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北原みのり「『あれは性暴力だった』」
北原みのり 北原みのり
北原みのり「『あれは性暴力だった』」
北原みのり(きたはら・みのり)/1970年生まれ。作家、女性のためのセックスグッズショップ「ラブピースクラブ」代表 イラスト/田房永子  作家・北原みのり氏の週刊朝日連載「ニッポンスッポンポンNEO」。北原氏は、50代の女友だちと過去の性暴力について話をしたという。 *  *  *  性暴力被害の話を女友だちとした。数十年も前の記憶でも、それは鮮やかな光景としてすぐに蘇ってしまう。話したことのない過去でも、なぜか詳細に語ることができる。それはきっと、心の中で何度も何度も繰り返し自問してきたからなのだろう。「いったい、あれは何だったのか」と。 「あれは性暴力だったって、最近気がついた」と50代の女友だちが言う。大学生の頃、バニーガールのアルバイトをしていた。仕事終わりに職場の車で送られるのだが、彼女の家は一番遠く、最後は運転手の男と2人だけになるのが常だった。ある日、気がつくと男は人通りのない山道を走り、暗闇に車を止めた。そして助手席にいた彼女に「舐めて」と唐突に言ったという。「え? 嫌ですよ~」と冗談っぽく笑ってみせるが、男の真剣な顔に、選択肢がないと彼女はとっさに判断した。  彼女はそれを「性暴力」だと長年思わないでいたという。なぜなら「私が選択したことだから」と。車を降りず、泣き叫ぶこともせず性器を舐めることを「選択した」のだから。 「だけど、違ったんだよね」と彼女は重大な発見をしたように話してくれた。「圧倒的に不利な状況に置かれているのが、性暴力だったんだよね」  別の友人は深夜、目が覚めたら寝室に見知らぬ男がいた。「やらせろ」と覆い被さってきた男に、彼女はとっさに「キスならいいよ」と言い目をつむったという。客観的にみたら完全な犯罪だが、彼女は警察に行かなかった。なぜなら「キスを提案したのは私。これは事件じゃない」と考えたのだ。  真夜中の山道で車から降りるのか、殺される覚悟で抵抗するか。被害を軽くしたいと「キス」を提案するか。どちらにしても今の刑法で「抵抗」しなかった女性の行為が「被害者」として司法に“受け入れてもらえる”確率はどのくらいあるだろう。  私の話もした。高校1年の時、初めてのアルバイトは近所のスーパーだった。初日、「魚の捌き方を教える」と言う店長に背後から抱きつかれ手を握られ完璧に密着した状態で魚を捌いた。お尻に硬いものがあたった。翌日から私はアルバイトをやめ、「一日しか続けられなかったね」と家族に笑われても本当のことを言えなかった。その後も長い間、誰にも言わなかった。なぜなら私は逃げなかったし、自意識過剰かもしれないし、証拠はないし、加害者を逮捕できるわけでもないし。そんなふうに思ったからだろう。それは被害者に向けられる社会の視線を、高校生なのに十分知っていたということなのだろう。  被害者に沈黙を強いることでなかったことにされてきた性暴力。今、世界中であげられた声が、世界中の女性たちの記憶の蓋をあけている。その声が、もう黙らない、もう諦めない、という声が希望のある未来をつくっていけるのだと信じたい。「同意のない性交はレイプだ」「不利な状況に置かれることが強制だ」。その当たり前を誰もが感じられる社会に生きたい。 ※週刊朝日  2019年4月12日号
北原みのり
週刊朝日 2019/04/06 16:00
東海vs.旭丘、修猷館vs.久留米大附設…大学入試ライバル校対決【西日本編】
東海vs.旭丘、修猷館vs.久留米大附設…大学入試ライバル校対決【西日本編】
【表の見方】東大、京大、北海道大、東北大、名古屋大、大阪大、九州大の合格者数は本誌とサンデー毎日、大学通信の合同調査(3月29日現在判明分)で、推薦・AO等含む。国公立大医学部医学科合格者数は編集部調べ(3月25日現在判明分)。卒業生数は高校回答数。◇印は国立、無印は公立、○印は私立 【表の見方】東大、京大、北海道大、東北大、名古屋大、大阪大、九州大の合格者数は本誌とサンデー毎日、大学通信の合同調査(3月29日現在判明分)で、推薦・AO等含む。国公立大医学部医学科合格者数は編集部調べ(3月25日現在判明分)。卒業生数は高校回答数。◇印は国立、無印は公立、○印は私立  卒業生や進学を考える受験生など、多くの人が気にする高校の大学合格実績。2019年の大学合格実績をもとに、2校以上が合格実績を競い合う西日本の各地を選び、東大、京大、北海道大、東北大、名古屋大、大阪大、九州大、国公立大医学部医学科の合格者数、卒業生数を調査した。 【愛知】  旧制一中の旭丘、旧制二中の岡崎など、伝統的に県立高校が強かったが、近年は私立の東海が合格実績を上げ、三つどもえの様相だ。  合格者数をみると、東大と国公立大医学部は東海、京大は旭丘、名古屋大は岡崎がトップだ。  東海は国公立大医学部合格者数が12年連続で日本一。東大理III、京大医学部にもそれぞれ2人合格した。 【大阪】  大阪府教育委員会が11年から府立の北野、天王寺など10校をグローバルリーダーズハイスクール(GLHS)に指定している。  19年の合格者数トップ校をみると、東大と国公立大医学部は私立の大阪星光学院、京大と阪大は北野だ。  京大に72人が合格し、2年連続で京大合格者数日本一になった北野の進路指導主事・冨山一紀教諭、天王寺の進路指導主事・中尾仁志教諭はともに「東大に受かる力があるのに京大を受ける生徒がいる」と口をそろえる。北野は毎年約130人、天王寺は約100人が京大を目指す。 「GLHSの10校から希望者を募り、『京都大学キャンパスガイド』『大阪大学キャンパスツアー』を行います。参加して進学への思いが強くなるようです。さらに、身近な先輩が京大や大阪大に進学していることも志望者が多い理由です。年3回ほどGLHSの教員が集まり、情報交換もしています」(冨山教諭)  大阪大でGLHSの生徒による合同発表会を開催するほか、10校から選抜された生徒の海外研修もある。 「2年生全員が参加する『京都大学研修会』では、希望の学部での研修に衝撃を受け、憧れる生徒も多いです」(中尾教諭) 【京都】  市立の堀川は、府内全域から募集した「探究科」の1期生が卒業した02年、国公立大の現役合格者数が前年の6人から106人と大幅に増えた。「堀川の奇跡」として注目を集め、それ以降ほぼ毎年、京大に現役で30人以上が合格している。  私立は、洛星と洛南が競っている。19年は、東大は洛星、京大と国公立大医学部は洛南が上回っている。 【兵庫】  東大合格者数が何度も日本一になったこともある名門進学校の灘は1学年の人数が約220人と少ないにもかかわらず、2015年以降、毎年東大に90人以上合格していた。  ところが、19年は74人。合格者数が減った理由は、東大を受験する生徒が減ったからだ。同校の和田孫博校長が19年卒業の高3生についてこう話す。 「文系が29人、理系が190人です。現役の東大受験生が昨年より20人近く減り、浪人生も10人近く少なかったので、東大の合格率は例年並みと言えると思います。あくまでも推測ですが、文系が少ないのは、従来本校の生徒が目指した法曹界や国家公務員の仕事に魅力を感じられなくなっていることが一因かもしれません」  関西圏は医学部人気が特に高いこともあり、理系のほぼ半数が国公立大医学部に出願。最難関の東大理IIIに20人、京大医学部に26人が合格した。東大理III合格者数2位の開成と筑波大附駒場が各10人、京大医学部合格者数2位の洛南が11人なので、2倍以上の合格者数だ。 「京大の理工系や文科系は例年どおりでしたが、医学部志望が例年以上に多かったですね。学校としては医学部にたくさん合格することを手放しで喜んでいるわけではなく、多方面で活躍する人材を育てたいと思っています」(和田校長)  京大の合格者数が灘を1人上回るのが、甲陽学院だ。進学資料室長の杉山恭史教諭が19年の入試を振り返る。 「文系が48人、理系が158人で、進学志望先は理系は工学系61人、医学部59人、理学系15人でした。成績上位層を中心に、『京大よりも東大』という生徒が増えてきた気がします。東大の理類を受験した現役生は19人中17人が合格と高い合格率だったのは、数学と理科の難化が有利に働いたとみています」  ともに設立者が酒造家で、距離的にも近く、自由な校風の両校は、互いに認め合う。甲陽学院の今西昭校長はこうたたえる。 「大学合格力において灘が抜きんでていることは明らかです。生徒にも先生にも最大限の自由が与えられるという校風を守りつつ、この偉業。日本一の学校やと思っています」  灘の和田校長も、甲陽学院とは校長同士、教員同士だけではなく、同窓会や事務局も交流があるという。 「ライバル校というよりは同じ方向を向いて互いに頑張っていこうという同志のような学校です」 【奈良】  新旧の名門校が、全国トップクラスの合格実績をあげている。  1926年に東大寺の僧侶らが、勤労青少年のために境内に夜間学校を創設したのが始まりの東大寺学園は、88年に東大合格者数トップ10に入って以降、ほぼ毎年トップ30に入っている伝統校だ。  一方、86年創立の西大和学園は生徒に補習や勉強合宿などの猛勉強を課し、90年に初めて東大に合格者を出した。以降、年々合格実績を上げている。  2019年の合格者数は、東大寺学園が東大27人、京大68人、国公立大医学部54人。西大和学園は東大42人、京大34人、国公立大医学部37人。東大寺学園の京大合格者数は全国2位だ。  東大寺学園の清水優教頭は、西大和学園をライバル視していないという。 「本校は自由でおおらかな校風で、制服もありません。私学には建学の精神があり、校風の違いが一番大切だと考えているため、他校をライバル視して合格実績を競うというような風土はありません。進路指導の基本姿勢として大切にしているのは、『特定の大学、学部への誘導をしてはならない』ということです」  19年の現役の志望者数は東大が約40人、京大が約90人、医学部は約50人だった。  西大和学園は、15年に京大に81人が合格し、合格者数が単独首位となった。同年の東大合格者数は28人だったが、翌年以降は30人を超え、19年は最多の42人を記録した。東大志望の生徒が増えた理由を中岡義久校長はこう分析する。 「科学技術の発展など激変する未来に備えて、2年間リベラルアーツを学んで視野を広げ、3年からの進学先を選べる東大の進学振り分け制度に魅力を感じる生徒が増えたのだと思います」  校内で東大教養学部の「東大Live講義」を受講できるほか、高1の夏には東大のオープンキャンパスに参加したり、卒業生が勤める先進的な企業を訪問したり、起業家とのワークショップをしたりする2泊3日の「東京グローバルサイエンス」を実施している。  両校ともに、知的好奇心を刺激する行事や体験学習などが多い。 【福岡】  学区制採用で、成績が優秀な生徒が分散している。  福岡市内にある県立トップ校の修猷館は、1784年に黒田藩の藩校として開館した歴史を持つ伝統校。同じ市内にあり、学区が異なる福岡、筑紫丘は良きライバルだ。  2019年の九州大の合格者数の全国順位は修猷館が126人で1位、筑紫丘が110人で2位、福岡が102人で3位だ。九州は医学部志望者が多く、修猷館は02年、福岡は15年から「医進クラス」を設置した。  1974年までは修猷館、福岡、小倉など県立高校が東大合格者数の県トップ校だったが、75年に久留米大附設が30人の合格者を出し、東大合格者数のトップ校になった。 「高校は50年に開設しましたが、69年に中学が新設され、75年は中高一貫教育を受けた1期生が受験をした年です」(小林さん)  その久留米大附設が今年50人もの東大合格者を出し、福岡県の高校としては初の全国トップ10入りを果たした。大幅増のキーワードは75年と同じく「1期生」だ。同校の名和長泰教頭が説明する。 「今春の卒業生は中学が共学化された1期生で、50人の合格者のうち11人が女子です」  共学校は男女の定員を設けているところが多いが、久留米大附設は男女枠がなく、入試の成績順だ。 「女子中学生の特徴や課題を分析・共有し、従来以上に指導の改善を積み重ねた6年間でした。『女子会』と称する補講を実施したこともあります」(名和教頭)  毎年、約3分の1の生徒が医学部を目指しており、19年は国公立大医学部にも56人が合格した。  合格実績を伸ばしている高校は、生徒同士で教え合ったり、教員が他校の教員と交流して情報交換していたりする。「勝った、負けた」とライバル視していた時代もあるが、今は「団体戦」であり、「同志」として切磋琢磨(せっさたくま)する時代なのかもしれない。(庄村敦子) ※週刊朝日  2019年4月12日号より抜粋
大学入試
週刊朝日 2019/04/06 08:00
【現代の肖像】俳優・光石研「『個性がない』という個性」<AERA連載>
【現代の肖像】俳優・光石研「『個性がない』という個性」<AERA連載>
「バイプレーヤーって、二枚目俳優以外を指すときに、一番便利な言葉なんじゃないですか」(撮影/篠田英美) 「デザイナー渋井直人の休日」に出てくるカフェ「ピータードッグ」のロケ地、東京・青山の古書店兼カフェで。ドラマでは渋谷~代々木八幡付近の「奥渋」に実在するおしゃれな飲食店なども次々と紹介される(撮影/篠田英美) 中学時代には創刊されたばかりの「ポパイ」をいち早く入手した。ファッションだけでなく、クルマや住宅に対するセンスのよさはピカイチ。6歳になるトイプードル犬のグリグリと(撮影/篠田英美) 1月17日から始まった「デザイナー渋井直人の休日」(テレビ東京系、毎週木曜日25時~、全12話)。出演者は岡山天音、黒木華らに加え、毎回ゲストが登場する(撮影/篠田英美) ※本記事のURLは「AERA dot.メルマガ」会員限定でお送りしております。SNSなどへの公開はお控えください。  何げなく見たドラマに、映画に、必ずといっていいほど光石研が登場する。高校生でデビューし、俳優生活は40年になる。  この節目に、「デザイナー渋井直人の休日」で連続テレビドラマでの初主演を務めた。どの役もはまる名バイプレーヤー。  今でこそ引く手あまただが、生活ができず、事務所に借金をしたことも。もがき続けた役者人生。でもまだ満たされていない。(文/一志治夫) *  *  *  深夜に帰宅し、早朝に自宅を出る生活が2カ月間続いた。睡眠時間は、連日4時間ほど。17歳でデビューして40年、初の連続テレビドラマ主演となる「デザイナー渋井直人の休日」(テレビ東京系)の撮影に追われていたのだ。  クランクアップの翌日、愛犬とともに都内の公園に現れた光石研(みついし・けん 57)は、連続ドラマの撮影を無事に乗り切れたことに心底ほっとしていた。もっとも、束の間のオフのあとには、早くも次の撮影が控えていて、「明日からまた新しいセリフを覚えなきゃいけないと思うと少し気が重い」とももらす。しかし、本気で嫌がっている様子はない。 「『寝られねえじゃないかよ』って文句を言いながら、どこか心地いいというところもあって……。ずっとそうなりたかったですからね。仕事がない時代の不安と恐怖がいまだに消えずで、忙しいことはまったく苦ではないんです」  初主演となった今回の連続ドラマでは、うってつけの役が用意されていた。仕事に対して自負を持ちつつも決して威張らず、おしゃれでセンスのいい柔和な52歳のデザイナー役だ。本人と主人公の境が見えなくなるぐらいのはまり役である。 「渋井直人を通じて自分のことを笑ってもらえるのが自虐的な喜び。どこまでが渋井でどこまでが僕なのか、曖昧にして煙に巻くのが痛快でした」  たとえば、第5話の「渋井直人の渋谷」は、渋井ファンである若い女性が上京してきてデートをするというストーリー。初対面の女性をおしゃれな「奥渋」のレストランでもてなそうとする渋井だが、好みに沿わなかったり満席だったりで1時間以上も街をさまよう。最終的にホテル街に迷い込み、とんでもない誤解を受けてオロオロする優柔不断で少し情けないおじさんを光石は好演する。 ●オーディションに合格 高2で映画の初主演に  光石の巧さは、自身の存在感を押し出すことなく、個性を消して役に憑依できるところだ。お茶目なおじさんはもちろん適役だが、逆に凄みのきいた極悪人もまたリアルに演じきる。名脇役として重宝されてきた理由はそこにある。  光石は、自身の演技をこう突き放す。 「個性を消しているわけじゃなく、僕には本当に個性がないんです。それを逆手にとって、『個性なき個性』なんて言っているだけなんです。数年前に、福島のロケで『こんなに長靴が似合う人はいない。本物みたい』と人から言われて、『長靴をはいて褒められるのは役者じゃない。長靴をはいてても役者は役者のオーラを放たないと』って言い返したんですけど、本当は嬉しかった。僕はオーラのないほうで頑張る、ってひそかに思ってましたから」  その「個性なき個性」こそが見る側にリアリティを感じさせもするのだろう。  浮沈にあえぎながらも40年間にわたってひたすら愚直に演技と向き合い続けてきたバイプレーヤーはいま、新たな円熟の域に踏み込みつつあった。  光石研の俳優デビューは鮮烈だった。  作品は、「博多っ子純情」(松竹系、1978年公開、監督・曽根中生)。博多を舞台にした少年から青年への成長物語、青春群像劇だ。  友だちに誘われ、博多でのオーディションに参加した高校2年生の光石は、3回のテストを経て見事主役を射止めた。映画は夏休みを費やして撮られた。  北九州・八幡の中学時代の同級生で、光石に誘われ同映画にエキストラとして出演した平尾隆志(57)が振り返る。 「光石は、昔からモノマネがうまくて、北九州のおばちゃんの真似とか言って、クラスで笑いをとっていた。中3の文化祭の劇では、2人で探偵役をやったんですが、それを見ていた国語の女の先生からは『光石君、あんた役者になりなさい』と言われてました」  撮影現場で、光石がプロの役者の役をふざけて真似ていると、監督の曽根から「お前のほうが上手いな」と言われたぐらい溶け込んでいた。 「セリフ覚えで苦労した記憶もまったくないし、お父さん役の小池朝雄さんや大人たちとの撮影がただただ新鮮で楽しかった」  高校を卒業した光石は、大学への進学を条件に、親から上京を許される。が、もちろん、青年の頭の中にあったのは、映画の世界に再び身を置くことだった。 ●現場で怒られ続けた20代 「おしゃれ小鉢」と呼ばれた  松竹のプロデューサーや監督を訪ね回って機会をさがす光石に最初に舞い込んできたのは、「男はつらいよ」(監督・山田洋次)だった。シリーズ25作目「寅次郎ハイビスカスの花」と26作目の「寅次郎かもめ歌」。いずれもアベック役、生徒役という名のセリフもない端役だったが、青年はさっそく山田の洗礼を受ける。 「賑やかでやりたい放題だった『博多っ子』とはまるで違う現場だったんです。現場のスタッフが話もせずスーッと動いていく。チームが出来上がっている中にポンと素人が入ってしまって、山田監督からは『ダメだダメだ、もう一回もう一回。君はいったいなんなんだ』とめちゃくちゃ怒られた。