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「ママ、お仕事辞めて」働く母のジレンマ解消までは遠い?「平成は過渡期」との声も
「ママ、お仕事辞めて」働く母のジレンマ解消までは遠い?「平成は過渡期」との声も
今は家事代行サービスのベンチャー企業「CaSy(カジー)」で広報として働く里田恵梨子さん(左)。「共働きの子育て世代の負担を少しでも軽くしたい」  平成がもうすぐ終わる。朝日新聞取材班が出版した『平成家族 理想と現実の狭間で揺れる人たち』(朝日新聞出版)には、昭和の慣習・制度と新たな価値観の狭間でもがく家族の姿が描かれている。平成になり、共働きが当たり前となるなかで、仕事と育児の両立に悩む女性たちは依然多い。「女性活躍」が叫ばれる一方、労働時間を重視する昭和時代の考えは根強く残る。その一端を本書から紹介する。 *  *  *  女性活躍が叫ばれる一方、実際にはさまざまなハードルがある。  現在はベンチャー企業の広報担当として働く里田恵梨子さん(36)は大学卒業後、MR(医薬情報担当者)として製薬会社に就職した。  半年間の研修後、札幌に赴任。さらに半年後に岡山への異動内示が出た。当時は、東京で働いていた今の夫と遠距離恋愛中。  このまま転勤を繰り返しながら、交際を続けていけるだろうか。互いに不安が募った。 「会社はいくつもあり、仕事は変えられる。それよりも付き合ってきた彼との関係を大切にしたい」  入社1年で会社への未練はあったが、2人でよく話し合った結果、会社を辞め、夫が住む東京に行き、結婚。その後、精神保健福祉士の資格を取得し、病院で働き始めた。  精神障害を抱えた人々の社会復帰や社会参加を支援する仕事で、MRと異なり、患者と直接やりとりできる仕事に、やりがいを感じていた。  一方で、20代後半になり、周りの友人らが出産をするのを見聞きし、子どもがほしいと思い始める。  ただ、不妊症だったため、子どもを授かるためには不妊治療が必要だった。当時の勤務先は、自宅から片道1時間40分。  不妊治療と並行しながら働くのは難しく、治療をしながら働ける職場を求めて、28歳で屋外広告会社に転職。仕事内容よりも、子どもを授かることを最優先に考えての決断だった。  その後長女を出産。社内で唯一の短時間勤務者として職場復帰した。当時、会社が営業態勢を拡充したことで業務量が増え、復帰前と比べ、社員に余裕がなくなっていた。  保育園の送りがあるとして、朝の会議は免除されていたが、「なぜ特別扱いをするんだという周りの視線を感じ、居心地が悪かった」。  仕事が終わらず、娘を寝かしつけた真夜中や明け方に自宅で仕事をすることも。夫は心配してくれたが、会社での自身の立場との「板挟み」になり、夫が眠った後の深夜に一人起き、仕事をしていた。  顔からは次第に笑顔が消え、当時3歳だった娘をきつく叱ってしまうことも。娘は保育園でも不安定になり、突然泣き出すこともあった。  そんなある朝、玄関でいつものように娘に靴を履かせようとしていたときだった。 「ママ、お仕事辞めて」  目の前が真っ暗になった。思わず両手でギュッと抱き締めると、娘の目から涙がこぼれた。「このままではいけない」。仕事と家庭が両立できる仕事に変えようと考え、派遣社員の仕事を探し始めた。  しかし、派遣先との面談で、担当者から思わぬ言葉をかけられる。 「派遣の仕事で良いのですか。決められた仕事を何年も続けることはできますか」  屋外広告会社の仕事は厳しかった一方で、仕事のやりがいを感じていた。  ターミナル駅に新たな街頭ビジョンを作り、PRをまかされたときのこと。社内に当時いなかった広報担当を自ら買って出た。  発表会の内容を中心になって企画。多くのメディアを集め、テレビでも放送され、自社の商品を広く伝える広報の魅力を感じた瞬間だった。  そうした経験から、決められた仕事を繰り返すのではなく、自分で企画し、進めていける仕事がしたいと思い直した。  その後、広報の仕事を軸に転職活動をして出会ったのが、家事代行サービスの「CaSy(カジー)」(東京)。  使ったことはなく、詳しいことは知らなかったが、「私と同じ共働きの子育て世代の負担を少しでも軽くするため、サービスの認知度を高めたい」と考え、転職を決めた。  現在は週3日間の在宅勤務制度を活用し、家庭と仕事のバランスを取りながら働く。  夜中に仕事をすることもなくなった。仕事を辞めてほしいと言った娘は5歳になり、「かじだいこう(家事代行)」という言葉を覚え、いまの会社が好きだと話す。 「ママはこんな仕事をしているんだよ、と娘に胸を張って言える仕事をしていたい」  立教大の中原淳教授とトーマツイノベーションが2017年3月に、小学生以下の第1子を持つ共働きの母親500人にネットで調査したところ、「仕事と育児の両立がうまくできている」と答えたのは、36.8%だった。  多くの企業は短時間勤務や在宅勤務などの制度を設けているが、働く母親の大半は、うまく両立ができずに悩んでいる。  中原教授は「制度はすぐに変えられるが、働く人の意識はすぐには変わらない。働き方が多様になる中で、労働時間の長さが重視されてきた昭和時代の考えをアンインストールしなければならない」と話す。  いまは、多様な働き方に対する世代間の意識のずれによって摩擦が起きているとして、「平成の時代は過渡期だ」と言う。  そうした意識を変え、さまざまな事情を抱えている人たちが、働きやすい社会を作るためにはどうしたら良いのか。  中原教授は、企業が多様な働き方を認めていくこととともに、管理職のマネジメント力を強化する必要があると指摘する。 「働いた時間ではなく、働き方に応じた仕事の成果や成長を丁寧に見て人材を評価しなければならない」  ただ、多様な働き方に合わせた評価方法が定まっておらず、悩んでいる管理職も少なくないといい、「給与を含めた適切な処遇に加え、働き方改革に対応した管理職の育成が重要だ」と話す。(朝日新聞記者・篠健一郎)
仕事働く女性
dot. 2019/04/29 08:00
昭和ノスタルジー、『サザエさん』『ドラえもん』『ちびまる子ちゃん』。そして、その先の先へ
昭和ノスタルジー、『サザエさん』『ドラえもん』『ちびまる子ちゃん』。そして、その先の先へ
「令和」を目前にした今、早ふた昔前となる「昭和」。すでにノスタルジックな響きすら感じられますね。今日4月29日は「昭和の日」。あなたの「昭和といえば?」は、どんなことでしょうか。60年以上の長きに渡って続いた時代を語るのは容易ではありません。 そこで今回は、戦後の昭和を代表する3つの漫画から時代を振り返ってみたいと思います。 あの頃は良かった!?誰もが未来を信じていた時代 昭和(1926年12月25日~1989年1月7日)は、第二次世界大戦の終結を境に戦前と戦後に大きく分断され、戦前を近代、戦後を現代と捉えられることもあります。戦後の日本は、戦後復興期、高度経済成長期、安定成長期、バブル経済期を経て、現在まで続く平成不況期という歴史をたどることになります。 昭和を象徴する言葉に「一億総中流」があります。高度経済成長によって、物質的な豊かさを享受できる消費文化が国民に広く行き渡ったことが、このような時代の空気を醸成したのですね。格差社会といわれる現在からみると、戦後の昭和は「古き良き時代」なのかもしれません。 この古き良き昭和の時代を舞台にした、現在も国民的人気を誇る漫画があります。『サザエさん』『ドラえもん』『ちびまる子ちゃん』を紐解きながら、昭和を再発見する旅に出てみましょう。 戦後間もなく連載スタート!一億総中流の家族像『サザエさん』 新聞の4コマ漫画として1946年(昭和21年)から連載を開始。作者の長谷川町子さん(1920年1月30日 〜1992年5月27日)が住んでいた「東京都世田谷区桜新町」を舞台に、明るく元気なサザエさん一家の日常生活を描き人気を博しました。1969年(昭和44年)にテレビアニメとして放送が開始されて以来、国民的な番組して現在も継続中。本年2019年に放送50周年を迎え、世界で最も長く放映されているテレビアニメ番組としてギネス世界記録に登録されています。 『サザエさん』は、日本が驚異の経済復興を遂げようとしていた時代に誕生しました。終戦からわずか11年後の1956年、政府の経済白書で「もはや戦後ではない」と宣言されます。テレビ放映が始まったのは、高度経済成長期真っ只中。会社員の夫と専業主婦の二世帯家族である磯野家は、「一億総中流」の代表的な家族像でした。定時で仕事を終え、駅前の居酒屋で集う波平さん(54歳)とマスオさん(28歳)。サザエさんは24歳の主婦で、母親であるフネさん(50ン歳)のサポートのもと一児(タラちゃん・3歳)の子育て中。夕食は家族揃って食卓(ちゃぶ台)を囲み、会話を交わします。深夜残業、晩婚化(サザエさんは21歳で出産!!波平さんは51歳でおじいちゃんに!)やワンオペ育児といった社会問題は見当たりません。 今の世相とは異なる違和感を感じながらも、幼少期の頃の記憶が呼び起こされ、懐かしく感じる人も多いのではないでしょうか。 1970年代に子どもだった人々の原風景、『ドラえもん』と『ちびまる子ちゃん』 藤子・F・不二雄さん(1933年12月1日 〜1996年9月23日)による『ドラえもん』がはじめて掲載されたのは、『小学一年生』などの小学館学年誌の1970年1月号。ドラえもんやのび太たちが住むのは「東京都練馬区月見台すすきヶ原」という設定。一方、『ちびまる子ちゃん』の舞台となるのは、作者のさくらももこさん(1965年5月8日〜2018年8月15日)が1974年から1975年にかけて過ごした静岡県清水市(現・静岡県静岡市清水区)です。のび太の半ズボン、ちびまる子ちゃんの赤いジャンパースカートは、この時代の子どもたちの典型的な服装を象徴しています。家は戸建てのマイホーム。近所には空き地があり、さまざまな出来事の舞台になります。描かれる家族や友だちのとの何気ないやり取りに、昔の記憶がよみがえったり、なつかしい友人を思い出したり。1970年代というひとつの時代と文化を背景としながら、普遍的な日常を映し出す『ドラえもん』と『ちびまる子ちゃん』は、子ども向けのアニメというジャンルを超えた作品といえるのではないでしょうか。 アニメのなかでは昭和の一時代が舞台となっている『サザエさん』『ドラえもん』『ちびまる子ちゃん』ですが、それぞれ映画化されたり、舞台作品となって、今の時代を反映する表現に進化しています。もともと4コマ漫画だった『サザエさん』は、連載の後期から終了する1974年には社会風刺をネタにした作風が多くなったそうです。長谷川町子さんが、もし今の時代を漫画にしたらどんな作品が生まれたのでしょうか。待機児童問題に立ち上がるサザエさん、早期退職し盆栽を極める波平さん、一念発起し起業に奔走するマスオさん、アプリを作って一攫千金を目論むカツオくん、塾通いに疲れるワカメちゃん、インスタにレシピを投稿して「いいね!」を量産するフネさん……。 時代に翻弄されながらも明るく力強く生きるサザエさん一家の日常を妄想しつつ、昭和から平成、そして令和へと3つの元号を経験できることに感謝し、来るべき新しい時代を心穏やかに迎えたいと思います。 参考サイト 長谷川町子美術館
tenki.jp 2019/04/29 00:00
ただ今見頃の藤。樹齢千年の生命力を感じよう!
ただ今見頃の藤。樹齢千年の生命力を感じよう!
桜の花もが終わると、山は新緑の季節を迎えていきますが、ゴールデンウイークの行楽シーズンの頃に、今度は藤の最盛期を迎えます。 マメ科の植物なのでつる性で、花は蝶の形。これらが連なり房となって咲きます。つるが左巻きで花穂が短いのが「ヤマフジ」、つるが右巻きで花穂が長いのが「ノダフジ」です。特に、日本を代表する原種・野田藤(ノダフジ)は、色ごとに、うすべに藤、むらさき藤、長藤、八重の藤、白藤と色も形も多様で楽しめます。 藤と言えば日本古来の花木と言われ、令和の年号の由来で話題となった「万葉集」にも数多く歌われてきました。この時代に栄えた藤原家のシンボルとして、藤は平城京のおかれた奈良近辺には特にたくさん植えられました。花房が2メートル以上にも及ぶ春日大社の鈴なりの藤は一見の価値があります。本日は、今見頃の藤について、よもやま話をみていきましょう。 藤は女性の象徴 日本では古くから、藤を女性、松を男性のシンボルとしていました。 その二つを対で植えることで、男女の愛を詠った、清少納言の枕草子の中にこんな句があります。 色あひふかく、花房長く咲きたる藤の花松にかかりたる 男性である松に、着物を着た女性がしなだれかかる様子を思って詠んだのでしょうか。とても情緒があり、しっとりとした歌です。このように平安時代には、藤の花を詠んだ句がたくさん残されています。紫色が位の高い人が着る、高貴な色でしたので、藤の花が愛されたのは、その色のもつ艶やかさもありますね。さらにもっと古くからの万葉集の中にも登場します。「藤浪」「藤波」は、風に吹かれて波のように揺れ動く、藤の花(の姿)のことです。 藤波の 花は盛りに なりにけり 奈良の都を 思ほすや君 (藤の花は 今満開になった 奈良の都を 恋しく思われますか あなたも)大伴四綱(巻三―三三〇) 藤波の 咲き行くみれば ほととぎす 鳴くべきときに 近付きにけり (藤の花がだんだん咲いていくのを見ると ほととぎすが鳴く時が近づいてきたなと思う) 田辺史福麻呂(巻十一―二八三四) 海外からでも、藤の木は話題のスポット!?生命力あふれるアバターの「エイワの木」 埼玉県春日部市の庭園で、樹齢1200年を超えるという藤の木の花が見頃を迎えニュースとなりました。 一時期、映画「アバター」に登場する木に日本の藤がそっくり!と海外で話題になりましたが、樹齢1200年の生命力を感じにぜひ訪れたいものです。幻想的で生命力あふれるシーンで話題になった映画アバターを一度ご覧になってから行くと感動もひとしおかもしれませんね。このほか花の滝のような迫力の藤棚で話題の公園も見逃せません。 ・河内公園(福岡県) 海外のメディアで「実在する世界の美しい場所10」「日本の最も美しい場所31選」に選出されるなど、国内外から多くの観光客が訪れます。 約1000坪の大藤棚やアーチ状の藤のトンネルは、物語の世界に迷い込んだような美しさです。 ゴールデンウィーク中の入場には予約チケット購入が必要だそうです。 https://kawachi-fujien.com/ ・あしかがフラワーパーク(栃木県) 樹齢150年の大藤による600畳を超える圧巻の藤棚は、海外メディアでフィンランドのオーロラなどと並び「2014年 世界の夢の旅行先10ヶ所」に日本で唯一選ばれるほど。 また、日本夜景遺産にも選定されており、2016年・2017年と2年連続でイルミネーション部門で全国1位を獲得したそうです。 https://www.ashikaga.co.jp/ 花言葉は「あなたを歓迎します」 ハワイでは特別な人や特別な日、結婚式や誕生日などの記念日やイベントなどでは「感謝の気持ち」を込めて花を編んでつなげたり、糸で連ねてレイを作り送ります。 また、受け取ったレイを首にかけるということは、レイをもらった方も相手の気持ちを「受け止めましたよ」という意味でもあります。 藤の花の花言葉は「あなたを歓迎します」という意味。藤の花の長い房は、フラのレイとイメージが重なります。偶然でしょうか?藤棚の下や藤棚のトンネルを通ると、歓迎されたような心持になりますね。また、山道で、自然に生えるヤマフジの枝が風にたなびく様子も、確かに歓迎されたような特別な気持ちになりますね! 花々が美しい彩で目を楽しませてくれますが、紫外線も強まり気温の変化もある季節となりました。世の中は大型連休モードで、お休みの方もお仕事で稼ぎ時の方も、どうぞ心身ともにご自愛なさり健やかにお過ごしください。
tenki.jp 2019/04/28 00:00
14歳年下から突然の告白! 52歳女性が下した決断とは?
14歳年下から突然の告白! 52歳女性が下した決断とは?
