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必要か差別か? 学校での「色覚検査」復活の謎に迫る
必要か差別か? 学校での「色覚検査」復活の謎に迫る
石原式色覚検査表。著作権は公益財団法人一新会が継承している。「賛否の前に石原式の正しさと限界を知ってほしい」と澤充理事長。2013年に最新版が出た(撮影/写真部・小原雄輝) 問題の啓発ポスター。「進路指導には不可欠なのに、保健室に貼ってくれない学校が多いのが悩み」という。記載の元になった論文名が明記されてはいるのだが(撮影/小黒冴夏) 「パネルD-15」と呼ばれる色相配列検査の検査キットを示す日本眼科医会の宮浦徹理事。色覚検査にはこの他にも「標準色覚検査表」「CMT」「アノマロスコープ」など多様な方法がある(撮影/斎藤貴男) 6月3日に開かれた「日本色覚差別撤廃の会」の総会で講演する高柳泰世顧問。同会の創設当時から現在に至るまで、理論的支柱であり続けている(撮影/斎藤貴男)  小中学校での色覚検査が復活しつつある。そう、数種類の色のモザイクに隠された数字や形を読み取らせる、アレだ。創案者の名を取って、「石原式色覚検査表」と呼ばれる。ジャーナリスト・斎藤貴男氏がその実態に迫る。 *  *  *  30歳代前半以上の読者なら、一度は経験があるだろう。かつては毎年、1994年以降は小学4年生を対象に行われていた石原表による検査は、2002年の学校保健安全法施行規則一部改正で、健康診断の必須項目から削除された。ところがここ数年、にわかに再開機運が高まり、今や実施しない学校のほうが少数派になっている。 「キッカケは文部科学省が各都道府県教委の教育長に宛てた通知です。今の色覚検査は学校医による健康診断とは別に、教員の仕事にされがち。特段の研修もないので、後のフォローをと言われても……」(都内の養護教員) 「通知」は14年4月30日に、文科省スポーツ・青少年局長名で出された。従来も不安のある生徒には保護者の同意を得た上で個別に検査・指導できる体制整備を促してはいたのだが、そこに、こんな文言が追加されたのだ。 〈特に、児童生徒等が自身の色覚の特性を知らないまま不利益を受けることのないよう、保健調査に色覚に関する項目を新たに追加するなど、より積極的に保護者等への周知を図る必要があること〉  色覚検査の再必須化、ではない。にもかかわらず実施を奨励する奇怪な文書。そして翌々6月、スポーツ・青少年局の学校健康教育課が、都道府県教委の学校保健主管課への「事務連絡」に、保護者の希望を募る申込書のヒナ型が掲載されたURLを明記した──。  かくて導かれたのが現状だ。文科省に尋ねると、この間に部局名が変わった初等中等教育局健康教育・食育課の西尾佐枝子係長が、「実施しなさいとは言っていません。やるかやらないかは、各教育委員会と学校の判断です」。  色覚とは色を識別する能力のことだ。視力や視野と同様に、視細胞の機能次第で色の見え方が他の人々と異なることがあり、医学的にはその状態を色覚異常という。ただし日常生活に支障があるような場合は皆無に近いとされる。 ●塗装業やカメラマン…根拠を示さずに決めつけ  先天的な色覚異常は遺伝による。日本人男性の約4.5%(白人は約9%とされる)、女性の約0.2%に発現する。敏感な色(赤、緑など)によってタイプが分かれるが、本稿では割愛。大方の人々には関係のない話だと思われるかもしれないが、これがなかなか複雑な問題なのだった。  深い危惧を抱いている人々がいる。 「学校での色覚検査は差別の温床になります。だから原則廃止されていたのに。希望者にとは言っても、学校でやれば事実上の強制になりやすい」  憤るのは「日本色覚差別撤廃の会」の荒伸直会長(64)だ。同会の高柳泰世顧問(86、本郷眼科・神経内科院長)も、「学校での健康診断には、事後のフォローが伴わなければいけません。それがない典型が色覚検査です」。  撤廃の会は94年、色覚異常者に対する偏見や社会的差別の解消を目指して設立された、主に当事者の団体。16年前に学校健康診断のメニューから外れたのも、運動の“成果”だった。 「とりわけ許せないのは、日本眼科医会が病院などに配布したポスターです。現在も採用時の制約が残っている職種だけでなく、塗装業やカメラマン、美容師、板前、服飾販売などまで難しいと、根拠も示さずに決めつけている。多くの人々の努力でやっと進学や就職時の差別が減ってきて、それで特段の不都合も生じていないのに、これでは元の木阿弥にされかねない」(荒氏)  学校での色覚検査を推進する側の考えはどうか。日本眼科医会の宮浦徹理事(68、宮浦眼科院長)を訪ねた。 「私自身は学校医の立場から、子どもたちのために、というだけです。眼科医会でも中断以降、再開を訴え続けていましたが、10~11年度に全国で941人に聞き取りをしたところ、検査を受けていなかった子が進学や就職の際に異常と診断されて戸惑ったり、仕事に就いてからトラブルになったり、という実例が少なくない実態がわかった。そこでいろいろ働きかけました」  13年4月、衆院予算委の第4分科会で、民主党の笠浩史議員(現・無所属)が当時の下村博文文科相とスポーツ・青少年局長から、学校での色覚検査に“前向き”な答弁を引き出す。日本眼科医会は同年8月に文科省の「今後の健康診断の在り方等に関する検討会」で報告し、同年9月には記者会見も。12月、「検討会」がまとめた意見書には、保護者に対する色覚検査の積極的な周知を図る必要が盛り込まれた。 ●徴兵検査で使われた石原式 学校の身体検査にも広がる  ところで日本眼科医会のポスターは、東京女子医科大学の中村かおる講師(59)の「先天色覚異常の職業上の問題点」(「東京女子医科大学雑誌」第82巻臨時増刊号、12年1月)に登場する職業名を並べたものである。緑のズボンの裾上げに茶色の糸を使ってしまったアパレル勤務26歳とか、動物の血便に気づかず辞職を勧告された牧畜業25歳等々の具体例が紹介されている。中村氏に会った。 「私は担当の色覚外来で受診者の事情を伺い、データを積み重ねてきました。日頃は問題なくても、実は仕事で困っている方が多くおられます。就業に制約を課す必要のある仕事はほとんどないけれど、仕事の内容によっては何か困ることが起きるかもしれません。今も制限が残る職種には根拠があるとも思います。これから社会に出ていく人は早めに検査しておいたほうがいい。自分の色覚を承知していれば、支障に備えたり、対策を工夫したりもできるのですから」  強烈なポスターとはやや印象の異なる話だった。彼女はこうも語った。 「息子が2歳の頃に色覚異常を発見したのが、この研究に対する私のモチベーションになりました。産んだ時に私の父の色覚を知らされ、そのつもりで見ていたので気がついたんです」 “原子論の始祖”ことジョン・ドルトン(1766~1844)は“色盲”だった。彼が18世紀末に発表した自身の観察結果が、この分野での世界初の学問的研究とされている。  1875年、スウェーデンのラーゲルルンダという地方で列車の衝突事故があり、多くの死傷者を出した。信号操作の過失が原因と断定されたが、後に生理学者F・ホルムグレンが、死亡した運転士の色覚に問題があったと主張。各国で鉄道会社の採用試験に色覚検査が導入される契機となった。  あえて“色盲”の表現を用いたのは他でもない。実際にそう称されていた時代の事実は、言い換えてしまうと当時の空気が伝わらないからだ。  色覚検査には多様な方法がある。日本では陸軍の依頼で東京帝国大学教授の石原忍氏(1879~1963)が16(大正5)年に創案した「石原式」が絶対視されてきた。仮性同色表と呼ばれる検査表の一種で、他の検査方法よりも検出率が高いのが特徴。まず徴兵検査に使われ、たちまち学校の身体検査にも広がった。学校で日本ほど徹底した検査制度のあった国はない。 “色盲”差別は戦後も続いた。多くの企業や官庁が採用の条件に“正常な色覚”を挙げ、このため理系や教育系の大学や高校などで入学が制限される時代が長かった。80年代後半に前出の高柳氏らが行った調査では、その大部分が具体的な根拠を示すことができず、ただ「慣例による」と回答したという。悩んでいる子や保護者を標的に、「色盲は治る」と謳う商法も現れた。 ●進化の過程で淘汰されず種にとって有利だった?  実態が公になり、人々の人権意識も高まるにつれて、改善の方向性が定まっていった。雇い入れ時の色覚検査義務を廃止した労働安全衛生規則改正は01年。翌々年に学校での検査も必須でなくなった。現在もパイロットや管制官、警察官、自衛官などに採用制限が残っているが、たとえば警察官は、職務遂行に支障がなければOKと、運用が緩和されている。また消防職員の場合は、昨年消防本部ごとに色覚を採用条件にするか否かがまちまちである実態が明らかになった。  前述のスウェーデンの事故についても、英国の心理学者J・モロンらが12年、“色盲”との関連を裏付ける証拠はなかったとする精緻な研究成果を発表した。ホルムグレンは、トリックを使って世間を欺いたのだという。事故から137年が経っていた。  筆者も当事者だ。子どもの頃は「健康手帳」の類(たぐい)にいつも「色弱」と書き込まれ、自分はデキソコナイだと思ってつらかった。理系に進む学力はなかったし、就職でも制限されそうな職種には初めから興味がなくて実害もなかったが、出版と放送には受験資格がない(当時)ことには理不尽を感じた(後にある雑誌社でカラーグラビアを担当もした)。結婚する時、相手に「俺、色弱だけど、いい?」と念を押した。  誰もが善意なのだとは思う。ただ、気になるのは、筆者がさる2月、夕刊紙の連載コラムで最初にこの問題を取り上げた際の反応だ。ネット上に「色盲の奴に大事な仕事に就かれちゃ迷惑なんだよ!」という声が溢れていた。  あるいはまた、石原表の評価を満天下に知らしめたのは、太平洋戦争前夜の「新体制運動」下で、朝日新聞社がとった態度だったという。“色盲”には一方で濃淡のコントラストを強く感じる特性があり、擬装された敵陣を発見するのに米軍が活用しているとの報を機に石原表を礼賛し始め、41年には石原氏に「朝日賞」まで授賞した。  その過程を分析した東京農業大学の鈴木聡志准教授(57、教育心理学)の話。 「朝日新聞は、石原表を優秀で、世界に認められ、日本人が苦心して創り出した日本の誇りだと強調していました。挙国一致の戦時体制を固める新体制運動にあって、民族の優越をアピールするには格好の素材だったのでしょう」 “日本スゴイ”と自画自賛する本やテレビ番組が激増する近年の風潮と、どこか重なってはこないか。日本眼科医会の宮浦氏はこうも話していた。 「学校での検査がなくなった当時は、人権派の政治家が多かった。今は右の人が増えている。政治状況の変化が、我々には追い風になったと言えます」  だからいけない、と言いたいのではない。推進派の主張には一理がある。だが論理的には筋道が通っても、現代の日本社会は、学校での検査復活に耐えられるほどに成熟しているのだろうか。  東京大学大学院新領域創成科学研究科の河村正二教授(55)に会った。中南米の新世界ザルや、ゼブラフィッシュを使って色覚の研究をしている自然人類学者は、こんな話をしてくれた。 「ホモ・サピエンスの登場から20万年。ホモ(ヒト)属に遡れば200万年です。進化の過程で、環境や生態条件の変化に対応しながら柔軟に多様化したらしい“色覚異常”が淘汰されなかったのは、そのほうが種にとって有利だったからではないか。本来はABOの血液型──優劣では語られない──と同じような性格のものだったのかもしれません。それが産業革命に伴い、色をつけることで物を区別する方法が広まり、特性による有利、不利が生じてしまったように、私は思うのです」  日本遺伝学会が昨年9月、「色覚異常」の用語を「色覚多様性」に改めたという報を思い出した。成熟しつつある領域は確実に存在する、のだが──。(ジャーナリスト・斎藤貴男) ※AERA 2018年7月23日号
AERA 2018/07/23 11:30
田原総一朗「安倍政権の無責任な原発増設計画 小泉元首相は…」
田原総一朗 田原総一朗
田原総一朗「安倍政権の無責任な原発増設計画 小泉元首相は…」
田原総一朗(たはら・そういちろう)/1934年生まれ。ジャーナリスト。東京12チャンネルを経て77年にフリーに。司会を務める「朝まで生テレビ!」は放送30年を超えた。『トランプ大統領で「戦後」は終わる』(角川新書)など著書多数 田原氏は何人もの自民党の幹部たちに、原発問題の責任者になるべきだ、と口説いたが…(※写真はイメージ)  7月3日に閣議決定された、新たなエネルギー基本計画。ジャーナリストの田原総一朗氏は、安倍政権の無責任な原発増設計画に疑問を投げる。 *  *  *  西日本がかつてなかった豪雨による大被害を受けたが、なんと気象庁が「記録的な大雨になる恐れあり」と発表した7月5日の夜、安倍首相をはじめ自民党の幹部たちが、衆議院議員宿舎で開かれた“赤坂自民亭”なる懇親会に出席したことが露呈して大批判を浴びている。  こんなときに場違いな話題で申し訳ないが、今回は原発問題について記したい。  3日に閣議決定した新たなエネルギー基本計画が、あまりにも無責任だと思えるからである。  たとえば、小泉純一郎氏は、首相時代は原発推進派であった。その小泉氏が原発反対を打ち出すことになったのは、フィンランドのオンカロを見学した後である。オンカロとは、地下500メートルくらいのところに空間をつくり、原発の使用済み核燃料を保管する場所のことなのだが、小泉氏が「オンカロに保管された使用済み核燃料が無害化するのにどのくらいかかるか」と問うと、答えは10万年であった。そこで小泉氏は原発反対となったのである。  だが、日本にはオンカロもなく、またオンカロをつくる具体的な計画もない。それでいて何の処理もされていない使用済み核燃料が、すでに1万7千トンもあるのだ。  ところが、経済産業省は2030年度の電源構成について、原発比率20~22%を目指す、としている。となると、30基程度の稼働が必要である。  東日本大震災で、福島の東電原発が深刻な事故を起こして、すべての原発が停止され、再稼働したのは関西電力や九州電力などの計9基だけである。  しかも、日本では原発が稼働できるのは40年間とされていて、現在ある原発がすべて再稼働したとしても、とても30基にはならない。その半分程度である。  となると、経産省の目標を実現するには、原発の新設が必要になる。経産省の目標ということは、つまり安倍内閣の目標でもある。  だが、繰り返し記すが、オンカロをつくる具体的な計画さえもないのだ。何代もの経産相にそのことを直接問うたことがある。誰一人答えることができなかった。実は、何度もオンカロをつくるための候補地を求めたのだが、どの県も“否”だったのである。  それでいて、原発の新設地など見つかるのか。  無責任といえば、高速増殖炉「もんじゅ」は、ほとんど仕事らしい仕事をしないまま廃炉となったのだが、「もんじゅ」についての総括をしないまま、政府は核燃料サイクルを構築すると決めているのである。  実は、自民党には、原発問題の責任者がいないのだ。  余計なことかもしれないが、私は何人もの自民党の幹部たちに、原発問題の責任者になるべきだ、と口説いた。あるいは私の口説き方が下手だったのかもしれないが、誰も引き受けなかった。やれば責任が重すぎると判断したのだろうか。  念のために記すが、私は10人以上の自民党の幹部たちに、これから原発の新設ということがこの国で可能なのだろうか、と問うている。可能だと答えた議員はいなかった。  それでいて、30年度には、原発が20~22%になる、つまり30基程度が稼働する、ということになっているのである。これを無責任と言わないのはおかしいのではないだろうか。 ※週刊朝日  2018年7月27日号
田原総一朗
週刊朝日 2018/07/18 07:00
記事を逆恨みした犯人が5人射殺 ピュリッツアー賞記者が語る地方紙リスクとは?
長野美穂 長野美穂
記事を逆恨みした犯人が5人射殺 ピュリッツアー賞記者が語る地方紙リスクとは?
