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「働き方改革」で睡眠不足の弊害も…質の良い眠りのポイントは?
「働き方改革」で睡眠不足の弊害も…質の良い眠りのポイントは?
業種や働き方で睡眠の課題は異なる(AERA 2019年3月4日号より)  睡眠のリズムが狂い体内時計が混乱をきたす「社会的時差ボケ」が問題視されているが、一口に睡眠と言っても千差万別の課題がある。睡眠の質を高めるにはどうすればいいのか。 *  *  *  社会的時差ボケになるのは、平日の睡眠不足や眠りの質の低下が原因だが、睡眠の課題は業種や働き方によってもさまざまだ。企業向けに睡眠改善のコンサルティングを行うニューロスペースに、企業ごとに課題を調査分析したデータの一部を見せてもらった(グラフ参照)。  例えばほぼ同じ回答者数でも体を動かす機会が多い運送事業者とオフィスワーク中心の商社では、商社のほうが慢性睡眠不足や起床困難、熟睡困難を抱えている割合が高い。同じオフィスワーク系でも人材サービス業は、商社より状況は深刻だった。 「職種では営業や店舗に出ている人はいいのですが、事務系やITのエンジニアなどは日中パソコンの前に座りっぱなし。そうした仕事の環境が睡眠の質の低下につながっています」  ニューロスペースの小林孝徳社長はそう指摘する。  仕事でパソコン作業が多い人が眠りにくい要因は主に二つ。一つは「深部体温」だ。これは脳や内臓など体内の温度で体内の活動を維持するために昼間高くなり、夜は休ませるために低くなる。  眠くなるのは、深部体温がぐっと下がるタイミングだが、日中体を動かしていないと体温の上昇が不十分になる。その分下がるカーブも緩くなるため、寝つきが悪くなってしまうのだ。もう一つ、快眠を阻むのは「光」。パソコンやスマホ、LED電球の光を夜まで浴びることで体内時計が狂ってしまう。  眠りに関する悩みでは、男女でも差がある。ニューロスペースが都内で働く男女500人超を対象に実施した18年度「『企業の睡眠負債』実態調査」によると、自身の睡眠に不満を感じている割合は、すべての年代で女性のほうが男性より高かった。実際の睡眠時間の分布を見ても、男性が6時間に集中しているのに対し、女性は分散しており、5時間のところにも一つのピークがある(グラフ参照)。 「女性のほうが家事・育児の負担が重く、その分、睡眠時間にしわ寄せがきているということでしょう」(小林さん)  埼玉県に住む通信系企業勤務の女性(50)もそんな一人。残業を終えて帰宅するのは夜9時過ぎで、家事をこなしてベッドに入るのは午前1時近くだ。翌朝5時半には中3の娘の弁当作りが待っている。 「満員電車で立ったまま寝ていることも多々あります。物忘れも激しく、あまりに心配で物忘れ外来を受診したほど」(女性)  残業削減に偏ったうわべだけの「働き方改革」も問題だ。 「以前は多少残業してでも集中してキリがいいところまで終わらせ、帰宅後はリラックスできていたのに、いまは途中で切り上げて帰らなくてはならない」  と話すのはソフトウェア会社に勤める男性(49)。帰宅して食事や入浴をすると、仕事モードに戻るのに時間がかかり、終わって寝ようとすると今度は頭が冴えて寝付けない。結果的に4時間半しか眠れず、昼休みは「食欲より睡眠」。ランチ抜きで自席で突っ伏す毎日だ。 「残業削減で逆に生産性が落ちました。心も折れやすくなって、頑張りがきかない」(男性)  いずれも切実な悩みで、根本的には睡眠時間を確保できることがベストだが、そうはいかない場合、「できるだけ質の良い眠りをとることが重要。それにはテクニックが必要です」と小林さん。今回、そのアドバイスをお悩み別にまとめた(画像参照)。「仮眠直前にコーヒーを飲む」や「寝かしつけ後に起きるなら3時間後」など働く世代の参考になる。  質の良い眠りには寝具も重要だ。テンピュール・シーリー・ジャパンの吉永寛子・マーケティング本部長によれば「多すぎる寝返りは深い睡眠の妨げになる」。一晩の平均は20~30回だが、計測できるアプリなどでチェックし、場合によってはマットレスを見直すなどの対策も必要だろう。  一方、社会的時差ボケならぬホンモノの時差ボケに悩むビジネスパーソン向けには、現在、全日本空輸(ANA)が「時差ボケ調整アプリ」をニューロスペースと共同開発中だ。アプリではユーザーがフライト情報や現地での予定を入力する。すると、時差ボケを調整するための光の浴び方や睡眠、食事、カフェインやアルコール摂取のタイミングを渡航前から帰国後まで教えてくれるという。リリースの目標は20年3月末だ。(編集部・石臥薫子) ※AERA 2019年3月4日号より抜粋
働き方
AERA 2019/03/03 08:00
1年で子どもが英語ペラペラに? “セブ母子留学”のススメ
1年で子どもが英語ペラペラに? “セブ母子留学”のススメ
息子が通うCambridge Child Development Centreの園舎。教室や多目的ホールなどの設備がそろう(写真/筆者提供) ゲートを入った敷地の奥に幼稚園(Kinder class)の校舎がある(写真/筆者提供) インターナショナル幼稚園に通う息子。今は親の私より流暢な英語を操る(写真/筆者提供)  わが子が英語を話せたら――。そう考える親は多いだろう。2020年度以降、小学校3年生から英語が必修化され、いよいよ意識せずにはいられなくなった子どもの英語教育。お金をかけず、短期間に英語を身につけるには、思い切って「海外に母子で留学する」という選択肢もある。1年半前、夫を日本に残し子ども2人とフィリピン・セブに渡り、自ら「母子留学」を実践するライターが、子どもの英語力の伸びから、かかるお金の話まで解説する。 *  *  *  英語教室、オンライン英会話、高額な英語教材に英語学習用のYouTube番組。世の中には子ども向けの英語学習ツールがあふれている。こんな時代に、どんな英語教育を選択すればいいのだろうか。  もし、「英語ペラペラ」に興味があるなら、フィリピン・セブ留学がおすすめだ。  私は2017年7月、当時7歳の長女と3歳の長男を連れ、セブに移住した。2~3年後にはまた日本に戻るつもりだ。きっかけは、日本で受けたオンライン英会話のフィリピン人講師が子どもにぴったりはまったこと。親が英語を話せなくても、高額な教材を購入しなくても、親はただリラックスして子どもの英語の伸びを見守るだけでいい――。セブでなら、そんな環境で子育てができると確信し、日本で働く夫の理解を得て、期間限定の母子留学に踏み切った。 ■英語大国フィリピンでの英語教育とは  フィリピンは世界で4番目に英語を話す人が多い国、ともいわれるほど英語人口が多い。独自の言語を持ちながらも、小学校から英語で授業が行われるため、フィリピン人の英語力は高く、アメリカの大手銀行などがコールセンターを設けるほどだ。  フィリピン第2の都市・セブには、四つのインターナショナルスクールがある。そこに、数こそ多くないが、日本人の子どもたちがいる。多くは母子留学の形態で、父親は日本で働いているというパターンが多い。インターナショナルスクールでは小学生から高校生までが学び、付属の幼稚園には1歳から入園できるというスクールもある。  「海外生活なんて無理」というイメージを持つ人もいるかもしれない。大きな理由は「親の英語力」と「金銭面」の二つだろう。欧米諸国ならそれらは大きな壁になりうるが、フィリピンは少し事情が違う。  まず、英語力について。私が子どもたちを通わせているインターナショナルスクールでは、お母さんたち自身も語学学校に通った経験のある人が多い。つまり、英語が十分に話せないまま子どもを伴って移住してきているのだ。それは日本人だけではなく、韓国人やロシア人の親子も同様だ。かくいう私自身も、日本でふつうの英語教育を受け、大学卒業後は英語に触れることもなかったため、特別に英語が堪能というわけではない。  もともとフィリピン人は国民性がフレンドリーで、英語がうまく話せなくても意をくんで理解してくれることが多い。とりわけセブは観光客が多いため、英語が話せない外国人にも慣れている。親が自在に英語を扱えなくても日常生活には困らない。日本語で学校紹介、移住をサポートしてくれるサービス会社もあり、移住のハードルは意外なほど低かった。  次にお金だ。セブ島のインターナショナルスクールの学費は、学校や学年によりさまざまだが、最低で年間1人30万円から入学できる。習い事や幼稚園へ支払うコストを考えれば、今、それに近い教育費を支払っている家庭もあるだろう。日本でインターナショナルスクールといえば高額で一般家庭には手が出ないが、フィリピンは物価や人件費が安いため、日本の物価水準で暮らす一般家庭でも十分手が届く。  生活費も日本に比べれば格段に安い。プール付きのコンドミニアムで、リビング、ダイニングルーム、ベッドルームがついた部屋が、1カ月4万~6万円程度で借りられる。ガードマンが常駐する、安全で清潔なコンドミニアムだ。希望すればお手伝いさんを月給1万~2万円程度で雇うことだって可能だ。  私はセブにある日系企業で仕事を得ている。お手伝いさんを雇い、オフィスまでタクシー通勤する生活。タクシーだって、近距離なら100円以内。日本でワーキングマザーをしていた頃のしんどさとは比べものにならないほど楽だ。私のように仕事をしているお母さんは少数派だが、仕事があれば、生活費にはなお余裕が出る。  もちろん、セブでの生活がいいことずくめ、というわけではない。やはり、日本では考えられないハプニングも日常的に起きる。たとえば朝夕の渋滞。残業した日の仕事帰りは、歩いたほうが早い、というほどの大渋滞に見舞われる。また、夜中に水道管がはずれて大量の水が洗面所に流れ出したり、ドアの鍵を開けようとしたら、鍵が鍵穴の中で折れてしまったり……。日本の生活と比べれば、いささか煩わしさがあるのはたしかだ。それでも人々はフレンドリーで、子ども好きな国民性は心地よく、移住から1年以上が経つが、日本に帰りたいという思いは湧いてこない。 ■3歳の息子は1年後にアメリカ人の大人と話せるように  息子の英語力の成長を紹介しよう。彼は3歳9カ月のときにインターナショナル幼稚園に入った。英語学習の経験はほぼなく、りんごが“apple”と知っている程度の英語力だった。  息子の通ったインターナショナル幼稚園では、クラスの人数が15人程度で、午前中は英語や算数、ディスカッションのセンスを磨くカリキュラムが組まれている。先生と1対1でワークブックに取り組む時間もある。個別指導では子どものレベルに合わせてくれる点も嬉しい。午後のクラスは任意で申し込むことができ、ランチとお昼寝の後に曜日ごとにキッズヨガやアート、音楽などのレッスンが提供され、楽しみながら英語を吸収できる環境が整っている。  子どもたちの国籍は、半分以上がフィリピン人だ。現地でインターナショナルスクールの学費をまかなえるのは富裕層の家庭なので、みな教育熱心で、英語力も高い。フィリピン人以外の国籍はさまざまで、学年によるが、アジア出身では、韓国人や日本人が2、3割という程度だ。クラスに日本人がいても、もちろん会話は英語だ。  息子は最初、登園するたびに泣いていた。でもそこは子どもの順応性で、お迎えの時間になると笑顔で友達と遊んでいる。そんな日々を1カ月過ごした頃、みんなで円をつくり、先生が子どもたちに意見を聞く「サークルタイム」で、息子の口から“Yes”という言葉が出た。恐らくこれが英語で自分の意見を述べた、初めての経験だ。  それからは着実に英語を身につけていった。2ヶ月半を過ぎた頃、何にでも“I’m”とつけるようになった。お菓子の袋を開ける時は“I’m open it”、あけられない時は“I’m not open it”。文法的に正しくはないが、何が言いたいかはつかめる。また、幼稚園でよく使う言葉はすっかり口になじんだようで、おもちゃを取られそうになれば“No, it’s mine.”嫌なものがあれば“I don’t like it.”と流暢に発音するようになった。文字は読み書きできないので、耳から覚えて話し始めた。  最終的に英語を使って積極的に自分の意思を伝え始めたのは、入園から5ヶ月目。これでも、まわりの日本の子どもたちと比べそれほど早いほうではない。1年後にはアメリカ人の大人との会話を楽しめるようになり、大人のジョークを一緒に笑うまでになった。また、アメリカ人から「彼の英語はアメリカン・イングリッシュだね」と言ってもらえるほどの発音の良さだ。  インターナショナルスクールという場所柄、フィリピン人だけでなくたくさんの国籍の友達ができた。なかでもスウェーデン人の友達とは大親友になり、休日も遊ぶ仲になった。日本にいたら知ることのなかった世界を、躊躇なく受け入れ楽しんでいる。  日本に住んで仮に3年間、月1万円の英会話教室に通ったら学費は36万円。仮に30万円程度の学費で1年間学んで英語力が身につくなら、留学はコスパがいい、ともいえないだろうか。  日本ではまだ知る人ぞ知るフィリピンへのインターナショナル留学。本気で英語力をつけたいなら、考えてみてはいかがだろう。 (文/井上綾子)
dot. 2019/02/28 07:00
“ピーク後の人生”をどう生きるか? 堂場瞬一が新作小説で問う
“ピーク後の人生”をどう生きるか? 堂場瞬一が新作小説で問う
堂場瞬一(どうば・しゅんいち)/1963年、茨城県生まれ。青山学院大学国際政治経済学部卒業。2000年『8年』で第13回小説すばる新人賞受賞。著書に「警視庁犯罪被害者支援課」「ラストライン」の各シリーズ、『白いジオラマ』など (撮影/写真部・大野洋介)  自分の人生のピークはいつだったのか、まだこれからなのか。堂場瞬一さんの新作『ピーク』(朝日新聞出版、1600円※税抜き)は、そんなことを考えさせられる長編小説だ。 「若いときに、ある出来事でピークを迎えてしまった2人の人間のその後を、対照的に書けないかと思ったんです」  新聞記者の永尾は、入社1年目にプロ野球賭博の特ダネをつかみ、新聞協会賞を受ける。彼の記事によってルーキーの竹藤選手が球界から追放された。  しかし、以降の永尾に目立った活躍はなく、「一発屋」を自認する日々を送る。  そして17年後、竹藤が殺人容疑で捕まった。永尾は過去の自分の特ダネに複雑な思いを抱く。 「駆け出しの自分がものすごい才能のある選手をつぶしてしまった。あれはよかったのか、という気持ちになるわけです」  再び竹藤の周辺の取材を始めると、点と点がつながり、野球にからむ意外な事実が見えてくる。  ピークの後の人生は、スポーツものを数多く手がけてきた堂場さんが以前から温めてきたテーマだった。スポーツ小説では、選手が最も輝いている若い時代が描かれる。 「でも、輝いた後もみんな生きていかないといけない。若いうちにピークが来ちゃったら大変だろうなということが、ずっと頭にありました」  竹藤は大型新人だったために転職に苦労し、職を転々とした。年金をちゃんと払っているのか、老後は大丈夫なのか、執筆中、ずっと心配していたという。  堂場さんは「小説は読んでもらって完成品になる」と考えている。 「今の読者には結末のはっきりした話が受けるでしょうけど、僕はどっちにもとれるような、想像して結論を出すみたいな話が好き。読んだ人によって読み味が違ってくるのが面白い」  だから百まで書かずに九十で寸止めして、あとは読む人に想像してもらう。堂場さん自身、そういう読書が好きなのだという。  執筆は1日5時間ほど。仕事場に出勤し、午前中2時間、ジムでのトレーニングと昼食をはさんで午後2時間、帰宅して夜に1時間というペースを続けている。「ピアニストと一緒で、書かないと戻っちゃう感覚がある」ので週末も休まない。  いつも最初に筋書きを決めてから書き始める。 「こういう人を書きたい、この街を書きたい、ということから始まるときもある。頭の中でずっと引っかかっていて、何年も転がして、ようやくストーリーの流れが見えてくることもある。きっかけはいろいろです」  発想のための触媒は日々のニュースだ。新聞を読み、仕事場のテレビで毎時のニュースを見る。 「50歳を過ぎて、働き方のしめくくりが気になってきました。この小説は自分の人生がわかっている50代以上の人のほうが共感できるかもしれません。人生100年の時代ですから、まだまだ何が起きるかわからない。あきらめないことだと思います」 (仲宇佐ゆり) ※週刊朝日  2019年3月8日号
読書
週刊朝日 2019/02/27 16:00
長嶋一茂が53歳でここまで大ブレイクしたワケ
藤原三星 藤原三星
長嶋一茂が53歳でここまで大ブレイクしたワケ