泊まるときはいつもホテル(※写真はイメージ) 「私たち、結婚しました!」――続けて届いた2通の結婚報告はがき。お葬式に参列することのほうが増えていたというのに、まさか同年代である50代の友人から結婚話を聞かされるとは。もしかして、と調べたところ、ここ20数年で50歳前後の結婚増加が判明。総数から見れば少ないものの、“50歳からの結婚”が増えていることは間違いないようだ。連載「50歳から結婚してみませんか?」では、結婚という大きな決断を50歳で下すことになった5人の女性の本音とリアルに迫る。第26回は、14歳年下の男性と結ばれた品川エミさん(仮名・62歳・デザイナー)の後編をお届けする。 *  *  *  これまで「仕事一筋」で生きてきたエミさんが、仕事でのプレゼン能力を伸ばすために参加した教室で出会った14歳年下の男性からデートに誘われたのは52歳のとき。 「教室に入った頃の50代前半の私は、スピーチはもちろん、この年で敬語も上手に使えず、初対面の人も苦手でした。でも、その教室は自分らしくあることに価値があるという文化がありました。もしかしたら、そんなところが年齢をあまり感じさせなかったのかもしれません」  最初の観劇から2カ月ほどして、また彼からお芝居の誘いが。でも、その時は仕事が忙しく断ってしまった。 「なのに、3度目のお誘いが来たんです。そしてその日は彼の誕生日でした。何度も誘ってくれてメールで連絡し合うちに、彼は少しずつ私の人生の一部になっていきました」  でも、自分の年齢を正直に言ったらきっと逃げてしまう。観劇の後、とにかく誕生日を祝ってあげようと、トルコ料理のレストランを予約し、用意したケーキを店員さんに出してもらうというサプライズを敢行。 「そしたら、いきなり『つき合ってください!』ですよ、その場で。彼は4、5歳上くらいに思っていたみたいで。『いやいや、私はすご~くお姉さんだから』って。うれしかったけれど、確認しました。『あなたいくつ?』『僕は38歳です』……。『もし私とずーっとつき合っても、あなたはお父さんにはなれないですよ』みたいな話をしました。でも、一方で『よくぞこの私を見つけましたね。お目が高い!』と、心の中で彼を誉めたたえてもいました(笑)」  1週間後、今度は一緒に眼鏡を選んで欲しいからとデートに誘われる。 「私はこのとき何かが弾けて、髪の毛を金髪にしました。やってみたいことの1つに金髪があって、うれしくて頭がパーになったのかも。『金髪にするなら今しかない!』と思って、有名な高級美容室で脱色して金色に染めて。めっちゃ気合い入ってましたね。実は彼も金髪で、会社員なのにビジネススーツで金髪、しかも似合ってなくて(笑)。お揃いにしたわけではないけれど、やってみようと」  眼鏡ショップの前で待ち合わせをし、彼はびっくりしたが、「似合うね!」と言ってくれた。そして、今日こそは年齢を言おうとエミさんは心に誓っていた。 「このまま年齢を言わないのはごまかすようだし、なぜ私が後ろめたい思いをしなければいけないのか。逃げるならさっさと逃げてもらったほうがいいと思って。眼鏡を選んだ後、食事をしながら言ったんです。『私は52歳です』って。そしたら、彼が“しゅー”ってのけぞったのがわかりました(笑)。ああ、せめて私が49歳で彼が35歳なら、十の位は1つしか違わないのに、52歳と38歳って。それはないでしょ、神様~って思いましたよ」  ここで終われば、失恋も武勇伝の1つにできる。終わりなら終わりでもいいと、清々しいような淋しいような複雑な気持だった。  12月の街はクリスマスのイルミネーションでキラキラしていた。 ■1回1回のデートが楽しければいい  年が明けたら、何とまた彼から連絡があった。 「年齢がわかったのに連絡してきてくれて、うれしかったですよ。でも、この年齢でつき合うことになれば、もしかして私が期待して“結婚”を意識してしまうようなことになるかもしれない。そうなると、嫌われないようにしなきゃとか、相手を盛り上げなきゃって、かえって執着してギクシャクしてしまうかもしれないでしょ。だからこれからも、もし彼がデートに誘ってくれるなら、彼が楽しいかどうかは置いておいて、自分だけは楽しく幸せでいよう、1回1回のデートが楽しければそれでいいって考えるようにしたんです」  彼が隣の県の自宅からエミさんの家まで車で迎えに来てくれて、菜の花が咲く海岸道路をドライブしたことも。その日はバレンタインだった。 「つき合っているなら、手作りチョコだと思って、50歳にして初めてチョコを作りました。彼は早朝からのドライブですごく疲れたみたいで、チョコの箱を開けないで帰ちゃいましたけど(笑)。彼の車は白で、顔がじゃがいもみたいだから、迎えに来てもらったときは、白馬(白い車)に乗った王子様(男爵)って本当にいるんだ!と心の中で盛り上がっていました、うふふ、余談ですけどね」  何回もデートを重ねたが、デートは日帰りで意外に“清い”つき合いが続き、エミさんは彼がもしかして何か特別な事情があって、私とのつき合いはカモフラージュではないかと疑ったこともある。 「『ホテルを予約したから、今夜はホテルに泊まろう』って。すごく突然、お泊りデートの誘いがありました。えーっ!って感じで、焦りましたよお」  その頃、エミさんは病気のお父さんにアロママッサージをよくしてあげていた。泊まった夜、彼にもしてあげたところ、すごく気持ちがよかったようで、心からリラックスできたそうだ。 「年上っていいかも、って思ったかもしれませんね(笑)。その後はデートをするたびに彼が同じホテルを予約するので、泊まるともらえるぬいぐるみがたくさんたまっちゃって。1泊で2個ももらえるから、ベアちゃんが何匹も!」  年末には海外旅行をしたことも。 「彼はマイルがたまったから旅行をするというので、旅行の最終日をシンガポールにしてもらい、私はシンガポールで彼と落ち合いました。その日は彼の誕生日。トルコ料理のレストランで彼の誕生日を祝ってからちょうど1年経っていました。私はシャンパンと花火のロウソクを立てたケーキを用意して。私はこの日もサプライズができて大満足でした。彼は疲れてヨレヨレでしたけど」 ■思いがけないプロポーズにうれし涙  年明けの1月、公園を散歩して、おだやかな海を見ていたときだ。 「『今日は暖かいね。ずっとこんな景色を一緒に見ていたいね』と言うと、『僕と結婚してください』ってプロポーズされたんです。私の人生にこんなことがあるのかと、うれしくて驚いて、大泣きしました」  結婚したいほど、私のことが好きなのかと、「ありがとう」という気持ちだった。  震災が起きた3月11日は、お互いメールで安否を確認。そのうち電車も動くのではないかと思っていたが、夜になっても交通網の麻痺は解消せず、自宅には帰れなくなった彼に、「私の家まで歩いてくれば何とかなるよ」と伝えたエミさん。夜中の2時か3時に彼が家に到着したときは、本当に安心したという。  泊まるときはいつもホテルだったが、そのうち、彼の家にも泊まるようになった。後でわかったことだが、彼にはアレルギーがあり、自宅以外の誰かの部屋に泊まることができなかったのだという。  隣の県の山の近くに住んでいるのも、きれいな水のあるところに住みたいということからだ。そして、結婚後はエミさんもそこに引っ越し、一緒に住むことになる。 「結婚するかどうかは、そのときはわからなかったけれど、お互いに一緒にいて自然でいられる人に、やっと出会えたんだなあと幸せな気持ちでいっぱいでした。以前感じていたような、もしかして彼に嫌われるとか、もっと好かれたいとか、そういう欲はもうありませんでした」 ■彼より年が近いご両親に挨拶!  5月になり、彼の家に挨拶に行った。14歳年上の自分を気に入ってもらえるだろうか。不安がないと言ったらウソになる。  彼のご両親にしても、どんな女性を連れてくるのだろうか、おかしな後妻業の女にだまされているんじゃないか、と不安があったはず。 「彼とは14歳違いますが、彼のお義母さんと私は10歳違い。お義母さんのほうが年が近いんです(笑)。ご両親は感じがよく、リベラルで話が合いました。ただ、私が個人事業主なので、『経営者は借金が当たり前だけど、借金はありませんか?』と聞かれました。『私は借金は嫌いです。1円もありません!』と即答しました。また、『年金は入っているの?』とも。もちろん『入っています!』と」  まさかここで年金の質問が出るとは予想していなかったが、エミさんの年金へのこだわりは無駄ではなかったといえる。  エミさん54歳、彼は40歳、周囲の祝福を受けて、結婚した。 「今もとても仲よしで、けんかをしたこともありません。結婚してから8年、毎日駅まで彼を送っていきますよ、手をつないで。男の人と手をつなぐ経験がほとんどなかったので、つないでいる人がうらやましかったんです。今、その分を取り戻そうと思って。駅までの短い時間にいろんな話をします。“朝デート”と密かに名づけて。帰り道はウォーキングキングを30分。そして自宅に戻り、デザインの仕事を今も続けています」 (取材・文/時政美由紀) 時政美由紀(ときまさみゆき) (株)マッチボックス代表。出版社勤務後、フリー編集者に。暮らし、食、健康などの実用書の企画、編集を多数手がけている
50歳から結婚してみませんか?婚活時政美由紀結婚
dot. 2019/04/26 16:00
カンニング竹山「10連休は愚策 いつまで民族大移動やってんだ!」
カンニング竹山 カンニング竹山
カンニング竹山「10連休は愚策 いつまで民族大移動やってんだ!」
カンニング竹山/1971年、福岡県生まれ。お笑い芸人。2004年にお笑いコンビ「カンニング」として初めて全国放送のお笑い番組に出演。「キレ芸」でブレイクし、その後は役者としても活躍。現在はお笑いやバラエティー番組のほか、全国放送のワイドショーでも週3本のレギュラーを持つ(撮影/写真部・小原雄輝) ※写真はイメージ(gettyimages)  もうすぐ10連休に突入する。しかし、お笑い芸人のカンニング竹山さんは「休める人からも文句しか聞かない」と、一斉連休のデメリットを指摘する。「“みんな一緒”政策は今の時代に合っていない」と訴える真意とは? *  *  *  10連休って必要なんだろうか? 僕は疑問なんですよ。これって、いかにも政治家とか役人が考えた政策だなあと思う。だって困ることしか無いと思うんですよ。サービス業とかだったら、仕事は休めないのに子どもの保育園が閉まっているということもあるし、臨時の保育園がありますよって言ったって、子どもは慣れない場所で不安だろうし、親もルーティンを崩して遠くの園まで行かなきゃいけないだろうから迷惑でしょ。銀行も役所も閉まっちゃうし、病院とか介護サービスとかも大丈夫なんだろうか。入院している人は問題無くても、外来は閉まっちゃうところが多いだろうし、急に大きな事故とか何かあったらって考えるとちょっと心配ですよね……。  旅行に行くにも料金はつり上がっているだろうし、子どもがいてどこかに出かけたいと思っても、どこも人混み。これって実は、良いことが一つも無いんですよ。休める人でも、喜んでいる声をほとんど聞かないのはそのせいだと思うんです。  経済効果としては「いっせーのーせ」の休みのほうが消費が増えるのかもしれないけど、潤うのは鉄道会社と航空会社、観光地とか商業施設だけだと思うんですよ。それって全体の何%? 社会全体の利益を考えていないですよね。  みんな各々の事情があって、例えば、生活のために事務系の派遣社員とかしている人だったら、10日も休みになると給料が減って困るかもしれないし、子どもだって学校の授業日数が足りなくなって、別の日に授業を増やさなきゃいけないかもしれない。  いつまでこんな“民族大移動”みたいな休み方をしているんだろうか……。政府がみんなを一つのことに向けて煽って盛り上げて、みんな騙されて群がるっていうのはもういらないと思う。  本当に連休を取ることを考えてくれるなら、本来は「会社に雇用されている人は、今年から2020年までの間に自分の取りたいときに10日間の連休を取れます」って、分散させるほうが絶対に良い。会社の都合とか関係なく、好きなときにっていうのがミソで、それを妨げたら政府が罰則を与えますよってことにしたら良いと思う。ちなみに子どもも学校を休んでOKね。  友だちとか家族と合うときに10連休が取れて、ハイシーズン以外の時期にズラせた方が、安く済むし、人混みじゃない場所でゆっくりできて絶対に楽しいんじゃないかなと思うんですよ。働き方改革関連法の有給義務化は5日間だし、まとめて取れるわけじゃないですからね。  10連休で良い思いをするのって、官僚と役所と大手企業と、あとは子どもだけですよね。いかにも庶民のことをわかっていない政治家の考えることだなと思います。  新しい時代を迎えるお祝いだとしても、10日は長いでしょ! 休みも連休もあった方がいいけど、社会のためになっていないと思うんです。2020年までに10連休を取ってくださいって時期を選ばせる方が、一度やってみて良ければ次の年も取得する人が出てくるだろうし、それこそ働き方改革なんだと思うんです。  平成から令和っていう新しい時代になるんだから、何事も「いっせーのーせ」にするのはそろそろやめませんか?  働き方改革だって一律で制限するのも、違うんじゃないかと僕は思うんですよ。もちろん過労死の問題もパワハラとかブラック企業の問題もあるから、対策をしなきゃいけないんだけど、仕事が生きがいで働きたいって人だっているわけです。「職業選択の自由」だってあるのに、一斉に“働き方改革”をするのって矛盾していませんか。選択の自由を持つという本質を見落としているような気がするんです。  この前、あるテレビ局の社員と話をしていたら、「働きたい人ってどのぐらいいるんだろう? それが7割を超えていたら、この政策って正しいのか?」っていう話題になったんですよ。  消費税も上がるだろうから、残業代が無いと困る人も出てくる。それぞれ給与体系も違うし、大企業に属していない人がこれだけ多くなってるわけです。まとまって何かをしようという文化はもう時代遅れな気がするんですよね。政治家や官僚の頭の中では「日本人はまとまっている」というイメージなのかもしれないですけど、そんなことない! 考え方もそれぞれだし、大きな災害とか戦争とかが起こらない限り、まとまらないと思う。それぐらい個人の自由を大事にする社会になっていると思うんです。  芸能界でも、働き方改革が始まっていて、芸能事務所では会社員のマネージャーがシフト制っていうところも出てきています。タレント本人は個人事業主だから、朝から夜まで働いていたとしても、事務所の人間は夕方5時で別の担当と交代とか。クリエイティブな仕事をしている人って、時間とか表面的なことで評価されていいのだろうかとも思うんですよね。  残業ナシで働いている現場のADだって、いつか出世してディレクターとかプロデューサーになるときがくる。それまで時間を軸に働いてきた人って、クリエイターとしての腕とかセンスを磨けているんだろうかっていう疑問もある。  休み方も働き方も「前にならえ」で進めるのは、もういまの時代に合わないし、ほころびが出てきているなと思います。
ゴールデンウィーク働き方
dot. 2019/04/24 11:30
【トニー賞】ナビゲーター井上芳雄×スペシャル・ゲスト堂本光一 インタビュー&華麗ビジュアル公開
【トニー賞】ナビゲーター井上芳雄×スペシャル・ゲスト堂本光一 インタビュー&華麗ビジュアル公開
【トニー賞】ナビゲーター井上芳雄×スペシャル・ゲスト堂本光一 インタビュー&華麗ビジュアル公開  2019年6月10日に米ニューヨークで開催される【第73回トニー賞授賞式】のWOWOW生中継のナビゲーターを務める井上芳雄とスペシャル・ゲストの堂本光一の対談、そして毎年のレッドカーペットで飾られるバラをモチーフにしたプロモーションビジュアルが公開された。  6年連続で【トニー賞】授賞式のWOWOW生中継番組に出演することになった井上は「よく6年も続けてやらせていただいているなと思っています。当たり前ですが、出てくる作品が毎年違うので、慣れたという感じもせずに、毎回ドキドキしながらその時を迎えるという気持ちは変わらないです」とコメントしている。堂本も「【トニー賞】はいつもチェックしています。授賞式は、これは観ておくべき作品というものが凝縮された形で見られるので、すごくお得というか。ミュージカルにそんなに興味がない人にも、ミュージカルの魅力が伝わるんじゃないかなと思いますね」と続けた。  このたび2人は、授賞式の生中継番組とは別に、5月25日放送予定の事前番組『トニー賞直前SP 2019 ~僕たちのブロードウェイ物語~』の収録で、2人一緒にNYのブロードウェイに行き、生の空気を体感することが予定されている。井上が「ただただ楽しみだなという感じです。今までも事前番組でNYに行かせてもらったことがありますけど、基本的にはひとりでした。だから今回、光一くんと一緒に新作を観られるのも楽しみだし、その作品についてどうだった、ああだったと話が出来るのも楽しみですね」と語ると、堂本は「去年、『ナイツ・テイル―騎士物語―』の稽古が始まったくらいの時に、ワークショップ的な、リズムに合わせて自分をアピールするという稽古を僕らはやっていたんですけど、その時に芳雄くんはそこにいなくてNYに行っていたんです。今考えれば、あの時はこの【トニー賞】の取材に行っていたんですよね」と笑いながら述懐。井上も「演出家からも、芳雄はひとりだけいい仕事をしに行くんだと言われて。今年は申し訳なかったという気持ちも込めて一緒に行かせていただきます」と笑顔で付け加えた。  また授賞式に期待するところとして、「司会者が誰かによって雰囲気も違ってくるので。今年はジェームズ・コーデンさんが司会ですが、本当に面白いし、司会もうまい。盛り上がるだろうなと思います。いろんな俳優が出てきて華やかな面もありますが、その中で皮肉がきいていたり、風刺があったりするんですよね。そこから世界が見えてくるところがあるので、楽しみですね」と語る井上に対し、堂本も「授賞式では、それぞれの作品を代表するシーンが演じられたりするので、それを観られるのはすごくぜいたくだと思うんですよね。演者もその短い時間にかけないといけないし、きっと高揚するものがあると思うんですよ。でも単純に思うこととしては、賞レースでなくてもいいんですが、日本でもこういう番組があればいいのになと」とコメント。その言葉に井上も「いつか日本でも【トニー賞】のようなものができれば、また違う盛り上がりがあるんじゃないかなと思いますね」と同意した。  ミュージカル『ナイツ・テイル―騎士物語―』で共演して以来、さらに親交を深めたという2人。「今回、芳雄くんと一緒に仕事ができるというのも、すごくステキなめぐり合わせで。すごくうれしいことですね」と堂本が語れば、井上も「光一くんが来てくれることで広がることがありますし。影響力もすごいので感謝しています。光一くんも進行が上手なので、お互いに助け合いながらやっていきたいと思います」と気の合うところをみせた。  そして最後に視聴者に向けて、まず堂本が「今見ておくべき、エンターテインメントが凝縮して見られる、すごくぜいたくな時間だと思います。この素晴らしいパフォーマンスを是非楽しんでいただければ」とコメント。井上も「日本では年々、ミュージカルが浸透しているかなと思いますし、ブームと言われて久しいですが、常に最先端のブロードウェイの息吹、空気を日本の皆さんにお届けしたいので、ぜひ注目していただければ」とメッセージを送った。 ◎放送情報 『生中継!第73回トニー賞授賞式』 2019年6月10日(月)午前8:00~、WOWOWプライムで生中継(二、同時通訳) ※2019年6月15日(土)夜7:00~、WOWOWライブで再放送(字幕版) 『トニー賞直前SP 2019~僕たちのブロードウェイ物語~』 2019年5月25日(土)夜6:45~、WOWOWプライムで放送 『トニー賞への招待#1』(無料放送) 2019年4月24日(水)夜10:45~、WOWOWライブで初回放送 「トニー賞直前!ノミネーション徹底解剖」(無料放送) 2019年5月22日(水)夜10:45~、WOWOWライブで初回放送
