は20代で一度結婚離婚を経験しているので、未婚率にはあてはまらないが、トウチャンとは18年間事実婚だったし、気持ちの上ではこの数字はぶっ刺さるのである。ちなみに50から54歳の女性の初婚率は0.3%、再婚率は1.58%というデータもある。私の年代では独身者の100人に2人弱しか初婚も再婚もしないということだ。もちろん年齢が上がれば、この数字はもっと低くなる。結婚するかどうかはともかく、50代からの人生を再び一緒に歩めるパートナーがほしい、と思い始めた身にはなかなかシビアな現実である。私はまず、自分のスペックを客観的に点検してみることにした。  そもそも50代って数字だけでも恋愛のハードルはあがりまくっているのに加え、このデブリきったボディはぽっちゃりを通り越し、ジャバザハット感満載だ(そもそも女性なのにあだ名が「親方」っていうのも、どうよ!)。浪費家のトウチャンにつぎ込んでいたので、貯金残高はスズメの涙、かろうじてマンションは自分名義の持ち家だが、住宅ローンはたっぷり残っている、いや残っているなんてもんじゃなく、定年過ぎても払い続ける計算、ヤバイじゃん! お世辞にも美人とはいえない顔には、加齢とともにシミもあるし、デブだから皺は少な目とはいえゴルゴラインもしっかり刻まれている。せめても色白ならば救われるのだが、あいにくの色黒。そして、せっかくの豊富なお肉がなぜか胸にだけは集まらず、そこは過疎地帯。たわわな腹にひきしまった胸。ウエストなんざ子供の頃から行方不明だし、形の悪いお尻は横に広がり規格外にでかいので、通常サイズの可愛い洋服なんか入らない。不摂生がたたっているとはいえ、なんというぶさいくボディ!こんな姿のわたしを「素敵」なんて恋してくれる男性がいたらお目にかかりたいわ!風呂上りに鏡に全身を映し出し、不覚にも爆笑してしまった。「こりゃ、えらいこっちゃ。再出発って、いったいどっから取り掛かったらええの?」と。  いやいや、と首を振る。いいところも探そう。私は仕事柄読書体験は豊富だから、最低限のインテリジェンスはあるつもりだ。交友も広いし、冗談が好きで、一緒にお酒が楽しく飲めると定評がある(はず)。あ!お酒といえば大事なスペックであるはずの料理……、台所関係は料理上手なトウチャンに任せ切っていたので、ほとんどしない。せめて床上手なら救われるのだが、あいにく、こちとら、「21世紀処女」の異名をとるくらい、そっちのほうもとんとご無沙汰ときた。あちゃー、私ってば、壊滅的に女子力低すぎ!!  セルフチェックの酷さに、少々落ち込んできたので気晴らしにゴールデン街のEちゃんママの店に出かけることにした。ゲイバーではないのだけれど、客の90パーセントはゲイで、ママと客の丁々発止のやりとりが笑える馴染みの一軒。ママのマシンガン毒舌を浴びれば、逆にすっきりするはずだ。  その日も小さなカウンターは開店と同時に満席になり、私の隣には馴染みのゲイのKが座った。パーソナルトレーナーを生業にしている、おしゃべりで楽しいナイスガイだ。「ゆかりさん、ヤッホー。珍しいじゃん、ひとりだなんて」「うん、なんか自己嫌悪でさ……あ、そうだ、K!あんた、からだの専門家でしょ?私の肉体を鍛えて、アンジェリーナ・ジョリーみたいにできないの?」「やっだー、いくらオレでもそれは無理。骨格レベルで取り換えないと。ちょっと、そこに立ってみて」。Kはおもむろに私の全身を遠慮なくこねくり回しはじめる。「ひどいわね、なに、このお腹。でも、足の筋肉は悪くない。うん、ナイスバディにはならないけど、今よりマシなからだ造りになら貢献できるカモ。週一くらいで無理なくやってみる?」。両手でハイタッチし、商談成立。とりあえず、肉体改造はこいつにゆだねてみよう。ここからひとつずつ改善していけばいいんだ!  その夜、私が書棚から手に取ったのはアドラー心理学を説いてベストセラーになった『嫌われる勇気』の完結編、『幸せになる勇気』。このシリーズは元気をくれ、迷いが減るので大好き。好きな頁をめくり、人生に必要なのは「自立」と「愛」であることを改めて噛みしめながら眠りにつき、なぜか、黙ってタバコをくゆらせるトウチャンの姿を夢で見た。(中瀬ゆかり)
中瀬ゆかり
dot. 2018/05/17 16:00
西野ジャパン、2トップで“化学反応”起こすFWの人選【河治良幸】
西野ジャパン、2トップで“化学反応”起こすFWの人選【河治良幸】
サッカー日本代表・西野朗監督 (c)朝日新聞社  ロシアW杯まで2カ月と迫った4月7日にヴァイッド・ハリルホジッチ前監督が電撃解任され、前技術委員長の西野朗氏が新監督に就任した。メンバーのベースに変更がないことを強調する西野新監督だが、「最高の化学反応が起こるグループ」を指針に掲げる。  “化学反応”というのはサッカーの言葉としては具体性に欠けるが、おそらく相性のいい組み合わせを見いだすことで、選手のパフォーマンスをさらに引き出したいということだろう。戦術的な縛りを多少緩める代わりに、バランスや効果を考えながらユニットを作っていく。もちろん対戦相手は分析するが、新体制におけるベースの型は早急に整備する必要がある。  その有力なオプションとして考えられるのが2トップだ。ハリルホジッチ前監督もFWを縦に並べる形の2トップを時間帯によって何度かテストしていたが、西野監督はガンバ大阪など、これまで率いたチームの多くで2トップを採用しており、日本人FWの特徴をさらに生かす意味でも本格的な導入に踏み切る可能性が高いと見る。  もちろん、これまでのメンバーには原口元気や乾貴士などワイドなポジションで、より能力を発揮するタイプのアタッカーもいるが、彼らを4-4-2のサイドハーフとして起用することも可能であり、2トップの導入はチャンスメークの部分で彼らの能力をより発揮しやすい。1トップをオプションとして残しながら2トップも活用していくプランは十分に有用だ。  どのような形でもFWの主力候補になりそうなのが大迫勇也だ。アジア最終予選を牽引してきた選手であり、力強く柔軟なポストプレーに加えて、ツボにはまれば周囲を驚かすような“半端ない”ゴールを決めることができる。日本代表ではあまり得点を取れていないが、2トップで相棒のFWと互いを生かし合う関係ができれば、よりフィニッシュを狙いやすくなる。  また、従来の主力でありながら、ハリルホジッチ前監督の下で、なかなか出番を得られなかったのが岡崎慎司だ。一瞬の飛び出しなどはやや斜陽を感じる部分もあるが、起点になるプレーからゴール前に飛び込んでいくタイミングと勝負強さは健在。サイズの問題もあって1トップだと苦しい部分もあるが、大迫のようなタイプと2トップを組めれば、持ち味を発揮しやすい。過去W杯2大会の経験は、この時期に監督が代わった代表を大いに助けられる要素でもある。  問題は4月に足首を負傷し、所属クラブのレスターでラスト5試合に出場できなかったこと。西野監督が、14日に登録締め切りとなった35人のリストに入れていることはほぼ間違いないが、同じくケガ明けの香川真司などとともにガーナ戦に向けた国内合宿に招集して、状態をチェックして最終メンバーに入れるべきかを見極めるはずだ。  前体制で岡崎と似た境遇にありながら、現在、より良好なコンディションにあるのが武藤嘉紀だ。4大リーグに所属する日本人選手では最多の8得点を記録している武藤。所属するマインツについて「多くの得点チャンスがあるチームではない」と主張しており、実際に前線で孤立する時間帯も多かった中で立派な数字だ。彼も1トップで大迫に近い仕事はできるが、2トップでフィニッシュの引き出しが増えれば、得点力を発揮しそうな選手ではある。  他にFWの有力候補として名前が挙がるのは小林悠、杉本健勇、興梠慎三、川又堅碁、金崎夢生といったJリーグを代表するFWたちで、さらに前体制では主に右サイドで起用された久保裕也や浅野拓磨、原口とともにデュッセルドルフのブンデスリーガ2部優勝に貢献した宇佐美貴史も2トップなら中央で有力候補になり得る。  一方、そうした実績組に割って入るポテンシャルを秘めるのが堂安律だ。昨夏にガンバ大阪からオランダ・フローニンゲンに渡った19歳は、右サイドからの鋭いカットインとミドルシュート、味方とのワンツーを駆使した飛び出しなどで、エールディビジでプレーする20歳以下の選手としては2番目に多い9得点を記録した。  