成田氏にとって上杉氏と北条氏との和睦による難しい時期は北条氏康の死去した元亀二年(一五七一)に終了した。氏康の後を継いだ氏政は武田氏との関係改善に踏み切り、上杉氏と北条氏は手切となった。その後は上杉氏の拠点となった羽生城と関宿城(千葉県野田市)をめぐる北条氏と上杉氏の攻防が繰り広げられることになる。
成田氏は羽生城攻撃の最前線に立ち、謙信も成田氏への対抗として忍城下に攻め込み放火している。謙信の努力も虚しく羽生城は天正二年(一五七四)に陥落し、羽生城を中心とした羽生領は成田氏の支配下となった。
北武蔵最大の国衆に
羽生領が成田氏の支配下に入ったことで成田氏の支配領域は最大となった。
成田氏の支配領域は忍領(行田市)、騎西領(加須市)、羽生領(羽生市)、本庄領(本庄市)、菖蒲領(久喜市)にまたがり、北武蔵最大の国衆であった。
もともとは名字の地である成田郷(熊谷市・行田市)から支配領域を広げ、前述のように長享の乱の過程で忍城を築き、忍領全体を支配するようになったと考えられる。
騎西領はもともとは騎西小田氏の領国であったが、成田長泰の弟の朝興が小田顕家の養子となって以降、成田氏の支配下に入っている。顕家が天文八年(一五三九)に死去していることからそれ以前には成田氏領の一部となっていた。朝興のあとは成田氏長の弟の成田泰親が継承し、忍領と一体化した支配が行われていた。
古くから成田氏の配下に入っていた忍・騎西領に対して本庄領・羽生領・菖蒲領は天正年間初頭に成田氏の支配下に入っている。
本庄領はもともと山内上杉氏家臣であった本庄氏が成田氏の支配下に入ったことで成田氏の領地となったが、帰属関係の詳細は不明であり、黒田基樹氏の整理では永禄四年(一五六一)の時点では本庄氏は成田氏の同心となっていたが、その後上杉謙信に属し、越相一和の崩壊前後に成田氏長が本庄領を獲得している。本庄領は忍領との間に深谷上杉氏の所領である深谷領(深谷市)が横たわり、忍領とは区別されていた。
羽生領は忍領と接する地域であるが、長く羽生城には上杉謙信の家臣である木戸氏が入っており、成田氏を圧迫する存在であった。先述の通り天正二年に羽生城が落城したのちに成田氏の支配下に入ったものである。