billboardnews 2019/04/24 00:00
俳優ロマン・デュリス、新作「パパは奮闘中!」での独特な演出方法に感嘆
古谷ゆう子 古谷ゆう子
俳優ロマン・デュリス、新作「パパは奮闘中!」での独特な演出方法に感嘆
Romain Duris/1974年、フランス・パリ生まれ。94年にセドリック・クラピッシュ監督の「青春シンドローム」でデビュー。代表作にジャック・オディアール監督の「真夜中のピアニスト」(2005年)、フランソワ・オゾン監督の「彼は秘密の女ともだち」(14年)など(撮影/写真部・片山菜緒子) 「パパは奮闘中!」/残業を重ねるオリヴィエの前からある日突然、妻が姿を消す。4月27日から全国順次公開 (c)2018 Iota Production / LFP - Les Films Pelleas / RTBF / Auvergne-Rhone-Alpes Cinema 「スパニッシュ・アパートメント」発売元・販売元:20世紀フォックス ホーム エンターテイメント ジャパン、価格1419円+税/DVD発売中  AERAで連載中の「いま観るシネマ」では、毎週、数多く公開されている映画の中から、いま観ておくべき作品の舞台裏を監督や演者に直接インタビューして紹介。「もう1本 おすすめDVD」では、あわせて観て欲しい1本をセレクトしています。 *  *  *  ある日突然、妻が出て行った。理由はわからない。残されたのは、二人の子どもたち。「パパは奮闘中!」でロマン・デュリス(44)演じるオリヴィエは、オンライン販売の倉庫でチームリーダーとして働き、妻の不在という現実と何とか折り合いをつけながら毎日を送る。  不安が募り子どもに対してつい口調が強くなる。おだてようとしても空回り。そのやり取りが自然で、とても演技をしているようには見えない。 「僕自身、これまで体験したことのないやり方だった」とデュリスが言う通り、これらのシーンは監督であるギヨーム・セネズ(40)の独特の演出から生まれた。  台詞は渡されず、シチュエーションだけを細かく教えられ、その場で感じたことをそのまま言葉にしていく。 「役を引き受けたいと思ったのは、まさにこの演出方法に惹かれたから。どうなるかは、撮影を始めるまで誰にもわからなかったけれどね。頭で考えすぎてはいけないと思った。続けていくと、どんどん自由になっていく気がしたよ」  子役はとくに、台詞があると「間違えたらどうしよう」と構えてしまう。けれど、この演出方法のもとではのびのびと現場で過ごすことができていた、とデュリスは言う。  オリヴィエの職場は、薄暗い倉庫だ。機械的に動く人々を束ね、ときに彼らの不平不満を全身で受け止める。 「実際に一日、同じような倉庫で過ごし、どんな会話が交わされるのか観察したんだ。オリヴィエと同じ仕事をしている人にも話を聞き、アマゾンに関する本も読んだ。俳優の生活とは、まったく異なる世界があるということを思い知らされたよ」  妻に出て行かれ、険しい顔をしていたオリヴィエの表情を再び穏やかなものにしたのは、周囲の女性たちだ。実の母、妹、同僚の女性──。妻の胸の内にはまったく気づくことができなかったオリヴィエだが、見返りを求めず集まってきた彼女たちの存在により少しずつ立ち直っていく。 「女性たちはみな、自分たちのやり方でオリヴィエに寄り添おうとする。とても美しい行為だ、と僕は思う」  本作はセネズ監督自身が離婚をし、子どもたちを引き取って暮らした経験をもとに生まれた。本作が長編2作目。監督の分身とも言える役を打診されたデュリスは、迷いなく引き受けた。 「前作を観ていたからね。僕はいつも、若い監督たちがどんな作品をつくるか、興味津々なんだ。どんなときも、好奇心を持って彼らのエネルギーに接したいと思っている」  取材中も、本連載の過去の誌面を見ては「この作品、観ていないんだ、良かった?」と気さくに声を掛けてきた。  俳優としてのキャリアは20年を超え、フランスを代表する俳優の一人となったいまも、“親しみやすい近所のお兄さん”のような魅力を放つ。デュリスのおおらかで誠実な人柄はスクリーンに確かに映り込んでいる。 ◎「パパは奮闘中!」 残業を重ねるオリヴィエの前からある日突然、妻が姿を消す。4月27日から全国順次公開 ■もう1本おすすめDVD 「スパニッシュ・アパートメント」  ロマン・デュリスが「俳優として生きていこうと決めた作品」として挙げたのが、セドリック・クラピッシュ監督の「スパニッシュ・アパートメント」(2002年)。  その8年前、美術を専攻する学生だったデュリスは、俳優を探していたキャスティングディレクターの目に留まり、クラピッシュ監督の初期の作品で初めて演技に挑戦。“現代のパリの若者”はデュリスのハマリ役となっていた。  まともに就職するとしたらスペイン語が必要、とバルセロナに留学することを決めた大学生のグザヴィエ(デュリス)。生真面目なイギリス人女性、ベルギーからやってきたレズビアンの女性ら、国籍も性別も異なる6人と共同生活を始める。  文化の異なる人々と過ごす、いざこざは絶えないが刺激的な日々。フランスに恋人を残してきたが、バルセロナでも恋にうつつを抜かす。  若さゆえ、自分は何でもできる、と信じるグザヴィエの姿は、観ていて清々しいほど。その後を描いた「ロシアン・ドールズ」「ニューヨークの巴里夫(パリジャン)」と合わせ“青春3部作”とされる。いつの日か、50歳になったグザヴィエも観てみたい。 ◎「スパニッシュ・アパートメント」 発売元・販売元:20世紀フォックス ホーム エンターテイメント ジャパン 価格1419円+税/DVD発売中 (ライター・古谷ゆう子) ※AERA 2019年4月22日号
AERA 2019/04/22 11:30
「魚介豚骨で独立するな」と師匠に言われても押し切った練馬のラーメン店主の挑戦
井手隊長 井手隊長
「魚介豚骨で独立するな」と師匠に言われても押し切った練馬のラーメン店主の挑戦
「特製四つ葉そば」は比内地鶏をメインに地鶏をブレンドした濃口醤油味。煮玉子をトッピングし、チャーシュー増しにした。一杯1030円(筆者撮影)  日本に数多くあるラーメン店の中でも、屈指の名店と呼ばれる店がある。そんな名店と、名店店主が愛する一杯を紹介するこの企画。埼玉県の郊外にありながら行列が絶えない名店「中華そば 四つ葉」。都内の人気店に勝るとも劣らない超洗練された一杯を提供する。そんな「四つ葉」の店主が愛する一杯は、大好きな魚介豚骨にこだわり続ける店主が作る究極の一杯だった。 ■寿司屋の息子が“ラーメン”で後を継いだ理由  ラーメン店を開業する際に、ラーメンの味と同じぐらい、もしくはそれ以上に重要なのは「立地」である。渋谷、新宿、池袋のような繁華街はもちろん、オフィス街や学生街のある駅、そしてターミナル駅など、オーナーは少しでもいい立地でお店を開こうと日夜リサーチしている。いくら美味しいラーメンを提供しても、人がいなければ売り上げは立たない。もちろん繁華街でお店をオープンしても、周りとの競争に勝てずに、続かないお店も数多いのだが。  埼玉県比企郡川島町にある「中華そば 四つ葉」はそんなセオリーをぶち壊した名店だ。スマホの地図アプリで場所を調べれば一目瞭然。周りに駅は見当たらない。最寄りの川越駅からも、6キロ離れている。お世辞にも“いい立地”とは言えない場所で独立開業した岩本和人さん(40)。その無謀とも思われる挑戦は、見事に吉と出た。連日の大行列で、グルメサイトでは埼玉県1位に選ばれることもしばしば。ラーメンファンなら知らない者のいない有名店に成長した。 中華そば 四つ葉/埼玉県比企郡川島町伊草298、営業時間:月曜11:00~15:00、水曜から日曜11:00~15:00、17:00~21:00。定休日:火。左隣が父親の営む寿司屋だ(筆者撮影)  なぜ、岩本さんは川島町を選んだのか。その答えは明確で、「家を継ぐため」だ。  実家は川島町で「宝船」という寿司屋を営んでいる。だが、生もの嫌いの岩本さんには、寿司屋を継ぐという将来が見えなかった。趣味でラーメンの食べ歩きを続けているうちに、「ラーメンで家を継ぐ」という選択肢を見つけた。  12年間の修行を経て、寿司屋の宴会場だった場所を改装し、2013年6月「四つ葉」をオープン。父親の寿司屋も隣で営業をしている。ただ並んでいるだけではなく、なんと、「四つ葉」ではラーメンを食べながら、「宝船」のお寿司も注文できるのだ。これがまた新しいと評判になった。 「たまたまではありますが、他ではできない戦略ですよね。シンプルなラーメンなので、お寿司が合うんですよ」(岩本さん) 14年3月に初来店した際に頼んだ「まぐろ丼」(筆者撮影)  筆者が14年3月に初めて「四つ葉」を訪れた時は、ラーメンと一緒にマグロ丼を注文してみた。鶏と生醤油の甘みのあるスープにマグロと酢飯がよく合うのだ。父の作るお寿司とコラボしてしまう新しい発想には感心しきりである。  大先輩である父の背中を見ながら、遠方から来てくれるお客さんに喜んでもらえるよう、日々味をブラッシュアップしている岩本さん。生産者の元へ食材を見に行くなど、理解をさらに深めるようにしているという。 「生産者の方にお会いすると、ものすごい情熱をかけて食材を作っていることがわかります。大切な食材を自分に分けていただいているわけです。食材の美味しさが伝わるラーメンを作って、生産者の方も評判になるような一杯にしたい」(岩本さん)  郊外にお店を出したからこそ磨かれていったラーメンは、今日もお客さんの舌を喜ばせている。そんな岩本さんが愛するのは、「四つ葉」とは真逆の“大人の魚介豚骨ラーメン”だった。 「GOTTSUらーめん」は一杯980円(筆者撮影) ■魚介豚骨で独立はダメ! 師匠の言葉の意味  13年3月に練馬でオープンした「RAMEN GOTTSU(ラーメン・ゴッツ)」。スッキリとした清湯(ちんたん)系のラーメンが流行する中、濃厚な魚介豚骨ラーメンで頂点を極め、5年連続でミシュランガイド東京のビブグルマンに選ばれている名店だ。そのラーメンは、巷の濃厚系とは一線を画す。  店主の齋藤雅文さん(38)はデザイン学校を卒業後、バイク便の配送で関東を駆け回る日々を送っていた。何か楽しみを見つけたいと思い、各地のラーメンを食べるようになった。そのとき、改めて一杯のラーメンがもたらす満足感に驚き、力のある食べ物だと思ったという。 「食べたぞ! 感がすごくて、他の食べものよりも満足度が高い。ガイドブックでどんなラーメンがあるのか調べるようになりました」(齋藤さん) 店主の齋藤雅文さん(筆者撮影)  05~06年当時は、“魚介豚骨”が隆盛していた。「六厘舎」「つけめんTETSU」「麺徳二代目 つじ田」「中華蕎麦 とみ田」など魚介豚骨つけ麺の名店がいくつも誕生し、一大ブームを作っていった。ガッツリ系が好きだった齋藤さんも例にもれず、濃厚系のラーメンが大好きで「渡なべ」「吉村家」「勢得」などお気に入りの名店に通い詰めた。  しばらく配送の仕事を続けていたが、このままでいいのか疑問を持ち始めていたある日、いつものように「渡なべ」を訪れると、券売機に「スタッフ募集」の文字があった。他の有名店に先駆けて02年にオープンしたこのお店は、魚介豚骨のパイオニア的存在だった。 「大好きな『渡なべ』でラーメンが作れるチャンス。料理も好きだし、やってみたい」  すぐに電話をかけ、社員として入社することになった。09年、28歳の時だった。当時は独立しようという思いはなく、ラーメンを作ってみたいという気持ちだけだった。師匠となった渡辺樹庵さん(43)は、未経験の齋藤さんにも、丁寧に教えてくれた。齋藤さんのやる気を感じたのか、製麺のやり方やスープ作りを見せてくれるようになった。3~4カ月経った頃にはスープ作りを身につけ、何でもやらせてもらえるようになった。 渡なべの「らーめん」は一杯830円(筆者撮影) 「渡辺樹庵という人はやる気のない人や、言われたことだけをやる人が嫌いなんです。ミスをしたとしても、筋がしっかり通っていれば許してくれる。だから自ずと責任感が伴うんです」(齋藤さん)  渡辺さんは天才型の職人だ。普通は何度も試作を重ねて、やっと一杯のラーメンが完成するが、彼は頭の中に完成形のレシピができている。齋藤さんが限定ラーメンのレシピを提案した時は、渡辺さんの頭の中のレシピに敵わず、何度もダメ出しを食らったという。修行から2年ぐらいしたとき、齋藤さんのなかに「自分のラーメンを作ってみたい」という思いが湧き上がる。自分なら「渡なべ」のラーメンをもっとこうする、という思いが出てきたのだという。  独立への思いが湧き上がっていたが、ひとつ問題があった。  師匠の渡辺さんからは「同じ魚介豚骨で独立するのはダメ」と言われていた。自分の味を作り上げてから独立しろという思いからだ。しかし齋藤さんはどうしても魚介豚骨で独立したかった。 「この世界に入ったのは『渡なべ』が好きだから。『名を汚さぬよう、美味しいラーメンを作ります』と頭を下げました。最後までOKとは言ってくれませんでしたが、押しが強すぎて半ば諦めたような形で独立を許してもらいました」(齋藤さん)  こうして13年3月「RAMEN GOTTSU」はオープンした。実家と自宅からアクセスが良いからと練馬を選んだ。街が大きい割にはラーメン店が少なく、狙い目だということもあった。店名の由来は、学生時代見た目が“ゴツかった”齋藤さんのあだ名である。 RAMEN GOTTSU/東京都練馬区練馬1-29-16 1F、営業時間:昼11:00~15:00、夜18:00~21:00。定休日:日曜日の夜、月曜日と第3火曜日(筆者撮影)  オシャレなカフェのような内装は、友人のデザイン会社に頼んで作ってもらった。もともとイタリアンレストランだったため厨房などの設備も整っていたが、居抜きにはせず、あえて作り直した。一人でお店を回すつもりだったこともあり、ずっと店にいたいと思える空間を作ったのだという。  オープン当初は地元の人やラーメンフリークが集まったが、2カ月目には客足が一気に落ち着いてしまった。駅から5分の立地ではあるが、人通りも少なく、作りがオシャレすぎてラーメン店と気づかれないこともしばしば。1日30杯しか売れない日もあったという。 「お金もたくさんかけたのに、お客さんが来なくて涙が出そうでした。この先どうなっちゃうんだろうという不安でいっぱいでした」(齋藤さん)  数少ない常連を飽きさせないよう限定ラーメンを作るなど、試行錯誤の日々が続いた。 「GOTTSU」の麺箱(筆者撮影)  その後、地元タウン誌の新店紹介ページで取り上げられたことをきっかけに、お客さんは少しずつ増えていった。練馬は東京の中でもローカル感が強く、「GOTTSU」は常連さんで支えられていた。口コミは広がり、業界最高権威といわれるTRYラーメン大賞の2013-2014新人大賞ではMIX部門2位に選ばれた。 「GOTTSU」のラーメンは魚介豚骨ながら、”濃厚”という言葉で片付けるには申し訳ないぐらいの品の良さがある。齋藤さんは濃厚系ラーメンを食べた時の罪悪感を排除した魚介豚骨を目指した。通常の濃厚系でよく使うゲンコツ(大腿骨)ではなく背骨と鶏ガラを使い、ドロドロ感や脂感をなくした。くどさがなくなり、クリーミーで鶏白湯(とりぱいたん)に近い味わい。“濃厚”ではなく“濃密”というのが正しいだろう。  評価はされたが、平日は一人でお店を回せるレベルの客足だった。大繁盛というにはまだ遠い。だが、開店から1年半経った14年夏に転機が訪れる。ミシュランガイドの担当者がお店を訪れ、見事ビブグルマンを獲得する。  これを機にお客さんが激増し、一気に行列店の仲間入りとなった。売り上げも軌道に乗り始め、従業員も採用した。ミシュランに掲載されるのは、あっさりした清湯系のラーメン店がほとんどのなか、濃厚系の「GOTTSU」は5年連続掲載を成し遂げた。もちろんミシュランの評価が全てではないが、齋藤さんの“濃密”な魚介豚骨ラーメンはしっかりと差別化され、評価に結びついている。 ネギをねじりながら乗せる「GOTTSU」の齋藤さん(筆者撮影) ■あっさりと濃厚で切磋琢磨  清湯系の「四つ葉」と白湯系の「GOTTSU」は、それぞれ別の方向性のラーメンを作っているが、ラーメンへの向き合い方対しては、互いに尊敬し合っている。 「濃厚なのに美しく、大人な一杯で、魚介豚骨の最高峰だと思っています。ひとつひとつの仕事がとても丁寧で、ネギをねじりながら乗せる工程など惚れ惚れしながら見ています。細かな意識が研ぎ澄まされているんですよね。方向性が違うからこそ勉強になる部分がたくさんあります。自分も作ってみたいなと思わせる一杯ですが、とても真似できません」(四つ葉・岩本さん)  一方、齋藤さんは岩本さんのことを「モンスター」と評す。 「あの立地であの人気を誇り、あのクオリティーのラーメンを日に600杯作るなんて、並大抵のことではありません。毎日がイベントみたいなものでしょう。向上心の塊みたいな人です。本当に憧れます」(齋藤さん)  立地が悪くても、師匠に止められても、自分の好きなラーメンに向かって邁進していく二人。あっさりだろうが濃厚だろうが、そこに対する思いは同じなのだ。(ラーメンライター・井手隊長) ○井手隊長(いでたいちょう)/大学3年生からラーメンの食べ歩きを始めて18年。当時からノートに感想を書きため、現在はブログやSNS、ネット番組で情報を発信。イベントMCやコンテストの審査員、コメンテーターとしてメディアにも出演する。 ※AERAオンライン限定記事
AERAオンライン限定ラーメン井手隊長
AERA 2019/04/21 12:00
草食男子だったけど!? 宇崎竜童、阿木曜子との運命の出会い
中村千晶 中村千晶
草食男子だったけど!? 宇崎竜童、阿木曜子との運命の出会い