悪目立ちして、目障りきわまりなかったんでしょうね。単純に面白く見せたいと、よかれと思ってやってたんですけど、自己顕示欲みたいなものも出ていたんでしょう」  続いて入った相米慎二の現場でも、「お前、曽根さんに何を教えてもらったんだ。何を習ってきたんだ」とどやされた。  光石に助け船を出してくれたのは、「博多っ子」のときのスタッフたちだった。テレビドラマの仕事を与え、さらには、人づてに事務所をも紹介してくれた。いまも所属する「鈍牛倶楽部」の代表取締役・國實瑞惠が振り返る。 「『博多っ子』を見て、非常に面白いキャラクターだなと思ってました。主演はなかなか厳しいけど、息の長い俳優になるんじゃないかと直感的に感じましたね」  事務所には、40代の緒形拳や小林稔侍がいた。こののちしばらく、光石は、2人の名優との抱き合わせ、いわゆる“バーター”出演で仕事を得ていくことになる。撮影現場では、「もれなくおしゃれ小鉢がついてくる」とささやかれていた。  緒形の主演するNHK大河ドラマ「峠の群像」などメジャー作品に出演の機会を得て、光石は臆することなく突き進んでいった。 「素人が誰からも何も教わらず入ってきたというところが逆に面白いんじゃないかと自分では思っていた。どこかに若さゆえの根拠なき自信みたいなのがあったんでしょうね。当然、いろんな現場で怒られ続けるわけですが、そんな中で緒形さんから『あなた、おもしろいな。いまが辛抱だぞ』みたいなことを言われた。色がついていないという意味だったかもしれないけど、その緒形さんの一言で、どうにか皮一枚大丈夫というのがあったし、その後もずっと自分の支えになったんです」  しかし、20代の終わりにさしかかっても、「おしゃれ小鉢」は小鉢のままだった。仕事の依頼は日を追うごとに減り始めていた。29歳で結婚したこともあり、生活は次第に厳しくなっていく。「博多っ子」の神通力も、緒形の威光も日増しに弱まっていった。 「依頼がくる役も本当に特徴のない友だちの友だちみたいなのになってきていた。いま思えば、そんなことは役者の仕事では当たり前のことなんでしょうけど、そのときは、とにかくこのままじゃやばいと焦ってました」  妻の働きだけでは生活ができなくなった光石は、ついに事務所に借金をせざるを得なくなる。屈辱だったが、ほかに手立てはなかった。数十万単位で幾度となく借り続けた結果、その額は数百万にまでふくれあがり、やがて止められた。  一方、世の中では、バブル経済が崩壊し、さまざまな価値観が崩壊し始めていた。映画界でも、巨匠たちに代わって低予算でも撮れる20代、30代の若手監督が台頭してくる。  若手監督たちは、光石とほぼ同世代の人々で、彼らが巻き起こしたニューウェーブは、光明となった。出演の機会が巡ってくるのである。  岩井俊二が監督した「打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?」「Love Letter」などに出演したのちの96年、光石は大きな転機を迎える。監督・青山真治の初長編映画「Helpless」で準主役に抜擢されるのだ。仮出所したヤクザの役で、凄みある荒くれ者をリアルに演じきり、高い評価を受けた。  さらには、ハリウッド映画のオーディションを受け、「ピーター・グリーナウェイの枕草子」「シン・レッド・ライン」に挑戦したことで、また光石は新たな刺激を得た。 「最初は何がハリウッドだと突っ張っていたんです。現場はすごい物量とスケールで、素晴らしいケータリングが来ても、こんなのはロケ弁でいいんだよなんて言って。ニック・ノルティとかが歩いていて、おー、と思っても見て見ぬふりをしたり。でも、そこで逆に、自分ひとり尖っていても仕方ない、何も変えられないぞ、と気づくんです」 ●振り出し以下に戻ると決意 出演映画数が年15本にも  華々しくデビューした「博多っ子純情」からおよそ20年、光石は、遠回りをしながらも、ようやく役者の本質へと辿り着こうとしていた。 「この頃から、『寅さん』でやった悪目立ちのようなことは一切やめよう、とにかく台本に書かれたこと、要求されたことを忠実にやる。目立たないように、映画の歯車になることこそが美徳と思うようになるんです。岩井さんや青山さん、ピーター・グリーナウェイといった才能ある監督の現場を経験したのが大きかった。本当は、相米さんや曽根さんの現場で学んでなきゃいけないのに、そんな年になって初めて気づいたんですね」  この頃、光石は、「初心に、振り出しに戻る、いや、振り出し以下に戻るという思いで」愛車を処分し、より家賃の安い都内のワンルームマンションへと移り住んでいる。こののち10年にわたって光石はクルマのない生活を続けた。  まもなく21世紀を迎えようという頃から、光石のもとには徐々に仕事が入りだす。それが一気に増え始めるのは2005年からだ。その翌年に公開された出演映画は実に15本を数え、翌年も翌々年も同様だった。  03年から、光石のマネジャーについた野口淳一が振り返る。 「とにかくどんどん仕事を入れてくれ、という感じでした。食べられない時代のことがあって、2日仕事があいたら不安でしようがないと。だから、映画やドラマを縫うようにして1日に3本とか入れることもありました」  同時に9本もの台本を持っていたという同じ事務所の小林稔侍に負けまいと、野口は、積極的に営業をかけた。その結果、多いときには、光石もまた7本もの台本を抱えることになった。もっとも、裏を返せば、脇役だからこそ、それだけの仕事が入れられるということでもあった。主役であれば、映画だけで年に15本も入れられるはずもない。  そんな中、11年には「あぜ道のダンディ」(監督・石井裕也)で、主演も経験した。しかし、光石は、「主演といっても家族の話でたまたまお父さんの名前が一番最初に来ているだけだと思ってました」と冷静に振り返る。その後も「共喰い」(13年、監督・青山真治)のような重厚な作品で狂気の父親を演じたりしながら、バイプレーヤーとして演技に磨きをかけていった。  事務所の國實が言う。 「光石は絶対に東宝映画にかかるような主役にはならないわけじゃないですか。あるいは明らかに緒形拳とも違うわけです。よく俳優には定年がないと言われますが、私は主役級の人には確実にあると思います。でも、笠智衆さんではないですが、光石のような脇の人はその都度の年齢に合わせて役ができるし、年齢年齢で味を出していけるんです」  光石自身は、バイプレーヤーと称されることに対して、こんなふうに思っている。 「バイプレーヤーって、二枚目俳優以外のことを言う便利な言い方なんじゃないですか。あくまでも人様が呼んでくださることで、自分としてはなんと言われようがいい、というぐらいの感じです」 ●他の俳優にも嫉妬する まだまだ達していない  17年、そんなバイプレーヤーをメインにすえた番組が制作された。「バイプレイヤーズ~もしも6人の名脇役がシェアハウスで暮らしたら~」(テレビ東京系)だ。光石のほか、遠藤憲一、大杉漣、田口トモロヲ、寺島進、松重豊の5人の脇役たちに光を当てた連続ドラマだった。20年近く前、皆で集まったときに「6人で何かやれたらいいね」と話していた企画が実現したものだった。長きにわたって脇の道を歩んできた6人の役者人生が投影されたこのドラマは、“脇役の妙味”を再認識させるものとなった。  第2弾の撮影中には、大杉が亡くなるという不幸な出来事もあった。 「信じられなかったし、本当に衝撃でした。10年先を行く漣さんを見ていてああいうふうになりたいと思ってましたから。漣さんは主役の道を来た人ではなかったけれど、仕事の振り幅が広く、いろんな役をやってらした。そういう意味で、僕たちの理想というか、トップランナーでした。でも、最後がほかのドラマや映画ではなく、『バイプレイヤーズ』だったということに何かがあると僕は勝手に思った。漣さんの遺志みたいなものを継ぐのは僕たちだと。漣さんは『そんなこと思ってねえよ』とおっしゃるかもしれないけれど」 「バイプレイヤーズ」出演以降、光石の仕事の密度はさらに増していく。「出演映画が公開されれば、それを見た関係者が『やっぱり光石研はいい』となって依頼してくる。そして、またそれを見た人からオーダーがくるという相乗効果が続いている」とマネジャーの野口は言う。旧知の監督からの依頼を断ることも光石が嫌うため、仕事は増える一方なのだ。スタッフを大事にするから現場での評判もすこぶるいい。「演出部、撮影部、録音部、衣装部、メイク部とある中の僕は俳優部のひとりにすぎない」という信念で現場に立つ役者が求められないはずもない。  光石は、いま、自宅で他のドラマや映画を見ることがほとんどなくなった。劇場や映画館に足を運ぶこともほぼない。そんな時間すらとれないのだ。 「仕事を入れすぎなのかもしれないけど、働かないと不安で……。どこかで『お前なんかが勉強とか言って、芝居なんか偉そうに見てんじゃねえよ。働け、働け』と言われているような気がしてね」  つい最近、光石が若手俳優たちと話していて、「他の俳優に嫉妬する」と漏らすと、「その年齢で」と驚かれたという。「いや、全然嫉妬するし、悔しいし、羨ましいんだ」と57歳のベテランは隠さなかった。 「こんな年齢なのにあの人はまだあんなに走れるんだという肉体への憧れもあるし、このセリフ量を覚えられるんだという羨ましさもあるし。それは、50代の後半になって、いろんな鎧がなくなってきて、他人を純粋にすごいと認められるようになったということでもあるのかもしれない。僕の中には、まだまだ達していない、満たされていないという思いが間違いなくあるんですね。それを乗り越えて、60代になって見えてくる景色がいまは楽しみで仕方ないんですよ」 (文中敬称略) ■光石研(みついし・けん) 1961年/福岡県八幡市生まれ(現・北九州市)。両親とも新日鉄八幡製鉄所勤務。父は八幡製鉄サッカー部でプレーしていた。スキーの名手で、陶芸、音楽と多趣味。一人っ子だった光石は強い影響を受け、のちにブラックミュージックにはまる。 77年/東海大学付属第五高校入学。2年のときに「博多っ子純情」(原作・長谷川法世)のオーディションを受け、合格。校内でも一躍名が知れ渡る。相手役は松本ちえこ。 80年/東京の大学に進学。「男はつらいよ」の25作目、26作目に端役で出演。この年の秋、現在の所属事務所「鈍牛倶楽部」と契約する。 81年/「セーラー服と機関銃」(相米慎二監督) 82年/緒形拳が主演を務めるNHK大河ドラマ「峠の群像」に出演。赤穂浪士四十七士のひとり勝田新左衛門役。 87年/「吉原炎上」に緒形とともに出演。 93年/「打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?」(95年公開、岩井俊二監督) 95年/「Love Letter」(岩井監督) 96年/この頃、愛車を手放し、10年間のクルマなし生活に入る。横浜から世田谷のワンルームへと転居。北九州を舞台にした「Helpless」(青山真治監督)、「スワロウテイル」(岩井監督) 97年/「ピーター・グリーナウェイの枕草子」 99年/「シン・レッド・ライン」で日本軍の将校役を演じる。 2001年/「ユリイカ」(青山監督) 06年/「紀子の食卓」をはじめ、この年から出演ラッシュが始まる。 07年/「サッド ヴァケイション」(青山監督) 08年/「20世紀少年」 11年/33年ぶりの主演作「あぜ道のダンディ」 12年/「アウトレイジ ビヨンド」 13年/「共喰い」 16年/「コールドケース」(WOWOW)。年末、2度目のホノルルマラソンに参加。5時間台で走りきる。第37回ヨコハマ映画祭助演男優賞。 17年/北九州マラソンにゲスト参加。「バイプレイヤーズ」。福島で撮影された「彼女の人生は間違いじゃない」(廣木隆一監督)では、震災後の住民の欠落感を見事に表現した。 18年/「コールドケース2」 19年/「デザイナー渋井直人の休日」 ■一志治夫 ノンフィクション作家。『狂気の左サイドバック』で第1回小学館ノンフィクション大賞受賞。最新刊に秋田の蔵元集団「NEXT5」を取材した『美酒復権』(プレジデント社)がある。 ※AERA 2019年3月4日号 ※本記事のURLは「AERA dot.メルマガ」会員限定でお送りしております。SNSなどへの公開はお控えください。
AERA 2019/04/05 18:43
THE YELLOW MONKEY、インディーズ時代の長尺名曲を地上波パフォーマンスへ――“コレはかなりの事件”
THE YELLOW MONKEY、インディーズ時代の長尺名曲を地上波パフォーマンスへ――“コレはかなりの事件”
THE YELLOW MONKEY、インディーズ時代の長尺名曲を地上波パフォーマンスへ――“コレはかなりの事件”  THE YELLOW MONKEYが、2019年4月14日に「THE YELLOW MONKEYスペシャル」として出演が決まっているフジテレビ系『Love music』でのパフォーマンス楽曲を明らかにした。  歌唱曲は計3曲。昨年、テレビ東京 『天 天和通りの快男児』の主題歌としても話題になった「天道虫」。THE YELLOW MONKEYの数多くある代表曲の中でもライブで絶大な人気を誇る「パール」。そして、「毛皮のコートのブルース」をテレビ初披露する。  楽曲「毛皮のコートのブルース」はインディーズ時代の名曲で、4月17日にリリースとなるアルバム『9999』の楽曲と共に、初レコーディングとなった音源。ボーナストラックとして、デジタルアルバムでの購入者のみ手に入る楽曲となっている。約7分の長尺楽曲で、地上波でこのサイズの楽曲がOAされるのは極めて異例のこととなる。  なお、トークでは各メンバーが初めて買ったCDや、影響を受けてたきた音楽、青春の1曲などが語られ、改めてバンドの魅力にふれることができる内容となっている。  また、『9999』収録曲のインスト音源が聴けるダイジェスト映像も同時公開された。今回公開された映像では、先日行われた“世界最速先行試聴会”でもパフォーマンスされ、ファンからリリースが待ち望まれている新録曲のインスト音源が聴くことができる。  iTunesでは、今回公開されたbacking track(インスト音源)13曲に加え、CD収録と同じ13曲、ダウンロード・アルバムのボーナストラックである「毛皮のコートのブルース」全27曲を収録した“プレオーダー期間限定盤”を4月16日まで販売中。 ◎『Love music』チーフプロデューサー三浦淳  地上波で「毛皮のコートのブルース」が放送されるって、コレはかなりの事件です…!!! THE YELLOW MONKEYの90年代からのファンも、活動休止後にハマったファンも、2016年の再集結以降のファンも、この凄さにピンと来ない人がいるかもしれませんが… 僕のように90年代初頭からTHE YELLOW MONKEYの毒にどっぷり犯されてしまったファンからしてみたら「毛皮のコートのブルース」というインディーズ時代からの伝説の未発表曲を、テレビの地上波放送で(しかもほぼフルサイズで!)観られる日が来るなんて…本当にもう奇跡のような出来事なんです。 「JAM」「SO YOUNG」「球根」を名曲として挙げる人が多いように、THE YELLOW MONKEYはミディアムナンバー、バラードの名曲が多いんです。 でもファンからしてみたら、もっとオススメのミディアムナンバーがあるんです。 「This Is For You」「真珠色の革命時代~Pearl Light Of Revolution~」「シルクスカーフに帽子のマダム」「MERRY X'MAS」「天国旅行」「花吹雪」…どれも名曲ばかりなのに、これまでテレビで披露する機会はほとんどなかったですし、ファン以外に知られる事もほぼありませんでした… そんな想いもあって、THE YELLOW MONKEYが解散してから5年後の2009年に『メカラ・ウロコ 20~THE YELLOW MONKEY 結成20周年特番~』というヒストリー番組を作らせてもらいましたが、その中で、初期の商品化されていないレア映像や、初めてテレビで放送するようなマニアックな楽曲をふんだんに使いましたが、番組の構成で肝となるところではミディアムナンバーの名曲をしっかり使わせてもらいました。 その時に「毛皮のコートのブルース」も放送させてもらったのですが、あれを作っている時はTHE YELLOW MONKEYが再び活動をするとは思ってもいなかったし、まさか、また一緒に仕事が出来るなんて1ミリも想像した事もなかったし、まさか、まさか「毛皮のコートのブルース」を自分の番組でパフォーマンスしてもらうなんて、夢にも思っていませんでした、いませんでした、いませんでした…!!! これまでもサプライズを仕掛けたり、いい意味で予想を裏切りながら、ファンを喜ばせてきたのがTHE YELLOW MONKEYの魅力の一つでしたが、今回この曲をテレビで披露するのもファンを狂喜させるビッグサプライズですし、そのサプライズの場に『Love music』を選んでくれたのは本当に幸せなことです。 この放送は間違いなくTHE YELLOW MONKEY史に残る放送になります。深夜ですが…出来ればいつもよりボリュームを少し大きめにして、55分間テレビの前の最前列で盛り上がっていただきたいと思います。僕も最前列で堪能します! ◎放送情報 フジテレビ系『Love music』 2019年4月14日(日)24時30分~ ※地域により放送日時が変わる場合がございます。 ◎リリース情報 アルバム『9999』 2019/04/17 RELEASE <初回生産限定盤(CD+DVD) > WPZL-31619/20 / 4,500円(tax out) <通常盤(CD) > WPCL-13119 / 3,000円(tax out) ◎ツアー情報  【THE YELLOW MONKEY SUPER JAPAN TOUR 2019】 4月27日(土)静岡 静岡エコパアリーナ 4月28日(日)静岡 静岡エコパアリーナ  5月11日(土)北海道 北海きたえーる  5月12日(日)北海道 北海きたえーる  5月25日(土)福井 サンドーム福井  6月07日(金)大阪 大阪城ホール  6月08日(土)大阪 大阪城ホール  6月11日(火)神奈川 横浜アリーナ  6月12日(水)神奈川 横浜アリーナ  6月29日(土)秋田 秋田県立体育館  7月06日(土)埼玉 さいたまスーパーアリーナ  7月07日(日)埼玉 さいたまスーパーアリーナ  7月13日(土)福岡 マリンメッセ福岡  7月14日(日)福岡 マリンメッセ福岡  7月20日(土)広島 広島グリーンアリーナ  7月21日(日)広島 広島グリーンアリーナ 8月03日(土)宮城 宮城・セキスイハイムスーパーアリーナ  8月04日(日)宮城 宮城・セキスイハイムスーパーアリーナ 8月27日(火)兵庫 神戸ワールド記念ホール  9月03日(火)徳島 アスティとくしま  9月15日(日)福島 あづま総合体育館  9月22日(日)熊本 グランメッセ熊本
billboardnews 2019/04/05 00:00
