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中国より実はすごい日本のテレビ局のAIアナたち リアル女子アナの意外な反応とは?
中国より実はすごい日本のテレビ局のAIアナたち リアル女子アナの意外な反応とは?
リアル女子アナも「人手不足なので助かる」? ※写真はイメージです(写真:Gettyimages) 新華社通信のAIアナウンサー(c)朝日新聞社  中国・国営新華社通信が発表した「AIアナウンサー」が世界を驚かせた。 「365日24時間対応」「読み間違えゼロ」を売りとするだけではなく、「実在する」アナウンサーの映像と声をコピーしており、その精巧さは、まばたきやまゆげの動きまで模倣するほど。  中国のAIアナウンサーが話題になったのは、その「コピー」力で、実は日本でも、各局がAIアナウンサーを開発し、実証実験を進めている。  NHKは今年4月から、「ニュースチェック11」にキャラクター「ニュースのヨミ子」がニュースを紹介、TBSは「いらすとキャスター」を、日本テレビはアンドロイドアナウンサーの「アオイエリカ」を開発。他にも共同通信デジタルとソニーが開発したバーチャルアナウンサーの「沢村碧」などがいる。  AIアナウンサー「荒木ゆい」を開発している株式会社スペクティ代表取締役の村上建治郎氏は「日本でも中国のような技術は持っている」と言う。 「技術としては、中国だけではなく、世界中でできます。実際にアメリカでは、オバマ元大統領をコピーした映像をつくった。原稿を読む姿はそっくりで、目線の動きや動作も同じ。今のAI技術であれば、そのレベルは可能です」  中国とは異なり、日本で開発されるAIアナウンサーはキャラクターやイラスト仕様だがその理由はなんなのか。 「日本は完全にリアルにつくるより、キャラクターやアニメのほうが視聴者受けしやすい。キャラクターの設定を細かく決めて、親しみやすくしている。技術というより、日本の文化的なことです」(前出の村上氏) 「アナウンサーはAIに職を奪われる職業だ」と言われて久しい。だが、フリーで働く、30代の女性アナウンサーを取材すると意外にも「歓迎」するという意見だった。 「ストレートニュースならぜひAIアナウンサーにやってほしいです。その分、AIアナウンサーができない番組進行に回ることができます。ラジオ局で働くこともあるのですが、人手が全く足りず、24時間の勤務体制も、なんとか一人で回している状態。アナウンサーが一人で局に泊まり込むこともざら。24時間対応できるAIアナウンサーにニュースを読んでもらい、自分のやりたい仕事に注力したい」  災害時など1人でも現場に人手が欲しいときにも重宝されるかもしれないという。  前出の村上氏もこう言う。 「働き方改革に有効です。早朝や深夜に人を常駐させられない小さな地方の放送局に使われることは人を雇うより安価ですし、これから増えていきます。声だけだとAIだと気が付かなかったと視聴者の反応もある。それだけクオリティが高くなっているのが現状です」  しかし、うかうかしているとアナウンサーたちは職をAIに奪われる心配はないのか。 「皆、ニュースが出るたびに、『仕事なくなるねー』と冗談交じりで話していますが、心の底から思っていないですね」(前出のフリーアナウンサー)  AIは、アナウンサーの働き方改革に、一役買いそうだ。(本誌・田中将介) ※週刊朝日オンライン限定記事
週刊朝日 2018/11/17 11:40
“破天荒なまちおこし”で未経験の職員が妖怪制作…「感動すら覚える」その結果とは?
“破天荒なまちおこし”で未経験の職員が妖怪制作…「感動すら覚える」その結果とは?
2018年10月に辻川山公園内に設置された第4回全国妖怪造形コンテスト・一般部門の最優秀作品「怪しい抜け道」(作者・青千代さん)の大型FRP像。左奥に見えるのが柳田國男の生家だ 池から飛び出すカッパは3体に増えた。相変わらずの人気ぶりだ  公園の池の中から突然現れる不気味な「カッパ」で話題となった兵庫県福崎町が、2014年から始めた「全国妖怪造形コンテスト」が、5回目となる今年で終了する。回を重ねるごとに応募数が増え、まちおこしに一役買っていたコンテストが、なぜ最終章を迎えることとなったのか――。  福崎町の破天荒なまちおこしは、14年2月、町出身の民俗学者、柳田國男の生家がある辻川山公園の池に、定期的に飛び出す仕様の“キモカワ”カッパ像が設置されたことから始まった。  赤茶けた体に生気のない目、しわしわの手、ばさばさの髪……・各地の自治体で好まれる可愛らしいキャラクターから一線を画した薄気味悪い像はたちまち話題となり、公園には多くの人が訪れるようになった。降ってわいたカッパブームに気を良くした町が、さらなる振興策として企画したのが、妖怪をモチーフにした造形作品を募るコンテストだったのだ。  コンテストの題材は、毎回、柳田の著書『妖怪談義』に出てくる妖怪から選出。14年の初回は、113点の作品が集まった。「妖怪+造形」をテーマにしたコンテストは話題となり、17年は初回の約2倍、216点が寄せられた。  ところが、18年5月、コンテストのフェイスブックページに、5回目の告知と終了が投稿された。突然の知らせに、2500人を超えるフォロワーは困惑、「寂しい」などと終わりを嘆くコメントが寄せられた。  なぜなのか。自らも造形を愛し、「妖怪+造形」のまちづくりの立役者でもある事務局の地域振興課課長補佐、小川知男さんに理由を聞いた。返ってきた答えは「諸事情ありますが、大きくは、FRP(強化プラスチック)像を置くスペースですかね.……」  コンテストの最優秀作品は、大型FRP像となって公園内に設置してきた。現在は、コンテストの歴代テーマであるてんぐ、山の神、鵺(ぬえ)、砂かけ婆の4体が建てられている。入り口から奥にある柳田の生家へ向かうように配置していったところ、なんと、5体目を置くと、新たに像を建てるスペースがなくなってしまうのだ! 最初からわかりそうなものだが……。  こうして終了が決まったコンテストだが、毎回、ひそかに注目を集めてきたものがある。事務局の町職員が手掛けるエキシビション作品だ。小川さんは初回から、第3回からは、造形にまったくなじみがない他の職員も参加してきた。  最終回は、小川さんと、同期のハンサムさん、部下のフォレストさん、まる子さんが参加(名前はフェイスブックページでのハンドルネーム)。小川さんを除く3人は造形素人だが、小川さんのアドバイスを受けながら、デザインを考えてスカルピー(樹脂粘土)をこね、作品を完成させた。  進ちょく状況は定期的にフェイスブックページに投稿されるため、筆者も見守っていたのだが、3人が自身の技術を包み隠さずに投稿し、かつ上達していっていることに感動すら覚えた。  例えば、小学生の時にドラえもんの貯金箱を作って以来の造形に取り組むフォレストさん。16年の第3回から毎年挑戦しているが、どの作品も、一度は小川さんにボツにされている。  今回は、釣り人に水中から「置いてけ、置いてけ」と呼びかけるという「オイテケボリ」を作ることに。最初のラフ画を見せてもらうと、人面魚から手が生えている。ひどい。実にひどい。 「小川さんは、最初のイラスト段階では『ええよ』と言っていたんですよ ……あれは忙しかったからなのか……」とフォレストさん。だが、これまでの経験からか、なんとなく「見せたらあかん」と思い、秘密裏に制作を進めた。「直されるのが嫌やったんですね。今回はいけるはず、と思っていました」  途中まではラフ画の通りに制作していたが、ある日、とうとう小川さんに見つかり、呼び出された。魚から生やした両腕はもがれ、作品がどんどん修正されていく。残ったのは、目玉のみ。小川さんは「おぞましい出来でした。直してあげないと大変なことになると思いました」と振り返る。  フォレストさんは、泣きそうになりながらも気を取り直し、頭から人間の脳がはみ出た、独創的なオイテケボリを完成させた。「ありえないところに着地できて良かった。今は完成して解放感を感じています。造形をして、観察力がつきました。仕事にも役立てられると思います」と前向きだ。  まる子さんも3年目のチャレンジ。過去2回はアニメ風に仕上げたため、今回は「リアル系で」と、雨の晩に道行く人の足の間をこすって通るという犬の形をした妖怪「スネコスリ」を選んだ。 「イラストが大変だった」と話すまる子さんにラフ画を見せてもらったところ、これまたひどい。二本足で立つ犬の上半身と下半身が、なぜかばねでつながっている。まったく理解に苦しむ。  こちらもちょいちょい小川さんからアドバイスを得て、最終的には、えびすさんの顔にカンフー映画の俳優を思わせる体を付けることにした。苦労したのが骨格だ。パソコンで人間や動物の画像をあさり、100円均一ショップにあった動物の置物を注視して、骨格やしわ、毛並みをリアルに表現していった。まる子さんのスネコスリは短パンをはいているのだが、服のしわを再現するために、小川さんに短パンをはいた写真まで送ってもらった。  スネコスリが手にしているたわしの毛は、100円均一ショップで数種類の麻ひもを購入、ほどいて強度などを調べた後、選び抜いた1本1本を埋め込んだ。作品を自宅に持ち帰り、制作を進めるまる子さんを見て、同居の親は心配していたそうだ。 「出来上がりには納得しています。こんなど素人でも作れるんやで、というのを伝えたかった」(まる子さん)  初挑戦のハンサムさんは、小川さんのアドバイスに四苦八苦する2人をみて思った。「第7頸椎(頭を支える頸椎の最も一番下にある骨) がどうのこうのとか言われてて大変やなあ」。そうして題材に選んだのが、骨がなさそうな「べとべとさん」(夜道を後ろからついてくる妖怪)だ。 「丸っこくすればいいやろ」と作り始めたが、次々と気になる点が出てきた。同期のよしみか小川さんのあたりも柔らかく、制作は比較的順調に進んだ。完成したのは、大きな一つ目が特徴の、愛きょうのあるべとべとさん。「自分の中では100点」と出来に満足している。  小川さんは「最初から見ると、確実に上手くなった」と、3人の奮闘を評価する。自身は、とりついた人を空腹にさせるという「ヒダル神」を制作した。  最終回のコンテストの作品の受付は、既に締め切られ、前回よりやや少ない209点が集まった。小川さんによると、プロの造形作家からも作品が寄せられたほか、1人で60点ほど応募してきたつわものもいたという。「最後まで作品を応募してお付き合いいただいた方々に、感謝の気持ちしかありません。最後のコンテストとなるのは本当に寂しい」(小川さん)  コンテストの結果は、12月に発表される予定だ。選考のポイントは「独自の世界観を表せているかどうか」。選考結果は楽しみだが、福崎町のまちづくりの行方は――。(ライター・南文枝)
dot. 2018/11/17 11:30
人気CMも実は台本なし! 伊東四朗の“喜劇役者”人生
人気CMも実は台本なし! 伊東四朗の“喜劇役者”人生
伊東四朗(いとう・しろう)/喜劇役者。1937年、東京生まれ。21歳で石井均氏の劇団に参加。63年に「てんぷくトリオ」を結成し、舞台やテレビで大人気となる。68年ごろから役者としても活躍し、数多くの舞台やドラマ、ラジオ、映画に出演。「伊東家の食卓」などバラエティー番組でも人気を博し、現在も第一線で活躍を続けている(撮影/小原雄輝・写真部) 伊東四朗さん(撮影/小原雄輝・写真部)  もし、あのとき、別の選択をしていたなら──。ひょんなことから運命は回り出します。人生に「if」はありませんが、誰しも実はやりたかったこと、やり残したこと、できたはずのことがあるのではないでしょうか。昭和から平成と激動の時代を切り開いてきた著名人に、人生の岐路に立ち返ってもらい、「もう一つの自分史」を語ってもらいます。今回は喜劇役者の伊東四朗さんです。 *  *  *  高校卒業して就職試験に全滅しましたからね。もしも、っていえば、あのときどこかに受かっていれば定年まで勤めあげて、いまごろ何してるかな、って感じですけど、幸か不幸か全部落っこちちゃった。筆記試験は通るんです。でも面接で落とされる。コネで口をきいてもらった会社の面接にまで落っこったんだから。「よっぽど面接向きの顔じゃないのかなあ」って、落ち込みましたねえ。  それでも役者になってからは、こんな怖い顔をしてるっていうのも感謝するようになりました。あるとき、山藤章二さんが何かに書いてくださったんです。「喜劇役者というものは総じて普段は怖い顔をしている人が多い。三木のり平、渥美清しかり。なかでもピカイチなのは伊東四朗だ」って。  考えてみれば、どんな役でもできる人に見られるのかなと。伊丹十三監督の「ミンボーの女」のメイク合わせのときに「監督、怖くするために、このへんにシャドー入れたりしますか?」って言ったら「いや、伊東さんはそのままノーメイクでいいです」って(笑)。あれもショックだったなあ。 ――いまとなっては、不採用とした会社に感謝するしかない。「てんぷくトリオ」や「電線音頭」に栄養ドリンク「タフマン」のコマーシャル、実写版「笑ゥせぇるすまん」……。さまざまな顔でわれわれを魅了する名役者の道のりは、就職の失敗から始まっていた。  私はこれからどうやって生きていくんだろう。そう思っていたとき、早稲田の学生だった兄貴が「生協でアルバイトでもやれ」と。まあ、いま考えても時給30円は安いんじゃないかと思うんですけどね(笑)。  で、アルバイト生活をしながら歌舞伎をよく観に行ったんです。お金がなかったから、大きな声じゃ言えないけど、インチキな方法も使いました。一番簡単なのは、はとバスの団体客にくっついて入っちゃう。ただ歌舞伎座の前で、必ず記念撮影をしなきゃならないんですよ。だから私が写ってる写真を持ってる方が、世の中にたくさんいらっしゃるんじゃないかなと(笑)。  歌舞伎と同時に観に行ってたのがストリップ。合間に短い喜劇があるんですよ。渥美清さん、由利徹さん、石井均さん……そうそうたる人たちが出ていて、それを楽しみに通い、楽屋にも入り浸っていた。あるとき石井均さんに「お前も出るか」と声をかけられたんです。  最初の舞台は、錦糸町駅前にあった「江東楽天地」。いまで言う健康ランドです。幕開けにスーッと出てくるだけの青年役で、セリフもないですよ。それがすべての始まりです。  生協から「正社員にならないか」という話もあったんです。うれしい話のはずなんですけど、なぜか、喜べなかった。もう芝居のほうに心が傾きかけていたんですね。悩んだ末、石井均さんの劇団に入れてもらったんです。やってるうちにこの世界から抜けられなくなりました。 ――石井均一座の解散後、三波伸介、戸塚睦夫と「てんぷくトリオ」を結成。坂本九を中心にした日本テレビ系のバラエティー番組「九ちゃん!」の出演が、蓄積となった。  28歳のとき、「九ちゃん!」の井原高忠さんという伝説のプロデューサーに拾ってもらったことが大きかったですね。井原さんはいいかげんに何かをやる、というのを許さなかった人で、踊りも歌も徹底的に鍛えられました。 「来週はペリー・コモを歌ってもらいます」とか「来週はバイオリンを弾いてもらいます」とか言ってバイオリンを渡されるんです。「メリーさんの羊」と、貫一お宮の「金色夜叉の唄」を1週間で弾けるようになれ、と。ちょうど長男が生まれたころで、6畳一間でギーコギーコやると、泣くんですよ。素人のバイオリンほど、いやな音はないからね。しかたなく、裏の墓場で練習したんだけど、あれ、偶然通りかかって聴いた人はびっくりして気絶しただろうな(笑)。  その後の役者人生でも、何度も追い詰められましたね。でも、追い詰められると、人間やれるもんです。井上ひさしさんの台本はいつもギリギリだったし、三谷幸喜さんの舞台では本番の3日前に台本が届いたこともあった。でも驚きません。  市川準さんと「タフマン」のコマーシャルをやったときも、現場に行ったらセットが三つあって、いきなり「伊東さん、サウナからお願いします」ですよ。「いや、台本くださいよ」と言うと、「中に入ると太った男がいますから、なんかやってください」って返されて、「えっ! ちょっと待ってくださいよ!」と言っても、「じゃ本番!」(笑)。  頭を振り絞って考えました。市川さんの背中がヒクヒク動いてるから「ああ、ウケてる」とわかった。 ――てんぷくトリオはお茶の間をにぎわせ、瞬く間に人気者になったが、ずっと続ける気はなかったという。だが、人生、何が幸いするかわからない。トリオの活動は役者の仕事にもつながっていた。  てんぷくトリオはコントをやっていたけれど、もともとみんな芝居をやっていましたから「いつか3人で劇団を持とう」という思いがあったんです。3人のうち誰かに役者の仕事が入ったら、あとの2人は応援する。それでうまくやっていました。戸塚は私の6歳上、三波は7歳上。それがよかったんじゃないですかね。私はずっと後輩。弟分的な存在で、もめたりすることはなかった。  役者としては、映画監督の市川崑さんに褒められたことが、大きな励みになりました。1968年の朝日新聞の元旦の「私の好きな新進」というコラムで「てんぷくトリオの一番若い人。からだとセリフのタイミングが見事」と書いてくださった。驚きましたねえ。あんな大監督が番組を見ているんだ!と。  これ以降、一人での役者の仕事が増えた。「認めてもらえたのかなあ」という気はしましたね。以来、後輩にも言うんです。「誰が見てるかわかんないぞ。何事も手を抜くなよ」って。 ――てんぷくトリオの戸塚睦夫は42歳で急逝。さらに約10年後、三波伸介は52歳で亡くなった。この2人との出会いと別れがなかったら、伊東四朗の役者人生はまた違ったものになっていただろう。  戸塚さんが亡くなって、トリオができなくなったのも寂しかったけど、さらにその10年後に三波さんが逝くとは思ってもみなかった。衝撃を受けたし、自分も52歳という年齢を意識しましたね。  そのころから「自分から何かをやる、ということはやめよう」と思うようになりました。他人のほうが私のことを知ってる。だから人に任せたほうがいいって思うようになった。 「おしん」の父親役なんて、自分じゃ考えられなかったですよ。だってあの「電線に、スズメが三羽止まってた♪」の「電線音頭」の後ですよ? 「笑ゥせぇるすまん」もびっくりしましたよ。声をかけていただいたとき、アニメーションの大平透さんの声が浸透していたこともあって、「これだけはお断りしたい」と言ったら、藤子不二雄(A)さんに「あんたしかいないんだ」と言われちゃった。そう言われると弱いんですよ。 ――81歳のいままで、幸い大きな病気はほとんど経験していない。  振り返ってみると50代、60代はまったくもって“青春”ですね。70代に入って「ん?」、80代になって「こりゃあ、やっぱり人間、年を取ると大変だな」って思うようになりました。81歳ともなれば耳も遠くなるし、目も膝も腰も悪い。トータルすると相当に具合も悪いんですけど、でもそういうもんだと思わないと。だって、年を取ることはどうにもならないですからね。  だから、健康法とかはあんまり考えないですね。なるようになる、って性分ですから。週に1回は休肝日を作ってますけど、もともとそんなにお酒は飲めないんです。たばこも29歳でやめました。ほかは気が向いたら歩いたり、家で腹筋をしたり、ダンベルを持ち上げたり。義務化するといやだから、やりたいときに、やりたいようにやってます。  ただ、暗記はやってます。ちょっと時間があればアメリカ合衆国の全州の名前や、覚えた百人一首を声に出して読むんです。円周率も小数点以下千桁までいけますよ。口を動かすし、セリフを覚える鍛錬にもなりますしね。 ――さまざまな役を演じて60年。自ら喜劇役者と名乗るとおり、とりわけ「笑い」への思い入れは深い。  ずっと役者を続けるかって? いやあ、それはわかんないですよ。これまでどおり、誰かが呼んでくれたらやるかもしれないし、このままやらなくなっちゃうかもしれない。コントだって80過ぎたら、普通はあんまりやらないでしょう。  今年の2月にも三宅裕司さんと舞台をやったんです。突然、彼から電話があって、「伊東さん、芝居がいいですか? コントがいいですか?」「え? なんの話?」「いや、もう劇場とってありますから」だって。芝居のほうが人がたくさん出るから楽だなと思いつつ、気がついたら「コントやろうよ」って言っていた。  コントは瞬発力や反射神経が必要だし、緩慢に動いてたらお客さんは見てくれないから。  でも、その舞台では、お客さんはよく笑ってくれたなあ。振り返ってみれば、初舞台のときから、やっぱり笑ってもらえることが一番うれしいですね。心底から。 (聞き手/中村千晶) ※週刊朝日 2018年11月16日号