1位のクラース・ヤン・クライファート(10得点)が所属するアヤックスはリーグ最多の89得点を記録しており、フローニンゲンは50得点という事情も考えれば、堂安がいかに高い得点センスを発揮したかが分かる。得意の左足を存分に生かすにはクラブと同じ右サイドが適しているが、ガンバ大阪時代は2トップでプレーしており、十分に適応は可能だ。大迫のようなポストプレーヤーとの組み合わせが基本となるが、憧れの先輩でもある宇佐美との2トップなどはまさに西野監督が求める“化学反応”を起こし得るコンビだ。  もう1人、2トップの候補として挙げたいのが永井謙佑だ。現在は技術委員長を任されている関塚隆氏が監督を務めた12年のロンドン五輪でスペインを撃破する立役者となった快足FWは、ハリルホジッチ前監督が就任してすぐの15年3月に代表選出され、夏の東アジアカップでもメンバーに入ったもののアピールに失敗して代表から遠ざかっていた。  しかし、昨年から所属するFC東京に長谷川健太監督が就任すると、2トップで起用され、ディエゴ・オリベイラとのコンビで抜群のスピードと運動量を発揮。チーム内での役割が整理されているためか、状況判断やフィニッシュにも改善を見せている。すでに29歳と若くはないが、明らかな特徴があるだけに、輝きを取り戻した2トップで再び世界を相手にひと暴れできる状態にある。  ベースの部分を簡単に変えられないDFラインや中盤と違い、FWは調子のいい選手を優先して選び、起用するのも1つの有効な手段だ。このタイミングでチームを率いることになった西野監督でもあるだけに、これまでの貢献度や実績だけにとらわれず、コンディションや組み合わせを見極め、考え得るベストのチョイスを見いだしてもらいたい。(文・河治良幸) ●プロフィール 河治良幸 サッカー専門新聞『エル・ゴラッソ』の創刊に携わり、現在は日本代表を担当。セガのサッカーゲーム『WCCF』選手カードデータを担当。著書は『サッカー番狂わせ完全読本 ジャイアントキリングはキセキじゃない』(東邦出版)『勝負のスイッチ』(白夜書房)、『サッカーの見方が180度変わる データ進化論』(ソル・メディア)など。Jリーグから欧州リーグ、代表戦まで、プレー分析を軸にワールドサッカーの潮流を見守る。NHKスペシャル『ミラクルボディー』の「スペイン代表 世界最強の”天才能”」に監修として参加。8月21日に『解説者のコトバを知れば サッカーの観かたが解る』(内外出版社)を刊行予定。
dot. 2018/05/16 16:00
稲垣吾郎の“男臭さ全開のロケ現場”に密着 山の男役に「とても新鮮です」
稲垣吾郎の“男臭さ全開のロケ現場”に密着 山の男役に「とても新鮮です」
作品の世界に入り込む稲垣吾郎。長谷川博己演じるかつての同級生を訪ねるシーンでは、現場を歩き回りながら何度も台詞を口にした (c)半世界 焼き上がった炭をサイズごとに選り分けていく。慣れた手つきで箱に炭を詰める様子は、まるで本物の炭焼き職人のようだ (c)半世界 「稲垣くんは陽だまりのような人」と阪本順治監督(右)。時折見せる笑顔が現場の緊張をほぐしてくれる (c)半世界 ちょっと疲れた表情も新鮮 (c)半世界  2019年公開の映画「半世界」。今年2月上旬から1カ月間、三重県南伊勢町でロケが行われた。そのロケに2日間密着。そこには、私たちの知らないもう一人の稲垣吾郎がいた。 *  *  *  無精ひげが生えているというだけで、ちょっとドキドキしてしまうのは、それが稲垣吾郎(44)だからだろうか。  汚れた作業着に色あせたジーンズ。目深に被ったニット帽からは鋭い眼光が覗く。いつもの「吾郎ちゃん」からかけ離れた風貌なのは、阪本順治が監督・脚本を務める映画「半世界」で主人公の炭焼き職人・紘(こう)を演じるためだ。稲垣の妻という重要な役どころの池脇千鶴(36)が「すすだらけの中年男性」と評する紘はたぶん、これまでに稲垣が演じてきた人物の中で最も男臭い。  その、男臭さ全開のロケ現場に2日間、密着した。 「瑛介! いるんだろ、瑛介!」  静かな山奥の町に稲垣の怒声がこだまする。古びた木造家屋に早足で近づいていくと、ゴンゴンと少し乱暴に、玄関のガラス戸を叩く。  紘が長谷川博己(41)演じる中学時代の同級生・瑛介の自宅を訪れるシーンだ。  映画「半世界」では、豊かな自然が残る地方都市を舞台に、かつて同級生だった紘と瑛介、そして渋川清彦(43)演じる光彦、3人の生活と交流が描かれる。  3人の男たちは、人生を諦めるには早過ぎるけれど、焦るタイミングとしてはちょっと遅い、39歳という設定。人生の折り返し地点が近づいた彼らは、誰もが突き当たる悩みや葛藤を抱えながら、「残り半分の人生をどう生きるのか」を不器用に模索していく。  紘を演じるにあたって、稲垣はこう話している。 「男3人でこの世代というのはTVドラマでもなく、最近見たことのない映画になるのではないでしょうか。僕自身(中略)山の男役でとても新鮮です」  監督の阪本はなぜ、主演俳優に稲垣を選んだのか。 「『土の匂いのする役を演じてもらったら面白いかもしれない』って、興味が湧いたんです。稲垣さんの印象は、エレガントで洗練されていて社交的。その彼が紘のような狭い世界で生きる土着の人間をどう演じるのか、純粋に見てみたかった」  役柄を説明するにあたって、阪本は稲垣にこう伝えたとい 「紘は“自分を認めてあげられない人間”だ」  自分はまだ何者にもなれていないという無力感と、そこからくるいら立ち。そんな紘の葛藤を表現するため、稲垣は試行錯誤する。  歩く速度。ガラス戸を叩く強さ。その回数。長谷川との台詞の掛け合いも、テイクごとにイントネーションや呼吸の間合いを微妙に調整する。 「(玄関で立ち話をするときは)もう少し体を外側に開いたほうがいいですか?」 「ここの台詞はもう少し早口のほうが(感情が)伝わりやすいですかね?」  阪本と細かく相談しながら、稲垣は少しずつ、紘という人格に生命を吹き込んでいく。  撮影が終盤に差し掛かる頃にはすっかり、ワインよりもスコップが似合う「山の男」。  口元とあごに蓄えたひげも、 「正解だった。いい渋みが出てるよね」  と阪本。撮影前に稲垣が生やしていたのを見て、そのまま役に生かそうと決めたのだという。 「昔から阪本監督のファンで過去の作品も欠かさず観ていた」  という稲垣だけに、今回の役にかける思いには、並々ならぬものがある。  炭焼き職人という特殊な職業を演じるため、撮影開始前にも監督と撮影現場となる炭焼き小屋を訪ね、炭焼き工程の一部を体験したという。  撮影に協力したマルモ製炭所の代表、森前栄一(49)は、 「好奇心の強い方だなと思いました」  とそのときの様子を語る。 「炭の作り方について、いろいろ質問されました。焼き上がった炭を窯から出す作業も練習しました。『えぶり』という棒を使って掻き出すんですが、金属製で4メートル近くもあるので、すごく重いんです。それでも稲垣さんは『難しいなあ』と汗をかきながら挑戦していました」  稲垣はチェーンソーの使い方も学び、炭の材料となる木を切り出すために、森前とともに山にも出かけた。 「ウバメガシという木なんですが、これが山の急斜面にしか生えないんです。切るときは、さすがに少し、緊張されているようでした」(森前)  そのときの画像は、稲垣の2月7日のツイッターにアップされている。  職人を演じる稲垣の「素」もまた職人気質。この映画の見どころの一つでもある。  撮影2日目は、焼き上がった炭を紘が炭焼き小屋で選別するシーンからスタート。薄暗い炭焼き小屋の地面には真っ白な灰が積もっていて、歩くたびにそれが舞い上がる。燻(いぶ)された木の酸味のあるにおいも、鼻の奥にツンとくる。  だが稲垣は、汚れやにおいを気にすることなく、灰の中に手を入れて次々に炭を段ボール箱に放り投げていく。怒鳴り声を上げていた前日のシーンとは打って変わって、感情の起伏はまったくと言っていいほど見られない。ただ粛々と、目の前の作業に従事する「労働者の日常」が、そこにはあった。  阪本は言う。 「『半世界』は、ハーフ(半分)という意味ではない。アナザー、つまり『もう一つ』の世界のことなんです」  その「もう一つ」とは? 「グローバリズムの時代を迎えたことで、私たちは以前にも増して巨大な主語と文脈で世界を語るようになりました。