謙信につくか、北条につくか

 永禄三年(一五六〇)、越後に没落していた上杉憲政が、越後の長尾景虎(のちの上杉謙信、以下本稿では上杉謙信と呼称する)に擁されて侵攻してきた。この時に成田長泰は北条氏から離反し、上杉方に投じている。北条氏康が長泰のことを「年来の恩を忘れ」と罵倒していることからも、北条氏における成田氏の存在感の大きさを知ることができる。

 しかし翌年には長泰は謙信から早くも離反し、謙信は成田氏の所領であった羽生領(埼玉県羽生市)に侵入、羽生領と本庄領(埼玉県本庄市)は成田氏から離反した。

 永禄六年には騎西小田氏を継承していた長泰弟の小田朝興と成田氏長が謙信に従属し、そのころ長泰は隠居、氏長が家督を継承している。成田氏の進路をめぐっての争いがあった、という考え方もある。

 永禄九年までは謙信方としての動きが見られた成田氏だが、同年八月には北条氏照のとりなしで再び北条氏に従属することとなった。

 永禄十二年にはこれまで関東甲信越東海の重要な枠組みの一つであった甲相駿三国同盟(武田氏・北条氏・今川氏の同盟)が崩壊、今川氏は武田氏と徳川氏の攻撃を受けて滅亡、北条氏は武田氏と絶縁のうえで武田氏の宿敵上杉との間に越相一和が結ばれ、北武蔵以北は謙信に割譲されることとなった。氏長はこのことに不満を持ったようで、成田氏の謙信配下組み入れを強行すると氏長が武田氏に内通する可能性が懸念されていた。

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