菖蒲領は騎西領に接する地域であり、菖蒲佐々木氏を称する金田氏の支配下であったが、これも天正年間前半にはその一部の栢間郷(久喜市)が忍領に組み込まれている。
これらの所領のうち忍領と騎西領は古くから成田氏の支配下にあり、一体的に支配されているが、新たに成田氏領地に組み入れられた本庄領と羽生領については成田氏の直接的な領国支配は行われず、独自の領国支配が行われたと考えられている。もっとも黒田氏によれば騎西領においても氏長の朱印状の発給範囲が忍領に限られることから、騎西領に関しても騎西小田氏・成田泰親による独自の領国支配が行われたと見られる、という。
この段階で成田氏は武蔵ではもちろん関東でも最大級の国衆であった。
成田氏のその後
北条氏滅亡後は北条氏の旧領は徳川家康に与えられ、城には松平家忠が暫定的に入り、その後家康の四男の松平忠吉が入ることとなる。
成田氏長は改易され、蒲生氏郷に預けられることとなった。氏郷は奥州仕置で会津黒川城と四二万石を与えられ、氏長は氏郷家臣となったが、天正十九年(一五九一)に下野烏山(栃木県烏山市)二万石を与えられ、大名に復帰した。その後は烏山の統治を弟の泰親に任せ、氏長自身は京都で歌人として暮らし、文禄の役にも参陣している。
氏長は文禄四年(一五九五)京都で死去し、弟の泰親が跡を継いだ。泰親は関ヶ原の戦いで東軍に属し三万七〇〇〇石に加増されたが、泰親の死後は一万石に減封され、その子氏宗の死後に後継者をめぐる争いが起こり、幕府は氏宗に嗣子なしとして改易とした。その子孫は幕府御家人として存続する。
長親は氏長と対立し、松平忠吉に仕える子の長季を頼り尾張に移住、長親の子孫はその後も尾張藩士として存続した。
氏長の娘の甲斐姫については軍記物に描かれた奮戦が有名であるが、その後その武芸と美貌に惚れ込んだ秀吉の側室になり、天秀尼を産んで秀頼を支えたという話が伝わる。現状では一次史料では「可ゐ」という秀吉の側室が醍醐の花見で和歌を詠んでいるという記録が残るのみで、彼女が「甲斐姫」かどうかはわからない。「成田系図」の秀吉の妾となった、という記述など断片的な記録しか残されていない。