しかし世界というのは、国際情勢ばかりを指すものではありません。アメリカとの外交や北朝鮮問題ばかりではなく、メディアには報じられない一般の人々の生活も、世界を形づくるもう一つの大切な要素です」  それで、炭焼き職人ですか。 「グローバリズムに対する市井、土着、平凡な日常……。今回の作品では、そうしたものにスポットを当てたい、と思いました」  阪本の言葉がそのまま、紘を演じる稲垣に重なる。  阪本のシナリオが描く男たちの姿は人間らしく、読むと「その土地のロケーションが浮かんでくる」と池脇。  クランクインを迎えるにあたって、稲垣はオフィシャルブログにこんな一文を書いている。 「映画のクランクインとは新しいスタッフ、そして新しい役柄との出会いの瞬間。(中略)日常を離れた環境やスタッフの皆様の吹き込む生命によって徐々に作品世界へと誘われていきます。そして……新しい生命によって、自分を見つめなおすことの出来る俳優の仕事は僕に生きる意味を与えてくれます」  稲垣のイメージとは対照的な紘。しかし、“もう一人の自分”から自己を見つめ直す時間がなければ、私たちの知っている「稲垣吾郎の世界」もまた、おそらくは成り立たない。  撮影後半、稲垣演じる紘は2本の炭を重ねるように叩き、鳴り響く音にそっと耳をすませた。「キン……キン……キン!」と、鉄琴をたたいているような澄んだ音が静けさの中にこだまする。そして、見慣れた日常の中で忘れていた世界の美しさを、少しずつ実感していくのだ。  撮影が大詰めを迎えた3月中旬。稲垣はブログに、ホテルから見た夜明けの町の画像を複数枚、アップしている。自分で撮影したのだろう。タイトルは、「半世界の住人より」。  もうすぐ大きな太陽が顔を出して、周囲がせわしなく動き始める。その直前の、ほんの一瞬。夜と朝の狭間の世界で、稲垣吾郎は何を考えていたのだろうか。(文中敬称略)(ライター・澤田憲) ※AERA 2018年5月14日号
AERA 2018/05/13 11:30
五木寛之の壮絶な半生…「二十歳までは生きないつもりでした」
五木寛之の壮絶な半生…「二十歳までは生きないつもりでした」
五木寛之(いつき・ひろゆき)/1932(昭和7)年、福岡県生まれ。生まれてすぐ朝鮮半島に渡り、47年に引き揚げ。66年「さらばモスクワ愚連隊」で第6回小説現代新人賞、翌67年「蒼ざめた馬を見よ」で第56回直木賞受賞。『青春の門』『蓮如』『親鸞』『大河の一滴』など著書多数。近著に『デラシネの時代』『マサカの時代』など。(撮影/植田真紗美) 「インタビューや講演で話すのも、写真の被写体になるのも、書くことと同じで大切な表現活動だと思っています。僕は撮ってもらうときに、アゴが上がる癖があるんですよね。今日も気を付けないと」(撮影/植田真紗美)  もし、あのとき、別の選択をしていたなら──。ひょんなことから運命は回り出します。人生に「if」はありませんが、誰しも実はやりたかったこと、やり残したこと、できたはずのことがあるのではないでしょうか。昭和から平成と激動の時代を切り開いてきた著名人に、人生の岐路に立ち返ってもらい、「もう一つの自分史」を語ってもらいます。今回は作家の五木寛之さんです。 *  *  *  もし僕に「もう一つの自分史」があるとしたら、それはあまり長い物語にはなりません。当時は、二十歳までは生きないつもりでしたから。  少年時代は戦闘機の操縦士になりたかった。そして、神風特攻隊として敵の航空母艦に「天皇陛下バンザイ!」と突っ込む。それが「将来の夢」だったのです。  毎晩、その瞬間をイメージしていました。  爆弾を抱えて急降下。操縦桿は最後までまっすぐ押し続ける。でも、直前で怖くなって横に動かしてしまわないか、いや、俺はできる……。  そんなことで頭がいっぱいでした。捕虜にされたらちゃんと割腹自殺できるか、なんてことも考えました。短刀を腹に突き立てることを想像しながらね。幸いなことに、当時の夢はかないませんでした。  もし、少年飛行隊になって特攻機で突っ込んでいたら、それはそれで「やった」という満足感があったでしょう。今考えると、じつに愚かしい。ただ、渦中にいるときは、それが美しい生き方だと思い込んでいたんです。学校教育だけでなく、映画も歌も「のらくろ」のような漫画も、すべてのカルチャーが軍国主義一色で、何の疑問もなく、国のために死ぬことを夢見る中学生になった。無残なことです。 今でも軍人勅諭をそらんじることができます。もはや邪魔でしかない知識ですが、どうしてもいなくなってくれません。 ――福岡県で生まれ、すぐに当時日本領だった朝鮮半島に渡った。人生最大の転機を、そこで迎えることになる。岐路は、第2次世界大戦の敗戦の体験だった。  敗戦のとき僕は12歳。今の北朝鮮の平壌(ピョンヤン)の中学に入ったばかりでした。あの瞬間、世の中も自分の人生も、すべてが変わったのです。  戦争が終わって、2年目に日本に引き揚げてきました。そのあいだのことは、正直、あまり思い出したくありません。極限状態で、まさに「命からがら」どうにか日本にたどり着きました。  戦争で負けたとき、国は言うことを百八十度変えただけではない。当時、外地には軍人を含めて650万人の邦人がいました。ところが政府は「日本国内もたいへんな状態だから、在留邦人は現地に留まることが望ましい」と決めた。我々は日本という国に棄てられた「棄民」だったのです。  一方で、敗戦の1週間ぐらい前から、平壌の飛行場ではすごい数の輸送機が離着陸を繰り返して、平壌の駅からは南に行く列車がどんどん出ていました。軍の幹部や官僚、財閥系といった“偉い人たち”は、日本がポツダム宣言を受諾することをすでに知っていたんですね。たくさんの家財道具を積んで、我先にと逃げ出していく。  ところが、一般市民はそんな情報は知る由もない。日本の敗戦が発表されてからも、新聞が止まって唯一の情報源だったNHKのラジオは、こう放送していた。国体は護持される。治安も維持される、軽挙妄動を慎んで現地にじっとしていろ、と繰り返したんです。そうなのかと安心していたら、そのうちにソ連軍の戦闘部隊(囚人部隊)がやってきて、とんでもない状態になりました。  人はいつの時代も、政治や権力といった大きな力にだまされる。  すっかりだまされて軍国少年だった自分は敗戦を境に、世の中の主流に対して背を向け、そうじゃない道を歩んでいこうと決めました。それは思想というより、そういうふうに生きていったほうが納得がいくという実感ですね。愚かだった自分に誠実であるためには、それしかない。  ですから僕は、今でも国や組織を信用していないし、棄民の恨みも消えてはいません。おかげで、ねじれた性格になりました。 ――その後、1952年に早稲田大学に入学。だが、生活は貧しく、売血をしなければならないほどだった。  二十歳の自分に何か言ってやるとしたら、「よくぞ生き延びた」でしょうか。  アルバイトだけではやっていけなくて、血を売ったことも一度や二度ではありません。週に1回ぐらい製薬会社に血を売りに行っていると、社会の最底辺にいる気がしてくるんですよね。結局、学費が払えずに抹籍になってしまいました。作家になってから学費を払って、今では正式に中退扱いになっていますが(笑)。  将来の夢や目標より、とにかく食っていくことしか頭になかった。でも、日本は学歴社会ですから、大学を横に出た人間にまともな職なんて用意されていない。そんな中で、学歴を問われなかったのが、メディアの末端の仕事だったのです。潜り込んで、PR誌の編集者や作詞家、ルポライター、ラジオの構成作家など、雑多な仕事をやりました。  その頃、シナリオライターになろうと思っていた。みんなと一緒にやりつつ一人でいられる仕事に憧れてたし、当時は映画の黄金時代でシナリオライターがけっこう派手な存在だった。で、日本放送作家協会に入れてもらおうと、「NHKや民放で番組の構成をしているんですけど」と言いに行ったんです。ところが、「構成作家はダメだ」と門前払いされてしまった。ドラマを書いている人が作家で、構成作家は一段も二段も見下される存在だったんです。  そこでもまた、あらためて思いました。自分ははみ出し者として生きていこう、人が認めない部分でやっていくんだと。  