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瀬戸内寂聴、死期を感じる? 「夜、昼の区別もなく、眠り続けています」
瀬戸内寂聴、死期を感じる? 「夜、昼の区別もなく、眠り続けています」
瀬戸内寂聴(せとうち・じゃくちょう)/1922年、徳島市生まれ。73年、平泉・中尊寺で得度。著書多数。2006年文化勲章。17年度朝日賞。近著に『寂聴 残された日々』(朝日新聞出版)。 横尾忠則(よこお・ただのり)/1936年、兵庫県西脇市生まれ。ニューヨーク近代美術館をはじめ国内外の美術館で個展開催。小説『ぶるうらんど』で泉鏡花文学賞。2011年度朝日賞。15年世界文化賞。20年東京都名誉都民顕彰。(写真=横尾忠則さん提供)  半世紀ほど前に出会った98歳と84歳。人生の妙味を知る老親友の瀬戸内寂聴さんと横尾忠則さんが、往復書簡でとっておきのナイショ話を披露しあう。 *  *  * ■横尾忠則「生と死が混濁した感覚は遊戯的創造の核です」  セトウチさん  朝、目覚めると同時にまるで天気予報のようにコロナのニュースをテレビが報じています。この間、大阪のコロナ感染者が666人と報道されました。この666という数字が画面に描かれた時、僕の背筋に冷たいものが走りました。  セトウチさんはご存知でしょうか。この666というのは悪魔の数字だということを。悪魔主義的な人間と言っても日本人にはピンとこないでしょうが、西洋では反キリストを指す数字として、ヨハネ黙示録には世界の終りが近くなると神が野獣と呼んだ人物が登場して、世界を支配するということが書かれています。  そんな恐しい666という数字がテレビの画面に表れた時、僕は本当に背筋が凍(い)てつくほど驚きました。もし西洋人がこの数字を見たらどんなに驚いたか知れません。仏教徒のセトウチさんには666なんて別にどーってことないかも知れませんね。世界の終りは弥勒(ミロク)の出現で救われると仏教では語られています。セトウチさんはこの前、僕の言った終末時計よりも、自分の終末生命の音の方が身近に聴こえるとおっしゃっていました。  われわれの年齢になると世界の終りも自分の終りもさほど変らないかも知れませんね。僕は20代の頃から終末意識が強く働いて、その意識で創作活動をやってきたように思います。1999年のノストラダムスは回避されましたが、物造りの人間にはこの終末意識がエネルギーになるという変な業のようなものに背中を押されて仕事をしてきたように思います。生きることは死ぬことだみたいな考え方にとらわれて今までやってきました。  死は一時僕の中では浪漫主義のような甘美な思想にとりつかれた時期もありました。その頃は幻想絵画や幻想文学に憧れ小さい世界に閉じ込められていました。そこから脱却したのはセザンヌのロマン主義が純粋絵画に転向した経緯に触れたことが大きかったと思います。だけど現実世界が全てだと考える唯物主義は僕の中で否定され、この現実と分離したもうひとつの現実への認識の拡大が僕の創造領域をうんと拡張してくれました。それは思想的なものではなく、幼少時代から今日まで僕の内部に棲みついている異界体験が巻き起こすイリュージョンです。ここにいながら、もうひとつの領域にいるというバイロケーション現象です。  普通は幼少期特有のものとして自然消滅していくものなのに、僕の場合、老境に至る今日まで、僕の肉体と精神の両域にまたがって、一向に衰えようとはしません。生と死が混濁したような感覚はいい意味で遊戯的創造の核となっています。僕の中のインファンテリズムはもしかしたら、この虚実の共存から発生したものとして、今では温存させるようになりました。そんなことから生と死は分離されたものではなく、一体化された輪廻的な原郷への回帰のような懐かしさを感じます。  そして、そこで出会ったのがこの前にも触れました寒山拾得(かんざんじっとく)的生き方です。この存在は人というより、理念そのものだと思います。666の終末というより、弥勒的世界です。まあ、われわれは死後の世界で千年王国を見つけましょうか。 ■瀬戸内寂聴「寂庵は平安時代、死体捨て場だったのよ」  ヨコオさん  今朝は、嵯峨野の空は、雲のかけら一つなく、実に爽やかな風が吹き通っています。  桜はとうに散ってしまって、今は椿が満開です。  こんなに椿があったかと、びっくりして、一本、一本見渡しています。  お寺に椿が似合うのか、嵯峨野のお寺には、どこも椿が鮮やかです。  寂庵の椿は、どれも自分が進んで植えた記憶はなく、それを下げてきてくれた人の笑顔や、着物の色が、花と一緒に浮かびあがってきます。  花が咲いても、散っても、常に美しい寂庵の庭を眺めながら、こんな美しい広い庭を、一人占めして四十七年も棲み続けてこられた稀な幸福を、死の近づいた今になって、つくづく、しみじみ感じていっているこの頃です。  ここを見つけた時、造成地で、だだっ広い、木一本なかった赤土の広がりだったことを想い出します。  方々見回った後で、信じられないほど地代が安かったので、どうしてかと案内の人に聞いたところ、何時間か一緒に嵯峨野を巡り合ったその案内人は、ちょっと目を伏せて、私の顔を見ず、低い声で、 「この辺りは、昔、死体捨て場でしたからね。」  と呟きました。 「昔」がどれくらい前のことか聞くまでもなく、出家していた私には、それもふさわしいと求める条件になりました。  その頃は、まわりに家はなく、ほんとに「野」に家を建てた感じだったのです。  地代も安くて、銀行で借りられるお金で間に合いました。  何年かたち、ようやく棲み慣れた頃、親しくなったヨコオさんが遊びに見えて、すっかりあたりを気に入られて、近くへ引っ越してくると話が進みましたね。ところがそれを聞いた美輪明宏さんが、 「あそこへ行けばヨコオちゃんは仕事がなくなり、病気になって死んでしまうよ。」  と止めに入って、ヨコオ夫人がびっくりして、 「でもセトウチさんはあんなに元気じゃないですか。」  と言ったら、美輪さんが、 「あの人は坊主になったからいいのよ。あそこは平安時代は、死体捨て場だったのよ。」  と言うことで、ヨコオ夫人がすっかり脅えて、隣にくる話はオジャンになりましたね。  神秘的な美輪さんの言うことは、信じておくが安全です。おかげでヨコオちゃんも八十代も半ばの老境まで長生きしちゃってるし。  ヨコオさんの話に近頃出てくる寒山拾得の居たお寺へ、昔、昔、中国旅行で行きましたよ。門を入ったすぐ右側に二人の銅像がありましたが、およそ想像と違う今様のサラリーマンのような平凡な顔をしていました。亡くなった日本の榊莫山さんの笑顔の方が似ているように思いませんか?  そういえば莫山氏も、寒山拾得が好きだったらしく、よく彼らの風貌を描いておられましたね。  さて、いよいよ私は死に近くなったらしく、夜、昼の区別もなく、眠り続けています。夢も見ません。起きている今が、夢なのでしょうか? では、また。 ※週刊朝日  2021年4月23日号
週刊朝日 2021/04/17 16:00
東大卒の大工が、子育てしながら東大理三に再入学して医師をめざす理由
東大卒の大工が、子育てしながら東大理三に再入学して医師をめざす理由
東大理三の合格掲示板の前で家族と一緒に(写真/本人提供、一部加工しています) わが子と遊ぶ栗林さん(写真/本人提供)  東京大学工学部を卒業後、大工として建築会社に勤務していた栗林煕樹さんは、結婚後、一念発起して大工を辞め、東大理科三類を再受験し見事合格。現在は2度目の学生生活と子育てに励んでいます。  前編では、1度目の東大入学から、大工として仕事をする中で学んだことについてインタビュー。後編となる今回は、結婚、子どもの誕生を経て、東大理三を再受験することを決意した理由や、現在の生活について語ってもらいました。さまざまな経験をしてきた栗林さんの話から、人生設計のヒントを探ります。(東大新聞オンラインから転載、一部抜粋・改変) *  *  * ■大工の仕事の傍ら、医師になることを決意 ──東大卒業後、建築会社で大工として働いていましたが、その後再受験を決断したきっかけは何ですか  再受験を考え始めたのは、社会人2年目の終わりくらいの時期でした。当時は空き時間に読書や勉強をして雑多に知識を吸収していたという感じなのですが、本当に自分の時間がないなと思っていました。最初は漠然と勉強をしたいという思いで、その後「自分は何が勉強したいのだろう」と考え、昔から「人間とは何なのか」「自分とは何なのか」ということに意識があったことに気付き、それらについて自分が生きているうちに学術的な研究の結果などとして明らかになることは分かってから死にたいなと思うようになりました。一方で当時既に自分には家庭があったので、現実的に自分の興味を将来的に仕事につなげるためにはどうすれば良いか考えた結果、医学部に入り精神科の医師になろうと決めました。 ──自分の学問的な興味の追求と生活のためにお金を稼ぐことを両立するための職として医者を選んだ理由は何ですか  就活時の考えと近いかもしれません。やはり、自分が何をしていて、誰の役に立っているのかが直感的に分かる仕事が良いなと思っていました。それに加え、大工の経験から家を建てることは比較的裕福な人のための仕事だと感じており、それはそれで重要であるものの、自分は困っている人を助ける仕事に携わりたいなと思っていました。ただ、困っている人を救う仕事は低賃金のものが多い印象があり、家族を養うためにはある程度稼げる仕事が良かったので、折衷案として医者に決めました。 ──医者になるまでには長い年月を要しますが、そこへの心配はなかったのですか  確かに、医者として稼げるようになるにはサラリーマンなどよりも長い時間が必要です。しかし、若いうちなら何とかなるかなとも考えていますね。今から医者になるとしたら30半ばくらいなのですが、そのくらいの年齢なら自分も元気で頑張れるでしょうし、実際今学業の傍ら1回目の学生時代の同級生が経営するベンチャー企業でインターンをして初任給くらいもらっていますので、人を頼りながらも生活に必要な程度の額は稼げると思っています。そのため、自分にとっては40、50歳になった時にちゃんと社会の役に立てるだけの力が付いていることの方が重要で、一人前の医者になるまでにかかる時間は気にしていないですね。 ──結婚後の退職・子どもの誕生後の再受験に当たり、当時の家族の反応や大変だったことはありますか  意外と反応はありませんでした。というのも、父親が再受験して医者になっていたため、1回くらいのやり直しなら大丈夫かなと思っていました。自分の両親は快く認めてくれましたが、やはり妻とその両親の反応の方が心配でしたね。ただ意外にも「ああ、そうなの」くらいの反応で「本当にいいの」とこちらが聞き直したくなるような感じでした(笑)。  僕が仕事を辞めたのが7月末で、受験勉強を始めたのが8月、子どもが生まれたのが9月でした。子育てや家事に関しては妻や妻の両親が協力的だったので任せていました。そのため、半年の受験生活の間は朝起きて夜寝る直前まで図書館で勉強に専念でき、本当にありがたかったですね。  2度目の受験は、1度目の受験で勉強した内容と同じものをやるのでスムーズでした。他にも、直前期に過去問を解くときも「このくらいの解答が書ければこのくらいの点数が取れる」「このくらいの点数があれば合格できる」というのが感覚で何となく分かっていたので、安心感がありましたね。受験勉強自体は元々好きでしたし、勉強法も1度目の時から大きく変えず、自分が集中できるやり方で取り組んでいました。 ──合格時はどのような感想を抱きましたか  もちろんうれしかったですが、合格への期待よりも落ちた時に妻や家族からどう思われるかへの不安の方が大きかったので、ほっとしました。  加えて、半年間子どもに向き合うことがほとんどできなかったので、2次試験が終わった時からではありましたが親としてようやく世話ができるようになり、うれしかったですね。ちなみに、2次試験の終わった日には子どもを初めてお風呂に入れました(笑)。それと同時に、知り合いに声を掛けるなどして仕事も探し始めました。 ■2度目の学生生活は、学業と家庭に注力 ──現在のどのような学生生活を送っていますか  授業は普通に受けていますが、サークルや部活までやる余裕はないですね。そのため、勉強とインターンが生活の中心です。インターンでは週4日くらいのペースで働いているのですが、時間に融通が利くので、空きコマの時間帯や子どもが寝た後に作業することもあれば、休日なら朝6時から10~12時間働くこともあります。  勉強面では、今はコロナ禍で外出が制限される上授業が忙しいため行けていないのですが、国立精神・神経医療研究センターで研究見習生として研究に携わっています。研究分野は計算論的精神医学というものです。自分の根本にある学問的な問いが「自分とは何か」ということだったので、コンピューターでシミュレーションやモデルを作り脳の働きを説明することで、脳における思考の仕組みについて、言葉だけでなく数式的に理解することを目指しています。研究に関わる中で、自分には医学はもちろん数学や物理、プログラミングなど全ての基礎知識が足りないことに気付きました。その意味では、東大の前期教養課程である程度勉強することは大事だなと思います。数学・物理・生物をつなげることに興味があったので、生命現象を物理的に説明することを趣旨とした授業や、統計力学など数学・物理の基礎的な内容を扱う授業で勉強していました。人文系の学問についても「許し」に関するさまざまな哲学者の思想を学ぶ授業を受講。「人間の思考とは何なのか」という興味の下、数学や物理から人間の高次な感情の動きまでを自分で説明できるようになれば最高ですね。  人間関係については、クラスのコンパに参加したり自分からコミュニティーに入ったりすることはないですね。ただ、自分に興味を持って話し掛けてくれた学生や学問的な興味が近い学生とは個人的に話したりご飯を食べに行ったりしています。彼らからは、恋愛相談や人生相談をされることが結構ありますね(笑)。学生にとっては、20代後半という、おじさんではないけれど先輩にしては年が離れている世代に会う機会が少なく、相談するにはちょうど良いのかもしれません。もし僕が18歳の時に同じ科類に10歳年上の人がいたとしても、その時自分は話し掛けられなかっただろうなと思うので、すごいなと思います。 ──家庭とはどのように向き合っていますか  学生生活と家庭での生活を両立できているかと聞かれると、とてもできているとは言えないです。日中は授業やインターンがあるのでどうしても家事や子どもの世話はできないですが、最低限授業が終わりやることがなければ早く帰り、子どもが寝た後でもできることはその時間に回しているという感じです。そのため、本当に妻のサポートには感謝していますし、自分にできることとして妻や子どもと過ごす時間を最大限作るように頑張っていますね。具体的には、家に帰るとまず子どもにご飯を食べさせ、少し遊んだ後にお風呂に入れ、着替え、歯磨きをして寝かせていますし、妻とは子どもが寝た後に会話をしています。家事については、今のところ基本的には先に気が付いた方がやり、どちらかが忙しかったり体調が悪かったりするときはもう一方がこなすという感じで特にルールはないですが、妻も僕も不満なくやれていると思います。お互い必死ですが、自分が相手を思いやっている姿勢を示すことが大事だと思いますね。  子どもの成長は本当に早く、見ていてすごくうれしいですね。初めて歩いたり言葉をしゃべったりする度に喜んでいます(笑)。昔は子どもの成長に喜ぶ大人を見ても、そんな大したことかなと思っていたのですが、自分が親になったことで人として温かくなったような気がしますね。一方、子育てで大変だったことも。2度目の受験生時代のことなのですが、当時子どもは生後3~5カ月で、毎晩大体3時間おきくらいにお腹が空いて起きてしまいました。僕は夜中の2~3時まで起きて勉強や仕事をしていたので、子どもが1、2回起きた時にはミルクを作っていました。 ──今後の進路の展望はありますか  まず、自分の興味の追求・生活費を稼ぐための職・社会貢献の現実的な折衷案として医者を目指し続けると思います。ただ、その目標は絶対的なものではなく、先ほども言ったように人間の脳の仕組みや人間とは何なのかということに興味があるので、それについて数学的・物理的側面から説明したいなというのが今の思いです。自分の知識や勉強してきたことを生かすこと・お金をそれなりに稼ぐこと・困っている人を助けられる仕事が医者以外にあるなら、そちらへ進んでも良いのかなと考えています。 (文/東京大学新聞社・杉田英輝)
東大新聞オンライン 2021/04/16 08:00
後悔する前に! “ブラック特養”の見分け方
後悔する前に! “ブラック特養”の見分け方