宇崎竜童(うざき・りゅうどう)/1946年、京都府生まれ、東京育ち。明治大学の軽音楽部で妻・阿木燿子さんと知り合い、71年に結婚。73年に「ダウン・タウン・ブギウギ・バンド」を結成。その後も作曲家として多くのアーティストに曲を提供している。82年に映画「TATTOO(刺青)あり」(高橋伴明監督)に主演するなど、俳優としても活躍。新作映画「波乗りオフィスへようこそ」(4月19日〈金〉から全国順次公開)では徳島県美波町の漁師役を演じている (撮影/写真部・小原雄輝) 宇崎竜童さん (撮影/写真部・小原雄輝)  もし、あのとき、別の選択をしていたなら──。人生の岐路に立ち返ってもらう「もう一つの自分史」。今回は、ミュージシャンの宇崎竜童さんです。人生最大のターニングポイントは、妻・阿木燿子さんとの出会い。「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」など、二人で数々のヒット曲を生み出しました。妻と音楽への愛とリスペクトが詰まった人生を語ります。 *  *  *  もうね、阿木は僕の人生のプロデューサーです。阿木がどこに向かっているかで僕の行動は決まっちゃう。ということは、自分でなんにも決めらんないってことなんだけどね。  最初に阿木と曲を作ってから、もう50年になると思います。大学時代に周囲の友達や先輩、親きょうだいにも誰かれなく「詞を書いて」って頼んでいたんです。阿木もそのなかの一人だった。  当時はカレッジ・フォークみたいな音楽がはやっていて、ほかの友人たちが書いてくる詞は、「星が、花が、風が、海が」みたいなロマンチックなものが多かったんです。でも阿木の詞は違ったんですよね。そこに何か一本筋が通っているというか。「これにどうやってメロディーつけようかな?」と挑みたくなる、新鮮さがあったんです。 ――「アンタ、あの娘の何なのさ」「馬鹿にしないでよ」──。妻の阿木さんとのコンビで、数々のヒット曲を生み出したのは、周知のとおり。まず、その“人生のプロデューサー”と出会うまでを振り返ろう。  僕は7人兄姉の末っ子なんです。一番下の兄は小さいとき病気で亡くなって、それからは6人なんですけど、親はもう「育て飽きた」という感じ。長男と僕は21歳、一番近い姉で7歳違いますからね。  僕は言ってみれば間違って生まれたようなものです。昭和20年の8月の頭に、おふくろとおばあちゃんが、身ごもったことを知った。「こんな時期に産んでいいのか」と2人で悩んで「明日の晩までに答えを出そう」と。その翌日に玉音放送があって「じゃあ、産もうか」となったそうです。終戦がもう少し後だったら僕はこの世にいないですね。  いいところのボンボン……いや、そこまでお坊ちゃまじゃないですけどね。子ども時代は中高一貫校に通って、目標は「安定した職業に就くこと」。そのレールに乗って、大学まで進んでたんです。 ――大学では軽音楽部に所属。入部に来た阿木さんを一目見て「あ、嫁が来た!」と見初めた話は有名だ。  阿木の僕の最初の印象は「蚊トンボのような男」だったって。最初のデートのとき、渋谷で待ち合わせてお茶を飲みに行ったんです。そのとき「ビルの下で風に吹かれて、たなびいている」と思ったって(笑)。当時175センチで体重50キロくらい。本当にひょろひょろでしたよ。  おやじも僕のことを「ひょうろく玉」と言ってた。どういう意味だかわからなかったけど、フラフラと頼りない、という意味なのかな。いまで言う「草食系男子」だったんでしょうか。  阿木は最初、まったくピンとこなかったみたいですけどね。1年間はクラブのみんなで団体行動をしてたんですが、ついに我慢ができなくなって「渋谷で会いましょう」と。大学2年から付き合い始めました。  最初から「俺たち、結婚することになってるから」って彼女に言ったんです。好みのタイプだった以前に「あ、今世でやっと巡り合えたな」と思ったんですよね。きっとこの人とは前世、前々世でも出会ってる。でも添えなかった。その運命がようやく巡って「うわ! きたあ!」って感覚が濃厚にあった。「これはもう神様が決めたことだから」って言い続けてました。向こうはずっと「そうかしら?」って顔でしたけど、会うたびに「結婚しよう、しよう」って言うから最後には両方の親が「ソロソロ」と言いだしたんだよね。 ――軽音部時代から、阿木さんの書く詞に曲をつける共同作業は始まっていた。だが、大学を卒業した二人は、しばらく別の仕事に就く。  僕は曲を書きたいと思っていて、大学を卒業するまでの3年間で「1日1曲書く」というノルマを自分に課したんです。瞬間的に曲を書ける人間じゃなきゃプロになれない、と思っていた。  大学卒業後、僕は義兄の経営する芸能プロダクションに就職。給料は安くて、普通の大卒の給料の半額以下、税金を引かれて月1万8千円くらいだった。音楽が周りにあるし、勉強になったから苦にはならなかったですよ。お金がないから、結婚したいのになかなかできないのには困ったけど(笑)。  そのプロダクションにはスタジオがあったから、家に帰らずにそこで作曲して。プロダクションの新人をトレーニングしたり、彼らに曲を書く、みたいな仕事もした。演歌歌手やグループサウンズのためにいろんなジャンルの曲を作ってました。そのうちにオリジナルもどんどん増えてね。阿木もほかの仕事をしながら、詞を書いてくれました。  でもしばらくしてプロダクションが倒産しちゃった。それで、義兄に「弾き語りの仕事があるけど」と言われて。横浜市の本牧の店でした。そのうちにオーナーが「君、店長やらないか」と言ってくれたんです。やっと結婚できる!って。25歳のときでした。  でも、その店を半年でつぶしちゃって、銀座でも弾き語りの仕事をして、そのうち音楽出版社の人が「レコーディングをしないか」と言ってきたんです。最初は「僕は裏方だしなあ」と乗り気ではなかったんだけど、どんな方向性にしようかと、洋楽邦楽問わず尊敬するアーティストのレコードを引っ張り出してみたんです。そのとき泉谷しげるのレコードが「ポン」と床に落ちた。  ファーストアルバムで、まあファンだったから持ってたんだけど、改めてジャケットを見たら「うわ、このルックスでイイんだ!」(笑)。曲はギターに鼻歌。これでいけるなら、自分もと。流れに乗ってみることにしました。  72年、26歳でソロシングルを発表。翌年に「ダウン・タウン・ブギウギ・バンド」を結成し、デビューする。リーゼントにつなぎのスタイルは、偶然、生まれた。  最初は、ルックスも音楽性も全然違ったんです。どちらかというとブルースロックで、みんな長髪に近くて、ロンドンブーツを履いてた。  ファーストアルバムのとき、ちょうど「キャロル」が出てきて「俺たちに近いよね」と。ドラマーが一時キャロルにいたこともあって、「じゃあ俺たちはリーゼントにタキシードにしよう」となった。でもタキシードで夏のビアガーデンに出てるとね、汗でタキシードが塩昆布みたいになっちゃうんですよ。  そんなときドラマーがアルバイトで使ったつなぎを「寝間着にしたら?」とくれた。それを着て夏の海辺のフェスに出たら、パーッと中学生の女の子たちが寄ってきて「お兄さん、カッコいいね!」って言うんです。「つなぎなんてカッコ悪いじゃん」と言ったら「カッコ悪いのが“カッコいい”んだよ」って。「おお!! そういうことか!」と。ちょうど住んでいた家の裏に作業服屋があったんです。店をのぞいたら「つなぎ 3500円」! 「これ、四つください!」って。だってタキシードは1着十何万円したんだから!(笑) ――75年、「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」が大ヒット。その後も作詞・阿木燿子&作曲・宇崎竜童のコンビで山口百恵を始め、多くのアーティストに曲を提供してきた。  いまはメロディー先行で作っているから、自分でまず曲を書いて「ダメだな」と思ったら捨てる。そうやっていくと何曲かはたまるから、そのなかで「これは」と思うのを阿木に聴いてもらうわけです。そこでマル、バツ、三角の判定が出るんです。  で、だいたいバツなんです(笑)。そりゃそうです。自分でもNGだと思ってるんだから! たいてい「ピンとこない」って言われちゃう。そうなると、その時点で俎上にのっけてもらえない。だからまた新しく書いて、阿木に聴いてもらう。最終的にマルをもらったら、そこからが阿木の仕事になるんです。あの人がOKって言わないものは、たいした曲じゃないんです。  ときには「なんだよ~」って思うこともありますよ。でもよーく考えるとね、阿木はまともなことを言ってるんです。彼女は頭いいし、まっすぐだからね。僕のほうが簡単にブレちゃう人間なんで。そのまっすぐさを僕は信じている。 ――徳島県美波町を舞台にした新作映画「波乗りオフィスへようこそ」への出演も、阿木さんの一押しで決まった。  オファーをいただいたときは「どうしよう」と思ったんです。漁師の役なんだけど、僕は船が得意じゃないんです。酔っちゃうから。それに徳島弁という関門もある。で、阿木に「お断りしようかな」って相談したら、「やったほうがいいんじゃない。脳トレになるから」って(笑)。  現地に着いたら「あれ? ここ見たことあるな」と。実は以前、アウトドアライブとドラマのロケで来たことがあった。縁があったんですね。ウミガメが産卵するような海があって、自然も人も素晴らしい。引き受けてよかったと本当に思いました。  僕の役は東京から起業に来た若者を助ける「地元のまとめ役」のような存在。僕自身も音楽の現場で、自分より若い人たちとどうやってうまくやるかを考えて、やってきましたからね。夜も時間があればみんなを誘って飯食いに行き、現地の人ともたくさん触れ合った。映画に「ここには学びと教えがあるんだ」というセリフがあるけど、まさにそれが撮影現場にありました。 ――73歳。次世代に継いでいくもの、を考え始める年齢でもある。  最近は少子化で小中学校が合併するし、市町村も合併するでしょう。だから新しい校歌や町歌のオーダーが増えてるんです。そういう歌はいわゆる流行歌と違って、長くいろんな人に歌い継いでもらえる。ヒット曲を書くのとは全然違う気持ちで作れるんです。阿木と二人で、どんどん引き受けていこうね、と話しているんです。 (聞き手/中村千晶) ※週刊朝日  2019年4月26日号
週刊朝日 2019/04/20 07:00
「なつぞら」絶好調の広瀬すず 透明感の真逆にある破天荒な素顔とは
「なつぞら」絶好調の広瀬すず 透明感の真逆にある破天荒な素顔とは
4月19日から就航するJALの「なつぞら」特別塗装機の前で笑顔の広瀬すず (撮影/今田俊) 取材陣に手を振る広瀬すず(撮影/今田俊) ■趣味は4時間ぶっ通し一人カラオケや美少女ネット検索  女優の広瀬すず(20)がカジュアルフットウエアブランド「クロックス」のグローバルキャンペーンアンバサダーに就任し、4月9日に都内で行われた発表会見に出席した。キャンペーンテーマ「自分らしく」にちなんで、司会者から日常生活の中で自分らしさを取り戻す瞬間について聞かれると、「その日あったこととか、その時の気持ちとか感情をノートに何ページも何ページもぶあっーて書く」と告白。「今、自分こう思っているんだ」と気持ちの整理やリセットもでき、ストレス発散にもなっているという。  NHK連続テレビ小説「なつぞら」でヒロインを務めている広瀬。戦争で両親を失い北海道の酪農家に育てられた少女が、高校卒業後に上京してアニメーターを目指す姿を描いた作品だ。現在、北海道・十勝編が放送中で、大自然にピッタリな広瀬の透明感に心奪われている視聴者も多いだろう。  気分転換として感情を殴り書きしているという広瀬だが、ほかにも一風変わったストレス解消法や趣味を持っているようなのだ。広瀬にとって息抜きの一つが「一人カラオケ」。個室に入るとすぐに30曲ほど入れて、4時間休憩もせず、ぶっ通しで歌い続けるという(『ジョブチューン 今話題のプロフェッショナルのヒミツぶっちゃけSP』2017年3月11日放送)。しかも、歌うだけでなく激しく踊り、店員が室内に入ってきた時はごまかすのに困ることがあると話していたことも(『コクーンシティ新CM発表会』2015年4月21日)。また、キックボクシングで汗を流し気分転換。パンチの音が良いと気持ちいいそうで、朝の6時頃ジムに行き、帰宅後に睡眠をとり、昼にまたジムに行き、寝るというのが理想の休日だという(『レオパレス21新CM発表会』2017年11月2日)。  カラオケで歌い踊り、キックボクシングではアスリートのような一日を理想とする広瀬すず。相当アクティブなストレス解消法だが、インドアの趣味も少し変わっている。なんとネットで美少女を検索することが趣味だと告白していたことがあった。目鼻立ちのくっきりした人形のような顔が好きで、暇さえあれば検索をしているという。さらに、仕事場で知り合った美少女に声をかけ、連絡先を交換して食事に誘うこともあるという。「何でも食べて、私は眺めてるから」と、ただ美少女を眺めていたいそうだ(『今夜くらべてみました』2017年8月16日放送)。 ■イメージ打破には姉アリスのような「ぶっちゃけ」が必要!?  加えて、「広瀬が好きなお笑い芸人も、結構意外ですよ」と言うのはテレビ情報誌の編集者だ。 「お笑いコンビ・三四郎の小宮浩信が好きだとバラエティ番組で明かしていました。とにかく全部が面白いそうで、地方での撮影があった時は、毎日、小宮の動画を見て元気を出していたとか。広瀬すずといえば、姉のアリスも女優として活躍中ですが、アリスはテレビで『自分から行かないとモテない』『男性に尽くさない』と女子力のなさを公言したり、『臓器が好き』とスプラッター漫画好きをアピールするなど、素をさらけ出して好感度がアップしました。妹のすずも、そんな変わった一面をぶっちゃけていけば、より幅広い層から支持されるかもしれませんよ」   ドラマウオッチャーの中村裕一氏は、そんな彼女の素顔を踏まえた上で女優としての成長にこう期待を寄せる。 「日本の“朝の顔”として今、一生懸命頑張っている彼女ですが、女優である前に一人の人間ですので、多様性を持っていることは当たり前です。むしろ伸びざかりのこの時期、ステレオタイプなイメージで固められてしまうと、女優としてさらにステップアップするのが難しくなってしまうでしょう。その意味でも大事なのは『なつぞら』の次の一手であることは間違いありません。しかしながら、半年間、朝の連続テレビ小説の主演を務めるということは、なかなかできない貴重で大きな経験でもあり、演技や表現にプラスとなることは確実です。最終回を迎える頃には、女優としても人間としても大きく成長した、たくましい表情の彼女を見ることができるでしょう」  高い演技力で多くの人から支持されている広瀬すず。青春系作品のイメージが強いが、今回の朝ドラでは幅広い年代を演じる予定だ。新たな魅力が生まれるか、注目したいところだ。(ライター・丸山ひろし)
dot. 2019/04/19 17:00
他人に目標設定してもらう「タニモク」が人気 「無責任な意見」が役立つワケ
他人に目標設定してもらう「タニモク」が人気 「無責任な意見」が役立つワケ
他人に目標を立ててもらうからこそ、自分の思考の枠を超えた発想が生まれる。片山聖さんは「一人旅」という提案にハッとさせられた(撮影/編集部・石臥薫子) 佐賀晶子さん(39、左):「タニモク」のリピーター。PRプランナーとして独立できたのも「納富さん含めタニモクで出会った人たちに背中を押してもらえたから」/納富順一さん(41):NPO法人「キャリア解放区」代表理事。佐賀さんとはタニモクをきっかけに仕事仲間に。「赤の他人のほうが自己開示しやすい。面白いですね」(写真:佐賀晶子さん提供) タニモクの進め方とコツ(AERA 2019年4月22日号より)  他人同士で目標を立て合うという不思議な ワークショップ「タニモク」が、密かに人気だ。キャリアに悩むビジネスパーソンがハマる理由はどこにあるのか。  *  *  *  平日の夜6時半。都内のとあるオフィス街の一室に20代から40代と思しき男女が続々と集まってきた。その数、ざっと100人。全員初対面で、若干ぎこちない雰囲気が漂う。4人1組でテーブルに着席すると、会場に大きな声が響き渡る。 「それでは皆さん、ご自分のいまの状況をまず絵に起こしてください。下手でも全然構いませんから、文字ではなく絵でお願いします」  いきなり「絵を描いて」という指示に目を丸くする人、苦渋の表情で天を仰ぐ人──。謎のお絵かきから始まったこのイベントは、人材サービスのパーソルキャリアが開発したワークショップ「タニモク」だ。  同社が運営するメディア「“未来を変える”プロジェクト」編集長の三石原士(みついしもとし)さんが中心になって考案したもので、この日のファシリテーターも三石さんだ。  ワークショップの趣旨は「他人に目標を立ててもらう」こと。だから、タニモク。だが、目標なんて立てたい人が勝手に立てれば良さそうなもの。なのに、なぜわざわざ赤の他人が集まって「目標の立て合い」なんてことをやっているのか。 「参加者の多くはキャリアに悩む20代後半からのビジネスパーソンです。働き方の選択肢は増えていますが、その分、皆さん不安なんです」  と三石さん。悩めるビジネスパーソンが、新たな挑戦をするには「いい目標設定」が必要だが、自分で目標を立てることには限界があるという。 「人は自分に関してはどうしても慎重になりがちです。目標が実現しないというリスクを無意識に避けようとしますから。しかも自分の頭だけだと、思考の範囲も限られる」(三石さん)  ところが、人はいざ他人のこととなると、リスクを考える必要がないので、より冒険的な気持ちになれるのだそう。自身による目標設定の「限界」を超えるために、他人の頭脳と無責任さを利用しよう──。タニモクはそんな発想から生まれた。  会場では参加者たちが「絵」に悪戦苦闘しているが、なぜ絵でなくてはいけないのか。 「言葉を使うより手を動かした方が、その人の無意識下にあるものが現れやすいんです。描いた絵を題材に、他の人から質問してもらうんですが、答えていくうちに自分でも言語化できていなかった思いや課題が明らかになってきます」(同)  絵を見せながら本人による説明が始まる。職場で取り組んでいるプロジェクトについて熱く語る人もいれば、家族の話をする人、副業や転職の悩みを吐露する人などさまざまだ。  5分経ったところで、今度は質問タイム。「いまの仕事に満足していますか」「嬉しいと思える瞬間は?」「怖いものって何ですか」。初対面で利害関係も一切ないからか、職場や友人同士では面と向かって聞かないような質問がポンポン出てくる。  続いていよいよ他人の目標を立てる段になったが、A4用紙を前に手が止まっている人もいる。すると三石さんが、すかさずアドバイス。 「『私が○○さんだったら』という枕詞を必ず入れてください。第三者の視点だと『~すべき』なんて押し付けになっちゃいますからね。そうではなく、思いっきり主観で当人になりきるのがポイントです。目標に『正解』はありません。あえて無責任に大胆に書いてください」  目標を書き終わったら、当人に向けて1人4分程度でプレゼンする。その内容に「なるほど」とうなずいていたのは、業務用ソフトウェアメーカーに勤める片山聖さん(38)。提案された目標は「一人旅をする」だ。  片山さんは状況説明の際に、「仕事にも妻と3人の子どもとの暮らしにも満足している。5年後10年後を見据えて副業も含めて新しい働き方を模索中」と語っていた。