作家としてスタートした当初から、「文学」をやる気はない、読み物を書くと宣言して、ずっとエンターテインメントにこだわってきました。今でこそエンターテインメントも世の中で認められる分野になりましたけど、50年前は蔑視される言葉だったんです。だから自分は、あえてそっちで仕事をしてきた。反骨精神なんてご立派なもんじゃなくて、ひがみですね(笑)。 ――作家生活の中で2度、3年ずつ休筆。もしかしたらそこで「別の人生」を歩んでいたかもしれない。  最初は、最も忙しかった1972年、40歳の頃に休筆しました。週刊朝日の大橋巨泉さんとの対談で「そろそろ仕事を休みたい」って言ったんです。そしたらそれをメディアが拾って、「休筆宣言」が流行語みたいになってえらく騒がれました。  一生書かないつもりではなく、ゆっくり考える時間が欲しかったんです。お世話になっていた小説雑誌の編集長には「五木さん、流行作家というのは『流行』というところにアクセントがあるんだから、また戻ってきてやりますと言われても、もう椅子はないよ。その覚悟はあるのか」って言われたんですよね。僕は「また新人賞に応募しますから」って答えました。本気でそう思っていたんです。  もともと最初からあまり欲はなくて、本を1冊書きたいとは思っていたけど、どうしても職業作家になりたかったわけじゃない。直木賞をもらったときも、ああそうなのか、という感じでした。  最初の休筆のときは『戒厳令の夜』っていう長編を手土産に戻ってきましたが、戻れなかったら古本屋か、あるいはジャズ喫茶でもやってたかもしれませんね。  2度目の休筆は、80年代前半でやっぱり3年ぐらい。京都の大学に通って仏教史を学びました。  これだけ長くやってこれたのも、途中で休んだ期間があるからかもしれない。ぶっ通しでやっていたら、どっかでくたびれていたでしょう。計画的に休んだわけではないけど、結果オーライになって、自分はラッキーだったと思います。  人より体力があるわけじゃないから、言葉や文章を道具として使って生きていくしかない。ひょっとしたら、詐欺師という道もあったかもしれませんね。でも、堂々とウソをつく度胸がないからダメかな。 ――最近は、1日に二つずつぐらいのペースでインタビューを受けている。テーマは、ほとんどが「老い」と「孤独」だ。  あと4、5年で、680万人いると言われる団塊の世代が、後期高齢者である75歳に突入し始める。今、その世代にとって関心が高いのが、「老い」と「孤独」なんですね。その世代がキーワードとして時代を動かしている。  孤独という言葉は、誤解されがちだけど、誰ともかかわらない寂しい状態のことではありません。孤独と孤立は違うんです。NPOに参加する、みんなでカラオケやバスツアーにも行く。いろんな人と仲良くしながらも、自分をなくさない。「和して同ぜず」「Together and Alone」の精神です。コーラスだって、それぞれが自分のパートをしっかり歌わないと、全体がきれいな歌声にはなりません。  そして、老いと孤独のあとに何が来るかと考えると、「死」と「死後」です。死や死後の世界をどう見つめていくか、どうやって平静に死を迎えるかということが、4、5年後には大きな話題になってくるでしょう。  50代、60代の人たちは、まだまだ先が長い。しかし、これからの人生を幸せに生きるためには、老いや死ということを真剣に考えたほうがいい。  今話題になっている『君たちはどう生きるか』は、1930年代に吉野源三郎さんが、大人の立場で軍国主義の高まりに反発しながら、若い人たちに生き方を説いた。私たちにはそんな余裕はありません。「俺たちはどう生きるか」が問題でしょう。そのあとは「俺たちはどう死ぬか」です。  僕もいずれ死ぬわけですが、死ぬことは、けっしていやではありません。どう迎えればいいか、そして死んだらどうなるのか。そういうことをずっと考え続けています。僕は、少年時代からどう死ぬかを考えてきた。いわば、死について考えるベテランですからね(笑)。 ――自身も「老い」を感じ、人生のゴールが見えてくる時期に差し掛かっている。それでも、いわゆる健康的な生活とはほど遠い毎日だ。  朝8時に寝て、午後3時に起きるような生活を50年ぐらい続けています。1日にせいぜい1千歩ぐらいしか歩かないし、食事も不規則で、病院もほとんど行ったことがない。去年一度行きましたが、やっぱりあんなところは行くもんじゃないなと思いましたね。  でも、おかげさまで元気だし、体重も二十歳のときと同じです。健康法や健康常識なんて、水を飲めとか飲むなとか、血圧はいくつが標準かとか、言うことがコロコロ変わって、まったく信用なりません。常識や人の意見に従うんじゃなくて、自分の体質やタイプを見極めて、それに合った生活のスタイルにすればいいんですよ。ものの考え方や生き方も、同じことが言えるかもしれません。  とはいえ、老いは、あらゆるところで感じます。歩いていても中心線をきちんと歩けない。ものは落とすし、記憶力は悪くなる。老いていくということは惨憺たるもんです。親鸞でさえ、老いた自分を嘆いている。ただ、老いを情けないと思わず、客観的に受け止めたい。  人生の最後は、許されるなら自分で決断して、大事な人たちに見送られながら世を去るのが理想です。人間は生まれるときは、自分の意思で生まれてくるわけではないから、死ぬときは自分で決められる選択肢もあったほうが望ましいとは思っています。安楽死の話をするとバッシングを受けそうですが、日本でもそういうことを受け入れる文化ができて、やがて社会の慣習として広がっていくんじゃないでしょうか。 ――作家生活53年目。以前から、自らを「他力主義者」だと言ってきた。死ぬまでの間は、コンディションを維持して「ある程度のもの」を書いて、老いていくつもりでいる。  人によっては、80歳を過ぎてベストセラーを出すなんて恥ずかしいことだ、という考え方もあるようです。確かにね(笑)。落ち着きがまったくない。しかし僕は、落ち着いた老年より、ジタバタした騒がしい老年を生きていたいですね。  でも、自分がこうしたいと思っただけでは、物事は形になりません。仕事にしても、自分自身のヤル気や体力があり、場を与えてくれる出版社があり、読者や時代の要望がないとできない。全部が重なるのは奇跡みたいなもの。これまでも船に乗って流されてきたような状態です。がんばって漕ぎ続けてきた感じではないですね。  時代は変わり、人生は前に進んでいきます。自分たちは何年かあとに消える。昔のことを嘆いていても、今の時代や状況を憂いても仕方ない。最後までしっかり自分を保ちながら、流されていこうじゃありませんか。 (聞き手/石原壮一郎) ※週刊朝日 2018年5月18日号
週刊朝日 2018/05/13 07:00
きっかけは「ラーメン離婚」 AERAが報じた“男女の生き方”とその変化
熊澤志保 熊澤志保
きっかけは「ラーメン離婚」 AERAが報じた“男女の生き方”とその変化
女性をめぐる社会の動きとAERAが伝えた男女の生き方(※赤字はアエラの目次などから抜粋。[ ]の数字は掲載号)[AERA 2018年5月14日号より、写真= (c)朝日新聞社] 女性をめぐる社会の動きとAERAが伝えた男女の生き方(※赤字はアエラの目次などから抜粋。[ ]の数字は掲載号)[AERA 2018年5月14日号より、写真= (c)朝日新聞社] 女性をめぐる社会の動きとAERAが伝えた男女の生き方(※赤字はアエラの目次などから抜粋。[ ]の数字は掲載号)[AERA 2018年5月14日号より、写真= (c)朝日新聞社]  AERAがそれまで注目されることの少なかった女性の視点から、男女の生き方を報じ始めたのは1996年のことだった。それから20余年、時代はどう変わったのか。 *  *  *  引き金は、たった一杯のラーメンだった。  夜10時過ぎ、夫が帰宅すると、新居は暗く、台所には何も作り置きがなかった。自分で作るのは億劫だ。残業していた妻が帰宅するや、夫はせがんだ。 「ラーメンつくれ、つくれ」  妻は無言で、インスタントラーメンを1人前作ると、どん、とテーブルに置いた──。 22年前の1996年5月、AERAが「ラーメン離婚」と題して巻頭で報じた記事には、夫にとって思いもかけぬ原因から、結婚わずか1年前後で離婚にいたる複数組の夫婦が、男女双方の視点で描かれている。  