※写真はイメージです (GettyImages) 特養を利用する前に備えておくこと (週刊朝日2021年4月23日号より) 施設見学時のチェックポイント (週刊朝日2021年4月23日号より)  公的施設である特別養護老人ホーム(特養)は安さが魅力だ。しかし、中には、職員による暴言や暴力があったり、医療・看護態勢が十分でなかったりする「危険」な施設もある。大事な家族や自身を守るためにも、安心・安全な特養を選ぶ目を養おう。見分けるポイントを専門家に聞いた。 *  *  *  都内の介護福祉士の養成校に通っていた真知子さん(仮名・40代)は数年前、介護実習で特養を訪問し、目にした光景に驚いた。介護の現場が、学校で学ぶものとは大きく違ったからだ。 「食事の介助中に『あーぅあーぅ』と食べ物や移動を求める利用者さん(車椅子)の目の前で、いわゆる『ボス』的な存在の女性介護職員が『あたし、うるさい男って嫌いなんだよねー。よくしゃべる男って無理』と。周りの職員はただ笑って聞いていました」  利用者と話すときは、いつも小ばかにしたり、見下したりしているようで、尊厳が軽視されているように見えたという。 「寝たきりの人の前で、『この人、わかんないから大丈夫』とか『全員寝たきりのほうが自分のペースで仕事できるから楽なんだよね』なんてつぶやいて……」  こんな場面も見かけた。食事中にオムツ内で排便してしまった利用者に対し、気づいた職員が、「あぁ○○さん、うんこしてる!」と叫んだ。 「他の職員は『えーマジか』と反応していました」 「ブラック」な行為も目にした。介護職員による摘便(肛門=こうもんから指を入れて便をかき出す行為)だ。医療行為のため医師や看護師などの資格がないとできないはずだが、「職員が手袋をつけ、人さし指に軟膏(なんこう)を塗り、何も言わずに肛門に指をつっこんでいました」。  ほかにも、体の硬直がある重度の認知症の利用者を介護実習の「サンプル」のように扱っていた。ベッドであっちにころころ、こっちにころころとなされるがままに転がされる入居者を見て、「これをご家族が見たらどんな思いになるのだろうか、といたたまれなくなりました」(真知子さん)。  日本介護福祉士会前会長で、現在は熊本県介護福祉士会会長の石本淳也さんは、「古き措置時代の風習が根付いている施設は危険」と指摘する。「措置時代」とは、介護保険制度が始まった2000年4月より前のことだ。  現在は高齢者虐待防止法で禁止している行為も、当時は「許容」されていたため、いまだにそのときの常識のまま介護する職員がいることは否めないという。  介護の現場に30年間いるという石本さん自身も、 「当時は(事故防止のため)車椅子に固定しなさい、と教えられました。もちろん、今は身体拘束はNGです」  時代とともにサービスの質も変化していかなければならないが、 「利用者に乱暴な物言いをしたり、薬を余分に飲ませて眠らせたり。そういったケアが行われていることは否定できません」(石本さん)  そうした側面のほかにも、質の低下の大きな要因として人手不足が挙げられる。介護事情に詳しい淑徳大学の結城康博教授(社会福祉学)が話す。 「特養に限りませんが、介護の現場は全国的に深刻な人手不足です。それによってサービスの質が落ちている特養は少なくないです」  都内の特養で働く未知さん(仮名・40代)の施設では朝、30人の「起床介助」を一人でするといい、 「朝食の7時半までに全員を起こして着替えなどをすませるために、最初の人は朝5時半に起こします。利用者には気の毒です。一人ひとりと、もっとじっくり話をしたいけれど、職員の慢性的な人数不足でそれもできないもどかしさがあります」  公益財団法人介護労働安定センターの2019年度の介護労働実態調査では、事業者に従業員の過不足について聞いたところ、「大いに不足」「不足」「やや不足」と回答した合計が65.3%。労働者でも、仕事に関連した悩みや不満では、「人手が足りない」の回答が一番多かった。  さらに今の時期、コロナ禍が介護サービスに影響している可能性がある。  特定非営利活動法人介護保険市民オンブズマン機構大阪の担当者が言う。 「(面会ができないため)外部者が入らず施設が密室化すると、職員の緊張感がなくなりがちです。それによって利用者への対応がぞんざいになることはあり得ます」  それが入所者の身体にも影響している。公益社団法人全国老人福祉施設協議会によると、 「外出も家族との面会もできずレクリエーションにも制限がかかるなど、入所者のストレスが高まり、不穏な言動が増えたり、認知症の程度が進んだり、身体機能の低下が進むなどの状況が発生してきています」  サービスの質では、医療面でも施設と入所者とで、考えに大きな隔たりが見られるケースがある。  3年前に開設した都内の特養に90代の母親がいる絵里さん(仮名)は、こう明かす。 「母は施設で1週間に3回の負傷(打撲とやけど)がありました。やけどは腹部と右ひじで、胃ろうのふたが夜間に外れて胃液(胃酸)が流れたことによるものでした」  しかし発見は3時間後。その後、施設が提携する皮膚科医に診てもらったが治らず。施設看護師にその旨を伝えると「(提携の)医師の指示どおりにしか動けない」の一点張り。自分で別の病院に連れていくと、薬を処方されて1週間で治った。  施設側から受け取った事故報告書の内容は十分とはいえず、施設長からの謝罪は1カ月以上経ってからだったという。  施設の医療面について、利用者側の希望と施設の対応に差が出るのはなぜなのか。  前出の結城教授が言う。 「特養はあくまでも生活の場を提供する施設なので医療行為は限定的です。望む医療ケアをしてもらえない=ブラックというわけではありません」  厚生労働省高齢者支援課担当者に聞くと、 「実際に、『施設嘱託医が全然往診に来ない』など、不満の声が寄せられることはあります」  としながらも、 「特養における医療の関わり方については、今より強化して病院並みにというのはすぐにできるとは言い難く、特養で受けきれない医療ニーズは病院や介護老人保健施設など他のサービスとの役割分担で対応しています」  特養で20年間看護師として働く幸子さん(仮名)は、理想的な特養での看護の鍵は「観察力」と話す。 「特養の看護師にとって大事なのは入居者の日々の体調変化に気を配り、先手を打つこと。そこには高い経験値が求められます。経験不足の施設看護師は、それが後手にまわってしまいます。その結果、褥瘡([じょくそう]=寝たきりや座りっぱなしによる皮膚の壊死[えし])などのトラブルに追われるのです」  できる限り希望に近いサービスを受けられる特養に入るためには、口コミを利用したり、事前に情報収集したりして選ぶしかない。結城教授が語気を強める。 「どこの施設でも同じような介護サービスが受けられると考えるのは、やめたほうがいいでしょう。しっかり自分でリサーチしなければ、後で泣きを見ることにもなります」  前出の真知子さんがこう話す。 「家族側にも良い施設を見極めるスキルのようなものは必要だと思います。すべての希望をかなえてくれる施設は存在しません。入居者の方も多様なので、集団ケアとなる特養では、すべてのご家族の意向をかなえるのは難しいからです」  病気が心配という人は医療対応について詳しく確認しよう。前出の看護師の幸子さんが話す。 「早期に病院に連れていってくれるところもあれば、そうでないところもある。病気が不安な人は、医療連携が厚いところを選ぶほうが安心。治療の場にどうやってつなぐかは施設によってすごく違うからです。入所前には、実際の看護態勢について、直接施設に行って話を聞くことが大切です」  いろいろと調べた上で、それでももし、ブラックと感じる特養に入居してしまった場合はどうしたらいいのか。 「もうだめだと思ったら、すぐに退去したほうがいいです」(前出の結城教授)  その場合は次の施設を探さなければならないが、そのためには、次が見つかるまで、在宅介護ができるような準備をしておこう。  施設の介護サービスの方針はそれぞれだが、自立支援に力を入れる施設もある。 「一般的に特養の入居者は、長期間にわたって寝たきりだったり、オムツの中に排泄物がずっとあったりの生活を送っています。そんな日々が続けば、皆生きる意欲や元気になろうとする気力を失ってしまいます」  そう話すのは、「杜の風・上原 特別養護老人ホーム正吉苑」(東京都渋谷区/定員80人)の施設長の齊藤貴也さん。 「ここではそれらを取り戻すためのケアを行っています。脱水と低栄養、排便困難、運動不足の改善です」  具体的には1日1500ミリリットルの水分摂取、1500キロカロリーの栄養摂取、そしてオムツ外しだ。オムツは施設で購入すらしていないという。“排便はトイレで”を目指し、入所者は入所当日からオムツを外し、立って歩く練習をする。  要介護4で車椅子で全介助が必要だった100歳の女性が、入所2カ月で歩行能力が回復し、2年ぶりにシルバーカーを押しながら歩けるようになった。また、入所まで何年間もオムツでの排便生活だったのに、入所当日にトイレで便座に座る姿を見て感涙した家族もいたという。 「施設で、転倒が危険だからと寝たきりにさせるのではなく、転倒のリスクを説明した上で、歩く練習をする。歩けないのは歩き方を忘れているからで、筋力をつけるより繰り返し歩くことが大切なのです」(齊藤さん)  水分摂取も50種類の飲料を用意し、一人ひとりに合った水分プラン(時間や量、コップ)で摂取習慣をつけていく。さらに「今年やりたいこと応援活動!」と銘打ち、入居者や家族に今年中にやりたいことを聞き、ケアプランに記して取り組む。なかには「高尾山(都内)に登りたい」と希望した人もいて、見事、実行できたという。  すべての入居者が同じようにいくとは限らないが、こうした過程は、介護職員のモチベーションを高めることにもつながるのではないだろうか。  人手不足で疲弊しながら入居者の世話に日々追われるよりも、自立した入居者を自宅へと送り返せるほうが、仕事への取り組み方も変わってくるだろう。  冒頭で紹介した、介護福祉の学校に通っていた真知子さんは常々、「自分の親をこの施設に入れたいと思うケアを」と学んできたといい、先の特養で働く未知さんも、一人ひとりの入居者とじっくり向き合いたいという思いがあった。  ただ、いずれも現場では、理想と現実とのギャップを感じている。  前出の石本さんが指摘した「措置時代」のやり方が残っている職員も含め、介護に携わる上での教育は重要だ。  しかし、先の介護労働安定センターの調査で、職員の採用時研修の受講の有無について、「受けた」と答えたのは正規職員で48.9%、非正規職員は39.7%と、いずれも半数を下回っていた。  前出のオンブズマンの担当者は、研修の重要性についてこう指摘する。 「特養には重度の入居者もいるので、職員には介護技術だけでなく、心のケアもより高度なものが求められます。そうしたものも含めた研修が十分でなければ、介護サービスの質は悪くなります」  利用者の見極める力も必要だが、現場の変革にも期待したい。(本誌・大崎百紀) ※週刊朝日  2021年4月23日号
週刊朝日 2021/04/15 11:30
かまいたち・濱家も武勇伝は封印?「元ヤン芸人」の転向とYouTubeへの活路
かまいたち・濱家も武勇伝は封印?「元ヤン芸人」の転向とYouTubeへの活路
お笑いコンビのかまいたち。右が濱家(C)朝日新聞社  お笑い6.5世代の中でも目覚ましい活躍をみせるのが「かまいたち」だ。これまで「キングオブコント2017」優勝をはじめ、数々のお笑い賞を受賞、先日も「第56回上方漫才大賞」で大賞に輝いた。関東と関西の両方のローカル冠番組を抱え、4月3日は和牛とのW冠特番も放送された。 「すでにネタに関しては現役トップの実力です。漫才の実力もさることながら、大阪ではぶいぶいいわせていたという濱家(隆一・37歳)さんが、東京ではいじられキャラになって、本人もそれを受け入れたあたりから人気が爆発しはじめました。実は濱家さんは中学時代に地元でヤンキーだったというエピソードがよく知られていますが、東京での仕事が増えるにつれ、そういう話もあまり相方の山内(健司・40歳)さんはイジらなくなりました。中学時代、素行の悪さでたびたび学校から呼び出しを受けていたことや、芸人になったあとの大阪時代は“劇場の番長”と呼ばれて後輩に恐れられていたエピソードがネタにされることもあったのですが」(放送作家)  すでに濱家はヤンキーキャラを封印したのかもしれない。実は今、いわゆる「ヤンキー芸人」が過渡期を迎えている。土田晃之やバットボーイズ、若手では天竺鼠の瀬下豊や落語家の瀧川鯉斗など、元ヤン芸人は数多く存在する。昔のエピソードで笑いを取るケースも多かったが、昨今はいわゆるステレオタイプなヤンキーが激減し、キャラクターとして扱いづらくなっているというのだ。 「若い人にとっては、ヤンキーという存在があんまり理解できないみたいですね。暴力的なエピソードを武勇伝として披露することにも嫌悪感が強いようです。もちろん形を変えて不良少年は存在すると思いますが、昔ながらの不良というスタイルは随分前から廃れています。最近では尾崎豊さんの『15の夜』の歌詞『盗んだバイクで走り出す』に10代や20代が『盗まれたほうの気持ちを考えろ』と反発した話が象徴的です。ヤンキーが若い視聴者にとって身近なものではなくなり、笑いをとる上で大事な“共感”が得られなくなったのです」(民放バラエティー制作スタッフ) ■元ヤン芸人は趣味系Youtuberで成功?  こうした受け手側の意識の変化もあるが、あの騒動も関連しているという。 「とくに吉本の闇営業問題があってから、ヤンキーネタはあまり笑えない雰囲気になっており、番組でも使いづらくなっている気がしますね。MCクラスになると好感度を気にするので、そういう話題を出すことを事務所側がNGにしいてる場合もあります」(同)  ヤンキーネタはエピソードトークとしては強い武器になりうるが、昨今のコンプライアンス重視の風潮もあり、テレビなどでは出しづらくなっているようだ。この流れの変化で、元ヤン芸人たちも変化が起きているという。 「今は時代的に『やんちゃに見えるけど本当はいい人』というキャラが好まれます。たとえば、ヒロミさんなど元ヤンの人は趣味人が多いので、DIYやレストア、バイクや車の知識などを披露する番組で重宝されます。実際、そうした趣味の部分が注目されてテレビ出演が増えている芸人さんもいます。新型コロナの影響もあって、なかなかロケ番組ができない中で、趣味系のコンテンツはクイズやトークバラエティーで使いやすいですからね」(同)  趣味系の元ヤン芸人はYouTubeとも相性が良く、活躍の場を広げている。 「実はバッドボーイズの佐田(正樹)さんのチャンネルが人気なんです。暴走族『幻影』の元総長という経歴を持つ佐田さんですが、コンビ名からも分かる通り正真正銘のヤンキーでした。Vシネマにも出演し、バラエティーでも武闘派キャラで出演するなど正真正銘の“ワル”として売ってきました。しかし、最近はもっぱらDIYキャラに変身しています。自身のYouTubeチャンネルでバイクや車の知識を披露したり、旧車のレストアなどをして人気となり、登録者数も50万人を超えています。こうした趣味が注目を集め、逆輸入的にテレビ出演につながっているようです」(同)  ヤンキーエピソードで笑いをとることが時代遅れになってはいるが、一方で元ヤン特有の一本気な性格は今でも視聴者の心を惹きつける部分もある。お笑い評論家のラリー遠田氏は言う。 「元ヤンの芸人は、芯があって堂々としているところが魅力です。これはバラエティーなどで多くのタレントたちを力づくでまとめる必要があるMC向きのキャラクターです。浜田雅功さんやヒロミさんなど、こわもてでどこか荒々しいところがある人のほうが、番組全体を引っ張っていくポジションには適しているのです。かまいたちの濱家さんが次世代のMCとして期待されているのも、そういうところが評価されているからだと思います」  芸は身を助けるというが、人とは違う人生を背負っている元ヤンは、転んでもただでは起きないようだ。(黒崎さとし)
かまいたち元ヤン濱家
dot. 2021/04/15 11:30
選挙の鬼・中村喜四郎は立憲民主をどう立て直すのか「次の選挙で『政権交代』は言わない」
選挙の鬼・中村喜四郎は立憲民主をどう立て直すのか「次の選挙で『政権交代』は言わない」
中村喜四郎衆院議員(撮影/西岡千史)  国政選挙で14勝無敗、うち8回は無所属で出馬して勝利した。かつて自民党に所属し「将来の首相候補」と言われた中村喜四郎衆院議員は今、立憲民主党で「打倒自民党」を目指して活動している。だが、菅義偉政権が相次ぐスキャンダルで防戦一方であるにもかかわらず、野党への支持は広がっていない。「負けない男」の異名を持つ中村氏は今、何を考えているのだろうか。 * * * ──2009年の衆院選で旧民主党が勝利して政権交代を実現しましたが、その後の国政選挙では自民党と公明党が圧勝を続けています。今の野党議員に足りないものは何でしょうか。  政治に対する泥臭さ、そして選挙への執念です。今の選挙制度は、小選挙区で負けても党が強ければ比例で復活できる。だから、野党の議員は死に物狂いで選挙を闘う気持ちが弱い。今、政治に無関心な人、あきれた人が増えている。そんな人たち一人ひとりに声をかけて耳を傾け、まずは投票に行ってもらわないといけない。そこで私は、投票率を10%上げる運動をして、全国で署名を集めています。 「そんなことをやっても意味がない」という人もいます。それでもやるんです。政治家が私心を捨てて徹底的にやることで、はじめて有権者が関心を持ってくれる。自民党なんて、たいしたことないんです。誰かが夢中になって立ち向かっていけば、次の総選挙で勝てる可能性は間違いなくあります。 ──今年10月で衆院議員が任期満了となります。総選挙までに何が起きると考えますか。  4月には衆参両院で3つの補欠・再選挙があります。これで野党が勝利すればどうなるか。千葉県知事選挙でも分裂して負けた自民党と公明党は、これまでのような選挙協力が機能するかわからなくなってきます。  千葉県知事選では、私は熊谷俊人さんの選挙を勝手に応援していました。前回の衆院選で、千葉県内の13の小選挙区で野党系で勝利したのは野田佳彦元首相だけ。千葉県で野党の勢いをつける必要がありました。  それで、私の選挙区は隣の茨城県だから「隣県勝手連」をつくって応援に行くことにしました。自民党系の首長や支持団体にも、次の衆院選の候補予定者を連れてどんどん会いに行く。それで、「熊谷さんが選挙で圧勝するから、最後だけでいいから応援してほしい」と言って歩いたんです。立憲の人からは「そんなことまで言っていいんですか」なんて言われましたけど、いいんですよ。自民党なんてハッタリかます政党なんだから、こっちもハッタリかますんです。 ──地方選挙で勝利できても、世論調査では野党の支持率は上がっていません。  現在の国会では、与野党の議席数に圧倒的な差があります。だから与党は国会を自由に進めることができる。新型コロナウイルスで対応が必要なのに、昨年秋は臨時国会をなかなか開かなかった。以前であれば、こんな緊急時に与党が国会を開かなかったら、マスコミはこぞって大批判したものです。  だからといって、次の選挙で有権者が与党に投票するとは限りません。野党を支持していなくても、野党に票を入れる無党派層の国民はたくさんいます。国会を開かなかったことも含め、政府のコロナ対応には怒りを感じている人がたくさんいる。選挙は、1票差であっても「勝つか負けるか」しかありません。国民の怒りがどっちに向かうか。それは選挙をやってみないとわかりません。 ──自民党は以前に比べてどのように変わったのでしょうか。  私は自民党に約20年間いましたから、自民党政治についてそれなりに知っているつもりです。私がいた時代は、国民に対して責任ある政治をしていて、権力は抑制的に使っていた。何よりも「国を担っていくんだ」という責任感を、どの党よりも持っていた。それが野党とは違ったところです。  それが小選挙区比例代表制になり、2012年に第2次安倍晋三内閣が発足してからは、信じられないことばかりが起きはじめました。三権分立の中で行政だけが肥大化し、国会が形骸化してしまった。2018年の通常国会終了後には、森友問題で文書の改ざんなどが相次いだことについて、大島理森衆院議長が「再発防止のための制度構築を強く求める」と苦言を呈したほどです。  司法に対しては、黒川弘務検事長(当時)の定年延長問題も起きました。過去の自民党は、権力を持っていても司法に対して一線を越えることはなかった。だから、田中角栄さんでも逮捕されたんです。三権分立の尊厳に、時の権力は触れてはいけません。それが今の自民党では、言葉に責任を持たず、傲岸不遜に政治をやっている。その結果、役人も萎縮して政治家に意見しなくなりました。  外交や防衛政策もその場しのぎの対応ばかりです。安倍前首相は「戦後外交の総決算」と言い始め、北方領土問題では4島一括返還の原則を2島返還にしてしまった。それに対して誰も「おかしい」とは言わない。  昔の自民党なら、党内で活発な議論をしていた。米価問題では、徹夜で議論しましたよ。それだけ議論をすると、みんな疲れてしまって「もういいからまとめてくれ」となるわけです。そこでまとまった結論というのは、全体の意見の落としどころにおさまっていく。でも、その決定というのは、大きくズレてはいない。  ところが、今は形だけの議論しかしない。最初から官邸で物事が決定していて、自民党は追認するだけになってしまった。安倍前首相が桜を見る会問題で118回も国会でウソをついても、党で何の問題にもならない。やりたい放題です。 ──変えるには、どうすればいいのでしょうか。  前回衆院選の小選挙区(定数289)で立憲、希望、共産、社民と野党系無所属議員が得た議席は60。全体の20.7%しかありません。議会は数です。小選挙区で79.3%の議席を持つ与党に立ち向かうのは、今の野党ではとてもできません。だから与党はやりたい放題で、結果的に自民党の質も劣化してしまった。  ですが、前回衆院選で野党が選挙協力をしていれば、維新の会の票を含めなくても、単純計算で小選挙区で102議席を獲得することができた。まずは、これが次の衆院選の目標です。102議席に比例の議席を含めると、野党は200議席を得ることができる。そうすれば、野党の議席数は国会の43%で、保革伯仲です。  