週刊朝日 2018/11/13 07:00
“健康長寿”アンケートでわかった「認知症を防ぐ」15の習慣
“健康長寿”アンケートでわかった「認知症を防ぐ」15の習慣
写真はイメージです 医師が解説! 健康長寿に共通する認知症予防の項目1/2 (週刊朝日2018年11月9日号から) 医師が解説! 健康長寿に共通する認知症予防の項目2/2 (週刊朝日2018年11月9日号から)  健康長寿の暮らしにはきっと共通点があるはず──。好評発売中の週刊朝日ムック「60歳からはじめる認知症予防の新習慣」では、そのヒントになる衣食住の習慣を探るために、70歳以上で認知症予防に励む元気な高齢者にアンケートを実施した。152人の回答から得られたデータと医師が解説する15の共通項を紹介する。  2017年の日本人の平均寿命は、男性が81.09歳で女性が87.26歳となり、いずれも過去最高を更新した(厚生労働省:簡易生命表から)。厚労省が把握している50の国や地域で比べると、女性は3年連続で世界第2位、順位を一つ下げたものの男性も世界第3位であり、日本は世界において長寿国である。健康長寿の理由としては、生活習慣の改善や、医療水準の向上などがあげられる。  健康で長生きならば、言うことはない。しかし、長寿になればなるほど、認知症の患者数は増えていく。厚労省の推計では、認知症の高齢者は500万人超(15年)、25年には約700万人に達するとされている。認知症を予防するためには「禁煙をしたほうがいい」「もっと運動をしたほうがいい」など、多くの意見がある。では、健康で長生きをしている高齢者は実際、何をしているのだろうか。そこで編集部では、朝日脳活マガジン「ハレやか」の読者で、70歳以上の高齢者201人に郵送でアンケートを配布した。回答者152人の結果を集計してまとめたデータを紹介する。  からだのもととなる食事について。アンケートの結果では、毎日必ず食べているものは、ヨーグルトや納豆などの発酵食品。反対に避けているのは塩分だった。また頻度にばらつきはあるものの、8割が自炊をしていることがわかった。脳の活性化のためにやっていることで最も多かったのは塗り絵、次いで読書、料理、ピアノという結果に。ピアノ以外にも三味線やウクレレなど、約3割が楽器演奏をしていた。 「15年くらい折り紙をやっています。手指を動かすのが大好きです。料理も3食つくっています」(78歳・女性)  健康のためにしている運動の1位はウォーキング。1日の平均歩数は4232.5歩で、最も多い人で1万6千歩だった。 「運動は苦手ですが、空いた時間に5分ほどつま先立ちや片足立ち、スクワットなどを続けている」(74歳・女性)と、短時間でも運動を続けている人が多数いた。  交友関係を重視しており、年賀状は平均72.5枚を出しているという結果になった。離れて暮らす家族と会う頻度は、月に1~2回が最も多い半面、地域のサークルや老人会の参加率は5割を超えた。 「友人を誘い一日一日を大切に。友人とのふれあいの場を楽しみたいです」(85歳・女性) 「独りで引きこもらないで、老人クラブの活動や集会などに参加。知人との会話を積極的にしたい」(88歳・男性)  そのほか健康のために実施している習慣は、「毎日、朝と夜に血圧測定し記録する」(72歳・男性)、「家計簿や日記をつける」(71歳・女性)など、記録をとることがあげられた。健康のための目標は、「自分でできることは自分でする」という回答が多く、自活したメリハリある暮らしが健康長寿の特徴といえそうだ。 ■おさえておきたい! 認知症を招くリスク  認知症が発症するメカニズムやリスクとの関係についてはわかっていないことも多いものの、近年では研究が進み、認知症を発症する可能性を高める病気が明らかになりつつある。  現在考えられるものとしては、糖尿病や高血圧、アルコール、脂質異常症、脳梗塞、頭部外傷、喫煙、うつ病、難聴などのリスクが知られている。  認知症は多因子疾患と呼ばれ、いくつもの要因が重なり合って起こる症状と考えられる。リスクが一つの場合より、二つ、三つと重なるほうが認知症の発症につながりやすい。  しかし、毎日の生活を見直すことで、リスクは減らすことができる。認知症を予防したいなら、今できる治療や生活改善をしっかりすることが重要だ。 ・うつ病 海外の研究では、うつ病があると認知症の発症リスクが2倍になるという報告がある。認知症では、脳の海馬という部分の萎縮や、アミロイドβがたまってできる老人斑、免疫や神経の障害などがみられる。うつ病になると、これらが起こりやすくなり、認知症につながると考えられている。うつ病は再発しやすい傾向があり、1回のうつ病ごとに認知症発症リスクが14%高まるという報告もある。 ・糖尿病 糖尿病の人はそうでない人と比べ、認知症のリスクが1.5~2倍高いという報告がある。糖尿病になると血管に障害が起こりやすくなり、血液循環が悪くなるため脳に十分な酸素や栄養が届かなくなる。さらに、長期にわたって血管が障害されると、血管が詰まる、出血するなど脳血管の病気になりやすく、それによって脳の神経細胞がダメージを受けて認知症のリスクが高まると考えられる。 ・喫煙 喫煙者は、非喫煙者の1.5倍、認知症の発症リスクが高まるという報告がある。喫煙は、呼吸器の病気だけでなく、動脈硬化や糖尿病、心筋梗塞、脳卒中などとも関係している。これらは、喫煙により血管が収縮し、血液の粘度が高まり血流が低下することで、脳の血管に障害が起こる。それにより、脳の神経細胞がダメージを受けることで認知症発症のリスクが高まると考えられている。 ・高血圧 中年期の高血圧は認知症発症リスクが高いとされている。降圧剤を服用して血圧をコントロールすることで、認知症の発症や認知機能の低下が抑制されたという報告は国内外である。脳の血管はからだのほかの部分の血管と構造が異なり、傷つきやすい傾向がある。血圧が高くなると出血が起こりやすくなり、血管に障害が起こることで神経細胞がダメージを受け、認知症を発症しやすくなる。 ・アルコール 慢性アルコール依存症になるくらい常習的に、かつ多量に飲酒をした場合には、アルコール性認知症などの発症につながる。一方、少量の飲酒は認知症のリスクを減少させるという報告もあるが、飲酒歴が後年の脳萎縮に影響する可能性があること、アルコールが睡眠の質を悪くすることがあるといわれることから、少量でも毎日飲酒することは、認知症のリスク因子になると考えられる。 ・脂質異常症 血液中のコレステロールや中性脂肪などの脂質が基準値より多い状態を言う。脂質異常症は動脈硬化の原因になり、心臓や脳の血管に障害が起こりやすくなるため、とくに中年期の脂質異常症は認知症のリスクになり得るという。糖尿病や高血圧と同じく、コントロールすることが大切だ。 ■医師が解説! 健康長寿に共通する認知症予防の項目 (1)人に会う。会話をする コミュニケーションが認知症予防に効果があるという海外の文献がある。できれば、親しい人やいつも同じ人ではなく、いろんな人に会うことがおすすめだ。慣れない相手と話すときのほうが、頭を使う。 (2)体操やスポーツをする 運動、とくに有酸素運動は効果がある。スポーツができる人はいいが、足腰に痛みがある人は無理をしてはいけない。継続することが大切なので、体操やストレッチ、散歩など自分に合ったものを選ぼう。 (3)料理をする 普段料理をしている人が料理をできなくなると、認知症の疑いが出てくる。料理は、献立作りから買い物、調理、盛り付けと、頭を使う複雑な作業。新たに始める男性も多くいる。 (4)規則正しい生活をする なにか特定のメニューをすれば認知症予防になるということはない。一日全体を通して、規則正しいリズムで生活することが大切だ。 (5)楽器を演奏する 音楽療法の一つ。音楽を聴くことや、歌うことも音楽療法だが、なかでも楽器演奏は指先を使い、音を聴きながら反応するため、高度な知的活動になり、予防効果が高いとされている。 (6)絵を描く。習字や切り絵をする アートセラピーと呼ばれるもの。これも指先を使うため、知的活動となる。 (7)農業、畑仕事をする 何をどう育てるかを考える「知的活動」と実際に作業をする「運動」の二つの要素をもっている。さらに収穫という報酬、達成感が得られるため、おすすめだ。 (8)日記を書く。記録する 文字を書くことは知的活動で、その日に起きたことを脳が復習するいい訓練になる。ときどき、過去に書いたものを読み返すと、回想療法の効果も期待できる。 (9)新聞を読む。読書をする 新聞を読むことは、世の中の出来事に関心をもつこと。認知症になると、関心がなくなるので、日々、関心を失わないように新聞や本を読む習慣をもつことが大切だ。 (10)バランスのとれた食事をする 認知症予防に効果があるとされる食材や栄養素があっても、そればかり偏って食べていてはよくない。老夫婦の食事は、同じようなメニューになりがちなので、バランスよく食べる工夫をする必要がある。 (11)よくかんで食べる 高齢になると、よくかめない人も増える。かめないと、生野菜などを食べる機会が減り、結果、栄養も不足してしまうことがある。 (12)適切な睡眠習慣をもつ 夜6~8時間の睡眠と30分未満の昼寝が推奨される。昼寝は寝すぎると、夜眠れなくなり、生活リズムを崩してしまうので、注意が必要だ。 (13)現役で仕事を続ける 認知症が発症しても仕事を続けている人は進行が遅いといわれている。元気な人は、現役時代と違う仕事に挑戦することもいい。認知機能が衰えている人は、やり慣れた仕事を続けるのがいいとされる。 (14)役割をもつ。人から頼りにされる 仕事を続けるのが難しくても、地域やコミュニティーに参加し、仲間から頼りにされることは必要だ。存在価値を認められて生きがいになり、生活に張りが生まれる。 (15)クロスワードパズルなどで脳トレをする 知的活動の一つで、楽しみながらおこなうことが大切だ。認知症予防のためと、いやいやおこなうのでは意味がない。  健康長寿の方々の生活には共通する習慣があり、それらは認知症予防につながる習慣といえる。日本認知症予防学会理事長の浦上克哉医師に、15の項目について解説してもらった。 「認知症予防の三つの柱は、『知的活動』『運動』『コミュニケーション』です。ここで挙げる15の項目はいずれも、三つの柱に関連している習慣です」  すべて、読者の生活の中にとり入れてほしいことばかりだが、浦上医師は「大事なのは、習慣化すること」と言う。 「どんなに予防効果があるといわれるメニューでも、続けられなければ効果は期待できません。たまにしかできないようなことより、続けられることに挑戦するのがよいでしょう。そのためには、楽しみながらできるかどうかも大切です」  いろいろ試してみて、無理なく続けられることを自分の習慣にしていこう。(認知症ムック取材班) ※週刊朝日2018年11月9日号
週刊朝日 2018/11/06 07:00
「まだ死ねない」と懸命に 評判ドラマの脚本家が裏話
「まだ死ねない」と懸命に 評判ドラマの脚本家が裏話
ジェームス三木(じぇーむす・みき)/脚本家・演出家・愛煙家。1935年、旧満州生まれ。17歳で大阪から上京し、劇団俳優座の養成所に入所。テイチク専属歌手などを経て脚本家に。世に送り出した脚本は、映画約30本、舞台約50本、テレビドラマは数百本にのぼる。エッセーや作詞も手がける。著書に『片道の人生』(新日本出版社)など。近年は、たばこに対する風当たりが強まる社会の風潮を憂え、男性が元気をなくしている現状も激しく憂えている(撮影/植田真紗美)  もし、あのとき、別の選択をしていたなら──。ひょんなことから運命は回り出します。人生に「if」はありませんが、誰しも実はやりたかったこと、やり残したこと、できたはずのことがあるのではないでしょうか。昭和から平成と激動の時代を切り開いてきた著名人に、人生の岐路に立ち返ってもらい、「もう一つの自分史」を語ってもらいます。今回は脚本家・演出家・愛煙家のジェームス三木さんです。 *  *  *  僕の本名は山下清泉です。「ジェームス三木」は歌手時代につけられた芸名です。歌手をしていたのは、20歳から30歳過ぎまで12、13年間ぐらいかな。テイチクレコードの新人歌手コンクールに合格して、専属歌手になりました。200倍ぐらいの倍率だったと聞いています。残念ながらあまり売れませんでしたが。  もっと早くから脚本の道に進めばよかったんじゃないかという人もいますが、20代ではロクなものは書けなかったでしょう。回り道をしたから、どうにかものになった。その経験も、自分の人生にとって大きな意味があったと思っています。  脚本家になってからもジェームス三木という名前を使い続けているのは、お世話になった人たちに「あいつ元気でやってるんだな」と知ってほしいから。歌手だった自分も、ずっと大切にしたい「もう一つの自分」です。 ――生まれたのは旧満州の奉天(瀋陽)。10歳のときに終戦を迎え、幼い弟をおぶって引き揚げてきた。  戦時中はいっぱしの軍国少年でした。でも、天皇陛下の玉音放送があって、それまでの価値観や常識が百八十度ひっくり返った。先生が言っていたことも新聞に書いてあったことも、全部うそだったわけです。天皇陛下も神様じゃなくて人間でした。  人は平気でうそをつく生き物だ、つくづくそう思いました。  そういう根底にある人間不信が、僕の脚本家としてのベースにあるように思います。向田邦子さんは、「脚本家に必要な資質はうそつきであること」と言いました。うそを書いて、それをお金に換える。言ってみれば詐欺師と同じですね。  でも脚本家に限らず、人間は生きている限りうそと無縁ではいられない。普段の生活でも、相手が敵か味方か、どこか疑いながら他人と接しています。お互い腹を探り合っている。それが人間の付き合いです。  ドラマを見ているときもそう。登場人物はうそをついているのかな、本当かな。俳優の表情やセリフの口調から、それを類推して、感情移入していくんですね。 ――高校まで大阪で暮らした。将来は脚本家でも、歌手でもなく、俳優になりたかった。高校3年になる春休みに劇団俳優座の養成所の試験を受けたところ、見事に合格。高校を中退して上京した。  中学のときに先生に言われて書いた脚本が、郡の演劇コンクールに入賞したことがきっかけです。おやじが中学3年のときに死んで、重しがなくなったもんだから、高校時代は演劇に熱中しました。目立ちたがり屋だったから、人前で演技するのは快感だったんですね。  高校2年の秋には大阪府高校演劇コンクールで、自分が大事な役を演じた劇が見事に優勝しました。これがいけなかった。自分には俳優の素質があると思ってしまったんです。  ところが上京すると、先輩には仲代達矢や宇津井健がいて、同期には平幹二朗がいた。アルバイトに追われる毎日でヘトヘトに疲れて、欠席も増えて、出席日数不足と月謝の滞納で落第させられたら、そこには市原悦子や大山のぶ代がいた。とても太刀打ちできそうにないって思いましたね。  挫折感と屈辱感にさいなまれながらキャバレーなどでアルバイトをしていました。時々、ステージで歌わせてもらって。そんなときにテイチクの新人歌手コンクールで合格。すぐに俳優座を辞めました。我ながら、行き当たりばったりですね。よく言えば、変わり身が早いってことかな。別にそれもよくはないか。  当時はビクターのフランク永井が低音の魅力で人気を集めていた。レコード会社は対抗馬としてジェームスを売り出そうとした。しかし、歌手としては大成しなかった。  クラブやキャバレーで歌ったり、ディック・ミネさんや淡谷のり子さんの前座で地方に行ったり、それなりに楽しかったですよ。それに、とにかくモテた。歌っていうのは本能に響くんでしょうね。動物が鳴き声で異性に求愛するのと同じで。  舞台が終わると、劇場の外に女性が何人も待ってるんです。ふと気が付くと、宿泊先の部屋に女性がいる。とても充実した日々でしたね。  でも、30歳を超えると、歌手というのは曲がり角を迎えるんです。  ちょうどその年齢を過ぎたころ、同じクラブで歌っていた若い女性歌手がデビューし、大ヒットしましてね。その歌手は青江三奈です。明るくてがんばり屋で、いい子でしたね。僕を兄と慕ってくれていたので、彼女が売れたときは、自分のことのようにうれしかったです。その一方で、「俺はこのままでいいのか」と焦る気持ちも募りました。  また例によって横道にそれていくわけですが、何となく小説を書き始めました。それが雑誌「新潮」が全国の同人雑誌から選んだ10篇に入ったんです。