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第44回木村伊兵衛写真賞ノミネート作家が決定!
第44回木村伊兵衛写真賞ノミネート作家が決定!
岩根愛『KIPUKA』から 金川晋吾「長い間」から 川崎祐「Scenes」から 露口啓二『地名』から 富安隼久『TTP』から ミヤギフトシ「感光」から  第44回(2018年度)木村伊兵衛写真賞の一次選考が行われ、下記の6人が最終候補者として選出されました。  木村伊兵衛写真賞は、日本の写真の発展に尽くした木村伊兵衛氏の業績を記念して、朝日新聞社が1975年に創設。2008年4月からは朝日新聞出版との共催となりました。  選考は写真関係者の方々からアンケートにより候補者を推薦いただき、選考委員会で決定しました。対象となったのは、2018年1月から12月に発表された写真集、および写真展などの写真活動全般です。受賞者の発表は「アサヒカメラ」4月号(3月20日発売)、朝日新聞紙上、ニュースサイト「AERA dot.」などで行う予定です。なお、選考委員は写真家の石内都、鈴木理策、ホンマタカシの各氏と作家の平野啓一郎氏です。 【第44回木村伊兵衛写真賞ノミネート作家】 <岩根 愛> 写真集『KIPUKA』、展示「FUKUSHIMA ONDO」 いわね・あい/東京都生まれ。1991年単身渡米、ペトロリアハイスクールに留学。オフグリッド、自給自足の暮らしの中で学ぶ。帰国後、アシスタントを経て1996年に独立。雑誌媒体、音楽関連等の仕事をしながら、世界の特殊なコミュニティでの取材に取り組む。2006年以降、ハワイにおける日系文化に注視し、2013年より福島県三春町にも拠点を構え、移民を通じたハワイと福島の関連をテーマに制作を続ける。2018年、初の作品集『KIPUKA』(青幻舎)を上梓。 <金川晋吾> 展示「長い間」 かながわ・しんご/1981年、京都府生まれ。神戸大学発達科学部卒業。東京藝術大学大学院美術研究科博士後期課程修了。第12回三木淳賞。2018年さがみはら写真新人奨励賞。2016年に青幻舎より『father』刊行。 最近の主な展覧会 2015年「STANCE or DISTANCE?  わたしと世界をつなぐ『距離』」(熊本市現代美術館)、2018年「長い間」(横浜市民ギャラリーあざみ野)。 <川崎 祐> 展示「Scenes」 かわさき・ゆう/1985年、滋賀県生まれ。早稲田大学第一文学部、一橋大学大学院言語社会研究科卒業。2017年に『第17回写真「1_WALL」』でグランプリを受賞。同展では川崎の出身地である滋賀・長浜で撮影した両親や姉、地元周辺の過疎化する郊外の風景を捉えた作品を展示した。 <露口啓二> 写真集『地名』 つゆぐち・けいじ/1950年、徳島県生まれ。主な個展に「自然史—北海道・福島・徳島」(CAI01/札幌市、2014)、「アフンルパルEX1」(岩佐ビル/北海道、2008)、「地名」( LIGHT WORKS /横浜市、2002)、近年の主なグループ展に「今も揺れている展(横浜市民ギャラリーあざみ野/横浜市)」「もうひとつの眺め展」(北海道立近代美術館/北海道、2015)、札幌国際芸術祭(北海道、2014)、「アクアライン展」(札幌芸術の森美術館/北海道、2013)など。 <富安隼久> 写真集『TTP』 とみやす・はやひさ/1982年、神奈川県生まれ。2006年東京工芸大学芸術学部写真学科卒業。13年ライプツィヒ視覚芸術アカデミーにてディプロム、16年同校にてマイスターシューラー号を取得(ペーター・ピラー教授)。14-16年、ライプツィヒ視覚芸術アカデミー夜間写真講座非常勤講師。17年よりチューリッヒ芸術大学芸術・メディア学部助手。 <ミヤギフトシ> 展示「感光」(展示「小さいながらもたしかなこと」日本の新進作家vol.15) 1981年、沖縄県生まれ。東京都在住。自身の記憶や体験に向き合いながら、国籍や人種、アイデンティティといった主題について、映像、写真、オブジェ、テキストなど、多様な形態で作品を発表。近年は文藝誌上にて、小説『アメリカの風景』『暗闇を見る』『ストレンジャー』も発表。主な展覧会に、「小さいながらもたしかなこと」(東京都写真美術館、2018年)、「How Many Nights」(ギャラリー小柳、2017年)などがある。
アサヒカメラ
dot. 2019/02/05 16:30
子ども3人育てながら起業 ある翻訳者の「仕事を引き寄せる法則」
子ども3人育てながら起業 ある翻訳者の「仕事を引き寄せる法則」
山下奈々子(やました・ななこ)/1960年生まれ。高校卒業と同時に米国に留学。帰国後、子育てしながらフリーランス映像翻訳者に。2000年に映像翻訳会社ワイズ・インフィニティを設立し、翻訳者養成のためのスクール事業も展開。14年福祉事業を行うワイズ・インフィニティ・エイトを設立。父は脚本家のジェームス三木(撮影/写真部・小山幸佑)  メールも携帯もなく、国際電話料金も高かった時代、留学先でつらいことがあっても、母国への連絡は手紙だけ。「書くのが面倒で涙も乾いた」と笑い、「困った人を助けたい」と思う。周りの人に振り回されっぱなしという翻訳者の山下奈々子さんの人生を、キャリアカウンセラーの小島貴子さんが聞いた。 *  *  * ──山下さんはご自身も翻訳者であり映像翻訳の会社を経営しています。語学に関心を持ったきっかけは?  英語への関心や、翻訳の仕事に対する憧れもなかったんです。中高時代は「エリザベス・サンダース・ホーム」をつくった澤田美喜さんや「ねむの木学園」の宮城まり子さんの本に感銘を受けて、福祉系の大学に行きたいと考えていた。ところが高校3年の夏、弟が参加するはずだった3週間のアメリカのホームステイに本人が行けなくなり、代わりに参加したらアメリカっていいなぁと思ったのね。それならアメリカの大学に進学しようと。実際は、受験勉強から逃げたかっただけ。 ──当時の留学は珍しかった?  日本の高校からダイレクトに留学するルートはほとんどなかった。父親が「自分で手配できるならお金を出す」と言うので、書店で見つけた本の著者、留学カウンセラーの栄陽子さんに会いに行きました。「どこに行きたいの?」と尋ねられ、何が勉強したいわけでもなかったから、「日本人が誰もいないところ」と。栄さんが教えてくれたアメリカ東部の田舎町にある大学に行きました。 ──留学生活はどうでしたか?  田舎町で日本人は珍しいから、外を歩くと地元の人に頭のてっぺんから爪先までジロジロ見られる。でも学校ではそんなことはなかったわね。キリスト教系の全寮制の学校だったので、みんな普通に接してくれた。もちろん、つらいことはありましたよ。でも、当時はメールもないから泣き言が簡単に言えないわけ。親からも「電話は高いからかけてくるな、手紙しかダメ」って言われて。泣き言を言う前に、忘れてしまったわね。 ──留学は何年くらい?  4年です。あまりにも寂しくて、その間にアメリカ人の同級生とできちゃった結婚しました。親に手紙で妊娠を報告したら、もうパニックですよ。父から「どうするんだ!」という20枚にわたった手紙がきたけれど、「産むから」って突っぱねて。結果、勘当されて金銭的な援助は一切なくなり、極貧生活に。2年くらいそんな生活をしていたら、心配した母親が弟と一緒にアメリカのド田舎にやってきてね。母が父親に懇願して日本に戻りました。幼い娘はもちろん、大学を卒業した夫も一緒に。 ──帰国してからは何を?  80年代、バブルの走りの頃でしたから、夫婦ともに英会話講師の仕事はあった。私はフリーランスで英会話講師をしていたんですが、当時、家庭用のビデオデッキが発売されたの。デッキを売るためのソフトとして、海外の日本未公開映画を日本語に翻訳する事業を手掛ける会社に、英語ができる人たちが集められた。そのメンバーに入れたのは母親のおかげ。母がサウナで「うちの娘は英語ができるんだけど仕事はないかしら」と話していたら、たまたまそこで働いていた人がいて。「今、翻訳者を探してるんですよ」って声をかけてくださった。 ──それが映像翻訳のスタート?  そう。最初はフリーランスで字幕翻訳だけをしていたけれど、テレビのニュースの翻訳の仕事も始めたの。そのきっかけも母。当時、父と母の間でバトルが勃発してワイドショーネタになり、それを取材していたテレビ局の人とつながりができた。母は「うちの娘は英語ができて……」と、あっちこっちで言うわけですよ。帰国後に生まれた2人も含め子ども3人を育てながら、字幕とテレビ局の二足の草鞋で13年間フリーで翻訳を続けました。私は2回結婚しているんだけど、最初の夫とはうまくいかなくなって、結婚15年目に離婚しています。会社を作ったのはその5年後ですね。 ──起業したのは、なぜ?  フリーの翻訳者は、徹夜しながら地味にやっているわけですよ。起業は39歳の時だったけど、10年後もこれで食い続けていくには体力的に無理だろうという思いがあった。それとテレビ局の人から「韓国語ができる人、知らない?」などと相談されるようになったんです。何とかしてあげたい気持ちがわいてきて、ツテをたどって紹介していたら、頼まれる回数が増えて。字幕翻訳も含めてやることが増え、一人ではできないからどちらにしろ人に頼まなきゃいけない。それなら組織化して仲介業をやろうと。私はいつも社員に「困っている人を助ける気持ちが仕事につながるんだよ」と言ってるんです。 ──でも会社経営って大変ですよ  起業当時、社員はゼロでした。2004年に社員が入社し何年か経った時「社員にも家族がいるし、起業したからには簡単に辞められない」って気づいたの。そこから、まじめに経営の勉強を始めました。今年で会社は20年目、社員は22人に増えました。うちの場合、約50の言語を扱っていて登録翻訳者は700人以上いますが、9割が女性。時間に縛られず、フリーランスで働きたいという人が、女性には多いですね。 ──14年には障害者をサポートする会社も設立しています  12年に制度が変わり、社会福祉法人にしかできなかったサポートが株式会社もできるようになった。じゃあ、やってみようかなと。出身地の厚木で障害のある子どもたち専用の放課後等デイサービスを二つ運営しています。実は今、障害者のグループホームを運営しようと準備を進めています。対象は発達障害とか精神障害とかを持ちながら働いている大人の障害者たち。一軒家のシェアハウスみたいな形で、ケアも提供していきたいと思っています。 ──新たに大人の支援も始める?  10年20年経てば、子どもも大人になる。その人たちの将来はどこ?って考えた時に、親亡き後の終の棲家をつくらなきゃと。障害者という枠組みにとらわれているわけではなく、困っている人に目を向けたい。私には「目の前の困った人を助けたい」というお節介精神があるのね。今でも覚えているけれど、中学2年の時に電話帳で養護施設を調べて電話をし「何か必要なものはありませんか?」って聞いたら「砂糖です」って言われた覚えがある。 ──山下さんに定年はありませんが、この先はどう生きたい?  今年、59歳。10年経ったら70歳近いわけで、そこから何かやろうと思っても体力的にも気力の面でも難しくなります。10年の間に、まずは事業承継を考えなきゃならない。人を雇っている以上、「私は辞めるから、会社も解散」ってわけにはいきませんから。その道筋を付けたら、シニア海外協力隊に行きたい。行くならアジアかアフリカかな。技術はないけれど、中小企業の経営ならお手伝いができるかもしれない。家族などのしがらみからも離れて、最期は誰にも看取られずに海外で終わってもいいやと思っています。 (構成/ライター・熊谷わこ) ※週刊朝日  2019年2月1日号
働く女性
週刊朝日 2019/01/29 07:00
大河ドラマの準主役も断った…芳村真理が“天職”をつかむまで
大河ドラマの準主役も断った…芳村真理が“天職”をつかむまで
芳村真理(よしむら・まり)/1935年、東京都中央区生まれ。ファッションモデルとして活躍。その後、ラジオ、テレビでレギュラー番組を抱え、映画にも多数出演。「小川宏ショー」「夜のヒットスタジオ」「3時のあなた」「料理天国」など、数多くの番組で司会を務める。現在は、NPO法人MORI MORIネットワークの副代表理事として、日本の森林を守る活動に尽力している。著書に『一生、美しく。 今からはじめる50の美習慣』(朝日新聞出版)など (撮影/品田裕美) 芳村真理さん (撮影/品田裕美)  あのとき、別の選択をしていたら──。著名人が人生の岐路を振り返るもう一つの自分史。今回は、伝説の歌番組「夜のヒットスタジオ」などを担当した司会者の芳村真理さんです。モデル、女優、司会者と何でもこなし、その抜群のファッションセンスで注目の的だった芳村さん。移り変わりの速い世の中をしなやかに歩んできました。 *  *  *  私はいつも、その時代に流れてきたものをやってきただけ。いろんな時代が目の前を通り過ぎて、私は川岸からピョンとのったら、うまくはまっていっしょに流れてきた感じ。  モデルから始まって、ラジオやテレビの仕事もみんなそう。時代ごとの新しい仕事をすべてやらせてもらえて、ラッキーだったし楽しかったですね。もちろん、与えられた仕事は120%の力で、せいいっぱいやってきたつもりですが。 ――高校時代は銀座のデパートでアルバイト。卒業後も働いてほしいと言われたが、「どうせなら誰もやってない仕事を」と、モデル事務所を探した。ちょうど高度経済成長期が始まろうとしていたころだった。  直感的に「面白そうだな」って思った。あのころ、銀座にモデルクラブがふたつあって、近いほうに行ったら、「ここに名前と連絡先を書いてください」って、それだけ。面接もオーディションもないの。  何日かしたら電話がかかってきて、言われるままに赤坂のビルに行ったら、そこは美容室の事務所で、いろんな髪形にされて、この服を着てくださいって言われて、どんどん写真を撮られたの。ヘアスタイルのモデルの仕事だったのね。  後日、新聞に「日本ヘアデザイン協会の今年のルック」って、自分の写真が出ててビックリ。全国からヘアモデルを頼まれたわね。どうやら私の髪は、細いけど強くて、ちょっと茶色がかっているのがよかったみたい。頭の形も「どんな髪形にもよく合ってやりやすい」って。まさか、そんなことホメられるなんてね。  時代に、ピッタリはまったんだと思う。戦争が終わって10年近くたって、やっと髪形を気にする余裕が出てきたんです。  そこからファッションショーにも出るようになりました。そうそう、「週刊朝日」さんの表紙やグラビアも、ずいぶんやらせてもらったわ。それまでのモデルは長身で8頭身だったけど、普通の体形のモデルが必要とされた時代の流れが来ました。 ――そのうち、ラジオや始まったばかりのテレビからも声がかかる。テレビドラマにも出演。トーク力が磨かれ、度胸もついた。ただ、天職を選ぶ人生の岐路はもう少し先にあった。  映画女優さんたちは、五社協定でテレビに出られなかったし、タレントがまだいないころだから、モデルの私たちは便利な存在だったのよね。要は人手不足だったのよ。  雑誌やラジオではゲストとテーマを決めて対談する仕事もやってて、そのゲストが作家の三島由紀夫さんや今東光さんとか政治評論家の藤原弘達さんなど、そうそうたる人たち。いろんな人にかわいがられて、しゃべりを覚えながら、貴重な勉強をさせてもらいました。私はいつも、仕事を通して勉強してきたの。ありがたいことよね。  でも私、お芝居は苦手で子どものころは学芸会の日はいつも休んでたの。初めてのテレビドラマも、セリフがぜんぜん覚えられない。胃が痛くなってたんだけど、リハーサルが終わったときにハッと思いついたの。  自分のセリフのところだけ台本を切り取って、木の横やブランコに貼り付けて、それを見ながらしゃべりました。そしたら、すごく伸び伸びやれて、終わった途端にプロデューサーが大拍手。  不真面目な話だけど、なんだかそれで妙に度胸がついちゃった。 ――1959年には銀幕にデビュー。数多くの映画に出演した。  映画に出たのは大島渚監督が声をかけてくれたから。その後も「真理ちゃんは女優になるといい」って熱心に言ってくれました。表紙に「芳村真理、女優になるの記」って書いたノートをくれたんだけど、見たらなんだか難しいことがビッシリ書いてあって、ちゃんと読んでないわ。  新劇の人に「演技の勉強をしたほうがいい」って言われて、俳優座を受けたこともあったわ。なぜだか受かっちゃったけど、サボってばかり。あるとき、お芝居を見に行ったら隣の席が校長先生で、「忙しいのはわかってるから、来られるときに来なさい」って言われちゃった。「君は一番で入ったんだよ」とも言ってたわね。たぶんウソだと思うけど。  そんな調子だから、女優という仕事には魅力を感じてなくて、マネジャーに「もうやめる」って言ったんです。大船撮影所からの帰りだったかな。そしたら、私名義の貯金通帳を渡されたの。開いてみたら、けっこうな金額が入ってる。マネジャーは「女優はモデルに比べて、ゼロがふたつぐらい多いんですけどね」って。けど、そんなことはどうでもよかった。 ――66年、「小川宏ショー」の初代アシスタントが産休で降板することになり、後任に抜てきされた。  1時間半の放送が、あっという間だった。「なんて楽しいの!」って、味わったことがないワクワク感を覚えたの。生放送で、コーナーごとにアップ・トゥ・デートな情報が次々と紹介される。どれも目を見張るように面白くて刺激的で、それにコメントしながら進めていく役割が自分にピッタリだと思ったのね。  1回目の放送が終わって、今日この日を限りにほかの仕事は断ろうと決心しました。私は31歳。そろそろ、自分はこれから何をやっていくのかを考えなきゃいけない時期だった。  実際、1カ月くらいで整理して、テレビやラジオのレギュラーを全部降りてるはずよ。