長嶋一茂 (代表撮影) ■松本人志が今一番ハマっているタレント  53歳で突如として大ブレイク――。  これが今、長嶋一茂(53)を語る上で、もっとも使われるキャッチコピーなのではないだろうか。2018年は272本の番組に出演し、今年もバラエティー番組を中心にお茶の間を席巻中の長嶋一茂。2月には「ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!」(日本テレビ系)の恒例企画「オリジナルカルタ争奪戦」企画に2週連続で出演、一茂自らが作成した44枚のオリジナル絵札に込められた浮世離れしすぎたエピソードの数々が話題となった。  しかし、なぜここにきて大ブレイクに至ったのか? 数多くのバラエティー番組を手がける、ある放送作家は次のように分析する。 「2018年の番組出演本数がかなり多いですが、一茂さんは帯番組のレギュラーを持っているわけではなく、ほとんどが準レギュラーか単発番組。それで272本も出演しているとは、かなり驚異的な数字だと思います。それぐらい今、バラエティー番組の会議では必ず名前があがる人ですね。一茂さんブレイクの一因として、松本人志さん(55)がハマっているのは大きいと思います。一茂さんは『ワイドナショー』(フジテレビ系)の準レギュラーとして松本さんと共演していますが、先日の『ガキの使い』のオリジナルカルタ争奪戦は、松本さんがいま一番いじって面白い人をキャスティングする恒例企画。同企画で2週にわたって笑いを取ったことで、もっと仕事が増えると業界内では言われています。ちなみに、一茂さんは本当に忙しいらしく、その収録もケツカッチン(次の収録があるため、時間通りに終わらなければならないという意味)だったそうです。ダウンタウンさんの番組にケツカッチンで行くとは、ほんとに売れている証拠だと思いますね」  プロ野球選手としては8年間という短い現役生活を終え、個人事務所を設立してタレントに転身。その直後に明石家さんま(63)によってタレントとしての才能を見いだされると、以後、20年以上もバラエティー番組やスポーツ番組に出演し続けている。だが、今までは“長嶋茂雄の息子”“親の七光”というイメージが拭いきれなかったのも事実。しかし、昨今の活躍を見ると、もはや2世タレント感など皆無といったブレイクぶりである。実際に多くの番組で一茂をキャスティングした経験も持つテレビ局のプロデューサーはこう語る。 「たしかに、今までは2世タレントとしてのニーズが多かったのは事実ですが、近年は一茂さんのコメント力が飛躍的にあがり、バラエティー番組だけではなくワイドショーのコメンテーターとしても非常に重宝されています。歯に衣着せぬ彼の物言いを誰もが高く評価しており、それでいて下の世代の芸人からバカ扱いされても、しっかり怒りつつ笑いを取るというキレ芸までできる。完全無欠のタレントといっても過言ではないと思いますね。  また、視聴者の予想をはるかに上回るエピソードの持ち主だということも彼の人気の秘訣。江角マキコ(52)との確執を自らネタにしたり、『長嶋茂雄の財産は相続を全部放棄している』『先物取引で2000万円騙された』など赤裸々に語る一方で、それが決して下品には見えない。これも育ちの良さが物語っているというか、天性のタレント性だと思います。  それでいて一茂さんはプロ野球の現役時代からパニック障害を患い、いまだに克服できてないといった繊細な一面も持ち合わせている。ご本人はパニック障害になったことでいろんな学習意欲が高まり、『読書の習慣が身に着いた』とも語っています。一茂さんは意外と博識で、あらゆるニュースに精通しているのも、こういった読書の賜物なんでしょう」 ■変態紳士も加わり平成最後のバラエティー界を席巻  まさに全方位的に強いこのタレント性が、一茂大ブレイクの秘訣。深夜枠のレギュラー番組「ザワつく! 一茂良純時々ちさ子の会」(テレビ朝日系)も好評のため4月からのゴールデン枠昇格が決まっている。 「同じくお坊ちゃんで2世タレントでもある石原良純さん(57)とはもはや相方のような相性の良さですが、そこにさらに育ちのいいバイオリニストの高嶋ちさ子さん(50)が絡むと、もう無敵の状態。三者三様、身勝手な持論を貫き通そうとする掛け合いが非常にウケています。芸人がメインのバラエティー番組が多いなか、かなり異質で上品な仕上がりになっているため、即座にゴールデンへの昇格が決まったということでしょうね。ちなみに、高嶋さんは最近“変態紳士”としてブレイク中の高嶋政宏(53)さんと親戚関係。つまり、古き良き昭和の芸能界から生まれた優秀な遺伝子たちが、いま、平成最後のバラエティー枠で一番新しい番組をつくっているということ。実際、『ザワつく!~』は人気芸人がこぞって出まくる『金曜ロンドンハーツ』(テレビ朝日系)を押しのけ、4月から同枠でオンエアされることが決まっています。ハングリー精神むき出しの芸人に食傷気味だった視聴者が、育ちのいい50代タレントに魅了されるのも頷けます」(前出のプロデューサー)  そんな長嶋一茂に取材経験のあるTVウォッチャーの中村裕一氏は、彼の魅力を次のように語る。 「昨年、週刊誌の取材で話をうかがった際、『嫌いな2世タレント』という、ものすごく直球で失礼な内容だったにもかかわらず、快くコメントしてくれたのがとても印象的でした。本人的には『親の七光』『2世タレント』と世間から呼ばれることをもはやまったく気にしておらず、自己を徹底的に客観視したタレントとしての自覚と信念を強く感じました。それと同時に、常人ではなかなか持ち合わせていないであろうおおらかさも凄い。ポーズでもなんでもなく、細かいことは心底気にしないというスタンスが共演者や現場スタッフには受け、視聴者にも人間的な魅力として伝わっているのではないでしょうか。これは、彼がパニック障害を患ってから、レギュラー番組を休んでまで足繁く通っているハワイが影響しているようにも思います。ハワイの雄大な自然や景色が、一茂さんが本来持っていた上品さやおおらかさをさらに強固なものにしたのではないかと。50歳を超えてから大ブレイクというのも、市井の病める中年世代に明日への活力を与えているのではないかと思いますね」  まさに一茂に死角なし。唯一無二の存在感と常人離れしたライフスタイルに裏付けられた彼のブレイクは、今後もしばらく続きそうだ。(ライター・藤原三星)
dot. 2019/02/27 11:30
稲垣吾郎「縛りみたいなものが一切なくなった」
稲垣吾郎「縛りみたいなものが一切なくなった」
稲垣吾郎(いながき・ごろう)/1973年、東京都生まれ。88年、SMAPを結成。91年にCDデビューを果たす。2016年の解散まで国民的グループとしてさまざまな分野で活躍。主演映画「半世界」が全国劇場で公開中。舞台「LIFE LIFE LIFE~人生の3つのヴァージョン~」(4月6~30日、東京・Bunkamuraシアターコクーン)出演も控える。文学や映画にも造詣が深く、大のワイン好きとしても知られる (撮影/写真部・大野洋介) 稲垣吾郎さん(左)と林真理子さん (撮影/写真部・大野洋介)  SMAP解散から2年……稲垣吾郎さんが作家・林真理子さんとの対談に登場です。いろんなしがらみから解き放たれた現在、スッキリとした表情で、「今だから話せるあれこれ」を語ってくれました。 *  *  * 林:グループが解散してもう2年以上たつんですね。今はお仕事も余裕を持ってできて、楽しいですか。 稲垣:楽しいです。いろんなものが剥がれ落ちたような気がして。ストレスもないし、生きてて今がいちばん楽しいですね。こうしなきゃいけないとか、こういうポジションでいなきゃいけないとか、こういうキャラクターを演じてなきゃいけないとか、そういう縛りみたいなものが一切なくなりました。グループだからそれを無理してやっていたというわけじゃないですけど。 林:ほぉ~、そうですか。 稲垣:あとは年齢もあるのかな。30代って20代のときの自分に引っ張られたりするし、役を演じるにしても30代って難しかった。でも今、40代の中ごろになって、俳優としてはすごく呼吸がしやすくなったというか。これからの自分が楽しみです。 林:それは何よりです。独立してから、どこか旅行とかには行きました? 稲垣:旅行はまだ行ってないです。なんだかんだ、まだ長期の休みがとれなくて。でも、昔ほどのペースでは仕事してないから、時間をつくろうと思えばつくれます。今まで海外もそんなに行ってないし、見てないものが多いから、いろんなところへ行きたいですね。そうだ、去年は香取(慎吾)君がパリでの初個展に連れてってくれました。 林:日仏友好160周年のジャポニスムですね。私も先日行ってました。 稲垣:そうなんですか。林さん、忙しいですねえ、ほんとに。 林:めちゃくちゃ忙しいです(笑)。とか言ってると、あっという間に年をとりますよ。充実してるほど時間が早くたつし。楽しいな、忙しいなと思ってると、あっという間に50歳になり、60歳になり……。 稲垣:そうですよね。僕も、(グループ解散直後で)そんなに仕事してないときの2017年と、去年1年間との感覚はまったく違います。 林:新作映画「半世界」(全国公開中)を拝見しましたが、吾郎さん、いい味出してましたよ。「山の中の炭焼き窯で炭をつくる39歳の男性」という役でしたけど、最初に見たときは、吾郎さんだとわからなかった。ニット帽とひげだし、「えっ、どこにいるの?」という感じでした。 稲垣:僕が持たれているパブリックイメージは、なるべく抑えて演じるよう心がけたんです。僕は東京出身だし、中学生ぐらいからこの業界にいるし、父の仕事を受け継ぐという感覚や、小さいころから一緒にいる友達といったものを、あんまり知らないんですよ。僕、幼なじみっていないんです。だから映画の世界は、僕にとってまったく未知の世界でした。 林:地方はやっぱりこういう友情が成り立つんですよ。みんなで一緒に家出したり、一緒にたばこ吸ったり、ちょっと悪いこともして、記憶を共有している兄弟みたいな友達がいるんです。東京育ちの人にはわからないかもしれないけど。 稲垣:僕はそういう感覚が遮断されて、“龍宮城”みたいなところに行っちゃってましたからね(笑)。環境が変わってから、いちばん最初に個人としてやらせていただく映画だったので、俳優としてチャンスだと思って取り組みました。 林:それにしても、炭を焼くってあんな重労働だとは思わなかった。 稲垣:三重の伊勢志摩のほうでのロケだったんですけど、実際に炭焼き小屋があって、そこを使わせてもらったんです。僕が演じる炭焼き職人にはモデルになった実在の方がいて、その方にアドバイザーとして入っていただきました。その職人さんは、木を伐採してトロッコで運んで、窯の中で備長炭をつくるまで、全部一人でやられています。本当にすごいと思いました。 林:吾郎さんの役は炭焼きのお父さんの後を継ぐことにいろんな葛藤があって、結局受け継いだんだけど、受け継いだものの大きさにちょっと戸惑っている感じですよね。 稲垣:そうですね。家業を継ぐってどんな気持ちなんでしょうね。「継がなくてもいいよ」ってお父さんに言われて、それでも継ぐことを選んだ。こういう人たちって多いのかなと思いますけど、僕の周りにはいないので、監督にもいろいろ聞いて、イメージしながら演じましたね。 林:見ごたえがありましたよ。最後はジーンときて、泣いちゃいましたよ。いい作品でした。ほかにも撮り終わった映画はあるんですか。 稲垣:『ばるぼら』という手塚治虫さん原作の漫画を、息子さんの眞さんが監督をして、二階堂ふみちゃんと演じました。この作品は、手塚作品の中でもカルト的というのかな。手塚作品といえば、僕は『鉄腕アトム』とか『火の鳥』とかのイメージがありますけど、あの人の作品、実はけっこうブラックなのがありますよね。 林:すんごいブラックなのも描いておられますよ。こんなもの描いていいのか、と思うようなものを。 稲垣:『奇子(あやこ)』とか『シュマリ』とか。 林:『きりひと讃歌』とか。近親相姦やら、いろいろすごいのを。 稲垣:『ばるぼら』はその中でもさらに刺激的で、僕は異常性欲者である作家の役をやったんですけど、相手がマネキンだったり、気づいたら犬だったり……。 林:わ、すごそう。でもおもしろそう。作家の役は、「ゴロウ・デラックス」で作家にいっぱい会ってるから、なんとなくイメージしやすいでしょう。 稲垣:そうですね。僕は耽美派作家みたいな役で、おもしろかったです。去年は、映画は「ばるぼら」と今度の「半世界」、そして舞台は林さんも見に来てくださったベートーベン(「NO.9─不滅の旋律─」)に、夏には京都で「FREE TIME, SHOW TIME『君の輝く夜に』」という舞台もやって、役者としてはこんなに充実した年はないぐらいでした。 (構成/本誌・松岡かすみ) ※週刊朝日  2019年3月1日号より抜粋
週刊朝日 2019/02/26 17:00
40歳で白血病宣告され、解雇 無菌室から復帰した世田谷の人気ラーメンカフェ店主
井手隊長 井手隊長
40歳で白血病宣告され、解雇 無菌室から復帰した世田谷の人気ラーメンカフェ店主
店主・飯野浩史さん(筆者撮影)  競泳女子の池江璃花子選手が2月12日に自身のTwitterで白血病であることを告白し、世界中から続々と応援のメッセージが集まっている。その1週間後の19日には、タレントの堀ちえみさんがブログで舌がんの手術をすることを明かした。このニュースを見ていて、あるラーメン店主のことを思い出した。  世田谷の馬事公苑にある「RAMEN CAFE de IINO」は店主・飯野浩史さん(45)の「ゆっくりくつろいでほしい」という思いから、コーヒーやスイーツなども提供する、小型犬同伴可の一風変わった“カフェスタイル”のラーメン屋さんだ。  毎日笑顔でラーメンをふるまう飯野さんだが、実は4年前に白血病を宣告された。ラーメン屋として、独立しようとしていた矢先の病気発覚だった。 「RAMEN CAFE de IINO」店内(筆者撮影)  40年以上続く老舗の日本蕎麦屋の息子として育った飯野さん。お店では蕎麦だけでなくラーメンも提供していたこともあり、父親に連れられ、麺類の食べ歩きをする子ども時代を過ごした。  ドラッグストアのエリアマネージャー、大手焼肉チェーンのスーパーバイザー、保険関係といろいろな仕事をしてきたが、自分でも商売をやりたいという思いから都内の某有名ラーメン店で働くようになる。2011年2月、37歳の時だった。  修行を始めて4カ月が経ったある日、友人から店を開きたいと相談を受ける。いつかは自分のお店を持ちたいと思っていたこともあり、お店の立ち上げにかかわることを決意した。原宿にオープンしたラーメン店で飯野さんは店長となる。  しばらくはそのお店でラーメンを作っていたが、12年8月、古巣の有名店から「大型商業施設にオープンする新店を手伝ってほしい」という連絡がくる。10月、飯野さんは副店長として再び古巣のお店に立つことになる。半年後には店長に昇格。お店が2年契約ということもあり、2年間勤務したら独立しようと考えていた。  独立を見越して準備をしていた14年4月、飯野さんの体に異変が起こる。  背骨が痛く、腰痛のような症状がなかなか取れない。ラーメン店の仕事はハードではあるが、それにしてもおかしい。あまりにも体調が悪い日が続いたため、病院で血液検査をすると、思ってもみない結果を告げられた。 「白血病の疑いがあります。すぐ大型病院に行って検査をしてください」  紹介状を持って、神奈川県内の大学病院で精密検査を受けた。「フィラデルフィア染色体陽性の急性リンパ性白血病」。5年間の生存率は30%未満で、骨髄移植しか完治の道はないと宣告された。  そのまま入院となり、翌日から抗がん剤治療が始まった。ショックを隠し切れないなかで勤務先にそのことを伝えると、見舞いにきた社長から解雇を告げられる。テナントの契約満了まで、後2カ月だった。 飯野さん。移植直前、一時退院のときに撮った(飯野さん提供)  40歳を過ぎて白血病、しかも突然無職となり、先が全く見えなくなった。しかし飯野さんには奥さんと3人の子どもがいる。下の子は当時、まだ幼稚園に通っていた。 「絶対に生き続けなくては」  抗がん剤の副作用は想像以上につらかった。髪の毛は抜け落ち、舌はしびれ、体重は30キロも落ちた。厳しい治療の日々に何度も心が折れそうになった。だが、一つの光が差し込む。治療を始めて3カ月経った7月、奇跡的にドナーが見つかったのだ。もちろん成功するとは限らないが、完治にはこの道しかない。8月から無菌室に入り、移植手術を受けた。無事に成功し、順調に回復。11月に退院した。 「治療はただただ苦しかった。でも、ドナーさんが見つかってから、治る道が明確になったように感じて希望を持てました」  闘病中、飯野さんの支えになったのは「家族」の存在だ。  白血病となると本人以上に家族がパニックになってしまうことも多いというが、看護師でもある奥さんは強かった。夜勤のシフトを組んで、昼間は毎日飯野さんの元に来てくれた。長女の高校受験も控えていたが、看病から子どもたちのケアまで完璧にこなしてくれたという。 「家族を支えなければいけないという思いが原動力でした。治すことを目標にするのではなくて、治った後に何をしたいかを描きながら闘えば、絶対に乗り越えられると思います。今この治療に立ち向かわなければ次にはいけない、そんな思いでした」  だが、退院後も順風満帆とはいかなかった。抗がん剤の影響で、手の震えや舌のしびれがなかなか取れない。飲食の仕事に戻るのは厳しいのでは――。そんな周りの声もあった。  それでも飯野さんは諦めなかった。 「今は料理をできなかったとしても、飲食業にかかわっていれば、いつか戻れる日が来るかもしれない」 「自分が今できることをやろう」  友人たちも、飯野さんの“業界復帰”を支えてくれた。かつての経験を生かし、鵠沼海岸でフレンチレストランの立ち上げにも携わった。味はわからなくてもできることはある。とにかく、必死でもがいた。  そんな飯野さんの姿を見て、サラリーマン時代の先輩が声をかけてくれた。退院翌年の15年3月、武蔵小山の珈琲店で配膳の仕事を手伝うことになった。 ラーメンをふるまう飯野さん(筆者撮影)  かき氷が人気のお店だったため、冬場の寒い時期は売り上げが厳しくなる。もう一本柱が欲しいという話を聞き、飯野さんはラーメンを提案した。昔から温めていたレシピがあり、今がチャンスだと思った。舌はまだしびれていて、味の感覚も厳しかったが、周りの人たちに味見をしてもらいながらラーメンを作った。これが好評で、レセプションを開けばラーメン評論家やグルメライターなどが集まり、口コミがどんどん広がっていった。 「こんなに美味しいラーメンが作れるんだから、自分のお店をやった方がいい」という声もお客さんからたくさん上がっていた。  舌のしびれは多少残るが、前に比べると味もわかるようになってきた。お店をやりたい気持ちもある。だが、体力はまだない。どうしたらいいか、友人に相談を始めた。すると、都立大学駅のあるバーから、昼間限定で間借り営業の誘いがやってきた。 「昼だけなら体力が持つかもしれない」  16年1月に間借りでラーメン店をオープンさせる。珈琲店で出していたラーメンの評判やメディアの反響もあり、人気店に成長する。その後、11月には友人と共同で六本木のバーを間借りしてもう1軒、ラーメン屋を開店。少しずつ体力も戻り始め、ラーメン店のプロデュース業にも拍車がかかってくる。そんなある日、以前立ち上げを手伝った鵠沼海岸のレストランのオーナーから、「資金援助をするから、自分のお店を立ち上げたらどうだ」と誘いを受ける。  プロデュース業も順調で、今なら体力も大丈夫だ――。医師から「まだ完治はしていないが、3年経って血液の数値も安定している。拒絶反応も出ていないから、開店してもいい」と許可をもらい、17年8月、ついに自分のお店「RAMEN CAFE de IINO」をオープンした。 「あっさりIINO 塩煮干」は800円(筆者撮影) 「舌はしびれているし、とにかくはじめは苦い感じがしました。歯ざわり、舌ざわりが頭の中のイメージと全然違う。『しょっぱい』『甘い』『辛い』などの味はわかりますが、風味などはまったくわかりませんでした。いつかは舌が戻ると信じてもがき続けましたね」  病魔に侵される直前まで、ずっとラーメンを作ってきた飯野さん。食材を組み合わせるだけで、どんな味や風味になるかは頭の中でイメージできた。そのイメージと自分の舌で感じる味の違いを少しずつ戻していったという。「想像通りの味を舌で感じられたらOK」。そう考えて、味覚を戻していった。 「人から命をいただいたので、今後は同じような病気で苦しんでいる人を励ましていきたい。人に恩を返したいんです」  医師からは、完治までは5年と言われている。骨髄移植をしてから、今年の8月でようやく5年が経つ。まだ油断はできないが、飯野さんは今日も笑顔でラーメンを作り続けている。(ラーメンライター・井手隊長)