ゆとり世代「平成の終わりはエモい」改元を思い出にしたい人たち
ゆとり世代「平成の終わりはエモい」改元を思い出にしたい人たち
【ピクスタ】fotowa/顧客と出張カメラマンのマッチングサービス。料金は平日1時間1万9800円(税抜き)。春の引っ越しシーズンとも重なり、「思い出の街でさりげない家族の表情を残したい」などの希望が多いという(写真:fotowa提供) 【IMAGINAL】平成が終わルンですFinal(写真展)/応募資格でもある「平成ゆとり(コラボ)Tシャツ」は販売終了。写真展は7月19~31日、東京・原宿のFUJIFILM WONDER PHOTO SHOPなど、3会場で開催。写真集も制作予定(写真:IMAGINAL提供)  グッズの販売やイベントなどが話題になる一方で、 改元を思い出として残したいという人たちの消費行動も熱を帯びていた。 *  *  *  平成最後の春、家事代行サービスのCaSy(カジー)では掃除代行の依頼数が昨年同時期比較で1.5倍だという。東京都の白井さやかさん(37)は「掃除とちょっとした模様替え」をCaSyに相談中だ。 「共働きで子どもが8、6、5、2歳の4人。この春、2番目の子が小学校に上がります。子ども部屋は一応あるんですが、ほとんど物置状態。元号も変わるし、この機会に生活を整えたいと思って自分にはっぱをかけました」  片づけ後の荷物を預ける倉庫利用も需要を伸ばしている。専用ボックス1箱を月額250円から預けられて、スマホアプリで管理できる「サマリーポケット」も、この春の入庫箱数は対前年同時期比で2倍以上という。 「平成最後に引っ越しを考えていたが、倉庫を利用した方が効率的だと考えなおした」(44歳女性)や、「90年代に小遣いのほとんどを費やした小室サウンドは青春の思い出。大量のCDを預けている」(35歳女性)という人も。  利用者の一人の中原萌さん(23)は、平成の終わりと人生の転機が重なったという。 「仕事はフリーの翻訳者。土日も深夜も関係ない働き方で、だったら場所にとらわれない生き方をしたい」と昨年12月、日本を飛び出し、今はデジタルノマドとしてヨーロッパを巡っている。荷物はスーツケースひとつ。写真や卒業アルバム、書類、どうしても捨てたくないものを数箱に厳選して預け、拠点を持たない生活を実現した。 「改元を迎えるのも何かの縁。今やらなきゃ一生できない気がしましたし」  元号が変わるだけでなく、働き方や人生観の変わり目にいる実感があったと中原さんは言う。 「昨年12月ごろから駆け込むように、『平成が終わるまでに同窓会をやりたい』というお問い合わせが増えてきました」と語るのは同窓会幹事代行業、笑屋の川手耀(よう)さんだ。世代的には30~50代と幅広いが、「平成元年に高校卒業」「改元がいいタイミングになった」などの理由が多いという。4月27日に中学時代の同窓会を計画している神谷千南さん(30)もその一人だ。 「私たちは平成元年生まれ。30歳で何かやりたいとは思っていたけれど、まさかこのタイミングで平成が終わるとは(笑)」。学年全体の大同窓会を企画している。  思い出づくりの最たるものが写真だろう。埼玉県の渋谷幸代さん(37)は夫(41)と娘(4)、息子(2)の4人家族。平成最後の日の4月30日に出張写真撮影サービスのfotowaを利用することにした。 「娘の出産後、毎年1冊ずつ、自分で撮影した写真をアルバムにしていたんですが、七五三の時に初めて出張撮影をお願いしたんです。親が撮るとどうしても自分たちが写らないですよね。今回も家族全員の姿を残そうと依頼しました」  撮影場所をどこにしようか。思い出のおもちゃも一緒に撮ろうか。計画を練るだけでも楽しくて、撮影そのものが家族の思い出になっているという。  平成生まれのクリエイターが、平成の終わりを表現する。そんなプロジェクトも話題だ。「平成ゆとりTシャツ」プロジェクトと富士フイルムがコラボレーションした写真イベント「平成が終わルンです」。プロジェクトを仕掛ける稲沼竣さんと峯尾雄介さんは、ともに1991年生まれの27歳、高校の同級生だ。 「昨年夏、平成最後の夏だし……って思いついたのが『平成ゆとりTシャツ』。色は白か黒で、デザインは平成の年号(1989~2019)のみ。ゆとり世代を表現して、サイズはLサイズ以上にしました。このシャツを買ってくれた平成生まれの人のうち、100人に富士フイルムの「写ルンです」を渡して、夏が終わる8月31日に撮影してもらい、秋に写真展をやったんです」  予想以上の反響を呼び、今度は1千人による「平成が終わルンです Final」を企画。7人の平成生まれのクリエイターとのコラボ「平成コラボTシャツ」を期間限定販売した。写真展は参加希望者が倍増したので急遽「2千人による写真展」に変更して準備に追われている。  この盛り上がりを稲沼さんは「平成世代特有のエモさ」にあるのでは、と分析する。 「僕らは『ゆとり世代』と一括りにされてきた。そこに強い反発心があるわけじゃないけど、ゆとりっていう言葉があったおかげで、緩やかな団結心みたいなものはあるような気がします。だから年号のTシャツに『俺たちのシャツじゃん』と反応があった。昨夏の写真展も、仕掛けた僕らよりさらに若い、10代から20代前半がたくさん来てくれました」  この世代のパワーワードは「エモい」だという。 「平成に限らず、何かの終わりが見えた瞬間がエモい。それを写真という手段で切り取ったことが共感を得たんだと思う」(稲沼さん)。  言うまでもなく「写ルンです」は「レンズ付きフィルム」だが、スマホ世代にはそれも「エモい」らしい。 「一周回って、不便さがエンタメなんです。世の中便利になりすぎてるから制限のあるものが楽しい」と峯尾さん。「写ルンです」を使うのも、撮れるのが27枚だけだから。現像するまで結果もわからない。 「だから一枚一枚、一瞬一瞬がすごく大事になる。これまで平成=人生だった僕らには、まるで卒業式に向かってどんどん気持ちが高まっていくような、そんな感覚なんです」 (ライター・浅野裕見子) ※AERA 2019年4月1日号
AERA 2019/03/31 11:30
【下川裕治さん連載】バングラデシュで”暮らす” 費用より難しい意外な問題<12万円で世界を歩く リターンズ>
下川裕治 下川裕治
【下川裕治さん連載】バングラデシュで”暮らす” 費用より難しい意外な問題<12万円で世界を歩く リターンズ>
■クトゥパロン難民キャンプ/丘陵を埋め尽くす難民たちの家々。生まれる子供は年に2万人とか(撮影/阿部稔哉)  お金をかけずにどこまで世界を巡れるのか。30年前のバブル絶頂期に本誌で大人気だった連載『12万円の旅』シリーズが、帰ってきた。筆者で旅行作家の下川裕治さんは、いまや64歳。平成の終わりを目前にしたいま、同じコースで再び“貧乏旅”に挑戦する。最終回はバングラデシュ編。 ※本記事のURLは「AERA dot.メルマガ」会員限定でお送りしております。SNSなどへの公開はお控えください。 *  *  * 「12万円で世界を歩くリターンズ」も最終回。「歩く」ではなく、「12万円で暮らしてみよう」と、バングラデシュの村に入った。近くにあるチャンプルー寺から、朝の読経が流れてきた。5時。毎朝、この時刻に抑揚のない僧侶の声が村に響く。 ■費用なんて忘れていいのだ 村人と密着できた暮らし  竹を編んだだけの一枚壁。まだ外は暗いなか、隙間から明かりが漏れてくる。NGOが設置したLED街灯の光だった。窓はないが、外の様子が手にとるようにわかる。庭に入り込んだネコの息遣い。ネズミの足音。ヤモリの鳴き声。湿気を含んだひんやりとした空気……。  蚊が入らないよう、さっと蚊帳から出る。難民キャンプから横流しされた懐中電灯を手に、外のトイレに行くため、いったん庭に出ると、村を濃い霧が覆っていた。庭のマンゴーの木が夜露にぬれていた。 今回の12万円旅のルート(週刊朝日2019年4月5日号から)  バングラデシュ南部のチョドリパラという村の一軒家を借りた。脇をミャンマー国境のナフ川が流れている。世帯数は115軒、人口約500人。暮らしているのは少数民族の仏教徒、ラカイン族である。 「12万円で暮らす」  約30年前に刊行された『12万円で世界を歩く』(朝日新聞社)をたどる旅は、スマトラ島の赤道、アンナプルナのトレッキング、バスでアメリカ一周と続いた。総費用12万円。その金額で賄うコツのひとつは、早くまわることだった。日程が短くなれば食費や宿代が浮く。だから、旅は忙しい。  前回のアメリカ編はその典型だった。宿に泊まれず、ひたすらバスに乗り続けた。その反動? そうかもしれない。アジアの村でゆっくり眠りたかった。費用は12万円だが……。  バングラデシュの村が好きだった。南部のコックスバザールで、長く小学校の運営にかかわっていた。知人も多い。村の一軒家を探してくれるような気がした。 ■クアラルンプール空港/日本からLCCを乗り継いでダッカへ(撮影/阿部稔哉)  2月、バングラデシュに向かった。東京と首都ダッカを結ぶ航空券は往復8万7432円だった。クアラルンプール乗り換えのLCC。ダッカからコックスバザールまでの夜行バスは2千タカ(約2660円)。残金は3万円弱。はたしてこの額で10日間暮らすことができるだろうか。  家探しは難航した。予算の問題ではなかった。村の人たちは外国人に家を貸したことがなかったのだ。  アパートなら……。しかしそこに難民景気が立ちはだかることになる。 ■クトゥパロン/難民キャンプ周辺ではアパート建設が続く好景気(撮影/阿部稔哉)  バングラデシュ南部には、隣国ミャンマーからロヒンギャ難民が押し寄せていた。バングラデシュ軍の発表では、その数は100万人を超えている。そのほとんどが、バングラデシュ南部のコックスバザール県にできた難民キャンプに収容されていた。  アパートを探してコックスバザールから車で2時間ほど南のウキヤを訪ねた。アパート業者の担当者はこう答えた。 「満室です。難民援助のNGOで働くバングラデシュ人スタッフが入っているんです。NGOは給料が高いですから」  南隣のクトゥパロンに足をのばした。ここにはバングラデシュ最大の難民キャンプがある。街は圧倒されるほどにぎわっていた。  8年ほど前、ここは4、5軒の店があるだけだった。そこにいま1千軒以上の店がひしめいているという。八百屋、魚屋といった生鮮品の店から金細工屋、携帯電話店……。メイン通りから入る路地は迷路のようだ。ざっと見ただけで10棟以上のアパートが建築中だった。ここの業者も空き部屋はないと話す。 「完成するとあっという間に満室。クトゥパロンで商売をする人が借りるんです」 ■60万人超の難民 すごい人口密度  許可をとり、難民キャンプに入ってみた。60万人を超える難民が東京ドーム10個分ほどの丘陵地にひしめいている。とんでもない密度だ。60万人というのは鳥取県の人口より多い。  そこは難民キャンプというより街だった。クトゥパロンの街がにぎわうからくりも見えてきた。キャンプ内にはロヒンギャが営む数百軒の商店がある。60万人もいるのだから十分に商売が成り立つ。彼らがキャンプの外の店に仕入れにやってくる。クトゥパロンの店は問屋だったのだ。もうけを狙って、バングラデシュ各地から商人が集まってきていた。 難民たちが営む店が連なる。もうキャンプではなく街の趣だ(撮影/阿部稔哉)  動く金の原資は援助と海外に出た親族からの送金だった。月1千タカ(約1330円)の現金を支給する援助団体もある。難民資格証や援助物資も売買される。  運よく、アパートの一室が空いていた。10日間で5千タカ(約6650円)。食費を考えてもなんとかなりそうだった。しかし大家が首を縦に振ってくれない。面倒な外国人に貸さなくても、すぐにバングラデシュ人の借り手がつく。それが本音のようだった。  家探しが難しい……。12万円の旅とは異質の問題にぶつかってしまった。  そんなとき、チョドリパラという村の一軒家の話が舞い込んできた。クトゥパロンから車で南に1時間ほどの距離だ。なんでもおばあさんがひとりで暮らしているが、近くに娘の家があるので、10日間ぐらいなら……という話だった。家賃は5千タカでいいという。家財道具も一応そろっている。連絡をくれたのはチョーバーシンさんという昔からの知り合いだった。彼はこの家の向かいに住んでいた。 僕らが村で借りた家。庭は広いが家はしょぼい?(撮影/阿部稔哉)  村暮らしがはじまった。蚊帳のなかで寝るひと晩が明けた。朝食は村のなかにある雑貨屋兼茶屋でミルクティーと、ココナツをまぶしたもち米を買った。  小さな村である。幅2メートルほどの道の周りに家が並んでいるだけだ。2分も歩くと道が終わり、ナフ川の土手に出る。川の向こうはミャンマーだ。村をひとまわりして不安になってきた。店がないのだ。雑貨屋が4軒。路上に野菜を並べた青空八百屋が1軒。それだけだった。食事はつくるつもりではいた。しかし食堂が1軒もないと心細い。 ■村の物価は激安 米は1キロ約67円  雑貨屋と青空八百屋をまわった。米、油、塩、スパイス、ダイコン、タマネギ、ナス、ミャンマーとタイのインスタント麺……などの食料を買った。そして蚊取り線香と洗剤。米は1キロ50タカ(約67円)。ダイコンは2本で5タカ(約7円)。村の物価は耳を疑うほど安い。合計で344タカ(約458円)。  借りた家の敷地は200平方メートル以上あった。そこに家とトイレ。広い庭もある。ココナツヤシ、マンゴー、パパイアなどの木が植えられている。なかなか気持ちのいい空間だった。 家を探してくれたチョーバーシンさん。ずいぶん世話になった(撮影/阿部稔哉)  そこに椅子を出して座り、さて、どうしようか……と思っていると、この家に住んでいたおばあさんが現れた。そして庭の落ち葉を掃きはじめた。僕らが借りたことはわかっているのだが、毎朝の日課をこなさないと気がすまないという雰囲気。そのうちに、チョーバーシンさんのところで働いている若者が水を運んできた。この村には水道はないが、向かいのチョーバーシンさんの家には井戸がある。その水を運ぶのは彼の日課だった。僕らとは関係なく、村の人々が助け合い、絡み合って動いていた。  そうこうしているうちに、おばあさんが木製の臼を庭に出し、もち米を入れ、長さが2メートル近くある杵でつきはじめた。明日の朝食をつくってくれるという。僕も少し手伝ったが、おばあさんとは腰の入れ方と背中のしなりが違う。朝、僕らが店でもち米の朝食を買ったことは、村の人たちは皆知っていた。  すると、チョーバーシンさんの家の娘さんが昼食を運んできた。インスタント麺ですませるつもりだったのだが。皆、放っておいてくれないのだ。阿部稔哉カメラマンが体調を崩し、寝込んでしまったこともあったのだが。 借りた家の壁は竹。蚊は出入り自由。風通しは抜群ですなぁ、と笑える余裕は3日目ぐらいから(撮影/阿部稔哉)  庭に断りもなく入ってくるのは、村の外からやってきた物売りや物乞いだった。その日、ベンガル人が竹の籠に魚を入れて売りにきた。近所の人が集まり、小さな魚市場になった。夕飯が気になっていた。野菜はあるが、肉や魚がない。1匹175タカ(約233円)のヒラメのような魚を買おうとすると、村の人から止められた。「高い」という。 「明日も魚売りは来ますか?」  と聞くと、それはわからないという。  しだいに村の食生活がわかってきた。食べたい料理をつくるのではなく、売りにきた魚の鮮度と値段でメニューが決まっていく。 借りた家に住んでいたおばあさんのヌルホックさん。とにかく世話好き。そして頭がさがるほど働き者(撮影/阿部稔哉) ■鶏肉の買い出し 店頭に生きた鶏  肉は違うだろう、と電動リキシャに乗って15分ほどのニラに行った。そこは道に沿って商店が並ぶ、このあたりの中心だった。チョドリパラに暮らすのは仏教徒だが、周辺はイスラム教徒のベンガル人の街だから豚肉はない。鶏肉があると教えられていったのだが、その店の前で立ち尽くしてしまった。  生きた鶏だった。 「これを?」 「そうだよ」  村に暮らす。食事をつくる。僕にはその技術がなかった。村での料理は、もち米を臼で粉にするところからはじまる。魚は内臓をとらなくてはならない。鶏をつぶすことができないと鶏肉は食卓にあがらない。僕にはその覚悟もできていなかった。 テーブルを埋める夕飯のおかず7品。ほとんど差し入れという村の暮らし(撮影/阿部稔哉)  それでも村の暮らしがしだいにしみ込んできた。一日はこんな感じになっていった。庭の落ち葉掃き→朝食を買いにいく→水くみ→仕事→昼食→昼寝→水浴び→洗濯→夕方の散歩→夕食。散歩コースも決まってきた。土手から対岸のミャンマーを眺め、村のなかを歩く。いつも庭に木が多い家で小休止。すると家の奥さんがミルクティーをいれてくれる。そこで休んでいると、ときに野菜ももらう。どう調理したらいいのか、まったくわからないのだが。  できるだけ料理もつくったが、取り巻く村の女性たちも多く、途中から彼女たちの手に移っていってしまう。 「小学生の料理教室でカレーをつくるときみたい。野菜を切るところは自分たちだけど、後は先生っていう」  阿部カメラマンがレンズをのぞきながら笑う。そのうちにチョーバーシンさんの家や近所から差し入れが届き、思わぬほど豪華な食卓に。6時半になると、村の男たちも集まってくる。手にする小さなペットボトルには焼酎が入っている。彼らは仏教徒だから酒は自由だが、周囲はイスラム社会。こっそりとつくっている。庭に出したテーブルは毎晩宴会である。 酒盛りは毎日、6時半から。待ち構えていた男たちが集まってくる(撮影/阿部稔哉) 『12万円で世界を歩く』リターンズは思わぬ難しさを強いてきた。バス旅を席巻するLCC、大きく変わった登山道、そしてアメリカの物価高。それが30年という年月だった。  そして12万円で暮らす──。アジアの村に入ると意外に難しかった。費用の問題が吹き飛んでいってしまうのだ。それがアジアなのだろう。帰り際、チョーバーシンさんとおばあさんには、合わせて1万タカ(約1万3300円)を渡した。それが村の人たちにはあまり意味のないことだとわかりながら。かかった費用は12万636円だった。 ※週刊朝日2019年4月5日号 ※本記事のURLは「AERA dot.メルマガ」会員限定でお送りしております。SNSなどへの公開はお控えください。 ■下川裕治(しもかわ・ゆうじ) 1954年生まれ。新聞記者を経てフリーに。『12万円で世界を歩く』(朝日新聞社)が旅行作家としてのデビュー作。アジアや沖縄などに関する多数の著書がある。AERA dot.では「どこへと訊かれて」を連載中。朝日新聞デジタルの「&TRAVEL(アンド・トラベル)」でも記事が配信されている。 <バックナンバー> 第1回:30年前より激安も赤道旅で感じたモヤモヤ 第2回:ヒマラヤトレッキングで”流儀”が招いたトラブル 第3回:シニアだって安旅! アメリカ一周奮闘記
週刊朝日 2019/03/29 10:30
営業成績2位なのに妊娠後マタハラで時給3割減 38歳女性が労組結成して得た権利とは?
小林美希 小林美希
営業成績2位なのに妊娠後マタハラで時給3割減 38歳女性が労組結成して得た権利とは?