夕刊で見つけた「シナリオ作家養成教室」に通ってみようと思ったのも、そのことがあったからでしょうね。半年間、昼はシナリオ教室、夜はナイトクラブで歌うという生活。教室に通っているうちに、自分の中での手ごたえみたいなものを強く感じたんです。  初めて書いた脚本を新人コンクールに送ったら、準入選に選ばれました。そのときは入選作はなかったので、事実上の1位です。このことがきっかけで、脚本家への道をおそるおそる歩き始めたんです。  振り返れば、中学のときに演劇の脚本を書いたことが原点かもしれない。めぐりめぐって元に戻ってきた感じですね。 ――以降、歌手をやめて脚本家に専念。ヒットドラマを次々に生み出した。そしてついに、NHKから朝の連続テレビ小説の脚本の依頼を受ける。1985年放送の沢口靖子主演の「澪つくし」だ。  いよいよ朝ドラかと思うと、武者震いがしましたね。入念に執筆の準備を進めていましたが、どうも体調がよくない。病院で検査したら、脳に腫瘍が発見されました。幸い手術がうまくいきましたが、一時は死を覚悟しました。好事魔多しとは、このことです。  退院してからは、書きあげるまでは死ねないという思いで取り組みました。ありがたいことに、「澪つくし」の最高視聴率は55%に達して、日本文芸大賞脚本賞もいただきました。  あのときの沢口靖子はかわいかったですね。けっして演技がうまいわけじゃないんだけど、そこがまたよかった。  でも、彼女はたばこを吸う人が嫌いだったんですね。僕はヘビースモーカーなんです。たばこをやめるぐらいなら死んだほうがいいと本気で思っていたので、僕は彼女よりもたばこをとってしまった。もちろん、僕が勝手に残念がっているだけで、向こうにはそんな気はまったくなかったと思います(笑)。 ――87年にはNHK大河ドラマ「独眼竜政宗」が放送。歴代最高の平均視聴率をたたき出した。その後も「八代将軍吉宗」(95年)、「葵 徳川三代」(2000年)と、大河は合わせて3度担当した。 「葵 徳川三代」で徳川家康を演じた津川雅彦の演技は、じつに見事でしたね。彼は「澪つくし」でも、大事な役をビシッと演じてくれました。  8月に亡くなってしまいましたが、残念ですね。仕事だけじゃなくて遊びでも、たくさん思い出があります。僕のことを「自分にとっての三種の神器のひとり」と言ってくれていたみたいだけど、なんだかくすぐったいですね。 ――仕事は途切れず、83歳の今も現役だ。そして、私生活では元国際線客室乗務員で27歳年下の女性と、19年前に再婚した。  妻は明るくて、性格がカラッとしています。レストランで前菜が出てくると「私は後妻です」なんてダジャレを言ったりする。いやあ、もう女性関係のトラブルはありませんよ。たしかに昔はいろんな経験をさせてもらって、女性からたくさんのことを学びました。それがきっとドラマ作りに生きたし、自分の財産になっていると思います。  僕もこの歳だから、いつ死ぬかはわからない。これまでさんざん大病しているから、きっとある日突然、パタッと逝くんじゃないかと思っています。人間は、いくつになってもわからないことだらけ。いつまでもその答えを追い求めていくんでしょうね。そして、わからないことを抱えたまま死んでいく。女性とは何だろう……なんて思いながらね。  葬式のときは、お焼香の台を灰皿にして、来た人にたばこの煙をかけてほしいですね。墓はなくていいので、遺骨は粉にして海に捨ててほしいと、妻に言ってあります。  でも、まだまだ引退するつもりはありません。創作意欲もアイデアも、衰えてはいません。以前、舞台の脚本で室町時代から江戸時代にかけて日本に派遣された朝鮮通信使のことを書いたのですが、それを韓国で映画にしようという話が進んでいます。決まったら、脚本を手直ししなきゃいけない。10月上旬にもその話をするために、釜山国際映画祭に行ってきました。  この職業のありがたいところは、死んでも作品が消えるわけじゃないこと。僕の作品を覚えてくれている人がいるうちは、僕はその人の思い出の中で生き続けていられる。それが、僕にとっての「もう一つの自分史」なんじゃないかな。  なんて、ちょっとカッコよく言いすぎちゃったから付け加えると、女性の思い出の中でも、なるべく生き続けていたいと思ってます。(聞き手/石原壮一郎) ※週刊朝日  2018年11月9日号
ドラマ
週刊朝日 2018/11/04 07:00
股関節&首・腰の手術で安心できる病院は?  医師に聞く見極め方
股関節&首・腰の手術で安心できる病院は?  医師に聞く見極め方
写真はイメージです 股関節が原因で起きる症状 (週刊朝日2018年11月9日号から)  股関節と首・腰の手術を検討する際、その病院を選ぶことは難しいといわれる。いずれも専門性が高いため、手術実績のある病院を選ぶことが重要だ。現役医師にどれくらい実績数があれば安心か、ほかにどんな情報を確認すればいいのか聞いた。 「最近、靴下がはきにくい」「足のつめが切りにくい」「片方の足だけあぐらがかきにくい」などの症状に心当たりはないだろうか。その原因は「股関節」にあるかもしれない。痛みの場所が、太ももの外側、おしり、腰などの場合も、股関節が原因の可能性がある。  神奈川県在住の山根良子さん(仮名・65歳)は、足のつけ根の痛みと歩きにくさを感じ、座間総合病院人工関節・リウマチセンターを受診した。最初は「歩くときになんとなく痛い」程度だったが、介護職についており、仕事で動いているときに痛むようになり、勤務時間が長くなるとつらく感じることが増えた。休日は友人とハイキングや旅行によく出かけたが、近年は、長く歩くと痛むため、周りに迷惑をかけたくないと遠慮することが増えたという。  同センター長の近藤宰司医師は、問診や触診、X線検査などにより、痛みの原因を「股関節の変形が進んでいるため」と診断。「どうしてこんなところが痛いのだろう、歩きにくいのだろう」と疑問に感じていた山根さんは、そこで初めて股関節が悪いことに気づいた。  股関節は、左右の足のつけ根にあり、骨盤と大腿骨(太ももの骨)をつないでいる。ひざや足の関節とともに体重を支えており、歩行時には体重の約4倍もの負荷がかかるといわれる。そのため、関節は加齢とともにすり減っていき、そのせいで足が開きにくくなったり、炎症が起こって痛みが生じたりするようになる。このような病気を「変形性股関節症」という。ひざの関節でも同様に起き、それは「変形性膝関節症」という。  変形性股関節症は、股関節の痛みの原因として最も多い病気で、とくに中高年の女性に多い傾向がある。症状の訴えは人により異なり、山根さんのように、受診して初めて股関節の病気とわかる人も多い。 「股関節が悪くなると歩くときに腰に負担がかかるため、腰が痛くなる人も多くいます。腰痛で受診し、腰の治療をしてもよくならないため、もう一度よく調べてみたら股関節が悪かったということもあります」(近藤医師)  変形性股関節症では、初期症状として、立ち上がるときや歩き始めるときに痛むことが多い。聖隷佐倉市民病院整形外科部長の岸田俊二医師はこう話す。 「進行すると、長く歩いたときなどに痛むようになり、さらに重症化すると、じっとしているときや寝ているときにも痛むようになります。足の開きにくさや歩きにくさを感じることもあり、診断されてから『そういえば前から靴下がはきにくかった』と気づく人もいます」  変形性股関節症の治療では、まずはリハビリや薬物療法などの保存療法をおこなう。 「ストレッチをして可動域(動く範囲)を広げたり、凝り固まった筋肉をほぐしたり、姿勢を正したり、筋力を強化したり、というリハビリをおこなうことで痛みが改善されることも多くあります」(近藤医師)  保存療法で痛みが改善されず、日常生活に支障をきたすようになったら手術を検討する。股関節の手術は、高齢者には「人工股関節置換術」が主となる。  山根さんは3カ月ほど保存療法を続けたが、痛みが改善されず、関節の変形も進んでいたことから人工股関節置換術を勧められた。最初は、「手術までしなくても」と躊躇(ちゅうちょ)していたが、痛みのために夜中に目が覚めたり、勤務時間を短くしてもらったりすることが増え、「痛みが改善するなら」と手術を受けることを決めた。  その後手術を受けた山根さんは、翌日からリハビリを開始し10日後に退院。術後3カ月たった現在では、痛みはすっかり改善し、以前と同じように仕事もできるようになり、休日は友人とハイキングや旅行を楽しんでいる。  手術すべきかどうかの判断は、痛みなどにより日常生活に支障をきたしているかどうかが目安となる。この治療は命に関わるものではないため、手術をしない選択肢もあると両医師は言う。 「痛みがなく、日常生活で困っていることがないなら急いで手術をする必要はないと考えます。ただ、痛みが強い状態をあまりガマンするのも患者さんにとってはよくないと思います。夜間に痛みで目が覚めるようなことが増えたら、手術を考える時期といえるでしょう」(岸田医師) 「股関節が痛む場合、立ち上がるときに反対側のひざに力を入れて立ち上がるため、ひざの関節が変形してしまう人がいます。その状態が長く続くと、股関節の手術をしてもひざの痛みが残り、ひざまで人工関節の手術をしなければならなくなることもあります。ほかの関節を悪くする前に手術をする決断も大切です」(近藤医師)  人工股関節置換術は、ポリエチレンと金属などで構成される人工股関節を入れる手術で、原則として60歳以上で症状の進んだ人が適応となる。いちばんのメリットは、術後の回復が早く、痛みが改善することだ。変形性膝関節症でも同様に人工関節置換術がおこなわれるが、「ひざよりも股関節のほうが、術後の患者満足度が高い」という調査報告もある。 「手術によりどちらも痛みは改善されますが、ひざはやや痛みが残ることもあり、股関節のほうがスッキリ痛みが改善する傾向があります。もうひとつ、動きに関しても違いがあります。ひざは人工関節に入れ替えても正座ができるまでは曲がるようにならないなど、術後も動作を制限されることがあります。股関節は、基本的には術後しっかり回復してからは動作を制限することはありません。日本人は正座をしたり、和式トイレを使ったりとひざを曲げることが多く、ひざのほうが制限を感じやすいことも満足度に関係しているのかもしれません」(岸田医師)  人工股関節置換術のデメリットとして、術後の感染症など合併症のリスク、人工股関節の摩耗やゆるみ、脱臼などにより再手術(再置換術)が必要になることが挙げられる。100人に1人程度の割合で再手術が必要になる可能性がある。しかし、医療技術の進歩により人工股関節の性能や耐久性は大きく向上しており、耐用年数は20年を超えるといわれ、再置換術も減少している。 「以前は、高齢の方が痛みに耐えられなくなってやむなく手術を受けるということが多かったのですが、最近では『友人と旅行を楽しみたいから』『仕事を続けたいから』などの理由で手術を選択する方が増えつつあります。手術を受ける年齢で最も多いのは60~70代です」(同)  患者にとって、股関節の手術を受ける病院選びは、ひざの手術より難しいと考えられる。ひざと比較して手術を実施している病院が少ないこともあるが、股関節の場合はとくに、「脱臼などの合併症対策に医師の技術が求められる」と近藤医師は話す。 「脱臼などの合併症を予防するためには、医師の熟練の技術が必要です。脱臼しないように、なおかつ、硬くしすぎて術後に痛みが残らないように、適切な加減で正確に設置するには経験に基づく力量が求められます。それだけ股関節の手術を受ける病院選びは難しいといえるかもしれません」(近藤医師)  股関節の手術を受ける病院選びの指標として、両医師は「股関節の手術数」や「脱臼や感染症など術後合併症のデータ」を挙げる。ひざと股関節では手術の専門性が違うため、股関節手術の実績をみることが重要だ。 「手術数は病院の実力を示す指標のひとつになります。数が多ければ良いということではありませんが、経験が技術向上につながることは間違いありません。年間100例あれば、週に2回は手術をしているということなので、技術力の目安にはなるでしょう」(同) 「術後合併症が少ないことは、手術手技が正確であること、術後の管理がしっかりしていることの証しといえます。患者さんが『どういうリスクがあるのか?』『どのぐらいの頻度で起こるか?』と聞いたとき、明確に答えられること。さらに、それらのリスクを予防するためにどのような対策を講じているかまで説明できることが、いい病院、いい医師だと考えます」(岸田医師)  首や腰の病気は、頸椎症(神経根症・脊髄症)、頸椎椎間板ヘルニア、腰部脊柱管狭窄症、腰椎椎間板ヘルニア、腰椎すべり症、変形性脊椎症、脊椎骨折など多くの種類があり、首や腰の痛み、手足の痛みやしびれ、まひといった症状につながっている。平和病院横浜脊椎脊髄病センター長の田村睦弘医師はこう話す。 「首や腰の手術はとても専門性が高く、医師の経験や手術の技術が患者さんの術後の生活に大きく影響するといえます。首や腰の手術は神経の近くでおこなうため、もし手術で神経を傷つければ手足にまひが残ったり、症状が改善しづらくなったりするリスクもあるからです。そのため、病院選びは非常に重要です」  首や腰の病気は、薬物療法やリハビリなどの保存療法で改善することが多い。しかし、3カ月から半年程度保存療法を続けても症状が改善されない場合や、運動麻痺や排尿障害、筋力低下などの症状が出現した場合には手術を検討する。  手術を受ける病院を選ぶときのいちばんのポイントは、「かかりつけの医師に紹介された病院に行くこと」と田村医師は言う。 「地元の医師は、手術をしている専門の病院をよく知っています。例えば、手術が必要になった患者さんを病院に紹介した後、治療を終えて戻ってきた患者さんを診察すれば、紹介先の病院で適切な治療を受けたか、そうでなかったかがわかります。かかりつけ医がすすめる病院なら、まず間違いないと考えていいでしょう」(田村医師)  かかりつけ医に紹介してもらえない場合には、自力で探す必要がある。田村医師は、病院のホームページや新聞、書籍などを参考にし、以下の情報を確認することを勧めている。 (1)自分が受けたい治療・手術をするための態勢(医師、医療スタッフ、入院設備など)が整っているか。 (2)治療や手術の実績(手術件数など)。 (3)医師が脊椎の専門医、指導医、認定医であるか。 (4)体の負担が少ない低侵襲手術を取り入れているか。 「首や腰の病気は多数あり、医師の専門領域などにより、病院ごとに得意分野が異なることもあります。そのため、自分の受けたい治療や手術の実績を確認するといいでしょう。地域や施設などの条件にもよりますが、理想的には一人の医師が年間150例以上手術をしていれば、安心して任せていいと考えられます。ご高齢の方など、自分で情報を集められないときは、お子さんやお孫さんなどご家族に調べてもらってもいいでしょう」(同)  受診した際には、▼手術以外にどのような治療法があるか▼いつ手術をするか▼どのような術式でおこなうか▼手術は何時間かかり、出血量はどのぐらいか(低侵襲手術か)▼手術によりどのぐらい症状が改善するか▼どのようなリスクがあるか(術後の合併症)について十分に説明してくれる病院を選びたい。持病がある場合や合併症が起こった場合に対応可能な診療科(内科・外科)があるか、リハビリや入院期間なども確認しておくと安心だという。  きちんとした説明がない場合には、患者のほうから聞く姿勢も必要だ。聞いても十分な説明が得られないなら、ほかの病院を探したほうがいいだろう。  とくに、「いつ、どんな手術をするか」についての病院や医師の方針は、病院選びの重要な指標になると田村医師は話す。首や腰の病気では、保存療法を長くしすぎて手術のタイミングを逃してしまうこともあるからだ。例えば、重篤な脊柱管狭窄症やヘルニアなどで神経が圧迫された状態が長く続くと、神経症状が進み、せっかく手術をしても十分な症状の改善が得られないことがある。  一方で、病院によっては痛みや手足のしびれが出てすぐに手術をすすめるケースもある。これらの症状は、保存療法により改善されることもあり、その場合「不要な手術」となる可能性もある。 「早すぎず、遅すぎず、適切な時期に最も効果的な治療を提案できるのが、いい病院と考えます。患者さんの負担の小さい低侵襲手術をしていると理想的です。ただし、患者さんやご家族が、いつ手術するべきか、どんな術式が最適かなどを判断することは難しいでしょう。説明に少しでも疑問を感じたり、不安を抱いたりした場合には、セカンドオピニオンとしてほかの医師に相談してみることをおすすめします」(同)  セカンドオピニオンといっても、大学病院などの「セカンドオピニオン外来」(保険適用外)でなくても、保険適用の通常の脊椎専門医の外来を受診して聞く方法でよいという。(ライター・出村真理子) ※週刊朝日  2018年11月9日号
週刊朝日 2018/11/03 07:00
派遣労働地獄から抜け出せない35歳男性の職歴「夢は月給20万円」
小林美希 小林美希
派遣労働地獄から抜け出せない35歳男性の職歴「夢は月給20万円」