その片山さんになぜ「一人旅」なのか。提案した人に聞こう。そのココロは? 「片山さんの現状はとても素晴らしいと思うんですけど、このままだと『新しい副業』もいまの延長線上の付け足しになっちゃうかなと。僕だったら、これまでのことを一旦白紙にします。今の環境だと『旅行は家族で行くのが当然』と考えると思うんですけど、そこをあえて1人で行く。そこで何か発見できることがあるんじゃないかな」  片山さんは、「まったく僕にはなかった発想です」と感心しきり。会の最後、各自が自分の目標を書く際には「一人旅する時期を決めて、準備を始める」と大きな字でしたためた。  聞けば片山さんはタニモクに参加するのは今回が2回目。 「実を言うと最初はかなり懐疑的でした。僕も企業研修に関わった経験があるのですが、目標設定は普通は何日もかけてやるもの。それをタニモクでは1人あたりたったの30分でやると聞いて、どうせ大したことないだろうと」(片山さん)  ところが実際にやってみると、いくつもの気づきがあった。当時はマーケティング職で転職したばかり。もともと遠慮がちな性格で、あまり自分を出すことができないことに悩んでいた。そんな時、タニモクで提案されたのは「俺の俺による俺のためのマーケティングをやること」。 その目標を素直に掲げてみたところ、仕事への向き合い方が劇的に変わったという。 「40歳を手前に、次のステップに進むなら一本軸があったほうがいいなと。それを考えるのに、タニモクはすごく役に立ちます。他の人のアイデアを聞くことで、選択肢も広がる」(同)  三石さんらがタニモクを始めたのは2017年。SNSを中心に評判となり、18年秋からはホームページで手法を公開。企業などからも問い合わせが殺到している。参加者同士が半年後や1年後に再会し、目標の進捗状況を報告し合うケースも多い。タニモクが人間関係の生まれる場として一役買っているのだ。  官庁や大企業を渡り歩き、広報の分野でキャリアを築いてきた佐賀晶子さん(39)は2年前、ベンチャーへの転職話を持ちかけられ、悩んでいた。そこで相談相手としてふと浮かんだのが、以前タニモクで同じテーブルだった納富順一さん(41)だった。 「私はどちらかというと思いが高じて暴走するタイプ。でもタニモクで納富さんは『そんなに焦らなくてもいいよ』とブレーキをかけるような立場で話をしてくれました。それが印象に残っていて、転職についてもフラットな意見を聞けるかもと思ったんです」(佐賀さん)  信頼の置ける納富さんに、今回は背中を押された。佐賀さんは転職し、もう一社を経て今年2月、フリーランスのPRプランナーとして独立。いまでは納富さんが代表理事を務めるNPO法人「キャリア解放区」の広報もプロとして手伝う仲だ。  佐賀さんはタニモクにハマり、これまでに5~6回参加。連絡を取り合う人が10人以上いる。 「タニモクに来る人たちは傾聴が上手なので、お互い安心して自己開示ができる。時間は短くてもすごく心の深いところで繋がれる気がします。人の目標を立てること自体、純粋に面白いですし、他の人に思い切ったことを言っていると自分までポジティブになれます。また折を見て参加したいですね」(同) (編集部・石臥薫子) ※AERA 2019年4月22日号
仕事
AERA 2019/04/18 11:30
感動の涙流す人も…秦基博、岩手で中高生と復興への思いを歌に込め合唱
感動の涙流す人も…秦基博、岩手で中高生と復興への思いを歌に込め合唱
熱唱する秦基博さんと岩手県内の中高生たち。この音楽祭に向けて練習を重ねてきた生徒たちは、終了後「楽しんで歌えました」と声をそろえた (c)朝日新聞社 さんさ踊唄を披露する、盛岡さんさ踊り清流の踊り手たち。威勢のいい掛け声やリズミカルな太鼓の音色が特徴だ。華やかな舞いに、会場は盛り上がった (c)朝日新聞社 「復興支援音楽祭 歌の絆プロジェクト」が今年で6回目を迎えた。スペシャルゲストの秦基博は、東日本大震災で被災した岩手県内の中高生らと代表曲「ひまわりの約束」を合唱。震災に対するぞれぞれの想いを歌に込めた。 *  *  *  春まだ浅い3月26日、岩手県民会館(盛岡市)の大ホールに、復興への願いと祈りを込めた歌声が響いた。 「緊張したけど、みなさんと歌えてとても楽しかったです」  音楽祭の後、岩手県大船渡市の越喜来中学3年だった掛川理乃子さん(15)は、声を弾ませた。  この日開かれた「復興支援音楽祭 歌の絆プロジェクト」(主催・三菱商事、岩手朝日テレビ、朝日新聞社)は、歌のチカラで東日本大震災からの復興を応援するイベントで、2014年に始まり今年で6回目。これまでも東北の中高生がスペシャルゲストを迎え、歌や踊りを披露してきた。  今年ステージに立ったのは、岩手県内の不来方高校と釜石高校の両音楽部、越喜来中学の全校生徒、3校合わせて108人。スペシャルゲストは、シンガー・ソングライターの秦基博さんだ。秦さんは昨年に続き2年連続の出演。会場は、1500人近い観客で埋まった。  第1部は、中高生による合唱。「群青」「家族になろうよ」「あの鐘を鳴らすのはあなた」など7曲を歌い上げた。  今年は、会場が盛岡であることから地元の盆踊り唄「さんさ踊唄」が、伝承団体「盛岡さんさ踊り清流」によって披露された。色鮮やかな浴衣を着た30人近い踊り手が披露すると、会場から手拍子が起き、祭りのような雰囲気となった。  第2部、秦さんが登場。 「アイ」をはじめ、「花咲きポプラ」「グッバイ・アイザック」「鱗(うろこ)」などヒット曲5曲を熱唱。唯一無二の「鋼とガラスでできた声」と比喩されるナイーブな歌声に、観客は酔いしれた。その後、秦さんは釜石高と不来方高の生徒たちをステージに呼ぶと一緒に「花」を歌い、フィナーレは越喜来中の生徒たちもステージに上がって代表曲「ひまわりの約束」を合唱した。 <♪そばにいたいよ 君のために出来ることが 僕にあるかな>  大切な人を思う切なさを歌った歌詞に、観客の中には涙ぐむ人もいた。  ステージ終了後、秦さんはこう話した。 「みんなの声は本番が一番出ていて、それプラス、観客の方とホール全体のうねりを感じました」  東日本大震災から8年。地震と津波は家を、思い出を、そして1万8千人を超える命を奪った。今さまざまな形で復興は進んでいるが、音楽にしかできないこともある。歌のチカラについて秦さんはこう語る。 「音楽自体が何かを変えるというより、音楽を聴いた人の何かが変わって、その人が何かを変えるんじゃないかな」  歌は、未来をつくる原動力でもある。ステージに立った3校の中でも越喜来中のある大船渡市は、沿岸部にあったため大津波で壊滅的な被害を受けた。  越喜来中3年だった石川大地さん(15)は、当時小学1年生。放課後の「帰りの会」のとき地震が襲った。すぐ教室の机の下に潜り、その後全員で高台に避難した。  海から200メートルほどの場所にあった小学校は、校舎の3階まで達する津波で流され、近くにあった石川さんの自宅も津波にのみ込まれた。家族は全員無事だったが、500台近い鉄道玩具の「プラレール」が、家とともに流された。誕生日などに買ってもらった宝物だった。  歌は洋楽が好きだ。言葉では伝えられない思いも、音楽にのせることによって伝えることができるからだと話す。  音楽祭で歌った曲の中で一番好きだというのが合唱曲「群青」だ。東日本大震災で被災した福島県南相馬市の小高中学校の生徒らが作詞、同校の音楽教師が作曲した。全国に広がり、今も歌われる。 <♪ああ あの町で生まれて 君と出会い たくさんの思い抱いて 一緒に時間を過ごしたね>  東京電力福島第一原発の事故で離れ離れになった友への思いから始まる。石川さんにも、震災がきっかけで離れ離れになった友だちがいて、この歌を歌うと別れた友だちのことを思い出す。この日は、こんな思いでステージに立った。 「復興を頑張っていこうと、合唱で届けたいと思います」  話を聞いた生徒たちに共通したのは、歌声で感謝の気持ちを伝えたいという思いだ。 「こんなにも支援してくれる方がいるんだと思って」  と話したのは、冒頭で紹介した掛川さんだ。  自宅は高台にあったため、家も家族も無事だった。だが、地震で電気と水道も止まり、夜はロウソクの明かりで過ごさなければならなかった。そんな中、県内だけでなく、日本中から支援の手が届いた。何よりうれしかったのが、鉛筆や定規といった文房具。ノートには、「頑張って」などと書かれたメッセージカードもついていた。海外からもボランティアが駆けつけ、自分たちのために汗を流してくれた。掛川さんは言う。 「そんな人たちに感謝の気持ちを届けたいと思いステージに立ちました」  両親への感謝の思いを歌に込めたのは、越喜来中3年だった及川正嗣さん(15)だ。  平地にあった築80年近い家は津波にのみ込まれた。家族は全員無事だったが、ゼロからのスタート。両親と祖母、2人の姉と一緒に近くの公民館に避難した。その後、親戚の家から仮設住宅に移った。震災から2年近くたって新しい家に戻れたが、その間、不便な生活を余儀なくされた。しかし、両親は自分以上に大変だったはず。それなのにいつも明るく、笑顔を絶やさなかった。もし両親が落ち込んだりしていたら、自分も元気をなくしていただろう。音楽祭ではそんな両親に「ありがとう」の気持ちを届けたという。  4月、及川さんたち3人は高校に進学した。将来、掛川さんは海外のボランティアの人たちと接した経験から通訳を、石川さんは人の役に立ちたいと思い消防士を目指す。及川さんは、将来の夢はまだ決めていないが、いつか越喜来に戻って人のためになる仕事に就きたいと話した。 「地震と津波を経験した者として、その経験を後世に語り継いでいきたいと思います」(及川さん)  ひまわりのように太陽に向かって頑張る若者たち。今はまだ小さな芽だがいつかきっと、大輪の花となって開くだろう。 ※AERA 2019年4月15日号
AERA 2019/04/17 17:00
田中裕二、結婚後に驚いた妻・山口もえの“習慣”「紅茶を入れてあげようとしたら怒られた」
田中裕二、結婚後に驚いた妻・山口もえの“習慣”「紅茶を入れてあげようとしたら怒られた」
(撮影/小原雄輝)  働きながら子育てに奮闘する日常をテーマにした「オリックス 働くパパママ川柳」の入賞作品が発表された。特別審査員として最終審査に参加したお笑いコンビ「爆笑問題」の田中裕二さん(54)は、妻でタレントの山口もえさんと小学5年生、2年生、1歳(年齢は今年3月の取材当時)の3人の子育てに「毎日毎日綱渡り」で奮闘中。だからこそ「クスッとでも、ニヤッとでも笑っていられる方が良い」と語る。働くパパとしての日常や、仕事とプライベートのやりくり、世代間の意識の差についても聞いた。 *  *  * ――子育てのルールや気をつけていることなどあれば教えてください。  ルールは特にありませんが、仕事でどんなに遅く帰ってきても、朝は必ず起きて、顔を見るようにはしていますね。1人はまだ赤ちゃんなので、ママは赤ちゃんが起きているとそっちにかかりきりになります。朝は僕が小学5年生と2年生の子たちを起こして、「何食べるの?」と聞いて朝食を準備しています。朝が弱い子もいるので、起こす作業も必要なんですよ。そして7:50には学校に行く子たちを「行ってらっしゃい」と見送り、下の子を保育園に送り届けて、仕事に行っています。 ――山口もえさんが仕事に本格復帰されて1年近くになりますが、家事の分担はどうしていますか。  復帰したとはいえ、ものすごいペースで仕事をしているわけではないんですが、今日はどっちが保育園の迎えに行けるのかを相談しながら、何とかお互いの仕事をやりくりしていて、毎日毎日綱渡りです。今日は僕がこの後、保育園に迎えに行くんですが、子どもが「パパー!」って嬉しそうに走って来るのがとっても幸せな瞬間ですね。 ――夫婦ともに芸能の仕事をされていると、時間の調整が大変そうですね……。  そうですね、時間が決まった仕事じゃないので、今日は早いとか遅いとかお互いにあるんですよ。「やばいどうしよう、この日はどっちも行けない!」ってことももちろんあるし、スケジュールがわかったら調整して、本当にその日その日でやっている感じです。  それでも急に仕事の時間が変わったり、終わる時間が遅くなったりしますし、保育園のお迎えの時間はちょっと幅を広げて「○時~○時までに行きます」と書かせてもらっています。 ――お子さんとはどんな関係なのでしょうか。  上の子は11歳、小学5年生ですね。反抗期みたいにずっと口を利いてくれないことはないのですが、たまたま眠いとかお腹が空いているとかで子どもは気分がコロコロ変わるので、機嫌が悪いと口をきいてくれないこともあります。でも「今日はこの後、仕事?」って聞かれて、「今日は(家に)いるよ」って言うとちょっとうれしそうな顔していたりすることは全然あるので、まだ虐げられてはいないです(笑)。でも「パパ、枕臭い!」って言い出しているので、時間の問題ですが……。  放っておくといつまでもユーチューブを見たりしちゃうし、真ん中の7歳の男の子はゲームばかりで、それでいつもママに怒られて……。そんな毎日です(笑) ――では一番下の子は? イヤイヤ期が始まる頃でしょうか。  もうそうですね。靴下は履かない、靴も「これ、ちがう」、上着も「やだ」っていうのが始まってますね。毎朝、保育園に連れて行く前は大騒ぎですよ。「ママー!」って大泣き! でも一歩外にでるとケロッとして、泣くのは10秒ぐらいなのでもう慣れました。  上の子たちが小学5年生と2年生なので、子育ての“戦力”になってくれるときもあります。特に上のお姉ちゃんはお母さんモードな日もあるんですが、そこはまだ子どもなので、自分がやりたいことを見つけちゃうとそっちに夢中になっちゃう。自分が抱っこしたいと言っていたのに、「パパちょっと見てて」とか(笑)。 ――そうなんですね。先日、山口もえさんが田中さんについて「家事貢献度30%、育児貢献度60%」と評価されていましたね。  厳しいですよー。僕は料理ができないので、ゴミ捨てや洗濯、洗い物とかできることはそこそこやっている感覚ではあるんですが……。  どの家もそうだと思いますが、家事に関しては奥さんが監督みたいなもので、良かれと思ってやったことが逆にダメだったということもしょっちゅうあります。育った環境も性格も違う別の人間ですから、奥さんの中にあるルール通りにできるわけがないんですが、そういうことが査定に響いていくというか……(笑)。 ――互いのやり方をすり合わせるのは意外と時間がかかりますよね。びっくりされたルールもありましたか?  たくさんありますよ。例えば、結婚して最初のころは洗濯物の干し方でも、「シャツは一番上のボタンをちゃんと締めないと」とか、「ポロシャツは襟を立てて」とか。それまでの人生でシャツの干し方をそんなに考えたこと無かったですから。  食品保存用バッグのたたみ方は、すごく怒られましたね。何も考えずにしまおうとしたら「空気が入ってる」って。空気を抜かないと、かさばるんだそうです。  あと、紅茶を入れてあげようとしたら、ティーバッグをピッピッと揺らしたことに怒られました。そのままそっと置いておくんだそうです。完全に奥さんがルールブックですから、厳しいですよ(笑) ――その一方で、育児貢献度は60%と高評価でした!  良かったです。家事と子育てって、一方がやれてないことをもう一方がやるだけで、僕は切り離せないものだと思っているんですが。毎朝起きて上の子2人を見送り、下の子を保育園に連れて行く、おむつは気付いたほうが替えるとか、上の2人を習い事に連れて行くとか、できる範囲ではやっています。  とにかく毎日毎日あっという間なので、昔の写真を見て「うわ、1年前はこんなに小さかった!?」と思うことがあります。上の子たちは少しずつお兄さん、お姉さんになってきていますが、成長は右肩上がりの直線のグラフじゃなくてジグザグ。ときどき、こんなの幼稚園児だろ!って思うようなことやったりするんですよね。  例えば、一番上のお姉ちゃんはママの真似をして「電気付けっぱなし! 誰!?」、「パパ、いつもだよ!」って言ったかと思えば、夜の暗いリビングが怖くて「パパ~、一緒に来て」ってお願いされたりとか。同じ子なのにそんな一面があったりして、全部ひっくるめてかわいいなと思いますよね。  下の子は7歳ですけど、本当に1歳の妹をライバル視するぐらい「ママ、ママ」ですから。それでも習い事の発表会に「パパ、来られるの?」って気にしていたり、かわいいです。 ――子どもたちとの向き合い方で心がけていることはありますか?  特に気をつけていることは無いんですが、自然体でいることですかね。わざとらくし気を引こうとして「今日どうだったの~?」って聞いても、子どもにはバレますから、「うるさい」「知らない」ってそっけなくなっちゃう。言いたくなきゃ言わなくていい、というぐらい自然体でいいと思っています。 ――忙しい毎日の中で、ついイラっとしちゃう人もいると思います。笑いのスイッチに切り替えるコツがあれば教えてください。  感情的になってしまうことは、日々ありますよ。お笑いの人間だからって、家でもずっと面白いわけでもないし、どの職業の人でも同じだと思うんです。性格とかもあるでしょうけど。  僕はなるべく感情的にならないように、距離が近くなりすぎないようにしています。相手は子どもだから、ときどきとんでもないことを言ったりするんですが、同じ土俵に上がっちゃうと傷ついちゃったりします。でもそれは「子どもだから言ってるんだ」って自分に言い聞かせるしかないし、それこそ川柳みたいなものも、間にクッションを挟んでくれるので良いですよね。そのうちに親も(対応に)慣れていくし、子どもがわかってくるようになると思います。 ――特に男性が育児をしようとすると、職場では付き合いが悪いと思われることがあったりします。芸能界の付き合いや飲み会とはどのようにバランスを取っていますか。  いわゆる会社員の方とはまた違うでしょうけど、僕はお酒をまったく飲まないので、もともと飲みに行くということが無いんですよね。打ち上げや新年会、すごく親しい人の誕生日会とかでたまにはあるんですが、例えば、テレビの収録が終わって「この後、飲みに行こうぜ!」ってことは無くて、毎日そのまままっすぐ帰ります。仕事が夜中に終わることもあるので、帰ったら家は真っ暗で家族みんなが寝ているということも当然ありますけど。  それが会社員の方だと、半分仕事みたいな感じで上司に誘われたりとかあると思うので、逆にどうやってるんだろう……。みんな大変ですよね。  奥さん(山口もえさん)はもともと僕がそういう感じだとわかって結婚しています。ケースバイケースでしょうけど、例えば若いうちに結婚されて、仕事で出世して立場が変わっていくということもある。お互いの仕事のルーティンや職種への理解は必要だと思うんですよね。 ――職場では世代によって考え方の違いもありますよね。  そうですね、時代は完全に過渡期。でも上司の世代は子育てをしてこなかったのが当たり前で、しょうがないんですよ。正論をぶつけたって、それぞれの正論が違うからただ対立するばっかりだし、ごまかしごまかしやるしかないと思うんです。お互いがその時代の生き方を理解し合うしかない。  いまパワハラやセクハラが大きな問題になっているのも同じことで、無理もないんですよ。もちろん、昔の運動部でされていた体罰のような指導が間違っていたのは明らかだし、ちゃんと変えていかなきゃいけないわけですが、そういう人生を歩んできて、当時はそれが正しかったのに、急にガラッと変わるというのも難しい。それを若い人たちが一方的に叩いても、可愛そうな面もあると思います。時代が変わっている最中だから。逆もそうです。  ちょっと怒ったらパワハラだってなるのも行き過ぎているし、過剰なクレームみたいなことばかりになってしまうのも良くないし、そこは本当に難しいなと思います。 ――そんな過渡期に、人前に立つ仕事は大変ですね。  家族に関することでも、難癖つけようと思えば付けられてしまうし、あえて違う解釈をして叩くみたいなことも実際にあるわけです。僕はSNSをやっていませんが、子どもと公園で花の蜜を吸ったっていう投稿が窃盗だ、器物損壊だって言われちゃう時代です。ほのぼのとしたエピソードだと思って投稿したはずなのに、批判されちゃうのはどう考えても間違っていると思うんです。でも子どもたちはそういう時代に育っていくわけで、すごく心配ですね。  だからこそお笑いや川柳のような、ちょっと毒があるものは本当に大事だなと思うんです。ちょっと笑える、共感できる。そういうことがあるから、精神的に健全な方向にいくと僕は思っているんですよね。何でも悪い方に取るという世の中なので、皮肉や自虐という手法が、ともするといじめや差別とつなげたがる人もいたりします。それが行き過ぎると、人々は何もしゃべることができなくなっちゃう。  洒落を許容するのは大事なことだと思っています。クスッとでも、ニヤッとでも笑っていられることを、お笑いをやる我々はもちろん考えますが、怒ることより笑うことが多い世の中が良いですよね。結局はみんなが笑っていったら、幸せなのは変わらないですから。 (聞き手/AERA dot.編集部・金城珠代)