写真はイメージです(c)getty images 「子育てを見越して働き方に融通の効くコールセンターに転職したのに、まさかマタハラに遭うなんて」――。  想定外のマタハラを受けたという大野明子さん(仮名、38歳)は、営業成績が良くても時給を下げられ、納得がいかない。  東北地方で生まれ育ち地元の専門学校を卒業後、明子さんはアパレル店舗で販売のアルバイトをしながら資金をためてスペインに留学。帰国後、憧れていた外資系の有名アパレルが地元に出店することを知り、採用試験を受けると正社員として働き始めることとなった。  接客が好きでなった職業。販売員からスタートして最終的にはマネージャーに昇格し、やりがいを感じながら過ごす日々を送った。ただ、結婚が視野に入った2011年、「アパレル業界にいる以上、土日祝日も仕事でハードワーク。子どもができた場合を考えて、時間の融通が利く仕事に転職しよう」と決意。当時、地元の有効求人倍率は正社員が0.4倍を下回り、常用的パートでも0.8倍を下回るという厳しい状況だったが、コールセンターで非正規雇用の職を得た。  コールセンターは通信大手の下請けで、インターネットの使い方を有料でサポートする契約を結ぶことが明子さんの主な仕事となった。正社員は幹部だけ。他は非正規雇用で、「時給アルバイト社員」と「月給固定給契約社員」という2つの雇用形態があり、明子さんは時給アルバイト社員として働くこととなった。  そのうち、職場ではアルバイトの同僚3人に加えて契約社員2人が同時に妊娠した。明子さんが育児休業の相談をすると上司は「アルバイトの社員が出産する時は一度退職して、産後にまた戻ってもらいます」と言う。明子さんは「なんでこんな扱いなのだろう」と疑問を感じ、行政の相談窓口(労働局)に相談してみると、育児休業を取ることができると太鼓判を押された。  非正規雇用の育休が認められたのは2005年度。その後、育児介護休業法は何度かの改正を経て2016年の改正からは要件が緩和し、非正規雇用でも1年以上、同じ職場で働いていて、子どもが1歳6か月になるまでに労働契約が満了することが明らかでない場合に育休を取ることができることとなった。それまでは、子どもが1歳以降も雇用が継続される見込みがあることが求められていたため、「先のことは分からない」と、非正規が育休を取るには厳しい状況だった。  労働局から「会社に話をしてみたほうがいい」と育休制度のパンフレットを渡された明子さんは早速、上司にそのパンフレットをみせてみた。すると、上司は「本社判断になります」と言って身構えたが2週間後、「育休を取ることができる権利があることが確認できました」と、明子さんの育休取得が認められた。 いったい、どれだけの非正規雇用の労働者が育児休業を取得できているのか。育休取得者そのものの実数がないため、育児休業給付金の初回受給者数を見てみたい。2017年度は有期雇用以外のいわゆる正社員が約33万人いるのに対し、有期雇用はわずか1万2000人しかいない。非正規労働でも育児休業が認められた2005年度の約2200人よりは増えてはいるが、法改正で要件が緩和されても育休取得者全体のうち非正規雇用労働者が占める割合はたった3%程度でしかないのが現状だ。20~40代の働く女性のうち正社員と非正社員はおよそ半々であることから、非正規雇用にとって育休を取るハードルがいかに高いかが分かる。  明子さんが育休に入ると、会社は人材確保のため「アルバイトを契約社員に“上げる”」という方針を打ち出していたが、明子さんにその連絡はなかった。育児休業が明けて職場に戻ると、他のアルバイト社員らは契約社員に変わっていた。契約社員は出産祝い金が支給され、夏休みや冬休みも有給でとることができるがアルバイトにはそれらはない。  8時間フルに働く社員より1日6時間の育児短時間勤務の明子さんの成績が良く、社内で2位の成績だったが、年末年始に保育園が閉まっている時に出勤できないと「欠勤した」として、時給が100円も下がった。妊娠中で悪阻(つわり)がひどくても成績は5位を保っていた。しかし悪阻で3日休むと、上司からは「悪阻で休んでも欠勤は欠勤」「いっぱい休んだでしょ」と言われ、1260円あった時給は900円にまで落ち込んだ。通勤するためバスに乗っただけでも吐きそうな頃、「血も涙もない会社だ」と感じた。  男女雇用機会均等法と労働基準法には「母性保護規定」がある。男女雇用機会均等法では、妊娠や出産による不利益な取り扱いを禁じているため、明子さんが悪阻で休み時給を下げられたことは、不利益な取り扱いといえる。また、労働基準法では、妊産婦が請求した場合、事業主は軽易な業務に転換させる、時間外労働や休日・深夜労働を免除するなどの対応をしなければならない。  こうした母性保護規定が法にあっても、まるで無法地帯。明子さんの子どもが急に熱を出した時も休むと時給が下がった。「看護休暇が使えるはずだ」と主張しても「そんな制度はない」とはね返される。それにも負けずに「看護休暇は国の制度だ」と食い下がるとやっと看護休暇を利用できた。明子さんが、「育児中の社員の時給を下げるのはおかしいのではないか」と抗議すると上司は「欠勤して周りがどれだけ迷惑していると思うの」と冷たく、「子持ちの社員は評価されないんだ」と落胆した。  ある日、上司が子育て中の社員を集めたかと思うと、「シフトを固定するので、今日から時給を下げます」と説明し始めた。「このコールセンターは365日営業しています。土日祝日が一番忙しいのだから、休日に出勤する人とできない人が同じ時給では平等でない」ということが理由だった。  時給が100~200円下がることになり、単純計算で月1万円以上の収入が減ってしまう。日曜は保育園が開いていないため、仮に出勤したくてもできない状況だ。そして、たとえ営業成績が良くても土日に出勤しているかどうかが判断基準となって自動的に時給が切り下げられ、明子さんはじめ子育て中の社員は一様に納得がいかなかった。  さらに、「子育て中の社員は平日に休むな」というお達しが出された。上司は「今までが特別な配慮だった。これが普通でしょ」とにべもない。出産前、明子さんの収入は1日8日労働で月給20万円だったが、今は1日6時間勤務で月15万円。ここからまた賃金ダウンしてしまう。 「結局、子どものいる社員はいらないということなのだろうか。育児休業を取りたい、看護休暇をとりたいという当然のことを主張できないことに納得がいかなかった。会社を辞めるのは簡単だけれど、声をあげなければ何も変わらない」  個人で会社と交渉することに困難さを感じた明子さんは、社内で労働組合を結成した。団体交渉を行うと、明子さん含め妊娠中・育休中に契約社員になれなかったアルバイト社員3人がそろって契約社員になることができた。時給については、最終的に明子さんだけが下げられずに済んだが上司は「あなただけ特別。ほかの人には内緒にして」と囲い込んだ。明子さんは同僚にも時給について主張するよう促したが、同僚はしり込みして泣き寝入りしてしまった。  地方の雇用情勢は都市部より深刻だ。子育てしながら働くことのできる職場が限定的では、正社員は夢のまた夢という現実もある。正社員として働きながら子育てすることに限界を感じて非正規雇用を選ばざるを得ない女性は少なくない。しかしそれは、出産を機に女性が「中年フリーター」になることを意味する。  総務省「就業構造基本調査」(2017年)によれば、35~54歳の非正規雇用の女性のうち、扶養に入るための「就業調整していない」という人数は実に約414万人に上る。この統計から、家計を支える戦力になっている非正規の女性が多いことがうかがえる。かつて、2001年に発表された「国民白書」で衝撃的だった、当時の若年層(15~34歳)の男女合わせたフリーター数が417万人という数字に匹敵する。女性の非正規雇用の問題は結婚が隠れみのにされがちだが、それは見えない貧困ともいえ、その層のボリュームも大きい。子育てを理由に条件が切り下げられていくような既婚女性の非正規雇用の実態にも、改めて目を向ける必要がある。(ジャーナリスト・小林美希)
dot. 2019/03/28 17:35
「平成最後に始まった高齢化する芸能界の世代交代」カンニング竹山
カンニング竹山 カンニング竹山
「平成最後に始まった高齢化する芸能界の世代交代」カンニング竹山
カンニング竹山/1971年、福岡県生まれ。お笑い芸人。本名は竹山隆範(たけやま・たかのり)。2004年にお笑いコンビ「カンニング」として初めて全国放送のお笑い番組に出演。「キレ芸」でブレイクし、その後は役者としても活躍。現在はお笑いやバラエティー番組のほか、全国放送のワイドショーでも週3本のレギュラーを持つ(撮影/写真部・小原雄輝) テレビはどう変わっていくのか?(写真:getty Images)  新元号の発表まであと1週間を切った。歴史的な瞬間を前に、お笑い芸人のカンニング竹山さんは「平成の終わりにお笑いの世代交代が始まっている」と指摘する。その代表格となるコンビとは? そして次の時代に危惧することとは? *  *  *  元号が天皇陛下が崩御されてというわけではなく、みんながハッピーな気持ちで元号が変わるわけで、新しい幕開けという感じがしますよね。東京オリンピックも控えているし、なんというか新しいことが始まるようなウキウキ感があります。  平成が始まるとき、僕は高校生でしたが、気がついたら一つの時代が終わろうとしていて、そのときの自分の夢だった仕事をしているということも予想外だし、こんな見た目になっちゃったのも予想外。そう考えると、ここからまた新しい時代が始まるという未来をすごく感じますね。また次に元号が変わるとき、僕は何してるんだろうか。そもそも生きているのか、次の時代で終わりなのかとか、ふと頭をよぎります。  僕は昭和46年(1971年)生まれですが、物心ついて結構大きくなるまで昭和の終わりに育っているからか、平成も自分の中ではずっと昭和だったような感覚があるんですよね。言葉では「平成の世の中」って言うし、資料にも平成何年って書いてきたけど「平成を生きた!」というより、昭和に生まれて昭和のまま生きてきた感じがするから不思議です。昭和といっても最後の方しか知らないけど、昭和と平成はすごく近いような気がしています。  そして、自分の年齢的なこともあるのか、次の元号がものすごく新しくなるような感じがすごくするんですよね。  昭和の芸能界で衝撃だったことはと聞かれたら、僕は真っ先に『THE MANZAI』(フジテレビ系、1980年~)と『オレたちひょうきん族』(同、1981年~)でしょうね。ビートたけしさんが出てきて、その存在は何万人という人の人生を動かしたと思うんですよ。たけし軍団のみなさんはもちろん、僕だって人生が変わった1人でした。  戦争があって、その後に民主主義が生まれたのが昭和だとすると、平成はそこからいろんな文化も技術も目覚めた時代。通信が発達したこともあり、平成の芸能界もいろんな変化がありましたが、お笑いやバラエティー番組は諸先輩方がやり尽くした後、じゃあどうするか?という時代でした。新しく始めることよりも、工夫するというか。  特に平成の後半にネットなんかが出てきて、どうやって使うのか、みんなが悩んでいるまま次の時代を迎えるわけです。テレビもめまぐるしく変わり、すごく進化した時代だったと思います。次の時代になるとどうなっていくんだろう。  でも、お笑いで言うと、平成の最後ぐらいに何となく世代交代が始まったような気がするんですよね。例えば、霜降り明星が「M-1グランプリ2018」で優勝したり、あの世代の生きのいい芸人がバンバン出てきているじゃないですか。次はあの子たちがワーッと出て行くわけで、世代交代が進むのはすごい良いことだと思うんです。  と同時に、アイドル界も世代交代が進むだろうなと感じているんですよ。この前、AbemaTVの番組で愛媛の4人組のアイドル「たけやま3.5」を紹介したんですが、まず驚くのが4人とも可愛くて美人。ガールズバンドで年齢は16~20歳。みんなで「これってアイドル界も世代交代してるんじゃないか」って話になったんです。(そもそもグループ名の「たけやま」は俺の名前から付けたんだろうってとこから始まったんですが、全然関係無くて、マネージャーがゴロが良いって付けたらしい)  僕らが見てきたアイドルは、存在するかわからないぐらいの可愛くて歌がうまくて大スターじゃないですか。日本中探してもなかなか見つけられないぐらい美人で、下衆な話だけどウンコなんかするはずないって思うような。それが平成の中盤ぐらいから、会えるアイドルが生まれて、AKBが大成功して巨大組織になっていく。そこから猫もしゃくしもアイドルって言い出して、地下アイドルとか、いろんなジャンルが出てきて「グループ5人のうち4人ブスじゃねーかよ!」ってこともあったり。その子たちも20代になってきて、アイドルだけでは食えないとか、事件もあったりして業界の裏事情もいっぱい表に出てきたわけです。  それによって、いま10代後半の子たちの世代では、結局、可愛くないとダメなんだ、クラスにいる普通の子ではダメなんだってとこに戻ってきている気がするんですよね。芸能界も時代とともに流行がぐるぐる回っていくものだから、そりゃあそうだろうなと思います。  お笑いもアイドル界も世代交代があるだろうし、人間は誰しも年が明けると新しい気持ちになるように、元号が変わると新しい感覚を求めると思うんですよね。  芸能界はどう変わるんだろう。もしかしたら次の時代は、アメリカみたいなエージェント制になっていくのかなとも思います。それこそハリウッドとかでは仕事が終わらなくても契約時間になったら帰るって言われるじゃないですか。現に日本でも、制作側の会社員はそうなってきていて、いくらテレビマンといえども残業ダメですよって会社に言われる。それが嫌で会社を辞める人もいるし、フリーの人ばかりを集めた事務所を作った人もいる。だから最近はフリーのディレクターという人が増えたなと思いますね。  その影響でバラエティー番組のディレクターたちが困っているのは、編集作業です。編集所でエンジニアと一緒に編集するんですが、キー局の場合だと、いまはエンジニアも二交代制、三交代制になっている。例えば、これまでは腕とセンスの良いエンジニアと夜9時から翌朝の9時まで作業していたのに、会社の決まりで9時~17時とか制限が付いて、時間になると別のエンジニアに代わってしまう。また、その人にセンスが無いということがあるらしく、1つの同じVTRを作っているのに、仕上がりが変わってくるらしいんですよ。  ほかにも、情報番組なんかだとディレクターの補佐をするADも派遣で来ていることが多くて、忙しいときでも、翌日のロケの準備が終わっていないときも17時になったら帰さなきゃいけなかったりする。「いま帰ってくれるなよ」って思っても、それを引っ張るわけにはいかないですからね。働き方改革は人間として大事な正しい道だと思うけど、そういう難しさは今後どうなるのかなと思います。  演者側の労働組合をつくるという話も出ていますが、社会になかなか理解してもらえないのは、特に芸能っていう仕事は好きでやっている仕事なんですよね。もともと仕事はゼロで、売れてくると仕事ができる世界。仕事が無いってどういう意味かというと、仕事はあっても「お前じゃない」って言われて、自分にオファーが来ないってことです。だから「竹山これやって」って言われたら、やっぱり嬉しい。基本的にはみんな日雇いみたいなもので、自分が商品だし、商品を売れば収入になるんだから、できるだけ働きたいと考えるわけです。もちろん、いっぱい働きすぎちゃった人はちょっと休みたいってのはあるだろうし、事務所との意見の衝突はあるだろうけど、心の底では働けるだけ働きたいと思っている表方の人は多いと思いますよ。  一般社会と同じように、「この俳優さんは、歌い手さんは、お笑い芸人は一生懸命頑張っているのにお金を渡さないんですか!?」って言うことはできない面があるんです。だって「一生懸命歌ってるんだから、売れてる売れてないとか関係ない」ってなったら、芸能界は成り立たない。下積みもなく、給料制になったら、下剋上もないでしょうね。プロの演者、本当に面白い人、力のある人は出てこなくなるだろうと僕は思います。でも次の時代はそういうことになるんだろうか……。  いままで芸能人の労働問題っていくつか出てきましたけど、事務所もタレントも無名だってことがよくある。売れてる人は訴えてない。それは下積み時代のことだったりもするわけです。  僕はそのシステムは変えないほうがいいと個人的には思っています。きつい話ですが、売れる人と売れない人が出てくるのが資本主義だし、売れない人がいるから売れている人がいるという面もある。  あとは、みんな辞めなくなってきているから、売れない芸人の高齢化ももっと進むんでしょうね。平成の初めに僕らが30代でネタ番組に出始めたときは「30代でまだ若手芸人やってます」って言っていたけど、最近は売れない芸人が「もう40代ですよー」と言う時代。次は「55ですけど若手やってます」っていうのが出てくるんじゃないですかね。別の仕事をしながら、動画配信をやりながら芸人を続ける人もいるし。そういう意味の働き方もちょっと変わってくるのかなと思います。
働き方
dot. 2019/03/27 11:30
【下川裕治さん連載】シニアだって安旅! アメリカ一周奮闘記<12万円で世界を歩く リターンズ>
下川裕治 下川裕治
【下川裕治さん連載】シニアだって安旅! アメリカ一周奮闘記<12万円で世界を歩く リターンズ>
アメリカを一周し、ロサンゼルスのバスターミナルに戻った。そこで記念撮影。粗食の12日間をすごした体は、空気が抜ける風船のように軽い(撮影/阿部稔哉)  お金をかけずにどこまで世界を巡れるのか。30年前のバブル絶頂期に本誌で大人気だった連載『12万円の旅』シリーズが、帰ってきた。筆者で旅行作家の下川裕治さんは、いまや64歳。平成の終わりを目前にしたいま、同じコースで再び“貧乏旅”に挑戦する。第3回はアメリカ編。 ※本記事のURLは「AERA dot.メルマガ」会員限定でお送りしております。SNSなどへの公開はお控えください。 *  *  * 『12万円で世界を歩く』(朝日新聞社刊)は、約30年前に週刊朝日で連載された『12万円の旅』シリーズに加筆したもので、1997年に文庫化されている。その旅は、航空券、宿代、食費などすべて含めて12万円で賄うルール。シリーズでは長距離路線のグレイハウンドバスを使い、アメリカ一周にも挑んだ。物価の高いアメリカの旅は苦行だったが、約1770円のオーバーですんだ。  その旅をもう一度……。2018年11~12月、アメリカに向かった。  12万円という費用は、早晩、底を突くことは出発前にわかっていた。しかしこんなに早いとは……。  30年前、僕らが利用したのは乗り放題パスだった。15日間有効で2万1500円。このパスが姿を消していた。今回は区間ごとに買うことになった。 バスターミナルで非常食。この頃はまだ余裕の顔(フェニックス)(撮影/阿部稔哉)  ロサンゼルスまでの往復航空券は8万3330円だった。30年前は8万2千円。ほとんど変わらない。『12万円で世界を歩く』リターンズは、これまで2コースをたどったが、総予算12万円で賄うことができた。LCCの存在が大きかった。しかし太平洋路線のLCCは脆弱だった。残金は315ドルしかなかった。  ロサンゼルスの街や乗り込んだバスで教えられたのは、30年の間に確実に上がった物価だった。  当時の記録では、チーズバーガーとコーヒーで1・5ドル。今回、バスターミナルで食べたハンバーガーとコーヒーは合計で7・65ドル。車窓に見えるモーテルの看板には199ドルといった数字が躍っている。僕らはホテルどころか、本来安く泊まれるはずのモーテルにも手が届かない。  15時間バスに乗り続けてエルパソに着いた。体がバスの椅子の形になってしまうような旅である。何回乗っても、つらさだけが残る。寝不足で体が重い。腰をいたわりつつバスを降り、仕事帰りのメキシコ人と一緒に国境を越えた。  メキシコに入れば、物価は数段安くなる。30年前もそうした。シウダード・ファレスの食堂に入った。5ドル弱のメキシカンプレートと2ドルのビールを飲みながら、電卓をたたく。同行する阿部稔哉カメラマンに声をかけた。 「ここで白旗? 1路線乗っただけだよ」 「でも、前のルートをなぞっていくと、出費はどんどんかさんでいっちゃう」 ロサンゼルス往復はハワイ乗り換えのLCCよりデルタ航空が安かった(撮影/阿部稔哉)  LCCが誘惑をしかけてくる。スマトラ島の赤道をめざした1回目を思い出していた。かつて3日乗ったバス区間をLCCは1時間で飛んでしまった。予算はクリアしたが、のどに小骨が刺さっていた。やはりリターンズの旅はルートを忠実にたどることが筋ではないか。  予算オーバーでも、アメリカを一周することにした。アトランタから先も予約した。ニューヨーク、そしてシカゴ。早く買うと運賃は若干安くなる。とはいえ、シカゴまでの運賃は146・2ドル。 これがアメリカ一周旅の我が家、グレイハウンドバス。車中8泊(撮影/阿部稔哉) ■安いメキシコ側 旅の食料を調達  翌朝、ホテル近くのスーパーに入った。30枚ほどが入った食パン、チーズ、ソーセージ、クッキー……。30年前より厳しい旅になりそうだった。恐らくテイクアウトのサンドイッチも口にできない。それに備えて食料の買い出し。アメリカより安いメキシコ側で調達した。  長いバス旅が待っていた。宿には泊まることができない丸4日間、ひたすらバスに乗り続けることになる。自分で予約を入れておきながら、エルパソのバスターミナルで、くすんだ青色のグレイハウンドバスを見たときはため息がでた。  救いもあった。30年前に比べ、バスやターミナル周辺がずいぶん穏やかになったことだった。