ラーメン
dot. 2019/02/24 12:00
産後8週間で職場復帰しないとクビと言われ、寝不足で交通事故 非正規公務員女性38歳の過酷な現実
小林美希 小林美希
産後8週間で職場復帰しないとクビと言われ、寝不足で交通事故 非正規公務員女性38歳の過酷な現実
※写真はイメージです (Getty Images) 「10年も働いているのに、なぜ育児休業が取れないのだろう」  臨床検査技師の大木清美さん(仮名、38歳)は、自治体病院の臨時職員として働いて10年あまり。非正規雇用が置かれる待遇格差に疑問を感じている。  専門学校を卒業した2000年は、専門職にとっても超就職氷河期だった。清美さんは人口10万人ほどの農業の盛んな地方で生まれ育った。地元で就職しようとしたが大きな企業があるわけでもない。就職活動をしても、とにかく地元には仕事がなかった。同級生が80人いたが、学校に来た求人はたったの1件。検査技師の募集1人の枠に対して200人もの学生が試験を受けに集まった。  なんとか新卒採用で「内定」の二文字は獲得した。とはいえ志望していた医療現場の仕事ではなく、環境関連会社で検査の仕事に就いた。正社員ではあったが、月給13万円と薄給で、かつ、長時間労働だった。 「せっかく検査技師になったのに、ここで埋もれてはいけない。検査技師としてのキャリアを積めるよう、臨床現場の仕事を経験したい」と、ほどなく転職を決めた。  病院の職員募集の情報を見つけては面接を受けにいった。地元で大きな病院の求人があったが、正職員の産休代替えのための1年限りの雇用だった。それでも面接に行くと、ライバルが5人もいたことに驚いた。「就職氷河期はまだ終わってはいない」と痛感した。その病院で採用され1年後、次の職場となったのが、現在働いている自治体病院となる。  自治体病院の職員は地方公務員になるが、臨時職員としての採用で1日6時間勤務という条件だった。日給制で、退職金はない。結婚が視野に入っていたこともあり、「とにかく、臨床の仕事の経験を積もう」と、待遇面は目をつむるしかなかった。6か月ごとに契約が更新され続け、もう10年になる。  その間、清美さんは3度の出産を経験したが、いずれも「臨時職員は育児休業を取ることができない」とされて、育児休業を取ることは叶わなかった。そもそも地方公務員の育児休業については、一般企業の労働者とは別に、「地方公務員の育児休業等に関する法律」によって定められている。同法によって、育児休業を取ることができる職員の範囲が定められ、6か月の雇用契約を前提とする臨時職員は最初から育児休業の対象外となっているのだ。  総務省の「地方公務員の臨時・非常勤職員に関する実態調査」(2016年4月1日現在)によれば、非正規雇用の地方公務員は全体で64万3131人、うち清美さんのような「臨時的任用職員」は26万298人となる。  清美さんが第1子を出産したのは約8年前だった。育児休業を取りたかったが、職場では、「あなたは育休を取れない。産後8週間の産休を計算して、何月何日に出勤しているか。その日にいることが、あなたの席を守ること」と宣告された。  労働基準法では正規・非正規を問わずに全ての労働者に産前6週、産後8週の産休が認められているため、清美さんも産休は認められるが、産後2か月での職場復帰を余儀なくされるということだった。産後休業8週間が終わったその日、出勤できなければクビになる。  清美さんは、「1日でも勤務しさえすれば、なんとかクビはつながる。あとは有給休暇を使って休んで体力面をカバーするしかない」と腹をくくった。産後、体調の悪かった同僚は出勤できずクビを切られた。職場に戻ることができたのは、お産がスムーズだった人だけ。難産で帝王切開となれば、傷口が痛くて産後8週では仕事をするまで回復できずに失職してしまう。お産の運次第では、職が失われる。  当時、病院には院内保育所がなく、同居する実母に生まれたばかりの赤ちゃんを預けて働いた。まだ産後で体調が完全に回復しないなか、仕事の合間に母乳を搾乳し、家で実母に哺乳してもらった。  すぐに第2子に恵まれたが、今度も育児休業を取ることができない。その頃、ちょうど清美さんの母は祖父母の介護もしていたことで体力に限界がきていた。母の負担が重いことで家庭崩壊状態に陥り、別居することになった。  第2子は、切迫早産となって妊娠36週で産声を上げた(通常は妊娠40週頃に生まれる)。産休に入ってすぐに生まれたため、産前休業はなくなり、産後休業8週のみ取っての職場復帰となった。第2子は夜泣きが激しかった。清美さんが夕方に帰宅してから朝5時頃までずっと抱っこしなければ泣き続けるという状態が2週間も続き、常に睡眠不足で朦朧とした。そんなある日の出勤する途中、赤信号で車を停車している間に居眠りしてしまい、前の車に追突する交通事故を起こした。この時、「なぜ育児休業がないのか」と、産後すぐに職場復帰する辛さを痛切に感じた。  約1年前に第3子を出産した。また交通事故を起こしてはいけないと、今度は、清美さんが職場復帰後の2か月は夫が育児休業を取得して家事と育児をカバーした。その後は、少し前にできた院内保育所に子どもを預けながら働いている。 「せめて私も2か月でも育児休業をとることができれば、首もすわってから保育所に預けられたのに。同じ頃に出産した友人は、まだ育児休業中。臨時職員だということで、なぜ自分は幼いわが子とじっくり過ごすことができないのか。駆け足のように赤ちゃんの時期が終わってしまった」と、清美さんは無念に思っている。  子どもが熱を出しても実家には預けられないため、清美さんは地域で病児保育を使った第1号となった。  臨時職員に夜勤はないが、夜の救急外来の待機番の当番は回ってくる。産後すぐに、上司から「待機番やって」と言われた。その時は、さすがに仕事を辞めなければならないと覚悟したが、清美さんが労働組合に相談すると、産後間もない期間の待機番はしなくてすむようになった。  子どもが1歳になると、月2回ほど土日の出勤も命じられて、「カテ番」のシフトに組み込まれた。心筋梗塞などを起こした救急患者が受ける心臓カテーテル検査の当番のことだ。急患がなくても院内にいなければならないため、拘束される手当としてカテ番は1回5000円がつく。院内保育所に子どもを預けると1日で約2000円かかるため、差額で得られる収入は微々たるものだ。 検査技師になって10年。日給8300円で月収は17万円程度。満足いく条件ではないが、「他の就職先を探しても賃金が下がるだけ。民間と比べれば、自治体病院は非正規でもまだいい。民間企業で働く夫の収入だけでは不安だ」と、転職もままならない。  専門学校時代の友人には、仕事が不安定で結婚していない人もいる。結婚した同級生は出産すると仕事を辞めている。今でも臨時職員で1年限りの募集でも人が集まるという。検査技師の代わりはたくさんいるということだ。  こうした状況に、清美さんは「女性は産んだら辞めろと言われているみたい。団塊世代が退職しても、正規で雇用されるのは新卒ばかり。就職氷河期世代はいらない世代なのだろうか」と思わずにいられない。  こうした女性の「中年フリーター」問題は、結婚が隠れみのになってなかなか表面化しない。総務省の「就業構造基本調査」(2017年)によれば、35~54歳の中年層の非正規雇用の女性のうち、扶養範囲に入るための「就業調整していない」という数は、414万人に上る。妊娠や出産を機にあっさりとクビになることもあり、不安定雇用のボリュームは厚いのではないか。  地方公務員は現在、約273万人いるが正職員は年々減っており、決して安定した雇用とは言えなくなってきている。非正規化が進み2012年と16年を比べると全体で7.4%増となる。臨時・非常勤職員全体の約4分の3を女性が占めている。このなかに、清美さんのように若いうちに臨時職員として働き、何年も契約が更新されるうちに出産を迎える女性も少なくないはずだ。産後8週で職場復帰できずに職を失うケースもあり、地方公務員の非正規雇用と育児休業のあり方が問われる。(ジャーナリスト・小林美希)
dot. 2019/02/19 06:00
「日本人の私のルーツは『陳』だった…」61歳で知った祖先の秘密
「日本人の私のルーツは『陳』だった…」61歳で知った祖先の秘密
フィリピン・マニラで2017年11月に開かれた「陳さん世界大会」。アジア各国から華僑1200人が参加。全員集合しての屋外での写真撮影は壮観というほかはない(撮影/高瀬毅) 毎年の大会のハイライトは、大会場での3泊4日連日の大宴会。「血縁・地縁・業縁」を支えに生きてきた華僑の交流とアイデンティティー確認の場だ/(右下)私の祖父の生まれた長崎県五島列島の黄島。彼らの祖先と日本の小島に辿りついた私の祖先はどうつながっているのだろうか(撮影/高瀬毅)  思いもかけず、祖父が中国に祖を持つ「陳」氏の末裔だったことを知った。61年の人生で、初めて自分のルーツに触れた私は戸惑った。さらに取材を進めると、世界中に広がり、歴史を編んできた華僑の人々の姿を垣間見ることになった。 *  *  *  身もふたもなく明るい照明とシャンデリア。1卓10人は座れる丸テーブルの数はざっと100。客の列がホールの外まで続いていた。  2018年11月24日。中国・香港のブライダルホール。会場には、「世界舜裔宗親聯誼會第二十六届國際大會」の文字がプロジェクターで映し出されている。参加者は約千人。アジアの華僑を中心とした年に1度の大交流会が始まろうとしていた。  通称「陳さん世界大会」。日本の華僑の人たちはそう呼ぶ。正式には陳氏を含む中国の十姓の祖先とされる舜氏を崇(あが)め、始祖を同じくする各氏が集う大会である。各国から華僑の所属団体単位で参加。計約50。集まった人たちの姓は圧倒的に陳氏が多い。「陳さん世界大会」というのもうなずけるのだ。  毎年、東南アジアの有力都市で開催され、17年はフィリピンのマニラだった。3泊4日。初日は歓迎会。歌やダンスなどが次々に披露され、大音量で音楽が流される。毛沢東そっくりのタレントも登場した。酒が回り、あちこちで「乾杯! 乾杯!」の嵐。ステージ前は集合写真を撮る人で黒山の人だかり。大宴会は4時間近く続いた。  2日目は、参加者全員で屋外での集団写真撮影。マニラ中心部のビルにある御堂に場を移し、舜氏を祭る「祭祖大典」。午後はホテルで各国代表団役員による活動報告と同士結束の決意などを表明する代表大会。2段横1列、ズラリと役員が整列した様は、共産党大会のような趣だ。食事会も兼ねて3時間。4時間後には2回目の大宴会。最終日には市内観光の後、別れの大晩餐会。散会は深夜12時に近かった。莫大な費用であることは想像できたが、多くは、開催国の団体が拠出しているという。フィリピン宗親会の陳凱復団長は、「費用は全く心配しない。お金は集まる」と平然と答えた。東南アジアの華僑は政財界の重要なポストについている人たちが多く、資金力をうかがわせた。 「陳さん世界大会はすごいよ」  出発前に日本の華僑の人たちから聞いていたが、予想をはるかに上回るエネルギーに圧倒されっぱなしだった。  私は華僑ではない。日本生まれで日本国籍を有する日本人だ。それがなぜ「陳さん世界大会」に参加したのか。  ひょんなことから私の祖先が陳であることが“判明”したからである。  話は16年10月にさかのぼる。長崎市の郷土史家で、元長崎市立博物館長の原田博二さんの東京での講演を聴きに行った時のことだ。テーマは「唐人屋敷と中国文化」。鎖国していた江戸時代、幕府は長崎を通してオランダ以外に、中国とも貿易をおこない、取引高はオランダの3倍以上に達した。 ●突如降ってわいた祖先との出会いに戸惑い  唐通事の話になった。唐通事とは中国語の通訳のことだ。彼らは中国からの渡来人だった。著名な三家があった。その一つ林家は林(りん)氏の出である。劉氏は彭城(さかき)と名を変え、陳氏は「えがわ」と名乗る。表記は「江川」ではなく「頴川」。その瞬間、ひっかかるものがあった。「頴川」は、母方の祖父の名字ではなかったか。母の旧姓は山下だが、祖父は、幼少期に山下家に養子に来たということを、以前ちらりと聞いていたのだ。元の姓が確か「えがわ」だったはず。  実家の母に電話した。記憶は正しかった。表記も「頴川」で間違いなかった。となると、私は唐通事の家系なのか。「はあ?」。突如降ってわいた“ルーツ”との出会いに正直、戸惑った。 「証拠」の一つとなる資料があった。『五島黄島(おうしま)郷土誌』。302ページ。厚さ2センチ。編纂(へんさん)は1994年。黄島は、五島列島の福江島の南南東に浮かぶ周囲わずか4キロメートルのけし粒のような島である。祖父がその島の出身という話を聞いたのも最近のことだ。  島の歴史や編纂時の全島民の家系図も網羅されていた。祖父の名前は住太郎。養子となった山下長助の家系図には私の母と母のきょうだい計7人の名前。それぞれ配偶者の名前も明記されていた。住太郎の名前の横に、「頴川伊之助2男」と記載。頴川家のページを見ると、住太郎の名前があり、横に「山下長助養子」とある。母は、母親(住太郎の妻)や山下の育ての母からも、「住太郎は頴川からの養子」と聞かされていた。祖父が頴川家の血筋であることは確かなようだった。だとしても唐通事と同じ姓の人間がなぜそんな小島にいたのか。そもそも唐通事とはどんな人たちだったのか。  長崎は、16世紀後半、朱印船貿易が盛んで唐船は長崎をはじめ西日本各地に入港していた。17世紀前半、徳川幕府は、唐船の窓口を長崎だけに限定する鎖国政策に転換。唐船が大挙して長崎に来航した。  当時長崎の町に滞在していた唐人は数千人。鎖国以前から長崎に居住していた唐人(住宅唐人)たちの中から唐通事が任命された。貿易拡大とともに唐通事の数が増え、通訳だけでなく、貿易業務や密貿易の取り締まり、監視、情報収集など広範になっていく。大通事、小通事、稽古通事など役職も仕事の軽重に応じて分けられた。林、彭城、頴川は、大通事を出す名門三家として歴史資料に出てくる。 「彼らは帰化して日本名を名乗る際、中国の出身地の名前をつけたのです」  そう説明するのは、長崎中国交流史協会専務理事の陳東華氏。福建省出身の貿易商の4代目。陳のルーツを長年研究している。陳東華氏によると、陳の祖先は、古く河南省の潁川(えいせん※地名は「潁」となっているが姓には「頴」を用いたりしている)という土地にいたが、明の滅亡や戦乱などで中国各地に広がって住み着いた。福建省もその一つで、何百年もの時代を経て日本へと渡った人たちも多かった。出身地の福建省の村を陳東華氏が訪ねた時、中心部に先祖の位牌(いはい)を集めた祠堂(しどう)があり、「自分たちは潁川から来た」という意味の文言が書かれていた。 「帰化しても自分のルーツに誇りを持ち、代々語り継ぐために陳氏は皆、頴川としたんです。だから頴川は100%、陳です」(陳東華氏) ●五島には相当な頻度で、朝鮮などの船が漂着  ただ、江戸時代二百数十年間にわたる唐通事の家系が書かれた『唐通事家系論攷』に私の祖父の家系の名前は出てこない。唐通事は世襲制で、江戸末期には、800人以上の唐通事がいたので、下級通事のことまでは分からなかった。  祖父の生まれた五島・黄島に行ってみることにした。長崎港から五島・福江港まで距離約100キロ。高速船で1時間25分。そこから黄島まで約18キロ。小型旅客船で40分弱。  黄島は、眠ったような島だった。初めて訪ねた17年4月の時点で人口は40人。多くが高齢者。島には延命院という真言宗の寺がある。開祖は元禄2(1689)年。港周辺だけにしか人が住んでいない小島に真言宗の寺があるというのは島の歴史を感じさせた。  黄島周辺は、昔から外国船の往来が多い地域で、寛永14(1637)年に五島藩は、黄島をはじめ7カ所に遠見番所を設置し、船の往来を監視、通報させている。黄島は外国船が東シナ海を通って真っ先にやってくる位置にあった。対馬海流が五島列島にぶつかるように北上しているからだ。 『五島編年史』という史料を見つけた。江戸時代の五島藩の記録をまとめたものだ。驚いたのは、唐船や朝鮮などの船が相当な頻度で五島に漂着していたことだ。天和年間(1680年代)の記録に次のような記述があった(以下、現代語表記で)。 「異国船の五島領内に漂着せるを認めたる時、発見者はいち早くこれを最寄りの代官に報ず」「福江より人を派して保護監視し、難破の状況に応じて適切なる処置を講じ、長崎に曳航せしむ」  寛政10(1798)年、(五島藩が)「長崎にて唐通詞(ママ)頴川藤吾を召し抱ふ」とある。享和2(1802)年11月、いまの上五島に90人が乗った唐船が漂着、通事の頴川真助を(五島藩が)差し出している。 ●華僑は冷静に「私たちは政治に関わらない」  黄島との関係を示す記述も見つかった。文政11(1828)年12月、黄島に唐船漂着。船は警固役が長崎に送り、「質唐人は別船にて頴川丑之助附添出崎す」とある。頴川丑之助は、この5年前にも黄島に漂着した唐船を護送していた。丑之助は、福江で通事として仕事をした記録が残っている。唐船が漂着した際、福江から黄島に派遣された可能性があった。しかし丑之助が黄島に住んでいたことを裏付ける記録は書かれていなかった。  長崎の郷土史家、原田氏はこう話す。 「黄島は(外国船が渡来する)最前線ですから、常駐しなくとも頻繁に中国船が現れる時期に黄島に行き、拠点を見つけて住み着いたこともありえます」  黄島は、江戸中期、西九州の鯨漁の拠点となった。最盛期の明治から大正時代にかけて島の人口は1千人に上り、遊郭も2軒建つほど栄えた。頴川家は鯨の網元でもあった。  貿易船に乗って五島にやってきた人々が住み着き「頴川」を名乗った可能性はないのか。原田氏は、「それも否定できない」という。その場合でも、「陳氏であることを何らかの方法で証明しないといけない」と話す。  16世紀から17世紀。五島には、「私貿易」の商人たちが続々とやってきた。その一人、王直は五島・福江を根拠地とし、唐人町までできた。近松門左衛門作の浄瑠璃、歌舞伎でも知られる「国性爺合戦」の主人公・鄭成功の父・鄭芝竜は、長崎・平戸を拠点としていた。そんな一群の中にいた陳氏の中の誰かが、五島に住み着き、私の祖先となったのだろうか。 「陳さん世界大会」にカンボジアから参加した陳廷偉氏は、「親から陳の子孫だと教えられた。共通の祖先を持つのは喜ばしい」と誇らしげに語った。  18年の香港大会では、ステージに「一帯一路」の文字が躍っていた。中国・習近平政権の看板政策を表すスローガンに、一瞬ドキッとしたが、華僑の人たちからは、「勢いを表すもので、意味はありません」「私たちは政治には関わりません」と、クールな声が返ってきた。それも、故国喪失の歴史を体験した陳姓の人たちの血なのだろうか。(ノンフィクション作家・高瀬毅) ※AERA 2019年2月18日号