銃撃されたキャピタル・ガゼット紙の6月29日付朝刊オピニオン欄。「きょう私たちは言葉を失った。職場で起きた木曜日の銃撃事件の被害者を追悼するため、このページを白紙にしました」と説明し、犠牲者5人の名前を掲載した(C)朝日新聞社 2015年のピュリッツアー賞ローカル報道部門を受賞したカリフォルニア州の地元紙デイリー・ブリーズ紙で記者として働いていたロブ・クズニアさん(筆者提供)  6月末、アメリカ東部のメリーランド州の地方新聞社、キャピタル・ガゼット紙で、5人のエディターや記者が、機関銃を手にニューズルームに押し入った男に次々と射殺された。  男は裏口をバリケードで塞ぎ、記者たちが室内から外に逃げられないようにする用意周到ぶりだった。  ショッキングなニュース映像をテレビで見ながら、筆者は「ついにこんな日が来てしまったか」と愕然とした。  キャピタル・ガゼット紙の発行部数は約3万部。メリーランド州の州都で、人口約4万人のアナポリス市のコミュニティに密着した地元のニュースを報道する新聞社だ。  38歳の容疑者、ジャロッド・ラモスは、2012年に、新聞社と当時同社のコラムニストだった社員を相手取り、自分について新聞社が掲載した犯罪事件記事が事実ではなく、名誉毀損だとして、地元の裁判所に訴えを起こしていた。  ラモスは、高校の同級生だった女性にフェイスブックで友人申請を送り、それを契機に、彼女に対しての長年に渡るストーキングといやがらせを続けてきた、と同紙は2011年に報じている。  彼女が働く銀行にメールを送りつけて彼女を解雇に追い込もうとしたり、彼女に自殺しろと執拗に迫っていたことが明らかになると、ラモスは有罪を認め、裁判官から謹慎処分を命じられた。  そんな一連の記事を掲載したキャピタル・ガゼット紙をラモスは訴えたわけだが、2015年に裁判所から「記事に間違いや名誉毀損の証拠は一切ない」との判決が下った。  自分にとって都合の悪い犯罪記事を書かれた逆恨みーーー。それがこの事件の動機なのは明らかだ。さらに地元警察は、この襲撃は突発的な犯行ではなく、計画的に準備されたものだと発表している。  筆者はミシガン州の地方紙で記者として数年働いた後、ロサンゼルスにある全国紙の記者に転職したが、米国の地方紙のエディターや記者、コラムニストが置かれている現状が、全国紙とは全く違うことを肌で感じてきた。  人口数千人から数万人の規模の街のローカルネタや地元の犯罪記事や裁判所の判決記事を書く記者たちは、近所のスーパーや、小学校、郵便局、レストランなどで、取材対象者たちと日常的に顔を合わせる環境で生活し、仕事をしている。  殺人、窃盗、幼児虐待、ストーキング、汚職、強姦、ドメスティック・バイオレンス、ドラッグがらみなど、さまざまな地元の犯罪が裁判所で日々裁かれ、それを実名報道するのも記者の仕事だ。  アメリカの新聞社では、全ての記事がバイライン制度(署名制)のため、誰がどの記事を書いたのか一目瞭然だ。さらに地元紙では、記者の顔写真やメールアドレス、電話番号も当たり前のように紙面やウェブ版に載っている。  ミシガンの地方紙で、私の同僚だった裁判所・警察担当の男性記者は、「あんな記事を書きやがって、覚えてろよ!」と被告の家族や友人から、街のコインランドリーで洗濯中にいきなり怒鳴られたり、バーで見知らぬ客に「帰り道は気をつけるんだな」と脅されたりしていた。  自宅への脅迫電話は日常茶飯事で、彼は自分の家の電話番号を地元のディレクトリーや電話帳に載せないような処置を取っていた。 「自分の娘たちに脅迫電話の内容を聞かせたくないから」と。  特に人口が少ないスモールタウンでは、住民の多くが顔見知りだ。新聞に実名で犯罪記事が載れば、それが街や職場ですぐ話題になる。犯罪数が圧倒的に多い大都市と比べ、小さな街では個人の「悪評」の伝達速度が圧倒的に速く、その影響力は計り知れない。  犯罪でなくても、地元民にとって「都合の悪い記事」を書かねばならない記者たちは、常に読者の「恨み」にさらされながら仕事をしていると言ってもいい。  例えば、地元高校の男子バスケ部のスター選手のひとりが、飲酒運転の疑いで裁判所に出頭を命じられたにもかかわらず、大会選抜メンバーからはずされず、州の準決勝の試合に出ていた事実を記事にすれば、地元民から「晴れの準決勝を台無しにするような記事を書くな」と、非難の声が新聞社や記者に殺到するといった具合だ。  筆者も、ある記事を書いた翌日に、その記事の取材対象者からいきなりニューズルームの席まで怒鳴り込まれたことがある。  多くの地方紙の社屋は、たいてい街の中心部にあり、そこに多数の地域住民が出入りしている。  全国紙のように、入り口に警備員がいて、IDを厳しくチェックするような体制はほとんどない。  新聞を買いにきたり、結婚や訃報の記事やスポーツ記事に使う写真や資料を自ら届けに来る地元民もたくさんいるため、誰でも比較的簡単にニューズルームに出入りできてしまう構造なのだ。  警備員が何人も配置されている全国紙のニューヨーク・タイムズ紙などとは、社屋の造り自体が違う。  筆者の場合は、勤務先のミシガンの新聞社が、秋になるとハンティング写真コンテストを主催していたこともあり、ハンターたちが自分が仕留めた「8ポイント」や「6ポイント」などの大きな角のある鹿を、トラックの荷台に積んで新聞社にやって来るのに毎回対応していた。  ハンターと鹿の写真を撮影し、どの鹿が一番大きいかを比較して紙面に載せるのも「仕事」のうちだった。当然、銃を持っているハンターたちと日頃から接するわけだ。新聞社が掲載した論説記事やコラムへの賛否両論なども、彼らから撮影中に何度も聞いた。ほとんどのハンターたちはフレンドリーだが、中には、論説記事に激しい怒りを露わにする人もいた。  そんな地方紙で働く記者たちの給料は、日本の大手新聞社の給料の半分から3分の1以下の薄給だ。彼らの多くは、ローンを組んで地元に家を買って住み、取材対象者や読者の子供たちと同じ小学校や中学校に自分の子供を通わせている。多くが夫婦共働きだ。通勤のための車のガソリン代など社から出ないから、通勤の交通費は自腹。よって必然的に新聞社の近所に住む社員が多い。  ランチを外食する記者もほとんどいなかった。皆手製のサンドイッチなどの弁当を持ってきて、朝8時には全員出社し、1日にひとり2-3本の記事を書くのが当たり前。取材時には、自分の車を運転していく。ニューズルーム内では警察無線が常に流れており、いざ何か事件が起きれば、カメラを掴んで記者が飛び出して行く。  夕方に一度帰宅して食事をした後は、夜の政治集会、ゾーニング会議、教育委員会の公開ミーティングなどを夜中まで取材する。土日はスポーツ、卒業式、祝日のパレードなどを手分けして取材するという超過密スケジュールだ。  殺された5人のキャピタル・ガゼット社員は、エディター、コミュニティ担当記者、論説欄のエディター、教育・スポーツ担当記者、セールス担当など、34歳から65歳までの男女だった。  発行部数約6万部のカリフォルニア州の地元紙デイリーブリーズで、教育担当記者として働き、2015年のピュリッツアー賞ローカル報道部門を受賞したロブ・クズニアさんは、「ローカル新聞は、地元で起こる事件を把握するハブ的な存在だけに、その記事によって、一定の数のエキセントリックな人間を引き寄せてしまう磁石のような存在でもあると思う」と語る。  クズニア氏がピュリッツアーを取ったネタである、地元教育長の不正を調査していた際は、「一応安全のために、教育委員会の建物の駐車場に自分の車を駐めないように、注意していた」と言う。  さらに、犯罪事件担当記者の同僚が、何者かにオンライン上で自宅の住所をさらされたこともあるという。新聞社はすぐ警察に知らせ、その住所を削除させる処置を取ったそうだ。  キャピタル・ガゼット紙で容疑者ラモスの記事を書いたコラムニストや当時の編集長兼発行人は、6月末の襲撃時にはすでに退職していた。  この元編集長は、ラモスがいつか新聞社に襲撃をかけるのではないかと恐れていたと語っている。新聞社の弁護士に相談し、警察に連絡してもいた。だが、ラモスの行動を規制するような具体的な対策は取らずにいた。 「彼の行動を警察監視の下で強く規制すれば、下手に相手を刺激して逆上されると思ったのだろう」(クズニア氏)。  米国では新聞業界が斜陽産業と言われて久しい。  人員削減、給与カットを迫られる地方紙。それでも発行部数、数千から数万部の地方紙が絶滅せずにしぶとく生き残っているのは、大手紙では決して読めない地元密着記事や写真を掲載しているからだ。  アナポリス市の詳細な記事は、ワシントンポストには載らない。だからこそ、地域住民からの需要がある。 「自分はコミュニティの目と耳の役割だから。逆恨みされても記事を書き続ける」。  筆者の同僚だったミシガンの裁判担当記者はそう語っていた。  脅迫電話だけでなく、彼の自宅には、地元刑務所内の受刑者から、人生相談の電話もよくかかってきていた。(在米ジャーナリスト・長野美穂) ●プロフィール 長野美穂(ながの・みほ) 東京の新聞社系出版社で雑誌編集記者として働いた後、渡米。ミシガン州の地元米新聞社で働き、中絶問題の記事でミシガン・プレス・アソシエーションのフィーチャー記事賞を受賞。ロサンゼルスの米新聞社での記者を経て、フリーランスジャーナリストとして活動中。
dot. 2018/07/17 16:00
「“ゴルゴ”の最終回は頭の中に」さいとう・たかをのやり残したこと
「“ゴルゴ”の最終回は頭の中に」さいとう・たかをのやり残したこと
さいとう・たかを/1936年、和歌山県生まれ。大阪府育ち。おもな作品に『無用ノ介』『サバイバル』『鬼平犯科帳』など。「連載50周年記念特別展 さいとう・たかを ゴルゴ13」を開催(盛岡展7月21日~9月9日、川崎展9月22日~11月30日)(撮影/加藤夏子)  もし、あのとき、別の選択をしていたなら──。ひょんなことから運命は回り出します。人生に「if」はありませんが、誰しも実はやりたかったこと、やり残したこと、できたはずのことがあるのではないでしょうか。昭和から平成と激動の時代を切り開いてきた著名人に、人生の岐路に立ち返ってもらい、「もう一つの自分史」を語ってもらいます。今回は劇画家、さいとう・たかをさんです。 *  *  *  私は自分が天才ではないことはよくわかっていました。あくまで職人であり、職人として読者を楽しませるものを60年以上描き続けてきたことに誇りを持っています。  さいとう・たかをの代名詞と言われる『ゴルゴ13』は好きで描き始めたわけじゃなくて、キャラクター設定もストーリーも、とことん計算して「こういう作品がウケるに違いない」と狙って始めました。毎回、どういう展開でどういうコマ割りにすれば読者が喜ぶか、とことん理詰めで描いています。それが代表作になっているというのは、職人であろうとしてきた自分にとっては喜ばしいことかもしれません。 ――家業は理髪店。父親は、絵描き、写真家、彫刻家、役者……とさまざまなことに手を出しては失敗し、さいとうが小学1年のときに家を出ていった。  子どものころから絵が大好きで得意でした。でも、おやじを見ていたおふくろは、私が絵を描くことを極端に嫌いました。大阪府の展覧会で金賞をもらった絵も、チラッと見ただけで丸めてかまどにくべてしまった。おやじみたいな人間に育つのが怖かったんでしょうね。母に言わせると、私は特におやじに似ているそうです。  子どものころから母親に「床屋になれ」と言われ続けて、中学を出たら理容学校に行かされました。サボってばっかりいましたが、どうにか半年遅れで卒業して、姉とふたりで理髪店を始めました。  手先は器用だったので、そこそこ客もついて、店は繁盛しました。ひいきのお客さんもつき始めて、それなりにやりがいも感じていました。ただ、理容師としては致命的だったんです。カミソリを持つのが怖かった。いくらやっても慣れずに、緊張して体が固まってしまう。  こんな調子ではとても続けられないと考えたとき、「やっぱり漫画を描きたい」という気持ちが膨らんできたんです。仕事を終えてから、夜中にこっそり漫画を描き始めました。  案の定、おふくろに見つかって、ものすごい勢いで怒られました。おふくろは泣きながら「好きこのんで野垂れ死にするつもりか」ってね。  でもそのとき、おふくろに生まれて初めて盾突きました。「この仕事は将来性があるんだ」と言い張ったんです。あそこで勇気を出してなかったら、カミソリの扱いがヘタクソな理容師を嫌々続けていたかもしれません。  おふくろもビックリしたのか、「1年だけ」という条件で許してくれました。諦めさせるための口実だったのかもしれません。  朝早くから夜遅くまで理容師をやって、夜中に漫画を描くという生活を続けました。休みも盆暮れだけ。姉貴も助けてくれたし、目標があると人間は頑張れるんですね。もうすぐ1年たつというときに長編を完成させました。当時は貸本ブーム。出版社に持ち込んだらすぐに本になることが決まったんです。  昭和30年に『空気男爵』という作品でデビュー。どんどん注文が来て店のほうは姉貴に任せっきりで、わけもわからず描きまくって、次々に本になりました。  おふくろは、認めてくれたのか、体を壊していたからか、黙って見守ってくれましたね。ただ、出た本には何の興味も示しませんでした。デビュー作だけは病床に持っていったんですが、読んでくれたかどうかはわかりません。 ――終戦直後、11歳のときに手塚治虫の『新寶島』を読んで「紙で映画みたいなことができるんだ!」と衝撃を受けた。同時に「漫画という分野は絶対に伸びる」と確信した。  予想外の早さで、想像をはるかに超える成長ぶりでしたね。まさか目の黒いうちに、漫画業界がここまで大きくなるとは思いませんでした。  私は“活動写真”が“映画”と呼ばれるようになったのと同じで、ストーリー漫画を“劇画”と呼ぶようにしました。  映画で100人出てくるシーンを作るとしたら、どれだけたいへんなことか。でも劇画ならペン1本で、100人でも200人でも、どんなアングルからのシーンでも作れる。こんな素晴らしい表現方法はありません。  ところが、劇画は、特に昔は「ひとりで描くもの」という固定観念が強かった。映画で言ったら、チャプリンみたいな天才ばかりを探しているようなものです。  この世界でも手塚治虫先生みたいな天才は出ますが、分業にすればもっともっとたくさんの作品を世に送り出すことができる。それに、絵は描けるけど話が作れない、話は作れるけど絵はうまくない、そんな人がいつの間にか消えていくのをたくさん見てきました。それはもったいないし、天才しかやれないなんていうのは、職業とは言えません。  私がほかの劇画家仲間と一番違っていたのは、劇画を「職業」として考えていたこと。その意識があったから、劇画で初めて「分業体制」を取り入れました。映画は監督がいて脚本家がいてプロデューサーがいて集団で作っていく。そんなふうに劇画の世界を変えたかったのです。 ――昭和35年にさいとう・プロダクションを設立。新しいスタイルでの作品作りをスタートさせた。  一応、分業化の先鞭はつけられたと思うけど、「まだまだやれたはずだ」という思いもあります。グループ分けして、それぞれで描いていったらすごい数の作品が作れたんだけど。結局、「さいとう・たかをのさいとう・プロ」になってしまった。  入ってくるスタッフにとって、私はあくまでライバルなんですよね。もっとプロデューサーに徹することができたら、劇画の世界は大きく変わったかもしれない。そこは劇画家人生最大のポカでしたね。 ――代表作の『ゴルゴ13』は、今年で連載50周年を迎える。単行本は現在、189巻を数える。  当初は10話で終わる予定だったので、最終回のストーリーは頭の中でもう決まっています。一時期、最終回のラフが金庫にしまってあるなんてうわさもありましたけど、それはデマです。私の頭の中にしかありません。いつ発表することになるのか、あるいは私が急にどうにかなって、永遠に発表する機会は訪れないのか、さてどうなるんでしょうね。  仕事以外でやり残したこと? まあ、私生活だね。やり残したというかやり損ねたというか。亭主も父親もまともにやれなくて、2回結婚に失敗しました。  子どものころから家に父親がいなくて、きょうだいも年が離れていたせいか、家族の形を知らないまま大人になった。そもそも、結婚という形態そのものに不信感を持っているからいけないのかな。一生ひとりだけを愛し続けるなんてあり得ない。世の中にはこんなにたくさんの異性がいるのに、無理があります。  子どもは娘が3人。最初のカミさんとのあいだに生まれたいちばん上の娘が、このあいだ還暦になりました。最近、やっと父親らしい扱いをしてくれます。  死んでも作品が読み継がれていくからいいですね、なんていう人もいるけど、死んだ後のことは知ったこっちゃない。いや、読んでもらえるのはもちろんうれしいですけどね。(聞き手/石原壮一郎) ※週刊朝日  2018年7月20日号
週刊朝日 2018/07/14 11:30
ブラックな落ち――納涼落語「たが屋」
ブラックな落ち――納涼落語「たが屋」
ヒュルルル……バーン、バーン、バーン! この音を聞いただけで「あ、花火だ!」と、誰しもスイッチが入り、一気にテンションが上がるのではないでしょうか。夜空を艶やかに彩る大輪は夏の風物詩。浴衣(ゆかた)に団扇(うちわ)、出店(でみせ)……。恋人、友達、家族と美しい夏の思い出になりそうです。 そう、花火シーズン到来に際し、江戸っ子も大好きだった花火をネタにした噺(はなし)を今回はご紹介。ただし、大勢の人が集まるところはなにかと危険がつきもの。落語「たが屋」では、あっと驚く冷や汗が出そうな"落ち"が待っています。 「たまや~」「かぎや~」のかけ声の由来は…… 江戸時代、花火は「鍵屋」と「玉屋」の二大花火屋が技を競い合っていました。今も、花火が上がると見物客から「たまや~」「かぎや~」とかけ声が上がるのは、その縁(えにし)からですね。 玉屋は鍵屋から暖簾(のれん)分けして独立した店ながら、語呂のよさと腕のよさから、「たまや」のほうが「かぎや」より、かけ声は多かったそうです。 ところが、玉屋は火事を起こし、天保14(1843)年に取りつぶしになってしまいました。 そんな玉屋をあわれんでか、花火を上げるのが鍵屋だけになっても「たまや」のかけ声のほうが多く、今も花火と言えば「たまや」の声がかかるようになったということです。 『橋の上玉屋玉屋の声ばかりなぜに鍵屋といわぬ情(錠)なし』という川柳もあるほどです。 江戸時代、花火は年中行事だった 安永年間(1772~1881)、隅田川の川開き(5月28日)に催される花火大会で、両国橋の周辺は黒山の人だかり。押し合いへし合い、揉み合いながら人々は花火を見物していました。 そこへ、身分の高そうな侍が、伴の侍を二人従え、馬に乗って橋を渡ろうとします。 「寄れ寄れ、寄れいっ」 「おい、馬だ、馬だ、そっちへ寄ってくれっ」 「寄れないよ。もう欄干(らんかん)だから、これ以上は寄れないよ」 「もっと寄れよ、欄干の外へはみ出して」 「冗談言うねえ、川へ落っこちらあ」 群衆は必死になって馬をよけようとしますが、一行はそんなことにはかまわず人混みの中を割って入ってきます。こうなると群衆はばたばたと将棋(しょうぎ)倒しになります。……迷惑な話ですね。そうして、逆の方向からやって来たのがたが屋です。隅田川にかかる両国橋 「たががゆるむ」「たががはずれる」とは…… たが屋とは、桶(おけ)や樽(たる)のたが(木片を締める竹)がゆるんだ際に、締め直したり、新しいたがに交換して歩いた職人のこと。今も「たががゆるむ」「たががはずれる」というような言いまわしがありますね。 仕事を終え、道具箱を抱えて両国橋にさしかかってきたたが屋、花火を失念していたことに気づくも、後の祭り。もう引き返すことはできません。そうして両国橋の真ん中で、侍一行とたが屋が鉢(はち)合わせしてしまいます。 「寄れ寄れ、寄れと申すに……」と、侍が言うのに、たが屋は「へえ、すいません」。 寄れと言われても、大層な人混みの中、道具箱をかついでおり、たが屋も身動きが取れません。 「ええ、寄れ、寄らんか」 しびれを切らした伴侍(ともざむらい)はたが屋の胸を突き、その拍子に、道具箱の中のたががはずれてしまったのです。さらに馬上の侍の笠の縁(ふち)に当たり、笠をはじき飛ばしてしまいます。 「無礼者!」 「へえ、ご勘弁ください」 「いいや、ならぬ。この無礼者め。ただちに屋敷に同道いたせ」 侍はたが屋をお手打ちにでもしかねない剣幕です。「家には目の見えない母親がいるので、どうかご勘弁を……」とたが屋が許しを乞い、周りの見物人もたが屋に加勢するも、侍は容赦しません。樽(たる)に締められたたが 違う意味で“涼”を感じられるブラックな落ち ここで開き直ったたが屋、江戸っ子の啖呵(たんか)を切り、 「斬(き)るなら、斬ってみやがれっ」 瞬時、馬上の侍はその勢いにたじろぐも、「斬り捨ていっ」と言い放ちます。 しかし、伴侍が刀を抜くも、ふだん内職に追われて刀の手入れまで手がまわらず、腕も刀もすっかりさびついてしまっていたのです。 一方のたが屋は、いつも桶の底をひっぱたいているから腕っ節は強い。あっさりと刀を奪い、伴侍を次々斬り倒してしまったのです。 そうして、馬上の侍が馬を降りて槍を構え、双方、睨(にら)み合い。隙を見て侍が槍を一気に突き出しますが、たが屋は俊敏にひょいとかわし、その槍をつかんでしまったのです。 仕方がないので、侍は槍をはなします(「やりっぱなし」とはこのこと)。 槍をつかまれた侍が刀の柄に手をかけた瞬間、たが屋が斬りこみ、勢いあまって侍の首が、中天へぴゅーぅと上がります。これを見ていた見物人、 「上がった、上がった………たぁがや―」 夜空に上がる花火になぞらえた落語の演目ですが、違う意味で“ブラックな涼”を感じた方も多いのではないでしょうか。 ──「火事と喧嘩(けんか)は江戸の華」。 夜空に咲く花火、炸裂(さくれつ)する花火の音……が聞こえてきそうですが、これから全国各地で花火大会が開催されます。花火を夏の思い出にするためにも、しっかりと心の「たが」を締めて、マナーと節度を心がけたいものです。 ※明日から3日連続で「全国の花火大会特集」を予定しています。どうぞお楽しみに!「上がった、上がった………たぁがや―」 
tenki.jp 2018/07/07 00:00
鈴木おさむが特番“東京危険度マップ”を提案 そのワケは?
