文明十一年(一四七九)閏九月の足利成氏の書状に「忍城については油断なく勤めるように成田に相談しなさい」という文面が見られる。このころは関東管領を務めていた山内上杉氏の家宰の白井長尾家の後継者をめぐる長尾景春の乱が勃発しており、この長尾景春の乱では景春はそれまで戦ってきた足利成氏に与し、成氏もそれに応えて「成田」に動座している。この時の「成田」は忍城と見られている。
その後文明十四年(一四八二)には成氏と室町公方の足利義政との和睦である「都鄙和睦」が成立したが、文明十八年(一四八六)には扇谷上杉氏の家宰の太田道灌が主君の扇谷上杉定正に謀殺されたことをきっかけとして翌長享元年に扇谷と山内の両上杉の争い(長享の乱)が始まり、それに連動して古河公方でも足利政氏と足利高基の争いが始まる。
この争いでは成田氏は政氏・山内上杉顕定の配下として戦い、永正七年(一五一〇)には上杉顕定が越後国で長尾為景(上杉謙信の父)と戦い戦死したことを受け、高基・長尾景春・長尾為景派として相模に侵攻した伊勢宗瑞(北条早雲)に呼応して権現山城(横浜市)に立て籠もっていた上田政盛を攻略した扇谷上杉朝良の軍の中に成田顕泰が見える。