NHKの大河ドラマの準主役の話も来たけど、断っちゃった。かなり驚かれたけどね。でも、仕事をしていて楽しいと思えることが、いちばん大事だから。  月曜から金曜まで、朝3時半に起きて局に行く生活はたいへんだったけど、おかげさまで視聴率もよかったみたい。あの番組が、その後の道を決めるきっかけになりましたね。 ――「小川宏ショー」は1年半ほどで「疲れ果てて」卒業した。その半年後に、芳村の代名詞「夜のヒットスタジオ」がスタート。男性司会者は前田武彦、三波伸介、井上順、古舘伊知郎に代わりながら、芳村は20年にわたって1千回の司会を担当した。  私、セリフや段取りを覚えるのが苦手だから、いつも台本を持ってやってたけど、それが安心感につながって、とっても気楽にできました。  ただ、出てくる歌手のみなさんはそうはいかない。生放送だし影響力も大きかったから、ベテランの人でも緊張してました。新人でやっと曲に恵まれたなんて子は、もうたいへん。1週間前からものが食べられなかったなんて言ってるし、手が冷たくなってるの。たくさんの大人たちの期待を背負ってるし、今日失敗したら田舎に帰されちゃうかもしれないってプレッシャーもある。  やっぱりフォローしてあげたくなるわよね。背中をさすって、小さな声で「大丈夫よ、きっとうまくいくから」なんて言ってあげてました。順さんは平気でいじってたけど、まあそれも一種のやさしさよね。  当時は、歌謡曲が面白い時代だった。あらゆる音楽が花開いて、ジュリーに百恵ちゃんにピンク・レディー、新しい子たちがいっぱい出てきたしね。作詞家も作曲家もプロデューサーも「プロ」がそろっていて、子どもからお年寄りまでみんなに愛される歌を世に送り出してた。歌番組にとっても、いい時代だったと思う。 ――「夜ヒット」では、毎回趣向を凝らした衣装や髪形も注目を集めた。彼女が着た服が、翌日売り切れることも多かった。  世の女性のみなさんに、オシャレする楽しさやファッションの魅力を伝えたいって気持ちは、ずっとありました。同じ人間でも、髪形やメイク、服やアクセサリーを変えると、ガラッと変われる。オシャレは七変化どころか何百変化なのよって。  芸能界で初めてスタイリストをつけたのは、私だと思う。髪形とメイクもプロについてもらった。  大胆な衣装が話題になることもあったみたいだけど、もともとモデルをしていたからどんな服を持ってこられても、なんとも思わない。モデルの仕事は、今日はこれだよって言われた服をいかに魅力的に着こなすか。夜ヒットでも毎回、限られた時間の中での真剣勝負だったわね。  70年代後半から80年代は、いろんなブランドが世界中から入ってきて、日本の女性がいろんな服を着るようになった時期だった。ファッション業界がすごく元気で、新しいものを次々と取り入れようっていう雰囲気があったの。 ――女性の社会進出と歩調を合わせるようにあらゆることを成し遂げてきた芳村。この春、84歳になる。人生でやり残したこともあるが、3年前に大きな病気をしてから、考え方が大きく変わったという。  海外に移住して勉強するのが、ずっと夢でした。できれば3年、最低でも1年。場所はどこでもよかったんだけど、やっぱり身近なのはニューヨークやロサンゼルスかしら。  社会学や女性学を勉強したかった。まだウーマンリブの前で、アメリカではそういう学問が盛んでしたからね。ただ、仕事も家庭もあるし。そこが心残りね。  この歳だと、死について考えることもあります。自然にくるものというイメージかな。生きることの中に死ぬこともある、って感じかしら。  私は前世や来世というものは、たぶんあると思っています。私の中の蓄積は、この八十何年分かではない。覚えていなくても、今の私も、別の世界で学んだことが生かされていたり、支えられたりしているはず。流れはこれからも続く。まだ一度も死んだことないからわからないけど、死んだ途端にいろんなことに気がつきそうな予感がしているの。 (聞き手/石原壮一郎) ※週刊朝日  2019年2月1日号
週刊朝日 2019/01/28 16:00
下平アナ、広島移籍の夫・長野を陰で支える「姉さん女房」の選択
下平アナ、広島移籍の夫・長野を陰で支える「姉さん女房」の選択
広島に移籍した長野 (c)朝日新聞社  巨人から広島に電撃移籍した長野久義外野手(34)の妻で、テレビ朝日の下平さやかアナウンサー(45)の去就が注目されている。  下平アナは現在、「ワイド!スクランブル」内のニュース、「じゅん散歩」のナレーション、「ザ・インタビュー~トップランナーの肖像」のレギュラーインタビュアー、AbemaTVの生番組「みのもんたのよるバズ!」などを担当している。  1月19日のAbemaTV「みのもんたのよるバズ!」に出演した下平アナは、自身の今後については「まだどうするか決めていない。(長野から)何も言われていないので、私は自分で決めないといけないんですよね。好きにしてください、という感じなんで」と複雑な胸中を明かした。  長野と下平アナが結婚したのは2015年3月。ドラフト1位指名直後の09年12月に車中キスをしている2人の姿を女性週刊誌で報じられ熱愛が発覚。6年越しの交際を経てのゴールインだった。 「12歳年上の姉さん女房とプロ野球界では“夜の帝王”と言われるカップルは、結婚当初から、離婚は時間の問題とうわさされていましたが、夫婦仲は決して悪くありません」と話すのはスポーツライターだ。 「長野と一度でも飲んだことがある人は、その紳士ぶりに驚かされます。会計は全て長野、帰りのタクシーも自分で手配し、お車代まで用意するという徹底ぶりです。それでいて自分はお酒を飲んでも酔うことはなく、先輩後輩関係なくもてなしてくれる気配りの人です。下平さんも、その辺は承知していてお金に関しても、細かいことは一切何も言いませんね。長野が野球に集中できるのが一番、という考えで、ある意味、見守っているという感じです」(同前)  酒豪で有名な下平アナも、夫が不在の時は仕事仲間や友人たちと夕食を楽しんでいる姿が目撃されているという。 「長野と同じく、彼女もとても周りに気を使うタイプで、いつも楽しいお酒です」(テレビ局関係者)  広島の選手と結婚した東京のキー局のアナウンサーといえば、堂林翔太内野手と結婚したTBSのマスパンこと枡田絵理奈アナウンサー。桝田アナは結婚を機に同局を退社、広島に移住し、現在は子育てと仕事を両立している。 「下平アナは結婚当初から、長野が故障などで長期離脱、または戦力外になったとしても経済的に自分が支えられるような準備はしておきたい、と言っていて、局を辞めるつもりはなかったそうです。アナウンサーという仕事を続けたいという気持ちも強いですしね。そのうえ、資格取得にハマっているそうで、行政書士の資格も取得しましたし、最近は宅地建物取引士の勉強をしているそうです」(テレビ局関係者)  芸能リポーターの川内天子さんは「プロ野球選手の姉さん女房といえば、イチローの妻の弓子さん、中日・松坂大輔投手の妻の倫世さんがいますが、下平アナは他の2人とは違って、あまり干渉しないけれども、うまくサポートしているのだと思います」と下平アナの寛容さが夫婦関係のバランスを保っていると予測する。    スポーツ紙記者は「おそらく、広島へは単身赴任になるのではないでしょうか。これまでもシーズン中は離れ離れですからね」という。  長野の広島の背番号は「5」。今年は「CHONO・5」の赤いユニホームを着て、カープ女子として応援する下平アナの姿が見られるかもしれない。(ライター・緒方博子)
dot. 2019/01/23 11:30
「勇者ヨシヒコ」「銀魂」ヒットは“ヨメ”のおかげ? 福田雄一が明かす
「勇者ヨシヒコ」「銀魂」ヒットは“ヨメ”のおかげ? 福田雄一が明かす
福田雄一(ふくだ・ゆういち)/1968年、栃木県生まれ。90年、劇団「ブラボーカンパニー」を旗揚げ。フリーの放送作家として「笑っていいとも!」「SMAP×SMAP」など多数の人気バラエティー番組を手掛ける。2009年に自身の舞台を映画化した「大洗にも星はふるなり」で映画監督デビュー。主な作品に映画「銀魂」シリーズ、「変態仮面」シリーズ、ドラマ「勇者ヨシヒコ」シリーズなど。「週刊現代」で、専業主婦の年下“鬼嫁”との暮らしなどを綴るエッセーを連載中。20年、監督映画「ヲタクに恋は難しい」が公開予定 (撮影/写真部・片山菜緒子) 福田雄一さん(左)と林真理子さん (撮影/写真部・片山菜緒子) “コメディーの奇才”として映画やドラマ、舞台など幅広い分野で活躍される福田雄一さん。映画「銀魂」をはじめ、次々とヒット作を連発する売れっ子ですが、その裏には“鬼嫁”の存在がありました。作家の林真理子さんが迫ります。 *  *  * 福田:お嬢さまで、社会人経験がなくて、「そんな会議、出なくていい」みたいなことも平気で言います。僕は、「在宅ヤクザ」って呼んでるんですけど(笑)。 林:でも、しょうがないですね。愛しちゃってるから。奥さん、福田さんのタイプど真ん中なんですって? 福田:そうなんです。身長150センチ足らずで童顔で、ガチなタイプなんですよね。僕のほうからガーッといっちゃった結婚なんで、ヨワいんですよ。僕が30歳で、彼女が大学生のときに結婚しちゃって。 林:でももしかして、奥さん、ミューズ(女神)かもしれないですよ。 福田:うーん、彼女は、ワガママを言ってるのか本気で言ってるのか、わからないことがけっこうあるんです。ドラマとか映画の仕事が順調に来るようになって、波に乗ってたときに次男を妊娠したときも、「生まれる前の2カ月と生まれたあとの4カ月、完全に仕事を休んでください」って言われたんですよ。 林:売れっ子の波が来てるときに! 福田:それで、8月の終わりにやることが決まっていた舞台の仕事以外全部お断りするようにしたんです。「書き仕事もしちゃダメ。打ち合わせも一切ダメ」って言われて。 林:えー! それもダメなんですか。 福田:はい。書くこともなくなっちゃったから、朝からテレビ見るしかないんですよ。そして毎晩、てっぺんぐらいの時間(午前零時)になるとお説教タイムが始まるんです。 林:コ、コワそ~(笑)。 福田:「あなたの最近の仕事の仕方が気に入らない。あんたみたいなクソ作家が、映画とかドラマを並行しながら書いていて、それをやらされる役者が可哀想だ」という話を毎晩するんです。だけどそれは自分にも若干思い当たるフシがあって。そのとき唯一決まってた仕事が、テレ東の深夜枠の「勇者ヨシヒコと魔王の城」(2011年)だったんです。時間もあるし、研究を兼ねていろんな深夜ドラマを見てると、「予算がないんだから、こんなのしか作れないのはあたりまえです」みたいなドラマばっかりで、沸々と怒りが湧いてきて。そんな怒りや不満もぶち込んで考えた企画が、「勇者ヨシヒコ」だったんですよ。全12話、脚本も監督もやったこのドラマがバカヒットして、そこから今のような仕事がいただける流れになったんです。 林:スゴイ……。じゃあ奥さんの言うことは正しいじゃないですか。 福田:結果的には(笑)。彼女はそんな説教をしながらも、「あれ(「勇者ヨシヒコ」)をはずしたら“福田雄一は消えた”って言われるな」とか、ひどいことを言うんです。だから必死でした。あの産休がなかったら今はないなと自分でも思います。 林:お話を聞いてると、だんだんいい奥さんのように思えてきました。福田さん、お酒も一滴も飲まないんですよね。家族でおいしいものを食べに行くとかは? 福田:そんなにないんですよ。うちのヨメは出無精で、しかも料理しないから、店屋物をとるしかないんです。ココイチのカレーとか(笑)。 林:お子さんたちのお弁当とかは? 福田:僕が作ります。朝10時ぐらいに駅前のスーパーで総菜を買ってきて、ごはんを炊いて弁当箱に詰めて、昼前に学校に行って、廊下のフックにお弁当を引っかけて帰ってくるという生活を長くやってました。 林:まあ、こんなにお忙しいのに。 福田:でも、休み時間に学校に行くと、すごい勉強になるんですよ。というのは、子どもがいま何をおもしろがってるかが、休み時間に行くとわかるんです。子どもが映画やドラマの主題歌を歌ってる作品は、めちゃめちゃ当たるんです。 林:なるほどねぇ。だけど、そんなにポジティブに考えられるということ自体、素晴らしいことですよ(笑)。ふつうは「なんで俺が弁当作って学校にぶら下げに行かなきゃいけないんだ」ってなりますよ。 福田:どんだけしんどくても、おもしろがっちゃうところがありますね。それに僕、めんどくさい人が大好きなんですよ。ちょっと嫌われがちな人を「おもしろいな」と思っちゃうタイプで、一見完璧そうな人の欠点を探すのとかも大好きなんですよね。 林:お子さんたちも、パパのこと尊敬してるんでしょうね。 福田:長男はいま高校生で、ロサンゼルスの学校でミュージカルを専攻してます。僕と同じ世界にいるので、ある程度尊敬してくれてると思うんですけど。彼の最終目標はたぶん、ブロードウェーミュージカルのプロデューサーになることだと思うんです。「ブロードウェーのプロデューサーになって俺を呼べ」といつも言ってます(笑)。 林:それが実現したときは、奥さんも「やるじゃん」って褒めてくれるんじゃないですか。 福田:さあ、今まで一回も褒められたことないですからねえ……。 林:でも、ここまでくると、褒められたら悲しいかもね。二人とも90歳ぐらいまでお元気で、日だまりの中で奥さんが「頑張ったじゃない、あなた」という感じで、このラブストーリーが終わるんじゃないですか。 福田:であってほしいですね(笑)。僕、ドMではないんで、ヨメにコキおろされてるときはほんとにつらいし、殴られてるときも痛いしイヤだなと思いますけど、結果的に正しい方向に進むことが非常に多いんです。 林:うちの夫はそこまでひどくないけど、私が朝8時半ぐらいに仕事に出かけたら、「宅配便が4回来たぞ。なんで仕事に行く時間を遅らせられないんだ」って平気で言うんですよ。 福田:アハハハ。うちのヨメは、キャスティングにもめちゃめちゃ口出してきます。「銀魂」(17年のドラマ)のキャスティングも、ほぼヨメが決めましたし。 林:それってすごくないですか。 福田:僕があまり知らない俳優さんでも、ヨメが「絶対この人しかいない」って譲らなくて。それでプロデューサーに「ヨメが譲らないんです」と言ったら、「じゃあ勝負しましょう」ってなって決めて。 林:でも、プロデューサーに「うちのヨメが言ってるので」って言うのって、かなり勇気がいりませんか。 福田:僕の周りはみんな、ヨメが主導権を握ってるのを理解してるんで(笑)。僕自身、ヨメに怒られた日は明らかにテンションが低いんです。スタッフも「奥さんが納得しないと、福田さんも乗れないから」みたいな。 林:そうなんですか……。 福田:だって撮影中、「あのキャストにしなかったら、ぜんぜんおもしろくならねえだろ!」みたいなことをずーっと言われ続けるんです。その苦痛に耐えるよりは、ヨメの言うようにしちゃったほうがいい(笑)。 林:芸能界に興味ないのに、奥さん、直感的にわかるんですね。もはや巫女みたいな感じ……。 福田:ほんとコワいです。でも、人前に出ると100点なんですよ。しおらしく「いつもお世話になっておりますゥ」って感じで。誰かが「おウワサはかねがね……」と言っても、「いえいえ、あれは全部ウソなんですよ。パパが笑い欲しさにいろいろ言っているようですけど。ホホホ」って言うのが彼女の決まり文句。そして帰りの車の中で怒り心頭(笑)。 (構成/本誌・松岡かすみ) ※週刊朝日2019年1月25日号より抜粋
週刊朝日 2019/01/22 16:00
ブラック企業で使い捨て、ニートになった29歳男性が再び正社員になるまでの壮絶な道のり
小林美希 小林美希
ブラック企業で使い捨て、ニートになった29歳男性が再び正社員になるまでの壮絶な道のり