鈴木おさむ 鈴木おさむ
鈴木おさむが特番“東京危険度マップ”を提案 そのワケは?
鈴木おさむ/放送作家。1972年生まれ。高校時代に放送作家を志し、19歳で放送作家デビュー。多数の人気バラエティーの構成を手掛けるほか、映画・ドラマの脚本、エッセイや小説の執筆、ラジオパーソナリティー、舞台の作・演出など多岐にわたり活躍。「ママにはなれないパパ」(マガジンハウス)が好評発売中 ブロック塀が崩れた大阪府内の小学校  放送作家・鈴木おさむ氏の『週刊朝日』連載、『1970年代生まれの団ジュニたちへ』。鈴木氏は「地震の危険度測定調査」に衝撃を受けたという。 *  *  *  千葉、群馬ときて、大阪で震度6弱。日本に住むことは地震と共に暮らすことだと思わないといけない。日本はいつどこに地震が来てもおかしくない。大阪で地震が起きた日、高槻で起きた火災をテレビで中継していた。地震は地震だけじゃなく、津波はもちろん、火災の怖さもあるのだと改めて思う。  もし、今、地震が来たら自分が住んでる地域ってどんな状況になるのか?と考えながら検索していたら、あるサイトを見つけた。これがどのくらいメジャーなのか知らないが、けっこう衝撃を受けました。  東京都都市整備局が発表している「地震に関する地域危険度測定調査」って知ってますか? 東京都は、都の震災対策条例に基づき、昭和50年に第1回を発表してから定期的に建物などの最新のデータを入れておよそ5年ごとに調査を行い、現在は、8回目のデータが発表されているんです。東京都が正式にこういうものを発表していたなんて知りませんでした。  建物の倒壊危険度、火災危険度、総合危険度を測定し、危険性の度合いを五つのランクに分けて評価しているのです。  ランク1だと危険性が低く、5だと危険性が高い。  そして、いきなり東京都の地図に、色づけされたマップが公開されています。危険度ごとに色が塗られています。半分くらいは危険度1~2なのですが、危険度4、5のところもはっきりと記されている。  それがどこの場所なのかは自分の目で確かめていただくとして。  地図以外に、詳しいことが書かれたリサーチデータをダウンロードして見ることができます。そこには「○○区○丁目」までのデータが出てくるんです。ドキドキしながら自分の住んでいる区と丁目を探してみると。危険度ランクは1だった。ほっとする。良かった。仕事場のある場所も調べてみると、そこもランクは1。ただ、近くの場所はランク2だったり、3の場所もあったりする。自分のところが1でも、近くは3だったりすると、保育園がある場所は? 帰り道は?とか、いろいろ調べてしまう。  このデータは都が公式に発表しているものなので、知っているべきだなと強く思った。僕が調べた限りでは日本全体のものはなかった。他の県でも出しているのかもしれないが。  このデータを知っている人ってどのくらいいるのか? もっとテレビの力を使って知らせるべきだと思った。たとえば、テレビ番組で「今夜発表! 東京都内危険度マップ すべて教えます」とか特番を作ったら、注目を集めるだろう。NHKにはぜひ3時間特番を作っていただきたい。こういうデータを、データやニュースとしてとどめるのではなく、もっと多くの人に届くようにすべきだ。危機感を無駄に煽るなと注意してくる人もいそうだが、逆に煽るくらいしないと、油断する人も少なくない。日本で暮らすことは、地震と共に暮らすこと。  まだ見てない人は、サイトを見て、調べていただき、自分の環境を知っておくべきだと思う。 ※週刊朝日 2018年7月13日号
地震鈴木おさむ
週刊朝日 2018/07/05 16:00
昇太、小遊三、米助、歌春が語る歌丸師匠の爆笑秘話「実は亭主関白、野球で例えると、王貞治かな」【後編】
上田耕司 上田耕司
昇太、小遊三、米助、歌春が語る歌丸師匠の爆笑秘話「実は亭主関白、野球で例えると、王貞治かな」【後編】
笑点メンバーと桂歌丸さん (c)朝日新聞社 都内で記者会見した、(左から)春風亭昇太、三遊亭小遊三、桂米助、桂歌春(撮影/上田耕司)  落語家の桂歌丸さんが慢性閉塞性肺疾患のため逝去して一夜明けた3日、日本テレビ系演芸番組『笑点』で司会をしている春風亭昇太(58)、歌丸さんが会長を務めていた落語芸術協会の会長代行を引き継いだ三遊亭小遊三(71)、歌丸さんの弟弟子の桂米助(70)、一番弟子の桂歌春(68)が都内で記者会見した。 「『笑点』では5つ年上の奥さまに頭が上がらないふうに言っていたが、実際は亭主関白」「だじゃれを言うなと言っていた」「最後まで呼吸器を付けていた。鼻の頭がすりむけていて痛がっていた」など、「笑点」の舞台裏や人柄をしのぶエピソードをそれぞれが笑いを交えながら明かした。  歌丸さんの通夜・葬儀は家族から「最後は歌丸ということではなく、椎名巌(本名)として惜しみたい」という希望から9、10日に近親者のみで行われる。  お別れ会は翌11日、横浜市の妙蓮寺で午後2時から開かれる予定だ。  以下は記者会見の一問一答。 ※昇太、小遊三、米助、歌春が語る歌丸師匠の爆笑秘話「お弟子さんに『オレが死にそうなのにテメェたちは来ねぇ』と」【前編】よりつづく ──何度も手術をし、ご自身は病気をもネタにしていた。ご家族、奥様とはどのようなご夫婦でしたか。 米助「歌丸師匠は20歳ぐらいで、5つも年上の人と結婚している。普通5つも年上の人と一緒になりませんよ。いかに惚れてたかということ。奥様にはほとんど口を出させなかった。稽古へ行っても、2階でやってたんですが、奥様は絶対、2階に来なかった。稽古が終わると、奥様がお茶を出してくれた。『笑点』ではとにかく奥様に頭が上がらないという風に言ってましたけど、本当はあんな亭主関白はいないんじゃないかというくらいでした」 ──奥さまは稽古場には行かなかった? 米助「たぶん、歌丸師匠は仕事場には顔を出させていない。たぶん、末広亭とか浅草とか国立とか、奥様は楽屋に顔を出したことがないと思う」 小遊三「万事、飲み込んだような余裕のある奥さま。いると安心させてくれる。最初に会った時、(女優の)草笛光子に似ていると思いましたね。スタイルが良くて美人で」 米助「そのくらいいい女だった」 昇太「私は夫婦のことはわからない(笑)。ほんとに控えめな奥さんで、素敵な方なんですよ。歌丸師匠の叙勲のパーティでお会いしたことがあるくらい。最初は誰だかわからなかった。一門ではないし、普段お会いしてないので」 ──みなさんはきのう、歌丸師匠とご対面しているわけですが、どんな言葉をかけましたか。 米助「僕は、ほんとに下っ端の時から公私に渡って、歌丸師匠が面倒を見てくれた。『師匠ありがとうございました』しかない」 小遊三「最後の死に物狂いの努力を僕らはイヤというほど見せつけられているので、『ああ楽になりましたでしょうね』という言葉」 昇太「僕はまだお会いはしてませんけど、小遊三師匠がおっしゃったように、直接指導されたわけではないんですが、歌丸師匠の高座の姿勢を見せていただいてありがたかったと思います。かっこよくて素敵な師匠でした」 歌春「歌丸はとても意志が強く、そして運も強くて、芯も強い人。ですから、苦しい時でも見舞い客に対しては苦しいとか痛いと言うことはめったになかったんですが、さすがに危篤を過ぎて、意識が回復して、医師やおかみさんたちだけになると、『苦しい、楽にしてくれ』ということを言っていた。そのときに、『ダメですよ、お客さんが待ってますから、がんばりましょう』と言ったんです。『楽にしてくれ』という言葉がとても辛かったですね。ほんとに苦しい時に安楽死という言葉があるんだろうなと思いました。それを乗り越えて生き返り、何度も何度も奇跡を起こした。最後まで呼吸器を付けていた。鼻の頭がすりむけていて痛がっていた。全部から開放されて『師匠おつかれ様でした』と言いました」 ──81歳でしたが、落語にかけた人生をどう感じているか。 小遊三「実は人にはないすばらしい才能、天分があったと思う。あれだけの古典落語をきっちり、自分の思った通りにしゃべるというのをやっている噺家はそんなにいない。大先輩と比較しても、歌丸師匠のすばらしい切れ味というか正確さというのはそういない。素晴らしい」 米助「とにかく、生き方から何からすべて芸に向かっている方。歌丸師匠はだじゃれを言うと、『あんたそれはぐじゃれだよ』と言うんですね。だじゃれが大嫌いな人で、何かしゃれを言うんならユーモアのあるものを言えよと、すべて芸に結びつけていた。野球で例えると、王貞治じゃないかという感じ。長島(茂雄)さんのように天性だけじゃない」 歌春「『師匠は喋るのも苦しいでしょうから、ただニコニコしているだけでお客さまは喜んでくれますよ』と言ったんですが、そのときも師匠は『いやいやそうはいかないよ』と言っていた。続けてきた歌丸独演会が大きな財産になった」 ──歌丸師匠の心配事は何だったのでしょうか。 米助「一番心配なのは弟子だったんじゃないか。弟子ばっかりが心配をかけていた。あとはマイペースというか自分の芸をしていた。愚痴も聴いたことがない。酒も飲まないくせに酒飲みの食べ物が好きでね。塩辛、いか、いくら、からすみ。あと好きなのはせんべい。塩せんべいはダメでしょうゆせんべい。しかも硬いやつですね。あんこも、つぶあんはダメでこしあん。しろあんはダメ。ほんとのあずきのあんこじゃないと食べない人でした」 歌春「浅草のある店のせんべいが大好きだったんですが、店主も頑固で『お客は並ばないと買わないよ』という。もちろん、歌丸も並んだんですが、がんこ同士で喧嘩になっちゃった。『お前んとこじゃ、買わない』と言ったんですが、やっぱりどうしても買いたいということで、弟子が買わされに行きました(笑)。落語を残すのは落語家の仕事だと言っていました。歌丸はお客様から『あの人は名人だね』と言われるようになりなさいと言ってました。笑いたくて来ているんだから、そういうお客さまを満足させるようになりなさいよと言われてました」 昇太「自分のやっていることが一番心配で、人のことはあんまり考えてなかったと思います。やっぱり、協会のことはすごく考えていてくれて、歌丸師匠があまり表に出られないので早く会長の座をとは言っていた。協会の顔なんで早くとは言ってたんですね」 小遊三「それは言ってたんじゃなくて、言ってたようでしょう。確証がないわけです。私は小遊三さんにお願いしたいということを聞いてます。こないだの総会で、歌丸師匠の体調が良くないので、私が会長代行を来年の総会の前日までと、そのむねを歌丸師匠にも事務局長を通じて報告してあります」 ──代行は取れますね。 小遊三「いやいや、取れない、取らないですよ。別に誰が代行ということがなくても、務まる業界であります。どうかご心配なく。みんなの力で。そのために理事会というものがあり、そうそうたるメンバーが熱い意見を戦わせております。みなさんの総意で進めて何の問題もないと思います」 米助「今月の日曜日、三越落語会で私が中トリで、歌丸師匠がトリを務める予定ではありました」 ──落語の未来をどのようにお考えですか。 米助「ほんとに歌丸師匠は動員力があったので、お亡くなりになって、落語界のピンチ。こういう時こそ開き直って、ピンチをチャンスに変える。落語芸術協会一丸になって、いかにお客さんに来てもらえるか」 小遊三「お客さんにどこへ来てもらいたいかというと、寄席の方へ来ていただくということですので、よろしくお願いします」 歌春「空前の落語ブームというくらい、寄席にはお客が増えております。また来ようというリピーターを増やすのが私たちの一番の使命だと思っています」 昇太「歌丸師匠は、落語を壊さないでくださいねということをおっしゃっていた。今、古典落語に新しいギャグを入れるというのが流行っている。それについて憂えていたんじゃないかと思うんですね。それぞれがそれぞれの考えで落語をやっている。いろんなタイプの落語家が出ることで、いま、落語がいい感じになっている。新しいギャグを入れずに古典落語をやるんだという方がいなくなったことは損失ではあるが、ますます後に続く者ががんばっていかなきゃいけないと思います」 (本誌・上田耕司) ※週刊朝日オンライン限定記事
お悔やみ
週刊朝日 2018/07/03 00:00
経済損失は最大15兆円 一億総“睡眠不足”時代のリスク
経済損失は最大15兆円 一億総“睡眠不足”時代のリスク
寝具店での接客。快適な睡眠を求めて好みの枕をつくる人も増えている 日本人の4割は6時間未満の睡眠時間になっている(週刊朝日 2018年7月6日号より) 睡眠負債のチェック項目(一つでも当てはまれば要注意)(週刊朝日 2018年7月6日号より) すみやかに寝るための10カ条(週刊朝日 2018年7月6日号より)  7時間は必要ともいわれる睡眠時間。厚生労働省が調べたところ、7時間に満たない人が、20歳以上の男女全体の7割を超える結果に。しかも現代人の睡眠時間は減少し、多くが「睡眠負債」を抱えているのだ。そこには様々な健康リスクが伴っている。  年齢を重ねると、眠りが浅くなったり、分断されたりする。睡眠ホルモンと言われるメラトニンの分泌が減るためだ。高齢者の3割が不眠症で悩んでいるとも言われる。無論、高齢者でも、とくに高血圧や糖尿病の持病がある場合、睡眠負債が心筋梗塞(こうそく)や脳卒中のリスクを高める。  日常生活での活動量が減ったせいで、夜に眠れなくなる高齢者は少なくない。頻尿で目を覚まし、睡眠を分断される人も多い。 「日中あまり動かず、うたた寝をするなど、生活のメリハリがなくなると不眠に陥る。日中は積極的に活動し、体のリズムを整えましょう」(睡眠評価研究機構代表で医学博士の白川修一郎さん)  まとめて寝ないと負債はたまるという。 「睡眠が分断されると、体温が低下しないので交感神経が休まらない。自律神経に失調を起こしやすくなる。お昼寝は正午~午後3時の間に30分ぐらいにして、その後は活動してください。病気があると睡眠の質は悪くなります。特に夜間頻尿があると睡眠が妨害されます。3回以上ある人は泌尿器科に行って治療してください。最低でも6時間を切らないように睡眠をとりましょう」(同)  睡眠時間が長すぎるのもよくない。施設などに入ると他者との対話が減り、ベッドに横になりがちだ。昼夜問わずに寝ていると睡眠の質は悪くなる。 「そういう人は生活のメリハリがなくなり、運動機能や認知機能が低下します。7、8時間の睡眠制限をしましょう」(同)  高齢者は早朝の散歩も要注意だという。 「散歩は午後にしたほうがいい。起床直後に激しい運動をしたり朝風呂に入ったりすると、『モーニングサージ』という朝方の急激な血圧上昇による脳卒中を起こすことがあります。朝はちゃんと体が目覚めていないので転倒しやすいですから、早朝散歩は気をつけましょう」(同)  仕事柄、ゆっくり眠れない人もいる。日本人の約2割が夜勤を含む交代制勤務で働いているとされる。運転手や警備員、看護師ら夜間でも働く人たちは、体内時計が乱れがちだ。 「体内時計は朝食を決まった時間にとり、朝の光を浴びると乱れにくくなります。夕食の時間もある程度決めておくとよいでしょう。夜勤に入る前に仮眠をとっておくと、すごく楽になる」(同)  子どもの睡眠負債も要注意だ。  文部科学省は「早寝早起き朝ごはん」を推奨している。同省の調査では、小学生の半数以上が夜10時過ぎまで起きている。午前0時過ぎまで起きているのは中学生だと22%、高校生だと47%にのぼる。成長期の中高生が大人と同様に夜更かしを続けている。  明治薬科大学の駒田陽子准教授は、成長期の子どもの睡眠不足をこう懸念する。 「アメリカ睡眠財団が出した年代別の必要睡眠時間は、6~13歳は9~11時間、14~17歳は8~10時間です。夜遅く寝て学校に遅刻しないように朝早く起きる日本人の子どもは、睡眠時間が短い」  文科省の実態調査では、不登校になったきっかけの一つに「生活リズムの乱れ」(34.2%)があった。 「睡眠は心身の健康や成長に大きな役割をはたす。睡眠時間と脳の発育には正の相関があり、時間が長いほど記憶をつかさどる海馬の体積が大きくなる。様々なホルモンが睡眠中に分泌され、体の機能を調整している。睡眠が十分でないと注意散漫になり、授業に集中できない。気分が抑うつ的になり、友達と良い関係を築けないといったことも起きやすくなる。成長過程にある子にとって、睡眠は大人よりも重要です」(駒田准教授)  子どもが夜遅くまで起きている要因の一つはスマホだ。就寝前にスマホでゲームやネットをする子は朝起きるのがつらい。早稲田大学の柴田重信教授(時間栄養学)はこう話す。 「スマホやテレビのブルーライトは、眠りを誘発するメラトニンの分泌を抑制する。眠りにつく時間が遅くなり夜型になってしまう」  テレビが居間にしかなかった時代には、親が子を注意しやすかった。今は子どもが自室の布団でスマホを見る時代。寝る前のスマホは控えるように、親子でしっかり話す必要がある。  現役世代も高齢者も子どもも、年齢を問わず、睡眠負債を抱えるリスクがある。だが、社会はますます「夜型」になってきている。  NHK放送文化研究所の国民生活時間調査によると、平日の1日の平均睡眠時間は、1960年には8時間を超え、9割超の人が夜11時までに就寝していた。ところが、2015年には、睡眠時間は7時間15分に減り、11時までに寝る人は4割に。  24時間営業のコンビニが乱立し、スマホでいつでもネットにつながる。こうした社会環境の変容に伴い、夜に活動する人が増え、平均睡眠時間はこれからも減りそうだ。  24時間稼働する社会は、実は多大な経済損失の上に成り立っている。  世界的なシンクタンクである米ランド研究所が、睡眠不足による経済損失を調べた。「死亡率上昇による労働人口の減少」「仕事のパフォーマンス劣化による経営効率の低下」「若年期の学校成績不振による個人の能力開発の妨げ」などの視点から、米国、日本、ドイツ、英国、カナダの5カ国の実態をまとめた。  日本の経済損失は、約9兆6800億~約15兆1800億円(1米ドル=110円で換算)と試算された。GDPの1.86~2.92%に達する巨額な損失だ。米国に次いで損失額が多く、5カ国の中でGDPに占める損失の割合は一番大きかった。  国も対策に乗り出している。仕事を終えてから次に仕事を始めるまでに一定の休息時間を確保する「勤務間インターバル制度」を広げようとしている。欧州連合(EU)では「11時間インターバル」をすでに義務化している。日本でも導入企業を2020年までに10%以上にする目標が「過労死防止大綱」に盛り込まれた。  だが、厚労省によると、17年度時点の導入企業の割合は1.4%。10%以上の実現は簡単ではない。働き方改革といっても、人手不足の中で睡眠時間を削って働く人はあふれている。  現代の新たな病理として注目される「睡眠負債」。夜更かししているあなたは、無自覚のまま、寿命を縮めているのかもしれない。 (本誌・岩下明日香) ※週刊朝日 2018年7月6日号より抜粋