※写真はイメージです(写真/getty images) 『ルポ 中年フリーター 「働けない働き盛り」の貧困 』(小林美希・著/NHK出版新書) 「名の知れた大手の派遣会社でさえ、手の届かない存在。正社員になるなんて、夢のまた夢ではないか」  埼玉県に住む木村正則さん(仮名、35歳)は、正社員になることへのハードルの高さを感じている。  都内で生まれ育った正則さんは、留年したことをきっかけに2年生で大学を中退。学生時代からアルバイトをしていたスーパーで配達のアルバイトを続けたが、2~3年もすると店が潰れてしまった。  本格的に就職を考え、公的機関が運営する職業訓練学校に入って半年間、印刷の技術を学んだ。もともと大学では日本文学を専攻していたくらい本が好きだったため、本に関係する仕事に興味を持っていた。  職業訓練校では「印刷ならつぶしが効く。どこかに就職できるだろう」助言されて、選り好みしなければ就職できるだろうと期待したが、訓練校を卒業するころには出版不況が著しくなり、就職先を紹介してもらえなかった。都内にある実家に住んでいたが、親からは「一人暮らしをして社会勉強しなさい」と発破をかけられ、家を出た。  アルバイト時代の友人を頼り、埼玉県川越市に引っ越して友人とルームシェアして生活を始めた。それまで日雇い派遣の経験はあったが、初めて派遣会社で長期の仕事を紹介してもらった。書籍を扱う倉庫での仕事。勤務時間は10時から18時まで。3か月おきの契約更新で、時給950円でのスタート。手に職をつけよう、スキルアップしようと、働きながらフォークリフトの免許を取った。すると時給が40円上がったが、現場では「初心者はフォークリフトに乗らせない」とはねつけられ、「これでは経験が積めない」と悩んだ。  派遣会社は契約更新の手続きが杜撰で、契約書が送られてくることもなく、なし崩しで働き続け、1年以上が過ぎた。ある時、担当者に有給休暇はあるかと尋ねると「ない」とサラリと答える。  本来、労働基準法によって派遣社員でも正社員でも変わりなく、6カ月以上継続して働いていれば有給休暇を取ることができる。また、派遣社員は3年以上同じ派遣先で働いていた場合、その職場での直接雇用されるチャンスがある。労働者派遣法の第30条で「派遣元事業主の講ずべき措置等」が定められ、1年以上の派遣労働が見込める人に対して、派遣元から派遣先に対して直接雇用を申し入れるよう求める努力義務が、3年間働いている場合は「義務」とされている。  ちなみに、厚生労働省の「平成28年度 労働者派遣事業報告書の集計結果」によれば、1年以上の派遣労働となる対象者は102万2866人、うち3年見込みが3万5881人だった。3年見込みのうち派遣先への直接雇用の依頼があったのは4180人で、実際に雇用されたのは、わずか1824人。派遣からの直接雇用は狭き門だ。  派遣社員に関する労働法を調べた正則さんは、「3年経っても何も言われないまま。辞めてともさえ言われない。この派遣会社にいても先が見えない」と悟り、派遣を辞めた。  辞める手続きをするうち、雇用保険に加入されていなかったことが分かった。交渉すると派遣会社が遡って保険料を支払ってくれたが、市民税なども給与から天引きされておらず、4年間で総額20万円の税や保険料の自己負担分を支払うこととなった。 「給与明細をきちんと見ていなかったのは、うかつだった。ただ、月収14万円なのに保険料が引かれていたら、暮らしていけなかっただろう」と、身震いした。  それから半年以上、就職活動をしたが、辛酸をなめるような思いを味わった。ハローワークで見つけた企業の面接では、「食い下がってくるなら雇ってあげる。給与もそれなりに出すよ」と上から目線の言葉を投げかけられた。求人の条件には「勤務時間は8時間に残業が1~2時間。月給20万円以上」と書かれていた。屈せずに条件を聞いていくと、実際の拘束時間はもっと長く、夜勤もあることが前提だと分かった。何社受けても、経験のない正則さんの採用は見送られた。ぺーパードライバー状態でフォークリフトを扱える就職先は見つからなかった。  食つなぐため日雇い派遣も経験した。工場の現場で資材を運び、引っ越しの仕事する日もあった。1日8時間働いて9000円。日々、違う場所に派遣されることがストレスとなったが、行くしかない。もっと、経験を積んで付加価値のある仕事を覚えたい。そう思うと焦った。  流通業に強みのあるという派遣会社を探して得たのが、量販店の商品が置かれる倉庫での仕事だ。自宅から片道で約1時間、山奥にある倉庫では携帯電話の電波が届かない。最寄り駅から送迎バスが運行される。  勤務時間は8時から17時まで。契約は3か月更新という条件で、社会保険はきちんと加入される。時給1100円で交通費も別に支給される。繁忙期は残業もあり、残業代は働いた分だけきちんと支払われた。月の手取りは平均17万円だが、今までを考えると良い条件に思えてくる。実際にフォークリフトを使って家具の入った梱包を積み下ろしするのは想像以上に難しいが、日々、勉強だ。  働く合間にも、もっと良い仕事はないか探している。月給17万円以上の求人を探すが、「職歴がない自分が月に20万円は手が届かない。夜勤をするか、何か資格がないと難しい。35歳を過ぎると、正社員の求人は見つからない。面接にこぎつけても、年齢に見合うようなベテランであることを求められる。けど、自分には職歴がないから無理だ」と、行き場のない気持ちを抱える。  評判の良い大手の派遣会社はホワイトカラーの仕事の紹介が多く、「残念ながら毛色が違う」と感じてしまう。派遣社員でも大手なら、保養所が使え、健康診断も受けられるなど福利厚生もしっかりしているが、正則さんにとってデスクワークは縁遠い職業だ。 「派遣先の倉庫の管理職は正社員だが、朝8時から夜10頃まで働くことが当たり前。そんな働き方ができるだろうか。正社員は大変なばかりで魅力を感じなくもなっている」と、あきらめ顔だ。  現在の生活といえば、家賃3万5000円と光熱費の約1万5000円を友人と折半するため、ひと月の生活費は約2万5000円。節約するため、弁当や総菜が半額になる閉店間際を狙ってスーパーに行く。いつも決まって定価が400~500円の弁当を半額で買う。たまの贅沢は、900円の刺身が半額であれば買うくらい。1本100円の発泡酒とつまみを買い物かごに入れ、“自宅呑み”するのが気分転換となる。お金のかかる居酒屋には行けない。  昼ごはんは、倉庫に出入りの弁当屋を利用する。弁当は300円、カレーや蕎麦は200円と格安だ。最初は「まずい」と食べられたものではなかったが、いつの間にか舌が慣れてしまった。時給で働く派遣社員では、風邪をひくのが怖い。休めばその分、収入ダウンだ。この生活をしながら、どうして将来を考えられるだろうか。  正則さんは「就職はタイミングが重要なのではないか。いったん、その年齢なりのレールから外れるとやり直せない。自分は自業自得だ、失敗したな。という気分になる」という呪縛から逃れられない。  総務省の「就業構造基本調査」では、2017年時点で35~44歳のうち、初職(初めて就いた仕事)が非正規雇用労働者の場合、現在の雇用形態が正社員は76万6500人、非正規雇用が164万100人で、非正規が正社員の倍以上となる。同様に、初職が正社員の場合は、正社員が779万6300人、非正規が187万9700人で正社員であるほうが3倍以上となる。社会人のスタートが非正規か正社員かで、分かれ道となるケースが多いことが伺える。  正則さんは、「もしも戻れることなら、10年くらい前に戻って、最初からフォークリフトの仕事をしたかった。地道にやっていれば、それなりのキャリアを積めたのではないだろうか」と、思えてやまない。そして、今後について「フォークリフトに乗ってまだ半年。まだちゃんと地面を踏みしめてもいないのに、ステップアップなど考えられない。仕事の精度を上げて、きちんと地面を踏みしめないと。それで時給が少しでも上がればいい。望みは、それくらいかな」と静かに語った。  派遣社員でも担当エリアを任され、配置や荷物のスケジュール管理を行っている人もいる。いつか、その立場になることができるだろうか。しかし、倉庫が広すぎて全体が見えないように、先が見えない。目の前のことを一生懸命やるしかない――。正則さんは、もう、正社員という道は諦めている。  35~54歳の非正規雇用労働者は「中年フリーター」とも呼ばれる。就職氷河期に煽りを受けた世代だ。2015年に三菱UFJ総合研究所が試算したところ、既婚女性を除く中年フリーターは273万人に上るという。政府は、外国人労働者の受け入れ拡大を目指しているが、それよりも先に打つべき雇用対策があるのではないだろうか。中年フリーターを諦めや絶望から救い出さなければならない。(ジャーナリスト・小林美希)
小林美希
dot. 2018/11/02 17:40
猿田佐世「安田純平さんへの自己責任論がイラク人質事件の時より悪質になった理由」
猿田佐世 猿田佐世
猿田佐世「安田純平さんへの自己責任論がイラク人質事件の時より悪質になった理由」
妻、深結さんが公開した成田空港での安田純平さんの写真(提供) 猿田佐世(さるた・さよ)/シンクタンク「新外交イニシアティブ(ND)」代表・弁護士(日本・ニューヨーク州)。各外交・政治問題について、ワシントンにおいて米議会等にロビイングを行う他、国会議員や地方公共団体等の訪米行動を実施。研究テーマは日米外交の制度論。著書に「新しい日米外交を切り拓く(集英社)」「自発的対米従属(角川新書)」など  ああ、やっぱり。  安田純平さんについて再び自己責任バッシングが起きている、と知った際の私の感想だ。この日本という国はいつまでたっても変わらない。それどころか、むしろ、今回、一般の人たちが恥ずかしげもなく自己責任論を口にしている雰囲気からすると、悪化してすらいる。 ◆自己責任論が広まったイラク人質事件  自己責任論が最初に日本社会に強烈に広まったのは2004年のイラク人質事件の時だった。  イラクの人々の支援をしていた高遠菜穂子さんや当時高校生の今井紀明さん、ジャーナリストの郡山総一郎さんが身柄拘束された事件である。拘束グループが、当時日本がイラクに派兵していた自衛隊について、72時間以内に撤退させないと3人を殺害するとの声明を出していた。連日、新聞が何面も割いて大きく報道し、官邸前では解放を求める大きなデモが連続して行われた。  72時間の期限が迫り、小泉純一郎首相(当時)が自衛隊を撤退しないと明言したころから保守系の新聞は「自己責任である」という論調を前面に出し始め、官邸からも自己責任論を肯定する発言が出された。  私は、この時、当初は被害者家族の弁護団の、3人が解放されてからは3人の弁護団の一員だった。弁護団は、家族や3人と政府との橋渡し役だったが、それに加えての重要な仕事は、家族や3人をバッシングからできる限り護る、というものだった。あまりにひどいバッシングにただただ驚きながら、その対応に追われた。 ◆メディア・スクラム  弁護団は毎朝集まって新聞各紙を比較し、その記事を吟味し、問題があれば対策をとるべく尽力した。大手全国紙が、何を血迷ったか彼らの自宅住所を掲載し、その情報拡散を避けるため裁判所に仮処分も申立てた。自宅住所が広まると命にかかわる、そんな日本社会の雰囲気であった。  当時、私は弁護団内のメディア担当であったことから、メディア用の携帯電話を急遽持つことになったが、その携帯電話は常に鳴り続けた。1週間ほどの間、連日、昼夜問わず断続的に弁護団会議を続けていたが、弁護団会議の間のわずか2時間、それも早朝4~6時に仮眠をとった間に、着信履歴が47件入っていたこともあった。  今回の安田さんの件で、私が驚いたのは、大手メディアが安田純平さんのインタビューをトルコから帰国する飛行機の中で行っていたことである。また、今回、成田空港に降りた安田さんの様子も多くのメディアが流していた。  2004年当時、3人の釈放が分かった直後、弁護団で議論をし、私はドバイの空港に電話をして、解放されたばかりで精神的に厳しい状態にあると思われる彼らがメディア・スクラムにあわないように、機内で取材を受けるなどということがないように、と調整した。3人の体調への懸念もあり、到着した羽田空港でもできる限りメディアに触れることのないように3人の動線などを弁護団は空港の担当者と調整した。この時は、日本政府がむしろ3人の姿がメディアに映りやすいように道を変更したため、弁護団から抗議も行った。実際に、空港で3人のうちの1人が倒れこんでしまった。3人は帰国直後に医師の診察を受け、フラッシュバックなどの恐れがあるため、しばらく休養した方が良いとの医師の所見もでた。  今回の安田さんの件では、メディアなどの対応は適切か。  拷問状態におかれ、3年以上もの間いつ殺されるやしれない生活においては、精神的な負担は想像を絶するものであっただろう。一見落ち着いているように見えたからといっても、いつPTSDの症状が出るかわからない。拘束されていた時の話を繰り返し質問されれば、精神状態が悪化することも大いにありうる。ひどければ希死念慮に襲われることも十分に考えられる。  誘拐・拘束された人は「被害者」である。このことを出発点に考えれば、まずは、被害者に二次被害を与えないように配慮することが需要である。事実や背景を報道するというメディアの使命については、被害者の精神的安定を待ってからでも十分果たせる。 ◆帰国後のバッシングの方がつらい  2004年の時、空港で本人たちの姿が見えたとき、少なくない大手メディアが遠くから発した言葉は「お帰りなさい」「よかったですね」ではなく、謝罪を求める言葉であった。3人の帰国直後、体調を崩している本人たちに代わって家族の会見を行うこととしたが、その家族の会見でも、「謝罪はないのですか」というのが大手紙記者からの最初の質問であった。  会見できないでいる本人たちに対し、マスコミからの強い要望が続き、実際に、記者会見を開催したのが、帰国の12日後。比較的体調の落ち着いていた今井さんと郡山さん、そして弁護士による会見となった。集まったメディアの数はもう忘れてしまったが、150人以上はいたように思う。今となっては弁護士が代理人として当事者に代わって記者会見を主導することも珍しくないが、当時は弁護士が取材や会見対応をすることについてのメディア側からの反発も強くあり、「なぜ弁護士がいるんだ」との反応もあった。続いて受けたテレビ出演でも、本人に向けて、「謝罪の言葉は?」と質問がむけられた。  彼らの自宅には大量のハガキ・手紙が届いていた。「バカ」「死ね」「自作自演」「帰ってこなければよかったのに」という非難の手紙はことごとく匿名で、他方、「おかえりなさい」「ありがとう」という応援の手紙は皆、実名が記載されていた。  アメリカのパウエル国務長官(当時)の「イラクの人々のために、危険を冒して現地入りをする市民がいることを、日本は誇りに思うべきだ」との発言は、大きな支えとなった。  今井さんなどは、帰国後、知らない人に後ろから突然殴られたこともあるという。3人は、イラクでの拘束状態よりも、帰国後の日本のバッシングの方がつらいとすら口にしていた。 ◆安田さんの「責任」 「可能な限りの説明をする責任があると思います。」という安田さん。しかし、まずはとことんまで療養することである。今後、安田さんは記者会見の開催などをしていくのかもしれない。しかし、急ぐ必要はない。  仮にその「説明」責任が安田さんにあるとすれば、メディアを通じてこのニュースを見ている単なる傍観者にすぎない私たちに対してではない。  それは、シリアで出会った人たち、シリアで安田さんに声を届けてほしいと言ってカメラを向けることを許してくれた人たちに対してであろう。また、拘束されている間の状況を知らせることでシリアの現状を世界に示し、以後何人ものシリア人の命を救うための「知った者の責任」であろう。さらに、拘束される過程で安田さんに安全確保についての「ミス」があったのであれば、これから後に続いて紛争取材に入る人たちへの教訓のために、それについての説明はしたほうがよいだろう。  しかし、いずれにしても、それはしっかりと静養した後のことである。それに何カ月かかろうと、私たちに「早く説明しろ」などという資格はない。 ◆最高の国際貢献  紛争地で拘束され釈放されたジャーナリストは多くの国ではヒーローである。最近のフランスのケースなどでは大統領が到着した飛行機まで迎えに行って歓待し、さながら祖国凱旋といった雰囲気であった。  他国と同じように、危険を冒してまで弱者に寄り添い紛争の現場を報道する日本人がいる、それを「誇りだ」と思える日本社会でありたい。  税金泥棒という非難が多い。日本政府がどの程度の動きをしてそれにどれだけの税金が使われたのか知る由もない。しかし、安田さんがこれまで多くの紛争地の事実を伝え、そのために今回私たちの税金が使われたのであれば、最高の国際貢献ではないか。安田さんのようなジャーナリストの働きで、事実は国際社会に伝えられ、その結果に何人もの命が救われてきた。日本の地位を世界的に高めるために使われた費用であるとすらいえる。  バッシングにかかわっている人は、批判するのに使っているエネルギーを、シリアの情勢がどうなっているかを知り、状況を良くするにはどうしたらいいのか、といったことに振り向けるべきである。  今後再び安田さんが紛争取材に向かうのか、本人の全くの自由であるが、再び向かうのであれば「ありがとう」「頑張ってください」と送り出したい。(国際弁護士・猿田佐世)
猿田佐世
dot. 2018/10/30 08:00
本業よりもキツイ? 人工衛星を趣味で作ったサラリーマンの本気
本業よりもキツイ? 人工衛星を趣味で作ったサラリーマンの本気
リーマンサットの名前は、人工衛星を意味する「サット」と「サラリーマン」から。日本のサラリーマンが、本業でなくてもここまでできるんだと言いたかったという。左から、宮本さん、大谷さん、伊藤さん(撮影/ジャーナリスト・桐島瞬)  無人補給機「こうのとり」7号機が国際宇宙ステーション(ISS)へのドッキングに成功。そこには一般のサラリーマンが作った人工衛星が搭載されていた。 *  *  *  こうのとりを搭載したH2Bロケットは、4度の延期の末、9月23日に鹿児島県の種子島宇宙センターから打ち上げられ、その5日後にISSとドッキングした。積み込まれていたのは、ISSに滞在する宇宙飛行士の生活に必要な食品や生活用品など6.2トン。そのなかに、一風変わった人工衛星「RSP-00」が含まれていた。  衛星はキューブサットと呼ばれるタイプで、10センチ四方、重さはわずか1.26キログラムという超小型。地球との通信や撮影機能を備えるほか、一般の人が短冊に書いた6千通の願い事も画像データ化し、マイクロSDカードに収めている。やがて衛星が宇宙空間で燃え尽きるとき、願い事が流れ星になるという洒落のきいたアイデアだ。  作ったのは宇宙開発の専門家ではなく、一般のサラリーマンたちが集まった「リーマンサット・プロジェクト」。開発メンバーは87人で、2年前の夏ごろから趣味として製作に入った。  ファウンダーの大谷和敬氏(36)は「始まりは新橋の居酒屋だった」と話す。 「ガード下の焼き鳥屋に仕事仲間や友人など、後にプロジェクト設立メンバーとなった5人が集まり、自分たちが宇宙開発をするとしたら何ができるかを話し合ったのが始まりです。宇宙にまったく関心のない人たちも交えて、人工衛星の作り方などを熱く話し合っていました」  とはいえ、人工衛星など作ったことのない素人集団。大谷氏も、ソフトウェア開発企業の営業職だ。 「初めは人工衛星の作り方を書いた本を一人一冊ずつ買って読みましたが、それでも分からず、大学へ勉強に行ったりもしました」(大谷氏)  そうしているうちにメンバーもやがて50人、100人と増えていき、宇宙開発を行う企業で働く人や、大学で専門に勉強する学生も参加し始めた。現在は350人で、7割が技術系。残り3割は営業、経営企画、マーケティング、広報など。中には教師、看護師、弁護士、医師、大工、高校生もいて後方部門としてプロジェクトを支える。メンバーの2割ほどは女性だ。これだけ様々な人材が揃うと、何か問題が発生してもメンバーのスキルで大体は解決してしまうという。  趣味だからといって開発に手を抜くことはしなかった。 「遠くから夜行バスで都内のミーティングに参加するメンバーもいますし、遠隔地のメンバーとはスカイプを使って設計を進めたことも。集まる場所がないときには、カラオケボックスを使って終電までやったこともあります」(技術班コンダクターの伊藤州一氏、48) 「締め切りまでの時間が押してしまい、最後は私の町工場にメンバーが集まり、3日ぐらい徹夜して作り上げました。本業よりもキツイとこぼした人もいました」(代表理事の宮本卓氏、40)  開発費用はどうしたのか。宇宙航空研究開発機構(JAXA)に支払う衛星運搬費が300万円、電子基板や通信設備の購入費、振動、放射線などの試験費用を含んだ製作費に280万円。これらの費用は、メンバーからの寄付やクラウドファンディングで集めた。この中に人件費は含まれていない。スタートアップ企業で同じことをしたら「2億8千万円以上はかかる」(大谷氏)というから、格安で人工衛星を打ち上げたことになる。  次号機の開発もすでに始まった。目標は衛星の自撮り。伸び縮みするアームの先にカメラを取り付け、地球をバックに写真撮影。そこから最適な画像を伝送するために、AI(人工知能)も取り入れる。 「企業から共同企画でやりませんかという提案も増えてきた。今後は衛星を作るノウハウの公開を含めて、継承できる宇宙開発を続けていきたい」(大谷氏) (ジャーナリスト・桐島瞬) ※AERA 2018年10月29日号