※写真はイメージです(getty Images) 「希望通りに就職したはずなのに、人生のどん底を見た」  石田広樹さん(仮名、29歳)は職を失い、一時はニート状態に陥った。しっかり狙いを定めて就職活動をし、希望した会社に就職したとしても、順風満帆にいくとは限らない。40歳前後の就職氷河期世代が抱える「中年フリーター」問題は、若者にとっても決して他人事ではない。  冬には雪深くなる地方で生まれ育った広樹さんは、高校卒業後は東京の中堅大学に進学した。親からの仕送りは家賃の5万円だけ。奨学金を月5万円借り、残りの生活費は居酒屋でアルバイトをして賄った。 「4年も東京に出してもらえたら満足。親孝行するため地元に戻って就職しよう」と、Uターン就職を考えた。大学2年生の終わりから“就活モード”に入り、3年生の8月からは就活が始まった。夏休みを利用して故郷で開催される企業の就職説明会に参加した。「地元にも、こんな面白い会社がある」と知ると、意気揚々とした。秋頃から冬休みにかけては本格的な合同説明会が始まった。  2011年2月、大学の期末試験が終わるといよいよ就職活動は本格化。手帳を開けば、3月は毎日、会社説明会の予定で埋まった。説明会に参加しなければ、その後の試験につながらない。目いっぱいの予定を組み、親の車を借りて移動して企業回りをした。空いた時間にスーパーで弁当を買って車の中で食べて時間をつぶすのも、「まるで営業職みたいだ」と、楽しんだ。  業界研究をしている時期、周囲は金融業界への就職を目指したがった。けれど、高校を卒業してすぐに銀行で働いた女性の友人は、結婚すると契約社員に変更された。働きやすさを売りにしている会社だったが、ノルマがきつく社員は使い捨てに見えた。“ブラック企業”は避けたいと、情報収集を欠かさなかった。  氷河期を脱しつつある頃の就職活動。大卒就職率は2003年の55.1%という過去最低値から徐々に回復。2008年は69.9%まで上昇したがリーマンショックで再び落ち込み、2010年に反転。広樹さんが卒業した12年は再び大卒就職率が上向く最中で63.9%となり、売り手市場に変わりつつあった(文部科学省「学校基本調査 卒業者に占める就職者の割合」)。  40社程度の説明会に出て20社の選考会を受けると、15社の1~2次試験に残った。そこから5社の最終選考を受けることになり、第二希望だった物流会社から内定が出て広樹さんの就活は終わった。  内定者説明会では、30代の社員が「うちは地味だけれど、社会から必要とされている仕事。目立たないが、一緒に若い力を働いてみたい」と意気込んでいた。広樹さんは、その言葉に心打たれ、「大企業は社員なんて使い捨て。従業員100人程度の会社だけれど、中小企業なら1人で2役を求められてスキルが高くなるのではないか」と考えた。  会社の事業内容を詳細に調べて、仕事で必要であろう「危険物取扱者」の試験を自ら受けて合格。時間のあった夏休みには自治体が主催する無料のホームヘルパー2級の講座を受けて資格も取るなど、広樹さんは努力を惜しまなかった。  年明け、「会議に参加してみないか」と会社から誘われ出席すると、前年度の事業報告や起こったミスなど細かなデータを説明され、信用が置ける会社と感じた。懇親会にも呼ばれ参加すると、社長は「3年かけて育てる」と言ってくれる。和気あいあいとした雰囲気に包まれた。「自分の就職活動は間違いなかっただろう」と広樹さんは確信を得たのだったが、その思いはすぐに裏切られた。  入社すぐに倉庫を管理する部署に配属された。倉庫に入ってメーカーに卸す部品をフォークリフトで移動し、パソコンでデータを入力していく。朝6時に出勤して夜11時まで働き、月の残業はゆうに100時間を超えたが、残業代は20~30時間分しかついていなかった。大手就職支援会社の就職サイトに載っていた仕事内容も賃金も休日も全てが違っていた。  過労がたたったのか1か月後、突然の膝の痛みを感じ、歩けなくなった。社長は「お前の責任で膝を痛めたのだから知らない」と手の平を返したように冷たい。上司は「しばらく負担を減らす」とかばってくれたものの、痛みが激しくなり松葉杖を使わなければ歩行できなくなった。すると、わけもわからぬまま会社を退職するよう促され、入社2か月、試用期間のうちに失業してしまった。  それからは、精神的なショックもあって広樹さんはニート状態になった。外に出るのは家と病院の往復だけの生活を送り、引きこもった。「人生ここまで落ちるんだな」とふさぎ込む毎日を送った。  フェイスブックをみると友人が仕事について前向きな投稿をしている。結婚の報告をしている友人もいる。そうした幸せそうなSNSを見ると自分が人生の脱落者に思えてきた。レールから外れて、どうしよう……。気分が沈む。しかし、夏頃に膝が少しずつ動くようになるのとともに、また働く先を見つける気力がわいてきた。 「どうせやり直すなら、子どもの頃から夢だった電車の運転士を目指そう」と、広樹さんは、鉄道会社の採用試験を受けた。何社か応募すると、大手鉄道会社の契約社員として採用された。窓口で切符を販売しながら正社員登用の機会をうかがったが、試験に合格するのはごくわずかと知り、絶望感におそわれた。 「とにかく正社員になりたい」と転職活動を続け、私鉄から内定が出て転職した。新卒採用と一緒に4月に10人が入社。運転士になる研修を受け、秋にようやく試験運転ができるようになった。  夢の運転士になることができると心を弾ませたが、勤務が始まると人手不足が深刻だと分かった。本来は運転士が50人必要なところ、10人足りない状態だった。シフトが「4週8休」で組まれていても、実際には休みの日も出勤を命じられた。  終電のシフトでは、昼頃に出勤して、深夜0時頃までの乗務となる。勤務が終わると朝まで仮眠してから帰り、終電明けは休みとなる。しかし人手不足のため、終電明けの日も、朝のラッシュの時間だけ運転する「連結勤務」と呼ばれる異例のシフトを強いられた。  連結勤務では、終電の後で中休みを取って朝の運転に入るが、その中休みの待機時間の賃金は支払われない。終電シフトで深夜0時に乗務が終わっても、朝6時からまた勤務になると十分に眠れないまま乗務となる。眠気を抑えるためガムを噛みながら運転する不安な日々を送った。  こうした過酷な連結勤務の後で夕方のラッシュ時まで運転を任されることもあった。翌日は日勤で朝6時頃からの勤務となる。朝5時から夜10時まで働くこともザラだった。  毎日、やっとの思いで乗務が終わって帰ろうとすると急に「終電やって」「連結やって」と頼まれる。それでも基本給17万6000円と残業手当を合わせた手取りの月給は20万円。過労死寸前で働いても手にとる賃金があまりに見合わない。 「これではいつ事故を起こすかもわからない。いつか結婚した時、この状況では家庭が犠牲になる」と、再び転職活動を始めた。  転職になんとか成功し、自治体が運営する鉄道会社で運転士となった広樹さんは、最初の1年は臨時職員として雇われた後で正規雇用に登用された。月給はトータルで27万円を超える。家賃や光熱費、社会保険料などを払っても、手元に20万円近く残る。社内の労働組合の活動が積極的なことで、休日出勤を命じられることもなく、休日にシフトが組まれれば、きちんと割り増し賃金が保障される。やっと安住の地に着いた思いだ。  広樹さんの場合、ニート状態になっても持ち直してなんとか這い上がることができたが、そうできる人ばかりではない。若くてもブラック企業で働くうちに完全に心が折れてしまって再起できなくなる、あるいは、非正規雇用が続いてしまう例は決して少なくない。  労働政策研究・研修機構(JILPT)の「壮年非正規雇用労働者の仕事と生活に関する研究」(2015年)では、若年を25~34歳、壮年を35~44歳と定義して、「男性の場合、20代前半に販売職、サービス職(資格不要)、飲食サービス業に従事していると壮年期に非正規雇用労働者となることの何らかの関係があると考えられる」としている。  同レポートで注目されるのは、若年期に正社員であっても退職時の状況が、「深夜に就業することがあった」「休日が週に1日もないことがあった」「心身の病気やけがをした(仕事が原因)」「職場でいじめや嫌がらせがあった」「1週間の労働時間が60時間を超えていた」のいずれかに該当する場合、そうでない場合と比べて、壮年期に非正規雇用になりやすくなるメカニズムがあると指摘されている。  ある企業の人事担当役員は、「人手不足で企業側は、とにかく数をとらなければいけない。もはや、質より数という状況にもなっている。もし新人が入社して1年後に辞めたとしても、それは本人の問題とされてしまう」と実情を語る。そして、あるベテランキャリアカウンセラーも「新卒バブルで正社員になれたとしても早期退職して転職がうまく行かず、いったん非正規になれば、そのまま不安定な雇用でしか働けないでいる若手は少なくはない」と指摘する。  厚生労働省の「新規学卒就職者の離職状況(平成27年3月卒業者の状況)」によれば、新規学卒就職者の産業別就職後3年以内離職率の上位5産業は、大卒で高い順から「宿泊業・飲食サービス業」(49.7%)、「教育・学習支援業」(46.2%)、「生活関連サービス業・娯楽業」(45.0%)、「医療、福祉」(37.8%)、「小売業」(37.7%)となっており、新卒採用で入社しても半数近くが辞めている状況で、中年フリーターを生み出す可能性の高い業界ともいえないか。  新卒採用が売り手市場の今、若年層にとって、「中年フリーター」は他人事の問題のように映るかもしれない。しかし、早期離職したのちに非正規雇用から抜け出せないまま年齢を重ねていくという問題は、就職氷河期世代が“若者”だったころからさほど変わっていない。早期離職率の高さに構造問題があるならば、それを放置してはいけない。(ジャーナリスト・小林美希)
dot. 2019/01/21 18:00
「すごく幸せ」市原悦子さんの姪やミッキー吉野が明かす病室での最後の7日間
上田耕司 上田耕司
「すごく幸せ」市原悦子さんの姪やミッキー吉野が明かす病室での最後の7日間
祭壇に飾られた市原悦子さんの遺影(撮影/上田耕司)  82歳で亡くなった大女優の市原悦子さん(本名・塩見悦子=しおみ・えつこ、 享年82)の告別式が18日、東京・青山葬儀所で営まれ、約500人が参列した。晩年は病気のリハビリをしつつ、仕事をこなしていた。「家政婦は見た!」(テレビ朝日系)など人気番組で50年以上、お茶の間を楽しませてきた女優の最後の日々を、姪の久保久美さん(53)らが本誌に語った。  「おばの晩年はあまり動けず、最後の仕事となったNHK『日本眠いい昔ばなし』も車椅子に座って収録しました。でも、歩行器を使って歩いていましたし、歌をうたったり、映画を見たり、元気に過ごしていました」  市原さんは昨年11月末、「盲腸」で入院。一旦は回復し、12月末に退院し、自宅で生活していたが、1月5日に再び入院となり、12日午後1時半頃、心不全のため都内の病院で亡くなった。 「盲腸がきっかけでお腹の中に膿ができ、手術もできず、感染症にかかって心不全で亡くなりました。1月8日まではちょっと食べれました。最後の数日はほとんど食べられなくなった。話しても、何を言っているのかよくわからなかった。薬も飲めず、点滴をしてもだんだん衰弱していき、心臓の拍動が早くなって、亡くなりました」(久保さん)  亡くなる5日前までは会話をすることができたという。1月7日にはロックバンド「ゴダイゴ」のリーダーのミッキー吉野さん(67)や中学時代の恩師がお見舞いに病室を訪れて話していたという。 「ミッキーさんが病院に来てくれたのを喜んで『すごく幸せ』と言ってました。ミッキーさんがちょっと歌ってくださり、『また一緒に歌おうね』と声をかけたら、おばは『また歌いたい』とハッキリと答えてました。中学時代の恩師は『えっちゃん、がんばれ』と言って手をさすってくださった。『ハイ、ありがとう』って答えていました」(同) 「盲腸」以前にも、16年11月、自己免疫性脊髄炎で入院していた。この病気は自分の体を間違って異物として攻撃してしまうというもの。それ以来、姪が中心となり、在宅で、親族やノンフィクションライターの沢部ひとみさん、家政婦ら5~6人で「チーム市原」を作って、介護していた。沢部さんはこう話す。 「背骨にはいろんな神経がありますから、右半身はまぁ動いたけれど、最初のうちは左半身はかなり弱かったです。でも、リハビリして随分、回復していました」(同)  沢部さんは20年前、AERAの特集企画「現代の肖像」で、市原さんにラブレターを書いて取材にこぎつけたという。 「あの時の記事がきっかけとなり、今まで長くお付き合いさせていただきました。この2年間、必ず週に1回か2回はおじゃまして、市原さんに付き添っていました。市原さんはお子さんがいないし、だからというわけではないけど、本を一緒につくったりして、気持が通じていた」  17日の通夜の会場で、追悼のピアノ。「マック・ザ・ナイフ」(三文オペラの劇中歌)と「夢とごはんの木」(オリジナル曲)の2曲を演奏したミッキー吉野さん(67)はこう語る。 「通夜で演奏するピアノの練習をするたび、涙が溢れてきました。1月7日の病室で、市原さんと『夢とご飯の木』ついて話した時、市原さんは『私にとっては愛とパンの木よ』とジョークを言った。彼女はご飯よりパンが好きだったし、夫の塩見哲さん(2014年に死去)との愛に生きた人だから……」   市原さんは1957年に俳優座に入団。俳優座で同期だった演出家の塩見さんとは61年に結婚した。75年からテレビアニメ「日本昔ばなし」(TBS系)のナレーションを常田富士男とのコンビで務め、人気者となった。テレビドラマ「家政婦は見た」、テレビドラマ「おばさんデカ」(フジテレビ系)など、人気シリーズはヒット作となった。 「テレビで活躍した印象が強いかもしれませんが、30歳くらいまでは俳優座の看板女優だったんですよ。シェイクスピアの『ハムレット』の恋人役オフィーリアを演じたり、『三文オペラ』だとか、数々のお芝居に出演した。非日常のお芝居というものに全魂をそそいでいました。夫とは『てっちゃん』、『えっちゃん』と呼び合い、おしどり夫婦でした」(前出の沢部さん) 「おばさんデカ」で共演していた俳優の布川敏和さんは本誌に、こう語った。 「一度終わった『おばさんデカ』でしたが、17年に10年ぶりに復活しました。市原さんはあまり体調は良くなく、撮影も毎日ではなくて、1日やったら2~3日お休みという感じでした。これまで10数年間、一緒にコンビを組ませていただき、ありがとう、お疲れさまと言いたいです」  市原さんの最後の仕事は昨年12月25日に収録したNHK「日本眠いい昔ばなし」のナレーションとなった。 「何というか。おばと話しているといつも、ふっとこちらが我に帰れるような気持ちになりました。うまく暗示してくれるから、あ、そうかと気づかせてくれた。稽古は本番より好きだった。一人で台本を作って勉強していました」(前出の久保さん)  夫の塩見さんは山奥のお寺にある樹木葬で眠る。市原さんもその隣に眠ることになる予定だ。(本誌/上田耕司) ※週刊朝日オンライン限定
週刊朝日 2019/01/19 16:38
カンニング竹山「タバコ吸わないのに大麻OKの人も ハワイでホームレスが多い理由」
カンニング竹山 カンニング竹山
カンニング竹山「タバコ吸わないのに大麻OKの人も ハワイでホームレスが多い理由」
カンニング竹山/1971年、福岡県生まれ。お笑い芸人。本名は竹山隆範(たけやま・たかのり)。2004年にお笑いコンビ「カンニング」として初めて全国放送のお笑い番組に出演。「キレ芸」でブレイクし、その後は役者としても活躍。現在はお笑いやバラエティー番組のほか、全国放送のワイドショーでも週3本のレギュラーを持つ(撮影/写真部・小原雄輝) (写真:getty Images)  日本人に人気の観光地、ハワイ。お笑い芸人のカンニング竹山さんが今年の正月休みに目撃した楽園ハワイの裏側とは? *  *  *  数年前から正月休みはハワイにいるんですが、毎回、現地に住んでいる友達と話していると日本と違うなってことが発見できたりして面白いんですよね。  今年はみんなで船で離島に行ったんですが、港に上がったら30代ぐらいの若い女性のホームレスが寄ってきたんですよ。船に乗る前に買い出しに行っていたから、食料もたくさん積んでて、それが欲しかったみたいで。すごく丁寧な英語で「いただけませんか?」って言われて、ハワイ在住の友達が「あげるよ」って言ったら、「ありがとう」って少し離れたところでぐしゃぐしゃ食べていました。  あれ何?って聞くと、友達は「たぶんドラッグだな」って。やっぱりハワイもアメリカだから、日本よりもドラッグが蔓延していて、手を出しちゃってボロボロになっている人がいるんですよね。  しかも、ハワイってホームレスが多いんですよ。その理由の一つは、メインランドのホームレスの多い州から流れてくるという面があるらしい。ある州では、ホームレス支援として500ドルぐらいの現金を渡すんだそうです。それで人生をやり直せって言われても、例えば東京で約6万円ぐらい手にしたところで、何も変わらないですよね。ハワイとかだと夜も寒くないから外で眠れちゃうし、そのお金で国内線の飛行機や船に乗ってたどり着くんだそう。  日本と同じように空き缶を集めて暮らしている人もいるんですが、ハワイの人って優しいから空き缶を公園とかのゴミ箱の横に置いておくんですよ。そうするとゴミ箱の中をあさらないで持って行けるでしょ。地元の人たちは、そうやってる人もいるんですよね。  ただ、アメリカ人といえども簡単に仕事に就けるわけじゃないし、生活費も高いから、結局ドラッグにに手を出してダメになっていくホームレスが結構いるんです。  僕はドラッグもマリファナも大嫌いだし、絶対にやらないけど、マリファナに対する感覚は日本とだいぶ違うなと感じます。ハワイも医療用のマリファナが合法になって、日本人に比べて毛嫌いするみたいな感じが無い。ちゃんと教育を受けているような家族でも「それ医療用でしょ、合法だから」という感じ。  医療用以外のマリファナも合法にするかどうかは議論されている途中らしいんですが、おそらく合法になるんじゃないかと言われています。僕に「タバコやめろよ」って言う人が、マリファナ吸ってたりするんですよ。「マリファナは自然のものだから良いんだ」って……。日本人にはわかんない感覚ですよね。それでも酒とかと同じで、手を出さない人は出さない。僕はやらないけど、ローカルの間では好き好きですね。普通に売っているし、ワイキキにもそういう店はありますから。  治安は悪くはなっていないように感じますけど、事件は起きてますよね。オアフ島カカアコ地区の倉庫街はウォールアートがいっぱいあってインスタ映えスポットとして流行ってますけど、去年5月には公衆トイレで日本人の観光客の男性がボコボコに襲撃される事件がありました。地元では犯人はドラッグ使用者だという噂も聞きました。  日本では一般的に大麻なんかはゲートウェイドラッグと考えられているけど、向こうでは「ドラッグとマリファナは違う」っていう考えの人が結構います。タバコや酒と同じような嗜好品という人もいますから。考え方が日本とは結構違うんだって感じることがありますね。  それで思ったのは、高樹沙耶さんはハワイの感覚のまま日本で医療用大麻の合法化って言っちゃったから、えらいことになったんだなーと。アメリカだったら「そうだ! そうだ!」って言う人も結構いると思うんですよ。でも文化とか風俗の違いがあるから、行き過ぎちゃったんでしょうね。  これを読んで「竹山はマリファナ推奨派?」って思わないでよ! 僕はやりませんから。みなさんもハワイに行くときは気をつけて。
夏休み年末年始旅行
dot. 2019/01/16 11:30
平成終わるけど…デビュー11年の「Hey!Say!JUMP」はどうなる?