中国
AERA 2019/02/18 17:00
“公開自殺会議”で遺族たちが「自殺はダメ」と言い切らなかった理由
福井しほ 福井しほ
“公開自殺会議”で遺族たちが「自殺はダメ」と言い切らなかった理由
“公開自殺会議”を開いた左から岡映里さん、弓指寛治さん、末井昭さん 『自殺会議』。  書店で目に飛び込んできた物騒なタイトルに思わず立ち止まる。ムンクの「叫び」のようなイラストが描かれた装丁は書名に反してどこかポップだが、内容は家族が死を選んだ“自死遺族”や、自殺の名所とも呼ばれる東尋坊で身を投げる前に立ち止まらせる“用心棒”など“自殺”に関わる10人と著者の末井昭さんが対話を重ねた対談本になっている。末井さん自身も子どものころ、隣家の男性と不倫に走った母親が、その相手とともにダイナマイトで心中した経験を持つ。  同書は発売後から反響を呼び、1月20日には、同書にも登場する作家の岡映里さんと画家の弓指寛治さんとともに、末井さんは東京・渋谷で『自殺会議』(朝日出版社)の刊行を記念したトークイベントを開催。客席がほぼ埋まるほどの人が集まり、3人の話に耳を傾けた。 会場となったLOFT9 Shibuyaには日曜日の昼間から大勢の人が詰めかけた  実は、岡さんと弓指さんも、母親が自ら命を絶っている。 「母が病院から飛び降りたと姉から電話を受けたのが2005年9月6日の朝でした」  イベント冒頭のあいさつで、そう話したのは岡さんだ。新潮社の月刊誌『新潮45』(2018年10月号で休刊)の編集者として働いていたころ、徹夜で仕事を終え、自宅に帰って眠りにつこうと思った矢先に母親の訃報を知った。 「13年経って、母親が死んだことが大丈夫なときもあれば、そうじゃなくなるときもある。母が亡くなってから、ずっとその日の翌朝を生きているような気持ちです」(岡さん)  弓指さんも同じような思いを抱えている。芸術学校で絵を学んでいた2015年10月23日、母親が自ら命を絶った。棺桶には手紙と「死者の魂を持った鳥」を描いた絵を入れた。その数カ月後、この鳥をモチーフにして描いた「挽歌」が学校の成果展で金賞を取り、画家としてのデビューを果たす。昨年には、1986年に18歳で命を絶ったアイドル・岡田有希子さんの死をモチーフにした作品「Oの慰霊」で第21回岡本太郎現代芸術賞の敏子賞を受賞するなど、「死」に向き合った作品を描いている。 成果展で金賞を受賞した「挽歌」(撮影/弓指寛治) 「自殺の呪いみたいなものがあって、それから逃れることはできない。自分の中で、母親が死に続けている。その呪いを打ち返す手段として僕は芸術を選んだ」 第21回岡本太郎現代芸術賞で「敏子賞」を受賞した作品「Oの慰霊」(撮影/水津拓海)  母の死も自らの血肉として活動し続ける弓指さんだが、誰もが表現者になれるわけではない。自殺した家族を思い出し、やり場のない思いを抱えながら自分の中に閉じこもる人もいる。そんなときに、「表現」の一つになり得るのが「人に話すこと」だという。  語る場の一つに「遺族会」がある。自死遺族らが集まり、悲しみを話し、分かち合う場となっているだけでなく、集まることそのものがセラピー的役割を果たすこともある。  ただ、どうしても足が向かない人もいる。 「遺族会って全然話さない人もいるし、基本的には暗い場所。僕自身も母親が死んで絶望の淵に立っていたときに『自分よりつらい人を見たい』と思って訪れたこともある。他の人の話を聞いて、『人にはこんなにもつらいことがあるのか』と知るだけで楽になった」(弓指さん) トークショーは終始和やかだった  今でこそ「一番派手な死に方だった」と母の死について冗談を飛ばす末井さんも、かつてはその死を周囲に話すことができなかった。 「社会に出て、初めて母のことを話せる人が見つかったとき、すごく解放された気分になった。話すことで『なぜその人は死んだのか』『その死は悪いことじゃなかった』と思えるようになればいい」(末井さん)  人が亡くなったとき、なぜかその死の理由について触れることはタブーだという空気がある。それを吹き飛ばすように、3人はこのトークイベントを“公開自殺会議”と命名。誰一人として自殺をダメだと言い切らない姿勢だ。その人が最後に選んだ選択を否定しないこと――。それこそが「受け入れるための一歩だ」と。 弓指さんが描いたスイスの山(撮影/水津拓海)  イベント後半では来場者から2人の女性が“自殺会議”に参加。「父と兄を自死で亡くした。4人家族の半分がいなくなってしまった」「過去に自殺未遂をしたけど死ねなかった。今は生きていて良かったなって思う」とそれぞれの思いを赤裸々に明かした。 「死や自殺について後ろめたさを持たずに話せて良かった」と話すのは芸術大学に通う女性(21)だ。関西から参加し、今後は「死」を制作のコンセプトにしたいと考えているという。  末井さんは『自殺会議』の中でこう記している。 <自殺を減らすには、自殺した人の死を悼むことだと思っています。死を悼むということは、死んでいった人のことを肯定して、その人に思いを馳せることです。(中略)その人たちがなぜ自殺したのかを考え、その原因を社会から取り除いていくことが、真の意味での自殺防止になるのではないかと思っています>(まえがきより) 『自殺会議』(著者・末井昭/朝日出版社)  警察庁が発表した2018年の自殺者総数は2万598人。ピーク時には3万人を超えた自殺者は2010年以降、9年連続で減少している。イベントが終わりに近づいたころ、誰からともなくこんな言葉がこぼれた。 「自殺者数は年間2万人以上。その何倍もの遺族がいるんだよね」 (文/AERA dot.編集部・福井しほ)
dot. 2019/02/17 16:00
ヒット作「女囚さそり」秘話 梶芽衣子、オファー最初は断るも…
ヒット作「女囚さそり」秘話 梶芽衣子、オファー最初は断るも…
梶芽衣子(かじ・めいこ)/1947年、東京都生まれ。65年に日活映画「青い果実」で主演デビュー。映画出演作に「野良猫ロック」シリーズ、「女囚さそり」シリーズ、「わるいやつら」「曽根崎心中」ほか多数。75年「修羅雪姫」などでエールフランス女優賞、78年「曽根崎心中」でブルーリボン賞ほか、95年「鬼平犯科帳」で報知映画賞助演女優賞を受賞。テレビドラマは「寺内貫太郎一家」「剣客商売」ほか多数出演。2018年に初エッセー『真実』(文藝春秋)を発表し話題となる (撮影/写真部・加藤夏子) 梶芽衣子さん (撮影/写真部・加藤夏子)  もし、あのとき、別の選択をしていたなら──。ひょんなことから運命は回り出します。著名人に、人生の岐路に立ち返ってもらう「もう一つの自分史」。今回は、俳優の梶芽衣子さんです。人生の大きなターニングポイントは、27歳で結婚をあきらめたこと。破談となったとき、相手から言われた言葉を胸に刻んで、俳優としての道を極めてきました。 *  *  *  私の人生で残念なことがあるとすれば、それは子供を産まなかったことです。私は子供が大好きで、俳優にならなかったら保育士になっていたと思います。結婚したら俳優を辞め、家庭に入るつもりでした。  20代半ばを過ぎたころ、ご縁があって、ある方と婚約しました。結納を交わしたときは、「女囚さそり」を撮り終え、一段落ついていたころ。あのとき、結婚していれば、引退して平凡な家庭を築き、普通のお母さんになっていたと思います。  しかし、「さそり」は大ヒットし、契約更新して続編を作ることに。結局、婚約した彼とは関係が破たんしてしまいました。別れるとき、彼が「これから誰とも結婚せずに、死ぬまで仕事を続けろ」と言い、それに私は「はい、わかりました」と返事をしたのです。  破談と時を同じくして、所属していた東映を辞め、フリーになりました。幸せの形は人それぞれで、運命はどう動くかわかりません。今までの自分を一切捨てて、ゼロからスタートしたのです。フリーランスとして仕事をすることは、たった一人で走り続けることと同じです。例えるなら、オートバイに乗っていて、転倒しても誰も助けてくれない、自己責任の世界です。  それから40年以上、覚悟を胸に、あらゆる修羅場をくぐり抜けてきました。あの約束通り生きてきたから、今の自分があります。 ――梶の代名詞となった「女囚さそり」シリーズ。ヒットの裏に、人生の大きな岐路があったのだ。ここで、時計の針を少し戻そう。梶は1965年、日活に入社し、俳優としてのキャリアをスタートさせた。当時はテレビ番組が娯楽として台頭してきた時代で、映画の世界は転換期を迎えていた。  あのころは、2週間で1本の映画を撮り終わるために、徹夜で製作の現場にいることもありました。先輩の俳優やスタッフから厳しい仕打ちを受けたこともありますよ。  当時は、何もできない自分が悔しくて、情けなかった。厳しい世界だからこそ「やってやろう。このままでは終われない」と闘志を燃やし続けていました。それに一度俳優の仕事をすると、世間に存在を知られてしまい、デビューする前の生活ができなくなっていることもありました。後へは引けないのです。  日活には6年いました。その間に、「昨日やった仕事は、今日はない。一切の過去を振り返らず、前しか見ない」という生き方が定まりました。  日活を辞めたのは23歳。次から次へと撮影が続き、疲弊しきっていたこともありました。24歳で東映に移籍しましたが、少し時間ができたので、自分の俳優としての持ち味を自問自答しました。そんなときに「女囚さそり」のお話をいただいたのです。 ――原作は、刑務所の女囚たちがタメ口でケンカし、リンチなどのシーンも多い。ヒロイン・ナミは暴力を潜り抜け、恨んだ人々に復讐していく。原作も映画も発表から半世紀近くが経過するが、カルト的な人気を誇る。ナミの設定は、それを演じる梶からプロデューサーと監督に提案したのだという。  出演を最初はお断りしたのですが、プロデューサーの吉峰甲子夫さんは「家に帰って読んでみて」とおっしゃる。あらすじと原作を読んでみて、ナミの凄みが面白いと感じたのです。浮かんだのは、「一言もしゃべらないナミ」というイメージでした。どんなにひどいことをされても、相手にせず、無視を貫く。  そこで私は、吉峰さんと伊藤俊也監督に「このヒロインに、セリフは必要ありません。一言もしゃべらないなら、この役をお受けします。でも、セリフがあるならやりません。二つに一つです」と申し上げたのです。 ――2週間後「セリフなしで撮る」という決断が下された。ヒロインが一言もしゃべらないという設定は東映にとっても冒険だった。しかも伊藤監督にとってはデビュー作。映画が不発に終わっては、監督も主演の梶も未来はない。  映画は通常、ロケ地を押さえたら、そのシーンをまとめて撮影してしまうのです。しかし「女囚さそり」は、1シーン目から最終シーンまで順番に撮るという「順撮り」がされました。これだと、俳優のスケジュール、スタッフやロケ地の調整が複雑になり、時間もかかります。  通常の映画は2週間で1本仕上げるのですが、4カ月以上かかりました。単純に計算しても予算は8倍以上になります。だから、みんな腹を括って「いい作品を撮ろう」と心を一つにしていました。今だから言えますが、自分で「セリフなし」と言っておきながら、無言で演技をするのがとても大変で……撮影の最中に、何度も後悔しました(笑)。  仕事で結果を出しても、成果が過去になるのはあっと言う間です。その一方で、俳優には定年はありませんが、結果を出さないと明日の仕事はありません。「とにかくしがみつく」という執念で、演じ切りました。  撮影中は、不安を感じることはありませんでした。失敗したとしてもそれは前に進むための糧になる。これはあらゆる人にあてはまるのではないでしょうか。 ――「女囚さそり」は大ヒットし、梶はその後、「修羅雪姫」(73年)など多くの映画作品で主演した。特に「曽根崎心中」は、梶にとって印象深い作品の一つ。数々の賞を受賞し、モントリオール世界映画祭の招待作品となった。  私はノーギャラで出演しました。増村保造監督に毎日セリフのダメ出しをされ、「お前の演技が下手だから、酒がまずくなる」と言われてました。増村監督は、自分の思った通りのシーンを俳優、スタッフ、カメラマンの全てに要求します。  特に大変だったのが、ラストの心中シーン。12月の極寒の所沢の山中で、2本の松に相手役の宇崎(竜童)さんと私は、それぞれの体を縛り付けて、お互いを刺し合います。  私は松に縛り付けられたまま、食事もとらずに2日間徹夜しました。冷たい地面からはい上がる冷気で体の芯まで冷えましたが、何を食べる気にもなれなかったのです。「この松から離れたら、緊張の糸が切れてしまう。病気になっても死んでも、ここから離れない」と演技を続け、やっと監督のOKが出たのです。 ――こうやって全身全霊をささげていた俳優の仕事。自ら覚悟を決めて選択した道だったが、中年にさしかかったころ、役の幅が狭まり、今後のキャリアにふと不安がよぎった。だが、梶はこの俳優人生の岐路で、当たり役を掴んでいく。  年齢を重ねながら、俳優を続けるのが難しいと感じていました。というのも、女性の俳優は、30代後半から、母親役ばかりになってしまうからです。  そんな42歳のある日、新聞で「鬼平犯科帳」ドラマ化のニュースを読みました。そのとき、出演していた「教師びんびん物語II」(89年)に携わっていたプロデューサーの亀山千広さん(後のフジテレビ社長)に「(密偵の)おまさを演じたい」と申し出たのです。  一介の俳優が、テレビ局の偉い方に直接お願いするのは、フェアな行為ではありません。それでも、どうしても出たいと思ってしまったのです。あのとき、行動を起こさなければ、その後、28年間おまさを演じることもなく、そして今、私はここにいなかったかもしれません。  以降、テレビの仕事は「鬼平犯科帳」が中心になりました。中村吉右衛門さんを中心とした撮影は、原作と同じ雰囲気のまま、一致団結して作品を作り上げていきました。そんな日々が28年間も続きました。 ――鬼平の最後の撮影は2016年。翌年、梶は6年ぶりに新曲「凛」「触れもせず」(テイチクエンタテインメント)をリリース。同時に、120万枚を売り上げた「怨み節」のニューアレンジ版を発表した。女優として異彩を放ってきた梶は、歌手でもある。03年、クエンティン・タランティーノ監督の映画「キル・ビル」に梶の歌う「修羅の花」「怨み節」が使われたことから、梶芽衣子の名は若者や海外にも知れ渡っていた。  おまさ役が終わり、これからどのようなキャリアを重ねていくか、思案していたときに、新曲をリリースするお話をいただいたのです。  70歳の誕生日を迎えた17年3月24日に、青山のライブハウスでワンマンライブを行いました。心を込めて歌った曲をライブにいらっしゃったお客さまが聴いてくださる。これは素晴らしい経験でした。 ――梶の信条は「媚びない、めげない、挫けない」。梶が映画の中で演じてきた、芯のある女性たちの生きざまを表すような言葉だ。俳優・梶芽衣子の人生は、彼女たちの存在なしには語れない。  俳優の仕事は化けることです。そこに太田雅子(本名)は存在せず、梶芽衣子として、監督やプロデューサーの望む役柄を演じます。  そのためには、新聞に毎日目を通し、健康に気を付けて、あらゆる準備を怠らないことが大切。いくら勉強しても、経験を積んでも足りない世界です。努力と同時に、他人の評価を気にせず、生身の正直な自分で勝負しなければなりません。  何歳になっても、そのときにできることを精一杯やっていくこと。老後のことを考えて、悲観的になっている暇はありません。何歳になっても、「いいじゃない、やってやろうじゃないの!」という気持ちで、これからも生きていきます。 (聞き手/前川亜紀) ※週刊朝日  2019年2月22日号
週刊朝日 2019/02/17 10:00
照明家・吉井澄雄が明かす「舞台照明だけに許された特権」とは?