週刊朝日 2018/07/02 07:00
“出前医者”が語る死生観 「孤独死はマスコミの報道が良くない」のワケ
梶葉子 梶葉子
“出前医者”が語る死生観 「孤独死はマスコミの報道が良くない」のワケ
太田秀樹医師(医療法人アスムス理事長)  命を救うのが医師の仕事である一方で、「命の終わり」を提示するのも医師の務め――。救急や外科手術、がんやホスピスなど死に直面することが避けられない現場で日々診療を行っている医師20人に、医療ジャーナリストの梶葉子がインタビューした『医者の死生観 名医が語る「いのち」の終わり』(朝日新聞出版)。その中から、自ら「出前医者」と呼び、在宅診療で患者のもとに出向きながら多くの患者を支えてきた、医療法人アスムス(栃木県小山市)理事長の太田秀樹医師の「死生観」を紹介する。 *  *  *  別に、それほど高い志とかビジョンがあったわけじゃないんだ、在宅医療を始めたのは。  大学病院にいた頃、委託されて障害者団体の海外旅行に付き添う機会があってね。そのとき初めて、街中で車椅子を押した。ところが病院の平らな床なら平気で押せる車椅子が、でこぼこ道では全然押せない。試しに自分で車椅子に乗ってみれば、腰が痛くて30分も座っていられない。それまで患者には、「車椅子を処方するから」なんて簡単に言ってたけど、これほど大変なことなんだというのが、初めて分かったんだな。  その旅先で彼らと話をしていた時、「我々は本当に病気にならないと医者には行けない」と言う。例えば風邪をひいた時、熱があって身体がだるければ車椅子はこげない。だから、病院には行けない。本当に死にそうにひどくなってから、救急車を呼んで入院するしかないんだ、と。  そんな話を聞いているうちに、疑問に思い始めたわけ。病院でやってる専門医療って何なんだろう、本当に医療が必要な人たちのところに、全然、届いてないじゃないか、って。 ■それがその人の生き様ならば、一人で死ぬのは孤独死じゃない  動けない人たちが必要とする医療は絶対にある、と思った。その頃はまだ高齢「化」社会で高齢化率は11~12%程度だったけれど、この先、高齢者が増えれば動けない人も増える。往診があったら助かる人は、大勢いるんじゃないか。ならば、外来で患者を待っているだけでなく、僕のほうから必要なところに出掛けていく医療をやってみよう。そんな感じだった。  まあ、普通の人は、それで大学を辞めて開業なんて軽率なことは、しないだろうけど(笑)。  開業当時は介護保険もなく、一般の人は「在宅? なにそれ?」という時代。でも、その頃から24時間の往診も訪問看護もやっていたし、まさに今の在宅療養支援診療所そのもの。ただ最初の頃は、話題騒然・人気全然で借金ばかり増えていったな。いろいろな人に出会って、助けてもらったり騙されそうになったり。そのうち、少しずつ患者も増えていった。  そんな時代から20年以上も在宅医療をやっていれば、何百人もの人間の最期を看取ることになる。死亡診断書は今までに700か800くらい書いたかな。病気はもちろん、事故死もあるし老衰もある。静かな死もあれば壮絶な死もあり、大勢の家族に囲まれて死ぬ人もいれば、独居で一人、死んでいく人もいる。天涯孤独のヤクザを看取ったこともあるよ。  でも、一人で死ぬのは別に孤独死じゃない。不幸でもない。それがその人の生き様であれば、いいじゃないか。どうやって死のうが、その人の勝手。そう思わない? 孤独死、孤独死って、マスコミの報道が良くないよね。  僕自身、自分の人生なんだから、自分で稼いだ金を全部使い切って勝手に死んだって、誰にも迷惑かけなきゃいいじゃないか、なんて思うけどな。  還暦を過ぎて院長は退いたけれど、診療は続けてます。在宅も外来も楽しい。とにかく女性が元気。ツルとかトメとかトラとか、カナ2文字の名前の患者ばっかり。バアさんたちと僕とのやり取りがおかしいって、看護師たちが笑いをこらえるのが大変なんだ。 ■いつ、どういう死に方をするかなんて、誰にも分からない  日本人男性の平均寿命は80歳くらい。だから僕は還暦を過ぎた時、あと20年生きられれば運がいい、その20年をどう生きようか、と考えた。  人生を生きるうえで、体力とお金と時間のバランスは、とても大事。20歳の頃は時間と体力はあるけど金がない。30になると少し金はできて体力もあるけど、仕事に忙殺されて時間がない。40になると金はあるけど体力が衰えてきて、時間は相変わらずない。50になると体力がない。そして今60を過ぎ、これから70になり80になって死に向かう。そう考えれば、この10年くらいが最後のあがき。楽しく生きなければ。  どういう死に方をするか、いつ死ぬかなんて、誰にも分からない。だから、これから何年あるか分からないけど、とにかく毎日を最高に楽しく生きていこう、と思ってる。  こういう考えに至ったのは、様々な患者さんの最期を見てきたからというのも、もちろんある。でも実は、一番大きいのは親父の死だと思う。身内の死は、死生観を変えるんだな。身内の死を経たことによって、人の死が初めてリアリティを帯びたというか……。  開業医だった親父が脳卒中で死んだのは、今から十数年前、彼が77歳の時。僕は医者だから、倒れた親父の状態を見れば、これは死ぬな、というのが分かる。でも救命治療をすれば、もしかしたら生きるかもしれない。そう思って、気管切開をして徹底的な治療をすることを望んだ。たとえ助かったとしても、要介護状態でしか生きられないのは分かっている。それでも生きていてほしい、親父の存在がそこにあってほしいと思ったね。  患者さんの家族や一般の人たちには、今までさんざん、もう寿命だと思って苦しまないようにすればいいのでは、なんて言ってた自分が、いざ身内となれば、過剰なくらい濃厚な治療を望んでしまう。その時、当事者としての治療と、冷静な第三者としての治療の選択には、大きなギャップがあるとつくづく感じた。最期を迎える患者と家族をどう支えるかという、終末期医療に対する理念が固まったのは、親父の死で、家族が患者さんを思う気持ちがより強く理解できるようになったから、ということもある。  親父は結局、1カ月くらい入院して死んだのだけれど、今思えばピンピンコロリに近い。前日まで元気に診療していて、その夜、東京に出てきて孫と一緒に酒飲んで、帰宅した翌日の朝、脳卒中を起こして倒れた。誰にも迷惑かけずにポッと逝って、本人にとっては良かったんだろうと思う。 ■命の量よりは質を取るような、そんな生き方、死に方をしたい  自分の死に方について言えば、もちろん、楽しく生きてピンピンコロリを目指したい。でも、それがとても難しいことも、十分に分かっている。だから、「がん」と「認知症も含めた老衰」と「ピンピンコロリ」という三つのコースを用意して、それぞれの場合ごとに、自分はこうしたいという生き方を考えておく。  がんだったら、無理に闘うことはあまりしたくない。苦痛だけないようにして、できるだけ自然の経過で診てもらう。認知症も含めて老衰だったら、医療は、積極的にはやってもらわない。ピンピンコロリなら、倒れた後、迷惑かけたらゴメンナサイ、でも延命治療はしないでね、って。  いろいろな死に向き合ってきたからこそ、一定の年齢を超えたら自分の最期は自分で決めたいと思う。命の量よりは質を取るような、そういう生き方、死に方をしたいね。  最近は「フレイル」という言葉が一般でも使われるようになってきたけれど、人間は基本的に「フレイル」から「要介護」を経て「死」に至る。これはつまり、健康寿命と平均寿命の乖離の期間で、平均すると男性が9年、女性が12~13年。これからは、この部分の「生き様」というものを、みんなきちんと持たなければいけないね。人生の集大成としてのこの期間を、どう生きるか。それがそのまま、死に方につながっていくと思うから。 ※『医者の死生観 名医が語る「いのち」の終わり』から
週刊朝日 2018/07/02 07:00
命を縮める「睡眠負債」 そのチェック法とは?
命を縮める「睡眠負債」 そのチェック法とは?
パナソニックと寝具メーカーの西川産業が開発する快眠サービスのイメージ(c)朝日新聞社 日本人の4割は6時間未満の睡眠時間になっている(週刊朝日 2018年7月6日号より) 睡眠負債のチェック項目(一つでも当てはまれば要注意)(週刊朝日 2018年7月6日号より) すみやかに寝るための10カ条(週刊朝日 2018年7月6日号より)  ドラえもんの秘密道具に「睡眠圧縮剤」というのがあった。服用して1時間眠れば、その人のカラダは10時間分の睡眠をとったことになるという魔法の薬。1日24時間のうち、1時間だけ寝れば、残る23時間に活動できるわけだ。  本当にそんな薬があったらいいなあ……そう願ってしまうほど、現役世代は忙しい。仕事をリタイアした人の多くも不眠に悩む。成長期の子どもは、塾やスマホで夜更かしばかりしている。 「7時間前後の質のよい睡眠をとっていれば、健康被害は最も少なくなります」  睡眠評価研究機構代表で医学博士の白川修一郎さんは、そう指摘する。  でも、日本人の多くは7時間も寝ていない。厚生労働省が20歳以上の男女を対象に調べたところ、7時間に満たない人が全体の7割を超えた(2015年)。このうち「5時間未満」の人が8.4%、「5時間以上6時間未満」の人が31.1%を占めた。しかも、睡眠時間は年々減少傾向だ。  いや、私は6時間寝れば大丈夫です──そうおっしゃる人もいるだろう。だが、ここでは「個人差はあるが、7時間は必要」という白川説で話を進める。  7時間を前提とすれば、6時間しか寝ない人には、毎日1時間の寝不足が生じる。これを1カ月続ければ30時間、1年続ければ360時間の寝不足が蓄積される計算になる。みんな毎日一定の睡眠時間を必要としており、それより短ければ足りない分が徐々にたまって睡眠負債となるのだ。  5時間や6時間の睡眠でも十分だと思っていても、実際には負債を抱えている場合がある。下の「睡眠負債のチェック項目」で確認しよう。一つでも当てはまる人は睡眠負債があると考えたほうがいい。 【睡眠負債のチェック項目】(一つでも当てはまれば要注意) □ 朝起きる時刻になかなか起きることができない □ 休日は平日よりも2時間以上長く眠らないと体が持たない □ 平日の午前中に眠くてたまらないことがしばしばある □ 夕食後にうたた寝をしてしまうことがしばしばある ※白川修一郎・睡眠評価研究機構代表への取材を基に作成  睡眠負債は自覚症状のないまま蓄積されていく。その結果、仕事や勉強が思うようにはかどらなくなる。白川さんが一部を監修した『睡眠負債 “ちょっと寝不足”が命を縮める』(朝日新書)で紹介された例を挙げよう。  米国の大学が被験者48人の睡眠を「徹夜」「4時間」「6時間」「8時間」に分け、2週間にわたって脳の反応テストをした(徹夜は3日間で睡眠時間ゼロ)。言うまでもなく、4時間以下の被験者の脳の働きは衰えを見せた。6時間の人も時間がたつにつれ、徹夜した人と同じくらいまでテスト結果が低下したが、被験者はさほど眠気を感じず、注意力の低下にもほとんど気づかなかったという。  睡眠負債は活動を鈍らせるばかりか、健康面でも認知症や生活習慣病、がんなどに影響するという。  深刻なのが認知症のリスクだ。脳にたまった老廃物は睡眠中に排泄(はいせつ)されるが、寝不足が続くと脳内に残ってしまう。その一つが「アミロイドβ」という老廃物で、アルツハイマー型認知症の病因と考えられている。 「アルツハイマー型認知症患者の15%は睡眠の問題に起因するとの報告もある。アミロイドβは認知症を発症する20~30年前から蓄積してくるので、働き盛りの40代から睡眠負債の蓄積に注意するべきです」(白川さん)  フィンランドで2千人を対象に睡眠時間と認知症の関連性を調べたところ、睡眠時間が7~8時間の人に比べ、7時間未満の人は発症リスクが1.59倍高くなったという。  がんとの関連性も疑われている。睡眠を妨害されたマウスと、そうでないマウスを比較した米国の研究では、前者のがん細胞が2倍以上の重さになった。睡眠が不足すると免疫力が下がり、がん細胞の攻撃性が高まる恐れがあるという。  早稲田大学の柴田重信教授(時間栄養学)によれば、「夜勤の人にがんの発症リスクが高くなる」という疫学研究の結果がある。 「明暗環境が変わる交代制勤務の人は、乳がんや前立腺がん、大腸がんの罹患(りかん)率が高い。海外の研究で、夜勤を含む交代制勤務を4年以上やった人は、乳がんの発症率が1.95倍になったという結果がある。夜中に光を浴びていると、がんを抑制するメラトニンの分泌量が抑えられるからだと考えられている」(柴田教授)  井上雄一・東京医科大学教授(睡眠学)は、寝不足のせいで高血圧や糖尿病を発症し、悪化させることもあると指摘する。 「メタボリックシンドロームになる人も多い。寝ていないと食欲を促進するグレリンというホルモンの分泌が増え、食欲にブレーキをかけるレプチンという物質の分泌が減る。食欲が高まり、肥満になるという研究報告もあるんです」  その負のスパイラルに陥ると、肥満が睡眠時無呼吸症候群を招き、睡眠の質を下げる。そうなると、高血圧や心臓病になりかねない。医師の診察を受け、毎晩、特殊なマスクを装着し、就寝中に呼吸が止まるのを防ぐ必要に迫られる。  そのほか、不眠症やうつ病になる可能性もある。 「睡眠時間の確保は、病気の予防と治療、健康保持のための必須事項だと考えてください」(井上教授)  長年ため込んできた睡眠負債を返済することはできるのか。  毎日長時間寝れば負債が減るというわけではなさそうだ。白川さんは、就寝時刻と起床時刻を記録する「睡眠日誌」を勧める。どれだけ寝たのかを記録し、自分の体調が良いと実感できる時間を把握する。その時間を毎日確保する努力をすれば、負債を無理なく返済できるそうだ。  白川さんが言う。 「睡眠日誌で、7時間前後眠れているかを確認します。途中で起きていないかもチェックしましょう。慣れてきたら『返済週間』を設けてください。『返済週間』はいつもより30分早く就寝し、いつもどおりの時刻に起床して、寝起きや日中の調子の具合を確かめてみましょう。そこからさらに30分早く寝る習慣をつければ、計1時間を返済できます」  布団に入っても寝付きの悪い人もいる。白川さんが提唱する「すみやかに寝るための10カ条」(下)を参考にしよう。 【すみやかに寝るための10カ条】 1、午前中に日の光を浴びよ 2、食事の時間は一定にせよ 3、運動は夕方に。散歩もよし 4、カフェインは寝る3時間前まで 5、酒は寝る3時間前まで 6、寝る2時間前より強い光を避けよ 7、風呂は寝る30分前に 8、寝室は18~26度に保つべし 9、布団でのスマホ・ゲームは御法度 10、寝なきゃとあせるべからず ※監修/白川修一郎・睡眠評価研究機構代表 (本誌・岩下明日香) ※週刊朝日 2018年7月6日号より抜粋
週刊朝日 2018/07/01 07:00
一生独身のつもりが49歳で結婚 独身の双子の姉と一波乱が… 50歳からの結婚のリアル
一生独身のつもりが49歳で結婚 独身の双子の姉と一波乱が… 50歳からの結婚のリアル