平成終わるけど…デビュー11年の「Hey!Say!JUMP」はどうなる?
※写真はイメージ (GettyImages)  平成の名をグループ名に掲げる彼らは、5月の改元をどんな気持ちで迎えるのか? そしてデビュー11年の変化と成長は? *  *  * 薮宏太:生まれてはじめて元号が変わる機会に遭遇することになると思うと、感慨深いものがあるね。 伊野尾慧:デビュー当時は将来元号が変わるなんて、想像してなかった。僕らのグループ名で、平成を思い出したり懐かしんだりする時代がくるかもしれない。 知念侑李:これから生まれてくる世代の子たちに、古いグループだと思われないように(笑)、常に最前線で活躍していかなくちゃ。 中島裕翔:メンバー全員平成生まれということでグループ名をいただいたのですが、当時大人の方からは、「オジさんたちは『Showa STEP!』だ」なんて言われたりもして(笑)。 薮:平成生まれの僕たちを昭和生まれの大人たちが支えてくれたように、今度は平成生まれの僕たちが、次の世代を支えなくちゃなと。 有岡大貴:ただ僕たち、「平成」じゃなくて、「Hey! S‌ay!」だからね。 山田涼介:でも、最初にグループ名を告げられたときにジャニー(喜多川)さんがホワイトボードに「平成J‌UM‌P」って書いたよね。そのときは正直、「マジかよ、元号つけるのか!」って思った(笑)。いつのまにか今の英語表記になってよかった(笑)。 八乙女光:「ワールドカップバレーボール2007」のスペシャルサポーターを務めていたこともあって、「JUMP」の文字も入って。インパクトのある、面白いグループ名をつけてもらえたね。 高木雄也:でも、平成の終わりと僕らを結び付けて考えてくださることは、ありがたい。普段僕たちに興味のない人まで「Hey! S‌ay! JUMPってどうなるんだろう」って気にしてくださって。 有岡:確かにちょっとでもそういうきっかけができたのはよかった。平成最後の夜は、メンバーみんなと一緒に過ごしたいね。 八乙女:新しい元号になるからこそ、「平成」の名前を持った自分たちは、2019年、もっともっと飛躍して平成をジャンプできるよう、頑張ります。 ■八乙女光(やおとめ・ひかる)/1990年生まれ、宮城県出身 【最近幸せを感じたこと】4大ドームツアーや紅白歌合戦など、年末年始にかけてJUMPとして活動できたこと。 【11年の変化】「SUMMARY」「ジャニーズ・ワールド」の経験は大きかった。18年は4年ぶりに舞台に挑戦し、芝居って面白いなと改めて思った。 【八乙女君の変化と成長】「バラエティーでのハートの強さ。僕が思いつかないようなことを言ったりする創造性。新しいものを生み出す力がある」(知念)「毎週の生放送で、何も伝えていなくても阿吽の呼吸でコメントがバッチリハマるときが増えた」(有岡)「方向音痴が直った。毎週のラジオ放送のとき、最初の2年くらいはエレベーター降りたあと、毎回収録スタジオと違う方向に歩いていた(笑)」(伊野尾) ■薮宏太(やぶ・こうた)/1990年生まれ、神奈川県出身 【最近幸せを感じたこと】兄の2人の子どもが、JUMPの歌を歌っている動画を見たこと。歌詞もしっかり覚えてくれてて、かわいい。いつもそれを見て癒やされている。 【11年の変化】見た目は変わったと思うけど、自分のことってよくわからない。 【薮君の変化と成長】「兄みたいな存在」(知念)「いいお兄ちゃんというのは変わらない。誰かが大変そうにしているときには、声をかけたりしている。それに救われたメンバーもいるし、自分もその一人」(中島)「同じ日にオーディションを受けた同期なので、変わらぬ縁を感じる」(伊野尾)「いろんなことを教えてくれたのはだいたい薮だった。感謝しているし、頭があがらない。2人で一緒にJUMPを引っ張っていかなきゃと思っている」(八乙女) ■高木雄也(たかき・ゆうや)/1990年生まれ、大阪府出身 【最近幸せを感じたこと】番組で「東京ドイツ村」に世界一の犬小屋を作った。職人さんに協力していただき、一軒家みたいに立派な。しばらく置いてもらえると思うとうれしい。 【11年の変化】昔は周りなんて関係ないと思っていたけど、今は周りをゆっくり見渡せる。誰かが頑張っていると思うと、刺激になる。 【高木君の変化と成長】「グループへの愛情が日に日に増している」(有岡)「ライブの振りを最後まで丁寧に確認したりと、ストイック。ここ1、2年で特に意識の変化を感じる」(知念)「昔は一匹狼的なところがあったが、今はメンバー愛がすごい。JUMP大好き人間に。舞台ではカンパニーを盛り上げてくれた」(八乙女)「最近は初舞台を踏み、自分の武器を見つけた感じがする」(中島) ■伊野尾慧(いのお・けい)/1990年生まれ、埼玉県出身 【最近幸せを感じたこと】しばらく会ってなかったスタッフさんと久しぶりに焼き肉に行って話せたこと。 【11年の変化】いろんなことをやらせていただき成長したと思うけど、いまの状況に感謝し驕らずにやっていきたい。メンバーとは相変わらず仲がいいが、特に高木との距離が縮まった。デビュー当時はそんなに話さなかったが、最近はご飯や飲みに行ったりしている。 【伊野尾君の変化と成長】「真面目なところもあれば、変なことを言ったりもする。そこが魅力」(知念)「一見変わったように見えるけど、もともとの自分を素直に出せるようになったんだと思う」(高木)「毎週一緒にやっているラジオでは、時間の配分は全部いのちゃんに任せている。おかげで僕は自由にできる」(八乙女) ■中島裕翔(なかじま・ゆうと)/1993年生まれ、東京都出身 【最近幸せを感じたこと】久しぶりに10時くらいまで寝られたこと。セリフが増えたとき、「カンペを用意します」と言われたけど、闘争心に火が付き、必死で覚えてカンペなしで間違えずやり遂げた。すごく達成感があった。 【11年の変化】感情のコントロールができるようになった。 【中島君の変化と成長】「イケメンで特にスーツ姿がカッコイイ。基本、何をやってもできる。うらやましい」(山田)「大人としての余裕が出てきた」(知念)「グループの仕事とソロの仕事、しっかりメリハリをつけるようになった。グループで楽しそうにしてくれている姿を見ると、安心する」(薮)「入った頃から知っている分、すごく成長したと思う。最初はかわいいなって思っていたが、今は尊敬している」(八乙女) ■有岡大貴(ありおか・だいき)/1991年生まれ、千葉県出身 【最近幸せを感じたこと】自宅のテーブルの高さを自分で直したら、いい感じに。これを機にもっとDIYに挑戦したい。 【11年の変化】番組でイジってもらったとき、ファンの方がそれでも好きって言ってくれることが自信につながった。カッコ悪い姿も見せていいんだと気づき、ラクになった。 【有岡君の変化と成長】「見た目より頼れる」(知念)「グループのレギュラーがない時代、有岡君は大きな番組をやる機会があり、そこで勉強したことを持ち帰ってくれた」(高木)「誰かがボケたらツッコむとか、常にそういうことを鍛えていて、どんな現場でも糧にする」(中島)「『ヒルナンデス!』で開花。もともと面白い奴だったけど、昔はそれが伝わっていなかった。彼の面白さが伝わりうれしい」(八乙女) ■山田涼介(やまだ・りょうすけ)/1993年生まれ、東京都出身 【最近幸せを感じたこと】知念の誕生日に、お気に入りのちょっと高いご飯屋さんで2人で食事をしたこと。そのお店で必ず最後に出てくる料理が死ぬほどおいしくて! 幸せだなあ、仕事頑張ろうって思った。 【11年の変化】味覚。以前は山芋やオクラなどのネバネバ系が苦手だったけど、好きになった。ただ納豆だけはまだダメ。 【山田君の変化と成長】「グループを引っ張り、まとめてくれる頼れる男。山田に無理をさせないように僕も頑張らなくてはと思う」(知念)「グループに還元したいという気持ちがずっと強いまま、変わらない」(薮)「若い頃からセンターという大きな役目を担っている。最近はバラエティーでもいじられたり、いわゆる王道のセンターとは違う道を切り開いた」(八乙女) ■知念侑李(ちねん・ゆうり)/1993年生まれ、静岡県出身 【最近幸せを感じたこと】誕生日をいろんな人に祝ってもらえたこと。みんなのおかげで今の自分があると思えた。 【11年の変化】デビュー当時は根拠のない謎の自信があり、何でもできるような気がしていた。今はいい意味で自分の実力や立ち位置がわかってきたので、何をすればよいのか見えてきた。 【知念君の変化と成長】「よい意味でちゃんと計算している。あんまり俺には話さないけど、何歳で何をしたいとか、人生設計が決まっているらしい」(山田)「一番年下で、デビュー当初は大人とのコミュニケーションがとれなかった。いまや『世界体操』のプレゼンターを務めるなど、ソロでもしっかり活躍」(薮)「天才肌で、努力家。振り付けを覚えるのが早いのに、練習もすごくする。最強」(八乙女) (取材・文/本誌・鮎川哲也、太田サトル、鈴木裕也、野村美絵、伏見美雪) ※週刊朝日  2019年1月18日号
週刊朝日 2019/01/15 11:30
結婚10年の45歳女性がマッチングアプリで「大恋愛」に至るまで
結婚10年の45歳女性がマッチングアプリで「大恋愛」に至るまで
マッチングアプリが取り持つ縁……、不安も半分(※写真はイメージ) 「私たち、結婚しました!」――続けて届いた2通の結婚報告はがき。お葬式に参列することのほうが増えていたというのに、まさか同年代である50代の友人から結婚話を聞かされるとは。もしかして、と調べたところ、ここ20数年で50歳前後の結婚増加が判明。総数から見れば少ないものの、“50歳からの結婚”が増えていることは間違いないようだ。連載「50歳から結婚してみませんか?」では、結婚という大きな決断を50歳で下すことになった女性の本音とリアルに迫る。第19回は、マッチングアプリで出会った彼と結婚する瀬川ナミさん(仮名・45歳・会社員)の前編をお届けする。 *  *  *  今年の春に約10年間の結婚生活を終了させ、来春にマッチングアプリで出会った彼と新しい人生を歩むという瀬川ナミさん(仮名)。離婚からわずか1年で再婚を決意。 「前夫は7歳年下で漫画やアニメ、ゲーム好きなど趣味が同じだったので一緒にいてもほとんど年齢差を感じませんでした。でも、私とは性格が反対で内向的。飲み会なども進んで参加することが少なかったんです。私は社交的で人が大好き! だから、飲み会も積極的に出ましたし、幹事も進んでやるほどでした。でも、それが前夫は気に入らなかったみたいで私が飲みに行くことにだんだんいい顔をしなくなって。夫婦で出席するパーティなども私はひとりで行くようになりました。パーティだけじゃなく、映画や美術展などもふたりで楽しみたかったですし、食べ歩きなど行きたかったですね。でも、それができず、また言い出せなくて寂しさが徐々に募っていきました」  次第に本音を話せなくなり、いろんなことを無理して夫に合わせ、我慢することが多くなっていき、瀬川さんの中で不満のスタンプが溜まっていった。そして子どもの話が……。 「私が40歳のときに子どもの話が出たんです。『なんで今頃?』と思いましたが、『夫が望むなら』と、不妊治療を始めたんです。でも、治療の成果はそんな簡単に出ませんし、体調も悪い。仕事も休みがちになって評価も下がる一方でした。それに後輩が次々と産休を取っていく中、自分は仕事でも評価されず、子育てもできないダメ人間なんだと……。どこにも居場所がなくて孤独を感じる毎日でした。眠れない夜も続き、心身ともに本当にきつかったですね」 ■先輩にすすめられたマッチングアプリで運命の出会い  心身共に疲弊した時期が続いていたが、ある日、元の上司に思いきって相談。 「話を聞いてもらって心に渦巻いていたモヤモヤがなくなり、自分の中でいろんなことが整理できました。そして、これから自分は何をすべきかがわかって、少しずつ希望がもてるようになったんです。そしたら、また恋がしたくなっちゃって元上司に『あたし、恋してもいいかな』って半分冗談で聞いたら、『しろしろ、大恋愛をしろ』と言ってくれたんです」  だからと言って、もちろんすぐに恋ができるわけではないし、するつもりもなかったが、それでも前向きになれた。そんなとき、「マッチングアプリをやってみないか」と先輩からすすめられたのだ。というのも、この先輩がマッチングアプリでいい人と出会ったというのだ。気軽な気持ちで登録したのだが、これが瀬川さんの運命を変えることになろうとは……。  マッチングアプリは簡単に言うとインターネット上で異性と出会えるアプリ。登録すると検索ができて、気に入った人に「いいね」を送り、お互いに「いいね」を送り合うとマッチングが成立。その後、メッセージのやり取りや意気投合すれば会うという仕組み。 「そんな簡単に自分に合う人が見つかるわけがないと半信半疑で登録してみたら、びっくり! 気になる人がすぐに見つかったんです。しかも、すんなりとマッチングが成立。最初は信じられませんでした。メッセージをやり取りしてみると、会話のセンスやテンポが私のストライクど真ん中。久しぶりに胸がトキメキましたが、相手に自分が既婚者であることは正直に伝えました。それでも態度が変わらなかったことはうれしかったですね」  夫との関係は、ほぼ破綻していたにしろまだ既婚者。そこは節度あるつき合い。 「やり取りをしていく中で相手も既婚者だったことが分かり、しかも離婚を考えていることが分かったんです。にわかに信じがたかったですが、正直に既婚者であること、そして離婚を考えていることを打ち明けてくれたので『なんて誠実な人なんだろう』と思い、さらに好感度がアップしました」。  この話がきっかけで、瀬川さんの心は彼に急速に傾いていった。(取材・文/須藤桃子) 須藤桃子(すどうももこ) 1965年東京生まれ。フリーライター。女性の生き方、料理、健康、ペット(特に猫)系を中心に活動
婚活結婚須藤桃子50歳から結婚してみませんか?
dot. 2019/01/11 16:00
どうして1月11日に「鏡開き」をするのか?「鏡餅」に隠された深い秘密とは?
どうして1月11日に「鏡開き」をするのか?「鏡餅」に隠された深い秘密とは?
