伊勢宗瑞ともゆかりのある柴屋軒宗長が忍城を訪ねたのはこの成田顕泰が城主だった時である。

 この成田顕泰は白井長尾家で長く山内上杉氏の家宰を務めた長尾景信の弟で、総社長尾家を継承し、さらに景信の子の景春を差し置いて山内上杉氏の家宰となった長尾忠景の三男である。忠景の家宰継承が長尾景春の乱のきっかけとなったのである。

 顕泰の子の成田親泰は足利政氏・足利晴氏と古河公方に仕え、足利高基や小弓公方の足利義明、それと連携した伊勢・北条氏と対立したが、やがて相模から武蔵は伊勢氏改め北条氏の勢力下に入り、天文十四年(一五四五)には北条氏綱の勢力が大きく伸長したことを受けて親泰の子の成田長泰は山内上杉氏を見限り、北条氏に従属している。

 天文十五年には扇谷上杉氏が滅亡、天文二十一年(一五五二)には山内上杉憲政が越後に没落し、そのころ長泰の嫡男の氏長は北条氏の通字である「氏」の一字を拝領している。「氏」を拝領したことは、成田氏が非常な高待遇で北条氏の配下に組み入れられたことを意味する。

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謙信につくか、北条につくか