ロサンゼルスの空港に着いた僕は、バスでロサンゼルスユニオン駅に出た。ここからグレイハウンドバスのターミナルまではそう遠くない。しかし30年前の記憶がよみがえってくる。周辺はホームレスの巣窟だった。四つ角にはぼろぼろの男たちが立っていて、10セントや25セント硬貨をくれないかと近づいてきた。そんな一画だった。ユニオン駅の案内係のおじさんに聞いてみた。 「最近はずいぶんよくなったよ。君らふたり? 大丈夫だよ」  おじさんは僕らの顔つきをちらっと見ながらいった。そう背中を押されたものの、やはり怖い。ついつい急ぎ足になる。ところが気が抜けるほどなにもなく、バスターミナルに着いてしまった。ホームレスがいないというより、人が少ない。ターミナルのなかも怪しげな男がいなかった。かつてはトイレを使うのに、カウンターに行って鍵を借りなくてはいけなかった。もう、そのシステムもなかった。トイレも清潔で、洗面所の蛇口からはしっかりと湯が出た。  車内も平穏だった。30年前、最後尾に座る男が酒を飲み、運転手が大きなグローブをはめ、殴り合い覚悟で彼らを引きずり降ろすことが何回もあった。そんなぎすぎすした空気も消えていた。 事前に買った非常食は、おにぎりや乾パンなど。総額6242円(撮影/阿部稔哉) ■1日に使う費用 コーヒー・水だけ  ただ長く、貧しいバス旅だった。1日に使ったのは、朝のコーヒー2・05ドルと水の2・2ドル。これだけだった。空腹は日本からもち込んだ非常食とメキシコ側で買った食料で紛らわすバス旅である。  アメリカの物価を考え、30年前も日本からカップ麺や缶詰をもっていった。今回もそうした。しかし日本の非常食は東日本大震災を経て、急速に進化していた。水を入れるだけで食べることができるおにぎりや松茸ごはん……はなかなかの味だった。  とはいえ、やはり非常食である。1日のめりはりをつけようと、朝はメキシコで買ったパンにチーズやソーセージを挟み、昼はおにぎり、夜はパンに松茸ごはんと決めた。  楽しみは朝、バスターミナルの売店で買う薄いコーヒーだけだった。年老いたメキシコ系のおばさんが、発泡スチロールのカップに注いでくれた。アメリカまで来て、なにをやっているんだろうと思う。 今回の12万円旅のルート(週刊朝日2019年3月29日号から)  ダラス、ミシシッピ川を渡り、アトランタ……シャーロットと北上していく。季節は初秋から冬へと進み、気温は氷点下に突入していく。バスは2~3時間おきにドライブインで停車する。24時間営業のマクドナルドやサブウェイからいいにおいが漂ってくる。売店も充実していて、乗客はピザや菓子類、飲み物を買っていく。阿部カメラマンは売店に入らず、外で写真を撮っていることが多かった。 「なかに入ると、いろいろ食べたくなるんで」  僕の旅につき合わせてしまい申し訳ないといつも思う。30年前も彼はこの旅に同行してくれた。深夜のバスのなかで、空腹に耐えかね、カップ麺の麺をそのまま食べているところを目撃し、本当に申し訳ないと思った。今回またしても……。  僕はといえば、乗り継ぎ時間が長くなると、バスターミナルの床に布を敷いて寝た。バスは満席になることが多く、座ったままの夜が2、3日と続く。  ただバスに乗っているのも悔しいので、ニューヨークでは世界貿易センタービルの跡地「グラウンド・ゼロ」を訪ねた。しかしそれだけだった。夜にはバスが出るポートオーソリティに戻らなくてはならなかった。 「グラウンド・ゼロ」周辺はビル建設ラッシュ(撮影/阿部稔哉)  さすがにシカゴでは宿に泊まった。安いユースホステル。1泊ひとり37・34ドル。それでもベッドはありがたい。泥のように眠った。起きると、阿部カメラマンが、「体がふらふらしますね」といって力なく笑った。 ■高いバスの切符 飛行機の何倍も  こっそりとシカゴからロサンゼルスまでの飛行機の運賃を見てみた。92ドル。僕はシアトルまで225・15ドルのバス切符を買ってしまっていた。  再び長いバス暮らしが待っていた。シカゴから西海岸のシアトルまで丸2日、乗り続けなくてはならない。日本からもち込んだ食料は底を突き、スーパーで買い足した。といっても、食パンにチーズ、サラミ。スーパーで物色するのだが、車内で口にできるものはみつからない。 これが最初で最後のまともな食事、メキシカンプレート(シウダード・ファレス)(撮影/阿部稔哉)  かつて全米を網羅したグレイハウンドバスも、この路線は放棄してしまっていた。切符は同社のサイトから買うことができるが、運行はジェファーソンラインというローカルのバス会社が受けもっていた。デモイン、アルバートリー、ビリングス……とアイオワ州、モンタナ州などの雪に埋もれた街をつないでいく。メキシコ人の姿が消え、白人の老人が乗り降りするエリアに入っていった。  運転手の年齢も高い。長くこの路線を走ってきたベテランの風格が伝わってくる。発車前に伝える注意事項もマイクは使わず、通路に立ち、笑いをとりながらなまりの強い英語で説明する。伝わってくるのは、運転手の威厳とアメリカの自信だった。トランプ政権がなにをいっても、しっかりと移民を受け入れ、それでも世界一の国だといわんばかりに乗客と接する。 移動すると金がかかるので、ただ、自由の女神を眺めていた(撮影/阿部稔哉)  運転手が交代するときは、僕に対しても、「メリークリスマス」と声をかける。まだ12月の初旬だというのに。  東海岸と西海岸の人々は株価の動きに不安を抱き、南部はメキシコ人や中南米の人々のパワーにさらされている。しかしシカゴからシアトルまでの一帯は、悩みを知らないアメリカが広がっているような気になってくる。  ロサンゼルスを発って10日目の夕方、シアトルに到着した。寒さが遠のき、細かい雨が降り続いていた。  シアトルのバスターミナルはチャイナタウンの近くにあった。そこを抜けて市街地に入ろうとすると、宇和島屋という日系スーパーがあった。その一画には紀伊国屋もある。日本がだいぶ近づいてきた。気分は軽くなったが、ロサンゼルスまでは25時間のバスが待っている。パン、チーズ、サラミのセットという食事でしのぐ丸1日が待っていた。もう見るのも嫌だが、空腹をごまかす食料はほかにない。 バスターミナルもない路上でバスを乗り換える(ミネソタ州)(撮影/阿部稔哉)  12日目の夕方、ロサンゼルスに着いた。これだけ切り詰めたというのに、9万415円もオーバーしてしまった。30年前、アメリカ一周のバス旅では体重が2キロ減った。そして今回、帰国して量るとやはり2キロ減っていた。  次回は12万円で暮らす旅。難民で埋まるバングラデシュ南部、ミャンマー国境の村での10日間だ。 ※週刊朝日2019年3月29日号 ※本記事のURLは「AERA dot.メルマガ」会員限定でお送りしております。SNSなどへの公開はお控えください。 ■下川裕治(しもかわ・ゆうじ) 1954年生まれ。新聞記者を経てフリーに。『12万円で世界を歩く』(朝日新聞社)が旅行作家としてのデビュー作。アジアや沖縄などに関する多数の著書がある。AERA dot.では「どこへと訊かれて」を連載中。朝日新聞デジタルの「&TRAVEL(アンド・トラベル)」でも記事が配信されている。 <バックナンバー> 第1回:30年前より激安も赤道旅で感じたモヤモヤ 第2回:ヒマラヤトレッキングで”流儀”が招いたトラブル
週刊朝日 2019/03/25 18:00
都心の癒しスポットの穴場、さくらまつりの国立劇場を存分に楽しもう
都心の癒しスポットの穴場、さくらまつりの国立劇場を存分に楽しもう
各地で桜が咲き始めました。例年より早いエリアもありますが、寒の戻りもあり、満開まで開花情報から目が離せませんね。都心も桜の名所はたくさんありますが、千代田区隼町の国立劇場では、希少で多様な桜を堪能できます。3月末までのさくらまつりでは、夜間のライトアップも実施。伝統芸能公演の場・国立劇場は、都心の癒しスポットの穴場でもあります。その国立劇場を存分に楽しむ方法をご紹介しましょう。国立劇場(※画像はイメージです) 希少・多彩な桜が次々に満開に。3月中はライトアップも 内堀通りに面した国立劇場の庭では、丁寧に手入れされた木々や植物が季節を告げてくれます。3月31日までのさくらまつりでは、ソメイヨシノとは一味違った多彩な桜を愛でることができます。24日には、神代曙が満開に。ワシントンへ贈られたソメイヨシノの種から生まれた桜を、都立神代植物園で接木したのが原木、という神代曙。淡色のソメイヨシノよりもひときわ彩りが深く、蕾は一層濃い紅色で、少女の頰のように可愛らしい桜です。 神代曙の次にも、駿河桜、仙台屋、八重紅枝垂といった桜が、数日ごとに満開時期を迎えます。さくらまつり期間のお昼は、劇場外でも飲み物や軽食を販売中。月末の休日には舞台衣装体験コーナーなど、レアな体験イベントもあります。(開催時間に限りがあり雨天中止のイベントもありますので、詳しくは専用サイトでご確認ください)。期間中の夜間ライトアップは、21時まで。仕事帰りに、都心の夜桜散歩はいかがでしょうか。 そして国立劇場の庭ならではの粋な図らいと言えるのが、演目にちなんだ木々の存在。先に満開を迎えた熊谷桜は小ぶりな八重の花ですが、過去の歌舞伎公演「一谷嫩軍記」の際に、埼玉県熊谷市から寄贈されたもの。歌舞伎ファンなら誰もが知る名作、三段目の『熊谷陣屋』では、桜の若木と「一枝を伐らば、一指を剪るべし」の文言が、重要な伏線となっています。早春には三大名作の一つ「菅原伝授手習鑑」にちなみ、太宰府天満宮より寄贈を受けた、紅白の梅の木も花を咲かせます。名作に込められた日本人の四季への思いを、演目とともに庭の花々で体感できる。素晴らしいことですね。満開を迎えた神代曙 小劇場での桜にちなむ歌舞伎公演は出色。歌舞伎を知るには情報サイトがお薦め そしてこの季節にも、国立劇場の小劇場では、桜が印象的に登場する歌舞伎が上演されています。間もなく27日に千穐楽を迎えますが、役者たちとの距離感が近い小劇場での公演は、ファンには嬉しく貴重な試み。まず『元禄忠臣蔵―御浜御殿綱豊卿―』は昭和期に書かれた真山青果の新歌舞伎で、現代人の苦悩にも重なる登場人物の葛藤が描かれます。クライマックスの満開の桜の下での重厚な台詞が、胸に響きます。 続く歌舞伎舞踊劇の『積恋雪関扉』は常磐津を代表する大曲といわれ、雪中に小町桜が咲く逢坂の関が舞台。関兵衛実ハ黒主、小町姫・墨染実ハ小町桜の精、といった登場人物名が示すように、ユーモラスな問答から恋心を掻き口説く流れに移ったり、緊張感のある場面が一転して陽気な踊りになったりと、次々に歌舞伎ならではの仕掛けが繰り広げられます。夢幻に満ちた桜の精の登場に続く、墨染と黒主の豪快な見あらわしと大立廻りは、圧巻です。 また、歌舞伎鑑賞の手引きとしては、国立劇場歌舞伎情報サイトがお薦めです。上演中の演目をはじめ、歌舞伎の歴史や用語事典、歴代の演目などが網羅され、手広く頼りになります。伝統芸能で学ぶ英語教材『DISCOVER KABUKI(歌舞伎入門)』も、外国人への日本文化の紹介をサポートしてくれることでしょう。お花見から伝統芸能鑑賞まで、初心者からマニアまで、リアルからバーチャルまで。国立劇場を堪能し尽くして、お楽しみを増やしたいものですね。『元禄忠臣蔵―御浜御殿綱豊卿―』『積恋雪関扉』上演は27日まで 国立劇場は、どの席からも見やすいと定評
tenki.jp 2019/03/25 00:00
中瀬ゆかり「トウチャンが逝ってから4度目の春、ようやく再生した私の使命」【最終回】
中瀬ゆかり 中瀬ゆかり
中瀬ゆかり「トウチャンが逝ってから4度目の春、ようやく再生した私の使命」【最終回】
011年4月より出版部部長。「5時に夢中!」(TOKYO MX)、「とくダネ!」(フジテレビ)、「垣花正 あなたとハッピー!」(ニッポン放送)などに出演中。編集者として、白洲正子、野坂昭如、北杜夫、林真理子、群ようこなどの人気作家を担当。 彼らのエッセイに「ペコちゃん」「魔性の女A子」などの名前で登場する名物編集長。最愛の伴侶、 作家の白川道が2015年4月に死去。ボツイチに ※写真はイメージです  またこの季節が巡ってきた。トウチャンが逝ってから4度目の春だ。彼は、桜が大好きだった。亡くなる少し前に満開だった桜を見に、ひとりでタクシーに乗って青山墓地の桜トンネルをくぐってきた、と話していた。「おまえが忙しくて花見にも付き合ってくれないからよぉ、ひとりで夜桜見て来たよ」と言われたときには「来年は絶対一緒に見に行こう」と誓ったのに、その2週間後には帰らぬ人となり、その約束は果たされなかった。亡くなった日から10日後にはタイに出かける予定だった。だから、しばらくはタイに足を踏み入れることができなかったのだが、親友のM子に付き合ってもらってプーケットにわたり、トウチャンが通いつめたお気に入りのレストラン「ブラックキャット」で食事をしながら、亡霊と会話しているような錯覚に陥ったりもした。その後、彼の愛した競輪や一緒に通った雀荘にもようやく足を踏み入れることもできるようになった。もちろん、トウチャンの亡霊はそこかしこに見えるし、声が聞こえるのは変わらないのだが、それでいいのだ。だって彼と私はようやく一体化したのだから。  思えば、この4年は私にとっては完全な人生のリハビリ期間だった。そして、家族や友人、仕事、なにより、新しく愛し始めた「アニキ」の存在で私はかなり蘇った。トウチャンと一緒に旅立った私の魂の半分はもう戻らないが、壊れないように必死で守った残りの半分が崩れずに済んだ。いまも時々、悪夢にうなされ、夜中にトウチャンの名前を呼びながら飛び起きて涙を流すこともあるが、ずっと手放せなかった精神安定剤や睡眠薬を飲む頻度とともに、その回数も減った。  このエッセイの連載をお引き受けしたのは、自分とトウチャンの物語を、失ってからの封印された日々の記憶を辿る作業によって紡ぎなおそうと思ったからだ。あまりの辛さに思い出すことをやめていたことも引っ張り出して、かさぶたをはがすような痛みも感じた。写真はともかく動画はまだ見られない私だが、まるでリハビリのようにキーボードをたたき続けた。  そして、こんな駄文と比べるべくもないが、最近読んだ翻訳小説で強く胸を打たれのは、ソナーリ・デヤニヤガラの『波』という長編作品。ロンドン在住の経済学者であるスリランカ生まれの彼女は、2004年のクリスマス翌日にスリランカを襲った大津波で、ビーチリゾートにバカンスに来ていた家族――夫と2人の息子、両親の5人すべてを一度に喪い、ただ一人生き延びた。本書はその壮絶な回想録だ。そのあとがきにこんな一文がある。「『波』を書くことは、家族を失ったことから生き延びる助けになりました。(中略)書くことを通して家族を蘇らせ、私は回復することができた。私の家族への愛がなくなる必要はないし、なくなることはないのだと、わかったのです」。ここまでの絶望を味わいながらも、のたうちながら何年もかけて少しずつ再生されていくその過程に、私は幾度も頁を閉じて涙した。ただ生きるということが残酷なまでの試練になるとき、「書く」という作業が彼女を救う。私も末端ながらその一人であったのは間違いない。  私の人生は、私が生をまっとうするまでは続く。恋人や家族、友人や猫を愛し、仕事に励みながら歩む中で、私にできることを一つ見つけた。それはボツイチの再生を手伝うことだ。まずすぐ身近には母というボツイチ1年生がいる。敬愛し人生のすべてだった夫である私の父を亡くしてから、彼女も半分亡霊のような人生を揺蕩って、なんとか立ち直ろうともがいている。それから、先日親友の友人で紹介されたKさん。美しく若い彼女も最愛の夫を亡くし、今なお失意のどん底だ。泣きながら夫の想い出を語る彼女に耳を傾けながら、「あのときの自分と一緒だ」と、私も泣いた。人間は共感されることで癒される。私は、その共鳴体となって癒す存在になれたら。それが私の使命かもしれない……とおこがましいことを考えるようになった。  いま私の隣には、半分の魂で生きる私と一体化したトウチャンまでまとめて受け入れてくれる恋人「アニキ」がいる。さて、私は死んだら、ずっと望んでいたようにトウチャンを散骨した湘南の海に追いかけるのか(散骨ポイントの緯度と経度の証明書は部屋に飾ってある)、それともアニキと一緒にどこかに収まることになるのか。まだ心は決めかねたままだが、とりあえずはその日が来るまでは前をむいて、時々は後ろも振り返りながら与えられた運命を全うするしかないのだ。 ――1年間も私のリハビリ原稿に付き合ってくださった読者のみなさん、本当にありがとうございました。この連載は今回が最後です。おかげさまでボツイチ54歳、4年かけてなんとか再生しましたことをここにお知らせします。
中瀬ゆかり
dot. 2019/03/21 16:00
ラッパー・Zeebra、知らずに食べていたフキ、衝撃のビジュアル
Zeebra Zeebra
ラッパー・Zeebra、知らずに食べていたフキ、衝撃のビジュアル
Zeebra(ジブラ)/東京を代表するヒップホップ・アクティビスト。ヒップホップ専門ネットラジオ局「WREP」では生放送「LUNCHTIME BREAKS」(平日12~13時)のMCを、テレビ朝日「フリースタイルダンジョン」(毎週火曜日深夜1時29分~)ではオーガナイザー兼メインMCを務める。仕事終わりにスタッフと囲む食卓は、大切なコミュニケーションの場でもある(撮影/写真部・松永卓也) フキ/日本原産で、シャキッとした歯触りとほろ苦さが特徴。色鮮やかに茹でるコツは筋をとってから多めの粗塩で板ずりして、たっぷりのお湯でゆがくこと。栄養面ではカリウム、カルシウム、食物繊維が豊富。山菜のフキノトウは、葉が広がる前の花のつぼみの部分(撮影/写真部・松永卓也)  ヒップホップ・アクティビストのZeebraさんが「AERA」で連載する「多彩な野菜」をお届けします。1997年のソロデビューからトップとしてシーンを牽引し続け、ジャンルや世代を超えて多くの支持を得ているZeebraさん。旬の野菜を切り口に、友人や家族との交流、音楽作りなど様々なエピソードを語ります。 *  *  * 「これっくらいの、おべんとばこに」っていう歌がありますよね。出てくるわけですよ。「筋の通ったフーキ」が。そこでつまずいたんですよ。「フウキ」っていう食べ物だと思い込んでしまった。ニンジンさん。ゴボウさん。穴のあいたレンコンさん。はいはい、わかります。で、フウキってなんだ? しかも筋の通ったって、どんな形してるんだ? 名前を覚え違えて、形も味も想像がつかないまま大人になってしまいました。食べたこともほとんどないし、形も思い出せない……と思ってました、今の今まで。  衝撃です。今写真を見て知りました。これがフキだったんですか! きれいな緑色の、シャキシャキした、弁当とかによくいる。好きですよ、これ。なんだか分からないけどおいしいなぁと思いながら、確実に3千回ぐらいは食べてますね、フキ。全く覚えてないんですけど、初めて食べたフキがかなり茶色く煮たやつだったのかもしれない。僕、ゴボウとか茶色いものがあまり好きじゃないので、そのままフキを敬遠したっきりで忘れてしまってたのかなぁ。 ※AERA 2019年3月25日号
Zeebra
AERA 2019/03/21 11:30
竹増貞信「重要な仕事は夕方まで 早朝は沈思黙考に最適」<コンビニ百里の道をゆく>
竹増貞信 竹増貞信
竹増貞信「重要な仕事は夕方まで 早朝は沈思黙考に最適」<コンビニ百里の道をゆく>
竹増貞信(たけます・さだのぶ)/1969年、大阪府生まれ。大阪大学経済学部卒業後、三菱商事に入社。2014年にローソン副社長に就任。16年6月から代表取締役社長 良質な睡眠が心身の健康につながります 「コンビニ百里の道をゆく」は、49歳のローソン社長、竹増貞信さんの連載です。経営者のあり方やコンビニの今後について模索する日々をつづります。 *  *  *  厳しい寒さは峠を越し、ようやく春めいてきました。「春眠暁を覚えず」という故事もありますが、春の陽気につられて、ついウトウトしてしまう日もありますよね。  私は昔から、睡眠に関しての悩みはなく、いつでもどこでも寝られます。出張の新幹線では5分前に乗車して、発車する前には寝ています。飛行機だと離陸する前に寝てしまい、着陸するまで気づかないことも。  子どものころから大みそかも日付が変わるまで起きていたことはありません。紅白歌合戦もほとんど見ずに、午後9時くらいには寝てしまっていました。  今でも普段はなるべく早くベッドに入り、午前4時半くらいに起きています。ずっと集中して仕事をすれば、夕方ぐらいにはどうしても疲れが出て、思考力も落ちる。夜は会食などでお酒が入ることも多いため、重要な仕事は夕方までに終わらせたい、と考えています。  これまでの経験から、夜の仕事は判断が情緒的になりがちで、翌朝、冷静にじっくり考えた方がうまくいきます。その分、朝は早めに起きて、出勤前の約2時間は考える時間に充てたい。空気が澄んで、頭もすっきりしている朝の方が物事をニュートラルに考えられるので、ぶれない判断ができると思います。  質の高い睡眠をとるには、家に帰ってから仕事のことであまり悩まないことが大事です。「帰宅後には、お酒も入っているし、仕事のことはあれこれ考えない」くらいの開き直りが必要だと思います。  また、ちょっとの時間でも運動することを意識すると寝つきがよくなります。私は30分くらい時間が空けば、プールで1キロくらいバーッと泳いで次の現場に行くこともある。通勤や帰宅時に、1駅余分に歩くだけでもだいぶ違うと思います。  健全な精神を保ち、健康な肉体を維持することが正しい判断を導きます。そのためには、良質な睡眠を確保することが不可欠なのです。 ※AERA 2019年3月25日号
竹増貞信
AERA 2019/03/18 16:00
ピエール瀧が摂取したコカインを勉強に使う米国の学生たち ハイになるのは時代遅れ?
