和田竜氏の歴史小説『のぼうの城』でも描かれた忍城の戦い。忍城攻城戦は豊臣秀吉による小田原城攻めの過程で生じた合戦であり、小田原城落城後に天下統一を目指す豊臣秀吉軍の猛攻を耐え抜き、和睦開城したことで知られる。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三人の天下人の攻城戦を解説した、朝日新書『天下人の攻城戦 15の城攻めに見る信長・秀吉・家康の智略』(第十章 著:秦野裕介)から一部を抜粋、再編集し、忍城を守り抜いた城主の成田氏の足跡を紹介する。
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武蔵の有力国衆、成田氏
忍城攻城戦の時に城主だったのは、武蔵国の有力国衆であった成田氏である。成田氏の系譜については藤原道長の子孫(『藩翰譜』)や藤原行成の弟の藤原基忠の子孫(『成田氏系図』)など諸説あり、また武蔵七党の横山党の子孫と見る見方もある。実際のところは不詳である、としか言いようがない。
成田氏は鎌倉時代には御家人としてその名が見られ、室町時代には安保氏から成田氏の名跡を継承していると見られるが、成田氏が歴史上その姿を明確に現すのは、関東公方の足利成氏が関東管領の上杉憲忠を謀殺したことに端を発する享徳の乱である。上杉方の五十子陣から出陣した岩松家純の軍勢に「武州の成田」という人物が加わっている記録がある。