本日1月11日は正月に供えたお供え餅を割っていただく「具足祝い(具足開き)」行事の日。「鏡開き」というほうが一般的かもしれません。お汁粉や揚げ餅にして召し上がった方もいるのではないでしょうか。かつては小正月(1月15日)の後の20日ごろに行われていたのですが、江戸の町の事情から、1月11日になった経緯があります。それにしても、餅を割ることを「鏡開き」と称するのは考えてみれば不可解な表現。もちろん正月の餅飾りを鏡餅と言うからですが、なぜ「鏡」なのでしょう。秘められた意味についてさぐっていきます。 鏡開きの「開き」は本当に忌み言葉を避けた表現なの? 正月に訪れる歳神様の依り代(実体のない霊的存在・パワーが物質世界にとどまるための仮の体)としての鏡餅。その起源自体は古いのですが、年末ごろに床の間や神棚などに大小の丸餅を重ねて橙や裏白などで飾りつけ、1月11日に木槌で餅を割って食べるという一連の風習は、室町時代に日本家屋に床の間が出来た後、江戸時代がはじまる前後に武家社会で行なわれるようになったものです。 正月、床の間に飾った武士の魂である鎧具足に宿る守護神・八幡神(八幡大菩薩)に餅飾りを供える風習が、次第に江戸庶民の間にも広まりました。当初は小正月(旧暦の1月15日)の満月後の20日に「刃柄(はつか)の祝い」として具足餅開きを行いましたが、火事の頻発していた江戸城下で、半月間も燃えやすい正月飾りを放置する危険性を懸念した江戸幕府が、江戸時代初期には松の内を正月七日まで、と定めたため、11日に移行しました。11日は商家の仕事始めの蔵開きの日にあたり、各家の主人は正月飾りの餅を割り、使用人らや得意先に屠蘇とともにふるまいました。これが現代まで続く鏡開きの日として定着したようです。 「鏡開き」は英語で直訳するならOpen the mirror。海外の人にはお餅を割ることだと理解するのは不可能な、謎めいた表現ですよね。大きな丸餅を小さく刻んで、あるいは叩いて壊すことを「切る」「割る」などの言葉ではなく「開く」としたのは、切腹を連想させ縁起の悪い忌み言葉なのでそれを避けたのだ、という言い方がよくされますが、実は「開く」という言葉こそ切腹に直につながる言葉とも言えます。自分に何もやましいものはない、自分は潔白であり正当である、ということを腹を開いて証明することが本来の切腹の意味なのですから、「開き」という言葉はむしろその本質をストレートにあらわしているのです。 正月餅の変遷。オコナイ・追儺行事に現れる鏡餅の元型 では、正月の丸餅を「鏡」餅というのはいつから、またなぜなのでしょうか。「本朝食鑑」(元禄10年(1697年)では 而作大円塊、以擬鏡形、故呼鏡称鏡、此擬八咫鏡乎、正月朔旦、以鏡餅也 とあり、鏡餅は三種の神器(みくさのかむだから、さんしゅのしんき)の一つ「八咫鏡」を模したものである、としています。正月の飾り餅には、その天辺に橙を載せますが、それが八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)、最近の鏡餅ではめったに見かけませんが、串にさして連ねた干し柿「串柿」が天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)をあらわし、正月餅飾りはこの三種の神器をモチーフにしている、ともされます。でも、橙の丸い形と勾玉の胎児のような形はあまり重なりませんし、串柿を剣というのも無理がある気がします。さらに、餅も「鏡」というにはぼってりしていて、鏡に似ているとは言えませんよね。ちょっと眉唾な説です。 ただ、餅については古くは本物の鏡のようにピザ型に丸く平たく作って立てて飾ったもののようで、これが鏡餅の語源になっているとも言われます。 現代でもそれが残存している例として、滋賀県の甲賀一帯の正月行事「オコナイ」があります。甲南の浄照寺のオコナイでは、馬の絵馬と竹で榊に括られて中空に垂直につるされた円形の「掛け餅」が、歳神を迎える神座に飾られます。また、旧暦の大晦日の宮中の年中行事として平安時代初期頃から行われている鬼払いの儀式で、平安神宮や兵庫県三木市の蓮花寺で行なわれる「追儺(ついな)」「鬼やらい」行事にも、円鏡を模した文字通りの「鏡餅」を壁にかけて供えられます。「鬼」を追討する関係性が強い寺院で鏡餅は本来の銅鏡型を取る傾向が見られ、滋賀県の「オコナイ」でも、神社で行われるものでは円鏡型の飾り餅は見られません。 さらにさかのぼりますと、日本民族のルーツの一つとも言われる中国湖南省から雲南省の少数民族・ヤオ族(瑶族)には、正月に族長が餅米で平たい餅を作り縁者に贈る風習があり、これが日本の「お年玉」の原型と思われます(今はお金ですが、かつてはお年玉とはお餅を配ることでした)。日本でも、正月飾りの餅を家長が家族成員に配り、これを「御魂分け(みたまわけ)」とも言います。お年「玉」であった正月の餅が、いつしか呪術的な鏡へと変化し、「玉」が「鏡」に摩り替わり、そしてさらに鏡は掛け餅から今の重ね餅型の「鏡餅」(具足餅)へと姿を変えたのです。 「鏡」が依り代となることで、古き神の姿が顕現した! 「鏡」カガミという言葉は、辞書を繰ると「影見」から転じた、とする説明が多く見られます。しかしこれは誤りです。「カゲ」が「カガ」に母音変換される例はないからです。鏡の「カガ」とは「輝く」の「かが」なのです。輝きを見る(見せる)ものだったから「かが見」。そしてその「カガ」の語源は蛇です。太陽神と蛇は同一であり、日本書紀神代下・第九段一書第一には天孫の斥候を出迎えた国つ神猿田彦大神について 其の鼻の長さ七咫、背(そびら)の長さ七尺余り。當に七尋と言ふべし。また口尻(くちわき)明く耀(て)れり。眼は八咫鏡の如くして、てりかがやけること赤酸醤(あかかがち)に似れり。 とあり、猿田彦の目は巨大な銅鏡のように丸く、ほおずきのように赤く輝いていた、と描写しています。猿田彦の正体は大蛇なのです。「国つ神」と言われる出雲系の神々は、その祖である素戔男尊(すさのを)も佐太大神も、大己貴神(おおなむち、大国主)も、饒速日(にびはやひ)も、建御名方神(たけみなかたのかみ)も蛇であり、そして佐太大神や饒速日は同時に天照大神に先駆けた元祖太陽神でもあります。饒速日から天照へ、太陽神の交代(書き換え)が行われたとき、国つ神である古き神々=蛇たちは、この世から鏡の中に封じられたのでした。 素戔男尊は高天原で天照に逆らって以来、その地を追われて流浪の神となります。そして「都から追い出された鬼」と同一視されるようになるのです。「備後風土記」では、素戔男尊の化身でもある牛頭天王が旅の途中、蘇民に一宿の恩を受け、それ以来凶事が蘇民とその子孫の家は避けてとおり、蘇民の家系は代々栄えた、という言い伝え「蘇民将来伝説」が記されています。鬼=素戔男尊を信仰する民は「蘇民の子孫」ということになりますが、蘇とは「疫病をもたらす鬼」の名であり、天つ神の地位から追われた素戔男尊は鬼そのものだったのです。 餅の元となる稲を実らせる稲霊は田の神であり水神です。田の神も水神も蛇神なのです。穀物神である稲荷=宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ 倉稲魂命)と同一の神である豊穣と水の神・宇賀神(うがじん、うかのかみ)は白髪の老人の頭に蛇身を持つ蛇神です。つまり餅自体が蛇=鬼からもたらされたものであり、追儺で鏡に加工された餅を飾るのは、分身である餅を取り戻そうとやってくる蛇神=鬼を豆つぶてで追い払うためのトラップ。この儀式が鬼やらいであり、節分の豆まきなのです。 しかし、武家社会の到来とともに鏡餅は垂直に立てて鬼を祓うための仕掛けではなく、水平に置き神(歳神=田の神)を迎える依り代に変化しました。すると、驚くべきことが起きます。 封じられていた蛇神の姿が復活したのです。二つ重ね、地域によっては三つ重ねにした餅のてっぺんに橙を載せた鏡餅のかたちは、とぐろを巻いた蛇をあらわしているのです。蛇神である宇賀神の石像が各地にありますからごらんになってください。その姿かたちは鏡餅とそっくりです。 死と再生の正月。依り代である鏡餅を食べることは、あの秘儀とつながっていた? 蛇はその脱皮による成長が死と再生、頭部から先端までつながった形状と強い生命力から無限・永遠の連環をあらわすとして信仰されてきました。現代の私たちはそれぞれの誕生月日に誕生を祝いますが、かつてはすべての人が年末に一年のサイクルを終えて一度死に、正月に生まれ変わるとされました。正月とは、再生の祝いの日だったのです。だからこそ正月の神の依り代は蛇の姿をシンボル化した鏡餅なのです。 そしてその依り代を、割り開いて(殺して)人々が共食します。やはり米から作ったお神酒である屠蘇(とそ)とともに。「屠蘇」とはその言葉通り「蘇=鬼を屠る(殺す)」ことを意味します。神の体そのものである餅と酒の共食。何だかある有名な伝説を思い出しませんか?キリストと十二使徒との「最後の晩餐」聖餐の儀式です。 イエスは、磔になる日の前夜、ぶどう酒を自分の血、パンを自分の肉と言い、弟子たちに分け与え、これを食べるよう勧めます。この儀式は単なる喩えのように捉えられていますが、自身の体を後継者に食べさせることは、古代宗教の秘儀でもありましたし、一族のために自身の体を食べさせるというのは最高の徳行であるという思想もありました。本当はイエスは最後の晩餐で自身の肉をそぎ、血を流して弟子たちに与えたかもしれないのです。 日本ではイエスのことを「耶蘇」と表記します。中国語のイエスの当て字ですが文字の選択はランダムではなく、意味があります。十字架に架けられ屠られるイエスは蘇=鬼=蛇でもあったのです。さらに、イエスが息絶えようというときある出来事が起こりました。ローマ兵の百卒長ロンギヌスがイエスのわき腹を槍で突き切り裂いたのです。そうです、「切腹」です。武士の精神性の本質であるとも言われる切腹は、命を投げ出してはらわたを開陳し、自身の穢れなさ、無辜を証明する行為でした。それは「罪なき神の子羊」であるイエスの磔刑と重なるものではないでしょうか。イエスは、十字架で絶命した後、くるまれた布を抜け出して再生します。蛇のように。キリスト教の教義の本質は死と再生、そして永遠の命です。 「わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。(ヨハネの黙示録 22章13節)」。旧約聖書の創世記、人類の黎明期に現れて、死の世界に人を導いた蛇。そして最後のときに現れて、永遠の生命の世界に導くといわれる蛇(イエス)。この二つの蛇は同じであると言っているかのようです。 安土桃山時代。一介の茶人(あるいは武器商人とも)であったはずの千利休がなぜか切腹を申し付けられるという不可解な事件がありました。その時代、キリスト教の教義が武士道に流れ込み化学変化が生じたのではないでしょうか。とまれ、千利休についての顛末の詳細は、またいずれの機会にゆずりたいと思います。 「食べる」「食べられる」の連環は、生命の基本原理であると同時に生命の秘密であり奥義でもあります。鏡餅=神の体を食べることで生命とは何かを「鑑みる」。「鏡開き」とはそんな実に感慨深い行事なのではないでしょうか。 日本書紀 (岩波書店)甲南町常照寺薬師堂(乳薬師)のオコナイ http://11.pro.tok2.com/~kazuo/m20-228.htmlLLL
tenki.jp 2019/01/11 00:00
“助け愛”手当で楽に? 「保育園の送り迎え」に鈴木おさむが提案
鈴木おさむ 鈴木おさむ
“助け愛”手当で楽に? 「保育園の送り迎え」に鈴木おさむが提案
鈴木おさむ/放送作家。1972年生まれ。高校時代に放送作家を志し、19歳で放送作家デビュー。多数の人気バラエティーの構成を手掛けるほか、映画・ドラマの脚本、エッセイや小説の執筆、ラジオパーソナリティー、舞台の作・演出など多岐にわたり活躍。「ママにはなれないパパ」(マガジンハウス)が好評発売中 保育園でも「助け愛」 (※写真はイメージです GettyImages)  放送作家・鈴木おさむ氏の『週刊朝日』連載、『1970年代生まれの団ジュニたちへ』。今回は「保育園の送り迎え」について。 *  *  *  年の瀬、仕事が詰まり、保育園に迎えに行く時間が遅めになってしまったとき、6個以上あるクラスが一つにまとめられて、子供たちが親の迎えを待つ。あと5人ほどしか残っていなかった教室で、僕の目を見て、嬉しそうな息子の顔を見ると、キュンとする。このキュンには、小さな罪悪感もあったり。3歳半のうちの息子は、この日の夜、いきなり泣きだしてしまった。妻が話を聞くと、やはり遅い時間まで保育園で寂しかったようだ。子供だって頑張っている。子供だって我慢している。笑顔を作っているんだなと改めて感じる。  保育園の送り迎え。共働き、シングルマザー、みんな時間のやりくりが大変なんだよなということを自分が経験して感じる。ラッキーだったのは、去年引っ越ししたマンションのお隣さんが、うちの息子と同じ年の子供がいて同じ保育園。しかも、働いている業種も僕らに近く。子供同士もすぐに仲良くなりました。  このおかげで、妻も僕もお迎えの時間が合わないときには、お隣さんにお願いして、迎えに行ってもらう。これがとてつもなく助かる。お隣さんが行けないときは、うちが行ったり。助け愛(あい)。  先日、僕が両足肉離れになって歩けなくなったとき、妻も早朝から仕事で息子を保育園に送りに行けない。お隣さんはその日、用事があり、保育園をお休みしていたにもかかわらず、僕が歩けないことを心配して、お隣さんのお父さんがうちの息子だけ保育園に連れていってくれました。保育園の先生からしたら、お父さんが、自分の子供が休んでいるのに、隣の家の子供だけ連れてくるというのはちょっとシュールだったかもしれませんが、本当に助かりました。遠い親戚より近くの他人と言いますが、まさにそれ。元々他人でも、家族より濃い関係になることだってある。  子供が保育園に通いだして、特に妻は保育園の送り迎えというものを軸に生活の時間を構築していく。特に東京や都心部で暮らす人は、それが大変だろう。  先日、育児に関する新聞の取材を受けていて、そのときにふと考えたことがある。子供が保育園や幼稚園に通う親の兄弟姉妹の家族が近くに住んだら市や区がメリットを与えたらどうなんだろうと。うちも、妻の妹が都内で子供2人を育てて暮らしている。  例えば、自分の兄弟に近い年次の子供がいて、同じ保育園に通うことができる家族は、保育園に入りやすくなる(つまりはポイントが高くなる)とか。かつ、近くでマンションを借りるときに住宅手当が市や区から出るとか。兄弟姉妹だけじゃなく、親戚まで広げられたら最高だが。  子供が4歳に近づき、2人目の子供も考える。もちろん、50歳に近づいた僕と40歳に近づいた妻で子供を授かることも大変なのはわかっているが、仮に授かったとして、そのあとのことを考えてしまう。保育園の送り迎えは可能なのかどうか? 子供が37.5度以上の熱を出したときに誰が迎えに行けるんだろうか?  親の兄弟姉妹が助け合える環境がもうちょっとできれば、それって少子化対策にちょっとはいい影響を与えられないかなと思ったりする2018年、年末。 ※週刊朝日  2019年1月18日号
出産と子育て鈴木おさむ
週刊朝日 2019/01/10 16:00
竹増貞信「店舗運営を変えていく1年に」<コンビニ百里の道をゆく>
竹増貞信 竹増貞信
竹増貞信「店舗運営を変えていく1年に」<コンビニ百里の道をゆく>
竹増貞信(たけます・さだのぶ)/1969年、大阪府生まれ。大阪大学経済学部卒業後、三菱商事に入社。2014年にローソン副社長に就任。16年6月から代表取締役社長 読者のみなさまにとってもよい1年になりますよう祈念いたします 「コンビニ百里の道をゆく」は、49歳のローソン社長、竹増貞信さんの連載です。経営者のあり方やコンビニの今後について模索する日々をつづります。 *  *  *  明けましておめでとうございます。いよいよ2019年ですね。今年も本連載をよろしくお願い申し上げます。  私には年始の恒例行事があります。ダイエーの創業者で、ローソンの生みの親である中内功さんのお墓参りです。昨年も元日の午後、兵庫県芦屋市にあるお墓に「無事に仲間と共に新年を迎えることができました。今年もがんばります」と感謝の気持ちをお伝えしました。中内さんがアメリカから日本にローソンを持って来てくださったからこそ、今がある。全国1万5千店舗の仲間、社員とこうしてローソンで仕事ができていることを墓前で感謝申し上げて、私の1年はスタートします。  昨年はとても災害が多い1年でした。北陸・福井の豪雪、大阪北部地震、西日本豪雨、台風21号による水害、北海道胆振東部地震など、立て続けに災害に見舞われました。それら災害に対応する中で、ライフラインとしての私たちの仕事の重要性も再認識でき、停電への備えなども含めて次に生かすべき学び、教訓も多かった1年でした。  三が日の年始巡回では、災害の被害が大きかった愛媛県に入り、それから岡山県、広島県などを回る予定です。大変な状況でお店を続けて頂いたオーナーの皆さんとひざを突き合わせてじっくりと話をすることで、新年早々パワーをもらえることと思います。  昨年は「デジタル元年」として、ロピックの開始、自動釣り銭機付きPOSレジの全店舗設置やスマホ決済の導入などを進め、一定の成果を確認できました。物流を改良して店舗の夕夜間帯での品揃えを増やしたことも売り上げ増につながり、今年はそれを加速していきたいと考えています。とはいえ、人手不足がすぐに解消されるわけではありません。今年早々には、大幅にマンパワーを減らせる店舗の実証実験を始める予定です。  新たな中期経営計画と昨年行った技術改革をベースに、19年はより実践的に、劇的に店舗運営を変えていく1年にしたいと思っています。 ※AERA 2019年1月14日号