ピエール瀧が摂取したコカインを勉強に使う米国の学生たち ハイになるのは時代遅れ?
ピエール瀧容疑者 (c)朝日新聞社 写真はイメージです  3月12日に逮捕されたピエール瀧(本名・瀧正則)容疑者(51)が摂取していたとされるコカイン。たびたび芸能人やスポーツ選手の所持・使用が報道される大麻や覚せい剤と異なり、この薬物が日本社会でこれほどの注目を集めるのは珍しいことだ。一方で、欧米に目を向けると、日本人の感覚では信じがたいようなコカインを巡る社会問題が認知されつつある。 ■勉強にコカインを使う大学生  瀧容疑者が逮捕される3日前、3月9日に、薬物中毒者のリハビリに関する調査・報道を行う米機関ドラック・リハブ・プログラム・ジャーナルがひとつの記事を掲載した。「大学におけるコカイン乱用について(※日本語訳は筆者によるもの。以下同)」と題されたこの記事は「米国の大学生におけるコカインの乱用が増加している」という報告から始まる。  同記事によると、2013年に「コカインを使用している」と告白した学生は2.7%、2014年には4.4%に増加。同記事はこの数字が自発的な回答にもとづく点を強調し、潜在的にはより多くの乱用者がいる可能性、そして現在までに乱用者はさらに増大している可能性を示唆する。  問題は、コカインを使用する動機だ。米国ではコカインはもっともポピュラーなドラッグのひとつであり、上述の調査において「過去1ヶ月にコカインを使用した経験はあるか?」という質問に「イエス」と回答したのは約150万人にのぼる。その目的は、往々にしてクラブやパーティーで“ハイ”になるためだ。しかし大学生の場合、別の理由もあるという。勉強の効率を上げるためなのだ。  コカインを摂取すると、倦怠感が消え、気分が高揚し、集中力が高まる。端的に述べれば、やる気がでるのだ。とはいえ、ドラッグを使用した状態で勉強などできるのだろうか。この疑問に答えたのは、2018年に記者がニューヨークの薬物問題を取材している際に出会ったダニエル(本人の希望により仮名。21歳)という、都市工学を学ぶ白人の大学生だ。 「レポートとか、課題をやる時にコカインをやってる。あれがないとSNSを見たり、友達とチャットしちゃったり、全然はかどらない。コカインがあれば『世界には僕と課題だけ』って感じになって、徹底的に集中できる」(ダニエル)  彼はたいてい一度に1グラムのコカインを購入し、1週間に1~2回使用する。価格は1グラムで80ドル(約9000円)。売人とはクラスメートの紹介で知り合い、電話をすると30分程度で自宅の近くまで届けにくるのだという。一回の吸引量は0.1グラムほど。効果は1時間前後で切れるので、ひとつの課題を終えるまで合計で3~4回吸引することが多い。取材の段階で、そうした生活を6ヶ月ほど続けているという。一方で、パーティーなどの遊びの場でコカインを使うことは「あまりない」そうだ。  しかし、身体や精神に悪影響はないのだろうか。 「課題に手こずって、吸い過ぎた翌日はだるかったり、ぼんやりした不安感があったりする。二日酔いに似てる。でも自覚しているダメージはまだないよ。リスクは承知しているし、だからこそ分量と頻度の管理は徹底してる」(ダニエル)  勉強や仕事の効率を上げるために薬物を使用する、という事例は、以前から欧米を中心に問題視されていた。その代表格はコカインではなく、アデラルやリタリンを筆頭とする「スマートドラッグ」だろう。アデラルもリタリンも、本来は注意欠陥多動性障害(ADHD)などの治療のために処方される薬だが、覚醒効果と集中力を高める効果があり、ネットの個人販売などを通じて非合法に購入し、試験勉強などに使う者が後を絶たないといわれる。しかし、なぜダニエルは、スマートドラッグではなくコカインを選んだのか。 「アデラルもリタリンも効き目が長すぎる。量にもよるけど12時間くらいは目が冴えてしまうから、明け方まで寝付けないことがある。コカインは1時間で効果が切れるから便利。課題を片付けたらしっかり寝て翌日の授業に備えることができる」(ダニエル)  彼が知る限り、勉強にコカインを使う学生は「多くはないと思う」とのことだ。交友関係では、彼を含め2、3人。一方で、スマートドラッグ、とくにアデラルは「たいていの学生は勉強のために使ったことがあるのではないか」と付け加えた。  信憑性がないとは言えない。若者の薬物乱用防止を目的とする米NPO「パートナーシップ・フォー・ドラッグフリー・キッズ」の2014年の調査では、回答した大学生の44%が「勉強のためにアデラル等の薬物を使用した経験がある」と述べている。補足をすると、アデラルは米国における商品名であり、国際的にはアンフェタミンと呼ばれる。日本では覚せい剤取締法で規制されている、正真正銘の覚せい剤だ。 ■薬物乱用を助長する過酷な競争社会  なぜ米国の学生はコカインや覚せい剤を使用してまで勉強するのか。よく語られる理由のひとつは、手に入りやすく、価格が安いという単純なものだ。  米国の大都市ならば、夜更けの繁華街を数時間も歩けばコカインの売人に声をかけられることは珍しくない。また、先述のダニエルが証言した1グラム約9000円という価格も、他の先進国と比較すれば低いという。  海外のドラッグカルテルなどを取材する犯罪ジャーナリスト・丸山ゴンザレス氏によると、日本におけるコカイン1グラムの末端価格は、統一市場が存在しないため幅があるが、1万5000円から2万円程度であることが多い。コカインの原材料となるコカの葉が育つのは主にコロンビアやペルーなどの南米の国々。地理条件は、ブラックマーケットにも作用する。南米と陸続きである米国では、運搬コストが抑えられ、自ずと価格も低くなるという。  だが、それ以上に勉強目的の薬物使用に拍車がかかる理由は、学生の多くがきわめて切実に、より良い成績をとり、より良い給料を支払う企業に就職する必要に迫られているためだ。  米連邦準備理事会(FRB)によると、2018年の第2四半期末までに、米国で借りられている学生ローンの総額は未曾有の約169兆円に達した。大学生の69%が学生ローンを組んでおり、平均負債額は約2万9800ドル(約332万円)。10万ドル(約1100万円)以上の負債を抱える者は約200万人、20万ドル(約2200万円)以上の負債を抱える者は約50万人存在し、彼らは大学卒業とともにその返済に奔走しなければならない。  米国において、大学での成績と卒業後の収入は、ほとんどの場合比例する。だからこそ米国の大学生は死に物狂いで勉強するし、その効率を上げるため、薬物に手を出す者も少なくないのだ。事実、ダニエルにも約400万円の借金があった。  勉強目的の薬物乱用と、学生の負債の増大は英国でも起きており、同国出身のジャーナリスト、キャロル・キャッドウォラダー氏は英ガーディアン紙にこう書いている。「(多大な負債を抱えるなかで)生産性と集中力、そして将来的な成績を約束してくれる薬を差し出されたら、それが魅力的に映るのは不思議なことではない」。  しかし、いかに状況が過酷であったとしても、違法薬物の使用が正当化される理由にはならない。法的・倫理的な問題もある。だがそれ以上に、生命の安否に関わる問題であるためだ。 ■コカインの危険性  薬物報道の大きなジレンマは、違法薬物の効果が広く周知される点だ。本記事でも、コカインを使用すると「やる気がでる」と述べた。興味を抱く人が出ても不思議はない。だが、そういった一時的な快楽や生産性を遥かに上回る害悪が科学的に証明されているからこそ、法的・社会的に禁忌とされていることを改めて理解しておきたい。  コカインや覚せい剤などの中枢神経刺激薬は、常用することによって「無動機症候群」を引き起こす。  日々の生活において、人は「意欲」を抱く。「友人にラインをしよう」「洗濯物を取り込もう」「仕事の調べ物をしよう」といった、きわめて自然なやる気の発露だ。こうした意欲は、体内で自然に生成されるドーパミンという神経伝達物質を、脳が受容することで生じる。  しかし、コカインなどによって日常的に脳を刺激していると、脳が形態学的な変化を起こし、通常の量のドーパミンでは機能しなくなってしまう。結果として生じるのは慢性的な虚脱状態。これが無動機症候群だ。こうなってしまうと薬物を断っても、元の状態に回復することはない。健全な社会生活は困難だし、薬物を継続すれば行き着く果ては肝機能障害による死か、刑務所だ。  また、流通するコカインには多くの不純物が含まれており、そうした物質が危険を招くケースが少なくない。  ローザンヌ大学(スイス)の研究者が、2006年から2014年にかけてスイス国境で押収された6586点のコカインを分析した結果、6586点のうち97%から不純物が検出された。それぞれのサンプルのうち、純粋なコカインが占めた割合は平均で40%。つまり、1グラムの小分けコカインがあったとして、そのうちの0.6グラムはコカインではない“ナニモノか”なのだ。(なお、この調査論文の主著者ジュリアン・ブロシウス氏は、他国の研究機関が各地で行った同趣旨の調査の結果を比較し、この傾向は世界的に適用できると述べている)  そうした不純物のほとんどは、かさ増しして利益を増やすため意図的に混入されたと考えられる。種類はきわめて多岐に渡るが、ローザンヌ大学の調査では、砂糖、カフェイン、フェナセチン(鎮痛剤の一種。発がんや腎障害などの重篤な副作用があり、日本では使用されていない)、レバミゾール(線虫などの寄生虫を駆除するための薬。家畜に用いられる)、リドカイン(局所麻酔や不整脈の予防に用いられる)などが発見された。より悪質な例として、殺鼠剤や粉状にしたガラスが混入されていたケースも過去には報告されている。  混入された物質自体が人体に有害な場合もあるが、問題はそうした物質がコカインと組み合わさることで相乗的に毒性が高まることだ。レバミゾールの場合、白血球の減少や皮膚の壊死が確認されている。  近年の傾向としては、「フェンタニル」が混入されたものが出回っていることも、コカインが危険視される一因だ。これは2016年に米ミュージシャン、プリンスが死亡した原因となった麻酔薬で、“麻薬の王”と呼ばれるヘロインの30倍から50倍も強力なもの。米国疾病予防管理センターによると、米国でのコカイン摂取による死亡事故は、2016年の約1万件から2017年には1万4556件と急増しているが、このフェンタニル入りコカインの氾濫との因果関係が指摘される。  世界規模で、コカインによる汚染は拡大している。日本で暮らす限り、確かにコカインは縁遠い薬物かもしれない。しかし、東京オリンピックが迫り、海外との交流がますます増えている昨今、偶発的に遭遇する可能性は低くはない。だからこそ、違法薬物に対する正しい知識を身に着け、自衛に努めてもらいたい。麻薬の売人に、顧客の健康に気を使う義務もなければ義理もないのだから。(取材・文/小神野真弘)
小神野真弘
dot. 2019/03/18 11:40
川崎・池上町 路地裏に残る「戦後」の声を聴く
川崎・池上町 路地裏に残る「戦後」の声を聴く
池上町はバラック群が基になっており、今も路地は入り組んでいる。車が通れないため、グーグルマップのストリートビューを見ても表示されないところも多い(撮影/写真部・東川哲也) 昨年末からJFEスチールの管理下に置かれた、池上コインランドリーの跡地(撮影/編集部・小柳暁子)  日本の高度経済成長を支えた労働者が暮らす川崎・池上町でいま、住民たちが立ち退きを迫られている。あいまいにされてきた「戦後」の問題が、現代に表出した。地域の歴史をひもとくと、路地裏に残るひずみが見えてきた。ライターの磯部涼氏がレポートする。 *  *  * 「街の中が迷路みたいなんで、子どもの頃は鬼ごっこをするのが楽しかったですね」  ひとりの若者が狭くうねった夜の路地を、勝手知ったる様子で歩いていく。2015年10月。街灯が少なく、ひと気もないため、初めて来た人には少し不安になる雰囲気だ。  先導してくれた彼は、当時19歳だったBarkという名のラッパー。幼なじみと結成したラップグループのBAD HOPは、3年後に武道館公演を成功させた。そんな新しいスターが生まれ育ったのが、川崎市川崎区の池上町である。 「ラップを通してこの街のことを伝えられたらと思っています」  そう言う彼の後をついて路地を抜けると、「池上コインランドリー」という看板が半分崩れ落ちた店の前に出た。いま、若者の間ではカリスマになっているBarkだが、生まれを示すように、右眉の上にタトゥーで“IKEGAMI”という文字を刻み、BAD HOPの武道館公演に合わせてつくったアルバムのジャケットには池上町のシンボルである池上コインランドリーの写真を使った。  アルバムが出た昨年秋、その池上コインランドリーを巡って、ある「事件」が起きる。オーナーが新たに土地を利用しようと老朽化した店の解体工事を始めたところ、土地の所有者である鉄鋼メーカーのJFEスチールと、川崎市から、土地を明け渡すよう求められたのだ。12月下旬には敷地が柵で囲まれ、「JFEスチール管理地」という標識が架けられる。それは、小さな町を揺るがす騒動の始まりだった。今年2月には、JFEから住民に宛てて、家屋を収去して土地を明け渡すよう求める通知書が次々に届いた。 ●臨海部の工場で働くために、朝鮮半島からやってきた  池上町の迷路のような特殊なつくりには、京浜工業地帯としての川崎の歴史が反映されている。いまの川崎区北部にあたる川崎町の議会で「工業招致を百年の町是とす」という決議が採択されたのは1912年のこと。同年、日本初の鋼管製造会社である「日本鋼管」(JFEの前身)が臨海部で工場建設に着手。敷地の内陸側に隣接したエリアが現在の池上町だ。もともとは葦が生い茂り、大波がくれば海水を被るような荒れ地で、工場で働くため朝鮮半島からやってきた人々が、そこに立つ粗末な家を借りて住み始めた。  30年代初頭には在日コリアンの集住地区として認識されていたという証言が残る。その後、39年に日本鋼管が一帯を買収して労働者のための宿泊施設、いわゆる飯場を建設。戦後になると、日本に留まった、あるいは混乱期の祖国から渡来した朝鮮人が仕事とコミュニティーを求めて集まってきた。バラック群は拡大し、複雑な路地を形成。その名残がいまも池上町にあるのだ。  Barkの両親は、家賃の安さに惹かれて池上町に住み始めた日本人だ。駅から離れている上、JFEの工場と常にトラックが行き交う産業道路に挟まれ、住環境は良いとは言えない。ただ、昔ながらのコミュニティーの温かさが残っていて、食卓にはいつも近所からおすそ分けされたキムチがあった。食事を終えると、自分の部屋がない彼はイヤホンをつけ、町内を散歩しながら新曲を練ったという。それもあって、歌詞には自然と街並みが現れる。 ●高度経済成長を支えた、労働者たちが暮らした町  池上コインランドリーの「事件」の最中、産経新聞がウェブに、池上町についての記事を立て続けに掲載。1本目の見出しは、「川崎『不法占拠』、戦後70年いまも JFEスチール対策強化 在日朝鮮人ら居住」(18年11月30日付)だった。  前述したように、池上町の土地の6割ほどは、日本鋼管が所有し、JFEに受け継がれている。一方、そこに家を建てているひとたちはJFEと契約を結んで地代を払っているわけではない。それが“不法占拠”と捉えられた。  JFEが契約交渉を求めたり、立ち退きを要求したりすることは長くなかっただけに、コインランドリー跡地の差し押さえや、土地の明け渡しを求める通知が届いたことは、住民にとって青天の霹靂だったという。  2月下旬、池上町の集会所で話し合いをした住民たちは、みな不安を隠せない様子だった。在日コリアンの3世で、母親と同居する女性(62)は言う。 「うちも差し押さえられるんじゃないかって心配で。ただでさえ、いま日韓関係が悪いでしょう。疑心暗鬼になってしまって」  また、在日コリアンの2世にあたる男性(79)はJFEの態度に憤る。 「住民税も、家屋の固定資産税も払っているんですよ。だから、土地の問題も解決したいと思って、10年ほど前、JFEに『買いたい』と言ったら『個人では受け付けられない』と返されたんです。ところが、コインランドリーの件があったので、今年に入ってまた連絡したら、『今度、状況を説明しに行きます』と言ったきり、折り返してこない。一体、どういうことなんだ」  この日、集まったのは10人ほどだが、誰もが土地の問題を解決したいと考えていた。  池上町で長年、ソーシャルワーカーとして生活支援を行ってきた三浦知人さん(64)は、「住民に対して“不法占拠”というロジックを使うことは、歴史認識が著しく欠如していると言わざるを得ない」と語る。  現在、社会福祉法人「青丘社」で理事を務める三浦さんが、初めて池上町を訪れたのは74年。早朝、ごま油とニンニクの匂いが立ちこめる中、男たちが道端に座って、労働現場へと向かう車を待つ。やがて、路地は女たちのおしゃべりや、子どもたちが遊ぶ声でにぎやかになっていく。仕事からあぶれた男たちは、昼間から、焼き肉屋で女将にどやされつつ酒盛りをしている。 「在日コリアンが多い川崎でも、当時、そこまでの集住地区は幸区の戸手と池上町ぐらいしかなかったですね」  日本の高度経済成長を支えた労働者の街である池上町には、仕事を求めて各地からやってきた日本人も受け入れた共生の歴史がある。こうした点も、忘れてはならないことだ。  50年代から60年代にかけては土地の所有者である日本鋼管が住民を強制的に立ち退かせようとする動きもあったが、70年代にはほとんどなくなっていたという。やがて川崎市は、住民から住民税や家屋の固定資産税を徴収するようになったものの、土地の問題がうやむやなままなので、下水工事などは住民が金を出し合って進めた。区画整理もされず、バラック群が基になった町並みは過密状態に。車が通れないほど狭い道もあり、ひとたび火事が起これば一気に燃え広がった。  91年には、川崎区内の池上町や桜本、大島、浜町といった生活環境などの課題を抱えるおおひん地区で「街づくり協議会」が発足。池上町でも住民側から、土地の問題や生活環境の改善などの要求が挙がり、日本鋼管も行政もテーブルについたが、結局、結論は出なかった。 ●土地の問題を解決して、次の代に街を引き継ぎたい  並行して、池上町のあり方にも変化が起こる。在日コリアン1世の高齢化が進み、代わって町づくりの中心となった2世は、在日コリアンというアイデンティティーや池上町というコミュニティーにそこまで思い入れを持たない者も多かった。中には自分は池上町を出て、住居の跡地にアパートを建設、そこに日本人やニューカマーの外国人が入居するケースもあった。旧住民たちは「今、町会費を払っているひとは住民の半分もいない」と嘆く。  高齢化、コミュニティーの弱体化……特殊だとされる池上町も、多くの街と同じ問題にぶつかっている。  戦前から戦後にかけての混乱の歴史を経て、土地の問題を抱えてきたのは池上町だけではない。京都府宇治市のウトロ地区と呼ばれる在日コリアン集住地区は、立ち退き反対運動の末、住民側が土地の一部を買い取り、17年末に市が新たに集合住宅を建設。そこに入居する形で和解に至った。日本も批准している国際人権規約が強制立ち退きを人権侵害とみなしていることを根拠に、国際社会にも支援を訴えたことが解決につながったという。  集会所で出会った在日コリアン2世の男性は「自分たちの代でこの問題を解決して、次の代に街を引き継ぎたい」と言う。また、3世の女性は「色々と問題があっても住み続けているのは、この街が大好きだから。ネットでは『池上町は怖い街だ』なんて書かれているけど、鍵をかけなくてもいいような安全な街なんですよ」と微笑んだ。  戦前から戦後にかけて、荒れ地に住まざるを得なかった在日コリアンの歴史を踏まえずに、「不法占拠」だとみなし、土地を取り上げようとしているのだとしたら問題だ。  JFEスチールに、池上町への対応について尋ねたところ、「土地の売買や賃貸に関して住民と個別の相談はしない。今後は行政と連携して、コインランドリーの跡地のような管理地を増やしていく考えだ」と地区の担当者から返ってきた。ただし、「土地の明け渡しを求める通知書は空き家だと認識したところに送っている。まだ住んでいたのなら手違い。それについては個別に話し合いたい」と話す。  こうした現状に対して、三浦さんは言う。 「住民は住民税を払って池上町に住んでいるのに、土地所有の問題によって公共の福祉の枠外に置かれてしまっているのだとしたら、そこには行政の責任も当然ある。歴史的な経緯を踏まえ、改めて行政とJFEが住民と向き合い、土地と生活環境の問題を改善していかなければなりません」 (ライター・磯部涼) ※AERA 2019年3月18日号