このラーメンの入った丼がテーブルに置かれた瞬間こそ、妻が離婚を決意した瞬間であり、AERAがそれまで注目されることの少なかった女性の目線と、男女の生き方を取り上げる合図だったかもしれない。 「ライバルは朝日新聞です」というキャッチコピーでAERAが創刊したのは、88年5月。以来、硬派な週刊誌としてニュースを報じてきた。この記事を執筆した朝日新聞社の小野智美(53)は、「戸惑いもあった」と当時を振り返る。 「AERAの巻頭記事といえば、政治や国際問題が主流でした。私自身、仕事面では女性で損をすることしかなかったので、女性の視点を取り上げることに抵抗がありました。仕事では女を感じてほしくないし、見せたくないと思っていたんです」  以前属した政治部に、現役の女性記者はいなかった。議員会館に足を運び名刺を渡そうとしても、男性議員はソファに寝そべり、起き上がってもくれない。名前ではなく「お姫ちゃん」と呼ばれ、記者として正当に扱われるまでの道程は果てしなく遠く思えた。そんな折、冒頭の共働き夫婦を取材した。自身は未婚だったが共感した。「女性の生きづらさ」が蔓延していた。 「声を上げれば、『だから女はダメだ』と言われ、余計つらくなりそうで、正直、今も怖いです。ですが、女性が女性のことを書かないと、誰も書いてはくれないと気づいたんです」(小野) 「ラーメン離婚」は、大きな反響を得た。以降、AERAは「男女の生き方」を主要なテーマのひとつとして扱っていく。  編集長を2度務め、当時のAERAをよく知る朝日新聞社の一色清(62)は言う。 「96年の年初、今年何に注力して報じていくかを話し合ったとき、国際情勢を大上段に構えるのではなく、自分の人生に関心のある人が多いのでは、という話が出たのをよく覚えています」  バブルが崩壊して5年、社会全体が内向き志向になっていた。男女雇用機会均等法施行の86年から10年、当時入社した男女が30代にさしかかり、ライフステージの変化を迎えはじめた時期でもあった。  出世の階段を上る手前で立ち止まる女性の葛藤を取材した「女が出世に惑う時」(97年2月10日号)。均等法世代の女性が台頭する裏で、家事と育児を誰からも評価されず、アイデンティティーを求めて苦しむ主婦たちをクローズアップした「専業主婦の絶望」(97年2月24日号)。家事の分担で揉め、双方の言い分に納得できない共働き夫婦を描いた「家事離婚の危機」(98年7月13日号)。更年期の苦しみや、介護保険ができるまで女性に重くのしかかっていた介護問題も真正面から取り上げた。  女性の視点を取り入れた記事が起爆剤になった背景には、当時の社会が男性主体でつくられていたという現実がある。東京大学名誉教授で認定NPO法人ウィメンズアクションネットワーク理事長の上野千鶴子さん(69)は、時代をこう読み解く。 「男女雇用機会均等法が成立した85年こそ、女性の分断元年であり貧困元年でした。『男女雇用平等法』としてスタートした法案は、交渉の過程で『雇用平等』が『雇用機会均等』に置き換わった。日本企業は男性向けに作られた職場のルールを変えず、ごく一部の女性を総合職として参入させただけ。大多数の女性は、一般職の正社員から非正規雇用へ追い込まれていったのです」  均等法と同じ85年に成立した労働者派遣事業法は、職業安定法により禁じられていた、間接的に人を働かせることを可能にし、その後も改正で雇用の規制緩和が進んでいく。 「均等法は、97年のセクハラ防止義務、17年マタハラ禁止など改正も考慮すると、『ないよりまし』にはなったけれど……」と上野さんは語る。それでも、女性活躍を謳う法案の背後には、別の思惑が見え隠れする。15年には女性活躍推進法が成立し、労働者派遣事業法も改正された。 「結局、女性の非正規労働者が増え、男女の賃金格差は広がっています。女性には働いてもらいたい、子どもも産んでもらいたい、ただし企業に都合のよいやり方で。女性に、『仕事も家庭も』を要求しながら、そのための条件整備は進んでいません」(上野さん) (編集部・熊澤志保) ※AERA 2018年5月14日号より抜粋
男と女
AERA 2018/05/08 11:30
セクハラに人権侵害の認識が欠如 “被害者たたき”で露見した社会の歪み
渡辺豪 渡辺豪
セクハラに人権侵害の認識が欠如 “被害者たたき”で露見した社会の歪み
集会では弁護士、大学教員、新聞労連、民放労連など、さまざまな立場からの発言があった=4月23日、東京・永田町の衆議院第一議員会館(写真部・小山幸佑)  財務事務次官のセクハラ疑惑は、実態解明が進まないまま、被害者バッシングという いびつな事態も起きている。「私たちも」「一緒に」の声は日本では広がらないのか。 *  *  * 「#WithYou」。被害者との連帯を示す黒い服を着た参加者たちが、断固たる決意のメッセージを掲げた。  4月23日、衆院議員会館で開かれた緊急集会。福田淳一・前財務事務次官によるセクハラ被害を告発したテレビ朝日の女性記者が不当なバッシングにさらされている状況に、約200人が「許さない」と声を上げた。 「1対1で会って何が悪いんですか。私たちの仕事はそういう仕事なんです」  元全国紙記者でジャーナリストの林美子さんは、集会で記者職への理解を呼び掛けた。  これは、夜中の呼び出しに応じた女性記者にも非がある、との意見がネットなどで飛び交う現状を踏まえたものだ。  記者会見などで発せられる公式見解を伝えるだけでは、報道機関は発表する側の都合のよい情報を画一的に流す形になってしまう。このため男女を問わず記者は、事実を検証するのに必要な情報源となる複数の幹部らと「サシ」で会い、本音の情報を集める努力がルーティン業務として課されている。  ただ、そうした記者の職務につけ入る形でセクハラに及ぶ「取材先」が後を絶たないのが実情だ。林さんはこう訴えた。 「ここで私たちが止めなかったら、この先ずっと、女性記者は耐えろと言われる。今は分水嶺なんです」  一方、弁護士の中野麻美さんは、「この問題はセクハラという人権侵害と、報道の自由の問題がクロスしている」と発言。労働安全衛生法第24条、25条で、労働災害を防止する措置などが事業者に課されている点を挙げ、こう強調した。 「性暴力の危険も労働災害の一つ。その危険を回避するための告発は、広く国民の知る権利に関わる公益通報です」  集会には、複数の野党議員も参加した。だが、こうした被害者に寄り添う動きに逆行する国会議員の発言も相次いでいる。  自民党の長尾敬衆院議員はツイッターで、黒い服装でセクハラに抗議する女性国会議員らの写真を添付し、「セクハラとは縁遠い方々」などと書き込んでいた。長尾氏は4月22日に発言を削除してブログで謝罪した。  自民党の下村博文・元文部科学相は22日の講演会で、被害女性が福田氏との会話を録音したことについて「隠しテープでとっておいて、テレビ局の人が週刊誌に売るってこと自体がある意味で犯罪だと思う」と批判。発言内容が23日に報じられると、「『ある意味犯罪』と述べたのは表現が不適切でした」として撤回と謝罪のコメントを発表した。  麻生太郎財務相は24日に福田氏の辞任承認を公表した際、セクハラ疑惑について「(福田氏が)はめられて訴えられているんじゃないかとか、ご意見はいっぱいある」と語った。  こうした発言について、ジャーナリストの江川紹子さんは「セクハラが人権問題である、という基本認識がないのでは」と苦言を呈する。ただ、下村氏や長尾氏が、安倍晋三首相に近い政治家である点が強調されることには違和感もある、という。 「この問題は親安倍か反安倍か、という次元ではなく、人権意識が高い人と低い人のせめぎ合いだと思います。与野党対決型の課題にすべきではありません」  自民党内にもセクハラに厳しい目を向ける国会議員はいる。政局絡みの思惑のみで対応せず、財務省のヒアリングなどには与党議員にも参加を促すべきだ、と江川さんは野党側にも注文をつける。  女性の社会進出は時代の趨勢だ。要職に就く女性が増えれば、男性もセクハラやパワハラの被害者になるケースが一般化することもあり得る。そんな将来も見据え、江川さんは言う。 「現状では、女性がセクハラの被害者になるケースが圧倒的に多いため、女性の権利や差別の観点から語られがちですが、本来は性別を超えた人権問題として向き合う姿勢が必要です」  社会の歪みをただすのは、普遍的な価値を共有する「私たち」の責務だろう。(編集部・小柳暁子、渡辺 豪) ※AERA 2018年5月14日号