働き方出産と子育て
dot. 2019/04/16 11:00
小学生の時にエジソンの伝記を読んで開発者に憧れた------アノヒトの読書遍歴:TAKAHIROさん(前編)
小学生の時にエジソンの伝記を読んで開発者に憧れた------アノヒトの読書遍歴:TAKAHIROさん(前編)
(写真:BOOKSTAND)  ダンサー・振付師として活躍するTAKAHIROさん。大学入学後にダンスを始め、卒業後の2004年に単身渡米しました。全米放送のコンテスト番組「Showtime At The Apollo」でマイケル・ジャクソンを超える歴代最多の9大会連続優勝するなど多大な活躍を見せます。2014年に帰国した後は、アイドルグループ欅坂46 の「サイレントマジョリティー」(2016年)や「不協和音」(2017年)の振り付けを担当し話題を呼びました。そんなTAKAHIROさんは本好きでもあるそうで、普段はどんな本を読んでいるのでしょうか。日頃の読書生活について伺いました。 ------TAKAHIROさんが一番初めに本と出会ったのはいつになるんでしょうか? 「小学校1年くらいのときです。幼稚園のバザーに行って『しずくのぼうけん』という絵本と出会ったのが最初だと思います。主人公の雨だれが冒険をするというストーリーなのですが、泥に塗れて汚くなったり、洗濯機の中に入ってぴっかぴかになったりと、『こんな雨だれ一つでも、すごく人生大冒険あるんだな』って思って。この雨だれが自分自身と重なって、親に読んで読んでって言ってこればかり読んでもらっていた記憶があります。初めて自分でこの本が欲しいって言って親にお願いした本でもあります。その後は、『かいけつぞろり』も面白くてハマりました。こちらも冒険モノなのですが、新巻が出るたびに買ってもらっていました」 ------冒険物が当時は好きだったんですね。 「ええ。この『かいけつぞろり』の主人公は、冒険もそうなんですが、いつも何か発明をしていくんです。それも好きでした。僕は実は発明家に憧れていまして。エジソンが大好きだったんです。何もないところから電球を生み出したり、自分の声を"箱"に閉じ込めたりするわけですよ。それをみんな笑うわけです、そんなの無理でしょって。でも彼はそれをやり遂げるわけです。僕とは違い過ぎる人だから、読んでも何でそんなことをやるんだろうって理解できないですけど、そんな人が世の中いるってことがなんだかすごいなと思って。なので当時は、小学生ながらに伝記を読んでいました。織田信長も好きで彼の伝記も読みました」 ------小学生ながらに伝記を。最近はどんな本を読みましたか? 「宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』を読みました。実は振り付けを担当することになったミュージックビデオが銀河鉄道の夜をモチーフに作られたものでして。どうして水に潜っているんだろうとか、読まないとどうしても浅くなってしまいます。最近では、仕事きっかけで本を読むことが多いです」 ------幅広いジャンルの本を読まれているわけですね。これまで印象に残った本はありますか? 「アメリカに住んでいた時に読んでいた、芥川龍之介の『河童』は印象深い一冊です。ある日、河童の世界に人間が迷い込み、そしてその世界の中で、人間界とは違う常識を持った河童の世界を体験する一人の人間のお話です。例えば、河童の世界では子供が生まれる時に、親がその子供に『出てきたいかい?どうかい?』って聞いたり。あるいは、工業が進んで、何でもマニュファクチュア。ベルトコンベアーで物が作れるようになって、今でいうAIみたいな感じになって、たくさんの人がリストラされる。でも河童の社会はリストラされても大丈夫なんだと。なんでかと聞いたら、河童同士がお互い殺し合って自分たちの人口を調整するようにできているんだ、とか」 ------人間の世界では考えられないですね。 「そんな中、一人の芸術家、クラバックといえばよいでしょうか。つまり作曲家が登場するんですが、こう言うんです。『では、何を恐れているのかと聞かれて、では、何か正体の知れないものを自分は恐れている。言ってみれば、彼を支配している保身を恐れてるんだ』と。でも意味が分からないと言われて、彼はこう答えるんです。『ではこう言えば分かるだろう。彼は僕の影響を受けないが、僕はいつの間にか彼の影響を受けてしまうのだ』と。この一節において、僕はこの本が大好きになりました」 ------TAKAHIROさんと重なった部分もあったのでしょうか? 「当時僕はニューヨークでダンスの下積みをしていて、少し結果が出てきて、それでも挑戦している時にこの本を読んで、クラバックに影響されてしまうのが怖いと思ってる河童の気持ちに共感して、でも影響されないで進んでいるなという自分もいて、どちらの気持ちも分かったんです。僕は結構、他の作品を見ることが怖くて、見ないことが実は多いんです。なんか見てしまうとその動きを感じてしまって、自分の中にその動きが入ってしまうんじゃないかって。自分自身の個性が消えてしまうんじゃないかって、その時はそれがとっても恐くて。今は『真似ることがまず一つの大事なことだ』って思えるようになりましたが、当時はとってもクラバックで......でもそんなクラバックがとっても好きな『河童』という本のお話なんです」 ------ありがとうございます。後編でも引き続きTAKAHIROさんに影響を与えた本をご紹介します。お楽しみに! <プロフィール> TAKAHIRO たかひろ/1981年生まれ、東京都出身。ダンサー、振付師、演出家。 玉川大学入学後にダンスを始める。卒業後、社会人経験を経て2004年に単身渡米。渡米中の2005年、「アマチュアナイト」のダンス部門1位を獲得。翌2006年、全米放送のコンテスト番組「Showtime At The Apollo」でマイケル・ジャクソンを超える歴代最多の9大会連続優勝し、無敗のまま殿堂入りを果たす。その後、マドンナのワールドツアーの専属ダンサーに抜擢される。帰国後は、2016年に女性グループ欅坂46の「サイレントマジョリティー」。翌2017年には、同「不協和音」の振り付けを担当し話題を呼ぶ。経験や考え方をまとめたエッセイ『ゼロは最強』が発売中。
BOOKSTAND 2019/04/15 13:27
GW、3人称で書く「シナリオ日記」のすすめ 人間関係改善の効果も
GW、3人称で書く「シナリオ日記」のすすめ 人間関係改善の効果も
根本昌夫(ねもと・まさお)/1953年、福島県生まれ。元「海燕」「野性時代」編集長。島田雅彦、吉本ばなならを発掘。2002年から朝日カルチャーセンター、早稲田大学エクステンションセンター、法政大学等で小説講座を担当(撮影/写真部・片山菜緒子)  改元をはさんだ今年のゴールデンウィークは破格の10連休。降ってわいた長い休みは思い切って何かを変えるチャンスだ。いつかやろうと思っていることがあるのなら、スタートを切るのは、いまだ。 *  *  *  小説を書いてみたい──。そう思う人たちが集う教室がある。  金曜の夜。若者からリタイア世代まで幅広い年齢層の受講生が三々五々集まってくる。 「今日はこの作品からやっていきましょう」  400字×25枚の短編。受講生全員が順番に感想を言い、最後に先生がコメントする。 「すごくいいですね。短編として完璧にできています」  石井遊佳さん(55)と若竹千佐子さん(65)、ふたりの芥川賞作家が輩出した根本昌夫さん(66)の小説教室。朝日カルチャーセンター新宿校の講座は、多くのキャンセル待ちがあるという。  東京都在住の51歳の女性は、医療事務の仕事のかたわら昨年7月から受講している。 「皆さん文章が好きなので、より良い作品になるにはどうすればいいかを本人のように考えて真摯な意見を聞かせてくれる。合評は毎回とても刺激的です」  当初根本さんは、小説の書き方を学びに来ることに対して懐疑的だったが、受講生の作品を読んで考えを変えた。 「無名の人の作品でもいい小説があると逆に教えられました」(根本さん)  教室には弁護士、主婦、僧侶などさまざまな人が集まる。ここではニートも医者も対等。多様な人が小説について話す。そういう場所はあまりないのではないかと根本さんは思っている。 「プロになる必要はないんです。小説を書いてみることで人生を生き直す。書くことで自分って何なのかちょっとでも知っていくというのかな」(同)  小説を書きたい人にお勧めの10連休の過ごし方がある。 「好きな作品を再読するといい。いい作品は年齢によって違ったように読める。これが小説を書く第一歩になります」(同)  憧れの俳優が自分が書いたせりふを読んでくれるかもしれない。そんな魅力的な職業が脚本家だ。内館牧子さん(70)、岡田惠和さん(60)など有名脚本家が輩出している東京・表参道のシナリオ・センター。約50人の受講生が講義に聞き入っている。 「今日は人物の描き方に入っていきます。魅力的なキャラがドラマを作るカギとなります」  講師はキャラクター作りに必要な要素を板書しながら説明していく。時折ドラマ制作の舞台裏の話に脱線すると笑いが起こる。かと思うと河竹黙阿弥の「三大深切」の説明。理論と実践が緩急をつけて語られていく。 「役者は常に代表作にめぐりあいたいと思っている。そういうものを書けるといいですね」  綺羅星のような出身ライターを見ていると、遠い将来のことではないように思えてくる。  近藤剛(たけし)さん(45)は東京都在住の映像ディレクター。撮影・監督したドキュメンタリー映画が公開中だ。映像の世界で着実にキャリアを積んできたが、もうすぐ50歳。このままだと頭打ちになるという不安感があった。 「仕事以外の何かをやることが自分に対する投資貯金みたいに思える。ドキュメンタリーとシナリオは一見正反対に思えますが、ドキュメンタリーにも構成は必要。逆転の発想でシナリオ的な考え方ができたら面白いと思って受講しました」  徳重ひとみさん(38)は千葉県在住の主婦。4年前に夫の転勤で上京するまでは、地元の鹿児島を一歩も出たことがなかった。子どもの頃から文章を書くことが好き。いまから硬い文章を書くのは大変だが、シナリオなら楽しそうだと思った。 「ここで先生方の実体験を聞き、観ていたドラマは夢じゃなくて現実だったんだと初めて思って、うわあすごい世界だなと。一瞬でも先生に面白いと思ってもらいたくて課題を頑張って書こうとか、プロになりたいと思うようになりました」  徳重さんには書きたいテーマがある。養護教諭になる勉強をしていた短大生の時、教育実習で不登校のトランスジェンダーの女子生徒と仲良くなった。なぜ学校に来ないのかを聞くと、スカートをはいてこいと先生が言うからだと言う。 「学校に来たいけど先生たちがそう言うから来られないんだよ」  養護教諭を目指していたが、正解がわからなくなった。養護教諭の道は諦め、就職。結婚した後もずっと気になっていた。 「このことをテーマに作品を書きたいです」  シナリオ・センター代表取締役社長の小林幸恵(さちえ)さん(69)は「去年あたりからグッと受講生が増えている」と言う。これまではシナリオを書きたい人が多かったが、最近は2~3割、小説やゲームを書きたいという人がいるという。ジャンルが多種多様になってきているのだ。 「褒めて育てるがモットー。創作は否定されると止まる。創作って全員違うので、どんな下手な人でも絶対に何かがある」(小林さん)  10連休でできることはあるか。 「『シナリオ日記』をお勧めします」(同)  通常日記は一人称で書くが、シナリオ形式の三人称で書く。自分の行動を客観視することができ、理解できない相手の行動も分析できる。以前丸の内で働く女性向けのシナリオ講座で、受講生にシナリオ日記を書いてもらった。この部長にはこういう言い方がいいなど、職場での人間関係の改善に大いに役立つという。もちろんキャラクターを作る上での参考にもなり、シナリオを書く訓練にもなる。 「すべては人間関係です。相手のことを考えようと簡単にいわれますが、考え方は教えてくれない。客観的に見るテクニックを誰も持っていない。台詞のやりとりだけでも書いてみるとそこが見えてきます」(同) (編集部・小柳暁子) ※AERA 2019年4月15日号より抜粋
ゴールデンウィーク
AERA 2019/04/14 08:00
作家になったのは飼い犬・トミのおかげ? 平岩弓枝が明かす
作家になったのは飼い犬・トミのおかげ? 平岩弓枝が明かす
平岩弓枝(ひらいわ・ゆみえ)/1932年、東京・渋谷区出身。日本女子大学国文学科卒業後、小説家を志し、作家・戸川幸夫、長谷川伸に師事。27歳のとき、小説『鏨師(たがねし)』で第41回直木賞を受賞。以来、多くの小説やテレビドラマの脚本を執筆。吉川英治文学賞、紫綬褒章、文化功労者、文化勲章など多数の受賞歴を誇る。文学勉強会・新鷹会理事長でもある (撮影/写真部・小山幸佑) 平岩弓枝さん (撮影/写真部・小山幸佑)  もし、あのとき別の選択をしていたなら──。著名人に人生の岐路に立ち返ってもらう「もう一つの自分史」。今回は直木賞作家の平岩弓枝さんです。「旅路」(NHK)や「ありがとう」(TBS)など、テレビドラマの脚本も数多く手がけてきました。人間を見つめ続ける視座はどこで養われたのでしょうか。影響を及ぼした経験を振り返ります。 *  *  *  生まれも育ちも代々木八幡宮(東京都渋谷区)。宮司だった父に溺愛されて育ちました。鎌倉時代から続く神社の一人娘ですから、特殊な環境だったことは間違いないですね。周囲は大人ばかりだし、家は小高い山の上で境内にある。親友は、氏子総代の方が譲ってくださったトミっていう名前のメス犬。それはそれはかわいかったですね。 ――実は、平岩を作家に導いたのはそのトミだという。まず、作家の原点の、トミとの思い出を振り返ろう。  今、代々木八幡駅があるあたりは、当時は材木置き場でね。その向こうの踏切を渡って、富谷小学校に通っていました。でも、学校がつまらなくて。何しろ父が、学校で教えるようなことは全部、先回りして教えちゃってたんです。  早く帰りたくて、おなかが痛いってうそついてた。でも、まっすぐ帰ったらばれちゃうから、材木置き場に座って、お昼のサイレンを待つんです。そしたらトミがね、トコトコと走ってきて、私の隣に座るんですよ。どうして私が早退してるのがわかったのか、不思議でなりません。  トミは意気揚々と私の後ろをついて歩いて、石段まで来ると一気に上まで駆け上がるんです。そこから先は目撃談なんですけど、トミはまっすぐ犬小屋へ入って、さも「今まで寝てましたよ」っていうふうに、あくびしながら出てくるんですって。それでしれっと私を出迎えるんです。  仮病で早退なんて、すぐ親にばれました。母が「まったく、犬までグルになって!」って怒りましてね。トミと私はいい友達だったんです。  小学校を卒業するころ、トミは天寿を全うしました。すごく悲しくて、「トミの思い出」っていうのを綴り方(作文)で書いたんです。私、それまで作文なんてあまり書いたこともなかったのに。  そしたらそれが渋谷区の広報誌に載りましてね。これが間違いの元でしたねえ(笑)。親も氏子も「弓枝には文才がある」なんて言いだして、こっちも綴り方をやらねばって思うようになった。だから、私を作家にしたのは犬のトミだって思うのです。 ――とはいえ、平岩が作家として歩み始めるのはまだ先の話。中学生で、平岩は生涯忘れることのできない経験をする。戦火を逃れ、福井に疎開したときのことだ。  空襲にもあいましたが、父と母は残って、天水桶や池の水をくんでは焼夷弾にかけ続けたそうです。何代にもわたって受け継がれたお宮を守らねば、という使命感があったのでしょう。私は母方の郷里、福井へ疎開してたんです。  でもね、福井市内も空襲があったんですよ。繊維産業の街で、パラシュートの工場があったせいだと思います。私は市内から京福電鉄で1時間ほど離れた市荒川(現・越前竹原駅)の伯母の家に身を寄せていたので無事でしたが、夜、市内の空が真っ赤になっているのを、屋根によじ登って、ぼうぜんと見ていました。  福井ではクラスメートが親切にしてくれたんですよ。女学校に編入したんですが、方言はわからないし、生活習慣もまるで違う。いちいち驚くもんだから、ついたあだ名が「びっくりさん」(笑)。田植えも稲刈りも、都会っ子にはまるで歯が立ちませんでしたが、「びっくりさんに鎌持たせたらあかんで。ケガするから。私たちがやるから」ってね。  そうやって、しょっちゅう遊びに行ったり、一緒に勉強したりした大切な友達の家が市内にはあった。もう居ても立っても居られない。彼女たちを捜そうと、空襲の翌朝、どうしても市内へ行かせてほしいとせがんだんです。伯父が駅長をしていたもので、大人たちが融通して貨物車の運転席に乗せてくれました。  市内はあたり一面、焼け野原。遠くに見えるお城を目印にして歩き回りました。あのあたりは少し掘るだけで水が湧き上がるような土地だったんです。だからどこの家も防空壕がすごく浅かった。友人の家でも、みんな、その浅い防空壕に突っ伏して、焼死していました。「○○ちゃん!」と抱き起こそうとすると、どろどろになった身体に手がずぼっと入ってしまう。後にも先にも、そんな経験はありませんでした。