AERA 2019/03/17 17:00
元阪神の大野久が妻と共謀し、金3キロを密輸 「仕事あったら紹介して」と知人に頼む
元阪神の大野久が妻と共謀し、金3キロを密輸 「仕事あったら紹介して」と知人に頼む
東洋大牛久高校の監督時代の大野久氏(C)朝日新聞社  プロ野球阪神などでプレーし、ダイエー(現ソフトバンク)時代には盗塁王にも輝いた大野久・元選手(58)が金地金3キロ(1350万円相当)を香港から密輸しようとしたとして、関税法違反や消費税法違反などの罪で略式起訴されたことがわかった。  大野元選手に対し、2月19日付で大阪地裁堺簡裁が罰金50万円の略式命令を出している。  海外で金地金を購入し、日本で売却すると消費税8%分が上乗せされる。大野元選手の場合、本来なら税関で108万円あまりの消費税を納めねばならないが密輸して、消費税分を儲けようとしたという。  大野元選手の密輸事件は、昨年8月8日夜、香港からの飛行機で関西空港に到着して発覚した。  同午後8時半ころ、妻(54)ともに、税関検査を受けた。 「夫婦での海外旅行を装ったのか、税関検査には自ら、スーツケースを開けようとするなど協力的だった。香港から金地金の密輸が近年増えている。そこで、大野夫妻を調べると、妻のズボンのポケットの膨らみ方が不自然だったところを、職員が発見。ズボンのポケットから金地金3枚、3キロが見つかった。金地金1枚の大きさは縦10cm、横5cmくらいで厚みが1cmほど。大野夫妻はその場で密輸の実行役であることは認めた」(捜査関係者)  その後の捜査で、大野夫妻に資金を渡して、密輸させた共犯者のA(52)に辿りつき、逮捕したという。  阪神、ダイエー、中日と俊足と好打で鳴らした大野元選手。引退後は指導者となり、中日のコーチにも就任していた。  その後、大学に通い教員免許を取得。2000年からは茨城県の東洋大牛久高にて社会の教師となり、2003年からは野球部の監督として指導にあたった。その後、高校を退職し、最近では、英語をマスターし、オーストラリアで指導者のライセンスをとったり、侍ジャパンU15コーチとして手腕をふるっていた。  大野元選手と付き合いのある元同僚はこう話す。 「オーストラリアだけでなく、アメリカでも子供たちに野球を指導。常に野球にはかかわってはいるけど『なかなか食えない』『日本でいい仕事あったら紹介して』と言っていた。オーストラリアなど海外に行くときはいつも『安いLCCの世話になっている』とも話していた。確かに、英語もうまくなったようで、海外にも精通していた。今回のニュースを聞いて、語学や海外の知識を使って密輸にまで手を出すほど苦しかったのかと思った」  大野元選手は、自身のブログで野球についての思いを綴っているが、2017年1月には政治家の不透明な資金の問題について<お金もらってもいいけど、国の為にそれ以上の税金納めろ><不正に儲けたから世の為に使って下さいって>などと綴っている。  また、2016年12月のブログでは<野球の基本の勉強、そして今後の心構え!!> とも記している。前出の同僚はこう落胆する。 「プロでタイトルまでとり、コーチも経験して学校の先生になった選手なんてほとんどいない。選手時代から、練習の虫、勉強熱心だったから先生にまでなれた。今、侍ジャパンU15コーチなどもしており、子供たちを指導し、手本となる立場。その頑張りを影ながら応援していた球界関係者は多い。それが密輸だなんて、本末転倒だ。子供たちへの背信だ」 (本誌取材班) ※週刊朝日オンライン限定記事
週刊朝日 2019/03/14 10:44
夫・篠田監督との出会いが転機に 岩下志麻の“女優としての証明”
中村千晶 中村千晶
夫・篠田監督との出会いが転機に 岩下志麻の“女優としての証明”
岩下志麻(いわした・しま)/1941年、東京都生まれ。高校在学中にNHKのドラマ「バス通り裏」で芸能界デビュー。60年に成城大学入学と同時に松竹に入社し、映画デビュー。64年度ブルーリボン賞主演女優賞(「五瓣の椿」)。67年、映画監督の篠田正浩氏と結婚。2人で独立プロ・表現社を設立。77年度日本アカデミー賞最優秀主演女優賞(「はなれ瞽女おりん」) (事務所提供)  もし、あのとき、別の選択をしていたなら──。著名人に人生の岐路に立ち返ってもらう「もう一つの自分史」。今回は女優の岩下志麻さんです。数々の作品でスクリーンを輝かせてきましたが、駆け出しのころはそれほど野心はなかったそうです。女優として目覚めたのは、夫で映画監督の篠田正浩氏と出会ってから。運命の出会いだったと振り返ります。 *  *  *  のんびりしていて、どこか「鈍」だったのね。松竹に入ってからも人を押しのけてスターになりたいという欲がなかったの。「駆けずのお志麻」というあだ名がついたくらい。先輩からみると腹が立ったみたいで、ずいぶんいじめにもあいました。  そんな私が、女優としてやっていこうと思うようになったのは、篠田と出会ってから。篠田が監督を務めた「乾いた湖」の主役に抜てきされ、その後、主演の依頼が増えました。まさに人生のターニングポイントですね。篠田が映画に対して情熱的に語るのを聞いているうちに、映画の魅力に目覚めて、「もっといい女優になりたい」という気持ちが、徐々に決意になっていったんです。 ――女優として目覚めるのが人より遅かったという岩下だが、芸能一家に生まれた。新劇俳優の父を持ち、義理の伯父は「前進座」の四代目河原崎長十郎。役者になりたいという思いはなかったが、女優の原点ともいえる思い出がある。 「前進座」には、近くに住んでいたので私も出入りしていました。なかでも覚えているのは郭沫若(かくまつじゃく)さんの「屈原」。第2幕は、王妃がめまいがして屈原に寄りかかったところに、王様がきて、誤解をして怒って屈原を牢屋に入れるという話でした。王妃の行動は屈原を陥れる策略なわけです。  私はどうしてか、その王妃の「ふわふわっ」と倒れかかる演技に惹かれて。1カ月の公演中、「アイスクリーム売りを手伝う」という理由をつけて、毎日その幕を見に行っていました。小学6年生のときです。  人間の毒や悪を見たというか。そういうものに感受性が強かったのかな。女優になって、悪女を演じることも多かったでしょう? 振り返れば、あれが原点なのかなと思います。 ――とはいえ、岩下が女優の道を歩み始めるのはまだまだ先。高校生まで、精神科医を本気で目指していた。  近所に精神的な病を抱える人がいて、からかわれていたのを見たんです。なんとか助けたい、力になりたいと思ったのがきっかけです。  猛勉強しましたが、高校2年で体を壊してしまった。原因不明の熱が出て、最終的に「小児リウマチ熱」とわかって薬で治ったのですが、学校は1年留年。そこから「いままでやっていたことは何だったんだろう」と、目標を見失ってしまったんです。  何になっていいのかわからず、かといってお嫁さん願望もない。そんなとき父の知り合いのプロデューサーがドラマ「バス通り裏」に誘ってくださった。気分転換にやってみようかな、とお引き受けしたんです。 ――だがその素質は多くの人の目に留まり、木下恵介監督の勧めで松竹に入社。1960年に「笛吹川」で映画デビューする。そして、19歳で転機が訪れた。篠田監督との出会いだ。 「笛吹川」の後、「乾いた湖」の主演を探していた篠田と脚本の寺山修司さんに呼ばれて、神楽坂の旅館で面接をしてもらいました。あのとき主役に抜てきされなかったら、いまの私はありません。  篠田はね、派手な格好をしていたんです。本人は否定するんですけど、ショッキングピンクのショートパンツに金のペンダントで、私は「こんなに若い監督さんもいるんだ!」とびっくりした記憶があります。  なぜ私を選んでくれたのか、いまもよくわからないです。欲もなかった。その「ぼやん」としたところがよかったのかしら。  篠田との関係が発展したのは「暗殺」(64年)の撮影中でした。京都の撮影所だったので、夜の時間が空いてしまい、初めて「お食事しましょうか」となった。それまでは2人でお茶も飲んだことなかったの。  先斗町のお店に行ったんですけど、私、当時お酒がすごく強くて、初デートで2人でお酒2升も飲んだんです(笑)。2合とっくりが10本も並んで。2人とも緊張していたから全然酔わなかったんです。 ――67年に篠田監督と結婚。だが当時は結婚=引退、という時代。映画会社の猛反対にあった。  毎日のように松竹の重役さんたちがうちに見えて「まだ早い」「一人の男の所有物になるのか!」と。あんまり反対されたんで、なんだか意地になっちゃったのかも(笑)。  私は女優を辞めるなんてまったく考えていなかったし、篠田には「結婚で、女優としてプラスαの魅力をつけてほしい」と言われました。  篠田は私たち夫婦に「戦友」という言葉を使うけれど、目標を同じくして2人で歩んでいく感じです。そういう関係になれたのは、結婚してから篠田と2人で独立プロダクションを作ったことが大きいですね。  結婚しても女優ができると証明しなきゃ、という思いで走ってきましたし、失敗しちゃいけない、と私は切符売りもやりました。あちこちにチケットをお願いして、映画というのは大勢の人に見てもらって初めて価値が出るんだ、と私はそのときに気づいたのです。 ――岩下が女優としてのキャリアを築く上で、篠田監督のほかにもう一人、欠かせない人物がいた。小津安二郎監督だ。岩下は62年に「秋刀魚の味」に出演した。  小津先生は自然体がお好きで、役者のくせやテクニックを嫌います。だから自然にできるまで、何度もテストなさるんです。50回、100回のテストはざらでした。  一番苦労したのは、失恋したときのシーン。「巻き尺を右に2回、左に2回半、また右に2回で、パラッと落として、ぼんやりしてください」と。これができないの。頭で数えちゃってるんでしょうね。どこが悪いのか先生もおっしゃってくださらない。情けなくなりました。  その後、先生とお食事に行ったときに言われたんです。「人間っていうのは、悲しいときに悲しい顔をするんじゃないよ。人間の喜怒哀楽はそんなに単純じゃないんだよ」と。  たぶん、私はあのとき「失恋した」という気持ちで表情が悲しくなっていたんでしょうね。テストを100回やっている間に無表情になってきて、悲しみの顔がなくなったのかもしれない。先生の言葉はいまでも、演技プランを考えるときによみがえります。この経験は、私の財産になっています。 ――その後の活躍は読者も知るところ。岩下といえば、86年、「極道の妻(おんな)たち」の姐さん役。あまりのハマりぶりに多方面に影響を及ぼしたそうだ。  新幹線の中で丁重にあいさつしてくださる方がいて「知ってる方かしら?」と思うと“その筋”の方だったり。病院に知人のお見舞いに行ったら、玄関に止まっていた黒いキャデラックから数人の黒服の男性がバババッと降りてきて、整列して私にお辞儀をするんです。「あら、これは完全に錯覚してるわ」と思いながら(笑)、その前を悠然と歩いて病院に入ったこともありました。  でも、お話をいただいたときはちょっと悩んだんです。ピストルの音さえ怖いのに、自分が撃つわけでしょう。あの世界独特の潔さと、女性の持つ強さを出せるかな、という不安もありました。でも五社英雄監督が「任せなさい」とおっしゃってくださったので、挑戦できたんです。  私はいつも外側から役を作っていくほうなので、プロデューサーに「極妻さんの家に3日間くらい住まわせてほしい」とお願いしたんです。「とんでもない!」とプロデューサーに一喝されました。「岩下志麻の極妻でいいんだから」と。  だから、私なりに工夫して、着物の衿の合わせ方を深くして、ピアスをつけて。その筋の方も気に入ってくれたのか、当時、似たような着物のスタイルの極妻さんらしき女性を見かけましたね。  私はね、明るい役をやっていると明るくなるし、落ち込んだ役だと普段も落ち込んでしまう。だから極妻みたいな役だと普段も気が大きく、強くなっちゃうの。極妻のときは、口調も強かったみたいで、よく「怖い、怖い」って言われました(笑)。 ――天職として女優の道を突き進んできた岩下。だが、会話の中に、ひとりの母親としての悩みや葛藤が垣間見えるときも。それが、プラスαの魅力になっているのかもしれない。  32歳で出産したとき、初めて揺らぎましたね。「女優をこのまま続けていていいのかな、子どもをこれだけ犠牲にしていていいのかな」と。  だからいまだに娘には「ごめんなさい」って感じです。本人は気にしていないようですが、彼女はいま自分の子に対して完璧な母ですからね。仕事を持ちながらお弁当を作り、お誕生日にはケーキを焼いて……。  娘には「あなた、エライわねえ!」って言うんですけど、私にやってもらえなかったぶんを自分の子どもにやってあげているのかな、私が反面教師になっちゃったかなと、ちょっと切なくもなりますね。 ――最後に、これから挑戦したい仕事を聞いた。  映画「サンセット大通り」でグロリア・スワンソンが演じた役。企画を出していて、実現するといいなと思っています。  往年のスター女優が過去の栄光を忘れられず、最後は殺人をして狂ってしまうお話です。「ザ・女優!」のある種、成れの果てでもある。そういう女優の生きざまを演じてみたいなと思ってるんです。自分と真逆のタイプの役だから憧れるし、やってみたいんでしょうね。 (聞き手/中村千晶) ※週刊朝日  2019年3月15日号
週刊朝日 2019/03/08 11:30
小田和正、母校で矢野顕子/杏/佐藤竹善/JUJU/スキマスイッチら豪華ゲストアーティスト11名とライブ
小田和正、母校で矢野顕子/杏/佐藤竹善/JUJU/スキマスイッチら豪華ゲストアーティスト11名とライブ
小田和正、母校で矢野顕子/杏/佐藤竹善/JUJU/スキマスイッチら豪華ゲストアーティスト11名とライブ  小田和正の音楽特番『風のようにうたが流れていた』の収録が、小田の出身校である聖光学院(神奈川県横浜市)で行われた。   これまでTBSで放送されてきた小田の音楽番組では、初登場となる杏や矢野顕子をはじめ、11名の豪華ゲストアーティストたちと春の訪れを感じさせるようなライブを開催。「どうも~!」と柔らかな笑顔の小田が会場に姿を現すと、客席から温かな拍手が。ステージ上に用意されたグランドピアノの前に立った小田が「みなさん、きっと喜んでくれると思います。私もとってもうれしいです。矢野顕子さんがニューヨークから来てくれました!」とゲストアーティストの矢野を呼び込むと客席からどよめきが。  矢野と小田の付き合いは長く、矢野はオフコースの楽曲をカバーしたことも。小田が「ちょっと弾いて」とリクエストすると、矢野はオフコースの「Yes-No」を即興で披露。会場内が一瞬で矢野のピアノと声に魅了され、小田はかつて矢野が弾く「Yes-No」を聞いた時、「こんなYes-Noがあるのか?」と驚いたというエピソードを話した。そして、「あっこちゃんとの会話のひとつひとつが楽しい」「また何か一緒にやろうね」と言い、矢野の楽曲である「David」などを披露した。  続いて登場した杏は、小田のリクエストで松田聖子の「SWEET MEMORIES」を和田唱(TRICERATOPS)、小田のギター伴奏で歌った。学生時代に聖歌隊に入っていた経験がある杏は「ちょっと緊張しています」と言いながらも「家事をしながら音楽を聴いていたら、お鍋がピカピカになりました」と笑わせる。小田が「ちょっと変わった歌をうたう人をみつけた」という杏は、女優やナレーションといった声の仕事でも活躍中だが、歌い手としての魅力も素晴らしく会場内の空気を第一声で自分色に染めた。  スキマスイッチの大橋卓弥が「放課後の教室でワイワイやっているみたいな曲はどうか?」と思い提案したという往年の名曲は、JUJUがメインボーカルを担当。歌詞を見たときに「これは私の曲だわ」と思ったというJUJU。小田、杏、大橋、熊木杏里、常田真太郎(スキマスイッチ)、矢井田瞳、和田と共に美しいハーモニーでとある名曲を聞かせた。  小田を含む「小委員会」メンバーのスキマスイッチ、根本要(STARDUST REVUE)、水野良樹(いきものがかり)は、「いかにも春らしい女の子の歌をあえて男だけでやろうと決めた」と、多くの歌い手にカバーされている女性シンガーの名曲を披露。優しく寄り添う歌声に、うっとりした瞬間だった。  そして終盤、小田と和田が“春の映画音楽メドレー”で会場を盛り上げると、いよいよクライマックスへ。小田がオフコースの名曲「YES-YES-YES」の曲名を口にすると、会場の温度がぐっと上がった。小田と佐藤竹善からはじまり、大橋と和田が続き、女性陣のコーラスとアーティストたちが声を重ねて大合唱。その様に会場は大興奮。思わず席を立って体を揺らす人、小田に合わせて一緒に歌う人、曲の途中で小田が行うおなじみの人差し指の振りを合わせる人など、会場の熱気は最高潮に達した。  すべての収録が終わると小田は感謝の言葉を述べ、「my home town」の一節を口ずさんだ。歌詞に登場する“丘の上”がまさに番組の収録が行われた聖光学院。小田は「この場所ね」と足元を指してステージを後にした。  番組は、2019年3月29日深夜に全国TBS系にて放送。 ◎番組情報 小田和正音楽特番『風のようにうたが流れていた』 2019年3月29日(金)24:20~25:50 放送局:TBS 出演:小田和正 ゲスト(※50音順):杏 / 熊木杏里 / 佐藤竹善 / JUJU / スキマスイッチ(大橋卓弥、常田真太郎)/根本 要(STARDUST REVUE) / 水野良樹(いきものがかり) / 矢井田瞳 / 矢野顕子 / 和田 唱(TRICERATOPS)
billboardnews 2019/03/08 00:00
市川海老蔵 「今遊べばおもしろくなくなる」と“ストイック生活”、そのワケは?