照明家・吉井澄雄が明かす「舞台照明だけに許された特権」とは?
吉井澄雄(よしい・すみお)/1933年、東京生まれ。演劇、オペラ、舞踊と幅広い分野で、1500を超える舞台の照明デザインを手がけた。紫綬褒章ほか、受賞多数(撮影/写真部・片山菜緒子)  照明家の吉井澄雄さんによる『照明家(あかりや)人生 劇団四季から世界へ』は、希代の名照明家の一代記。戦後の舞台芸術史と交差する氏の半生は、そのまま時代の貴重な証言録でもある。著者の吉井さんに、同著に込めた思いを聞いた。 *  *  * 「今は当たり前のように、照明スタッフの席が客席の後方にあります。でも、あの場所は闘いながら勝ち取ってきたんです」  吉井澄雄さんは劇団四季の創立に参加し、浅利慶太、蜷川幸雄、市川猿翁らとともに、演劇界を革新してきた。本書は自伝、劇場論、照明論、そして随筆の4部構成。巻末の作品年表は「生きた演劇史」ともいうべき圧巻の内容だ。  本書の魅力は、吉井さん自身の経験を通して語られる、「照明とはなにか」「いかにして日本の照明技術は発展してきたか」といった考察にあるだろう。 「舞台上に流れる演劇の時間をコントロールするのが照明です。これは舞台装置や衣装にはもちえない、舞台照明だけに許された特権です」  吉井さんは続ける。 「舞台照明の時間は実人生の時間とは違います。一瞬のうちに昼から夜になることもあれば、現実の時間とは別の、心理や情念の流れもある。こうしたさまざまな時間の中から必要な要素を選択し、演出の狙いや演技者の身ぶり、セリフ、音楽に応じて、照明が変化するあらゆる速度を決めることが舞台照明には必要なのです」  先日亡くなった、哲学者の梅原猛をはじめ、本書には演劇に限らず、戦後文化史の重要人物が次々に登場する。 <影を消してフラットにする照明の定式を破って、吉井澄雄は、日本演劇の根源にある闇の舞台をつくりだした>  との一文を、本書の帯に寄せたのは建築家の磯崎新さん。その横には小澤征爾さんの推薦文も並ぶ。  演劇に限らず、オペラ、舞踊、ミュージカルなど幅広い舞台芸術の照明デザインを手がけてきた、吉井さんの仕事に心を寄せる人は多いのだ。 「舞台を照らすだけが照明の仕事ではありません。実は暗闇を作ることも重要です。『近松心中物語』のときは、真の暗闇を作ろうと、蜷川(幸雄)と2人で劇場中の明かりを消して回ったことがあります。全部消すのに、2時間もかかりました」  舞台の照明を落としても、舞台袖や舞台装置などの目安として、思わぬ光源があちこちにあり、すべてを消さないと舞台上に真の闇を作れなかったという。 「照明を考える上で必要なのは感性よりも戯曲を知的に解釈していく能力です。戯曲に寄り添いながらドラマの芯の部分を考え、『こうでなければならない』という照明を考える。そこから感性も生まれてきます」 (ライター・矢内裕子) ■書店員さんオススメの一冊  1月に芥川賞の受賞が決まった『1R(ラウンド)1分34秒』は、小説でありながら、感情や体の変化を味わうことができる作品だ。三省堂書店の新井見枝香さんは、同著の魅力を次のように寄せる。 *  *  *  パチンコ店でアルバイトをしながらボクシングを続けているが、デビュー戦以降、試合に勝つことができない。iPhoneで映画を撮る友人は、質問を投げかけながら、彼にカメラを向け続ける。  そこに映るのは、物語の主人公だ。それはよくある若きボクサーの懊悩(おうのう)であり、やってみせる用のわかりやすいシャドウだ。それもまた彼の一面だが、書き留めるにも足らないような感情や体の変化にこそ、うまみがある。ひとりきりの部屋で蹲り、減量の飢餓に苦しむ彼は、冷蔵庫に残ったマーガリンに気づかない。対戦相手の夢を見て、一方的に友情を育む彼は、だいぶ気持ち悪い。「試合前のボクサーの情緒」と呼ぶには劇的さのない生活、それこそが見たかったのだ。1分34秒で倒れるのが彼なのか、対戦相手なのかなど、知らなくてもいいくらいだ。 ※AERA 2019年2月18日号
AERA 2019/02/16 16:00
平成時代が終わろうとする今、戦後日本を魅惑した「司馬史観」をのぞいてみませんか?
平成時代が終わろうとする今、戦後日本を魅惑した「司馬史観」をのぞいてみませんか?
さる2月12日は、戦後、明治から昭和に至る時代を俯瞰し、数々の話題作で戦後の国民的歴史小説家と称された司馬遼太郎が1996(平成8年)にこの世を去った忌日「菜の花忌」でした。昨年2018年は明治維新150年。日本各地で明治150年を記念した催しが多く開催されました。そして今年は天皇の譲位と改元がおこなわれます。270年に及ぶ長い江戸幕藩体制が崩壊した後にはじまった日本の近現代史は、大きな戦争や災害、また体制の変遷をはさみながら、一つの連続体として捉えることができます。司馬遼太郎は「司馬史観」といわれる歴史の見方を提示して、戦後の歴史マニアのみならず、日本人論の教祖とも言える存在となりました。 「戦後」を体現した歴史小説家・司馬遼太郎の誕生 司馬遼太郎(本名・福田定一)は、1923(大正12年)年8月7日、大阪市に生まれました。太平洋戦争さなかの昭和17年、旧制大阪外国語学校(新制大阪外国語大学の前身、現在の大阪大学外国語学部蒙古語学科に入学。昭和19年、陸軍久留米戦車第一連隊に小隊長として配属、関東地方の栃木県で本土決戦に備えていたとき終戦を迎えています。復員後、地方新聞社を経て産経新聞社に入社、記者の仕事をしながらいくつかの短編を発表。1958年に発表した忍者を主人公にした歴史小説「梟の城」で直木賞を受賞し、産経新聞社を退職し、作家生活に入りました。以来、豊富な読書量と新聞記者時代に培ったキレのいい高揚感のある文体、わかりやすく明快なキャラクター造型、ユーモアのある語り口など、歴史小説に新風を起こし、一躍人気作家となりました。 司馬遼太郎のほとんどの著作は、日本史の出来事や人物を題材にしたいわゆる歴史小説ですが、日本史といってもその多くが室町末期の戦国から安土桃山時代、そして江戸時代、明治時代~昭和前半までの近世~現代史にほとんど材を得たもの。日本史の中で人気のある時代と言えば、戦国時代と幕末/明治維新が双璧ですが、そうした歴史マニアの偏った好みの傾向を作り上げたのは、司馬遼太郎である、と言っても過言ではありません。1963年からはじまり、今なお続くNHKの大河ドラマで、もっとも多くの原作を提供しているのも司馬遼太郎です。戦後高度成長期(1955年~1973年)のはじまりとともに登場し、日本の絶頂期の経済成長と軌を一にするごとく、代表作を次々と発表します。そして、高度成長期が終わり、熱い時代から「しらけ」の空気が日本を覆い、「自分探し」がはじまるころ、司馬もまた小説家としては寡作となる一方、エッセーで日本人論・日本文化論を展開するようになり、あたかも日本人のアイデンティティをたずねて歩く巡礼のような連載「街道をゆく」を1971年にスタートさせ、連載は、1996年、司馬がこの世を去る直前まで書き継がれました。弘川寺 西行堂 「合理主義」「武士道」を理想化した司馬ワールド 戦後の日本が工業品輸出で猛烈に経済成長していた時代、それを支えた全国の経営者や労働者たちのモチベーションを支えたロマンが司馬遼太郎の歴史小説だった、といってもいいでしょう。敗戦の傷もまだ癒えない当時の日本人にとって、太平洋戦争以前の日本、江戸時代から明治時代に生きた、近代的な合理的行動原理と高い志を併せ持つ武士=サムライとその魂を継ぐ明治の男たち、それを支える気丈な女たちが美化して描かれた世界は心地よく、熱狂的に支持されました。 雑賀鉄砲衆を率い織田信長に抗した雑賀孫市(「尻啖え孫市」)、新撰組の副長で、洋服を好み実践的な戦法で知られた土方歳三(「燃えよ剣」)、曖昧模糊とした剣術の世界に合理的な理論と修行法を確立させた千葉周作(「北斗の人」)、北越戊辰戦争で政府軍を苦しめた河井継之助(「峠」)、近代日本の軍隊の礎を築いた兵法家大村益次郎(「花神」)など、近代合理主義の先駆となったような人物像。 強大な徳川家康に正義の戦いを挑んだ石田光成(「関ヶ原」)、明治新政府の種をまき、安政の大獄で死罪となった吉田松陰(世に棲む日日)、真田十勇士きっての実力者霧隠才蔵(「風雲の門」)など、命をかけて義と道理を貫く「侍」の生き様。 そしてそのどちらも兼ね備え、究極の理想像として描かれたのが、坂本龍馬(小説中では竜馬/「竜馬がゆく」)でした。薩長同盟を実現させ、日本に近代国家としての「夜明け」をもたらした最大の功労者として名をはせるスーパースター・土佐藩士坂本龍馬。明治政府で冷遇され続けた土佐藩の出身者たちが、坂本龍馬を主人公とした物語をアピールしてきた先例はありますが、そうした伝説をたくみに統合し、日本史屈指のヒーロー像を定着させたのはまぎれもなく司馬遼太郎です。しかし、その「竜馬」伝説は数々の創作や史実との齟齬を見せ、端的に言えば「歴史物」というよりは「神話」に近いもの。 史実を大きく逸脱したエピソードはたびたび批判もされ、小説内で書かれていることは事実なのか、と質問されることのあった司馬は、「自分は歴史学者ではなく小説家であり、答える必要はない」と反論しています。その上で「小説家といえども史実を捻じ曲げていいものではないとは思っている」と書いています。が、必ずしもその言葉は守られているとは言いがたいものがあります。 こうした司馬遼太郎の特徴的な小説世界を貫く作者の意図(テーマ)が、後に司馬自身によって語られることになる日本近代史論、すなわち「司馬史観」です。竜馬が愛したという高知県「桂浜」 戦後日本を呪縛した甘い夢。「司馬史観」とは何か? 司馬史観の特徴は、簡単に言えば鎖国時代から近代国家に急速な変貌を成し遂げた明治維新政府、明治時代の日本人への賛美と、昭和に起きた太平洋戦争を引き起こした日本帝国政府、とりわけ日本陸軍に対する嫌悪と憎悪です。司馬は、日本人が急速な近代化をなしとげた理由は、江戸時代に培われた道徳意識、とりわけ高い志と自制心、責任感を植え付けるエリート教育たる「武士道」にあるとしました。固定身分制度だった江戸時代には、特権階級である武士の後取りは、生れ落ちたときから武士としての教育を叩き込まれて育ちます。それが何代も繰り返されることで、きわめて純度の高い志をもつ「武士」が培われたとします。江戸時代の日本人は、生まれた家により、武士は武士、農家は農家、商人は商人と、自身の生まれを運命として受け入れました。この独自の制度があったからこそ、江戸時代に優れた人材が準備され、近代化を見事に成し遂げられたのだ、としました。 また司馬は、大阪の生まれらしく、重商主義の考えを常に持ち、彼の言う「合理主義」とは、「無駄なこと、儲からないことはしない」「役に立つと思うことはどんどん取り入れる」という商人気質に近いものでした。逆に、司馬は役に立たない堅固な「思想」いわば理想主義を嫌い、このため、自刃した三島由紀夫の死と主張を、徹底的に批判しました。司馬は、こうした理想主義こそが、日本を無謀なアメリカとの戦争に駆り立てたと考えていました。その一方で、日清・日露戦争は、合理的実践者たる軍神たちによる美しい戦争としてとらえられました。 こうした司馬の考え方は、ある意味では正しく、ある意味では間違っていると言えます。 言うまでもなくいかなる戦争も悪であり悲劇です。そして戦争において、絶対正義の国家もなければ絶対悪の国家もありません。歴史を学ぶとは、そうした客観性を身につけることですが、その点で司馬史観は、太平洋戦争という「悪夢」を憎む余り、明治と戦後昭和を無辜な理想世界としてしまったのかもしれません。記念艦「三笠」 暦の上では、春。巷で語られる「平成最後の…」というフレーズがいよいよリアルさを帯びてきました。一つの元号が変わろうとする今、さまざまな視点からこれからの日本の歴史について考えてみてはいかがでしょうか。
tenki.jp 2019/02/16 00:00
女子アナ戦線に異状あり 独立を選んだ宇垣美里、小川彩佳、吉田明世さんらの勝算とは?
女子アナ戦線に異状あり 独立を選んだ宇垣美里、小川彩佳、吉田明世さんらの勝算とは?