おいおい泣きながら焼け野原を歩き回ったことを今でもよく覚えています。  生き残った人たちに「家へお帰り」って言われて、とことこ歩いていたら、伯父が出してくれた捜索隊とばったり出会って、やっと帰れました。  今だから、こんなふうに話せますが、あのときは誰に話すこともできませんでした。福井の伯母にも。私は「友達は……みんな死んじゃった」って言ったきり。伯母もそれ以上聞こうとしませんでした。  どうしようもないことですからね。だから、私にとって福井はとてもつらい土地なのです。私は中学2年生でした。 ――多感な時期のこうした体験が、作家としての視座につながっているのかもしれない。東京へ戻ると、以前通っていた日本女子大学付属高等女学校に復帰。大学を卒業するも、就職はしなかった。  卒業間際、踊りのお稽古仲間が「将来何になりたいの?」って聞くんですよ。答えに窮してたら「あなた踊りは上手だけど、忘れっぽいのよ。それじゃ師匠は務まらないわよね。ほかに取りえはないの?」って。まあはっきり言う人でねえ(笑)。それで、昔作文で褒められたことならあるって話したら、「いい先生について修業するべきよ!」ってね。銀行頭取のお嬢さんで、思い立ったらすぐ行動、の人だったんです。  お父様の知己を頼って紹介してくださったのが動物作家で児童文学者の戸川幸夫先生。その戸川先生から「もっと幅広く人間を描ける先生を」と紹介されたのが、長谷川伸先生だった。それで、長谷川先生が主宰していた小説勉強会「新鷹会」の門下生になったんです。  そこにはそうそうたる先輩方がいらっしゃいました。村上元三、山岡荘八、池波正太郎……。女性は2、3人しかいなかったわね。そこに夫(平岩昌利さん)もいたんです。若手は私と夫ぐらいでね。あとは大先輩で。とにかく手探りだったけれど、ここから文学修業が始まりました。  長谷川先生からは、小説は筋立てじゃない、人間を描けって言われました。それにはいろんな人に会い、好奇心をもって人や物事を見ないと。いい面も悪い面もあるのが人間ですから。  もう一つ、「芝居はいいが、テレビやラジオ、特に映画の脚本など手を出すべきではない」とも。その真意は……うーん。やっぱり派手な世界だからでしょうね。実力もつかないうちに、ちょっとヒットするとちやほやされるようなところに身を置いては才能をつぶしてしまう、とおっしゃりたかったんでしょう。 ――師匠の言葉もあって、平岩がテレビドラマを手がけるようになったのは、自ら積極的に売り込んだ結果ではなかった。作家としてデビューしたが、ある事情から仕事が来なくなったのがきっかけだった。それには直木賞の受賞が関係していた。  おかげさまで、27歳のときに『鏨師』で直木賞をいただきました。とにかく人間を見つめなさい、描きなさい、という教えのたまものです。  そのころ、長谷川先生のお身内が小さな出版社を経営していて、私は『鏨師』を出版するならその会社から、と考えていました。でも文藝春秋は自社から出すと思っているから大変です。考えてみれば失礼な話ですよね。わずか27の新人が、天下の文藝春秋にたてついたんですから。  当然、しばらくお仕事はいただけませんでした。長谷川先生はどこから出しなさいともおっしゃらなかった。でももし、あのとき、言われるままに文藝春秋から出していたら……経済的にはもっと楽だったかもしれませんね。でも、そのおかげでテレビの仕事に出会えたんです。 ――仕事が減ったところへ声をかけてきたのは、NHKのドラマ制作班だった。連続テレビ小説「旅路」の脚本を依頼してきたのだ。  NHKも脚本家ではなく、小説家に声をかけたんですね。直木賞をとったから。  TBSの石井ふく子プロデューサーからもお話をいただいて、「女と味噌汁」「肝っ玉かあさん」「ありがとう」と、ホームドラマが立て続けで。多いときで週に3本も書いてました。取材旅行の飛行機の中で書き上げた原稿を、折り返し戻る飛行機に託したこともありましたね。空港まで、放送局のスタッフが取りに来てくれるんです。  綱渡りで、めちゃくちゃな時代でした。今思うと信じられませんね。結婚もして、子どもにも恵まれて。それでも執筆が続けられたのは、夫と夫の母、家族みんなのおかげです。 ――長い作家生活を振り返ったとき、「小説は年を取ってからのほうがいい」と平岩は言う。  腰が据わっているから焦らなくて済むし、無理しなくていいし、する必要もないし。これまで、娘が大病をしたり、孫に恵まれたり、いいことも悪いこともたくさんあったけれど、長谷川先生の教えに従って、お仕事はすべて、断らずに書き続けてきました。  さすがに今はもう、年ですからね。ぼちぼちと、「来し方の記」を書いて過ごしています。たどってきた道を書いています。(人生を)歩いてきた、なんていい方をしますけど、振り返ればなんだか転んでばっかりだな、と思っていますね。 (聞き手/浅野裕見子) ※週刊朝日  2019年4月19日号
週刊朝日 2019/04/12 17:00
【現代の肖像】NPO法人「暮らしのグリーフサポートみなと」代表理事・森美加「喪失の悲しみの果てに」<AERA連載>
島沢優子 島沢優子
【現代の肖像】NPO法人「暮らしのグリーフサポートみなと」代表理事・森美加「喪失の悲しみの果てに」<AERA連載>
息子の一周忌に桜の木を植えた。「桜を見ると複雑で。でも今はそれも大切な気持ちだと思える」(撮影/鈴木愛子) グリーフカフェ。この日はわが子が自死した母親も参加した。日本全体の自殺者は減少傾向なのに19歳以下は年間500人以上と減少しない。「いじめなどで悩む子をケアする構造を考えたい」と森(撮影/鈴木愛子) 「やさしくて大好きな母だった。離婚後は憎んだこともあったけど、7年ぶりの再会なのにすんなり会話できた。やっぱり親子なんだなあと思った」と三男。背後で写真の中の長男が母子を見守っている(撮影/鈴木愛子) 森(右)の活動を応援する入江(左)。「これから高齢化社会で身近な人を失う人はもっと増える。安心安全な場所で悲しみを吐き出す機会が必要だと思う」(撮影/鈴木愛子) ※本記事のURLは「AERA dot.メルマガ」会員限定でお送りしております。SNSなどへの公開はお控えください。  中学2年生の長男が自ら命を絶った。いじめが原因だった。事実解明を求め、母は遺族として学校側と闘った。成果はあった。けれども、長男を失った悲しみは置き去りにされた。夫も次男、三男も置いて、逃げるように一人、家を出た。今、NPOを立ち上げ、同じ悲しみを抱える人に寄り添いたいと思えるまでに。もつれた親子の糸もほぐれてきた。(文/島沢優子) *  *  *  森美加(もり・みか 48)は東京都港区で活動するNPO「暮らしのグリーフサポートみなと」で、離婚、別離、大切な人を亡くすなど、何らかのグリーフ(悲しみ)を抱える人たちに寄り添う。  こころの苦しみの解消が目的ではない。否定も肯定もせず、ただただ吐き出す言葉を聴き、そばにいること。人々はそんな時間のなかに癒やしを見いだし、自分の変化や発見を経験する。  気持ちを語り合う「グリーフカフェ」は、すぐに定員が埋まる。母親を病で亡くした50代の男性は「母の洋服を片付けられない。さわるのがつらい」とつぶやく。中学生の息子が自死した40代の女性は「ここに来るようになって、自分の孤独を否定しなくてもいいと思うようになった」という。  森は、ただうなずきながら、静かに話を聴く。人の悲しみに対峙しながら、自分の過去をひもとく彼女が、気にかけていた判決が最近あった。  2月19日。2011年10月に大津市の中学2年生だった男子生徒が自殺したのはいじめが原因だとして両親が損害賠償を求めた訴訟の判決で、大津地裁は元同級生2人に賠償を命じた。  学校は当初、いじめの事実を隠蔽しようとしたが、警察が捜査に乗り出し、市の第三者調査委員会が自殺の要因をいじめと認定した。  真実をつまびらかにするための「三者委」が全国で初めて置かれたのが、大津の5年前に起きた「福岡中2いじめ自殺事件」。森はこの事件の被害者遺族である。 「この事件は私の中で特別なもの。ただ判決が下りたとしても、遺族は第二の人生を生きていかなくてはいけない。周囲はご両親を支えてほしい」 ●事実解明を求めて裁判に 前例を変える挑戦だった  2006年10月11日。  森の長男である啓祐は、福岡県内の自宅倉庫で祖父によって発見された。駆けつけた森が祖父とともに玄関まで運ぶと、到着した救急隊員は13歳の薄い胸を押し続けた。紫色の唇、真っ白な顔。小学4年だった三男がすがるように叫んだ。 「お兄ちゃんを助けてください! お願いっ、お願いします」  だが、願いは届かなかった。冷たくなった啓祐が自宅に戻るやいなや、パソコンなど彼の身の回りのものは全部警察によって持ち出された。「いじめられて、もういきていけない」などと書かれた遺書も見つかった。  闘いの日々が始まった。その日、海外出張で家を空けていた森の夫は、学校側に事実解明をと詰め寄った。が、説明は二転三転し、真実はその切れっ端すら見えてこない。テレビカメラ、新聞記者は連日、玄関前まで迫ってきた。福岡市から30キロ離れたのどかな町は騒然となった。 「大変なことが起きたと思った」  そう明かす担当弁護士の迫田登紀子(50)は、いじめ自殺の判例はといえば、史上最悪のいじめ事件といわれた1994年の「大河内君事件」しか思い出せなかった。現在は1~2人で担うが、このときは7人もの弁護団が結成された。 「ご遺族は啓祐君に戻って来てほしいでしょう。でも、戻ってはきません。その対価として、以下の三つを求めていくしかないと考えています」 1.第三者調査委員会を設置させ、いじめを認めさせる。 2.「学校が原因の自死」と認めさせ、日本スポーツ振興センター災害共済給付金を得る。 3.警察に何らかの形で介入させる。  現在では広く知られる第三者調査委員会だが、森ら遺族は初めて聞く言葉。振興センターの給付金は児童生徒が事故に遭った際に前もって積み立てていた保護者に支払われるが、当時は「学校内で起きた事案」に限られていた。加害者の書類送検といった警察の介入も、子どものいじめ事件ではまれ。すべてが前例を変える挑戦だった。 「何に向かって進んでいいのか途方に暮れていた私たちに、明確に方向性を示してくれた」  迫田は振り返る。 「私たち弁護士は裁判をするときはほぼ勝てると思ってやる。でも、森さんの案件は(裁判は)難しいと思った。啓祐君が受けたのは主に言葉の暴力で、身体的な暴力や脅迫、カツアゲといったそれまでのいじめ事件とは違うもの。だから、給付金の獲得などに要求をとどめた。私たちに何ができて、何ができないか。酷だけれど、前もって知ってもらわなくてはいけなかった」  限界はある。けれど、三つは必ずつかみ取る。弁護士7人の矜持だった。  保護者の承諾を得た生徒6人を弁護団が個別にヒアリング。町が発足させた三者委の調査もあり、担任によるいじめを誘発する関与があったことなどの事実が浮かび上がってきた。  死を選んだ当日、いじめを続ける生徒らに啓祐が「死んでやる」と言ったら、トイレで囲まれ「こいつ死ぬって。最後だからズボンを脱がせよう」とはがされていた。連日報道を受け、九州全域から森へ「いじめ被害者の母親に話を聴かせてほしい」と講演依頼が舞い込んだ。  病院でソーシャルワーカーを務めていた森は、週末になると迫田と各地を回った。三つの挑戦を完遂させる世論の後押しにつながった。三者委が設立され、日本スポーツ振興センターの規定変更により、学校が原因と認められれば災害共済給付金が支給されるようになった。 ●長男と同じ日に命絶った 大津のいじめ事件に衝撃  警察は暴力行為等処罰法違反の疑いや非行事実で、14歳の同級生3人を書類送検するなどした。法務局が調査に入ったのも初めてのこと。子どものいじめ自殺にさまざまな機関がかかわったという点において、ターニングポイントになった。  成果を得る一方で、森はボロボロだった。 「表向きは学校に怒っているけれど、救えなかった自分に対する怒りがありました。いじめられていたことに、まったく気付けなかった。美加、何やってんの!?って死んだ母に怒られると思った」  森の母は啓祐が亡くなる2年前に病で逝った。一人っ子の森が2歳のときに父親は亡くなっており、女手一つで看護師をしながら育ててくれた。夜勤のときは知人の家に預けられ、寂しい思いをした。自分は子どもを3人産んで幸福な家庭を築くのだ──。22歳で啓祐を産み、2年おきに次男、三男をもうける。夫の実家の敷地内に家も建てた。孤独だった少女は夢を叶えたのだ。初孫の啓祐は、森の母からことのほかかわいがられていた。  啓祐が亡くなる前に突飛な行動があった。突然「競馬の騎手になりたい」と言い出した。減量するからと食事を減らし始めた。 「来年は(高校受験に臨む)3年生になるのに、ばかなことはやめて」と森は叱った。  恐らく多くの母親が似た対応をするに違いない。だが、森は取り合わなかったことを後悔し続けた。遺書に記された「生まれ変わったらディープインパクト(競走馬)の子どもになりたい」という言葉も、森の心臓をえぐった。 「私はいい母親じゃなかったと何度も言いたくなった。でも、いじめ自殺の遺族が自責の念なんて言えない。いじめが死んだ原因だと訴えていかなきゃいけないから」  深いジレンマを封じ込めるしかなかった。 「残された2人の子どもがいるのよ。お母さんが元気でないとどうするの?」  周囲からそう言われた。良い母親でいなければ。遺族としてふるまわなくては。世間のこうあるべき論に、森は押しつぶされそうになった。  地域では孤立した。 「死んだのはあなたたち親の責任。メディアを使って学校を責めるな」  そんな手紙が匿名で届いた。ママ友に相談したらほかにも話が広がったのか、潮が引くようにみんな離れていった。  一周忌が終わった頃に地元で開かれた森の講演会に、加害者側の親たちも来た。彼女たちと仲の良かった女性が「みなさん、森さんの話ばかり聞かないでください!」と声を張り上げた。  長男の自死という波紋は大きな波になり、家族をのみ込んだ。  三男(22)は、テレビに出て顔が知られた森と買い物に一緒に行くのがおっくうになった。 「みんな僕ら親子をジロジロ見ているのがわかった。ああ、あの家の子ね、と。加害者の弟とは同じ学年で。とにかくすごくしんどかった」 「弟たちは抑圧されていたと思う。兄がいじめ事件の被害者となれば、自分たちは絶対にいじめや口論さえできない。でも、当時の私に残された息子たちの気持ちを考える余裕はなかった。仕事から家に帰るのがしんどかった」と森は振り返る。  結局、自責の念も、孤立も、舅や姑には無論のこと夫にも話せなかった。夫が限界を迎えていたからだ。夫婦ともに心療内科へ通院していた。 「苦しい、悲しいが言えなかった。孤独だった」  事件から4年ほど経ったある日、森は2人の息子を残し、逃げるように家を出た。  福岡市内にひとりで暮らした。孤独は時として、自分のどす黒い部分を連れてくる。 「なんで私、こんなところにいるの? あの子が自殺しなければ、不幸にならずに済んだのに」  そうやって息子を責めた後は、必ず嫌悪と喪失感に襲われる。 「亡くなった息子はもっと孤独で、残してきた2人はもっとさびしいはずだ」  私なんか消えたほうがいい。  洗濯物を干しにベランダに立てば、はるか下のアスファルトに。踏切の前では、線路に吸い込まれそうになる。希死念慮を抱えたまま、彷徨った。  息子2人の親権を夫が持つ、自分から会いに行かない等の条件を森側がのむかたちで離婚が成立。これを機に、東京へ居を移す。11年春のことだ。高齢者対象のソーシャルワーカーだった経験を生かし、地域包括支援センターに就職した。  都会で這いつくばるように生きていた森に、衝撃が走る。  11年10月11日。  啓祐が亡くなったのと同じ日に、大津の男子生徒が自ら命を絶ったのだ。 「ひどい事件」と勤務先で話題になれば、うなずくしかない。自死遺族だという事実は隠していた。新聞記者、テレビ記者とも縁を切っていた。支えられた迫田とさえも。  過去を葬り去ったつもりでも、グリーフは決して消えない。 「成人式だね」「大学に行ってたら就活だね」  死んだ子の年を数え、同じ年の若者につい目がいった。  そんなある日。  妻を亡くしひとり暮らしの老人宅へ訪問すると、夫だった70代の男性は訥々と話し始めた。 「森さんは、僕がどんなとき、悲しいと思う?」 「ひとりでごはんを食べているときとか?」  森が答えると、男性は首を振った。 「外に出てさ、電車でさ、死んだ奥さんと同じくらいの年齢の女性を見かけたりするとね、思い出して涙が出ちゃうんだよ」  私も、おんなじだよ。  言葉は胸にしまい、泣きながら2時間話を聴き続けた。 「帰り道、自転車をこぎながら、この気持ちは何だろうって考えた。この悲しみをどうしたらいいんだろう?と」  啓祐の事件の成果はあった。だが、そこから取り残されたような感覚、心の澱のようなものを森はずっと抱えたままだった。 ●親権放棄した三男から「産んでくれてありがとう」  すぐに「悲しみ、遺族」などと検索、ひとりの女性の名前が目に飛び込んできた。  入江杏。  平成最大の未解決事件といわれる「世田谷一家殺人事件」で亡くなった宮澤泰子(41=当時)の実の姉だった。事件が起きた00年当時、入江は泰子一家4人の住居の隣に住んでいた。  森は入江が催す東京都港区でのイベントに参加。これまでのことを打ち明けた。 「逃げていいのよ。私も世田谷から港区に逃げてきたの」  福岡から逃げるように上京してきた自分に、初めて共感してくれた人だった。 「私も美加さんと同じだよ。遺族としてふるまわなくてはならぬ感。それに抗っているの」  多くの共通点を挙げて森の心をほぐしてくれた。この入江からグリーフサポートの存在を聞き、「みなと」を開設するきっかけとなった。啓祐を失って10年が過ぎていた。  孤立、逃避、入江との邂逅。いじめ自死遺族の喪失から再生の物語は、母と子のもつれた糸をほぐすところまできた。 「いまどきの子はSNSをするはず」  次男はやっていなかったが、高校でバレーボールを続けた三男だけツイッターをやっていた。ハンドルネーム「パンダ」でフォローした。  フォロー通知を受けた三男から「誰?」とメールで尋ねられたが「さあ、誰でしょう」ととぼけた。正体は明かせない。試合の予定も近況もすべてツイッターで知った。隠れて試合を観に行った。  その後、周囲の配慮によって三男はパンダを母と知る。昨年、「就職決まった。産んでくれてありがとう」とメールがきた。  森は号泣した。  昨夏。7年ぶりに会った三男の言葉にこころが震えた。 「俺は大切な人(美加)をなくした。でも、大切な人を大切にしないといけないことを学んだ。あの状態でさ、仕事して、家のことやって、俺ら育てて、大変やったやろ。ありがとな」 「身内で、初めて私のグリーフを理解してくれた」  三男は、大学進学とともに家を出たことで「母親の苦しみを理解できた」と明かす。 「ごはん作って、掃除して、家事だけでも大変じゃないですか。僕らを捨てたお母さんだけど、今は受け入れられます」 ●三男からの恨み節にもうれしくてたまらない  受容できるのは、彼自身が持つ自尊感情と、今の彼が幸せだからだろう。