竹増貞信
AERA 2019/01/07 16:24
高千穂で迎えた新年【世界音楽放浪記vol.29】
高千穂で迎えた新年【世界音楽放浪記vol.29】
高千穂で迎えた新年【世界音楽放浪記vol.29】 明けましておめでとうございます。2019年も、何卒、よろしくお願い申し上げます。 新年は旅先で迎えることが多い。海外で過ごした時期もあるが、ここ数年は国内、それも何か縁を感じるところを訪れている。 昨年は石垣島で年を越した。5年ほど前から、沖縄に足繁く通っている。何か特別なことをする訳ではない。読書したり、曲を作ったり、プールで泳いだり、映画を見たり、美術館に行ったり。友人や馴染みの店も増え、スーパーのポイントも貯まった。初詣は、竹富島の御嶽だった。 最初に沖縄に行ったのは1995年、本土復帰50周年の時だ。仕事でご一緒した石嶺聡子さんから、ご親族が津堅島で民宿を経営していると聞き、泊りに行った。その際に「天に響(とよ)め さんしん3000」というイベントを偶然知り、観客となった。那覇の陸上競技場で3000人の三線奏者が演奏するという、スケールの大きなイベントだった。その感動的な出来事がきっかけとなり、仕事でも、プライベートでも、繰り返し訪れるようになった。沖縄のことは、いずれまた書きたい。 今年は、熊本県の高千穂で新年を迎えた。非科学的なことも交え、その理由をお話ししたい。3年ほど前、ある友人の取り巻きから「悪霊が憑いている」と言われた。そんな訳はないと思いつつ、反論もできなかったので、沖縄のユタに見てもらうことにした。ユタとは、沖縄や奄美にいる民間霊媒師だ。出会う前は半信半疑だった。詳しいことは書けないが、あまりの千里眼に言葉を失った。スポーツ選手や芸術家らと同様の、1つの才能だと思った。悪霊はいなかった。代わりに、私は、ある神様が背中を押してくれているという。余談だが、そんな才能もないのにいい加減なことを忠言する輩に関わられていた友人は、その後、公私共に、なかなか大変な思いをすることになる。 私は、古事記の舞台を巡るようになった。元々、レヴィ=ストロースの影響もあり、神話に興味があった。神社に行っても、願いごとはしない。「お招き頂き、ありがとうございます」と挨拶をするだけだ。ちなみに、私はクリスチャン・ネームを受けている。親戚には僧侶も神職もいる。宗教的に寛容で、多様性を認める日本は、世界的には稀有な地であることは間違いない。 昨年、人生の転機が来たように感じ、別のユタにセカンド・オピニオンを伺った。またもや驚嘆した。そのユタが言うには、私を支えてくれる神の数が増えているという。「白いお面をした女性と、髪の長い男性が見えます」。数か月前に初めて訪れた、高千穂の神楽面ではないか。一切、科学的根拠はない。鵜呑みにするつもりもないし、全面的に信じている訳でもない。ただ、「気は心」ではないが、何かのサインが届けられたのだと、私は感じた。 昨年11月、改めて高千穂を訪れ、天岩戸神社の夜神楽を体験した。17時に始まり、地域の人々がオールナイトで奏で、舞う。おもてなしの料理も振る舞われる。ちょうど夜明けの頃に岩戸が開き、朝10時のエンディング前には、私のような来訪者も座に上り、一緒に舞う。日本のトラディッショナルなレイヴであり、トランス系のダンス・ミュージックである。岩戸地区の方から御礼の葉書が届いた。気持ちは決まった。日本の民俗音楽は、視座を変えれば新たな「内なる資源」になる可能性があると、私は常々考えている。自分なりに、日本の音楽に向かい合っていきたい。それが、新年の抱負だ。 皆さまにとって、2019年が素晴らしい一年になりますことを、心からお祈りいたします。Text:原田悦志 原田悦志:NHK放送総局ラジオセンター チーフ・ディレクター、明大・武蔵大講師、慶大アートセンター訪問研究員。2018年5月まで日本の音楽を世界に伝える『J-MELO』(NHKワールドJAPAN)のプロデューサーを務めるなど、多数の音楽番組の制作に携わるかたわら、国内外で行われているイベントやフェスを通じ、多種多様な音楽に触れる機会多数。
billboardnews 2019/01/07 00:00
夫の転勤で専業主婦、育児でウツになった30歳女性の告白「私って何だろう」
小林美希 小林美希
夫の転勤で専業主婦、育児でウツになった30歳女性の告白「私って何だろう」
※写真はイメージです(写真/getty images) 「夫に転勤があって仕事はできなくなった。私って、いったい、何なのだろう」  都内で生まれ育った山中夏美さん(仮名、30歳)は、“寿退職”して夫の姓となった自分に大きな疑問を抱くが、それを胸のうちにしまっている。 27歳で10歳年上の男性と結婚した。夫は安定した企業で働いているが転勤族で、交際中も何度も全国を転勤して回っていた。夏美さんは、大学を卒業してから非正規雇用ではあったが、地域に向けた学習会の企画から運営までのすべてを行い、やりがいを感じながら自治体で働いていた。 結婚が決まった頃、夫は都心から2時間かかる地域に住んでいたため、結婚しても夏美さんが働き続けるとなると別居しないと続かない。夏美さんの月給は手取り17万円でボーナスはない。残業も多く、平日は夜10時まで仕事をしているのが常態化していた。イベントが行われる土日は出勤しなければならない。給与は上がらず、正職員になれるかといえば見通しはたたない。実家暮らしだからこそ働ける賃金水準だった。 同僚で妊娠した非正規の職員は、育児休業を取ることができないと宣告されていた。その同僚は早産しかかると、そのまま辞めざるを得ない状況に追い込まれた。そうした状況を間の当たりにし、「もう潮時かもしれない」と、夏美さんはやむなく“寿退職”した。 夫の勤務地である千葉県の郊外に引っ越し、新婚生活が始まったけれど、知り合いは一人もいない。失業給付金を受給しながら仕事を探しても、短期の仕事しか見つからない。焦り、孤独を感じ、うつ状態になっていた。  うつ状態になった理由は仕事だけではなかった。婚姻届けを出したことで姓が変わったことも喪失感につながった。それを最初にはっきり感じたのは、妊娠が分かった時だった。病院で妊娠していることを告げられて嬉しいはずだが、夫の姓で呼ばれると、新たな命を授かった嬉しい思いがかき消され、「私っていったい誰なんだろう」と思えてきた。  夫はごく普通の男性。結婚前に一度、「私の姓の野村にしない?」と言ってみたが、「え?なんで???」と目が点になっていた。まるで何も考えてはいない。「女が姓を変えるのが当たり前だ」と思っている。地元では当然、「野村夏美」で名が通っていただけに、姓が変わることへの抵抗感は強かった。「野村夏美」でない私っていったいなんなのだろう。いろんな経験をしてきたと思ったのに、結婚でリセットしてしまう。私という人間がゼロになってしまったという想いが頭のなかをぐるぐると回った。  夫は「なんでこだわるの?」とあっけらかんとしている。夏美さんは、「姓を変えないほうは良いよね。変えさせられる身になれば、こだわるんじゃないの?同じ姓を強要されるのは、個人が認められていないとしか思えない。その人間がなかったことにされるようだ。一度消去され、新規の人格になるイメージ。山中夏美なんて名前、まるでなじめない」と、怒りを覚えた。  現在、民法により夫婦は必ず同じ名字(姓)を名乗らなければならず、選択的夫婦別姓は実現していない。ただ、若い世代には民法改正を望む声が大きくなっている。 内閣府の「家族の法制に関する世論調査」(2017年度)では、「婚姻による名字(姓)の変更に対する意識」について尋ねており、「名字(姓)が変わったことに違和感を持つと思う」が22.7%、「今までの自分が失われてしまったような感じを持つと思う」が8.6%だった。若い女性の層をみると、「違和感を持つ」と思うのは18~29歳で32.3%、20~39歳で27.3%。40~49歳で23.2%と平均を上回る。「自分が失われる」も、30~59歳の間で12%台あった。  また、同調査で「選択的夫婦別姓」について、「夫婦が婚姻前の名字(姓)を名乗ることを希望している場合には、夫婦がそれぞれ婚姻前の姓を名乗ることができるように法律を改めてもかまわない」と答えた割合は男女とも平均42.5%だった。内訳を見ると、男性の30~39歳(50.9%)、女性の18~29歳(52.4%)、30~39歳(54.1%)、40~49歳(52.1%)が過半数を超えているにもかかわらず、いまだ、選択的夫婦別姓を実現する民法改正は行われていない。  納得いかないまま姓が変わったことでアイデンティティを失った夏美さんは、「地元を離れて結婚して。引っ越ししたのも自分の選択のはずだが、心は空っぽになってしまった」と静かに語った。そして、失業給付の受給期間が切れると、いよいよ焦りを感じた。 「夫は転勤族。もし仕事が決まっても、すぐに転勤になって辞めるのでは迷惑をかけてしまう」と思うと無責任な気がして、パートでさえも仕事に就けない。そのうち、「そうだ。子作りしよう」と思い始めた。けれど、「私、どうしたらいい?」「私、なんのために存在しているの?」という思いがまた頭のなかを駆け巡る。 収入がないのに家にいることが辛い。たとえ安月給だとしても、自分に収入がないことで「働かざるもの食うべからず」と思えてくる。夫の収入で自分が暮らしていることに疑問を感じてしまう。昼間、電気をつけず、夏は暑くてもクーラーもつけない。水道代の節約のためのトイレは3回に1回流せばいい、という生活を送った。  朝、玄関で「いってらっしゃい」と夫を送り出してから、「おかえりなさい」と言うまで、誰とも話をしない生活。たまに実家に帰ると、地元の友達から「夏美って、昔は輝いてたじゃん」と言われて、まるで今がパッとしないようだと言われているのと同じで辛くなる。 女児が産まれ、ようやく、「自分は子育てという仕事をしている」と思えるようになり、「生活費からたまに自分のものを買ってもいいのかな」と思えるようになった。姓の問題も、赤ちゃんのうちは「○○ちゃんのママ」と言われるのが救いだ。気にせずにいられる。  自己の存在意義を見出すことはできたのだが、出産後、夫の幼稚な部分が露呈した。夫は子育てや家事をやろうとしてくれている。やっているつもりはある。が、忙しくて子どもが寝てから帰ってくる。家事や育児で少しアドバイスすると「何やってもダメ出しされる」「否定される気がする」と、すぐにすねる。  そして、絶対にウンチの時のおむつ交換をしない。夏美さんが台所でお皿を洗っている最中、夫が「臭い、臭い。(ウンチが)出たよー」と叫んでいる。夫は「ほんと、臭い、臭い」と言うだけで、自分ではウンチのついたオムツを取ってあげようとはしない。  やむなく食器洗いを中断して向かい「いいよね。(おむつを)替えない人は」と言うと、夫は急に怒りだし、娘のズボンをバンと床にたたきつけ、ドアをバーンと荒々しく閉めて寝室に去って行った。寝室からもゴンと大きな音が聞こえてくる。  これには夏美さんもムカムカときて「もー、いいや!」と、プチ家出を試みた。そうはいっても、一人でスーパー銭湯に行っただけだ。しかも、たった40分。本当は2時間くらい温泉につかっていたかったけれど、あんなに怒っていた夫と一緒にいる娘が気になっていそいそと帰るしかなかった。  そのくせ、夫は他人のフェイスブックや子育てブログを見ては涙目になって「本当にお母さんって大変なんだね」とうるうるしている。買い物をして、途中で赤ちゃんがおっぱい欲しがって授乳室を探して……。 「ちょっと!他人のブログで泣く?身近な妻の奮闘を見て泣かないわけね」  結婚しても姓は変わらず、子どもができても、夫の起きる時間や生活パターンは変わらない。しかし、女性の側はそうはいかない。「男はずるい気がする」と夏美さんの気持ちは冷めてしまう。夏美さんが特に苦しさを感じるのは、「夫しか自分のやっていることを見ていないこと」。小さな狭い家のなかという社会のなかでしか生きていないと思った時は、自分がちっぽけになった気がして嫌だった。いろんな人と出会う日々があった結婚前とは大違い。ギアチェンジができない。  誰かに自分が生きていることを見て欲しくて、フェイスブックに料理の写真をアップする。外では夫を主人と呼ぶこともある。まるで“良い奥さん”。本当の自分ではない。それでも、誰かに見てもらって「いいね!」ボタンをクリックして欲しい。夫以外の人間から。  落ち込みが激しくなり、何もできなくなって、心療内科にかかった。夕食を作っていても、どの材料がいるのか全く分からない。頭のなかで、どうしよう、どうしよう、という言葉がぐるぐるとした。  母乳をあげること、オムツを替えることなどの赤ちゃんの世話に慣れてくると、「私、何やっているのだろう」と思うようになった。子どもは可愛いが、子育てだけしているので良いのだろうか。本当は仕事がしたいんじゃないか――。   2人目の子どもも欲しい。本当は、少しでも働きたい。複雑な感情が夏美さんを襲う。  総務省の就業構造基本調査(2017年)では、「家族の仕事の都合」による転居をした女性は全体で627万4500人。うち有業者は290万3800人だった。夏美さんもそうした一人になる。「平成25年度育児休業制度等に関する実態把握のための調査研究事業報告書」によれば、「末子妊娠時就業形態別 退職した理由」のうち「夫の勤務地や転勤の問題で継続困難」が正社員の女性で8.3%、非正社員で4.7%となっている。  夫の転勤問題は、女性の賃金が低いということで長年、女性が離職を迫られてきた。こうした転勤問題についての調査は少ないが、夫の転勤による女性の側の不利益は大きい。選択的夫婦別姓についても、姓が変わることへの不利益は働く女性だけの問題ではない。安倍晋三政権のうたう“一億総活躍”の前提条件として必要な転勤問題や選択的夫婦別姓について、改めて考える必要があるだろう。(ジャーナリスト・小林美希)
小林美希
dot. 2019/01/06 10:00
堺雅人やディーンの魅力引き出したNHK敏腕プロデューサーが今度は広瀬アリスと千葉雄大を…
堺雅人やディーンの魅力引き出したNHK敏腕プロデューサーが今度は広瀬アリスと千葉雄大を…
佐野元彦/NHKエンタープライズ エグゼクティブ・プロデューサー。連続テレビ小説『あさが来た』、大河ドラマ『篤姫』『女神の恋』など数々のドラマを手掛けてきたプロデューサー。『眩 ~北斎の娘~』で文化庁メディア芸術祭テレビ・ドラマ部門大賞を受賞 田舎の沼地に巨大都市を夢見た徳川家康。演じるのは市村正親 前編の主人公・大久保藤五郎(佐々木蔵之介)は、菓子職人でありながら上水整備を命じられてしまう 後編の主人公・橋本庄三郎(柄本佑)。経済の中心を上方から奪うため、史上初の小判造りに挑んでいく  時代劇の製作本数が減少傾向の中、2019年のNHK正月時代劇は2夜連続で江戸の町づくりを描くという壮大なスケールの作品と発表された。仕掛けるのは『篤姫』『あさが来た』を生み出した名プロデューサー、佐野元彦氏。『真田太平記vol.15』(週刊朝日増刊)で、見どころ、作品の狙いなどについて話を伺った。 *  *  * ――佐野さんは『篤姫』の堺雅人さん、『あさが来た』のディーン・フジオカさんなど、ドラマの中で俳優の魅力を引き出すのがうまい方という印象ですが、今回のドラマの配役の狙いについて教えてください。  まず市村正親さんの徳川家康ですよね。  そもそも、意外に市村正親さんがそんなに時代劇やってないんです。ヘンリー五世とかマクベスとか西洋の歴史劇はやってますけど、ちょんまげを被る時代劇ってそんなに数多くないんですよ。  だから視聴者の皆さんも新鮮だと思いますし、市村さんご自身もすごい新鮮に演じていただけました。  これには狙いがあって、兎角、三英傑のなかでも信長秀吉に比べて古狸とか、あまりドラマではポジティブに描かれないことの多い家康が今回はすごくポジティブに、新しい家康、現代人の感覚で好きになってもらえるように描いたドラマなんですね。  これは原作自体がそうで、家康が江戸を一代で築きはじめたと。その時に家康は偉大なプランナーであったとともに、素晴らしいドリーマーであった、つまり、世の中を引っ張っていく人、あるいは町を作り上げていくようなリーダーっていうのは優れた計画を持つ人であって、大きな夢を描ける人であるっていうのが原作の門井慶喜先生の新しい切り口で見た家康像なんです。  そういう家康だからこそ、各部門を任された職人たちがその後の半生を心置きなく仕事に打ち込むことができたっていうのが門井先生の原作で、読んだ時、新しい家康像だ!って。そしたら今まで大河を中心にいっぱい家康を演じきてくれた方々と違う、どちらかというと皆さんのイメージではミュージカルのスターっていうイメージが強い市村さんにやってもらって、新しい家康像を作りたい、というのが今回の一番の狙いです。  また佐々木蔵之介さん、柄本佑さんが各回の主役でして、この二人はもう時代劇の達人ですけど、前編と後編それぞれに新しい顔ぶれを入れたいと思ってました。  