独立を選んだ吉田明世さん (c)朝日新聞社  2019年も早くも3ヵ月が経過しようとしているが、今後さらに競争激化が予想されているのがフリー女子アナウンサー戦線だ。  かねてからフリーとして活躍していた元フジテレビの加藤綾子アナ、元TBSの田中みな実アナらに加えて、昨年3月には元NHKの有働由美子アナが同局を退社し、日本テレビ系「NEWS ZERO」のキャスターなどに就任。  今年に入ってからも1月には元TBSの吉田明世アナが同局を退社。  加えて、テレビ朝日の宇賀なつみアナ、TBSの宇垣美里アナも3月末での退社する予定で、ここに来てテレビ朝日の小川彩佳アナも結婚を機に同局を退社することを発表している。  近年、増加傾向にある人気女子アナのフリー転身だが、芸能評論家の三杉武氏はこう分析する。 「不景気の中で高い給料水準の民放キー局の局員という安定した立場を捨てることに違和感を覚える向きもあるかと思いますが、女子アナを取り巻く労働環境はかなり過酷です。朝の情報番組に出演する一方、夕方や夜に収録される番組にも出演したりするケースもあり、体力的な消耗も激しい。それでいて勤務中はもちろん、プライベートに至るまで芸能人並みに世間の注目を集める立場ということもあり、日頃から抱えるプレッシャーやストレスも半端ではないですからね」  さらに、テレビ業界を取り巻く不景気も影響を及ぼしていると推測する。 「テレビ業界も不景気でキー局の中でも給料がダウンしているところも多い。一方で、番組制作費が切り詰められていく中、自前の局アナ、とくに人気アナに負担が偏る傾向が強まっています。とはいえ、会社員なのでどんなに成果をあげても飛躍的に収入が増えるということはない。また、人間関係に疲れるという話もよく聞きますね。一見華やかに見えるテレビ業界ですが、番組作り一つをとっても“団体行動”が基本で先輩、後輩などの上下関係が厳しい体育会系気質が強い。アナウンス室もそうした傾向が色濃く、それでいて人気商売の面もあるので社歴と実力が比例しない。先輩や同僚との人間関係に悩むケースも多いそうです」  民放テレビ局の情報番組スタッフも相づちを打つ。 「女子アナがフリーに転身すると、お金目当てというイメージを抱かれやすいですが、実際のところはモチベーションや精神的な要因も大きいと思います。人気女子アナといっても局員の一人ですから華やかな仕事ばかりしているわけではないし、業務内容も自分ではほとんど選べません。“内部”の人間なので、現場での扱いは芸能人などと比べると雲泥の差ですしね。以前にフリーに転身した元局アナが、『自分を大切に扱ってくれるマネジャーさんがいるだけで仕事のモチベーションが全然違う』なんて話していましたが、本音だと思います。キー局の女子アナになるようなコは若い頃からチヤホヤされてきたタイプが多いですし、余計に芸能人との扱いの差を痛感するのではないでしょうか」  インターネット番組などのコンテンツの増加や2020年の東京五輪開催を控えて今後しばらくの間はアナウンサーの需要が拡大するという声もあり、複数の大手芸能事務所がフリー女子アナの獲得に動いているという実情もある。  とはいえ、人気局アナといえども、フリーになってかならずしも成功するとは限らない。 「近年は芸能人のすみわけが曖昧になり、タレントのマルチ化が進んでいますからね。かつては女子アナの代表的な仕事の一つだったテレビ番組のMCやアシスタントといった仕事も女性タレントや芸人、アイドル、モデルなどに侵食されています」  一方で、加藤アナや田中アナが女優業に挑戦したり、元フジの高橋真麻アナがバラエティーで活躍したり、元日テレの脊山麻理子さんがグラビアを中心に活動したりと、女子アナの方もアナウンス業以外のジャンルの仕事にも進出しているが、そう簡単ではない。 「アナウンス技術というのは女子アナの一つの武器ではありますが、それだけで芸能界で勝負していくのはラクではないですからね。結局は女子アナ本来の業務の枠を超えて、いちタレントとしてキャラクターや特技、趣味、学歴などの個性を活かしていくことになるでしょう」(前出の三杉氏)  となると、新たにフリー転身を果たす女子アナたちに勝算はあるのか?  テレ朝時代は主に報道番組を担当していた小川アナ、宇賀アナの2人に関しては、公私のすみ分けがカギを握りそうだという。 「過去に結婚を機にテレビ局を退社した女子アナの多くは独身時代よりも仕事をセーブし、家庭を優先する傾向が強く、小川アナもしばらくの間はその可能性が高いのではないでしょうか。宇賀アナに関しても、1月に同番組で自身の退社を公表する際、今後について『まずは朝明るくなってから起きて、(羽鳥慎一の)モーニングショーを見たり、夜に家族とご飯を食べて報道ステーションを見たり、今まで出来なかったことをしてみたい』と話していたのが印象的でした。局アナ時代は生活リズムが特異な夜の生放送番組や早朝の生放送番組を長く担当していましたし、結婚&フリー転身を機にいわゆる普通の生活を送ってみたいという願望が強いように思われます」  そのうえで、「とはいえ、2人とも報道番組での実績があるのは大きな武器。近年とくに需要が高まっている即戦力の女性の報道キャスターとして人気を集めるのは間違いないでしょう」(三杉氏)  元TBSの吉田明世アナについては、「昨年5月に第1子となる女児を出産しており、しばらくは育児中心の生活になるのではないでしょうか。アーティストや俳優、女優、タレントをはじめ、近年はアスリートや文化人などのマネージメントにも力を入れている大手芸能事務所の『アミューズ』が仕事の窓口なら選べる仕事の幅も広く、私生活優先の融通も効くでしょうしね」(前出の民放テレビ局情報番組スタッフ)  また、米倉涼子や上戸彩、武井咲などが所属する芸能事務所「オスカープロモーション」入りが濃厚とされている宇垣アナに関しては、こんな話もある。 「『オスカー』にはTBSの先輩の小島慶子さんやリサ・ステッグマイヤーさんなどキャスターも所属していますが、宇垣さんは局アナ時代からグラビアに挑戦したり、コスプレ姿を披露したりしていましたし、雑誌でコラムを連載したりしていましたからね。自己プロデュース能力の高さを発揮したタレント活動のほか、事務所のパイプを活かしての女優業進出などが噂されています」(同情報番組スタッフ)  フリー転身を機にさらなる飛躍が期待される人気女子アナたちだが、果たして勝ち組となるのは誰か?(平田昇二)
dot. 2019/02/15 17:00
ブルース・スプリングスティーンが小劇場で語った希望と夢
小倉エージ 小倉エージ
ブルース・スプリングスティーンが小劇場で語った希望と夢
米ロック界を代表する「ボス」ことブルース・スプリングスティーン 語りの部分の翻訳付きの『スプリングスティーン・オン・ブロードウェイ』(ソニー・ミュージック SICP5997~8) 手書きのセットリスト ブルース・スプリングスティーンはグラミー賞に通算50ノミネート、20回受賞している  ブルース・スプリングスティーンのブロードウェイでの公演は大絶賛された。会場は、座席数975という小規模なウォルター・カー劇場。ブロードウェイと言えばミュージカルの本場だが、彼の曲をミュージカル化したわけではなかった。単なるコンサートでもなかった。「私、ギター、ピアノ、そして言葉と音楽だけです」とブルース。その特別なライヴを収めたアルバム『スプリングスティーン・オン・ブロードウェイ』を紹介しよう。  ブルースが『アズベリー・パークからの挨拶』でデビューしたのは1973年。ボブ・ディランの再来と言われ、シンガー・ソングライターとして一定の評価を得た。同年に2作目『青春の叫び』を出したが、いずれも成功とは言い難い結果に終わった。  ブレークしたのは、3作目の『明日なき暴走』(75年)。アルバム・チャートの3位に躍り出た。活動の拠点は、バーやクラブからアリーナに移り、ベストセラー『ボーン・イン・ザ・U.S.A.』(84年)を発表する頃にはスタジアムでのコンサートが主体となっていた。  それだけに小劇場での公演は大きな話題を集めた。2017年10月にスタートした公演は8週間の予定を大幅に延長し、翌年12月の最終公演までに236回に及んだ。動員数は約22万人にのぼった。その模様を収めた映画『スプリングスティーン・オン・ブロードウェイ』(トム・ジムニー監督)がつくられ、サウンド・トラック盤も発売された。  公演の下敷きになったのは、先に出版されてベストセラーとなっていた『ボーン・トゥ・ラン ブルース・スプリングスティーン自伝』。ブルース自らスクリプトを手がけたモノローグによるイントロダクション、それに即して、ギター、ピアノの弾き語りによる曲を演奏するという趣向だ。  ブルースの語りで始まる。“俺はレース・カーを走らせる反逆者でもストリート・パンクでもなく、アズベリー・パークのあちこちで演奏するギター奏者だった”“でも俺には4つの紛れもない切り札があった。若さ、バー・バンドで10年鍛えた筋金入りの経験、俺の演奏を熟知している凄腕のミュージシャンと友達、それに魔法だ”。ここで、デビュー作収録の「成長するってこと」を歌う。  歌の途中で再び語り出す。ろくに勤めの経験もないのに工場労働者のことを歌ってきたのは“全部作り話、でっち上げだ”と明かし、笑いを誘う。  生い立ちを語り、7歳のときにエルヴィス・プレスリーを見た衝撃がすべての始まりだと述懐する。母親にギターをねだったが、買う余裕がなくレンタルした。2週間レッスンを受けたが難しすぎてやめてしまった。ギターを返す日に、近所の子どもたちの前でギターを弾くまねごとをしながらデタラメな歌を歌ったのが、人生初のコンサートだった……という少年時代にも触れる。  ピアノに移り、両親や妹、祖父母のほか、近隣に暮らす大勢の親族に囲まれて育った思い出を語り、「マイ・ホームタウン」を歌う。幼少期から過ごしてきた街がさびれ、そこから出ていく決意を固めた一家の物語だ。  父親の思い出も語る。父は“特権的でプライベートな聖地”であるバーに入り浸っていた。母に命じられて父を迎えに行った回想のあと、「僕の父の家」をささやくように歌い始める。  勤勉な弁護士秘書だった母については、“仕事から家に歩いて帰る母の姿に、俺は強い影響を受けてきた”と語る。そして歌われる「ザ・ウィッシュ」。  19歳のとき、ブルースは故郷を離れる。その最後の夜、引っ越しの荷物を運ぼうとして警察にとがめられた話を明かし、歌うのは「涙のサンダー・ロード」。コンサートで誰もが口ずさむ“少しは信じよう 夜には魔法がある”という一節はもちろん、最後の“街は負け犬でいっぱい でも俺は勝つためにここから走り抜ける”という旅立ちの宣言が印象深い。 ニュージャージー沿岸で多少知られた存在になったが、何かが起こる気配はなかった。業界人が自分を見に来たが、恋人を寝取られただけで終わった。西海岸での仕事を得て、クルマで大陸を横断することになるのだが、免許がなかった……そんな実話に続いて「プロミスト・ランド」の演奏に移り、“俺は約束の地を信じている”と歌われる。  そして、ブルースの名声を高めた『ボーン・イン・ザ・U.S.A.』。ベトナム帰還兵との出会い、戦死したバンド仲間の話など表題曲の背景を語る。ブルース自身も徴兵検査を受けたが、徴兵は逃れた。時々“俺の代わりに誰が行ったのか”という思いに駆られると言い、歌い始める。オリジナルとは異なり、12弦ギターをスライド奏法で弾きながら、カントリー・ブルース・スタイルで、帰還兵の苦悩をうめくようにして歌う。  1+1が2でなく、3となるのがロックンロールに不可欠な方程式――。そう力説したうえで、Eストリート・バンドの誕生物語「凍てついた十番街」を歌う。かけがえのないバンド仲間だったサックス奏者、亡きクラレンス・クレモンズの思い出も語られる。  ゲストに妻のパティ・スキャルファを迎えて「タファー・ザン・ザ・レスト」「ブリリアント・ディスガイズ」をデュエット。仲むつまじい2人だ。  アメリカの民主主義のあり方を問いかけ、キング牧師の言葉を語り、歌われる「ザ・ゴースト・オブ・トム・ジョード」は、トランプ大統領の移民政策への抗議を込めたもの。9・11同時多発テロに触発され、消防士を描いた「ザ・ライジング」へと続く。  ブルースが自身の存在理由を問い、歌に託した思いを語ったうえで「ダンシン・イン・ザ・ダーク」の演奏を始めると、シリアスな雰囲気が一転して明るくなり、「ランド・オブ・ホープ・アンド・ドリームズ」を歌い継ぐ。  アンコールでは、亡くなっても消え去ることのない“魂”の存在、生家の思い出の木が切り倒されたのを悼みながら、ふと口を突いて出たというかつて学んだ祈りの言葉を語り、パワフルでダイナミックな「明日なき暴走」で締めくくる。  ブルースはライヴ・アーティストとしての評価が高い。これまで多くのライヴ作品を残してきた。だが、本作はそれらとは一線を画す。シンプルなギター、ピアノの弾き語りによる歌、演奏は説得力にあふれる。  自虐的なユーモアのほか、生まれ育った街、旅の情景、両親、バンド仲間などの人物像の描写の精緻な巧みさは、“でっち上げ”という語りぶりさながらに、ストーリー・テラーとしての面目躍如たるところだ。脚本通りとは思えない自然な語り口に引き込まれる。  本公演を収めたCDはファン必携であり、聴き逃せない。(音楽評論家・小倉エージ)
週刊朝日 2019/02/15 16:00
鉄道模型撮影の深すぎる世界 「ジオラマ作成とNゲージの撮影は一期一会」
鉄道模型撮影の深すぎる世界 「ジオラマ作成とNゲージの撮影は一期一会」
東北・上越新幹線の開業に伴って行われた昭和57年11月のダイヤ改正では、上野発の在来特急が大量に廃止された。改正前日、上野駅には別れを惜しむファンが押し寄せたが、そのようすを再現したカットだ。「俺もこの中にいたよ」。専門誌掲載後にそんな声が多数寄せられた(写真/金盛正樹)  子どものころから鉄道模型に憧れていた鉄道ファンは多いだろう。実物そっくりな機関車、貨車、鉄橋、駅舎等々に心ときめかしたことがあるはずだ。鉄道模型にはディープな独特の世界が漂っている。「アサヒカメラ」2月号では、鉄道模型撮影の世界を特集。Nゲージ鉄道模型の撮影などを行っている金盛正樹さんが解説する。 *  *  *  私の鉄道写真には2本の柱がある。一つはごく一般的な実物の鉄道を撮ること。そしてもう一つが鉄道模型の撮影である。今回は後者の鉄道模型をより本物らしく撮る方法について、紹介してみたい。  一口に鉄道模型と言っても、世の中にはさまざまな線路幅、縮尺のものが存在する。私はその中で、日本で最も普及しているNゲージと呼ばれる規格の鉄道模型を撮影している。縮尺1/150、線路幅9ミリ。実物で全長20メートルの車両が、たった14センチほどになってしまう小さな模型である。線路はもとより、駅や建築物、樹木や人形に至るまで、大小複数のメーカーから豊富な部材が発売されており、システム的に非常に充実している。私はこのNゲージの鉄道模型撮影に二十数年にわたって携わり、その間、メーカーの広告やカタログ、鉄道模型専門の雑誌や書籍の撮影を行ってきた。特に現在百数号が発行されている「N(エヌ)」という専門誌(イカロス出版刊)は、創刊から最新号に至るまで表紙と巻頭特集のメーンカットのほとんどを担当しており、私の代表作といっても過言ではない。さらに2016年にはキヤノンギャラリーで、おそらく前例のないNゲージをモチーフにした写真展「1/150の鉄道世界」を開催した。 モチーフは昭和40年代の上越線。24ミリのシフトレンズを用い、手前の列車全体にピントが合うよう、アオリ機能を生かしている(写真/金盛正樹) ■ジオラマ作成と撮影は一期一会  ところで鉄道模型の撮影と聞いて、どのような写真を思い浮かべるだろうか? 車両をきっちりと撮るカタログ的な製品写真だろうか? もちろんそういった撮影もしているが、私が力を入れて取り組んでいるのは、風景の中の鉄道を表現した、いわゆるジオラマ写真である。ライティングや部材の配置を工夫して、どこかに実際にありそうなシーンに仕立てるのである。大概の場合、私には「海際を走る〇〇系電車」「深夜の駅を発車する寝台特急△△」といったザックリしたテーマが与えられるだけである。 新宿―大久保・新大久保間の山手線と総武・中央線が分離する辺りを再現している。時代は昭和50年代後半。24ミリ改造ピンホールレンズに1.4倍テレコンバーターをつけて撮影している(写真/金盛正樹)  そのキーワードから頭の中でイメージを構築し、それを具現化していくのである。最初の頃は専門家が制作してくれたジオラマを使用して撮影していた。しかし手先の器用さには多少の自信を持っていたことと、何でも自分でやりたい性格から、徐々に撮影用のジオラマ作りのコツを習得し、今では撮影に必要な風景は自分で作成するようになった。とはいうものの、展示に堪えうるきっちりとしたジオラマを作るわけではない。撮影台の上に線路、建物、樹木……といった部材を仮置きして一時的な風景を作るだけである。 「たくさんのジオラマをお持ちなんですね」と私の写真を見た人からよく言われるのだが、もしそうなら、あっという間に家はジオラマで埋め尽くされてしまう(笑)。レンズ前の風景はシャッターを切った途端に、次のカットを撮影するために壊されてしまう。まったく同じ風景をもう一度作ることはできない。そういった意味では、実物の鉄道写真同様、私のNゲージの撮影は一期一会なのである。 脱線した車両を復旧させるための訓練シーン。しかしこのような訓練が実際にあるかは不明。想像を形にできるのも、模型写真のおもしろいところ(写真/金盛正樹) ■実物ではありえない撮影も可能  今ではその奥深さ、おもしろさにどっぷりと浸っている私だが、当初は実物の鉄道ほどには撮影を楽しむことができず、模型のNゲージのほうはあくまで仕事、と割り切って撮影に臨んでいた。ところが経験を重ねていくうちに、実物の鉄道写真ではかなわないNゲージ撮影でしか得られない魅力、例えば季節や時間を好きに設定できる、実物ではありえないアングルから撮ることができる、実際には一緒になることのない車両を時空を超えて並べることができる、といった魅力に気づくようになったのである。  そして私の中で両者は互いに補完し合う関係になっていった。実物の鉄道を撮るときに見た風景、得た知識や感動をNゲージ撮影に反映し、Nゲージ撮影で試みたフレーミングやライティングを実物撮影で実践してみる。このようなやり取りが自然になされるようになったのである。いまや私が写真を高めていくうえで、両者は切っても切れない関係になっている。  これからも大谷選手よろしく、鉄道写真界の二刀流を貫いていきたいと思っている。 夜行列車「ムーンライトえちご」が朝を迎えた。青色のセロハンをかけたライトと、オレンジ色のセロハンをかけたライトの光をミックスさせて、朝焼けを作り出している(写真/金盛正樹) ■そろえておきたい機材とコンピューターソフト  先に述べたように私が撮っているNゲージは、線路幅がたった9ミリという小さな模型である。車両断面はカメラのレンズ口径よりも小さく、マクロ撮影の領域に入る。そのため撮影機材の面でも技術面でも、実物の鉄道撮影とは大きく異なる。  まず撮影機材ではマクロレンズが必須である。私は50ミリマクロと100ミリマクロを常用している。しかしこれだけでは画角のバリエーションが乏しいので、広角レンズや望遠レンズを近接で使えるように接写リングも多用している。  ところで近接撮影というのは、被写界深度が非常に浅くなってしまう。