AERA 2018/10/26 16:00
変顔さらして再生100万回! キャラがヤバすぎる凄腕ヘアメークJunJunの“素顔”
変顔さらして再生100万回! キャラがヤバすぎる凄腕ヘアメークJunJunの“素顔”
女優やモデル、アイドルなど様々な人物のヘアメークを手がけるヘアメーキャップアーティスト。インスタグラムのフォロワーは39万人を超える。監修したメイク本「ボスメイク:JunJunメイクで顔もココロもなめられない女になる」(小学館)は11月16日に発売予定(撮影・片山菜緒子=写真部) JunJunさんが、「ボスメーク」で変身させた女優やモデルたち(提供画像) 「技術も凄いがキャラもヤバい」とインターネット上で話題のヘアメークアーティストのJunJunさん。インスタグラムのフォロワー数は39万人で、“変顔”をさらした動画の再生回数は100万回を超える。異色のインフルエンサーとしてSNS上で人気を集めるJunJunさんの正体を探るため、本人を直撃した。 *  *  * ――JunJunさんがヘアメーキャップアーティストを志したのはいつごろからですか? JunJun:具体的に将来の夢として考え始めたのは中学生のころです。おしゃれが大好きな子どもで、小学生のころから友達と洋服を買いに行っていました。でも洋服がかっこよくても髪形がきまっていないと嫌で、それでヘアメークに興味を持ち始めたんです。 ――小学生で洋服を買いに行ってたんですか? JunJun:はい。とにかくおしゃれが大好きで、ランドセルは小4までが限界でした。小5からはリュックサックで通っていました。ランドセルだとダサくて洋服と合わないので我慢できなかったんです。そういえば髪を染めたのも、整髪料でセットし始めたのも小学生からでした。 ――今日は、なぜJunJunさんがヘアメーキャップアーティストになられたのかを聞こうと思っていたのですが、すでに答えが出てしまったような気がします。 JunJun:周囲の影響もあると思います。母親は接客業をしていて華やかな人でしたし、美容院を経営していた親戚もいました。その親戚から「ヘアメイクをやりたいなら理容室で勉強しろ」と言われて、それで地元の大阪の理容室を何店も訪ね歩いて、「手伝わせてください」とお願いをしたんです。理容室ではもちろんお客さんの相手はできませんが、スタッフさんの顔をそらせてもらったり、コードの片付け方とか、サロンワークの基本を学ぶことができました。 ――20歳で上京された理由は? JunJun:やっぱり東京に対する憧れがあったんだと思います。渋谷のセンター街でチラシ配りをしながら、夜は新宿のヘアサロンで仕事をしていました。大阪時代と同じで接客業のお姉さんたちのヘアセットが中心でしたが、それだと大阪時代と同じになってしまうので独学で勉強を始めたんです。でも、いまみたいにYouTubeのようなツールはありませんので、美容系の専門学校に通っている友達に技術を教えてもらっていました。 ――下積み時代は苦労されたんですか? JunJun:ヘアメイクの大きな現場に呼ばれることはなく、3、4年はそんな日々が続いて、24歳くらいのときに、あるタレントさんと出会うんです。専属ヘアメークとしてやらせてもらっていたそのタレントさんがテレビや雑誌で大きく取り上げられるようになって、そこから僕の仕事も増えていきました。 ――いよいとプロとして本格的に仕事をされるようになる。 JunJun:はい。そのタレントさんの仕事を通じて業界に人脈ができて、雑誌やイベントなんかの仕事につながり始めます。タレントさんとの関係や常に人との出会いを大切にしていたので、アパレルのカタログの仕事とか、メークセミナーとか、いろんな仕事をいただけるようになったんです。 ――そのころはいわゆる「ギャル雑誌」全盛時代ですね。 JunJun:「BLENDA」や「egg」、「小悪魔ageha」などギャル雑誌が次々に創刊されました。そんな時代だったので、創刊号の表紙を担当させてもらえたりして、運も味方したと思います。「BLENDA」でカリスマ的人気を集めた井出レイコさんが僕のメークを気に入ってくれて雑誌の表紙を担当することにもなり、ヘアメーキャップアーティストとして食べていけるようになりました。 ――そうとう忙しかったのでは? JunJun:めちゃくちゃでしたね。60日間働き続けたり、担当する雑誌を5冊掛け持ちしたり。しだいに競合誌とか、同じ出版社の異なる編集部の仕事が重なるようになって、仕事を選ばざるを得ない状況になったんです。「選ぶ基準は何なのか」、「お金なのか付き合いなのか」。悩み続けましたが、どうしても答えがでないときもあるんです。実はダブルブッキングをしてしまって大変なご迷惑をかけてしまったこともあります。 ――聞くだけでも恐ろしい話ですね……。 JunJun:プロとしてあるまじき行為ですよね。本当に申し訳なかったと思っています。それで思い切って方向性を決めることにしたんです。「僕は何がしたいのか」、「どんなヘアメークをしたいのか」。改めて考え直しました。その後は自分の理想や信念にそって仕事を選ぶようにしたんです。案の定、仕事は減って収入も減っていきましたが、「耐えなければいけない」と自分に言い聞かせて、しだいに「フリーランスだからこそ、仕事を常に埋めないでフットワークを軽くしておかなければいけない」と考えられるようになりました。それに、それ以前は仕事を「こなす」だけでクオリティーも低くなっていました。ただ流されるがまま周囲に忙しくしてもらっているだけで、本来の自分を評価してもらったうえでの忙しさではなかったんです。 ――忙しさの種類が違っていたということですか? JunJun:はい。なんかそう話すととても格好よく聞こえますが、実際はビビりまくっていて、2日間仕事がないと泣きそうになるくらいあせりました。はじめは用もないのに出版社を訪ねて雑誌の進行具合をチェックしたり、知り合いの編集者に話しかけたりしてましたから(笑)。 ――そうまでして守りたかったJunJunさんの理想や信念とはなんですか? JunJun:時代のトレンドとなるようなヘアメークを生み出したい。そのために、先日、引退された安室奈美恵さんのような”アイコン”と呼ばれるような人のヘアメークを担当したい。裏方として一緒にトレンドをつくっていけたら最高ですね。 ――最近はコスメブランドMACさんとお仕事されてますよね?こちらは今後どのような展開になっていますか? JunJun:MACさんと色々なお取り組みとコラボレーションをたくさんさせていただきました。今年は「MAC×JunJun」という全国ツアーも回らせていただいたんです!この秋冬も回らせていただきます!! ――ツイッターやインスタグラムなどのSNSを活用するようになったのはなぜですか? JunJun:SNSは自分自身を自由に表現することができるのでとても重要なツールだと考えています。その反面、誤解されやすいツールでもあるので、実はヘアメークに関連する写真や動画はなるべく投稿しないように意識しています。どちらかというと、僕自身がどんな人間なのかを知ってもらうことをメインにしています。 ――JunJunさんと言えば、色気の中に強さを秘めた“ボス顔”メークの「ボスメーク」というメイクテーマを提案されていますよね。 JunJun:僕は女性に男性受けを意識するではなく、自分らしいヘアメークをして幸せになってほしいと願っています。女性って派手なヘアメークをしたいときでも、男性受けを考えて、地味で清らかなヘアメークをしているんですよ。男性って、そういう女性の実情を知らないですよね。 ――そういわれてみると、私はまったく理解していないかもしれません。 JunJun:女性は顔が変われば心も変わるんです。だからこそ真っ赤なリップをつけたい気分のときは我慢しないでつけてほしい。そのほうが絶対に楽しくて幸せな一日をおくれるんです。そのために僕は日本人の顔や肌質にあった、キレイで格好よくて同性からも異性からも好かれる”ボス顔”の作り方をみんなに伝えたいと思っています。 ――今後、社内の女性のメークを見る目が変わりそうです。 JunJun:街を歩いても同じようなヘアメークをした女性ばかりで、そんなの全然楽しくない。いまの時代、女性はもっと自分らしさを追求していいと思う。清らかでおとなしそうな女性が好きな男性のためにヘアメークをするのではなくて、自分の生き方すら表現できるようなヘアメークをしてもっと人生を楽しんでほしいと思います。そんな時代にするためにこれからも頑張り続けていきたいです。 ――最後に、これから夢を追う若者に向けてメッセージをお願いします。 JunJun:YouTubeやインスタグラムなどが出現して情報はいつでもだれでも手に入る時代になりました。便利な一方で、選択肢が多すぎて迷うこともあると思います。そんなときは少しでもいいので時間をつくって「自分が何をしたいのか」をとことん追求してみてください。答えはSNSではなくて自分自身のなかに必ず潜んでいるはずです。そして、疲れたときには僕のインスタグラムの変顔動画でもみて楽しんでくれたらうれしいです! (AERA dot.編集部)
dot. 2018/10/26 07:00
BUCK-TICK、HAL学生対象のMV制作コンテスト受賞作品を公開
BUCK-TICK、HAL学生対象のMV制作コンテスト受賞作品を公開
BUCK-TICK、HAL学生対象のMV制作コンテスト受賞作品を公開  デビュー30周年を迎えたBUCK-TICKと専門学校HAL(東京・大阪・名古屋)の産学連携プロジェクトとして、 CG映像学科学生を対象にMV制作コンテストが実施され、「最優秀賞」「BUCK-TICK賞」「スピード賞」が決定した。 MV一覧  今回のコンテストは、ビクターエンタテインメント、所属事務所バンカーの協力のもと、 HAL卒業生であり、株式会社スピード 代表取締役・岩木勇一郎(プロデューサー・監督)が中心となり、CG映像学科の学生を対象に実施。学生たちはチームに分かれ、3月にリリースされたアルバム『No.0』に収録された楽曲の中から1曲を選び、映像を制作した。 ◎動画 ▼【専門学校HAL】BUCK-TICK×HAL産学連携プロジェクト・最優秀賞「ゲルニカの夜」 URL:https://youtu.be/cFpUQX2D2RA ▼【専門学校HAL】BUCK-TICK×HAL産学連携プロジェクト・BUCK-TICK賞「BABEL」 URL:https://youtu.be/Z2FuHDwwkUM ▼【専門学校HAL】BUCK-TICK×HAL産学連携プロジェクト・スピード賞「光の帝国」 URL:https://youtu.be/pqhL-n8dnHg ◎櫻井敦司(BUCK-TICK)コメント この度は私たちの楽曲 “BABEL” とてもカッコイイ映像ありがとうございました 僭越ながらBUCK-TICK賞なるものを贈らせて頂きます 皆さんの感性に大変刺激を受けました いつの日か皆さんとご一緒にお仕事出来る様 私達も音楽を楽しんで続けて行きたいと思います それから今回の制作に参加して下さった HAL大阪校、名古屋校、そして東京校の 全てのチームの方々、貴重なお時間と素敵な作品を ありがとうございました 皆さんの未来に幸多からんことを BUCK-TICK 櫻井 敦司 ◎コンテスト情報 ■最優秀賞 副賞:ビデオカメラ1台 『ゲルニカの夜』 メンバー:吉武 ニキータ、于 凌、加藤 花子、喜多 隼人、北川 洸太、塚田 健斗、保坂 友春、横山 祐稀 受賞コメント:今回はアーティストとのタイアップ制作ということで、今までの学生制作とは違った雰囲気でとても良い経験になりました。最優秀賞をいただけたことは今後の励みにしたいです。ありがとうございました。 ■BUCK-TICK賞 副賞:BUCK-TICKオリジナルモバイルバッテリー8個 『BABEL』 メンバー:小田澤 拓光、厚澤 光治、五十嵐 亮太、伊勢島 太次、片岡 謙介、鈴木 渉、関口 俊太、松本 優希 受賞コメント:今回の産学連携ではMV制作ということで、かなりの苦戦と試行錯誤を積み重ねての制作となりました。楽曲選定をはじめ絵コンテの段階から『自分たちらしさを出すにはどうしたらよいか』という点に最も注力し、 UnrealEngine4を使用し映像制作を行いました。 今回BUCK-TICK賞をいただくことができ、チーム一同大変感動しております。 ありがとうございました。 ■スピード賞 副賞:映画鑑賞券2万円分 『光の帝国』 メンバー:藤原 聖、筒井 大輔、于 浩、島田 尚也、高橋 啓悟、田村 凪沙、佃 光太、西上 駿、野々口 風吾、宮川 貴志、好井 壮力 受賞コメント:まさか賞をいただくことができるなんて思っていなかったので、本当に嬉しく思います。予定通りに行かず悩むこともありましたが、チーム全員で話し合いを重ね、一丸となって制作しました。制作にあたり関わってくださった方々に感謝しております。この経験を活かし、社会人になってもより良い映像を制作するために妥協せず努力し続けます。 この度は貴重な経験をさせていただきありがとうございました。 ◎公演情報 【TOUR No.0 -FINAL-】 2018年12月29日(土)日本武道館
billboardnews 2018/10/25 00:00
「盗撮」の意味、知っていますか? アサヒカメラで「写真撮影の落とし穴」を徹底特集!
「盗撮」の意味、知っていますか? アサヒカメラで「写真撮影の落とし穴」を徹底特集!
アサヒカメラ11月号から アサヒカメラ11月号から アサヒカメラ11月号から 肖像権問題はその微妙な性格から多くの誤解を生み、スナップ撮影の委縮モードをもたらしています。10月20日発売の「アサヒカメラ2018年11月号」では、スナップの「撮影」と「発表」のシーンで注意すべき点をピックアップ。「いまさら聞けないスナップ撮影・写真発表の落とし穴」と題して、肖像権、著作権、プライバシー権、盗撮、施設管理権など、トラブルを招きやすいポイントを弁護士が徹底解説します。 ■人気連載『写真好きのための法律&マナー SEASON 2』 スナップ撮影をする際に、気になるのが肖像権問題やプライバシー権、盗撮の問題。今回は「いまさら聞けない スナップ撮影&作品発表の落とし穴」と題して、撮影場所を決めるところから作品をSNSや写真展などで発表するまでのワークフローに沿って注意すべきポイントを解説しています。監修はみずほ中央法律事務所の代表弁護士・三平聡史さんです。とりわけ肖像権については誤解が多く、誤った知識が飛び交っています。この機会に肖像権問題を学び直してみるのはいかがでしょうか。 ■第一特集「スナップ写真は人生だ!」 86ページに及ぶ大ボリュームのスナップ特集です。表紙と巻頭グラビアを飾るのは森山大道さん。そしてハービー・山口さん、大西みつぐさん、中藤毅彦さんの鼎談が続きます。写真家としてだけでなく、写真コンテストの審査員を多く務める立場から、「スナップ写真とは何なのか」を、過去の名作やアマチュアの写真作品を見ながら、熱くトークを交わしています。作品づくりの貴重なアドバイスもたっぷりです。さらに今号はテーマ別のスナップの実践講座を実施。「家族の日常」を須田一政さん、「通勤風景」を大西正さん、「転勤先の地方」を中村邦夫さん、「夜の街」を星玄人さん、「仕事仲間」を梁丞佑さん、「海外」を山内道雄さんとHARUKIさんらが、レンズの向こう側の世界をどう描くかについて、作品解説をしています。 ■第二特集「秋の新製品&実写続報」 全36ページの渾身特集です。冒頭は、“パナソニック×ライカ×シグマのフルサイズミラーレス同盟”など、大きな発表が相次いだドイツのカメラ見本市「フォトキナ2018」の現地リポートをたっぷりと。新製品の実写&解剖企画も目白押しです。開発発表があったパナソニックのフルサイズ判ミラーレス機「LUMIX S1R/S1」の解説、レンジファインダー風の中判ミラーレスが魅力的な「富士フイルムGFX 50R」の実写、話題の「ニコンZ7」の望遠&広角レンズによる実力診断、「キヤノンEOS R」と新レンズの徹底実写……。 もちろん、新製品のレビューばかりではありません。特集のシメは赤城耕一さんの寄稿「フルサイズミラーレス機の必要性とその意義を問え」。各社が相次いで出したハイスペックの機材がわれわれの写真生活にどれほどのインパクトを与えるのか、はたして本当に必要な機能なのかどうかを真剣に考えさせてくれる内容です。  ■アサヒカメラ 2018年11月号 定価:900円 発売日:2018年10月20日 https://www.amazon.co.jp/dp/B07H5VVLWZ/
dot. 2018/10/20 07:00
住みたい街、大人の街「恵比寿」の変貌 都電が結んだ中目黒との接点とは?
諸河久 諸河久
住みたい街、大人の街「恵比寿」の変貌 都電が結んだ中目黒との接点とは?