前編には千葉雄大さん。時代劇をあまり経験されていない人です。  そして後編のヒロインには広瀬アリスさん。これも時代劇というのはまず初めてじゃないですかね。  そういう人に出てもらうことによって、俳優さんにとっても新しい魅力が出て、ドラマにとっても新鮮さが生まれる。お互いのウィンウィンが得られるように考えて、出演をお願いしているつもりです。  特に広瀬アリスさんは、時代劇が本格的初挑戦にもかかわらず踊りも披露しています。難易度の高い相当本格的な踊りなんですが、ちゃんとやりたいということで、かなり練習を重ねまして……これはちょっとみたことのない広瀬アリスさんをみていただけるんじゃないかなぁと思います。  また全体としては家康とその仲間たち、男たちの物語なんで、出てくる女性は数少ないんですけど、逆にそういう物語だからこそヒロインが輝いてます。  佐々木蔵之介の奥さんを優香さんがされていて、娘さんを藤野涼子さんがやっています。大詰めの建築現場に、奥さんと娘がやってくるシーンがあるんですけど、そこの家族の情愛は、これは泣けるぞ、というふうになっています。これが前編。  後編は時代劇に本格初挑戦の広瀬アリスさんと柄本佑さんの最後のクライマックスのシーンが、これまたちょっと、これで感動できなかったらすごいぞっていうような、すごいシーンになっています。  男たちのドラマのなかに、前編2名、後編1名の女性が紅を入れる、朱を差す感じなんで、出ているシーンが、すごく印象的になっています。正月時代劇として、男の人たちはもちろん、女性も観てもらえるものになっていると思います。 ――去年手掛けられた『眩 ~北斎の娘~』は、かなりこだわって作られたそうですが、今回のドラマのこだわりポイント、見どころを教えてください。  今回はとにかく丁寧に作るということを心掛けましたね。  去年の「眩 ~北斎の娘~」では、専門家を呼んで、資料も徹底的に調べて江戸時代の画家・作家にズームしたんですが、スタッフもすごく楽しかったらしいんですよね。「ああ、そうか、画家のアトリエってこんな感じだったんだろうね」「こんな風に仕事してたんだろうね」っていうのをいろんな資料から想像して作るっていうことが相当クリエイティブだったので、楽しかったとスタッフも言ってくれたし、俳優さんも新鮮だったんですって。  これでいろいろと賞もいただいて評価していただいたので、今年は江戸時代のまちづくりにチャレンジできたということがあります。  第1話では佐々木蔵之介さん演じる大久保藤五郎が上水の整備を命じられます。  当時の江戸はずぶずぶの沼地でしたからどう水を管理したか。水捌けをよくして、なおかつ飲める真水を引いたかっていうことが重要になります。  番組内では、実際に許可をもらって至るところに水道を実際に掘ってます。日本大学の建築の教授の方に来てもらって江戸時代の土木建築はどうだったんだろう、というのを相当本格的にやっています。完全に工事現場でしたね。  第2話では柄本佑さん演じる橋本庄三郎が金貨の小判造りを命じられます。  金貨の方も、鋳型に溶かして延べ棒にして、切り取ったのを打ち延ばして、模様を入れて刻印をつけてっていう作業を全部やりました。信じられないくらい労力をかけました。金貨、小判って時代劇ではよく出てきますが、それがこんな風に作られていたんだっていうのは、初めて知りましたよね。  また、今回誰も見たことがない、江戸の町が出来上がっていくところを描くので、CGも相当時間みて作ったんですよ。途中までできている江戸の町を、家康たちが見下ろしているという情景があるんですが、そんな画なんて今までNHK作ったことないです。城が半分できてて後ろに天守閣が建設中だっていう、見たことのないシーンをお見せできるかなと。  そのCGが、やっぱり演技を撮ってからしか作れないので、CG製作の期間をみるために、夏前の暑い盛りに収録しました。出演者は大変だったですね。今年夏暑かったじゃないですか。  しかも撮影までにいくらか掘っておくんですが、関東ローム層で水はけが悪いので雨が降っちゃうと溜まるんです。水がないから水道を通せってやってるのに水があるのもおかしいので、暑さで朦朧としながら、皆で掻き出しましたね(笑)。  あとはいろんな意味で丁寧に作ることを心がけたんで、作曲の林ゆうきさんにも映画並みに、画に合わせて作曲してもらいました。今のテレビは普通、曲をたくさん書いてもらって、それを僕らがここに当てはめたり、あそこに当てはめたりっていう、そういうふうなパズルをしていくんですけれど、そうではなく編集が終わったこのシーンの、この表情からこの表情までっていうのを、俳優さんの感情のうねりに合わせて音楽を画にあわせてわざわざ作る。だからものすごい曲数になるんですよ。一本あたり。実は昔はNHKの大河ドラマでもやっていたんです。もうそんなこと今はやっていませんから、それを久々にやりました。  丁寧さっていうのは、さっき言ったようにやったことのない素材を取り上げるっていうのと、僕らが捨ててしまった方法論をもう一回復活させる。面倒臭がらずにやるっていうのをわりとテーマとしてやりました。  去年も今年も4Kで撮っています。4Kでやってるから合成作業が時間さえかければそうとう精密にやれる。4K、8Kになったら、かつらの境目が目立つんじゃないかとか、時代劇を中心に考えた時にネガティブな意見が多かったんですけど、意外に逆じゃないかなと思い始めてるんです。そこに現存しない世界を描くのが時代劇なんだから、4K、8Kになれば、合成とかがすごくしやすくなりますし、手間暇を惜しまなければ時代劇の味方になってくれる。手間暇かけたことが、手間暇かけた映像で撮れることは、スタッフの意欲にも繋がりますし、可能性は無限に広がってると思っています。
朝日新聞出版の本読書
dot. 2019/01/02 17:00
「ハリポタ」監督がNetflixに進出「ハリウッドにもはやオリジナリティーはない」
坂口さゆり 坂口さゆり
「ハリポタ」監督がNetflixに進出「ハリウッドにもはやオリジナリティーはない」
クリスマスを舞台にした映画を多く撮る理由は、「人の気持ちがあらわになるクリスマスシーズンが好きだから」とコロンバス氏(撮影/山本倫子) Netflixオリジナル映画「クリスマス・クロニクル」独占配信中。カート・ラッセルはシェークスピア作品を演じるほど真剣だったそう 「ホーム・アローン」や「ハリー・ポッター」で知られるコロンバス監督が、初のNetflix作品をプロデュースした。新しいメディアで、新しいサンタクロース像の創作に挑んだ理由とは。 *  *  *  サンタクロースといえば、真っ白なあごひげにぷっくりおなかのおじいちゃんを思い浮かべる人が大半だろう。でも、現在配信中のNetflix(ネットフリックス)のオリジナル映画「クリスマス・クロニクル」を見たら、そんなサンタのイメージが変わるかもしれない。  物語はサンタに会ってみたいと願う兄妹が体験する、一夜限りの大冒険を描いたクリスマスファンタジーだ。 「一番やりたかったことは、ショッピングモールにいるような典型的なサンタクロースではなく、新しい世代に向けた新しいサンタクロースを描くこと。一晩に何十億個ものプレゼントを届けられるスーパーヒーローのような、強い山男のようなサンタクロースを作りたかった」  と話すのは、大ヒット映画を次々に世に送り出してきたクリス・コロンバス(60)。今回はプロデューサーとして参加した。サンタクロース役は脚本でカート・ラッセルを当て書きした。 「ラッセルはどんなプロジェクトでもすぐに『イエス』と言わないのに、オファーしたらすぐに『イエス』の返事が来たんです。あとで聞いたら、『僕のキャリアで三つの重要な役は、(「ニューヨーク1997」などの主人公)スネーク・プリスキンと(「ザ・シンガー」の)エルビス・プレスリーとサンタクロースだ』と真顔で言われました(笑)」  クリスマスイブの夜。母親が仕事で家を空けたため、サンタクロース(ラッセル)の存在を信じる10歳のケイト(ダービー・キャンプ)は、妹をからかってばかりの兄テディ(ジュダ・ルイス)と2人だけで過ごすことに。サンタの姿をビデオカメラに収めようと計画した2人は寝入ってしまうが、鈴の音に跳び起きると本当にサンタが! 兄妹はこっそりソリに乗り込むがサンタに見つかってしまい、ソリはシカゴ市街に墜落。プレゼントは投げ出され、トナカイたちまで行方不明になってしまう。果たして、サンタは世界中の子どもたちにプレゼントを届けられるのか……。  ところでこの映画、なぜ劇場公開ではなく、Netflix配信なのか。  実は、コロンバスが本作を手がけた理由がもう一つあった。 「初期に監督した『ホーム・アローン』や『ハリー・ポッターと賢者の石』のような雰囲気を持つ映画を作ること」(コロンバス)だ。だが、ハリウッドのスタジオでこの企画は通らなかったという。 「ハリウッドは今やコミックやゲームを原作にした映画ばかり。オリジナリティーは失われた。私はそんなシステムにすごくフラストレーションを覚えていたんです。今回映画作りのチャンスを与えてくれたのは、Netflixだけでした」  コロンバスがストリーミング系の会社と組んだのは初めてだが、「Netflixはアーティストとしての自由を与えてくれた。制約がなく常にサポートしてくれる。今までで一番いい経験をしました」。  Netflixは1997年に創業。2018年10月現在の有料会員数は1億3千万人、世界190カ国で配信されるなど急成長。最近ではアルフォンソ・キュアロンやコーエン兄弟などの作品を配信、今後もマーティン・スコセッシ、スティーブン・ソダーバーグなど、著名監督の作品が続々配信されていく予定だ。 「映画の将来は、Netflixが握っている」  そんなコロンバスの言葉が説得力を持って響く。(文中敬称略)(フリーランス記者・坂口さゆり) ※AERA 2018年12月31日号-2019年1月7日合併号
AERA 2018/12/28 17:00
「田中圭24時間テレビ」に和田アキ子が出演したワケは?
鈴木おさむ 鈴木おさむ
「田中圭24時間テレビ」に和田アキ子が出演したワケは?
鈴木おさむ/放送作家。1972年生まれ。高校時代に放送作家を志し、19歳で放送作家デビュー。多数の人気バラエティーの構成を手掛けるほか、映画・ドラマの脚本、エッセイや小説の執筆、ラジオパーソナリティー、舞台の作・演出など多岐にわたり活躍。「ママにはなれないパパ」(マガジンハウス)が好評発売中 田中圭 (c)朝日新聞社  放送作家・鈴木おさむ氏の『週刊朝日』連載、『1970年代生まれの団ジュニたちへ』。今回は「田中圭24時間テレビ」と和田アキ子さんについて。 *  *  *  世の中のイメージと、実際のことに違いがあるのは仕方ないですが、その違いがどんどん多くなっている気がする。  先日、AbemaTVで「田中圭24時間テレビ」というのを僕の企画・演出で作らせていただきました。企画は、生放送24時間の間にドラマはできるのか?というもの。番組スタートの夜9時から、1シーンずつ、丸1日かけて24シーン撮影して、最後に、それを編集したドラマを放送しよう!という今まで誰もやったことのない試み。ドラマにはたくさんの役者さん、タレントさんに出演していただきました。その中でも、和田アキ子さん。僕がマネージャーさんに直接お願いして、出ていただきました。  この番組は新しいものだし、今まで誰もやってないものだから形がない。未知数のものに出演するってとても怖いはずなんです。だけど、和田アキ子さんのマネージャーさんと、ご本人は二つ返事でOKしてくれました。  当日、番組に出演した和田アキ子さん。その場にいたアナウンサーからの「なんで出演していただけたんですか?」との質問に、僕の名前を挙げて「鈴木おさむさんとのつながりで出ました」と。和田アキ子さんとは過去に『禁煙アッコ』という本を出しました。和田アキ子さんが禁煙にチャレンジする様子を本にしたのです。それを僕が構成していきました。結果、その本も結構売れました。和田アキ子さんは、あの本を出したことがいまだに禁煙を続けている理由の一つだと思います。本を出したからにはやめると。「今でも吸いたい」と言ってますが、自分が歌手としてあの時に禁煙できたことの理由の一つとして、僕と一緒に作った本のことに感謝してくれています。生放送でもそのことを説明して「だから、出るでしょ」とさらっと言ってくれた。  つながりを大切にするって、できそうでできないです。生きてるといろんなつながりができるけど、ついついなおざりにしてしまったりするのが人間です。だけど、和田アキ子さんや、今なお、芸能界の一線を走っている人は、この「つながり」を大切にするんですよね。数百、いや千を超えるつながりがあるはず。だけど、その先に何があるかをわかっている。  つながりを大切にして新しい場所に立つと、そこでまた新しいものとつながる。  和田アキ子さんは、たまに、雑誌などで勝手に企画している「嫌いな女」とかにランクインしてます。「偉そう」とか、書いてあります。「偉そう」なのは、テレビ側がそれを求めているわけであって、そういうキャラクターを演じている。求められたことをやってくれるから、ずっと仕事をしているわけです。求められたことをやってくれる人って、実はとても繊細で傷つきやすいんですよね。  10月に、和田アキ子さんがデビュー50周年の「ワダフェス」というのを武道館で行いました。最後にマイクを外して、地声で歌うその姿に、僕も含めて周りの人はみんな泣いていました。つながりを大切にするのは当たり前だけど、とても難しい。改めて大切にしたい。そして、「あの鐘」が、いつかまた大晦日に、鳴り響きますように。 ※週刊朝日  2019年1月4‐11日合併号
鈴木おさむ
週刊朝日 2018/12/27 16:00
木村拓哉と共演し胃がキリキリ 笹野高史がブレイクした作品とは
中村千晶 中村千晶
木村拓哉と共演し胃がキリキリ 笹野高史がブレイクした作品とは
笹野高史(ささの・たかし)/1948年、兵庫県生まれ。日本大学芸術学部中退。串田和美主宰の「自由劇場」を経て、33歳で独立。山田洋次監督「男はつらいよ」シリーズ、「釣りバカ日誌」シリーズなどで知られる。「武士の一分」徳平役で日本アカデミー賞最優秀助演男優賞などを受賞。42歳のときに17歳年下の妻と結婚。4人の息子たちも俳優として活躍。著書に『待機晩成』(ぴあ)がある。最新の出演舞台は「喜劇 有頂天団地」(12月22日まで東京・新橋演舞場、2019年1月12~27日 京都・南座) (撮影/写真部・小山幸佑) 笹野高史 (撮影/写真部・小山幸佑)  もし、あのとき、別の選択をしていたなら──。ひょんなことから運命は回り出します。人生に「if」はありませんが、著名人に、人生の岐路に立ち返ってもらう「もう一つの自分史」。今回は俳優の笹野高史さんです。もし俳優になっていなかったら、いまごろ外洋の船の上にいたかもしれない。そんな人生を振り返ります。 *  *  *  どうやらマザコンのようでしてね。あまり「マザコンです」と言いたかないんです。恥ずかしいから。  でも、11歳のときに母親が死にましたんでね、それが「俳優」になった自分にとても大きく影響しているんじゃないかと思います。もしも母親が生きていたならば、たぶん家業を助けていたでしょうね。 ――笹野は兵庫県の淡路島で、造り酒屋の四男坊として生まれた。父は笹野が3歳のときに結核で他界。同じ病に倒れた母の死は、11歳の少年にとっては重すぎた。ショックでぼうぜんとするなか、母の面影を追って出会ったのが「映画」だった。  母親が映画が好きだったことを思い出したんです。で、一人で映画館に行った。母親が食い入るように見ていた山本富士子さんや若尾文子さんをスクリーンで見ながら、自分の隣に母親が座っている気がした。母親に巡り合うようなつもりで、映画館の暗がりに通ったんです。  これがおもしろくてね。そのうちに映画俳優という職業に興味が出てきた。「映画俳優になったら、お母ちゃん喜ぶんじゃないかなあ」って。え? やっぱりだいぶマザコンですかね?(笑)  でも映画俳優になるなんて、言いだせないですよ。僕は二枚目でもないし、身長が180センチあるわけでもない。実際、3番目の兄貴にバレたとき「アホかぁ、お前、その顔で!?」と大笑いされましたからね。だから「映画監督を目指す」とうそをついて、大学に進ませてもらったんです。 ――大学の先輩に誘われて、演出家・串田和美が主宰する劇団「自由劇場」に裏方として出入りするようになった。ときは1960年代後半。間もなく大学紛争の混乱に巻き込まれ、学業への興味を失った。劇団の方向性にも疑問を持ち、演劇とも距離を置くようになった。そして笹野は、なんと船乗りになったのだ。  あのころお金がなくても外国に行ける方法は、船乗りだったんです。好景気の時代で人手が足りないから、未経験の私でも雇ってもらえた。おもしろかったんですよこれが。性に合ったんでしょうね。  もともと好奇心が強いほうだから。東南アジアを回る船で最初に着いたのが香港の港。もう匂いが違う、景色が違う、街の喧騒も空気も違う。そこで荷物を下ろして、次はシンガポールやインドネシア、マレーシア、台湾を回った。夜、満天の星の下で夜光虫がキラキラと光る水面を前に、船の上でコーヒーを飲みながら「ああ、こういう人生もいいな」と。  