私は、いきなり次の選挙で「政権交代をする」とは言いません。200議席は現実的な目標で、そうなれば自民党も国会運営に緊張感が出る。自民党という政党を変えるには、野党を増やすことが必要なのです。 ──「自民党を変えるために野党を増やす」というのでは、野党第一党としての目標が消極的ではないですか。  国会が与野党伯仲になったのに、それでも自民党が変わらなければ、次は政権交代しかありません。その時はどうなるか。自民党内からも不満が出る。千葉県知事選もそうでしたが、各地の地方選挙で与党が次々と分裂しているように、国政でも同じことが起こります。  もちろん野党も変わる必要があります。野党の議席数が増えれば、「野党連合政権」を訴えている共産党も、具体的に立憲とどのような政権を作るのかを議論しなければなりません。日米同盟、自衛隊、天皇制など、野党内でどのような見解をまとめるのか。それから共産党は逃げることはできません。  やってはいけないことは、選挙前に突然、政権合意を作ることです。時間をかけてオープンな形で議論し、野党内だけではなく、支持者にも理解してもらえるようにする。立憲も共産も変わらなければならない。しかし、それができれば「大人の野党」になることができます。 ──共産党は変わることができますか。  共産党だって、今の野党で政権交代を目指すなら変わらざるをえない。現実には、政策にこだわっているのは政治家の方で、共産党の党員の方は柔軟ですよ。だから、私は共産党委員長の志位(和夫)さんには「一つ取ったら二つ譲ってくれ」と言っている。「過去の方針と矛盾したことは言いたくない」という共産党も、政権を目指すと宣言したわけだから、これからどんどん変わっていかないと、党員も納得しません。 ──野党の中には、維新の会との協力を模索する動きもあります。  維新の会と協力できれば、野党に有利であることは間違いありません。しかし、国会での維新の行動は与党とほぼ同じで、現在の野党と一緒に選挙を戦うことは考えられません。これは政党の考え方の問題なので、我々が変えることのできるものではありません。だから、次の総選挙では「維新は実質的に与党の一員だ」と国民に認識してもらう必要があります。 ──現在、立憲内で岡田克也衆院議員らと「小勝会」というグループを立ち上げていますが、その目的は。  前回の衆院選で比例復活で当選した人たちの会です。次の選挙では小選挙区で勝つ。その目的で集まった議員で、名前はわかりやすいものがいいだろうということで「小勝会」となりました。それ以上でも、それ以下でもありません。  一部の報道で共産党と距離を置く目的でグループが作られたかのように書かれましたが、まったくそんな議論はしていません。むしろ、小選挙区で負けた議員の集まりですから、共産党に対して協力を拒むような話は一切していません。 ──中村議員は、自民党時代は「将来の総理候補」と言われていました。今でも、総理大臣を目指していますか?  まったくそんなつもりはありません。立場が欲しいなんて、さらさらない。  このままでは日本の民主主義が間違った方向に向かう。私の仕事は弱い野党を強くすること。自分の経験をすべてかけてやり遂げるつもりです。誰もついてこなくてもかまわない。私一人でもやる。  個人的なことを話せば、ゼネコン汚職事件で刑事被告人になり、「中村はもうダメだ」と言われてきたのに、そんな私を支えてくれた支援者の人たちがいます。その人たちは「いつか中村は日本を立て直すために動いてくれる」と期待してくれています。その期待にこたえずに、政界を去るわけにはいきません。  私は、一切の私心を捨てて国のために尽くそうと思っています。そのためには、次の選挙で野党が議席を伸ばして保革伯仲に持っていき、国会に緊張感を作る。まずはそれを目指しています。 ──野党は一つにまとまるでしょうか。  最近はコロナの影響で控えていますが、19年10月からは、野党の党首を集めて食事会をやっていたんですよ。最初はぎこちなかったですが、何回かお酒を飲みながら食事をすると、ざっくばらんに話ができるものです。2時間なんてあっという間に過ぎます。党首だけではなくて幹事長や選対委員長同士でもやっています。  私が自民党にいた時は、当時の最大派閥の田中派で汗を流しました。そこで学んだのは、一切の私心を捨てて、大義のために一つになるということ。そのために徹底的に議論を尽くす。一つにまとめるために、今は立憲の中で汗をかいていますよ。 (聞き手/本誌・西岡千史) ※週刊朝日オンライン限定記事
週刊朝日 2021/04/15 07:00
「なんか気持ち悪い」カンニング竹山君は東京都抗議騒動でも覚悟してるはず 鈴木おさむ
鈴木おさむ 鈴木おさむ
「なんか気持ち悪い」カンニング竹山君は東京都抗議騒動でも覚悟してるはず 鈴木おさむ
放送作家の鈴木おさむさん  放送作家・鈴木おさむさんが、今を生きる同世代の方々におくる連載『1970年代生まれの団ジュニたちへ』。今回は、例の騒動が関心を集めているお笑い芸人カンニング竹山さんについて。 *  *  *  お笑い芸人カンニング竹山さんの「アッコにおまかせ!」(TBS系)での発言に対して東京都が抗議文を送り付け、そして、それがメディアで報じられ、騒ぎが大きくなり、結果、都は「抗議ではなく注意です」と言い出した。うん。なんか気持ち悪い。その一言です。 なぜ竹山さんがあのような発言をしたかは、竹山さんのAERAdot.を見ていただければわかります。  ここまで「竹山さん」と書いてきましたが、ここからは普段通り「竹山君」と書きます。僕はカンニング竹山君のライブ「放送禁止」というものを年に一度、一緒に作っています。2008年が初回で、もう13年近く一緒にやっている。元々は僕がライブをやろうと誘いました。相方の中島君が亡くなり、一人で、ニュースやワイドショーのコメンテーターとして多く出演していた竹山君の顔を見て、なんかね、つまらなそうな顔をしてたんです。「これでいいのか?」というか。  相方が亡くなり、漫才やネタも出来なくなり、そのコメント力を求められて、コメンテーター席に座ることが多くなった竹山君を見て「もったいない」と思ってしまったんです。  僕は生き様で見せる芸人さんがすごく好きです。竹山君はまさにそうなっていけると思ったからです。だから、一人でライブをやることを勧めました。そしたら最初は、なんと断りやがったのです(笑)でもしばらくして電話が来ました。「やっぱりやりたい」と。  そして「放送禁止」と名付けて、大人の人が年に一回の楽しみになるような、デンジャラスな空気のあるライブにしたいと思ったのです。  初回は恐ろしいほどチケットが売れませんでした。ほとんど招待。招待してるのに来るのを 面倒臭がる人も多くてね。  二回目に確変が起きました。竹山君の「浮気」が週刊現代に出てしまったのです。しかも全裸で寝てる写真まで。そのことが雑誌に出る数日前に、竹山君から電話がありました。こんなことになって申し訳ない……的な。だけど、僕はすぐに言いました「放送禁止でやる最高のネタが出来たじゃないですか!」と。そこから竹山君は編集部に逆取材。竹山君と一夜を過ごしたあの方は狙ってやっていたのか?あのことを編集部に売ることによっていくら入るのか?などなど、スクープされた人がスクープした人を取材し、その一部始終を舞台で話すということをやり、かなり話題になりました。そこから「カンニング竹山のライブは、おもしろいことをやっているらしい」と話題になり始めました。  そこから毎年、竹山君の一年で起きたこと、ムカついたことなどを喋りつつ、その年のテーマになることをやったりして。薬物について、障碍者について、テレビでは出来ないことを、ただおもしろおかしく取り上げるのではなく、一種のジャーナリズムを持ちながら取材し、それを笑いで包んで舞台で話す。5年目には、相方・中島君が病気になり、亡くなっていくまでの中で起きた「おもしろい話」を舞台でしました。  その翌年。「一日一人、誰かに一万円を配る」という企画をやりました。もちろん自腹です。一年で365万円。お金っていきなりあげようとすると拒まれたりするんですよね。それをすることによりお金って何?とか相手の意外な人間性が見えてきたりする。  3年前は週刊文春をテーマにしたり。一昨年は「一年間、毎日誰かと竹山君だけが全裸になり写真を撮影する」という企画に挑み最後はお掃除屋さんになったカラテカ入江との話を。昨年は配信だけになってしまったが、ビートたけしさんのフライデー襲撃事件の話をガダルカナル・タカさんに聞き、その一部始終を話し、最後にはアンジャッシュ渡部君へのメッセージを。  と、色々やってきましたが、竹山君はいつ何時も覚悟を決めてやっています。  そして、このライブを始めて数年後に僕に言いました「一年に一回、芸人としてあのライブをやっていることで、お笑いじゃない仕事も自信もってやれるようになりました」と。  芸人さんの仕事の一つとして「コメンテーター」という仕事がある。竹山君も、そのコメンテーターという仕事をやっているが、竹山君は特別に僕はぶっとい背骨を持っているなと思っている。  だからこそ、自分が発言したことに対して間違っている部分は認めるけども、それ以外は簡単には謝らない。  それでいいし、それがいい。そうであってほしい。この13年間、彼はかなりの覚悟を持って突き進んできたからだ。  この東京都との問題、なんだかまだ入り口な気がしているのは僕だけでしょうか?? なんか気持ち悪さが残っている。  思い切って、竹山君に東京都のプロモーションを頼むくらいの「覚悟」があってもいいと思うんですが……。 ■鈴木おさむ(すずき・おさむ)/放送作家。1972年生まれ。19歳で放送作家デビュー。映画・ドラマの脚本、エッセイや小説の執筆、ラジオパーソナリティー、舞台の作・演出など多岐にわたり活躍。パパ目線の育児記録「ママにはなれないパパ」(マガジンハウス)が好評発売中。バブル期入社の50代の部長の悲哀を描く16コマ漫画「ティラノ部長」の原作を担当し、毎週金曜に自身のインスタグラムで公開中。主演:今田耕司×作・演出:鈴木おさむのタッグで送る舞台シリーズ第7弾『てれびのおばけ』が4月14日(水)~4月18日(日) 下北沢・本多劇場で上演。YOASOBI「ハルカ」の原作「月王子」を書籍化したイラスト小説「ハルカと月の王子様」が好評発売中。
お笑い芸人アッコにおまかせ!カンニング竹山団塊ジュニア抗議文放送禁止東京都鈴木おさむ
dot. 2021/04/08 16:00
元テレ東名物P・佐久間宣行、退社の真意を明かす 「管理職になるタイミングだった」
元テレ東名物P・佐久間宣行、退社の真意を明かす 「管理職になるタイミングだった」
佐久間宣行(さくま・のぶゆき)/1975年、福島県生まれ。99年、テレビ東京入社。「ゴッドタン」「あちこちオードリー」といった人気番組を手掛ける。3月に退社しフリーに(撮影/写真部・戸嶋日菜乃) ゴッドタン/2005年に放送開始したテレビ東京深夜の看板番組。レギュラーはおぎやはぎ、劇団ひとり、松丸友紀。番組DVD・ブルーレイ売上累計は60万枚を突破している(写真:テレビ東京提供) あちこちオードリー~春日の店あいてますよ?~/2019年放送開始。MCを務めるオードリーがゲストと本音トークを展開する、事前アンケートなし、打ち合わせなしのフリートークバラエティー(写真:テレビ東京提供)  斬新な発想を武器に、我が道を行く。そんな“テレ東らしさ”を体現してきたプロデューサー・佐久間宣行さんが3月末日をもって同局を退社。AERA 2021年4月12日号で現在の胸中を語った。 *  *  * ――<テレ東名物P佐久間氏 3月退社>  3月1日、「ゴッドタン」や「あちこちオードリー」など、テレビ東京の人気番組を手掛ける名物プロデューサー・佐久間宣行(45)の退社が報じられた。ヤフートピックスにも取り上げられたそのニュースは、瞬く間にSNS上を駆け巡った。  いや、あれはちょっと信じられなかったです。ただサラリーマンが会社を辞めるってだけの話ですからね(笑)。 ■出世で現場が遠くなる  辞めることを決断した理由は二つあります。ここ数年、外部からお仕事のオファーをたくさんいただくようになったんですが、テレビ東京には「自社の番組に直結しないコンテンツは作ってはいけない」というルールがあり、お断りした案件がたくさんあったんですね。もちろん、ダメという会社の言い分も理解できるので、ではどうしていこうか?と1年ほど前から会社と話し合ってきました。  もう一つは、ちょうど管理職になるタイミングだったこと。会社のラインに乗って出世すると、当然ながら自分のことだけに時間を使えなくなります。部下の番組のクオリティーやコンプライアンスをチェックする仕事に追われ、収録現場に行くことさえできなくなってしまう。  それで自分のなかで出した結論が「フリーの立場で、今後も担当番組の演出をやらせてもらいたい」というものでした。会社組織から出て行く人間がそのまま番組を継続することが周りにどう影響するのか心配だったんですが、会長からも「佐久間が続けて担当したほうがテレビ東京にメリットあるしね」と言っていただけて。すごくありがたかったですね。 ――佐久間は2年前、会社員でありながらラジオ番組「オールナイトニッポン0」のパーソナリティーに抜擢され、現在も毎週水曜深夜にレギュラー出演中だ。他の曜日にファーストサマーウイカやCreepy Nutsといった旬の面々が居並ぶなか、まったく引けを取らないほど絶大な支持を集めている。今年1月に開催された配信イベントの視聴チケットは、1万7千枚以上の売り上げを記録。佐久間の活動はすでにテレビマンの枠に収まるものではなくなっていた。  たまたま僕はテレビ局員としては変わったキャリアを歩んできたと思います。「ゴッドタン」の企画でいえば、芸人さんが自作した歌を本気で披露する「マジ歌選手権」のライブを武道館で開催してみたり、文字通りキスを我慢するだけの企画「キス我慢選手権」の劇場版を撮ったり。「ウレロ☆」というシチュエーションコメディーのシリーズでは、舞台版の演出もしました。あとは、子ども番組の「ピラメキーノ」から生まれたオンナラブリーというユニットのCDを出して20万枚以上のセールスを記録したこともありましたね。 ■決断の真意が伝わる  近しい間柄の芸人たちからは、退社を報告した際にこんな言葉を掛けられたという。  みなさん驚きつつも、「うちらの番組は担当するんでしょ?」「テレビ東京以外の仕事もお願いします」みたいな感じでした。辞めることをイジられはするけど、「辞めなきゃよかったのに」とは誰からも言われなくて。今まで通り現場に居続けるためにこの決断をしたことが、ちゃんと伝わったんだろうなと思っています。印象に残っている言葉は、劇団ひとりの「これでやっと色々できるね」。映画を撮るとか、ストーリーのある仕事をしていったほうがいいと数年前から彼は言ってくれていたんです。 ――22年間所属したテレビ東京を離れた今、改めて思う“テレ東らしさ”とは?  もともと最下位の局なので、多少の失敗は許される。あとは予算がない分、企画が他局と被ったら負けるという意識。この「失敗に寛容」と「企画のオリジナリティー」がテレビ東京のクリエーティブのDNAでしょうね。ただ、これは30代後半より上の世代にとっての話かもしれない。今の若い世代の作り手にとっての“テレ東らしさ”は、「モヤモヤさまぁ~ず2」や「ゴッドタン」のような、音楽でいうとインディーズとメジャーの間にあるものじゃないかな。独自に作った曲がたまにヒットチャートに入ってくる、みたいな(笑)。  僕らの頃は今とは違って、もっと殺伐としていました。とにかく予算がなく、企画を通そうにも営業枠とアニメ枠でほとんど埋まっている。自社の制作枠なんて数枠しかない。ましてやお笑い番組は皆無でした。タレントのブッキングの仕方もわからなかったし、事務所の人もテレビ東京のことなんて誰も知らない状態でしたから。 ■各局の番組配信サイト ――かつて在京キー局の“番外地”と言われたテレビ東京で、バラエティー分野をゼロから開拓してきた佐久間は、現在のテレビの苦境の原因をこう分析する。  テレビ全体が厳しい状況に陥っている一番大きな原因は、各局がそれぞれの番組配信サイトを持ったことだと思います。ユーザーの可処分時間を動画コンテンツとテレビが取り合うなか、早い段階で各局が連帯できなかったために、ユーザーにとって「テレビ=不便なもの」になってしまった。コンテンツを作る力、とくにドラマとバラエティーに関しては、テレビは今なお高い能力を持っていますが、各局が足並みを揃(そろ)えられなかったことで影響力を失ってしまったのかな、と。 ――佐久間にとってテレビ東京での最後の1年は、コロナ禍での最初の1年でもあった。多くの番組が総集編や過去回を放送していた時期に、佐久間の番組では感染対策を徹底しながらいち早く通常に近い形での放送を再開した。  つくづく感じたのは、エンターテインメント、とくに笑いというものは、本当に社会がどん底に沈んだ時には役に立たないということ。どん底では食べ物やインフラ、医療、政治のほうが絶対に大事。だけど、それだけでは人は生きていけないんで。その立ち上がるタイミング、一歩踏み出さなければいけない時に、笑いが力になる。そういう意識で準備していました。  新型コロナではみんなが等しく日常を奪われたから、変わらない笑いとか、変わらない日常を取り戻させてくれるようなものを届けたかったんです。で、そこから半年、1年が経ち、新型コロナが収束しないままいろんな問題も噴出している時期には、変わらないものだけではなく、変わった価値観もちゃんと反映した笑いというものも必要になってくると思う。今はちょうどその過渡期ですね。 ■全部塗り替える新芸人  たまに、お笑いの決定的な新世代って何なんだろうなと考える時があって。霜降り明星とか第7世代も含めて、今の芸人さんはみんなちょっと懐かしい部分も持っていて、だからこそ売れているんだろうと思うんです。でも、少しも懐かしさがなく、全部を塗り替えるような新しい芸人さんが出てきてほしい気持ちもあります。売れ方も、賞レース以外にもっと色々あっていいと思う。 ――そこに風穴を開ける準備も着々と進行中だ。  今後はテレ東の担当番組と並行して、アプリや動画配信サービスで新しい形のお笑い番組を作りたいと思っていて、具体的に話を進めているところです。イベントや舞台の演出もやりたいと思っています。  失敗もすると思うんですけど、僕の信条として、「数字がいい時に偉ぶらないから、数字が悪い時に怒らないでね」というのがあって(笑)。ぜひ温かい目で見守っていただけたらうれしいです。(文中敬称略) (構成/編集部・藤井直樹) ※AERA 2021年4月12日号より抜粋
AERA 2021/04/08 11:30
K-POPの聖地「新大久保」が汚されている 食べこぼしやタバコの吸い殻、吐瀉物まで…「もう住めない」と街を出ていく地元住民も
國府田英之 國府田英之
K-POPの聖地「新大久保」が汚されている 食べこぼしやタバコの吸い殻、吐瀉物まで…「もう住めない」と街を出ていく地元住民も