恵比寿駅周辺。背景には恵比寿駅を発車する国鉄山手線101系が見える(撮影/諸河久:1964年7月4日)  2020年の五輪に向けて、東京は変化を続けている。前回の東京五輪が開かれた1960年代、都民の足であった「都電」を撮り続けた鉄道写真家の諸河久さんに、貴重な写真とともに当時を振り返ってもらう連載「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」。今回は、麦酒(ビール)工場のブランドを命名されて発展した恵比寿駅前の都電だ。 *  *  * 「住みたい街」などのランキング調査では常に上位に並ぶ人気の街、恵比寿。立地は渋谷にほど近いながらも若者の喧騒とは異なる、都会的で「大人」が楽しめるグルメな飲食店が軒を連ねる。この街の成り立ちも、都電が大きく寄与している。  写真は、恵比寿駅前停留所に到着する都電「8系統」中目黒行きを、築地行き停留所から撮影した。終点まであと二停留所だから乗客もまばらだ。  撮影した年の3月25日に霞ヶ関~恵比寿間に開通したばかりの営団地下鉄(現・東京メトロ)日比谷線が都電通りの真下を走っており、恵比寿駅の乗降口が写っている。その構図は現在と似通うところもある。日比谷線は1964年8月29日に全線が開通。中目黒や恵比寿から都心方面への乗客が日比谷線に移行し、8系統もその使命を終えようとしている時節だった。  背景に写っているのは恵比寿駅を発車する国鉄(現・JR)山手線101系でカナリヤ色の外装だった。写真右端には恵比寿駅舎の一部が写っているが、まだ木造のままで時代を感じさせてくれる。1889年、「エビスビール」を製造・販売する日本麦酒醸造会社(現・サッポロビール)の工場がこの地に開業。1901年、山手線にビールの銘柄名から駅名を「ゑびす停車場」と命名した出荷専用の貨物駅が開設された。 昭和39年4月の路線図。恵比寿界隈。(資料提供/東京都交通局)  国鉄恵比寿駅前を走っていた都電8系統の路線名称は「中目黒線」といった。中目黒線は天現寺橋線の支線として敷設され、中目黒から渋谷橋まで、中間に下通五丁目、恵比寿駅前の二停留所を有する1414mの路線だ。  営業距離は短いながらも目黒区側から都心に向けて利用される都電として地域住民に愛された中目黒線。その出自は複雑で、なかなか興味深い。  玉川電気鉄道は国鉄・山手線内側への路線延長を目論んで、1922年に渋谷駅~天現寺橋を結ぶ天現寺線の敷設に着手し、1924年に天現寺橋まで全通させている。天現寺線の支線として敷設を計画されたのが、旧恵比寿駅前を改称した渋谷橋から、山手線の高架下をくぐり終点中目黒に至る目黒線だった。目黒線の開通は昭和になった1927年3月で、渋谷橋からは天現寺線に乗り入れ、天現寺橋まで走る運行形態であった。 現在の恵比寿駅周辺。日中は比較的静かだが、夜になると仕事帰りの大人たちでにぎわう(撮影/AERAdot.編集部・井上和典)  1938年、玉川電気鉄道の本線に当たる玉川線が発着する渋谷駅ターミナルビル(玉電ビル)の高架改築にともない、天現寺線は玉川線と路線分断されてしまった。この結果、天現寺・目黒両線の電車運用は東京市電から電車を借りて営業を継続した。1948年2月に、東京横浜電鉄の後身である東京急行電鉄は両線を東京都に譲渡し、都電路線としての歴史が始まった。譲渡後は中目黒~築地を結ぶ都電8系統として、1967年12月の路線廃止まで走り続けた。  1906年10月30日、山手線に乗降客を扱う「恵比寿」旅客駅が開業した、恵比寿駅は原宿駅とともに私鉄であった「日本鉄道」最後の新駅として開設され、開業の翌日に国有化されている。駅開設当初の地名は「下渋谷」であったが、現在は駅に通じる道は「恵比寿通り」に、周辺の地名も渋谷区・恵比寿になっている。ブランド名を地名に転化させて、大いに発展したのが恵比寿だ。  余談であるが、サッポロビール工場の操業が廃止された時代、遊休した貨物扱施設を利用して、九州や北海道方面への「カートレイン九州」「カートレイン北海道」が多客シーズンに運転されていた。 「カートレイン」は恵比寿貨物駅で自家用車をフォークリフトで貨車に積み込み、乗客は寝台車に乗車。恵比寿駅を発車して目的地までノンストップで向かう。翌朝は小倉貨物駅(北九州)や白石臨時駅(札幌)に到着後、自家用車で目的地へ、というフレーズの利便性の高い行楽列車だった。  著者も何度か恵比寿駅から九州まで、「カートレイン九州」を利用した。「新幹線+レンタカー」「航空機+レンタカー」とは違う、味わい深い旅の体験だった。 ■撮影:1964年7月4日 ◯諸河 久(もろかわ・ひさし) 1947年生まれ。東京都出身。写真家。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。「諸河 久フォト・オフィス」を主宰。公益社団法人「日本写真家協会」会員、「桜門鉄遊会」代表幹事。著書に「都電の消えた街」(大正出版)「モノクロームの東京都電」(イカロス出版)など多数。
アサヒカメラ鉄道
dot. 2018/10/20 07:00
中瀬ゆかり「実は失顔症で上役の顔も覚えられず、やらかした過去」
中瀬ゆかり 中瀬ゆかり
中瀬ゆかり「実は失顔症で上役の顔も覚えられず、やらかした過去」
中瀬ゆかり(なかせ・ゆかり)/和歌山県出身。「新潮」編集部、「新潮45」編集長等を経て、2011年4月より出版部部長。「5時に夢中!」(TOKYO MX)、「とくダネ!」(フジテレビ)、「垣花正 あなたとハッピー!」(ニッポン放送)などに出演中。編集者として、白洲正子、野坂昭如、北杜夫、林真理子、群ようこなどの人気作家を担当。彼らのエッセイに「ペコちゃん」「魔性の女A子」などの名前で登場する名物編集長。最愛の伴侶、作家の白川道が2015年4月に死去。ボツイチに 初デートというのは緊張する(※写真はイメージ)  初デートというのはこんな歳になってもやはり緊張する。しかも、相手と会うのは2回目。初対面の日は暗いバーで酔っぱらって話していたし、正直、顔をちゃんと見分けられるかも怪しいレベルだ。脳科学者に教えてもらったのだが私には軽い「相貌失認」(失顔症ともいい、人の顔が覚えられない脳の疾患で、人口の1%位いるらしい)の傾向があるようで、他人の顔をなかなか認識できない。同級生や同僚であっても、思いがけない場所で会うと誰だかわからなくなるくらいだ。30代のはじめに編集部を異動して間もない頃、執筆者である高齢のご夫妻に夕食に招かれたので料亭に出かけたら、そこに上役であるK氏によく似た方が座っていた。一瞬「Kさんに似てる」とは思ったのだが、ご夫妻が「こちら新潮社の中瀬ゆかりさんよ」とその方に紹介するので、反射的に「はじめまして。中瀬と申します。よろしくお願いします」と名刺を差し出した。するとその方は「ああそう」とにこやかに名刺をうけとって胸ポケットにしまい、「よろしく」とのたまうものの、一向に名刺を取り出す気配もないし、ご夫妻も彼の名前や属性を紹介してくださらない。どこの誰だろうと訝りながらも、しばらく4人で和気藹々と食事をしてご夫妻の近況や世間話をしていていたら、30分ほどして奥様が「Kさんはどう?」とその上司の名前をその方に呼びかけた。驚愕してよくよく顔を見たら、やはり、さきほどまで同じ編集部のソファで新聞を読んでいたKさんではないか!私はひどい失態に顔から火が出る思いだったが、突っ込みのひとつも入れずに名刺を普通に黙って受け取っていたKさんもKさん。さすがは京都人!そんな過去もあるくらいだし、ほかにも枚挙にいとまがないくらい「やらかしている」過去を持つ女。少なくとも好ましいと感じた男性の顔くらいは覚えていたいものだが、はてさて……。  新宿の映画館のチケット売り場の前で待ち合わせたのだが、向こうから声をかけられて、あわてて「あー、アニキ、久しぶりー!」とまるで最初からわかってたかのように取り繕う。前の印象は深夜の泥酔中のやんちゃ顔だったが、今日の彼は黒縁眼鏡もかけているし、ずいぶん雰囲気が違う。思ったより筋肉質で色が黒い。太陽の光が似合わない、夜のまなざしをした人だ。彼も心なしか緊張して見える。そりゃそうだ。仕事も違えば共通の知人はただ1人きりという8歳も年上の肥えたおばさんと初対面からたった2回目にしてはじめての2人きり。今更ながらの日光に照らされたジャバザハット並みのシルエットに、なんでこんなデブのおばさんデートに誘っちゃったんだろうオレ、などと後悔しているかもしれない。ここは年上の余裕で私がリードせねば、と思い直し、ドリンクを買う長蛇の列に並ぼうとしたその時、「上映時間も迫ってますし、間に合わないといけないから、外に出て自販機で買いましょう」と提案され、そのまま外へ連れ出された。小銭を出すのに手間取っていると、さすがは新宿、後ろにヤカラ感まるだしの首筋に刺青をした3人組が並び、「早くしろよオーラ」を投げつけている・・・因縁つけられたらヤダナ、と思ったその瞬間、アニキがくるっと振り向いて「すみませんねぇ!もたついちゃって」と満面の笑顔&大声で声をかけたら、3人組は「あ、どうぞごゆっくり!」と笑顔で答えて、なんだか和気藹々としたムードになっているではないか。アニキ……面白い奴!  映画を観終わってビストロに移動し、その話をふってみた。アニキは「僕らバーテンダーは空気を読む、空気を作るのが仕事ですから」と笑ったあと、「そしてあえて空気を読まない、さらにはあえて空気を壊すというのもやるんですよ。こっちのほうが上級技ですが」と語った。そして恋愛の話になると「僕は、恋愛は加点法だと思っています。100から引き算をしていくタイプもいるようですが、足し算のほうが楽しくないですか?」  あまりに話が尽きなかったので、次回の映画デートもすぐ決まった。2回目のその日、酔っぱらった私は焼鳥屋さんのトイレで用を足して出てきたら、アニキが間をおかず「失敬!」と私のあとに駆け込み、出てきたときには満面の笑みで後ろから肩を抱き、「ゆかりちゃん、流してなかったね」とささやくではないか!「うそ!恥ずかしい」と耳まで真っ赤になったら、「大丈夫。トイレットペーパーの上におしっこかけて粉々にして流しといた」だと。爆笑。「これは女子として減点だね」と問うと「いや、ゆかりちゃんにもドジなところがあるってわかって、加点でしかないな」だと。やばい。これって、ちょっと好きになりかけたのかも。いやいや、そんなうまい話があるわけはない……。これは彼の「あえて空気を読まない」という技に、してやられただけではないのか。 その夜、私が手に取ったのは白川道のデビュー作「流星たちの宴」。バブル紳士でもあった彼の自伝的小説だが、キザなセリフが全編に炸裂していて、読んでいるこちらが気恥ずかしいほどだが、同時に多くの男性ファンをとりこにした白川流男の美学の極致だ。これがトウチャンの本質をよく表している。このロマンチストな魂が、ほかの男の出現に揺れている私を見ていまあの世でなんと思っているのか。考えただけで怖くて、身がすくむのだった。 顔だけではなく、心もうまく認識できなくなっている私には、これが新しい恋のサインなのか新手の詐欺なのかもわからず、ひたすらトウチャンの笑った顔を思い出していた。
中瀬ゆかり
dot. 2018/10/18 16:00
城田優が語る、大坂なおみ選手の国籍問題で「ズルい」と差別を感じた理由
城田優が語る、大坂なおみ選手の国籍問題で「ズルい」と差別を感じた理由
城田優さん(撮影/写真部・片山菜緒子)  舞台映えする190センチの長身と甘いマスク。16歳のときにミュージカルでデビューし、テレビドラマへの出演、歌手、舞台演出としても活躍の場を広げてきた俳優・城田優(32)。その実力が高く評価され、ラミン・カリムルーなど世界的なスターと次々と共演を果たし、ついにミュージカルの名曲を集めたアルバム「a singer」をリリースする。日本とスペインのハーフに生まれ、背負ってきた自らの“コンプレックス”と、そこで見出した次なる目標を語った。 *  *  * ――ミュージカルの名曲を集めたアルバム「a singer」を24日にリリースされ、6年ぶりの再始動となります。まずはアルバムに込めた思いを聞かせてください。  6年前にオリジナルアルバムを出したときは自分で歌詞を書いて、作曲して、ジャケット写真も声や音の一つ一つのバランスもできる限りの頭の中の世界観を具現化したんですが、「a singer」に関しては、タイトルが物語っているように歌い手として参加しました。  まずミュージカルの曲たちを集めるということで、そもそも自分の曲ではないですし、すべて自分の好みにしてしまうと独りよがりになってしまう。この大切な曲たちを届けるために、僕の主観よりも、プロフェッショナルの方たちが真剣に考えて選んだものを信じてお任せしました。  6年前はドラマの撮影が終わって夜からレコーディングしたり、撮休の日に朝からブースにこもって曲や音をいじったり、歌詞を書いたり。24時間、スケジュールがびっしり決まっている中でやらなきゃいけない状況だったので、視野も狭まっていたし、音楽が豊かじゃなかったなと思うんですよね。みなさん、過去の自分を振り返れば「もっとできたな」と思うことがあるかもしれませんが、僕は音楽に関してはそれがすごくあって。今回のプロジェクトが始動したとき、まったく違う形で挑戦してみようと決めました。 ――数ある名曲の中から、どのように選んだのでしょうか。  これまでに自分が参加したミュージカル作品の中から思い入れのある曲や、作品自体には参加していないけれど歌ってみて周りからの評価が高かった曲やファンの方に人気があった曲を選びました。  自分が参加した作品から必然的に一番初めに挙げた曲は「エメ(ロミオとジュリエット)」、「母は僕を産んだ(ファントム)」、「闇が広がる(エリザベート)」ですね。ほかにも、僕は出ていないけど「僕こそ音楽(モーツァルト!)」とか、「ホール・ニュー・ワールド(アラジン)」を英語でなら歌いたいと、ひとつずつピースが入っていきました。 ――これまで役者として演じるだけでなく、裏方の演出や監督もされてますね。  はい。僕はそっちのほうが好きだなと思っていますね。やっぱり出る側は才能とセンスのある人たちがやっていくべきで、僕はプレッシャーとの戦いなんですよね。なるべく失敗したくないとか、自分の一番いいときの9割ぐらいを絶対にキープしたいとか……。もちろん芝居するのも歌うのも好きなんですけど、体力がそんなにないし、続かないんですよ。精神的に弱くて心の中はめちゃくちゃもろいので、家族とか友達の思いでなんとか自分を輝かせているようなところがあります。 (撮影/写真部・片山菜緒子)  でも世界には僕たちより上のレベルの人がいっぱいいて、その人たちと一緒に仕事をすると「まだまだだな……」と思います。だからできる人たちを育てたいというプロデュースや裏方目線にもなりがちで、監督や演出をさせてもらっているときって楽しいんですよね。  役者として参加するときは与えられた一人の役を一生懸命やるわけですけど、一つのピースよりも全体をつくるほうが圧倒的に楽しいし、やりがいがある。もちろん労力も責任も増すんですけど、圧倒的に作り手のほうがワクワクします。今後は演出や裏方の仕事も増やしていきたいとは思っています。 ――歌や演技などミュージカルでの評価はむしろ高まっているのに、限界を感じることもあるんですか。  毎回、感じますね。もっとうまくなりたいと思います。  僕は13歳で以前の事務所に入ってボイストレーニングを始めて、「あなたは歌手としては難しい」と突きつけられました。その頃の音源があるんですけど、本当に超素直な、何の魅力もない真っ直ぐな声の子なんですよね。それに比べるとずいぶん伸びたとは自分でも思いますよ。感情表現や音のキー、テクニカルな部分でも、僕は努力でここまで来たんです。でも、例えば、今回のアルバムで「闇が広がる」を一緒に歌っているラミン・カリムルーは、誰からも音楽のレッスンを受けないまま、唐突にオーディションに行って受かって、そこからスター街道まっしぐらの人なんですよ。そういう人が世の中にはいるんです。だからそういう人たちがもっと出てくればいいし、その人たちがもっと努力をしてもっと高みに行ければいいと思っています。  少なくとも僕の成長も十分な成果なんですけど、10年以上やってきて自分の伸びしろは自分でよくわかっているので、そういう意味で限界を感じています。決して日本の中で僕のレベルが低いと言うつもりは無いけど、僕なんかよりもっと上手い人は現れるべきだし、現れないシステムは変えなきゃいけない。ミュージカルがやりたいと思っている人も、上手い人ももっともっと世の中に溢れていると思う。そういう人たちを発掘して育てたいという気持ちが強いですね。 (撮影/写真部・片山菜緒子) ――例えば、ミュージカルでブロードウェイに行きたいとか、映画でハリウッドに挑戦したいという演者としての夢は?  無いですね。もちろん人生の経験として一回ぐらいはやってみたいなというふわっとした思いはありますけど……。本気で挑戦したら、ブロードウェイで役をもらうことができるかもしれないし、それをやって帰ってきたら日本での評価は上がると思うんですけど、ステイタスとか箔がつくとか、そういった評価は今の僕にはいらないと思っています。  それよりも日本国内から変えて行かなきゃいけないし、いつまでも「アメリカすごい、アメリカに行きたいって」言ってるんじゃなくて、「日本のミュージカルっていいよね」って世界から注目されるぐらい頑張らなきゃいけないんですよ。僕自身も留学したいって思っていた時期もあるし、実際に5、6年前に1カ月間だけですけどLAに行っていたこともあるんですが、最近は、みんな外に出ることしか考えていなからもったいないと思いますね。小さいころから「いつかハリウッドに出たい」と言っていた気持ちはだんだん薄れていってる。それは諦めとかではなく、単純に心の変化ですね。 (撮影/写真部・片山菜緒子) ――きっかけになったことが何かありましたか?  積み重ねだと思います。知識が付けば付くほど、いろんなものに違和感が生まれるんですよ。言ってみれば地球の中のある国、ある地域でしかないわけで、そこに優れた作品を作っている人と、優れた出演者たちが集まっているからいい作品ができる。日本でそれできないのはエンターテインメントにかけるエネルギーが違うのかなと思います。  僕はNYとかLAにいるときに何度か撮影に立ち会っていますけど、道を閉鎖して、街を閉鎖して国を上げて撮影するわけですよ。車をぶっ壊して、ビルを爆破して。日本人はエンターテインメントとか、フィクションを作るためにノンフィクションを壊さないんですよね。絶対にこれはあるべきだというルールがありすぎて、つまらないなと思うこともあります。  それに時代がどんどん変わってきていて動画配信サービスのNetflixとかHulu、amazonプライムなどでオリジナル作品を作るようになって、ハリウッドに行かなきゃ海外作品に出られないという時代じゃないんですよね。実際に僕にもいくつか話があったりするぐらい身近になってきて、どこの国がいいというよりも、いい作品がバズって、残っていくという時代になっています。日本でも「カメラを止めるな」の例もありますが、ずば抜けて良いものは100%口コミで広がる。我々が日本で低予算で作品を作っても海外に出せる可能性はあるわけだし、わざわざ海外に飛び出すことが近道かというと、人によるんですよ。  こうやって具体的に、すごくシビアに、メリット・デメリットが見えちゃうので、小学生のころに漠然と抱いていた夢のようには思えなくなったということです。 ――最近は演者から裏方に回る方も多いですね。  そうですね。起業する人もいて、とてもいい傾向だと思います。海外では多いんですよ。レオナルド・デカプリオにしてもアンジェリーナ・ジョリーにしても、自分たちで企画して監督して作品を出して、社会に対してもこれをやろう、これを無くそうと自分たちの思想をどんどん伝えている。エネルギーに満ちているし、自分を偽らないのが素晴らしいなと思う。  日本にもプレイヤーをやりながら映画監督をされてる方もいらっしゃいますが、まだまだ少ないですよね。日本はなるべく波風立てないように、協調性を保ちましょう、なるべく炎上しないようにしましょうって、どんどん本音を言えない環境になっていくし、特に我々みたいに矢面に立つ人たちにとっては、何か言えば反対側の人たちに罵倒されるような状態です。何なら僕たちが日本の芸能界の変わらなきゃいけない部分とか、変わったほうがいい部分を少しずつでも崩していかないといけないと思っています。だからこそ日本の中で、内部を変えられるようなクリエイターになりたいと思いまいますね。 ――そもそも、エンターテインメントの世界を目指したのはいつごろだったのでしょうか。  7歳ぐらいまでスペインに住んでいたんですけど、向こうで初めてテレビで歌ったり、踊ったり、お芝居をしたりしているのを見て、僕もこれやりたいと思って、日本に帰ってきてからも歌やお芝居がしたいとずっと思っていて、自分の意思で履歴書を書いて事務所に送ったのが13歳ですね。僕はJ-POPで育ちましたから、KinKi KidsとかV6、ほかにもゆずやコブクロ、ケミストリーも大好きで、よく歌っていました。 ――最近、ジェジュンさんとの王子様ユニットも人気ですね。「リアル王子様」と言われることをどう感じていますか。 (撮影/写真部・片山菜緒子)  いやもう全然! まったく王子様じゃないですね。外国の血が入ってることで顔が洋風で、身長が高いことからそうやって思われがちですが、プライベートは王子の「お」の字も無い。まったくかけ離れてますからね。