初めての結婚指輪。他人の薬指につい目が行っていた日々。今日から自分の指にも指輪が(※写真はイメージ) 「私たち、結婚しました!」――続けて届いた2通の結婚報告はがき。お葬式に参列することのほうが増えていたというのに、まさか同年代である50代の友人から結婚話を聞かされるとは。もしかして、と調べたところ、ここ20数年で50歳前後の結婚増加が判明。総数から見れば少ないものの、"50歳からの結婚"が増えていることは間違いないようだ。連載「50歳から結婚してみませんか?」では、結婚という大きな決断を50歳で下すことになった5人の女性の本音とリアルに迫る。第1回は、田島好江さん(仮名・53歳・パート)の場合をお届けする。 *  *  *  49歳で結婚した田島好江さん(仮名)は7月で結婚4年目に突入する今も変わらず、「行ってきます」「お帰りなさい」のキスはもちろんのこと、毎晩の入浴も一緒、寝るときには手をつないで、というラブラブぶりだ。  でも、かつての田島さんは、そんな愛溢れた生活からは想像できないほど結婚に興味や、魅力を感じておらず、まさか自分が結婚するとは思ってもいなかったという。  親しい友人たちへの結婚報告はその年の年賀状で報告した。皆、喜んでくれたが、今まで独身同盟を組んでいた友人からは、「一生独身だと思っていたから、驚いた」「その年齢で結婚決めたのはどうして?」「どんな心境の変化が起きたの?」「決定打は何?」「勇気あるね~」など反応はさまざまだったとか。 「世間でいう適齢期の結婚ならともかく50歳からの結婚ですから、聞きたいことがいっぱいあるのは当然かもしれませんね。私が逆の立場だったら、同じように、今後の参考のため(?)というのも含めていろいろ聞いたと思います。それになんたって面白そうですもん」 ■ひょんなことから同級生の彼と偶然の再会で急接近 「私のOL時代はバブル真っ盛りだったので、周囲の友人たちは結婚するなら3高(高学歴、高収入、高身長)と騒いでいました。私は結婚にまったく関心がなく、仕事も遊びも自分のことが何よりも大事。自分のことがすべて最優先で他人のことなんてどうでもよかった。早い話、自分勝手だったわけですが……。だから、他人と生活するなんて想像もできなかったし、したこともなかったですね。その考えは結婚する49歳まで一貫して変わりませんでしたよ」  そんな田島さんが50歳を目前に結婚に踏みきったのは偶然の再会がもたらした結果だという。 「夫は中学のときの同級生です。偶然会うまでは中学を卒業してからは、進路も別々でしたし、接点もなく、会うことはありませんでした。2014年2月に大雪が降った日、自宅の物置の屋根が壊れてしまい、地元のホームセンターに行ったところ、偶然会ったのが最初のきっかけですね。そのとき、彼が家業の工務店を継いでいることを知り、渡りに船だと思い、物置の修理をお願いしたんです。その日のうちに修理してくれ、連絡先を交換してそのまま別れました。数日後、修理のお礼にと食事に誘ったんですが、彼が急性腸炎で入院していて、軽い気持ちでお見舞いに行きました。もちろん、そのときも結婚はおろか、つき合うことも考えていなかったですね。正直、誰かとつき合うなんて面倒くさかったですし、友人で十分だと思っていました」  その後もときどき飲みに行ったり、ごはんを食べに行ったりと、同級生ならではの肩の凝らないラフな友人関係が続いた。  そんなある日、彼にお見合い話が舞い込んできた。彼は「気になる人がいる」ということで、即断ったという。田島さんはこの話を聞いても「この年齢でも、お見合い話ってくるんだ」とかなり能天気なことを思っていたという。 「お見合いを断った後に彼から、結婚を前提につき合ってほしいと言われ、驚きましたが、一緒にいてラクなので、結婚のことは彼ほど深く考えずにつき合い始めました。この時点では結婚に対し、ふたりの間で、かなり温度差があったと思います。それでも彼はせかすこともなく、私の気持ちに寄り添ってくれていました。私も自分のペースを崩さずに無理なくつき合うことができたのがよかったですね。これも彼に感謝していることのひとつです。急かされたり、いろいろと言われたら、きっと、私の性格上、イヤになって別れていたと思います」 ■「面倒だ」と思っていた結婚も彼のやさしさに触れ、ついに決意  交際は順調に進むものの仕事やプライベートでふたりに転機が訪れる。彼は実家の工務店を辞め、建設会社のサラリーマンに。田島さんも長年勤めていた病院を辞め、再就職した職場もモラハラが原因で1年半で辞めることに。  その後は再々就職に向けてパソコン教室に通い、資格を取って就職活動をしていたが、プライベートでは親の介護が始まるなどしんどいことが重なり、徐々に精神的に追い込まれていった。 「就活と介護で心身ともに毎日クタクタでした。そんなとき、毎日電話やメールで励まし続けてくれたんです」  ようやく田島さんに落ち着いた日常が戻ってきた頃、少しずつ彼とのつき合い方に心境の変化が出てきて初めて結婚をきちんと意識したという。 「前にも話したようにつき合い始めた当初、結婚はまったく視野に入っていませんでした。でも、転職したり、親の介護があったりなど大変な問題が一気に押し寄せてきて、そのとき彼のひと言ひと言が心にしみ、ささくれだっていた心が穏やかになっていきました。かさぶたがふさがっていくような感じになったのを覚えています。彼も転職して大変な時期だったのにね。彼のやさしさを改めて認識し、結婚を考え始めました。『もうこの先、彼以上にやさしい人は現れないだろうな』、『死ぬまでずっと一緒にいたいな』と、若い頃には思わなかった感情がフツフツと沸いてきて結婚を決意しました」  田島さんのそんな心境の変化に気がついた彼がプロポーズ。田島さんも、このときは、もう迷うことなく、素直な気持ちで受け入れられたと話す。 「最初は結婚なんて今さら、面倒だなと思っていましたが、本当に彼のやさしさに触れ、感激しました。それに自分のことを心から大切に思って愛してくれていることがヒシヒシと感じられたので、ふたつ返事でOKしました。『人生って何が起こるかわからないから、面白いよ』と若き日の自分に言ってあげたい(笑)ですね」 ■結婚までに姉との間に一波乱雨降って地固まる  ふたりとも、いわゆる世間で言うトウの立った年齢だったこともあり、結婚式は地元の神社でふたりだけで挙げ、披露宴は田島さんの叔父さんが企画してくれて地元のレストランで両家だけで食事会をした。 「今さら感があるので大々的な披露宴は恥ずかしいというのがふたりの一致した気持ちでした。でも、親やお世話になった人には感謝をしたい、それとやはり、両家に対してけじめをつけるという意味もあり、食事会を開きました」  しかし、食事会を開くまで田島さんの姉妹間で一波乱あったという。 「結婚報告をしたとき、親は手放しで喜んでくれました。しかも、母親と義母が昔同じ会社の先輩・後輩だったことが判明。ですから、母は彼のことは少なからず知っていたので『これも何かの縁かもしれない』と思ったそうです。しかし、双子の姉が、あまりいい顔をしませんでした。実は姉も結婚しておらず、これからもずっとふたりで親の面倒を見て介護をしていくことが暗黙の了解。もちろん、私もそのつもりでした。でも、私が結婚することになり、家を出ていくことになって、姉はまさか、そんな展開になるなんて想像もしていなかったのでしょう。だから、姉の中で、混乱と嫉妬などさまざまな感情が噴出して、嫌味を言ったり、難癖をつけたりしたんだと思います。それに双子ゆえに思いも複雑だったのかもしれませんね。もし、私が姉の立場だったとしても、すぐに素直に祝福できたかどうかわかりませんね」  双子といえども、昔からベタベタした関係ではなかったというが、それでもやはり強い絆で結ばれ、育ってきたふたり。時間が経つにつれ、ふたりの間もいつの間にか雪解けになり、最後は、十分すぎるぐらい祝福してくれた。 「姉は私と違って、子どもの頃から野心があり、それは大人になっても変わりませんでした。現在、看護師をしていますが、着実にキャリアップし、今でもバリバリ仕事をしています。そんな姉を尊敬していますし、見習わなければならないところもたくさんありますね。今は親の介護も姉がキャプテン、私が副キャプテンというスタンスで協力しながらやっています」  お姉さんとは今でもときどき軽い口ゲンカをすることもあるというが、田島さんも結婚して以前よりは我慢強くなり、相手を思いやれるようになったという。 「姉とはお互いの立場を尊重し、いい距離感でつき合っています。姉が仕事で夜勤がある日などは夫とともに実家に泊まり、ふたりで親の介護をしています。とてもありがたいことに夫も、とても協力的なので、姉も安心して仕事ができると言ってくれます」 ■自分に合った年齢でできた結婚だからいろんなことが楽しい 「他の人から見たらたいした山ではないかもしれませんが、やはり結婚を決意するまでは、私なりの逡巡と覚悟がありました。若い頃のように勢いでというわけにもいきませんでしたから。でも、今は結婚してよかったと心から思っています。そして結婚は年齢ではなく、自分の中でいろんなものが整って、『今だ』とタイミングなんだな、と結婚してからつくづくそう感じています」 (取材・文/須藤桃子) 須藤桃子(すどうももこ) 1965年東京生まれ。フリーライター。女性の生き方、料理、健康、ペット(特に猫)系を中心に活動
婚活結婚須藤桃子50歳から結婚してみませんか?
dot. 2018/06/29 16:00
中瀬ゆかり「愛する家族を亡くし、辛い人にぜひ、読んでほしい村上春樹さんの言葉」
中瀬ゆかり 中瀬ゆかり
中瀬ゆかり「愛する家族を亡くし、辛い人にぜひ、読んでほしい村上春樹さんの言葉」
中瀬ゆかり(なかせ・ゆかり))/和歌山県出身。「新潮」編集部、「新潮45」編集長等を経て、2011年4月より出版部部長。「5時に夢中!」(TOKYO MX)、「とくダネ!」(フジテレビ)、「垣花正 あなたとハッピー!」(ニッポン放送)などに出演中。編集者として、白洲正子、野坂昭如、北杜夫、林真理子、群ようこなどの人気作家を担当。 彼らのエッセイに「ペコちゃん」「魔性の女A子」などの名前で登場する名物編集長。最愛の伴侶、 作家の白川道が2015年4月に死去。ボツイチに 愛する者の不在に苦しむ方の小さな灯になるかもしれない(※写真はイメージ)  同情が集まったからなのだろうか、トウチャンを喪ってからの私には夕食や飲みのお誘いが異常に増えた。仕事の会合もあるので、それを足したら、土日もあわせて1週間、空いている夜がないくらいに、毎日誰かとなにがしかのご飯を食べている状態が続いていた。おごったりおごられたり、割り勘だったりでエンゲル係数はマックスに到達していたが、18年間べったりと一緒にいたトウチャンの不在から目をそむけたくて、そして何よりひとりぼっちの時間を過ごすのが怖くて、スケジュール帳が空いていると強迫観念的にそこに予定をねじ込み続ける。そういう日々が絶え間なく続いていた。  その中には新しく出会った人や古い男友達との週末の「デートもどき」も含まれている。映画からの食事、バーという定番コースをただルーティンのように繰り返していた。実際、映画1本や同じ本を1冊共有するだけで、人間の距離はぐっと縮まる。前々からその人がなにに感動し、なにを面白がれるか、どういうことに好き嫌いを感じるかなどの「感性」や「価値観」を本や映画という同じ物差しで測れる気がしている私には貴重な時間だった。  デート映画の選択はあえて相手の好みに全面的にあわせた。そうすることでトウチャンが観ようとしなかった類の作品にも出会えるし、どうせなら自分の興味の裾野を広げたかった。その結果、なんと「シン・ゴジラ」には違う相手と合計4回も出かける結果になった。そして、夜はそれまで以上に幅広いジャンルの本を読み続けた。いい物語にであったときは、人にプレゼントし、仲間と感動を共有することに心を砕いたのだ。それらの本や映画が紡ぐ物語は私の心の穴にどんどん降り積もってくれた……。  本を読むのはもちろん、こういう形で映画を観続けたのにはきっかけがある。トウチャンを喪って3か月後に、村上春樹さんが読者からきた相談に答えたサイトを1冊の本にまとめた『村上さんのところ』が刊行されたのだが、その中で、身近な人の死の受け止め方について質問した女性に村上さんが答えている。その回答が見事に響いたのだ。長いがここに引用させていただく。 「親しい方を(中略)亡くされると、自分という存在から何かが急激にもぎ取られてしまったような気がします。なかなかそれを受け入れることができません。気持ちの中に空洞ができてしまいます。(中略)もしあなたの中に空洞があるのなら、その空洞をできるだけそのままに保存しておくというのも、大事なことではないかと思います。無理にその空洞を埋める必要はないのではないかと。これからあなたがご自分の人生を生きて、いろんなことを体験し、素敵な音楽を聴いたり、優れた本を読んでいるうちに、その空洞は自然に、少しずつ違うかたちをとっていくことになるかと思います。人が生きていくというのはそういうことなのだろうと、僕は考えているのですが。」(『村上さんのところ』新潮文庫P105)  同じように愛する人を喪くすという体験をした方にこの文章を読んでもらいたい。  トウチャンを亡くした直後に、かつて最愛のパートナーを突然喪った経験をした近しい女性に「この絶望的な想いはいつ薄れるときがくるのでしょうか」とすがりつくように聞いたことがある。「正直、立ち直るのに3年はかかったよ」という返事に、「3年もこんな地獄が続くのっ!?」と悲鳴のような声をあげた私に、彼女は続けた。「でもね、49日、百か日、1周忌、3回忌・・・と確実に時間が優しい味方になってくれるよ。昔の人はそういう区切りを設けて遺されたものの気持ちを和らげたのかもね」と私の手を握りしめてくれ、私は声を殺して泣いた。  この体験から5か月後には、公私ともに交流のあった女優の川島なお美さんが逝ってしまわれるのだが、直後に夫の鎧塚俊彦さんから、「この辛さはいつか少しはマシになるんですか?」と問われ、同じ内容を伝えた。それが彼の救いになってくれたのならいいのだが。  いまの自分にできることは、この空洞のなかに、たくさんの経験や素晴らしい物語を投げ入れていって違うかたちにすることなのだ。それをもし伝えていくことができるのなら、愛する者の不在に苦しむ方の小さな灯になるかもしれない。(中瀬ゆかり)
中瀬ゆかり
dot. 2018/06/28 16:00
木梨さん、ヒロミさん、フミヤさん一家とのハワイ旅でアッコさんが大泣きした理由 カンニング竹山が明かす
カンニング竹山 カンニング竹山
木梨さん、ヒロミさん、フミヤさん一家とのハワイ旅でアッコさんが大泣きした理由 カンニング竹山が明かす
カンニング竹山/1971年、福岡県生まれ。お笑い芸人。本名は竹山隆範(たけやま・たかのり)。2004年にお笑いコンビ「カンニング」として初めて全国放送のお笑い番組に出演。「キレ芸」でブレイクし、その後は役者としても活躍。現在はお笑いやバラエティー番組のほか、全国放送のワイドショーでも週3本のレギュラーを持つ(撮影/写真部・小原雄輝) カンニング竹山が知ってほしいと思う和田アキ子の“裏の顔”とは? (※写真はイメージ)  今年デビュー50周年を迎える歌手・和田アキ子さんがショッピングモールで人生初のフリーライブやハイタッチ会に登場し、その迫力に「ドキドキする」「手が柔らかい」とSNSがざわついた。アッコファミリーの1人で、禁煙に躊躇する和田に酔った勢いで「もうやめろ!」とキレて泣かせたという逸話を持つお笑い芸人・カンニング竹山さんが、御年68歳の素顔を明かす。 *  *  *  僕がアッコさんにかわいがってもらうようになったのは10年ぐらい前ですね。「アッコにおまかせ!」に呼ばれるようになって2、3年たってからです。アッコさんに「お前酒飲むんやろ、今度一緒に飲もうや」って電話番号を聞かれたんですよ。いまでは出川哲朗、勝俣州和、松村邦洋、竹山隆範がアッコファミリーのアホ4兄弟って呼ばれていますが、よく考えると68歳の女性と夜、普通に飲みに行くっていうのも不思議ですよね。  真面目な話をしながらしっぽり飲むこともあるし、学生か!?っていうぐらいはしゃぎながら飲むこともある。勝俣さんとアッコさんが「いま叩いた!」「叩いてへんわ!」って口論したり、さま~ずさんがいるときはアッコさんにキスしようとして抵抗して暴れたり、家にあるシャンパンを勝手に空けたのがバレて「何してんねん!」って怒られたり、くだらないことばかりして遊んで、みんなキャッキャ笑ってるんですよ。  飲み方もすごくて、だいたい「竹山、5時か6時から早飲みせーへん? パッと帰ろうや」って誘われて夕方から飲み始めるんですが、10時ごろに「明日早いんで」と帰ろうとしても、「Bar和田で一杯だけ」って言い出して。Bar和田って自宅ですよ(笑)。結局、話し込んだり、映像を見始めたりして「1時までや」となり、1時になったら「さっき2時って言った!」とか言い出して、それを普通に68歳のオバハンがやっていると考えるとすげえなと思うんですよ。もうすぐ70ですよ! でもそうは見えないんですよね。  前に「みんなと一緒にハワイに行きたい」って言うから、木梨憲武家、ヒロミ家、竹山家、勝俣家、長嶋一茂家、藤井フミヤ家で現地でお世話したんだけど、海行きましょうって誘ってもアッコさんは「海は嫌だ」、山に行きましょうって言っても「山はアカンねん、虫おるから」、買い物行きましょうよ「買いたいものないねん」、最終的にはヒロミさんが「ねえ、アッコ何しに来たの?」って(笑)。結局、夕日の美しさに感動したアッコさんが泣くっていうことがありました。  僕らがテレビで「怖えー」とか「うるせー」とかガンガン文句を言うでしょ。あれ、本人は笑って許してくれてるんですよ。 「ネタにしてウケるならなんぼでもネタにせえ。お前らはそれが仕事や」って。  そういうかっこ良さもあるし、実はご飯がうまくて礼儀作法にもうるさくて、家庭的な部分もある。僕が40歳ぐらいのときに箸の持ち方が悪かったから、「いろんなところに行って、テレビにも出るんだからお前の親までバカにされるで。それでええんか?」って言われて、直しましたよ。  特にあいさつは厳しくて、「損なことは一つもないんだから、あいさつしとけ」とよく言われます。アッコさんも自分より先輩の人と番組で一緒になるときは、楽屋にあいさつに行っているし、「おまかせ!」