市川海老蔵 「今遊べばおもしろくなくなる」と“ストイック生活”、そのワケは?
市川海老蔵さん(右)と林真理子さん (撮影/写真部・片山菜緒子) 市川海老蔵(いちかわ・えびぞう)/1977年、東京都生まれ。十二代目市川團十郎の長男として生まれ、85年に七代目市川新之助を襲名。2004年に十一代目市川海老蔵を襲名。日本の伝統芸能を次世代に伝えるべく、「ABKAI」「古典への誘い」などの自主公演に力を入れると同時に、海外での活動も多い。来年5月、十三代目市川團十郎白猿を襲名予定。20年の東京五輪・パラリンピック組織委員会に助言を行う「文化・教育委員会」委員も務める。 (撮影/写真部・片山菜緒子)  来年5月に十三代目市川團十郎の襲名を控える市川海老蔵さん。結婚前は歌舞伎界きってのモテ男として、数々の浮名を流しましたが、現在はよきパパとして2児の子育てに奮闘中。「今遊べばおもしろくなくなる」と語る私生活に作家の林真理子さんが迫ります。 *  *  * 林:海老蔵さんのブログを見ると、いつもジムに行ってるか、お子さんたちのお世話をしてるか、劇場に行ってるかですけど、遊びに行ったり飲みに行ったりする時間はないんですか。 市川:今、一滴もお酒飲んでないです。元旦にお屠蘇(とそ)を飲んだだけ。去年も一滴も飲んでないです。 林:ほんとに? ちょっと寂しくないですか、それ。 市川:いや、それが酒ほど無駄なものはないという思考になってるんですよ。今はほぼストイックな生活をしてまして、今日も稽古があるので何も食べてないですし、いつも仕事のことを考えています。ただ半年に1回ぐらい、なんにも考えないで、タガがはずれたように好き三昧やる日が一日だけあるんですけど、昨日がまさにそれで。昨日は朝から男友達とそばを食べて、渋谷の街を歩いて、VR(バーチャルリアリティー)をやって遊んでストレス発散して、スクランブル交差点を見下ろしながらチョコバナナパフェを食べて。夜は友達のすし屋ですしをいただいて、家に帰ってから、アニメ動画を見ながら、シュガーバタートリュフのクレープを三つ食べて寝ました。これで十分なんですよ。 林:え~そんなのつまんない(笑)。 市川:つまらなくないです。女の子のいるところ、例えばクラブも昔はよく行っていた時期もありましたが、今はもう行かなくなりましたね。 林:だけど京都の南座に出るときは芸妓さんのいる座敷に行くんでしょう? 市川:ああ、もうないですね。確かに「芸の肥やし」っていうのは使える言葉かもしれない。お茶屋の子が最新の情報を持ってて、それを聞くために通うわけですよね。でも今、情報は私のほうが持ってるので、その時間があれば勉強したり、友人に会うほうが良いですよ。 林:そりゃそうですけど。 市川:気の合う男友達、それは芸能人とかが多いですけど、そこの家に行ったり、会長とか社長という責任のあるビジネスマンのところに行って、「いま何してる」「どんなこと考えてる」という話をするほうがおもしろくなっちゃったんで。 林:そうは言っても、女性はおもしろいところありますよ。 市川:おもしろいけど、さほどおもしろくないですね。女性に関しては70周ぐらいしたんで、だいたいわかってますから(笑)。 林:でも、まだ知らない世界もありますよ。オバサンの世界とかは知ろうと思わない?(笑) 市川:あんまり思わない(笑)。おもしろいと思うことの角度が変わったんです。 林:そうですか。カッコいい男盛りの海老蔵さんが女性に興味を失ったなんて……。 市川:私が若いころはいくら自由にしてもそれほど問題ではなかったけれど、今、これだけ世の中の倫理観が厳しくなっていますからね。 林:世の中のことなんて、どうだっていいじゃないですか。 市川:良くないですよ。團十郎襲名も控えてるし、オリンピックの組織委員としても動いてますし、今わざわざそこに飛び込む必要はない。 林:まあね。でも、何もしなくたって週刊誌はあることないこと書くし。 市川:今、週刊誌より自分のブログのほうが発信力があって、影響力も持ってるわけじゃないですか。だからブログを通じて、違うものは「違うよ」って言えるし、放っておくことは放っておくこともできるんで、あんまり気にしません。 林:それを聞くと、安心するやら、ちょっとガッカリするやら。やっぱり週刊誌を賑わせてほしいです。海老蔵さんの見出しを見ると読んじゃうもん。 市川:子どもが15歳とか17歳ぐらいになって、私も襲名してほかのこともだいたい落ち着いたぐらい、たとえば50歳ぐらいになったら、もう一回自由にしてもいいと思うんですよ。でも今それをやったら、私自体がおもしろくなくなる。私が私をプロデュースするのであれば、「今遊んだりしたら、ぜんぜんおもしろくないよね」って思います。 (構成/本誌・松岡かすみ) ※週刊朝日  2019年3月8日号より抜粋
週刊朝日 2019/03/05 16:00
意外? 2.5次元の鈴木拡樹「不器用でテンパりグセがある」と自己分析
意外? 2.5次元の鈴木拡樹「不器用でテンパりグセがある」と自己分析
鈴木拡樹(すずき ひろき)/1985年生まれ、大阪府出身。2007年、テレビドラマ「風魔の小次郎」で俳優デビュー。08年、「最遊記歌劇伝─Go to the West─」で初主演。主な舞台出演作に「弱虫ペダル」シリーズ(12年~)、「刀剣乱舞」シリーズ(16年~)、劇団☆新感線「『髑髏城の七人Season月』<下弦の月>」(17年)、「No.9 ─不滅の旋律─」(18年)など。放送中のアニメ「どろろ」に声優として出演中。WOWOWオリジナルドラマ「虫籠の錠前」(3月放送予定)にダブル主演。3月に舞台「どろろ」、4~5月に舞台「PSYCHO─PASS サイコパス」、6月に舞台「最遊記歌劇伝─Darkness─」にそれぞれ主演予定。 [撮影/馬場道浩、ヘア&メイク/AKI、スタイリング/中村美保、アートディレクション/福島源之助+FROG KING STUDIO、衣装協力<スーツスタイル> ジャケット¥85,000、パンツ¥37,500(ともにCRUCE&C/Karaln)シャツ¥23,000(kiryuyrik/Karaln)靴¥22,800(VARISISTA)<カーディガンスタイル> カーディガン¥25,000、カットソー¥12,000(ともにwjk/wjk base)パンツ¥28,000(MASON’S)] 「2.5次元」舞台のトップランナー的存在であり、女性たちの圧倒的支持を受ける鈴木拡樹さん。「2.5次元」とは、漫画やアニメ、ゲームなどの「2次元」の世界観を、舞台やミュージカルなどで俳優が再現した作品を指す。ぴあ総研によると、2017年の市場規模は156億円で、年々成長を遂げている。“ホーム”である舞台はもちろん、映画やドラマ、声優としても活躍する鈴木さんに、話を聞いた。 *  *  * ──「2.5次元」界のスターですが、もともとアニメやゲームに興味は?  僕は舞台のお芝居を見に行って、その熱にあてられて演劇を始めたんです。そのときは「2.5次元」という言葉自体がありませんでしたし、いまだにそれほど詳しくはないんですよ。ただ、デビュー作が「風魔の小次郎」という、車田正美先生の漫画が原作のドラマ(2007年放送)と舞台(08年3月)だったんです。これが今でいうところの、「2.5次元」になるのかなと。だから今、こうやって「2.5次元」をいろんなところで取り上げていただけることは、うれしいですね。 ──「2.5次元」ならではの魅力や難しさは?  原作があり、そのファンの方が見に来てくださるので、お客さんと最初からキャラクターを共有していることでしょうか。そのキャラクターが言いそうにない台詞、とりそうにない行動をとってしまうと、お客さんにストレスを与えてしまう。いかに自然に見ていただき、作品としておもしろいものにできるかが勝負になってくる。そういう意味では、普通の演劇より一つ工程が多いのかもしれない。そこが魅力でもあると思います。 ──幅広い役柄を演じられていますが、「このキャラクター、僕がやるの?」と思うことは?  多々あります(笑)。役者さんのなかには「この役といえばこの人」という確固たるポジションを持っている方もいて、そういう方がうらやましい時期もありました。でも、「この役、鈴木にやらせてみたらどうなるんだろう?」というかたちでオファーをいただき、自分のなかでいろいろ考えることは、楽しいですね。 ──役作りの方法は?  どういう役であっても、一番の理解者でありたいし、親友のように寄り添いたいなと思います。なかにはとてつもなく悪いキャラクターもいますが、それでもそのキャラクターなりの正義があるので、まずはそれを純粋に理解しなくてはいけない。もちろん、「人を殺すのはいけない」とか、一般的な善悪はわかっていますよ。でも、そのキャラクターを演じるうえでは肯定してあげなくてはいけない。 鈴木拡樹さん [撮影/馬場道浩、ヘア&メイク/AKI、スタイリング/中村美保、アートディレクション/福島源之助+FROG KING STUDIO、衣装協力<スーツスタイル> ジャケット¥85,000、パンツ¥37,500(ともにCRUCE&C/Karaln)シャツ¥23,000(kiryuyrik/Karaln)靴¥22,800(VARISISTA)<カーディガンスタイル> カーディガン¥25,000、カットソー¥12,000(ともにwjk/wjk base)パンツ¥28,000(MASON’S)] ──自分が演じるキャラクターに、影響されることは?  仕草やクセとか、自分では気づかなくても、周りが感じることはあるみたいですね。女性役を演じているときに内股になっていることに気づいて、恥ずかしくなったりします(笑)。 ──3月には「どろろ」、4~5月には「PSYCHO-PASS サイコパス Virtue and Vice」、6月には「最遊記歌劇伝─Darkness─」と、主演舞台が続きます。どうやって演じ分けているのでしょうか。台詞を覚えるだけでも大変では?  自分でも驚きますね(笑)。僕の場合、稽古に参加する前に時代背景や職業などの下調べをして、その役が持っているクセや性格について考えます。そうすると、少なくとも稽古場に立つことはできますね。台詞は、稽古しているなかで覚えることが多いです。「相手の台詞に対してどういう言葉が出るか」「自分の台詞に対して相手がどう反応するか」というのが、演劇であると教わったので、言葉をぶつけ合うことで覚えていくんでしょうね。台詞覚えは早いほうではなくて、遅いほうに入ると思います。 ──たくさんの役柄を演じているうちに、キャラが混ざってしまうことは?  あるのかもしれないですね(笑)。もう10年以上この仕事をしているので、「このキャラ、あの人物に近いな」とか、過去に演じた役の記憶がよみがえったりします。 ■自分にダメ出しできる強み ──07年のデビュー以来の変化や、ターニングポイントは?  たくさんあります。壁にぶち当たったときもありました。今年6月に「Darkness」が上演される「最遊記歌劇伝」の1作目が僕の最初の主演作ですが、08年に1作目、09年に2作目をやった後、3作目をやるまでに5年かかっているんです。いろいろな理由があったと思うんですが、僕自身としての力が足りなかったんだと思いますね。「シリーズもの」と言われていても、続けられないこともあるのだなと。「演劇が楽しい」という思いでやっていたけれど、「届ける」ということを、きちんと理解できていなかったんだと思いました。運がいいことに、その5年の間も出演作は途切れることなくあったので、主演を務める方がどういうふうに周囲を引っ張っているのか、周りの方がどういうふうに支えているのか、アンテナをはってみたり。スタッフさんと話をして、照明や音響がどういうふうに成り立っているのか聞いてみたり。演劇というもの、主演であるということ、役者であるということについて、ものすごく考えました。 ──やはり、主演は特別?  主演にこだわっているわけではないんです。バンドでボーカルをやるのか、ギターをやるのかという、担当の違いのようなものだと思っています。ただ、どの作品においても、主演の方にはプレッシャーがあると思うので、少しでも気が楽になるように、「みんなで作っているんだよ」ということを感じられるようにしたいなとは思っています。お芝居でというだけでなく、現場での“あり方”ですね。自分が主演で培ったことを、支える側でも発揮できたら、うれしいですね。 鈴木拡樹さん [撮影/馬場道浩、ヘア&メイク/AKI、スタイリング/中村美保、アートディレクション/福島源之助+FROG KING STUDIO、衣装協力<スーツスタイル> ジャケット¥85,000、パンツ¥37,500(ともにCRUCE&C/Karaln)シャツ¥23,000(kiryuyrik/Karaln)靴¥22,800(VARISISTA)<カーディガンスタイル> カーディガン¥25,000、カットソー¥12,000(ともにwjk/wjk base)パンツ¥28,000(MASON’S)] ──ベテランの役者さんでも舞台の上では緊張するといいますが、鈴木さんは?  周りからは「冷静だね」って言われますが、内心はやっぱり緊張してますね。ただ、緊張感がなさすぎるのもまずいので、それでいいのかなと思っています。公演を重ねるうちに、お客さんと共有している時間を楽しく感じ、空気感、波長がピタリと合うことがあるんです。そういう日はカーテンコールの拍手にも如実に表れるので、気持ちいいですね。 ──ご自身の性格は、どう分析していますか。  一番最初に浮かぶのは、「不器用」ですね。周りからは「器用」「冷静」って言われることもありますが、自己分析では逆です。不器用で、テンパりグセがある。テンパりグセは直したほうがいいとは思うんですが、不器用であるということは武器にもなると思っています。人から言われなくても「こういうところは直さなくちゃダメだな」と、自分にダメ出しができますし、できないときにも焦らず、一つひとつ地道に、人の2倍、3倍時間がかかったとしても、少しずつ改善しようと進んでいけます。 ■夜走り、気がすむと帰る ──周囲から怒られたり、指摘を受けたりすることが少なくなると、自分で気づくことがより重要になるのでしょうか。  年齢が上がってくると、そうなりますね。だから自分で気づいて改善するというのは大事です。 ──最近は「映画刀剣乱舞」への出演、テレビアニメ「どろろ」の声優など、舞台以外にも活躍の幅を広げています。  自分で意図していたわけではなくて、与えていただいたチャンスといいますか。ここ最近、いろんなことに挑戦させていただいたこともあって、より舞台の稽古が楽しいですね。初心に戻るような感覚もあって。やっぱり、「ホームは舞台」という思いがあるんだと思います。 ──忙しい日々かと思いますが、プライベートの楽しみは?  固定の趣味はランニングです。今は毎日、夜に走っているんですけど、記録とか、どのくらい走ったかということには興味がないんです。コースもあまり決めずに出かけて、気がすんだら帰ってきます。まったく無心のときもありますし、台本読んでから走るときは、頭の中でごちゃごちゃ考えたりもしますね。走るのはもう習慣です。幼稚園くらいの頃から続けていて、園から帰ると「遊びに行ってくる」じゃなくて、「走りに行ってくる」と言って出かけていました。 ──学生時代は、陸上部だったとか?  いえ。体育の長距離が速かったので、先生から「やってみたら」と言われたこともありましたが、競技としてやるのはちょっと違うんです。学校のマラソン大会も、走り始めはみんなと同じようにイヤでした(笑)。 ──演劇の体力作りにも、役立ちそうです。  結果としてですが、仕事にも役立っていてよかったなと思います。あとは少し前までオリーブにハマっていました。盛り合わせのオリーブが好きで、おいしいお店を探したり。今はちょっと落ち着きましたが、オリーブブームは2、3回来ているので、また来ると思います(笑)。 (取材・構成=野村美絵[本誌]) ※週刊朝日  2019年3月8日号
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