いくらマクロレンズの最大絞り値(私の使用しているレンズではf32)まで絞り込んでも、被写界深度の浅い写真になってしまう。そうするとリアリティーのある鉄道風景には見えなくなってしまう。そこでアオリ機能で奥までピントを合わせることのできるシフトレンズも不可欠となる。しかしシフトレンズは非常に高価なため、焦点距離の異なるものを何本もそろえることは困難なので、私は所有している24ミリのシフトレンズにテレコンをつけて画角を調節している。 (写真左)雪景色を行く北海道のディーゼル特急「スーパーとかち」。車両のわきの雪の塊の質感に注目してほしい。雪は全て片栗粉である(写真右)有明海をバックに博多を目指す特急「有明」。エンボス状の表面を持つ透明ビニールシートに、空の青色を反射させて海を表現している(写真/金盛正樹) ■特殊機材とパソコンでイメージに近づける  もう一つ、私にとって重要なレンズがある。でもそれは市販されていない、この世に1本だけのレンズである。こんなふうに言うと、どれほど高価なレンズなんだろうと思われるかもしれないが、AFが普及する以前の時代に、某レンズメーカー(現在はマニアックなラインアップで、クラシックカメラファンを中心に支持されている)が発売していた24ミリの単玉、購入価格なんと9千円である。これを一度分解し、絞り羽根が機械的限界まで絞り込めるようにした、改造ピンホールレンズである。f90近くまで絞れるので、近接撮影でもパンフォーカスに近い写真が得られる。ただしこれだけ絞り込むと、光の回折効果で絞りボケが起こってしまうが、そのデメリットよりも、奥までピントが合うメリットのほうが作画上重要ということで多用している。こちらにも画角調節のために、テレコンをつけて使用している。  またパソコンもなくてはならない機材の一つと言える。ソフトによる後処理なしには、写真が完成しないからだ。フォトレタッチソフトで色やトーンの調整をするほか、車体についたゴミを消したりもする。目に見えないゴミも、大きく写ってしまうのだ。さらに場合によっては合成をすることもある。実物の鉄道写真では、「あるもの」を消したり、「ないもの」を合成で加えたりするのはタブー視されているが、模型ではためらいなくできるので、模型撮影ならではのおもしろさとも言える。  このように特殊機材とパソコンによる後処理の併用で、よりイメージに近くリアリティーのある写真を作り上げることができるのである。 秋の福知山線をイメージしたカット。実際にこのような風景があるかわからないが、かつてこの路線に乗ったときの印象から想像して作り出した(写真/金盛正樹) ◯金盛正樹(かなもり・まさき)/1967(昭和42)年神戸市生まれ。千葉大学工学部画像工学科卒。中学生のときに友達の誘いで、鉄道を撮り始める。大学卒業後、商業写真プロダクション「ササキスタジオ」に7年在籍。96年からフリー。鉄道専門誌や一般誌の鉄道企画に写真を発表する傍ら、Nゲージ鉄道模型の撮影も行っている。日本鉄道写真作家協会(JRPS)会員。 ※「アサヒカメラ」2月号から抜粋
アサヒカメラ鉄道
dot. 2019/02/12 11:30
50代ひきこもりのゴールは「就労」ではない “折り返し”に大切なこと
黒川祥子 黒川祥子
50代ひきこもりのゴールは「就労」ではない “折り返し”に大切なこと
ひきこもりは長引くほど一歩踏み出すのが難しくなる(撮影/岸本絢) 「高齢者と未婚の子」世帯が急増(AERA 2019年2月11日号より)  80代の親が50代のひきこもりの子を養う「8050問題」が深刻だ。そこには、いかなる構図が存在するのか。ライターの黒川祥子氏が追った。 ※「50代ひきこもりと80代親のリアル 毎年300万円の仕送りの果て」よりつづく *  *  *  開業医の長男として生まれたその男性(51)は、髪は後退して白髪も目立つが、長年ひきこもっていたとは思えない、清潔で爽やかな印象だ。  暴君である父の「医者になれ」という、時に暴力も伴う「教育虐待」のもと、男性は成長した。  2浪して合格したのは、教育学部。教員採用試験に受からず、塾講師をしながら勉強を続けたが、27歳の時に心が折れ、体が動かなくなり、ひきこもった。 「昼夜逆転の生活です。将来を考えてもつらくなるだけなので、考えることを放棄しました」  仕送りで生きていたが、31歳の時、母親の勧めで家に戻った。 「少し休めば気力も湧くかと思ったのですが、どんどん落ちていくばかり。次へ踏み出せない」  母は支援機関や精神科医などへ相談に出向くものの、近所には息子の存在を隠し続けた。 「母に、『この先、どうなるの?』と言われるのがつらいし、父への恐怖もあり、2階の自室からなるべく出ないようにしました」  30代半ば以降、誕生日を敢えて意識しないようにした。  38歳の時、母が探してきたNPOに勧められるまま出かけ、「ひきこもりだけで作る本屋」のオープニングスタッフになった。その後、同NPO代表の紹介で非常勤講師として公立小学校の教員になり1年、勤務した。 「自分は流されてしまうんです。教員なんて激務は無理だった。言われるがまま引き受け、ダメになってしまう。心がもたない」  41歳でひきこもりに舞い戻り、49歳まで自室からほとんど出ない生活を送った。 「今は両親がいるから、食事もできるし生きていける。こんなの、続くわけがない。破綻する」  不安でたまらなかったが、考えることを先延ばしにしていた。親の家を出たきっかけは、母が出会った支援者の存在だ。 「絶対に会いたくなくて、ずっと拒否していました。でもその人は、僕の今を否定しなかった。むしろ『どうやったら、快適にひきこもれるか、考えようよ』と。そう言われた時、はっきり思ったんです。僕は、親の家でなんか、生きていたくないって」  男性は単身アパートを借り、生活保護を受けた。今は週4日、5時半に起床し、夕方まで遺跡の発掘調査のバイトを行う。生活保護という下支えは必要だが、充実した日々だ。 「自分に合っている仕事だと思います。面白いし、やりがいを感じています。学芸員の資格を取ろうかとも思っています」 長年、ひきこもりの支援を続け、8050当事者の支援も行う、NPO法人の代表の男性(68)は、「就労」がゴールではないと言う。「50世代」には実際、こう声をかけていく。 「確かに、もう若くはない。でも折り返しだよね。生きたかった『わたし』を、ちゃんと生きてみようよ」  親元から離れて、自分をどう生きていくのか、一緒に考えていくプロセスこそが重要だと、男性は考えている。  8050のありようは、家族の数だけさまざまだ。しかし、当事者家族に出会うたび、男性はこう思えて仕方がない。 「家族だけで、閉じた結果の病のように思えます。とにかく家族だけでは立ち行かないのに、外へSOSを出すことが恥だという文化があり、親自身が行き詰まってやむなく助けを求めるという構図です。そこに、ここまで長期化した原因がある」  いまの70~80代の親たちはなまじ養える財力があり、世間からひた隠しにされ、人生を台なしにされた中高年ひきこもり。高度経済成長期とバブル期を経た家族の、一つの行き着き先をここに見る。  生活困窮者自立支援法が施行されたのは15年。自治体の40代以上のひきこもり支援はようやく始まったばかりだ。(ライター・黒川祥子) ※AERA 2019年2月11日号より抜粋
シニア
AERA 2019/02/12 07:00
50代ひきこもりと80代親のリアル 毎年300万円の仕送りの果て
黒川祥子 黒川祥子
50代ひきこもりと80代親のリアル 毎年300万円の仕送りの果て
イラスト:飛田冬子 「高齢者と未婚の子」世帯が急増(AERA 2019年2月11日号より) 「8050問題」。ひきこもりが中高年に達し、親の高齢とあわせて深刻な社会問題として浮上している。高度経済成長期とバブル期を経た家族の、ひとつの行き着き先がここにある。ライターの黒川祥子氏がレポートする。 *  *  *  首都圏近郊、高度経済成長期に山を切り開いて開発された、高級住宅地。その一角に、伸び放題の庭木に覆われた家がある。  1975年に大手企業の営業職に就く父(当時43歳)が、1千万円かけて、設計にこだわって建てた注文住宅だ。1階には15畳のキッチンダイニング、2階のベランダは15畳という贅沢さ。65坪の敷地に約40坪の建物と、庭も十分に広い。ここで専業主婦の妻、15歳の長男、13歳の長女、9歳の次女の一家5人が「理想の暮らし」を始めたのだ。  それから43年、無人となったその家に昨年夏、私は足を踏み入れた。土足で入るしかない荒れた室内。ツーンと鼻腔を突く、饐(す)えた臭い。カビが生え腐ったダイニングの床。ぼろぼろの壁や天井、1階も2階も床が朽ち、不気味な色に変色している。  2013年から、一家の次女(52)が一人で占拠していたその家は、たった5年間で夥(おびただ)しいごみ屋敷となり、ごみが運び出された後であっても、吐き気がこみ上げる空間と化していた。  次女は20代後半から自宅にひきこもり、母(91)と姉(56)に暴力をふるうため、2人は03年にアパートに移り、10年後、父親も次女との生活から逃げ出し、今は3人で3DKのマンションで暮らしている。  高度経済成長期とバブル期をエリートサラリーマンとして駆け抜けた父親は、家や子どものことは専業主婦である妻に任せ、接待飲食やゴルフ、旅行などに明け暮れてきた。早朝に家を出て帰宅は深夜という、当時の父たちに共通する典型的な“モーレツ社員”。しかも、年収1500万円という高所得者だ。  教育熱心な妻は女も手に職を持つべきだという考えで、音楽で身を立てさせようと、2人の姉妹に幼い頃から楽器を習わせた。マイホームに「音楽室」を作ったのは、妻の強い意向だ。  長女は挫折し、それが原因でうつ病を患った。一方、次女は音楽講師の資格を得て、全国に教室を持つ会社に就職し、教室を任されたものの、独善的な指導法で生徒が離れ、会社ともめて20代後半に辞職。以降、社会との接点を一切、断った。  次女について、父親が外部に助けを求めたのは、それから20年後のこと。妻の介護を担う「地域包括支援センター」の保健師のアドバイスで、生活困窮者自立支援事業の窓口に駆け込んだ。 「妻にがんが見つかり、長女の治療費もかかり、株を売り、退職金でしのいできましたが、お金が底をつきました。年金だけでは、暮らしようがない」  次女を家から出し、家を売って当座の金を作るのが、一家が生き延びる唯一の道だった。  きらびやかな装いで相談室に現れる次女は、支援員に訴えた。 「私が働けないのは、家族のせいなんです。だから私は働かなくてもよくて、家族が私を食べさせるのは当然のことなんです。私の20年を返してほしい」  次女は父親に、月5万円の仕送りを要求し、食事は父親名義の携帯でケータリングを取り、父親が代金を支払っていた。  父親は、家族が次女にいかに苦しめられてきたかを訴える。 「母や姉に暴力をふるう。怒って興奮すると一晩中でも怒鳴り散らす。だから、2人を逃がしたんです。僕は次女と暮らしていましたが、台所も風呂も使わせてもらえず、一晩中説教される生活に耐えきれず、家を出ました。家賃だけで、退職金の1千万円を使い果たしました」  父と娘──両者の言い分は一切、交わらない。 「私は親の決めたことをやらされ、振り回されてきたんです。父に道を押し付けられてきた。こうなったのは、親のせいです」  モーレツ社員で“イケイケ”だった父親は家庭の中で、強い父=専制君主だったのではないか。だから次女もピアノ教室で専制君主のように振る舞った。それがこの家の「文化」だった。強さに立ち向かえなかった姉が心を病んだのも合わせ鏡だ。  17年12月末、次女は支援員の説得で家を出た。アパートは既に確保してあり、生活保護を受給して暮らすのだ。次女が去った家には、ケータリングの残骸が足の踏み場がないほど、うずたかく積み上がっていた。 「8050問題」「7040問題」という言葉がある。80代の親と50代のひきこもりの子、70代の親と40代のひきこもりの子を指すのだが、ひきこもりが中高年に達し、親の高齢問題と併せて、ここにきて深刻な社会問題として浮上している。  内閣府の「若者の生活に関する調査」(16年)によれば、ひきこもりの「若者」は全国に54万人いるという。ここには40歳以上は含まれない。「若者」とは39歳以下を指すからだ。  では、40歳以上のひきこもりは実際、どれくらいいるのだろう。山形県のひきこもり調査(13年)では、40歳以上のひきこもりが全体の44%と半数に迫り、島根県の調査(14年)でも、ひきこもりで最も多い年代が40代で、40歳以上は53%、佐賀県の調査(17年)でも40歳以上の割合が71%となった。  機械的に当てはめれば、40歳以上のひきこもりは、全国に70万人近くも潜在していることになる。  その男性(52)は、実年齢より10歳は老けて見えた。髪は後退し、前歯は1本しかない。歯がないため空気が漏れて言葉が聞き取りにくく、唾があふれるのを拭いながらの会話には、不自然な間がある。  男性がひきこもりとして支援対象となったのは2年前、84歳の母と48歳の妹が生活困窮者自立支援窓口に駆け込んだからだ。母と2人で暮らしていた男性は働かず、金の無心を続けていたが、ささいなことから激高して母の首を絞め、これがきっかけで相談につながった。  夫と子ども2人と暮らしている妹には、強い危機感があった。 「母がこのまま兄の言いなりで面倒を見続けるなら、縁を切るつもりです。母亡き後、兄の面倒を見るなんてとんでもない。兄とは一線を引いておきたい」  父親は大手ゼネコンの幹部で、東京近郊の高級住宅地の豪邸で、裕福に暮らす家族だった。  男性は名古屋の大学に進学、卒業後「もう少し勉強したい」と願い出て、父は結局、毎年300万円の仕送りを死ぬまでの20年間続けた。男性は40代半ばまで働きもせず、好き勝手に暮らしていた。父の死後は家に戻り、母親と暮らすが、金の無心が続く。母は家を手放し金を作ったが、引っ越し先のマンションも売った。男性は金を手にすれば、盛り場で散財する。  厚生労働省のガイドライン(10年)によれば、「他者と交わらない外出」も新たなひきこもりの概念とされたため、男性も20代からのひきこもりとなる。  支援員は母親に強く迫った。 「お母さんは家を出てください。絶対に戻らないでくださいね。お金を渡しちゃダメですよ」 「わかりました」と家を出ても、母は息子の元に戻ってくる。 「私がいないとダメなの。あの子、気立てがよくて、長男としての意識も高いのよ」  父の遺産相続金250万円を渡す時も、「条件をつけて」と忠告されたのに、母は「いい? これが最後よ」とあっさり渡し、男性は3カ月で使い果たす。  支援員や娘の説得と自身にがんが見つかったことで、母は息子と別れる覚悟を決めた。  男性は今、生活保護を受給してアパートで暮らし、早朝の3時間、宅配便の仕事をしている。  この両親の子育ては、金を渡して終わりと言っていい。息子をコントロールできないだけでなく、自分すらコントロールできない「甘い母」は渡す金が尽き、ようやく息子を手放した。  長年、ひきこもりの支援を続け、8050当事者の支援も行う、NPO法人代表の男性(68)はこう語る。 「50代のひきこもりに共通しているのは、親に振り回されてきたということ。親はそんなつもりはないと言うが、過剰に期待を寄せたり、一つの価値観で道を決めたり、子どもの生き方の多様さを認めてこなかったわけです」  だから、親の敷いた道から外れた時、他に選択肢がなくひきこもらざるを得なかったのか。  中央大学教授の山田昌弘さん(家族社会学)はこう話す。 「親が支えるという構造は、パラサイトシングルと一緒。家族以外に支えるところがないから。すべて、家族で処理してくれというのが日本社会です」 (ライター・黒川祥子) ※「50代ひきこもりのゴールは『就労』ではない “折り返し”に大切なこと」へつづく ※AERA 2019年2月11日号より抜粋
シニア
AERA 2019/02/12 07:00
エミリー・ブラントが明かす 「メリー・ポピンズ」続編で“魔法の呪文”が不要な理由
エミリー・ブラントが明かす 「メリー・ポピンズ」続編で“魔法の呪文”が不要な理由
エミリー・ブラント(Emily Blunt)/1983年、イギリス・ロンドン生まれ。2003年に映画デビュー。「プラダを着た悪魔」(06年)でハリウッドに進出してブレーク。「ヴィクトリア女王 世紀の愛」(09年)、「オール・ユー・ニード・イズ・キル」(14年)、「イントゥ・ザ・ウッズ」(15年)、「ガール・オン・ザ・トレイン」(16年)など出演作多数。18年は夫ジョン・クラシンスキーの監督作「クワイエット・プレイス」で主演をつとめ、大ヒットを記録した。55年ぶりに製作された名作映画の続編「メリー・ポピンズ リターンズ」に主演、全国で公開中。(撮影/馬場道浩 アートディレクション/福島源之助+FROG KING STUDIO) 映画「メリー・ポピンズ リターンズ」(c)2019 Disney Enterprises Inc.All rights reserved.2月1日(金)全国ロードショー 映画「メリー・ポピンズ リターンズ」(c)2019 Disney Enterprises Inc.All rights reserved.2月1日(金)全国ロードショー  ジュリー・アンドリュース主演の名作映画「メリー・ポピンズ」(1964年)が、55年の時を経てスクリーンに蘇った。公開中の「メリー・ポピンズ リターンズ」で、“すべてにおいてほぼ完璧”なナニー(ベビーシッター兼家庭教師)を演じたエミリー・ブラントに、その舞台裏を明かしてもらった。 *  *  * ──まさに“すべてにおいてほぼ完璧”なメリー・ポピンズでした。どうやって役にアプローチを?  メリー・ポピンズは非常に偶像的な存在。ジュリー・アンドリュースが演じたキャラクターに敬意を払う必要もあったし、自分なりの新しいメリー・ポピンズを演じる勇気を持つ必要もありました。でも原作を読んだら、オリジナルの映画とは違って、エキセントリックな変人で、空想的な人物ではあるけど、より厳格で堅実だった。原作を読むことで、彼女をどう演じるかについて、はっきりとしたイメージが持てました。 ──これまでに原作を読んだことは?  一度もなかったんです。このキャラクターに関して7冊も本が書かれていることすら知らなかった。読んでみたら、さらなる魔法と、さらなる冒険があって、子どものときオリジナルを見たのと同じくらい気に入ってしまって。だから、役づくりのためにオリジナルを見直すのはやめようって決めたんです。ジュリー・アンドリュースを演じるのではなく、彼女の演技に影響を受けるのでもなく、私自身のメリー・ポピンズを本能で演じようって。 ──オリジナルを最初に見たのは?  たぶん6、7歳のときね。 ──では最後に見たのは?  最後に見たのは、じつは撮影が終わった後なんです。大人になって初めて見たんだけど、あまりにもすばらしくて、自分で演じる前に見なくてよかったってホッとしたわ(笑)。一緒に見ていた上の娘も釘付けになっちゃって、結局、娘は2人ともオリジナルも私のバージョンも両方見たんです。 ──娘さんたちはなんと?  娘たちは変な感じがしたみたい。ママがメリー・ポピンズだなんて(笑)。上の娘には、ママは空が飛べるの? って聞かれたわ。もちろん飛べないんだけど(笑)。