に初めて会う人が出るときは事前にマネージャーに「どういう振りをしたらこの子はしゃべりやすいの?」って相談して、勉強してますよ。  俺が週刊誌に載ったときは、「かみさんに迷惑かけるな。お前がやらかしたことはお前が悪いけどかみさんに迷惑かけるのは最大の罪やで」って生放送で謝罪する場をつくってくれました。  怒られることもあって、正直「うるせーな」と思うこともあるんだけど、実は優しくて、根本はみんなアッコさんのことが好きなんですよね。50年も芸能界の第一線にいる人ってなかなかいないし、もちろん大先輩なんだけど、自分の姉貴とか母ちゃんの妹のような身内感覚がありますよね。母ちゃんの妹がたまたま芸能人だった、みたいな感じです。「アッコの犬」みたいに思われるのも嫌だなと思ったこともあるけど、それを超えているんですよね。だって身内だから。表立って「好き」とは言わないけど、本当の家族みたいなんですよ。  勝俣さんや出川さんが「とんねるずが美空ひばりの家に呼ばれていたって話をラジオとかで聞いて、うらやましくてしょうがなかったけど、僕らは『この人、和田アキ子の家に行くんだ!』って思われているかもしれないな」と言っていたんですが、僕もそうだなと思います。男性でも女性でも豪快な諸先輩方はいたけど、時代の変化とともにああいうスターは減ってしまって、和田アキ子のような人はもう出てこないと思う。我々は和田アキ子という人にかわいがってもらって、芸能人として貴重な経験をしているんだなとみんなで話していたら、勝俣さんが「表で悪口言って、裏で大切にするのが本当の身内だろ」って言い出して。「じゃあ表で悪口はいいのか」って笑い話になっていきましたけど。みなさんが思っているよりも、実は楽しくやっているのは、それを笑って許してくれるからなんですよね。  でも、僕がみなさんに知ってほしいのは「おまかせ!」で「イエーイ」って言っている和田アキ子じゃないんですよ。ちなみに、ダブルピースで「イエイ!イエイ!イエイ!」って言っているときは最高に機嫌が良いときです(笑)。バラエティーを仕切っている和田アキ子も確かにすごいんだけど、一番見てほしいのはシンガー・和田アキ子! 実は、シンガーっていう裏の顔がすごいんですよ。本当はそれが表なんだけどね。  僕も音楽が好きでいろんなライブに行ってきましたけど、ブルーノートでやったアッコさんのライブはカッコ良くて参りました。バカにしていたわけじゃなくて、和田アキ子のコンサートって何となく見ないだろうなと勝手に思い込んでいたんだけど、こんなにすごい歌手が日本にいたのかと……。本気の歌を生で聞くと、涙が出ますよ。みなさん、テレビで見慣れすぎているからアッコさんが実在しないと思っているでしょ? 生で見ると固まりますよ。  しかも場所によって全然違うのよ。ブルーノートみたいな小屋では「リズム・アンド・ブルースの女王」と呼ばれたかっこいい和田アキ子を出してくるし、NHKホールでやったときは歌手和田アキ子として、3千人とか4千人の客を歌一つでまとめるんですよ。氣志團万博みたいな若いアーティストが出る野外フェスでも、ノリの良い曲でオバハンとしてちゃんと盛り上げる。もちろん圧倒的に歌もうまいんだけど、オーラと迫力があって、歌手ってこういうことなんだなと思いますよね。  それに、家に行くとボイストレーニングとか英語の歌詞の発音練習とか努力の跡がいっぱいあります。本人は僕らにあまりそういうところをみせないし、僕らも音楽の部分には踏み込まないんだけど、きっと半端な努力じゃないんだろうなと思う。あの人、硬派ぶってるから自分で言わないんだけどね。  僕はアッコさんがおばあちゃんになったら、小さなライブハウスのピアノのそばでウイスキーでも飲みながら、赤いドレスとかを着てかっこよく歌っている姿が見たいなと思っています。リズム・アンド・ブルースの女王みたいな感じで……。と言っても、もうすぐ70歳ですよ。  アッコさん、もうそろそろお年ですし、もうちょっと落ち着いてもよろしいんじゃないでしょうか。飲み時間だけ短くしては……とか、思ったりもしております。  でも、やっぱり子分としてはずっと豪快な“和田アキ子”でいてほしい! それがボス和田アキ子ですから。
カンニング竹山
dot. 2018/06/27 11:30
育休中に仕事してクレームも? アラフィフで2児の父になった龍ケ崎市長
育休中に仕事してクレームも? アラフィフで2児の父になった龍ケ崎市長
中山一生(なかやま・かずお)/1962年生まれ。衆院議員だった父・利生氏の公設秘書や茨城県議を経て、2009年に龍ケ崎市長に初当選し現在3期目。市長1年目に育児休業も取得(撮影/伊ケ崎忍)  晩婚化が進む昨今、アラフォー、アラフィフで親になる人も少なくない。茨城県龍ケ崎市の中山一生市長もそうした一人。高齢で親になることのメリットや、男性の育休の取得などについて、中山市長は次のように話す。 *  *  *  45歳、48歳で子どもに恵まれました。年を実感するのは運動会でしょうか。幼稚園のリレーは不安でしたが、夜に公園で自主練した成果か、順位を落とさずにバトンをつなげました(笑)。  結婚は44歳のとき。消防団のお見合いパーティーで妻と出会い、付き合って1年経った頃、妊娠が分かりました。茨城県議選に挑戦していた時期で、初当選後に婚姻届を出しました。その子は流産してしまいましたが、1年後に長女を授かりました。  県議は議会中以外は自分で時間をコントロールしやすく、子どもの遊び相手もお風呂も担当できました。僕は起きてもすぐ寝られるので、夜中のミルクは僕の役目。粉ミルクをお湯で溶かすために哺乳瓶を回していたら、中指にたこができました。  長女が2歳のときに市長に就任すると、日中は家に帰れないし、土日も予定が入る。出張や夜の会食も増え、妻と娘、二人の時間が格段に増えてしまいました。次の子の妊娠がわかり、これではいけないと悩みました。  そんなとき、東京都文京区の成澤廣修区長が2週間の育児休業を取ったとニュースで見て、これだと思いました。特別職の市長や副市長も一般職員のように育児や介護のための休暇が取れる条例を市議会に提案。出産準備の5日間と、出産前後の2週間、育児休業を取りました。  でも、市政が気になって、育休中にも市庁舎に来て少し仕事をしちゃいました。職員からは、「市長が休暇中に仕事をしてたら俺たち取れないですよ」と言われ、しまったなーと。制度だけでなく休みを取りやすい雰囲気をつくることも大事だと痛感しました。当時は男性職員の育休利用はゼロでしたが、今では100%に。両親が一緒に子育てし、家族で時間を共有することはとても大事だと思います。  若いうちに子どもを産むほうが将来設計は立てやすい。でも、僕の20代は挫折や回り道ばかりで余裕がなくて、あの頃だったらちゃんとしたパパになれていなかったと思うんです。物事を俯瞰して見られるようになり、責任のある立場に立った 40代後半に授かったからこそ、子育てにも積極的に関われるし、部下が子育てしやすいよう職場の環境を変えることもできる。市長としても父親視点を持ってこまやかな子育て支援を実現しています。保育所へバス送迎する駅前ステーションや4歳児の目の健診なんか、他ではなかなかないでしょう。子育て環境日本一目指していますからね。 (編集部・深澤友紀) AERA 年6月25日号より抜粋
出産と子育て
AERA 2018/06/24 07:00
「オトコはみんな汚くなる」 肌メンテで妻も喜ぶ“脱・汚じさん”に!
「オトコはみんな汚くなる」 肌メンテで妻も喜ぶ“脱・汚じさん”に!
美容液でのケアを毎朝欠かさず続ける化粧品会社経営の松原光洋さん(45)。健康に良い酵素ドリンクなども積極的に摂取している 男性が抱える肌の悩み(週刊朝日 2018年6月22日号より) 男性が取り組む肌の手入れ方法(週刊朝日 2018年6月22日号より) 「鼻毛、出てますよ」「眉、ボーボー」「加齢臭、ひどい」「肌、コナふいてるよ」。他人には言いにくいが、妻から夫には伝えられる一言。夫は職場で「臭い」「汚い」と言われているかもしれない。夫をキレイにするのも汚くするのも妻の力。50歳を過ぎた夫には妻が刺激を与えよう。夫を美しくするために。  横浜市在住の男性は、洗面台に置かれたエステティシャンの妻の化粧品をすべて使っている。朝は化粧水とクリーム、夜はそれらに美容液も追加。建設会社勤務の仕事柄、日中は紫外線をたくさん浴びるため、日焼け止めクリームが欠かせない。妻からは、いつもこう言われる。 「日焼け止めをつけないと、おじいちゃんみたいになるよ。シミになるからね」  少しでもシミができると、妻は厳しくこう言う。 「なんだよ、そのシミ。レーザーで焼いてきな」  妻のおかげか、夫は美意識が高くなった。肌ケアの基本中の基本といわれる「洗顔」は、泡立てネットを使って特に入念にする。最近は泥パック洗顔にもハマっている。入浴中、顔に1分塗って、流すだけなので簡単に続けられる。面倒なのはパス。パックも、「妻が塗ってくれるなら」やる程度だ。  このように、美容男子は妻主導型が意外に多い。洗面台にある妻の化粧品や、ボディー用クリームやオイルをちょっと「拝借」する。それだけだ。  男性の肌は女性と比べ、化粧水など基礎化粧品を使ってケアすればするほど、効果が出やすい。  というのも、若いころから肌ケアを続ける女性の敏感な肌と異なり、多くの男性の肌はごわつき、ざらついている。だから、ちょっとケアするだけでも、ぐっと改善する。  大塚製薬の調査によると、男性の肌の悩みのトップは、乾燥・かさつき。目元や口まわりは乾燥し、鼻の周りは黒ずんで、全体的にオイリー肌。そんなズボラ肌であればあるほど、毛穴の手入れや保湿をするだけで、肌はかなり変わる。  しかも、多くの女性に比べて男性は「化粧品浮気」をしない。いったん使い始めると、同じものを続けて使う傾向にある。美容室をコロコロと変える女性と違い、男性は美容や健康に、「忠実」なのだ。  基礎化粧品だけでなく、美容オイルやアロマなど、ワンランク上のスペシャルケアまでも、妻と共用する美容男子もいる。  東京都内の自営業の男性(58)は、妻(59)が愛用する高級美容アロマオイルをひげそり後に使う。このオイルを使うと、吹き出物が出ないのだという。妻は「勝手に使うから隠している」と笑うが、こうも言う。 「何もしないと、50歳を過ぎるとオトコはみんな汚くなる。やっぱりオイルを使うと、みんなキレイ。そういう環境下に、夫を置かないと(笑)」  美容オイルは進化しており、保湿にも日焼け予防にも万能だ。今は男性も紫外線対策をする時代。「日焼けしたくない」と考える男性は、年齢を重ねるほど増える傾向にある。男性化粧品ブランド「バルクオム」の調査によると、日焼けを「できるだけしたくない」「絶対したくない」と考える男性は、20代59%、30代73%、40代は76%だった。  紫外線を浴びた肌は、長い年月をかけてシミができる。人生100年時代。50歳からでも遅くはない。シミだらけのおじいちゃんにならぬよう、妻が夫の紫外線対策にも気を配りたい。  冒頭で紹介した美容男子は、実はまだ42歳。愛用ブランドは「フェース」。容器が女性っぽくないのがポイントなのだとか。  男性の皮膚用化粧品の出荷額はここ数年、200億円前後が続く。05年の150億円足らずから大きく伸びた(経済産業省「生産動態統計」)。  4年前には、アラフォー男性のためのスキンケアブランド「クワトロボタニコ」が誕生した。「枯れない男の肌メンテ」をうたい、肌の乾燥や皮脂のテカリ対策ができる。ビルベリー葉エキスなど四つの植物成分を配合。洗顔やひげそり後に使える泡タイプの洗顔料や肌にハリと弾力を与えるクリーム、さらに「日本初」というコウジ酸配合のシミケア薬用美容液など、アイテム数も豊富。男性も美容液でスペシャルケアし、美肌を保つ時代! 女性も、うかうかしていられない。  化粧品メーカーのオルビスは、メンズスキンケアブランド「ミスター」を1年前に発売した。当初は妻らが夫の代わりに購入する需要をねらっていたが、実際には、男性が自ら商品を購入する傾向があったという。 「これまでの中心ターゲットは、俗に『美活男子』と呼ばれる、“ステータス向上欲の高い男性たち”。ブランドやアイテム数も限られていました。しかし、近年は整髪やひげそりの延長として、最低限の身だしなみマインドが高まっています。それとともに、一般のビジネスマンの間でも、エチケットやたしなみとしてスキンケアが徐々に定着しています」(オルビス社)  そう。男性にとって、美容は“エチケット”なのだ。  先に紹介した大塚製薬の調査では、男性が取り組む肌ケアのトップは「化粧水をつける」だった。  鼻毛が出ておらず、肩にフケも落ちておらず、口臭もなく、歯はホワイトニングケアで、輝く白色。肌はくすんでおらず、脂ぎってもおらず、たるみもなく、もっちり。そんな容姿で人と会うことができれば、相手に与える印象だけでなく、自信もアップするはず。  清潔感いっぱいで、自信に満ちあふれた輝く男性。そんな夫にしませんか。妻の力で。(本誌・大崎百紀) ★男性が取り組む肌の手入れ方法 【1】(顔用の)化粧水をつける 【2】洗顔料を使う 【3】顔をこまめに洗う 【4】日焼け止めを塗る 【5】シェービング剤をつける 【6】(顔用の)乳液をつける 【7】こまめにシャワーや風呂に入る 【8】アフターシェービングローションをつける 【9】自分専用シャンプーを使う 【10】(顔用の)クリームをつける 【11】頭皮マッサージをする 【12】スカルプケア用シャンプーを使う 【13】洗顔シートを使う 【14】汗拭きシートを使う 【15】あぶらとり紙を使う ※大塚製薬の報道資料から作成。20~60代男性500人に聞いた意識調査で、複数回答の上位 ※週刊朝日  2018年6月22日号
週刊朝日 2018/06/19 07:00
複数の恋人も…一周忌迎えた野際陽子の素顔と秘密を娘が明かす
複数の恋人も…一周忌迎えた野際陽子の素顔と秘密を娘が明かす
【左・真瀬樹里(まなせ・じゅり)】1975年、東京都生まれ。94年に映画「シュート!」でデビュー。抜群の運動神経を生かし、タランティーノ監督作品「キル・ビル」に出演、殺陣指導も担った。衣装協力=トップス:ユキ トリヰ、イアリング:スタイリスト私物/【右・羽田美智子(はだ・みちこ)】1968年、茨城県生まれ。88年デビュー。「サラリーマン金太郎」「花嫁のれん」などで野際陽子と共演した。ドラマ「特捜9」や「おかしな刑事」シリーズ(ともにテレビ朝日)に出演。衣装協力=シャツ/BAGUTTA(撮影/写真部・小山幸佑)  女優・野際陽子さんが亡くなって1年。年を重ねるほどに魅力が増した秘密とは……。『母、野際陽子』を著した娘の真瀬樹里さんと、母娘と近しかった女優の羽田美智子さんが語り合った。 *  *  * 羽田:実は私、5、6年前に「野際さんの本を書かせてください」って野際さんご自身にお願いしたことがあるの。野際さんは女性を元気にする言葉をたくさん持っていらっしゃるでしょう? 私たちに話してくださるお話を多くの方に紹介したくて、お聞きしたの。 真瀬:母は何て言ってました? 羽田:「めんどくせぇ」って。 真瀬:ああ、やっぱり(笑)。 羽田:「撮影も取材もみっちゃんがするの? ずっと隣にいるなんて、鬱陶(うっとう)しいじゃないの」って(笑)。 真瀬:母が言いそうなことですね。私も今回の本のお話をいただいたとき、最初はお断りするつもりだったんです。「そんな大げさな人生じゃないんだから、やめてよ」っていう母の声が聞こえるような気がして。 羽田:おっしゃりそう。 真瀬:でもたくさんの方から、「読みたい」「作ってほしい」って言っていただいて、決心しました。ただし、母をオーバーに持ち上げるのは絶対にやめよう、人を笑わせること、楽しいことが好きだったリアルな姿を書こうと。 羽田:野際さんって、ほめられると居心地悪そうだったもんね。 真瀬:そうそう。むしろ、「妊娠5カ月の人くらいおなかが出てるよ」なんてからかうと、喜ぶ(笑)。本では、そういう話も包み隠さず書きました。娘でないと、あそこまで突っ込んで書けなかったと思います。 羽田:私が初めてご一緒させていただいたのは、1999年の「サラリーマン金太郎」(TBS系)だったわ。共演者が初めて顔を合わせる台本の読み合わせって、独特の緊張感があるんだけど、野際さんは品のいいお洋服を着て、楚々としていらっしゃった。大女優なのに「自分は普通の人間だから特別扱いしないで」という雰囲気を出していらして。自然体なのに品格があって、すぐ大好きになっちゃったの。 真瀬:特別扱いが嫌いな人でしたよね。 羽田:それでも私から見れば、野際さんはやっぱり特別な魅力を持った方だし、“トップ”が似合う女性。女優以外のどんな仕事をしていても、成功したと思う。例えば、銀行初の女性頭取とか。趣味で描いていらした水彩画もお上手だったし、多才よね。 真瀬:文章を書くのも、うまかったですね。 羽田:あんなすてきな方には、今後もう出会えないんじゃないかな……。お会いするたびに若々しくなるというか、どんどん魅力的になられて、年を重ねるのは怖くないっていうことも、野際さんが教えてくださったことの一つよ。 真瀬:羽田さんとお会いしたときは既に独り身でしたし、自由な生活を楽しんでいましたね。 羽田:以前、仕事のストレスで円形脱毛になったことがあって。メイクさんに指摘されてショックを受けていたら、たまたまそこに野際さんがいらして、「平気平気。私もあるわよ」って。野際さんと“おそろい”だと知って、何だかものすごく安心したのを覚えてる。 