大久保通りは道幅が狭く、週末は観光客でごった返している。写真の一部を加工しています(写真=國府田英之) 路地に貼られた住民からの注意書き(写真=國府田英之) 住宅の敷地内に放置された食べ残しのごみ(写真=住民提供)  K-POPなど韓流ブームの聖地と言われ、多くの若者らが行きかう東京・新大久保。その活況の裏側で、観光客によるごみのポイ捨てなどマナーの悪さが深刻な事態となっている。悩まされ続ける地元住民に話を聞くと「こんな汚くてうるさいところには住み続けられない」と泣く泣く街を離れたり、転居を検討する人も出始めている。 *  *  *  韓流ショップや韓国料理店が軒を連ねる「大久保通り」。天気の良い金曜の午後に訪れると、さまざまな年齢層の女性やカップルらでごった返していた。その大久保通りにつながる細い路地の入り口で、ひとりの女性が、立ち食いしながら路地に入ってくる観光客らに声をかけ、通行の自粛をお願いしていた。 「この先は住宅地です。住民が迷惑しているので食べ歩きはご遠慮ください」 「食べ歩きは新宿区が指定した場所、区立公園や交差点のゴミ箱設置場所でお願いします」  彼女は祖父の代から近隣に住んでいる50代の女性で、ここ3年ほど、土日や祝日など仕事の空き時間にここに立って呼びかけを続けているという。  路地は公道であり、立ち入りが規制されているわけではない。立ち食いも違法行為ではない。ただ、この女性が体を張って注意を呼びかけないといけないほど、住民たちの静かな暮らしは阻害され続けているのだという。  大久保通りは歩道が狭い。土日や祝日はただでさえ観光客でごった返すが、さらに通りには韓国版アメリカンドッグ「ハットグ」「チュロス」「タピオカ」など様々なテークアウトの人気飲食店が多数できた。店の前には行列ができ、さらに立ち食いの客が滞留するため、歩道は「密」の状態だ。お目当ての食べ物をテークアウトしたはいいものの、歩道に食べる場所が見つけられなかった人は、足が路地に向かう。その先には、すぐに住宅地がある。  路地で目に付くのが、住民からの注意書きだ。「食べこぼし、ゴミの投げ捨て迷惑しています」とハットグの写真が入った張り紙や、「住宅地につき座り込み、飲食、喫煙禁止」と日本語、韓国語、英語で書かれた張り紙もある。  住宅の前からコインパーキングまで、いたるところでみられるこうした風景が「現実」を物語る。  先の女性は「私だって、本当はこんなこと(観光客への注意)をしたいわけじゃないですよ」と疲れ切った顔で話す。 「3年くらい前から一気にひどくなりました。私の自宅周辺では、立ち食いだけではなく、敷地内のカースペースなどに座り込んで食べたり、たばこを吸ったりする人が後を絶たず、食べこぼしやごみのポイ捨ては日常茶飯事です。やむなく敷地の一部に蛇腹の柵を設置したのですが、柵をちょっと開けて隙間に座り込んで食べる人までいました。近くのアパートでは、日陰に入りたいからと通路に勝手に入って立ち食いして、そのごみをポイ捨てされたこともありました」  こうした被害は日中だけにとどまらないという。 「深夜に酔っ払いが住宅地で騒いだり、家の敷地に嘔吐されたことが何度もあります。新型コロナウイルスが大きな問題となっているこの時期、こうしたリスクを伴う汚物やごみを掃除するのは、ずっと静かに暮らしてきた私たち住人です」  事実、女性が立っていたのとは違う路地を見ると、立ち食い客や路上たばこを吸う人が次々に入ってきて、去った後にはごみや吸い殻が残されていた。飲食店の店員が座り込んでたばこを吸っていることもあった。ちなみに、新宿区は条例で路上喫煙は禁止されている。  喫煙していた中年女性に声をかけたが、 「喫煙所が見当たらないし、歩道だと(火が)危ないからこっちで吸ってます」  とそっけなく答えるだけだった。またアパートの前でハットグを立ち食いしながらマスクを外しておしゃべりしていた大学生カップルは、 「ごみを捨てちゃだめですけど、歩道が混んでるから、とりあえずはこっちに来ちゃいますよね」  罪悪感はさほどないようだった。  そばを歩いていた住民男性は「昔は静かな住宅地だった。変わっちゃったよね。これが自分たちが生きてきた街なのかなあと思いますよ」と彼らに目をやりながら、さみしそうに本音を語った。  前出の50代女性は、ずっとここに住むことはできないだろうと、家族と将来的な転居について話しているという。その家族の一人は同じ路地で立ち入り自粛をお願いしてきたが、ストレスが影響してか体調を大きく崩してしまった。  声をかけても無視して立ち食いを続ける女子高生。「ここは公道だ、お前らの土地じゃないだろう」「何様なんだ」などとすごんでくる男性たち。悪質な観光客は枚挙に暇がないほどいる。  この問題をニュースで見たという観光客の女性たちが、マナーの悪い若者を注意してくれたこともあったが、そんな「いい人」は奇跡に近い。頑張るほど日に日に疲れがたまり、終わりも見えない。 「祖父が残してくれた家を守りたいという思いはあります。でも、この現実を考えると、住宅地が昔の姿に戻るのは難しいと感じています。私の知る限りで、古くから地元に住んでいた3軒のお宅が、この2年ほどの間に家と土地を手放して街を出ていきました。毎日のように家の前のポイ捨てごみの掃除を強いられていた近隣住民は、ストレスをため込んでいら立ちを抱え続け、最後は『もうこんな汚くてうるさいところには住めない』と、泣く泣く引っ越しました」(同)  同じように街を出るか考えている住人は、今も少なくないという。 「楽しい観光地であっても、すぐそこに人が住んでいて、静かに生活していることをなんとか知ってほしい。たった一枚のごみ袋を持ってくることが、そんなに難しいんでしょうか。自分の家の前で、見ず知らずの他人がマスクを外して食べ歩く様子を想像してほしいんです」(同)  街を歩く観光客はみんな楽しそうだ。ただ、そのそばで、こうした現実に苦しんでいる罪なき住人たちがいることは、忘れてはいけないだろう。(取材・文=AERAdot.編集部・國府田英之)
K-POPポイ捨て新大久保韓流ブーム
dot. 2021/04/07 17:35
流産と震災――わが子を抱く腕の輪の中に感じた宇宙 写真家・山田なつみ
米倉昭仁 米倉昭仁
流産と震災――わが子を抱く腕の輪の中に感じた宇宙 写真家・山田なつみ
ショスタコーヴィッチの森(撮影:山田なつみ)  写真家・山田なつみさんの作品展「TOKΘYO(常世)」が3月8日から東京・新宿のリコーイメージングスクエア東京で開催される。山田さんに聞いた。 *  *  *  取材前、山田さんからメールのメールには、今回の作品についてこう書かれていた。 <子育てを通じて得た母としての成熟、なかなか分かり合えない夫と妻の格闘……いろいろなモヤモヤと晴れ間を経て、フィルムで撮る意味がまるで地下室に眠るワインのように、発酵によって味わいを増しているかのようです>  展示作品はワインのように楽しんでほしいそうで、<どちらもテロワール(大地)と時間が紡ぎ出した発酵物>とある。  実際に作品を目にすると、子育てのように生み出されたプリントは墨絵のよう。画面の枠が滲み、絵柄のトーンもネガの階調をそのまま再現したものではなく、ムラとは異なる微妙な変化がある。作品によっては大胆にも墨汁を垂らしたような丸い跡が見える。それらが単なる絵柄ではなく、焼きつけられた印画紙の質感と相まって作品をつくり上げている。 エグレット・トラヴェルサン・アン・プティ・ヴィラージュ(撮影:山田なつみ) ■日本の原風景が雪室のような場所で完璧な状態で保存されていた  おもな撮影地は福島県・奥会津地方。三島町を中心とする山間の地域に小さな集落が点在している。  フランスの大学で写真史と映画史を学んだ山田さんがこの地で「TOKΘYO(常世)」シリーズは撮り始めたのは10年ほど前(「Θ」は死の神、タナトスをギリシャ語で表記した際の頭文字)。 「常世」とは、山田さんにとって、「胎内のような閉ざされた別世界」だと言う。 「あの世とこの世の間にある、子宮のような場所です。会津の小さな集落の暮らしを、その胎内に見立てています」  小さな限られた世界。そこに生命力があふれている。文化が生き生きと根づいており、根源的な豊かさを感じるという。 「円環をなすように親戚のつき合いとかも集落ごとに完結している。同じ『サイノカミ』という祭りでも、川をまたぐと違うんです。常世感というか、雪で覆われたなかで人々が非常に楽しそうに暮らしている」  初めて奥会津を訪ねたのは2010年春。7年間のパリ暮らしを終えて帰国した直後だった。福島県郡山市に住み始めた山田さん夫妻はドライブに出かけた。すると、「えーっ、何なんですか、ここは!」。「見たことのない空間」に衝撃を受けた。  コンビニどころか、似たようなチェーン店も1軒もない。ハウスメーカーの家もほとんどない。そこでみんなが雪下ろしをしている。 「目が外国人になっている身としては、日本の原風景が雪室のような場所で完璧な状態で保存されていたように見えたんです」  もともと、山田さんは山形市で生まれ育ったのだが、「風景の濃さがあまりにも違いすぎた」。 アリヴェ・ドゥ・デュ、サイノカミ(撮影:山田なつみ) ■雰囲気がほんとうに美しくて、死んだ子どもに会えるような気がした  そんな風景に魅了され、父親から譲り受けた中判カメラ、ゼンザブロニカにモノクロフィルムを詰めて撮り始めた。 「デジタルカメラでも写したんですけれど、しっくりとこなかったですね。あまりにも景色が素晴らしすぎて、デジタルで残すのがもったいないというか。色や電子技術が介在すると時代性が入ってしまう。このままの状態を撮って保存するには、モノクロのフィルムじゃないと表現できない、と考えたんです」  最初は「農作業をするおばあちゃんとかを『記録』として撮っていた」。しかし、すぐに「撮りたい気持ち、心情をそのままを記録する感じ」に変化する。原因は流産だった。 「非常にどこに行ったらいいのかわからない感じ」だった山田さんは、「すがるような気持ちで」集落を訪れた。すると、みんなが温かく迎え入れてくれた。 「撮影に行くと、『また来た』みたいな感じでもてなしてくれるんですよ。『今まで、元気してたか?』『あなたが好きなたくあんを漬けといたからね』とか、いろいろ話を聞いてくれたり。前に写した写真を見せると、とてもよろこんでくれて。すごく励まされた」  さらに、「もう準備してあるので、撮ってください」と、言わんばかりの光景にたびたび出合った。 「腰の位置に霧が立ち込めているとか。振り返ると、村が水面に映っていて、えーっ、と思ったり。私が撮っているというより、カメラに導かれているとしか思えないような光景に毎回出合うので、ほんとうにどうなっているのかな、と。私にとって、ここは心がいちばん落ち着く場所でしたね。雰囲気がほんとうに美しくて、死んだ子どもに会えるような気がした」 プティット・フィーユ・ダンザン・シャン・ドゥ・コルザ(撮影:山田なつみ) ■原発事故の直後、菜の花畑で写しとった白昼夢のような光景  ところが翌年、さらなる不幸が降りかかった。東日本大震災で郡山の自宅は「ぺしゃんこにつぶれてしまった。たまたま外出していたからよかったんですけれど」。  流れ着くようにやってきたのは福島第一原発から直線距離で約65キロ離れた宮城県角田市。新しい住まいの裏には広大な菜の花畑が広がっていた。そこで白昼夢のような光景を目にし、シャッターを切った。 「そのとき、放射線の値がけっこう高かったんです。なのに、みんな和気あいあいと写真を撮ったり、子どもが駆け抜けていった。天国みたいな場所が広がって、ふわーっと浮遊しているように見えた。『いったい、ここはどこなんだろう』と。そういう事故が起きたときって、人々がののしり合ったり、物を取り合ったり、世紀末のような光景がさまざまな映画で描かれてきたのに、それとはあまりにも違いすぎて、もうどこにピントを合わせていいかわからないくらいすごく動揺したことをはっきりと覚えていますね」 フー・サクレ(撮影:山田なつみ)  そのころ、2度目の流産をした。原因はわからない。 「でも、子どもが命、体を張ってというか、私に伝えたかったメッセージもあったんじゃないかな。たぶん、そういう出来事がなかったら『常世』をつくろうとは思わなかったでしょうし。生まれてこられなかったこと、というより、生命が訴えかけてくるもの。それはすごく意味深いと思いました」 ■白と黒だけ写真に宇宙のような広がりを感じる  それから3年後、待ちに待った子どもが誕生した。すると、写真に対する意識がさらに大きく変化した。それは、「撮ることというより、プリントすることの意味」についてだった。 「子どもがお乳を飲んで寝て、また飲んで。おしっこしたり、うんちしたり。それが全部、この『腕の輪の中』で完結している。それに気づいたとき、ハッとした。すごく驚きを感じました」  山田さんはそう言って、子どもを抱くように両手をつないで輪をつくる。  それまでは、ほかの写真家の活躍を知ると、「ヒマラヤとか行っているんだ」「いいなあ、うらやましいなあ」という気持ちが湧き上がった。 「でも、この腕の輪の世界もすごく濃厚で、宇宙があるな、と思ってから作品の見方が非常に変わってきたんです。時間をみつけては子どもをおんぶして暗室に入って、少しずつ焼き直していくと、自分の心象風景がさらに立ち上がってきた。新しい経験や視点、さまざまな要素が自分の中で反響して広がって、何回も何回も試して。その成長を『もの』として見届けられることが非常に面白い」  目を閉じて、額に集中していると、「白と黒だけ」の写真のなかに宇宙のような広がりがあることをすごく感じるという。 「得難い子育ての体験ですね。ほんとうにどこにも出かけられないのに。無限って、大海原にだけあるんじゃなくて、閉ざされたなかにもある。それにすごく気づかされた」 プルニエ・ブラン(撮影:山田なつみ) ■与謝蕪村の辞世の句に感じるモノクロ写真的なもの  震災前、1度目の流産をした直後に雪の残る奥会津で写した白梅の写真がある。それを与謝蕪村の辞世の句、「しら梅に明る夜ばかりとなりにけり」と重ね合わせてプリントしている。 「いまから死んで広い世界に、梅の白さのなかに吸い込まれていくよ、というのは非常にモノクロのフィルム写真的だと思うんです。ネガを印画紙に焼きつけると、黒いところは白くなり、白いところは黒くなる。それがずっと交互に円環をかたちづくっているようで、この世とあの世のつながりを感じさせるんです」 (文・アサヒカメラ 米倉昭仁) 【MEMO】山田なつみ写真展「TOKΘYO(常世)」 リコーイメージングスクエア東京 4月8日~4月26日。 会場では特装版の写真集「TOKΘYO」(私家版、A4変形、平綴じ、24000円・税別)を限定10部、販売する。桐箱入り。ブックカバーは「生命の樹」をモチーフに作家のデザインを刺し子で仕上げた。刺し子は角田市障害者就労施設「のぎく」の手仕事によるもの。バライタ作品1点と手刺しゅうのシリアル番号つき。
TOKΘYOアサヒカメラリコーイメージングスクエア写真展写真集山田なつみ常世流産
dot. 2021/04/07 17:00
Nulbarichの新アルバム『NEW GRAVITY』にAKLO、Mummy-D、Phum Viphuritら
Nulbarichの新アルバム『NEW GRAVITY』にAKLO、Mummy-D、Phum Viphuritら
Nulbarichの新アルバム『NEW GRAVITY』にAKLO、Mummy-D、Phum Viphuritら  Nulbarichが4月21日にリリースするニューアルバム『NEW GRAVITY』の詳細が発表された。  2枚組となる同作。DISC1には、映画『HELLO WORLD」』題歌「Lost Game」やバンド結成以前にJQが書いた「TOKYO」、テレビ東京系で放送中のテレビドラマ『珈琲いかがでしょう』のエンディング曲「CHAIN」などオリジナル音源11曲を収録。DISC2にはVaundyとコラボレーションした「ASH」、タイのシンガーソングライターPhum Viphuritをゲストに迎えた「A New Day」など7曲の客演曲や既発曲のリミックスが収められている。初回限定盤には昨年12月に開催された自身初のオンラインライブ【Nulbarich Live Streaming 2020(null)】公演の模様を収めたライブ音源がパッケージ限定で完全収録。  また、店舗共通特典でもあるDJ Mitsu the Beatsが手掛けた「VOICE(Mitsu the Beats Remix)」の特典CDに加え、全国のタワーレコード、およびタワーレコードオンラインでの購入者を対象にトークイベントを配信することが決定。ラジオDJの西田新(FM802)とのフリートークに加え、アルバム『NEW GRAVITY』を聴きながら作品についてのトークを繰り広げる予定だ。さらに、SHIBUYA TSUTAYA、代官山 蔦屋書店では4月20日から【Nulbarich×TSUTAYA SPECIAL POP UP SHOP】を開催。オープンに先立ち、TSUTAYA限定の「Nulbarichポロシャツ」の予約がスタートしている。 ◎Phum Viphurit コメント(対訳) このJQとのコラボレーションは、自分がようやくこのスローなペースの生活に慣れてきたなと思うちょうど良いタイミングで自然にやってきました。 歌詞は今自分が感じている多くのことを反映しています。孤独や孤立と向きあいながらも、自分が向かう将来に出来るだけ満足していきたいという思い。 80年代のサウンドにインスピレーションを受けたビートは心持ちダークな歌詞のテーマだったり、メロディーに面白い背景を作ったと思っています。 結果私はこの楽曲に非常に満足しています。皆さんも楽しんで頂ければ幸いです。 ◎AKLO コメント Sweet and Sourのリミックスに参加できて光栄です。実は共通の友達が居てJQとは10年以上前に知り合ってます。なのでNulbarichのライブは何度も見に行ってますが、いつもライブでの緩いトークにシンパシー感じてます。今回のリリックは原曲の心境にスムーズに入れました。感覚としてはタイムトラベルして一緒に書いたような感じです。是非夜空を見上げて聴いてください。  ◎Mummy-D(RHYMESTER) コメント まずはフィーチャリング、お誘い頂けて大変光栄でありました。んでもってすいません、サイコーの曲出来ちゃいました(てへぺろ)。JQとは、お互いプロデューサー体質ってのもあって、意見も合って好みも似てて仕事しやすく、毎回のキャッチボールごとにマジックが起こっていく感じがとてもエキサイティングでした。『Be Alright』、自分が今までしてきたコラボの中で間違いなく五本の指に入る名作っす!オレがこんなこと言うの珍しいのですがそのあたり、どうかお察しください。。。 ◎リリース情報 アルバム『NEW GRAVITY』 2021/4/21 RELEASE <初回限定盤>3CD VIZL-1891 4,000円(tax out)  <通常盤>2CD VICL-65496 3,500円(tax out) <Disc1収録内容> 01.Intro 02.TOKYO   03.CHAIN 04.Twilight 05.Lonely 06.Mumble Cast #000 07.Skit #333 08.Look Up 09.Break Free 10.LUCK 11.Lost Game 12.In My Hand <Disc2収録内容> 01.ASH feat. Vaundy(n-buna from ヨルシカ Remix) 02.A New Day feat. Phum Viphurit 03.Together feat. BASI 04.It’s Who We Are(CraftBeatz Remix) feat. 唾奇 05.Sweet and Sour(BACHLOGIC Remix) feat. AKLO 06.Be Alright feat. Mummy-D(RHYMESTER) 07.ASH feat. Vaundy <初回限定盤CD収録内容> 『LIVE CD「Nulbarich Live Streaming 2020(null)」』 01.Long Session 02.On and On 03.Get Ready 04.Zero Gravity 05.It's Who We Are 06.Spread Butter On My Bread 07.Together feat. BASI 08.NEW ERA 09.VOICE 10.ASH feat. Vaundy 11.Twilight 12.Super Sonic 13.LUCK 14.Sweet and Sour 15.TOKYO