AERA 2018/05/08 11:30
ナベツネ、塩爺も利用する店をジュンク堂社長夫人が任された理由
鎌田倫子 鎌田倫子
ナベツネ、塩爺も利用する店をジュンク堂社長夫人が任された理由
工藤恭孝(くどう・やすたか)(左)/1950年、兵庫県宝塚市生まれ。立命館大学法学部卒業。父親が経営する書籍取次会社キクヤ図書販売に入社。76 年、事業を休止していた大同書房を引き継ぐ形で独立し、社名を「ジュンク堂書店」に変更して社長に就任。神戸・三宮に1号店をオープンした。2009年、ジュンク堂書店が大日本印刷の連結子会社に。10年に丸善書店の社長に就任。11年、ジュンク堂書店は丸善、図書館流通センターなどの共同持ち株会社CHIグループ傘下に入る。15年、丸善ジュンク堂書店の社長に就任。17年、社長を退任し、会長になる。工藤泰子(くどう・やすこ)(右)/神戸市生まれ。短期大学卒業後、1979年に恭孝氏と結婚。1男2女に恵まれる。ジュンク堂書店神戸住吉店店長、ジュンク堂書店プレスセンター店店長を務めた。その後、丸善ジュンク堂書店の相談役として、夫の秘書兼運転手を務める(撮影/横関一浩)  ジュンク堂書店創始者で、昨年秋に第一線から退いた夫・工藤恭孝さんと、現在も丸善ジュンク堂書店相談役を務める妻の泰子さん。阪神・淡路大震災を経て、大型店の全国展開を成し遂げた二人の、二人三脚の夫婦の軌跡を振り返った。 ※「震災からわずか2週間で営業再開 ジュンク堂成功のきっかけとは?」よりつづく *  *  * ――震災後、「必要としている人に本を届けたい」と大型書店がほとんどない地方に出店を加速。ジュンク堂は全国ブランドになった。妻は、“社長の奥さま”として悠々自適の暮らしをしていたかと思いきや……。 妻:神戸の住吉の店舗のコミックの店長に。返品のへの字も知らなかったけど、朝から晩まで働きましたよ。レジから荷ほどきまで何でもやりました。小学生だった息子には学校から帰ってくると事務所で宿題をさせた。でも、気づいたら漫画を読んでましたね。(始める前は)「店番をしているだけでいい」と言われたんだけどな。 夫:女性も働いたほうがいいですからね。 妻:息子の中学入学を機に東京へ。それで、もう店をやらなくていい、東京ライフを楽しもうって思っていたら、会社に呼ばれて。嫌な予感は的中。今度も「店にいるだけでいい」なんて言われましたが、そんなわけはなかった。 夫:東京のプレスセンターに出店することになって、店長を誰がやるかと。うちは大型店ばかりだったので、あれくらいの中規模の店を任された社員は左遷されたと思ってしまうんですよ。とはいえ、場所柄、気を抜けない店でした。 妻:ナベツネさん(読売新聞グループ本社代表取締役主筆・渡辺恒雄氏)や地方紙の社長さんらによく利用していただきました。それから塩爺(小泉政権で財務相を務めた故・塩川正十郎氏)も。レジに2千円札がたくさん入っていると、ああ、今日はいらっしゃったんだとすぐわかりました。皆さん、本当に本をたくさん読まれるんです。 夫:店長は7、8年はやっていたかな。 妻:それ以降はね……。またそれは大変だったんですよ。 ――1男2女に恵まれた夫婦。子どもにぜいたくはさせず、厳しくしつけた。その一方、「勉強しろ」とは一切言わなかったという。 妻:食事のときは静かにしていなさいとか、子どもたちには厳しかったですね。娘2人は携帯電話を持つのは大学生になってからと言われていた。長女は携帯を大学生になって初めて自分で買いました。 夫:あのころは、携帯電話はメールで悪口を言い合ったり、ゲームをしたりと不健全な使い方をしているように見えた。子どもがそんなもの持つ必要ないと。 妻:息子の場合、中学3年のとき、学年で携帯電話を持ってない生徒は2人だけで、その片方でした。高校に進学すると一学年18クラスもあって、クラブの連絡などがメールで一斉に来るので、学校から「必需品ですから」って言われましたよ。 夫:家にはゲーム機もなかったな。 妻:小学生のとき、お友達が家に遊びに来て、「えー、工藤んちゲームないの?」と言うから、私が「これでもやりなさい!」って人生ゲームを真ん中にドーンと置いた。そしたら結構、盛り上がってましたよ。 夫:僕が店を開いたときは「インベーダーゲーム」がはやっていたんです。僕もいっときはやったんだけど、ふと、うまくなるには、結局パターンと対策の問題だと気がついた。ゲームの設計図があるんだから、人の手の中で遊んでいるようなものだと。お釈迦さまの手のひらの孫悟空みたいなものでしょ。まあ、商売柄、活字の本を読めよっていう思いもありますが。 妻;子どもたちには「勉強しろ」とは言わなかった。むしろ、勉強はするなと言うほうでした。息子にも「日曜まで塾に行くな」って。 夫:夏休みに塾の休みが3日間だけあって、淡路島に遊びに行こうとしたら、午前中は宿題をやるという。「そんなのやめとけ」って僕は言いましたが。 妻:だったら、あなたが教えてくださいって。 夫:息子は算数の問題を公式に当てはめて解こうとするから「ちょっと待て、理屈がわかっているのか」と。台形の面積を求める公式がなぜこうなるのか、いちいち説明するので、勉強の邪魔になってました。 妻:息子からしたら、塾を休んだり、宿題をしなかったりするのは、不安なんですね。みんなに遅れてしまうから。 夫:そもそも、受験のための勉強って何の役に立つのだろうという思いがある。僕は団塊の世代。大学受験は競争が激しくて、進学した立命館大学の入試の倍率は39倍だった。第1志望は国立大。数学は得意で100点をとるつもりでいたんですが、問題数が多く、7割しか解けなかった。設問を見た瞬間にパッと反射するように解く訓練をしてこなかったから。落ちたときはショックでね。考えればわかるけど、考えてたら受からない。受験戦争なんて子どもに味わわせなくていいと思いました。 妻:それで本人の希望もあって、息子は中学から大学までエスカレーター式の私学に進学させました。 ――ジュンク堂書店は、2009年に大日本印刷と資本提携し、その後、共同持ち株会社CHIグループ(現・丸善CHIホールディングス)傘下に。以降、夫の仕事は多忙を極めた。 妻:私は運転手兼秘書。24時間ほぼ一緒でした。 夫:店舗を女性の目で見てもらいたいというのもありますし、店舗が入っているビルのオーナーさんとは夫婦でおつきあいしてましたから。地方のビルでは、親子2代にわたっておつきあいしている方もいます。 妻:地方の店舗を見て回るのは週末になるのよね。九州や沖縄は土日を使って出張しないと。 夫:ジュンク堂書店の経理部はまだ関西にありましたから、東西の拠点を行ったり来たりしていました。日中は東京で会議がありますので、夜中に車で関西に移動。忙しい時期は、午前3時に着いて、仮眠して朝出社という生活でした。 ――全国展開が一段落した昨年秋、丸善ジュンク堂書店社長から会長に退いた。 夫:役目が終わったかな、と。上場しているグループに入ったからこそ、全国展開は可能でした。でも、本屋の財産って何よりも社員なんですね。本は版元から借りているようなものですから。棚を作れる、本を知っている社員がいてこそなんです。 妻:人情味があるというか、意外と情に厚いんです。会長になるという発表があって、すぐに社員から「僕らも社長についていきます!会社が好きですが、それより社長が好きなんです」ってメールが来ました。新しい書店を作ると誤解したみたい。 夫:ジュンク堂は自分の子どもみたいなものですから、よそで書店をやる気なんてありませんよ。そもそも26歳から社長をやってきて、もう勘弁してくれよという気持ちです。70歳を過ぎて、毎日会社に出勤するのは考えられないなあ。 妻:私の気持ちとしても「やっと」です。二人ともこれまで忙しすぎて、老後の楽しみや趣味がまだ見つけられていないのが悩み。ときどき二人でテニスには行きますが、体力がいつまで続くか……。 夫:人間ドックでも久しぶりに行くか。 (聞き手/本誌・鎌田倫子) ※週刊朝日 2018年5月4-11日合併号より抜粋
週刊朝日 2018/05/07 11:30
「上司という言葉を消す」今どきの若手を“適応障害”にしない職場とは?