真瀬:そうだったんですね。 羽田:「みっちゃんが一生懸命やってる証しよ、お気楽に見えるけど」なんておっしゃって。「がんばってね」「大変ね」でなく、ウィットのきいた言葉で私の気持ちをすくい上げてくれて嬉しかった。そんな野際さんのDNAを樹里ちゃんは受け継いでいるのね。 真瀬:どこをどう引き継いでいるのか、わからないんですけどね。あんなに彫りの深い顔じゃないし。 羽田:ドラマの出演者やスタッフで開いた野際さんのお別れ会で、樹里ちゃんがご挨拶をしたでしょう? あのとき、「野際さんに似てる!」って思ったの。 真瀬:ちょうどドラマで母の役を演じていたので、しゃべり方とかしぐさは似ていたかもしれませんね。 羽田:私が感じた「似ている」という感覚は、そういう見た目の部分ではなく、中からきたものなの。野際さんが確実に樹里ちゃんの中に入った、という感じ。言葉の端々にさりげない気遣いがあって、「これぞまさに野際さんが言ってほしかったことだろう」っていう内容のご挨拶だった。 真瀬:本当ですか? ありがとうございます。 羽田:ドラマの打ち上げなどで野際さんがご挨拶なさるときも、いつもその場にいる人全員のことを考えて話していらしたなあ……。しかも、必ずどこかに笑いの要素があるのよね。 真瀬:面白いこと、人を笑わせることが好きでしたね。 羽田:ドラマの撮影が深夜までかかったとき、着物姿で廊下を滑り始めてね。スピードスケートのまねをして。それで「ああ疲れた」っておっしゃるから、「暴れるからですよ」って(笑)。 真瀬:シリアスな役が続くと「もうコメディーしかやりたくない」って言ってました。 羽田:「人生には試練もある。それを乗り越えるには、ユーモアしかない」って、よく話されていたわ。 真瀬:今回の本を書く途中で煮詰まって、友だちに相談したら「お母さんがどんな人だったか、思いつく単語を挙げてみたら」ってアドバイスされたんです。早速書いてみたら、出てきたのは「三枚目」とか「ふざけんぼ」とか「芸人気質」なんて言葉ばかり。「吉本興業に入ろうかな」なんて話も、10回ぐらい聞いた気がする(笑)。 羽田:あの美貌で面白いことを言われたら、誰もかなわないわよね。ずるいわ! その半面、人見知りなところもあるのよね。 真瀬:母以上の人見知りは、なかなかいないですね。自分からは積極的に話しかけません。大学時代、友だちを家に連れていったときも、母はまったく愛想がなかった。「なんでそんなに不機嫌なの?」って、よく思いました。 羽田:何だか少女みたい。 真瀬:60代のころ、若い俳優さんに食事に誘われ、「2人だと何を話したらいいかわからないから」って、私も連れていかれたことがありました(笑)。相手の方も、さぞ困惑されただろうと思います。 羽田:ベテランの監督さんにうかがったら、野際さんは若いころ、東映撮影所のマドンナだったって。結婚されたときは、みんなでヤケ酒を飲んだって。 真瀬:本人は自分のことを美しいと思っていなかったみたいだし、特にスタイルに関しては、コンプレックスのかたまりでしたよ。 羽田:かけ離れた存在でありつつ、どこか親近感もあって……。亡くなられて1年が経つけど、私は実感がなくて、またひょっこり会えそうな気がしてしまうの。 真瀬:私にとっては長い1年でした。母が最後に入れてくれた留守番電話も、まだ聞く勇気がないんです。この本を書く間もずっと母のことを考えてつらかったけれども、「本を完成させたい」という思いのほうが強かった。本に出てくる会話に母のニュアンスを出したくて、語尾にも細かくこだわったんですよ。身内でも知らないようなことも結構書いていて、例えば、亡くなる直前に聞いたフランス留学中の恋愛話とか。 羽田:お付き合いしていた方が1人いるって、お聞きしたことがある。 真瀬:それが他にも何人かいたみたいで……。 羽田:ええっ!? それは知らなかった(笑)! (構成/木下昌子) ※週刊朝日 2018年6月22日号
お悔やみ朝日新聞出版の本読書
週刊朝日 2018/06/18 11:30
元SKE48・矢方美紀「小林麻央さんの報道、他人事じゃない」乳がん闘病記【後編】
福井しほ 福井しほ
元SKE48・矢方美紀「小林麻央さんの報道、他人事じゃない」乳がん闘病記【後編】
 4月にステージ2bの乳がんを明かし、左乳房全摘出とリンパ節切除を公表した、アイドルグループSKE48の元メンバー・矢方美紀さん(25)。SKE48時代はチームSのリーダーを務め、選抜総選挙でも2度ランクインを果たした。  “みきてぃ”の愛称で親しまれ、矢方さんの周りは常に笑顔でいっぱい。昨年2月にグループを卒業し、新たな目標に向かって歩き始めた矢先の告知に一時は毎日一人で泣いていたという。しかし、もう前向きだ。今は抗がん剤治療が始まり、一年後には左胸の再建手術も予定している。最近では松井珠理奈(SKE48)が矢方さんと食事に行ったことを明かし、「昔と変わらない明るくて笑顔のみきてぃに、私のほうがパワーをもらいました」とコメントするなどSKE48時代の仲間との交流も続く.  6月某日、AERA dot.では矢方さんを独占インタビュー。前編では同じく若年性乳がんを発症した小林麻央さんがきっかけで乳がんを意識し始めたことを明かした。 「一度もお会いしたことはないけれど、毎日テレビで見ていた方だったので亡くなられたと知ったときはすごくショックでした。私は20代だけど、他人事じゃないなって」  後編となる今回は同じ乳がん患者との交流やSKE48時代の先輩・宮澤佐江さんとの再会、公表後にかけられる「頑張れ」の言葉への思いを語ってもらった。 レギュラー出演するラジオ収録 / Shiho Fukui / Asahi Pub * * * ――左のリンパ節を切除されて、今も違和感はありますか。  今は最初より動くので問題ないです。ただ、今後また再建手術もあるので、それがどうなるんだろうっていう思いもあります。また傷を切って、人工物を入れて作るので。 ――人工物を入れる方法と自家組織を使う方法があると思うのですが、今は人工物にしようと考えているんですね。  今はそうですね。最初は人工物を入れるということにも抵抗があったんですけど、お話を聞いていると、この数年で保険も適用されるようになったみたいで。全摘して、シリコンパックを入れて再建される方もたくさんいるって聞きました。お金の負担とかも考えて、人工物でも安心してできるのかなって。  それと、自家組織の場合は脂肪を取るんですけど、診ていただいたときにあんまり脂肪がないのでもってこれないかもしれないってなって。それに治療の過程で脂肪が縮んでしまう可能性もあるみたいで、「もっと胸がなくなっちゃうな」って。後は人工物のほうが切らないので、早く退院できるなと。 ――今の病院はどうやって決めたんですか。  最初はセカンドオピニオンっていうんですか、「色んな先生に聞いて治療したほうが良いよ」って言われたんですけど、何人かに言われてそこから選択するのも迷ってしまうかなと思ったのと、主治医の先生が合っているので、ずっとその先生にお願いしています。タイミングもあったと思うけれど、良いお医者さんに出会えて良かったなって思っています。 ――最初に信頼できる先生に出会えたんですね。  なかなかないですよね。最初に診ていただいた乳腺外科の先生からの紹介です。他の方のお話を聞くと、最初の病院では治らないって言われたけど、別の病院で治るって言われた人や、他のがんも検査で見つかって治療して生きていますっていう方もいて、人それぞれなんだって学びました。私の場合は最初から自分に合う先生だったので、めぐり逢いなのかなって思います。 ――同年代のがん患者は少ないですか。  病院でも私より上の年代の方が多いなという印象です。だから、「どうして私はこんなところにいるんだろう?」って思ったし、他の方にもそう思われているのかなって。  若い人のがんって増えているんですけど、病院に行ってみると少なく感じる。病気を公表してから、「実は私も」という女性の方がメールをくださったりしました。これまで直接お話をする機会はなかったけれど、今はプライベートでコミュニケーションを取ったりしています。 ――同じ年代の乳がん患者の女性と連絡を取り合っていると伺いました。どんなお話をされているんですか?  お話していて思うのは、乳がんであることを周りに伝えていない方が多いということ。一人でこつこつ頑張って治療をしている人がけっこういるんです。「胸がない」、「髪が抜けた」って周りの人には言えないけれど、私が公表したことを「代弁してくれたみたいで、ホッとした」って感じてくださった方もいたみたいです。「もし何かあったら言ってください」って連絡をくださったりもしました。  逆に私も色々と聞いてみたりもします。「治療では何がいりますか?」とか今後乗り越えるためにアドバイスをいただいたり。 「ロングヘアでイメチェン。帽子がないと、少し不安」 / (C)株式会社TYK Promotion ――先輩じゃないですけど、これからのことを教えてもらえる。  手術が終わって治療に入るまでの準備だったり、最初は何も分かりませんでした。今、抗がん剤をしていて、髪が抜けるのも言葉では分かる。でも、「どういう風に抜けるんだろう?」、「何を用意して、どこで使えば抜けることに備えられるんだろう?」っていうのが分からなくて。ネットでも調べてみたけれど、詳しくは載っていない。「みんなどうしてるんだろう?」って疑問があったけれど、今やり取りしている方は経験していたり、乗り越えた人だったので、聞いたことを実践しました。 ――先輩といえば、先日放映されたテレビ『爆報!THE フライデー』では元SKE48の宮澤佐江さんとも共演されていました。  実際に会えると思っていなかったのでびっくりして、自分の病気のことも直接伝えることができたので良い機会をいただけたなと。 ――SKE48には10代、20代の方が多いじゃないですか。あんまり病気知らずというか、多少の無理は平気な年ごろ。  そうですよね、健康な時期です。だけど、私が乳がんになったのを見て、「私も検査に行かなきゃ」って全員が思うのも違うと思うんです。みんながマンモグラフィとかしちゃうと病院が大パニックになってしまう。でも、私がセルフチェックで乳がんに気づいたように、身体からサインが出ることもある。それで気になったら相談して、病院に行ってというのがいいのかなと思いますね。  女の子って色々と身体に気を使わなければいけないことも多いのかなと思っています。自分が知れる範囲で本やネットで情報を得て、生きていく中で最低限のことは知っておいたほうが自分のためになるのかなって。 「私は大丈夫」って思っている方も、もちろん大丈夫な方もいると思うんですけど、大丈夫だって思って、がんで亡くなってしまった方も知っています。「私は大丈夫だ」っていうのも大事だけれど、もしものことを考えて地域でやっている無料検診とかに行ってみるのもいいのかなとも思いましたね。手遅れが一番怖いです。 ■プライベートも病気に結びつけて「負けるな」 ちょっとストレス ――そういえば、以前「頑張るのが嫌い」っておっしゃっていました。  「病気に負けるな」、「頑張って」って言われるのがすごく多いんです。私も頑張ってるけど、私以外の普通に過ごしている人もみんな頑張っているからって思うんです。それと、昔お世話になった方に「頑張ってるのはみんな当たり前だから、頑張るって言葉は使うな」って言われて、「確かにな」って思ったのもあります。 ――病気を公表したときに一番多いメッセージは「頑張って」ですか。  実際に自分が病気になって、過去に病気を経験された方や今病気と闘っている方がテレビに出ていても、頑張ってるところを見てほしいわけじゃないなって思ったんです。「自分はこういう風に生きています」ってただ見せているのかなって。公表してから、すべてを病気と結び付けて「負けるな」ってつなげられちゃうことが多いんです。それが、個人的なストレスにもなりかけていて。 SKE48時代の一コマ / (C)株式会社TYK Promotion 「ブログを更新している限りは元気だって思ってください」って伝えたいですね。更新しないから元気じゃないわけではないけど……。でも、「楽しい」って書いていたらそれが私の気持ちだって受け取ってほしいなって。たまに治療でしんどいときは、しんどいって書こうと思っているし、「無理しないで」って声をかけてもらうけど、「無理してないのに!」って(笑)。きっと受け取り方はそれぞれで、違う意味に捉えちゃう人もいると思うんですけど、自分らしくいこうとは思っています。 ――周りも、ファンの方も色んな思いで言葉をかけてくれますもんね。  他の乳がん患者の方とやり取りをしていて思ったのは、普通に過ごしていることを一緒に楽しんだり共有したりすることがモチベーションになったり、乗り越えていくきっかけになったりする。病気っていうことを知りつつも普通にサポートしてくれるほうが過ごしやすいというか。お互いが壁を作らずにできることなのかなって思いましたね。 ――最近だと、南果歩さんも乳がんの治療についてお話されています。  そうですね。南果歩さんは治療を止められたんですよね。人に合う、合わないもあると思うし、色んな治し方があって、自分にしか分からないと思う。  今回病気になって、周りに大きな病気をされている方がいたり、大変な中で生活されている方が多いんだなって感じました。芸能人の方って病気を公表して、それをニュースにすることもできる。そんな中で、「私が休んでいてもダメだ」っていう気持ちもありました。休めるのも大事だけれど、私は働くことが好きで、手術をした後も「お仕事したいな」って思っていました。今日もラジオをさせていただいたり、感謝しなきゃなって思っています。 ラジオの打ち合わせも念入りに / Shiho Fukui / Asahi Pub ■「結婚、出産も20代でするんだろうなと思っていた」 ――乳がん完治の目安は10年と言われていて、他のがんよりちょっと長く見ていく必要があります。  10年後を見て、「これはきっとできないんだろうな」ってマイナスに思うんじゃなくて、「何かが待ってる」っていうのを楽しみにいかなきゃなぁと思っています。  結婚、出産も本当は20代でするんだろうな、してみたいなって思っていました。でも、今はできないなって感じています。なので、その前に今やっているお仕事とか、優先してできることもあるのかなって思ったので、10年の間に楽しんでいこうって思っています。 ――お仕事にも意欲的。矢方さん、絵も上手なんですよね。  絵を描くのもすごく好きですね。最近はあんまり描けていなかったけれど、時間ができたら描こうかなって思っています。今は表現できる場所がたくさんあるので、絵でも気持ちの変化を伝えられるのかなって思っています。私にしかできない、私だから言えるようなことも描けるのかな。私は全部を明るく変えたいんです。周りが悲しい空気なのが嫌なので、絵もいつか仕事にもできたらいいなって最近思っています。 ――昔から絵を描くのは好きなんですか?  小学生のときは美術部でした。でも、美術部っていうと暗いみたいなイメージもあるじゃないですか。そんなことなくて、「なんでみんなこんなに芸術的な絵を描くんだろう?」ってくらい素敵な絵があったり。夏休みに宿題が山ほどあるときは毎日片道30分くらいかけて近所のちびっこたち3、4人で大分市美術館に行って、勉強して、絵を見て帰る、みたいなことをしていましたね。絵を描いて褒められたりするのは小さいときから嬉しかったな。 久しぶりにパソコンで描いた絵はペットのタン君 / (C)株式会社TYK Promotion ――かき氷屋さんとコラボもされていて、色んなところに活動が広がっているように思います。  ずっと好きで通っていたお店とコラボさせていただくので、夢が叶って嬉しいです。  告知されて1、2カ月は一人になると悲しかったんですけど、最近は夜に泣いたりもしないし、お仕事が終わって、寝て、明日も頑張ろうって。「本当に病気なのかな?」って思っちゃうときもあります。 ――声優業にも挑戦したいんですよね。  SKE48に入ったのも、声優を目指してでした。「ここに入ったらいけるのかな?」って思ったのがきっかけ。今はナレーションのお仕事だったり、アニメのプロジェクトに自分が恥じないようになっていかなきゃなって思いながら色々とやっています。声を使ったお仕事が憧れだったんです。技術も色々あると思うけれど、「私はきっとできる気がする」っていうのは昔からあって、そこだけ変な自信があるので絶対に叶えたいです。 ――昔からの夢とは別で、乳がんについてやご自身の体験を伝える活動もされますか。  もしお声をかけていただいて、私が発信することで誰かが希望を持てたり前向きな気持ちになっていただけるのなら嬉しいなって思っています。私でしか言えないことだったり、感じられないこともあったりすると思うのでやっていきたいですね。 ――今後はお仕事をしながら、一年後に再建手術をして。  手術が無事に終わって、成長できていたらいいな。「病気の人=元気がない」というイメージが私にはありました。でも、実際に自分がなってみて、そうじゃないなって気づいた。病気にもよるけれど、何でも食べられるし、オシャレもしたいし、お仕事もたくさんやりたい。そういう方はたくさんいると思うんです。そういうことを私が発信していけたらなって思っています。(聞き手/AERA dot.編集部・福井しほ) 【動画大公開】インタビューの様子はこちら!