いまはお仕事だから真面目に話していますけど、普段はただの「こども」なんで(笑)。  僕らはSNSでもテレビでも世間でも好き勝手に言われるから、気にしないですね。誹謗中傷されると傷つくし、いい意味でちょっと鈍感になってると思うんですよね。だから、それこそ王子様とかイケメンとかよく言ってもらう良い言葉も、あまり真に受けてないです。悪口と同じで、プラマイゼロにしちゃってるというか。 (撮影/写真部・片山菜緒子) 「1日でいいから城田君と変わりたい」とか、よく言われるんですよ。「それでどうするんですか」って聞いたら、「できるだけ女の子に声かかる」とか(笑)。でも僕の生活って何も変わらないですよ。みなさん、ないものねだりでそう思っているだけで、そもそも僕は小さい頃からコンプレックスの塊だったし、そういう発想が無いのかもしれないけど。周りからチヤホヤされてきたことも無いし、むしろ否定され続けてきたと思っています。 ――そこまでのコンプレックスの理由は何だったんでしょうか?  身長と顔! いまはもう割となくなってますよ。むしろこの顔で生まれてよかったなとか、身長があってよかったなと思うようになったというか、思うようにしたんですが、20歳ぐらいまでは両方がコンプレックスでした。ハーフ特有のアイデンティティークラッシュと呼ばれるものですが、スペインに住んでいるときに仲間はずれにされて、僕はこの国の人じゃないんだと思って、日本に帰ってきてからもその思いは消えなくて、自分はどこに行けばいいんだという時期がありました。それからやっとテレビに出るという夢ができて、13歳で事務所に入っても、どこのオーディションでも顔見せでも、決まって身長と顔のことを言われるんです。「かっこよすぎるんだよなぁ、ちょっと……」って、ようはダメってこと。当時の僕はカッコいいって言葉が本当に嫌いだったんですよ。「カッコいいからいいじゃん」って言われるのも、僕にとっては少しもメリットじゃなかった。  身長も14歳で180センチぐらいあったので、「顔が大人っぽいし、背が高いからさすがに学生役とか難しいよなー」ってプロデューサーと監督が目の前で話したりしているんです。その世界の偉い大人に言われる言葉は、思春期の子どもにはとても重いもので、「君は無理だね」って言われた言葉の通り、僕はダメなんだと思っていました。オーディションの帰り道はめっちゃ泣いたし、学校でも、ずっと腰と背中を丸めて授業を受けていましたね。これ以上、背が伸びないように。 城田優さん(撮影/写真部・片山菜緒子) ――それが変わってきたのが20歳ごろだったと。きっかけは何だったのでしょう。  16歳でミュージカルが決まって、20歳までミュージカルを中心に活動していたんですが、そのころ、あれだけ無理だと言われていたテレビドラマに出ることができました。普通の役はできない、群像劇には出られないと言われていたんですけど、朝ドラや大河ドラマにも日本人の役として出させてもらった。それって、実はすごいことなんですよ。  前例がないことや、ちょっと難しいよねって言われていたことが実際にできて、自信につながって自分を肯定してあげられるようになったんです。もちろん割とクセがある役とかは多いですけど、それはこの図体のおかげとプラスに取っていますね。  それからいろんなメディアに出させていただくようになってからとかは、キャーキャー言われたり、こんなに人気があるんだと思わされたりすることはあったんですが、偉そうに街を歩くこともないですし、僕は「変わらないのが目標」。たぶん人との接し方も昔からあまり変わっていないと思うんです。  僕の話は割と自分が感じたことをストレートに伝えることはしていますけど、人として調子に乗るとは違うことだと思う。残念ながら、みなさんが想像しているようなミステリアスな王子様ではないし、イケイケの遊び人でもなく、普通の32歳。むしろちょっと変わった32歳ですね。 ――無理だと言われてきたことが実現できて、コンプレックスを克服してきた。いま悩んでいる子どもたちとか、若い人たちの力になりそうです。  いま僕が一番力を入れたいのは、ハーフのエンターテイナーたちを伸ばしてあげることなんです。ハーフの俳優って実は少ないんですよ。僕以外にハーフで俳優やってる子を5人挙げてくださいって言われたら、出てきますか? 最近、ハーフのモデルやタレントは増えているんですが、それでも女性が圧倒的に多くて、男性俳優はまだまだ少ない。ハーフの人口は増えているのに、です。  僕の学生時代はクラスに1人だったけど、いまは1クラスに3人、4人いる時代ですよね。それなのに、日本のドラマで外国の人はほぼ出ていないじゃないですか。みなさん海外のドラマ見てください、アジア系の人もアフリカ系の人も3人ぐらいいますよ。日本のドラマでも違う国の人がいていいし、学園ドラマにハーフが3人ぐらいいてもいいわけですよ。むしろもっといてもいいぐらい。僕がデビューして10年以上経ちますが、ハーフの俳優はなかなか出てこないし、それだけ日本はガラパゴスなんだなと思います。いまでも扱いづらいと思われていて、僕は本当に異分子だった。偶然と奇跡が切り開いた道を進んできていまここにいるんです。だからこそ、後に続いてくる子たちを「こっちだよ」って引っ張ってあげたいんですよね。 ――女子テニスの大坂なおみ選手が全米オープンを制覇したときも、国籍のことが話題になりましたね。  ああいうのを見ていると、どこに言ってもここだという居場所がない我々からするとズルいなと思う。良いときだけ「日本人初」って持ち上げるくせに、都合が悪くなったら「やっぱり外人だから」って言うんですよ。その人の個性とアイデンティティーである国とが、必ずしも一致するわけじゃない。もちろん僕だって「ラテンの血が入ってるから明るいんですよ」とは言いますけど、ネタみたいに周りがとやかく言うものじゃないんです。  昔に比べたら差別が無い時代ですが、実はめちゃめちゃあるんですよ。みんな悪気はなくても、勝手に区別しているんです。「あの子は外国の血が入ってるからこういうマインドなのよ」とか「彼はスペイン人だから……」って言われることも、僕にとっては差別なんですよ。いろんな経験をしてきて、最近はこれが差別の始まりなんだなと思います。 ――そういう状況も中から変えたいということなんですね。  そうですね。次世代のイケメン俳優ランキングとか、そこから出てくる子はいっぱいいるのに、ハーフはほとんどいないんですよ。単純に目指してる子がいないのかもしれないんですが、たぶん夢を持っているけどなかなか踏み出せないとか、いまの時代にも昔の僕と似たような思いを抱えている子たちがいると思うんです。それを考えると胸が痛い。人種とかハーフとかに関わらず、そういう子たちの可能性を少しでも広げてあげたいし、城田優っていう俳優のことを知って、「じゃあ僕も私も頑張ろう」って思ってくれたら嬉しい。それは僕がいまプレイヤーとして活動している意味の一つになっていて、落ち込んだときに自分を奮い立たせてくれますね。 (聞き手/AERA dot.編集部・金城珠代)ドラマ、映画、舞台など幅広いジャンルで活躍する城田優、初のミュージカル・アルバム『a singer』が10月24日発売。ミュージカルを彩る様々な楽曲を厳選し、多彩なアレンジとクールで魅惑的な声で描き出す。デュエットには、盟友で本場ブロードウェイやウエストエンドで活躍する世界のミュージカル・スター、ラミン・カリムルーや、女優・歌手のすみれ、乃木坂46の生田絵梨花など豪華ゲストも。<フリー観覧&握手会>10/20(土)ららぽーと豊洲、10/28(日)ヴィーナスフォート教会広場、11/3(土)タワーレコードNU茶屋町店、11/25(日)HMV&BOOKS SHINSAIBASHI <抽選イベント>10/24(水)タワーレコード渋谷店B1「CUTUP STUDIO」、10/25(木)山野楽器銀座本店JAM SPOT <コンサート>2019年3月21日(木) 中野サンプラザホール
ドラマ
dot. 2018/10/18 11:30
紀州のドン・ファンに30年仕えた家政婦が実名独白「大も小もオムツに垂れ流し、女性が去って…」
紀州のドン・ファンに30年仕えた家政婦が実名独白「大も小もオムツに垂れ流し、女性が去って…」
妻のSさんと野崎さん 竹田純代さん(撮影/写真部・小原雄輝) 「事件直後は、まるで私が犯人であるかのような報道をされましたので、自宅だけでなく、和歌山の実家にもマスコミが押し寄せました」――。そう話すのは「紀州のドン・ファン」こと、和歌山県の資産家、野崎幸助さん(享年77)の怪死事件で、野崎さんの55歳下の妻と共に第一発見者となった家政婦の竹田純代さん(67)。独占取材に応じ、野崎さんに仕えた30年、そして事件当日について語った。 * * * ──家政婦として和歌山に通うようになったのはいつごろですか?  2016年からだと思います。六本木で一緒に店をやっていた人が脳梗塞で倒れてしまって、店を閉めなければならなくなりました。野崎社長は「お金を貸してやるから店をやりな」と言ってくれましたが、私は60歳を過ぎており、借金をしたら子供に迷惑がかかるかもしれませんので断ることにしました。そう伝えると、「よかったら和歌山に月に数日でいいから来てくれんか」と頼まれたんです。 ──家政婦としての仕事についても教えてください。  家の掃除と食事を用意するのが主な仕事でした。1日1万円の日当で月に10日間通っていました。ただ東京から和歌山へ行くときはチケットを送ってくるのですが、帰りの交通費については知らんぷり。年齢を重ねてもケチなのはやっぱり変わりません。もしかしたら「帰ってほしくない」というのが本音だったのかもしれません。 ──お手伝いさんは他にいなかったのですか?  野崎社長は大切な物を盗まれたりするのが怖かったようで、あまり人を寄せつけませんでした。私と社長は長年の関係がありますので、誰よりも信頼されていたと思います。 ──下のお世話もされたとか?  はい。それだけは本当につらかったです。病気のせいで大も小もオムツに漏らすのですが、吸収しきれずに廊下やお風呂にこぼれるんです。それを掃除するのも私の役目。数年前に私と外国人の女性と野崎社長で温泉に行ったことがありました。別の部屋で休んでいたら、その外国人の女性が「帰る!」って飛び出してきたんです。部屋に行くと、お風呂に排せつ物が浮いていました。その女性は一目散に逃げて帰りました。若い彼女にはショックだったと思います。野崎社長はパーティーに出席する機会も多かったので、そんなときに背の高いきれいな外国人の女性を連れていきたがりました。 ──野崎社長は生前、4千人の女性と関係を持ったそうですね。どんな女性たちだったんでしょうか。  しょっちゅうナンパをしていましたが、成功率はゼロに近かったんです。ほとんどが結婚相談所のような女性を仲介する業者から派遣された人たちでした。野崎社長は、そんな女性たちを私に毎回紹介するんです。「この子どう? かわいいだろ」とか言いながら。私の意見を聞きたがりました。 ──4千人の女性とお会いになったんですか?  4千人もいたかどうかはわかりませんが、野崎社長が関係を持った女性はたいていお会いしています。野崎社長とその女性たちはお金と体でつながっているだけの関係で、ほとんど忘れてしまいました。 ──奥さんのSさんとも結婚前に会われたんですか?  はい。紹介されました。きれいでおとなしい女性という印象でした。 ──夫婦関係はどういったものでしたか?  野崎社長は結婚後も、Sさんがいないときは他の女性を呼んでいましたし、それを彼女もわかっていたと思います。普通の夫婦関係とは少し違ったものだったとは思います。ただ、事件も解決していませんし、無責任な発言をするとSさんにご迷惑をかけてしまうかもしれません。いまは話せないこともたくさんありますので、いずれ時期がきたら改めてお話ししたいと考えています。 ──野崎社長が亡くなった5月24日の出来事を教えてください。  その日、私は妹の家から20時ごろに野崎社長の家に帰宅しました。野崎社長から「愛犬・イブをしのぶ会をしたいから人を集めろ」と頼まれていたので、その相談をしていたのです。家に戻ると、Sさんは1階でテレビを見ていました。「社長は?」と聞くと、「上で寝ている」ということだったので、Sさんと二人でテレビを見ることにしました。だいたい社長は夜は早く寝る習慣がありました。22時ごろになり、2階からドンと大きな音がしたので、「社長が怒ってる。早く上に行きなさい」と言うと、Sさんは2階へ向かいました。 ──何の音ですか?  私はてっきり社長が、Sさんが来ないことに寂しがって怒っているのだと思っていました。すると突然、Sさんが下りてきて「社長が……」と言うので、2階に行くと、野崎社長はお風呂から上がったばかりの姿で死んでいました。「社長どうしたの!」と体を触ったら冷たくて、肩を揺さぶったら体はカチカチに固まっていました。 ──和歌山県警は野崎社長の死因を急性覚醒剤中毒と発表しています。彼が自ら摂取したと思いますか?  私も疑問に思っています。長い付き合いになりますが、覚醒剤を使っていたような様子は全くありませんでしたし、そんなうわさを聞いたこともありません。ただ野崎社長は性的な機能が失われてきたことを悩んでいました。Sさんと結婚する前から長く付き合っていた30歳くらいの女性がいたのですが、その女性は「社長は機能しないからいつも大変。5万~6万円じゃ割に合わない」とよく愚痴をこぼしていました。もしかしたら、覚醒剤を使えば、機能が回復するかもしれないと考えて使ったのかもしれません。誰か身近な人が、そうした情報を伝えたら、野崎社長は覚醒剤を使ってしまうかもしれないと考えたこともあります。 ──野崎社長の遺言状に「全財産を田辺市に寄付する」と記されてあったという報道も。竹田さんに遺産は残されていたんですか?  私は一円も受け取れないと思います。私はいま、知り合いが経営している銀座のスナックで働いています。毎月の収入はそんなにぜいたくができる金額ではありませんが、でも、正直な話、昔から野崎社長の世話をしてきた従業員や私には退職金のようなものが少しくらいあってもいいのではないかと思います。10万円でも20万円でもいいんです。突然の死でしたので、残された私たちもいまだに戸惑いを隠せないでいます。 ──亡くなった野崎社長に伝えたいことはありますか?  私と野崎社長の関係性を表現することはとても難しいのです。仲間と呼ぶべきか、戦友と表現すべきか。ときには母親のような感情になるときもありました。もしかしたら私は、男女の関係でもなく、お金でもつながっていない唯一の人物だったのかもしれません。好みの女性や従業員の前では格好をつけていばっていましたが、私の前では弱虫で孤独な一面を隠さず見せるときもありました。事件から半年近くが経ち、改めてこの30年間を振り返ると、たくさんの思い出がよみがえってきます。いまはまだ話せないことも少なくありません。 ──野崎社長の言葉で印象に残っているものは? 「女遊び」以外、趣味も興味もない野崎社長でしたが、あるとき、「米・ニューヨークの5番街にビルを建てたいな」とつぶやいたことがありました。事件後、それを思い出して、娘と一緒に5番街を訪れて写真を撮ってきました。いつお墓に行けるかどうかわかりませんが、いつか報告したいと思っています。 (聞き手 朝日新聞出版・竹内良介) ※週刊朝日2018年10月26日号
週刊朝日 2018/10/16 07:00
52歳で初参加が… テレビの再現ドラマにも採用されたリアル“同窓会ラブ”
52歳で初参加が… テレビの再現ドラマにも採用されたリアル“同窓会ラブ”
初恋の人に会ってみたい! 同窓会の密かな楽しみ(※写真はイメージ) 「私たち、結婚しました!」――続けて届いた2通の結婚報告はがき。お葬式に参列することのほうが増えていたというのに、まさか同年代である50代の友人から結婚話を聞かされるとは。もしかして、と調べたところ、ここ20数年で50歳前後の結婚増加が判明。総数から見れば少ないものの、“50歳からの結婚”が増えていることは間違いないようだ。連載「50歳から結婚してみませんか?」では、結婚という大きな決断を50歳で下すことになった女性の本音とリアルに迫る。第13回は、同窓会がきっかけで結婚した山口涼子さん(仮名・64歳・音楽療法士)の前編をお届けする。 *  *  * 「いきなりで恥ずかしいのですが、実は主人との話は、某テレビ局の“同窓会ラブ”をテーマにした番組で再現ドラマに採用されまして……」  そう切り出した山口さんは、64歳というには若々しく、タレントの三田寛子似の明るく快活な女性。定年後の61歳で音楽療法士の資格を取り、今は老人ホームや施設に出張して仕事をしている。 「52歳のとき、初めて同窓会に行ったんです。正直、高校生活には特に思い出がなく、何度か同窓会の知らせはもらっていたのですが、参加するまでには至りませんでした。でも、毎年年賀状をやり取りしている女友達に誘われて、彼女に会いたくなって」  そう話す山口さんだったが、実はもうひとつの大きな目的があった。 「私、高校時代3年間、ずーっと好きで憧れていた人がいて、その人に会ってみたかったんです」 ■初恋の人に会いたくて参加した同窓会だったが  18歳で卒業以来、久しぶりに会う同級生たち。みんな見ためはずいぶん変わってしまった。  でも、3年間ずっと好きだった男性のことは、さすがにすぐにわかったという。 「同窓会には100人近い同級生が参加していましたが、その人のことはすぐにわかりました。ただ彼、すごく太っていて(笑)。『私、ずっとあなたのこと好きだったんだからね!』って。もう、冗談混じりで打ち明けましたよ」  初恋の男性との再会を期待していた山口さん。このエピソードが面白くて、再現ドラマに採用されることになるのだが、もちろんここで話は終わらない。 「その同窓会に彼がいたんです。そういえば、こんな男の子いたな、っていうくらいの印象だったんですけど、なんだか高校生の頃より、素敵になっていて。でも彼は私のことはまったく覚えがないって(苦笑)」 ■老後資金の不安は個人年金で備えて  山口さんは、お父さんを38歳のときに亡くし、それからずっとお母さんと2人暮らし。 「短大を出て、商社に5年勤めた後、ヤマハの音楽講師をしました。母と2人暮らしが長かったし、仕事もしていましたから、結婚しようと思ったことはありませんでした」  とはいえ、お父さんが亡くなり、老後資金の不安がよぎったという。  会社勤めは5年。その後国民年金だけの山口さんは、65歳から自分一人くらいは生活ができる程度の個人年金に加入する。 「老後資金の心配は多少なくなりましたが、母がリウマチを患ったりして体が弱かったので、私だけ夜外食したり、飲みに行ったり、外泊などはできません。帰宅のバスが1本遅れても母は心配するので。もちろん旅行は論外。母と2人暮らしになってからは旅行と呼べるものはほとんどしたことがありません」  そんな生活のなか、初めて参加した同窓会。夜遅くは帰れないので、その日も1次会だけ参加して帰宅。ひと時の楽しい時間だった。 ■2人暮らしの母が倒れて皮肉にも出来た時間 「同窓会から3カ月ほどして、母がくも膜下出血で倒れたんです。病院、施設、特養(特別養護老人ホーム)と移って。母の病気は本当につらく、悲しいことでした。でもそれに伴って、母が自宅にいないことで、私はいつでも外出できるようになり、時間が自由になりました」  そう話す山口さんだが、お母さんが倒れてから亡くなるまで10年間、面会を1日も欠かしたことがない。 「“一卵性親子”って言うんですかね? とにかく母とは仲がよかったです。母も私を頼りにしていたし、私も母が大好きでしたから」  自分の時間が持てるようになったそんな山口さんのところに、同窓会の幹事会の知らせが届く。 「同窓会がきっかけで、メールの交換をするようになった友人から、『幹事会があるから来ないか?』と連絡があったんです。私、何を思ったか、『◯◯君も誘ってくれるなら、行くよ』って、リクエストしちゃったんです」  ◯◯君とは、同窓会で会って気になっていた彼のこと。  友人は、山口さんとは言わず、同級生からお誘いがあったと伝え、彼も幹事会に来ることになった。 ■気になる彼に再会! 「食事に行こう」と誘われて  同窓会から約1年10カ月後、山口さんは気になる彼と再会した。 「彼に近寄って、『来てほしいってリクエストしたのは私よ』って、伝えたんです。彼が独身かも既婚かも知りませんでしたから、異性としてというより、友人としての興味で、つき合いたいとか、結婚したいとか、本当にまったく考えてなかったんですよ。だから、あっけらかんとそんなことも言えたんでしょうけど。でも聞けば、彼は7年前に奥さんを亡くし、独身。子どももいませんでした」  一方、彼はというと……。こんなことを女性に言われたものだから、心に火が点いたのか、山口さんを女性として意識し始めた。 「幹事会の帰りに携帯電話の番号を交換して。次の日には彼から『食事に行こう!』って連絡がありました。このときは断りましたけれど」  屈託のない山口さんに彼は急激に惹かれていったのかもしれない。山口さんも意識下では彼のことを異性としても気に入っていたはず。お互いの気持ちが同じになるのには、そんなに時間はかからなかった。(取材・文/時政美由紀) 時政美由紀(ときまさみゆき) (株)マッチボックス代表。出版社勤務後、フリー編集者に。暮らし、食、健康などの実用書の企画、編集を多数手がけている
婚活時政美由紀結婚50歳から結婚してみませんか?
dot. 2018/10/12 16:00
椎名誠、今も体脂肪率は一ケタを維持 理想の最期とは?
椎名誠、今も体脂肪率は一ケタを維持 理想の最期とは?