billboardnews 2021/04/06 00:00
「とにかく早くテレビに出たい」 墨田区の人気ラーメン店主が焦りを感じた理由
井手隊長 井手隊長
「とにかく早くテレビに出たい」 墨田区の人気ラーメン店主が焦りを感じた理由
新潟ではポピュラーな“あごだし”を使った新宿「たかはし」の焼きあご塩らー麺は一杯800円(筆者撮影)  日本に数多くあるラーメン店の中でも、屈指の名店と呼ばれる店がある。そんな名店と、名店店主が愛する一杯を紹介する本連載。新宿・歌舞伎町で勝負し「焼きあご塩ラーメン」で大ブレイクを果たした女性店主の愛する一杯は、ラーメン好きの夫婦が勢いで開業し、お互いを支え合いながら作り上げた濃厚つけ麺だった。 ■多店舗展開は現場重視 社長が「言って聞かせ、やって示す」 「焼きあご塩らーめん たかはし」。2015年、新宿・歌舞伎町にオープンし、トビウオの“あごだし”を使ったラーメンで大人気の店だ。新潟生まれの店主・高橋夕佳さん(38)の地元ではポピュラーだったあごだしも、オープン当初都内ではあまり見かけなかった。そこに目を付けて、トビウオの香ばしい香りが特徴の塩ラーメンを作り、大ブレイクした。 焼きあご塩らー麺 たかはし新宿本店/東京都新宿区歌舞伎町1-27-3 KKビル1階/11:00~翌5:00【年末年始を除く全日】/筆者撮影  歌舞伎町(新宿本店)での出店は大きな挑戦だったが、高橋さんの理想はそのさらに上にあった。多店舗展開をしたのである。16年に上野店、17年に銀座店、18年には歌舞伎町に2つ目の店舗(歌舞伎町店)と渋谷店をオープンさせ、負け知らずの売り上げをたたき出した。  人気店が急に店舗展開すると、味やクオリティをキープできず失敗するという話はよく聞く。「たかはし」はどのようにクオリティを保ったのか。 「社長が現場に入って、言って聞かせ、やって示すのは最強のマネジメントだと思うんです。ただこれができるのは3店舗まででした。今では、管理の仕組みを作り、その仕組みが機能しているかどうかの確認と、その精度を上げるために現場をよく見るようにしています」(高橋さん) 焼きあごの美味しさをわかりやすく表現することを目指した(筆者撮影)  定期的に社長訪店を行い、ラーメンの味や見た目だけでなく接客やクリンリネスのチェックなどを入念に行う。味がブレていたり、接客に問題があったりした場合は、それを責めるのではなく、仕組み自体を見直していく。たとえレシピを真似されても怖くないレベルにまで、接客やクリンリネスのレベルを上げるのが高橋さんの社長としての仕事だ。  順風満帆に見える「たかはし」だが、新型コロナウイルスの影響は大きい。夜間売り上げが好調だった繁華街は、特に大きな影響を受けた。 「これまでは大都市に出店し、営業時間を長くして売り上げを保ってきましたが、これからの時代は生活圏に出店していくべきだと判断しました。川崎、大船、溝ノ口に出店し、郊外での成功事例を増やしていく段階です」(高橋さん) 「たかはし」店主の高橋夕佳さん。「言って聞かせ、やって示す」スタイルで多店舗展開でも味のクオリティを保っている(筆者撮影)  今年からはフランチャイズチェーン(FC)展開にもチャレンジする。直営店は1都3県に絞り、FCで地方にブランドを広げていく予定だという。味だけではなく心を豊かにできる「特別な日常」の体験を提供できるチェーンが、目指すポジションだ。「規模」と「価値」の両方を実現させるべく、「たかはし」はさらに上を目指していく。  そんな高橋さんの愛するラーメンは、墨田区にある夫婦で切り盛りするお店の濃厚つけ麺だった。 麺屋 中川會 錦糸町店/東京都墨田区江東橋4-30-15/11時30分~15時00分、18時00分~22時00分/筆者撮影 ■「とにかく早くテレビに出たい」 ラーメン評論家の写真を貼り出したワケ 「麺屋 中川會」。中川大輔さん、陽子さん夫婦が11年に住吉で開業し、現在は錦糸町に本店を構える濃厚つけ麺の人気店だ。つけ麺を食べた後に残ったスープでカレーを作ってくれる「カレ変ライス」がメディアで話題になった。女将である陽子さんの明るい接客も人気の店である。  もともと大輔さんはビルクリーニングの仕事をしていて、陽子さんは漫画家のアシスタントと会社員の兼業。二人でラーメンを食べ歩くのが趣味だったという。大輔さんのラーメン好きが高じて、土日には圧力鍋で豚骨を炊いてラーメンを作るようになった。 中川會の「つけ麺」は並盛り200グラムで800円。2種類のチャーシューに味玉がのった一杯は格別だ(筆者撮影)  ラーメンを作り始めて1、2カ月経った頃、大輔さんは突然こう言った。 「俺ラーメン屋をやる。辞表を出してきてくれ」  一度言ったら聞かない大輔さん。二人は会社を辞め、ラーメン店開業に向けて動き出す。  二人の行きつけだった「肉そば けいすけ」の店長にラーメン店をやりたいことを相談すると、思いもよらぬ言葉をもらう。 「今すぐにやった方がいいですよ!ラーメン屋は、お客さんが目の前でうれしそうにラーメンを食べる姿を毎日見られる。その顔を見ていると可愛くてしょうがなくなるんですよ」  料理がもともと得意だった大輔さん。根拠のない自信を持っていたが、それをさらに本気にした瞬間だった。 “濃厚つけ麺”をウリにすることも決めていた。当時はつけ麺の行列店が次々出てきていて、それを取り上げるメディアも多かった。大輔さんは、大人気店の「六厘舎」のスープをイメージしながら、自分の味を追求していった。 「中川會」女将の陽子さん。「ラーメンを楽しく作れる環境が一番」だと力強く語る(筆者撮影)  こうして、11年4月に墨田区の住吉で「中川會」はオープンした。二人とも30歳の頃だった。スナックの居抜き物件を見つけ、床のコンクリートやテーブル、椅子など全てDIYで店を作った。 「飲食店経営もまったくの素人だったので、普通のお店が10年でやることを1年でやらないとダメだと焦りがありました。とにかく早く“テレビに出ること”を目標にしていました。評論家さんの写真をロッカーに貼り出して顔を覚えておき、ちょっとでも似ている人が来たら声をかけていました(笑)」(陽子さん) 「ラーメン官僚」田中一明さんが来店し、テレビで紹介したことをきっかけに開店1年目から人気店に成長。同年、曳舟にスープ工場を作り、まとめてスープを作れる体制にすることで、イベントなどにも出店するようになる。  ラーメン屋の開業とともに、二人の関係性も変化した。大輔さんはスープ工場で寝泊まりし、“別居婚”スタイルになった。大輔さんがラーメンに集中することで、味に迷いが出ず、日々美味しさを追求できる。 「六厘舎」のスープをイメージしながら、自分の味を追求していった(筆者撮影) 「ラーメンを楽しく作れる環境が一番です。気持ちが弱気になると味に出てしまう。マインドを常にプラス側に持っていけるように保ってあげるのが私の役割なんです。うちは結束が強いですよ。それが身内経営の良さじゃないですかね」(陽子さん)  そんな陽子さんも毎日店に出る。開業準備中に妊娠が発覚し、現在は4人の子どもを育てている。子どもをオンブして店に立つこともあった。ラーメンをただ提供するだけでなく、お客さんを笑わせてこそ「中川會」流。今では陽子さんに会いに来るお客さんもたくさんいる。 店内に置かれた「夫婦の小言」にも「中川會」らしさがあふれる(筆者撮影) 「たかはし」の高橋さんは、自分が実現できなかったことを「中川會」は実現していると話す。 「お子さんが4人もいながら夫婦二人三脚を実現しているのはすごいことだと思います。私も子どもを3人育てながら夫婦で創業しましたが、途中で二人三脚を断念。今でも家庭円満ですが、社会では別の道を歩んでいます。大変さがわかるだけに『中川會』さんの凄さは誰よりもわかっているつもりです。女将の強さを感じます」(高橋さん)  陽子さんも、高橋さんに一目置いている。 「経営者としてとても頭のいい人だけど、泥臭さや人間臭さも持ち合わせた人です。店がうまくいかない時に相談すると、コンサルのように教えてくれます。人を育てるために時間とお金を惜しまず、それでここまで店を大きくされた。理想を現実にできる人ですね」(陽子さん) つけ麺を食べた後の〆のカレ変ライス(190円)は欠かせない(筆者撮影)  経営者として店を大きくする高橋さんと、夫を支えながら家族経営の店を切り盛りする陽子さん。全く違う人生の二人だが、ラーメンが繋ぐ絆とは面白いものである。(ラーメンライター・井手隊長) ○井手隊長(いでたいちょう)/大学3年生からラーメンの食べ歩きを始めて19年。当時からノートに感想を書きため、現在はブログやSNS、ネット番組で情報を発信。イベントMCやコンテストの審査員、コメンテーターとしてメディアにも出演する。AERAオンラインで「ラーメン名店クロニクル」を連載中。Twitterは@idetaicho ※AERAオンライン限定記事
AERAオンライン限定ラーメン井手隊長
AERA 2021/04/04 12:00
仕事は年1回、就活でテレビ局は全落ち ホラン千秋「ハッタリで来ました(笑)」
仕事は年1回、就活でテレビ局は全落ち ホラン千秋「ハッタリで来ました(笑)」
ホラン千秋  (撮影/写真部・小黒冴夏) ホラン千秋さん(右)と林真理子さん  (撮影/写真部・小黒冴夏)  TBSの報道番組「Nスタ」のキャスターとして、毎日夕方のニュースを届けるホラン千秋さん。明るく天真爛漫なキャラクターで知られるホランさんですが、じつは不遇の時代が長かったそう。作家の林真理子さんが「順風満帆とは程遠かった」時代から今のブレイクまでの苦難を伺いました。 *  *  * 林:ホランさんは、小さいころモデルをやっていて、それから女優さんを目指したんですか? ホラン:そうです。役者でうまくいかないかなと思って頑張ってたんですけど、なかなか芽が出ず、本場でお芝居を学ぼうと思って、アメリカの大学に演劇の勉強をしに行ったんです。でも、帰ってきてもまだまだ芽が出ず、どうしようかと考えている中で、一つの選択肢としてテレビ局の試験を受けたんです。 林:ところが、アナウンサー試験に全部落ちたんですって? ホラン:アナウンサー試験も落ちましたけど、テレビ局の制作、裏方のほうの試験も受けて、それも全部落ちました。 林:アナウンサー試験では最終ぐらいまで行ってたんですか。 ホラン:いや、テレ東はカメラテストまで行ったんですけど、日テレは最初の面接で落ちましたし、フジテレビは健康診断と筆記で落ちました(笑)。 林:でも、健康診断で落ちたわけじゃないですよね。 ホラン:おそらく筆記で落ちたんだと思います(笑)。当たり前ですけど、アナウンサー試験って、皆さん学校にも通ったりして、すごく対策するんですよ。エントリーシートの書き方から面接のやり方まで全部。でも、私は試験が始まる数カ月前にアメリカ留学から帰ってきて、半分記念受験みたいな感じで臨んだので、落ちて当たり前だなって思ってたんです。 林:最初から順風満帆だったわけじゃないんですね。 ホラン:ぜんぜん。14歳で今の事務所に入って、23歳になるまでの10年間ぐらいは、1年に1回仕事があればいいかなというぐらいで、大学(青山学院大)を卒業してから、やっと仕事が入るようになったんです。 林:今では信じられないですね。仕事がなかったときは、落ち込んだりもしたんですか。 ホラン:家族の前では落ち込みましたよ。大学生のときがいちばん悶々としてたかもしれないです。授業が終わったらサッと帰ってバイトに直行していました。留学するための費用をためようと思って、バイトもいっぱいかけもちして。 林:どんなバイトをしてらしたの? ホラン:パン屋さん、スーパー銭湯の受付、スーパーの品出しとレジ打ち、おすし屋さんのお茶出し……。私を純粋な日本人じゃないなと思ったおすし屋の常連さんから、「輸入品?」とか言われたりして。 林:今だったら差別用語ですね。滝川クリステルさんも青学出身ですけど、クリステルさんと比較されるのってどうですか。あの方もキー局の試験を落ちちゃったけど、共同テレビに入り、その後フリーアナウンサーとして活躍されて、ホランさんと経歴がわりと似てるような気がするけど。 ホラン:比較されることはありがたいんですけど、比較にならないぐらい私は中身がふつうなんですよ。おそらくキャラクターがまったく違います。私は今でも、自分はバラエティーの人間だと思ってるので。 林:あ、そうなの? ホラン:私はバラエティー番組に育てられたと思っています。クリステルさんはずっと報道畑でいらっしゃったので、路線が違うんです。 林:でも、どうなんですか。いま「Nスタ」のキャスターをなさってるけど、「バラエティーであんまりはっちゃけると、キャスターとしてのイメージが壊れるからほどほどに」とか事務所から言われたりしません? ホラン:ぜんぜんそんなことないです。「好きなだけ、やることやってこい」って感じで(笑)。どっちも私なんですけど、多少違うチャンネルを使ってるだけで、自分の中ではあんまり違和感なく、それぞれの分野で自然体でいる感じですね。どちらの分野においても、自分で言葉を選んで責任を持って発するということは変わらないので、どっちもエンジョイしながらやってます。 林:そうなんだ。たとえば安藤優子さんなんかはバラエティーにお出にならなかったし、「キャスター」というイメージをすごく大切にしてたような気がします。 ホラン:「キャスターをやってるのに、なんでバラエティーに出てるんだ」と言う方がいるかもしれないですけど、私は今たまたま報道をやらせていただいてるだけで、求められる場所で求められる結果を出して、求められ続ける人間でありたいなと思っています。私は何に対してもわりと才能が中途半端な人間なので、ある意味で専門分野と言えるものがない。だからいただいた現場に一つひとつ、全力で向き合っていこうと思ってやってますね。 林:そうは言ってもキャスターをやるからには、入念な準備が必要でしょう。こないだ木村太郎さんに聞いたら、朝、アメリカのニュース番組を三つ見てからテレビ局に入るって言ってましたけど、ホランさんは? ホラン:それでいうと私はアメリカのニュース番組はあまり見ないです。夜の番組はけっこう遅くまで見てるんですけど、朝はネットニュースを見て「今日は何がトップに来そうかな」というのを調べて、出社して新聞を読んで、まとまった資料を読んで……みたいな感じですかね。 林:そうなんですか。ちょっと意外でした。 ホラン:以前「NEWS ZERO」をやっていたときに、「わからないということを武器だと思いなさい」と言われたことがあって。テレビの前の皆さんが、朝から報道番組ばっかり見ているかというと、そうとも限らない。だから普通に生活したら何を「わからない」と思うかなという感覚を持っておくのが大事だと思うんです。私がわからないことは、ほかにもわからない人がいるかもしれないので、わかった体(てい)で話を進めないことが大事だと思っています。 林:確かに、その感覚は大事ですよね。番組の中で、失言したことあるんですか。「あ、言っちゃった」みたいな。 ホラン:失言はあんまりないですね。怒られたことってそんなにないです。 林:「私はバラエティーの人間です」とおっしゃったけど、口八丁手八丁の芸人さんともうまくからんでるから、本当に頭がいいんだなと思いますよ。ああいう人たちって瞬発力もすごいし、突然すごいことを言ってその場の空気を変えていくじゃないですか。 ホラン:私も最初は、バラエティーの中で、トークの流れを自分で止めてしまったりつぶしちゃったりしたことが何度もあったと思うんです。でも、「一緒に頑張ろう」と言ってくださるスタッフさんがいらっしゃって、少しずつ違う番組にも呼んでくださったり、セカンドチャンスを与えていただいて、一個一個、打率を少しずつ上げていったという感じです。 林:バラエティーで成功する人って、頭がいいことはもちろんだけど、まず明るくないとね。ホランさんはその笑顔で、パッと画面が明るくなることも強いですよ。 ホラン:いや~、そんなに褒めていただくと……ハッタリでここまで来ました(笑)。出会いに恵まれ、番組に恵まれ、ラッキーが続いてここまで来てるんです。あんまり技術はないし、才能もないし、どれも中途半端なんだけど、人とか番組との出会いだけはすごく運があって、その延長線上で「Nスタ」にたどり着いたという感じですね。 林:でも、今考えると、アナウンサー試験に落ちてよかったかもね。いま局アナやってたら、こんなにいろんな分野で活躍できなかったもんね。 ホラン:局のアナウンサーさんだと、基本的にはその局にしか出られないですし、今テレビ以外のお仕事もさせてもらえているという意味では、あのとき試験に落ちたのも、神さまのお導きというか……。 (構成/本誌・松岡かすみ 編集協力/一木俊雄) ホラン千秋(ほらん・ちあき)/1988年、東京都生まれ。アイルランド人の父親、日本人の母親の間に生まれる。14歳で芸能事務所に所属し、女優として活動をスタート。2005年、スーパー戦隊シリーズ「魔法戦隊マジレンジャー」で女優デビュー。12~13年、ニュース番組「NEWS ZERO」、14~17年「シューイチ」でレギュラー出演ほか、ドラマ、バラエティー、語学番組や情報番組など幅広い分野で活躍。17年より「Nスタ」(TBS系列)キャスターを務める。 >>【後編/ホラン千秋「去年は何度も大恋愛」? 電撃結婚にも意欲あり!?】へ続く ※週刊朝日  2021年4月9日号より抜粋
週刊朝日 2021/04/04 11:32
『人魚姫』のラストってどんなだっけ?結末やストーリーを忘れさられがちな童話3選
『人魚姫』のラストってどんなだっけ?結末やストーリーを忘れさられがちな童話3選