森は「(育ててくれた)夫に感謝です」と涙をぬぐった。 「参観日とかさ、いてほしいときにいなかった。めっちゃ恨んでるで。ほんまに!」  恨み節はこころに突き刺さるはずなのに、森は息子が遠慮なく吐露してくれることがうれしくてたまらない。苦しみを吐き出せずに逝った啓祐のぶんも、正直に生きてほしいと願う。  そして「悲しみに出合ったことで、以前よりも強くなれた」とも感じている。  みなとで、大切な人を亡くした子ども向けのグリーフサポートをともに立ち上げるファシリテーターの村上順子(56)は「行動力がすごいし、人に訴える力を持っている」と信頼を寄せる。  三男より少し前に森と再会した迫田は言う。 「いじめ自殺事件の被害者遺族たちは裁判で良い結果が得られると、終了後に落ち込み、連絡がとれなくなる。再会できたのは今のところ彼女だけ。輝くような素敵な女性になっていた。ただ、当時から傾聴したり、話す能力があった」  時に悲しみは、人に生き直すきっかけや、輝きを与える。母の輝きを誰より喜んでいるのは、天国にいる彼に違いない。(文中敬称略) ■森美加(もり・みか) 1970年/福岡県田川市出身。2歳で父と死別。看護師の母に育てられる。中学、高校でバレーボールに打ち込む。 89年/高校卒業後、病院の事務職員に。知人の紹介で出会った近隣の町に住む男性と20歳で結婚。 92年/22歳で長男啓祐を出産。続けて次男、三男をもうける。夫、森ともにバレー選手だった影響もあり、子どもたち全員が小学生からバレーを開始。当番や送迎などもあり、仕事、家事、育児と忙しく過ごす。 2004年/母が肝硬変で死去。 06年/啓祐を亡くす。 07年/週刊誌が実名報道。弁護士の迫田登紀子らは抗議のファクスを何度も流したが発売されたため、実名公表に踏み切る。日本弁護士連合会と抗議声明を出す。 08年/『啓祐、君を忘れないーいじめ自殺の根絶を求めて』を上梓。 11年/離婚が成立し上京。社会福祉士専門学校に通った後、葛飾区にある地域包括支援センターでケアマネジャーとして勤務。「次男、三男とは生きていれば会える。2人が私を捜すかもしれない」と旧姓に戻さず生きることを選ぶ。 12年/大津市中2いじめ自殺事件発覚。 13年/「いじめ防止対策推進法」が成立・施行される。「大津がきっかけではあるが、考え方そのものは啓祐君の事件がベース」(迫田) 16年/世田谷一家殺人事件の遺族である入江杏と出会う。同年秋に「グリーフサポートせたがや」でファシリテーター養成講座を受け、サポート活動を開始する。 17年/1月に「暮らしのグリーフサポートみなと」を開設。啓祐を亡くした直後からつながりのあった「ジェントルハートプロジェクト」でいじめ問題に取り組む。自死遺族の相談にのる。九州で起きたいじめ自殺事件を一手に担う弁護士の迫田に自ら連絡をとり再会する。 18年/三男と7年ぶりに再会。介護福祉やカウンセリングを行う(株)グリーンビレッジを設立。代表取締役に就任する。 ■島沢優子 『桜宮高校バスケット部体罰事件の真実 そして少年は死ぬことに決めた』(朝日新聞出版)など著書多数。本欄で「人身取引被害者サポートセンターライトハウス代表・藤原志帆子」など執筆。 ※AERA 2019年3月11日号 ※本記事のURLは「AERA dot.メルマガ」会員限定でお送りしております。SNSなどへの公開はお控えください。
AERA 2019/04/12 15:49
ラッパー・Zeebraが教える「ヒップホップの出発点」
Zeebra Zeebra
ラッパー・Zeebraが教える「ヒップホップの出発点」
Zeebra(ジブラ)/東京を代表するヒップホップ・アクティビスト。ヒップホップ専門ネットラジオ局「WREP」では生放送「LUNCHTIME BREAKS」(平日12~13時)のMCを、テレビ朝日「フリースタイルダンジョン」(毎週火曜日深夜1時29分~)ではオーガナイザー兼メインMCを務める。仕事終わりに、慣れ親しんだ地元・六本木をぶらり(撮影/写真部・松永卓也) グリーンピース/サヤエンドウよりも成長した、熟す前のエンドウをむき実にして食べる「実えんどう」の仲間。水煮にしたものの缶詰や冷凍ものもあるが、春から初夏に出回る生のグリーンピースはほっくりと甘い。食物繊維やミネラル、ビタミンB群が豊富(撮影/写真部・松永卓也)  ヒップホップ・アクティビストのZeebraさんが「AERA」で連載する「多彩な野菜」をお届けします。1997年のソロデビューからトップとしてシーンを牽引し続け、ジャンルや世代を超えて多くの支持を得ているZeebraさん。旬の野菜を切り口に、友人や家族との交流、音楽作りなど様々なエピソードを語ります。 *  *  *  ヒップホップが爆発的に広がったきっかけは、「世の中を良くする」とは真逆の事件なんですけどね。1977年にニューヨークで大停電があり、それまで高くて手が出なかったターンテーブルやミキサーが電器店から強奪された。で、翌週にはあちこちでDJパーティーが開かれたそうです。もう無茶苦茶。が、大事なのはここから。そんなパーティーでケンカが起きると「暴力はやめようぜ」「クールじゃないよ」って働きかけるわけです。警察など体制は何もしてくれないから、自分たちでコミュニティーを良くする。これがヒップホップの出発点なんです。  ラップのバトルは、若者のエネルギーをリリックに込めてぶつけ合う、日本でいうと相撲をとるのに近いスポーツの感覚です。神様と呼ばれるアフリカ・バンバータは元ギャングのボスで、抗争の勝敗をブレイクダンスで決めたという話もある。彼が歌うピース、ユニティ(団結)、ラブ、ファンがヒップホップの4大要素。で、ピース違いだけどグリーンピース。緑の豆があんなにある中で、なぜお前が名乗る?って不思議です。 ※AERA 2019年4月15日号
Zeebra
AERA 2019/04/11 11:30
「バク転を跳びたい」会社員兼ヒーロー45歳男性が描く夢
「バク転を跳びたい」会社員兼ヒーロー45歳男性が描く夢
ワコレンジャーの男性は、まだバク転はできないが、側転は決まるように。「妻も応援してくれています。ショーの後、子どもたちと握手する瞬間が最高に幸せです」(連続写真を1枚に合成しています)(撮影/今村拓馬)  3月下旬の都内、夜の9時過ぎ。照明で煌々(こうこう)と輝くスタジオに、威勢のいい掛け声が響いた。 「いきます……1、2、ハイ!」  ぐっとひざを曲げた男性が、勢いよく後ろに跳ぶ。くるりと宙を1回転する体。マットを離れた両足は、きれいな半弧を描いて少し後ろに着地した。 「そう! 今のすごく良かった。肩柔軟の成果が出てますね」  マットの横で体を支えていた講師が感心すると、男性は顔をほころばせた。だが、すぐに元の位置に戻り、跳躍の体勢に入る。  バク転を跳びたい。  3年前、そう奮い立った男性は、この教室の門をたたいた。東京都板橋区の住宅街に、秘密基地のようにひっそりとあるアクション&アクロバットスタジオ。その名も「つばさ基地」だ。  逆立ちすらままならなかった最初の頃に比べれば、見違えるほど体は動くようになった。しかしバク転は、まだ補助なしで跳べたことがない。  いま、45歳。20代の頃のような体力がないことは百も承知だ。それでも、バク転を跳びたい理由があった。  きっかけは4年前。たまたま妻と出かけた地域の祭りだった。 「ローカルヒーロー募集」  そう書かれた貼り紙を見て、男性は思わず足を止めた。  華麗なアクションで悪を倒す正義のヒーロー。子どもの頃、なりたいと憧れたが、多くの少年少女と同様、夢で終わった。  大学卒業後、4回の転職を繰り返して現在の建設会社に就職。事務職員として働いてきた。  運動神経が悪い自分には、ヒーローなんて無理。そう思っても貼り紙から目を離せなかった。 「もうすぐ人生も折り返し地点。なら、ここで一度チャレンジしてみるのもいいかって」  ずっと先延ばしにしてきた「いつか」は、今かもしれない。  思い切って応募し、埼玉県和光市のヒーロー「福祉戦隊ワコレンジャー」の一員に。会社員とヒーローの二重生活が始まった。  与えられたミッションは、「障害者と一緒にヒーローショーを楽しむこと」だ。和光市では、“挑戦する使命を与えられた人”という意味を込めて、障害者を「チャレンジド」と呼んでいる。 「観客として楽しんでもらうだけじゃなくて、精神障害や身体障害の方にもスーツを着て一緒にショーに出てもらうんです」  ワコレンジャーのショーは年3~4回。定期的に出演しているメンバーは現在、女性含め5人ほど。全員ボランティアで、週末に集まって福祉施設などで練習を重ねる。 「人が足りないので、実はヒーロー役と敵役を持ち回りでやっています。お金もないから、ショーの構成は自分たちで考えて、スーツも既製品をリメイクして」  テレビの中の戦隊ヒーローに比べれば、見劣りするのは仕方がない。それでも舞台に上がると、子どもたちは「わあっ!」と目を輝かせ、ありったけの声を出して応援してくれる。思わず、ぐっと胸が熱くなる。  それだけに、初めてショーに出たときは、何もできないことに打ちのめされたという。 「全く体が動きませんでした。でも、それじゃあ子どもたちに喜んでもらえないでしょう? だからね、どうしてもバク転が跳びたいんですよ」  いつかショーで、本物のヒーローみたいにかっこよくバク転を決めて、子どもたちにもっと喜んでもらいたい。  その気持ちが今日も、一歩後ろへ、跳ぶ勇気を与えている。  近年、バク転教室に通う中高年が急増している。つばさ基地でも現在約4千人いる会員のうち、3割近くは40歳以上。なかには週末に、北海道や四国から通う生徒もいるという。  代表の秋本つばささん(44)は、習いにくる中高年は「やり残したことを取り戻したいという方が多い」と語る。 「昔の憧れや過去に諦めたことにもう一度挑戦する方もいます」  実際に5日間の取材で30~50代の生徒19人に話を聞くと、「働き詰めの生活リズムを変えたくて」(40代男性)、「昔観た特撮ヒーローや忍者に憧れて」(50代女性)といった理由でバク転を始めた人がいた。  バク転は、ゴールが明確で、できたときに達成感が大きく、しかもかっこいい。そうした“わかりやすさ”も人気の理由だ。  一方で、行き詰まっている現状を打破するためにバク転に挑戦する人もいる。  都内で不動産業を営む大家純さん(35)が、つばさ基地に通い始めたのは約1年前。きっかけは、仕事や私生活に限界を感じていたからだという。 「一つのことに集中しすぎて、ほかのことがおろそかになり、緊張すると体が固まってしまう。そういう悪い癖や弱点を、バランス感覚を鍛えることで克服したいという思いがありました」  28歳で大学の薬学部に入学し、昨年卒業した大家さんは浮き沈みの大きな人生を送ってきた。 「大学受験に失敗して浪人中に父が末期がんで亡くなり、祖父の代から経営してきた事業の負債や残りの住宅ローンの返済を、背負うことになったんです」  朝晩に飲食店でアルバイトをしながら、昼間は自営でさまざまな事業を手掛けてきた。少し儲けては失敗を繰り返す日々。 「働くなかで、少しずつお金の稼ぎ方や社会での振る舞い方を学んでいきました。でも、取引先や銀行から信用を得る上で、やっぱり大学を出ていないとダメだと感じることが多くて……」  一念発起し、受験勉強を再開。見事大学合格を果たしたが、入学後も学費を稼ぐために働き詰めで、過労と睡眠不足で心身ともに限界に近づいていた。大学5年のある日、車を運転中に居眠りし、ファミレスに突っ込む物損事故を起こしてしまう。 「それで糸が切れたというか。将来に対する色々な不安で頭がいっぱいになってしまって」  苦しい日々が続いたが、このままでは何も変わらない。いまだからこそ、あえて苦手なことに挑むことで不安を克服しようと、つばさ基地にやってきた。 「通い始めた頃は体がカチンコチンで、逆立ちどころかスキップすらできませんでした」  1年経ったいま、自力でバク転が跳べるまでになった。練習を積む過程で、精神面の変化も感じている。 「跳ぶのは毎回怖い。でも先生の助言を受けて体の状態を確認することで、自分を客観的に見られるようになりました」  気づいたのは、肉体と対話することの大切さだった。いまできること、できないことを、肉体は一切偽ることなく教えてくれる。それが凝り固まった悪い思い込みを崩してくれた。  いま考えるべきことは、いまの自分にやれることは何か、だ。  過度に不安視することもなくなり、「今までの仕事の経験と大学で学んだ知識を生かして、弱者に優しい医療施設をつくれたら」という夢が生まれた。  後ろ向きに跳ぶのに、なぜか人を前向きな気持ちにさせる。バク転には、そんな不思議な魅力があるのだ。(ライター・澤田憲) ※AERA 2019年4月15日号
AERA 2019/04/11 11:30
体調変化が起きがちな季節の変わり目。アロマオイルで体調サポート!
体調変化が起きがちな季節の変わり目。アロマオイルで体調サポート!
1日の気温や気圧の変化が大きく、花粉症、強風、降雨などの外的要因によって、なんとなく体がだるい、疲れが取れにくい、眠っているのに寝足りないなど、春は病気とも呼べない不調が起きやすい時期ですね。 そうした症状に心当たりがある人は、自分の好きな香りを上手に活用して、心身ともにリラックスする時間を作るようにしましょう。 花の香り、フルーツの香り、森などの自然の香りを日常に取り入れる「アロマテラピー」は、心身の健康やリラクセーション、ストレスの解消に役立つ効果が期待できます。今回は、春に実践したいアロマオイル(精油)の上手な使い方をご紹介します。 春という季節が人体にもたらす不定愁訴 「三寒四温」「寒の戻り」という春特有の言葉があるように、春は1日の寒暖差だけではなく、他の季節に比べて気圧の変動が多い時期でもあります。 私たちの体はそうした外的影響を知らず知らずのうちに受け、なにかと体調を崩しがち。こうした不調不良を「気象病」とも言いますが、その代表的な症状を上げると下記のような症状があります。 ●頭痛 ●イライラ ●気分の落ち込み ●めまい ●肩こり ●不眠 ●頭が重い また「気象病」以外にも、自覚症状の訴えがあるものの、検査をしても原因となる病気がみつからない状態を「未病」や「不定愁訴」とも呼びますが、そこに春の特徴的な不調である花粉症が加われば、誰しも元気な状態をキープすることが難しくなりますね。 こうした不調不良を放置していると、大きな病気につながってしまう恐れがあるので、自分の体調の変化に気づいたら、不定愁訴に対して効果を発揮するといわれているアロマを活用してみましょう。 アロマオイルは、自宅で簡単にできる体調不良解消法のひとつですので、気になる人は、早速今夜から試してみてはいかがでしょうか。浅い眠りなどの睡眠障害は体調を崩す大きな要因になるので、気をつけたいもの どれが自分に適しているか、アロマオイルの種類を知ろう! アロマオイルまたは、エッセンシャルオイル(精油)には、とても多くの種類があります。 店頭に小ビンがズラッと並んだ光景を見た人も多いと思いますが、香りや特性はそれぞれ異なりますので、ここでは大まかな特長別にご紹介しましょう。 ○気分を落ち着けたいとき イランイラン/フィリピン地方では「そよ風に揺れる花々」という語源をもつ ラベンダー/ラテン語の「洗う」を語源にもつように、気分が洗われるような効果がある ジャスミン/気持ちの高ぶりを緩和し、リラックス効果が期待できる ○不安な気持ちに陥りがちなとき ベルガモット/アールグレイティーのフレーバーとして使用される柑橘系の香り クラリセージ/女性の悩みに作用をもたらす精油として有名 ゼラニウム/バラのようなフローラルでやさしい香り サンダルウッド/日本では白檀(びゃくだん)と呼ばれるオリエンタルな香り自然の植物から作られているアロマオイルの数は数百種類にのぼります ○花粉症の症状がひどい人 ユーカリ/オーストラリアの先住民アボリジニが感染症や発熱の治療薬として使用 ペパーミント/鼻づまり、乗り物酔い、筋肉痛を和らげる効果が期待できる ティーツリー/すっきりとした爽快な香り このようなオイルを、マイスプレーボトル(作り方は後述)に用意し、マスクの外側に吹きかけるのも◎! ○元気を出したいとき レモン/気分をリフレッシュさせるフレッシュで爽快感のある香り ペパーミント/気持ちまですっきりするメントール系の香り ローズマリー/清涼感があり、頭がすっきりするような香り このほかにもたくさんありますが、これらの代表的なアロマオイルを自分の体調や気分に合わせて使ってみましょう! お金をかけずにできる、アロマオイルの活用法 最近は、超音波で発生させたミストが、室内に効果的に香りを拡散するアロマディフューザーやアロマポットも人気ですが、自宅で気軽にアロマの香りを楽しむシンプルな方法を、ここではいくつかご紹介しましょう。 忙しいときに重宝!お湯とコップだけのアロマテラピー ●マグカップ ✕ 熱湯 ✕ オイル マグカップや紙コップなどに熱湯を注ぎ、そこに好きなアロマオイルを数滴垂らすだけのシンプルな方法だけあり、忙しい朝や帰宅後に簡単にできる点がメリットです。この方法は、外出先や仕事の合間、旅行先のホテルなどでも活用できます。 外出先で簡単にできるアロマテラピー ●ティッシュ✕オイル 数滴オイルを垂らしたティッシュを枕元に置く。花粉症で鼻が詰まっているときは、数滴オイルを垂らしたティッシュの香りを直接かぐ。 ●アロマスプレーを作る 自分の好きなアロマオイルを用意し、旅行用のミニスプレー容器に無水エタノール(または精製水)を7割ほど入れ、そこにオイルを適量溶かして薄める。 一度作ったアロマスプレーは2〜3週間持つので、カバンの中に入れて、ハンカチにスプレーしたり、旅行先のホテルでタオルにスプレーしたりしましょう。小さなスプレーボトルに、自分だけのアロマオイルを入れる方法も! これ以外にも、アロマオイルの原液ミニボトルをそのままカバンに忍ばせておけば、外出先や旅行先などでも好きなときに活用できますし、バスタブのお湯に数滴オイルを垂らしても◎! クルマに乗る方は、化粧パフやティッシュに数滴オイルを垂らして車内に置くだけでリラックス効果が得られます。化粧パフやティッシュならそのまま捨てられるので、洗濯の面倒もないですね。 さらに最近は、持ち運びのできるアロマオイル用の素焼きの石皿も100円ショップなどで売られていますので、自分なりのお気に入りのスタイルを探すのも、楽しいですよね。 ── 季節の変わり目はどうしても体調を崩しやすいので、その変化を上手に受け止めて不調を緩和する取り組みが大切です。 よく眠る、よく食べる、よく運動する……といった従来の方法はもちろんのこと、リラックスできるお気に入りの香りをみつけて、アロマで癒される時間を作ることもひとつの方法です。不調に悩む春こそ体をいたわり、元気に初夏を迎えてくださいね。入浴時に、好きな香りのオイルをお湯に数滴入れるだけでアロマテラピーに!
tenki.jp 2019/04/07 00:00
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