dot. 2018/06/16 16:00
紀州のドン・ファン怪死「野崎社長はボン・キュッ・ボンが好み」 注目される芸能界との関係 
上田耕司 上田耕司
紀州のドン・ファン怪死「野崎社長はボン・キュッ・ボンが好み」 注目される芸能界との関係 
デヴィ夫人と写る野崎さん 野崎さん夫婦 「紀州のドン・ファン」こと、野崎幸助氏(77)の怪死事件は、芸能界にも波紋を広げた。  まずは野崎氏と交流のあったデヴィ夫人(78)だ。野崎氏が5月24日夜、怪死する18日前に同じように怪死した野崎氏の愛犬イブのお別れ会にも招待されていた。 「デヴィ夫人のほうが野崎氏より1歳上。同世代だから、うまが合ったようです」(野崎氏の会社の元従業員)  お笑い芸人にも驚きが広がった──。  2016年末に刊行された、野崎氏初の著書「紀州のドン・ファン 美女4000人に30億円を貢いだ男」(講談社+α文庫)は、テレビ朝日の「アメトーーク 本屋で読書芸人」でも紹介されていた。  昨年11月に放送された同番組で、ピース又吉、東野幸治、オアシズ光浦、メイプル超合金・カズレーザーが「2017年に読んで好きな本」を発表した際、東野が「紀州のドンファン」を17年で好きな本の1冊に取り上げたのだった。  コーナーで紹介された本は売れるともっぱらの評判の番組で、同書の売上の方も伸びたという。  歌手の仁支川峰子(西川峰子から改名)の野崎氏との関係が取沙汰された。 「社長は30年ほど前、東京に進出して街頭で当時は珍しいフリーダイヤルがかかれたティッシュを配ったんです。歌手の西川峰子(当時)とも親しいと吹聴し、その写真入りのものも配っていた」(前出の元従業員)  仁支川さんの個人事務所はこう答えた。 「本人に聴いたところ、(野崎氏の会社の)キャンペーンガールみたいな扱いをされたということではなく、営業で頼まれて、ショーで歌ったということです。仁支川は『普通にお仕事の付き合いよ、誘われたことなんて一回もないわ』と言ってました。一度仕事をしたと言っても、30年も前のことで、それ以降、何のお付き合いもないと思いますよ。『パーティに誘われたこともないわ』って言ってました」  他にも、野崎氏が交際していたと吹聴していた若手女優の事務所に取材したところ、「知ってはいますが…」と口を濁した。  家宅捜査を受けた55歳年下の妻と家政婦も芸能界とは無縁ではない。  妻はAV映画の出演やモデルの仕事をしていた。家政婦は元六本木のホステスで娘は歌手。  野崎氏はコンサートを聴きに行ったりしていた。 「家政婦親子は芸能人の知り合いがいる」(同)  野崎氏の死因は「急性覚せい剤中毒」だ。捜査は覚醒剤ルートの解明や野崎氏が利用していた、女性を斡旋する高級交際クラブのルートなど多方面に及びそうだ。  カネ、オンナ、クスリが絡む事件といえる。  50億円の財産があると豪語していたが、どうやって巨富を築いたのか。野崎氏は生前、本誌の取材にこう答えていた。 「若い頃、いい女をたくさん抱くためだけに自分は生きようと思った。そのためにはカネがいる。それでコンドームのセールスマンをやって、全国各地を飛び歩いて稼いだ。時にはその場で奥さんにコンドームの実演販売をすることもありましたよ」  長身で長い髪の若い女性と交際を繰り返した。 「社長は『ボン・キュッ・ボン』が好みなんです。豊かなバストとヒップ、しまったウェストの3サイズが良ければそれでオーケーでした」(元従業員)  野崎氏の実家は酒屋だった。7人兄弟の3男だったが、親族とはうまくいっていなかったという。 「野崎さんは兄弟に反発して、酒の卸業を始めたんです。最近の主な仕事は金融業と酒卸業、そして地元名産の梅干し販売でしたが、赤字だった」(同)  会社の前には自動販売機がズラリと並び、午前1時過ぎに起床し、午前3時過ぎには出勤するのが日課。 自ら自販機のコイン箱を開け、チェックするのを楽しみにしていた。 「いつも今日は2万ナンボあったとか、4万ナンボあったとか言っていた。ある日、なぜ、そんなことが楽しみなのかと質問したら、『自販機は偉いもんだよ。24時間、文句も言わず稼いでくれるから』と笑っていた」(同)  社員や妻、家政婦もみな、野崎氏のことを「社長」と呼んでいた。  午前8時には気に入った社員と朝食を食べ、午前10時には自宅に帰るという超朝型の生活を続けた。 「午前3時や午前5時に社長から電話がかかってきて、困ることもありました。『おはようございます』『ありがとうございます』が口ぐせでした」(同)  一時は、自宅のある和歌山県内の高額納税者の常連だった。 「社長の財産が本当に50億円あるか、ちょっとわからない。金貸しで差し押さえた不動産とかも数多くあります。そういえば、今年4月、テレビでプロ野球中継を観ながら100億円を出すからプロ野球球団を買えないかと、知人に相談を持ちかけていた。単なるハッタリかもしれませんけど…」(同)  脳梗塞を2度やり、毎月のように和歌山から東京に飛行機で来て、有名病院で診察や検診を受け、健康には気をつけていた。 「障害者手帳も持っていると聞いた。サプリメントもいろいろ飲んでいました。それも『高いものを薬局で買ってこい』と。成金なので高いものは効果があると信じ込んでいた」(同)  そんな野崎さんからなぜ、覚せい剤が検出されたのだろか。 「社長はビール、コーラ、栄養ドリンクを愛飲していた。そういう飲み物に何者かに入れられたのではないか」「サプリなどに紛れて飲まされたのではないか」など様々な憶測と推理を呼んでいる。  密室の出来事だけに、捜査は難航し、長期化するという見方も出ている。(本誌・上田耕司) ※週刊朝日オンライン限定記事
週刊朝日 2018/06/11 00:00
紀州のドン・ファン悲しき虚栄「オムツに大小漏らし、妻に毛嫌いされ…」脱税、刺され、名字も変える
紀州のドン・ファン悲しき虚栄「オムツに大小漏らし、妻に毛嫌いされ…」脱税、刺され、名字も変える
野崎さん夫婦 デヴィ夫人と写る野崎さん 野崎氏が経営した貸金業「オンワード」の看板  和歌山県田辺市の資産家・野崎幸助氏(77)の怪死事件で、今やお茶の間は「一億総探偵」状態だ。 「紀州のドン・ファン」と呼ばれた野崎氏と生前、交流のあったタレントのデヴィ夫人は9日、バラエティー番組に出演し、興味深いエピソードを明らかにしている。 「彼はドン・ファンじゃ全然ないです。真逆」「2回、脳梗塞をなさっていて、ヨダレもたらしていて、食べ物もよくかめず、モゴモゴしてこぼされていらして、おみ足が悪くて引きずってらした」「あれ(ドン・ファン)は本の宣伝ですよ」――。  野崎さんの経営する会社の従業員はこういう。 「社長は交際していた50歳年下の女性に6千万円を持ち逃げされた2年前の事件で注目され、本まで出したけど、書いてある内容の半分くらいは、ハッタリです。自分で都合よく書いている。社長の資産50億円の根拠はどこからきているのか、わからない。貸金業で差し押さえした不動産とかも数多くありますが、和歌山の田舎ばかりでたいした金にはならない。社長の預金も現金で10億円ぐらいですよ。酒や梅干し販売は赤字、本業の貸金業も今は規制が厳しく儲かっていない。自宅も田舎だからあまり価値はない。シャガールなどの絵画は百貨店から買っているので本物だとは思うけど…」  野崎氏は急性覚せい剤中毒で5月24日夜に怪死。遺体は解剖されたため、通夜は5日後の同29日に行われたが、貸金業、酒販売など幅広く事業をしていた資産家の割に参列者は40人前後と寂しい風景だったという。出席した親族はこう話す。 「幸助は7人兄弟の3男ですが、兄弟の間では浮いた存在でした。3回目の結婚したとか、そんな話はまったく知らなかった。通夜にいったら、えらい若い娘がいて、嫁さんだという。フライデーのインタビューでスマホはいじってないと言っていましたが、ウソですよ。いじっていました。喪主の挨拶は葬儀会社から渡された紙を小さな声で読んだだけ。月100万円の手当をもらい、妻なのに何もしない。妻側の親族は誰も来ておらず、これはおかしいと思ったら、覚せい剤中毒で死んだといわれ、仰天しました。幸助は脳梗塞を2回やり、よちよち歩きの状態で先はそう長くない。身体障害者の手帳も持っており、覚せい剤なんかやるワケない」  野崎氏は遺体で発見された時、ぼほ裸だったという。前出の従業員はこう話す。 「下半身に何も身に着けていなかったのは、社長が普段からオムツをつけていたためでしょう。社長は病気のせいで年中、大も小もオムツに漏らす。オムツで吸収しきれなくなり、床やお風呂にこぼすこともあった。そのたび、家政婦や従業員に掃除させた。車を運転していても、ブーって漏らす。だから2階の社長の寝室は臭いひどく、奥さんは『あんな部屋に上がりたくない』『車で漏らして臭かった』と毛嫌いしていた。奥さんは次第に社長と一緒に住むのを嫌がり、月100万円の小遣いをもらうと、モデルの仕事が入ったと東京にさっさと帰っていた」  野崎氏は中学卒業して、家業の酒屋を手伝った後、夜間高校に通った。だが、続かず、また家業を手伝ったという。 「子供の頃はいじめられっ子でよく年上の子供に泣かされていた。中学時代も勉強ができず、家業の酒屋を手伝うようになった。でも、勝手に酒をスナックに売りにいき小遣い稼ぎしたりと、やることがめちゃくちゃ。幸助は3男で男兄弟で一番下なので母親は猫かわいがりをした。両親の遺産相続で兄弟と裁判沙汰になるほど揉めましたが、その元手で高利貸しを拡大しました」(前出の親族)  野崎氏のひどい取り立ての悪評は地元で知れ渡り、親族は誰も付き合わなくなったという。 「地元で高利貸しをはじめた当初は法律も甘く、年利36%くらいとれた。東京にも進出し、街頭で当時は珍しいフリーダイヤルが記されたティッシュを配った。歌手の西川峰子(現・仁支川峰子)と親しいと吹聴し、その写真入りのティッシュを配ると、多重債務者が次々と借りに来た。社員も増えて貸出金額も増えました。当時、サラ金の取り立てが社会問題化しましたが、社長はお構いなしで、家の前で車のクラクション鳴らしたり、エンジンをふかして赤い粘着テープで目立つように金返せと張り紙したりと無茶苦茶でした」(元従業員)  仁支川さんの個人事務所は、「営業で頼まれて、30年ほど前、ショーで歌っただけ」と話す。  野崎氏の本名は樫山。野崎姓に変えたのは、2番目の妻と結婚した時だという。 「2番目の妻の勧めで姓名を変えたそうです。樫山といえば、服飾メーカーのオンワード樫山が思い浮かぶ。そこで野崎氏は貸金の屋号をオンワードにし、オンワード樫山と記したティッシュをオンワード樫山本社前で配ったらすごく客がついた。だが、すぐにオンワード樫山から訴えられて、敗訴。その後は金を貸すターゲットは公務員、上場会社の社員と決めていた。先に公正証書を作成して、返済が滞ったらすぐに、給料を差し押さえ。まあ、そういう知恵は働く人でした」(前出の知人)  1997年の和歌山県内の高額納税ランキングで野崎氏は2位になり、納税額は2億円に上った。  だが、同年に従業員の知人に襲われて、足をナイフで刺され、金を奪われる事件に遭遇。さらには国税のマルサに入られ、二重帳簿の脱税で摘発されたという。 「マルサにやられてからは世間体が悪いと、家業の酒販売、地元名産の梅干し販売もはじめた。まあ、貸金で儲かるから、酒販売と梅干しの会社は赤字でいいという考えでしたね」(同)  野崎氏の経営する会社の古手の従業員はこう話す。 「若い女好きは病気というか、もう生活の一部って感じですね。昔から、好みの背の高い若い女が貸金の事務所の前を通ると、走って声をかけに行く。100万円やるから付き合ってくれとか簡単に言います。寝てくれた女性に『金はやるから、領収書を書いてくれ』と言い、アルバイト代として会社の経費で落としたりとハチャメチャです。東京から和歌山に飛行機代とお手当を出して連れてきた女とケンカし、飛行機代も渡さずに追い出したり、そんなことはよくありました」  2年前に東京から来た女性に、貴金属やお金など計6千万円相当を持ち逃げされ警察沙汰になり、野崎氏は有名になった。 「あの時も『ここにあるもん持って帰ってええから』と言ったので、女性は持ち帰ったと話していた。付き合ってくれたどんな女性にも、すぐ言うんです。2番目の妻が家を出た時は大騒ぎで、何度も彼女の家に押しかけ、『帰ってきてくれ』『1億円渡す』とか言っていた。だが警察に通報され、ストーカー認定され、近づくことを禁じられたそうです。社長は女性には甘いが、女性が絡まないとドケチです。家の庭を造園業者に頼んで工事してもらった時、社長は勝手に店から安酒を大量に持って行き、これで代金を払うと置いて帰り、業者を怒らせたこともありました。いろんな人の恨みを買った人生だと思う」  野崎氏を覚せい剤中毒で急死させた”真犯人”は一体、誰なのか。(本誌取材班) ※週刊朝日オンライン限定
週刊朝日 2018/06/10 16:00
実生活で「日大アメフト部問題」状態に? 「ウソ」にまつわるとんでもエピソード
実生活で「日大アメフト部問題」状態に? 「ウソ」にまつわるとんでもエピソード
「ウソ」にまつわる驚愕のエピソード(※写真はイメージ)  多かれ少なかれ、誰しも生活の中でウソをついた経験はあるのでは。しかし中には、ウソがきっかけで人生が変わってしまった人も……。「ウソ」にまつわるアンケートを実施したところ、驚愕のエピソードが飛び出した。  AERAネットで実施した 「どうしてアイツはうそをつく」アンケートでは、「職場でウソつきな人に悩まされたり、驚いたりしたことがある」人は7割近く。同時に「職場でウソをつかれたときどんな対応をしますか?」という質問に対しても7 割以上が「相手のウソは追及しない」という結果に。AERAの読者はウソに対してオトナな対応の人が多いのかしら。  とはいえ、みなさんの職場に いるウソつきは、かなりのつわものだった。 「営業主体の会社だからか、皆、ハッタリがすごい。まともに聞いてられません。業務だけならまだしも、個人的な話題でもウソが多いのにはびっくり。おかげで全員が、お互いの話を『どうせウソでしょ?』と思って聞いてる」(50代女性・デザイナー) 「PCを使えると能力を偽って入社してきたパートさんは、日がな一日ネットサーフィンしているだけ。おかげで私の仕事量が増えた」(40代女性・会社員)  職場でのウソのほとんどは、 責任回避や責任転嫁だ。中には「アメリカンフットボールの日大悪質タックル問題と同じ構図に巻き込まれた」という人もいた。  元大学研究員(51)は20年ほど前、某大学薬学部の不法投棄問題を内部告発した。 「教授が学生に実験廃棄物を、敷地内に捨てるように指示していたんです。困った学生が私に相談し、市役所にも訴えて視察してもらった結果、大騒ぎに。でも教授は『指示した覚えはない』『学生の誤解だ』で逃げ切った」という。ちなみにその時 の教授の指示は「夜になったら (廃棄物を)自然に返してきなさい」だったとか。 「学生は卒業を握られているから何も言えない。私は出勤停止で任期の更新なし。学部長に就職先の相談をしたところ『正義感はわかるがやり方がまずかった。相談してくれれば秘密裏に処理したのに、もうどこへも推薦できない』と。研究室という密室が恐ろしくなって、業界に別れを告げました」  人生を変えられてしまうほど 悪質なウソの被害の典型だろう。  時には相手を思ってつくウソもある。  都内の病院に勤務する医師の女性(47)は10年ほど前、末期の大腸がんの患者を担当したが、家族からの要望で本人には最後まで隠し通したという。患者はぎりぎりまで自宅で過ごし、急変して病院に運ばれた数時間後、 家族に看取られて旅立った。 「ご家族からはよい最期を迎えられたと感謝されました。今も、 あれはついていいウソだったと 思っています」 (ライター・浅野裕見子) ※AERA 6月11日号より抜粋
AERA 2018/06/08 07:00
更年期をチャンスに

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女性は、月経や妊娠出産の不調、婦人系がん、不妊治療、更年期など特有の健康課題を抱えています。仕事のパフォーマンスが落ちてしまい、休職や離職を選ぶ人も少なくありません。その経済損失は年間3.4兆円ともいわれます。10月7日号のAERAでは、女性ホルモンに左右されない人生を送るには、本人や周囲はどうしたらいいのかを考えました。男性もぜひ読んでいただきたい特集です!

更年期がつらい
学校現場の大問題

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クレーム対応や夜間見回りなど、雑務で疲弊する先生たち。休職や早期退職も増え、現場は常に綱渡り状態です。一方、PTAは過渡期にあり、従来型の活動を行う”保守派”と改革を推進する”改革派”がぶつかることもあるようです。現場での新たな取り組みを取材しました。AERAとAERA dot.の合同企画。AERAでは9月24日発売号(9月30日号)で特集します。

学校の大問題
働く価値観格差

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職場にはびこる世代間ギャップ。上司世代からすると、なんでもハラスメントになる時代、若手は職場の飲み会なんていやだろうし……と、若者と距離を取りがちですが、実は若手たちは「もっと上司や先輩とコミュニケーションを取りたい」と思っている(!) AERA9月23日号では、コミュニケーション不足が招く誤解の実態と、世代間ギャップを解消するための職場の工夫を取材。「置かれた場所で咲きなさい」という言葉に対する世代間の感じ方の違いも取り上げています。

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