「上司という言葉を消す」今どきの若手を“適応障害”にしない職場とは?
豊田義博氏 「こんな所では成長できない」と上司に心を閉ざし、指示待ち族になってしまう。理想に燃えて社会人デビューしたが、会社の実情とのギャップに直面して立ちすくむ。仕事の細分化、仕組み化が進む職場で、仕事へのモチベーションが高まらない――。せっかく入った会社にうまく適応できず、早々に退職したり、精神を病んだりする新入・若手社員が目立つようになってきている。 『なぜ若手社員は「指示待ち」を選ぶのか』(PHPビジネス新書)などの著書がある、リクルートワークス研究所主幹研究員の豊田義博氏は、多数の若手社員や、彼らと接点のある上司や先輩、人事担当者にインタビュー。それらを基に、彼らが育ってきた社会環境や教育、そして職場のどんな変化が、新入・若手社員を冒頭挙げたような適応障害に陥らせているのかを描き出している。  まずは「理想と現実のギャップ」から見てみよう。 「今の新入・若手社員には、社会はもっとこうあるべきだという意見をしっかりもつ人が多くいます」と豊田氏。2012年にワークス研究所が実施した調査によると、社会に貢献したい、人の役に立ちたいと考える人の割合は、1980年生まれ以降の若い世代で、上の世代に比べて多くなっている。  新卒採用ではわが社がいかに社会に貢献しているのか、理想的で明るい面を強調する会社は多い。「この会社の事業はなんて素敵なんだ! ここで働いてみたい」と感動した学生が入社することになる。ところが入社後、想像と現実の間の大きなギャップを思い知らされる。社内で交される会話や情報は、自社の売りたいものをいかに顧客に買わせるか、景気動向や競合情報といったものばかり。社会に貢献したいという思いが強いが故に、会社の外面と内面のあまりの違いに、強い違和感を抱くことになる。「こうした幻滅が、新入・若手社員の目、耳、心に強いフィルターをかけることになります」(豊田氏) 「自社製品を買わせる」ための指示命令は、上司から有無を言わせない形で下されることが多い。こうした会社内に色濃く残る、「上下関係に基づくタテ社会」も、新入・若手社員に強烈な違和感を与えることになる。「それには若い人たちが受けてきた教育が、大きく影響しています」と豊田氏は説く。  2000年初頭から取り組みが本格化した「ゆとり教育」。その中核的施策である総合的学習の時間では、あるテーマについてグループで調査研究し、まとめて発表するという授業が多くの小中学校、高校で展開されている。教員から生徒へのタテの学びではなく、生徒同士のヨコの学びの機会が、劇的に増えているのだ。ヨコの学びは、大学でもアクティブ・ラーニング、PBL(プロジェクト・ベースド・ラーニング)などの形で広がっている。「これらの経験が、フラットなヨコのネットワークを駆使し、互いを尊重しながらコミュニティを形成するという、若い人たちのコミュニケーションスタイルにつながっています」(豊田氏)。  読者の中には「いやいや教師と生徒や部活の先輩後輩など、学校にもタテ社会はあったはずだ」と思う方もいるだろう。だがこうしたタテ社会は、20世紀中に弱体化した。教師や親は支援者のような位置づけになり、先輩後輩は友人関係のように変化している。豊田氏は「現代の若手世代には、タテ社会の秩序に一度も身を置かず社会人デビューする人も少なくない」と話す。 ところが会社に入ってみれば、ヨコ型スタイルを踏みにじるようなタテ型コミュニケーションが支配している。「それまで慣れ親しんでいたヨコのネットワークとまったく異質なタテ社会に、いったいどう参加して自分のキャラを出していいものか、戸惑い立ちすくんでいる。それが職場でネコをかぶる、指示待ちに徹するという姿勢に表れるのでしょう」(豊田氏)  自分が直接見聞する「一次情報」が減り、誰かが調べてまとめた「二次情報」が増えるという職場の変化も、新入・若手社員の適応障害に大きな影響を与えていると豊田氏は指摘する。「パソコンも、メールも、検索エンジンもなかったかつてのオフィスは、一次情報に溢れていました」  顧客から電話がかかってくる。先輩と顧客の会話に耳を澄ませば、「こういう場合はこう話せばいい」とわかる。先輩が上司に、仕事のちょっとした相談をしている。あんな風に立ち話でいいのか。先輩の机の上には書きかけの提案書が置いてある。盗み見て参考にしよう――。こんな調子でかつての職場は、コミュニケーションにあふれ、観察しやすい場だった。「ところが今の連絡手段はメールが主体になり、提案書はパソコンの中です」。  便利の代償として職場の様々な一次情報が消滅し、若手の学習機会を奪っていった。  一方で膨大な二次情報がパソコンやネットには存在する。だが豊田氏は、「二次情報にさらっと触れただけでは、情報は自分のものになりません。一夜漬けの試験勉強は、すぐ忘れてしまうのがいい例です」と話す。遭遇した出来事、聞いた話など断片的な一次情報を、後で改めて「なるほどなあ」と内省する。「そうして初めて、情報は自分のものになります」。この積み重ねが自分なりの「仕事の型」につながっていくわけだが、二次情報ばかりで一次情報が減ってしまった現代の職場は、新入・若手社員にとって自らの「仕事の型」を創り出しにくい環境になっているのだろう。  もう一つ新入・若手社員に大きな影響を与えているのが仕事の高度な仕組み化や細分化だ。例えば法人営業。かつて新規顧客の開拓はアポなしの飛び込み営業など、非常に骨が折れるものだったが、近年は仕組化が進んでいる。他社のユーザーリストやアプローチ候補者リストが用意され、商品説明や接客対応でも高度なマニュアルが用意される。新たにその仕事に就いたとしても、決められた手順をまじめにこなせば、そこそこの数字は残せるようになっている。「ある会社の役員は、自社の若手営業の仕事ぶりについて『まるで作業をしているようだ』と語っていました」(豊田氏)。  だが、試行錯誤を重ね、自分なりのノウハウを構築していくような働き方は、難しくなっているという。  仕事の細分化については、豊田氏はテレビの開発を例に挙げる。ブラウン管の時代、1製品の開発に関わるのは10人足らずだったが、液晶時代には200人に膨れ上がった。テレビ開発の中の半導体に限っても、製造プロセスは500にも及ぶ。「1人のエンジニアがかかわるのはそのうちの5~6程度。若いエンジニアは、自分が担当する部分が最終的にどんな製品に生かされ、どんな目的で何に使われるのか、理解していないでしょう」  モチベーション(動機づけ)研究の分野では、自分の仕事について「一連の仕事を最初から最後まで任される(タスク完結性)」「自分のやり方で進められる(自律性)」「仕事の結果や成果に反響や手ごたえがある(フィードバック)」などを感じられると、仕事へのモチベーションは高まるという理論がある。「若手社員を対象にアンケート調査をしてみると、これらを自分の仕事で得られているという若手は、半数しかいませんでした」と、豊田氏。  現代の職場で進む仕事の高度な仕組み化や細分化は、新入・若手社員の仕事へのモチベーションを下げてしまっているようだ。  ここまで、想像と現実のギャップに立ちすくむ、慣れ親しんできたヨコのネットワークとまったく異質なタテ社会に戸惑う、自分なりの仕事の型が作れず、モチベーションも上がらないといった、新入・若手社員が会社にうまく適応できない状況をみてきた。行き詰った新入・若手社員のうち、ある者は早々に会社を辞め、またある者は精神を病んでしまっている。だが、そうなってしまう責任をすべて若者に帰することはできないだろう。 「新入・若手社員の側も会社や上司の側も、双方が変わっていく必要がある。ですが先に変わるべきは会社とマネジャーだと、私は思っています」と豊田氏は説く。マネジャーが変わっていくため、最初の一歩として豊田氏が提言するのが、「上司という言葉を頭の中から消す」というものだ。  先に見てきたとおり、日本企業に色濃く残るタテ社会は、若手世代が生き生きと働くことを大きく阻害している。彼らが子どもの頃から慣れ親しんできた、ヨコのネットワークを駆使するコミュニケーションスタイルと、決定的に合わないのだ。「若手がもつ長所を殺し、欠点をクローズアップしてしまう。無駄な仕事を増やし、長時間労働を助長する側面もあります」(豊田氏)  上司という言葉は「上に立って司る」という文字通り、マネジャー(管理職)とヒラ社員(メンバー)の上下関係を示しており、日本企業のタテ社会を象徴している。  だが現代のあるべきマネジャーは、上から目線で部下を管理する存在ではない。マネジャーはグループの使命、目標を達成するため、メンバーに仕事を託す。メンバーは主体者として仕事に携わり、結果を出す。マネジャーは結果の総和で使命、目標を達成できるようにメンバーを支援する存在であり、上下関係ではなく、主体者=プレイヤーと支援者=コーチの関係だ。「上司、部下というタテ社会の関係から、マネジャー、メンバーというフラットな役割関係に変えて行く。それだけで若手との仕事のしやすさは、劇的に変わるはずです」(豊田氏)。  上司という言葉を頭の中から消す。それが職場を新入・若手社員がいきいきと働ける場所に変え、ひいては早期退職やメンタル障害を減らすことにつながるのだ。 (五嶋正風)