4月2日はデンマークの童話作家、ハンス・クリスチャン・アンデルセンの誕生日であることから「国際子どもの本の日」と定められています。アンデルセン作の童話といえば、『はだかの王様』や『みにくいあひるのこ』など、子供の頃に誰もが読み聞かせてもらった名作ばかり。題名を聞くだけで、おおよそのあらすじがイメージできるものが大多数ですが、一部の作品には結末があやふやなものも…。今回はアンデルセン童話の他、「あれってどういう話だったっけ?」と言われることが多い3つのお話をご紹介します。イメージ画像 1.人魚姫(1837年発表 アンデルセン童話) 海の中で暮らす人魚の姫と人間の王子の悲恋を描いた作品『人魚姫』。 ある嵐の夜、人魚姫は海で溺れ、気を失っていた王子を助けて陸に返してあげました。王子に一目惚れした人魚姫はいつか人間になって助けた王子と一緒になることを夢見ます。あるとき、魔女との取引によって舌とひきかえに人間の足を手に入れた人魚姫は、ついに王子と再会を果たします。しかし、言葉を失ってしまった彼女は王子に思いの丈を伝えることができません。 王子との夢のような時間を過ごす毎日でしたが、王子に他国の王女とのお見合い話が舞い込みます。人魚姫にぞっこんだった王子はしぶしぶお見合いの場に出向きますが、王女の顔を見た瞬間、昔自分を海から救ってくれた女の子だと勘違いしてしまいます。この出会いを神に感謝した王子は、すぐに王女との結婚を決めました。イメージ画像 こんなラストだった! 人間の足を手に入れた際、人魚姫にはある制約がかけられていました。それは王子が別の女性と結婚した場合、人魚姫は海の泡になって消えてしまうというもの。それを不憫に思った人魚姫の姉たちは、魔女と取引し魔法のナイフを手に入れ、人魚姫に与えます。魔法のナイフで王子の胸を刺し、その返り血を浴びれば人魚の姿に戻れるというのです。 しかし結婚が決まり幸せそうな顔で眠る王子を前に、彼女はついにそのナイフを使うことはできませんでした。遠くの波間にナイフを投げ捨てるとみるみるうちに海は赤く染まりました。赤い海に身を投げた人魚姫は、そのまま海の泡となって空高く昇っていくのでした。 泡になって消えたかと思われた人魚姫は、その後、風の精霊となって人々に幸せを運んでいくという結末でしたが、「海に身を投げて泡になった」や「風の精霊となって善行をした」というストーリーを覚えている人は少ないのではないでしょうか。イメージ画像 2.ヘンゼルとグレーテル(1812年発表 グリム童話) その日のパンに事欠くほど貧しい家に生まれた兄ヘンゼルと妹グレーテルの物語。 いよいよ食料が底を尽きそうになったある日、母親の謀略で二人は深い森の奥に捨てられることになります。両親の計画を知った兄妹は、一度は兄ヘンゼルの機転で家に帰ることができましたが、二度目は母親の妨害によって家に帰る術を奪われ、森をさまようことになります。(この時、目印代わりにパンくずを道すがら落としていったエピソードが有名ですよね。) 森に捨てられて3日目、体力も限界に差し掛かっていた兄妹は、お菓子でできた家を発見して大喜び!その家に住む老婆は、兄妹に食事とベッドを与え手厚く迎え入れてくれました。しかし老婆の正体は悪い魔女で兄妹はそのまま監禁されてしまいます。兄のヘンゼルを丸々太らせてから食べようと考えた魔女は、妹グレーテルに上等の料理を作らせ兄に食べさせるよう指示。毎日の肥え具合を確かめるため兄の腕を掴みますが、目が悪い魔女に妹が食事の残りの骨を握らせていたため、兄を食べるのは先延ばしにされていました。イメージ画像 こんなラストだった! 妹の機転で何度か危機は回避した兄妹でしたが、一向に太らない兄の様子に魔女の我慢もいよいよ限界に。兄を煮るための鍋を沸かし、パン窯でパンを焼き始めた魔女は妹にパンの焼き具合を確認するよう命じます。これを逆手にとった妹が、上手な焼き加減がわからないので手本を見せて欲しいと魔女に頼みます。魔女がしぶしぶ焼き窯に入り手本を見せようとした瞬間、外からかんぬきを掛け、魔女を窯の中に閉じ込めることができました。それから兄妹は魔女の家にあったたくさんの財宝をポケット一杯につめて家路につき、二人は大金持ちになったというお話でした。 実の母親による子の口減らしというショッキングな内容から始まる『ヘンゼルとグレーテル』。残虐な内容や恐ろしい結末が多いとされているグリム童話の中では、比較的ハッピーなラストを迎えたお話だったのではないでしょうか。イメージ画像 3.かちかち山(成立年代不明) 最後は日本からもひとつ。畑を耕す老夫婦に悪さをするタヌキと、タヌキを成敗するウサギの物語『かちかち山』です。 一生懸命畑仕事をする老夫婦のもとに、毎日やってきては悪さをする性悪タヌキがいました。不吉な詩を歌っては老夫婦を不快にさせ、せっかく作った野菜も掘り起こしては食べてしまいます。業を煮やしたお爺さんがタヌキを捕まえてタヌキ汁にしようとしましたが、捕まったタヌキは言葉巧みにお婆さんを騙して縄を解いてもらうやいなやお婆さんを撲殺してしまいます。タヌキはお婆さんの姿に化け、お婆さんを煮て作った汁をお爺さんに食べさせることに。タヌキ汁だと思って美味い美味い!と食べるお爺さんを見たタヌキは元の姿に戻り、お婆さんを食べてしまったお爺さんを笑って山に逃げていきました。 この顛末を知ったウサギはタヌキを懲らしめようと、金儲けの口実にタヌキを柴刈りに誘い出します。その帰り道、タヌキの背負った柴の束に火打石で火を付けてタヌキの背中にひどい火傷を負わせました。この時の火打石を打つ「カチカチ」という音がタイトルの元にもなっています。イメージ画像 こんなラストだった! ひどい火傷を負ったタヌキにウサギは「火傷に良く効く薬だ」と言って唐辛子入りの味噌を渡します。これを傷口に塗ったタヌキはさらなる痛みに襲われ悶絶しました。 やがて火傷が治ったタヌキですが、今度はウサギに漁に誘われます。ウサギは予め、小さな木の船と大きな泥の船を用意しておきますが、食い意地のはったタヌキはよりたくさんの魚を獲ろうと大きな船に乗り込みました。二人が沖へ出るやいなや、泥の船はみるみるうちに崩れていきます。タヌキは木の船に乗ったウサギに助けを求めますが、ウサギは助けることなくそのまま溺死してしまうというお話でした。 タイトルが可愛い作品ですが、こうしてあらすじを読み返すと、お爺さんがお婆さんを食べてしまったり、ウサギが無慈悲なまでの制裁を行ったりと、結構ハードな内容だったことに驚かされますよね。イメージ画像 結末やストーリーがあいまいになりがちな童話3選、いかがでしたでしょうか。童話は子供に読み聞かせることが多いため、残酷な描写や恐ろしいラストが何度か変更されていることがあります。最後に紹介したカチカチ山も、現在ではお婆さんもタヌキも死なない設定になっているものが主流になっているとか。昔好きだった童話も、原作を読み返すとストーリーや結末が違った!ということが結構あるので、思い入れの強い作品は原作を読んでみるのも良いですね。
tenki.jp 2021/04/02 00:00
志村けんさん一周忌 川上麻衣子さんが語る猫とのお酒の飲み方
上田耕司 上田耕司
志村けんさん一周忌 川上麻衣子さんが語る猫とのお酒の飲み方
 猫とたわむれる志村けんさん(川上麻衣子さん提供)  志村けんさん(享年70)が新型コロナウィルスによる肺炎で亡くなったのは昨年3月29日。一周忌を迎え、志村さんと一時期、同じマンションに住み、フジテレビ系の「志村X」(1996年~97年)などのコント番組で、約7年間共演した女優の川上麻衣子さんや飲み友達だった女性が思い出を語った。    川上さんは18歳の時から36年間、猫を飼っている。まだ「志村X」が始まる数十年前のこと。 「志村さんは大の動物好きでね。志村さんが住んでいた三鷹の家に遊びに行くと、犬や猫が一杯いました。志村さんの家は動物園みたいな印象でした。志村さんはゴールデンリトリバーとか大型犬を飼うようになってからは犬中心の私生活だったようです」  志村さんは川上さんの都内のマンションに、よく遊びに来た。 「志村さんは私と同じマンショッンに別宅を借りていましてね。当時、私は結婚して旦那もいたので、志村さんとは家族みたいな感覚でした。私の家に夜しょっちゅうパジャマでやって来ていました。うちの猫ともよく遊んでくれました」  当時、川上さんが飼っていたのは、最初に飼った猫の「ミリオン」(ヒマラヤン)と2番目に飼った「ローサ」(ヒマラヤン)の2匹だった。 猫と遊ぶ川上麻衣子さん 「志村さんは普段、わりともの静かで、あんまり喋らない。何も話さずに、猫をなでてあげたり、毛づくろいをしてあげたり、猫とまったり過ごすのが好きだったようです」  志村さんはヘビースモーカーでお酒も強かった。 「お酒もゆっくり飲みながらぐでぐでしているのが好きで、ワーッとはしゃぐタイプではなかったですね。飲みながら猫とたわむれ、タバコを吸いながらまた、猫とたわむれていました」  志村さんは東京都港区麻布十番で複数の行きつけの店があった。 「私が麻布十番で食事をしている時に志村さんを見かけると、よく若い女の子を連れてましたね(笑)。私が『今度の彼女、かわいいね』とメールすると、『彼女じゃないよ』みたいな返信はよくありました。私のほうは『あ、そうか』みたいな感じで流してました」 志村さんと飲み友達だったモデルの奥村美香さん  志村さんが亡くなってから8カ月くらいたった昨年11月、川上さんもコロナに感染した。38度くらいの熱が出て、10日間、ホテルの施設で隔離生活を送った。現在は自宅で、ココロ(4歳、メス)とタック(3歳、オス)の2匹と暮らしている。 「コロナが治り、うちに帰ってきて、猫との日常が戻った時にはホッとしました。私も志村さんも動物好きという共通点があったから、どこか共感し合えたのかもしれません。志村さんとともに猫たちと過ごした静かな時間は、今でも忘れられない思い出です」  一方、麻布十番の店などで、志村けんさんのプライベートな飲み友達だったのはモデルの奥村美香さん(33)。普段は見せない素顔を本誌にこう語っていた。 「けんさんと知り合ったのは3年半から4年前です。お会いした第一印象は、若々しい感じでした。いつも、おしゃれにこだわってました」  カジュアルブランドを好んで着ていたという。 「『グッチ』や『シュプリーム』を着ていたのを覚えています。スニーカーも時計もオーダーメイドだと言ってました」  会うのは東京都港区麻布十番で、複数の行きつけの店があった。 「けんさんはグルメでしたよ。お寿司、肉料理、中華など、いろんな店へ連れて行ってくれた。気取った店ではなくてもどこの店も、美味しかった」  奥村さんは身長170センチB85W55H88 の抜群のスタイルをいかし、東京でモデルの仕事を始め、志村さんと出会った。昨年は「ミスFLASH2021」のオーディションで、約500人の応募者の中から30代でたった一人、ファイナリストに残った。今年2月には、週刊ポストの「令和の三十路グラドル総選挙」でベスト5に選ばれている。  モデルとして自身を磨きながら、女優を目指しているという。現在の心境を改めて聞くと、奥村さんは「お悔やみ申し上げます」と語った。 (本誌 上田耕司) ※週刊朝日オンライン限定記事
週刊朝日 2021/03/29 16:44
「70歳からのハローワーク」が現実に 政府が進める「老後レス社会」
「70歳からのハローワーク」が現実に 政府が進める「老後レス社会」
68歳から警備員として働き始めた柏耕一さん (c)朝日新聞社 (週刊朝日2021年3月26日号より) 56歳でパナソニックからサノヤスHDに転職した米田康浩さん (c)朝日新聞社  私たちの人生から「老後」という時間がなくなる「老後レス社会」が到来する──。少子高齢化と人口減少に加え、所得格差の広がりによって、日本人の生涯は激変する。「死ぬまで働かないと生活できない時代」を生き抜く術とは?(朝日新聞特別取材班) *  *  * 「老後レス」という言葉を耳にして、あなたは何を思い浮かべるだろう。  キャッシュレス、コードレス、シュガーレスなどの単語でおなじみの「レス」は、「~がない」ということを示す英語の接尾辞(less)だが、それを「年老いた後」という意味の「老後」につけた造語だ。 「老後がなくなる」時代がやってくる。政府は、そんな社会に向けて着々と手を打っている。  4月1日から、70歳就業法が施行される。現在の法律は、企業に対して、定年廃止、再雇用などによって従業員が65歳まで働けるようにすることを義務づけているが、70歳まで延長して努力義務とする。フリーランス契約への資金提供や起業の後押し、社会貢献活動への参加支援なども選択肢として認める内容だ。  この「70歳定年」について、政府は将来的な義務化も視野に入れている。高齢者にできるだけ現役のままでいてもらい、年金などの社会保障の担い手を増やす狙いなのは明らかだろう。  安倍前政権が「一億総活躍」というスローガンを掲げたのは記憶に新しい。2019年10月4日に召集された臨時国会の所信表明演説で、安倍晋三首相(当時)は「65歳を超えて働きたい。8割の方がそう願っておられます」「意欲ある高齢者の皆さんに70歳までの就業機会を確保します」と語った。  この首相発言にネットはざわついた。「働かなきゃ食えないんだよ!」「大半の人は『働きたい』じゃなくて、『働かざるを得ない』ですよね」という反発が数多く書き込まれた。  この「8割」という数字は、仕事をしている人に分母を限定した数字で、回答者全体では約55%だったことがのちに明らかになる。自分の意思として働きたいのか、生活のために働かざるを得ないのか。多くの人が感じる老後不安は、派手なスローガンで覆い隠すには大きすぎるだろう。  老後レスで働く高齢者は、すでに身近なところにいる。  風雨が吹きすさぶスーパーマーケットの建設予定地で、当時73歳だった柏耕一さんは、セメントを運ぶ大型トラックを誘導していた。コンビニで買ったレインコートでは完璧な防水とまではいかず、尻までぬれた。これで日給9千円だ。 「年に数回あるかないかのキツイ現場。それこそヨレヨレになりました」  1946年生まれの柏さんがこんな厳しい現場に出続けるのは理由がある。「65歳を過ぎると、警備員以外で雇ってくれるところがない」  30年以上、書籍の編集プロダクションを経営し、300冊以上を世に送り出してきた。だが、競馬にのめり込み、不動産などへの投資も失敗。放漫経営のツケは、約2500万円の税金の未払いという形で回ってきた。  働く意欲も薄れ、「坂道を転げ落ちるように」会社の売り上げも激減していった。自営業で国民年金の加入期間が長かったこともあり、年金は夫婦を合わせても月6万円ほど。自宅を手放して移ったアパートの家賃6万6千円を含め、生活費を稼がないといけない。  手っ取り早く稼ぐため残された道が、68歳から始めた警備員の仕事だった。  月給は額面で約18万円。自宅近くで働くと知り合いに会うのがいやで、わざと電車で1時間以上離れた場所での勤務を選んだ。私鉄沿線で未明に仕事を終え、駅前の店の軒下で、冷たい風が吹きすさぶ中、始発を待つ惨めさは身にしみた。 ■働く高齢者多く80歳超の人も  警備会社で働いてみて驚いたのは、働く高齢者の多さだった。なかには80歳を超えた人も。取材班が2月に出した新書『老後レス社会』では、そんな警備業界の現状についても詳しく報告している。「超高齢化社会に進む現代日本の縮図がここにある」と柏さんは言う。 「働く場所があるというのは、高齢者にとっては救いです。80歳までできると思うと、安心感があるんですよ」  なぜ、老後レス社会が迫っているのか。その背景にあるのは、日本を待ち受けている巨大な変化にほかならない。  この国で、「少子高齢化」と「人口減少」という言葉を聞かぬ日はない。加えて、経済的格差は広がり続け、それにコロナ禍による景気低迷や失業の増加が追い打ちをかける。 「老後への不安」は、すでに日本社会の通奏低音となっている。前出の柏さんのように、老後になっても働かざるを得ない高齢者が目立ち始めているのは、決して個人の問題ではないのだ。  厚生労働省によると、2019年度にハローワークで新たに登録した65歳以上の求職者は約59万人に上り、10年前(2009年度)の約32万人の1.9倍近くにまでになった。また、労働政策研究・研修機構の調査(2015年発表)では、「60代が働いた最も主要な理由」は「経済上の理由」が最も多く、約58.8%を占めた。  70歳定年に加え、70歳超就労も広がれば、「70歳からのハローワーク」も現実のものとなるかもしれない。本来、喜ぶべきことであるはずの長寿化が不安をもたらし、人生最大のリスクとなっている。そんな社会に、私たちは生きている。  私たちは、いくつになっても働き続けるしかないのか。そんな暗澹たる気分にもなってくるが、高齢になっても働き続けることは、必ずしも絶望だけを意味しない。高齢になっても前向きに働き続ける人たちもこの本で紹介している。  亡くなる直前まで、生きがいを感じて元気に働き続けたケースも。千葉県柏市に住む鎌田勝治さんは76歳の時に、市内の特別養護老人ホームに「就職」した。  取材で施設を訪ねると、78歳の鎌田さんは、ベレー帽をかぶり、背筋をすっと伸ばして現れた。施設には要介護度の高い高齢者が多くおり、認知症を患った人も少なくない。その目の前の床を慣れた手つきでモップを使って拭き清めていく。 「仕事っていうのは楽しいもんだねえ。人と接して仲良くするというのがいい。70歳を過ぎてようやく気付いたよ」  鎌田さんは16歳から、有名靴メーカーの工場で1足3万円以上の高級紳士靴を1日25足、半世紀以上作り続けた。定年退職後も関連企業で働き、退職したのは70代半ばのことだ。  子どもたちは独立し、妻と二人暮らし。不足のない額の年金を受給しており、生活費に困っているわけではない。それなのに、なぜ働くことを選んだのだろうか。 「働いていた時とは勝手が違って、やることがないと戸惑っちゃってね。その点、ここの仕事はみんな楽しいんだよ。現役時代よりも、いまのほうが楽しいかもしれない」  自分が必要とされているという実感は何歳になっても大切だ。仕事は確かに、人に役割と居場所を与えてくれる。  鎌田さんはちょっと躊躇(ちゅうちょ)してから、思いもよらぬことを口にし始めた。 「実は半年ほど前、精密検査で胃がんが見つかったんです。働いて誰かと話していないと、つまらないことを考えてしまう。いまは医師からも良好と言われ、元気に働いています。いや、働いているから元気なのかな」  鎌田さんが亡くなったのは、取材から数週間後だった。 「働くのはもうやめたほうがいいと私は何度も言ったんです。それでも、あの人はいつも出かけていきました」と妻は語った。  彼にとって、「働くこと」イコール「生きること」だったのだろうか。限られた残り時間にも多くの人とつながり続け、最終ゴール寸前まで働き続ける。こんな人生の締めくくり方もある。 ■就労の社会実験 老後もいろいろ  実は、鎌田さんが暮らしていた柏市は、全国でも有名な高齢者就労の先進地域の一つ。というのも約10年前から、高齢者の社会参加を促す「実験」が行われていたのだ。  勤め人の多くが朝早く東京へ通勤し、昼間人口と夜間人口の差が大きい。そして、バブル時代前後に自宅を購入した団塊世代の住民が多く、現在は必然的に急激な高齢化が進んでいる。  この柏市の特性に目を付けた東京大学高齢社会総合研究機構が2009年、柏市役所と独立行政法人「都市再生機構(UR都市機構)」とともに、高齢者の「生きがい就労」を社会実験として進めた。  高齢者が働くことの利点について、社会実験の報告書はこう指摘している。 「働きに出ることは最も長年慣れ親しんだライフスタイルであって、明確な外出目的となる」 「就労の場では明確な自分の役割(居場所)が与えられる」  定年退職後の男性たちが、「粗大ゴミ」とまで言われるようになって久しい。確かに定年で長年の会社と別れを告げた男性たちは、同時に居場所、役割、話し相手、さらには人生の目的すら見失ってしまうことが多い。それに対して最も効き目がある処方箋(せん)が「就労」なのだろう。  先の見えない老後レス社会を見越して、早い段階で転職に踏み切り、高齢まで働く道筋を立て始めている人たちもいる。  コロナ禍で早期退職募集を始める企業が増えており、ターゲットにされているのはだいたい中高年だ。しかし、追い出すどころか、中高年に絞った中途採用をしている会社が大阪にある。機械設備の製造販売を手がけるサノヤスホールディングス(HD)だ。  米田康浩さん(60)は、2016年に56歳でパナソニックから転職した。当時、60歳の定年を前に今後の人生を考え、「もう一度新しい環境で挑戦したかった」と言う。  米田さんは1981年に新卒で旧松下電器産業に入社し、技術部門などを中心に計34年間を松下・パナソニックで過ごした。サノヤスHDに転職後は、グループ会社の合併や新工場の建設を担当している。現在はグループ会社の役員だ。 「パナソニックで培ったマネジメント能力はこちらで役立っている。第二のサラリーマン生活、楽しいですよ」と話す顔はすがすがしかった。  明治時代に造船会社として創業した同社は、時代の荒波を何度も乗り越えてきたが、1970、80年代の造船不況に苦しんだ時期、新卒をほとんど採用できなかった。そこで「管理職となる50代が足りない。一方で大企業にはそうした人材がくすぶっている」ことに着目。2013年からこうしたシニア採用を始め、いまでは22人が働くという。  高齢になれば、経済状況も、働く気力、体力も人それぞれだ。老後レス社会と言っても、高齢者の数だけ、働き方、生き方がある。人間はただ一人の例外もなく老いる以上、老後レス時代とどう向き合うかは、すべての人が自分ごととして考えなければならない。  限られた紙幅では書ききれないが、前掲書では、高齢者、そして予備軍まで、多くのケースを紹介している。  迫り来る高齢期を前に不安を募らせる就職氷河期世代や、社内失業状態の「働かないおじさん」、定年前に会社に見切りをつけ、地方に移住した人など、それぞれの人生の選択を、読者のみなさんはどう考えるだろうか。  これから先の数十年、日本の人口が減り続けることは、人口推計によってすでに確定している。ピーク時には年間100万人というすさまじいスピードで人口減少が進み、仙台と同規模の都市が毎年消えていくことになる。世界に類を見ない人口の大変動が日本をのみ込もうとしている時代、高齢者こそ、この国に残された最後の「人的資源」なのかもしれない。 ※週刊朝日  2021年3月26日号