椎名誠(しいな・まこと)/1944年、東京生まれ。作家、映画監督。辺境を旅する人としてルポの執筆やテレビのドキュメンタリー番組などにも多数出演。89年に『犬の系譜』で第10回吉川英治文学新人賞受賞。90年に『アド・バード』で第11回日本SF大賞受賞。96年に映画「白い馬」で日本映画批評家大賞監督賞受賞(翌年フランスやポーランドの映画賞を受賞)。最新刊は、本の魅力を伝えるエッセーを集めた『本の夢 本のちから』(新日本出版社)(撮影/片山菜緒子)  もし、あのとき、別の選択をしていたなら──。ひょんなことから運命は回り出します。人生に「if」はありませんが、誰しも実はやりたかったこと、やり残したこと、できたはずのことがあるのではないでしょうか。昭和から平成と激動の時代を切り開いてきた著名人に、人生の岐路に立ち返ってもらい、「もう一つの自分史」を語ってもらいます。今回は作家の椎名誠さんです。 *  *  * ■まだ遅くはないという気持ちがどこかにあるんです  気が付いたら、何でも売っているスーパーマーケット的な作家になっていました。薄利多売です。狙ったわけじゃないけど。  90年代は映画制作にのめり込んで、何本か世に送り出しました。ヒットした作品もあったし、それなりの評価も受けた。「せっかく物書きとして脂が乗っているときに、映画なんて」ってさんざん言われたけど、やりたかったんだから仕方ない。そのまま映像の道に進むのもいいな、新しい扉が開かれたかもしれないなんて思っていました。  ただ、思い出したくない嫌な出来事があって、映画はすっぱりやめました。でも、周囲に言わせれば「椎名は何をやっても10年しか続かない」ってことらしいから、潮時だったのかもしれません。幸い文章を書くことと焚火は、いっこうに飽きる気配もなく、長く続いていますね。 ――エッセー、旅行記、SF小説など、作品のジャンルは幅広い。単行本は、約270冊を数える。取材やドキュメンタリー番組の撮影で、世界のあらゆる場所を訪ね、一つの場所に長く留まらないイメージが強いが、30代半ばまでは会社勤めをしていた。  流通の業界誌を作る会社に22歳で入社して、まあまあ楽しくやってたんです。30人ぐらいの小さな会社でした。27歳で役員になって、社長からは「次はお前だ」と言われてました。雑誌作ってるほうがいいけどなあと思って聞いてたんですけど。 ■古参のいじめにアホくさくなった  でもねえ、若造が目立ってるもんだから、古参の役員ふたりがチクチクといじめてくるんですよね。役員会議のたびに難癖つけてきて、口論になってコップの水をぶっかけたこともあります。いちばん腹が立ったのは、役員ごとの収益を社長に報告するときに、僕の担当している仕事が全体の約半分の利益を上げているのに、それを二重帳簿か何かでごまかして、その大半を自分たちの利益にしていた。なんかもうそんなことが、アホくさくなっちゃってね。 ――そんなとき、『さらば国分寺書店のオババ』(1979年)でデビュー。本は大ヒットし、注目の存在になった。それでもすぐに会社勤めを辞める気にはなれなかったという。  この本はたまたま売れたけど、先のことはわからないから、スッパリ会社を辞める決心はなかなかつかなかった。ふたりの子どもはまだ小学生だったしね。  でも、おっかあ(妻)に「辞めようと思うんだけど」って相談したら、あっさりと、「そうね。今の日本だったら飢え死にすることはないからいいんじゃない。人生はお金じゃないしね」と言ってくれたんです。それで気持ちが固まりました。  あのまま我慢して勤め続けていたら、社長になっていたのかな。苦手な金勘定で頭を悩ませなきゃいけないし、僕みたいに生意気な若いのが入ってきたらなかなかたいへんです。会社の経費で銀座のクラブには通えたかもしれないけど、たいして楽しい場所でもない。  いや、あの古参のふたりの意地悪に嫌気が差して、遅かれ早かれ辞めてたかな。精神的にヘンになって、失踪かなんかしてたかもしれない。辞めることにあっさり賛成してくれたおっかあには、感謝しています。 ――作家、椎名誠の人生は、妻(エッセイストの渡辺一枝さん)の存在なしには語れない。出会ったのは、21歳のとき。23歳で結婚し、今年5月に金婚式を迎えた。椎名は「ほかの人と結婚していたらとは、今まで考えたことはなかったけど、別の人生になっていたでしょうね」と語る。  作家になって一番うれしかったのは、「日中共同楼蘭探検隊」の一員として、中国シルクロードの古代遺跡、「楼蘭」を訪れたことです。子どものころ、楼蘭が舞台の探検記『さまよえる湖』を読んで、ずっと行きたいと思っていた。  楼蘭に深くのめり込んだのは、おっかあの影響もあるんです。結婚前にいろいろ話していたら「ヘディン」(『さまよえる湖』の著者スウェン・ヘディン)という名前が出てきた。「『さまよえる湖』の?」って聞いたら、大好きで読んでいるって言うからビックリしてね。それまでまわりにヘディンの話ができるヤツなんていなかった。ずっと読みたかった白水社の「西域探検紀行全集」も、知っているどころか「私、持ってます」って。 ■ヨコシマな気持ちもほんのちょっと  彼女の家に行ったら、全集はもちろん、チベットやモンゴルに関する貴重な本が山のようにある。驚いたねえ。この人と結婚したら、半分は俺のものだなっていうヨコシマな気持ちが、ほんのちょっとあったかもしれない。  今の家にも地下に彼女の秘密の部屋があって、チベットの関連資料がすごいことになってる。考古学者ももだえ苦しむぐらいのラインアップ。そこから適当に選んで、のんびりパラパラめくるのは至福の時間ですね。人生って、いろんなことがつながっているんだなあ、と感じます。  振り返れば、彼女には助けられっぱなしです。作家になったばかりのころ、夜中の1時だろうが2時だろうが、家に編集者から電話がかかってくる。彼女が出ると「どこ行きましたか? いつ帰りますか?」と聞かれる。「わかりません」と返すと「奥さんなのに旦那の居場所もわからないんですか」って説教するヤツもいたらしい。彼女は彼女で仕事をしていたから、夜中の電話だけでも迷惑なのに、説教までされたらたまったもんじゃない。  それに、辺境の地に取材に出かけたら、帰ってくるまで生きているか死んでいるかもわからない。「もう勘弁して!」と言われたら、ノンキに世界中飛び回ってはいられなかった。でも、何も言わず、黙って後ろから支えてくれている感じでした。  一方、彼女は僕より熱血漢というか、子育てが終わってから、チベットの奥地にしょっちゅう出かけて、何カ月も連絡が取れないこともあった。  何度か一緒についていったこともあるけど、こっちは高地に慣れていないから、おいていかれるんです。「待ってくれよ。この薄情もの」とか言いながら、必死でついていく。そんな姿にもたくさん刺激をもらっている気がします。 ――その妻との間にふたりの子どもにめぐまれた。長男を描いた『岳物語』(85年)など家族の「私小説」も、広い支持を集めている。家族の存在は、人生や作品に新しい意味を与え続けている。  息子の岳は、45歳になりました。長くアメリカに住んでいたんだけど、7年前に日本に戻ってきて、今は中学生と小学生の3人の子どもと近所に住んでいます。孫はかわいいですね。自分がここまで「孫バカ」な「じいじい」になるとは、まったく想像していませんでした。何よりの宝物であり、最高の遊び仲間です。  最初に岳のことを書いたのは、彼がまだ小学1年生ぐらいのとき。締め切りに追われて何を書こうと悩んでいるときに、目の前に泥んこになって帰ってきた息子がいた。一回のつもりで書いたら、また書いてくれと言われて、何冊にもなりました。  長女は利発だったから、小学生なりに何かを察したんでしょうね。「私のことは書かないで」と言われたので、ぜんぜん書いていません。  岳も中学生になって友達に言われて、それで初めて自分について書かれた本を読んだらしいんです。そしたら、1日に6回メシを食って、便所に6回行くと書いてある。怒って帰ってきて、本を床に叩きつけて「こんな本は日本中から消してくれ!」と言いました。そのときは黙っていましたね。いつかわかってくれるだろうと思っていました。 ■焚火で燃やして灰を海にまいて  アメリカに行ったのも「椎名誠の息子」であることから逃れたかったというのも、あったかもしれない。しばらくはギクシャクしていましたが、今は孫を通じていい関係が戻っています。自分が親になって、こっちがどういうつもりで書いたのか、理解してくれたみたいですね。  長い年月がかかりましたが、書かなければよかったとは思っていません。  面白いのが、今、孫たちがお父さん(岳)が出てくる話を読んで喜んでいること。新しい世代に引き継がれたことで、岳のことを書いた本にまた新しい意味が生まれました。 ――74歳の今も、日に焼けた顔と引き締まった体は変わらない。今も、ヒンズースクワット300回、腹筋200回、腕立て100回が日課。体脂肪率は一ケタを維持している。健康体そのものだが、あえて人生の締めくくり方を聞いてみた。  作家という仕事は、とくに定年があるわけではなく、やめたくなったらいつでもやめられるのが便利なところ。そもそも、いつの間にかいきなり作家になったんだから、こっそりフェードアウトしていくのも面白いんじゃないかな。  若いころから居酒屋で酒を飲みながら、僕はずっと、カウンターの中にいたいと思っていました。自分が作った料理を、お客がうまそうに食べている姿を見る。キャンプを長くやってきて、世界中のいろんなところにも行ったから、そこそこおいしいものを作る自信はあるんです。海辺の田舎町で、新鮮な魚を自分で釣ってきて。できれば焚火を使った料理も出したい。消防法のことは、さておきとして。まだ遅くはないという気持ちはどこかにあるんです。  自分の最期について、よく仲間と話しているんですけど、何度もキャンプに行った浜で、焚火の上で燃やしてもらいたい。みんなが酒を飲んでワイワイ言いながら、燃えていくのを見ている。灰になったら、目の前の海にまいてもらえたら最高ですね。 (聞き手 石原壮一郎) ※週刊朝日 2018年10月12日号
週刊朝日 2018/10/09 16:00
風間杜夫が明かす「役者引退を考えるも踏みとどまった理由」
風間杜夫が明かす「役者引退を考えるも踏みとどまった理由」
風間杜夫(かざま・もりお)/1949年生まれ。77年からつかこうへい事務所作品に多数出演。97年から落語に取り組み、同年から始めた水谷龍二作・演出の一人芝居は、14年の「正義の味方」、17年の「ピース」に新作を加えた3部作を来年一挙上演予定(撮影/加藤夏子)  高校生の時、早稲田の演劇サークルの舞台を、大隈講堂に観に行った。演目は「セールスマンの死」。ピュリツァー賞を受賞したアーサー・ミラーの代表作だ。家族と折り合わず、職も失い、最後に自死を選ぶ主人公の心情を、10代の風間杜夫さんは理解できぬまま、帰途についた。  50年以上の歳月が過ぎ、演出家の長塚圭史さんから、「『セールスマンの死』の主人公をぜひ風間さんで」というオファーがきた。 「今年はミュージカルにも出演しましたし、60代も終わりに近づいて、いろいろ挑戦しているなという気はします。僕自身、怠け者だからなのか、恵まれていたのか、俳優という仕事に関して『あれをやらせてほしい』など、自分をセールスしたことはなくて(笑)。周りのほうが自分をわかっていると思い込んでいる節があるので、現場ではすべてを演出家に委ねます。根が楽天家なんです。つか(こうへい)さんのところでは、“エキセントリックハイテンションボーイ”なんて呼ばれて、走り回って絶叫していましたし(笑)。いつも『これをやってみたら?』と言われて、やったら面白かったというのがほとんどなんです」  主人公ウィリー・ローマンは、仕事と家庭の問題から逃げるために過去にすがり、自分を見失っていくが、その状態を、“認知症”などという言葉で片付けないようにしようと、長塚さんと話し合ったという。 「人間としてのプライドや焦りがあるからこそ、精神的に追いつめられ、妄想に逃げざるをえない状況は理解できる。僕だって、今でこそ平穏を手に入れていますけれど、父親から、『二度と敷居を跨がせない』と言われて詫び状を書いたこともあれば、息子と怒鳴り合いの喧嘩をしたこともある。自分のこと以外にも、結構細かいことを記憶していて、それが台詞を言う時のよすがになったり。役者にとって記憶することは大事なので、いろんなことを忘れないでいようと思うんですが、最近はめっきり忘れっぽくなりました(笑)」  役者としての欲がないせいか、2~3年前には、「もういつ辞めてもいいや」と思っていたのだとか。 「子供たちも家庭を持って、孫に“じいじ”と呼ばれる毎日が訪れたことで、一息ついちゃったんですね。でも役者を辞めたら、僕みたいにだらしない人間はぐずぐずになると思った。毎晩酒を飲んで、雀荘に入り浸って、たばこふかして夜更かしして、これは早死にするな、と(苦笑)。僕が今、身体が動く限り役者を続けていこうと思う理由は、長生きしたいからです(笑)。もう一つは褒められたいから。舞台の劇評を読むのが好きで、悪いことを書かれていたらすぐ忘れますが、褒められていたら何回も繰り返し読んで記事の内容を全部覚えちゃう(笑)。今回も、たぶんみんな褒めてくれるだろうと、それだけが楽しみです」 (取材・文/菊地陽子) ※週刊朝日2018年10月12日号
週刊朝日 2018/10/08 16:00
桐谷美玲、6年のキャスター業を卒業…真面目で頑張り屋な“素顔”
丸山ひろし 丸山ひろし
桐谷美玲、6年のキャスター業を卒業…真面目で頑張り屋な“素顔”
桐谷美玲 (c)朝日新聞社 ■ラグビー部マネージャー時代に100人部の食事作り  女優の桐谷美玲(28)が9月末で日本テレビ系「NEWS ZERO」を卒業した。火曜日のキャスターを6年半にわたり務めてきたが、最後となる放送で「毎週のように取材現場に行って、本当に素晴らしい刺激を受けましたし、たくさんのことを教えていただきました。私にとっては本当に財産だと思っています」と笑顔で挨拶した。  長きにわたり、同番組のキャスターを務めてきた桐谷だけに、SNS上では「寂しくなるなぁ」「かわいいし、寝る前の癒やし的存在だった」と、卒業を惜しむ声も多かった。何より、キャスターと並行してドラマ「好きな人がいること」(2016年、フジテレビ系)や映画「ヒロイン失格」(2015年公開)など、数々の作品で主演を務めており、女優業との両立には苦労しただろう。桐谷の「真面目で頑張り屋」な性格ついて、スポーツ紙の芸能担当はこう話す。 「以前、バラエティー番組で自身の仕事ぶりを話してたことがありますが、女優なのに『ZERO』の会議にまで出席していたそうです。ドラマの撮影がある日などは、朝の5時から15時まで撮影をし、16時から『ZERO』の全体会議に出席。23時から生放送で、また早朝から撮影というスケジュール。ちなみに、自ら企画を提案し、採用されたこともあるそうです」  かなりのハードスケジュールで働いていた桐谷。しかも、女優とキャスターという全くジャンルの違う仕事なので、切り替えも大変だったと思うが、仕事以外のエピソードからも頑張り屋ぶりがうかがえるのだ。  例えば、通っていたフェリス女学院大学を7年かけて2015年に卒業。自身のブログで卒業を報告した際には「入学したからにはどうしても卒業したかったんだ。もう最後は意地です」「大量のレポートにもへこたれない体力がついた」と綴っており、忙しい中、学業も頑張っていたようだ。また、高校時代はラグビー部のマネージャーで、バレンタインには他のマネージャーと分担して徹夜で部員全員分、約40個のお菓子を手作りしたり、合宿で100人前の食事を保護者と作っていたという。 ■タコライスやお好み焼き…がっつりメシが好物  芸能活動と学業の両立は難しく、多忙のため大学を中退というケースも少なくない中、卒業までこぎつけたのは立派だろう。ところで、そこまで頑張れる源は一体何なのか気になるところだが、これについて「『食べるのが好き』ということもあるのでは?」と話すのはテレビ情報誌の編集者だ。 「『食べないことはストレス』だそうで、特に元気をつけたい時は肉を食べていると、映画の舞台挨拶で語っていました。また、撮影で自炊する時間がない時は、撮影現場近くのテイクアウト店を利用し、お好み焼きやタコライスなどのがっつり系を買っているとか。何をするにもエネルギーは必要で、特に食事は体力に影響してきます。桐谷の場合はしっかり食べているので、安定したパフォーマンスを発揮しながらハードなスケジュールもこなすことができたのではないでしょうか」  一方で芸能リポーターの川内天子氏は、桐谷の何事にも真剣に取り組む強い意志について、こう分析する。 「『ZERO』の最終回で桐谷が涙を見せなかったのは、おそらく『やりきった』という強い自信のほうが大きかったからだと思います。キャスター業のほうは、きちんと視聴者に伝えたいことを自分の言葉に置き換えて話していましたし、本人も成長も実感できたことでしょう。昨年、斉藤由貴(52)と主演した映画『リベンジgirl』の舞台挨拶で桐谷は『演じきれたことに満足している』という趣旨の発言をしたのですが、常に『自分の中で(仕事を)どうやりとげたか』という思いが心の核にあるように見えます、キャスター業にしろ女優業にしろ、仕事とは彼女にとって自分との闘いでもあるのです。何事にも一生懸命チャレンジする姿勢はこうした性格があるからでは」  今後も女優という枠におさまらず、さまざまジャンルでの活躍を期待したい。(ライター・丸山ひろし)
dot. 2018/10/05 11:30
更年期をチャンスに

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女性は、月経や妊娠出産の不調、婦人系がん、不妊治療、更年期など特有の健康課題を抱えています。仕事のパフォーマンスが落ちてしまい、休職や離職を選ぶ人も少なくありません。その経済損失は年間3.4兆円ともいわれます。10月7日号のAERAでは、女性ホルモンに左右されない人生を送るには、本人や周囲はどうしたらいいのかを考えました。男性もぜひ読んでいただきたい特集です!

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学校現場の大問題

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クレーム対応や夜間見回りなど、雑務で疲弊する先生たち。休職や早期退職も増え、現場は常に綱渡り状態です。一方、PTAは過渡期にあり、従来型の活動を行う”保守派”と改革を推進する”改革派”がぶつかることもあるようです。現場での新たな取り組みを取材しました。AERAとAERA dot.の合同企画。AERAでは9月24日発売号(9月30日号)で特集します。

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働く価値観格差

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職場にはびこる世代間ギャップ。上司世代からすると、なんでもハラスメントになる時代、若手は職場の飲み会なんていやだろうし……と、若者と距離を取りがちですが、実は若手たちは「もっと上司や先輩とコミュニケーションを取りたい」と思っている(!) AERA9月23日号では、コミュニケーション不足が招く誤解の実態と、世代間ギャップを解消するための職場の工夫を取材。「置かれた場所で咲きなさい」という言葉に対する世代間の感じ方の違いも取り上げています。

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〈あのときの話題を「再生」〉数時間しか眠らない「ショートスリーパー」は健康に問題ないのか 最適な睡眠をめぐる謎
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〈見逃し配信〉シニアは「持ち家」からマンションへ 「買い物も病院も徒歩圏内」でもシニアが多いマンションのリスクとは
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家が高すぎる
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