働き方
dot. 2018/05/07 07:00
食べていないのに太る!肥満者の7割が陥る「モナリザ症候群」の恐怖
食べていないのに太る!肥満者の7割が陥る「モナリザ症候群」の恐怖
食べていないのに太るのは、体質や加齢のせいではなく、交感神経の働きが衰えていることが原因かもしれません(※写真はイメージ) もりた・ゆたか/医師・ジャーナリスト。秋田大学医学部、東京大学大学院医学系研究科を修了、米国ハーバード大学専任講師を歴任。現在、現役医師として医療現場で医業に従事する。また、テレビや雑誌などのメディアでジャーナリストとして活動。『今すぐ「それ」をやめなさい!Dr.モリタのやめるだけで健康になる50のヒント』(すばる舎)など著書も多数。森田豊公式ホームページ(http://morita.pro/)  食べ過ぎているわけでもないのに太ってしまう…体質や加齢のせいと諦める前に疑うべきなのが、肥満者の7割が陥る「モナリザ症候群」だ。「モナリザ症候群」の原因は、自律神経にあるという。カロリー制限や運動だけではなく、自律神経を整えることが、ダイエット成功の秘訣になるかもしれない。(清談社 森江利子) ●現代人に増加中?交感神経の働きが衰えて肥満に 「モナリザ」という名は、ルーブル美術館に収蔵されているあの有名絵画とは無関係だ。「モナリザ症候群」は「Most Obesity kNown Are Low In Sympathetic Activity」の頭文字(kNownのみ2文字目のN)を取ってつけられた造語で、和訳すると「肥満者の大多数は交感神経の働きが衰えている」という意だ。 「日本人の肥満者の実に7割が、この『モナリザ症候群』に当てはまると言われています」  こう語るのは、医師の森田豊氏だ。交感神経とは、活動量の多い日中に活発になり、心臓の動きや血管の収縮などの内臓の働きをコントロールする自律神経の一種。交感神経の働きによって副腎からアドレナリンというホルモンが出て、心身が活性化するため、いわばアクセルのような役割を持つ。 「アドレナリンには、消費カロリーを上げて脂肪を燃焼させ、脂肪をため込みにくくする効果もあります。また、やる気を引き起こす役割もあるので、日中を活動的に過ごすためにも欠かせません」(森田医師、以下同) ●大切なのは自律神経の“メリハリ”  一方で、夜間に力を発揮するのが副交感神経だ。副交感神経が働くと、心身ともにリラックスして、体は省エネモードに切り替わる。つまり、ブレーキのような役割だ。 「自律神経のバランスは、心身の健康のために欠かせません。しかし、このバランスが乱れて、日中に交感神経が働かなくなってしまうと、アドレナリンの分泌量が減り、活動量が落ちます。その結果、消費カロリーが減って太りやすい体になってしまうのが『モナリザ症候群』の正体です」  肥満の原因を「加齢のせい」「体質的に太りやすい」などと考える人は多いが、実は自律神経のバランスの乱れが原因となっているかもしれないのだ。  とはいえ、「モナリザ症候群」を回避して痩せやすい体になるためには、とにかく交感神経を活性化させればいいのかというと、そう単純な話ではないようだ。 「睡眠不足が続くと、やる気が出ないという経験は誰にでもあるはず。これは、休息が不十分で、交感神経の働きが鈍くなっている状態です」  あくまでも、日中は交感神経、夜は副交感神経、というバランスが大切なのだ。 「2つの自律神経が交互に、メリハリある働きができる体であれば、『モナリザ症候群』のリスクは少ない。脂肪を燃焼し、痩せやすい体になります」と、森田氏は語る。  では、どうすればメリハリをつけられるのか。実は、自律神経は「メリハリをつけよう」という意思の力では、どうにも動かないのだという。意思ではなく行動によってコントロールしなければならないのだ。 ●意思の力では変わらない自律神経コントロールは行動から 「日中は、仕事や家事などを精力的にこなすことで、交感神経のスイッチがオンになります。また、とにかくちょこまかと体を動かすこと。日常的に、移動にはタクシーではなく徒歩、エスカレーターではなく階段を使うなど、小さなことでもアクティブに動くように心がけてください」 「逆に夜は、しっかりと副交感神経の働きを高めてリラックスする。そのためにいちばん効果的な習慣は入浴です。熱過ぎるお湯はNGで、ぬるめの38~40℃のお風呂に10~15分つかるのがベスト。副交感神経の働きを高めてしっかり眠れば、翌日もまた元気に活動できるはずです」  昼間、しっかりと動いていれば、夜は自然に眠くなる。副交感神経へのバトンタッチもスムーズになるはずだ。 「忙しい現代人は、睡眠時間や入浴時間が減っているというデータもあります。それでは自律神経は乱れるばかり。生活習慣を見直して、自律神経を整えれば、少しくらいおいしいものを食べ過ぎても、自然と太りにくい体になれます」  生活のメリハリが、自律神経のメリハリにつながるのだ。  健康ブームにより、ダイエットに対する意識も高まっている。TVや雑誌もこぞってダイエット方法を紹介しているが、「摂取カロリーをとにかく減らすための食事法」や「できるだけ消費カロリーが多くなる運動法」といった方法論が主流だ。  食事を減らしても、運動量を増やしても痩せにくいという人も少なくないが、「自律神経の働きに着目することで、ダイエットに成功する方も多くなるはずです」と、森田氏。 「そもそも本来の健康とは、ダイエットによる痩身や体型維持ばかりではなく、精神的、社会的にも充足できることを指すはずです。自律神経のバランスを整えることで、精神的にも充足感や自己満足感を得られ、バリバリ働けるので社会貢献にもつながりますよ」  ダイエットのためといって、無理な運動や極端な食事制限を行う前に、メリハリのある生活を心がけてみてほしい。(森 江利子:清談社)
ダイエット健康
ダイヤモンド・オンライン 2018/05/07 00:00
更年期をチャンスに

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女性は、月経や妊娠出産の不調、婦人系がん、不妊治療、更年期など特有の健康課題を抱えています。仕事のパフォーマンスが落ちてしまい、休職や離職を選ぶ人も少なくありません。その経済損失は年間3.4兆円ともいわれます。10月7日号のAERAでは、女性ホルモンに左右されない人生を送るには、本人や周囲はどうしたらいいのかを考えました。男性もぜひ読んでいただきたい特集です!

更年期がつらい
学校現場の大問題

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クレーム対応や夜間見回りなど、雑務で疲弊する先生たち。休職や早期退職も増え、現場は常に綱渡り状態です。一方、PTAは過渡期にあり、従来型の活動を行う”保守派”と改革を推進する”改革派”がぶつかることもあるようです。現場での新たな取り組みを取材しました。AERAとAERA dot.の合同企画。AERAでは9月24日発売号(9月30日号)で特集します。

学校の大問題
働く価値観格差

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職場にはびこる世代間ギャップ。上司世代からすると、なんでもハラスメントになる時代、若手は職場の飲み会なんていやだろうし……と、若者と距離を取りがちですが、実は若手たちは「もっと上司や先輩とコミュニケーションを取りたい」と思っている(!) AERA9月23日号では、コミュニケーション不足が招く誤解の実態と、世代間ギャップを解消するための職場の工夫を取材。「置かれた場所で咲きなさい」という言葉に対する世代間の感じ方の違いも取り上げています。

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