週刊朝日 2021/03/20 08:02
ホラー漫画家・伊藤潤二は「怖がり」/心霊写真やテレビの心霊番組が苦手な理由は? <現代の肖像>
中村千晶 中村千晶
ホラー漫画家・伊藤潤二は「怖がり」/心霊写真やテレビの心霊番組が苦手な理由は? <現代の肖像>
この作業机から数々の恐怖が生まれた。歯科技工士時代の工具で、画具をカスタマイズすることも(撮影/東川哲也) ロフト付きベッドの下が作業スペース。画具を吊り下げるフックなどさまざまな工夫がしてある。後ろの棚には画集やDVDがびっしり。ネジや乾電池など備品は引き出しにキッチリ整頓されている(撮影/東川哲也)  ホラー漫画家、伊藤潤二。『富江』『うずまき』などの代表作を持ち、2019年にはアイズナー賞を受賞。世界中に伊藤潤二のホラー漫画ファンがいる。ゾクゾクする感覚がおもしろくて、ホラー漫画にハマった。ホラー漫画以外は描こうと思ったこともない。じわじわと、まるで肌にまで侵食していくような恐ろしさ。一筆一筆、ときに一コマ9時間かけて恐怖を描く。 *  *  * その日、東京・築地の朝日新聞社の地下スタジオで、世にも恐ろしい収録が行われていた。伊藤潤二(いとうじゅんじ)(57)の名作『路地裏』を、恐怖の語り部として名高いタレント・稲川淳二(73)が朗読している。  誰も入れないはずの閉ざされた路地裏。けれどもなぜかそこからは夜な夜な子どものはしゃぐ声が聞こえてくる。その謎を確かめようと入り込んだ青年・石田は、恐ろしい秘密を知る。そしてすべてが明かされたと思ったそのとき……。 「……ようやくお前の番だ!」  稲川が突如、大声で一撃を放った。瞬間、収録を見守る全員と同様、伊藤の体が「ビクッ」と動いたように見えた。いや、錯覚かもしれない──。  ホラー漫画界の鬼才・伊藤潤二。その作品は緻密でおぞましく、ゾッとするほど美しい。  怖いのは苦手、という方もいらっしゃるだろう。だが、ぜひ読んでみてほしい。その怖さは読んだ瞬間よりもじわじわと後からやってきて、一度ハマればクセになる。何度殺されても蘇る美少女を描く代表作『富江』、ストーカーの恐怖と臭いや汚物への生理的嫌悪を絶妙に盛り込んだ『うめく排水管』などなど、34年のキャリアで伊藤が生み出した作品は200タイトルに迫る。いずれも奇想天外な発想と圧倒的な画力、衝撃の展開で見る人をその世界に引きずり込んできた。  愛猫に振り回される自身を描いた『伊藤潤二の猫日記 よん&むー』などホラーと笑いを絶妙にミックスさせた作品や、心霊を伊藤流に解釈した『緩やかな別れ』といった得も言われぬ余韻を残す作品も多い。  そして、その人気はいまや世界規模だ。  北米を中心に年間約350の日本漫画を英語に翻訳・販売するVIZ MEDIAの門脇ひろみ(47)によるとこれまでに北米で発売された伊藤作品は全11冊。その売り上げは全72巻の『NARUTO』や現在までに95巻を刊行した『ONE PIECE』の販売総数に匹敵する。2019年には漫画界のアカデミー賞と言われるアイズナー賞を受賞。台湾をはじめ上海や北京を巡回する個展が行われたり、デザイナーのヨウジヤマモト社の擁するS’YTEとコラボしたコートやシャツが販売されたり。SNSには世界中のファンによる作中キャラのコスプレ写真がアップされている。  して、その人物像はというと、誰もが決して大げさではなく「こんないい人に会ったことがない」というほど、穏やかで紳士的。怒ったり不機嫌になったりする姿など誰も見たことがなく、細面の涼しげなルックスで、いつも静かに笑っている。そこから生み出される驚愕のホラー。……このギャップはなんなのだろう?  伊藤は1963年、岐阜県恵那郡坂下町(現・中津川市)に生まれた。自然に囲まれた町の路地裏や裏山が格好の遊び場だった。丘の上には墓地や神社が、町外れには鬱蒼とした木々に覆われた不気味なトンネルがあった。  家には電気工事の会社で事務職をする父と、電機部品を作る会社に勤める母、年の近い2人の姉、加えて父の姉妹である2人のおばがいた。おばはともに独身で、上のおばは小学校の教師をし、下のおばが共働きの両親に代わって家事を取り仕切っていた。女系家族の末っ子として、伊藤は「かなり甘やかされて」育った。次姉・明子は話す。 「潤二は保育園に入る前まではおとなしくて、私がいたずらでスカートをはかせても、言われるがままにはいてくれました」  小学校に上がるころには明るくなり家族の前ででよくおしゃべりをし、CMソングなどを歌っていたと姉たちは振り返る。虫が好きでアゲハチョウやカブトムシを羽化させることに夢中になった。  漫画を教えてくれたのは長姉の庸子(ようこ)だ。少女漫画誌に掲載されていた楳図かずおや『エコエコアザラク』で知られる古賀新一に夢中になった。怖い漫画にしか興味を示さなかった。  なぜそんなに怖い漫画にハマったのか。理由は「ゾクゾクする感覚がおもしろかった」から。伊藤は自身を「怖がりだ」と言う。心霊写真やテレビの心霊番組など「現実っぽいもの」を見ると夜トイレに行けなくなった。だが漫画で怖くなったことはない。漫画はフィクション感が強く「現実ではない」と思って楽しめる。  家族に可愛がられるいっぽうで、実はひねくれてもいたと本人は笑う。明子のこんな証言もある。 「潤二は中3のときに盲腸で入院したんです。お見舞いに行くと頂き物のケーキがあったのですが本人は食べられない。私が潤二から見えないところで頂いていると、いつの間にか潤二が手鏡を使って私が食べているところをじっと見ていました」  細かい作業が得意なのは父譲りで、プラモデルもよく作った。漫画を描き始めたのも早かった。小学校に上がる前から鉛筆で描いた漫画を近所の友人と見せ合い、中1でストーリー漫画を完成させている。楳図かずおの描く美少女に憧れ、姉の本棚からファッション雑誌を借りて女の子の絵を描くこともあった。  中学時代は星新一にハマり、自分でもショートショートを執筆した。見る映画はもっぱら「ゴジラ」などの怪獣映画や「エクソシスト」。SFや宇宙人など超自然的なものに魅了された。  が、精神面では暗黒だった。特に強かったのが容姿に対するコンプレックスだ。美醜への関心が人一倍強く、それが無い物ねだりとなって自身に跳ね返る。背が思ったように伸びない、歯並びが悪い。1歳上の美男の従兄弟の存在も気になって仕方がなかった。人と自分を比べ、あらゆることが欠点に思え、落ち込んだ。  そんな鬱屈とした日々は、高校で漫画仲間と出会ったことで救われる。ビートルズや文学を教わり、芸術への興味が広がった。だが、漫画家のような特殊な職業に就けるとは夢にも思わなかった。おばに「潤ちゃんは器用だから、歯科技工士がいいんじゃない?」と言われ、素直に聞き入れた。  高校を卒業し、名古屋で次姉と暮らしながら歯科技工士の専門学校に通い始めたとき、父が亡くなった。享年57。仕事先で脳出血で倒れ、そのまま帰らぬ人となった。突然のことに頭が真っ白になった。父は休みのたびに釣りなど自分の趣味に没頭し、幼い伊藤をかまうことはなかった。そんな父に反抗していた時期もあったが、実家を離れてようやく打ち解けてきた矢先だった。人前では泣かなかったし、大きな感情の動きは記憶にない。ただ、もうちょっと生きていたら一緒に酒を飲んだかもとは思う。伊藤の代表作でうずまき状のものに侵食されていく町や人の恐怖を描いた『うずまき』の第1話に、ヒロインの恋人・秀一の父がアンモナイトの化石やうずまき模様の着物などのコレクションをじっと見つめているシーンが登場する。庸子は言う。 「あの一コマは、私たちの父の姿そっくりに描かれていてとても印象深いんです」  専門学校卒業後、名古屋の歯科技工所で働き始めた。そして、22歳のとき、運命が動き出す。  創刊したてのホラー漫画誌「月刊ハロウィン」で第1回「楳図賞」の募集告知を見つけたのだ。歯科技工士になって3年。やりがいはあったが、しんどさを感じてもいた。困るのは冬場だ。冷え性で手が思うように動かず、歯型をとるためのワックスが、手の冷たさで硬くなりパリパリと割れてしまう。「向いていないのかな」と思い始め、現状を打破しようと応募する決心をした。(文中敬称略) (文・中村千晶) ※記事の続きはAERA 2021年3月22日号でご覧いただけます。
現代の肖像
AERA 2021/03/17 11:32
「推し」は心の中の小さな神さま 「内なる衝動」「尊さゆえ」みんなが推しを推す理由
井上有紀子 井上有紀子
「推し」は心の中の小さな神さま 「内なる衝動」「尊さゆえ」みんなが推しを推す理由
推しを持ち推し活をする人はまったく珍しくなくなった。心の中の推しは、小さな神さまのように、自分自身を優しくしてくれる(撮影/写真部・高野楓菜)  いまや、応援する「推し」がいるのは決して特殊なことではない。推しから幸せをもらい、推しの幸せを願う。推しがいるから人に優しくなれる。2021年3月22日号から。 *  *  *  3月上旬の週末、東京・原宿の竹下通りにあるステージには、10代後半から40代まで、50人以上の女性が詰めかけた。男性地下アイドルグループに会うためだ。新型コロナウイルス対策で、観客は着席しフェイスシールドとマスクを着用しなければならず、声援も送れない。それでも、好きなメンバーカラーのペンライトを振って応援した。  東京都内の看護師の女性(25)は、友人に誘われて行ったライブで「初めましてだよね」とあるメンバーに声をかけられ、感激して通うようになった。 「コロナで仕事が大変になったのですが、『推し』に会ったら仕事を頑張ろうと思える。夜勤明けでも来ちゃいます」(女性)  女性が話す「推し」とは、応援するお気に入りのメンバーのこと。推しにかける思いは熱い。 「推しに私は幸せをもらっている。だから、推しにも幸せになってほしい。職場の後輩にも『布教』しています。もっといろんな人に知ってもらいたい」 ■「推したい」瞬間山ほど  かつて一般人が応援する対象といえばアイドルで、1970年代の親衛隊を始め、一部熱狂的なファンによる、というイメージが強かった。  だが、いま、この女性のように応援する「推し」を持つ人は決して特殊ではない。ツイッターでは秒単位で「推し」という言葉がつぶやかれている。昨年、NHKの「あさイチ」が「あなたの“推し”を教えて!」とアンケートを実施したところ、番組史上最多の4万4千件以上のコメントが届けられた。 「推す」対象はアイドルだけでなく、俳優やアニメキャラなど多岐にわたる。推しについて考えたり、情報収集や応援したりすることを「推し活」という。 「声優の推しが複数いる」というのは、都内のPR会社に勤める鈴木亜美さん(23)。アニメ「鬼滅の刃」の主人公、竈門炭治郎(かまどたんじろう)役の花江夏樹さんもその一人だ。 「推したい」という内なる衝動を感じる瞬間はたくさんある。 「花江さんはYouTubeでゲーム実況をするのですが、ホラーゲームをプレイすることが多くて、意外だなと思いました。私生活や趣味が垣間見えると、『推せる』と思います」(鈴木さん)  ライブで声優がキャラクターのイメージぴったりの表情やしぐさで出てきたときは、「アニメから3次元に出てきたみたい、と興奮して推しちゃいます」。推しがインタビューで役への思い入れを語れば、プロ意識に感服。社会人として見習いたいと、「ますます推したくなる」という。  なぜ推しを推すのか。「尊さゆえ」と語るのは、都内の営業事務の女性(25)だ。女性は元乃木坂46の「白石麻衣さん推し」。白石さんの美しさに衝撃を受けてから、推し歴8年。白石さんを「まいやん」と呼び、握手会やライブは全て参加している。 「テレビで見てもかわいいけど、生で見るとさらに美しい女神様。ライブでは尊くて、毎回ボロボロ泣いています。そういう時が人生で一番楽しいです」(女性) ■内面だって近づきたい 「尊い」とは、推し活をする人がよく使う言葉だ。だが、推しは「尊い」が、「雲の上の存在」というわけではないという。 「SNSでまいやんのヘアスタイルをまとめたり、衣装のコスプレをアップするようになって、フォロワーが増えました。ファン同士でつながって情報交換する。すると女神様だけど少し年上の憧れのお姉さんだなと思えるんです」(同)  女性自身も変わった。 「黒や金のストリート系の服ばかり着ていたのが、白やピンクのガーリーな服を着るようになりました。眉毛の描き方も研究して、あか抜けたと思います。内面もまいやんに近づきたい。メンバーが泣いていたら、一番に駆け寄るのはまいやんだそうです。私も困っている人に、すぐに駆け寄る人になりたい」(同)  人の心に「推したい」熱量を呼び覚まし、人を変える力を持つ。いったい推しとは何なのか。 『人類にとって「推し」とは何なのか、イケメン俳優オタクの僕が本気出して考えてみた』の著書があるライターの横川良明さんは、「推し」という言葉の起源をこう語る。 「AKB48のメンバーを『推しメン』といったのが発祥と考えています。一般に広がりだしたのは2015年頃。ここ2年ほどは言葉の使いやすさもあって、爆発的に広がりました」 ■適切な距離感で楽しく  背景には、冒頭の女性が示したような「布教精神」がある。推しを第三者にも好きになってほしいと多くの人が思うという。 「SNSがない時代は、対象を仲間内で愛でる文化で、外からは近寄りがたく見えていた。10年頃からツイッターが普及し、自分の好きなものについて話したいという欲求と相まって、広がっていったのです」  横川さんは推しの効用を語る。 「推しがいれば、人に優しくなれる。推しが見ていると思うと、悪いことはできない」  つまり、推しとは、小さな神さまのようなものなのだ。 「自分の心に家族とは別の大切な存在がいてもいい。そんな価値観が広がっていると思います」  ただし、神さまが強大になりすぎると、軋轢(あつれき)も起こる。かつて推し活を極めた医療関係に勤める20代後半の都内在住の女性は、ある男性アイドルにはまり、1カ月に16回も推しに会いに行ったこともある。 「推しが優しく話しかけてくれるときはテンションが上がるけど、ちょっと冷たくされると悲しくなってしまって。他のファンとの人間関係もあって」  駆け引きを仕掛けては、一喜一憂する心の浮き沈みがつらかった。かかった金額も大きかった。結果、心も懐事情も傷ついた。  女性は酸いも甘いも噛み分けたといった表情でこう語った。 「推し活は幸せももらえるけれど、適切な距離感や付き合いがあると思います。用法と用量を守って、楽しく推し活することをすすめます」 (ライター・井上有紀子) ※AERA 2021年3月22日号
AERA 2021/03/17 11:32
浅井直樹は海外で“発見”された秘宝 33年ぶりに新たに録音したアルバムの輝き
岡村詩野 岡村詩野
浅井直樹は海外で“発見”された秘宝 33年ぶりに新たに録音したアルバムの輝き
ニュー・アルバム『ギタリシア』のジャケット(写真提供:Pヴァイン) 浅井直樹さん(写真提供:Pヴァイン) 33年前のアルバム『アバ・ハイジ』のジャケット(写真提供:Pヴァイン)  インターネット時代になってから、海外の音楽ファンの間で火がつき、再評価される日本人アーティストや作品は多い。とりわけ1970から80年代の日本の作品への注目は年々高まる一方、欧米のレーベルから“逆輸入”の形で再発売(リイシュー)される作品も相次いでいる。坂本龍一、細野晴臣、久石譲、清水靖晃らの楽曲をまとめた『Kankyo Ongaku』や、大貫妙子、吉田美奈子、高橋幸宏、高中正義らの作品が収められた『Pacific Breeze』といったアメリカ編集のオムニバス・アルバムは、環境音楽、シティー・ポップ、AORといった音楽の見直し、再定義を我々日本人に改めて促した。  今回紹介する浅井直樹も海外の熱心なリスナーによって“発見”された秘宝のようなアーティストだ。  これまでにリリースされたアルバムはたった1枚。1988年、当時多摩美術大学の学生だった浅井が自主制作して発表した『アバ・ハイジ』がそれだ。プレスされたのはたった200枚。ちょうど浮かれたバブル景気の真っただ中、対照的にあまりにも繊細でファンタジックな世界に彩られた『アバ・ハイジ』は、当時ほとんど黙殺されていた。むろん、浅井直樹という存在も知られぬまま、約20数年が経過していった。  だが、時代が変わり、ネット上で自在に情報が共有されるようになった2011年、スウェーデンの音楽ブロガーが紹介。そこからこの未知なる作品は国内外の一部の音楽ファンたちの間でじわじわと関心が高まり、ついに2019年、その『アバ・ハイジ』が日本国内でリイシューされるに至った。少年のようでもあり、少女のようでもある柔らかな表情を捉えた本人の写真のジャケットそのままのフェミニンな風合いの歌、現実から乖離(かいり)したところで形成されたような死生観を伝える歌詞、そして当時の英米の人気バンドとシンクロしたようなサイケデリックなギターサウンド……それはまるで澁澤龍彦や四谷シモンと、ザ・スミスやエコー&ザ・バニーメンとが無菌室の中で合流したような作品だった。  しかし、これによって“発見”された浅井直樹の時間は再び動き出す。なんと『アバ・ハイジ』から実に33年ぶりとなるニュー・アルバム『ギタリシア』がリリースされることになったのだ。気が遠くなるほど長い年月を挟んでのセカンド・アルバムである。 『アバ・ハイジ』のリイシューCD盤には、浅井のことを探し出し、本人の快諾を得た上で再発売にまでこぎつけた音楽ディレクター・柴崎祐二による丁寧な解説がついている。そこには、浅井本人は今も健在で、仕事のかたわら弾き語りでライブを行ったり、ボカロPとして作品を発表したりしていることなどが記述されている。『ギタリシア』は、そうやって実は人知れず音楽活動を続けていた、まもなく53歳(1968年生まれ)を迎える浅井の現在が鮮やかに映し出された1枚だ。と同時に、33年が経過した今も、その美意識と価値観に一切のブレがないことを伝える奇跡のような1枚でもある。 『ギタリシア』には浅井が書いた新曲12曲が収められている。もちろん、ボーカルも浅井自身。『アバ・ハイジ』のころに比べるとボーカルの趣はいくぶん落ち着いているが、童話を読み聴かせるかのように世界を丁寧に作り上げていくような歌い方は変わっていない。サウンドも不変だ。イントロのキラキラとしたギターサウンドに導かれて始まる1曲目「光の家族」は少しバロック音楽を思わせるクラシカルな色調。かと思いきや2曲目「ラヴ・ポーション No.7」は裏打ちのリズムで軽快に展開され、3曲目「花の香り」は3拍子のゆったりしたテンポで優雅にメロディーが響く……といった感じで、まるで空中をたゆたうように一曲、また一曲と流れていく。アレンジも演奏も表情豊かだが、ふんわりとしたセピアカラーで包まれたかのように全体のトーンは穏やかだ。  また、浅井自らアコースティック、エレクトリック、12弦といったギターを曲ごとに様々な表情で弾いて聴かせている点にも注目だ。浅井の造語で“ギター病”という意味を持つアルバム・タイトルの「ギタリシア」さながらに、このアルバムは浅井流のギター・アルバムとして聴くこともできる。ボーカルでtamao ninomiya、トランペットで高橋三太ら若い世代のアーティストたちから、『アバ・ハイジ』の録音にも参加していたベースの芳賀紀夫までがレコーディングに参加したことで、33年という年月を飛び越えて時代が一続きになった印象もある。    歌詞も多様だ。韻を踏んだ言葉遊びのような「マジック・バス」や、ジョン・レノンやジム・モリソンなど浅井の好きなアーティストの名前が次々と登場する「(Let’s sing a)Singer-Songwriter’s Song」といったウィットに富んだものがいいアクセントになりつつも、失われた時代の終焉を歌うような「青春以後」に見られる50代の現在の目線から綴られたものも多い。  だが、「昔からファンタジーを思い描くのが好きだった」という浅井の想像力溢れる言葉のクリエーションはまるで色あせていない。夢なのか現実なのか、物語なのか実話なのか、生きているのか死んでいるのかさえもわからないような、幻想的かつ空虚な手触りの言葉は、『アバ・ハイジ』の頃のままだ。これが浅井の美学……彼の求める桃源郷とも言える世界なのだろう。  3月21日には無料配信ライブも開催される。日本時間の正午からスタートするのは、『アバ・ハイジ』を“発見”した海外のファンが気軽に楽しめるように配慮したもの。アメリカでは20日土曜の夜10時からになる。  『アバ・ハイジ』リリース当時は顧みられなかった浅井直樹。今度こそ、今再び鳴らされている奇跡を歓迎してあげようではないか。(文/岡村詩野)  ※AERAオンライン限定記事