自分の子どもたちが、私が仕事として何をしているのか、キャラクターを演じていること、映画をつくろうとしていることを理解しようとしてくれたのは、不思議な感じでした。 ■人前で歌うのは今も恥ずかしい ──娘さんたちは何歳?  上の娘が5歳で、下の娘は2歳半よ。じつは下の娘には昨夜初めて主人(映画監督のジョン・クラシンスキー)が見せたんだけど、とても気に入ってくれたの。私はいままで「クワイエット・プレイス」とか、「ガール・オン・ザ・トレイン」とか、子どもは見られない映画にたくさん出てきたから、これは娘たちが楽しめる最初の私の映画なんです。うれしいわ。 ──ご自身が子どもの頃、メリー・ポピンズがいたらなと思ったことは?  じつは、私にとっては祖母がメリー・ポピンズだったんです。魅力的で、変わっていて、エキセントリックで。とても美しい絵を描くアーティストで、いつも創造的な話をしてくれた。それに、冷蔵庫の三つの食材からおいしい料理がつくれる人で、私には魔法のように思えた。愛情深くて、希望に満ちていて、私の人生にとって祖母は非常に大きな存在でした。 ──では、人生において、メリー・ポピンズの魔法の呪文「スーパーカリフラジリスティック~」を唱えたくなったことはなかった?  ないわ!(笑) その質問は気に入ったけど、じつは、新作では、その呪文は唱えていないのよ。 ──なぜ今作では、魔法の呪文は必要なかったのでしょうか?  続編をつくるにあたって、そこが核心だったからだと思います。「スーパーカリフラジリスティック~」は、オリジナルの映画でとても象徴的な曲だから。ロブ・マーシャル監督がやろうとしたことは、エレガントな気配を生かしながらオリジナルの映画を称賛すること。大切な場面で、「タコをあげよう」とか「お砂糖ひとさじで」といった曲が、オーケストラで流れるんですよ。最初の作品をそのまま使うのではなく、同じ精神を生み出すのに使ったの。新作には新しい楽曲がありますしね。 ──その新しい楽曲を、7曲歌っていらっしゃいますね。2014年に映画「イントゥ・ザ・ウッズ」(*1)で初めて歌声を披露されたときは、人前で歌うなんて恥ずかしい、とおっしゃっていたと思いますが。  もちろん今も恥ずかしいわ! でも助かったのは、メリー・ポピンズの歌い方が、私自身の歌い方とは違うこと。声の出し方も違うし、アクセントも、歌い方も特殊だし。キャラクターになりきることができれば、自分を引き離してとらえることができるから。でも誰かに今、私のために一曲歌ってくれって言われたら、断るわ(笑)。人前で歌うのは本当に苦手です。 ──メリー・ポピンズの歌い方を生み出すために、本格的なボイストレーニングに励まれたと聞きました。  ええ、15年の8月にロブ・マーシャル監督から出演のオファーをいただいてから、ずっと取り組んできました。1年以上歌と向き合う時間があったから、曲が骨にまで染み入ってとても慣れ親しんだし、大好きになれた。幸運にも、2人のすばらしい歌の先生に出会えて、技術的にとても助けてもらえたし、ロブ・マーシャル監督もまた、私にどのように歌に取り組むかを教えてくれました。声の体操じゃない、歌で物語を語るんだ、完璧に聞こえるかどうかを気にする必要はない、って。それで私も気づいたの。たとえばライザ・ミネリは、歌が可愛く聞こえるかどうかなんて気にしていない。彼女が物語を語ってくれるから、歌を聞いた私たちはライザと一緒に旅に出ることができる。私がいいなと思うすばらしい歌手はみんな、完璧に聞こえるからじゃなくて、何かを伝えてくれるからなんだ、って。 ──新作の曲のなかで、好きなのは? 「The Place Where Lost Things G o(幸せのありか)」(*2)という、亡くなったお母さんを恋しがる子どもたちに歌うバラードが、とても感動的でした。歌われているのは、「永遠に続くものはない」「今ここにいないだけ」という、子どもたちにも理解できる、喪失と向き合うための美しいメッセージです。メリー・ポピンズのいちばんやさしい、愛情あふれる顔が見られる瞬間でもあると思います。 ──ところで、エミリーさん自身も“すべてにおいてほぼ完璧”に見えますが?  私は全然パーフェクトなんかじゃないわ! だって、あなたたちが見ている私は、1時間半メイクアップをした後なんだから! 朝起きたばかりの私は、完璧にはほど遠いわよ(笑)。それに、方向感覚がまったくなくて、運転も下手くそなの。完璧じゃないことは本当に数えきれないほどあるのよ! *  *  *  インタビュー終了後、初来日のエミリーに、日本でしたいことは? と尋ねると、メリー・ポピンズがふいに見せるような、チャーミングな笑顔を弾けさせた。 「たくさん食べること!(笑) 私、お寿司とか日本食が大好きなんです。今夜は鉄板焼きに行く予定なの、待ちきれないわ。日本酒も大好きだから、たくさん飲むつもり!」 *1…日本公開は2015年 *2…第91回アカデミー賞歌曲賞にノミネート (取材・文/伏見美雪・本誌) ■エミリー・ブラント/Emily Blunt 1983年、イギリス・ロンドン生まれ。2003年に映画デビュー。「プラダを着た悪魔」(06年)でハリウッドに進出してブレーク。「ヴィクトリア女王 世紀の愛」(09年)、「オール・ユー・ニード・イズ・キル」(14年)、「イントゥ・ザ・ウッズ」(15年)、「ガール・オン・ザ・トレイン」(16年)など出演作多数。18年は夫ジョン・クラシンスキーの監督作「クワイエット・プレイス」で主演をつとめ、大ヒットを記録した。55年ぶりに製作された名作映画の続編「メリー・ポピンズ リターンズ」に主演、全国で公開中。 ■メリー・ポピンズ リターンズ あらすじ 大恐慌時代のロンドン。バンクス家の長男マイケルは3人の子どもの父親となり、昔と変わらぬ桜通りの家で暮らしている。妻を亡くして家の中は荒れ放題、銀行で臨時雇いの仕事をしているが生活は苦しく、借金の返済期間切れで家を失うかもしれないピンチに。そんなとき、25年前と変わらぬ姿でメリー・ポピンズが風に乗って現れ……。ジュリー・アンドリュースが演じたオリジナルの続編となる「メリー・ポピンズ リターンズ」(全国公開中)には、オリジナルで「チム・チム・チェリー」などを歌うバートを演じたディック・ヴァン・ダイク(93)や、マイケルの姉ジェーンを演じたカレン・ドートリス(63)も出演しているので必見! ※週刊朝日  2019年2月15日号
週刊朝日 2019/02/11 11:30
大ヒット木村拓哉「マスカレード・ホテル」で一つだけつらかったこと
矢部万紀子 矢部万紀子
大ヒット木村拓哉「マスカレード・ホテル」で一つだけつらかったこと
「マスカレード・ホテル」で木村拓哉と共演した長澤まさみ (c)朝日新聞社 矢部万紀子(やべまきこ)1961年三重県生まれ、横浜育ち。コラムニスト。1983年朝日新聞社に入社、宇都宮支局、学芸部を経て「AERA」、経済部、「週刊朝日」に所属。週刊朝日で担当した松本人志著『遺書』『松本』がミリオンセラーに。「AERA」編集長代理、書籍編集部長をつとめ、2011年退社。同年シニア女性誌「いきいき(現「ハルメク」)」編集長に。2017年に(株)ハルメクを退社、フリーに。著書に『朝ドラには働く女子の本音が詰まってる』  木村拓哉、並びにジャニーズ事務所、やっぱりすごいっす。やるときはやるっす。  大ヒット中の主演映画「マスカレード・ホテル」について、あれこれ考えた末の結論だ。実に凡庸である。  2月4日発表の映画ランキングによれば、公開3週目で累計207万人を動員、興行収入は26億円を突破したという(興行通信社提供)。2ケ月以上独走していた「ボヘミアン・ラプソディー」に動員数で勝った、最初の映画でもある。  SMAPは解散したが、木村はずっと木村している。映画にドラマと途切れることなく主演、昨年はゲームソフトのキャラにもなった。年末ビックカメラに行ったら、天井から木村の超デカいポスターがぶら下がっていて驚いた。そして、その頃からテレビ界全体に「キムタク祭り」的な空気が流れ出した。  祭りに参加したつもりはないのだが、私の頭も次第にキムタク色を帯び、ついつい公開直後に「マスカレード・ホテル」を観に映画館へ。  日頃はファンでもない私の、この行動に至る道を説明するなら、「オールドテレビファン」として毎朝新聞のテレビ欄をじっくり眺めるという習性に起因する。 「マスカレード・ホテル」を製作したフジテレビが12月14日から1月18日まで、連日木村主演のドラマ「HERO」を再放送していた。1月18日は映画公開日。その日まで少しずつ、「ほーら、あなたはだんだん、マスカレード・ホテルに行きたくなーる、行きたくなーる」という作戦。  フジテレビはテレビ欄の一番右にいる。15時50分~だから真ん中あたり。右の真ん中にいつも「HERO」。週末の夜は、映画「HERO」。実際にチャンネルを合わせなくても、その気になってくる。 「振り向けばテレ東」などと言われるフジテレビ。「マスカレード・ホテル」をヒットさせねばという必死さが、圧になって伝わってきた。木村拓哉主演映画を外すわけにはいかないのね、大変ね。そんな気持ちにもなった。  2018年の映画「検察側の罪人」も木村&二宮和也のダブル主演で、公開の前後はテレビCMもたくさん流れていた。だがその時に比べて今回はフジテレビの「圧」に加え、ジャニーズ事務所の存在もビシビシ感じた気がする。  1月2日、「ニンゲン観察バラエティ モニタリング」(TBS系)に木村が出演。映画に絡んで「何やってもキムタクって言われる」と語った。1月20日には「ザ!鉄腕!DASH!!」(日テレ系)に出演。山口達也メンバー脱退以降視聴率が低迷していたTOKIOの番組だが、キムタク効果で18.6%の高視聴率。どちらも即座に記事化され、ネットの世界を駆け巡っていた。  局を超えての出演、即ニュース。さすがメディアごとに担当者を置き、日頃から関係性作りに余念がないとされるジャニーズ事務所。そんなことを思いつつ、公開からすぐの月曜日に映画館へ。フジテレビ&ジャニーズの思う壺。  昼過ぎの回だったが、初老の夫婦、会社をサボってるらしい男性、若いカップル……要は老若男女でほぼ満席だった。  そして「マスカレード・ホテル」、ちゃんとおもしろかった。  連続殺人事件が起きていて、犯人は殺害現場を数字で予告している。次は都心の超一流ホテルと判明、木村扮する刑事がフロントマンになり潜入捜査をする。それが大筋。  前半は豪華俳優が宿泊客となりチェックインし、エピソードを終えるとチェックアウト。濱田岳、高嶋政宏、松たか子、生瀬勝久らが次々と問題多めの客を演じ、それはそれで巧みなのだが、「これじゃあ、ホテルあるあるじゃん。捜査はどうなったわけ?」と退屈しかけたところから事件が動き出す。最後はなるほどー、こう来たかー、と思わせてくれて、終わってみればあっという間の2時間13分だった。 「マスカレード・ホテル」の鈴木雅之監督は「ロングバケーション」(1996年放送)に始まり、「HERO」(2001年放送も2014年放送も)を演出した人だというから、木村を使う才能が抜群なんだと思う。  スター性というか、オレさま性というか、そういう彼の見せ方がわかっているのだろう。「上から」の物言い。型破りの変わり者。誰よりも強い正義感。「HERO」の久利生公平検事の人物像が、ほぼそのままに「マスカレード・ホテル」の新田浩介刑事だ。そんなカッコいい役を、木村はカッコよく演じている。 「マスカレード・ホテル」には、他にも「HERO」との共通点があった。仕事で相棒を組む女性と「同僚以上、恋人未満」な感じになることだ。  2011年放映の元祖「HERO」は、松たか子演じる検察事務官が相棒。木村と松の掛け合いがラブコメっぽいドキドキ感で、それがドラマの魅力になった。「マスカレード・ホテル」は、長澤まさみ演じるホテルウーマンが相棒。緊張感あるやりとりが続くが、そこは美男美女、ドキドキ感も醸し出す。最後は「恋人未満」を暗示させるシーンも用意され、めでたし、めでたし。  ではあるのだが、一つ気になったことが。新田刑事、一体、いくつなんだろう。  現実の木村、1972年生まれの46歳。長澤は87年生まれの31歳。画面の木村を見ていると、現実の長澤の年齢に近い設定だと思う。同年代の男女が、次第に信頼感を上げていくお話。そうわかるのだが、ちょっと苦しい。 「HERO」の松たか子は77年生まれで、木村とは5歳差だった。「恋人未満」にリアルさがあった。長澤とは15歳差。だから「おんなじぐらいの年ってことよね」と頭で確認しながら観る感じ。  別に構わないと言えば構わないが、少しつらいと言えばつらい。  木村が「ニンゲン観察バラエティ モニタリング」で「何やってもキムタクって言われる」と語ったのは、案外この辺りのことを感じているということではないだろうか。(矢部万紀子)
矢部万紀子
dot. 2019/02/11 11:30
中条あやみ、銭湯好きな一面も…好感度アップで認知度も上昇中
中条あやみ、銭湯好きな一面も…好感度アップで認知度も上昇中
中条あやみ (c)朝日新聞社 ■バラエティー番組での対応力に業界関係者も注目  昨年12月に公開された映画「ニセコイ」は中条あやみ(21)とSexy Zone・中島健人(24)のW主演にもかかわらず、初登場から9位と振るわず、その後も苦戦を強いられている。中条は2月から、三代目J Soul Brothers登坂広臣(31)とのW主演映画「雪の華」も始まり、悪い流れを断ち切りたいところだ。 「『ニセコイ』は、たしかに数字的には苦しかったですが、そもそも“壁ドン”映画といわれる、昨今の“原作ありき”の恋愛系映画の数字が全体的に落ちてきているんです。しかも、主演の2人をあまりに原作のキャラクターに寄せすぎていて、タレント自身の良さが生かされていない感じの作品でした。原作ファンにも配慮したんでしょうが……中途半端なビジュアルになってしまっていましたね。中条さんも中島さんも、演技力と言うよりはその絶大な人気あっての起用なので、ファンが何回も見に来るのだと思いますが、アイドル映画以上の広がりにはならないと思います」(配給会社の社員)  ひとつの映画作品が企画・制作されるのは公開の数年前。その頃とは状況が変わっているということか。まずはヒット作に出演したい若手たちにとっては厳しい戦いを強いられるが、中条も文句なしの美貌や人気が、映画出演を後押ししていた。 「父がイギリス人の中条さんは抜群のスタイルと美貌で女性からの絶大な人気があります。そこに来て、CMなどの出演で男性からも人気が上がってきている状態ですよね。これまで特に映画では、ヒロイン役して多くの作品に出演してきましたが、やはり映画館の大画面にドーンと顔が映ってもとにかくキレイで、画面映えする数少ない女優ですよね。まさにヒロインとしてうってつけな存在なんです。まだ若いですし、彼女らしいキャラクターがこれからついてくれば、演技も磨かれて行くと思いますよ」(同)  一方で中条に関し、ドラマや映画ではなくバラエティー番組での活躍を期待している関係者もいる。 「正直、演技力はまだまだ厳しいと思います。時間をかけて制作される映画ならまだいいですが、ドラマだとそこまで重要な役にはまだはめられない感もあります。そもそも、モデルでの仕事が多忙な状態ですから、演技の勉強をする時間まではないでしょう。一方で、あれだけのタレント力があれば、名前だけで客が呼べる状態です。テレビ番組のMCや番宣でのバラエティー出演でもまったくイヤミがなく、ぶっちゃけた話もできるので、好感度は高い。神輿を担がれて登っていくタイプだと思いますし、彼女にはそれくらいのポテンシャルがあると思いますよ。ただし、プライベートなどでこれから恋愛を重ねていくなか、マスコミやスポンサーの反感を買うような行動がなければいいと思います」(民放ドラマプロデューサー) ■大阪出身の中条の意外な一面  長らく出演するハーゲンダッツのCMは2018年度の「菓子業類」で好感度がトップに(CM総合研究所発表)。さらに、アイモバイル「ふるなび」のCMでは、かわいらしさも見せ、多くの人々に認知が広がっている。 「深夜帯としては視聴率がいい『アナザースカイ』(日本テレビ系)でのMCに就任してから認知度も上がってきていると思います。はっきりと主軸はモデルにおいて、番組MCやアンバサダーなどをやりつつ、映画やドラマにも出演するようなスタイルのほうが彼女にはあっていると思いますね。タレントとして高感度が高いので、ネットニュースでも悪い話は出てこない。時々、グラマラスな水着姿を披露したり、番組で露出度の高い衣装を着ることもあり、男性ファンも実はけっこういますよ」(同)  彼女に取材をした経験のあるエンタメウォッチャー・中村裕一氏は、彼女の魅力についてこう語る。 「小顔で背も高く、息をのむような美しさの持ち主でありながら、大阪出身ということもあってか素顔は実に気さくです。ショッピングではいかに安く買えるかにこだわったり、銭湯に頻繁に通ったり、サラリーマン川柳が好きだったりといった意外な一面を飾らずに話してくれる姿がとても印象的でした。今はとにかくいろいろなジャンルの作品に出演して演技の幅を広げている段階と言えるでしょう。今後、大ヒット作や当たり役に巡り合えば、一気に女優としてのステータスもアップすることは確実です。それくらいのポテンシャルを秘めていることは間違いありません」  美貌と本音トーク、好感度を武器に今後も楽しい話題を振りまいてほしい。(ライター・黒崎さとし)
dot. 2019/02/11 11:30
更年期をチャンスに

更年期をチャンスに

女性は、月経や妊娠出産の不調、婦人系がん、不妊治療、更年期など特有の健康課題を抱えています。仕事のパフォーマンスが落ちてしまい、休職や離職を選ぶ人も少なくありません。その経済損失は年間3.4兆円ともいわれます。10月7日号のAERAでは、女性ホルモンに左右されない人生を送るには、本人や周囲はどうしたらいいのかを考えました。男性もぜひ読んでいただきたい特集です!

更年期がつらい
学校現場の大問題

学校現場の大問題

クレーム対応や夜間見回りなど、雑務で疲弊する先生たち。休職や早期退職も増え、現場は常に綱渡り状態です。一方、PTAは過渡期にあり、従来型の活動を行う”保守派”と改革を推進する”改革派”がぶつかることもあるようです。現場での新たな取り組みを取材しました。AERAとAERA dot.の合同企画。AERAでは9月24日発売号(9月30日号)で特集します。

学校の大問題
働く価値観格差

働く価値観格差

職場にはびこる世代間ギャップ。上司世代からすると、なんでもハラスメントになる時代、若手は職場の飲み会なんていやだろうし……と、若者と距離を取りがちですが、実は若手たちは「もっと上司や先輩とコミュニケーションを取りたい」と思っている(!) AERA9月23日号では、コミュニケーション不足が招く誤解の実態と、世代間ギャップを解消するための職場の工夫を取材。「置かれた場所で咲きなさい」という言葉に対する世代間の感じ方の違いも取り上げています。

職場の価値観格差
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今季限りで退任、中日・立浪監督の将来的な「再登板」はあるのか 3年間は無駄ではないの声も
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竹増貞信
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