半年後に日本に帰ってくると、船乗りさんたちの家族が岸壁で手を振っていた。「もしこの仕事を続けるとすると、あんなふうになるんだな」って想像して。  でもふと思った。「あれ、映画俳優になりたい、っていう夢はどうなったんだっけ」 ――横浜の港に着いたとき、「串田和美が吉田日出子と一緒に、若い人たちを集めてまた自由劇場で芝居を始めるらしい」というニュースを聞いた。船乗りとしての将来は、そこに見えている。23歳の笹野、さあ、どうする?  串田さんに会いに行きました。「僕も一緒にやらせてもらえませんか」とお願いして、今度は裏方ではなく「ついては、あの、役者でやらせてもらいたいんですが」と言ってみました。串田さんは「その顔で?」なんて噴き出すこともなく「いいよ、じゃあ役者でやろう」と言ってくれた。うれしかったですねえ。  役者の道を選ぶ決め手となったのは、渥美清さん。僕にとって渥美さんの存在は、心の師というか心の支えみたいなところがあってね。「男はつらいよ」で渥美さんが石原裕次郎さんや赤木圭一郎さんのような二枚目スターとは違うところで、四角い顔で頑張っていらっしゃるのを見て、「渥美さんには近づけるかも、近づきたいな」と思っていた。  渥美さんも若いころは、浅草の小屋なんかで苦労されたと知って「よし自分も苦労してやろう、やりたいと思ったことをしないと後悔する」って、芝居のほうを選んじゃったんですよねえ。 ――こうして自由劇場で一から芝居を始めた。だが演技の勉強は、誰かが教えてくれるものではない。台本の読み方もわからない笹野は、怒られてばかりだった。  あるとき「リチャード三世」の芝居をやることになって、串田さんに「殺し屋役な」と言われた。殺し屋はAとBがいて、自分がどっちの役だかわからない。僕は本読みのときAとBの声色を変えて、一人二役でおもしろおかしくやったんです。  そしたら串田さんが「バカか! お前、これシェークスピアだぞ! コントじゃないぞ!」って(笑)。僕はそれまでシェークスピアを読んだこともなかった。それくらい愚かだったんですよ。吉田日出子さんもクククと笑って「バッカねえ、笹野は」って。  そうやって7年くらいたったころ、芝居の「し」の字もわからなかったのが「あれ、こういうことかな?」とわかる瞬間があったんです。ときどき吉田日出子さんも褒めてくれるようになった。「笹やん、このごろおもしろいじゃない~」って。  役者だけで飯が食えるようになったのは35歳くらいですかね。真っ暗闇のなかに飛び込んだんだけど、10年やって、ようやく少し道が見えたといいますかね。 ――「男はつらいよ」シリーズにも出演し、お巡りさんや車掌など、さまざまな役を演じた。振られた役はどんな役でもこなせたが、強烈な個性が欲しいと思ったこともあった。 「器用貧乏」ってよく劇団のころにバカにされましたよ。劇団で一緒だった佐藤B作に「出た! 笹野のミクロの芝居!」とか言われてね(笑)。つまり「細かい芝居」ってことです。例えば人と話すときに爪をかんだりとか、役を追求していくと「この人にはこんなクセがあるんじゃないか」とか想像するわけ。でもそれをやってみせると、「そんなの誰にも見えないよ!」ってバカにされる。「笹野は何やってもうまいねえ、器用貧乏!」とか言われて「くそー!」って思いましたよ。  確かにB作や、劇団で一緒だった柄本明は個性的で、早くから独立して大きい役もつく。「彼らのあの個性っていったい、なんだろう?」とうらやましくて、真剣に考えた。  でも、あるときハタ、と思ったんです。「まてよ? 器用貧乏も個性じゃないの?」って。自分はドラマでその場で台本をもらうような小さな役を瞬時に演じることができるし、おじいさんにもおばあさんにもなれる。「よし。自分はその個性を磨こう。カメレオンのような役者になってやる」って。 ――そんな中、世の中がひっくり返るかと思ったほどの役をもらう。山田洋次監督の時代劇「武士の一分」(2006年)だ。木村拓哉演じる主人公の中間・徳平役で、笹野の名は台本の3番目に書いてあった。 「僕がこんな役のわけないじゃないですか!」って映画会社に何度も問い合わせましたもん。そしたら「間違いないです」と。「もしかしてチャンス到来? 俳優としての立ち位置が変わるかも!」なーんて思ったんですが、でもね、そんなにうまくはいかなかった。  4カ月の撮影期間中、僕はずーっと監督に叱られてました。かたや木村拓哉さんは「カッコイイですね、ああけっこうですね」って褒められて、僕はいっぺんも褒められない。「ああ、せっかく一生にあるかないかの役を頂戴したのに、チャンスを無駄にした!」って苦しくて苦しくて、胃がキリキリ痛みました。  撮り終わってから公開されるまで、1年くらい間があったんですよ。その間もずっとつらくて。でも映画が公開されたら、お客さんがたくさん来てくださって。 ――日本アカデミー賞最優秀助演男優賞も受賞。徳平役は笹野の知名度を一気に押し上げた。 「できなかった」って思っていたのは、結局自分の思い上がりだったんだと、演劇の神様に「パーンッ!」と横っ面を張られたような気がして、恥ずかしくなりました。  山田監督の前で台本に書いてあるセリフを言うと「そうじゃない、ダメだ」って叱られるわけです。そうやって暗中模索で監督に言われるままにやると、自分が考えていた演技プランとか何も関係なく「無」になってそこにいる。そんな自分を「ダメだった」と思っていた。  でも映画を見て、監督が言っていたことがなんだったのかわかりました。監督は「じいさんを演じようとしている」ことを排除したかったんです。58歳にして新たな演技の世界に放り込まれたというか。演技っていうのは、本当に終わりのない修業だなと思いましたねえ。 ――70歳の今も、さまざまな役に引っ張りだこだ。「ここに笹野あり」と思わせるような、作品にピリッとスパイスを利かせる役も多い。  自分の演技に納得した瞬間なんてまだ、ございません。すごい先輩たちを見てきましたからね。吉田日出子さん、津川雅彦さん、中村勘三郎さん……一緒に演じていると引きずり込まれるんですよ。「カット!」って声かかった瞬間に息切れして、動悸がするくらいエネルギーを吸い取られる。  あれが役に魂が宿る、っていうことなのかな。本当には入ってないのかもしれないけど、あたかもそういうふうになる。自分もそんなふうに演じられたらいいな、と思いますねえ。 (聞き手/中村千晶) ※週刊朝日  2018年12月28日号
週刊朝日 2018/12/20 11:30
なぜ最強の組織なのか? 慶應「三田会」の全貌
なぜ最強の組織なのか? 慶應「三田会」の全貌
同窓会組織でも“王者”の風格を見せる慶應大  (撮影/吉崎洋夫) 「慶應三田会」の全貌図  (週刊朝日 2018年12月28日号より)  10月21日。横浜市の慶應義塾大学日吉キャンパス。日曜日のこの日、夜も明けやらぬうちから次々と人がやってくる一角があった。  普段は何もない校舎と校舎の間に、たくさんの長机とイスが並べられている。到着した人は、人の身長くらいの旗を組み立てては空いた机に立てかけていく。長机に直接、貼り紙をする人も。旗や紙には「団体名」が書かれている。  どうやら「場所取り」をしているようだ。朝5時すぎに駆け付けた50代の男性が言う。 「狙っていた場所は、もう埋まっていました。6時台にはすべての机が埋まっちゃいましたね」  午前1時半に来た団体もあったという情報も流れていた。 「2018年慶應連合三田会大会」  この日は慶應の同窓会の集まりである「連合三田会」の年に1回のお祭りの日なのだ。外国車が当たる福引、OB加山雄三のライブ、飲食の模擬店……。朝早くから続々と「塾員」(慶應ではOB・OGをこう呼ぶ)らが訪れ、キャンパスは2万人を超す慶應関係者で終日ごった返した。 「場所取り」は、個別の三田会が後からやってくる仲間たちのために行うものだ。旧交を温め合う場所の確保に、多くの塾員が完全ボランティアで未明から駆け付けるのだ。  日本の大学同窓会で最強といわれる「慶應三田会」。三田会の総本山である「慶應連合三田会」の村田作彌事務局長が言う。 「現在、870の個別三田会があります。高齢化などで活動をやめる団体もありますが、新設される三田会も多く、総数は伸び続けています」 「三田会」の全貌(ぜんぼう)をまとめると、四つのカテゴリーに分けられる。年度ごとの卒業生全員で構成される「年度三田会」。現在、戦前の「1941年三田会」から「2018年三田会」まで、総勢約37万5千人とされる。数が多いのは、勤めている企業ごとに組織される「勤務先別三田会」と、自治体など地域ごとにある「地域三田会」だ(海外にも70以上ある)。「仕事系」ではほかに「職種別三田会」があり、そのほか「諸会」として「学部別」「文化団体連盟系」「体育会系」などがある。  慶應OBのつながりの強さは、ある塾員がしみじみ話す次の言葉に象徴される。 「慶應の卒業生とわかると、初対面でも昔からの知り合いのように思えちゃうんです」  なぜ、慶應に入ると、こう思うようになるのか。  慶應には「先生」は創設者の福澤諭吉しかいない。だから大学教授であっても、学内の掲示板では「○○××君」である。私学らしく、創設者の教えが貫かれている。  同窓会活動とて例外ではない。福澤が慶應を構成する塾生や教職員、塾員らを「社中」と呼び、全員の協力を呼びかけた「社中協力」は有名だ。そのスローガンのもと、福澤は同窓生の集まりを大切にし、各地で開かれる大小さまざまな同窓会に進んで出席していた。東京では広尾の別邸に大勢の塾員を集めて、大園遊会を開いてもいた。 「同窓会重視の姿勢は、慶應が明治10年代に深刻な経営難に陥ったことと大きく関係しています」  こう話すのは塾員で慶應義塾福澤研究センター客員所員の曽野洋・四天王寺大学教授だ。 「当時の塾生は士族が多くを占めていました。士族の不満は高まる一方で、西南戦争に共鳴した塾生も大勢いました。しかし、士族が食えなくなると、授業料が入らなくなるなど慶應は困ります。入学者も減り、福澤は一時、塾を閉じることも検討した節があります」  しかし、塾員ら社中が反対し、教員が自主的に給与の一部を返上したり、塾員らの寄付金が増えたりして危機を乗り越えていった。  福澤没後も、慶應の同窓会重視は揺らがなかった。大正時代に入ると同窓会は次第に「三田会」と呼び名を変え、地域以外の各種三田会も生まれていった。連合三田会ができたのが1930年、ホームカミングデーである秋のお祭りは60年代に入って始まった。  実は、このホームカミングデーの行事こそ、三田会を維持、発展させる大きな原動力の一つになっている。卒業40年、30年、20年、10年にあたる年度三田会が「当番」として協力して実行委員会を作り、大会の運営にあたるからだ。  年度三田会の幹事経験者が言う。 「10年に1回、同期が結束を確かめ合うための機会が与えられているのです。役回りも決まっています。卒業30年がお祭り全体を仕切るメイン当番で、20年は30年のお手伝い、10年は見習いみたいな感じ。40年は名誉職ですね」  これに学校主催の行事が絶妙に絡む。卒業25年になると卒業式に招かれるのだ。 「それに合わせて、年度三田会は大同窓会パーティーを都内のホテルで開きます。同時に慶應のために寄付金も集める。つまり、この時期に年度三田会が再整備されるわけです」(幹事経験者)  再整備とは「名簿の穴」を埋める作業にほかならない。別の年度三田会経験者が言う。 「20年の当番が終わると同時に、『25年には大パーティーがある』という告知を口コミで広めます。3年ぐらい前に名簿整備のための組織を立ち上げ、住所が実家のままになっていたりする『行方不明者』を一人ひとりつぶしていきます。最終的にかなりの現住所がわかります」  塾員の住所判明率は約82%。その高さは、この時期の名簿整備が大きく貢献しているに違いない。  ともあれ卒業20年から30年にかけて3回、大きなイベントが続く。社会の中核を担うのと同じ時期に、同期会の結束を強める機会が与えられるのだ。  もちろん、その機会を生かすには年度三田会が機能していなければならないが、それもまた「慶應システム」とでも言えるものが働く。鍵を握るのは「22.4%」(「2019大学ランキング」)と、高い内部進学率である。  多くの塾員が年度三田会の原動力として小中高からの内部生の存在をあげる。 「代表になるのは幼稚舎出身者が目立つ」「人を集めるには、やっぱり内部生が強い。慶應生活が長く、知り合いが多いですから」「慶應女子出身の専業主婦で仲間づくりにマメな子を選ぶと、うまくいく」……。  連合三田会の当番には数百人単位の実行委員が必要だ。25年の大パーティーには1千人を超える同期が集まる。広く人を集めようとすると、内部生の力が必要になるのだ。もちろん、外部生で重要な役割を担っている人も大勢いるが、中核部隊に占める内部生の比率は内部進学率よりはかなり高いようだ。  こうして基盤が固まった年度三田会は、もはや揺るがない。卒業50年には大学から入学式に招待され、25年のときと同様、寄付金を集める。功成り名を遂げた後だから金額も多くなる。今年50年を迎えた「1968年三田会」は、例年より多い約6500万円を集めた。会を率いるのは、佐治信忠・サントリーホールディングス会長だ。  10年ごとの当番がある年度三田会が先輩後輩をつなぐ「縦糸」とすれば、全国各地で塾員がつながっていく「横糸」の役目を果たすのが地域三田会だ。「参加者の半分が65歳以上」と高齢化を指摘する声も聞くが、塾員たちが挙げるのは大学側の「面倒見の良さ」である。名簿管理などを行う「塾員センター」が、さまざまな支援をしてくれるのだ。 「新たに三田会を作る場合は、守秘義務契約などを結べば対象地域に住む塾員リストを出してくれます。規約のひな型も用意されているし、組織強化やイベント開催など運営面での相談にも乗ってくれます」(地域三田会関係者)  縦に横につながって結束力を強める三田会。創設者の教えを守り、同窓会を強くする、これだけの「インフラ」が整っていると、年齢が上がるほどに「慶應愛」が強まることもうなずけるのではないか。現在の「慶應→三田会」コースは、「『慶應愛』自動再生産システム」といってもいいほどである。  こうした構図を基礎にさまざまな分野に進出していく各種三田会の姿は、まさに百花繚乱(りょうらん)の感がある。  9月1日土曜日、帝国ホテル「富士の間」。一つの三田会としては異例の340人の大人数を集めたパーティーが開かれた。いま最も勢いのある三田会として知られる「不動産三田会」の30周年を祝う会だ。  不動産三田会のすごさは親睦に「実利」を加えた点にある。不動産業は「情報、人脈が命」の割には、どこか相手を信用しきれない面が業界に残っている。その「信用しきれない部分」を慶應の信用で埋める。つまり三田会の仲間同士で取引をするのである。  毎月の例会での「情報交換会」がその場になる。会員は「これは」という物件を持ち込み、売り込む。興味を持てば、懇親会などで詳細を聞き込んでいく。  取引が成立すると、義務ではないが例会で「成約報告」をすることができる。利益の一部を慶應に寄付する慣例もある。 「20年以上、成約報告は途切れず続いています」(事務局の佐藤正人氏)  会員は増え続け、現在約870人。例会の参加者は70~80人にもなる。  新しい三田会も次々に生まれている。昨年できた「ファイナンシャル・プランナー(FP)三田会」も、その一つ。三田会結成を望む長老の声に加藤惠子代表が応えた。テレビ出演で知られる藤川太さんが中心メンバーの一人だ。  44人と小所帯で、人集めが大変なようだ、会社勤めの企業内FPは大勢いるはずだが、だれが資格を持っているかは調べようがない。設立時も独立系FPのホームページを調べて塾員を特定、勧誘していった。  親睦と学びが二本柱。FP力向上のための勉強会を今月から始めた。会員の営業強化に役立てばと、ホームページには自己PRできるコーナーも設けている。  連合三田会には登録していないが、会員数約4500人と大勢力を誇るのは「Facebook三田会」だ。今月7日には、塾員ならだれもが知っている三田の「つるの屋」で忘年会が開かれた。 「つるの屋閉店」の情報を聞き「最後」と思って選んだが、店主によると「噂を信じないでください。変わらず営業を続けます」。  幹部の松延健児さんによると、ネットらしい「フラットさ」が特徴という。 「皆が『さん』づけで呼ぶなど先輩がいばらない三田会です。有名人の会員もいますが、特別扱いはしません。昔の話が出ないところが他と違います」  会員のみの非公開ページ。「なりすまし」が多く、入念な入会審査が行われる。投稿は「慶應関係」に限られる。野球やラグビーの慶早戦(慶應では「早慶戦」とは言わない)になると、観戦中の会員による「実況中継」で盛り上がるという。  自分のタイムラインには流したくない「慶應ネタ」を流せるのがいい、と語る会員がいた。 「月曜日に会社を休んで慶早戦を見に行くときでも、気兼ねなく発言できます」  改めて三田会全体を眺めると、「三拍子」そろった強さに気づく。創設者の教え、集まるための「インフラ」、そして「継続は力なり」で長年かけて築かれたシステムが「慶應愛」あふれる塾員を「再生産」していく……最強の組織は、まさに盤石なようだ。 ※週刊朝日  2018年12月28日号
週刊朝日 2018/12/20 06:30
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