AERA 2021/03/16 16:00
写真で地域おこしに貢献したい。小野悠介が写したハーブ栽培の「仙人」
米倉昭仁 米倉昭仁
写真で地域おこしに貢献したい。小野悠介が写したハーブ栽培の「仙人」
撮影:小野悠介  写真家・小野悠介さんの作品展「太陽と月の下」が3月16日から東京・新宿のニコンプラザ東京 ニコンサロンで開催される。小野さんに聞いた。  個展案内の写真の中でたくさんの紫色の花が輝いている。朝日を浴びた小さな畑。そこに髭をたくわえた長い髪の男が腰を下ろし、赤いはさみで花穂を一つひとつ丁寧に切り取っている。頭に巻かれた花と同じ色のバンダナ。雰囲気のある、絵になる人だな、と思った。  写真展は新潟県十日町松之山で自然の循環のなかで暮らすことを意識しながら「ホーリーバジル」を育てる嶋村彰さんを追った作品。嶋村さんの暮らしを幹に、家族や地域の人々の枝葉が広がっている。  ホーリーバジルは熱帯原産のハーブの一種で、「神目箒(かみめぼうき)」とも呼ばれ、嶋村さんはこれを栽培するだけでなく、茶やスパイスに加工して販売している。 撮影:小野悠介 紫色の花が一面に咲く景色に出合って感動。生産農家に転身  松之山は美しい棚田で知られる地域で、ブナのすらりとした幹が立ち並ぶ「美人林」や、「日本三大薬湯」の一つ、松之山温泉がある。冬になると例年3メートル以上も雪が積もる豪雪地帯でもある。 「写真好きのおじさんがよく来ていますね。ほんとうに里山という言葉が似あうところです」  もともと、嶋村さんは埼玉県出身で、高校卒業後はスノーボード好きが興じて新潟県長岡市に移住した。しかし、数年後に新潟県中越地震で被災。仮設住宅で暮らした後にアジアを放浪し、帰国後は山小屋や森林組合で働いた。  松之山に腰を落ち着けたのは10年ほど前。十日町市出身の真友子さんと結婚。黒倉集落の古民家を改築して暮らし始めた。冬は道路までの除雪がひと苦労だが、越後三山が望める高台で、日の出とともに朝日の当たる素敵な場所だ。  当初は森林整備などの仕事をしていたが、長野県大鹿村でホーリーバジルの紫色の花が一面に咲く景色に出合って感動。松之山にも「この風景をつくりたい」と、自宅の庭に植えた。それが茶葉になると知り、販売を始めたことがきっかけとなり、いつの間にか生産農家になった。 撮影:小野悠介 人と触れ合ってみたい。小さいコミュニティーに飛び込んで撮ってみたい  話を聞いて面白いと思ったのは、2年前、初めて小野さんが嶋村さんの自宅を訪れた際、ホーリーバジルの花畑を写した写真を見せてもらい、「ぼくもこの光景を見てみたいと思った」ことだ。この紫色の花には人を引きつける不思議な魅力があるらしい。  小野さんには本格的に写真を学び始めたころから「何か、地方を盛り立てることに貢献したいという思いがあった」。「その手段の一つが写真だった」と言う。  日大経済学部で地域創生、いわゆる「地域おこし」を専門に学び、2015年からは2年間、日本写真芸術専門学校夜間部に通った。  そんなわけで「人と触れ合ってみたい、どこか小さなコミュニティーに飛び込んで撮ってみたい、という気持ちがあった」。  専門学校時代は伊豆諸島・利島と十日町市・池谷集落に通い、取材した。利島を写した作品「島の環」は17年、コニカミノルタ フォト・プレミオ年度賞特別賞を受賞。  今回のインタビューでは「島の環」「太陽と月の下」、二つの作品を見せてもらったのだが、島の人々と風土を写した前作に対して、「太陽と月の下」は撮影範囲がぐっと狭まり、嶋村さんの家族写真を見るような印象を受けた。 撮影:小野悠介 直感的に決めた撮影。「撮ったら絶対に面白いことがありそう」  その地域に入り込んで、撮るか、撮らないかを決めるのは、「直感的なものだったりする」そうで、嶋村さんを撮ると決めたときもそうだった。  19年春、池谷集落を取材していた小野さんは、「十日町市には『仙人』と呼ばれる人が何人かいる」ことを耳にする。その一人が嶋村さんだった。  興味を持ち、本人を訪ねると、「撮ったら絶対に面白いことがあるんじゃないかと、すごく可能性を感じました」。そして「この農家さんの1年って、どんなだろう、という感じで」、松之山に通い始めた。  取材は短いときで2泊3日、長いときで1週間くらい。1カ月に1回ほどのペースで嶋村さんを訪れた。「農作業の時期に合わせたり。『行事があるからおいで』、とか」。  ホーリーバジルの栽培は春、水を張ったお椀に黒いゴマ粒のような種を浸けるところから始まる。 「種がねばねばしたものをまとってくるので、それを土に埋めて、芽出しをするんです」  植木鉢のような形をした育苗ポットで苗を育て、10センチほどの大きさになったところで畑に植え替える。  夏になると、みずみずしい紫色の花穂が伸びてくる。朝日を浴びた畑に腰を下ろし、少し葉のついた花穂を花茶やスパイスの材料にする分だけ切り取っていく。  秋は本格的な収穫シーズン。大きく育ったバジルを根元から刈り取る。傷んだ葉を取り除いて束ね、天井に張った縄につるし、3週間ほど干す。乾燥したら「穂ガラ取り」。花と葉を枝から指でしごき取る。  どれもとても手間のかかる作業で、それが写真からも伝わってくる。嶋村さん一人ではこなせないので、祖父母や集落の友人の手を借りる。口コミやインターネットで募ったボランティアや農業体験の学生も訪れる。  そして、雪の季節がやってくる。 撮影:小野悠介 「作品で地元にお返しをする。十日町でも展示します」  嶋村さんは「つらさがあるからこそ、幸せをより幸せに感じられる」と言う。  冬になれば毎日、毎日降り続く雪。農家の仕事もなくなる。週に2、3回はスキー場でアルバイトをする生活。黙々とリフトの雪を払う嶋村さんの姿。そして家の周囲の除雪作業。道路から家までの小道は雪の谷間のようだ。それを広げるため、固くしまった雪によじ登り、切り崩す。  見るからに大変な力仕事だが、意外にも、嶋村さんはこう語る。 <冬の暮らしが最高ですね。夏は農作業でかなり忙しいのですが、冬は雪と向き合うだけでいい。家族との時間も多くなるし、なかなか出ないお天道様(太陽)のありがたさも分かります>(「市報とうかまち」平成26年12月10日号) 撮影:小野悠介  晴れた日はスノーボードをしながら、愛犬「サン」との散歩。日本酒やどぶろくを酌み交わす集落の集まり。年明けには積み上げた稲わら燃やす「どんど焼き」がある。お年寄りだけでなく、若い顔もけっこうある。最近は仲間たちと温泉水からの塩づくりも始めた。  星降る夜の雪の谷間。その向こうに、温かみのある明かりのともった嶋村さんの家が見える。妻と3人の子どもたちとのだんらん。作品はそこで終わる。 「太陽と月の下」というタイトルには、嶋村さんの暮らしのなかにある「陽と陰」の思いを込めた。  写真展案内のはがきのデザインは、嶋村さんが販売する茶のパッケージを描いた十日町市在住のデザイナーに依頼した。 「地元のデザイナーさんとも何かやりたかったんです。それに、利島の作品のときは東京で展示しただけで、心残りだったので、今回は作品で地元にお返しをする。十日町でも展示します」                   (文・アサヒカメラ 米倉昭仁) 【MEMO】小野悠介写真展「太陽と月の下」 ニコンプラザ東京 ニコンサロン 3月16日~3月29日 十日町情報館 4月3日~4月5日
アサヒカメラニコン写真展十日町地域おこし小野悠介新潟
dot. 2021/03/14 18:00
「放射能が降っています。静かな夜です。」 詩人・和合亮一が「詩の礫」でつぶやき続けた福島への思い<現代の肖像>
千葉望 千葉望
「放射能が降っています。静かな夜です。」 詩人・和合亮一が「詩の礫」でつぶやき続けた福島への思い<現代の肖像>
福島県南相馬市の海辺で。高校教師としての初任地だが東日本大震災で大きな被害を受けた(撮影/東川哲也) 和合の創作ノート。彼の思考の跡が見えるようだ。夜は学校やレギュラーを持っているラジオの収録があるため、毎朝5時に起床し出勤までの時間を創作にあてる。多忙な毎日だが、彼は詩を書かずにはいられない(撮影/東川哲也)  詩人、和合亮一。東日本大震災発生の翌日、福島第一原発が爆発した。和合亮一がずっと住み続けていた福島が、放射能にさらされた。地震発生から間もなく、和合はツイッターで詩を呟きはじめた。それは怒りでもあり、故郷への思いでもあり、生きる術でもあった。和合の詩は、演劇になり、歌になり、今でも多くの人の心に届く。詩人としても、新しい境地を迎えようとしている。 *  *  *  2011年3月11日午後2時46分、東日本大震災発生。私の郷里である岩手県陸前高田市も地震と大津波に襲われた。その後はずっとテレビをつけっぱなしにし、パソコンでツイッターを見ながら情報収集を続けた。福島県では福島第一原発1号機がメルトダウン(炉心溶融)を起こし、12日には水素爆発で大量の放射能を放出。続けて3号機、2号機、4号機と事故は連鎖していった。  5日後、突然ツイッターに詩人・和合亮一(わごうりょういち)(52)の呟きが流れ始める。その数、3月16日だけで50近く。 「放射能が降っています。静かな夜です。」 「あなたにとって故郷とは、どのようなものですか。私は故郷を捨てません。故郷は私の全てです。」 「現代詩の旗手」と呼ばれた和合が、洗練された前衛的表現をかなぐり捨てて、生の言葉を叩きつけるように書き込んでいることに衝撃を受けた。すでに福島県からは続々と避難者が出ていた。  和合は当時勤務していた県立保原(ほばら)高校で地震に遭遇した。家の中がぐちゃぐちゃになりライフラインが途絶したため、しばらく福島市内の避難所で過ごしたが、原発事故はさらに彼を追い立てた。 「原発で働いていた教え子が、危ないと連絡をくれたんです」(和合)  だが両親は「故郷を離れたくない。お前たちは逃げろ」と言った。和合は両親と共に福島に残ることを決意し、妻と当時小学校6年生の一人息子を山形県に避難させた。福島では情報が錯綜し、人々はパニックになっていた。自分の命もどうなるかわからない。「これが妻子との今生の別れになるかもしれない」と覚悟した。    やがてツイッターでのつぶやきは「詩の礫(つぶて)」として世に知られるようになっていく。それまでは難解な現代詩を発表し詩壇で高く評価されていたが、一般的には無名に等しかった。そんな彼が「詩の礫」で一気に有名になり、原発事故が落ち着いた後も福島からの発信者、福島の代弁者としての活動を続けてきた。  福島市で育った和合はおばあちゃん子で、大人しく優しい少年だった。小学校3年生の春、同じ学校に妹が入学してきた。母・タケ(76)は、 「学校に慣れない妹が靴を取り違えたりしてはいけないと、いろいろ世話をしてやったりするんです。『そんなことやんなくていい』と言ったんですけどね。亮一はいつもそんな風でした」  と話す。身体は大きかったが、喘息だったせいもあって運動は苦手。おまけに大の野菜嫌いだった。給食が食べられず、毎日教師から見せしめのように残されたり叱られたりした。それがつらくて学校ではいつも怯えていたという。 「本来は饒舌な人間なのに言葉を失っていたというのかな。5年生で郡山の小学校に転校するまでそんな風でした。今でも昼間、理由もなく不安になることがありますが、何か子ども時代とつながりがあるんでしょう。それがまた、ものを書くことへと自分を走らせているように思います」(和合)  中学2年生の時、父・隆(83)が病気で倒れ、仕事をやめざるを得なくなった。食べるに困ることはなかったものの、思春期の和合には将来への悩みがいつもつきまとった。地方育ちの少年らしく東京への強い憧れはあったが、両親を置いて福島を出ていく状況にはなかったのである。  高校は県下一の進学校である福島高校に進む。2年生の時、それまで続けていた剣道を辞めて演劇部に入った。部室の壁に唐十郎の芝居のポスター(横尾忠則デザイン)が貼ってあり、アングラに興味が湧いた。詩にも関心を持ち始めた。タケに、「お母さん、詩人ってどこからお給料をもらうの?」と訊ねて驚かせたのはこの頃のことだ。 「僕も東京の大学へ行って、演劇をやったりライターのような仕事をしたりしたかったんです。でも、それはできないと諦めていました」  タケによれば、息子が葛藤を親に告げることは一切なかったという。ただ目標が持てず、学校の勉強がおもしろいとは思えなかった。帰宅すると、悶々とする心をなだめるように1時間も2時間もランニングをする。走る彼を包んでくれたのは、四季折々に美しい福島の自然だった。緑、風、光。真冬の雪の日も休まなかった。顔に雪が降りかかる感触は今も忘れられない。  大学は自宅から通える国立福島大学に進んだ。国語が好きだからという理由で、教育学部の中学校国語科に入学。大学1年で萩原朔太郎の詩を知り、創作活動をしたいと思い始めた。2年生の時、ノーベル賞候補にもなったシュールレアリスム詩の巨人・西脇順三郎研究で知られる澤正宏(74)と出会う。当時教授だった澤は1年間詩論の講義を担当しており、和合はそれを熱心に聴いていた。 「ある時彼は、僕の部屋に入ってくると『詩人になりたいのです』と言いました。『これは大変だ!』と思ったけれど、書くにしても喋るにしてもよく言葉の出る男でしたから、可能性があると思いました。演劇をやっていたので、劇的な詩を書く時のコツみたいなものは持っていましたね」(澤)  和合は詩作に没頭し、作品ができるとすぐ澤のところへ持っていった。 「当時の澤先生は徹夜で論文を書く方だったんですが、徹夜明けに僕がニコニコしながら詩を持っていくんですから大変だったでしょうね(笑)」  澤は熱心に和合を指導し、「東京に住んでいないと詩人は不利だ」と塞ぎ込むこともあった彼に、こんなことを言った。「それは逆だよ。詩人というのは環境を変える力を持っているんだ。宮澤賢治がそうだ。郷里の花巻を『世界の花巻』にした。イーハトーブに引かれて全国から岩手まで来るんだぞ。それこそが本当の詩人なんだ」  大学2年での、作家の故・井上光晴との出会いも忘れがたい。当時井上は「文学伝習所」を展開しており、全国で伝習所を開いては、ときには殴り合いが起きるほどの情熱を傾けて弟子たちを指導していた。文学熱を高めた和合は山形で伝習所が開かれると聞き、書いた詩を持参したのである。 「小さな会議室に40代50代の小説家志望者が20人くらい集まっていました。そこに僕が一人迷い込んだわけです。井上先生は一升瓶を横に置いて注いだ酒をガーッと飲みながら、すごい迫力でみんなをバンバン怒っていらっしゃいましたね。でも僕には優しかったです」  1泊して翌日も指導を受け、帰るときに礼を言うと、井上は和合にこう言った。「すべてを疑ってかかれ」「書いて書いて自分を作っていくんだぞ。ただし文学賞はもらうな、堕落する」 「もらっちゃいましたけど(笑)。井上先生との出会いは片時も忘れたことはありません」  井上の言葉は和合を根本から揺さぶった。取り憑かれたように書こうと思った。書いた詩をコピーしては、大学の最寄り駅の前で道ゆく人に配る姿が同級生に目撃されている。雑誌への投稿を始め、詩の雑誌「現代詩手帖」に作品が掲載された。「現代詩手帖新鋭詩人」にも選ばれた。 (文・千葉望) ※記事の続きはAERA 2021年3月15日号でご覧いただけます。
現代の肖像
AERA 2021/03/11 17:00
更年期をチャンスに

更年期をチャンスに

女性は、月経や妊娠出産の不調、婦人系がん、不妊治療、更年期など特有の健康課題を抱えています。仕事のパフォーマンスが落ちてしまい、休職や離職を選ぶ人も少なくありません。その経済損失は年間3.4兆円ともいわれます。10月7日号のAERAでは、女性ホルモンに左右されない人生を送るには、本人や周囲はどうしたらいいのかを考えました。男性もぜひ読んでいただきたい特集です!

更年期がつらい
学校現場の大問題

学校現場の大問題

クレーム対応や夜間見回りなど、雑務で疲弊する先生たち。休職や早期退職も増え、現場は常に綱渡り状態です。一方、PTAは過渡期にあり、従来型の活動を行う”保守派”と改革を推進する”改革派”がぶつかることもあるようです。現場での新たな取り組みを取材しました。AERAとAERA dot.の合同企画。AERAでは9月24日発売号(9月30日号)で特集します。

学校の大問題
働く価値観格差

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職場にはびこる世代間ギャップ。上司世代からすると、なんでもハラスメントになる時代、若手は職場の飲み会なんていやだろうし……と、若者と距離を取りがちですが、実は若手たちは「もっと上司や先輩とコミュニケーションを取りたい」と思っている(!) AERA9月23日号では、コミュニケーション不足が招く誤解の実態と、世代間ギャップを解消するための職場の工夫を取材。「置かれた場所で咲きなさい」という言葉に対する世代間の感じ方の違いも取り上げています。

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